懸念は的中していた。
テレビに齧り付く元親友現兄弟の少年、その一メートル半後ろに立つその男は、右手に鈍く黒光りする拳銃を握っている。撃鉄は既に起こされ、完全な発射体勢だ。
「…ッ!!」
この男は、彼を殺したくて殺すのではない。俺を更なる苦しみに叩き落としたくて殺すのだ。家族を殺し、兄弟の契りを交わした親友を殺し、そしてその後も俺の周囲の人間を次々殺していくだろう。俺という存在への嫌悪故に。
太陽すら霞ませる白銀の怒りが、俺の中で燃え上がった。
この男のターゲットが俺へと定められたことはどうでもいい。俺の怒りの矛先は、既に何人もの命を奪っている上、尚も多くの人間を殺し続けるつもりでいること、そしてその行為が人倫に反するものだとは微塵も考えていないということだ。
しかしどうするか。
こちらが間に入ったところで、男は構わず親友を殺すだろう。本の虫で子供の割に出不精な自分の力では、親友を連れて遠い交番まで逃げることはできまい。それによくあるアクション映画のように、男を気絶させられるだけの技量は、生憎持ち合わせていない。
導き出された、唯一の答えは。
「…殺すしかない」
殺される前に殺す。最も効果的で且つ現実的な助け方だった。…できるかどうかではない、殺るのだ。
拳銃を握った男の腕が、ゆっくりと、見せつけるように持ち上がり始める。俺は隠れていたキッチンから一つ、自分にも使えそうな得物を持ち出した。さして広くもないリビングの端からテレビの前まで、彼我の距離は三メートル程。助走をつけるには丁度良い。
「ハァッ…ハァッ…!!」
ドクンドクンという心音、ガチガチと打ち鳴らされる顎、乱れる呼気が、嫌に耳に木霊する。失敗が許されないという緊張感以前に、これから自分が行なおうとしている殺人という行為に対する躊躇で、全身の筋肉が強張って思うように動かない。
何を戸惑う必要がある。あれは悪人だ。殺して友を守れ。
己を叱咤し、一度身体の力を抜く。目を見開き、男との距離感を正確に測り、一撃を加える様をシミュレートする。
男の人差し指に力が入りかけた時。
「させるかッ」
俺は宙に身を踊らせ、男の腰に痛烈なドロップキックを見舞った。
唐突な攻撃に対処できなかったのだろう。目論み通り、男はつんのめって倒れ、テレビを載せたビデオデッキの縁に強か額を打ち付けた。
「うわあっ!?」
「グゥッ?!」
驚いた親友が脇に避け、男が出血した額を抑え蹲った、まさに千載一遇の好機。俺は男に馬乗りになり、得物を振りかざした。
パン切り包丁だ。
「死ね、悪党」
ここまでくれば後戻りはできない。己の正義感を頼りに、この決死の作戦をやり遂げるしかない。
「俺が、殺してやる!!」
パン切り包丁を男の喉仏に当てがい、それこそパンを切る要領で激しく前後させる。皮膚を、筋肉を、気管を、血管を、ズタズタに切り裂いていく生々しい感覚。返り血など気にもならなかった。
悲鳴を上げる間も無く、男は自らの血の海に沈んだ。
…静寂が広がる。
「…っはあ」
守れた。その一心だった。親友だけではない、これから殺されるかもしれなかった多くの人々を守ることができた。そうか、最近知った一殺多生とはこういうことを言うのか。安堵と得意に支配された心のまま、後ろに両手を突き、親友を見やった。
「…父さん?」
親友の声が震えていた。
「…当然の報いだ。こいつは俺の家族を殺している。そしてこれからも殺すだろう。だから、鉄槌を下した」
「報い」や「鉄槌」という言葉は、俺より語彙力の劣る(尤も俺が年不相応に知識を持っているだけであるが)親友には理解できないだろうが、俺は彼に自らの行為の正当性を説いた。
「こいつは始めから、そのつもりで俺達を養子にしたんだ。最早父などと――」
「…許されると思ってるのか」
説明途中で俯き加減になっていた親友が、急に顔を上げた。
「お前は父さんを…人を殺したんだぞ!!」
「ッ?!」
言葉に抉られた。
俺は否定されたのだ。己が信じた正義に基づいた行動が、殺人という罪の一括りにして踏み躙られた。あの場で最良の選択と判断した思考が、人殺しの狂態と蔑まれた。信じた答えが目の前で貶められ糞と変わり、俺はこの上ない絶望を味わった。
「お前なんかもう、兄弟でも友達でもない!! 消えろ、人殺し!!」
親友が走り去り、玄関のドアが開閉する音。
慌てて追いかけても、俺が独りになったのは変わらなかった。
「着いたぜあんちゃん。ここでいいんだろ?」
運転席に座る中年のトラックドライバーの声で、俺は目を覚ました。
「…む…寝ていたのか」
「もう一眠りするかい? それだと隣町で降りることになっけど」
「いや、必要ない。ここまで運んでくれて感謝する」
「いいってことよ。んじゃな!」
助手席を降り、ヒッチハイクに付き合ってくれたドライバーに礼を言って、青いトラックを見送った。
夢――実際に経験した出来事のプレイバックを見ていたようだ。
家族も友も、頼るべき人もいない俺を拾ったのは、風鳴弦十郎という男だった。七年間俺を育ててくれた恩人の元に、俺は三年振りに帰ろうとしている。スウェーデンから日本まで、先も利用していたヒッチハイクに限らず、フェリーやオレンジタンカーに密航しての一人旅は、中々にスリルがあったものだ。
向かう先は、この街にある女子校『リディアン音楽院』。そこの地下深くに存在する施設で、弦十郎は働いている。自衛官ではないが、罪なき人々に等しく与えられた平和を守る大切な仕事だ。三年間海外で行方不明になっていた俺も、本来そこで働く者の一人である。…パスポートを紛失している為不法入国ばかりしてきたが、そこの特権でどうにかなるだろう。
そしてリディアンに行くのは、何も仕事場に帰還報告をする為だけではない。正式に弦十郎の養子となってはいないが、自分を実の弟のように受け入れてくれた従姉、そしてその親友が、今は恐らくリディアンの三年生として通っているだろうからだ。
「…くくく」
堪らず笑みが漏れた。二人はどんな反応をするだろうか。俺に泣きつくだろうか。それとも俺を殴るだろうか。どの道、「感動の再会」にはなりそうだ。
歩くこと数十分、街の中心部に近くなってきた頃。リディアンの制服を着た少女が入っていったCDショップのショーウィンドウに自分の姿が映ったのを見て、
「ふむ…」
気休め程度ではあるが、服装を整えることにした。
スウェーデン行を前に急激に身長が伸びてからというものあまり成長していないこと、余裕のあるサイズを購入していたことが幸いして、ここまで一切服を変えずに済んでいる。フードの付いたモスグリーンのタンクトップ、同じくフードの付いた黒いパーカー、青いGパン。髪は自力で切る自信がなかった為、ぼうぼうに伸びてしまい、オールバックにせざるを得ない。その影響で、気に入らない特徴――光を反射しない不気味な赤い目が余計に目立ってしまう。
「参ったな…シルバーのアクセサリーでも付けていたら俺はチンピラだ」
昔から同年代の者達に恐れられていた俺の容貌は、どうやらピークに達しているらしかった。何故だか気恥ずかしくなり、俺は足早にその場を離れた。
本当に、日本に帰ってこられたのはよかったと思う。この顔のせいでアメリカでは何度ギャングの抗争に巻き込まれたか知れない。その度に千切っては投げ千切っては投げと、降りかかる火の粉を払いつつ自分の思う‘善行’をしていたら、地元の人間に必要以上に注目されてしまい、帰国が危うくなったことすらある。偽名は幾つも作った。マイケル・コジマ、カムイ・アイゼンシュミット、ダイキ・フラッシュ・ホソカワ…それでも、即席で作った偽りの名と経歴に、この俺――『
ところで。
「…?」
携帯端末を持っておらず、遠くから見たリディアンの校舎に当たりを付けて歩いてきただけの道程は、どうにも時間がかかる。その中で、俺は自身の観察眼がもたらす違和感に苛まれていた。商店街に人影がなさ過ぎる。路肩に停まっている車も、まるで‘大急ぎで放り出した’かのようにさえ感じられるのだ。
何か、この場に非常にそぐわないものが近くにいる。
そしてそれは、考えうる中でも最悪のケースの一つが的中した。
「ッ! 奴らかっ!!」
数十メートル先の交差点角、そこから現れた異形の存在。蛍光色のそれらは色も形も多くの種類がありながら、皆一様に、人を殺すことのみを目的として動く。意思の疎通は不可能、生物ですらない
――帰ってきた先もまた、戦場だったらしい。
俺には、この災害に対抗するべく作られた‘力’がある。己の正義の為に振るうことを許された力が。ならば、一刻も早く危険を排除し、この街の平和を取り戻さねばなるまい。
俺は深く息を吸い込み、タンクトップの下に隠したそれを意識しながら、
「Immoderata iustitiam Laevatein tron――」
胸に浮かぶ歌を、歌い上げた。