仕事がない日は、基本的にレッスンが予定に組み込まれている。アイドル候補生としてスカウトされる以前からずっと続けていたランニング。
それはスカウトされ、一人のアイドルとして活動している今となっても、ほぼ毎日欠かさずに行っている。
もともとは体力づくりが目的だったけれども、今ではレッスン後のクールダウンという役割もあった。
いつものランニングコースを走り、事務所に戻ろうとしていたその帰り道、その途中の道路が改修工事のために通行止めになっていた。
無理矢理にこのまま突っ切ることはできないので、仕方なく、少し遠回りになるかもしれないけれど川沿いの土手道を通ることにした。道端には満開になった桜の木が立ち並んでおり、土手から河原にかけては緑が茂っている。
時期的に、今が見頃がピークなのかもしれない。河原では大学生くらいの男女が集まり、バーベキューをしている姿が見えた。
その様子を見て、ついこの間事務所のみんなと花見をしに行ったことを思い出す。
走り始めから維持していたペースを少しだけ落として、漂っているこの穏やかな午後の雰囲気を味わいたくなる。
風が吹いて、桜の花びらが舞う。家の教育方針で男の子のようにショートになっている髪の毛が撫でられ、少しだけ持ち上がって――すぐに元に戻った。
何気ないひと時なのに、この雰囲気の中にいるだけで少しだけ得した気分になる。再び走り出す。地面を蹴る足が、先ほどよりも少しだけ軽くなっていた気がした。
***
ランニングコースの途中にとある海浜公園がある。小さな子供たちが、両親と一緒に遊びに来ている様子を見かけることがある。
海を眺められる場所に木造りのベンチがある。そのベンチに、学校帰りなのか制服姿の男の子と女の子が仲良く寄り添うようにして座っているのを見た。
それを見てぼくは思わず――青春しているなぁ。いいなぁ……――うらやましく思ってしまった。男の子が肩から手を回していて、女の子は身体を預けている。
通っている学校での女友達との話にも、男の子との付き合いが話題としてあがることがある。休日のデートだけじゃなく、今日のような平日の少しの時間でも一緒にいたいのだという話を聞いた。好きな人と少しでも長く一緒にいたいという気持ちはわかる気がした。
二人にとっては幸せな時間を過ごしているんだろうなと思う。最近読んだ恋愛小説でも、これと同じシチュエーションがあったような気がする。きっと二人は夕日が海に沈んで、茜色の空が黒く染まってもずっとこの場所にいるんだろうなぁ……。
ぼくはふと遠ざかっていく女の子に自分を重ねてみる。すると男の子にも一人の男性の姿が重なって見えた。
胸がドキドキする。これはきっと走っているからなのだと自分に言い聞かせる。
顔が熱くなる。きっと今のぼくの顔はリンゴのように赤くなっているだろう。これは沈みかけている夕日のせいなのだと自分に言い聞かせた。
***
ふと記憶が時間を遡る……。
「プロデューサー、来てくれるかな……」
ラストライブのあと、ぼくは会場からの帰り道でプロデューサーに告白して付き合い始めた。春となり、ファンデーションのような雪が溶けてから公園のベンチに座って、仕事のこと以外に、他愛のない日常の話やぼくの将来の夢を話したり、悩んでいるときも親身になって相談に乗ってくれたりした。
ある日、自転車に乗って先導してくれるプロデューサーと一緒にランニングをしていた。
一度「いっしょに走ればトレーニングになりますよ」と言ったのだけれど「俺が真のペースについていけると思うのか?」と聞き返された。大丈夫ですよ、という言葉が喉元でつっかえて言えなかった。
事務所を出たときから雲行きが怪しかったのだけれど、やはりしばらくするとポツポツと雨が降り出した。あわてて雨宿りをしようと思い、二人で海浜公園の公衆トイレに駆け込んだ。次第に雨足が強くなり、地面をたたく雨音だけが公園に響いていた。
二人だけの世界。往来を妨げるようにして振り続ける雨。まるで悪魔が用意した誘惑じみた罠だった。それでもぼくたちはトイレの影に移動し引き寄せられるようにしてキスをした。プロデューサーには内緒だったけど、ぼくにとってそれはファーストキスだった。プロデューサーはどうだったのかなって、少し気になった。緊張と恥ずかしさ、幸福感といったものがゴチャゴチャに入り混じって心臓が激しく鼓動していた。走ったことによるものではなかった。ぬれた身体をかまわず密着させていたから、そのドキドキという鼓動音が伝わってしまったのではないかと思うと顔が熱くなった。
春休みに入り、夜遅くみんなが帰ったあとに事務所にある仮眠室で彼と抱き合った。ぼくはもちろんのこと、意外やプロデューサーも初めてでぎこちなかった。それでも好き合っている同士、次第に不馴れさは影を潜め、夢中になる。プロデューサーとアイドル、さらには事務所内ということに背徳感と甘さが入り交じった時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。忘れ物なのだろうか、音無さんが戻ってきたことにあわてて服を着たことは鮮明に覚えている。
恋愛の思い出は、お互いのつながりが深ければ深いほどきれいになるのだと知った。
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基本的にプロデューサーが自転車に乗って先導してくれるのだけど、忙しいときはぼく一人で走ることになっていた。それでも帰りは迎えに来てくれて、自転車の荷台に座るのが自然な流れになっていた。
ぼくだって女の子だ。アイドルとしては王子様路線で活動しているけれど、やっぱり女として男に寄りかかりたいと思うことはある。そんなとき、二台に据わるぼくの前には大きなプロデューサーの背中がある。身体が密着すると、心まで密着しているような感じがする。その大きな背中に腕を回して抱きつくようにするのが好きだった。
***
「痛たたたっ……」ベンチに座り、ランニングシューズと靴下を脱いで足首の状態を確認してみる。気を散らせながら走っていたからか、途中で足を挫いたようだった。やや赤く腫れ上がって見える。動かすと小さな鈍痛が走った。
すっかり辺りが暗くなり、公園の外灯が明かりを灯していた。公園にはすでに人気はなく、ベンチに座っていた二人の男の子と女の子の姿も見えなくなっていた。二人に代わってそこにぼくが座っている。二人がかもし出していた甘い雰囲気は時間とともに失せてしまっている。たとえ残っていたとしても、ぼく一人しかいない状態では寂しさを助長させるものでしかなかったと思う。
遠くから自転車をこぐ音が聞こえた。外灯の明かりの範囲が狭いから、音のするほうに視線を向けてみても自転車に乗る人影が見えるだけで、顔まではっきりと見ることができない。だんだんとぼくのほうに近づいてくる。そして、ゆっくりと前輪から明かりに照らし出される。頭上からスポットライトを浴びるようにして現れたのは――いつものジャージ姿ではなく、仕事着のスーツ姿のままでいるプロデューサーだった。
「ぷ、プロデューサー……!?」
「す、すまない真……。仕事が思った以上に長引いてな」自転車から降り、ぼくに向かって駆け寄ってくる。
ひどくあわてていたのか、額からは汗が出ており、着ているスーツもヨレヨレで少しだけだらしなく見える。それでも仕事が終わってからまっすぐにここに来てくれたのだとすぐにわかった。安堵からハァーッとため息がこぼれる。気が抜けたからなのか、忘れていた足首の痛みが再び走った。「痛いっ!?」小さく悲鳴をあげる。
「どうしたんだ、真っ!?」ぼくの様子を見て、プロデューサーがあわてて尋ねてくる。なんとか笑顔を作ろうとしながら、挫いてしまった足首を見せる。
「どうしたんだこれは、腫れてるじゃないか」そう言いながらハンカチを取り出して、それを足首に捲き始めた。応急処置として、ぎゅっと強く固定するためにしめられる。「足首を挫いたのか? 気を付けないとだめじゃないか」と、プロデューサーは気遣いつつ注意する。半分はアイドル活動に怪我が支障をきたすかもしれないから。もう半分はぼくのうぬぼれだけど、か、彼女だから……、かな。それでも、不注意からの怪我だから反省しないといけない。ぼくは「ごめんなさい……」謝ることしかできなかった。
「早く冷やさないといけないな……。真、すぐに事務所に戻るぞ」
「え、あ、はいって――うわわわっ!?」
返事を返したところで、突然ぼくの身体がふわりと浮き上がる。軽々とプロデューサーがぼくのことを持ち上げ、自転車の荷台に座らせてくれる。なにより憧れだったお姫様抱っこをされたことに大きな衝撃を受けた。どうせなら、もっと別のシチュエーションでやってほしかった――そう思うのは、少しわがままなのかな。
ゆっくりと自転車が走り出す。振り落とされないようにと、ぼくはプロデューサーに手を回して背中に抱きつくようにする。夜の道に、ギコギコという走音が響く。時間帯的に歩行者がいないからスムーズに前進していた。
「なるほど」プロデューサーが納得するようにつぶやき「真はうらやましかったのか」と続けた。ぼくは「そ、そんなこと……ない、ですよ」と説得力もない反論を口にしていた。
カラカラと笑い声をあげるプロデューサー。「ごめんな。最近一緒に走れなくて」顔は見えないけれど、背中が申し訳なさそうにしているように見えた。
「大丈夫です」ぼくは気丈に振舞いながら「プロデューサーだって、忙しいんですから。ぼくばかり気に掛けるわけにはいかないでしょ」その代わりに抱きついている腕に少しだ力をこめた。さらに密着する。身体と身体。心と心。両方の距離が一気に近づいたように感じる。ドキドキ。二人の鼓動が重なり合う。
「あの、プロデューサー」
「うん?」
「えっと……怪我しちゃって、ごめんなさい」
「うん、まあ、いつなにが起こるかわからないから、仕方ないっちゃ、仕方ないんだけど」自転車が角を曲がり「真はアイドルだし、女の子だし……それに――」そこで一度言葉をとぎらせる。
自転車のやや耳障りなブレーキ音が響く。どうやら事務所前に到着したみたいだった。見上げると、たぶん音無さんが残っているのか事務所の窓から室内の照明が見えた。
「――俺の彼女だからな」
自転車から降り、ぼくに振り向いたプロデューサーは心配の色を含んだ笑顔で言った。ぼくはその笑顔を直視できず、視線をそらしてしまう。かーっと顔が熱くなる音を聞いた。
「ほら、負ぶってやるから」そう言ってプロデューサーは大きな背中をぼくに向けてきた。
そろそろと自転車から降りて、その背中にもたれかかる。さきほどよりも密着して、二人の距離が縮まった気がする。恥ずかしくなって、今の顔を見られたくなくて隠すようにうずめる。
プロデューサーが立ち上がり、階段を上り始めた。
ユラユラと、自転車に乗っているときのように小さな揺れを感じていた。それはまるで赤子を寝かせるゆりかごのようなものだった。大きな背中。包まれているような温かさと安心感。やっぱりふたり乗りは幸せだ。