鉄火の銘   作:属物

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第五話【アンダードッグス・ノクターン】#2

【アンダードッグス・ノクターン】#2

 

 

今日は最低だった。明日はもっと悪いだろう。

 

「…………」「ワン! ……ワン!?」ケミカル排水だまりのドブめいた顔。飼い主の異常にイルカも困惑の色を隠せない。パワハラ上司に5時間ネチネチ詰められた夜より顔色が酷い。イルカは心配げに擦り寄るが、死体めいた面構えのキミトは邪険に足でどかすだけだった。

 

「ア"ー」湿った煎餅布団に身体を投げる。漏れる声はバイオチキンの断末魔めいていた。キミトの心境としては大体同じだ。このままだと首を落とされ内臓を抜かれる。正しくはカミヘイをクビになり、ケツから臓腑を貫かれて殺される。涙で濡れた枕を噛み締め、キミトは今日の絶望を思い返した。

 

……「カミサマのお力なんだぞ!」「ハイ、スミマセン!」「お前のためを思って言ってるんだ!」「ハイ、スミマセン!」「聖人ぶりやがって! 俺たちを見下してるのか!?」「ハ……イエ、スミマセン!」閉ざされたシャデン・カテドラルの中。床へ擦り付けた頭に、カミヘイの先輩方からありがたいオセッキョが降り注ぐ。

 

何もしてないのにナンデと問いたくなる。

だが、その答えは『何もしてないから』なのだ。

 

キミトはイルカを飼い始めてから悪行OJTの参加を断わっていた。死なすつもりならともかく、ネオサイマタの貧乏人が生き物を飼うのはなかなか難しい。バイオ感染症の予防注射にたらい回しのペット登録。どれにもこれにも時間とカネばかり掛かる。

 

後知恵だが銅鏡を使って獣医や役所受付を操れば良かったのかもしれない。だがモッタイナイで躊躇われた。それにこんな理由で使ったらキレられるのではとの恐怖もあった。結局は使わなかったから、参加しなかったからとキレられたが。

 

「そこまでにしておきなさい」威厳めかした声がLED傘めいて説教の豪雨を止めた。声の主は御神体を背後にカンヌシめいた格好で鎮座している。話したこともないカミヘイのボス。でも助けてくれるのでは? キミトは縋る目で見つめる。

 

「彼にも事情がある。少しだけ待ってあげましょう」望み通りブッダめいて蜘蛛の糸が垂らされた。ただしネオサイマタにおいてブッダはゲイのサディストだ。スカム問答にもそう書かれている。「無論、成果を出せばの話ですが」実際、ボスは容赦なく蜘蛛の糸に鋏をかけた。

 

「成果、ですか……?」「ハイ、最終試験を通過しなさい。それで様子を見てあげましょう」悪行OJTの最終試験は中流層以上のファックエンドサヨナラ(男女問わず)だ。手を付ければ最早言い訳は効かない。NSPDから無条件射殺対象の重犯罪者に成り果てる。

 

「期限は三日です。三日以内に成果を撮影して持ってきなさい」「出来なかったら……?」怯えたキミトの質問に、ボスはビヨンボで隠された部屋の一角を指差した。「おおブッダ……!」そこには使い捨てられた被害者が汚物に塗れて転がっている。半分はもう動いてない。もう半分はもうそろそろ動かなくなる。

 

つまり、ファックエンドサヨナラ出来なければ、ファックエンドサヨナラされてこの動物性産廃置き場に打ち捨てられることになるのだ。絶望感に真っ白になるキミトに、ノウ・オーメンめいた笑顔でボスは繰り返した。「三日ですよ。いいね?」「アッハイ」頷くしかなかった。

 

促されるままに死体予定のキミトが死体めいた顔で退出する。当然、御簾向こうの御神体から覗く蒼い目が見えるはずも無かった。水に沈められるラットイナバッグを眺めるような、嘲笑に歪んだ目を。

 

 

―――

 

 

……かくしてキミトは煎餅布団を涙と共に噛み締める。

 

どうしよう。どうしようもない。ヤるしかない。でもヤれば後戻りは出来ない。催眠して連れ帰るのとは違う。『これは自由恋愛だから、いいよね?』との言い逃れようはない。NSPDに見つかり次第鉛玉をご馳走される重犯罪者だ。けどそれが嫌なら後ろの穴を広げて汚物塗れで死ぬしかない。

 

どちらがマシか。どちらもクソだ。「ブッダ……ブッダム……ブッダミット……!」覚者を罵倒しながらキミトは薄い寝具の中で懊悩する。だが何一つ事態は進まない。ただ時間だけが過ぎて行く。頭痛と吐き気と胃の痛みが増すばかり。

 

そんなウンウン唸るキミトをまんまるな黒目がじっと見つめる。「ワン!」「……なんだよお前」こっちを見ろと一鳴きするとイルカは煎餅布団に滑り込んだ。

 

「ワン!」「…………だからなんなんだよ」膝を抱えるキミトにひっついたイルカ。たっぷりとブラッシングしてもごわつく毛皮が肌に擦れる。ヒヤリと冷たい鼻面を頬に押し付ける。漏れる吐息がドッグフードくさい。

 

「………………なんだよもう」「ワッヒ! ワッヒ!」力無い文句を無視してイルカは顔中を舐め回す。ざらついた感触が割と痛い。だがキミトはされるがままだ。顔中が涎まみれになっても舐められ過ぎて肌が赤くなっても、押し退けようとも逃れもようともしない。代わりにイルカの背に手を回す。暖かい。

 

「……………………なぁ、もしかしてお前、慰めてくれたのか?」「ワヒ?」そんなわけないか。苦笑の顔で粗い毛皮を撫でさする。いい加減満足したのかイルカは腹にくっついたまま丸くなった。いったい体温は何度あるのか。暖かいを通り越して暑いくらいだ。

 

「まぁ、いいか……」気づけば銅鏡も悪行もキミトの脳裏から消えていた。暑苦しい温もりを抱いてキミトは眠りに落ちていった。

 

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

 

重金属酸性雲向こうの太陽は随分と高く、病んだ日光を弱々しく放っている。それを見上げるキミトは普段なら仕事をしている時間のはずだ。しかし今のキミトは作業服ではなく普段着で、ここは現場ではなく街中で、手には清掃用具はなく手ぶらである。

 

「やっちまったなぁ……」つまるところ寝坊であった。寝付くまで煎餅布団の中で悶々としてたのが良くなかったのか、或いはイルカの体温で寝過ぎたのか。なんにせよ朝起きて、時計を見て、全部諦めて、こうして一人街を歩いている。

 

今日の仕事と言い、三日後の約束と言い大問題大有りだ。だから考えないことにする。なんとかなる、はず、きっと、たぶん、そのうち。

 

ひたすらに自分に言い聞かせ、夜勤明けに通るいつもの道を歩む。いつもの道を曲がった先には、いつも心安らぐあの笑顔が待っている。何を話そうか。またイルカのことにしようか。それとも仕事の話にしようか。心配とかしてくれるだろか。

 

想像上のキヨミは困った顔で心配げに語りかけてくれる。キミトはその手を取りキアイと男気をアッピール。そして仮想のキヨミは安心した笑顔を浮かべ……

 

 

 

「それでシンちゃんはお夕飯どうするの?」

「んー、今日はこっちで食べるよ」

 

 

 

笑顔だ。

キヨミ=サンが笑っている。

見たこともない顔で。

見たこともない奴に。

 

陽光を浴びたバイオミミズめいてキミトは後ずさる。「あら?」気づいたキヨミがこちらを向く。無自覚なよそ行き用のお愛想笑い。いつもの色鮮やかなパステルが重金属酸性雲の曇天めいてくすんで見える。

 

「キミト=サ「……ッ!」キミトは掛けられた声よりも早く振り向いて駆け出した。否、逃げ出した。逃げ出さずにはいられなかった。

 

あの笑顔。見たことのない笑顔。艶やかで、愛おしげで、奥ゆかしく、完璧に、美しい。それを見知らぬ誰かへ当然のように捧げている。

 

「ハァーッ! ハァーッ! ハァーッ!」呼吸中枢が破壊されて息ができない。運動中枢が破壊されて足がもつれる。記憶中枢が破壊されて先の光景が無限リピート。分泌中枢が破壊されて涙が止まらない。「ハア”ーッ! ハア”ーッ! ハア”ーッ!」脳がネギトロめいて破壊された。

 

「ヴアーッ!」そう、確かに破壊された。白昼夢めいて夢見ていた甘い妄想が、安物ガラス細工めいて砕け散ったのだ。「グワーッ!?」砕けた夢物語に蹴つまづいたのか、キミトは段差に足を引っかけて思い切り転げた。

 

CLINK! ポケットから飛び出した銅鏡が甲高い音を立てて転がった。倒れたキミトの目の前でクルクルと回り、ちょうど手の届く位置で静止する。『チャンスがあるとでも思ったのか?』背面の浮き彫りブッダデーモンがこっちを向いて嗤っていた。

 

……カネもなく、コネもなく、顔も悪く、頭も悪い。そんなマケグミにチャンスがあると思っていたのか? そんなものはない。お行儀よくしてても試合にも出れない。違法行為(チート)をしなければドヒョー・リングに立つことすらできず、試合開始前にマケグミ確定だ。

 

わかっていた、わかっていた、わかっていた。自分にチャンスなんて無いとわかっていた。彼女が好くのは自分でないとわかっていた。わかっていたのだ。

 

なのに都合のいい夢を見てしまった。その夢は覚めた。諦めるしかない。それが現実だ。「いやだ……いやだ!」暗がりに落ちた銅鏡へと手を伸ばす。暗い瞳と浮き彫りなデーモンの視線が重なる。ルールに従っても不戦敗確定なら、負けが決まってても勝ちたいなら……反則をする他にない。

 

そのための(チート)はある。手の中にある。全部手に入る。銅鏡を握りしめてゆっくりと立ち上がる。暗い目のキミトは歩き出した。向かう先は無論ダイトクテンプル。そこにいる。キヨミがいる。もう一人は帰ったのか姿が見えない。好都合だ。

 

「あ、キミト=サン! 急にどうされたんですか? ダイジョブですか? 少し休まれますか?」キヨミの慈しみ溢れる問いかけにキミトは答えない。代わりに銅鏡を握りしめる。全部手に入る。全部手に入れる。ルールに従えば永遠にマケグミ、ルールを無視すれば遂にカチグミ。キミトは銅鏡をキヨミに向けて振り上げ……

 

『ワン!』

 

……振り下ろし、叩きつけ、踏みつけた!

 

「ア”ーッ! ア”ーッ! ア”ーッ!」「ど、どうかされたんですか!?」「ア”ーッ! どうかしてたんです! ア”ーッ!」STOMP! STOMP! STOMP! どうかしてるとしか思えない奇声を上げてキミトは銅鏡を繰り返し踏み躙る。全くもってダイジョブではない。

 

「スミマセン! スミマセン! ホントスミマセン! サヨナラ!」「あの、ちょっと!」困惑するキヨミを置いてキミトは駆け出した。その目からは止めどなく後悔の涙が溢れ出していた。

 

わかっていた、わかっていた、わかっていた。もう二度とチャンスなんて無いとわかっていた。彼女に好かれることなんてないとわかっていた。わかっていたのだ。

 

なのに雑種犬一匹のぬくもりに目が眩んだ。ドッグフード臭いヨダレまみれの自尊心が手を振り下ろした。ALAS! 今日の行いを死ぬまで悔いるだろう。今この時だって心底後悔している。だけど……だけど! ALAS! ALAS! 

 

「アア”ーッ! アア”ーッ! アア”ーッ!」ぐちゃぐちゃに破壊された脳みそがぐちゃぐちゃな思考を撒き散らす。脳裏でゴワゴワの毛皮と菊花めいた笑顔が明滅し、冷たい鼻面と涼やかな声がぐるぐる回る。

 

(((もう辞めよう、カミヘイ辞めよう)))ここに関わったからおかしくなったのだ。だから全部投げ捨てて、安酒をしこたま飲んで、暑苦しい飼い犬を抱いて、フートンに包まるのだ。涙と鼻水と涎を垂れ流し、キミトは訳もわからぬままひた走った。

 

その走り去る後ろ姿をキヨミは困惑と心配の入り混じった顔で見つめるばかり。「エット……ホントにダイジョブなのかしら……?」追い掛けるほどの理由もなく、さりとて見放すほどに薄情にもなれない。

 

口から溢れたそんな心境に、テンプルから表れた黒錆色が応えた。「ダイジョブ! 俺が見てくるよ」「シンちゃん? オネガイしていいの?」「いいよ!」サムズアップで軽快に答える声。それを聞いてキヨミはようやく安堵の息を漏らす。

 

そんな彼女は気づかない。キミトの首を刎ねる筈だった黒錆色のスリケンが握りつぶされたことに。それを握りつぶした黒錆色の影が浮かべた複雑な表情に。「……踏み留まったんだ、スゴイな」漏れた言葉と共に黒錆色の風は瞬く間に消えた。

 

 

【アンダードッグス・ノクターン】#2終わり。#3に続く。


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