ビルに囲まれたオフィス街の外は、一歩足を踏み出しただけでうだるような暑さに支配されている。でも、ビルの中の撮影現場は冷房が聞いていて、とても快適な状態にある。
こちらに向けられたカメラのファインダーに笑顔を向ける。
パシャッ――フラッシュとともに、乾いた音が連続的に響く。
「お疲れ、愛ちゃん。いやー、今日もかわいい写真が撮れたよ」
満足気な顔をして、カメラマンさんが声をかけてきた。
「お疲れ様です!」
長時間経ちっぱなしは大変だったけど、アイドルとしては大切な仕事の一つ。だから、へこたれるようにはしない。
あたしは控え室に戻って、着替えを済ませて身体を休めていた。
今日の予定は、午前中に雑誌に載せる写真の撮影、午後には歌番組の打ち合わせとボーカルレッスンがあった。
候補生の頃に比べたら、一気に過密になったスケジュール。それだけ期待されているということはわかるけれど、やっぱりプレッシャーを感じていないとは言えなかった。
否が応でも付きまとう、あたしがあの伝説のトップアイドル日高舞の一人娘だという事実。ママの名前を借りずに、トップアイドルになりたいという目標、夢があるけれど、まだまだそれを成し遂げるのは難しそうだ。
だからといって、あきらめるほどあたしは弱くないし、その目標、夢は軽くない。
それでも途方もないくらい高い山に登るのと同じこと。その頂にたどり着けるかどうか、不安はある。いくら負けず嫌いだからといって、一人で頑張るのには限界があるし、そもそもどうすればいいのかもわからない。
カランカラン――。
ドアを隔てた向こう、廊下側からなにかが転がり、ぶつかる音と歩く足音が重なって聞こえた。それから、トントントンッとノックがされる。
「愛ちゃん、入ってもいいかな?」姿は見えないけれど、プロデューサーさんの声が聞こえた。
「いいですよー!」疲れを知らないあたしは元気よく言った。
プロデューサーさんは控え室に入ってきて「疲れてるかと思ったけど、やっぱり愛ちゃんは元気だなあ」買ってきたばかりで、乾いた喉と暑い身体に効果覿面のスポーツドリンクを手渡してくれた。
カランカラン――。
彼の上着ポケットから、また音が聞こえた。理由はわからないけど、あたしはそれを聞くだけで安心するのだ。
***
男と女。雄と雌。父親と母親。両方がいて、初めて子どもは生まれる。
帰れば温かい家庭が迎えてくれる。そこには大好きなママもいる。でも、一人だけ――パパの姿だけがない。あたしが生まれて十三年。その十三年分の記憶に、パパとの思い出はおろか、温もりさえなかった。
「日高、お前父親いないんだってなー」
「それって、おかしいくないか?」
だから、小さい頃からパパがいないことをからかわれることがあった。入学式も、運動会も、授業参観も……そこにはママの姿しかなくて、一度だってパパが来てくれたことはなかった。
「ねえ、ママ」だから、あたしは小さい頃にママに尋ねた。「どうして、あたしにはみんなみたいにパパがいないの?」
「愛……」わたしが泣きそうな顔だったから、それとも別の理由があったからか、あたしはそのとき初めてママの困ったような、辛そうな笑顔を見た。
「愛のパパはね、今はズゥーッと遠くに行って、お仕事を頑張っているの」小さなあたしの身体を、しゃがみ込んだママが抱きしめてくれた。
カランカラン――。
ママのエプロンにあるポケットから、あの音が聞こえた。
***
「うわあああん!」所属している876プロダクションの事務所に、あたしの泣き声が木霊する。「宿題が、終わらないよー!」
休日、午後のレッスンまでだいぶ時間があるということもあり、事務所に宿題を持ち寄ってこなそうと計画していた。でも、あまりの難問にすっかり集中力を切らしていたあたしは鉛筆を投げ出したい思いに駆られていた。
トップアイドルになるためにアイドル活動を頑張ることは当然のことながら、あたしはまだ中学生と義務教育課程にある。高校以上とは違い、よほどのことをしない限りは卒業できないという事態にはならないかもしれないけれど、トップアイドルの学力が悲惨なものであったら、それはあまりにも恥ずかしい。そもそも、両立できないのであればその時点でトップアイドルになどなれはしないと、以前から口すっぱく言われていた。
「ああん、もう駄目―」ノートと問題集が広げられているテーブルにグデーッとなる。「もう頭が回らないよー……」
終わらせないと、怖い先生に怒られる。それは嫌だとはわかっているけれど、どう考えてもぜんぜん解ける気がしないのだ。オーバーヒートした機械のように、あたしの頭からは湯気が出ているかも。
***
「ママ、ママ!」空になった小さな洗濯かごを頭の上に掲げるように持ちながら、ママのもとへとあたしは走る。「はい、洗濯物全部掛けたよー!」
「あら、愛早いわね」そう言って、ママはあたしの頭をなでてくれる。
ほめてもらえるのがうれしくて「えへへへっ」と満面の笑顔になる。
「ねえ、ママ! あたし頑張ったからご褒美ちょうだい!」現金にもあたしはすぐに小さな両手をママに差し出して、ご褒美をねだった。
仕方ないわね、と言いたげな苦笑いを浮かべながら、ママはエプロンのポケットからなにかを取り出した。
カランカラン――。
またあの音が鳴る。「それじゃあ、はい。ご褒美よ」あたしの手のひらの上で、ママが取り出したなにかを小刻みに振ると、まるで魔法のようにコロリと一つの宝石が転がった。
「わーっ!」興奮気味にそれを両手で摘み、空に向かって掲げてみる。頭上の太陽の光を浴びて、それがキラキラと輝いて見えた。
***
小さい頃の話を、ふとママに話したときがあった。
「ドロップ一つで満足するなんて、変なところが似てるのよね」手のひらで黄色のドロップを転がし手遊んでいるママが、そう口にした。
「パパもね、いつもドロップの入った缶を持ち歩いてくれたのよ。それで、ママが頑張ったご褒美に一つそれをくれたの。子どもっぽいって思うかもしれないけど、確かにそれをただなめるだけなら、そうでしょうね」
そこまで言ったママは、どこか怪しげで、恍惚とした笑みを浮かべていた。
気にならないわけじゃないけど、それ以上聞くのがなんだか怖かった。
そんなあたしの気持ちなどお構いなしに、ママは話を続けた。
「ママが愛くらいのときだったかしら。恋人とのキスはレモン味なんてロマンチックな噂が流れたのよ。ママの友だちも、結構彼氏を作りだしていてね。でも、ママはアイドルだったから、ぜんぜん彼氏を作るなんてできなかったわ、本当はね」
ママは懐かしそうに、そして、めったに見せない幸せそうな顔をしていた。
たぶん、パパとの大切な思い出だからだったのだろう。
再婚だって十分できるのに、今日までママはそうする気配を微塵も見せなかった。ママは今もまだあたしの知らないパパのことを愛している。これだけママに愛してもらっているパパの顔を、あたしは見てみたかった。
「でもね、ママにも好きな人がいたの。それがね――」ママは勿体ぶるように、一度言葉を切った。
「――パパなんだね」ママの目が促しているのに気づいたから、あたしが代弁した。
「そうよ。パパもママのことが大好きでね、キスすることになったの」突然の話の飛躍に、あたしはすぐに理解できなかった。「でもね、その前にママは友だちから恋人とのキスはぜんぜんレモン味なんてしないって聞いていたの。ただのたとえなのに、当時は本当のことのように信じていたのよね。でも、レモン味のキスなんて未知の体験に興味がわかないわけはないの。きっとそれは幸せの味なんだろうなって、ママは思ってた。だからね――ママは頑張ってパパからご褒美をもらったの」
ママは自分の手のひらに、宝石のような黄色いドロップ――レモン味のそれを乗せた。
「そして――――キスをしたの」ママはそっとドロップに唇を添えた。
きっとそのときのキスは、本当に幸せなレモン味がしたんだろうな。
***
「やれやれ、しょうがないな」パソコンとにらめっこしていたプロデューサーさんが、キイッと椅子を回してあたしのほうを向いた。「豆タンクは燃料切れかな?」くつくつと笑い声をもらしながら、そう言う。
誰が豆タンクですか、まったく失礼な人ですね――あたしはふくれっ面になる。
「ほら、ドロップでもなめて糖分補給でもしな」
プロデューサーさんは、あたしのにらみなんて意にも介さず、いつもカランカランと音のするポケットから、普段余り目にしない四角の形をした缶を取り出した。ふたを取り、缶を上下に振ると、その口から色とりどりのドロップが転がり出た。
カランカラン――。
あたしの手のひらに納まる、黄色いレモン味のドロップ。
幸せいっぱい、レモン味のキス。
あたしもいつか、ママみたいな気持ちになれるのかな。
そっと唇を添えるようにキスをする。
安心感のある、温かさに包まれたような感じ。覚えていないけれど、なんだか懐かしい。
あたしのキスは、そんな味がした――。