お待たせしました。漸くあの人の舞台入りです。
弱肉強食にて権謀術数蠢くブリタニアの貴族の中で、長く伯爵位を預かる者として、その身を置いてきた彼ではあるが、驚くべきことに真に膝を折ったのはその長い人生の中でたったの二度であった。
一度は、勿論、この国の王。ブリタニア皇帝シャルル。
大樹の如き風格。雷鳴を思わせる鋭き威。数多いた兄弟達の血でその身を洗い、幾多の殺意と狂気の中で己を叩き上げ、この国の頂へと辿り着いた者の存在感はそれだけで畏怖を覚えるには十分で、初の謁見時、一瞥の末、気付けば膝を折り、頭を垂れていた事実は彼の貴族としての矜持と強者としての驕りを砕いた出来事として、今も記憶に深く刻まれている。
二度目は、その王の妃。有象無象の草花より生まれし黒薔薇。アリエスの主マリアンヌ。
その甘美なる蜜と毒に溶かされた者は、自分一人だけではあるまい。
冷徹と無邪気の同居。殺意のない殺意。笑顔で花を手折るように、戦場では優雅に、社交では典雅に、仇なす全てを縊る姿は恐ろしくも美しく。
初めて膝を折った日、己の頭上より降り注いだあの冷たいナイフで頬を優しく撫でられるような感覚は、これから先何があろうと決して忘れる事はないだろう。
形は違えど、共に絶対性を備えた王器。比喩でも過言でもなく、世界を治めるに足る王とその隣に立てる王妃は人の上に立つ者としては完成されており、だからこそ、彼も己が戴く王としてこれ以上はないとそう思っていた。
―――あの日までは。
果たして、あの日、彼は何を拾ったのだろうか?
異国に棄てられた哀れな皇子か。覇王の種か。
たった一人の妹以外の家族を喪った
あの日、血に染まった大地に沈む、血のように赤い夕日の中で邂逅した幼き灯火に彼は
信ずる何かがあった訳ではない。確信も確証も、抱くには目の前の火は余りに小さく弱い。
だが、もし、己の見たものが正しいならば。もし、己の本能に強く訴えかけてきたものが正しいならば。
彼は、きっと――――。
――早まったかもしれん。
目の前で繰り広げられる光景を目の当たりにして、卜部は片手が腹部に伸びるのを抑えられなかった。
さすりさすりと軍人特有の無骨な掌で腹を撫でつつ、来て早々後悔の二文字が過り始めた瞳を斜め上に持ち上げる。
そこにあったのは巨大な艦。ドックの薄暗い照明に鳥を思わせる威容を浮かび上がらせ、羽ばたく時を今か今かと待つ漆黒の戦艦は、これから先の彼の住居でもある。
そして。
「まぁ! これがゼロ様と私の新居ですか!」
隣にて目をキラキラと輝かせる日本の王の居城でもあった。
「そ。全長250m、最大航続距離約1万5千キロ。武装を縮小する代わりに輻射波動障壁の全面展開と絶対守護領域の局所展開による高出力多重防御を可能にした、生存性と航続性に特化した超長距離航行型空中浮遊艦、旗艦名『スレイプニィル』。文字通り世界を股に掛けられる、ゼロの新しい空飛ぶお城さ」
「素敵です!」
パンッ、と両手を打ち鳴らし、喜びを露にする神楽耶に、得意気に語っていたラクシャータの笑みが更に深まる。
「勿論、内装もバッチリよぉ。なんてったって、これからはこのスレイプニィルが私達の活動拠点になる訳だからねぇ。食堂にぃ、大浴場ぉ。パーティーホールに庭園もあるしぃ、娯楽施設なんてカジノ顔負けよぉ。プリン伯爵が乗っていた無粋な艦とは、全~然違うんだからぁ」
「素晴らしいです、とても! 艦での暮らしと聞いて少々心配していたのですが、これなら私とゼロ様の新婚生活も断然潤うというもの!」
話が噛み合ってねぇ。
横から耳に入ってくるお転婆な会話を聞き流しながら、キリキリと痛みを主張してくる腹部を必死に宥める。黒の騎士団に合流する前、日本解放戦線の一員として不利な戦場を何度も潜り抜けてきた経験のある卜部ではあるが、ここまで胃が死にそうになる戦場はあっただろうか。
「お~いおいおい。卜部さんよぉ、な~にしかめっ面してんだよ。どっか悪いのかぁ?」
そんな悩める卜部に掛かる声が一つ。ガシッ、と肩に腕が回され、同時にたっぷりとした酒気が辺りに漂い出す。
「いや、ちょっと胃の調子がな……」
「おいおい、大丈夫かぁ? これから天下のゼロの軍隊としてやってくってのによぉ」
そう宣うのは、『元』黒の騎士団一のお調子者。
ゼロが黒の騎士団との決別を表明した日。いの一番にゼロに噛みついていたにも拘わらず、次の日には何事もなかったかのように飄々とゼロに付いていく事を宣言した男、――玉城はひっくり返すように酒瓶を呷ると、げふ、と盛大に酒臭い息を吐き出した。
「ま、気持ちは分かるぜ。俺も散々悩んだからよ。けど、やっぱ、親友として放っとけないっつーか? アイツにはこの俺様が必要だと思って断腸の思いで―――」
うそをつけ。
聞いていると胃の痛みが増してきそうだったので、そこから先をシャットアウトする。
気付けば、口から溜息を吐き出している自分に更に溜息を重ね、戦ってもいないのに疲労に顔を彩られた卜部は、どうしてこうなったと天を仰いだ。
そんな若干の場違い感を醸し出している卜部ではあるが、そもそも何故黒の騎士団に属する彼が此処にいるのか。
その理由を一言で説明するなら、所謂パイプ役である。
ゼロと袂を別ってから暫く。一時は絶対的なカリスマの喪失に混乱を極めた黒の騎士団だったが、円満に別れた事が功を奏したのか、混乱は長引く事なく穏やかに収束に向かっていた。
そもそも、既に役割を終えている組織なのだ。当初こそ、突然降って湧いた空白の未来に動揺していた団員達だったが、時間が経つにつれ落ち着きを取り戻すと一人、また一人と黒の騎士団を去っていった。
おそらく、最終的には首都方面の治安維持を目的とした自警団のような立ち位置に収まるだろう。
余計な混乱を生まぬよう解散すべきという声もあったが、誰も彼もが未来を描ける訳でもない。八年の間に奪われたものを取り戻せない者、ろくな教養も得られず生きてきた者。そういった者達の受け皿は必要だというのが扇の判断だった。
上に立つ幹部達は、元よりゼロとは水と油。ほどいた手は結び直される事なく、黒の騎士団はその名を残したままゼロとは無縁の組織へと生まれ変わろうとしていた。
だが、いざ捨てるとなると急に惜しくなるのが人間というものである。
別に戻ってきて欲しいとか、そういう話でない。幹部達がゼロに抱く感情は、依然、最悪なまま。関わらずに済むなら、それに越した事はないと思っている連中が殆どだろう。
しかし、それでも無視は出来ない。認められずとも、ブリタニアから日本を取り戻した実力は紛れもなく本物。この情勢下で、自ら世界最強の『軍事力』を手放そうとしていると考えれば、後ろ髪を引かれるのも仕方ないと言えよう。
繋がりは残したかった。
だからこその卜部である。
黒の騎士団、――延いては藤堂が指揮することになる日本軍に直接通ずる糸として、白羽の矢が立ったのが彼だった。
「はぁ…………」
ここに至る経緯を思い返し、卜部の口から何度目か分からない溜息が重く吐き出される。
別に、異存がある訳ではない。
根っからの軍人である彼は朝比奈や千葉のようにゼロに嫌悪感は抱いていない。重きを置くのは、あくまで指揮官として有能か、――信頼出来るかであり、人種や素性は二の次だ。
その点で言えば、ゼロは文句なく合格だ。仮面を脱ぐ前は目的が不透明であったが故に今一つ不信感を拭えずにいたが、それも真意を知った今となっては過去に過ぎず、実力に至っては日本を取り戻したという事実だけでお釣りが来る。
人選面でも、朝比奈や千葉は論外。仙波も年齢を理由に第一線を退き、後方にて教官を務める事を希望していた以上、他に適任はいなかっただろう。
それに何よりゼロは自分の、藤堂の、日本の恩人である。自分が戦う事で少しでもその恩を返せるなら、断る理由は卜部にはなかった。
だから、問題ない。
問題ない、筈なのだが………。
「けどぉ、本当に良いわけぇ?」
ぐるぐると頭の中で渦を巻いていた思考が、耳に聞こえてきたその一言で止まる。
はた、と横に視線を向ければ、薄く煙る紫煙の向こうから流し目で神楽耶を見やるラクシャータの姿があった。
「お国が大事な時期に、男にくっついて国を出るなんてさぁ。仮にも女王サマでしょぉ? 日本は良い訳ぇ?」
「だからこそ、です」
やや嫌味がかったラクシャータの問い掛けに、毅然と神楽耶は言い放つ。
「無事独立を果たしたとはいえ、日本がブリタニアに敗北し属国と化していたのは変えようのない事実。早急に国際的信用を回復し、確固たる地位を築かねば。負け犬のままでは、何も守れません」
世間ではブリタニアの支配に打ち勝ち、見事に国を取り戻したとして世論を集めている日本ではあるが、各国首脳陣や政府までもがそうだとは限らない。
開戦時に混乱があったとはいえ、ブリタニアに為す術なく大敗を喫したイメージは強く、八年間属国に甘んじていた事実もまた拭い難い。
順調に進んでいる復興も、その実、友好国とユーフェミアを仲立ちにブリタニア企業から引き出した支援によって何とか成り立っているとなれば、恐らく少なくない数の国が日本を弱小国と見なしている事だろう。
それでは駄目だ。
敵はブリタニアだけではない。かつて中華の大宦官が澤崎を口実に日本に傀儡政権を樹立しようとした件からも分かるように、サクラダイトの産出及び輸出のおよそ全てを担っている日本を密かに狙う国は多い。ゼロの国外追放も周知な以上、餌を抱えたまま、いつまでも腹を見せていたら、日本はすぐにまた他国の食い物に逆戻りになってしまう。
それだけは防がなくてはならない。
その為にも、失墜した国際的信用の回復は急務だ。たとえ、国力に余力がなくとも国際社会において強く影響力を持つことが出来れば、おいそれと日本に手は出せなくなる。
その為に神楽耶が出来る事。
それは―――。
「ゼロ様の提唱する超合集国。その第一加盟国として、その設立に助力すること。それが日本の『顔』として、今、私がすべき最大の事です」
今はまだ理想でしかないが。
停戦交渉の際に交わされていた密約を抜きにしても、ゼロが設立を掲げる超合集国、その方針と構想は日本にとって非常に旨味が強い。
何しろ参加した国家は固有の武力を放棄せねばならず、しかし、参入すれば各国のバックアップを十全に受けたゼロの守護にあやかれるのだ。軍事力に不安のある日本には正に渡りに舟と言えよう。
超合集国内での立場も発言力も、多少国力に問題があったとしても第一加盟国としてその設立に関わったとなれば、決して軽んじられることはないだろう。
国内情勢についても、素直に認めるのは腹立たしいが桐原がいる以上、内政に大きな不安はない。
であるならば、見るべきはやはり外。
自らの立場と名前を十分に活用し、超合集国設立に貢献しながら、少しでも日本の立場が良くなるよう他国との交渉に努める。
それが日本の為に、神楽耶が己に課した使命だった。
「それに………」
吐息のように呟いた神楽耶の手が、まるで大切な何かに触れるかのように、そっ、と己の胸に添えられる。
それに。
多少、私情を交える事を許されるなら。
超合集国。世界に数多ある国を一つにまとめ、武力ではなく言葉でもって世界の舵を取ろうとするゼロの理想。
もし本当に、それが叶うなら。
もし本当に、法も信仰も肌の色も違う国と国を繋ぎ、一つの連合国家として成立される事が出来たなら。
世界は間違いなくその在り方を変える。
ディートハルトの言葉ではないが、時代が変わるのだ。
此処から。ゼロから。
「………………」
「神楽耶様?」
「いえ…………」
胸に手を添えたまま、頬を染めて黙り込んでしまった神楽耶の様子を訝しみ、卜部が声を掛けるも神楽耶は問題ないとばかりに、ふるふると首を横に振る。
そして、一転。
「それに、覚えめでたくゼロ様の伴侶の座を射止める事が出来れば、日本は安泰ですから!」
再度手を鳴らし、無邪気に悪戯っぽく宣う神楽耶にラクシャータが吹き出す。
「成程ねぇ、そりゃ確かに大仕事だわ」
「ええ! ですので、私が無事にゼロ様の妻になれるよう、
「え゛」
「おうッ、任せろ!」
何やら、さらり、と厄介事に巻き込まれたような。
そう思う卜部だが記憶を反芻したりしない。胃が痛くなるから。なんなら、もう痛い。
そんな半ば現実逃避中の卜部に気付く事なく、乗っかってきた玉城とラクシャータと共にはしゃぐ神楽耶。
だが、はた、と何かに気付いたのか。きょろきょろ、と周囲を見回した後、小首を傾げて、卜部に問い掛けた。
「ところで、肝心のゼロ様は?」
「……え? ………あ、ああ……、はい。ゼロなら―――――」
世界が染まる。
地平に沈みゆく西日は優しくも痛く、理事長室より部屋を紅に染める陽を見つめていたルーベンは、僅かに目を細めた。
妙な気分だった。
見慣れた色、見慣れた風景。この理事長室の窓から、夕陽に染まる学園など幾度となく見てきたというのに、今日はやたらと古い記憶を刺激される。
それは、この
それとも………。
「時間を作ってくれたこと、感謝します」
背後にて座する男のせいなのか。
「……………」
首が微かに動き、視線が僅かに後ろに向く。
男の表情は分からない。室内に入り込む西日は濃い陰影を作り、仮面のように男の顔をルーベンから隠していた。
「………思えば」
微かに動いた首が、また前を向く。夕陽を眺める瞳を、先程とは別の意味で細めたルーベンが刺激された記憶を掘り起こすように口を開く。
「思えば、あの日もこのような光景でしたな」
遠くを想うように深く一言。懐古に濡らした唇を引き結び、目を閉ざす。
返る言葉はない。西日の影に潜む男は催促するでもなく、ただ静かにルーベンが相対するのを待っている。
「八年か………」
片手では足りない、しかし、両手では足りる歳月。
長いようで短い月日を言葉にして吐き出すと、ルーベンを閉ざしていた瞳を開き、―――振り返った。
「いつかは、このような日が来ると思っておりました」
しっかりと見据え、告げる。
覚悟を宿した言葉は強く、けれど、敵意も害意も含まない言葉に男、――ルルーシュは小さく苦笑する。
「会長、――ミレイにも似たような事を言われました」
「アレは私以上に貴方に近い。であるなら……、いや、そうでなくとも気付きましょう。存外、貴方は分かりやすい」
父への怒り。祖国への嫌悪。復讐心、憎悪。
尽きず、絶えず、汚泥のように濁った感情を完璧に抱え込むには、彼は幼く、甘く、……素直過ぎた。
だからこそ、予感はあった。疑心もあった。
それでも、見逃した。目を瞑ってきた。
何の為に―――?
クスリ、と微かにルルーシュが笑う。
己の未熟さを笑ったのか。それとも親身に語るルーベンが可笑しかったのか。
口元の微笑を絶やさないまま、ルルーシュの手が懐に伸びる。
僅かに陰った警戒心にルーベンの目付きが若干鋭くなるが、予想に反して、懐から出てきたのは一枚のメモリーカードだった。
「……これは?」
「ブリタニアの貴族に関する情報です。息を潜めている反シャルル派や、皇族に極秘で私腹を肥やしている貴族を告発するに必要な証拠やデータも揃えてあります。上手く立ち回れば、以前と同じとまではいかなくても、十分な爵位は取り戻せるでしょう」
つまりは、アッシュフォード家の悲願が成る。
あっさりと告げられた事実に、ルーベンが瞠目する。
「せめてもの感謝です。忠義か、野心か……。腹の中がどうであれ、あの日から、これまでに対する………」
幾分柔らかくなった声と共に、そっ、とルルーシュがカードをテーブルに置く。
だが、差し出されたソレをルーベンを受け取ろうとしない。
何か思うところがあるのか、固い表情のまま、ただじっとカードに視線を落としている。
とはいえ、それはルルーシュには関係ない。黙するルーベンをそのままに、用の済んだルルーシュが退室しようと踵を反した時だった。
「……お聞きしたい事が」
待った、を掛けるように、その背中に嗄れた声が届いた。
「お聞きしたい事が、あります……」
相変わらず答えはない。
だが、振り返り、再び相対したその姿を肯定と受け取ったルーベンは、礼をするように小さく頭を下げると、そのまま目を伏せた。
僅かな沈黙。一瞬の逡巡が過ぎ去ると、ルーベンはしっかりと理性の灯る瞳でルルーシュに問い掛けた。
「………ブリタニアは、………滅ぶのですか?」
仮にも、元貴族にあるまじき発言。ブリタニア人からすれば、突拍子のない台詞も目の前の男を動じさせるには足りない。
ほんの少し、意外そうに眉が動いただけの彼の顔を探るように、それでいて試すように見据えながら、ルーベンは言葉を続けていく。
「……ブリタニアは強い。国力も武力も技術力もあり、シュナイゼル殿下やコーネリア殿下を始め、個々の資質に優れている者も数多くおります。……ええ、普通に考えればブリタニアは勝てましょう。たとえ、世界を相手にしようとも」
言葉を選ぶように慎重にではあるが、真剣に淀みなく紡がれていた言葉が、そこで途切れる。
「……しかし。しかし、だ。私には、どうしても『その先』が見えない」
ゆるく首を振り、ルーベンは遂に誰にも明かしていない胸の内を語り出す。
「他国を全て蹂躙し、エリアとして支配し、それで綺麗に終わると? 世界を全て欲さんとする欲望がそこで素直に収まると? 強者として弱者を食い物にすることに慣れた者の渇きが失くなると? ……ありえないでしょう。何故かと言われれば、そう、
自嘲染みた笑みが浮かぶ。だが、それも一瞬後には消えてなくなると、長くブリタニアの貴族と渡り合ってきた老人はその胆力を以て、目の前の反逆者を問い質していく。
「不躾である事は重々承知しております。ですが、どうかお答え頂きたい。我々の道は……、皇帝陛下の仰る『未来』は真に臣民の為のものなのか。それとも……、いえ………」
そこで、もう一度言葉を切る。そして、ゆっくりと静かに呼吸を整えると、ルーベンはその一言を切り出した。
「
ボォー…ン、ボォー…ン、と柱時計の時報がなる。
しかし、面と向かい合う二人は、まるで時が止まったように互いから視線を外さない。
ルルーシュと向かい合うルーベンの表情は真剣そのものだ。今しがた、捉えようによっては反逆罪に問われても不思議ではない程に不敬に当たる言葉を吐いたにも拘わらず、その表情に動揺はなく、それ故に真意が測れない。
額面通りに受け取れば、祖国に弓を引くルルーシュに同調しているように思えるが、ルーベンの目と表情が素直にそうだと言わせてくれない。
果たして、裏があるのか。それとも、表は表のままなのか……?
意図の読めないルーベンと向かい合うこと暫し。
同じく真意の測れない顔付きで向かい合っていたルルーシュだったが、ふっ、と笑みにも似た息を吐くと相好を崩した。
「そういえば、最近……、いや、もう随分前か。アッシュフォードの学園祭があったんだが、知っているか? ルーベン」
「ルルーシュ様?」
唐突に何の脈絡もない話を始めたルルーシュに、ルーベンが眉を顰めるが、ルルーシュは構うことなくルーベンの横を素通りすると、先程彼が立っていた窓際に歩み寄った。
「ミレイが会長として主導したあの学園祭なんだが、名誉ブリタニア人だけでなく日本人、……イレブンの参加も認められていてな。勿論、数こそ少なかったが……、実際に来場したイレブンがいたのを俺は知っている」
その時の光景を思い出しているのか。窓の外を望むルルーシュはどこか楽しそうに話を続けていく。
「そういえば、スザクがユフィの騎士に任命された時も学園総出でパーティーをしたんだったな。全員が心から、とまではいかないだろうが、ナンバーズの皇族騎士の就任を素直に祝福出来たのは、ブリタニア広しと言えど、後にも先にもこのアッシュフォードだけだろう」
「ルルーシュ様、一体、何を―――」
「ある」
何が言いたいか分からず、堪らず口を挟もうとしたルーベンの言をルルーシュの一言が力強く遮った。
「『その先』はある。ちゃんと、
柔らかな笑みを浮かべ、コンコン、と窓を叩く。
「良い場所じゃないか。イレブンと知りながら手を差し伸べられる。ブリタニア人と知りながらも笑い合える。目が見えずとも……、歩くことすら儘ならない少女であっても微笑んでいられる……。お前にはそんなつもりはなかっただろうが、このアッシュフォードはブリタニアとは、いや、今の世界では信じられないくらい、人に優しい
「は、………いえ、しかし、それは―――」
「
傾いていた陽が沈む。
橙色だった空が藍色に染まり、更に黒へ。
静かに降りる夜の帳と共に雰囲気を一変させたルルーシュに、ルーベンは息を呑んだ。
「『この先』にあるものを見てみたい。……俺が望むのは、それだけだ」
怒鳴るでもなく。語るでもなく。
ただ紡がれただけの言葉に、ルーベンは先に言い掛けた言葉を飲み込んだ。……飲み込まざるを得なかった。
理想だと、夢だと。そう現実を知らしめる言葉は幾つもある。だが、そのどれもが、今、目の前の男を否定するには陳腐に思えた。無理だと不可能だと口にするには、目の前の男はあまりに
「貴方は………」
代わりに出てきたのは、そんな一言。震える舌先を動かし、違う意味で震えそうになる身体を抑え込み、ルーベンは問い掛ける。
「貴方は………、誰ですか?」
少なくとも、今、目の前にいる男をルーベンは知らない。
彼の知るルルーシュという少年は、怒りと復讐に囚われていた。
皇帝たる父と自分達を捨てた祖国に暗い情念を抱き、たった一人の妹以外に執着も執念も示さない、世界というものを斜めに見ている、そんな少年だった。
だが、目の前にいる彼は。
この彼は………。
「―――『ルルーシュ』」
返ってきたのは当たり前の答え。当たり前の名前。
けれど、その声は目の前からではなく……。
「ルルーシュ・ランペルージ。我が生徒会自慢の副会長です。お爺様」
当然と言わんばかりの声音と共に、部屋の入口からスイッチを押す軽い音が聞こえた。
途端に部屋が明るくなる。
夕闇に染まっていた室内が蛍光灯の白色に一気に侵され、暗闇に目を慣らしていたルルーシュとルーベンは揃って顔をしかめた。
いや、ルルーシュが顔をしかめたのはそれだけが理由ではないだろう。
何故なら声の主はルルーシュにとっては予定外の来客であり、予想外の珍客なのだから。
「……私の話が終わるまで待っておれと言っただろう」
「ごめんなさい。でも、もう十分かと思って。私とお爺様の目に狂いはなかった。なら、そこのロマンチストが誰であれ、私達の答えに変わりはないでしょう?」
クスクス、と笑う彼女にルーベンは黙する。
確かに言う通り。多少、迂遠な言い回しではあったが望む答えは得られた。
元が付くがルーベンは知っての通り、貴族である。
それも、ブリタニアの中では数少ない
特にルーベンは、既に敗者として本国より離れた異国の地にいるからか、勝利の美酒にも酔い難い。
であるなら、闇路を往く今のブリタニアを看過出来る筈もなかった。
しかし、肩入れする相手が故国に引導を渡す破壊者では意味がない。
見極めかった。
残り少ない生命と人生を賭ける相手が、唯の復讐者か、それとも。
尤も。
はぁ、と溜まっていた空気を全て吐き出すように、ルーベンが深く溜息を吐く。
同時に緊張も解いたのか、険しかった顔付きに再び懐かしむ色が混ざる。
「よもや、大樹に薔薇が咲くとはな………」
脳裏に甦るのは、あの日のこと。
この異国の地にて、改めて邂逅した紅い日のこと。
幼い少年だった。弱く、無力な少年だった。
皇族に生まれながら異国の地に捨てられ、かつて臣下であった者達に利用される、――
たとえ、泥に塗れても金は金。真に価値あるものはどれ程貶められても、その輝きを損なわないと言う。
ならば、あの日の少年は正しくそれだろう。
生きる為に、妹を守る為に、従順にへりくだりながらも、その高貴を失わない。
見てみたいと思った。
母の強かさと父の威。幼いながら、その二人の面影を見せる少年の行く末を見てみたいと思った。
信ずる何かがあった訳ではない。確信も確証も、抱くには目の前の火は余りに小さく弱い。
だが、もし、己の見たものが正しいならば。もし、己の本能に強く訴えかけてきたものが正しいならば。
彼は、きっと―――。
(大きくなられた………)
己の予想を超えて立つあの日の少年の姿に、ルーベンは潤む瞳を閉ざす事で隠した。
観念したように、けれど、どこか嬉しそうにルーベンが瞼を伏せる。
その様子に答えを見た彼女は、おもむろに理事長室のデスクに近付くと、そこに置かれていたメモリーカードを手に取り、とても良い笑顔でへし折った。
「お…………ッ」
「ルルーシュ様」
いきなりの奇行に、さしものルルーシュも驚いたのか、思わず声を上げそうになるが、制するようにルーベンの声が重なった。
「一つ、申し上げたき儀がございます。感謝と、そう仰るのであれば、どうかお耳に入れる事をご容赦願いたい」
「儀……? ルーベン、お前、まさか………」
明晰な頭脳が、容易にこの後の展開を弾き出す。
いや、明晰でなくても予想は付くだろう。可能性としては十分に考えられたし、味方の少ないルルーシュには歓迎すべき事である。
視界の端で薄く笑む彼女の存在がなければ。
「不肖、このルーベンをルルーシュ様の軍の末席に加えて頂きたく存じます」
果たして、結果は御覧の通り。
改めてルルーシュの直前に向き直り、膝を折って傅いたルーベンは、真摯に自らの願いを訴える。
「老い先短い身ではありますが、ブリタニアを憂う者として、またヴィ家に忠義を捧げた者として、この生命、御身の理想の為に使って頂きたく」
予想通りの答え。本来なら願ってもない申し出である。
長く貴族社会を渡り歩き、ナイトメア産業、アッシュフォード創立などあらゆる方面で爪痕を残すルーベンだ。頭脳労働者の少ないルルーシュの陣営においては、実に貴重な人材と言える。
しかし、当のルルーシュの表情は芳しくない。
ちらちら、とあらぬ方へ視線を向けて答えを渋っている。
「ルーベン……、その、だな。お前の忠義には感謝する。故国の為に反逆者に身をやつす覚悟も受け取ろう……。だが、その前に一つ確認したい事がある」
言い淀むルルーシュに、ルーベンは無言で頷く。
分かっている、と言わんばかりの表情に、己の言いたい事を汲んでくれたと思ったルルーシュは、安堵に顔を和ませる。
「無論、これは私の一存故に。御身を裏切らぬという保証は出来ませぬ。故に、私と志を共にする者をどうかお側に。私と同じく不肖の娘ではありますが、必ずやルルーシュ様のお役に立ちましょう」
違う、そうではない。
言いたい事は理解出来る。人質を取るというのは往々にして有効な手段である。ルーベンが裏切らぬよう彼の身内を人質として側に置いておくのは、成程、理に適っている。
というのが建前なのも分かっている。何かもう空気で分かる。何だ、この緩んだ空気は。そもそも、どうして彼女が此処にいる。ニュースキャスターはどうした。彼女の進むべき道はそちらであって、間違っても此方ではない。
そうとも。
そうでなくては困る。そうじゃないと駄目だ。
だから、あの夜、俺は―――……
「―――友達だから」
優しく頬を叩くように、明朗な声が答えとなって耳朶に触れた。
「まさか、さよならを言えばそれで終われると思ってたの? それとも後暗い事情を話せば、皆が皆、勝手に離れていってくれるとでも?」
心情を見透かすように問うと、呆れたとばかりに大袈裟に首を振る。
「まだまだ人生経験が足りないようね。若人?」
悪戯っぽい台詞とは裏腹に、その目は笑っていない。
舐めるな、と言わんばかりに勝ち気な瞳は爛と輝き、そのあまりの眩しさにルルーシュは分かりやすく顔を背けた。
「………ま、私の場合、それだけじゃないけどね」
やり込められた事で、少しはすっきりしたのか。
満足気に鼻息を吐くと、彼女は改めて、と片手を胸に添え、もう片方の手でスカートの端を持ち上げた。
「ミレイと申します。今日より、祖父ルーベンと共にルルーシュ様の道往きのお供をさせて頂きます。浅学非才の身ではありますが、どうぞよしなに」
美しい所作と淀みない言葉遣い。音もなく頭を下げるミレイに、ルルーシュは答えない。
だって、自ら歩み寄ってくれた人を素直に受け入れるだけの勇気を、今のルルーシュは持ち合わせていない。差し出された手はいつだって血に沈み、常に何かを犠牲にして前に進んできたルルーシュだ。零れ落ちたものを拾い上げるには、その生き方はあまりに臆病に過ぎた。
誰も彼もが心情を汲み取ってくれるでもなし。迷惑を承知でお節介を焼くのも友人だ。呪うなら、そんな面倒な友人に捕まった己の不運と、そんな友人
「そんな訳で。これからヨロシクね?」
とん、と優しくミレイが胸を小突く。
その笑顔は、いつもように。あの生徒会室で何度も副会長を悩ませた日々と同じように、それでいて挑戦的に。
天下無敵の生徒会長は。
「
ズカズカと無遠慮に、一人になりたがる王様の世界に足を踏み入れた。
るるーしゅの いは ぜんめつした……。