ボーイ・ミーツ・ガール   作:クレナイ

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金魚掬い

 腕時計の針は、夜の時刻七時頃を指し示している。この時間帯になって、ようやく空に昇っていた陽が傾き始めるけれども、一向に気温は下がる気配はない。日中とそれほど変わらない気温。これは今夜も熱帯夜になりそうだと思うと、また憂鬱さが増した。

 悪いことは重なるものなのか、仕事が遅くなり運悪く帰宅ラッシュのサウナ状態と化している列車に乗車することになってしまった。

 ハーッとため息が出る。最近はこういったことばかり。読者モデルの撮影の仕事が私だけ何度も取り直しをさせられたり、仕事先の編集長さんからセクハラまがいのことをされたりとか……。すっかり負のスパイラルにはまってしまっていた。

 そもそもことの発端は、この前突然付き合っていた彼が別れ話を切り出してきたことではないか。

「まゆがなにか悪いことをしたんですかぁ……?」

 私は信じられなかった。大好きな彼が別れたいだなんて言うはずもないと思っていたから。私がどれだけ彼のことが大好きで、愛しているのかも知っているはずなのに。

 なにか悪いことをしてしまったのかもしれない――悪いことをしたのなら、いくらでも謝ります……だから、捨てないで。

 彼が気に入らないところがあったのかもしれない――気に入らないところがあるのなら、気に入られるように直します……だから、捨てないで。

 彼のためならなんでもする――――そう思っていたのに、

「いや、お前が悪いってわけじゃないんだ」

 彼はひどく曖昧に答えた。私にはわからなかった、彼がどうして私と別れたいのか、ぜんぜんわからなかった。

「なら、どうしたらまゆのことを捨てないでくれますかぁ……?」

 縋りつこうとして手を伸ばす――彼はその手を取ることもなく、一歩後ろにたじろいだ。私の手は、彼に届かなかった。私は呆然として、彼を見つめる。

 何度理由を尋ねても、彼は曖昧な答えしかくれなかった。

「女に尽くされる男ってさ……なんていうか、情けないっていうかさ」

 女が男に尽くすのはいけないことなのか。大好きだからこそ。愛しているからこそできることなのではないか。だから、私にはわからなかった。何度理由を尋ねても、彼は同じようなことしか口にしなかった。

「俺ってそんなに頼りないかな……。期待されていない感じがしてさ、だから……」

 結局話し合いは平行線をたどるだけ。私がどんなに言葉を尽くしても、彼はもう私には振り向いてさえくれなかった。

 彼と別れたのは、ちょうど一週間前くらいだろうか。

 

                     ***

 

 降車する駅に到着し、吐き出されるようにして電車から降りる。プラットホームを出て、改札口を抜ける。地下の道を通って階段を上ると、どこからともなく気分を高揚させるような音楽、はしゃぐ子どもたちの足音と声が聞こえてきた。沈みきっていた私の気分とは真逆の雰囲気が辺り一帯に漂っており、場違いな気がして居心地が悪かった。

 駅近くには公園があり、付近の商店街が主催している夏祭りが行われているようだった。

 自分と同い年くらいだろうか、浴衣に身を包み、少しだけ化粧をほどこした女の子が彼氏と思われる男の子に手を引かれ、提灯が明るく照らしている人混み溢れた夜道を歩いていく姿を見た。

 本当なら、そこにいるのは私のはずなのに――。

 彼ら以外にも老若男女、大勢の異なる年齢のカップルがお祭りにやって来ている。中には自分よりもはるかに年下の――小学生の男女が仲良く手をつないで横を走り去っていく。

 あんな小さな子どもでもできていることなのに――。

 自然とした唇を噛み締め、爪が食い込むほど手には力が入っていた。

 すぐにでも立ち去りたかった。でも、どうしたわけか私の足は変える方向とは逆の露店が展開されているお祭りの会場へと向いていた。

 商店街の大人たちが慣れた手つきでお祭り特有の料理の焼きそばや焼き鳥などを売っていた。

 熱帯夜に合わさって、お祭りの活気で辺りの気温はさらに上昇しているのではないか。さすがに喉が渇いたので、飲み物を売っている露店で氷水が張ったクーラーボックスに沈んでいる缶ジュースを一本買い、人目をはばからずに豪快にゴクゴクと飲んだ。まさか読者モデルがこんな姿を晒しているだなんて、いったいどれだけの人が気づいているだろうか。担当者が聞いたら卒倒するかもしれない。

 

                     ***

 

 どこを目指すわけでもなく、ただ宛もなく露店を覗くなどしていた。

 ふと、子どもたちが集まっている露店が気になった。そこは金魚掬いを取り扱っており、プラスチックケースの水槽の中には黒、赤の二色の金魚が泳いでいた。子どもたちは一匹でも多く捕まえようと気構えて、ポイとお椀を手にして夢中になっていた。

 小さい頃、家族と一緒に行ったお祭りで自分も夢中になったことを思い出した。薄い紙が張られているだけのポイはすぐに破れてしまうので、金魚を追いかけているといつの間にか敗れてしまい、結局自分で捕まえたことは一度もなかった。今は金魚ではなく、好きな人なのかもしれない。

「あれ、もしかして――」突然横から声をかけられた。知らない人だったら反応しなかったかもしれないけれど、その声に聞き覚えがあったので反射的に顔をそちらに向けていた。「――あ、やっぱり。まゆだ」私に声をかけてきたのは一人の年の近い少女――CGプロダクションに所属している人気アイドル、渋谷凛ちゃんだった。

 アイドルと読者モデルとはぜんぜん立場や外への露出が違うけれど、以前とある雑誌に掲載される写真撮影のときに特別出演という形で彼女と一緒に仕事をする機会があった。直接会うのはそれきりだったけれど、連絡先を交換するなどして時々メールや電話のやり取りをしていたから交流が疎遠になっていたわけじゃなかった。

 凛ちゃんの後ろにはクールビズ姿のプロデューサーさんの姿もあった。

 彼ともその仕事のときに初めて会った。

 その頃は仕事の量も増えてきていて、ゆっくり休めていなかった。それが悪かったのか、体調が思わしくなかった。それでも仕事を休むわけにはいかず、不調を隠して仕事をこなしたが、当然いつもより撮り直しが多かった。体調不良とはいえ、読者モデルとしては、仕方がないの一言で済ませられなかった。

 そんなとき、彼が声をかけてくれた。

「体調が悪いのかい?」話してもいないのに、一目で見透かされたようで思わず心臓がドキリッとした。

「アイドルは当然だけど、読者モデルもきちんと体調管理をしないとね。あまり無理し続けると、あとが大変だ。ここは一度担当者さんに話をして、休みをもらったほうがいいんじゃないかな?」

 そう気遣うように言った彼は、差し入れのつもりなのか栄養ドリンクのようなものをくれた。

「どうして、体調が悪いと思ったのですか?」不思議に思った私は、思わず尋ねていた。

「駆け出しとはいえ、これでもアイドルのプロデューサーだからね。彼女たちの体調についてはきちんと把握しておかないといけないんだ。だから、いつの間にか見るだけである程度はわかるようになったのかな」と、すごいと思うことを鼻にかけることなく、さもできて当然のことというように話した。

 彼にいつも見守られている凛ちゃんや他のアイドルたちが羨ましかった。

 これが、私と二人との出会い――。

「凛ちゃんに、プロデューサーさんじゃないですか。こんなところに、どうしたんですかぁ?」

 その質問は私にも当てはまるかもしれない。案の定クスリッと笑った凛ちゃんにそう切り返された。

「俺は凛がどうしても行きたいって聞かなくてな」

 まるで行動派の彼女に引きずり回される彼氏のように、苦笑いを浮かべている。でも、見たところ彼が嫌がっている様子はない。むしろ楽しそうでもある。

 逆に彼がそう言うと、凛ちゃんが少しだけ顔をムッとさせる。

「プロデューサー、それじゃあ私が我が儘言ってるみたいじゃん」そう抗議するように言う。「でも、半分はそうだろう?」

 頭一つ分違うので、凛ちゃんに視線を下ろす形になる。傍から見れば、その構図はまるで一組のカップルみたいだ。羨ましくて、切なくて、悔しくて――私は二人から視線を離すことができないでいた。

「それで、まゆはどうしてお祭りに来たの?」クルリとプロデューサーさんから、私に向き直った凛ちゃんが尋ねてきた。

「私は……」彼女のその質問に、私はすぐに答えられなかった。

 

                  ***

 

「プロデューサー、ちょっとまゆと話がしたいんだけど」

 そう凛ちゃんが言ってから、私たちは金魚の泳いでいる水槽にしゃがみ込んでいた。両手にはポイとお椀がある。

「話がしたい」と凛ちゃんは言っていたけど、どうして金魚掬いをすることになっているのだろう。

「ほら、取り敢えずやろうよ」手が止まっていた私を凛ちゃんが促す。

 金魚掬いなんて何年振りだろう。懐かしさを感じながら、私は小さい子どもたちと混ざりながら始めてみる。狙いを定めた金魚の後ろにポイを構え、ゆっくりと水槽に沈め――掬い上げる。

「あっ――――」私の口からは悲嘆の声がもれた。水槽から出たポイは、見るも無残に破れており、狙いを定めていた金魚には逃げられてしまっていた。何年経っても、やっぱりうまくいかない。

 彼氏だけでなく、金魚にまで逃げられてしまう私って……。

 考えないようにしていたことが、頭に蘇る。どうしてこうもうまくいかないのだろう。私が破れて穴の開いたポイを見つめながらため息をつくと、

「まゆ、やっぱりなにかあったの?」凛ちゃんが心配そうに尋ねてきた。私を見て、それから手にある穴の開いたポイへと視線を移す。「もしかして――彼氏についてとか?」そして、もう一度私を見ながらずばり核心をつくことを言ってきた。

「――っ!?」私は驚きのあまり言葉にならなかった。「え、あ、どうして……凛ちゃんはわかったのですかぁ?」

「んっ――」凛ちゃんは一瞬考えるように目を閉じて「――なんていくか、女の勘、かな? なんてね、まさか偶然。それにしても、まさかあたるなんて思わなかった」などと悪戯っぽく笑いながら言う凛ちゃんだけど、私には偶然とは思えなかった。

 

                  ***

 

 相変わらず私たち二人は金魚掬いの露店で、水槽の前にしゃがみ込んでいた。ただ一つ違うのは、先ほどまで両手にあった穴の開いたポイと空のお椀はなく、その代わりに露店主に掬ってもらった小さな金魚の入ったビニール袋があった。

「彼に言われたら料理だって、掃除だってします。デートだって彼の予定に合わせますし、部活で試合があればお弁当を作って『頑張れっ』って応援をしたり、落ち込んでいるときは相談に乗り、励ましたりもしました。それなのに、どうして私は、まゆは捨てられないといけないんですかぁ……?」

 私は自分の気持ちを知ってもらいたい一心で、捲くし立てるように話した。

「ちょ、ちょっと。まゆ、ちょっと待って」手を前に出して、凛ちゃんは慌てたように私が話すのを遮った。「まゆってさ……話を聞いた限り、本当尽くす女の子だよね」どことなく感心の色が混じっていた。

 私にとっては当たり前のことだったから、感心されることはいまいち理解できなかった。

「それに、そこまで一途に想えるまゆはすごいと思う」と言って、凛ちゃんは気合を入れるように着ているシャツを捲り上げた。

 それから一匹の金魚に狙いを定め、ゆっくりと水面にポイを近づける。サッとすばやく、まるでスプーンでアイスを掬うかのようにポイを動かした。水で半透明になったその上には狙っていた一匹の金魚が乗っていた――が、ポイが金魚の重みに耐えられなかったのか破れてしまい、解放された金魚は再び水槽へと戻っていった。

「あ、くっ――――」

 あと少しだったのに。獲物を逃がしてしまった凛ちゃんは悔しそうに、まるで仇敵をにらみつけるかのように穴の開いたポイを見ていた。

 でも、それも一瞬だった。私と同じように露店主から金魚の入ったビニールを受け取ってから凛ちゃんは、

「まゆのお世話焼きなところって、される男子にとって最初はすごく浮かれてるんだろうね。ほら、男子って単純だから、自分に尽くしてくれているってことだけでうれしかったり、自惚れたりするんだよ。でも、過度の干渉はかえって束縛されてるみたいに感じちゃう」

「そんな……束縛するだなんて。まゆは純粋に好きな人を想って――」

 反論しようとする私の言葉を遮って、

「それはまゆ自身のこと。まゆは相手のことを考えたことがある?」

「相手の、こと――――」あっただろうか、否、ない。

「男子……男ってさ、女の前ではかっこつけたがるでしょ? だからさ、あれこれされるのってたぶん息苦しいんだと思うんだ。ほら、この金魚だってそう」

 凛ちゃんは手首にかけたビニール袋をひょいと上げる。小さな水槽の中で、金魚が狭そうに泳いでいる。

「それに私たちくらいだと、まだまだ色んなことがしたい、自由が良いって思うでしょ? 狭いビニール袋の中じゃ、ぜんぜん満足できない。それに、追いかけるだけじゃ簡単に逃げられちゃう。ときには待つことも必要なんじゃないかな。恋愛だって同じ――とはいえ、そういう私もまだまだなんだけどね」と笑顔で彼女は言った。

 そんな彼女の顔も、誰かに恋をしているというものだった。

 

                    ***

 

「二人とも、話というのは済んだのか?」

 後ろから凛ちゃんのプロデューサーさんの声がかけられる。振り返ると露店から買い込んできたのか、わたあめや焼きとうもろこし、りんご飴に焼き鳥、焼きそばなどを両手いっぱいに抱え込んでいた。

「なんだ、いろいろ言っておいてプロデューサーが一番お祭りを楽しんでない?」

「そりゃあ、凛。お祭りに来たら食べるものがあるだろう?」

 爪楊枝に刺した熱々のたこ焼きを口に放り込み、ハフハフと口を動かす。

「それになんだ、二人そろって金魚を捕まえられなかったのか?」私たちの手にかかっているビニール袋を、にやにやとからかいの笑みを浮かべながら見ている。

 悔しさ半分、恥ずかしさ半分。

「なに、プロデューサー? その口振りだと、私たちみたいに逃げられずに、自分は捕まえられる自信があるって言ってるみたいだよ?」

 ならばと、凛ちゃんが自腹を切って受け取ったポイとお椀をプロデューサーさんに差し出しながら、挑発する。

「そこまで言うなら、捕まえてみてよ、プロデューサー」そう言ってから、凛ちゃんは私のほうを向く。無言で同意を求めているのがわかった。

「まゆも見てみたいですねぇ」今の私は、きっと悪い笑みを浮かべている。

「ほう……二人は俺が一匹も捕まえられないと言うんだな?」

 不敵な笑みを浮かべるプロデューサーさんは、持っていたものを凛ちゃんに預け、代わりに道具を受け取る。

「昔、近所のみんなから金魚掬いのPちゃん呼ばれていた実力、とくと見せてやろうじゃないか」

 しゃがみ込み、クールビズで半そでのワイシャツなのに腕まくりの動作をする。たぶん、気合を入れているのだと思う。

 ――それから一分と少々。

「あーっ、もう終わりか」残念そうに穴の開いたポイを見つめる。「ひい、ふう、みい……うん、全部で八匹ってところか」

 満足はしていないようだけれど、私には十分すぎると思う。私以外にも、一緒に見ていた露店主や子どもたちの拍手喝采があった。プロデューサーさんは照れくさそうにしていたけれど、満更でもなさそうだった。

「うーん」と、凛ちゃんは渋い表情を顔に浮かべている。

「どうだ、凛。言った通りだろ?」得意げに狭苦しげに赤黒二種類の金魚が入ったビニール袋を見せ付ける。

「凛ちゃん?」

「なんとなくだけど……」渋面からなにか納得したという表情に変わり「金魚掬いがうまいから、プロデューサーは次から次へと女の子をアイドルにスカウトしてくるんだね」

「はあっ!?」刺すような視線と突然のその言葉にプロデューサーさんは慌てる。「おい、それとこれとは関係ないだろ?」言い繕うプロデューサーさんだけど、凛ちゃんの機嫌は変わらず不機嫌なままだ。あ、凛ちゃんが不機嫌な理由わかっちゃったかも。

「はあ、それじゃあプロデューサーにいろいろ奢ってもらおうかな。ねえ、まゆも一緒にどう?」

「せっかくですけど、私はもう帰りますねぇ」

「えっ、せっかくお祭りに来たのに」

 凛ちゃんはお祭りを楽しみに来たと思うけど、私は本来そのつもりで来たわけではない。これから三人でお祭りを楽しむこともできるかもしれないけれど、今日のところは遠慮しておこう。

「ちょっと用事を思い出しましたから。それでは、凛ちゃん、プロデューサーさん……また」

 別れの挨拶を残し、私はその場をあとにする。

 お祭りの会場を抜け、帰宅路を歩く。

 手首にあるビニール袋の水がチャプチャプと音を鳴らし、中にいる金魚は窮屈そうに泳いでいる。

 ――恋は金魚掬いみたい、か。

 それなら、追いかけるだけでは逃げられるのは当然だ。私はずっとへたくそな金魚掬いをしていたのかもしれない。

 ポイが破れれば、逃げられてしまう。でも、そうならないように工夫するのは、なんとかして好きな人を振り向かせようとすることと同じなのだろう。難しいけれど、その分だけ一生懸命になれる。

だからこそ、恋することはやめられないのかもしれない。

「今度のはちょっと難しそうですねぇ」

 大きな水槽に一匹だけ悠々と泳いでいる金魚が見える。ポイとお椀を手にする私の隣にはしゃがみ込んでいるもう一人の女の子の姿がある。彼女もきっと、その金魚を捕まえようとしているのだろう。負けられない。

 負けないためには、まずはどうしようか。

「そうですねぇ……。まずは、同じ舞台に立たないと」

 とりあえず、今所属している事務所をやめないといけない。

 私はバックの中から携帯電話を取り出し、リダイヤルボタンを押した。

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