私は今、月の無い暗がりの中を歩いております。
本来ならば灯りの一つでも欲しいところなのですが、なにぶんこの辺りで物騒な噂を耳にしたばかり、用心に用心を重ねることは決して悪いことではないでしょう。
木々の陰は薄暗く、風が少しあるためか葉が擦れる音が時折するものの周囲に何某かの潜む気配もなし。
日が昇るまでには目的の集落へと無事に辿り着くことができそうでこれは重畳。
張り詰めていた気持ちをほんの少し緩め、過去の出来事に暫し思いを馳せます。
あれは私が行商人としての歩みを始めたばかりのこと。
國を行脚し、ヒトや物を見定める旅として行く先々で用心棒を雇い入れ、行商活動を行なっておりました。
ある一人の武芸者を雇った時のことでございます。
彼は些か風変わりな御仁でして刃物は持たずに使い古された木の棒を得物としておりました。
荒事を生業とされる方は大抵は刀なり槍なり刃の付いた殺傷力のある物を得手とするでしょうに私には不思議でなりませんでした。ですから、分からなければ聞いてみれば良いと思い、彼に尋ねました。
「まことに失礼ながら、どのような訳があり木の棒などをお使いなのですか?」と。
彼の答えはひどく単純でした。
「生憎と私は不器用で研ぎが下手でして……」
なんてことのない、ごく普通の理由に力が抜けました。ですが同時に私は余りに物事の裏ばかりを見抜こうと躍起になり過ぎていたのではないか、と逆に感心させられてしまいました。やはり商いの道は奥が深い……人の本質を見抜くのは若輩者の私にはまだまだ先なのでしょう。
さて、変に見栄を張らない少々堅物な彼との旅は肩肘張らず自然体でいられ、道中は楽しいものでございました。
そんな彼との行商も終わりが見えたころ、私たちは月明かりのない暗い夜道で物盗りに囲まれて窮地に立たされてしまいました。
私の武芸の心得などでは数人も相手すれば抑え込まれ無惨な姿を晒してしまうことは必死、多勢に無勢というやつでございますね。だというのに彼はなんてこともないようにこう言うのです。
「何人残せば良いのだろうか?」
結果から言いましょう、全滅です。
最初から最後まで見誤っていたのは私でした、彼には刃など必要無かったのですよ。
棒を搦めて得物を払い、間合いに入れば関節を極め折り、突けば槍の如く喉を潰す……凄まじい技に背筋に寒気が感じられたほど。
よくよく考えてみればただの木の棒が折れたりせずに使い古されるほど長く扱える技量があることはすでに明白だったのです……物事の本質も見抜けず、さりとて観察力に優れているでもなし、本当にあの頃の私は青く未熟でしたね、ハイ。
「しかしながら、娘さんはお元気でしょうか…」
産まれたばかりのお祝いに手頃な大きさの折れず曲がらず研ぎの要らない得物なんて頼むのは彼ぐらいでしたからねえと思わず、本音の笑いが漏れてしまう。
彼に家族ができたお祝いの品を見た奥方の優しい顔が思い出され少し、そうほんの少しですが悲しくなります。
あの後に亡くなられ、彼と娘の二人が残されたことを知ったのは数年の時が経っておりーー数少ない友人の力になれなかったことを酷く悔いました。
そして、思わぬ一報を受けたのです。
「昔の自分のように色々教えを願いたい、ですか」
確かに旅の間に作法や算術の手ほどきを行いましたがまさか父娘二代に渡り教えることになろうとは……本当に先のことは分からないものですね、ハイ。
なにより私との旅を彼も楽しく思ってくれていたことに年甲斐もなく嬉しいのです、繋がりの無かった今でも友だと思ってくれていたことが。
「さあ、もうすぐですよ」
誰に聞かせるでもなく、笑みがこぼれる。
* * * * * *
其処には朱と黒の禍々しい色しかありませんでした。
燃え盛る炎と焼け落ちた家屋とヒトが疎らに転がっているだけの場所、やがては炎も消え、黒く塗り潰されるであろう此処がーー友と再会の約束をした地。
「何故……」
呆然と立ち尽くす姿は力なく、記憶にある集落との違いに愕然としたがすぐに思いなおした。
父娘は無事なのだろうかと。
記憶を頼りに家があるであろう場所へと走るも嫌な予感と胸騒ぎは止まらず、そんなはずはないと何度も口にしてはいるものの頭の何処か、冷静な部分が判断を下しているのです……もう、手遅れだと。
そして、私の知る父娘の家はもうーー
形が僅かに残る焦げた家屋の名残りと多くの骸の真ん中に斃れた二人の姿があるだけ。
「また、私は……力になれなかったのですか」
一歩、また一歩と近づく足取りはただただ重い。
父に重なるように覆いかぶさる娘の姿を目にしたところでその手に握られたソレが周囲に残る火に鈍く光を返しています。
家族を護るために用意したというのにーー
「申し訳ありません……」
火に炙られ熱を持ったソレが幼い掌に火傷を引き起こしているのを見てとり、そっと屈み離させようとした時、微かにだが指先が触れる前に少し動きました。
急いで口元に手をかざしてみれば確かに息がある!
炙られた熱と煤に塗れた以外に外傷も出血もなく、動かない十数人の骸から察するに娘を護りきったところで事切れてしまったのでしょう。
「……あなたは護れたのですね、家族を」
熱く重いであろう父の十手を小さく幼い手が握りしめ、私は急ぎこの娘を安全な場所へと運ぶため行く。
朝陽は、もうすぐ昇ろうとしていた。