行別ここすき者数
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履歴はこちら。
(0)二月半ばの午後。
(0)部室には、ほんのり甘い香りが漂っていた。
(0)机の上には紙袋とリボン、そして見慣れぬ依頼書。
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(0)「……バレンタインイベント、ですか」
(0)瑠美が書類に目を通す。
(0)「ええ。商店街の振興組合からの依頼よ」
(0)「“地域連携企画・奉仕部×地元商店街”って感じ?」
(0)「由比ヶ浜、お前、語感だけで押し切っただろ、それ」
(0)八幡が呆れたようにため息をつく。
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(0)依頼内容には、こう書かれていた。
(0)《地元商店街にて、子どもと学生が交流できる
(0)バレンタインイベントを実施。
(0)奉仕部には企画・運営・当日サポートを依頼》
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(0)「……つまり、チョコを作るだけじゃないってことか」
(0)「そうよ。小学生との“チョコ交換ワークショップ”と、
(0) カップル向けの“手作り体験コーナー”を併設するらしいわ」
(0)「おい、後半どっかで見たことあるイベントだな」
(0)「そうね、そんなこともあったわね」
(0)「いろはちゃんもいたね」
(0)結衣がくすくす笑う。
(0)「でもさ、ゆきのんもヒッキーも“夫婦参加”でいいじゃん?」
(0)「……仕事としてな」
(0)「はいはい、“平常運転”〜」
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(0)瑠美が静かに書類を見ながら言った。
(0)「奉仕部としても、地域交流の一環なら悪くないと思います」
(0)「そうね。去年の文化祭と同じで、“思いを形にする”行事だもの」
(0)雪乃の言葉に、美羽がうなずく。
(0)「チョコって、なんか“ありがとう”って言葉に近いですもんね」
(0)「……ありがとう、か」
(0)八幡は少しだけ遠くを見るように呟いた。
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(0)あの頃、手作りチョコをもらうなんて思いもしなかった。
(0)けれど今は――“誰かと作る”側にいる。
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(0)その日の放課後、家庭科室に集合した奉仕部。
(0)エプロン姿の結衣がテンション高めに宣言する。
(0)「というわけで! 試作会、始めまーす!」
(0)「……なんで俺までいるんだ」
(0)大磯がボソッと呟く。
(0)「男の意見も必要だからよ」
(0)「チョコに意見なんてあんのか」
(0)「あるわよ、“甘すぎる”とか“硬い”とか、
(0)味覚バランス大事でしょ」
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(0)瑠美と美羽が材料を並べ、玲がレシピをチェックしている。
(0)「私、温度調整苦手なんですよね……」
(0)「温度管理は理系の出番ね」
(0)雪乃が淡々と温度計を構え、湯煎の角度を調整する。
(0)その手際に、周囲の視線が自然と集まる。
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(0)「いい? チョコレートは温度がすべてよ。焦らず、慎重に」
(0)「うわ〜、ゆきのん、パティシエみたい!」
(0)「褒めてもおかわりは出ないのだけれど」
(0)「けち〜!」
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(0)美羽がノートにペンを走らせる。
(0)「チョコ作りって、理科の実験みたいですね。温度、タイミング
(0)……全部数値化できそう」
(0)「お前、なんでも理屈にするな」
(0)八幡が呟くと、美羽はくすっと笑った。
(0)「だって先生、理屈から入るタイプじゃないですか」
(0)「反論できねぇ」
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(0)そのとき――
(0)玲が、隣の瑠美をじっと見つめてニヤリと笑った。
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(0)「瑠美ちゃん、先輩にチョコあげるんですか〜?」
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(0)「っ……!」
(0)瑠美がビシッと固まり、手にしていたボウルを落とした。
(0)カラン、と響く軽い音。
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(0)その音に反応して、大磯がすぐに振り返る。
(0)「おい、鶴見!大丈夫か!?」
(0)「だ、大丈夫です! 問題ありません!」
(0)「いや、問題しかねぇだろ、顔真っ赤だぞ」
(0)「ち、違いますっ! 熱気のせいです!」
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(0)瑠美が慌ててチョコを混ぜ直す。
(0)大磯は一拍遅れてその意味を理解し、顔を真っ赤にした。
(0)「……あっ、ああ、そういう……熱気な……」
(0)「ぷっ、先輩、動揺してる〜」
(0)玲が笑いを堪えきれずに声を上げる。
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(0)結衣が拾い上げたボウルを手渡しながら、にやりと笑った。
(0)「まだまだだね、瑠美ちゃん!」
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(0)「……なんでそんなドヤ顔なんですか」
(0)瑠美が半眼で呟く。
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(0)「ボウルの扱いなら任せて!」
(0)「お前は、昔からボウルの扱い方だけは上手かったからな」
(0)「ボウルだけって何だし!」
(0)「ヒッキー、そう言うとこだよ!」
(0)「だから、どう言うとこだよ」
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(0)雪乃が肩を震わせて笑った。
(0)「ふふっ……全員、成長していないわね」
(0)「褒め言葉だろ、それ」
(0)「ええ。最高の褒め言葉よ」
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(0)美羽が微笑みながら言った。
(0)「……こういう空気、やっぱり好きです」
(0)玲が頷く。
(0)「うん、なんか、あったかいですね」
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(0)八幡は溶けかけたチョコを静かに混ぜながら、ぼそりと呟いた。
(0)「結局、奉仕もチョコも“温度管理”が大事なんだよ」
(0)「うまいこと言った〜!」
(0)結衣が笑い、雪乃が小さく頷く。
(0)「そうね。焦っても、冷めても、うまくいかない。ちょうどいい温度が一番」
(0)「……なんか夫婦漫才みたいになってきたね」
(0)玲のつぶやきに、みんなが笑った。
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(0)美羽が少し照れたように笑う。
(0)「こうして先生たちが一緒にやってくれると、なんか嬉しいです」
(0)「お前らが真剣にやってるからだよ」
(0)「えっ、それ褒めてます?」
(0)「たぶんな」
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(0)笑いが弾む中、玲が材料を見つめながら言った。
(0)「……“誰かのために作る”って、難しいですね」
(0)瑠美が頷く。
(0)「そうね」
(0)「想いって、丁寧に包まないと壊れやすいから」
(0)「包みすぎても、伝わらなくなるけどな」
(0)八幡がぼそりと加える。
(0)「……なんか深いですね」
(0)「ただの皮肉よ、玲さん」
(0)雪乃が静かに笑った。
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(0)数時間後、机の上には完成した試作品が並んでいた。
(0)ハート型のトリュフ、クランチチョコ、クッキー。
(0)みんなの個性がそのまま形になっている。
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(0)「おお〜、めっちゃおいしそう!」
(0)結衣が目を輝かせる。
(0)「じゃあ、味見タイムね」
(0)雪乃がナイフで切り分けると、八幡の前にも一皿置かれた。
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(0)「さあ、先生。忖度なしで感想を」
(0)「お前ら、俺を誰だと思ってる」
(0)「“忖度できない代表”?」
(0)「正解だ。……じゃ、いただきます」
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(0)八幡は一口食べ、しばし沈黙。
(0)「……悪くない」
(0)「出たー!」「“悪くない”出ましたー!」
(0)結衣と美羽が同時に声を上げ、笑いが弾ける。
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(0)八幡は少しだけ目を細めて言った。
(0)「でも、これ全部“優しい味”だな」
(0)「優しい味?」
(0)「強い主張とか、重い甘さがない。
(0) なんか、“誰かのために作った”感じがする」
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(0)静かに、空気が温まった。
(0)玲がそっと笑う。
(0)「それって、先生が教えてくれた“奉仕”みたいですね」
(0)「……やめろ、こっぱずかしい」
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(0)後片付けのあと、雪乃がふと呟いた。
(0)「ねえ、比企ヶ谷君」
(0)「なんだ」
(0)「あなたがチョコを受け取る立場だった頃……どんな気持ちだったの?」
(0)「そんな黒歴史を聞くな」
(0)「興味あるわ。ほら、今は“教師としての感想”でいいの」
(0)「……そうだな。嬉しかったよ。
(0) でも同時に、“返せるものがあるだろうか”って思った」
(0)「らしいわね」
(0)雪乃の笑みに、八幡は肩をすくめた。
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(0)結衣が手を拭きながら言う。
(0)「じゃあさ、今年の奉仕部バレンタインは、
(0) “誰かに渡す”より、“誰かと作る”がテーマでいいかもね」
(0)瑠美が頷く。
(0)「それ、素敵です」
(0)「“優しさの手作り”……なんて、コピーにもできそうですね」
(0)瑠美がメモに書き留める。
(0)「それ採用!」
(0)「勝手にポスターの文句決めんな」
(0)「いいじゃない、センスは悪くないもの」
(0)「褒めてんのかそれ」
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(0)笑い声が夕暮れの家庭科室に広がっていく。
(0)窓の外には、沈む太陽の光がチョコ色に反射していた。
(0)その光が、机の上のラッピングリボンを柔らかく染めていく。
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(0)(ああ、こういう日常なら――悪くない)
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(0)その夜、雪乃と八幡は帰宅後に台所に立っていた。
(0)雪乃が小さなチョコの包みを並べながら言う。
(0)「これ、当日子どもたちに配る分。あと、あなた用」
(0)「俺用?」
(0)「ええ。奉仕のご褒美」
(0)「……ありがたく頂戴します」
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(0)雪乃が小さく笑う。
(0)「ねぇ、比企谷君」
(0)「ん?」
(0)「あなたの中の“逃げ癖鬼”、少し小さくなった?」
(0)「……たぶんな」
(0)「よかった。じゃあ、今年は“甘い鬼”ね」
(0)「なんだその中間管理職みたいな鬼は」
(0)「ふふ、悪くないでしょ」
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(0)二人の笑い声が、甘い香りとともに夜へと溶けていった。