あるいは語られたかもしれない、彼と彼女の青春ラブコメ。 作:きよきば
祭りの余韻がまだ残る駅周辺。
騒ぐ男女のグループの声が少し遠くから聞こえている。
花火はとっくに燃え尽き、夜が千葉の空を支配していた。
とはいえ街灯や家の灯りでそこまで暗さは感じない。
だから俺を見る由比ヶ浜の顔ははっきりと見えた。
誰よりもまっすぐな、嘘をつくのが下手なその顔は真剣そのもので、いつもの笑顔とのギャップも相まって思わず見惚れてしまう。
こんな顔もするんだな、などと場違いな感想を抱きつつも、由比ヶ浜が放った決定的なひと言が頭を離れない。
「…由比ヶ……」
何か喋らなければと口を開いたものの、中途半端な言葉はいらないとでも言いたげな視線に名前すら言うことが出来ない。
そんな俺を見て由比ヶ浜がもう一度口を開いた。
「あたしね」
照れ屋のくせに、顔を赤く染めているくせに、それでも由比ヶ浜は手を後ろに組むとやはり俺と視線を合わせた。
まっすぐに、俺だけを。
「…あたし、ヒッキーのこと、好きなの」
その短い言葉は、どんな理屈よりも俺の頭に響く。
「…好き、なの」
繰り返されたその言葉とそれを発した表情には偽りの色などなく、それを見ると俺の心臓はとんでもないほど早鐘をうつ。
言葉が出てこない。
事実だけを述べれば、俺は今由比ヶ浜に告白された。
言葉を返さなければ、由比ヶ浜は明るくごまかして帰ってしまうかもしれない。
そうなれば曖昧な関係のまま、俺は元来た道を引き返すだけだ。
自分の気持ちなどとうに気づいている。考えないように、気づかないようにしてきた自分の感情に。
可愛いくて、優しくて、少々頭が悪いけれどまっすぐな。
そして気がつけば俺の隣にいた。
そんな由比ヶ浜を、俺は好きになっていたのだ。
カラ、と下駄が地面をこする音がする。
ハッとして前を見れば、言いたいことを言いきった由比ヶ浜が耳まで赤くして後ずさったところだった。
ダメだ、時間がない。俺がどんな黒歴史を抱えていようと目が腐っていようとそんなものは由比ヶ浜の気持ちとは関係が無い。
正直な気持ちには、正直な気持ちを。
そう思うのに、いつまでたっても俺の口は開かない。
そんな俺の目の前に由比ヶ浜が立った。
胸に手を当て、深呼吸をすると三度、俺を見上げる。
「へ、返事はその…しな…くても…」
いつものように明るく話して帰ろうとしたのだろう。しかし途中でつっかえた由比ヶ浜の声は途切れ途切れになり、やがて口を噤んだ。
此の期に及んで俺の口は回らず、ぱくぱくと動くだけだ。
「あ、あたし帰るね…」
視線を落とした由比ヶ浜はくるりと後ろを向こうとする。
その時になってようやく固まっていた俺の口が、体が動いた。
後ろを向こうとした由比ヶ浜の腕を掴む。
「ふえっ!?」
「ああ、わ、悪い」
「う、うん…」
急に腕を掴まれ、由比ヶ浜は驚き、少しよろめいた。
反対の腕を使って支えた後、なんとか言葉を絞り出す。
「…ちゃんと言う、から。今、ちゃんと言う」
「…うん」
由比ヶ浜は頷くともう一度俺に向き直った。
もうこれ以上先延ばしにすることはできない。
今ばかりは誰も俺の手を引っ張ってはくれない。
由比ヶ浜は今までになく大きな一歩を俺に向けて踏み出した。ならば応えなければならない。
「俺は…」
口の中は乾燥しきって、喉はカラカラに渇いている。ごくりと唾を飲み込んでみても特に効果はなく、深呼吸をしようとしてもふしゅーと空気漏れのような音が漏れ出るだけだ。
「俺は…」
由比ヶ浜は不安そうに俺を見上げている。
巾着を握る両手には力が入っていて、それを見た俺の手にもぐっと力が入る。
久しぶりに口にする言葉だ。けれど、勘違いして、人を好きになった自分が好きだった時とは緊張感が違う。
たとえ相手が俺のことを好きだと言ってくれていても、自分の本物の気持ちを口にするのは怖いのだ。
でも怖いから、で逃げて目を背けるのは間違っていると、そう思った俺は、由比ヶ浜の目を見据えて、渇ききった口を開いた。
「………由比ヶ浜が、好きだ」
俺の放った決定的なひと言を受け、由比ヶ浜が笑い、目を潤ませるのを、やはり俺は呆然と見ているほかなかった。
由比ヶ浜の小さな嗚咽と、俺の吐く息の音だけが聞こえる。
論理も因果もない、ただのシンプルな言葉。
好きだ、なんて今までどれだけの人が抱いて、発したことだろう。使い古され、飽和状態になっていることだろう。
けれど、その言葉は輝きを失ってはいない。
そして、それは俺と由比ヶ浜が共有することのできた感情なのだ。
「ヒッキー…」
涙を目の端に浮かべたまま、由比ヶ浜がそっと手を伸ばす。俺たちの距離はさほど離れておらず、触れられるほどに近い。俺は、伸ばされた手を反射的に掴んでいた。
手が届いた。言葉だってきちんと届いた。
そして、お互いの気持ちも届いたのだ。
「…俺で、いいのか」
しょうもない言葉が口をついて出てくる。
好きだと言ってくれた相手に言っていいような言葉ではなかったと、言ってしまってから思う。
由比ヶ浜は、そんな俺を見てたはっと笑った。
「ヒッキーがいいの。ううん、ヒッキーじゃなきゃやだ」
こういう時だけ恥ずかしがりもせずに話すの、ずるいと思います。
まぁ、いつもの由比ヶ浜の笑顔が見れてようやく俺も調子が戻ってきたような気もするからいいんだけど。
「じゃあ、えっと……」
「……おう」
そうだ、まだ言っていないことがある。
さすがにいいかげん俺から言わなければならないだろう。
友達になる時も好きだと言う時も先に伝えたのは由比ヶ浜だ。
ずっと由比ヶ浜だけに頑張らせた。でもこの先もそのままだと由比ヶ浜が疲れてしまう。
「…由比ヶ浜」
「…うん」
もう由比ヶ浜の目に涙は無い。
俺を見上げ、にっこりと笑っている。
眼鏡越しに由比ヶ浜と目を合わせ、少しだけ距離を詰めた。
「由比ヶ浜が好きだ」
「うん、あたしも」
少しだけ間が空く。一歩先へ進みたいと願ったことを思い出しつつ、俺はすう、と息を吸った。
「…俺と付き合ってください」
「…うんっ!」
俺の言葉を最後まで聞き、理解した由比ヶ浜は明るい笑顔を浮かべて頷いた。
ほんのひと言、短い言葉を言うだけなのに情けないほどに声は震えていたが、それでも由比ヶ浜には届いた。
ふと、手を握ったままだったことに気づく。
握られた手を見て、互いの顔を見ると小さく笑った。
「…帰ろっか」
「ああ」
自分の脚でちゃんと歩くことはできる。俺たちは不安だから、1人では歩けないから手を取ったわけじゃない。
きっと手をつないでいるのは、理屈抜きで、隣にいたい、いてほしいからだ。
ゆっくりと歩きながらもう一度、顔を見合わせて笑った。
マンション前で由比ヶ浜の手を離した。
名残惜しそうな顔をされたせいで何故か罪悪感があったが、さすがに俺も帰らないと補導されてしまう。
「じゃあ、またな」
「うん、今日はありがと」
時間が遅いことは由比ヶ浜もわかっているのだろう。おとなしくマンションへと入っていく。
やがてドアの前で立ち止まると、こちらを振り向いて小さく手を振った。
俺はそれに片手を挙げて応え、見えなくなっていく由比ヶ浜を見送ると、駅へと歩き始めた。
歩き慣れた道なのに、どこかいつもと違って見えるのは祭りの余韻のせいだろうか。
ああ、戸塚と雪ノ下にちゃんと礼を言って謝らないとな。
小町にはなんて言えばいいだろうか。
ぼんやり考えながら歩き、ふと少し前まで花火が彩っていた夜空を見上げた。
そこには花火と交替したように、星が瞬いていた。
家に着くと、リビングのソファに沈み込んだ。
自分の身に起きた冷静になると嘘だったんじゃないかと思えるほどの出来事に転げ回るためだ。
彼女できたよおおお!信じられねえよおおおお!うおおおおおん!
のたうち回っているとソファから落下してしまい、背中を強打した。
痛みもプラスされ、さらにのたうち回っているとガチャリとドアが開き、風呂上がりらしい小町と目が合った。明らかにゴミを見る目をしてらっしゃる。
「どしたの、お兄ちゃん」
あまり関わりたくないけど見ちゃったもんなー…みたいな顔で俺を見下ろす小町はドアを閉め、ソファに腰かけた。
「別に」
「またまたー、…はーん?お兄ちゃん彼女できたね?」
「……」
「…え、まじ?」
「……マジ」
小町的に冗談だったらしいが、八幡的にマジなので頷くと本気で驚かれた。
「だれ!?結衣さん?それとも結衣さん?まさかの戸塚さん?」
「おい最後、最後」
由比ヶ浜一択じゃねえか。いや、合ってるんだけど。戸塚?可愛いけど男だからね?そこんとこ小町ちゃんわかってる?
「まぁ結衣さんなら納得だなー、ていうか今さらだし」
「…あっそ」
あまりいじらないでください恥ずかしくて死んでしまいます。
小町は両手を顎に添え、さっきよりいくらか穏やかな顔で床に寝たままの俺を見下ろした。
「お兄ちゃん、良かったじゃん」
「…ああ」
さっきまでは本当に蜃気楼か幻だったんじゃないかと本気で考えてしまうくらいには取り乱していたのだが、小町の顔と、手に残る由比ヶ浜の手の感触がその可能性を否定した。
たぶん、この日のことは忘れない。忘れられない。
あと何日かはまたのたうち回るのだろう。
その度に由比ヶ浜のことを思い出して、今日のことを思い出して、1人でニヤけるのだと思う。それはちょっとキモいか。
ともかく、どこか浮ついた気持ちになりながら由比ヶ浜と付き合うという現実に納得した俺は、風呂に入るべく立ち上がった。
そんなことがあった翌日のことだ。
俺は夏休みらしく昼前に起きて顔を洗った。
一応日曜日なのだが、当然のように両親はいない。あの人たちはいったいいつ休むんだろう。
リビングに小町の姿は無い。カーテンも閉まっている。つまり、兄妹仲良く昼まで寝たということなのだろう。やっぱ千葉の兄妹は通じ合ってるな。違うか、違うな。
カーテンを開け、コーヒーを準備する。飯のことは小町が起きてから考えることにして、インスタントコーヒーの入ったカップを手に俺はソファに座った。
ひと口コーヒーを啜ると、猫舌の俺にはなかなかきつい熱さだった。
しばらく冷ますことにしてテーブルにコーヒーを置く。
両肘を太ももに置いて前かがみに座ると、少しずつ目が覚めてきた。
目が覚めれば昨日のことに意識が飛ぶ。これしばらく続きそうだなぁ…
自分に少々呆れつつカップに手を伸ばすと、リビングに寝ぼけ眼の小町が入ってきた。
「お兄ちゃん、携帯鳴ってた」
そう言うと小町は俺のスマホを投げてよこした。
俺はなんとかキャッチしたものの、代わりに掴みかけていたカップが倒れてテーブルの上にコーヒーをぶちまけてしまった。
「ありゃ、どんまいお兄ちゃん」
「お前は少しは気にしろ…」
急いでこぼしたコーヒーを拭き取り、コーヒーを淹れ直そうとキッチンに向かい、準備をしているとことんとカップがひとつ追加された。
見上げれば小町がてへっ、と八重歯を見せていた。
くそっ、ずるいなこの妹…
何がずるいって可愛いんだよ!お兄ちゃんすぐ許しちゃう!
妹をあっさり許した寛大なお兄ちゃんたる俺は2人分のコーヒーを注ぎ、ソファに座った。
小町は俺の隣に座り、はふはふ言いながらコーヒーを飲んでいる。
俺は熱々は飲めないので一度置き、スマホを開いた。
見てみると着信履歴が2件。どちらも由比ヶ浜からだった。
「かければ?」
「ああ」
俺は画面をタップして由比ヶ浜に電話をかける。数回コールした後、通話が開始された。
「あ、ヒッキー?」
「ああ。悪いな、さっきは気づかなかった」
「ううん、全然!」
「それで、どうかしたか?」
いや、まぁ別にどうもしなくても電話とか来ると八幡すごく喜んじゃうんだけど。
俺浮かれてんなぁ…
「えっと、ヒッキー明日予定ある?」
「いや、ない」
考えるより前に返事をしてしまい、慌てて考えたがやっぱり予定などなかった。
ちなみに明日は8月8日である。
まぁ、言わんとしていることはだいたいわかる。
「じゃあさ、皆で一緒にカラオケ行かない?」
特に予定もない以上、断る理由がない。皆で、ということは戸塚や雪ノ下は既に誘ってあるのだろう。隣の小町を見るとにひっ、と笑って肘で俺の肩をつついてきた。やめろ、どうせ顔が緩んでるんだろ。
「ああ。小町も連れてっていいか?」
「あ、うん!小町ちゃんと話したことあんまりないし!」
それ理由と返事が繋がってないような気がするんだけど…
小町と由比ヶ浜は何度か顔を合わせてはいるが、別段親しいわけではない。雪ノ下に至っては初対面になる。コミュ力に若干の不安はあるものの、小町だし大丈夫だろう。やだ、お兄ちゃんてば妹に甘すぎ!
「わかった。じゃ、明日な」
「うん!後でまた電話するね!」
通話を終えスマホを置くと、隣の小町がさっき以上ににひひと笑いつつ俺の顔を覗きこんだ。
「いやぁ、いいタイミングで彼女さんができたねぇ、お兄ちゃん!」
「祝ってるんだかイジってるんだかわからん言い方はやめろ。お兄ちゃん今あんまり冷静じゃないんだから」
「うわぁ、頭の中が結衣さん一色だなぁ、気持ち悪いなぁ…ま、しょーがないとは思うけどね」
ちょっと?ひと言余計なのが入ってなかった?
…いや、気持ち悪いね、うん。俺だし。なんて説得力だ。泣きたい。
その後小町が昼食の用意を始めるまでの間は由比ヶ浜との事をさんざんイジられて過ごした。
その日の夜。俺は自分の部屋で読んでもいない本をめくりながらスマホを耳に当てていた。
「はいよ、2時な」
「うん!」
通話の相手は由比ヶ浜だ。明日の集合場所と時間を確認し、本来ならここで電話を切るところだが、昨日付き合いはじめたばかりということもあり、いやむしろそれが主な理由なのだが、お互いに電話をやめるという選択肢が存在していなかった。
やっぱり表情の見えない電話というコミュニケーションは苦手だ。声色でしか相手の表情を推測できない。ということは顔文字を使う由比ヶ浜のメールは直接の会話を除けば最強のコミュニケーションツールということになる。嘘をついてもバレないしな。
俺の場合はどんな文面を送ろうが返事が返ってこない、もしくは原文そのまま突き返しがデフォルトだったから意味ないけど。
時計を見ればもう間も無く日付が変わるところだった。由比ヶ浜から電話がかかってきたのが10分ほど前。別に気づかなくてもいいのにその意図がなんとなくわかってしまい、さらに通話を終了させる気が失せる。
「まぁ、なんだ。…よろしく頼む」
「う、うん…こちらこそ…」
何の脈絡もない言葉に突っ込む余裕もないようで、互いの吐息だけが聞こえる。
時計を見ればあと30秒ほどで日付が変わるころだった。20秒、10秒とその瞬間が近づくにつれ、スマホから聞こえる由比ヶ浜の息づかいが荒くなるのがわかる。
5分ほどにも感じた30秒が終われば、時計は0時を指し、日付が8月8日へ変わる。
「ヒッキー、お誕生日おめでとー!」
「…さんきゅ」
明るい声音の後に、ハッピーバースデーの歌を鼻唄で歌いながらとんとんと歩く音が聞こえた。わざわざ立ったまま時計の前で待機していたらしい。
はっぴばーすでー、でぃあヒッキー♪と、何故かそこだけ普通に歌った由比ヶ浜は電話越しにもわかるいつもの照れ笑いをした。
「えへへ…こんなことしたの初めてかも」
「俺は家族以外に祝われたのが初めてだな」
なんなら家族にすらここ数年はあまり祝われてないまである。毎年小町が12時過ぎにメールを送ってくるくらいだ。
一応親父から現金は貰っているが、あれって祝われてるうちに入るのかしら…
ついでに家族以外に祝われたことはないが呪われたことはある。その呪いにかかるとバリヤの効かない比企谷菌に感染するんだとか。おかげで俺は超強力な比企谷菌をこの身に宿すことになった。小町は感染していないから、比企谷という名字が原因ではないのだろう。
「だいじょぶ、今年からはあたしもゆきのんもさいちゃんも祝うから!」
自信満々に言いきる由比ヶ浜の言葉を聞いて、通話状態のままメールボックスを開くと、未読メール3通が12時ちょうどに来ていた。
示し合わせたかのように戸塚と雪ノ下と小町の3人からだった。
ありがてぇありがてぇ…とモテない男子がバレンタインに全員に配られるチョコを受け取った時並の感動を覚えた。
「…そうか」
「うん、そう」
再び無言。
しかしこの無言はなんとなく嫌ではなかった。
電話の向こうの由比ヶ浜の様子を想像するとふっと顔の力が抜ける。
「なあ、由比ヶ浜」
「なに?」
「今度、浦安で花火大会あるんだが、行かないか?」
自分でも驚くほどにその言葉は自然に口をついて出た。
スマホからは由比ヶ浜の驚いている様子がなんとなく伝わってくる。
「えと、えっと…それって…」
「…まあ、なに。世間一般で言うデート、みたいなやつ?」
今までもそれらしきことは何度かあったが、俺からこうして誘うのは初めてかもしれない。
さすがにいつまでたっても由比ヶ浜に任せきりなのも問題だろう。俺は専業主夫に憧れこそ抱いているがいわゆるダメンズになるつもりは無い。
「…うん、行こっか」
「…おう」
リア充恋愛マスター(笑)からしたら幼稚なことこの上ないであろう会話だが、とりあえず俺にしては上出来なんじゃないだろうか。
ふええ…引かれなくて良かったと本気でホッとしたよぉ……
「じゃあ、そろそろ寝るわ」
「あ、そだね。じゃあ…」
「おお」
「おやすみ、ヒッキー。お誕生日おめでとう!」
温かな声の後には無機質な音。
少々名残惜しくはあったが、通話が繋がることすら無かった中学の頃と比べたら大違いだ。
変わる自分に戸惑い、頭をガシガシとかきむしる。
こうして俺は16歳になり、そしてやがて大人になっていくのだろう。
これから先何度彼女が俺の誕生日を祝ってくれるのだろう。
携帯を置き、ベッドに横になった俺はそんなことを考えながらやがて睡眠へと落ちていった。
暑さに目を覚まされたのは9時過ぎ。
リビングに降りると小町は既に起きて朝食の準備をしていた。
同じ日に早く起きるとは、やっぱり千葉の兄妹には何か通じ合うものがあるのかもしれない。
俺に気づいた小町はテーブルを顎でさし、見てみると毎年おなじみの封筒が置いてあった。
中身は当然のごとくお金。
まぁ、普段そんなに会話も無いのにこんな時だけ俺の欲しいものをよこせなんて無茶ぶりをするつもりはない。親が覚えているだけ良いだろう。良くはないな。全国のお父さんお母さん、真似はしないでね!
「ほいお兄ちゃん、誕生日おめでと」
「ありがとよ」
小町と向かい合って座り、トーストを口に運ぶ。
いつもより1枚多いのは小町的な誕生日祝いか宿題を手伝えというメッセージかどちらかだろう。
「お兄ちゃん、何時ごろ出るの?」
「ん?適当に」
感違いしてもらっては困るが、この適当とは間違いなく遅刻はしないという適当であって後で考えるとかのテキトーではない。誰に言い訳してるんだろう。
待ち合わせに遅れないよう、少し早めに家を出た。
特に用事が無ければ絶対に家から出たくないレベルの暑さの中、待ち合わせ場所の駅へ向かう。
花火大会の時はあれほど混んでいた電車は夏休みではあるが座れる程度には空いており、小町と並んで座る。
「えっと、結衣さんと戸塚さんとー…誰だっけ?」
「雪ノ下だ」
「あー、もう名前からして美人だ…お兄ちゃんいつの間に美女に囲まれるようなリア王になったのかなー…」
リア充の極みと言いたいのだろうが、俺がリア王だとすると登場人物だいたい死んじゃうから充実する間もない。
小町がシェイクスピアなど読むはずもないので俺は訂正することを諦め、聞き流した。
珍しく俺が合流したのは1番最後だった。
俺を見つけると戸塚と由比ヶ浜は大きく手を振り、雪ノ下は軽く頷く。
俺は小町を連れて早足で3人と合流する。
「悪い、遅れたか?」
「全然!お誕生日おめでとうっ!」
なんでもないとばかりに笑みを浮かべた由比ヶ浜に倣い、戸塚と雪ノ下もおめでとう、と言った。
この場に今日が誕生日なのは間違いなく俺だけなので実は違う人間の誕生日祝いだった、などというパターンは無い。
つまり疑いようもなくその言葉は俺に送られているのだが、当然のように祝われたらそれはそれで反応に困る。
「まぁ…ありがとな」
モゴモゴと礼を言う俺を見て小町は呆れた顔をしたが、3人の方には通じたらしい。
頷きを交わして目的のカラオケボックスへと歩き始めた。
少しだけ離れた場所を小町を真ん中に戸塚と雪ノ下が並んで歩いている。
今になって思う。もしかしてバレてたんじゃなかろうかと。
というかそうでなければわざわざ花火大会の帰りに俺と由比ヶ浜を2人にはしないだろう。急に恥ずかしくなってきた。
隣では由比ヶ浜がご機嫌な様子で当然のように俺と触れるか触れないかくらいの距離で歩いている。
あのですね、それは嬉しいんですが男女交際どころか人との交際がまともに出来てなかった八幡くんにはちょっと近いというか、いっぱいいっぱいというか。
「ね、ヒッキー」
「…なんだ?」
俺の言葉に由比ヶ浜からの返事はなかった。
どうかしたのだろうかと視線を向けてみると、モジモジと体をくねらせて俺を遠慮がちに見ていた。
「由比ヶ浜?」
「えっと…その、手…」
俺の顔と右手を交互に見ながらぽしょりと呟かれれば、さすがにどうしたいのかくらいはわかる。
というかあれだけストレートに告白した人と同一人物だとは思えないのだが、可愛いので気にしないことにする。
俺は無駄に大きな咳払いを何度かした後、由比ヶ浜の左の手の甲を包むように右手を出した。
「…あんまりゆっくり歩くと遅れるぞ」
「……うん、ありがと」
数分歩き、カラオケボックスに到着した。
受付を済ませ、部屋に入ると薄暗い空間にソファ、テーブルが置かれていた。
示し合わせたように3人がけのソファに戸塚と雪ノ下と小町が、反対側に俺と由比ヶ浜が並ぶかたちに座った。
してやったりとばかりに俺を見て笑う小町には後で文句を言うとして、それぞれにジュースの注がれたグラスを持った俺たちは小町の音頭で乾杯をし、ぱらぱらと拍手をした。
世間的に誕生日といえばケーキだ。
そして今日、珍しく俺は世間の誕生日のしきたりに従って雪ノ下の焼いたケーキにさされたロウソクの火を吹き消した。
「…」
そして訪れる無言。
俺は誕生日に主役になったことなどないし、俺以外も誕生日パーティーなどという経験は2回しか無い。つまり何をしていいのかわからない。
「…どうする、帰る?」
「なんでっ!?」
気まずさのあまり提案した帰宅も却下され、俺は曖昧な笑みを浮かべることしかできない。
「う、歌いましょう結衣さん!」
「あ、うん!」
全員の顔を見て全員が使えないと判断したのか、小町が素早く曲を入れてマイクを由比ヶ浜に手渡した。
いったいどこで知ったのかは知らないが、せーの、で始まる恋愛的なサーキュレーションを由比ヶ浜が歌い始めた。
その後、ようやく動きだしたパーティはカラオケ大会へと変貌を遂げた。
由比ヶ浜と小町はまず戸塚を巻き込み、次いで体力の無さを盾に渋っていた雪ノ下にマイクを握らせ、戸塚は俺にマイクを手渡し、男2人のデュエットが始まった。
もはや誕生日がどうとかでなく普通にカラオケに遊びに来たみたいになっている。
だが俺はこの空間が嫌いじゃない。誰もが笑って、歌って、拍手を送るこの騒がしい空間が、俺は好きだ。
などと感傷に浸っていると、俺の向かいに座る小町からマイクが回ってくる。
「次、比企谷兄妹デュエットー!」
「よし、お兄ちゃんに任せろ小町」
「やる気まんまんだ!?」
今日くらいは少々騒いでもいいだろう。
友達に、妹に、由比ヶ浜に囲まれて今日くらいは。
せめてあと数時間、この部屋の中で。
「いやー、歌ったね!」
「喉痛え…」
時間ギリギリまで歌った俺たちはカラオケを出て帰り道を歩いていた。
戸塚と小町は満足そうに頷き、雪ノ下は体力を使い果たして何も喋らない。お前それ生きていけんのかよ。
空は少しずつ夕焼けに色を染め、昼に比べ多少は涼しくなっている。
昼に集合した場所まではそう遠くない。数分歩いてやがて解散となる。
「じゃあまたね!八幡、お誕生日おめでとう!」
「おお、ありがとな。雪ノ下、家まで歩けるか?」
戸塚を見送り、振り返ると雪ノ下がフルマラソン走った後の選手のような顔をしていた。
おかしいなぁ、高校生くらいの頃って体力のピークのはずなんだけどなぁ…年取ってから大丈夫かなぁ…
「じゃ、小町は雪乃さんを無事に送り届けてから帰るであります!」
「送り届けてってお前…」
びしっと敬礼した小町は俺の反論など聞きもせず雪ノ下と2人歩きだしてしまった。
ひと言も発しない雪ノ下が心配だがいったいいつそんなに疲れるほど体力使ったんだろう。
いつの間にか名前で呼んでるし。
そして、もう今更驚かないがまたしても俺と由比ヶ浜は2人残された。
「…行くか」
「…うん」
由比ヶ浜を送っていくことにして歩き始める。2人並ぶと、さっきまでの騒がしさが嘘のように、静かな時間が流れ始めた。
会話もなくゆっくり歩いていると、俺の右手の小指と薬指を力無く握る感覚がする。
隣を歩く由比ヶ浜がどんな顔をしているかはだいたい想像がつく。俺は1度手を離してその手を握り返した。
「………」
見覚えのあるどころか2日前に来たばかりの公園の横を通り抜ければ、由比ヶ浜の住むマンションはすぐそこだ。
「けっこう遅くなったけど大丈夫か?」
「うん、あたしは全然だいじょぶ。いつも送ってくれてありがと」
穏やかに笑う由比ヶ浜と目が合い、恥ずかしくなった俺は頭を掻こうとしたが、右手が繋がったままなのでうまくいかず、余計に恥ずかしくなった。
「ね、ヒッキー」
由比ヶ浜が俺を呼びつつ顔を覗き込む。
やってることは実に可愛らしいのだが、俺の精神の安定上あまりよろしくない。
「カラオケもさ、また行こうね」
「…そうだな」
約束はまたひとつ増えた。
というか由比ヶ浜の恋愛サーキ……あれは正直グッときましたね、ええ。
マンションに到着し、俺の役目はここで終わりだ。
手を離し、挨拶を交わす。
「じゃあ、またな」
「うん!花火大会も楽しみにしてるね!」
最後に弾けるような笑顔を見せた由比ヶ浜はゆっくりとマンションに入っていく。
その後ろ姿を見て、ふとまだ言っていなかったことがあるのに気づいた。
「由比ヶ浜」
慌てて呼び止めると由比ヶ浜はこちらを振り向き、首をかしげる。
俺は2、3歩ほど距離を詰め、目を合わせた。
「今日はありがとな」
「…うん、どういたしまして」
短い会話を交わし、今度こそ由比ヶ浜の姿は見えなくなった。
全ては終わり、後は家に帰るだけ。
帰るまでが遠足だと言うし、気をつけて家まで帰ろう。
賑やかな空間はあの部屋で完結した。
けれど、賑やかな日々はまだ始まったばかりだ。
夏休みはまだ3週間近く残っているし、高校生活は2年以上残っている。
どう過ごすのか、ゆっくり考えよう。
由比ヶ浜と、2人で。