久しぶりに人と話す楽しい時間を過ごし、自分が主人であるガマガエルが帰っていき、タンバが現れたあの日からあっという間に3日が経っていた。自分が人間であるということを思い出してしまった僕は、今足元から這い上がってくるような恐怖に苛まれていた。
あのガマガエルはだいたい3日から5日おきに現れる。だから今来てもおかしくない。湿った土を踏みしめる音が響き、扉が乱暴に開かれるそのときに僕はこれまでのように無感情でいることができるだろうか。
きっと平常心ではいられないだろうという確信があった。けれど頼れる人は一人しかいない。
『タンバ、どうしよう』
―――ん、どうした急に
『僕、怖いみたいなんだ。これまでと違ってあのガマガエルが。あいつが鉄杖を持って現れて僕を打ち据えるのが怖いんだ』
―――そうか、それでミレイはどうしたい?
『どうしたいってそれは………』
口に出すのは憚られた。タンバはいいやつだ。僕を人間に戻してくれた。これ以上何かを望むことなんてしていいのだろうか。僕が悩んでいると、タンバは僕の葛藤を見透かしたように言った。
―――遠慮はいらない。俺はミレイがどうしたいのかが聞きたい。心配するな、必ずおれがミレイの力になる
『僕は………』
タンバはそれ以上何も言わなかった。僕が話すことを待っているようだ。本当なら助けを今すぐにも求めたい。恥も外聞もなく叫んでタンバに助けてと言いたい。しかしタンバは本来ならば僕とは無関係だ。勝手に僕の事情に巻き込んでしまっていいのだろうか。
幽霊だから。他に話す人もいないから。そんなタンバの弱みにつけこんで助けを求める。それは人間として最低の行為じゃないだろうか。
それでも怖かった。こうして考えている今この時も足が震えている。地面の冷たい温度がやけにはっきり感じられて、息が詰まる。どうすればいい。どうすれば正解なのだろう。
―――ミレイ、難しく考えなくていい。ミレイがどうしたいのかどうかだけを、俺は聞きたい。
『聞いてどうするの?』
―――その願いを俺が叶える
『なんで? なんで言うことを聞いてくれるの? わたしタンバになにもしてあげられないのに』
僕がそう言うとタンバはハッと鼻で笑ってこう言った。
―――男が女の子を助けることに理由なんていられねえ。助けたいから助ける。それだけだ。さぁミレイの願いを言え! 俺が全身全霊を持って叶えよう!
タンバは何も見返りを求めないと言う。おそらくそれは本心なのだろう。タンバの言葉はどこまでもまっすぐに僕を貫いた。
タンバの嘘偽りのない善意に僕は答える義務がある。もう逃げない。僕はこころを決め言った。
『僕は………ここから出たい! 一人の人間として生きたい!』
―――よく言った。その願い。自称幽霊のこのタンバヒデトシが叶えよう!
こうして僕らの一世一代の脱出計画が始まった。
タンバはこの3日間僕が脱出するための情報集めとして、屋敷や僕が軟禁されているこの小屋の周辺などを、僕が寝ている間に探索していてくれたという。
そのタンバによると僕がいるこの小屋は、僕の主人であるガマガエルの屋敷の庭の一角にあるらしい。ガマガエルの屋敷は広大で庭だけで帝都の初等学校のグラウンドぐらいの大きさがあるらしい。大きさにするとだいたい90メートル四方くらいだという。庭の大半が草木で覆われ、中を細い道が裏口と屋敷と物置とこの小屋へと続いている。
見回り要員は5人。その内の3人は屋敷から出てこず、2人は屋敷と庭の両方を担当しているらしい。
―――それでこの庭の見回りをする2人だが、1人ずつしか出てこない上に夜の庭の見回りは2回しかないことがこの3日で分かっている。だからそう警戒しなくいい。それにこの小屋に軟禁されているのは人間としての人格を失ったと判定された奴だけだから、逃げ出すなんて事を考えられていない。だから脱出するのはそう難しいことじゃない
『ほんとに!? じゃあ今日脱出できるの?』
―――ああ、できる。でも問題はそこからだ。この屋敷を出てからどうする? どこか当てがあるか?
タンバのその言葉にはっとする。僕は親に売られた身だ。帰る場所もない上に、帝都にかくまってくれる知り合いなんていない。抜け出して彷徨っていたところで、浮浪者になるか、警邏に突き出されるかのどちらかだ。そうすればまたこの屋敷に戻される可能性だってある。そんなのはごめんだ。
たまたま通りかかった人が、たまたまいい人で助けてくれるなんてことが期待できるわけもない。この世界はそんなに僕に甘くない。それはこの奴隷生活で心底理解している。
じゃあどうすればいいか。少し考えればすぐに答えが出た。
『………お金がいるね、結構沢山の』
―――その通りだ。帝都を脱出するにしても、帝都で暮らせるところを探すにしても金がかかるだろう。そう思って俺は屋敷の中の金庫を探ってきた。あの屋敷の主人のガマガエルはかなり用心深いやつで金庫を屋敷に3つ持っている。おそらく財産を分散させているのだろう。その中の1つの中のものをいただこうと思う
『それは………やりたいけど、危険が大きすぎない? 確かに脱出してからのことは重要だけど、捕まったら意味がないよ』
―――それは俺も理解している。確かに危ない橋だ。だが金庫までの道筋も金庫の番号もつい昨日覚えた。入っている金額も大きいだろう。十分に勝算のある賭けだと思うぜ………それにあのガマガエルに復讐してやりたくないか?
タンバに教えてもらったリスクとリターンがグルグルと頭の中を回る。しかし最後のタンバの一言で弱気になっていた意識がきれいに晴れた。同時に今までのつらく苦しかった毎日が頭を駆け巡った。
11の時に奴隷になり、厳しい調教を施され人間であることを放棄させられた始めの7ヶ月で、気がついたら涙は涸れ果てていた。殴られながら笑うことを強制された1人目の主人、妙に目玉がぎょろぎょろと動く気持ち悪い奴だった。笑うことはその時忘れた。何日も食事を与えてくれなかった2人目の主人。あの時にずいぶんと僕は痩せこけた。3人目が今のガマガエル。こんな土臭くて汚くてくさい小屋に押し込められ2年。鉄の杖で殴られ続けた。
でも僕は人間だ。やつらにそれを思い知らせてやりたい。小さな抵抗でしかないのかも知れない、でも一矢報いてやる。心は決まった。
『やろう、あのガマガエルの金庫からごっそりもらって、その金で僕は人間に戻る』
―――ああ、その意気だ。やってやろうぜ!
***
日が完全に沈み、あたりには夜の帳がおりた。月明かりのみが地上を照らす夜だ。僕は行動を開始した。小屋の天窓から脱出し、庭の湿った土の上に降り立つ。前方には細い道が続いており、左右はあまり手入れがされているようには見えない草木が生い茂っている。
ひんやりとした夜の外気がほほを撫で、久しぶりの外の空気を吸い込む。
―――この道をまっすぐだ。見回りの時間はまだ先だが、なるべく音を立てないように進め。道の途中で作戦通り石を数個拾っておくことを忘れるなよ
頭に直接タンバの助言が響く。
『了解だよ』
タンバの指示通りに細い道を進んでいき、途中で数個ちょうど良い石を拾う。そのまま数分で屋敷までたどり着いた。
―――ここが第一関門だ。夜に屋敷への鍵が開いている場所はここしかない。当然だが見張りがいる。後数分で見張りの内の1人が庭の見回りに出るから、そこの茂みの中に隠れろ
『うん』
暗い夜闇に紛れ、草木に隠れ、時を待つ。
実際にはとても短い時間なのだろう。しかしその時間はこの屋敷に来てから一番長く感じられる。同時に頭に不安がよぎった。
『タンバ………少し怖いよ』
思わず弱音がこぼれてしまった。
―――心配するな、俺が見ている
『………そっか、ありがとう、タンバ』
この闇の中でもタンバはしっかり私のことが見えている。ただそれだけのことで、少し心が軽くなった気がした。
一安心したのも束の間で、戸が開かれる木と木が擦れる音が僕の耳に届いた。どうやら見張りの内の1人が見回りに出てきたみたいだ。
―――よし、予定通り2人の見張りの内の1人が出てきたな。これであの扉の向こうにいるのは1人だけだ。
『うん、これからあの見回りが遠くに行くまで少し待つんだよね』
―――そうだ。屋敷に侵入するにはとりあえず見張りを分断する必要がある
茂みの間で息を潜める。ざりざりと足音が近づいてきた。心臓がばくばくと音を立て、生きている心地がしない。とにかく息を止め、動きを止め、全神経を自分の存在を消すことだけに集中した。
その甲斐があったのか足音は僕の目の前を通り過ぎて、そのまま遠ざかっていった。
『怖かったぁ』
―――よく耐えたな、さすがミレイ
『ふふ、ありがとう』
人にほめられるのなんて何年ぶりだろうか。こんな当たり前のことがとても嬉しい。僕は少しずつ人間に戻っている、そんな確信があり、無性に嬉しかった。
茂みの中で息を潜めること数分。
―――よし、今だ。
タンバのその声で僕は意を決し、屋敷までの道中で拾っておいた石を取り出し、見張りが出てきた扉へと投げた。