勝負。
そう叫んで、雄治と応龍は激突した。片や異形の拳を振り抜き、片や風を刃へと形成して。
「 ――始まりましたな」
それを視るは三つの人。男二人に女が一人。
一人は年老いた巨躯の男。しかしその眼光は鋭く、見る者が見なくとも常人ではないと看破するだろう。服装も普通ではない。胸元を大きく開けた弥生時代の服装――筒袖に
もう一人の男は黒衣の僧正。本来有り得ぬ色の袈裟を着込み、しかしその頭巾の下に在るは只人のそれに非ず。その
そして最後の一人は、先程雄治が遭遇した『玻璃の媛』を名乗る美しい女性。名の通りの澄んだ玻璃色の眼と艶やかな亜麻色の長髪が印象的だ。
「まぁ、いい加減、コイツばかりに手間掛けてもいられねぇからな」
巨躯の男が顎に手を添えながら言う。
約十年。
目の前の男は、決して正体を誰にも明かさなかったのだ。
師であるあの男は例外として、その他の魔術師や呪術師たちと接触しようとはしなかった。
だが、それも仕方のない事だろう。
術越しとはいえ、男の内に滲み出る力は、『竜蛇』のそれ。しかも嘗て『自分たち』が討ち果たした『国津』の系譜の蛇神。
異国の御使いより転じた竜の力も感じるが、この男の直感は蛇が大元だと囁いていた。これは余談だが、もしここに『あれ』があれば「戦わせろ」と五月蝿かっただろう。そうなれば「 」に触発されて自分も「嘗ての己」に戻ってしまう。それだけは避けねばならなかった。それに日光の「猿」の事もある。奴が出張れば、必ずどちらかが死ぬ迄戦う事になるだろう。
そういった点で考えれば、幽世で戦うこの男の判断は正しい。いや、正し過ぎるのだ。それだけがどうしても解せない。
故に彼等は理解した。あの神殺しは、そういった情報を誰にも知られずに得られる権能を持っているのだろう、と。
「……正直を申せば、御坊が何もせずともあの方は応龍様と戦いになられたと、私は思いますが」
「そうでしょうな」
頷く木乃伊。
その後にしかし、と前置きして。
「それでは裁定にはなりませぬ。肝心なのは、あのお方が身内に危害を加えられるのに対してどのように動くのか――」
瞬間。
黒衣の僧正を玻璃の媛の着込む十二単の中に潜んでいた角を生やした碧の蛇が瞬時に巨大化し、彼に巻き付いたではないか。
「な……っ!?」
袈裟越しに感じる凄まじい呪力は、この蛇が神の眷属だと否応無く理解させられる。
だが、それに気付けなかった。こうして巻き付かれる迄、一切解らなかったのだ。
これがどれ程異常な事か。
呪力の隠蔽技術が群を抜いているのだろう。少なくとも、この至近距離で人を辞めた自分にすら感知させなかったのだ。これでは現世の者たちが気付けないのも無理はない。
「伝言です、御坊」
苦笑する媛の声に、黒僧の意識がそちらを向く。
そして、媛が口を開く。
『俺の身内に手を出すなら、魂の欠片も残さず殺し尽くすぞ』
「――だそうですよ」
黒僧の背筋を悪寒が走った。
蛇が徐々に内の殺気と共に呪力を解放し、巨大化していくからだ。それ故に先の言葉が厭に真実味を帯びてしまう。
「……う、お……」
その圧力に気圧される黒僧。
蛇が口を開く。
そこには、本来は二本しかない牙--だけでなく無数の鋭い歯が生えているではないか。
そして、そのまま黒衣の僧正は喰われ--
「まあ、そこ迄にしといてくれや」
大口を開ける蛇を筒袖の男が止める。
すると、蛇はちらりと男を見て、黒僧の拘束を緩めたではないか。
そしてそのまま蛇は役目を終えたとばかりに呪力に戻り、この場から消え去った。
「……ふう。いや、感謝しますぞ御老公」
安堵の溜め息を吐いた黒僧に、媛と呼ばれた女性が苦笑のままに言った。
「ですがこれで御解りでしょう? あの方は、御自分の身内に危害を加えようとする者に容赦をしない御気性のようです」
今のは警告のようですね。そう言って媛は笑う。
「いやはや、媛も人が悪い。あの羅刹の君の僕がいると、何故仰られなかったのですか」
苦笑しながらもしかし非難の言葉を彼女に投げ掛ける。
その言葉に媛は微笑んで一言。
「羅刹の君直々に頭を下げられて助力を請われたのです。それに、身内を利用しようとしたんだから、これで手打ちにするのなら安い物だろう。――そう仰られた物ですので」
そう言われてしまえば、羅刹の君の身内を利用しようとした黒僧は何も言えない。報復される事も覚悟していたが、そこは口先で言い包めようとしていたのだ。
しかしそれよりも先に、こちらの言い分も聞かずに警告してくるとは。
こういった即断即決の行動は、神の起こす災厄を防ぐ人界の守護者としては相応しい行いだ。それが身内のみに適応されるのでは、というのが少々の懸念ではあるが、まあ許容の範囲と言えるだろう。神が動けばそれだけで天変地異が起きても可笑しくはない。それを防ぐには神殺しが出張らなければならない事をあの羅刹の君はよく理解しているようだった。
そういった意味で言えば、人界を守護する防人として彼の評価は高い。
「まあ、ちと表に出たがらねぇってのは少しどうかとは思うが、まあまあじゃねぇか?」
筒袖の男はそう纏めると、媛も黒僧も同意した様子で頷いた。
つまりこれにて皆堂雄治の器を測るのは終了ということになる。
「では、次は最も年若い羅刹の君の裁定へと移りましょうか」
黒僧がそう言うと、中空に新たな映像が出現する。そこには、媛巫女に説教されている草薙護堂の姿があった。そんな主君を見て、金髪の美少女は面白そうに笑っている。しかしその眼には隠しようのない敬意と燃え上がるような慕情が見て取れた。
「こっちか。―― 成程、女好きみたいだな」
御老公と呼ばれた筒袖の男は、護堂を見るなりそう判断した。
「ですな。……では、こちらの方向であの御方を試すとしましょう」
「……」
黒僧は護堂に女を使ってその在り方を調べると言い、玻璃の媛は無言のまま二人の神殺しを見やる。
草薙護堂を試すのに否は無いが、その為に女性を道具のように使うのは媛個人としては余り良い感情は浮かばない。しかし、往々にそうしなければならない事も長く生きている媛は知っていた。
それに、この年若い少年ならば例え何人の女性だろうと等しく愛し囲うのだろう、と女としての直感が囁いているのだ。
そして彼女は幽世で応龍と戦っている雄治に意識を向ける。
戦況は変わらず、異形の腕の先にある刃のような爪と拳が不可視の風刃とぶつかりあっているままだ。
しかも両者は笑いながら戦っているではないか。
風刃と爪によって皮膚や肉が裂け、打撃によって翡翠の鱗が砕かれ、風を圧縮した大気の拳で吹き飛ばされている。
しかし、両者は笑う。
怨敵への敵意では無い。ましてや悪意でも無い。
そこに在るのは、己の業を振るう事への歓喜。そして、それを喰らって尚立ち向かってくる好敵手への敬意。
口から漏れるのは苦痛の色無き歓喜の笑い。
『やるではないか皆藤とやら!! 我が風をここまで喰らって尚立ち上がれる神殺しもそうはおるまいよ!!』
『そっちこそ凄いじゃねぇか応龍さんよぉ! ヘルメスからブン盗った『
双方の口から相手への賞賛が発せられる。
『だが、まだ「先」があるのだろう? まだ出しておらぬ業があるのだろう。それをこの応龍に見せよ!! さすれば汝はこの応龍を討ち斃す事も出来ようぞっ!!』
応龍の言葉に空を疾走りながら雄治は応える。
『そこまで期待されてんのならしょうがねぇ! もちっとこうして戦り合いたかったが、急かされたんなら見せてやらあっ!』
そして、『
『楽園に植えられた葡萄の木は悪徳の酒を生んだ!』
それは、御使いへと零落した神の更なる凋落の悲哀。
『死を司る御使いの眼は聖者によって潰された!』
それは、踏みにじられた敗北者の怨嗟の声。
『葡萄を植え、眼を失った死の御使いは堕天し、赤き竜へと姿を変えた!』
それは、踏みにじった勝者への反逆の宣誓。
『其は死の御使いであり、毒酒を振り撒く魔王であり、十二の翼を持つ赤き竜であるっ!!』
それは、敗北したままではいられない愚か者の咆哮。
そして雄治の姿が変わる。
巨大な竜の姿へと。
恐竜のような後ろ脚。決して鈍重さを感じさせない強靱な筋肉で覆われているが見て取れた。
逆三角形の分厚い筋肉を搭載した胴体。更にこちらも鎧のような甲殻がその身を覆っている。
股下より伸びる尾も太く強靱そうだ。
首は伸び、頭部も竜のそれに変わる。
そして--その背より少し離れた位置で浮遊する十二の翼。
変
斃した神にこの咆哮が届けと言わんばかりに。
「ありゃあ、確か三、四百年くらい前だったか。幽世に隠遁してきた奴がいたな」
その姿を見て、筒袖の男が当時を思い出すように呟いた。
玻璃の媛も当時を思い返し、
「--はい。西の砂漠より赤き竜が、絹の道を通ってこちらに」
「……はて? その頃に別の蛇神も幽世に隠遁しませんでしたかな? そう、丁度先程の蛇のような角を生やした蛇神が」
黒僧だけはその神とは別の神を思い出していたが。筒袖の男と媛も黒僧の発言を受け、頷く。
「そう言えば、あの方もおられましたね。確かあの二柱は、隠遁した際に特定の存在以外は出入り出来ないように鍵を掛けておりました」
出入りは出来なくとも、玻璃の媛の遠見の術で領域内を覗く事くらいは出来たのだが。
「つまり、あの小僧は竜と蛇、二つの神格を得ている訳だな」
『竜蛇の王』と玻璃の媛があの神殺しを呼んでいたが、的を射た呼び方と言えるだろう。
三人がそんな会話をしている間も、竜と龍の激突は続いていく。
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幽世にある熱砂の青空にて巨躯の赤い竜と翡翠の龍が二頭、互いに争っている。
竜は両の拳で殴り、その爪で引き裂こうとした。
龍は暴風を操り、刃や鎚へと形状を変えて放つ。
『--くくっ』
応龍は笑う。
巨大化してもまだ己よりも小さい敵。しかしその敵より感じるこの威はどうだ。全長が
比喩を言えば蟻と巨象が争っているものだ。
なのに、斃せない。
風で斬り粉砕しようとも、両の手から伸びる四爪で刺突しようとも、尾で打ち据えようとも、噛み砕こうとしても、この神殺しは立ち向かってくる。
どうやらこの男は直接的な殴り合いを主としているようだ。
如何に応龍の鱗を砕きその龍体を傷付けられるのだとしても、所詮は三間程度の矮小な異国の竜。己の肉体を巨大化するような権能か、一撃でこの巨体に致命傷を負わせられるような権能があれば、もう少し取れる選択肢も違ったのだろう。
しかしどうだ。
本来ならば開く事のない両眼からは溢れんばかりの熱意と戦意、そして闘志が渦巻いているのが感じられる。
--面白い。
そう思い、応龍は大笑する。
『そうだ。それで良いのだ、神殺しよ! こうして相対し、似たような実力で拮抗した勝負を行うっ!! これこそがこの応龍が望み、そして焦がれた「闘い」だ!!』
ただ生き残る為の
そう、この龍は、こういった闘いがしたかったのだ。
応龍は歓喜の咆哮のままに雄治とぶつかってゆく。
応龍の更に上空へと駆け昇り、そこから一気に急降下して拳を振り下ろす
しかし負けじと応龍もまた風で作った球体の檻の中に神殺しを封じ込めると、大きく振り下ろされた尾の一撃にて赤い竜を砂地へと叩き落とした。大地に叩き落とされる赤い竜。強い衝撃と轟音が響き渡る。大量の土砂と砂塵が舞い上がり、赤き竜を隠す。それから数秒もしない内に舞い上がる砂塵の中を一直線に赤い竜は駆け上ってくるではないか。まるで大地の上を普通に駆けているかのような気安さで。その両脚を見れば踵の部分に少し離れて金の粒子で出来た小さな翼がある事に気付く。恐らくは人間体だった神殺しが履いていた神気を感じる靴だ。だからこそ、あの神殺しは人の身でありながら空を疾走出来たのだろう。
一歩、また一歩と、空を踏み締める度に赤い竜の速度は上がってゆく。
こちらが迎撃の風を手繰るよりも早く、その一撃は応龍の腹側の黄色い鱗を大きく斬り裂いた。
掠り傷、とは決して言えぬ大きな傷。致命傷ではないが、このまま何度も喰らっていけば確実に「己の命」に届くだろう。
そして、
『……成程。これが貴様の権能か』
砂塵より飛び出した赤き竜の手には、本人の身の丈程もある巨大な片刃の大剣が握られている。
代わりに、その背に浮遊する翼が一枚「足りない」。
十一枚の翼を見て、応龍は得心がいった様子で吼える。
『貴様の討ち斃せし神の名、この応龍にも見えたわ! 其は西の
その言葉に赤い竜はニヤリと口を歪め、肯定した。
『正解だ』
その声は、
『成程、この応龍の鱗を砕き肉を斬り裂くだけでなく――傷が癒えぬ権能。“呪い”と“毒”が宿る剣か。だが、貴様より感じる気配……まだ見せぬ
応龍の腹にある傷から少なくない血が流れているが、覇気そのものは減少してはいない。如何に傷の治癒を停滞――いや遅延させる“呪い”と“毒”であれど、応龍は意に介さない。手に入れた権能である以上、使わない事が逆に応龍にとっては屈辱なのである。
これで卑怯且つ悪辣な騙し討ちをするような者ならば、応龍としても少しは対応を考えたところだ。
しかし目の前にいる神殺しは毒や呪いが込められた剣を振るうものの、真っ向勝負を望んでいるのが直感的に理解出来た。
ならば、傷の治癒を阻害する程度の権能くらい大目に見るのは当然だ。
『解ってるともさ!!』
応龍の挑発に雄治は吼える。
大剣を構え、斬り掛かってゆく。
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さて、それでは少し時間を巻き戻して雄治の視点で先程の一幕をなぞってみよう。
雄治はその巨腕で相手を殴る度に思う。いくら鱗を砕き肉を抉ろうとも、その全体からすれば掠り傷程度でしかない、ということを。
(ちぃっ、象と蟻レベルの身長差がここまで厄介だとは……っ!!)
こちらは精々が六メートル程度。
相手は目算ではあるが一キロより小さいという事はないだろう。
やろうと思えばもう少し『大きく』なれるが、精々現在の十倍程度が今の自分の限界だ。しかも今までこの応龍レベルの存在とは戦った事がないのだ。
十メートルや百メートル級の神を(手負いとは言えど)斃した雄治としても、この応龍は巨大過ぎた。
故に、避けられなかった。咄嗟の隙を突かれ、風の檻に囚われてしまったのだ。
『ぐぁ……っ!?』
そして檻ごと、その巨大な尾が見合わぬ速度で自分を殴打したのだ。
空から叩き落とされ、熱砂の大地へとまるで砲弾のように勢い良く落下していく雄治。
しかし、彼はそのまま砂地に頭から突っ込んでダメージを受けるつもりも無かった。
今の雄治の背に浮遊する十二枚の翼には、実は幾つかの機能があるのだ。翼は、雄治が空を飛翔する為以外に
その翼を広げて姿勢を制御し、雄治は落下している身体を無理矢理捻って四肢と尾を大地に叩きつけ--強引に着地した。
『――――っ!!』
その衝撃に一瞬思考が遠くに飛びそうになるが気合いで無視。この程度、学生時代から今まで通してやってきたド突き合いでは当たり前にあった痛みだ。別段率先して喰らいたくはないが、それでもこの程度で動けなくなるような軟弱な人生は送っていない。
首を動かし、舞い上がる砂のカーテンの向こうにいる応龍を(見えてはいないが)見据える。
即座に砂地を蹴り、空へと飛び出す。脚の踵部分に光の翼が生まれ、飛ぶと同時に空を蹴る。
速度を落とさず、それどころか徐々に速度を上げながら雄治は左肩の上から背後に手を伸ばす。
そこに在るのは、浮遊する十二枚の翼の内の一枚。それに手を添えるだけで翼は瞬く間に柄が伸び、『片刃の大剣』へと姿を変えた。
翼から変わる際に周囲に羽根が舞い散るも、それすら置き去りに雄治は応龍に肉薄する。
そして――振るわれた斬撃は、初めて掠り傷以上の傷を応龍に与えた。
それを受けて、しかし応龍は哄笑する。
この刀身には“毒”と“呪い”が込められているにも関わらず、だ。寧ろ使わなければ自分を斃せはしない、と応龍は言った。
しかしそれは、雄治を下に見ているが故の発言ではない。
寧ろその「逆」。先程からの発言は全て、力を出し惜しみしている雄治への催促の言葉なのだ。
全力を出し合っての闘い。それを応龍は望んでいた。そしてその事は、初めから雄治も見て取れた。
何故解ったのか?
それは、雄治もまた真っ向勝負を望んでいたからだ。
しかし雄治はまだ、全力を出さない。本気で闘っているが、まだ余力を残している。そしてそれは、応龍も同じだった。
闘いながら徐々に力を本来の全力の位置迄高めていく両者。
しかし先に雄治が手札を一枚切った事で天秤が彼の方へ傾いた。
振るう大剣によって、応龍の肉体には徐々に血塗れになっていくではないか。
振るわれる不可視の風を、十一枚の翼と脚の光翼にて、避け、受け流し、いなし、逸らしていく。無論その全てを避ける事は難しく、少なくない傷が雄治の肉体には刻まれ、少なくない出血がその赤い竜の身を更に赤く染めている。
双方共に満身創痍。
しかしそれと反比例するかのように、両者より溢れ出る呪力は天井知らずで上昇してゆく。
空を足場に縦横無尽に動き回りながら大剣と拳爪を振り回す雄治と、空の一角に陣取り、不可視の風を刃や鎚に変えて放つ応龍。
右手で鱗を斬り、即座に逆手へと持ち替え、その腕を後方へと引く反動で、その傷口に左拳を叩き込む。
だがその傷口を応龍は痛みに耐えながら締め付ける。左腕を引き抜けなくなった雄治に、全方向からの風による不可視の斬撃が渦を巻いた。例えるならば「刃の竜巻」だろうか。
満身創痍の身でしかも更に全身から血を噴き出す雄治。その駄目押しとして、応龍はその蛇のような長い身体を捻り、背後から後ろ脚で雄治を蹴り上げた。
そして、今度は全方向からの「風の壁」が彼を圧殺せんと迫る。既に満身創痍。如何に頑丈な竜体とて、この一撃を喰らえば応龍の勝利は確定するだろう。
些か残念に思いながら、応龍は雄治を見て――気付く。
『――っ!!』
牙を剥き出しにして食い縛り、彼は応龍を、その顎にある逆鱗を見据えていたのだ。
沸き上がる悪寒。しかしそれを払拭しようと更なる駄目押しの「風の壁」を生み出すよりも早く――雄治は動いた。
背にある三枚の翼が、雄治の大剣に吸い込まれたのだ。大剣を大きさはそのままに強化したのである。そしてその際に無数の羽根が彼を応龍から隠した。
そして、雄治は剣を構え、『
だがこのままでは、四方八方から迫る「風の壁」に圧殺されるのは眼に見えている。故に雄治はこの手段しか取れなかった。まさに分の悪い賭けと呼ぶに相応しい。しかしだ、『この程度』で勝てる相手だろうか? そんな直感を得た雄治は、更にその賭けに掛け金を上乗せする。
残り八枚の翼の配列を変更。姿勢制御を無くし、飛翔と推進力の増強のみに残りの翼を割り振ったのだ。
これらを雄治は一秒も満たさぬ内にやってのけた。
そして、一撃が放たれる。
それは違うことなく、次の瞬間には、
『むぅ……っ!?』
応龍の逆鱗に、雄治の大剣が突き刺さっていた。
『これで、終わりだっ。応龍っ!!』
雄治の呪力が更に高まり、両手で握っていた剣の柄を右手のみ逆手に持ち替え、そのまま大地へと超スピードで落下していくではないか。
『……ぅ、ぐ……ぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!』
『っがぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああっ!?』
一キロある巨龍がたった六メートルしかない竜によって、大地へと墜とされたのだ。もしこれを見ている魔術師や呪術師がいれば、改めて『神殺し』という理不尽への畏敬と恐怖を高めたであろう。
そして、先程よりも大量の砂塵を撒き散らして、応龍は熱砂の大地へと墜ちた。まるで原子爆弾が投下されたような轟音と共に。
●ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●
「勝負有り、だな」
筒袖の大男が酒を呑みながらそう言った。
黒僧もその言葉に無言で同意する。
しかし媛のみが、それに異を唱えた。
「いいえ、まだです」
その理由を問おうとして、しかしそれよりも早く術の向こうから「声」が響いた。
『成程』
瞬間。
こちらからでも解るレベルで呪力が増大する。その余波を受けて雄治は空中へ弾き飛ばされる。逆鱗を貫いていた大剣も同様に。
だがこれは、あの神殺しの呪力では--無い。
『十年、待った甲斐があるというものだ。この
その言葉と共に、幽世が「書き換え」られる。
砂地の全てが「水」に没し、苔の生えた岩山が無数に乱立する。青空と砂地しかないサマエルの空間が、別の何かに「上書き」されたのだ。
『こいつぁ……っ!?』
『そう、これは我の世界。我が傷を癒す為に作り上げた我の為の世界』
その言葉と共に、応龍の翡翠の鱗が剥がれ落ちていく。
その下に在る鱗の色は、「紫」。皇帝のみが許される高貴なる色。蛇腹側の鱗は薄い黄色から、濃い黄色へと色を濃くした。
その翼もまた、変化している。翼そのものの造形は変わっておらず猛禽--鷹のような翼はそのままだが、しかしその色が違う。先程までは鷹そのもののような翼だったが、今は四色に染まっている。青、紅、白、黒の四色に。これらは東西南北の四海を治める竜王たちの色。
中国古書『瑞応記』曰く、応龍は四竜たちの長であり、四神――青竜、白虎、玄武、朱雀の長でもある。何故なら応龍は、老いて神格を上げると黄龍と成るからだ。
また別の古書『述異記』では、「泥水で育った
『この幽世で傷を癒し、かつての神格を取り戻した際、我はふと思ったのだ。このまま嘗ての我を取り戻しても、嘗てのようにあの「女」に破れるのではないか、とな』
時を巻き戻したところで、結局は歴史の流れのままに「ここ」へ至るのではないか。そう応龍は考えたのだ。
『ならば、嘗て敗北した
だが「それ」は、神には本来思い付けない考え――の筈であった。
神とは、謂わば『過去そのもの』。故に己の時を戻すことで「強さ」を得るのだ。
しかし
だからこそ、人は過去である『まつろわぬ神』に反発する。
「強大だから」ではない。
「偉大だから」ではない。
「不死だから」ではない。
『まつろわぬ神』は未来を否定する存在だからこそ、人に討たれるのだ。
そしてその事に、応龍は気付いた。気付いてしまった。
『故に我は、まず今の「己」を受け入れた! そして、望んだ!
水が渦巻き、水の槍を形成する。
空を雷雲が覆い、風は嵐と成った。
『故に今の我は、あの「女」の下僕であり、黄帝の守護者であり、神精であり、四竜の
つまりこの応龍は、伝承神話総てを総括した応龍。
『言うなれば、この我は応龍ではなく、「真・応龍」である、と言えようか』
どこか得意気に、応龍は言う。
『おいおい、マジかよ……』
雄治はそんな応龍を見て、引き吊った笑みを浮かべてしまう。
『尤も、我が「こう」なるには、幾つかの条件が必要だったのだが、な。その内の一つは貴様だ、皆藤雄治』
『俺、だと……?』
『そう、この応龍を打倒出来る強敵と幽世にて認め合い、相対し、我が心より勝利を望まねば、この神体は成し得なかった。故に感謝する』
心からの感謝を込めて、応龍は言う。
『せめてもの礼だ。誰も知らぬ我が全霊、その総てを貴様に見せよう』
龍体を紫電蒼雷が疾走り、雨と雹を含んだ大嵐が雄治の甲殻を叩く。水面から伸びる巨大な水の槍は既に百を越え、それらの切っ先の全ては赤き竜の身に向けられている。
『故に貴様も魅せるが良い、その
そんな応龍の発破に雄治は苦笑する。
『……ったく、熱い御仁だねぇ。--ま、嫌いじゃねぇがな』
そう呟くと、手を翳した。すると、吹き飛ばされていた大剣が刺さっていた岩山から勝手に抜け、猛スピードで持ち主の掌に舞い戻ったではないか。
その大剣を両手で握ると、柄が伸び刀身が身の丈の三倍もの長さと大きさになった。
『良いだろう、こうなりゃとことん最後迄付き合ってやらぁっ!! 九州男児舐めんじゃねぇぞっ!!』
『そうこなくてはなぁっ!!』
こうして、赤き竜と紫の龍は激突する。巨剣と轟雷が相手を屠らんとぶつかり合う。
その一合目の余波を受けて、岩山の幾つかが破壊された。
水槍を打ち払い、嵐を物ともせず、雹雨を一顧だにせず、紫電蒼雷を巨剣で振り払う。
そして、また笑う両者。
それを見て黒僧は一言。
「似た者同士ですな」
勿論それに筒袖の大男と媛は無言で首肯するのだった。
次回から少し独自路線になりそうです。
どれくらい空くかはまだ解りませんが、なるべく早く書きます。
こちらでも無いように気をつけてますが、もし誤字脱字を発見したらお知らせ下さい。