石油ヒーターの上で、やかんが湯気を出していた。
加湿かしら?
「大井さん……提督を諦めたって……本当ですか……?」
大和さんの真剣な目が私を見た。
ああ、そう言う事。
「えぇ、そうです。皆さんにはとても力になって貰ったんですけど……」
「どうして……」
「その方がいいと思ったんです。話せば長くなりますけど……とにかく、そう決めたんです」
全員の目が私を見ていた。
もしかしたら、怒っているのかもしれない。
散々相談しといて……家に押しかけて……。
伝えろと言われた気持ちも、伝えてないし……。
「色々と相談に乗ってもらったのに……ごめんなさい……」
「そうじゃないよ……」
北上さんは低い声で、そう言った。
「別に……大井っちに振り回されたから怒ってるわけじゃない……。問題なのは……諦めた理由だよ……」
「諦めた理由……ですか……」
「大井っち言ったよね。自分が諦めた方が、お互いの為になるって……」
「え、えぇ……」
「それって……大井っちに何の為になるの……?」
悲しそうな北上さんの顔。
何をそんなに……。
「大和も北上さんも……大井さんと同じ理由で恋を諦めました……。だから、分かるんです……」
「分かるのなら、何故そんな顔をするんです?」
「分かるからだよ……。自分で選択した道とは言え……辛いものは辛いから……」
ちょっと前の私なら、今の北上さんの顔を見て、とても悲しい気持ちになるかもしれない。
けど、今は違う。
「なら、諦めなければよかったんです」
「大井さん……」
私を止めるように、鳳翔さんが割って入った。
それを振り払う事もせず、私は続けた。
「二人の言う様に辛くなるかもしれない。でも、それでも選んだのなら、後悔しちゃいけないと思います」
北上さんと大和さんは、ぎゅっと拳を握っていた。
「大井さんの言う通りかもしれない」
そう言ったのは、響ちゃんだった。
「辛い思いをすることが分かってて、そういう選択をしたのなら……引き返すべきだった」
言葉に対して、目は私を肯定していなかった。
「それでも……そういう選択をしてしまった人もいる。北上さんも大和さんも、大井さんと同じ理由で諦めた……。大井さんは……二人とは違うと言うのかい……?」
言いたいことは分かっていた。
けれど、それを受け入れるほど、私の覚悟は柔くない。
「北上さんは……私のせいで不幸になったと言いたいんですか……?」
「え?」
「私が提督を好きになって、北上さんの気持ちを受け入れなかったから、辛いと……?」
「そ、そうじゃないよ……」
「私は……お互いの為とは言いましたが、それで自分が辛くなったとしても、提督や阿武隈のせいにするつもりはありません。自らが選んだ道を他人に踏ませはしません……。それは時として、冷たく見られるかもしれないけれど、これ以上誰かに迷惑をかけることは無いでしょう……」
今度は誰も、私の目を見る事はしなかった。
「皆さんの気持ちは本当に温かくて、涙が出そうなほどです。けど……大丈夫です。全て分かったうえでの決断ですから」
そう笑って返しても、誰も安心したような顔はしなかった。
「一つだけいいですか……?」
先ほどとは違い、少しだけ怒ったような表情で、鳳翔さんは私を見た。
「北上さんと大和ちゃん……二人と大井さんの違いが一つだけあります……」
「違い……?」
私は、とても失礼だけど、綺麗ごとを言われると思っていた。
「大井さんだけは……相手に気持ちを伝えていません……」
外との温度差で、窓が結露していた。
そこに、響ちゃんが書いたと思われる絵があったが、もはや何の絵か分からないほどに、消えかかっていた。
「北上さんも大和ちゃんも……ちゃんと気持ちを伝えていましたよ……。答えを知ったうえで……諦めているんです……」
「…………」
「大井さんの言うお互いの為って何ですか……? 相手の為、自分の為……。相手の為って何ですか……?」
全員の目が、再び私を見た。
「相手が誰かを好きで、どうしようもない理由があるなら分かります……。けど、貴女のは独りよがりの妄想ですよね……?」
「……えぇ、そうです」
「貴女はそうやって理由をつけて、失敗から逃げているんです」
響ちゃんが心配そうに鳳翔さんの方を見た。
あまり見ない表情に戸惑っているのかもしれない。
「逃げてなんか……」
「いえ……逃げです。相手の気持ちを知るのが怖いから……伝える事が出来ないから、逃げる口実をつくってるんです」
「違います! 私は本当に色々考えて……!」
「考えて相手の気持ちが分かったら、恋に悩みなんて必要ありません」
その言葉は、ここにいる全員の心に響いたことだろうと思う。
静寂と目線が、全てを物語っていた。
「貴女だって……人のせいにしているじゃないですか……」
「…………」
「……それでも全てが分かっていると言うのなら……もう私から言うことはありません……。みんなも同じだと思います……」
北上さんが心配そうに私を見て、また視線を下に戻した。
「……分かりました。ありがとうございます……鳳翔さん……」
「大井っち……」
「そろそろ帰らないと……。今日はありがとうございました……」
「大井さん……」
「大和さんもありがとう。また、ジョギングで会いましょう」
「は、はい……」
「響ちゃんもありがとう」
「…………」
「失礼します……」
「あ……」
玄関を出ると、冷たい風が容赦なく体を叩いた。
しばらくゆっくり歩いて見たけれど、北上さんは追ってこなかった。
提督はまだ帰ってきてなかった。
そう言えば、今日は遅くなるとか言ってたっけ……。
台所には、作り置きの料理とメモがあった。
『温めて食べろ』
どれもこれも、私の好物ばかりだった。
「……何よ。何なのよ……」
本当は気が付いていた。
諦めたくないと思う自分の心に。
それでも、綺麗ごとを並べ、色々な理由をつけて、諦めようとした。
そして、それら妄想が導き出す結果を恐れた。
逃げて逃げて、逃げる事を正当化し、自分を奮い立たせた。
なのに……。
『貴女はそうやって理由をつけて、失敗から逃げているんです』
「そんなの分かってるわよ……! 分かってるけど……!」
怖い。
提督は何でも受け入れてくれるから……私がそこにつけこんでしまって、不幸にしてしまうんじゃないかって……。
そして……そのせいで嫌われてしまうんじゃないかって……。
「うぅぅ……」
どこまでも優しい提督が好きだけど、その優しさが、私を追いつめてゆく。
変われない自分。
提督の為に何も出来ない自分。
諦めなきゃ……。
私の為に。
提督の為に。
でも、それは妄想であり……けど、確かな事でもあるようで……。
『考えて相手の気持ちが分かったら、恋に悩みなんて必要ありません』
「…………」
その日の夜。
珍しくお酒を飲んできたようで、提督は帰ってくるなりソファーに深々と座った。
「明日の事もあるのに、何してるのよ……」
「たまには良いだろ……」
水を渡してやると、一気に飲み干した。
「……明日だな」
「えぇ」
「明日……お前と将来結婚するかもしれない人が見つかるかもしれないのか……。あんな連中からか……」
「自分で勧めておいて何言ってるのよ……。イケメンぞろいなんじゃないの?」
「顔はな……だが……うぅん……」
「ちょっと……大丈夫なの?」
本当に明日大丈夫なのかしら……。
何なら一人で行くしかないかな……。
「大井……」
「なに?」
「お前は……どうしたいんだ……?」
「え?」
「お前の気持ちが分からん……」
相当酔ってるわね……。
「もう寝なさいな。ほら、部屋まで連れてってあげるから……」
「大丈夫だ……」
そう言うと提督は立ち上がり、フラフラとリビングを出ていった。
「どうしたい……か……」
本当……どうしたいんだろ……。
何だか今日の事で訳が分からなくなってきたわ……。
「とりあえず……提督にこれ以上迷惑をかけられないって事だけは確かだし……」
何をどう言われようとも、それだけは変わらない。
この生活自体が迷惑かどうかは……とりあえず置いておこう……。
兎にも角にも、明日だ。
明日……相手が見つかれば……。
「そうよ……。それで終わり。提督の事以上に、本気で他の誰かを好きになればいいだけの話。今日の事も、きっと笑い話になるはず……」
でも……本当にそんな人……。
「…………」
翌日。
提督はぴんぴんしていた。
「昨日はすまんな……。慣れてないのに飲んじゃダメだな」
「本当よ全く……。それにしても、なんであんなに飲んだのよ?」
「まあ……色々あるんだよ」
「あっそ……」
色々ねぇ……。
それにしても、隠し事なんて珍しい。
「そろそろ行くか」
「えぇ」
電車の中で、今日の事を詳しく聞いた。
どうやら、艦娘との対話会という形で集めたらしい。
「昨日は散々悪く言ってたけど、良い人たちなんでしょうね?」
「そんなに言ってたか?」
「あんな連中扱いされてたわよ」
「うーん……まあ、顔はいいぞ」
昨日と同じ事言ってるわ。
じゃあ、昨日言った事も本当なのかしら?
「不安になって来たわ……」
現地に着くと、想像以上の人数が集まっていた。
立食での対話会らしく、既に何人かは料理に手を付けていた。
各テーブルに、見たことある艦娘がチラホラ。
「お前だけってのもな。一応、対話会だしな」
まあ、逆に安心したわ。
食事をしながらって感じだし、私一人で結構な人数を相手にするのもキツイし。
「お前のテーブルはこっちだ。俺は向こうにいるから、頑張れよ」
そう言うと、提督はどこかへ行ってしまった。
「大井さんですよね」
若い男が話しかけてきた。
「は、はい」
「噂は聞いています。良ければお話し、聞かせてくれませんか? こいつらも聞きたい事がたくさんあるみたいで」
そう言うと、他の若い連中が立ち上がり、敬礼をした。
「わ、分かりました。じゃあ……」
男たちが一斉に私を見る。
予想はしていたけれど、いざ直面すると、逃げ出したくなるほどに居心地が悪かった。
「えーっと……何から話したらいいかしら……」
「はぁ……」
テーブルには、いつの間にか私だけになっていた。
男たちは他のテーブルの艦娘と話している。
正直、何を話したかはあまり覚えていない。
とにかく、質問攻めにあって、それに答えていたことだけは覚えている。
「良い奴はいたか?」
提督は飲み物を渡すと、そのままテーブルに寄りかかった。
「いい人どころか、質問に答えるのに精一杯だったわ……」
「そうか。まあ、まだ始まったばかりだしな。そろそろ、男共もお前たちが「女」に見え始める頃だろうよ」
「失礼ね……」
「真面目なんだよ。「艦娘」との対話会だしな」
でも、そうよね……。
よし……何とか輪に混ざらないと……。
「ちょっと行ってくるわ」
「おう、頑張れ」
それから、何度か話しかけてはみたものの、会話が弾むことは無かった。
他の艦娘達は凄く盛り上がっていて、自然とそっちに人は集まっていった。
いい人を見つけるだなんて言ったけれど、考えてみれば、相手が振り向いてくれないと始まりもしないのよね。
選ぶという事ばかりに目が行きすぎて、そういう所を疎かにしてしまった……。
結局、何も出来ないまま、対話会は終了した。
「よう、どうだった?」
「…………」
「……帰るか」
帰りの駅には、私たち以外誰もいなかった。
「他の娘たちは、今頃よろしくやってるのかしらね」
「かもな」
遠くで波の音がした。
駅名の看板は、潮風で錆びている。
「クリスマスまでには何とかしたかったけど……ごめんなさいね……」
「何故謝る」
「だって……」
迷惑をかけたくない一心だった。
けど、やっぱり私には難しいのかな。
「ねぇ提督……」
「なんだ?」
「最初言った通り……おばあちゃんに本当の事……言おうと思うの……」
今回の件で分かった。
無理。
誰かを好きになるとか、誰かに好きでいてもらうとか、恋を知ったばかりの私には無理だ。
提督を好きになってしまい、出来る気がしていたけれど、自信がなくなってしまった。
「これ以上迷惑かけたくないし……。今回の件で私には難しいって分かった。私に恋人が出来るなんて、何年かかるのやらって感じ」
「…………」
「おばあちゃんには怒られるかもしれないし、追い出されちゃうかもしれない。でも、全部私が撒いた種だから、覚悟は出来てるの」
「もしそうだとしても、お前ひとりが背負うことは無い。俺も背負う」
「もういいの……。提督は提督の幸せがあるでしょ。私なんかに時間かけてちゃだめよ。あんたを想う人だって、いるんだから」
阿武隈の顔が浮かんだ。
「阿武隈の事か……?」
「え?」
ちょっと驚いたけれど、別に驚くほどの事でもなかったか。
くっつけようとした時点で、提督も察しただろうし。
「えぇ、阿武隈の事よ。あの子、提督の事が好きなの。本当よ?」
「知ってるよ……」
知ってる、か。
まあ、阿武隈も露骨だったしね。
「あいつに告白されたからな」
露骨……。
…………。
「え……」
「昨日……あいつに告白された。好きだと言われた」
強い風が吹いて、枯れ葉が一斉に宙を舞った。
「そ、そう……なの……」
阿武隈、やったのね。
流石だわ。
「それで……?」
「付き合うことは出来ないと言った。お前の事もあったし……それに……」
そう言って、提督は黙ってしまった。
「私の事なんて気にしなくてもいいのよ! むしろ好都合じゃない。もし阿武隈と付き合ったら、私との生活だって……」
「お前は……それを望んでいるのか……?」
「え……?」
提督の目が、真っすぐと私を見た。
「お前の気持ちはどうなんだ……? 本当に嫌で言っているのか……? それとも……迷惑をかけたくないからそう言ってるのか……?」
私は答えなかった。
答えてしまったら、私の覚悟が揺らいでしまう気がしたから。
「大井……」
「…………」
「……分かったよ。だが、これだけは聞かせて欲しい」
少し間をあけた後、提督は意を決したように口を開けた。
「お前……俺の事が好きなのか……?」
電車が駅に入ってきても、私たちは気にもとめなかった。
「阿武隈の告白を断った後、お前の事を聞かされた。大井も俺の事が好きだとな……」
阿武隈が……何故……。
「それは本当か……?」
私は何も答えることが出来なかった。
色んな事が頭の中でグルグルと回っていて、何を理解し、何を答えればいいのか分からなかった。
「もし……本当ならば……」
ただ、一つだけ……一つだけ分かってる事……決心した事……。
「俺とこのまま――」
「――ごめんなさい」
提督の言葉は分かっていた。
もし、そうじゃなかったとしても、こうするつもりだった。
「ごめんなさい……」
少し前の私なら、泣いて喜んでいるかもしれない。
けど、今の私だからこそ、言えた事。
「それは阿武隈を奮い立たせるためについた嘘よ……」
私と居ても、不幸になるだけ。
「前にも言ったでしょ? 阿武隈とあんたが結ばれれば、私は晴れて自由の身なの」
貴方に不幸になって欲しくないから。
「そんな事の為にあんないい子を振ったの? 勿体ないわ」
我が儘を言って、貴方を困らせたくない。
「今からでも遅くないわ。いい返事をしてあげなさいよ」
そうやって自分を責め続けたくない。
「あ、阿武隈を利用した事、怒ってる? それに関してはごめんなさい。でも、本当にいい子だと思うの」
これ以上……傷つきたくない……。
「ちょっと、何か言ったらどうな……の……」
提督は泣いていた。
悲しいと言うよりは、何か悔しそうだった。
「ど、どうしたって言うのよ? 阿武隈を利用したことがそんなに許せないと言うの……?」
「違う……。どうしてお前がそんな嘘を言うのか分からなくて……悔しくて……」
「嘘……?」
「お前はそんなことを言う奴じゃない……。俺の事を好きかどうかはこの際どうでもいい……。だが……何がお前をそこまで追い込むのかが分からん……。俺が絡んでいることは確かだ……。だからこそ……悔しい……。お前を苦しめてる俺自身が許せない……」
何を言って……。
「何故嘘をついたんだ……? それほどに、俺といるのが嫌なのか……?」
やめてよ……。
「何かきっかけがあったのか……? あるなら直す……」
やめて……。
「大井……!」
「やめてよ!」
無人の駅に、私の叫び声が響いた。
「もう……やめてよ……。これ以上……私を苦しめないで……」
「苦しめたくないから言ってるんだ……!」
「それが苦しいって言ってるのよ……!」
どうして……。
「傷つけたくないのに……貴方を傷つけてしまう……。そんな自分が許せないのに……貴方は私を許すどころか、自分を苦しめていくばかり……」
「…………」
「その姿を見ているのが辛くて……どうしようもなくて……。貴方といたら……貴方も私も傷つけあうだけだから……不幸になっていくばかりだから……」
抑えきれない涙が、足元にボタボタと零れ落ちた。
「お願い……。もう……苦しみたくないの……」
「大井……」
提督は少し考えた後、目線を落として、項垂れるように答えた。
「……分かった。ごめん……ごめんな……大井……」
「う……うぅぅ……」
太陽が沈む。
もう、私たちを慰める者は、ここにはいない。
それどころか、非情にも冷たい風が、私たちを叩くばかりであった。
私は家に戻らず、そのまま実家へと足を運んだ。
そして、おばあちゃんに全てを話した。
怒られると思ったけれど、おばあちゃんは何やら悲しそうな顔を見せるだけだった。
そして、「分かりました」とだけ言うと、使用人に私の世話を押し付けて、部屋へと戻って行ってしまった。
これでいい。
これで……もうお互いに傷つかなくて済む。
提督もきっと、阿武隈か誰かと付き合って、幸せな人生を送る事だろう。
出来れば、私の事も忘れてもらって、後腐れない人生を全うしてほしい。
私も……提督を忘れるように努力するから……。
「さようなら……提督……」
提督と出会った全てが夢であればいいのに。
そう思いながら、眠りについた。
――続く。