Ⅳ
掌底を放つと、回し蹴りが返ってくる。それを腹の肉で受ける。
掌底を放つと、回し蹴りが返ってくる。それを脛でカットする。
掌底を放つと、回し蹴りが返ってくる。それを肘でガードする。
凄い──
アレクサンダーは、本気でそう思った。
目の前に立つアインハルトのことだ。
実力は確かなようだが、少し頭のおかしな女。
これが、実際に闘い始めるまで、アレクサンダーがアインハルトに対して抱いていた印象だ。
古代ベルカの王様がどうのと、意味不明なことを真面目な口調で語る女。
それでいて、天瞳流の剣士を鮮やかな手並みで倒してのけ、不意打ちにもきちんと対応できる女。
そういう、わけのわからない女だと、アレクサンダーはアインハルトのことを思っていた。
今は、そこにもう一つ感想が加わっている。
アインハルトが身につけている術理に対する驚きである。
今、アレクサンダーとアインハルトは、足を止めて打ち合っている。
あり得ないことだった。
アレクサンダーの体重は、およそ百四十キロ。
対するアインハルトの体重は六十キロに届かない程度だろう。
倍どころではない体重差がある。
それなのに、アインハルトは、真正面からアレクサンダーと打ち合っているのだ。
いや、打ち合っているというのは、少し違うかもしれない。
アインハルトの攻撃は全てアレクサンダーに当たっているが、アレクサンダーの攻撃は、一発もアインハルトに当たっていないからだ。
当たっていないと言っても、避けられているわけではない。
ブロックされているわけでも無い。
アレクサンダーの知らない、独特の防御方法で防がれているのだ。
アインハルトの顔面に向けて、掌底を放つ。
すると、下からアインハルトの前腕が、ぐるんと円を描くような軌道で跳ね上がってきて、アレクサンダーの腕を打つ。
それで、掌底突きの軌道を逸らされて、当たらないのだ。
受け流し──アインハルトの防御方法を言葉で表現するなら、これが一番近いだろう。
しかし、ニュアンスがやや異なる。
宙を舞う羽毛は、どれほど拳を打ちこまれようと傷つかない──というような、華麗な技術ではないのだ。
剛。
この一文字が、アインハルトの根底に感じられる。
頭上から、巨大な岩が落下してくる。
それに対し、重い鉛の砲弾を撃ち込むことで、軌道を強引に変える。
アインハルトが自分より八十キロは重いアレクサンダーを相手にやっているのは、そういうことだ。
いくらアレクサンダーの打撃技術が拙いものとはいえ、ありえないことである。
あのノーヴェ・ナカジマですら、アレクサンダーの攻撃に対しては防御という選択肢を捨て、触れることさえ恐れていたのにだ。
それなのに、アインハルトはアレクサンダーの打撃を、半ば力技で防いでいる。
異常なことだ。
その異常な事態が現実となっているのは、アインハルトが身につけているシステムが優れているからであろうと、アレクサンダーは考えている。
打ち合って感じたアインハルトの身体能力が、ノーヴェには一歩及ばないレベルだからだ。
にも関わらず、アインハルトはノーヴェにできなかったことをやっている。
これは、身につけているシステムの差であると考えるしかない。
覇王流。
非常に優れた技術を持つ流派であることは間違いない。
しかし、無名の流派だ。
アレクサンダーは覇王流の名を耳にしたことが無い。
プロレスという、格闘技界とは比較的近い世界に身を置いているにもかかわらずだ。
これは、奇妙なことである。
武術の流派というものは、基本的にその存在を世間に対してアピールするものである。
どれほど優れた技術を有していようと、世間に隠していては、金も名誉も手に入らないからだ。
優れた流派は、自然に名が知れ渡るものなのである。
しかし、覇王流という流派は、アレクサンダーの巨体を捌けるような技術を有していながら、無名なのだ。
何か特別な事情があるのか。
もしかしたら、先ほどアインハルトが語った、古代ベルカの王様がどうのという事情が絡んでいるのかもしれない。
もちろん、アレクサンダーがたまたま知らないだけで、覇王流がそれなりに名の知れた流派である可能性もある。
それならば、おいしい。
アインハルトを倒すことがだ。
アインハルトは、覇王という仰々しい称号を名乗っていた。
おそらく、流派の中で何かしらのポストを持っているのだろう。
そのような人間をプロレスラーであるアレクサンダーが倒せば、それはそのままプロレスの地位向上に繋がる。
それが、おいしいのだ。
もっともこれは、アレクサンダーが負ければ、プロレスが軽んじられることに繋がるということでもある。
しかし、アレクサンダーはそのリスクを恐れていない。
アインハルトに勝つ自信があるからだ。
自分は、
そんな思いが、アレクサンダーの中にはある。
ノーヴェに勝ったことが、自信の根拠なのだ。
目の前のアインハルトとノーヴェを比べると、ノーヴェの方が強い。
そういう見立てが、アレクサンダーの中にあるのだ。
もちろん、ノーヴェとアインハルトが別人であることを、アレクサンダーは理解している。
現に、アインハルトはノーヴェがやろうともしなかった、アレクサンダーとの正面からの打ち合いを行っている。
スタイルもまるっきり違う。
見慣れない古流武術で闘うアインハルトに対し、ノーヴェは近代的なストライクアーツの使い手であった。
そういったことを全て踏まえた上で、ノーヴェの方が強いと、アレクサンダーは判断しているのだ。
しかし、そこに油断があるわけではない。
古流は、何をやってくるかわからないことを知っているからだ。
眼球を突く。股間を蹴り上げる。闇器を使う。
競技として発展した格闘技と違い、相手への思いやりの欠片もない攻撃を、当然のように技術体系に組み込んでいるはずである。
そういったことに警戒しながら、アレクサンダーは、こうも思っている。
そういうのは、自分の方が上手い──
競技格闘技の常識からすればダーティとされるような攻撃に関して、アレクサンダーは大きな自信があった。
師であるカールに、散々仕込まれたからだ。カールは古流柔術を研究していたことがあり、驚くほど実戦的な裏技を多く知っていたのだ。
その中には、アインハルトのようなストライカーに対して有効な物もいくつかある。
いっそのこと、強引にこちらから仕掛けてやろうか──
アインハルトの蹴りを腹で受けながらアレクサンダーがそう思った直後、その考えを見透かしたようにアインハルトが後退し、間合いを外された。
むぅ、とアレクサンダーは不満げな表情を浮かべた。
Ⅴ
落ち着け──
アインハルトは、自分に対して言い聞かせた。
正面およそ三メートル先に、アレクサンダーがいる。
身につけているのは、紺色のズボンと黒い革靴、そして額を隠すようなヘアバンドだけだ。
上半身が剥き出しになっているため、呆れるほどに厚い筋肉が、芸術作品のように骨格を覆っている様が見てとれる。
恐ろしいまでに鍛えあげられた、頑強な巨体だ。
アインハルトは、十二発、アレクサンダーに蹴りを叩き込んだ。
なのに、アレクサンダーに有効なダメージを与えたという手応えがない。
半分はブロックされたが、残り半分はまともに当たったというのにだ。
信じられないタフネスだった。
これほどまでとは──
アインハルトの心は驚愕で満たされている。
天瞳流という剣術流派を相手に、たった一人で抗争を展開している格闘家がいる。
アインハルトがアレクサンダーをつけ狙ったのは、そんな噂を耳にしたことがきっかけだった。
初めは、他流試合か何かの結果に尾鰭がついたのだろうと思った。
しかし、詳しく調べてみると、天瞳流の師範格の人間が、ここ数ヶ月で何人も再起不能に追い込まれている事がわかった。
プロレスという、格闘技とは呼べないショービジネスを生業とする一人の若者によってだ。
一つの流派を丸々相手取り、怨恨が渦巻くような闘いをする。
そんな人間が、今の時代に存在するとは思ってもみなかった。
闘いたい。
アインハルトはそう思った。
勝って、強さを証明するためにだ。
己の、覇王流の強さを証明すること。
それが、アインハルトの存在意義なのだ。
祖先から託された悲願である。
クラウス・イングヴァルト。六百年も前の時代の、アインハルトの遠い祖先。
彼の記憶の一部を、アインハルトは受け継いでいる。
哀しい記憶である。
クラウスが愛した、一人の女性に関する記憶だ。
オリヴィエ・ゼーゲブレヒト。
聖王家の末席にあった王女だ。
優しく可憐で、それでいて武技にも優れる、人々の理想を形にしたかのような女性だった。
彼女は、その優しさ故に戦乱に覆われた世を憂い、聖王のゆりかごという超兵器を起動するための生体コアになることを望んだ。
クラウスは、そんな彼女を力づくで止めようとした。
ゆりかごの生体コアとなれば、オリヴィエの命が数年で擦り切れてしまうとわかっていたからだ。
しかし、クラウスは易々とオリヴィエに叩きのめされてしまった。彼女の笑顔を曇らせることすらできずにだ。
その時の嘆きが、アインハルトの中に受け継がれている。
守るべきものを守れない悲しみ。それをもう繰り返さない強さ。
クラウスが遺した覇王流というシステムが、その高みにあることを証明することこそが、アインハルトの、覇王の悲願だった。
その視線が、頭部を覆うように構えられた両腕に、どうしても吸い寄せられてしまう。
凄まじい力を秘めた、丸太のような腕だ。
その力強さが、外見上は似ても似つかないオリヴィエを連想させるのだ。
オリヴィエは、事故で失った両腕を、鋼鉄の擬腕で補っていた。
頑丈で力強く、それでいて繊細な動作をこなす鋼の腕だ。
強力な腕。
それは、覇王流が倒さなくてはならない相手なのだ。
そこまで考えたアインハルトは、ふっ、と短く息を吐いた。
思考を冷ますためだ。
アレクサンダーとオリヴィエを重ねてはいけない。
そう、自分を戒める。
腕力が強いということ以外、何一つ共通点はないのだ。
そんな二人を重ねてしまっては、勝てる闘いも勝てなくなってしまう。
今、考えるべき事は、アレクサンダーの怪物的なタフネスをどう攻略するかということである。
倒れるまで攻撃を叩き込み続けるというのは、現実的ではない。
アレクサンダーが、組み技を得意としているらしいからだ。
アインハルトとアレクサンダーの間にあるパワーの差は絶対的である。
闘いを長引かせるうちに一度でも組まれてしまったら、何もできずに戦闘不能に追い込まれてしまう可能性が高い。
ならば、どうするか。
鍛えようのない人体の急所を狙って、一撃で倒すのが望ましい。
では、どこを狙うか。
わかりやすいのは、股間だ。
だが、アレクサンダーは両脚を内股気味にして、股間への攻撃を常に警戒している。
下方からの蹴りという限定的な攻撃でしか狙えない股間を、ああも用心深く守られては、手のだし用がない。
では、顔面ならどうか。
アレクサンダーは、太い両腕を頭部を覆うように構えている。
股間同様、厳重な守りが敷かれているのだ。
しかし、頭というのは、いろいろな方向から狙うことができる。
正面から、左右から、真下から、真上から、背後から──
三十センチ以上の身長差があるため多少の制限はあるが、それでもかなりバリエーション豊かな攻撃で頭部を狙うことができる。
ただ腕を構えているだけでは、それらを全て防ぐことはできない。
針の穴を通すような作業になるが、顔面を打つことは股間を蹴り上げることほど難しくはないだろう。
そして、顔面にはいくつもの急所がある。
眼球。
眉間。
顳顬。
顎先。
そして、鼻や、耳や、口──人体の穴。
急所だらけだ。
その中の一つを狙う。
人中──唇と鼻の間を、正面から突く。
アインハルトは、そう決めた。
人中の奥には、太い神経の束がある。
ここに衝撃を加えられると、どのような人間でも悶絶することになる。
耐えられる人間はいない。
人体がそういうふうにできているからだ。
チョークスリーパーで脳への血流を阻害されて失神することを、どのような我慢も防げないのと同じだ。
どれほど意思が強いか。どれだけ体を鍛えているか。
そんな事とは無関係に、一撃で戦闘不能に追い込む。
アインハルトは、そう決意を固めた。
これは、アレクサンダーの生命を奪いかねない危険な攻撃である。
しかし、アインハルトの中に躊躇いはない。
この闘いが、そういう枠組みの闘いだと理解しているからだ。
アインハルトがアレクサンダーの急所を狙うと決めたように、アレクサンダーも必要と判断すれば、アインハルトの急所を迷わず攻撃してくるだろう。
アインハルトはわかっているのだ。
油断すれば、目の中に指をねじ込まれて掻き回されたり、靴のつま先で股間を蹴り上げられて性器や尻の穴を裂かれることになると。
不意に、アインハルトは顔の上半分を覆っていたバイザーに手をかけ、足元に投げ捨てた。
凛々しく、美しい。
誰もが見ればそう思うであろう、端正な顔立ちが露わになった。
絹のような白い肌。すぅ、と通った形の良い鼻梁。
そして、何より目を惹くのが、その双眸だった。
光彩異色である。
透き通った、宝石のような瞳であった。
しかし、その美しい瞳の奥に、計り知れない覚悟が隠されている。
「いきます」
呟き、アインハルトは動いた。
右斜め前へステップを踏んだのだ。
疾い。
一瞬でアレクサンダーの左前方に立った。
その位置で、アインハルトの上半身が、わずかな
高い蹴りを放つ前の予備動作。
そのように見えた。
アレクサンダーが、頭部を守る腕に力をこめる。
しかし、蹴りは放たれなかった。
アインハルトが見せた
アインハルトは、蹴りを放つかわりに、サイドステップを踏んでいた。
ひらりと、アレクサンダーの正面に立った。
右の拳が構えられていた。
その拳の握り方が、普通とは違っていた。
握られた拳から、中指の第二関節が飛び出している。
中高一本拳。
そう呼ばれる拳である。
アレクサンダーを見ると、アインハルトの動きに、ほとんどついて来ていない。
ハイキックに対するガードを構えた状態のままだ。
そんな間抜けな姿を晒すアレクサンダーに向けて、しゃっ、と空気が焦げるような速度でアインハルトの拳が放たれた。
アレクサンダーの顔面へ向かって真っ直ぐに突き進む。
拳から飛び出た中指の関節部が、そのままアレクサンダーの人中に突き刺さるかと思われた時。
がばっ、と開いた。
アレクサンダーの口がだ。
まさか!?
アインハルトがそう思った時には、拳がアレクサンダーの口を打っていた。
バキバキという、歯を次々とへし折ってゆく感触。
アインハルトは、目を見開いた。
このような防御があったか。
そう、驚いた。
口に拳を受けたことで、アレクサンダーの前歯は、根こそぎ無くなっただろう。
唇の肉も、潰れるか裂けるかしたはずだ。
もしかしたら、顎の関節が外れているかもしれない。
大きなダメージだ。
しかし、人中を打たれる場合と違い、それらは我慢できるダメージだ。
凄まじい痛みを伴うだろうが、身体の機能をシャットダウンされるわけではない。
なんという判断か──
驚きと称賛が入り混じった感情にアインハルトが囚われた瞬間、ぬぅ、とアレクサンダーの太い腕が伸びてきた。
組まれた。
アインハルトのジャケットの襟が、アレクサンダーの馬鹿でかい左手に握られていた。
凄い力で引かれ、アインハルトの上体が前に泳ぐ。
そこへ、アレクサンダーの右手が伸びてきて、アインハルトの股間をがっしりと掴んだ。
引っこ抜かれた。
アインハルトの体が、高々と宙に持ち上げられた。
ぐるん。
アインハルトの視界が、回転した。
加速度。
落下。
受け身を──
そう思った時には、凄まじい衝撃と共に、足下に降り積もる雪へと背中がめり込んでいた。
肺の中にあった全ての空気が、塊となって口から飛び出る。
二度、三度と体が雪の上を跳ね、アインハルトの体は転がった。
そして、その回転が止まった時になってやっと、
「がっ……ぁっ……」
と、呻き声にもなっていない悲鳴を、アインハルトは漏らすことができた。
ボディスラム──プロレスにおける、最もポピュラーな投げ技だった。
プロレスの投げ技としては、特別に威力が高いわけではない。
しかし、足下が悪かった。
多少、雪が積もってはいるが、その下は硬い石畳である。
単純な投げ技でも、その攻撃力は絶大なものとなる。
アインハルトの全身にある神経という神経が、痛みの信号を発していた。
百本の有刺鉄線が体内を這い回っているかのような痛み。
呼吸ができない。
横隔膜が引き攣って、自ら千切れそうになっているのだ。
内にある苦痛が、全ての感覚を塗り潰している状態だった。
アインハルトは、音も無く悶え苦しむ。
その耳に、一つの声が滑り込んできた。
「
空気の抜けるような、奇妙な声だ。
アインハルトに前歯を全てへし折られたアレクサンダーの声である。
「
重い気配が近づいて来る。
その気配には、紛れもない殺気が含まれていた。
アレクサンダーが、アインハルトにトドメを刺すべく、ゆっくりと近づいてきているのだ。
やられる──
そう思った瞬間、アインハルトの心は、凄まじい恐怖に覆われた。
その恐怖は、痛みへの恐怖ではなかった。
怪我をさせられることへの恐怖でもなかった。
死への恐怖ですらなかった。
アインハルトが感じた恐怖──それは、敗北への恐怖だった。
オリヴィエと同じ、強い腕を持った相手に、覇王流が負けるという恐怖。
覇王流が否定される恐怖だ。
その恐怖が、アインハルトを覚醒させた。
全身の血液が突沸した。
虚ろだった二色の眼が、焦点を取り戻した。
アインハルトが最初に見たのは、仰向けに倒れている自分の顔面に向かって降ってくる、アレクサンダーのでかい靴の底だった。
「くわぁああああああ!?」
アインハルトは、悲鳴をあげながらも首を振り、すんでのところで踏みつけを回避した。
そして、ゴロゴロと雪の上を転がってアレクサンダーから逃げた。
アレクサンダーは、追ってこなかった。
「
そう呟いただけだった。
心の底から驚いているらしい。
アインハルトにとっては、ありがたい事だった。
アレクサンダーの足下から二メートルの位置で仰向けになったアインハルトは、眼球だけを動かしてアレクサンダーを見上げた。
酷い顔をしていた。
唇がブクブクに膨れ、捲れあがっている。
前歯が全て無くなった、不気味なピンク色の歯茎が覗いていた。
口から下は血まみれで、一定のリズムで顎から赤い雫が滴り落ちている。
しばらくものをまともに食べることはできないだろう。
その姿を見て、アインハルトの中に蘇ったものがあった。
アレクサンダーに勝利するという意思である。
アインハルトは立ち上がるために、全身の筋肉を稼働させた。間接という間接が、ぎしぎしと痛んだ。
肺が不規則に、速いペースで動いていて、喉が汚い音を立てている。
その音を聞きながら、仰向けの状態から寝返りを打ち、体を丸める。
尻だけを高く持ち上げるような姿勢になった。
冷たい雪に顔が埋もれている。
震える手で体を持ち上げ、四つん這いになった。
「あぐぅあ……がぁああああ!」
悲鳴とも雄叫びともつかない叫びをあげながら、二本の脚で立った。
アインハルトは、そういう風にして、ひどく緩慢に立ち上がったのだ。
そして、べっとりと顔を血で汚したアレクサンダーと向き合う。
「
アレクサンダーが、呟きながら構えた。
あの、頭を覆う亀のような構えだ。
満身創痍のアインハルトに対して、一欠片の油断も見せない。
対するアインハルトは、突っ立ったまま、両腕をダラリと体側に垂らしている。
何か考えがあってそうしているのではない。腕を持ち上げることすらできなくなっているのだ。
呼吸は不規則で荒く、痰が絡んだような音が喉から漏れ続けている。
今のアインハルトは、軽く小突くだけで後ろに倒れてしまいそうに見える。
しかし、アレクサンダーは攻撃を仕掛けない。
守りの構えのまま、二メートル弱の距離を挟み、半死半生といった様子のアインハルトと睨み合っている。
そのまま五秒がすぎ、十秒が過ぎ、二十秒が過ぎた。
しかし、アレクサンダーもアインハルトも動かない。
動いたのは、一分以上が過ぎてからだった。
最初に動いたのは、アインハルトだった。
ふらりと、アインハルトの体が前方に傾いた。
そのまま倒れてしまうように見えた。
しかし、アインハルトはギリギリのところで右足を前に出し、踏み留まろうとした。
踏み留まれなかった。
さらに前へと倒れてゆく体を支えるため、アインハルトは左足も前に出した。
止まった。
その時には、アインハルトはアレクサンダーの懐に滑り込んでいた。
腹でも胸でも顎でも、アレクサンダーの好きな部分に拳が届く間合いだった。
アインハルトは驚いた。
意図してアレクサンダーの懐に飛び込んだわけではないのだ。
ボロボロの状態でアレクサンダーと対峙し、何もできずにいる間に体が限界を迎え、前へと倒れ始めた。
それをどうにかしようとしたら、アレクサンダーの懐に入り込む結果となったのだ。
アレクサンダーも、アインハルトと同じように驚いている。
どうして懐に入られたのか、わからないらしい。
慌てたように両腕を顔の前で交差させ、顔面への攻撃を防ごうとしている。
それにしても、つくづく極端な守りだ。
アインハルトは思った。
急所以外はどこを打たれても耐えられる。
本気でそのように考えているらしい
アインハルトの目には、アレクサンダーの構えが一種の挑戦状であるかのように映っていた。
君の拳と僕の体、どちらが強いか比べてみようよ──
そう言われているような気がするのだ
腹の中が、カッと熱くなった。
いいでしょう──
アインハルトはその両腕を構えた。
動かないと思っていた腕が、なぜか容易く動いた。
「覇王……」
アインハルトは呟いた。その足下に、正三角形の魔法陣が展開した。
古代ベルカ式の魔法陣である。
魔力が筋肉の駆動と一体となり、足下からアインハルトの体を駆け上がってゆく。
螺旋を描き、その力を増しながらだ。
そして、その力が右の拳に辿り着いた瞬間、アインハルトは叫んだ。
「断空拳!」
足先から練り上げた力を、拳に乗せて解き放つ。
覇王断空拳──覇王流の奥義である。
狙うは、アレクサンダーの腹部。
腹筋をブチ抜いて、内蔵を破裂させる。
それくらいの事を考えながら、アインハルトは拳を振るった。
当たった。
「え……?」
アインハルトは、間の抜けた声を発した。
右肘と肩に、軋むような痛みがあった。
覇王断空拳が、アレクサンダーの腹筋にはじき返されたのだ。
それを認識した直後、プツリとアインハルトの中で何かが切れた。
嘘であって欲しかった。
「あ……」
か細い声と共に、アインハルトの膝が崩れる。
肉体的な限界はとっくに訪れていたのだ。
投げられ、立ち上がってからは、精神力によって無理矢理に動いていたようなものである。
その精神力が、底をついたのだ。
アインハルトの体が前のめりに──倒れることができなかった。
アレクサンダーが、両手でアインハルトの髪を掴んで拘束したからだ。
アインハルトには、それを振りほどこうとする気力も体力もなかった。
アレクサンダーの右膝が、アインハルトの顔面に向かって跳ね上がってきた。
ばき、と硬い物が割れる音がした。右の頬骨が陥没したのだ。
アレクサンダーは、アインハルトの髪を離さなかった。
そのまま、二発目の膝を叩き込んできた。
ぐちっ、と肉が潰れる音がした。
三発目がきた。
左の頬骨も陥没した。
四発目はなかった。
代わりに、放り投げられた。
アインハルトは、うつ伏せに倒れた。
雪が、冷たい。
もう、指の一本も動かすことはできない。
口の中いっぱいに、血の味が広がっている。
ろくでもない味ですね──
そんな思考を最後に、アインハルトは意識を手放したのだった。
Ⅵ
アインハルトを投げ捨てたアレクサンダーは、遊歩道の端に、べっ、と血の塊を吐き出した。
しかし、口の中はすぐに血でいっぱいになる。
その生臭さに、吐き気がした。
「
アレクサンダーはしゃがみ込み、足下の雪を手で掬うと、それで口の周りを拭った。
白い雪が、真っ赤に染まった。
思いもよらぬ深手を負ってしまった。
アレクサンダーは、そう思っている。
アインハルトのことを、もう少し楽に倒せる相手だと考えていたのだ。
まさか、雪があるとはいえ、石畳にボディスラムで叩きつけられても起き上がってくるなんて、思いもしなかった。
なんにせよ、よくもまぁ客商売をやってる人間の顔に、めちゃくちゃな傷を負わせてくれたものだ。
アレクサンダーは心の中でそう毒づきながら立ち上がり、腹立たしげな視線をアインハルトが倒れているはずの場所に向けた。
そして、
「へ……?」
と、呆けたようにぽかんと口を開けた。
アインハルトが倒れていたはずの場所にその姿はなく、代わりに、十歳かそこらの年齢に見える、小柄な少女が倒れていたからだ。
ゾワリと、嫌な予感が背筋を走った。
アレクサンダーは少女に駆け寄り、抱き起こした。
「うっ」
と、声をあげた。
少女の顔が、血まみれでぐちゃぐちゃだったからだ。
アレクサンダーは、傷ついた子供を見るのが大嫌いだった。
どうしても、過去の自分と重ねて見てしまうからだ。
しかし、今はそんな感傷に浸っている暇は無い。
アレクサンダーは少女がどのような怪我をしているかを確認した。
血まみれで、鼻と左右の頬骨が潰れている。
アレクサンダーがアインハルトに与えたのと同じ負傷である。
「
アレクサンダーは、震える声で言った。
目の前の少女こそが自分の前歯を全てへし折ったアインハルトの真の姿であり、自分が闘った時の十代後半に見える女性の姿が、魔法によって作り出されたものだと気づいたからだ。
ヤバイ。
雪が降るほど寒い夜だというのに、アレクサンダーの背中にじっとりと汗が浮かんだ。
子供を怪我させたのは、ヤバイ。
アレクサンダーは、体がバラバラになりそうなほどの焦燥感に襲われた。
大人の武術家に多少の怪我を負わせても、大きなトラブルに発展することは少ない。
プライドがあるため、治安維持組織、つまり、時空管理局に駆け込むということが滅多にないからだ。
そして、たとえなりふり構わず法に訴えられたとしても、大抵は金でカタがつく。
しかし、子供を傷つけるのは、マズイ。
まず第一に、子供が傷つけば、本人がなんと言おうと、親が被害届を出す。
法的な闘争を事前に回避できないのだ。
そして第二に、管理局が、子供を狙った犯罪に対して非常に厳しい態度で臨むからだ。
当然のことである。弱者であり、同時に社会の将来を担う子供に魔の手を伸ばすことは、普通の犯罪よりもずっと悪質性が高いのだから。
故に、子供を狙った犯罪に関しては、被害者と加害者の間に示談が成立し被害届が取り下げられたとしても、管理局がその犯罪を確認していれば法に則った制裁が下されることになる。
傷害事件。逮捕。犯罪者。懲役。前科。
ネガティブな単語が、次々とアレクサンダーの脳裏に浮かぶ。
アレクサンダーは、社会的な死が目の前に迫っているかのような感覚に襲われた。
この場から全力で逃げ出したい──
そんな衝動を必死に押さえ込み、アレクサンダーは道の端に脱ぎ捨てたコートのポケットから通信端末を取り出し、緊急通報をダイヤルした。
『管理局防災課です。火事ですか? 救急ですか?』
「
『申しわけありません、もう一度お願いします』
口を怪我しているアレクサンダーの言葉が聞き取りにくかったのか、防災課の局員が問い直してくる。
アレクサンダーは、口の中に溜まった血を飲み込み、ゆっくりと区切りながら言葉を発してゆく。
事情を説明するのに、それほど長い時間はかからなかった。
通報を終えたアレクサンダーは、深いため息をつきながら周囲を見渡した。
満月に照らされる雪景色が、ひたすら寒々しいものに感じられた。
口の中は、相変わらず血生臭かった。
昨日のVivid Strike!、ハルにゃんさんが巨体の相手をボコボコにしてましたね。
その翌朝に、正反対の内容の二次創作を投稿するというのは、少し変な気分です。