この上もなく慎重に (都っ市)
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小町「この時間にそんなの食べてたら太るよ?」

「原作準拠」ってタグがあると知って、入れようと思ったけど恥ずかしくてやめました


 二月も折り返し地点を過ぎると、程なくして年度末の実力試験が襲い掛かってくる。

 去年などは「ふははは、バレンタインで浮かれてる暇も無いなリア充共! お前らが浮き足立っている間に俺は学業に邁進するぞ、せいぜいのぼせているがいい!!」といった具合に、何一つ悔しくもないのに脳内で負け惜しみごっこをしながら勉強していたものだ。なにせ俺には、約束された勝利の妹、小町がいる。世の若人が羨望や孤独に苦しんでいようと、対岸の火事でしかない。バレンタインデーなど、恐るるに足らず。

 しかしながら、今年はどうにも勝手が違う。

 机の上には閉じた教科書と開いたノート。充電中の電子辞書、ペンケース、マグカップにはコーヒー。

 そして小さな包みが二つ。雪ノ下からのチョコレートと、由比ヶ浜からのクッキー。

 そう、まさに今、俺自身が地に足つかぬ状態だった。それはもうフワッフワに浮き足立っている。勉強どころか本やゲームすら手につかない。成す術もなくぼんやりと椅子に掛け、頭を抱えるばかりだった。不甲斐ない、情けないぞ比企谷八幡……。

 自分を叱咤してはみるものの、脳は勝手に今日の出来事を追いかける。由比ヶ浜の言葉、雪ノ下の依頼。彼女の涙、彼女の笑顔。

 

 ていうか、どうしたらいいのこれ。どうしたらいい? 食べるか。そりゃ食べるよな……。いや、食べていいの? ホントに? 後で怒られない?

 

 ……いやいや、おいおい。冷静になってくれ、俺。どうか落ち着いてほしい。考えをまとめるなら、まずはリラックスすることだ。肩の力を抜け。そして温かい飲み物を一口。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……………………冷たい…………。

 

 

 あれ? 俺アイスコーヒー持ってきたんでしたっけ? さっき熱々を淹れたばっかだと思うんだけど。そんな長いこと考え込んでたのか、と携帯を確認すると、時刻は十時十分を回って……え、もうこんな時間……。マジか。そりゃコーヒーも冷めるわ。

 ……何をやっとんのじゃ、俺は。

 深い、ため息が出た。なんか……、なんか俺、気持ち悪いな……何やってんだろう。

 もういい。もう十分だ。何をごちゃごちゃと悩むことがある? ただのお菓子だ、これは。貰えた。ありがたい、嬉しい。でも菓子だ。美味しくいただいて、来月お返しに何か贈る。それだけのことだ。オーケー納得。さぁ食おう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……………………どっちから?

 

 

 いやいや! だからどっちでもいいんだよ!! はよ食え!!

 がさっと包みを手に取り、両方のラッピングのリボンを解く。……が、そこで手が止まる。

 いいや、違う。どっちでもよくはない。断じてどうでもいいことではないのだ。そうでなければ最初から躊躇などしない。

 さぁ、どちらから口を付ける? 考えろ、簡単だ。先に食べる理由がある方を選ぶだけ。

 一呼吸置いて、クッキーの入った方の包みを持ち上げた。由比ヶ浜結衣から受け取った、お礼。彼女曰く、ただのお礼。

 なんのことはない、先に貰ったのはこっちだ。だからこっちを先に食べる。理由はそれでいい。俺を納得させる理屈になっていればそれでいい。

 一枚つまんで取り出す。紛うことなきチョコレートクッキーだった。初めて見たガハマクッキーはもはや炭でしかなかったが、目の前のこれはまさにクッキー、完全に焼き菓子である。これを雪ノ下の助け無しに作ったと言うのだから、それだけでもう感慨深い。かじってみると、サクリとした歯ごたえ。

 苦い。

 しかし焦げているわけではない。噛み続けると軽くほぐれていって、その中にちゃんと甘みが見つかる。

 美味しいじゃないの。これは恐れ入った。なんかちょっと失敗しちゃったとか言ってたけど、やや形が歪なくらいで他になんの問題もなく美味い。かなりビターな大人の味だったのは意外だったが。ひょっとして、バレンタインイベントで散々甘ったるいものばっか食ってたから、変化をつけようという配慮だろうか。まったく、頭が下がる。

 

 コーヒーをまた一口飲みながら、もう一つの包みに目を向ける。

 そのとき、脇に置いていた携帯が低く唸って着信を知らせた。液晶に表示された名前を見て――思わず宙を仰いだ。一応そういう予感はあったが、今来るか。

 

「……もしもし」

『ひゃっはろーう! 比企谷くん今大丈夫かな? 雪乃ちゃんのチョコもう食べた?』

 

 畳みかけるかのように、挨拶と質問。雪ノ下陽乃、その人だった。覚悟して通話ボタンを押したつもりが、あまりにも単刀直入な問いにやはり怯んでしまう。しかし後悔しても遅い。

 

「イベントで貰って帰ったヤツなら食べきりましたけど」

『そっちじゃなくて。今日の』

 

 煙に巻こうとしたところで逃がれられるはずもなかった。

 

「……今から食べるところですが」

 

 なぜチョコレートを貰ったことを知っているのか、聞くだけ無駄だろう。

 

『お! ちょうどいいじゃーん、今感想聞かせてよ』

「嫌ですよ……」

 

 苦い。苦々しい。

 気取られないように、静かに歯噛みする。正直、今この問題をつつかれるのはキツい。まだ何一つ整理できていないのだ。

 思い浮かべているのは、数時間前の光景。

 水族園からの帰り道。雪ノ下は降りるはずのない駅で降りて、改札を出る前の俺を呼び止めた。そうして、それを差し出した。

 呆然としていたが、「ありがとう」くらいは言えていたと思う。他にいくらでも口にすべき言葉があったのかもしれないが、その時はそれで限界だった。すぐに踵を返した雪ノ下を見送ることすらできずに、受け取ったものを見つめるばかりだった。

 

『何も減るもんじゃないんだからいいじゃない? 比企谷くんのグルメリポート聞いてみたいなー』

「引越しの方は片付いたんですか?」

 

 取り合わないことにして、別の話題をぶつける。

 

『んー、つまんないなぁもう。雪乃ちゃんに教えてあげたいのに』

「学校で会うんですから、感想……ていうか、礼なら直接言いますよ」

『ふーん? まぁ、後で雪乃ちゃんから聞き出すのも面白いかな。引っ越しならすぐ終わったよ、とりあえず最低限の荷物だけだったし』

「そうですか」

 

 あっさり引き下がってくれたのは助かった。声は不満そうだが、変なプレッシャーは感じない。多分、話の核心はバレンタインの件ではないのだろう。そうでなければ簡単には見逃してもらえなかったはずだ。

 

『じゃ、あまり遅くなるのも悪いし本題ね。今さ、ウチのお母さんに質問されちゃってるんだよね、いろいろと』

 

 陽乃さんは妙にゆっくりと、言葉を切りながら話す。その都度、俺の反応を確認するかのように。こちらは黙っているのだから、手応えなど確かめようが無いはずなのだ。にも関わらず、わずかな表情の変化まで向こうに筒抜けになっているかのような錯覚を起こす。

 

『例えば……雪乃ちゃんと一緒にいる子のこと、知ってるの? とかね。わかるよね? ガハマちゃんと、比企谷くん。まぁ、どっちかと言うと君の方がメインかな』

「はぁ……」

 

 雪ノ下の母親。面識があるとは言っても二度顔を合わせ、一度言葉を交わしただけだ。関心を持たれる理由に心当たりはない――と言えば嘘になるが、まさか、思っていたより警戒されているのだろうか。「ウチのかわいい娘の周りに悪い虫が!」みたいなアレなのかな……。やだ、不穏。

 

『さ、そこでおねーさんから比企谷くんに質問なんだけど』

 

 何が楽しいのやら、陽乃さんの声音は妙に弾んだ。

 

『ズバリ! ウチのお母さんに何て紹介してほしい?』

「はい?」

 

 想定の斜め上の問いだった。なんじゃそら。

 

「そりゃ普通に、同じ学年、同じ部活の生徒でいいんじゃないですか」

『すーぐそうやってとぼけるんだから。それで済むことじゃないってわかってるでしょ?』

「そんなこと言われましてもね……」

 

 首を捻って頭を掻く。この人がどういう回答を期待しているのかさっぱり見えない。なんでそんなにワクワク感出してるの? 何か面白い要素ありますか?

 

「参考にお聞きしますけど、お任せします、って言ったらどうなるんですか」

『おねーさんにお任せコースだと、将来の義弟☆ ってことになるね』

 

 まだそんなこと言ってんのか、この人は……。面白い冗談のつもりか、面白くもない冗談のつもりか。あるいは婉曲に「お任せとか言ってねぇで自分で考えろ」っておっしゃってるんですかね。

 

「……それを聞いた、将来のお義母さん☆ は、どうなさるんでしょうね」

『あらまぁ比企谷くんったら。わたしをおねえちゃんって呼ぶのが先じゃない?』

「しょーもないとこに引っかからないでください」

 

 微かな笑い声が、右の耳をくすくすと擽る。

 

『さて、どうだろうねぇ。雪乃ちゃんとまともに接点のある男の子なんて、前例が隼人くらいだからさ』

「そうですか」

 

 きっと、そうなのだろうとは思っていた。過去に親しかった異性が幼馴染だけ、それも葉山ただ一人だと言うなら、娘の周囲をうろつく男子――つまりは俺なんてイレギュラーそのものだ。マークされるのも頷ける。やだ、怖い……。

 俺など、警戒に値するような人間ではないというのに。

 

『さ、どうする?』

 

 陽乃さんがせっつく。しかし答えようがない。そもそも正解が存在する問いとも思えない。それでも敢えて答えるなら、やはりこれしかないだろう。

 

「お任せ、でお願いします」

『おや、義弟宣言? ついに?』

「違います。まさか本気でそんなこと言うつもり無いでしょう」

『ほう』

「陽乃さんの思うようにお願いします」

『ふーん……?』

 

 正直かなり勇気の要る選択ではあるが――多分、悪意のままにあることないこと適当に言ったりはしないだろう、多分。おそらくは、案外まともなことを言ってくれたりするはずだ。……おそらくは。

 陽乃さんは黙ったままだった。俺の答えから、俺の何かを測っているのか。不安を煽る空白だった。固唾を飲んで、陽乃さんの言葉を待つ。

 

 ――沈黙が、長い。

 

 え、大丈夫ですよね……? 本気で将来の義弟だとか、あのお母上に吹き込むつもりじゃないよね? あの威厳が和服着たような存在に冗談とか全然通じそうにないけど。

 時が経つほどに、緊張はいや増すばかりだった。いよいよ焦れてこちらから何か言おうとしたとき、ようやく陽乃さんの息遣いに発言の気配が聞き取れた。

 

『……ファイナル、アンサー?』

 

 演出がかった、厳かな声が問いかけてきた。構わずに通話を切ってやろうかと思ったが、さすがにその勇気は無い。

 

「〝フィフティ・フィフティ〟は使えるんですか?」

『あはは、そもそも四択問題じゃないからねぇ。あ、〝テレフォン〟は使ってもいいよ? もうすぐ雪乃ちゃんお風呂上がると思うから。代わってあげる』

「いいです、待った。結構です」

 

 無茶苦茶である。このお茶目お姉さんホント面倒くせぇ……。オーディエンスよ、教えてくれ。強化外骨格女子大生、雪ノ下陽乃への対処法を。

 

『ま、遊ぶのはこの辺にしておいて。もちろん比企谷くんのこと、変に悪く言ったりしないよ? 今回はそれでオッケー。でもね』

 

 とどめの一言は、先程までとは打って変わって静かな口調だった。

 

『これ、そのうち放っておけなくなるから。心しておくように』

 

 なおさら不穏な、含みのある忠告。そしておやすみという言葉を残して、通話は終了した。

 スマートフォンを持った手が、がくりと落ちる。『これ』とは具体的に何だ。『そのうち』とは一体いつだ。握りしめた右手の上に、項垂れるようにして額を置く。

 突っ伏したまま、頭では忙しく今の会話を反復していた。そのループが、電話の直前まで繰り返していた煩悶と繋がって、雪だるま式に膨れ上がる。

 わからない。今、俺が考えるべきことは何だ。奉仕部のことか、雪ノ下の母のことか。クッキーのことか、チョコレートのことか。

 顔を上げると、解きかけた包みからのぞく小さな紙箱。数日前に部室で分けてもらったクッキーは、もっと飾り気のない袋に詰めてあったことを覚えている。

 身を起こし、それを手に取った。

 そっと小さな箱を開くと、チョコレートが六粒。インゴット型のそれはつるりと光沢があって、表面には白く模様があしらってある。ドット、花柄、アーガイルチェック、それぞれ二つずつ。控えめながら繊細なデコレーションだった。どうやったのこれ……。手作りのはずだが、専門店の品と言われても疑いようがない。完璧主義ここに極まると言うか、これは……。

 

 これを、俺は何として受け取ればいいのだろうか。

 比企谷八幡の中の慎重派が、強く警戒を呼びかけている。これは世に言う義理チョコ、ささやかな儀礼のチョコに他ならない。妙に高い完成度は雪ノ下の完璧主義の為せる業だ。勘違いをするな、思い上がるな、逆上せるな。また間違えたいのか。

 一方でまた別の慎重派が、嫌に冷静な声を出す。

 事実、最近の雪ノ下の態度は以前と明らかに異なるではないか。その違和感を目の当たりにしながら、自覚しながら、指摘されながら、今さらどうして誤魔化すことができる? 

 いつもどおりのはずのやりとりの中に、微かに感じていた変化の兆し。決して口には出さず、違和感と名付けて保留しているそれ。ここしばらく、ずっとそのことを考えてきた。未だ答えは得ていない。

 間違えたくない。間違えたくない。受け取ってしまったものを前にして、思うことはそればかりだった。折本や、他の幾つかの失敗例など比ではない。今度間違えてしまえば、きっと俺はとんでもない深手を負う。それだけはわかっていて、だから間違えることを恐れている。バレンタインイベントの頃から抱え込んでいた困惑は、今や切迫感に変わっていた。

 はっきり言って、手に余る。

 今なお誇り高きぼっちを自認している俺だが、どんな問題も独力で対処すると豪語していられたのは過去の話だ。ここ一年だけでどれだけの人間に力を借りただろう。この件も、誰かに話すだけでも話してみれば糸口くらい掴めるだろうか。

 軽くため息を吐いたつもりが、口から出たのは呆れ笑いだった。

 またこれだ。いつの間にか誰かに頼ること、縋ることが当たり前のように選択肢に含まれている。そもそもこんなこと、誰にどうやって話すんだよ。「奉仕部の二人からバレンタインにお菓子貰ったんだけど」とか持ちかけるのん? 絶対無理だ。エクストリーム無理。

 再び自嘲の笑いが起こる。つーか最近、悩んでばっかだな、俺。

 ぼっちは話し相手がいない故に思索し、考察し、熟考する。一人で抱え込むような悩み事にも慣れっこ――と言いたいところだが、開き直ったぼっちは実にストレスフリーな生物だ。人並み以上のお悩み耐性を持ち合わせている訳ではない。

 友達を求めて焦っていた小学校時代、恋人がほしいと勇んだ中学生時代。不毛に足掻いていた頃と比べて、高校入学後の一年は実に安穏としていた。ほんの一年前なのに、あまりにも遠い記憶に思える。

 今はどうだ。女子から菓子を貰って右往左往している。ただのお礼で貰ったクッキーに、たった六粒のチョコレートに、こんなにも動揺している。しかもさっきの電話だ。マジで何なのあの人……ていうかマジで何なのこのチョコレート、このクオリティ……ああもう、ダメだ、また思考がループしている。

 

 やっとのことで、チョコレートを一粒摘み上げた。

 舌の上に乗せて一噛みする。たちまち目の覚めるような香りが口内を満たし、それまで果てしなく空転を続けていた思考が急停止した。

 口の中のそれが失われていくのはどうにも惜しかった。自分で食べておいて馬鹿みたいな話だが、どうしようもなく惜しかった。だから、それ以上は噛むことも、舌を動かすこともできなかった。

 それでもやがて、溶けてなくなる。

 舌に残る余韻を、冷めたインスタントコーヒーで流し込む。すると、妙な罪悪感が胃にもたれる気がした。

 食べてしまった。一粒、食べきってしまった。別に後悔しているのではない、と言うより後悔と呼びたくないのだが、とにかく「食べてしまった」と、飲み込んだ瞬間に思った。いやいや、受け取った以上は食べないなんて選択肢はない。「受け取ってしまった」のが問題なのだ。だったら受け取らないという選択肢はあったのか? どっちにしろ、もう引き返せない。いや、どうして引き返せないんだ。そもそも引き返せないってどこから……?

 コーヒーを一息に飲み干して、机の上を片付け始める。ガハマクッキーの袋を閉じ、香り高いチョコの箱に蓋をする。ダメです。今日はもう無理です。寝よう。風呂入って歯磨いて寝よう。宿題は明日にしよう……って訳にもいかないか。今出ている課題は、全部明日の午前提出だ。今からやるしかない。

 グズグズ悩んでいなければ、とっくに終わっていたはずだったのだ。つくづく、いつもと勝手が違う。

 バレンタインデー、恐ろしい子。



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息つく暇なく

 場面転換は記号に頼らない方が格好いいと思ってる派なんですが、今回は格好つけられませんでした。このサイト改ページ機能ないんですね。本当はあるけど僕が知らないだけかな……。


 眠たすぎて、瞼どころか頭が重い。

 睡眠が足りていない。授業の内容は頭の中にもノートの中にもさっぱり残らなかった。昨晩課題に手こずったせいだ。まさに本末転倒。いや、そんなんどうでもいい。眠い。

 今日は雪ノ下が部活に来ないと由比ヶ浜から知らされ、結局は奉仕部自体を休みにすることとなった。終礼の前からずっと、今日の部活をどう過ごすかと眠い頭を悩ませていたところだ。正直ほっとしていた。

 ともあれ、久々に明るいうちからの下校である。

 今日は結構風が強い。自転車を漕ぎながら全身に向かい風を浴びていると、一時的には目が冴えてくる。そして、ようやくまともに頭が動き出す。

 由比ヶ浜は『部活に来ない』という言い方をした。詳しくは聞かなかったが、口ぶりから察するに『授業には出席していたが部活には来ない』ということだ。果たして理由は……と、思考が余計なところまで及びそうになり、慌ててブレーキをかける。

 赤信号だった。

 漕ぐ足を止めたところで、今日これからのことを考えてみる。とりあえず宿題だけは片付けてさっさと寝たい。

 自宅で集中できないのは明らかだった。このまままっすぐ帰って自分の部屋に戻れば、また昨日と同じようにグズグズと悩んで手が動かなくなって、そのうち居眠りとかしてしまいそうだ。というか、間違いなくそうなる。

 こういう場合、無理にでも勉強するなら環境を変えるに限る。喫茶店なりファミレスなり、適度にノイズがある場所がいい。信号は青に変わったが、渡らずに方向転換した。心当たりの店を目指して、再び漕ぎだす。

 

 なにせ学校帰りのグループが多いから仕方ないのだが、この時間の店内はかなり騒がしい。あちこちから響く周囲を憚らない笑い声は、適度なノイズとは言い難い。

 とは言え、くつろぎに来たわけでもない。諦めて窓際の二人席に陣取った。

 小腹は空いているが、甘いものの気分ではなかった。たまごサンドとドリンクバーを注文する。店員が去ると、飲み物を取りにも行かず腕を枕にしてテーブルに突っ伏した。

 ほんの少し。ほんの少しだけ、サンドイッチが運ばれてくるまでは、目を閉じていたかった。

「失礼します」と声をかけられて身を起こしたのは、それから五分後か、十分後か。目をこすりながら身を起こす。ちくしょう、眠い。勉強どころじゃないんですけど。店員さん、もうちょっと持ってくるの遅くてもいいんですけど。

 とりあえずコーヒーでも、とドリンクコーナーへよたよた歩いていくと、中学生たちが奇抜なミックスフレーバーを作り出す素敵な遊びに興じていた。盛り上がってるところ悪いが、注いだらさっさと場所を空けてくれよな! あと、グラスから溢れそうなその茶褐色の液体は責任を持って残さず飲み干そうな! はちまんお兄さんとの約束だぜ!

 席に戻ってたまごサンドをかじりつつ、鞄をのぞき込む。さて、何から手を付けたものか。

 国語だな。楽しい楽しい現国のお勉強だ。まずは得意分野から取り掛かって、リズムを作ることにしよう。長文読解の問題集を引っ張り出し、開く。ぐっと目を閉じ、少しでも凝りをほぐそうと首をぐりぐり回す。ああ、もう、眠い。クソ眠い。でも仕方ない。やろう。アイスコーヒーを一気に飲み干し、ペンを手に取った。

 今日の課題は『随筆2』。制限時間は二十分。

 

 では、始め。

 

 

 

 

 

 

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 実際、国語の教科書というものは面白い。

 まことのひねくれボーイとして知られる俺であるが、現国の教科書に取り上げられる作品はわりと素直に楽しんで読めるものが大半である。なかなかイカした文章が揃っている辺り、さすが語学・文学の専門家が選りすぐっただけのことはある。

 小説は言わずもがな名作揃い。随筆や評論も、説教臭さが鼻につくようなものは案外少ない。今解いているような問題集にしたって、ハズレはほとんどない。

 小説は数ページだけを切り取って掲載しているものが多い。興味を惹かれた作品を図書室で借りて全編読んでみる、なんてこともときどきやっている。

 そういえば昔、「国語の教科書って面白いよな」という会話をクラスメートとしたことがあった。「は?(何それ、国語得意自慢? 優等生アピール? きも)」とだけ返されたのを覚えている。あれは多分、中学一年くらいの頃だな。ていうかこれ、会話じゃねぇな。

 ぼんやりとそんなことを思い出しながらも、ペン先は忙しく文章を辿って上下する。目は休みなく正解を探す……あった。五問目クリア。

 答えを書き込みながら、横目で残り時間を確認する。残り十四分。いいペース……いや、本当にそうか? 周りがうるさい上に寝不足、と考えてみれば順調な方だが、こういうときはやはり見落としや誤読が多い。さっさと仕上げて後から念入りに見直しておく方がいいだろう。

 気を引き締めて、第六問。

 

 〔  ⑧  〕に当てはまる表現を、本文中から十字以上十五字以内で抜き出しなさい。

 

 これも簡単っぽい――ほら、あった。ちょうど十一文字、これで間違いないだろう。見つけ出したそれを、解答欄に書き入れる。

 

『下手の考え休むに似たり』

 

 暫し呆然となって、自分でたった今書いたその言葉を見つめる。

 初めて目にする表現だったが、解説なんて見なくても意味するところは大体わかる。というか、はっきりわかる。むしろ、刺さる。思ってもみない角度から、いきなり図星を指された気分だった。駄目だ、今は考えるな。

 いつの間にか止まっていたペンを、再び動かす。自分の内側に意識を向けないように、昨日と同じ煩悶を繰り返さぬように、目の前の活字に必死で喰らいついた。

 どうにか、時間ぎりぎりで完答。途中までは余裕があったのに、やけに手こずった。雑念に引っ張られたせいだ。ため息を吐きながら解答のページを開き、自己採点を始める。

 一問目、正解。二問目、三問目、四、五、全部正解。サラサラと自分の解答に赤丸を付けていく。

 

――『下手の考え休むに似たり』とは

 

 雑念の原因となった六問目には、嫌に丁寧な解説が添えてあった。読まなくてもわかるっつーの、とか思いながらも律儀に目で辿ってしまう。

 

――良い考えも浮かばないのに長く考え込み、時間を浪費する様を言う。

 

 舌打ちが出そうになった。途中で無理に引っ込めようとして、赤ペンを動かしながら口元を歪める。わかっているのだ。まさしく現在の自分の状態がこれだ。ずっと正解の見えないことで悩み続けている。

 

――囲碁や将棋において、実力の劣る者の長考を嘲ったことに由来する。

 

 今は出会いたくなかった言葉だ。次の問題も正解……つーかそもそも、戒めるためじゃなくて嘲るための言葉だったのかよ。最初に言い出したヤツ性格悪いな、絶対。

 しかし、この比企谷八幡も性格の悪さには定評ある男だ。「休むに似たり、休むに似たり」と繰り返す脳内八幡が俺を苛んでいる。ウゼぇな、覚えたての言葉を無闇に使いたがる小学生かてめーは。十問目も正解、丸。

 

――『下手の考え休むに如かず』とも。

 

 うっせーよ。

 悩むも休むも同じこと? 大いに結構。休息上等だ。少しくらい休ませてくれ。

 

 モヤモヤをため息と共に肺から押し出すと、妙にでかい音になってしまった。近くの席の大学生っぽい男にジロリと見られた。すいませんでした……最後の問題にも赤丸。どうだ、全問正解だぞ、この野郎。……雑念漬けだったにしては上出来だが、いまひとつ気分は晴れない。

 なんか、たったひとつの宿題を終えるのに無茶苦茶疲れた。もういい、休憩休憩。グラスを持って席を立つ。

 ドリンクコーナーと席を往復しながらがぶ飲みを続けていると、携帯が鳴り始めた。

 思わず身構えたが、画面に表示された名前は陽乃さんではない。平塚先生だった。そりゃそうか。我ながら神経質過ぎる。まさか昨日の今日でちょっかいかけて来たりしないだろう。落ち着け、俺。ていうか、この電話どうしよう。

 出たくない。出たくないが、出ないとそれはそれで面倒くさいということは学習している。

 

『――もしもし、平塚ですが』

 

 出てしまった。

 

「はい」

『今、時間は大丈夫か?』

「へぇ、まぁ」

 

 元々うるさかった中学生のグループが馬鹿笑いを始めた。席は離れているが、さっきの大学生はかなりイライラきている様子だ。

 

『随分と賑やかだな。寄り道でもしてるのか』

「はぁ……ちょっと駅近くのファミレスで。勉強です」

『あぁ、いつものとこか。サイゼリヤじゃない方だな』

「はぁ……え、は? 何で〝いつも〟を知ってんすか」

 

 怖っ、やめて、怖い。

 

『生活指導だからな』

「そういう問題ですかね……」

 

 総武高の生徒がよく利用する飲食店くらいは把握していて当然なのかもしれないが、やっぱちょっと怖い。今晩思い出したら一人でトイレ行けなくなっちゃう。

 

『近いな。ちょうどいい、五分ほどそこで待てるか?』

「へ? え、何か話あったんじゃ」

『どうせなら顔を合わせた方が話しやすかろう』

「いや、何もわざわざ」

『通話料もかかる』

「いや、こっちの都合」

 

 ……切れたよ……。何も予定に不都合があるわけじゃないが、釈然としない。そもそも何の話をする気だろうか。なんか、説教とかだろうか。逃げちゃってもいいだろうか。

 先生は五分と言ったが、二分でやってきた。逃げ出した場合の言い訳を考えながら窓の外を見ていると、やけにカッコいい車がするりと駐車場に滑り込んでくるのが見えた。クリスマス前に一度乗せてもらった、2シーターのスポーツカーだ。本当に近くにいたんだな……。逃走の余裕はまったく無かった。

 颯爽と店に入ってきた先生は俺の向かいに座ると、メニューを見ることもなくコーヒーを一杯注文した。

 

「すまないな、勉強中に」

「いえ、キリはよかったんで」

 

 あれ? なんか文句のひとつも言ってやろうと思ってたのにさらっと流してしまった……謝られるとすんなり許してしまう俺の優しさが憎い。

 

「そうか……まぁ手短に済ませるとしよう。確認しておきたいことがあってね」

「ていうか、この時間はいつも仕事じゃないんですか?」

「教員にもノー残業デーというものが課されるんだよ」

 

 口調はさらりとしたものだが、目に光が無い。ていうかノー残業デーって「課される」ものなんだぁ、へえー、そうなんだー、知らなかったなー……。そういえば、親父に聞かされた愚痴でそんな内容のがあったような。たしか残業を制限された分のシワ寄せが後でやって来る、とかなんとか。定時で帰れるからって手放しには喜べないもんなんだな……。悲しいな……。

 

「ていうか、今ここに来ているのは実質残業なんじゃ? あ、でも顧問としての仕事って時間外勤務の扱いにはならないんでしたっけ」

「本題に入ろう」

 

 静かな笑顔にそれ以上の発言を封じられ、おとなしく話を聞くことにする。オーライ。ハチマン、ヨケイナコト、イワナイ。キカナイ。

 

「奉仕部の今後について、だ。君たちはもうすぐ受験生となる」

 

 先生が何を問おうとしているか、その二言だけで理解できた。

 

「いつまで続けるか、ってことですか」

「そうだ。今後も奉仕部の活動を続けるか。継続するなら、今までどおりの形か、それとも活動の頻度や時間帯を調整するか。そして活動の終了をいつにするか」

 

 無論、優先されるべきは学業だ。しかし目的もよくわからん部活とはいえ、突然活動を打ち切るなんてわけにもいかないだろう。着地点を見定める必要はある。

 二人は? 他の二人は何と言うだろうか。

 きっと継続に賛成だろう。根拠は――根拠は、あるような。ないような。少なくとも、敢えて反対するような理由はなさそうだ。俺にだってない。

 

「その前に気になるのは――」

 

 答える代わりに、他の問題を提起する。

 

「決着をいつにするか、ですね」

「なるほど?」

 

 運ばれてきたコーヒーを受けとりながら、平塚先生はなぜか満足そうに頷いた。

 奉仕活動における貢献度競争。負けた方は勝者の言うことを何でも聞く。入部当初に始まった雪ノ下との勝負に由比ヶ浜が加わり、今はバトルロワイヤル形式で進行している。

 

「例の勝負……部活動廃止と同時に勝敗を判定、でもいいかもしれませんけど」

「ふむ。由比ヶ浜はそういうつもりでいるようだったな」

 

 そうなのか。まぁ今までは期限の話なんてしたこともないし、そう考えるのが自然かもしれない。今の発言から察するに、由比ヶ浜とはもうこの件について話を聞いているらしい。とすると、部長の雪ノ下とはそのさらに前に話しているのだろう。

 

「個人的には、いつ活動を止めるか考えるのは決着ついてからでいいんじゃないかと」

「ほう」

 

 その場所を守るために苦悩した者もいる。その場所を失わぬように行動した者だっているのだ。受験生になると言ったって、勉強の妨げになるような依頼は断ればいいのだから、わざわざ活動の終了を急ぐ必要はないはずだ。

 だが、件の勝負についてはその限りではない、と思えた。決められることは先に決めてしまえばいい。どうしたって白黒つけようがない、形も定まらないようなものだってあるのだから。

 

「ついでに聞くが、決着の具体的なタイミングについて何か意見はあるかね?」

「いや、それは……俺は別にいつでも」

 

 由比ヶ浜はこの勝負を利用することで、強引にでも奉仕部の、三者の在り方に輪郭を与える道を示した。俺自身が否定した選択だ。そして雪ノ下も、今は別の道を見ているようだ。

 いずれにしろ、雪ノ下と俺の棄権により由比ヶ浜を勝利させ、彼女に結論を委ねるという選択肢はもうない。由比ヶ浜が独力で俺たちに勝てば話は別だが、そうなったとしても彼女がその手段を採ることはもうないだろう。そんな気がする。

 

「しかし、君の方から勝負の件を持ち出すとは予想していなかったな。ある程度の自信はある、ということかな?」

「負ける自信でなら負けませんね」

「清々しいまでの即答だな……」

 

 実際そうなのだから仕方ない。いやまぁ、俺にしては活動熱心だと思わないこともないのだが、いかんせん得点に繋がっているケースが少ないような気がする。採点基準は平塚先生の独断と偏見って話だし、何とも言えんけど。そもそも点数制が採用されているのかも定かでない。

 

「私は以前、どちらも優位には立っていない、互角だ、と告げたはずだがね。結果を確信するには早いだろう? 現状が不利だと考えているなら、逆転を狙いたまえ。そこが熱いんじゃないか」

「いや、あんとき先生勝負のこと忘れてたでしょうが」

 

 あれって確か、一色と城廻先輩の依頼のときか? 当時、由比ヶ浜に至ってはそういう勝負があることすら知らなかった始末だ。俺の指摘に平塚先生は苦笑を浮かべる。

 

「正直に言って、そもそもこの勝負は君と雪ノ下の交流を促すための方便だったからな。アイスブレイク、ってやつだ」

「ぶっちゃけますね」

 

 まぁ、今さらと言えば今さらの話だ。にしても、打ち解けさせるために対立を煽るって、矛盾しちゃってませんかね……。

 

「少なくとも当時は、ということだよ。この勝負が今の君たちにとって意味あるものなら、それはそれで良し」

「狙いどおりってわけですか……」

 

 辟易する俺に対して、先生はまた笑ってみせた。今度は苦笑いじゃない。

 

「結果オーライ、という話だ。君たちはいつでもあっさり予想を超えてくれるし、当然のように期待も裏切ってくれる」

 

 心底愉快なようでいて、呆れているようでもあった。

 

「あれこれ口を出してはみるがね。本当に君たちみたいな生徒を狙った方向に導けるなら、私はとっくに本でも出してるさ」

 

 ははぁ。ドキュメンタリー系の番組で特集される感じですか。情熱的な大陸とか宮殿inカンブリアとかですか。帯に「しずカッコイイ」とか載せちゃう感じですか。

 

「つい最近もこんな話をしなかったかな? 我々にできるのは、選択肢を増やすこと。誤った道をできる限り断つこと。そのくらいだよ」

「はぁ……」

 

 忘れもしない。ちょうどその話をしたときに、俺の将来の夢は断たれてしまったのだから。グッバイ、叶わぬ俺の夢。バイバイ、専業主夫……。

 

「そろそろ話を戻そうか。例の勝負、始まりこそ成り行きだったが、私もそこに焦点を当てて活動方針を見直すことにしよう。今まで曖昧にしていた部分を明確にして、君たち三人が共有する。そういうことでいいか?」

「はい、まぁ……最終的には勉強の邪魔にならんような調整が要るでしょうけど」

 

 異存はない。少なくとも来学期中には結論を出す必要があるだろうが、今はこれでいい。

 明確にする、はっきりさせるってのは良いことだ。模糊とした悩みでグズグズと燻っていた今、このタイミングで平塚先生と話したことである程度気分が切り替わった。

 少なくとも、多少は例の煩悶から遠ざかることができている。代わりに今は、雪ノ下や由比ヶ浜に負けた場合、何を命令されるかで悩んでいる。うーん、休まる暇がない……。

 そうだよな、「何でも言うこと聞く」だもんな。それすなわち何でもアリだもんな……。材木座の専属編集になれとか、屋上から戸塚への愛を叫べとか、サッカー部に入れとか、あーしさんの恋路を応援しろとか、相模と握手してこいとか、川なんとかさんに連絡先教えてもらってこいとか、城廻先輩の側近眼鏡に加われとか。これらすべて〝アリ〟なのだ。それが「何でも」ということなのだ。あな、恐ろしや……なんとか「焼きそばパン買ってこいよ」くらいで済まないもんですかね。

 脳内で繰り広げるミッション・インポッシブルに苦闘していると、先生は珍しく気遣わしげな目で俺を見た。

 

「悩みが尽きないようで大いに結構だが、あまり思い詰めないようにな」

「いや、そこまでってわけでも……」

 

 あるかな? あるな。何も結構じゃない。思い詰めまくりの追い詰められまくりだ。裏切者の汚名を着せられたIMFの工作員くらい窮地に立っている。そうか、俺こそがイーサン・ハントだったのか……。

 

「ま、リフレッシュは大切だ。気晴らしに……そうだな」

 

 先生はテーブルの上に置いたままの問題集をトントンと指で叩いた。

 

「勉強でもしたまえ」

「気晴らしが勉強ですか……」

「慣れれば案外効果的だぞ?」

「それは知ってるんですけどね」

 

 どうしてだろう、ため息が深くなっちゃう。今の俺に必要なのは気晴らしじゃないな。お休みだな、やっぱり。いっぱいいっぱい休みたい。何も考えず無為にゴロゴロしていたい。

 

「さて、私はもう行こう。時間を取らせて悪かったな」

「いえまぁ、別に」

 

 むしろせっかくのノー残業デーにわざわざ出向かせて申し訳ないような……いや、でもこの話どう考えても電話で済んだよね。通話代にしたってコーヒー代よりは安いよね? やっぱこの人俺の事好き過ぎじゃないの?

 それはそうとして、俺の方はこれからどうしたものか。結局課題は一つしか終わってないし、もうしばらくここで勉強続けるか。いつのまにかうるさい客は帰ってるし。

 先生がコーヒーを飲み干し、腰を上げようとしたときだった。まったく不可解な話、実に不思議なことだが、隣に雪ノ下がいるような気がした。いやそんなはずないんだが、本当にすぐ傍からこちらを見ている者がいる。

 先生と俺は、ぴったり同時に二度見した。窓を。窓の外を。

 

「うわ……」

「……うわ」

 

 雪ノ下は雪ノ下でも、姉の方だった。ガラス越しにこちらをのぞきこむ視線と目が合った途端、花ほころぶような笑顔。にこにこしながら手とか振っている。マジで……? なんでいんの……? 暇なの……?

 

「……どうする? まだここに残るかね?」

「いえ、もう出ます」

 

 陽乃さんの姿を見た途端、また脳が忙しく雑念を引っ張り出してきた。宿題は残っているが、やっぱ今日のところは帰ろう。いつのまにか新しい客が近くのテーブルで騒ぎ始めたし。

 先生は立ち上がった俺の手からスマートな動作で伝票を奪い、長い指で挟んだそれをひらと振ってみせた。そこらの男がやると気障ったらしいが、この人がやるとうっかり惚れるな。危険過ぎるぜ、教師平塚……。

 

「え、あ、あざっす」

「どういたしまして」

 

 へっへ、いつもすいやせんねぇ……と脳内で揉み手をしながら、会計を済ませた先生の後に続いて扉を出る。陽乃さんは薄暗くなってきた駐車場に立ち、目を細めて夕焼けの名残を眺めていた。

 

「何してるんだ、こんなとこで」

「ちょうど前通ったら静ちゃんの車、見えたからさ。いやぁ、奇遇だ!」

 

 にこやかな挨拶が妙に白々しく見えるが、本当にたまたまなんだろうか。

 確かに先生の車は目立つし、駐車場は見通しがいいから見つけやすかっただろう。目の前を通っているのは幹線道路だし、偶然通りかかったと言われるとあり得ないとは言い切れない。

 

「比企谷くんも。最近、よく会うね?」

「そっちが神出鬼没過ぎるんですよ」

 

 でもそれがまた、返って疑わしいような気がしてくるのだ。この人、妹ほどじゃないが平塚先生にも何かこだわってるような感じするんだよな……。なんとなくだけど。まぁ、だからってまさか先生の後をつけたわけでもないだろうし、正真正銘の偶然なんだろう。

 

「大学の帰りか?」

「ううん、今日はちょっとお休みしちゃったから」

 

 今日、部活に来なかった部長のことを思い出した。それをまた頭の隅に追いやる。陽乃さんが講義を休んだことと関係しているとは限らないし、関わりがあったとして、だから何だ。

 伏せていた顔を上げると、陽乃さんが俺にジト目を向けていた。

 

「ていうか、さっき目が合ったとき『マジで? なんでいんの? 暇なの?』って顔したでしょ。静ちゃんも」

「さすが、正確ですね」

「正確だな」

 

 素直に褒めたというのに、陽乃さんはコイツぅ、とか言いながら人差し指で頬や首筋をぐりぐりえぐってくる。く、くすぐったい、こそばゆい、痛い痛い痛い!

 たまらず逃れた方向には、どう見てもファミレスの駐車場には不釣り合いな高級車が停まっていた。先生のスポーツカーじゃない。まぁ先生の車も少し離れた場所で異彩を放っているが。背中に追撃があったので、さらに距離をとる。痛いってば。

 雪ノ下家の車だった。

 運転席に座る男性から目礼されたので、会釈を返す。何度か見かけている顔だ。この人、俺のこと覚えてるんだろうか。

 

「デートの邪魔したからって、そーんなに冷たくしなくたっていいじゃない?」

「何を馬鹿なことを言ってる。あと静ちゃんはやめろ」

 

 陽乃さんは背後で平塚先生と話し込んでいる。その隙に、さっさとその場を離れたらよかったのだ。すいません急ぐんで、とか何とか言って。

 それなのに。

 止せばいいのに、視線を送ってしまった。後部座席の、スモークが貼られた窓。その向こうから、こちらを見ている目があるかもしれないとわかっているのに。

 俺の目の前で、その窓は静かに開く。顔を覗かせ、柔らかく微笑んだのは雪ノ下雪乃ではない。彼女の母だった。

 

「こんばんは」

 

 その挨拶は、明らかに俺一人に向けられていた。視線は俺に注がれていた。

 

「……こん、ばんは」

 

 固い動きで、深めに頭を下げる。礼と言うよりは、ただ目を逸らすためのお辞儀。俯いたまま、暫し迷う。どうする? 早くこの場を去るに越したことはないが、あまり慌てた態度では雪ノ下母から逃げたような印象を与えるかもしれない。それは望ましくない……いや、逃げたいんだけど。そもそも陽乃さんからも逃げたかったし。

 昨日の今日だぞ……。昨晩、陽乃さんの口から母親の話が出て、「そのうち放っておけなくなる」なんて意味深に釘を刺されて、二十四時間と待たずにこれか。

 この状況はいったい何なんだ。わからないが、思わずにはいられないことが一つある。

 

 だから、ちょっとくらい休ませろって。頼むから。



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雪ノ下母「奉仕部って最初に聞いたとき絶対エロいヤツだと思った」

 タイトル考えるのがいちいち大変です


「ただ挨拶されただけで、何ビビってんだ」

 

 一時間前の俺が、今の俺を見たならそう言うかもしれない。気持ちはわかる。

 

「もっと落ち着いて対処できただろ」

 

 一時間後の俺は、今の俺を振り返ってそう言うかもしれない。ごもっともだ。

 ……いやいやいやいや、そんな簡単な話じゃないって。今現在の俺の身にもなってみろって。

 確かに雪ノ下母は、ただただ微笑みかけてきただけ。そしてこんばんは、と一声発しただけだ。気圧されるような鋭さ、何らかの含み、そんなものは一切ない。

 しかしそもそもの話、知人の親御さんと鉢合わせるというのは結構な冷や汗イベントではなかろうか。こちらは子供で相手は大人。面識はあっても会話したことはほぼない。聞くところによれば、俺に対して何らかの関心があるとかないとか。陽乃さんがこの人に俺のことをどう説明したのかも気にかかる。

距離感の掴み方が難しい条件がこれだけ揃っているのだ。ポーカーフェイスにも限度がある。焦りを隠すだけでギリギリ……いや、隠せてる? 隠せてない? 隠せてないか。

 とにかく先生、助けてください。

 その場を譲るように脇へ踏み出すと、雪ノ下母の視線は俺の背後、平塚先生の方へ移る。先生もそれに気づいて頭を下げた。

 

「ああ、これは……こんばんは、お世話になります」

「いいえ、こちらこそ雪乃がいつも」

 

 雪ノ下母が車を降りるのを見て、先生も俺の隣までやってきた。

 よし。これでいい。大人は大人と話すものだ。まともに正面から向かい合った瞬間は少々戸惑ったが、やはりただの学生など眼中になさそうだ。それで一向に構わない。どうぞ俺のことはお気になさらず。

 平塚先生と談笑を交わす雪ノ下母。今日は和服じゃない。羽織ったコートの下には、カーディガンとスカートをお召しになられている。そりゃそうか、年がら年中あんな恰好してられるわけがないし。うちの母親は敬遠しそうな装いだが、大変よくお似合いだ。どうでもいいけど「ユキノシタハハ」っていちいち長いな。「ユイガハマママ」といい勝負だ。いい勝負っていうか、完全に互角だ。

 お二人は初対面ではないようで、近況なんかを話し合っている。そういや、陽乃さんも平塚先生に教わってたんだっけか。その頃から面識があるのかもしれない。

 

「雪乃はよくやっていますか」

「仲の良い友人ができて、楽しそうにしていますよ」

 

 こういう質問だと普通は成績について答えるものだろうが、そこはもう話題にするまでもないらしい。さすが学年一位。そりゃ雪ノ下のあの性格だと、心配になるのは対人関係の方だよなぁ……。

 

「一年の頃に比べると随分柔らかい印象になりましたね。笑顔が増えました。慕っている後輩もいる様子です」

「あら、本当に?」

 

 後輩っていうのは一色のことを言ってるんだろうか。あれは慕われているというより、甘えられると案外チョロいという弱点を突かれてるだけのような。ちょっと奥さん! お宅の娘さん、チョロすぎてロクでもない後輩に目ぇ付けられてますよ! このままじゃ将来どんな悪い虫が寄って来るかわかったもんじゃありませんよ! お気を付けあそばせ!

 とは言うものの、一色が懐いていることに変わりはないし、雪ノ下母にとってもその事実は喜ばしいようである。ていうかこの突発保護者面談、俺まで聞いちゃっていいのかしら。よくないんじゃないかしら。

 さっさとこの場を離れたいところだが、黙って去るのも目立つ位置にいる。どこかで帰るタイミングを掴むしかない。聞いてちゃマズい話があるなら、そういうサインが出されるだろう。関心がない話題でもないので、しばらく聞いていることにする。

なるべく存在感を消したまま突っ立っていると、陽乃さんもこちらにやってきた。すすす、と近づいてくると、右手を胸の高さに持ち上げる。ちょっと、何ですかその人差し指。

 陽乃さんはまたしても指先で俺の脇腹をビシビシつつき始めた。マジしつこいなこの人。

 

「後輩というのは、同じ部活の子ですか?」

「あぁ、いえ……部員は二年生が三名だけでして」

 

 狙い澄まして繰り出されるその華奢な指先には、痛っ、こちらが下手な防ぎかたをすると逆に怪我をさせてしまいそうな怖さも潜んで痛っ、それがまた余計に対処を難しく……痛い痛い、やめてちょっと、ちょ、空気読んでくんない!? なんか今おたくのお母さんが主役(メイン)っぽい状況じゃない? お願いだからおとなしくしといてくれません??

 

「陽乃? あなた何を子供みたいなことしてるの」

「へー? 何がー?」

 

 白々しいぞ、この二十歳。が、母親のその一言で一応手は引っ込んだ。

 

「ごめんなさいね」

「いえ……」

 

 なかなか離脱の機会が巡ってこない。それどころか、陽乃さんの地味な攻撃に押されて先生たちとの距離が縮まった。その上、背後には依然として陽乃さんのプレッシャーを感じる。

 

「あなたも部員なのね? もう一人は、お団子の髪の子かしら」

「あ、はい……」

 

 ほら、会話に巻き込まれた。勘弁してほしい。知らない大人と会話するのは苦手なのだ。ついでに、知らない同世代や知らない年下との会話も苦手としている。オールラウンダ―と呼んでくれていい。

しかしながら、平塚先生もいる場だ。泣き言を言っている場合じゃない。先生に恥をかかせるわけにはいかないのだから。えー、こういうときは……そう、まずはきょろきょろしない。背筋を伸ばして胸を張れ。……顎は引く。

 

「二年F組、比企谷八幡です」

「どういう字を書くのかしら」

「比べる、企てる、谷、でヒキガヤです」

「下は数字の……?」

「えっと……八幡(やはた)製鉄所の方です」

「なるほど。立派なお名前ねぇ、縁起がいいわ」

「え、あー、ありがとうございます……?」

 

 生まれてこの方、俺の名前などにここまで好意的(に見える)興味を示した人間はこの人が初めてだ。社交辞令なんだろうが、ちょっと感動してしまう。というか、それ以上に戸惑ってしまう。困る俺を見て、くくっと忍び笑いしている平塚先生。笑ってる場合じゃない。助けてください早く。帰りやすい空気つくってください。

 

「確か……ボランティアのようなことをしているのだったかしら?」

「奉仕部だよ、ほーしぶ」

 

 陽乃さんが後ろから口を挟む。

 

「あぁ、そうだったわ。奉仕……先生が顧問をお勤めなのですね?」

「はい」

「お恥ずかしいのですが、あの子がどういった活動をしているのかよく知らなくて……」

 

 言葉は平塚先生に向けているようでいて、雪ノ下母は俺にも視線を送ってくる。これダメじゃない? 話終わるまで帰れないヤツじゃない?

 

「ごく簡単に申しますと、依頼に応じて悩み解決の手助けをする部活です」

 

 先生が掻い摘んで説明する。

 

「例えばどんな……?」

 

 しかし、返された質問には答えず俺を見た。先生が俺を見ると、雪ノ下母も俺を見る。いつの間にか隣に立っている陽乃さんも俺を見る。え、何、俺が答えるヤツなの?

 

「た、例えば……?」

 

 例えば、何だろうか。とりあえず記憶をさかのぼってみる。えー、バレンタインとか? クリスマスとか? なんかそういう生徒会関連のイベントの手伝いが多いな。でもそれって実質は生徒会の下請け、というか一色の下っ端みたいなもんってことで、これを「悩み解決の手助け」とするのは無理がある。他には……「クラス内のチェーンメール問題を解決して」とか。「女の子に告白したいから手伝って」とか。いやいや、これも外向きの説明にはふさわしくない。なんだこれ、難しいな。

 

「あー……自分の書いた小説を読んで感想を聞かせてほしい、とか……」

 

 ダメだろ。最初に挙げるのが材木座っておかしいだろ。もっと何かあるだろ。もっとまともなのが。

 

「料理が上手くなりたいので教えてほしい、とか……テニスが上手くなりたいので、練習を手伝ってほしい、とか」

 

 内容を簡略化してはいるが、まぁこの辺りが無難だな。うん。こんな感じです、はい。

 

「あとは、家族の帰りが連日遅くて心配だから、原因を突き止めてください、っていうのもありましたね」

「いろいろやってるんだねぇ」

 

 言葉だけは感心しているように聞こえないでもないが、陽乃さんはかなりどうでも良さそうだ。まぁ、部活の説明なんてものが面白いはずもない。

 

「依頼は誰でもできるのかしら?」

 

 ところが、この人は興味を惹かれたようだった。雪ノ下母。

 

「……ええ、まぁ」

「例えば、学外の人間でも?」

 

 思わず平塚先生を見るが、先生は俺の口から答えるように目だけで促す。

 

「いや、それは……」

「できるよね? 私もメールでお願いしたことあるし」

 

 確かに、陽乃さんから相談メールを受けたことはある。ただしアレは明らかに遊び半分の依頼だったし、解決もしていなければ、しようともしていない。由比ヶ浜は真面目に答えていたが、あの件を実例とは言い難い。

 実例と言うなら、川崎沙希の弟、大志からの依頼がある。ねーちゃん不良化問題。まさについ先程例に挙げた依頼がそれだった。

 ていうか口ぶりから察するに、この質問の意図は……まさか、何か依頼を持ちかけようとしていらっしゃる? いやいやいやいや。勘弁してください。

 

「そう、ですね。あー……相談自体は受け付けたことがありますが」

 

 正直に、そのままを答える。嫌な予感に、ついつい口調が早くなっていた。

 

「ただ、基本は学生相手の便利屋みたいなものなんで。もし、仮に何か依頼をされたいんだとしてもお力には……」

「雪乃のことなのだけれど」

 

 雪ノ下母は、そこで娘の名前を出した。

 

「お話だけでも聞いてくださる?」

 

 強い語気で俺の言葉を遮ったわけじゃない。だが、その一言で俺は黙った。肯定の意味で口を噤んだ。話だけでも、と言われてしまうと拒否のしようもない。

 いや、それよりも。今の俺に対してはそれが決定的な一言だと、その名前を無視できないのだと、この人は知っているのか。知られているのだろうか。

 

「聞くだけでしたら……」

「ありがとう、ごめんなさいね」

 

 雪ノ下母は本当に感謝した様子で、本当に申し訳ないという態度で、話を切り出した。

 

「あの子を家に戻すにはどうするのがいいかしら?」

 

 また、先生の表情をうかがう。口を出すかどうか、判断しかねている様子だ。

 戻す? 連れ戻す? つまり、一人暮らしをしている雪ノ下雪乃を、実家に戻したいということか。陽乃さんが妹の部屋に移り住んだばかりなのに。あるいは陽乃さんの引っ越しも、次女を連れ戻すための根回しのひとつということだろうか。

 

「……本人と直接話し合うのが一番かと……と言うより、他に方法がないと思いますが」

 

 雪ノ下母は、ふふ、と笑った。困ったように、それでいて上品な仕草。何かおかしい。質問する相手を間違っているとしか思えない。

 

「そうですね、そのとおりなのだけれど……今のままでは話す機会も少なくてね。仲の良いお友達の意見をぜひ聞いてみたいの」

「別に仲良くは」

 

 ない? ないだろ。もちろん仲良くなんかない。仲が良いとか悪いとか、そういう間柄じゃない。

 

「あら、あの子はそう思っているかしら」

「……どうも思ってないと思います」

 

 嘘だ。いや、不正確だった。正しくは「思います」じゃない、「思い込もうとしています」だ。

 雪ノ下母はひたと俺を見据えている。何かを測ろうとしている目。泳ぐ俺の視線を捕えて押さえつけるかのような目力。この人、マジで美人だな……。そりゃこの長女とあの次女の母親だもんな……。

 

「あなた、雪乃から何か相談を受けたことはない?」

 

 奇妙な質問だった。だから、なぜそれを俺に聞くのか。何をどう間違えたら俺が娘の相談相手になり得ると思えるんだ。ちらっと陽乃さんの顔をうかがってみたが、退屈しているのか、明後日の方向を見ている。表情はわからない。この人が何か言ったのか?

 だが、「相談」の心当たりは確かにあった。由比ヶ浜と雪ノ下、二人と水族園に行った日。観覧車を降りた後のことだ。あの時、雪ノ下が口にした依頼。あれは相談事に類するものではないか。

 

「相談って、どういう……」

「あの子の個人的な問題に関わる機会は、これまでになかったかしら」

 

 雪ノ下母は質問の表現を変えて言い直した。

 

「…………今のところ、ないですね」

 

 そうだ、俺自身はまだ何の関与もしていない。働きかけていない。今現在、俺は彼女の個人的問題に踏み込んではいない。これは嘘じゃない。だが、やはりこれも不正確な回答のような気がした。

 

「そう……ごめんなさい、話が逸れてしまったわ。けれど、やっぱりこんなことを聞かれても困るかしらね」

 

 そりゃ困るでしょ、普通。とは思ったものの、口に出すわけにもいかない。

 

「そもそも、なぜ一人暮らしをしているのか、俺は知りませんし……一度はそれを認めて、なぜ今さら戻らせたいのかもわかりません」

 

 成績はずっと学年トップのはずだ。彼女に限って、一人暮らしそのものが受験勉強の妨げになるようには思えない。見ている限りじゃ、怠惰な生活を送っている様子もない。

 

「理由はいろいろあるけれど、やっぱり心配で。実家にもなかなか顔を出そうとしないし。何かと制限したくはないのだけれど、せめて目の届くところにはいてほしいの」

 

 雪ノ下母は、一人暮らしを始めた理由については触れなかった。まぁ、こちらとしてもその点をつつく意味はない。

 

「心配って、どういう……」

 

 質問を続けようとして、止めた。あぁ……そういうことか。今、ようやく少し理解できた。

 この人はそもそも、俺に答えなど求めていないのだ。そりゃそうだ、娘と同じ部活、ただそれだけの学生の意見を参考にしようなんて無理がある。つまりこの質問を俺に突きつけること、それ自体に意味があるのではないか。そう考えるのが自然だ。何かを暗に示している。

 生徒会が主催したバレンタインイベントの直後。あの夜にもこんなことがあった。雪ノ下を擁護する声をあげた由比ヶ浜に対し、「これは家族の問題だから自重するように」と雪ノ下母は遠まわしに伝えた。線引きした。要はあれと同じなのではないか。ただし、方法は真逆。

 

「俺の意見じゃ参考にならないと思いますね。雪ノ下……あー……雪乃さん、と本当に仲が良いのはもう一人の部員、由比ヶ浜ですが、そいつにも難しい問題だと思います。少なくとも説得は無理です」

 

 いや、可能性はあるのだろうか。由比ヶ浜の言葉なら、あるいは。少なくとも俺よりは余程可能性が高いだろう。だが、説得の成功率がどれだけ高かったところで関係はない。結局のところ、赤の他人が家庭の事情に口出しなどすべきではないし、できないのだ。

 恐らくこの人は今、それを俺に知らしめている。本来は口出し無用の家庭内の問題に対して、敢えて意見を斯うことで。「ほら見なさい、答えられないでしょう」と言われているようであまり気分は良くないが、実際そうなのだから仕方ない。

 

「そう……そうね、無理を言ってしまったわ」

 

 よく言う。最初から答えられないとわかった上で聞いているのだ。この母親もなかなか、お人が悪くていらっしゃる。

 しかしこう言っては何だが、牽制のつもりなら無駄なことだ。雪ノ下と母親との間にどういう問題が生じているのか知らないが、端から口を挟むつもりなんかない。ひょっとして、雪ノ下に対する奉仕部の影響力を過大評価しているのだろうか。

 そういうことなら、どうぞ安心していただきたい。娘の心配はわかるが、雪ノ下雪乃の問題は間違いなく彼女自身のものだ。「私の気持ちを勝手に決めないで」と彼女は言った。今の雪ノ下が、それを他者に委ねることはきっとないだろう。

 だが、話はそれで終わらなかった。

 

「では、せめて先生の方から雪乃に話してやってくださいませんか?」

「……私から、ですか。本人はどのように言っているのでしょうか」

 

 丁寧モードの平塚先生は別人にすら見える。メールでのやりとりでもこんな感じだが、やはり慣れない。突然話を振られても先生は落ち着き払っていた。むしろ俺の方が呆然としているくらいだった。

 

「『余計な心配をする必要はない』、『引っ越しに無駄な費用がかかる』、と」

「おまけに、『一人暮らしの資金は将来働いて返すから』だってさ」

 

 陽乃さんはけらけら笑ってから、ふっと息を吐いた。

 

「ズレてるよねぇ、ホントに」

 

 雪ノ下母も同じくため息を吐いて、困り果てたという様子で頬に手を当てる。あぁ、その仕草は雪ノ下雪乃のそれによく似ている。彼女が呆れたときに見せる、こめかみを押さえる動作に近いものがあった。いや、そんなこと今はどうだっていい。

 

「……承知しました。結果をお約束はできませんが、まずは本人の話を聞いてみたいと思います」

「十分です」

 

 平塚先生はそれ以上の質問を返すこともせず、要望を受け入れた。かなり慎重な答え方だったが、雪ノ下母は満足したようだった。ちょっと待ってほしい。なんだそれ。

 

「勝手を言って申し訳ありませんが、よろしくお願いしますね」

 

 決して強制はしていない。だが、平塚先生は無視できない。必ず雪ノ下にこの件を伝え、家に戻る選択肢を示し、再考を促すだろう。求める声がある以上、何らかの対応をしなくてはならないのが先生の立場だ。嫌だ無理だで片付けられる部活動とは事情が違う。

 そしてきっと雪ノ下も、平塚先生を無視できないだろう。雪ノ下が家に戻る、その決め手にはならないかもしれないが、もし陽乃さんも雪ノ下を連れ戻すために働きかけるなら、後は時間の問題かもしれない。

 なんだそれは。

 別に、雪ノ下が一人暮らしだろうが実家暮らしだろうが俺はどうでもいい。雪ノ下が家に戻されるとして、その経緯も俺には関係ない。

 だが、湧き上がる疑問を、反感を抑えようがない。なんだそれは? 声に出してしまいそうだった。さっきまでの俺とのやりとりはもののついでであって、結局は聞き分けのない娘の説得に先生を動かすということなのか。

 雪ノ下母は丁寧に頭を下げた。そして振り向くと、運転手に声をかける。

 

都築(つづき)?」

 

 話が終わりそうな雰囲気を察していたのだろう、運転手は既にドアを開いて降りて来ようとしていた。そうだ、そう言えばこの人ツヅキさんって名前だった。どこかで聞いたことがあったはずだ。都築さんは雪ノ下母のためにドアを開こうとこちらへ回り込んで来る。いや、ちょっと待った。言うだけ言って帰る気か。

 自分が一番納得できないことが何なのか、自分でもあまりわかっていなかった。多分、平塚先生を使うようなやり方が気に入らないんだろう。きっとそうだ。しかし、それについて俺が口を挟むことなどできるはずもない。

 

「雪ノ下さん」

 

 それでも、代わりに言えることがひとつある。だから呼び止めた。

 

「今、思いついたことがあります」

 

 陽乃さんの目がきらりと光った。雪ノ下母も、興味深げに俺を見る。「ほほう?」みたいな視線。「面白い、聞くだけ聞いてやろう」的な目。いや、大したことじゃないんですよ。本当に。

 

「何か策、あるのかな?」

「いえ、策ってほど大げさなものでは……提案っていうか。まぁ、やることは簡単です」

 

 そう、なんとなく黙っていられなくなって、それがくだらない思いつきであってもぶつけてやりたくなってしまった。それだけだ。期待されても困る。引き止めてしまって申し訳ないくらいだ。だから手短に、ごく簡潔にそれを口にした。

 

「猫を飼えばいいと思います」

 

 夕暮れの駐車場は、水を打ったような静寂に包まれた。程なくして、大人たちは疑問の表情を見合わせる。

 

「猫……?」

「猫です」

 

 いかにも猫。すなわちキャットである。

 

「動物はお嫌いですか?」

「いいえ」

 

 俺が尋ねると、雪ノ下母は困惑の表情を浮かべたまま首を横に振った。ですよね。

 

「ご家族のどなたか、猫嫌いな人はいますか? それとも、他の動物を既に飼っているとか」

「いいえ」

 

 ですよね。

 

「他に何か、猫を飼えない理由はありますか?」

「特には……」

 

 そうですよね。本当は聞かなくても知っています。以前、由比ヶ浜が雪ノ下に質問しているのを横で聞いていたから。

 

「じゃあ、いいと思います。猫」

 

 雪ノ下親子は黙っている。俺の提案をどう解釈するか、暫し吟味しているといった様子だ。いやだから、そんな大層なことじゃないんですって。

 

「そんなにおかしいですか?」

 

 全然反応が返ってこないので、さすがに落ち着かなくなってきた。次女の猫好きくらい当然知っているだろうが、補足しておくことにする。

 

「世間の父親は、息子と会話するためにキャッチボールに誘ったりするらしいじゃないですか。うちの親には無い発想ですけど……まぁそれと似たようなもんです。話すきっかけがないなら、まずは接点を用意すればいい」

 

 雪ノ下親子の顔は見ずに、一息に話し切る。妙に酸っぱい表情をした平塚先生と目が合った。先生は一瞬何か言いかけて、悩んだ末に口を閉じる。代わりに、雪ノ下母が疑問を口にした。

 

「でも、それで変わるかしら……?」

「多少の効き目はあると思います。少なくとも、帰る頻度が増えるくらいは期待していいんじゃないですかね」

 

 実家で猫を飼う。猫は可愛い。次女、猫見たい、猫さわりたい。結果、実家に帰ってくる。ほら、完璧だ。多分。知らんけど。

 

「まぁ、提案ですらないっていうか、本当にただの思いつきですから」

 

 こんな戯言、無責任もいいところだ。まさか鵜呑みにすることもないだろう。そもそも「家族の問題」については根本的解決になっていないし、そこに近づく手段としてもいささかズレている。

 だが、あくまで依頼は「娘を家に戻すこと」。雪ノ下雪乃が物理的に実家へ足を運ぶ機会を増やすため、それだけのためなら有効だろう。あいつに聞かれたら、「そんな目的のためだけに動物を飼うなんて」とか怒られるかもしれないが。

 だが、ではどんな理由があればペットを飼っていいというのか。出会いのきっかけがどうだったかなんて、実際のところ些細な問題だ。大切に飼えるかどうか、元気に育ててやれるかどうか。それだけだ。雪ノ下は必ず大切にするだろう。

 そして大切にすればするほど、悩みの種も尽きない。ごはんが合わないとか噛み癖がなおらないとか病気にならないかしらとか、そんなことでうんうん唸ることになるのだ。ふはは、ざまぁみろ雪ノ下。

 と言いたいところなのだが、それで猫を飼うなんて話になるわけもない。

 

「いいえ、十分だわ。採用させてもらいましょう」

「へ?」

「は?」

「え?」

 

 雪ノ下母の反応は想定とまったく違っていた。うーん、それはちょっとねぇ……って言われると思っていた。むしろ「何言ってんのこの子」的な反応まで覚悟していた。平塚先生も都築さんもぽかんとしている。嘘でしょ……?

 

「いえ、ごめんなさい。少し性急過ぎたわね。でも、前向きに検討させていただくわ」

「あ……え? あ、はい……」

 

 愕然としている俺に、雪ノ下母は柔らかく微笑みかけた。

 

「ありがとうね」

「い、い、いいえ……え、マジですか? 猫、高いですよ?」

 

 陽乃さんが噴き出し、雪ノ下母にもクスっと笑われた。恥ずかしっ。何を口走ってんの俺。反応が予想外過ぎて無駄に焦ったせいだ。仕方ない。ドンマイ。いや、でも今のはさすがに恥ずかしい……。

 

「そうね、出費は小さくないわ。お父さんとも相談しないと……雪乃には話した方がいいかしら。サプライズの方がいいかしら」

「勝手にどの猫飼うか決めちゃったら怒るかもねぇ」

 

 なんかいきなり家族会議が始まってしまった。

 

「予告なしでペットショップにお連れすればよろしいのでは」

「なるほど、そうしましょうか」

「それいいねぇ、めっちゃ怒りそう」

 

 運転手都築さんまで加わってきて、サプライズの提案を始めた。ちょっと、ちょっと待って。ついていけない。あとどっちにしろ雪ノ下は怒るの? それ「いいねぇ」じゃなくない?

 

「あの、失礼ですが……そろそろ暗くなってきましたので……」

 

 先生は苦笑いを浮かべつつ、解散を促した。

 

「あら、すみません。遅くに引き止めてしまって……行きましょうか」

 

 雪ノ下母の声を受け、都築さんはドアを開いた。別れを告げた雪ノ下母が車に乗り込むと、今度は助手席の扉を開く。しかし、陽乃さんは動かなかった。

 

「陽乃?」

 

 後部座席からのぞきこむようにして、雪ノ下母が車内から呼びかける。

 

「私、もうちょっと話すことあるから」

 

 えぇー……。まだ何かあんの? もういろいろ限界なんだけど。寒いんだけど。早く帰りたいんだけど。

 

「帰りはどうするつもり?」

「静ちゃんに送ってもらうよ」

「あなた、そんな勝手に……」

「いいえ、構いませんよ」

 

 先生はこういうところで鷹揚だ。さらっと引き受けてしまった。

 

「じゃ、そういうことだから」

 

 雪ノ下母は娘の自分勝手に呆れた様子を見せたが、先生と俺、それぞれに改めて礼を言うと頭を引っ込めた。都築さんがばむっと扉を閉めて、運転席へ戻っていく。

 わざわざご丁寧に窓を少し開けて、雪ノ下母はもう一度頭を下げた。都築さんもこれに倣うと、速やかに車を発進させる。場違いな高級車は、静かにファミレスの駐車場を後にした。

 黒々とした車体が見えなくなるところまで見届けた瞬間、緊張の糸が切れた。何、この疲労感。ふすーっと鋭く空気を押し出すような音に目を向けると、平塚先生のため息だった。

 

「まったく……本当に……ヒヤヒヤさせてくれるな、君は」

「は? 俺? いやいやいや。めっちゃ礼儀正しかったでしょ、さっきの俺」

 

 立ち居振る舞いに関しては、過去最高に気を使ったつもりなんですけど。めちゃくちゃ疲れた。

 ところが、先生はあまりそう思っていないらしい。

 

「少しばかり挑戦的に過ぎたぞ」

「え? え、俺そんな態度悪かったですか」

 

 間違っても粗相の無いよう、細心の注意を払ったつもりだった。あれー? おかしいな……。そんなはずないんだけどな……。

 

「君はしゃきっとしてたつもりだったんだろうし、実際のところ普段と比べればかなりマシだったんだが……残念ながら好印象をもてる態度ではなかったな」

「マジっすか」

「基本的に無愛想だもんね」

「真顔は真顔なんだが、うん……表情が硬く見えるというか」

「目がねぇ、腐ってるもんね」

 

 陽乃さんは愉快そうにクスクス笑っている。腹立つ。その一言いちいち足す必要なくない?

 

「いや、結局具体的に何が悪かったのか、よくわからんのですけど……」

「この際はっきり言うがな」

 

 虚ろな目でタバコを取り出しながら、平塚先生は指摘する。ライターがシュッと低い音を立てた。

 

「さっきの君の言い方では、『こんな単純なことすら試してないくせに他人を動かそうとするな』と聞こえてしまう」

「ふ、深読みし過ぎでしょ……そこまでは思ってません」

 

 やっべー、そんな感じ出てた? 見え見えだった? っべー。

 

「ある程度は思ってるわけだ」

「いや、その……ていうかそれを疑ってる時点で先生も同じこと思ってるんじゃ」

「深読みし過ぎだ」

「えぇー……?」

 

 絶対嘘ついてるよこの人。多かれ少なかれ共感があるからこその推理だよコレ。俺の疑いの目を他所に、先生は疲れた顔でタバコをふかす。すはぁ、という吐息に乗って白い煙が広がった。

 

「ま、そりゃそう思うよねぇ。そんなことぐらい本人と話し合えって思うよね」

「いや、それは……だから、そこまで言ってないですって」

「ああいう人なんだよ。あの人、いつでも何でも人にさせるのが主義だからさ」

 

 批判や非難ではなかった。ただ、事実を述べている。陽乃さんの言葉からはそういう無機質な響きしか聞き取れなかった。どんな主義だそれ……。ぜひ見習いたい。

 

「まぁ、悪くなかったよ、今の。ある意味核心には近いし。本当にあり得ると思うよ、採用」

 

 笑いを引っ込めた陽乃さんは、励ますかのように俺の案を評価した。さすがにちょっと信じ難い。自分で提案しておいて何だが、それでいいのか、と思ってしまう。俺の発案がきっかけでトントン拍子に話が進むというのは、どうにも奇妙だった。

 

「……雪ノ下の猫好きは家族皆さん知ってるんでしょう。今まで飼わなかったのはそれなりの理由があるんじゃないんですか」

「お、それ聞いちゃう? 説明しようか? 逐一解説しちゃおうか?」

 

 少し落ち着いたと思ったら、またこうやってノリノリで面倒くさいテンションを押し付けてくる。聞く気が失せたので、別の質問にすり替えることにした。

 

「そういや、俺のことは結局何て言ったんですか?」

「おや。気になるかな?」

「昨日の今日で直接顔合わせることになれば気にもなるでしょ」

「そりゃそっか。それで、私のこと疑ってるってわけね」

 

「当たり前でしょう」とは口にしなかったが、顔には出てしまっていた。陽乃さんが電話してきたのが昨晩で、その翌日にさっきの有様だ。この人の差し金ではないかと、疑わない方がどうかしている。

 

「だから本当に偶然だって言ってるのにさぁ」

「何の話だ……?」

 

 話が見えていない平塚先生は、咥えタバコをくりくりと動かしながら頭を掻く。

 

「お母さんが比企谷くんのこと気になってて、『どんな子なの』って私に質問してきたんだよね。そんで私が比企谷くんに『どんな子って説明してほしい?』って聞いたの」

「んん……? わかるようなわからんような……いや、わからんな」

 

 ですよね。俺もわかりません。経緯は理解できても、思惑がまるでわからない。

 

「ちょうどさっき、車の中でその話してたよ。私もいろいろ考えたんだけどねー」

 

 陽乃さんは人差し指を口元に当て、困ったような表情を見せた。

 

「結局、私の主観であれこれ言っても仕方ないでしょ? だから事実だけをそのまま伝えたよ。『同じ学年、同じ部活の男の子』」

 

 なんだ、結局それだけか。いや、そんなはずがなかった。

 

「そして、雪乃ちゃんがバレンタインにチョコレートを渡した男の子」

「…………」

 

 それ、言うのかよ。言っちゃったのかよ。ため息が出そうになったが、項垂れて見せるのは意地が許さなかった。陽乃さんからのリクエスト受付に対して「お任せで」なんて言った手前、文句はつけられない。

まぁ、バレンタインの件は言うかもなってちょっと思ってはいたのだ。頭の片隅くらいで。正直、あの母親に知られても全然構わないと言えば嘘になる。だってほら、そういうのってそっとしておいてほしいじゃない、普通は。そっとしておくじゃない、普通は。ホント勘弁してほしい。

 

「比企谷。また目が澱んでいるぞ」

「ていうか、ほとんど睨みつけてるように見えるよねぇ」

 

 陽乃さんは俺の顔を正面から覗き込むようにしながら、薄く笑ってそんなことを言う。俺が目を伏せようとそっぽを向こうとお構いなしで、じろじろと観察を続ける。

 

「寒くなってきた! 早く行こうよ静ちゃん」

 

 そうしていたかと思えば、唐突に俺から離れて先生のスポーツカーの方へと歩いていく。静かな駐車場には、カツカツというヒールの音がよく響いた。

 

「その呼び方はやめろ」

 

 言いながらも先生はポケットから鍵を取り出し、リモートで車のロックを解除した。車に乗り込む陽乃さんを見ながら思わず呟く。

 

「何だったんですか、アレ……」

「何だったんだかなぁ……」

 

 先生も疲れたような声を出したが、不意に悪戯っ子のような笑顔を見せた。

 

「まぁ、私の生徒が人気者になりつつあることは、教育者として喜ぶべきことかもしれないな」

 

 そんな不吉な人気者聞いたことねぇよ。

 

「笑い事じゃないですよ……」

「笑い事さ。さっきの話だけじゃよくわからんが、見たところ君は突然絡まれて混乱しているらしいな。だが、よく考えてみろ。知人のご家族と仲良くお喋りしただけだ。あまり気にかけることじゃない」

 

 そうかなぁ……。ホントに? そんなこと言われても気になっちゃうんですけど。明日雪ノ下と会ったときにどう接したらいいか、余計にわからなくなってきたんですけど。

 

「まぁ、それでも気になるものだろうな。君くらいの年頃では特に。悩み事が山積みだ」

「……いや、そりゃまぁ」

 

先生は上着を翻すと、タバコを携帯灰皿に収めながら謝罪した。

 

「さっきは『思い詰めるな』などと軽はずみに言ってしまって悪かったな。やはり少年には試練が似合う。大いに悩み尽くすといい」

「いや、去り際にそんなこと謝られましても……」

「気をつけて帰りたまえ。これ以上は寄り道しないことだ」

 

 言い残して、颯爽と歩き去る。言われなくても、これ以上寄り道するような余裕は残っていない。もうとにかく疲れたし、眠い。帰ったら宿題も食事もできずに爆睡する自信があった。

 陽乃さんが助手席の窓から「じゃあね」と手を振っている。先生も振り向いてこちらを見たので、自転車の鍵を探す手を止め、頭を下げた。

 先生の車を見送りつつ、とぼとぼと自転車を押しながら先程のやりとりを反芻する。何故だか脳が、身体が妙に熱い。ぼーっとする。疲労のせいか、寝不足のせいか。

よくやったよ俺。何がなんだかわからなかったが、よくぞこの難局を乗り越えた。乗り越えたっていうか、ただ質問に対してボソボソ答えてただけなのだが、それでも俺マジ偉い。超偉い。

食欲がまったく無いが、帰ったら何か少し甘いものでも食べよう。疲労にはやはり甘味。

 先生のスポーツカーはとっくに見えなくなって、辺りはすっかり暗闇に沈んでいた。自転車にまたがり、強く地面を蹴って走り出す。

 

 

 …………いや、でも「猫、高いですよ?」は無いよなぁ……。



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