カチッ、カチッ、カチ……。ゆっくりと時を刻んでいる時計。秒針の音が枕元から聞こえてくる。音が聞こえていると、意識が反応している。深い深い眠りの底から意識がゆっくりと浮き上がってくる感覚。少しだけ開かれた目蓋。その隙間から白い光が差し込んでくる。その光に手を引かれるように、意識が覚醒していく。そして、目を開く。最初に視界に入ってきたのは、見慣れた天井だった。
「み、見慣れた天井……フヒッ」
この部屋を利用するようになって半年が経とうとしているけれども、見上げた先にある天井は、新築時と変わらない真っ白なものだ。こんなときに見慣れない天井だなんていうのは漫画化アニメの世界だけなんだろうな――と、輝子は鈍く稼動し始める思考でふとそう思った。
ボゥーッと天井を見上げている。目を覚まして、意識もはっきりしてきているのに、なんだかふわふわと空を飛んでるような、不思議な高揚感があった。そっと額に手のひらを当ててみる。じんわりとした熱。
ずいぶんと長く眠っていたのだろう、なんだか無性に身体が硬く感じた。だるさもあるのは、まだ熱が下がりきっていないからだろう。天井に向けてグィーッと手を伸ばす。開かれた指の間から天井が切り取られた写真のように見えた。一度脱力してから、ゆっくりと上半身を起き上がらせる。かけていた布団がお腹の上からするりと落ちた。
季節の割には重ねられた布団。汗をかいて、着ているものが肌に張り付いている。不快感を覚えた。
ふと、辺りをきょろきょろと眺めてみる。自分以外に、人気は感じられない。
「きのこーのこーのこ、ぼっちのこー、ほししょうこー……フヒヒッ」
同じ女子寮を利用している世話好きの同僚が甲斐甲斐しく看病してくれたけれど、彼女の姿は見当たらなかった。枕元に転がっている時計を見れば、もうお昼を大きく回った時刻だった。風邪を引いているから休んでいるけれど、他の学生アイドルたちはみんな学校に行っている。だから、今この部屋にいるのは輝子一人。病気になれば無性に心細くなると、どこかで聞いたことがある。一人には慣れていたけれど、今は――……誰か、いてくれないかな……フヒッ――寂しさがあった。
そんなことを考えていると、不意にドアをノックする軽音が聞こえた。
こんなときに、いったい誰なんだろう――。時刻を考えると、来るのは成人した大人たちくらい。でも、多くはアイドルとして仕事やレッスンに出ているはず。それなら、いったい誰が。結局誰なのかわからないまま「い、今開けるよー……」と、声をかけて、ドアの鍵を開けた。
ドアノブが回り、ガチャリとドアが開けられる。「よお、輝子。具合はどうだ?」と、開けられた隙間からひょっこり顔を出したのは、プロデューサーだった。ガサリッと鳴る、手に持つビニール袋。袋の口から野菜やらの具材が顔を覗かせているのに気が付いた。
「フ、フヒッ……。だ、大分良くなったけど……。ぷ、プロデューサー……どうしたの?」
「どうしたのって……そりゃ、お前――お見舞いだろう?」
そう言ってプロデューサーは、手からぶら提げた袋を持ち上げて強調した。
「まあ、寝てたなら後で誰かに持って行ってもらうつもりだったんだけどな。飲み物とか足りないかもしれないし、お腹空かせているかなって。今はみんな出張ってるだろ。治りかけていないまま、買い物に出掛けられたらって思うとな」
「あ、ありがと……」
「どういたしまして」
プロデューサーを部屋に入れる。普段は男性禁制で、プロデューサーであっても事務員の許可なしでは入れないことになっている。お見舞いに来てくれたということは、許可をもらったということなのだろう。
玄関を入ってすぐに台所がある。冷蔵庫を開けて、ひょいひょいと買ってきたものを入れていく。野菜の他に、スポーツドリンクやゼリーがあった。ペットボトルを一本差し出され、水分を取っていたほうがいい、と言われた。
「部屋で待ってろ、すぐに作ってやるから」と、自信満々のプロデューサー。
「えっ……。プロデューサーって……料理できるの、フヒヒッ」と、からかう輝子。
「まあ、任せておけって」長袖のワイシャツを、グイッと肘まで捲くる。「涙が出るほどうまいお粥、作ってやるから」
料理をプロデューサーに任せ、部屋へと戻る。今なら部屋を覗かれる心配もないだろうと、急いでタンスから着替えを引き出す。着替えを済ませ、ベッドに戻る。チビチビとスポーツドリンクを飲んで、水分補給をする。冷たさが全身に染み渡っていくような感じがした。
十分ほど待つと、玄関側とを隔てるドアが開いて、お盆の上に小さな土鍋とお茶碗を乗せたプロデューサーが入ってきた。「へぇ、意外と“らしい”部屋なんだな」
開口一番、なんだか失礼なことを言われたような気がした。
「フヒッ……私が女の子らしいことしちゃだめなのかなー」輝子が自虐的に言うと。
「あ、いや……そうじゃないんだ」と、プロデューサーはしどろもどろになる。
テーブルにお盆が置かれ、蓋を開けると、白い湯気が食欲をそそる匂いとともに開放される。レトルトのご飯に具材を放り込んだだけの、簡単なもの。でも、誰かの手作りということだけで、熱さとはまた別の温かさを感じることができた。お茶碗に盛られ、スプーンと一緒に手渡される。
「フヒヒッ、あ、ありがとー……」
「うまいぞー」腕組みをして、自信あり気に言う。「なんたって、輝子の大好きなきのこを使った“きのこ粥”なんだからな」と、特大の爆弾を投下した。慌ててお茶碗を覗き込む。白いお粥に混じって茶色いものが浮いている――これは。
「オーマイゴオオオォォォッド!? マイ、フレエエエェェェンズ!?」
声にならない輝子の悲鳴が響き渡る。輝子の気も知らないプロデューサーは「おお、そんなに喜んでもらえるなんて、作った甲斐があるってもんだ」と、嬉しそうに顔をほころばせている。
友人を食べることへの抵抗。手作りへの感謝。二つに板ばさみにされながら、輝子はお粥を掬い、口に運ぶ。おいしいけど、ちょっと塩辛かった。
***
食後、プロデューサーが台所で片づけをしている間に体温計で熱を測る。ピピピッという電子音。数値のところには、三十八度と表示された。暖かいお粥を食べた後だというのに、なんだか肌寒さを感じていた。
プロデューサーが戻ってきて、体温を尋ねる。まだ少し高いことを伝えると、冷たい水で絞ったタオルを額に置いてくれた。ひんやりとした感じが、落ち着かせてくれる。
布団の中も重ねているから暑いくらいなのに、身体の震えは収まらない。それでも、相変わらず体温は高いまま。
本来なら帰って仕上げなければいけない仕事があるというのに、プロデューサーは持ち歩いているノートパソコンと資料をテーブルの上に広げ、看病の合い間にカチャカチャと仕事を進めていた。タオルを変えてくれたり、飲み物を飲ませてくれたり。また、ゆっくり眠ればすぐによくなる、と言ってくれたけど、なかなか寝付けなかった。目と鼻の先にいるのに、プロデューサーと離れているような、妙な心細さを感じていた。
「ね、ねえ……プロデューサー」
布団を顔半分まで上げ、部屋の真ん中にあるテーブルで仕事を進めているプロデューサーに声をかける。忙しなく動いていた手がピタリッと止まり、ウィンドウ画面から視線をこちらに向けた。そして、どうかしたか、と尋ねた。
輝子は一言「さ、寒い……」とつぶやく。
「布団は……それ以上なさそうだし、寝苦しくなるよな。湯たんぽなんて持ってるわけないだろうし……」あれこれ対処法を思いついては、却下するということを繰り返す。
「え、えっと……」風邪で顔を赤くした輝子がもぞもぞと動く。「き、きのこが成長するには……水分の他に温度も必要なんだよねー……フヒッ」
人一人分が寝られるスペースが、輝子の横に作られる。布団に入るよう、誘う。別に、これはいかがわしい思いからでも、秘めた思いからのものでもない。小さい子どもが寂しいから、冬季の布団が寒いから両親の温もりを求めるものと同じ。
「い、一緒に寝てくれないかなー……フヒヒッ」そうすれば、ぐっすりと眠れる気がした。
***
翌日、輝子の風邪は回復し、プロデューサーが風邪を引いた。
あと1話で完結予定です。