Ⅰ
雪が降っている。
フワフワとした、綿のような雪だ。
それが、ゆっくりとした速度で、夜空から地面に降りてきている。
月が出ていた。
満月だ。
奇麗な真円が、東の空に浮いている。
十二月上旬の深夜、クラナガン南区の住宅街である。
家々の合間を走る人気の無い道を、体の大きな男が歩いていた。
アレクサンダー・ダイナだ。
アレクサンダーは、弾むような足取りで歩いていた。
バック・ファン・ガーデン総合ホールで、ビリー・タクトに
ビリーに踏み抜かれて傷めた膝は、既に完治したらしい。
アレクサンダーは、光沢感のあるネイビーのストライプスーツを身につけ、その上からベージュのコートを羽織っていた。
柄物の派手なネクタイを締めている。
冷たい外気に晒されているというのに、その頬はほんのりと紅潮していた。
吐く息に、アルコールの匂いが薄く混じっている。
遊びに行って、酒を飲んだ帰り──そういう風体だ。
いかにも機嫌が良さそうな雰囲気を纏っている。
事実、アレクサンダーの機嫌は、非常に良かった。
つい三日前、アレクサンダーはプロレスラーとして、大きく一歩前進したからだ。
チャンピオンになったのだ。
第六十四代中央プロレスヘビー級タッグチャンピオン。
それが、今のアレクサンダーだ。
ミッドチルダ西部、エルセア地方で行われた興業で、関節技の師でもあるベテランレスラーのカール・ダンクと組んでタイトルに挑戦し、見事な勝利を飾ったのだ。
信じられない事だった。
二ヶ月前まで、アレクサンダーはコミックレスラーとしての人気こそあるものの、とてもタイトルに絡めるような立ち位置にはいなかった。
それが今は、タッグとはいえ、チャンピオンである。
この躍進の切っ掛けは、皮肉なことに、ビリーがアレクサンダーを潰そうと仕掛けたセメントマッチだった。
前座で道化を演じ、会場を温める覆面巨人レスラー。
そういう役割をこなしてきたアレクサンダーが、元プロ格闘家を、客の前で叩きのめしてしまった。
しかも、その直後のハプニングで覆面を剥がされ、団体内で最も若々しい顔が明かされた。
結果、客が、そこに夢を見たのだ。
若手であるため、プロレスの試合ではあまり勝ち星を貰えないが、
そういう夢だ。
その夢に応えるように、アレクサンダーはレスラーとしてのキャラクターを変えた。
まず、キャプテン・ミッドチルダという覆面を脱ぎ捨て、リングネームを本名のアレクサンダー・ダイナへと変更した。
さらに、これまで客に隠していた過去、つまり、かつては管理局に所属し、戦場の最前線で活躍する強力な魔導師であったことを公開したのだ。
それだけで、人気は爆発した。
プロレスファンは心のどこかで、プロレスラーの強さを担保する存在を、常に求めている。
アレクサンダーは、その欲求を真っ正面から満たしたのだ。
タッグチャンピオンの座は、その報酬である。
そして、タイトルマッチから三日が経った今日、戴冠祝いにカールと飲みに出かけ、今はその帰りであった。
柔らかく降り積もった雪の上に大きな足跡を残しながら歩いていたアレクサンダーが、一つの建物の前で、ピタリと立ち止まった。
二階建てのアパートだ。
古い。
建てられてから、三十年くらいは経っているだろう。
全体的に、錆が浮かんでいるような印象を受ける建物だ。
アレクサンダーは、このアパートの一室に住んでいた。
立地と安さで選んだ部屋だった。
プロレスラーは、巡業のために家を空ける事が多い。
自宅で眠れる日は、一年のうち三分の一もないだろう。
ならば、住む場所の質にこだわる必要もない。
そう考えて、アレクサンダーはこのアパートに住んでいるのだ。
しかし、アパートを前にしたアレクサンダーは、なぜか中に入らず立ち止まっている。
何か、考えごとをしているように見えた。
そのまま、十数秒ほどが過ぎた時、アレクサンダーはアパートに背を向け、ふらりと歩き出した。
Ⅱ
次にアレクサンダーが立ち止まったのは、三十分ほどが経ってからだった。
雪は、まだ降り続けている。
その雪の向こうから、しゃらしゃらという、水の流れる音が響いている。
川岸だ。
住宅街の外れを流れる、それなりに大きな川。
その土手に整備されている遊歩道で、アレクサンダーは立ち止まったのだ。
車の一台くらいは楽に通ることができる、広い歩道である。
道を照らす街灯の傍に立ち止まったアレクサンダーは、おもむろにコートを脱ぎ始めた。
そして、それをきちんとたたんで足下に置いた。
次いで、ジャケット、シャツ、アンダーウェアと、上半身に着ている物を脱ぎ捨て、半裸になった。
アレクサンダーの逞しい上半身が露わになった。
三ヶ月前、天瞳流に道場破りを仕掛けた時とは、肉体の質が変わっていた。
所々に、筋肉のエッジが立っている。
肉のうねりが、そのまま外から見てとれるのだ。
以前は、筋肉と皮膚との間にあった、やや厚い脂肪の層。
それが、必要な分だけを残して、削ぎ落とされていた。
しかし、脂肪を落とした分、体が細くなったかというと、そういう風には見えない。
むしろ、広背筋や僧帽筋などは、三ヶ月前よりも大きく膨らんでいるように見える。
柔軟で、巨大な、筋肉の塊。
芸術品のような美しさを持つ、素晴らしいコンディションの巨体である。
タイトルマッチに向け、細心の注意を払いながら仕上げた肉体だった。
「出てきたらどうです」
半裸になったアレクサンダーは、突然、そう言った。
それほど大きな声ではないが、深夜の遊歩道には、良く響いた。
その呼びかけに応じるように、数拍の間を置いて、四人の人間が土手を登って遊歩道に姿を現した。
三人の男と、一人の女だ。
三人の男は、いずれも白い道着風のジャケットを身につけ、赤い袴を穿いていた。
腰に、鞘に収まった刀を挿している。
嵐鎧──天瞳流門下の剣士が、試合に臨む時の姿である。
三人の剣士は、全員が十代後半──アレクサンダーより少し上くらいの年齢に見えた。
女の方は、奇妙な格好をしていた。
顔の上半分を、黒いバイザーで隠しているのだ。
そのため、年齢や顔つきは、はっきりとはわからない。
ただ、すっきりと整った輪郭や、形の良い唇から、美しい顔であろうという予想はできた。
女の上半身は、白を基調としたジャケットに包まれている。
所々が鋲やベルトで装飾された、厳めしい、古い軍服を思わせるジャケットだ。
下半身は、白いニーソックスに包まれた脚が、丈の短いスカートからスラリと伸びている。
しなやかに筋肉の付いた、長い脚だ。
その長い脚の先で、頑丈そうな黒いブーツが、しっかりと地を噛んでいた。
身長は、百六十五センチといったところだろう。女性としては上背がある。
三人の剣士は、アレクサンダーの背後を取るように現れた。
仮面の女は、アレクサンダーの正面に立っている。
いずれも、五メートルほどの距離を、アレクサンダーとの間に置いている。
アレクサンダーは川を背にするようにして遊歩道の端に立ち、両者を視界に収めた。
アレクサンダーが自分のアパートに入らずにこの遊歩道まで来たのは、この四人に後をつけられている事を知っていたからだ。
「そちらのお兄さん達は、天瞳流の方ですよね?
アレクサンダーが、三人の剣士に向かって尋ねた。
どこか、小馬鹿にするような響きを含んだ声音だった。
「そうだ」
一人の剣士が、一歩前に出ながら固い声で答えた。
髪の短い男だった。
中肉中背──そう見えた。
特別に肩幅が広かったり、胸が分厚かったりするわけではない。
ただ、道着の袖からのぞく前腕だけが、体型に対して不釣り合いなほどに太い。
他はともかく、手首の力や握力は、かなり強いだろう。
かなり特徴的な筋肉の付き方である。
この男なりに、剣士としての最適解を求めて鍛え上げた肉体であるらしい。
「お前は、俺が倒す」
「俺がって……これから三人でかかろうって人が言う台詞じゃないでしょ」
アレクサンダーは一歩前に出た剣士の言葉尻を捕らえ、からかうような口調で返した。
それに対し、前に出た剣士の後ろに佇む二人の取り巻きの片方が、口を開いた。
「俺たちは手を出さない。ただの立ち合い人だ。お前は、汚い手を使うらしいからな」
「汚い手って…… まぁ、いいですけど」
アレクサンダーは呆れたような口調で呟くと、今度はバイザーの女に向けて言った。
「そっちのお姉さんは? このお兄さん達の友達って感じには見えないんですけど」
「はじめまして」
バイザーの女は、落ち着いた声でアレクサンダーの問いに応じた。
「
「覇王……? ええと、武道団体か何かのタイトルですか?」
「いいえ。古代ベルカ時代にあった、シュトゥラという国の、クラウスという王が得た称号です」
「は、はぁ……ベルカの王様ですか?」
「はい」
バイザーの女──アインハルトは、場違いなほどに素直で丁寧な受け答えをする女だった。
しかし、アレクサンダーはアインハルトが語った内容に対し、あからさまに困惑を浮かべている。
ベルカとは、六百年ほど前、戦乱の末に滅びた世界だ。
魔法に関して非常に高い技術を有していた世界である。
当時使用されていた古代ベルカ式という魔法形式が、近代ベルカ式という形にアップデートされ、現在も一線で活躍しているほどだ。
また、二年前に起きたジェイル・スカリエッティ事件も、古代ベルカ時代の超兵器、聖王のゆりかごの復活を最終目的としていた。
そんな古代ベルカの王を名乗られたことに、アレクサンダーは戸惑っているのだ。
しかし、アインハルトはアレクサンダーの困惑を気にした様子もなく、言葉を続ける。
「アレクサンダー・ダイナさん。あなたの拳と私の拳、どちらが強いのか。私はそれを確かめたい」
「僕の拳? プロレスはパンチ禁止だから拳は使わないんですけど……ってのは冗談で。
どちらが強いのか比べたいってのは、僕とフェアな条件で闘いたいってことですか?」
「はい」
アインハルトは、アレクサンダーの問いに肯定を返した。
拳を比べる、と言っているあたり、アインハルトは格闘家なのだろう。
天瞳流の師範クラスを何人も再起不能に追い込んでいるアレクサンダーの噂を耳にして、腕試しを挑みに来た──そんなところか。
アレクサンダーは、天瞳流の剣士達とアインハルトに向けて、眉をひそめながら言った。
「これは困ったことになりました。そちらのお兄さんも、こちらのお姉さんも、僕と一対一で闘いたいと?」
「ああ」
「はい」
「じゃあ、まずは二人でやってくださいよ。
「なに!?」
勝った方と闘ってやるから、先に二人で闘え。
そういったアレクサンダーの発言に、天瞳流の剣士が怒ったような声をあげた。
しかし、アレクサンダーは、子供に言い聞かせるような口調で返す。
「だって、そうするしかないじゃないですか。
どちらかが、今日はもういいやって言って帰るんなら、別にそれでいいんですけど。
お兄さんもお姉さんも、そういう聞き分けの良いタイプじゃないんでしょ?」
「…………」
押し黙る剣士。
そこへ、アインハルトが口を挟んだ。
「私は、かまいませんよ」
完結な了承だった。
それを受けて、天瞳流の剣士も渋々とうなずいた。
「じゃあ、決まりですね」
そう言ったアレクサンダーの体が、ふわりと宙に浮いた。
飛行魔法だ。
「まぁ、ルールなんかはそちらで決めてください」
遊歩道を離れたアレクサンダーは、川の上に浮遊しながら、軽い口調でそんな事を言った。
しかし、剣士もアインハルトも、その言葉を聞いてはいなかった。
アレクサンダーが口を開いた時には、もう闘いは始まっていたからだ。
二人とも真っ直ぐに、相手に向かって歩き始めていた。
そして、互いの距離が五メートルほどになった時、同時に立ち止まり、構えた。
剣士は、軽く腰を落とし、左手で刀の鞘を、右手で刀の柄を握っている。
以前、ミカヤ・シェベルがアレクサンダーと闘った時に見せた、抜刀居合の構えである。
対するアインハルトは、左半身を半歩前に出し、オープンフィンガーグローブを装着した両腕を持ち上げた。
手刀の形にした左手を緩く前に出し、拳を握った右手を腰の横に構えている。
両脚を前後に開き、重心を落としている。
どっしりとした、安定感のある構えである。
しかし、近代格闘技のいかなるセオリーにも、このような構えはない。
上体が起き上がっているため、蹴りを含めた打撃のための構えであろうということは予測できるが、それ以上はわからない。
古流武術──
何をしてくるか、わからないところがある。
旧い武術というのは、競技のためでなく、戦場で敵を殺すために発達した技術だからだ。
剣士もアインハルトも、睨み合ったまま動かない。
二人の間に、硬い緊張感が生まれていた。
そのまま、呼吸音がひとつ、ふたつ、みっつ──
四つ目の呼吸が始まろうかという瞬間、アインハルトが動いた。
地を蹴り、一気に間合いを詰めたのだ。
凄い瞬発力だった。
アインハルトの背後で爆弾か何かが炸裂して、その勢いで前に弾き出されたかのような勢いだった。
しかし、剣士は、そのスピードに驚きはしたものの、慌てることはなかった。
冷静にタイミングを見極め、天瞳流が誇る抜刀居合を放った。
金属光が、闇夜に閃く。
次の瞬間、ぎゃあん、という背筋がささくれ立つような、甲高い音が響いた。
アインハルトが、剣士が振るった刀を、右の正拳で迎え打ったのだ。
拳を魔力で保護しているにしても、よほどの自信と度胸がなければ、こんなことはできない。
刀を握る剣士の右手が、頭上に跳ね上げられていた。
力負けしたのだ。
アインハルトの拳は、刃を正面から打ったにも関わらず、一筋の傷すら負っていなかった。
「げぇっ!?」
剣士が、呻きとも悲鳴ともつかない声をあげた。
体を
刀を弾かれ、無防備になったところへ、アインハルトが前蹴りを見舞ったのだ。
アインハルトの右の中足──足の親指の付け根が、綺麗に鳩尾を貫いていた。
さらに、一歩踏み込んだアインハルトが、前屈みになって低くなっていた剣士の顔面に、膝を打ち込んだ。
めじっ、という肉が潰れる強烈な音がした。
剣士の体全体が勢いよく後方に回転し、じゃっ、と音を立てて雪の上に倒れた。
剣士の鼻は、完全に軟骨が潰れており、濃い、ドロドロとした血が溢れてきている。
両眼は焦点を失い、ただ宙に向かって開いているだけだ。
互いに構えてから五秒と経たないうちに、アインハルトは天瞳流の剣士の意識を奪ってみせたのだ。
圧倒的な勝利である。
アインハルトの呼吸には、毛ほどの乱れも無い。
おそらく、アインハルトの内部には、一欠片の疲労も生じていないだろう。
アインハルトが、静かに一歩下がった。
同時に、アインハルトに倒された剣士の取り巻きの二人が、意識を失った剣士に駆け寄ろうとした。
その刹那──
どどど、という轟音と共に、幾重もの光が瞬いた。
「ぎゃっ!?」
「ぐわっ!?」
という二つの短い悲鳴と、ドサリ、ドサリという、重い物が雪の上に倒れる音が響いた。
川の上に浮遊し、アインハルトと剣士の闘いを見ていたアレクサンダーが、アインハルトと、剣士の取り巻きの二人に向けて、数発ずつ魔力弾を放ったのだ。
決着の直後、つまり、闘っていた者、闘いを見守っていた者両方の緊張が、一気に弛緩する瞬間を狙っての奇襲であった。
これで、面倒な復讐者や身の程知らずな挑戦者を、一網打尽に──
そんな事を考えながら行った不意打ちだった。
しかし、一拍の間を置いて、アレクサンダーは、
「え、嘘!?」
と、驚きの声をあげることになった。
アインハルトに向けて放った魔力弾が、全て掴み取られていたからだ。
アインハルトは、アレクサンダーの魔力弾を、弾殻を壊さずに素手で受け止め、そのコントロールを奪ってしまったのだ。
にわかには信じられない光景だった。
「覇王流、旋衝破……」
アインハルトはそう呟きながら、掴んでいた魔力弾を握り潰した。
旋衝破──そういう名前の技であるらしい。
「凄いね……」
アレクサンダーは驚きを隠せぬまま、ゆっくりと空中を移動し、八メートルほどの距離を置いてアインハルトの正面に降り立った。
正面にアインハルトを見据えながら、構えた。
両脚を内股にし、上半身を浅く前傾させ、両腕で頭を覆った。
頭部と股間──鍛えようのない急所だけを守ることができればよい。他の部分は、いくら打たれようとも耐えられる。
岩山の量感を持つ、並外れて頑強な巨体があって、初めて可能となるスタイルだ。
対するアインハルトは、先ほどと同じ重心を落とした構えを見せている。
左手を緩く前に出し、右手を腰の横で拳に握っている。
やっかいだな──
アレクサンダーは、そう思った。
腰の横に構えられるアインハルトの右拳がだ。
タックルに行くと、拳で打つのに最適な空間へと顔面を差し出す事になる。
なかなか考えられた構えであるらしい。
アインハルトの表情は、バイザーで顔の上半分が隠されているため、うかがい知ることができない。
ただ、アレクサンダーの不意打ちに対して、怒ったり驚いたりしている様子はない。
不意打ちもまた一つの戦術であると認める、実戦的な思想。
それが、アインハルトの中にはあるらしかった。
一呼吸の静寂の後、アインハルトが地を蹴り、猛烈な勢いでアレクサンダーへと接近した。
Ⅲ
アレクサンダーに向かって疾るアインハルトの顔面に向かって、雪の塊が飛んできた。
アレクサンダーが、足元に積もっている雪に爪先を潜り込ませ、そのまま蹴り上げるようにして飛ばしてきたものだ。
アインハルトは、上半身と首を振って、その雪の塊を避けた。
この一動作のために、ほんの一瞬、アインハルトの姿勢は崩れ、突撃の勢いが弱まった。
よく考えている──
そう、アインハルトは思った。
普通なら、闘いの途中で雪を顔に向けて飛ばされたとしても、わざわざ避ける必要はない。
軽く頭を下げるなり、首を縮めるなりして、額や頭頂部で受けてしまえばよい。
雪には、有効な攻撃力がないからだ。
もし、顔に飛んでくるのが石ころであれば、物理的な破壊力を伴う。
砂粒であれば、空中で散らばって、厄介な目潰しになる。
しかし、雪には、そういった性質はない。
眼球に直接当たらなければ、雪の塊が人体にダメージを与えることは、まずないのだ。
では、なぜアインハルトは雪を避けたのか。
それは、バイザーを装着しているからだ。
アインハルトの双眸を隠す、黒いバイザー。
もし、飛んできた雪の塊を額で受けたとして、砕けた雪がこのバイザーに付着すれば、拭いとるまで視界の一部を失う事になる。
いや、付着といわず、バイザーに雪の欠片が触れただけでも、その部分には水滴が残り、視界が損なわれてしまうだろう。
そのような事態を嫌って、アインハルトは、突撃の勢いを削がれてでも、雪の塊を回避したのだ。
アレクサンダーは、そこまで思考した上で、雪を飛ばしたはずである。
それで、アインハルトは、よく考えていると思ったのだ。
アインハルトは、速度を落としながらも、まっすぐにアレクサンダーの間合いに侵入した。
その途端、再び、顔面に向かってくるものがあった。
アレクサンダーの、馬鹿でかい右掌だ。
掌底突きが、アインハルトの顔に向かって放たれたのだ。
アインハルトはこの一撃を、ステップを踏み、半身になることで避けた。
アレクサンダーの突きは、ぎこちない突きだった。
手打ち──つまり、肩より先の力だけで放たれる突きになっていたのだ。
腰の入っていない、下手な突きである。
しかし、そのことがアインハルトの動きを、ほんの僅かな時間、止めてしまった。
腰を入れ、体重の乗った突きを放つと、重心が前に出ている方の脚に移る。
その体重の乗った脚に蹴りを入れると、非常に良く効くのだ。
アインハルトは、アレクサンダーの掌底突きを察知した時点で、そういう反撃をしようと考えていたのだ。
しかし、アレクサンダーの掌底突きが、思いのほか下手くそな手打ちであったため、重心の偏りが発生していない。
それで、アインハルトの動きに、迷いが生じた。
セオリーに則っていない打撃が、アインハルトを惑わせたのだ。
その一瞬の戸惑いをついて、アレクサンダーは二発目の掌底を放ってきた。
やはり、手打ちだ。
アインハルトは、それを捌いた。
左腕の手首のあたりで、迫りくるアレクサンダーの太い右腕を上方向に弾いたのだ。
重かった。
重さが一トンくらいある太い鉄の柱を鎖で宙吊りにして、それを打てば、このような感触になるのではないか。
それぐらい、重い感触だった。
その感触が、遠い記憶の中にいる、一人の女性を思い起こさせた。
強く、優しかった
彼女は、事故で失った両腕を、鋼鉄の義腕で補っていた。
オリヴィエ──
その名が胸に浮かんだ瞬間、かあっと腹が熱くなった。
気づくと、アインハルトは何も考えずに、思い切り力を込めた蹴りを放っていた。
右の回し蹴りだ。
アレクサンダーの左脇腹に、綺麗に入っていた。
「うっ」
アレクサンダーは顔を歪め、短く声をあげた。
にもかかわらず、同時に、三発目の掌底を放ってきてもいた。
今の蹴りが、効いていない!?
アインハルトは驚愕しながらも蹴り脚を戻し、先ほどと同じように、掌底突きを捌いた。
そして、再度蹴りを放った。
アレクサンダーがそれを腹で受け、声をあげながら反撃してくる。
打ち合いが始まった。
互いの肉と骨を潰し合うような、重い打撃の応酬が始まったのだ。
柔らかく降っていた雪が、いつの間にか止んでいた。
【朗報】ミカヤ・シェベルさん、登場五年目にして遂に単独変身バンク獲得。
感想・指摘は随時受け付けています。気軽に書き込んでください。