3月のラプソディー (スズカサイレンス)
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1話

「いい気になんないでっっ!ゼロのくせにっ!」

 

勝負に負けた彼女は、癇癪を起こしたように相手をはたきつけた。

 

「ちょっ!姉さん!?」

 

傍らで観戦していた俺は、思わずそう声を出していた。

 

「何も殴ること…」

 

「何よ歩。アンタゼロの味方するの!?」

 

「(こ、こえぇぇ…)」

 

こちらを睨みつけてそういう彼女に思わずそうこぼす。

視界の片隅には、頬を押さえてうずくまる零の姿が見えた。

 

嗚呼、ホントどうしてこんなことに。

複雑すぎる我が家の日常を前に、俺はそんな何度目か分からない事をまた思った。

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

どうやら、自分は生まれ変わったらしい。

そう気付いたのは赤子として育てられてしばらく経った頃だった。

 

ぼんやり。とにかく目の前がぼんやりして、フワフワしてよく見えない。

しかし不思議と意識というか、自我だけははっきりと持っていて。

そんな、ただ漂うようにしていたら、いつの間にか見える景色が広がっていた。

 

最初に目に入ったのは取り替えたであろうおむつを片す女性の姿。

おそらく、彼女が自分の母親なのだろうと思った。

 

そして聞こえてきたのは、パチン、パチンと何かを置く音。

不規則なその音は不思議と心地よくて、俺は自然と微笑んでいた。

 

 

「あら、笑ってる…。やっぱりあの人の子なのね…」

 

どうやらこの心地のいい音は、自分の父親が出しているらしかった。

優しく笑う母親を見ながら一体何の音かと思っていると、一人男性が部屋へやってきた。

 

「母さん、どうだ歩は?」

 

 

一目見て思ったのは、なんだか真面目そうな人だなぁという事。

だけどこちらを見る目には、確かに愛情が感じられた。

 

そうか、この人が俺の…。

 

「ああお父さん。見て?歩ったらさっき笑ったのよ?それも将棋を指す音で。

私なんだかおかしくって」

 

「そうか。それは将来が楽しみだな。果ては名人か獅子王か」

 

父親なのか…。

 

 

◆◆◆◆

 

 

棋士、という仕事がある。

その名の示す通り、将棋を指すことを仕事とする職業だ。

それは己のすべてを賭けて相手と自分の存在を削りあう。

まるで、修羅か羅刹のような人種だった。

 

 

◆◆◆◆

 

 

赤ん坊になってからというもの、俺は暇を持て余していた。

なにせやることがない。食べるか寝るしか仕事がないのだ。

 

体を動かしたくても自分の知っている動かし方通りに動かない。

まぁ、生後いくらも経っていない赤ん坊がスタスタ歩いたりビュンビュン走ったりしていたらそれはそれで不気味でしょうがないのだが。

 

テレビを見て暇をつぶしたくても、俺のいる部屋にはテレビがないし、母が見る番組は興味のもてないものばかりだった。

いやまぁ、生まれたての子供がドロドロしたサスペンスや下世話なバラエティを見て喜んでいたらそれはそれは不気味なのだろうが。

 

とにかくまぁそんなわけで、日がな一日寝ているしかない俺は、あぁこのままだと脳が退化しそうだとか益体のない事ばかりを考えていた。

 

「ねぇお母さん?ここにいるのー?」

 

「えぇそうよ香子。寝ているかもしないから、静かにね?」

 

するとある日そんな声と共に、部屋へと迫る気配を感じた。

一人は、聞きなれた声。母のものだろう。

だがもう一つの幼い声は誰だろう。

俺は開けられるだろうドアへと視線を向けた。

 

「あ、起きてるよお母さん!」

 

「あら本当ね。歩-?お姉ちゃんが会いに来てくれましたよー?」

 

「歩!私がおねーちゃんよ!」

 

快活な笑顔でそう告げる少女。彼女がどうやら、俺の姉らしい。

多少面食らっていると続けて彼女はこう言い放った。

 

「これからはおねーちゃんが歩の事守ってあげるからね!」

 

思わず、ハッとした。

そしてとても暖かな気持ちになった。

彼女は、まだ幼くとも、ちゃんと姉なのだ。

初めて会った俺をしっかり弟と認識していて、守ると言っているのだと。

 

 

前世の記憶を薄ぼんやり覚えているからなんなのだ。

今自我を持っているからなんなのだ。

そんな事、大した意味はないんだと俺は思った。

ただ、この人たちの家族として生まれてきたことに意味を感じようと。

 

大事にしよう。この先何があっても。

俺は一人、心にそう誓ったのだった。

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

フゥーと吸い込んだ煙を吐き出す。

制服のままの喫煙は、なかなかにリスクとスリルのある行為だが、たまにはこんな日もある。

 

父さんと、零との対局。

気にするなという方が、無理な話だった。

 

久しぶりのリーグ入りがかかった一局。気合が入らないわけもない。

それを受ける方も、意味を知っていれば殊更。

 

どんな気持ちだろう。もう一度咥えた煙草を深く吸い込む。

勝負なんだから、お互いプロなんだからと、割り切れる奴ではないだろう。

 

「零…」

 

 

◆◆◆◆

 

 

部屋に行っても、そこに零の姿はなかった。

どこに行ったのか…。瞬間一つの可能性を思いつく。

 

 

 

「夜分遅くにすいません川本さん。零の奴が、来てないかと思って…」

 

「うん…。でももう寝ちゃってるから…。今日はうちに泊めておくわ」

 

「すみません…。よろしくお願いします…」

 

「すごい汗…。走ってきたの?」

 

「ええ、いや…。何かしないか心配で…。兄としては情けない話ですけど…」

 

「そんな事ないわ」

 

「え?」

 

「そんな事、ない」

 

 

 

幸田歩。高校二年生。特筆事項―――転生者

 

俺は、混沌の中を、生きていた。

 

 

 

 



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2話

 

◆◆◆◆

 

 

現在高校二年生である俺は、大っぴらな喫煙は法律で禁じられている。

ばれなければいいだとか、人生二回目な俺は本心ではそんなことを勿論考えているわけなのだが、父親と義理の兄弟がある程度の人が知っている有名人だと話は違ってくる。

 

万が一補導でもされてそれが公にでもなったら、ややこしい我が家の家庭環境はさらに混迷を極めることになるだろう。

家を出てしまった零とたまに帰ってこない姉。残った俺を母さんはそれはそれは大事にしてくれている。

時々不安になることもあるくらいに。

であるから尚の事、俺は問題を起こすことは避けなればいけないのだ。

 

そんなわけで日中口が寂しくなると、俺はよく飴をなめている。

かんかんに入った、昔ながらのドロップを。

お気に入りの味はハッカだ。皆はハズレ扱いするが、俺はとても好きだった。

 

 

何故俺がこんな事を考えているかというと、それは目の前にいる川本あかりさんが原因だった。

あの後、走ってきた俺に水を一杯くれた彼女はお土産にと少し多めの和菓子を持たせようとしてくれていたのだ。

どうやら彼女は、しょっちゅう飴をなめている俺の事を甘党だと勘違いしているようで、会うたび会うたびお菓子をくれるのだ。

 

「あの、川本さん。いつもいつもこんなにもらっては申しわけが…」

 

「あら、遠慮しないで?幸田君甘いもの好きでしょ?」

 

そう言ってほほ笑む川本さん。

この顔にどうも俺は弱い。いつも断れなくなってしまう。

 

「それと、あかりでいいわ。家、3人もいるし…。あっおじいちゃんもいれたら四人ね、わかりづらいでしょ?」

 

「ああいえ、そめじさんの事はそめじさんって呼んでますから」

 

「あら、仲良いのね」

 

川本家の長であるそめじさんとは、あかりさんと知り合う前からの顔見知りだった。

俺がアルバイトをしている店に、客として来ていたのだ。

小さな居酒屋なので、必然大将と客の距離は近い。店員である俺は巻き込まれるような形

で紹介をされ、名前で呼ぶようにと言われていた。

だから俺が主に川本さんと呼ぶのは、目の前の彼女だけだった。

 

「じゃあ尚更ね。いつまでも『川本さん』だなんて、寂しいじゃない」

 

「では、あかりさんと。俺の事も歩でいいですから」

 

「わかったわ、歩くん」

 

またほほ笑む彼女に、まるで付き合いたての恋人みたいだとチラッと考えて少し頬が赤らんだ。

目をそらし空気を変えるために咳払いをして、お暇することにした。

 

「それでは今日はこの辺で。零の事、よろしくお願いします」

 

「ええ、わかったわ。…それとね歩君?」

 

踵を返そうとしたところにあかりさんの声が掛かる。

それはさっきまでのと少し違っていて…。

 

 

「タバコ。吸うのはちょっと早いんじゃないかしら?」

 

 

目が、笑っていなかった。

 

 

その後、冷や汗を流しながらああ、とかいえ…とか返事でない返事をしてその場を去った。

帰り道を走りながら俺が思ったのは、人生二回目でも、女の人は怖いなということだった。

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

前の自分はどれくらいまで生きて、ここに生まれ変わったのだろう。

少なくとも成人はしていたような気がする。何かしらの仕事をしていたような記憶があったのだ。

 

前の両親はどんな人たちだったのだろう。

上手くやっていたのだろうか。よく覚えていない。

 

そんなことを考えたのは、今生の父親の職業が一風変わったものだったからだ。

『棋士』という、自分には縁も馴染みもないものだった。

 

 

ある時から、父は俺に将棋を教えようとしてきた。

まだ言葉も上手く話せない俺に向かって、駒の動かし方をゆっくり言い含めるように。

父にとっては、それが一番の愛情表現なのだろう。

自分の一番愛しているものを、という。

 

だから俺も、素直に耳を傾けた。思いのほか話が面白かったのもある。

ただそれは俺が特殊な状態なだけで、普通の赤子にこれはどうだろうか、だなんて少し思ったりもした。

 

「歩。歩も将棋を、好きになってくれるか」

 

不意に、父が穏やかにそう問いかけてきた。

応えられるわけもないのでほほ笑みを返すとうれしそうに。

 

「そうか…。それは良かった」

 

そう笑った。

 

俺はこの時、思いもしなかった。

この時の事を、忘れられなくなるだなんて。

父を裏切ったと。義弟に将棋を押し付けたと、後ろめたさを覚えるようになるだなんて。

まったく、思いもしなかった。

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

「歩」

 

冷や汗を乾かすように走って帰宅した俺を、呼び止める声がした。

 

「姉さん」

 

姉の、香子だった。

家に入る前の、門の前で電柱に寄り掛かりながらこちらを見ている。

 

「アンタ今日はバイトじゃなかったわよね?…何してたのこんな時間まで」

 

「姉さんこそ…。昨日は帰ってなかったみたいだけど…」

 

「質問に質問で返さないでよ、バカ。…また、零の所に行ったんでしょ?」

 

睨みつけるように俺を見つめる彼女に、思わず目をそらす。

彼女の零に対する感情は、俺が思っている以上に複雑だ。

 

「…とりあえず家に入ろう?父さんも母さんも、姉さんの事待ってるよ?」

 

「…いやよ。会いたくないもの」

 

「お腹、空いてない?好きなもの、作ってあげるからさ」

 

「…こんな時間に食べたら、太っちゃうじゃない」

 

「少しくらい太ったって、姉さんは大丈夫さ」

 

「…うどん」

 

「了解。さ、入ろう?」

 

彼女の背中を押し、一緒に門をくぐる。

俺と彼女も、やっぱり少し複雑なのかもしれない。

でもこれが、今の幸田姉弟の関係性なのだった。

 



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3話

 

◆◆◆◆

 

 

 

料理は好きだ。

ちゃんと、やることをしっかりとやればやる分だけ上手くなるところが。

 

料理が好きだ。

美味しいものを食べると幸せな気分になれる。生きてる意味を感じられる。

 

料理を作るのが好きだ。

美味しい。その一言で、相手への気持ちが全部伝えられるような気がするから。

 

 

 

 

 

前世での自分は、割と料理をする方だったのだろう。

生まれ変わってからの俺が真っ先に惹かれたのが美味しいものを作るということだった。

 

人を良くする。そう書いて食。

その、どこかで聞いた言葉に、俺は感銘を受けていたのだ。

 

 

 

 

 

それから十数年。

独学とはいえ日々磨きあげた腕は、目の前の姉を唸らせるには十分だったようだ。

 

 

「んぅ~!やっぱり歩の鍋焼きうどんは最高ねぇ~っ」

 

然も、この世の至福という表情を見せる姉に頬を緩める。

年相応の素の笑顔の姉はとても愛らしく、可愛らしかった。

 

 

 

「むぐ。なによ、そんなに見て。何かおかしい?」

 

箸を止め仏頂面で尋ねる彼女に、思わず笑みがこぼれる。

 

「いいや。いつもながら美味しそうに食べてくれるなって…」

 

「う、うるさいわねっ!ひ、人が食べてるとこあんまりじっと見ないでよ!」

 

「こればっかりは料理人の特権さ。作った料理を、美味しいって言ってもらえるのは何よりの幸せだからね」

 

「そ、それでもダメ!恥ずかしいじゃない!…ご、ごちそうさま!」

 

少し顔を赤くしたかと思うと、残ったうどんを一息に平らげ香子は席を立った。

 

「もういいの?残った出汁でおじやでもと思ったんだけど…」

 

「そんなに食べたらさすがに太るわよ!…おやすみ!!」

 

 

 

ぷんすか自室へと戻る彼女を見送り鍋を火にかける。

出汁のきいたおじやは彼女の好物だ。朝食用にでも作っておけば喜んで食べることだろう。

 

調味料で味を調えながらもう一度笑みを零す。

我が姉ながら可愛らしい事だ。だけど、もう少し…。

もう少しだけ零に…。

 

 

「歩…?帰ったの?」

 

思考を途中で遮る声がした。

目を向けると、寝巻姿の母さんがいた。

 

「ああ、起こしちゃった?」

 

「ううん、いいの。でもこんな時間まで…。バイト?」

 

「いや、今日は友達と遊んでただけだよ。遅くなってごめん」

 

「あんまり心配かけないでね?じゃあお母さん、寝るから…」

 

「うん、お休み…」

 

心の底からこちらを案じる表情に罪悪感で胸がじくじくした。

その一方で、もう少し自由を。という気持ちも芽生えた。

これが年相応の17歳ならば、反抗して親の気持ちを無視して好き勝手振る舞うのだろうがそんな事今更できるわけもなく、深く息を吐いた。

 

 

「ままならないなぁ…」

 

 

思わずついた言葉が、何だかこの世の真理な気がして。俺はもう一度大きく息を吐いたのだった。

 

 

 



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4話

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

「きりーつ。礼っ」

 

 

クラスメイトが発したその声を聴いて慌てて頭を下げる。

色々考え事が多すぎて、号令の声を聞き流していたようだった。

 

 

「おい、歩大丈夫か?」

 

「最近ずっとこんなんじゃね?」

 

無事HRが終わった教室で、俺はなぜか級友に問い質されていた。

しかも割と深刻気に。

友人と認識してはいるがそこまでの深い関係を築けてはいないと思っていたので少々面食らってしまう。

 

「お前、自分の事あんまり話さねぇしさぁ」

 

「俺ら、友達だろ?…なんかあったら話せって」

 

ああ、こいつらは良い奴らだ。

ふと、他人事のようにそう思った。

 

普段は、女の子にどうウケるかだとか、今日の暇をどう潰すかなんてバカな話ばかりをしているのに、その本質はとても。とても。

 

俺は、どうなんだろうか。

ここ最近考えてばかりいるのは勿論家族と零の事だった。

 

上手く振る舞っているようで決定的な事は止められない俺。

結局零は家を出てしまったし香子は今も家に寄りつかない。

 

俺は何がしたいのだろう。

俺は何を思っているのだろう。

 

それが、たまに分からなくなる…。

 

 

贖罪のつもりなのだろうか。

零への。香子への。そして何より、父さんへの…。

 

 

「おい歩っ!聞いてっか?」

 

「えっ。あ、あぁ。…ごめんなんだっけ?」

 

少し耽っていたようだ。大きな声にびくりと反応する。

 

「はぁ、まぁいいよ。でも、どうしようもなくなったら、ちゃんと言えよ?」

 

「そうそう。何にも出来ねぇかもだけど、な」

 

そう言って笑いあう彼らに、心の中で礼を言いつつ、喜びそうな言葉を意趣返しとして言ってみる。

 

「…何かあったら頼むわ。代わりに、美咲のおねぇ様達と会わせてやるよ」

 

「うぉぉぉ!マジ!?」

 

「俺、あかりさんに会いてぇ!!」

 

バイト先のお客としてたまに会うBar美咲の人たちに俺は可愛がられている。

それゆえの言葉だったが、実現させる気は、まぁ、ない。

 

 

「…せいぜい楽しみにしておくといい若者たちよ!はっはっはー!」

 

 

 

去り際に決め台詞を残し教室をあとにする。

気持ちは少し、軽くなっていた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

「おはようございまーす」

 

暖簾をくぐり店内へ。

閑散とした店の中に一人人影を見つける。

 

「おう、おはよう歩」

 

 

カウンターを挟んだ厨房で刺身の仕込みをしているのが、ここの親っさんだ。

60を過ぎたあたりの小柄な体躯。あまり物を語らないが伝わる料理へのこだわりと、そして優しさ。俺はこの親っさんがとても好きだった。

 

「着替えたらツマ作ってくれ。それとポテトサラダもな。今日は宴会が入ってるから多目に頼む」

 

「了解です」

 

 

手早く着替えを済ませ腰にエプロンを巻き厨房へ。

大根を手にして皮をむき始める。

 

「宴会って、町内会のですか?」

 

「ああ、そうだ。…おめぇの仲のいいそめじさんも来るんじゃねぇか?」

 

「別に仲がいいってわけじゃ…。仲良くするなら綺麗な女の人がいいですよ」

 

「ヘタレが何言ってんだか…。客に迫られたってのらりくらりしてんじゃあねぇか」

 

「あれはお客さんがからかってるだけですって」

 

「からかってる相手目当てに一人で来たりしねぇとおもうがなぁ」

 

 

忘れていたが、この親っさんは人をからかうのも好きなのだ。

特に若い連中の色恋沙汰なんて、格好の餌食になってしまう。

 

俺はそれに苦笑いで返し、ツマにした大根を洗い場へと持っていく。

水にさらす工程を利用して上手く逃げたのだ。

 

 

その後はジャガイモを湯がいてポテトサラダにしたり、ホールの掃除をしたりしているうちにいつの間にか営業時間が迫っていて、せわしない夜の時間が訪れた。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

「ありがとうございましたー」

 

 

最後の客を見送って、少し息を吐いた。

平日にしては少々忙しく、中々に疲れてしまった。

 

「おう、お疲れ。レジは俺が締めとくから着替えて上がって良いぞ」

 

「はい、お疲れ様でした」

 

親っさんの声に甘えてTシャツを脱ぎつつ更衣室へ。

心地よい疲れが俺を包んでいた。

 

「ほい。じゃあこれいつもの」

 

そう言って渡されたのは昔懐かしい瓶のコーラ。

始めはまかないでも、という話だったが自分で作りたい俺は遠慮してこういう形になっていた。

 

「いただきます」

 

「お前がビール飲めりゃあ俺も一緒に乾杯するんだがなぁ…」

 

心底口惜しいというような顔で言う親っさんに俺も心の底から同意する。

早く、ビールが飲みたいなぁ…と。

 

 

「それじゃあ、お疲れ様でした」

 

「おう。またな」

 

 

 

暖簾をくぐり店外へ。

閑散とした街並みに、何だか世界で自分一人だけみたいだななんて思いつつ帰路へ着く。

今日は何を作ろうか。そんなことを考えていると。

 

 

 

「歩」

 

また、声が聞こえた。

 

 

「…どうしたの?姉さん」

 

少し、驚いた。

何かあったのだろうか。

 

「別に…。たまたま通り道だったから」

 

「それでわざわざ?」

 

「わざわざなんて寄ってないわよっ!ただ…もしかしたら歩が帰ってくるんじゃないかって、ちょっと思っただけ!」

 

「それを人はわざわざと言うんじゃ…」

 

「う、うるさいわねっ!いいから帰るわよ!お腹すいちゃったんだから!」

 

「はいはい。…今日は少し暑いし、サッパリしたものにしようか」

 

 

何のために、誰のために。

難しく考えると際限がない事だけど、シンプルに考えれば。

 

 

きっと、毎日は楽しく、美味しく。

そんな風に生きられるのか。

そんなことを、ふと、思った。

 



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5話

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

物心ついたころに、父は本格的に俺に将棋を教えてきた。

予備知識というか、ルールの概要みたいなものだけは知っているような状態の俺を父さんはやたらと上機嫌に褒めた。

 

『歩は飲み込みが早い』

その言葉を聞くたびに、そこはかとない罪悪感を覚えたものだ。

 

 

とはいえ、将棋自体はとても面白いものだった。

なんとなく、適当にすればいいと思っていた駒の動かし方が全然思いもよらなかった戦略で動かされる。しかもそれを懇切丁寧にプロの棋士が説明してくれるのだ。

ある程度の成熟度を持った男子が心躍らないわけもなかった。

 

 

 

だが、同時に。

無理だ。そう思ってしまった。

 

 

俺は多分。将棋を好きになることはできるだろう。

でも、でもだ。

目の前の父のように、将棋を指すことができるだろうか。

 

相手のすべてを読み切って、自分の思うように駒を運ぶことができるだろうかと。

 

 

 

俺は幸か不幸か知ってしまっている。

世の中というものは平等なんて夢物語で、人にはできる人とできない人がいることを。

それは何にしてもそうで…。

 

勉強ができる人、できない人。

料理ができる人、できない人。

スポーツができる人、できない人。

 

そして……。

 

将棋ができる人、できない人。

がいることを。

 

俺は知ってしまっているのだった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

幸田家の朝は早い。

父が真面目な、厳格な性格のせいもあるのだろうが、母さんと俺も朝ごはんと弁当の支度をするために早起きをするためでもあった。

 

それと、割と幼い頃から料理に目覚めた(と、両親は思っている)俺と母さんにとって朝の時間は、最早少なくなってしまった家族の時間でもあるのだ。

 

「おはよう母さん」

 

「あら、今日も早いわね歩。昨日も遅くまで起きてたんじゃないの?」

 

「いやいや、昨日はお店が忙しくて疲れちゃってさ。帰ったらご飯食べてすぐに寝ちゃったよ」

 

「そうなの…?無理にバイトしなくても…、お小遣いが足りないのならもっとあげるけど…?」

 

「違うよ母さん。俺は好きであの店で働いてるんだ。まぁ、趣味みたいなもんだよ」

 

「なら、いいんだけど…」

 

それきり、特に会話もなくそれぞれの作業に移ってしまった。

俺は卵焼き用の卵を溶き母さんは焼き魚の具合をみる。

 

するとふと、母さんが訪ねてきた。

 

「昨日は、香子は…?」

 

「ああ、今日は帰ってるよ。でも多分、いつものだと思う」

 

「そう…。そうよね…」

 

それきりまた、会話はなくなってしまった。

カチャカチャと、調理の音だけがキッチンに響く。

 

「おはよう」

 

そこへ父さんがやってきた。

何ともいえない沈黙が破られ、時間が動き出したような感覚になる。

 

 

「おはよう父さん」

 

「ああ、おはよう歩」

 

朝、俺達が交わす言葉はほぼこれきりだ。

なんというか、俺と父さんはお互いの距離をまだ測りかねているのだ。

有体に言えばどう接しればいいか分からない、という感じだろうか。

棋士への道をいともたやすく諦めた俺を父さんは理解できないし、俺は俺で勝手な罪悪感を父さんに持ってしまっている。

 

どうしても噛みあわない歯車。それが今の俺達だった。

 

 

 

 

「ご馳走様」

 

母さんが作ってくれた朝食を食べ終えて部屋へと戻る。

その途中、通りがかった扉に向かって俺はノックをした。

 

「姉さん、起きてるんだろう?俺もう学校行くから。

弁当作っといたから、忘れず持ってってね?それじゃ」

 

 

家に帰ってきていても、香子はなるべく両親との接触を避けるように生活していた。

例えば今のような朝の時間。香子は決して一緒に朝食をとろうとはしない。

 

父さんが朝食を終え対局に行くか、部屋に篭って研究を開始するまで決して部屋から出てこないのだ。

最近はそれを察してか母さんもその時間にはキッチンとダイニングには近寄らないようになっていた。

 

 

「ま、待ちなさいよ…」

 

「やっぱり起きてた…」

 

開かずの扉から返事がした。気分はまるで天岩戸である。

 

「何?姉さん」

 

「そ、そのお弁当…」

 

「ん?弁当がどうしたの?…ああ、もしかして余計なお世話だった?」

世の中の女性はランチのために働いていると聞く。我が姉もそうなっていたのか。

 

「ち、違う!違うわよっ!え、えと…」

 

「いや俺、そろそろ時間なんだけど…」

いつまででも相手をしたい気持ちは山々だが人間とは時間に縛られて生きているのだ。

些細な小言なら、普段はちゃんと受け止めるが朝はそうもいかない。

 

「…悪いけど、もう行くよ?話は帰ってから聞くから。なんならメールでもいいし。

弁当はいらないならそのまま…」

 

「卵焼き!!」

 

「へっ!?」

 

「卵焼きが入ってるのかって聞いてるのよお弁当に!!」

 

「あ、あぁ。入ってるけど…」

 

「ならいいわよ!!いってらっしゃい!!」

 

「う、うん。いってきます…」

 

 

部屋へと行き制服へと着替え家を出る。

電車に揺られ、級友に声を掛けられ教室に着く。

自分の席へついて鞄を下ろす。

そして…。

 

 

「なんだったんだあれは…」

 

 

そう、呟いた。

 

 

 



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6話

 

◆◆◆◆

 

 

学校が終わり、バイトの予定もない。クラスメイトが誘ってくれたカラオケも流行の曲が分からないので断った。

とまぁ、割とありがちな夕方を過ごすことになった俺はこれまたありがちな趣味を行うことにした。

俺の趣味。そう、料理だ。

 

 

高校生というのは、案外暇なものだ。と二回目になって思う。

前だけまっすぐ見ていたようなときには気が付かないものだが授業が終わった後の学生なんて本当にやることがないのだ。特に部活にも入っていない場合は。

 

今でこそ週に3回のバイトがあるので何とかなっているが高校生の初めの頃はそれはそれは大変だった。

暇で暇でしょうがなかったのだ。

 

友人はいたがその誘いに乗って出歩くのにはあまり乗り気にはなれなかった。

いまいち馴染めているという感覚になれなくて。

 

となるとあとは本を読むかゲームをするか、くらいしか思いつかなくて。

迷った末にたどり着いたのが腕を磨くのを兼ねた夕飯作りだった。

 

渋る母さんを何とか説得し、週の何回かの夕飯を作ることを任せてもらった。

あまり母さんの仕事をとらないでね、と苦笑気味に言われたが。

 

そんな経緯があった俺の趣味。我ながら難儀なものだと思いつつ帰宅の路に着く。

家の近所のスーパーへと立ち寄って今日の献立を考える。

 

(昨日はそばだったから今日は何にするか…。しまった、昨日の父さんたちの晩飯聞いてくればよかった…)

 

 

母さんが作るのは和食が多い。だから昨日も和食だろう。

そう考えて今日は中華にすることに決めた。

中華、中華だ。何がいいだろうか。

とりあえずエビチリとチンジャオロースは作ろう。

姉さんがいるなら他にも…。今日は姉さん帰ってくるのか?

ああもうふらふらするのは別にいいけど夕飯を作る側からするととてつもなく厄介だ。

そう思った俺は食材をカゴにほおりこみながら手早くメールを送信した。

 

 

 

 

―――――――――――――――

送信者:幸田歩

―――――――――――――――

タイトル:Re:

───────────────

添付ファイル:

―――――――――――――――

今日は中華です。帰ってきますか?

 

     -END-

―――――――――――――――

 

 

 

返信は二分後だった。

 

 

 

 

―――――――――――――――

送信者:幸田香子

―――――――――――――――

タイトル:Re:

───────────────

添付ファイル:

――――――――――――――

エビチリは絶対ね!!

 

     -END-

――――――――――――――

 

 

 

よし、帰ってくるのか。ならレバニラも作って明日の弁当のおかずにしよう。

久しぶりの中華にテンションが上がった俺は上機嫌に買い物を続ける。

三軒隣の藤原さんに絡まれたりしつつレジへと向かう頃にはカゴはかなり重くなっていたが心はかなり軽くなっていた。

人間やっぱり趣味って大切だなと、改めて実感したのであった。

 

 



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7話

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

気が付けば、季節が移ろうのは早く。いつの間にか照りつける日差しが厳しい夏になっていた。

 

夏休み。

 

学生にとっては一年で最もはっちゃけられる期間だろう。

普通の高校生ならば、海でナンパだ、バーベキューだと随分張り切って大騒ぎを計画し盛り上がるのだろう。

 

だがしかし。あいにくと人生二回目の俺は、客観的に見れば知り合いは多いが友達は少ない。

料理が得意らしい謎の好青年だ。あくまで本人談だが。

 

つまりは、いつものよう声を掛けてくれたレジャーへの誘いも。

数合わせだか撒き餌だか分からないが誘われた合コンも。

やっぱり何かしっくりこないとすべて断ってしまっていたのだった。

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

物心つく前からの将棋の英才教育。

それを受けているのは勿論二人目の俺だけではなく。

そして俺に比べてその少女は。

 

「王手っ!」

 

将棋をとても、愛していた。

 

 

将棋の基礎を語り終えたと父が判断したであろう頃。

俺は、先立って薫陶を受けていたであろう姉の香子と、対局をさせられながら、

本格的に指導をされることになった。

 

 

 

 

「歩。もう少し相手の立場になって考えて見なさい。

お前はいつも自陣を見てばかりいる」

 

「はい。わかりましたおとうさん」

 

 

本当はちっとも理解できていなかった。

これまでの経験から、それっぽい対応をしてみただけだ。

 

将棋の指導は、楽しいが苦痛の方が大きかった。

なんというか。詰め込まれながら、サイズが違う!とわめかれているような気持ちになって。

 

ちゃんと理解はできるのだ。だが、それが進めば進むほど。

いかに自分に合っていないか見せつけられているようで。

ああ、このままだと。将棋が嫌いになってしまいそうだな、なんて。

ぼんやりと。考えてはいけないと思いつつ。

父には決して気付かれないように思った。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

夏休みに入ってから数日。

ジリジリと照りつける日差しを受けながら、バイト先の店への道を歩いていた。

その途中、通りがかった商店街。見かけたのは掲げられた『お盆用品』の文字。

 

「お盆、ああ。もうそんな季節か…」

 

匂いというのは、人の記憶に直結しているらしい。

そんな、どこかで聞いた話をふと思い出した。

 

お盆の季節。お線香の匂いを嗅ぐと、どこか懐かしく物悲しい気分になるのも、もしかしたらそれが原因なのかもしれない。

 

幸いなことに、幸田歩になってからは近親者に不幸はなかった。

だから、この季節。思うのは、いつも義弟の事だった。

 

「行って、みるかな…」

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

「ありがとうございましたー」

 

最後のお客さんを見送って一息。

初めてのお客さんだったが、中々楽しい人だった。店員の俺にやたらと絡んでくるのには少々困ったが。

 

「おう、お疲れ歩。この後、なんか予定あんだろ?」

 

「えっ?」

 

「いや、なぁ。ああもあからさまに普段と違うとよぉさすがに俺でも判るぞ?」

 

驚いた。親っさんはエスパーでもあったのか。

冗談はさておき、目に見えてわかるほどあからさまだったようだ。

少し反省しなくては。

 

「すみません、親ッさん」

 

「あーいや。別に怒ってるわけじゃあねぇんだ。ただ珍しいと思ってな」

 

それから少し言いよどんで、苦笑しながら親ッさんは続けた。

 

「年に見合わず落ち着いてて、それでいて料理の腕もそこら辺の素人とは比べもんにならねぇ。

こりゃとんでもない当たりのバイトだと常々思ってたお前がそわそわ落ち着かねぇ様子だったからな。

こりゃ、なんかあんだろって、そう思っただけさ」

 

「あーいえ。そんな風に言ってもらえるほど、俺は大した人間じゃ…」

 

「何言ってやがる。お前さんはよくやってるよ。ただまぁ一つ欠点があるとすればそりゃあれだな。

自己評価が低すぎるところだ」

 

「自己評価…ですか?」

 

「おうよ。もう少し、自分に自信を持ってみたらどうだ?

おめぇの過去に何があったかなんて知りはしねぇ。だが今のおめぇはよぉ。

十分すぎるほど立派じゃねぇか」

 

「……」

 

「だからよ。もう少し、自分の選択に自信を持っても、俺はバチは当たらねぇと思うぜ。歩」

 

 

 

ホラ、急ぐんだろ?さっさと行け。

そう背中を押されて店を出た。

何故だか無性に走りたくなって、零の家までの道を走り出した。

走っている途中、不思議と目から涙が流れだした。

全然止まってくれなくて、それを誤魔化すためにも一層力を入れて足を動かした。

 

 

見透かされたような気持ちになった。

なんだかくすぐったくて、少し恥ずかしかった。

でもそれ以上に、嬉しかった。

心に、触れてもらえたような。そんな気がした。

 

 

膝に手を置いて、大きく息をして呼吸を整える。

時間は、尋ねるには少々遅めの時間。だがまだ寝てはいないだろう。

 

最後に大きく深呼吸をして、チャイムを押した。

ガタゴトと物音がした後、ドアが開かれた。

 

「にい、さん…」

 

「よう、零。久しぶりだな」

 

「どうして…」

 

「いや…あれだ。ちゃんと飯食ってるか心配になってな。ちょっと様子を見に…」

 

「ありがとう…」

 

「零…」

 

零の顔は、すべてを分かったような顔だった。

穏やかに、それでいて嬉しそうに微笑んでいる。

 

「あーあれだ。飯は食ったか?まだなら何か作ってやるぞ?」

 

気恥ずかしさから、少し大きめな声を出しながら俺は問いかけた。

 

「あ、晩御飯なら川本さんの所でもう…」

 

「そう、か。…なら大丈夫だな。俺は帰るわ」

 

「えっ!?でもせっかくだしお茶でも…」

 

「いい、いい。それはまた今度ゆっくりな。じゃあまた来るから」

 

「うん。ありがとう、兄さん」

 

面映ゆい表情で零は見送ってくれた。

月を背に帰り道を歩く。

 

さて、普段のバイトが終わった帰宅時間よりだいぶ遅くなってしまった。

起きているのが母さんだけなら話は早いのだが…。

 

そう考えたその時、メールの着信音が鳴った。

差出人は、幸田香子。

内容は、言わずもがな。

 

姉への効果的な言い訳と、お腹を空かせているだろうからレシピを。

その二つを考えながら、ゆったりと今日一日の余韻に浸るように帰り道を歩くのだった。

 

 



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第8話 

久しぶりすぎて申し訳がないです。
アニメの二期が始まったので頑張って書いてみました。
よければ読んでください。




◆◆◆◆

 

昔、父さんの指導を一緒に受けていた頃。

唐突に姉さんに問われたことがあった。

 

『歩は、将棋好きじゃないの?』

 

驚きを隠すのに苦労したことを覚えている。

丁度、このままだと将棋が嫌いになってしまいそうだと感じていたばかりだったのだ。

どうしてそう思ったのかと聞くと姉は思案顔で答えた。

 

『うーん。だって、将棋を指している時の歩。ちっとも楽しそうじゃないんだもの』

 

鋭すぎて笑いが出てくるほどだった。

そう、あの時の俺はちっとも楽しくなんかなかった。ただ苦しいだけだった。

でも、そう素直に認めるのもなんだか嫌で、俺は姉に問い返していた。

 

『姉さんは、将棋、楽しい?』

 

返ってきたのは満面の笑みだった。

 

『大好きよ!相手に勝つのも、負けた原因を調べて強くなるのも!』

 

『そして何より…』

 

『勝ったら、お父さんが褒めてくれるもの!』

 

あの時の笑顔を俺は覚えている。

 

 

哀しくなるくらい、覚えている。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

ある日曜日の事。

その日俺は、とても困っていた。

 

 

「暇だ…」

 

 

出された課題をすべてやり終え、買いためてあったはずの本はいつの間にかなくなっていた。

そう。今世での至上命題がまたもや俺を苦しめていたのだ。

 

「テレビは…。ダメだ。ゴルフと競馬しかやってない…。

馬券を買えない競馬に何の面白さがあるのか…」

 

そんな世迷言さえ呟いてしまう。

思考はあちらこちらへ行ったり来たりしていた。

 

 

「そうだ、出汁だ!」

 

唐突に閃いた。

 

俺は普段から料理に使う出汁をその時に使う分とは別に取って作り置きをしていた。

作り方は単純で、水に昆布を一晩漬けておき火にかけ沸騰直前に取り出す。

差し水をして火を止め鰹節を淹れる。それを弱火で加熱して沸騰直前で火を止める。

あとは灰汁をとって濾せば出来上がりだ。

 

何に使うにもこの出汁は便利で、姉の夜食のうどんにも。

小腹がすいたときの茶漬けにも。

野菜が余った時の大盛りの味噌汁を作るときにも大いに役に立つ代物なのだ。

 

残りがどれだけあったか。

確認するためにキッチンに向かう。

冷蔵庫を開けると、確かに残り少ない作り置き出汁が確認できた。

 

「じゃあ、作るか」

 

ようやく目的が出来た事に笑みを浮かべながら作業に取り掛かる。

さて、まずは昆布を水につけるところからだ。

 

厳密にならなければ2~3時間でも構わないのだが事出汁というものに限った話ではこだわったほうが美味しいものができるのだ。

今日の所は昆布を水につけるだけにして、夕飯は洋食で済ましたいところである。

そう決めた俺は、一応の確認のつもりで棚を開けていた。

 

「鰹節が…ない?!」

 

そう。そこにはあるまじきことに鰹節がなかったのである。

正確には、切れかけの粉のようなものはわずかに残ってはいたのだが。

 

「買いにいくか…」

ちょうどいい用事が出来た事に一息つき、出かける準備を始めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

「あー。あっついなぁ…」

 

じりじりと照りつける日差しの中、商店街を目指して歩く。

気温のせいかあまり人影は多くなかった。

 

残りの夏休みの日数と、それの消化方法を考えながら歩いていると、メクドナルドが目に入った。

長い事食べてないなぁと思っていると、聞きなれた声が聞こえてきた。

 

「ギガメックかぁ…。いや!よそう!」

 

「桐山はいつも何食ってんの?」

 

「オレかぁ。オレは一人の時はパンとかニコニコ弁当とかメックとか吉田屋の牛丼とかかな」

 

「あ…でも最近は、時々知り合いの家で…って兄さん!?」

 

そこには驚いた様子でこちらを見る零と、あまり顔を合わせたくない相手が立っていた。

 

「おお!歩殿ではありませんか!お久しぶりですね!」

 

「うぇ!?に、二海堂君!?」

 

「はい!二海堂晴信です!お元気そうでなにより!」

 

溌剌とした笑顔を浮かべてこちらを見る彼に思わず苦笑する。

俺はこの熱すぎる弟の戦友が、どうも苦手なのだ。

何でか慕われているらしいその勢いと彼のまっすぐさが。

なんだか、無性に胸を掻き毟られるのだ。

 

「兄さん、こんな所でどうしたの?」

 

「ああいや、ちょっと買い物にな。お前こそなにか…」

 

「ボドロ―――ッッ!!」

 

「はっ!?モモちゃん!?」

 

カオスは止まらない。

新たなる侵入者に少し目をくらませてしまう。

 

「桐山、知り合いか?」

 

「あ…えーと…うーん…」

 

「今たしか「ボドロ」とこの者が叫んだように聞こえたのだが…」

 

「ボドロってあれだろう?子供から大人まで大人気のあの名作アニメ映画に出て来た森に住む知的生命体の事であろう?あの神秘的な…」

 

ボドロについて二海堂君が語っているのをよそに一息つく。

予想外の零との遭遇と苦手な相手との対面に少し戸惑っていたのだ。

 

「よし、ではモモ君。手をつなごうではないか。往来は車がいきかいキケンだからな」

 

すると、モモちゃんを送っていくことに話は決まったようだ。

二海堂君がモモちゃんの手を取って歩き出すと、目の前に顔を赤くした何かに見惚れたようなあかりさんと手を振るひなちゃんの姿が見えた。

 

「あの…れいくん…そちらは?」

 

あかりさんっ!?

思わず内心で叫ぶ。

そこですかっ!?貴女のストライク!?

 

心なしかいいなと思っていた女性の思わぬタイプに動揺しながらも、流れのまま夕食へ招待されることになった。

 

買い物ぉ…。と思わなくはなかったが、空気は読めるタイプである。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

「…うん。美味しい」

 

 

あかりさんの作った料理は、とても美味しかった。

薄味だが、しっかりと味が付いていて噛めば噛むほど染み渡る。

 

唐突に、来客を告げるインターホンが鳴り響く。

 

「夜分、大変失礼いたします…。こちらでお坊ちゃまがお世話になってらっしゃるようで…」

 

 

おおぅ。そういえば。

二海堂君は結構なお坊ちゃまだったけか。

 

 

話を聞くと、花岡さんというらしいこの老人は二海堂君の執事らしい。

手土産片手にあかりさんと歓談している。

 

 

「まぁ、奇遇ですわ。私もこれ大好きなんです!!すっごく!」

 

ゆるゆる。ゆるゆる。

のんびり過ぎていく夜。

あたたかい光は他人を照らして、支えあっていく。

ああ、いいな。

心の底から、俺はそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

ち・な・み・に☆

 

 

「あ・ゆ・む・く~ん?」

 

「ええ、はい…」

 

「タ・バ・コ。もう吸ってないわよねぇ~?」

 

「ええっと…ああ…」

 

「ん~?返事が聞こえないぞ~?」

 

「あの…。勘弁してください…」

 




◆◆◆◆

今現在の登場人物の原作との変更点

幸田歩。――原作では義弟だがここでは義兄。自ら将棋をやめたことを零と父に対し少し後ろめたい気持ちがある。
姉香子に対しては受けていた仕打ちから過保護気味に扱う。姉が好きであかりに少し憧れている。

桐山零。――引き取ってくれた幸田家に対する罪悪感と、その中で何かと気遣ってくれている歩。
      それを見ていい気のしない香子に挟まれ複雑な心境。兄の事は割と大好き。

幸田香子。――自分を見捨てた父と愛を奪った零を憎しみつつも早々に将棋を捨てても自分を大切にしてくれた歩に少し依存気味。後藤に好意は持ちつつも、歩に彼女ができたら多分病む。

川本あかり。――歩とはバイト先の店で知り合い、その後零の兄と知って顔見知りになった。
        複雑な家庭環境の中自分と同じように奮闘する彼を何かと気に掛ける。

川本ひなた。――ほぼ原作と同じ。歩の事は「歩さん」と呼ぶ。

川本モモ。――ほぼ原作と同じ。歩の事は「アメのお兄ちゃん」と呼ぶ。

川本相米二。――ほぼ原作と同じ。歩とは行きつけの居酒屋の常連なので顔なじみ。
      達観した姿を心配しつつ気に入っている。



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