感嘆と興奮、驚嘆と困惑。夏の暑気のような雑多な感情がもたらした熱が引いていくと、場には再び厳かな空気が流れ始めた。
負けられない戦いを前にした緊張感。強者のひしめき合いが生む緊迫感。そして、難敵への警戒心。幾重にも絡む感情に目に見えない空気がたちまち重くなっていくのが見えるようだ。
けど、重い空気に反して壁際に並ぶ護衛にも、席に着こうとしている六家の面々にも気持ちに昂りはあれど、先程と違い、昂り過ぎているという印象はない。
余興のインパクトが強すぎたせいだろう。一度リセットされ緩められた気持ちや感情が、程よい強さで締め直されて自らの内に収まっているのを神楽耶は感じた。
であるなら、あの余興にもそれなりに意味はあったという事なのだろう。思考の展開も速度も発想も、常人が遠く及ばない領域で繰り広げられた頭脳戦は、ゲームと呼ぶには余りに飛び交った情報量が多く、決着どころか応手一つ取っても、どちらの思惑が勝ったのか分からないものだったが、少なくとも肩の力は抜けたのだから。
「さて――――」
でも、それは相手も同じ事。
程よく低く、程よく固く。語りかける、という話し方のお手本のような声に神楽耶は没頭していた思考を閉ざし、意識の焦点を現実に切り替える。
ぐるり、と輪を以て和を示す円卓の対面、数合わせの文官を両隣に補佐官を後ろに控えさせ、正面から見据えてくる完璧に整えられた微笑みという名の刃に、思わず膝の上の手に力が入る。
これが、この男の本気なのか。それとも、僅かとはいえ、感情の色を見た反動なのか。一層際立つ秀麗な微笑みに、時として笑顔は凶器に変わるという言葉の意味を理解した気がした。
特に、透明感。一切の感情が乗らない瞳と微笑は鏡のようで、見ているだけで気持ちも思考も丸裸にされていくような気分になる。
一体、その微笑みでどれだけの人間の意志を挫いてきたのか。並の人間であれば、喋る事すら覚束なくなるであろう虚無の微笑を前に、神楽耶は一度は自らの内に収まった感情にまた皹が入っていくのを感じた。
「神楽耶殿?」
そして、そんな隙を見逃す程、目の前の男は甘くない。ここぞとばかりに優しい声が耳朶に触れた。
「大丈夫ですか? 気分が優れないようでしたら、もう少し時間を空けますが……」
甘い囁きに肌が粟立つ。とろりとした蜂蜜をたっぷりと流し込まれたような甘ったるい感覚に胸がざわつく。
会話ですらない。話すタイミング、声の抑揚、喋る速度。それだけで相手の心を乱す巧みな話術に、神楽耶は改めて敵の強大さを知る。
何気ない言葉から、表情や仕草の一つまで。
あらゆる全てに仕込んだ甘い毒で相手の心を繰り、『前回』には最大の敵であった黒の騎士団すら言葉だけで瓦解せしめたブリタニアの叡智の手練手管は、器はあれど、まだ中身を満たし切れる程の経験を重ねていない神楽耶の遠く及ぶものではない。
だから、せめて、心だけはと再び過る弱気を振り払うように、語気を強めて気丈に返そうとして―――。
――――――コツ
………不思議なものだ。
目の前の男のように甘く声を掛けられた訳ではない。そもそも、言葉ですらない。でも、後ろで小さく鳴ったその音は他の何よりも、優しく、心地よく。
たったの一音。耳を擽った彼の音に心のざわつきがさざ波のように引いていくのが分かった。
(私も大概、ですね)
小さな肩にのし掛かる重圧も、目の前の男がもたらす動揺も、ほんの少し、気持ちを傾けた男の存在を認識しただけで消え去るのだから、自分も大概恋する乙女だと心の中で苦笑する。
(ありがとうございます、ゼロ様)
感謝の念を抱きつつ、けれど、と神楽耶は己を引き締める。
助けて貰えるのは嬉しいが、助けて貰ってばかりもいられない。自分はこの国の王、そんな存在がいつまでも庇護に甘んじていて、どうやって国が守れようか。
それに、本気で後ろの彼の隣に並ぼうと思うのなら、自分も奇跡の一つや二つ、起こしてみせないと。
「平気です。どうぞ、始めて下さい」
ならば、やはり、此処は自分の戦場。
退けない理由を一つ加えて、神楽耶は凛とした態度で前を見据えた。
「では、改めて」
そう前置きし、口火を切ったのはシュナイゼルだった。
「まずは、今回、我が方の交渉に応じて下さった、皆様の寛大な御心と判断に敬意と感謝を」
ゆるく眦を落とし、親しげな表情に喜色を滲ませた、如何にも良き隣人である体で、日本を蹂躙した侵略者が神楽耶達に笑む。
「他者の嘆きに耳を傾け、憎しみに囚われる事なく、戦いよりも停戦に同意した日本の高潔な精神は、ブリタニアは元より、後の世においても高く評価されるでしょう」
思わず、鼻で笑い飛ばしそうになるのを堪える。
ちらり、と横目で左右を見やれば、普段は飄々としている老人達も滲む不快感に溜め息を溢したり、鼻を鳴らしたりしていた。
それもそうだろう。
憎しみに囚われる事なく? 高潔な精神? ふざけるなと、馬鹿にしているのかと言ってやりたい。
この八年。一体、どれだけのものを奪われてきたと思っている。どれだけの生命が踏みにじられたと思っている。
自らの行いを省みれば、簡単に水に流せるものではない事くらい、直ぐに分かるだろう。
それでも、この停戦に同意し交渉のテーブルに着いたのは、あくまで自国の益と民の安寧の為。
なのに、それを自分達に都合良く解釈して、終わった事のように言われれば、欲の皮の突っ張った狸達であろうと不快感の一つも覚えよう。
同時に、分かってもいた。これは、わざとだと。
往々にして、人は良い方向に誤解を受けた場合、それを解くのを躊躇い、尻込みするものである。
そんなつもりはなかった。偶々、上手くいっただけで本当はこうするつもりだった。
そうやって、下方向の真実を明るみにし、その落差から来る相手の軽蔑や落胆、自分の矮小さを自覚するのを忌避するからだ。
だから、シュナイゼルは先んじて日本の行動を殊更持ち上げ、あたかも聖人を見たかのように賛美する事で、日本側が利益に訴えるのを難しくしたのだろう。交渉上は日本有利とはいえ、やはり両者の関係は小国と大国。もし、僅かでも口の滑りが悪くなれば、その強大さに呑まれ、何も求められないまま、交渉を終えてしまう可能性もあった。
「お言葉、有り難く。ですが、そう持ち上げられる程の事ではないかと」
それを分かっていたからこそ、神楽耶は激昂せずに淀む事なく挑発を受け止めた。
受け止めて、――投げ返す。
不快感は極力抑え、けれど、冷めた気持ちは隠さずに。
始まる前の狼狽ぶりが嘘のように、丁寧な口調にそぐわぬ冷たい笑みが、神楽耶のあどけない顔立ちを為政者のそれに変えた。
「このご時世、特に肩入れする理由はなくとも、他国の暴虐から一国を救い上げるようなお方もいらっしゃるくらいです。人として最低限の品格を備えていれば、弱者を生肉か何かとしか思わないような判断はしないと思いますが?」
綺麗に揃えた指の先で上品に口元を隠しながら、神楽耶が含む物言いをすると、呼応するように両隣の老人達がくつくつと嗤う。
明らかな皮肉。明らかな嘲笑。
それを避ける為にも、この交渉においては自分達の方こそ上であるという態度を崩す訳にはいかなかった。
「ですので、殿下。我が国を評価して頂けるのであれば、この機会に他者への手の差し伸べ方を学んではいかがでしょう?」
痛烈な皮肉で不用意な発言に釘を刺しつつ、シュナイゼルの目論見を躬す。
言われ慣れてないのか。それとも、まだ日本を弱者としか見ていないのか。
あからさまに顔色を変えている文官達を尻目に、神楽耶はシュナイゼルの反応を窺う。
少しは堪えたであろうか。そう思い、神楽耶はシュナイゼルの表情の中に苦悶が見えないか探る。
だが、神楽耶の予想に反して、シュナイゼルに見えたのは苦悶ではなく悲痛だった。
「そうですね………」
こめかみを抑え、シュナイゼルは信頼を裏切られたかのように悲しげに呟く。
「これ以上、民に負担を強いるのは心苦しいですが……、他ならぬ貴女方がそうおっしゃるなら、是非とも勉強させて頂きましょう」
そう言って、淡く微笑むシュナイゼルに苛立ちが募る。
どこまでも加害者なくせに、どこまでも被害者ぶるその言動の一々が癪に障った。
奥歯が鳴る。知らず、苛立ちから表情に力が入っている事に気付き、そうと分からぬよう、ゆっくりと呼吸音を抑えつつ息を吐き出し、強張った表情を解す。
やはり、手強かった。強気な態度や発言が許されている日本と違い、言動が束縛されているにも関わらず、まるでマウントが取れそうにない。
そう感じると同時、力が抜けた歯が違う感情から再び噛み締められる。
実力差は理解していたつもりだった。だが、それでもまだ認識が甘かったと痛感する。
正直、圧倒的有利な立場に居続けたのであれば、不利な交渉は不慣れだろうと考えてもいたが、どうやら、この程度のアドバンテージではシュナイゼルを抑えつける事は出来ないらしい。
(悔しいですが、仕方ありませんね)
出来る事なら、きちんとこの場における両者間の力関係を明白にした上で本題に入りたかったが、下手な会話や議論はシュナイゼルの有利にしか働かないだろう。
であるなら、場の空気が日本有利に動いている今の内に本題を終えるべきと判断した神楽耶は、そこでシュナイゼルとの会話を打ち切ると、左隣に座る六家の老人の中で、唯一ゼロからの信頼を受けている男の方へ顔を向けた。
「桐原」
「………うむ」
呼び掛けに、桐原が重く頷く。どうやら、この男も神楽耶と同じ帰結らしく、苦々しく思いながらも、否定や意見を割り込んだりはしてこなかった。
ゆったりとした着物の内に手を忍ばせ、どうやって隠していたのか、書類袋を取り出すと留め紐を外し、中から格式張った文章でびっしりと埋め尽くされた書類を抜き取る。
そして、その書面を突きつけるようにブリタニア側に示した。
「此方が、今回、停戦に同意するにあたり、我々が貴国に要求する内容となる。……悪いが、口頭で説明すると長くなりそうでの。書面に起こさせて貰った」
「拝見します」
シュナイゼルがそう言うと、桐原は突き出していた要求書を下げ、神楽耶の後ろに控えていたゼロに手渡す。
そうして、ゼロからカノンを通し、手元に渡ってきた苦情ない交ぜの要求書にシュナイゼルは目を通し始めた。
日本の要求は、簡潔にまとめると以下の通りだった。
一つ、日本領土並びに領海の全ブリタニア軍の撤退、及び関連施設の完全撤去。
一つ、八年間に及ぶ占拠、並びにブリタニア人による日本人への非人道、不法行為に対する賠償金の請求。
一つ、将来的な国交回復を指針として、親善大使にユーフェミア・リ・ブリタニアを指名、その身柄を日本国内に留めるものとする。
一つ、ハワイ諸島全域を中立地帯に設定。以後を、日本との共同管理とし、ハワイでの軍事行動は両国の了解があってのみ認められるものとする。
「……随分と吹っ掛けてきましたね」
文書に目を通し、その後、シュナイゼルによって物語を読み聞かせるように穏やかに、簡潔にして読み上げられた要求書の内容に、護衛として静かに交渉を見守っていたモニカが呆れと若干の苛立ちに目を細めた。
「欲張り過ぎて、逆に足元を見られる可能性を考慮していないのでしょうか?」
「承知の上だろう。日本とて、挙げた要求が全て通るとは思ってはおるまい」
値を吊り上げ、少しでも高く売り付けるのは交渉の基本である。
おそらく、日本が本当に通したいのは最初の一項目、ブリタニア軍の完全撤退だけであろう。
首都を掌握され、政庁を失った今、エリア11の総督府は内政機能の殆どを停止している。そこに軍事機能の喪失も加われば、エリア11におけるブリタニアの統治能力は完全にゼロとなり、ブリタニアはエリア11から手を退かざるを得なくなる。
つまりは、独立の完成だ。
他の条件もそれなりに破格だが、優先順位では第一項目に劣る。むしろ、第一項目の譲歩を引き出す為に他の条件の値も吊り上げたのかもしれないとビスマルクは語った。
「へぇ、王サマだけかと思ったら」
てっきり、一時の有利に驕り、何も考えずに上から目線で要求を突き付けてきたのかと思いきや。
きちんと物を考えて、シュナイゼルを相手に抜け目なく立ち回ろうとする強かさと、一度は大敗を喫しておきながらも、ここまで強気に自分達を負かした大国に挑める神楽耶達の度胸にジノは素直に感嘆の声を上げた。
やはり思っていた通り、随分と歯応えのある国らしい。
「中々やるねぇ、イレブンのお姫サマ達も」
「ヴァインベルグ卿」
「おっと、失礼」
ついつい楽しい気分になり、軽口と共に蔑称に当たる呼び方をしてしまい、モニカに咎められる。
ひんやりとした視線に首を竦めて謝罪し、けれど、楽しげな気分はそのままにジノは反対側の壁際に視線を向けた。
目に入るのは、一目で自分の視線を釘付けにした少女。燃えるような紅毛の髪と勝ち気な藍色の瞳のコントラストが美しく、交渉の成り行きに従ってコロコロと変わる表情は見ていて飽きを感じさせない。
それだけでも此処に来た甲斐はあるのに、護衛という立場である事と、探ればひしひしと伝わってくる強者の気配から彼女もまた一角の戦士であると分かる。
そこで視線があった。じっ、と自分を見つめる気配に気付いたからだろう。怪訝そうに自分の方を見てきた少女にチャンスと見たジノは表情を一変。にこりと貴公子のように微笑んだ。
すると、どうだろう。社交界において、百発百中の精度を誇るジノの貴族の笑みを見た少女は、とても不味いものでも食べたかのように思いっきり顔をしかめると、ふいと神楽耶達に視線を戻してしまった。
まるっきり、相手にされていない。
それもまた、ジノには新鮮で。
つくづく来て良かった。
そう思いながら、ジノはひらひらと少女に向けて手を振った。
当然、無視された。
緊張に心臓が高鳴る。遂に投げられた賽に鼓動がまるで太鼓のように内側から胸を殴り付けてきていて、ともすれば身体すら震え出してしまいそうだった。
だが、そんな様子をおくびも見せずに神楽耶はブリタニアの返答を静かに待つ。
ここからだ。
色々と喧しい身体を無視して、神楽耶は頭の中から昨日詰め込んだブリタニア関連の情報を引っ張り出す。
ブリタニアの情勢や日本との関係。中華とE.U.、その他主要国家との現状。各戦線の状況に、各エリアの経済状況。更には現時点でのエリア総督、皇族、目ぼしい貴族達の人となり、人間関係、噂諸々。
交渉に使えそうな、使われそうなあらゆる情報を頭に叩き込み、六家の老人達と綿密に打ち合わせを行い、ブリタニアがしてきそうな要求を可能な限り考え、その対応策も講じてきた。
全てはここで日本を取り戻す為に。
入念に入念を重ねて準備を行ってきた。
「ふむ………」
視線の先、改めて要求書に目を通していたシュナイゼルが何かに納得したように小さく頷くのが見えた。
考えがまとまったのだろう。シュナイゼルの様子からそう判断した神楽耶は唇を一舐めして、居住まいを正す。
「成程、貴国の要求は理解しました」
書面に落としていた視線が神楽耶達に戻ってくる。その表情は他の者達と違い、変わらずの笑顔。
しかし、そんな事はもう分かり切っていた事なので神楽耶も桐原達も気持ちを崩さない。
さあ、来るなら来い。お前がどんな弁舌をどれだけ繰り広げようと必ず日本は取り戻す。
そんな覚悟が伝わってきそうな神楽耶達に、シュナイゼルは要求書をテーブルに置いて手を組んだ。
そして、殊更柔らかい笑みで、にこり、と微笑むと―――。
「では、このように」
とても軽やかに、一言、そう告げた。
「……………ぇ」
意識せず、気の抜けた声が漏れそうになり、慌てて喉を引き締めた。
しかし、出来たのはそこまで。思考は、まだ止まったまま、動かない。
今、この男は何と言った? では、このように? このように? 承認した? 何を? 要求を? 日本の要求を? 受け入れた? なら、返ってくる? 皆が苦労して取り戻そうとしたものが? 多くの日本人が生命を懸けて取り戻せなかったものが? どれだけ手を伸ばしても届かなかったものが? あんなにも心の底から渇望した故郷が?
こんな簡単に―――――?
「ふふ、昨日の
「あ………………」
かろうじて働いた思考が、しまった、と叫んだ。
日本が、かねてより行っていた攪乱作戦。
エリア11内の貴族によって行われた非合法、非人道の行為を本人達の承認、証言の下、白日に晒し、それも以てブリタニアを非難した日本の外交攻撃。
ブリタニアのプライドの高さを逆手にとって醜態を晒す貴族を拘束、本国の貴族を煽り、長らくブリタニア国内に不和を生んできた計略だったのだが、これはブリタニアが誠意ある回答をしない事を前提に成り立っていた。
それが崩れた。
シュナイゼルはこの交渉の譲歩を、先の問題と絡める事で誠意としたのだ。狙いはどうあれ、誠意を示されてしまった以上、日本はこれ以上ブリタニアを非難する事は出来なくなる。謝罪も、今の状態で言い逃れされてしまっては深く追及も出来ない。すれば、今度は日本が難癖を付けていると叩かれる事になるからだ。
「貴女方に倣い、私なりに手を差し伸べてみたのですが……、何かご不快な点でもありましたでしょうか?」
「―――――ッ」
返された皮肉に反論も出来ない。
何か言わなければと思う。ここでの沈黙は得にはならない。そう分かっていた。
だが、神楽耶も桐原達も自らが切り出したカードを切っ掛けに、くるくるとオセロの駒のように大きく、簡単に移り変わる状況の変移を整理するのに必死で、悠長に皮肉を返す余裕も非難出来る余地を探す思考力も彼女達にはなかった。
「では、日本の要求に関してはこの通りに。続いて、ブリタニアからも要求を幾ばくか述べさせて頂きます」
答えられない沈黙を肯定と解釈し、シュナイゼルが締め括る。
あっさりと締め括られる。
あんなに緊張と不安に苛まれて臨んだ交渉の場が。日本の行く末が掛かっていると覚悟を決めて挑んだ勝負の場が。少しでも勝つ見込みを上げる為にと必死になって山積みの資料を頭に叩き込み、寝るのも忘れて対応策を考えた交渉が。
一言も喋る事なく。
(いいえ、まだ終わりではありません……!)
何も出来ないまま終わってしまった無力感に項垂れそうになるのを首を振る事で押し留める。
何も出来なくはあったが日本の要求自体はちゃんと通ったのだ。なのに折れてはシュナイゼルの思う壺だと己を奮い起たせて、ブリタニアが要求を切り出してくるのに備える。
場の流れは、悔しいながらブリタニアに向いていた。
厳しい要求を突き付けられても余裕綽々だったシュナイゼルに対し、神楽耶達は予想外の答えに上手く対応出来なかったのだから無理からぬ事ではある。
とはいえ、このタイミングで流れを完全に持っていかれたのは不味い。
何しろ、シュナイゼルだ。一連のやり取りに思惑があるのなら、このタイミングで流れを掴んだのは勢いに乗じて、無理難題を通そうと企んでいるからだろうと想像出来る。
ならば、阻止しなくては。
幸い、流れはともかく立場はまだ日本が優勢のままだ。ブリタニアも停戦を翻意されたくはないだろうから、あまりに無理な要求は突っぱねる事が出来る筈。
後は、シュナイゼルの舌先に丸め込まれて要求を丸飲みしないよう、しっかりと頭を働かせて拒否の意志を強く持てれば。
そう先の展開を予測し、対応の為に気持ちと身体を引き締め直し、神楽耶は身構えた。
しかし、それでも、やはり甘かったのだと直ぐに神楽耶は思い知らされる事になる。
いざとなれば拒否すれば良いなんて、そんな都合の良い考え自体が既に油断であり、甘さだったのだと。
何しろ、この数瞬後にシュナイゼルの口より告げられた要求は。
神楽耶にとっては死より選び難い選択だったのだから。
告げられて、暫く。
言葉を発する者は誰もいなかった。
ブリタニア側はシュナイゼルの口より発せられた言葉に驚きつつも口を出す場面ではないと口を閉ざし、日本側は、一見的外れに思えながらも的確な要求に驚愕と迂闊に黙り込んでいた。
そして、シュナイゼルは。
突き付けられた要求の意図をしっかりと理解し、もはや憚る事なく悔しさに口を噛み締め、俯く日本の幼姫に楽しそうに微笑んでいる。
その彼が口頭で告げた要求は一言。
実にシンプルで、実に簡単なもの。
要求内容は。
「黒の騎士団総司令、ゼロの国外追放」
(やられた…………ッ!!)
俯き、身体を震わせる神楽耶の胸中に、先程とは比べものにならない程の後悔が押し寄せてくる。
ここにきて、神楽耶は自分が完全に読み違えていた事を理解する。
シュナイゼルは初めから日本との停戦がどうなろうとどうでもよかったのだ。
だから、日本がどのような要求をしてこようが興味を示さず、独立を果たす事になろうとも構いもしなかったのだろう。むしろ、日本が躍起になればなる程、シュナイゼルにとっては好都合だったに違いない。
全ては、ここに至る為の布石。逆転の一手を最大限に放つ為の罠。
停戦を申し込んだのも交渉の場を整えたのも、全て今の要求を日本政府に突き付けられる機会と舞台を用意する為だったのだと神楽耶は気付く。
しかし、気付くには遅すぎた。
この状況で、この条件。至った時点で、もう退路はない。
つまり、
「……………ッ」
そこに考えが至ると同時に一際身体が震えた。
目元が怪しくなり、必死に力を込めて不様を晒さないよう努力しつつ、活路を探す。
だが、いくら考えても道はなかった。
そう。完全に詰みなのだ。少なくとも、神楽耶にとっては。
例えば、シュナイゼルの要求を飲むとしよう。
そうすると、要求に従い、日本政府は今まで日本の為に戦ってきてくれたゼロを日本から追放しなくてはならなくなる。
それは、手酷い裏切りとなろう。ゼロからの印象は最悪となり、関係は修復不可能な程険悪となる。
それだけではないだろう。
今のゼロは、誰がどう見ても日本の救世主である。
登場以来、世界を熱狂させてきた彼の奇跡とカリスマはあの夜を越えて更に膨れ上がり、その恩恵を一番に授かった日本人の中には信頼を通り越して信仰心を抱く者すら現れる程にまで至っている。
そんな彼を日本政府が追い出したと民衆が知れば、どうなるか。
そして、そこに態勢を整えたブリタニアが攻めてくれば。
日本を追い出され、手足と足場を失えば、いかにゼロであろうと少しは動きが鈍る。その間に、ゼロの牽制から解放されたシュナイゼルがブリタニアを立て直す事が出来れば、もはや停戦など気にする必要はなくなる。
守護者を失い、政府が支持を失った小国と、万全の態勢を取り戻した大国。
ぶつかった時の結果など、目に見えていよう。
では、要求を拒否すれば良いのか?
飲んだ場合を考えれば、そうした方が良いように思えるが、こちらも悪手である。
おそらく、日本政府が要求を拒否した場合、シュナイゼルは直ぐに停戦を取り下げ、日本に全面戦争を仕掛けてくるだろう。
勿論、そうなった場合の対策はゼロによって講じられている。いるが、それはこの停戦交渉が始まる前までの話。始まってしまった今、その対策にも不安が残る。
何故なら、日本人の多くは既に停戦が成されると思ってしまっているからだ。一時であろうと、戦いが終わり国と平和が戻ってくると思っている。
なのに、停戦に成らず、更には即開戦となれば、民衆はその落差に戸惑い、動揺するだろう。そこに、本来であればかなり有利な条件で停戦と独立が果たせていたという情報が漏れれば、最悪、ゼロがいようと日本は割れる。場合によっては、ゼロがその原因となってしまう。
少なくとも、開戦の初動は確実に鈍るだろう。
(その為に……)
胸を締め付ける感情に揺れる瞳が、シュナイゼルの奥、壁際に並ぶラウンズの姿を捉えた。
神楽耶の読み通り、ラウンズ、――もといビスマルクを護衛に配置したのは、それに備えての事もあった。
確実視される開戦直後の初動の遅れ。それを最大限活かす為に、シュナイゼルはあらかじめ自分とビスマルクという知と武の最強カードを日本に集めておいたのだ。
僅かに上げた顔が、再び下を向いた。
駄目だった。やはり、どれだけ考えても行き着く先は同じ。むしろ、考えれば考える程、どん詰まりに嵌まっていく。
どちらを選ぼうが国は割れ、遠くない未来に最悪の状態でブリタニアとの戦いを強いられる。なのに、どちらかを選ばなくてはならないその現実に、神楽耶の心は軋み悲鳴を上げそうになる。
(まだ………、まだ、何か………)
打開策が、と神楽耶は瞳に弱々しい光を灯しながら、頭を必死に回転させる。
国防の重要性を訴え、ゼロの追放を取り下げさせるか。いや、黒の騎士団の解体ならまだしも、一時的に戦争から解放される日本でそれは弱い。なら、日本の復興の為にゼロが必要だと、いや、ブリタニアにとってゼロはあくまでテロリスト、建前とはいえ両国の国交回復を謳った以上、危険なテロリストに対する措置と言われれば反論出来ない。
では、譲歩を引き出すか、……出来ない。処刑ではなく追放の時点で既に譲歩が為されているし、ブリタニアの要求がこの一点である以上、他の要求で擦り合わせる事も不可能だ。
それでもこれ以上を望むなら、それはもう譲歩ではなく『懇願』となる。
だけど、なら、では、どうすれば良い?
どうすれば。
どうすれば―――。
どうすれば――――――。
(ゼロ様………)
遂に心が折れかけ、弱った意志が拠り所を求める。
俯いたままの顔が、僅かに動き、光の消えた瞳が後ろに控えている筈の男を探し求めるように動く。
しかし、そんな神楽耶の様子に気付きつつも、ゼロは無言を貫いている。
それを見たシュナイゼルが、訳知り顔で小さく笑った。
これもまた、狙い通りだった。
実のところ、この状況に陥っても日本を切り捨てさえすれば、ゼロには十分に勝ちの目があった。
弱り、縋り付いてきた幼姫に都合の良い嘘を吹き込み、捨て駒として使い潰すつもりで日本をブリタニアにぶつければ良いのだ。それだけで再起の時間は十分に稼げる。失うのは未来のない弱小国が一つだけ。損得で言っても、実に合理的な判断だと言えるだろう。
もし、自分が彼の立場にいれば、間違いなくそう決断していたと断言出来た。
でも、彼には出来ない。
たとえ、自らが窮地に陥ろうとも、自分一人が助かりたいが為に他者の信頼に付け込むなど。
(君の矜持が許さない。違うかな、ゼロ?)
いっそ信頼すら窺えそうな声音で内心で語り掛け、シュナイゼルはもう一度小さく笑った。
(………ここまで、かの)
暫定代表たる神楽耶の隣で、交渉の成り行きを見定めていた桐原は、その光景にこっそりと諦めの混じった溜め息を溢した。
もう、逆転の目はない。あったとしても、それを通せるだけの気力はもう神楽耶にはないだろう。
今の神楽耶は、桐原から見ても可哀想なくらい取り乱している。これで交渉を続けるのは誰がどう見ても無理だ。
そこで、桐原は改めてシュナイゼルと神楽耶、交渉の中心にて言葉を交わし合った二人の様子を見比べた。
うっすらと微笑み、全くの余裕を見せるシュナイゼルと、項垂れ憔悴し切った神楽耶の様子は、そのままブリタニアと日本の力関係を表しているように思えた。
尤も、このような結果になったのは神楽耶ばかりが悪い訳ではない。
この円卓の上でなら戦えると思ったのは、桐原を含め皆同じだった。神楽耶の胆力と主君としての器量は申し分なかったし、桐原達も腹の探り合いや相手を出し抜く事に掛けては自信があった。
だが、こんな結果に終わり、なのに、何故か妙に納得している自分がいる事に桐原は内心首を傾げ、――納得する。
考えれば、当たり前だった。自分が絶対に敵に回したくないと思っている人物と同格の相手を敵に回したのだ。そう思えば、この結末にも納得がいく。
(潮時じゃの)
何であれ、得るべきものは得たのだ。なら、後はそれをきちんと持って返るだけ。
ちらり、とゼロの姿を横目に見る。相変わらず、何を考えているのか分からない黒く光る仮面を一瞬瞳に映し、――息を吐くと共に閉じる。
(…………悪く思うな)
言い訳とも覚悟とも付かない言葉を胸中に落とし、桐原は目を開けて、口を開いた。
「ここまでじゃよ、神楽耶」
「桐、原……?」
唐突にそんな言葉を投げ掛けられた神楽耶が、俯いていた顔を上げる。
数分前までは、年に似合わぬ威厳を身に纏って前を向いていた顔は疲弊を色濃く浮かび上がらせ、痛みに堪えるように最後の一線を死守する表情は、年よりも幼い少女がただ泣くのを堪えているようだった。
「もはや、全てを選ぶ事は出来ぬ。ならば、
今の今まで意見を控えていた桐原の敗北宣言にも似た言葉に神楽耶は目を見開く。
桐原の言う責務とは日本を取り戻す事。戦いを終わらせ、少しでも平和を日本人達に返す事。
その為に仕方がないのなら、
「桐原、お前は―――」
「うむ、その通りよな」
桐原の言わんとしている事に気付き、怒りの火を目に灯して、堪らず神楽耶は鋭く叱責しかけるも、それを遮るように桐原以外の六家の老人が声を上げる。
「停戦が締結し、日本も返って来る。なら、多少の問題は些事であろうよ」
「うむ。確かに非難はあるだろうが、国を取り戻す為であるのなら、英雄殿も民衆も分かってくれるだろうよ」
「お主には酷かもしれんがの。我々には国を預かる者として民と国土を守る使命がある。その為には、少しでも利益と時間を持ち帰らねばならん」
桐原の発言を切っ掛けに、堰を切ったように他家の代表達がそんな言葉を吐き出していく。
「本気で………、本気で言っているのか、お前達は………?」
愕然とした気持ちになり、先程まで複雑ながらも頼もしく思っていた老人達を見回す。
確かに停戦と賠償金、人質と牽制の手段。それ等を手に入れ、態勢を整え他国に支援を求める時間がある選択と、最強の駒はあるがそれ以外は何も得られない選択。
日本の立場に立てば、どちらが日本の為になり、より可能性のある選択であるかは明白だった。
だが、しかし―――……。
「我々だけでは此処まで来られなかった。なのに―――」
「では、他にどんな選択があると?」
「お主とて何も失わぬまま、日本を取り戻せると思っていた訳ではあるまい。必要な犠牲よ」
「それに八年前の敗北は、急すぎる宣戦布告と直後の混乱によるもの。英雄殿がいなければ敗北は必至と決めつけるのは、これまで戦ってきた者達を軽視しているように思えるが?」
まるで責めるような物言いに、神楽耶は押し黙ってしまう。
綺麗事をちりばめ、仕方がないと自分達を誤魔化している醜い言葉だったが、神楽耶には反論出来なかった。
他家の者達が言うように、他に選択肢はないからだ。ないのなら、よりマシな選択肢を選ばなければならない。
そう言った意味では老人達の言い分は正しい。公人、まして上に立つ者なら、時として非情な決断をせねばならぬ時があり、汚名を被らないといけない時もある。
神楽耶も、その覚悟がなかったのかと問われれば、あると返しただろう。
けれど。
けれど………。
「無理なら下がれ、神楽耶」
埒が明かないと感じたのか。それとも、今の神楽耶には酷だと思ったのか。
口火を切ってからは、事の推移を見守るだけだった桐原が見兼ねたようにそう口にした。
「所詮は暫定の代表。無理をする理由もあるまい。後の事は儂等に任せると良い。良いようにしておこう」
「………それを信じろと?」
「そう思うのなら、覚悟を決めるしかあるまい」
言われ、神楽耶は口を噤む。
ここで逃げ出すのは簡単だった。代表の座を降りれば、苦しい決断もする必要はなくなる。
しかし、そうすれば、残った他家の者達が何をするか。今の彼等であれば、もしシュナイゼルがゼロに関して追加の条件を出してきたとしても躊躇いなく頷く。そんな予感があった。
それを防ぐ為には、此処に居続けなければならなかった。
覚悟を、決めなければならなかった。
「答えは決まりましたかな?」
問うてきた穏やかな声に顔を前に向ければ、先程までと変わらない笑みがそこにあった。
腹立たしいくらいに余裕な微笑み。遂に崩す事の出来なかったその微笑みを神楽耶はせめて力の限りに睨み付けようとして、―――出来ない自分の弱さに唇を噛む。
(きっと………)
結局、子供でしかなかった自身の弱さを恨み、その弱さ故に人としての矜持を犯す自分の愚かさを嫌悪する。
(私は地獄に落ちるでしょうね)
いっそ、そうなって欲しい。
そう思う程に無力な自分を呪いながら、神楽耶は噛み切れそうな程に強く結んでいた唇を緩め―――
――――一言、細い声で答えを口にした。
以て、交渉は終わりを告げた。
正式な調印や捕虜交換など細かい部分については、後日通信にて会談を行う事を取り決め、日本とブリタニアの停戦は此処に無事に成された。
結果だけを見れば、当初の有利と不利のまま立場は変わらず、日本は世界に誇れる偉業を持って凱旋せんとしてると言えるだろう。
だが、俯き逃げるように足早にこの場を去ろうとする日本の代表と、笑顔を浮かべそれを見送るブリタニアの代表の姿を見れば、どちらが真の勝者かは一目瞭然だった。
「中々楽しかったよ、ゼロ」
心配そうに様子を伺う紅毛の護衛を傍らに、幼姫を先頭にホールを後にした日本の代表と護衛に続く形で、この場を去ろうとしていたゼロを呼び止める。
「次は、こんな
呼び掛けに答えもせず、振り返りもしない。
けれど、そんな態度に気分を害するでもなく、足を止めていたゼロが最後に部屋から出て行くのを見送ると、疲労を滲ませた補佐官の労りの声が耳に入ってきた。
「お疲れ様でした、殿下」
日本の姫に負けず劣らず、疲弊した様子を見せるカノンにシュナイゼルは苦笑を漏らした。
「君の方こそね。……大分、気を揉ませてしまったかな?」
「ええ、それはもう」
憚る事なく、盛大に溜め息を吐くカノン。見れば、此方に歩み寄って来るラウンズ達も同意見だという風に頷いていた。
「日本の要求を全て受け入れた時は、正直、何を血迷ったのかと思いましたよ」
「それは悪かったね。でも、ゼロを追い詰めるにはあれくらいはしないと駄目だと思ってね」
僅かでも隙を作れば、ゼロの事だ。先のチェスのように、ひらりと逃げてしまうだろう。
だから、ここまでする必要があったと困ったように語れば、それ以上に困った顔をしながら、カノンは再びの溜め息と共に肩を落とした。
「まぁ、でも、良かったじゃないですか」
そこに会話を聞きながら歩み寄って来たジノが、暢気に笑顔で言葉を挟んできた。
「結果として、全てシュナイゼル殿下の思惑通りにいったんでしょ?」
ポンポン、と気安くカノンの肩を叩きながらそう言うと、そうですね、とモニカが同調した。
「これで日本はゼロの庇護を失い、ゼロは手足をもがれ足場を失いました。払った対価は大きいですが、将来的に回収が見込めるなら、そう悲観する事はないかと」
商売道具を失くした勝負師と、糸の切れた操り人形。それから元手を回収するなど、赤子の手を捻るより簡単だ。
これで、ブリタニアの転落も収まるだろう。
見事な手際で逆転劇を演じたシュナイゼルにモニカは感嘆を漏らし、ジノは近く待ち受けるだろう日本との戦いに高揚を露にし、カノンも疲れたながらも安堵の表情を僅かに覗かせた。
しかし、当のシュナイゼルはいうと、そんなやり取りに微笑みを張り付けると、意味深に黙ってしまう。
「………何か、気になる事でも?」
それに気付いたビスマルクが声を掛けるも、シュナイゼルは特に何かを言うでもなく、静かに近くに置いたままにしてあったチェス盤に目を落とした。
この停戦交渉が、ゼロの自分に当てた招待状だという事は分かっていた。
あらゆる状況を想定し、常に先手を打ってブリタニアを追い落としてきたゼロが、この停戦交渉に関しては何も手を打って来なかった。
おそらくゼロはこうすれば、自分が停戦に乗ってくると理解しており、だから、シュナイゼルもまた理解した上で誘いに乗った訳だが、だからこそ、疑問が残る。
果たして、
勿論、シュナイゼルはこの停戦の誘いに乗り、その上でゼロの思惑を上回れるよう立ち回った訳だから、素直にゼロがシュナイゼルを読み切れなかっただけかもしれない。
しれないが、先の余興で自分の思惑を読み切った上で、自分の望む形で勝負を終わらせたゼロの打ち回しを思えば、何かしら思惑が潜んでいる可能性もあった。
(尤も、それならそれで楽しませて貰うだけだがね)
実際、どちらが上回ったか分からないが、分からないこそ楽しめるというもの。むしろ、自分と対等の打ち手であるなら、簡単に先を読ませないくらいでないとつまらない。
直接対峙して、ゼロの実力と危険性をこの目と頭できちんと認識出来ただけでもこの交渉の結果としては上々であると言えよう。
そう締め括ったシュナイゼルは、先程のチェスのやり取りを思い出し、チェス盤を覗く目を細めた。
ゼロの攻め手、応手、打ち回し、交わした会話。その一つ一つを、まるでお気に入りの本を読むかのように思い返しつつ思うのは、ゼロの気質。
巧みな打ち筋で誤魔化していたが、最後の打ち回しの為の布石を除外し、ゼロの打ち筋を注意深く観察すれば、やはり彼は攻撃を好む傾向にあるのが分かる。
守りに入った時の手と攻めに入った時の手を比較すれば攻め手の方が鋭さを感じるし、攻めにチャンスを見出だす速度は他に比べても速かったし、何より、多少守りが崩れても攻めようとする姿勢は昔のまま変わってなくて――――――――
「―――――――。」
「殿下?」
「今――――――」
今、誰を思った?
今、誰を重ねた?
今、このチェス盤の中に誰を見つけた?
漂白された思考に、ぽつりぽつりと疑問が浮かぶ。
流れるように過ぎた己の思考から答えを掘り出すべく、下手に意識せず、シュナイゼルは先程と同じ思考速度で盤上に刻まれたゼロの軌跡を辿る。
万遍なく意識を散らし、眺めるように、ぼんやりと辿る中、頭の片隅を過ったのは、――――黒の、髪。
「まさか――――、まさか―――――」
頭に浮かんだ可能性にまさかと溢し、あり得なさにまさかと溢す。
あり得ないだろう。いくら才覚があろうと、あの時の彼はまだまだ子供で。象徴とも言える皇族で。権力機構の中枢にいて。
何の庇護もなく、敵の、更には敗戦国の中にいて生きていられる筈はない。
合理的に考えても、生き抜くなんて不可能だ。
なのに、なのに―――。
自分と同等の才能。孤高にあって人を惹き付けるカリスマ性。皇族に対する理解力。不自然なまでに持っているブリタニア内部の情報。特区への参加を望んだユーフェミア。枢木スザクへの執心。
たった一人で、強大な存在に立ち向かえる意志。
ブリタニア皇帝に比肩する、圧倒的な存在感。
エリア11、――――日本。
「まさか…………」
ぶるり、と寒気を帯びたようにシュナイゼルの身体が大きく震える。
それが如何なる感情によるものなのか。
今のシュナイゼルには理解出来なかった。
おろおろ。あわあわ。
アヴァロン格納庫に待機していた二機の小型挺の内の片方に神楽耶を護衛しながら乗り込んでから、カレンはずっとそんな感じで狼狽えていた。
目の前にいるのは、交渉が終わってから一言も声を発さず黙り込んだままの神楽耶。今も俯き、表情は伺えないが、時折震える身体と爪が食い込む程に握りしめられた拳から神楽耶の心情は察する事が出来た。
無理もない、とカレンは思う。
神楽耶にとっても、カレンにとってもゼロという存在は特別だ。恩人なんて言葉では片付かない。それこそ太陽、と言っても恥ずかしくないくらいに特別な存在である。
だから、今の神楽耶の気持ちが痛いくらいに分かってしまう。裏切りに等しい言葉を吐いてしまった神楽耶は、きっと心が引き裂かれる程の後悔と苦悩に襲われているに違いない。
そう分かっていた。分かっていたから、カレンは迂闊に声を掛けられなかった。
今、慰めを口にしても余計に神楽耶を傷付けてしまう。けれど、ただ黙って苦しみ続ける神楽耶を見ている事もカレンには出来なくて。
何か出来る事はないかと頭を捻るも特に何も思い浮かばず。
結果、彼女は神楽耶の横で右往左往する羽目になっていた。
そんなカレンの耳にドアが開く音が聞こえた。反射的にそちらに顔を向け―――、思わず立ち上がる。
視線の先、いたのはゼロと桐原だった。
「ゼロ!」
「ッ」
ビクリ、と神楽耶の身体が大きく跳ねた。
それに気付いたカレンは心配そうに神楽耶を見つめ、同じような視線をゼロにも向ける。
神楽耶も心配だったが、ゼロも心配だった。
何しろ、共闘関係にあった六家に、延いては日本に裏切られたようなものなのだ。散々、日本の為に戦ってきた末でのこの仕打ち。ゼロが、今、どう思っているのか。心配と不安に駆られながら、おずおずと声を掛ける。
「あの、ゼロ………」
「カレンか。ご苦労だった」
「ふぇ? あ、はい。………って、そうじゃなくて、ですね……」
怒りも苦悩も感じない、あまりに普通通りの声に驚き、無意識に返事するも、すぐにそうじゃないと首を振る。
「あのですね……、えーと、……その………」
もごもごと口に動かし、きょろきょろと視線を彷徨わせ、あからさまに挙動不審なカレン。
暫くそのまま。そして、意を決したのか、ずんずんと数歩ゼロに詰め寄り口を開く。
「あのッ、ね! その、私、たとえ、貴方が日本を追い出されても………、い、い、いいっ、しょ―――」
「ゼロ様ッ!!」
言えたのは、そこまでだった。
カレンの言葉を遮り、身体を押し退けるように小さな身体がゼロの細い身体を直撃する。
「ッ、神楽耶様? 一体、どうし―――」
「ごめんなさい」
いきなり抱き付いてきた神楽耶に戸惑い、声を掛けようとするが、それより早く謝罪の言葉が返ってくる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…………! 許して下さいとは言いません、私はどうなっても構いません、如何なる罰も受けます! ですから、ですから、どうかお願いします。日本だけは、どうか日本だけは…………ッ」
助けて、という言葉が嗚咽に飲まれて消えていく。
驚いていたゼロも、何かを言い掛けていたカレンも言葉を失くし、神楽耶のごめんなさいという言葉と嗚咽だけがその場を支配する。
どれだけ、そうしていただろうか。
突然の謝罪と涙に動揺し、らしくなく思考を止めてしまっていたゼロは、そこで意識を回復すると油の切れたゼンマイ人形のようにあらぬ方に首を動かした。
「まさか………、いえ、どうにも様子がおかしいとは思ってましたが……、桐原公」
首を動かした先、そこで一連の様子をニヤニヤと眺めていた古狸の様子から全てを察したのか。ゼロは仮面の下で視線を鋭くする。
「
その言葉を聞いた瞬間、神楽耶とカレンの思考は停止した。
「仕方なかろう。お主と同じくらい鋭い男が相手じゃ。神楽耶の様子がおかしければ、そこから気付かれていたかもしれぬ」
一理ある言い分に、む、と唸るゼロに桐原は、カカッ、と一つ嗤うと一転して真剣な顔で問い掛けた。
「それで? 奴は気付いたと思うか?」
「………半々、ですね。何かあるとは思っているでしょうが
「成程、の。では、ブリタニアが攻めてくる前に間に合いそうじゃの。超合集国とやらは」
「まだ課題は残ってますが。尤も、その為にこうなるよう仕向けた訳ですが………」
「ちょ、ちょちょ、ちょっと待って待って……!」
ぽかんとしている少女二人に構わず、仲違いの様子も見せずに話を進めていく男二人に、思考停止から回復したカレンがストップを掛ける。
「あの、その……、意味が分からないんですけど」
「いや、それは、だな………」
「ゼロ様?」
歯切れ悪く言い淀むゼロに疑問を感じ、神楽耶も懐から未だ涙に濡れる瞳でゼロを見上げる。
すると、ますます狼狽する気配が仮面を通して伝わってきた。
それでも、そのまま、じっ、と二人してゼロの仮面に視線を突き立てていると遂に観念したのか、ふぅ、と小さく息を吐き出す音と共に、ゼロの左手が仮面を取り去った。
「悲しませてしまい、申し訳ありません」
膝が折られ、目線が近付く。いつもの強い光を宿す瞳ではない、優しげにも見える申し訳なさそうな瞳に至近から覗き込まれ、神楽耶は一瞬全ての感情を忘れて息を詰めた。
「ですが、ご心配なさらずに。貴女が思うような事態は起こりません。何故なら、この結末はシュナイゼルではなく、
「え………?」
「えっ、と……? ごめん、やっぱり分からない」
白状するルルーシュの言葉の意味を理解出来ず、神楽耶と二人、カレンは小首を傾げると、桐原が愉快とばかりに話に入ってきた。
「言葉の通りよ。その男はな、この交渉の結末がこうなると分かっておった。……より正確に言うなら、こうなるよう仕向けたのじゃ。世界丸ごと、自分の筋書き通りに動かしてな」
くっくっ、と嗤い、愉しそうに種明かしをする桐原の言葉に二人は目を見開き、揃ってすまなそうな顔をしているルルーシュの方に視線を戻した。
「ごめん、それでも分からない。その、ルルー、……ゼロの筋書き通りなら、もっとマシな――」
展開があったんじゃない、とカレンが言い切る前にルルーシュが首を横に振る。
「これは他の国にも言える事だがな。いくら弱体化してもエリア化で痩せた国や戦線の維持で国力が逼迫している国が単独でブリタニアを打ち破るのは無理がある。それでも独力で国を取り戻そうとするなら、相手を交渉のテーブルに引き摺り込んでもぎ取るしかない」
だがしかし、そこで相手をする事になるのはシュナイゼル。
戦略や軍略ならともかく、政略や交渉となるとやはり宰相として長く国政に携わってきたシュナイゼルに一日の長がある。
まして、席に着くのはゼロではない。神楽耶には悪いがまともに口でやりあって、日本を取り戻せる相手ではないだろう。
「
だから、東京を取り戻し各地のレジスタンスを取り込みながらも大規模な戦闘行動を控える事で日本そのものへの警戒を薄れさせ、暗躍を仄めかせる事でシュナイゼルの興味を引きつつ、あくまで排斥すべきはゼロと思わせる事でブリタニアの交渉の焦点を日本ではなくゼロへと誘導したのだ。
そうすれば、意外と遊び心の強いシュナイゼルの事。此方の実力を味わう為にチェスあたりで勝負を仕掛けてこようとする事は容易に想像が付く。
そこで、抜け目の無さを披露すれば、ゼロへの関心と相まって確実に追い詰める為に、他の全てを二の次にして退路を断とうとしてくるだろう。
それで、条件はクリアだ。
本来なら、それでも不確定要素は残るが、シュナイゼルは必要と判断すれば首都すら躊躇いなく消し去れるくらい、徹底した合理的思考の持ち主。そこに
なら………。
「日本の要求は全て通る。日本は返ってくる」
それでチェックだ、と何でもない事のように語るルルーシュに驚きと混乱と困惑に言葉を失うカレンと神楽耶。
「じゃ、じゃあ…………」
唇を戦慄かせ、ゆっくりと桐原の方へ顔を向ける神楽耶。その様子から聞きたい事を理解したのだろう。ひっぱたきたくなるくらい底意地の悪い笑みを浮かべて、口を開いた。
「他の
生命が幾つあっても足りん、と肩を竦める桐原。そこから、また再び、ゆっくりとルルーシュの方を見れば、申し訳ありません、と頭を下げられ。
「桐原公には事前に話を付けてありました。なので、今回の件で裏切られたと思う事もなければ、日本と手を切るつもりも私にはありませんよ」
だから、どうかご安心を、と笑顔で告げられた瞬間。
神楽耶は、ふらり、と後ろに倒れそうになり、慌ててカレンが抱き留めた。
「神楽耶様!?」
心配し、名前を呼んでくるカレンの腕の中で、神楽耶は貧血でも起こしたように頭を抱え、首を小さく振っている。
でも、直ぐに立ち直ると、交渉の始まりの時のように力強い瞳で、ニヤニヤと嗤いながら自分を見ている桐原を睨んだ。
先程のゼロの言葉を聞くに、おそらく桐原経由で自分にも話が通る筈だったのだろう。そうでなければ、交渉の最中に神楽耶が意図しない選択をする可能性もあった。そのリスクを避けるなら、事前に神楽耶にも話を通しておかないと可笑しい。
「こ、の…………ッ、狸!!」
「カカカッ! 良い経験になったじゃろう?」
怒号を浴びせても少しも悪びれない。その態度に、更なる怒りを募らせ、カレンの腕の中から抜け出すと桐原に詰め寄った。
怒りのまま、文句と小言を口にする神楽耶と、飄々とした態度で受け流していく桐原。
そこに先程までの神楽耶はなく。少々、複雑ながらも元気になった姿にカレンは安堵の息を溢すと、はたと何かに気付いたようにルルーシュを振り返った。
「だけど、良いの? その……、日本とゼロの関係が大丈夫なのは分かったけど、アンタは結局追い出されちゃう訳でしょ? そうなったら黒の騎士団は………」
日本を取り巻く状況はこれで改善されるだろうが、ゼロはそうではない。このままでは、折角築いた日本での足場を失う事になるし、最悪、また孤立無援に逆戻りになる可能性もある。
それを心配したカレンだったが、やはりと言うべきか、当人はまるで気にした様子も見せずに問題ないと言い切った。
「プランは考えてある。むしろ、ここから先は日本から出た方がやりやすいからな。その為にも、ブリタニアには是非ともゼロを追い出して貰いたかった」
今の日本のゼロへの依存度を考えると、ゼロが自分の意志で日本を出ると悪感情から要らぬ混乱が生まれる可能性もある。だから、ブリタニアに国外追放を要求させる事で、ゼロは自分で出ていったのではなく、出て行かざるを得なくなったとなるよう仕向けたのだ。
「代わりに、要求を受け入れた日本政府に少しは非難が集まるだろうが………、まあ、問題ない。対策は出来ている」
全て計画通り。
日本は解放され、ゼロは世界に飛び出す事が出来た。
失ったものは、何もない。
自分で筋書きを描いたとはいえ、ここまで上手く事が運んだのは、やはり。
「
かつてのあの時と同じように。
彼は完璧であるが故に、完璧なまでにルルーシュの思考から外れる事はなかった。
「感謝します、………兄上」
神楽耶「ゼロ様に純情を弄ばれてしまいました。これは責任を取って妻にして貰いませんと(チラッチラッ)」
才能を持て余した兄弟の遊び。に付き合わされた今回の被害者。しかし、流石は神楽耶様、抜け目なし。
あーーー、終わったーーー!
分かってはいたけど、シュナイゼル抜きにしてもこの交渉編は難しかったです。
小難しい話を固い文章で書くから、もう何が何やら。正直、かなり読みづらいというか、たるいかもしれなかったですが、今の作者ではこれが精一杯でした。
全く誰だよ。大して文章力もないのにこんな面倒くさい話にしたのは…………
私だよ
そして、次からは日本編の畳み、……ふふふ、どうやら目を背けていた事実と向き合う時が来たようだぜ(汗)