自分は好かれるタイプではない、と思っていた。
嫌われるタイプとまでは思ってはいなかった。
今や私は、プロ戦車道の世界で立派なヒールをやっている。
*
目が覚めて体を起こすと顔に紙が貼り付いていた。
はがすとパリパリと音を立てる。紙片が顔にこびりついたようだ。よだれまみれであるのにも違いない。
昨日の試合のレビューのメモ書き。ボールペンのインクが滲んでいるが、なんとか内容の判別はつく。昨夜何度も映像を見返して得た知見だ。涎程度で失うのは惜しい。
床に散乱しているディスクやファイルを踏まないように注意して、とりあえず顔を洗いに行く。
鏡に写った顔はひどいものだった。頬に張り付いている紙の欠片もそうだけど、もっとひどいのは目の下の隈だ。
もう34。ベテランと呼ばれる域になってから、はや数年。昨日の疲れが一晩眠って今日取れる、というほど安直にはいかない。
くすんだ銀の髪を手櫛で梳いてみると、やはり昔より指通りが悪い気がした。
今日は正午にチームメイトのノンナとランチの約束が入っている。
その後はいつもの、試合の翌日のルーティンだ。夕方頃、チームのクラブハウスで車長が集まって試合レビューをして、ディスカッション。机上演習で個々がどうすべきだったかを討議し、最後に隊長の私がまとめて終わり。
試合翌日は練習がない。誘われたら誰かと飲みにいくだろう。なければいつもどおりジムにでも行く。
と、ふとそこで今が何時かを考える。
目が覚めたとき、外の日が随分と高かったような気がする。
ふう、と溜息をついて、一旦リビングに戻り、壁掛け時計の時間を確認する。
12時半。ほほう。
「……かんっぜんに遅刻か」
まあ、この歳にもなると遅刻で慌てふためくこともない。
向こうだっていい大人だ。私が遅れていれば、勝手に店に入って一人で食事でもするだろう。
そう思って、携帯を見る。着信履歴は……3件。思ったよりも少ない。それと、留守録が一件とメールが1通。
流石に肉声での恨み節を聞かされるのはこたえるので、メールを開く。
『来るまでずっと待ってますから』
添付ファイルは、待ち合わせ場所の近くのコーヒーショップで撮ったと思われる、マグカップの画像。
……なるほど、こういう手段もあるのか。
ランチは諦めて、夕方までもう一眠りしてやろうかと思ったが、早くシャワーを浴びてこよう。
*
「お待たせ」
「今来たところです、お気になさらず」
「……言葉を間違えました。本当に申し訳ありません……」
「許してあげますよ」
ノンナは鷹揚にそう言って、文庫本を閉じた。ブックカバーの紙も真新しい。待つと思って本まで買ったのだろう。いやもう本当に申し訳ありません。
「……寝坊ですか」
黒縁のメガネを外して、セーターの襟に引っ掛けながら、ノンナが言う。
「はい……」
「どうせ遅れるのがわかっているのだったら、お化粧もしてきたほうが良かったと思いますよ?」
私の目の周りの隈のことを言っているのだろう。高校時代からほとんど容貌が変わらない年齢不詳美人に言われると非常にこたえる。
「いや……、ノンナさんをこれ以上お待たせするのは申し訳ないと思いまして……」
「もうその気持ち悪い口調はやめてください」
「気持ち悪いって……。……じゃあやめるけど、そんなに酷いかしら」
「ええ、隈も酷いですし、その口調を聞いてると……べらんめえ口調のまほさんを見るような気分になります」
「……それは酷いわね。でも、それほど? 私って仮にもうちのチームの隊長なわけで、それなりにマスコミ対応もしてるし、ちゃんと敬語使ってるつもりなんだけど」
「ですからみんな、インタビューに答えているエリカを見ながら、身震いを抑えているんですよ。恐怖と、笑いのね」
そう言って微笑んで見せる。一瞬本気でショックを受けてしまった。この女はめったに言わない冗談を真顔で言うから見分けがつかない。
彼女はマグに残ったコーヒーを飲み干し、立ち上がる。
「それじゃあ、いきましょうか」
ざっくりとしたニットのセーターと黒のスリムなパンツに柿色のコートを合わせ、私には似合わないような、ちまっとしたバッグを下げている。
服飾関係者と言われても疑いようのないスタイルに、私のチノパンとシャツ姿はどう見ても見劣りがする。
「? まだなにか私を待たせる用事がありましたか?」
いまだ棘を隠さない口調で呼びかけられた。
「いえ、ただ――いや、なんでもないわ」
ただ少し、自分の経てきた年月の積み重ねに、思うところがあっただけだ。
*
「引退しようと思うんです」
切りだされたのは前菜の皿が出て早々だった。
「……こういうのって、一通りコースが終わって食後のコーヒーでも飲みながら話すものじゃないかしら」
フォークを持ったままあっけに取られたように呟く。
「こういうのって、普通『どうしたの?』とか『考えなおして』とか言うものじゃないでしょうか」
ごもっとも。だけど、私はそのどちらも言う気になれない。
強い女だ。考えて考えて、ようやく出てきた言葉に違いない。それをたかがチームメイトごときが止められるものでもない。
「そうね……かける言葉があるとしたら、お疲れ様、かしら」
「ありがとうございます」
「ほんと、残念だわ。あなたほどの砲手が抜けると、来年の布陣がガラッと変わってしまうわね」
頭のなかに兵棋演習のコマを思い浮かべる。
私の今いるチームは守備戦略主体のチームだ。引きずりこみ、殺す布陣。その決死点に敵を追い込むのに、彼女のような正確無比の長距離狙撃ができる砲手は重要なピースだったのだ。
「それで、引退してからはどうするの?」
「今、付き合っているひとがいるんです。子供も欲しいですし、そろそろこの辺りが潮時かな、と」
「あら、そうだったの」
ノンナが付き合っている男性、どんな人だろうか。イメージを形作ろうとしても像を結ばない。
なぜか金髪の小柄な暴君の姿が思い浮かんだが、流石にそれは無いだろう。……彼女って弟がいたりしたのかしら……いや、まさかそんな。
とりとめの無いことを考えていると、声をかけられて妄想から覚まされる。
「驚かないんですね」
「いえ、驚いてるわよ?」
嘘ではない。ただ、その揺らぎは思った以上に大きくなかった。
ノンナがどうも見通せない人物だということもあって、誰か付き合ってる人がすでにいるかも知れないと考えたこともあったが、実際に言われてみてここまで動揺しないとは。
「不思議だったんです」
「え?」
「エリカって、 黒森峰の頃は喧嘩っ早いというか、カッとしやすいたちだったじゃないですか」
「そうね」
言いつつ顔が歪む。黒歴史を簡単に表に出してこないで欲しい。
こみ上げてきそうな何かを飲み下すつもりで、ヒラメのカルパッチョを口に運ぶ。
「それが、今では――随分落ち着いた、というか」
「それはもう、プロになって……10年以上は経ってるもの。丸くもなるわよ」
「いえ、丸くなったという感じではないんです、その」
珍しく言いづらそうにするノンナ。
プロとして最初に入ったチームで先輩だった。のちに私がそのチームから放出されて、転々としたあと今のチームに移籍したところで、ちょうどノンナが以前のチームからフリーエージェントを宣言していた。
私が今のチームに入ったのは、選手編成に関して大きな裁量をチームの会長に許してもらったからだ。とはいえ彼女の移籍金は高く、会長にチーム予算を追加してノンナを獲ってくれるよう直訴して、また同じチームになれたのだった。
昔も今も、これほど言葉を濁す人では無かったように思う。
良くも悪くもスパっと言い切ってくれる正直さは、彼女の一番の美点だった。私は珍しいものを見ている。
「いいわよ、言いなさいよ」
「……どうでも、良くなってませんか?」
「どうでも?」
「戦車道以外が」
「――少し考えてみるから、これは食べちゃいましょうか」
私はフォークでカルパッチョを絡めとる。ノンナは、――こんな顔初めて見たかもしれない、おずおずと、皿に目を落としてる。
どうでも良くなっていない、とは言えない。
浮いた話もなく、隊長として最低限のマスコミ対応にとどめてメディアに出ることもなく、ずっと一人だ。
別に友達がいないとか、後輩に慕われていないということではない。ただ、それらよりも戦車を優先しているのは紛れもない事実だ。
黙々と二人で皿を空け、次の皿が来るまでの時間を静かに過ごす。
次の皿がサーブされて、店員が立ち去ってから続ける。
「そうね。どうでも良くなっている、というのは強すぎる言葉だけれど、重要度は明らかに下がったわね」
「……すいません」
「え? なんで謝るのよ?」
「いえ、随分と立ち入ったことを聞いてしまいました」
ノンナはずいぶんとしょぼくれて、手元のボンゴレを眺めている。
「ねえ、それだけじゃないんでしょう?」
予感するものがあった。ただこれだけを言ってくる、それも悄然として。そんな不思議なやつじゃない。
本当に聞こうとしたいことがあって、これはきっと前段に違いない。もっと聞きづらいことの。
「……愛する人ができて、傲慢な考え方をするようになってしまったんだと思います。私は、とても嫌な人間かもしれません」
「気づいてなかった? あなた最初に同じチームになったときから、随分とあけっぴろげに辛辣だったわよ」
冗談めかしてみたが、実際寡黙なようでいて、センテンスが短いだけではっきり物を言うタイプだ。それでこれまで何度か衝突したこともあった。
じっと、隈で縁どりされているであろう目で彼女を見つめる。二人のパスタは冷めていく。
「……私、結婚するんです」
「……それは聞いたけど」
「それで、思ったんです。あのひとと……彼と、結婚すると考えたとき、まるで空からパズルのピースが降ってきて、そのまま目の前で組み上がったみたいに、私の人生が決まったんです。この人と結婚して、子供がほしい。子供を作るとしたら、戦車には乗っていられません」
フォークを置いて、ノンナの目を見て話を聞く。ノンナの目は潤んでいた。そして深く澄んでいた。
「でも、一年休んで戻ったとして、36。視力の低下もありますし、体力の衰えを感じざるをえません。二線か、三線級の車長になるしかないでしょう。それぐらいなら、私はいっそ戦車を降りて、子供のために時間を使いたいと考えたんです」
喋りながら彼女の顔は俯いていく。声が震える。
もう、言うべきか迷ってはいないようだった。
「……エリカは、どうするんですか? あなたは美人で、頭もよくて、面倒見もいいのに、なんで一人で生きていこうとするんですか? どうしてそこまで、戦車道に没頭するんですか?」
ぽたぽたと、水の雫が湯気の中に落ちていく。ノンナは泣いていた。ブリザードと呼ばれた女が、解け落ちていた。目立たない、奥の席でよかったと思った。
「口さがない
それはもはやヒールになった私には、聞き馴染みのある言葉ばかりだ。
守備を重視する戦術を「華がない」と罵倒され、他から若手を引き抜いては「青田買いだ」と中傷され、加入した選手をチーム戦術に適応させては「才能を殺す用兵」と貶され、厳しい選手管理に「選手の自主性を奪っている」と批判され。そして勝つと「驚きがない、つまらない」と言われる。
だけど、なによりもよく言われるのは、
「『西住姉妹がいたら、もっと凄かった』、でしょ?」
ノンナはぷるぷると首を振る。雫が皿の外にも飛ぶ。
「
「でも、事実だもの」
まほさんは、プロに入って最初に加入したチームの隊長でもあった。私は黒森峰、大学と続けて副隊長として彼女の側にいた。
プロになってから最初の年は、私は一軍登録枠の端にぎりぎりかかるぐらいだった。でも、翌年のシーズン中には中隊長に、その次の年にようやくまほさんの副隊長に返り咲くことができた。
そして、その年のシーズン終了後。
まほさんは結婚を期に、西住流家元としての活動に専念するということを記者会見で発表し、引退した。
ルーキーながらにして隊長の役を担い果たしてみせ、初年度から、3位、優勝、2位、優勝、とリーグを席巻していた選手の引退にチームが揺れるなか、私は隊長に就任した。
アクの強い人材をなんとかまとめ、まほさんの戦術を、焼き直しにならない、さらにブラッシュアップしたものへと改善し、そして迎えた最初のシーズン。
私はあの子に粉々にされた。
みほは、プロにはなるつもりはない、という話を聞いていた。しかし、新設の戦車道部を大会初年に優勝させてみせる才能を、業界が放っておくはずがない。
結局決め手になったのは、あのボコとかいう気色の悪いクマがチームのマスコットを務めているから、というふざけた理由で、彼女はプロ入りしてきていた。馴染んだ第二の地元大洗のチーム。
とはいえ、有名な自動車や重工業メーカーのない土地のチームが、そう充実した車両を揃えられることはない。
対して自分たちのチームは、財界有数の経営者がトップを務める企業をメインスポンサーに戴いていた。さらにその企業のネームバリューで多くのサブスポンサーがつき、車両の戦力だけで見たら全チームで1,2を争う。
もちろん甘えた考えはない。黒森峰時代は、それで破られているのだ。もう油断などこれっぱかりも無かった。
高校最後の大会では、結局彼女は私たちと当たる前に負けてしまって、隊長同士として戦うことは無かったのだ。
楽しみだった。自分がどれほど肩を並べられたか、その試金石になると考えていた。
そして負けた。無残に。
改善したはずの守備の手当も軽戦車の高機動で打ち破られた。
重戦車を押し出し、左右に中戦車を張り出して包囲の体勢をとらんとして、ほんのごく僅かな切れ目を突き抜かれ逆包囲された。
軽戦車比率の高いチーム相手に、中、重戦車を揃えて負けてしまったのだ。
さらに、そのとき突かれた弱点はテレビを通して各チームに流れる。メタゲームの敗北者となった私のチームは、シーズン序盤を、通り過ぎる誰にも踏まれるみじめなドアマットとして過ごした。
そこからなんとか方針を転換し、こちらが状況を動かさず相手の反応に対処する受けの戦術に回って、敵のチームを徹底して徹底して徹底して研究し、少しずつ勝ち星を重ねることで、最終的にはシーズンを16チーム中5位と、なんとかまともに見れる順位にまではもっていった。
しかし、そこまで。
本来は優勝を求められていたチームだ。評価できる成績ではない。指揮官としての私は批判の猛火に晒された。
チームメンバーの擁護と、あまりコロコロとトップを変えるべきではないという編成部の意見で、フロントはギリギリ私の解雇を取り消した。
けれど、それは会長が私に悪い印象を抱くきっかけとなり、結果的には数年後の放出に繋がる遠因となった。失うものの多い敗戦だった。
それから、みほが結婚して引退する29まで何度も対戦しているが、勝てたときだって薄氷の勝利といった印象で、勝ち逃げされるように彼女の結婚会見を見ていた。
どちらも華々しい成績を残しての引退。
登録選手枠ギリギリから這い上がる回り道なしに栄光を掴んでいった姿に、嫉妬しなかったわけがない。
まだ浅い日本プロ戦車道の歴史を語るとき、確実に話題に登る絢爛たる経歴の姉妹。彼女たちがバラやひまわりなら私は月見草だ。
「だから、どっちが凄かったか、なんて比べる必要すら無いのよ。あの人達は、経歴に汚点ひとつないんだもの。私の傷だらけの履歴書とは比較にならないわ」
すっかり冷めてしまったパスタ。ノンナはナプキンで目をぬぐっている。布地にベージュのファンデーションの色が移って、ああ、彼女も化粧をしているんだなあ、という当たり前の事実に気づく。
「……隊長」
目尻に、ぬぐったアイライナーの跡を残して、ノンナは私を睨むように見つめた。
呼び方が変わって、私はつい背筋を伸ばす。
「今季、私たちは優勝します」
「大言壮語ね。首位のチームは今年絶好調だし、こっちが一試合でも落としたら……いえ、引退前の決意の言葉だったのかしら? それならごめんなさ――」
「違います。隊長にだって分かっているはずです。残り4試合、わたしたちのチームに勝てる相手はいません。そして、向こうの最終節の相手は私たちのチームです」
「2位のチームが軽々と言っていいことじゃないわ」
「いえ、向こうの指揮官は、これまで隊長と7戦して7敗しています。勝てるわけがありません」
「8戦目が8勝目かどうかはやってみるまでわからないわよ」
「いいえ、あちらの得意な機動戦術は、隊長がつくりあげた守備組織の大好物です。最終節、私たちは逆転優勝します」
引退を決めたとはいえ、戦車乗りだ。戦車戦術のことを語っているうちに、目つきが熱を持ち、涙は蒸発してしまった。跡は目の周りの赤みしかない。
「わたしたちは、勝ち取ります。隊長、あなたのために。――だから、もう、西住姉妹に縛られるのは、終わりにしませんか?」
意外な、――まったく想像もしていなかった言葉が出てきた。またじわりと、ノンナの目尻に涙が溜まる。
「あんな――隊長を、あんな置いていき方をしたまほさんなんて、もういいじゃないですか。みほさんだって、優勝回数はとっくに超えています。あんな、あなたに叩きのめされる前に勝ち逃げした人たちなんて、もう、いいじゃ、ないですか」
ノンナはとうとう、しゃくりあげるように泣き始めた。周りからの視線を集めている。
「ずっと……ずっと隊長が、寝る間も惜しんで、戦術に没頭していたのは、チームのみんな知っています。練習日、演習場のパーキングに、あなたの赤いワーゲンが停まっているのを見ない人なんていません。練習を終えて帰るときに見ない人だっていません。新加入選手のために、わざわざトレーナーやコーチと、馴致訓練のプログラムを練っているのを知らない人なんていません。そんなのスタッフに任せればいいのに、それでも選手がストレスなく適応できるように、全力を尽くしているのをみんな知っています。マスコミに対応するとき、わざと挑発的な言動をするのは、他の選手に無遠慮なカメラが向くのを遮るためだってことにも、みんな気づいています。隊長のワンマンチームだなんて言われているけれど、本当は隊員のどんな些細な意見だって、本当に大事に聞いていることを知っています。あなたがその身を削って作ったチームです。負けるわけが、ありません」
しとしとと、ビニールのテーブルクロスに涙が落ちる。
「でも……それが、もういない人のためだなんて、そんなのおかしいですよ。隊長は……エリカは、本当にいい人です。あなたは美人で、頭もよくて、面倒見もいい。本当にそう思っています。冗談なんかじゃありません。――なのに、なんで一人で生きていこうとするんですか?あなたみたいな人が、なんで過去にとらわれ続けなきゃいけないんですか……?」
私は汚れのついていない自分のナプキンを差し出す。ノンナはそれを一瞥もしない。
青くて綺麗な瞳、けれど、ベースメイクが落ちて、目元の小じわが見えている。
高校時代からほとんど変わらないように見えた彼女だって、年月からは逃げられないということを、まざまざと見せつけられる。
年月。私があの姉妹に捧げたもの。持って行かれてしまったもの。
なぜ、私はいまだ固執するのか。
それは、
「――焼き付けられてしまったのよ。多くのファンみたいにね。私、あの姉妹のファンなの」
思ったより口が渇いていて、はっきりとノンナに伝わったかどうか。水で口を潤して、言い直す。
「焼き付いたの、あの人達の全てが。私はファンなの。一番近くであの人達を見てきたと思うし、世界中どこを探したって、あの姉妹に手ずから教えこまれ、叩きのめされたことのあるファンなんていない。魅入られてしまったんだと思う。毅然とした強さと、華やかに、見る人を引き付けるように戦車道を楽しむ姿に」
ふい、と視線を外すと、こちらを見ている隣のテーブルの女と目が合った。慌ててそらされる。
けれど、同席している男は私を見て、テレビで見る性格の悪い戦車道選手だと気づいたような顔をしている。
「だけどね、戦車道が好きなのも嘘じゃないわ。覚えてる? 私、あなたのおかげで戦車を続けられているのよ?」
――私は、プロとして最初の隊長を経験した一年の、シーズンオフを回想する。
そのころ私はダメだった。
もうダメになりかけていた。
ドアマットのシーズン序盤と、そこからのリターンのシーズン後半をすごして、一度粉々にされた心をなんとか接着剤でつないで形をとっていたものが、身内の糾弾でまたゆらぎかけていた。
「初めてポストシーズンを逃した」「戦力はあったはず」「西住くんが残したチームを破壊した」
会議室は弾劾裁判の場だった。
心のなかには、まるでまったくダメな私をグチャグチャになるまで叩いて潰して欲しいという気持ちと、シーズン後半の死に物狂いの順位浮上は、この人達にとっては評価に値しないんだな、あの努力は一体何のためだったんだろう、という思いが交錯していた。
もう、辞めよう。
子供の頃、道で見かけた戦車に乗る子が楽しそうで、やっかみ半分に噛み付いて、全然相手にされなかったのが悔しくて。
だからわたしにだってあんなの簡単にできるってことを証明したくて、戦車道の世界に足を踏み入れて。
あの二人に出会って。
そして、今あの二人の速度には追いつかないような俗世に絡め取られている。
私の足はどこまでも遅くて、なににも追いつけなくて、肩を並べるどころか縋る手すらも遠くて。
こんな、硝煙の臭いも、油の混じった鉄の臭いもしない清潔な会議室で、私の存在価値はマイナスにされていく。
辞めよう。
得るものは無かった。失うものがこれ以上大きくなる前に、辞めよう。
そう思っていた。
そこに、駆け込んできた男性がいた。彼は慌てた様子でまっすぐに、上席の会長の元へ。
会長は彼からの耳打ちを聞いて、舌打ちをしてから、腰巾着みたいな両隣の席の男たちを連れて慌ただしく出て行く。
しばらくして、会議室に戻ってきた会長は、不快げに「もういい」とだけ言った。
わたしが「は?」と聞き返すと、一緒に戻ってきた腰巾着に「もう会議は終わりだ、と言ったんだ」と告げられた。
その後私はスポーツ紙の記事で、自分が生き延びることができたのが、ノンナ、ナオミ、アッサムの、チームのエース砲手三人が呼びかけて、チームの総意としてフロントの判断に疑義を申し立てたからだと知った。
ノンナが、私を首にするなら自分をトレードするよう要求したからだと知った。
私は、誰かを必要とするばっかりで、誰にも必要とされてなかったと思った。
それは間違いだった。
だから、
「そうね――私は囚われていたのかもしれない。あの姉妹に」
思い出すと、やっぱり泣いてしまいそうになる。
隊長に「結婚して、引退するんだ」と、内々に告げられた日のこと。
あの子の結婚式で、「エリカさんと一緒のチームでもう一度やってみたかった」と泣きながら言われたこと。
今でも思い出して、少し泣く。
それでも。
「でもね、それはやっぱり、あの姉妹が私よりも戦車をうまく動かせるってことに対する嫉妬なのよ。なによりも、戦車がうまくなることが目標だった。仮にあの姉妹がいなかったとしても、わたしは別の天才に嫉妬していたかもしれない。私は才能に嫉妬しているのよ」
時がたって、乗り越えることはできていないけれど、乗り越えることができていないということを認められるようにはなった。
「やっぱり私、戦車道以外のことはもうどうでもいいかもしれない。わたし、戦車道が好きよ。きっと、あの姉妹への思いも、私を戦車道につなぎ留めてくれた人たちへの思いも全て含めて、戦車が好きなの。戦車に恋をしてしまったのかもね。そうやって積み上げた過去が、どうしようもなく好きだわ」
シーズン最終節で、冗談みたいな不運で逆転されて優勝を逃したこともあった。
ファンから正面切って、「お前の試合はつまんねえんだよ」と面罵されたこともあった。
好きな選手は?という投票で上位を取れたことなんてない。
それでも。
それでもどうしても。
「過去は――そこまで大事なものですか?私たちがこれから生きていくのは、未来なんですよ?」
震えてかすれた声。
まったく、まるで保険屋のような言い草だ。鼻で笑ってやる。
「過去と闘って何が悪いのかしら? 昔を越えようとして何が悪いの? 未来は私が創る。生きたいように生きて、なりたい自分になるわ。
――私ね、長く戦車道を続けてきて一つだけ誇れることがあるの」
顔を上げるノンナ。ついにほとんどのメイクは落ちて、隠していた歳月が現れ出す。
だけど、私を思って泣いてくれたその顔は美しかった。皺の無いガキなんかには持てない、恒久の美しさだ。
「ねえ知ってる?私って実は、みほとの対戦成績、イーブンなのよ。私が黒森峰で副隊長してた試合を入れたら、私の負けだけれどね」
「なんですか、それ」
どうしようもないような顔でノンナは笑った。
「あなたに勝ち越してる人なんて一人もいないのに、イーブンを誇るなんて」
*
「私、今ドイツ語の勉強をし直しているのよ。読むことはできるんだけど、話すのはまだ不得意で」
ワーゲンは赤信号で止まった。助手席のノンナはもうとっくに化粧を直して、また元の年齢不詳美人に戻っている。
「次は、ドイツに移籍しようかと思っているの。向こうのルールは日本とは違うし、文化もそう。だけど、新たな地平ってのを見てみたいのよ」
信号が青に変わる。緩やかにアクセルを踏んで、交差点を越えていく。
「あの人達が、見ていなかった物を見てやろうと思うの。超えられたとは……多分一生思えない。けど、あの人達が知らない戦車道を、今度は私が教えて上げようと思うわ」
夢物語だ。
もう先の長くない私みたいな、異国の選手を獲ってくれるチームなんてそうは無いだろう。
それでも私には、ドイツ移籍は新しい挑戦としてとてもいいものだと思えた。
ノンナは、私に言ったことを後悔しているらしい。泣いたことも恥ずかしいのか、窓の外を向いて私の話を聞き流している。
でも、私には聞くことがある。
「そうだノンナ、挙式はいつなの?」
話がこちらに飛ぶとは思っていなかったようで、少し驚いた様子で向き直る。
「いえ、籍だけをいれようかと……」
「それじゃあ、私に主催させてもらって、懐かしい知り合いを呼んで、披露宴とまではいかないけれど、パーティーをしない?カチューシャはもちろん、アッサムや、ナオミも呼びましょう?みほや、まほさんも呼びましょう。他にも、あなたのなつかしい知り合いを呼びましょう。私の友達も招待させて?これまでのチームで、できた友だちもたくさんいるのよ。
それで、いろんな懐かしい話をしましょう。きっと、楽しいパーティーになると思うわ」
私の赤いワーゲンは、もうすぐクラブハウスの駐車場にたどり着く。
了
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