とあるロリコンの最期 (キューブケーキ)
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とあるロリコンの最期

1.歴史改変

 

 歴史のターニングポイントとして、昭和67年8月19日、革命75年記念と戦勝47年記念を祝うモスクワで時間犯罪の事件が起きた。弱腰で手ぬるく西側寄りな書記長に対して、保守派によるクーデターが発生。軍部と民衆の支持を受けていた保守派は、対外強硬路線で国民の意思統一と国家の再建を行おうとした。強いソ連の復活である。

 12月8日、ベラルーシで行われた会談で、東欧諸国のポーランド、ハンガリー、ブルガリア、チェコスロバキア、東ドイツへの軍事展開が決定される。

 ここ最近の政変で鷹派が主導権を握ったソ連の欲しがりな動きに対してEU諸国の警戒が高まり、NATO軍に動員が行われている最中の21日、ソ連西方軍集団は東西統一に対して動き始めていたドイツに対して軍事行動を開始した。

 ドイツ民族悲願の東西統一、そして米ソ融和の冷戦終結を世界は期待していた。しかし現実はその逆を炎上して進んだ。

 ソ連軍が西欧に対して動員された兵力は31個戦車師団、30個自動車化狙撃兵師団、3個空挺師団の合計64個師団。これを6個砲兵師団が火力支援している。参加した将兵145万人、戦車1万2千両、装甲車2万3千両、火砲1万2千門、航空機2200機。第三次世界大戦の引き金を引くには十分な戦力だった。

 昭和35年であれば、NATO軍はソ連に対してICBMやSLBM、核爆弾、その他の装備の保有数で勝っていた。しかし時代は変わった。

 結果、脅威に過剰反応した西側諸国は声明を出したが、現地は沸点に達しておりNATO軍と偶発的戦闘が勃発。人類史上三度目の世界大戦の始まりだ。

 圧倒的兵力のソ連軍は、初日に25~30キロ、3~4日で100~150キロ進撃すると想定されていたが、第二次世界大戦末期のドイツ軍と違いNATO軍は善戦していた。

 鍋は火にかけられており、25日には極東でもソ連軍が動き始めている。

 とは言え渡洋能力はWW2の米軍に比べて遥かに低い。沿海州から日本列島に侵攻したソ連軍は、第1波として3個自動車化狙撃兵連隊を中核に、戦車、砲兵、対空等で構成される第81親衛自動車化狙撃兵師団を選んだ。橋頭堡を確保され次第、第2波として後に続く第33自動車化狙撃兵師団はウラジオストクで待機中であった。

 西側の情報分析では、ソ連陸軍はおおよそ将兵180万名。191個の師団を保有し、その内、134個師団が自動車化狙撃兵師団、50個が戦車師団、7個が空挺師団となっている。

 通常、1個軍は2~4個自動車化狙撃兵師団、1~2個戦車師団に砲兵、ミサイル、防空、工兵、化学戦、通信、偵察、後方支援部隊を混成した部隊で構成されている。

 しかし一度に渡れる兵力が少ない以上、底が知れてると日本側の警戒は低かった。

 ソ連側の動きは巧妙だった。事前の空爆を行う事で警戒を高める事無く、石川県能登半島の奪取を狙った。

 低評価を取るか、勝利を取るかと言われればソ連の目的は単純であり、日本の小指をへし折る事で外交的譲歩を手に入れると同時に、欧州の他に戦場を作る事で米国に対する軍事的圧力をかけようとしていた。

 第九管区海上保安本部の七尾海上保安部は巡視艇しか保有してなかった。武装は12.7ミリ機関銃のみ。上陸部隊を乗せた輸送船団の護衛に当たっていた戦艦「ソビエツキー・ソユーズ」に呆気なく撃沈されてしまった。

 12月26日未明の0200頃、第233親衛自動車化狙撃兵連隊は第296戦車連隊、第91親衛砲兵連隊、第1169防空連隊等から抽出された部隊の増強を受けて千里浜に上陸した。

 彼らの出迎えは野良犬一匹すら居なかった。

「待って、敵は何処に居るんだ? だってさ、普通さ、もっと抵抗とかあるだろう?」

「演習よりも楽だったな」

 事前に想定していた水際地雷や砲火と言った自衛隊からの抵抗は無く、拍子抜けするソ連兵達だった。

 沿岸監視の警戒も無く、尖兵中隊が橋頭堡を確保した。午前中に上陸完了した連隊は要地である羽咋(はくい)市を制圧しつつ、国道415号線を東進し氷見(ひみ)市を目指した。

 能登半島北部の攻略を命じられた第235親衛自動車化狙撃兵連隊は、任務分析で頭を悩ませる事となった。第一目標は能登空港の確保であり、その前に適切な上陸場所を選定する事が問題となったのだ。

「糞、道も最悪だし何だって狭い場所しか無いんだ」

 増強された連隊の兵力を一度に陸揚げ出来る海岸が無かった。外浦海岸や曽々木海岸は岩が出ていて、西保海岸では狭く、空港までの道程も錯雑で不便だ。結局、紆余曲折を経て輪島(わじま)港を制圧して南下する道が選ばれた。

 26日午後の空港制圧後は、輸送機で旅団の残りが送り込まれた。ここまで上陸一日目の出来事だった。

 日本側の反応は後手に回った。攻めて来るなら直接、東京を叩く最短距離の新潟か、北海道の奪取を想定していたからだ。

 ソ連軍上陸に際して、高洲山のレーダーサイトは破壊され、市内に所在する航空自衛隊輪島分屯基地も制圧された。本職の歩兵相手に、第23警戒群は無力だった。

 それでも急の知らせを受けた第14普通科連隊は駐屯地(STA)を出発、全力で国道189号線を北上し、事態に対応しようとしていた。

 27日、重航空巡洋艦「アドミラル・クズネツォフ」の搭載機が対地攻撃を始め、道路を走る自衛隊車両は的でしかなかった。連隊本部、本部管理中隊の人的損耗は特に酷かった。

「連隊長!」

 叫び声が聞こえる。しかしそれ所ではない。

 本管中隊(HSCo)通信小隊(Sig)の森川和城3曹は横転した73式小型トラックから這い出した。運転していたドライバーの士長は最近結婚したばかりで、官舎に新妻を残している。森川と変わらず若かったが命を散らしてしまった。

 14連隊(14i)の残兵は瀕死の連隊長を収容し、制高点である末森山に後退した。

「撤収、急げ!」

 中部航空方面隊(MADF)航空総隊(ADC)から許可が降りず、上陸したソ連軍を叩く事が出来なかった。今、ソ連軍の攻撃は自制されているが、もし動けば人口密集地である岐阜や小松の基地(AB)が攻撃されるかもしれない。そんな政治的判断だった。

「敵の狙いは何だ。能登半島なんか攻めてどうする。主攻はいつ、何処に来るんだ?」

 本来、能登半島全般の指揮は、第10師団(10D)長をして統一指揮させる物だが、陸上自衛隊は他にもソ連軍が着上陸して来るかもしれないと言う事で、主攻が判明するまで大規模な部隊を動かせなかった。航空支援は無い。増援も送れない。手足を縛られた状態で戦えと言われてるような物だった。

 若い幕僚は無茶な作戦規定(SOP)と状況に悲鳴をあげた。

「敵の空挺(Abn)がいつ来るか分からないから動けない? 対空挺戦闘で支とうとなる要点を保持、予備隊も控置したいのは分かりますが、ふざけてますよ。こんな制限ばかりで守れませんよ!」

 中部方面総監部(MAHQ)では、若狭湾や中国地方の日本海沿岸部に必要最低限の部隊を配置して、能登半島に応援を送り込むべきだと言う意見が出た。ノルマンディーの連合軍橋頭堡に装甲師団を突っ込ませて潰せたのに、内陸部への反攻を許してしまったドイツ軍の失敗と同じ轍を踏む訳にはいかないと。

「結局、リスクを背負うのは戦う部隊なんですよ。14連隊の犠牲を無駄にする積もりですか!」

 空自の連絡幹部(ALO)を睨んだ所で仕方がない。近接航空支援(CAS)が無いことはやむを得ぬ事と理解する。しかし敵は逐次、兵力を増強し能登半島全域の奪取を企図している事が明白だった。これ以上の南下を許すわけにはいかない。

 僅かに一個連隊だが、第35普通科連隊を能登半島に前進させる事にした。35連隊は岐阜県と石川県の県境に近い白川郷まで進んでいたが、残りの行軍距離はまだ長い。

 28日、末森山の14連隊は窮地に陥っていた。第79親衛偵察中隊と増強第233親衛自動車化狙撃兵連隊に包囲を受けた。BMPやBTR、BRDMと言った装甲車の数だけでも自衛隊から見れば贅沢で羨ましいソ連軍の装備だった。

「我々がここに居るだけで敵は動きが制限される。それに簡単にはやられんよ」

 木が生い茂った不整地で車両の運用に適していない事だけが慰めだった。

 戦死した連隊長に代わり2課長の西脇伸宏3佐が、第1中隊の人員で連隊の指揮を代行した。前職は部内異動で1中隊長だったから、部隊をよく知ってると言えた。決心と処置に周囲から異論は無かった。問題は敵の兵力と出方だった。

 末森山から2キロ離れた桜の名所だったやわらぎの郷に隣接する千里浜カントリークラブには、ソ連軍の砲兵が陣地占領している。122ミリ榴弾砲や迫撃砲が偽装網の下で並んでいる。

 初戦の勝利でソ連軍では日本側の戦闘能力に対する過大評価は鳴りを潜めていたが、ソ連流の十分な支援射撃を行った。233連隊は七尾線を東進して集落センターのある竹生野(たこの)方向から山道を登り始めた。79偵察中隊は白山神社のある南吉田(みなみよした)に回り込み包囲を形成しようとしていた。

 末森山は城があった頃の曲輪の痕跡が残っている。満足な築城工事をする余裕も無い。第14連隊は偽装網(バラキュー)も何もかも失っていたので、個人装具の携帯円匙(えんぴ)で塹壕を掘るのが精一杯だった。

 本丸跡には観光用に説明盤が置かれている。描かれた縄張図を参考に、西脇3佐は防御戦闘の指揮を行った。旧日本軍ならば防御であっても受動はいけない、攻勢に出て敵を撃退し禍根を一掃する等と勇ましい答えを模範解答としただろうが、機械化部隊を相手に歩兵単独ではそうは上手くいかないのが現実だ。

 今回、1中隊は本丸、2中隊はニの丸、3中隊は三の丸と言う分かりやすい配置だ。

「砲迫に支援された約1個Bnの敵が線路の西側に陣地占領中。その内の約1個MiCo(+)が麓の神社から接近中だ。この山道だ。戦車や装甲車の協同は無いと思って良い。うちの中隊は、連隊の第一線として小丸大手門跡で敵を叩く事になっている。1Ptは三の丸跡、2Ptは若宮丸」

 西脇3佐から命令下達を受けた中隊長は戻って来ると、幹部、陸曹を集めた。指示を聞きながら第3中隊の八木航3曹は、急勾配な山道を登って来るソ連兵を憐れんだ。

 数倍の敵勢下とは言え、ここの防御編成は地形を利用してるので相互支援容易と悪くない。

 戦国時代にも末森山は戦場となっている。佐々成政が1万5千の兵を率いて攻めた時、末森城の兵力は500。彼我の差は圧倒的だったが、城主奥村永福は頑強に抵抗し城を守りきった。

 しかも今は小銃や機関銃、84RRと言った火器も存在する。やれない事は無いと信じた。

 同日、能登空港に移動完了した第83空挺旅団は車列を列ね県道26号線を南下、七尾北湾の良港である中居、鵜島を占領。引き続き国道249号線を南下した。

 日本は地形的に欧州で行われた作戦機動グループ(OMG)による突進等は行えないとソ連軍も分かっていた。

 順調な様で、ソ連軍は土地勘も無く不馴れな日本の地形である事、日本軍の襲撃を警戒しながらの移動で進撃は計画より遅れている。それでも独立任務支隊のスペツナズが橋梁の確保に奔走していた。

 一方の第10師団も、師団全部の集結は不可能であり、東部方面隊の第12師団は第10師団と隣り合わせの配置であり、隣の火事が延焼する可能性を危惧していた。

 独断専行は満州事変以来、旧日本軍の悪癖であるとされているが、時には臨機応変な対応が求められる場合もある。東部方面総監部に伺いを立てた所、第10師団に最大限の援助をする上で、能登半島に進出出来る様に事前準備として弾薬、燃料、その他の交付を許可された。

「在日米軍が欧州に転用されている現状で、大規模且つ組織的反攻は年明け1月以降の予定になる」と聞かされ、上は独力でも反撃をやる気だと理解した。

 12D長は現状で出来る限りの最善を尽くし、高田駐屯地の第2普通科連隊に富山空港の警備を命じた。部隊の展開はソ連軍に対する牽制となり、10Dに準備をなす余力となる。抜けた穴は松本の第13普通科連隊が塞ぐと言う物だった。

 この移動も上手く行った訳ではない。駐屯地から幾つか梯隊に分かれて出発し、上越から北陸自動車道に入りトンネルを抜けた所で飛翔体が見えた。

 敵襲だと理解した瞬間には遅かった。前方を走っていた73式小型トラックが吹き飛ばされた。停車した車列に銃撃が加えられる。最後尾でも爆発音がした。

 下車した隊員が反撃を始めると、敵は引き際も鮮やかに撤収して行った。

「スペツナズか……」 

 以前、ソ連軍の特殊部隊、スペツナズについて書かれたレポートを読んだ事があった。その時は、北海道を防衛する部隊やグアム等が標的とされてる程度の認識でしかなかったが、思い返せば、兵站や輸送への後方攪乱、防空施設の破壊等があげられていた。

 それは鳥ヶ首岬の側で海にも近い事から、海軍スペツナズ旅団のティームによる攻撃だと判断された。

 敵遊撃部隊(GF)を相手に包囲方式による撃滅要領を学びはしたが、広い地域で行動し高い山地走破能力を持つ敵の包囲線を構成するには数が足りない。1個連隊が足止めを喰らってしまった。草が生える遊兵化だ。

 

      ×  ×  ×

 

 昭和68年1月に1D、3Dを動員した日本側の反撃は色々あったが、ソ連軍の頑強な抵抗により失敗した。虎の子の第一空挺団(1AbnB)を火消しに投入するも、降りた後は歩兵として消耗に巻き込まれるだけであり、その後の攻勢を阻止する事は出来なかった。

 ソ連軍の進撃を停止させたのは、前田川や小矢部川、宝達山、三方峰と言った天然の障害物であり、北緯36度48分付近が自然発生の停戦ラインとなった。

 日ソ両軍が睨み合いを続けて8年が経過しようとしていた。しかし人類は有史以来、平和を長続きさせた事など無い。

 昭和76年6月1日、北陸が初夏を迎えつつある中、大野木亮一2士は北を監視している。

 停戦ライン付近に存在する市町村では、住民の強制退去が行われている。北の動きは全て敵だ。

 肩から負い紐で提げているのは、第一線の普通科隊員が装備するには旧式な64式小銃だった。

 ただでさえ員数分の装備が不足している。大野木達の様な即席の季節隊員の装備は、正規の3・4月隊員と違い、補給係から渡された被服は加藤商事やFP商事やあれやこれや其処らから調達された可燃性の官品類似品だった。待遇に不満を持っても仕方ないのは理解出来る。

(分かるけど、不公平だよな)

 歩哨任務の交代を終えると陣地に戻る。

 季節隊員は5週間の即席訓練を終えるとGOPに配置され、3ヶ月間のGP生活が始まる。最前線のGPには、交代で1個小隊が配置されていたが、しょせんは連隊主力が展開するまでの捨て石だ。

 死への恐怖は酒や娯楽で紛らわせるしかない。大野木が人生を達観するにはまだ若い。

 自分の寝床で煙草と、巡回中に酒屋からくすねたバカルディを楽しむ。

 気分を落ち着けていると砲声が聴こえた。

「近い?」

 腰を浮かせた瞬間、小隊の陣地に122ミリ榴弾が正確に着弾し吹き飛ばされた。大野木は勿論、自分の死を自覚しなかった。

 ソ連軍は対日戦に際して、当初は佐渡島経由で北越から関東地方に直接進撃する経路を考察していたが、極東艦隊の保有する能力から言っても不可能だと判断していた。しかし能登半島を先っちょだけもぎ取る事なら十分に可能だった。

 結果、軍事的目標は攻略したが、政治的目的は達成出来なかった。クレムリンの指導部は失敗を認めず、再度、日本に揺さぶりをかける一撃を軍に求めた。

 共産党指導部が実行を命じたら、GRUは否とは言えない。

 現実的には能登半島正面からの攻撃は無駄が多い。そこで基本に立ち返り、主攻と助攻の役割が戻された。

 要は首都東京を落とすか、脅かして日本政府から譲歩を引き出せば良い。最終的に日本から引き揚げる事も織り込み済みだった。

 能登半島に第21親衛戦車師団、第128機関銃・砲兵師団を増強していたソ連軍は、第35軍を富山県に侵入させた。日本では他国と違い、銃器が市民に普及してなく民兵組織による妨害も想定せずに済んだ。

 ソ連軍の南下、戦闘再開の知らせに激震が走った。第12師団は富山県に部隊を集結させたが、ソ連軍にとっては関東平野までがら空きとなり障害が消えた形となった。

 第5軍は、日本で拿捕した民間船舶まで徴用して、新潟沿岸部の糸魚川、上越、柏崎に上陸作戦を敢行した。

 第17親衛自動車化狙撃兵師団は、糸魚川から中央道を、第81親衛自動車化狙撃兵師団は上越から上信越道に、第127機関銃・砲兵師団は関越道をそれぞれ南下し、東京を目指す計画だ。

 ソ連軍前衛の行軍隊形は、警戒部隊として尖兵を命じられた偵察中隊を先頭に、前衛本隊である自動車化狙撃兵大隊、戦車大隊と続いていた。その上空は、拡張された能登空港から空軍がやって来てカバーしており、師団主力は側方の警戒部隊と共なる更に後方に位置する。

 11日、上信越自動車道を進む81師団前衛は、長野市松代で最初の抵抗を受けた。

 90式戦車や74式戦車を保有する富士教導団(FSB)第1機甲教育隊(1Tng)だ。海津城跡に陣地占領する特科教導隊(FASch)の砲撃で混乱する敵の車列に、戦車が突っ込んで行く。ソ連兵は文字通り千曲川に叩き落とされた。

 攻撃に失敗した81師団は、一部の部隊に大笹街道を迂回させFSBの後方連絡線を遮断しようとした。更に、148号線を南下する17師団の前衛が30キロほど離れていない事もあり協力要請を出した。

 FSB長は、補充と再編成を受けていた1Dの応援が到着したら、81Dを撃滅する決心を持っていた。しかしソ連軍は攻撃を継続、結局は数で押し切られてしまい、陸上幕僚(GSO)長から後退の許可が出た時、FSBの稼働戦車は僅か8両しか残っていないと言う激しい戦闘だった。

 一方のソ連軍も戦場の勝利と引き換えに、伸びた補給線に加え、松本空港制圧を企図して白馬に集積していた軍需品を空自の空爆で全て失った。その上、FSB相手の包囲戦で時間を消費してしまった。放った三本の矢の内、二本がへし折られたと言える。

 

 

2.平和の弊害

 

 あの第三次世界大戦から10年以上の時が経とうとしていた。

 平和は時として人を腐らせる。ソ連軍と国連の停戦監視団が引き揚げて、能登半島がソ連に侵略された事も過去の出来事として風化している。

 昭和91年秋、沖縄の地で饗宴が開かれた。銃弾が飛び交い、血と硝煙の嵐が吹き荒れる饗宴だ。

 それ以前の男は平凡であった。男は高校卒業後、航空自衛隊に入った。空を飛ぶ戦闘機に魅せられたからだ。しかしパイロットに成るには致命的に視力が悪かった。パイロットの適性は無く、地上の整備員に回された。男は夢に破れたのだ。

 それでも男は自衛官である事に固執した。

 自衛官でさえあれば国防に携われる。

 第三次世界大戦からもう15年だ。国際社会で誘い受けな日本は、自分から手を出す事は無く何もしない。戦争が起こるとは考えたこともない。

 ただ自尊心を満足させられるからだ。ネットで知り合った女も特別職国家公務員と言う肩書きで簡単に引っかかった。そして(性的な意味でも)美味しく頂く事もあった。

「お前には辞めて貰うぞ」上官はそう言った。

「何とか成りませんか」眼鏡をかけた男はへりくだって懇願した。

 しかし現実は厳しい。思いっきり殴られ眼鏡が吹き飛んだ。

「この屑が。散々迷惑をかけておきながら良く言う。責任を取れ」

 男、松岡睾一(マッツウォカクゥオゥイッツィ)は航空自衛隊をリタイアした。未成年の少女とホテルに行ったのがバレて懲戒免職だった。相手とは12歳の頃からの付き合いだった。遊びで合意の上だった。それなのに裏切られた。

 そして松岡は大田区の実家に帰ったが、醜聞からマスコミに追われ、誰も知り合いの居ない沖縄に逃げて来た。

 沖縄最大の都市うるま市。イラク戦争の特需で人口は那覇市を超え、政令指定都市と成った。街は米軍の落としていく金で潤っている。

 金武湾に面した石川中学校は松岡にとって心のオアシスだ。未成熟な青い果実をもぎ取る快感を忘れはいなかった。ここなら米兵に罪を擦り付けられる。

 国道329号線沿いのショットバー、『ビッチ・ガール』でシークワーサーの果汁を絞ったスピリタスを飲んでいた。頭はアルコールで重くなるはずだが、一向に酔えなかった。

 松岡のショットグラスにお代わりが注がれる。化粧と香水の混ざった香りが松岡の鼻孔をくすぐる。

「お酒に強いのね。私、紫帆(シフォ)。貴方、どこから来たの?」

 紫帆は窓の外を眺める松岡の背中に哀愁を感じ惹かれた。直ぐに分かった。沖縄の男とは違う。ナウいヤングな内地の男だ。

「東京だ」さらりと告げる。松岡にとって20歳以上はババアだった。だからガッツキはしなかった。

「凄いじゃない」紫帆はカウンターに肘を着きながら微笑んだ。強調された胸と谷間が松岡を誘う。幾ら鈍くてもリアルな誘惑は効果的だ。松岡の視線が下がった。

 紫帆は内地の大都会に憧れていた。きっかけさえあれば沖縄を出ていきたかった。

「ねぇ」閉店の札をかけた紫帆。

 松岡は誘われるまま二階に上がり紫帆を抱いた。文明人がパンツをはくのは脱がせる楽しみがあるからだ。

『ビッチ・ガール』の二階は居住区に成っている。布団の上には裸に成った紫帆と松岡の姿があった。

 甘く濃い葉巻の香りが情交の臭いを上書きしている。キューバ産のコイーバだ。

 葉巻をくわえる松岡に対して紫帆は不機嫌だった。

「早い、早いよ!」松岡の耐久力は無く紫帆は怒鳴った。

 布団の上で怒鳴る紫帆の股間から松岡の漏らした物が溢れている。健康的な体は淫靡で松岡をたぎらせる。

「きゃっ!」

 再び挑む松岡は31歳。現役を退いて体力も落ちていたが性欲だけは尽きない。

 数をこなして紫帆を満足させた松岡は、階下に降りてスクガラスを酒の肴に酒盛りを始めた。

 扉が開いた。閉店の札を気にせず入って来た男は店内を見回した。

 松岡しか居ない事に気付くと顔色を変えた。

「てめえなにやってるんだ」そう絡んで来た男は、派手な髪型をしていた。

「酒を飲んでるだけだ」

 抑揚の無い声が馬鹿にしてる様に感じた。男はカウンターに置いてあった果物を手に取った。

 マンゴーだ。

「ふざけやがって!」そう言うとマンゴーをカウンターに叩きつけた。

 砕けた果肉と果汁が飛び散り松岡の席まで飛んで来た。物に当たるチンピラの脅しだ。

 松岡のズボンのポケットにはエマーソンのフォールディングナイフ、CQC8BTSが潜んでいた。だが使うまでもない。

 騒ぎで目を覚ましたのか紫帆が降りて来た。

「てめぇ、何、男を連れ込んでるんだよ!」紫帆に怒鳴りかかる男。

(リュウ)ちゃん、この人は」

「うるせえ」琉と呼ばれたチンピラは紫帆にゴーヤを投げつけると、そのまま松岡に殴りかかった。

「フッ」松岡は短く息を吐くと脇に避けて右胴打ちを放った。拳がめり込んだのはチンピラの肝臓だ。

「うげぇ……」涎を吐くとしゃがみこむ。

「止めて!」紫帆が割り込んで来た。

 チンピラは琉蛾(リュウガァ)と言う。紫帆の別れた夫の連れ子で、紫帆を何かと気にかけてくれていた。

(義母と息子、安っぽいAVのタイトルかよ)

 松岡は皮肉げに笑うと飲み直した。その後ろで琉蛾は咳き込みながら紫帆に連れられて店を出て行った。

 

      ×  ×  ×

 

 翌日、松岡はイオンで小中学生を視姦して楽しんでいた。さすが世界一の変態国家とも言われるクールジャパンの男だ。

 一時は流行りだった多目的トイレに連れ込むのも良いがカメラや人の目もある。下校時を狙おうかと考えていた。

 トイレに向かおうとした。その時、スマホに着信があった。紫帆だ。

『助けて!』紫帆の声は緊迫していた。

 自転車を飛ばして『ビッチ・ガール』に戻ると店内は荒らされていた。

 辺りを見回していると店の固定電話が鳴った。

『よお、俺だ』誰だと言う前に言葉が続けられた。『紫帆は預かっている。山城ダムだ。俺の仲間と昨日のお返しをたっぷりさせて貰うが、怖かったら本土に逃げ帰っても良いぜ』

 山城ダムは第二次世界大戦後、日本軍捕虜や県民を使役してアメリカ軍が作った東洋最大のダムで、建設途中に数万人が死にダムの底に沈められた。近年、ダムの補修工事で埋められた遺体が発見され問題と成っている。

 つまりダムは周囲から隔絶された場所だ。敵が待ち伏せするには最適の場所なのだろう。

 仲間と言う事は数を揃えている。数を相手するには武器が要る。松岡は紫帆を救う為に銃を手に入れようとした。

 アンダーグラウンドな情報はネットで簡単に入手出来た。スマホを閉じると松岡は呟いた。「与那城か……」

 与勝半島の与那城は、うるま市として独立するまで中頭郡に属していた。沖縄戦では賀谷支隊と特設第1連隊の間隙を突かれ南北に分断された日本軍だが、お陰で与勝半島は初期に米軍の勢力圏に落ちた。それらの要因から戦後、米軍に土地を強制接収と言う形で奪われホワイト・ビーチ地区が作られ運用されている。

 沖縄には米軍から放出された軍装品を扱った店が多い。中には演習場に忍び込んで拾ってきた不発弾も混ざっており警察も目を光らせている。だが全てを監視するには人手も足りない。

 与那城の一画に銃を密売する小さな工場があった。

「アサルトライフル、ハンドガン、それとスペアマガズィンをそれぞれ6個」

「あんた馬鹿か? 沖縄だからって簡単に銃が手に入る訳じゃないぞ。うちは真っ当な商売をやってるんだ。他所に行ってくれ。これだから揚げバター何て物を食う本土のやつらは……」

 松岡を無視するとサーターアンダギーを食べ始める店主だが、松岡は視線を逸らさず店主の顔を見ながらカウンターに札束を積み上げた。

「200万では足りないか?」

 サーターアンダギーを放り出して、店主は態度を豹変させた。胡散臭げな物を見る態度からふてぶてしい笑みへと変わった。「アフガニスタンの中古ならある」そして出されたのはM4とグロック19。「使い方は分かってるんだよな」片目を瞑ってそう言う店主に対して松岡は初めて笑みを向けた。

 自転車の前かごに装備を入れたバッグを乗せてダムまで走らせた。服装はジャージ下にTシャツ、サンダル、野球帽と言うラフな格好だったので警察にも止められなかった。

 ダムが近付く。近くの繁みに自転車を止めると装備を身につける。沖縄で米軍の放出品、特に被服は簡単に手に入る。

 Tシャツの上にチェストリグを身に付けた。サヴァイバル・ゲーム用の類似品だが使用には耐える。M4とグロック19のスペアマガズィンを納めた。

 ダムにはバットや鉄パイプ、木刀を持ったチンピラの群れが居た。管理する職員は揉め事を避けてか姿は見受けられない。

 紫帆はチンピラに輪姦されていた。チンピラ達の注意は紫帆とやる事に夢中でそれている。

(屑どもめ)

 地面に伏せ射ちの姿勢でM4を構えた。

 マブラヴで左手はしっかりと持つ事に成っていたが、実際は被筒部に軽く手を添えるだけだ。教範も被筒後部を右手で握るとあるが、ぎゅっとは握らない。腕立て伏せをして筋肉痛で力が入らない。それぐらいが適正だ。

 照門、照星が正しい見出しで一点に繋がる。

 頬づけされた口は軽く開いていた。

 深呼吸をする。

 切替えレバーはフルになっている。

 がく引きに成っても構わない。トゥリガーを絞った。

 5.56mmの弾がチンピラをなぎ倒す。鬱屈したこれまでの感情が解き放たれた。

 ホールトマトの缶をぶちまけた様に死んでいくチンピラの姿は、人生最高の快感だった。

 叫び声をあげて逃げようとするチンピラの背中にも5.56mmの弾がめり込んで行く。

 人体破壊で臓物を見るより流血する方が多い。

 紫帆はぐったりして動かない。動くチンピラが敵だ。

 攻撃方向から逃走する敵、予備隊どころか班・組での連携、掩護態勢も無い。混乱は好機だ。

 離脱する敵の退路を遮断し撃滅すべく、松岡は予想接近経路に向かって索敵前進を実施した。

「ふふん」

 敵の遺棄体に紛れて潜伏する生存者がいないか顔を確認をすると、震える生き残りと目があった。

「よお」

 銃声と共に松岡の哄笑がダムに響く。

 

 

エピローグ

 

 健全なる精神は健全なる身体に宿ると言う言葉がある。誤用される格言だが、一般的解釈の本質は概ね正しい。肉体は精神を表す鏡だ。だから人は容姿にひかれる。

 松岡にとって中学生の魅力は一言で語り尽くせない。ずっと見詰めていたい。

 成長途中の柔らかな体と薄い胸、そして無垢で簡単に騙される心が好きだ。

 どうして大人に成ってしまうのか。そのまま成長を止めれば良いとさえ思っていた。

 そして抱き締めて一日中、繋がっていたい。

 松岡の趣味嗜好がどうあれ、沖縄には居られない。チンピラから紫帆を助け出すと、金目の物を奪い本土に逃走した。

 九州の福岡で紫帆は風俗嬢を始めた。逃走資金が尽きた松岡は紫帆のヒモだ。チャンドラーやハメットの様なハードボイルドとは縁遠い。

 そしてGoogleマップで隠れ家の近くを検索した。

 志磨中学校の校庭で体育をする児童の姿を路肩に停めた軽トラックの車内から眺める松岡の姿があった。軽トラックは逃走の為に買った中古車だ。

 きょろきょろしたり写真を撮らない。それが視姦のこつだ。そして網膜に焼き付ける様に記憶に刷り込んで、帰ったら紫帆を抱きながら妄想する。

 窓ガラスがノックされた。

 振り向くとスーツ姿の男達に囲まれていた。ポケットにはSOGナイフのフォールディングナイフ、FSA98が入っているが手を動かす必要は無かった。

「松岡睾一さんですね。警察です」

 逃走生活の終わりだった。

 日本の警察は優秀だ。

 頸部側面からナイフを突き刺し総頸動脈や気管を切り裂く、肝臓を刺突すると言った格闘技術も学んでいたが、松岡は素直に逮捕された。

 ナイフは没収された。3.5インチのブレードはAUS-8の日本製ステンレス鋼で硬度が57~58HRCに相当する。ウォルマートで簡単に手に入る代物だが、ピストンロックのポケットナイフの中では使いやすく少し惜しかった。

 警察署の取調室では無く、高級ホテルの一室に通された。しばらくしてボーイが食事を持ってきた。

 厚みのあるステーキだ。

 松岡は監視の警察官に声をかけた。

「サーロインステーキよりフィレ肉の方が好みだ」

 しかし警察官は無反応だ。愛想が無い事に鼻を鳴らしたが手持ち無沙汰なので、ナイフとフォークに手を伸ばして食事を進めた。サーロインステーキの脂身が余計だ。松岡は脂身を好んで食べはしない。殺しをしてまで助け出した紫帆だが、彼女が作ったこてこてした中華料理も箸をつけない程だ。

 高級品は安物と違う。粗食に慣れていると舌の味覚が合わないと言うが、ステーキとライス、スープとサラダ、デザートもしっかりと完食した。良い品は良いのだ。

「ふっ、大した度胸だ」そう言って男が入って来た。実際は感性マグロだが豪胆だと過大評価されている。

『内閣情報調査室』と書かれた名刺を差し出して来た。警察官僚で内調に出向していると言う。

「君は警察に拘束されたがまだ逮捕はされていない」そして男は笑みを深めて言った。「取引をしよう」と。

 要約すれば内閣情報調査室のエージェントとして働く事を条件に、大金と自由を手に入れると言う事だった。

 了承するしか選択肢は無かった。

 早速、仕事の話に入る。

「シリアで市民団体の活動家が拘束された」

「シリア?」

 シリアはアメリカが反政府勢力に支援を行った結果、周辺国を巻き込み内戦状態に陥っている。まさに鉄火場だ。

 Vyondを作ったアニメーションが再生される。手が込んでおり、別で音声を作成して動画編集されていた。

安田殉平(アンデンジュンペイ)、42歳。イラクでも人質経験があるプロだ」

 いわゆるルポライターで世界の紛争地帯を旅して日本政府の批判をしている生粋の反政府活動家だった。

「プロなら命に危険も無い。自己責任で帰ってくるのでは?」

 危険地帯には渡航禁止や自粛の指示が出される。しかしそれを無視して行ったなら自己責任だ。

「そうだ。だから始末する」

 救出ではなく抹殺を命じられた。

 中国共産党のシンパで反日工作を行っていた。今回の拘束も出来レースで、日本政府から譲歩を引き出し国際的地位を下げる事が目的だった。

「失敗して捕まった場合、当局は関係無い。頭のおかしいミリタリーオタクの元自衛官が勝手に暴走したとして処理する」

「分かった」

 初仕事だ。反政府勢力であっても反日、反米組織なら潰す。それが日本政府の判断だった。沸点が低い分けではない。糞の概念は人それぞれだが、国策は気分で左右されない。

 人質の安田がやらせなら、テロ組織ごと始末するだけだ。

「現地の米軍から支援が受けられるが期待するな。表だって人質を殺したとなると外聞が悪いからな。あくまで所属不明の相手に殺された形だ」

「了解」

 現地の拠点となるセーフハウスには、特殊部隊やPMCに偽装する為に、メインアームがSCARにM203グレネードランチャー、サイドアームにFive-seveNと銃器が揃えられた。

 この他に私物でベンチメイドのネックナイフ、14536BPを携行して飛行機に登場した。3.2インチのブレードはお馴染みのAUS-8だが、HRCはカタログデータで58~60の強度を誇っていた。明らかに銃刀法違反だが、政府の仕事だ。税関もパスしている。

 ファーストクラスの座り心地は快適だった。

 機内は防諜の面から貸し切りにされていた。スチュワーデスはVIPと見て愛想良く接待をしてくれた。望めば性的な奉仕も出来た。ボロンと薄汚い逸物を出してもスチュワーデスは驚かない。VIP老人を相手にして来たからだ。

「舐めろ」

 相手は妙齢の見目麗しい女性だが、松岡は汗臭い女児達を思い出していた。

 

      ×  ×  ×

 

 シリアには日没後に到着した。窓から外を眺めると空港のエプロンに装甲車の姿があった。

(BMP-1か)

 ダマスカス空港は反政府ゲリラの襲撃目標として、度々攻撃を受けている。伏撃を回避し捕捉撃滅すべく軍と警察が厳重な警戒をしていた。

「お疲れさまでした」スチュワーデスに見送られ席を立つ。片手に持つバックには着替えの他に、現地の幼女と仲良くなる為のプレゼントとしてバトエンやゲームボーイを詰めていた。

 日が落ちたとは言え機外に出ると熱風が肌を刺す。

「糞ったれ」松岡は唾を吐き捨てると迎えの車に乗った。

 トヨタのランドクルーザーだ。本来なら隠匿武器や爆発物の持ち込みを検査されるが、フリーパスで入って来た。

 ドアを開けて貰い車に乗った瞬間だった。

 ランドクルーザーは爆発した。松岡は熱いキスを浴びた様な錯覚を覚えた。

(まゆ──)

 不意に航空自衛隊を辞める切欠と成った少女を思い出した。彼女の唇の感触だ。

 そして松岡は英雄になる事もなく異郷の地で死んだ。

 死後、松岡の実家の部屋からはチュチュアンナ、ハニーズ、リサマリと言った女性向け下着が日付の書かれたジップロックに入って大量に発見された。国の関与を示唆する物の除去に当たっていた清掃員は、共感性羞恥で逃げたくなったと述べている。



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丘の上で逢いましょう

1.ベトナム戦争終結

 

 武器は世界と意思を変える。ロリコンランド誕生の遠因は、世界の警察を自他共に認めるアメリカの影響が大きいと言える。

 事の発端は1969年、第37代アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが交通事故により死亡した事にあると解釈する者も多い。

 ニクソンはベトナムからの段階的な引き揚げを目指していたが、志半ばで亡くなった。

 副大統領のスピロ・アグニューは、ニクソンの忠実な腰巾着と見られており、政策を受け継ぐ物だと見られていた。

 大統領を代行したアグニューは軍歴もあり、ベトナム政策の『名誉ある撤退』として軍の完璧な勝利を求めた。すなわち核攻撃と言う強硬手段を選択した。

 軍としては積極的な攻撃は弱腰より好ましい。アメリカの若者をこれ以上、喪わずに済むなら直の事、結構だった。しかしながら核戦争は望む所では無い。

「閣下、さすがにタイタンミサイルを撃ち込むのはどうかと考えられます」

「そうかね? 北ベトナムにはアメリカ本土を攻撃する報復能力は無いよ。それは君達が良く知ってるはずだ」

 北ベトナムを支援するソ連や中国は局地戦に限定しており、アメリカ相手に全面核戦争を行う度胸があるかと言えば非現実的であった。

「インドシナにおける共産主義のドミノを防ぐ。それには地域の安定が求められる。グエン・バン・チューも同意するだろう」

 地上戦は危険が大きい。だからと言ってICBMを撃ち込むのは躊躇われた。国防長官メルヴィン・ロバート・レアード、海軍長官ジョン・チェイフィー、海軍作戦部長トーマス・モーラー大将、CIA長官リチャード・ヘルムズらの話し合いにより、ICBMではなく空母から核爆弾による空爆が計画された。

 空軍に手柄を譲りたく無くて、レアードは海軍に花を持たせたと言われるが、軍事的、政治的判断による決定だった。

 この決断を受けて、陸軍参謀総長のウィリアム・ウェストモーランド大将は、統合参謀本部議長アール・ホイーラー大将の許可を受け、南ベトナム軍事援助司令部(MACV)司令官のクレイトン・エイブラムス大将に対してハノイ攻略作戦の立案と実行を命じた。これには聖域であるカンボジアから共産勢力の駆逐を含んでおり、ロン・ノル政権には大いなる援助となる。

 この当時、南ベトナムに展開していたアメリカ陸軍の戦闘部隊は、第1騎兵師団、第23歩兵師団、第101空挺師団、第5機械化歩兵師団第1旅団、第82空挺師団第3旅団、第173空挺旅団、第196軽歩兵旅団、第108砲兵群。これに特殊部隊や海兵隊、南ベトナム軍も加えればかなりの兵力が動かせた。

 積極的な攻勢。勝ち戦を約束されているなら、拒む指揮官は存在しない。

 インドシナ半島から共産勢力の一掃。アメリカの輝かしい勝利だった。しかし核の使用は国際社会の反発を招いた。

 地政学的リスクは株価に影響を与える。第三次世界大戦を引き起こしかねないアメリカの軍事行動によって、東証1部銘柄はストップ安に見舞われた。ベトナム・ショックと呼ばれ史上最大の暴落だった。

 混迷する情勢の中で佐藤内閣の支持率も急速に低下、共産党や新左翼が台頭し勢力を拡大。全学連は安保更新を阻止すべく都市ゲリラ化し、武装闘争としてテロ活動を活発化させていた。

 荒んだ心に人々は癒しを求めた。それが児童売春、児童ポルノの爆発的普及の一因ともなったのである。

 

 

2.北東アジア情勢の変化

 

 インドシナ半島での戦いが終結の兆しを見せた事で、急遽訪米した大韓民国大統領の朴正煕は、KCIA部長金載圭、国防部長官任忠植と共にアメリカ側と会談した。

「今こそ北東アジアから共産勢力を一掃する好機です! 是非とも貴国の力を貸して頂きたい」

 50年代に台湾の中華民国から大陸反攻計画を打診された時とは異なる。朝鮮半島で共軍と対峙しながら、台湾から福建省に50個師以上を上陸させ、現地で整編する部隊も加えると100個師以上に膨張する中華民国の反攻作戦を支援する事はいかに米国でも限界があった。

 韓国側からの熱烈なアピールに、アメリカも南北朝鮮統一による利点を吟味した。今や中共に遠慮する必要はない。内外へ強いアメリカをプレゼンス出来ると同時に、東側陣営に対する牽制ともなりえる。

「前の戦争の様に中共軍やロシア人が介入されては厄介だ。だから、その前に金日成政権を倒してしまう。それが重要なのは戦の素人でも分かっている」

 朝鮮戦争当時、アメリカはWW2の戦訓で動いており、冷戦時代に相応しい物とは言えなかった。ベトナムに送り込まれた軍が苦戦したのは、核戦争に対応したペントミック型の編成で地上軍を送り込んだ事も大きな要素であった。

「ベトナムの目処はついたとは言え、兵力も無尽蔵にある訳ではない。長引かせて大統領弾劾なんて私は御免だぞ。朝鮮半島でも事を構えるとして、軍は迅速に事を治められるのかね?」

 ペントミック師団は在来の歩兵師団が7個歩兵大隊を中核に定員1.3万名であった所を、5個の歩兵大隊にそれぞれ砲兵中隊を増強した戦闘群を中核に定員8千名と大幅な削減が行われていた。

 これは兵力の削減と言う意味では大きな成功だったが、結果的に地に足を着けて戦う歩兵の数を減らす事となった──等々と批判される事もあるが、ペントミック師団に全師団が移行した訳ではなく、なんやかんやROCADやMOMARやROADと試行錯誤の最中であり、60年代に一部を除けば歩兵6個大隊と砲兵2個大隊が標準的歩兵師団であった。

「地上部隊を派兵し直接介入するのは危険です。やれるかやれないかと言えば、空母の2~3隻で片は着くでしょう。それに、あちらさんの話では、韓国は予てより金日成抹殺を計画していたそうです。なので、我々はそれを支援してやれば良いかと」 

 韓国空軍独自の684部隊による襲撃計画は、近代改装が予定よりも早く終わっていた空母ミッドウェイとフランクリン・D・ルーズベルトが航空支援に加わる事で、曹文焕少将の下で空輸特戦旅団も投入した大規模作戦として実施される事となった。

 後年、斬首作戦と呼称される一連の軍事行動は、成功と同時にDMZから韓国軍が北進を開始し、中朝国境に達した時点で終了した。

 結果、一部の予想通り大韓民国による朝鮮半島統一は、失業者増大、格差社会として経済赤字から景気成長の停滞を生む事となった。

 そして対外強硬策で外敵を作る事で、韓国は国内の不満を反らそうとした。入国や輸入の制限、対日姿勢の強化である。

 

 

3.現代

 

 長崎県五島市の男女群島、男島。近年、領土問題として『我が韓民族は侵略と略奪の戦争被害による恨みを忘れない。対馬や九州は千年前に日帝が奪った物であり、大韓民国に正当な領有権がある』と論じる隣国の存在から、海の国境として注目され、天然保護区域から指定解除され島は開発をされていた。

 開戦初日、肥前鳥島の沿岸監視隊から、済州(チェジュ)島から飛翔体──おそらく対地ミサイルの玄武(ヒョンム)──が発射されたとの報告を最後に連絡が途絶えた事で、第4師団隷下、男女群島分屯地の警備隊は防衛出動が発令される事となった。

 その丘は名前こそ着いていなかったが、素敵な丘だった。

 少しばかり周囲より高地で、監視所(OP)には最適だった。だから────それが天国に近い場所に成ると小川(おがわ)幼介(ようすけ)は思いもしなかった。

 ハマビワの樹の根本、刈り取った偽装材料で植生に紛れる様に隠蔽されたスウェーデン製のリバーシブルな偽装網の下、小川の指揮する斥候班は待機していた。

 鉄棒はオニヤブソテツで偽装している。

 ドーランを塗りたくった顔が痒い。カネボウは肌に合わなかったのか。

(今度、ダイエーかジャスコにでも行ってみるか)

 昭和90年にダイエーは全国で1000店舗展開を達成し、ジャスコが500店舗、サティが400店舗と大きく差を着けており、名実共に日本一のスーパーマーケットとして不動の位置を築いた。

(そう言えば、近々、イトマングループに吸収されるってテレビのニュースでもやってたな)

 痒さを我慢してると、車列が見えた。戦車と水陸両用車、中隊規模の敵だ。

「K1戦車とAAV7、浦項(ポハン)の海兵隊ですね。日本だと、満州国軍の上尉だった(キム)錫範(ソクボム)とかが有名ですね」

 ミリタリーオタクの部下がそう言った。井川(いがわ)仁崇(まさたか)、二任期目の士長で、課業後の営内では少女のイラストが表紙のマンガ雑誌をよく読んでる姿が見受けられた。

「あの89式に似た小銃はK2で、MINIMIのコピーは本家FNが設計したK3です」

「お、おう、そうか。ともかく小隊長に報告をしておかないとな」

 誇らしげに語る井川の話を適当に切って無線機に手を伸ばした。

31(サンヒト)31(サンヒト)。こちら34(サンヨン)アルファ」

『……31。34アルファ送れ』

 携帯無線の周波数を小隊の通信系に切り替えて小隊長に状況を報告する。

「R384より戦車(TK)を伴った車列が南下中」

 小川達がこの丘に居るのも、敵国が『積年の恨みを我が国は忘れない。チョッパリを地獄へ送る時が来た。小日本よ覚悟しろ』と、外交の放棄から侵略戦争への切り返しが唐突なのも、向こうの政府が国民の不満を外に向けようと焦っているからだ。

『────了解。引き続き、監視せよ』

 通信を終えた時、敵の兆候に変化があった。水陸両用車が停車して載せていた兵士を下ろし始めた。

「ん?」

 国道を外れて丘に向かって来る様子が見えた。瞬間、小川の脳裏に自分達の位置が向こうにバレたのかと言う考えが浮かんだ。傍らに脚を立てて置いていた小銃を引き寄せながら、直ぐに考えを否定する。見付かったなら、先に攻撃を受けていた。

「班長、あいつら下車(げしゃ)して此方に来ますよ」

「分かってる」

 命だけあれば大丈夫。そんな考えが浮かんだ。

 偵察とは戦闘を積極的に行う任務では無い。目となり、耳となり、意思決定の一助と成る事が目的で、避けられる戦闘なら避ける。だが小川は現在地の固守を決意した。

 男島には一個小隊しかいない。

 五島列島に駐屯する連隊から、男女群島の分屯地に派遣されていたのは僅か一個中隊。女島やハナクリ島、寄島、クロキ島と言った島嶼防衛をするには人手も足りなかった。

 叩ける時に叩く。それが最良の選択だと小川は判断した。

「射撃用意」

「ええっ!」

 丘を守りきれば英雄となり歴史に名を残し、人々の記憶の中で永遠に生きられる。そんな考えが一片も過らなかったかと言えば嘘だ。

 日生台の演習では地形地物を利用して、二名で登って来る一個小隊を撃破した。今度は一個班で火力指数は倍以上ある。演習を思い出せば良い。

 英雄願望はある。だが演習場整備で草刈りをする様に、簡単に刈り取れると相手を舐めてはいけない。

 演習の為、戦技競技会の為、訓練の為の訓練しかして来なかった自分達と違い、実戦経験によって鍛えられており、油断できない相手だからだ。

 伏射ちの姿勢で下から登ってくる連中を待ち受けた。

 チガヤやススキを踏み分けて足音が近付いて来る。その先を狙う照門の中で照星頂が呼吸で揺れていた。

 今から行う行為は、左翼活動家なら批判して来るであろう殺人だが、罪悪感は湧かない。それよりも初めてで上手く闘えるかと言う緊張から、腕は硬い。

 醤油顔、ソース顔とかは分からない。ただ頬骨に特徴がある顔が見えて来た。警戒感が無いのか、肉まんを食べながら近付いて来る。

(人間なんて死んだら皆一緒、か)

 指に触れる引金は軽い。

 ポン酢の臭いがした。あろうことか肉まんをポン酢で食べている。信じられなかった。

 それなら殺せる。相手は自分と同じ人ではないと言い聞かせた。

「射て」

 射撃号令に合わせて斥候班の面々は一斉に射撃を始めた。5.56ミリの弾幕が先頭集団を叩いた。

 秒速で900m以上を飛翔した5.56mm弾の威力は強烈だ。頭部に被弾した一人は、鉄帽が跳ね飛び、ザクロの様な断面を覗かせて倒れる。その光景をゆっくり眺めている余裕は無かった。

 歌声が聴こえる。視線を向ければ、井川が強張った表情でNakamuraEmiの「かかってこいよ」を口ずさんでいた。歌う事で恐怖に脅えながら銃を射ち続けている。

 小川の眼球は接近する脅威を探して忙しなく動き、ドーランによる肌の痒みは忘れた。ただ引金をがく引きに成らない様に注意して引く。

 正義の為の殺人と理由を求めてはいない。こんな戦闘で煩わされるより、早く終わらせたいだけ。

「小川2曹!」

 班員から悲痛な声がかけられた。

 反撃を受けて負傷者が出ていた。隠蔽は完璧だが消炎制退器で抑えきれない発砲の閃光で位置が暴露する。

「西脇が!」

 血を流して崩れた姿が見える。命が狙われるリアリティー。暗い地獄は目の前に広がっていた。

「持ち場を離れるな!」

 統率としてやり方は稚拙だが、怒鳴る事で目の前に集中させた。

 何を根拠に、と言う訳ではない。それ以外に思いつかなかったからだ。

 小川は知らなかったが井川は間違っていた。敵は高い戦闘能力を有しており、浦項ではなく戦車を増強された済州島の第9旅団だった。

 

 

4.戦力の遊兵化

 

 攻撃は唐突であり、事態に対応出来ない者達も在った。

 山口県萩市の見島。

 県道を走る日産のローレル。追い抜いていくボルボS60やスカイライン400Rと違い、大人の落ち着きがあった。それも当然であり、エンジンこそ積み替えていたが車体は初期のビンテージ物だ。

 ラジオから車内に流れる竹内アンナの『I My Me Myself』だったが、不意に電波が乱れだした。

 自衛隊の車列と擦れ違った。ドライバーは無線の電波の影響だろうかと考える。

 昭和94年、航空自衛隊見島分屯基地は、貸金業法違反と出資法違反の疑いで、所属する2曹の逮捕を皮切りに、芋づる式に多くの逮捕者を出して閉鎖となった。

 代わって陸上自衛隊から島嶼防衛の訓練地として注目され、西半分が訓練用地として国に買収され連隊、中隊検閲が頻繁に行われていた。

 昭和95年2月、第17普通科連隊第2中隊は、昭和95年度島嶼防衛訓練に関する第17普通科連隊一般命令として、5夜6日の演習を実施する。演習目的は陣地占領~防御戦闘~攻撃の一連の動作を訓練する事にある。

 演習統裁部は第17普通科連隊本部及び本部管理中隊。見島分屯地業務隊が給食支援を行う。

 開戦前日、第2中隊は第13特科隊、第13戦車中隊、第13高射特科中隊からの増強戦力と共に、宇津の港から上陸した。

 宿営地に天幕を貼るとその日の内に、見島弾薬支処から弾薬受領をして解梱作業を行った。

 演習の想定は現実離れした物だった。

 若狭湾に出現したA国軍は、支とうとなる要点の敦賀(つるが)を制圧。橋頭堡として兵力を増強中であったが、D+4、1個機械化旅団が北陸自動車道及び沿線を南下。(E-1)

 敵1個機械化大隊が舞鶴を制圧。ただし舞鶴若狭自動車道を南下して神戸地区に進出する経路は、利点より欠点が多い為、選択の可能性が低いと考えられる。(E-2)

 敦賀よりR161を経由して琵琶湖西岸を南下する敵1個機械化旅団は大阪方面に前進中。A国では1個空挺旅団が待機中。E-3の助攻として投入される。(E-3)

 そもそも数個師団を気づかれる事無く上陸させる敵の渡上能力がおかしい。そして航空優勢が敵にある状況下で、我も無傷のまま迎撃に当たると言う。

 我が3DはE-3を阻止すべく、草津に集結中。(O-1)

 10DはE-1を追求して米原に指向して前進中。(O-2)

 E-2を阻止すべく、13Bは福知山、春日に前進。(O-3)

 17連隊はそんな状況下で、中国地方を脅かす敵の増援に対処すると言うシナリオだ。

 歩哨を立て就寝した夜中、幹部、陸曹は呼集を受けた。

「連隊長から待機の指示が出た。半島に不穏な動きがあると言う事だ」

 アルコールの臭いが天幕に漂っている。演習前夜と言う事で、酒盛りをして就寝したのは遅かった。

「中隊長、演習は中止ですか? まさか攻めて来る程の馬鹿とも思えませんが」

「うん。警戒だけで終わる可能性はある。それに万が一、戦争になったとして、真っ先に狙われるのは対馬や九州の方だろう。とりあえず撤収の心構えだけはしていてくれ」

 中隊長はそれ以上の情報も無いと言う事で、解散と就寝を指示した。

 開戦初日、0630起床。隊員は分屯地糧食班で受領した菓子パンと牛乳の朝食を採ると、朝礼まで身辺整理を行った。

 中隊長は状況を説明。昨夜同様、詳細は分かっていないので待機を指示した。そうなるとやる事が天幕の中で寝る位しかない。中には私物のスマホやタブレットで情報収集を行う者も居た。

「中隊長!」

 動画配信サイトで、宣戦布告を行う相手国元首の放送を見つけた者が報告して来た。開戦だった。

 しかし増強第2中隊は戦闘を経験する事無く、見島で終戦を迎えた。

 

 

エピローグ

 

 結局、小川達は二十名以上の損害を与えたが、その後は初戦の奇襲効果で航空優勢を確保していた泗川(サチョン)のF-15KやKF-16によって丘の形が変わる程の空爆を受けた。

 生き残った小川は走って逃げた。腸脛(ちょうけい)靭帯炎(じんたいえん)足底(そくてい)腱膜炎(けんまくえん)の痛みに耐え、本土から応援が到着し反攻が始まるまで島内を逃げ回る事と成った。

 小川達が頑強に抵抗を行った事で敵の侵攻は遅れ、小隊の残りは隣のクロキ島に陣地変換する事が出来た。

 しかし残った小川が友軍に助けられた時には、一体、何日間と時間の概念が失われる程の緊張と恐怖で精神を病んでいた。

 戦後は亡き班員の性癖を忍んで、悩んでる少年、少女の社会復帰を助ける『ロリコンランド』設立に尽力し、強制わいせつ罪、強姦罪、労働基準法違反、児童福祉法違反等で逮捕された。

「ロリコンは一生家でひきこもっとけよ」

 そう取り調べに当たった警察官に怒鳴られた。

(俺は、あの時、あの丘で死ぬべきだった)

 死んでいれば靖国神社に祀られ英霊として名誉が保証された。

 今はただのロリコンとして犯罪者として名を残した。



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島流し生活

1.前史

 

 WW2終結後の東西冷戦時代、日本列島で4次に渡る戦争があった。特に1948年の男鹿戦争は、日本が国際社会に復帰する転機となった事件と言える。

 そもそも戦争が長引いたのも、日本が分断国家になったのも、日本軍が歩兵の突撃で勝敗を変えると言った盲信から、防御戦闘で戦車の効果を認識したからであって、マキンの戦いがパラダイムの転換だった。

 ガ島に連合軍が侵攻した時、大本営陸海軍部は、MO作戦を優先しており、ガ島の速やかな奪回を現場に求めた。陸軍中央統帥部は重慶攻略を目的とした51号作戦を計画しており、副次的な南太平洋で拘束、掣肘される事は本意では無かったのだ。

 シンプル・イズ・ベスト、そこで内地に帰還途中の一木支隊と、F・S作戦中止で浮いた青葉支隊を第17軍隷下に入れたが、日本陸海軍の墓場となったのは周知の通りだ。

 この状況下で、カーリング中佐の指揮する海兵隊226名が、潜水艦2隻に分乗し、ゴムボートで上陸。バンバンバリバリと奇襲攻撃を行った。

 この襲撃で日本側に損害を与えた後、米軍は迅速に引き上げしたが、数名が取り残され捕虜となった。

 マキンは海軍の管轄であり、第62警備隊マキン派遣隊と第14航空隊が展開してたが、米軍の跳梁を許し面子を潰され、8月20日にはGF長官が同じ轍を踏むまいと防衛強化を下命した。一方、陸軍は22日に、インド東北部を攻める事で防衛地域を拡大すると言う企図の計画、21号作戦の準備として大陸令650号に基づき大陸指1237号の指示を出した。

 この時局に戦場を拡大する。愚策でしかなく、初戦の勝利の興奮からまだ覚めきってはいなかった。

 現地部隊指揮官であるビルマの第15軍司令官飯田中将は反対したが、軍人である以上、命令には服する義務があり、南方軍の意向を麾下の師団に説明、敵情把握の指示を出した。

 9月3日、第18師団長牟田口中将と同席していた師団参謀長の武田大佐は、「インパール付近までは行けますが、アッサム州までは無理です」と答えた。第15軍は消極的ではあったが、任務の遂行は絶対原理であり、指示通り10月の作戦開始に備えて準備は進められた。

 しかし連合軍は同年末から翌年2月にかけて攻勢を行いビルマを脅かした。第15軍はビルマを堅持するが、日本軍史上類を見ない敗北を南太平洋で経験し状況が変わった。

 敵に対抗する唯一の手段は、やはり火器に依存するしかない。我が方に相応数の戦車又は火器の装備があるなら敵軍を恐るべき物は無い。

 1943年2月16日、陸軍参謀総長は昭和18年綜合作戦指導竝兵力運用及兵備の大綱を上奏、大陸令895号で関東軍から戦車1個中隊を骨幹とする部隊がマキンに派遣された。

 開戦時、陸軍全51個師団の内、南方軍があ号作戦に使用出来た師団数は11個。糧食、弾薬、燃料の作戦用資材準備状況も北方重視で、関東軍からの兵力抽出は極めて一部に限られており13個師団が満州で遊兵化していた。今回は関東軍を傍観者にさせなかった。とは言っても1943年の時点で、陸軍58個師団、戦車3個師団の内、14個師団、1個戦車師団が満州に展開していた。

 連合軍では米軍の将帥、マッカーサーとニミッツによる対日戦略の方向性で割れていたが、太平洋島嶼攻略は海軍主導の戦争であり、11月19日、マキン攻略を目的としたカルバニック作戦が発動された。

 マキンにはターナー少将のTF54からTF52が送り込まれた。

 水上機の基地としての機能しかなかったマキンに米軍はここでも、事前の空爆と艦砲射撃で耕した後に部隊を上陸させると言うオーバーキルな火力ごり押し、過剰戦力の投入な物量作戦で挑んだ。

 上陸部隊は、第27師団の第105歩兵連隊に第193戦車大隊、第152工兵大隊や砲兵、通信、衛生、偵察中隊等を増強して編組された第165連隊戦闘団(6470名)。

 対する我は、第3特別基地根拠地派遣隊等700餘名。防御兵器は8センチ砲、8センチ高角砲各3門、13ミリ機銃12丁。

 米軍がビーチレッド、ビーチレッド2と呼称する島の西海岸に左翼第1大隊、右翼第3大隊が並列配置で上陸開始したが、日本側は少ない兵力を有効活用すべく、島の中央部に配置していた。

 日本軍の抵抗が無い事から米軍は、若い時の厨二病と言うか冒険的な行動を実行に移した。

 ビーチイエローと呼称する島の中央部、北海岸に第2大隊をガチで脳死していて雑に上陸させた。

 しかし調子に乗ったら足下を掬われる。日本軍もマレー作戦中、パクリ付近の戦闘で戦車第14連隊第2中隊が壊滅し、近衛師団も多数の損害を出している。それは違うんじゃないと後から批判を受ける結果になった。

 その昔、フレデリック大王はロイテンの戦いに於いて3万の兵を以て8万のオーストリヤ軍を破り、ロスバッハの戦いでは2万5千の兵を以て5万の同盟軍を撃破した。又支那事変に於いて皇軍は5倍から10倍の支那軍を撃破している。

 三十年戦争のリッチェエンの戦で瑞典王グスタフ・アドルフは戦死したが、瑞典軍はドイツ軍の攻撃を跳ね返した。

 いずれの勝利も、士気旺盛で忠勇義烈な将兵が揃った結果だ。

 事前に十分な準備で偽装、隠蔽されていた戦車中隊による逆襲が始まった。快速な98式軽戦車を装備していた日本軍は、決死的奮闘で第2大隊を壊滅させた。その事が日本軍を戦車信仰へと変え、中部太平洋や比島、南西諸島での戦いを長引かせた。

 結果、開発の間に合った局地戦闘機の震電による邀撃に遭い、B-29撃墜による原子爆弾の投下失敗。1945年~46年、日本本土に侵攻したオリンピック、コロネット作戦は失敗。

 本土決戦と言う事で日本軍及び国民義勇戦闘隊は頑強に抵抗した。日本人の士気を衰えさせるどころか、逆に連合国側では死傷者が増大し厭戦気分が増した。

 ここで動いたのがソ連の指導者、スターリンだった。

 スターリンの領土的野心は満州以外に、日本列島も視野に入れていた。対独戦終結で開き直り、隠さず、欧州から兵力を転用、極東の軍を増強しており、対日参戦は明白だった。

 日本側は敗戦が近付く中、参謀本部第5課が、ソ連の対日参戦準備は1945年の7月までに概了すると判断。8月か遅くとも9月初旬頃が危険と見ていた。しかし種村大佐はアカの影響を受けており、ソ連に対する日本側の意思決定で妨害活動を行っていた。

 民主主義国家に於いて、激しい抵抗がある地上戦で多くの若者を死なせる事は、民衆から政府の支持率を下げる事に繋がる。特に、ソ連と比べて人的資源に限りある米英にとって、スターリンの対日参戦の申し出は、渡りに船だった。

 結果、連合国は渡洋能力の低いソ連海軍極東艦隊に船舶を貸与。日本軍に対し第二戦線を形成する事に成功。

 既にヤルタ会談において、東北、北海道は、終戦に貢献したソ連に割譲されると決まっていた。南へ向かう避難民をソ連軍は容赦なく襲い、強制労働に徴用していった。

 松代の大本営で、ソ連軍の本土侵攻の報を受けた御上は、皇土を蹂躙され臣民が傷つく事を嘆いた。聖断は下り、日本は連合国に降伏したのだった。

 1945年、アジア太平洋戦争の敗北によって日本は降伏。共匪は貪欲にも旧満州国の領域である東北地方を掌握すべく、ソ連と連携して動いた。以後、東北は共匪の策源地となった。

 東北争奪戦に遅れを取った国民党政権は、共匪の勢力拡大を憂慮するが後手に回った。

 共匪は襲撃やテロを繰り返し治安が悪化、そして1947年、戦争の季節がやって来た。6月、超サットヴァ甘露水やスーパー甘露水の類いで強化された共匪の攻勢を前に、北支方面で国軍は寝惚けていたのか損失を重ねた。7月には黄河以南の共匪を撃滅し掃蕩する戡亂作戦を実施したが、共匪は攻勢にリソースを割き勢力を拡大させた。

 辛亥革命の後に軍閥が各地に乱立した時も、日本との戦争になった時も、この世にクソゲーはあると多くの民衆は思った。今回も同じだ。

 こうした状況を打破すべく国軍は動き、1948年11月、自然的に遼瀋会戦が勃発。真摯に向き合ったが理想的展開は訪れず国軍は敗れた。かくして東北は完全に共匪の手中に落ち、華北にも危機が迫った。

 大陸が戦禍の渦に巻き込まれていた1948年、ソ連軍占領下の北日本で、秋田県能代市は、帝政ロシア以来の悲願であった不凍港を抱える重要な都市と言えた。

 サハリン州の財政は、北日本の再建と開発に投資されている。当然、将来的にはその見返りが期待されている。

「露助め。何もかも持っていくつもりか」

 港ではウラジオストクに向かう貨物船に、銀や銅と言った鉱物資源、米が船積みされている。

 占領地の住民は唯々諾々と従っているが、跳ね返りは何処にでも存在する。

 男鹿半島は、東北地方がソ連の占領下にある中、西側陣営の一員としてスタートを切った日本にとって飛び地と言える。

 当時、男鹿半島には在郷軍人を中心とした郷土防衛隊の国民義勇戦闘隊が存在した。敗戦と同時に日本の軍事組織は解体、武装解除されたが、男鹿半島やソ連占領地との緩衝地帯では、様々な思惑から自警団として武装勢力が残されていた。

 これらの武装勢力は反共組織として、西側から援助を受けソ連占領地内で地下闘争を行った。ソ連側も報復として、越境作戦で根拠地となる集落を襲撃し住民を皆殺しにする事もあった。

 1948年、ソ連占領下の日本で社会主義政権の日本人民共和国が樹立された。政権を握る日本人民民主党の書記長、小沢(こざわ)健治(けんち)はソ連の傀儡であった。

 事実、幼児趣味であった小沢は、旧華族の見目麗しい女児を与えられ、喜んでロシア人に協力したとソ連側の記録がKGBに残っている。

 当時、匪賊討伐の秋季攻勢として大規模な越境作戦を企図するソ連軍は、男鹿半島正面に大規模な兵力を集結させつつあった。

 この状況で10月31日、六郷、能代の旧軍飛行場を利用する共和国防衛隊に対して、米空母群が空襲を敢行した。

 連合軍より攻撃命令を下達されていた国民義勇戦闘隊は、同日に前進を開始。目的は奥羽本線を東へ打通して、秋田市と能代市を結ぶ線まで進出する事にある。

 日本海は連合軍の庭と化しており、水上艦艇の戦力でもソ連極東艦隊を圧倒していた。その為、能代市に対して米艦隊が艦砲射撃を行い、国民義勇戦闘隊の前進を密接な火力支援で掩護した。

 砲撃に揺れる市内、地下壕で小沢は女児に抱きつき震えていた。

「畜生、畜生!」

 ソ連軍は北へ撤退し、国民義勇戦闘隊が市内に突入し、制圧を始めた。共和国防衛隊も抵抗を行うが、治安維持の軽装備であり、西側から援助を受けた国民義勇戦闘隊に対して装備の面で劣っている。

 国民学校高等科の教諭であった小沢は、閉鎖された田舎で教師の社会的地位と影響力を以て成り上がった。ソ連の後ろ楯が無ければ、今の地位はあり得なかった。

 自分が切り捨てられた事を小沢は勘づいていた。誰が次の傀儡になるにしろ、ソ連にとって利用価値のある者だと言う事だけは理解出来た。

 最期に小沢はコンクリートに押し潰され死亡した。それは戦艦「ミズーリ」「アイオワ」による砲撃だった。

 

 

 

2.祖国統一後の受難

 

 北日本と分断国家となった日本は、同一民族を仮想敵として、血を流す実戦も経験していた。今更、治安出動を躊躇する理由も無かった。

 60年安保闘争で時の総理大臣岸信介が、反社会的勢力である暴力団や右翼に頼る事をよしとせず自衛隊の治安出動を許した結果、自衛隊と警察による鎮圧は多数の死傷者を出した。

 妥協無しに平和は来ない。結果、全学連の過激派やブントのような反政府勢力に対し東側による武器供与で武装闘争を激化させた。

 親米政権が赤化革命によって倒される事をソ連や中共は望んだが、上手くはいかなかった。

 ソ連の衛星国である北の日本だが、民主主義と資本主義を経験していた事で、東側諸国の中では、ドイツ民主共和国に並ぶ豊かな国となったはずだった。

 一方の東京政権が属する西側諸国では、豊かな暮らしで80年代にはゲーム機が爆発的人気を呼び各社が競争する中で、フィリップスのCD-iとセガのスーパー32Xの二強が市場を席捲する90年代、アップルのピピン@が登場しインターネットによる新たな時代を到来させようとしていた。

 東西冷戦は意外な結末を向かえる。ソ連邦の破綻と解体に始まり、北日本で民衆が蜂起し、分断国家であった日本の統一を実現した。

 しかし90年代に発生した第二次関東大震災は、日本の国力の低下、経済破綻させる物となった。首都圏が壊滅したその年、国内では偏向報道によって世論誘導がなされ共産勢力が拡大した。民意の形ではあるが、臨時政府として左翼政権が樹立した事は日米同盟の終焉に繋がり特筆される事件と言えた。

 日本国内では非常事態宣言が発令され、流通は止まり経済は混乱している。

 国民へ現金の給付や企業の経営支援、復興に向けた建て直しが模索される中、最果ての島で戦いがあった。

 沖縄県八重山郡、南西諸島西端に位置する魚釣島。近年、ガス田の存在から領有権を主張する様になった中共の領土的野心に脅かされており、武装侵入の不法上陸と言う侵略行為があった場合、一番に攻められる場所だった。

 現在、島で最高峰の奈良原岳に家屋が存在する。

 島民の小升(こます)雅典(まさのり)は55才になる。世間一般で言えば定年退職でもおかしくない年齢だ。

 そんな小升だが、防災散歩どころか民間防衛隊として平時から沿岸監視に当たっていた。

 小升と同僚の井上(いのうえ)貴四(たかし)大箸(おおはし)直昭(なおあき)梅本(うめもと)飽彦(あきひこ)亀山(かめやま)悠字(ゆうじ)。何れも脛に傷を持つ男達で、刑務所に入れば懲役20年、実刑と引き換えに執行猶予扱いの刑務としてこの島にやって来た。

 離島への島流しは、人の為になる生き方を学ぶ事で、将来どの様に生きていくかを再考させると言う臨床心理学、犯罪心理学に基づく更正プログラムの一環でもある。

(残り一年……)

 5年間の任期を勤め上げれば、退職金を貰って解放される。そう言う契約だった。

(内地に戻ればネット環境も手に入る。そうすればREALITY Avatarでバビ肉になって自己発電で自給自足出来る。完璧だ。完璧すぎて、我ながら怖い)

 警戒すべき中共による侵略だが、示威行為に留まっており、領海侵犯で漁船や艦艇を遊弋させる、航空機を飛ばす等と惰性化しており、小升達も自堕落な島流し生活を過ごしていた。

 魚釣島は傾斜しており、大規模な上陸に適してるとは言えない。しかし少数でも侵入を行おうとするなら、不可能ではなかった。

 敵が初めに投入して来るのは軽装備の小規模な部隊と考えられる。その為、有事の際に敵の着上陸を阻止乃至妨害し遅滞行動を実施すべく、61式戦車から小火器は64式小銃や62式機関銃まで一応の装備は与えられている。

 魚釣島は戦車の運用に適しているとは言えない地勢だったが、高地に砲台代わりとして車体を埋設されていた。

 偽装網の下、戦車の傍らに座り込んだ小升は、遅めの昼食として手羽先の唐揚げと塩ザンギ、オムそばを食べていた。

「少し辛い。塩が多すぎだな」

 この歳になれば健康には気を使う。伊右衛門プラスおいしい糖質対策を毎日、2リットル以上飲んでいる。

 日常生活で消耗する発電機の燃料や食料、細々とした物は毎月一回、連絡船がやって来て運んでくれている。中にはアービーズのサンドイッチ、ネイサンズのホットドッグ、デイリークイーンのアイスクリームもあった。

 とは言えペットボトル飲料と違い、日持ちのしない食材を使った温食は数える程しか出ない。倉庫には保存食として袋麺のチャパゲティやノグリが備蓄されている。

 腹が満たされれば、後は睡眠か性欲が求められる。小升はお気に入りのジュニアアイドルの着エロをおかずに一発抜く事を考えていた。

 貴重な娯楽でもある食事に舌鼓を打っていると、歩哨に着いていた井上が報告して来た。

「小升さん、船がやって来ますよ」

「うん?」

 井上は49才。まだ精力も体力も旺盛で、小升の性癖とも合う男だ。小升より若い分だけ、視力も良い。

 小型の漁船だ。最近ではスウェーデンのCBJテックの開発した6.5×25ミリ弾を使用する協力なPDWまで装備する姿も見受けられており、準軍事組織の海上民兵によるPOSOWの脅威と言う事前説明は受けていたが、やはり見た目が漁船では警戒心も薄い。

 1987年の三七事件に於いて、台湾の小金門島でベトナム難民の船を金門防衛司令部隷下、歩兵第158師が撃沈した時は世間から虐殺だと叩かれた事も影響している。

 即応体制の維持とは言いながらも、大陸の中共軍と直接戦った台湾の国府軍と状況が異なり、これまでに違法操業程度は目こぼしもしていた。

 本来なら警戒しておくべき事だが、戦車の砲口は漁船に向けられていない。自衛隊と違い戦技競技会も無いので、島に来てからは射撃予習もやってない。

「あっ」

 ばらばらと上陸して来た男達は4名1組の3個組を最小単位として、小銃や軽機関銃で武装している。小升の目から見て、各々の組動作から漁民ではなく訓練された兵士の動きだった。事実、敵の装備している95式小銃や88式狙撃銃は、漁民が使い捨てるには高級品と言えた。

 井上と同い年な大箸は、49才にしては俊敏な動きで無線機に飛びついたが、泣きそうな顔で小升に報告する。石垣島や沖縄本島と通信が途絶していたのだ。

「糞、やるしかないのか」

 外からの応援はあてに出来ない。出入国法違反の現行犯だが逮捕以前に、抵抗が予想される。相手は自分達を殺しにかかって来ている。ここは自分達だけで対処するしかない。

 戦車には対人、対舟艇用に榴弾(HE)が用意されていた。

「訓練通りに殺れば良いんだ」

 相手はUAVを飛ばして上空から情報を得ようとしている。だが幸いにしてまだ気づかれてはいない。小升の言葉に全員、殺し合いを覚悟した。

 給料を貰うんだから真面目にやる。

「戦車が動けばバレる。一気に殺るぞ」

 死が近付くと生物は子孫を残そうとする例にもれず、小升は悔いを残して死にたく無かった。生きて帰ったら逮捕されても良いから、少女に小遣いを渡してスクール水着やブルマ、制服姿でプレイするんだと決意した。

「戦闘用意」

 しかし漁船にはユーゴスラビアでT-72戦車を屠った紅箭8(レッドアロー)対戦車ミサイルのL型が用意されていた。

 UAVは隠蔽、偽装されていた日本側陣地を発見する。

 毎秒200メートルで飛翔するレッドアローは、T-72戦車よりも装甲の薄い61式戦車相手なら朝飯前の楽勝であり、屑鉄に変えてしまった。

 遮蔽物で芋るとかの話以前で、操縦手の亀山が運転始めでエンジン始動させた瞬間、ミサイルを撃ち込まれ戦車は文字通り鉄の棺桶になった。乗車していた亀山と砲手の梅本、装填手の大箸が昇天した。

 敵を倒した後で文書類を回収、校合・精査して状況報告する事を小升は考えていたが、全て頭から吹き飛んだ。

 小升は井上と顔を見合わせる。二人だけになってしまった。

 交互躍進で登って来る敵兵に視線を戻すと、「ヤベエ空気だ」と判断した。怖いと言う感情が湧き出した。足がプルプル震えた。よし戦おうとか絡めない以上、銃を放り出してその場から脱兎のごとく逃げ出した。

 隣で仲間が倒れ様と、どんな事があっても心を平常に、無に保つ事が出来ないと戦えない。

 口から荒い息を吐いてる姿はパンティングで、文字通り尻尾を丸めて逃げる負け犬だった。

 

 

エピローグ

 

 その後、小升と井上は射殺された。ブラックモンブランを差し出し命乞いをしても、おかしい奴は分かる。脛に傷がありやましい奴はおかしい雰囲気を漂わせている。こいつはヤバイと分かり、下らんポエムを聴かせるなと切り捨てられた。

 中共政府は、日本へ批難声明を発信、東海艦隊が日本の排他的経済水域(EEZ)に近付いた。元寇の時とは違い神風は吹かず、火災を起こした独島や沈没したブエン・ビエント号の様な事故も東海艦隊に起きなかった。

 国会審議をボイコットして長い休みを取っていた事で震災を免れ、出席していた事で全滅した与党議員に代わり政権を獲た野党第一党の日本人民革命党ではあったが、こう言った状況下で危機対処能力が足りない事は否めない事実だった。

 報告するのは臨時に統合幕僚会議議長を代行してる中部方面総監の陸将で、防衛大臣に代わり呼び出されていた。今必要なのは、たまたま大臣の椅子が転がり込んで来た者よりも、プロの助言だからだ。

「向こうは強気ですね。武装警察の海警ではなく、いきなり海軍を出して来たのは本気だと言うアピールとも言えます。南京軍区では大規模な部隊の移動があり、ロケット軍、空軍を含めた演習名目の動員が行われておりました」

 事件は『漁民を攻撃したテロリストの排除』を口実にする先制攻撃シナリオのフェイズ1と言える。

 日頃から売国奴扱いの政党なので、政権を握ったこの機会に「あいつ嫌いなんで殺しておきます」とばかりに自衛隊の縮小と解体を計画しつつあった事から、嫌味の一つも言いたくなったが場は弁えている。組織としては苛められてきな臭くても、私情を抑えて事実のみを語った。

「中国の一方的な主張は認められない。アメリカはどうなんだ。こう言う時の為の安保だろう」

 中韓寄りの政党とは言え、さすがに国家としての主権が脅かされてる以上は、総理に就任した老人も国益を優先するだけの思考力を持っていた。

「総理、アフガニスタンやイラクで痛手を負って、疲弊しながらも中東に派兵をしてるアメリカに、極東で新しい戦争をする余裕はありません。安保の脆弱性は以前から指摘されていた事です」

 彼我の戦力差は隔絶しており、人民解放軍(PLA)が介入して来た場合、渡洋能力は数個師団規模あり、幾ら自衛隊でも沿海部で海上戦力を撃退、侵攻意図を阻止する事は難しい。

 結果、強気の中共軍は与那国島を電撃的に占領。同時に八重山諸島のほぼ中間である西表島に大規模な兵力を展開させ、黒島、小浜島以西は敵の制圧下に入った。

 石垣市から10㎞程しか離れていない近場に敵が進出した事実に南西諸島を管轄する西部方面隊は動けなかった。それ以外にも国内には西のシンパである共匪が策動しており、叛徒やシンパに煽動された不純分子による暴動があった。それらの討伐に警察と自衛隊は駆り出され、治安は回復しつつあるが人手や装備が足りない。

 戦後の調査では、共産赤色分子である武装ゲリラ、約6万人が日本国内に侵入しており、破壊活動を行い中共軍の進攻を助けたと判明している。

 現政権は動かない。動くなと言われており、手足を縛られた状態では満足に戦えない。

 沖縄の第15旅団は島嶼防衛が目的であり、本土の部隊に比べて戦車や火砲等の総合的な火力指数で劣っていた。

 開戦となった現状、最前線である竹富島は石垣島防衛の要となる。大岳(うふだき)を中心にその防御は固められていた。

 一方、攻撃側にしてみれば珊瑚礁と隠顕岩に囲まれた地形上の制約から、竹富東港を選ぶしかない。都合の良い想定でしかないが、旅団はこの敵情判断から第51普通科連隊を竹富島に配置していた。

 しかし蓋を開けてみれば、中共軍は石垣空港に部隊を空輸して来て、抵抗する間も無く一気に石垣市を陥落させ、石垣港から増援を送り込んできた。

 これに対して旅団は、前勢岳~バンナ岳の線で防御を行うが、96式戦車を先頭に攻撃前進する敵の兵力、火力との差が大きく耐えきれずに後退、於茂登(おもと)岳~野底岳の北部山岳地域に防御線を張り、同盟国からの援助を受けながら反撃の好機を待った。

 敵は石垣島南部の日本軍を駆逐すると、同盟国が軍事介入して来る前に日本軍の主力を撃滅すべく、主攻を於茂登岳に向けた。

 敵の攻撃企図に対して、正面の嵩田山で防御戦闘を行い、幾度も敵の攻撃を破砕し反攻準備の時間を稼いだのが第52普通科連隊戦闘団であった。

 嵩田山一帯の山陵は名蔵ダムに背中を守られると言う有利な地形であったが、52iは中共との緊張状態が高まっていた時期に新設された連隊で、4個中隊基幹で特科、施設科を伴わず、これに友軍を収容して編組した混成大隊から戦闘団を構成していた。この時、△202、△189、△200に陣地占領しており、防御正面は2㎞であった。

 開得に進出した敵は1個大隊で、左第一線の△200山頂を奪取すべく斜面を登り攻撃して来たが、地形を利用し配置された機関銃と迫撃砲の火網に、あたおかにも飛び込み撃退された。

 後続部隊は到着後、UAVによる偵察を行い、加えて05式自走迫撃砲が攻撃準備射撃を行った。堅固な陣地が築かれている訳でもなく、これで簡単に占領できると考えられた。

 攻撃方向を一方向と誤認させて、同時にZ-19攻撃ヘリコプターの対地支援で、△202にも攻撃を開始した。△200に集中していた戦闘団の抵抗は弱く、4中隊の守る△202は比較的容易に奪取されてしまった。そこで52i長は予備隊の混成大隊を投入、夜間の奇襲で奪還した。

 こうして第一日目の戦闘は、死屍累々と横たわり文字通り屍山血河となった。△200の戦いは流血で彩られた事から、「地雷メイク高地の戦闘」と呼ばれる事となる。

 そもそも戦争になると言うだけで経済的損失も計り知れない物となる。リスクの高さから、低強度紛争の段階で事件を収めたい日本政府は、ここまで攻められておきながら自衛隊の正式な防衛出動を躊躇った。

「何て様だ……」

 若い頃は反政府活動の闘士だった老人だが、総理の椅子に座った事を後悔した。弱い国は強い国に従うしかない。それが現実だ。

 なんやかんやあって尖閣諸島は割譲され政府は隠蔽を図ったが、ストライサンド効果で拡散され、反政府デモや在日中国大使館へ火炎瓶投石などが発生し内閣総辞職となった。



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負の自己相関

1.潜伏

 

 現代ではロリコンやペドの性犯罪者であっても、平均寿命の低い戦国時代では女性の成熟も早く子をなす事が出来た。子を産み、家を残す事こそ女性の務めであった。

 天正5年、織田家の勢力は畿内を制し、所領は538万石。動員出来る兵力は13万人以上と算定される。

 対するは中国の雄、毛利家で、12州87万石。兵力は4万6千人程度。

 一見して、毛利家が織田家に対して劣勢だが、織田家が13万人を動員すれば人的資源が枯渇するよりも前に、領内の経済が破綻する。更に織田家は武田、上杉との戦い、大和の信貴城城主松永久秀の叛乱等と内外への対応で忙しく動き続けていた。

 つまり中国方面に投入出来る兵力は限られていた。

 平伏する秀吉の前で、ピイピイと鳴くペンギンに魚を与え終えた信長は口を開いた。

「禿鼠、行ってこい」

 天正5年10月、信長は山陽道諸州の攻略を羽柴秀吉に命じる。信長は命じるだけだが、命じられた秀吉は結果を出さねばならない。貧乏人の小倅が出世するには結果が全てだった。

 23日、秀吉は兵を率いて安土を出立し、リビドーを抑える事は出来ず京で一泊をした後に播磨に入った。秀吉が無類の女好きであった事は、京極竜子や多くの側室を作った事実からも知られており京で何も無かったとは言え無い。それも秀吉自身に女性から、この人の側に居たいと思わせる甲斐性があったからだ。

 播磨の西部五郡は毛利方の宇喜多直家が浸食し、小豪族は織田と毛利の間で臣従する程付き合ってはいないが遊びでもないと言う宙ぶらりんな外交状態で揺れ動いていた。

 軍事的センスを持っていた秀吉は、いきなり攻めると言う馬鹿丸出しな策と言うのも烏滸がましい真似はせず、姫路城に本営を定め敵情の把握に努めたのも当然である。秀吉は宣撫工作に努め傘下を増やした。

 11月27日、秀吉は佐用郡上月村に前進、上月城を攻撃した。十分に準備された攻撃計画であり、秀吉は敵の応援が来る事も承知していた。

 29日には敵の応援を撃退し、12月4日には上月城を陥落させた。軍勢は勢いに乗り、福岡野城を攻め抜き、秀吉は安土に戦勝報告で戻った。SkypeやDiscordはおろかTeamSpeakさえも存在しない時代は、使者を送ったり直接対面か文を出すしか連絡方法が無かったので仕方がない。

「毛利は如何した」

「彼奴らが動くのは卯月頃になるかと」

 織田家の軍事攻勢に対して毛利家は、要点である上月城攻略を決意、3万5千人の動員を開始した。

 その間、秀吉は7500の兵を率いて播磨の加古川城に入った。その秀吉の下に、織田家の勢いを見て地元の有力者達が挨拶に来た。

 2月、播磨に戻った秀吉から別所長治、三木城城主はこの戦で先鋒を命じられた。

「羽柴は我等を小間使いと侮って使い潰す腹積もりでおるのか!」

 長治は説得を試みたが相手にされず、秀吉は笑った。秀吉にしてみれば、威圧的嫌がらせをした訳でも、説明が下手だった訳でもない。天然と言うか悪い事をしてる自覚が無く、笑い話としてスルーしただけだが、頭は沸いている。

 しかし距離感には隔たりがあり、長治は憤激し一門衆も同調、毛利に旗色を変えた。秀吉は長治の面子を立てて頭を下げる。それだけで良かったのだ。誇りを守るために戦う。これも一つの生き方だ。

 秀吉側には衝撃だった。刃を向けて来ており、構ってくれないと拗ねちゃうぞと言う可愛い話では無い。足下に火が燻っている事に気付いた秀吉は、別所の領内に火を放ち攻撃を開始した。長治が先に攻撃して来たと捏造した上での討伐だった。

 織田の軍勢が行軍している。若い者は出世を夢見ているが、年配者は生きる事を考えていた。彼らの会話は家に帰って女房を抱くか、若い娘を嫁に貰うと言う女の話だ。子孫を作り家を残す事は、生物の本能として優先順位が高い。戦になれば近くの木陰に幼女を連れ込んで一発こます事もあった。

 先手を命じられたのは秀吉の異父弟である秀長であった。秀長の隊は、加藤光泰、堀秀政、他2隊で編組されている。

「親父殿」

「何だ、気負っておるのか」

 秀吉の士、蜂須賀彦右衛門正勝は57になる。子の家政は18。自分の仕える小男は41。

 天下が織田家の下で一つになれば、これから戦で出世する機会が減るかもしれない。野武士の出であるう正勝にとって政はノータッチの領域であり、政争に巻き込まれても戦と違い器用に立ち回る自信がなかった。

「よくは分かりません」

「分からぬ事は怖い。それで用心深くなるなら構わん」

 憮然とする我が子の頭に手を伸ばすと、子供扱いを嫌がり乱暴に退けられた。

 正勝は吹き出し、家政は僅かに顔をしかめた。

 若者には経験が必要だった。正勝は、三木城攻めに当たり手頃な農民を拐って宛がう事を考えていた。

 戦で女児を抱けば一端の武士として目覚める。勝ち戦には女運も求められる。引き出しは増やした方が良いと、ロリコンも時代が許していた。センシティブなコンテンツではなかったのだ。

 

 

2.増加

 

2-1)関東軍の罪

 

 日本民族は太古から、(きみ)には君の分、(しん)には臣の分がキチンと定められたから二千六百年、一系の天子を戴いて来れた。

 そんな大日本帝国は、アジアの市場を狙う英米やソ連に睨まれ押さえつけられていた。その上、支那人を煽って日本を疲弊させた。さらにイギリスはシンガポールに要塞を築き、そこを足がかりに日本を攻めようとしている。

 国家存亡の危急に際して日本人は期せずして、一つの合言葉に堅く結ばれていた。「靖国神社で会おう」なのだ! これ程強く美しい愛国の精神溢れた言葉は無い。

 しかし負ければそれは軍国主義の産物で切り捨てられる。

 日露戦役以来、日本の敵は常に北の大国であった。満州事変勃発前は南満鉄道沿線に1個師団と1個独立守備隊(6個大隊)とを駐屯させていた日本の関東軍だが、その後、陰でコソコソ動きおこがましい事に傀儡国家の満州帝国を設立。昭和7年日8月15日に成立した日満議定書によって、日本軍が満州の防衛を実質的に担当する事になり、おとがめを受ける事無く関東軍の兵力は逐次増強されていった。

 従来、日本軍の対ソ作戦は、兵力で優勢なソ連軍を南満州に於いて撃退すると言う内線作戦で主導を得るで物あったが、組織は時代に適応すべく進化していく。

 満州を手に入れた事で積極的な攻勢作戦を執るに至った。

 昭和15年、満州方面の予想戦場に即応すべく関東軍鉄道隊司令部が設置された。広大なソ連領内侵攻時には鉄道が兵站を支える力となるからだ。同司令部は鉄道連隊を指揮し、軍用機関車式軽便鉄道(軌間60糎)及普通鉄道の建設、運転、補修、改築等を行う事を任務としている。

 装備を定め編成を企図したが、平均的1個師団の輸送量は約32個列車で、(甲車輛編制35個列車、甲駄馬編制37個列車、乙車輛編制30個列車、丙車輛編制28個列車)軍直属部隊を併せると1個師団あたりの所要列車数は約2倍とされていた。

 昭和16年6月22日、独ソ戦が始まった。これに便乗して関東軍司令部は、ソ連領内に侵攻し極東を切り取ろうとした。鉄道隊も命令受領後、12時間以内に出動準備を完了。満鉄も野戦鉄道司令部指導の下で鉄道動員された。

 関東軍小演習(関小演)は関東軍特別演習(関特演)よりも戦場を限定し、頑強な抵抗が予想される黒竜、大興安嶺方面を選択肢から外した事がこの計画の肝だった。

 先ず関東軍隷下部隊から抽出した支隊が、満州と朝鮮北東部に接する鳥蘇里(ウスリー)方面からオホーツク海まで突進する。その後に中央統帥部の事後承諾を受ける事で、支那方面軍や内地から応援を受け取り、スタノヴォイ山脈以南を進めるだけ進んで制圧、ソ連側にハバロフスク地方割譲と停戦を求める。これらの資源地帯を確保する事で、帝国の戦争遂行能力を高めると言う計画を構想していた。

 実質的な初動部隊は1個師団。支那軍がチョロかった経験から、満州事変や北支那事変同様に既成事実さえ積み上げれば、後はどうにでもなると判断したのも仕方がない。しかし事前の根回しは失敗、陸軍中央統帥部も支那方面軍司令部も協力を拒否した。

「ソ連よりも支那問題の解決や対南方施策が優先される。英米蘭の態度を見る限り、ソ連と事を構えれば帝国に宣戦布告さえして来るだろう」

 厨二病を見るかの様な痛々しい、居たたまれない視線を向けてくる。

「そうか」

 ソ連軍相手に直接、ボコしたいけど物理的にぶん殴る行為を止めるよう、遠回しではなく理由を確りと説明してくれた。

「米国は特にそうなる。英国が参戦させようとしてるからな。日本がどう動こうと、そう言う事だ」

 まあそれはそうだ。北進か南進で意見は分かれており、趣味嗜好はあるので否定する気はない。そんな感じで関東軍司令部にも、帝国は北辺の安定を確保すべきだと言う考え方があった。

 内地や支那方面から応援を得られなくても、それでもやるべきだと言う事で、関東軍司令部は6月28日、在満師団の動員を決定した。

 在満の師団は、第1、第8~12、第14、第23~25、第28、29の12個師団。在鮮の第19、20師団を合わせても14個師団。戦場を限定した攻勢には十分だと考えられた。

 関小演に於ける作戦第一期の兵力は、第3軍(河辺正三中将)が第8、9、12師団、第4軍(横山勇中将)が第1師団、第5軍(飯村穣中将)が第11、24、25師団、第6軍(喜多誠一中将)が第23師団、直轄部隊に第10、14、28、29師団を基幹とする部隊で、独立守備隊や国境守備隊が配属されている。

 開戦に当たって関東軍は昭和16年度帝国陸軍作戦計画要領に従い、東方面の決戦に向けて第一方面軍を編組。7月2日、国境の要地を確保。第2飛行集団(FC)が敵航空兵力撃滅を行い、関東軍はソ連領内に雪崩れ込んだ。北及西方面は持久方針で第二方面軍が編組され、警戒を敷いている。

 7月3日、事態の全容が参謀本部に届いた時には事が起きた後だった。二日目にして興凱湖の西に兵を進め、既に一部はウスリー河を越えてイマンに到達していた。

「関東軍は近々、極東ソ連を席巻しソ連軍の戦力を駆逐すると思っております。なぜなら昨日、関東軍は東方面に於ける作戦を開始しましたが、第二期作戦を待つまでもありませんでした。第一方面軍はイマン付近に到達したとの事です」

 浅慮で楽観的なのか、反応を見る様にいかがですか、本当に凄いですよねと付け加える勢いだ。

「何の事だ?」

「軍を動かしました。作戦の主導性は関東軍司令部が責任を持っており、我々は中央統帥部のどの部署よりも現地情勢を熟知しております。優れた分析、判断能力を持っている上に、支那やソ連の将帥が指揮する兵に比べて、関東軍の指揮統帥は現実に則しております。だから勝ち続けられるのだと思います」

 つまりは何が言いたいかと言うと、日ソ開戦だけどセーフだよねと言う話だ。梅津大将からの報告に、「わー凄い」と滅茶苦茶テンション高い返事が返って来る事はなく、東條首相は卒倒しかけた。

 彼我の兵力は、北正面より東正面に集中しているとの情報もあった。下手をしたら初手で負けていたのだ。

 満州事変で関東軍の影響力が急拡大した為、陸軍中央統帥部は関東軍の独断行動を黙認してしまい、職員に対する法令や規則順守の精神教育不足が露呈した。その上、関東軍に対して何の抑制もしないまま放置した結果、チャハル作戦の追認やノモンハン事変を引き起こした。そしてTPOとマナーを弁えない関東軍の暴走で発生したのが今回の開戦報告だった。

 ただでさえ満州事変を拡大させた板垣征四郎、気違い扱いの石原莞爾や熱河作戦の武藤信義、ノモンハン事件の植田謙吉と言った国策や方向性をコントロールしようとする過激派は一定数いる。

「支那相手の戦ですら何年続かせている。支那よりも大きいソ連相手の戦では兵が幾らあっても足りないのではないか。戦はいつ終わる? 言った事、やった事も忘れる程に陸軍は鳥頭か。聞いておるのか、東條?」

「申し訳ありません」

 流されるまま、どっち付かず。滅茶滅茶優柔不断と思われていた御上だが、やはり鶴の一声は大きい。

 躾の悪い飼い犬が他人に噛みついた場合、飼い主には責任がある。

 苛つきはパワーを呼ぶ原動力となる。調子こくんじゃないぞと御上の怒りは激しく、東條は助走を付けて殴られた気分だった。実際問題として、支那の排日排日貨は、遡れば明治41年の辰丸事件からになるわけで、そうは言われても困ってしまう。

 首相として留任されたが、兼任していた陸相の務めは果たせていないとして職を解かれ、代わりに多田駿が現役召集され陸相に赴任した。

 実質的に陸軍統帥部のトップであった杉山参謀総長は御前会議を待たず解任。参謀総長には軍事参議官であった西尾寿造が任命された。

 自決は許されず、杉山は第一線の指揮官として賊軍討伐を命じられた。

 参謀次長が新京の関東軍司令部に大陸命として事件の拡大する事無く、速やかに原駐屯地に帰還すべしと命令した。しかし関東軍司令官は大命を拝受するどころか、打算を超越してソ連を討つべきだと変電したからだ。

 攻勢作戦を中止すると返電が無い以上、討つしかない。無茶振りではない。死んでこいと言う実質的な命令があった。

 こうなっては仏印進駐等と悠長な事をやってる暇はなかった。参謀本部の検討では、満州国軍はほとんど戦力はなく、関東軍の主力も対ソ戦に動員されている為、朝鮮軍や支那方面軍に備えて2~3個師団程度が張り付いて居る物だと見なし、朝鮮から吉林方面に4個師団(内地からは第2、16、55、56師団)基幹の第25軍を、北支から熱河方面に主力9個師団(支那からは近衛師団、第4、5、18、21、33、38、48、104師団)と第19混成旅団が基幹の第23軍を使用する事が考えられた。

 7月5日、陸海軍中央協定を作成。討伐計画の上奏を終えると同時に、南支那方面軍戦闘序列を解き征討軍戦闘序列が令された。

 ソ連通で参謀次長でもあった沢田茂中将は、征討軍司令官に任じられた杉山の参謀長として同行した。関東軍解体後の対ソ処理の交渉全般を行う為だ。

 驚いたのは関東軍司令部も同様であった。ハバロフスク攻略を目前にして浮かれていた戦勝気分が吹き飛んだ。ショックで、緊張してマジで吐きそうだった。

「は、何なんだてめぇ? お前、ここで止める何て正気か? てめぇみてえな屑が! 言ってろ、弱腰の糞が!」一人がそう言うと、侵略を始めた意識が低く盗人猛々しい事に皆が同調した。

「おい、言い方!」

 御上が義挙を認めぬはずが無い。君側の奸を討てと言う言葉も聞かれた。賊軍とされた関東軍だが、錦の御旗があれば幕府諸藩が降った明治維新とは違う。天皇と言う存在をイマジナリーフレンドの様に自分の中で理想化し、征討軍を奸賊の傀儡軍と見なして抵抗した。

「我々に出来る事と言ったら一戦交えて本気だと伝える事だ」

 誹謗、中傷の話が出回り過ぎている。血を流さずに済ませる事は難しい。無抵抗で逮捕される気も無かった。

 ウザいリプライを都合よくブロックする感覚と同じで、社会にムカついた時は叛乱を起こして正当性を認めさせるデッキが一番効く。

 当然、陸軍統帥部は慌てて止めようとして来る。

「敵軍の鴨緑江渡河を阻止し朝鮮以北への前進を阻止すべし。鴨緑江対岸の敵は、我に対し三倍の優勢を以て攻撃をして来る物と判断し、満州国陸軍の一部を以て持久を図る物とする」

 満州国陸軍は帝国国防の補助的要素であり、兵力は必要最小限に止められていた。その為、戦車、重砲、飛行機はいらないと言うのが日本軍顧問の判断だった事から、脅威とは見なされてなかった。

 現実には予想以上で、関東軍司令部のデッキは整えられていた。軍政部大臣を通して各軍管区司令官、警備司令官に指示が下され、満州国軍が動いていた。

 鴨緑江は日清、日露の戦役でも戦場となった事からも、彼我にとっての要地と言えた。主力が東に居る今、関東軍の穴を埋める様に、第一線の鴨緑江に第1、7混成旅(MB)、第3、5歩兵旅(iB)を配置。5、6MBと第1騎兵旅(KB)が第二線に配置された。

 1MBは歩兵第1、2(i)と騎兵第13(K)で編制されており、総兵力は兵員約3000名、馬匹約1000頭を有する。数字だけ見れば、日本軍には劣るが、合計6個旅、其々3個団で構成されている事を考えると単純計算で2万名近い兵員が展開してる事になる。指揮官の決心、兵の士気は旺盛、訓練、素質もあり、持久防御ではなく決戦防御の姿勢だった。

 満州と接する駐蒙軍、北支方面軍、朝鮮軍は警戒を高める一方で、7月19日に賊軍討伐の命令が発せられ、23日「在満部隊の武装解除に進駐す」べき命令が発せられた。

 全肯定する程、軍も阿呆ではなかった。28日に内地の部隊が釜山に上陸し吉林省を目指し、30日には支那方面から転用された主力が熱河省に向かい移動開始した。

 征討軍の構想は、武装解除の執行と主要幹部の逮捕は第25軍だけで済むと楽観した考えを持っていた。主力の満州展開は、第25軍による武装解除が終了7日後として、おおむね一ヶ月間で状態の復帰完了と言う物だった。

 かくして朝鮮の釜山、仁川、元山に上陸した部隊が楽に終わるだろうと、物見遊山気分でウキウキしながら進んでいると、鴨緑江で在満関東軍と満州国軍による迎撃を受けた。

 友達がお泊まりに来たらおもてなしをする様に、各部隊は所命の如く展開を完了し、「来たか丁さん、待ってた、ほい!」と、激しい砲撃と機関銃の弾幕、そして地雷で歓迎した。更には戦時用法と作戦計画に基き、在満鉄道部隊の装甲軌道車、装甲列車が攻撃に参加した。

「ぶち殺してやる。犬が、糞が! わかる言語で喋れや!」

 音がヤバイ。命令伝達が滞る。

 何処でもセーブが出来るのはゲームだけで、討伐軍司令部がピュア過ぎた結果、うわぁ、ヤバイ、ヤバイ! どうしよう、どうしようと悩んでる間に、シナジー効果でたちまち戦死、負傷兵が続出。物陰に隠れて回復なんて暇も無く、阿鼻叫喚の地獄で全滅する部隊もある。

「あ、死にそう。おい、何でやねん!」

「うーわ、やべぇ! 不味い、不味い、下がれ」

 Apexと違いフェニックスキットも無いから、バームクーヘンの様に穴があくともう救えない。ゲームオーバーになってしまう。

 大陸で支那軍との戦いから学んだ戦術と、鹵獲された最新装備で武装した関東軍は、征討軍より一歩リードしていた事もあった。征討軍は小学生かお前ら、と言われても仕方がない。7割の損害を受けて、戦場掃除の屍体収容する猶予さえ与えられず義州から後退した。

 本件は奇襲を受けた後の指揮官が行うべき決心、処置と諸部隊が取りたる行動から、多少の齟齬はやむを得ざるも、戒心を要する教訓として残された。

 色々あって現状で見える確かな情報として、皇軍相撃の報はリークされ帝国を震撼させた。

 これらの騒動は国際社会にも影響を及ぼした。米英は、ソ連領内に関東軍が侵攻した事で、日本の資産を凍結し、米国は8月1日に対日石油輸出禁止に出た。

 昭和15年7月27日の大本営政府連絡会議において蘭印資源の確保は交渉を進める方向であったが、オランダは英米に依存し流される立場から対日制裁に同調した。

 予想外にも関東軍及満州国軍が抵抗を示し、西南戦役以来の本格的叛乱の兆しを見せた事から、陸軍は対南方企図を一時的に延期とした。

 初戦で損害を受けた征討軍だったが、「我々は天皇陛下の軍隊だ。天皇陛下の命令を聞かない将校は国賊だ。満州を石器時代に戻せ」と破壊と殲滅が目的に変わり、海軍が対支作戦中の第11航空艦隊を投入。関東軍主力の帰還を阻止すべくシベリア鉄道を破壊。他にも満州国内の火力、水力発電所、送電施設を空爆で叩く方向に変更。心理的効果も狙い、第一期工事中であっても容赦はしなかった。

 熱河省方面に進入した征討軍の先鋒は近衛師団(GD)(西村孫磨中将)であり、賊軍の投降を再度促す効果も期待されていた。近衛師団の前衛として動いたのが近衛歩兵第4連隊(正木宣儀大佐)を基幹とする正木支隊(近衛野砲兵連隊第2大隊、近衛工兵連隊第3中隊、軍無線の一部、衛生隊3分の1を含む)と協力部隊の野戦重砲兵第6中隊だった。

 軍主力は錦州を経て奉天から北上し、新京に向かう計画で、北平より北上する近衛師団に対して錦州に展開していた部隊は貧弱であり、古北口の17bs、承徳の9独守司、13bsと満州国軍の2~4MBが動員される程度と想定していたが、山地、河川の錯綜した地形により前進の渋滞が発生した。

 ここで砲爆撃を受ければ甚大な損害を出していた所でもあり、結局、この方面は一兵団の使用に止めるのが適切な戦場と言えた。

 人は間違いを繰り返し成長して行くが、国が間違いを犯した場合は、クソゲーのユーザーレビューより悲惨な結果で、大荒れとなる。

 関東軍司令部には大義を認めて欲しい、お願い戦をやってしまったけど受け入れて、本当に憂国の想いから起ったので受け入れてと言う感情があった。しかし、そんなん知らねーよ、と周りは敵になり、寝る暇も無くなった。義を唱えて不義に陥り朝敵の名を負った明治戊辰に於ける幕軍の如く朽ちて逝くだけだった。

 持病で休養する等と逃げ出さず、最期まで諦めず戦い続けた第5軍司令官飯村中将は、総力戦の何足るかを知っており帝国の将来を憂いていた。

 戦が始まる前、内地で購入した小説を捲る。新潮文庫から和訳の出ている『従妹ベット』の下巻で45銭だった。

(エログロ小説のつもりで買ってみたが、中々面白いな)

 そろそろ読み終えられそうだったが、邪魔が入る。

「閣下、失礼致します」

 戦況極めて不利なるを看取り投降を促す部下に対して、「まだ敗けが確定はしてない。例え帝国の誰にも我らの義挙を理解出来なくても、我らは戦う事から逃げはしない」と徹底抗戦の言葉を残し射殺されている。

 

 

2-2)勝ち過ぎた戦争

 

 関東軍を根絶やしにして黒歴史となる満州の叛乱を鎮圧し、後顧の憂いを無くした日本は蘭印に対する軍事行動を決意するのだった。

 戦後、アジア太平洋戦争と呼ばれるのは東亜に限らず、南太平洋で行われた新西蘭作戦の影響も大きい。

 人は過ちを繰り返さない。開戦から日本軍はマライ、フイリッピン、セレベス、スマトラ、ジャワ等と各地を席巻し、おおむね勝ち進んでいた。

 緬甸(ビルマ)作戦は昭和16年11月5日の大本営計画で、馬來(マレー)作戦に於ける第25軍の後方の安全確保として、(タイ)国の要地を確保し、南部ビルマの英印軍を排除する事を目的として作成された。

 中央統帥部は色々と考えてくれているが、外地ではあーしろこーしろと指示する者が居ないので、作戦要領に従いながらも軍司令官は自己の決断と判断で仕切る事が求められる。

「ビルマの英印軍は約4万、南方作戦が一段落した後であれば、増援を得てからでもラングーンを落とせば良い」

 南部ビルマの攻略は敵飛行場の制圧により第25軍のマレー作戦を支援すると言う主旨以外に、援蒋ルートの遮断と言う目的もあった。ビルマは、重慶政府の雲南省、西康省、イギリス領インドと接しており遮断する必要があった。

 南方軍総司令官伯爵寺内大将は、南総作命甲第1号を11月5日に発し、飯田祥二郎中将の第15軍は先ずタイの安定確保を目指して準備した。そして翌6日の大陸命第555号で南方作戦の戦闘序列が令され、第15軍は第33師団、第55師団(南海支隊欠)の2個師団を基幹に通信、兵站部隊等で編成されるが、徐州や内地に部隊は散らばっていた。作戦初期のタイ進駐の際、飯田中将には第25軍に隷属する予定の近衛師団を、一時的に指揮下に入る事とされていた。

 そんなこんなで準備を行い始まった開戦当初、第15軍は南部仏印より陸路と回路でタイに進駐した。

 さて、戦後生まれの諸君は、日本側の奇襲でアジア・太平洋戦争が始まった事をよく知る所であり、ビルマ作戦以外の南方作戦やハワイ作戦は、既にゲームや様々な書籍で脚光を浴びた事柄らでよく知ってる事と思う。よって今更な内容なので、ここではスルーとする事にした。

 やっぱなんか戦争には負のイメージがあり、プロパガンダを行い国民の意思統一、戦意高揚させる事は戦争完遂では大切な事だった。日本は「12月8日、英軍が泰緬(タイメン)国境を越えてタイに侵入。タイの独立を救うべく日本は助成し、英軍を撃破。国外に駆逐した」と報道している。実際には日本軍による侵攻であり、第77戦隊がタイの戦闘機を撃墜したり、両軍の戦闘が続いていた。

 11日に締結された日泰協同作戦要綱では、在タイ国日本軍及タイ国軍はビルマに在る敵軍に対し協同作戦す、とされている。

 同日、発令された南総作命甲第13号で第15軍は、モーメルン等南ビルマの敵航空基地を占領すべし、と命令下達された。タイ進駐後、近衛師団は第25軍の指揮に入りマレー作戦に参加するが、第15軍の各部隊集結は遅々として進まなかった。

「胃が痛ぇ……」

 20日に第15軍は、第15軍命令として南部ビルマ攻略を命じたが、実働部隊は55Dのみであった。

 21日に参謀本部作戦課より提示された第15軍作戦要領案では、ビルマに於ける英国勢力を一掃しビルマの要域を占領確保する為に、33Dは3個大隊、55Dは4個大隊を以て作戦に当たるとされた。

「おい、マジで! ちょっと、何この使用兵力に比べて、課題な要求は」

 この時期はマレー作戦実施中であり、南方軍も第15軍も攻勢の限界だった。そもそも第15軍は部隊の移動が完了していない。

「本当にヤバイ。マジムカつく」

 55Dはそんな情勢に関係無く、22日に第55師団命令を出していた。

 結果、ビルマに対する本格的作戦実施は、翌年の昭和17年1月22日に大陸命第590号、大陸指第1081号が出されるまで待たれる流れとなった。

 ビルマ作戦(U作戦)に先立ち航空優勢を確保すべく、12月23日と25日にラングーンに対して第3飛行集団の第7、第10飛行団(FB)が襲来。ジャンジャンバリバリと攻撃が行われた。

「どう言う事だ?」

 しかし年明け、これからやろうかと言っていたビルマ方面の処置は突然中止となった。決まったからにはやる気だった南方軍と第15軍だが、方針の転換は大きな影響を与えた。

 昭和17年12月1日、ニューギニア東北部、ラエから夜陰に紛れ第17軍を載せた輸送船団(TG)が出航していった。第二艦隊(2F)主力の護衛するNZ攻略部隊(OB)である。

 見送るのは連合艦隊(GF)司令長官の山本五十六大将。山本の望んだハワイ攻略による日米講和では、米国民の敵愾心を徒に掻き立てるだけで、厭戦気分を呼び起こすには程遠いと反対された結果がこれだった。

 勝つ事は悪い事ではない。5月上旬に実施されたMO作戦は成功、南海支隊がポートモレスビーを攻略。第5航空戦隊(5Sf)を基幹とするMO機動部隊(KdB)は、珊瑚海海戦で敵の空母を撃沈し、太平洋及びインド洋で連合軍側の稼働空母は無くなった。

「豪州本土の攻略は、支那方面、満州から転用して最低13個師団、それらの輸送に大量の船舶が必要と見積もられる。陸軍としては、支那事変の経過から考えても戦が長期化する恐れがあり、反対である」

 太平洋は島嶼を巡る戦いで、制海権を握れば終わる。海軍の担当する戦場と見なされていた。そこに陸軍がわざわざ兵を割いてくれているのが現状だった。

「海軍も長期戦は避けたい所だがあ、ここに至っては、攻めて攻めて攻め続け、敵の戦意を喪失させなければ戦争の主導権は奪われてしまう」

 今は勝っている。1月30日の陸海軍協定により、7月中旬予定のFS作戦が6月上旬に繰り上げて発動された。

 これにより大規模な配置転換があり、支那派遣軍はせ号作戦を延期、北支那方面軍による冀中作戦は中止され、大陸で日本軍は戦線縮小の動きに出た。

 結果、大本営は参加者の頭の上で行う図上演習を実施した上で、FS作戦を発動。第17軍はフィジーとサモアを攻略。目標を確保し、川口支隊と青葉支隊は任務を完遂した。

 前提条件をクリアした上で、米豪遮断としてニューカレドニアやニュージーランドも視野に入れ、第三段作戦が検討された。

 ニュージーランドはオーストラリア大陸の東南方向に、南北二大島と数個の小島嶼より成っている。大部分が山地により隔絶し、温泉もあり風土は日本に近い。

「ニュージーランドは良港に恵まれておらず、山嶽重畳の地勢の為、根拠地として利用するには費用が嵩む困難な物となるだろう」

「成る程、それも大変だな。この資料によると、ニュージーランドでは冷凍工場が最大の産業施設とあるが、現地部隊の糧食は輸出向肉類工場から納品させれば良いのではないか。バターやチーズ、ベーコンもある」

 ニュージーランドは自治領(ドミニオン)の立場ではあるが、英国の経済的植民地で精神的にも植民地と言える。ニュージーランドの人口比率が、先住民であるポリネシア人のマオリ族と白人混血が5パーセントで、残りの殆どが欧州系である事からも分かる。

 上奏された陸海軍それぞれからの作戦計画案に対して、天皇陛下は「ハワイは遠すぎる」と申されニュージーランドを選ばれた。この瞬間、ハワイ攻略作戦は遠退いたと言える。

 第一期はニューカレドニアを攻略し、第二期はニュージーランドを攻略する事で直接、豪州を恫喝し講和に持ち込もうと言う野心的な計画だった。『新西蘭作戦』そのまま、NZ作戦である。

 百武晴吉中将麾下、第17軍は、当初は南海支隊、川口支隊(35iB基幹)、青葉支隊(4i基幹)で編成されていたが、新西蘭作戦に当たり一木支隊(28i基幹)、2D、38Dが隷下部隊に配属されている。

 大本営はこの他に4個師団、3個旅団の増加を認めていたが、第17軍司令部は確約兵力を過大だと断り、現有兵力で事足りると考察した。

 第17軍は海軍実戦部隊とニュージーランド攻略計画の細部補足として、合同研究を行った。

「戦前の調査では、ニュージーランドの陸軍は1万3千、海軍は巡洋艦2隻、護衛艦2隻、その他2隻、空軍は30機程度。糞雑魚だと舐めたくなるが敵はそれだけではない。人口は凡そ160万人、国土は本州と四国を合わせた位の面積がある。アメリカはニュージーランド、豪州を足場として日本に反撃を企てている次第で、僅か1個軍、それも2個師団基幹の軍だけで、南太平洋方面の連合軍全部隊を相手にしながら、更にニュージーランドを攻略すると言うのは、無茶では無いだろうか?」

 遠征軍の長距離渡洋と言う要素の入った攻略作戦の前提条件は、海上交通路の維持であり、制海権と航空優勢確保は絶対だった。具体的考案及実情の認識が不十分だと山本は反対し、未だに東太平洋方面での攻勢計画に固執し、機会があれば努めて方針を一致させようとしていた。

 もやしカレーを食べて歓談していた会談の場が凍った。周りの者は山本と百武の空気が変わった事を感じる。

「それは違うくないですか。言い過ぎですよ。ではガチで陸軍が10個師団を用意したとして、海軍はそれだけの将兵と装備や消耗品を確実に運べると確約出来るのですか? 海軍の活躍で主力艦は根こそぎ沈めましたが、敵は壊滅した軍備の再建、増強に狂奔する一面、潜水艦や魚雷艇で必死のゲリラ戦を行い、宣撫工作、思想戦を展開する事は明白です。勿論、この戦艦武蔵が張り子の虎ではない事は分かっておりますが」

 海軍と言うよりもGF司令部は、戦争の早期集結に貢献出来る作戦を求めていたが、陸軍兵力を使わない作戦を逆に提案されてしまった。ニュージーランドは海軍に補給や輸送の責任が重くのしかかる作戦だった。しかし、そこまで言われては黙ってはいられない。

「んなぁ……」

 山本と百武の間に割り込む様に宇垣纏少将が言葉を被せた。

「無論です! 武蔵は戦う為の船ですから十分に務めを果たし、百武閣下達を無事、ニュージーランドに送り届けて見せましょう!」

 日本人は空気を読み、空気で集団が動く。意志決定では戦略志向を重視されるが、人情や空気で左右されるのも事実だった。今回の議論も感情と空気で流れが変わった。

 まんまと術中にはまり、口車に乗せられた事で、GFは動くしかなかった。

 陰気な笑い声をあげる山本だった。

 ニュージーランドの主要港は北島(ノースアイランド)にあるオークランドとウェリントンであり、陸軍としてはここを抑えれば楽に進める事が出来る。問題は航空戦力であり南島のクリストチャーチ、デュネディンと合わせて、事前の空爆と艦砲射撃で叩く事が決定された。

 輸送船団を送り込む事は出来る。ウェリントンに到るクック海峡は殆ど離礁がなく、容易に入港可能と海軍も分析していた。

 問題は敵に長い海上交通路を寸断されないかどうかだった。それでも陸海軍協定に基づいて、GFは最強のカードである「武蔵」を含め総力をあげて護衛を決行する事になっていた。

 悪魔の技を使ってでもこの戦争を終わりにする決意があった。

 

 

4.重症

 

 日本が聖戦として世界を相手に戦い、違う世界線では負けたかも知れないWW2から70年以上が過ぎた康徳86年(昭和94年)、皇軍が東亜の敵を撃滅した事で大陸の満州国と南太平洋の新西蘭は、日本の統治時代を経て完全独立を果たしたが、文化的影響は大きく思考放棄していた事から、二大ロリコンランドとして知られている。

 一度は米英に追従し、日本に宣戦布告して来たメキシコ、ドミニカ、キューバ、ニカラガ、コスタリカ、ウルグワイ等の群小国も外交関係を回復し、満州に観光客を送り込んで来ているぐらいだ。

 今でこそ青少年健全育成条例等で手をつけてはいけないと厳しく取り締まれているが、戦前の日本は性風俗もおおらかだった。

 満州国国務院は関東軍の叛乱鎮圧後、次長級のポストですら日本人には認められなかった。現地人主導での自立を御上が求められたからだ。

 しかし文化面、特に性風俗での汚染は大きく、日本人は罪深い事に現地人の性癖を変えてしまった。結果、文化習慣としての脱日本、脱ロリコンとはいかなかった。

 幼女が経営するクリエイティブな飲み屋が新京の街に多数存在する。世間的には、女を抱くより体を休めようと言うのが多数派を占めるが、リビドーの強い者は捌け口を求める。

 昭和100年を目前にして満州を訪れる日本人観光客も多く、鈴木和也もそんな一人だった。日本人向けにフレッシュネスバーガーの店舗が進出しており、ベーコオムレツバーガーが爆発的人気を誇っていたが、最近はモスバーガーのライスバーガーが対抗馬として台頭して来ている。

 若い者は直ぐに高級娼婦を抱きたがるが、37になる鈴木は年増より未熟な少女相手と言う大人の楽しみ方を知っている。

 一軒目の娼館は様子見で、ジーマに上海老酒、トンテキ、チキン南蛮、セセリキムチを頼んだ。幼女が目の前で作る料理の味は内地に変わらぬ美味さがあった。付きだしメロウを合わせても3990円。満州国円と日本円の為替レートが1:1である事を考えれば、内地より割安かもしれない。

 一戦交えて店を変え、二軒目は欧米から食の影響を受けている店だった。カシスオレンジ、キューバリブレ、ジンバック、ポテトサラダ、鶏のアヒージョ、しめにバナナジュースとメイプルキャラメルトーストと言う健啖家ぶりを見せて会計は3350円。

 祖国日本では子供を働かせる事が少ない。一方、ここ満州では酒と料理を提供されて、幼女が微笑みかけてくれる。

 普通はする事の無い行為を楽しんでいた。鈴木は、子供の頃から幼女が好きで強制性交、児童ポルノ法違反容疑で何度も逮捕された事がある。少女相手背徳感が好きだった。

 腐ってしまい、健全ではなくなった男が楽しめるのは近場では満州と新西蘭だけだった。

「ねぇ、おじさん。テキーラサンライズを奢ってくれない?」

 声をかけられて男はにたりと笑った。

「おお、良いぞ」

 鈴木と刑務所で懲役仲間だった荒井健は街頭で娼婦を買った。30の荒井を相手にするのは、7歳の少女だった。内地では違法でもここでは合法だ。

 白系ロシア人の少女に連れて行かれた店、『Let's Begin』は良心的価格で、二階は休憩所となっている。店内では魔王魂やDOVA-SYNDROME、PeriTuneと言った所のフリーBGMが流れていた。

 酒を飲んでから始めようとしたら、男が怒鳴り込んで来た。

「俺のペコに何、手を出してんだああああ! 違うよ、なああ!」

 美しい物を愛する事は自然だ。だから荒井は平和的に三人で楽しまないかと考えた。

 そして、こんにちはうさぎと小粋なジョークを言おうと口を開いた所、問答無用で刺された。中村将、29歳。阿片常習者であり人間の屑だった。

「何だよ!?」

「出てけ、この野郎! てめぇ、出てけ!」

 中村は荒井を何度も刺していたが、凶器となった物は漢方薬で使われるイッカクの角だった。

 これだけの騒動であれば店の外まで聴こえて来る。通行人や近隣から警察に連絡が寄せられる。

 満州国の警察組織に採用された日本人職員は少なくない。谷正弘が通報を受けて事件現場に駆けつけると、血まみれになって笑う中村を目撃する事となった。戦争も知らない世代で23の若者には衝撃的な光景だった。

 強い者がモテるのはモンゴル人が漢人を降し支那を支配して以来の掟だが、法と秩序が現代社会では重んじられる。

「その魚を捨てろ」谷が叫ぶと中村は振り返った。

「何だと、糞が!」

 中村が谷に向かってイッカクを構えて突っ込んで来る。谷は肩から提げていた小銃を構えた。

「馬鹿野郎! 止まらんと射つぞ」

 満州国の警察組織は国軍が解体された後、中共のゲリラや馬賊との戦いで準軍事作戦を展開する事もあった。その経験から半世紀以上経った現在も、枢軸陣営の同盟国であったイタリアからAR70/90小銃、ドイツからレオパルド2戦車やMG3機関銃等を採用していた。

「ブヒィィイイイイ! 人の努力を笑うな!」

 ブチのギレた阿片中毒の廃人の言動は意味不明だ。しかし鋭利な尖端を持つ凶器の威力は本物だ。

 谷は恐怖から発砲した。そうだ、日頃の訓練とは違う。頬付けをした射撃姿勢と違い、不馴れな腰だめに構えた射撃で安定性が欠けて、がく引きになり銃口が上がる。

 中村の身体に5.56ミリの弾がめり込むが、イッカクの角も谷の体を貫いていた。ハベルの鎧を着てる訳でもないのだ。耐えれる訳が無かった。震えるペコの目の前で二人は果てた。

 数日後、満州国警察美談として谷の話が報道されたが、エンターテイメントとしての盛り上がりは短かった。同期の話から谷もロリコンであり、本件は被害者、容疑者、殉職した警察官の三者共にロリコンであったと世間に知れ渡る事となった。

 この事件により宣統帝溥儀は、ロリとペドは大罪として満州国の法改正を進めさせ、新西蘭もこれに続き、BLやエッツな作品、児童ポルノ等を廃止させた名君として歴史に名を残している。

 なお鈴木は排泄プレイを要求。拒否された所で暴れ出した為、娼婦は抵抗した。ケツ持ちのヤクザが到着した時、鈴木の頭部に殴打の跡があり、凶器の冷凍マグロが転がっていた。

「どう言う事? これ、完全にマグロで殺られたんだよな……」

 どんな事をしたいと言う欲求は大切だが、ロリコンに神は居ない。身元の証明に成る物を剥ぎ取られ、ドラム缶にコンクリート詰めされた上で人知れず満州の地に埋められた。



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聖戦下の秘話

1.共産主義ロボの脅威

 

 古今東西、ロリコンと戦争は密接な関係を持っており、誇張や脚色される手柄話になりがちだが、崇高な使命を果たして来ていた。

 世界には悪い国がある。神の国である日本に対して露助は共産主義を信奉する悪の国であり、昭和14年のノモンハン事変は、日満蒙三国の共存共栄と言う建設的想いを踏みにじり、満州の安全保障を脅かし、関東軍を忍耐と言う地獄に引きずり込む戦であった。

 ステレオタイプなイメージでは、だだっ広い蒙古の草原で日本軍の歩兵が機械化されたソ連軍に挑みぼろ敗けすると言う世界線も存在するが、この時間軸では異なる。ここでロリコンは大きな軌跡を残している。

 満州の防衛を統括する関東軍司令官植田謙吉大将は、忠誠の化身、蹇蹇匪躬(けんけんひきゅう)の節を尽くす軍人であり、兵匪討伐の傍ら満ソ国境紛争対処要綱を麾下の部隊に与えていた。

「敵の不法行為(越境侵犯)には断固とした処置を行うべし」と言うのが防衛計画の要旨であり、張鼓峯で敗北した日本軍にとっては退けない事だった。

 張鼓峯事件の敗北は日本軍の意識を改革した。将来の戦争で科学力が求められる、戦車や飛行機が主力になる、何れも大正時代から言われて来た事だが、先人と違い組織の思考が硬直していた。それでは日露戦役で旅順の攻陥に最善を尽くさなかった乃木や欧州大戦と同じ力押しの突撃馬鹿で終わってしまう。

 いつの頃からか、満州は日本の生命線と言われる様になっていた。満州を防衛する為にはあらゆる手段を尽くさねばならない。それは当然であり、前年の昭和13年7月に内地で編制された23Dはフレッシュだが、3単位編制と言う日本陸軍にとっては味を確認した事も無い分からない物だった。

 5月12日、外蒙軍がハルハ河を渡河、不法越境して満軍と交戦した。この事態は現地部隊から近隣の日本軍に報告された。

「露助が攻めて来た? 外蒙軍?」

 ハイラルに駐屯する23D長、小松原道太郎中将が勇猛果敢な闘将である事は、満蒙国境ノモンハン西南方領地を巡る戦いで実証されている。と言っても小松原は朴念仁ではない。妻や部下に配慮する良識ある人間だ。

 終わりの見えぬ支那事変3年目とあって、戦をしたがるのは馬鹿だけであり、専守防衛の不拡大方針は心得ている。

 ただ後世の目から見て、日本陸軍の将帥は無能で軍国主義な侵略者である必要があった。

 23D長としてハイラルに赴任して以来、小松原の部下や関係上司から指揮能力や闘志の面で疑問を訴えた者は居ない。そもそも迷惑や愚かと人物評を受けるほどの無能が陸大を出れるはずもなかった。

 そして小松原に心酔する最たる者こそ、現地の満州国軍第10管区司令官の烏爾金中将だった。

「満軍だけでは対処出来ないと思慮致します」

 現在の危機を平和的に解決出来る可能性も存在したが、彼らは戦いを生業とする軍人であった。

「これまで日本は、多大な努力をしてソ連との戦をせずに平和を守る努力をして来た。これから先、ソ連が本格的派兵で攻めて来るとしても、関東軍は満州を見捨てる事はあり得ない」

 増援を期待したくても、支那方面での戦、ソ満国境の防衛もある。日本軍には兵力の余裕が無かった。しかし戦いから逃れる臆病者でも無かった。

 小松原は烏爾金中将と話し合いを終え、当初の処置要綱に従って決断を下した。この時点で23Dの将兵は1万3千名、火砲60門と数字の上では立派な編制であったが、即応可能な兵力は、師団の捜索隊(乗馬1中隊、装甲車1中隊)と歩兵1個大隊(Ⅱ/64i)。これら部隊を以て支隊を編組し、捜索隊長の東中佐が指揮を執る事となった。その中には幾人かのロリコンも居た。

「師団の方針としては、従来通りに一部を以て持久に任じ、主力を以て攻勢をとり撃滅すると言う方針で行く。そこでだ。東支隊は師団の尖兵となり、敵の橋頭堡に攻撃前進。敵先遣隊を排除すべし」

「承知しました」

 東中佐の顔を司令部の熱気が撫でた。男として闘志を掻き立てられる。お互いの武運長久を祈り、23Dと満軍は動き出した。

 張鼓峯事件の反省から、ソ連軍に火力で劣っている以上は初戦で出し惜しみをして損害を増やすのは愚の骨頂と言えた。その結果、23Dは不利な条件に抗してノモンハン方面に全力出動の挺身を敢行した。皇軍は一度動き出せば、兵力の大寡を問わず、困難に屈せず、敵撃滅の熱意あるのみであるが、やはり部隊を出せるなら多い方が良い。

「先陣は武人の誉れと言うが、小松原師団長閣下の目となり敵情の掌握する事を第一と知れ」

 騎兵は女性にキスをする様に軍馬を優しく扱う。東中佐は愛馬の首筋を撫でた。

「お前と居るといつも楽しかった。帰ったら遊びに行こうな」

 東中佐は騎兵らしい快活な人物であった為、厄介事から逃れられなかった。

 フイ高地付近に前進した東支隊は外蒙軍を捕捉、攻撃を行い対岸に撃退したが、それは始まりに過ぎなかった。

 東支隊がハイラルに帰還すると、敵は何回、攻めて来るねんとイラつく程やって来た。日本軍が迎撃に向かうと下がり、離れるとやって来る。何でまた出ないといけないんだと、マジでイラつかされた。

 敵に翻弄されている。小松原はソ連のやり口に腹をたてながらも、21日に64iを基幹とする山縣支隊を送り込んだ。

 山縣支隊は集結に時間がかかったが、23日にハイラルを出発、ノモンハンの北にあるカンジュル廟に前進した。この時、小松原師団長は山縣大佐に思う存分やれと自由裁量の指示を出していた。

 関東軍司令部も大物を狙って取り逃がすより、個々の戦闘で勝利を積み重ねる重要性を認識していた為に、余計な口出しをしなかった。

 アムコロ経由でハルハ河に向かって山縣支隊は突進、フイ高地、733高地を陣地占領した。支隊主力は制高点を確保し、各個に進出して来る敵に対して機を見て攻撃に出て、迅速に撃滅すると言うのが山縣大佐の構想だった。

 それに対してソ連軍、外蒙軍は逐次戦力を増強し、機械化部隊1大隊、外蒙騎兵約1個師が架橋をなしフイ高地に向かってここぞとばかりに攻めて来た。

 ひとたび敵が渡河して来たら、その軍勢の陣容に日本軍は目を疑った。

 その機械化部隊の中にはシベリア奥地の秘密都市で開発した共産主義ロボの姿もあった。ソ連の対日戦略の大転換だった。

 四足歩行、全長16.5メートルの共産主義ロボは重戦車の側面を持っており、26口径76mmアンチ・キリスト革命砲と46口径45mm悪魔砲を装備していた。鈍重ではあるが火力は高く、あらゆる不整地を走破可能で、大いなる活躍が期待された。

 これはソ連第57特別狙撃兵団長のフェクレンコ将軍の意思ではない。

 ソ連軍に於いて軍事委員(コミッサール)(政治将校)は指揮官に比肩する地位を持っており、部隊の作戦(指揮)、政治活動の全般を監督している。共産主義ロボもモスクワの意を受けて、政治部の隷下部隊として指導されていた。

 日本軍は、敵がもしかしてまた居なくなるのと警戒していたが、予想は最悪の形で覆された。

「ロボットだ!」

 64i長の山縣武光大佐は、少年倶楽部の読み物にでも登場しそうな超兵器の登場に困惑した。しかし塹壕は掘っていたし交通壕で繋ぎ、予備陣地を築き備えはしていた。

 対戦車戦闘を命じ、歩兵砲や速射砲が撃ち込まれるが糞雑魚過ぎてびくともしない。陸上の不沈戦艦と言った状況だ。

 今回、東中佐は山縣支隊の右翼として動いていた。

 捜索隊は若干の敵の抵抗を打破し、概ね予定の如く迂回して敵第一線の後方地帯に散兵壕を掘り陣地占領し、共産主義ロボの遮断に成功した。東中佐は状況を報告すべく下士官、兵各1名の伝令を山縣大佐に出した。これで流れはリセットされるかと思われたが、しかし死ぬのは日本軍だった。

 平坦で暴露した地形とあって対岸から敵の砲撃を受けた。初年兵も古参兵も関係無く、容赦の無い無差別殺戮だ。

「何て言うか、まぁ、忌々しい大砲だな。向こうから丸見えで沢山死ぬぜ!」

 砲煙弾雨の中、窪地を探し亀の子になるしかない。東中佐は気に入らないが、被害者面をしたりはしなかった。敵から露出した陣地を強化すべく、東中佐は自らも円匙で掘りながら指導を行った。

 山縣支隊はひたすら勇戦奮闘、善戦を以て攻撃せんとするも、量と装備を頼む敵を完全に破摧出来なかった。戦場はころがる四肢の断片や臓物で、放送不可。モザイク必要な絵面だった。

 ソ連兵は皇軍よりも感情的生き物で、負けが決まると簡単に陣地を放棄して逃げ出してしまう。アジア的優しさの血戦で敵の心胆を寒からしむる物があった。

 対しての日本軍だが、23Dは小松原中将を頂点に精神的靭帯が固く、東支隊は味方が来ると言う確信もあって敵に対して勇気百倍で敢闘した。それに騎兵は砲兵と比べて陣地変換が楽だ。的にならず射たれない場所に移動すれば良いだけの話だ。

 騎兵は柔軟性が求められる。今は防戦を頑張っているが、夜になれば転進をする決心をした。

 西洋の列強は日本人を東洋の猿と見ているが、猿とは違う。

 敵は派手に決め様とハイラルに指向しており、小松原師団長は最も要地であるフイ高地にⅡ/71iを基幹とする部隊と弾薬を、時期を逸せず逐次敵を撃滅すべく山縣支隊の応援に差し向けた。

 戦前、櫻井忠温少将も人を無き戦場の時代も来るだろうと予測していたが、関東軍司令部は敵の新型兵器であるロボットに苦戦との報告を受けて、「嘘だろ!」と報告内容を疑って派遣した辻参謀から、事実であると報告を受けるに至り受け入れた。

 東支隊の固守する前線で敵情を観察した結果、戦略持久の方針ではあったが、戦車阻止施設での足止めを行いながら肉薄攻撃班が背後に回り込む程度の対応では処理出来ず、共産主義ロボに死角無しと辻参謀は記録している。

「辻参謀、一機でも二機でも良い。飛行機が攻撃してくれたら助かります!」

「誓って御伝えしましょう」

 辻参謀は陸軍の逸材でありその蘊蓄(うんちく)を傾けて、上官であっても誤りを指摘し、士気の低い者には罵倒を行う人物だったが、患者集合所すら蹂躙して行く共産主義ロボの鬼畜な所業に怒りを滾らせていた。

 熱河や徐州会戦で、今日まで我が快速部隊が行った成功から考えても、敵が背後への挺身を企図してる事は明白であった。東中佐の要望に応えるべく辻参謀はハイラルへ報告を急いだ。

 銃剣突撃で支那軍は蹴散らせても、戦車や装甲車を前面に押し立てるソ連軍相手には上手くいかない。死にゲーすらぬるすぎる。

 現実を前に気持ちは引きずらない、全力投入により重砲と航空隊による空爆で対処しようとした。

 しかし共産主義ロボは日本軍の攻勢本拠地であるハイラルを覆滅し、国境線を東に推進すると言う方針で動いていた。

 敵は優勢なる砲兵の支援を有し我に数倍する戦車を以ており、有利な地形を利用して攻撃して来る。

 更には第一梯団が衝撃力を失えば第二梯団が代わって進む。中途に攻撃が挫折する事を防ぐ現代版車懸かりの陣であった。

 ディヴォーションLMGやマスティフショットガン、進化式ボディシールドも存在しない世界。日本軍から見れば、敵の装備は猛烈に嫉妬したくなるが無い物ねだりだ。

 撃滅せねば止まぬ勇猛果敢な精神は敵ながら天晴れだが、矢面に立つ皇軍将兵にとってはたまったものではない。

 戦では、テーベの英雄エパミノンダスが新戦術でスパルタの精鋭を撃破した様に、パラダイムの転換が必要だった。

 共産主義は博愛や愛する為に生まれて来たのではない。革命の暴力こそアカの本質だと言える。だからこそ皇軍は醜くて汚いアカと戦う。生存競争であり敵を潰すのは当然だった。

 偶然は必然でもある。意外な場所に勝利の鍵が転がっていたりもする。

 ソ連軍の大規模な侵犯が起き、第一線各中隊は希望を失いつつある中で、相互に掩護する事で孤立を防ぎ奮戦死闘を繰り広げている。優勢な敵の執拗な攻撃に対して、寡兵な23Dにとって国境の防御作戦は厳しい物があったが陣地を死守している。算定から勝ち目が無くても、大本営や関東軍司令部への面目から戦わずして後退や降伏する選択肢はない。

「戦勢我に不利とあるが、何れにしても事態の収集は急がれる。正し解決を急ぐあまり兵を徒に失うわけにはいかん」

 関東軍は壮烈凄惨な戦闘詳報を受け取り、今回の戦が予測出来た事だと悔やまれた。

「絶対優勢な敵を制圧するには、一致団結してソ連軍を排除する。その上で砲兵と航空機の協力は不可欠だ」

 我が北支軍と中支軍は、襄東作戦を実施したばかりであり休養を必要としている。増援は望めない。軍司令部の責任もあって真摯に向き合い、23Dに防戦を任せる事は不適当であるとして、ここに於いて増援として7Dの派遣が決定された。

「第2師団と第4師団を増加配属しては如何でしょうか」

「防御は攻撃と表裏一体とは言え、何事もやり過ぎは良くないよ。関東軍を総軍に格上げするには参謀本部が嫌がる。関東軍を良くするには大局的見地が必要だよ」

 絶対的正義、関東軍の組織としての未来の為に賛同した。

 敵は疾風迅雷の勢いを以て猛撃すべき所だが、その動きは泰然と言うか遅々としている。日本軍陣地前の要点を占領して偵察に努め、絶対優勢を以て撃滅し、ハイラルを奪取すると言う正攻法に拘っている。陣地があるなら取らなくてはいけないと、頑迷に思い込んで沼にはまっていた。それが付け目だった。

 日本兵が戦場に持ち込んでいた少女(ロリータ)の写真は、陰湿に死体蹴りをしていたソ連兵の進撃を止めた。情事の後か表情は諦観していた。醜女なら興醒めする所だが、しかしさすがは写真を撮りたくなるほどだけあって美貌は際立つ。糞にわかな童貞には刺激が強すぎたのだ。

 忠臣義士の美談が現代でも人々の魂を突き動かす様に、リビドーも人を動かす。この場合、動きを止めた。

 これこそ戦機熟した瞬間であった。

 日本軍の空爆が効果を現し始めソ連軍は攻勢限界に達し、日本軍の大兵団が増派されるに到りハルハ河西岸に敵兵力が駆逐され引き分けに持ち込んだ。

 火炎瓶の尽きた右翼フイ高地の日本軍守備隊は、糧秣の中にあった塩を共産主義ロボに投げつけた。破れかぶれの反撃だったが、浸透圧によって装甲は砕け共産主義ロボを遂に撃破したのだった。中央の733高地、左翼のノロ高地でも我軍の守備隊は、決死的奮闘で勇戦した。

 その後は再度の戦に備える一方で、昇進や異動、勲章や感謝状の流れがあり、勝っても負けても組織のルールは変わらない。

 後に参謀本部第四部から聞き取り調査を受けた植田軍司令官、小松原師団長はノモンハンの戦史編纂で大いに協力し戦訓を残した。一方で、知己を得た新聞社の従軍報道班員に対して、戦死した兵達の親に顔向けがならないと異口同音に述懐している。

 

 

2.共産主義ロボ、再び

 

 慶応4年1月の設置以来152年、日本と東亜の秩序を第一線で守る陸軍には様々な美談がある。

 支那の戦では、南苑の五ノ井中尉、酒井大尉。居庸関の峯中尉、京漢線無名高地であった平頂山の長尾中尉等は著名な存在だ。

 米英蘭豪相手に大御稜威(おおみいつ)の下に、天佑神助を確信し、忠勇の精神で最後まで戦い続け、ニューヨークとフィラデルフィアに新型爆弾を投下して聖戦に勝ち抜いた事もその一つと言える。

 大東亜戦争開戦劈頭のマレー作戦は、帝国一億国民に止まらず、全世界、全宇宙を感激と畏怖させた。

 松井兵団(5D)の安藤部隊に配属された島田部隊長統一指揮の下、島田、野口戦車隊がトロラク附近の敵陣地を攻撃、スリム附近に突進、敵2個旅団を捕捉殲滅したスリムの戦闘は、諸職種総合戦力が基盤をなした事で、団結力、協力動作こそ勝利の秘訣と教えてくれている。

 反面教師としては、勇猛だが部隊を全滅させた軍神五反田戦車隊長の逸話が、80年過ぎてなお私達の失笑と批判を免れはしない。

 日本は東亜の正義を守る国だが、大英帝国は二度の世界大戦で落ちぶれるまでは、世界を経済的にも征服しようとしていた。邪悪な野心は世界に沢山の植民地を作った事からも言える。

 そしてシンガポールに築きあげた難攻不落の大要塞は、大英帝国の東亜に於ける作戦中枢をなしていた。また米国の支配するマニラと相呼応する対日包囲陣の本拠で重要性があった。

 その為、我が精強たる皇軍は12月8日未明、馬来(マレー)東海岸の北端コタバルに大挙敵前上陸を敢行、初めからクライマックスであり、敵の猛烈な防御砲火を冒して敵陣を突破し、カワウソをモリモリ食べながら敵軍の猛追撃に移った。

 当時、第25軍参謀の作戦主任であった辻政信中佐は戦時中に発行された「大東亜戦記」や戦後に執筆した「シンガポール」の中で、皇軍の上陸したコタバルからジョホール・バルまで1100キロ、東京~下関に相当する長距離を突破して行く過去に例の無い作戦と表現している。

 確かにマレーの地形は平地に乏しく、大部分が山地とジャングルで、兵用地誌の準備も捗っていなかったから道路を外れての進撃は難しかった。だからこそ開戦前は守備側が有利と考えられた。

 だがマレー東岸南下部隊は密林、湿地帯を突破、トマトを食べなければ殺すぞとばかりに敵を追撃、適時要地を攻略した。

 一方、マレー西岸南下部隊の突進作戦は雨季と言う利点もあった。敵第1の防衛線ジットラを突破して敵機械化部隊を破砕しつつ進撃、敵第2の防御線ベラク河を敵前渡河し、阻止せんとした敵の機先を制した。この時までに敵兵力は半数壊滅せしめられたのである。

 野菜嫌いでチー牛食べてそうな英軍は、シンガポールの本防御陣としてマレーの首都クアラ・ルムプールを死守すべく作戦指導、北方スリム地区に野戦軍を動員したが、この一戦で脆くも皇軍に包囲殲滅され11日には完全占領。英軍の抗戦力はガタ落ちしたのである。

 人生何をやっても上手く行く時がある。昭和17年1月中旬、幸運スパイラルに入っており日本軍にとって全般有利な形勢であったが、松井兵団(5D)正面の敵軍は頑強に抵抗を続けていた。パーシバル中将は2年間の任期の間、困難に立ち向かう覚悟があったし、開戦時にタイへの先制攻撃も検討されていた。しかし麾下の部隊はそうも行かない。

 パクリで近衛師団(GD)正面の対峙する敵兵力は2000~3000と見積られた。

 実際、インドや豪州からの寄せ集めでジャングルの戦闘に適した装備とは言えなかったが、インド独立第45旅団を基幹とする部隊が、速射砲、野砲、迫撃砲、機関銃、地雷や鉄条網を備え、堅固な防御で展開していた。

「不意打ち過ぎた。日本軍は強いそうだぞ」

「いや、でも逃げちゃ駄目だろ」

 本当に優先すべき事、目標はシンガポールの防衛であり、防御体制構築、陣地強化の為に日本軍の進攻を遅延させる事がマレー半島に展開する部隊の目的だった。

 敵は抵抗の主体を道路と橋梁の破壊に置き、破壊點の前方に、砲兵の制圧帯を設け、日本軍が近付くと急襲的に火力を指向した。

 西村兵団(GD)岩畔追撃隊(5Gi)は17日、シンバンビーラムに集結、ムアル~ヨンペン街道をパクリに向かって前進。国司追撃隊(4Gi)もムアル~パトパハト街道を併進し、兵団は団結していた。

 18日、国司追撃隊の前衛である伊藤部隊(Ⅱ/4Gi)が敵と戦闘に突入。岩畔追撃隊が戦場に到着し、児島部隊(Ⅱ/5Gi)を伊藤部隊の左に展開、戦闘加入させた。

 しかし伊藤部隊は予想外の強敵に遭遇した。共産主義ロボだ。

 イギリスは独ソ戦勃発で厳しい台所事情ながら、対ソ援助を行っていた。スターリンは対日参戦こそしていないが、熱帯地方での戦訓を手に入れる好機でもあり、イギリスに恩を売るべく、シンガポール防衛の支援として共産主義ロボの改良型を義勇兵の形で送り出していた。

 ノモンハンでも鈍重だった共産主義ロボは、さらに足場の悪い湿地帯や密林があるマレーであっても防御戦闘では強さを発揮して、猛烈な集中砲火を浴びせて伊藤部隊の前進を阻んだ。

 死傷者が続出する中で岩畔大佐は、麾下の大柿部隊(Ⅲ/5Gi)をパクリから南へ迂回させて、敵の背後遮断を実施した。途中、山口大尉の隊が772高地手前の道路を遮断。大柿少佐は大隊の残りと共に453高地へ前進した。

 大柿部隊の背後遮断に対して敵は逆襲を図るが、日本兵が持ち込んでいた少女のピンナップを発見、足を停めてしまった敵戦車に対してガソリンを積めたサイダー瓶で果敢に防戦し撃退した。

 19日夜半、国司追撃隊に配属された戦車第14連隊第2中隊(五反田戦車隊)は、作戦を失敗に帰しめる愚行を犯した。

「ロボットが何だと言うのです。小回りの利く我々の方が遥かに有利です!」

 作戦要務でも「機械化部隊は特性を利用して迅速に目的を達成する如く行動する事緊要なり」とある。しかし、当時の日本陸軍は現代の10式戦車や90式戦車と比べて、蝿にもなれない装甲車に毛がはえた程度の戦車を装備していた。95式軽戦車である。

 今までは騙し討ちの奇襲の効果や勢いが凄い物で、破竹の快進撃を見せていた。

 五反田大尉は笑おうとして、岩畔大佐の表情を見て止めた。

「うん、五反田大尉。貴官のやる気は買うが、ちょっと待ちんしゃい。ここは歩兵と協力して慎重に事を進めるべきでは無いかな? 待っときんしゃい」

「お言葉ですが連隊長殿、歩兵の速度に合わせていては戦車の邪魔でしかありません」

 五反田大尉は戦車に対する過信から敵を鎧袖一触と完全に舐めきっていた。しかし敵の兵力、火砲は増強されている。

 尖兵を任じられた戦車中隊は、敵陣を突破して主力の前進を容易にさせる事を目的とするが、状況は悪い。

 この重大なる戦で第一線の状況を把握せず、全車揃ってもいない上に歩兵を随伴させず無謀にも戦車のみで敵陣突破を図り、共産主義ロボの猛火に曝されて五反田大尉以下戦車隊は全滅した。

「五反田大尉戦死、戦車隊は一両を除き全滅しました」

「あの馬鹿たれめ!」

 旅順要塞に強襲を試みて十万の将卒を殺した乃木と変わらぬ愚行、蛮行だった。

 岩畔大佐は責任感と誠意ある人物だが、彼の軍人生活の中で、五反田の暴走を許した事は、生涯を通じて禍根の残る物だった。岩畔大佐の決心に従っていたら戦車隊は敗れる事も無かった。

 戦場で情報が錯誤する事が無くても、頭がおかしい指揮官はどうしようもない。護国の華と散ると言葉を飾っても、指揮官が自己陶酔で状況判断の出来ない阿呆だったと言える。

 一方の大柿部隊は皇軍の武威を遺憾無く発揚した。20日、大柿大隊長は激しい闘志をみなぎらせながらも戦死、主だった幹部が死傷した結果、新米士官が大隊残余の指揮を執って敵の遮断を完遂した。

 共産主義ロボは鈍足が仇となり支援を受けられず遊兵化しつつある。岩畔大佐は軍使を派遣して投降勧告を再度行わせたが拒絶される。

 報告を受けた第25軍司令部の作戦主任、辻参謀は「何故もっと早く報告しなかったんだ!」と叱責、ノモンハンの経験から共産主義ロボには塩による攻撃が有効として、タイから塩を運ばせた。

 その結果、午後にはパクリの敵を殲滅し勝利する事が出来、国威を維持してシンガポールに攻め込み、城下の誓いをさせる事が出来た。

 

 

3.共産主義ロボ、三度現れる!

 

 昭和17年、英軍が緬甸(ビルマ)からとんずらして一掃された。これは重慶政府にとっても致命傷だった。

 北部仏印や支那沿岸部が日本軍の勢力圏に入っており、援蒋ルートとして米英は使えない。その為、長駆インドのチッタゴンとコルカタから北東、ビルマ北部を掠めて支那にやって来る。

 中には20以上のカーブのある道もあり、設計士は「おめぇ頭おかしいんじゃねえの?」と言われても仕方がない。それらは地形の制約から、ビルマに近いレドを経由する。

 遮断するだけなら日本軍は、フーコン谷地から北緬の米支軍(NCAC)を掃討してレドを叩く、あるいは拉孟から雲南の保山に推進、雲南軍(Y-Force)を撃滅すると言う選択もあった。

 日本軍が先にやらなければ、敵が先に攻めて来る。これは事実であり日本側の懸念も間違いでは無かった。昭和17年には米軍のスティルウェル将軍によって、インパール方面から米1個師団、英軍3個師団、支那軍2個師、雲南方面から支那軍12個師によるビルマ~タイ進攻、支那軍9個師によるハノイ進攻、支那軍による香港奪還等を計画として纏めていた。

 実際、昭和18年には雲南の支那軍が32個師に増強されており、各2~3個師の11個軍が5個集団軍として編成されていた。勿論、支那軍の1個師が単位に対して他国の師団より規模は小さかったので、米軍からも実質的には11個師団と見られていた。この他に沿岸部に英第15軍団(3個師団)、インパール方面に英第5軍団(3個師団)、レド方面にCAI(2個師団)が展開している以上、懸念や危惧では済まされない状況だった。

 そうして昭和18年2月初旬、第18師団長牟田口廉也中将は麾下の歩兵1個連隊を基幹とする支隊によるインパール攻撃を実施させた。いわゆる第一次インパール作戦である。

 チンドウィン河を渡河して、アロー~パンタ~タム~インパールの経路で、アラカン山系を走破。敵中突破による急襲で英軍の攪乱を目的とする打通作戦である。

 作戦は第21号作戦とは別物で、木庭大大佐の歩兵第55連隊(第2大隊欠)を基幹に、山砲第18連隊、工兵第18連隊、師団通信隊、輜重兵第12連隊、衛生隊、野戦病院、防疫給水部等から抽出した部隊で編組する木庭支隊によって実施された。

 チンドウィン河の水深は相当あり戦前は汽船が航行していた。ミンヂャンの対岸でイラワディ河に合しており、河川の利用による補給や部隊の移動が容易と言えた。

 この頃、英印軍第4軍団は不運な事に、チンドウィン河畔に於いて反攻作戦の準備を推進中であったが日本軍に先手を打たれた形となった。

 渡河に必要な舟艇や器材を一支隊程度ならば確実に用意出来る。船舶工兵の舟でユウ河経由で渡り、雪崩れ込む様に突っ込んだ木庭支隊はアローを占領、敗走する英軍を蹴散らし、一部は追い越してタムに前進した。敵には、誰もアラカン山系を突っ切るとは考えていないと言う隙があった。

 木庭大佐は、牟田口師団長より未開の地で遠距離挺身を行う事になるので、無理をせず雨季までに帰還する様に命じられていたが、まだ戦える。それこそ何処までも行けそうな勢いだ。

 戦機を掴み出来るだけ戦果をあげることは暗黙のルールであり、軍人の本分と言えた。

「日本軍は依然として北上中!」

「それ動きが俊敏過ぎるだろ! 日本軍主力は何処に居るんだ!」

 英軍は存在しない主力の影に怯え判断を誤っていた。司令部には重苦しい空気で漂う。

 木庭支隊は防御の第3線まで突破したが、タムの市街には堅固な陣地が築城されている。敵は航空優勢の利点があり、木庭支隊は突撃では抜けず、その上、滅茶苦茶に空爆を受けた。更にはインパールから増援が急行していた。

 敵の火力は強い。督戦は無いから逃げる事は何時でも出来る。行動の自由を与えられていたが、木庭大佐はインパールにせめて一撃を与えた上で引き揚げようと考えた。

 木庭大佐は険しい山間部の移動で悩まされていた砲兵を、第3大隊と共にタムの抑えとして残し、支隊の残りは夜陰に紛れモーレに迂回して、パレル方面に向かって北上した。

 日本軍の精兵振りを身を以て経験し知り尽くしていた英軍は、バレル手前のシェーナムに兵力を増員され、今や最大の要点となった陣地を築いて待ち受けていた。そこに木庭支隊は飛び込んでしまった。

 シェーナムで第1大隊の半数を失う損害を出した木庭支隊だが、その活躍に18Dは、補給を送る為にチンドウィン河を越えアローに一部部隊を推進、糧秣、弾薬を集積したが、敵の執拗な空爆で足止めを食らっていた。

「木庭支隊は尚更、補給が必要だろうに」

 これから5月には雨季が来る。牟田口師団長はこれ迄と考え、木庭支隊にアローへの転進を命じた。歩兵が不足して戦力が低下した事を認め、木庭大佐も執着する事無く後退を決心した。

 後退する木庭支隊を追撃した英軍は、バレルで待機していた山砲と工兵の仕掛けた罠に飛び込み、世界最強のM3グラント中戦車までもが血祭りにあげられた。更に松の木が道路を塞いだ。こうなっては戦車に勝ち目が無い。敵が後退する。

 かくして木庭支隊は、脅威を排除した事でゆっくりと逃げきれた。

 アローで木庭大佐を迎えた牟田口師団長は慰労と感謝の言葉を告げた。中でも兵を喜ばせたのは酒に煙草、甘味と言った嗜好品だった。

「気が利くじゃないか」

 頑強な敵を相手にしながら、実質的に勝ち進み続けた事から、十分な兵力と補給があればインパール攻略は可能であったと牟田口師団長は自信をつけた。安全な道にこそ勝機がある。「来年だ。来年こそは、インパールを手中に収める」と。

 一方、ラングーンの第15軍司令部は、牟田口師団長からの戦闘詳報に頭を悩ませる事になった。敵の捕虜や鹵獲した文章からも英軍は反攻を計画しており、実行されていたらビルマは混乱に陥り皇軍の威信は低下していた。今回は偶々運が良く、木庭支隊の冒険的な攻撃によって敵の計画が頓挫したが、問題は日本軍による敵状判断が完全に間違っていた事が浮き彫りにされた。事は重大だ。軍司令部はもとより、総軍、大本営の慢心と怠慢が明白だった。

「もし牟田口中将が、師団の全兵力を派遣していれば、タムはもとよりインパールまで攻略していただろう」

 飯田中将の言葉は全員が頷ける物だった。

 シェーナムを越えればバレルは目前であり、バレルに推進すればインパール攻略も夢ではなかった。総軍も補給量を統制せず第15軍に十分な用意を与えなかった事を悔やんだ。

 英軍は、日本軍による今回の攻撃を、本格的攻撃前の威力偵察と判断。当然、二度目は許さず防備は更に固められた。

 3月、ビルマ方面軍が新設されると河辺中将が方面軍司令官に任命され、牟田口中将が第15軍司令官に横滑りした。ここにインパール攻略を実施する機会が巡って来た。

 魚心あれば水心、河辺中将と牟田口中将の関係は支那の頃から良好で、今回もビルマ防衛のテーマに対して意見を求められ自説を説く機会があった。

 牟田口にとって幸いな事に、第15軍参謀長の小畑信良少将は輜重兵出身で、補給のベテランであった。

 前回の第一次インパール作戦の結果、大規模な兵力を動員せず、少数精鋭に十分な支援を与える事が出来れば不意急襲で敵陣地を抜けると考えられた。しかし二度も同じ手が通じるほど英軍に油断があると楽観視もされなかった。

 只、闇雲に突進作戦に終始すると考えず、陣地攻撃は第5飛行師団の対地支援によって行うものと兵棋演習に於いて研究、準備された。補給が途絶えては戦えぬが、それより爆弾を敵に落としてくれと言うのが前線で戦う部隊の要望だったからだ。

 河辺中将は牟田口中将を全面支援した。

「インパールを少数の兵で攻略出来ると言うなら、結構な事じゃないか。フーコンや雲南方面では敵軍が戦力を増強しつつあり、反攻の兆しが見えると言う報告も来ている。方面軍は北緬に決戦を求める事も出来る」

 ビルマ奪回を企図する敵はあの手、この手と反撃を敢行して来ていたし、敵を撃退し防衛するだけでは終わらない事も周知の事実だった。

「方面軍は緬印国境を侵す敵の攻勢を、先制攻撃でその企図を封殺する。この後に、西北部緬国境並びに雲南省付近の敵軍を叩き潰す方向で行こう」

 かくして第二次インパール作戦は根本観念として、寡少兵力を以て該方面の敵の反攻企図を事前に封殺する防衛目的であり、なるべくシンプルで済む様に兵力量は入念に検討された。

 1月7日、大陸指第1776号でインパール作戦を大本営は認可、15日には総軍と方面軍より実施命令が下達された。

 25日、第15軍は麾下の作戦参加部隊に展開命令を下達。

 主攻と助攻、インパールに指向する第一線連隊1個(歩兵第215連隊、その他所要の後方兵力を伴う)を以て、迅速に作戦目的の達成が目指された。

 山地では両端と言うべき翼の限界が存在しない為に防御には弱い。その為、攻撃側は複数の経路を利用する事が出来、今回は歩兵第58連隊基幹の宮崎支隊が助攻撃としてコヒマを占領して、アッサムからインパールまでの補給、増援を遮断する事となった。

 各支隊には通常の1個師団の弾0.2会戦分、糧秣20日分、燃料10日分が用意された。作戦を持続するには十分過ぎる量だった。

 インパール作戦開始の2月8日の朝、山本募少将指揮の山本支隊は、この日の為に用意、調教された豚や牛に騎乗して動き出した。先頭の豚の背に軍刀の鞘を立て仁王立ちしてるのが山本少将だ。

 宮崎支隊でも同様の光景が見られる。アラカン山系は必ずしも山地戦とは限らず、通過する道は所詮山地の隘路を形成している。森林地帯もあり、車輌部隊、機械化部隊の行動には不便で、豚や牛は移動手段以外に対峙するインド兵の士気を信仰の面で低下させる意味もあった。

 歩兵の行軍速度は時速4キロメートルである事から、豚の配備で向上した。赤土を巻き上げて豚の群れは進む。

 牛2頭、御兵1の牛車は200キログラムの運搬能力がある。輸送司令部の手配した自動車中隊は、不整地では動けず、逆に牛車は作戦行動可能であり、戦闘部隊に追従可能だったのが大きい。

 砲兵にとっても足は大切だ。60ミリ迫撃砲なら3.4キロメートル、81ミリ迫撃砲なら5.9キロメートル、120ミリ迫撃砲なら7.2キロメートル、105ミリ榴弾砲なら14キロメートルの射程で、山岳地域の錯綜とした地形で敵の陣地を攻撃する場合、砲兵の火力は命綱と言えるが、その分だけ重量が増す上に砲廠の様な設備での整備も必要になる。

 原始林を切り開いて作られたビルマ人の集落が途中にあった。ここに糧秣集積所や野戦病院等の後方支援体制を整えて支隊は前進を続ける。

 勝ち戦では飯が食える。腹が満たされている間は健康状態も維持されており、落伍や脱落する兵は居ない。大切なのはバランスの取れた食事と適度な攻撃前進であり、防疫給水部によって水の供給での心配も無かった。

 何故、インパールを攻めるのか兵、下士官に至るまで説明された。目的を理解しビルマ防衛と言う目標にたどり着く為の努力を各自が行う。

「突撃にぃ、前へ!」

 将校が先頭に立つと、下士官や兵は奮い立ち後に続く。必死こそ生きる道だった。

 愛嬌のある指揮官はアドバンテージがあり、部下や上官に恵まれる。

「中隊長殿に続け!」

 気持ちのアップダウンは戦場でも存在する。戦闘疲労や精神疾患で脱落する兵は悪くはないが、人として限界に達してる。それよりも逃げ出す兵が始末に悪い。

 隣の戦友が逃げ出す姿を見て、なお戦い続ける強い意思を持つ者は限られる。

 長くやってると敢闘精神も燃え尽きて来、バッドエンドを迎える。啓蒙が高まり見えない物が見えて来る。敵に圧されると何処の軍隊でも戦略持久の策を取るしか無いが、簡単には真似できる物ではなく、長時間無理してやろうとしても、遂には抵抗を砕かれるのであった。

「突っ込めぇ!」

 ロクタク湖の様な湿地帯は戦闘には不向きだ。そう考えていたが、ロクタク湖を豚や牛で渡って攻めて来た。支那方面の飯田部隊(Ⅲ/18i)加納部隊(101i)の様な無様な真似は見せない。

 馬鹿正直に正面から銃剣突撃をしたりはせずに、確実に地歩を固め敵の砲煙弾雨を極力避けて戦った。『LOST EGG』でも諦めない事、状況確認する事、創意工夫する事を訴えている。

 すげぇわ、ヤバイと言う言葉しか出てこない。

「見りゃ分かるだろ! 日本軍はインパールを落としたんだ」

 インパールを日本軍が降伏させた事で英軍は、アラカン山系を通過して行うビルマ方面への大規模な反攻は当分の間、困難となった。

 同時にインパールを占領した日本軍は、大量に鹵獲された物資の中に共産主義ロボを発見した。

「これは何だ? 戦車か?」目を丸くする兵に、若い少尉が解説する。

「ソ連のロボットだよ」士官学校の戦史教程で、ノモンハンやパクリの戦例を習っていた。

「マレーでも近衛師団の連中が手を焼かされたそうだ。今回、こいつが出てこなくて運が良かった」

 ロボットは腹が減っても戦が出来る。無傷で鹵獲された共産主義ロボは研究の為、内地に送られる事となった。その後、英軍では地走魚雷やグリンデル・マシュースの発明した殺人光線、フオシオン・ビュプレイが発明した電気砲を研究を重ね、この共産主義ロボに搭載されていた事実が判明する。

 皇国の開闢以来、重臣の数は多いが、ビルマ防衛を立て直した希代の名将、聖将と讃えられた牟田口軍司令官の様に、徳望は国中に充ち、誉れは外国まで溢れている者が何人居るだろうか。牟田口軍司令官は武臣の手本、国家の礎である。

 麾下の第15軍も精兵であったが、一部には無頼の輩も居た。第33師団の松野栄兵長、近藤善広上等兵、酒井響介一等兵は本作戦中、通過した村落で原住民の少女に性的暴行を加え殺害した事から憲兵に逮捕された。

「チャンコロや土人をどうしようと何が悪いんだ!」

 好事魔多しと言うが、強者は徒に傲る所がある。ロリコンはまだしもペドは許されない。

「銃殺にしなさい。ただしこれは提案であり強制ではない」

 性欲が枯れ果てなくても良い。姦奪を戒めるべき立場に在りながら部下を統率出来なかった直接上司の大隊長、中隊長、小隊長は解任。当人達も容疑を認め銃殺されている。

「え、嘘でしょ。ちょっと待ってよ」と思うが、お尻ペンペンで済ませず(ペド)を庇わず処断した正義は、総軍、方面軍から紳士として評価された。

 国の存亡を賭ける程でもない小作戦だったが、兵隊ごっこでしかなかったペドに哀れみをかける物ではない。

 この様にしてクリアされたインパール作戦のエンディングは、皇軍の栄光であると同時に、末尾をロリコンが汚した汚点でもあった。



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豪州進攻作戦*

はじめに

 

 人によってズレは存在する。それを多様性と呼ぶが、戦争はズレを正す政略の最終手段である。その為、戦争は国の未来を作る国事行為であり、国家を代表する政府によって将軍は統帥される。

 弟殺しの源頼朝が鎌倉に幕府を開いて1.5世紀が経過した日本では、朝幕の摩擦軋轢から一大衝突が起き、後鳥羽上皇による承久の役後、幕府の影響力を握る北條氏によって、朝廷に干渉を強めるようになった。それは皇位継承にまで介入し、天皇を隠岐(おき)に移す悪逆無道等で専断していた。

 元弘2年、大塔宮(だいたふのみや)で知られる後醍醐天皇の皇子は還俗し、護良(もりなが)親王として吉野山似て討幕に挙兵。楠木他門兵衛正成(まさしげ)も意を決して義挙に加わり、金剛山の千早を陣地占領した。いまや重大転機に臨み北條高時は、勤王の義兵を幕府のアンチだから討ち滅ぼさんと軍勢を投入して来るのであった。

 しかし衆寡敵せず吉野山の勤王軍は敗れるが、千早の正成は才と謀を以て頑強に抵抗した。

 元弘3年、後醍醐天皇は隠岐を脱して伯耆(はうき)名和(なわ)に上陸、附近の要害にあたる船上山(せんじょうさん)へ移った。天皇が御還幸(ごくわんかう)になって、中国、四国、九州諸国の武士が馳参った。そして3月15日、六波羅征伐の先鋒として六條忠顕(ただあき)は3万の兵を率いて出発した。この頃、播磨の赤松則村が挙兵し、洛中を脅かして山崎~八幡の線に展開していた。

 鎌倉の高時は、船上山の攻撃に名越高家及び足利高氏の派兵決定する。

 この間、千早の戦いは続いている。高地を押さえる正成に対して関東勢は、赤坂吉野の寄手加えて20余万、圧倒的兵力差で、包囲圏は逐次圧縮されたにも関わらず交通不便な山岳戦で背後連絡線の関係、攻略上の考慮等から見て苦戦を強いられた。イゼルローン要塞と違いご都合主義な火力は無く、正成の指揮統制だけが全てだった。

 攻囲を行う賊軍の中に、上野(こうづけ)国の住人、新田小太郎義貞の姿があった。義貞は武神として知られる八幡太郎義家の子孫で、将の才を持っていた。3月11日、護良親王の密使から令旨(れいじ)を受けた義貞は、勤王の志から領国に帰還した。

 当時、幕府は戦費を賄う為に臨時の徴税を行ったが、義貞は要求を拒絶。5月8日には兵を挙げた。

 初戦で義貞は上野守護、長崎孫四郎左衛門を排除し地盤を固めるべく、入間川を渡り世良田の国府を攻めている。引き続き武蔵に前進した義貞の下に義士が駆け付け、人員を補充し兵力は2万に拡大した。

 並行的に鎌倉攻撃が実施出来る様に準備を進めていたのか、義貞は逐次到着しつつある友軍を併せて指揮して、5月11日に小手指ヶ原に進出。同地に於いて櫻田治部大輔貞國、長崎次郎高重、長崎孫四郎左衛門等の賊軍6万による迎撃を受けた。矢合(やあわせ)の後、太刀、長刀を装備した騎馬が盾を越えて突進、両軍死傷続出し日没に戦闘は終了。彼我の損害は官軍300、賊軍500。

 賊軍は久米川に後退したが、12日早朝、官軍の攻撃を前に再度賊軍は敗退した。連戦連敗な状況で鎌倉は新たに左近将監入道恵性泰家を将とする後詰を13日に出発させた。同部隊は14日夜半、関戸で貞國と合流する。

 多摩川の分陪河原に前進した両軍は、15日には戦闘再開。賊軍の頑強な抵抗を前に、義貞は堀金に後退する。新たな応援を加えて官軍は16日に朝駆けを実施、賊軍は大敗する。義貞は好機を逃さず世谷原に鎌倉討伐の兵を集結をさせ、藤澤に指揮所を前進させると、17日には鎌倉を包囲した。

 官軍の攻撃部署は、大館宗氏、江田行義の右翼が極楽寺の切通を指向、堀口貞満、大島守之の左翼が山の内から村岡、洲崎を経て小袋坂へ、新田義貞の中軍が藤澤から梶原村を経て、化粧坂へ其々進攻した。投入された兵力は諸説あり、12万乃至60万7千。

 これに対して賊軍は大佛陸奥守貞直、赤橋相模守守時、金澤右近大夫貞将を将として防御戦闘に当たった。

 18日、官軍は附近の村々50ヶ所を放火、攻撃開始した。現代なら住民感情に配慮を求められるが、鎌倉攻めの義貞や千早の正成は政治の介入を受けなかったからこそ、決心を鈍らせる事無く思う存分活躍出来た。

 史書にもある通り、逆臣による武家政治は義兵によって滅び、天下は王政復古、国体本然の形に還って天皇親政の建武中興の御代となった。

 しかし普仏戦争に於いてフランス政府は、軍事の才能が無いのに為政者としてのプライドだけが高く、客観視が出来ず作戦上大なる妨害を興した。巷で言う所の半年ROMれと言う言葉は当てはまる。政治には、将軍を見守りリカバリー出来る事こそ求められる。

 

 教育総監部第一部長 松屋治郎少将 

 たまに帰って来る戦争の終わらせ方のすゝめ 月曜會(昭和100年)より

 

 

 

1.日支講和締結

 

 日清の戦役で、清は陽キャラではなく陰キャラ、肥えた豚だと諸外国に知れ渡り、統治能力の欠如から太平天国の乱や辛亥革命を引き起こし崩壊した。新たに中華民国が樹立されるが、文字通り人心は乱れ、心も頭も狂い軍閥が各地に跋扈していた。支配者が入り乱れて支那はまさに戦乱の世であった。

 しかし偉大な指導者、蒋介石の登場により動乱の時期は終えようとしていた。それを滅茶苦茶にしたのが浅ましくも日本の関東軍や軍部の暴走だった──と言う事に、良識的日本人の弁を借りればそうなっているが、マルクス主義の特徴であるレッテル貼りその物だった。

 倫理的、道徳的観念も時代によって異なる。西洋列強が実を取り、切り崩された支那であったが、日露の戦役で皇国日本が勝った事で、南満州は日本の守る土地となった。中華民国支那は日本の行動全てが侵略的で、抗弁は幼稚で無責任として日本を大陸から追い出そうとした。

 抗日と言う火種は各地に飛び、大陸に渡った国民に著しい被害出た。

 そして火は大火となり、昭和6年9月18日に柳條溝事件を発端として始まった満州事変は、アカのコミンテルンによる策謀により表舞台に出た形の日本だが、大陸への派兵長期化により国民の生活は戦費や軍事費によって逼迫している。

 キレ芸で圧をかけ、駐箚(ちうさつ)師団の2Dが馬占山を降しチチハルを制圧しても、満州国の西端、湯玉麟の治める熱河省との戦いが待っていた。

 自爆テロの反満工作を行う張学良が、熱河省を利用すべく支那正規軍を侵入させており、熱河省一帯の義勇軍や匪賊、反満軍は13万5千。満州国のサークルクラッシャーとなった熱河問題は、日満軍が熱河地方に進出すれば余波が北支那、北平、天津地方に及ぶ事が当時から衆知の事実だった。

 しかし国の説明が下手だったのか、討伐すべく茂木部隊(騎兵第4旅団)、坂本部隊(6D)西部隊(8D)が出動した。国民は「え、何で? あんた、いい加減にしなさいよ!」と言いたくなる、いつまでも永遠に続く戦争だった。

 北の露助に対抗すべき関東軍は、満州国の安全確保として不仲営業を行い、支那軍を排除すべく張家口~北平~天津に到る線までの制圧も視野にいれていた。

 昭和7年1月18日、中支那の上海で下っ端チンピラな支那救国義勇軍の団員と抗日分子の支那人300名による非道な暴行によって、日蓮宗僧侶天崎啓山、水上秀雄他信徒3名が、鉈、コンクリート塊、煉瓦で殺傷された。現実ではノックダウンシールドが無いと死んだら終わりであり、これは始まりに過ぎず抗日運動は日増しに激化した。

 支那側にも理知的な者も居たが、最初から支那側が悪と言う結論ありきで対する日本と交渉する事が出来ない。日本人の中でも一部過激派が軍事衝突を誘発させると言う不正規作戦実施の前提で結論が出てるから、和平は実現しないのも当然だった。

 それはやり過ぎだろうと言う情勢下で、日本人は面子を大切にする以上、邦人保護の為に海軍陸戦隊が展開した。

 これに対して支那の英雄蔡廷鍇は、「良い度胸だ、この野郎。上海は我が国固有の領土であり、外国による主権侵害は認められない。我々は武力を以て戦う事も辞さないだろう」と決然たる姿勢を見せて来た。23日に第19路軍は営長以上を集めた緊急軍事会議を行った点からも、上に立つ者の政治的パフォーマンスだとは理解出来るが、24日には各部署の調整を終え抗日を基本方針で固めた。末端の兵はそれを見て調子づく。

 支那側の戦史によると、第一次淞沪会戦、一・二八事変の勃発は日本軍陸戦隊が1月28日23時半、砲兵の火力支援で装甲車十数両と共に閘北に攻撃前進、人としても越えちゃいけないラインを越えて、支那正規兵と交戦した事で始まったとされている。

「我が東三省を占領する暴虐な日本は、卑劣にも浪人を使って最近更に上海で放火殺人をやっていたが、28日夜12時、陸戦隊が閘北に公然と攻めて来た」とか云々の凄く長いポエムの発表をして盛り上がってしまい、2月3日には再度陸戦隊が侵攻して戦闘がダラダラ続いていた。

「てめぇ、ふざけんなよ! 馬鹿野郎! ビビるからマジ、考えてくんない!?」

 自分の声を大きくしたら聞こえる、意見が通る。その理論は正しい。しかし頭を使って状況を見ていない。面白いと思ってやってるなら、面白くない。

「うっざ、マジで。何なん。腹立つわ、こいつら」

 彼我の兵力は、三下とは言え敵が優勢で3万数千、我が約3千。支那の第19路軍(19J)が上海租界地区に面した江湾鎮、閘北一帯にかけて堅牢無敵の要塞線を築き始め、野砲陣地を展開していた。19Jは、北伐戦争時期の国民革命軍第4軍第10師、第11軍を前身とする精鋭だった。

 国際都市である上海の居留民は2万5千ほど、その他外国人は3万4千。正に上海危うしであった。

 始まってしまった以上は仕方がない。翁照垣の第78師第156旅(156U/78S)に対して陸戦隊は天通庵駅を中心にした線で持久した。しかし陸戦隊はしょせん補助的戦力で、第一線でフル装備の陸軍相手に長々と戦え無い。

 支那軍は元々、欧米から日本軍より優れた装備を調達していた。エグゾフレームも無く、たまたま編成されただけの陸戦隊が苦境に陥るのも当然で、海軍では越えられない壁があると認識した。

 結果として海軍が便器の外に糞を垂れて失敗。反省をしていたから、ケツモチとして陸軍は嫌々、タイムカードを押して出勤する様に動いた。

 租界地区の居留民を守れと言う事で、田中内閣の陸軍大臣だった白川義則大将をエリアマネージャーの指揮官とする上海派遣軍が編成された。

 白川大将は知性、理性、品性、そして芸術性でもセンスを持つ人物で、軍人として生涯を過ごした。後世の目から見ても、将器に疑問を挟む余地は無かった。上海派遣軍は、混成第24旅団(24MB)第9師団(9D)が先発、最終的には11・14Dが増派で後に続く。

「白川大将の上海派遣軍は、上海地区の敵軍を撃砕し、居留民の安全を確保すべし」とされていたが、先ずは文明人らしく交渉を行った。

 日本軍第9師団長植田中将は支那側の面子に配慮せず、「第19路軍は上海租界より引き上げ、周囲30キロを非武装地帯とすべし」とスピリチュアルかかった非現実的な要求を一方的に行うが、南京政府と第19路軍軍長の蔡廷鍇は、「意味わかんねぇよ。ちょっとあれかもしれない。頭おかしいんじゃねえか?」と最後通牒を拒絶、対日宣言を行った。

 戦闘に際しては海軍も海から協力し上海の作戦に寄与した。第2・3艦隊は溜飲を下げる様に何時間も、何日も徹底的に砲爆撃を行い支那軍を叩いた。

 抗日運動の根幹は複雑な感情もある。日本は全世界、銀河を支配する100年の計画として支那を手中に収めんとして、手始めに満州を占領し、次に上海で戦を始めたとされている。

 しかし日本側の視点で見れば上海は敵に包囲されている危機状態だった。西正面には19Jの第60、61、78師が並列配置されており、各々2個旅から成っている。その背後、南翔に張治中の第87師が展開しており、最終的には南京政府の蒋介石直系の警察軍(警衛師改編の第87、88師)が加わり6個師が上海方面に集結した。

 これに対して日本軍は、19J及び其の別働隊である便衣隊の計画的挑戦によって、租界の共同防衛に関する任務達成及び居留民の生命財産の保護上、このままでヤバイとして20日、実力で敵勢力の排除に動いた。

 9Dの前原旅団(6iB)の7i(-1個小隊)は、35i(-1個小隊)、27TKS(-1個小隊)、1/16K、IBAと共に師団の右翼隊を形成し江湾鎮の西北部に攻撃前進を行った。

「敵、前進中!」

「目標敵散兵、射て」

 下元態弥少将が指揮する24MBは呉淞支隊(歩兵2個中隊基幹)と共に右翼隊を形成している。海軍陸戦隊は、左翼として協同動作で固めている。

 日本軍は頑強な敵の抵抗に遭遇すれば迂回し、後方深く進撃し、揚子江に敵を追い込み包囲した。

「やべぇやつ来た! 何で、何で。さっきまで普通だったじゃない! 許して、許して!」「ぴえんぴえんぴえん!」と逃げる支那兵。「チャンコロに死を」と何処までも追撃する日本軍。21日には、孟家宅を占領した。

 22日、廊行鎮付近の攻防戦が始まった。インクの減らない判子か弾幕ゲームの様に、支那軍は頑強に抵抗する。しかし皇軍将兵は勇猛果敢に進む。

「足下に注意しろ」

 市街地を移動してると略奪された商店が目立つ。それも日本軍だけではない。撤退する支那兵も接収名目で略奪をやっていた。路上には支那兵が食事中だったのか、はぞめき蟹の甲羅が食い散らかされており悪臭を放っていた。

 日本軍の最右翼、24MBに配属された工兵により、旅団の左翼隊である森田大隊正面、鉄条網に突撃路が開通された。タイタンも無い生身の決死隊が、自己犠牲の精神と爆弾筒を以て鉄条網を破壊した。

 第1小隊は成功したが、第2小隊は多大な損害を出した。第2小隊は1個組以外全滅したが──第1班の全滅した9名ではなく──とりあえず爆破に成功、廊行鎮を占領した事から、第2班第1組の兵は死んでも美談扱いで処置した。

「我が軍は頑張っちょる。このまま行けば今月中には上海を完全掌握出来るだろう」

 戦場には何でもある。英雄になる機会、幼女をお持ち帰りする機会さえも転がっている。戦況報告を聞いた参謀本部は、爾後の行動計画を纏めようとした。

「参謀総長、上海派遣軍は南京に一番近く進出している部隊です。北に突破させれば、この戦争は終わります!」

 若気のいたりと言う事で、心の中のノコギリを隠して叱責をした。

「あ、馬鹿たれが! それは違う。それでは表面上の事しか見ていない。チャンコロが何匹居るのか弾が勿体無い。頭をかち割ろうとすれば国際的な批判を受け、帝国はますます孤立をしてしまう。それに支那は国土が広すぎだろう。帝国の手には余る。それが分からんのか」

 若さゆえの過ち、無謀で余計な物まで攻めていると参謀総長は判断したのだ。

「支那軍に時間を与えれば、兵力を増強します。僅かな逡巡が勝てる戦の勝利を逃す。我々は誰にも縛られない。軍人の本能に従えば良いのです!」

 戦の手動を握り支那軍を包囲、打撃を与える事により華麗な勝利を収めそうな日本軍だったが、蒋介石は持久戦の死守命令を出した。

 包囲下の国府軍は陣地防御に慣れている。一定地域を確保し、一定期間、時間を稼いだ後に攻勢転移の逆襲を行う為、戦力を温存すると言う決心で、空中投下による補給が行われた。

 負けたらキレるのは良い。学ばず反省しないのは無能だ。そこまで国民党政府も愚かでは無かった。

 メンタルは体調が関係する。確り食べて寝て健康であれば、弱兵が努力をしなくても戦える。

 自暴自棄になって頑張れないかもと思ったが元気になってジャンジャンバリバリ撃って来る支那軍。強制収容所に送られると言う噂もあって支那兵は奮闘した。

 この戦闘の最中、9Dの第一線で戦っていた7iの第2大隊長空閑少佐が行方不明となった。2MBは廟巷付近の敵陣を奪取、郭家宅の北方敵陣を突破した。

 25日、日本軍は第二次総攻撃を開始するが、27日に国府軍の反攻が始まった。この時の国府軍は祖国を守る大義があった。初見殺しの死兵として戦った。

 3月1日、大場鎮に日本軍は進出するが落ち着いて周りを見ても、厳家橋付近の壮烈的肉弾戦な戦闘で林大佐を始め多くの将兵が戦死した。ズキュン、ドキュンと撃ち込まれる弾に仕掛けがあった。

「ダムダム弾を使用してるだと!」

 肉壁やデコイ代わりの兵は幾らでも出せる支那軍は黄浦江を渡河して協同租界地区に進出、日本軍の後背を脅かした。現地軍は頑張りが足りなかったが、全滅の危機が見えて、どうしてかな、何で自分が出来なかったんだろうと勝利を諦めきれ無かった。

 リスクマネジメントが甘く、国府軍の大反攻により上海派遣軍は三割の損害を受けて勝利を逃した。「どう言う気持ち?」と煽られても敗けは事実だ。通常、三割の損耗は組織的戦闘能力の喪失を意味する。支那軍強し、侮るべからずとして陸軍は大いに反省する所があった。

 対話を諦めなければやり直す機会はある。事変は英仏の仲介によって停戦。実質的に無敵と驕っていた皇軍が破れた事から帝国政府はリスケ、支那政府と真摯に向き合い満州からの撤退に同意。滅茶悔しいのが一番で、前に進まないといけないと思ったから、賠償金無しと言う事で支那との講和が成立した。

 結果として抗日戦争が終結した事により蒋介石の目は国内一本に絞られ、引き続き共匪の撲滅実施。郭汝瑰等間諜の存在が発覚した事から、犯罪の裏には共匪と金持ちの白人が居る。外国勢力による策謀の排除を目的として、欧米列強は支那から閉め出され市場を失った。

 西欧列強指導者の脳裏にはザラサーテのツィゴイネルワイゼンが轟々と鳴り響いた。

 

 

2.大東亜戦争の転機

 

 後世の史家はマウントを取りたがり出逢いは何だろうと気にするが、大東亜戦争は満州事変の延長にある。英米に追従していた支那の抗日、排日に悩まされていた日本は、満州事変の結果、国際連盟を脱退し、英米の帝国主義、支配体制の一角を崩し始めた。そして一度、戦が始まれば、米英撃滅の日まで戦って勝ち抜く決意を固めていた。

 しかし日支が和解した事で、日本を取り巻く情勢は変化した。欧州に介入したい米国の強引な対日強硬政策によって大東亜戦争開戦を余儀なくされた。

 寝てる間に人は夢を見る。夢の世界は現実の世界とは異なる異世界であると解釈もある。

 夢は無意識であり、無意識の願望が現れると言われる。では化け物に襲われたり、落下する夢は自殺願望なのかと言うと、不安やストレスの現れだと解釈されている。

 昭和16年12月8日、米国海軍太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将は、燃え盛る軍港と飛行場からの煙で視界が塞がれるのと同時に目眩を感じた。

 やるとなったら日本人は徹底的にやる。開戦と同時に、日本海軍はハワイにまで遠征し、真珠湾に在泊する太平洋艦隊を叩いた。そしてその結果が無惨に沈没した戦艦達だ。

 残念ながらこれは白昼夢ではないので、意識は覚醒している。

 優れた戦略や戦術は時に数の優位を超えるが、敵として我が身に降りかかるなら悲劇だ。日本軍の奇襲で麾下の艦隊は損害を受けている。真珠湾は浅瀬なので引き上げて修復する事は可能だが再戦力化には時間がかかる。おそらくだが半年間は行動不能と見ていた。

 畜生。これではマーシャル、トラックの攻略どころかグアム、フィリピンの救援も不可能だ。

 使える手駒は限られていた。サンディエゴで修理中の「サラトガ」と「ホーネット」も加えて、空母は「エンタープライズ」「レキシントン」の合計4隻と、高速戦艦2隻―――「フロリダ」「ユタ」と若干の護衛艦艇と潜水艦のみ。

 大艦巨砲主義、戦艦中心の艦隊決戦で勝利する事こそ帆船時代から海軍の本懐であるが、残存艦艇で艦隊決戦を挑み日本海軍を撃ち破ると言う事は不可能だった。

 この敗北はキンメル一人の責任ではない。太平洋艦隊、海軍全体の汚点であり、汚名返上、名誉挽回には戦果が必要だ。

 1ヶ月待てば、大西洋艦隊から補充としてワイオミング級とニューヨーク級の戦艦4隻が回航されて来るし、新たな就役艦も配備されるが、日本軍の攻勢は止まらないし、待ってくれる時間もない。

 母国の悠久と繁栄を願うならば、徒に怠惰な時間を過ごす贅沢は許されない。国を守れぬ海軍は悪だ。だからこそ求められるのは、政治的にも軍事的にも効果を発揮する目立つ戦果。

 情報が正しければ日本軍の主力艦隊は全作戦支援として、瀬戸内海西部に警戒碇泊し、所要に応じて出撃するとして、動いてない。燃料の問題もあって呉に停泊したままだと言う。

 9月1日の年度戦時編制発令と変わらないならばGF主力は呉だ。呉を叩く。

 呉奇襲により、こちらもやり返す事は出来る事を思い知らせてやれる。キンメルから構想を聞かされたスミス参謀長とマクモリス作戦参謀は同意した。彼らはキンメルと一蓮托生であり、キンメルが解任されるならばスタッフは一新されると認識していた。その為、冒険的であっても戦果を求めた。

 指揮官は豪胆にして、臆病とは無縁な者に任せたい。キンメルは「エンタープライズ」を基幹とする第8任務部隊(TF-8)を率いていたウィリアム・ハルゼー中将に対して呉の奇襲を命じた。

 ハルゼーはこの時、米国海軍が保有する全空母への指揮権を持っていた。ハルゼーに与えられた海の精鋭たる兵力は、ウィルソン・ブラウン少将の第11任務部隊(TF-11)と合わせて、空母「エンタープライズ」「レキシントン」、戦艦「フロリダ」「ユタ」、重巡「ノーザプトン」「チェスター」「ソルトレイクシティ」「シカゴ」「ポートランド」、軽巡「アストリア」、駆逐艦14隻。太平洋艦隊の実質的な全戦力と言える物だった。

 呉は日本本土にあり濃密な哨戒網が構築されていると考えられた。この観点からハルゼーと幕僚は艦隊を生還させるべく、呉の在泊艦隊に一撃を与えた後、離脱する消極的だが堅実な作戦を立てた。

 ウィリアム・H・ブラッカー中佐は作戦参謀の観点から危険見積りを行った。安全管理、危険予防、災害防止で受傷事故防止に励み、常に最悪を考える。ブロムフィールド・ニコル少佐は課題に対して対応を考えた。

 敵の勢力圏で奇襲を行えるのは、上手く行ったとしても一度しかチャンスが無い。一撃必殺の攻撃が求められる。

 レイモンド・スプルーアンス少将が将旗を掲げる「フロリダ」と「ユタ」の2隻は鈍足の戦艦ではない。WW1も経験した老齢ながら機関換装で32ノットも出せる高速戦艦に生まれ変わっていた。

 2隻の主砲である12インチ/45口径Mk5砲は、陸軍なら305ミリの重砲で十分な火力がある。ならば重巡、駆逐艦と共に打撃部隊として、広島湾の柱島泊地を目標に突入し活躍する事が期待された。同時にグラマンF4FワイルドキャットとダグラスSBDドーントレスからなる母艦航空隊が、江田島や岩国、呉周辺への攻撃も行われる計画だ。

 気に入らない。しかし他に良いアイデアもない。――――これがハルゼー達の置かれた状況だった。

 一方で、日本海軍と言うよりも日本軍はミスをした。本土防衛は陸軍の管轄とされているが、組織の弊害が出た。

 海軍による真珠湾奇襲の戦果は知っている。もはや敵に反攻を行う戦力が残っていないとの認識に陥ったのも仕方がない。しかし敵が同じ事をしてこないと陸軍には予測できなかった。

 海軍でも良識者である伏見宮博恭は、軍令部総長時代に陸海軍協定を定めようとしたが軋轢は大きく、実り少なかった。伏見宮派と呼ばれる及川古志郎、永野修身、嶋田繁太郎、南雲忠一らは無敵海軍を率いて輝く戦果を収め武勲並び名将の名を謳われながら、伏見宮の意を汲んで本土防衛の一助となる努力をしていた。漁船を利用した哨戒網の構築もその一つだ。

 矢は弦を放たれた。日夜、我が身を省みず訓練に励んで来た海軍将兵の決意は硬く、疲れた体と心を癒す暇もなく一路、日本本土の決戦に向かう。

 この時、呉周辺には第1戦隊(1S)第1艦隊(1F)(欠3S、6S、1Sd(-dg×2)、3Sd)、d×1/7dgが展開していた。

「最低でも、『長門』と『陸奥』を叩けば良い。連中の保有する40センチ砲搭載の戦艦はこれだけで、残りは36センチだからな」

 一機、また一機とレディレックスとビッグEの甲板を飛び立ち、編隊を組む空襲部隊は、戦闘飛行隊(VF-2、VF-6)のグラマンF4Fワイルドキャット、爆撃飛行隊(VB-2、VB-6)のSBD-2ドーントレス急降下爆撃機、雷撃飛行隊(VT-2、VT-6)のグラマンTBDデバステーターからなり、100機を超える大編隊だ。

 危険を冒し、攻撃ギリギリの直前に上げた偵察飛行隊(VS-2、VS-6)からの情報で、日本海軍の主力戦艦群が停泊してる事は確認している。完璧な奇襲であり、泊地の上空には日本側の邀撃機が上がっていなかった。

 眼下には6隻の戦艦が見える。ビッグセブンに数えられる「長門」「陸奥」、いささか旧式の「伊勢」「日向」「扶桑」「山城」だ。砲塔の天蓋等と言う装甲の厚い箇所を狙っても効果は薄い。狙うのは艦首や艦尾の甲板、煙突と言った装甲で固めきれない箇所だ。

 ドーントレスから投下された1000ポンド爆弾は、高度600メートルから強烈な勢いで甲板に叩き付けられ、勢い衰えず艦内で攻撃側が望んだ通りの効果をあげた。日本海軍主力戦艦の撃沈である。

 呉鎮守府部隊である呉海軍航空隊、佐伯海軍航空隊、岩国海軍航空隊ら周辺の航空部隊覆滅を図り、あらゆる物を叩いた。被害は第一艦隊だけには収まらなかった。

 八雲や勝力、第6潜水隊、呉警備戦隊の西貢丸、盤谷丸、香港丸や、貴重な補給部隊の春天丸、長興丸、山鳥丸も沈められた。

 この奇襲で米国は反攻の為の貴重な時間を稼ぐ事に成功した。

 誤解無く伝わるのは難しい。しかし世界は広げるしかない。

 場所は呉から変わり、アジア・太平洋戦争中に激戦の一つとなったグアム島。開戦劈頭、日本軍はグアム島に奇襲攻撃を敢行した。

 グアム島は、日本の勢力圏であるサイパンやパラオ、トラックの間に存在する米国の大要塞だった。まさに喉元に刺さった刺であり、取り除かねば皇軍も自由に動けなかった。

 中部太平洋は海軍が主となり担当する地域だが、陸戦隊では荷が重い。そこで陸軍から第55師団の歩兵3大隊基幹として、堀井富太郎少将の指揮する南海支隊(145i基幹、3/55K、Ⅰ/55BA他)が編成されG作戦に投入されガチでマウント取りに来た。

 これに対してグアム島の防衛軍は、現代風に訳すと「すげぇ、愛が重いな。草生える」と言った感じで小粋なジョークで応じ、徹底抗戦の構えを見せた。

 海軍の南洋部隊もウェーキ、グアムの攻略に、担当区域の防備哨戒、機動部隊の引揚掩護等と任務が目白押しだった。

 南海支隊の上陸部署は、軍隊区分として支隊司令部、楠瀬部隊(144i、TA/1K、1BA、1P)、塚本支隊(TA、K1分、他)、林部隊(海軍陸戦隊第5大隊)に分かれていた。

 米軍は本格的な防御を固めていないと言う前提で自分本意な作戦を立てていた為、主力の楠瀬部隊は待ち受けていた陣地を前に、7/9以上が戦死ほぼ全滅すると言う損害を受けた。

 日本側は、呉の主力戦艦部隊が壊滅した事もあって戦力的余裕はなくなり、マリアナは米艦隊の勢力圏に入ってしまった。

 グアム島に関する海軍の自信は全く無くなってしまった。攻略不可能であったが、出来ないと言葉に出して伝える事は難しい。

 塚本支隊は背後から米軍の陣地を攻撃しようとした。

 穏やかな南国の島で日米両軍の激戦は半年間続き、南海支隊の三度の総攻撃が失敗し惨敗した。

 南洋群島方面に対する敵の脅威を封殺すると言う作戦目的だが、この苦戦は己を過信し、敵を軽視した結果であり、南海支隊苦戦の戦況推移を受けて大本営は、グアム島ごときの攻略に長期間、兵力を拘束されるつもりは無かった。

 大本営陸軍部作戦部長田中新一、作戦課長服部卓四郎、作戦班長辻政信。三人の秀才によって大本営陸軍部は実質的に動いており、中部太平洋方面の作戦方針を変更し、フィリッピンを一週間で陥落させた本間雅晴中将をグアム島攻略に差し向けた。

 大本営は南方軍より当初2個師団、更に追加で1個旅団の兵力を予定していたが、本間中将は「1個連隊で十分」と最小限な兵力を要求した。

「戦国時代の城攻めと同じで、ま、そう言う事です。水を失えば渇きで戦えなくなるでしょう」

 兵力を上手く使えてこそ指揮官だ。戦いと渇きと病の中で米軍は破れた。

 米軍守備隊を破った物の、軍令部総長が御前会議でグアム島攻略の中止を上奏し「激戦敢闘、()く敵戦力を撃摧しつつあったが、その目的を達成した」としてグアム島から転進した。

 年が明けての 昭和17年2月から米軍はマーシャル、ウェーキ、南鳥島に対する攻撃を行い、これに対してGFは敵艦隊を誘い出し撃滅すべく、軍令部の進める米豪遮断作戦を利用した。ソロモン諸島東部にあるフロリダ諸島のツラギ、豪北のニューギニア島東南のポートモレスビー攻略作戦である。

 作戦の総指揮は小林宗之助中将(海兵35期)であり、ツラギを含むフロリダ諸島攻略は清水光美中将(35期)の指揮で呉の第3特別陸戦隊と第7設営隊の一部が送り込まれる事となった。この為、軽巡洋艦五十鈴、砲艦嵯峨、橋立に分乗し、鴻型水雷艇6隻が護衛の警戒隊として配属された。

 清水中将は海軍の出世街道を進む官僚であり、政治を理解している。実戦で勘と経験を、度胸も養うと、戦争を終える為の道筋を作るのが自分の職責であると理解できた。

 4月2日未明、航路を欺瞞しながらサボ島沖北方を通過した艦隊は左舷に転進した。その瞬間だった。五十鈴の見張りがフロリダ島の影にピンク色の光線を視認したと同時に、10本の水柱が五十鈴を取り囲んだ。

「阿呆んだらぁ、先手を打たれやがった。主力艦の砲撃だな!」

 衝撃に揺れる艦橋で手近な物にしがみつきながら清水中将は、初弾夾叉させた敵の戦技の高さに驚愕した。

 目を凝らせば島陰に艦影が浮かぶ。旧時代のニューヨーク級戦艦。BB-35テキサス、それが死へ誘う死神の正体だった。

 日本海軍が望んで会いたがっていた戦艦だ。

 この頃、米軍は日本軍の暗号解読を粗方解読しており、もっとも直接的な反攻手段として、テキサス艦長のルイス・コムストック大佐を指揮官とする小規模な戦隊を南太平洋に派遣していた。

「敵戦艦、第2射発砲」

 五十鈴艦長の浦孝一大佐にとって不運だったのは、五十鈴が軽巡洋艦であり、テキサスが建造費に見合うだけの戦艦だった事だ。

 企図を秘匿した完璧な奇襲だった。戦果を獲得すべく、全てを海に沈める。

 テキサスの45口徑14(インチ)砲弾は殺戮と破壊の衝動を隠す事無く、五十鈴の3年式50口徑14(サンチ)主砲を吹き飛ばした。

「第1、第2砲塔被弾。射撃不能!」

「ボケ茄子が、ボコボコ好き放題やりやがって。ここに北上と大井が居たら……」

 岸福治少将(40期)の指揮するMO主隊には、61糎4連装魚雷発射管10基40門装備の重雷装艦に改造された軽巡洋艦北上と大井の第9戦隊(9S)が配属されている。対して五十鈴は上陸部隊を乗せており、無茶は出来なかった。

 無い物ねだりをしても愛は返ってこない。

 警戒隊の水雷艇は五十鈴が砲撃を浴び被害を受けるに至り、これ以上好きにさせないと敵の頭を押さえ同航戦を挑むべく速度を上げた。見敵必殺。誰かに命令される前にやると言う対処が求められる瞬間だった。

 しかし警戒隊の突進は、36キロノットで走るMk8魚雷の衝撃で阻止される。PTボートで知られる哨戒魚雷艇が待ち構えていたのだ。

 同じDNAを持つ水雷艇は沈む時も一緒だった。鴨と鵲が木っ端微塵に爆沈した。後続する雉と雁も直ぐに後を追う。

 次々と魚雷が命中し、沈没する警戒隊の水雷艇。残るは鴻と隼のみ。誰もが「俺、まだ生きてるけど、これ終わったな」と悟った。

 攻撃初動の自由は敵にあり反撃が封殺されたこの時、MO機動部隊を指揮する栗田健男少将(38期)は、慣れない空母の指揮は角田覚治少将(39期)に任せ、重巡洋艦最上、熊野、鈴谷、三熊の第7戦隊(7S)を急行させていた。

 清水中将は直接上司に当たる上官の顔を脳裏に浮かべた。

 杓子定規にやっていては海軍は動かない。訓告か、減俸か、戒告か。敵戦艦を沈めて逆転すれば、有耶無耶の内に損害を揉み消せる。それが政治だ。

 コムストック大佐も日本軍が急行させて来る事を予測しており、ツラギ攻略部隊を散々叩くと引き揚げて行った。局地的な戦闘だが日本軍の完敗だった。

 そして8月7日、米軍は本格的反攻を開始する。鉄砲玉の米海兵隊約1個師団が有力な艦隊の掩護の下にガ島及ツラギに上陸。ガ島に位置した我が海軍部隊を撃破したとの報に接したので、陸軍は海軍の担当である南太平洋方面に一木支隊を急派した。

 民主主義や自由を標榜する米国民だが、自由は限度を越えた無秩序と異なる。海兵隊は鍛えられた精兵だった。政権への不信感を煽り、官民を分断するには敗北が有効だ。ガ島で日本軍を破れば、連合国にとって小さな勝利だが、日本を揺さぶる事は出来る。

 日本側から見れば、ガ島はラバウルから約1千キロ離れており、地上作戦に航空支援は無かった。だからと言っても敵の制空、海圏の真っ只中に突入、我に十数倍する敵を独力攻撃で排除出来ると考えるのは敵を舐め過ぎていた。

 一木支隊は敵に対して毅然たる態度で鉄槌を下すべく不完全な900名で攻撃前進し、米軍の待ち伏せに飛び込み壊滅したお猿さんだった。次いで川口支隊が増派されるが二の舞を演じる。その間、敵もマクニカウ川からテナル川の間に、ルンガ泊地から兵力を逐次増強し飛行場3つを建設、重砲陣地を築きあげていた。

 我が軍もその南に集結、緊要地形である903高地やアウステン山付近に進出したが、敵は航空優勢で我の海上輸送、陸上補給、上陸部隊の諸行動を妨害し、上陸軍を孤立化させるべく消耗戦に出た。

 戦術的には妥当な判断だが、対する皇軍にとっては「なしよりのなし」であり、草を食い痩せ細る兵の前では、神国だから戦に勝つと言う神頼みの現実逃避を戦場の現実が許さない。

 自分だけが戦場で目立ちたい、自分だけが前に出たい。そんな気持ちで戦場に立てば絶対に武功を稼げる。そう言う功名心が生きる力となる。

 ソロモン群島からニューギニア島方面、西太平洋方面へ島から島へ航空基地を推進し来る米軍の反攻も、ビルマ方面から英印軍の反攻も予想は出来ていた。皇国の運命を一身に背負い我が将兵は南太平洋で戦った。

 9月12日から実施された川口支隊のガ島飛行場奪回が失敗すると、ここ最近、モヤモヤした物があって14日に川口少将は色々考えて戦場離脱を決心。各部隊に命令指示した。

 途絶えがちな補給状況もあって、現地部隊の将兵は餓えを満たす為にアナブミの稚魚、ハヅラボウを獲った。異界の生き物の様に見た目は悪いが形振り構わない。少なくとも餓えは凌げる。

 糧食配分は少なく、体力、精神力の衰えから飢えに耐えられず「生きている事自体が地獄になったため、このような決断をさせていたただきました」と自決する者も居た。どんな形であろうが、死で解決される事は多い。弱兵が減る事で配給に回せる糧食は増えた。

 杉山参謀総長は失敗続きな事態推移から、第17軍の今後について御上に上奏した。

「杉山よ、敵の防御組織、特にその物的威力予想以上と言う事は、敵の装備、火力が我が方よりも上だったと言う事ではないのか」

 尾生の信と言葉を飾っても物事には限界がある。

「はい。その上で、陸海軍協力の下で第二師団を派遣。ケ号作戦を完遂する腹案にございます」

「出来るのか」

 米軍の自動小銃に対して38式小銃が悪かったと言う訳ではない。日本軍にも機関銃や擲弾筒、歩兵砲、速射砲、野砲も存在する。支那の土匪、共匪、馬賊と言った匪賊相手なヌルゲーに慣れすぎていたからネガティブな思考に至らなかったのだ。

「先の敗因はジャングルによって連絡不十分となり、兵が分散したと言う事もあります。戦力を発揮させるべく、17軍司令部には参謀を増員させました。丸山中将ならば必ずややり遂げるでしょう」

 丸山中将は若い頃から愛妾30人を抱える伊達男であり、男の中の男と言える大人物であった。指揮官として従軍した戦では常に勝ち続けており、将帥として戦神に愛されていると言わせる程に武運も申し分なかった。

 大陸命第688号により第17軍は、台湾軍、国府援助軍、南方総軍より抽出された部隊によって兵力増強をされた。これでポジティブにならない訳がない。

 第17軍高級参謀の小沼治夫大佐は、講和の成った支那で、国府軍支援に派兵された第2軍参謀を経て、戦史課長兼陸大教官を経験して来た人物である。有効なソリューションを提供出来る経験があった。

 日本軍の参謀は欧米のライン、スタッフな枠に填まらず、人が少ないから彼我の状況に応じて部隊の指揮権を与えられる事が少なくない。地頭のある者が、底上げされた権限で能力を発揮する形だ。米軍にとっては対日反攻のワンチャン狙う前に、やべぇやつがやって来た形だった。

 ガ島の敵を撃滅すべき任務を有する2Dは、2個の突進隊を形成して密林を前進した。丸山師団長の決心は、決戦を企図してルンガ川~ムカデ高地~テナル川の敵第一線を越えて飛行場に突入する事にあった。

 敵と遭遇した川口支隊の報告から敵情判明した。その処置として、悲しいネガティブ思考とはさよならして、右突進隊の前衛である4iに2A、2P、Sの一部を増強、歩砲協同の威力を発揮させ戦闘を有利ならしむ事も出来ると企図した。なお右突進隊は師団司令部、DTL、16i、S等も随伴している。

 日本軍の襲撃に対して警戒に就いていた海兵隊の兵士は耳を澄ませた。

「何か聴こえないか?」

「『ウンコ、ウンコ、ウンコ』って聞こえるな。……どう言う意味だ?」

 攻撃が始まった。今度も勝てると思い込んでいたが、今回の日本軍は精鋭であり、川口支隊の様にはならなかった。

 煌めくゴボウ剣の白刃と、雄叫びが恐怖感を増幅させる。

 日本軍と連合軍、開戦劈頭は奇襲の効果があったとは言え、どうして差がついたか。それは有色人種に負けないと言う慢心、そもそもの環境の違いだった。

 砲煙弾雨の中、弱みを見せず果敢に突き進む我が忠勇なる皇軍将兵の威容、幾多の忠烈なる勇士の血を流して敵の飛行場を覆滅、日章旗を翻してガダルカナル反攻は為し遂げられた。

「────白人よ見てるか? これが本当の戦争だ」と従軍記者は記している。

 

 

3.豪州進攻

 

 

 ガダルカナルは奪還されポンポンポンな連合軍の反攻は頓挫した。南太平洋方面での死闘の結果、制海権、制空権は日本側の手に移ったのである。

 大本営は戦争終結と言う目的に対して、敵の策源地である豪州の切り崩しを目標として真剣に考え最終ラウンドの『豪州進攻作戦*』(『*』は原文のまま)が立案されたのであった。

 富永恭次の名は大東亜戦争を戦ったどの将帥よりも有名である。戦争末期に行われた豪州進攻では陽動の任務を与えられていたが、富永兵団はわずか2個師団にもかかわらず、大胆にも進出限界のアーネムランドを越えて、助攻や主攻の前進よりも前に敵首都を脅かし終戦への道を均した。軍司令官の決心と処置は、戦史、戦術の研究材料として今日も注目されている。

 豪州本土への出兵は、支那での戦が終わって無ければ実現しなかったと考えられる。豪州占領に必要と見積られた陸上兵力は10~20個師団。支那は豪州よりも広大で、戦場の拡大は予測出来た。戦が長引けば100万でも兵は足りない事になっていた。

 昭和18年4月、動員下令され下着、靴下等全部一通りの戦闘準備を完了、アラフラ海を渡り豪州に上陸した日本軍は、富永恭次中将麾下の第10軍であり、第1師団及第16師団の2個師団を基幹とする。陸海軍の協定によって作戦方針は細部に至るまで規定せられ、船舶も準備せられてあった。計画を急に変更する事は技術上殆ど不可能であり、豪州進攻の第一段階として橋頭堡の確保が求められた。

 先陣は中沢三夫中将の1D。2Dがガ島で活躍した事から、個人ではなく師団の栄誉として対抗心を燃やし、武功をあげたいと考えていた。私情とも捉えられるがこの場合、どれをやるか作戦指導上の決心選択は将帥の専制であり政治の入る余地は無い。

「山口の八代島と広島の倉橋島は、広島湾外縁を形成する防波堤であるのと同様に、テイウイ諸島はアーネムランド前進の要と言えるだろう」

 中沢中将が師団長として為すべき事項として1Dは、1i基幹の支隊がテイウイ諸島のバサースト島へ、D主力はメルヴィル島へ、49i基幹の支隊は豪州本土のコバーグ半島へ上陸させた。

 バサースト島に進出した10A司令部は引き続き全般指導を行っていた。先任参謀有末次大佐は、テイウイ諸島とコバーグ半島を確保する事で後方の憂いを除いたが、戦勢が我にある好機を自ら放棄する凡愚ではない。積極的攻撃前進を進言し、軍司令官の決心を助けた。

 1Dは大場四平中将の16Dと共に挟み込み、敵軍を捩じ伏せ4月10日にダーウィンを制圧。13日にはアーネムランドを勢力圏に収めた。作戦初動の幸先良い快進撃。この勢いでは、豪州を横断してアデレードに迫るのは時間の問題と思われた。

 マクダネル山脈に周囲から兵力を集結させた連合軍は、14日、テントクリークに重点を指向して前進するが、17日、10Aは航空優勢下、戦力を集中して徹底した逆襲を行い、連合軍の反撃は頓挫した。

 退却する連合軍を追撃する10Aは、富永軍司令官の企図に基きアリススプリングスを占領。集積されている膨大な装備と物資を手に入れた。

「幾ら物があるからって、普通は燃料とか爆破せずに置いていくか?」

 無傷で丸々手に入った大量の鹵獲品を前に撮影していた従軍記者は、我が皇軍ではあり得ないと呆れ返った。

 編制上、車輛の装備が不足しており徒歩移動の歩兵が主であった我が軍ではあったが、鹵獲車輛と言う足を得て10Aは「やれやれ、行け行け!」とカルケラを越えて、主決戦方面である豪州南部に早々と進出した。

 ケアドナー湖の北、タークーラーの死守を命じられた連合軍は、必死の決意を以て10Aに対峙したが、これまでの攻勢は陽動に過ぎなかった。

 バース、タウンズビル、ブリスベン沖に日本軍の輸送船団を伴う艦隊が進出するに至って、連合軍は10Aが主攻ではなく陽動の衝背軍であり、まんまと釣り出された事を理解した。

 東海岸沿岸部の主要都市が次々と落とされる状況にタークーラーの連合軍は、フリンダース山脈に後退。ポートオーガスタで備えようとしたが、10Aの追撃は止まらなかった。

「うわぁ、助けて! 殺される!」

 棄甲曳兵とは正にこの事であった。

 この時、10A司令部の参謀中佐杉田一次が、迅速果敢に前線部隊を動かし勝機を掴んだ。 

 何をやるか作戦指導する参謀派遣は、場所によっては敵より嫌われている。現地部隊指揮官の立場では、どうやるか考えた指揮を疑われた督戦であり、出しゃばりすぎがマイナスポイントとも言えた。

 しかし可動域の多い参謀の職責を無能ではやれない。師団は支隊を編組して戦う場合が多いが、参謀が指揮官に任じられる場合もある。

 速戦即決、ポートオーガスタに迫った日本軍は垣兵団(16D)20iの尖兵である歩兵大尉村田裕次率いる支隊である。

 大休止と言う事で食事を路肩で取った。歩哨で離席してる者も多く、食事は交代で取っている。

「今日の昼食は何だった?」

「豚テキ、ゴーヤ炒め、ささみ刺し。ああ、松阪牛(まつさかうし)と違いますがローストビーフもありますよ」

 一敗塗地、敵は第一線陣地を奪取された時、最後まで陣地を死守する観念は無く退却した。手に入れた食材は日本軍将兵によって美味しく頂かれた。

「酒のつまみか?」

「アップルワインもどうぞ」

 そこに鹵獲した自動車を飛ばして杉田参謀がやって来た。

 村田大尉は黄金糖の差し入れを受けたが、用件はそれだけでは無かった。

 距離感を詰めた杉田参謀は胸襟を開き語ってくれた。軍の障害となる不確定要素は除きたいと言うのも、ガ島の経験から十分に敵情を確認すべく、村田大尉にポートオーガスタ付近の偵察を命じた。

 情報を精査、分析しタスク&スケジュールを管理する能力の高さから参謀職に就いているのだから、勝ち戦と言う実積もあって、村田大尉の思考がストップして杉田参謀の指示に従ったのも頷ける物がある。

 軍主力の前進を掩護する任務としては妥当な判断だ。しかし連合軍は過剰反応を示した。

 人間怖いと後退りする。10Aがアデレードに攻め込む積もりではないかと判断。敗けを認め、大慌てで逃げ出したのだった。

 当時、師団参謀の一人であった安田大佐は、戦史編纂官のインタビューに対して「作戦の立案、企画の段階で、会話の成立しないコミュニケーション能力の低い者はバブちゃんで、参謀になりえない」と言葉を残している。

 特にコミュ力の高い参謀は陽キャラでなくても、一緒にやろうと盛り上げる力を持っている。そもそも上に立つ立場では、損耗を恐れずいつでも関係性を切る事が出来る(したた)かさが求められた。

 勢いに乗る日本軍の進撃速度に敵軍は恐慌状態で壊走し続けた。予想外の事だが村田支隊はポートオーガスタを無血占領、皇軍将士の活躍は、全く大和魂の発露、尊くも勇ましい限りであった。そして上は部隊長から下は一兵に至るまで誰もが立派な手柄を立てようとしたが、戦地では女日照りになる。そうなると肌の色や年齢に関わらず、穴さえあれば未就学児の幼女でも良いと言うロリコンもマジで出てくるのであった。

 輝く皇軍の戦史に黒い染みある。豪州方面にも汚点となる事件があった。

 4月15日、豪州西南部、バースに野田謙吾中将の14Dは侵攻した。ボッケリーニのメヌエットが似合う穏やかな景色が広がる波間に、突如として歩兵第2聨隊(2i)西本英夫大佐を指揮官とする西本支隊がトンガに上陸し南下、D主力と挟み撃ちにした。引き続きその尖兵として支隊は1号線に重点を指向しつつ前進し、16日にはオーガスタ、17日にはオールパニ、18日にはエスペランスを快進撃で攻め落としていた。

 ユークラを目指す14Dに対するは最強の豪州兵が守る豪州本土最強の陣地、ノースマン要塞。

 作戦は大胆より慎重を以て立案する物だ。

 師団長の決心に基づき、隷下部隊の西本支隊は敵との遭遇を予測しながらも、やむを得ず一列の行軍隊形で前進していると、林の中に展開する敵の攻撃を受けた。激しい敵の射撃は異界でも魔界でもなく、地獄の扉が開かれた。漠逆の友と言うべき戦友も敵弾に倒れ伏す砲煙弾雨だ。

 西本支隊は左翼に迂回し、高山亀夫大佐の15iは右翼からブレイザーレンジへ突進、連絡線を速やかに遮断した。

「何なんだよ、コイツら。てめえー、マジでふざけんなよ! 死ね早く! 死ね死ね、死んじまえ!」

 機関銃の射撃が戦車の装甲を叩く。怯んだ攻撃はまともに射つよりも効かない。本当にキツい時はトイレに行きたくなる。

「何、雑魚じゃんおめぇ! そんなのが効くわけねえだろ。キレちまったよ。つまんねーんだよ。本当によぉ」

 火力に勝るのは装甲と機動力だけであり、勝敗を決めるのは真面目に戦い抜く精神力だった。

 中隊は能無しの敵を蹂躙した。豪州戦線三大決戦と呼ばれるノースマンの殲滅戦の始まりだ。

「新たな敵だ! これ無理じゃない。ちょ、ちょ待って! 違うねん、違うねん!」

 投降して来る敵の数は多く、前進が阻害される。スピードが命であり、後続の友軍部隊に任せて先を進んだ。

 ノースマンに近付くと南方特有のスコールに襲われた。敵は通り雨のスコールを避けて雨宿りをしており、その隙を突き、中隊は更に前進したのだった。

 状況判断から敵の取れる選択肢は多くない。増援の来援を待って戦勢を挽回するか、後退して陣地占領し時期に乗じて攻勢に出る案だ。

「小隊長、渡辺と光山が居ません」

 戦場では指揮官の統率だけではなく、兵士の技量が未熟故の不祥事や事故の発生はある。部隊が半分くたばる事もある。この時、小隊長は二名の欠員が居た事から周辺民家の捜索を行った。

 死の臭いがする。床にはポーリッジと呼ばれるオートミールのミルク粥が転がっていた。

 奥に進むと渡辺陽太、光山和希二等兵が虚ろな目をした幼女を凌辱していた。民家に押し入り一家を殺害の上での凶行。許されざる事だ。

 ロリには替えが効かない。重罪だった。戦後に「私はやってません、胸を張って言えます」と嘘を突き通すならともかくとして、現行犯で状況証拠がある。

 迂闊に生半可な気持ちで性犯罪を犯した訳ではない。大学時代に「ミイラ取りがミイラになる」典型となり全人類ロリ化計画を研究するが、天晴れと称賛されず放校処分となった経歴を持っている。

 戦場では最低限のマナーと我慢が出来たら後は許される。今はママを求める時代で、幼児退行でオギャるほどのバブみを求める方が正しい。

 徴兵された段階で自己分析が出来ていない。ロリコンは時代遅れで、糞して寝ろと叱られる存在であった。

「は? きも……うわぁ、ないわぁ」

 自分に出来る事を他者に期待して、大人なんだからこれ位の戦争法規は守れるだろうと軍規でうるさく言ってなかった所もあるが、性暴力は度を過ぎ恥ずかしいレベルだった。

「良くないわ。何やってるんだ。お前、何してるんだ。チンフェ野郎が、マジで殺すぞ」

「意馬心猿って言うじゃないですか」

 心に想っているだけなら自由だが、それはもうニチャアと笑って誇らしげな様子で、もう人間性の成長出来ない筋金入りのロリコンだった。

「ったく、屑だな」

 徴兵された兵卒は、親から預かって(いち)から軍人としての心得から教えて育て幼年学校や士官学校とは異なるが、新兵教育で最低限の教育は受けている。脳原生運動機能障害であっても部下の犯罪は、直接の上官に当たる小隊長も統率で責任を問われゲームオーバー。まったく迷惑だ。しかし戦地では特に精神的な面倒を見る必要があった。ルールを破れば冷酷に報いを受ける。

「小隊長殿、馬鹿共はお任せ下さい」先任の下士官が進言して来た。彼の得意分野だ。

「ああ、ありがとう」

 しばらくして爆発音が聴こえた。

 真実はいつも二つある。戦地での不祥事を従軍記者や法務官、憲兵の目から隠蔽するのは簡単だ。重々の不行き届き、一時の乱心として咎めを軽くするには、配給の塵紙と歯ブラシを賄賂として渡せば、ガタガタ言わず、調べも「やれやれ、国の礎となった」と言う形で済ます事は出来る。そもそも、彼女も居ない独身のチー牛であれば戦死や事故死扱いで処理すれば、後腐れ無く済む。戦場のビルドインスタビライザーである。

 本件は名誉の戦死ではなく、鹵獲した弾薬の暴発事故として処理された。

 末端の一部が腐っていても皇軍は勝利の為に戦場を進む。

 戦争と言うのは戦の上手さだけではない。平時から銃後の皆に支えて貰ってるし、恩返しが出来る様にいざと言う時、ノリとテンポを合わせて協力出来る事が大切と言える。

 かくして来年の紀元節までに豪州を占領すると言う大本営統帥部の計画は、現地兵団の快進撃によって豪州側へ「ガキが、舐めてるとぶち殺すぞ。さっさと謝れよ」とダイレクトにメッセージが広く届いた。

 皇軍の武勲は偉大なる戦果を築き、その成果に就いて集合知が力になる様に初回フルスロットルの圧をかけて、実質的2ヶ月で豪州政府が降伏して来た。

 所詮、合従連衡の関係であり実質的英連邦の切り崩しであった。

 外務省が中立国に於いて、外交上の駆け引きを行う前の事だったが、スポーツの試合でも糞過ぎたらプレイを相手が辞めると言う事があると忘れていた。一回勝ったら偃武修文で勝ちと言えた。

 

 

終わりに

 

 平和になると公開された豪州方面作戦の記録映画は、インスタ映えする名シーンの数々に、盟友ドイツのカール・オルフによるカルミナ・ブラナーが挿入され劇的な効果を残して大ヒットした。その影で、ステルスマーケティングの実験で同時期に劇場公開された『10日後に酒を飲むコアラ』は興業収入の面で惨憺たる結果に終わった事は記憶に新しい。 



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