巨獣のセレナーデ   作:セミドレス

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 第四章 セメント 後編

 

 Ⅲ

 

『五分経過、五分経過』

 

 そういうアナウンスが、会場に流れた。

 

「こんな試合をしているのか、アレクちゃんは……」

 

 ミカヤがボソリと呟いたのを聞いて、ノーヴェは溜息をついた。

 

「これが役なんだろうよ、アイツの……」

 

 そう言いながらミカヤを見ると、ギリ、と歯を食いしばっていた。何かに耐えるような、固い表情だ。

 もう一度溜息をついてから、ノーヴェは視線をリングに戻した。

 

「待ちたまえっ! 待ぁちぃたぁまぁえ〜!」

 

 覆面を被ったアレクサンダーが、アホな口調で、会場全体に響くような大声をあげている。

 リングを囲う三本のロープの、一番上と真ん中の間を通して、上半身をリング外に出しながらだ。

 プロレスには、ロープに触れている選手に攻撃してはいけないというルールがある。

 アレクサンダーがそのルールを利用し、相手の攻撃を封じている。そういう()()だ。

 つい先ほどまで、アレクサンダーは対戦相手のビリーに、蹴りで一方的に痛めつけられていたのだ。

 それが今は、怒りの表情でアレクサンダーに殴りかかろうとするビリーを、割って入ったレフェリーが必死に食い止めているという状況となっている。

 観客席のところどころから、笑い声があがっていた。

 

「ええい、待てと言っているだろう! ウェイト! ウェイト! ウェイト! ウェイト! ウェイト!」

 

 レフェリーと揉み合うビリーに対し、アレクサンダーが、また大声をあげた。

 ウェイト、ウェイトと連呼している。

 大部分の観客が、そのリズムに合わせて手拍子を打ち始めた。さらに、一部の観客はアレクサンダーと一緒に叫んでいる。

 そんな会場の空気を浴びせられ、ビリーが戸惑ったような表情でリングの反対側まで退いた。

 会場が、拍手と歓声と、笑い声に包まれた。

 茶番だった。

 コミックレスラー。

 アレクサンダー、いや、キャプテン・ミッドチルダというプロレスラーの持つ個性は、これらしかった。

 

「あの体と技を、こんなことに使っているのか…… こんな男に、私は脚を折られたのか……」

 

 ミカヤが、昏い声で言った。

 ノーヴェは言葉を返すことができなかった。怖くてミカヤの顔を見ることもできず、視線を下に向けた。

 なぜ、こんなことを──

 その思いは、ノーヴェにもある。

 アレクサンダーの実力があれば、道化を演じる以外にも、やれることがあるのではないか。

 そう思う。

 同時に、それは自分本位な考え方だとも思う。

 アレクサンダーは、好きで道化をやっているのだ。

 観客を楽しませることを、アレクサンダー自身も楽しんでいる。

 そのことが、離れた場所から見ていてもわかる。驚くほど明るい笑みを、アレクサンダーが口元に浮かべているからだ。

 そもそも、アレクサンダーはプロレスラーだ。

 ミカヤやノーヴェとやったような真剣勝負が例外的な闘いなのであり、今やっているような試合こそが本業なのだ。

 ノーヴェがそんな思考を走らせていると、突然、周囲の観客がどよめいた。

 何事かとリングを見ると、アレクサンダーが地獄突きでビリーを痛めつけていた。

 古流武術を意識しているらしい珍妙な構えから、大げさなモーションで貫手を放っている。

 その貫手が腹に当たれば腹を、喉に当たれば喉を、ビリーは両手で押さえながら、後ろによろめく。

 嘘のやりとりだ。

 アレクサンダーの地獄突きは軽く触れる程度のものであるし、ビリーが苦しむ様も百パーセント演技だ。

 アレクサンダーのリアルな地獄突きを受け、胃液を吐き散らしたことのあるノーヴェにしてみれば、寒い芝居だった。

 四発目の地獄突きで、ビリーがロープ間際まで追い詰められた。

 アレクサンダーは、そのビリーの腕を取り、反対側のロープに向けて振った。

 ビリーは勢いよく走って反対側のロープにぶつかり、その反動を利用するようにしてアレクサンダーの元へ戻ってきた。

 タイミングを合わせ、アレクサンダーがビリーの顔面めがけてフロントハイキックを放った。

 ビリーがそれを、サイドステップを踏むようにして避けた。

 次の瞬間、それは起きた。

 

 Ⅳ

 

 いきなり、仕掛けられた。

 アレクサンダーは、がはぁ、と肺の中の空気を勢いよく吐き出していた。

 痛めている脇腹に、膝蹴りを入れられたのだ。

 予定では、相手のビリーがフロントハイキックを受けて倒れ、それをアレクサンダーが引き起こし、山嵐式バックドロップを決めることで、試合が決着することになっていた。

 その事前に決めていた流れを無視して、ビリーが膝を叩き込んできたのだ。

 予期せぬ激痛に、一瞬、アレクサンダーの動きが完全に停止していた。

 そこへ、立て続けに拳が打ち込まれる。本気の力がこもった拳だ。

 アレクサンダーは、両腕で必死に頭部をかばった。顎や、こめかみの良いポイントに当てられたら、意識を飛ばされかねない威力があったからだ。

 明らかに、プロレスの範疇を超えた行為だった。

 プロレスのルールが正拳による攻撃を禁じているということもあるし、事前の取り決めを破って相手の故障箇所を攻撃するというのもあり得ないことだ。

 異常事態に気づいたレフェリーが、慌ててビリーとアレクサンダーの間に割って入る。

 ビリーはレフェリーに逆らわず、素直に退いた。

 アレクサンダーは、ビリーを睨みつけた。

 ビリーも、嫌な笑いを浮かべながら、アレクサンダーを見つめていた。

 ビリー・タクト。

 二年前の冬に、アレクサンダーと居酒屋で揉め事を起こしたことのある男だ。

 そして、その半年ほど後に、何を思ったのか中央プロレスの入団テストを受けに来て、合格してしまった男だ。

 そのビリーが、セメントを仕掛けてきた。

 セメント──プロレス的な約束事を無視した真剣勝負のことである。

 余程の事情がない限り、発生する物ではない。

 やってしまえば、プロレスラーとしての信頼を失ってしまうからだ。

 しかし、アレクサンダーには、ビリーからセメントを仕掛けられる心当たりなどない。

 居酒屋で揉めたという因縁がありはするが、別に殴り合いをしたわけではないのだ。

 むしろ、あの場で痛い思いをしたのは、アレクサンダーの方だった。

 会社の中でも、互いに必要以上の接触を避けてきた。

 それなのに、なぜ、今になってビリーの側から仕掛けてきたのか。

 ビリーは中央プロレスで、一年以上の下積みをしている。

 デビューまでは道場で徹底的にしごかれ、プロレスラーとしてリングに立つようになっても、様々な雑用をやらされる。

 その辛い積み重ねの一年を、たった今、ビリーは台無しにしてしまったのだ。

 正直、わけがわからない。

 いや、ひとつ、思い当たる節があった。

 天瞳流だ。

 ビリーは、天瞳流の関係者から、流派に泥を塗ったアレクサンダーを潰すよう依頼されたのではないか。

 そんな考えが、アレクサンダーの頭に浮かんだ。

 

「何のつもりだ!?」

 

 レフェリーがビリーを問いただしている。

 ビリーはレフェリーには一瞥もくれず、アレクサンダーの方を見たまま答えた。

 

「わからないのか? まったく、お前ら芝居屋は、一から十まで決めておかないと駄目なんだな」

「なんだと!?」

 

 プロレスを揶揄するようなビリーの言葉に、レフェリーが声を荒げた。

 アレクサンダーも、その丸っこい双眸を、すっ、と刃物のように鋭くした。

 レフェリーが、アレクサンダーの方を向いた。試合を続けるか、先ほどのパンチを理由にビリーの反則負けにするかを、視線で尋ねてくる。

 アレクサンダーは、ぐるりと客席を見渡した。

 先ほどまでの明るく楽しい雰囲気は、微塵も残っていない。

 怒りに声を震わせながら、アレクサンダーは答えた。

 

「やりますよ…… ビリーくん、おしおきの時間だよ」

 

 Ⅴ

 

 やった。やってやった──

 ビリーの肉体と精神は、異様な興奮に包まれていた。

 アレクサンダーに、真剣勝負を仕掛けたからだ。

 恨みのある相手だった。

 二年前の冬に、心の支えにしていた物を打ち砕かれたのだ。

 ビリーは中央プロレスに入る前、シューティングアーツという、自走機能付きローラーブレードを履いて行う格闘競技のプロ選手をやっていた。

 プロデビュー直後に四連勝を飾り、将来のスター選手かと業界内で期待されもしたのだ。

 しかし、その四連勝の後は、さっぱり勝てなくなった。引き分けと判定負けばかりが重なった。

 体が、大きく、重すぎたのが原因だ。

 シューティングアーツは、フルコンタクト制の格闘技でありながら、体重によるクラス分けがない。

 体の大きさからくるパワーやタフネスよりも、スピードが重要な競技だからだ。

 むしろ、スピードの源であるローラーブレードの出力がルールによって定められているため、体重が重い選手ほど不利になる場合も少なくない。

 事実、シューティングアーツ男子プロ選手の体重に関するボリュームゾーンは、六十五キロ前後である。

 それに対し、当時のビリーの体重は、八十五キロもあった。シューティングアーツをやるには、明らかに大きすぎる数値だ。

 だが、デビュー直後のビリーは、そのハンデを格闘センスとパワーでカバーできたのだ。

 そのことによって、大きな注目を集めてもいた。

 しかし、プロの世界はそう甘くなかった。

 プロとして五度目の試合に挑む頃には、ビリーのデータは完全に研究されていた。

 相手が、ビリーの癖や特技を踏まえた上で、逃げながら闘うようになった。

 スピードに劣るビリーは、捕まえることができなかった。

 それで、判定負けと引き分けが続くようになった。

 次第に、試合が組まれなくなっっていった。

 制限時間いっぱいまで続く追いかけっこ──そんな試合を見たがる客など、めったにいない。

 いつからか、シューティングアーツだけでは食って行けなくなり、アルバイトをしながら試合が組まれるのを待つような生活をするようになっていた。

 惨めだった。

 唯一の誇りは、誰も正面から闘おうとしないほど、自分は強いということだった。

 正々堂々と闘えば、俺には勝てない。だから皆、姑息な手を使うんだ──

 情けない言い訳であることは、わかっていた。

 それでも、自分は強いという、そういう思いにしがみつくしかなかった。

 そんな、ボロボロの獣のような日々を送っていたある日、ビリーはアレクサンダーと出会ったのだ。

 女と一緒に、居酒屋へ行った時だった。

 カール・ダンクとジ・アンダーフューラー。

 二人のベテランレスラーの付き人として、アレクサンダーは帯同していたのだ。

 そこで、揉めた。

 ビリーが、一団に対して喧嘩を売ったのだ。

 嫉妬からだ。

 格闘技を騙る芝居屋が、きちんと金を稼いでいることが、許せなかった。

 それでビリーは、プロレスを大きな声で馬鹿にしたのだ。

 それに対し、アレクサンダーは、自分で自分の耳を毟り取ってしまった。

 ビリーを黙らせるという、ただそれだけのために、自分の右耳を引き千切ってしまったのだ。

 信じられないことだった。

 異様な光景だった。

 当時、アレクサンダーはまだ十四歳だ。

 体こそビリーより大きかったが、顔立ちは少年のものだった。

 デカいガキが、自分の耳をぶちりと千切り取って、ニヤニヤと笑いながら、顎先から血を滴らせたのだ。

 ビリーは、その光景に怯えた。

 強さだけを誇りにしていた男が、十歳近く年下の相手に怯え、震えたのだ。

 屈辱的だった。

 だが、さらなる辱めが、その直後に待っていた。

 割の合わない自傷行為を行ったアレクサンダーは、カールに殴り飛ばされ、怒鳴られた。

 それを、たまたま居合わせた女性客が庇った。

 それだけで、アレクサンダーはビリーのことを、完全に意識の外に置いてしまったのだ。

 アレクサンダーは、カールと女性客にペコペコと頭を下げるばかりだった。

 さらに、店から出る時など、女性客に色目を使ってすらいた。ビリーの方をチラリとも見ずにだ。

 ビリーは許せなかった。

 腹の底に、黒々とした怒りと悔しさが生まれた。

 そのドロドロとした炎は、何をやっても沈まらなかった。

 アレクサンダーをぶちのめす──

 恨みを忘れ、誇りを取り戻すには、それしかないと思った。

 それで、シューティングアーツのプロ選手という立場を捨てて、中央プロレスに入った。

 野試合では駄目だと思ったからだ。

 アレクサンダーを倒すなら、公衆の面前で徹底的に叩き潰し、恥をかかせたかったからだ。

 そのチャンスが、今日、回ってきた。

 タッグマッチでアレクサンダーと試合をしたことは何度かあったが、シングルマッチが組まれたのは、今日が初めてだった。

 シングルマッチなら、アレクサンダーをその気にさせてしまえば、レフェリーは試合を止めることはできない。客の目があるからだ。

 それに今、成功したのだ。

 ビリーは獰猛に笑いながら、正面に立つアレクサンダーを睨んだ。

 アレクサンダーは、口元を不機嫌そうに結んでいる。 

 アレクサンダーの構えは、変形のクラウチングスタイルだ。

 前傾した上体。頭部を覆うように守る両腕。内股気味の両脚。

 急所を守る事だけを考えた、縮こまった亀のような構えだ。

 これでは、突きも蹴りも出しにくければ、フットワークもまともに使えない。馬鹿馬鹿しいスタイルだ。

 しかし、それが面白いとビリーは思っている。

 つい最近、アレクサンダーは会社の命令で剣術道場に道場破りをしかけ、派手に暴れたという。

 そんな奴が、こんな構えを取っているのだ。

 そこにどんな意味があるのか、気になった。

 ビリーは動かず、その場で待っている。

 アレクサンダーが、ベタ足を引きずるようにして、ゆっくりと、しかし無造作に近づいてくる。

 そのまま、アレクサンダーの間合いに入るか入らないかというタイミングで、ビリーは斜め前にステップを踏んだ。

 アレクサンダーの左手側に回り込む。

 間髪を入れず、ローキックを放った。

 バチンと、肉を打つ音がなった。

 ビリーは、ほう、と思った。

 アレクサンダーが左脚を持ち上げ、ビリーのローキックを脛でカットしたからだ。

 ぎこちなさはあるが、一応は形になっているディフェンスだ。

 多少は、打撃の受け方を練習しているらしい。

 ならば、フットワークで掻き回してやろう。

 ビリーは左右へステップを踏みながら、アレクサンダーへの攻撃を開始した。

 決して、アレクサンダーの正面には立たない。

 タックルを受けるのが怖いからだ。

 五十キロ近い体重差のあるアレクサンダーのタックルを受ければ、抵抗する間もなくマットに押し倒されてしまう。

 そうなれば、あっさりと関節を極められてしまうだろう。

 ビリーも中央プロレスに入った後、基本的な関節技の一通りくらいは習っているが、それほど熱心に練習したわけではない。

 対するアレクサンダーは、関節技の鬼と恐れられるカールの、直接の弟子だ。

 アレクサンダーに寝技で勝つのは、ビリーでは不可能だ。

 だから、フットワークでタックルを封じながら、打撃で闘う。

 すぐに、一方的な展開になった。

 アレクサンダーが、ビリーの蹴りを受けるばかりとなった。

 ビリーはローキックかミドルキックを一発打っては、サイドステップを踏む。アレクサンダーは、その動きについていくのがやっとだ。

 ふふん、とビリーは笑った。

 ショーの試合ばかりやってるクセに、中々粘るじゃないか。図体のデカさは伊達じゃないな。

 だが、守ってるだけじゃ勝てないぜ?

 ほらよ──

 ビリーはアレクサンダーの右側、真横に近い位置を取ると、ミドルキックを放った。

 普通のミドルキックと違い、足首が伸ばされておらず、つま先が脚の正面を向いていた。

 そのつま先が、アレクサンダーの傷めている左脇腹を、正確に蹴り抜いた。

 

「うっ!?」

 

 アレクサンダーが短く呻いた。その体が、目に見えて強張った。

 ビリーの蹴りが、意表を突いた一撃だったからだ。

 アレクサンダーにしてみれば、自分の右横に立つ相手が、自分の胴を挟んで反対側にある左脇腹を、いきなり蹴ってきたのだ。しかも、そこは故障箇所である。

 アレクサンダーの肉体は、ほんの一瞬だが、完全に停止していた。

 ビリーは、その動けなくなったアレクサンダーに対し、側頭部めがけてストレートパンチを打とうとする()()()を見せた。

 それに気付いたアレクサンダーは、弾かれたように右腕を持ち上げ頭部のガードを固めた。

 ド素人め、フェイントだ──

 心の中でそう嘲りながら、ビリーはアレクサンダーの右脚めがけて、渾身の一撃を叩き込んだ。

 

 Ⅵ

 

 なんて嫌な蹴りだ。

 ノーヴェは、そう思いながら顔をしかめた。

 ビリーが、アレクサンダーの右膝を真横から蹴り抜いたのだ。いや、蹴り抜いたというより踏み抜いたと表現した方がいいかもしれない。

 百四十キロの体重を支えているアレクサンダーの膝関節を、真横から、足の裏で思い切り踏み抜いたのだ。

 めじぃ、と靭帯が伸びる音が聞こえてきそうな、痛烈な蹴りだった。

 アレクサンダーが呻きをあげ、不自然な足取りで後退し、ビリーから距離をとった。

 ビリーは、追わなかった。

 獣染みた笑いを浮かべながら、アレクサンダーを見ている。

 先ほどから、客席は静まり返っていた。

 リング上に突然現れたプロレスではない闘いに、プロレスを見に来た客は戸惑っているのだ。

 だが、それも終わりだ。今のローキックで、勝敗は決したようなものだからだ。

 今の一撃で、アレクサンダーの右膝は大きなダメージを受けた。おそらく、二週間くらいはまともに動かせないだろう。

 しかし、アレクサンダーはまだ闘いを続けるつもりらしかった。

 左脚に重心を乗せ、ビリーを睨みつけている。

 その顔を見たノーヴェは、アレクサンダーが腹の底から怒っていることに気付いた。

 ノーヴェやミカヤと闘った時、アレクサンダーの口元には、薄ら笑いが貼り付いていた。

 それが、今はない。

 唇が、真一文字に結ばれている。

 むろん、ノーヴェやミカヤと闘った時も、アレクサンダーは怒っていたのかもしれない。

 だが、その怒りは隠す事ができる程度の怒りだ。

 対して、今、アレクサンダーの中にある怒りは、とても隠すことのできないものだ。

 重い、鉄のような怒りだ。

 真っ赤に焼けた巨大な鉄の塊が、アレクサンダーの中にある。

 その鉄塊が発する熱気が、アレクサンダーの巨体に収まりきれず、リングや観客席にまで押し寄せてきているのだ。

 あのヘラヘラした男が、このような表情をするとは──

 とはいえ、いくら怒っていようとも、脚を片方潰されていては闘いようがないのではないか。

 ノーヴェがそう思った時、ビリーが前に出た。

 先ほどと同じような蹴りを、今度はアレクサンダーの左膝に向けて、正面から放った。

 アレクサンダーは、それをバックステップを踏んで避けようとした。

 しかし、失敗した。

 蹴りそのものは避けたが、その直後にバランスを崩したのだ。

 よろめくアレクサンダー。

 ビリーが追い打ちをかけようとする。

 しかし、ビリーは途中で動きを止めてしまった。

 よろめき、倒れそうになったアレクサンダーが、近くにいたレフェリーの肩に手を置くことで、転倒するのを防いだからだ。

 今、アレクサンダーを攻撃すれば、レフェリーを巻き込んでしまう。そうなれば、試合を止められてしまうかもしれない。

 ビリーが苛立ったように舌打ちをした。

 その瞬間、リング上で意外な動きがあった。

 アレクサンダーがレフェリーを、どん、とビリーに向かって押し出したのだ。

 レフェリーは驚いた顔をしながらも、わざとらしいほど派手に吹っ飛んだ。

 ビリーは、サイドステップを踏んでレフェリーを回避した。

 そこへ、アレクサンダーが突っ込んだ。いや、突っ込んだというよりは、前のめりに倒れながら、ビリーの胴に両腕で抱きついたと表現するのが正しい。

 ビリーは、しがみついてきたアレクサンダーの頭部に、肘を打ち込もうとした。

 できなかった。

 膝立ちになったアレクサンダーが、反り投げのような形で強引にビリーを持ち上げ、後ろに倒れこんだからだ。

 仰向けになったアレクサンダーの上に、ビリーがのしかかっているような状態となった。

 寝技のセオリーとしては、ビリーが有利な状態だ。

 しかし、アレクサンダーが左脚と右腕でビリーの体を抱えこんでいるため、ビリーも自由に動けるわけではない。

 ビリーの判断は早かった。

 寝技の勝負には付き合うまいと、アレクサンダーの頭部に、掌底を打ち込み始めたのだ。

 腕の力のみによる打撃であるため、一発一発の威力はそれほど大きくはない。

 しかし、今の状態である限り、反撃されることなく何発でも打ち込める攻撃だ。

 アレクサンダーがそれを嫌がり、左手でビリーの掌底を防ごうとした。

 だが、体勢の不利もあり、上手くいかない。

 そんなアレクサンダーに不利な膠着状態を、ノーヴェは固唾を飲んで見つめていた。

 そのまま五秒が過ぎ、十秒が過ぎようとした時、

 

「な……っ!?」

 

 と、ノーヴェは声をあげた。

 ビリーの掌底を防ごうと動いていたアレクサンダーの左手。

 その中指と薬指が、ビリーの両眼を、正確に突いたからだ。

 揉み合っているうちに、偶然、指が相手の眼に入った。そういう風に見えなくもない当たり方だった。

 しかし、アレクサンダーの人間性を知るノーヴェは、それが意図的なものだと確信した。

 眼を突かれたビリーの動きが、何分の一秒か、停止した。

 その僅かな隙に、アレクサンダーはビリーの体の下からずるりと這い出し、ビリーの背中へもぞりとのしかかっていた。

 ビリーは必死に逃げようと藻掻いたが、無駄だった。

 数秒で、アレクサンダーはビリーの腰のあたりに、跨がるようにして座り込んだ。

 さらに、アレクサンダーはビリーの顎を、両手で左右からホールドした。

 あの技だ──

 ノーヴェがそう思ったのと同時に、ビリーの首と背骨が、力任せに後方へ反らされた。

 キャメルクラッチ。

 ノーヴェが悲鳴をあげさせられた、これ以上ないほどシンプルな関節技だ。

 ビリーは声をあげなかった。

 歯を食いしばり、顔を真っ赤にしながら、痛みに耐えている。

 

「ギブアップ?」

 

 レフェリーがビリーの顔の前にしゃがみ込み、尋ねた。

 ビリーは、右手の人差し指を立て、左右に振った。

 降参しないという意思表示だ。

 その瞬間──

 ビリーの背骨が、さらに引き絞られた。

 アレクサンダーは、まだ全力で技をかけていなかったのだ。

 

「かああああああああああ!?」

 

 ビリーが、悲鳴をあげた。

 右手で、激しくマットを叩いた。

 それまで静まり返っていた観客が、捌け口を見つけたように大歓声をあげた。

 

『ただいまの試合、七分五十三秒、キャメルクラッチでキャプテン・ミッドチルダ選手の勝利です』

 

 そう、アナウンスされた。

 リングの上では、レフェリーに肩を借りて立ち上がったアレクサンダーが、観客に向かって手を振っている。

 壁面の大型モニターに、顔のアップが映し出されている。

 覆面越しにも、満面の笑みを浮かべていることがわかった。

 

「勝っちゃったよ。アレクちゃん、膝を潰されたのに、勝っちゃったよ……」

 

 ノーヴェの隣に座るミカヤが、呆然とした声で、そうつぶやいた。

 その直後──

 アレクサンダーの後ろに倒れていたビリーが、ゆらりと立ち上がった。

 観客が、何かを期待するように、どよめいた。

 ビリーが、背後からアレクサンダーの頭に掴みかかった。

 アレクサンダーが、それをはね除けた。

 ビリーは後方に吹っ飛んで倒れた。その手に、握られている物があった。

 顎の部分が破れた、キャプテン・ミッドチルダの覆面だ。

 アレクサンダーの素顔が、リング上で露わになっていた。

 若々しい顔立ちと共に、額の巨大で醜い傷痕が、数秒間、壁面モニターを通して全ての観客に曝された。

 騒いでいた観客が一斉に息を飲み、水を打ったように静かになった。

 今、見たものに対して、どう反応してよいのか、わからない。

 そんな空気だった。

 どうすればよいのかわからなくなっているのは、リングの上のアレクサンダーも同じだった。

 両手で額を押さえながら、アレクサンダーは迷子になった子供のような顔で突っ立っていた。

 リングの端に転がっているビリーだけが、会場の中でただ独り、卑屈に笑っていた。

 

 Ⅶ

 

 今日の興業のために組まれていた試合が、全て終わった。

 時刻は、ちょうど午後九時だ。

 周囲の観客は立ち上がり、順番に出口に向かっているが、ミカヤとノーヴェは椅子に座ったまま動かずにいる。

 二人は、他の観客が全員退出した後に立ち上がるつもりだった。

 杖をつかなければ歩けないミカヤは、下手に動けば他人に迷惑をかけるからだ。

 ミカヤもノーヴェも、無言だった。

 二人とも考えているのは、アレクサンダーの試合のことである。

 あのような闘いがなぜ発生したのかだとか、これからアレクサンダーはどうなるのだろうかといったことを、とりとめもなく考えている。

 そこへ、花道の方から、声がかけられた。

 

「よう、嬢ちゃん、久しぶりだな」

「あなたは……」

 

 声の主を見て、ミカヤが驚いた顔をした。

 花道に立っていたのは、体の分厚い男だった。

 年齢は四十歳をいくらか過ぎたくらいだろうか。

 頭をスキンヘッドに丸めている。

 ぎょろりとしたドングリ眼でミカヤを見ていた。

 プロレスラーの、カール・ダンクだった。

 ミカヤが中央プロレスの道場に道場破りを仕掛けた時、練習生の指導をしていたレスラーだ。

 

「どうも」

 

 そう言いながら、ミカヤはぺこりと頭をさげた。

 その声音は、平時よりもやや硬くなっていた。

 対するカールは、リラックスした態度でミカヤに話かける。

 

「そっちの赤毛のお嬢ちゃんは、お友達かい?」

「ええ、まぁ……」

「そうかい。意外と元気にしてるんだな」

「…………」

 

 ミカヤは押し黙った。

 自分の脚を折った相手が属する組織の人間に『元気にしてるんだな』などと言われるのは、癇に障るものがあったからだ。

 しかし、カールは悪びれた様子もなく、

 

「ほれ嬢ちゃん、受けとりな」

 

 と、ミカヤに対して一枚のカードを投げ渡した。

 BAR OLD PLUM

 表面には、洒落たフォントでそれだけが書かれており、裏面には簡単な地図が載っている。

 飲食店か何かの案内らしい。

 

「これは?」

「このホールの近くにある、アレクのお気に入りのバーだ。アレクに聞きたいことや、言いたいことがあったら、行ってみな。多分、ヤケ酒やってるはずだからよ。膝を傷めて、明日からしばらく欠場することになったからな」

 

 カールはそう言うと、ミカヤ達に背を向け、花道の奥へ引き返して行った。

 

「ミカヤちゃん、どうするんだ?」

 

 ノーヴェが、ミカヤに対して尋ねた。

 

「そうだねぇ…… せっかくだから、行ってみようかな」

 

 ミカヤは、そう答えた。

 いつの間にか、ホールの中に残っているのは、ミカヤとノーヴェだけになっていた。

 




 Q.シューティングアーツについて色々と記述があるけど、こんな設定あったっけ?
 A.全て僕の妄想です。公式設定が公開されたら死にますね。

 Vivid Strike!の二話を見た感想
 リンネ選手は組み技が得意。なにより力持ちだから強い!とのこと。
 うーん、なんか被っちゃったなぁ……

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