あるいは語られたかもしれない、彼と彼女の青春ラブコメ。 作:きよきば
ソファにずしりと深く沈み込み、点いていないテレビをしばらく見つめていた。
別に念力を使って電源を入れようとか、電波ジャックをしてやろうとか、そんな大それたことは考えちゃいない。そういうのはもう卒業したのだ。
ただ、本当にすることがないのだ。金曜日の夜、勉強も食事も風呂も済ませてしまえば俺にはもうやることがない。読書をしてもいいのだが、本を取りに行く過程が面倒だ。かといって座って扇風機に向かって「あ〜〜」とか言うのも面倒くさい。
ということで俺は何をするでもなくただ座っていた。
俺のしょうもない話を聞いてくれる小町は部屋に篭っており、それはつまりカマクラもここにはいないことを意味している。
家にいてもぼっちな俺はすることもなく貴重な10代の時間をただただ浪費していた。……いやまあ、学校ではぼっちじゃなくなっているんだけど。
そんなわけで冒頭の通り点いていないテレビを眺めている。どんなわけなんだろう。
眠くないから寝ることもできないし何かするのは面倒くさいしどうしたものかと思っていると、テーブルに置いてあった携帯が震えた。着信アリだ。ホラーではない。
が、むしろ俺の人生着信ナシが日常的だったせいで人からの着信があると身構えてしまう。ところで着信ナシどころかこっちからの着信繋がらなかったのは電波か何かのトラブル?5回かけたら4回は繋がらなかった記憶があるんだけど。残りの1回は留守番電話だった。
ソファから少し身体を起こし発信主を確認すると由比ヶ浜だった。
母親だったら無視して寝たフリを決め込んでいたところだが違ったので携帯を手に取る。着信に応じ、耳に当てると聞き慣れた明るい声が耳に届く。
「あ、ヒッキー?いま暇だよね?」
「なんで暇なこと前提なんだよ。いや暇だけど」
「だってヒッキーだし」
え、なになんなのこの説得力。全く説明になってないのに納得しちゃったじゃねえか。
「わざわざ電話してまで俺をディスるな。なんか用か?」
何かあっただろうかと考えながら返事を待っていると、妙な間があった。すー、ふーと音が聞こえたということは深呼吸でもしているのだろう。
「えっと、その…さ。あ、明日どっか行かない?」
躊躇いがちに発された言葉に、心臓がとくりと音を立てたのがわかる。
いや待て落ち着け。どっか行くというのは勉強会の話かもしれない。
「…ああ、勉強会か?」
「やー、普通に遊びに行きたいかな、みたいな…」
ああ、そういえばその約束もあった。だったら特に断る理由もない。約束無くても断る理由無いけど。
「わかった、大丈夫だ。……他は?」
口をついて出た言葉に、人はそう簡単に変わらないということを実感する。女の子と2人きり、なんてワクワクしながら行ったら違うなんて恥ずかしい事態を無意識のうちに想定していたらしい。
「えっと…2人でじゃだめ、かな…」
しかし、由比ヶ浜はそんな俺の思考パターンを知ってか知らずか、逃げ場の無い言葉を返した。
…しっかりしろ比企谷八幡。今までに積み重ねたトラウマも黒歴史も由比ヶ浜には何の関係もない。出会った日の決意を忘れるんじゃない。
「…場所と時間、どうする?」
「あ…えへへ…12時くらいに駅でいい?」
「了解。駅な」
ちょっと前まで俺を呼び出す時にこんな探るような話し方はしていなかったはずなのだが、その違和感を突き詰めたらおそらくロクでもないことになる。今日のところはさっさと寝てしまおう。
起きてから、ゆっくりと出かける準備をしていた。
窓を見やると、生憎の雨が地面を叩いているのがわかる。昨日まで晴れていたのが嘘だったかのような振り方だ。
スマホには着信もメールもなく、とりあえず待ち合わせ場所に行くことにした。
スマホを机に置き、ひと息つこうかと思っていると、姿見に映る自分の姿が目に入った。
どこかおかしなところはないだろうか。小町に頼むと追求がうるさいため自分で選んだのだが、ファッションなどというものに疎い俺のセンスなどまるであてにならない。
少し不安になり、クローゼットを開けて近くにあったものから合わせてみる。なるほど、わからん。
そんなことを繰り返しているうちに、そろそろ家を出る時間が近づいていた。
「…何やってんだろうな」
結局自分なりに組み合わせた格好で玄関に向かう。途中小町がニヤニヤしながら俺を見ていたことは忘却の彼方に追いやり、傘を持って家を出た。
幸いなことに、雨は強いが風はそこまで吹いていなかった。既に風に弱いイメージを払拭しつつある京葉線ならどこに行っても大丈夫だろう。
稲毛海岸に到着した俺は雨をしのげる場所に立ち、ぼんやりと雨雲を見上げた。
普段の俺なら行列に並ぼうがぽっかりと時間が出来ようが脳内での暇つぶしに困ることはないのだが、どうも今日は頭が冴えていない。何も思いつかないまま、そのまま立ち尽くしていた。
休日ではあるが、天気も良くないこともあって人通りはそう多くない。その中を早歩きでこちらに向かってくるお団子頭を見つけるのは簡単だった。
「ヒッキー!」
おそらく急いで来たのだろう。うっすらと汗をかきながらスピードを落とした由比ヶ浜は俺を呼び、手にしていたビニール傘をゆっくりと振る。
俺はそれに軽く手を挙げて応え、由比ヶ浜が傘をたたむのを待った。
「ごめん、遅れた?」
「いや、まだ5分前だ」
ほっとしたように由比ヶ浜が笑う。つられて頬が緩みかけるのを顔に力を入れて耐え、なんとか普通の表情を保つ。
ふと見れば由比ヶ浜が不思議そうな顔で俺を見ている。ごめんなさい普通の表情を保てませんでした。
とりあえずいつまでも駅にいても仕方ない。しかしどう切り出していいかわからず数秒迷った末に、俺はいつも通りの切り口から入ることにした。
「じゃ、帰るか」
「帰るんだ!?雨の中せっかく来たのに!?」
由比ヶ浜は心の底から驚いたような表情を見せる。まさかそのままの意味でとっちゃったのかしらん?
「冗談だ。で、どうする?雨だけど」
「ええっと…ららぽは前行ったし…パルコ、とか?」
由比ヶ浜のチョイスはまさに千葉の高校生のそれだった。さすがわかっている。千葉パルコはその役割を終え、閉店が決まっているためもうすぐお別れになってしまう。喜んでいるのは津田沼パルコ派くらいのもので、たいがいの千葉民は心の中で泣いている(俺調べ)。
「じゃ、行くか」
「うん!」
短い言葉と元気な返事で、どしゃ降りの土曜日は幕を開けた。
モノレールに乗り、千葉駅で降りるとパルコ直行のバスが出る。
週末だというのに俺と由比ヶ浜しか乗っていないあたり、パルコが閉店してしまうのも頷ける。
俺がパルコとの別れを惜しんでいるのとは対照的に、隣に座る由比ヶ浜は元気だった。
「ヒッキー、もっとテンション上げていこうよ!」
「いや、まだ着いてねえだろ…」
ちなみに本来の意味でのテンションなら上がりに上がっている。手汗とかかいてるし。正直そろそろいっぱいいっぱいです。
俺が緊張していようがしていなかろうがバスはあっさりとパルコの目の前に停車してしまう。
先にとんとんと弾むように降りた由比ヶ浜が俺を手招きしている。
「ほら、ヒッキーはやく!」
「パルコは逃げねえからそんな焦るな。死ぬぞ」
「なんでっ!?」
適当ぶっこきながらバスを降り、由比ヶ浜に続いて自動ドアを通過する。
「何か見たいものでもあるのか?」
「え?んー、…見ながら考える」
だろうとは思っていたので適当に頷きを返してエスカレーターに乗る。
パルコなど何度も来ているだろうに、由比ヶ浜は初めて来た場所であるかのように楽しそうにしており、時折見せる柔らかな微笑みを浮かべた横顔に思わず目を逸らしてしまう。ごめんなさい本当にいっぱいいっぱいです。
レディースファッションのエリアに着くと、由比ヶ浜は俺を引っ張って迷わずそのへんの店内に突撃し、あれやこれやと物色し始めた。
ところで眼鏡外した途端に店員さんが不審者発見みたいな顔したんだけどあれなに?ものすごく居づらいんだけど。
「ヒッキーヒッキー、これどう?」
「ああ、いいんじゃねえの」
「ヒッキー、これは?」
「いいと思うぞ」
「…これは?」
「…いいと思うぞ」
「同じことしか言ってないじゃん!」
冗談半分とはいえ、3回目にして返す言葉のバリエーションが尽きてしまい、由比ヶ浜はぷんすかと怒りながら俺の肩を叩いた。
「待て、冗談だ。次はちゃんとするから落ち着け」
じゃあ、と由比ヶ浜は近くにあったものを掴んで俺の前に持ってきた。待て、今絶対見てなかっただろ。
「…これは?」
「あー…そうだな…」
由比ヶ浜はじいっと俺を見つめており、視線を逸らすことすらできない。
俺にプレッシャーをかけるとは…
だめだ頭で考えるとふざける方向に行ってしまう。
とりあえず何か、と考えていると小町の買い物に付き合う時の決まり文句が浮かんだ。
「世界一可愛いよ」
って違う。これアカんやつや…「うわー、適当だなー」くらいのが返ってくるつもりで言ってしまったがこれ絶対アカんやつや…
ゆっくりと由比ヶ浜の様子を伺うと、手に持ったシャツをきゅっと握り俯いていた。
本気で怒らせたかなぁ…謝って済むレベルだったらいいなぁ…
と。割と本気で反省していたのだが。
「………ありがと」
俯いたまま、由比ヶ浜はぽしょりと呟くようにひと言だけ喋るとまたシャツをきゅっと握った。
…なんだかなぁ…余計に申し訳なくなるよなぁ…
状況を打開する策を冴えない頭で必死に模索する。
何かあるはずだ。きっと過去に何かヒントがある。記憶を辿りつつ、俺は眼鏡をくいと上げた。
……眼鏡?
ああ、あの時の約束、もう1つあったな。
俺は由比ヶ浜の持つシャツに手を伸ばした。
「…由比ヶ浜、それ貸してくれ」
ようやく顔を上げた由比ヶ浜の顔はほんのりどころかがっつり朱に染まっている。原因が俺なだけに何も言えない。
「え、でもヒッキーが着るにはちっちゃいよ?」
「俺が着るわけねえだろ。…買ってやるから、貸せ」
「え、でも…」
「この眼鏡買った時の約束だろ」
とんとんと眼鏡を指しながら答えると、由比ヶ浜は数秒困ったように考えながら頷いた。
「…試着、してもいい?」
「…ああ」
さっきまでの元気はどこに行ったのか知らないが、由比ヶ浜は俯いたままゆっくりと試着室に入っていった。
1人残された俺だがここはレディースの店である以上きょろきょろしていると通報されかねない。なのでカーテンの閉められた試着室の方を向いた。
「お客様」
背後から声をかけられて振り向くと、店員らしい女性がニコニコしながら俺を見ていた。え、なになんなの。俺何もしてないよ?
「はい?」
「お連れの方は彼女さんですか?」
なんて下世話な店員だよ。最近のアパレル店員はそんなサービスも提供してるの?何それ超いらねえ。
「いや、違いますけど…」
「ええっ!?」
「うおっ…」
あまりに店員が大きな声を出したせいで俺の方がびっくりした。だからなんなんだよこのサービス。いらねえよ。
「えっと、あのー…が、頑張ってください?」
なんで疑問形なんだよ。結局何のサービスだったんだよ、いらねえよ。
店員が離れていったのを確認して、スマホをぽちぽち触りつつ待っていると、試着室のカーテンがゆっくりと開いた。
「ヒッキー、ど、どう?」
スマホから顔を上げ、少し離れた位置にいる由比ヶ浜を確認する。
…ええまあ何といいますか、似合っているか似合っていないかで言えば間違いなく似合ってるな、うん。前言を撤回する必要は無いんじゃないかなと思いますね、ええ。
そのまま言うわけにはいかないので、適当な言葉をボキャブラリーの中から見繕う。
「ああ、その、なに。……よく似合ってる」
「そ、そっか…じゃあこれにする…」
由比ヶ浜は再び試着室のカーテンを閉め、着替えを始めた。さっきは全く聞こえなかったのに、布の擦れる小さな音が耳に届き、意味はないとわかりながらも試着室から身体ごと視線を逸らした。
着替えを終えて元の格好に戻った由比ヶ浜からシャツを預かりレジに向かう。
さっきの店員がニヤニヤしながら袋に入れているのが気になるがどうせパルコは閉店してしまうので気にしない事にした。
ようやく眼鏡のお返しを手にした俺はお釣りを受けとってショップを後にした。疲れたよぉ…レディースのショップはHPの消費が激しいよぉ…
その後メンズのショップにも回ったものの特に何も買わないまま、歩き疲れた俺達はパルコを出てすぐのサイゼに入った。
どうでもいいけど女の子と2人で出かけてサイゼってどうなんだろう…向かいにカフェとかあったけど女子ってああいう洒落た店の方が好きなんじゃないのかしら…
「どしたの?ヒッキー」
気づかないうちに視線が外に向いていたらしく、由比ヶ浜が同じように外を見ながら怪訝そうな顔をした。
「いや、ああいう店の方が良かったかと思ってな」
言って、前に向き直ると由比ヶ浜は目をぱちくりとして驚いた顔をしていた。
「ヒッキー、そんなこと考えられるんだ…」
「ちょっと?バカにしすぎじゃない?」
とは言え普段からサイゼとラーメン屋以外の店に行かないせいで知識のない俺が悪いので反論もしづらいところである。
「まあまあ、せっかくだしお昼食べようよ!」
うまいこと誤魔化されたような気もするが、3時も近くなり腹も減っていた俺は了承して由比ヶ浜がメニューを決めるのを待った。
安定のミラドリとドリンクバーを注文して、数分ほどたわいもない会話を続ける。
由比ヶ浜はようやく元気さを取り戻し、笑顔も見られるようになってきた。
やがて注文したものが届くとしばらくを食事に充て、お互いが食べ終わるとひと段落ついた。
「これからどうしよっか?」
「特に買うものはねえな」
気づけば帰るには早く遠出をするには遅い時間になっていた。べつにすることがないのなら帰ってもいいのだが、それはほら、なに。せっかくだし。
「…悪い、トイレ行ってくる」
「あ、うん」
ついでにドリンクも注いでこようと2人ぶんのカップを持って立ち上がり、カップを適当な空いているスペースに置いてからトイレに向かう。
用を足してドリンクバーのコーナーに戻り、コーヒーがちょぼちょぼとカップに注がれるのを眺める。普通はこういう時って男が何かしらの提案をするものじゃないのかしら…いや普通なんてものを俺は知らんけど。
2つめのカップを置き、コーヒーが注がれるのを待っていると、隣のジュースのゾーンでコップにジュースを注いでいる中学生くらいの女子と目が合った。亜麻色の髪をしたゆるふわ系のそいつは俺と目が合うなりおそらく数多の男子を死地に追い込んできたであろう笑みを浮かべた。うわー、あざといなぁ…見た目だけ見れば普通に美少女なんだがあれはもう可愛いを通り越して怖い。中学時代に出会わなかったのが幸いだ。
…いや、あの時はあの時で黒い歴史作ってたけどね?
ようやくコーヒーの注がれたカップを2つ手に持ち、席に戻る。
割と時間がかかったが由比ヶ浜はどうしているだろうか、などと考えながら、少し離れた場所からその様子を伺った。
「えへへ……」
由比ヶ浜はさっきの店の袋を大事そうに胸に抱き、俯いて頬を緩めていた。
ただの袋はまるで数億の宝石でも入っているかのように、両手で大事そうに抱えられている。
…そういやガムシロップ取ってくるの忘れてたな。スティックシュガーもついでに取ってくるか。
由比ヶ浜の提案でサイゼを出た俺達は駅に戻り、京成線のホームに立っていた。
より正確に言えば突如パセラに行くことを閃いた由比ヶ浜に引っ張られるまま歩いてきた。
もっとも、拒否したところで俺に何か提案できるわけではないからどのみち結果は変わらなかったのだろう。
10分ほど電車に揺られ、降りて少し歩けばすぐにパセラに着く。
朝よりは弱くはなったが雨はまだ降り続いており、しばらく止む気配はない。
「ヒッキー、ハニトー食べよう!」
「さっき飯食っただろ…」
「ほら、スイーツはべ、べ…べるばら?」
「別腹な。ベルばらはどう考えても世代が違うだろ」
「ふぇ!?…し、知ってるし…」
というか言う前におかしいことに気づけよ。やだ、八幡なんかもうめっちゃ心配!
スムーズに受付を済ませた由比ヶ浜に続いて部屋に入る。
やはり2人だと部屋はずいぶん広く感じる。何より、パルコやサイゼと違って他に誰もいない空間に2人きりだという事実が俺にいらぬ緊張感を与えていた。
それは由比ヶ浜も同様なのだろう。俺の向かいに座って両手をぐっと握って太ももの上に置き、落ち着かない様子できょろきょろとあちこちに視線を飛ばしている。
「と、とりあえず歌おっか?」
「お、おう……ほれ、マイク」
マイクを受け取ると由比ヶ浜はデンモクを操作して立ち上がった。
すぐにイントロが流れ始める。ファッションだけでなく流行りの曲にも疎い俺にはわからない曲だ。
由比ヶ浜は照れくさそうにしながら身体でリズムをとり、やがて歌い始めた。
やはり聞いたことのない歌だ。しかし部屋中に響く由比ヶ浜の歌声のせいか、いい曲だと感じた。
もっとも、歌詞はほとんど頭には入ってきていないけれど。
「ふぅー、緊張した…」
歌い終わりマイクを置いた由比ヶ浜は疲れたように息を吐いて座った。
俺は背もたれに体重をかけつつぱちぱちと短い拍手をする。歌の内容が入ってきていないとはさすがに言えないし。
「はい、つぎヒッキーの番」
「いや、俺は流行りの曲とか知らないし」
来るとは思っていたが由比ヶ浜が差し出したデンモクにノーを告げる。
いやほんとに知らないんだ…
「知ってるやつでいいから!ヒッキーだってさっきの曲知らなかったでしょ?」
ほう、由比ヶ浜にしてはよく考えた方だ。確かにその流れでいくと俺が由比ヶ浜の知らない曲を歌うことに問題はない。
いや問題ないじゃねえよ。アニソンとか歌うと中学の時の黒歴史が甦ってきちゃうだろ。
どうにかして歌わない方向で済ませたいが……由比ヶ浜の期待に満ちた視線のプレッシャーに負けた俺は諦めてできるだけメジャーなアニソンを入れた。
立つのはさすがに恥ずかしい。座ったまま、イントロを聞きつつマイクのスイッチを入れた。
歌い終わるとなかなかの量の手汗と強烈な疲労感が俺を襲った。
おっかしいなぁ…カラオケって人の魂を削るような場所じゃないはずなんだけど…
「ヒッキー以外とうまいじゃん」
「そりゃそうだ。なんたって俺は風呂場でよく練習しては小町に怒られてるからな」
「怒られてるんだ…」
ええ、それも結構マジなトーンで。
ともかく1曲ずつ歌ったところでいきなり休憩タイムに入った。
人の前で歌うというのは想像以上に体力を消耗する。
由比ヶ浜も同じらしく、お団子をくしくしといじりながら座ったままで、曲を入れる様子はない。
「は、ハニトーまだかな?」
「お、おう…そうだな…」
密室に2人という状況は慣れるどころか更に緊張感を増していた。
それだけでなく今日も、以前も色々と気まずくなりかねないことに思い当たりが…ありすぎてどれが原因かわからない。
ハニトーが来たのはそれから数分経ってからだった。
甘いもの好きな俺とてパセラに1人で来ることはなく、見るのは初めてなのだが、これは甘党の心をくすぐる。
由比ヶ浜も目を輝かせて今にもかぶりつきそうな様子だ。餌を前に待てをされている犬に近い。
「由比ヶ浜、先に食っていいぞ」
あまりにも嬉しそうだったので先に取らせてやろうと声をかけると、由比ヶ浜はちょっと待ってと言いながらバッグをゴソゴソ漁り、携帯を取り出した。
「ヒッキー!写真!撮る!」
「お、おう…なんか片言になってない?」
オレ、オマエ、クウみたいになってたぞ今…
ともかく写真を撮るらしいので俺は立ち上がって少し距離をとった。
「何してんのヒッキー、こっちこっち」
「は?いや写真撮るんだろ?」
「2人で撮るの!」
「いやなんで、おい、ちょっ…」
由比ヶ浜は俺を引っ張って座らせると、自分もその隣に座った。
そして携帯を構えるとポーズを作り、シャッター音がする。
「ヒッキー顔引き攣りすぎだから…」
「いやほら、急だったしね?」
「も、もういっかい!」
これ、由比ヶ浜が満足するまで終わらないんじゃないの?
それ多分今日中には終わらないよ?
再度、シャッター音がする。
「もー、なんでちょっと距離とるの!」
「いや、あれだ。……」
「言い訳思いついてないじゃん!うー…もうこれで終わりでいいから、もっかい!」
そう言うと、由比ヶ浜は俺を自分の方へ引っ張り、自らも俺の方へと距離を詰めた。
当然2人の距離は一気に詰まり、やがてゼロになる。
俺の肩のあたりで満面の笑みを浮かべる由比ヶ浜は、ほんのすこしだけ頭を俺に預けると、シャッターを押した。
「うん、いい写真!ほら!」
言いながら差し出された携帯には笑顔の由比ヶ浜と、まあまあ笑顔の俺が写っていた。
いや、まあ確かに悪い写真ではないけど八幡的にけっこう恥ずかしいといいますか何といいますか。
「つーか、ハニトー写ってないけどいいのか?」
「えっ?…あ…きょ、今日はいいよ!うん、今日は、いい…」
「…そうか」
まあ、ハニトーが写ってないと困るわけでもないし、今日はもういいだろう。
切り分けたハニトーのアイスクリームの部分をすくって口に運ぶ。
…ちょっと溶けてんじゃねえか。
けれど、アイスクリームの冷たさは火照った顔を冷ますのに丁度いい。
俺は黙ったまま、自分の分のハニトーを口へと運んだ。
その後少しだけ歌って、夕方になったところでパセラを出た。
まだ少しだけ雨は降っているが傘があれば問題ないだろう。
俺は傘立てから自分の傘を抜き、由比ヶ浜を待つ。
しかしその由比ヶ浜が傘立てをじっくり見たまま動かない。
「おい、どうかしたか?」
「うーん…傘、盗まれたみたい」
そのパターンか。傘と自転車はしょっちゅう盗まれるからなぁ…俺もよく盗まれた。教科書とか上履きとか。
傘くらいならコンビニに行けばあるが、以外とビニール傘は高い。
…まあ、濡れるもんな。
「…入るか」
自分の傘を軽く上げて情けないほど小さい声で呟くと、由比ヶ浜は驚いた顔を見せる。幸い、そこに嫌悪とか憎悪の色は無かった。憎悪なんてあったら超怖いんだけど。
「…うん、ありがと」
遠慮がちに俺の傘に入った由比ヶ浜と駅までの短い距離を歩き、電車に乗り、やがて昼に待ち合わせた場所まで戻ってきた。
その間俺は特に何も喋らず、由比ヶ浜もレジ袋を大事そうに抱いたまま何も喋らなかった。
夕方という短い時間は、不思議な寂寥感を覚える。
今日が割と賑やかだっただけにそれはいつもより少し強い。
そんな時間がしばらく続き、また傘に2人で入って歩き始めて数分。先に口を開いたのは由比ヶ浜だった。
「ね、ヒッキー」
「なんだ?」
同じ傘に入っているせいで2人の距離は近く、肩と肩が何度もぶつかる。
そんな状況で背の低い由比ヶ浜が俺の顔を見上げればいわゆる上目遣いになるわけで、俺は視線を前に向け直した。
「前のあれ、ありがと」
どん時のどれだよ。
というのは冗談で、おそらく相模とその取り巻きに何やら言われていた時のことだろう。
「ああ、まあ…気にすんな。別にお前だと知っ……」
無造作に返事をしかけて途中で口を閉じた。
ああ違う。俺は由比ヶ浜だと知らずにああしたわけじゃない。
追い詰められているのが由比ヶ浜だと知っていて、由比ヶ浜だからこその行動だったはずだ。
ならば、これは返事として間違っているだろう。
だから、きちんと言うべきことを言わなければならない。
「…ヒッキー?」
突然黙った俺を不思議に思ったのだろう。
由比ヶ浜が俺を見上げた。
「いや、大丈夫だ。元気そうだし、安心した」
絞り出した言葉はやはり情けないほど小さい声しか出なかった。
けれど、近すぎるくらいの距離が幸いして、由比ヶ浜の耳には届いたらしい。
「う、うん……もう平気、だよ?」
「…そうか」
「…うん」
それきり、言葉が交わされることはなく、由比ヶ浜の住むマンションが近づいてきた。
知らず、足取りが遅くなっていく自分に気づく。
隣を歩く由比ヶ浜もまた、俯いてゆっくりと歩き、足元に落ちていた石ころをこつんと蹴った。
しかしマンションまではそう遠くない。すぐに入り口付近まで着き、由比ヶ浜は傘を出て、俺と向き合った。
「ヒッキー、今日はありがと」
「…おう」
由比ヶ浜は手を後ろで組んでもの言いたげな表情をする。
俺が視線でその先を促すと、どこかぎこちない口調で、小さな声で呟いた。
「……また、誘っても、いい…?」
ぎこちないけれど、声は小さいけれど、その顔に迷いはなく、ただ俺をまっすぐに見ている。
…ほんと、呆れてしまう。
由比ヶ浜にでなく、俺に。
手を伸ばすなんて決意をしておいてこの体たらくだ。結局いつも由比ヶ浜に引っ張ってもらってばかりで。それが心地良くて、つい甘えてしまう。
いつか、そのうちなんて先延ばしにしていたら俺はたぶんいつまで経ってもこのままだ。
「…ああ。どうせ暇だし、なんだ。……たぶん、俺から連絡する可能性も微粒子レベルで存在するっつーか…」
…ほんと、呆れてしまう。
この口はこんな言い方しかできないのかと。
俺自身がこんなに呆れてしまっているのだ、由比ヶ浜はきっとドン引きだろう。
「…うん!約束ね!」
それなのに、由比ヶ浜は今日1番の笑顔を浮かべると、俺に背を向けてマンションの中へと歩いていく。
そして、自動ドアの前で振り返ると、胸の前で小さく手を振った。
「ばいばい、ヒッキー」
それだけ言うとぱたぱたと早足で歩き始め、すぐに由比ヶ浜の姿は見えなくなる。
俺も帰ろうかと来た道を振り返った。
ふと、空を見上げると既に雨が止んでいることに気づく。俺は傘をたたみ、くるくると回しながら空をぐるりと見回す。
朝方の雨が嘘のように、雲の切れ間からは夕日が差し込んでおり、来た道を無駄に幻想的に照らしている。
今日はずいぶんと妙な汗をかいた気がする。
夕涼みがてらある程度の距離を歩いて帰ろう。
俺はマンションを背に、ゆっくりと足を前に進めた。