「お疲れさまでしたー」作業着姿の及川さんが、両手を空に向ってグィーッと伸ばして背伸びをした。
もうすっかりヘトヘトになった私は、これ以上身体を動かしたくないということもあって、絨毯のようにある青い芝生の上にへたり込んだ。パタンッと倒れて、寝転がる。視線の先には青空が広がっていて、風乗ってフワフワと流れる雲が見えた。――ああ、わたあめみたい、おいしそう。ジュルリと口元を伝う涎を慌てて拭う。その雲で顔を見え隠れさせていた太陽が、今度はニュッと現れたクールビズ姿の男性で隠れた。Pさんだった。
「お疲れ、二人とも」
涼しげな服装をしているけれど、額にはしっとりと汗をかいているようで、持ち歩いているハンカチで拭っていた。
「ほら、二人も汗かいたろ? それと水分補給ね」
そう言って私たちに差し出されたのは、二人分のタオルとスポーツドリンクだった。「ありがとうございます、Pさんっ」とお礼を言って、私たちは彼の手から受け取った。
汗を拭い、作業着のジッパーを少しだけ下ろして風通しを良くする。チラリッと隣に座りながら同じように胸元を開けて、作業着をパタパタと青いで風を送り込んでいる及川さんを一瞥する。正確には彼女のこれでもかと自己主張する胸元に、だ。――やっぱり及川さん、すごいな……。私も少しはある方だと思ってたんだけど。
それから自分の胸元に視線を移す。彼女のものを見た後なので、いつもより小さく見えたのは目の錯角じゃないと思う。
「お、お前らそういうことは、男がいないところでやるべきじゃないか?」若干声を上ずらせながら、Pさんが早口で言う。チラチラと私たちに視線を落としていることに気が付いた。普段からたくさんのアイドルに囲まれていながら、手を出すような変なことをしていないから全然気にしていなかったけど、やっぱりPさんも男なんですね。――Pさんもやっぱり胸の大きな女性がいいのかな……?
「汗で身体が冷えたら駄目だからな。そ、そうだ早くシャワーでも浴びてきたらどうだ?」
Pさんはそう言いながら、視線を逃がすように空を見上げた。私たちに向けている大きな背中が、早くしてくれと急かしているように見えた。
「そ、それじゃあ。シャワーを浴びて、支度してきますね」
私は及川さんに案内され、おいかわ牧場に備え付けられているシャワー付きの更衣室へと向った。
* * *
私はアイドル候補生としてスカウトされてから数日後、初めて事務所に出向いた。
でも、私以外にも多くのアイドルたちを彼一人でプロデュースしているということもあり、非常に忙しかった。だから、初めて出社しての打ち合わせだったけれども、予定の時刻になってもPさんは現れなかった。
「ごめんね、かな子ちゃん。プロデューサーさんも色々と忙しいから」事務員のちひろさんが申しわけなさそうにしながら、お茶を入れてくれた。
「い、いいんですよ。私なんかの新人よりも、先輩アイドルたちのプロデュースの方が大事なんですからっ」
手持ち無沙汰だった私はちひろさんが出してくれたお茶の入った湯飲みを手に取って、一口飲んだ。少し苦くて、熱かった。――お茶菓子があれば、もっとおいしいかも。なんだか勿体無いな。
「私なんか――なんて言わないでね。スカウトやデビューには確かに早い遅いはあるけど、プロデューサーさんにとってはあなただって大事なアイドルの一人なんだから。まだまだ候補生だけど、しっかりトレーナーさんのレッスンをしっかりこなしていればすぐにデビューできるわよ。むしろ、先輩アイドルたちを追い越すくらいの気構えでいないと」正面のソファーに座っていたちひろさんがお盆をギュッと胸に抱きながら言った。
「そ、そうでしょうか……」と言いかけて、すぐにその言葉を飲み込んで、「そう、ですよね」と自信がなかったから小さな声になったけれど、「かな子ちゃん、その意気よ」と、私のその言葉にちひろさんは満足そうに何度も笑顔を浮かべながら頷いてくれた。
* * *
取り柄もない私だけど、アイドルになりたいという小さな憧れのようなものがあった。でも、テレビや雑誌で見るアイドルたちはみんなキラキラと輝いていて、とても私にはできっこないと思ってあきらめていた。そんな風に憧れが胸の奥から消えてしまおうとしていた時だった。
偶々行きつけのスイーツ店でスイーツバイキングが開かれるということで訪れたのだけど、多くの女性客の中で一人男性の姿を見かけた。スーツ姿ということもあってか、一際浮いていた。
人気店で、それもバイキングということもあり、ほとんどのテーブルが他の女性客で埋まっていた。 でも、流石に男性と相席しようとする人はおらず、そのテーブルだけ妙に存在感を放っていた。時間制限もあるということで、仕方がなく男性と相席させてもらうことにした。
「あ、あの……ここ、相席させてもらってもいいですか?」お皿一杯にスイーツを乗せながら、私が尋ねると、「あ、いいよ。どうせ、もうすぐ空けるつもりだったから」と、気軽に了承してくれた。私はお礼を言って、席についた。
やっぱり、ここのスイーツは絶品だ。頬っぺたが落ちるほどの幸せな味。いくら食べても飽きさせないケーキの種類の豊富さ。私は友だちと比べても結構食べる方だったけれど、ケースに並べられているすべてのスイーツをコンプリートするには一人だけでは難しかった。――あーぁ、どうせなら時間制限なんてなければいいのに。
スイーツはどれも一口サイズだから、いくらでも食べられちゃう。友だちとは何度も来ているけれど、月に一度の程度だった。「かな子ちゃんのペースには付いていけないよ」と、バイキングの翌日には決まって友だちは体重を話題にしていた。――みんな、そんなに気にするほどでもないと思うんだけどな。私がそう言うと、みんなは口を揃えて、「かな子ちゃんはいいよね、いくら食べても太らないんだから」と羨ましそうに言うのだ。心外だ。私だって女の子なんだから体重は人並みに気にしている。みんなが過敏すぎるんだ。
ハイペースで消えていくスイーツ。最初に取っておいた分を食べたところで、一息つく意味で、紅茶の入ったソーサーカップに手を伸ばした。そこで相席していた男性がまだいることに気が付く。もうすぐ空けるつもりだと言っていたのに。彼はスイーツを食べずに、コーヒーだけを手元に置いて、何やら分厚い手帳を見ていた。
すると、私の視線に気づいたのか、手帳から視線を上げた彼が、私にその視線の先を合わせてきた。
「いい食べっぷりだね」手元のお皿からスイーツがなくなっているのを見て、感心したように言ってきた。
「お菓子が大好きですから。まだまだ、食べられますよ」私は胸の前で腕をギュッとさせて、妙な気合を込める。――まだまだ、時間は十分に残ってる。新作がいくつも出ていたから、それを食べてみるのも良いかもしれない。でも、お気に入りもいくつもあるから……。ああ、食べたい物がたくさんありすぎて困っちゃうよー。
彼は一人でアタフタとしている私のことを見て、クスクスと笑い声を上げた。ハッとして私は自分の恥態に気付き、カァーッと顔が茹蛸のように赤くなる音を聞いた。――今でも思い出せば恥ずかしさで一杯になる思い出だ。
そして、彼がCGプロダクションのプロデューサーであることを私が知るのは、もう少し後になってからだった。場所はやっぱりこのスイーツ店でバイキングが開かれた日。偶然のように再び相席になった時、彼から名刺を貰い、アイドルにならないかとスカウトを受けたのだ。
* * *
スカウトされてから知ったことは、私の周りには本当に個性豊かなアイドルたちがたくさんいるということだった。
取り柄のない私なんかがその中にいたら、空気に溶け込んでしまうんじゃないかと不安だった。事実、最初の一週間はプロデューサーさんから紹介されたり、先輩アイドルたちの方から声をかけてもらったりできなかったら、きっと棒のように立っていることしかできなかったかもしれない。
なにか私にもできることはないか。そんなことを考え始めて一週間。ようやく多少余裕をもって周りを見られるようになった頃、事務所内でPさんがデスクワークをしていない姿を見ていないことに気付いた。ずっとデスクに噛り付くように座ってパソコン画面とにらめっこ。――仕事ばかりで、疲れないのかな……?
一人で何人ものアイドルをプロデュースしているから、当然仕事の量は普通の何倍もあるのだと思う。みんなが頑張っているのは、自分の夢の他にPさんの苦労に報いたいという思いがあるからなのかもしれない。
私も同じだ――。でも、自分になにができるかを考えた時、取り柄のないことに、なにも思い浮かばなかった。
* * *
私には取り柄というわけでもないけれど、趣味としてお菓子作りがあった。
アイドルになりたての頃は、雰囲気に慣れたり、色々勉強したりしないといけないことが多かったからお菓子作りをする時間を確保できていなかった。
しばらくして、多少慣れてきた頃から、またお菓子作りを始めた。とはいえ、あまり凝ったものじゃなく、小腹が空いた時につまめる程度のものだった。クッキーなど量のあるものを作れば、同じ事務所のアイドルたちと一緒に食べられる。話を切り出すきっかけにもなるかもしれないと思ってのことだった。味に関しては自身もあったし、みんなからは高評価をもらえたのでうれしかった。初めてお菓子を持って行った日から、私が事務所に足を運ぶ日には必ずテーブルの上に手作りのお菓子が置かれるようになっていた。
ある日、いつものように私はバスケットに作ったクッキーを入れて、事務所に足を運んだ。もうすぐデビューということもあり、レッスンにも熱が入っていたので、その気合がお菓子作りにも入ってしまったからかいつもより作りすぎてしまった。
「かな子のお菓子はおいしすぎるから、また食べすぎて体重がーっ!?」
おいしいものにはついつい手が出ちゃって、食べ過ぎちゃうのはよくある。それで体重が増えちゃうのは男の子ならまだましも、女の子なら死活問題だ。それもアイドルとなれば、体型維持にも気を遣わなければいけない。私はまだ人前に出た機会がないから、あまり気にしていないけれど、すでにデビューしてお仕事をしているみんなはそうもいかないみたいだった。
「おはようございますー」私が事務所に入ると、「かな子か、おはよう」デスクのある方から聞こえてきたのはPさんの声だった。
だけど、Pさん以外の声は聞こえてこなくて、カタカタッというパソコンのキーボードを叩く音とパソコンの稼動音がかすかにある以外普段と比べてあまりに静かだった。私以外のアイドルの姿が見当たらなかったからだ。
「かな子は今日、レッスンで最終調整だったね」
「はいっ。ところでPさん、他のみんなはどうしたんですかー? ちひろさんもいないだなんて、珍しいですねっ」仕事の手を止めたPさんが私の方に顔を向けると、「こんなに静かなのは、やっぱり変な感じかな?」と、いつものはにかみ顔で問いで返してきた。
確かに普段の事務所には一人か二人アイドルがいて、事務員のちひろさんがいる。今日みたいな休日なら賑やかな話し声が飛び交っているはず。それなのに今日は水を打ったように静かだった。
「今日は偶々みんな仕事が重なってね。時々あるんだよ」Pさんはデスクの手元に置いていたカップを持って立ち上がる。苦笑いを浮かべつつ、少し寂しそうに言った。
「ちひろさんは運営関係で呼び出しがあったみたいで、今はそっちに出かけてるんだ。ほら、あの人は運営から事務員として派遣されたからさ。事務所運営の報告とかなんだと思うよ」
「そう、なんですかっ……」小さな呟きがため息とともに口から零れる。途端に、バスケットが重く感じられた。多分落ち込みのせいだと思う。せっかく作ってきたけれど、今日はみんなと一緒に食べられないかもしれない。それが、すごく残念だった。だけど、みんな頑張っているもんね。私だってもうすぐデビュー予定だから、今日のレッスンも頑張らないと。
私はバスケットをソファーの間にあるテーブルの上に置いた。いつもみんなでお茶を飲みながらお菓子を食べる場所だった。レッスンまでまだ少し時間があったから、ソファーに腰掛ける。ふたの代わりに被せておいた布を外すと、そこにはシンプルなクッキーがバスケット一杯に入っていた。みんなで談笑交じりに食べればもっとおいしいだろうけど、今日は仕方がない。都合が悪かっただけだ。手持ち無沙汰に、私はまたついついクッキーに手を伸ばしていた。
「んっ、それはかな子が作ったのか?」横からコーヒーを注ぎ足してきたPさんの声がした。「そういえば、凛たちが言っていたな。かな子の作るお菓子はおいしいからついつい食べすぎちゃうって。あいつらの悩みの諸悪の根源はかな子、お前だな?」悪戯っぽい笑みを浮かべながらPさんが言う。諸悪の根源だなんて、濡れ衣にもほどがある。私は抗議するように頬が膨れるほど口一杯にクッキーを頬張りながらにらみつけた。
「蘭子風に――ふむっ、これが彼の者たちを堕天させし、悪魔の果実か」
「そ、そんな大げさなっ……」
バスケットにある大量のクッキーを一枚つまんで、口に放り込む。サクサクッという良い音が聞こえた。じっくりと味わってから、「おいしいっ!」と声を上げた。
「確かに凛たちの手が止まらなくなるわけだ。男の俺でもそうなのだから、お菓好きの女の子たちならなおさらだ」
そう言っている間にも、ヒョイヒョイッとクッキーに手を伸ばしては、それを口に運んでいく。そんな彼の様子を、私はただポカンッとしながら見ているしかできない。
「これだけおいしいお菓子を作れるなら、最初に教えてほしかったな。でも、LIVEバトル以外でのかな子の仕事路線は大体決まったかな」
指に付いた食べかすを舐め取りながら、Pさんは二重の意味で満足げなようだった。
* * *
順調にデビューを果たした私に初めてのお仕事が入ってきた。
それも一人ではなく、一つ年下だけど事務所の先輩アイドルの及川さんと一緒だった。お仕事の内容は、なんでも及川さんの実家が岩手県でも有名な牧場を経営しているとのことで、そこで一日体験をするというものだった。重労働なものだけど、実際に絞りたての牛乳を使ってのお菓子作りも含まれているなど、楽しみもあった。
岩手県の地元テレビで後日放送されるということで、楽しみと緊張が入り混じり、前夜はなかなか寝付けなかった。――まるで遠足前の小学生だ。
* * *
「疲れた時は甘いもの――おいかわ牧場で甘いものといったらこれですよー」そう言って及川さんが私とPさんに差し出してきたのは搾った牛乳を使ったソフトクリームだった。
「ありがとうございますーっ」お礼を言いつつ、私はそれを受け取っててっぺんから齧り付いた。なめらかな食感、濃厚な牛乳の甘い匂い――おいしい。夏のギラギラとした日差しの下で作業をしていたから、冷たい甘さがした全体に広がって、しみこむように溶けていく。
「おいしいですっ!」
「うん、本当においしい。かな子なら、もう二、三本はいけるんじゃないか?」
Pさんもあまりのおいしさに驚きを感じているようで、大きな声でおいしいと言った。
「なんだか馬鹿にされたような気がしますけど、おいしいから許してあげますっ」
私は残っていたコーンを口に入れた。トロトロの液体になったソフトクリームが中に入っていたけれど、これはこれでおいしかった。
「それは良かったですー。牛さんたちの優しさがいっぱいいっぱい詰まってますからねー」そう言いながら、及川さんは自分の分を私に差し出してきた。
申し訳ないとは思ったけれど、おいしいものを我慢することを私にはできなかった。「相変わらずだな」と、Pさんは呆れた様子で言ったけれど、それを咎めるようなことは口にしなかった。甘いソフトクリームに影響されて、今日の彼も少しだけ甘くなっているみたいだ。だから、私はありがたく二本目のソフトクリームを受け取って、齧り付いた。――うん、やっぱり冷たくて、甘くておいしい。
相変わらず照りつける太陽が暑い。ボゥーッとしている内に、ソフトクリームが溶けてしまう。私は慌てて溶けてしまったのを舌で舐めとる。やっぱり下には濃厚な甘さが広がる。半分ほど食べたところで、Pさんに視線を向ける。最後のコーンを口に放り込んで食べ終わったところだった。べたつく手を拭くためか、ハンカチを取り出した。
アイドルにデビューして、初めてのお仕事だったけれど、今日みたいに望んでいるようなお仕事ができるというのは滅多にないみたい。やっぱり最初は地味な下積みから始めるのが普通だと前に聞いたことがある。それと比べれば、まだ私は恵まれている方だと思う。それは他のアイドルたちが頑張って事務所の名前を広めてくれて、Pさんがお仕事を取ってきてくれたから。みんなには感謝しないといけない。ソフトクリームのように、甘えてばかりはいられない。味わってばかりいたら、いつの間にか溶けてしまうように、アイドルとしていられなくなっちゃうかもしれない。――それは、嫌だ。
それでも、大好きなお菓子を食べている時くらいは、甘さを味わっていたい。
そして、最近ほのかに感じ始めた甘くてちょっぴり切ない感じを。この濃厚な甘さのソフトクリームのような恋をしてみたいな。――そうだ、まず手始めにPさんを誘って、あのスイーツ店のバイキングに行ってみようかな。