Ⅰ
広い空間だった。
二千人以上の人間が入れる広さがある。
バック・ファン・ガーデン総合ホール。
首都クラナガンの中心地区にある多目的ホールである。
格闘技の試合や、テレビ番組の収録に使われることが多い場所だった。
今はホールの中心にプロレスのリングが設置されており、その上や周囲を、十数人の男たちが動き回っている。
男たちは皆、一様に肉が厚い。
全員が、中央プロレスのプロレスラーだ。
レスラー達は、二時間後に始まる興業のための準備を進めているのだ。
ストレッチをして体をほぐす者、リングの上で受け身の練習をする者、場外乱闘で通る客席通路を確認する者……
全員が、試合に向けて真剣に備えを整えている。
汗のにおいがする光景だった。
そんな空間に、スーツ姿の中年男性が、早足で入りこんできた。
額に汗が浮いており、視線が忙しなく動いている。なにやら、酷く焦っているようだ。
中央プロレス企画部 シーマ
そう記された名札を首からさげていた。
「ああ、いた!」
そう声をあげ、中年男性──企画部のシーマは、一人のレスラーの元へ向かった。
ホールの中にいるレスラーの中で、一番体が大きいレスラーだ。身長が2メートルくらいある。
そのレスラーは、明るい金髪を
半ズボンだけを穿いた半裸姿で、額を隠すように黒いヘアバンドをつけている。
左脇腹に、厳重なテーピングを施していた。
若手レスラーの、アレクサンダー・ダイナである。
「アレクくん、アレクくん!」
シーマが呼ぶと、リングの端でブリッジの練習をしていたアレクサンダーは立ち上がり、
「どうしたんですか、シーマさん?」
と、赤銅色の丸っこい瞳でシーマの顔を見下ろしながら尋ねてきた。
まだ少年の面影が残る顔立ちに、人の良さそうな柔らかい表情が浮かんでいる。
その顔に妙な安心感を覚えながら、シーマは一つ呼吸をして答えた。
「アレクくん、お客さんが来てる」
「お客さん? 僕にですか?」
「君にだよ。どうも、例の剣術道場の関係者らしい」
「あー、わかりました、すぐに行きます」
「頼むよ。東口に待たせてあるから、一緒に来てくれ」
そういったやりとりの後、シーマは元来た方向へ歩き出した。後ろから、のしのしとアレクサンダーがついてくる。
ホールの花道を抜け、関係者用の通路を進む。
これで、三件目だったか──
歩きながら、シーマは思った。
三件目というのは、中央プロレスに抜剣術天瞳流の人間が訪れた回数である。
二週間と少し前に、アレクサンダーが天瞳流の道場に乗り込み、師範クラスの人間を二人、再起不能に追い込んだ。
そのことに対するリアクションが、シーマが知る限りこれで三件目なのだ。
一件目と二件目は、湾岸地区にある中央プロレスの道場に現れたらしい。
突然現れて、アレクサンダーとの立ち合いを要求してきたという。要するに、報復だ。
一件目の時は、道場にアレクサンダーがいなかったので、その場に居合わせたベテランレスラーのカール・ダンクが相手をしたという。
二件目は、要求通りアレクサンダーが相手をした。
アレクサンダーもカールも、天瞳流側の人間を返り討ちにしてしまったらしい。
関節技で、肩や肘を破壊したと聞く。
シーマには理解できない世界の話だ
シーマに格闘技や武道の経験はない。
それどころか、プロレスに対して特別な感心があるわけでもない。
前に勤めていた会社が潰れてしまい、たまたま中央プロレスという会社に流れ着いて、会場の手配をする仕事をしている。シーマはそういう人間だった。
道場破りに練習生が斬られただの、その仕返しに若手を派遣して少女や老人の体を壊させただの──
正直、関わりたくない話だった。
今回は、手続きのために訪れていたホールの事務所から出たところで、偶然、天瞳流の人間に声をかけられてしまったのだ。
中央プロレスのネームが入った名札をさげていたため、逃げることができなかった。
まったく、煩わしいことだ。
思考を走らせているうちに、『お客さん』を待たせている場所が見えてきた。
三十歳くらいに見える、髪を短く刈り上げた男が立っていた。
道着風の白い上着と赤い袴を身につけ、腰に刀を挿している。
「シーマさん、ストップ」
男まで六メートルといったあたりでアレクサンダーが言った。
シーマはその声に従って立ち止まった。
「アレクサンダー・ダイナ……」
シーマの後方、アレクサンダーに視線を向けながら、男が呟いた。
その顔が、見る間に紅潮していく。
アレクサンダーの姿を見て、興奮しているらしい。
「あなた、僕が行った時、道場にいましたね。仕返しに来たんですか?」
アレクサンダーが、男に尋ねた。
明らかに呆れの色を含んだ声音だった。
「そうだ」
男が短く答えた。
その声は微かに震えていた。
「後にしてください」
アレクサンダーが、はっきりとした口調で言った。
「なに!?」
「知ってるんでしょう? あと二時間で興業が始まるんです。
前座ですけど、僕の試合だって組まれてるんですよ」
「それは、そっちの事情だ」
「そりゃあそうですけど、守るべき礼儀ってもんはあるでしょ。
僕だって、あなた達の道場へ行った時は、折り目正しく振る舞ったでしょ?」
「…………」
「…………」
沈黙が訪れた。
その沈黙の中で、シーマは金縛りにあったかのように動けなくなっていた。
アレクサンダーと天瞳流の男が睨み合っているせいだ。
男が放つ針金のような殺気によって、周囲の空気がささくれ立った固形物に変化したかのようだった。
「……いいだろう」
決して短くはない時間が過ぎてから、男が低い声でそう呟いた。
ギシギシと音を立てていた空気が、一気に弛緩した。
シーマは、ふぅ、と息を吐いた。
「また、来る……」
男が、そう言ってシーマとアレクサンダーに背を向けた。
その瞬間、びゅう、と巨大な何かがシーマの横を通過した。
「へ?」
という、シーマが発した間の抜けた声に、
「おげぇえっ!?」
という短い悲鳴が重なった。
瞬きをいくつかできるくらいの間の後、状況を認識したシーマは、自分の目を疑った。
背を向けた男の股間を、アレクサンダーが背後から蹴り上げていたのだ。
現実味というものが、全く感じられない光景だった。
男が、どう、と前のめりに倒れた。
「ぐぅ、うううううぅぅぅ」
両手で股を押さえながら、呻き声をあげている。
そこへ、アレクサンダーが素早く覆い被さった。
うつ伏せになっている男の背中に、横から上半身を預けるような形だ。
アレクサンダーの動きは、それだけでは終わらない。
そのバカでかい左右の手で、男の左腕を掴んだ。
そのまま、男の腕を背中側に捻りあげ始めた。
肘が伸びた状態で固定され、一本の棒となった男の腕が、ゆっくりと真上に向かって立ち上がってゆく。
シーマは、それが自分も何度か見たことのあるプロレス技だと気づいた。
確か、脇固めとかいう名前の技だ。アレクサンダーの師匠である、カール・ダンクの得意技だったはずだ。
シーマがそんなことを考えた時、めぢっ、めぢっ、という不気味な音が聞こえてきた。
「ぐああああああああああ!?」
悲痛な絶叫がシーマの耳を打った。シーマのはらわたが、きゅうと縮こまった。
アレクサンダーに捻りあげられた男の腕が、おかしな方向を向いていた。肩の関節が、明らかに人体の限界を超えた角度まで曲げられている。
絶対に治ることのない壊れ方をしたのだと、素人であるシーマが見てもわかる。
アレクサンダーが、男の腕を放し、立ち上がった。
「痛い、痛い、痛い痛い痛い……」
男は倒れたまま、壊れた機械のように同じ言葉を繰り返している。
アレクサンダーに与えられた痛みが、男の全てになっているらしい。
「うるさいなぁ」
アレクサンダーが、ぼやきながら、男の後頭部を凄い勢いで踏みつけた。
固い物が軋むような音を最後に、男が静かになった。
シーマに背中を向けていたアレクサンダーが、振り返った。
「いやー、ラッキーでしたよ、お馬鹿な相手で」
アレクサンダーはそう言った。
ひとりの人間の腕を永遠に使い物にならなくしたというのに、その顔には常と変わらない人の良さそうな表情が浮かんでいる。
大変な会社だなぁ──
他人ごとのようにそんなことを思うシーマの鼻に、し尿の臭いが届いていた。
Ⅱ
「これが、プロレスか……」
ノーヴェ・ナカジマは、隣に座るミカヤ・シェベルが、誰に言うでもなく呟くのを聞いた。
バック・ファン・ガーデン総合ホールで午後六時から始まったプロレス興業の第一試合が、たった今、終わったのだ。若手同士のタッグマッチだった。
ノーヴェとミカヤは、花道沿いの席に座っている。
プロレスラーに、一番近づくことができる席だ。
選手は、試合が始まる前にノーヴェ達の横を通ってリングに向かい、試合が終わればノーヴェ達の横を通って控え室に戻っていくことになる。
「こういうものなんだね」
ミカヤが、今度は明確にノーヴェに向かって言った。
「ああ…… こういうのは、初めて見る」
ノーヴェは、そう答えた。
これがプロレスか──
ミカヤの呟きは、そのままノーヴェが思ったことでもあった。
アレクサンダーと闘ってから、既に十七日が経っている。
その間に、ノーヴェはプロレスについて一通りのことを調べていた。
ノーヴェはプロレスのことを、組み技を主体とした格闘技だと思っていたが、実際にプロレスという言葉が指すのは興業体系のことであった。
格闘技
プロレスとは、そういうエンターテイメントだという。
いや、観客を楽しませるのは、試合だけではないらしい。
プロレスラー達はリングの内外で情報発信を行うことでストーリーを練り上げ、それを試合で消化することで観客を満足させるのだ。
スポーツ性を持った連続ドラマ──
言葉で説明するならば、そういうことになるのだろうか。
この奇妙な娯楽産業は、第九十七管理外世界『地球』から、五十年ほど前に持ち込まれた文化だという。
『僕、話したでしょ。ミカヤちゃんが前にウチの練習生を斬っちゃったって。
そういうのほっとくと……いや、そういうことがあったというだけで、僕らのダメージは大きいんだよ。
わかるでしょ? プロレスは……ああいうことをやってるんだから』
以前、アレクサンダーが苦々しい表情でノーヴェに語った言葉だ。
今なら、この言葉の意味がわかる。
プロレスラーは、真剣に勝ち負けを競っているわけでもないのに、自分たちに『強さ』という価値をつけて売り出しているのだ。
『本当は弱い』『大した連中ではない』
そう言われないように、自分たちの強さを保障する何かが、プロレスラーには必要不可欠なのだ。
その何かを具体的に言えば、アレクサンダーがやったような他流試合まがいの事であり、選手がプロレスラーになる前の競技実績であり、そして、普段の試合内容なのだ。
今、終わったばかりの試合は、思いがけないほど激しいものだった。
確かに、真剣勝負ではなかった。
リングで闘うレスラーは、相手の顎やこめかみを殴り抜いて気絶させてやろうだとか、チョークスリーパーで意識を落とそうだか、そういうことをしなかった。
しかし、全力だった。
胸板や肩など、人体の頑丈な部分を狙って、本気の蹴りを叩き込んでいた。
高々と持ち上げた相手を、凄い勢いで、受け身を取りやすいよう背中から投げ落としていた。
ウィークポイントではなく、ストロングポイントを狙って、全力の攻撃を行う。
それが、今、ノーヴェが見たプロレスだった。
「アレクちゃんの試合、見たかったなぁ……」
しみじみと、ミカヤが呟いた。
今日の興業の参加選手に、アレクサンダーの名前はなかった。
もしかしたら、ノーヴェから受けた肋の怪我が治っていないのかもしれない。
アレクサンダーは、プロレスのリングで、普段どういう試合をやっているのか。
ノーヴェとしても、気にならないと言えば、嘘になる。
と、不意に、ホールの照明が落ちた。
第二試合の選手入場が始まったのだ。
ブルース調の入場曲が響き、ホールの壁に設置された大型モニターに映像が流れ始める。
もっとも、映像と言っても、真っ黒な画面に白い文字で、
THE SHOOTER
と表示されているだけだ。
すぐに、花道の奥から選手が現れた。
ギラギラとした雰囲気の、目つきの鋭いレスラーだった。
黒い髪を短く刈り込み、さらに、側頭部に稲妻のようなギザギザの剃り込みを入れている。
脂肪が、かなり薄い。エッジの立った筋肉が見てとれた。
身につけているのは、黒のショートタイツとリングブーツだけだ。
レスラーは観客には目もくれずに花道を進み、リングに上がった。
飢えた獣のような男だ。
『百八十二センチ、九十二キロ。ビリー・タクト』
リングアナウンサーが、そうコールした。
会場に流れていた音楽が切り替わった。次の選手の入場が始まるのだ。
ロック調の、軽快なリズムの曲がホールに流れだした。
壁のモニターは、砂漠を空から撮影した映像に切り替わっている。
花道に、次のレスラーが現れた。
覆面レスラーだった。耳のあたりに羽のような装飾部品がついた、目と口の周りだけが露出されるマスクを被っている。
体の大きな覆面レスラーだ。先に入場したビリーよりも、二回り以上大きい。
白を基調とした全身タイツを身につけ、さらに上半身には白と青のツートンカラーのジャケットを羽織っている。
左手に、武骨なデザインの、長大な杖を持っていた。砲撃専門の魔導師が使うような杖だ。
「あれは……航空隊の制服か?」
覆面レスラーの格好を見たノーヴェは、思わずそう呟いた。
「え?」
「あの上着だよ。ありゃ、管理局の本局航空魔導師隊の制服だ」
ノーヴェは疑問符を浮かべるミカヤに、そう説明した。
この覆面レスラーは、管理局で働いていたことがあるのだろうか。
それとも、ヒーロー的なキャラクターを表す記号として、航空隊の制服を利用いるだけなのだろうか。
そんなことを考えていると、覆面レスラーが、花道沿いの席にいる観客とタッチを交わしながら、ゆっくりとノーヴェ達の方に近づいてきた。
そして、ノーヴェの横を通り過ぎようとした時、驚いたように動きを止めた。
ノーヴェがその挙動を怪訝に思い顔を見上げると、目が合った。赤銅色の瞳をしていた。知っている瞳だ。
「お前、アレクサンダー!」
思わずノーヴェは叫んだ。
しかし、覆面レスラーは答えず、そのまま歩き去って、リングに入ってしまった。
『二百センチ、百四十キロ。キャプテン・ミッドチルダ』
リングアナウンサーが覆面レスラー、つまり、アレクサンダーの名を、そうコールした。
「驚いたな、アレクちゃんがあんな格好してるなんて。それにしても、キャプテン・ミッドチルダねぇ……」
「たぶん、額の傷痕のせいだな」
どことなく不満そうに口を開いたミカヤに対し、ノーヴェはなだめるように応じた。
アレクサンダーの額には、醜い傷痕がある。
ノーヴェやミカヤと闘った時はヘアバンドで隠していたが、投げ技や寝技の攻防があるプロレスの試合をする場合、ヘアバンドではすぐにズレて傷が露わになってしまう。
そのような事態を防ぐために、外れにくい覆面を被っているのだろう。
「ビリー! やっつけちゃっていいぞ〜!」
「キャプテーン! 余裕こき過ぎんなよぉー!」
「久しぶりに山嵐を見せてくれよ、キャプテン!」
観客が、野次とも応援ともつかない声を、次々とリングに投げ入れる。
ビリーよりも、キャプテン・ミッドチルダを呼ぶ声の方が、だいぶ多い。
そのことにノーヴェが微妙な安堵を覚えたのと同時に、ゴングが鳴った。
Q.バック・ファン・ガーデン総合ホールってなんだよ?
A.
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