お昼前の授業。教室はいつもの通り、気だるい雰囲気が漂っていた。
アメリカの大学を卒業したという男性教師が教科書を片手に授業を進めているけれど、周りを見渡してみると隣同士でこそこそと会話をしていたり、ちぎったノートの切れ端になにかを書いては交換してくすくすと笑いをこぼしていたりしているクラスメイトたちの姿があった。授業が後半になるにつれて、生徒たちの集中力は切れてくる。先生もそれをわかっているから、あえてなにも言わずに淡々と進めているのだろう。
それでいいのかとボクは思いながら、板書された英文と解説をノートにきれいにまとめていく。
「いいか、この英文は重要だぞ。試験に出すから、絶対に覚えろよ。大好きなアイドルや芸能人の名前は忘れていいから、これだけは忘れるなよ」
先生の冗談混じりの言葉に数人が笑う。でも、ほとんどは顔を黒板と先生に向けただけ。私も笑わずに、その英文の解説が書いてある参考書の重要そうな箇所にマーカーペンでラインを引く。それから、板書をきれいにノートに書き写した。
外は夏の暑さで焼かれた鉄板の上のようだけれど、中はクーラーが入っていて快適だ。それが気だるさを助長しているのかもしれない。適当に授業を受けているクラスメイトの中には、授業の途中から夢の世界へと旅立っている人もいた。
窓の外をボッーと眺める。体育服の生徒たちが一周三百メートルあるトラックをぐるぐると走っていた。暑いのによくやるな。教科書を読む先生の声を聞きながら、そんなことを思う。
チャイムが鳴る。教科書を閉じる音。「終わったー」という開放感のある歓声。
ざわつきをチャイム代わりにして目を覚ますクラスメイト。がたがたと机に椅子を押し込めて教室を出て行くクラスメイト。机をくっ付けてグループになってお弁当を広げているクラスメイト。十人十色。それぞれが思い思いの昼休みを過ごしている。
私も机の横に引っ掛けていた鞄の中からお弁当箱を取り出す。お母さんが作ってくれたお弁当。きっと、学校でクラスメイトと一緒に楽しく談笑を交えながら食べている――と思っているのだろう。ごめんなさい、お母さん。胸中で謝りながら、料理を箸で摘んで口に運ぶ。おいしい。流石は、ボクのお母さん。
遠目に見える楽しそうにお弁当を食べているクラスメイトを、一本の生放送番組を見る気持ちで眺める。羨ましいな……。そう思ったことは、これが初めてではない。彼女たちを見ていると、なんだか自分とは違う世界に生きているように思えた。彼女たちのいる世界が彩り鮮やかであるとしたら、ボクのいる世界は灰色がかったもの。そこにたった一人だけ取り残されている。もっとボクを見て、ボクに気づいて――そう、声高にしてみても、気づいてくれる人はいない。
この季節は夕方になっても暑い――。
放課後となると、部活動に向かったり、帰宅、もしくは居残って駄弁ったりといういくつかの行動パターンに分かれる。私が鞄を整理していると、クラスメイトの一人からよかったら一緒にとお茶に誘われた。この後予定はなかったけれど、いまいち乗り気になれなかったので、その誘いを断ることにした。
今日はまっすぐ帰らないといけないんです、また誘ってくださいね、と言った苦し紛れの言い訳はもちろん嘘で、彼女たちが教室を出て行った後も、しばらく自分の席から離れずにいる。他のクラスメイトたちも「一緒に帰えろー」と言いながら、一人、また一人と教室から出て行く様子を、机と一体化しながら眺めていた。
しばらくして教室を後にし、学校を出る。日が長いこともあり、まだ青空が広がっていた。空にさえ色がある。高いところから見下ろしながら、どうだと言わんばかりに自慢しているように見えた。――なんだか腹が立つ。
駅に到着し、構内へと入る。定期をかざして改札口を抜けた。明るいとはいえ、夕方の時間帯。この頃になると、一気に帰宅ラッシュが始まる。一般の利用者の他に、ボクのような学生や社会人の姿が見える。学校と駅近くのオフィス街の終業時間が重なるために、駅構内は混雑している。さまざまな会話がひっきりなしに交錯し合い、辺りは雑然としていた。
『まもなく、列車が参ります。危ないですので、黄色い線の内側まで下がってお待ちください』
アナウンスが鳴り、列車の到来が告げられる。相変わらず騒がしく、人が入り乱れる中で、列車の到着を待っている人たちはきっちりと列に並んでいるように整然としている。ボクもその列にいて、列車を待っていた。
少しして、列車がホームに到着した。ゴゴゴッという重低音を響かせながら自動ドアが開けられる。列車の中から出てくる乗客と入れ違いになる形でボクは乗車する。帰宅ラッシュということもあり、列車内は身体が密着するほど非常に混み合っていた。運よく出入り口付近にスペースがあったので、そこに滑り込む。
ガタンッと一度ゆれてから、列車が走り出す。駅のホームを離れていく様子を、窓越しに眺める。徐々に速度を上げていく列車。外とを隔てるドア。そのドアの窓には外の景色とともにボクの顔が映っている。どんな顔をしているのかな。落としていた視線を上げてみる。そこにはいつも鏡で見る顔が映っていた。でも、アイドル活動をしているときのものとは違った。笑っていなかった。なにか、遠くのものを羨むような顔をしている。昔よく『さっちゃんはかわいいね』と言われていた。だけど、列車に同乗している人たちも、きっと昔は同じような言葉をかけられたのだろう。そう思うと、結局みんなと同じなのかなって考えてしまう。
不安を胸に抱えたまま、列車は駅に到着した。乗車したときと同じく、重低音とともに自動ドアが開く。背中を押されながら、列車からホームに降りた。
背後で、空気の抜けるような音とともにドアが閉められる。振動を残し、すし詰め状態の列車はホームを去っていった。同じ駅で降りた人たちは、人波となって先にある真新しい改札口へと向かっている。
鞄の中から定期を取り出し、流れに乗るようにして改札口へと歩き出す。列車内で抱えた不安もあってか、踏み出す一歩一歩の足取りが重い。駅構内の外は外灯や繁華街の照明で明るいはずなのに、ボクには灰色がかかって見えた。
「あっ――」ふと、改札口の向こうに見知った人の姿を見かけた。
その人はたまたま仕事の途中、この近くを立ち寄ったのだろう。仕事関係でなのか、携帯電話を耳に当ててなにやら話し込んでいた。でも、ボクにとって彼がなにをしているのかは関係なかった。その姿を見かけたときから、灰色がかっていたボクの世界に彩りが生まれた。それから、心の中が透き通るような感じ……例えて言うなら、黒い雨雲の覆う空が、一瞬にして晴れ渡った青空へと変わったようなものだろうか。
そして、気づいたときにはもう、彼のもとに向かって走り出していた。ただただ、早く彼に会いたくて。彼と話したくて。その思いに背中を押される。改札口を駆け抜けようとして――。
「っ――!?」
ガッという鈍い音が響き、次いで腹部に殴られたような鈍痛が走る。
「ぼ、ボクとしたことが……」
痛みで目じりに涙を浮かべ、ぷるぷると身体を振るわせる。うっかり定期を自動改札機にかざすのを忘れていた。当然のように改札は開かず、そのまま腹部を殴打されることになった。なんとも情けない。近くにいた利用客や駅員が「だ、大丈夫?」「痛くない?」と心配して声をかけてくれた。
改札口を抜け、彼――プロデューサーさんのもとへと駆け寄る。声をかけようとしたところで、ちょうど電話を終えたみたいだった。
「おっ、幸子じゃないか。おはよう」と、ボクのほうに振り返って言った。
「駅まで迎えに来てくれるだなんて、プロデューサーさんにしては気が利いているじゃないですか。まあ、ボクはかわいいですから当然ですけど、ほめてあげますよ」
普段の引っ込み思案なボクはそこにはいない。なぜか、プロデューサーさんにならこうやって本音を言うことができた。
「まったく、相変わらずだな幸子は」と、嫌な顔一つせず受け答えをしてくれる。
「ボクがかわいいのが相変わらずなのは当然ですよ。まったく、プロデューサーさんはなにを言っているんですか?」
「そうだったな、幸子はかわいいよ」
「わかってるならいいんですよ」
デンッと胸を張って得意げに言う。プロデューサーさんが満足そうに笑う。それにつられて、ボクも自然と笑顔になる。
「ところで、さっきの電話はなんだったんですか?」と、ボクが尋ねると。
「幸子の次の仕事についてだよ」と、プロデューサーさんが答えた。
「ふふん、これでまたボクのかわいさを世の中に広めることができますね」
新しい仕事と聞いて、うれしくなる。プロデューサーさんがボクのために持ってきてくれる仕事。ボクのためということは、ボクのことを見てくれているということ。彼の持ってきてくれる仕事の一つ一つが色となってボクの世界を色鮮やかにしてくれる。彼と一緒にいるときだけ、その世界にいることができる。
きっと、あの改札口を境界線としてボクの世界は二分されているんだと思う。
「ほら幸子、そろそろ行くぞ」と、いつの間にか前にいたプロデューサーさんが、手招きをしながら言った。
「レディを置いて行くだなんて、男性としてどうなんですか、プロデューサーさん?」と、少しだけ文句を言ってやる。プロデューサーさんは「すまん、すまん」と、苦笑いを浮かべながら謝った。誠意がこもってませんね、と言おうとしたところで、コンッと額に冷たいなにかを当てられた。それを手で受け取る。一本百二十円の缶ジュースだった。すぐそばの自動販売機で買ったのだろう。
「これで勘弁してくれ」
そう言いながら、自分もプルトップを引いて開けた缶コーヒーに口をつけていた。
「むっ、ジュースでつられると思ったんですか? 子ども扱いしないでほしいですね」
口を尖らせながら、プイッと顔を横に向ける。でも、せっかくボクのために買ってくれたジュースですからね、飲んであげなくもないですよ、なんて口にはせずに、黙ってプルトップを引いた。
「そんなことより、ぶつけたお腹は大丈夫か?」
「ぶっ――!?」突然欠けられた言葉に驚き、飲みかけていたジュースを危うく噴出しそうになる。げほげほっと咽る、ま、まさか見られていただなんて。「な、なら待っていてくれてもよかったじゃないですか」
もう少し心配してくれてもいいんじゃないですか、そう思うのはわがままだろうか。のどまで出かかったその言葉をぐっと飲み込む。その代わり、照れ隠しに彼の太ももを一度叩いて、それから走り出す。後ろから「おい、幸子」とか「そんなに急ぐことないだろ、待ってくれよ」とか、あわてて追いかけてくる足音と一緒に聞こえた。
ボクがどこにいても、プロデューサーさんは見つけてくれる。今みたいに離れていても、傍に来てくれる。この関係がボクは好きで。変わらないでいてほしいと思う。
それでも、きっと変わらないといけないときが来る。それは今じゃない、遠い未来。そのときまでには、もっと世界を色鮮やかにしたい。もちろん、あの境界線も越えて。
それまでは、もう少しこの関係の心地よさを感じていたいと思う。