鉄火の銘   作:属物

19 / 110
第一話【スピニング・メモリー・イントゥ・スレッド】

【スピニング・メモリー・イントゥ・スレッド】

 

カラテによって平安時代の日本を支配した、半神的存在であるニンジャ。その精神、技術、能力、そして肉体は定命者(モータル)のそれとは遙かに異なる。例えば致命傷を複数負ったとしても、十分な食事と休息さえ有れば瞬く間に活力を取り戻し、恐るべきカラテを振るえるようになる。

 

それは現代のニンジャソウル憑依者においても違いはない。事実、キヨミが用意したソバ・ナポリタンとパックスシを食して、最低限のアグラ・メディテーションを行ったシンヤは、その日のうちに日常生活に支障がでない程度には回復していた。無論、全てではない。

 

痩せても枯れてもソウカイスカウトの一員。フラグメント相手のイクサは、シンヤの全身に深いダメージを残していた。折れた骨をギプスで固定し、カマで抉られた右腕を包帯できつく縛った姿は、キヨミとコーゾのどちらから見ても痛々しいものだった。

 

本来ならば数日は回復のために時間がほしい。しかし、そんな時間はどこにもないのだ。シンヤは痛む体に鞭打ってでも、トモダチ園の運営者である二人に説明をする必要があった。なので、松葉杖をつくキヨミに支えられつつ、シンヤは園長室のコーゾの元へと向かったのだった。

 

「……今、話せる事情はこんなところです」一通りを話し終えたアグラ姿のシンヤは、深い呼吸で脳味噌に酸素を送る。集中しすぎていたのか、それともフラグメントのフレイル打撃後遺症か、意識の焦点がぼやけて頭がはっきりしない。だが、話の要点はキヨミとコーゾの二人にははっきりと伝わったらしい。

 

実際、二人とも大けがを負ったシンヤ以上に、顔色を悪くしている。特に日々の過労に体力を削られ続けたコーゾは、最早土気色に近い。ベッドの上で上体を起こした姿は、死体が起きあがったと言っても通用する程だ。

 

ソウカイヤの詳細や前世についてを除外しつつも、シンヤは可能な限りを二人に伝えていた。ネオサイタマの表社会に生きる一般市民でしかない二人には、必要なこととはいえあまりに重すぎる情報だった。

 

「その巨大ヤクザ組織は、本当にまた派遣してくるの?……あんな、ニンジャを」NRS記憶のフラッシュバックに血の気を減らしながらも、キヨミは問いかける。苦い顔でシンヤは重々しく頷いた。ソウカイヤのニンジャを打ち倒した以上、ここに敵対的なニンジャがいると表明したようなものだ。

 

「奴らは逆らう者を生かしはしない、必ず来る」「アイェェェ……」コーゾの喉から絶望混じりの悲鳴があふれた。「な、なんとか謝って、許してもらうとかできんのかね!?」「ダメです」シンヤは首を振ってコーゾの哀願を一刀両断した。

 

「もし、連中が許したとしても、トモダチ園を知られている事実に変化はありません」それさえなければ、自分が身を隠すだけでよかった。最悪でもソウカイヤに参加しつつ、タイミングを見計らってヌケニンになることも不可能ではない。だが、ソウカイヤは全てを知っていた。

 

「奴らなら俺を屈服させるために、子供達の一人を誘拐して目の前で首を折る位はするでしょう。それで俺は逆らえなくなります」なんたる残虐な想像か! だが、ショーユ大店乗っ取りのために、無辜の市民が乗る旅客機を墜落させるのがソウカイヤだ。決して荒唐無稽な妄想ではない。

 

「アイェッ!?」幼い家族が残酷に殺される姿を想像したのか、コーゾの顔色が更に悪化する。「どうすればいいの?」「……ヨニゲしかない」思わずキヨミが漏らした呟きに、シンヤが答える。八方塞がりの現状を打破するには、その前提を壊すしかない。シンヤの唯一持つ回答はヨニゲだった。

 

ヨニゲとは債務者が借金踏み倒しのために遠方へ脱出する行為だ。ネオサイタマにはヨニゲ専門の引っ越し業者もある。「そ、そんなことをすればユウジンは、三代続いた家業は!」コーゾの譫言めいた悲鳴に、シンヤは表情をゆがめて首を振った。

 

ヨニゲに成功するためには、借金のみならず資産全てを捨てるしかない。何かを残そうとすれば初動は遅れ、なおかつ追跡者の道しるべとなってしまう。そうすれば元の木阿弥、全ては泡と消える。当然、人生も家族も全て消える。

 

故に、コーゾが命を削って必死で支えていたローカルソバチェーン「ユウジン」も廃業する他はない。(((俺のせいでトモダチ園の皆は全てを捨てるんだ)))シンヤは砕けそうなほどに奥歯を噛みしめ、血が滴るほどに拳を握りしめる。だが、それでも胸の痛みは消えない。後悔が心臓を抉り続けている。

 

「判ったわ、ヨニゲをしましょう」その痛みを消したのは、キヨミの凛とした一声だった。「そ、それではユウジンは!」「コーゾ=センセイ、借金取りヤクザが来た時点でもうオシマイだったんです。後はいつ逃げ出すかの違いでしかありません」コーゾの懇願をキヨミは理路整然と切って捨てた。

 

「それは……」反論の言葉なく視線を外すコーゾ。あの時点で借金返済の目処は全く立っていなかった。「あの時シンちゃんがニンジャにならなければ、きっと私たち全員が今頃ジゴクで呻いていたでしょう。シンちゃんにお礼を言う理由はあっても、責める謂われはどこにもありません」

 

NRSフラッシュバックを堪えながらも、自分を気遣うキヨミの言葉に、シンヤはいっそう深く俯く。その肩は小さく震えていた。不意に部屋を静寂が支配した。床を見つめ両目を擦るシンヤに、窓向こうのドクロの月に目をやるコーゾ。キヨミは二人から目を離すことなく、静かに座っている。

 

「それしか、ないか」「ハイ」部屋を覆った沈黙を破ったのは、月を見つめるコーゾだった。「父と祖父にアノヨで怒られてしまうな」「スミマセン」思わずシンヤは頭を下げていた。下げずにはいられなかった。「それでも子供達を見捨てたと、二人から言われるよりはずっといい」「ハイ」

 

振り返り二人を見つめるコーゾの顔は、子供達を背負ってきた責任有る大人の顔だった。「行き先の当てはあるのかね?」「幾つかあります」シンヤは高速でニューロンを回す。すぐに思いつくのは『ニチョーム』『ダイトクテンプル』『トミモト・ストリート浮浪者キャンプ』の三つ。

 

まず、ニチョームは選択肢から外れる。犯罪と関わりないまま裏社会から独立を保ち続けた希有な地だ。だからこそ街の守り手であるネザークイーンは、他人を無条件で受け入れるほど甘くない。ただし、行き場のないヤモトに手を差し伸べる優しみもある。考慮するのは家族だけを逃がす場合だろう。

 

続いてダイトクテンプルも厳しい。シンヤに恩義の有るボンズ擬きなら受け入れてくれるだろうが、『原作』に存在しないためソウカイヤの行動予測が立てられない。それに場所がトモダチ園に近い。ヨニゲしたトモダチ園近くのテンプルに現れた孤児集団。すぐに関連づけずとも、調べはする筈だ。

 

唯一可能性があるのは、トミモト・ストリート浮浪者キャンプだった。サカキ・ワタナベと名乗るヨージンボーに守られたこのキャンプは、彼の過去を知る者がやってくるまでソウカイヤに存在を知られることはなかった。それに「イチゴ・イチエ」の教えに従い、来る者を拒むことはない。

 

「良さそうなのはトミモト・ストリートにある浮浪者キャンプです」「浮浪者キャンプか」シンヤの言葉にコーゾは僅かに視線を落とした。斜陽の中小企業とはいえ経営者の立場から、浮浪者キャンプの住民へ。転げ落ちるような転身には思うところもあるのだろう。だが、すぐさま表情を引き締め顔を上げた。

 

「わかった。荷物他の準備はキヨミ=サンがやってくれ。私は当座の資金を手配する」「ハイ」「シンヤ=クンは現地との折衝を頼む。子供達のことも包み隠さず伝えてくれ。嘘が有れば追い出されかねん」「ハイ」企業経営者らしくコーゾはソバキリめいて小気味よく素早い指示を出す。

 

「資産の現金化を急がねばならんな」「IRCは避けてください。連中にはヤバイ級のハッカーがいます」シンヤの脳裏あるのは、ソウカイヤ最強の電脳ニンジャ「ダイダロス」。その恐るべきワザマエはネオサイタマ中を常時監視しながら、『ソウカイヤ』の名を口にする者すべて補足してみせる。

 

ダイダロスならば、シンヤたちのヨニゲ準備など過剰広告アドバルーンより簡単に発見するだろう。「そうだな、関係者に頼むか。時間との勝負だ、捨て値でも売れればよしとしよう」堅い顔でそう独り言ちるとコーゾは折衝へ向かおうと腰を浮かせたシンヤへと向き直った。

 

「折衝の後は子供達の説得を任せたぞ、シンヤ=クン」「え」コーゾはシンヤの肩を掴んだ。窓外の月に照らされ、逆光の中にシルエットだけが写る。コーゾの目が光った。「任 せ た ぞ」「アッハイ」シンヤは頷くしかなかった。

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

重金属雲に覆われたネオサイタマの空は、独房の天井めいて常に一様だ。朝と夕の違いは重金属雲の明度以外に存在しない。そして黒みが濃くなっただけの夕闇の下、対酸コート姿のシンヤは目深に静電防御帽子を被り、監視カメラに顔を見せないように小走りで駆けていた。

 

シンヤが路地を走る速度は人間のそれだ。ニンジャの移動速度でビルの谷間を飛び回る方が遥かに速い上、モータルの目に映らない。だが、ニンジャ補足用監視カメラには映る。だからシンヤは逸る気持ちを抑えて、家路を急ぐ一般市民を装っていた。

 

もどかしさを堪えながら群衆の合間をバイオウナギめいて滑らかにすり抜けるシンヤ。その懐には、ツル、カメ、バッファローといったオリガミ・メールが納められている。コンビニ雑貨店で購入した安紙製だが、気持ちを込めた別れの言葉が刻まれて、思いを込めて折られている。

 

オリガミメールをそれぞれの友達へと届ける事が、子供達がヨニゲを受け入れる条件だった。ヨニゲなんかしたくないと子供部屋に籠城して強情を張る子供達へ、キヨミが出した交換条件がこれだったのだ。それに加えてのシンヤとコーゾのダブルドゲザで子供達は扉を開いた。

 

その後は驚くほどにスムーズに話は進んだ。後々考えてみれば、NRSでニンジャ周りの記憶は失っているとはいえ、子供達も借金回収ヤクザがトモダチ園にやってきたことは記憶にある。そしてコーゾが踏みにじられる姿も、シンヤが殴られる姿も、キヨミが毒牙にかかりかける姿も、子供達は見ていた。

 

幼い子供達にもトモダチ園の終わりはたやすく想像できたのだ。子供達が見せたワガママは、住み慣れた我が家を失う現状に対する精一杯の抗議だったのかもしれない。そして、トミモト・ストリートの浮浪者キャンプとの折衝を終えたシンヤは、休憩を取ることなく、再びネオサイタマの夕闇へと駆けだした。

 

そして今、シンヤは子供達から託された全てのオリガミメールを配り終えていた。懐にあるのは自分用のオリガミメールだけ。それも四つの内、一つは既にオータ・コーバのゲンタロに手渡している。無断欠勤どころか就職の約束を破ってしまったシンヤを、ゲンタロは文句一つなく暖かく受け入れた。

 

「寧ろ良かったのかもな」湯気の立つコブチャをシンヤに手渡しながら、暗い笑みのゲンタロはそう呟いていた。オータ・コーバ唯一の取引先である大手企業が、低価格低品質のメタルコケシ製造会社へと依頼先を変更し、一方的に契約を打ち切ったのだ。専属契約を要求しておきながらなんたる仕打ちか!

 

これにより大幅に業績は悪化。新規取引先を探しだし倒産こそ免れたものの、新人を雇う余裕はどこにもなかった。「技術力があったってコーバは弱くて小さい。コーバ自身で生き残る方法を探さなきゃダメだ……」内定への礼と共に去る背中へ投げかけられた言葉は、まだシンヤの耳に響いている。

 

(((何処も誰も、辛いことばかりだ)))ユウジンは借金経営の末にヨニゲ、オータ・コーバは専属契約を取引先の都合で打ち切られて業績悪化。これから向かう先のデント・カラテドージョーも経営は厳しいと聞く。弱者を擦り潰してその血をすする暗黒メガコーポだけが、成長と勝利を味わうディストピア。

 

誰がこうしたのか? 否、誰がこれを止められなかったのか? 勝利者のために編纂されたネオサイタマの歴史書には一言たりとも答えは乗っていない。溜息を吐くシンヤの頭上が不意に陰る。『昨日も、今日も、明日もヨロシサン』『オムラはネオサイタマの安全を考えています』

 

欺瞞的なコマーシャルを垂れ流しながら、広告用マグロツェペリンがビルの谷間を泳いでいく。悪意が透けて見えるような販促マイコ音声から耳を塞ぐようにシンヤは目深に帽子を被り直すと、目的地であるカラテドージョーまでの道のりを急いだ。目的地まで近い。

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

ドージョーに着いてみれば、建物の照明は既に点灯していた。夕方のカラテ教室が始まる前を選んだのだが、熱意あふれるカラテ練習生がいるらしい。ならばとシンヤはドージョー事務所へと監視カメラの隙間を縫いながら移動する。誰が訓練しているのか知らないが、その間の事務所は手薄になるはず。

 

速度は抑えてあるから色付きの風とはいかないものの、シンヤは流れる色水めいた滑らかな動きで事務所を目指す。その耳に声が届いた。「イヤーッ!」「声が小さい! 体軸もブレている! カウントなし! あと47!」どちらも聞き覚えのある声だ。

 

窓からドージョーを覗いてみれば、汗だくでカラテパンチを虚空に振るう友人のヒノ。そして彼を叱咤するのは小柄なボンズヘッドのオールドセンセイだ。カラテ鍛錬前のウォームアップと言うには少々厳しすぎるノルマを、セイジは必死にこなしている。

 

思い出すべきだったか。シンヤは口中で小さく呟いた。シンヤとヒノは、カラテ教室後の時間にオールドセンセイより特別指導を賜っていた。そして、たまにだがカラテ教室前に指導を受けることもある。ちょうど今日がそれだったのだ。しかし、寧ろちょうど良かったのかもしれない。

 

シンヤは目的を改めて考え直す。なにせ今の目的は、別れのオリガミメールをお世話になった方々に渡すことだ。ドージョーで渡す相手は、ヤングセンセイ、オールドセンセイ、そしてヒノ。内二人が目の前にいる好機を逃す理由はない。ヤングセンセイにはどちらかから手渡してもらえればよい。

 

KNOCK! KNOCK! そこまで考えたシンヤは、窓を繰り返し叩いた。カラテパンチに集中していたヒノに気づく様子はないが、オールドセンセイはシンヤへと視線を向け、目を丸くした。小さく目礼するシンヤへ、オールドセンセイは通用口を指さす。入ってこいという意味合いだろう。

 

シンヤは頷いて通用口の扉を開いた。「オジャマシマス!」「ドーゾ」「シンヤ=サン!?」アイサツでようやく気づいたのか、汗だくのヒノが半ば呆然とシンヤを見つめている。シンヤはもう一度頭を下げた。「ドーモ、オジャマシマス!」「ド、ドーゾ。急に姿見せなくなってどうしたんだ!?」

 

慌てふためきながらアイサツを返しつつも、ヒノは事情を聞き出そうとする。それをシンヤは掌で制しながら、二人と等距離の位置で正座し、深々とオジギをした。「カラテトレーニング中のシツレイ、申し訳有りません」「構いません、事情があるのでしょう」オールドセンセイもシンヤに合わせて正座する。

 

「ハイ。まずドージョーをお休みしてスミマセン。そして……今後もドージョーに来ることはできません」「ナンデ!?」思わず声を上げたヒノを、今度はオールドセンセイが制する。表情を歪めて無言で正座するヒノ。「事情はお話しできますか?」「ハイ、少しなら。主に経済的理由です」

 

ヨニゲについては二人にも話せない。ましてやニンジャやソウカイヤなど話せるわけがない。なので単純な家計の悪化に聞こえる台詞しかシンヤは口にできなかった。「月謝ならば、ヤングセンセイにお話しできます」故にオールドセンセイは食い下がった。先はヒノだったが、今度はシンヤの目が丸くなる。オールドセンセイはそれ程までにシンヤを買っていたのだ。

 

だが、シンヤはその期待を裏切らなければならない。さもなければトモダチ園が致命的な危険にさらされる。このドージョーもアブナイだ。「イイエ、実家の方がもう……」詳細を話せないシンヤは、日本的に言葉を濁した。奥ゆかしく言葉の先を読みとったオールドセンセイは、目を閉じて静かに頷いた。

 

「今まで、アリガトゴザイマシタ!」今までの感謝を込めて、シンヤはドゲザに等しいほどに頭を下げた。デント・カラテがなければ、シンヤはフラグメント相手に生き延びることも、クレーシャから勝利を掴むこともできなかった。今ここにいられるのは間違いなく、このドージョーのお陰だった。

 

「デント・カラテは積み重ねです。ケイコを続けなさい。」先の長くない自分と共に失われると諦めていた本来のデント・カラテ。その純粋な後継者になると期待していた弟子と今、望まぬ別離を余儀なくされている。その悲しみと失望を飲み込んで、オールドセンセイは別れの言葉をかけた。

 

「ハイ。改めてアリガトゴザイマシタ。このご恩を忘れません」もう一度、シンヤは深いオジギをオールドセンセイに返し、ツルとカメのオリガミメールを差し出した。内容はほとんど口にしてしまったが、文字にした思いを手渡すことに意味がある。オールドセンセイは言葉なく受け取り、懐に納めた。

 

「ヒノ=サン。カナコ=サンを見送ってあげなさい」「ハイ」オールドセンセイも愛弟子を最後まで見送りたかっただろう。それでも奥ゆかしくも二人の友情のためあえて見送りをヒノに任せた。一礼して扉を出るシンヤの背を、悲しみを湛えた目でオールドセンセイは見つめていた。

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

「どうにか、ならないのか?」ドージョー入り口で立ち尽くしてた二人の沈黙は、ヒノの口からこぼれ出た言葉で破られた。「なるなら、なんとかしてるさ」溜息代わりの重い言葉でシンヤは返した。ソウカイヤと言うどうにもできないカイジュウ相手だからこそ、全部捨ててのヨニゲの算段をしているのだ。

 

「金ならある」ヒノの発した台詞にシンヤはその顔をマジマジと見つめる。その目に嘘はなかった。ヒノもまた濁した言葉の先を理解していたのだ。ドージョーで同じカマを囲い、共に砂を噛んだ間柄とはいえ、そこまで言うとは想像もしなかった。だが、せっかくの申し出に、シンヤは首を横に振って答えた。

 

「武装ヤクザが出張っている。向こうに死人も出た。もう金じゃどうにもならねぇ段階なんだ。それに、お前相手に縋り付くのはゴメンだ」「……そうか」『死人』の一言に表情を歪めたヒノは、たっぷり十秒は数えてようやく返事を返した。二人の間に重苦しい空気がのし掛かった。

 

だが、それを茶化すように、シンヤはひょうきんに笑ってみせる。「しっかし、こうもお前が気を使ってくれるとはな。これで女の子なら大喜びなんだが」辛い別れだからこそ、友達には笑って欲しいからだ。涙で終わるより、笑顔で仕舞いにしたい。心遣いを察したヒノも、歯を剥いて強い笑みを浮かべる。

 

「そういうのやめろ! 僕にその手の趣味はないぞ。そもそも人生が独り身のカワラマンに、女の子がどうこうできるのか?」ヤンクでもないのにマッポ出動レベルの暴力沙汰の経験が有るシンヤは、学校でもドージョーでもだいたい一人だ。だから女の子には当然モテない。全くモテない。

 

「確かに下半身カラテがオハコのカラテ王子ほどじゃあないな」シンヤはあえて作った下卑た笑いとともに肩を竦める。ヒノはドージョーの女子から大人気だ。整ったマスク、カラテの実績、育ちも良好。『カラテ女子夜の百人切り』『腰一突きで女教師から楽々一本』などなど、女がらみの噂は絶えない。

 

お互いに言ってはならない事を言った二人は、鏡写しにデント・カラテを構えた。「ナニッテンダーッ!」「フッザッケンナーッ!」ヤクザスラングめいた台詞と共に互いの拳が突き出され、中間位置で正面衝突する。軽い音と共に拳がぶつかり、その姿勢のままでしばしの時が流れる。

 

「「プッ」」シンヤとヒノは同じタイミングで吹き出した。ドージョーの看板前で二人は腹を抱えて笑い出す。相方の肩を気安く繰り返し叩き、笑い過ぎともう一つの理由で涙を滲ませる。本気で怒っていたわけでも、本気で殴り合いをするつもりでもない。単なるじゃれ合いだ、それも多分最後になる。

 

ひとしきり笑い終え、目尻の涙を拭ったシンヤは懐からバッファローのオリガミメールを取り出した。「これ、もってけ」「ああ」なにも言わずにヒノはオリガミメールを受け取った。何を書いてあるのだろう。

 

不意にシンヤとのドージョーの思い出がヒノの脳裏をよぎる。初めて敗北の苦渋を味わった、シンヤ相手の練習試合。意識を失うまでカラテパンチを打ち続けた、オールドセンセイとのケイコ。ただ一人『事情』を何も聞きもせずに、ただひたすら純粋にカラテを交わした唯一の友人。

 

わき上がるセンチメントを振り払うように、ヒノはシンヤへと悪ガキめいて笑う。「朗読しようか?」「そういうのやめろ!」最後にもう一度笑い合うと、シンヤは帽子をかぶった。これでお別れだ。改めてお互いを真っ直ぐ見た。そして、まるで当たり前のように拳を突きつけ合わせた。

 

「「ユウジョウ!」」自然と口から言葉は飛び出た。その言葉を使ったことはなかった。それでも同じものをお互いに感じていた。振り返ることなくシンヤは歩き出す。その背中を痛みを堪えるような表情で見つめるヒノ。不意にシンヤが片手を上げた。「ヒノ=サン、オタッシャデー!」

 

もう二度と会えないかもしれない。シンヤは、そう理解していた。だがそれでもあえて今生の別れを意味する『サヨナラ』ではなく、再会を約する『オタッシャ』を使った。ヒノの目に驚きの色が一瞬よぎる。だが次の瞬間、力強く笑うと友の背中に向けて声を投げた。「シンヤ=サン、オタッシャデー!」

 

夕闇に紛れ雑踏に消える背中から視線を外し、ヒノはドージョーへと一人戻る。その顔にはシンヤ相手には押し隠していた感傷もくっきりと浮かんでいた。「姉さんも、父さんも、母さんも、カワラマンまで……皆僕の前からいなくなるばっかりだ」言葉と共に押し殺していた、『事情』が脳裏に浮かび上がる。

 

幸せなカチグミ一家を唐突に襲った恐るべき邪悪。虫めいて軽々と殺される家族と、ただ一人生き残ってしまった自分。転がり込んだ莫大な遺産に、バイオアリめいてたかる周囲の人間たち。受け入れてくれたドージョーと、純粋にカラテを交わした友、そして邪悪を打ち倒した赤黒の影が僅かな救いだった。

 

その三つが無ければ、ニューロンに刻まれた邪悪の恐怖と味方無き孤独な現状によって、彼はとうの昔に発狂マニアックの仲間入りをしていただろう。だがその一つは今、その手からこぼれ落ちようとしている。僅かに残った救いの欠片に縋るように、彼……ヒノ・セイジは拳を強く強く握りしめていた。

 

【スピニング・メモリー・イントゥ・スレッド】終わり


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。