ボーイ・ミーツ・ガール   作:クレナイ

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キーワード:日常、虫眼鏡 アイドル:渋谷凛


虫眼鏡

「おはようございます」

 授業が終わり、放課後。私はいつものように所属している事務所にやって来た。ドアノブをひねって中に入り、習慣化した挨拶をする。しかし、それに対しての返事は十秒経っても返ってこなかった。

 誰もいないのかな。めずらしいな。そう思いながら、辺りを見渡してみる。いつもなら、事務員のちひろさんや誰かアイドルがいるのだけれど。プロデューサーは一人で私以外に何人もアイドルを担当しているから、仕事に出ていて今日のようにいないことはめずらしくない。

 スケジュールが書き込まれたホワイトボードの前に移動する。そこには黒いペンで真っ黒に塗りつぶされるほど、細かく予定が並んでいた。それを見て、私は自然と頬が緩むのを感じた。初めてアイドル候補生としてスカウトされた頃は、まだ大きくレッスンと時刻が書き込まれているだけで、今よりも白い部分が多かった。そう思うと、今の私は少しでもアイドルらしくなれたかな――――誇らしく思えるのだ。

 隅っこのほうに、マグネットで止められた紙があった。「ちょっと、用事を済ませてきます。すぐに戻ります」との、ちひろさんの書置きだった。どうやら入れ違いになったようだ。

 備え付けのソファーへと移動し、ストンッと座り込んだ。スマートフォンを取り出し、メールが来ていないかを確認する。何通か受信していて、高校の友人のほかに同じ事務所のアイドルからだった。一通り目を通し、一言二言メッセージを添えて送信する。それほど時間のかからない作業だった。今日は特に仕事もレッスンも予定に入っていなかったけれど、事務所には無意識に足を運んでしまうのだ。心地が良いからなのかもしれない。とりあえず、置きっぱなしにしていたファッション雑誌を手に取り、暇をつぶそうとした。しかし、何度も読んだ雑誌なので、パラパラとめくっても目ぼしいものは見当たらない。たいした暇つぶしにもならず、半分くらい読んだところでやめ、ソファーの前のテーブルに置いた。

「あれ、これは――?」

 雑誌を置いた隣に、ふとなにかが置かれていることに気付いた。それに手を伸ばし、取ってみる。手のひらサイズのもの。少し懐かしいと思った。

「虫眼鏡? ああ、なるほど」

 考え込まずとも、それと一緒にテーブルにあったものを見れば納得できた。絵と文字で観察対象の成長の記録が書かれている。観察日記。対象は――アリのようだ。小学校の夏休みの宿題。毎日薫ちゃんが楽しそうに虫かごの中のアリを観察していたような気がする。

 ふと小学生の頃、同じ夏休みの観察日記を担任の先生にほめられたことを思い出した。宿題とはいえ、どうしてこんなことを毎日続けなければいけないのかと嫌々やっていたはずなのに途中から楽しくなり、虫眼鏡を片手に日々の変化を観察し続けた。

 虫眼鏡を手にして、なんだか当時と同じ気持ちに戻ったような気分だ。「ちょっと借りるね」と、ここにはいない薫ちゃんに断りを入れて手のした虫眼鏡を覗き込んでみる。なにか慣れた日常で、見落としているものはないか探してみる。観察開始だ。

 暑い夏。外は焼けた鉄板の上に立っているかのような錯覚を覚えるほど暑いけれど、事務所の中はエアコンが利いていて、ひんやりとしている。

「よぉーし……」私はヘアゴムを取り出し、髪を後ろでひとまとまりにした。なんというのか、気合を入れる意味で。おそらく必要ないだろうけれど。

 まずは給湯室。棚の中を見てみる。始めこそ最低限のものしか置かれていなかったのに、今では個人用のコップやらなにやら持ち込まれたものが収納されていた。新しいお茶っ葉にお茶菓子は卯月が持ってきたものだろう。そういえば、この前共演した765プロの萩原雪歩さんから美味しいお茶の入れ方を教えてもらったって嬉しそうに話してくれたっけ。

 次に休憩室。「これはなんて言うか――――カオスね」そう顔を引きつらせながらつぶやく。持ち込まれた私物の一つ一つを見て回る。一升瓶におつまみ。野球の応援グッズ。いつの間にか設置されている本棚に並んだ大量の占いやファッション、グルメ雑誌に古書、漫画、さらには同人誌までもがある。また、ホラーDVDにゲームがテレビの周りに山のように積み上げられている。普段この部屋で誰がどんな風に使っているのか、鮮明にイメージすることができた。

 会議室。仮眠室。事務室。あとはあとは……。

 なんとなく始めた日常の観察だったけれども、小一時間事務所内を歩き回っていた。普段余り気にしなかった分、発見することは多かった。そのほとんどが呆れるものだったけれども。唯一大きな収穫となったもの。手のひらにちょこんと乗った一本の鍵。なにの鍵なのかはわからないけど、なぜか仮眠室のベッドの下に落ちていた。気になる。すごく気になる。

 

                     ***

 

 しばらく探してみたけれど、まったく見当がつかない。疲れてソファーに戻る。身体を預けるように座り、ふぅ……と深いため息をついた。

 なんとかこの鍵が使い道を知りたいけれど、そろそろちひろさんや他のアイドルたちが来る頃だろう。そうなると、この観察、もとい捜索はおしまいだろう。

 そもそもどうして、たかが鍵一本がこんなにも気になるのだろう。嫌な予感でもしたからなのか。どうなのだろう。

 ふいに顔を上げた視線の先に、プロデューサーたちのデスクがあった。そういえば、デスクには鍵穴がいくつかあったような気がする。まだそっちを捜索していなかったので、立ち上がる。まずはプロデューサーのデスク。下のほうから開いているかを確かめてから、鍵を差し込んでみる。一つ、二つ……。横にある引き出しはどれも鍵が開いていて、違ったようだ。でも、手元のものだけに鍵がかかっていた。プロデューサーが鍵を持っている可能性もあるけれど、物は試しということで差込み――回してみる。

 ガチャリッという音が聞こえ、鍵が開いた。開けてみると、一つを除いて、特に目立ったものは入っていなかった。そう、一つを除いて。

「なに……これ」

 それを見た瞬間、全身が緊張に襲われるような感じを覚えた。恐る恐るというように、それを――小さな箱を手に取った。

 とても軽いけれど、とても重いもの。

 心臓が早鐘を打つ。緊張で口の中が乾く。ゴクリッとのどが鳴る。嫌な予感が生まれては消えていく。まだ知らずに済む。誰かのそう囁く声があった。

 しかし――私は意を決して箱のふたを開けることを選んだ。箱に入っていたものは。それを見たとき、私は何かが崩れていく音を聞いたような気がした。

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