「突然ですいませんが、楓さん。今度の週末はオフですけど、なにか予定はありますか?」
CGプロダクションの事務所。今日一日の仕事を終えた私は暇を潰そうとソファーに座り、誰かが出しっぱなしにしていたファッション雑誌をパラパラとめくっていた。そんな時、不意にデスクワークの手を止めたPさんが私の方に視線を向けてからそう尋ねてきた。まるでデートのお誘い――そんな風に一瞬考えてしまったからか、私は正直と惑ってしまった。
時刻は夜の七時を過ぎた頃。事務所には人気は少なく、私とPさんの二人きりだった。もしまだ他のアイドルの娘たちが残っている時に、今の話をしていたらどうなっていたことか。私を含めて、彼女たちがどんな感情をPさんに対して抱いているのか――それは充分理解していた。お互いに牽制し合いながらも、どうしても一歩を踏み出す勇気を誰も持ち合わせていなかった。このままズルズルと今の状態が続いてしまえば、思いもよらぬ事態になりかねない。
彼とは何度も仕事後の一杯を重ねた。二人きりというのは今思えばほとんどなかった。それが少し残念だ。でも、重ねる中で、仕事で見られる彼のものとはまた違う良さを見つけることができていた。そして、今日、今この瞬間誘いを受けている。
「それは……私とPさんの、その……二人きりということでしょうか?」
自分でも驚くくらい、期待と緊張のこもった声だった。頬が熱い。きっと赤くなっているに違いない。
Pさんも照れ隠しのつもりなのか、頬をポリポリッとかきながら、
「ええっ……。俺と楓さんの、その……二人きりで。もしよろしければ、一緒に温泉にでも、行きませんか?」
忙しなく、視線をパソコンと私の間を彷徨わせる。
外出先を温泉に指定したのは、私が温泉巡りをするのが好きだということを見越してなのか、それとも慰安を兼ねたものなのか。どちらにせよ、私にとってはうれしいお誘いだった。だから、そのお誘いに対して迷う必要はなかった。私は思うまま素直に首を縦に振った。
* * *
そして、週末。予定通り二人きりの温泉旅行。正直お誘いを受けたのがうれしくて、準備に力が入ってしまった。せっかくのチャンス。もっと女を見てもらいたいと思いから、以前買っておいたお気に入りの下着を旅行バッグに滑り込ませておいた。夜だって、明日からの一泊二日の旅行が楽しみでなかなか寝付けなかった。――これではまるで、遠足前の小学生だ。久しぶりに懐かしい気分を味わえたような気がする。
朝起きてからも、まずはシャワーを浴びて気分をすっきりとさせ、しっかりとシャンプーとブローをした。いつでも魅力を印象付けられるようにと少しだけ刺激の強そうなブラとショーツを付け、それに合わせた服を選んだ。
「コーディネートはこうでねぇと……ププッ」
鼻歌交じりに鏡の前で乱れがないかと確認する。ダジャレの調子も、いつも以上に良さそうだった。
――とある喫茶店で待ち合わせた私は、彼が借りてきたレンタカーの助手席に乗り、高速道路を利用して郊外へと向った。
「あの、Pさん。一つお聞きしてもよろしいですか?」
「はい? ええ、どうぞ」
「今回誘っていただいたのは素直にうれしいのですけど、どうして――私だったのですか?」
自分を卑下するつもりはないけれど、他のアイドルたちも魅力的な娘たちばかり。彼女たちがPさんを慕い、程度は違えどアプローチをかけている。それにまったく気付いていないほど、鈍感ではないとは思う。
「うーん、そうですね――一つは以前の温泉巡りロケですかね」
ああ、あれのことか――と、私はすぐに思い出すことができた。それだけ、思い出深いものだった。地方で有名な温泉に浸かりながら熱燗と温泉卵のセットを持ち込んでの一杯は格別だった。私も個人的に非常に満足のいく仕事だったけれど、どうしてそれが理由に出てくるのだろうか。
「やっぱり温泉に入るなら、仕事とか全部忘れての方がゆったりできるじゃないですか。それに楓さんには普段から他のアイドルたちのお姉さんとして色々気を遣ってもらっていますから。それのお礼というのもあるんです。まあ、強いて言うならもう一つ――」
わざわざ誘ってくれたからどんな理由があるのかと身構えてしまったけれど、Pさん少し気にしすぎです。私がそうしているのは、そうしたいという思いがあるから。私からしたら、みんなかわいい妹のような存在ですから。お気遣いは素直にうれしいですけど、ね。
「もう一つ? それは、なんですか?」
それよりも、もったいぶるように言葉を切ったもう一つの理由とはいったいなんだろうか。言おうか言うまいか、迷っている――というよりも、恥ずかしがっているようだった。
「――もう一つの理由は、あ、あれですよ。最近二人きりでゆっくりできていないなーって思ったからです」
なんだか、妙にモヤモヤとする理由だった。うれしいという気持ちは確かにあるのだけれど、恋する女としてはなんだか物足りなさを感じていた。
「そうですね。最近はお互いに忙しかったですから。でも、てっきり私は別の理由を想像していましたよ、フフッ」それについては同意しておく。でも、物足りなさから私は少しだけ意地悪く笑った。
「か、楓さん……」
Pさんは前を走る車を数台追い抜き、落ち着いてからからかうのはやめてほしいというように苦笑いを浮かべながら言った。
「もう、待っているだけじゃあ……駄目みたいですね」
私は彼に聞こえないよう、ボソッと本音を呟いていた。
* * *
高速道路から抜け、ビルや建物が密集していた都会とは打って変わって自然に囲まれたどことなく田舎を感じさせる場所に出た。一面に緑の絨毯が敷き詰められているように見えるほど、自然に囲まれた場所だった。忙しない都会とは違い、ここの時間はゆっくりと流れているように感じられた。中心部に入っていくと、今日宿泊する旅館が見えた。川原が敷き詰められた屋根、建物を囲むようにして白い塀があるなど和風な印象を与えさせる。
旅館利用者専用の駐車場に車を置いてから、荷物を持って旅館へと向う。
「おかえりなさいませ。この度は遠いところからようこそお出でくださいました」
玄関に入ると受付台にいる若女将たちが出迎えて、恭しく対応してくれる。彼女たちはどのように私たちのことを見ているのだろうか。一人のプロデューサーとアイドルか。それとも、恋人か若夫婦か。私としては後者がうれしいのだけれど。
「一泊よろしくおねがいします」
隣に立つPさんは、そんな私の思いに気付くこともない。いつもの笑顔で挨拶をしていた。――もう、Pさんったら……。いい加減、私も拗ねちゃいますよ?
* * *
木張りの廊下を歩き、二階に上がってから真っ直ぐ歩いて突き当たりにある部屋に案内された。部屋に入ると、換気のためかすでに障子や窓が開けられており外の雄大な景色が四角に切り取られた一枚絵のようにあった。窓際に走り寄り、思わず「うわぁーっ」と感嘆の声を上げた。
部屋は畳張りで、普段からフローリングのある空間で生活していたから、なんだか新鮮な感じだった。テーブルの前に敷いた座布団に座り、床の畳に手を触れさせてみる。ザラザラッとした独特な触り心地、ほのかにある草の香りが自然の中にいるような居心地にさせる。
すぐ近くに森林があるので、カナカナカナッというひぐらしの大合唱が聞こえてきた。普段から静かな曲調を歌っているけれど、けっしてその大合唱が耳うるさいとは思わなかった。むしろ自然界にいる生命の声であるから、なんだか懐かしい気持ちになる。本能が感じ取っているのかもしれない。
「せっかく温泉に来たんですから、まずはそれを堪能しませんか? ここの旅館の露天風呂から見る景色もまた格別だってパンフレットに書いてましたよ」Pさんがそう誘いをかけてきた。私も特に異論はなく「ええ、そうしましょうか」と答えた。
* * *
温泉にはさまざまな種類があり、たっぷり時間を入浴に費やした。せっかくの温泉旅行なのだから、これくらいしなければもったいないと思った。最後にPさんに言われたとおり、露天風呂に入った。パンフレットの紹介欄にも押しているのも頷けるほど、そこから見える自然の景色はまたすばらしかった。人の手がほとんど入っていないからか、動物たちの姿が時々見えた。つぶらな瞳が私のことを見つめていた。――かわいい。手を振ったら驚いてしまったのか、そそくさと再び森林の中に姿を隠してしまった。――ううっ、残念です。
温泉から上がって部屋に戻ると、Pさんはすでに浴衣に着替えた状態で座布団に座り、お茶を飲みながらテレビを見ていた。男性はあまり長時間お風呂には入らないと気いているので、多分私よりも先に上がっていたのだろう。対する私は上がったばかりということでホクホクッと上気していた。
「あ、楓さん。温泉はどうでしたか?」テレビの電源を切ってから、Pさんが尋ねてきた。
「充分堪能させてもらいました。熱燗と温泉卵があれば、もっと良かったかもしれません」頬を伝った雫を首からかけているタオルでそっと拭う。Pさんは「そっか。次にはいる時は、女将さんに注文してからにしよう」と私の好評がうれしかったのか、微笑みながら言った。一人酒をするよりも、Pさんと二人でしてみたいとも思う。確かこの旅館には混浴の露天風呂があったはず。ここは思い切って誘いをかけてみてもいいかもしれない――そう思った。
「そうだ、Pさん。ちょっとこちらに来てもらえますか?」
座布団を引っ張り、それにやや足を崩して座る。ポンポンッと空きのできている膝を叩きながら、誘いの声をかける。
「え、あ、あの楓さん……?」どうしようか迷っている様子のPさん。
ここは思い切った行動をとってほしいというのが、本音なのだけれど。
「いつもお世話になっていますから。そのお礼です」
他意はないと嘘をつく。ゴクリッとPさんが生唾を飲んだ音が聞こえた。ようやく立ち上がり、緊張した様子のまま私の近くで一度しゃがみ込んだ。それからおそるおそるというように、私の膝にすっかり乾いてしまった頭を乗せた。するとPさんは緊張していた数秒前とは打って変わって、安心しきった子どものようにふにゃりっと顔を弛緩させた。――かわいい。そして、私は彼のやや固い髪質の頭をゆっくりと撫でた――ゆっくりと目を閉じた。
空は少しずつ黒に染まり始めていた。あれだけ賑やかだったひぐらしたちの鳴き声も今はほとんど聞こえない。二人だけの部屋で聞こえているのは、二人の規則的な呼吸音だけ。
スルリッと私の腰に、彼の手が回された。それからキュッと包み込むように力がこめられる。いつの間にか彼が寝返りをうち、太股に顔を埋めるようにしていた。
「楓さん、いい匂いがします」
腰に回していた彼の手が浴衣越しに愛撫しているのを感じた。これまでの男が私に向けていた、ただ女を求めているだけの感触ではなく、もっとなにか大切なものに触れているような、そんな感じだった。
「突然なんですね。てっきり私の方から行かなければいけないと思っていました」私が意地悪く言うと「なかなか踏み出せない性格なのは否定しませんけど、俺だって男です。魅力的な女性からこんなうれしい誘いをしてもらったのに、いつまでもウジウジしていたら男が廃るというものです」埋めていた顔を動かし、普段彼が見せている笑みとは違うそれを浮かべながら見上げてきた。
「このまま、いいですよね?」
「それを女性に聞きますか?」その言葉に対する返答の代わりとして、彼は私に覆い被さった。
浴衣越しに背中に当たる固くザラザラとした畳の存在を感じる。フワリと髪が畳と触れ合う。草の匂いが妙な安心感を与える。ゆっくりと帯が外され、浴衣が解けていくのがわかった。開け放された窓から入り込んだ外の空気が肌に触れ、少し冷たかった。
都会の夜とは違い、部屋には少しだけ涼しさもあったけれども、私たちが発する熱ですっかり温められてしまっていた。
この旅館には私たち以外にも宿泊客がいるようで、開け放された窓から外に声や音が漏れてしまうのではないかと思い、必死に抑え殺すようにした。
外では日中のひぐらしの大合唱に代わり、夏の虫たちによる涼やかなオーケストラの演奏が奏でられていた――そして、私は声をあげた。
* * *
「お夕食はどういたしますか?」と、女将さんがやって来たのはちょうど行為が終わった後だった。何事もなかったかのように部屋で自然の恵みをふんだんに使った料理を食べていた。
普段なら食事中はテレビを見ながらだけれど、今日は夏の虫たちのオーケストラをBGMに、料理に舌鼓を打ちながらPさんと談笑していた。
夕食を終え、時間を置いてから再び温泉に入ることになった。Pさんからの誘いで、混浴の露天風呂に二人で入る。電球などの明かりはなく、灯篭の灯りと空から降り注ぐ月明かりだけが頼りだった。
チャプンッ――身体を湯船に沈ませる。
涼しい外気と熱いお湯が触れ合うことで湯煙が漂う。先に入浴していたPさんの姿がおぼろげに見えた。
白い湯煙は、私たちの間にある境界線を曖昧にしていた。いつだって恋愛の境界線は曖昧だと思う。でも、思い切って踏み越えていかなければ触れ合うこともできない。――今日はせっかくのチャンス。思い切って湯煙の向こうに行ってみようかしら。
意を決した私は湯船から立ち上がり、そっと一歩を踏み出した……。
* * *
翌日、女将さんたちにお礼を言って旅館を出発した。
レンタカーの貸し出し期限は明日までなようで、高速道路を走っている途中「このまま返却するのもなんだかもったいないな」とPさんがぼやいていた。
「Pさん、もしよければですが――これからこの場所に行くのはどうですか?」私は旅館のフロントから拝借しておいた周辺の観光スポットを紹介しているパンフレットを指差しながら言った。
「いいですね。今日一日はスポット巡りで決定ですね」爽やかな笑みを浮かべ、彼はウィンカーを出してから、ハンドルを回し車の進行先を変える。
今日は一日を通して雲一つない快晴とラジオの天気予報が伝える。――すでに私たちの間には湯煙はない。