ボーイ・ミーツ・ガール   作:クレナイ

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風船/この手を離さないで

「あらあら、困ったわねー。ここはどこかしら」

 困ったように頬に手を当てながら腕組みをする。言葉とは裏腹に、ゆったりとした口調なのは性分なので気にしない。

 辺りには高層ビルがいくつも立ち並び、交差点では目まぐるしく信号の色が変わり、途切れることなく歩行を促す音楽が鳴り響いている。人と車が忙しなく行き交い、ぶつからないことが奇跡のように見えた。そして、その交差点の横断歩道を渡り終えて、ふと立ち止まって今に至る。

「おかしいわね、何度も行っている場所だから迷うはずがないのに」

 キョロキョロと目的のスタジオを探してみたけれど、それらしいものは見当たらない。以前ならまだましも、最近ならこんなことにはならなかったはず。そもそも迷わず目的地に到着できるようになったのは、プロデューサーさんが付き添ってくれるようになったからなのだけれど……。

 今朝方、そのプロデューサーさんに突然別件の用事が入って、付き添いができなくなった。私以外にも何人もプロデュースしているから仕方がないといえば仕方がない。でも、運良く今日は何度もお世話になっているスタジオでの仕事――私一人でも移動できると思った。

 それなのに、いくら歩いても目的のスタジオに到着しない。歩くたびに、その分目的地から離れていくような気さえした。腕時計を確認してみると、早めに事務所を出発したというのにかれこれ一時間は歩いているようだった。プロデューサーさんが一緒なら十分もかからないというのに……。

 ハアーッと一つため息をつく。それが歩き疲れたからなのか、自分への情けなさからなのかはわからない。

 こうして立ち止まっている間にも時間は刻一刻と刻まれていく。秒針のカウントと同時に、私の胸にも焦りと不安が募っていく。外出用の変装をしているからか、通行人の誰も私がアイドルの三浦あずさだとは気づいていない。棒立ちの私の横を通り過ぎていく人の中には、邪魔だと言わんばかりの無言の視線を向けてくる人もいた。居心地の悪さを感じた私は、そこから逃げるように離れた。

 

 

 肩から提げたバッグから携帯電話を取り出す。リダイヤルボタンを押せば、画面に出てくる相手の名前はプロデューサーさんだった。忙しい彼のことを考えると、申し訳なく思ってしまう。

 ワンコール――ガチャリッとまるで電話してくることを予測していたかと思わせるほどの早さだった。

「はい、もしもし。どうしたんですか、あずささん?」

 いつもの穏やかな声音だったけれど、若干“やっぱりか……”という呆れが混じっているようだったのは疑いすぎだろうか。それは兎も角として、

「プロデューサーさん、ごめんなさい……私、また道に迷ってしまって」

「ああ、うん……そうですか」電話の向こうで話している彼が苦笑いを浮かべているのが容易に想像できた。「まあ、ありえないことではないですからね」

「ううう……返す言葉もありません」

 彼がすぐに電話に出たのは、私が無事にスタジオに到着できるのか心配で事務所のデスクの前で携帯電話とにらめっこをしていたからだという。彼は、私が迷子になることと予想していたみたい。だから、急遽入っていた仕事を、無理を言って時間をずらしてもらったとのこと。結局私はわがままを言うだけで、彼に迷惑をかけている……。

「それで、あずささん。今どこにいるかわかりますか?」

 場所を尋ねられ、もう一度辺りに視線を巡らせたけれど「ごめんなさい、わからないですね。周りにはビルがたくさんあって、今は交差点近くのコンビニの前にいるのですが」

「ああー……あそこですか」一拍置いただけで、私の居場所がわかったみたい。内心焦るばかりの私とは対照的に、彼は落ち着いている。「スタジオから逆方向ですね……」と、それに続けてアハハハッと空笑いをこぼした。それにつられるように私も笑った。

「今から車で向かえば、まだ間に合いますから大丈夫ですよ」

 焦る私の心中を察してなのか、逆にゆっくりとした口調で話してくれる。それを聞いてホッと安堵の息が口からもれた。

 電話の最後に「あずささん、けっしてそこから動かないでくださいね」と釘を刺されてしまった。一応わかりましたと言っておいたけれど、意識していても私にとってはこれが意外と難しい。プロデューサーさん、早く来てくださいね。そうでないと私、またどこかに行ってしまいそうで――うふふふ。

 

 

 仕事がオフのとある休日。短大生の頃からの友人と出掛ける約束をしていた。その日は早めにアパートを出たのだけれど、反対方向の電車に乗ってしまい、結局五分遅れで待ち合わせの場所に到着してしまった。彼女も私の方向音痴と迷子癖を理解しているので、遅れてきたことを咎めることはなく、むしろ逆に笑いながら宣言した。ビシッと細くきれいな人差し指を向けながら、

「あずさ、当然わかってるわよね。遅刻した罰として、今日のお昼はあずさのおごりだから」

「あらあらー。でも、そういう約束だから仕方ないわね」

「まったく。今日行くカフェはこの前オープンしたばかりだから、早く行かないと席が取れないのよ」

「だから、本当にごめんなさい。ほら、早く行きましょう」

 そんなやり取りをしながら、彼女の言うオープンしたばかりのカフェへと向かった。雨続きだった梅雨が明けて、季節は一気に夏に向かっているように外出日和だった。案内されたテラスの席に座って、出された水を一口飲んでのどを潤す。ほのかにレモンの香りがした。

「あずさってさ」頬杖をつきながら私のことをじっと見つめながら「風船みたいよね」

「えぇ!?」

 突然の友人の発言に驚きを隠せなかった。慌ててどういう意味なのかと聞き返そうとしたところで、注文表を持ったウェイトレスがやって来た。仕方なくメニュー表に目を落とす。私のことを待っている間になにを食べようかと決めていたのだろう、私が悩んでいる間にさっさと「ナポリタンで」と注文し終えてしまったので、なんだか急かされているような気がした。たっぷり一分間考えた末に――「それじゃあ、ホットサンドでお願いしますー」

 注文をとり終えたウェイトレスがお店のほうに下がったところで、改めて聞き返すことにした。

「ねえ、私が風船みたいってどういうことかしらー。アイドルをしているから、これでも人一倍気にしているのだけれど」

「あ、変な意味で言ったつもりじゃないのよ。なんて言うか、あずさって手をつかんでいないとどこかにフラフラっていなくなっちゃうから?」

 そう笑いながら話す友人の様子から、その言葉には悪気はないようだ。一瞬いい感じはしなかったけれど、もう大丈夫だ。安心して、話の続きをうながした。

「運命の人を見つけるって、アイドルになったみたいだけど。あんたにお似合いなのは、風船が飛ばないように付いている紐を握ってくれるような男性だよ」

 そう言って、友人はお水を一口飲む。コップと氷がぶつかってカランッと涼やかな音が響いた。私は口をつけずに、鏡のような水面を見つめていた。確かに彼女の言う通りなのかもしれない。私は誰かが一緒じゃないと、その場に留まることができない。

 近くで「あーんっ」という子どもの悲しい声が上がった。声のほうを向くと、一人の女の子が空を見上げ、泣きべそをかいていた。手から離れた風船が、風の流れに乗って飛んでいくのが見えた。まるで私のようだった。そう――気の向くままに動いてしまうのだ。

 

 

 プロデューサーさんのおかげで無事にスタジオに到着し、つい先ほど仕事を終えたばかりだった。支度を済ませ、ロビーに出るとそこには椅子に座っている彼の姿を見つけた。私が声をかける間もなく、気づいた彼がやって来た。

「お疲れ様です、あずささん」

「うふふ、プロデューサーさんもお迎えありがとうございます」

 仕事の出来について話をしながら、スタジオをあとにする。時刻がお昼を少し回った頃だったので、折角だからどこかで昼食を摂ることになった。彼に案内されて向かった先は、アンティークで飾られた独特な雰囲気のある喫茶店だった。明かりは窓から差し込む日差しだけという、一見して教会の礼拝堂のようで、不思議な居心地だった。

「ここの喫茶店は珈琲とナポリタン、日替わりのケーキだけとメニューは少ないんですけど、とっても美味しいんですよ」と自慢するように言った。

 彼がここをよく利用していること、気に入っていることがよくわかった。初老のマスターが提供してくれる料理は、確かに彼が絶賛するように絶品だった。

 昼食を摂り終え、私たちは喫茶店から駅前の駐車場へと向かっていた。駅前の広場で子どもたちに風船が配られていた。子どもたちは差し出された風船をうれしそうに受け取っている。

 目の前を横切ろうとした女の子がつまづいて転んでしまい、うっかり手を離してしまう。風船はその手を離れて、ふわふわと空に昇っていく。それを見上げながら「あーんっ!」と女の子が悲しそうな声を上げた。

「よっと」隣を歩いていたプロデューサーさんが軽く跳躍して、風船の紐をつかんだ。「はい、どうぞ。今度は転んで離さないようにするんだよ」と慰めるように頭をなでながら、つかんだ風船を女の子に手渡した。

「ありがとう、お兄ちゃん」とお礼を言う女の子は満面の笑みを浮かべた。風船はあるべき場所――女の子の手の中にあった。ペコリッと礼儀正しくお辞儀をしてから、またパタパタとかわいらしく走り去っていった。

 女の子の姿が見えなくなったところで「それじゃあ、あずささん――俺たちも行きますか」と、私がまた迷子にならないように、手を差し出した。なんだか子ども扱いされているみたい。でも、今はそれが嫌ではなかった。

「そうですね、プロデューサーさん」差し出された手に、自分の手を添える。

 温かくて、大きな手が包み込むように私をつかまえてくれる。風船のように、この手が私のあるべき場所なのだと思う。

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