鉄火の銘   作:属物

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大変遅くなりました。まだ生きています。まだまだ生きていきます。


第三話【イグナイト・ミクスチャー・オブ・マッドネス・アンド・オブセッション】#1

【イグナイト・ミクスチャー・オブ・マッドネス・アンド・オブセッション】#1

 

「イヤーッ!」「グワーッ!」痛烈なカラテパンチは鼻っ柱を文字通りに叩き折った。顔を覆う手の中は溢れた血で鮮烈に赤い。目が覚めるほどの苦痛を堪え、あえぐような息でふらつきながら立ち上がる。目の前でザンシンを決めるのは平凡な体格と顔立ちの相手。

 

他と同じ安い雑魚を作業めいて殴って終わり。そう思っていた。だが、違った。イワシの顔をした殺人マグロがそこにいた。薄っぺらい書き割り共がざわつく中、敵意を帯びた両目が浮き上がるように光る。その姿が逆光に滲むシルエットと重なる。「ザッケンナコラ……ッ!」カンニンブクロに火が点いた。

 

鼻から流れる血を拭いもせず、鏡写しのデント・カラテを構える。爛々と光る両目が殺意に輝き、牙を剥くタイガーめいてそいつは笑った。『ブチノメス』と。鼻血を垂れ流す自分も、飢えた猛獣めいて喜々と微笑んだ。『ブッコロス』と。胸の内が紅蓮に燃えて、世界が相手と自分とカラテだけになる。

 

「「イィィヤァァァーーーッ!!」」腹の底で煮えたぎる熱がシャウトと共に噴き上がる。己の全てを賭けてもいい。お前にだけは負けてたまるか。言葉にならない言葉を叫び、全身全霊のカラテをぶつけ合う。それは真っ赤に色づいた青春の一幕。二度とは見れぬ昨日の夢。だから、今は……。

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

ズンズンツクツク! ズンズンツクツク! 「「「カンパーイ!」」」儚くも鮮烈な白昼夢から目覚めれば、”ヒノ・セイジ”の目の前は極彩色の灰色に溢れていた。耳障りでチープなスカムビートが割れ響き、アルコールに上気した同級生がバリキドリンクを並々注いだジョッキをぶつけ合う。

 

ここは退廃高校生と無軌道大学生御用達の脱法居酒屋『オゥ! ワライ』。上位スクールカーストに属するセイジはジョックやハニービーに促されるまま、本日の退廃パーティーに参加させられていた。名目が『インタハイ地区ダブル優勝を祝う会』なのだから優勝者であるセイジがいない訳にはいかない。

 

カタ・パフォーマンス部門とクミテ・ファイト部門両方の地区優勝を果たし、前代未聞の成果を出したセイジは今や時の人だ。学校の誇りと校長が誉め讃えて内申点はウナギライズに跳ね上がった。ジョックとハニービーが傅く程のソンケイを集め、下駄箱はいつもファンレターとラブレターに埋まっている。

 

だが、当のセイジは心ここに在らず。「ネェネェ、日刊コレワに特集組まれたってホント?」「……確かにコレワ特派員から僕への取材を受けたね」「「「ワー! スゴーイ!」」」スクールカーストに君臨するチアマイコ・ハニービーがしだれかかっても、冷たい愛想笑いを浮かべてケモソーダを舐めるばかり。

 

ジョックが夢見る女王の誘惑にも、冷え切った心は1mmも動きはしない。ベテラン・オイランめいた作り笑いに浮かぶのは、大皿に並んだ安いオツマミに向けるのと同じ醒めた目だ。無価値な連中と過ごす無駄な時間。ドージョーでカラテトレーニングしている方が億倍マシに思える。実際マシだろう。

 

主役の放つ寒色の視線に気づく者はなく、身勝手なプレップス達の道化芝居めいた宴は続く。「バリキ・ハイ、オカワリ! 沢山ね!」アルコールで真っ赤なジョックが店員に注文を取る。「アルコールは大人になってからです」「わかってまーす!」モージョーめいた注意をゲラゲラ笑って聞き流すジョック。

 

警告一言だけで事は済んだと店員がバリキ瓶と合成アルコールを持ってくる。年齢確認も当然なしだ。「バリキハイです」「待ってました!」瓶複数本の中身をジョッキにぶちまけ、赤ら顔のジョックは勢いよく立ち上がった。セイジは飛んできた液体を空中で撥ね除ける。視線の温度が更に下がった。

 

「イッキまーすっ!」「「「イッキ! イッキ! イッキ!」」」アルコールとバリキ成分の過剰摂取、更に一気飲みともなれば心臓停止も十二分にあり得る。だが彼らは気にもせずに囃し立て、気にも留めずに危険を冒す。明日のことも、昨日のことも頭にない。有るのは今一時の勢いと快楽だけだ。

 

「プハーハハッ! アーハハハッ!」「全部飲んじゃった!」「アブナイ! スゴイ!」急性中毒で鼻血を流しながら椅子に崩れ落ちるジョック。溢れる血に制服が真っ赤に染まるが、バリキと酒精漬けの脳味噌はそれすら痙攣めいた爆笑に変えてしまう。まともな大人なら即座に救急車を呼ぶだろう狂った光景だ。

 

だが、まともな大人などここにはいない。「アブナイですから、イッキは控えてください」「「「ハーイ!」」」店員は表面的な指摘だけで立ち去った。店員は客が中毒になろうがどうでもいい。彼らも店員の指摘などどうでもいい。脱法居酒屋は無関心なるマッポーの縮図そのものだ。何たる退廃的光景か! 

 

「「「ウェーィッ!」」」「……エーイ」空っぽの興奮と虚無的な熱狂が加速する。ただ一人取り残されたセイジは冷たい空虚を覚えていた。心臓を焦がしたあの熱は何処にもない。胸の中には冷え切った穴が空いている。インタハイのカラテ試合は僅かに穴を埋めたが、退廃パーティがもう一度抉ってくれた。

 

「ネェ、セイジ=サン。この後、どこ行く? カラオケ行っちゃう? それとも……ホ・テ・ル?」「家に帰る」学校の頂点が媚びる声を聞き流して数枚の万札を投げた。足りるだろうか。いや、どうでもいい。「ちょっ、ちょっと」「オタッシャデー」呼び止めるハニービーを無視してバックを掴み店を出た。

 

「「「マイド!」」」アキナイ・モージョーをBGMに戸を閉めると、寒風に乗って冷たい重金属酸性雨が吹き付ける。安アルコールの熱量もバリキドリンクの熱狂もなしで耐えるには辛い寒さだ。道ばたの低賃金日雇い労働者もチャンポン・カクテルを煽って寿命を代価に寒空を堪えている。

 

だがセイジはどちらも飲まなかった。『芯となるセイシンテキがなければ、人は簡単に快楽に呑まれます』今は亡きオールド・センセイにそう教えられたからだ。センセイのインストラクションはがらんどうな心にもまだ響いている。だがそれは凍えるような日常に塗り潰され、今にも消え失せようとしていた。

 

酷く寒い。身も心も冷え切っている。暖かいのは財布の中身くらいだ。だが死んだ両親の遺産でホットな懐は、降りしきる氷雨より冷たく感じた。かつて胸を満たしていた何もかもが温度を失い消え失せていく。残るのは冷たい虚無ばかり。熱の残滓を求めてセイジはバックからオリガミメールを取り出した。

 

幾度と無く解いては折り畳んだ安いオリガミ紙は、痛みきった折り目が今にも千切れそうだ。セイジはバッファローを象ったオリガミを丁寧に慎重に解いていく。『ヒノ・セイジ=サンへ』文章を書き慣れていないのがよくわかる一文目。この呼びかけを一体何度読み直したのだろうか。

 

大事なそれを濡らさぬよう庇の下に潜り込み、落書きにまみれたシャッターに背を預ける。拙い文章を指先でなぞり読むと、耳の奥でアイツの声が聞こえるようだ。『……お前は勉強(特に夜の)が得意だからセンタ試験の心配はしてないが……』成績を聞くとアイツはいつも視線と話題を逸らしていたな。

 

喉の奥で笑いながらセイジは文字を読み進める。『……今までの試合を換算すると78勝75敗。悪いがこのまま勝ち逃げさせて貰う……』不機嫌な鼻息が漏れた。200を超える引き分けを統計から外している。勝率で言えば差はない。それに最後周りの勝率は自分が上回っていた。実際、自分の方が強い。

 

最後になった試合だってポイントは自分が勝っていたのだ。最後の最後でアイツの生意気なクロスカウンターをかわし損ねただけだ。その試合はそれでイポンを取られてしまったが、次が有れば今度は自分がクロスカウンターでシロボシを奪ってやった筈だ。そう、次が有れば。

 

だが、次は無い。もう無いのだ。全身を包んでいた熱が霧散していく。セイジは力なく腰を落とした。思い出はいつも熱くて暖かい。しかしそれは決して戻れぬ昨日の記憶。過去の温もりはより一層、現実の冷たさを際だたせた。かじかむ指先で冷え切ったオリガミメールを丁寧に慎重に折り直す。

 

赤黒に染めたジューウェアと亡き師から賜ったブラックベルトの下にオリガミメールを差し戻す。「なぁ、カワラマン。お前、今どうしてるんだ?」アイツは……カナコ・シンヤはもういない。唯一無二の友へと呼びかける声は自分の耳にすら届かなかった。全ては降りしきる重金属酸性雨の音に溶けて消えた。

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

重金属酸性雨の湿り気が忍び込む安アパートの片隅。故障気味のブラウン管は雲と同じ色の砂嵐を映していた。顔をしかめた中年労働者は壊れかけのCRTへと平手打ちで調整を試みる。SPANK! SPANK! 不意に画面が意味のある像を結んだ。ゴーストに霞む鎧武者がカタナを掲げて見栄を切る。

 

『わ、私には弁護士のセンセイがついているんだぞ!』『例え法が裁かなくとも”カブト・ザ・ジャッジ”は悪を裁くぜ!』「裁」の前立てを光らせて、ノイズに歪む武士は悪漢めがけカタナを振るった。『セイバイ!』『アバーッ!』決め台詞と共にゴアな血飛沫が飛び散る。

 

『お嬢さん、もうダイジョブだぜ』『あなたは一体……?』『時代遅れの野武士さ。オタッシャデー』背中に庇った少女を振り返る事もなく、ニヒルな笑みと死体を残してサムライは路地裏の闇に消えた。数日後、甲冑姿の影を探して町をさまよう少女。「裁」の前立てを鞄に隠した少年が横を通り過ぎる。

 

『人知れず人々を守る亡霊武者、カブト・ザ・ジャッジ! 町を侵す邪悪は彼が裁く!』力強く決断的なナレーションがお決まりの文句で本日の放送を締めた。『カブトソーセージ新発売! これを食べて君もヒーローだ! カブトシールが入ってるぞ!』余韻も冷めやらぬ内に商魂逞しいコラボCMが画面を占める。

 

『突然に町を襲った連続惨殺事件。期末テストも近いってのに悪党の種は尽きないぜ!』中年労働者は安アルコールを煽り、白痴めいて次回予告を眺めている。「アレーッ! オタスケ!」裏路地に甲高い悲鳴が響いた。合成酒の酩酊に浸かった彼は表情を歪ませて音量を上げる。チャメシ・インシデントだ。

 

『次回「ツジギリストの危険なテスト」来週も! 俺が! 裁くぜ!』画面の中のヒーローは邪悪を討って正義を叫ぶ。「誰か! オタスケ! 「ルッセーゾコラーッ!」ンアーッ!」だが画面の外で邪悪に立ち向かい、正義を成そうとする者はいない。

 

「アッコラーッ!? アンダコラーッ!? スッゾコラーッ!?」「アィェーッ! 見てません! スミマセン!」通りかかったサラリマンは被害者から目を逸らして足早に路地を離れ、中年労働者は悲鳴から耳を塞いでTV番組に耽溺する。ヨタモノに締め上げられて最期を迎えつつある女性を救う者はいない。

 

弱者に優しくなければ生きている価値は無いとフィクションは謳う。だが、悪徳のメガロポリスでは弱者に無関心でなければ生きてはいけない。真っ当な人間ほど心を閉ざす、退廃都市ネオサイタマ。誰もが目を逸らし、耳を塞ぎ、口を閉じて生きている。

 

ならばここでは、義憤に駆られて非道に立ち向かう人間こそが狂人と呼ばれるのだろう。「イヤーッ!」「グワーッ!」ヨタモノを殴り飛ばした彼も狂人に違いない。確かにその外観一つだけでも10人中11人が発狂マニアックと太鼓判を捺すのは確実だ。

 

赤黒に染め上げたニンジャ装束風ジューウェアをまとい、DIYバイオバンブー製ブレーサーで両腕を固める。そして、顔を隠すメンポめいた鋼鉄製ホッケーマスクには、紅蓮でペイントされた恐ろしげな「忍」「殺」の二文字! 

 

それはストリートの闇から現れ出た犠牲者たちの怨霊か。或いは素破恐怖症(シノビフォビア)の脳髄から溢れ出た悪夢か。その姿はあからさまに……ニンジャだったのだ! 「アッ、アッ、アレェーッ!」襲いかかったヨタモノの暴力と、遺伝子に刻まれたニンジャの姿。二段重ねの恐怖で被害者女性は我を忘れて絶叫!

 

「ダッテメッコラーッ!?」ヨタモノもまたニンジャの恐怖を無意識に覚えるも、ZBRの陶酔が興奮と憤怒にすり替えた。突きつけた殺人改造グラインダーが金切り声を立てて回り出す。強面、ヤクザスラング、邪悪な『犬』タトゥー、殺人用研削機の合わせ技イポンで、一般市民が失禁する迫力だ。

 

だが、目の前にいるのは一般人などではない。狂人なのだ! 「ドーモ! 『俺』はニンジャスレイヤーです!」脅え混じりの誰何の声に慇懃無礼なアイサツが返された。正義漢気取りの狂人がバカ丁寧に深いオジギから顔を上げる。赤黒の頭巾の中で理想像(ヒーロー)との一体感に濁った目が嗤っていた。

 

「ナ、ナンダッテメッオラーッ!」気圧されたスキンヘッドのヨタモノは、恐怖を誤魔化すように人肉を削る砥石を振りかざした。殺人機械が弧を描いて襲い来る! それをカラテパンチが一直線に返り討つ! 「イヤーッ!」「グワーッ!?」正気と思えぬ外観に反して確かなカラテに満ちた一撃だ。

 

強かに顔面を殴り飛ばされたヨタモノの視界と脳裏が漂白された。手からこぼれ落ちたグラインダーがアスファルトを削って火花を上げる。火の粉に照らされる赤黒い狂人は暴力の恍惚に震え、堅く堅く拳を構える。「イヤーッ!」「グワーッ!」『犬』入れ墨を重いカラテパンチが打ち据える! 

 

仰け反るヨタモノは突き飛ばされたように倒れ込んだ。「悪党め! どうだ! どんな気分だ!」決断的に弾道跳躍で飛びかかった狂人がマウントを奪う! 「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」馬乗りからの容赦なきパウンド連打! 勝負あったか!?

 

「外道に慈悲はな「コンニャロメ!」グワーッ!?」圧倒的優勢だった狂人が見えない鞭に打たれたが如く仰け反った。違法電圧の衝撃が走り、異常緊張した筋肉に骨が軋む! ヨタモノが隠し持ったスタン・エメイシで狂人の神経を打ち据えたのだ! 薬物中毒者の耐久力を見誤ったか! ウカツ!

 

仰け反る狂人は突き飛ばされたように倒れ込んだ。「ダッコラーッ! スッゾオラーッ! シネッコラーッ!」即座に飛びかかったヨタモノがマウントを奪う! 「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」馬乗りからの容赦なきパウンド連打! 勝負あったか!?

 

「チャースイテッコ「イヤーッ!」アバーッ!?」圧倒的優勢だったヨタモノが見えないハンマーで殴りつけられたが如くに仰け反った。尿と血の混合物がズボンを染めて、至上の苦痛に全身が痙攣する! 狂人の手がヨタモノの股間を握り潰したのだ! 狂人の妄執を見誤ったか! ウカツ!

 

「アバーッ!? アバーッ! アババーッ!!」ヨタモノは苦痛のあまり反撃どころか抵抗を考えることすらできない。男が体験しうる最大最強の激痛に、水揚げマグロめいてのたうち回るばかりだ。そして釣り上げられたマグロは撲殺バットでシメられるものである。曇天めがけて突き上げられた拳がその代理だ。

 

「イヤーッ!」「アバーッ!」慈悲深きカワラ割りパンチがヨタモノの意識を叩き出して最低最悪の苦痛から解放した。痙攣するヨタモノは股間由来の汚らしい水溜まりに沈む。狂人は崩れ落ちるように腰を落とした。息するだけで苦しい。無理矢理深呼吸を繰り返して荒れた息を整える。

 

屎尿と生ゴミと血と、そして重金属酸性雨。悪臭のカクテルがメンポめいたマスクを越えて肺の底まで染み入るようだ。勝利の高揚感はなく、まだ残る電撃の痺れと殴られた頬の痛みがブザマを浮き立たせる。情けない、実際情けない。彼は粘ついた汗の不快感と、自分のふがいなさを振り払うように首を振る。

 

不意に思い出したように彼は振り返った。視線は被害者女性がいた場所を指す。そもそも彼女を助けに殴り込みをかけたのだった。そこには当然のように誰もいない。狂人と悪党のケンカに恐れをなして逃げたのだ。礼も言わず、人も呼ばずに。「ザッケンナ……」奥歯が軋む音を立てた。

 

TVに映るヒーローならば、人の持つ弱さを責めはしないだろう。あるいは思い描く理想像(ヒーロー)ならば、気にも留めずに次の悪を討つだろう。「フッ……ザッケンナコラーッ!」しかし罵りの声を吐き捨てる彼はそのどちらでもなかった。

 

「ブッダミット! ブッダファック! ブッダアスホール!」彼は思いつく限りの言葉で有らん限りの悪態をまき散らす。それは何も言わずに逃げた被害者へ投げつける罵倒であり、当然のように犯罪を犯すヨタモノへ叩きつける罵声であり、それらを放り出して省みぬディストピア社会へ突きつける罵言であった。

 

「ブッダム! ブッダ」そしてなにより、ベイビーサブミッションな筈のヨタモノ退治すら完遂できない、己の弱さに対する自己嫌悪の声でもあった。「バカ……バカハドッチダ……」あの日からどれだけ時が経ったのか。未だに理想像(ヒーロー)は現れない。蔓延る悪を倒してもくれない。

 

だから『僕』がやるしかない。だから『俺』になるしかない。なのにこのザマは、ブザマはなんだ。どこが理想像(ヒーロー)だ、どこがニンジャスレイヤーだ。「クソ……ズズッ……ボーシッ」メンポめいたマスクを外し、涙が滲んだ両目を擦る。

 

仮面の下の”ヒノ・セイジ”は酷い様だった。ケンカの痕に汚れきり、情けなさと悔しさに歪んだ酷い顔。カチグミらしい黒褐色の肌にはドブ色の汚濁がぶちまけられている。整った顔立ちは恥辱と無念に歪みきり、今にも臍を噛んでセプクしかねないほどだ。

 

「ファック……ヒッグ……チック、ショウ」重金属酸性雨が目に染みて、惨めな有様が心に染みて、擦っても擦っても溢れる涙は止まらない。こぼれ続けるる涙が顔を更に汚して、表情を更に歪ませる。こぼれ落ちる滴が腰のブラックベルトにまだらの染みを作る。

 

更に滴った液体から反射的にベルトを庇った。オールド・センセイの拳を継ぐ許可証。公害病で骨と皮になった手から渡されたカイデンの証だ。最期のインストラクションと共に受け取った漆黒のベルト。それは決して汚してはならないモノだ。

 

(((無意味な徒労ゴクロサンだね)))それを嗤う声が腹の底から聞こえた。足下の水面に映る影が落ちる涙で歪む。波紋に歪んだ顔が自分を嘲笑っている。(((腐った悪党の血で、ドブ臭い泥水で、大事なブラックベルトを汚してきたのはお前じゃないか? 今更センセイ思いを気取るのかい?)))

 

「黙れ! 黙れ! 黙れ! 俺は正しい事をしているんだ!」水鏡に映る自分めがけて怒鳴り散らす。空に唾吐くより早く暴言は返ってきた。「俺は間違ってない! 俺は間違ってなんかいない! 『俺』は、間違って……『僕』は……」怒声は瞬く間に力を失った。

 

セイジには判っていた。家族なら叱り、友達なら殴り、センセイなら諭すだろう自分の行いを理解していた。それでもセイジはニンジャスレイヤー・セッションにのめり込んだ。縋りつけるモノは、もう理想像(ヒーロー)しかなかったのだ。

 

家族はもういない。殺された。友達はもういない。別れた。センセイはもういない。死んだ。喪ったモノの残り香を汚さぬよう、セイジは全身でブラックベルトを庇う。身を丸めるその姿は散々にイジメリンチを受けてムラハチされた幼子めいていた。

 

「ヒッ……ヒグッ……ズズッ」降りしきる重金属酸性雨の中で、迷子の子供が独りぼっちで泣いていた。ヒーローごっこも上手くできずに、うずくまって泣いていた。

 

【イグナイト・ミクスチャー・オブ・マッドネス・アンド・オブセッション】#1終わり。#2に続く。


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