鉄火の銘   作:属物

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第四話【カタナ・フォーリン・トゥ・アビス】#3

【カタナ・フォーリン・トゥ・アビス】#3

 

「机と椅子と……あと何か持っていくモノありましたか?」「それだけだ。書類は鞄に入ってる」フェデラル事務所は経営規模に対して分不相応なまでに大きい。元々は経営規模相応にする予定だったのだが、各コーバが個々の事務室を要求した結果、事務所サイズが肥大化を重ねて今の大きさとなったのだ。

 

実際、そのせいでフェデラルとしての事務機能は分散・縮小しており、面接一つの為に倉庫を片づけて机と椅子を持ってくる必要があった。なお、各コーバ事務室には応接スペースが併設されている。『軍師が増えると内乱が増える』椅子と机を抱えるシンヤも武田信玄の格言を思い出さずに入られない。

 

『結合した超合金』『組み合わされば巨大』『他力本願』無数の標語ポスターでも覆いきれずに、壁からは寒々しいコンクリ地肌が覗いている。ゲンタロ等が発案し、実現し、勤務するコーバフェデラル。その理念にはシンヤも応援しているが、その未来には窓の外と同じ暗雲が立ちこめているように思えた。

 

だが、それを考えるのは今のシンヤの仕事ではない。「マガネ=サンの孫自慢で拘束された分を残業代に乗せてもらえません?」「契約分しか払えないからカンベンな」今の仕事は、マガネ・クロイのフェデラル所属契約の立ち会いである。ゲンタロとの二度目の面談でマガネは契約の話を了解したのだ。

 

「でもマガネ=サンから随分と高評価だったぞ?」「カタナ目利きとメタルコケシで高評価だといいんですけどね」孫自慢に付き合った分の評価というのはカンベン被りたい。無駄話を続けながらも二人は手早く仕事を果たしていく立て、椅子を整え、書類を並べる。

 

イヨーォッ! そうこうしているうちに準備も終わり、壁のカブキ時計が正時を告げた。予定の時間だ。「「ドーモ、オジャマシマス」」「「ドーモ、ラッシャイマセ」」シンヤとゲンタロの二人は椅子から立ち上がると入室した『二人』に深くオジギした。二人? そう二人だ。マガネと、誰だろうか?

 

一人で来ると聞いていたゲンタロは首を傾げて尋ねる。「そちらの方は?」「コーバの人じゃないのか?」だが振り返ったマガネも驚愕と困惑の表情をしていた。思わず顔を見合わせる二人。ただ一人、僅かに腰を浮かせたシンヤだけが凍える視線で灰色スーツの不審者を見つめる。

 

視線の先でその男は慇懃無礼、かつ冷酷非情のアイサツを告げた。「ドーモ、皆さん初めまして。今日はマガネ=サンの契約妨害に来ました。関係者以外はこの世からご退出ください」オジギと共に差し出す名刺にはこうあった。『ハケン・ヘゲモニー社雇用エージェント”デッドライン”』

 

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深いオジギから上げた顔を覆うのは灰色のメンポ……つまりはニンジャだ! それを目にしたゲンタロとマガネがNRSを発症するより早く、黒錆色を纏ったシンヤは立ち上がった。「ドーモ、デッドライン=サン。ブラックスミスです。質問が二三有りますので断末魔の前にお答えください」

 

「「ニンジャ、ナンデ!?」」不審者がニンジャで知り合いもニンジャ!? NRSに腰を抜かす二人だがデッドラインもまた同様の驚愕に襲われていた。「零細ミリコーポに企業ニンジャだと!?」「ああ、そうだ」ガントレットに覆われた両掌を開き、ブラックスミスは赤銅色の拳をデント・カラテに構える。

 

「所属はしてないが仕事は請けてる。仕事のオジャマだ。冥福お祈りメールをくれてやるから、この世からご退出願おうか」「ぬかせ! イヤーッ!」「イヤーッ!」アイサツ直後に放たれたスリケンが火花と共に対消滅! 「グワーッ!?」同時に上がる悲鳴! デッドラインの両膝にスリケンが生えている!

 

デッドラインがスリケン一枚を投げる間に、ブラックスミスはストレート・チェンジアップ・スライダー軌道の異形スリケン三枚を投擲していたのだ! ワザマエ! 「イヤーッ!」更に自身を砲弾として飛びかかるブラックスミス! 膝蓋腱断裂済みの両膝では弾道跳びカラテパンチを受け止め切れぬ!

 

「イヤーッ!」デッドラインは恐怖のままにバックフリップを試みる。だがそれは悪手! 「ナニィーッ!?」壁が近い! 後頭部衝突でタイドー・バックフリップは不可能だ! そしてそのために浪費した0コンマはイクサに於いて致命的な一瞬だった。「グワーッ!」全体重を乗せた右拳が顔面を強かに打った!

 

「グワーッ!」拳と壁の間で頭蓋がバウンドし、デッドラインの意識が遠のく。「グワーッ!?」遠のく意識は殺人マグロ一本釣りめいて激痛で引き戻された。両肘をクナイ・パイルがピン留めしている! 「グワーッ!?」両膝もだ! 「ヌゥーッ!」昆虫標本めいて壁に縫い止められたデッドラインは足掻く。

 

だが、その動きは止まった。ブラックスミスがトドメのピンを打つべく拳を振り絞ったからだ。「ま、待て! ブラックスミス=サン! 俺はニンジャサラリマンだ! お前達に恨みはない!」タナカメイジンでも投了せざるを得ない完全なるオーテ・ツミにデッドラインは時間稼ぎの交渉に移る。

 

「交渉は十分可能「イヤーッ!」グワーッ!」だがブラックスミスは聞く耳持たずだ! 「交渉すると言って「イヤーッ!」グワーッ!」デッドラインが何か言う度に拳が顔面にめり込む! 「話を聞「イヤーッ!」グワーッ!」「このイディオ「イヤーッ!」グワーッ!」「直ぐに助け「イヤーッ!」グワーッ!」

 

「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」ブラックスミスのパウントは実に丁寧だった。死なぬよう、かつ再起不能になるよう、BBQ前のステーキ肉めいて筋がなくなるまでじっくりとデッドラインを叩きのめした。

 

「ヤメ、テ……モ、ウ……ヤ、メテ……」涙と鼻水と血と肉の混合物を垂れ流して命乞いする様に、ようやくブラックスミスは耳を傾けた。「じゃあインタビューの時間だ。貴様がここに来た背景、依頼者。それと助けとやらについて全て話せ」「話す、話します、話しますから……」

 

「さっさと話せ」「ハイ」心折れたデッドラインは全てを喋った。業務上の秘密を喋ればハケンヘゲモニー社則により、人事部ニンジャの手で物理的にクビとなる。だが今死ぬか後で死ぬかならば後回しにした方がマシだった。恐怖と絶望は彼の舌をじつに滑らかに回した。

 

「……だいたいこんなところです」「だいたい判った。フェデラル内の派閥抗争とはな」背景は思いの外単純なモノだった。オータ・コーバと敵対するスミダ・コーバは、得体の知れない暗黒派遣企業ハケン・ヘゲモニーより傭兵ニンジャを借り受け、マガネ・クロイとの契約物理妨害という凶行に走ったのだ。

 

「シンヤ=サンが襲われたと聞いていたが、ニンジャが出てくるなんて……」コーバ同士のフェデラル主導権争いに端を発し、加熱した一流技術者の奪い合いが、ついには敵対派閥所属技術者への直接攻撃に至った。ブッダも目を覆うだろう社員達の愚かしさに、ゲンタロはただ項垂れることしかできない。

 

零細コーバ救済を願いフェデラル構想を発案した彼の失望と悲嘆は想像できぬ程だ。ゲンタロへの同情の視線を引き戻し、ブラックスミスはデッドラインの首を更に締め上げた。聞くことはまだある。「それで、助けとは?」「そうだ! ”コレクター”=サンはナンデ助けに来ないんだ! またカタナ探しか!」

 

何かがブラックスミスのニンジャ第六感を刺激した。「カタナ探し?」「そうだ! 手練れのくせにいつもいつも依頼よりカタナ強盗にばかりヤルキ出して! 今回だって刀匠相手の依頼だから強盗にでも行ってる「イヤーッ!」アバーッ!?」赤銅色の拳が頭蓋を砕く! デッドラインは死んだ。「サヨナラ!」

 

爆発四散の確認より先にブラックスミスはマガネへと問いかける。「マガネ=サン! スタジオには今誰が!?」「む、娘夫婦に留守番を頼んで……たぶん、アオイもそこに……」脳裏に走る最悪の想像に、マガネの顔は青ざめるを通り越して土気色をしていた。

 

「先に行きます! イヤーッ!」即座に窓から飛び出したブラックスミスは記憶の地図を辿り、黒錆色の風と化して駆ける。だが、ニンジャの全速力であろうと幸運の可能性は余りに小さかった。

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

マガネとゲンタロが到着したとき、既にスタジオは青シートと虎模様テープ、そして人だかりに覆われていた。「迂回しなさい」「ここは危ない」「離れて」現場を警備するマッポ達から注意の声が響くが、群衆は薄汚い好奇心のままに集り続ける。「コワイネー」「死体見れる?」「人殺しだよ!」

 

野次馬をかき分け、警備の手を振りほどき、血相を変えたマガネは変わり果てた我が家へと入ろうとした。「入らないで!」「ワシは家主じゃ! 入れとくれ! 入れて…………おお、ブッダ……」入る必要はなかった。青シートで覆われた固まりは全て玄関前に置かれていた。大が二つ、小が一つ。家族と同じ数。

 

「マガネ=サン!」力なく崩れ落ちるマガネをシンヤは咄嗟に支えた。先んじて目にしていたとはいえ余りにも惨い。「目的は?」「カタナです。全て持ち去られています」表情を歪めるシンヤの耳に鑑識マッポとデッカーの声が届いた。「ハック&スラッシュか」「恐らくは発狂マニックかと」

 

「両親の傷はアキレス腱を除けばトドメだけ。キレイな切り口でした。イアイド二十段以上のワザマエです。なのに子供には……致命傷がありませんでした」宴曲的な表現だが、鑑識マッポの苦い表情は答えを告げていた。アオイは、なぶり殺しにされたのだ。それも両親の目の前で行われたに違いない。

 

でなければ両親のアキレス腱を切る必要もない。カタナの在処のために、動けぬ両親は目前で我が子のジゴクを見せつけられたのだ。そして用済みに惨殺された両親の死体の側で、幼いアオイは苦しみ抜いて短い生涯を終えた。ALAS! ブッダよ! 願わくば一時でも目を覚まし、彼らの魂に慈悲を与えたまえ!

 

「家主のマガネ=サンですね。ご家族のご冥福を謹んでお祈りします。私たちは必ず犯人を捕らえます。なのでお話を聞かせていただけますか? ……マガネ=サン?」心配の顔をしたデッカーの言葉に返答はなかった。大きな固まりの前で膝を突いたマガネは、言葉もなく小さな固まりを抱いていた。

 

かつて未来そのものであった、今は過去形でしか語れない、両手に収まる程の小さな固まり。それを抱いたままマガネは呆然と呟いていた。「アオイはな……ワシの作ったカタナが大好きでな……オジイチャンの跡を継ぐって言ってくれたんだ……アオイがな……七代目になりたいって、ワシに……言って……」

 

「マガネ=サン……」かつて辟易しながら聞いた言葉が、今は余りに空しく響く。「シンヤ=サン」マガネが不意に顔を上げた。その顔にはいっさいの感情はない。全て憤怒と憎悪、絶望と悲嘆の前に燃え尽きた。「オヌシは派遣社員だったな」「ハイ、コネコムから派遣されています」

 

マガネは涙すら乾ききった目でシンヤへ問いかける。「御社では復讐の代行も請け負っておるか」「ハイ」マガネはシンヤ……ブラックスミスのカラテを目の当たりにした。デッドラインを容易く殴り殺したカラテならば犯忍のコレクターにも届く。「三日後にカタナを取りに来てくれ。必ず渡す」「ハイ」

 

「全財産を渡しても構わん。それでアダウチを、娘夫婦とアオイの仇を取ってくれ。この子を苦しめて殺した犯人の首を取っておくれ。どうか、どうかオネガイシマス、どうか……!」きつく遺骸を抱きしめて深く深く頭を下げるマガネ。シンヤはゆっくりと頷いた。

 

【鉄火の銘】

 

【鉄火の銘】

 

「ハイ……ハイ……話はまとまったと。では、情報は……それなら問題有りません……アリガトゴザイマス。オタッシャデー」コネコムからの電話を終え、シンヤはため息で一息ついた。コネコムとハケン・ヘゲモニーの交渉は滞りなく終わったようだ。これで問題の一つは解決した。

 

残る問題は自分のカラテとマガネ=サンのカタナだ。自身が積み上げた鍛錬と経験、そして刀匠マガネ=クロイの覚悟と技術。どちらも信じるほかにはない。他に何もできない。「歯がゆいな」焦ってもヘイキンテキを失って危険を増すだけと判っている。しかし待つ時間は想像上の敵影を膨らませるばかりだ。

 

「カラテでもしておくか」誰ともなしに呟いてシンヤは庭へと向かった。その輪郭が霞むと黒錆色の普段着はジューウェアへと形を変える。庭先に出てみれば今日の重金属酸性雨は少々強めだった。追加で作ったパーカーを被って、デントカラテを一つ一つ構える。拳の握り、足の位置、体軸の角度、腰の高さ。

 

「イヤーッ!」超高速度カメラのスロー再生めいた動きで空間へとカラテパンチを放つ。握りが堅い。もう一度。「イヤーッ!」拳から雨だれが滴り落ちる。前のめり過ぎた。もう一度。「イヤーッ!」全身のリズムが合った。この調子。ギアを一つ上げる。

 

繰り返し繰り返しカラテパンチを虚空へ突き出す。基礎訓練が必須なモータルのカラテマンなら当然の、反復練習が不必要なニンジャのカラテ戦士にしては異様な鍛錬風景。シンヤにとってこれは鍛錬であって鍛錬ではない。肉体とカラテ、そして精神のチューンナップなのだ。

 

「イヤーッ!」一打ごとに雑念が吹き飛ぶ。勇み足だ。もう一度。「イヤーッ!」打ち出す拳が精神を鍛造する。腰が浮いた。もう一度。「イヤーッ!」世界が純化されていく。全身が一致した。さらにギアを上げる。「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」全ての歯車が噛み合う感覚。維持しろ。そして加速。

 

「イィィィ……!」そして最高の一撃を今、放つ! 「……ヤァ「シン兄ちゃん、今いい?」……………………どうした、ウキチ?」最高のタイミングで投げられた声は、ある種完璧にシンヤの歯車をかき乱した。急停止させた全身が玉突き事故を起こしている。0ー100ー0の訓練も今後必要かもしれない。

 

演算中に電源コードを抜かれたUNIXめいた兄の心境などいざ知らずにウキチは問いかける。「ちょっと話したいことあってさ」いや、ウキチもまた兄の内心を慮れる心境でないのかもしれない。常の子供子供した顔ではない、痛みを堪えるような表情が物語っている。シンヤは縁側に隣り合って腰を下ろす。

 

「ねぇ、シン兄ちゃんはアオイのこと覚えてる?」「ああ、マガネ=サンとこのお孫さんだな」その復讐のためにカラテを整えていた所なのだ。「今日さ、アオイのお葬式に行ってきたんだ」葬式は工房に籠もるマガネの代わりにコネコムの人員が手配した。フェデラルからゲンタロも出席している。

 

「アオイも、アオイの父ちゃん母ちゃんも、ヨタモノに襲われて死んだんだって」ウキチ自身もまるで実感が持てていないのだろう。「正直、明日学校いったらさ。いつもみたくアオイが居て『オハヨ!』ってアイサツするんじゃないかって、気がしてる」ウキチの声はどこか上滑りしているように聞こえた。

 

「キャンプの時もそうだったんだ。昨日まで居たのに、みんな死んじゃって。でもまだ、また明日会えるような気がしてた」一番多く、親しい人間達の死を経験した記憶。ヨタモノの大軍勢と後ろで糸を引くニンジャ達に襲われて多くを失った。勉強を教えてくれた元塾講師、古い遊びを教わった保育士崩れ。

 

そして、浮浪者キャンプの皆を守るために、ニンジャ”インターラプター”と相打ちになって死んだヨージンボ”サカキ・ワタナベ”。「でも、もう死んだんだよね、もう会えないんだよね?」「ああ、そうだ」もし彼が居てくれたなら。そう思うことはある。だが、彼はいない。もう、どこにもいないのだ。

 

長い空白の時間。雨音だけが響く。「……ナンデ?」ウキチは理解していた。「ナンデだよ!? ナンデ、アオイが死ぬんだよ!?」だが、受け入れられなかった。「アイツ、悪いことしてないのに! いいやつだったのに! トモダチだったのに……」唐突な友達の死は余りに理不尽でブルタルに過ぎた。

 

ビー玉めいたまん丸の目から溢れた涙がこぼれ落ちる。拭っても拭っても止められやしない。「お葬式で、ヒッ! 聞いたんだ、ヒック! マガネ=サンがアダウチ、ズズッ! 依頼するんだって。それさ、ヒッ、ヒッ! シン兄ちゃんがやるの? ズッ!」「ああ」涙で滲んだ目でも判るように大きく頷いた。

 

「じゃあ、ヒッ、ヒッ! 俺からも依頼する! ヒック! アオイを殺したワルモノをやっつけてよ! そんな奴が笑って、ズッ! 生きてるなんて、ズズッ! 俺イヤだよ! そんなのヒドイよ! ヒック! アオイが可哀想じゃんか!!」死者はもう帰らない。判ってる。死んだら取り返しはつかない。知っている。

 

「小遣い全部、全部出すから! 足りないならこれからの小遣いも出すから! だからシン兄ちゃん、オネガイシマス……!」でも、せめて、この理不尽だけは、不条理だけは許さない。キャンプと同じく納得できる終わりであるよう、もう居ない友に冥福があるよう、ウキチはありったけの小遣いを差し出した。

 

差し出した手ごとシンヤは両手で受け止めた。「承った」「え?」「了解したってことだよ」できるだけ優しく微笑む。自分の無駄に怖い目つきがこう言うときは恨めしい。少しでも家族に安心してほしいのに、心易く居てほしいのに。「シン兄ちゃん……アリガト、オネガイ」それでも思いは伝わった。

 

「ああ、任せろ」弟をきつく抱きしめる。肩にうずめた顔から涙と洟の冷たい感触が広がる。それが温くなるまでシンヤはウキチを抱きしめ続けた。「シンちゃん、ちょっといいかしら」「ウキチの話?」「うん」ウキチが部屋に帰ると入れ替わりにキヨミが姿を見せた。見えない位置にずっといたのだ。

 

その表情は暗い。先の話を聞いて明るい方がおかしいだろう。だがそれにも増して暗い。「私、酷いことを言うわ」「ああ」次に口を開くまでたっぷり10秒はかかった。「私にとってはマガネ=サンの復讐より、シンちゃんの方が大事なの」言いづらいのも当然だろう。弟達の決意と約束を踏みにじる言葉だ。

 

「そうだよな」しかしそれを言うのもまた当然だ。家族が命の危機に身を曝すのを喜べるはずもない。シンヤ自身、ニンジャでもなければこんな無茶はしない。「だからお願い、自分を賭けないで」約束を破って依頼を投げ捨てろとは言えない。言ったとしてもシンヤは動くだろう。だから、せめてこれだけは。

 

「できるなら、そうするよ」命がけないで勝てるならそれが一番だ。だがコレクターのカラテは不明だ。手練れでカタナ愛好者である以上の情報はない。もし想定を超えてくるなら死地に飛び込む覚悟も要る。シンヤの言葉から覚悟を察したキヨミは言葉もなく項垂れる。

 

床を見つめるキヨミにシンヤも言葉を探しあぐねる。何を言えばいいのだろうか。ニンジャになってもまるで判らない。「じゃあ、代わりに約束して」「約束?」先に口を開いたのはキヨミだった。しかと顔を上げシンヤの目をまっすぐに見つめる。「ええ、必ず帰ってきて。家族の前に元気な姿で帰ってきて」

 

シンヤは胸のタリズマンを掲げて頷いた。「……ああ、こいつにかけて約束するよ」掲げる手にキヨミの細い手が重なる。「約束よ」「約束」自然と二人の額は触れ合った。祈るように誓いを込めて二人は目を閉じた。ただ降りしきる雨の音だけが辺りを包んでいた。

 

【カタナ・フォーリン・トゥ・アビス】#3おわり。#4へ続く。


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