ボーイ・ミーツ・ガール   作:クレナイ

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キーワード:夢、波 アイドル:和久井留美




「そっか――なら、海に行こう」

 そういったのは私の大学時代の友人で、つい一週間前のことだった。ちょうどその頃、私は大学を卒業してから勤めていた会社を辞めていた。

 突然海に誘ってきた友人が、鼻歌を歌いながらハンドルを操作している。お世辞にも上手とは思えないが、楽しそうに歌っているのが笑みの浮かぶ横顔を見てわかった。

 彼が運転するレンタカーが、すいすいと車を追い越しながら高速道路を走る。調子に乗って危ない運転をしないでほしいと出発前に首を刺しておいたが、今の様子からして、大丈夫だろうかと少し不安になる。

 仕事が趣味と言っても過言ではなかった私に、海に到着するまでの間に話すことなど何もなかった。久しぶりに会ったのだから、近況報告をし合うというのもあるかもしれないが、私が仕事をやめたということを配慮してなのか、彼はまったくそれについての話題を話にあげなかった。そんな彼の優しさというのか、気遣いというのか。今の私にとってはありがたいことだった。

 だからといって、なにも話さないでいるのもなにか気まずさがあった。

 しかし、話題がない。出発した当初こそ『今日行く海なんだけど、シーズン中はたくさんの人でにぎわっているんだ』とか『運よく今日の夜、浜辺で花火大会が開かれるんだ』などと話してくれたが、それっきり貝のように固く口を閉ざしていた。適当にラジオチャンネルをいじってみたものの、これといって面白そうなものはなかった。

「あとどれくらいで着くのかしら?」と、助手席の窓越しに外の景色を眺めながら尋ねてみた。それに対して「もう少しかな」と、運転する彼は曖昧に答える。「そう」と、私は答えるしかできない。十秒にも満たないやり取り。私の経験上、トップ十には入る短さ。もっとも短いので『社長』、『んっ』だっただろうか。

「なにか音楽でもかけようか」

そう言って彼はボタンを操作する。モニターのところに時計とトラック一が映る。スピーカーから流れ出す音楽。前奏が終わってから歌が始まった。この歌は確か、最近人気が出てきている女性アイドルが歌っているものではなかったか。

「いい歌だろ?」

 彼はまるで自分のことのように自慢げに言う。なんせ、彼がプロデューサーとして担当しているアイドルの娘が歌っているのだから、当然といえば当然か。

「そうね。とてもいい歌だと思うわ」と、私はありきたりな感想を言う。

 もっと気の利いた感想があったかもしれないが、これが私の精一杯だった。

 それから、チラリッと彼のほうを横目で見る。気を悪くしてしまっただろうかと、少し不安に思ったからだ。

 彼は流れる歌に合わせて、鼻歌を歌っていた。

 杞憂だったようだ。胸中で、ホッと安堵の息を吐く。

 最初は小さな頭痛だった。仕事漬けの毎日だったので、疲れが抜け切らなかったのだろうとばかり思っていた。市販の薬でごまかしていたのだが、一向に収まることがなく、いつしか吐き気をもよおすほどに悪化していた。体調も最悪。身体が自分のものではないかと錯覚するほど、思うように動いてくれない。顔色の悪さを化粧でなんとかしようとするも、手が小刻みに痙攣し、思うようにいかなかった。

 勤めていた会社は有数の大手のもので、当然のように高い競争率を誇っていた。それを勝ち抜いて、やっとの思いで入社した。職場の人間関係はいじめもなく、良好であったし、仕事自体にもやりがいを感じていた。特に目立った問題があったわけでもない。でも、いつの間にか身体そのものが限界にきていた。仕事中でも、手の痙攣でペンがまともに持てず、手帳にはミミズが這ったような字が目立つようになっていた。

 これ以上続けていても会社側に迷惑をかけるだけと思い、私は辞めることを決意した。上役たちはしばらく休み、回復してからまた復帰することを望んでいたが、私はそれを断った。また同じことの繰り返しになるかもしれない、そう思うと首を縦に振ることができなかった。

 辞表を提出したその日の夜、彼に電話をした。「私ね、勤めていた会社……今日辞めたのよ」と言ったと同時に、まるでせき止めていたダムが決壊し、一気に水が流れ出したかのように、涙が止まらなくなった。これまでどんなに辛いときにも、会社を辞めるときにも流れなかった涙だった。悔しい。悲しい。辛い。さまざまな感情が混じり合い、あふれ出した。

 彼はなにも言わず、黙って聞いていた。

 どれくらい経っただろう。私が一方的に泣いて、ようやく落ち着いたところで「そっか、それじゃあ……どこかに行こうか」と、彼は言った。そして「この時期ならちょうどいいな……せっかくだから海に行こう」と、続けた。彼の口調からして、冗談を言っているようには聞こえなかった。私の気を紛らわせようとしてなのか、どうなのか。唯一つわかることは、彼が私のことを真剣に考えてくれているということだった。

 

                    ***

 

 こうして、私は彼とともに海に向かっている。仕事を辞めている私にとって今日が平日だろうが、休日であろうがあまり関係はないけれども、対照的に毎日を忙しくしている彼にとってはそうはいかないのではないか。

「ああ、大丈夫だよ」と、彼は私のほうを向いて、笑顔で言う。たまっていた有給を使っているらしい。わざわざ私のために貴重な有給を使わなくてもいいのに……。

 車を駐車場に止めて、そこから少し歩いた先に、祭りの会場にもなっている海水浴場があった。しかし、彼は「こっちだよ」と言って、人で賑わっているところから離れるように歩き始める。水着なんて持ってきていないから、向こうにいても気まずいだけだったから内心ホッとしていた。

 遠目に人で賑わう海水浴場が見える。対して、ここは打ち寄せる波の音があるだけで静かな砂浜だった。白い砂が、水を浴びて茶色に変わる。「せっかくだから、足だけでもつかりに行こうか」と、彼が誘ってきた。断る理由もなく、彼の手に引かれるがままに波打ち際に行き、足をつからせる。足をぬらす水は冷たくて、砂が肌に触れるたびにくすぐったさを覚えた。

 不意に、彼が流れ着いた棒切れを手にして、砂の上になにかを書き始めた。そこには“秘書”という二文字。私の辞めた仕事だった。せっかくいい気分になりかけていたのに。一転してベクトルの向きが下に向いたような気がした。

 その二文字も、打ち寄せる波によってかき消される。どんなに頑張って手にしたものでも、終わりというのは意外とあっさりとしている。なんだか私と同じだと、妙な親近感を覚えた。だからといって、気分が晴れるというわけではなかった。

「でもさ、夢って何度でも書き直せると思わない?」そう言って彼は、同じ場所に、今度は“アイドル”と書いた。「まさか……私をスカウトしようとでも?」冗談のつもりなのだろうと思う。しかし、彼の表情は柔らかさを残して、真剣なものだった。

「冗談でも、笑えないわよ? 私なんてもう……二十六、とてもアイドルになんてなれないわ。仮に運よくなれたとしても――」再び打ち寄せる波。それによって書かれた“アイドル”という文字、夢がかき消される。ほら、結局そういうことなのだ。「――結局同じなのよ、きっと」私には向いていない、暗にそう付け加えるようにして言った。

「うー……ん、それなら」なにかを思いついたように、また棒切れを砂の上に走らせる。そこに書かれたのは“トップアイドル”だった。そして、それをかき消すかのように波が打ち寄せる――が、さっきの場所よりも上に書かれていたので波が届かず、消されることはなかった。

「消されたって、また書き直せばいい。何度だってやり直せる。それでも不安なら、俺が上に、トップアイドルにして安心させてやる」真剣な顔のまま、さらに言葉を続ける。「“トップアイドル”の夢……一緒に叶えてみないか?」と、手を差し伸べてきた。

 静かに打ち寄せる波。それはまるで、第二の人生の到来を告げているかのように聞こえた。

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