Ⅰ
数多の次元世界を魔法技術によって統べる第一管理世界ミッドチルダ。
その首都であるクラナガンの南部地区は、この日、晴天に恵まれていた。
九月の末──雲一つない見事な秋晴れだった。
暮らしやすそうな、程よく栄えた都会の街並みを、高い位置にある太陽が照らしている。
ジリジリと肌を焼くような陽射しだった。
秋に入り、気温は過ごしやすいものとなってきたのだが、昼の陽射しをまともに受ければ、肌に汗が浮く。そういう時期だ。
そんな太陽に照らされる明るい街道を、一人の男が悠々と歩いていた。
やたらと人目を惹く男だった。
道を行き交う人々が、すれ違う前に、必ずその男に視線を向けている。
大きな男だ。
周囲の人間より、頭一つ分以上は背が高い。
身長は二メートルといったところだろう。
目立っているのは、ただ背が高いからというだけではない。
男はショッキングピンクの派手なポロシャツを着ていた。左胸に、何十年も連載が続く新聞漫画のキャラクターの姿が刺繍されたポロシャツだ。
その胸と袖の生地が、パンパンに引き延ばされている。
男の尋常でない厚さの胸と、太い腕のせいだ。
発達した筋肉の形が、服越しにも一目でわかる。
胸や腕だけではない。
首の太さが、頭と同じくらいある。
その太過ぎる首のせいで、ポロシャツの胸元のボタンが一つも留められていない。
脚も太い。
ライトグレーのスラックスに包まれた太股は、成人女性の胴ほどのボリュームがある。
遠目からでも、巨大な骨格と巨大な筋肉を持つことがわかるような男だった。
男は肩から茶色い革製のショルダーバッグを下げているのだが、それが変に小さく見えた。
ショルダーバッグの大きさは標準的なものなのだが、男の体が大きすぎるのだ。
男は時折、右手に持った地図に顔を向けながら歩いている。
巨体に見合わず、その顔立ちは若い。
まだどこかにあどけなさが残る、ミドルティーンのそれだった。
鼻梁が高く、赤銅色の光を湛える双眸はころりと丸い。
唇は血色が良く、眉は少し太めだ。
少しだけ丸みを帯びた頬には、無精髭など一本も残されていない。
良い顔立ちだった。
流行りの美形というよりは、一昔か二昔前に流行った、どことなくユーモラスな古いタイプのハンサム顔である。
男が歩を進めるたびに、その頭髪が揺れる。
明るい金髪を
妙な男だった。
要塞のような巨大な肉体を持ちながら、威圧感──人に
むしろ穏やかな、親しみやすい存在に見える。
その顔に浮かぶ表情が、緊張感の無い、朗らかなものだからだ。
人に飼い慣らされ、牙を抜かれてしまった、体ばかりが大きな獣。
そのような印象さえ受ける。
ふと、ゆったりとしたリズムで歩いていた男の足が止まった。
ほんの少しくすんだ漆喰の壁と、頑丈そうな扉がついた木製の大きな門。
都会的な街並みの中に、突然、そのような古めかしいものが現れたからだ。
男は門の前に立ち、門柱に掲げられた看板をじっと見つめている。
抜刀術天瞳流 第四道場
厚い木の板には、そう記されていた。
どれほどの時間、男はその看板に目を向けていただろうか。
決して短くはない間の後、男は半分閉じられた状態の門を、ゆらりとくぐった。
Ⅱ
門の先には庭園があった。
いや、庭園と呼ぶのは少し大げさかもしれない。
庭とも広場ともつかない空間があり、その端の方に、それほど大きくはない花壇があるだけだ。
ただ、その花壇には、色鮮やかな花々が見事に咲き誇っていた。
丁寧に世話をされてきたことがわかる、瑞々しい色合いだった。
庭園の向こう側には、木造の平屋があった。
大きな建物だ。
奥行きはわからないが、門の位置から見た横幅は三十メートル近くある。
そして、古い。
建てられてから、具体的に何年が経っているのかはわからないが、時の流れに永く洗われたものが持つ独特の威厳を、その建物──道場は備えていた。
男は庭園を横切り、道場の入口へ向かう。
木製の引き戸を開けると、売店を兼ねた受付が正面にあった。
四十歳くらいの女性が座るカウンターがあり、その後ろにスポーツドリンクが並ぶドリンクケースやテーピング用の布テープ、袋入りのプロテイン等が陳列されていた。
カウンターの横から広い廊下が伸びている。
抜刀術の稽古場はその先にあるらしかった。
「こんにちは。ご用はなんでしょうか」
カウンターの女性が、一瞬、驚いた表情を浮かべた後、男に声をかけた。
「すいません、中央プロレスのアレクサンダー・ダイナという者なんですけど、ミカヤ・シェベル師範代に取り次ぎをお願いできませんか?」
柔らかな笑みを浮かべながら男──アレクサンダーという名前らしい──は女性に尋ねた。
柔和な口調であり、声であった。
アレクサンダーはミカヤという人物に用があって道場を訪れたらしい。
女性はアレクサンダーの問いに、頷きながら応えた。
「大丈夫ですよ。なんと伝えましょうか?」
「七月の件で大切な話があるので、できれば今日、練習を終えた後に少し時間をいただけませんか、と伝えてください」
「はい、わかりました。少々お待ちください」
そう言って女性はカウンターを離れ、廊下の奥へと向かった。
そして数分と間を置かず、アレクサンダーの前に戻ってきた。
「お待たせしました。稽古の後ならば時間を取れるそうですよ。ただ、夕方の五時頃まで稽古を続ける予定だそうですが、大丈夫ですか?」
「五時まで? そんなに長く?」
女性の言葉に驚いたような素振りを見せるアレクサンダー。
数秒ほど考え込んだあと、おずおずと、申し訳なさそうに再び口を開いた。
「あの、稽古が終わるまで、見学するってことはできませんか?」
それに対し、女性は優しい口調で言った。
「問題ありませんよ。当館はいつでも見学を受け付けています」
Ⅲ
「失礼します」
良く通る声で挨拶をしながら、アレクサンダーは稽古場に入った。
稽古場は、広い、長方形の空間だった。
幅十五メートル、奥行き二十五メートルといったところだろうか。
床は板張りだ。
毎日きちんと雑巾がけされているのだろう、埃一つありそうにない光沢を放っている。
床と同様に、壁や天井も木製だ。
壁には窓が多い。
どの窓にも明障子が取り付けられている。
部屋の隅に、大きな太鼓が一つ置いてあった。
そのような空間で、白い道着を身につけた七人の男女が刀を振るっていた。
七人は、突然現れたアレクサンダーに対して、目もくれない。
「おい」
稽古場の入口に立つアレクサンダーに声をかける者がいた。
少女だ。
炎のように鮮やかな赤毛をショートカットにした、十五歳か十六歳くらいに見える少女が、道場の入口近くの壁際に正座していた。
道着の類ではなく、ごく一般的な紺色のジャージを着ている。
どうやら、アレクサンダーと同じく見学者らしかった。
少女は、金色の瞳をアレクサンダーに向けながら、少し怒ったような声で言った。
「ここでは靴を脱げ」
「あ、すいません」
アレクサンダーは軽く頭を下げ、履いていた靴──ウイングチップに飾られたブラウンの革靴──を脱ぐと、少女の近くに腰を下ろし、胡座をかいた。
その視線が稽古に励む男女に向けられる。
型稽古かなにかをやっているらしかった。
左手に刀の入った鞘を持ち、右手で刀の柄を握っている。
その状態でゆっくりと姿勢を変えながら、数秒に一度、居合い斬りのモーションで刀を抜く。
そして刀を鞘に納めると、またゆっくりと動き出す。
そのような稽古を繰り返している。
同じ動きだ。
七人全員が、同じ呼吸、同じ速さで、同じ動きをしている。
一糸の乱れもない。
そして、刀を抜く動作が恐ろしく鋭い。
離れた位置から見ていても、刀身が描く弧を正確に見定めることができないのだ。
目の前で行われているのは、高位の有段者のみによって行われる稽古であるらしい。
アレクサンダーは額を覆うヘアバンドを弄りながら、難しい顔でそれを観察していた。
Ⅳ
「ね、君も見学だよね?」
稽古の見学を始めて十分ほどが経った時、アレクサンダーが隣に正座する少女に話かけた。
「だったらなんだよ」
少女は短く返した。
その、どこか少年的なものを感じさせる顔に、不機嫌そうな表情が浮かんでいる。
馴れ馴れしく話しかけるな。
そう言いたいのを、我慢しているようだった。
だが、アレクサンダーはそんな少女の様子を気にもせず、言葉を続ける。
「いやね、もしここに入門しようと思ってるなら、やめた方がいいよ。
ここの人たち、腕は立つみたいだけど、すんごい性格悪いからさ」
「なんだと?」
少女が眉をひそめながら返した。
その柔らかそうな頬が、僅かに紅潮している。
道場を誹謗するアレクサンダーの言葉に、怒りを感じたらしかった。
そのような少女の表情を見たアレクサンダーは、体を少女に向けながら、慌てた様子で言葉を続けた。
「いや、僕だって根拠もなく悪口を言ってるわけじゃないんだよ?
ここの人が、ちょっと前に悪いことした話を知ってるというか……
ええと、これはカールさんっていう、僕の会社の上司に聞いた話なんだけど──
Ⅴ
──およそ三ヶ月前、七月の頭。梅雨が明け、暑い夏が始まったばかりのある日。
クラナガンの臨海倉庫地区にある中央プロレスの道場に、ダン、ダンという、何かを強く叩く音が響いていた。
音の出所は、道場中央に設置されたリングの上で絡み合う、スキンヘッドの大男と黒髪を角刈りにした若い男だ。
ベテランレスラーのカール・ダンクが、半年ほど前に入門した練習生に稽古をつけているのである。
グラウンドにおける関節の取り合いの練習だ。
くすんだ青いキャンバスの上を藻掻くように逃げ回る練習生の関節を、カールが次々と極めていく。
一度間接を極め、一旦放す。そして手なり足なりを掴んでまた極める。
そんな練習だ。
もちろん練習生は必死に抵抗しているのだが、カールは動きを読んで素早く関節を極めていく。
それを体験して、練習生は関節技の入り方であったり逃げ方であったりを、体で学んでいくのだ。
カールは関節技の名手だった。
ミドルスクールからグラップリングを始め、ハイスクール二年生の時には、ミッドチルダ全体から選手が集まる大会の八十七キロ級で優勝している。
その実績で体育大学に推薦入学し、古流柔術に関する論文を書いて卒業後、中央プロレスにスカウトされて就職。
関節技のスペシャリストとして人気を獲得し、今に至る。
まさに
今年、四十三歳になった。体力は全盛期であった二十代の頃と比べると、かなり落ちている。
それでも関節の取り合いなら、中央プロレス内で一、二を競える実力をカールは維持していた。
「くぅ、くあああっ!」
うつ伏せになった相手の腕を取り、真上に捻りあげる技──脇固めを極められて、練習生が悲鳴をあげながらタップする。
カールは練習生を解放すると、その肩を、ぽん、と叩いた。
「こんなもんだな。今やったことを覚えておくと、いつか役に立つ」
「ウス……」
カールの言葉に、練習生が低い声で答えた。
その双眸が尖っている。
今しがた自分を散々痛めつけたカールに対して、憎しみにも近い感情を抱いているらしかった。
そんな練習生の表情に苦笑しながら、カールが太い声を出した。
「十分間、休憩だ。水飲んどけよ。油断するとぶっ倒れるからな」
道場全体に、そう指示を出した。
それまでトレーニングに励んでいた男達の動きが止まる。
道場の中には、カール以外に五人の男がいた。
皆、十代の後半か二十代前半の若者だ。
全員が、プロレスラーとしてデビューする前の練習生だった。
ほとんどのプロレスラーは巡業に出ているのだ。
中央プロレスは一ヶ月の間に十回から二十回、ミッドチルダ中を周りながら興業を行う。
道場に頻繁に顔を出すプロレスラーは、カールのように若手の指導を担当しているレスラーか半人前の若手レスラー、もしくは故障等の理由で試合を組まれていないレスラーぐらいのものである。
この日、カール以外のプロレスラーは道場にいなかった。
道場の中は、凄まじい熱気と汗の臭いがこもっていた。
元は倉庫だった建物を改造した粗末な道場だ。
床は打ちっ放しのコンクリート。壁はトタン組み。上を見れば天井はなく、鉄骨の梁が剥き出しだ。
中にいるのは若者ばかりとはいえ、全員が筋肉ダルマだ。
普通の人間なら不快に感じる、暑苦しい環境だった。
だが、カールはこの空間が好きだった。
男が強くなる空間だからだ。
毎日毎日、若い男たちが受け身の練習で体中に痣を作り、歯を食いしばってバーベルを持ち上げ、立ち上がれなくなるまでスパーリングをやる。
どれも半端な練習ではない。プロレスラーになれる者より、練習の厳しさに耐えきれず逃げ出す者の方が、ずっと多いのだ。
耐えられた者だけが、この粗末な道場に残り、その肉体をプロレスラーへと純化していくのだ。
そんな空間に、刃物のように異物が入り込んできた。
「頼もう!」
良く通る声が響いたのだ。少し低めの女声だ。
道場の入り口に目を向けると、女が一人、立っていた。
赤い袴と白い道着風のジャケットを身につけた、背の高い女だ。左手に一メートル程の長さの細長い袋を持っている。
「頼もう!」
女がもう一度言った。
道場の中がざわつく。
「お前らは休んでいろ」
カールはそう指示を出して、自ら対応するために、珍客が立つ道場の入り口へと向かった。
「ミカヤ・シェベルと申します」
カールが近づくと、女は切れ長の目をまっすぐカールに向けながら名乗った。
若い。
客の女──ミカヤを前に、カールはそう思った。
ミカヤの上背は百七十センチ前後と、女性にしてはかなり高い。
また、胸がよく発達した女らしい体つきをしている。
しかし、その顔つきはミドルティーンの少女のものだ。
ミカヤは艶のある黒髪を、膝に届くほど長く伸ばしていた。
瞳が、血のように赤い。
「お嬢さん、なんの用だい?」
カールが尋ねると、ミカヤは落ち着いた声で言った。
「ここで一番強い方と、立ち合わせていただきたい」
「なに?」
ミカヤの言葉に、カールの表情が硬くなった。
「嬢ちゃん、あんた道場破りかい?」
「はい」
「ちっ……」
カールが舌打ちをした。目に見えて不機嫌になっていた。
ミカヤが、カールが大嫌いな手合いだったからだ。
実は中央プロレスにとって、道場破りはそう珍しいものではなかった。
年に数回は現れる。
大抵は三十前後の、うだつの上がらない格闘家だ。
人を殴り倒す練習ばかりしてきたが、大した実績を作れずに歳を食ってしまった。
そんな人間が、自分に箔を付けようと乗り込んでくるのだ。
あらかじめ用意された台本に沿って芝居をやっている連中に、真剣勝負の世界にいる自分が負けるはずがない。
連中はそんなことを考えている。
プロレスを見下し、舐めているのだ。
そういった輩は、怪我をしても文句を言わないという証文を書かせ、リングに上げる。
そして適当な若手と闘わせる。
中央プロレスに練習生として入門する人間は、基本的にアマチュアの世界で何かしらの実績を残している者ばかりだ。
道場破りに来るような格闘家には、まず負けない。
そして若手には、必ず関節技で相手の腕なり脚なりを折るよう指示を出す。
五体満足では帰さない。
制裁だ。
どんな相手にも同じ対応をしてきた。
だが、この時のカールには迷いがあった。
カールは、目の前に立つミカヤの顔を見下ろしながら考える。
まず、十代の少女の腕を折ってよいのか、という思いがある。
また、ミカヤの格好も気になっていた。
袴に胴着、そして左手に持つ細長い袋。
恐らくは、剣士。
刀剣片手に道場破りを行おうとする人間は、初めてだった。
プロレスラーは様々なバックボーンを持つ人間の集まりだが、基本的には格闘家に近い存在である。武器を持った相手を想定した技術は持っていない。
どうしたものかと迷うカールに、ミカヤが静かに言った。
「私は別に、どこそこに乗り込んで誰に勝ったなんて、言いふらしたりはしません。自分の力を試したいだけです」
勝ちを確信しているかのような、高慢とも取れる発言が、カールの神経を逆なでした。
「怪我をさせるが、いいね?」
「はい」
脅しの言葉にも動じないミカヤを見て、カールはリングに上げることを決めた。
「おい!」
道場の内側に向き直り、カールは声を張り上げた。
「このお嬢ちゃんが相手をして欲しいそうだ! 誰かいないか!」
休憩していた五人の練習生たちが、カールとミカヤに困惑した目を向ける。
事態を掴みかねているらしい。
カールは言葉を重ねる。
「道場破りだそうだ。怪我をしても文句は言われん。好きにやれるぞ」
練習生たちが驚きの表情を浮かべ、互いに顔を見合わせた。
若い女の道場破りというのが珍しいのだ。
練習生同士で二つ三つ、言葉を交わした後、一人が前に出た。
先ほど、カールと関節技の練習をしていた若者だ。
「俺がやります」
「お前か」
二十歳のその練習生は、中央プロレスに入門する前はストライクアーツ──魔法を使う打撃系の格闘技で、ミッドチルダでは最も競技人口の多い格闘技でもある──をやっていた男だった。
世界学生選手権のスーパーウェルター級に出場し、ベスト十六に残ったことがある。
プロレスに関してはひよっこだが、打撃の技術は一流で、体格にも魔力にも恵まれた男だ。
中途半端な相手には、まず負けないだろう。
「よし、誰か紙とペンを持ってこい」
残りの練習生にそう指示を出すと、カールはミカヤに向き直った。
「こっちに来てくれるか。怪我をしても構わないという証文にサインをしてもらう」
「はい」
そして証文の用意が済むと、ミカヤと練習生が道場の中央に設置されたリングに上がった。
四本の鉄柱と三本のロープに囲まれた、一辺が六・四メートルの正方形のリングだ。
二人とも、リングに上がる前とは格好が変わっていた。
ミカヤに関しては、元から着ていた袴の太股部分や胴着の前腕部分に装甲板が現れていた。
ミカヤが魔力によって作り出した鎧だった。
その手には、鞘に収まった状態の刀がある。
居合刀である。道場に現れた時に持っていた、細長い袋に入っていたものだ。
練習生は、ショートパンツにタンクトップという姿で、レガースとオープンフィンガーグローブを装備していた。
やはりこれらも、魔力によって形作られる
バリアジャケットを身につけていれば、魔力を帯びた刃物で斬りつけられようとも、よほどの事がない限り死にはしない。
せいぜいが魔力ダメージで失神する程度だ。
二人がリングに上がって数秒後、かーん、とリングの下でカールがゴングを叩いた。
ミカヤはリングのコーナーで腰を落とし、右手で居合刀の柄を、左手でその刀が納められた鞘を握った。
対する練習生は、ミカヤが陣取るコーナーの対角線上の位置に立ち、上半身を前傾させ、両の掌を前方に突き出した状態でミカヤに向かい合っている。
クラウチングスタイル。
組みに行くぞ、と予告しているような構えだった。
ミカヤは動かない。
居合の構えのまま、微動だにしない。
練習生が動いた。
前傾の構えのまま、ゆっくりと、しかしまっすぐにミカヤへと近付いてゆく。
六メートル。
五メートル。
そろり、そろりと、少しずつミカヤとの距離が縮まってゆく。
だがミカヤは動かない。
四メートル。
三・五メートル。
三メートル。
そして二人の距離が二・五メートルになった時。
練習生が、前傾させていた体をぐっと起こしながら、跳躍した。
そして空中から右脚を前に突き出す。
飛び蹴りだ。
いかにも組みに行くぞという構えで近付いて、飛び蹴りによる奇襲を行ったのだ。
疾い、勢いのある蹴りだった。
練習生の中足――足の親指の付け根が、ぐちっ、という音を立ててミカヤの鼻っ面にめり込んだ。
ミカヤはのけ反るように後ろによろめき、背をリングのコーナーに預けた。
練習生の体が、どすんと青いキャンバスの上に落ちた。
それっきり、練習生は動かない。
起き上がってこない。
いつの間にか、ミカヤの右手に、抜刀された刀が握られていた。
練習生は蹴りを繰り出したのと同時に、ミカヤの抜刀居合によって意識を刈り取られていたのだ。
「おい、大丈夫か!?」
リングに駆け入ったカールが、練習生の体を抱き起こす。
他の練習生たちも心配そうにリングの下から視線をよこしている。
そんな情況の中、ミカヤが口を開いた。
「私の勝ちですね」
「なに!?」
ミカヤは笑みを浮かべていた。
紅い笑みだった。
先ほどの練習生の飛び蹴りで、ミカヤは鼻血を出していた。
ただ血が流れるだけの、かわいい鼻血ではない。
どくどくと、濃い血液が噴き出すようにあふれ出ていた。
それだけではない。
鼻の軟骨が潰れ、鼻先が完全に右を向いていた。
その顔で、唇を弧に歪めて笑っているのだ。
凄絶なものがあった。
その迫力にカールが目を奪われた瞬間、ミカヤが身を翻してリングから飛び降りた。
そして、すごい勢いで駆け出すと、トタン張りの壁を体当たりでぶち破って、道場の外に飛び出した。
その勢いのまま、駆け去るミカヤ。
結局、カールと練習生たちが呆気にとられているうちに、ミカヤ・シェベルは姿は見えなくなってしまった。
道場のコンクリートの床に、真新しい血痕を残して──
Ⅵ
──って事があったらしくってさ。
なんかもう色々つっこみたくなる話だよね!
だいたい、剣術屋さんがプロレス道場にカチコミってわけわかんなくない?
ジャンルが違うでしょ!? そう思わない!? おかしいよねっ!?」
「……そうだな」
興奮した様子で尋ねてくるアレクサンダーに、赤毛の少女がぶっきらぼうに返した。
少女は、中央プロレスに道場破りが現れた話を、今まで一方的に、長々と聞かされていたのだ。
このアレクサンダーという男、実に口数の多い、喧しい男であるらしい。
それに付き合わされた少女の表情には、呆れの色が見える。
だがアレクサンダーはそんなことに気づいた様子もなく、再び捲し立てるように話し始めた。
「でしょ? でしょ? おかしいよね!
でさ、道場破りに来たミカヤって人のこと調べたら、なんとここの師範代だったわけ!
それも、ウチに来た直後に昇格して師範代になってるわけよ。
これ、道場破りのこと自慢して回ったっぽくない?
ひょろひょろの下っ端を斬っただけなのに、プロレスに勝った! とか言ってるんだよ、多分。
卑怯で陰湿で胸くそ悪い話だよ全く。
それでね、そういうの放っておくのは営業的に良くないって意見が会社の中で出て、僕にお呼びがかかったの。
仕返しにミカヤ・シェベルと、この道場の人間を適当に何人か
そう言って、何故か照れたように笑いながらヘアバンドを弄っているアレクサンダーに、少女が冷ややかな視線を送った。
「なぁ、あんた、頭が悪いだとか、馬鹿だとか言われることないか?」
「へ? いや、全然ないけど何で?」
少女の問いにポカンとした顔で答えるアレクサンダー。
数秒後、はっとしたように、それまで少女だけに向けていた視線を周囲に向ける。
稽古をしていた七人の男女全員が、動きを止めてアレクサンダーを見ていた。
数人は、あからさまにこわい表情を浮かべている。
「あっ、まずいかも……」
アレクサンダーがそう呟くと同時に、七人の中から前に出る影があった。
百七十センチほどの身長。膝に届くほど長く伸ばされた黒髪。豊かな膨らみを主張する胸。
ミカヤ・シェベルが、その切れ長の紅い瞳と形の良い唇に、楽しそうな笑みを浮かべていた。
Q.時系列は?
A.JS事件の二年後、StrikersとVividのちょうど真ん中あたりです。
Q.その時期、赤毛の人はまだ収監されているのでは?
A.その辺は独自設定ということで……(汗)
感想・指摘は随時受け付けています。気軽に書きこんでください。