何とか納得出来るくらいには形になったので、投稿します。
※今話は、ナナリーに厳しいところがありますので、彼女のファンの方はお気をつけ下さい。
薄いベージュのカーディガンを肩に羽織り、気だるい身体をベッドの上で起こしたナナリーは、閉ざした瞳で両手の中で掌を温めるように収まっているマグカップを見つめた。
立ち上る湯気が香りを運び、甘い香りが鼻を擽る。ホットミルクである。
とはいえ、別に飲みたかった訳ではない。食欲がないと告げたら、じゃあこれを飲めと無理矢理押し付けられたのだ。
「飲まないのか? 蜂蜜をたっぷりと入れた、私お手製だ。甘くて飲みやすいぞ?」
問い掛けに、無言で首だけを横に振る。
聞いてきたのは、いらないという自分の意見を無視してホットミルクを押し付けてきた張本人。
備え付けのソファにどかりと座り、肉付きの良い腰から伸びた足を組んだ女性、――C.C.は、ナナリーの無言の意思表示に機嫌を損ねるでもなく、そうか、とだけ言うと、ガラステーブルの上に置いたピザに意識を戻した。
……正直に言えば、帰って欲しい。
自分のプライベート空間に他人同然の人間が居座っている事もそうだが、弱っている身体にチーズとトマトソースの濃厚な匂いは刺激が強過ぎて、嗅いでいるだけで気分が悪くなってくる。
それでなくても、今は誰にも会いたくないのに。
嫌に思う状況が重なった中での沈黙は、ナナリーにとって苦痛以外の何物でもなかった。
「あの……、C.C.さんは、どうして此処に………?」
遂に堪えきれなくなり、ナナリーはC.C.に訊ねる。
もし用がないなら、何処か別の場所で食べて欲しい。
そんな思いが言葉の端々に滲んでいたが、魔女は取り合わない。
素知らぬ顔でピザを頬張ると、C.C.は額面通りに質問に答えた。
「特に何か用があって来た訳じゃない。
アイツ。そうC.C.が呼んだのを聞いた瞬間、ナナリーの心にさざ波が立った。
素っ気ない呼び方であろう。でも、そのぞんざいさが逆に親しみを感じさせて………。
そう思った瞬間、理解した。―――させられた。
この人は、いるのだ。
あの夜、自分の手をすり抜けて、遠くへ行ってしまったあの人の側に。
――――自分を差し置いて。
「……貴女は、……貴女も知っていたんですね、お兄様の事……」
言葉に刺が交じる。隠し切れない妬心に声が硬くなるのが分かるが止まらない。――止める気も、ない。
「だったら?」
悪びれない、淡々とした一声。それに思わず、口を開きかけ、――閉じる。
言いたい事がない訳ではない。
今もって兄の側にいるという事は、兄がゼロである事を容認しているという事だ。そんな女性に対して、思う事がないなんて事はない。
だが、それを口にする気はナナリーにはなかった。
兄の話をすれば、きっと自分は取り乱すと分かっていたからだ。そんな醜態を、殆ど会ったばかりの人に晒せる筈もない。――晒したくもない。
それに何より、早く一人になりたかった。
だから、ナナリーは口を閉ざした。余計な事を口をせず、会話もなく黙っていれば、そのうち飽きて出ていくだろうと、そう思って。
「知ってるさ、当然な」
しかし、そんなナナリーであっても、次にC.C.が口にした言葉は無視出来なかった。
「何せ、アイツがゼロになる切っ掛けを作ったのは私なんだからな」
「え?」
弾かれたように、顔が持ち上がる。
何を言ったのか分からない。そう言いたげに盲目の視線を向けてくる少女に、魔女は艶然と微笑んだ。
「分からないか? つまり、お前の隣から兄を奪ったのは、私だと言ってるんだ」
偽悪的に、得意げに。罪の告白にしては、軽薄に。
いっそ悪意すら窺えそうなC.C.の言葉に、ナナリーの全身が総毛立った。
「あ――――――、ッ」
暗い視界が真っ赤に染まる。溢れ出た激情のままに、口汚い言葉を吐き出しそうになったナナリーは、そんな自分に気付くと慌てて顔を背けた。
「どうして……、一体、お兄様に何をしたんですか」
「さて、な」
感情が膨れ上がらぬよう、気持ちを落ち着かせつつナナリーは問うが、相手はそんな事に構いもしない。
お構い無しに挑発して神経を逆撫でてくる魔女に、唇を噛んで感情の波が過ぎ去るのを待つと、ナナリーは改めて口を開いた。
「………貴女は。貴女は、一体、何なんですか」
惚ける事は許さない。そう言いたげな口調でナナリーは問い詰める。
「一体、お兄様をどうしたいんですか」
自分と兄の間に割って入って、兄を唆して、ゼロにして。
ナナリーには、C.C.が優しい兄を狂わせる為にやって来た死神に思えてならなかった。
「どうしたい、か………」
そこで、C.C.は視線を虚空に彷徨わせて、目を細めた。
ナナリーが言う、どうしたい、を捨て去ってから、まだどれ程の月日も経っていない。情と希求の狭間で煩悶しつつも抱き続けた年月に比べれば、爪の先程にも満たないだろう。
だというのに、とても懐かしい。まるで色褪せた絵画のように、かつての自分を遠く彼方に思う。
それはきっと、今の自分が経験の積み重ねではなく、ちゃんと日々を生きているからで――――。
ふっ、と一瞬、目元が和らぐ。だが、直ぐに隠すように目を伏せると、C.C.は魔女の表情になって問い返した。
「そういうお前こそ、アイツをどうしたいんだ?」
「は――――――」
その質問は、ナナリーにとっては余りに予想の埒外で。
真っ白になった頭が、何の意味も持たないまま、意味もなく言葉を溢した。
「泣いて、泣いて、泣き疲れるまで泣いて。そんなに泣くくらい、今のルルーシュが嫌なんだろう? なら、どんなアイツがお好みだ? アイツをどういう風に
含む物言いに、カチン、とくる。
続く挑発に感情が抑え切れなくなり、ナナリーはゆっくりと口を開いた。
「私は……、違います。私は、お兄様に自分の望みを押し付けたりしません」
ともすれば、決壊しそうになる感情を抑えてか、ナナリーの声は小さく固い。
「私は………、私は、ただ…………」
そこで、声質に変化が現れる。
小さいながらも、はっきりと言い返していたナナリーの声が急に淀み、溶けるように消えて途絶えた。
「私、は……………ッ」
再度、繰り返そうとするも続かない。
唇は震えて、音は言葉にならず、見えずとも気丈に魔女を睨んでいた瞳の端には涙が浮かび、あの日、空を切った手は氷にでもなったかのように感覚を失っていく。
ぐしゃぐしゃだった。もう。
ひび割れた感情は、自分ではどうする事も出来なくて。
花が萎れるように、兄を想うだけで心がバラバラになる。
どうしたいなんて、そんなの自分が教えて欲しい。
一体、どうすれば良かったのだ。一体、どうすれば良いのだ。
願った事は、一つだけ。望んだ人も、一人だけ。
世界なんて知らない。平穏な生活だっていらなかった。
たとえ、他に何がなかったとしても―――。
「私は、お兄様だけで良かったのに…………」
「………そうか」
祈りにも似たささやかな願い。震え、掠れる声で呟いた少女の願いに魔女は頷く。
だが、それは理解を示しての事ではない。
「
その一言に。
鼓動が凍り付いた。
たった一人だけを望む。その人が居れば、それで良い。
それは確かに、聞きようによってはささやかな願いに聞こえるだろう。欲深きこの世界で、他に何も望まず、ただ共に在る事だけを願うのだ。実に微笑ましく、慎ましい願いに思えるだろう。
―――大間違いだ。
C.C.は知っている。目に映る世界に、たった一人しかいない事がどれだけ人を歪めるのかを。
他の何にも目もくれず、たった一人に執着する事がどれだけ人を狂わせるのか。C.C.は身を以て知っている。
「なに、を…………」
唇を噛む。
言葉にしようとした舌は何故か痺れて、空気が喉に引っ掛かる。
上手く回らない口を唇を噛んで無理矢理叩き起こし、もう一度、ナナリーは口を開いた。
「何を………、どういう意味、ですか」
「惚けるな。分かっているくせに」
辿々しくも懸命に言葉を紡ぐも、直ぐに非難めいた言葉に切り捨てられる。
「それとも、自分で吐いた嘘も分からなくなったのか?」
「だから、何を―――ッ」
のらりくらりと要領を得ない発言。なのに、耳に障る言葉に募っていく苛立ちにナナリーは少しだけ語気を荒くして問い詰めようとして、―――吐こうとした言葉ごと息を止めた。
真っ暗な視界。瞼に映る暗闇に金色の月を見たからだ。
先程までの弛んだ気配はない。ふざけた色もない。
纏っていた軽薄な雰囲気を剥げば、そこにいるのは正真正銘、悠久の時の中で数多に恐れられた不死の魔女。
夜の闇を暴く月のように、金色の瞳が冷たい光を宿し、長く人の真実を見続けてきた魔女の視線を正面から受け止めたナナリーは、妙な居心地の悪さを覚えて見えない視線を切った。
「――――ずっと、気にはなっていた」
その様子をつぶさに見ていた魔女が呟く。遊びのない声色は硬く、鋭く、嘘と虚構を貫いて胸に刺さった。
「ナナリー。どうして、お前がルルーシュがゼロである事に気付かなかったのか」
え、と言葉の粒が舌の上で弾けた。
糸でも付いていたかのように、一度は切った視線が元に戻ってくる。
月色の瞳と向き合うナナリーの瞼が、まん丸に縁取られ、その奥にある思考が飽和した視線が魔女の視線と絡んだ。
「スザ……、枢木スザクはゼロの正体がルルーシュである事に確証はないが気付いていた」
その場にC.C.はいなかったが。
『前回』、ブラックリベリオンの幕引きにて、ゼロと対峙したスザクは、その正体がルルーシュである事に半ば気付いていた。
信じたくはなかったと。確証がない事を理由に否定し続けていたが、逆に言えば、否定し続けなければならない程にスザクは勘づいていた。
「なのに、お前は全く気付かなかった。スザクよりも長く、スザクよりもずっと近くにいたのに、気付く素振りさえ、お前は見せなかった」
可笑しな話だろう。
切れぬ絆があったとはいえ、数年間も離れ離れになっていたスザクですら気付いたというのに、一番近くにいた妹が、ひょっとしたら、と欠片もそう思う事がなかったなんて。
『前回』で言えば、更にヒントもあった。
ゼロを捕らえたというスザク。同時期に行方が分からなくなったルルーシュ。
極めつけは、電話越しで行われた、あの不可解なやり取り。
そんな、あからさまに不審な言動もあったというのに、それを経験して、尚、ナナリーはルルーシュがゼロだと疑う事はなかった。
何故か?
答えは、……馬鹿馬鹿しいくらいに簡単だった。
「分からなかったんだな。……本当に」
いっそ哀れみすら滲ませて、魔女が答えを吐き出した。
そう。大それた理由があった訳でもない。複雑な疑問が挟まっていた訳でもない。
単に、現実と同じようにナナリーの心にも、ルルーシュは映っていなかった。それだけである。
「お前はアイツの事を分かっていない。……分かろうとしていない。アイツの意志を、覚悟を、想いを嫌悪し、いつだって
「嫌悪なんて―――ッ」
C.C.の言葉に被せるように、語気も鋭くナナリーが否定する。
「私は……ッ、私はお兄様を愛しています! 嫌悪なんて、そんなの………」
唇を震わせ、声を震わせ、必死になってナナリーは否定する。
「それに、お兄様の事だって……、私は、分かっています………! 誰よりも、ずっと、お兄様の事は私がよく分かっています!」
「いいや、違うな」
「違いませんッ!」
絹を裂くような叫びを上げ、首を振りたくったナナリーは盲目の瞳にあらんかぎりの力を込めて、魔女を睨み付ける。
「貴女に何が分かるんですかッ! いきなり現れたばかりの貴女なんかに………ッ、私の、私とお兄様のッ、何が………ッ!」
「分かるさ。私はお前のような女をよく知っているからな」
叩き付けられるような激情を涼風のようにさらりと流し、C.C.は自嘲するように口の端を歪める。
「傷付くのが怖いから、踏み込めなくて。傷付けられるのが怖いから、距離を置いて。そのくせ、いっそ離れる事も割り切る事も出来なくて、自分も自分の感情も中途半端で曖昧なまま先送りにしている―――……」
そう語る口はいっそ穏やかに、だけど、感情に乏しく。
金の瞳は凪ぎ、ぽつぽつと語り続ける魔女の声はどこまでも他人事のように、誰かの軌跡をなぞっていく。
「本当は愛されたいのに、……愛したいのに。臆病な自分を変えられないまま目を背けて……、だらだらと時間だけを貪った挙げ句に何が嘘で何が本当か、自分自身すら見失ってしまった愚かな女を、私はよく知っている」
ふっ、と短く、C.C.の唇から息が零れた。どうしようもない、と呆れ、笑うかのように。
「………お前は、その女にそっくりだ」
そんな事はない。そう言いたかった。違うと、そう否定したかった。
なのに、言葉が出なかった。言葉がなかった、とも言える。
口先だけの言葉で否定するには、C.C.の言葉はナナリーの胸に深く刺さり過ぎていた。
でも、認めるには弱かった。
「怖かったんだろう?」
ギュッ、とマグカップを握りしめ、俯くナナリーに、優しくも残酷な響きを伴って魔女が囁く。
「お前とルルーシュは同じ運命に流されてきた。だから、他の誰に理解出来なくても、お前だけはルルーシュの怒りを、その心に灯ったものを理解出来た筈だ」
「………………」
首を振る。壊れた人形のように、力なく、それでも認めたくないとばかりに頭を振り続けるナナリーであったが、そんな彼女の意志を嘲笑うかのように、脳裏にある光景が浮かぶ。
と言っても、目の見えないナナリーに情景は浮かばない。甦るのは、視覚以外で彼女が記憶に留めた情報。
茹だるような熱気。照りつける太陽の熱。汗ばむ身体。自分を背負う兄の息遣い。
鼻を刺激する臭気。耳障りな蝿の羽音。カラスの鳴き声。嗚咽。手に触れた涙と頬の体温。
その先。おそらくは陽が傾き、空気に若干の涼気が混じり始めた頃―――……。
「――――――ッ」
乳白色の水面が跳ねる。
最後に脳裏を過ろうとした記憶を振り払うように、一際強く首を振りたくった弾みで、マグカップからミルクが飛び散り、毛布に染みが広がっていく。
「お兄様だけで良い」
ぽつり、とナナリーの吐いた言葉を転がしながら、C.C.はガラステーブルに置かれたグラスに手を伸ばした。
ミネラルウォーターが注がれたグラスのリムを行儀悪く鷲掴んで持ち上げ、ゆらゆらと揺れる水越しにナナリーの姿を透かして見ると口を付ける。
「……なら、さぞ疎ましかったろうな。何がどうなろうと兄が居れば良い。兄がずっと一緒に居てくれれば、それだけで幸せ。そんなお前の幸せを蔑ろにする、
ルルーシュとナナリーの願いは違う。幸せのかたちも。
ナナリーにとっての願い、幸福は、ルルーシュと共に在る事だけだ。
家族に捨てられるのも辛くはない。異国の地に放り出されても耐えられた。
だって、一番大切な人だけは、変わらずに自分の隣に居てくれたのだから。
だから、どんな苦境であっても兄の存在と愛を感じられれば、それだけで満たされた。それだけで幸福だった。
だが、ルルーシュは違う。
ルルーシュは、ナナリーの『明日』こそを何よりも尊んだ。
たった一人の妹が、自由に、心穏やかに生きていけるように。
弱きを貪るこの世界で、最愛の妹が何者にも脅かされる事なく、健やかに生きていける世界を望んだ。
その為に立ち上がる決意があり、戦う意志があり、壊す覚悟があった。
たとえ、その果てに全てに憎まれ、一人孤独に死んでいく事になろうとも。
欲しい世界が、彼にはあった。
「だから、見なかった」
グラスがテーブルに戻される。
行儀悪く掴んだその持ち方とは裏腹に、音もなくグラスを置くと、C.C.は人差し指で縁をなぞった。
「……だろ? アイツが『明日』を望む理由に、ナナリー、お前があってもお前の隣にはない。その意味を理解しているからこそ、お前はアイツの本心から目を背けた」
確信を持って告げるC.C.に、沈黙だけが答える。
一瞥すれば、力なく項垂れ、小刻みに肩を震わす姿が目に入った。その姿は誰が見ても庇護されるべき弱者の姿であるが、それが逆に魔女の舌峰に火を付けた。
「アイツの怒りを知らないから、ゼロだと疑わなくて良い。アイツの覚悟を知らないから、お兄様のいない未来なんて考えなくて良い。自分は優しいお兄様しか知らないのだから、余計な事を考えずに目の前の幸福に浸り続けていれば良い。……自分は何も知らない、何も分からない。聞きたくない、見たくない、嫌だ、嫌だ、嫌だ――――」
キンッ、と透明な音が汚濁を流すように響く。
縁を滑っていた人差し指がグラスを弾き、硝子が音叉のように震えた。
「楽しかったか? 終わりが分かり切っていた幸福は」
「やめてください」
馬鹿にしたようにせせら笑えば、小さな懇願が反論となって返って来た。
「磨り減っていく幸せも数えず、自分の手で掴み取る努力もせず、雛鳥のように幸せを甘受するだけの生活は心地好かったか?」
「やめてください」
「お前の未来を案じ、狂いつつある世界に必死に挑みながら、少しでも優しい兄であろうと心を砕くアイツの姿は、快感だったか?」
「やめてください…………ッ」
「結局、兄妹だな。お前はゼロを非難したようだが、やってる事は同じだ。名前を偽り、正体を偽り。自分を偽り、現実を偽り、あげく最も大切な人の
「やめてください! ………もう、やめて! 出ていってッ!」
「そんな厚顔で、悲劇のヒロインよろしく、シクシクシクシクお涙頂戴とはな。大した役者だ」
くっ、と猫のように魔女が喉を鳴らす。
瞳は温度を失い、あらん限りの侮蔑を込めた視線が冷笑を彩り、注がれた。
「この、―――――うそつきめ」
「――――――――――――――」
何かが、割れる音がした。
「………………」
視線が下りる。
陶器が割れる音に嘲笑を引っ込めたC.C.は、無表情に自分の足下に散らばるマグカップを見つめた。
「――――ったら、――――いうんですか」
息も絶え絶えに絞り出された声に、視線をまた上に戻す。
そこにいたのは、小さな獣。
フーッ、フーッ、と肩で息をし、右手を振り抜いた体勢のまま、睨み付けてくる少女をC.C.は何の感慨もなく見つめ返した。
「だったら……、何だっていうんですか…………ッ」
ぐしゃり、と怒りに表情が歪む。
仮面が外れる。ずっと偽ってきた温厚な自分が粉々に砕け、生来の気性が荒ぶる感情と共に顔を出した。
「だったら、何だっていうんですか! 私が本当のお兄様を見ていなかったから、何だっていうんですかッ! 私が嘘吐きだから!? それがどうしたっていうんですか!! それでも、私にはお兄様しかいないんです! お母様は亡くなって! お父様は私達を捨てて! 優しかったお姉様達も私達を見限ってッ! 楽しい思い出の詰まったお家を追い出されて! 新しい居場所も焼かれて! スザクさんとも離れ離れになってッ!! 他に何があるんですか! お兄様だけでしょう!? お兄様だけなんですッ! なのに! なのに…………ッ」
グラスが割れる。
飛んできた枕に倒れ、衝撃で砕けたグラスからミネラルウォーターが、しとしととテーブルから床に滴り落ちていく。
「ええ! そうですよッ! 貴女の言う通りです! 私は、ずっと怖かったッ! ずっとずっと………ッ、お兄様に置いていかれる日が来るのが怖かったッ!」
言われなくたって、気付いていた。そんなの、初めから分かっていた。
分かるから、目を背けたのだ。そうしないと、どうにかなってしまいそうだったから。
それを嘲笑われる謂れはない。それ以外、自分に何が出来たと言うのだ。
そうだろう? だって―――
「貴女に分かりますか!? 一人で動けない人間の惨めさが! 誰かに助けて貰わないと生きていけない人間の不甲斐なさが! 足手纏いになりたくないのに………ッ、どうやっても無力でしかない人間の気持ちが貴女に分かるんですか!?」
止まらない。長い年月をかけて、胸の奥底で熟成された想いは暗く、昏く。吐き出して、尚、行き場のない感情にナナリーは勢いよく手を振り下ろした。
バシッ、と腿の上で平手が弾ける。痛みは
そのまま、引っ掻くように拳を握り込む。折れるのも構わず、薄い毛布の上から長い爪が白い肌に赤い線を描きながら食い込み、抉らんばかりの勢いで深く突き刺さる。
なのに、何も感じない。手には強く肉に爪が食い込む感触があるのに、足からは何も感じない。
その事実が、その無力が酷く恨めしく、ナナリーは自分を痛めつけるように、強く唇を噛んだ。
「生きているだけで、こんなに迷惑なのに。そんな私が何を言えというんですか。こんな役立たずの身で何を願えというのですか…………ッ」
出来る訳もない。
今にも溢れ出そうな水を掬う事も出来ないのに、バシャバシャと水面を波立たせて、どうする。
何も出来ないなら、せめて溢れ出るその時まで、じっとしているべきなのだ。少しでも水面が乱れないよう、息を潜めて。
だから、ずっと良い妹であり続けたのだ。
少しでも、兄を不愉快にさせないように穏やかに。少しでも、兄の不興を買わないように我が儘を言わず。
兄の本心に切り込んだ結果、兄の決断を促してしまわないよう口を閉ざし。
兄が自分を遠ざけたり思わないよう、何も見ず。
そうやって、ただひたすらに、兄が離れていかないよう自分を殺し続けてきたのに。
なのに。
なのになのになのに!
「どうして、ですか………………」
ぽたり、と冷たいものが力を込めすぎた手の甲に落ちた。
それでナナリーは自分が泣いている事に気付く。
「どうして、私だけが一緒にいられないんですか………。どうして、私だけ誰も側にいてくれないんですか………」
自覚すると、更に涙が溢れた。
怒りの火を飲み込む悲しみが胸の奥から止めどなく溢れ、ナナリーは寒気にも似た悲哀に身体を震わせると、しゃくり上げた。
「ユーフェミアお姉様もスザクさんも一緒にいられるのに………。C.C.さんだって、お兄様の側にいるのに、……………………ずるい」
後は、もう言葉にならなかった。
どれだけ擦っても涙は止まらなくて。唇は震えて、噛んで塞ぐ事も出来なくて。
怒りの冷えた部屋に、激しい嗚咽と掠れた泣き声だけが寒々と響いていく。
「………なら、来るか?」
そんな言葉が泣き声と嗚咽に答えたのは、しばらくの沈黙を挟んでの事だった。
「そこまで望むなら、……来るか?」
静かな声音。けれど、深く、重く。先程とは別の意味で仮面を割り、素顔に向き合ってくるその清廉に、ナナリーは涙に濡れた顔を上げた。
「兄が、いないだけだ」
「……………?」
何を言っているのか。
頭に溶けず、耳から耳に素通りした言葉にぼんやりと僅かに首を傾げる。
「兄がいないだけなんだよ。それだけだ。それさえ受け入れれば、もう、お前の人生から幸福が零れ落ちる事はなくなるだろう。……絶対に」
張り上げるでもない、ゆっくりと紡がれる言葉は神託のように。
たった一つ以外を諦めた少女に、たった一つを諦めた先を示していく。
「暖かなベッドで寝て、美味しい食事にありついて、好きな事をして過ごして、時に騒がしい学園に顔を出して。穏やかに日常を過ごして……、目も足も治る。それさえ諦めれば、お前は一度は失った全てを取り戻して、平穏で温かな人生と、幸多き『明日』に生きていく事が出来るだろう」
望みさえすれば、必ず。どれだけ世界が荒れ狂おうと、彼の魔王は、二度と少女の手から幸福を零れ落とさせたりしないだろう。
その人生に、一滴の血も、一片の狂気も、一幕の悲劇も寄せ付けたりしない。
どんな力にも、暴虐にも手出しさせない。
たとえ、世界の理不尽だろうと不条理な運命だろうと覆し、その生命が終わる瞬間まで、彼女の人生と幸福を守り続けるだろう。
―――魔王の側に寄らず、人並みに生きていく事さえ望めば。
「それでも、お前は、どうして、が知りたいか?」
だがしかし、諦めなければ。
あの夜に、ずっと握りしめていた幸福が離れていった理由を知りたいと願うなら。
少女は、地獄を歩む事になる。
時代という荒波のど真ん中、死と絶望の最前線。常人では立つ事すら出来ない道を行く兄の側に立てば、人並みの幸福などあっさりと吹いて消えるだろう。
きっと、見たくもないものを見せつけられるに違いない。
頭から血を被り、罵詈雑言に汚れ、心も身体も傷付くだろう。
そうして、手に入るのはちっぽけな真実が一つだけ………。
「それでも、側に居たいか?
「――――――――」
言葉を、失った。
何を問われるのか、予想出来た。だから、当然だと即答するつもりでいた。
それなのに、口はナナリーの望む言葉を発しなかった。
喉が絞まり、舌が引き攣り、唇が震えた。
気持ちに偽りはない。兄と一緒に居たい。兄と生きたい。今すぐにでも、兄の胸に飛び込んでいきたい、のに………。
『お兄様ではないルルーシュ』
その言葉が、ナナリーを呪う。
ずっと、それ以外見ようとしなかったお兄様以外のルルーシュ。
あの日、あの夕焼け空の下で。二人で見ていた幼い夢から抜け出して、少年から大人に成長したルルーシュに、未だ幼いままのナナリーの心が悲鳴を上げて、泣きじゃくる。
怖い、と―――――。
しゃり、と砕けたカップの破片を踏むブーツの音に、茫然としていた意識が回復する。
微かに流れた空気が肌を撫で、のそりと動く気配にナナリーは自然と立ち上がったC.C.に顔を向けていた。
「ないとは思うが、動くなよ。下手に怪我でもされて、アイツにガミガミ言われるのはゴメンだ」
そう言って、しゃりしゃり、と破片を気にする素振りも見せずに歩き出す。
ナナリーの答えも聞かない。
まるで、もう聞く気はないとばかりに、興味を失った様で部屋の外に足を向ける魔女に、思わずナナリーの口が開いた。
「あ、の……………」
「ついでに何か持ってくる。良い加減、何か腹に入れろ。
出鼻を挫かれる。
微妙に答え難い問い掛けに詰まり、二の句を告げられなかったナナリーに代わり、C.C.が言葉を重ねる。
「せめて自分の想いくらい、躊躇わずに
幼い心。未熟な精神。
前にも後ろにも進めない、そんなにっちもさっちもいかない心持ちで、急いて答えを出したところでロクな結果にならない事は、『前回』のこの兄妹の結末を見れば、容易に想像が付く。
時間は必要だろう。一言だけだろうと、この弱々しい少女が、決意を言葉にするには。
「まぁ、あまり余裕はないだろうがな」
「え―――――?」
「言っただろう? 似ている女を知っていると」
ふっ、と息を吐くように微かに笑う。
口元が悪戯っぽく弧を描き、艶を漂わせた表情は人を惑わす魔女のそれ。
だけど、瞳の奥に灯る光だけは、真摯に、純真に。
「お前にとって、アイツが唯一であるように」
パチ、と火花が散るように、一瞬だけある光景が頭を過る。
それは、『前回』の最後。これから先、どれだけ長い時を生きようと、決して色褪せる事はないと思える程に心に刻み込まれた、一つの肖像。
晴天の太陽。真っ白い陽光。溶けるように消えていく。
世界一嘘つきな――――……。
「私にとっても、ようやく巡り合えた、たった一人なんだ」
流れてきたのは穏やかで、優しげで、どことなく寂しげな気持ち。そんな、言葉に乗って流れてきた魔女が初めて見せた本心に、ナナリーの閉ざされた瞳が瞼の奥で見開かれる。
「いざ決断した時、ルルーシュの隣が空いていなくても文句を言うなよ」
しかし、それも一瞬。次いで流れてきた挑発的な――、もとい挑発に先の言葉の余韻は嘘のように消えて。
最後に、パタン、と本を閉じるような音が、魔女の姿と心をドア向こうに隠した。
話を切り上げ、部屋から出たC.C.は音を立てないようにドアに背中を預けた。
ふぅ、と気だるけに息を吐く。荒々しくも、その実、慎重に少女の心に踏み込んでいた魔女の身体は思っていたよりも神経を使っていたらしく、吐き出した身体からは目に見えて緊張と強張りが抜けていった。
(これで、少しは好転すれば良いんだが……)
半ば強引に話を切り上げ、適当な言い訳と共に部屋の外に出たのには、勿論、理由がある。
限界だと感じたからだ。
おそらく、あそこが瀬戸際、ギリギリのライン。あれ以上踏み込んで少女の心を荒らせば、未熟な心は制御を失った感情に引き摺られて、良くない方向に流れていたに違いない。
それでは、『前回』の二の舞である。
それはC.C.の望むところではない。口こそ悪かったものの、今回、ナナリーに突っかかったのは彼女なりにナナリーを思っての事。
自分の殻に閉じこもり、生きた屍になりつつあったナナリーの心を無理矢理にでも叩き起こそうとしたからであった。
そう言った意味では万全の結果とは言えないが、先も言った通り、これ以上は逆効果になる可能性が高い。
僅かとはいえ、外に意識を向けられたこと。その
(ルルーシュが知れば、余計な事をと怒るんだろうな)
自分がした事に対する共犯者の反応が頭に思い浮かび、やれやれと内心で首を振る。
今回、ナナリーの護衛を命じた時、ルルーシュはC.C.に何も言わなかった。
説得しろとも。諌めろとも。ケアしろとも。
おそらくは、ナナリーの意思を尊重しての事だろう。
結局、ルルーシュはナナリーに甘いのだ。
同時に、深い愛情と同じくらいに信頼を寄せている。
たとえ、苦しくとも。それが愚かだったとしても、絶望の中で、一人で道を見出だし、歩き出す事が出来ると。
それだけの強さがあると知っているから。
いるから、今、この瞬間、この場所にルルーシュは居ない。
妹の心を大きく占める自分の存在が、ナナリーの決断の雑音にならないようにと、深い愛情を以て見守りつつも、信頼を以て見放していた。
だが、C.C.はルルーシュ程にはナナリーを信頼していない。
実際、引きずり出したナナリーの心は、グズグズだった。
硬い殻に覆われて、硬すぎるが故に殻を破れず、死に絶えた雛鳥のように、脆く柔い。
迂闊に触れる事すら、危うい。悪意ある者がほんの少し力を入れれば、あっさりと握り潰されるだろう。
それを思えば、荒療治に訴えたC.C.の判断も、決して間違いとは言えない。
だって、そうなれば。
そうなると………。
(臆病者なのは、私も同じか)
結局、誰の為なのか。
最終的な自分の心の行き着く先に呆れながら、C.C.はドアから背中を離すと、もう一度ホットミルクを用意すべく、キッチンの方に身体を向けた。
話の流れが可笑しいと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、どうかお目こぼしを。ちょっと主観的になり過ぎて、どうにも客観的に見れなくなってしまい……。時間が経って、客観的に見れるようになったら手直しするかもです。
しかし、今回はホントにドツボ。最初は調子良かったのですが、今後の為に少しナナリーを掘り下げといた方が良いかなと思った結果、底なし沼にはまりました。人の心って難しい……(遠い目)
とりあえず、日本編最後の難関も何とかクリア出来たので、またボチボチ投稿していこうと思います。