手のひらに収まる小さな袋に入ったアサガオの種を、駅近くにある商店街のお花屋さんでキャンペーンということで貰い、アパートの自室に帰った。
店先で笑顔を振舞いながら、店主の娘さんなのか高校生くらいの女の子が「大切に育ててください」と言って差し出してくれた。別に花を育てられないほど忙しいわけでもなく、むしろ手持無沙汰を最近感じていたので、ちょうどよかったくらいだ。
帰る途中に雑貨店に寄り道して、育てるのに必要な鉢植えや水やり用の小さな如雨露、店員に相談して土や肥料なども購入した。
アパートの自室に戻ってから、すぐにノートパソコンの電源をつけ、ネットでアサガオの育て方を調べる。種を植えるときの肥料の分量や鉢植えの位置、水のやり方などを一通りメモしておいた。
鉢植えに肥料と土を入れて、貰ってきた種を指で空けた穴に置いて、そっと上から土をかけてあげる。
一日二日では目が出ることはない。それは仕事でたちまち見事な功績を挙げるのと、どこか似ているような気がする。
アサガオが立派な花を咲かせるのが早いか、私が仕事で功績を挙げるのが早いか。私は土に隠れているアサガオに対して、一方的な宣戦布告を仕掛けていた。
***
しばらく経ってから、重い土を持ち上げてアサガオはその芽を出していた。
それに比べて私はぜんぜんだ。
憎らしい競争相手なので、ツンツンと思わず悪戯をしたくなる。悔しかったらやり返してみなさい。きっと私は意地の悪い笑みを浮かべているに違いない。
アサガオはそれだけでは花を咲かせることができない。私が定期的に水やりをして世話をしているから、芽を出すなど一歩リードできている。そのことを感謝してほしいものだ。
私もそんな人がほしいという思いがある。アサガオが羨ましく思えた。
***
梅雨の時期に入り、連日視界が悪くなるほどの雨が降り続いていた頃だった。私が勤めていた会社が企業収縮を図るということで、大幅な社員が雇用切りを言い渡された。つまり、リストラということだった。
思わしくない景気の波。小さな波にすら乗り切れなかった会社が、経営悪化の一途をたどっているのは目に見えていた。いつかこうなるかもしれない予感があったけれど、あまりに突然のことだったのでショックが大きかった。
私を含めても、リストラにあった社員には女性が多かったように思う。不公平だという思いもあるけれど、今となってはどうしようもない。
私は仕事着であるスーツ姿のまま、頭上から降り注いでくる雨をシャワーのように浴び続けていた。一人そこに根が生えた木のように道路に立っていた。悔しさややるせなさといった心に巣食うもやもやとした感情を洗い流してくれないかと思っていた。
でも、いつまで経ってもそんなことはなかった。むしろその感情が大きくなるばかりだった。深く深く、心の奥底にまで侵食してくる。まるで水のやりで花の根を腐らせてしまうかのように、私の心もすっかり腐りかけていた。
そんなときだった。突然頭の上からかかる雨が感じなくなった。不思議に思い、顔を上げてみる。そこにはコンビニで売っているようなビニール傘を私の頭上に置いて雨をしのいでくれている男性がいた。
「どうしたんですか、こんなところで?」彼はひどくあわてた様子で尋ねてきた。「びしょぬれじゃないですか、風邪を引きますよ?」見ず知らずの私を気遣うようにしてくれる。
彼は私の腕をつかんで、雨宿りできる場所に連れて行く。それから、無駄だとわかっているだろうに、私に地味な色のハンカチを差し出した。とりあえず形だけでもということで、私はそれを受け取った。頭から髪、頬と伝ってくる水滴を吸わせると、あっという間にそれは重くなった。でも、少しだけ心は軽くなったような気がした。
「なにかあった様子ですが、自宅は近いのですか?」女性が一人、雨に打たれているだなんて姿を見たら、なにがあったのかと気になるはず。それなのに、その男性は深く詮索してくることはなかった。
私がここから二駅先にあるアパートに住んでいることを伝えると、
「このままじゃ帰り辛いのでは?」他意があるようで、なさそうという態度を見せる。
確かに頭からずぶぬれという情けない姿だった。雨が体温を奪い、ぶるりっと身体が震える――寒い。くしゅんっとくしゃみももれた。
「確か近くにビジネスホテルがあったはずです。そこで服を乾かすついでに、一日宿泊するのはどうですか?」
私は彼に引かれるがままにビジネスホテルに来ていた。フロントで受付を済ませ、カードキーを受け取った。
カードキーを私に手渡してから、彼はそのまま帰ろうとした。それを私は拒んだ。呼び止められた彼はきょとんとした様子で「あの、なにか?」まるで小動物のように小首をかしげた。
私と彼は赤の他人。恋人でもなければ、友人でもない。道端で偶然会っただけのこと。それなのに呼び止めてしまったのは、私が単に温もりを求めていたから。私のわがままに、彼は困ったような顔を浮かべる。
ごめんなさい、それでも――私たちはそこでキスをし、部屋に移動してからもう一度唇を重ねて、ぬれたスーツなど気にも留めずに倒れこんでベッドの上をゆがませた。開け放された窓の向こうではまだ雨が降り続いていた。外はきっと寒いだろう。出しっぱなしにしているアサガオは、独りぼっちで震えているかもしれない。彼と一緒にいなかったら、 私もきっと独りぼっちで震えていただろう。ぬれたスーツとヒールが床に落ちた。
激しく抱き合いながら、私はむさぼるように温もりを求めた。花が咲くには、適度な温かさが必要だった。
やがて連日降り続いていた雨が止む頃には、私は深い眠りについていた。
***
その日から数日後、彼から電話があった。
「すいませんが、今から会ってもらえませんか?」彼は単刀直入にそう言った。
仕事をリストラされ、部屋にいても鉢植えに植えたアサガオの成長をボーッとしながら眺めているしかすることがなかったので断る理由はなかった。
彼が指定した場所は、駅近くにある喫茶店だった。若干予定していた時間よりも早く着いてしまったので、席に座って待つことにした。
そういえば、アサガオは蔦を伸ばすので、そろそろ支柱を買っておいたほうがいいかもしれないと、梅雨明けで晴れ渡っている青空をぼんやりと眺めながら考えていた。
予定していた時間の五分ほど前に彼が現れた。以前会ったときとは違うネクタイにスーツ姿。仕事の途中なのだろうか。リストラされたばかりということもあり、自然と目が細まるのに気づいた。
「突然来ていただいて、ありがとうございます」建前上の言葉を皮切りに「お尋ねしたいのですが――――あなたはアイドルに興味はありますか?」
その質問を聞いて、私は目をしばたたかせる。「アイドル、ですか?」オウム返し調に聞き返すと、彼は名刺入れを取り出し、一枚それを私に差し出した。そこにはCGプロダクションというアイドルプロダクションのプロデューサーであることを証明することと彼の名前が書かれていた。
「つまり……私をスカウトしたい、ということですか?」
ついこの間まで、どこにでもいるような女性社員でしかなかった私を、アイドルに――。
「はい、そうです」佇まいを直し「以前お会いしたときから、あなたに魅かれるなにかを感じていました」彼は真剣な眼差しを向けていた。
でも、彼が私のなにに魅かれたのかがわからなかった。感じていると言っているけれど、それは所詮直感でしかないのでは……。
自分のことを知ることが他人を知るよりも難しいとはよく聞くこと。リストラ前の会社だって、もともと就職したかった職種のものではなかった。本当に私がやりたかったことはなんなのだろう。大学時代、周りが次々と内定を決めていき、その流れにただ身を任せていたから真剣に考えたことはなかった。
だから、彼の言葉には大きな期待はしていなかった。とはいえ、聞いてみたいという興味・関心のようなものはあったのは確かだ。
「あなたの中にはまだ芽が出ていない種があるんです。それはきっとトップアイドルの種だと思うんです」彼はまるでお宝を探し当てたトレジャーハンターのように、瞳を輝かせている。「芽が出ていないのは、成長に必要なものが足りていないから――――でも、CGプロダクションなら、きっとあなたをトップアイドルにすることができる」根拠も何もない、一方的な語り。でも、今目の前にいる彼が初めてアサガオを育てようとしていたときの私と重なった。
「高垣さん――――あなたなら、きっとトップアイドルになれます。当然たどり着くには苦難もあると思います……でも、そんなときはプロデューサーとして俺がしっかり支えます。だから――」
上へ上へと蔦を伸ばしていくアサガオ。しかし、支柱という支えがなければ上へと伸びることはできずに、下に這いつくばるだけだ。アサガオであるアイドル。支柱であるプロデューサー。互いの支えによって、立派な花を咲かせることができる。
「――アイドルに、なってみませんか?」
私は黙って彼の目を見て頷いた。
***
朝はいつも通りの時間帯に事務所に出勤する。この日はちょっとした荷物が有ったので、少しだけ早めにアパートの部屋を出た。
すっかり夏の季節に入ったのか、早い時間から太陽は空高くに昇っていて、これでもかというくらいに自己主張している。
事務所に到着し「おはようございます」挨拶とともに中に入る。
「おはようございます、楓さん」挨拶を返してくれたのは、誰よりも先に事務所に出勤している事務員の千川ちひろさんだ。
私は持ってきた荷物を日差しの当たる窓際のデスクに置いた。
***
午前中は比較的自由な時間があった。
仕事のあるアイドルたちが入れ替わり事務所にやって来ては、仕事先へと出ていく。
私はそんな彼女たちと窓際のデスクに置いている鉢植えのアサガオを交互に見ていた。
突然にスマートフォンが鳴った。アサガオを弄りながら出ると、和歌山の実家にいる母親だった。あまり連絡をよこさない娘の様子を心配してのことだろう。
「楓、あなた会社リストラになったんだって? 東京じゃ、最近そういうことが多いそうじゃない。これからどうするんだい?」
「無職で、むー……ショック。ふふふ、どうしようか」
「なに呑気なことを言っているのよ。お父さんなんて早く孫の顔が見たいなんて毎日ぼやいてるのよ。ぜんぜんそういった話も聞こえないし。それに、そっちでまだ仕事が見つかっていないのなら、せめてこっちに戻ってきたらどう? 知り合いにお願いすれば働き口を提供してもらえるかもしれないから」
純粋に心配してくれている母親の優しさがうれしかった。最近話をしていない父親の顔を思い出し、今度戻ったときは一緒にお酒を飲んであげようと思った。でも、それはもう少しあとになりそうだ。
「ありがとう。でも、もう少し頑張れそう」
一人でどこに伸びるのかもわからずにいた私。支えの無かった私はただただ地面に落ちるしかなかった。
梅雨に入る前に花屋の少女に貰ったアサガオは、すっかりきれいな花を咲かせていた。以前の私とは違って、支えとなる支柱に絡みつくようにして上に伸びている。初めてにしてはうまくいったようで、少し誇らしい。
「そうそう、競争だけど勝敗はどうしようか」
今日私は大きなドームで単独ライブを控えている。