とある小説を実写化したドラマの撮影が終了し、おつかれさまの慰労をこめた打ち上げのパーティーに招待された。
パーティーと呼ばれているけれど、監督やディレクター、主演者がレストランのテーブル一つを囲んでのこじんまりとしたものだ。
ドラマの主題歌を担当させてもらうのは今回が初めてだった。自分の歌を評価してもらったのだと、今回のためにいつも以上にボーカルレッスンに取り組んだ。
これまでも収録や撮影後に食事に誘われるということはあったけれども、今回のように主演ではない自分が招待されるとは正直思っても見なかったので、緊張と驚きを抱えながらも出かけることにした。
パーティーの会場となったのは、撮影現場となったテレビ局近くにある小さなレストランだった。私以外、みんな成人ということで、緊張気味に挨拶になったけれども、温かく迎えてくれた。主演の一人を務めた女性が笑顔で歩み寄り、私の手を両手で握り締めた。
「わたし、あなたに一言お礼が言いたくて」
「えっと……なにかお礼をされるほどのことを、したでしょうか?」
疑問に思い、私が尋ねると、彼女は微笑みながら言った。
「実はね、わたし今回のドラマの撮影前からどう役を演じればいいんだろうって悩んでいたの。ほら、今回のは結構悲しい内容のでしょ? 元になった小説を何度も読んでみたんだけど、どうしてもイメージがつかめなかったの。
でもね、悩んでいたときにあなたが歌うドラマの主題歌……。その歌を聴いたらイメージがスゥーッとわたしの中に入ってきたの。
だから、あなたの歌がなかったら、わたしは役を演じ切れなかった」
シンガーを目指している私とは違い、女優として初の主演を務めることになった彼女にとって、今回のドラマは大きな足がかりだった。ドラマのヒロインは、重荷を背負った女性だった。両親の離婚をきっかけに孤独となり、夢や希望、他者とのつながり、信頼というあらゆるものを失った女性が一人の男性と出会い、変わっていく様子が描かれたものだった。
それは、ついぞ半年前までの私と彼の付き合いをリプレイしているものだった。
***
幼い頃、最愛の弟である優の交通事故による死によって私の家族は崩壊の一途をたどっていた。
毎夜、父親は事故時に弟と一緒にいた母親を「お前が殺したも同然だ!」と、酒を浴びるように飲みながら罵倒した。母親はその罵倒に対して反論することなく、ただただ耐えるようにうなだれているだけだった。
そして、私はそんな二人の様子を遠巻きに見ていることしかできなかった。
子どもだったから。
そんな私に、なにかできるわけがなかったのだ。
幼い頃は喧嘩をしているように見えた二人に仲直りしてほしいと思っていたけれど、時間が経つにつれて、ああ、もう無理なんだな――と達観するようになっていた。
中学にあがることには、もうどうでもいいとさえ思うようになっていた。
家に帰るとまた父親の怒鳴り声を聞くはめになるので、なるべく遅くに帰るようになっていた。
中学生が外をうろついていい時間帯ではないので、さすがに町に出るのは控えざるを得なかった。
そのため、決まって向かうのは近くにある臨海公園だった。そこは、夜になると人気が日中とは打って変わって皆無になる。
静かな夜。闇に呑まれた空に瞬く星。雲の切れ間から顔をのぞかせる月。
孤独な私は、そこで一人のシンガーとなる。
死んだ弟が好きだと言ってくれた歌。布団に入り、眠るまで母親に代わって子守唄を歌ってあげた。でも、私の歌を聴いてくれる弟は――もういない。
誰のために歌うわけでもなく。誰が聴くわけでもなく。孤独な私は、一人大自然のステージに立ち――歌を歌う。
バックは風が誘う草花のこすれる音、砂浜に打ち寄せる波が奏でる波音。
私の歌が、虚しく響いていた――。
***
彼と出会ったのは、一年前――私がまだアイドルではなく、ただの女子高生だったときのことだ。
季節は夏になろうかという六月。そろそろ梅雨入りになりそうだということで、いつ雨が降り出してもおかしくない、言ってみればぱっとしない天気がここ数日続いていた。
十年ほど前からひびが入りを始めていた私の家族は、ついに崩壊した。父親と母親、どちらについていくかと尋ねられたとき、私はどちらにもついていかない――と即答した。
弟、優が死んだ悲しみのはけ口を母親に向け続けた父親――自分一人で被害者面をし続けていた彼についていく気などさらさらなかった。
そんな父親の罵倒に対してなんの抵抗も見せなかった母親――あまりの惨めな姿に、子が親に向ける頼りがいというものを抱くことができなかった。
高校生でありながら、親のどちらとも住むことなく一人暮らしを始めた。
離婚は免れなかったけれども、二人にとって私は血のつながった子どもだ。学業および最低限の生活が遅れるだけの資金面の援助はしてくれることになっていた。
テレビのニュースで伝えられる天気予報では、連日高い降水確率を示しているにもかかわらず、湿気が多いだけで一滴の雨も降らないでいた。
あまり当てにならない。
そういう思いがあったからか、この日私は傘を持っていくのを忘れた。
そして――雨というのは決まってそういう日に限ってやってくる。
キーンコーンカーンコーン――無機質であり、授業の終わりと放課後の到来を告げる音が響いた。
普段ならこのまま音楽室に向かい、コーラス部の活動に加わるのだけれど、あいにく部屋を共有している吹奏楽部の定期演奏会が近いということで今日もそちらに譲ることになっていた。
歌を歌えればどこでもかまわないと思っていたけれど、上級生の部長が思い切って休みにしようと言い出し、満場一致でそれが決定した。
彼女たちにはやる気があるのだろうか――授業が終わり、思い思いの放課後の過ごし方を口にしている彼女たちの後姿を私はじっと見つめていた。
国語科の古文の現代語訳や英語科の日本語訳。理数学の問題集十数ページ。
生徒にとってはうんざりするような宿題の山。
でも、手持ち無沙汰になってしまった私はさほど苦には思わない。
歌を歌いたい思いはあるけれど――窓から外を眺める――あいにくのこの雨。雨にうたれてでも歌いたいとまでは思わなかった。
ならば私のすることは決まっている。
今日はまっすぐ家に帰ろうと思った。が、雨の日に限って傘を持ってくるのを忘れた。置き傘をしている生徒もいるけれど、残念ながら私はしていない。
一つの傘に友人同士が一緒に入って帰る姿が見える。――私にはそうするだけの友人という存在がなかった。
購買で傘を売っているかもしれないと思った――でも、この時間帯だともう閉まっている。
誰かの傘をこっそり持っていこうかと思った――でも、さすがにそれは犯罪なのでやめることにした。
結論は雨が降り続ける中、片道三十分はかかるアパートにまで歩いて帰るほかにすべはなかった。
***
頭が痛い。咳が出る。身体が熱く、汗もひどい。起き上がろうにも倦怠感があり、布団の中から一歩も外に出ることができない。――完全に風邪をひいてしまっていた。
原因は明白だ。昨日雨の中、傘もささずに徒歩で帰ったからだろう。
長い時間冷たい雨にうたれたためか、身体は冷えていた。すぐにシャワーを浴びたけれども、あまり意味はなかったみたい。
のどが渇いたので鉛のように重くなった身体を無理やりに起こし、部屋から出てすぐにある台所の冷蔵庫を開ける――が、そこには普段から食事もとい栄養補給のためのカロリーメイトの箱がいくつか放り込まれているだけで、飲み物が一切なかった。
水だけで済まそうにも物足りず、さすがに風邪の状態で食事を栄養食品でまかなう気にもなれなかった。まともに調理をすることがない私の部屋には食材というものは存在していなかった。
仕方なく風邪薬を飲んで横になろうと考えたけれど、買い置きの風邪薬が見当たらず、結局近くのドラッグストアへと向かわなければいけなかった。
昨日から本格的に梅雨入りをしたからか、地面をたたく雨音が外に響いていた。
汗でぬれたパジャマを脱ぎ、下着は新しいのに変えた。ジャージに着替え、百円ショップで買ったビニール傘を差して外に出た。
風邪によるぼろぼろな体調。なけなしの気力を振り絞って、ふらつきながらという端から見れば危なっかしい足取りでドラッグストアへとたどり着く。異様に重く感じられる買い物かごを手にしながらレトルトのお粥、風邪薬、スポーツドリンクといった必要なものを適当に手にとってはかごの中に投げ入れていく。
手早く会計を済ませ、急いで部屋へと戻ることにする。
食べるものを食べて、適当に水分補給をし、薬を飲んで、十分な睡眠をとればすぐに回復できるだろう。
ドラッグストアから外に出る。
相変わらず絶え間なく雨が降り続けている。
まるで未登録のチャンネルを付けたときに流れる雑音のような雨音。風邪も影響してか、うんざりとした気分になる。
アパートに戻ると、私にとっては最後の関門が待ち受けていた。見上げること四つある階数。そのもっとも上の階に私の部屋はあった。
大きく肩を上下させながら息をする。気力、体力ともに限界だった。
しかし、エレベーターの設置がされていないこのアパート。部屋に戻るには無限階段のように見える段差を上らなければいけなかった。
壁に寄りかかるようにして、なんとか四階まで上がってきたときにはすでに私の息は上がっていた。
部屋はもう目の前。最後の段差に足をかけようとしたところで、視界が一転した。力なく階段に倒れこむ。まともに受身を取ることもできず、強く半身をコンクリートにぶつけることになる。その拍子に手に持っていた買い物袋を手放してしまう。中に入っていたものが、小さな音を立てて下に転がり落ちていく。スポーツドリンクのペットボトルの音が一際大きく反響していた。
当然のようにこの音に反応を示す者がいた。
とはいえ、あまり他人のことには関心を示さないできた私は、このアパートにどんな人がどれだけいるのかさえ知らなかった。知る必要すらなかった。
私が風邪の影響でうずくまっているのが四階。ペットボトルが転がり落ちて制止したのが三階。反応を示し、部屋の扉を開けたのもその三階に住む誰かだった。
タッタッタ――軽快な足音。階段の曲がり角から顔をのぞかせたのは一人の男性だった。
だったというのは、身体に無理をさせたのが悪かったのか、視界がぼんやりとしていたからだ。
彼は、視線の先にいる私の様子を一目見ただけで事態を理解したのだろう。次の瞬間、私の身体は 彼の手によってふわりと持ち上げられていた。
朦朧とする意識の状態で、尋ねられた自分の部屋を教える。
すぐに鍵を開け、部屋に入る。入られる。
玄関を入って台所が付属した短い廊下の先にぶつかる部屋。そこに敷きっぱなしになっている布団に寝かせられる。手際よく準備されたぬれタオルが熱をもつ額にあてられる。ひんやりとしていて、とても気持ちがよかった。
「なにか……レトルトのお粥があるね。薬を飲む前に、少しお腹にいれたほうがいい。今すぐに作るから待っててくれ」
縁有りのメガネの奥に見えるやさしい眼差し。穏やかな笑顔。がっちりとした体躯。
その大きな背中が視界から消える。
離婚した両親すら一度も部屋に通したこともないのに。初対面の、それも大人の男性を通しただけでなく、食事の準備までさせてしまうだなんて。人とのかかわりを敬遠していた普段の私なら絶対にありえない事態だった。
しかし、風邪によって心身ともに疲労していたからか。それとも初対面の男性である彼のもつ、包み込むような温かな雰囲気がそうさせていたからか。理由はわからないけれど、このとき私は彼の言葉に素直に従おうと思った。たぶん、あとで後悔することになるだろうな――という気持ちを心の隅に置きながら。
レトルトということで、数分後お盆の上にあつあつのお粥の入ったお椀とスプーンを乗せてやってきた。ただお湯で温めたものだけど、誰かに準備してもらうということが長らくなかったものだから、目の前に差し出されたお粥が手作りのように見えた。
倦怠感がさきほどよりもひどかったので、自力では起き上がれなかった。申し訳なさと恥ずかしさを覚えつつ、後ろから支えてもらうようにした。
食欲はあまりなかったけれども、普段、否、あのときから忘れていた人のやさしさというものが、一口食べた瞬間に感じられた。すると食欲のなさがうそのように食がすすんだ。不思議と目頭が熱くなる。ぼろぼろと涙があふれ出て、頬を伝う。涙で少し塩辛いけれど、こんなにもおいしいと感じたのはいつ以来だろうか。背中の後ろにいて支えてくれている彼には、泣いている顔は見られていないはず。私が泣いていること理由を詮索しないで、黙ってやさしく背中をなでてくれていた。
からんとスプーンが完食したことを知らせる。
「これは驚いた。完食できるようだったら、すぐによくなるよ。さあ、あとは薬を飲んでゆっくりするといい」
気遣うように言うやさしい声。
まだ優が生きていて、両親の仲も良好だった頃、私が風邪をひいたとき、父親も彼のように声をかけてくれた。両親が離婚して、一人暮らしをするようになってから、すっかり誰かにやさしさによる心地よさを忘れていた。私は懐かしさと心地よさを感じながら、重くなっていた瞼を閉じ、眠りについた。
――名前も知らない彼の看病のおかげか、翌日からは少しずつ風邪の症状が落ち着き始め、二日ほどで回復することができた。
連日看病してくれたのは、私が高校生でありながら一人暮らしであることと、生活、主に食事の面において不安が残ると見たからだと思う。冷蔵庫の中にはまともな食材がないのだから。
「男の料理なんて、たかが知れたものだけどね」と、笑いながら言った彼だけれども、料理をできるだけでも私はすごいと思った。買ったはいいものの、料理なんてほとんどしたことがない私は食器を一度も使用することなく棚に放置していた。
彼が作ってくれる料理はどれも心も身体も温まるものだった。ニラと溶き卵を入れた雑炊。ねぎたっぷりの煮込みうどん。野菜たっぷりのスープ。ほっと一息つきたいときにはレモネードを入れてくれた。
どれも手軽で、男手の料理ということでぶっこんだ、良く言って豪快な料理が多かった。でも、どの料理からも早くよくなってほしいという彼のやさしさが感じられた。彼の持つ独特な雰囲気が、そう感じさせていたのかもしれない。
――風邪をひいてから二日後。すっかり回復した私は久しぶりに学校に登校した。
大事をとってもう一日休んでもよかったし、特に学校に行きたいという思いもなかった。
それでも、もう三日も歌を歌っていなかった。歌わずとも普段から音楽を聴いていたのだけれど、風邪のせいでそうしようという気にもなれなかった。
放課後の部活に参加し、他の部員たちの練習する中、私は喉の大事をとって見学することにした。
合唱部に所属しているけれど、私は他の部員たちの中でも浮いた存在だ。理由はわかっている。私に周りがついてくることができていないからだ。
私は自分の歌に自信を持っているけれども、一流のシンガーになるためにはこれくらいできて当たり前という考えをもっている。
一流のシンガーを目指している私と所詮高校の部活動で歌っているしかない彼女たちでは、実力に差が出てしまうのは当然だ。
私が浮いているのは、それが原因だった。
みんなばらばらの合唱。
顧問から同じ注意が繰り返される。
理解しているとは思えない彼女たちは、それでも脊髄反射なのかうなずいている。
再びピアノの音色に合わせて合唱が始まる。
やっぱり注意されたところが改善されていない。
また顧問のストップの声が上がる。
うんざりとした表情がちらりと彼女たちの顔からのぞいたのを見逃さなかった。
私はため息をつく。退屈である他に、歌への熱意の感じられない彼女たちへの呆れと失望からのため息だった。
こんなことなら、まっすぐ家に帰って静かに音楽を聴いていたほうがよかった――今になって後悔した。
結局合唱は最後まで改善されることはなかった。
練習が終わるや否や、誰一人として反省の様子を見せず、さっさと帰宅の準備をしていた。彼女たちにとって、歌とはその程度のものでしかないのだ。
私はそんな彼女たちとこれ以上一緒にはいたくなかった。
足早に音楽室を後にし、アパートに戻ることにした。
相変わらず振り続けている雨。傘を差していても、地面では寝て足首あたりがぬれてしまう。それがよりいっそう憂鬱さに拍車をかける。
アパートが前方に見えてきたところで、こちらに向かって歩いてくる男性の姿があった。普段なら気にも留めないけれど、その男性は風邪をこじらせた私を付きっ切りで看病してくれた人だった。
声をかけずに部屋に戻るのは、あまりにも失礼だと思った。
彼も私のことに気づいたのか、大きく手を振ってくれた。それに対して、私も小さく手を振って応える。
「やあ、もう大丈夫なのかい? お見舞いに行こうと思ったんだけど、鍵がかかっていたからね。どこかに出かけたのかと思っていたけど……そうか、君は高校生だったね」
「はい、おかげさまで」
そうか、彼のことを私が知らないのと同じように、彼も私のことを知らなかったのだ。今日もわざわざお見舞いにきてくれたのか。先にお礼と一緒に一言言っておけばよかったと反省する。
「いやいや、気にしていないよ」と、彼は穏やかな笑顔を浮かべながら言う。「むしろ、早くよくなったから安心したよ」
「ご心配をおかけして、すいませんでした」
そんなにかしこまらなくてもいいよ、というように彼は苦笑いとともに肩をすくませる。
そのとき、彼の首から下げられているカメラに目が留まった。コンビニなどで売っているような使い捨てのものではなく、よく写真館で専門家が使うような立派なものだった。写真撮影という趣味でもつ人もいるらしいけれども、彼はどうなのだろう。
私の視線がカメラに注がれているのに、彼は気づいたようだった。
「カメラが、そんなに珍しいのかい?」
「いえ、そうではなくて」なんと尋ねようかと逡巡した挙句「撮影家のお仕事でも、なさっているんですか?」と口にしていた。
「うー……ん、そんな立派な腕はないよ」
残念ながらね、と言葉を添えて彼は言う。
「ぼくはね、フリーのカメラマンをしているんだ」
階段を上がりながら、彼が教えてくれた。
***
せっかくというので、部屋の中を見せてもらうことになった。
彼の場合、部屋というより仕事場というのだろうか。間取り自体は私の部屋とそう変わらないけれども、殺風景な私の部屋と比べると、写真の現像などに必要なものや撮影した写真、雑誌などが所狭しに置かれていた。
壁には写真がまるでポスターのように貼られており、一枚一枚が時の流れから切り離された静止画としてあった。
思わず目を見張るほど圧巻の空間がそこにある。
狭い部屋でありながら、立派な写真館のようだった。
外で振り続けている雨の音は締め切られた窓やカーテンによって、ある程度遮断されている。私の好む静寂が、この空間に漂っている。促されたわけじゃないけれど、私は自然と一枚一枚の写真に目を通し始めていた。
写真のカテゴリー的には、野鳥が一番多かった。他には山、海、草原……巡ったいろんな場所を写真に収めているものがあった。
写真についてはまったく素人な私だけど、撮られた写真からそのときカメラのレンズを通して彼が見ていた様子が明朗にイメージすることができた。
彼は自分の腕を過小評価しているようだけど、私はそんなことはないと思った。
床に積まれている雑誌を手に取り、パラパラとページをめくってみた。週刊誌のようで、どのページにも文章とともに写真が添えられていた。もしかすると、彼はフリーのカメラマンとして撮影した写真を雑誌社に売り込む……それが彼の仕事のサイクルなのかもしれない。
彼の撮影しているときの姿を見たことはないけれど、イメージしてみて思わず噴出しそうになった。大きな身体をした彼が、小さな野鳥を追いかけて走り回る姿がつぼにはまったのだ。
カメラマンよりも、彼はどちらかというと鍛えられた体躯を生かす自衛隊のほうが様になるように思えた。でも、温かな印象を抱かせる彼のことだ、誰かを傷つけるというよりは、一人でも多くの人を救おうと尽力するだろう。これは私の勝手なイメージだけれど。
パシャリッ――と、まぶしいフラッシュとともにそんな音が聞こえた。
あわてて壁から視線を音のしたほうへと移す。視線の先には、ファインダーを覗き込みながらカメラを私に向けている彼の姿があった。
「うん――いい笑顔だね」と、満足げに微笑を浮かべる。
「なっ――」大きな驚きと小さな怒りで私はすぐに言葉をつむぐことができなかった。「いきなりなにをしているんですか!」看病をしてもらったという恩はあるけれど、許可もなしに写真を撮るというのはどうなのだろうか。
優が死んでから、家族で撮った写真は一枚もない。
なにかを写したそれを見るのは――まだ我慢はできる。
でも、理由もなしに自分のことを写真に撮られるのはあまり好きではなかった。
それは、自分が写っている写真に優や両親の姿と笑顔が必ずあったからだ。それが永遠に失われてしまっていることを、否が応でも突きつけられる。胸に小さな疼きを感じてしまうのだ。
「わっ――ご、ごめんごめん」彼は私の言葉と態度に驚きを見せながらも、心底申し訳なさを感じているように謝罪してきた。
「ごめんなさい……私も」
空気が悪い。
その理由が私にもあった。でも、彼は黙って首を横に振る。
「そうだったね。許可もなしに写真を撮るのはマナー違反だった」
顔の前で構えていたカメラをゆっくりと下ろす。
「いやぁ、基本的に被写体になるのは野鳥だからね。彼らに許可をもらおうにも言葉が通じないから」
アハハハ、などとおどけた笑い声をこぼす。前言撤回。彼はほとんど反省していない。
「なるほど」
私は姿勢を正し、敵を見るような目を彼に向ける。
「私は野鳥と同じということですか」
私の声は自分でもわかるくらい、とげとげしいものになっていた。
「あ、いや……」
おどけていた彼の顔から笑顔が掻き消える。私の起こした言葉の冷風がそうさせたのだった。さすがに自分の態度を内省しているようで、目が挙動不審になっている。
「いや、違うんだ」
「違うって、なにがです?」
「いやぁ、ね……ぼくの撮った写真を見る君の横顔を見ていたら、たまたまシャッターチャンスに恵まれてね。その笑顔をぜひとも写真に残しておきたかったんだよ」
えっ――と、私は言葉にすることができず、ぽかんとした表情でいた。
笑顔? そんなはずはない。
笑顔など、優が死んでから一度も浮かべたことなどなかった。
愛想笑いすらできない私が、理由もなしに笑顔を浮かべるはずがない。彼の見間違いではないかと、私は自己完結させる。
「でも、さすがに失礼だったね。反省してるよ」
そう言いながら彼はカメラからフィルムを取り出し、それを私に差し出してきた。
「とはいえ、消すのはもったいないからね。君にあげるよ」
反省しているのかがわかりにくい、そんな笑顔だった。
しかし、毒気のないその笑顔を前に、私は素直に差し出されたフィルムを受け取っていた。
――まあ、とりあえず証拠はこの手にあるのだから、これ以上勝手に撮ったことについていう必要はないだろう。それに、どんな表情だったのか――けっして気にならないわけではなかった。
***
風邪が治ってしまえば、もともと人付き合いに積極的ではなかった私と彼とをつなげるものはなくなってしまい、疎遠になった――そうなるはずだった。
「うー……ん、君を放っておくとまともな食事をしそうにないんだよね」
などと、どうでもいいことをまるで人生の分岐点を前にしているかのように深刻に悩んでいた。
余計なお世話――お節介焼きの彼に対して、心中でそう吐露する。言葉にしないのは、そう思う自分と、逆に世話を焼いてくれることを喜んでいる自分がいることに気づいていたから。背反する二つの思いがそうさせていた。
黙っている私は彼を見つめたまま魚をほぐし、白米を口に運ぶ。
質素な食事だけど、私にとっては高級フランス料理にも劣っていなかった。
それに――誰かと一緒に食事をするだなんて、もう二度とないと思っていたからなんだか不思議な感じだった。
――梅雨が明け、季節は一気に夏へと加速する。
色のなかった私の世界のような連日の曇り空も、今ではすっかり晴れ渡って青空がどこまでも続いていた。
雲の切れ間からは太陽が顔を出していて、光を降り注いでくる。
空を仰ぎながら、そのまぶしさに少しだけ目を細める。
私の曇っていた世界を明るく照らし、冷え切っていた心を暖めてくれた。
きっと私はあの頃から求めていたのかもしれない――無条件にやさしさの温もりを与えてくれる誰かの存在を。家族を失い、ただ一人で歌だけを信じ続ける日々を送るというのは、あまりにも心寂しく、真冬のような寒さで、誰かの温もりなしではいられなかった。
彼は毎日私の部屋に来ては朝食と夕食を準備してくれた。
それ以外ではほとんど出入りすることはなく。食事を終え、多少の雑談を交わしたあとには自分の部屋に戻っていった。
メスを求めるオスと化すこともなく、私のことを同じアパートに入居している一人の女子高生としか見ていないようだった。正直なところ、一時はそれを目的に私に近づいてきているのではないかと疑っていた。でも、初めて出会ってから付き合っていくにつれて、彼がそんな人間ではないとわかった。
「……これでも以前よりはマシにはなりました」
「ご飯もまともに炊けなかったからね」
「くっ……今では料理もできます」
「包丁の持ち方から教えたのが懐かしいよ」
ああ言えばこう言う。
私がいくら大丈夫だといっても、彼は頑として譲ろうとしない。
「君は危なっかしいからね」
ほら、また私のことを子ども扱いする。お節介もここまでくれば筋金入りだ。
「子ども扱いしてほしくないと思っているうちは、まだ子どもだよ」
落ち着き払って、私の抗議の視線を意にかえさずにいる。
それでもにらむ視線をとぎらせることなく、コーヒーを一口。彼に見つからないように、こっそりと砂糖をたっぷり入れておいた。やっぱり私はまだまだ子どもなのだろうか。
そういえばと、私は彼に伝えることがあった。
私のほうから話を切り出すことは滅多になかったので、彼はうれしそうにしながら耳を傾けてくれる。
「この前合唱コンクールがあったのを、覚えていますか?」
「もちろん」彼は即答する。「千早ちゃんの生の歌声は初めてだったけど、思わず聴きほれたよ」だらだらと長くない、簡潔な感想をくれる。
合唱部では浮いた存在の私だったけれど、最後のコンクールと思うと回りのことなどいちいち気にして入られなかった。
それに家族以外で自分の歌を聴かせるというのは彼が初めてだった。
誰かに自分の歌を聴いてもらうために歌う――それがどれだけ幸せなことなのか、私は久しく忘れていた。
歌だけを見ていたから。歌がどこに向かうのか、その先を見ていなかった。
今までその先に家族がいた。でも、その家族が見えなくなってしまってから、その悲しみから見ないようにしていた。見てしまえば、現実を突きつけられるから。
「その合唱コンクールに、とあるアイドルプロダクションの社長の方がいらしていたようで」私がそう言うと、彼はふむ、と腕組みをする。「それで?」と話を促してきた。
「その方に声をかけられまして。その……つまり、アイドルにならないかとスカウトされて」
いつもどおり二人だけの会話のはずなのに、私は緊張していた。声が震えているのがわかり、きちんと伝わっているのか不安だった。
声をかけてきたのは765プロダクションという、聞いたこともないアイドルプロダクションの社長をしているという高木という男性だった。
アイドルにならないかと言われたけれども、私がなりたいのはあくまでもシンガーであり、アイドルではない。そもそもアイドルに対して興味はこれっぽっちもなかった。だから、初めは丁重に断ろうと思っていた。
しかし、高木という男性は言った――アイドル経験が後のシンガーとして活かされることもある。それが意味するのは、アイドルを将来シンガーになるための良く言って通過点、悪く言って踏み台にするというのだろう。
私が仮にアイドルになったとしたら、それは純粋にアイドルを夢見ている少女たちの思いを踏みにじることと道義なのかもしれない。無粋な理由でアイドルになるなという人もいるかもしれない。だけど、このままただ夢と妄想の区別もつけられぬままダラダラとしているよりは、思い切って踏み出すことも必要なのでは――そう考えた結果、私は彼のスカウトを受けることを決めた。
そのことを彼に伝える。うんともすんとも言わずに、黙って私の話に耳を傾けていた彼がようやく重く閉じられていた口を開いて、
「うん。いいんじゃないかな」
と、あまりにもあっけらかんとして言った。
私は、彼の予想外な態度に肩透かしをくらったような心境だった。
それだけ、ですか――と、私はぽつりと尋ねる。
「そうだけど?」彼はどこか困ったような笑みを浮かべる。「千早ちゃんがアイドルになるとなったら、今までどおりというのは少し難しいかもしれないね」
その声には少し、残念だという思いがこめられていたように聞こえた。私の自惚れかもしれないが。
確かにアイドルにとってスキャンダルは禁物だ。でも、私はまだアイドルとしてのスタート地点にすら立っていない、候補生。もう少し、この温かな時間を享受していても罰は当たらないのではないかと思った。
***
アイドル候補生となった私は、所属していた合唱部を退部した。そうなると、放課後はレッスンがある日以外は暇になる。候補生である私に仕事など回ってくるはずもなく、自然と足が向くのはアパートの自室だった。
休日となっても、基本的にそれは変わらなかった。
日曜日はオフとなっており、一日を自由に過ごすことができた。
これまでは部屋に閉じこもり、音楽を聴いているくらいしかなかった私だけど、彼との出会いがきっかけで日曜日は部屋の外、夏真っ盛りな町の中を散歩した。
写真撮影のために頻繁に外出している彼だけれども、日曜日は基本的に仕事はせずに私にわざわざ時間を割いてくれた。
どこを目指すわけでもなく、私たちは気の向くままに歩を進めた。
住んでいるにもかかわらず、ほとんど関心を向けたことのない町の中を歩き、大通りにある商店街を抜けて、ビルが立ち並ぶオフィス街へ。
頭上に浮かんでいる、照りつけるような太陽から逃れるように、私たちは展望台のある建物へと入った。
エレベーターを使って最上階の展望台へ。
そこからは町全体を一望することができた。オフィス街ということで、日曜日にもかかわらず片側二車線の道路を何台もの車が、なにかに突き動かされるようにして忙しなく駆け抜けていくのが見えた。
「忙しないですね。世間一般は休日であるはずなのに」
アイドルとなった私にとっては、忙しいほど仕事のある彼らがうらやましく、向かうべき場所に進んでいるのかどうかもあやふやでわからないことへの苛立ち。私は不意に心情を吐露していた。
「そういう人たちは、常に結果を求め、求められているからね。自他の期待に応えないといけないって思って急ぐんだ。そんな生き方は苦しいし、つまらないと思うんだよね」
彼はお金を入れて望遠鏡を覗き込んだ。遠くを見たところで、どこまでも続く無機質なビルが立ち並んでいるだけなのに。
それとも彼には私とは違う、別のなにかが見えているのだろうか。彼に代わってもらい、望遠鏡を覗いてみる――だけど、やっぱり見えるのは退屈さを助長させる風景だけだった。
顔を離して、彼に尋ねてみる。「結果を求めるのは、いけないことでしょうか?」私は将来的にシンガーを目指している。そのためにはアイドルとはいえ、歌で有名にならなければいけない。それを求めることは、いけないことなのだろうか。
彼は首を横に振った。「いや、求めることはいけないことじゃないよ」もう見えなくなっている望遠鏡をわざと私に向けるようにして「急いだところで、いい写真が取れるわけじゃないし。それに、ぼくは撮った写真が雑誌に採用されようが、されまいがどうでもいいんだよ」と、オブラートに包むことなく、あっさりと言った。
「それじゃあ」私は理解できないという顔をして「どうして、写真を撮るんですか?」と尋ねずにはいられなかった。
「写真を撮るのが好きだからね」と彼は間髪入れずに言った。
そして、いつかと同じように私にカメラを向けて、シャッターを押した。
パシャッというシャッター音。「またですか?」悪戯好きの子どもにするように言う。
「ごめん、ごめん」彼は悪戯っぽく笑う。「でも、千早ちゃんだって歌が好きだから、歌うんだろう?」私は即座に首肯した。
チチチッと最上階の窓の外にある巣に親鳥が帰ってきた。ひな鳥たちは両親が帰ってきたことを喜ぶように、ピーピーと声をあげている。それがアパートに帰る合図だった。いつの間にか、外はうっすらと闇色がかっていた。もうすぐ夜が訪れる。
「そうだ。今度休みの日に野鳥の撮影について来てみるかい?」
唐突な彼からの誘い。話を聞くだけで、これまで彼が野鳥の写真を撮っている姿を実際に見たことはなかった。興味があったので「ぜひとも」と誘いを受けることにした。
***
「ぼくはね、写真一枚それだけで小さな物語ができているって思うんだよ」
彼はカメラのファインダーを覗きながらそう言った。
彼からの誘いを受けてから一ヵ月後のこと。私の通っている学校も夏休みに入ったということもあり、時間的な余裕ができていた。その期を利用して、彼を一緒にとある田舎村にやって来ていた。
村一帯が盛りに囲まれており、人工の手が多く入っている都会から隔離されているように感じられた。普段とはまったく違う雰囲気が漂っていたけれど、忙しない都会とは対照的なゆったりとした時間の流れにいつの間にか順応していた。
私たちは、その田舎村にある森の中に足を踏み入れ野鳥を観察しつつ、それを写真に収めていた。
私はその言葉を聞いて、彼に見せてもらった数々の写真を思い出す。その一枚一枚には、確かにその刹那の時間にあった物語が凝縮されているように思えた。
「だからね、ぼくは歌も物語でできていると思うんだ。千早ちゃんのような歌う人は、聞いている人に物語を伝えている。ぼくは、それがすごいことだと思うし、うらやましいと思う」
チチチッという泣き声とともに、近くの木にめずらしい青い鳥が留まった。
幸せを運ぶ蒼い鳥。その鳥はどんな幸せを運んできてくれるのだろうか。私にも、彼にも。
そんな蒼い鳥に向かって、彼はカメラを向け――パシャリッ――ゆっくりとシャッターを押した。その一枚にはどんな幸せな物語が収められているのだろうか。できたときには、ぜひとも見せてもらいたいと思った。
***
季節が夏から秋へと移り変わるように。
永遠という時間がないように。
私の人生も、ゆっくりと動き始めていた。
アイドルにならないかとスカウトされてから数ヶ月。ついにCDデビューすることになった。
以前、それなりに有名な歌番組のオーディションに参加し、並居る強豪たちとの熾烈な選考の末――かろうじて引っかかるという形ではあったけれども、その番組に出演することができた。
その番組を見て、私の歌を聞いたというとある作曲家が私に対して曲を提供してくれるとの吉報をプロデューサーから伝えられた。試しにと聴いてみたその曲。聞き終えた私は、この曲を歌いたいと即断した。それから直接作曲家からこの曲にこめた思いを聞き、何度も曲を聴き返し、イメージを繰り返して、曲が伝えようとしている物語を明確にしようとした。
アイドルとして結果を出すことなどどうでもよかった。いくらでも代わりのいる「アイドル」としての仕事ではなく、他の誰でもない自分の歌を、と求められることがなによりもうれしかった。
曲を最高の出来にしたいということもあり、レッスンに没頭していくうちに、私は彼との付き合いから次第に疎遠になっていった。朝早くから、夜遅くまであるアイドルとしての活動だけではなく、私の気持ちは、時間が経つにつれて彼から離れていった。
最高の曲を歌いたいという結果を求め、求められていたそのときの私には、結果を自分にも求めず、他人からも求めないという彼の考えや存在そのものが、あまりにも異質に見えて、軽蔑の念すら抱いた。結果に執着しないことが、なにかから逃げているように感じられたからだ。
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いつものように朝が来て、いつものように彼が訪問して来た。
「やあ、おはよう」いつものように親しげな調子で言う。「もしよかったらだけど、また一緒に撮影に出かけないかい?」他意を感じさせない穏やかな誘いの言葉だった。
「ごめんなさい。もうすぐ曲の収録があって。今は時間をレッスンに費やしたいの」
普段から利用しているレッスン室へとこれから出掛けようとしている私の様子を見つめて、彼は残念そうでありながら微笑んだ。
「そう、だったね。うん、君は他人からだけでなく、自分からも求めているんだね、君の歌を。曲の収録がうまくいくといいね」
唐突に彼のほうから誘いをかけてくるのは、これが初めてだった。いつもならば数日前に話を切り出しているというのに。このとき急いでいた私はまったく気にもしなかったけれども、今思い返せば、彼も変わろうと思い出発の準備を終えていたのかもしれない。別れた私は、アパートに迎えに来てくれたプロデューサーの運転する車に乗り、レッスン室へと向かった。
レッスンや収録に没頭している合い間に、遠く離れた紛争地帯で日本人の戦場カメラマンが銃撃戦に巻き込まれたというニュースを噂で聞いた。その日本人は意識不明の渋滞から、結局一度も回復の兆しを見せることもなく亡くなったということを、収録が終わった日の夜にニュースで知った。
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有名な作曲家たちからいくつもの曲を提供してもらい、私はそれを歌った。CDがその月の人気ランキングでベストテンに入るようになったこともあり、アイドルとしての私自身にも注目の視線が向けられるようになり、曲を歌うだけでなく、グラビア雑誌の写真撮影やバラエティ番組、ラジオ番組への出演といったさまざまな仕事の依頼が入るようになった。
他や同じ事務所のアイドルではなく、私自身を求める数々の仕事。雲を延々と掴む作業をしていたかのような候補生であった頃や駆け出しのアイドルであった頃と比較すれば、これ以上はないという充実した毎日を過ごしていた。私は周りが求めるがままにアイドルを演じ、曲を歌い続けた。
求められることに応え続けていた私は、いつしかそれ自体に不安を感じるようになっていた。ファンからの声援や関係者スタッフたちからの賞賛の言葉は自信やモチベーションにつながると同時に、それ以上の結果を求められているという無言のプレッシャーとなっていた。アイドルとしての私を演じている内に、本当の私の上から期待や結果が塗り固めるようになり、そうしていつしか都合のよい私、いわゆる虚像ができあがっていた。
求められていない頃にはけっして感じていなかった不安。アイドルとは言ってみれば才能が結果を大きく左右する仕事であるから、私よりも才能豊かなアイドルがいれば、当然のように失敗もする。声援や賞賛の言葉というのは、簡単に罵声や否定の言葉へと変貌する。それをぶつけられたときは、如月千早という存在そのものを全否定されたかのように落ち込むこともあった。
こんなにも結果を求められることが苦しいのならば、いっそうのこと求めなければいいのではないかと思ってしまう。そうすれば声援や賞賛の言葉はなくとも、罵声や否定の言葉で存在を全否定されることもない。あるがままに生きていけると思うと、そんな生き方ももしかしたらいいのではないかと誘惑される。
アパートの部屋でふと以前彼から手渡されていた現像されていない写真の収まったフィルムを見つけた。確か、初めて彼の部屋に通されたとき、勝手に撮られた私の写真が入っているはずだった。
写真店にそれを持って行き、数日をかけて現像してもらった。
できあがった写真を受け取り、部屋に帰ってから見てみることにした。
入っているのはただ一枚の写真。その写真には、紛れもなく私如月千早が写っていた。微笑を浮かべた私の姿が写っていた。
私はその一枚の写真を何時間も眺め続けていた。
映画やドラマを見るかのように。小説を読むかのように。
たった一枚の、それも刹那の時間を切り取ったかのようにしてある写真。
しかし、それには私には知り得ない彼だけの物語がこめられているのだろう。
もし、彼がここにいてくれたら尋ねられたのに。
***
パーティーのあった日から数日が経っていた。
私はとある芸能雑誌で紹介されていたとある無名のカメラマンの写真展があることを知り、その会場へと足を運んでいた。
無名ということもあってか、あまり客足はよろしくなさそうだった。
それでも、物語が収められている写真を一枚一枚足を止めては、食い入るようにして見ている利用客の姿もあった。私もその一人だった。
森での撮影なのだろうか。木々に止まって羽休みをしている鳥たちの姿や誰に見てもらうわけでもなく、ただそこに咲いている花々の様子があった。そこは人口の手がまったく入っていない、いわば世界の本来の姿としてあり、私の生きる忙しない社会とはまったく違う、大げさに言うと異界のようだった。
水辺での撮影なのだろうか。川では今まさに獲物を捕らえんとしている熊の姿が、海ではそこまで透き通って見える水中を並んで泳ぐかのようにしているイルカ、大きく反り返った巨体を海面に叩きつけるようにしている鯨の姿があった。
戦場での撮影なのだろうか。激しい戦闘の末、町並みは廃墟と化しており、瓦礫を椅子代わりにして、うな垂れ座っている原住民たち。食糧不足で乳を与えることができないので空腹で泣き叫ぶ赤子を抱いている母親。盗みを働く子どもたち。略奪が当然のようにあり、複数人で一人を袋叩きにしている。そして、生まれる場所が悪かった……ただそれだけの不運で死んでしまった人。餌に群がるようにしているカラスたち。
そして、彼が死ぬ間際にカメラに収めていた写真。
それには、戦闘によって荒地と化した大地に降り立つ、あまりにも場違いな存在である蒼い鳥が写っていた。
彼はこの写真にどんな物語を込めたのだろう。その彼が今ここにいないから、聞きたくてもそれができない。
あとそれを知っているのは、こちらを見つめるようにしている蒼い鳥だけだろう。