巨獣のセレナーデ   作:セミドレス

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 第三章 ストライカー 後編

 

 Ⅳ

 

 スポーツセンターの中にある格闘技練習スペースは、()いていた。平日の昼間だからか、アレクサンダーとノーヴェ以外に人影はない。

 十メートル四方のスペースの中央付近で、アレクサンダーとノーヴェは向き合っている。

 アレクサンダーはミカヤと闘った時と同様、ショートタイツとヘアバンドだけを身につけていた。

 その半裸姿で、目の前に立つノーヴェの体を無遠慮に見つめ、品定めをしている。

 ノーヴェは青いレオタードの上から濃紺のショートジャケットを羽織り、ジャケットと同色のニーハイソックスを身につけていた。

 全て魔力によって形作られたバリアジャケット(防護服)だ。

 さらに右手には篭手を、左手にはオープンフィンガーグローブを装備している。足下は裸足だ。

 ノーヴェの身長は百五十センチ台の半ばといったところだろうか。

 小柄というほどではないが、成人女性の平均よりは低いだろう。

 肉の付き方は柔らかい。

 特定の筋肉が肥大化しているということはないし、皮膚の下には適度な脂肪の層がある。

 無論、脂肪があると言っても、だらしなく緩んでいるというわけではない。全身が女性らしいなだらかな曲面を描いているというだけだ。

 体重は四十キロ台後半だろう。特別に痩せていたり太っていたりするわけではない。

 スタイルは、かなり良い。

 同じ身長の標準的な体型に比べて、五センチくらい尻の位置が高そうだ。

 胸の膨らみも平均以上のものがある。

 骨盤が横に広く、腹から腰にかけてのラインが綺麗にくびれている。

 総体として見ると、健康的な魅力に溢れているが、優れたアスリートの体ではない。

 それがノーヴェの肉体を観察して、アレクサンダーが抱いた印象だ。

 ノーヴェの表情を見ると、アレクサンダーのぶしつけな視線が気に入らないらしく、そのどこか少年的な顔に、怒ったような色が差している。

 アレクサンダーはそれを見て、ふと、なぜ自分は律儀にこの少女に付き合ってここまで来てしまったのかと思った。

 今こうして向き合っているのは、ノーヴェの安い挑発に、ついカッとなって乗ってしまったからである。

 しかし、挑発を受ける前に別れるタイミングはいくらでもあった。

 レストランにノーヴェが現れた時に、店員に言って追い払ってもよかったし、レストランを出た後、呼び止められたのを無視して立ち去ってもよかったのだ。

 なぜ、そうしなかったのか。

 それは、大切なもの(ミカヤ)を傷つけられて怒るノーヴェに、共感を覚えたからかもしれない。

 あるいは、プロレスのことなど何も知らないと言ったノーヴェに、プライドを傷つけられたからかもしれない。

 はっきりとした理由は自分でも分からないが、とにかくアレクサンダーは、ノーヴェから離れられずに、こうして向き合っている。

 それが不思議なことに感じられた。

 なんにせよ、今からやる闘いは、ミカヤとやったものとは違う。

 ノーヴェには、大きな怪我を負わせるわけにはいかない。

 ノーヴェに、背負っている物がないからだ。

 ミカヤは、どんな怪我を負ったとしても、アレクサンダーや中央プロレスに対して訴訟を起こすわけにはいかなかった。

 師範代の地位を持つミカヤがそんなことをすれば、世間に、天瞳流はプロレスに敗北したという印象を与えてしまうからだ。

 しかし、このノーヴェは違う。

 だから、常識的な()()の範囲内で、ノーヴェを傷つけないように、アレクサンダーは勝利しなくてはならない。

 相手に怪我をさせにくい技……アキレス腱固めか、チョークスリーパーあたりでギブアップを奪う必要があるだろうか──

 アレクサンダーがこういった思考を、とりとめもなく走らせていると、

 

「おい」

 

 と、ノーヴェが声を上げた。

 

「いつ、始める?」

 

 ノーヴェは尋ねた。

 アレクサンダーは数歩後ろに下がってから答えた。

 

「いつでもどうぞ」

 

 そう言って、薄ら笑いを浮かべながらファイティングポーズを取ったのだ。

 不細工な構えだった。

 両足を肩幅に開き、浅く前屈みになっている。

 これで両腕を前に出していれば、天瞳流の道場で見せたクラウチングスタイルなのだが、今回のアレクサンダーの構えは少し違った。

 頭を覆うように両腕を持ち上げている。

 甲羅に閉じこもろうとする亀のような構えだ。

 そして、両脚が内股になっている。

 股間を蹴り上げられることを警戒しているのだ。

 とにかく、急所だけを守ることができればよい。

 そういうスタイルだ。

 この構えで、意識を吹き飛ばされかねない頭部への攻撃を防ぎながら、強引に近付いて寝技に持ち込む。

 それがアレクサンダーが行おうとしている戦法だった。

 己のボディのタフネスに対して、絶対の自信があるからこそ採れる戦法だ。

 実際、アレクサンダーは打撃に関して()()の素人だが、打撃系格闘技をやっている道場破りを、この闘い方で倒した経験があった。

 今回も同じだ。

 いや、相手の体格を見るに、以前よりもずっと楽な闘いだろう。

 そんなことを考えているアレクサンダーを前に、ノーヴェも構えた。

 左半身を半歩前に出し、左の拳を顎の高さに、篭手を着けた右の拳を胸の前に構えている。

 ストライクアーツの構えとしては変則的だ。

 アレクサンダーの構えとは逆に、頭部の守りが薄い。

 メリットは視界を広く得られる事だろうが、一対一の格闘戦で、それがどれほどの意味を持つのか。

 

「いくぜ」

 

 そう呟くと、ノーヴェは、すぅ、と前に出た。

 そしてアレクサンダーの間合いに入る直前に、回り込むように右へ向かってステップを踏んだ。

 アレクサンダーがその動きに対応しようとした瞬間、ノーヴェはさらに一歩踏み込み、ローキックを放った。

 右のローキックだ。

 びゅっ、と空気を切り裂きながら、ノーヴェの脛が、アレクサンダーの左太股を外側から打った。

 

「くぅっ!?」

 

 アレクサンダーは、思わず呻いた。

 ノーヴェのローキックの威力が、予想を遥かに上回るものだったからだ。

 鋭く、重い、振り下ろされる斧のような蹴りだった。

 ストライクアーツの基準だと、ヘヴィー級プロ選手が放つものに匹敵する威力がありそうだった。

 こんなことがあるのか!?

 アレクサンダーは驚愕していた。

 ごく普通の体格しか持たないノーヴェが、このような蹴りを繰り出したことが信じられなかった。

 確かに、魔力によって身体能力を強化すれば、一時的に見た目以上の力を発揮することができる。だが、それも肉体の限界を超えた動作を行えば、自滅するだけだ。

 そして体重が五十キロもなさそうなノーヴェが、ヘヴィー級の攻撃力を発揮するというのは、明らかに限界を超えた動作だ。

 しかし、目の前のノーヴェは、

 

「へっ」

 

 と、不敵な笑みを浮かべながら、とっとっとっ、と軽やかなステップを踏んでいる。

 平気なのか!?

 そう思ったのと同時に、再度ノーヴェが踏み込み、ローキックを放ってきた。

 その蹴りは、やはりヘヴィー級の重さを持って、アレクサンダーの左太股の、先ほどと寸分違わぬ位置を打った。

 

「くぁ!」

 

 アレクサンダーはまた呻いた。

 だが、今回はそれだけではなかった。

 呻き声を上げながら、ローキックを放ったばかりのノーヴェの頭に向けて、掌底突きを放ったのだ。

 ぶうん、と巻き込まれた空気が唸りをあげるような一撃だ。

 頭部に当たれば、確実に意識を刈り取る一撃だ。

 その一撃が、蹴りを出したばかりで隙だらけに見えるノーヴェに迫り――避けられた。

 スウェーバックだ。

 ノーヴェはぐにゃりと上体を後ろに逸らして掌底突きを回避し、その姿勢のまま、後ろに一歩ステップを踏んでアレクサンダーの間合いから外れた。

 なんという柔軟性とバランス感覚だろうか。

 

「凄いね……」

 

 呟いたアレクサンダーの額に、うっすらと汗が浮いていた。

 一歩前に出た。

 また、右のローキックが飛んできた。

 また、アレクサンダーの左太股を打ち抜いた。

 アレクサンダーが反撃しようとした時には、ノーヴェはもう間合いの外に下がっていた。

 機敏だ。

 ヘヴィー級の攻撃力に、軽量級のステップワーク。

 アレクサンダーがこれまで闘ってきた、プロレスに道場破りを仕掛けるレベルの格闘家とは格が違う。

 アレクサンダーは思う。

 目の前の少女は天才だ。自分や、あのミカヤと同じだ。いや、それどころか、さらに理不尽な存在かもしれない。

 世の中には稀にいるのだ。レアスキル持ちだの特異体質だのという、道理に反した力の持ち主が。

 バケモノ?

 いや、義憤に基づいて闘おうとする人間を、そう呼ぶ気にはなれない。そう呼ぶに相応しい力を持っているとしてもだ。

 なんにしても、下手に攻めることはできない。

 何も考えずタックルに行ったり打撃を仕掛けたりすれば、カウンターで顎を打ち抜かれ、意識を飛ばされてしまうという確信がある。

 やれるのは、相手の攻撃を受けた直後だけだ。

 カウンターを受けることのないタイミングで、蹴りでも突きでもいいから、とにかく一発を当てる。

 体重差が大きいので、当たりさえすれば相手はバランスを崩す。

 そうなれば、後は押し倒すだけだ。

 しかし、これほど機敏な相手には、ただ一発を当てるということすら難しい。

 何度も何度も蹴られながら、正確にタイミングを掴まないと、当てられないだろう。

 それまで、この体は保つか。

 相手がヘヴィー級の攻撃力を持つとはいえ、こちらの肉体は掛け値無しのスーパーヘヴィー級だ。蹴りの十発や二十発くらいなら、耐えられるだろう。

 しかし、三十発、四十発……百発くらい、同じ場所にあの鋭い蹴りを入れられたら?

 おそらく、自分は立っていられなくなる。

 そうなる前に、決着をつけなければ。

 自分は、アマチュアの格闘家などに、負けるわけにはいかないのだから。

 とにかく、やるしかない。

 決意を固めたアレクサンダーは、ノーヴェに向かって真っ直ぐに進んだ。

 その瞬間、左太股が打ち抜かれた。

 アレクサンダーの口から呻きが漏れた。

 

 Ⅴ

 

 なんなんだ、こいつは。

 ノーヴェは驚愕していた。

 闘い始めてから、二分ほどが経過している。

 この二分間で、ノーヴェはアレクサンダーに対して、三十発近くローキックを当てていた。

 全て、手加減無しだ。

 なのに、倒れない。

 あり得ないことだった。

 戦闘機人であるノーヴェの本気の攻撃を、平然と受け止め、前に出て来るのだ。

 いや、平然と、というのは違う。

 ノーヴェに蹴られるたびに、アレクサンダーは声をあげる。

 くぅ、だとか、つぁ、だとか、そういった短い呻き声を、顔を歪めながらあげるのだ。

 しかし、ノーヴェはアレクサンダーに対してダメージを与えているという実感を持てなかった。

 蹴っても蹴っても、アレクサンダーの動きが変わらないからだ。

 大袈裟な痛がり方をするのに、次の瞬間には、一歩前に踏み込んでくるか、反撃を放ってくるのだ。

 痛がっているのが演技であるように思えた。

 

「シッ!」

「ぐぁ!」

 

 ノーヴェが鋭く息を吐きながら、アレクサンダーに右のローキックを放った。

 どん、と重い音を立てて肉と肉がぶつかり、アレクサンダーが呻いた。

 蹴り脚を戻したノーヴェは、間髪おかずサイドステップを踏んだ。

 一拍遅れて、ノーヴェがいた空間を、アレクサンダーの手刀が両断した。

 脳天唐竹割り――恐ろしい威力を秘めた一撃だった。

 しかし、ノーヴェにとっては容易く避けられる一撃でもあった。

 アレクサンダーの打撃は、遅く、下手なのだ。

 もたもたと予備動作を取り、目線でどこを狙うかを定め、そしてようやく攻撃を放つ。

 格闘技を初めて一月(ひとつき)程度の小学生でも、もっとマシな動きをする。

 痛がり方と同じように、攻撃もやたらと大袈裟なのだ。

 だが、いくら下手くそでも、その巨体が生み出す威力は本物だ。

 ノーヴェの体くらいなら、掠めただけで吹き飛ばされそうだった。

 

「ぐっ!」

 

 また、アレクサンダーが呻いた。

 腕を振り下ろしてできた隙に、ノーヴェが右のローを打ったのだ。

 クリーンヒット……ではない。

 ノーヴェの蹴りは、アレクサンダーの太股に()()()()()いた。

 打撃が当たる瞬間に、当たる角度や位置をほんの少しでもずらす。

 それだけで、ダメージは半減するのだ。

 もっとも、半減ということは、逆に言えば残る半分は確実にダメージとして蓄積されるということである。

 それほど優れた防御テクニックではない。

 真っ当な防御──例えばローキックに対してなら、脚を上げて脛でカットする──を行った方が、受けるダメージがはるかに小さく、ずっと効率が良い。

 アレクサンダーがそうしないのは、単純にその技術を持っていないからだろう。

 先ほどから繰り返される不細工な打撃。それと対称的な、天瞳流の道場で見せた、流れるようなタックルと関節技。

 おそらく、このでかいのがやってるプロレスというのは、打撃をあまり使わない、組み技を中心とした()()()なのだ。

 そういったことを考えながら、ノーヴェは後退した。

 アレクサンダーがそれを追って踏み込んでくる。

 そこへノーヴェはローキックを打ち込んだ。

 アレクサンダーが呻く。

 遅れて、大振りの掌底が飛んできた。

 避ける。

 そして、蹴る。

 蹴る。

 蹴る。

 蹴る。

 ノーヴェはアレクサンダーの太股を蹴り続けた。

 高い蹴りは、抱えこまれるのが怖い。

 だから、ローキックだ。反撃に気をつけながら、ローキックを倒れるまで浴びせ続ける。

 アレクサンダーが頭部を徹底的にガードしているため、それしかできることがない。

 蹴った。

 蹴った。

 蹴った。

 まだか!?

 まだ倒れないのか!?

 叩き込んだ蹴りの数が五十を越えようとしたあたりで、ノーヴェは、自分の心に恐怖がこびり付いていることに気がついた。

 決して、弱い相手だと思って喧嘩を売ったわけではなかった。

 ヘアバンドに隠された額の傷痕や、尋常ではない鍛えられ方をした巨体から考えて、普通の範疇を超えた人生を歩んできたことは間違いない。

 しかも、正攻法ではないにしても、ミカヤを倒しているのだ。

 間違いなく強い人間だと思っていた。

 だが、ここまでとは思っていなかった。

 自分なら勝てると思っていたのだ。

 しかし──

 戦闘機人の本気の攻撃を何十発も受けているのに、平然としていられる肉体の持ち主。

 そんな怪物染みた奴だったとは。

 そんな奴が存在するなんて、考えたこともなかった。

 だが、いかに怪物染みていようと、相手は間違いなく人間だ。

 いつか、必ず、限界が来る。

 だから、ローキックを。

 ローキックを──

 ノーヴェが自分に言い聞かせるように思考しながら、アレクサンダーの太股に五十六発目の蹴りを打ち込んだ瞬間。

 ぞくりと、ノーヴェの背中を、嫌なものが駆け抜けた。

 反射的にノーヴェは後方へと退いた。同時に、アレクサンダーの右足が跳ね上がる。

 前蹴り──

 馬鹿でかい足の裏が、ノーヴェの胸の真ん中に向かってぶっ飛んでくる。

 とにかく、絶対に当てる。そういう強い意志のこもった蹴りだった。

 これまでの反撃とは、鋭さが違った。

 空気が唸り、歪むのが視えた。

 このでかい足に、どれほど膨大なエネルギーが秘められているのか、見当も付かない。

 当たったら、死ぬ。

 胸骨と肋はバラバラは砕かれ、心臓は破裂し、背骨は真っ二つにブチ折られる。

 ノーヴェは本気でそう思った。

 一瞬の時間が、奇妙に長く感じられた。

 恐怖で(はらわた)が捻れ狂っている。

 ステップを踏んで横へ逃げるのは間に合わない。

 どん。

 肉と骨が、打ち抜かれた。

 

 Ⅵ

 

「がはぁっ!?」

 

 悲鳴があがった。

 アレクサンダーの悲鳴だ。

 左脇腹に、いい膝を貰ったのだ。

 確実に当たると思って出した前蹴り。

 それを、避けられ、カウンターで膝を入れられたのだ。

 アレクサンダーの右足がノーヴェの胸に触れる寸前に、ノーヴェの上体が、右にぐにゃりと、深く深く曲がったのだ。明らかに、人体の限界を超えた屈曲だった。

 それで、アレクサンダーの蹴りは、ノーヴェの左脇を素通りする結果となったのだ。

 信じられない、人間離れした柔軟性だった。

 そして、さらに信じられないことに、ノーヴェはそのぐにゃりと曲がった姿勢のまま前へと踏み込み、アレクサンダーの懐に飛び込んで膝蹴りを放ったのだ。

 岩をも砕く破壊力を秘めた、重い膝だった。

 その威力に、アレクサンダーは声をあげたのだ。

 

「けぁっ!」

 

 よろめきながら、アレクサンダーは肘を突き出して振るった。

 エルボースマッシュ──そう呼んでいいのかわからないような、力任せな運動。

 それをノーヴェが、後ろにステップを踏んで避ける。

 一拍遅れて、アレクサンダーも一歩後ろに下がった。

 アレクサンダーとノーヴェが、四メートルほどの距離を置いて向き合う形となった。

 

「今のは、効いたかな」

 

 アレクサンダーが、顔をしかめながら言った。

 その言葉通り、ノーヴェの一撃はアレクサンダーに大きなダメージを与えていた。

 呼吸するたびに、痛みと悪寒がアレクサンダーの体に走る。

 肋骨がおかしくなっているらしかった。

 ただヒビが入っただけなのか、骨膜が破れて完全に折れているのかはわからない。

 どちらにしても、辛い。

 

「終わりにするか?」

 

 ノーヴェが尋ねた。

 その声は上ずったものだった。

 今、避けたばかりの前蹴りへの恐怖が、まだノーヴェの神経に絡みついているのだ。

 呼吸が荒くなり、全身の筋肉が強張ったようになっていた。

 そんなノーヴェを見つめながら、アレクサンダーは薄ら笑いを浮かべた。

 

「終わり? まさか。ここまでは準備運動だよ」

 

 そう言って、ノーヴェに向かって一つ歩を進めた。

 アレクサンダーの顔面をガードしていた左腕が、少し下がっていた。無意識に脇腹をカバーしているのだ。

 アレクサンダーは二歩目を踏み込んだ。

 同時に、ノーヴェが浅いフットワークからローキックを打ってきた。

 これまでと同じ、まっすぐにアレクサンダーの左太股を狙った、右のローだ。

 

「ぐぅ」

 

 アレクサンダーはそれを受け、呻きながら、そうか、と思った。

 ノーヴェが自分の脚ではなく、肋骨のいかれた左脇腹を潰そうとしているのだと、()()()をつけたのだ。

 今の蹴りが、アレクサンダーの脇腹を狙う素振りを見せなかったからだ。

 もし、この情況でノーヴェがアレクサンダーの脚を潰そうと考えているなら、ミドルキックに見せかけたローキックを打ったはずだからだ。

 最初はミドルキックと同じように蹴り脚を振り上げ、ある一点から叩き下ろすように軌道をスイッチする、見極めの難しいローキック。

 やられた(あばら)を意識しているアレクサンダーの脚を潰すには、これ以上ない効果を発揮する攻撃だ。

 しかも、技術としてはアレクサンダーでも知っている一般的なものである。ノーヴェに使えないはずがない。

 その技を使わなかったということは、ノーヴェが脚ではなく脇腹を狙っているということだ。

 ローキックでアレクサンダーの意識を脚に集めておき、脇腹に隙ができたら、そこへ攻撃を叩き込む。

 ノーヴェはそう考えているのだろうと、アレクサンダーは推測した。

 狙ってこなかったということは、狙っているということなのだ。

 ならば──

 ならば、くれてやろう。

 アレクサンダーはそう思った。

 脇腹を蹴られた瞬間に、こちらもやり返してやろう。

 狙うのは、腹だ。

 先ほどは、身長差のせいで打点が高くなって避けられてしまったが、今度はそんなヘマをしない。

 体の、一番真ん中に、一発を打ち込む。

 合図は肋骨の激痛(いたみ)だ。

 わかりやすい合図だ。きっと、これまでよりも早く反撃に移れる。

 とにかく、脇腹を蹴られるまでは、好きなだけ太ももを蹴らせてやる。

 だが、脇腹を蹴ってきたら、その時がこの闘いの終わりだ。

 

 Ⅶ

 

 私の勝ちだ──

 恐怖と興奮に包まれながら、ノーヴェはそう思った。

 膝蹴りを叩き込んだ時、みしり、という肋にヒビが入る音を、確かに聞いたからだ。

 あとは、肋の壊れた部分に何発か蹴りを叩き込めば、カタがつく。

 骨を覆う骨膜は、人体の中でも特に痛覚受容器が密に分布している組織だ。

 骨折した場所を打たれるということは、その密な痛覚を直に刺激されるということである。

 激痛がある。

 意志の力だけで、何度も耐えられる痛みではない。

 体があげる悲鳴に、闘志が萎えるはずだ。

 さらに、ヒビの入った肋を蹴られ、完全に折れるようなことになれば、内蔵が傷つく可能性もある。

 そのことへの恐怖も、アレクサンダーの精神を磨り減らすはずだ。

 勝てる。

 ノーヴェは、勝利を確信しながらアレクサンダーを見据えた。

 目の前の大男は、先ほどまでと変わらぬ薄ら笑いを貼り付けている。

 大した奴だ。

 痛みを、顔に出さない。

 しかし、ダメージがあることは確かなのだ。

 その証拠に、アレクサンダーは左腕を下げて、脇腹をカバーしている。

 一分もすれば、折れた肋の周りの皮膚が、毒々しい紫色に変わってくるだろう。

 その前に、終わらせてやる。

 ノーヴェはアレクサンダーの太ももにローキックを放った。

 

「くぅ!」

 

 アレクサンダーが呻きをあげる。

 それに構わず、ノーヴェはローキックを連続して打った。

 これまでにない、ハイペースな攻撃だ。

 

「くぅあ!」

 

 悲鳴をあげるアレクサンダーの重心が、ふらついた。

 ここだ!

 ミドルキック。

 ノーヴェの右足が、アレクサンダーの左脇に、するりと滑り込んだ。

 アレクサンダーの傷ついた肋を、正確に蹴り抜いた。

 よし──

 ノーヴェがそう思った瞬間、

 

「おご……っ!?」

 

 ノーヴェの腹が、破裂した。

 いや、正確には、ピンと伸ばされ揃えられたアレクサンダーの右手の四本の指に、腹を突かれたのだ。

 しかし、この一瞬のノーヴェの認識は、自分の腹が突然、内側から破裂したというものだった。

 貫手──プロレス流に言えば、地獄突きである。

 それを受けて、ノーヴェの体は()の字に折れ曲がり、宙に浮かびあがっていた。

 そして、一拍の間を置き、ドサリと落ちて、

 

「げぇえええええええええ!」

 

 吐いた。

 常人よりも遥かに頑強な戦闘機人の消化器系が、狂ったように中にあるものを逆流させた。

 ほとんど呼吸することもできずに、ノーヴェは胃液をまき散らしながらのたうちまわる。

 痛い。苦しい。

 ノーヴェの中にあるのは、地獄の苦痛だけになっていた。

 アレクサンダーのことも、ミカヤのことも、思考から消え去っていた。

 そんなノーヴェ背中に、凄まじく重い何かが、のしかかってきた。

 アレクサンダーが、胴体をまたぐようにしてノーヴェの上に腰掛けてきたのだ。

 その圧迫感によって、ノーヴェは現実に引き戻された。

 しかし、百四十キロの重石に動きを封じられてしまえば、うつ伏せの状態で吐瀉物に顔を埋めて痙攣することしかできない。

 

「ひ……」

 

 不意に、ノーヴェの口から、掠れた細い声が漏れた。

 顎を、アレクサンダーのでかい掌によって、左右からホールドされたのだ。

 そのまま、頭ごと後方へ引かれる。

 キャメルクラッチ。

 これ以上ないほどシンプルな関節技だ。

 ノーヴェの背骨と首が、曲がらない方向へと力を加えられ、ミシミシと音を立てる。

 殺される──

 限界だった。

 苦痛と恐怖によって、ノーヴェの心がぶつりと折れた。

 

「あああああああああああ!」

 

 赤ん坊のように声をあげた。

 それは、兵器として生まれたノーヴェが、これまであげたことのない声だった。

 

 Ⅷ

 

 アレクサンダーが格闘技練習スペースの掃除をしている。

 そこら中に散らばる吐瀉物を、古新聞で掬い取る。それから、床を雑巾がけしていく。

 その様子を、ノーヴェは仰向けに倒れたまま、横目で眺めていた。

 アレクサンダーの顔は青ざめていた。折れた肋がよほど痛むらしかった。

 

「よし、終わり」

 

 一通りのことを終えたアレクサンダーは、そう言ってノーヴェの傍らに立った。

 

「どう? 立てそう?」

「ああ……」

 

 アレクサンダーに尋ねられ、ノーヴェはゆっくりと立ち上がった。

 脚が震えて倒れそうになるのを必死に(こら)える。

 

「じゃ、シャワー浴びに行こっか」

 

 アレクサンダーが、すたすたと歩き出した。

 その背中を、ノーヴェは俯いたまま追った。

 死にたい気分だった。

 自分から喧嘩を売っておきながら、胃液を吐き散らし、悲鳴をあげさせられ、さらにはその後始末を、肋の折れている相手にさせてしまったのだ。

 世界広しといえど、自分よりみっともない女は存在しないだろう。

 ぶちのめされた相手に世話を焼かれる自分が、たまらなく惨めだった。

 

「ここまでやるつもりなかったんだけどなぁ…… あー、痛い」

 

 前を行くアレクサンダーが、脇腹をさすりながらぼやいた。

 

「悪かった……」

「ほんと、たまったもんじゃないよ。なによ、あのパワーと柔軟性。反則でしょ。

 バケモノなの? モンスターなの? 大体、よく考えたら僕、完璧にやられ損じゃん」

 

 ノーヴェが弱気に応じると、嫌味ったらしい口調でアレクサンダーが捲したててきた。

 その中に含まれていたバケモノ、モンスターという単語に、ノーヴェの体がビクリと震えた。

 

「っ……私は……」

「あっ、いや、ごめん。言い過ぎた。

 君の体、ちょっと普通とは違ってるってのはわかったよ。でもまぁ、あんま気にすることないんじゃない?

 僕さ、本物のヤバい連中ってのを少しは知ってるんだけど、君とは似ても似つかないもん。

 そういう連中ってのはさ、血も涙もなくて、殺したくなるくらいムカつくんだから」

 

 触れてはいけない所に触れてしまったと思ったのか、早口でおかしなフォローを入れるアレクサンダー。

 

「……こう言う時は、何も言わなくていいんだよ、バカ」

「あ、酷い。ひとの肋へし折った上に、バカ呼ばわりするなんて」

 

 気を遣わせてはいけないと思ったノーヴェが、できる限り勝ち気な言葉を返すと、アレクサンダーが喧しく騒ぎだした。

 つい先ほど恐怖の悲鳴をあげさせた相手に対する態度としては、驚くほど気安い態度である。

 奇妙な男だ。

 平気な顔をして他人に大怪我を負わせたり痛めつけたりしたかと思えば、その相手の世話を焼いたりする。それも、自分も怪我をさせられているのにだ。

 肉体を壊す、壊されるということを、異常なほど軽く捉えているように思えた。

 そんなことを考えながら歩く内に、ノーヴェはシャワールームの前へと辿りついていた。

 

「じゃあ、僕、シャワーあがったらそのまま帰るから。またね」

 

 そう言って、アレクサンダーは男性用シャワールームの扉の向こうへと姿を隠したのだった。

 

 Ⅸ

 

 白い、清潔な部屋に、夕陽が差し込んでいる。

 アレクサンダーと闘った二日後。

 ノーヴェは、膝の手術を終えたミカヤの見舞いに訪れていた。

 クラナガン郊外にある総合病院の入院病棟である。

 ミカヤはこの病院に、二週間ほど留まる予定だという。

 

「そうか、ナカジマちゃんも彼と……」

 

 ノーヴェがアレクサンダーと闘ったことを語ると、ミカヤはため息をつくようにそう言ったのだった。

 ミカヤの顔は、やつれている。

 以前の快活な雰囲気は鳴りをひそめ、白い病衣と相まって、儚げに見えるほどだ。

 そんなミカヤを痛ましく思いながら、ノーヴェはぼそりと呟いた。

 

「とんでもない奴だったよ……」

 

 あれはもう、どうしようもなかったのではないか。

 アレクサンダーとの闘いから数日の間を置いたことで、ノーヴェはそう考えるようになっていた。

 実力という意味では、ノーヴェとアレクサンダーの間に大きな差はなかっただろう。

 しかし、精神性に絶対的な隔たりがあった。

 それが、ノーヴェとアレクサンダーの勝敗を分けたのだと、ノーヴェは思っている。

 なんとしてでも相手を血の海に沈めるという執念が、アレクサンダーの中にはあったのではないか。

 今は捨て去ってしまったが、かつてはノーヴェも持っていた執念だ。

 だから、よくわかる。

 『普通』に生きようとする人間は、そんなものを持った相手に、付き合いきれないのだ。

 強いとか、弱いとか、そういう事とは別次元の話だ。

 ノーヴェがそんなことを考えていると、ミカヤが静かに口を開いた。

 

「ねぇ、ナカジマちゃん……」

「うん?」

「私が退院したら、一緒に行ってみないかい、プロレス」

 

 ミカヤはそう言った。

 紅い瞳に、思いもよらぬほど真剣な光が宿っていた。

 




 Q.ノーヴェはなぜジェットエッジを起動しなかったのですか?
 A.ノーヴェさんは常識人なので、公民館の中をローラーブレードで走ったりしません。

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