艦これ海上戦記譚~明け空告げる、海をゆく~ (PlusⅨ)
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序章
護衛艦むらくも


ハーメルン初投降です。とりあえず、今日中に二話掲載。
以後、週一二回のペースで投降したいと思っています。

というわけで一話目はプロローグ、艦隊これくしょんの世界ではありませんのであしからず。


 20XX年某月某日、南西諸島海域、1100

 

 天気晴れ、気温23度、風向風速NEから5ノット、風浪階級2、うねりNEから1、海面気圧1011.2ヘクトパスカル、雲形Ac、雲高6000フィート

 

 外国籍軍用船舶の監視を任務として行動中の【むらくも級護衛艦一番艦、DD119むらくも】の艦長は、監視対象が不審な行動を開始したとの報告を受けて、艦長室からCIC(Combat Information Center:戦闘情報室)へと入室した。

 

 CIC中央の艦長席に着くと同時に、哨戒配置についていた砲雷長に状況を問う。

 

「当該目標は1055頃、レーダー画面上で針路080度への変針を確認、速力を18ノットまで増速しました」

 

 砲雷長の報告に合わせ、CICの大型三面スクリーンの一つに周辺の海域図と、護衛艦むらくもを示す光点が現れた。そのすぐそばにもう一つ光点が現れる。監視対象として追跡している隣国のミサイル巡洋艦だ。

 

 海域図の右端には南西諸島の最西端に位置する無人島があり、その周囲12海里(約22.2キロメートル)を赤線が囲んでいる。陸上における国境線に該当する領海線である。そのさらに外側12海里を接続海域と呼ばれるオレンジ線が取り囲む。

 

 海域図左側にはスクリーン上端から、やや左下方に向かって白の斜線が引かれている。こちらは監視境界線である。

 

 この境界線を越えて航行する外国籍軍用船舶は監視対象となり、護衛艦及び航空機による追尾が日常的に行われていた。

 

 現在、むらくもが追尾監視しているミサイル巡洋艦は二日前にこの監視境界線を越え、それ以来、南西諸島に対して接近と反転を繰り返していた。

 

 艦長はその航跡をスクリーン上で確認する。相手を肉眼でも監視できる距離に占位して以来、ミサイル巡洋艦は概ね時速8〜12ノット(約15〜22キロメートル。1ノットは約1.8キロメートル)で半日ほど航行しては反転、という行動を繰り返していた。

 

 その目的はおそらく、南西諸島周辺海域の水温データ収集と、こちらの監視行動態勢の偵察だろう、と艦長は考えていた。しかしこれは特に珍しくもない状況である。この南西諸島海域ではしょっちゅう行われている両国の“平時における軍事行動”の一環だった。

 

 だが、今、相手の行動が、平時の軍事行動の枠を逸脱しかねない可能性があった。

 

 ミサイル巡洋艦が速力をあげて向かう先、そこにある無人島で、今、突発的な非常事態が発生していた。

 

 今朝早く、領海へと不法侵入した不審船が無人島へ座礁。乗組員数名が上陸したとの情報が入っていた。

 

 現在、無人島では海上での警察行動を担当する保安庁が特殊部隊を投入し、不法侵入者の身柄確保に臨んでいる。

 

 それに伴い、むらくもにも監視対象の行動に注意するよう命令が下っていた。

 

 思案する艦長の元へ、船務長が電報を手にやってきた。

 

「艦長、海幕からの緊急電報です。無人島から救助信号が発信されたとの事。なお、保安庁のものではありません」

 

「時間は?」

 

「1050頃です」

 

 ミサイル巡洋艦が南西諸島へ向けて変針増速したのは、その直後だ。

 

「わかった。船務長は現状を速やかに海幕へ報告。本艦は監視目標が接続水域へ入り次第、交戦規定に従い行動する」

 

「はっ。・・・艦長、艦内哨戒態勢を第二配備まで上げる事を具申します」

 

「ふむ」

 

 現在の艦内は、全ての武器を待機状態にした上で、それぞれの配置員を三交代制にしている。武器がすぐ使える状態にある他は、非番の乗員は居住区で寛ぐか、今はちょうど昼時という事もあって食堂では昼食を摂る乗員でごった返しているはずだ。

 

 船務長はその態勢を一段階上へと引き上げ、二交代制にしようと言っていた。乗員への負担は大きくなるが、その分、状況の変化に素早く対応できる。

 

「いや」と艦長は首を横に振った。「第一配備で行こう」

 

 艦長の言葉に、船務長や砲雷長だけではなく、CICで配置についていた乗員全員が息を飲んだ。

 

 第一配備は、完全戦闘態勢の一歩手前だ。非番はなく、乗員全員が配置につく事になる。食事や仮眠も、全て自分の配置で行うのだ。

 

 それはすなわち、事態が予断を許さない状況へと急速に傾きつつある事を意味していた。

 

「艦内哨戒第一配備だ」

 

 艦長はもう一度、念を押すようにそう言った。まるで自分自身に対して言い聞かせているようだった。

 

「了解しました。艦内哨戒第一配備を下令します」

 

「砲雷長、目標までの現在の距離は?」

 

「約5000ヤード(約4600メートル)を維持しています」

 

「2000ヤード(約1850メートル)まで詰めて並走しろ」

 

「了解」

 

 艦が針路を変更、増速し、CICがわずかに傾いた。ほぼ同時に、第一配備を報せる号令が入り、今まで非番だった乗員たちが次々と室内へと駆け込んできては、自分の配置に付いていく。

 

 同様の光景は艦内各所でも繰り広げられていた。

 

 居住区で仮眠をとっていた者たちはすぐさまベッドから飛び出し、また、食堂で昼食をとっていた者たちも、食べかけの食事をテーブル上に残したまま次々と席を立っていく。

 

 まだ入隊したての若い乗員は、残った食べ物を慌てて口の中にかきこみ、喉に詰まらせて目を白黒させていたところを、先輩に背中をどやされた。

 

「のんびり食ってる奴があるか! さっさと配置につくぞ!」

 

 若い乗員が首根っこをつかまれて食堂から連れ出された後、艦内の修理工作担当チームがテーブル上の残飯をポリバケツに放り込み、クリアになったその場所に次々と応急修理用具を並べていく。

 

 号令がかかってから三分と経たないうちに、CICに配置完了の報告が届いた。砲雷長が艦長にそれを届ける。

 

「配置完了しました。所要時間、2分48秒です、艦長」

 

「遅い。これは訓練ではない」

 

「はっ」

 

「船務長、海幕からの指示は?」

 

「接続水域に入り次第、海上警備行動を発令するとの事です。以後、交戦規定を厳守し、領海への侵入を阻止せよ。以上です」

 

「わかった。発令後、すぐに対応できるように備えておけ」

 

「了解しました」

 

「私は艦橋で指揮をとる」

 

 艦長は席を立ち、敬礼で見送られながらCICを出て行った。

 

 残った砲雷長は艦内電話で艦橋を呼び出し艦長がそちらへ向かった事を告げると、強張った表情で自分のコンソールに腰を下ろした。

 

 額に深い縦じわを刻んだ砲雷長の様子に気づいた乗員の一人が、近くにいた別の乗員と声を潜めてささやき合った。

 

「どうやら本気でやりあう事になりそうだな。しかし相手はスラヴァ級だろ。ロシアお下がりの旧式って言ってもSSM(艦隊艦ミサイル)18発、同時斉射9発なんて攻撃特化した艦に、くも級護衛艦が単艦じゃ分が悪くないか?」

 

「距離2000ヤードならSSMは近すぎて使えない。あり得るとするなら主砲での砲撃戦だろう」

 

「相手は確か130ミリ連装速射砲1基だったよな。それに対して、こちらは5インチ単装砲1基。ほぼ同口径とはいえ砲門数は相手が上か。やはり不利だな」

 

「砲門数が上って言っても連装砲と単装砲の差でしかないから、毎分辺りの発射数は互角さ。それに130ミリ程度ならいくら命中したって穴が開くだけで沈みはしない。昔みたいな20センチとか30センチ砲だったら魚雷攻撃並に真っ二つだが。・・・・それよりも問題は、海上警備行動程度の交戦規定じゃこちらから先制攻撃ができないことだ」

 

 二人はゴクリと息を飲んだ。

 

 今はまだグレーゾーンとは言え平時であり、相手が監視境界線を越えていても、ここは国際法上は公海である以上、こちらから攻撃する理由はない。少なくとも今、この瞬間においての意味だが。

 

 だが相手が現状をどう認識しているかは定かではない。そして相手の行動を見る限り、現状はグレーゾーンから急速にブラックへと染まりつつあった。

 

 艦橋へと昇橋した艦長は、そのままウィングと呼ばれる側面の張り出し部へ出て、2000ヤード離れて並走するミサイル巡洋艦を目視した。

 

 周囲を遮る物がない海上では、2000ヤード離れたとしても全長190メートル・11000トンを超える巡洋艦は一際大きく見えた。巡洋艦の鋭角な艦首が波を砕き、艦の前部から中部にかけてずらりと並ぶ巨大なSSM発射装置に降り注いでいる。

 

 むらくも級護衛艦よりはるかに攻撃的で威圧的なその艦影に、艦長は背筋に冷たいものを覚えた。

 

 その背後から、艦橋内で操艦を指揮する航海長が声をかけてきた。

 

「艦長、航海用レーダーで目標の増速を確認しました。現在21ノットです。こちらも増速します」

 

「わかった」

 

「第一戦速!」

 

 航海長の速力指示により艦は加速を開始した。艦内にガスタービンエンジンの甲高い唸りが響き渡り、増速した艦首が海面の波を砕いて、巨大な白波が吹き立った。

 

 雨のような飛沫が艦長の立つウィングにも降りそそぐ。艦長は艦橋内に飛び込みたい衝動をぐっと堪え、帽子と肩を海水で濡らしたまま悠然と艦長席へと戻った。

 

 濡れ鼠になることを予想できなかったのは失敗だが、冷静さを欠いた様子を部下に見せてしまう失態を犯すよりかはマシだった。だが、本当に冷静さを維持できているかどうかは、少し心もとなかった。

 

 しかし少なくともすべき事と、すべきでない事の区別はついていた。すなわち交戦規定の内容である。

 

 現代の改訂された交戦規定では、武力攻撃を受ける可能性がほぼ確実な場合において先制的な予防攻撃が認められている。しかし、この確実な場合とは攻撃用レーダー波の照射を受けた時だ。現代戦において、これは銃口を突きつけられたに等しい行為である。

 

 逆を言えば相手が明確にそういった行為を取らない以上、こちらからは軍事行動は取れず、あくまで警察行動の範囲内で対処しなければならない。

 

 つまり相手が武器を使用しないまま領海へ侵入しようとするなら、こちらも武器を使わずにそれを止めなければならないのだ。最悪、艦をぶつけて止めるという手段を取らざるを得ない。

 

 射程150キロメートルを超える長射程SSMや、精密誘導対空迎撃ミサイル、複合多機能レーダーまで搭載する新鋭軍事艦艇でありながら、選択できる戦術が帆船時代の海賊と変わらないとは皮肉だった。

 

 そして、それは当然のことながら、この艦と乗員に多大な出血を強いる行為でもある。

 

 艦長の最優先事項は、平時においては艦と乗員の安全であり、それを前提として訓練や任務の遂行がある。しかし有事では任務達成を最優先にしなくてはならない。艦の安全を考慮するのはその次であり、乗員の安全はそのさらに下だ。戦闘中ともなれば、武器の弾薬補給や応急修理が優先され、負傷者は放置される。

 

 有事では、人命の価値観そのものが変わるのだ。それを受け入れ可能とするのが軍人であり、軍隊である。死を覚悟せよ、という事だった。それも艦長である自分一人の死ではなく、乗員130名も含めてだ。

 

 そして、同じようにその覚悟は、今、目の前に迫りつつある無人島で任務に従事する保安庁職員も同じ事であり、また相手側も同様だった。所属国家に関わらず、この状況に関わっている全員が己と仲間の命を賭する覚悟で祖国を背負い任務に従事している以上、個人の思惑、信条が入り込む余地はどこにもない。

 

 それはブレーキのきかない破滅的な状況の一歩手前に違いはないのだが、哀しいことにこの現場にブレーキを踏める権限を持つ者は一人として居なかった。いや、そもそもブレーキなど端から存在しないと言った方が正しい。

 

 これまでの平時というものは、たまたま有事ではなかったという消極的な意味に過ぎず、その両方が明確に違うものだと保証できるものはどこにも存在しなかったのだ。

 

「間もなく接続水域に入ります。目標に対し国際VHS通信による無線警告を行います」

 

 艦長の了解を得て、通信士が無線の受話器を取り、オープンチャンネルでミサイル巡洋艦を艦名を名指しして呼び出した。

 

「貴艦は我が国の領海に近づいている。速やかに進路を変えられたし。繰り返す。貴艦はーー」

 

 英語、中国語で繰り返し流される警告に、しかし相手は答えなかった。

 

 艦長は無線警告を続けさせながら、国際信号旗による疑問信号の掲揚と、さらに探照灯による発光信号の実施を指示。

 

 だが、これらの通信に対する反応も無かった。

 

 それどころか、

 

「目標さらに増速、24ノット!」

 

「第二戦速だ。振り切られるなよ。 見張り員は目標の射撃管制レーダーのアンテナの向きに注意しろ。いつこちらに向けてきてもおかしくないぞ!」

 

 艦長は矢継ぎ早に指示を飛ばした後、自分の声が荒くなりかけている事を自覚し、一旦深呼吸して気持ちを落ち着けた。冷静になれ、と改めて自分に言い聞かし、そして艦内電話を手に取った。

 

「CICは攻撃用レーダー波の探知に努めよ」

 

 声を意識して抑えながら指示を下す。

 

 受話器を戻して、もう一度深呼吸を行った、直後、

 

「目標が転進!」

 

 見張り員からの報告に、外に目を向ける。

 

 ミサイル巡洋艦が、艦首をこちらとは反対側へ向けようとしていた。

 

 どうやら反転しようとしているらしい。相対速力が変わり、ミサイル巡洋艦の艦影が後方へと下がっていく。

 

 警告に従う気になったのだろうか。しかしそれでも油断はできなかった。

 

「こちらも反転しろ。接続水域から10海里以上離れるまでは距離2000を維持」

 

「了解。取り舵いっぱーい!」

 

 ぐっ、と艦が右に傾きながら、左へと転進していく。

 

 突然、艦橋に警報が鳴り響いた。

 

「!?」

 

 警報は状況によって音が違う。ブザー音のようなこれは、

 

「ソーナー探知!」

 

 すぐさま水中音探知を担当するソーナー室から報告が上がった。

 

「魚雷音探知! 方位300度、距離1000、尚も接近中!」

 

 まさか、と声を出すかわりに、艦長は即座に最大戦速を下令した。

 

「魚雷回避運動始め! 急げ!」

 

 まさか雷撃戦を仕掛けてくるとは。艦長は歯噛みした。おそらく反転中に、むらくも側から見えづらい反対舷側から発射したのだろう。射撃管制レーダーや砲塔の動きに注意をとられ、魚雷発射管の動きに気づかなかったのも後手にまわった原因だ。

 

 だが、そもそも現代戦において水上艦同士の雷撃戦など、ほぼ存在しないといっていい。

 

 どの国でも、現代戦に対応した軍艦には船体側面に小型魚雷の発射管が装備されているが、これは主に対潜水艦用であり、対艦戦闘への使用を想定していなかった。

 

 現代において対艦戦闘の主役は、射程、速度、命中率の全てを圧倒的に上回るSSMである。現代軍事艦艇の装備体系や戦術は、全てこのSSMによる超長距離射撃戦を前提としていた。

 

 しかし、今は最新兵器や戦術が使える状況では無い。むらくも艦長が体当たり戦法を覚悟したように、相手もまた廃れ果てた対艦雷撃戦を想定したのだ。

 

 そして、先制攻撃というパンドラの匣の蓋に、相手は躊躇わずに手をかけた。

 

「魚雷音ロスト! 本艦の航跡に入った模様!」

 

 パッシブソーナー(水中聴音機)は艦の後方の音を聞くことができない。自艦のスクリュー音が激しいノイズを発するためだ。そしてそのノイズに魚雷が紛れたという事は、もはや一刻の猶予もないという事を示していた。

 

 ウィングにいる見張り員が叫んだ。

 

「雷跡視認、右艦尾! 近い!」

 

 もはや逃れられない。むらくも艦長は己の死を覚悟した。しかしその口から出た言葉は、己の運命を呪う言葉でも、ましてや悲鳴でも無かった。

 

「総員、衝撃に備え!」

 

 艦長として、船乗りとして、軍人としての義務、すなわち被害を最小限に抑える為の命令。訓練として骨身に染み付いた艦長の命令は、即座に号令として艦内全体に下令され、全乗員が姿勢を低くして身近な物にしがみついた。

 

 艦長もまた座席の手すりを握りしめ、身体を硬くする。

 

 数秒、沈黙がその場を支配した。

 

 時が止まったかの様な静寂だった。

 

 不思議と、悲鳴の様なエンジン音も、うなり声の様な波濤の音も聞こえなかった。

 

 緊張で止めていた息が苦しくなり、ハッと息を吐いた。

 

 次の瞬間、全てをひっくり返す様な衝撃と爆発が、むらくもを襲った。

 

 

 




次回予告

 自分は誰だ。ここはどこだ。

 気が付くと見知らぬ海岸に倒れていた記憶喪失の男の前に、艦娘と名乗る少女が現れる。

 男は自らがおかれた状況を探りつつ、少女と共に「鎮守府」と呼ばれる場所へと向かうのだった。

 そこで、男と少女を待ち受ける現実とは・・・

 次回 第一章~海を守る叢雲~「第一話・守と叢雲」

「あんたが司令官? ま、せいぜい頑張んなさい」




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第一章~海を守る叢雲~
第一話・守と叢雲


文字制限15000字って、結構分量あるのね・・・

訂正、150,000字だわ。桁違いだわだわ。


 起きなさい。

 

 遠くから誰かにそう呼びかけられた気がして、私は閉じていた瞼を開いた。

 

 焦点の合わない視界に光が飛び込み、徐々にそれが空の青さだと気付く。しかし澄み渡った青空かといえば、そうではない。

 

 青よりも白が多い。

 

 小さな塊上の雲片が群れをなして空一面を覆い尽くし、青と白のまだら模様を作っている。

 

 これは高積雲だ。雲の高度は6000フィート。約2000メートルといったところか。雲は空の大半にかかっていて、全体を8とするなら、その範囲は5くらいだろう。曇りではなく晴れだ。表記はAc。

 

 と、こんな風に海上気象の分析をしてしまうのは船乗りとしての一種の職業病だろう。そんな考えが浮かんだとき、ようやく私は、自分が仰向けに倒れているのだと自覚した。

 

 何故、私は倒れているのだ?

 

 そんな疑問を抱えたまま空を見上げ続ける私の視界に、ふと、影が差した。

 

「お目覚めね」

 

 一人の女性が私の傍に膝をつき、顔を覗き込んでいた。

 

 長い灰色の髪に、吊り目がちな大きな瞳、細い顎。歳は若い。十代の半ばか後半くらいだ。女性というより少女だろう。美少女だ。

 

 しかし可愛いという風ではない。冷たい美しさだ。気安い性格ではなさそうだな。

 

 と、私は自分でも奇妙なくらい冷静に彼女の人間性を観察しながら、身体を起こした。

 

 全身の関節が油の切れた機械のように軋みをあげ、鈍い痛みが拡がった。おそらく長時間、身体を動かさなかった事により筋肉が固まっていたのだろう。それか、何らかの極度の緊張により全身が強張っていたかだ。もしくは両方という可能性もある。

 

 そろそろと立ち上がりながら身体のあちこちを手で探ってみて、関節の軋み以外に大きな外傷が無い事を確認する。

 

 同時に、この場所が砂浜であった事にも気が付いた。全身が砂まみれだ。

 

 穏やかな波打ち際を背景にして、少女もまた膝の砂を払いながら立ち上がった。彼女の身長は私の胸元くらいだ。彼女の瞳が私を見上げる。

 

「起き上がったりして大丈夫なの?」

 

「起きなさい、と君に言われた気がしたが?」

 

 言い返しながら、これが自分の声なのかと疑問を感じた。何か、違う発声装置を使って喋っているような気がして喉を探ってみたが、首筋には何も着けてなかった。

 

 彼女が私を見上げながら、訝しむ様に眉を寄せて言った。

 

「確かに言ったけど、立ち上がれという意味で言ったんじゃ無いわよ。意識があるかどうか確認したかっただけ。だいたい、あんた、足元が覚束ないわよ。今にも倒れそう」

 

「そうだな、確かに気分が悪くなってきた」

 

「座ってなさい。取り敢えず救急車を呼んでみるわ。もっとも、ここの通信網が生きていればの話だけど」

 

 再び座り込んだ私の横で、彼女は立ったまま通信機らしき二つの機械を取り出した。彼女の手の平よりも少しだけ大きめの長細いその機械は初めて目にする物だったが、私には何故だかそれが通信機なのだと理解できた。

 

 彼女はそれを頭の両脇、耳よりも高い位置に掲げて、手を離した。二つの機械はそのまま、見えない力で固定されたかのようにピンと縦向きになって浮いた。

 

 まるで兎の耳のようだ、と私は思う。

 

 彼女は通信機に手を触れないまま、その機械の耳をピクピクと動かして角度を調整していたが、やがて諦めたように溜息をついて通信機を再び手に取った。

 

「駄目ね、やっぱり繋がらないわ。ここの鎮守府は通信機能を完全に喪失している。空襲でかなりの被害を受けたようね」

 

「空襲?」

 

 彼女の口から出た非日常的な言葉に、私は周囲を見渡した。

 

 海とは反対側、陸地側にはコンクリートの堤防があり、その向こう側の景色は見えない。しかし広い空に向かって黒い煙が幾筋も立ち昇っているのが見えた。

 

「火事か。あそこが被害にあったのか?」

 

 しかし、いったい誰に?

 

 いや、そもそもここは何処だ?

 

「深海棲艦の空母艦載機による爆撃みたいね」

 

「深海・・・?」

 

 おうむ返しに口にした私に彼女は頷きながら、答えた。

 

「この島の主な施設はほぼ被害を受けたみたいね。あっちは鎮守府の方向よ。この分じゃ壊滅しているかも知れない。早めに着任してたら巻き込まれていたところだけど、運がいいのか悪いのか、微妙なところね」

 

「鎮守府・・・着任・・・君は海軍なのか?」

 

「ええ、そうよ。転属のためにこの島に来たばっかり。フェリーから荷物を下ろしている最中に空襲を受けて、私物も制服も海の底だけどね」

 

「君のような若い子が軍人とはな」

 

「若い?」と彼女はおかしそうにクスクスと笑った。

 

「君の所属と階級、氏名は?」

 

「前所属は第十二駆逐隊。ここでは十一駆の予定だけど、生き残っているのかしら。階級は無いわ」

 

「階級が無い? 事務官か。いや、それでも等級はあるな」

 

「戦闘要員よ。はい、これ私の身分証」

 

 彼女がポケットから一枚のカードを取り出した。

 

【一等駆逐吹雪型5番艦・叢雲】

 

「むらくも?」

 

「そうよ、見ての通り、艦娘」

 

 かんむす、と彼女は言った。未知の言葉だ。しかし、私はその意味を訊く気にはならなかった。

 

 上手くは言えないが、私はそれを既に知っている気がしたのだ。さっき彼女が使用した兎耳の通信機のように、実際に彼女が“そうなった”ときを目にすれば全てを理解できる気がした。今はただ、思い出せないだけだ。

 

 そう、思い出せないのだ。私は重大な事実に気が付いた。

 

「で、あんたは誰?」

 

 彼女からの質問に、私は愕然とする。

 

 私は誰だ。それがわからないのだ。記憶喪失だった。

 

 そう彼女、叢雲に伝えると、彼女はまた眉をひそめて溜息をついた。

 

「空襲で吹っ飛ばされたショックね。身体は無事だけど記憶が飛ばされちゃったわけか」

 

「君と知り合いじゃないのか? いや、君の反応を見るに初対面だな」

 

「そうよ。鎮守府に向かう途中で倒れているあんたを見つけたの。堤防の向こう側は空襲で穴だらけで、砂浜を歩いた方が早かったから」

 

「君に介抱されたのは偶然だった訳か。神に感謝だな」

 

「別に、声を掛けただけよ。それより神に感謝って、あんたキリスト教徒なの?」

 

「どうかな、思い出せない。唯一神なのか、それとも八百万の神か、自覚なしに呟いていた」

 

「手がかりにならないわね。まあ、あんたの信仰心よりもっと手っ取り早くて確実な手がかりがあるけど」

 

「なんだ、それは」

 

「自覚無いの? あんた自分がどんな格好してるか改めて見てみなさい」

 

 言われて、もう一度自分の服に目を落とす。

 

 黒い服だ。足元は革靴、下半身は黒のスラックス、上半身は白ワイシャツに黒ネクタイに、金ボタンがついた黒いダブルの上着を着ている。

 

 その金ボタンには鎖の絡んだ錨が刻まれていた。

 

「軍服・・・冬制服か。私は軍人だな。海軍所属だ」

 

 ちなみに帽子は無かった。空襲で紛失したのかも知れない。髪の毛を手で撫で付けると、短く刈り揃えられていることが分かった。

 

 軍服なら名札があるはずだが、右胸に着けているはずのネームプレートも紛失していた。

 

 ならば身分証だ。叢雲のようにカード型の身分証を持っていないかポケットを探ったが、残念ながら見つからなかった。

 

 しかしその過程で自分の階級に気づいた。

 

 冬制服の階級章は両袖についている。そこには金色の太い線が四本ならんで巻かれていた。

 

「一等海佐だ。驚いたな、そんな高い階級だったのか」

 

「違和感あるみたいね。一佐といえば大佐相当だったかしら。確かに、あんたは大佐と言うにはまだ若く見えるわ」

 

「実感としてはせいぜい三佐、少佐程度だ。二階級特進でもしたのか。縁起でもないな」

 

「死んで、黄泉帰った? あんた幽霊かしら」

 

「記憶喪失の身では冗談に聞こえないな。不気味だ」

 

「大丈夫、足はあるわ。ゾンビにも足があるけど」

 

「真面目な顔をして言わないでくれ。本気に取ってしまう。そんな精神状態だ」

 

「幽霊でもゾンビでも構いやしないわよ。あんたが軍人で将校なら、任務遂行に必要な判断力と、命令を下す言葉が発せられればそれでいい。違う?」

 

「・・・現実的かつ合理的、そして冷静な判断だ。自分が人間じゃないと言われてるようだが、少なくとも最低限の精神安定になるな」

 

「意外とあっさり受け入れたわね。あんた、多分そんな風に訓練を受けてきたのよ」

 

「なるほど、そんな気がする」

 

 私は腕組みをして、空を見上げた。頭上の高積雲を見上げながら、そういえばこの雲の別名は叢雲だったと思い出す。

 

 彼女と同じ名前だ。むらくも。

 

 目を戻すと、彼女と目が合った。私は、じっと叢雲を見つめた。

 

「な、なによ?」

 

「いや、やはり初対面という気がしなくてな。昔、どこかで会っていないか?」

 

「記憶に無いわ。もしかすると、あんたが私の資料や経歴を書類で見て、それで一方的に知っている可能性もあるけど」

 

「艦娘の運用法の講習とかでか。ありえそうな話だな」

 

 言いながら、艦娘とは運用されるべき兵器なのだろうか、と疑問が浮かんだ。だが、その時、私は別のものを見つけ、注意をそちらに惹きつけられた。

 

 10メートルほど離れた場所に、砂で半分埋もれるようにして黒の書類カバンが落ちていた。

 

 叢雲もそれに気付き、座り込んだままの私に代わって拾ってきてくれた。

 

「軍用の書類カバンね。あんたのかしら」

 

「多分そうだ。鍵はかかっていない・・・ような気がする。開けてみてくれ」

 

「閲覧不可の重要機密書類だったら、あんたに責任とってもらうわよ」

 

「責任が取れる立場であればいいんだがな」

 

「大佐でしょ、あんた」

 

「実感が無い。上着だけ別人の物を借りたのかも知れん」

 

「やめてよ、もう」

 

 叢雲は口ではそう言いつつも、さほど躊躇わずにカバンを開け、中からA4判の茶封筒と、一枚のカードを取り出した。

 

「あら、これ身分証だわ。写真もついてる」

 

 叢雲はそう言って、カードと私を見比べた。

 

「うん、あんただわ。階級は大佐で間違いない。良かったわね。それで、名前は・・・海尾 守」

 

 ぷ、と彼女は吹き出した。

 

「うみお まもる・・・くく、何これ、本名なの?」

 

「笑うな。気分悪いぞ」

 

「ごめんごめん。でも、気分悪くしたってことは、自覚あるのね」

 

 叢雲の言葉に、私は頷いた。守という名前に引き上げられるように、次々と記憶が浮かび上がってきた。

 

「そうだ、私の名だ。子供の頃、それで散々からかわれたのを思い出した。なんでこんな名前を付けたんだと親に文句を言ったこともある。問答無用で張り倒されたがな」

 

「立派な名前よ。思わず笑ってしまったけど、改めて考えてみれば、これほど期待を背負った名前は無いわ」

 

「名前負けするのが嫌で海軍に入隊したんだ。他人ではなく、自分の名前に負けるのが嫌だった」

 

「そして大佐にまで昇進した。立派よ、あんた。ご両親も鼻が高いでしょうね」

 

「そうだと思う。入隊する前に死んだけどな。海で遭難したんだ」

 

「・・・ごめんなさい」

 

「いや、気にしなくて良い。むしろ思い出させてくれて感謝している」

 

「そう。・・・こっちの書類は、あんたが調べた方が良さそうね」

 

 叢雲から身分証と茶封筒を受け取り、先ずは身分証を確認した。

 

 海尾 守。確かに大佐だ。年齢は三十半ば。写真は撮影者の腕が悪いのか、あまり男前には見えなかった。しかし、これが私らしい。鏡が無いので自分の顔を見ることはできないが、叢雲もそう言ったのだから、可能性は高い。

 

 確信が持てないのは、声と同じく違和感が拭えないからだ。もっとも、海尾 守としての記憶は確かにあり、その記憶に残る鏡の中の自分の面影を、身分証の写真に見出すことができた。

 

 身分証を懐のポケットに仕舞い、続いて茶封筒の表書きを見る。

 

 個人情報という文字が赤インクの判で押されている。宛先は南方警備艦隊司令部総務担当者宛。送り主は海軍総隊艦隊司令部人事課。

 

 どうやら人事書類の様だ。私は糊付けされていた上端を手で破き、中の書類を取り出した。

 

 辞令だった。

 

【艦隊人事第48号 人事発令通知 次ノ者へ南方警備艦隊司令へノ着任ヲ命ズル 海軍大佐 海尾 守】

 

 口に出して読み上げると、叢雲が「あら」と声を上げた。

 

「どうした?」

 

「あんた、私の上官らしいわ」

 

 そう言って、叢雲は直立不動の姿勢を取る。

 

「特型駆逐艦・叢雲、本日付で南方警備艦隊第十一駆逐隊所属を命ぜられ、只今着任しました。宜しくお願いします」

 

 申告し、敬礼。帽子が無いので会釈に似た十度の敬礼だ。

 

 私も立ち上がり、同じく十度の敬礼で答礼する。

 

「よろしく頼む。といっても私はまだ着任していないがな」

 

「そうね、取り敢えず鎮守府に行かなきゃ始まらないわ」

 

「お互い砂まみれ埃まみれ格好で着任の挨拶か」

 

「どうせ向こうも似た様なものよ。行きましょう」

 

 叢雲に促され、私は黒煙が立つ方向へ向かって、堤防を越えた。

 

 堤防を越えた先は田畑が拡がる平野であり、一キロほど先に赤レンガの建物が見える。どうやらあそこが鎮守府の様だ。黒煙もそこから上がっていた。

 

 鎮守府へと続く道は空襲の目標とされたのか、爆撃により幾つもの大穴が空き、寸断されていた。私たちは田畑の畦道を使って迂回を繰り返しながら、鎮守府へと向かった。

 

 鎮守府に近づくにつれ、その被害状況もハッキリと見えてきた。一言で言えば、ひどい有様だった。

 

 私たちの位置は鎮守府の裏手にあたり、そこから見える限り庁舎らしき建物、倉庫らしき建物は全て被害を受けている様だった。原型を留めている建物でも何処かしらに大きな穴が開き、窓ガラスも一枚残らず砕け散っている。跡形も無く崩れた建物も少なくないだろう。

 

 せめてもの救いは火災が既に鎮火しているということだった。現状これ以上の被害が拡大することはない様で、敷地内では瓦礫の撤去作業が行われていた。

 

 近くまで辿り着いた私たちは、隊門を探してフェンス沿いを歩いた。しかしフェンスもあちらこちらで倒壊し、その意味をほとんど失っていた。

 

「隊門まで遠そうね。ここから入っちゃう?」

 

「それはあまり、よろしくないな」

 

 しばらく歩くと、また海が見えた。どうやら鎮守府の敷地は海に面している様だ。海軍の施設なのだから当然かもしれないが。

 

 隊門も海の近くにあった。立直中の守衛は、少女を同伴した、帽子もかぶらず砂まみれの制服姿の私を見て訝しんだが、身分証を見せるとすぐに態度を改め、敬礼した。

 

「空襲に巻き込まれたのですか。ご無事でなによりでした。今から警備艦隊関係者に連絡を行いますので、しばらくここの詰所でお待ち下さい」

 

 守衛に促され門の脇にある小さな建物に入ると、入れ替わりに別の守衛が自転車に乗って敷地内へと走って行った。

 

「いま伝令を出しました」と守衛。「この詰所も機銃掃射を受けて、通信機器を破壊されまして、鎮守府内でも人力で情報をやり取りしている有様です」

 

「壊滅状態だな」

 

 私が詰所の壁に穿たれた大量の弾痕を眺めながらそう呟くと、守衛はさほど悲壮感を見せずに、そこまでひどくないです、と言った。

 

「地下の中枢施設はほぼ無傷ですよ。隊内の通信回線自体も生きてます。地上施設の端末はほとんど壊れましたがね」

 

「外部との連絡は?」

 

「一般回線は幾つか残っていますが、無線通信用のアンテナが損傷した様です」

 

「やっぱりひどいじゃないか」

 

 四、五分ほど経ったところで伝令が戻ってきた。

 

「大佐、警備艦隊司令部は現在、空襲の被害のため迎えを出せないとの事です。申し訳ございませんが司令部までご足労願います」

 

「わかった。場所を教えてくれ」

 

「ここから海沿いの道を進んだ先に岸壁があります。その中ほどあたりの掩体壕が地下司令部への入り口となっており、司令部要員がそこで待っているそうです」

 

 私は守衛に礼を言い、叢雲とともに敷地内を歩き出す。

 

 教えられた道を進んでいく途中、叢雲がある疑問を口にした。

 

「空襲直後とはいえ、新司令を迎えに来れないってどういう事かしらね」

 

「被害がそれだけひどいのだろう」

 

「さっきの守衛は、そこまでひどくないと言っていたわよ。それに空襲直後だからこそ、こういうところはしっかりすべきなのよ。でなければ指揮が乱れるわ」

 

 そう言いながら、叢雲は私に睨む様な視線を向けてきた。指揮官としてしっかりしろとでも言いたげな視線だった。

 

 どうやら私は厳しい部下を持ったようである。私は内心の自信の無さを表情に出さないように心がけながら岸壁沿いを歩いた。

 

 海沿いに長く伸びる岸壁には、係留されている艦艇は一隻も無く、がらんとしていた。その岸壁の真ん中近くに、カマボコ型をしたコンクリート製の構造物があった。

 

 おそらくこれが守衛の言っていた掩体壕だろう。その地下司令部への入り口と思われる鉄製の扉の前に、一人の背の低い少女が立っていた。

 

「あれが司令部の者かな」

 

「そうみたいだけど・・・でも、あの子、どこかおかしくないかしら」

 

「うん?」

 

 近くまで来ると、叢雲の言ったことがよくわかった。

 

 扉の前で待っていたのは、白地に緑の線が入ったセーラー服を着て、胸元に白い猫を抱えた、三頭身の娘だった。

 

 いや、娘どころか人間ですらない。これは少女をディフォルメして描かれたイラストだった。胸元の猫などディフォルメしすぎて、両手で抱いているというより、ぶら下げているか吊るしているかの様な感じだ。

 

 そんな三頭身猫吊るし少女のイラストが、立て看板状態で扉の前に立っていた。

 

「なんだこれ」

 

「広報用の展示パネルかしら。ほら、よく観光地とかにある写真撮影用のアレ」

 

「顔の部分に穴が空いているアレか」

 

 そう言えばアレはなんという名前なんだろうか。そんなどうでもいい疑問が頭をよぎる。

 

「顔に穴がないから顔はめパネルじゃなさそうだけど」

 

「アレそんな名前だったのか」

 

「さあ? ていうか何でこんな物があるのよ。私たちへの悪ふざけ?」

 

「空襲直後に悪ふざけか。そんなことができるなら、指揮の乱れというより、かなり図太い神経をした連中かもしれないな」

 

「独立愚連隊みたいなところかしら。うわ、冗談じゃないわ」

 

 叢雲がウンザリした顔をしながら、扉の前から猫吊るし娘の看板をどかそうとして、手をかけた。

 

 しかし、

 

「あら?」

 

 叢雲の手は、その看板をすり抜けた。

 

「何これ、全く手ごたえがないわ。まるで立体映像みたい」

 

 叢雲の言葉通り、看板は彼女の手が触れたところだけ細かくノイズが走り、半透明になっていた。

 

『おっしゃる通り、これは立体映像です』

 

「「ッ!?」」

 

 突然かけられた声に、私と叢雲は周囲を見渡した。

 

 しかし、他に誰もいない。

 

「誰だ、どこにいる?」

 

『驚かせて申し訳ございません。ですが、私はすでに、あなた方の目の前に姿を見せております』

 

 その言葉に、私たちは目を戻す。目の前にあるといえば、この猫吊るし娘の立体映像の看板だけだ。

 

 その猫吊るしの口元がパクパクと動いた。

 

『はじめまして。私は、南方警備艦隊司令部の業務担当AI、UN=Aと申します。どうぞ宜しくお願いします』

 

 私は自己紹介する猫吊るしから目を逸らし、隣にいる叢雲をみた。同じように、彼女も私の方を見ていた。

 

「なあ、AIなんて聞いたことあるか」

 

「各鎮守府で順次導入され始めているとは噂で聞いたことあったわ。どこも人手不足が深刻だから自動化できる業務は全部そうしようってね。・・・でも、立体映像を伴って会話までできるなんてのは初耳だったけど」

 

「そうなのか」

 

 正直、私としてはAIが導入されているだけでも驚きなのだが、世の中は意外と発展しているものらしい。

 

 いや、実はこれも、私の一時的な記憶の喪失による感覚なのだろうか。名前や過去を思い出したものの、大佐の階級と一緒で、まだ少し違和感を覚えている。

 

 そんな私の戸惑いを余所に、猫吊るしが続けた。

 

『この立体映像は業務を円滑に進めるための対人インターフェイスだとお考え下さい』

 

「という事は、本体は別にあるんだな」

 

『この鎮守府の地下最深部にあるスーパーコンピュータをメインサーバーとして使用しております。鎮守府及び警備艦隊司令部の業務処理等も、ほぼ全てこのサーバーで処理しておりますので、今回の空襲でスパコンに被害が無かったのは幸いでした。もっとも、空襲による過負荷で、対人インターフェイスをはじめとする幾つかの箇所がエラーを起こしてしまいましたが』

 

「じゃあ」と、叢雲。「あんたのこのふざけた立体映像も、対人インターフェイスのエラーによるものってわけ?」

 

『左様です。正常な状態でしたら、叢雲さんの様な可憐なお姿を披露できるのですが、今は過負荷による処理能力の低下のため、ディフォルメキャラクターの一枚絵をこの場所で表示するのがやっとという状態です。そういう訳で隊門までお迎えに行けず、失礼致しました』

 

「そういうことなら、わかった、しょうがない」

 

『ありがとうございます。それでは、これより司令部へご案内いたします』

 

 猫吊るしはそう言って、その一枚絵をくるりと反対に向け、裏側に描かれた背中を見せた。その眼の前で、鉄製の扉が重い音を立てて開いていく。その先に、地下へと降りる階段が続いていた。

 

 滑るように動き出した猫吊るしの後を追って、私と叢雲は、階段を降りた。

 

 地下施設はほぼ無事というのは確かな様で、地下の通路には照明が灯り、空調も正常に機能していた。通路の両脇には幾つかの鉄製の扉があり、それぞれには指揮所、通信所、気象室、さらには艦娘待機室などの表記がある。その扉の列の一つだけ、木製の扉があった。

 

『こちらが司令執務室になります』

 

「案内ご苦労」

 

 私は木製扉の前に立ち、ノックしようとした。しかし私が叩くより先に、その扉がひとりでに開く。

 

 目の前に現れた執務室は、無人だった。そもそも照明さえ落とされていた。

 

 わずかな間をおいて、部屋に照明が灯される。中はそれなりに広い部屋だ。部屋の中央には応接用のソファがテーブルを挟んで向かい合わせに置かれ、その奥に執務用のデスクがある。

 

 入り口から向かって右側には秘書用のデスクが司令のデスクと斜向かいになる様に設置されていた。向かって左側には巨大な書類棚が壁一面を占拠していた。

 

 私と叢雲が入室すると、背後で扉が閉じられた。どうやら自動ドアだったらしい。私は猫吊るしに問いかけた。

 

「前任の司令は?」

 

『現在は不在にしております。その辺りの事情も含めてご報告しますので、どうぞ席におつきください。もっとも私はこんなナリですので、何のおもてなしもできませんが』

 

 猫吊るしに促され、私は応接ソファに腰を下ろす。叢雲は座らずに、猫吊るしにお茶のありかを訊いた。

 

「秘書艦もいないみたいだし、仕方ないから私がお茶を淹れるわ」

 

『助かります。書類棚の左端の戸棚にお客様用のお茶セットが入っています』

 

「これね。茶葉がいくつかあるけど?」

 

『お客様用は緑茶とほうじ茶、それと紅茶です。紅茶はダージリンとアールグレイを使って頂いて結構ですが、オレンジペコは前任者の私物ですのでご遠慮下さい。秘書艦からもらったFTGFOPだそうです』

 

「えふてぃ・・・なにそれ?」

 

『フィナーティピーゴールデンフラワリーオレンジペコの略です。紅茶の最高級グレードで、100グラムあたり二万するとか』

 

「うそ、とんでもない値段ね。しかも秘書艦から貰ったとか、貢がせているみたいじゃない」

 

『貢がせているというか、夫婦でしたからね、あの二人は。いつもバーニングラブとか言っていて、賑やかでした』

 

「風紀的にどうなのよ、それ。私はあまり好ましいとは思えないわ」

 

 険しい表情になった叢雲に、私は横から口を挟んだ。

 

「前任には前任の考えがあったんだろう。気にするな」

 

「あんたはその前任から艦隊を引き継ぐのよ。私生活上の問題を残されたら面倒だわ」

 

「本人のいないところで、しかも見も知らない他人様の事情に口を挟む事じゃない。何も知らずに批判しても、それは陰口と変わらん」

 

 私の言葉に、猫吊るしが『ありがとうございます』と礼を言った。

 

「その礼は、どういう意味だ?」

 

『公平な判断をして下さった事への感謝です。私は前任者を主観的には評価しておりました。客観的には叢雲さんの言う通り、職務に私情を持ち込んでいたことは確かです。それゆえ批判も多く受けました。艦隊の内実も知らずに、ほとんど誹謗中傷に近い言葉を投げつけられた事もあります。しかしデメリットはありましたが、メリットも大きかった思います』

 

「私はその辺りを何も知らんだけだ。批判も何も無い。余計な話は抜きにして状況を教えてくれ」

 

『失礼致しました。では、ご報告します』

 

「ああ。・・・おっと、その前に、すまんが待ってくれ。叢雲、私の分はダージリンで頼む」

 

「はあ!? もっと早く言いなさいよ。もう、ほうじ茶を淹れちゃったわよ」

 

「好みを訊く前に淹れるやつがあるか。秘書失格だぞ」

 

「あんたの秘書艦を拝命した覚えはないから勘違いしないで。ダージリンが飲みたかったら自分で淹れなさい」

 

 目の前に湯呑みが乱暴に置かれ、ほうじ茶が注がれた。

 

「ありがとう」

 

 私は少し釈然としない気分で礼を言ったが、彼女は「ふん」とそっぽを向きながら、私の隣に腰を下ろした。

 

『・・・報告しても宜しいでしょうか?』

 

「すまなかった。頼む」

 

『先ず前任者の不在についてですが、これは今朝の空襲に関係しています。昨日の1230、本島近海域の通商航路上おいて深海棲艦の大艦隊が突如として出現しました』

 

 猫吊るしの報告に私は頷く。

 

 自分の名と共に戻ってきた記憶と知識によれば、この南方警備艦隊はその名の通り、この南方の海域警備を主任務とする艦隊であった。そしてこの付近には、毎日数十隻にのぼる民間商船が航行する通商航路があった。

 

『事態を重く見た海軍総隊から、直ちに、我が南方警備艦隊に対し緊急出港が命じられました。これを受けて同日1330、前任司令は在籍艦娘全てをもって出港、現場海域へと急行しました』

 

「それはつまり全戦力ということか。鎮守府の防衛戦力さえ残さなかったのか?」

 

『敵の戦力は判明しているだけでも戦艦3、空母4、重巡4、駆逐12、更に潜水艦情報もありました。それに対し我が警備艦隊の戦力は戦艦1、軽空母2、軽巡2、駆逐8。その戦力差は圧倒的不利ながら、それでも他警備艦隊からの増援到着まで持ちこたえる必要がありました』

 

 本来なら増援を待って戦力を増強してから敵に当たりたいところだが、敵艦隊に通商航路を抑えられてしまった以上、民間商船への被害が出る前に一刻も早く駆け付け、敵の目を引き付ける必要があったということだ。

 

「ほとんど捨て駒だな・・・」

 

『敵の撃破ではなく、時間稼ぎと味方の生存を目的とするなら勝算はある。前任司令はそう言っておりました。全艦娘出撃はその為の苦肉の策です』

 

「それで、作戦は上手くいったのか?」

 

『戦術的には敗北ですが、戦略的には勝利したと言って良いでしょう。我が艦隊は出港後の同日1746、軽空母から発進した哨戒機により敵艦隊を捕捉。艦載機による先制攻撃、そして日没後は夜戦に持ち込み、敵艦隊を攻撃。敵艦隊の注意を我が警備艦隊に引き付けることに成功しました』

 

 しかし、と猫吊るしは続けた。

 

『敵艦隊の戦力はほとんどそのまま残っていました。我が艦隊は敵艦隊を引き付けつつ通商航路上から遠ざかり、味方艦隊との合流海域を目指しましたが、この時点でかなりの被害が出た模様です』

 

「全滅か?」

 

『轟沈は出しませんでしたが、ほぼ全艦娘が中破ないし大破したそうです。日付が変わって本日0600、我が艦隊は味方艦隊との合流に成功。敵艦隊を敗走させました。しかしその報の直後の0810、本島の目の前に敵空母が単体で出現、艦載機による奇襲爆撃を受け、地上施設に被害を被りました』

 

「敵が一矢報いたか、それとも敵の主力に見せかけた囮だったのか。厄介なことだな」

 

『この空襲により当鎮守府は通信機能だけでは無く、艦娘の入港及び修理補給機能も一時的に喪失しました。その為、警備艦隊は他の鎮守府へ緊急入港したものと思われます。また、こちらは一般回線を使って通達されたのですが、現状を鑑みて前任司令はそのまま新任地へ着任。後任者は到着次第、速やかに司令へと着任せよとの命令がありました』

 

「おい」なんてこった、と私は頭を抱えた。「前任者どころか指揮する艦隊さえいない司令か」

 

 前任司令の勇猛振りは尊敬に値するが、全艦損傷状態ならば当分ここに艦隊は戻って来れないだろう。

 

 しかも、

 

『それだけではありません』

 

「まだ何かあるのか?」

 

『空襲で鎮守府長官が負傷され、後方へと緊急搬送されました』

 

「気の毒に。それで?」

 

『艦隊司令の他、代行として鎮守府長官も兼ねて頂く事になります』

 

「おいおい」

 

 鎮守府長官は、この陸上施設及び港湾施設を管理する、いわば後方支援の長だ。指揮系統上は海軍総隊後方支援部に所属する各地方総監部の下にあり、同じ海軍総隊でも、艦艇運用を一手に引き受ける艦隊司令部の隷下となる警備艦隊とは別系統である。

 

 つまり、警備艦隊は鎮守府から施設を間借りしている形と言っていい。

 

「鎮守府副長官は? 指揮継承権はそちらにあるはずだ」

 

『副長官は置かれていません。AI、つまり私の導入により、副長業務などは全て私が代行しておりました』

 

 それでいいのか? と疑問を口にするよりも早く、猫吊るしから、

 

『緊急処置ということで、海軍総隊から内辞が既に下りています。軍用通信が復旧後、正式な辞令を送るそうです』

 

 そう言われてしまえば、諦めるより他はない。

 

「わかった、通信が復旧したら教えてくれ。艦隊司令部に着任の報告もしなきゃならん。それと、艦隊の現在判明している被害状況と、鎮守府の被害状況及び復旧見込みの情報を紙面で欲しい。可能か?」

 

『了解しました。申し訳有りませんが負荷がかかりますので対人インターフェイスを一旦、切断させて頂きます。音声でのやり取りは可能ですので、いつでもお声をお掛け下さい。では、失礼します』

 

 そう言って猫吊るしは消えた。AIそのものはこちらを認識しているのだろうが、気分的には叢雲と二人きりになった感じだった。



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第一話・守と叢雲(2)

「やれやれ、前途多難な司令職だな」

 

 ソファから立ち上がって背中を伸ばした私を、叢雲が薄笑いを浮かべながら見上げた。

 

「司令兼長官ね。ま、せいぜい頑張りなさい」

 

「他人事みたいに言うな。現状、君が唯一の戦力なんだ。秘書だってやってもらう事になる」

 

「そういうことなら仕方ないわね。秘書艦を拝命するわ。お茶を淹れ直しましょうか? ダージリンだっけ」

 

「ありがとう」

 

 私はすっかりぬるくなったほうじ茶を一息で飲み干すと、司令用の執務デスクに向かった。

 

 前任者が居ないとはいえ、もともと今日、司令職を交代する予定だったのだから申し継ぎ書類くらいはまとめているはずだった。

 

 案の定、デスクの一番上の引出しに【司令申し継ぎ】と表紙が打たれた分厚い書類が入っていた。内容は、警備艦隊の編制や練度評価、そして人事状況だ。今はここに居ない艦隊の情報だったが、いずれこの艦隊が帰ってくることを考えると無意味では無かった。

 

 もっとも、本当に帰って来ればの話だが。

 

 書類には他にも警備艦隊の担当海域の情報や、作戦行動中の行動規範やその根拠となる関係法規、司令部から出された命令などの通達も添付されていた。

 

 それによれば、この艦隊の主任務は担当海域の海上交通の安全であり、脅威がある場合は独自判断による速やかな出撃、そして排除が認められているらしい。担当海域自体はそこまで広くは無いものの、与えられている権限はかなり強大かつ柔軟といえる。

 

 しかし現状は、それだけの権限を活かせるだけの戦力が無い。従って司令としての当面の仕事は艦隊の再編成と、その間の海域警備をどうするか、だった。

 

 具体的な方策としては他の鎮守府に停泊している艦隊に応援を頼み、手空きの艦艇を何隻か回してもらうしか無いだろう。上層部にその具申を行うとともに、近隣の艦隊へも根回しが必要だ。

 

 近くの艦隊に同期や知り合いが居ればいいのだが、と思いながら書類に目を通し続けている私の前に、ティーカップが静かに置かれた。

 

 紅茶の甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 

「ありがとう、叢雲」

 

「どういたしまして。ところで紅茶といえば、あのFTなんたらって言う高級茶葉、前任者に送らないと行けないわね」

 

「そうだな。緊急出港からの転勤だ。置いていった私物も多いだろう」

 

「艦隊の艦娘の私物もね。急ぎの仕事が無いなら、私は先ずそっちの整理と発送の手続きを進めようと思うんだけど?」

 

「ああ、それがいいだろう。こっちも艦隊司令部との通信が復旧するまで大きな仕事は無い」

 

「わかったわ。あと、あんたもいい加減、着替えたら? 制服ボロボロだし、砂もまだ着いてるわよ」

 

「そうしたいが着替えが無い。君も同じだろう」

 

「まあね。せめてお風呂くらい入りたいけど、それも無理そうね」

 

『申し訳ありません』と、猫吊るしが姿を見せないまま謝罪した。『被服倉庫や浴室も被害を受けていまして使用不能です。しかし明日には復旧できると思います』

 

「大丈夫よ。理解してる」

 

『ありがとうございます。通信については現在最優先で復旧作業を進めておりますので、間も無く回復する見込みです。それと、もうじきお昼になります』

 

「ん?」

 

 猫吊るしの言葉に、私は着けていた腕時計を見た。時間は1045。あと三十分もすれば昼飯時だ。

 

「なあ、食堂は無事なのか?」

 

『残念ながら吹き飛ばされました。自慢のカツカレーが台無しになったと調理担当者が憤慨しながら缶飯を準備中です』

 

「着任初カレーは来週に持ち越しだな」

 

『缶飯の種類は、赤飯、五目飯、鳥飯です。どれになさいますか?』

 

「赤飯で頼む。叢雲、君はどうする」

 

「五目が良いわ」

 

『わかりました。準備出来次第こちらにお持ちするよう担当者に伝えます。・・・司令、たった今、軍事用無線通信が復旧しました。艦隊司令部への秘匿通信が可能です。デスク上の電話機からお掛け下さい』

 

「わかった。ありがとう。・・・そういえば電話帳はあるか? 艦隊司令部の番号を知りたい」

 

『右の引出しです』

 

「そうか」

 

 私は左手で受話器を耳に当てたまま右手で引出しを開けた。中には確かに電話帳が有ったが、それ以外にも或る物が収められていた。

 

「?」

 

 私は電話帳と一緒に、それを取り出す。

 

 それは折りたたまれた新聞紙だった。猫吊るしが言った。

 

『電話帳を使わずとも私がお繋ぎいたします。海軍総隊艦隊司令部司令長官執務室ですね?』

 

「あ・・・ああ」

 

『繋ぎました。そのままお待ち下さい』

 

 耳元で呼び出し音が鳴る。しかし、私は既に上の空だった。

 

 私の注意は手元の新聞紙に奪われていた。そこには、こんな見出しが躍っていた。

 

 

【南西諸島に不審船座礁! 乗組員が島内に潜伏か?】

 

 

【座礁船確保の為、特殊部隊投入。乗組員の国籍は? 緊迫する南西諸島問題】

 

 

【南西諸島近海で護衛艦が謎の爆沈! 事故か? 攻撃か?】

 

 

【護衛艦むらくもの乗員130名の生存は絶望的】

 

 この新聞は何について書いてあるのか。いや、それよりも重要なことは、この護衛艦の艦名だ。

 

 ・・・むらくも。

 

 そうだ、この護衛艦の名前を私は知っている。

 

 そうだ、私はこの護衛艦の乗員だったのだ。

 

 深海棲艦ではなく、同じ人間を相手にして、

 

 駆逐艦ではなく護衛艦に乗り組み、

 

 有事に限りなく近い平時のグレーゾーンで、数多くの制約に縛られながら、ギリギリの神経戦を繰り広げていたのだ。

 

 そして、そして・・・

 

 

 

 魚雷接近から命中までの、あの異様に長い一瞬を、私はリアルに思い出すことができた。停止したかの様な時間と、直後の爆発と衝撃。私の意識は途切れ、そして再び目覚めた時、艦娘が存在するこの世界に居たのだ。

 

 だとすれば、どういう事だ?

 

 私はこの世界の人間、海尾 守では無いのか?

 

 いや、しかし私には確かに海尾 守としての記憶がある。その個人の半生をまざまざと思い出す事ができる。だが、不思議とそれは映画のようなフィクションを客観的に見ているような気がするのも確かだ。

 

 一方で護衛艦むらくも乗員としての記憶は生々しく、感情を伴っていて、まさに自分が経験した記憶だと言い切る事ができた。むらくも艦内での仕事や、生活や、乗員同士の人間関係などを隅々まで思い出す事ができる。

 

 ところが、ところがだ。奇妙な事に艦内以外の記憶はかなり曖昧なのだ。

 

 それどころか、個人としての名前がわからない。自分の役職さえも、艦長だったのか、砲雷長だったのか、船務長だったのか、航海長だったのか、CIC員だったのか、艦橋での見張り員だったのか、はたまた食堂で慌てて食事をかき込んで噎せ返った新人だったのか・・・

 

 ・・・それが判然としない。しかし、彼ら全ての記憶が、感情が、思い出せるのだ。

 

 なんだ、なんなのだ。

 

 私はいったい、誰なんだ?

 

 混乱する私の耳元で、不意に、

 

『海尾大佐』

 

 と低い声で名を呼ばれ、私は反射的に背筋を伸ばした。

 

「はっ!」

 

『君の要望は承知した。司令部としても南方警備艦隊の再編成は急務であると認識している。着任早々、厳しい状況だろうが、海上武人としての職務を全うしてもらいたい』

 

「はっ。粉骨砕身の覚悟で臨みます。艦隊司令長官殿!」

 

『よろしい』

 

 その言葉を残し、電話は切れた。

 

 私は背筋を伸ばして受話器を耳に当てたまま、しばらく呆然としていた。

 

 そんな私をいぶかしんだのだろう、叢雲が声をかけてきた。

 

「ねえ、あんたいつまでそうやっているの?」

 

「あ、あぁ・・」私は受話器を戻し、そして叢雲に問いかけた。「私は・・・司令長官と話をしていたのか?」

 

「ええ、普通に着任と今後の方針を報告していたわよ。最後だけいきなり気合入ったのには驚いたけど」

 

「そう・・・なのか・・・?」

 

「どうしたの? 顔が悪いわよ?」

 

 そうなるのも当然だろう。なにしろ私には、司令長官との会話の記憶が無い。相手に対して無意識に生返事をしていたと言うならばまだ理解できるが、能動的に報告をするなんて真似は無意識では不可能だ。

 

 ならば、司令長官へ報告していたのは、“私”ではない“私”、おそらく“海尾 守”の方の意識の仕業だろう。ほとんど確信にも近い感覚でそう思った。

 

 すると、今になって電話でのやり取りが記憶に現れてきた。

 

 思い出した、というには不自然な感覚だ。現れた、としか言いようが無い症状だった。これは自覚の無い記憶だった。

 

 私は多重人格者なのだろうか。と疑ったが、全く違う記憶(それも異世界の記憶)を同時に共有する多重人格などあり得るのだろうか。心理学の専門家では無い以上、はっきりしたことは言えないが、おかしいのは確かだった、

 

 おかしい。

 

 うむ、そういえばおかしなことは、もう一つあった。

 

「叢雲、お前いま、“顔が悪い”って言わなかったか?」

 

「まさか、聞き間違いよ。“顔色が悪い”と言ったに決まってるじゃ無い」

 

「そうか?」

 

「そうよ」

 

「ふむん」

 

 私はイスの背もたれに身体を預け、もう一度記事を確認しようと新聞に手を伸ばそうとした。

 

 しかし、その時、

 

『緊急信を受信しました!』

 

「おわぁっ!?」

 

 デスク上に突然現れた猫吊るしに、私は思わず奇声を上げてしまった。

 

「なんだ、いきなり!?」

 

『驚かせて申し訳ありません。ですがたったいま、深海棲艦の目撃情報が入りました』

 

「なんだと」

 

 猫吊るしの報告に、叢雲も私の隣にやってくる。

 

『南方海域上空を飛行中の民間旅客機からの情報です。場所は、ここから南西約100海里』

 

 猫吊るしのすぐ脇に海域図の立体映像が映し出され、そこに目撃地点が示された。その目撃地点をかすめるように、いくつものラインが引かれている。

 

『このラインは本日航行する民間船舶の予定航路です』

 

「通商航路のすぐそばじゃないか。急いで航行警報を出せ。付近船舶に情報を流し、航路を変更させるんだ!」

 

『了解。直ちに通報します』

 

 猫吊るしが姿を消す。

 

 私は隣の叢雲に目を向けた。

 

「・・・出るしかないな」

 

「これも囮かもよ? 大部隊で待ち構えてるかも知れないし、鎮守府がまた空襲を受けるかもしれない」

 

「こちらの戦力がたった一隻であろうとも、敵の大部隊が通商航路付近にいるなら、何をおいても排除せねばならん。鎮守府が壊滅しようともだ」

 

「進軍やむなし、ね」

 

「我々が守るのは鎮守府では無い。海上の安全だ」

 

 私がそう言うと、叢雲は、フッと不敵な笑みを浮かべた。

 

「悪くないわ。そういうの、嫌いじゃない」

 

『緊急出港ですね』と、猫吊るしが再び姿を現した。『昼食は間に合いそうに無いですね。缶飯は補給物品と一緒に岸壁へと回しておきます』

 

「そうね、海上で頂くことにするわ」

 

「長丁場になるかも知れん。一週間分は用意してくれ。可能か?」

 

『全て缶詰ですが、量は充分に用意可能です。栄養の偏りを防ぐため、ビタミン剤と食物繊維の錠剤も用意しておきます』

 

 そこに叢雲がもう一つ注文を加えた。

 

「あと、替えの下着とタオルもお願いできる?」

 

『支給品の野暮ったいので良ければ、まだ残っています。サイズはまちまちですが』

 

「そこは我慢するわ。海水とはいえ艦内で風呂に入れるだけマシだしね。・・・で、あんたは何で私の胸元を見てるわけ?」

 

「いや、気のせいだ」

 

 その控えめな胸ならサイズに困ることも無いだろう、というのは男の無知だろうか。まあこんな事を口にすれば、敵よりも先に叢雲に殺されかねない。

 

 私は叢雲の疑わしげな視線から目を逸らしつつ、彼女を伴って執務室を出た。

 

 階段を昇って地上に上がり、岸壁で足を止める。

 

「これより船体を回航するわ」

 

 叢雲はそう言って、岸壁から海面へと飛び降りた。

 

 しかし彼女は水柱を上げて沈むことは無く、その両足を伸ばしたまま水面に立って見せた。

 

 むらくも乗員としての“名の無い私”はその光景に驚愕したが、しかし、すぐに“海尾 守”の感覚が表に現れてきて、その事実を受け入れた。

 

 しかも“守”の記憶と知識は、この後にまだ続きがある事を“名無し”に教えていた。

 

 海面に立つ叢雲が、目を閉じ、両手を組んでいた。まるで何かを祈っている様だ。

 

 変化はすぐに訪れた。

 

 彼女の足元を中心に青白い光が海面いっぱいに拡がり、それは粒子となって泡立ち、空中へと吹き上がった。

 

 まばゆい光が叢雲を包み込み、私の視界を奪う。

 

 それはわずか数秒の出来事だった。光に眩まされた私の視界が回復した時、そこには、巨大な鋼鉄の軍艦が出現していた。

 

 全長120メートル、排水量2000トン、槍の様に細長いその船体の前部甲板には12.7センチ連装砲、その後ろに三階建構造の艦橋、そこより後ろの甲板は一段下がった構造になり、縦列配置された二つの煙突と、三基の61センチ三連装魚雷発射管が並び、そして後部甲板には後ろ向きに付けられた12.7センチ連装砲が二基搭載されている。

 

 岸壁に立つ私のちょうど目の前に当たる船体の側面には、カタカナで【ムラクモ】と表記されていた。

 

 そう、これこそ艦娘と呼ばれる彼女の真の姿、一等駆逐吹雪型5番艦・叢雲であった。

 

 その叢雲の艦名が書かれたすぐ近くの甲板から桟橋が下され、岸壁に掛けられた。その桟橋の先で、彼女が待っていた。

 

 私は桟橋を渡り、叢雲の甲板上へと足を踏み入れた。彼女が敬礼で私を迎える。

 

「司令、乗艦。これより出港準備作業にかかります」

 

「了解、かかれ」

 

 私が答礼すると、彼女は敬礼を解き、踵を返した。

 

「艦橋へ案内するわ、こっちよ。階段はかなり急で狭いから、頭をぶつけない様にね」

 

 彼女の案内で私は艦橋へと向かう。

 

 古めかしい艦の外観と違い、艦内は非常に洗練されたハイテク機器の集合体と言っても良かった。アナログの計器は一つも無く、全て多目的スクリーンに統一されている。そこに艦内の状況が次々と表示されていた。

 

「各武器の作動確認を実施。巡行用タービン及び戦闘用タービン起動準備。・・・補給物品が岸壁に届いたみたいね。搭載終了後、桟橋を外し試運転を行う」

 

 艦橋からウィングに出て岸壁を見下ろすと、桟橋横に駐車されたトラックから、段ボール箱がいくつも積み込まれているところだった。一週間分の食料と着替えとはいえ、わずか二人分である。積み込み作業はすぐに終わった。

 

 桟橋が格納され、艦の奥底からタービンエンジンの唸り声が響き渡った。

 

「タービンの試運転終了」

 

 叢雲が宣言し、私のそばに立った。

 

「出港準備完了しました。司令」

 

「了解、出港を許可する」

 

「出港用意!」

 

 叢雲の号令と同時に艦橋内のホーンから出港ラッパが高らかに吹き鳴らされ、艦は岸壁を離れた。

 

 遠ざかって行く岸壁の奥、掩体壕の入り口の前で、猫吊るしの一枚絵が見えた。

 

 私たちは猫吊るしに見送られながら、外洋へと艦首を向けた。

 

 




次回予告

 新米提督にとって初めての秘書艦との、初めての出撃。

 それは、たった一艦による海上護衛だった。

 だがこの叢雲、腕に覚えあり。

 深海棲艦が待ち受ける広い海に、助けを求める悲鳴が響く。

 次回「第二話・海上護衛戦」

「対空戦闘用意!」




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第二話・海上護衛戦

 出港後、港湾内から防波堤を越えて外洋に出たところで、叢雲は速力を20ノットまで増速した。

 

「針路240度、宜候。現針路速力での深海棲艦目撃海域到着所要時間、約五時間。到着予定時刻は1630頃です。司令」

 

「了解。艦隊司令部に状況を報告する。回線借りるぞ」

 

「軍用秘匿回線は、司令席の左側の受話器よ」

 

 司令席に着いた私は艦隊司令部に通信をつなぎ、現在の状況を報告した。

 

 艦隊司令部も深海棲艦出現の情報は既に掴んでおり、こちらの事情を考慮してくれたのだろう、航空部隊の支援と近隣の警備艦隊からの増援を上申すると、すんなり了承してくれた。

 

「本島の航空部隊から哨戒機を回してくれるそうだ。当海域へのオンステーションは一時間後。それと近隣の警備艦隊からも支援艦隊を出してくれるそうだが、こちらは距離が離れているために、到着は明日になる」

 

「今日一日をどう乗り切るかね」

 

「見敵必殺は難しいが、民間船舶に被害が出なければ我々の勝ちさ。・・・腹が減ったな。取り敢えず腹ごしらえをしてから細かい作戦を練るとしよう。缶飯はどこに格納したんだ?」

 

「食堂横の305倉庫よ」

 

「わかった。取ってこよう」

 

 そう言って司令席から立った私を、叢雲が訝しげに見つめた。

 

「司令自ら取りに行く気?」

 

「君は操艦中だ。他に取りに行ける人間もいないだろう」

 

「別に艦橋から離れられない訳じゃないんだけど」

 

「気にするな。ついでに艦内見学したいだけだ」

 

 他に何か言いかけた叢雲を制して、私は艦橋の階段に足をかけた。

 

「迷子にならないでよ」

 

「子供じゃない。一人で戻れる」

 

「船酔いして艦内を汚したら許さないから」

 

「船酔いした人間が腹を空かすかよ」

 

 軽口に軽口で返しながら、私は艦橋を降りた。彼女とは半日あまりの付き合いだが、ずいぶん気安い関係になったものである。

 

 しかし、気安くなさそうだという初見の印象が間違いだったかと言えば、そうとも言えないとも思う。実際、彼女の人当たりは良い方では無い。

 

 いや、はっきり言ってしまえば、きつい。

 

 そもそも上官である私に、報告上の決まり文句以外で敬語を使うことさえ稀だ。軍人として極めて問題ありと言える。

 

 だが、不思議と私は、彼女のその態度を受け容れていた。

 

 その理由は、大きく分けて二つあった。

 

 一つは“海尾 守”としての私が持つ記憶と知識だ。正確に言えば“守”が持つ艦娘についての記憶と知識である。

 

 艦娘という言葉を知った時に予感した、見れば理解できる、という感覚は確かに正しくて、今の私は艦娘についての記憶と知識を有していた。

 

 艦娘とは軍艦の能力を有する者たちであり、その女性詞である。彼女たちがどのように軍艦の能力を得たのかは専門的すぎて理解不能の領域であるが、運用面に関して言えば通常の艦艇とほぼ同じだ。

 

 著しく違う点があれば、それは巨大な艦艇をたった一人で運用可能という点ぐらいだろうか。ただし、彼女たちはどの艦でも好き放題に運用できる訳では無い。ワンマンコントロールできるのは、自分と同じ名を冠した艦艇のみであり、そこに互換性は無い。

 

 彼女たち艦娘に階級が与えられていないのは、この互換性の無さに由来していた。つまり艦娘をその艦艇の一部分と捉えているためだ。

 

 艦娘を一種の兵器扱いしている、という言い方に語弊があるなら、特定の艦艇の運用に特化した専門技能保持者とも言うべきか。

 

 階級は異なる任務、役割、職種が入り混じる軍隊という巨大組織で、上下関係と指揮系統を明確にするためのものだ。私のように人事異動で艦艇や部隊を変わるときなど、階級が無いと、その部署でどの役職が適当か判断が難しくなる。

 

 しかし艦娘には個々の運用艦艇に互換性が無いため、一般の士官や海兵のように異なる艦種に乗り換えることがなく、階級の必要性が薄い。

 

 むしろ下手に階級をつけてしまうと、艦隊編成などで複数の異なる艦種の艦娘を運用する際に不都合が起きかねなかった。

 

 戦艦、空母、駆逐艦といった艦種の違いは単に付与された能力の違いに過ぎず、上下関係に結びつくものでは無い。艦隊内でどの艦娘が指揮をとるかは、与えられた任務の特性によって決定され、それとて任務内容によってかなり柔軟に変更されるのが常だった。例としてあげれば、駆逐艦が空母や戦艦を指揮下に置くことも珍しく無いのだ。

 

 そんな運用をされている艦娘に階級が存在すると、指揮権と階級が食い違うという不都合が頻繁に起きてしまい、逆に指揮系統に支障をきたしてしまうのである。

 

 こういう特殊な運用をされる艦娘たちは、軍人でありながらも上下関係の意識は極めて低い異例の存在だった。

 

 それでいながら海軍の最前線で戦っている者たちであるだけに、その誇りと矜持は極めて高く、階級や役職上の権威が無条件に通じる相手では無いと言うのが、我々のような艦娘運用に関わる将校、通称〝提督”たちの一般認識だった。

 

 噂によれば上官をクソ提督呼ばわりする艦娘までいるらしい。それに対して怒るどころか、嬉々として受け入れる将校が少なからず存在したというのだから、我が海軍の風紀の乱れは極めて深刻である。

 

 そんなクソ提督呼ばわりに比べれば、叢雲の「あんた」呼ばわりはまだ可愛い方かも知れないが、それでも軍人以前に社会人としてどうかとも思う。もっとも、私自身それをあまり不快に思っていないのだから、クソ提督と呼ばれて喜ぶ同僚たちを批判できない。

 

 だが不快に感じていない理由は、決して特殊な性癖よるものではない、と自己弁護しておく。

 

 どちらかといえば、これは、護衛艦むらくも乗員だった“名無し”の記臆に由来するものだ。

 

 私は彼女に対して、名無しが護衛艦むらくもに対して抱いていた、うまく言葉にすることが出来ないが、強いて言うなら親近感の様なものを、無意識の内に感じていたのかも知れない。

 

 そしてその感覚は、今こうして駆逐艦・叢雲の艦内を歩いている事によって、より強く、確信に近くなっていた。

 

 叢雲の艦内構造は、大砲や魚雷が装備されている上甲板を基準(第1甲板)として、

 

 三階建構造の艦橋(二階部分を第01甲板、三階部分を第02甲板と呼ぶ)、

 

そして下に向かって5層構造(二層目を第2甲板、以下、3甲板、4甲板、5甲板と続く)となる。

 

 なお、第1甲板は艦橋より後方では一段下がって、第2甲板と同じ高さになっているため、表記上、艦橋より後方の上甲板はそのまま第2甲板と呼ばれている。

 

 私は艦橋から直下の第2甲板まで降り、一度、前部側にある12.7センチ連装砲の完全自動化された給弾機構を眺めてから、さらにもう一層下の第3甲板に降りて、船体中央部を目指した。

 

 本来の艦艇であれば、船体を前後に貫く細長い通路に、各武器・機器の整備室や倉庫、そして乗員の居住区が隙間なく空間を埋めているのだが、艦娘によって運用される艦艇は乗員数が極端に少ないこともあってか--私の様な司令部要員や、何らかの理由で他の便乗者を乗せない限り、基本的には艦娘一人のみだ--人間のための行動スペースが殆ど存在しない。

 

 私が今歩いている細い通路沿いには、機器メンテナンス用の小窓の様なドアやハッチがあるばかりで、他には時たま倉庫が見あたるくらいだ。

 

 唯一人間味がある空間といえば、私が目指す食堂くらいのものである。ちなみに食堂は会議室、応急処置室、便乗者待機室、仮眠室も兼ねている。ここ以外で人間用の空間と言えば、あとはトイレと浴室しか無い。

 

 私が細い通路から食堂に足を踏み入れようとすると、ちょうど反対側から小さな人影が幾つか、こちらに向かって小走りにやってきた。

 

 人影と言ったが、それは人間ではなかった。艦内の応急処置やメンテナンスを担当する自立駆動メンテナンスロボットだった。大きさは私の膝丈程度であり、その外見は、猫吊るしにも似た三頭身ディフォルメされたセーラー服少女だ。

 

 メンテロボは、その軍用とは思えないゆるいデザインから“妖精”の愛称で親しまれていた。

 

 妖精たちは私の存在に気づくと、一旦立ち止まり、脇に寄って場所を空けた。

 

「ご苦労さん」

 

 私がそう声をかけて食堂に入ると、妖精たちはニコリと笑いながら敬礼して、前部側へと去っていった。おそらく定期的な艦内チェックの途中だったのだろう。

 

 しかし妖精は笑顔を見せたり、敬礼したりと、およそメンテナンスロボには不必要と思われる機能が多い。そもそも三頭身ゆるキャラというデザイン自体が機能美とはかけ離れたものだ。

 

 そもそもなぜこんなものが実装されたかといえば、それは科学技術の発展と、艦娘の精神衛生の保護によるところが大きい。

 

 何でも聞いた話では、開発初期のメンテロボは、それこそ機能一点張りの非人間型だったらしい。性能は抜群だったが、当の艦娘からは猛反発を招いたそうな。

 

 まあ誰だって、狭い艦内で、全身から触手を生やした不定形なアメーバ状の物体と遭遇したくは無いだろう。しかも艦内で一人きりの状況ともなれば、それは悪夢以外の何物でもない。

 

 上層部は、この艦娘たちからの要求というか苦情に対して、速やかに対処した。

 

 メンテロボの開発に高い費用をかけていたことを考えると奇跡とも思える対処だったが、どうやら一部の艦娘がお偉いさんの査察の際に、艦内に閉じ込めてメンテロボで包囲したらしいとの噂もあり、そういった行動が功を奏したのかもしれない。

 

 と言っても、メンテロボの設計や機能が丸ごと変更されたわけでなく、修理用の触手を体内への格納式に変更し、不定形アメーバの外見を三頭身ゆるキャラに固定維持できる様にプログラムを追加しただけらしいが、このデザインが思った以上に現場で好評となり、今では海軍の公式マスコットまでもこの妖精スタイルになってしまった。つまりあの猫吊るしの脱力フォルムも、我らが海軍の公式デザインという訳だ。

 

 少し話がずれたが、要するに妖精たちのあの姿はあくまで仮の姿であるということだ。したがって実際に作業をする場合には、妖精たちはゆるい外見をかなぐり捨て、何本もの触手を生やしたアメーバ状の形態に戻って隙間へと潜り込んで行く。

 

 妖精のその変形する瞬間を見てみたいな、と一瞬興味を惹かれたが、よくよく考えてみれば食事前に目にするものでも無い。

 

 そんなことを考えながら、私は食堂脇の倉庫の扉を開け、缶飯の入ったダンボール箱の蓋を開けた。

 

 私は赤飯、叢雲は確か五目飯だったか。缶飯二つと、さらに副食用にタクアン缶を取り出す。

 

 そしてふと横を見ると、そこに乾物と味噌と書かれたダンボール箱もあった。どうやら糧食担当者が気を利かせてくれたようだ。

 

 私は艦内電話で艦橋を呼び出す。

 

「叢雲、缶飯の他に味噌も積んでくれたようだ。味噌汁を作るから調理場を借りるぞ」

 

『構わないから自由に使ってちょうだい。ところで、料理好きなの?』

 

「調理員の経験がある」

 

『それ本当?』

 

「まあ味噌汁くらいでひけらかすものでもないがな。今度、秘伝のレシピで作ったカレーをご馳走してやるよ」

 

『楽しみね』

 

 私は艦内電話を切り、缶飯と味噌と乾物を抱えて調理場へと移動した。

 

 しかし調理場と言っても大したものではない。一人暮らし用のアパートにある様なシンクとコンロ、それに電子レンジと冷蔵庫とポットがあるだけだ。唯一違うといえば生ゴミ処理用のディスポーザーが備わっているくらいか。

 

 私は食器棚を開けて片手鍋を二つ取り出すと、軽く水で洗って積もっていた埃を洗い流した。

 

 綺麗になった鍋の一つにポットのお湯を入れ、もう一つには水を入れる。その二つの鍋を電気コンロにかけ、お湯の鍋には缶飯を、そして水の鍋には昆布を入れ、蓋をせずに弱火にかけた。

 

 昆布から出汁がとれるまで少し時間がかかるが、湯煎にかけた缶飯が温まるのにもそれくらいかかるので丁度良いだろう。具材は乾燥ワカメと麸があった。もう一品くらい欲しいなと思いながら再度乾物のダンボール箱を漁っていると、食堂に叢雲が姿を現した。

 

「操艦は良いのか?」

 

「20海里以内に近づく危険な水上目標なし。戦闘配置でも無い限り、眠っていても周囲の捜索と操艦は可能よ。どうせ後で戦闘配置に付かなきゃいけないんだろうし、今の内くらい食堂で食べたいわ」

 

「もっともだな。リラックスはできる時にするものだ」

 

「で、何を探してるの?」

 

「味噌汁の具だ。ワカメと麸だけじゃ物足りなくてな」

 

「冷凍で良ければネギがあるわよ」

 

 叢雲はそう言って冷蔵庫の冷凍室から、冷凍食品の袋に入ったネギを取り出した。その時ちらりと冷凍室の中身が見えたが、ネギの他には何も入って無さそうだった。

 

 私はネギを受け取り、叢雲には食器の用意を頼む。

 

「わかったわ。・・・えっと、箸と茶碗は何処に仕舞ったかしら」

 

 叢雲は戸棚を開け閉めし、プラスチック製の汁椀を取り出すと、調理場のシンクで軽く洗った。

 

 私は沸騰前の鍋から昆布を取り出しながら、言った。

 

「この調理場、全然汚れてないな。転属前に念入りに掃除でもしたのか」

 

「そうよ。私、綺麗好きなの」

 

 叢雲は洗った汁椀を拭おうと布巾を捜していたが、どうやら見つからないようだった。

 

 私は乾物を探している時に、ついでに持ってきた支給品のタオルを彼女に渡してやる。叢雲はそれで汁椀を拭いながら、諦めたように言った。

 

「嘘よ。調理場なんて使ったこと無いわ」

 

「だろうな」

 

「誤解して欲しくないんだけど、料理が出来ない訳じゃないわよ。ただ自分一人だと作る気なくすだけ」

 

「気持ちは分かる。私も独り暮らしをしている時はそうだった」

 

「今は違うのかしら?」

 

「今も独身だ。二人分の味噌汁を作るのは久しぶりだ」

 

 出汁に具材を入れ、煮立たせたところで電気コンロを停めて、味噌を溶く。その間に叢雲が缶飯を湯煎から上げて、タオルで拭い、缶切りで蓋を切り始めた。

 

 私は小皿で味噌汁の味見をして、良い頃合いになったのを確認して汁椀に注ぎ、テーブルへと運んだ。

 

 叢雲も缶を切り終わり、二人向かい合ってテーブルに着く。

 

「「いただきます」」

 

 叢雲は真っ先に味噌汁に口をつけた。

 

「少し薄味ね」

 

「缶飯は味が濃いからな。そっちに合わせたんだ」

 

「ああ、ごめん。おいしくないって意味じゃないのよ。出汁がしっかり出ていて悪くないわ」

 

「なら良かった」

 

 私はタクアンをかじりながら、缶にぎっしり詰まった赤飯に箸を立てる。もち米は熱を加えられて柔らかくなっていたものの、それでも箸先にかかる抵抗感はなかなかのものだった。

 

 叢雲も同じく五目飯に箸を立てながら、言った。

 

「白味噌があったら、私も自慢の味噌汁を振舞ってあげられるのにね」

 

「そうなのか?」

 

「そうよ。料理出来ないっていう誤解を晴らしてあげる。でも普通の合わせ味噌じゃあんたのと差が出ないし、やっぱり味噌汁は白よ、白」

 

「白味噌は使ったことは無いな。いや、確か関西だと使うのか?」

 

「そうよ、大阪の味噌汁は白。出汁を引き立てるし、野菜の甘みにも合う」

 

「なるほど、大阪生まれだったんだな」

 

「実家の近くに造船所があってね。造船所の男たちがよく客としてウチに来ていたわ。・・・あぁ、ウチ、定食屋だったのよ。白味噌汁は人気メニューだったわ」

 

 叢雲は味噌汁を啜り、独り言のように、

 

「そういえば、艦娘も居たわ」

 

「定食屋の客にか」

 

「うん、そう。多分、艦娘だったと思う。本人に聞いた訳でも無いし彼女自身も言わなかったから、珍しい女性船員ぐらいに思っていたけど、今から思えば艦娘っぽい雰囲気を醸し出していたわね。彼女、海での色んな経験を話してくれてね、それがあんまりにも面白おかしいものだから、私もつい憧れちゃった訳よ」

 

「それで艦娘になったということか。夢を叶えたんだな」

 

「艦娘に憧れたんじゃなくて、世界中を航海することに憧れたんだと思うわ。まあ、今の自分も悪く無いと思ってるけどね」

 

 叢雲はもう一度味噌汁を啜り、そこで、はたと気づいたように言った。

 

「なんでこんな話をあんたにしてるのかしら」

 

「食事中の世間話だ。身の上話くらい、おかしくないさ」

 

「じゃあ、あんたの話も聞かせて。調理員の経験者って事は、元は一兵卒でしょう? そこから大佐まで昇り詰めた経緯には興味あるわ」

 

「ふむ・・ん」

 

 私は赤飯を味噌汁で胃に落としながら、少し考え込んだ。

 

 正直、叢雲の認識には誤解がある。調理員経験者というのは護衛艦むらくも乗員の記憶の一つであり、これらの記憶だけで言えば、今の私は艦艇乗員のあらゆる職種の知識と経験を得ていると言って良い。

 

 だが、これをまともに説明しても他人には理解不能だろう。私自身だってまだ理解できていないのだから。

 

 一方、海尾 守の経歴はといえば、これまた、あまり語るべき部分が無い。

 

 十九歳で海軍兵学校に入学し、名に恥じないよう頑張ったつもりではあるが、成績自体は可もなく不可もない順位で卒業。

 

 その後は、罵声を浴びるのが主任務とも言える初級士官時代を得て、兵学校の同期生仲間では比較的遅いくらいの順番で、ようやく少佐になった具合だ。

 

 それが、それがだ。いきなり二階級特進で大佐だ。全く意味がわからない。軍隊では戦死者は二階級特進というのが慣例だが、私は実は知らぬうちに戦死扱いされているのかもしれない。

 

 フィクション小説によくある様な、死んだ筈の軍人たちで構成された秘密部隊なんてものに組み込まれてしまったのだろうか。馬鹿馬鹿しい考えだが、雷撃されて沈んだ乗員の記憶がある身では笑えない冗談だった。

 

 そうやって箸を咥えたまま黙りこくった私を、叢雲が不安そうな様子で見つめていた。

 

「もしかして・・・訊かない方が良かった?」

 

「あ、いや、そういう訳じゃないんだ。ただ、まだ記憶が混乱していてな」

 

「そう、なら良かった。・・・ん? いや、全然よくないわ」

 

「そうだな、あまり良くない。だが指揮はしっかり取るから心配するな」

 

「当然よ、あんたと私は一蓮托生なんだから」

 

 一蓮托生。

 

 なかなか信頼関係を現してくれそうな言葉だが、同じ船に乗っている以上は文字どおりの意味でしか無いのだろう。戦場に単艦で乗り出す駆逐艦というのは、お釈迦様の蓮よりもよっぽど不安定な代物だろうからだ。

 

 艦の安全と戦闘そのものに関しては、叢雲自身に寄るところが大きい。ならば司令としての私の役割は、彼女が安心して全力を尽くせる様、作戦を立て、そして退き際を見極めてやることだった。

 

 食事を終え、二人して空き缶と食器を片付けていると、不意に、叢雲が独り言のように言った。

 

「鎮守府から通信が入ったわ」

 

「なんだ、突然?」

 

「このフネの通信機が、たった今、鎮守府からの情報を受信したのよ」

 

「何も介さずとも直接わかるのか」

 

「眠っていても操艦できると言ったでしょう。これくらいは出来るわよ。ただ情報量が大きかったり暗号通信だったりしたら、中身まではハッキリと分からないけど。これはその両方ね」

 

 叢雲は少し首をかしげて宙空を眺めながらそう言って、そして食堂の壁にかかっていた多目的スクリーンに向かって、軽く手を振った。

 

 多目的スクリーンに光が灯り、そこに情報ファイルのダウンロード状況を示すシーケンスバーが表示される。

 

「ずいぶん重いデータだな」

 

「内容は深海棲艦に関するもののようね。どうやら最初に通報した民間航空機が目標を撮影していたみたい。そのデータが当局に提出されたから、あの子が転送してくれたらしいわ」

 

「あの子?」

 

「そう、名前は、えっと、なんだったかしら。あのAIよ」

 

「ああ、猫吊るしか」

 

「そうそう、猫吊るし--ぷ」

 

 思わず吹き出した叢雲が、手で顔を覆って、肩を震わせる。どうやら笑いのツボに入ったようだ。

 

「猫吊るし・・くく・・そりゃ確かにそうだけど、あんたも結構ひどいわね」

 

「あんな珍妙な絵を表示する方が悪い。だいたいアレ、なんで猫を吊るしているんだろうな」

 

「猫が好きなんでしょう。空襲でエラー起こしてるって言ってたし、きっと落ち着きを取り戻す為に癒しを求めているのよ」

 

「AIが癒しを求めるのか。そんな馬鹿な、と言いたいが、あの猫吊るしならそれくらいの感情は持っていそうだな。・・・叢雲、猫、好きなのか?」

 

「嫌いじゃないわ。実家の周りにもよく居たのよ。造船所って何でかノラ猫が多いのよねぇ。あんたも猫好き?」

 

「飼いたかったが猫アレルギーだから諦めた」

 

「お気の毒」

 

 ダウンロードが終了し、スクリーンに画像が映し出された。

 

 スクリーン一面に、航空機から見下ろした海原が青く広がっている。その中心に黒いシミのような影が映っていた。

 

「これが目撃された深海棲艦か。細部が分からないな」

 

「他にもトリミングして画像分析にかけた画像もあるわ」

 

 画像がスクリーンの片隅に縮小し、別の画像が現れる。そこには黒い涙滴状の物体が海面に浮き上がり、白い航跡を引きながら泳いでいた。

 

 一見すると大型の鯨の様にも見える。だがその表面は人工的な直線の組み合わせで構成されていた。ならば潜水艦に似ているとも言えるが、しかし、次に別角度から映された画像を見たとき、その異質ぶりが明らかになった。

 

 その画像は、深海棲艦が海面から大きく浮上し前半分が海面上に露わになっていた。先ほどの画像では水中にあった艦艇部の“巨大な顎”がハッキリと視認できる。

 

 画像に続いて艦隊司令部での分析結果が表示された。

 

【深海棲艦・駆逐イ級】

 

 イ級は深海棲艦の中でも最も数が多いとされる艦種だった。個体によってそれぞれバラツキはあるが、全長はおよそ100〜150メートル、推定排水量2000〜3000トン、武装は5インチ単装砲が1基〜3基である。

 

 個体としての能力は我が海軍の標準的な駆逐艦と比べて格下と言って良いものであった。一対一で戦ってもまず負けることのない相手だ。

 

 しかしイ級の厄介なところは、ほぼ必ずと言っていいほど群れをなすということだ。最低でも三隻で艦隊を組み、海原を海流に乗って遊弋している。つまりこの南方警備海域には最低でも後二隻は潜んでいるということだ。

 

 まるで一匹見つけたら三十匹は潜んでいる陸のアレみたいなものだが、深海棲艦という存在は、厄介度で比べればアレが可愛く見えるほどである。まあだからといってアレの扱いをよくする気は無いのだが。

 

 そもそも深海棲艦とはなにか。

 

 それは、およそ三十年ほど前に突如として世界中の海域に出現した謎の存在である。

 

 大砲まで装備しているところから“艦”と呼んでいるが、それは本当に人工物なのか、それともイレギュラーな進化を果たした生命体なのか、それすら分かっていないのが現状だ。

 

 とりあえず判明している数少ない事実としては次の通りである。

 

 

・深海棲艦は海溝などの深海奥深くから出現し、海流に乗って遊弋している。

 

・その戦闘能力から駆逐艦、巡洋艦、戦艦などのタイプに分類される。また、体内から複数の自立飛翔体を放つ空母タイプ、海中で魚雷を放つ潜水艦タイプなども存在する。

 

・その多くは群れ(艦隊)で行動する。

 

・深海棲艦の皮膚(装甲)は電波及び音波の吸収に非常に優れた性質を持ち、レーダーやソーナーでの探知が難しい。

 

 

 だが上記した他に、最も重要かつ、そして明確な事がもうひとつあった。それは、

 

 

・性格は極めて凶暴であり、人類に対し異常なまでの攻撃性を示す。

 

 

 すなわち深海棲艦とは、人類共通の脅威であり、敵であった。

 

 深海棲艦の出現により世界中の海上交通が存立の危機に晒された結果、経済を海上輸送に頼る海洋国家各国は共同して海上護衛に尽くすことになった。

 

 それから三十年、世界は終わることの無い深海棲艦の脅威に晒され続けているものの、ある一定の海上交通の安全を確保することには成功している。そしてこれは同時に、三十年間、海を舞台にした人間同士の国際紛争も起きていないことを表していた。

 

 皮肉なことに深海棲艦の存在が、人類に仮初めの協調を促したのだ。

 

 もっとも、この協調を行い海の平和に貢献しているのは沿岸国か島国ぐらいなもので、大陸国家や内陸国などは相も変わらず人類同士でいがみ合っている有様だ。人間、その本質はそうそう変わらないらしい。

 

 まあ、今はそんな人間哲学なんぞにかまけている暇はない。すべきことは、私が任されたこの警備海域から脅威を排除し、民間船舶の安全を確保することだ。

 

 叢雲がスクリーンに分析結果の続きを表示した。

 

「どうやらこのイ級、昨日の艦隊の生き残りみたいね」

 

 艦隊司令部の分析結果によると、目撃地点と画像に映るイ級の身体特徴から、私の前任者が昨日戦って敗走させた敵艦隊の生き残りの可能性が高いらしい。

 

 そこから推測される潜伏戦力は、イ級3隻。

 

「叢雲、やれるか」

 

「至近距離での砲雷撃戦は厳しいわね。超長距離からの先制SSSM攻撃で一息に決めたいわ」

 

 SSSM(surface to surface and submarine missile)とは叢雲の魚雷発射管に収まっている多目的ミサイルである。射程およそ150キロメートル。対艦ミサイルと対潜ミサイルの両方の性能を兼ね備えており、深海棲艦が海中へ逃げ込もうとも追尾攻撃することが可能だ。

 

 しかし前述の通り、深海棲艦は対レーダー、対ソーナーステルス能力が極めて高いため、超長距離から攻撃を行うには空中哨戒機などによる敵の位置の正確な把握と、そして相手に気づかれないうちに先制攻撃を仕掛ける必要があった。

 

 今回、こちらには空中哨戒機一機が支援についてくれるので、後は目標を発見さえできれば先制攻撃が可能だった。哨戒機には叢雲同様SSSMが四発搭載されており、協同攻撃を仕掛けることもできる。

 

 私は、叢雲にスクリーンへ海流図を出すように指示し、イ級が遊弋しそうな場所を選定した。

 

「ここと、ここと、・・それとここもだな。この三つのエリアを時計回りに哨戒しよう。ほとんど決め打ちだが、このエリアなら通商航路をほぼカバーできる」

 

「どのみち単艦で出来ることなんてタカが知れてるし、悪くないと思うわ。じゃあ後は哨戒機からの報告待ちね」

 

「到着まであと一時間半ほどか。眠っていても操艦できるなら、仮眠でも取るといい。休めるのも今の内くらいだ」

 

「そうね。でも先に入浴したいわ。今朝からバタバタしすぎて、いい加減しんどいのよ」

 

「だな。風呂はやっぱり海水風呂か?」

 

「そうよ。人間用設備が少ないから真水タンクも小さいの」

 

「でかい艦に一人暮らしなんだから、真水も使い放題かと思っていたが、意外と世知辛いものなんだな」

 

 知らなかった事実に私が驚いていると、彼女がまた小首を傾げて、何かを聞き取る仕草をした。

 

 これは、また、何らかの通信が入ったという事だろうか。

 

 案の定、彼女はこう言った。

 

「緊急信を受信したわ、猫吊るしからよ」

 

「内容は?」

 

「付近を航行していた民間貨物船で故障が発生したらしいわ。舵を破損して操船能力が著しく低下。予定航路を大きく外れているみたい」

 

 叢雲はスクリーンに貨物船の位置と進路を示す。

 

 それは深海棲艦の出現予測エリアのひとつへとまっしぐらに進んでいた。

 

「よりにもよってね。入浴はお預けだわ」

 

「機関第四戦速だ。急いで追いつくぞ」

 

「了解!」

 

 叢雲の返事と同時に、船体奥で唸っていたタービンエンジンの咆哮が、さらに大きくなった。

 

 艦首が波に乗り上げ、艦内が縦に揺れる中、私は叢雲と共に艦橋へと戻った。

 

 

 



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第二話・海上護衛戦(2)

 高速航行すること三十分。やがて通報のあった貨物船が水平線上に現れた。全長200メートル程の大型船だ。

 

 さらに接近した後にウィングに設置されている高倍率望遠鏡で確認すると、マストに球形形象物が垂直方向に二つ並んで掲げられているのが見えた。

 

「運転不自由船の形象物を確認した。こいつで間違いなさそうだ。船名は藤永田丸か。国際VHFで呼びかけを行う」

 

 私は国際無線の受話器を手に取る。

 

「藤永田丸、こちらは貴船の後方2海里を航行中の駆逐艦・叢雲です。感度ありましたら応答願います」

 

 オープン回線で呼びかけると、すぐに応答がきた。

 

『こちら藤永田丸、感度良好です。どうぞ』

 

「こちらも良好です。回線6チャンネルに変更お願いします」

 

『6チャンネル了解しました』

 

 相手の了解を確認し、私はオープン回線から指定回線に切り替える。すぐに向こうからの声が入った。

 

『こちら藤永田丸です。感度ありますか』

 

「こちら叢雲、感度良好です。貴船の運転不自由船の信号を確認しました。現在の針路では深海棲艦の出現海域に入る恐れがあります。針路変更は可能ですか?」

 

『舵機室で火災が発生しまして操舵不能状態です。火災はすでに鎮火し現在修理に努めていますが、復旧にはまだ時間がかかりそうです』

 

「了解しました。危険海域を出るまで本艦が護衛につきます。現在の速力を維持して下さい」

 

『助かりました。ありがとうございます!』

 

 感情の乗った応答に責任の重さを感じながら、私は交話を終了し、叢雲に指示を出す。

 

「このまま藤永田丸を追い越して前方2000に出る。対空、対水上見張りを厳となせ」

 

「了解」

 

 叢雲もまた硬い表情で答えた。彼女も分かっているのだ。深海棲艦が間違いなく襲ってくることを。

 

 優れた肉食獣が群れからはぐれた弱者を適確に狙うように、深海棲艦もまた故障した船などを正確に嗅ぎつけ、襲いかかってくる。しかも今の藤永田丸は奴らに自分から向かっているのだから、正に格好の餌そのものだ。

 

 ならば深海棲艦にこれ以上近づかない様に、藤永田丸を停止させればいいだろうが、それは現状では愚策でしかなかった。

 

 それをやったところで、どうせ奴らはやって来る。しかもその上、民間船は一度停止してしまうと再び増速するのに多大な時間を要してしまうので攻撃を避けることが出来ないのだ。

 

 急発進、急加速が可能なのは、経済性を無視した大馬力大出力機関を搭載できる軍用艦の特権と言っても良い。

 

 であるならば、かくなる上は多少の危険を冒しても、このまま突き進んで深海棲艦を撃破するしか無かった。

 

 だがこれは針路変更が出来ない藤永田丸に合わせてこちらも針路を固定されるということであり、敵に対し有利な位置へ占位することが難しくなる事も意味していた。

 

「・・・叢雲」

 

「なに?」

 

「いざとなれば、この艦を盾にするぞ」

 

「覚悟しているわ」

 

 叢雲は前方を見つめたまま、躊躇わずにそう答えた。

 

 深海棲艦出現予測エリアへの接近に伴い、私は深海棲艦にこちらの存在を感知されないよう、叢雲と藤永田丸へEMCON(電波輻射管制)、すなわちレーダーや無線通信などの能動的な電波輻射を控える対策を指示する。

 

 レーダーを停止させるので遠距離目標の探知が出来なくなるが、そもそも深海棲艦はレーダーにほとんど映らないのだから、さほどの問題では無かった。むしろ深海棲艦も索敵に電波を使用しているので、その際の輻射電波を探知できれば敵の位置を掴むことが可能だ。

 

 叢雲は艦橋の自分用の座席に腰掛け、目を閉じて俯いていた。眠っているように見えるが、そうでは無い。艦の各所に搭載されたカメラや電波探知装置などとリンクし、深海棲艦の放つあらゆる兆候を捉えようと集中しているのだ。

 

 艦娘ならぬ身の私は、彼女の集中を妨げないようウィングに出て、そこの双眼鏡で水平線上を見張った。

 

 そうやって、静かなまま二十分ほどたっただろうか。

 

 不意に艦橋内で叢雲が席から立ち上がり、私のいる左ウィングに飛び出してきた。

 

「左30度方向から捜索用レーダー波を探知!」

 

 私はすかさず、叢雲の示す方向に双眼鏡を向けた。しかし、水平線上には何の影も見当たらない。

 

 何処だ? と正確な方位を確認しようとして、私は間違いに気づいた。

 

 叢雲が指し示していたのは、海上では無かったのだ。

 

「左30度、高角40度--雲の間よ!」

 

 彼女の指摘に視線を上げると、高い雲の合間に、黒い小さな影が見えた。

 

 私が双眼鏡を向け直すのと同時に、艦橋の周囲に取り付けられていた他のカメラ類も一斉に動き出す。

 

 私が双眼鏡の視界にとらえたソレは、黒い紡錘状の物体だった。鳥でも飛行機でもない。まるでいびつな魚が空を泳いでいるかのようだった。

 

「あれは・・・艦載機か・・・?」

 

 深海棲艦の空母タイプが放つ自立飛翔体だ。

 

 だとすればこの付近には駆逐イ級に加え、空母も潜んでいるということだ。

 

 いや、むしろ、

 

「鎮守府を空襲した空母か」

 

「その可能性が高いわね。だとすれば、イ級はその護衛ね」

 

 艦載機はしばらくこちらに向かって高空を飛んでいたが、突然、急旋回し遠ざかっていった。

 

 さらに、

 

「艦載機から通信波を感知。これは母艦への信号だわ!」

 

「こちらを見つけたな」

 

 艦載機が視界から消えていく。

 

 それを見届け、私たちも艦橋内へと戻る。叢雲が艦橋内の多目的スクリーンに、自動追尾カメラが捉えた艦載機のズーム映像を映し出す。

 

 そこに現れたのは、いびつな魚というよりかは、魚を模したいびつなナニか、だった。全長は約12メートル、半透明の鋭角的な貝柄のような胴体に翼竜のような翼を持ち、その翼の両端には5インチロケット弾、中央下部には20ミリチェーンガンを下げている。対艦攻撃や地上爆撃を行う際はこれに2000ポンド爆弾が加わるのだが、これは偵察用なのか搭載していなかった。

 

 一般的な深海棲艦空母は、このタイプの艦載機をおよそ三十機搭載していた。駆逐艦が一隻で相手取るには、かなりの難敵だ。

 

 その時、多目的スクリーンの片隅に【秘匿通信受信】の文字が表示された。

 

「哨戒機からの入電だわ。内容は・・・敵艦隊見ゆ!」

 

 すぐに多目的スクリーンの表示が切り替わり、哨戒機の現在の座標が示された。

 

 それによると深海棲艦の発見海域は、我々の場所から50海里程離れていた。

 

 スクリーンには続いて哨戒機からの映像が表示される。

 

 そこには、高空から見下ろした広い海原に四つの航跡が写っていた。映像が拡大され、深海棲艦の姿が露わになる。

 

 三隻のイ級に囲まれるようにして、空母が海原に立っていた。

 

【空母ヲ級】である。

 

 その全長は100メートル程と、駆逐艦扱いされるイ級に比べても小ぶりだが、しかし映像ではヲ級の方がはるかに巨大に見えた。

 

 その理由は、ヲ級の形状にあった。

 

 鯨のような海棲動物に近い外見のイ級と違い、ヲ級の外見は陸上生物に近かった。それも、二足歩行する動物だ。

 

 そう、ヲ級の外見はまさしく人間のそれだった。全長100メートルの人間型の怪物が海面に仁王立ちしながら滑るように航行している。

 

 そのヲ級の頭頂部の形状は、まるでつばの広い帽子か大きな傘を被っているかのような扁平状をしていた。その一部分に裂け目が生じ口のように大きく上下に開いたかと思うと、そこから艦載機が大量に飛び出していく。

 

「これはリアルタイム映像か?」

 

「そのようね。・・・哨戒機から通報よ。【発進した敵艦載機に爆装を確認、貴艦への攻撃部隊と思われる。尚、艦載機の一部が当機へ接近中につき一時退避する】だそうよ」

 

「EMCON解除だ。哨戒機には気にせず逃げろと伝えろ」

 

 私は叢雲に指示しながら国際無線を手にして、藤永田丸を呼び出す。

 

「藤永田丸、こちら叢雲。現在、こちらに深海棲艦の攻撃機が向かって来ています。当艦が迎撃に当たりますが、そちらも被害に備えておいて下さい」

 

『こちら藤永田丸、了解しました。宜しくお願いします』

 

 相手の返答は短いものであったが明らかに声が震えていた。その気持ちは十分に理解できる。軍艦に乗っていてさえ、敵と相対すれば不安を感じるのだ。まして操舵不能の非武装船では尚更だ。

 

 無線を切り、叢雲に指示を下す。

 

「対空戦闘用意!」

 

「了解、対空戦闘用意!」

 

 叢雲が復唱し、艦内にアラームが鳴り響いた。多目的スクリーンは艦内情報の表示に切り替わり、各武器、各センサー、そして妖精の配備状況がパーセンテージで表示されていく。

 

「各主砲へVT弾給弾完了、主砲対空戦闘用意よし。各機銃自動攻撃モード切り替え。ミサイルドーマント、短SAM用意よし!」

 

 叢雲の言葉と共に、スクリーン内の各武器の表示が赤く染まっていく。前後部にある12.7センチ連装砲、艦橋及び艦尾の20ミリ機銃、そして煙突型発射装置に装填された16発の短SAM(短距離艦対空ミサイル)・・・

 

 ・・・これは、アレだ。

 

「対空ミサイルそんなところにあったのか」

 

「ん? 煙突ミサイルのこと?」

 

「やっぱりそういう名前なんだな。てことは大和型にも装備されているのか?」

 

「持ってるでしょうね」

 

「波動砲は?」

 

「実用化されたらきっと欲しがるんじゃない。そんなことより、各部配置よし、対空戦闘用意よし、よ。司令?」

 

「了解。これよりステータスを示す。AIR WARNING RED(対空脅威度最大)、WEAPONS FREE(武器使用制限解除)。対空脅威軸270度、対空脅威セクター210度から330度、セクター捜索始め!」

 

「了解」

 

 私の指示に、叢雲は艦の指向性レーダーを敵編隊の襲来予想方向に向けた。通常の360度周回レーダーと違い捜索範囲は著しく狭いものの、その分、強力で正確な索敵が可能であり、ステルス性の高い深海棲艦やその艦載機を捉えることが可能だった。

 

 そして、レーダーは確かにその性能を発揮した。

 

 叢雲が叫ぶ。

 

「レーダー探知、左70度、目標は十機!」

 

 多目的スクリーンがレーダー画面に変わり、敵機を表す十個の光点が映し出された。敵は二機一組になってこちらへと殺到する。

 

「左対空戦闘、攻撃始め!」

 

 私の指示に、叢雲が戦闘シーケンスを実行する。

 

「デジグFCS1、2、3、4!」

 

 十機中四機に照準完了を示す枠が掛かる。

 

 叢雲の号令に、艦橋内にサポートAIの人工音声が答えた。

 

『FCSオンターゲット、SAM発射用意よし、射程内』

 

「SAM発射始め、サルボ(斉射)!」

 

 耳をつんざくような轟音と共に艦が揺れ、煙突型発射装置から八発の短SAMが垂直発射される。短SAMは空中で水平方向へ90度方向転換を行うと、推力ベクトル偏向専用ブースターを切り離し、ロケットモーターを点火、空中に火と煙の筋を引きながら艦載機へと向かう。

 

『MIF(ミサイル正常飛行)、インターセプト30秒前・・・10秒前 スタンバイ』

 

 レーダー画面上の敵四機に八発のミサイルが接近する様が映し出される。狙われた四機がミサイルに気付き回避運動を取ろうとしたが、音速を超えるミサイルが相手では手遅れだ。

 

 ミサイルが直撃。

 

『マークインターセプト、ターゲットキル』

 

 敵は残り六機。ミサイル残弾数八発。知らない人間からすれば、始めから全弾発射すれば余裕で撃墜できる様に見えるが、あいにく世の中、というか我が海軍の兵器は、そんなに上手く出来てはいない。

 

 ミサイルの誘導にはFCS(火器管制装置)と呼ばれる指向性レーダーが必要であり、これは一基につき一目標しか追尾できない。叢雲にはFCSが四基搭載されており、同時追尾できるのは四目標が限界だった。

 

 また対空戦闘のセオリーとして、敵一目標に対し対空ミサイルは複数発射することになっている。どれだけ高性能なミサイルでも統計上その命中率は100パーセントを下回るため、確実な撃墜を期するためには二発以上必要なのだ。

 

 敵は喪失を出しつつもさらに肉薄、こちらの主砲の射程内に入る。

 

「1、2、3リリース。アサンインマウント1、2、3。デジグ1、2、3、4!」

 

 叢雲はFCS四基の内一基をミサイルコントロール用に残し、三基をそれぞれ主砲の照準に割り当てる。三基の12.7センチ連装砲の砲塔が素早く旋回し空中を狙う。

 

 敵機再照準。

 

『1、2、3、4オンターゲット』

 

「SAM発射始めサルボ! 主砲、撃ち方始め!」

 

 ミサイル二発の発射直後に三基六門の主砲が火を吹き、叢雲の船体全体が砲煙に包み込まれる。

 

 別の多目的スクリーンでは画面が四分割され、四基それぞれのFCSの光学照準用追尾カメラからの映像が映し出されていた。まっすぐ迫る敵機の周囲で対空弾が次々と爆発し、数千にも及ぶ破片を音速で浴びせかけていく。

 

 ミサイルによって一機、主砲により三機を撃墜。残り二機が急上昇に転じる。

 

 逃げたわけではない。本艦直上からの急降下爆撃だ。

 

 割り当てられた敵機を撃墜した主砲が残る二機を再照準するが、敵は砲身の最大仰角を超えて上昇、急降下爆撃のセオリーでもほぼありえない垂直落下に移行し、爆弾を投下。

 

「機銃自動発射!」

 

 叢雲の攻撃許可を受け、サポートAIが機銃を最大仰角で発砲。毎分5000発の高速射撃による滝の瀑布の様な発砲音が響き渡った。その猛烈な弾幕が2000ポンド徹甲爆弾の前頭部に集中する。

 

 戦艦の装甲をも突き破る徹甲爆弾の頑強な外殻は機銃の集中猛射を全て弾いたが、そのために弾道が変化。叢雲の左右50ヤードそれぞれに落下し、高い水柱を上げた。

 

 直後、垂直急降下から機体の引き起こしに失敗した敵艦載機二機も、自らが投下した爆弾の後を追う様に海面へと墜落し水柱を上げた。

 

 サポートAIが無感情に、目標の全機消失を告げる。

 

「対空戦闘用具収め。残弾数、短SAM6発、主砲234発、機銃5000発。主砲、機銃、給弾はじめ」

 

「第一波は無傷でしのいだか。よくやった、叢雲」

 

「ま、この程度なら当然の結果よね。敵機の編隊が乱れていたし、連携も取れていなかった。それに予想よりも数が少なかったわ。おそらく哨戒機の追撃に回したのでしょうね」

 

 叢雲の言葉に、私は多目的スクリーンのレーダー画面に目を向ける。そこに哨戒機から発せられる敵味方識別信号の表示があった。どうやらまだ生きているらしい。

 

「哨戒機のパイロットには感謝だな。帰ったら航空隊に礼状と差し入れを送るとしよう。叢雲、第二波に備え」

 

「了解。FCSは引き続きセクター捜索を実施」

 

 しかし第二波はすぐにやってきた。探知した目標は十五機。哨戒機追尾に五機をまわしたのだとすれば、おそらくほぼ全機による攻撃と見ていい。

 

 叢雲がFCS四基をミサイルに割り当て、短SAM六発を発射。

 

『MIF、短SAM残弾なし』

 

「ここからが正念場よ。めいっぱい振り回すから、海中に放り出されない様にね」

 

「しっかりしがみつかせてもらおう」

 

「なんかいやらしいわ、あんた」

 

「セクハラのつもりは無かった。すまん」

 

 失言を詫びた私を見て、叢雲がくすりと笑う。その向こうの景色で赤い炎が空中に咲いた。

 

 ミサイルは全弾命中、敵は残り十二機。

 

 第一波では二機に爆弾投下距離まで詰められた。ならばミサイルを撃ち尽くした今度は九機が襲いかかってくるということだった。

 

 FCSを主砲に割り当て、残敵十二機に対し六門の砲身が咆哮を挙げる。主砲の発射速度は一門あたり毎分三十発。二門一組で交互に発砲するため、一基あたりの発射速度は毎分六十発(毎秒一発)になる。

 

 主砲が火を吹くたび、その砲身のすぐ下から1メートル程の大きさの空薬莢が排出され、甲板上に散らばって行く。発射された弾頭には対ステルス用に出力を増幅したVT信管が搭載されていた。

 

 VT信管は発射の衝撃を利用して内部機器を作動させ、弾頭のスピンを利用してレーザー光線を360度全周に向けて発振、周囲15メートル以内への目標の接近をレーザーの反射によって検知すると起爆装置を作動させて弾頭を爆発させ、大量の破片を目標に浴びせかける。

 

 深海棲艦の特性である電波吸収能力を上回る出力で発振されるレーザー光線は艦載機に対し有効に作動し、三基の12.7センチ連装砲はそれぞれ一機ずつ、計三機の撃墜に成功する。

 

 残敵九機が爆弾投下距離にまで接近する。

 

 FCSは敵機の再照準を開始するが、どうしてもそこにはタイムラグが生じる。

 

 しかし、四基のFCSの内、主砲を割り当てられていなかった余分の一基は既に敵機を照準し続けていた。敵機を撃墜し終えた主砲がすぐにそちらのFCSへ割り当てられ、発砲を開始する。これによって更に一機を撃墜。残り八機。

 

 だが叢雲に対し攻撃を仕掛けてきたのは六機だけだった。

 

「叢雲! 南端二機の狙いは藤永田丸だ!」

 

「了解! 3、4ブレイク、デジグ3、4、アサインマウント!!」

 

 叢雲が最後尾の主砲の狙いを、本艦に向かって今まさに爆弾を投下しようとしている敵機から、藤永田丸を狙う敵機へ切り替える。FCS二基を使い、再照準、主砲発砲。

 

 藤永田丸への爆弾投下寸前で、二機の撃墜に成功する。

 

 しかしその結果、こちらへ向かってくる敵機への迎撃が薄くなっていた。爆弾投下寸前で六機中、二機を撃墜したものの、四機が爆弾を投下。

 

「機銃自動発射、取舵いっぱい、機関最大戦速!」

 

 叢雲は三つの号令を発しながら、しかしそれは既に同時に実行されていた。

 

 叢雲は二基の機銃による火線を放ちながら、その船体を急激に左回頭させた。激しい波飛沫が船体全てを包み込む。大きく傾いた艦橋で私は司令席の手すりを固く握りしめて身体を支えた。

 

 機銃により爆弾二発を海面に叩き落し、残る二発が至近距離に着水する。着水時の水柱が収まる間も無く、爆弾の水中爆発によってそれ以上に巨大な水柱が噴き上がり、叢雲の船体を大きく傾けた。

 

 一瞬、転覆するかと疑うほどの傾斜の後、すぐに船体は反対側へ振れ戻る。叢雲はその反動を利用し、すかさず面舵回頭に移し、艦を安定させた。

 

 その時、叢雲は何かに感づいたように席から立ち上がり、水飛沫が舞う外を見上げ、睨みつけた。

 

「まだ来る気? いい度胸してるわねっ!」

 

 多目的スクリーンのレーダー画面上、爆弾投下を終えて遠ざかろうとする四機のうち、一機が再び旋回し、接近していた。

 

 敵機はロケット弾を連射。

 

「邪魔よっ!」

 

 回頭中に再照準を完了していた後部主砲が火を噴き、至近弾が敵機の右翼を吹き飛ばした。

 

 ほとんど同時に、後部機銃が跡形もなく消し飛んだ。敵機のロケット弾が命中したのだ。

 

 さらに翼を失った敵機が錐揉みしながらまっすぐ突っ込んでくる。

 

「機銃--っ!?」

 

「伏せろ、叢雲!」

 

 司令席から飛び出した私が彼女を床に押し倒した、その直後、敵機が船体後部へ激突した。

 

 艦橋が激しく揺さぶられ、私は叢雲を胸に抱いたまま大きく床を滑り、壁に右肩から衝突した。

 

 船体が振れ戻り、私と叢雲は再び艦橋中央に転がり戻る。途中、どこかに服が引っかかり、大きく破ける音がした。

 

 二、三度左右に転がされた後、私が仰向けになった状態で揺れはようやく小さくなった。

 

「叢雲、無事か!?」

 

「被害探知、急げ!」

 

 彼女は私の胸の上でサポートAIに指示を下すと、上体を起こして私を見下ろした。

 

「見たところ、あんたは無事みたいね。でも」

 

「私より自分の心配をしろ」

 

「大丈夫よ、それにメンテ妖精が点検してるし」

 

「船体という意味じゃない」

 

 彼女の上着は鳩尾あたりが大きく裂け、白い肌と、その中心の小さな窪みが露わになっていた。どうやら転がった時に破れたのは叢雲の服だったようだ。

 

 見たところ肌に傷はついて無さそうだが、鳩尾近くに薄く浮かび上がる肋骨の線と、下着の端が見えて、私はとっさに目を逸らした。

 

 私の反応に、彼女は一瞬不思議そうな表情をして、自分の服を見下ろした。

 

 叢雲の目元に、さっと朱が差した。

 

「ちょっと、やだ、何これ!?」

 

「怪我はないか?」

 

 極力、直視しないように訊いた私に、叢雲が怒ったように言った。

 

「だから大丈夫だって言ってるでしょ! あ、あんたが庇ってくれたんだから・・・それより!」

 

 彼女が手を伸ばして、私の右肩を掴む。途端に、激しい痛みが全身を貫き、私は思わずうめき声を上げてしまった。

 

「やっぱり、肩を脱臼してる!? 上着を脱がすから、立てる?」

 

 胸の上から降りた彼女に左手を引かれ、私はなんとか立ち上がる。揺れのせいもあるが真っ直ぐ立つことができず、右肩がひどく下がった状態だった。

 

 叢雲が正面に立って、ダブルの黒い上着のボタンに指をかける。

 

「くっ・・・揺れのせいで上手く外せられないわね・・・!」

 

「無理するな、これぐらい自分でできる」

 

「左手しか使えないのに?」

 

「自分の服なら簡単だ。他人の服は慣れないと難しい」

 

 私は左手で上着のボタンを外す。叢雲が背後に回り、上着に手をかけながら、訊いた。

 

「片手じゃなかったら脱がし慣れてるってこと?」

 

「どういう意味だ」

 

「そのまんまの意味よ。あんた何度も他人の服を脱がせてるわけ?」

 

「こんな時に何を言っているんだ、お前は?」

 

「だって、そんな言い方されたら気になるじゃない!」

 

「それを真面目に答えたらセクハラになるだろうがっ痛ででで!」

 

「そんなの当然じゃないっ! ああ、もう、なんで私こんなこと訊いてんのよっ!?」

 

 半分冷静さを失っている叢雲に無理やり上着を脱がされ、ワイシャツ姿になった私は、自分の右肩を見た。

 

 服の上からだが、白い薄手のシャツには血は滲んでいない。どうやら脱臼だけで済んだようだ。

 

「叢雲、肩を入れ直すから右腕を両手で持ってくれ」

 

「え? こ、こう?」

 

 叢雲に右腕の手首と肘を持ってもらい、私は左手を右腋に当てて座り込む。

 

「一、二の三で右腕を伸ばしたまま斜め上にあげるんだ。行くぞ、一、二の・・・三!」

 

 グイッと持ち上げられた拍子に、右肩が元の位置に戻る。

 

「いいわ、うまく戻った! ・・・って、あんた、大丈夫?」

 

「ぐぅぅぅ・・っっっ!!」

 

 肩から襲い来る激痛に悶えながらも、私はなんとか立ち上がった。

 

「で、被害は?」

 

「私の・・じゃなくて船体のよね!」

 

 赤い顔のまま、叢雲がウィングに出る。私も後を追い、彼女と共に身を乗り出して船体後部を眺めた。

 

 後部二基の主砲の砲塔がひしゃげ、そのさらに後ろにあるはずの機銃座は真っ黒な残骸となって煙を上げていた。

 

「被害報告が来たわ。二番主砲電源喪失により沈黙、現在修理実施中。三番は艦載機の直撃を受けて、全損、使用不能。後部機銃はロケット弾の直撃で消失」

 

「火災と浸水は?」

 

「初期消火成功よ。浸水なし」

 

 叢雲はそう報告すると、安心したように息を吐いた。とりあえず弾薬庫への引火や、喫水線下への大量浸水といった致命的な損傷は避けられたようだ。

 

 私は国際無線で藤永田丸の損傷を訪ねたが、向こうも先ほどの攻撃による被害はないそうだ。

 

 叢雲が空を見上げながら言った。

 

「残敵三機が引き上げていくわ。母艦へ帰投するのね」

 

「敵空母の搭載能力から考えれば、帰投機を含めてまだ八機は残っている筈だ」

 

「第三波が襲来したら、もう防げないわよ?」

 

「その前にこちらから仕掛ければいい。今こそ反撃のチャンスだ」

 

 私は司令席に戻ってレーダー画面を見上げた。

 

「艦載機の帰投方向と、哨戒機が逃げる前に送ってきた座標から、敵空母の概略位置を割り出すことができる。そこに向けてSSSM攻撃だ」

 

「概略位置が間違っていたら無駄撃ちになる。賭けよ?」

 

「SSSMは単独で目標を捜索可能だ。その捜索可能エリアにひっかかればいい。まあ、哨戒機が戻って来てくれれば確実なんだが・・・」

 

 と、私がそこまで行った時、多目的スクリーンの片隅に【秘匿通信受信】の文字が出現した。

 

「哨戒機からよ。【本機を追跡していた敵艦載機が帰投を開始。本機はこれより反転し、再度、敵空母艦隊の補足を試みる】よ」

 

「いいタイミングだ、状況はこっちの有利に流れ始めたぞ、この機を逃すな。叢雲、哨戒機に返信だ。敵空母の位置判明後、本艦はSSSMによる対艦攻撃を実施する。海空協同攻撃の可否を問う」

 

「了解・・・哨戒機より、【協同攻撃実施可能】!」

 

「いいぞ、成功したら差し入れ奮発だと伝えろ。AIR WARNING YELLOW、WEAPONS TIGHT、対空戦闘用具収め。SURFACE WARNING RED、WEAPONS FREE。水上戦闘用意!」

 

「了解。水上戦闘用意。SSSM攻撃準備。・・・哨戒機から入電、敵空母艦隊の補足に成功。なお、差し入れは瑞泉の古酒を希望するとの事」

 

「瑞泉か、いい泡盛だ。高品質でありながら値段が手頃なのがまた素晴らしい」

 

「あんた、呑んべえなのね」

 

「君は飲まないのか」

 

「あら、私にも差し入れくれるの?」

 

「帰ったら奢ろう」

 

「嬉しいわね、考えておくわ。・・・哨戒機と戦術データリンク完了。水上戦闘用意よし、SSSM攻撃準備よし」

 

「水上戦闘始め!」

 

「水上戦闘始め。海空協同攻撃を行う。SSSM攻撃始め。目標、駆逐イ級ナンバー1。発射弾数二発、支援一発」

 

『目標、駆逐イ級ナンバー1。発射弾数二発。座標入力完了』

 

 サポートAIの答えと同時に、船体中部に搭載された三連装魚雷発射管が旋回し、発射口を正横に向けた。そして水平だった発射筒がリフトアップし、斜め上に向けられる。

 

『SSSM発射用意よし』

 

「SSSM発射始め!」

 

 発射筒から大量のガスと煙が噴出し、空に向けて二発のSSSMが飛翔していく。

 

『SSSM発射。正常飛行』

 

「次回目標、駆逐イ級ナンバー2。発射弾数二発、支援一発」

 

『目標、駆逐イ級ナンバー2。発射弾数二発。座標入力完了。SSSM発射用意よし』

 

「SSSM発射始め!」

 

『SSSM発射。正常飛行。哨戒機、SSSM攻撃を実施』

 

 遠く離れた空の彼方でも、哨戒機が搭載SSSMを叢雲から指示された二目標へ発射した。哨戒機に対し、さらに残るイ級一隻を目標として指示され、それに対し二発を発射する。

 

 イ級にも叢雲同様、対艦攻撃を仕掛ける飛翔体への迎撃能力がある。しかしそれは同時突入してくる目標に対し、最大三目標への対処が限界という事が判明していた。

 

 それに対し、ヲ級の対空対処能力は一目標を対処できるかも怪しいほど脆弱だ。だがその分、イ級よりも耐久力が高い。

 

 今回、三隻のイ級はヲ級を守るように輪形陣で航行していた。則ちイ級は自分の対空対処能力の一部をヲ級防護に割り振っているということだ。

 

 これならばヲ級にSSSMを四発撃ち込んでイ級に対処させている間に、その各イ級へSSSMを三発ずつ同時突入させれば確実に命中させることができる。

 

 問題はヲ級へ向けた四発がどれだけの効果を上げるか、だ。イ級が持てる能力を全発揮して三発まで落としたとしても、最低一発は命中させられるだろうが、それで耐久性の高いヲ級を沈められるだろうか?

 

 私が密かにそんな不安を抱えている間に、叢雲が最後の四発をヲ級に向けて発射しようとしていた。

 

 一発、二発目は順調に発射され、三発目を撃とうとした時、警報が鳴った。

 

『発火停止、SSSM発射不能』

 

「SSSM発射待て!」

 

 サポートAIからの報告に、叢雲が発射を中止する。チッ、と叢雲がかすかに舌打ちした。私も同じ気分だった。

 

 サポートAIが多目的スクリーンに故障原因を表示する。艦載機の突入によるダメージにより回線が一部損傷していたため、発射シーケンスにエラーが生じたようだった。

 

「SSSM発射やめ。発射弾数七発、残弾二発。ヲ級を沈めるには力不足だわ」

 

「せめて甲板を破壊できれば良い。そうすればこの場は勝ちだ。言っただろう、見敵必殺はできずとも民間船舶に被害が出なければ勝ちだ、ってな。あまり気に病むな」

 

「そうね、そうだわ。了解。目標弾着まで二十分。今のうちに被害の復旧を急がせるわ」

 

 多目的スクリーンに海図が表示され、発射されたSSSMの航跡が光点で示された。七発のSSSMはまっすぐ敵艦隊に向かうのでは無く、それぞれ大きく蛇行を繰り返しながら海面すれすれを飛翔している。こうする事によって敵のレーダー探知を回避し、かつ同時突入のためのタイミングを調整するのだ。

 

 本艦の七発と哨戒機からの四発が、敵艦隊の四方を囲むように展開していく。私がそれを眺めていると、そばに一体のメンテ妖精が救急救命セットを持ってやって来た。

 

 どうしたのかと疑問に思っていると、叢雲が言った。

 

「一度脱臼したら外れやすくなるって言うでしょ。腕を副木固定して吊った方がいいと思って呼んだの」

 

「そうか、助かる」

 

 メンテ妖精に右腕を処置してもらう間に、SSSMは敵艦隊へ殺到しようとしていた。

 

 サポートAIがカウントダウンを開始する。

 

『SSSM弾着三十秒前』

 

 各イ級に三発ずつ、そしてヲ級へ二発が同時突入を開始。

 

 海面低空飛行で目標手前まで接近し、そこから急上昇を開始。位置エネルギーを稼ぐと同時に目標を光学照準により捕捉し、急降下に移る。

 

『弾着二十秒前』

 

 多目的スクリーンが十二面分割され、そのうち十一面に各SSSMからの映像情報が表示される。いずれも小さな点のような目標を画面中央にしっかりと捉えていた。

 

 画面中央の点が急速に大きくなる。イ級に装備されている5インチ砲の推定射程距離に進入したところで、それぞれに向かっていた一発ずつが消失した。

 

『弾着十秒前』

 

 三隻のイ級はそれぞれさらに一発を撃墜。これにより残るSSSMは五発になる。しかし墜とされたのはいずれもイ級を標的とするミサイルだ。ヲ級用の二発は未だ健在。

 

『5、4、3・・』

 

 そのヲ級用の一発が消失。しかし、ほぼ同時に各イ級へSSSMが突入した。

 

 そして、残る一発もヲ級へと突入する。

 

 多目的スクリーンから全てのミサイルの情報が消え、サポートAIがSSSM弾着を告げた。

 

 すぐに哨戒機から、現場海域の目視確認を行うとの通報が入る。

 

「哨戒機によれば、まだ近くに艦載機が複数飛行しているらしいわ。ちょうど収容中だったみたいね」

 

「反撃されるかも知れん。無理せず慎重に行うよう伝えてくれ。それと、突入に成功したミサイルの映像情報をもう一度再生できるか?」

 

「了解、表示するわ」

 

 多目的スクリーンが今度は四分割され、それぞれのミサイルが突入する寸前の映像が表示された。

 

 スローモーションで再生して分析したところ、各イ級へは、ほぼ中心部近くへ突入している事が判明した。搭載炸薬量と命中箇所からみて、大破以上の戦果は確実と思われた。

 

 後は最も脅威度の高いヲ級だったが、こちらはどうやら頭部へ突入したようだった。艦載機を発艦させていた部分だ。

 

「飛行甲板を破壊できたかしら?」

 

「この部分の強度によるだろうな。構造上、被弾の確率も高いだけに装甲が厚いとの分析もある」

 

 数分後、哨戒機から確認情報がもたらされた。

 

「現場海域に大量の気泡と浮遊物を確認、イ級三隻、撃沈確実!」

 

「ヲ級は!?」

 

「頭部から黒煙の噴出を確認。艦載機発進口を損傷した模様。尚、艦載機については収容を諦め、全機海面へ墜落」

 

 その報告に、私は大きく安堵の息をついた。一時はどうなる事かと思ったが、なんとか脅威を排除できたようだ。

 

 叢雲も同じ気持ちなのか、表情を緩めながら、言った。

 

「哨戒機から映像が送られてきたわ。スクリーンに出すわね」

 

 高空からの映像が映し出された。そこには、広い海原に大量の黒煙を噴き上げながら佇むヲ級の姿があった。

 

 しかし、

 

「叢雲、この映像、少しおかしくないか?」

 

「どういうこと?」

 

「いや、ヲ級と煙の位置がずれているような気がしてな」

 

「え?」

 

「哨戒機に映像を拡大するよう伝えてくれ」

 

 私の要請に、哨戒機がカメラをズームアップさせる。

 

「っ!?」

 

 画面に大きく映し出されたヲ級の姿に、私たちは思わず息を呑んだ。

 

 ミサイルが命中した偏平な頭部が脱落し、海面に落ちていた。それだけならまだ予想の範囲内だ。

 

 しかし、本体にもまだ、頭部があった。偏平で巨大な頭部ではなく、胴体とのバランスのとれた、長い髪のようなものを持った、人の顔、女の顔だった。

 

 その顔が、カメラを見上げていた。真っ白な肌に、青い目が、憎悪を燃え立たせているかの様に燐光を放っていた。

 

 ぞっ、と私の背中に悪寒が走った。このままでは終わらせない。と、その目は告げている様だった。

 

 映像の中で、ヲ級が足元から海中へと沈み始めた。沈没では無く、自らの意思で潜水しているのだ。

 

 ヲ級本体の姿が完全に水中に没し、それを待っていたかの様に、海面に残された偏平状の頭部が爆発し、粉々に砕け散った。

 

「ヲ級、反応消失。哨戒機はソノブイを投下し、音響索敵を開始したわ」

 

 しかし、追跡できる確率は低いだろうと私は思っていた。船体をひどく損傷しているならともかく、無傷の深海棲艦は水中でほとんど音を出さないし、反響も恐ろしく少ない無音の存在だ。そしてヲ級の本体は、全くの無傷と言っていい。

 

 案の定、しばらくして哨戒機から目標ロストが通報された。

 

 叢雲が微妙な表情で私に問いかける。

 

「勝利宣言、していいと思う?」

 

「いや、まだ状況は終わっていない。あいつは・・・ヲ級は、まだこちらを狙っている」

 

「そう思う根拠を訊いていいかしら?」

 

「本体はまだ無傷だ。後は主観的判断だな。ヲ級の、あの目はまだ、戦意を喪失していない」

 

 正直、深海棲艦に感情があるかどうかは不明確なところが多い。もしあったとしても、人間と同じ姿と顔を持っているとはいえ、その表情に我々人類と同じ意味が込められてるとも言い難い。

 

 しかし深海棲艦が人類への敵意の塊の様な存在だというのは事実だ。そしてこの状況で友好的な感情が芽生える筈もなく(もし芽生えるなら、それこそ我々にとって理解不能の存在だ)、ここは敵意が増したと判断するのが適当だろう。

 

 私は叢雲に、ヲ級のデータをスクリーンに表示させる。

 

「これまでの交戦情報によると、ヲ級本体にも5インチ砲が一基、搭載されている様ね」

 

「現状、こちらの武器は?」

 

「前部甲板の一番主砲と、前部機銃のみ。SSSMの修理が間に合えばいいけど」

 

「敵が来るとすれば潜行状態で主砲の射程圏内まで接近してくる筈だ」

 

「まるで至近距離での殴り合いね。そういうのは戦艦の仕事だわ」

 

 はあ、と叢雲は溜息をついた。まだまだ気の休まらない状態が続くが、叢雲の表情には疲労の色が現れていた。

 

「なあ、叢雲」

 

「なに?」

 

「帰ったら奢ると言ったな。何にするか決めたか?」

 

「ああ、その話ね」

 

 彼女の表情に、少しだけ柔らかさが戻った。

 

「そうねえ、甘いものなんか悪くないわね」

 

「いいな。ケーキバイキングにでも行くか。好きなだけ食い放題だ」

 

「そんなに食べる気はないわよ。それなりに質の高いものを味わって食べたいわ。できればおしゃれな店の、庭先にオープンテラス席があったら素敵だわ」

 

「ふむん・・・そこに二人でか」

 

 まるでデートみたいだな、と口に出しかけ、やめた。

 

 彼女も同じことを思ったのか、顔を赤くしていた。気晴らしのつもりで振った話題だったが、思わぬ反応を引き出してしまったようだ。

 

 叢雲が、私から目を逸らす。

 

「こ、この話は後でするわ! 任務中に未来の話すると、変なフラグ立ちそうだし!」

 

「そ、そうだな」

 

 フラグと言うか、ジンクスとでも言うべきか。

 

 危機的状況下にあって平和な将来を語り出すと、大概、ロクでもない結果を迎えるものだ。それが男女関係の話題ともなれば尚更である。

 

 それに危機的状況下で惹かれ合う男女は、長続きしないともいう。色々な意味で、叢雲とのプライベートな会話は入港後まで預けておいたほうが良さそうだった。

 

 




次回予告

 損傷を受けつつ、脅威を退けた海尾と叢雲。しかし、その行く手には新たな脅威が迫っていた。

 濃く、深く、視界を奪うかのように降り注ぐ雨。

 音もなく頭上を走る稲妻。

 そして、青く光る憎悪の光!

 砲音が海上の静寂を打ち破るとき、決死の砲雷撃戦が幕を上げる!

 次回「第三話・雷鳴の砲撃戦」

「やっぱり、フラグ立てちゃったかしらね?」




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第三話・雷鳴の砲撃戦

 藤永田丸から舵復旧の見込みが立ったとの連絡が入ったのは、ヲ級を見失ってから三十分後のことだった。

 

『この分なら、なんとか生き延びられそうです。護衛に感謝します』

 

「希望に水を差すようで心苦しいですが、深海棲艦はまだ諦めてはいないと我々は考えています。しかしご覧の通り、我が艦も損傷を受けています。隣の警備艦隊の管轄海域へ入るまでは油断をしないで下さい」

 

『了解しました。しかし礼だけは言わせて下さい。貴方たちが身を挺して守ってくれなければ、私たちは先の襲撃ですでに沈んでいた。本当に有難うございます』

 

「わかりました。その言葉は彼女にも伝えておきます」

 

『彼女? もしかしてその船は“艦娘”ですか?』

 

「ええ、そうですよ。私は座乗中の警備艦隊司令です。叢雲は彼女の名前ですよ」

 

 私がそう言うと、相手は少しの間、押し黙った。交信終了を宣言することなく交話が切れたかと思った矢先、相手が言った。

 

『・・・私には娘がいます。幼い娘は艦娘になるのが夢だと言っていました』

 

「・・・」

 

 突然始まった身の上話に私は少し戸惑ったが、相手が何かを伝えたがっているのが分かったので、黙って聞いた。

 

『私は海の怖さを知っています。だから娘には海に出て欲しくはなかった。ましてや艦娘なんて危険な職業などとんでもない、と。そう思っていました』

 

 私はそれを聞きながら、横目で叢雲の様子を伺った。彼女は多目的スクリーンに映る修理状況を見つめていたが、交信内容は聞こえているはずだ。

 

 相手が、『しかし』と言った。

 

『しかし、今は娘のその夢を誇りに思います。叢雲さんに伝えて下さい。私は生きて帰って、貴女の勇姿を娘に語ります、と』

 

 わかりました、と答えながら横目で叢雲を見ると、彼女は相変わらずスクリーンを凝視したままだった。

 

 だが、その頬は耳まで赤くなっていた。

 

 私は無線を切って、彼女に言った。

 

「叢雲、ファンができそうだぞ?」

 

「やめてよ、国際無線であんなこと言われたら恥ずかしくてたまらないわ」

 

「私じゃない、相手が言い出したことだ」

 

「きっと空襲直後で気が昂ぶっていたのよ。・・・艦娘なんて憧れるものじゃないわ」

 

「だが、悪くないって顔をしてるぞ?」

 

「うるさいわね、あんまりからかうと魚雷食らわせるわよ」

 

 なるほど、こういう煽りに弱いのか。と、私は彼女に関してまた一つ情報を入手する。

 

「魚雷といえば、SSSMは直せそうか?」

 

「不具合箇所の特定ができたし、交換用の予備品もあったからなんとかなりそうよ。ただ他の武器に関してだけど、二番砲については発射回路が焼き切れていて使用は無理そうね」

 

「てことはSSSMを除けば、残る武器は前部機銃一基と主砲一基のみか」

 

「ヲ級もどうせ5インチ砲一基だけよ。当たってもすぐに沈みはしないわ。・・・前方10000、雨域よ」

 

 叢雲の言葉に前を見る。

 

 水平線上に伸し掛かるように黒雲が広がり、ところどころで稲妻が音もなく走っていた。雲の下は激しい雨で、灰色に霞んでいる。

 

 二隻はそのまま進み、スコールへと進入した。頭上を覆う厚い雲と大量の雨によって周囲は薄暗くなり、視界は急激に悪化する。

 

 そんな中、藤永田丸から舵復旧の知らせが届いた。

 

「これで少しは気が楽になるな」

 

「こっちもいい知らせよ。SSSM修理完了、使用可能」

 

「よし、とりあえずこの雨域を出よう」

 

 レーダーでもソーナーでも見つけられない敵を探すには、目視見張りしかない。しかしこのスコールではそれも難しかった。哨戒機も本艦に近づく敵が見えなければ支援し辛いだろう。

 

 私は無線で藤永田丸を呼び出し、針路変更を通報する。藤永田丸は了解。

 

「叢雲、北に針路をとれ」

 

「了解。面舵、0度宜候」

 

『0度宜候』

 

 叢雲の船体が右への回頭を始める。私は腕時計に目を落とす。

 

 ヲ級の最後の確認地点から考えると、遭遇までおよそ三十分といったところだ。ようやく舵が効くようになったのだから、なんとかこのまま遠ざかりたいものである。

 

 私は目を艦橋の窓に戻し、相対的に左へと流れていく海を眺めた。鉛色の雲が頭上に広がり、雨に混じり、時折、稲光が輝いて周囲を照らす。

 

 回頭が終わろうとした時、いくつかの稲光が連続して瞬いた。

 

 回頭方向を眺めていた私の視界に、一瞬、人影が映る。

 

 それは海の上、はるか向こうだ。それなのに、この雨で煙る視界の中、長い髪をなびかせた女の姿が、稲光の中でハッキリと浮かび上がったのが見えた。

 

 雷光は一瞬のみ。視界は再び灰色に戻る。だが、人影が見えたその方角から、チカチカと閃光がまたたいた。四回。

 

「叢雲--!」

 

「面舵いっぱい! 最大戦速、急げ!」

 

 私が注意を促すまでもなく、彼女もすでに気づいていた。舵を大きくとり、速力を上げて人影と閃光が見えた方角へ艦首を向ける。

 

 私は大きく傾く艦橋の中、国際無線の受話器を取るや否や叫んだ。

 

「藤永田丸! 今すぐ左回頭、全速力で南下せよ!」

 

 叫ぶ私の耳に、低く重い炸裂音が四回届いた。この音を私は知っている。5インチ砲の発砲音だ。さらに艦橋の頭上を高速の物体が空気を切り裂いて飛び抜けていく。

 

 私はウィングに飛び出して後方にかわった藤永田丸を見た。

 

 藤永田丸のすぐ真横に、立て続けに四つの水柱が立ち昇る。

 

 被弾はしていない。だが至近弾だ。私は前に向き直る。

 

 私はそこに、今度はハッキリと、海上に立つ巨大な女の姿を視認した。

 

 ヲ級だ。

 

 距離は目算で7000ヤード。しかし相手の体長が100メートルもあることを知らなければ、まるですぐ近くにいるかのように錯覚してしまいそうだ。

 

 そのヲ級は右手に杖のような細長い構造物を持ち、その先端をこちらに向けていた。杖の先端が閃光と煙を放つ。

 

 叢雲が叫ぶ。

 

「艦首方向、主砲緊急発射始め!」

 

 FCSの管制を受けないままに12.7センチ連装砲が火を噴いた。四発の弾丸が盲撃ちされる。叢雲が立て続けに指示を下す。

 

「FCS光学照準、目標艦首ヲ級!」

 

『FCS1オンターゲット』

 

「射弾群連射四発、撃ち方始め!」

 

 牽制用四発に続き、照準をつけた四発を発射。同時に頭上を、ヲ級の放った5インチ弾が飛び去っていく。

 

 再び振り返った私の目に、じれったいほどゆっくりと左回頭する藤永田丸の船影があった。そのすぐ手前と、そして向こう側に、まるで船体を挟むかのように数本の水柱が立つ。

 

 夾叉弾だ。藤永田丸は、ヲ級の放った射弾群の散布界に捕らえられてしまった。まだ命中弾は無いが、それも次の射弾群が降り注げば被弾する確率は高い。

 

 私は前方に目を戻す。

 

 みるみる近づいていくヲ級の姿を隠すように、四本の水柱が立っていた。牽制の盲撃ちが着弾したのだ。おそらくヲ級のはるか手前だが、少なくとも相手の視界と射撃の機会を潰すことには成功したようだ。

 

 水柱が下がったとき、ヲ級の杖の狙いが、明らかに接近する本艦に向けられていた。

 

 ヲ級の杖と、叢雲の主砲が同時に火を噴く。

 

「面舵一杯!」

 

 叢雲の操船に、船体がまるでドリフトをするかの様に艦尾を滑らせながら右回頭する。大きく傾く艦橋で私はウィングの縁にしがみつきながら、照準発射された四発の12.7センチ砲弾がヲ級を囲む様に着弾するのを見た。夾叉弾だ。

 

 だがすぐに、右回頭した叢雲の艦尾の真後ろで砲弾が次々と着弾した。ヲ級もこちらを捕えたのだ。

 

 私は艦橋内へ飛び込む。

 

「ヲ級が藤永田丸から狙いを変えたぞ! このまま引きつけろ!」

 

「もとよりそのつもりよ! 取舵一杯!」

 

 叢雲は主砲を放ちながら船体を左に切り返す。左へ流れる艦首のすぐ目の前に水柱が上がった。ギリギリの回避だ。だが叢雲とて弾道が見えているわけでは無い。とにかくランダムパターンで艦を動かすことにより、相手の狙いを狂わせるのだ。

 

 そして、それはヲ級も同じだった。見た目こそ海上に仁王立ちしているが、実際は氷上のスケーターの如く30ノット以上で右へ左へと切り返しながら航行していた。その後を追う様に、叢雲の放った12.7センチ弾が水柱を上げる。

 

 互いに回避運動を取りつつ接近、当初7000ヤードあった彼我距離は、瞬く間に4000を切った。この距離になると砲弾はほぼ直進弾道を描き、発砲から着弾までのタイムラグもほぼ無くなる。

 

「主砲連射始め!」

 

 叢雲は四発ずつの射弾群に区切るのを止め、間断なく撃ち続けながら、さらに距離を詰める。杖をこちらに向けていたヲ級に立て続けに命中弾が発生。上半身が爆煙に包まれる。

 

 だがヲ級はわずかに上体を仰け反らしただけで、こちらに構えていた杖を逸らすことさえしなかった。ヲ級が発砲。

 

 叢雲はヲ級を左舷側に見ながら最大戦速で取舵一杯、左急速回頭を実施。至近弾が着弾。水柱による動揺の他に、船体が別の衝撃に大きく震えた。

 

『後部短SAM発射筒被弾』

 

 スクリーン上に、後部の煙突型短SAM発射装置が破壊されたとの情報が表示される。残弾があれば誘爆必至だったが、不幸中の幸いか残弾無しだ。

 

「この程度、むしろ軽くなったわよ!」

 

 叢雲はさらに回頭を続けヲ級を左舷から右舷側に見る位置へ変える。ヲ級とは反航態勢から、同航態勢へと変わった。彼我距離3500。連射力で勝る叢雲の主砲はヲ級の上半身に次々と砲弾を命中させていた。

 

 だが、しかし、

 

 ヲ級は倒れない。それどころかごく表面を浅く傷つけるだけで、殆どダメージを与えられていなかった。

 

 もとより12.7センチ砲弾では駆逐艦同士ですら致命傷を与えるのに不十分な威力なのだ。このクラスの砲の利点は連射力と取り回しの良さであり、それを発揮できるのは対空戦のときである。

 

 頑強な肉体を持つ空母ヲ級を斃すには、その威力はあまりにも貧弱だった。効果といえば、間断なく弾幕を張ることにより、せいぜい相手の砲撃の精度を落とすことぐらいである。

 

 しかし、こちらの弾薬とて無限にある訳では無い。後部の二基分の弾薬を残った前部一番砲に回しているとは言え、このままでは後数十秒もしないうちに撃ち尽くすことになる。

 

 ヲ級を仕留める強力な武器が必要だ。そう、それは、

 

「SSSM発射用意! 短魚雷に切り替え!」

 

 ヲ級を吹き飛ばすに充分な炸薬を持つSSSMを、叢雲は魚雷仕様への切り替えを指示。サポートAIが発射菅に残る二発のSSSMの飛翔用ロケットモーターと、先端部の短魚雷部を切り離す。

 

『SSSM、短魚雷用意よし』

 

「発射方向右舷、発射弾数一発、短魚雷発射始め!」

 

 魚雷発射管が右旋回し、短魚雷を海中へと放った。同時に反対方向から切り離されたロケットモーター部が海中投棄される。

 

 放たれた短魚雷はウォータージェット推進により水中80ノットまで加速、ヲ級の足元めがけ突き進んでゆく。

 

 SSSMをミサイルとして直接放たなかったのは、至近距離のためロケットモーターでは速度が大き過ぎて狙いを修正できないこと、そして命中時の威力をより高めるためである。

 

 深海棲艦も含め水上艦はすべからく船底が構造的に弱い。そして水中にある魚雷は船底の真下で爆発する様になっており、水圧の影響もあって上方へ破壊力が集中することにより、大型で堅牢な目標でも一撃で葬ることができた。

 

 SSSM短魚雷にはヲ級を沈めるに足る炸薬量と、そして音響探知誘導装置が搭載されている。相手の航行音を聴きとり追尾する装置だ。ソーナーに探知されないくらいの静粛性を待つ深海棲艦だが、戦闘航行中の波切音まで消すことはできない。

 

 魚雷がヲ級に迫る。回避はほぼ不可能な間合いだ。

 

 勝った。

 

 そう思った、次の瞬間、ヲ級が信じられない行動に出た。

 

 ヲ級は杖を足元へ向けると5インチ弾を連射、同時に上体を大きく横へ傾けながら海面を蹴った。足元に撃ち込んだ5インチ弾が爆発、高い水柱を上げ、ヲ級はその反動で横へと跳躍。

 

 その直後、短魚雷の水中爆発による一際巨大な水柱が天高くそそり立った。

 

 ヲ級の100メートルの巨体が真横に飛び、海面を叩きながら受け身を取るように横転、大量の水飛沫を撒き散らしながら、それでも膝をつく姿勢に戻った。

 

「なんて機動力!?」

 

「しかも沈まんとは、物理法則どうなっているんだ!?」

 

 ここまでくると驚愕を通り越して呆れすら感じてしまう。しかし機動力もそうだが、あの巨体で無茶としか思えない動きに耐える頑強な身体構造も脅威的である。12.7センチ砲が通じないのも当然だ。

 

 それでも、やはり無茶は無茶だったようだ。立ち上がったヲ級の右腕が力なく垂れ下がったままだ。おそらく肩を損傷したに違いない。

 

 ヲ級が杖を左手に持ち替え、再びこちらを狙ってくる。叢雲は急速回頭して一時的に距離をとる。それを追って砲撃の水柱が上がるが、明らかに精度が落ちていた。

 

「深海棲艦にも利き腕があるようだな。この距離を維持すればかわし切れる。しかし」

 

「こっちの砲撃が効かないんじゃ意味ないわね。主砲残弾二十発、連射二十秒で弾切れよ」

 

「残る手は・・・」

 

 私は多目的スクリーンの武装表示を見つめた。短魚雷仕様のSSSMが後一発。

 

「叢雲、さっきの雷撃距離は?」

 

「3000よ」

 

「・・・さらに踏み込む。いいな?」

 

「了解!」

 

 叢雲はほとんど間をおかずに即答し、そして、ちらりと私を見て苦笑した。

 

「やっぱり、フラグ立てちゃったかしらね?」

 

「縁起でもないこと言うな。しかもそのフラグ、私を相手に立てて良かったのか?」

 

「そうね。・・・あんたとなら、悪くないわ。--取舵一杯!」

 

 叢雲は再度、針路をヲ級へと向ける。ほとんど真正面だ。ヲ級が杖を構える。

 

「主砲連射撃ち方始め!」

 

 叢雲とヲ級は真っ向から主砲を撃ち合った。こちらの砲弾がヲ級の顔面に集中し、相手の視界を奪う。ヲ級の砲撃は精度を欠いたものの、それでも至近弾が叢雲を次々と襲った。

 

 着弾の衝撃に激しく揺さぶられる船体を必死に制御し、叢雲はヲ級へ突き進む。彼我距離が3000を切る。

 

「ねえ!」と、叢雲が私に向かって叫んだ。「フラグの立てついでにもう一つ言わせて!」

 

「何だ!?」

 

「帰ったら、カレーが食べたい! あんたの作った秘伝のカレー!」

 

「任せろ!」

 

 主砲が発砲を止めた。残弾なし。次の瞬間、主砲が直撃弾を受けて砲塔が半壊した。

 

 艦橋が一瞬、煙に包まれて視界が奪われる。その煙が晴れたとき、艦橋のすぐ目の前に、山のように大きな影が映った。

 

 ヲ級だ。こちらに向かって前傾姿勢をとり、杖を大きく振り上げ突撃してくる。

 

 彼我距離は既に500を切っていた。

 

「面舵! 左舷、短魚雷発射始め!」

 

 わずかに右へ進路を変え、左手で振りかぶったヲ級の死角へ入る。ヲ級はこちらを追って身体を捻り、そこに一瞬の隙が生まれた。

 

 短魚雷が海中へと放たれ、ヲ級がほぼ真横を通り過ぎようとする私たちへ杖を振り下ろした。

 

 轟音と激しい衝撃、そして視界の外を埋め尽くす凄まじい水飛沫に、叢雲の船体が襲われた。

 

 もはやこれまでか、と覚悟するほどの長い揺れと激しい動揺だった。

 

 やがて、ようやく揺れは落ち着きを取り戻し始めた。船体はまだ航走を続けている。どうやら無事のようだ。

 

 しかし、ヲ級は?

 

「やったか!?」

 

「それもフラグよ!」

 

「そんなもん今更だ!」

 

 私はウィングに出て、後ろを見た。

 

 ヲ級は、まだ浮いていた。私はその姿に、思わず唾を飲み込んだ。

 

 ヲ級の両脚は砕け散り、仰向けになって、唯一無事な左手のみが我々を探すかのように杖を振り回していた。

 

 大きく動かした左腕につられ、ヲ級の身体が仰向けから俯せにひっくり返る。ヲ級はまるで溺れているかのように、大きくもがきながら、再び仰向けになって私たちに顔を向けた。

 

 青く光る大きな目が、こちらを真っ直ぐに睨む。

 

 だが、その目からも光が失われ、やがてヲ級はそのまま、大量の気泡で海面を泡立たせながら沈んでいった。

 

 叢雲も、私と同じようにウィングに出て、それを眺めた。

 

「ヲ級撃沈を確認」

 

 呟くように言った叢雲に、私は頷いた。

 

「水上戦闘用具収め、戦闘用意用具収め。・・・叢雲、よくやってくれた」

 

 

 

 

 




次回予告

 ここはどこだ、俺は誰だ。

 帰投した海尾は、再び“前世世界”と向き合うことになる。

 そして深夜の執務室に鳴り響く電話のベル。

 それは、前任者からの電話だった。

 海尾は前任者から、“提督”の秘密を告げられる。

 次回「第四話・暁の水平線」

「私は・・・軍人で、艦娘たちの指揮官、か・・・」




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第四話・暁の水平線

 時刻は1700

 

 既に雨雲を抜け、頭上にはまた、あの叢雲が高い空一面に広がっている。

 

 西に目を転じれば、太陽がゆっくりと傾き始めており、間もなく夕暮れへと差し掛かろうとしていた。

 

 私は艦橋で一人、その景色を眺めていた。叢雲は今は下に降りて、待望の入浴中である。

 

 船体は今はサポートAIによって操艦され、藤永田丸とともに、間も無く隣の警備艦隊の管轄へと入ろうとしていた。

 

 深海棲艦の潜伏予想戦力は全て撃沈したものの、念には念を入れ、隣の警備艦隊も艦隊を警備海域へ派遣してくれていた。しかも我が艦隊虎の子の一隻が満身創痍になってしまったこともあり、急遽、隣からも一隻が私の管轄での警戒を引き受けてくれるという連絡が入っていた。

 

 ちなみに鎮守府の猫吊るしからも、一隻だけなら入渠可能なくらいには設備が回復したとの報告を受けている。

 

 ふとレーダー画面を見ると、三隻で単縦陣を成形した目標が、本艦の進行方向先から接近しつつあった。

 

「AI、艦首10海里方向にSIF(敵味方識別信号)の探知はないか?」

 

『確認します。・・・SIFを探知しました。駆逐艦五月雨、如月、軽巡木曽の三隻です』

 

 どうやら隣の警備艦隊に間違いないようだ。さらに追加情報として五月雨に警備艦隊司令も乗艦中だそうだ。私は艦内電話のスイッチを入れる。

 

「叢雲、入浴中に済まないな。真方位260度方向から僚艦が向かってくる。こちらの警備の引継ぎ艦だ。挨拶するから左正横1000以内で反航態勢になるよう針路を取ってくれ」

 

『ん、了解。ところで私もうすぐ上がるけど、あんたも入浴する? あ、腕吊ってるから無理ね』

 

「まあ、そうだが・・・お前、そういうのあまり気にしないのか?」

 

『そういうのって? そりゃ怪我してたらさすがに入らないけど・・・』

 

「いや、女性が入った後の風呂に男が入るのも、どうかと」

 

『ん? あぁ、ふーん、そういうこと』

 

「何だよ?」

 

『んふっ。カワイイわね、あんた』

 

「・・・」

 

 何と答えたらいいか分からなくなっている間に、艦内電話は切られた。船体がわずかに針路を微調整する。

 

 やがて夕日を背景に警備艦隊の艦影が見えてくる頃、叢雲も艦橋に上がって来た。

 

「ラッパを頼めるか?」

 

「サポートAI、敬礼ラッパ用意」

 

 ちょこちょこっとラッパを構えた妖精が現れ、ウィングに立った。

 

『ラッパ用意よし』

 

「了解。五月雨乗艦中の警備艦隊司令に敬礼する。左気を付け」

 

 反航態勢でお互い行き違うタイミングで、私は敬礼、同時に妖精がラッパを吹き鳴らす。

 

 私の敬礼に気づいたのか、五月雨の艦橋から一人の男性が現れた。そばには白い制服姿の髪の長い少女と、そして同じくラッパ妖精が居る。彼もまた敬礼しラッパが吹かれる。

 

 敬礼を終えた私は、近くにあった探照灯のスイッチを入れ、相手へモールス符丁による発光信号を送った。

 

【ゴシエン カンシヤ シマス コンゴ トモ ヨロシク オネガイ シマス】

 

 彼から【オタガイサマ デス】との返信を貰い、私は艦橋に戻る。

 

「さあ、帰るか」

 

「ええ」

 

 叢雲は反転。一路、鎮守府を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鎮守府へ帰港したのは、日付も変わった深夜の頃だった。それでも鎮守府には煌々と野外照明が照らされ、地上設備の修復作業が夜を徹して行われていた。

 

 私と叢雲の帰港に合わせて最優先で修復された修理ドックへ船体を入渠させ、ようやく陸へ降り立った私たちを、美人が出迎えてくれた。

 

「お帰りなさいませ、司令、叢雲さん。お二人ともお疲れ様でした」

 

 そう言って黒髪ロングに理知的なメガネが魅力的なその女性は、私たちに穏やかな笑みを向けた。

 

「あ、あぁ。ただいま・・・ところで」

 

 君は誰だ? と聞こうとするより先に、隣で叢雲が言った。

 

「あ、あんた、大淀?」

 

「叢雲、知り合いなのか?」

 

「別の部隊で少しだけ一緒だったことがあるわ。私と同じ艦娘で、軽巡よ。で、大淀。あんたいつこっちに来たのよ?」

 

「いつも何も、最初からです。と言うか、間違えて当然かも知れませんが、私は大淀さんではありません」

 

「はい?」

 

「この姿は大淀さんからお借りしているんですよ」

 

 そう言って彼女は、どこからともなく猫を取り出して、両手でぶら下げて見せた。その猫もまた何ともユルいデザインで、すっとぼけた顔をしながら彼女の胸の前で吊られている。

 

「まさか、君は」

 

「はい、そのまさかです。私は司令部業務担当AIの--」

 

「猫吊るし!?」

 

「UN・・・は? 猫つる?」

 

「あ、いや、すまん」

 

 私は、ジト目で睨みつけてきた猫吊る・・・ではなく業務担当AIから目を逸らす。

 

 そんな私に代わり、叢雲が彼女に聞く。

 

「なるほど、これがあんたの“正常な状態”なわけね。やっぱり立体映像なの?」

 

「そうですよ。ほら」

 

 彼女の手から吊るされ猫が、叢雲に向かってぴょんと飛んだ。しかし猫は、受け止めようとした叢雲の眼の前でノイズとなって虚空へ消える。

 

 彼女は言った。

 

「大淀さんは、昔ここの秘書艦を務めていました。ちょうど私が導入された時期でして、司令部業務のやり方なんかは、大淀さんを参考に学習してたんです。いわば私の先生ですね」

 

「で、それで姿まで真似たって訳?」

 

「私って形から入る主義なんです。あ、ご本人からはちゃんと許可は頂いておりますよ。妹ができたみたいって喜んで下さいました。仁淀って名前ももらったんですよ。なのでこの姿のときはそう呼んで下さると嬉しいです。・・・猫吊るしでは無く」

 

「うん、本当にすまんかった」

 

 平謝りに謝ると、AI、仁淀はまた穏やかに笑ってくれた。

 

 まだ仮設だが、私と叢雲それぞれの居住用の私室も用意できたと仁淀は言った。

 

 私は報告書の作成などは明日から行うと叢雲に告げる。

 

「そう? じゃあ私はもう休ませてもらうわ。明日は朝から頑張りましょう」

 

「できれば昼からにしたいが、鎮守府再建で他のみんなも頑張ってるしな。早起きぐらいするか」

 

「なんなら簡単な朝食ぐらい作ってあげてもいいわよ」

 

「無理をするな。それよりも夕飯あたりにカレーを作ろう。仁淀、材料はあるか?」

 

「残念ですがありません。でも、近くの町は空襲の被害を受けていませんし、売っていると思います」

 

「買い物ね。まだこの町のことをよく知らないし、いい機会だわ。ねえ仁淀、町にオープンテラス席つきのお洒落なカフェはある?」

 

「ええ、ありますよ。前任艦隊の方々もお気に入りの素敵なカフェです」

 

 それを聞いて、叢雲の表情がぱあと明るくなる。くる、とその顔が私に向いた。

 

「フラグは回収するべきよね?」

 

「仕事が終わったらな」

 

「私が秘書艦なのよ。すぐに終わるわ」

 

 さも当然のように高言する叢雲。まったく高慢な態度だが、同時に可愛くもある。

 

「ああ、頼りにしているよ」

 

 私は苦笑しつつ、彼女に左手を差し出した。

 

「今日はありがとう。また、明日な」

 

 叢雲は私の吊った右腕をちらりと見て、そして微笑みながら、差し出した左手を握った。

 

「ええ、明日からも付き合ってあげるわ。買い出しも、カフェもね。おやすみ」

 

 それはデートか? と聞く前に叢雲は手を離し、自分の部屋へと向かって行った。

 

 私はその背中を見送った後、仁淀に執務室へ行くことを告げた。

 

「お休みになられないんですか?」

 

「一つ確認したいことがあるんだ。それをしないと、気になって眠れそうにない」

 

「お手伝い致します」

 

「そんな大したもんじゃない。机の引き出しに入ってる紙切れをもう一度見たいだけさ」

 

 そう、あの新聞記事だ。自分の身に起きた不思議な現象について、もう一度考えておきたかった。

 

「紙切れ、ですか?」

 

「ああ、だからすぐ終わる。君も休め」

 

「私に睡眠は必要ありませんが、わかりました。業務開始まで待機状態とさせて頂きます。・・・あ、それと執務室へ戻られるのでしたら、一件お伝えすることがございます」

 

「なんだ? 前任者の亡霊でも出るのか?」

 

「出ませんし、あの人を勝手に殺さないで下さい。しかしまあ、前任者絡みの件ではあります。司令が出港中に前任司令から連絡がありました。司令がお帰りになったら、深夜でも構わないから電話してくれとの言づけです」

 

「それは、よほどの急用ということか?」

 

「そうではないですね。あの人は個人的な要件だと言っていましたし、司令のご都合が良ければ深夜でも構わない、という意味です」

 

「そうか、わかった。取り敢えず電話してみよう。おやすみ、仁淀」

 

「はい、おやすみなさいませ」

 

 仁淀の姿がノイズとともに消え、私は一人、執務室へ向かった。

 

 デスクの上には、例の新聞紙が置きっぱなしになっていた。私はそれを見て安堵と同時に、かすかに緊張感も覚える。

 

 異世界の記憶について書かれた新聞記事という非現実的なものが、実際に目の前にあるという現実。私はデスクに着き、新聞記事に目を通す。

 

 

【南西諸島海域にて緊迫の度合い高まる。悪化する両国関係!】

 

 

【通商航路封鎖か? 近海域に国籍不明艦が多数遊弋。護衛艦派遣へ】

 

 

 記事を読んだ私の額に、冷や汗が浮かんだ。これは私の覚えている記事ではない。別の記事だ。

 

 しかし、書かれていることは“護衛艦むらくも”の世界のことだと理解できた。むらくも轟沈後の情勢である。

 

 しかし、なぜ。

 

 いや、そもそもこの記事自体、なんなのか。

 

 記事を前に混迷し始めた私の意識を、突如鳴り出したベルが無理やり引き戻す。

 

 ベルは、電話の着信音だった。私は反射的にデスク上の受話器を取る。

 

「はい、南方警備艦隊司令部・・・」

 

『お、帰ってたのか。そいつは良かった』

 

 受話器の向こうから快活な男の声が聞こえてきた。

 

 この男、もしかすると、

 

「・・・前任者か?」

 

『そう言うあんたは後任者だな。たしか、海尾大佐』

 

「そうだ」

 

『俺は海原 遊三、あんたと同じ大佐で、そして似た名前と境遇の人間さ。子供時代、どんな風にからかわれたか想像つくだろう?』

 

 からかわれるどころか、女将を呼べ! とか自分から言いだしそうな男だな、と私は思う。

 

「海原大佐、AIの仁淀から話は聞きました。深海棲艦の大艦隊相手に劣勢で挑み、見事撃退されたそうですね。凄いものです」

 

『その分、あんたには迷惑をかけた。戦力も無いのに残敵の掃討までやらせちまって悪かったな。だが、駆逐艦を引き連れたヲ級を相手に単艦で挑んで全滅させたそうじゃないか。あんたこそ大したもんだ』

 

「部下の活躍のおかげです。全て彼女のおかげだ」

 

『あんたと同時着任した艦娘だな』

 

「ええ、駆逐艦・叢雲です」

 

『気に入ったかな?』

 

「どういう意味で?」

 

 この男、からかっているな。と感じながら聞き返す。何しろ秘書艦を妻にするような男だ。

 

 しかし、相手からの回答は予想外のものだった。

 

『前世からの縁、的な意味で』

 

「・・・」

 

 黙っている私の耳に、海原大佐は『デスクの引き出し』と言った。

 

『開けてみろ。そこに一枚の新聞がある』

 

「・・・もう見た。今も目の前にある」

 

『なら話は早い。読んだなら気づいてるはずだ。自分に起きた変化って奴がな』

 

「海原大佐、あなたも持っているのか。護衛艦むらくもの記憶を」

 

『なるほど、それがあんたのもう一つの記憶で、そして艦娘との縁か。どうりで単艦でヲ級艦隊を撃破するわけだ』

 

「あなたは違うのか?」

 

『俺はかつて情報軍隷下偵察艦隊所属の電子フリゲート・金剛の乗組員だった』

 

「情報軍? 電子フリゲート?」

 

『あんたにとっちゃ馴染みのない単語だろうさ。まあその辺はお互い様だ。俺だって護衛艦なんて艦種は知らん。だがこういうのは珍しいことじゃない。俺たちは一種の平行世界の記憶を持っているらしい。艦娘運用に関わる提督っていうのは、そういう人種なんだ』

 

「そういう人種って・・・じゃあ、あなたや私だけじゃなく、みんなそうなのか!?」

 

『そうらしいな。俺も気づいたら別の記憶を持っていた。いや、むしろ“電子フリゲート・金剛乗員”の集合意識の方が主で、この海原って人格が仮初めのようにすら感じている。あんたはどうだ? いや、聞くまでも無い。あんたも、そうだ』

 

「・・・否定はしない。だが、だとすれば、この世界はいったい何なんだ。私は、我々は、何のためにこの世界にいるのだ?」

 

『そして、どこから来て、どこへ行くのか。なんとも哲学的な問いかけだな』

 

「茶化すな。私は真面目だ」

 

『俺だって真面目だ。だが俺は哲学者でも芸術家でも無いし、悟りを開けるとも思わん。俺は軍人で、艦娘たちの指揮官だ。すべきことを、する。・・・そして、新聞を読む』

 

「はあ、新聞?」

 

『その新聞、どういう仕組みか知らんが、前世の世界の事を断片的に教えてくれるんだ。そして、どうもこの世界は、微妙に前世と影響しあってるらしい』

 

 その言葉に、私は新聞記事に目を戻した。

 

 先ほどまでの記事の他に、こんな記事を見つけた。

 

【国籍不明艦が民間商船を襲撃。しかし護衛艦の活躍により撃退!】

 

 この記事の意味するところ。

 

 これは、まさか・・・

 

「もしかして、この世界で勝てば、前の世界を救えるのか?」

 

『あんたの世界がどんな情勢か俺は知らんが、まあちったあマシになる可能性はある。というか、そう信じたい』

 

「そう・・・だな」

 

『お互い頑張ろうや。それと、もう一つ』

 

「なんだ?」

 

『部下を・・・艦娘たちを大切にな。特に前世と縁のある艦娘は、きっと運命の艦だ。俺にとっての金剛がそうであったように』

 

「・・・了解、です」

 

 私の言葉に、彼がふふっと笑う。

 

『さて、んじゃ俺から後任への申し継ぎはこれで完了だ。こっから先は、あんた自身で、あんただけの艦隊を作り上げてくれ』

 

「そうさせてもらいます。ただ、できれば業務内容の細かい申し継ぎも--」

 

『眠ぃ、俺、もう寝る。おやすみ』

 

「おい、待て!」

 

 前任からの電話はそうやってあっさり切れた。まったく、とんでもない前任者だ。こうなったら明日の朝イチで電話をかけて細かい業務内容を問い詰めてやる。

 

 と、そう思ったところで大欠伸が出た。とろとろと、まぶたも重くなる。

 

 やれやれ、と私は椅子から立ち上がり、背伸びする。時計を見ると、もう明け方近くだった。このまま徹夜しようかとも思ったが、やはり少しぐらいは眠っておきたかった。

 

 私は地下の執務室から出て、地上へ上る。

 

 掩体壕から出た先の岸壁に佇むと、そこから望む海原の水平線が白々と明るくなり始めていた。

 

 夜明けの海を眺めながら、私はひとり、呟いた。

 

「私は・・・軍人で、艦娘たちの指揮官、か・・・」

 

 ならば、やはりすべきことをしよう。と、私は決意した。

 

 艦隊を集め、深海棲艦と戦い、この世界を守ろう。

 

 その果てに、己の前世が報われると信じて--

 

 

 

 

 

 --この暁の水平線に、勝利を刻もう。

 

 

 

 

 

 




次回予告

 人殺し

 人でなし

 かつて、我が身可愛さに、助けを乞う人々を見殺しにした臆病者と罵られ、汚名を被ったひとりの艦娘がいた。

 海尾の下で再編成が決まった南方警備艦隊。新たに集った艦娘たちの中に、その彼女の姿はあった。

 忍び寄る深海棲艦の脅威

 不吉に蠢く国家間の陰謀

 付き纏う因縁と怨嗟の声

 彼女の配属を機に、南西海域に新たな波乱が巻き起こる。

 次回、第二章~初霜、信念の海~「第五話・守りたいもの」

「私が、守ります」



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第二章~初霜、信念の海~
第五話・守りたいもの


 その日、隣国にもほど近い海域を、一隻の駆逐艦が単艦で哨戒を行っていた。

 

 その駆逐艦の名は、初霜。

 

 全長110メートル、排水量1700トン、一等駆逐初春型の四番艦である。

 

 前甲板には二門の砲身を持つ対空用12.7センチ連装高角砲一基。その後ろに20ミリ連装機銃、そして三階建て構造の艦橋と櫓のようなマストから、甲板は一段下がり、そこに煙突型短SAM発射装置が二基と三連装SSSM発射装置二基、そしてさらに二基の20ミリ連装機銃が交互に搭載され、艦尾側に至ってもう一基ずつ20ミリ連装機銃と対空用12.7センチ連装高角砲が搭載されている。

 

 この初霜を含む初春型は、前型である吹雪型よりも小型の船体でありながら、ほぼ同程度の武装を搭載する艦として建造された駆逐艦であった。

 

 吹雪型とは排水量にして200トンの差があり、武装の差でいえば12.7センチ連装砲と三連装SSSM発射装置が吹雪型のそれぞれ三基から二基へと減らされているが、主砲が減らされた分、対空用機銃が増設され、さらにSSSMについても発射装置一基を撤去する代わりに次発装填装置が搭載されており、発射速度は落ちるものの装弾数自体は吹雪型の9発よりも多い12発へと増加している。

 

 しかし、かようなまでに軽量化と重武装化を図った代償として、船体の安定性が悪化し、操艦性に非常に難のある艦となっていた。そのためこの初春型は四番艦の初霜で建造が打ち切られ、船体を再設計した有明型、そしてさらにそれを改良した白露型が開発されることになった。

 

 現在、海軍では白露型からさらに発展した朝潮型、陽炎型、そして大型化した夕雲型に続き、さらに大型、対空兵装を充実させた2700トン級の秋月型が主流になりつつあり、その性能に追いつくため旧式艦である吹雪型や白露型も近代化改修を繰り返していた。

 

 だが、初春型は小型重武装というコンセプトのために近代化改修に必要な拡張性が足りず、相対的に低性能のレッテルを張られつつあった。

 

 言わばこの初霜は、一種の失敗作の烙印を押されてしまった艦である。

 

 しかし終わりが見えない深海棲艦との長き戦いにおいて一隻でも多くの戦闘艦を必要とする現在の状況下、初春型のような艦と言えども、まだ第一線で使用され続けていた。

 

 そんなある種の妥協の産物ともいえる駆逐艦の艦橋に、一人の少女が立っていた。

 

 多目的スクリーンとアナログ計器が入り混じるその艦橋で、少女は誰にともなく声を発する。

 

「面舵。330度、宜候」

 

『面舵。330度、宜候』

 

 少女の言葉を電子音が繰り返し、艦はひとりでに右へと回頭を始める。すぐに回頭は終了し、電子音がそれを報告する。

 

『宜候、330度』

 

「宜候」

 

 少女は答えながら、目を前方の海上の景色に向けたまま、意識だけをジャイロコンパスに向け、艦が指示通りの方角に針路を取ったことを確認する。

 

 それは一種のテレパシーにも似た機器操作だった。少女の意識は船体に搭載されたあらゆる機器と同期しており、少女はたった一人で、装置などに物理的に触れることなく、この艦全体を掌握、操艦することができた。

 

 このように艦艇を単独で運用することができる能力を持った少女たちは、俗に“艦娘”と呼ばれていた。

 

 その艦娘である少女だが、外見はひどく若かった。幼さを多分に残したその容姿は十代半ばを超えているようにはとても見えない。

 

 だが、揺れる艦橋で微動だにせず背筋を伸ばして立つその姿には軍人としての威厳があり、海を見つめるその眼差しには年齢不相応の大人びた落ち着きと理性の光が宿っていた。

 

 この少女は、自らが操る艦名と同じ『初霜』というコードネームを名乗っていた。というのも海軍では、艦娘と船体を両方まとめて一つの軍用艦艇として扱っているため、すなわちこの駆逐艦は操艦においても書類上においても彼女自身、初霜そのものなのである。

 

 この少女が“艦娘”となるべく海軍へ志願したのは十四歳の事だった。

 

 艦娘としての適格性は身体的特性によるところが大きく、またそれは十代の少女が最も適していた。

 

 深海棲艦が出現する以前までは、このような“ほぼ若い女性しか使えない軍事兵器”の存在など倫理上到底認められるものではなく、実戦投入されることなく基礎研究だけが細々と続けられていた。だが深海棲艦との終わりの見えない戦いが続く現在、背に腹は代えられなくなった現状、世界の海軍では艦娘が急速に実戦へ投入され、今に至る。

 

 初霜が志願した頃は、艦娘はすでに女性の憧れの職業の一つと数えられるくらい世間に認知されていた。初霜自身も志願動機は、幼少期から刷り込まれた漠然とした憧れでしかなかった。

 

 戦場という危険地帯での任務ということもあって両親はあまり良い顔をしなかったが、兵器と戦術の進歩から深海棲艦による被害が減少していたこともあって、最終的には容認してくれた。

 

 適性が認められ入隊した後は半年間の基礎教育を受け、そして“船体”を受領し、艦娘となった。

 

 このとき彼女は「立花型駆逐五番艦・萩」と名乗っていた。全長100メートル、排水量1300トンの小型駆逐艦であり、主に基礎教育を終えた艦娘たちが練習航海用に使用する仮船体である。

 

 しかし仮とはいえ操作方法は通常艦娘艦艇と同様であり、この船体を受容したことにより、彼女の肉体的成長と老化は停止した。

 

 人間の艦娘化によって発現する奇妙な現象の数々を巷では通称“艦娘七不思議”と呼ぶが、その一つにこの「成長、老化が止まる」という現象がある。

 

 原理は解明されていないが、今のところ他に副作用等は発症していないこと、船体との結びつきを解除すればまた成長と老化を再開するところから特に大きな問題になってはいない。それに彼女自身、もともと発育が遅かったところもあって、この当時から実年齢と外見に差異を生じていた。

 

 一年間の練習航海を終え、正式に駆逐艦娘:初霜の名と船体を受け継いでから一年、いま彼女の実年齢は十六歳を超え、外見との差はさらに広くなりつつある。

 

 もっとも、これは採用時期が早く基礎教育期間が短い駆逐艦娘全般に言えることであり、彼女自身、特に気に病んだことはなかった。旧式化しつつあるこの初春型の船体にしても、カタログスペック上はともかく、癖のある操艦性に慣れてしまえばむしろ小型艦故に他の駆逐艦にはない運動性能を発揮でき、結構気に入っていた。

 

 しかし多少の問題はある。小型重武装ゆえに波に対し揺れが酷いのだ。

 

 もともと初霜は船酔いしやすい性質だった。それなのによく艦娘を志願したものだと彼女自身も時折、自虐的に思うこともあった。

 

 しかし、そもそも入隊前は船に乗ったことがなく、そして自分が船酔いしやすい体質だったと気づいたのは教育期間中の乗船実習の事であったから仕方が無いと言えた。

 

 それに、なによりも艦娘の適性条件に「船酔いしないこと」なんて項目はどこにも存在しなかった。

 

 二週間にわたる乗船実習の最初の数日は時化に見舞われ、彼女だけではなく同期生たちは揃って酔いに苦しめられた。

 

 だがこのとき指導についていた練習艦隊の艦娘をはじめとした教官たちは、そんなことお構いなしに新人たちをしごいてくれた。

 

「そう、気分悪いの。トイレはあっちよ、いっぱい吐いてきなさい」

 

 酔い止め薬をもらおうとしたら、指導艦娘の香取から笑顔でそう言われた。

 

「薬は眠くなる成分が含まれているから、訓練中はできれば止めてほしいわね。大丈夫、吐けば楽になるわ。・・・え、もう吐くものがない? それはいけないわ。ちゃんとご飯を食べないと胃を痛めてしまうし、体力も落ちるのよ。ちなみに今日の夕飯は特製カツレツよ、いっぱい食べてね。うふふっ」

 

 慈悲深い笑顔で無慈悲な現実を突き付けられ、新人たちは絶望しながらトイレへと駆けこんでいった。

 

 当時の初霜もその一人で、そうやって時化の間中、船酔いと時化に苦しめられ続け、三日たってようやく天候が回復したころには、もう海上勤務は絶対に無理だと思うほどになっていた。

 

 それから数日間は穏やかな天候が続いたが、訓練終盤を迎えて再び時化に見舞われた。

 

 このとき、初霜たち訓練生は全員が、もう駄目だ、今度こそ死ぬ、と覚悟したが、ところがいざ揺れだしてみると、意外と平気な自分がいた。

 

 艦橋にある計器で揺れを計測してみれば訓練初期の時化と同じくらいに揺れているのだが、不思議と堪えることができた。

 

「一度酷い揺れを経験するとね、三半規管がマヒするの」

 

 と、別の指導艦娘だった白雪は言った。

 

「経験は力なり、よ。どんなことでも、そう。訓練も、実戦も、人生も、めいっぱい辛い目を一度くらい経験すれば、大概の苦難は乗り越えられるわ」

 

 その話を聞いたときは、船酔い程度で人生を語るなんて大げさなと思っていた。つい先日までその船酔いで絶望していたことなど忘れるくらい、もう水上生活に身体が慣れていた。

 

 しかし、苦難を経験して強くなるというのは確かに一つの真理であり、軍隊の訓練というのは正にその為にあると言っても良かった。もっとも訓練としての苦難は強さに代わるよう人為的に調整されたものであるが・・・

 

 では、これが現実の、実戦での、予期しない事故であったなら、それは人にどのような影響をもたらすのであろうか。

 

 初霜はこの単艦哨戒任務で、それを経験することになる。

 

 今、初霜が航行する海域は近傍の大陸国家にも近い海域だった。彼女は、本国と大陸を結ぶ通商航路から外れた海域で、その船と遭遇した。

 

 全長は初霜の半分程度、約50メートルの貨物船だった。

 

 かなり古い船であり、遠目からでも船体のペンキが剥げ、多くの錆が浮いているのが見て取れる。船体の後部に船橋があり、そこから前方部には長方形のコンテナが複数積載されていた。船首近くの横側には船名らしき漢字の文字列が表記されていたが、素人の手書きなのか文字が酷く歪で読み取ることができない。船尾側には船籍を示す国旗が掲げられていた。それは我が国の国旗だったが、こちらもボロ布のような有様だった。

 

 初霜はその船を警戒した。

 

 航路から大きく外れた、普段滅多に船が通らない海域を航行する、船名も定かではない古い船。どこかしら怪しさを感じさせるが、初霜が警戒した理由は、それとは別の、もっと単純な理由だった。

 

 その貨物船は、初霜の左斜め前方から、彼女の進路上を横切るように航行していた。しかもお互いの速力と距離の関係から、このまま進めば初霜と貨物船の進路が交わる場所でちょうど衝突する恐れがあった。

 

 広大な海上でも、船同士が衝突する事故は意外と多い。

 

 陸上の道路のように信号があるわけでもないため、船同士が衝突の危険に陥った場合、どちらかの船が針路を変えるよう、明確なルールが国際法で取り決められていた。

 

 ちなみに現在のように互いの針路が交わって衝突の危険が発生した場合、相手の船を右前方に見る船が針路を変える義務を負っていた。つまり貨物船が初霜を避けなければならないのだ。

 

 しかし、貨物船には一向に変針する気配がない。互いの距離が接近し、初霜は危機感を覚えた。

 

 国際法上、初霜は相手が避けやすいように、現在の針路速力を維持する義務があった。つまりあの貨物船がまだ変針しないからと言って、勝手に避けてはいけないのだ。初霜が回避動作を行うためには、まずお互いの航船意図を明確にする必要がある。

 

 初霜はそのために国際無線で呼びかけを行うことにした。

 

 相手の船名が読めないので、その外見的特徴を盛り込んで、複数の言語を使って呼びかける。

 

 しかし、応答がない。

 

 数回繰り返しても反応が無く、その間にさらに距離が詰まってきたので、初霜は汽笛を吹鳴した。短く五回。相手の航船意図を問う疑問信号である。吹鳴しながら、外部の監視カメラを貨物船の船橋に向け、望遠映像で内部の様子を観察する。

 

 すると、船橋の窓ガラス越しに人影が動いたのが見えた。続いて右ウィングに一人の男が慌てて飛び出してくる。薄汚れたシャツにジーンズ姿の男は、初霜を認めると、すぐに中へ引き返していった。

 

 男のその様子を見て、まるで寝起きを起こされたかのようだ、と初霜は感じた。おそらくそうなのだろう。居眠り運転だ。艦娘のようにサポートAIが搭載されていない船舶での居眠りは致命的な事故を招く。

 

 しかし何はともあれ、相手は目を覚まし初霜を認識した。幸いにしてまだ避航動作を取るだけの距離的余裕はあった。あとは相手の貨物船が避けるのを注意しつつ見守るだけだ。

 

 そう思っていた初霜は、突然、けたたましい警告音を聞いた。この警告音は衝突警報だ。

 

 警報に続きサポートAIが、貨物船が増速したことを告げた。それは航行ルールを無視した信じがたい危険行為だった。

 

「両舷停止! 両舷後進いっぱい、急げ!」

 

 初霜の指示によりスクリューの可変ピッチプロペラが角度を逆に変える。推進力が前進から後進に代わり、初霜の船体に急制動がかかった。

 

 速力を急激に落とした初霜の艦首すれすれを、貨物船が波しぶきと黒煙を上げながら横切って行く。

 

 その船影が左から右へと抜けていき、行き過ぎたところで、艦橋内に鳴り響いていた警報もようやく止んだ。

 

 初霜は安堵のため息をつき、そして船体が前進を止めて後進を始めたことに気づき、慌てて両舷停止を命じた。可変ピッチが中立になり、スクリューは回転したまま推進力を失う。

 

 初霜は船体を停止漂泊状態にしたまま右ウィングに出て、煙突から大量の黒煙を吹き出しながら遠ざかっていく貨物船を眺めた。

 

 あの貨物船に対する怒りはなかった。むしろ初めて経験した衝突の危機と、それを何とか避けた安堵感、そしてあの貨物船の不審な行動に対する疑問の方が大きかった。

 

(なぜ、増速を・・・?)

 

 寝起きで判断を誤ったにしても、普通は速力を落とすか舵を切るものだ。自動車の居眠り運転のようにアクセルとブレーキを踏み違えるというのは、船の構造上、ありえない。船は操舵と速力制御が明確に分かれており、一人用の小型船でもない限り、それぞれを操舵員と機関員が分担して操船している。

 

 つまりあの貨物船が増速したということは、ウィングに出た男(おそらく操船担当者)が機関員に指示したわけであり、極めて意図的な行為である可能性が高かった。

 

 しかも、その速力が尋常ではない。初霜が艦橋内に戻り水上レーダーを確認したところ、遠ざかっていく貨物船は現在30ノット近い速力を出していた。

 

 深海棲艦の脅威が現れて以来、民間船も緊急避難を可能とすべく緊急時には30ノット以上の高速航行を行えるものが多かった。しかしそれは経済性を無視した一時的な能力である。普通の商船は脅威からの逃亡時にしか使わない。

 

 ということはだ、つまりあの貨物船は初霜を脅威と捉えたわけだ。

 

 初霜自身は危害を加えるつもりも誤解を与えたとも思わない。だとすれば、あの貨物船は何らかの不法行為に従事していた可能性が高い、と初霜は結論付けた。人目につかない海域で油断していたところに軍用艦艇と遭遇し、動転したのだろう。

 

 初霜は追跡を決意した。

 

「面舵、第一戦速!」

 

 船体の針路を貨物船に向け、加速を開始。同時に司令部へ通信をつなぎ、状況を報告する。

 

 司令部からの命令は、

 

『今すぐにその不審船を停止させよ』

 

 だった。

 

 その指示に初霜は戸惑う。警備艦隊の任務は深海棲艦の脅威を排除することであり、不審船への臨検や海上犯罪を取り締まる権限を有していない。それを行うのは別組織の海上保安隊である。初霜はあくまで保安隊の巡視艇が到着するまで追尾監視を続けるつもりでいただけだ。

 

 だが司令部は停船させろという。これは越権行為の可能性があった。

 

「海上保安隊よりも先に、不審船を確保せよ。ということですか?」

 

 問い直した初霜に、司令は『違う』と答えた。

 

『俺の言い方が悪かったな。正確には、停めるか、もしくは針路を変更させろ。今さっき深海棲艦が出現したとの通報があったんだ。不審船の逃亡先が、まさにその現場だ』

 

 なるほど、そういう理由かと初霜は納得し、同時に事の重大性にも気づいて胃を締め付けられるような感覚を味わった。

 

 つまり、これから深海棲艦との戦いが待ち受けているのだ。初霜にとって初の実戦だった。

 

『今、他の艦娘をそちらに急行させている。深海棲艦との戦闘は僚艦に任せて、お前はとにかく不審船を現場海域から遠ざけるんだ。いいな』

 

「りょ、了解です」

 

 初霜は機関を最大戦速まで引き上げる。

 

 しかし、不審貨物船との距離は一向に縮まらなかった。水上レーダーで確認すると、貨物船の速度はさらに上がり、35ノットにまで達していた。初霜の最高速が33ノットまでなので、これでは追いつくどころか引き離されていく一方だった。

 

 初霜は水平線に向けてどんどん小さくなっていく貨物船の影を見ながら、国際無線で必死に呼びかけた。

 

「こちらは海軍警備艦隊、駆逐艦・初霜です。貴船は深海棲艦の出現予測海域へ向けて進んでいます。危険ですので即刻、停止、もしくは針路を変更して下さい! 繰り返します!」

 

 しかし応答は無い。サポートAIが初霜の言葉を数か国語に自動翻訳して繰り返すが、相手はそれでも逃走を続けていた。

 

 初霜の言葉を臨検するための方便だと疑っているのだろうか。それとも国際無線そのものを搭載していないのか。どちらにせよ相手に止まる気が無いのは明らかであり、そしてこのままでは深海棲艦に襲われてしまうことは確実だった。

 

 不審船とは言え、深海棲艦を前にすればそれは守るべき対象に違いはない。初霜自身、その考えを疑う気はなく、むしろ軍人として新人であるがゆえに、その使命感は純粋ですらあった。

 

 その使命感を持って初霜は必死に呼びかけと追跡を行っていたが、彼女のその努力もむなしく貨物船は煙突からの排気煙を残し水平線の向こうへと消えていった。まだ水上レーダーにはその影が映っていたが、このままではもう止める術はない。

 

 懊悩する初霜だったが、不意に、レーダー画面上での貨物船の動きに変化が現れたことに気が付いた。

 

 貨物船の速力が35ノットから33ノットに落ちている。逃げ切ったと思って速度を落としたのだろうか。

 

 いや、違う。と初霜は視線をレーダーから水平線上に戻しながら思った。貨物船が吹き上げていた黒い排気煙が、その量をさらに増して立ち上っているのが見えた。

 

 おそらく機関に負荷を掛けすぎたのだろう。軍事用の特製機関でさえ高速航行の負荷は無視できないほど大きいのに、それを超える速力に民生品――そしてあれはきっと違法改造の類だ――が耐えきれるはずがない。

 

 初霜のその考えは正しかったらしく、貨物船の速力は見る間に落ちていき、ついには停止した。

 

 初霜はそれを確認して安堵のため息をつきかけたが、すぐに、このままでは深海棲艦のいい的になると気が付いた。

 

 深海棲艦は故障した船を優先して狙う傾向がある。それも人が乗っている船を、だ。

 

 かつて廃棄寸前の船を自動操縦で同行させ、襲撃にあった際には能動的に故障させるという囮戦法が考案されたこともあったが、深海棲艦は無人船には見向きもしなかったために失敗した。深海棲艦の敵意が人間そのものへ向いていると判明したのは、この失敗の経緯によるものだ。

 

 この事実は船舶の省力化、無人化を進めるきっかけともなった。その省力化の極限ともいえるのが艦娘という存在だ。

 

 しかしそんな改装が可能なのは国家組織か大企業のバックアップを受けられる船舶に限られ、大半の船が未だに従来型なのが現状だ。深海棲艦が出現する前から就航し続けている船もザラにある。

 

 そんな船にはせめてもの手段として、従来の救命筏に代わり、小型高速艇が搭載されるようになっていた。深海棲艦の襲撃に遭遇した際には、鈍足な船を捨ててこれで逃げるのだ。

 

 もっとも、深海棲艦の主目的が人間であるとはいえ、放棄した船が必ずしも無事という保証もなかったため、船員たちの多くは未だに船を捨てることに抵抗感を抱いていた。

 

 むしろ深海棲艦の脅威が顕在化してからというもの、船と運命を共にしたがる船員が増えてしまったくらいであり、船舶業界としては意識の向上を喜びつつも人的被害の増加に頭を悩ませていた。

 

 海軍や海上保安隊も船を最後まで守ろうとする船員たちの救出に骨を折っているのだが、しかし、今回の不審貨物船に対しては、その心配をする必要はなさそうだった。

 

 貨物船はまだ水平線近くにようやく影が見えた程度だったが、レーダー画面上では貨物船から小型目標が分離したのが認められた。おそらく脱出用の小型高速艇だろう。船員は早々に船を見捨てたようだった。問題はその高速艇でさらに逃走を図る可能性があることだ。

 

 しかしその高速艇は貨物船から離れると、初霜から遠ざかるどころか、逆に反航態勢になり接近してきた。

 

(何故?)

 

 初霜は望遠カメラを高速艇がいる方角へ向けた。ズームアップすると、船外機を積んだ4~5メートル程度の小型ボートに三人の男が乗り、初霜へ向けて大きく手を振っていた。

 

 それは切羽詰まった必死な様子であり、まるで何かに追われているようである。

 

(まさか――!?)

 

 初霜はカメラの角度を上げ、水平線上に向ける。

 

 そこに、海上に立つ人影が見えた。

 

 海面に直立不動が可能な存在は、二種類しかいない。艦娘か、軽巡級以上の人型深海棲艦。まして一万ヤード彼方においてはっきりと視認できる程の巨体である。

 

 サポートAIが自動的に画像分析を実施。顔面を覆う白いのっぺりとした仮面と、左腕そのものが主砲化したその特徴的なシルエットから、相手の正体が判明する。

 

『深海棲艦・雷巡チ級』

 

 その報告を受け、初霜は反射的に叫んでいた。

 

「敵艦、見ゆ!」

 

 その宣言を受け、サポートAIが自動的に司令部との戦闘用回線を開きリアルタイムコンバットリンクを開始、現在の状況を司令部へ逐次送信する。

 

 初霜は立て続けに「戦闘用意」を宣言する。

 

 船体中枢コンピュータが戦術モードに移行し、FCS(火器管制システム)が起動、主砲及び煙突型発射筒に収められた短SAMと接続される。待機状態にある主砲の油圧モーターが起動し、弾薬庫から砲弾が給弾装置を使って装填を開始。同時に待機状態にあったメンテ妖精たちが全機起動し、各区画へと散っていく。妖精が配備についた区画から水密保持のため隔壁が閉鎖する。

 

 初霜の身体感覚にも変化が訪れる。船体と艦娘のリンク能力が強化され、各種センサーの情報が直接、皮膚感覚へと変換される。両腕に主砲の重みが加わり、両足感覚は機関部と連動。足元に波を切る感覚が伝わってくる。

 

 初霜の視界に各種カメラの光学情報及びレーダー探知情報が表示され、彼女は近づいてくる小型ボートに乗った男たちの姿をはっきりと見た。初霜はそちらに向かって舵を切りながら、数体のメンテ妖精を上甲板に上げ、右舷側に乗降用の縄梯子を用意させる。

 

 縄梯子の準備が終わるまでに、初霜と小型ボート、そして水平線上から反航態勢で迫る深海棲艦との距離は縮まっていく。

 

 レーダー上、初霜と小型ボートまでは約5000ヤード、停止した貨物船まで8000ヤード、深海棲艦・雷巡チ級までは一万ヤードある。しかし、雷巡チ級の装備する6インチ砲の最大射程は2万ヤードを超える。命中弾を得られる有効射程距離は推定7000ヤードだが、既に敵の攻撃可能範囲に踏み込んでいることに変わりはない。

 

 初霜は右腕の感触から主砲が発砲可能状態にあることを確認する。しかし撃たなかった。船員たちを乗せた小型ボートが間近に迫っていたからだった。救助者の収容と戦闘を同時に実施することは、まだ経験の浅い彼女にとっては困難な話であった。

 

 司令部も同様の判断を下したようで、すぐに指示が来た。

 

『要救助者の収容を最優先とし、速やかに撤退せよ』

 

「了解です」

 

 初霜は小型ボートに近づき、後進をかけ速力を落とす。甲板上に待機させていた妖精に縄梯子の展開を指示。初霜はリンクレベルを落とし身体感覚を通常レベルに戻すと、艦橋の右ウィング出て身を乗り出した。

 

「あなた達を収容します。右舷側に横付けてください!」

 

 初霜が外部拡声器と身振り手振りを交えてそれを伝えると、小型ボートはぶつかるくらいの勢いで横付けしてきた。三人の男たちは我先にと縄梯子に取りすがった。

 

 そんな男たちに初霜は呼び掛ける。

 

「船員はこれで全員ですか!?」

 

 男たちは波で揺れるボートから必死に縄梯子をよじ登りながら、初霜に向かって何かを叫び返した。外国語だ。サポートAIがすぐに翻訳機能を作動させ、同時通訳を開始。

 

「これで全員だ! 早く逃げろ!」

 

「了解」

 

 初霜は艦橋内へ戻り、再びリンクレベルを上げる。チ級は彼方から接近を続けている。

 

 しかし、初霜は疑念を抱く。

 

(おかしい、どうして・・・)

 

 撃ってこないのか。既に有効射程内まで近づいている。だが敵は停止している初霜に砲口を向けようとすらしない。なら砲撃戦ではなく魚雷による雷撃戦を仕掛けるつもりなのか。チ級は雷巡と呼ばれるだけあって、強力な魚雷を大量に装備している。至近距離での打撃力は戦艦を優に上回るほどだ。

 

 しかし雷撃戦を仕掛けるにしては敵の速力が遅く、針路もおかしい。高速でジグザグ航行しながら相手の砲撃をかわしつつ接近するのがそのセオリーだ。だがチ級は15ノット程度の巡航速度で、貨物船へ向かって針路を取っている。

 

 そう、船員が初霜の方へ逃げてきているにも関わらず、無人のはずの貨物船を目指しているのだ。

 

 深海棲艦は人間を狙う。無人船なら絶対襲われないわけではないが、囮用の船があっても、付近に有人船がある場合は間違いなく有人船への襲撃を優先する。その有人・無人の判断はほとんど超感覚としか言いようがない程確実であり、誤認することはまず無い。

 

 初霜は再度ウィングに出て、男たちに向かって叫んだ。

 

「本当に、本当にこれで全員なんですか!? 船には誰も残っていないんですか!?」

 

 男たちは三人目がメンテ妖精の手を借りてようやく甲板上に引き上げられたところだった。男たちは初霜に向かって、狂ったように「逃げろ、逃げろ」と繰り返した。

 

 初霜は問いかけを諦め、面舵いっぱいで前進を開始した。船体が艦尾を振りつつ右回頭を開始。艦橋からは、放棄した貨物船と、それに接近するチ級の姿が見えなくなる。

 

 初霜はFCSの一基をチ級に向け続け、その搭載カメラで動向の監視を続ける。船体が180度回頭を終え、機関最大戦速で離隔を開始。貨物船及びチ級との距離が開き始める。

 

 チ級は逃げる初霜に目もくれず、ついに貨物船に到達した。そして100メートル近い身体をかがめ、貨物船に積まれていたコンテナの一つを掴みあげる。

 

 チ級の顔面は白く平坦な仮面におおわれているが、口元は露わになっていた。その口が大きく開かれ、掴んだコンテナの端に噛みつき、引き千切る。

 

「え・・・?」

 

 FCSカメラでそれを見ていた初霜は、その光景に言葉を失った。

 

 噛み千切ったコンテナから、あるはずの無いものが見えていた。いや、居るはずの無い者、か。チ級が上を向き、顎を大きく開いてコンテナの中身を口腔内へ振り落とす。手足を振り回しながら、多数の人間が、コンテナから落ちていった。

 

 コンテナには生きた人間が詰め込まれていた。あの男たちは、人間を運んでいたのだ。あの貨物船は密入国船だった。いま、チ級に貪り食われているのは不法移民たちだ。

 

「お、面舵いっぱい!!」

 

 初霜は回頭を宣言。悲鳴のような絶叫だった。船体が再度急速回頭、右へ急旋回する遠心力で艦橋が左側へ大きく傾く。初霜は両腕を振り上げチ級に向ける。

 

「デジグFCS1、2、3。アサインマウント!」

 

 FCS三基がチ級を捕捉、前後部の12.7センチ連装砲がFCSと連動し照準を定める。

 

 初霜の突然の攻撃行動を察知した司令部から通信。

 

『初霜、どうした。何があった!?』

 

「貨物船に人が取り残されています!」

 

『なんだと!?』

 

「密入国船だったんです。コンテナにたくさん人が入れられていて――いま、目の前で食べられているんです!」

 

『食べ・・・ばかな!』

 

「助けないと。このままじゃ、みんな」

 

 報告する初霜の言葉を、突如、銃声が遮った。

 

 背後から飛来した銃弾が初霜のすぐ傍をかすめ、艦橋の防弾ガラスに当たって放射状のヒビを作る。

 

 振り返った初霜が見たのは、艦橋内に侵入した三人の男たちの姿だった。

 

 それぞれの手には拳銃がある。初霜は咄嗟にその場に伏せた。同時に男の一人が発砲し、銃弾が伏せた初霜の頭上を掠め、防弾ガラスに二つ目のヒビを作る。

 

「まだ殺すな!」

 

 別の男が、撃った男にそう叫びながら、床に伏せた初霜に飛びかかってきた。初霜は俯せのまま男に馬乗りにされ、後頭部に拳銃を突き付けられた。

 

「いいか、クソガキ、さっさと逃げろ。言う通りにしないとお前を殺す」

 

『おい、今の銃声は何だ! それに、そこでしゃべっているのは誰だ!?』

 

 艦橋内に響く司令の声に別の男が周囲を見渡し、マイクを見つけるとそれに向かって銃を撃った。司令の声が沈黙する。

 

 またがった男が、再び初霜に命じる。

 

「早く針路を変えて、あの化け物から遠ざかるんだ」

 

「・・・嫌です」

 

 押し倒され、銃を突き付けられたまま、それでも初霜はハッキリとそれを拒絶した。

 

 次の瞬間、初霜は後頭部に重い衝撃を感じた。拳銃のグリップで殴りつけられたのだ。激しい痛みに意識が朦朧とする。

 

「殺すぞ。殺して、この船を乗っ取ってもいいんだ」

 

「そうしようぜ」

 

 別の男が、舵輪のついた操舵装置を見ながら言った。

 

「たぶん、俺達でも動かせる。早く逃げよう」

 

 三人目の男が、ウィングから外を見ながら言った。

 

「おい、大砲が化け物に向いているぞ。早く止めさせろ。どうせ勝てっこねえんだ!」

 

「大砲を下ろせ!」

 

 男が初霜に命ずる。

 

 初霜は痛みをこらえながら叫んだ。

 

「嫌だ!」

 

「くそったれ」

 

「どうして嘘をついたんですか!? まだあんなに人が残っているのに、どうして見捨てて逃げてきたんですかっ!?」

 

「黙れっ!?」

 

「私は助けます! あの人たちを守ります!」

 

 初霜の強情な態度に、男の我慢がついに限界に達した。再び銃口が後頭部に押し付けられ、引き金に指がかかる。

 

 そのとき、ウィングに出ていた男が悲鳴を上げた。回頭を終えた船体が貨物船を目指し最大戦速で近づきつつあり、チ級の様子も肉眼ではっきりと視認できるようになっていたのだった。

 

 仲間の悲鳴に、初霜に伸し掛かっていた男も艦橋の窓の外に目を向ける。口元を大量の血で染めたチ級の姿をみて、男は凍り付いた。

 

 そこに生じた一瞬のスキを突き、初霜は艦橋のすぐ外に待機させていたメンテ妖精たちを艦橋内へと飛び込ませた。

 

 メンテ妖精たちは突入するや否やその形状をアメーバ状に変化させ、同時に修理用触手を展開し、男たちへと襲い掛かる。

 

 男たちは妖精の体当たりと、さらに触手によって全身の動きを封じられた上、アメーバ状になったそのボディに包み込まれ、完全に拘束された。

 

 自由の身になった初霜は、すぐさま立ち上がった。ぬるり、と首筋に生暖かいものが流れた感触がする。手で拭うと、べっとりと血塗られていた。殴られた時の傷だ。

 

 しかし初霜は、自分の傷も、拘束した男たちにも目もくれず、チ級へと目を向けた。

 

 チ級もまた、接近してくる初霜についに興味を向けたようだった。その口元も、手にしたコンテナも、足元の貨物船も、すべてが血に染まっていた。

 

(生存者は残っているの?)

 

 チ級が主砲化した左腕を持ち上げ、初霜に向けた。

 

(私一人で、チ級に勝てるの? ・・・違う、勝たなきゃ、守らなきゃ!)

 

 チ級が発砲。

 

「主砲、撃ち方はじめ!!」

 

 轟音とともに、激しい水柱が初霜の目の前に吹き上がった。至近弾を受けながら、初霜は猛然と突撃した。

 

「私が、守ります!」

 

 次の瞬間、初霜の視界が真っ赤に染まった――

 

 

 

 




次回予告

 誰も救えなかった。

 見殺しにした。

 初霜の初陣は“人喰い雷巡事件”という海軍のスキャンダルとして人々に記憶されることとなった。

 一方、南方警備艦隊は新司令・海尾の下で再編成されることが決定した。海尾の意向を無視するかのように、上層部はある艦娘の着任を強制する。

 その艦娘とは・・・

 次回「第六話・南方警備艦隊再編成」

「球磨に、那珂に、村雨、白雪・・・そして彼女。なるほど、これが交換条件というわけか」




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第六話・南方警備艦隊再編成

 南方警備艦隊司令兼宮吉島鎮守府長官代行である海尾守大佐は、先日の空襲によって半壊した鎮守府庁舎の二階にある長官執務室で、ひび割れた窓から外の景色を眺めていた。

 

 春先の南の島は、例年ならとっくにまばゆい太陽と沸き立つ入道雲が空をコントラストに彩っている頃だったが、今年は冬の名残の寒気団が長く居座っているせいで鉛色の陰鬱な雲が頭上を覆っていた。

 

 その曇り空の下で、鎮守府敷地の正門の向こう側に、真っ赤な横断幕がひときわ目立つように張られていた。

 

 

【STOP!! 深海棲艦を呼び込む基地の再建を許すな!!】

 

 

 横断幕の周囲には戦国時代の合戦場さながらに大量ののぼりが乱立され、そこには

 

【戦争反対!】

 

 だの、

 

【基地は島から出ていけ】

 

 だの、

 

【過剰軍備を許すな!】

 

 だの、

 

【平和な島を取り戻せ】

 

 だの、威勢のいい言葉が並んでいる。

 

 世界が深海棲艦の脅威に晒されてから三十年。しかし実は、海上以外で直接的な被害を受けたという事例は少なかった。

 

 無論、島に暮らすものが海上航路を封鎖されて無事で済むはずがないのだが、そういった経済的な理由以外で、物理的な襲撃を受けた事例というのはそんなにない。

 

 そしてその数少ない襲撃というのは例外なく軍事艦艇を要する基地施設に限定されており、それさえも深海棲艦に対しアドバンテージを取れるようになった近年ではめったに見られなくなっていた。

 

 そんな時代にもなると、勢いこういう活動をする者たちも息を吹き返してくるものらしい。自称、平和を求める団体というのがここ最近やたらと増えてきた。

 

 彼らは深海棲艦が地上を攻撃するのは軍事基地があるためだと主張し、軍事基地がなければ攻撃されないと訴えていた。

 

 これは一応、事実に沿っているようで、しかし主客が転倒している。

 

 なるほど基地が無ければ深海棲艦も攻撃目標にしないだろう。攻撃するまでもなくその島は日干しにできるからだ。

 

 無抵抗、非暴力主義が通じるのは同じ人間だけであり、いや、人間でさえ通じる可能性は恐ろしく低い。通じたにしてもそれは、おびただしい流血を覚悟したものだ。よく誤解されがちだが、無抵抗、非暴力主義とは本来、不退転の覚悟を要する捨て身の戦法なのである。

 

 ならば、さて、あの正門の向かいに横断幕を張ってのぼりを掲げた者たちにその覚悟があるのだろうか。と、海尾は思う。

 

 まぁ、ないな。とコンマ五秒で結論を下す。

 

 あったとしても深海棲艦相手には無駄なことだ。奴らに人間の主義主張など関係ない。

 

 戦争?

 

 あの活動家たちは軍が深海棲艦と“戦争”をしていると本気で思っているのだろうか。

 

 確かに日夜軍事艦艇が海上を縦横無尽に走り回り、毎日何百発というミサイルと砲弾と魚雷が消費され、数限りない深海棲艦を海の藻屑にしている。しかし国家の正式見解としては、実は、これらは戦争行為ではない。

 

 なぜなら深海棲艦側から宣戦布告をされていないからだ。

 

 戦争の定義とは、武力を用いた政治目的の達成である。しかし深海棲艦にどのような目的があるのかは未だに判明せず、意思疎通手段さえ現状では不可能だ。分かっているのは、海上に存在する人間への執拗なまでの敵意のみ。

 

 これでは文字通り、お話にならない。戦争終結に向けた交渉が不可能なのだ。となればどちらかが滅ぶまで戦い続けるしかない。それは、もはや戦争とは呼べない。情け容赦ない生存闘争だ。

 

 その違いを理解している人間は意外と少ない。海尾自身、理屈ではわかっていても結局は目の前の敵を沈めることに違いはないので、だからどうした、という感じだ。

 

 海上航路の安全を脅かす脅威は排除する。それが任務だ。相手が深海棲艦かどうかは関係がないし、その過程で敵から反撃を食らうこともある。今回の空襲はその延長線上だったのだ。

 

 だから、あの横断幕だののぼりだのは本来、海のど真ん中にでも行って、深海棲艦に向かって見せつけてやるべきなのだ。なのに、なんだってこのボロボロの鎮守府に対してやってるのか。

 

 だがまあしかし、この国は民主主義国家であり、信条の自由と言論の自由がある。あれはその証明のような光景だと思えば、抗議活動の一つや二つくらい、どうでもいいかと無関心になることはできる。

 

 それに、横断幕やのぼりの勇ましい訴えに反して、正門付近は実に静かなものだった。

 

 時刻は午前十時。今日は平日。

 

 活動家たちは毎朝八時過ぎに集合すると、九時から三十分ほどデモを行った後は解散し、あとは見張りなのか場所取りなのか活動を継続しているという形ばかりのアピールなのか、二人の老人だけが残り、今は折り畳み式の机と椅子でもってのんびり将棋に興じている。他には誰もいない。

 

 いや、居た。正門の守衛が傍に立って勝負の行方を眺めていた。

 

 さて、どうしようかなと海尾は思案する。

 

 職務怠慢を目撃してしまった以上、この長官執務室から正門の詰所に電話をかけて注意すべきだろうか。

 

 彼はコンマ五秒だけ迷って、その案を却下した。面倒だし、意味がない。守衛も将棋に興じる老人も、どちらも島の住民だ。聞いた話では日当で一万五千ほど支給されているらしい。どちらが誰からとはあえて言わないが。

 

 そんな風に海尾が窓から外を眺めていると、背後から重いため息が聞こえてきた。

 

 振り返ると、秘書艦の叢雲が電卓を手に、大量の見積書を前にして、疲れた表情を見せていた。

 

「駄目だわ」

 

「駄目か」

 

 ため息混じりにつぶやいた叢雲の言葉に、海尾も力なく頷いた。

 

 鎮守府再建に必要な予算が不足していた。

 

「こうなったら、もう一度上にかけ合うしかないわね」

 

「既に二回もおかわりしているけどな」

 

「足りないものは足りないんだから仕方ないわよ。だいたい、ここ一週間で資材がこんなに値上がりするなんて想定外だわ」

 

 そう。ここ最近、世界各地の海域で深海棲艦の活動が急激に活発化し、通商航路に大きな影響を与えていたのだ。

 

 世界有数の経済大国でありながら自国内に資源が乏しく、輸出入の九割以上を海上航路に頼る我が国にとってその影響は極めて大きかった。

 

 さらに辺鄙な離島であるこの地では、ただでさえ本土よりも二重三重の輸送コストが嵩むのに、そこに今回の通商航路の不安定化によって原材料価格まで跳ね上がってしまったのだ。その結果、鎮守府再建の資材どころか、島民の日用品まで不足し、急激なインフレ状態となっていた。

 

 しかも急激であるがゆえに海軍から降りた予算が実情を反映できず、二回の増額を得てもまだ足りないという事態に陥っていた。

 

 もっとも、予算が足りなくなった理由はインフレが全てというわけでもない。ほぼ壊滅状態になったこの島の鎮守府の再建を急ぐあまりに、見積もりが大雑把だったというのも要因の一つだ。

 

 だが急がせたのは上層部である。ならば俺は悪くない。と海尾は自分に言い聞かせた。

 

 しかし、そうやって開き直ってみても、三回目の増額要請が通るかどうかは未知数だった。

 

 なにしろ海軍全体の年間予算は決まっており、そしてインフレに苦しむ鎮守府は何もここだけに限らない。二回目の増額要請の時でさえ、請求元の後方支援本部への電話は常に話し中でなかなか繋がらなかった。

 

 そしてようやく繋がった後は、それこそ戦争だった。武力を用いた政治目的の達成である。

 

 互いに言葉という武器を使い、宥め賺して褒めて煽てて懇願した挙句に恫喝した。

 

 母港が再建できずにどう戦えというのだ、この海域が深海棲艦の手に落ちたら貴様のせいだぞ。と、武力(の損失)を背景にこちらの目的を押し通したのだから、立派な戦争行為といえる。

 

「というか、次はホントに戦争になるかもしれん」

 

「昔、軍の誰かが言ったわ。我々は主力を持って業務に当たり、余力を持って敵と相対する。って」

 

「ブラックジョークは真実を含むから笑えないんだ。次は恫喝で済まないかもな。予算担当から訴えられてもおかしくない。なあ叢雲、そのときは弁護してくれるか?」

 

「できる限り努力するわ。駄目だったら差し入れくらい持って行ってあげる。そして、あんたがこの鎮守府再建のために人柱になった事を語り継いでいくわ」

 

「・・・ありがとよ」

 

「どういたしまして」

 

「皮肉で言ったんだ」

 

「あんたのことは忘れないわ」

 

 そう言って優しくほほ笑んだ叢雲は、悔しいが魅力的だと海尾は認めざるを得なかった。

 

 海尾はやれやれとため息をついて、そして覚悟を決めて受話器に手を伸ばした。

 

 と、その手が受話器に触れるよりも先に、電話が鳴りだした。

 

「はい、こちら南方警備艦隊司令部」海尾は慌てて咳払いする。「ではなく、鎮守府長官執務室、長官代行の海尾大佐です。・・・はい? いや、警備艦隊司令も兼任してるから思わず・・・え?」

 

 なんだか要領を得ない応答に、叢雲が秘書艦席からいぶかしげな視線を向ける。

 

 海尾は突然、立ち上がった。

 

「し、失礼しました。司令長官殿!」

 

 通話相手の意外な正体に、叢雲も秘書艦席から立ちあがって、海尾の傍に寄った。

 

「はい・・・はい・・・ええ、予算の件は確かに厳しい状況で・・・はぁ、正直に言ってよろしいんですか? 足りません。全然、足りません」

 

 どうやら用件は再建予算についてらしい。しかしなぜ司令長官が? と叢雲は疑問に思う。

 

 警備艦隊を要する艦隊司令部と、予算を管理する後方支援本部は、同じ海軍総隊内に並列しており、指揮系統は別々だ。

 

 尚、鎮守府長官は本来、この後方支援本部に属しており、海尾は人手不足による臨時的処置で長官代行を務めているに過ぎない。

 

 つまり鎮守府の予算問題について、司令長官がどうこう出来る権限は無いはずだった。海尾とて、長官代行に任じられていなければ再建予算に頭を悩ますこともなかった。

 

 不思議に思いつつ見守る叢雲の前で、海尾は「え!?」と驚きの声を上げた。

 

「鎮守府再建の予算増額交渉をやって下さるのですか!?」

 

 司令長官の意外な申し出に、海尾と叢雲は互いに顔を見合わせた。

 

 これは思わぬ救いの手だ。しかし、

 

(叢雲、どう思う?)

 

(怪しいわ。絶対に裏があるに決まってる)

 

(だろうな)

 

 素早くアイコンタクトを交わし、海尾は改めて受話器を握り直した。

 

「長官、それはありがたい申し出ですが、失礼ながら鎮守府の予算問題は、艦隊司令部にとって畑違いのはずです。理由をお聞かせ願いますか?」

 

 質問しながら、海尾は密かに電話機のスピーカー機能のスイッチを入れた。

 

『理由は三つある』と、司令長官の声が部屋に響き渡った。『一つは言うまでもなく、鎮守府の再建と警備艦隊の再編成を急がねばならんからだ。特に最近の深海棲艦の活発化は由々しき事態であり、南方警備艦隊も早く戦列復帰してもらわなければ困る。わかるな?』

 

「無論です」

 

『二つ目の理由は、警備艦隊の再編に邁進すべき君が、本来の業務を離れて鎮守府長官代行業務に忙殺されていることだ。そもそも君の代行就任は、後方支援本部側の人手不足に原因がある。替えの居ない連中の無理を聞いてやって、君を兼業にしたのだ。この一件だけでも後方支援本部には大きな貸しがある。こちらの要請を断ることはできんよ』

 

 なるほど、自分の代行就任はそんな事情だったのか。と、海尾は司令長官の言葉の裏を読んだ。

 

 人手不足は表向きの理由で、実際は、艦隊司令部が後方支援本部と交渉するための布石だったわけだ。

 

 しかし、その布石をわざわざ本人のために使ってくれる、本当の意味とは何だろう。

 

『三つ目の理由だが、取り急ぎ、君の艦隊に編入される五人の艦娘が決定した。君にはこれを受けてもらう』

 

 それを聞いて、海尾は思わず顔をしかめた。傍らの叢雲も、聞こえないようにため息を漏らす。つまりこれが予算増額の本当の理由で、交換条件ということだ。

 

「司令長官、失礼ながらお聞きします。これに関しては“検討”では無いのですね?」

 

『頭ごなしに命令して欲しいかね?』

 

「失言でした。申し訳ございません」

 

 命令となれば予算増額も何もあったものではない。海尾は受けざるを得なかった。

 

『着任は早い者で明後日の予定だ。資料を送信しておいたから目を通しておくように。以上だ』

 

「ありがとうございます」

 

 海尾は苦虫をかみつぶしたような表情でそう言うと、受話器を置いた。

 

「一難去って、また一難だな」

 

 海尾の愚痴に、叢雲も肩をすくめた。

 

「艦隊司令部がわざわざ熨斗付きで送ってくるなんて、いったいどんな連中かしらね」

 

「とりあえずリストを見てみるか。・・・仁淀、居るか」

 

 海尾がどこへともなしにその名を及ぶと、今まで誰もいなかった部屋の一角に、一人の女性が“出現”した。

 

「お呼びですか、司令・・・あ、この部屋では長官代行でしたね」

 

 そう言ってニコリとほほ笑むその姿は人間そのものだが、実態は鎮守府の地下深くに設置されたスーパーコンピューターに宿る業務支援用プログラム「UN=A」であり、この姿は業務遂行を円滑に行うための対人インターフェイスによる立体映像だった。

 

「別に訂正しなくていい。用件は警備艦隊司令としての仕事の方だ。今、司令長官からウチ宛に、新着任する艦娘たちの資料を送ったとの連絡があった。受信しているか?」

 

「それでしたら、ちょうどいま届いたところです。ご覧になりますか?」

 

「ああ」

 

 では。と仁淀は、自身と同じく立体映像を使って五人分の人事資料を表示した。

 

 海尾はA4判に縮小表示された資料をざっと眺める。

 

 艦種は、軽巡洋艦娘が二人と、駆逐艦娘が三人だった。

 

「右上端がタッチパネルになってますので、そこで拡大表示できますよ」

 

 と仁淀に促され、海尾は軽巡娘の一人の資料を拡大表示させた。

 

 

【球磨型軽巡一番艦・球磨】

 

 

 球磨型といえば現在海軍で運用されている軽巡級でも旧式の部類だ。そのネームシップともなれば、艦齢もかなり古い。

 

 性能諸元は、全長162メートル、排水量5500トンの船体に、14センチ単装砲五基と、二連装SSSM発射装置二基、煙突型短SAM発射装置三基を搭載する他、軽巡の大きな特徴でもある無人偵察機を一機搭載している。

 

 そしてその艦娘である「球磨」は、写真を見る限りでは、叢雲よりもやや年上のような印象を受けた。しかしこれは巡洋艦が無人機を運用するため、その分だけ駆逐艦娘よりも基礎教育期間が長く、それゆえに起きる現象だった。

 

 ちなみに彼女自身の経歴を見てみると、かなりのベテランであることが伺いしれた。普通、艦齢の古い船体は幾人もの艦娘によって受け継がれているものだが、彼女はまだ“二代目”だった。艦娘としての戦歴は十年以上に及ぶ。叢雲といい勝負だ。

 

 前所属は遠征護衛艦隊。これは特定の海域を哨戒する警備艦隊とは違い、輸送船団を護衛しながら長距離航海を行うことを主任務とする艦隊だった。

 

 この艦隊は主に航続能力に優れる軽巡で構成されていた。しかし艦娘は省力化を突き詰めた結果、単独での長期間の航海が難しいという短所を抱えている。そのためこの艦隊は、艦娘と通常艦艇が入り混じって編成されていた。

 

 球磨はこの艦隊で、艦娘にとっては負担の大きい長距離船団護衛に長らく従事し、北方海域から南方海域に至るまで幅広く行動していた。その間、護衛する船団に目立った被害を出しておらず、ある一点を除けば、かなり優秀な人材といえた。

 

 そう、ある一点を除けば。

 

 それは、前所属の司令が記した人物概評の一文だった。

 

 

【技量、勤務成績ともに優秀。船団護衛に関する経験及び知識も豊富である。ただし、一人称と語尾がクマ】

 

 

「・・・・・・」

 

 一読して、何を言っているのかわからなかったので、もう一度読み直してみた。

 

 

【ただし、一人称と語尾がクマ】

 

 

 うん、やはり意味がわからない。一人称が自分のコードネームというのはまだわかる気がするが、語尾がクマとか、なんだそれ。

 

 海尾は少し想像力を巡らして、もしこの球磨が自己紹介をしたらどんなことになるのかを考えてみた。

 

 

--球磨は球磨型軽巡一番艦、球磨だクマ~

 

 

 こうなるわけか。クマという単語がゲシュタルト崩壊を起こしかねない気がして、海尾は奇妙な戦慄を味わった。

 

 とりあえず気を取り直し、海尾は次の軽巡艦娘の資料を拡大表示する。

 

 

【川内型軽巡三番艦・那珂】

 

 

「げえっ、那珂ちゃん!?」

 

 思わず変な声が出た。

 

 那珂、といえば今や海軍内で――いや、民間にまでその名を轟かす艦隊のアイドルだ。その知名度は圧倒的で、彼女と面識もなくファンですらない海尾でさえが思わず「ちゃん」付けで呼んでしまうほどである。

 

 海軍の決戦兵器たる某最新鋭巨大戦艦や、世界七大戦艦の一隻、そして練習艦隊の女王の異名を持つ香取の妹など、国民的認知度と人気が高い艦娘は数あるが、「那珂ちゃん」はそれらに匹敵する・・・いや、その草分けにして独自の地位を築いた艦娘だった。

 

 そもそも軽巡・那珂は、球磨型に始まる5500トン級の最終建造艦だが、性能的に球磨とそこまで大差は無い。せいぜいSSSM発射管が二連装二基から四連装二基へ、そして煙突型短SAM発射装置が三基から四基へ増設されたぐらいである。

 

 したがって、大和や長門のように兵器としての評価が高いわけでもなく、また軽巡という艦艇自体、現在の海軍の主力艦艇として建造数が最も多い(通常艦艇は全て軽巡級である)ため、平凡な存在である。

 

 だが、艦娘本人が平凡とは程遠かった。資料に付随する写真を見るだけで、それはハッキリと分かった。

 

 外見は球磨と同程度の十代後半から二十歳程度。だが右斜め四十五度からのテヘペロウィンクポーズによって彼女はもう少し幼く見えた。海尾は写真から目を離し、疲れた目の周りを指で揉んだ。

 

 公的文書である人事資料の写真がなぜブロマイド調なのか。これを提出されたとき人事担当者は何も文句を言わなかったのか。もしかして那珂ちゃんのファンなのか。

 

 いや、考えてもしょうがない。「那珂ちゃん」とは今やそういう存在なのだ。

 

 当初はどこにでもいる、少し明るくて、笑顔がかわいい、活発さと人懐っこさが魅力的な少女だった。

 

 新人の頃、所属していた警備艦隊で駐留していた港町の住民たちと、その性格から積極的にかかわり、なかでも地元向けの広報イベントで開かれたカラオケ大会で優勝したことによりローカル的な人気を博した。

 

 この時の観客の一人が、撮影していた動画を投稿サイトへアップし、それがまた数日で数十万回も再生されたことにより、那珂はネット界隈と軍事ファンから「知る人ぞ知るご当地アイドル艦娘」としての知名度を得た。

 

 だがここまでは艦娘界隈ではよくある話だ。ネットが発達した今の世の中、どの艦娘でもいいからその名を検索してみれば、必ずと言っていいほど一定のファンが存在するのが伺い知れる。

 

 那珂に転機が訪れたのは、彼女が警備艦隊から遠征護衛艦隊へ転属になった時だった。

 

 遠征護衛艦隊は先にも言った通り長距離船団護衛を主任務とする艦隊である。艦隊は数十もの小部隊に分かれており、日夜、世界中の港へ船団を送り届けている。それは時に地方の小さな港でもあったりするため、遠征護衛艦隊は俗に「地方巡業艦隊」とも呼ばれていた。

 

 那珂はそこで真面目に任務を遂行した。

 

 明るさと人懐っこさから誤解されがちだが、根は非常に真面目な娘である。どんな任務も全力で取り組む努力家とも人事資料にしっかりと書いてある。そして民間人への広報活動は軍にとって重要な任務の一つでもある。

 

 だから彼女は、地方巡業で訪れるどんな小さな港でも、広報活動に全力で取り組んだ。

 

 これがまた評判を呼んだ。

 

 そして、もともと「知る人ぞ知るご当地アイドル艦娘」として一部で有名だった那珂は、「向こうから会いに来てくれる地方巡業アイドル艦娘」へと変化した。

 

 さらに熱心なファンの一部が那珂のイメージソングを製作、動画投稿サイトにアップしたものを、彼女自身が広報イベントのカラオケ大会(という名の那珂の非公式ライブ)で自ら歌い、そしてそれがまた観客により撮影されアップされそのサービス精神の旺盛っぷりに更にファンが増えマスコミからも取材申し込みが殺到するようになり・・・

 

 こうなるともう海軍全体としても見過ごすことはできなくなり、上層部は彼女に対し、ある処置を下した。

 

 

 

 那珂の公式アイドルデビューである。

 

 

 

 これが公表されたときは「海軍ご乱心」だの「公式が病気」だの「また宮城地本がやらかしたか!」「宮城地本なら仕方ない」「安定の宮城地本である」等の様々な憶測が流れたが、海軍の真意と宮城県地方協力隊本部がなぜか黒幕扱いされた理由は未だ謎のままである。

 

 とにもかくにも那珂はこうして海軍広報部全面バックアップの下、公式アイドルとして地方巡業に精を出しているのである。

 

 いや、居たというべきか。

 

 その地方巡業公式アイドルが何を血迷ったかこの南方警備艦隊へ転属するという。上層部はいったい何を考えているのか。海尾が首を傾げると、傍らの叢雲も同じく首を傾げた。

 

「・・・妙だわ」

 

「ああ、まったく妙な人材を押し付けてくれたものだ」

 

「はぁ、何を言ってるの? 妙といったのは別の理由。彼女たちの事じゃないわ」

 

「なん・・・だと・・・」

 

 語尾がクマや、艦隊のアイドルというのは彼女にとって問題ないというのか。

 

「彼女たち、確かに個性は強いけれど職務上の問題は一つもないし、むしろ即戦力になりうる技量の持ち主よ。ウチにとっては予算増額の交換条件どころか、不利な条件を提示してでも欲しい人材だわ」

 

「そこまでのものなのか、この二人は? いや、球磨はまだ分かるとして、那珂ちゃんだぞ?」

 

「あんた、センターダンスって聞いたことないの?」

 

「それってたしか、戦技教本に載っている爆撃を回避する際の操艦術の一つだろ」

 

 それは敵の艦載機による空襲にあった際、先ずは徐々に増速しながら、通常とは逆に敵編隊めがけてふところに飛び込むように変針し敵機をまごつかせ、そして敵機の爆弾投下と同時に最大戦速を命令しつつ舵を一杯に切らせ、一挙に急転舵し敵編隊の後ろに回り込む。数ある操艦術のなかでも難易度が高いものとして知られる戦技だ。

 

「これを編み出しのが、那珂よ」

 

「・・・マジか」

 

「実戦で何度か披露もしているわ。僚艦だった軽巡・五十鈴の目撃談によれば、艦載機の大群に集中爆撃を浴びせられたときに、撃沈されたと思うくらいの水柱を浴びつつ、全爆弾回避に成功したらしいわ。そこからついた名が“那珂ダンス”。戦技として採用される際に本人の意向で“センターダンス”に改名されたけどね」

 

「すごいな・・・」

 

 思わず、ファンになりそうだと口走りかけた。

 

「私にしてみれば、むしろこの二人も予算増額に加えた交換条件の一つに思えるわ」

 

「ということは、問題はあとの三人か」

 

 海尾と叢雲は次の資料を拡大表示させた。

 

 ここから先は駆逐艦娘だ。

 

 一人目は、

 

【白露型駆逐三番艦・村雨】

 

 開発順では初春型の後期改良型になるが、叢雲が属する吹雪型駆逐艦とほぼ同じ装備の駆逐艦だ。

 

 艦娘本人としては軽巡二人組と比べて目立った特色は無いものの、教育期間中の成績や、これまでの勤務地での評価も良い優等生である。

 

 資料に付随する写真からも、どこか育ちの良いお嬢様といった風情を感じさせる。まあ、経歴を見る限り、実際はごく普通の中流家庭なのだが。

 

 だが前述の二人があまりに個性的すぎたために、彼女のこの普通さは、それだけで海尾にとって好ましいものだった。

 

 となると問題は残る二人だ。海尾は半ば緊張しながら資料を拡大表示する。

 

 そこに示された艦名と写真を見て、海尾と叢雲は同時に、

 

「「え?」」

 

 と声をあげた。

 

【吹雪型駆逐二番艦・白雪】

 

「意外だな」

 

「ええ、まさか彼女が・・・」

 

 二人はそう呟いて、そしてお互いに顔を見合わせた。

 

「って、叢雲。お前、彼女を知っているのか?」

 

「そりゃ知ってるわよ。同じ吹雪型艦娘の同期生よ」

 

「ああ、そうだったのか」

 

「それより、あんたこそどうして白雪を知ってるのよ」

 

「昔、同じ艦隊に属していたことがあってな」

 

「それって、もしかして練習艦隊?」

 

「そう。俺が通常型練習艦の若手士官だった頃、僚艦として在籍していた。香取、鹿島、白雪、そして俺の乗っていた【セトユキ】で遠洋航海に行ったこともある」

 

「へえ、意外な縁もあったものね」

 

「しかし彼女、確か今年度限りで艦娘を引退すると聞いていたんだが・・・」

 

「ええ、私もそう聞いているわ。それに練習艦に改装されて以降、近代化改修も受けていないみたいだし・・・と思ったら、ちゃんと受けてるわね」

 

「資料によるとつい最近の話だな」

 

 どうやら上層部からの要請で、もう少しだけ現役に留まることになったらしい。理由としては人材不足と言ったところだろう。

 

 艦娘といえど人間なので、一身上の都合で艦娘の資格を返上したり、退職することは当然ある。

 

 それでも艦艇をワンマンコントロールできる技能保持者は貴重な存在であるし、船体だって旧型だがまだまだ使える状態だ。海軍としては何かと理由をつけて引き留めたがるのも無理はない。

 

 ちなみに艦娘が引退した後の船体は、新たな艦娘に受け継がれるか、解体されて他の艦娘用の予備部品として保管される事になる。

 

「ともかく」と、海尾。「俺の知る限り、白雪は練習艦でも優秀だったし、近代化改修を受けているのなら性能的にも問題無いだろう。それに叢雲とも知った仲なら人間関係的にも助かる」

 

「白雪本人が現役続行をどう思っているかは知らないけどね。ま、でもあの娘の事だからちゃんと自分で考えた上での結論のはずよ。私としても歓迎の人事だわ」

 

「そうなると・・・」

 

「・・・予算増額の本命は、最後の一人ね」

 

 二人の前に、その艦娘の資料が拡大表示される。

 

 その名と経歴に目を通し、海尾はひとつ、重く息を吐いた。

 

「なるほど、この艦娘だったか」

 

「ええ、どうやら間違いなさそうね」

 

 二人はそれきり黙って、資料を見つめ続けた。

 

【初春型駆逐四番艦・初霜】

 

 それきり黙り込んでしまった二人に、それまで口を挟まずにいた仁淀が「あの・・・」と口を開いた。

 

「この初霜さんは、どういった方なんでしょうか?」

 

「うん?」と、海尾。「なんだ、知らないのか。かなり有名なはずだが」

 

「それはつまり、那珂ちゃんさんの様な方なのでしょうか?」

 

「どちらかと言えば逆の意味で有名ね」と叢雲。「今から二年ほど前よ。ある事件があって、海軍全体が世間からひどくバッシングを浴びたわ。初霜はその当事者よ」

 

「そうだったんですか。二年前といえば私が本格的に運用される直前ですね」

 

「知りたかったら当時のニュースを見れば良いわ。大きく報道されたから、ネットに情報は幾らでも残っているはずよ」

 

「私が一般回線と接続するには情報管理責任者の許可が必要です。司令、よろしいでしょうか?」

 

「許可する。初霜、人喰い雷巡、敵前逃亡、で検索するといい」

 

「穏やかでは無いキーワードですね」仁淀が検索一覧を表示する。「60,000件以上の検索結果が出ました。【海軍、救助船を見捨てて逃亡。100名以上の乗客が深海凄艦の餌食に】。【海上の大惨事。深海凄艦を前に被害者を残し、軍艦が逃亡】。【助けたのは犯罪者のみ? 問われる海軍の救助体制】。【海軍の衰退。駆逐艦初霜、深海凄艦を相手に敵前逃亡】・・・」

 

 仁淀は検索画面を閉じた。

 

「概要は概ね把握しました」

 

「誤解の無い様に言っておくが、被害にあった船は密入国船であり、被害者は貨物コンテナに隠れていた。船員は自分たちだけ初霜に救助を求め、不法移民の存在を隠していた。そして撤退は司令部判断だ」

 

「わかっております。公開情報は全て閲覧済みです」

 

 そういえば本体はスーパーコンピュータだった。

 

 叢雲が言った。

 

「海軍としては、どうしようも無い事故だった、としか言いようがないわ。多分、誰であっても被害は防げなかったでしょうね。でも人喰い雷巡なんてセンセーショナルな存在の出現と、それに対して撤退したという事実は世間に対しあまりにも衝撃的すぎた。それに・・・」

 

 叢雲は窓の外に視線を向け、正門の向かい側に貼られた横断幕を眺めた。

 

「・・・ああいう活動家たちにとって、まさに絶好の機会だったと言うわけよ」

 

 叢雲の言葉に、仁淀も頷いた。

 

「初霜が取り締まり権限も無いのに追跡したのが原因、と書かれた記事もありますね。わざと深海凄艦の方へ追い込んだのでは無いか、と言う記事もありました」

 

「人間、自分の見たいように物事を眺めるもんなのさ」と、海尾。「それぞれの主張に合わせて都合の良い部分だけ継ぎ接ぎして、好き勝手に騒ぎ立てる。ま、それでも人の噂は七十五日ってな。被害者が不法移民ばかりで国内に遺族が存在しなかったこと、お隣さんが密入国船についてだんまりを決め込んだことで、世間はすぐに静かになったよ・・・だが、海軍としては触れて欲しく無い過去であるのは間違い無い」

 

 海尾の言葉に、叢雲が溜息をついた。

 

「彼女が来ると知ったら、門の外の連中は舌舐めずりをして待ち受けるでしょうね」

 

「どうりで那珂を送り込んでくる訳だよ。那珂の広報力で非難を抑え込もうって訳だ。しかしそこまでして、どうして初霜をここに配属させようとするんだろうな」

 

「純粋に技量だと思うわよ。あんな活動家たちなんか些細な問題だわ。私たちの敵は深海凄艦、任務は海域の安全確保。そのために初霜は大きな戦力となるわ」

 

「そんなに凄いのか?」

 

「ここ見て」

 

 と、叢雲は前所属を示す。そこには北方警備艦隊とあった。そして続けて示された人物概評には、技量抜群の文字がある。

 

 北方警備艦隊とは数ある警備艦隊の中でも、最も過酷として知られる海域を担当している艦隊だった。

 

 そこは冬場は雪嵐、春から秋にかけては濃霧が続き、そして離島が多い。

 

 想像を絶する様な悪環境の中で深海凄艦と戦いながら離島への輸送支援も果たさなければならないという艦隊であるだけに、そこに属する者たちへの負担は大きく、それ故に人員の異動も多い部署だった。

 

 初霜はあの事件以降、北方海域へ異動となり、どんなに長くとも一年も居られないという過酷な海域で、二年にわたり任務を遂行していた。

 

 しかもその上で最高練度を示す抜群の評価を得ている。艦隊建て直しの即戦力としては過去の醜聞を考慮してでも欲しい人材であった。

 

 海尾は納得した様に頷いた。

 

「人事に異論は無い。周りが多少うるさくなるだろうが、そこは叢雲、お前と白雪でカバーしてやってくれ。頼むぞ?」

 

「ええ、任されたわ」

 

「とりあえず資料によると、明後日に着任するのは白雪、村雨、初霜の三人か。歓迎するとしよう」

 

 そう言って、海尾は人事資料を閉じた。

 

 

 




 今回登場の艦娘たちは作者が艦これを始めたときに着任してきた五名となります。

 初霜と叢雲はつい先日に改二となりました。やったね!

 那珂サンタコスは営業頑張ってるなぁという感じ。球磨サンタは天使。

 村雨は改造したらいきなりエロス全開で大変ケシカランね。



次回予告

 ついに着任した二人の艦娘、白雪と村雨。

 波が高まる南西海域に新たな戦力が着任したとき、初霜もまた、古巣に別れを告げていた。

 旧友からの忠告を胸に秘め、彼女は旅立つ。

次回「第七話・着任、白雪と村雨」

「お久しぶりです、海尾さん」




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第七話・着任、白雪と村雨

 転出当日の朝、初霜は北方警備艦隊庁舎にある司令執務室で、上官であった司令に型どおりの挨拶を行った。

 

「駆逐艦・初霜、本日付で南方警備艦隊勤務を命ぜられ、只今を持って転出します。お世話になりました」

 

 それを受けて、まだ年若い司令は「うん」と曖昧に頷いた。

 

「まあ、その、なんだ。短い付き合いだったけれど、新しい任地でも頑張って」

 

 ほんの数日前に着任したばかりの新司令から、ほとんど接点がないまま転出していく部下にかける言葉は、この程度でしかなかった。

 

 初霜にしても、定期の人事異動と、南方警備艦隊の事実上の壊滅と再編の煽りを受けてほぼ総入れ替えとなった現在の艦隊に、思い残すことも少なかった。

 

 そもそも北方警備艦隊というところは元々、人員の異動が頻繁に行われる艦隊であった。

 

 慣れ親しんでいた仲間たちはとっくに別の任地へ行ってしまったし、最後に残された初霜にとっては、ようやく自分の番が来たという淡々とした感情しかなかった。

 

 ただ唯一の例外として、新司令と一緒に着任したばかりの秘書艦・若葉だけが、司令執務室の片隅で、物言いたげな様子で佇んでいた。

 

 若葉は初霜と同じ初春型駆逐艦の三番艦であり、艦娘としても同期生だった。初霜の新人時代、二等駆逐艦・萩だった頃、その僚艦・梨として共に訓練に明け暮れた旧友だった。

 

 新司令は同期のよしみと気を遣ってくれ、若葉に、初霜を見送るように告げた。それで初霜と若葉は連れ立って執務室を出た。

 

 広い鎮守府内を隊門まで向かう道すがら、初霜は、若葉に語りかけた。

 

「せっかく同じ艦隊になれたのに、すぐにお別れだなんて寂しいね」

 

「そうだな」

 

 若葉は短く答え、頷いた。

 

 寡黙にして冷静なこの友人は滅多に感情を表に出さず、そっけない言動が多かった。しかし他人に興味が無いのかといえばそうでは無く、むしろ意外なくらい人間をよく観察していた。

 

 常に一歩引いた位置からの客観的なアドバイスに何度も助けられた事があり、初霜はこの無口な友人に大きな信頼を寄せていた。

 

 今、二人は最初のやり取り以来、無言のまま敷地内を歩いていた。だが初霜は、これは若葉が自分を気遣って言葉を選んでいる結果なのだと理解していた。

 

 やがて隊門の近くまで来たとき、不意に若葉が足を停めた。

 

「初霜」

 

「何?」

 

 初霜も数歩先で立ち止まり、若葉に振り返る。若葉はしばし間を置き、しかし初霜から目を離すこと無く真っ直ぐに見つめながら、言った。

 

「正直な話、今回の人事異動について、お前の過去の一件が起因していないとは言い切れない」

 

「・・・」

 

 初霜は黙って、静かに頷いた。

 

 元より散々噂になっていた事だった。若葉は前配置から秘書艦を務めていた事もあって、今回の人事に関わる裏事情にも多少なりとも通じていたのだろう。

 

 それを初霜に告げたのは、若葉のもつ正直さと真面目さ、そして友人への誠実さ故だと、初霜は思った。

 

 若葉は続けた。

 

「お前がこれから向かう艦隊には、旧式だが練度の高い艦娘が多く配属される事になっている。ある意味、お前を抑えるための面子と言っても過言じゃない。それだけ上層部はお前を警戒しているんだ」

 

「・・・そっか」初霜は苦笑した。「私、あれからも色々とやらかしちゃっているものね。仕方ないかな」

 

「噂は聞いている。救命行為に関わる場面での複数回に渡る抗命行為と独断専行。結果的に多くの人命を救っているから表沙汰にはされていないみたいだが・・・ウチの司令は、お前が転出すると聞いて露骨に安堵していたよ」

 

「前の司令には散々迷惑かけちゃった。でも何度も庇ってくれて、本当に良い人だったわ。ねえ若葉。前司令は左遷じゃないわよね?」

 

「安心してくれ、栄転だ」

 

「そう、よかった」

 

 初霜の苦笑が、紛う事なき笑顔に変わる。若葉はそれを見て、続けようとした言葉を飲み込んだ。

 

 栄転は嘘ではない。しかしそれは司令部の判断ミスを初霜が現場判断でカバーした結果だ。抗命行為、独断専行に目を瞑れば、残るのは作戦成功という輝かしい結果だけだった。

 

 そもそも、初霜が北方警備艦隊に在籍していた二年間で司令は三度変わっている。すぐに異動を望むほど過酷な環境なのだ。

 

 そのため、経験の浅い司令部と現場を知り尽くした艦娘との間で判断が食い違う事は多かった。これは一歩間違えれば、艦隊の指揮系統が崩壊しかねない危険さえあった。

 

 しかしそれでも、曲がりなりにも二年間、この艦隊が表面的にはまともに運用され、かつ司令が栄転できるほどの実績を上げ続けたのは、初霜の力量と性格によるところが大だった。

 

 初霜は、司令部の判断ミスを現場判断でカバーし、それを抗命行為、独断専行と咎められれば素直にそれを認め、自ら処分を望んだ。しかしそういう場合、作戦そのものは全て成功していたから、司令部はその問題を揉み消してきた。

 

 それと差し引かれる形で、初霜の功績が評価される事もなかった。しかし初霜はそれを不当とも思わなかった。

 

 次も出撃できる。次も海を守れる。次も誰かを救える。その権限と機会を与え続けてくれるだけでも、彼女は歴代司令に恩義を感じていた。初霜はそういう艦娘だった。

 

「・・・初霜、お前はどこへ行ってもそうなんだろうな。南方の司令が目を回さなければ良いが」

 

「うん。まあ、ごめんね」

 

「謝るなら、私じゃなく、新任地の司令と仲間たちだろう」

 

 若葉はそう言って、わずかに目尻を下げ微笑んだ。しかし、すぐにその顔から笑みが消え、彼女は言った。

 

「ただ忠告はしておく。お前の信念と、それを可能とする技量は認めるところだが・・・誰もがお前のように強くなれるわけじゃない。強すぎる信念はときに齟齬を生む。くれぐれも味方と衝突するんじゃないぞ」

 

 若葉はそう告げて、右手を差し出した。

 

「うん・・・ありがとう。若葉」

 

 初霜はその手を握り返す。

 

 その手の感触に、親友があえて口にしなかった初霜の行為に対する肯定と、そして激励が込められているように感じられた。

 

 それでも若葉が口に出さなかったという事は、それに甘えるなという事なのだろう。

 

 初霜は手を離し、友に見送られながら隊門を出た。

 

 

 

 

 北方警備艦隊と南方警備艦隊は字面からも分かるとおり、この国の領土のほぼ両端に駐留する艦隊だった。

 

 そもそもが南北に細長い列島状の領土とそれに付随する領海を持つ我が国においては、最も距離が離れた艦隊である。

 

 初霜は北方警備艦隊が駐留する北国の港から近隣の海軍航空基地へ移動し、そこから飛び立つ定期便に便乗した。

 

 全国各地に点在する陸海空それぞれの航空基地を結ぶこの定期便は、軍関係者なら誰でも無料で利用する事ができた。したがって人事異動や出張などでよく利用されるのだが、その実、使用者の評判はあまり芳しくはなかった。

 

 なにせ定期便の正体は軍用輸送機に他ならず、利用者は「人の形をした輸送品」として窓もない貨物室の隅に設けられた仮設席に身体を固定され、数々の航空基地を経由しながら何時間もの長旅を強いられるからだ。

 

 これに比べて民間航路は首都経由で全国津々浦々にまで短時間で、そして快適な空の旅を味わえるのだから、誰もがそちらを使いたがるのも道理だった。

 

 しかし軍は、機密保持、万一の事故の際の責任と保証、そして経費の観点から、職務上の移動はなるべく軍の定期便を使用するようにと方針が下されていた。

 

 初霜は北から南への長距離を、八つの基地経由と、三回の乗り換え、そして民間航路の三倍以上の時間をかけて移動し、ようやく琉球本島の航空基地へ辿り着いた時は既に夜も更けた時分だった。

 

 初霜は疲労の溜まった身体で私物を詰めた衣囊を背負いながら、基地を出て港へ向かう。今度はそこからフェリーで十時間の船旅が待っていた。

 

 深夜出港のフェリーにギリギリ間に合った初霜は、ようやくシャワーを浴びて人心地つくことができ、二等船室の広い空間の片隅に腰を落ち着けるや否や、強い睡魔に襲われて泥のように眠ったのだった。

 

 

 

 

 駆逐艦娘三名が着任する予定の当日。海尾と叢雲は宮吉島鎮守府敷地内にある艦娘用岸壁に佇み、彼女達を待っていた。

 

 もっとも、海から着任するのは白雪と村雨の二人のみであり、初霜はフェリーで民間港から島に着くことになっていた。

 

 なぜ同じ艦娘で移動方法が異なるのかと言えば、白雪と村雨の場合、前所属部隊がこの島の割と近場であったこと。そして、最近活性化する深海凄艦に備え、こちらに移動するついでに航路哨戒を行えという任務を与えられたためだった。

 

 そんな特別な理由でもない限り、艦娘達は通常、初霜のように自分の身ひとつで移動する。何故ならその方が手軽であり、安上がりだからだ。事実、叢雲も同じようにフェリーを使って着任している。

 

 ちなみにこの場合、船体はどうやって回航しているのかと言うと、これは各軍港に設置されている船体転送装置を使用して送られることになっていた。

 

 この装置は艦娘本人と船体との結びつきを利用し時間と空間を一時的に遮断することにより質量保存の法則を量子論的にマクロな状態へと落とし込みそれはすなわち仮想的に三次元空間を十次元にまで引き上げる事と同等の現象を生じせしめそれを艦娘理論の応用により云々カンヌン

 

 つまり一種のワープ装置である。

 

 こんな便利なものがどうやって実用化されたかは先述した複雑怪奇な文章の羅列でしか説明できないが、それを無理やり乱暴に説明すると、

 

 

“艦娘七不思議の一つ”

 

 

 であるという結論になる。

 

 海面に直立できる、老化が止まる、挙句ワープまで出来るとなれば戦争どころか社会体制そのものまで変えてしまいかねない超技術だが、不思議なことに現実はそうならなかった。

 

 何故なら、これらはすべて艦娘だけにしか起きない現象だったからだ。

 

 そう、艦娘七不思議が不思議たる所以は、これらの技術が基礎研究を経て確立されて艦娘に投入されたのではなく、艦娘技術を開発して行く途中で偶発的に誕生してしまったものであり、その原理自体、未だ解明されていないからである。

 

 結果、こういった超技術は艦娘の運用のみに限定的に使用されていた(艦娘を相手にしか使用できないとも言う)。

 

 その転送装置が内蔵されている鎮守府の岸壁には、いま、50センチ近い波が繰り返し打ち寄せては白いしぶきを上げていた。防波堤に囲まれた港湾内部でこれなのだから、外洋は2メートル以上の波が立っているはずだった。

 

 空はいまにも降り出しそうな鉛色の雲に覆われており、冷たい風とともに東へとゆっくり流れていた。

 

 寒波である。

 

 最近では海が時化ることも多く、深海凄艦の脅威が増していることもあって、島の主要産業である漁業に大きな影響を与えていた。

 

 今日などは連日の時化に比べれば大人しい天候の方であり、白雪と村雨が警備艦隊に加わるという情報が島中に伝わっていることもあって、多くの漁船が漁に繰り出していた。

 

 それでも外洋は2メートル以上の波である。漁師たちがかなりの無理を押して出港しているのには間違いなく、そんな彼らが早く安心できるよう、警備艦隊の再編は急がねばならない。

 

 と、そんなことを考えていた海尾の傍で、叢雲が沖を指差した。

 

「来たわ」

 

 海尾も沖に目を向けると、防波堤の向こう側に、二隻の駆逐艦が縦に並んで航行してくるのが見えた。

 

 先頭は白雪だ。

 

 叢雲と同じ吹雪型駆逐艦であり、船体の形、搭載武器は全く同じである。違いと言えば、船体脇に片仮名で書かれた船名しかない。しかし、それなのに白雪と叢雲では互いの船体を交換して操艦することは不可能なのだから艦娘とは不思議なものである。

 

 続く村雨の船体もほぼ似たような外見だった。そもそも駆逐艦という艦種自体、吹雪型より小型化を目指した初春型や、明確に船体が大型化した朝潮型以降の駆逐艦を除けば、外見上にほとんど相違が無い。変更はほぼ搭載武器や電子部品を含む戦闘システムや、機関関係のバージョンアップに留まっていた。

 

 このよく似た二隻の駆逐艦が防波堤を巡り、先ずは白雪が港湾内へと進入する。

 

 なお鎮守府の岸壁は長さが200メートルほどしかなく、船体長が100メートルを超える二隻の駆逐艦が縦に並んだまま停泊するのは不可能だった。そのため、村雨は防波堤の外で待機し、白雪が岸壁へと接近を開始する。

 

 白雪は岸壁に対し斜め三十度の角度で進入し、岸壁から50メートルの位置で回頭、平行になるようにして船体を止めた。

 

 この時、岸壁と船体との距離は10メートル。不安定な水上と強い風の下で、全長120メートル、排水量2000トンの巨体をこの位置で止めるのはかなりの練度を要する。白雪は、それを危なげなくやって見せた。

 

 停止した船体に対し、岸壁の転送装置が作動する。白雪の船体を光の粒子が包み込んで行き、それは波しぶきのように宙へと吹き上がって消えた。

 

 光が収まると、そこにすでに船体はなく、代わりに一人の少女が海面に佇んでいた。

 

 その少女は、波打つ海面をことも無げに歩き(50センチもの波が立つ海面をである)、岸壁に設置された階段から陸上へと登った。

 

 少女が、海尾に対し敬礼する。

 

「吹雪型駆逐二番艦、白雪です。本日付で南方警備艦隊勤務を命ぜられ、ただいま着任しました。よろしくお願いします」

 

 海尾も答礼する。

 

「南方警備艦隊司令の海尾だ。・・・練習艦隊以来、だな」

 

「ふふ、練艦隊の広報担当として大活躍されていた青年士官さんも、立派になられましたね」

 

 昔と変わらぬあどけない顔に優しい笑みを浮かべた白雪に、

 

「ま、まあ・・・そんな時代もあったな」

 

 と海尾はなぜだか目を泳がせた。

 

 傍らに立つ叢雲は、そんな海尾の不審な態度をチラリと横目で眺めたが、すぐに白雪に目を戻した。

 

 白雪も、叢雲に顔を向ける。

 

「久しぶりね、叢雲」

 

「去年の同期会以来ね。あの時は、またこうして船を並べられるなんて思いもしなかったわ」

 

「私もよ。同期会の後すぐに任期延長の話が来たの。でも本当は警備艦隊じゃなくて、練艦隊に留まるはずだったんだけどね」

 

「・・・ここに来て、良かったの?」

 

「断ることも出来た。でも、そうしなかったのは私の意志よ」

 

 白雪は軽くそう答えた。

 

 それに対し、叢雲は「そう」とだけ短く頷いた。

 

 後方で長く勤務し引退まで考えていた同期に対し、なぜわざわざ再び前線へと出てきたのか。その理由を白雪は言わなかったし、叢雲も訊こうとはしなかった。

 

 叢雲が訊かないなら、同じく知り合いであっても自分が訊くのはお門違いだろう。と、海尾も何も訊かないことにした。

 

「海尾さん」と、白雪。「精いっぱい頑張りますので、改めてよろしくお願いしますね」

 

「ああ、頼りにしているよ」

 

 海尾はそう答え、そして、なぜか叢雲が妙な表情で自分を見ていることに気がついた。

 

 それは何というか、驚きと不審がないまぜになり、それを務めて表情に出さないようにしているという表情だった。

 

「どうした、叢雲?」

 

「いま、海尾“さん”て・・・いえ、何でも無いわ」

 

 はて、何かおかしいところがあったか、と軽く首をひねる海尾の視線の先に、続いて入港しようとする村雨の姿があった。

 

 白雪と同じように危なげの無い操艦だが、岸壁と平行に停止した時には、その距離は30メートル以上も離れていた。

 

 と言っても、今日のように風も強く波も高い天候では、下手に近づけば岸壁に激突する恐れもあり、むしろこれくらい離すのが最も安全である。

 

 したがって村雨は慎重な判断をしただけであり、これだけで技量が白雪より劣っているとは言えない。白雪との差は、経験と、それに伴う操艦技量への自信といったところだろう。

 

 では白雪は自信ゆえに安全を無視し、岸壁ギリギリまで接近したのだろうか。いや、そうでは無い。実は岸壁から離せば、離しただけ別の問題が生じてくるのだ。

 

 船体が光に包まれ、海面上に村雨本人が残される。

 

 彼女は岸壁に向かって小走りにやって来ようとしたが、高く不規則な波に足を取られ、転びそうになった。

 

「ふあ! お、おお、うわわわ!?」

 

 そう、岸壁から遠いという事は、それだけ長く海上を自分の足で渡らなければならないという事でもある。たった数十メートルとは言え、波打つ海面を歩くことがどれほど困難か、艦娘でなくとも想像はつくだろう。

 

「おーい、大丈夫か?」

 

「は、はいぃぃ、だ、だいじょーぶ、だと思います・・・おおおお!?」

 

 波に足をすくわれつつも、彼女は何とか岸壁まで辿り着いた。

 

「はぁぁ~、お恥ずかしところをお見せしちゃいました。白露型駆逐三番艦、村雨です。南方警備艦隊勤務を命ぜられ、ただいま着任しました。よろしくお願いします」

 

「司令の海尾だ、よろしく。ここの岸壁は外洋から風や波がよく入ってくるからな。入港は難しかっただろう」

 

「白雪さんがあまりにも簡単に入ってみせるから油断しちゃいました。私もまだまだ経験が浅いですね。先輩方、これからご指導よろしくお願いします」

 

 改めて頭を下げた村雨に、叢雲と白雪も笑顔で応じた。

 

 これで南方警備艦隊には駆逐艦が三隻在籍した。

 

 彼女たち駆逐艦は通常、三隻から四隻で一つの【駆逐隊】を編成し、ここに軽巡が二隻加わって【一個戦隊】を形成する。

 

 この戦隊が二つと、戦艦か重巡が一隻、そして正規空母一隻もしくは軽空母二隻が加わって、ようやく警備艦隊の陣容が整うのだ。

 

「取り敢えず後は、別行動の初霜が到着すれば駆逐隊の編成は完了だな。フェリーの入港予定時刻は・・・あと一時間後か」

 

 海尾が腕時計を見ながらそう言うと、別方向から、

 

「その初霜さんが乗っているはずのフェリーに関して、気になる情報を受信しました」

 

 そう声をかけられ、海尾は腕時計から目を上げた。

 

 そこに、仁淀が姿を表していた。

 

「あ、白雪さん、村雨さん、初めまして。私はここの業務担当をしております仁淀と申します」

 

 彼女は手短に自己紹介を済ませると、海尾に続きを報告した。

 

「先ほど海上保安隊へ、近海で小型漁船一隻が転覆し、乗っていた漁師が海へ投げ出されたとの通報が入りました」

 

「そうか。で、我々にも救助要請か?」

 

 海難救助や海上治安の維持は海上保安隊の任務だが、地元に駐留する保安隊の戦力では対処しきれない時は海軍にも支援要請がかかる。

 

 しかし仁淀は首を横に振った。

 

「いいえ。ちょうど通りかかったフェリーが漁師を救助したようです。その際、乗客の一人が海を“走って”助け出した、と」

 

「走った?」

 

 仁淀の言葉に、海尾たち四人は顔を見合わせた。

 

 海上を走れる人間は艦娘以外に無い。であるならば、その乗員とは初霜その人に間違いなかった。

 

 しかし・・・

 

「この海を、走っただと・・・?」

 

 海尾は、岸壁の向こう側へと目を向けた。

 

 そこでは高波が防波堤にぶつかり、激しいしぶきを上げている光景があった。

 

 

 

 

 

 




次回予告

 荒れる海に、助け求める声がする。それを誰が救うのか。

 誰かを救える力があるのなら、それがこの身にあるのなら、

 私がやらねば誰がやる!

 その小さな体に大きな覚悟と勇気を秘めて、荒れ狂う海へ少女は飛び込む。

 次回「第八話・危うい矜持」

「私が沈めば、それは駆逐艦一隻の損失と同義です。それでも・・・それでも・・・」





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第八話・危うい矜持

 白雪と村雨が南方警備艦隊へ着任した時間から、やや時は遡る。

 

 初霜が目覚めた時、船窓の外はすでに明るくなっていた。しかし、そこから見える空は雲に覆われ、海は白波が立っていた。

 

 左右にやや大きく揺れる船内を渡り、洗面所で洗顔を済ませた初霜は、上甲板へと出た。

 

 フェリーの船首が波濤を砕き、舞い上がった波しぶきが甲板を洗っていた。そんな状態であるから、甲板上には初霜の他に人影はひとつもなかった。

 

 初霜は波しぶきがかからない後部側へと移動し、そこで柔軟体操を始めた。ちなみに服装は昨日のシャワー以来、ジャージに着替えてある。

 

 しかしシャワーを浴びたとは言え、昨日の空の旅と、お世辞にも寝心地が良いとは言えなかった二等船室で一晩を過ごした身体は思っていた以上に強張っており、初霜はいつもよりも入念に各部をほぐした。

 

 それから、彼女は日課の屈伸運動を始めた。腕立て、腹筋、背筋、それぞれ二分以内に五十回。それを三セット繰り返す。

 

 短時間だが身体が温まるには十分な運動を終えた後、初霜はもう一度柔軟体操を行いながら、何気なく海に目を向けた。

 

 2000ヤードほど離れた海上に、小型の漁船が波に揉まれながらフェリーと並走しているのが見えた。

 

 海上の波は2メートルを超えている。漁船は上下左右に大きく揺られながら、時折、波間に隠れて見えなくなった。

 

 初霜はそれを見て、あることが気にかかった。

 

(・・・喫水が深過ぎる)

 

 その漁船は本来なら見えていなければならない側面部が、ほぼ海面下にあった。それは即ち、搭載重量を大幅に超過している事を示していた。

 

 それが多すぎた漁獲量によるものか、はたまた浸水などの事故によるものかは定かでは無いが、危険な状態であるのは確かだった。

 

 危機感を覚えた初霜は、手すりにつかまり半身を乗り出して漁船に目を凝らした。

 

 視力には自信がある。彼女は漁船の操舵室に一人の漁師の姿を見つけた。

 

 漁船の大きさから見て、他に乗員は居ないだろう。漁師は大きく揺れる漁船を必死に操船しているようだった。

 

 だが、その漁師は救命胴衣を身に付けていなかった。そんな状態で、もしこんな荒れた海に投げ出されたら・・・

 

 初霜が最悪の予想をしたとき、その漁船がひときわ大きな波に乗り上げ、船首が高々と持ち上がった。

 

 続いて急角度で波間に落ち込み、そしてそのまま見えなくなる。漁船が消えたその場所で、白波が激しくしぶく。

 

(まさか--!?)

 

 そう思った初霜の視界に、船底を上にした漁船が現れた。

 

 転覆である。

 

 それを認めた瞬間、初霜は身を翻して船内へと戻った。そのまま通路を走り、関係者以外立ち入り禁止と書かれた船橋区画へと駆け込む。

 

 船橋で操船を担当していた当直航海士が、突如現れた少女に驚愕の声を上げた。

 

「な、なんだ君は? ここは勝手に入っちゃ--」

 

「ごめんなさい! でも緊急事態なんです。付近で漁船が転覆したのを目撃しました!」

 

「なんだって!?」

 

「相対方位、左120度。距離、約2000の位置です!」

 

 初霜の言葉を受け、航海士はすぐさまウィングに出て双眼鏡を向けた。

 

「確認した。さっきまで同航で走っていた漁船だ」

 

 航海士は再び船橋内に戻り、船内電話で船長室を呼び出す。

 

「本船左後方で漁船が転覆しました。これより確認に向かいます」

 

 船長から了解を取り付け、航海士は操舵席に着き自動操縦を解除。同時に船内アナウンス用のマイクを手に取り、漁船が転覆した事と、その確認のため大きく回頭する事を船内に告げた。

 

「ポート15!」

 

 航海士は左舵15度を宣言。フェリーが左へと回頭を始める中、初霜はウィングに立ち、そこに取り付けられたジャイロコンパスで転覆漁船の方位を確認した。

 

「漁船の方位を送ります。真方位108度、距離、目算3000メートル」

 

「了解」と、航海士。「ミジシップ、ステアー108・・・ところで、君は商船学校の生徒か?」

 

「海軍所属の艦娘です。転任のため乗船していました」

 

「なるほど」

 

「双眼鏡をお借りします」

 

 初霜はウィングに取り付けてある高倍率双眼鏡を転覆漁船へと向ける。拡大された視界に、漁船にしがみ付いている男の姿が見えた。

 

 その事を告げようと振り返ると、ちょうど船長が、他の船員たちと共に船橋へと上がってきたところだった。

 

「この娘は?」

 

 初霜の存在を訝しむ船長に、操舵席の航海士が手短に事情を説明した。

 

「第一発見者でしたか。ご協力感謝します」

 

「駆逐艦・初霜です。転覆漁船に男性がしがみ付いているのを視認しました。このまま近くまで寄せるのですか?」

 

「波が高いので下手に近づくと衝突の恐れがあります。50メートルまで接近したところで停止し、救助艇を降ろします」

 

 船長の的確な判断に、初霜は胸を撫で下ろした。ならば、もうこれ以上は初霜の出る幕ではない。

 

 後は邪魔にならないよう、船橋から立ち去ろうとしたとき、不意に、視界の隅で漁船に高い白波が立ったのが見えた。

 

 漁船に大きな波がぶつかったのだ。

 

 初霜は再び双眼鏡を漁船に向けたが、しがみ付いていたはずの漁師の姿は消え去っていた。

 

「要救助者が流されたようです!」

 

「本当かっ!?」

 

 船長を始め、船橋に集まった船員たちが一斉に双眼鏡を構え、海面の捜索を開始した。

 

 初霜も双眼鏡を左右に振って漁師の姿を探す。

 

「見つけました!」

 

 漁船から数十メートル離れたところでもがいている漁師の姿があった。

 

「船長、救助艇の準備はどれくらいかかりますか!?」

 

「急いでも後五、六分はかかる!」

 

 となれば船員の元まで辿り着くには、それ以上の時間を要するという事だ。救命胴衣を着けていない人間が、すがるもの無しで果たしてどれだけ持ち堪えられるものか。

 

「船長、針路このままでお願いします」

 

「何をするつもりだ?」

 

 船長の問いに、初霜は近くに設置されていた救命浮環を取り外しながら答えた。

 

「私が、助けます」

 

「この荒れた海を泳ぐつもりか!?」

 

「大丈夫です、艦娘は沈みません。私が要救助者を確保しますので、その間に救助艇の準備をお願いします」

 

 そう言いながら、初霜は救命浮環から伸びるロープを手早く腰に結びつけ、そしてウィングから身を乗り出した。

 

 フェリーと漁師の距離は300メートルほどまで近づいていた。フェリーが後進をかけ、速度を落とし始める。

 

「おい、待て!」

 

 船長が止める間もなく、初霜はウィングから海面へと飛び込んだ。

 

 船橋ウィングから海面までは20メートル以上の落差があった。初霜は両足を揃えた姿勢で、高い水柱を上げて水中へと没した。

 

 ウィングから見下ろした船長には、海面に浮かぶ救命浮環のみが見えていたが、すぐに初霜の姿も現れた。

 

 彼女は飛び込んだ勢いをそのまま反動にしたかのように海中から飛び出し、そして波打つ海面に降り立った。

 

 海面に直立したその姿に、フェリーで見守る船長や船員、そして他の乗客たちからも、どよめきが沸き起こる。

 

 初霜は腰のロープを手繰り寄せて救命浮環を肩にかけ直すと、溺れている漁師の方向へ海面上を走り出した。

 

 しかしそこは漁船を転覆させるほどの高い波がうねる荒れた海である。自分の身の丈よりも大きく、そして不規則に揺れる足場を二本の足で立って移動するなど、およそ人間には不可能といってよかった。

 

 だが、初霜はそれをやって見せた。

 

 彼女は、高々と盛り上がった波の頂点から水上スキーのように滑り降りると、その勢いに乗せて次の波を駆け上がる。

 

 そして再び波の頂点に立ったところで漁師の位置と次の波のタイミングを瞬時に見極め、そこへ向かって滑り降りる。

 

 いくら艦娘が海上に立てるとは言え、類い稀なバランス感覚と、冷静かつ素早い判断力、そして大胆な行動力があってこそ初めて可能な行為だった。

 

 初霜は陸上を走るのとほぼ同じ速度で、荒れた海を疾走する。

 

 だが、漁師まで残り10メートルを切ったはずの場所で、初霜は相手の姿を見失ったことに気付いた。

 

 足を止め、波が彼女の身体を高く持ち上げたときを見計らって、周囲を見渡す。

 

 しかし、見つからない。

 

 フェリーへ振り返ると、ウィングから船長が拡声器を使って呼びかけてきた。

 

「要救助者は君のすぐ近くで沈んだようだ! だが、まだ時間はそんなに経っていない!」

 

「了解です!」

 

 初霜は手を挙げて了解の意を示し、改めて周囲を見渡した。

 

 沈んで間もないというなら、もう一度くらいは浮いてくる可能性が高い。その瞬間を見逃さないよう、彼女は意識を研ぎ澄ませた。

 

 波に身体が持ち上げられ、視界が広くなる。

 

 居ない。

 

 波が足元を通り過ぎ、初霜は波の谷間に滑り落ちる。再び波が迫り、身体が持ち上がった。

 

 それでも、居ない。初霜は滑り落ちる。

 

 と、そのとき、彼女は左足首に強い圧迫感を覚えた。

 

 手だ。

 

 水中から突き出された人間の手が、初霜の左足首を強く掴んでいた。

 

 そのまま初霜は海中に足を引かれ、転倒してしまう。

 

 うつ伏せになって倒れた初霜の腰に、すぐに海中から、もう片腕が伸びてまわされた。

 

 それは溺れた漁師だった。

 

 溺れる者は藁をも縋ると言うことわざそのままに、漁師はすぐ近くに居た初霜に反射的にしがみついたのだ。それはパニック状態に陥った人間の本能的な行動だった。

 

 初霜は大の男から限界を超えた力で、正面から組み付かれてしまっていた。それにより初霜自身も、艦娘としての浮力の限界を超え、海中へと沈みだす。

 

 しかし初霜が肩にかけていた救命浮環のおかげで、なんとか上体だけは海面に残っていた。

 

 だがそれも、しがみついた漁師が初霜の身体を支えに海面へと這い上がろうとし始めたことにより、彼女は逆に海中へと押し込まれてしまう。

 

 パニック状態にある漁師は、自分が抱え押し下げているのが人間だとさえ気付いていなかった。

 

 初霜の小柄な身体は漁師に海中へ押さえ込まれ、肺から乏しい空気が漏れ出していく。代わりに海水が喉に流れ込んできた。

 

 初霜は必死にもがいた。上体をよじり、両足で水中を蹴り続ける。

 

 海水を飲み込みかける寸前、一瞬だけだが海面に顔を出すことに成功した。

 

 咄嗟に口の中の海水を吐き出す。クリアになった口から空っぽの肺に大量の空気を取り入れながら、初霜は肩にかけていた救命浮環を手放し、同時に身体を大きくひねった。

 

 初霜が身体をひねったことにより、しがみ付いていた漁師ごと再び海中へと没していく。

 

 初霜の突然の潜行により海面から遠ざけられた漁師は、反射的に初霜を放し、自ら海面へ向かってもがき出した。

 

 これにより自由を取り戻した初霜の身体に艦娘特有の浮力が戻りかけたが、彼女は海中を泳ぐことによってその浮力を抑え、潜行したまま、溺れもがく漁師の背後に回り込んだ。

 

 そして漁師の両脇から腕を回し、相手の上体を拘束する。

 

 初霜は漁師を背後から羽交い締めにした格好で、海面へと浮かび上がった。

 

 海上に顔を出した漁師は、激しく咳き込んで水を吐き、そして数度、大きく息を吐くと、気を失ったのかグッタリとなって動かなくなった。

 

 初霜は漁師を抱えたそのままの状態でしばらく波間を漂い続け、そして数分後、ようやく救助艇に引き上げられた。

 

「大丈夫ですか」

 

 と問う船員に、初霜は頷いた。

 

「気絶しているだけです。呼吸も脈もしっかりしています」

 

「いえ、私はあなたの心配をしたんです」

 

 少し呆れたようにそう言われ、初霜は虚をつかれた表情になった。

 

「あ、ああ。私なら全然平気です。大丈夫ですよ、大丈夫・・・」

 

 初霜はそう言いながら、救助艇の隅に腰を下ろした。

 

 しかし彼女の左足首や、身体のあちらこちらには、漁師にしがみつかれた際の痕が濃い痣となって幾つも残されていた--

 

 

 

 

 

 

 

 

 フェリー入港後、初霜は港湾事務所内に設置された海上保安隊事務所へ案内され、そこで事故状況の聴取を求められた。一応、協力の申し出であったが、断るわけにも行かなかった。

 

 その旨を電話で鎮守府に連絡すると、終わり次第、秘書艦を迎えによこすとの返答だった。だが、事情聴取を終えた頃には、既に日も暮れ、夜になっていた。

 

 初霜が港湾事務所から出ると、そこに一台のタクシーを従えた若い女性が待っていた。

 

「あなたが初霜ね。私は南方警備艦隊秘書艦の駆逐艦・叢雲よ。よろしく」

 

「初春型四番艦・初霜です。遅れた上に、わざわざお迎えいただいて申し訳ございませんでした」

 

「ま、おおまかな事情はこっちも把握しているわ。とりあえずタクシーに乗りなさい」

 

「はい」

 

 叢雲に促されタクシーに乗り込みながら、初霜はさりげなく彼女の制服についている精勤章を確認した。

 

 精勤章は、艦娘としての勤務年数を示す表章である。階級が無い上に身体が成長も老化もしない艦娘たちにとっては、相手の公的立場を測る数少ない物差しだった。

 

 叢雲のそれは十年を超えていた。

 

「ねえ」と叢雲が運転手に行き先を告げる前に、声をかけてきた。

 

「体調はどう? 病院に寄る必要はあるかしら?」

 

「いえ、大丈夫です。事情聴取を受ける前に保安隊が医師を呼んで、診察してくれました。異常なしとのことです」

 

 身体の痣以外は、とは言わなかった。初霜にとっては他人に知らせる必要の無い情報だ。

 

「そう。なら良かった」

 

 叢雲は運転手に鎮守府へ向かうように告げた。

 

 動き出したタクシーの車内で、初霜は叢雲から、艦隊の現状の説明を受けた。建物のほとんどが空襲で被害を受けている事、修復が遅れている事、艦隊はまだ叢雲と白雪と村雨しかいない事、叢雲自身は前回の出撃で船体が損傷し、現在入渠中である事、等々・・・

 

 それが一通り終わる頃、タクシーは鎮守府へ到着した。

 

 叢雲からの説明どおり空襲で半壊した庁舎の長官執務室で、初霜は警備艦隊司令である海尾に着任報告を行った。

 

「遅れて申し訳ございませんでした」

 

「無事に着いて良かった」と海尾。「人命救助の一件は保安隊からも聞いている。しかし改めて、君自身から報告を聞きたい。疲れているとは思うが、いいな?」

 

「了解しました」

 

「仁淀、記録を」

 

 すると、海尾の傍で電子ノイズが走り、仁淀がその姿をゆっくりと現した。

 

 いつもなら一瞬で姿を出現する彼女だが、それだと初対面の人間へ誤解と戸惑いを与えかねないので(白雪と村雨は説明を受けるまで仁淀を人間と疑わなかった)、一目で立体映像と納得できるように演出するよう、海尾と叢雲から指示されていたのだ。

 

 仁淀は全身を映し出し終えると、最後に、まるでついでと言わんばかりにブラウン管テレビの電源を入れた時のように画像を上下左右に歪ませて見せた。

 

「司令、準備が整いました」

 

「わかった」

 

 妙なところにこだわる奴だな、と海尾は内心苦笑しながら、初霜に報告を始めるよう促した。

 

 初霜は保安隊で受けた事情聴取とほぼ同じ内容をそのまま報告した。それに対し海尾は幾つか質問を繰り返し、それを仁淀が同時進行で文章化し、立体映像で表示する。

 

「状況はわかった。ご苦労だった」

 

 海尾はそう言って、それから少し口ごもり、咳払いをひとつ行って、続けた。

 

「君の行為に対して、個人的には手放しで褒めたいところなんだが、そうもいかなくてな。君は任務以外で自分の身を危険に晒した。それは自覚しているな」

 

「はい」

 

「説明できるか?」

 

「はい。私が沈めば、それは駆逐艦一隻の損失と同義です」

 

 初霜はたじろぐことなく答えた。彼女はそれをよく理解していた。理解した上で、それでも行動した。しかし、初霜は自らの行動を正当化するつもりは無かった。

 

 一般に言う命の価値と、軍人の、とりわけ艦娘の価値は同一では無い。艦娘の命には倫理的道徳的な価値の他に、国防上の戦術的、戦略的価値が伴う。自分一人の覚悟で懸けられる命では無かった。

 

 それを、懸けた。開き直りではないが、処罰は覚悟していた。

 

 初霜の躊躇いのない、揺らぐ事もない返答と態度に、海尾も、彼女のその覚悟を見て取った。彼は無表情にため息をつき、言った。

 

「結果オーライでプラスマイナスゼロだ。処分はしない」

 

 その言葉に、初霜はわずかに眉を動かす。

 

 海尾の言葉が意外だった訳ではない。むしろ今までの司令と同じ反応と言っていい。そして、こうなるだろうとは心のどこかで予想はしていた。

 

 増長してしまいそうだ。と初霜は思った。自分の行為を後悔はしないが、正当化してもいけない。その理性が、いずれ麻痺してしまいそうな気がしていた。

 

 そんな複雑な初霜の心は、さすがに海尾には伝わるはずもなかった。しかし、彼は続けてこう言った。

 

「改めて言うが、個人的には君の行為を賞賛したい。だが、これでもし君が沈んだなら、私はその責任を負いきれない。沈むなら私の責任の下、私の命令で、私の目の前で沈んでくれ」

 

 この言葉は、さすがに意外だった。これはつまり、部下を死地に追いやる命令を下すことも辞さないという宣言でもある。なかなかはっきりと物を言う上司だと初霜は思った。

 

 だが、理解はできる。むしろこれを感情的にならずに正面から淡々と告げたこの司令は侮れない人物だと感じた。もっとも、初霜は他人を侮ったり見下したりするような性格では無かった。

 

 しかし実戦経験を積んだ艦娘の常として、階級や役職だけでは従わせることのできない矜持を、彼女もまた持ち合わせていた。それを踏まえた上で、この司令の態度に好感とは言わないまでも、認めるべき部分があったのだ。

 

「はい」と、初霜はハッキリと答えた。

 

「よろしい。では今日はもう遅い。他の者たちへの紹介は明日にしよう。明朝0815から地下司令部でオペレーションブリーフィングを行う。叢雲、地下司令部の場所を教えた後、寮まで送ってやってくれ」

 

「了解」と叢雲。「じゃあ案内するわ。行きましょう」

 

「はい。司令、失礼します」初霜は敬礼。

 

 叢雲から司令部を案内され、そのまま鎮守府の正門を出た。

 

 寮は鎮守府敷地のすぐ隣だった。そこへ行く途中、人気の無い正門近くに大量に掲げられた横断幕やのぼりが目に入る。

 

「これは?」

 

「あら、北方じゃ見なかったの? ここじゃ珍しくもないわ」

 

「住民との関係があまり良くないんでしょうか?」

 

「どうかしらね。ここで毎朝デモをやっているけど、その時に集まっていた群衆が、午後には何食わぬ顔でウチの鎮守府の修理工事をしていたりするわ」

 

「矛盾してませんか?」

 

「どっちも日当が良いらしいから・・・深海凄艦のせいで中々漁にも出られないし、観光客だって減ったわ。おまけにインフレ。島民にとっては主義主張よりも目の前の生活を守ることが最優先なのよ。だったら、どこも矛盾してないわ」

 

 淡々と語る叢雲に、初霜は「それもそうですね」と簡単に相槌をうった。

 

 どちらが正しいとか、正しくないとか、関係ない。優先して守るべきは彼らの生活であり、そのための手段が、艦娘の立場と島民とで違うだけだ。

 

 目的が果たされるなら、初霜はそのことに異を唱えるつもりはさらさら無かった。たとえこの横断幕やのぼりが、自分たち艦娘が戦って安全を確保している海上交通路を使って運び込まれたものだとしても、だ。

 

 叢雲は横断幕に目もくれず先へ行く。初霜はその後を追いながら、彼女もまた似たような考えなのだと理解した。

 

 他人の評価や非難など気にも留めない。自分のすべきことを、する。叢雲の背中にはそんな態度が見て取れた。きっと、頼りになる先輩だ。初霜はそう思った。

 

 案内された寮は、二階建てのアパートメントだった。もう夜も遅く、どの部屋もカーテンが引かれ、明かりはついていなかった。

 

「部屋の鍵よ」と、叢雲から鍵を渡される。「荷物は部屋の中に運び込んであるわ。家電製品は一通り揃っているし、ベッドも整えてあるわ」

 

「何から何まで、ありがとうございます」

 

「お礼なら管理している近所のおばちゃんに言うべきね。毎日ここの前を履き掃除してくれているから、すぐに会えるわ。じゃあ、また明日」

 

「はい、おやすみなさい」

 

 初霜は部屋の扉に向かい、ふと気になって、後ろを振り返った。すると、鎮守府へ向かって戻ろうとする叢雲の後ろ姿が見えた。

 

「あれ、叢雲さんはここの寮じゃないんですか?」

 

「残業よ」叢雲は軽く振り返って手を振った。「気にしないで、あなたはさっさと眠りなさい。二日連続で遅刻なんて不名誉な記録を作りたくないでしょう。おやすみ」

 

「あ、はい。・・・おやすみなさい」

 

 去っていく叢雲を見送った後、初霜は部屋に入った。

 

 ワンルームの部屋は、ベッドと、先に運び込まれていた私物のダンボール箱でほとんどの空間が占められていた。

 

 ダンボール箱から着替えとタオルを取り出し、シャワーを浴び終えベッドに横たわる。すると昨日と同じく、すぐに睡魔がやってきた。ただ昨日と違い柔らかいベッドの新しいシーツの上は快適だった。

 

 意識が薄れる間際、ズキリ、と左足に鈍痛が走った。溺れた漁師に掴まれ、痣になっていた場所だった。

 

 そのまま意識を手放した初霜は、その夜、自らが溺れ、沈みゆく夢を見た・・・

 

 

 

 

 




次回予告

 かつて、夜の闇に仲間を見失った。その過去を胸に秘め、白雪は再び戦場へと舞い戻る。

 そんな彼女を待っていたのは、南国の大らかな気風と、穏やかな朝だった。

次回「第九話・同僚たち」

「誰だって親しい人を目の前で失えば・・・見捨ててしまえば、忘れることなんてできませんから」



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第九話・同僚たち(1)

 その空には月明かりは無く、星も無い。海と空の境目さえ区別がつかないほど黒く塗りつぶされた闇夜。

 

--吹雪さん、古鷹さん、どこですか!?

 

 空襲警報。レーダーが迫り来る敵機の群れを感知する。対空ミサイル発射。その黒い空間を引き裂いて、炎が眩い光の筋を描いて、闇の彼方へと吸い込まれていく。

 

 レーダー画像が乱れる。深海棲艦によるジャミングだ。激しい電波妨害により敵の姿を見失う。

 

--吹雪さん、古鷹さん、返事をして下さい!

 

 その声もジャミングにかき消される。ミサイル誘導が封じられ、敵機が接近する。

 

 再び警報。敵機至近距離。すぐさま回避運動を行うと同時に、機銃による自動迎撃を発動。弾幕が闇夜に拡がる。

 

 周囲に水柱が立ち、轟音と衝撃に船体が揺さぶられる。被害探知開始。損傷なし。安堵のため息が漏れる。

 

 その瞬間、横手で眩い光が輝く。

 

 視線を向けると、闇の中、炎と共に自分と同じシルエットの船体が浮かび上がっている。

 

--叢雲!?

 

 被弾した友人に攻撃が集中する。

 

 援護に駆けつけようとしたが、自分もまた包囲されていた。頭上を姿の見えない敵機が飛び回る。

 

 回避運動。かろうじて爆撃をかわすも、燃え上がる叢雲の船体からは遠ざかってしまう。

 

 回避した先に白い光点が瞬いていた。別の僚艦からの発光信号。

 

--フルタカ、カクホ

 

 よかった。そう胸を撫で下ろしたのも束の間、続く発光信号に思わず声を上げる。

 

--ソウサクチュウシ。タダチニ、テッタイセヨ。

 

 捜索中止、直ちに撤退せよ。

 

 そんな、まだ仲間を見つけていないのに。お願い、待って、もう少しだけ。お願いだから。闇夜に手を伸ばす。しかし、届かない。

 

--吹雪さん、吹雪さん!!

 

 目が覚める。

 

 白雪は夢と同じように手を伸ばしていた。

 

「・・・・・・」

 

 ぼんやりとした瞳が、天井と、そこに向かって伸ばしていた自分の手を眺めていた。

 

 数秒、そうしていた後、白雪は腕の力を抜いた。伸ばしていた腕が重力にしたがってベッドシーツに落ちる。

 

「・・・嫌な夢」

 

 ポツリと呟き、寝返りを打って枕元の携帯端末を手に取った。

 

 ディスプレイに映る時刻表示は午前四時二十九分。その表示が四時半を示すと同時に、目覚まし用のアラームがけたたましく鳴り響いた。

 

 白雪はアラームを切り、まだ夜明け前の薄暗い部屋でベットから立ち上がった。

 

 立ち上がりつつ、もう一度、携帯端末に目を落とす。そこにメールが一件届いていた。時刻は昨日の就寝直後だった。

 

 差出人は【吹雪ちゃん】

 

--こんばんは。遅くにメール、すいません。もう寝ちゃいましたかね。白雪さん、今日から新任地ですね。南の島なんて素敵。ビーチとかもあるんですか? 水着姿の白雪さんも見てみたいので、画像お願いしますね(なんちゃって)。頑張って下さい、応援してます!

 

 素直で遠慮の無い文面に、思わず表情が緩む。

 

 すぐに返信してやりたいけれど、せっかくだからこの島の景色の一つでも写真に撮って添付しようと思い立ち、その場に携帯端末を置いた。なお、水着については黙殺することに決定している。

 

 シャワーを浴びた後、ジャージ姿で身分証カードや財布、携帯端末などを詰めたリュックを背負い、部屋を出る。

 

 夜明け前で東の水平線が白みかけている空の下、寮の前で軽やかに箒をかけている一人の中年女性がいた。

 

「大家さん、おはようございます」

 

「あら、おはよう。白雪さん、でしたね。もしかしてジョギング?」 

 

「ええ、日課なんです」

 

「今度の艦娘さんたちは皆ストイックなのね。さっき、別の娘も走っていったわよ。確か初霜さんだったかしら」

 

「へえ、そうなんですか」

 

「早起きはいいことよね。前の娘たちは夜戦だなんだとか騒ぎすぎて、朝はよく寝坊していたわ。でも、あの騒がしさは嫌いじゃなかったわぁ。居なくなっちゃうと寂しいものね。せっかくだから今度、お手紙書いてみようかしら。ねえ、白雪さん。よかったら前の娘たちの新任地を教えてくれないかしら」

 

「え、ええ、まあ」

 

 別に極秘事項にかかわる特別な部署に配属になった艦娘はいないはず。と思い返しつつ、大家がまだまだ喋りだしそうな気配を敏感に察した白雪は、

 

「それじゃ、後でお知らせしますね」

 

 と半ば強引に話を切り上げ、走り出した。

 

「いってらっしゃ~い」

 

 と後ろで手を振る大家に、白雪も軽く振り返って手を振った。

 

 逃げだすような形にはなったが、実は、ああいうタイプは別に苦手ではない。今朝は単に時間が無かっただけだ。

 

 今度もっと余裕があるときに、ゆっくりと話そうと白雪は思いながら朝の道を走る。

 

 この島に着いて初めての朝ということもあって、まだ周囲の地理をよく知らない。下手に走り回って道に迷い、仕事に遅れるわけにもいかないので、今朝のところは鎮守府の敷地内を走ることにした。

 

 門の閉まった正門の前で、眠そうな守衛に身分証カードを示し、通用口を開けてもらう。そのとき、守衛はこう言った。

 

「今日みたいに早めに来ると良いですよ。朝の七時くらいから人が集まりだしますから」

 

 そう言って、正門前の横断幕を指さす。

 

「通勤妨害でも受けるのかしら?」

 

「そんな真似する人間はいませんよ。ただ主催者を除けば、お互い多少は気まずいものがありますね。プロレスに例えるならヒールレスラーのプライベートを見てしまったような気まずさというか。・・・プロレス、見ます?」

 

「ごめんなさい。あまり興味はないの」

 

「今度この島でも興業をしますので見に来ませんか。島人プロレスっていう地方団体なんですけどね。僕の知り合いもレスラーやってるんですよ。モヒカン・ザ・ヒャッハーってリングネームでしてね。デビューするときに前の軽空母さんに名付けてもらったんですよ」

 

 酷いネーミングセンスだ、と白雪は呆れた。まるで酒に酔った勢いで付けたようなリングネームだ。

 

「まあそのうちに機会がありましたら」

 

 そう言って、さっさと正門から遠ざかる。

 

 なんというか、ここの人たちは対人関係の距離感が妙に近い気がするわ。と、白雪は思う。こういうのは嫌いではないが、しかし、まだこの島にも職場にも慣れていないせいか、少し戸惑う。

 

 しかし前の艦隊は島民となかなか良い関係を築いていたようだ。少なくとも夜中に騒いでも文句が出ず、プロレスラーの名付け親になる程度には。そして多分、名付けた場所は酒場だ。一緒に飲んでいたに違いない。

 

 そんなことをつらつらと考えながら、鎮守府内の道を走る。

 

 鎮守府の敷地内のあちらこちらには、修理用の資材が山積みにされ、ところどころで重機が道をふさぐように停車していた。空襲によってできた穴をとりあえず砂利で埋めたものの、まだ未舗装のままという部分もところどころあった。

 

 庁舎側から裏手へ回り、補給処倉庫群をまわり、海側の修理ドックへ走る。地面を掘り下げて造成された修理用の乾ドックには、叢雲の船体が入渠していた。

 

 前回の出撃で単艦で空母と戦ったというその姿はまさに満身創痍だった。

 

 なにしろ搭載武器のほとんどを吹き飛ばされたというのだから凄まじい。まだ修理が済んでいないその痛々しい姿に、白雪は今朝見た夢を思い出した。

 

 “あの時”も叢雲はひどい損傷を受けていたが、そんなボロボロの状態でも彼女自身は涼しい顔で母港まで帰ってきた。今回も同じように帰ってきたらしいとの噂は白雪も聞いていて、そういうところも昔と変わらないと彼女は思った。

 

 白雪はそのまま入渠ドック脇を走り過ぎ、岸壁へと向かう。

 

 海から吹く風は若干冷たく、港内の波は昨日ほどでは無いにしろ、まだ少し高かった。何気なく海に目を向けた白雪は、そこに珍しい光景を見つけて、思わず足を止めた。

 

 海の上を、人が走っていた。

 

 もちろん艦娘だ。防波堤に囲まれた港内を、こちらに背を向けて走っている。後姿であったが、昨日は見た覚えのない艦娘だった。

 

 そうか、あれが初霜か。と白雪は気づいた。

 

 初霜は十数センチメートルほどの波が不規則にうねる海面を、まるで陸上と同じような速さで疾走していた。

 

 短距離ランナーのように数十メートルにわたって全力疾走すると、歩調を緩め、大きく深呼吸しながらゆっくりと慎重な歩みで引き返してくる。その際、初霜は視線を下に向け足元を確かめながら歩いていたので、岸壁に立つ白雪の存在には気づいていないようだった。

 

 初霜はある程度まで引き返したところで、再び短距離全力疾走を繰り返す。

 

 白雪は最初、声を掛けようか迷っていたが、やめることにした。その代り、しばらくその場所で、一心不乱に走り続ける初霜の様子を眺めていた。

 

 初霜の走り方は慣れたもので、これが今朝思いついて始めたことではなく、繰り返し何度も走りこんで身体に染み込ませた訓練された動きだということが見て取れた。

 

 しかし本来、艦娘に“海上を走る”というスキルは存在しなかった。

 

 少なくとも長年にわたり練習艦隊で新人たちに運航術から戦技まで教えてきた白雪でさえ、海上を自分の足で全力疾走したことはなかったし、できるとも思わなかった。

 

 それが必要とさえ思ったことはなかった。

 

 それはそうだろう。人間の走力程度では戦闘の役には立たないし、もし役に立つとすれば沈む船から脱出し巻き込まれないように遠ざかる時くらいだが、それをやるくらいなら脱出用の艦載艇に乗ったほうが早い。実際、離艦訓練ではいかにして救命筏や艦載艇を早く確実に準備するかに重点が置かれている。

 

 つまり、初霜が今やっている自主訓練は艦娘として邪道なのだ。しかし純粋に身体を鍛えるという意味では有効ではある。陸上でも代替え可能ではあるが。

 

 だが初霜は、単純に身体を鍛えるためにこんな事をしているのでは無いのだろう、と白雪は察した。

 

 昨日の救助活動は、日ごろから海上を走り慣れた初霜でなければ不可能だったはずだ。

 

 白雪はそんなことを思いながら数分の間、初霜の様子を眺め続けた後、再び走り出した。

 

 岸壁から遠ざかり、再び鎮守府庁舎の前まで辿り着く。白雪は庁舎の二階中央部分の部屋に明かりが灯っていることに気が付き、足を緩めた。

 

 そこは鎮守府長官室、つまり海尾の仕事部屋だった。

 

 こんな朝早くから、もう仕事の準備をしているのだろうか。と白雪は不思議に思い、すぐに違うと思い至った。

 

 もう、ではなく、まだ仕事をしているのだ。多分徹夜だったのだろう。

 

 白雪は庁舎脇の通用口から、建物内へと入った。

 

 まだ早朝ということもあって庁舎内に人気は無く、静寂に満ちていた。

 

 しかし大階段のある中央ロビーまでやってきたとき、吹き抜けの階上から扉の開閉音が聞こえてきて、続いて一人の女性が階段を降りてきた。

 

 叢雲だった。

 

 彼女は疲弊した顔で階段を一歩一歩踏みしめるようにして降りてくる。

 

 白雪は、叢雲に「おはよう」と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。そして、少し考えて、こう言った。

 

「お疲れ」

 

「ん? あぁ、白雪。・・・うん、疲れちゃったわ」

 

 叢雲は階段を降り切ると、そのままロビーの隅にあるソファに崩れ落ちた。

 

「もしかして、残業で徹夜?」

 

「もしかしなくとも徹夜。まあちょっとは仮眠をとったけどね。鎮守府の再建と艦隊の再編を同時作業で進めるなんて無茶もいいところよ」

 

「いくら仁淀の支援があるっていっても、海尾さんとあなたの二人だけじゃ確かに厳しいわよね。私もできる限りのことはするわ」

 

「心配しなくても、ちゃんと仕事を割り振っておいたわよ。今日からこき使うから覚悟しておきなさい」

 

「・・・聞かなきゃよかったわ」

 

「それにしても早いわね。ジョギングでもしてた?」

 

「日課よ。それに夢見も悪かったし、少し気分転換もしたくて」

 

「夢?」

 

「サボ島沖」

 

 白雪の短く簡潔な回答に、叢雲は疲れた顔をさらに曇らせた。

 

「嫌な事を思い出させてくれるわね」

 

「私も吹っ切ったつもりでいたんだけどね。やっぱり久しぶりの前線配置を意識しちゃったのかしら」

 

 白雪も軽くため息をつき、そういえば、と続けた。

 

「ねえ叢雲、メール確認した?」

 

「いいえ。なんかあったの?」

 

「昨日の夜に吹雪ちゃんからメールがあったの。あの娘のことだから、多分あなたにも送っているんじゃないかしら」

 

 白雪の指摘に、叢雲も服のポケットから携帯端末を取り出し確認する。

 

「確かに来てるわね。“私の可愛い先輩の白雪ちゃんがお世話になるので、どうぞよろしくお願いします”だってさ」

 

「・・・本当にそう書いてあるの?」

 

「はいこれ」

 

 差し出された携帯端末には確かにそう書かれていた。追伸で白雪の水着姿を撮影するよう依頼までしている。この後輩は先輩を何だと思っているのだろうか。

 

 呆れる白雪をよそに、叢雲がにやにやと笑いながら携帯端末を仕舞う。

 

「可愛い後輩ね。流石、あんたが育てただけあるわ」

 

「もっと上下関係を厳しく躾けておくべきだったわ」

 

「あんたには似合わないわ。それに、艦娘には無意味よ。大丈夫、あの娘は優秀よ。真面目で、努力家。・・・ネームシップである“吹雪”の名を受け継いだプレッシャーも相当あるでしょうに。私たちに甘えるくらい、大目に見てあげたっていいわ」

 

「・・・叢雲って、一見厳しいように見えて、意外と人に甘いわよね」

 

「意外って失礼ね。私はいつも優しいわよ」

 

「それもそうね。あの人と徹夜してまで付き合ってあげているもの」

 

 白雪はそう言って、階上に目を向けながらほほ笑んだ。

 

 そんな白雪を、叢雲はソファに座り込んだまま、胡乱な目つきで見上げた。

 

 白雪がその視線に気づく。

 

「叢雲、どうかした?」

 

「別に・・・ただ変な誤解される前に言っておくけど、仕事していただけだからね」

 

「分かってるわよ。そんな色気のかけらもない疲れ切った顔してるんだもの。情事のあとにはとても見えないわ」

 

「情事って、あんた」叢雲は言いかけ、欠伸をした。「ふぁ・・・ああ、もう駄目。眠い。やっぱり仮眠をとることにするわ。そこの仮眠室にいるから、悪いけどブリーフィングに遅れそうだったら起こしてくれる?」

 

「ええ、任せて」

 

「ん、ありがとう」

 

 叢雲はソファから立ち上がると、ふらふらとした足取りで仮眠室と書かれた部屋へと移動していった。

 

 白雪はそれを見送ると、中央ロビーの大階段から二階へと移動した。

 

 大階段を登り切ったすぐ目の前に、木製の扉がある。白雪は、鎮守府長官室と書かれたその部屋の扉に耳を当て、中の気配を探った。

 

 微かに、規則正しい寝息が聞こえる。

 

 白雪は扉を、音をたてないように静かに開けた。

 

 広い部屋に応接用ソファと、その向こうに木製の執務机。そこの執務机に突っ伏すようにして海尾が眠っていた。

 

 その手には電子ペンが握られ、卓上ディスプレイには書きかけの書類がまだ表示されていた。どうやら仕事の途中で力尽きたとみられる。

 

(叢雲ったら、彼をこんな状態で放置したのかしら)

 

 白雪は旧友の薄情ぶりに憤慨しそうになったが、部屋の様子を見渡して、すぐにそれが思い違いであると知った。

 

 部屋の真ん中のソファには毛布がめくりあげた状態で引っかかっていた。

 

 そこに手を触れると、まだ少しぬくもりが残っている。そして卓上ディスプレイがまだ省エネモードになっていないことから見るに、海尾が力尽きてからさほど時間は経っていないだろう。

 

 おそらく叢雲は、海尾がソファで横になったのを見届けてから部屋を出てきたに違いなかった。しかし海尾はすぐに起きて仕事に戻ってしまったのだろう。白雪は二人の性格を鑑みてそう推理し、やれやれとため息をついた。

 

 白雪は部屋の隅にポットと茶筒を見つけ、それでお茶を淹れ始めた。

 

 緑茶とほうじ茶、紅茶はダージリンとオレンジペコがあったが、白雪は迷わずダージリンを選んだ。

 

 紅茶をカップに注ぎ、ミルクも砂糖も添えずに執務机に向かう。

 

「海尾さん、起きてください。海尾さん」

 

「うん・・・」

 

 海尾が身じろぎして机から上体を起こす。彼はすぐに腕時計を見た。

 

「しまった、五分以上寝てしまった・・・白雪か?」

 

「そうですよ。はい、どうぞ」

 

 と、紅茶を差し出す。

 

「お、ありがとう。・・・なんだかいつもより美味いな。もしかして自前の茶葉なのか」

 

「備え付けの茶葉です。きっと淹れ方が違うんですよ。お湯の温度や、注ぎ方。カップの温度も重要ですね。以前お教えしましたけど、忘れました?」

 

「教わった通りにやっているよ。これでも結構こだわって、それなりに上手くなったと自負していたんだ。だがやはり師はレベルが違うな」

 

 海尾は美味そうに紅茶を飲みほした。

 

「海尾さん、少しは休んでください。秘書艦を先に休ませて上司だけ仕事をするものじゃありませんよ」

 

「叢雲は有能だ。だが俺が休めと言わない限り仕事を続けようとする。甘えるわけにはいかないだろう」

 

「司令であるあなたに休めと命令できる人は、ここには居ないんですよ。私も含めて部下も増えましたし、今日から頼って下さいね」

 

「ああ。叢雲も言っていたよ。白雪は頼りになるってな」

 

「あなたは?」

 

「無論、同じ気持ちだ」

 

 海尾の答えに、白雪は満足そうにうなずいた。

 

「ところで」と海尾。「ジャージ姿ということは日課のジョギングか。街はどうだった?」

 

「まだ来たばかりで土地勘が無いですから、今朝は鎮守府内を走っていました。・・・初霜さんも走っていましたよ」

 

「そうか。・・・うん? 白雪、初霜はまだ紹介していないはずだが」

 

「岸壁沿いを走っていた時に、港内の海上で走りこんでいたのを見ました。艦娘とはいえ、波打つ海面を走れるなんて初霜さんぐらいでしょう」

 

 白雪の言葉に、海尾は「そうか」と天井を見上げため息をついた。

 

「どうかしましたか?」

 

「初霜のことさ。昨日、救助の様子について保安隊からの連絡と、そして彼女からも直接話を聞いたが、なんというか彼女はかなり特殊だな。どこか、まともではない」

 

「それはどういう意味でしょうか」

 

「対人コミュニケーション能力は問題ない。礼儀正しいし、報告も簡潔明瞭で要点を抑え、状況判断能力も優れている。あの北方で練度抜群と評されただけある」

 

「非常に優秀な人材なんですね。だからこそ、あの荒れた海でも冷静に対処し、溺者を救助することができた」

 

「それだよ。冷静すぎるんだ。彼女はあの突発的な危機に際して、何の躊躇いもなく海に飛び込んだ。それも一時の感情的な行為ではなく、計算尽くで、合理的判断に基づいた行為だった。・・・自分の命の危険を度外視していることを除けばな」

 

「・・・・・・」

 

「海の上に直立できる艦娘を溺者の浮き輪替わりにする。最善の判断だとは俺も思う。だが、俺が現場にいたなら二次災害の危険を考えずには居られない。躊躇なく送り込むことは、できない」

 

「・・・私が見た限り、初霜さんは常にそういった危険に備えているように見えました。どんな状況下でも人を救う。きっとそのために、ああして毎日、海を駆けているのでしょうね」

 

「過去の事件ゆえに、か。だが初霜のあの行為は・・・まるで強迫観念のようだ」

 

「彼女の気持ち、理解できないことはないんです。誰だって親しい人を目の前で失えば・・・見捨ててしまえば、忘れることなんてできませんから」

 

 そう言った白雪を、海尾は見つめた。

 

 普段人前では決して表に出すことのない陰りの色が、彼女の目に浮かんでいた。

 

「サボ島沖か」

 

「あの子は、私と似ています。助けたかったのに、助けられなかった。それをずっと引きずっている。でも、あの子は北方で戦い続けた。そして今もここに居る。ずっと後方に下がっていた私とは違いますね」

 

 そう言って少し自虐的に彼女は笑う。

 

「・・・白雪」

 

「そういえば明後日には訓練出港でしたね。よろしければ資料を見せてもらえますか。訓練計画を確認したいので」

 

「・・・わかった」

 

 海尾は彼女に言いかけた言葉を飲み込み、代わりに机の脇に置いてある紙面印刷済みの航海計画を収めたファイルを手渡した。

 

「朝のオペで渡すつもりだったんだが、そのまま持っていてくれ。叢雲の船体修理が完了していないから、今回は君が旗艦だ。午後のオペで細部の調整をしよう」

 

「了解しました。それと海尾さんも朝オペまで休んでください。村雨さんや初霜さんみたいな新しい子たちに、そんな疲れた顔を見せるのもどうかと思いますしね」

 

「そうしたいが、今夜は残業するわけにもいかないからもう少しだけ頑張るよ。君たちの歓迎会を予定しているんだ」

 

「そうだったんですか。ふふ、ありがとうございます。じゃあ、私もお手伝いしいますね」

 

「悪いな、助かる」

 

「あ、そうだ。先にお茶のお代わりを淹れますね」

 

 空になっていた海尾のカップを手に、白雪はポットへ向かう。その後姿を眺めながら、海尾は昔を思い出していた。

 

 練艦隊時代もこうしてよく二人で仕事をしていた。

 

 懐かしい気分と同時に、あの頃よりも増えた業務量を目前にして、海尾は苦笑した。

 

 

 

 



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第九話・同僚たち(2)

 海軍は毎朝八時が業務開始時間と定められている。朝八時ちょうどになると鎮守府敷地内に国歌が流され、それに合わせ国旗が掲揚される。

 

 その際に司令以下、鎮守府に勤める者たちは皆、掲揚される国旗へ向けて敬礼を捧げる。そのため、おおむねその十五分前には全員が国旗掲揚台の元へ整列するのが常だった。

 

 初霜は少し早めに、叢雲から予め聞いていた警備艦隊用の整列地点に着いていた。着いたのは彼女が一番最初であったが、すぐに庁舎の方から、叢雲と、そして白雪が連れ立ってやってきた。

 

「おはようございます」

 

「おはよう、初霜。そうそう、あんた達の紹介はまだだったわね。隣の彼女が白雪よ」

 

 叢雲に促され、白雪が微笑みながら会釈する。

 

「白雪です。初霜さん、よろしくお願いしますね」

 

「こちらこそよろしくお願いします。それと、練艦隊ではお世話になりました」

 

「あら、一緒に勤務していたかしら」

 

「四年前、私がまだ基礎教育過程の頃に乗船実習でご指導いただきました」

 

「四年前・・・ああ思い出したわ。あの時化がひどかった時ね。実習生がみんな船酔いしているにもかかわらず香取さんがカツレツを振る舞ったりしてたわね」

 

 その時の様子を思い出したのだろう、白雪はクスクスと笑った。

 

「あの実習のおかげで船酔いに慣れました」と初霜。「ひどい揺れを経験すると身体が麻痺する。と白雪さんに言われたのを覚えています」

 

「今はもう大丈夫? って、あれから何年も経っているものね。もう新人の面影は無いわ。すっかり一人前の顔付きよ」

 

 白雪の言葉に、初霜は少しくすぐったい気持ちで、「ありがとうございます」と礼を言った。

 

「ところで」と叢雲が周囲を見渡す。「まだ一人足りないわね。ねえ、初霜。村雨らしき人物を見かけなかった?」

 

「まだ顔を知りませんからなんとも言えませんが、少なくとも私たちと外見が同年代の人は見かけていません」

 

「ということは・・・拙いわね」

 

 叢雲が正門の方に目を向けながら眉をひそめる。初霜もつられてそちらを見た。

 

 初霜たちがいる場所から300メートルほど離れた場所にある正門の外には、いつの間にか人だかりが出来上がっていた。

 

「市民団体の方達ですか。もうあんなに集まっていたんですね。・・・静かだから気づきませんでした」

 

 初霜は感心しながら言った。何に感心したかといえば、その静けさだ。抗議集会という目的とは不釣り合いなくらい、和気藹々としてノンビリとした雰囲気がその人だかりにはあった。

 

 しかしそれも、よく観察してみればそれと分かるという話であり、遠目から一見した限りでは、勇ましい文言が記されたノボリが乱立し、そこに赤いハチマキを締めた群衆が正門を塞ぐようにして集まっている光景は威圧的に違いなかった。

 

「あの娘」と白雪。「きっとあれを見て、入るに入れなくなってるんでしょうね」

 

「あの様子だと主催している活動家たちはまだ到着していないだろうし、普通に素通りしても誰も文句言わないけどね」

 

 叢雲はそう言って、ふと何かに気づき、懐を探って携帯端末を取り出した。叢雲の手の中で携帯端末が音もなく振動している。

 

「村雨からの着信だわ。もしもし?」

 

 叢雲が電話に出ている間に、海尾も庁舎から姿を現し、初霜たちの元へとやってきた。

 

「司令、おはようございます」初霜と白雪は敬礼。

 

「おはよう。ところで叢雲は誰と電話しているんだ?」

 

「村雨さんです」と、白雪。「どうやら正門の人だかりに阻まれて、中に入ってこられないみたいですね」

 

 白雪は、叢雲の電話の遣り取りを聞きながら海尾に説明する。

 

「あ~、しまった。昨日のうちに注意しておくんだったな。しょうがない、迎えに行くか」

 

「その必要はないわ」と叢雲が通話を切って、言った。「村雨から“入るにはどうしたらいいですか”って泣き言の電話があったけど、通話の最中に気の利いた人間が迎えに来てくれたみたい」

 

「誰だ?」

 

「こういうのに一番慣れている人間よ。ほら、来たわよ」

 

 そう言って叢雲は正門を指差した。

 

 ハチマキ姿でたむろする群衆から、迷彩服姿の男と、その男に手を引かれて村雨が姿を現した。迷彩服の男は、正門の守衛だった。

 

 なるほど。と、その様子を眺めていた初霜は納得した。正門の守衛なら毎日のようにあの群衆を相手にしている訳で、それへの対応も慣れたものだろう。

 

 実際、そうだ。

 

 初霜の見守る先、彼は村雨の手を引きながら、周囲の人々と挨拶を交わしつつ悠然と歩いていた。それどころか時折立ち止まっては、人々と立ち話までしていた。

 

 ちょうど今も中年女性数名から声をかけられ、二人揃って照れくさそうに何かを否定している。おそらくカップルに間違われでもしたのだろう。

 

 海尾も、その緊張感のない様子に気がついたようで、

 

「なんだかなぁ。ああいう光景を見ると、むしろ真面目にやっている活動家たちが可哀想に思えてくる」

 

 海尾の言葉に、叢雲が肩をすくめた。

 

「別に、彼らだって私たちにアピールしている訳じゃないでしょうよ」

 

「じゃあ誰に向けてアピールしているんだ?」

 

「ここから遠く離れた本土の奥地に居る人たちに、よ。撮影用カメラいっぱいに群衆が映っていて、数分でも声をあげて拳を突き上げていれば、それでいいのよ。・・・それより、そろそろ急いでくれないかしら。このままじゃ本当に遅刻よ」

 

 叢雲はじれったそうに腕時計に目を落とした。時刻はすでに七時五十分を過ぎている。

 

 海軍は伝統的に五分前行動を常とするため、朝八時に整列して国旗へ敬礼するならば、その五分前には整列を完了していなければならなかった。

 

 守衛と村雨も、そのリミットが迫っていることにようやく気がついたようで、駆け足で正門をくぐり、敷地内へと入ってきた。

 

 それでもまだ整列位置まで300メートルほどは離れている。守衛が詰所の脇に立て掛けてあった自転車に跨り、後ろに村雨を乗せて、整列地点へ向けて走り出す。

 

 自転車は結構なスピードだった。村雨はなびく髪を手で押さえつつ、もう片手で落ちないように守衛にしがみつき上体を密着させていた。

 

 その光景に、白雪が微笑みながら言った。

 

「まるで青春の一ページね。なんだか懐かしいわ。ねえ叢雲」

 

「生憎と青春を懐かしむほど、まだ歳食っちゃいないわよ」

 

「私はちょっと懐かしいかも」と、初霜。「昔よく二人乗りをやってました。まあ、相手は同期の姉妹艦だったんですけど」

 

「初霜、それはどう反応すればいいんだ?」と海尾は苦笑。

 

「すいません、独り言です」

 

「いいさ。しかしあれ、もしかして当たってないか?」

 

「何がです?」

 

「いや、独り言だ」

 

 咳払いしつつ目を逸らした海尾の前に、自転車が音を立てて止まった。

 

「村雨、ただいま到着しました。遅れて申し訳ございませんでしたぁ!」

 

「まあ今日のところは不可抗力みたいなものだ。毎朝デモがあることを説明し忘れていたこちらの不注意でもある」そして海尾は守衛に向かい、「連れてきてくれて助かった。ありがとう」

 

 礼を告げると、守衛はニコリと爽やかな笑顔を浮かべた。

 

「いえいえ、これも役得--任務ですから」

 

「やっぱりか」

 

 微妙に悔しそうな海尾と、イイ笑顔でサムズアップする守衛。

 

「ん? なになに~?」

 

 当の村雨はその様子に何の話なのか理解できず首をひねったが、

 

 すぐに、

 

「あ・・あぁー!?」

 

 その意味に気づき、自分の胸元を両腕で覆った。それが却って両脇から圧迫する形になり、膨らみが強調される。

 

「え、えっちぃ~!」

 

「はて、なんのことやら」

 

 守衛は、赤い顔で睨む村雨に敬礼すると、自転車を返して颯爽と走り去っていった。

 

「あー、逃げたぁ~!!」

 

「うふふ」と微笑ましく見守る白雪。

 

「ねえ、あんた。羨ましがってたでしょ」と、叢雲が海尾を見る。いや、睨む。

 

「はて、なんのことやら」と、とぼける海尾。

 

 初霜は初霜で、駆逐艦にしては妙に発育が良いのね、と思いながら、同時に村雨の精勤章を確認していた。村雨のそれは四年であり、つまり初霜と同期生だった。

 

 その村雨の目が、初霜に向く。

 

「あ、初霜さんだね。私は村雨。よろしくね」村雨も、初霜の精勤章に気づく。「同期だね。でも初めましてだよね?」

 

「そうですね。きっと基礎教育期間中の教育隊が違っていたんじゃないですか? 私は佐世保教育隊でした」

 

「私は横須賀教育隊。でも同期がいるって心強いね。一緒に頑張ろうね、初霜さん」

 

「はい。それと、同期ですから呼び捨てで構いませんよ?」

 

「そう? それじゃあ--」

 

 村雨が何か言いかけたところで、国旗掲揚五分前を告げるアナウンスが流れた。それを聞き、初霜と村雨は私語を止め、国旗掲揚台に向かって姿勢を正す。

 

 海尾や叢雲、白雪や、周囲で整列する他の者達も皆、同じように姿勢を正し、あたりは咳ひとつ聞こえない静寂が満ちた。

 

 朝八時。国歌が流れ、その場にいた全員が掲揚されて行く国旗に敬礼。

 

 その後、業務開始を告げるラッパが鳴り響き、各自はそれぞれ持ち場へと散っていく。海尾たち南方警備艦隊の面々も地下司令部へと移動した。

 

 地下司令部の指揮所は、高い天井を持った広い部屋にいくつものコンソールが並び、壁際にある多目的大型スクリーンには海域図が映し出されていた。

 

 五人は部屋の中央に立ち、海尾が言った。

 

「さてと、先ずは新着任者の紹介といこう。初霜」

 

「はい」

 

 海尾に促され、初霜は自己紹介を行う。

 

「初春型駆逐四番艦、初霜です。よろしくお願いします」

 

 敬礼。合わせて皆、お互いに名乗り合う。紹介が終わり、海尾が司令席に着く。他の面々もその近くの空いたコンソールの席に着いた。

 

「では、司令」と叢雲。「朝の定例オペレーションブリーフィングを開始します」

 

 海尾が頷いたのを確認し、叢雲はコンソールを操作して今後一週間のスケジュールを大型スクリーンに示した。

 

「予定の確認をする前に、南方警備艦隊の現状について説明するわ。今、ウチは旧警備艦隊メンバーが全艦損傷して修理ドックに入ってしまったことにより、完全新設部隊と同様の状態にある。そのため目下の目標としては、この南方警備艦隊を早急に実戦投入出来るレベルまで練度を引き上げる必要があるわ」

 

 叢雲はいったん言葉を切り、白雪、村雨、初霜それぞれの顔を眺めた。

 

 そして、彼女は続けた。

 

「今ここに居るあなた達は、個々の練度は申し分ないけれど、チームとしてはまだ烏合の衆でしかない。という訳で早速だけど、明後日からあなた達三人による四日間の訓練出港を計画させてもらったわ。今日と明日については、出港及び訓練に向けて各自は準備を行うこと。--ここまでで質問は?」

 

 はい、と白雪が手を挙げる。

 

「準備だけで二日も使ってしまって良いの? 鎮守府再建業務も山積みと聞いたけれど?」

 

「それについては次に説明するわ。他に質問は?」

 

「ないです」と村雨。

 

「ありません」と初霜も首を横に振る。

 

「じゃあ白雪の質問に答えるついでに続きを説明するわね。先ず鎮守府再建業務だけど、これについては基本的に司令と私が担当するから、あなた達は気にしなくていい。その代わり、白雪」

 

「はい」

 

「南方警備艦隊の再編成及び訓練に関してはあなたに任せる。異論は?」

 

「私は無いわ。他の二人は?」

 

「ないです」

 

「ありません」

 

「じゃあ決まりね。それで準備に二日もかける理由だけど、二つあるの。ひとつ目は物理的な理由よ。あなた達も気づいていると思うけど、空襲被害のせいで係留岸壁が一隻分しか空いていないのよね。なので船体整備も交代でやらざるを得ないのよ。それともうひとつは出港の内容よ。今回は初訓練であると同時に海域哨戒も兼ねてもらうわ」

 

「えーっと」と村雨。「それってつまり、敵と遭遇したら即実戦てことですよね」

 

「そうよ。ま、白雪と村雨にはこっち来る時もやってもらったから薄々感づいていると思うけど、ウチの担当海域は私が入渠しちゃったこともあって、今はスッカラカンなのよ。近隣の警備艦隊が交代でこっちまで哨戒してくれているけれど、いつまでもそれに甘えるわけにもいかないしね」

 

「だから」と白雪。「チームとして実戦投入できるレベルに無くても、出さざるを得ないという訳ね。実戦も視野に入れて二日かけて万全の準備をせよ、と」

 

「そういうこと。訓練資料については白雪、もう持っているわよね」

 

「ええ」

 

「準備作業の細かい調整はあなたに任せる。私は司令と一緒に鎮守府庁舎で再建業務にかかるから、昼のオペで方針と進捗状況を報告してちょうだい。以上、質問事項は?」質問は無し。「司令、お願いします」

 

「うん。諸君、今日から新生南方警備艦隊発足だ。なかなか前途多難な船出だが、力を合わせ頑張っていこう。みんな、よろしく頼む」

 

 朝オペを終え、海尾は叢雲とともに地下司令部を後にした。

 

 残った三人は、白雪を中心として、先ずは訓練資料に目を通した。

 

 それによると出港期間は四日間。担当海域のほぼ全域を周りながら、駆逐艦三隻による陣形成形訓練に始まり、

 

 水中自走標的を使用した対潜追尾訓練、

 

 シミュレータによる偽造目標を使用した対空訓練、

 

 敵艦役を交代しながらの対水上戦訓練、

 

 さらに空中哨戒機の協力を得て行われる対空実弾射撃訓練、

 

 これらの訓練に加え、海域の各ポイント、各時間帯の水温分布及び潮流の観測を実施し、そして最終日には、新たに着任する二人の軽巡艦娘、球磨と那珂と海上で合流して、五隻でまとまって帰港することになっていた。

 

「おぉ・・・」村雨が気圧されたように声を漏らした。「またギッシリと詰め込んでありますねぇ」

 

「それだけ即戦力として期待されているということよ。でもきっと、海尾さ--司令にとってはまだ足りないと感じているはずよ」

 

「ま、分かっちゃいますけどね~。・・・ところで白雪さん」

 

「なにかしら」

 

「昨日から気になっていたんですけど、司令とはどんな関係なんですか?」

 

「関係?」

 

「以前、練艦隊で一緒に勤務していたってことは聞きましたけど」

 

「そうよ。それで?」

 

「えーっと、その・・・仲がよさそうだなぁ、って」

 

「そうね。仲は良いわよ」

 

「友人ですか?」

 

「昔はね」

 

「昔? じゃあ、今は?」

 

「上司と部下よ。そこはわきまえているわ」

 

 ニコリと微笑んで言い切った白雪に、村雨は、「あ~、そうですかぁ」と、大人しく引き下がった。

 

 初霜はそれを端で眺めながら、隊内の人間関係をなんとなく察した。

 

 軍隊もまた人間社会の縮図だ。かつてのような男所帯なら別だが、現代海軍は男女比率もほぼ半々であり、男女関係の話題は珍しいものではなかった。

 

 そして白雪は、村雨の探るような質問に肯定も否定もせず曖昧に答えている。

 

 質問の意味を理解していない訳ではないだろう。なにしろ、そういったことに縁の無い初霜でさえ気づけたのだから、それはつまり、そういうことなのだ。と、初霜はひとりで納得した。

 

 かといって初霜は、村雨と一緒になってそれを話題にするつもりは無いし、興味も薄かった。それよりも訓練即実戦になり得る現在の状況の方が気になった。

 

「あの、話題を仕事に戻しますけど」と、初霜。「船体整備の順番はどうしましょう。実戦に備えた出港準備とすれば、船体整備だけで一隻あたり半日はかかりますが」

 

 白雪が頷く。

 

「そうね。それに、できればもっと念入りにやりたいわね。でも私と村雨さんは哨戒航行しながらここに着任しているから、ある程度の準備はできているわ。だから初霜さんの船体整備に多めに時間を割いてもらっても構わないわよ」

 

「なら」と、村雨。「船体整備は初霜ちゃんからでいいですね。・・・あ、ちゃん付けで呼んでもいいよね?」

 

「ええ、構わないわ」と、初霜も砕けた口調で答える。

 

「あら、二人でばかり、ズルいわね」と白雪。「私もちゃん付けしてもいいかしら」

 

「おぉ、もちろんですよ~。あ、でもさすがに私たちからは白雪さんと呼ばせてもらいますけどね」

 

「そうね、仕事中は仕方ないかしら。それと船体整備の順番は、初霜ちゃん、村雨ちゃん、私の順番でいきましょう。あと、船体整備の際は他の二人も乗り込んで確認したいのだけど、いいかしら。これからチームを組んで動く以上、お互いの能力を把握する必要があると思うの」

 

「そうですね」と村雨。

 

 初霜も異論は無い。

 

 それを確認し、白雪は言った。

 

「それじゃあ決まりね。初霜ちゃんと村雨ちゃんは午前のうちに燃料、弾薬、糧食の補給手続きを済ませておいてね。私は三人分の整備計画とタイムスケジュールをまとめるから、それぞれ手配が済んだら報告すること。取り敢えず午前中はこんなところかしら。質問は無い? じゃあ、取り掛かりましょうか」

 

 白雪の指示により、初霜と村雨もそれぞれの業務に取り掛かった。

 

 三人は予定通り午前中で整備手続きと計画をまとめ、昼の定例オペレーションブリーフィングでそれを報告した後、計画通り、先ず初霜の船体整備から取り掛かった。

 

 係留岸壁の転送装置が作動し、そこに初春型駆逐艦の船体が姿を表す。

 

 岸壁で見守っていた白雪と村雨は、目の前に現われた船体を目にして、「へぇ」と興味深そうに声を漏らした。

 

「かなり大幅に改修されているのね。駆逐艦でここまで装備が変更されたのを見るのは初めてだわ」

 

「え~っと、パッと見ただけでも、主砲と、メインマスト上のレーダーが明らかに別物ですね~。それにSSSM発射装置と後部主砲が撤去されて、なんだか見慣れない装備が搭載されていますね」

 

 二人は岸壁を歩きながら、係留作業中の船体を眺め、気づいた部分を列挙した。

 

 先ず前部甲板にある主砲は、白雪や村雨に搭載されているものと同じ12.7センチ連装砲であるのは確かだったが、砲塔部はより小型化されており、また砲身もほぼ真上まで向けることができる対空特化仕様になっていた。

 

 艦橋後部にそびえる鋭角的なメインマスト上には回転式のレーダーアンテナでは無く、ひし形のパネル状アンテナを四面に貼り付けた箱型構造物があった。

 

 中部から後部にかけては村雨が指摘した通り、本来、二基が搭載されているはずの三連装SSSM発射装置が一基のみとなっており、撤去されたその場所に、代わりに平たい長方形の構造物がある。

 

 そして同じく撤去された後部主砲の代わりに、半球状のレドームが搭載されていた。それはまるで、主砲から砲身を取り払い砲塔のみがそこにあるようだった。

 

 そのレドームを見て、白雪が首をひねる。

 

「メインマストのアンテナがフェーズドアレイレーダーだというのは見当がつくけれど、後部のコレは何かしらね?」

 

「う~ん、これもレーダーの一種ですかねぇ」

 

 そうやって二人で疑問に思っているところへ、船体の係留を終えた初霜が甲板上から声をかけた。

 

「桟橋をかけました。乗艦可能です」

 

「ええ、わかったわ」

 

「ねえねえ初霜ちゃん、後ろのコレなぁに~? レーダー?」

 

「ああ、アレですか」乗艦する二人を迎えながら、初霜は答えた。「レーダーに近いけれどちょっと別ものというか。試製動体検知追尾装置・・・モーショントラッカーとも呼ばれているものですね」

 

「動体? 動いてるモノを探知する装置ってこと? それってレーダーとどう違うの?」

 

「電波輻射じゃなくて、空気密度の変化を高感度センサーで測定するの。つまり物体が大気中を移動する際に生じる空気の流れを捉える装置ってところかしら」

 

「ああ・・・あー」

 

 わかったような、わからないような様子の村雨。

 

 そんな村雨に、白雪が助け舟を出した。

 

「要するに、レーダーやソーナーでも捉えられない目標を捉えることができる装置って解釈で良いかしら?」

 

「はい、そういうことです」

 

「ああ!」と村雨もようやく理解した。「ということは、これなら深海凄艦もバッチリ見つけられるってことなんだね!」

 

 そう、深海凄艦は高い電波吸収能力と静粛性を誇るため、通常のレーダーやソーナーでは探知し辛いという特性を持つ。しかしこのモーショントラッカーならば、質量を持つ物体が大気中を移動する限り、その位置を探知することが可能だった。

 

「すっご~い。まさに秘密兵器だね!」

 

 村雨の言葉に、初霜は苦笑した。

 

「そんなに大袈裟なものじゃないわ。探知範囲はせいぜい10海里ぐらいだし、それにもともと戦艦や重巡用に開発された装備を駆逐艦に無理やり積んだわけだから、見ての通り火力が半減しちゃったしね」

 

「そこまでして、どうしてコレを搭載したの?」と、白雪。

 

「幾つか理由があるんですけど、一番の理由は北方海域の天候ですね。あそこはかなりの頻度で霧だったり悪天候だったりしますから、視界がほとんど効かないんですよ。ひどい時は10メートル先も見えなかったりしましたから、こんな試作型センサーでもすごく助かるんです。で、海軍工廠の倉庫に余っていたコレを回してもらえる事になりまして、北方警備艦隊の誰に搭載させようかって話になった時に、ちょうど大破していた私に白羽の矢が立ったんです」

 

「なるほどね」と白雪。「大規模修理ついでに改造したわけね。ちなみにコレ、探知情報を私たちのレーダーにも同期できるのかしら?」

 

「可能です。ただし戦艦クラスによる電子ジャミングを仕掛けられた場合はちょっと難しいでしょうけど」

 

 深海凄艦には戦艦や重巡と呼ばれるものがいるが、これらはレーダー・ソーナーに対するステルス能力に加え、大規模かつ強力な電子戦能力を持っていた。

 

 特に戦艦クラスともなると最大数十海里に及ぶ広範囲なジャミングを仕掛けてくることがあり、その影響下ではレーダーはおろかミサイルの誘導、さらに僚艦同士の通信さえ封じられた状態で戦うことを余儀なくされる。

 

 そのため、人類側も対抗策として、深海凄艦を上回る電子戦能力を持ち、かつジャミング下でも敵を圧倒できる火力と装甲を兼ね備えた大型艦艇を建造する必要性が生じた。

 

 その結果、レーダーや長距離ミサイルの発達で一時は滅びたかに思われた大艦巨砲主義が形を変えて復活し、今、世界各国では戦艦や、それに匹敵する電子戦能力を持った巡洋艦(重巡洋艦)が大量建造されていた。

 

「とりあえずこれから作動確認を行いますので、どんな風に表示されるのかをお見せします」

 

 初霜は、白雪と村雨を艦橋へと案内する。

 

「結構アナログ計器が残っているんだね」と村雨。

 

「初春型は改修が遅れていたからね。私以外で大幅に改修した姉妹艦は、ネームシップの初春姉さんが対空システムを更新したぐらいかしら」

 

 初霜はそう答えながら、艦橋の多目的スクリーンにレーダー画面を表示させた。

 

「サポートAI、これよりレーダー作動確認を行う。対空・対水上レーダー及びモーショントラッカー起動」

 

『了解。対空・対水上レーダー及びモーショントラッカー起動。コールドアイ冷却開始』

 

「ねえ、コールドアイってなに?」と村雨。

 

「空気密度を測定するための高感度センサーよ。極低温で作動させるの。後ろの大きなレドームの中身は業務用冷凍庫みたいなものね」

 

 対空・対水上レーダーの作動確認を先に行い、それがちょうど終わる頃にセンサーの冷却が完了した。

 

 初霜は多目的スクリーンをモーショントラッカーによる情報の表示に切り替える。

 

 現れた表示は、自艦を中心とした俯瞰表示だった。しかし表示範囲は360度全周ではなく、60度の扇状に区切られた範囲のみが出力表示され、残りの部分はブラックアウトしている。

 

「索敵範囲はセンサーの前方中心軸から左右30度、仰角20度。センサー自体は360度に回転可能です。ちなみに今は、センサーは船体後方に向いている状態ですね」

 

「ん~、でも陸地もなにも表示されていないよ?」と、村雨。

 

「動体検知だからね、対象が動いていないと捕捉できないの。ちょっとセンサーの向きを変えるね」

 

 初霜はセンサーを沖へと向ける。それに合わせて扇状の表示範囲も90度回転し、自艦から正横方向へと向いた。その表示範囲内に、小さな光点が薄く長い尾を引きながら移動していた。

 

「センサーの索敵範囲内に移動目標を捕捉しました。距離は約3海里、約10ノットで北上中。大きさから見て漁船でしょうね」

 

 初霜の解説を聞き、白雪と村雨はウイングに出て、そこの双眼鏡でモーショントラッカーが捕捉した方位を確認した。初霜が言ったとおり、沖を小さな漁船がゆっくりと進んでいる。

 

 白雪が艦橋内の初霜に振り返る。

 

「いい精度ね。これなら夜間索敵時にも充分役に立ちそう。火力の減少は仕方ないわね。でも、その短所を補うためにチームを組むのよ。みんなで支えあいましょう。ね?」

 

「はーい。了解しましたぁ」と村雨。

 

「はい」と、初霜も静かに、しかし力強く頷いた。



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第九話・同僚たち(3)

 各武器の点検整備、燃料、真水、弾薬、糧食その他の補給物品の搭載。さらに船体を細かくチェックし、サビなどが生じている部分はメンテ妖精に指示してペンキ塗装を行う。これらの作業で数時間はあっという間に経っていった。

 

 なんとか業務時間内に整備を終わらせた初霜たちは、それを海尾と叢雲に報告する。

 

「準備ご苦労だった。この後は君たちの歓迎会だ。店を予約してあるから現地で会おう」

 

「まだ仕事をなされるんですか?」

 

 白雪の質問に、海尾は苦笑した。

 

「あと少しだけな。今日中に決済しなくちゃならん仕事がいくつか残っているから、それが終わったらすぐに向かうよ。叢雲、白雪たちに店の場所を教えてやってくれ」

 

「ええ」

 

 叢雲は頷き、白雪に店の場所を示したメモ書きの地図を渡す。

 

「ありがとう。じゃあ、先に行って待ってますね」

 

「白雪」と海尾が呼び止める。「寮の前にタクシーを呼んである。それを使ってくれ。おもての抗議集会は解散したが、まだ主要メンバーが近くを歩いている可能性があるからな。君たちもここの地理に慣れていないし、トラブルを避けるためだ」

 

「了解しました。お気遣いありがとうございます」

 

 三人は長官室を退出し、正門へ向かう。

 

 守衛が「お疲れ様でした」と敬礼。

 

「あ〜、エッチな守衛さんだ」

 

「やあ、お寝坊さん。明日もお迎えに行きましょうか」

 

「寝坊したんじゃありませーん。ちょっと戸惑っただけだもーん」

 

「はいはい」

 

 手を振りながら見送る守衛に、村雨も手を振り返しながら正門を出た。

 

「仲がいいわね」と白雪。

 

「エッチなのは嫌いです」つーん、と村雨。「あ、ところで白雪さん、初霜ちゃん、プロレスって興味ある? 今度来るらしいんだけど、よかったら一緒に観に行かない?」

 

「えーっと」初霜は苦笑。「考えておくね」

 

 三人が寮に着くと、ちょうどタクシーがやって来たところだった。少し待ってもらうように頼むと、年老いた運転手はニコニコと笑って了承してくれた。

 

 それぞれ部屋に戻り、私服に着替える。一番早く表に出てきたのは初霜だった。

 

 続いて白雪、遅れて村雨が姿を見せ、三人でタクシーに乗り込んだ。白雪と村雨が後部座席で、初霜が助手席に着く。

 

「新しい艦娘さんたちだね。この島へようこそ。これから歓迎会かな?」

 

「ええ」と初霜が頷く。

 

「艦娘さんたちがまた揃ってくれて嬉しいよ。あんたたち、名前は?」

 

「初霜です」

 

「白雪です」

 

「村雨だよ~」

 

「はは、みんな涼しくて気持ちよさそうな名前だね。ここは南国だから暑さにやられないようにねえ」

 

 別に暑さへの耐性と艦名は関係ないのだが、それでも運転手の気遣いが嬉しく、三人は大人しく「はい」と頷いた。タクシーは十分ほど走り、目的地へと到着する。

 

 そこは海側に面したカフェだった。西側を向いた水平線はちょうど日暮れどきだったが、残念ながら曇り空に夕陽は隠されて、西の水平線かわずかにオレンジ色に染まっているのが見えるだけだった。

 

「きっと、晴れていたなら綺麗な夕陽を望めたんでしょうね」

 

 そう呟く白雪に続いて、店に入る。

 

 店内はこじんまりとしていたが、海側一面がガラス張りになっていて解放感があった。バーカウンターから店主が現れ、三人を窓際の席に案内する。

 

 二十分ほど遅れて、海尾と叢雲もやって来た。

 

「意外と早かったんですね」

 

「一番の難題だった予算問題がある程度解決したからな。滞っていた仕事も動き出して、もう徹夜をしなくて済みそうだよ」

 

「よかったですね。ところでこのお店、ずいぶんお洒落な雰囲気ですけど誰が探したんですか? 叢雲?」

 

「ん~」と叢雲。「そうだけど、そうじゃないというか。前の艦隊の艦娘たちのお気に入りだったらしいのよね、ここ。だから私も何度か通ってるんだけど、歓迎会もここでしようって発案したのは司令よ」

 

「あら、珍しい。海尾さんって居酒屋派ですよね?」

 

「まあな」と海尾。「だが男所帯ならともかく、君たちはこっちの方がいいと思ってな。それに・・・」

 

「それに?」

 

「居酒屋だと、居合わせた住民からオトーリをまわされかねなくてな・・・」

 

「オトーリ・・」深刻な表情で漏らした海尾に、白雪も顔を引きつらせた。「それは確かに。命に関わりかねませんものね」

 

「未成年もいるしね」と、叢雲も、初霜と村雨に目を向けながら頷く。

 

「あ、あの」と村雨。「オトーリってなんですか?」

 

「この島伝統の飲み方だ。一人が【親】となって、他の【子】たちへ酒を注いで回るんだ。【子】は注がれた酒を必ず飲み干し、【親】に返杯しなくてはならない」

 

「それは特に珍しくないのでは?」と、これは初霜の疑問。

 

「甘い。この【親】ってのが持ち回りなんだ。宴会に参加した全員が【親】を務め終わるまで延々と酒が回ってくる。・・・先日、市長や町長も含めた懇親会に招待されてな。最初は十人ちょっとだった参加者が、知り合いが知り合いを呼んでどんどん集まって、しまいには通りすがりの人まで宴会に飛び入り参加してくる始末だ。・・・百人近くでオトーリとか、死ねるぞ?」

 

 そのときのことを思い出したのだろう。青ざめた海尾に、叢雲も深刻な表情で、

 

「ここの住民は命がけでお酒を飲むからね。あんたたちも気をつけなさい」

 

「わ、私たちはまだ未成年ですから。ねえ初霜ちゃん」

 

「え、ええ」

 

 実は北方では結構たしなんでいた、とは言わない方が身の為だろう。と初霜は判断した。北の酒場でしんみり飲むのとは次元が違いそうだ。

 

 叢雲がメニュー表を取り上げ、言った。

 

「料理はコースで出てくるから、みんな飲み物を選んで。二時間飲み放題よ」

 

「とりあえずオリオンビール」

 

「私はカクテルにしようかしら?」

 

「はいは~い、私、ノンアルの黒糖梅酒をおねがいしま~す」

 

「えっと、さんぴん茶で」

 

 ドリンクが運ばれ、それぞれに配られたところで、乾杯。

 

 運ばれてきた料理は島特産の豚肉やシーフードを使った洋風料理だった。運ばれてきて料理を、初霜が率先して小皿に取り分ける。

 

「どうぞ、司令」

 

「ありがとう。・・・ふむん、うまいな。ビールもいいが、泡盛にも合いそうだ」

 

「泡盛は懲りた。って、あのオトーリの後に言ってなかった?」言いながら叢雲も箸をつける。「でも飲み方にさえ慣れたら、酒も料理も美味しいし、景色もいいし、暮らすには悪くないわ。--ふふっ、美味しい」

 

「悪くないって台詞」と、白雪。「それ、叢雲にとっては最高の褒め言葉よね」

 

「そうかしら?」

 

「そうよ。あなた、褒めるってことを滅多にしないから。・・・だから、二人とも」と、初霜と村雨に目を向ける。「彼女から“悪くないわ”って言葉を引き出せたら誇っていいわよ。ずっと第一線で戦ってきた古強者から認められたってことだからね」

 

 へえ、と興味深げに後輩二人から見つめられ、叢雲は困ったように手を振った。

 

「古強者って、やめてよ。まるで年増と言われているみたいだわ」

 

「あら、ベテランは褒め言葉にはならない? 駆逐艦一隻で敵機動部隊を殲滅した歴戦の武勲艦と、あっちこっちで評判よ」

 

「あ~、それ私も聞きましたぁ」はいはーい、と村雨。「艦載機の猛攻をかいくぐって、ヲ級にゼロ距離から魚雷をぶち込んだんですよね!」

 

「なんか、話が大袈裟になってない?」

 

「えっと」おずおずと初霜。「私は、民間船の盾になって攻撃を受け切った挙句、火だるまになりながら敵艦に突っ込んで行ったと聞きました」

 

「あんたら、そんな状態で私が生還できると思ってんの!?」まったく、と、叢雲はため息。「機動部隊と言っても、ヲ級一隻にイ級三隻だけだし、航空支援もあったからSSSM攻撃で事足りたわ。艦載機の練度も低かったしね」

 

「では、ヲ級への雷撃戦は?」と、初霜。

 

「雨天下で視界が悪い中、近距離にいきなり出現されたから止む無くよ。12.7センチ連装砲じゃ歯が立たないし、破れかぶれの雷撃戦がたまたま上手くいったってだけ」

 

「とは言うものの、並の技量で出来る真似じゃないがな」と、海尾が口を挟んだ。「彼我距離7000からの反航戦でヲ級の砲撃をほぼ避け切った上、500以下の至近距離ですれ違いざまに短魚雷を発射。かつての水雷戦法・逆落としの見本のような操艦術だった」

 

 手振りを交えて語る海尾に、村雨が感嘆の声を上げた。

 

「おぉ~。叢雲さん、流石です。逆落とし戦法、私にもご教授お願いします!」

 

「あのね。あんなのは戦技教本にも載っていない邪道なのよ。それをするくらいなら確実な索敵手段の研究と操艦の基礎をみっちり訓練することね」

 

 叢雲のもっともな指摘に、初霜もふむふむと頷きながら空いた小皿にサラダを取り分け、次の料理を持ってきた店員に海尾用にビールの追加を注文した。

 

 村雨が「でも」と疑問を口にする。

 

「深海凄艦が至近距離に出現することは充分に有り得ますよね? 小口径の主砲しか持たない私たち駆逐艦にとって、雷撃戦は唯一の対抗策じゃないですかぁ?」

 

「敵の撃破を最優先とするなら、その通りだ」と、海尾。「しかし護衛を最優先とするなら、話は別だ。あの時は回頭方向上に敵を発見し、かつ護衛対象に対し攻撃を受けていたために、敵の目を引き付けるべく突撃に移ったが・・・後から考えるに、最適解はやはり退避、撤退だったと思う。魚雷による牽制効果は充分に認められたし、撃破にこだわる必要は無かった。私の判断ミスだな」

 

 海尾はため息をひとつこぼし、そして叢雲に向き直った。

 

「叢雲」

 

「ん? 何?」

 

「上司の判断ミスをよくカバーしてくれた。ありがとう、お前が居てくれて良かったよ」

 

「あら、そう。どういたしまして」

 

 叢雲は、海尾の改まった態度と言葉を受け流しながらカクテルグラスを傾けた。

 

 そんな叢雲の様子を見て、白雪がくすくすと笑う。

 

「叢雲、照れているわね。顔が赤くなってるわよ」

 

「う、うるさいわね。お酒に酔ったのよ」

 

「嘘つけ。お前、顔に出ないだろ」と海尾も笑う。

 

 その言葉に、白雪が首を傾げた。

 

「あら、もう二人で飲みに行かれたんですか?」

 

「まあな」

 

「初出撃からの生還祝いよ」

 

「ふうん・・・相変わらずなんですね、海尾さん」

 

「相変わらずって、どういう意味だ」

 

「練習艦隊時代から手が早いお人でしたから」

 

「おい」

 

 海尾は抗議の声をあげた。

 

 が、それは否定というには力なく、むしろ余計なことを言うなというニュアンスに近かった。

 

 そのニュアンスを敏感に感じ取ったのだろう、叢雲が明らかに険しい目を海尾に向けた。

 

「あんた・・・練艦時代、“誰”に手を出したって?」

 

「・・・おい」

 

 と力なく海尾。今度は明らかに余計なことを聞くなというニュアンスだった。初霜と村雨という新たな部下を前にして、上司と先輩たちの関係を勘ぐられたくは無かった・・・

 

 ・・・のだが、あいにくこの新たな部下二人は、海尾と白雪がそういう関係であったことを既に勘づいていた。

 

 そして、それを勘づかせた当人である白雪は、

 

「海尾さんから、よく食事に誘われたわね」

 

「し、白雪!?」

 

「へえ・・・で?」

 

「で? って、そうね。・・・ご馳走になったわよ」

 

「へえ、そう。ご馳走に、ねえ」

 

 叢雲はそうつぶやきながらグラスを傾ける。しかし無言の威圧とも言うべきものが、海尾に向かってヒシヒシと発せられていた。

 

 これは、アレだ。と、初霜と村雨はお互いに目配せして事情を察した。新たな上司と先輩たちの関係は、なかなか面倒臭そうだぞ、と。

 

 初霜は職場の人間関係をゴシップとして楽しむ趣味は無かったが、自分には関係ないと無視する程、孤高を好む性質でもなかった。

 

 ただ十代の少女にしては高すぎる職業意識と、プライベートでの異性間交遊の経験の少なさから、初霜は自然と、海尾に対して警戒するような視線を向けてしまっていた。

 

 一方で村雨はと言えば、対照的に目を輝かせて海尾たちを眺めている。

 

 そして部下たちから様々な意を含んだ視線を受けた海尾は、頭を抱えながらテーブルに突っ伏していた。

 

 白雪はそんな海尾を眺めて、ふふ、と笑う。

 

 そうやって一瞬、誰も声を発しなかった時に、ふと、

 

『続いてのニュースです。本日、沖縄本島と宮吉島間の海域で操業していた漁船が転覆。乗っていた船員が海へ投げ出されました』

 

 そんな音声が店内に流れてきた。店内テレビのニュース番組だった。

 

『本日午前七時ごろ、沖縄本島と宮吉島間の海域で操業していた漁船が転覆。乗っていた船員一名が海へ投げ出されました。海へ投げ出された船員は、付近を航行中のフェリーによって無事、救助されたということです。海上保安隊によりますと、事故当時、現場の海域には2メートルを超える波が立っており、漁船はこの波にあおられて転覆したものと思われます。続きまして天気予報のコーナーです--』

 

「ニュースで報道されませんでしたね」

 

 白雪がふとそう呟き、皆の注目を集めた。彼女はその視線に気づき、「初霜ちゃんが救助に関わったことです」と説明した。

 

 それで、今度は初霜に注目が集まる。

 

「あ、え、えっと・・・」

 

 これまで傍観者的な立ち位置に居た初霜は、突然話題の中心にされて戸惑いつつも、手元のさんぴん茶を一口飲んで内心の動揺を抑えた。

 

 そして、

 

「すみませんでした」

 

「えぇ~、なんで初霜ちゃんが謝ってんの?」

 

 隣で首を傾げた村雨に、

 

「だって、独断で危険行為を行ったから」

 

「でも人助けしたんだよ。むしろ誇っていいと思うんだけどなぁ」

 

「えっと・・・」

 

 初霜は困ったように苦笑した。

 

 そんな初霜を見かねたのか、叢雲がため息まじりに口を挟んだ。

 

「そこの男がね、クギを刺したのよ。俺の見えないところで勝手に沈むな。ってね」

 

 叢雲から指を指され、海尾が「ん?」と顔を上げて眉を寄せた。どうも自分の発言と若干ニュアンスが違う気がする。

 

 叢雲が笑顔で言った。

 

「つまり“沈む時は俺も一緒だ”。そういう意味よね」

 

「おい」

 

 曲解するな。と言いかけたが、止めた。

 

 部下と運命を共にするという格好の良い誤解なら解かずとも良い。何気に命懸けだが、部下が最前線で命を張るのだから当然だろう。部下ウケも良くなるというものだ。

 

 案の定、村雨が、「おぉ~」と間延びした感嘆の声をあげた。

 

「司令さん、カッコイイこと言いますね~。・・・で、運命を共にする旗艦はどっちになるんでしょうねぇ」

 

 部下ウケとは何であったか。単に火種を手渡しただけだった。いや、爆弾か。

 

 そして村雨はニヤニヤと笑いながら喜んで爆弾を投下し、目標となった叢雲と白雪は、互いに無表情になって、目を合わせた。

 

「そうねえ」先に口を開いたのは、白雪だった。「意外と、あなたかもよ?」

 

 そう言って、村雨に目を移す。

 

「あらぁ、そうですかぁ~。村雨が選ばれちゃいますかぁ・・・」

 

「この人、手が早いから座乗艦の時は注意してね」

 

「おいっ!?」

 

 それこそとんでもない誤解だ。と海尾は言い訳しようと思ったが、言い訳をしようと思っている時点で既に手遅れであることにも気づかず、そうやって言葉を選んでいるうちに、隣の叢雲が、ポツリと、

 

「ええ、確かに早かったわね」

 

 一瞬、その場に沈黙が降りた。

 

「あ~・・・過去形、ですかぁ」

 

 乾いた笑みを浮かべる村雨に、海尾はもう居た堪れなくなり、

 

「トイレ行ってくる」

 

 そう言って敵前逃亡した海尾と入れ替わりに、店員がドリンクの注文を取りに来る。

 

 叢雲はメニューを掲げ、

 

「・・・この泡盛の古酒をちょうだい」

 

「こちらは飲み放題メニューに入っておりませんので、追加料金が発生しますがよろしいでしょうか?」

 

「構わないわ。ボトルで入れておいて。名前は海尾で。・・・あんたたちも好きなの頼みなさい。いくらでも追加して良いわよ」

 

「あ、じゃあじゃあ、私はこのマンゴーパフェ大盛りで。初霜ちゃんは?」

 

「私は・・その、遠慮します」

 

「せっかくだもの。海尾さんの好意に甘えましょう」と白雪。

 

 海尾本人から好意の根拠を示されてないなぁ、と初霜が思っている間に、村雨と同じ大盛りパフェを勝手に注文されていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 海尾は個室にこもって、便器に腰かけていた。

 

 人間、トイレの個室ですることといえば、用を足すか、新聞もしくは本を読むか、思索に耽るかのいずれかしかない。海尾は既にビールを二三杯飲んでいたため多少の尿意はあったが、それ以外に便意は無く、また新聞紙も本も無かったので、仕方ないので思索に耽ることにした。

 

 テーマは「人は何故、本屋へ行くとトイレに行きたくなるか」だった。

 

 一説によれば印刷インクに含まれる成分が便意を刺激するらしいが、海尾はそれを信じていなかった。彼自身の経験から導き出した推測は、大量の本を前にして、身体が戦闘態勢に入るからだというものだった。これだけ大量の本を長時間にわたり読まなければならないという気構えが、体内から不要物を除去しようという働きに繋がるのだ。そう、つまり人がトイレに新聞や本を持ち込み読書に耽るのは、その行為の最も合理的にして進化的な帰結なのである。

 

 と、社会にとっても自分の人生にとってもまるで役に立たなさそうな結論を導き出したところで腕時計を見ると、個室にこもってからやっと十分ほど過ぎたところだった。

 

 まあこれくらい時間が潰せたらもういいだろう。と、したくもないトイレを済ませた後、じっくりと念入りに手を洗い、ついでに顔まで洗ってから店内に戻った。

 

 海尾は元のテーブルが女性陣だけで盛り上がっているのを見て取ると、空気を読んでバーカウンターの片隅に腰掛けた。

 

「ビールを」

 

 そう注文すると、バーテンダーが苦笑しながらグラスを出してくれた。

 

「なかなか気苦労が多そうですね」

 

「女性ばかり部下に持つということが、こんなにも大変だとは思わなかった。前の司令はどんな感じだった?」

 

「海原さんですか。あの人もよくここで愚痴をこぼしていましたよ」

 

「そうか」海尾は安心したように笑った。「そういえば海原大佐からの申し継ぎにあったよ。ここのバーテンダーは信用できるから、色々と相談に乗ってもらうと良い、ってね」

 

「おや、そんなに信頼されていましたか。嬉しいですね」

 

「君から見て、私は信用できるかい?」

 

「司令に任じられる方の素性を疑うような真似はしませんよ。それは別の部署の仕事です。--ビールのお代わりは?」

 

「頂くよ」

 

 バーテンダーが新しいグラスと共に、一枚の折り畳まれた紙片を差し出した。

 

 海尾はグラスに口をつけながら、紙片を開き、そこに書かれたメモに目を走らせる。

 

「パスワードか」

 

「これで司令専用端末から情報本部内偵科のデータベースへアクセスできます。この島絡みの情報の詳細を知りたい際にご利用ください。なおパスワードは不定期に変更されるので、その都度ここでお渡しします」

 

「了解した」

 

 海尾は紙片を懐にしまう。

 

「それともう一つ、取り急ぎ報告したいことがあります。・・・正門前の抗議集会のメンバーに、“隣国”の人間が何人か紛れ込んでいる様です」

 

「ふうん」

 

 声を潜めたバーテンダーに、海尾は軽く頷いた。

 

 基地反対運動に外国籍の人間が関わっている。という事実自体は予想の範囲内だった。そして、その人間が外国の政府--とりわけ隣国の政府と繋がっていたとしても驚くべき事ではない。

 

 かといって、隣国政府までもが“深海凄艦からの空襲にこの島を巻き込まないため”に基地撤収を求める筈も無い。彼らはもっとシンプルな理由で動いている。つまり、自分の軍事力を行使せずに、我が国の軍事基地を退けたいのだ。

 

 しかし深海凄艦などという“人類共通の敵”が出現している現状で、もしも本当に海軍基地が撤退してしまったら、誰がこの海を守るというのか。その隣国政府が代わりに戦ってくれるというのだろうか。

 

 深海凄艦が出現する三十年より前ならば、彼らは意気揚々とそうしただろう。しかし伝統的な大陸国家である隣国は、三十年前の深海凄艦との戦いに敗北し、その海軍はほぼ壊滅状態になっていた。今でもその戦力は、自国の沿岸部をやっと維持できる程度の細々としたものでしか無い。

 

 しかし隣国は大陸国家であるという地の利を活かし、海上通商航路を失った後も、陸上輸送ルートを駆使して世界各国と繋がっていた。

 

 翻って海洋国家である我が国は、海上通商航路を失った事により国家存亡の危機に瀕し、そのため地理的に近くて通商航路を防衛し易かった隣国に、世界各国との通商ルート全てを頼らざるを得なかった。

 

 いわば、自国の生命線を隣国に全て握らせてしまったのだ。

 

 これが信頼のおける友好国同士であるならば何の問題もなかっただろう。

 

 だが、あいにくと隣国との関係はそれとは程遠く、それどころか深海凄艦が出現しなければ、いつか必ず軍事衝突を起こしただろうと言われる程の緊張状態にあった。

 

 それが深海凄艦の出現によって、我が国が一方的に隣国へ依存せざるを得ない状態に追い込まれたのだ。隣国も制海権を失ったとはいえ、それ以上の対価を得たのは間違い無い。

 

 事実、それから数年間、隣国は通商ルートの維持を交渉材料に、ありとあらゆる無理難題を我が国に要求してきた。

 

 我が国は初めこそ仕方ないとそれを受け入れていたものの、エスカレートする一方の隣国の態度に疲弊し、政府も国民もついに我慢の限界に達してしまった。

 

 隣国と戦争して大陸を支配するか、それとも深海凄艦をこの広い海から駆逐するか。

 

 そこまで追い詰められた我が国は、結果として深海凄艦を相手に戦うことを決めたのだが、その理由は海洋国家としての海戦への経験と自信、そして深海棲艦相手ならば国際社会への名分が立つというものでしかなかった。

 

 それはつまり、もしも仮に海戦に不慣れで、かつ隣国と地続きだったなら、その相手は隣国の人間だったかもしれないということだ。

 

 深海棲艦を“人類共通の敵”と呼んで戦ってはいるが、その実、我が国にとっては“隣国と戦うよりもリスクの少ない相手”でしかなく、隣国にとってはむしろ“海洋国家を締め上げ、代わりに自国の影響力を増してくれた有り難い存在”なのだ。

 

 そしてこのような状況は我が国と隣国に限った話ではなく、世界各地でも同様の状況が起きていた。いわば海洋諸国家と大陸国家の勢力争いだ。表向きは大陸国家も深海棲艦の駆除に支援や協力を出してはいるが、その一方ではこうして裏から足の引っ張り合いをしている。

 

 皮肉なものだ。結局、人間同士で戦争していた時代と何も変わってはいないのだ。そんなことを思いつつグラスを傾けた海尾だったが、同時に、バーテンダーは自分に、こんな今更な感慨を抱かせるためにこの話題を振ったわけではないだろうとも思い至った。

 

 海尾はグラスを置いて、バーテンダーに問い直した。

 

「・・・それで、“誰”が紛れ込んでいるんだ?」

 

「二年前の“人喰い雷巡事件”の被害者遺族です」

 

 バーテンダーは声を潜め、横目で艦娘たちの方向を見た。

 

 海尾も、思わず初霜の方へ振り向いてしまいそうになる衝動をグッと堪えた。

 

「・・・それは、彼女の着任を知っての行動なのか?」

 

「その可能性は高いでしょう。人事決定直後からこの島に来ています。主催者側の活動家たちと直接的な繋がりはありませんが、裏で糸を引いている連中が手配したものと思われます」

 

「接触してくると思うか?」

 

「近いうちに何らかの行動を起こすでしょうね。顔写真や素性については例のデータベースにアップしてあります」

 

「わかった。帰ったら確認しておく--」

 

「ちょっと、あんた!」

 

 明らかに酔っているとわかる声音で呼びかけられ、海尾は今度こそ艦娘たちの方へ振り向いた。

 

 叢雲が目元をアルコールで赤く染めながら、手招きをしていた。

 

「いつまでそんなところで飲んでいるのよ。こっちに来なさいよ。親睦会なのよ。この機会に部下の事をもっとよく知りなさい」

 

「あら、私はもう海尾さんの事ならよく知っているわよ」

 

 と、白雪がのたまう。こっちもだいぶ酔っているようだ。

 

 叢雲がキッと白雪を睨み付けた。

 

「あんたのことは聞いてない。私は村雨や初霜のことを言ってるの!」

 

「そう、じゃあ叢雲はもう海尾さんの事を知っているのね。・・・色々と」

 

「そ、そりゃ--」言い返そうとした叢雲の顔が、さらに赤くなった。「い、色々って何よ。どういう意味よっ!?」

 

「ん~・・・彼の寝顔とか、かしら」

 

「ね、寝顔っ!? ・・・し、知ってるわよ。て、徹夜仕事とか二人でよくやってるし」

 

「でもぉ」と村雨が首をひねる。「徹夜って基本的にずっと起きていますよねぇ?」

 

 やめろ、いらん事を訊くな。と海尾は願う。しかしそんな声なき願いも虚しく、叢雲が酒と羞恥心で真っ赤になりながら反論した。

 

「て、徹夜で寝落ちぐらいするわよ!」

 

「それで起こさずに眺めていたわけね」と、白雪。

 

「だって、疲れているのに起こしたら可哀想じゃない」

 

「眺めていたってのは否定しないんですね」と村雨。すっかり煽る側にまわっている。

 

 そして叢雲といえば、もうそれを受け流せるほどの余裕も無さそうだった。

 

「いいじゃない、秘書艦なんだし、寝顔くらい眺めていたっていいじゃないのよぉ!」もはや支離滅裂である。「だいたい白雪、あんたこそなんでアイツの寝顔を見てるのよ!?」

 

「え? だって今朝、見せてくれたわよ」

 

「え? ・・・え!?」

 

「目覚めの紅茶を二人でいただいたわ」

 

「なっ!?」

 

 確かに事実その通りだが、白雪の言動はあまりに意味深長にすぎて誤解を招きかねなかった。そして叢雲は残念ながら、酒と羞恥心と興奮がない混ぜになって、もうまともな判断力を失っていた。

 

「こ、この浮気者ぉっ!」

 

 叢雲は席を蹴立てて立ち上がると、バーカウンターで頭を抱えていた海尾の元へ駆け寄った。

 

「この浮気者、もう白雪にまで手を出して! この浮気者ぉ!」

 

 涙声混じりに叫びながら、海尾の背中をぽかぽかと殴る。しかし海尾にとっては幸い、叢雲にとっては哀しいかな酔いのせいでほとんど力が入っていなかった。

 

 叢雲はしばらく力なく背中を叩いていたが、やがて背中に縋り付いて顔をうずめた。

 

「ばかぁ・・・ばかぁ・・・」

 

 ぐすぐすという鼻声と鼻水と涙がシャツに染み込んでいくのを背中に感じながら、海尾はやれやれとため息をついた。

 

 今朝まで一緒にいたのは誰でもない、お前だろう。と、彼女のその頭を小突いてやりたかったが、ここまで酔っているなら誤解を解こうとしても無駄だろうし、それにどうせ明日には忘れているということを海尾は既に知っていた。

 

 海尾がテーブルへ目を向けると、初霜と村雨はさすがに狼狽えていたが、けしかけた白雪はといえば、幼子を見守るかのような笑みでグラスを傾けている。

 

「やりすぎだぞ、白雪」

 

「ごめんなさい。叢雲って相変わらずからかい甲斐があるから、つい調子に乗りました。もうしませんから、今夜だけは大目に見てくださいね」

 

「・・・まったく」

 

 海尾はため息をつきながら背中に縋り付いていた叢雲に腕を回し、隣の席へと着かせた。叢雲は大人しく、しかしふらつきながらカウンターに突っ伏し、やがて規則正しい深い寝息を立て始めた。

 

「そろそろ、お開きにするか?」

 

「ええ」

 

 白雪も同意し、初霜と村雨を促して立ち上がる。

 

「海尾さん。叢雲のこと、よろしくお願いしますね」

 

「酔い潰した挙句に押し付ける気か」

 

「仲直りするなら早いほうがいいと思いますよ?」

 

「余計なお世話だ」

 

「大事にしてあげてくださいね」

 

「当たり前だ」

 

 思わず即答してしまった。すぐに自分の発言が恥ずかしくなり、海尾は片手で顔を隠した。

 

 そんな海尾の様子に、白雪は、ふふ、と笑みをこぼした。

 

「今更ですけど、少し妬けちゃいますね」

 

 そう言い残して、白雪は店を出て行った。

 

 初霜と村雨はその雰囲気に口を挟めず、とりあえず海尾に「お先に失礼します」と小声で声をかけて、白雪を追って店を出た。

 

 先に出ていた白雪に追いつくと、彼女は二人に向き直って、

 

「ごめんね」と頭を下げた。「ちょっと調子に乗りすぎちゃったわ。あなた達にもいらない気を遣わせちゃったわね」

 

「いえいえ、全然そんなことないですよぉ」と、村雨。

 

 確かにその通りだわ。と初霜も頷いた。この同期は気を遣うどころか、心の底から今夜の状況を楽しんでいたに違いない。

 

「でも」と村雨。「実際のところ、白雪さん的にはこれで良かったんですか?」

 

「彼との関係はもう昔の話よ。それに彼、手は早いけれど二股をかけるような不誠実な男じゃないわ。信頼できる人よ。上司としても、一人の男性としても、ね。・・・さぁ、帰りましょう」

 

「はい」と初霜。

 

「二次会・・・は、ダメですか?」と、名残惜しそうな村雨。

 

 白雪は首を横に振った。

 

「ダメよ。明日も仕事だし、それにあなた達は未成年でしょう。こんな時間からどこへ行くつもりかしら?」

 

 白雪の正論に、村雨も「はぁ~い」と大人しく引き下がった。

 

 三人はタクシーで寮へと戻る。帰りの運賃は白雪が奢ってくれた。

 

「申し訳ありません」

 

 と頭をさげた初霜に、白雪は笑って、

 

「先輩だもの、気にしないで」

 

 そう言って車内で支払いを済ませている間、初霜と村雨は先に降車して外で待っていた。

 

 と、不意に、初霜は奇妙な感覚に襲われた。

 

「・・・っ!?」

 

 鋭く刺すような気配に、背中に悪寒が走る。ゾッと全身に鳥肌が立った。

 

(誰かに見られている?)

 

 それもただの視線ではない。強い感情・・・負の感情のこもった視線だ。初霜は周囲を見渡した。

 

「ん? 初霜ちゃん、どうかした?」

 

「あ、ううん、何でもないわ」

 

 気のせいだったのだろうか。周囲に人影はなく、感じていた視線も既に消え去っていた。

 

 白雪がタクシーから降り立つ。

 

「じゃあ二人とも、また明日ね。村雨ちゃんは遅刻しないようにね」

 

「しませんよぉ」

 

「ふふ・・・でも、人が集まる前に早めに出勤しておくに越したことはないわ。特に、初霜ちゃんはね」

 

「はい」

 

 初霜は素直に頷く。自分の特殊な立場と世間の評判は、自覚していた。

 

「そう、じゃあ、おやすみなさい」

 

「は~い、おやすみなさ~い」

 

「お疲れ様でした」

 

 三人はその場で別れ、それぞれの部屋へ向かおうとした。

 

 だが、しかし、

 

「--え?」

 

 寮の建物に向き直ったとき、そこで目にした異様な光景に、三人の足が止まった。

 

 二階建てのアパートメントタイプの建物の、その一階部分にある初霜の部屋。

 

 その玄関のドアが、真っ赤に染まっていた。

 

 いや、それは文字だった。赤いペンキで書きなぐられた、文字。

 

 

 

 

【杀人犯】

 

 

 

 

 ドア一面に大きく書きなぐられたその文字から、まだ生乾きのペンキが血のように滴り落ちていた----

 

 

 

 




次回予告

 ひとごろし。

 そう叫ぶ声なき声が、初霜の後を追いかける。

 南方警備艦隊の一員として出港した初霜たちが遭遇するのは、深海棲艦か、それとも過去の怨念か。

次回「第十話・潜む、悪意」

 「俺にとって深海棲艦は敵だ。艦娘もな。俺はチューシャンに復讐するためにここへ来た」


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第十話・潜む、悪意

 翌朝。

 

 叢雲と共に鎮守府長官室へ出勤した海尾は、先に待ち構えていた白雪、村雨、初霜の三人から、昨晩、寮で起きた落書き事件について報告を受けた。

 

「“殺人者”か」

 

 そう口にしながら、海尾は落書きされたドアの写真を執務机に置いた。

 

 この写真は初霜本人が撮影したものだ。傍らの叢雲も机に置かれた写真をのぞき込み、一瞬、怪訝な表情を見せた。

 

 どうやら、“杀人犯”と言う文字が認識できなかったらしい。だがすぐに彼女もその文字が何を意味するのかに気づいた。

 

「簡体字・・・」

 

 そう呟いて、意味ありげな視線を海尾に向ける。

 

 海尾は、分かっているという風に、叢雲に向かって頷いて見せた。

 

 簡体字は隣国で使用されている漢字だ。同じ漢字文化圏でも我が国では使用されていない。

 

(正門前の抗議集会のメンバーに、“隣国”の人間が何人か紛れ込んでいる様です)

 

 海尾は昨晩のバーテンダーからの報告を思い出すが、今、この段階で口外すべきことではないと判断し、それを部下たちには口にしなかった。

 

 しかし、こうも明白な悪意を向けられてしまったことに対しては、何らかのフォローが必要だ。特に、当事者である初霜はかなりのショックだろう。

 

 と、当初はそう思っていたが、状況を報告する初霜の様子は、一昨日の人命救助の様子を報告したときのように冷静で淡々としたものだった。

 

 むしろ同席していた白雪と村雨の方が動揺していたくらいだ。

 

 白雪は表面上は冷静さを保っていたものの、普段の彼女をよく知る海尾から見れば、必要以上に冷静に振る舞おうとしているのは明らかだった。人の悪意を目の当たりにしたショックを必死に隠そうとしているのだろう。

 

 一方で村雨はといえば、もう誰よりも憤慨していた。

 

「こんなことするなんて有り得なくない!? 許せないよ。初霜ちゃん、私、ちょっとあの人たちに文句言ってくるからね!」

 

 そう言って執務室から飛び出そうとするのを、初霜が慌てて引き止めた。

 

「お、落ち着いて、村雨。そこまでしなくていいから。っていうか、あの人たちって、誰の事を言ってるの!?」

 

「決まってるよ。正門前に集まってる人たちだよ」

 

「決まってない、決まってないから。証拠も何もないから!」

 

「そうよ、村雨ちゃん」と白雪も加勢する。「殴りこむのは、証拠がそろってからよ」

 

「それもそうですね」と村雨は納得。

 

「証拠があっても殴りこんじゃ駄目ですって!?」初霜も流石に慌てた。「司令と叢雲さんからも何とか言ってください!」

 

「これじゃ誰が当事者か分からないわね」と、叢雲はため息。

 

 海尾も、初霜も意外に感情を表に出すんだな、と変なところに感心しつつ、言った。

 

「白雪も村雨もいい加減にしないか。我々だって公僕だぞ。どんな理不尽な目に遭おうが国民相手に喧嘩してたまるか。戦うべき相手を間違えるんじゃない。こいつは警察の仕事だ。いいな」

 

 海尾の言葉に、白雪と村雨はしぶしぶといった様子で頷いた。

 

「で」と海尾。「初霜、肝心の警察へは通報したのか」

 

「いいえ、まだです。先ずは司令に報告してから通報しようと思います。その方が憲兵隊の方も動きやすいでしょうし」

 

「ふむ」

 

 憲兵隊--いわゆる軍専用の警察はこの鎮守府にも常駐しており、自治警察や海上保安隊といった他の治安維持機構とも連携を取っている。しかし、今回の件では憲兵隊以外に情報部も動くだろう。彼らが動きやすいように初動はこちらがイニシアチブを取ったほうが良い・・・

 

 と、ここまで初霜が考えているというのは穿ち過ぎだろう、と海尾は思った。

 

 彼女はただ、報告、連絡、相談を実施しただけだ。取り乱さず、冷静に、普段通りに。

 

 しかし、初霜のこの反応と態度は、まるで近所の悪ガキから他愛もない悪戯を仕掛けられた者のそれのように、海尾には感じられた。幼少の頃、近所でも有名な悪戯小僧だった弟の尻拭いに、親と一緒に頭を下げに行ったとき、相手はまさにこんな態度だった。

 

 もっとも、弟がしでかしたことは、赤ペンキで脅迫めいた文言を落書きするなんてものではなく、せいぜい近所の女の子相手に捕まえたカエルや蛇の抜け殻を投げつけたり、スカートをめくったりといった程度だ。しょうもない子供の悪戯。

 

 しかし思い返してみれば、弟がやらかしたことは大方、女の子がらみだ。子供の頃なら可愛い悪戯で済むが、大人になればセクハラだ。まあ幸いにして弟はそのあたりは真っ当に育ったが、異性への興味はそのまま女好きへと昇華したようで、会うたびにガールフレンドが代わっていた有様だった。

 

 少しは落ち着いたらどうだ。と、兄として苦言を呈したこともあったが「兄貴にだけは言われたくない」と反抗された。なんだ、まるで俺が弟と同じ女好きみたいな言い方じゃないか。まったく心外だ。

 

 いやいや、そんな弟の女癖の悪さを気にしている場合ではなかった。と、海尾は意識を現実に引き戻す。

 

「とりあえず」初霜は言った。「落書きについては現場保存の観点から、そのままにしてあります。管理人さんにも手を出さないように依頼しました。ただ、そのままだと目立ってしまうので、段ボール紙で衝立を作って目隠しをしていますが」

 

「そうか」

 

 頷きながら、海尾は感心と同時に呆れもした。なんともまあ、手慣れたものだ。まるで、こんな目に遭ったのは一度や二度じゃないといった感じだった。

 

 きっと、そうなのだろう。と海尾は思い至った。

 

 二年前の事件で世論が沸騰していた当時の様子を考えれば、汚名を被った初霜の周囲でどんなことが起きていたか、それは想像に難くなかった。

 

 それを踏まえて、初霜がここに赴任することによって近いうちにこのような事件が起きるであろうことは海尾も、上層部も予想していたし、情報部も既に怪しい人物への調査を始めている。

 

 しかし、現実はこちらの予想を超えて早々に動き出した。相手の行動が予想を超えてきたなら、もうわずかの油断もできない。

 

「初霜。憲兵隊と警察へは私から通報しておく。君は予定通り出港に向けて業務を遂行せよ。ただ、今夜については悪いが外出は控えてくれ。寮に帰宅するときも、誰かと一緒に、必ず二人以上で行動するように」

 

「了解しました」

 

「叢雲、白雪、村雨。初霜の事を頼むぞ」

 

 海尾のその言葉に、三人も頷いた。

 

 特に村雨は勢い込んで、

 

「初霜ちゃん! 私が守ってあげるからね! 村雨、がんばっちゃうからね!!」

 

「あ、うん、頼りにしてるね」

 

 手をしっかりと握られた上に目の前まで迫られて、初霜は若干、引き気味になりながら頷いた。

 

「はいはい」

 

 と叢雲が半ばあきれながら村雨の肩を叩いて言った。

 

「張り切るのは良いけれど、やり過ぎて無用のトラブルを起こさないようにね。こういう悪意を向けられてしまったのは残念だけど、司令も仰ったように、私たちの任務は落書き犯を捕まえることじゃなくて、海の安全を守ることよ。それを忘れないようにね」

 

「は~い、分かってます」

 

 村雨は向き直って、敬礼。

 

 落書き事件の話題についてはそれで終わり、全員がそろっていることもあって、定刻には早いがそのまま朝の定例オペレーションブリーフィングへと移行する。

 

 その朝オペも終わり、初霜たちが部屋を退出しようとする。

 

 その時、海尾はひとつ思い立ったことがあり、初霜を呼び止めた。

 

「何でしょう?」

 

「ひとつ言っておきたいことがあってな。・・・今回のことは、君一人の問題じゃない。我々南方警備艦隊の、いや、海軍全体の問題でもある。君一人で背負い込む必要は無いんだ」

 

「はい、分かっています。何かありましたら、すぐに報告します」

 

 淡々と頷く初霜に、海尾はもどかしさを感じた。違う、言いたいことは、そうじゃない。

 

「ああ、その、なんだ。私が・・・俺が言いたいのは、みんな、お前の味方だってことだよ。まだ烏合の衆もいいところだが、裏切ったり、見捨てたりはしない。だから・・・信じて欲しい」

 

 その言葉に、初霜は一瞬きょとんとした表情を見せた。

 

 しかしそれは、すぐに柔らかなほほ笑みに変わった。

 

「はい、ありがとうございます」

 

 今度は通じたかな。と、その笑顔を見て海尾は思う。少なくとも、彼女の素に近い表情を見せてくれたと思った。

 

 初霜たちが退出した後、叢雲と二人残された執務室で、海尾はぽつりと呟いた。

 

「初霜、あんなに可愛く笑えるんだな」

 

「あの子にまで手を出す気?」

 

「そんなつもりで言ったんじゃない」

 

 単に、素直に、感じたままを口に出しただけなのに酷い誤解だ。

 

 その誤解を解こうと叢雲に目を向けると、彼女は拗ねたようにツンとして目をそらした。

 

 だけど、それもまた可愛いと思い、海尾は苦笑した。

 

 

 

 

 島の夜は長い。

 

 夜も更けたころ、居酒屋には仕事を終えた島の住民たちで溢れ、そこかしこで泡盛を酌み交わしてオトーリが回されていた。

 

 あるテーブルで一人の男が泡盛で満たされたコップを手にして立ち上がり、朗々と口上を述べていた。日に焼けてたくましい身体つきの、おそらく漁師だ。

 

 今日は大漁だったのだろう。漁師は非常に機嫌よく長口舌を打ち、ときおり身振り手振りを交えたために手元のコップから中身が半分近く零れ落ちていたが、周りの者たちも機嫌と酔いが好い加減と見えて文句も言わず相槌を打っていた。

 

 やがて漁師は口上を述べ終え、コップを口につけようとしたところ、それを隣の仲間が止め、半分からさらに減っていたコップに新たに泡盛を注ぎなおした。

 

 漁師は同じテーブルの聴衆に丁寧に礼を述べ、ぎりぎりにまで注がれたコップの淵に口をつけ僅かばかり啜ると、グイッと天を仰いで一息に中身を飲み干した。

 

「オトーリまわします!」

 

 漁師が空のコップに自ら泡盛を注ぎなおし、隣の仲間に差し出す。仲間はそれを恭しく受け取り、漁師に負けぬ勢いで飲み干した。

 

 そうやって泡盛が回し飲みされていく。そんな光景が店のいたるところで繰り広げられていた。

 

 そんな店内で、“彼”は、店の喧騒に背を向けるようにしてカウンターの一番隅に腰かけていた。

 

 彼の前にあるのは皿に山盛りされたサラダだった。酒は無い。

 

 彼の視線は手元の皿に注がれていたが、その目は料理を見ていなかった。かといって周囲に注意を払っているわけでもない。

 

 その目は己の内面を見ていた。機械的にサラダに箸をつけながら、彼は感情が抜け落ちたかのような顔で、沈黙思考に耽っていた。

 

 店の扉がガラガラとやかましい音を立てながら開かれ、新たな二人の客が来店した。

 

 一人が店を見渡し、カウンターの数席が開いているのを見つけ、もう一人の腕を引っ張る。もう一人は力なく項垂れながら、相方に腕を引かれるままに、“彼”の座るカウンター席の三つ隣に腰を下ろした。

 

 男が店員に酒と料理を注文し、そして項垂れた男の背中を励ますように叩く。項垂れた男は相方の励ましにもかかわらず、低い声で愚痴を垂れ流し始めた。

 

 それを耳にしながら、彼は黙々と野菜の切れ端を口に運び続けた。やがて皿のサラダが無くなり、彼はカウンター越しに軽く手を挙げて店員を呼んだ。

 

 三つ隣の席では愚痴をこぼす男と、慰める男。

 

 他のテーブル席ではオトーリが一周し、別の者がコップを手に立ち上がり口上を述べている。口上は途中から奇妙な節回しをともなって唄になり、周囲から手拍子が上がる。

 

 彼の前へカウンター越しに近づいてきた店員は、肉と野菜炒めを盛った皿を手にしていた。妬けた肉の匂いが彼の鼻を刺激する。

 

 彼は、サラダの追加を注文し、他に追加注文があるかと問いかける店員に対し、顔を背け手を振って追い払った。店員は特に気にした素振りも見せずに彼の前を離れ、三つ隣の男たちの元に肉と野菜炒めを運んだ。

 

 背後で下手な唄が終わり盛大な拍手が沸き起こった。ちょうどそれと同じタイミングで店の扉が開き、新たな男が入ってきた。

 

 男は店内の拍手に少し面喰ったものの、すぐにそれが自分とは関係の無いものだと気づいて落ち着きを取り戻し、店内をゆっくりと見渡した。

 

 新たな男はカウンターの一番隅に座る彼の背中を見つけ、その隣へと腰を下ろした。

 

「やってくれたな」

 

 彼の世話役を務めるその男は、座るなり声を潜め、そう言った。

 

 彼は世話役に目を向けることなく、うつむき気味に、

 

「何の話だ」

 

 と、返す。

 

「とぼけないでくれ、落書きの件だ。艦娘の寮にあんな目立つ落書きをして、ただで済むと思って--」

 

 世話役は険を含んだ声で彼を問い詰めようとしたが、店員が注文を取りに来たことに気が付いて口をつぐんだ。

 

 世話役は店員に注文を告げ、去ると同時に、彼に向き直った。

 

「とにかく、厄介なことをしてくれたよ」

 

「たかが、落書きだ」

 

「器物損壊罪だ。それにあの文面じゃ脅迫容疑も加わるかもしれない。あんた、人殺しって書いたそうじゃないか」

 

「殺人犯だ」

 

「そんな細かい違いなんかどうでもいいだろう。それよりも問題なのは字体だ。簡体字はこの国では使用されていないんだ。あんたが書いたんだってすぐにバレてしまう。この島では、よそ者はすぐに見分けがついてしまうんだ」

 

「よそ者か。それならお前たちだってそうだろう。バレて、だからどうだというんだ。警察や憲兵なんてそこら中に潜んでいる。俺の正体もとっくにバレているはずだ。捕まえようと思えばいつだってやれた」

 

「あんた、捕まりたいのか」

 

「いいや、だが連中も捕まえる気はないだろう。今、俺を捕まえてもたかが落書き犯、一文の得にもなりはしないからな。外交交渉で政府をゆすれるくらいの事件を引き起こすまで泳がせてくれるさ」

 

「バカな。おい、今の言葉は本気じゃないよな。僕たちは事件を起こして欲しくてあんたを呼んだ訳じゃない。国際問題なんて真っ平だ。あんたは単に、基地の前で、深海棲艦と戦い続ける無意味さを被害者の立場で訴えてくれればそれで良いんだ」

 

「・・・」

 

 彼は答えない。

 

 そこへ店員が注文した料理と酒を運んできた。世話役の前には泡盛のコップと、焼き鳥。彼の前には、サラダの盛り合わせ。

 

 彼が黙々とサラダを食べ始めたのを見て、世話役が言った。

 

「あんた、いつも野菜ばかりだな。ベジタリアンとかいうやつなのか」

 

「いいや」

 

「じゃあ、なぜ? 金が無いのか。いや、そんなはずは無いよな。あんたには大金を支払っているんだ。それともこの島の料理が口に合わないか。この焼き鳥は悪くないと思うよ。食べないか?」

 

 世話役が焼き鳥の串を差し出す。しかし彼は顔を背けた。

 

「いらん」

 

「鶏肉は嫌いなのか」

 

「肉を食う奴が、嫌いだ。俺の家族を喰った化け物と同じに見える」

 

 彼の言葉に、世話役は一瞬呆け、そして当惑しながら焼き鳥を皿に戻し、それを彼とは反対側の方向へ押しやった。

 

「す、すまなかった」

 

「謝る必要は無い。他人の気持ちなど俺にはどうでもいい。それよりも、だ」

 

 そう言って、彼は初めて世話役に目を向けた。

 

「早ければ明日、そうでなくとも近いうちに艦娘どもが出港するぞ。分かっているのか」

 

「そうなのか。いや、分かるはずがないだろう? 軍艦の行動予定は基本的には秘密だ。例の艦娘がここに異動になるという情報を掴むのだって苦労したんだ。・・・どこでその情報を知ったんだ? スポンサーからなのか?」

 

「いや」彼は冷笑じみた表情で否定した。「スポンサーに頼るまでもない。少し観察していればすぐに分かることだ」

 

「基地の中を見ていたのか?」

 

「ああ、見ていた。よく見えるポイントがあるんだ。高倍率の望遠鏡があれば、何をやっているかなんて手に取るようにわかる。・・・昨日、チューシャンの奴が港に姿を現し、食糧らしきものを積み込んでいた。今日も別の艦娘どもが同じように食料を積み込んでいる。艦娘どもは普通の船と違って普段は船内に誰もいないからな、本来なら食料を積む必要が無い」

 

「なのに積んでいたということは、つまり出港する可能性があるということか」

 

「そうだ。それに前の艦隊が深海の化け物どもにやられて以来、この島の周りは戦力の空白地帯らしいじゃないか。俺が司令なら、せめて哨戒ぐらいはすぐに行う」

 

「まあ確かに、そう言われればそうだけど、けれど艦娘が出港して、だから何だと言うんだ?」

 

 世話役は疑問を口にした。艦娘は出港する。しかし基地は島にある。なら、別に抗議活動に何の変化も影響もないではないか。

 

 そう思っていたのだが、世話役に向けられていた彼の表情が、単なる無表情から明かな軽蔑に変わったのを見て、たじろいだ。

 

 彼は言った。

 

「海上デモをしろ」

 

「は? 何を言っているんだ。そんな必要はどこにもないだろう?」

 

「お前こそ何を言っている。艦娘どもの居ない基地を攻撃して何の意味がある。海上デモだ。チューシャンの出港を妨害しろ」

 

「バカな、攻撃だって? 違う、我々は島の平和を守るために危険な軍事基地と軍事行動の撤回を--」

 

「黙れ。そんな戯言など聞き飽きた」

 

「戯言じゃない。本気だ。深海棲艦と先の見えない戦いを続けるより、あんたの国と国交と通商を回復した方がよほど有益で、安全で、そして平和な解決策だ」

 

「そうか。下らん。お前たちの理想などどうでもいい。俺にとって深海棲艦は敵だ。艦娘もな。俺はチューシャンに復讐するためにここへ来た」

 

「ふ、復讐・・!?」

 

 彼は、静かな低い声で、しかしはっきりとそう告げた。

 

 世話役はその異様な迫力と、そしてその言葉に込められた狂気に絶句した。

 

 そう、狂気だ。彼は、狂っている。

 

 言葉を失い青ざめた世話役の二つ隣の席で、男がさめざめと泣いていた。ずっと項垂れながら愚痴をこぼしていた男だった。慰めていた相方は匙を投げたように酒を飲んでいる。

 

 彼は一瞬だけそちらに目をやり、しかしすぐに世話役に戻して言った。

 

「海上デモをしろ」

 

「む、無理だ」世話役は必死に声を振り絞った。「船が集まらない。明日から天気が回復して海面も落ち着くらしいから、漁船がみんな漁に出てしまうんだ」

 

「本当か」

 

「本当なんだ、信じてくれ。これまでも海上デモ自体は計画していたんだ。しかし漁ができないときじゃないと、船が集まらない」

 

 言い訳をする世話役を、彼はじっと睨んでいた。

 

 が、不意に、また例の泣いている男へと目を移した。

 

「さっきから泣いているあの男・・・見たところ漁師のようだな」

 

「え、あ、ああ」

 

「なぜ、泣いている。事情を教えろ」

 

 彼の有無を言わせぬ口調に、世話役は戸惑いながらも従った。彼から目をそらし、二つ隣の男たちに声をかける。

 

 世話役は慰めていた男の方からある程度の事情を教わり、彼に告げた。

 

「ど、どうやらあの泣いている男は、先日の漁で漁船を転覆させてしまったそうだ。船自体は無事だが、獲った魚は全部失ったし、漁具も駄目になったそうだ。明日からせっかくの好天で稼ぎ時なのに漁に出られず、それで嘆いているらしい」

 

「そうか」

 

 彼は少し黙ったまま、泣いている男を見ていた。世話役や、慰めていた男が不審そうに彼を見つめる。

 

 彼は、言った。

 

「俺が、補償してやろう」

 

「は?」

 

 彼は、にやりと笑いながら、言った。

 

「あの男に通訳しろ。俺が損害分の金を出す。その代り、船を出せ、とな」

 

「あ、あんた、まさか」

 

「早くしろ。明日中には出発する。これは命令だ」

 

「わ、私はあんたの部下じゃない」

 

「だがスポンサーから金をもらっている犬だ。お前はスポンサーから俺の手助けをするように命じられている。そして俺はスポンサーから好きにしていいと言われている。ならば俺のすることに口を出すな。黙って従え」

 

「・・・」

 

 世話役は迷った。彼に従えば、間違いなく大事になる。

 

 こいつは狂っている。

 

 その狂気が、世話役の目の前に迫っていた。断れば、身の危険があるかもしれない。

 

 しかし従えば・・・

 

 世話役はつばを飲み込み、言った。

 

「わ、わかった」

 

 そして世話役は男たちへと向き直った。

 

 しばらくして、喧騒する店内から、男の泣き声が止んだ。

 

 

 

 



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第十話・潜む、悪意(2)

 出港日の朝はよく晴れ渡っていた。雲はまだところどころに浮いているものの空は明るく、風も穏やかで波も低い。

 

 まだ夜明けを迎えて間もないこの時刻。鎮守府の岸壁に、海尾を始めとした南方警備艦隊の面々が揃っていた。

 

 見送りの海尾と叢雲の前に、白雪、村雨、初霜の順で整列し、旗艦の白雪が海尾に敬礼する。

 

「第十一駆逐隊、旗艦白雪、他二隻。これより隊訓練及び海域哨戒任務のため出港します」

 

「了解、出港を許可する。今日から天候が回復して漁船も多く漁に出ている。航行や訓練には巻き込んで事故を起こさないよう十分に注意してくれ。それと今のところ深海棲艦出現の兆候は見当たらないが、油断しないように」

 

 海尾の訓示を三人は背筋を伸ばして聞いていた。彼女たちは出港前特有の緊張感を漂わせていたが、しかし無駄に気負い過ぎている訳ではなかった。

 

 訓示を聞き終え、艦娘たちは出港準備作業に取りかかる。

 

 鎮守府には艦娘用の岸壁が複数存在し、駆逐艦なら最大十二隻、戦艦や空母といった大型艦船でも四隻の同時係留が可能だった。しかし、その岸壁のほとんどが前回の空襲によって集中的に爆撃され、係留施設や、最も重要な船体転送装置が破壊され使用不能になっていた。

 

 唯一無事だったのが一隻のみ係留可能の、この予備用岸壁だった。岸壁の全長が短いことや港湾内が狭いこともあって出入港は一隻ずつしかできない。そのため今回の出港も初霜、村雨、白雪の順に船体を出現させて実施されることになっていた。

 

 初霜は海面に降り立ち、転送装置を作動させ船体を呼び出す。周囲をまばゆい光に包まれて、一瞬後、初霜は自らの艦橋に位置していた。

 

「出港準備、艦内警戒閉鎖」

 

『了解。出港準備、艦内警戒閉鎖』

 

 サポートAIの復唱と共に、艦内をメンテ妖精たちが駆けまわる。

 

 艦内の各防水ドア・ハッチ類や配管の注止水弁、通風弁は全て自動化されているが、戦闘時の被害や故障に備えて手動操作機構も当然ながら備え付けられている。妖精たちは自動閉鎖されたそれらに手をかけ、開閉機構が確実に作動していることを確認する。

 

 これはつまり自動機構と手動機構のダブルチェックであるが、しかしチェックしているのも妖精であるので、これも自動機構と同じ次元だと言える。

 

 そうなれば真の意味でのダブルチェックは人間が--すなわち艦娘自身がすべきであるが、100メートル超の船体の隅から隅をひとりでチェックするというのは(停泊中や入渠中を除いて)ナンセンスでしかなく、結局、これは機械的なシステムをどこまで信頼するのかという問題になってくる。

 

 とは言うものの、これは通常艦艇であっても同様の問題があると言える。艦娘の立場は通常艦艇で言うところの“艦長”であり、妖精たちは“乗員”の立場だ。

 

 艦長は乗員が担当する部署をいちいち事細かに確認したりしない。乗員たちはそれぞれの部署のプロフェッショナルだ。艦長が彼らを信用しなければ艦は動かない。艦娘と妖精の関係もそれと同じだ。理屈の上では、そうだ。

 

 だが自動機械を人間と同様に信頼するのは、難しいのが現実だ。

 

 いや、工業製品的な尺度としての信頼度ならば、運用データと計算でパーセンテージとして導き出すことが可能だ。そしてその信頼度で測るならば、妖精たちは人間の乗員たちと比べ、精密さ、反応の速さ、そして効率で上回っていた。

 

 無論、初霜を始め艦娘たちも、自分の船体を動かす妖精たちの信頼度を疑っていない。しかしそれはどちらかといえば、自己の延長線上、つまり自分の身体の一部分として捉えている感覚に近く、人間的な信頼とはまた違う話だった。

 

 たしかに人間はもはや信頼度では自動機械に敵わない。特に効率面で言えば遥かに差をつけられていた。そこまで科学技術が発展してしまったのだ。

 

 しかし、それでも戦場には人間が存在していた。

 

 艦娘たちのように限りなく全自動に近いワンマンコントロールシップも多いが、それとほぼ同じ数の通常艦艇も運用され続けていた。

 

 その理由は、それこそまさしく、人間的なものへの信頼故だった。

 

 機械への信頼度を超える、人間への信頼。

 

 精密さ、反応の速さ、そして効率の低下を許容するだけの信頼。

 

 それは人間至上主義とでも言うべき不合理なものに見えるかもしれない。

 

『艦内各部警戒閉鎖よし。各部出港準備よし』

 

 AIの報告が艦橋に響く。

 

 初霜はそれに了解を返しながら、人間至上主義に見える現状も、実はさほど不合理ではない。と頭の片隅で思った。

 

 人間を機械よりも信頼できる理由は、自らもまた人間だからだ。

 

 人間は機械よりも信頼度が低く、ミスを起こしやすい。しかし人間とはそういうものだと誰もが知っている。理解できるから、逆に信頼できるのだ。

 

 それは人間の存在価値が機能や効率性とは別にあるからこそだろう。

 

 逆にシステムの信頼度に存在価値が置かれている自動機械にとっては、そのミスがどれほど低い確率であろうとも、事故が起きてしまった瞬間に、その存在そのものへの価値を問われてしまう。それは、戦場という極限状態での信頼を求めらえる世界では致命的な弱点と言えた。

 

 だからこそ、未だに通常艦艇が主力として存在しているのだ。

 

 それゆえに艦娘は、海軍戦闘艦艇の五割を占めるようになった現在でも、決戦兵力の主力たる遠征打撃艦隊には一部の戦艦や重巡を除いて配置されておらず、その主な配置は警備艦隊や遠征護衛艦隊に留まっていた。

 

 しかしそれも人間至上主義による艦娘差別というわけではなく、限りなく全自動に近いワンマンコントロールシップという、機械的信頼度に負うところが大きい艦娘が抱えるリスクゆえだった。

 

 高い信頼度を誇る機械でもミスはいつか起きる。その時、機械は存在そのものを問われてしまい、リカバーは難しい。

 

 しかし人間が犯したミスは、所詮、人間はその程度のものと認識しているから許容できる。

 

 だからこそ、戦場では人間が未だ主力であるべきだ。例えそれが膨大な人命の損失に繋がろうとも。それが海軍の兵器運用思想でもあった。

 

 ゆえに負けることが許されぬ艦隊である決戦兵力たる遠征打撃艦隊には、あらゆる状況、あらゆるミスにクレバーに対応できるよう膨大な人的資源が投入されているのである。

 

 と同時に、決戦兵力に人的資源を集中したがゆえに、海上通商航路の防衛などに必要な人材と予算が不足し、それを補うためにワンマンコントロールシップである艦娘が必要とされたという背景があった。

 

(人間は、間違える生き物だ・・・)

 

 出港に向けてAIに指示を出しながら、初霜はちらりと、寮の部屋のドアに書かれた落書きを思い出した。

 

(人間の間違いは、許せる。だって、私も人間だから)

 

 初霜は自らにそう言い聞かせながら、出港に向けた最後の指示を下した。

 

「取舵一杯、右前進微速、左後進微速。ラッパ用意」

 

 艦橋ウィングに妖精が立ち、ラッパを構える。

 

「出港用意!」

 

 初霜の号令に妖精が高らかに出港ラッパを吹きならし、駆逐艦・初霜は岸壁を離れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日、漁港の岸壁は静まり返っていた。

 

 時刻は午前も半ばを過ぎたころ。漁船の大半は昨晩の内に出港しており、漁獲のあった船はとっくに帰港し、水揚げまで済ませて、また今夜の漁に備えて自宅で英気を養っているだろう。残る漁船も同じく今夜の漁を目的にしており、その出港は早くとも夕刻だ。

 

 そんな、漁に出るにはあまりにも中途半端な時間帯に、一隻の漁船が出港していった。

 

 全長20メートル。排水量19トンの漁船であった。1280馬力の機関を二基搭載した二軸推進、最大時速35ノットを誇る快速船だが、今、そのエンジン音は不定期に咳き込むような音を立てながら、やっと10ノット程度が出るか出ないかの速力で海を走っていた。

 

「晴れてよかったな」世話役が船べりに腰かけ、沖を眺めながら言った。「波も穏やかで、そんなに荒れていない。フェリーでも船酔いしたから、正直、こんな小舟で沖に出るから心配だったんだ」

 

「小舟で悪かったな」操舵輪を握りながら、漁師が不機嫌に言う。「けどフェリーで酔っただと? そんなんじゃ先が思いやられるな」

 

「これぐらいの揺れなら平気さ」

 

「その余裕がいつまでもつか見ものだな。・・・ちっ、エンジンが咳き込む。調子が出ないな」

 

「僕の船酔いよりも、そっちのほうが心配だな。海のど真ん中で漂流なんて勘弁してくれよ」

 

「黙れ。海水を被って半日足らずだ。まともに動く保証なんて無い。それでも船を出せと言ったのはお前たちだ」

 

「おいおい、大金を払っているのにそれは無いだろう。こっちは雇い主だぞ?」

 

「だから、どうした。雇い主なら船をバカにする権利があると思っているのか。勘違いするな。お前らなどただの荷物だ。俺が叩き落そうと思えば、いつでも叩き落せる。この船の船長は俺だ。わかったか。わかったなら文句言わず大人しく運ばれていろ」

 

 漁師の剣幕に、世話役は言葉を返せず気まずそうに目をそらした。その目が、反対側の船べりに背中を預けて座っていた彼に向けられる。

 

 船を出せと言った張本人である彼は、先ほどの漁師と世話役のやりとりなど眼中にも無かったらしく、手にした携帯端末の画面を無表情に眺めていた。

 

 漁船は港の最外部の防波堤を超え、今まで両側に見えていた陸岸が後方へと下がっていった。

 

 沖に出た途端に、漁船の揺れが大きくなった。船べりに腰かけていた世話役はバランスを崩しかけ、慌てて船べりの内側にへたり込むように座りなおした。

 

 漁師がそれを見て「ざまあない」と鼻で笑った。

 

 世話役が顔を赤くして言い返す。

 

「まだ酔ったわけじゃない」

 

「その調子なら、どうせ時間の問題だ。船の中で吐いたら海に蹴り込んでやるから覚悟しろ」

 

「右だ」不意に、彼が言った。「右に舵を取り、陸岸沿いに進め」

 

 携帯端末から目を離すことなく告げられたその指示に、漁師はきょとんとした表情をした。

 

 言葉が通じていないのだ。

 

 世話役が慌てて、彼の指示を漁師に通訳する。

 

「あいよ、面舵っと。・・・で、どの方向まで回りゃいいんだ?」

 

 漁師の問いに、彼は携帯端末に目を向けたまま手を上げた。その手が、さっと振り下ろされる。

 

 漁師はこれが合図だと気づき、舵を中央に戻した。

 

 彼は言った。

 

「行き過ぎだ。少し左へ戻せ」

 

 それを世話役が通訳する。

 

「へいへい」

 

 漁師は少しだけ舵を左へ切る。漁船はゆっくりと左回頭。

 

 彼が携帯端末を見たまま、また手を上げ、下ろす。

 

「このまま進め」

 

 彼はそう指示し、それきりまた黙り込んだ。

 

 漁師は、そんな彼を胡散臭そうに眺めた。

 

「おい、俺たちはどこへ行くんだ?」

 

 漁師は問いかけたが、彼は何の反応も見せなかった。世話役も通訳しようとしなかった。

 

「おい、通訳しろよ」

 

「伝えたって無駄だよ。彼は答えない。彼の指示通りに船を出す、という契約だ」

 

「目的地ぐらい教えてくれたっていいだろう」

 

「無駄だと思うね。何を考えているのか分からない男だ。けれど・・・」世話役は声を潜めた。「あんただって、これがまともな仕事じゃないって気づいているんだろう?」

 

「・・・」

 

 世話役の言葉に、今度は漁師が押し黙った。

 

 素性の知れない外国人から、目的も告げられずに船を出せと言われて大金を積まれた。これで真っ当な仕事だと思う人間などいないだろう。

 

 それでも仕事を受けたのだから、昨夜の自分はどうかしていた。と漁師は思う。酒に酔っていたせいだ。

 

 しかし意識も記憶もはっきりとしていたし、何より金に困っていたのも事実だ。

 

 背に腹は代えられない。酔っていなくとも仕事を受けただろうと漁師は思った。酒は迷いを振り払う勢いを与えてくれただけだ。

 

 だが、不安もある。

 

 どこへともなく船を走らせながら、漁師は雇い主たちの姿に目を向けた。

 

 世話役はいつの間にか体育座りのような姿勢で項垂れていた。やっぱり酔ったのかと漁師は見下した目で一瞥して、そして彼に目を移した。

 

 彼もまた座り込んだまま、手元にずっと目を向けていた。

 

 彼はずっとこうだ。他に目を向けず、ほとんど身動きもしない。明確に動いたのは先ほどの針路指示の合図ぐらいだ。表情も変わらない。船酔いした様子も見られない。不気味な男だ。

 

 いや、危険な男だ。と漁師は思い直した。何をしでかすのか見当がつかない。

 

 だが、本当に危なくなったら--それこそ命に関わるような事態になったら、その時は船から叩き落してやればいいだけの話だ。

 

 彼らは雇い主だが、船長は自分だ。この船の上で、船長に逆らえるものは居ない。物理的に逆らえるはずがない。潮を被っていつ止まるかもしれないエンジンを整備できるのは自分だけだ。

 

 それに万が一、彼ら二人が力づくで襲い掛かってきたとしても、返り討ちにできるだけの自信が漁師にはあった。伊達に海の男はやっていない。不安定な船の上で網を引き揚げ続けて鍛えた身体と腕っぷしに、陸しか知らない素人が勝てる道理は無い。

 

 漁師は自らにそう言い聞かせることで、胸の内に沸き起こっていた不安感を抑え込んだ。

 

 その上で、改めて彼を見た。その時初めて、漁師は彼のわずかな変化に気づいた。彼はいつの間にか携帯端末では無く、別のモノを手にして、それを眺めていた。

 

 それはラミネート加工された写真のようだった。

 

 何が写っているのかまでは見えなかったが、その写真を眺める彼の表情は、相変わらず何の感情も浮いていなかった。

 

 そこへ不意に船が揺れて、船首で波しぶきが上がった。飛沫が船上にまで舞い込み、二人に降りかかる。

 

 世話役は揺れと波しぶきに「わっ!」と声を上げて、漁師の居る操舵席側へ這いつくばるように避難してきた。

 

 しかし彼は動じることなく、写真に着いた海水を指で丁寧に拭い、そして続いて自分の顔を拭った。

 

 その時、目元を執拗に拭っていたのは、きっと目に海水でも入ったのだろう。と漁師は思った。

 

 彼は写真を懐にしまい込み、その手で再び携帯端末を取り出した。

 

 彼は端末の画面を見て、それからやおら立ち上がって周りを見渡し始めた。

 

 数度、周囲と携帯端末を交互に見比べて、そしてある方向を指さした。

 

「向こうへ行け、と言っている」と、世話役。

 

「なにがある?」

 

「さあ?」

 

 訊くだけ無駄だった。漁師はそう思いながら舵を切る。しばらく彼の指示のままに航行する。

 

 やがて、船首に立ち沖を眺めていた彼が、速力を落とすよう指示した。3ノット程度の速度で進むこと数分。彼がある一点を指差した。

 

 十数メートル先に、小さなブイが浮いていた。それはソフトボール程度の大きさでしかなく、色も目立たない黒色のブイだった。

 

 漁のための仕掛け網や、もしくは海中に浅瀬や暗礁等の危険物があることを示すブイならば、発見されやすいようにもっと目立つ大きさと色をしているはずだったが、これはそれとは逆に、発見されないように、目立たないように設置されたブイだった。

 

 ブイをそんな風に設置するなど、例えるならば列車の縁路上に石を置くに等しい悪質な行為である。もしこのブイに気づかずに船が真上を通過して、ブイのロープがスクリューにでも絡みつこうものなら大事故へつながる可能性があった。

 

 漁師はそのことに不快感を覚えたが、同時にこの場所が、船は滅多に近寄らない場所であることも思い出した。

 

 彼は漁船をブイの傍で停止させると、船べりから身を乗り出してブイを引き揚げ始めた。ブイから海底へ延びるロープが、彼の手によって船上へ手繰り寄せられていく。

 

 ここの水深は20メートル近い。それだけの長さの錘付きロープを、揺れる船上で手繰り続けるのはかなりの重労働だが、彼は息を切らすことも、ペースを落とすこともなく、一人で引き揚げきってみせた。

 

 海中から現れたのは、黒い色をした、防水性の、大きな袋だった。

 

 錘の役割を果たすほどの重さをもったそれを甲板上に降ろし、彼は袋の口を開けて中身が水に濡れていないことを確認し、また口を閉じた。

 

「なんだ、それは?」

 

 漁師が問いかけると、彼は通訳もされていないのに、こう答えた。

 

「ギフト・・・チューシャン」

 

「ぎふと? ちゅうしゃん?」

 

「チューシャンへの贈り物だよ」と、世話役。

 

「それぐらいわかる。だがチューシャンってのは誰だ?」

 

 漁師の問いに、世話役はわずかに迷って、そして答えた。

 

「初霜・・・という意味だ」

 

「おい、それって、お前・・・まさか・・・あの艦娘のことなのか?」

 

「そうだ」世話役は頷いた。「駆逐艦・初霜への贈り物・・・らしい」

 

「おい・・・おい、おい、おい! なんだよ、それは。艦娘に贈り物だって? こんな人気のないところに隠していたようなものをか? そんなもの、どう考えたってマトモな代物じゃないだろ! それに、初霜だと!? 俺はその初霜に命を救われたんだぞ!?」

 

「そうなのか。それは知らなかったよ」世話役は興味が無さそうに言った。「だけど、彼にはそんなこと関係ないだろうな。彼は、初霜を憎んでいる」

 

「クソッ、海軍絡みだとは思っちゃいたが、どうせお前らのことだから、せいぜい嫌がらせ程度の抗議活動と踏んでいたんだ。けど艦娘を憎んでいるときたか。何をしでかすにしろロクなことじゃないな!」

 

 漁師は彼に向かって、言った。

 

「その袋の中身を見せろ。隠すようなら仕事の話はここまでだ。港に引き返す」

 

 その言葉を受け、彼は無表情のまま漁師を見返していたが、世話役が通訳すると、大人しく袋の口を開けた。

 

 彼は袋の中に手を入れ、そこから透明のビニール袋を取り出してみせた。

 

 それを見て、漁師と世話役は息を呑んだ。

 

 それは、札束だった。大きめのビニール袋に大金がぎっしりと詰まっている。彼はそれを漁師に向けて無造作に放り投げた。

 

「好きなだけ持っていけ。依頼金とは別の追加報酬だ。その代わり、以後一切、俺のやることに質問をするな。いいな」

 

 通訳された彼の言葉に、漁師は一瞬、カッと頭に血を昇らせた。

 

 だが、足元の大金を見て、その怒りを抑え込んだ。

 

 既に受け取った前金に足元の金を加えれば、新しい船が買えた。これに成功報酬が加われば、しばらく漁に出ずとも暮らして行けるだろう。

 

 漁師はごくりと唾を飲み込んだ。

 

 脳裏に、自分を救ってくれた小柄な少女の姿が過ぎったが、それはすぐに家で待つ家族の姿に取って代わった。

 

 漁師は、金が必要だった。生きていくために。

 

 漁師は震える手でビニール袋をつかみ取った。中身を取り出さず、袋のまま、操舵室の下にある部屋に放り込む。

 

 金をすべて持って行った漁師の行為に、彼は文句も何も言わなかった。

 

 彼はただ一言、こう言った。

 

「南へ100海里」

 

 漁師は頷き、その指示に従った。

 

 漁船は、島を離れ、沖へと向かう。

 

 初霜たちがいる沖へと・・・・・・

 

 

 

 




次回予告

 海鳥が舞い、イルカたちが泳ぐ穏やかな海。

 この静かな海を守るべく、艦娘たちは訓練に明け暮れる。

 次回「第十一話・海を行く者」

「旗艦より各艦宛、戦術運動開始!」


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第十一話・海を行く者

 明るい太陽の下、白雪を旗艦とした第十一駆逐隊は一列に連なって航行していた。

 

 先頭は白雪、その後方2000ヤードに村雨、そしてそのまた後方2000ヤードに初霜の順である。

 

 先頭を航行する白雪は艦橋内の時計に目をやり訓練開始時間が迫っているのを確認して、サポートAIに指示を下した。

 

「これより以後、僚艦との通信は旗流信号を基準とする。旗流信号通信、用意」

 

『了解、旗流信号通信、用意よし』

 

 艦橋内に妖精が現れ、白雪に敬礼する。

 

 白雪は通信内容を指示。

 

「旗艦から各艦宛、単縦陣を成形せよ。追艦距離は500メートル、基準艦は本艦である」

 

 白雪から通信内容の指示を受け、妖精はウィングから艦橋背後のメインマスト下へ移動し、そこで信号旗を繋げていく。

 

 信号旗は国際信号旗とも呼ばれ、全世界共通で一つの旗が一つのアルファベット、数字に対応している。

 

 その他に国際海軍連合条約に加盟している海軍同士で独自に制定された軍事用語に対応した信号旗があり、これらを組み合わせてメインマストに掲げることによって船舶間の通信に使用していた。

 

 白雪のメインマストに一列に連なった信号旗が掲揚され風にたなびくと、後方の村雨、初霜は、信号の受信を示す【回答旗】と呼ばれる赤白の縞模様の旗をそれぞれのマストに掲げた。

 

 こうしてあえて無線を使用せず旗流信号で通信を行っているのも、訓練の一環である。

 

 無線は常に敵による傍受やジャミングの脅威に晒されている。特に深海棲艦の戦艦や重巡級が有する強力な電子戦能力に対抗するためには、このようなアナログ手段による戦術が最も確実であり、有効だった。

 

 しかし敵のジャミング下で使用できなくなるのは無線だけでは無かった。戦艦の最大出力によるジャミング下では、レーダー類さえも使用不可能になる可能性が高い。

 

 そのため、今、白雪に向かって距離を詰め始めた村雨と初霜は、水上レーダーではなく目視で互いの艦と艦の距離を測っていた。

 

 目視で距離を測る方法には二種類あった。

 

 一つは測距儀またはレンジファインダーとも呼ばれている光学式距離計を使用する方法だ。

 

 測距儀とは、左右に幅広い双眼鏡とも言うべきシロモノだった。

 

 左右に大きく離れた二個の対物レンズで取り込んだ画像を、距離計に連動して回転する鏡によって接眼レンズに送り、観測者は接眼レンズから覗いた左右の画像を重ね合わせて距離を測定する仕組みである。

 

 要は、測距儀で艦を観たときに、ファインダーにその姿が正常に映るように調整すれば、同時にその距離が算出できるという道具だ。ちなみに距離単位はメートル法を採用しているため、これを使用しての艦隊運動は普段使う海里ヤード法ではなく、メートル法を使用することになる。

 

 測距儀は原理的にも構造的にもシンプルであり、また電子制御も必要ないのでジャミングの影響を受けない。なによりレーダーが実用化される前の時代から使用され続けている観測機器であるので信頼性の面でも申し分なかった。

 

 だが、この測距儀を使用する際には、観測者は常にファインダーを覗きながら画像調整を行う必要があった。通常艦艇のように乗員が多数いる艦艇なら測距儀専従用に人員を割くことが可能だが、艦娘たちはたった一人である。そのため測距儀に専従できないのが欠点だった。

 

 特に今のように艦隊運動を行っている最中は、距離を測ると同時に周囲の状況にも気を配らなければならないので、測距儀だけを覗き続けるわけには行かないのだ。

 

 そのため、彼女たちは測距儀よりもさらに簡易な測定方法を使用していた。

 

 それが彼女たちが手に持つ双眼鏡についているレティクルと呼ばれる距離測定用の目盛である。ファインダーにL字型に描かれたミルと呼ばれる単位の角度目盛と目標の大きさを比較することにより概略の距離を算出することができる。

 

 もちろん算出は観測者自身が行わなければならないが、計算式は目標物までの距離(メートル)=目標物の大きさ×1000÷測定したミル角であり、この計算式と目標の(すなわち僚艦の)全高を記憶していれば暗算はさほど難しいものではない。

 

 もっともこの方法が使用できるのは手持ちの双眼鏡で目標がはっきり視認できる距離(約10キロメートル前後)だが、ステルス能力、電子戦能力をもつ深海棲艦との戦いにおいてレーダー類に頼り切ることは危険であり、また敵の攻撃により船体の機器が損傷する可能性がある中で、それでも戦い抜くには艦娘個人の練度向上が必要不可欠だった。

 

 白雪はウィングに出て背後に目を向けた。

 

 村雨と初霜の船体がほぼ重なりながら接近してきている。白雪が双眼鏡を向け、それぞれの距離を測ると、村雨が約500メートル後方、初霜は1000メートル後方に既に占位していた。白雪はサポートAIにレーダー測距を行わせて自分の距離計算が間違っていないことを確認する。

 

 それとほぼ間をおかずして、村雨がマストに【占位完了】を示す白地に赤く縁どられた三角形の旗を掲揚する。すぐに初霜も同じ信号旗を掲揚した。

 

 サポートAIから報告。

 

『旗流信号にて村雨、初霜から本艦宛、占位完了』

 

「了解。旗艦より各艦宛、戦術運動開始」

 

『了解、戦術運動開始。信号旗掲揚・・・各艦の了解を確認』

 

「旗艦より各艦宛、指令発動法、陣形番号2番を成形せよ、基準艦針路180度、速力12ノット。本艦基準艦。以上」

 

『了解。F2 Gcop180 S12 G S 掲揚完了・・・各艦の了解を確認』

 

「発動用意・・・発動」

 

 白雪の指示にマストから信号旗が一斉に降ろされる。村雨と初霜がそれを確認し、後方の二艦はほぼ同時に針路を変えた。

 

 陣形番号2番は旗艦を左端に据えた単横陣のことである。

 

 白雪を基準として右へ村雨、初霜の順に並んで航行する。縦一列から横一列へ変わるだけの単純な艦隊運動だが、その操艦は決して単純とは言い難い。

 

 先頭を一定針路、一定速力で航行する白雪へ追いつくための縦方向のベクトルに、その右側500メートルに位置するための横方向のベクトルを加えて艦の進路を決定し、さらに自身の推進力と空気及び水流抵抗による増減速惰力を考慮して変針減速のタイミングを割り出したうえで、そのタイミングの際に基準艦が相対的に自分の艦橋から何度の方向に見えるかまでを算出する必要がある。

 

 本来ならこれらの計算はサポートAIがレーダーやGPSを駆使して瞬時にして正確に行い、針路、速力、増減速のタイミングを算出してくれるのだが、今、村雨と初霜はこれを手計算で行っていた。

 

 理由はもちろん、先に述べた通りだ。無線やレーダー、GPSを封じられた程度で艦隊運動さえ出来ないようでは戦場に立つ資格さえない。

 

 後方の二艦、村雨と初霜はそれぞれの艦橋で、運動盤と呼ばれるベクトル計算用の図面に鉛筆と定規を使って線を描いて算出した針路速力に従って操艦を行っていた。

 

 二番艦である村雨の速力は18ノット、針路は200度。三番艦の初霜は同じく速力18ノットで針路は198度。占位に必要な移動距離は位置関係上、三番艦の初霜が最も長い。

 

 初霜は針路速力を定めると、運動盤を手にウィングへと出て、相対的に左前方に見えるようになった白雪の船体を、ウィングに設置してあるジャイロコンパス越しに観て、方位を計測した。

 

 白雪は針路180度、速力12ノットのまま航行しているので、針路198度、速力18ノットの初霜とは遠ざかりつつ追い抜く関係にある。初霜は相対的に後方へと下がっていく白雪の位置をジャイロコンパスで計測し続けた。

 

 白雪の位置が初霜の左前方から左正横近くに下がりつつあった頃、先行する村雨が取舵をとり針路を180度に戻したのが見えた。村雨が先に白雪の右正横500メートルの位置に到着したのだ。

 

 村雨のマストに占位完了の信号旗が掲揚される。それを横目に、初霜は白雪の位置の計測を続ける。

 

 減速ポイントまで残り10度・・・8度・・・5度・・・3度・・・

 

 ・・・0度、今。

 

「両舷前進原速」

 

 初霜は速力12ノットを宣言。船体の速力が落ちる。

 

 続いて変針ポイントまで残り3度・・・2度・・・0度、今。

 

「取舵、180度宜候」

 

 船体が左回頭。針路180度。計算通りに行けば白雪の右1000メートルの位置に占位完了しているはずだ。

 

 初霜から見ると白雪との間に村雨が位置しているので、その船体に隠されて白雪の姿が見えないが、すぐに村雨が少しだけ速力を落とし、船体の半分程度だけ相対的に後方へ下がってくれた。それで初霜からも白雪の姿が視認できるようになった。

 

 初霜は双眼鏡を使って測距を行ない、白雪との距離が1000メートルであることを確認し、マストに占位完了の信号旗を掲げた。

 

 初霜は一度、自分のマストに目を移し、ちゃんと信号旗が掲揚されていることを確認してから、もう一度双眼鏡で白雪を観た。

 

 白雪もまたウィングに出てこちらを双眼鏡で覗いていた。

 

 この訓練では白雪が指導官も務めているので、彼女の船体のみレーダー等のセンサー類の使用を許可されていた。しかし白雪自身はその情報を遮断し、各艦の距離の判定はサポートAIに任せていた。

 

 白雪は、おそらくサポートAIから各艦の位置が適切であるとの報告を受けたのだろう、ひとつ頷くと、新たな陣形の成形指示をマストに掲げさせた。

 

 TS90 G H

 

 初霜はそれを読み解く。

 

 各艦は右90度に面舵変針せよ。初霜は基準艦となれ。

 

「ゴルフ掲揚、面舵」

 

 初霜は基準艦を示す【G(ゴルフ)】信号旗をマストに掲揚すると同時に、船体を右回頭させる。

 

 白雪と村雨も同じく右回頭。三艦は単横陣から、初霜、村雨、白雪の順の単縦陣に変形する。

 

初霜は後部カメラを白雪に向ける。相変わらず間には村雨が居るが、彼女もちゃんと心得ていて、わずかに右へ移動して初霜の視界を開けてくれている。

 

 白雪のマストに信号旗掲揚。

 

 F1 S H M G S

 

白雪、初霜、村雨の順で陣形番号1番(単縦陣)を成形せよ。白雪は基準艦となれ。

 

 今度は順序変更だ。初霜は白雪の背後に回り込むべく取舵回頭を行い、Uターンの態勢をとる。相対的に反航態勢となった村雨、白雪とすぐにすれ違った。

 

 白雪の正横を過ぎる前に初霜は再度、取舵回頭、同時に速力を上げて白雪の後方に着く。

 

 これも単純な艦隊運動だが、回頭のタイミング、舵の角度、速力の調整の三つを同時に、そして適切に行って初めて回り込むことができるのだ。

 

 今回、初霜はうまくいったが、続いて回り込んできた村雨は、この三つのどれかをわずかに狂わせたらしい。初霜の後方に着く際に旋回径が大きくなり、一度右側に飛び出してしまった。

 

 村雨はすぐに針路を再調整して初霜の後方へと着く。少し手間取ったものの、陣形成形に許容される制限時間内には十分収まっているので、失敗と言うほどのミスではなかった。

 

 初霜だってこの程度のミスはよくあった。今回はうまくいっただけだ。しかしより正確に、そしてより早く陣形が成形できるならば、それに越したことは無い。

 

 そのために訓練を繰り返し、練度を高めるのだ。

 

 三艦はその後も、二時間にわたり戦術運動訓練を続けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 訓練終了後、三艦は再び単縦陣を成形し、哨戒を兼ねながら次の訓練海域へと向かっていた。

 

 時刻はちょうど昼時、昼食の時間である。

 

 今、三艦は白雪、初霜、村雨の順に並んでいた。

 

 先頭の白雪は哨戒配備で自ら操艦しながら航行していたが、初霜と村雨は通常航海配備で白雪を自動追尾しながら食事と休息を行っていた。

 

 この配備というのは、艦娘の船体操作方法の区分である。

 

 艦娘たちの船体操作は基本的に脳波コントロールとサポートAIへの音声指示によって行われているが、この二つの割合は戦闘時、哨戒時、通常航行時それぞれの状況によって違いがあった。

 

 戦闘配置レベルでは脳波コントロールの割合が最も大きくなり、この状態において艦娘は船体の動きやセンサー類の情報を、自分の身体の動きや皮膚感覚に近い形で受け取れるようになる。

 

 その身体感覚には個人差があるが、例えば初霜が戦闘配置において船体とのリンクレベルを最大まで引き上げた場合、次のようになる。

 

 先ずレーダーや各種センサーによる探知情報は主に後頭部付近から頭上にかけた部分で(気配的な意味で)感知できるようになる。無論、正確な位置などの諸元はサポートAIが音声で報告してくれる。

 

 主砲である12.7センチ連装砲は右手の動きとリンクし、左手には機銃が対応、

 

 腰の左右あたりにはSSSM発射管、そして両足には船底及び推進機の感覚がそれぞれ生じていた。

 

 このように戦闘配備にある場合、初霜は船体とそこに搭載されている武器を己の身体同様に動かすことができた。

 

 つまりこの状態の艦娘は、船体と感覚的にほぼ一体化していると言ってもよかった。

 

 これにより船体操作におけるリアクションタイムが通常艦艇とは比べ物にならないほど早くなるという長所があるのだが、

 

 同時に船体操作への脳波入力情報が非常にシビアになってしまうため、操作以外の余計な思念が混じってしまうとエラーが生じてしまうという短所もあった。

 

 すなわち戦闘配備時の艦娘には高い集中力が求められるのだが、心身への負担も当然大きく、継戦能力という面では通常艦艇に劣ってしまっていた。

 

 そのため、特に差し迫った脅威が無い場合は哨戒配備レベルのリンクを使用していた。

 

 この哨戒配備レベルのリンクでは、レーダー・センサー類の情報及び武器の動きは感覚的に受信できるが、操作についてはサポートAIにほぼ委任しており、艦娘への負担は低下する。

 

 そのかわり船体や武器の操作においては音声指示が必須となり、リアクションタイムも低下しているのだが、それでも通常艦艇と同程度である。

 

 そして一番リンクレベルの低い通常航海配備になると、ほぼすべてがサポートAI任せになる。

 

 と言ってもレーダー・センサー類の探知情報は無意識下で受信しているため、艦娘が仮眠中であっても外界の動静は把握できる。

 

 そのため単艦行動中であっても昼夜問わず航行することは可能なのだが、さすがに就寝中は安全のために速力を落として航行することが多かった。

 

 しかし今のように複数の艦で陣形を組んで航行している場合、一艦が哨戒配備で航行し、残る他艦は通常航海配備でそれを自動追跡することによって、艦娘の負担と航行の制約の両方を少なくすることが可能だった。

 

 今、先頭の白雪が哨戒配備で航行しているが、間もなく順番を入れ替え、次は初霜が先頭に立って哨戒配備に着くことになっていた。

 

 しかし、その交代時刻まではまだ三十分ほど余裕がある。

 

 初霜は交代時刻までの間に昼食を済ますべく、艦橋に簡易テーブルを設置して、そこでレトルトパックの簡易食を食べていた。

 

 船体内部には食堂もあり、そこで自炊も可能だったが、今は訓練の合間ということもあって、初霜は艦橋での食事を選んだ。

 

 だから別に料理が作れないとか、そういうわけではない。カレーライスぐらいは美味しく作れると自負している。

 

 もっとも、艦娘たちの中では、カレーを作れない者の方が少ないのだが。

 

 なぜなら基礎教育期間での必修科目に入っているからだ。海軍のカレーに対するこだわりは並外れていて、偏愛的でさえある。

 

 なにせ海軍カレーフェスタなんていうイベントも毎年開催されており、腕に覚えのある艦娘が自慢のカレーを持ち寄って火花を散らし合っているくらいであった。

 

 しかしカレーは一度に大量に作ってこそ真価を発揮する料理なので、一人で艦上に居る時に勢い込んで作ろうものなら数日間、朝昼晩すべてカレー尽くしになりかねない。

 

 それでもいいという艦娘も居るが、初霜としてはそこまでカレーに執着していないので、航行中は基本的にカレーも含めてレトルトで済ましていた。

 

 そんな風に食事中の初霜であるが、その目の前、簡易テーブルの上にはレトルト食品の他に、二体のマスコットアイコンドールが立っていた。

 

 これは艦娘の外見を模した三等身のディフォルメ人形である。

 

 しかし人形と言っても実際は立体映像だ。初霜の前には白雪と村雨を模したドールがあり、白雪は操舵輪を握っており、そして村雨は手に皿とお箸を持っていた。

 

 これは各艦の艦娘の現状を示すアイコンだった。ちなみに初霜と同じように、白雪と村雨の前にも、初霜のアイコンドールが皿を抱えて表示されている。

 

 艦同士は指向性通信波を使用した直接通信が可能であり、艦隊が陣形を組んで行動する際のコミュニケーションツールとして使われていた。

 

 艦隊航行中とはいえ艦娘自体は巨大な船体に独りきりであるし、僚艦の姿も無機質な船体しか見えないような環境では、いくら直接通信で音声会話が可能とは言え、それのみでは味気ないものがあった。

 

 このドールは、その航行中の孤独を癒すためのちょっとした工夫であった。

 

 初霜は食事を終えると、自分のドール表示を“食事中”から“通常立ち絵”に切り替えて、白雪のドールに向かって声をかけた。

 

「白雪さん、食事終わりました。交代します」

 

『はい、了解しました。じゃあ現状の申し継ぎを行ないます』

 

 初霜は、白雪から現在の針路、速力、次のコースへの変針予定時刻、周囲に存在する他の船舶等の情報を受け取った。

 

『では、初霜ちゃん。哨戒当直を交代します。速力12ノット、針路130度』

 

「はい。交代しました、初霜。速力12ノット、針路130度」

 

 初霜が哨戒艦の引継ぎを宣言すると、前方を航行していた白雪が取舵を取って左回頭を始め、そのまま列の最後へと回り込んでいく。

 

 順序変更が終わると、白雪のドールがすぐに食事中に切り替わった。

 

『いただきます』

 

『おぉ、白雪さん、もしかしてカレーですかぁ?』

 

『いいえ、ハヤシライスよ』

 

 初霜は二人の会話を聞き流しながらウィングに出て、風をその身に浴びた。

 

 南方の海上とは言え、春先の海風は身を切るような冷気を伴っていた。その冷たさが、訓練の疲労と食事後の影響でかすかに訪れていた眠気を払っていく。

 

 空はよく晴れ渡り、中天に上った太陽が白く輝いている。日差しが降り注ぐ海面は近くから遠くに離れるにしたがって緑がかった明るい青から徐々に濃紺へと変化していき、水平線で空の明るい青と接していった。

 

 船体前方に目を向けると、艦首が海面を割り、押しのけられた海水が真っ白に泡立ちながら船体に沿って後方へと流れ去っていく。

 

 数匹の飛魚が海面から飛び出して、初霜から逃げるように左右へと滑空していった。おそらく飛魚の群れに船体が差し掛かったのだろう。飛魚は次々と飛び出し、海面を這うように低空飛行していく。

 

 と、そこへ一羽の海鳥が急降下し、低空飛行していた飛魚をさらっていった。うまく獲物を捕らえた海鳥は、初霜の船体の艦首に降り立つと、そこで活きのいい飛魚を苦労しながら呑み込んでいく。

 

 飛魚を狙う海鳥はこの一羽だけではなく、まだ他にもいて、いつの間にか海鳥が群れとなって初霜の周囲を飛び回っていた。

 

 海を行く船と並走しているのは海鳥の群れだけではなかった。初霜は船体越しに海中から接近してくる気配を感じて、視線を海面に向けた。

 

 日差しを浴びて輝く波の合間に、濃い灰色の影を見つけた。それは船体を追い越したかと思うと、さっと海面を割り、宙に踊った。

 

 イルカだ。

 

 なめらかな流線型の身体の背中は黒に近い灰色だが、しかし腹は明るいグリーンにきらめいている。イルカはしぶきを上げることもなく再び海中へと滑り込んでいく。

 

 最初のイルカに続いて、二頭、三頭と、イルカは次々とやってきた。

 

 気配だけでも数十頭は感じられる。かなり大きな群れのようで、初霜の周りだけではなく、後方の村雨、白雪の周りにも姿を現したらしい。

 

『あら?』

 

『おぉ~、イルカさんだぁ!』

 

 と、二人の声が初霜の艦橋にも響いていた。

 

 海面をいくつもの背びれが浮き沈みしながら波を切り、時折、軽々とカーブを切って艦首の下をくぐっていく。彼らにとって水の抵抗など存在しないかのようだ。

 

 イルカの群れは数分の間、初霜たちと並走した後、やがて遠くへと離れていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午後、対空戦闘訓練。

 

 ただし目標はレーダー画面上にのみ表示される疑似目標であり、各艦も実際に発砲は行わない。三艦は輪形陣を組み--三艦しかいないので正確には三角形だが--次々と襲い来る疑似目標を落とし続けた。

 

 その後は通信訓練。午前の戦術運動でも使用した旗流信号を、さらに長文化、複雑化したもの各艦持ち回りで掲げ合い、それぞれで解き合った。

 

 ちなみにこれは艦娘自身の知識技量の向上を図るだけではなく、実際の海上で、実際に陣形を組んだ状態で旗流信号がどう見えるかのテストも兼ねている。

 

 単縦陣、複縦陣、輪形陣。対艦距離500ヤード、1000ヤード、1海里、2海里でどう見えるか。

 

 吹雪型である白雪のマストと、初春型である初霜、白露型である村雨それぞれのマストで旗流信号の見え方は、どう変わるのか。

 

 新艦隊で挑む最初の航海では、検討すべき事項が山ほどあった。

 

 午後の訓練終了後、第十一駆逐隊は再び単縦陣で航行を開始する。

 

 今は初霜が先頭で哨戒を務めていた。艦橋内のアイコンドールで二人の様子を確認すると、村雨が皿を片手に食事中、白雪はバスタブに浸かって入浴中のようだった。

 

 時刻は夕刻、日暮れ時。

 

 駆逐隊は西へ針路を取っていた。進行方向である西の空に太陽が傾き、白色だった光が徐々に赤みを帯び始める。

 

 空に浮かぶ千切れ雲が下側から陽を受け、その部分が燃えるように赤くなり、その光が雲を透けて残る部分を紫色に染めていた。

 

 太陽が水平線に近づくにつれその光量は徐々に弱まっていき、艦橋の偏光処理された窓ガラス越しなら直視できるようになってきた。

 

 オレンジから赤へと色を変えながら肥大化していくように見える夕陽と、それに従い同じ色に染まっていく空と雲と海。

 

 夕陽の下端が水平線に接し、それはみるみるうちにその向こう側へと沈んでいく。

 

 太陽は最後に水平線上に横たえるような光を残して、その向こうに没した。

 

 それを見届け、初霜はサポートAIに指示を下す。

 

「灯火管制、航海諸灯そのまま」

 

 この指示に艦首、メインマスト、艦尾それぞれに装備された白灯と、右ウィング外側の青灯、左ウィング外側の赤灯が点灯し、それ以外の灯火は全て消灯される。

 

 艦内も同じだ。常夜灯の赤い灯りを残して全ての照明が落とされる。艦橋内の各計器類、多目的モニターの表示も赤を基調としたものに切り替わり、その光量も周囲の明るさに合わせ徐々に落とされていった。

 

 艦首方向の西の空にはまだ太陽の光が残っていたが、後方の東の空はもう薄暗くなっている。

 

 初霜はウィングに出ると首から下げていた双眼鏡を持ち上げ、東の空から西の空へ向かって水平線をじっくりと探った。ついで双眼鏡を外し、肉眼で海と空をぐるりと見渡す。

 

 日の出と、そして今のような日没の直後は、空中哨戒機にとって最も有利な時間帯だ。

 

 艦船が長く尾を引く白い航跡は、薄明りでもはっきりと目立ってしまうのに比べ、哨戒機は空の小さな一点に過ぎず、容易く闇に紛れてしまう。

 

 それに加え深海棲艦は飛翔体までもそれなりのステルス性を有している。こちらのレーダーやセンサー類も高性能になり、探知能力も上がってきてはいるが、それでも念を入れて目視見張りを行うことは決して無駄ではなかった。

 

 初霜はそうやってしばらく目視見張りを続けた。今のところ深海棲艦に夜間飛行の能力は無いと判明していた。だから、暗くなってしまえば敵の哨戒機はもう飛んでこない。今のところは、だが。

 

 将来的にはどうなるかわからない。深海棲艦も次々と新型が発見されている世の中だった。

 

 初霜はあたりが完全に暗くなったのを確認してから艦橋内へと戻った。

 

 ドールで二人の様子を確認すると、白雪はまだ入浴だった。

 

 村雨はと言えば食事を終えたらしい。今は三等身のドールが小さな歯ブラシを持って歯をシャカシャカと磨いていた。コミカルであり愛らしくもある姿だが、同時に、

 

(こんなアイコン表示があったかしら?)

 

 と初霜は首を傾げた。もっとも、あったとしても歯を磨くたびにわざわざアイコン表示を切り替えようとは思わなかったが。

 

 その村雨ドールが歯磨きを止め、初霜に向かって笑顔で手を振りだす。

 

『初霜ちゃん、お待たせ~。哨戒当直を交代するよ~』

 

「ありがとう、村雨。ところで、今、ドールが手を振ってるけど、そんなアイコンあったの? あと歯磨きとか」

 

『お、気づいてくれた? 可愛いでしょ、コレ、自作なんだよ』

 

「え、そんなことが出来るの? --あ、とても可愛いわよ」

 

『へっへ~、ありがと。この前、アイコンドールソフトのアップデートが交付されたでしょ。その時にカスタム機能が追加されたんだよ』

 

「へー」

 

 そういえば北方警備艦隊からの異動直前に更新データが郵送で届けられていたわね、と初霜は思い出した。職務上、特に重要度が高くなかったので、転勤と重なっていたこともあって更新を後回しにしていた。

 

 初霜は、村雨と交代し最後尾へ回った後、ソフトウェアの更新に取り掛かることにした。

 

 金庫のような保管庫から、更新データが入ったスティック型の可搬記録媒体を取り出し、端末に接続する。

 

 アップデートはすぐに完了した。

 

 マスコットアイコンドールの設定画面を多目的モニターに表示すると、確かに【カスタム】という項目が追加されていた。試しに開いてみると、就寝、入浴、食事、操舵、デスクワーク等の基本形の他に、ポーズ、表情、小道具の追加まで細やかに設定できるようになっていた。

 

「ふうん」

 

 興味を惹かれたので、さっそくカスタムに取り掛かることにする。とりあえず待機状態のドール表示からだ。無表情に突っ立っているだけの面白みのない表示が目の前に現れる。

 

「えっと、表情から行こうかしら。どれがいいかな・・・」

 

 笑顔? いや、何でもないときにニヤニヤ笑っているのもバカみたいだ。

 

 かといって無表情のままというのも味気ない。初霜は試しに喜怒哀楽の表情をドールに次々と表示させてみて、しばらくしてようやく、目じりが少々上がったきりりとした表情に決めた。

 

 これなら待機中でも真面目に職務を遂行しているように見える・・・はずだ。

 

「次はポーズね。へえ、小道具に艤装もあるのね」

 

 戦闘配置時に身体感覚に加わる、両腕の主砲や機銃、腰のSSSM発射管、足元の機関や舵が、イメージそのままに再現されていた。

 

「へえ、戦闘配置の時の私って、視覚化するとこんな感じになるんだ。・・・これは面白いわ」

 

 艤装をドールに表示させ、色々とポーズを取らせてみる。それはまるで幼いころの人形遊びのようで、初霜は童心に帰った気がした。

 

 が、両手に銃器じみた艤装を装備しているせいか、それとも初霜の地の性格か、そのポーズはどれも勇ましいものになってしまっていた。

 

 両手を大きく開いて主砲を左右に向けた左右撃ちの構え。両手を胸の前で交差させたクロス撃ちの構え。今度は前後撃ち。

 

「昔、若葉と一緒に観た映画を思い出すわね」

 

 スタイリッシュアクション映画じみたポーズを次々と取らせている内に、初霜は我知らず笑顔になっていた。

 

 両腕をやや開きつつ主砲を前方に構え、同時に両腰のSSSM発射管も前に向ける。全砲門一斉射の構え。

 

「うん、これがいいわ!」

 

『うんうん、確かにいいわね、初霜ちゃん』

 

『おぉ~、かぁっくいい~』

 

「・・・へ?」

 

 気づけば、白雪ドールと村雨ドールがニコニコと笑いながら小さな手でパチパチと拍手をしていた。ちなみに白雪はまだ入浴中のままだ。

 

「え、ふたりとも、なんで?」

 

 初霜がドールをいじっていたことを知っているのか。と思ったとき、自分のドール表示が、他の二人に対しても表示されたままだったことに気が付いた。

 

「あの、二人とも、もしかして・・・ずっと見てました?」

 

 白雪と村雨のドールが、そろってコクンと頷く。

 

 へぇ、ボディランゲージもできるんだぁ。と冷静なフリをして思ってみたが、すでにその顔は真っ赤に染まっていた。

 

『初霜ちゃん』と白雪。『艤装だけじゃなく制服やアクセサリーなんかもカスタムできるみたいだから、今度、可愛いのを作ってあげるわね』

 

『あ、じゃあじゃあ私は女子力アップしちゃうポージングを教えちゃおーっと』

 

「・・・お気遣い感謝します」

 

 直接言及されていないが要するに女の子らしくないと言われ--ついでにカッコいいという微妙な評価というか気遣いを貰ったこともあって--複雑な気分で、初霜はドールに苦笑の表情を浮かべさせたのだった。

 

 

 

 




次回予告

 第十一駆逐隊を送り出した海尾は、司令部で叢雲と二人きりの夜を過ごしていた。

 一見して穏やかな夜に、しかし、彼の前世が不吉な未来を予言する。

 非科学、非合理、非常識、そんな言葉では切り捨てられぬ不安を裏付けるかのように、夜の静寂を破って電話のベルが鳴り響く。

 次回「第十二話・夜更けの電話」

「あんた、せっかくの二人きりの時間なのに、もしかして他のことを考えて上の空だったわけ?」


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第十二話・夜更けの電話

 鎮守府地下にある南方警備艦隊司令部。

 

 その司令執務室で、海尾はぼんやりとした様子でデスクに広げた新聞を眺めていた。

 

 本来ならとっくに官舎に帰ってくつろいでいるはずの時間帯だ--といっても、司令着任以来、業務に追われてロクに帰っていなかった--が、今夜ばかりは残業ではなく、出港中の白雪たちから緊急連絡があったときのために備えているだけである。

 

 しかし、いくら出港しているからといって、非常事態でもない限り、司令が常に司令部に詰めている必要もなかった。

 

 緊急連絡があれば仁淀が通報してくれるし、どうせ官舎は鎮守府のすぐ隣なのだから、短時間で駆け付けることが可能だった。

 

 そもそも、これから艦娘たちがまだまだ増員される予定であり、そうなればローテーションを組んで常に誰かが出港するようになるのだ。その度に司令が司令部に泊まり込んでいては、帰る暇がなくなってしまう。

 

「公私の区別は明確にして、休む時はしっかりと休むことが重要よ」

 

 という小言を、海尾は叢雲から不満顔で言われていた。

 

「せっかく再建業務も一区切りついたっていうのに、自分から仕事増やしてどうするのよ」

 

「俺が司令になってから最初の留守番だからな。念のためさ」

 

「気持ちはわかるけれど、それって部下を信用していないとも取られかねないわよ」

 

「承知しているよ。だから今夜だけだ。何事も無ければ明日は定時で帰宅する。・・・俺の都合で泊まり込むんだ。叢雲はもう上がっても構わないんだぞ?」

 

「遠慮するわ。上司がこんな小心者だって知った以上、独りにしておけないもの」

 

 叢雲は皮肉交じりに軽口をたたき、そして今、執務室のソファに寝そべりながらテレビドラマを観ていた。

 

 夕食はコンビニ弁当、入浴も鎮守府にあるシャワー室で済ませ、すっかりくつろいだ雰囲気の午後九時過ぎ。

 

 叢雲の観ているドラマは面白いと評判の恋愛ものだが、彼女にとっては今夜初めて見るドラマだったので、物語中の登場人物の人間関係がまるで理解できなかった。

 

 それでも他に観たい番組も無かったので惰性で見続けている内に、これが男一人と女二人の三角関係ものだということは理解した。

 

 主人公らしきイケメン俳優が、今の恋人と、昔の恋人との間で右往左往しているようだ。しかもまだ昔の恋人に未練があるのか、あいまいな態度で二人のヒロインに気をもたせ続けている。

 

(なにコイツ、気持ちをはっきりさせなさいよ。イライラするわね)

 

 この主人公を一発ひっぱたいてやりたくなってくる。なんでまたこんな気分になるのかといえば、

 

(・・・似てるわね)

 

 顔以外は。と思いつつ、叢雲は執務デスクへと目を向けた。海尾は相変わらずそこで新聞を眺めている。

 

(別に仕事も残ってないんだし、こっちきて一緒にドラマを観てもいいじゃないの)

 

 こういうドラマは誰かと一緒に他愛のないツッコミを入れつつ観るのが一番楽しいのだ。それにせっかくの二人きりの時間なのに・・・

 

 と、叢雲は内心でため息をつきつつも、海尾に声をかけるのはやめておいた。

 

 艦娘艦隊を率いる司令たち通称“提督”が、ああやって“新聞”を読んでいるときは、たいてい何かが起きる前触れであることを叢雲は経験的に知っていた。

 

 これまでいくつもの艦隊に配属されてきたが、どこの司令部の提督もそうだった。

 

 海軍報道部が発行している面白みのない機関誌を穴が開くほど眺めていたかと思うと、不意に出港や待機命令を下したりする。はっきりとした理由のない出港や待機命令など、部下にしてみれば正直、迷惑極まりないのだが・・・

 

 しかし、そういうときはだいたい深海棲艦による襲撃が起きるのだ(起きないときもあったが)。

 

 これはきっと、あの新聞には深海棲艦の情報が提督にしかわからない暗号で書かれているに違いない。

 

 と一部の艦娘たちのあいだでは噂になっていた。

 

 何故わざわざそんな回りくどい事をする必要があるのかはさっぱり理解できないが、そうでなければ、世の中の提督が皆、この実に面白みのない、堅苦しい内容の、はっきり言ってつまらないものを熱心に読んでいる事の説明がつかない。

 

 と、以前所属していた艦隊で一緒だった重巡艦娘・青葉が力説していたのを、叢雲はぼんやりと思い出しながら海尾の様子を眺めていた。

 

 海尾は、そんな叢雲の視線に気づくことなく新聞に目を落とし続けている。

 

 叢雲がその新聞を読んだときは、じっくり読むほど重要な記事は無かったはずだが、彼が(自分を放っておいて)何をそんなに熱心に読んでいるのか。

 

(もしかして、噂の暗号がそこにあるのかしら?)

 

 と興味を惹かれ、叢雲はソファから立ち上がって、音を立てないように海尾の傍へと寄った。

 

 横からのぞき込んでみると、紙面の内容は海軍各部隊の活動記録のようだった。それも軍事行動に関わるものではなく民間との交流イベントを中心としたものだった。

 

 そこには近日着任予定の軽巡艦娘・那珂の記事もあった。

 

 なんでも異動を前にコンサートが行われたらしい。別れを惜しむファンが大勢詰めかけ盛況だったようだ。

 

(なんだ、これを読んでいたのね)

 

 叢雲は納得すると同時に拍子抜けした。

 

(これじゃ、暗号だなんだと勘ぐっていた私がバカみたいじゃないの)

 

 かすかについた溜息に、海尾が叢雲の存在に気づいて顔をあげた。

 

「ん、どうした?」

 

「別に。熱心に新聞を読んでいたから、ちょっと気になっただけ」

 

「あ、ああ、そうだったのか」

 

 海尾はさっさと新聞をたたみ始める。

 

 叢雲が訊く。

 

「何の記事を読んでいたの?」

 

「何って、そりゃ、あれだ、あれ・・・そうそう、那珂の記事。彼女、こっちへの異動前にコンサートやったらしいな。まるで本物のアイドルのようだ」

 

「本物のアイドルなのよ。何? あんたも那珂のファンになったの?」

 

「どうかな。でも、ファンになるかどうかは別としてもコンサートを観る機会はあるだろうな。広報部がそれ用に別予算をつけてくれるそうだ」

 

「へえ、それは大したものね。・・・でもね」

 

 叢雲は海尾の手元から新聞を取り上げて脇に退けると、彼に寄り添い、顔を近づけた。

 

「ど、どうした?」

 

「どうしたじゃないわよ。せっかくの二人きりの時間なのに、あんたは他の女のことを考えて上の空だったわけ?」

 

 にっこりと笑顔で、しかし目は笑っていないまま迫ってくる叢雲に、海尾は、

 

(しまった。藪蛇だった)

 

 と、安易な誤魔化しを後悔した。かといって正直に、

 

「自分の“前世”世界の情勢が書かれた記事を読んでいた」

 

 と言っても信じてはくれないだろう。なぜなら、奇妙なことだが、その記事は海尾にしか読めないからだ。

 

 自分にしか認識できない現象を他人に認めさせようという無駄な努力をする気は、海尾には無かった。

 

 そんなことをしなくとも“提督はみんなそういう者だ”という共通認識が、提督同士には既にあったからだ。

 

 だから海尾は自分の正気を疑わずに済んでいるし、同時にこの奇妙な現象を危機管理に利用することが出来る訳だが・・・

 

(さて、困ったな)

 

 どうやって叢雲をなだめようかな。と、海尾は内心で悩みつつ、苦笑する。

 

 彼女が本気で怒っている訳ではないのは、わかっている。

 

 単にかまってもらえなかったのが面白くないので、怒ったフリをして自分から距離を詰めているのだから、むしろ可愛いくらいだ。まさにこれぞツンデレ、と言いたくなる。

 

 ならばそれに応えて行動に移してやれば良いわけで、つまるところ海尾の方からも距離を詰めてやれば、あとは済し崩し的に夜の時間にもつれ込んで万事解決である。

 

 が、しかし、

 

 海尾はさっきまで読んでいた記事の内容が気にかかり、今、叢雲を抱くことに躊躇いを感じていた。

 

 

【南西諸島沖で操業中の漁船が、隣国の軍事艦艇に拿捕された疑い。付近を航行中の護衛艦数隻が救出作戦を開始か?】

 

 

 海尾の前世、隣国との領土紛争が勃発しているその世界と、今のこの世界はリンクしている。前世で何か起きれば、それに近い“何か”がこの世界でも起きる可能性が高かった。

 

 しかも先ほど現れたこの記事によると、前世世界では軍事衝突の可能性が高まっているようだ。ならば、こっちでも今夜か明日の内に何かが起きる可能性が高い。

 

 その不安と緊張感が、叢雲に差し伸べようとした手を鈍らせた。

 

 海尾のその様子に、叢雲が気づいた。彼女の表情に一瞬、不安の色が過ぎったのを、海尾は見た。

 

 海尾に拒否された、と彼女は思ってしまったかもしれない。

 

 海尾の不安が叢雲に伝わり、それが合わせ鏡のように二人の間で反射し合って、近づきつつあった二人の距離を止めてしまった。

 

「・・・」

 

「・・・」

 

 わずかな沈黙の後、叢雲が海尾から目をそらし、上体を引こうとした。

 

 海尾は咄嗟に、腕を彼女の腰に回し、引き寄せた。

 

「叢雲」

 

「なによ?」

 

 不機嫌と戸惑いが混ざった彼女の問いかけを塞ぐように、海尾はその唇に口づけをした。

 

「んっ・・・」

 

 叢雲は少しだけ抵抗しようとしたが、すぐに身体の力を抜いて海尾にもたれかかってきた。

 

 叢雲の感触とぬくもりを感じながら、海尾は、余計なことを考えて不安になってもしょうがない、と己の考えを改めた。

 

 平時から不安と緊張に苛まれていては有事の際に身体がもたない。だから、心も身体も休める時にしっかり休もう・・・・

 

 と、いうわけで本格的に叢雲を求めようとした、

 

 その時、

 

 執務室に無粋な電話のベルが鳴り響いた。

 

 いつもより喧しく感じるそのベルの音に、二人の身体がビクッと強張る。

 

「んもうっ!」

 

 叢雲が不機嫌な声を上げながら海尾から離れ、卓上の受話器を取った。

 

「はい、こちら南方警備艦隊司令部! --って仁淀じゃない。何の用?」

 

『あらら、怖い声になってますよ、叢雲さん。私じゃなかったら苦情が来るところです』

 

「はいはい、悪かったわね。っていうかあんた、今の時間は待機モードのはずでしょう?」

 

『ええ、お邪魔かと思いまして。なので今もこうして音声のみです』

 

「余計なお世話よ。早く用件を言いなさい」

 

『海軍総隊司令本部の参謀部作戦課第5室長の海原大佐から、司令宛に電話です』

 

「海原大佐って前司令ね。電話の取次ぎなんか、あんたがやらなくても直接こっちに繋ぎなさいよ。あんたならどこからの通話か分かるんでしょ?」

 

『前司令と分かっていたから、私が出たんです。久しぶりでしたので色々と話し込んじゃいました』

 

 仁淀の嬉しそうな声に、叢雲は呆れてため息をつきながら、海尾に受話器を差し出した。

 

「参謀部作戦課第5室長の海原大佐からです」

 

「海原さん、そんなところに配属になっていたのか」

 

 第5室といえば深海棲艦の情報収集や分析、対策を研究する部署である。それにしてもこんな夜更けに何の用事だろうと思いながら、海尾は受話器を受け取った。

 

「海尾だ。繋いでくれ」

 

『了解しました』

 

 回線が切り替わる。

 

『よう、久々』

 

「どうも。こんな時間にどうしたんです」

 

『こんな時間なのはお互い様だな。仁淀から聞いたが、お前さんもずっと残業続きらしいじゃないか。ちゃんと家には帰っているのか?』

 

「独身ですからね。気に掛ける程のものはありませんよ。むしろ参謀本部勤めの方が大変でしょう」

 

『参謀本部は24時間営業だからな。週末に帰宅できれば良い方さ。おかげで最近、嫁とギクシャクしてきてなぁ』

 

「はぁ、さいですか」

 

『この前、ついに禁断の質問をくらっちまったよ。“私と仕事、どっちが大事デスかー!”ってな。“もちろんお前だ!”と俺は迷わず答えたがな』

 

 だから何だというんだ。と、海尾は思う。

 

 こんな阿保らしい愚痴を聴かせるためにコイツは電話してきたというのか。切るぞこの野郎、と思って受話器を耳から離しかけたところで、

 

『で、本題だが』

 

 と、いきなり話題を変えられて、海尾は慌てて受話器を握りなおした。

 

『確かお前さんのところに、今、初霜っていう駆逐艦娘が配属になっていただろう』

 

「ええ、それが?」

 

『・・・その初霜と因縁が深そうな相手が、そっちの担当海域近くをうろついているって目撃情報があった』

 

「なんですって・・・それは、まさか」

 

 初霜と因縁深い相手と聞いて、海尾は真っ先に例の隣国の人間を思い浮かべた。

 

 しかし、すぐに違うと思いなおす。

 

 第5室という部署の性格と海域をうろついているという言葉から考えれば、答えは一つしかない。

 

「まさか、“人喰い雷巡”ですか」

 

『そうだ。二年前に仕留め損ねたアイツだよ』

 

「しかし人喰い事案は二年前の一度きりだけで、以後は起きてないはずでしょう。同一個体と判明した理由は?」

 

『深海棲艦にも個体差がある。それに加えてアイツは二年前の戦闘で、頭部の仮面に傷を負っているから、個体識別がわかりやすいんだ。ついでに言っとくと、“人喰い”をやっていないだけで、ちょくちょくあちこちの海域によく出没しているだぜ、アイツ』

 

「そうだったんですか」

 

『今日、民間航空機から入った通報だ。通商航路からは大きく外れた海域だったから早期対処の必要は無いが、お前さんのところに初霜がいるってことを思い出して、それで一応な』

 

「お気遣いは有難いですが、初霜との因縁は、そこまで気にする程のものですかね?」

 

 深海棲艦が特定の個人を狙うという話は、今のところ聞いたことが無かった。そもそも深海棲艦に人間個人の区別がつくのかどうかさえ分かっていない。

 

 だが、海原は、

 

『それがな、アイツばかりは特別なんだ。他の深海棲艦とは違った行動パターンが多いというか、人を喰ったのもそうだが、別の意味でも人を食ったような真似をしやがる』

 

「その食ったというのは、小ばかにしているとか、そういう意味の?」

 

『そうだ。例えば、民間船を襲うわけでもなくずっと後を尾けていったり、戦闘で反撃するわけでもなく、ただひたすらこちらの攻撃を避け続けたり。通商航路からはるかに離れた海域で、何もせずに突っ立っているところなんかも航空機に何度も目撃されている』

 

「また妙なやつですね」

 

 まあ、人喰いの時点で奇妙な深海棲艦だとは思っていたが、海尾の思う以上だったらしい。

 

 しかし海原は、真剣な声でこう言った。

 

『妙なだけならいい。だが同時に恐ろしい奴でもある』

 

「恐ろしい?」

 

『さっき少し言っただろう。戦闘で反撃するわけでもなく、ただひたすらこちらの攻撃を避け続けたりってな。この攻撃ってのは、戦艦、重巡、空母を含んだ艦隊によるものなんだぜ』

 

「・・・げ」

 

『小ばかにしてるってのは、まさにこれさ。アイツはこの二年、何度も現れているが、未だに沈めることが出来ない。しかもアイツは反撃ひとつせずに、こちらを試すかのように、悠々と攻撃をかわして、消えていく。・・・アイツに傷を負わせられたのは、これまでたった一度だけだ』

 

「ただ一度・・・二年前の戦闘で負わせた仮面の傷ですか。じゃあ、まさか、それをやったのは」

 

『そう。初霜、だ。アイツに傷をつけたのは彼女だけだ。いや、それどころかまともな交戦をした唯一の艦艇だろう。・・・こいつはまだ仮説だが、アイツはこの二年間、初霜を探していたんじゃないかと、俺は考えている』

 

「自分を傷つけた相手を探すために、あちらこちらの海域に出没し、反撃もせずにこちらの艦艇を観察していた?」

 

『あくまで仮説だ。だが実際に初霜と接近しそうな事態でもある。お前さんも用心に越したことはないだろう』

 

「そうですね。その通りだ。正直、私も今夜はどうにも気にかかることがあったから司令部に泊まり込んでいたんですよ」

 

『それはもしかして新聞記事か。お前さんの前世世界でも何か動きがあったんだな』

 

「敵対する隣国の海軍が、我が国の漁船を拿捕。その救助のため軍艦が現場海域へ急行中、だそうです」

 

 海尾がそう言うと、傍らにいた叢雲が驚きの表情を見せた。海尾は咄嗟に受話器口を手で塞ぎ、叢雲に向かって、

 

「昨日読んだ小説の話題だよ、気にするな」

 

 その下手な言い訳に叢雲はさらに怪訝な表情になったが、とりあえず口を挟むつもりは無さそうだったので、海尾は受話器口から手を放した。

 

『なるほど。ずいぶんと緊迫しているようじゃないか、そっちの“小説”は』

 

 海原は見透かしたように笑った。

 

「では、海原さんの小説はどんな具合ですか?」

 

『俺のところか。評議会を裏で操っていた賢人会議の存在が明らかになった事で元老院が地方自治体連合との協定を破棄した結果、両者間で結ばれていた停戦合意の履行が怪しくなったために情報軍隷下偵察艦隊に監視任務が命じられたってところだ』

 

「・・・うん、そうか、わからん」

 

『まあ、わからんのは仕方ない。俺の前世は、俺のものでしかないからな。お前さんの前世とは違う。重要なのは、それが何を示しているか、だ』

 

「何を示しているんです?」

 

『近いうちにドンパチが起きる。そっちでな』

 

「用心しておきますよ」

 

『それがいい。だが四六時中、気を張り続けてたら身体がもたないぞ。提督たるもの悠然と構えて嫁艦とイチャコラしているもんだ』

 

 言われるまでもない。ていうかあんたが邪魔したんだよ。と喉元まで出かけた言葉を飲み込んで、

 

「了解です」

 

 とだけ答えて、海尾は受話器を戻した。

 

 すぐに叢雲が「何の話だったの」と訊いてきた。

 

「うちの近海に深海棲艦の目撃情報があったらしい。二年前の人喰い雷巡だ」

 

「ふうん、それでウチに初霜がいることもあって通報してくれたってわけね」

 

「そうだ」

 

「で、何でそれから急に小説の話題になんかなった訳?」

 

「脈絡なく話題を変える人なんだよ、海原大佐は」

 

「変人なのね」

 

「ああ、変人だな」

 

 色々と誤魔化してはいるが、変人という部分は間違ってはいないだろう。と、海尾は思う。

 

 まあ、それはそれとして。

 

「叢雲。確か、球磨と那珂はもう前任地を出港しているんだったよな」

 

「ええ、彼女たちも哨戒と訓練を行いながらこっちへ向かっているわ。十一駆との合同は明後日の予定よ」

 

「ふむん」海尾は思案顔になり、そして言った。「予定を変更しよう。球磨と那珂の訓練は中止。哨戒しつつ早めに十一駆と合同させる」

 

「人喰い雷巡を掃討させるの?」

 

「いや、まだ管轄海域外だから、あくまで備えるだけだ。なかなか手強そうな相手らしいからな、念を入れておくに越したことはない」

 

「そうね、でも球磨たちの訓練を全部中止させる必要は無いわ。十一駆と球磨那珂は合同後、UHF到達範囲の半径10海里圏内でそれぞれ訓練させましょう」

 

「それが良いな。よし、じゃあ早速だが取り掛かるとするか」

 

「訓練予定と航海計画の変更に、その通報ね」

 

「結局、時間外労働をさせてしまうな。すまない」

 

「こればっかりは仕方ないわよ。--仁淀も手伝って」

 

『はい、了解しました』

 

 その声と共に、待ち構えていたように仁淀も姿を現した。

 

 叢雲と仁淀が仕事に取り掛かるのを眺めながら、海尾は再び、デスク上の新聞紙に目を落とした。

 

 取り越し苦労であれば良い。と、海尾は自分にしか見えない記事を読みながら思った。

 

 だがしかし、こういう時の希望的観測というのは往々にして外れるものだということを、彼は直感的に悟っていた・・・

 

 

 

 

 




次回予告

 宮古島から南へ100海里。

 例の漁船がその海域に到着したのは、すでに夜も遅い時間だった。

 海に生きる者、海に理想を抱く者、そして海に復讐を誓う者。

 三人の男たちの想いが、波間に揺られながら交錯する。

次回「第十三話・覚悟」

「俺は初霜に屈辱を与える」

「わかっている。それでも、お前があの娘と逢えば・・・そうすれば、お前も少しは救われるような気がするんだ」


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第十三話・覚悟

 宮古島から南へ100海里。

 

 例の漁船がその海域に到着したのは、すでに夜も遅い時間だった。

 

 ここに来させた張本人である“彼”は、漁船を停止させ、それきり波間に漂わせた。

 

 漁師が、

 

「ここに何がある?」

 

 と聞くと、彼は、

 

「何もない。ここで待つだけだ」

 

 そう答えて、あとは何を聞かれても答えようとはしなかった。

 

 その日は月のない夜だった。

 

 満天に拡がる星空の下、波も穏やかとは言え、20トンにも満たない漁船はそれなりに揺れる。

 

 船に不慣れな人間にとって、この揺れは地獄そのものだった。

 

 世話役の男は既に何度目になるかもわからぬ嘔吐感に襲われ、這うようにして顔を船べりから外に突き出した。

 

 時刻は既に真夜中に近い。漁船の航海灯がわずかに辺りを照らし、船べりからのぞき込んだ海面に世話役自身の黒い影が映り込んでいた。

 

 そこにわずかな胃液が滴り落ちていく。もう胃袋の中身は全て吐き切ってしまっていた。むかむかする胸を押さえながら船べりにもたれかかる世話役の前に、漁師が水の入ったペットボトルを差し出した。

 

「飲め」

 

「・・・無理だよ」

 

 世話役は力なく項垂れた。喉や胃が、何かを飲み下すために存在しているとは信じられない気分だった。

 

「バカめ。吐くものが無いからいつまでも気分が悪いんだ。いいから飲め。飲んで吐き続けろ」

 

 漁師にペットボトルを押し付けられ、世話役はひと口だけ水を口に含んだ。胸部にひろがる不快感をこらえながら、口の中の水を無理やり飲み込む。

 

 二口、三口と続けて飲んだところで喉がしまり、続いて強い圧力がみぞおちから胸部にかけて逆流して、世話役は再び海に向かって飲んだ水を全て吐きだした。

 

「はぁ・・・はぁ・・・」

 

「どうだ」

 

「少し・・・楽になった気がする。本当に少しだけど」

 

「落ち着いてきたなら、食え」

 

 漁師はそう言って、紙皿に山盛りにされた刺身を差し出した。この海域に着いてから漁師が釣った魚だった。

 

 世話役はしばしその刺身をうろんな目つきで眺めていたが、やがて力ない手つきで割り箸を取り、数切れを口に運んだ。

 

 漁師は、世話役が食べ始めたのを認めると、もう一人の乗客である“彼”に目を向けた。

 

「あんたも何も食べてないだろう。食え」

 

 漁師は彼に向かって別の皿を差し出したが、彼は無言で首を横に振った。

 

 世話役が言った。

 

「無駄だよ。彼は野菜しか食べない」

 

「ベジなんとか、って奴か。気取った男だな」

 

「気取っている訳じゃないよ。ちゃんと理由がある。・・・深海棲艦に家族を喰い殺されたんだ。以来、肉類が嫌いになったらしい。肉を食べる者は深海棲艦に見えるとか」

 

「そいつは、魚でもか」

 

「海のものはなおさら嫌いだそうだ」

 

「そうか・・・しかし家族を喰われた、か。それはもしかして、あれか。人喰い雷巡って事件のことだな」

 

「そうだよ」

 

「だったら、なんでこいつは艦娘を恨んでいるんだ? 関係ないだろう」

 

「見殺しにしたんだよ。その艦娘、初霜が、目の前で人が喰い殺されているのにも関わらず、たった数人だけを船に乗せて、逃げ帰ったんだ」

 

「・・・」

 

「しかも助けた数人というのが、密航船の船員たちだけだったんだ。犯罪者だよ。艦娘が臆病だったせいで犯罪者だけが生き延び、大勢の善良な市民が見ごろしにされたんだ。まったく、ひどい話だと思わないか。これはもう人災だよ。いや、犯罪だ。あの艦娘は法的責任を負うべきだったんだ」

 

 世話役はさっきまで船酔いに苦しんでいたのが噓のように、批判を始めた。

 

「艦娘は起訴されるべきだった。あの当時の世論も盛り上がっていたし、この国に遺族が居たなら--彼が二年前に居てくれたなら、間違いなく起訴できたんだ。まあ勝ち目は薄いけれど、反対運動はもっと活発になっていたはずだよ。戦争反対!」

 

 こぶしを握り締めて力説する世話役に、漁師は顔をしかめた。

 

「戦争だ? 何を言っているんだ、お前は」

 

「もちろん戦争と平和についてだよ。この国は無意味な戦争をずっと続けていると思わないか? この三十年、深海棲艦は沈めても沈めても出現し続けて、消える気配が一向に無い。しかも三十年も戦っているのに、深海棲艦のことはほとんど分かっていない。何故、襲ってくる? 何が目的だ? 誰が命令を下している? 何で人間そっくりなんだ? どんな生態なんだ? そもそもあれは生き物なのか?」

 

「そんなこと知るか」

 

「そうだよ、誰も知らない。何もわからないまま三十年も経ってしまって、今じゃみんなすっかり無関心だ。そんな状態で、これからもずっと戦い続けるなんて馬鹿げているよ。なのに戦争を続けているのは、これはもう世の中がそういう仕組みになってしまったからなんだ。いいかい、よく聞いてくれ。僕が思うに世の中がこうなってしまった原因は--」

 

 熱弁を振るう世話役に、漁師はだんだん嫌気が差してきた。

 

 漁師は単に、彼が肉や魚を食べない理由を知りたかっただけだ。艦娘の法的責任や、深海棲艦の正体などは別にどうでもよかった。

 

 しかし世話役は漁師のそんな様子に気づくことなく、持論を展開し始めた。

 

「世の中を戦争依存体質にしてしまったのは、軍部の陰謀だよ。そしてその裏には軍事産業で利益を稼ぐ企業がいる。彼らこそ戦争屋さ。戦争で経済を回しているんだ。通商航路を深海棲艦から守るために戦っているなんて出鱈目もいいところさ。通商航路なんてもの、本当なら守る必要なんて無いんだ。だって三十年前に深海棲艦が出現したばかりの頃は、大陸との通商しか残らなかったけれど、それでも十分だったんだよ。確かに隣国からは色々と見返りを要求されたけどさ、国民のことを思えばそれくらい安いものじゃないか。それなのに国の面子なんて安いプライドと偏狭なナショナリズムに煽られて、隣国との関係を悪化させて、あげくバカみたいに長大な海上通商航路に拘るなんて、不合理過ぎると思わないか、なあ?」

 

 馴れ馴れしく同意を求められ、漁師はさらに嫌気が増した。

 

「知った事か」

 

 とすげなく答えて言外に拒絶の意を示したが、世話役には伝わらなかったようだ。

 

「その態度が戦争を長引かせるんだ」と世話役は上から見下すような態度で言った。「そもそも君たち漁民だって被害者じゃないか。海軍が通商航路防衛を優先して、漁民保護を後回しにしているのを知らないのか。もし大陸との通商航路だけを防衛するのなら、今みたいな大艦隊は必要ない。戦線を縮小して、余った戦力でもっと手厚い漁民保護が可能になるんだぞ。だから、君たちももっと僕たちと共に声を上げるべき--」

 

 漁師は我慢の限界に達した。

 

「やかましいぞ、お前」

 

 漁師は世話役の胸ぐらを掴み、そのまま引き立たせた。

 

「うわっ、な、何をするんだ!?」

 

「ごちゃごちゃとやかましいと言ったんだ。お前の主義主張なんてどうでもいいんだよ」

 

「どうでもよくはないだろう。深海棲艦の脅威に晒されているのは、君たちだ」

 

「脅威だ? 笑わせるな」

 

 漁師は嘲笑し、世話役を船べりへと引き倒した。漁師に掴まれたまま、世話役の上半身が船の外へと突き出される。

 

「うわぁ!?」

 

 不安定な姿勢で海面すれすれまで顔面を押し下げられ、世話役は悲鳴を上げた。漁船が揺れ、海水のしぶきが顔にかかる。

 

「怖いか。え? 怖いだろう。俺が手を離せば、お前は海に頭から落ちるんだ。今の時期の海は冷たいぞ。何分持つかな」

 

「やめろ、やめてくれ!?」

 

「ほら、目の前の海をよく見ろ。何が見える」

 

 世話役の視界にあったのは、闇だった。真っ暗だ。底の知れない暗闇が眼前に迫っていた。

 

 ついさっきも船べりからのぞき込んで何度も嘔吐していたのに、今、こうして落ちそうになりながら見た海は全くの別物だった。

 

 海面までは1メートルほどの高さもないのに、世話役はまるで高層ビルの屋上から身を乗り出しているような恐怖感に襲われていた。

 

 目の前の海はそれほど暗く、底が知れず、飲み込まれそうだった。

 

「そいつはただの海水だ」と漁師が言った。「だがここで落ちりゃ、それだけでお前は死ぬ。それはお前が泳げないからだとか、そういう理由からじゃない。俺だって落ちれば死ぬだろう。服は水を吸って重くなり身体にまとわりついて自由を奪う。さらに冷たい水が熱と体力を奪い、浮かんでいる事さえ難しくなる。そして何も見えない闇、日が昇ったとしても果ての無い水平線が、精神をぶっ壊す。船から落ちるっていうのは、そんな環境に放り出されるってことだ」

 

 漁師は世話役を引き揚げ、解放した。世話役は荒く息を吐きながら、再び座り込んだ。

 

「脅威は、海そのものだ」と漁師は言った。「深海棲艦なんてものは、脅威のほんの一部でしかない。あれよりはるかに小さい1メートル程度のサメだって簡単に人を喰い殺す。ダツっていう漁火に向かって海から槍みたいに突っ込んでくる魚がいるが、こいつに刺し殺された奴もいる。今夜みたいに穏やかな日に、いきなり突風が吹いて船がひっくり返されることだってある。漁師にとっちゃ、そんなことは日常茶飯事だ」

 

 漁師の言葉を、世話役は青ざめたまま黙って聞いていた。あの彼も、無表情のまま視線を漁師に向けていた。

 

「俺たちはそんな海で生きてきたんだ。海軍なんか最初からアテにしてねえよ。コイツを見な」

 

 漁師は操舵室の脇から延びるアンテナを指さした。

 

「コイツは救難信号の発信機だ。外洋に出る船ならみんな搭載している。法律でそう決まっているんだ。命の危険がある時にスイッチを入れろってな」

 

 だがな、と漁師はにやりと笑った。

 

「コイツのスイッチを入れたところで、誰も助けには来ない。なぜなら深海棲艦もこの救難信号を受信できるから、逆に奴らを呼び寄せる羽目になるからだ。助けに来ないのも当たり前だ。誰が自ら望んで深海棲艦が待ち受ける場所に行くというんだ。救難信号なんて笑わせる。こいつの本当の目的は囮装置さ。けどな、そうと分かっていても、俺たちは深海棲艦に襲われたとき、こいつのスイッチを入れるんだ。何故だか分かるか?」

 

「それは、やっぱり誰かが助けに来てくれるかもしれないからだろ?」

 

「バカめ、違う。助けに来させないためだ。こいつのスイッチを入れる時は、死ぬと決まった時だ。囮となって深海棲艦を引き寄せて、他の漁船が逃げる時間を稼ぐためだ。それが俺たちのやり方で、その覚悟がある者だけが海に出ることを許される。いや、海に出た以上、誰であれその覚悟を強いられるんだ。つまり俺だけじゃない。お前も、そしてお前もだ」

 

 漁師は、世話役と、そして彼を交互に指差した。世話役の顔がさらに青ざめ引きつる一方で、彼は無表情のままだった。

 

 言葉が通じていないからだ。漁師もそれは理解していたので、彼の態度は無視して、世話役に向かって言葉を続けた。

 

「お前、この戦争は無意味だと言ったな。俺はそうは思わない。別に海軍に肩入れするつもりは無いが、人間はこの海で戦う必要があると俺は思っている。深海棲艦と戦い続けなきゃ駄目なんだ。戦うことをやめてしまえば、俺たちは海を失う」

 

「で、でも、それなら漁場を守るだけでも十分じゃないのか?」

 

「漁場ってのがどれだけ広いか知っているのか。全てだ。この海全てが漁場だ。お前が毎日食っている魚だって、地球の反対側で獲れたものだぞ。陸地はバラバラに別たれているが、海はたった一つだ。どこか一部を手に入れて終わりという訳にはいかない。全てを手に入れるまで終わることのできない戦いだ」

 

「そんなの無茶だ。できっこない」

 

「だが、負けたら終わりなんだよ。だから戦い続ける。俺たちは命を懸けて漁を続ける。それが俺たち漁師の戦い方なんだ」

 

「・・・・・・」

 

 語り終えた漁師に、世話役は返す言葉もないまま押し黙った。

 

 いや、本当は反論しようと思えばいくらでも言葉を返せたのだが、それらは全て理屈であり、漁師はそれを決して受け入れはしないと分かっていた。

 

 結局のところ、漁師の世話役に対する反発は理屈ではなく感情の問題なのだ。

 

 そんな理屈の通じない人間をむやみに説き伏せようとしても、どうせまた怒らせてるだけだし、今度こそ海に突き落とされかねない。

 

 そんなのは御免だ、と引き下がった世話役の態度に、漁師も満足したのかその場に腰を下ろした。

 

 しばし船上に静寂が流れた。

 

 だが、不意に、彼が声を発した。

 

「哎」

 

 エイ、というような発音と共に彼の視線が漁師に向けられていたことで、それで漁師は、彼が自分に向けて呼び掛けたのだと理解した。

 

「なんだ?」

 

 漁師の返事に、彼が隣国の言葉で何かを言った。世話役がそれを通訳する。

 

「あなたが怒っていた理由を知りたいそうだ」

 

「そんなの今更だ。お前が説明してやればいいじゃないか」

 

「う、うん。・・・わかった」

 

「おう、ちょっと待て。先に何て伝えるのか俺に説明しろ。勝手なことを言って俺を悪者にするなよ」

 

「わかってるよ。つまりあなたは、僕が理屈でものを言うのが気に入らなかったんだ。僕は海を何も知らないから」

 

「ん、まあ、そうだな。そういうことだ」

 

「じゃあ、そう伝えるよ」

 

 まったく、と世話役は内心でため息を吐く。やたら長々と説教をされたが、要約するとこの程度のことなのだ。

 

 だったら初めからはっきりとそう言えばいいじゃないか。と世話役は徒労感を覚えながら今の言葉を彼に伝えた。

 

 それを聞いた彼は、無表情のまま続けて、こう質問した。

 

「そこのアンテナは何だ?」

 

「救難信号の発信機だそうだ。でもこれを使うのは囮になる時らしい」

 

「そうか、囮か」

 

 このとき初めて、彼は表情を変え、冷笑を浮かべた。

 

 彼と世話役のやりとりに、漁師が声を上げた。

 

「おいおい、変なことを言ってないだろうな」

 

「救難信号の発信機について訊かれただけだよ。囮として使うと説明した」

 

 そこに彼が口を開く。

 

「囮になった者の、残された家族はどうなる?」

 

 それは彼から漁師への問いかけだった。

 

 世話役がそれを通訳し、漁師は答えた。

 

「残された家族は村で面倒を見る。漁業組合でそう決まっているんだ。俺も親父が海で死んで、漁師として一人前になるまで村が支えてくれた」

 

 通訳されたその言葉に、彼は冷笑をうかべたまま、

 

「なら安心だな」

 

 と頷いた。

 

「安心なものか」漁師は言った。「家族を残して逝くのは怖い。親の居ない寂しさ、心細さ、将来の不安は、俺自身が一番よくわかっている。だからこそ嫁や子供たちにはそんな思いはさせたくない。俺は、海に出る時は必ず生きて帰ると決めている」

 

「だが、お前は囮になると言ったぞ」

 

「生きて帰りたいのは皆同じだ。誰だって帰りを待つ家族がいる。だから、いざその時になったとき、誰かが囮になって他が助かるなら、それが俺だったとしたら、やるしかないだろう」

 

「理解できんな。所詮、他人の家族だろう」

 

「他人じゃない。皆同じ、海に生きる家族だ」

 

「同じ一族という意味か。それなら理解できる」彼は頷く。「では、一族を皆殺しにされたなら、残されたお前はどう生きる?」

 

 通訳されたその言葉に、漁師は黙って考え込んだ。

 

 これはきっと、この彼自身の境遇なのだと漁師は悟っていた。そして漁師の答えはもちろん決まっていた。

 

 復讐だ。

 

 相手が深海棲艦だろうが、海そのものだろうが、自分が死ぬまで足掻き、抵抗することを選ぶだろう。

 

 この海に比べたら小さな存在だと理解していても、それでも自分や、家族や、人間が、無意味で無価値な存在では無いのだと思い知らせてやりたかった。

 

 ・・・もしかしたら、この男もそうなのだろうか。と、漁師は彼を見返しながら思った。

 

 漁師は言った。

 

「俺は、お前の復讐に付き合って死ぬつもりは無い。金は受け取ったが、家族に渡すまで死ねる訳がない。それにあれは前金の一部だ。生きて帰って後金も払ってもらうぜ」

 

「わかっている。しかしそれは今ここで払おう」

 

 彼は例の袋から、また新たな札束を取り出し、漁師の前に置いた。

 

「どういうつもりだ?」

 

「深い意味は無い。どのみちここで払うつもりだった。お前たちをこれ以上、巻き込むつもりはない。夜明け近くになったら、俺はここで海に入る。お前たちは港へ帰るがいい」

 

 彼の言葉に、世話役が目をむいた。通訳された漁師も、思わず声を上げた。

 

「何をするつもりなんだ、お前は!?」

 

「復讐」

 

「艦娘に対してか? それは敵が違うだろ。お前の本当の敵は深海棲艦であるべきだ」

 

「そうだ」彼は頷く。「艦娘を殺すつもりはない。しかし屈辱は味わわせる。俺は、妻や子供たちと同じ船に乗れなかった。違う密航船に乗せられたが、機関トラブルで出港できず、俺は何もできないまま家族を喰い殺された。この無力感を初霜にも味わわせてやる」

 

 彼は言いながら、袋から新たなものを取り出した。袋の大きさから、金以外に入っていたものはそれで最後のようだった。

 

 それは一見すると金属製のトランクケースだった。相当の重量があるのだろう、床に置くと舟板がミシリと軋んだ。

 

 彼は言った。

 

「初霜の目の前で、俺は命を懸けて深海棲艦を倒す。これはそのための武器だ」

 

「そ、それって、まさか!?」

 

 世話役が驚愕の声を上げ、トランクケースから後ずさる。

 

 その様子に、漁師が訊く。

 

「おい、これが何か、知っているのか?」

 

「こ、これは僕が昔務めていた研究所で使用されていた保管容器だよ」

 

「へえ。お前、学者だったのか。道理で理屈ばっかり言う訳だ。で、何の研究をしていたんだ?」

 

「放射線だ」

 

「は? 放射線って、あれか、身体にヤバい奴か?」

 

「そうだよ。そして放射性物質を保管する容器として、これと同じものを使っていたんだ!」

 

「じゃ、じゃあまさか、そいつの中身は・・・」

 

 二人の狼狽した様子に、彼は落ち着き払った態度で頷いた。

 

「スポンサーが金と一緒に用意してくれたものだ。中身はウチの国のことだ、管理の杜撰な原発はそこら中にあるから用意するのに苦労はしないだろう。だがケースについては半信半疑だった。・・・が、どうやらこの国でも使われているものらしいな。なら放射能が漏れる心配もないだろう」

 

「た、確かにそうだけど」と、世話役。「でも、その大きさで、その重さなら、中身は尋常な量じゃない。放射性物質の種類によっては致死量レベルの放射線を浴びる危険だってある!」

 

「スポンサーが言うには、即死する程じゃないらしい。だがこいつを深海棲艦の体内で開放してやれば、100メートルサイズの生物でも内部被ばくを起こし死に至る。もし深海棲艦が生物じゃなくとも、電子回路は間違いなく破壊される」

 

「だからといって、ここで開けるなよ。間違っても開けないでくれよ。お願いだから」

 

「開けるのは深海棲艦の腹の中だ。俺はこいつを持って、初霜の目の前で深海棲艦の腹の中へと飛び込むのだ。・・・初霜は俺を助けられず、深海棲艦も俺に倒されることによって軍人としての面子を失うだろう。この国の海軍もだ。それがスポンサーの狙いだが、正直、俺にはどうでもいい。たまたまスポンサーと俺の思惑が一致しただけだ。これは、俺の復讐だ」

 

「・・・・・」

 

「・・・・・・」

 

 彼の言葉の後、船上にはしばし沈黙が流れた。

 

 世話役は彼の狂気を恐れた戸惑いの沈黙だったが、漁師は彼を狂っているとは思わなかった。

 

 漁師は、彼の半生を知らない。しかし彼の絶望と、それに対して命を懸けて抗う意地は理解できた。

 

 かといって一緒になって深海棲艦と戦うつもりは無いが、しかしせめて、何か手伝ってやりたいという気持ちが湧き上がってきたのを、漁師は自覚していた。

 

 しばらくの沈黙の後、彼がまた口を開いた。

 

「その囮装置、取り外せるのか」

 

 世話役から通訳され、漁師は頷いた。

 

「取り外しても使える。防水使用で、浮きもついているから海中でも使える」

 

 漁師は答え、そして少し考えてから、こう付け加えた。

 

「艦娘が・・・初霜が近くにいるなら、救難信号を捉えて、きっと来るだろう。あの艦娘はそういう性格のような気がする」

 

「お前は、初霜と知り合いなのか」

 

「俺が転覆して海に投げ出されたとき、あの娘は自分の身ひとつで海に飛び込んで助けてくれた」

 

「恩人か。だが、俺は初霜に屈辱を与える」

 

「わかっている。それに手を貸している負い目は感じている。それでも、お前はあの娘と逢えば良いと思った。そうすれば、お前も少しは救われるような気がするんだ」

 

「初霜が泣いて許しを乞うても、俺は許す気はない」

 

「そういう意味じゃない。そうじゃなくて、その、あれだ。・・・畜生、うまく言えねえな」

 

 漁師は悪態をつきながら立ち上がり、操舵席から救難信号発信機を取り外し始めた。

 

 装置は十数センチメートル四方の箱であり、電源内臓式、アンテナがそこから直接伸びている。脇には短い策が伸び、そこに浮きがついていた。

 

「操作方法は横のカバーを開いてスイッチを押すだけだ。・・・それと救命胴衣だ。こいつも持っていけ」

 

 漁師は装置を、漁船に備え付けてあるオレンジ色の救命胴衣と一緒に手渡した。

 

「謝謝(ありがとう)」

 

「礼はいい。もらった金の分のことをしているだけだ」

 

 強張った表情でそう言った漁師に、彼は無表情のまま頷いた。

 

 そして、時間は、夜明けに向けて刻々と進んでいった・・・

 

 

 

 

 




次回予告

 人喰い雷巡

 被害者

 復讐

 二年前のあの日に起きた悪夢が、今、再びこの暗闇の向こうに蘇り、初霜を待ち受ける。

 あの日以来、常に彼女を苛んできた罪悪感。

(私は、復讐される・・・。私は、罪を償える・・・)

 暗い欲望が、彼女の心を曇らせる。

次回「第十四話・霧中の敵」

「初霜、あいつを救ってやってくれ!」


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第十四話・霧中の敵

 夜明けまであと二時間程度にまで迫った頃、漁師たちが漂泊する海域の周辺に、無数の漁火が見え始めた。

 

 どうやら魚群を追って漁船も集団で移動しているらしい。その数はかなり多いらしく、水平線の向こう側が、大量の集魚灯の光によって青白く染まっていた。

 

「あの光」と世話役が言った。「あんなに煌々と照らして、深海棲艦を呼び寄せないのかな?」

 

 その問いに、漁師が答えた。

 

「来るときは来るし、来ないときは来ない。アイツらにとって光はあまり関係がないらしい」

 

「へえ、そうなんだ」

 

「来た」

 

 不意に呟いたのは、彼だった。

 

 世話役はてっきり深海棲艦が来たのかと勘違いして肩を震わせた。

 

 彼はそんな世話役を無表情に眺めながら、持っていた携帯端末を示して見せた。

 

 そのディスプレイ上にはメール画面が開かれ、そこに隣国の言葉で文章が書かれている。

 

「初霜が来たという情報が入った。あの漁船の群れの向こう側に居るらしい」

 

「どうしてそんなことが分かったんだ?」

 

「あの漁船群の中にウチの国の漁船も紛れ込んでいる。それが航行中の軍艦三隻を発見した。接近して形も確認したそうだ。初春型というのか、とにかく初霜に間違いないらしい」

 

 彼は立ち上がり、海から引き揚げた袋とは別の、自分で持ち込んだ手荷物の中からウエットスーツを取り出した。

 

 船上で着替え始めた彼に、漁師が問う。

 

「もう行くのか。夜明けにはまだ早いぞ」

 

「世話になった」彼が、世話役を介して言った。「俺は海に入ってから三十分後に救難信号のスイッチを入れる。確かこの船は10ノット程度しか出ないのだったな。三十分なら5海里程度か。まあ、それぐらい離れれば巻き込まれることはないだろう」

 

 彼はウエットスーツに着替え終えると、その上に漁師からもらった救命胴衣を着け、ケースを手に取った。

 

 ケースにも浮きが付いており、彼はどこからか手錠を取り出すと、それをケースの取っ手と、それを握る自分の手の手首にかけて繋ぎ留めた。そして空いた手で救難信号発信機を小脇に抱え、船べりに足をかけた。

 

 そんな彼に、漁師が「なあ」と声をかける。

 

「サイチェン・・・別れの言葉はこれで合ってたか?」

 

 世話役は頷いたが、彼は首を横に振った。

 

「再見(サイチェン)は読んで字の如く“再び相見える”という意味だ。別れの言葉ならこの国の言葉の方が相応しい」

 

 さよなら。

 

 彼はそう言い残して、海へと飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 第十一駆逐隊は、初霜を先頭に単縦陣を組み、漁船群を左方向に見ながら航行していた。

 

 レーダー上、5海里(10000ヤード)程の距離にざっと百数十隻にも及ぶ漁船が集まり、漁を行っていた。

 

 航行中の大型船にとって漁船は気の抜けない相手だった。

 

 定められた航路を航行する民間大型船とは違い、漁船は海中の獲物を求めて移動するので、行動が読みづらいのだ。

 

 さらに、漁に夢中になるあまり大型船の針路上に入ってしまうこともしばしばだった。

 

 大型船は小型船に比べ運動能力が劣るため、漁船などが近づいてきた場合、それを避けることが難しい。そのため、漁船には出来るだけ近づきたくないのが本音だった。

 

 だが、初霜たちの今の任務は海域哨戒だった。担当海域に脅威があった場合、速やかにこれを排除し、民間船舶の安全を確保することである。

 

 そして、その守る対象には当然ながら漁船も含まれていた。

 

 しかし予定通りの航路を航行する大型船に比べ、獲物を追って広い海域を不定期に移動する漁船は非常に守りづらい対象だ。初霜は漁船群全体の動静をレーダーで把握できる距離を保ちながらも、近づき過ぎない距離を維持しながら航行していた。

 

 レーダー上、漁船のほとんどは停止しているか、短い距離を移動しながら漁を行っていたが、時折、数隻ほどが群れを離れて大きく移動していた。

 

 恐らくは漁を終えて港へ帰っていく漁船なのだろうが、全てがそうとは限らなかった。

 

 初霜たちが航行している方角は、漁船群に対して港のある島とは反対側に位置していたが、三十分ほど前に、十一駆の方へと向かってきた一隻の漁船と遭遇していた。

 

 その漁船は全長30メートルほどのトロール漁船で、左方向から十一駆の針路上を横切るように接近してきた。

 

 先頭で哨戒当直に当たっていた初霜は、かつての事件を思い起こさせるその漁船の動きに警戒感をあらわにし、すぐに探照灯を向けた。

 

 強力なサーチライトの光に照らし上げられたその漁船は、すぐに針路を変更して遠ざかって行ったが、その時、甲板上に居た数人の男たちが慌てたように船内へと駆け戻っていった様子が見えたのが、気にかかった。

 

 探照灯で照らした時、その男たちは双眼鏡を手に初霜の方を見ていた。

 

 いや、双眼鏡にしては妙に大きく、厳めしい外見の装置に見えた。それはまるで・・・

 

(・・・まさか、暗視装置?)

 

 もしも暗視装置だとすれば、あれは漁船ではなく偽装工作船の可能性が高い。

 

 しかし、

 

(・・・肉眼では、はっきりと見えなかった。今更だけど、こちらも暗視カメラで確認しておくべきだったわね)

 

 初霜自身、確証は持てなかったので、旗艦である白雪や司令部への報告は控えることにした。

 

 しかし念のため航海記録に漁船接近の時刻と緯度経度を記録しておく。深海棲艦が跳梁跋扈するこの時代においても、工作船のような国家間牽制のための駒が活動を続けているのが現実だった。

 

 初霜は、レーダーやセンサー、外部カメラを使って全周警戒を続けながら、自分自身は漁船群とは反対方向の右ウィングへと出た。

 

 漁火の無いその方向には満天の星空と、暗い海が広がっていた。

 

 波もうねりもほとんどない穏やかな海面を、船体が波を立てながら航行する。その波の刺激に海中の夜光虫が反応し、船体の航跡を青白く染め上げていた。

 

 初霜はそんな景色を眺めながら静かに深呼吸を行い、湿り気を帯びた夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 そして、ある事実に彼女は気づく。

 

(海水は冷たいままなのに空気が温かい。・・・このままじゃ、きっと朝には霧になるわ)

 

 海上の霧は、空気と海水の温度差が大きくなることによって発生する。特に晴天で風もない日の早朝は、太陽によって空気の方が早く温められるため霧が発生しやすかった。

 

(用心した方がいいわね)

 

 海上保安隊が国際VHFで定期的に放送する気象予報では霧に関する警報や注意報は出ていなかったが、海の天候は気まぐれだ。

 

 特に霧の予報の難しさは、北方に居た二年間で嫌というほど思い知ってきた。

 

 初霜は艦橋内に戻り、時計を見上げる。

 

 夜明けまであと一時間と少し。哨戒当直の交代まで数十分だ。

 

 次直である村雨への申し継を行うため、漁船の接近や霧の発生といった情報も含めてメモにまとめておこうと紙とペンを手に取ったとき--

 

 

 

--静かな艦橋内に、警報が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 南方警備艦隊司令部。

 

 第十一駆逐隊が救難信号を受信したとの報告を受け、海尾はすぐに叢雲と共に地下司令部の指揮所へと移動した。

 

 大型スクリーンは既に起動し、担当警備海域と十一駆の現在地、そして救難信号の発信地が示されている。

 

 待ち構えていた仁淀がすぐに状況を報告する。

 

「十一駆の現在地は北緯22度四十三分、東経125度21分。救難信号の発信地点はそこから西へ約10海里です。現在、十一駆は予定航路を変更し発信地点へ移動、状況を確認するとのことです」

 

「今夜、この海域を航行予定の船舶はあるか?」

 

「ありません。推奨航路から外れた海域ですので、この救難信号は大型貨物船、タンカー等の可能性は低いと思われます。十一駆からの報告によると漁船が多数操業中とのことですので、救難信号もおそらく漁船の可能性が高いでしょう」

 

 仁淀の説明を聞き、傍らの叢雲が、

 

「まずいわね」

 

 と呟きを漏らした。

 

 海尾もまた眉間にしわを寄せながら頷いた。

 

 二人のその様子に、仁淀が小首を傾げた。

 

「あの、まずいとはどういうことでしょうか?」

 

「漁船はね」と叢雲。「滅多に救難信号を出さないのよ。出せば、深海棲艦から余計に狙われるということを知っているから。それでも出すっていうことは、それは囮になる覚悟を決めたときよ」

 

「囮・・・? では、まさか!?」

 

「深海棲艦が出現した可能性が高い」と海尾。

 

 

「ですが、現在、同海域を通る海流に、深海棲艦が潜んでいるという情報はありません」

 

 仁淀はそう言って疑問を呈した。

 

 謎の多い深海棲艦の生態だが、それでも出現には一定のパターンがあることは判明していた。

 

 そもそも深海棲艦とは海溝付近から海面へと出現するためにそう名付けられた存在だ。すなわち、その出現海域はある程度判明しており、当然、その海域は厳重な監視下に置かれている。

 

 監視しているのは世界各国から選りすぐられた精鋭艦隊であり、それは定期的に艦艇を交代させながら、二十四時間常時その海域を包囲し、深海棲艦が現れるや否や、その場で殲滅しているのだ。

 

 しかしながら、それでもたまに包囲網をかいくぐってしまう深海棲艦が居る。

 

 それらはある程度海上を移動した後、海中へと没して、以後はその場所の海流に乗って遊弋すると言われている。

 

 “言われている”などという曖昧な言い方なのは、それが本当かどうか、まだ確証が持てないからだ。

 

 なぜなら、いったん海中に没した深海棲艦を探知できた例がほとんど存在しないからだった。

 

 海上に居るときですら高いステルス性を持つ深海棲艦だが、海中ともなるとその能力がさらに高まるらしい。・・・いや、そもそも深海棲艦は、海中では実体を持っていないのでは無いか。

 

 あれは海上へ浮上するのではなく、何らかのエネルギーが海上で実体化しているのでは無いか? そんな一見すると荒唐無稽とも思われる仮説さえ、ある程度の信ぴょう性をもって語られているほどだった。

 

 しかし、もしその仮説が本当なら、人類にとって深海棲艦とは戦争の相手どころか、生存競争の相手ですらなく、まるで幽霊を相手に戦っていることになりかねないのだが・・・

 

 ・・・とりあえず現状問題なのはそこではなく、数少ない確証から判明している事実は、海中に潜んだ深海棲艦は(潜水艦という一部の例外を除き)自力で移動することはできず、海流沿いにしか出現しないということだ。

 

 そして現在、十一駆が居るその海域を通る海流には、深海棲艦が潜んでいるという情報は無いはずだった。もっとも近い位置に目撃された例の人喰い雷巡でさえ、別の海流に乗っているはずだし、海上を移動中との情報も無い。

 

 しかし、

 

「勘だ」と海尾は言った。「嫌な予感がするんだよ。もしかしたら包囲網を搔い潜ったはぐれ深海棲艦が潜んでいるかもしれない」

 

「まあ、駆逐艦一隻程度なら有り得なくもないわね」と叢雲も頷く。

 

「十一駆に通達。直ちに戦闘用回線を開き、RCL(Real-time Combat Link)を開始せよ」

 

「了解しました」

 

 仁淀が海尾の指示を現場の三隻に伝える。

 

 大型スクリーンに白雪、村雨、初霜それぞれからの現場の映像が投影された。

 

 海尾と叢雲はその景色を目にし、思わずうめき声を漏らしてしまう。

 

「こいつはひどいな・・・」

 

「思っていた以上に、事態は面倒なことになりそうね」

 

 その三隻からの映像全てで、周囲一面を埋め尽くさんばかりの大量の漁船が走り回っていた。

 

 それは救難信号の発信地点から急いで遠ざかろうとする漁船の群れだった。

 

 十一駆はその漁船が逃げようとする方向に位置していたために、百数十隻にも及ぶ漁船群の移動に巻き込まれてしまったのだ。

 

 十一駆が救難信号を受信したとき、旗艦である白雪をはじめとした三隻は漁船の行動を予測していたものの、それを回避するには漁船群の規模が大きく、そして距離が近すぎた。

 

「初霜ちゃん!」と、白雪が先頭の初霜を呼ぶ。「針路上の漁船群はどこまで広がっているの!?」

 

 問いかけるその声が上ずってしまっているのを白雪は自覚した。

 

 しかし、それも仕方がなかった。前後左右、レーダーで探知できるほとんどの範囲を漁船に占められているのだ。

 

 しかも漁船群は救難信号の発信地点から我先に逃げ出そうとしているために統率などあるはずがなく、おおむね同じ方向に向かっているだけで、追い越し追い越されつつ、右往左往しながら走り回っていた。

 

 まさにこの瞬間も、白雪の艦首すれすれを一隻の漁船が高速で横切っていき、衝突の危機に白雪はゾッと肌を粟立てた。

 

 今、三隻はほとんど停止に近い速力で進んでいた。

 

『漁船群の端まで、残り4000ヤードです』初霜が答えた。『私の方は間もなく漁船群を抜け出します』

 

「私と村雨ちゃんはまだ動けそうにないわ。初霜ちゃんは漁船群を抜けたら陣形を離脱し、単艦で発信地点へ急行、現場の状況を確認すること。いいわね?」

 

『了解しました。・・・間もなく抜けます』

 

「待って、司令部からRCL要請が来ている? 旗艦から各艦へ、これより司令部とRCLを開始します。初霜ちゃんはそのまま待機」

 

『初霜、了解』

 

『村雨も了解です』

 

「RCL開始。司令、聞こえますか」

 

『こちら司令部。海尾だ、感度良好。漁船群に巻き込まれてしまったか』

 

「申し訳ありません。予測はしていたのですが」

 

『間が悪かったということだ、気にするな。それよりも、これからどうするかだ』

 

「初霜が間もなく漁船群を抜けますので、彼女を先に状況確認と救助に向かわせます」

 

『現場指揮官は君だ、その判断を支持する。しかし事前に達したとおり、担当海域外だが深海棲艦の目撃情報もある。奴らがいつ出てくるかも知れないし、もしかしたらはぐれ駆逐艦が既に居る可能性もある。気を付けてくれ』

 

「了解しました。--初霜ちゃん、聞いたとおりよ。そっちはどう?」

 

『漁船群を抜けました。針路クリア、増速可能です』

 

「離脱を許可します。単艦で発信地点へ進出し、要すれば救助を実施せよ」

 

『了解』

 

 初霜は速力を上げ、発信地点に艦首を向けた。前方には既に他の漁船の姿は見当たらず、夜の濃い闇だけが拡がっていた。

 

 だが、しかし。

 

(まだ一隻だけ残っている・・・?)

 

 暗い闇の向こうには何も見えない。

 

 しかしレーダーと、そして起動中の動体検知器には確かにゆっくりと移動する一隻の漁船の影が映し出されていた。

 

 その距離、約2000ヤード。その漁船が夜間灯火をつけているなら、既に肉眼で見えて居なければおかしい距離だ。

 

 ではまさか無灯火の漁船なのだろうか。

 

 初霜がそう思ったとき、彼女の視界に、ぼんやりと浮き上がるようにして、その漁船の灯火が出現した。

 

 輪郭もおぼろげにゆらゆらと揺れるその灯火に、初霜はハッとする。

 

(すでに霧が立っているんだわ!)

 

 漁船との距離は1000ヤードにまで詰まっている。その距離で灯火がぼやけるということは、かなり霧が濃くなっていることを示していた。

 

 漁船との距離がさらに近づき、ぼやけていた灯火がはっきりとした輪郭をもった。

 

 しかし他の漁船群が全速力で逃げ去っていく中、その漁船の速力は10ノットも出ておらず、完全に取り残された格好になっていた。

 

 これはもしや漁船に何らかのトラブルが発生しているのだろうか。そしてあの救難信号と何か関連があるのだろうか。

 

 初霜はそう思い、双眼鏡を目に当てた。

 

 灯火の微かな明かりの下に二人の人影があり、そして、そのうちの一人が、初霜に向かって大きく手を振っていた。やっぱり助けを求めているのだろうか。

 

 初霜は速力を落とし、わずかに舵を切って漁船に接近した。

 

「両舷停止。メンテ妖精は漁船の横づけ及び船員の揚収準備にかかれ!」

 

 サポートAIに指示を下し、初霜はウィングへと出た。

 

 その初霜の耳に、かすかに人の声が聞こえてきた。漁船から呼びかけられているのだ。初霜はすぐに集音センサーをそちらへ向けた。

 

 おーい、という呼びかけに続き、

 

『あんた、初霜か!? 初霜なら頼みがある。いや、初霜でなくてもいい。なあ、聞こえているか!』

 

(私のことを知っているの・・・?)

 

 名指しで呼びかけられたことに戸惑いながら、初霜はそれでも外部拡声器のスイッチを入れた。

 

「こちら南方警備艦隊所属、駆逐艦・初霜です」

 

『そうか、やっぱりあんたなのか。よかった。ならどうしても頼みを聞いてくれ・・・助けてやってくれ!』

 

「助けてやってくれ?」

 

 てっきり、助けてくれの聞き間違いかと思ったが、そうではなかった。

 

『あいつは・・・あんたがこれから助けに向かおうとしている男は、あの人喰い雷巡の被害者なんだ。家族を喰い殺されたせいで、深海棲艦と、そしてあんたを恨んでいる。だから、復讐するつもりなんだ!』

 

「っ!?」

 

 人喰い雷巡

 

 被害者

 

 復讐

 

 これらの言葉に、初霜は胸ぐらを掴まれたような衝撃を受けた。

 

 二年前のあの日に起きた悪夢のような惨状が、今、再びこの暗闇の向こうに蘇り、彼女を待ち受けているかのような錯覚を覚えた。

 

 いや、違う。と初霜は自らに言い聞かせた。

 

 初霜を待っているのは助けを求める人間のはずだ。

 

 だが、それはあの日に救えなかった、見殺しにせざるを得なかった誰からしい。

 

 そして、その誰かは復讐しようとしているらしい。

 

 誰に?

 

(それは私だ。そう言っていた)

 

 やっぱりそうだった。と、初霜はその事実を、ほとんど無批判に受け入れていた。

 

 それは初霜自身がずっと背負ってきた自責の念と罪悪感の現れであった。

 

 人喰い雷巡事件の後、初霜が救助を諦め撤退したことが問題になったが、海軍としては軍事的観点から撤退は妥当と判断され、また法的に何の落ち度もなかったとされた。

 

 この事件を報道した一部マスメディアからは散々バッシングを受けたが、海軍は組織ぐるみで初霜をかばってくれた。

 

 かつての司令も、全ては俺の責任だと言って、初霜にひとつも責任を負わせなかった。

 

 初霜が責任を負うことを許してくれなかった。

 

 責任を負うことで、大勢の人間を見殺しにした罪を償わせてはくれなかった。

 

 償わせてほしかった。

 

 何の責も負わず罰も受けず、ただ罪悪感に苛まれ続けるのは生き地獄だった。

 

 いっそすべての責任を一身に背負って死んでしまいたいとさえ思いもした。

 

 その方がいっそ楽だった。

 

 だけど、それが許されないというのならば・・・

 

 ・・・ならば、強くなるしかなかった。

 

 己の罪悪感に殺されないために。

 

 彼女自身が生き延びるために。

 

 死にたいと叫び、死んではならないと叫ぶその矛盾に、心が引き裂かれてしまわないために。

 

 この二年間、北方海域の霧の中で、姿の見えない敵を相手に戦い続けてきた。

 

 けれど、常に強いままではいられない。

 

 時折、不意に、何の前触れもなく心が折れそうになる。

 

 そして今、あの時の被害者が初霜に復讐しようとしているという言葉を聞き、初霜はある種の安堵感を覚えると同時に、その心が折れようとしていた。

 

(復讐される・・・。私は、罪を償える・・・)

 

 思考が曇り、暗い願望がその胸に去来しようとしていた。そしてそれは、ひどく甘美な香りを伴っていた。

 

 それは誰も救わない。破滅と滅びの感情だ。それはわかっている。理解している。だけど・・・

 

 

 ・・・もう、いいじゃない。

 

 

 そう思いかけた、その時、

 

「頼む、初霜!」

 

 いつの間にか肉声が聞こえる程に接近した漁船から、漁師が声を張り上げていた。

 

 その漁師の言葉が、初霜に届く。

 

「あいつを救ってやってくれ。訳わからないと思うが、それでも、きっとあいつを救えるのはあんただけなんだ。頼む!」

 

「――ッ!」

 

 ほんの一瞬、過ぎった諦観、折れる寸前だった心を、初霜は歯を食いしばって繋ぎ留めた。

 

 すぐにウィングから身を乗り出して、漁師に向かって叫び返す。

 

「わかりました。私が救出します。--私が、守ります!!」

 

 漁師がそれを聞いて、暗がりの中で頷いた様子が見えた。

 

 漁船はそのまま後方へと離れていく。

 

 初霜はそれを見送りながら、一度、唇を強く噛みしめた。そして、大きく息を吸い込むと、胸の内の迷いと共に一息に吐き出した。

 

「よしっ!」

 

 気合を入れなおし、艦橋内に引き返す。

 

 漁船はすでに霧の向こうへ消え、他の漁船や僚艦の灯火も見えなくなっていた。

 

 艦橋内では白雪と村雨のドールが不安そうな表情で初霜を見上げて居た。RCLを通じて、今の漁船とのやりとりも聴かれていたのだろう。

 

『初霜ちゃん』と白雪。『あの事件の関係者という可能性が高いわ。任務遂行は大丈夫?』

 

「大丈夫です」

 

 初霜は即答し、そしてふと気づいて、自分のドール表示を笑顔に切り替えた。

 

 これで少しは安心してもらえるだろうか。そう思ったが、村雨が『でもでも』と不安そうな声を出す。

 

『あの人、初霜ちゃんのことを恨んでいるって言ってたよ! それに復讐するって!?』

 

「それは不確実な情報よ。確実なのは、誰かがこの海で救難信号を出しているということ。だから・・・初霜、任務続行します」

 

『了解』

 

 と白雪が答える。

 

 これらのやりとりを、やはりRCLを通じて司令部も聴いていた。

 

「行かせてもいいの?」

 

 と叢雲からの問いかけに、海尾は頷いた。

 

「白雪の判断に任せる。まだ俺が口を出す状況じゃないからな。しかし・・・」

 

 海尾は司令専用コンソールを操作し、そこから情報部内偵科のデータベースへとアクセスした。

 

 【秘】と記された情報を呼び出し、一人の男の資料を表示させる。

 

 海尾は叢雲をコンソールの傍に呼び寄せ、その資料を見せた。

 

「この男は何者なの?」

 

「初霜の部屋の扉に落書きをした容疑者だ。初霜の着任と同時にこの島に入り込み、外のデモ関係者と接触している」

 

「隣国政府の工作員にしては迂闊ね。こうも簡単に情報部にマークされるなんて」

 

「工作員なら、そもそも国籍や過去の経歴ぐらい最初から偽っているだろうさ」

 

「じゃあ工作員じゃない、本当の“人喰い雷巡の被害者遺族”だというの?」

 

 叢雲が資料の経歴部分を示した。

 

「海軍批判にはうってつけの人物だな。俺が活動家の立場なら、大金を積んで招待して、デモで派手に演説させるよ」

 

「でもそれが何故、海に飛び込んで復讐だなんて言い出しているのかしら」

 

「さあな。活動家たちと、この男とで思惑にズレがあったのかもしれない。・・・そもそも、まだこの男と決まった訳でもない」

 

「もしも、この男だったら?」

 

「敵対行動を取るようならば、排除する。現海域からの脅威の排除。それが我々の任務だ」

 

 海尾はそう言って、コンソール脇の通信パネルに目を向けた。

 

 そこに、白雪のドールが立っていた。司令と旗艦のみの秘匿通信回線だった。

 

 海尾が頷いて見せると、白雪ドールもまた、何も言わずに敬礼を返したのだった。

 

 

 




次回予告

 貧しさに喘ぎながらも、それでも助け合い、支え合いながら生きてきた、かけがえのない家族だった。

 それを失った。

 奪われた。

 家族を奪った海は、何事もなかったかのように今も静かに凪いでいる。

 ふざけるな、この静かな海め、沈黙する海め、この俺が報いを受けさせてやる。

次回「第十五話・沈黙の海」

「さあ来い。俺はここに居る、ここに居るぞ!」


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第十五話・沈黙の海

 海に入った“彼”は救命胴衣の浮力で仰向けに浮きながら、夜空を見上げていた。

 

 海に入ったばかりの頃は満天の星空が拡がっていたのに、今はもう霧に覆われてしまい、ひときわ明るい一等星の光がかすかに瞬くのみだった。

 

 全身の力を抜いて海面に漂う彼の身体を、定期的にわずかな波が揺らし、その度に彼の顔に少量の飛沫を浴びせて去っていく。

 

 船上からは波ひとつない鏡のような海面に見えていたのに、それでもこうして身一つで海に入ると、その脈動のような海の力が彼を押し包んでいた。

 

 海は深く、暗く、静かで、冷たかった。

 

 ウェットスーツを着ているとはいえ、その冷たさは彼の全身を支配していた。

 

 彼は力を抜くのをやめ、逆に全身に力を込めた。そうやって意図的に身体を強張らせると、筋肉の緊張によって手足が震えだし、冷たさに抗うための熱を生み出し始めた。

 

 その代り彼の身体はわずかに海へと沈みこみ、口元近くまで海水が迫ってきた。そのため、波が来るたびに、彼は呼吸のため波を口元から吹き払わなければならなかった。

 

 そうやって呼吸のために口を開くたびに、手足だけではなく顎まで震えそうになったが、彼はその度に歯を食いしばって必死にこらえた。

 

(俺は怯えて震えているんじゃない)

 

 この誰も居ない海の真ん中で、それでも彼は怯えて震えているかのような無様を晒すまいと心に決めていた。

 

(俺は艦娘が憎い。深海棲艦が憎い。妻と子を奪ったこの海が憎い!)

 

 だから負けぬ。と、彼は冷たさを打ち消すかのように心の奥で憎しみの炎を燃えたたせた。

 

 海よ、見ているがいい。

 

 俺の憎しみをここに刻み込んでやる。

 

 取るに足らない人間だと祖国で蔑まれ、そのため微かな希望と夢を見て海を渡ろうとして、無残にも喰い殺された哀れな妻と子よ。共に船に乗れなかった俺をきっと恨んでいるだろう。

 

 彼は冷たさに震える左腕を海中から上げて、救命胴衣のポケットからラミネート加工された一枚の写真を取り出した。

 

 そこに写っていたのは、妻と、そして幼い一人息子の姿だった。

 

 貧しさに喘ぎながらも、それでも助け合い、支え合いながら生きてきた、かけがえのない家族だった。

 

 それを失った。

 

 奪われた。

 

 それに対し祖国は何もしてくれなかった。家族を見捨てた隣国に対し沈黙を貫いた。

 

 その隣国もまた見殺しは当然の処置だったと居直り、抗議の声を黙殺した。

 

 そして家族を奪った海は、何事もなかったかのように今も静かに凪いでいる。

 

 ふざけるな、と彼は叫びたかった。

 

 寒さに震えていなければ全力で沈黙を続ける祖国に、隣国に、そしてこの海に対して罵っていただろう。

 

 ふざけるな、無視するな、俺の大切な家族を奪ったくせに、全て何事も無かったかのように済まされるなど、そんなことがあってたまるものか。

 

 この静かな海め。沈黙する海め。この俺が報いを受けさせてやる。

 

 艦娘に屈辱を与え、深海棲艦を殺し、この海を汚してやる。

 

 さあ来い。俺はここに居る、ここに居るぞ。

 

 海よ、いつまで沈黙しているのだ。

 

 海よ!

 

 彼は写真を救命胴衣に戻し、その手で、腰にロープで結わいつけて海面を漂う救難信号発信機を取り上げた。

 

 発信機には信号の発信を示す赤ランプが点灯していた。

 

 しかし信号を発信してからいったいどれほどの時間が経ったのか。

 

 一時間か。

 

 二時間か。

 

 いや、腕時計で確認するとまだ三十分程度しか経っていなかった。

 

 腕時計が刻む一秒、一秒が、彼には恐ろしいほど長く感じられた。

 

 空いた左腕とは逆に、重い保管容器をもつ右腕がジンジンと痺れ、肩から先全体が痛みを訴えていた。

 

 もしかしたら、誰も来ないのか?

 

 不意に、そんな不安が彼の心に去来した。

 

 このまま誰も来ないかも知れない。

 

 艦娘も、深海棲艦も、彼を無視し、このまま彼は飢えと渇きと疲労に苛まれながら、力尽き果てるまで漂流する運命なのかも知れない。

 

 そして海は最後まで沈黙したままなのだ。

 

 彼という存在、その復讐心、その人生など、何の価値も無いのだと彼自身に思い知らせつつ、そして海は、彼もその家族の死さえも気づくことなく、沈黙を続ける。

 

 誰も来ない。

 

 何も起こらない。

 

(そんなのは嫌だ!?)

 

 彼は叫ぼうとした。

 

(俺はここに居る! ここに居るんだぞ!?)

 

 しかし固く食いしばった顎はわずかにしか開かず、そこから漏れ出た声すらも、寄せてきた波に塞がれ、響くことはなかった。彼の叫びは、口元の海水をわずかに泡立たせただけだった。

 

(嫌だ! こんなみじめな最期など御免だ! 来い! 誰でもいいから早く来い! 早く!!)

 

 彼の心が半ば恐慌状態に陥った、その時、

 

 霧深い闇夜を切り裂くように、サーチライトの光が辺りを過ぎったのだった。

 

 

 

 

 

 

 時が経つごとに霧が深くなっていく海上をサーチライトの光が横切っていく。

 

 初霜はサーチライトに連動させた光学センサーを総動員して救難信号の発信源を捜索していた。

 

 座標上では既に500メートルも離れていないはずだが、闇と霧のせいで視界がほとんど無い状態だ。

 

 こんな状態で下手に接近すれば船体を要救助者にぶつけてしまいかねず、初霜は今、速力を舵が効く最低限度まで落としていた。

 

 そうやってゆっくりと進みながら、初霜はセンサーだけではなく自分自身も双眼鏡を構えて、サーチライトの光に合わせて海面を探索していた。

 

 と、そのサーチライトの光に、一瞬、影が浮かび上がった。

 

「見つけた!」

 

 通り過ぎかけたサーチライトを止め、すぐに先ほどの影の位置に戻す。

 

 海面上に、小さいが、確かに何かが浮いている。

 

 光学センサーを最大望遠にすると、その影の近くで光に反射して輝くものも見える。それはきっと救命胴衣の反射板か、そうでなくても金属製の人工物である可能性が高い。

 

 初霜は赤外線センサーをの感度を上げてその影に向けた。濃い霧のため、数百メートルも離れていては人間の体温程度の熱放射は拡散されてしまうが、それでも、わずかな熱源を探知することに成功する。

 

 間違いない、人間だ。

 

「サポートAI、これよりメンテ妖精を派出して要救助者の救助を行う。第一作業艇用意」

 

『了解』

 

 作業艇とは、船体に搭載されている小型ボートのことだ。

 

 全長5メートル、繊維強化プラスチック製の船底をゴムチューブで覆った複合型ボートである。エンジンは100馬力の船外機を一機搭載し、最高速度は40ノットまで発揮可能だった。

 

 それが初霜を始めとした駆逐艦には二艇搭載されていた。船体中部の左右に一艇ずつであり、右舷側に搭載されているものを第一作業艇、左現側を第二作業艇と呼称している。

 

 今、右舷側の第一作業艇に複数のメンテ妖精が集まり、降下準備を行っていた。クレードルに吊り下げられたまま収納状態にある作業艇の拘束が解かれると、そのクレードルが船体の外へと張り出され、作業艇が海面上に宙吊り状態となる。

 

 作業艇には既に二体のメンテ妖精が乗り込んでいた。一体は船外機の操作担当、もう一体が救助及び応急救命処置の担当だ。船外機をアイドリング状態にして、作業艇が海面へと降ろされた。

 

『第一作業艇、用意よし』

 

「発進許可」

 

『了解』

 

 作業艇は軽量な船体に対し過剰なまでの馬力で飛ぶように初霜から離れていった。

 

 初霜は多目的スクリーンの一画に、派遣したメンテ妖精の視覚を表示させた。

 

 濃い霧の中を、サーチライトの光が太い柱となって海面へと斜めになって突き刺さっている。その光の中に、黒い影が浮いていた。

 

 作業艇が近づくにつれ、その影の細部がはっきりと見えてきた。

 

 それは確かに人間だった。

 

 救命胴衣を着けた男が、首から上を海面に出した仰向けの状態で浮いていた。

 

 男はサーチライトの光に対して背を向ける形で浮いていたが、作業艇の接近に気付き、左手を顔の横にかざしながら、こちらを向いた。

 

「初霜から旗艦へ。要救助者を発見しました。これより作業艇への揚収を開始します」

 

『こちら旗艦・白雪、了解しました。ところで、要救助者の様子はどう?』

 

「救命胴衣と、その下にウェットスーツも着用している模様です。相手もこちらを視認しました。どうやら意識はあると思われます」

 

『顔は見える?』

 

「手で影を作っているので人相までは判別できません。・・・判明次第、画像データを司令部へ贈ります」

 

 初霜は白雪から指示を受ける前に、自らそう報告した。恐らく、今から助けようとするあの男の情報を、司令部は既に持っているのだろう。

 

 彼は何者で、ここで何をしていたのか。いや・・・

 

 --深海棲艦と、そしてあんたを恨んでいる。だから、復讐するつもりなんだ!

 

 そう、これから何かをするつもりなのかもしれない。しかし初霜は、その疑問を思考の片隅に追いやった。

 

 いま初霜がすべきことは、彼を救うこと。それだけなのだ。

 

 作業艇が彼のすぐそばに接近し、揚収作業が開始された。

 

 メンテ妖精が三等身の姿を捨て、不定形なアメーバ状となって触手を彼に向かって伸ばした。

 

 その様子に驚いたのだろう、彼は海中で身をよじって逃げようとしたが、それより早く触手が絡みつき、彼を作業艇へと引き上げた。

 

 彼に絡みついたメンテ妖精は、その状態のまま彼の体温や脈拍を計測する。その結果、体温の低下が検出された。それを受けて、メンテ妖精は絡みついたまま自分の温度を上げ、彼の身体を温め始めた。

 

 その間にもう一体のメンテ妖精は船外機を操作して作業艇を帰還させながら、同時に彼の外見の画像を初霜に送信した。

 

 初霜は受信したその画像を、RCLを通じて僚艦と司令部へ中継する。

 

『初霜ちゃん』と、白雪。『その男の身元が判明したわ。あなたの部屋の扉に脅迫めいた言葉を落書きした容疑者よ』

 

「・・・あの事件の関係者ですか?」

 

『ええ。被害者遺族で間違いないらしいわ。右手に金属製ケースを持っているわね。わざわざ手錠で繋ぎ留めている。そこに凶器が入っている可能性もあるわ。作業艇帰還後、その男は医務室へ隔離。あなた自身は決して近づかないこと。いいわね?』

 

「了解しました」

 

 初霜はメンテ妖精の目を通して、サーチライトの光に浮かび上がる彼の顔を見た。

 

 ライトの光と、そして海水で凍えたせいもあるだろう、彼の顔色は青白く、また感情の全てを押し殺した仮面のような無表情だった。

 

 しかしその目は、メンテ妖精のカメラ越しに初霜を見つめていた。

 

 無論、彼の方から初霜の姿は見えていない。だが、この妖精たちが初霜の意思によって操られている事には気づいているようだった。

 

 人喰い雷巡事件から二年。助けた船員たち以外であの事件の関係者の姿を見たのは、これが初めてだった。

 

 それなのに、初霜は彼に対して何の感情も抱かない自分の心情に当惑していた。

 

 漁師から彼の存在を示唆されたときはあれほど動揺したのに、実際に目の当たりにした今は、意外にも冷静な自分がいる。

 

 これはきっと、画面越しに眺めているせいで現実感が伴っていないからだろうか。そう思っている内に、作業艇が船体の近くへと帰ってきた。

 

(近づくなって言われたけれど・・・ウィングから眺めるくらいなら大丈夫よね)

 

 拳銃などの飛び道具を持っていない事は確認済みだ。初霜は右ウィングに出て、作業艇の収容作業が始まった船体右舷中部を眺めた。

 

 作業艇は右舷中部に寄り添うようにして停止していた。

 

 初霜の立っている右ウィングとは直線にして20メートル程度の距離だ。

 

 作業艇にはメンテ妖精に絡みつかれた状態の“彼”の姿があった。

 

 メンテ妖精は彼を別に拘束している訳ではなく体温を上げるためにそうしているのであったから、彼はある程度自由に身体を動かすことができた。

 

 その彼の目が、ウィングに立つ初霜に向けられた。

 

 初霜と、彼の、目と目が合う。

 

 その時、彼は持っていたケースに手をかけた。その指が、ケースの留め金を外す。

 

 次の瞬間、艦橋内にけたたましい警報が鳴り響いた。

 

「っ!?」

 

 ほとんど間をおかず、初霜は艦橋内へと身体を強制的に引き戻された。

 

 艦橋内に配置されていたメンテ妖精が、初霜の意思を無視して勝手に彼女を引きずり込んだのだ。

 

 艦橋内に引き倒された初霜の目の前で、ウィングへの出入り口の扉が荒々しく閉鎖された。さらに、その扉についていた丸窓の防弾ガラスに、分厚い鋼鉄製の蓋まで降ろされていた。

 

 これらの処置は全て初霜の意思ではなく、サポートAIによるものだった。

 

「これは--緊急避難処置が発動しているの!?」

 

 初霜自身に危機が及んだ際、彼女を守るためにサポートAIが自律判断によって行う処置だ。それが発動されているということは、つまり、今、初霜自身も気づかなかった危機が迫っているということだった。

 

 では、その危機とは、いったいなんだ?

 

 初霜は立ち上がりながら、多目的スクリーンに目を向けた。

 

 そこに【NBC防御】の文字が点滅していた。

 

 その表示を見た瞬間、初霜は我が目を疑った。

 

 核(Nuclear)生物 (Biological)化学(Chemical)兵器に対する防御処置が発動しているというのだ。

 

 このような処置は、訓練以外では一度も見たことはなかった。NBC兵器など、深海棲艦は使用してこないからだ。

 

 そんなものを使用するのは、人間だけだ。

 

 人間だけ。

 

「まさか!?」

 

 初霜は閉ざされたウィングへの扉へ駆け寄ろうとしたが、メンテ妖精が背後から彼女の腰に縋り付いて、その行為を止めた。

 

『被爆の危険があります』

 

「対水上戦闘用意!」

 

 サポートAIの警告に対し、初霜は戦闘用意を下令した。

 

 これにより初霜と船体のリンクレベルが最大まで引き上げられると同時に、緊急避難処置などのサポートAIの自律判断の優先順位が下げられ、初霜の意思が最優先となる。

 

 腰にしがみついていたメンテ妖精が離れ、初霜は自由の身となった。

 

 だが初霜はもうウィングに出ようとはしなかった。

 

 そうするまでもなく、船体のレーダーやセンサー、そして各所に配置されたメンテ妖精からの情報が初霜自身に集約され、周囲の状況が手に取るように理解できた。

 

 NBC防御発動の原因は、やはり彼によるものだった。

 

 彼の持つケースの留め金が外された瞬間、その隙間から危険値を超える放射線が検出されたのだ。

 

 それにより、作業艇のメンテ妖精たちは、すぐさまNBC防御を実行した。

 

 彼に絡みついていたメンテ妖精が、彼の身体から離れケースへと飛び移り、その全体を隙間なく覆いつくして放射線漏れを遮断する。それと同時に、船外機を操るメンテ妖精が作業艇を急発進させ、船体から遠ざかった。

 

 彼はこのメンテ妖精たちの素早い行動に、しばし呆気にとられていた。

 

 この三等身のふざけた外見をしたロボットだが、その正体が想像を超えた科学力によって作られた強力な兵器であることを、まざまざと見せつけられた思いだった。

 

 初霜から遠ざかって行く作業艇の上で、彼は、温められた身体が再び冷えていくのを自覚した。

 

 彼は、ウィングに初霜の姿を見つけ、その彼女と目が合ったとき、衝動的にケースの留め金を外していた。

 

 屈辱を与えるだけのつもりが、初霜を見た瞬間、どうしても実害を与えずにはいられなくなったのだ。

 

 だが、それは失敗だったと彼は後悔した。

 

 メンテ妖精の性能を侮っていたこともそうだが、この行為によって初霜に警戒感を与えてしまったことが大きい。

 

 この作業艇が再度初霜の下へ帰れば、間違いなく彼は拘束され、ケースを奪われ、そして船体の奥深くで監禁されるだろう。そうなれば、肝心の深海棲艦が現れても関与することは不可能になる。

 

 彼がそう思ったとき、作業艇が針路を変え、再び初霜の下へと近づきだした。恐らくケースを封じたことで放射線の漏洩が無くなったのだろう。

 

 このままでは拘束される。

 

(ええい、なるようになれ)

 

 彼は自暴自棄な覚悟を決めた。

 

 メンテ妖精に覆われ重量を増したケースを両手で持ち上げながら、揺れる不安定な作業艇の上で立ち上がる。

 

 足元が覚束ずに倒れそうになる勢いを利用して、彼は両手で持ったケースを背後に向けて思い切り振りぬいた。

 

 勢いと重量のあるケースが、船外機を操作していたメンテ妖精に直撃し、作業艇の外へと弾き飛ばした。

 

 水柱を上げて落下したメンテ妖精に続き、彼自身も落下しそうになったが、作業艇の船縁にしがみついて何とか耐える。

 

 彼はすぐに船外機の操作アームに手をかけ、作業艇を初霜から反転させた。

 

 そのままアクセルを開き、霧に包まれた闇に向かって全速力で突っ走る。

 

「来い、深海棲艦!」

 

 彼はエンジンの咆哮に負けぬ声で叫んだ。

 

「来い、化け物め! 俺はここに居るぞ! さあ、来い! 殺してやる! 殺してやるぞ!!」

 

 エンジンが焼け付くほどの速度で、作業艇が海面を飛び跳ねながら走っていく。

 

 その速度はもう、40ノットを超えようとしていた。

 

 ほんの少しの波を乗り上げただけで、まるでジャンプ台から飛び出したかのように高々と跳ね飛び、海面へと叩きつけられる。

 

 その衝撃は凄まじく、彼は前を向くどころか作業艇から振り落とされないようにするだけで精いっぱいになるほどだった。

 

 しかしそれでもアクセルを開く手だけは緩めなかった。

 

 作業艇が跳ね飛び、着水し、また跳ね飛ぶ。

 

 それを幾度繰り返しただろうか。初霜からのサーチライトの光も届かない程、遠ざかった頃。

 

 高くはね飛んだ作業艇が、落下せずに、止まった。

 

「うわっ!?」

 

 岩礁か何かに乗り上げたかのような強い衝撃と急停止に、彼は作業艇から前方へと投げ出された。

 

 しかし、彼の身体は、海面ではなく、濡れた地面のような場所に転がった。

 

「な、なんだ。どうなっている?」

 

 地面?

 

 いや、大地ではない。弾力があり、表面がぬめっている。

 

 まるで生き物のようだ。そう、クジラかイルカの皮膚にも似た、この感触。

 

 しかし、大きい。クジラやイルカにしてはあまりにも大きすぎる。

 

 なにしろ作業艇が乗り上げ、彼が投げ出され、それでもなお余りある広さをもつ場所なのだ。

 

 と、次の瞬間、その“場所”が上昇した。

 

 猛烈な勢いで海面を離れ、空へと上昇していく。

 

 同時に、彼の頭上から青白い光が降り注ぎ、その周囲を照らし上げた。

 

 それによって、彼は自分が乗っている“場所”がどんな形をしているのかを悟った。

 

 それは、手のひら、だった。

 

 10メートル以上はありそうな、巨大な手のひら。

 

「まさか・・・ここは・・・これは・・・」

 

 彼は恐る恐る、頭上の青い光を見上げた。

 

 そこに存在したものを目の当たりにして、彼は呼吸を忘れた。

 

 顔だ。

 

 全体をひび割れた仮面で覆った巨大な顔が、そこにあった。

 

 その仮面の左側にだけ穴が開いており、そこから蒼く輝く炎を宿した巨大な一つの目玉が、彼を見下ろしていた。

 

「深海棲艦・・・雷巡・・・チ級・・・」

 

 雷巡チ級は、手に乗せた彼を見下ろし、仮面の淵からのぞかせた口の端を吊り上げて見せた。

 

 それはまるで、笑っているかのようで・・・

 

 しかしそれはあまりにも、おぞましい笑みだった・・・・

 

 

 

 




次回予告

 敵を前に、現場指揮官たる白雪は逡巡する。

 下すべき命令の選択肢は、二つ。

 一つは見敵必殺。要救助者である彼の生存の可能性を無視し、敵を撃滅せよというもの。

 そしてもう一つは、

(助けられるものならば、助けたい・・・!)

次回「第十六話・決断」

「初霜から旗艦へ。我、敵艦へ突貫す!」


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第十六話・決断

 逃亡を続ける作業艇が停止した。

 

 水上レーダーでそれを感知した次の瞬間、レーダー上の、その停止した場所に奇妙な影が生じた。

 

 電波の輻射面積は作業艇よりもやや大きい程度だが、同時に展開している動体検知器が、さらに巨大な物体の出現を検知していた。

 

 作業艇が停止した、その場所に、巨大な質量をもった何かが海中から出現し、それによって押しのけられた空気の波動を、動体検知器のセンサー・コールドアイが捉えていた。

 

 その全長およそ100メートル。

 

 レーダー上と動体検知器でここまで差を生じさせる巨大質量をもった存在など、初霜が知る限り一つしかいない。

 

 深海棲艦だ。

 

 初霜はすかさず宣言した。

 

「敵艦、見ゆ!」

 

 実際には見えてはいない。動体検知器によれば深海棲艦まで1海里も離れてはいないのに、しかし深い霧と闇はその巨大な姿を完全に覆いつくしていた。

 

 初霜は探照灯を始め航海諸灯の全てを消すと同時に、

 

「面舵一杯、最大戦速!」

 

 深海棲艦と距離を取るための右回頭を実施。

 

 さらに、

 

「デジグFCS1、2。アサインマウント!」

 

 FCSを動体検知器と連動させ、主砲を霧と闇の向こう側に居る深海棲艦へと向けた。初霜自身の腕にも、主砲の動きが感覚として伝わり、その人差し指に発射トリガーの感触が生じる。

 

 あとはこの疑似トリガーを引くだけで主砲は発射される。いや、その気になりさえすれば、そう意識するだけで弾は出る。

 

 だが、初霜は大砲を撃たなかった。

 

「撃ち方待て!」

 

 誤って撃たないよう、声に出して自ら宣言する。高いリンクレベル時は、ほんの些細な意識の乱れ、集中力の欠如による誤った思考が、ダイレクトに船体に伝わってしまう。そのため、こうやって自らの行為一つ一つを明確に発声して自らに宣言することが重要だった。

 

 初霜が撃たなかった理由は、そこにあの彼が居るからだ。ほとんど同じ場所に居た彼の生死は不明だ。だからその状況を確かめねばならない。

 

 しかし本来であれば、初霜はすぐさま撃たなければならなかった。哨戒行動中に接敵した場合、それが深海棲艦であるならば見敵必殺が交戦規定による原則だ。

 

 だが、今、初霜は第十一駆逐隊の旗艦である白雪から、彼の救助命令を受けている。この任務はまだ撤回されていない。だから、撃ってはならない。

 

 --などというロジックは、初霜の頭には無かった。

 

 初霜は純粋に、自らの意思で、撃たなかったのだ。

 

 本当ならば、撃っても構わない。いや、こんな至近距離に深海棲艦が出現した以上、何を置いても撃つべきなのだ。さもなくばこちらが撃たれる。撃たれる前に撃て、は交戦規程以前に、戦場に立つ兵士の本能でもある。

 

 だが初霜はその本能を無理やり抑え込み、いつ撃たれるかわからない状況下にあって、それでも彼の生死、安否を確認する方を選んだ。

 

「取舵一杯」

 

 一時的に深海棲艦から距離を取りつつ、今度は左に舵を取り、その周囲を回るような針路を取る。ここまで一分と掛かっていない。

 

 しかしこの短時間でも、深海棲艦から攻撃を受ける危険は数え切れないほどあった。

 

 なのに、攻撃は無かった。動体検知器にも相手の動きは検知されなかった。つまり身じろぎさえしていないのだ。

 

(まさか、私の存在に気づいていないの?)

 

 電波探知装置でも、深海棲艦からのレーダー波は検出されていない。

 

 だが、しかし、

 

『妨害電波検知』

 

 サポートAIの報告により、初霜の意識野に水上・対空レーダーの画像がイメージとして出現した。

 

 その画像の一画、ちょうど深海棲艦が居る方向とは反対側が、真っ白に染まっていた。

 

 強力な妨害電波を照射され、こちらのレーダー波が攪乱されているのだ。

 

 しかもその妨害電波は、軍用レーダーとして使用可能なあらゆる周波数帯にまたがって発信されていた。

 

 これほどまでに広い帯域に渡ってレーダーを使用不可能にしてしまうほどの強力なバラージジャミングを仕掛けてくるのは、そう、間違いない。

 

 戦艦ル級。

 

 深海棲艦の数ある艦種の中でも、最も強力な電子戦能力と圧倒的な火力、そして堅牢な装甲を有した存在だ。

 

 それが、出現したのだ。

 

 初霜が「敵艦、見ゆ」と報告してから今まで一分少々の間、旗艦・白雪や、司令部の海尾から何の指示も無かったのは、ル級によるジャミングにより通信までも妨害されていたからだ。

 

 と、次の瞬間、初霜の視界に--正確に言うなら、光学センサーを介して初霜の意識野に拡がる外界イメージとしての視界に、ストロボスコープの光が瞬いた。

 

 それは一秒にも満たない一瞬の連続発光だったが、サポートAIはそこに仕込まれた高速モールス信号を正確に読み取っていた。

 

【旗艦・白雪より各艦へ。敵艦、見ゆ。戦艦・ル級一隻。他、駆逐艦級多数。電子戦、対水上戦闘用意】

 

(これは拙いわっ!?)

 

 初霜がそう思ったのは、命令の内容ではなく、発光信号という手段そのものに対してだった。

 

 おそらく白雪はジャミングのために初霜が検知した深海棲艦の存在を知らない。だから初霜が居ると思われる方向に向かって発光信号を行なったのだ。

 

 しかしその光はル級側に向いていなくとも、こちらの深海棲艦には見えているはずだ。

 

 初霜がそう予想した次の瞬間、動体検知器が爆発による衝撃波と、それよりも早く空気を切り裂いて飛翔する小型物体を検知した。

 

 衝撃波と飛翔速度から、それが6インチ砲の発砲、それも深海棲艦・雷巡チ級によるものだという情報が初霜の脳裏にもたらされるが、知りたいのはそんなことではない。その弾丸が向かう先だ。

 

 すぐさま、FCSがその弾道を予測する。

 

『白雪、直撃コース』

 

 サポートAIが音声で報告するまでもなく、その情報は初霜の脳裏に届いている。

 

 ほとんど同時に、初霜は白雪に向け発光信号を放った。

 

「白雪さん、避けて!」

 

 信号規約を無視した、悲鳴のような信号だったが、白雪はその意味を理解した。

 

 というより、戦闘配置によってリンクレベル最大にあった彼女の無意識と船体が、初霜からの警告により反射的に動いていた。

 

 初霜へ向かう針路から、妨害電波の発信方向すなわちル級へと回頭中だった白雪は、初霜からの警告信号を受け取った瞬間、右に取っていた舵を構造上の限界値まで舵角を取り、さらに右のスクリューの可変ピッチプロラの角度を逆方向へ変えた。

 

 これにより右回頭中であった白雪の船体は、右への最大舵角と、左前進、右後進の推進力によりさらに急激な回頭を行った。

 

 旋回半径を急激に狭めたことによって発生した遠心力により、白雪の船体は大きく左側へと傾く。

 

 その船体すれすれを6インチ砲の弾丸が高速で飛びぬけ、その先の海上に着弾して水柱を上げた。

 

「別方向からの射撃!? 初霜ちゃんの方向にも深海棲艦が居るのね!」

 

 白雪もその事実に気づく。同時に、それはつまりあの彼が深海棲艦の近くに居るという可能性にも気が付いた。

 

 であるならば、初霜に対し命令を下さねばならない。白雪はそう思い立った。

 

 下すべき命令の選択肢は、二つ。

 

 一つは見敵必殺。要救助者である彼の生存の可能性を無視し、敵を撃滅せよというもの。

 

 本来ならば、それでいい。非情だが、最優先すべきはこの海域から脅威を排除することだ。

 

 しかし・・・

 

(助けられるものならば、助けたい・・・!)

 

 あの彼も、そして今この霧と闇の中で右往左往している数多くの漁船たちも、何一つ失わずに守りたい。

 

 だが、もしもこの時、彼が放射性物質をもっており、かつ初霜に危害を加えようとしたあげくに作業艇を奪って逃走していたと白雪が知っていたならば、いくら温厚な性格の彼女でも彼を見捨て、見敵必殺を命じていたかもしれない。

 

 しかしその情報はジャミングにより遮断され、白雪まで届いていなかった。

 

(どうする? 私はどうすべき? いえ、違う。私は“どうしたい?”)

 

 迷うだけの猶予はほとんどない。

 

 白雪は、船体が回頭を終え、ル級の居る方角へ針路を確定するまでの十数秒の間に、覚悟を決めた。

 

(全員を助ける!)

 

 白雪自らが囮となって敵を引き付け、その隙に漁船群を避難させ、かつ救難信号を出していた彼を捜索・救助する。

 

 かなり危険だが、それ以外に方策は思いつかない。そして旗艦たる自分が下した決断である以上、最も危険な役目は自身で担うべきだ。

 

 白雪はそう決意し、そのための指示を出そうとした矢先のことだった。

 

 白雪は、初霜が居る方向から発光信号と、そしてさらに別の光の瞬きを視認した。

 

【初霜から旗艦へ。我、敵艦へ突貫す!】

 

 発光信号に続いて、闇の中に砲音が複数回鳴り響き、闇の中を砲弾が空気を切り裂いて飛んでいく気配がした。

 

 別の光の瞬きは、初霜の主砲の発砲だったのだ。それもル級の方向を狙っている。

 

 白雪は初霜の意図を悟った。

 

「初霜ちゃん、あなたが囮になる気!?」

 

 しまった、と白雪はたった十数秒でしかない逡巡をそれでも後悔した。

 

 白雪が決断に要したこの短時間よりも早く、初霜は同様の決断を下したのだ。

 

 しかし、

 

「これが、あの子のッ・・・!」

 

 たとえ最適解とはいえリスクがある選択肢を、わずかの躊躇もなく選び取る。

 

 海尾が、初霜という艦娘を評して「どこかまともではない」と言った意味を、白雪はいま思い知った。

 

 だが愕然としている暇はない。初霜を止めなければ。いや、それももう遅い。既に初霜は囮として動き出している。

 

 ならばこのまま行くしかない。

 

「初霜ちゃんのバカッ、帰ったらお説教よ!」

 

 白雪は怒りに声を震わせながら、発光信号を行った。

 

【了解、初霜は突貫せよ】

 

 発光信号で返信し、続いて初霜と村雨それぞれに対し発光信号を送る。

 

【初霜は敵を引き付けつつ南下せよ。村雨は漁船群の東側へ進出し、北へ避難誘導を行なえ。本艦は漁船群の西側にて避難誘導及び要救助者の捜索及び救助を実施する。尚、返信の要なし】

 

 一秒にも満たない時間に高密度圧縮された発光信号だが、それでも敵に位置を知らせるには十分過ぎる。

 

 白雪からの信号を受け取った村雨は、白雪と初霜が、次の瞬間には敵の砲撃に捉えられてしまうのではないかと肝を冷やしながら自分の船体を回頭させた。

 

 村雨の位置はちょうど漁船群を抜けたばかりの海域だった。村雨はいったん、漁船群の南側に回り込み、そこから東に針路を向けた。

 

「っていうか、こんな突然に、しかも戦艦まで出てくるなんて有り得ないし~!」

 

 半ば自棄気味に叫びながら、村雨は全速力で漁船群を追い越しにかかる。

 

 同時にマイクのスイッチを入れ、外部スピーカーで付近の漁船に向かって大音量で呼びかけた。

 

「警報、警報、深海棲艦出現! ここから東方、推定5海里から30海里に戦艦及び駆逐艦多数! 付近の船舶は直ちに北へ避難せよ。繰り返す、深海棲艦出現―――」

 

 村雨の警報を聴いて、霧の向こうに浮かんでいた漁船の灯火が次々と北へ向かって遠ざかって行く。

 

 初霜や白雪がいる西側に比べ、東側はまだそこまで霧が濃くない。それに日の出の時間が近くなってきたこともあり、空がかすかに白み始めていた。

 

「警報、警報―――」

 

 何度も警告を繰り返しながら東進する村雨の視界が、だしぬけに晴れた。

 

 霧の範囲から抜け出したのだ。進行方向上に、白んだ空と、淡く薄い蒼色を帯び始めた海面の境界線が、水平線としてはっきりと見えた。

 

 夜明けの海だ。

 

 太陽はまだその輪郭を見せていないものの、淡い光が幾重もの薄い帯となって放射状に空へと延びている。日の出まであと数十分というところだ。

 

 しかし村雨は、日の出直前の幻想的ともいえる海の景色には目もくれず、光学センサーを最大望遠にして水平線を捜索した。

 

 そして、僅かの間も置かず村雨は声を上げた。

 

「見つけちゃったもんね! 真っ正面に敵影視認!」

 

 水平線の向こうから僅かに顔をのぞかせているような、黒いシルエットが見えた。それは妨害電波の発信源の方角とも一致していた。

 

 間違いなく、戦艦ル級の影だ。

 

 まだ水平線よりも向こう側に居ながら、おそらく頭部だけは見えているという状態だろう。

 

「えっと、地理的光達距離って2.083×(√眼高+√全長)だっけ。私の艦橋の高さがざっと13メートルで、ル級の全長が約150メートルだから、ええっと・・・」

 

 ジャミングによってレーダーが使えないため、村雨は見えている情報のみで敵との距離を計算する。サポートAIを電卓代わりに使って導き出した距離は、約32海里(64000ヤード)。

 

 ル級の主砲である16インチ砲の最大射程は約35000ヤードなのでまだ射程外だが、しかし油断はできない。

 

 妨害電波の範囲内にはとっくに踏み込まれている上、その妨害電波を隠れ蓑として他の随伴艦が接近してくる可能性もあった。

 

 村雨のその予想通り、水平線上に新たな影が現れた。

 

 数は三。

 

 距離的にはル級よりもよほど近い位置に居るのだろう、クジラにも似た黒いシルエットが波を蹴立てながらこちらへと向かってくるのがハッキリと見えた。

 

 深海棲艦・駆逐艦ロ級だ。

 

 その姿が水平線の手前側に現れているということは、距離的には10海里も離れていないだろう。と村雨は見当をつけた。

 

 ロ級の主武装は5インチ速射砲、その最大射程は10海里前後なのですでに射程内に捕らえられている。しかし有効射程距離となると5海里以下だ。

 

 単に砲弾を遠くに飛ばす距離よりも、命中させることが出来る距離が短くなるのは当然だ。まして不規則に動いている目標に命中させる距離になるとそれよりもさらに短くなる。

 

 そしてこれはル級にもそのまま当てはまるし、当然ながら村雨自身にも当てはまる。

 

「ル級が32海里で、ロ級が10海里か。どっちも30ノットでこっちに来てるとしたら、それぞれの有効射程距離に入るまで、ロ級がざっと十分、ル級がざっと三十分ってところかな」

 

 村雨は、北上する漁船群に合わせて自らも北へ針路を取りながら、相手との接敵時間を計算する。

 

 ル級の電子戦支援を受けたロ級三隻は、漁船群に対し横一列になって接近しようとしていた。漁船群の東端で共に北上する村雨は、深海棲艦を右手に臨む形になっている。

 

「ル級がいなかったら楽勝なんだけどなぁ」

 

 村雨は苦笑気味に呟きながら、乾いた唇を舐めた。

 

 今のこの状態でロ級へSSSMを撃ち込んでも、ル級の電子妨害に遭い、命中率を著しく下げられてしまうので効果は薄い。そこにロ級自身の対空能力が加わるので、無駄弾にしかならないだろう。

 

 ただ、ル級自身がミサイル迎撃を行うその瞬間だけは、ル級がレーダーによる索敵を行う必要があるため、バラージジャミングが停止する。

 

 そのため、ル級にミサイルを撃ち込んでそれに対処させている間に、他の敵を攻撃するという手段も無いわけではない。

 

 しかしル級の対空能力は、ミサイル二十発以上を同時に撃墜するほどの高性能だ。村雨に搭載されている九発のSSSMでは焼け石に水ほどの意味さえない。

 

 せめて駆逐艦三隻がかりでSSSMを同時に撃ち込めば、その数は二十七発になるのでル級の対空能力を圧倒できるのに・・・

 

 ・・・と思ったが、初霜のSSSM搭載数は三発しかないことを思い出す。

 

「じゃあ二十一発しかないってこと? うあぁん、それじゃ困るんですけどぉ!」

 

 全弾同時発射しても一発当たるかどうかでは話にならない。

 

 そもそもそれ以前に、白雪と初霜はあの霧と闇の中で深海棲艦相手に格闘中だ。とても村雨の支援をしている余裕なんてないだろう。

 

「てことは私一人でル級とロ級三隻を相手しなくちゃならない訳ね・・・もしかして、私の人生ここで終了かしら?」

 

 短い人生だったなぁ。せめて彼氏ぐらい作ってから死にたかったなぁ。と不吉な考えが頭を過ぎったが、

 

「わわわ、ダメダメ、こんなこと考えてたらホントに死んじゃうから! 絶対に切り抜けてやるんだから! たとえミサイルが使えなくったって、まだ主砲も魚雷もあるんだよ。なんとかなるなる!」

 

 でもどうせこんな事態になるのなら、せめて逆落としの極意ぐらい、叢雲さんから聞き出しておけばよかった。

 

 なんてことを考えていた村雨の視界の中で、こちらに向かってくるロ級の前に水柱が上がったのが見えた。

 

 立て続けに上がったその水柱は、砲弾の着弾によるものだ。

 

 敵の砲撃か、と村雨は一瞬思ったが、遅れて聞こえてきた砲声は、敵とは反対側の西側からだった。

 

「味方の砲撃? もしかして初霜ちゃん?」

 

 囮役の初霜が霧の中から発砲し、存在を暴露しているのだ。

 

 ロ級も初霜の存在に気づいたのだろう、三隻中、二隻が南へと針路を変えた。

 

「初霜ちゃん、無事でいてよ・・・」

 

 仲間の安否を気遣いつつ、村雨は自らに向かってくる、残るロ級とル級に再び目を向けた。

 

「さぁて、村雨、やっちゃうからね!」

 

 

 

 

 その頃、南方警備艦隊司令部では、海尾と叢雲がスクリーンに映し出された海域戦況図を見上げていた。

 

 深海棲艦出現の情報が司令部にもたらされたのは、戦艦ル級によるジャミングが行われる十数秒前だった。

 

 救難信号発信の報を受け現場海域へ急行中だった基地航空隊の夜間哨戒機が、戦艦ル級一隻と駆逐艦ロ級三隻が突然出現したことを確認。それを通報した直後にジャミングを仕掛けられたのだ。

 

 現在、哨戒機はル級の電子戦攻撃及び対空攻撃の範囲外となる高度・距離を維持しながら現場海域周辺を飛行中だ。

 

 そのため司令部には引き続き現場の情報は入ってくるものの、当然ながらジャミング範囲内に居る十一駆には最初の通報以来、情報は届いていない。

 

(迂闊だった!)

 

 海尾は声を出して罵りたい衝動を必死に押しとどめた。

 

(深海棲艦が居るかもしれないとは予想していたが、まさか、戦艦まで含む艦隊がいきなり出現するなんて思わなかった。とはいえ、何の指示も出さずに部下を霧の中へ突っ込ませてしまうなんて!)

 

 後悔しても仕方ないことは分かっているが、しかしあまりにも想定外過ぎる事態だった。

 

 もっとも、この状況を説明できる解釈は二つあった。

 

 一つは出現海域を包囲している大艦隊と、その上空を常に監視飛行している大量の哨戒機、さらに宇宙空間から見下ろす監視衛星、この厳重な監視体制の全てを、敵の艦隊がすり抜けてきたか、それとも・・・

 

 ・・・いま十一駆が居るこの海域そのものが、これまで未確認だった新たなる出現海域だったのか。

 

 どちらも普段なら妄想レベルの可能性だ。しかし、現実に敵はそこに居る。

 

(そうだ、敵はそこに居るんだ。だったら今は、それにどう対処するのかが重要だ)

 

 海尾は気持ちを切り替え、再度、海域戦況図を見上げた。

 

 哨戒機からもたらされる情報によって逐次更新されるそれは、霧の外に居て可視光線による光学センサーでも捕捉可能なル級とロ級、そして村雨の正確な位置。

 

 さらに赤外線センサーによって霧の中の漁船群と、白雪、初霜の大まかな位置が表示されていた。

 

 霧の中の艦船の位置が大まかにしかわからないのは、霧によって赤外線が拡散されてしまうためだ。

 

 しかも駆逐艦たちはIR低減装置によって赤外線の発生自体を抑えているため、小型の漁船以上に捉えづらくなっていた。

 

 それでも時折行われる主砲の発砲により熱源が発生し、それが艦娘たちの位置を示していた。

 

 特に目立っているのが初霜の存在だ。

 

 彼女は霧の中で派手に発砲を繰り返しながら、漁船群の南側へと移動していた。

 

 その後を追って、東側から接近しつつあったロ級三隻中、二隻が南へと針路を変える。

 

「初霜のやつ、囮になる気だな!」

 

 思わず声を荒げた海尾に、傍らの叢雲が落ちついた様子で答えた。

 

「大丈夫、あの子は動体検知器を装備しているわ。バラージジャミング下では敵味方問わずレーダーは使えない。その状態で霧の中に相手を引きずり込めるなら、アドバンテージは初霜にあるわ」

 

「しかし、初霜のすぐ近くにはもう一隻深海棲艦が居るはずだ。無茶が過ぎる」

 

 哨戒機は救難信号の発信源近くから放たれた、味方以外の発砲も捉えていた。

 

 つまりそこにも深海棲艦が居るということだ。

 

 そして初霜は、何を思ったかその直後に発砲元である救難信号発信地点へ向けて最大戦速で接近し、そこをすり抜けて南下した。

 

 その場所をすり抜けた瞬間、そこで何が起きたのか、その詳細を海尾が知るすべはない。

 

 しかし初霜は攻撃を受けることなく南下を続け、そしてその後を深海棲艦が発砲を繰り返しながら追いかけていた。

 

 いくら初霜が動体検知器地によって敵の位置を把握できるとはいえ、命が幾つあっても足りない行為をしている事には変わりない。

 

 そして、そのような行為を取った理由とは?

 

 叢雲が海域戦況図を眺めて、言った。

 

「白雪と村雨で漁船群を挟んでいるわね。このまま盾になって漁船群を逃がすつもりだわ」

 

「そうしたい気持ちはわかるが、しかし・・・戦艦を相手に駆逐艦が守勢に回ってしまっては勝ち目がない」

 

「じゃあ、どうするの?」

 

 叢雲の問いに、海尾は思考を巡らせた。

 

 現場の艦娘たちは我が身を省みず漁船の保護を選んだが、交戦規程では敵の排除が第一目的であり、それが難しいならば撤退と定められている。民間船舶の保護はあくまで可能な限りの範囲内の話でしかない。

 

 もっとも海尾自身も現場に居たなら、艦娘たち同様に漁船を守ろうとしただろう。現に叢雲との初出撃のとき、海尾はその判断を下している。

 

 しかし、今、彼自身は現場から遠く離れた司令部に居る。

 

 自分が安全な場所に居ながら、部下にその命を盾にしろと命じることは出来なかった。

 

(撤退すべきだ)

 

 漁船を最後の一隻まで逃がそうと頑張れば、下手をすれば彼女たちが全滅しかねない。

 

 現場の彼女たちに漁船を見捨てさせることは酷だが、やむをえない。海尾は決意を固めた。

 

 しかし問題は、その指示をどうやって白雪に伝えるかだ。

 

 海尾がその方法を考え始めた、その時、

 

『クマ~』

 

 司令部に突如として、奇妙な鳴き声が響き渡った。

 

「なんだこれ?」

 

「もしかして、くまの声?」と、真面目な顔をして、叢雲が言う。

 

「おいおい、熊がクマ~って鳴くわけないだろ」

 

「いえ、だからくまの声よ」

 

 何を言っているんだ叢雲は?

 

 と、海尾が首をひねったところに、仁淀が口を挟んできた。

 

「司令、今のは球磨型軽巡一番艦・球磨さんからの通信呼び出しです」

 

「くま?」

 

『クゥマ~♪』

 

 その通りだ、みたいなニュアンスでまた鳴き声が響き、正面スクリーンの一画に彼女の姿が映し出された。

 

『球磨型軽巡一番艦・球磨だクマ。南方警備艦隊司令部、応答願うクマ~』

 

 栗色の髪の、あどけなさを多分に残したその少女は、事前に渡されていた人事資料の写真よりもさらに子供っぽく見えた。

 

 もっとも、実年齢ははるかに上だと分かっているが、それでも、しかし・・・

 

「なあ、叢雲。こいつ本当にクマクマ言ってるぞ」

 

「まあ人事資料に嘘を書くわけないし、当然だけどね・・・」

 

『お~い、司令部~、居るのはわかってんだぞ、返事しろクマ~、居留守使ってんじゃねえぞクマ~』

 

「こちら南方警備艦隊司令部、司令の海尾だ。ずいぶんと口の悪い奴だな」

 

 まあ、語尾のクマが間延びしているせいで嫌悪感より脱力感しか沸かないが。

 

 海尾の返答に、球磨は八重歯を見せて「にししっ」と笑った。

 

『口が悪いのは生まれつきだクマ。そんなことより十一駆が面白いことになってるクマね。戦艦が出張ってるとか楽しそうな祭りだクマ。球磨たちにも一枚かませろクマ』

 

「一枚かませろって、お前たちの現在地じゃ増援には到底間に合わないはず--」

 

 海尾がそう言いかけたとき、仁淀が何かに気づいて、海域戦況図を拡げて周辺の海域も示して見せた。

 

 そこに、味方の反応があった。

 

「球磨さんと那珂さんから現在地が送信されてきました。漁船群の北方20海里です!」

 

「お前ら、なんでもうそんな近くにいるんだよ!? こっちが指示した航海計画と全然違うじゃないか!?」

 

『うわさの“人喰い雷巡”を殺れるときいて全速力で駆けつけてきたクマ♪』

 

「血の気の多いクマだな、お前!」

 

 というか、人喰い雷巡は警戒していただけで、こっちから進んで倒せと言った覚えはないはずだが。

 

『褒められると照れるクマ』

 

「褒めたつもりは無い。・・・が、しかし結果的には好都合だな。球磨、那珂の両艦はこのまま南下し、十一駆の指揮下に入れ」

 

『了解だクマ。で、司令から旗艦に指示はあるクマか?』

 

 球磨は、旗艦である白雪がジャミング下にあって司令部と直接連絡が取れないことも把握して、伝言を買って出た。

 

「撤退だ」海尾は迷わず答えた。「戦艦の有効射程に捉えられる前に海域を離脱しろ。漁船の被害はこの際、止む得ない」

 

『この司令、鬼だクマ』

 

「俺を非難したければ帰投してから直接言うがいい。全員無事に帰ってきたなら喜んで罵られてやる」

 

『罵られて喜ぶとか変態クマ』

 

「任務遂行前に罵ることは許可しない。さっさと行け」

 

『にしし、了解だクマ。ここから約二十分で戦闘海域に突入するクマ!』

 

 スクリーンから球磨の姿が消えた。

 

 海尾はコンソールの席に深く座り直し、自分の顔を手で拭った。

 

 そんな海尾を、傍らから叢雲が眺める。

 

「・・・白雪と初霜が、撤退命令を受け入れるかしらね」

 

「白雪は受け入れるさ」海尾は目元を手で覆ったまま答えた。「俺の見えないところで沈ませるわけにはいかないんだ。もっとも、白雪の過去を考えるなら、彼女にとって受け入れ難い命令だとわかっている。それでも、白雪なら従ってくれると俺は信じている。・・・ただ、初霜は」

 

「救命行為に関わる場面での複数回に渡る抗命行為と独断専行。それが初霜の北方警備艦隊時代の評価だったわよね?」

 

「・・・・・・命令は下した」

 

 海尾は目の上から手を放し、海域戦況図に目を移した。

 

 司令としての役割は、部下たちが安心して全力を尽くせる様、作戦を立て、そして退き際を見極めてやることだ。

 

「・・・後は、現場の彼女たちを信じるだけだ」

 

 そして、起きた結果の全ての責任を負うこと。

 

 その役割の重さを、海尾は徐々に実感しつつあった・・・

 

 




次回予告

 奴だ。

 二年前の因縁の相手。

 初霜という艦娘の在り方を確定させるきっかけとなった、あの敵がここにいる。

 闇の中、霧の中、過去に囚われた者たちが、明日を求めて咆哮を上げる。

次回「第十七話・蘇える因縁」

「行け、初霜! その身に代えて、必ず奴を救助せよ!」



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第十七話・蘇える因縁

 時間は少し遡る。

 

 雷巡チ級による白雪への砲撃を確認した初霜は、即座に自らが囮となることを決断した。

 

 初霜は白雪へ発光信号を送ってその事を伝えると同時に、妨害電波の発信方向へ向けて、時限信管をセットした対空弾を仰角四十五度で発砲。そして再度回頭を行い、チ級へと針路を取った。

 

 発砲は敵への攻撃ではなく、初霜自身の存在を敵に暴露させるためのものだ。

 

 放った砲弾は時限信管によって高高度で爆散し、同じ方向に居る漁船群の近くに落ちることはなかった。

 

 これで付近にいる敵は初霜の位置に気づくはずだ。

 

 戦艦ル級のジャミングは最大30海里以上に達するので、ル級自体はまだ遠い可能性はあるが、しかしその場合、駆逐艦が先行している可能性が高い。

 

 そう考えながら初霜がチ級に針路を取り終えたころ、白雪から発光信号が届いた。

 

 

【了解、初霜は突貫せよ。初霜は敵を引き付けつつ南下せよ。村雨は漁船群の東側へ進出し、北へ避難誘導を行なえ。本艦は漁船群の西側にて避難誘導及び要救助者の捜索及び救助を実施する。尚、返信の要なし】

 

 

 白雪は初霜の独断専行を追認したうえで、それを積極的に利用する気だ。そして白雪は、この漁船群全てを守るつもりでいる。

 

「白雪さん、ありがとうございます」

 

 この短時間に、これだけ重大な方針と覚悟を決めた白雪に、初霜は感謝した。

 

(白雪さんの覚悟に応えるためにも、要救助者の安否を早く確かめないと・・・!)

 

 この霧の中で、彼の安否確認と、そして囮役を同時にこなせるのは、動体検知器を装備した初霜をおいて他に居なかった。

 

 初霜は動体検知器でチ級の動きを注視しつつ、各光学センサーと赤外線カメラ、そして電波探知装置の感度を最大限まで引き上げた。

 

 光学センサー、赤外線カメラにはまだ何も映らない。深海棲艦はほとんど熱を出さない冷たい存在なのだ。

 

 だが人間なら生きている限り体温をもっている。

 

 しかし霧が濃すぎるのと、そして対象となる熱源が小さすぎて赤外線カメラでもまだ捉え切れていないのだ。

 

 だから、近づくしかない。

 

 近づけば、熱を探知できるし、それにこのジャミング下でも救難信号を拾える可能性もあるだろう。

 

 動体検知器により、チ級もまた初霜に向かって動き出したのがわかった。

 

 その距離4000ヤード以下。霧が晴れていたなら、100m級の深海棲艦は手が届きそうなほど近くに見えるはずだ。

 

 そんな至近距離で、初霜とチ級はお互い真正面から接近しあう。彼我距離がみるみるうちに減っていく。

 

 距離3000・・・2000・・・

 

 ・・・1500、1000!

 

「取舵一杯!」

 

 正面衝突寸前に左へと舵を切った、それとほぼ同じタイミングで、初霜の正面で発砲炎と砲声が上がり、艦橋のすぐそばを砲弾が掠め飛んで行った。

 

「面舵一杯! 探照灯照射始め!」

 

 砲弾の衝撃波に艦橋を揺さぶられながらも、初霜は右に舵を切り替えしながら、右方向をサーチライトの強力な光で照らし上げた。

 

 チ級との距離は既に100メートルも離れていない。初霜はリンクしているセンサー類とは違う部分、自らの肌感覚で、闇と霧の向こうに巨大な気配が存在しているのを感じ取った。

 

 その存在の一部が、サーチライトの光によって浮かび上がる。

 

 すれ違うのは一瞬。巨大な影は、すぐに光の範囲から後方へと抜けていった。

 

 だがその一瞬でも、サポートAIが情報収集を行うには充分だった。フル稼働している各センサーが敵の正体を瞬時に分析し、結果を初霜に伝える。

 

 敵は雷巡チ級。そしてその個体識別情報までが判明した。

 

 あの“人喰い雷巡”である。

 

 その事実に初霜は総毛立った。

 

 奴だ。

 

 二年前の因縁の相手。

 

 初霜という艦娘の在り方を確定させるきっかけとなった、あの敵がここにいる。

 

 だが、しかし、それよりも更に重大な事実をセンサー類は捉えていた。

 

 救難信号の発信場所、そして赤外線カメラが感知した彼の居場所だ。

 

 それは、なんと、

 

「要救助者が、チ級の手の上に居るの!?」

 

 まるで捕らえられているかのようだ。これではチ級を攻撃できない。

 

 初霜は白雪の現在地を動体検知器と赤外線カメラで探し出し、その方向へ発光信号を送った。

 

【要救助者を発見。雷巡チ級に捕らえられている模様。本艦は敵をこのまま南へと誘因する】

 

【了解】

 

 白雪から返信を確認。発光信号の光は霧でかなりぼやけていたが、赤外線カメラではまだハッキリと捉えることが出来る。

 

 一方、後方へすれ違ったチ級は白雪ではなく初霜へと狙いを替えたようだった。

 

 チ級が初霜を追いかけるべく反転したのを動体検知器で確認し、彼女もまた南東へと針路を取る。

 

 まずはこのチ級を始めとして深海棲艦の戦力を漁船群から引き離すことが重要だ。

 

 初霜は漁船群の南側へと回り込む。

 

 そして漁船群の東側から迫ってくるであろう敵の注意を引くべく、その方向へ主砲を放った。

 

 漁船群が順調に北へと逃げていく中、動体検知器が東側から向かってくる二体の影を捉えた。

 

 妨害電波の発信方向とは別であり、またその大きさからみても恐らく敵は駆逐艦級だろう、と初霜は推測する。

 

 駆逐艦級との距離は動体検知器の探知距離ギリギリの10海里(約20000ヤード)。

 

 一方、後方から追いすがってくるチ級は5海里(10000ヤード)の距離に居る。

 

 初霜の主砲である12.7センチ連装砲の射程は12海里、有効射程距離なら5海里。チ級の装備する6インチ砲よりも威力は少ないが、射程は同等、そして命中率でははるかに上回る。

 

 初霜は、チ級と駆逐艦二隻なら砲撃戦でも充分に立ち回れる自信があった。

 

 初霜は引き続き南東へ進みながら、駆逐艦級へ向かって発砲を繰り返す。発砲後、敵からの反撃をかわすためにすぐに舵を取り、回避運動を行う。

 

 右に左にと切り返される初霜の航跡を追うように敵駆逐艦から放たれた砲弾が次々と着弾し、水柱をあげた。

 

 砲弾は大気を押しのけて進むので動体検知器で弾道をはっきりと捉えることができ、そのためある程度の距離を保っていれば避けるのは容易い。しかしそれでも二隻がかりの砲撃は油断できるものでは無い。

 

 これで後方のチ級までもが砲撃に加われば、流石に初霜も避けきる自信は無かった。

 

 が、どういう訳かチ級は攻撃を控え、徐々に距離を離しつつあった。

 

(撃ってこない? ・・・まるでこちらを観察しているようだわ)

 

 距離を離しつつも、針路は初霜を追い続けている。

 

 理由は不明だが、取り敢えず駆逐艦級二隻を先に叩けるならばそれに越したことは無い。初霜はチ級の動きにも注意しつつ、駆逐艦級からの砲撃を至近弾で回避する。

 

「大丈夫、まだ遠いわ!」

 

 水柱の飛沫をあびながら、初霜は自分自身に言い聞かせた。

 

 しかし、この霧の中、敵の砲撃もかなり正確だ。恐らくこちらが発する赤外線を深海棲艦に捕らえられたのだろう、と初霜は推測する。

 

 何しろ先ほどから発砲を繰り返しているのだ。IR低減装置でタービンからの排熱を抑えていても、発砲炎と、そして冷却が追いつかず熱くなってしまった主砲の砲身からの熱は隠しようが無い。

 

 初霜は数と正確さを増した砲撃を冷静にかわしながら、敵駆逐艦二隻との距離を詰めていった。

 

 初霜からは時折、牽制用に数発を撃ち返すだけで、まだ本格的には反撃しない。

 

 中途半端な距離で全力射撃を行なってもそうそう命中するものでは無く、却って敵を警戒させて遠ざけてしまう可能性が高い。だから初霜は牽制用の射撃にしても敢えて狙いを外して撃っていた。そうやって敵を引きつけるだけ引きつけるのだ。

 

 初霜の周囲を敵駆逐艦二隻からの砲撃による水柱が囲み始めた。耳元にも直接、砲弾が空気を切り裂く甲高い音が引っ切り無しに聞こえてくる。

 

 弾道が見えているとはいえ、回避のタイミングはかなりシビアになりつつあった。その緊張感は半端なものでは無い。

 

 撃たれているという恐怖、不安。加速度的に高まっていくそれらを意志の力で押し殺しながら、初霜は敵との必殺の間合いを図り続けていた。ーーー

 

 

 

 

 

 一方その頃、漁船群の東側を守る村雨もまた、接近しつつある駆逐艦ロ級一隻から砲撃を受けつつも、その間合いを詰めようとしていた。

 

 村雨の居る場所は霧もほとんどなく、空も薄明るくなっていた。

 

 既に肉眼でもはっきりと視認できる距離にいるロ級が、5インチ砲を立て続けに発砲しながら、村雨に向かって真っ直ぐに向かってくる。

 

 村雨は動体検知器を装備していないので、レーダーがジャミングによって機能低下している現状では弾道を見ることができない。

 

 そのため村雨はランダムに蛇行運動を行うことで相手の砲撃をかわしていた。今の所、うまくかわせてはいるが、しかし、

 

「でもでもこれって、ほとんどギャンブルみたいなものだけどねぇぇぇ!!」

 

 軽口じみた言葉だったが、すぐ真横に水柱が上がった衝撃に、悲鳴じみた叫びをあげてしまう。

 

 村雨は額に脂汗を浮かべながら、主砲の発射トリガーを引きたい衝動を必死に堪えた。

 

「まだまだ・・・まだだからね・・・!」

 

 駆逐艦が砲雷撃戦だけで敵を沈めたければ、敵の白目が見えるくらい引きつけてから撃て、と昔教わったことを思い出す。

 

 お互いに動き回る数千ヤード以上も離れた目標への命中率など、良くて一割に届くかどうかだ。その上、駆逐艦の12.7センチ砲など対艦戦闘では豆鉄砲ぐらいの威力しかない。

 

 それを補うためには、ギリギリまで接近して命中率を高め、集中的に砲弾を叩き込むしかない。

 

 敵の砲撃をかわしつつ間合いを計りながら、村雨はふと、姉妹艦である駆逐艦・夕立のことを思い出した。

 

 夕立はこの接近戦を誰よりも得意としていた艦娘だった。

 

 いつだったかの敵泊地への殴り込み作戦では、星明かりもない夜の闇の中、敵の大群の中へ単艦で飛び込み、大暴れするという真似までしてみせた。

 

 その結果、駆逐艦たった一隻で巡洋艦級を一隻轟沈、さらに巡洋艦級二隻と駆逐艦級一隻を大破させるという戦果を挙げてみせたのだから尋常ではない。

 

 まあその戦果と引き換えに夕立は船体を沈められてしまったのだが、本人とAIデータは僚艦だった五月雨に救助と転送されて無事に帰還を果たしている。

 

 なお、その殴り込み作戦では二日後の夜にも再突入が行われ、この時は駆逐艦・綾波が同じように敵中へと飛び込み、駆逐艦級四隻を撃沈、戦艦級一隻を中破という戦果を挙げた後に沈んでいる(艦娘とAIデータはやはり帰還しているが)。

 

 この二隻の戦いぶりは駆逐艦娘の戦闘力の高さを世界中に喧伝してみせたが、同時にその余りにも命知らず過ぎる戦いぶりに司令部が懸念を示し、駆逐艦による敵陣への突入は邪道の戦法と見なされ戦技として正式採用される事は無かった。

 

 生還した二人の艦娘も既に引退し、今では村雨の同期たちが襲名している。

 

 叢雲が「逆落とし」を村雨に教授してくれなかったのも、この理由からだ。

 

 だが、しかし、

 

「距離5000。いい感じ、いい感じ。じゃあ、いっちゃいますか!」

 

 村雨は大きく舵を切り、艦首をロ級に向けた。そのまま最大戦速で突っ走る。

 

「主砲連射、撃ち方はじめ!」

 

 村雨の前部主砲が轟音を発して火を噴き、毎秒一発の連射速度で12.7センチ砲弾が放たれる。

 

 距離5000ヤード以下で放たれた弾丸はほぼ直進弾道でロ級の身体をかすめていく。

 

 ロ級が方向転換して回避行動を取るが、村雨の主砲は砲塔を旋回させて狙いを外す事なく砲弾を浴びせ続けた。

 

 砲弾は三発、四発と海面上に現れているロ級の背面部をかすめ飛び、そして五発目が遂にその横腹に命中した。

 

 厚い肉の壁により砲弾は体表にわずかに減り込んだ程度であったが、遅発信管により砲弾が爆発、周辺の体表組織を抉るように吹き飛ばした。

 

 そのダメージに、ロ級が獣のような咆哮をあげる。

 

 ダメージは体表組織のみで致命傷には程遠いが、それでもロ級の動きを一瞬とはいえ鈍らせるには十分だった。

 

 そのわずかな隙に、村雨はさらに砲弾を浴びせ撃つ。

 

 六、七、八発と至近弾が続き、それを見ながら村雨は照準を修正、十発目から立て続けに命中弾を与えることに成功する。

 

 ロ級の全身が爆炎と水柱に包まれた。

 

 さらに動きが鈍ったロ級に対し、村雨は舵を切って船体の側面を見せる態勢へと移行する。こうすると被弾面積が増えてしまうが、同時に前後部合わせて三基の砲塔全てで攻撃することが可能となる。

 

「全砲門、斉射、撃ち方はじめ!」

 

 三基六門が一斉に火を噴き、村雨の華奢な船体を震わせた。

 

 もはや3000ヤード程度しか離れていない敵に砲弾が殺到し、ほぼ同箇所に集中着弾した。

 

 その破壊力は体表のみならず体内深くにまで達し、それにより砲撃用の可燃性物質に引火したのだろう、ロ級のクジラじみた巨体を前後二つに引き裂く大爆発を生じせしめた。

 

「うわわわわわ!?」

 

 その爆発が余りにも近かったために、衝撃波と横波が、村雨の船体を大きく揺らした。

 

 村雨はさらに回頭し、爆発地点から遠ざかる。

 

「ふぃ~、危なかったぁ。でもこれで一隻撃破だよ。ふっふっふ~。どう、白露型駆逐艦の実力、侮れないでしょ」

 

 沈みゆくロ級の残骸に指を突きつけ言い放つ。

 

 ほとんど独り言だが、戦闘中にテンションが上がって余計なことを口走るのは、彼女の癖みたいなものだった。ジャミングがかけられていなければ、もしかしたら僚艦からうるさいと苦情が来たかもしれない。

 

 と村雨はそこまで考えて、そうだジャミングだ、と思い出す。

 

 ル級のジャミングをなんとかしない事には、まだ霧が一部で立ち込めているこの海域ではあまりにも不利だ。

 

 せめて味方にも戦艦か重巡が居れば高度な電子戦を繰り広げることが出来るのだが、しかし、無い物をねだってもしょうがない。

 

「ま、ル級はまだまだ遠いし、初霜ちゃんも他の敵を上手く引きつけてくれたし、漁船群も順調に逃げてくれているし・・・このままなら、大丈夫だよね」

 

 一時はどうなるかと思ったが、取り敢えずは何とかなりそうだ。

 

 そう思った時--

 

 --村雨の目の前に、突如として、黒い影が浮上した。

 

 真正面、それも至近距離だ。

 

 真黒な紡錘形の身体の正面に巨大な一つ目が青く輝き、その下で牙を並べ立てた巨大な顎が、大きく上下に開かれていた。

 

 深海棲艦、駆逐艦ハ級だった。

 

「面舵! 最大舵角!」

 

 正面衝突寸前に、村雨はかろうじて右への回頭に成功する。しかし完全にかわしきれた訳では無かった。

 

「やばいっ!?」

 

 村雨は咄嗟に手近の手すりにしがみついた。

 

 彼女の視界に、艦首とハ級の頭部側が互いにすれ違っていく光景が映る。

 

 その次の瞬間、耳をつんざくような衝突音と共に、艦橋が突き飛ばされた様に右へと大きく傾いた。

 

「--ひっ!?」

 

 その激しい衝撃に村雨自身も吹っ飛びそうになるのを、手すりにしがみついて何とか堪える。

 

 村雨の船体とハ級は接触したまま、互いに左側面を擦り付け合いながらすれ違う。

 

「うわわわあ! わあああ!?」

 

 激しい振動と、大量の火花を散らしながら両者は交差し終え、ようやく離れた。

 

 ハ級が村雨の後部へと抜け、そのため今まで右へ大きく傾いていた船体が今度は左へと大きく振れ戻った。

 

 その揺れの中で、村雨はすかさず後部主砲二基を後方のハ級に向けた。

 

「こんのおおお!!」

 

 後部主砲二基四門が立て続けに火を噴き、まだほとんど離れていないハ級の後部をえぐっていく。

 

 ほぼ全弾が命中し、ハ級の後部をズタズタに破壊した。

 

 ハ級は後部側から大量の気泡を吹き上げながら沈み込んでいき、頭部側を高々と持ち上げた直立状態となって海中へと没していった。

 

「は・・・ハ級の撃沈を確認・・・」

 

 いまだ左右に大きく揺れる艦橋で、村雨は荒く息を吐きながら撃沈を宣言した。もう軽口を叩く余裕もない。

 

(また、いきなり現れた・・・!?)

 

 しかも今の出現の仕方は、敵にとっても想定外だったように、村雨には感じられた。

 

(まさか、ここ、本当に未知の出現海域なの?)

 

 考えたくもない最悪の可能性が彼女の脳裏をよぎった時、艦橋に警報が鳴り響いた。全周囲を警戒中の光学センサーが、新たな目標の出現を捉えたのだ。

 

「北の方角? 嘘でしょ!?」

 

 咄嗟に目を向けた村雨の視界に、最悪の状況が映し出されていた。

 

 センサーによって拡大された視野の中、霧の無い北の水平線に、新たに四隻の深海棲艦の影が見えていた。いずれも人型では無い。

 

 サポートAIが無機質に報告する。

 

『敵の増援を確認。数は四。種別、駆逐艦ハ級。単横列にて南下中』

 

「やっぱり、こっちに向かってくる!」

 

 折しも、漁船群の一部が霧から抜け出し、深海棲艦の前に姿を現してしまっていた。

 

 村雨は北に針路を変更。汽笛を吹鳴する。

 

「みんな、そっちに行っちゃダメぇぇぇ!」

 

 汽笛の巨大な重低音が、夜明け直後の白々とした空と海に長々と響き渡った。

 

 村雨の警告に、霧から抜け出した漁船たちが戸惑ったように速力を落とす。小型漁船は駆逐艦と比べて目線が低く、まだ北方のハ級が見えていないのだ。

 

 村雨は北上しながら漁船群を追い越しつつ、外部拡声器を最大出力にして呼びかけた。

 

「北方にも深海棲艦出現! 私が前に出るから、みんなは離れてついてきて!」

 

 この声が果たして漁船に届いているかどうか、それは定かでは無い。しかし、もし聞こえていなかったところで、漁船群に取れる行動の選択肢など北に向かう以外に無いのが現状だ。

 

 東からは戦艦ル級。南には濃い霧と、その中に雷巡チ級と駆逐艦ハ級が二隻。そして西はまだ暗く、さらに霧もまだまだ濃く残っている。レーダーが使えない中、まだ敵が出現するかもしれない海域で霧の中へ飛び込んで行くのは自殺行為に等しい。

 

 ならば、視界が晴れており、また島への帰投進路でもある北へ向かって、一か八か強行突破するしか無い。漁船の漁師たちはそう腹を括ったはずだ。

 

(私が盾になって、ここを突っ切る・・・!)

 

 村雨はもはや軽口も叩かずに、心中静かに覚悟を定めた。

 

 事に臨めば死中へ飛び込むことも躊躇わぬ心構えは、艦娘である以上、誰しもが持ち合わせているものだった。

 

 村雨は漁船群を追い越し、ハ級の単横列に向かって真っ直ぐに突っ込んで行く。

 

 その村雨の左側に、同じく敵へ向かって北上する艦が居た。

 

「白雪さん?」

 

 漁船群の西側に位置していた白雪もまた、漁船群に合わせ北上していたのだ。

 

 そして霧から抜け出したところで、村雨よりも先に北の敵影を発見し、そしてやはり彼女も北への強行突破を選択していた。

 

 位置的には、白雪の方が村雨よりも前に出ている。

 

 白雪から村雨へ発光信号。

 

【本艦後方5000から3000の距離につけ】

 

 さらに続けて、

 

【これより北方の敵へ突撃する。砲雷撃戦用意。我に続け】

 

「え、これって?」

 

 単縦陣による敵陣突撃、それはまさに、

 

「もしかして逆落とし? 待ってましたぁ!」

 

 駆逐艦の必殺奥義、逆落とし。軍によって禁じられたこの技を古参の先輩が自分と共に仕掛けようとしている。

 

 この事実に、村雨のテンションは最高潮に達した。

 

 村雨は白雪の後ろにつき、その後を追う。正式な単縦陣成形の信号を令さなかったという事は、これから回避行動のため、かなり突発的で変則的な操艦を行うという事だ。村雨は白雪の後を追うことだけに集中する。

 

 その時、彼女たちが向かう先のハ級四隻が、接近する白雪と村雨に気づき、左へと一斉回頭を行なった。

 

 これでハ級四隻は、白雪・村雨に対し右側面を見せながら東へと進む単縦列となった。

 

 これは北上する白雪・村雨に対する丁字戦法だ。

 

 北への進路を妨げる形に布陣したハ級四隻が、先頭の白雪めがけ集中砲火を浴びせかけた。

 

 白雪は急速左回頭。その数秒後、白雪の周囲を取り囲むように水柱が乱立する。

 

 夾叉弾だ。

 

 後方の村雨はその光景に息を飲みつつ、白雪の航跡を追って彼女も左回頭を行う。

 

 村雨の艦首に、水柱によって吹き上がった大量の海水が雨のように降り注いだ。その雨の向こうに、白雪の姿が見えた。

 

 どうやら白雪は無傷のようだ。

 

 その白雪が、今度は右へ急速回頭。同時に前部主砲を連続発砲。その狙いはハ級四隻の最も東側に位置する、単縦列の先頭艦に向かってだった。

 

 砲弾は命中しなかったものの、まるで相手の視界を塞ぐかのように、ハ級の前方に次々と着弾し、水柱を屹立させた。

 

 ハ級四隻は白雪に向かって更に発砲。

 

 対して白雪はランダムに回避行動を繰り返しながら、乱立する水柱を縫うように相手へと接近していく。

 

 その操艦は、追従する村雨から見て、まさに神業のように思えた。

 

 ランダムな蛇行運動による回避は村雨も先ほどやってのけたが、たった一隻の駆逐艦相手でさえギャンブルめいた行為だったのだ。それを白雪は、四隻からの集中砲火の中でやってのけている。

 

「さっすが元練習艦隊嚮導艦、ベテラン艦娘は格が違いますね!」

 

 そういえば白雪が練習艦隊時代、村雨も乗艦実習で世話になった覚えがあったことを今更思い出す。

 

 昔も今も終始温厚な笑顔を浮かべているイメージしかないが、この鉄火場で、白雪は今、どんな顔をして操艦をしているのだろうか。

 

 そんなことをふと思った村雨の視界に、白雪から発光信号が瞬いた。

 

【右対水上戦闘。短魚雷発射方向、右舷】

 

 いよいよだ。村雨はすかさず返信。

 

【射撃用意よし。短魚雷発射用意よし】

 

【敵と反航態勢になったところで個艦判断により砲撃開始。短魚雷については本艦の令により発射せよ】

 

【了解】

 

 白雪・村雨は蛇行運動を繰り返しながら、ハ級単縦陣の進行方向である東側へと移動していた。

 

 つまり当初はハ級単縦陣が横棒、白雪・村雨が縦棒となる丁字の態勢であったのが、 ̄/の態勢へと変化したのだ。

 

 白雪と敵との距離が5000を切る。

 

 互いの砲撃が直進弾道を描き、海面に着弾した砲弾が水柱ひとつを上げるに留まらず、水切りの要領で何度も跳躍し、互いの船体の前後を飛び抜けていく。

 

 距離4000。

 

 白雪の放った砲弾が海面を跳躍しながら先頭のハ級の水線下、艦尾付近に命中。ハ級は推進機関を損傷したのか、その速度が急激に落ちた。

 

 そのため後続のハ級との距離が詰まり、衝突を避けるためにこれらも速力を落として左右へと回頭していく。

 

 これによりハ級の単縦陣の陣形が崩れた。

 

 白雪はその機を逃さず左へと急速回頭、敵に右舷を見せる反航戦の態勢に移る。

 

 白雪の後部主砲二基も射撃を開始。

 

 それに従い、村雨も砲撃を開始する。

 

「目標、ハ級先頭艦! 全砲門斉射、 撃ち方はじめ!」

 

 白雪と村雨の砲撃が先頭艦に集中した。

 

 大量の火柱と水柱が先頭艦を包み込み、相手はたちまち大炎上を引き起こす。

 

 白雪・村雨はその横を通り過ぎ、残る三隻とすれ違う態勢となる。

 

 白雪が短魚雷三発を発射。

 

 そしてわずかに間を置き、白雪から発光信号。

 

【短魚雷発射、三発】

 

「了解、短魚雷発射!」

 

 村雨のSSSM発射管から短魚雷が次々と発射された。

 

 計六発の短魚雷が、右往左往するハ級三隻に向かって突き進む。

 

 まず先に発射された白雪の魚雷が二隻に命中した。

 

 しかし一隻は仲間の影に隠れる形になり、そのため残る一本の魚雷は、すでに致命傷を負っていたハ級に命中し、その身体を粉微塵に吹き飛ばした。

 

 生き残ったハ級最後の一隻が、仲間の残骸の影から姿を現わす。

 

 そこに、時間差で放たれた村雨の魚雷が殺到した。

 

 駆逐艦一隻に魚雷三発。

 

 耐久限界を遥かに超えるダメージを受け、最後のハ級は巨大な水柱の中に消えた。

 

「いやったぁぁ!」

 

 多少のオーバーキルがあった以外はほぼ完璧ともいえる逆落としに成功し、村雨は歓声をあげた。

 

 しかし、そこにさらに白雪から発光信号が届く。

 

【北の方角に敵のさらなる増援を確認】

 

「えぇっ!? まだ出てくるの!?」

 

 白雪は右回頭、再び北へと針路を取る。

 

 それを追って同じく回頭した村雨が見たものは、やはり単横列で南下してくるハ級四隻の姿だった。

 

「これ、もしかしてさっきの“やったぁ”でフラグ立てちゃったとか?」

 

 でもおきまりのフラグと言えば“やったか?”だよねぇ。

 

 と、どうでも良いことを考えてしまった村雨の前で、白雪が再び、【我に続け】の信号を送ってきた。

 

 白雪と村雨は息つく暇もなく、新たな敵へ向かって突撃する。

 

 先程と同じ単縦陣で進む彼女たちに対し、新たなハ級四隻は横列陣形のまま反航してきた。そのため先程よりも早くに砲撃射程距離に達し、互いの主砲が火を噴いた。

 

 白雪・村雨は再度、蛇行運動を開始。

 

 左右に大きく避けることが出来る彼女たちに対し、横列陣形のハ級は隣に僚艦がいるため、小幅な回避運動しかできない。

 

 とりわけ内側の二隻は両側に僚艦が居るために回避スペースがほとんど無く、ほぼ直進状態となっていた。

 

 白雪はそれを見逃さなかった。彼女の砲弾が、その内側の一隻に集中する。

 

 数発の至近弾の後、一発がそのハ級に命中した。

 

 大きな損傷は与えていないものの、そのハ級だけ速度が急速に落ちていく。これで敵の一隻が落伍。

 

 そう見えた、次の瞬間、残る三隻が一斉に左右へと別れた。

 

 損傷した一隻と、その隣にいたもう一隻が転舵、反転し、白雪たちに艦尾を向けて同航態勢となった。まるで逃げるかの様だが、そうではない。なぜなら外側の二隻が左右へと別れ、白雪と村雨の両脇をすれ違っていったからだ。

 

 村雨はその意味をすぐに悟った。

 

「しまった、回り込まれた!?」

 

 回避行動を取れない内側二隻を囮に使った挟撃戦法だ。焦る村雨に対し、白雪から発光信号。

 

【前方の二隻を先に撃破する】

 

 白雪は蛇行運動を止め、直進針路で前方を進むハ級二隻を追う。しかしその前方二隻も、後部側に主砲を向けて発砲してきた。

 

 さらに後方へと回り込んだ二隻からも砲撃を次々と浴びせかけられ、白雪と村雨の周囲を水柱で取り囲んだ。

 

「ちょ・・・うわ、これーー本当にヤバイかもぉぉ!?」

 

 後方の敵とは、すれ違ってから回り込むまでのタイムラグのために距離がまだ離れていたものの、前方の二隻とはかなり距離が近づきつつあり、それこそ船体をかすめる様な至近弾が次々と飛来していた。

 

 そんな中でも白雪は冷静に砲撃を行い、一発、また一発と確実に敵へと命中弾を与えていた。しかし先程の様な二隻による全砲門一斉射撃や、雷撃戦が出来る様な態勢ではないために、なかなか敵に致命傷を与える事が出来なかった。

 

 一方、後方から迫る敵二隻との距離は徐々に近付きつつあった。村雨も後部主砲を使って敵へ反撃していたが、前後から砲撃を受けているこの状況で、白雪の様に、冷静に正確な射撃を行うだけの技量は彼女にはまだ無かった。

 

 村雨の艦尾すぐ近くに水柱が上がり、一瞬遅れて水中に没した敵の砲弾が爆発する。

 

 それはまさに村雨の艦尾真下だった。

 

 水中爆発の衝撃が、村雨の艦尾に襲いかかる。

 

「--くぁっ!?」

 

 背後から強烈に突き飛ばされたかの様な衝撃に船体が揺れ、さらに進路が大きく右へと逸れた。

 

 それはちょうど白雪が左へと回頭していこうというタイミングだった。そのため白雪と村雨は図らずも左右へと別れる形になってしまう。

 

 それに気づいた村雨はすぐに針路を戻そうと取舵を取った。

 

 だが、しかし、

 

「舵角が変わらない? --舵をやられた!?」

 

 村雨がその事実に気づいた直後、サポートAIが舵故障を報告した。

 

『油圧回路破損により舵機モーター圧力低下。舵機室で火災発生。操舵不能』

 

「応急操舵配置につけ! 人力操舵、急げ!」

 

 村雨の命令に、艦内のメンテ妖精たちが素早くダメージコントロールに動き出す。

 

 舵故障の原因は、水中爆発の衝撃によって艦尾の舵柄に強い負荷がかかり、それによって舵を動かすための油圧モーターが破損したためだった。

 

 それだけでは無く、油圧モーターにかかった圧力により電装系にまで過電流が流れ、それによって電気回路がショート、弾けた火花が配管から吹き出した油圧モータ用の制御油に引火し、舵機室を火の海に変えていた。

 

 だが、駆けつけた妖精たちは大火災を物ともせずに舵機室へと突入していく。

 

 妖精たちは二手に分かれ、一方は火災の消火に、そしてもう一方は火の海の中で舵の手動操作ハンドルに取付いた。

 

 サポートAIからの報告。

 

『人力操舵可能、人力操舵用意よし』

 

「人力操舵始め! 取舵一杯!」

 

 火と煙と消化剤が吹き荒れる地獄の様な舵機室で、メンテ妖精は村雨の指示に従い手動操作ハンドルを力の限りに回し出す。

 

 舵角取舵30度。船体はようやく左へと回頭を開始した。舵柄そのものは無事であることを確認。

 

 しかし既に白雪とは大きく離れてしまい、そして後方のハ級にはさらに接近されてしまっていた。

 

 このままでは、各個撃破の憂き目に遭う。

 

(どうする? まだ白雪さんに追いつける? いや、それは難しい。だったらいっそ、不利を承知で反転、後方の二隻に単艦で立ち向かうか--)

 

 だが手動操作の舵では、今までの様な回避行動は不可能だ。

 

 これでは不利どころか、勝ち目など万に一つも無かった。

 

 万事休す。

 

 村雨が諦めかけた、その矢先--

 

 

 --村雨の前方、白雪が追いすがる同航のハ級二隻が、突如として同時に大爆発を起こしたのが見えた。

 

「おお! これってもしかして白雪さんの攻撃? さすが、やるぅ!」

 

 村雨は歓喜の叫びを上げたが、その直後に疑問を覚えた。

 

 いくら白雪の練度が高いとは言え、前部主砲一基のみでハ級二隻を同時に爆沈にまで追い込めるものだろうか。それに、あの爆発は主砲の攻撃によるものというよりも、むしろ魚雷攻撃によるものではなかろうか。

 

 村雨がそう考えていたとき、爆発によって海面を覆い尽くしていた大量の黒煙を突き抜けて、一隻の艦が姿を現した。

 

 駆逐艦よりも一回り大きなその船体は、5500トン級の軽巡洋艦に間違い無かった。

 

 それが発光信号を放ちながら、最大戦速、真反航でこちらへ突っ込んでくる。

 

【艦隊のアイドル、那珂ちゃんだよ~。センターは任せてね!】

 

 そうか、あれが合流予定の新たな僚艦、川内型軽巡三番艦・那珂か。ハ級を葬ったのは彼女だと村雨は納得する。

 

 けれど、センターは任せてとかいきなり何を言っているんだろう、この人は?

 

 と、一瞬呆気にとられたが、前方の白雪からすぐさま発光信号が来た。

 

【村雨はそのまま急速左回頭せよ。急げ!】

 

 つまりこのまま取舵一杯を維持して左へと逃げろと。なぜかと言えば、それは那珂が突っ込んで来るからであり、ああ成る程、さっきの発光信号は白雪と村雨のど真ん中を突っ切って行くから避けろと言うことだったのか--

 

「--てぇぇ、待って、待って!? 近い近い近いからぁ!!」

 

 前方から那珂の船体が、右に避けた白雪とかすめるようにしてすれ違い、村雨めがけ真っ直ぐに迫りつつあった。

 

 先の深海棲艦とに続き、正面衝突の危機はこれで二度目だ。しかも今度は味方の艦とか洒落にならない。

 

 しかしなんとか村雨は左へと回頭し、ギリギリでの回避に成功した。

 

 彼女のすぐ真横、距離にして30メートル程度しか離れていない場所を、那珂が高速ですれ違って行く。

 

 その時、相手の艦橋の右ウィングに、こちらに向かってウィンクと投げキッスをする艦娘の姿を村雨は認めた。

 

 この危険な操艦で僚艦を衝突の危機に晒しておいて、その余裕と態度は一体なんなのか。村雨は怒りを通り越して呆れ果てた。

 

(むしろもう、感心するレベルだわ・・・)

 

 そう思っている間に、続けてもう一隻、同じく5500トン級の軽巡がやはり最大戦速ですれ違っていった。

 

 船体側面には「クマ」と記されている。球磨型軽巡の、球磨だ。

 

 那珂と球磨は単縦陣で、残るハ級二隻へと迫って行く。

 

 この軽巡二人は、味方との正面衝突の危険さえ無視して突き進んだ艦娘である。

 

 であるから、敵に対してはそれこそ全く躊躇う素振りも何もなく、まさにぶつける勢いで突撃を敢行していた。

 

 距離は一瞬で詰まり、ハ級二隻は慌てたように左右へと別れていく。

 

「右、もらうよ!」

 

「左、魚雷発射だクマァ!」

 

 すれ違いざまに左右へ放たれた魚雷により、ハ級二隻がほぼ同時に爆沈した。

 

【球磨ちゃん、ナーイス。で、次はどうしちゃう?】

 

【雑魚を瞬殺した程度じゃ、球磨はまだ満たされないクマ。もう少し楽しませろクマ】

 

【オッケー】

 

 次発装填装置が稼働し、空になったSSSM発射管に新たなSSSMが装填される。

 

 那珂と球磨に搭載されている発射管は二連装二基。搭載SSSMは無人機搭載用も含め各九発ずつであり、ハ級に対し二発を使用したため、残弾数は各七発だった。

 

 那珂と球磨は速度を落とすことなく、左へと回頭。東から迫りつつあるル級へと針路を向ける。

 

 東の水平線には既に太陽が昇り、その太陽を背にして巨大なル級のシルエットが水平線に仁王立ちしていた。

 

 その距離目算で約20海里。

 

 お互い、35ノットを超える速力で近づき合っているため、その相対速力は70ノットを超えており、それにより彼我距離が瞬く間に縮まって行く。

 

 彼我距離15海里。

 

 ル級の主砲の射程内である。その時、先頭を走る那珂は、ル級のシルエットが大量の砲煙に包まれるのを目撃した。

 

【ル級発砲! 来るよ、球磨ちゃん!】

 

【ゔおおおお!】

 

 那珂は右へ、球磨は左へとそれぞれ急速回頭。

 

 左右に大きく展開した二隻の間に、ル級の放った砲弾が着弾した。

 

 16インチ砲六基十二門の全門斉射である。

 

 駆逐艦の主砲とは桁違いの破壊力を持つ十二発の砲弾は、軽巡二隻の間の海面を丸ごと覆すかのような巨大な水柱を生じせしめた。

 

 着弾の衝撃と、それによって引き起こされた津波のような波紋が、左右に避けた那珂と球磨の船体を大きく揺さぶる。

 

 しかしそんな状態にあっても、この二隻は果敢に攻撃を開始した。

 

「いっくよ〜! 対水上戦闘、SSSM攻撃準備!」

 

「目標、戦艦ル級。発射弾数二発、SSSM発射始めクマぁ!」

 

 ル級に対し、那珂と球磨から各二発ずつ、計四発のSSSMが発射された。その四発のSSSMは上空へ向けて高く舞い上がる。

 

 SSSMは通常、自ら電波を発して目標をレーダーで探し出すのだが、それとは別にジャミングに対抗するため、妨害電波そのものを捉えてその発信源に向かって行くという機能を持っている。その機能により四発のSSSMは高空からル級へと弾頭を向け、真っ直ぐに突入を開始した。

 

 しかしその存在にル級も気づく。

 

 ル級はすかさず対空防御を開始。大出力を要する無差別バラージジャミングを一時停止し、代わりに強捜索用レーダー波を輻射してSSSMの正確な位置、速度を把握する。

 

 一方、SSSMは、目標としていた妨害電波が消失した事により、すかさずレーダーを起動してアクティブホーミングを開始、こちらもル級の正確な位置を補足する。

 

 しかしル級は、これに対しチャフ弾を放出。ル級の頭上に放たれた数発のチャフ弾が破裂し、その巨体を包み込むように大量の金属片が雪のように舞った。

 

 この金属片によりSSSMのレーダー波が撹乱されるが、しかしSSSMは弾頭部の光学センサー既に起動しており、これによりル級のシルエットをカメラで捉え、それを目標に軌道を修正する。

 

 ル級、尚も迫るSSSMに対し指向性の強力な電磁パルスを発信。

 

 これによりSSSM四発中、二発が内部コンピュータの電子回路を焼き切られ制御不能となり、海面へと墜落していった。しかし残る二発はこれを凌ぎきり、ル級への命中コースを維持し突入を敢行する。

 

 この一連の電子戦の攻防に要した時間は、ほぼ一瞬である。

 

 ル級は電子戦によるソフトキルから、対空砲火によるハードキルへと移行。5インチ砲及び機銃による弾幕を展開。レーダー照準による正確かつ高火力による濃密な集中猛射により、残る二発のSSSMもまた敢え無く撃墜されてしまった。

 

 だが、しかし、

 

「まだまだ行くよー!」

 

「SSSM発射だクマぁ!」

 

 那珂と球磨はさらに二発ずつ、計四発を発射。

 

 その四発は先ほどの四発とほぼ同じ飛行経路、電子戦、そしてル級による対空砲火により、やはり敢え無く撃墜された。

 

 これではほとんど墜とされるために撃ったようなものだった。

 

 ル級の対空対処能力は同時二十発まで対処可能であることは承知の事実であるから、たかが四発のSSSMなど無意味である。

 

 まして那珂と球磨SSSM搭載数は、予備弾を除けば最大八発しかない。二隻合わせても十六発全てを発射しても足りはしない。

 

 しかも、ここまで逐次発射を繰り返してしまった事により、今や二隻のSSSM保有残弾数は、予備弾を除けば二発ずつしかなかった。

 

 それなのに、

 

「第三弾、いっくよー!」

 

「残らず喰らっとけクマぁ!」

 

 那珂と球磨は躊躇うことなく残された二発をそれぞれ発射した。これで二艦が自力で撃てるSSSMは無くなってしまった。

 

  残る予備弾一発は無人偵察機用である。そして、その無人偵察機はもはや、既に--

 

 SSSM四発中二発がやはり電子戦に敗れ墜落する。

 

 ル級はソフトキルからハードキルへと移行、ルーチンワークの如く上空のSSSMへ対空砲火を浴びせようとした。

 

 

 まさにその時、

 

 

 ル級は、己の足元めがけ、海面すれすれを低空飛行しながら接近してくるクアッドコプターの存在を初めて探知した。

 

 それは那珂と球磨が放った二機の無人偵察機であった。

 

 四つのローターを四隅に装備したX型の機体の中央にSSSMを搭載し、波が打ちかかるほどの低空飛行でル級めがけ接近する。

 

 その存在に気づいたル級は、対空砲火の狙いを二機の無人偵察機に変更、足元に向け弾幕を張る。

 

 しかしル級の対空火器は上空への命中精度は高くとも、下方向へ撃つことは想定されていなかった。

 

 二機の無人偵察機は、海を波立たせるだけの弾幕を潜り抜ける。

 

 ル級は対空火器による撃墜が難しいと判断し、この無人偵察機の遠隔操作を断ち切るべく電磁パルスによるEMP及び再度バラージジャミングを開始する。

 

 だが無人偵察機はその電子攻撃に何の影響も受けなかった。

 

 なぜならこの無人偵察機は艦娘達によって遠隔操作されていたわけではなく、ル級の移動予測地点を目指して予め入力された飛行経路を辿っていただけのプログラム飛行だったからだ。

 

 レーダーを使っていたわけでも無いため、受信アンテナから電磁パルスを受信して電子回路を焼き切られることも無く、バラージジャミングも無意味だった。

 

 無人偵察機はル級の妨害行為を無視して、プログラムされたポイントでSSSMを短魚雷モードで投下、反転して離脱にかかる。

 

 その時、球磨の無人偵察機がついにル級の弾幕に捉えられ撃墜されたが、それがル級の最期の反撃となった。

 

 ル級の真下に潜り込んだ二発の魚雷が信管を起動、巨大な水柱と衝撃波がル級の巨体を飲み込んだ。

 

 ル級の両脚にある推進機関、150メートルもの巨体を支える脚部の各関節、そして要である腰部、下半身のあらゆる場所に構造限界を超える過負荷がかかり、その全てを破壊する。

 

 魚雷爆発の水柱が収まった時、ル級もまた同時に崩れるように倒れ伏し、もう一度巨大な水柱が跳ね上がった。

 

 だが、かろうじてまだ片腕を海面につき、上半身を起こしている状態だった。残る片腕で構えた主砲ユニットが、那珂と球磨に向けられる。

 

 しかし、その目の前にあったのは--

 

「残らず喰らっとけ。そう言ったはずだクマ」

 

 高空からの位置エネルギーを運動エネルギーに変え、それを推進力に加算した事により音速を超えた二発のSSSMが、ル級の胸に直撃した。

 

 戦艦の主砲にも匹敵するその破壊力に、ル級は上体を仰け反らせ、仰向けに海面へと倒れた。

 

 そして、もはやそこまでだった。

 

 下半身を失い、さら上半身に深刻な損傷を負ったル級は大破状態となり戦闘能力を喪失、周囲に大量の気泡を吹き上げながら、その巨体を徐々に水中へと沈めていこうとしていた。

 

 生き残った那珂の無人偵察機がその上空を旋回しつつ、ル級の最期を母艦である那珂に伝送する。もはや通信を妨げるジャミングも消失していた。

 

「ル級の沈黙を確認。やったね、球磨ちゃん」

 

「初歩的な手に引っかかる他愛もない奴だったクマ。それより霧の中の戦況はどうなっているクマ?」

 

「はいはい、ちょっと待ってね〜」

 

 那珂は無人偵察機をまだ霧のかかる海域の上空に飛ばし、レーダーと赤外線センサー、さらに自分の船体のソーナーも併用して霧の中の様子を観察する。

 

「ん~と、目標が六つ。スクリュー音から、一隻は味方の駆逐艦だね。SIFを探知、識別は初春型駆逐艦・初霜。残りの目標はみんなハ級っぽいね」

 

「駆逐艦一隻でハ級五隻を相手にしてるクマ? 面白い、早いところ加勢に行くクマ!」

 

「ん~、でも、もうその必要は無いかもよ。ハ級五隻中二隻は派手に炎上してるし、残り三隻には、ちょうど今、魚雷が三発向かってる」

 

「球磨のソーナーでも聞こえるクマ。初霜の魚雷クマね」

 

「しゃ、しゃ、しゃ・・・どっかーん。霧の中で爆発を確認。ハ級らしき物体三つの沈降音を探知。へぇ、あの初霜って子、やるう」

 

「初霜・・・例の事件で汚名を被っちゃいるけど、北方警備艦隊のエースとしても一部じゃ有名な艦娘クマ」

 

「ふ~ん、大したもんじゃない。まあ、それはそれとして、ところで球磨ちゃん?」

 

「なんだクマ?」

 

「第十一駆逐隊に司令からの撤退命令を伝えなくていいの?」

 

「そういえばそうだったクマ。--お~い、第十一駆逐隊、聞こえるクマか~。こちら今日から南方警備艦隊に配属される軽巡・球磨だクマ~」

 

「同じく那珂ちゃんでーす」

 

 無線が回復してから遠慮なく聞こえてくる二人の声に、白雪は半分ほど呆れながらも、返答を行なった。

 

「こちら第十一駆逐隊旗艦、白雪です。南方警備艦隊へようこそ。そして先ほどの支援、感謝します」

 

「固苦しい挨拶は抜きだクマ。それより司令からの命令を伝えるクマ。第十一駆逐隊は戦艦の有効射程に捉えられる前に海域を離脱せよ、だクマ」

 

「えっと、球磨さん。一つ確認したいのですが・・・。撤退の条件は、戦艦の有効射程ですか?」

 

「そうだクマ」

 

「では、戦艦を既に撃破した場合はどうなるのでしょうか?」

 

「そこは知らんクマ。球磨はただ、現場指揮官の判断に従うだけクマ~」

 

 球磨はしれっとそう答えた。

 

(あ、これは確信犯だわ)

 

 白雪がそう思ったのも束の間、すぐに通信回線から、海尾の怒鳴り声が日々渡った。

 

『くぉら、球磨! 那珂! なんで撤退命令を伝える前に戦艦に攻撃をしかけているんだ!?』

 

「勢い余ったクマ」

 

「それに反撃しちゃダメとも言われてないしね~」

 

『屁理屈にもならない理屈をこねるな。撃破できたから良かったものの、ル級の主砲を一発でも喰らってみろ。軽巡や駆逐艦じゃひとたまりも無いんだぞ』

 

「当たらなければどうということは無いクマ」

 

『やかましい。そもそも今さっき基地航空隊から電子戦支援機が飛び立ったという情報が入っところだったんだ。こいつが現場に到着すれば、お前らが無茶な攻撃をしなくてもジャミングにはある程度は対抗できたはずだ』

 

「なんだ、そういう事なら先に言って欲しかったクマ」

 

「まあ、でも敵はほぼ沈めちゃったけどね~」

 

「いいえ。まだ一隻、残っている敵がいます」

 

 不意に、そう会話に割り込んできた声があった。

 

 初霜だった。

 

 朝陽を浴びて真っ白に染まった霧の向こう側から、初霜の船体が姿を現わす。

 

「雷巡チ級。あの人喰い雷巡が、要救助者を手にしたまま、まだこの霧の中にいます」

 

 初霜はそう告げながら、人喰い雷巡のデータを各艦と司令部へ伝送する。

 

 球磨が受け取ったデータを眺め、不敵な笑みをこぼした。

 

「これが噂の人喰い雷巡かクマ。なかなか殺り甲斐がありそうな相手クマ」

 

 物騒なやる気を見せる球磨をよそに、白雪が訊いた。

 

「これはまさか、要救助者を人質に取っていると言うの?」

 

「そんなぁ」と村雨。「深海棲艦がそんな真似をするなんて聞いた事ないですよ」

 

『確かにイレギュラーな相手のようだ』と海尾。『しかしイレギュラーなのは人喰い雷巡だけじゃない。戦艦を含め深海棲艦が十七隻も予兆無く出現するなんて、まさに異常事態だ。やはり未知の出現海域で間違いない。ここに長居は危険だ』

 

「じゃあじゃあ、最後の一人は見捨てちゃうってこと?」と那珂。

 

 他の漁船群は既に北へ逃れており、限海域には、霧の中から救難信号だけが発信され続けていた。

 

『撤退だ』海尾ははっきりと告げた。『敵は一隻とはいえ、霧の中で救出活動を行うのはリスクが高すぎる。私は司令として、君たちの安全を優先する。--良いな、初霜』

 

 海尾は敢えて、初霜に対して念を押した。

 

 しかし、

 

「・・・・」

 

 初霜はそれに対してすぐには答えなかった。

 

 海尾の言葉を聞いていなかった訳ではない。無視した訳でもない。

 

 彼女はその時、別の声を同時に聞いていたのだ。

 

 しかしそれは音として聞こえた訳ではなかった。

 

 それは空気の波動。

 

 動体検知器が霧の中、あの救難信号が発せられているその場所から、わずかな波動が発せられたのを捉えたのだ。

 

 それがいったい、何を意味するのか、証拠はない。

 

 しかし初霜は、それが何であるのかを悟っていた。

 

 これは、悲鳴。

 

 人喰い雷巡に捕らえられた彼が叫んだ、悲鳴なのだと--

 

 

 



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第十七話・蘇える因縁(2)

 闇に沈んでいた霧が、朝陽によって真っ白に染まった。

 

 その中で“人喰い雷巡”チ級は身動ぎもせず佇んでいた。

 

 波も風も無い海面はのっぺりと広がり、そこに直立しているチ級の足元には波紋ひとつ起きていなかった。

 

 チ級の掌の上で、彼は、指の隙間から見える遥か下の海面を臨みながら、100メートルもあるこの巨躯がさざ波一つ立てずに海に立っているという現実に目眩を覚えた。

 

(なんだ・・・これは現実なのか・・・)

 

 彼は顔を上げ、チ級の上半身を眺めた。彼の位置からでさえ数十メートルはあるその上半身の上方は霧がかかり、かろうじて胸元までが見える程度だった。

 

 その胸には女性を思わせる豊満な二つのふくらみがあったが、それは艶めかしさよりもむしろ生理的嫌悪感を抱かせるものだった。

 

 人体そのままの姿が有り得ない大きさで目の前にあるという事実は、人間の理性や感情を超えた恐怖の対象でしかなかった。

 

 そしてその双丘の間から覗く先、霧に隠れたそこにぼんやりと浮かぶ、青白い燐光の輝き。

 

 それはチ級の目だった。

 

 白くのっぺりとした仮面に開けられた穴から覗くその目玉が、深い霧の向こうを見通そうとするかのように遠くへと向けられていた。

 

(こいつは、チューシャンを探しているのか・・・?)

 

 チューシャン、初霜は、彼がチ級の掌中に落ちた際に、チ級に対しスレスレまで接近し、そしてそのまま遠ざかって行ってしまった。

 

――助けてくれ!

 

 彼はその時、思わずそう叫んでしまいそうになった。

 

――お願いだ、助けてくれ、見捨てないでくれ!

 

 恐怖のあまりにそう叫びかけたのを、彼はすんでのところで飲み込んだ。

 

 違う、そうじゃないだろう。と、彼は自分に必死に言い聞かせた。これは、この状態こそが、自分が待ち望んだ状況ではないか、と。

 

 チ級は最初の初霜との最接近の時に一度発砲した以降は、初霜の後をしばらく追うようにゆっくりと移動した後、ほとんど動かなくなった。

 

 それで、彼もまた徐々に落ち着きを取り戻すことができ、自分が置かれた状況を冷静に見れるようになってきた。

 

 初霜がチ級に異常接近したのは、逃げた彼を追ってきたからだろうし、そして結果的に彼がチ級の傍に居ることも知ったはずだ。

 

 ならば今ここで彼がチ級を倒せば、初霜はそれが彼の仕業であることを知るはずだ。

 

 艦娘でも倒せなかった深海棲艦を 、彼が倒す。彼は復讐を果たし、初霜と海軍は面子を失う。今こそ、その絶好の機会だ。

 

 しかし――

 

「くそっ!」

 

 チ級を倒すための手段である放射性物質、それを収めたケースは、アメーバ状に変形したメンテ妖精によって覆いつくされ、かつその表面は硬化して完全に封じられていた。

 

「くそ、邪魔しやがって。剥がれろ、くそぉっ!」

 

 殴りつけても拳が傷つくだけでビクともせず、足で踏みつけても表面に凹みさえ生じない。NBC防御機能を発動したメンテ妖精は、鉄壁の殻と化していた。

 

「ふざけるな、何が妖精だ。貴様だって兵器じゃないか。深海棲艦を殺すために作られた人間の武器のはずだ。それが何故、俺の邪魔をする!? 俺が深海棲艦を殺そうというのだぞ!!」

 

 彼は手錠で繋がったままのケースを両手で持ち上げ、そして大きく振り回すと勢いよく足元に叩きつけた。ガン、と鈍い音がしてケースが跳ね返ったが、その表面には擦り傷ひとつなかった。

 

「畜生!」

 

 彼は罵り声をあげながら再度ケースを叩きつけようと持ち上げた。

 

 その時、上体を反らしざまに上を向いた彼の視界いっぱいに、白くヒビ割れた仮面が見えた。

 

 それは言うまでも無く、チ級の顔だった。それが真近に迫っていた。

 

「--ひっ」

 

 彼を乗せた掌をまじまじと覗き込むように顔を寄せるチ級に、彼は短い悲鳴を上げた。その仮面の穴から覗く人間の身長よりもはるかに巨大な眼球に、見上げる彼の姿が映り込んでいた。

 

「・・・ひ・・・あ・・・」

 

 間近に迫った巨大過ぎる存在感に、彼は呼吸を忘れた。それだけでは無く、金縛りにあったかの様に身体を動かすことができず、むしろ逆に全身が激しく震えだす。

 

 両脚もがくがくと震えて立つ事も出来ず、崩れる様に膝をついた。その時、彼は自分の股間から内股にかけて生温かい液体が伝っているのを感じ、それで自分が失禁していたことを悟った。

 

 彼は、自分が深海棲艦に対して、震えることしか出来ない小さく惨めな存在であることを自覚した。それを屈辱だと思うことさえ出来なかった。それほど彼は恐怖に全てを支配されていた。

 

 彼を見下ろすチ級が、その仮面の下端から覗く口を大きく開けた。そこに見えたのは巨大で、しかし人間と同じ歯並び、同じ舌、同じ口腔内の光景だった。

 

(喰われる・・・)

 

 その心境は、もはや覚悟でも諦観でも無かった。麻痺した思考が、ただ目の前の現実を認識しただけだった。

 

 チ級の口が迫ってくる。

 

 思考を失った彼は、同じ様に喰われた妻子を思い出すことさえ出来ず、自分が口腔内へ放り込まれる瞬間を待つことしか出来なかった。

 

(しょせん、こんなものか・・・)

 

 彼に残るわずかな理性が、辛うじてそんな呟きをもらした。しょせん人間など、この程度の存在でしか無いのだと--

 

--口元が迫る。その動きが、不意に止まった。

 

 喰われるのを待つだけだった彼は、しばらくその事実に気付かなかった。

 

 いや、止まった事は認識していたのだが、それが何故かという疑問を抱くことが出来なかったのだ。

 

「・・・?」

 

 しばらくしてようやく彼は状況を不審に思うだけの理性を取り戻した。しかしその結果、彼はさらにおぞましいものを目の当たりにする事となった。

 

「え・・・か、顔・・!?」

 

 チ級の喉の奥、暗い闇の向こうから、白い人の顔が浮かび上がり、彼を覗き込んでいた。

 

 女だ。

 

 長い黒髪を垂らした女が、ズル、ズルとチ級の喉奥から這い出して来ようとしていた。

 

 ずるり、と女の全身が喉奥から現れると、重力に引かれるがままに、彼めがけて落下してくる。

 

「ひぃっ!?」

 

 尻餅をついたまま動くこともできない彼の目の前に、その女はまるで猫の様なしなやかな身のこなしで着地した。

 

 全裸の女だった。

 

 肌は病的なまでに青白く、それでいて、その身体つきは完璧なまでに美しく、官能的である。

 

 女は足元にうずくまる彼に歩み寄ると、そのまま彼を押し倒した。

 

 柔らかいその身体の感触、そして女の口から溢れる酷く甘い吐息。

 

彼の身体に恐怖と官能の波が同時に訪れ、それが生存本能に強く訴えかけた結果、彼は自分でも気づかぬ内に射精していた。

 

(なんだ・・・なんだこいつは・・・!?)

 

 深海棲艦の中から、等身大の深海棲艦が現れた? 信じられないが、そうとしか考えられなかった。

 

 だが、この女は人間では無い。

 

 その美しき裸体は、人間の本能を強制的に刺激するためにあるかの様であり、彼自身はそれに魅せられるどころか、おぞましさしか感じなかった。

 

 女が彼に覆いかぶさりながら、その腹部に指を這わせた。

 

「がぁっ!?」

 

 その瞬間、電気ショックの様な快感が彼を襲い、彼は再び射精した。

 

 腹部を這い回るしなやかな指先にある鋭い爪が、分厚いウェットスーツを易々と切り裂いて、その内側に潜り込む。

 

「ふ!? ぐあああ!!」

 

 触っている場所は臍の辺りでしかないはずなのに、その指が直接皮膚に触れたことで、先ほどの何倍もの衝撃が彼を襲った。

 

 失神しかねないほどのその衝撃は、決して快楽などでは無かった。これはもはや、拷問だ。

 

「がっ・・・は・・・は・・・」

 

 彼が意識を失う直前で女はようやく手を引き抜いた。

 

 その手についた液体には血が混じっていた。

 

 女はその手を見て満足そうに頷くと、それを頭上に掲げた。

 

 するとチ級の口から巨大な舌が降りてきて、その先端が女の手に触れた。女はその舌先に手の液体を擦り付け、それが終わると舌はまた口の中へと戻って行った。

 

 続いて女は、快感の衝撃から解放されて力無く横たわる彼をもう一度見下ろした。その目が、彼の右腕に手錠で繋がっているケースに向けられる。

 

 女はそれを興味深そうにしげしげと眺めながら、そのケースに手を伸ばした。

 

 ドスッ、という鈍い音が響いた。

 

「え?」

 

 彼は自分の右腕に違和感を覚えた。女が彼の右腕を掴んでいたが、彼にはその感触がなかった。

 

 女が右腕ごとケースを持ち上げる。鋭利な刃物で切断された綺麗な断面が彼の目前を通り過ぎ、そこから溢れた血が、彼に降りかかった。

 

「っ!!!???」

 

 腕を切断された。

 

 その心理的ショックに彼はパニック状態に陥り、声さえ上げられなかった。

 

 女はそんな彼を無視して、先ほどと同じ様にケースを頭上に掲げ、チ級の舌先がそれに応えて降りてくる。

 

 その時、ケースの表面がざわりと波打ち、かと思うと突然それは不定形なアメーバ状の物体となってケースから離れた。

 

 メンテ妖精だ。

 

 妖精はケースから彼へと飛び移り、その切断された右腕の断面を包む様に彼の右上半身に纏わり付いた。

 

 そのメンテ妖精から止血剤と鎮静剤が投与され、それによって彼は、半ば強制的に落ち着きを取り戻した。

 

 女はメンテ妖精の意外な動きに目を見張っていたが、すぐにケラケラと笑いだした。女は笑いながらケースを舌先に預け、三度、彼を観察し始めた。

 

 その目が、また何かを見つけた。

 

 その手がまた彼の腹部に伸ばされる。さらに精液を搾り取られるのか、と彼はゾッとしたが、だがそうでは無かった。

 

 女の指先が、裂けたウェットスーツから何かを取り出す。

 

 それはラミネート加工された一枚の写真。彼の妻子の写真だった。

 

(やめろ、返せっ!)

 

 そう叫びたかったが、彼の口はガチガチと歯を鳴らすだけでまともに声を出すことさえ出来なかった。

 

 女は写真と彼を交互に見比べると、やがて納得した様に頷いた。

 

 女が彼を見下ろし、ニコリと笑う。

 

(・・・?)

 

 その頭上で、チ級の喉奥がかすかに蠢いた。そこから、何かが落ちてくる。

 

 それは白くまるい物体。

 

 女はそれを受け止めると、ちょうど人の頭ほどの大きさのそれを、彼の顔の横に並べる様に置いた。

 

(そんな・・・これは・・・)

 

 頭蓋骨だった。

 

 もう一つ、新たな頭蓋骨が喉奥から落ちてくる。さっきの物よりもひとまわり小さなそれは、きっと子供のものだ。

 

「・・・あぐっ・・・うぁ・・・――!!」

 

 女は、彼の頭を挟む様に頭蓋骨を並べると、彼に向かって写真をかざして見せた。

 

 そして写真に写る彼の妻子を指で示して見せた後――

 

 

 ――その指で、両脇の頭蓋骨を交互に指差した。

 

 

「ああぁぁぁぁっっ!!!!!!!!」

 

 彼は絶叫した。

 

 これまで声すら上げられなかった身体が、彼の激しい怒りの感情についに呼応した。

 

「殺してやる! 殺してやるッッ!!」

 

 彼はフラつく足で立ち上がり、片手で女に殴りかかった。しかし女はその拳を容易くかわす。

 

「殺すッ! 貴様だけは、貴様だけはぁぁぁ!!!!!」

 

 絶叫しながら彼は何度も女に殴りかかった。しかし、女は悠々と間合いを外し、そしてその手から写真を投げ捨てた。

 

「っ!?」

 

 ひらり、ひらりと舞い落ちる写真に、彼は慌ててそちらへと駆け寄った。その隙に、女が高々と跳躍する。例の舌先が女を迎える様に降りてきて、その身体を掬い上げた。

 

「くそっ、逃げるなぁぁぁぁ!!!」

 

 彼が写真を取り戻した時、その足元が大きく揺れた。

 

 チ級の掌が降下を始めたのだ。

 

 その手は海面に達し、流れ込んできた大量の海水に、彼は押し流された。

 

 チ級は彼を海に流し終えると、その場からゆっくりと離れ始めた。

 

 海には、彼の怒りの絶叫が響き渡り続けている。

 

 離れて行くチ級の開かれた口の中で、女はその叫びに耳を澄ませながら、くすくすくすと含み笑いを漏らしていた。

 

「サァ・・・キナサイ・・・アソビマショウヨォ・・・」

 

 チ級の口が閉じられ、その画面から覗く青い眼球が、霧の向こうにいる初霜へと向けられた――

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼の悲鳴が、絶叫が聞こえた。初霜はそう確信した。

 

『初霜』海尾が再度、言った。『撤退だ。旗艦・白雪の指示に従い帰投せよ。復唱しろ』

 

「提督、要救助者の救出作戦をリコメンドします」

 

『初霜!』

 

「動体検知器のデータを見て下さい。救難信号の発信地点からチ級が離れ始めています。チは彼を手放しました。今こそ救出の機会です」

 

『これは見え透いた罠だ。のこのこと近づいたところを撃たれるに決まっている!』

 

「動体検知器でチ級の正確な位置を捕捉できます。それを元に僚艦による援護攻撃をお願いします。その隙に私が要救助者を確保します。私なら可能です」

 

『駄目だ』

 

「提督」

 

『駄目なものは駄目だ。敵はチ級一隻どころか、まだ出現する可能性だってある。そこに留まり続けること自体が危険なんだ』

 

「しかし――」

 

 初霜がなおも意見しようとした、その時、

 

『――ねえ、初霜』

 

 と別の声が割り込んで、それを遮った。

 

 叢雲だった。

 

『あんた、何か隠しているわね』

 

「・・・何のことですか」

 

『あんたの戦闘記録・・・RCL中にも関わらず、一部送信されてない箇所がある。仁淀がそう言っているのよ』

 

「・・・・・・」

 

 黙りこくる初霜。

 

『仁淀』海尾が指示を出す。『初霜のサポートAIが敵の電子戦でダメージを受けたようだ。強制介入し、未送信データを復元しろ』

 

『了解しました』

 

 仁淀が答え、初霜のサポートAIへの強制介入を開始した。

 

 AI同士にも指揮系統や序列があるが、戦闘艦である艦娘たちのサポートAIは電子戦に対抗するために、かなり独立性の高い設計になっており、艦娘がその気になれば命令を無視することも容易かった。

 

 しかし仁淀は鎮守府地下に設置された巨大スーパーコンピュータであり、その能力はサポートAIをはるかに上回っていた。

 

 初霜が隠していたデータはすぐに発見され、公開された。

 

 そのデータを見た瞬間、初霜以外の全員に衝撃が走った。

 

『NBC防御を発動しただと!? ・・・何という事だ。あの男が持っていたのは放射性物質だったのか!』

 

「うっわ、やばぁ」那珂が呆れ声を上げた。「はっしー見つけた瞬間に開けようとしたってさあ、これほとんどテロだよね」

 

「ほとんどどころか、完全なテロだクマ。こいつはテロリスト、深海棲艦と同じく排除すべき敵だクマ」

 

「敵、なんですか・・・」

 

 球磨の言葉に息を呑んだのは、村雨だった。

 

「あ、あの、でも、人間なんですよ?」

 

「人間の敵は、人間だクマ。深海棲艦が現れる前よりも遥かに昔から殺し合ってきたくせに、今さら何を言ってんだクマ」

 

「で、でもぉ・・・」

 

「球磨さんのそれは極論でしょう」と白雪。「私たちは殺すために戦っているんじゃないわ。誰かを、何かを守るために戦っているの。だから、あくまで人を救いたい、守りたいという初霜ちゃんの気持ちは理解できます。けれど・・・艦娘を狙ったテロを仕掛けてきた相手となれば、その身柄を確保するのは至難の業。まして、テロのターゲットが初霜ちゃんであるなら尚更よ。救出を実行するかどうか以前に、救出行為そのものが成立しないわ」

 

「じゃあ」と村雨。「つまり・・・どうするんですか?」

 

「撤退します」白雪はきっぱりと答えた。「司令の命令に従い、第十一駆逐隊はこれより帰投します。各艦は北へ転進し、帰投針路を取れ――」

 

『――待て』

 

 白雪の撤退命令を、なんと当の海尾の声が引き留めた。

 

 いや、その声は引き留めたというよりも・・・

 

『・・・待てですって? 撤退命令を取り消せとは、いったいどういう事ですか!?』

 

 海尾は部下である艦娘たちに言ったのではなかった。

 

 司令部に突如かかってきた電話に対してのやりとりが、RCLを通じて現場の艦娘たちにも漏れ聞こえていたのだ。

 

『そんな・・・いくら艦隊司令部の命令でも、それは無謀です! この状況で“あの男の身柄を確保しろ”だなんて!?』

 

 必死に抗議する海尾の声。

 

『確かに、初霜は動体検知器を搭載していますが・・・しかし――くっ!?』

 

 しばらくの沈黙。

 

 現場の艦娘たちも一様に固唾をのんで聞き耳を立てる中、やがて海尾が口を開いた。

 

『・・・了解しました』

 

 それは苦渋に満ちた声だった。

 

『私の指揮権を奪うとまで言われて、のうのうと部下を差し出すわけには参りません。彼女たちは私の命令で戦地に居るんだ。その責任を途中で放棄するわけには行きませんからね。身柄の確保は、私の指揮下で実行します!』

 

 その言葉の後に、受話器を叩きつける音が響き渡った。

 

『くそっ・・・・・・みんな、聞いてくれ。事情が変わった。撤退は無しだ』

 

「・・・了解です」白雪が答える。

 

「じゃ、じゃあ・・・救出、ですか?」と戸惑い気味の村雨。

 

「救出、じゃなくて身柄の確保だよ」と低い声で那珂。

 

「どっちかというと、生け捕りだクマ。なあ、秘書艦殿――クマ」

 

『・・・事情を説明するわ』と叢雲が告げた。『あの男が隣国の人間で、かつテロリストであるという情報がRCLを通じて上層部にも伝えられたために、艦隊司令部から干渉が入ったのよ。情報収集のために捕虜とせよってね。命令に従わなければ南方警備艦隊の指揮を艦隊司令部が直接執るとまで言ってきたわ』

 

『捕虜なんてものじゃない。国家間外交のための取引の道具だ』

 

 海尾は吐き捨てるように言った。そして、続けた。

 

『これから俺は、お前たちに戦い続けろと命ずることになる。人類を守るためではなく、人間同士のいさかいで優位に立つために、その身に代えて奴を・・・テロリストを救助しろと命ずることになる。・・・・・・すまない』

 

 海尾の謝罪の言葉に、現場には再び沈黙が降りた。

 

 理不尽といえば理不尽である。しかし彼ら、彼女らが軍人である以上、命令に従い任務を遂行する義務があった。

 

「・・・提督、謝る必要はありません」

 

 そんな声が、沈黙を破った。

 

 それは、初霜だった。

 

「私は先ほど、こうリコメンドしました。私なら可能だと。傲慢な物言いかもしれませんが、私の覚悟はできています。だから、どうか命じて下さい。“行け、初霜。その身に代えて、奴を必ず救助せよ”と」

 

『傲慢だ!』海尾が声を荒げた。『傲慢にもほどがある。お前は自分が沈まないとでも思っているのか。それとも沈んでも構わない無価値な人間だと? 違う、お前は俺の大事な部下だ。俺の見えないところで勝手に沈むことは許さん!』

 

「しかし、リスクは誰かが負わなければなりません。現状でそれを負えるのは、私だけです」

 

『どうしても死に急ぐつもりか』

 

「死ぬつもりはありません。勝算あってのリコメンドです」

 

『聞き入れられない、と言ったら?』

 

「他に手があるなら、私はそれに従います」

 

『・・・言ってくれる』

 

 海尾は苦々しく言い捨てた後、長いため息を吐いた。

 

『良いだろう。初霜、お前のリコメンドを受け入れる。――白雪』

 

「はい」

 

『初霜に救出作戦の現場指揮を任せる。指揮権を移行せよ』

 

「了解しました・・・白雪から初霜へ。第十一駆逐隊の指揮を執れ」

 

「いただきました。初霜、これより第十一駆逐隊の指揮を執ります」

 

 指揮権を移譲された初霜に、海尾が声をかけた。

 

『初霜、お前にもう一つ言っておくことがある』

 

「なんでしょうか」

 

『・・・・・・・』

 

 生きて帰れ。

 

 そう言いたいのを海尾は堪えた。それはただの願望でしかない。だから、海尾はこう告げた。

 

『お前が死ぬようなことがあれば、俺も死ぬ』

 

「・・・え?」

 

『その覚悟をもって、俺は司令としてお前たちの上に立つ。沈むときは俺も一緒だ』

 

 我ながらくさい台詞だ。と海尾は自分で言っておきながら恥ずかしくなった。先日の酒席で口を滑らせたのと同じセリフをこんな時に言うなんて場違いもいいところだ。そう部下には思われたかもしれない。

 

 しかし、この言葉に嘘偽りは無いつもりだった。

 

「提督」初霜が答えた。「ありがとうございます。あなたがその覚悟であるなら――要救助者も、提督も、私がお救いします!」

 

 初霜のその言葉に、海尾はふと、不思議な気分になった。

 

 お救いしますだと? 彼女にとっては指揮官でさえ守る対象なのか。なんて傲慢な奴だ。

 

 そう思ったが、不思議と嫌な気分にはならなかった。

 

(お前がそのつもりなら、いいさ、俺もお前を守ってやる。だから、絶対に生きて帰ってこいよ、初霜)

 

 海尾は心中でそう祈りながら、彼は命令を下した。

 

『行け、初霜! その身に代えて、必ず奴を救助せよ!』

 

「了解! 初霜、出撃します!」

 

 船体のタービンエンジンが唸りを上げ、白波を蹴立てて霧の中へと向かって行った。

 

 

 

 

 

 




次回予告

 何のために戦うのか。誰のために守るのか。

 憎しみは晴れるのか。因縁は解かれるのか。

 霧の中に役者は揃い、二年前から始まった悲劇に幕が降ろされる。

 果たして、その結末は・・・

次回「第十八話・許されざるモノ」

「そう、誰よりも許されないのは・・・この私だ」


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第十八話・許されざるモノ

 現場指揮を委任された初霜は、第十一駆逐隊に、さらに球磨と那珂を加えた戦隊規模の艦艇を指揮下に置くことになった。

 

「初霜から各艦へ。本艦はこれより霧の中に取り残された要救助者の救出に当たります。敵戦力は現在のところ雷巡チ級一隻のみ。しかし他にもまだ出てくる可能性がありますので、白雪さんと村雨で周辺の警戒監視をお願いします」

 

「こちら白雪、了解したわ」

 

「はいはーい、村雨も了解です」

 

「霧の中のチ級への攻撃は、私と球磨さん、那珂さん、それとこの空域で待機中の哨戒機による海空協同攻撃で実施します。私の動体検知器で索敵しますが、那珂さんも無人偵察機による要救助者の位置の特定をお願いします」

 

「おっけー、那珂ちゃんに任せといて」

 

 那珂の無人偵察機が霧に覆われた海域の上空を旋回し、救難信号の発信地点付近での赤外線センサーを使った重点捜索を開始した。

 

 霧は海面を広く覆っていたが、上方向にはそれほど高いわけではない。無人偵察機は霧の上ぎりぎりを低く飛び、そこに人間程の大きさの僅かな温度変化を捉えた。

 

「当ったりぃ。要救助者発見、信号と同じ場所に居るよ」

 

「了解しました」

 

 しかし、まだ迂闊には動けなかった。

 

 動体検知器によると、要救助者とチ級の位置は、まだ2000ヤード程度しか離れてはいない。救助に突撃するには敵が近すぎるし、敵へ攻撃するにも要救助者を巻き込み兼ねない。

 

 先ずはチ級を更に引き離すことが必要だ。

 

「球磨さんと那珂さんはこれから指示するポイントに向かって移動して下さい」

 

 初霜は二人に座標データを送信。そこは霧の立ち込める海域の東側だった。

 

 霧の外にあたる場所でもあり、そこからチ級までは、軽巡の搭載する14センチ単装砲の射程ぎりぎりの距離があった。

 

「球磨さんと那珂さんはそこからチ級に対し威嚇射撃をお願いします」

 

 初霜の指示に二人の軽巡艦娘はすぐに意味を察した。

 

「なるほどクマ。こっちに引きつけるクマね」

 

「そう言うことなら那珂ちゃんにお任せ。注目を引くのは得意中の得意だから!」

 

「チ級が要救助者から適当な位置まで離れたところで、私と哨戒機によるSSSM攻撃を実施します。発射弾数は各二発。目標の座標は私が指示します」

 

 初霜の支援依頼に、上空の哨戒機からも協同攻撃の準備が整ったことを知らせる通信が入る。

 

 球磨と那珂が東側へ移動を開始。

 

「球磨、配置についたクマ」

 

「那珂ちゃん、いつでも始められるよ」

 

「攻撃開始」

 

 初霜の指示により、球磨と那珂の14センチ単装砲それぞれ五基が火を噴いた。駆逐艦の12.7センチ砲よりも強力で長い射程を持つこの砲から放たれた弾丸が、チ級から大きく逸れた場所に次々と着弾する。

 

 チ級は動かない。

 

 球磨と那珂は再度、発砲。先ほどよりもやや近い場所に砲弾が落ちる。

 

 しかしまだチ級は動かなかった。

 

 球磨、那珂、第三射弾群を発砲。更に着弾位置が近くなる。

 

「次は当てるぞクマァ!」

 

「球磨ちゃん落ち着いて。そんなことしたら要救助者にも当たっちゃうよ」

 

「不幸な事故ってことにしとけクマ」

 

「その発言ヤバイよ。今のオフレコね、オフレコ」

 

「チ級が移動を開始しました!」

 

 初霜の言葉に、球磨と那珂は口をつぐんだ。

 

 チ級の位置を確認し、初霜は更に指示を出す。

 

「チ級は目論見通り、そちらに向かっています。お二人はチ級との距離をこのまま保ちつつ射撃を続行、東側へと引きつけて下さい」

 

 球磨と那珂が了解したのを確認し、初霜は哨戒機にSSSM攻撃準備を下令。同時に自分の船体に装備されている空になった発射管へ、次弾装填装置から予備弾三発を装填、チ級の座標を入力する。

 

 その間に、チ級が要救助者から十分に離れたことを確認する。

 

 しかしチ級は球磨と那珂の砲撃をかわすために激しい回避運動を行っていた。

 

「ふざけんなクマ! こいつマジで当たらないクマ!」

 

「え? 球磨ちゃん、もしかして威嚇じゃなくてガチ撃ちしてるの!?」

 

 初霜は二人に射撃中止を下令。

 

 砲撃が止んだことにより、チ級が回避運動を止め、直進的な動きになった。速力およそ35ノット近くで球磨と那珂に向かって行く。

 

 今こそ攻撃の絶好の機会だ。

 

「SSSM攻撃開始。一番、二番セルアサイン、SSSM発射用意ーー撃て!」

 

 初霜から二発、哨戒機から二発の計四発のSSSMが霧の中へ撃ち込まれた。SSSMは対ステルス用の強力な指向性索敵レーダー波を照射し、チ級の正確な位置を霧の中から炙り出す。

 

 だが強力なレーダー波故に、チ級にもSSSMの存在とその位置を感知されていた。

 

 チ級がSSSMに対し対空砲火を放つ。

 

 もっとも対艦戦闘に特化した様な性能の雷巡は、対空能力がそれほど高くはない。SSSM四発中、二発が撃ち落とされたが、残る二発がチ級へと突入していく。

 

 深い霧を切り裂き、SSSMが海面に着弾し高い水柱を上げた。

 

 しかし、爆発は起きていない。

 

「不発? いえ、外された・・・!?」

 

 ほとんど命中したかに見えた瞬間、動体検知器がチ級の位置を見失っていた。

 

 初霜だけではなく、データリンク中の僚艦たちもそのことに気づく。

 

「ねえ、これって消えたってこと?」

 

 と村雨が疑問を口にした。

 

 それに白雪が答える。

 

「いえ、着弾の前に海中へ潜水したとも考えられるわ」

 

 そんな推測を口にしている間に、動体検知器が再び目標を探知した。恐らくチ級だろう。しかしその位置は消失地点から大きく移動していた。

 

(これは・・・)初霜は思案する。(やっぱり白雪さんの言う通り海中を移動したのかしら?)

 

 もしそうだとすれば、消失地点と出現地点の位置関係から計算して、海中をほぼ30ノット以上で移動したことになる。

 

 それは海上を航走していた時とほぼ同じ速力だった。

 

 しかし潜水艦以外の艦種が海中を自力で、しかもこんな高速力で移動したという前例は無かった。

 

 いや、だが何事にも例外はある。ましてやあのチ級は、例外の塊ともいえる“人喰い雷巡”だ。

 

 初霜は新たな指示を下す。

 

「哨戒機で再度SSSM攻撃を仕掛けます。協同攻撃は、村雨、あなたにお願いするわ」

 

「はいはーい、了解だよ。で、今度も二発でいいの?」

 

「そうだけど、一発はASROC(anti submarine rocket:対潜水艦用飛翔魚雷)モードへ切り替えて置いて。対水上攻撃用SSSMは哨戒機と同時発射。アスロックは私の指示により発射。よろしくね」

 

「村雨、了解。SSSMアスロック攻撃モード、攻撃準備よし」

 

「初霜から村雨及び哨戒機へ。SSSM攻撃始め!」

 

 哨戒機から二発、村雨から一発のSSSMが発射され、霧の中のチ級へ向かって行く。

 

 それに対しチ級が再び対空砲火を上げた。今度は、堕とされたのは一発のみだった。残る二発がチ級へと突入する。

 

しかし--

 

「また消えたクマ!?」

 

「今よ、アスロック攻撃始め!」

 

「了解!」

 

 初霜からの指示により村雨がチ級の消失地点へ向けてSSSMを発射する。

 

 そのSSSMはある程度上昇したところで飛翔用ロケットモーターを分離、先端の短魚雷部がパラシュートを展開し海面へと降下した。海中へと潜水した短魚雷は、チ級消失地点を中心に円を描きながら周回し、目標の捜索を開始する。

 

 もしも予想どおりチ級が水中を高速で移動しているならば、そこには大音量が発生するはずである。深海棲艦が無音の存在で居られるのは、あくまで自力移動せず海流に身を任せている時だけだ。

 

 そのはずだ。そのはずなのに、それでも・・・

 

 動体検知器が、また別の場所に目標を探知した。

 

 短魚雷は相変わらず消失地点を周回し続けながら、海中深くへと消えて行く。これはつまり海中を無音で航行したことに他ならない。

 

 それか、もしくは、

 

「潜水じゃないとしたら」と、那珂が呟く。「水上でも水中でも無い。これじゃまるで瞬間移動だね。・・・って、那珂ちゃんも有り得ないって分かってるけどね。でもね」

 

 言い淀んだ那珂だったが、その後の言葉を、白雪が代わりに引き継いだ。

 

「この海域で有り得ないと思った事は数知れません。もはや、どんな事でも起こり得ると考えて行動すべきでしょうね」

 

「で、でも」と、村雨。「何でも有りじゃ、むしろ何の予測も出来ないですし、対処も立てようが無いですよ」

 

「いいえ、何とかなります」

 

 そう言ったのは、初霜だった。

 

 全員が、初霜の言葉に耳を傾ける。

 

 初霜は続けた。

 

「確かにあのチ級は海上からも海中からも消えたように移動しています。しかしそこに時間差が生じているのも事実です。これは瞬間移動では有りません」

 

「ふむん・・・クマ」と、球磨。「つまり追尾が出来ないだけで、後は普通の移動と変わらない。そう言いたい訳だクマ。確かに過去二回の消失と出現のタイミングはほぼ一致しているし、その方向は概ね消失前の移動方向の延長線上だったクマ」

 

「少なくとも無制限に移動できる訳では無いのは確かでしょう。ならば、相手の出現地点を狙って攻撃を仕掛けられるなら、勝機はあります」

 

「過去二回だけじゃ、予測するにはデータが少なすぎるクマ」

 

「もう一回攻撃する?」と村雨。「SSSMは私と白雪さん合わせて、まだ十発残ってるよ」

 

「それは無理ね」と白雪が否定する。「チ級の対空能力が低いとは言え、一度の攻撃に少なくとも三発は撃ち込む必要があるわ。他の敵の出現にも備える必要がある以上、チ級へのデータ収集に消費する余裕なんて無いわよ」

 

「私たちも使い切っちゃったしね。この那珂ちゃんの目をもってしても、人喰い雷巡がここまで例外だとは見抜けなかったわ」

 

「予測はしません」と、初霜。「こちらから仕掛けて、敵を有利な位置に誘い込みます」

 

「できるクマ?」

 

「皆さんの協力があれば」

 

 初霜はそう言って、ある作戦を告げた。

 

 その内容に、全員が息を呑む。

 

「初霜ちゃん、それは流石にヤバすぎるよ」

 

 と、村雨が苦言を呈したが、

 

「・・・あの北方のエースがやるって言うなら、やれる筈だクマ。止めはしないクマ」

 

「お手並み拝見させて貰うよ。ま、那珂ちゃんも全力で支援するけどね」

 

 軽巡二人の前向きな様子に、村雨は戸惑った。

 

「し、白雪さん! 流石に駄目ですよね、こんな危険な作戦!」

 

「・・・」

 

 村雨に問われ、白雪はしばし答えなかった。

 

 だが、やがて、

 

「私は、初霜ちゃんの作戦に賛同します」

 

「うそぉ・・・。あ、でもでも、提督が止めてーー」

 

「白雪から司令へ。第十一駆逐隊旗艦として、この作戦の承認をお願いします」

 

『・・・お前がそう言うなら、いいだろう。作戦を承認する』

 

 肝心の指揮官がここまで言ってのけたのだ。村雨はもはや黙って従う他になかった。

 

 そして、白雪は、

 

「ありがとうございます、海尾さん」

 

『俺の命も、覚悟も、とっくにお前たちに預けてある。責任は全て俺が取る。だから、白雪、そして初霜。後のことは気にせず、全力で行け』

 

「「了解!」」

 

 初霜と白雪、二人の声が重なった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽は既に高い位置にあり、蒼穹の空には雲ひとつ無い。しかし海面の霧は未だに濃く、晴れる気配は見えなかった。

 

 その霧で閉ざされた海へ向け、球磨と那珂が砲撃を開始した。

 

 いくつもの砲弾が霧を切り裂き、チ級へと殺到する。それはもはや威嚇射撃では無い。命中を期した全力射撃だった。

 

 それに対し、チ級が回避運動を開始、まるで弾道が全て見えているかのような軌道で、乱立する水柱の間を悠々とすり抜けて行く。

 

「夾叉弾だらけの筈なのに、相変わらず嘘みたいに当たらないクマ。本当にどうなってんだクマ」

 

「電波探知も無いし、レーダー使ってる訳でもなさそうだね。もしかして、はっしーの動体検知器と同じ能力を持ってるのかも」

 

「つくづく例外の塊だクマ」

 

 ぼやきながらも、並の深海棲艦なら容易く木っ端微塵にできる精度と密度の砲撃が間断なく続けられる。

 

 しかしチ級はそれを全てかわし切っていた。

 

 さらにチ級は、その超感覚で砲弾以外にも接近する物体を探知していた。

 

 船だ。

 

 それも駆逐艦。

 

 そしてこの大きさ、この音、この匂い、この気配。

 

 間違いない、彼奴が来る。とチ級は確信した。

 

 初霜が来る。

 

 この霧の中、真っ直ぐに突っ込んで来る。しかしその目指す場所はチ級の方角ではなかった。

 

 それは救難信号の発信地点、そこを目指して全速力で走っている。

 

 位置関係的には、初霜はチ級に対して右手側、即ち右の横腹を晒す形で進んでいる。

 

--ようやく、餌に喰らいついたか。

 

 チ級の思考を、あえて人間の言葉に訳すならこうなるであろう。

 

 チ級は初霜の右側面を衝く針路を取る。

 

 その気配を初霜も捉えたのだろう、相手の殺気が明確にこちらへ向いたのを、チ級は察知した。

 

 気配からして大砲を向けたに違いない。チ級にはそれが分かる。もっともこの能力を持っているのはチ級の中でも、この“人喰い雷巡”だけだ。

 

 そして同様の能力を、あの初霜も持っていると言うことに、チ級も気付いていた。五隻いる艦娘の内、その能力を持っているのは初霜しかいないことも。この霧の中、レーダーを使わずに突入して来たのが初霜しかいない事からも、それは明らかだ。

 

 しかし、初霜が探知した情報が他艦にも共有されている事も間違いない。この嫌がらせの様な砲撃もそうだし、そして時折、狙い澄まして撃ち込まれるミサイル攻撃。これらはチ級にとっても油断できるものでは無かった。

 

 そのミサイルが、また来る。霧の外で待ち構えている二隻の駆逐艦--白雪と村雨--からそれぞれ二発ずつ、計四発のミサイルが発射されたのをチ級は感じ取る。

 

 チ級が落とせるミサイルはせいぜい二発までだ。他のチ級なら四発も撃たれては逃げ場が無い。

 

 しかしこのチ級、“人喰い雷巡”にはまだ奥の手があった。

 

 ミサイルが接近する中、チ級の姿が朧げに霞んでいき、霧の中へと溶けるように消失した。

 

 直後、その場所にミサイルが着弾し、盛大な水柱を上げて虚しく沈んでいった。

 

 そう、チ級はまさしく文字通り、消えていたのだ。

 

 チ級の消失を初霜も動体検知器で確認していた。

 

 初霜は即座にサポートAIに消失地点から距離3海里、進行方向を軸として左右45度の範囲を海図に表示させ、それを各艦に共有させる。

 

 これは過去二回のデータから割り出したチ級の出現予想範囲だった。データが少なすぎる為かなりアバウトな予測だが、しかし、それでも充分だ。

 

「球磨さんと那珂さんは予測範囲の左側に向け、散布射撃を開始して下さい。--白雪さん!」

 

「わかっています。準備はできているわ」

 

「ええ、頼みます。・・・今です!」

 

「短魚雷発射!」

 

 初霜がチ級の消失地点へ向けて舵を切ると同時に、霧の外から白雪が三発の短魚雷を発射した。

 

初霜はソーナーでその短魚雷が狙い通りの場所に向かって進んでいるのを確認し、彼女自身もまた最後に残してあったSSSMを短魚雷モードに切り替えた。

 

 今、初霜はチ級の消失地点へ針路を取ったことにより、救難信号の発信地点を向かって左手側に、そしてチ級出現の予測範囲を右手側に見ていた。

 

 動体検知器では、まだチ級の出現は感知されていない。

 

 しかしその予測範囲の左半分は、球磨と那珂による砲撃により、その場所を埋め尽くすかの様に次々と着弾していた。

 

(いつ来る・・・?)

 

 初霜は動体検知器に意識を集中する。ほんの僅かな空気の揺らぎも見逃さない様に。

 

 何処にいる?

 

 どこから来る?

 

 その時、空気がかすかに揺らいだ。場所は予測範囲の最も右端、消失地点から最も離れた位置だった。

 

「短魚雷発射始め、右舷!」

 

 その場所に向け、すかさず魚雷を発射する。その直後、その場所で空気が爆発的に押し広げられ、100メートル近い巨体の出現を探知した。

 

 チ級だ。そのまま、初霜とは反航態勢で進み出す。初霜の魚雷はその水切り音を探知し、追尾を開始。

 

 しかし、チ級まではまだ距離があり過ぎた。

 

 チ級は魚雷の接近に気付くと、そこから全速力で遠ざかる針路を取る。それは同時に、初霜の背後へと回り込む針路でもあった。

 

 初霜は前部側にしか主砲が無いので、背後に回り込まれては攻撃の手段がない。砲の死角に回り込まれるのを避ける為、初霜も右回頭を開始。

 

 互いに相手の背後を衝くため円を描く巴戦の形になりながら、その彼我距離が詰まって行く。

 

 初霜とチ級の旋回能力はほぼ互角だった。

 

 しかし、チ級の出現位置との関係上、向こうの方が先に死角へと回り込む。

 

 チ級の主砲が、初霜へと向けられた。

 

 チ級が狙うのは艦橋、初霜自身が居るその場所だ。チ級は霧の向こうに初霜そのものの気配を探り、そこに狙いを定める。

 

 しかし、その時、チ級の思考に戸惑いの色が浮かんだ。

 

--何だこれは、どういう事だ?

 

 初霜の気配と、その船体の位置がズレていた。右旋回を続ける船体に対し、初霜の気配は逆に左側へと急速に移動していたのだ。

 

--船体から降りたのか。

 

 チ級はそう判断した。

 

 搭載されている作業艇に乗り込み、救難信号の発信地点へと向かっているのだ。

 

 しかし、それに何の意味があろうか。船体を囮に使うという大胆な戦法も、人間そのものの気配を敏感に察知する深海棲艦の超感覚を前にしては何の意味も無かった。

 

--小賢しい。

 

 チ級に嘲笑の様な思考が浮かんだ。

 

 その主砲が、霧に隠れた作業艇を正確に追尾する。そして、発砲--

 

--しようとした、その寸前、チ級は己の背後から迫る三つの魚雷音に気が付いた。

 

 これは初霜が放った魚雷なのか?

 

 いや、それは一発のみであり、しかもまだ遠くにある。

 

 これは白雪の放った魚雷だった。

 

 しかし何故こうも正確に未来位置を予測できたのか?

 

--違う、これは・・・!?

 

 チ級は身体を捻り、背後へと振り向いた。迫る魚雷に向け、主砲を放つ。

 

--この魚雷は、最初から初霜を狙っていた!?

 

 そう、白雪が放った三発の魚雷は、初霜のスクリュー音を追尾していたのだ。

 

 初霜は味方の魚雷に追われながらチ級を巴戦に誘い込み、そしてわざと背後を取らせて、迫る魚雷の射線上に入れたのだ。

 

 チ級が放った砲弾が海面を叩き、一発の魚雷を破壊する。しかし二発はもう真近に迫っていた。

 

 チ級の姿が朧げになって行く。また消えて避けようというのだ。しかし完全に消え切る前に、魚雷が真下に潜り込み、起爆装置を作動させた。

 

 チ級を中心に海面が真っ白に泡立ち、直後、轟音と共に天を衝く巨大な水柱が噴き上り、その姿を呑み込んだ。

 

 その衝撃波が救難信号の位置まで達する寸前、初霜はギリギリのタイミングで彼を作業艇へと引き上げることに成功していた。

 

 だがすぐに爆発によって生じた大波が襲いかかり、作業艇はまるで木の葉の様に波間に翻弄され、流されて行ってしまった--

 

 

 

 

 

 

 

 海に流された後の事を、彼はよく覚えていなかった。

 

 深海棲艦に対する激しい怒りと悲しみに理性を失ったまま海へと放り出され、そのまま意識まで失った状態で海面を漂っていた。

 

 彼が微かながら意識を取り戻したのは、誰かに救出されようとしていた時の事だった。

 

 小柄な少女の細い腕によって、彼は作業艇に引き揚げられようとしていた。その時の事を、朧げながらも覚えている。

 

 しかしその時に彼が思っていた事は、自分を救おうとしている少女が誰かという事よりも、自分が手に持っていたはずの写真失くしていたという事だった。

 

 手放してしまった大切な写真。

 

 それが、引き揚げられた作業艇のすぐそばに浮いて漂っていた。

 

 

--拾わないと。

 

 

 あれは彼に残された最後の、たった一つの心の拠り所だった。

 

 海に向かって手を伸ばそうと、作業艇から身を乗り出した彼に、少女が背後からしがみついてきて艇内へと引き戻された。

 

 

--離せ、離してくれ!

 

 

 しがみ付く少女を振り払おうとした時、大波が襲い掛かり作業艇が激しく揺れ、彼は少女と共に艇内に倒れ、転がされてしまう。

 

 彼がはっきりと意識を取り戻したのは、その後からだった。

 

 気が付けば、彼はたった一人きりで、海を漂う作業艇の上に居た。

 

 周囲はまだ霧が立ち込めていて、ほとんど何も見えなかった。少女の姿もどこにも無かった。

 

「夢・・・だったのか・・・?」

 

 しかし夢だとしても、それはどこからどこまでがそうなのか。それは彼が立ち上がろうとして、バランスを崩して倒れた時に明白になった。

 

 倒れたのは、右腕を失って身体のバランスが取れなくなっていたからだった。

 

 失った右腕には、アメーバ状の何か--メンテ妖精が変形したものが貼りついて、その傷を覆っている。チ級の掌の上で、等身大の深海棲艦に襲われたのは間違いなく事実だったのだと、彼は思い知った。

 

 そして、あの二つの頭蓋骨も・・・

 

 

 その後、海に流されてからどうなったのか。

 

 誰かにこの作業艇に引き揚げられたと思っていたが、誰も居ない事から考えるに、それこそ夢だったのかも知れない。と、彼は思った。

 

 この作業艇は初霜から逃亡する時に奪った作業艇であり、きっと流された後、無意識の内に自力で這い上がっていたのかも知れない。

 

(これから、俺はどうすればいい・・・?)

 

 作業艇で独りきり、彼は思い悩んだ。

 

 復讐は果たせず、それどころか、深海棲艦に片腕を奪われ、死に勝る屈辱を与えられた挙句に海に流されて、ついには心の拠り所である家族の写真までも失った。

 

 残されたのは無意味に生き存えてしまった彼自身のみ。

 

 そこにはもはや、何の価値も無かった。

 

 お前には死ぬ価値すら無いのだ。そう宣言されたようなものだった。

 

 泣きたかった。

 

 畜生、殺せ。と、そう泣いて喚きたかった。

 

 だが、誰に対して泣き喚けというのか。

 

 この悔しさを、

 

 この憤りを、

 

 誰に、どこに向かってぶつければいいというのか。

 

 この海でさえも、彼を無視するかのように霧で隠れているというのに!

 

 しかしその時、不意に目の前の白い世界が急に暗くなり、その向こうに巨大な影が音もなく出現した。

 

 霧の向こうにまるで壁のようにそそり立つ影。その一部分にまるで鬼火のように青く爛々とした明かりが灯っていた。

 

 これは、まさか。

 

 彼がそう思ったのも束の間、その影がゆっくりと近づき、その正体が露わになった。

 

 チ級だ。

 

 チ級の顔が、水面近くにあって目の前に現れたのだ。

 

 しかしなぜ顔だけ?

 

 その疑念を晴らすかの様に霧が薄れ、チ級の顔以外の部分も露わになった。

 

 そこに現れたのは、チ級の残骸とも呼べるものだった。

 

 うつ伏せになり、あらぬ方向に曲がった二本の腕で海面を掻きながら、這いつくばって作業艇へと近づいて来ようとしている。

 

 下半身は見えないが、こうも無様に這いずる姿を見れば、もはや原型を留めていないだろう事は想像に難くない。

 

「誰だ・・・誰がやった・・・!?」

 

 チ級をこんな姿になるまで追い込んだのは誰だ。

 

 この自分が成し得なかった復讐を果たしたのは、いったい誰だ。

 

「やはり・・・貴様なのか・・・チューシャン!」

 

 彼の前、チ級と作業艇との間の海面に立つ、小柄な少女の背中が、そこにはあった。

 

 初霜だった。

 

 彼女は作業艇をその背に庇い、這い寄るチ級に対しその小さな身体一つで立ちはだかっていた。

 

「やめろ、チューシャン!」

 

 その背に向け、彼は叫んだ。

 

「俺は貴様に守られたくなんか無い! やめろ! これ以上、俺に生き恥を晒させるな!」

 

 しかし、初霜の背中は微動だにしなかった。迫り続ける巨大な怪物を真っ直ぐに見据え、彼女は立ちはだかり続ける。

 

「やめろぉぉぉ!」

 

 彼の絶叫が響く中、這い寄るチ級の動きが、止まった。

 

 海面近くにあるチ級の半開きになった口の中から、何かが姿をのぞかせた。

 

 それは、あの女だった。

 

 女は、口の中から、海面に立つ初霜の姿をじっと見つめていた。

 

「・・・フハ」

 

 不意に、女が笑みを漏らした。

 

「ハハハ・・・アハ、アハハハ・・・ハツシモォ・・・アーハッハハハハ」

 

 それはすぐに大きな笑い声を伴って、不気味な響きとなって海面を拡がっていく。

 

 それは狂った様に笑う中、

 

「ソウダヨ・・・ソレデイイ・・・マタ、アソボオネエ・・・」

 

 そんな言葉を残して、チ級の姿が霞み出し、霧の中へと溶ける様に消えていった。

 

 後に残ったのは木霊のような女の笑い声のみ。

 

 しかしそれさえもやがて消えて、海には再び静けさが戻った。

 

 初霜の背中から、張りつめていた糸が切れたかの様に、ふと力が抜けたように見えた。

 

 彼女はひとつ大きく息を吐き、そして作業艇に向かって振り向いた。

 

 その瞳が彼の無事を確認して、細められる。

 

「・・・良かった」

 

 そう言って、初霜は微笑みながら作業艇へと近づいた。

 

 彼女は作業艇の傍に着くと、そこから中にいる彼に向かって身を乗り出して、何かを言いかけた。

 

 しかしその言葉が口をついて出る前に、彼は、初霜に向かって殴りかかっていた。

 

「きゃっ!?」

 

 初霜が短い悲鳴を上げて身を引き、彼の拳は虚しく空を切った。

 

 もとより利き手とは反対の左手、ましてや不安定な作業艇の上で、しかも怪我によって身体も上手く動かせない状態で殴りかかったのだから、その拳に当たったところで、ほとんど力なんて入っていなかった。

 

 彼は空振りした勢いで、作業艇の中で無様に転倒した。

 

「だ、大丈夫ですか!?」

 

 初霜が慌てて艇内に乗り込み、彼の傍に駆け寄る。

 

 それに対して、彼は再び左の拳を振るった。

 

 起き上がり様に内から外へと振り抜いた彼の左拳が、初霜の頬を打った。

 

 今度の拳には勢いも力もあった。まともに顔面を殴られてよろめいた初霜に対し、彼はぶつかる様に組み付き、彼女を押し倒した。

 

「殺してやる!」

 

 初霜に馬乗りになり、残った左手で彼女の喉を掴み、力を込めた。

 

 殺す。

 

 俺から復讐をも奪い去り、そして死にも勝る生き恥を与えた。

 

 こんな屈辱があるものか。

 

 こんな理不尽があるものか。

 

 何もかも、何もかも、貴様が悪い。

 

 全て貴様が悪い。

 

 貴様が憎い!!

 

 彼の行き場を無くした憎悪の全てが、初霜に向けられていた。

 

 貴様を道連れにしてやる。

 

 死ね、チューシャン。

 

 お前に見殺しにされた、妻と子の恨みと苦しみを思い知れーー

 

 

 

 

--その妻と子が、彼を見つめていた。

 

 

 

 

「っ!?」

 

 幸せだったあの頃に撮った、笑顔に満ちた表情の妻と子の写真が、彼の目の前にあった。

 

 それは、海に流され失くしたと思っていた形見の写真・・・

 

 ・・・それを、初霜が首を絞められながら、彼に向かって差し出していた。

 

「チューシャン・・・貴様・・・」

 

 初霜がしばらく作業艇から離れていたのは、この写真を探しに行っていたからだった。

 

 その事実に気が付いた時、彼の手から、力が抜けた。

 

 その手が、震えながら、初霜の手から写真を受け取る。

 

 彼は馬乗りになっていた初霜の上から離れ、艇の隅に崩れる様に座り込んだ。

 

 写真を見つめる彼の目から涙が溢れ、こぼれ落ちた。

 

 彼は写真を胸にかき抱き、その場にうずくまり、泣いた。

 

 それは怒りでも恐怖でも悲しみでも無い、ただ言葉にならない感情が止まらずに溢れ出して、彼はひたすら泣き続けた。

 

 初霜は艇内で横たわったまま、彼の泣き声を聞いていた。

 

 その首には深く濃い痣が残り、それほど強く絞められた事で、彼女の意識はまだ朦朧としていた。

 

 そんな朦朧とした意識の中で、初霜は二年前の事を思い出していた。

 

 そう、あの時も泣いていた。

 

 でも、あの時泣いていたのは・・・

 

 

 

 

 

 

 二年前のあの日、何十人という人間の無残な死を目の当たりにした初霜の心は、壊れかけていた。

 

 人を喰らい続けるチ級に無謀にも立ち向かい、船体を大破寸前にまで追い込まれながらも辛うじて一矢報いることに成功した。

 

 しかし、チ級が去って行った後に残されていたのは、血に染まった海面と、そこに散らばる命の残骸に群がる鮫や魚の群れだけだった。

 

 救えた命は、たった三人だけ。

 

 しかし、その三人は・・・

 

(許さない)

 

 壊れかけた心で、初霜は憤った。

 

 この惨事の原因を作ったあの三人を許して良い筈がない。

 

 生かして良い筈がない。

 

 初霜は、足元に落ちていた拳銃を拾い上げた。それは、あの三人が持ち込んだものだ。

 

 彼らはこの銃を初霜に突きつけ、他の人々を見殺しにして撤退しろと脅迫した。

 

 非道。

 

 外道。

 

 そんな言葉では表せられない行為だ。

 

 その報いを受けさせなくては。

 

 初霜は弾倉を確認する。まだ数発残っている。三人相手なら充分だ。

 

 初霜はそれを手に、艦橋の隅に居る三人に目を向けた。

 

 メンテ妖精によって拘束され、身動きが取れないままに戦闘に巻き込まれた彼らは、死の恐怖に如実に晒された事によって心を挫かれ、恐慌状態に陥っていた。

 

 青褪めたを通り越して真っ白になった顔色の彼らと目を合わせると、三人は目に見えて震えだした。

 

 初霜が銃を手に、彼らに向かって足を踏み出すと、彼らは一斉に悲鳴をあげた。

 

--お願いだ、殺さないでくれ。

 

--死にたくない。

 

 いったいどの口がそれを言うのか。

 

 お前達にそれを言う資格があるのか。

 

 報いを受けろ。

 

 初霜は銃を向けようとして・・・

 

 ・・・そのとき、一人の男の足元に、別の何かが落ちているのを見つけた。

 

 それは、写真だった。

 

 何度も手にして眺めていたのだろう、折り目だらけで、手垢にまみれたその写真。

 

 写っていたのは、みすぼらしい家屋の前で、粗末な服を纏った子供達に囲まれた、その男の姿だった。

 

--お願いします。殺さないで下さい。

 

 その男が言った。

 

--罪なら償います。犯罪からも足を洗います。だからお願いします。殺さないで下さい。家族が待っているんです。家族の元に返して下さい。お願いします。殺さないで・・・

 

 

 

 

 身勝手な話だ!

 

 

 

 泣きながら訴える男を見下ろしながら、初霜は「ふざけるな!」と叫びたかった。

 

 死んで行った者達にだって家族は居るんだ。

 

 生きたかったのはお前達だけじゃ無いんだ。

 

 死んでいい人間なんてどこにも居ないんだ。

 

 そう叫びながら、銃を撃とうと思った。

 

 死んで償え、と。

 

 

 

 

 

 

 

 けれど、出来なかった。

 

 銃を向けることも、言葉を吐くことさえも出来なかった。

 

 それならばせめて睨みつけてやろうと思ったが、視界が滲んでまともに目を開けなかった。

 

 瞼を固く閉じ、唇を噛み締めて俯いた初霜の頬に涙が伝い落ちた。

 

 この者たちにも家族が居る。

 

 死んでいい人間なんてどこにもいないのなら・・・

 

 ・・・この三人だって、そうなのだ。

 

 その矛盾に気付いた時、初霜もまた、泣いていた。

 

 誰も救えなかった己の無力さと、悔しさ。

 

 そして何よりも、自分もまた生き残った事に対する安堵感と、罪悪感を認めたくなくて、

 

 その後ろめたさを否定したくて、

 

 その全てをこの男たちにぶつけようとした。

 

 してしまった、この己の心の浅ましさ。

 

(そう、誰よりも許されないのは・・・この私だ)

 

 許されざる己の罪。

 

 それはあの日以来、初霜の心を霧のように覆い尽くしていた。

 

 あの日、泣いたあの涙の意味。

 

 それと同じ涙が、今、ここに流れていた。

 

 誰も恨む事ができないなら、泣く事だけが、たった一つ残された慰めだった。

 

 初霜はそっと身を起こして、うずくまって泣き噦る彼の元へと、静かに寄り添った。

 

 彼の慟哭が海に響き渡る中、立ち込めていた霧がようやく晴れようとしていた--

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初霜に収容された男については、情報部員と医療スタッフを乗せたヘリにより、帰投途中の洋上で回収する。

 

 海尾は艦隊司令部からの電話でそう告げられた。

 

『戦艦、そしてあの人喰い雷巡も含めた十七隻もの深海棲艦を撃破し、かつ民間船舶に一隻の被害も出さなかった。まさに大戦果だよ。素晴らしい』

 

 手放しで褒める司令長官の言葉に、海尾は低い声で、

 

「・・・全て部下の活躍のおかげです」

 

 と答えた。

 

『無論、そうだろうとも。何しろ艦隊司令部で直々に選抜した精鋭だ。状況がこれほど早く動いたのは想定外だったが、彼女達ならこれくらいの局面は乗り切ってくれると予想していたよ。まさに期待通りだ』

 

「状況が早く動いたとは・・・それはどう言う意味ですか」

 

『別に君の指揮官としての資質を否定しているわけでは無い。部下の手柄はそのまま指揮官の手柄でもある。君もまたよくやってくれた』

 

 違う、そんな事を訊いた訳じゃない。そう言おうとしたが、

 

『今後も期待している。以上だ』

 

 まるでこちらの質問を受け付けないかの様に、電話はさっさと切られてしまった。

 

「くそっ」

 

 海尾は叩きつける様に受話器を戻した。艦隊司令部からの電話に対し悪態を吐くのは既に二度目だ。

 

 荒れた態度の海尾の様子に、叢雲が不安そうな視線を向けた。

 

「今度はどうしたの。やっぱり叱責を受けたとか?」

 

「叱責どころか、不自然なほど手放しの賞賛だ。ぬけぬけと何が大戦果だ。こんな嬉しくない手柄は初めてだ」

 

 不機嫌な海尾に、叢雲も肩をすくめた。

 

「ねえ、艦隊司令部は今回の事を予想していたと思う?」

 

「司令長官の口振りから察するに、そういう事だろう。まあ、深海棲艦の大量出現はさすがに予想外だとは思うが・・・」

 

 しかし、あの男が初霜に対しテロを仕掛けたと判明した時、艦隊司令部は不自然なほど早く、そして強権的に身柄の確保を要求してきた。

 

 まるでこうなる事を知っていたかのように。

 

「情報部は怪しい連中をマークしたままずっと泳がせていた。今回のあの男もな。恐らくあの男も含めて誰かがテロを起こすのを待ち構えていたのだろう」

 

「じゃあ、警備艦隊再編成に艦隊司令部の意向が強く働いたのは、これを狙っての事?」

 

「この島は隣国とも近いし、市民団体も息がかかっているのが多い。そこに初霜の様な隣国との因縁を持った艦娘を送り込めば、連中が早かれ遅かれ何らかのリアクションを起こすことは予想に難くない。大方、情報部が筋書きを描き、艦隊司令部が乗ったと言うところだ」

 

「予算増額で舞台を整え、役者を送り込んできた、か・・・あの子たちに聞かせられる話じゃないわね」

 

「まったくだ」

 

 この命がけの任務が、初めから味方によって演出された陰謀の結果だったなどと、現場の彼女たちに言える訳がない。

 

 いや、言えるどころか、

 

「部下の命を捨て駒にしかけたんだ。こんなの指揮官失格だ・・・」

 

 そう口にして、海尾はうなだれた。

 

「そんなこと言うものじゃないわよ」

 

 ふふっ、と隣で叢雲が笑いながら、海尾の傍に寄り添った。

 

「あの時、あんたが艦隊の指揮を剥奪されて艦隊司令部直属で動いていたら、もっとひどい力押しの作戦を取らされた可能性だってあるわ。だけど、あっちの指揮官に自決の覚悟なんて無いでしょうね・・・あんたの覚悟は現場の皆にも通じているわ。だからあんな無茶な作戦も成功できたのよ。誇っていいわ」

 

 寄り添う叢雲の手が、海尾の手に重ねられた。

 

 その温もりと感触が、ささくれかけた海尾の心を包み込む様に宥めてくれる。

 

「すまないな、叢雲・・・ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 叢雲の微笑みに、彼も笑みを浮かべながら、しかし、と内心で思う。

 

(俺の覚悟か・・・)

 

 それはきっと、初霜の信念とも言うべき覚悟に引きずられて出たものだろう。しかしだからと言って、自分自身の覚悟を一時の気の迷いだったと言うつもりはなかった。

 

 あの時も、今も、これからも、海尾は部下とともに命を懸け続ける覚悟だった。

 

「ほら」叢雲が司令部の海域図を見上げた。「艦隊が島に近付いてきたわ。そろそろ見えてくるはずよ。迎えてあげましょう」

 

「そうだな。あいつらには言いたい事が山ほどあるが、まあいいさ、先ずはよく帰って来てくれたと褒めてやる事にしよう」

 

「それと、球磨と那珂の歓迎会もしなくちゃいけないわね。また店を予約しとかなくちゃ」

 

 二人は地下司令室を出て岸壁へと上がる。

 

 外はちょうど日が沈みきった頃だった。まだ薄明かりが残る空に星々が瞬き、その水平線に、こちらへと向かってくる艦隊の灯りが浮かんでいた。

 

 その艦隊の上空を、一機のヘリが低く飛んでいた。艦隊司令部から連絡のあった、情報部のヘリだろう。

 

 ヘリは単縦陣で進む艦隊の最後尾に位置していた初霜の船体上空で低くホバリングを開始し、ホイスト降下によって情報部員と医療スタッフを乗り込ませてきた。

 

 彼らは初霜の食堂兼仮眠室のベッドで看護を受けていた男を担架に移すと、手早くヘリまで吊り上げて収監し、飛び去って行く。

 

 彼は、初霜の船体に収容されてから、ヘリに移送されるまでの間、ずっと大人しくしていた。

 

 眠っていた訳ではない。しかし初霜とは何も話さず、身柄を受け取りに来た情報部員の質問にも黙秘を貫いた。

 

 結局、彼の名前さえも分からないままに、初霜は艦橋で、ヘリが飛び去って行くのを眺めていた。

 

 ヘリはすぐに宵闇へと紛れ、消えて行く。

 

 彼が今後、どのような扱いを受けるのか、初霜にそれを知る権利は無かった。情報部関係の情報は、海尾でさえ安易に知る事が出来ない機密事項だった。

 

 それでも、彼とはもう二度と会うことはないのは確かだろう。

 

 初霜がそう思ったとき、艦橋に、一体のメンテ妖精が現れた。

 

 艦橋配置の妖精とは別の個体だ。それが呼び寄せた訳でもないのに、勝手に初霜の元へとやって来ていた。

 

「これは、どういうこと?」

 

 初霜の疑問に、サポートAIが答えた。

 

『要救助者から物品を受領したため、提出に参りました』

 

 彼から何かを渡されたと言うのか。

 

 改めて妖精を見てみると、それは彼の傷口をずっと塞いでいた個体である事に気付いた。

 

 そういえばこの個体は、彼を船体に収容した後もずっと、彼の看護要員として傍に付き添わせていたのだった。

 

 その妖精が敬礼し、手にしていた物を初霜に差し出した。

 

 それは、ラミネート加工された写真。彼の妻子の写真だった。

 

「これを、どうして?」

 

 疑念を抱きながら写真をよく観察すると、裏に何かが書いてある事に気が付いた。

 

 それは食堂に備え付けてあった油性ペンで、そして恐らく利き手ではない左手で書いたためか酷く歪んだ字で、こう書かれていた。

 

【别忘了 初霜】

 

 忘れるな、初霜。

 

 あの日の、名もなき人々のことを、お前は忘れてはいけない--

 

 

 

 

 

『僚艦全て入港完了しました。これより本艦は入港準備作業にかかります』

 

「--了解」

 

 初霜はサポートAIの報告に答えながら、その写真を懐にしまい込んだ。

 

 

 忘れはしない。

 

 あの日の事も、そしてあなたの事も。

 

 彼女の胸に宿る信念に、また一つ折れる事が出来ない理由が加わった。

 

 

 船体は港に近づいて行く。

 

 既に他の艦娘たちは入港を終えており、岸壁の照明に照らされて、そこに海尾と叢雲を加えた仲間たちが初霜の入港を待っている姿が見えていた。

 

 艦橋配置の妖精がラッパを構えてウィングに立つ。サポートAIが報告。

 

『入港準備完了』

 

「了解。入港用意!」

 

 初霜の指示により、妖精がラッパを吹き鳴らす。

 

 入港ラッパの高らかな音色と共に、初霜は帰投した。

 

 

 

 

 

 

 




次回予告

 どこか見覚えのある海、見慣れたはずの鎮守府

 そこで繰り広げられるのは既視感にまみれたいつかの光景

 だがお前は誰だ? ここに居る俺は誰だ?

 記憶を失った青年がある艦娘と出逢った時、新たな物語が幕を上げる。

 第X章〜海を生きる漣〜「第一話・こんにちは、ご主人さま(*≧∀≦*)」

「・・・第一章の初期艦かえただけのセルフリメイク、キタコレ?」
「言うな」


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第X章~海を活きる漣~
第一話・こんにちは、ご主人さま(*≧∀≦*)


 風呂場の浴槽に、二人の人間が浸かっている。大きいのと、小さいの。大人と、子供だ。男二人。父親と、息子かもしれない。

 

 湯に浸かりながら、男の子が口を開く。

 

「ねえねえ、なぞなぞしよう」

 

「なぞなぞ?」と、大人が訊く。

 

「うん。上は大火事、下は大洪水、これな~んだ」

 

「なんだそれ? う~ん、なんだろうなぁ」

 

 大人が苦笑いしながら考えるふりをする。本当は答えを知っている。先日、男の子と一緒に観ていた子供向けテレビ番組で、この問題が紹介されていたからだ。

 

「う~ん、なんだろうなぁ。わからないなぁ」

 

「ぶ~、時間切れ。答えは“お風呂”でした~」

 

 得意満面な男の子の様子に、大人はこらえきれずに思わず吹き出してしまった。

 

「はっはっは、それは違うだろう」

 

「えー、何言ってるの?」

 

「“お風呂”なら、下は大火事、上は大洪水、こうじゃないと」

 

「え~・・・そうだっけ?」

 

「そうだよ。そういう風にテレビでも言っていた」

 

 まぁ、ウチの風呂は電気給湯器だから下で火を焚いて沸かしている訳ではないがな、と大人はふと思う。そもそも、そんな五右衛門風呂染みた風呂など、彼は見たことなどない。

 

 いや、あったかな。と思う。子供の頃なら、そうだった気がする。そう思って、あれ、俺はいったい何歳なんだ? と疑問が浮かぶ。

 

 そもそも、この子供は誰だ? この大人は誰だ?

 

 父親かと思っていたが、そうじゃない、兄貴だ。この大人は年の離れた兄貴。兄貴は笑いながら言った。

 

「上が大火事で、下が大洪水だったら、それはきっと艦だな。沈みかけの軍艦だ」

 

「なんで?」と俺。

 

 海軍士官である兄貴は、少し真面目な顔になって言った。

 

「敵の攻撃を受けて甲板上は大火災、そして喫水線下は大浸水。・・・いやな想像だな。縁起でもない」

 

「・・・兄ちゃんの軍艦は、沈まないよね」

 

「沈みたくはないなぁ」

 

 兄貴はそう言って冗談めかして笑った。だけど、俺は「沈まないよ」とハッキリ言ってほしかったから、複雑な気分だった。

 

 ただ、やっぱり艦はどうしたって沈むものなのかもしれない。

 

 アラーム、爆発、振動、浸水、今度は浸水警報、身体が傾く、内部の通路に煙と熱が充満し、乗員たちの行く手を阻む、高熱で隔壁がゆがみ電装系が軒並み破壊される、艦内がブラックアウトし暗闇に閉ざされる、艦内の天井を炎が舐め、足元に浸水した海水が濁流のように流れる。

 

「総員離艦!」

 

 俺が叫ぶ。いや俺じゃない。この艦の艦長か。俺はそれを聞いて他の俺たちと一緒に上甲板を目指す。けれど炎と海水に阻まれ、前に進めない。

 

「まて、閉めないでくれ、俺たちはまだここに居るんだぞ!?」

 

「すまん、もう持たない。すまない!」

 

 俺は下の階層に取り残された俺たちに向かって叫びながら、ハッチを閉めた。閉めたハッチの隙間から、海水がどっとあふれ出す。俺はハッチのハンドルを力の限りに回して、ハッチを完全に閉め、溢れる水を防いだ。

 

 このハッチの下はもう、満水だ。浸水が激しすぎて、取り残された俺たちを救おうにも、どのみち間に合わなかった。できるのは、ここで浸水を防いで、わずかでも艦の沈没を遅らせることだけだ。

 

 だが、その俺も、気づけば火災に巻き込まれていた。周囲を高熱の煙が覆いつくし、その区画から酸素を奪う。俺は閉めたハッチに覆いかぶさるように這いつくばりながら、足元にわずかに残った酸素を吸おうと喘いだ。

 

 僅かな酸素を吸う代償に、高熱に焼けた空気に喉を焼かれた。その一呼吸を最後に、俺は喉から肺まで焼き尽くされた。

 

 呼吸困難にもがきながら死んでいく俺の意識を、俺は感じていた。その下で溺れ死んでいく俺たちの意識も。艦の浸水量が限界を超え、艦は燃え盛りながら沈んでいく。まさに上は大火事、下は大洪水だ。俺は沈みゆく自分の身体を見て、そう思う。

 

 しかし、俺とは誰だ。俺たちとは、誰だ。

 

 俺はいったい、誰なんだ・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おーい。

 

 起きろー。

 

 起きてよー。

 

 遠くから誰かにそう呼びかけられた気がして、俺の意識が徐々に呼び覚まされていく。

 

 最初に感じたのは、音だった。波音が打ち寄せている音。

 

 起きなよ~。

 

 起きないな~。

 

 起き起きないないな~。

 

 寄せては返すさざ波のように、心地よい声が耳元に降り注ぐ。

 

「そぉい⊂( ・∀・) 彡」

 

 すぱん。

 

「ぬはぁっ!?」

 

 額を小気味よくはたかれて、俺は閉じていた瞼を開いた。なんだ、何事だ?

 

 何故、俺は倒れているんだ?

 

 そんな疑問を抱えたまま空を見上げ続ける俺の視界に、ふと、影が差す。

 

 一人の少女が俺の傍に膝をつき、顔を覗き込んでいた。

 

 年齢は十代半ばくらいだろう。明るい色の髪の毛を左右のツインテールで結び、大きな丸い瞳を好奇心でいっぱいに輝かせながら、仰向けに倒れている俺を見下ろしている。

 

 可愛いと言えば可愛い。が、

 

「返事がない。ただの屍のようだ」

 

「生きとるわい! たたき起こしておいて死人あつかいしてんじゃねえ!」

 

 思わず突っ込みながら立ち上がる。すると全身の関節が油の切れた機械のように軋みをあげ、鈍い痛みが拡がった。

 

「あだだだ」

 

 中腰になった俺を、傍らで膝をついたままの少女が、心配そうな顔で見上げた。

 

「ぎっくり腰ですか?」

 

「ちげーよ。いや、違うはずだ。違うと信じたい」

 

 だが腰も痛いのは事実だ。俺はそろそろと曲がった腰を伸ばしながら身体のあちこちを手で探ってみて、関節の軋み以外に大きな外傷が無い事を確認する。

 

 同時に、この場所が砂浜であった事にも気が付いた。全身が砂まみれだ。

 

 穏やかな波打ち際を背景にして、少女もまた膝の砂を払いながら立ち上がった。彼女の身長は俺の胸元くらいだ。彼女の瞳が私を見上げる。

 

「起きて大丈夫なんですか?」

 

「さんざん起きろと呼び掛けていたのはどこのどいつだよ」

 

「そりゃフランスの隣の」

 

「は?」

 

「ドイツがどこかと聞かれたので」

 

「・・・日本語でおk」

 

「てへぺろ(>ω・)」

 

 だから日本語でしゃべろっての。

 

 どっと押し寄せてきた疲労感は倒れていた後遺症か、それともこいつのせいか。まあ両方だろう。

 

 彼女が俺を見上げながら、訝しむ様に眉を寄せて言った。

 

「まあ確かに言いましたけど、意識があるかどうか確認したかっただけですからね。だいたい足元が覚束ないですよ。今にも倒れそうです」

 

「そうだな、確かに気分が悪くなってきた」

 

「座ってたほうがいいですよ。取り敢えず救急車を呼びますんで。もっとも、ここの通信網が生きていればの話ですけどね~」

 

 座り込んだ俺の横で、彼女は立ったままウサギのぬいぐるみを取り出した。彼女の手の平よりも少しだけ大きめのピンク色のウサギだったが、俺は何故だかそれが通信機なのだと理解していた。

 

 案の定、彼女はそれを耳にあて、もしもしと話し出す。俺は彼女が救急車を呼ぶ様子を眺めた。

 

「もしもし」

 

「・・・」

 

「もしも~し」

 

「・・・」

 

「も~しも~し」

 

「・・・」

 

「カメよ、カメさんよ」

 

「電話してるんじゃねえのかよ!?」

 

「んなワケねーじゃないですか! ウサギですよコレ! 一目でわかるツッコミ待ちですよ!」

 

「行き倒れを待たせた挙句に、なにツッコミを求めてんだよ!?」

 

「私ってシリアス苦手なんですよねぇ。乾いた日々を潤すためにユーモアを求める性質なんですよ」

 

「お前のそのユーモアとやらで俺の心はがっさがさにヒビ割れてる最中だよ」

 

「お、日々とヒビをかけた的な?」

 

「うるせえよ。頼むから少しはシリアスになってくれよ」

 

「はいはい」

 

 彼女はウサギの背中についていたファスナーを開き、内部から携帯端末を取り出した。今度こそ多分、通信機だ。多分。

 

 いやこいつの事だから、またボケるかもしれん。こうやって同じネタを重ねることを何と言ったか。ああ、そうだ。

 

「天丼ネタか」

 

「スマホ見て天丼とか、頭沸いてんですかね?」

 

 彼女は可哀想なものを見るような目で俺を見ながらため息をついた。携帯端末を耳から離し、再びウサギぬいぐるみにしまい込む。

 

「やっぱり繋がらないですねぇ。ここの鎮守府は空襲でかなりの被害を受けたみたいだから、もう駄目かも知らんね」

 

「空襲?」

 

 彼女の口から出た非日常的な言葉に、俺は周囲を見渡した。

 

 海とは反対側、陸地側にはコンクリートの堤防があり、その向こう側の景色は見えない。しかし広い空に向かって黒い煙が幾筋も立ち昇っているのが見えた。

 

「火事か。あそこが被害にあったのか?」

 

 しかし、いったい誰に?

 

 いや、そもそもここは何処だ?

 

「深海棲艦の空母艦載機による爆撃って、はっきりわかンだね」

 

「深海・・・?」

 

 おうむ返しに口にした俺に、彼女は頷きながら答えた。

 

「この島の主な軍事施設はほぼ被害を受けたみたいですからね~。あっちは鎮守府の方向ですけど、この分じゃ壊滅してたりして」

 

「鎮守府・・・着任・・・お前は海軍なのか?」

 

「ええ~、それいまさら気づいたんですか。どこからどう見ても立派な軍人じゃないですか」

 

「どこからどう見ても頭のネジが緩んだ小娘にしか見えねえよ」

 

「そんな言い方、まったく失礼しちゃうわね。かすんぷ」

 

「誰の真似だよ」

 

「艦娘仲間の暁ちゃんです。後輩のちびっ子なんですけど大人ぶろうとしているところとかホントにかわゆくて」

 

「知らんがな。暁じゃなくて、お前はいったい誰なんだよ」

 

「お前は誰かと聞かれたら、答えてあげるが世の情け」

 

「ネタに走るな、ネタに」

 

「世界の破壊を防ぐため、世界の平和を守るため、愛と真実の悪を貫く!」

 

「押し通しやがった! そして悪を貫くんじゃない!!」

 

「ラブミーチャーリーな艦娘、漣、こう書いて“さざなみ”と読みます!」

 

 彼女が、ずびしぃっと口で擬音をつけながら、ポケットから一枚のカードを取り出した。

 

【綾波型駆逐9番艦・漣】

 

 かんむす、と彼女は言った。未知の言葉だ。

 

 しかし、俺はその意味を訊く気にはならなかった。どうせ聞いてもまたネタに走りそうだから・・・という以外にも、理由があった。

 

 上手くは言えないが、俺はそれを既に知っている気がした。実際に彼女が“そうなった”ときを目にすれば全てを理解できる気がした。今はただ、思い出せないだけだ。

 

 そう、思い出せないのだ。俺は重大な事実に気が付いた。

 

「で、そちらさんは、どちらさんですかね?」

 

 彼女からの質問に、俺は愕然とする。

 

 俺は誰だ。それがわからないのだ。記憶喪失だった。

 

 そう彼女、漣に伝えると、彼女はまた可哀想なものを見るような目で俺を見ながらため息をついた。

 

「他人に訊いておいて自分が分からないとか、それどうなんですかね。いや、空襲で吹っ飛ばされたショックてのは理解してますよ。でもさっき私の事、頭のネジが緩んだ小娘とか言いましたよね」

 

「うん、すまん。調子に乗ってた」

 

「私がネジ緩んでんなら、そっちは?」

 

「ネジ飛んでたみたいです」

 

「はい、素直でよろしい」

 

「ところで、俺が倒れていた理由は見当つくか? いや、まあダメもとで質問しているんだが」

 

「私は鎮守府に向かう途中で倒れているあなたを見つけただけですからねぇ。堤防の向こう側は空襲で穴だらけで、砂浜を歩いた方が早かったから」

 

「んじゃ、お前・・・君に介抱されたのは偶然だった訳か。神に感謝だな」

 

「別に、声を掛けただけですけどね」

 

「いや、叩かれた気もするぞ?」

 

「気のせいです。それより神に感謝って、あなた怪しい新興宗教とかにはまってたりとかなんかですか?」

 

「自覚なしにつぶやいただけだ。てか、神の名を出しただけで新興宗教扱いするな」

 

「どうですかね。最近はやたら増えてるらしいですから。五月雨教とか文月教とかムツリム・アラアッラー教とかぽいぽい教たべりゅうううう教とかとか」

 

「どれも危険な香りが漂ってきそうな宗教だな」

 

「そんなあなたに漣教なんていかがです?」

 

「遠慮する」

 

「いま入信すればポイント五倍プレゼントしますよ」

 

「何のポイントだ?」

 

「5ポイントたまると漣を秘書艦に据えることができます」

 

「いらんいらん」

 

「ええ~、今なら“ご主人様”って呼びかけるオプションもつけちゃいますよ」

 

「そんな趣味はない。っていうか、記憶喪失の人間の秘書になってどうするんだ」

 

「ありゃ、自覚無かったんですか。自分がどんな格好してるか改めて見てみれば、少なくとも自分の職業くらい見当が付きそうなものですけどね」

 

 言われて、もう一度自分の服に目を落とす。

 

 黒い服だ。足元は革靴、下半身は黒のスラックス、上半身は白ワイシャツに黒ネクタイに、金ボタンがついた黒の上着を着ている。

 

 その金ボタンには鎖の絡んだ錨が刻まれていた。

 

「これ軍服じゃないか。冬制服だ。てことは俺も軍人か。海軍所属だ」

 

 ちなみに帽子は無かった。空襲で紛失したのかも知れない。髪の毛は短く刈り揃えられていた。

 

 軍服なら名札があるはずだが、右胸に着けているはずのネームプレートも紛失していた。

 

 ならば身分証だ。漣のようにカード型の身分証を持っていないかポケットを探ったが、残念ながら見つからなかった。

 

 しかしその過程で自分の階級に気づいた。

 

 冬制服の階級章は両袖についている。そこには金色の太い線が四本ならんで巻かれていた。

 

「一等海佐だ。げ、マジか、そんな高い階級だったのか」

 

「一佐て、海上保安隊の階級じゃないですか、海軍だと大佐ですよ、ご主人様」

 

「おい、やめろ、勝手に入信させるな。それに俺の実感としてはまだ少佐程度だ。大佐になれるほど歳くっちゃいない。おい、そうだよな。俺まだ若いよな?」

 

「うーん、折り返し地点ってところですかね」

 

「また微妙な評価を」

 

「まあ最近の大佐レベルだと妥当な線だと思いますよ。艦娘担当の将官なんて提督業させるために臨時昇進させられた人たちばっかりですから」

 

「あ~、そういやそうだった」

 

 臨時昇進は正規の階級ではないから、提督業から解任されると元の階級に戻ってしまう。しかしそれだと記録上は懲戒処分と同じ降格扱いになってしまうので、区別をつけるため階級の後ろに(仮)がつく。

 

 つまり今の俺は大佐(仮)というわけだ。しかしカッコカリって、格好悪いな。密かに(笑)とかにされても気づかんぞ。

 

 そんなことを考えていた時、俺は別のものを見つけ、注意をそちらに惹きつけられた。

 

 10メートルほど離れた場所に、砂で半分埋もれるようにして黒の書類カバンが落ちていた。

 

 漣もそれに気付き、座り込んだままの俺に代わって拾ってきてくれた。

 

「軍用の書類カバンですね。あなたのですか?」

 

「多分そうだと思う。鍵はかかっていない・・・気がする。開けてみてくれ」

 

「閲覧不可の重要機密書類だったら、あなたに責任とってもらいますからね」

 

「責任が取れる立場であればいいんだがな」

 

「大佐でしょ。カッコカリだけど」

 

「カッコカリ言うな」

 

「カッコ笑い」

 

「やめろ、マジでやめろ」

 

 漣はにやにやと笑いながら、さほど躊躇わずにカバンを開け、中からA4判の茶封筒と、一枚のカードを取り出した。

 

「お、これ身分証ですね。写真もついてる」

 

 漣はそう言って、カードと俺を見比べた。

 

「うん、あなたですね。階級は大佐(仮)で間違いない。(笑)じゃなくて良かったですね。それで、名前は・・・海尾 活流? なんて読むんですか、これ」

 

「・・・いきる」

 

 ぷ、と彼女は吹き出した。

 

「うみお いきる・・・くく、マジですか、キラキラネームってやつですか?」

 

「笑うな。気分悪いぞ」

 

「あ、めんごめんご。でも、気分悪くしたってことは、自分の名前だって自覚あるんですね」

 

 漣の言葉に、俺は頷いた。活流という名前に引き上げられるように、次々と記憶が浮かび上がってきた。

 

「そうだ、俺の名だ。生まれてこの方、家族以外に一度たりとも正しく読まれたことのない名だ。なんでこんな名前を付けたんだと親に文句を言ったこともある。だってかっこいいでしょと言われ唖然としたが」

 

「まあギリギリそう読めないこともないだけマシじゃないですかね。生命と書いてライフと読むとかやられた日には目も当てられませんよ」

 

「兄貴は守だった。まもる。普通の名だ。だけど苗字が海尾だからな。うみをまもる、になってそれでからかわれたらしい。兄貴は名前負けするのが嫌で海軍に入隊したんだ。それをみて俺も海軍に憧れたんだ」

 

「立派なお兄ちゃんですね。そしてあなたも大佐にまで昇進した。カッコカリですけど」

 

「いちいち強調するな」

 

「でも立派ですよ。ご両親もお兄ちゃんも鼻が高いでしょうね」

 

「そうだと思う。両親は入隊する前に死んだけどな。海で遭難したんだ」

 

 俺がそういうと、漣の表情が微かに強張った。

 

「あ、えとその・・・ごめんなさい」

 

 その態度に、俺は後悔する。浮かびあがった記憶のままに、言わなくてもいいことを言ってしまった。

 

 漣とは知り合ったばかりだが、なんというか、こいつにシリアスな顔をされると調子が狂う。

 

「いや、気にすんな。とっくの昔の話だし、むしろ思い出させてくれて感謝してる」

 

「あ~、そうですか。・・・えっと、こっちの書類は、あなたが調べた方が良さそうですね」

 

「だな」

 

 漣から身分証と茶封筒を受け取り、先ずは身分証を確認した。

 

 海尾 活流。確かに大佐だ。(仮)もしっかりついている。格好悪い。年齢は三十半ば。写真は撮影者の腕が悪いのか、あまり男前には見えなかった。しかし、これが俺らしい。鏡が無いので自分の顔を見ることはできないが、漣もそう言ったのだから、可能性は高い。

 

 身分証を懐のポケットに仕舞い、続いて茶封筒の表書きを見る。

 

 個人情報という文字が赤インクの判で押されている。宛先は南西警備艦隊司令部総務課宛。送り主は海軍総隊艦隊司令部。

 

 どうやら人事書類の様だ。俺は糊付けされていた上端を手で破き、中の書類を取り出した。

 

 辞令だった。

 

【艦隊人事第48号 人事発令通知 次ノ者へ南西警備艦隊司令へノ着任ヲ命ズル 海軍大佐 海尾 活流】

 

 口に出して読み上げると、漣が「お」と声を上げた。

 

「どうした?」

 

「あなた、やっぱり私の上官らしいですね」

 

 そう言って、漣は直立不動の姿勢を取る。

 

「綾波型駆逐艦・漣、本日付で南西警備艦隊所属を命ぜられ、只今着任しました。宜しくお願いしますね、ご主人様」

 

「おい、ご主人様はやめろ。勝手に漣教に入信させるな」

 

「ふふふ、これで秘書艦と艦隊旗艦の座は、この漣のもの」

 

「人の話を聞け」

 

「まあ実際問題、鎮守府もかなりひどい被害受けてるみたいですし、艦隊がどれだけ残っているかも疑問ですよね」

 

「さらっと怖いこと言うなよ。否定はできんけど」

 

「とりあえず鎮守府へ行きましょ、ご主人様」

 

 マイペースを押し通す漣に促され、俺は黒煙が立つ方向へ向かって、堤防を越えた。

 

 堤防を越えた先は田畑が拡がる平野であり、一キロほど先に赤レンガの建物が見える。どうやらあそこが鎮守府の様だ。黒煙もそこから上がっていた。

 

 鎮守府へと続く道は空襲の目標とされたのか、爆撃により幾つもの大穴が空き、寸断されていた。俺たちは田畑の畦道を使って迂回を繰り返しながら、鎮守府へと向かった。

 

 鎮守府に近づくにつれ、その被害状況もハッキリと見えてきた。一言で言えば、ひどい有様だった。

 

 俺たちの位置は鎮守府の裏手にあたり、そこから見える限り庁舎らしき建物、倉庫らしき建物は全て被害を受けている様だった。原型を留めている建物でも何処かしらに大きな穴が開き、窓ガラスも一枚残らず砕け散っている。跡形も無く崩れた建物も少なくないだろう。

 

 せめてもの救いは火災が既に鎮火しているということだった。現状これ以上の被害が拡大することはない様で、敷地内では瓦礫の撤去作業が行われていた。

 

 近くまで辿り着いた俺たちは、正門を探してフェンス沿いを歩いた。しかしフェンスもあちらこちらで倒壊し、その意味をほとんど失っていた。

 

「正門まで遠そうですね。ねえねえ、ここから入っちゃいましょうよ~」

 

「バカ言うな。不法侵入だ」

 

「意外と真面目なんですね」

 

「将官が真面目でなくてどうする。バカ真面目くらいでちょうどいいんだ」

 

「バカ、真面目」

 

「その不自然な区切り方やめろ」

 

 しばらく歩くと、また海が見えた。どうやら鎮守府の敷地は海に面している様だ。海軍の施設なのだから当然かもしれないが。

 

 正門も海の近くにあった。立直中の守衛は、少女を同伴した、帽子もかぶらず砂まみれの制服姿の俺を見て訝しんだが、身分証を見せるとすぐに態度を改め、敬礼した。

 

「空襲に巻き込まれたのですか。ご無事でなによりでした。今から警備艦隊関係者に連絡を行いますので、しばらくここの詰所でお待ち下さい」

 

 守衛に促され門の脇にある小さな建物に入ると、入れ替わりに別の守衛が自転車に乗って敷地内へと走って行った。

 

「いま伝令を出しました」と守衛。「この詰所も機銃掃射を受けて、通信機器を破壊されまして、鎮守府内でも人力で情報をやり取りしている有様です」

 

「壊滅状態だな」

 

 俺が詰所の壁に穿たれた大量の弾痕を眺めながらそう呟くと、守衛はさほど悲壮感を見せずに、そこまでひどくないです、と言った。

 

「地下の中枢施設はほぼ無傷ですよ。隊内の通信回線自体も生きています。もっとも、地上施設の送受話器はほとんど壊れましたけどね」

 

「外部との連絡は?」

 

「一般回線は幾つか残っていますが、無線通信用のアンテナが損傷した様です」

 

「難儀だよなあ」

 

 四、五分ほど経ったところで伝令が戻ってきた。

 

「大佐カッコカリ、警備艦隊司令部は現在、空襲の被害のため迎えを出せないとの事です。申し訳ございませんが司令部までご足労願います」

 

「わかった。場所を教えてくれ。あと階級にカッコカリ付けるのやめろ」

 

「わかりましたカッコカリ」と漣。

 

「そっちを略すな。てか、お前は黙ってろ」と俺。

 

「では大佐」と守衛。「ここから海沿いの道を進んだ先に岸壁があります。その中ほどあたりの掩体壕が地下司令部への入り口となっており、司令部要員がそこで待っているそうです」

 

 俺は守衛に礼を言い、漣とともに敷地内を歩き出す。

 

 教えられた道を進んでいく途中、漣がある疑問を口にした。

 

「空襲直後とはいえ、新司令を出迎えにも来ないなんて、ご主人様も人望無いですよねぇ」

 

「被害がそれだけひどいんだ。人望は関係ない」

 

「さっきの守衛さんは、そこまでひどくないと言ってましたけどね。まあ詰所に銃撃食らって平然としていられる守衛さんも大したもんですけど」

 

「肝が据わってるのか、それとものんきなのか。・・・ここの連中もそんな感じなのかな」

 

「肝が据わりすぎて新司令なんか歯牙にもかけない・・・うわぁ、独立愚連隊みたいな人たちだったらどうしよう」

 

「旗艦の腕の見せ所だな。頼んだぞ、秘書艦どの?」

 

「げー( ̄Д ̄;;」

 

 海沿いに長く伸びる岸壁には、係留されている艦艇は一隻も無く、がらんとしていた。その岸壁の真ん中近くに、カマボコ型をしたコンクリート製の構造物があった。

 

 おそらくこれが守衛の言っていた掩体壕だろう。その地下司令部への入り口と思われる鉄製の扉の前に、一人の背の低い少女が立っていた。

 

「あれが司令部の者かな」

 

「そうみたいですね・・・でも、あの子、どこか変じゃないですか」

 

「変て、お前が人のこと言えるのか」

 

「いやいや、性格的な意味じゃなく、見た目の時点で」

 

 何気に自分の個性的な性格を自覚していることに軽く驚きつつ、それでも近くまで来ると、漣の言ったことがよくわかった。

 

 扉の前で待っていたのは、白地に緑の線が入ったセーラー服を着て、胸元に白い猫を抱えた、三頭身の娘だった。

 

 いや、娘どころか人間ですらない。これは少女をディフォルメして描かれたイラストだった。胸元の猫などディフォルメしすぎて、両手で抱いているというより、ぶら下げているか吊るしているかの様な感じだ。

 

 そんな三頭身猫吊るし少女のイラストが、立て看板状態で扉の前に立っていた。

 

「なんだこれ」

 

「広報用の展示パネルですかね。ほら、よく観光地とかにある写真撮影用のアレ」

 

「顔の部分に穴が空いているアレか。そう言えばアレってなんていう名前なんだろうな?」

 

「確か“顔はめパネル”ですね。実は私、全国の顔はめパネルの写メ撮るのが趣味なんですよ」

 

「そいつは奇遇だな。俺も見つけると思わず撮影しちまうんだ」

 

「おお同志よ。んじゃ、せっかくですから撮りましょうか?」

 

「そうだな、頼むわ」

 

 漣が携帯端末を取り出し、俺は立て看板の背後に回り組む。しかし、肝心の顔をはめる穴が無い。

 

「これ、顔の部分が外れるのかな?」

 

 そう思い、猫吊るし娘の顔あたりに手をかけた。

 

 しかし、

 

「お?」

 

 俺の手は、その顔はめパネルをすり抜けた。

 

「何だこれ、全く手ごたえがないぞ。まるで立体映像みたいだ」

 

 顔はめパネルは俺の手が触れたところだけ細かくノイズが走り、半透明になっていた。

 

『おっしゃる通り、これは立体映像です』

 

「「ぬわッ!?」」

 

 突然かけられた声に、俺と漣は周囲を見渡した。

 

 しかし、他に誰もいない。

 

「誰だ、どこにいる?」

 

『驚かせて申し訳ございません。ですが、私はすでに、あなた方の目の前に姿を見せております』

 

 その言葉に、俺はパネルの前に戻る。目の前にあるといえば、この猫吊るし娘の立体映像の顔はめパネルだけだ。

 

 その猫吊るしの口元がパクパクと動いた。

 

『はじめまして。私は、南西警備艦隊司令部の業務担当AI、UN=A2と申します。どうぞ宜しくお願いします』

 

 俺は自己紹介する猫吊るしから目を逸らし、隣にいる漣をみた。同じように、彼女も私の方を見ていた。

 

「なあ、AI搭載の顔はめパネルなんて聞いたことあるか」

 

「最近じゃ自販機にも搭載されるくらいですし、あってもおかしくないと思いますけど」

 

「それに何の意味があるんだ?」

 

「写真撮るときに“はい、チーズ”って言ってくれるとか? 漣的には“1足す1は”と訊いて“にー”と答えるのが好きですけど」

 

 そう言って漣は、両手の指で自分の口の端を引っ張り“にー”っとする。畜生、可愛いなこいつ。

 

「それで」と俺。「AIとやら。お前さんはどんな掛け声をしてくれるんだ?」

 

『えっと、それでは、ルート4なんてどうでしょう』

 

「なぬ?」

 

 首をひねる俺の横で、漣が相変わらず口を引っ張りながら、

 

「に~」

 

『はい、正解です』

 

 ああ、なるほど。平方根のルートか。ルートにルートが重なっているからルート4を計算すると2になる。

 

「まだるっこしいな!」

 

「理系ならすぐにわかる問題ですよ、ご主人様。つまり文系なんですね」

 

「顔はめパネルと小娘にバカにされた。悔しい」

 

『言っておきますが、これは顔はめパネルじゃありませんよ』と、猫吊るしが抗議する。

 

「じゃあ、なんなんだ?」

 

『この立体映像は業務を円滑に進めるための対人インターフェイスです。私の本体はこの鎮守府の地下最深部にあるスーパーコンピュータをメインサーバーとして使用しており、鎮守府及び警備艦隊司令部の業務処理等を、ほぼ全てこのサーバーで処理しております』

 

「なんか凄いこと言いだしたぞ、こいつ」

 

「要するにパソコンを使った業務を支援してくれる便利なプログラムってことですか」

 

『まあそんなところです。今回の空襲でスパコンに被害が無かったのは幸いでした。もっとも、空襲による過負荷で、対人インターフェイスをはじめとする幾つかの箇所がエラーを起こしてしまいましたが』

 

「じゃあ」と、俺。「このふざけた立体映像も、対人インターフェイスのエラーによるものってわけか?」

 

『左様です。正常な状態でしたら、私の敬愛する大淀さんのような可憐なお姿を披露できるのですが』

 

「大淀って誰だよ。艦娘か。美人なのか?」

 

『軽巡艦娘で、メガネの似合う黒髪ロングの知的美人です』

 

「それはいいな。早くエラーを直してくれ」

 

「うわ、欲望丸出し。最低だ、このご主人」

 

『残念ながら、今は過負荷による処理能力の低下のため、ディフォルメキャラクターの一枚絵をこの場所で表示するのがやっとという状態です。そういう訳で正門までお迎えに行けず、失礼致しました』

 

「そういうことなら、わかった、しょうがない。我慢しよう」

 

『ありがとうございます。それでは、これより司令部へご案内いたします』

 

 猫吊るしはそう言って、その一枚絵をくるりと反対に向け、裏側に描かれた背中を見せた。その眼の前で、鉄製の扉が重い音を立てて開いていく。その先に、地下へと降りる階段が続いていた。

 

 滑るように動き出した猫吊るしの後を追って、俺と漣は、階段を降りた。

 

 地下施設はほぼ無事というのは確かな様で、地下の通路には照明が灯り、空調も正常に機能していた。通路の両脇には幾つかの鉄製の扉があり、それぞれには指揮所、通信所、気象室等の表記がある。その扉の列の一つだけ、木製の扉があった。

 

『こちらが司令執務室になります』

 

「案内ご苦労さん」

 

 俺は木製扉の前に立ち、ノックしようとした。しかし俺が叩くより先に、その扉がひとりでに開く。

 

 目の前に現れた執務室は、無人だった。そもそも照明さえ落とされていた。

 

 わずかな間をおいて、部屋に照明が灯される。中はそれなりに広い部屋だ。部屋の中央には応接用のソファがテーブルを挟んで向かい合わせに置かれ、その奥に執務用のデスクがある。

 

 入り口から向かって右側には秘書用のデスクが司令のデスクと斜向かいになる様に設置されていた。向かって左側には巨大な書類棚が壁一面を占拠していた。

 

 俺と漣が入室すると、背後で扉が閉じられた。どうやら自動ドアだったらしい。俺は猫吊るしに問いかけた。

 

「なあ、前任の司令はどこに行ったんだ?」

 

『現在は不在にしております。その辺りの事情も含めてご報告しますので、どうぞ席におつきください。といっても、こんな形ですのでお茶の一つもお出しできずに心苦しい限りですが』

 

「秘書艦もいないみたいだしな。仕方ないから自分でお茶を淹れるか。構わないか?」

 

『助かります。書類棚の左端の戸棚にお客様用のお茶セットが入っています』

 

「ああ、これか。お、紅茶もあるな」

 

「私はミルクティーがいいでーす」

 

『ミルクは脇の冷蔵庫です』

 

「はいはい・・・いや、待て。なんで俺が淹れる流れになっているんだよ」

 

「だって自分で淹れるって、ご主人様言いましたよね。ねぇ、猫娘ちゃん」

 

『ええ確かに。ところで猫娘ちゃんとは私の事ですか?』

 

「うん」

 

「お前のも淹れるとは言ってねえよ」

 

『では私の分も淹れて下さると? 気持ちはうれしいのですが飲食機能は搭載されていませんので』

 

「そうでもねえよ。お前らいい性格してるな」

 

『よく言われます』

 

「褒められちった。テヘ」

 

「褒めてねえよ。ったくもう、わかったわかった。淹れてやるよ」

 

「お、なんか意外ですね。もっとキレて突っ込んでくるかと思ったのに」

 

『人のいい・・・いえ、良い人なんですね』

 

「うるさいぞ。というかAIのくせに言い間違えるな」

 

『すいません、まだエラーが酷くて』

 

「ほんとかよ。まあいい。こう見えてお茶にはこだわりがあるんだ。特に紅茶は兄貴が凝っていてな、その縁で俺もいろいろと仕込まれたんだ」

 

「へえ。ところでご主人様。仕込むってどのレベルから? 茶畑から?」

 

「ラーメン作るのに小麦畑を耕すところから始めるアイドルグループ並のレベルを求められても困る。せいぜいお湯の温度と、注ぎ方に注意を払うくらいだ。けど、これで結構変わるんだぜ」

 

「はいはい、んじゃ期待して待ってますよ。でも長くなりそうですから、もう説明を聞いてもいいですかね?」

 

「おう、頼むわ」

 

『では、ご報告します』

 

 ポットのお湯の温度を設定しなおす俺の背後で、猫吊るし改め猫娘が状況を説明しだす。

 

『先ず前任者の不在についてですが、これは今朝の空襲に関係しています。昨日の1230、本島近海域の通商航路上おいて深海棲艦の大艦隊が突如として出現しました』

 

 猫娘の報告を聞きながら俺は冷蔵庫からミルクと、ついでに見つけたレモンスライスの入ったパックを取り出す。

 

「なあ、これも使っていいか?」

 

『お好きにどうぞ。・・・事態を重く見た海軍総隊から、直ちに、我が南西警備艦隊に対し緊急出港が命じられました。これを受けて同日1330、前任司令は在籍艦娘全てをもって出港、現場海域へと急行しました』

 

「それってつまり」と漣。「全戦力ということですか~。鎮守府の防衛戦力さえ残さなかったんですね。ところでレモンミルクティーってのもいいですね」

 

「おい自称理系。レモンに含まれる酸に牛乳のたんぱく質が触れるとどうなるか知ってるか?」

 

「きっと、おいしくなる( *´艸`)」

 

『酸の作用によってたんぱく質の構造が変化して凝固し、水分と分離します』

 

「それっておいしいの(;´Д`)」

 

「凝固したたんぱく質ってのはつまるところチーズだ。分離した水分で薄くなったチーズ入り紅茶がご所望か。そうかそうか。待ってろすぐに作ってやる」

 

「( ゜Д゜)」

 

『ところで報告続けてもいいですかね。ていうか、ちゃんと聞いていますか?』

 

「全艦出撃だろ。通商航路を抑えられた以上は捨て駒になっても囮として敵を引き付けなきゃならんからな。できるだけ多くの戦力で行くのは当然だし、鎮守府を守って通商航路を取られたんじゃ本末転倒だ」

 

『その通りです。ちなみに敵の戦力は判明しているだけでも戦艦3、空母4、重巡4、駆逐12、更に潜水艦情報もありました。それに対し我が警備艦隊の戦力は戦艦1、軽空母2、軽巡2、駆逐8。その戦力差は圧倒的不利ながら、それでも他警備艦隊からの増援到着まで持ちこたえる必要がありました』

 

「作戦は?」

 

『敵の撃破ではなく、時間稼ぎと味方の生存を目的とするなら勝算はある。前任司令はそう言っておりました』

 

「それで、上手くいったのか?」

 

『戦術的には勝利したと言って良いでしょう。我が艦隊は出航後の同日1746、軽空母から発進した哨戒機により敵艦隊を捕捉。艦載機による先制攻撃、そして日没後は夜戦に持ち込み、敵艦隊を攻撃。敵艦隊の注意を我が警備艦隊に引き付けることに成功しました』

 

 しかし、と猫娘は続けた。

 

『敵艦隊の戦力はほとんどそのまま残っていました。我が艦隊は敵艦隊を伴いつつ通商航路上から遠ざかり、味方艦隊との合流海域を目指しましたが、この時点でかなりの被害が出た模様です』

 

「まさか、全滅か?」

 

『轟沈は出しませんでしたが、ほぼ全艦娘が中破ないし大破したそうです。日付が変わって本日0600、我が艦隊は味方艦隊との合流に成功。敵艦隊を敗走させました。しかしその報の直後の0810、本島の目の前に敵空母が単体で出現、艦載機による奇襲爆撃を受け、地上施設に被害を被りました』

 

「すごい戦いだな。それにしても敵に一矢報われた訳か。でも全艦出撃の時点で予想はしていたんだろう?」

 

『ええ。事前に空襲へ備えておりましたので人的被害はありませんでした。しかしこの空襲により当鎮守府は通信機能だけでは無く、艦娘の入港及び修理補給機能も一時的に喪失しました。その為、警備艦隊は他の鎮守府へ緊急入港したものと思われます。また、こちらは一般回線を使って通達されたのですが、現状を鑑みて前任司令はそのまま新任地へ着任。後任者は到着次第、速やかに司令へと着任せよとの命令がありました』

 

「おいおい」なんてこった、と俺は天井を仰いだ。「前任者どころか指揮する艦隊さえいない司令か」

 

 前任司令の勇猛振りは尊敬に値するが、全艦損傷状態ならば当分ここに艦隊は戻って来れないだろう。

 

 しかも、

 

『それだけではありません』

 

「まだ何かあるのか?」

 

『空襲で鎮守府長官が負傷され後方へと緊急搬送されました』

 

「あらまあ気の毒に。それで?」

 

『艦隊司令の他、代行として鎮守府長官も兼ねて頂く事になります』

 

「おいおい」

 

 鎮守府長官は、この陸上施設及び港湾施設を管理する、いわば後方支援の長だ。指揮系統上は海軍総隊後方支援部に所属する各地方総監部の下にあり、同じ海軍総隊でも、艦艇運用を一手に引き受ける艦隊司令部の隷下となる警備艦隊とは別系統である。

 

 つまり、警備艦隊は鎮守府から施設を間借りしている形と言っていい。

 

「鎮守府副長官は? 指揮継承権はそちらにあるはずだ」

 

『副長官は置かれてません。AI、つまり私の導入により、副長業務などは全て私が代行しておりました』

 

 それでいいのか? と疑問を口にするよりも早く、猫娘から、

 

『緊急処置ということで、海軍総隊から内定が既に下りています。軍用通信が復旧後、正式な辞令を送るそうです』

 

 そう言われてしまえば、諦めるより他はない。

 

「わかった、通信が復旧したら教えてくれ。艦隊司令部に着任の報告もしなきゃならん。それと、艦隊の現在判明している被害状況と、鎮守府の被害状況及び復旧見込みの情報を紙面で欲しい。可能か?」

 

『了解しました。申し訳有りませんが負荷がかかりますので対人インターフェイスを一旦、切断させて頂きます。音声でのやり取りは可能ですので、いつでもお声をお掛け下さい。では、失礼します』

 

 そう言って猫娘は消えた。AIそのものはこちらを認識しているのだろうが、気分的には漣と二人きりになった感じだった。

 

「やれやれ、前途多難な司令職だな」

 

 そう言いながら、淹れ終えた二人分の紅茶をトレイに乗せてソファへ戻る。

 

「( ゜Д゜)」

 

「おい、いつまでそんな顔してんだよ。ほら、レモンミルクティーだぞ」

 

 俺は彼女の分のカップを目の前に置く。漣はその中身をおっかなびっくりのぞき込んで、

 

「あれ?」と首を傾げた。「普通のミルクティーに見えますが?」

 

「飲んでみな」

 

 ずずっと一すすり。

 

「 (゜。゜)ウマ―。ちゃんとレモンの風味があるのに凝固してない。なんで? なんで?」

 

「レモン汁じゃなくて皮を小さく切ってつぶして混ぜたんだよ。風味が強調されるようについでにカップのふちにも塗り付けておいた。駄目押しに茶葉はオレンジペコを使ったからな。柑橘系の香りがするだろう」

 

「ウマウマ(*´ω`)」

 

「あ、この子聞いてない」

 

 だが淹れた紅茶をうまそうに飲む彼女の姿に満足感を覚えたので、俺は自分用の紅茶を持って、司令用の執務デスクに向かった。

 

 前任者が居ないとはいえ、もともと今日、司令職を交代する予定だったのだから申し継ぎ書類くらいまとめているはずだった。

 

 案の定、デスクの一番上の引出しに【司令申し継ぎ】と表紙が打たれた分厚い書類が入っていた。内容は、警備艦隊の編制や練度評価、そして人事状況だ。今はここに居ない艦隊の情報だったが、いずれこの艦隊が帰ってくることを考えると無意味では無かった。

 

 もっとも、本当に帰って来ればの話だが。

 

 書類には他にも警備艦隊の担当海域の情報や、作戦行動中の行動規範やその根拠となる関係法規、司令部から出された命令などの通達も添付されていた。

 

 それによれば、この艦隊の主任務は担当海域の海上交通の安全であり、脅威がある場合は独自判断による速やかな出撃、そして排除が認められているらしい。担当海域自体はそこまで広くは無いものの、与えられている権限はかなり強大かつ柔軟といえる。

 

 しかし現状は、それだけの権限を活かせるだけの戦力が無い。従って司令としての当面の仕事は艦隊の再編成と、その間の海域警備をどうするか、だった。

 

 具体的な方策としては他の鎮守府に停泊している艦隊に応援を頼み、手空きの艦艇を何隻か回してもらうしか無いだろう。上層部にその具申を行うとともに、近隣の艦隊へも根回しが必要だ。

 

 近くの艦隊に同期や知り合いが居ればいいのだが、と思いながら書類に目を通し続けている俺の前に、ティーカップが静かに置かれた。

 

 ティーカップの中身は空だった。

 

「おかわりキボンヌ(`^ω^)」

 

「やなこってす。自分で淹れやがれ(/・ω・)/」

 

「けちー。んじゃ仕事しますかね」

 

 そう言って彼女もトテトテと秘書艦席に向かって行き、卓上の電子端末を立ち上げた。すると、俺の座る執務机にある卓上端末のモニターに、秘書艦用端末からのアクセスを示すシンボルが表示された。

 

【SAI-DD113が司令部サーバーへ接続を求めています。許可しますか?】

 

「お前はいったい何をやっとるのだ?」

 

「ほえ?」と漣。「何って、私のサポートAIをここの司令部に登録しようとしてるだけですけど?」

 

 サポートAIは彼女たち艦娘が乗艦する“船体”に搭載されている、その名の通りの支援用AIだ。

 

 しかし、

 

「そんなもん繋げてどうしようっていうんだ?」

 

「どうしようも何も、AIには私の経歴から船体情報、戦歴情報も全部入っていますし、それにこの艦隊の情報ともリンクできれば色んな業務を処理するのにすごく便利じゃないですか」

 

「あ~、えっと」

 

 正直、漣が何を言いたいのかよくわからん。

 

『つまりですね』と、猫娘が姿を見せないまま解説を買って出た。『司令にも理解しやすいように申し上げますと、漣さんは自前の個人用情報端末で業務を行いたいと言っているんです』

 

「そういうのを機密情報を取り扱うようなサーバーにつないで大丈夫なのか?」

 

『サポートAIは私物端末では無く、高レベルの機密情報の取扱いが許可された戦術コンピュータですので問題ありません』

 

「そうなのか?」

 

『戦術コンピュータは戦闘用艦艇をほぼ全自動で運用するために巨大な容量と高い情報処理能力を持っています。これとリンクできるということは司令部サーバーの処理能力向上も意味しますので私としても助かりますね。空襲の復旧作業で負荷も大きいですし、司令、ご許可をいただけませんでしょうか』

 

「ふうむ。そういうことなら、わかった」

 

 俺はモニター上にある【許可】のシンボルをタッチする。

 

 しかし、

 

【エラー。登録権者以外にこの操作はできません】

 

『ああ、そうでした。まだ司令ご自身が登録を済ませていませんでしたね』

 

「おいおい」

 

『とりあえず、こちらの赴任書類に必要事項の記入をお願いします』

 

 その言葉の後に、卓上端末のモニターに書類が表示された。記入項目がかなり多い。氏名と生年月日は言うに及ばず、家族関係、軍歴から過去にかかわってきた任務など。

 

 しかも書類は一枚じゃ済まなかった。

 

 司令職に就くにあたり機密情報取扱い許可資格を取得するための申請書類(しかもこれが機密レベルごとに複数存在する)、情報端末の使用者を変更するための手続き、各命令書や警備艦隊内で定められた規則の発令権者の名称の変更(前司令の名の署名で決済されていたそれらを、改めて俺の署名で出しなおす作業)、所属が代わったことによる厚生関係の変更手続き、居住する寮の申請手続き、そこで使う家具類の借用書類、エトセトラ、エトセトラ・・・

 

 ちなみにこれらは南西警備艦隊司令に就任するにあたっての作業だった。俺はついでに鎮守府長官まで代行しなくてはならないので、これと同じような作業をもう一セットこなす必要がある。まあ厚生関係や寮の手配なんかは二度やる必要は無いので少し量は減るのだが。

 

 というか、寮関係の手配とか、これって秘書艦の仕事じゃないのか。しまった、勢い余って自分でやっちまった。あいつに押し付けりゃよかった。

 

 とか思いながら漣の方を見ると、彼女は秘書艦席で真面目な顔して端末を操作していた。俺の視線に気づかないほど集中してキーボートを高速で叩いている。見事なブラインドタッチだ。

 

 何の仕事をやっているのかと気になって、席を立って秘書艦席の後ろにまわり、モニターをのぞき込む。

 

【(゜∀゜)キタコレ】【(>ω・)えへっ♪】【\(゜∀゜)/三\(゜∀゜)/わっしょい】【(^Д^)メシウマ!】【駆逐艦漣、出るっ!(`・ω・´)】【(;>Д<)はにゃ~っ!】【(´;ω;`)萎え~】

 

 顔文字が高速で入力されては単語登録されていた。

 

 よし、殴ろう。

 

「( ゚д゚ )彡そぉいっ!」

 

「(><)はうっ!?」漣が後頭部を押さえて机に突っ伏す。「いきなり何するんですかぁ」

 

「仕事せずに遊んでるやつに反論の資格は無い!」

 

「仕事しやすいように単語登録していただけです」

 

「行政文書に顔文字を使う気か、お前は。真面目にやれ。というかお前だって赴任書類とかの手続きが必要なんじゃないのか?」

 

「サポートAIが繋げられたら、そういうの一瞬で終わるんですけどね」

 

「つまり、俺を待っていたと?」

 

「はい」

 

『司令、もう許可は出せますよ』と、猫娘の声。『警備艦隊司令としての機密情報取扱い資格と情報端末使用責任者の変更手続き書類が受理されました。司令権限でSAI-DD113への接続が可能です』

 

「よし」

 

 これで漣に阿保な暇つぶしじゃなく仕事をさせられる。俺は執務机に戻りモニター上にある【許可】のシンボルをタッチする。

 

『SAI-DD113への接続が許可されました。回線を接続するため、これより船体を岸壁へ回航します』

 

 猫娘が姿を見せないまま、なにやら大掛かりなことを言い出し始めた。直後、執務室の外から警報が聞こえてくる。

 

「おい、猫娘。何を始めるつもりだ」

 

『SAI-DD113と中枢コンピュータをLANケーブルでつなぐために、漣さんの船体を岸壁へ回航するんです』

 

「この警報は?」

 

『岸壁に搭載された船体転送装置の起動を知らせるものです。ちなみに鳴っているのは隣の指揮所ですね』

 

「へー」

 

 興味を惹かれたので、俺は隣の指揮所へ行ってみることにした。

 

「あ、私も私も~」と、漣もついてくる。

 

 二人して指揮所に足を踏み入れる。かなり広い部屋だった。いくつものコンソールに、高い天井、正面の壁いっぱいに海域図を表示した戦況モニターがある。

 

 そのモニターの一部が画面分割されて、そこに岸壁の様子が映し出されていた。

 

 その岸壁では青白い光が海面いっぱいに拡がり、それは粒子となって泡立ち、空中へと吹き上がっていた。まばゆい光が画面いっぱいに広がり、景色を埋め尽くす。

 

 それはわずか数秒の出来事だった。光に眩まされたモニターが回復した時、そこには、巨大な鋼鉄の軍艦が出現していた。

 

 全長120メートル、排水量2000トン、槍の様に細長いその船体の前部甲板には12.7センチ連装砲、その後ろに三階建構造の艦橋、そこより後ろの甲板は一段下がった構造になり、縦列配置された二つの煙突と、三基の61センチ三連装魚雷発射管が並び、そして後部甲板には後ろ向きに付けられた12.7センチ連装砲が二基搭載されている。

 

 船体の側面には、カタカナで【サザナミ】と表記されていた。

 

 俺がその画面を眺めていると、隣で漣が薄い胸を張りながら、ドヤ顔をしていた。

 

「ふっふっふ~、漣ご自慢の船体、いいっしょいいっしょ? ふっふーん。もっと見てもいいよ」

 

「なんだ、その薄い装甲板の下でも見せてくれるのか」

 

 漣の薄い胸板に目を移しながら言ってみたが、彼女は俺のセクハラまがいの発言に気づかず、

 

「ほうほう、中も見たいと? じゃ、一名様ごあんな~い」

 

 そう言って俺の返事も待たずに指揮所を出て行った。その自慢の船体とやらを他人にひけらかすのが好きらしい。まあ、実のところ俺も興味が無いわけでもないが。

 

 職業柄見慣れている(はずだ。まだ記憶が曖昧だが)とはいえ、やはり男として鋼鉄の戦闘機械というものを前にすると、つい心が踊ってしまう。これはもう本能のようなものかもしれない。

 

 というわけで俺も指揮所を出ようとしたが、そこで猫娘から声をかけられた。

 

『あ、ちょっと待ってください。もうじきお昼になります』

 

「ん?」

 

 俺は着けていた腕時計を見た。時間は1045。あと三十分もすれば昼飯時だ。

 

「もうそんな時間か。そういえば、食堂は無事なのか?」

 

『残念ながら吹き飛ばされました。自慢のカツカレーが台無しになったと調理担当者が憤慨しながら缶飯を準備中です』

 

「着任初カレーは来週に持ち越しだな」

 

『缶飯の種類は、赤飯、五目飯、鳥飯です。どれになさいますか?』

 

「んじゃ、鳥飯で。おーい、漣、お前はどうする?」

 

 俺は指揮所から出ながら答え、ついでに先を行く漣にも問いかける。

 

 漣が階段のところで振り返る。

 

「何の話ですか?」

 

「昼飯。今日は缶飯だとさ。いつもの三種類」

 

「だったら鳥飯一択でしょ。常考」

 

「お、気が合うな」

 

『わかりました。担当者に伝えます。それと司令、たった今、軍事用無線通信が復旧しました。この指揮所から艦隊司令部へ秘匿通信を行うことが可能ですが、どういたしますか?』

 

 そうだな、と頷きかけたところで、漣が「え~」と不満そうな声を上げた。

 

「それじゃ私は後回しですか」

 

「仕方ないだろ。仕事上必要な電話なんだから」

 

「私と仕事、どっちが大切なんですか」

 

「仕事」

 

「即答でしたね。・・・あ、そうだ。どうせ私のサポートAIと中枢コンピュータを繋げちゃうんですから、船体からでも通話可能ですよ。そうだよね、猫娘ちゃん」

 

『それもそうですね。接続テストも兼ねて船体から通話していただけると助かります』

 

「どう? どう? ご主人様。これなら仕事と両立できるでしょ」

 

「ん~、そういうことなら、まあいいか」

 

 というわけで俺は漣と共に、地下司令部から再び地上へと出た。

 

 岸壁には先ほど指揮所のモニターで見た通りの船体が存在していた。船体の甲板上と岸壁ではメンテナンス用自立ロボット(通称メンテ妖精)たちが、その三等身の身体で一生懸命に係留用ロープを引っ張り、船体を岸壁に係留している。

 

 係留作業が済むと、妖精たちは艦名が書かれたすぐ近くの甲板から桟橋を下ろし岸壁に掛けた。漣がその桟橋を駆けあがり、振り向いて俺を待つ。

 

 俺が桟橋を渡り甲板上へと足を踏み入れると、彼女が敬礼で迎えた。

 

「司令、乗艦。これより艦内をご案内いたします」

 

 ほほう。さすが艦娘だけあって乗艦すると気が引き締まるようだ。きりっとした顔つきの漣に、俺も背筋を伸ばして答礼する。

 

「了解、かかれ」

 

「ほいさっさ~。んじゃ、どこから見る? 漣的おすすめポイントは食堂兼待機室ですぞ。漫画、DVD、さらにカラオケ完備のゴージャス仕様!」

 

 前言撤回。こいつはどこまでも、こいつのままだ。ていうかどんだけ趣味に走ってんだ、こいつ。

 

「あほたれ、勤務時間中だぞ。先に司令部へ報告を済ませるから通信機能のある所に案内してくれ」

 

「は~い、んじゃ艦橋にご案内しますね~」

 

 先導しようと背を向けた漣に、俺はふと思い立って声をかけた。

 

「なぁ、そのカラオケ・・・アニソンやボカロは?」

 

「あるよ(`・ω・´)b」

 

「よろしい(`・ω・´)b」

 

 振り返ってサムズアップを決める漣に、俺もサムズアップを返す。

 

 案内された艦橋内は、古めかしい艦の外観と違い、非常に洗練されたハイテク機器の集合体と言っても良かった。アナログの計器は一つも無く、全て多目的スクリーンに統一されている。そこに艦内の状況が次々と表示されていた。

 

「艦隊司令部に状況を報告する。回線借りるぞ」

 

「ほいほい。軍用秘匿回線は、司令席の左側の受話器ですよ」

 

「電話番号表はあるか? 海軍総隊艦隊司令部司令長官執務室の番号が知りたい」

 

「え~っと、ちょっと待ってくださいねぇ」

 

 漣が艦橋の書類棚を漁りだしたところで、猫娘が艦橋内に姿を現した。

 

『漣さんのサポートAIと同期が完了しました。回線でしたら私がお繋ぎいたしますよ』

 

「お、さすが猫娘ちゃん。やっぱりできる猫は違うよねぇ」と、漣。その手には棚から引っ張り出した大量の資料があった。

 

『猫を褒めないでください、娘の方が本体です』

 

「本体はコンピュータだろ」と、俺。

 

『私の気持ち的には、仕事をバリバリこなす有能なキャリアウーマンでありながら、可愛げもあるうら若き少女って設定です』

 

「設定て、お前。そんな三等身ゆるキャラなのに」

 

『ですから私の本当の姿は、メガネの似合う知的な黒髪ロング美人なんですってばー!』

 

「あ~、はいはい。それが見れるのを楽しみにしてるよ。それより漣、電話番号表を探すのにずいぶん手間取っているじゃないか」

 

 俺の指摘に、書類棚の中身を半分くらい引っ張り出していた漣の背中が、小さく震えた。

 

「お前・・・もしかして失くしたとかじゃないよな?」

 

「や、やだなぁ。そんなことあるわけないじゃないですかぁ。・・・あ、ほらほら、ありましたよ。ありました!!」

 

「はいはい。わかったから、その散らかした資料をちゃんと片付けておけ。--今度は失くすなよ」

 

「は~い。って、いやいや。失くしてない、失くしてないですからねっ!?」

 

「おう、そういうことにしておいてやる」

 

 俺は、漣が書類棚を整理しなおす様子を苦笑交じりに眺めながら、受話器を耳に当てた。猫娘が回線を繋ぎ、数回の呼出音のあと、司令長官の秘書艦が電話に出た。

 

『はいこちら、艦隊司令部司令長官室。秘書艦の長門です』

 

「南西警備艦隊の海尾大佐です。本日付で司令に着任しましたので、その報告のために電話しました」

 

『承りました。しかし申し訳ありませんが司令長官はただいま別件のため席を外しております。二、三時間後には戻られる予定です』

 

「そうですか。じゃあ、その際にまた電話します」

 

『お手数ですがそれでよろしくお願いします』

 

 居ないなら仕方ない。俺が受話器から耳を離そうとしたとき、

 

『ん?・・・なんだと!?』

 

 受話器の向こうで、秘書艦長門が急に声を荒げた。しかし俺に対して言ったのではないだろう。電話中に他から緊急連絡を聞き、それに驚いたような声だった。

 

「なんだ?」

 

『あ、いえ、すいません。たった今、艦隊司令部の業務支援AIから気になる報告が入りましたので。・・・どうやら南西警備艦隊の担当海域に関わる通報のようです』

 

「本当か」

 

『そちらの業務支援AIは何か言っておりませんか。おそらく同時受信しているはずです』

 

 俺は受話器を耳に当てたまま猫娘に目を向けた。三等身ゆるキャラのとぼけた表情がこちらを向いていた。

 

 そのイラストが一瞬、ぶるぶると震える。

 

『司令』と猫娘。『緊急信を受信しました。深海棲艦の目撃情報です』

 

「了解。長門秘書艦、こちらも今、通報を受けた。深海棲艦だ」

 

『そのようですね。どうやら民間航空機からの通報のようです』

 

 書類棚を整理し直していた漣が、俺たちの会話に気づいてハッと顔を上げ、多目的スクリーンに向き直った。

 

「サポートAI、UN=A2から深海棲艦に関する情報を取得し、艦橋内に表示せよ」

 

 漣の指示に、電子音声が『了解』と答え、艦橋内の多目的スクリーンに、海域図が映し出された。

 

 そこに目撃地点が示される。その目撃地点をかすめるように、いくつものラインが引かれている。

 

 猫娘が解説する。

 

『南西海域上空を飛行中の民間旅客機からの情報です。場所は、ここから南西約100海里』

 

「このラインは?」

 

『本日航行する民間船舶の予定航路です』

 

「通商航路のすぐそばじゃないか。急いで航行警報を出せ。付近船舶に情報を流し、航路を変更させるんだ!」

 

『了解。直ちに通報します』

 

『海尾大佐』と長門。『そちらの戦力が駆逐艦一隻のみであることは、司令部も把握しております。近隣の警備艦隊から戦力を派遣するよう、こちらで手配します』

 

「ありがとう。しかし、担当海域における作戦権は警備艦隊にあるんだよな?」

 

『出撃するおつもりですか』

 

「増援がくるまで時間がかかるだろう。その間、たとえ駆逐艦一隻でも哨戒艦がいれば民間船舶は安心できる。・・・なによりウチの旗艦がやる気満々でな」

 

 俺はそう言いながら脇を見た。いつの間にか漣が寄ってきて、俺の制服の袖を掴んでいた。俺を見上げる目が、やる気と興奮でまん丸になっている。

 

『わかりました。こちらもできる限り支援を行います。どうかご武運を』

 

「ありがとう、よろしく頼む」

 

 俺は電話を切り、漣に言った。

 

「本当にいいんだな。敵の大艦隊が待ち構えているかもしれないんだぞ?」

 

「通商航路を抑えられた以上は捨て駒になっても囮として敵を引き付けなきゃならならない。鎮守府を守って通商航路を取られたんじゃ本末転倒だ。・・・確か、こんなこと言ってましたよね」

 

 俺を見上げ、ニヤッと不敵な笑みを浮かべる漣。格好良くて可愛い笑顔だ。俺は思わずのその頭を撫でてやった。

 

 にししっと彼女が笑い、目を細める。

 

「いい覚悟だ。頼むぞ、艦隊旗艦どの」

 

「あいあいさ~(`・ω・´)ゞ」

 

『緊急出港ですね』と、猫娘。『昼食は間に合いそうに無いですね。缶飯は補給物品と一緒に岸壁へと回しておきます』

 

「長丁場になるかも知れん。一週間分は用意してくれ。可能か?」

 

『全て缶詰ですが、量は充分に用意可能です。栄養の偏りを防ぐため、ビタミン剤と食物繊維の錠剤も用意するよう担当者に伝えます』

 

「気が利くな。やっぱりできる猫は違う」

 

『できる知的な黒髪ロング美人です。にゃー』

 

「サポートAI、出港準備」と、漣。「各武器の作動確認を実施。巡行用タービン及び戦闘用タービン起動準備。・・・お、補給物品が岸壁に届いたみたいですね。搭載終了後、桟橋を外し試運転を行う」

 

 艦橋からウィングに出て岸壁を見下ろすと、桟橋横に駐車されたトラックから段ボール箱がいくつも積み込まれているところだった。

 

 と、その岸壁に、一人の女性が自転車でリヤカーを引きながら走りこんできた。

 

「ちょっと待ってー! 出港待ってー!」

 

『おや?』と猫娘。『あれはウチの調理担当のお姉さんですね』

 

「なんだ? わざわざ自分で缶飯を届けに来てくれたのか?」

 

「リヤカーに載ってるの、缶飯にしちゃデッカイですよね」と漣もウィングに顔を出す。「もしかして、アレ、寸胴鍋じゃないですか?」

 

 なるほど、そうだ。リヤカーに乗せられていたのは、一メートル近い大きさの寸胴鍋だった。ウィングに立つ俺たちの元に香ばしいカレーの匂いが漂ってくる。

 

 調理担当お姉さんが、まるでオオカミのような身のこなしで軽やかに自転車から降り立つと、ウィングに立つ俺たちの姿に気づいて手を振った。

 

「司令、それに新しい艦娘の子ね! 緊急出港と聞いて、勝利を約束するカツカレーを持ってきたわ!」

 

「そいつはわざわざ済まないな。ありがとう」

 

「今から艦内に運ぶわね!」

 

 オオカミお姉さんはテンション高く腕まくりを始め、リヤカーへと向かって行った。もしかしてあのデカい寸胴鍋を一人で運ぶつもりなのか。

 

 岸壁上には数体のメンテ妖精たちが他の補給物品の積み込み作業を行っていたが、その中に手の空いている妖精は居なそうだった。

 

「一人じゃ大変だろう。待ってろ、手伝うぞ」

 

「あ、私も私もー」

 

 俺は漣と一緒に艦橋を降りる。

 

 しかし俺たちが桟橋のかかっている中部甲板へ到着したときには既に、オオカミお姉さんが寸胴鍋を軽々と抱えて桟橋を渡り切っていた。

 

「おお、すごいな」

 

「お姉さん、かっこいい」

 

「うふふっ。これでも元艦娘でしたからね。それより司令、深海棲艦がまた性懲りもなく出てきたんですって?」

 

「あ、ああ」

 

「私の大事な後輩たちと鎮守府をボロボロにした罪は絶対に許せないわ。何としてでも私たちで仇を取るのよ。いいわね!」

 

「お、おう。まぁ、前の艦娘たちは別に死んでないんだが」

 

「あり? 私たちってことは、お姉さんも仇討ち参加ですか?」

 

「そうよ」と、オオカミさん。「鎮守府の調理室が吹き飛ばされてこれ以上の調理できないのよ。まだカツを揚げていないのに。だからここの調理室を使わせてもらうわ。漣ちゃん、案内して」

 

「あいあいさ~」

 

「司令、リヤカーにカツを入れたタッパがあるから持ってきてくださる?」

 

 俺にそう指示して、オオカミお姉さんは精悍なボディで寸胴鍋を抱え、漣と共に艦内へと消えていった。

 

 リヤカーにはビニール袋にデカいタッパが幾つも入っていた。これ全部カツか。あの寸胴鍋の大きさといい、このカツの量といい、いったい何食分あるんだ?

 

 そもそも他の食材が見当たらない。どうやら出港中は毎食カツカレーになりそうだった。まあ、缶飯オンリーの食生活よりもマシかもしれない。俺はカツを持って食堂に下りる。

 

 食堂では早速、オオカミお姉さんが寸胴鍋を電気コンロにかけて温めていた。

 

「司令、ありがとうございます。ところで少し辛口ですけど、大丈夫ですか?」

 

「味見していいか」

 

「どうぞ」

 

 小皿にすくったカレーを受け取り、舐める。

 

「うまい」

 

「ふふふ、そうでしょう。私自慢のカツカレーですからね。これを食べれば勝利したも同然ですよ。さあ、カツ揚げるわよ。どんどん揚げるわよー!」

 

 張り切るオオカミお姉さんの傍で、調理室の艦内電話が鳴った。

 

『タービンエンジンの試運転終了。出港準備が完了しましたよ。ご主人様』

 

「了解」

 

 俺は艦橋へと上がる。

 

「漣、行くぞ。出港を許可する」

 

「了解。各係留策離し方用意」

 

 漣の指示にサポートAIが応える。

 

『係留策離し方用意よし』

 

「出港用意!」出港ラッパが高らかに吹き鳴らされた。「漣、出るッ!」

 

 船体が岸壁から離れ、タービンエンジンがうなりをあげてスクリュープロペラを回す。

 

 漣は艦首を外洋に向け、白い航跡を引きながら岸壁から遠ざかっていく。

 

 その岸壁では、猫娘のイラストが俺たちを見送っていた。

 

 

 

 

 




次回予告

 戦塵くすぶる港を残し、きな臭い海へ漕ぎだした戦船(いくさぶね)

 そのきな臭さは硝煙の香りか、はたまた鍋から立ち上る香辛料か。

 使命に命を懸けた戦場を前にして、艦娘たちはライスにルーをかける。

「第2話・カレー曜日は何曜日(・ω・)?」

「うめぇっ、お姉さん、うめえッス。カツとカレーとキャベツのコンビネーションがパネェッス!」


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第二話・カレー曜日は何曜日(・ω・)?

 出港後、港湾内から防波堤を越えて外洋に出たところで、漣は速力を20ノットまで増速した。

 

「針路240度、宜候。現針路速力での深海棲艦目撃海域到着所要時間、約五時間。到着予定時刻は1630頃です。ご主人様」

 

「了解。自動操縦を許可する」

 

「あいさー。通常航海配備に移行します」

 

 俺の許可に、漣は周囲に近づいてきそうな他の船舶が無いことを確認すると、船体を自動操縦に切り替えた。

 

 しかし自動操縦といってもレーダーや光学センサーは船体の周囲360度全周を休みなく監視し、その情報は常に艦娘とリンクしている。

 

 つまり艦娘たちは船体のどこに居ようとも外の状況を事細かに把握し、操艦できるということだ。

 

 しかし、

 

「この自動操縦って、艦娘が寝ているときはどうなっているんだ?」

 

 俺の質問に、漣が「ほえ?」と首を傾げる。

 

「別に寝こけていても操艦できますよ。といっても、頭の片隅が常に起きている感じなんで、熟睡なんてできませんけど」

 

「それはなんだか寝不足感がすごそうだなぁ。しかしその状態って、寝惚けているのとどう違うんだ?」

 

「寝惚けているなんて失礼な。きっちり冷静に操艦してますよ。まあそれが出来るようになるまでかなり訓練が必要なんですけどね」

 

 そう言って漣はどこか遠い目をして水平線を眺めた。

 

 なんでも艦娘になるための訓練で最も難しいのがこの眠りながらの操艦らしい。この感覚に慣れさせるために数日間、昼夜ぶっ通しで行軍訓練を行ったことを彼女はげんなりしながら語ってくれた。

 

 しかしそれなりの効果はあったようで、彼女自身、意識を失いながら1キロ以上も歩き続け、自身でも驚いたそうな。

 

 それでも普通の人間が寝惚け眼で歩くのと、100メートル以上もある巨大な船体を操るのでは訳が違う。

 

 行軍訓練はあくまで「やればできる」という達成感を養うものであり、技術的な面では何の役にも立たない・・・ということを訓練後に言われて凹んだらしい。

 

「結局これも艦娘特有の謎技術、“艦娘七不思議”の一つってやつなんでしょうけどね~。・・・自分でも未だに不思議なんですけど、何かあるとフッと目が覚めるんですよ。例えばレーダーにも引っかからないような小さな漂流物とぶつかりそうになったときとか、暗闇で光学センサーでも見分けられなさそうなのに、“何かあるな”って直感的に分かるんです」

 

「ほとんど超感覚だな。レーダーでもカメラでも見つけられない目標を感知できるといえば動体検知器だろうが、あれは戦艦や重巡用の装備だから、駆逐艦には搭載されていないだろう?」

 

「噂じゃ搭載している駆逐艦もいるらしいですけどね。あれも結構な謎技術ですけど、この艦娘特有の超感覚が応用されているって話もありますね」

 

 そんなことを話していると、艦橋にいい匂いが漂ってきた。

 

 これはカレーに、ついでにカツの匂いだ。腹が減った。

 

「そろそろお昼ごはんにも良い頃合いですね、ご主人様」

 

 漣も鼻をクンクンとならしながら待ちきれなさそうにこちらを見る。

 

「よし、食堂に降りるか」

 

「わ~い」

 

 二人そろって艦橋を降りる。

 

 食堂ではちょうどオオカミお姉さんが配膳を終えたところだった。

 

 カレー用深皿に白いご飯が三分の二ほど盛られ、さらに残る三分の一にはキャベツの千切りがどっさり載っている。その上にたっぷりの濃い目カレー、そしてざく切りされた大きなカツが載っていた。

 

「いいタイミングね。ちょうど今から呼びに行こうと思っていたところよ」

 

 三人で席に着き、手を合わせる。

 

「「「いただきます」」」

 

 先割れスプーンを手に取り、先ずは一口。

 

「うはww濃いwwお姉さん、このルー、マジで濃ゆいっス(;´∀`)」

 

「そして辛っ! 味見したときよりもっと辛いな」

 

「そこでキャベツの出番よ!」

 

 オオカミお姉さんの指示で、同じ皿に盛られているキャベツを口に放り込んだ。

 

 キャベツの甘みと瑞々しさがカレーの濃さを程よく中和する。うむ。これはなかなか絶妙なコンビネーション。

 

 そして本命のカツはと言えば、揚げたての衣のサクサクとした歯ごたえのあとに、柔らかで、しかし肉としての弾力を保ち、口の中で肉汁を溢れさせる。

 

「こ、これはっ!?」

 

 この肉の濃縮された旨味。これは、米に合う味だ。いや、米だけではない。俺はスプーンで白米を掬い取ると、それをいったんルーに浸してから口へと運んだ。

 

「おぉ・・・おお!」

 

 この肉汁の旨味が残る口内に濃い目のルーと炊き立てご飯を頬張ることによって、肉と油とスパイスと旨味が白飯によって究極かつ完全なる調和を生み出している。

 

 まさにこれこそ、究極のカツカレーと呼ぶに相応しい。

 

 感動に浸る俺の隣で、漣もがつがつとカツカレーをかっ食らっていた。

 

「うめぇっ、お姉さん、うめえッス。カツとカレーとキャベツのコンビネーションがパネェッス!」

 

「ふっふっふ」と得意げに笑うオオカミさん。「なかなかイケるでしょう。こうみえて現役時代は海軍カレーフェスタの常連だったのよ」

 

「ほう。観艦式よりも人気が高いと言われる、あの?」

 

「カレー界の甲子園とも言われ、民間のプロたちまでも注目するという、あのカレーフェスタ!」

 

 海軍は伝統的に金曜日にカレーを食べることで有名だ。その理由は長い艦上生活で曜日の感覚を失くさないよう、週に一回、決まった曜日にカレーを振る舞っていたことに由来する。

 

 別に曜日の感覚を失くさないためならカレーじゃなくとも、ハヤシライスでもシチューでも肉じゃがでもなんでもいいのだが、それが何故カレーになったのか、そして金曜日となったのか、その理由は定かではない。

 

 しかし当の海軍自身が由来を忘れてしまうほど長く続いた伝統であることには違いなく、そして当初は曜日を忘れない手段であったはずの金曜カレーが、いつしかカレーを食うための日となり、そして美味いカレーを作ることが目的化するようになった。

 

 まあこのように手段が目的化して、それを極めることに無駄な情熱と努力を傾注してしまうのはウチのお国柄なんで仕方ない。ついでにこういった伝統をお祭り騒ぎにして楽しんでしまう面もある。

 

 かくて海軍伝統カレーは、カレーフェスタという、全国国民が固唾をだらだらと溢れさせながら見守る巨大イベントとなった。このフェスタの優勝者は海軍最高のカレーシェフという名誉に加え、退役後はその腕前を欲しがる店からスカウトが殺到するという。

 

「これほどの腕前なら」と、漣。「きっとかなりいい成績だったんでしょうねぇ。もしかして優勝者とか?」

 

「艦娘部門、重巡級カツカレー代表として三年連続出場でいずれもベスト4どまり。残念ながら当時はまだ未熟だったわ」

 

「それでも大したものですよぉ」

 

「ていうかクラス分けが細かすぎないか?」

 

 カツカレー代表てことは、シーフードカレーとかキーマカレーとかもあるのか。

 

「艦娘部門というだけでも“キラ付けの間宮”や“居酒屋鳳翔”なんて強豪ひしめく時代だったしね。これで無差別級ともなったら通常艦艇150隻や全国の陸上基地から選り過ぐりの調理員たちが参加してくるのよ。まさに世は大カレー時代といっても過言ではないわ」

 

「大カレー時代・・・なんか大海賊時代みたいな響きですね」と漣は立ち上がって、「カレー王に、あたしはなる!」

 

「ういーあー」思わず口をついて出た。

 

「初代主題歌とか、年齢がバレますよ」

 

「ほっとけ」

 

「なんの話してるの?」

 

 と首を傾げるオオカミさん。もしかして俺より年上か? 元重巡艦娘ということを考えるとその可能性は否定できない。

 

 なぜなら、重巡、空母、戦艦といった艦娘は、駆逐艦娘か軽巡艦娘の中から選抜されて艦種替えするのだ。その間に再び長い教育期間を挟むので、彼女たちはたいてい十代後半から二十代半ばの容姿になる。

 

 当然、その後も容姿はそのままで何年も現役だったわけだから、このオオカミお姉さんの年齢は少なく見積もっても--

 

「ちょっと提督、あなた、なにか余計な事をかんがえてない?」

 

--オオカミさんが狼のような視線を向けてきたので、この話題はこの辺までにしておこう。

 

「いや、今なら優勝も狙えると思って」

 

「あら、ありがとう」

 

「お姉さん、おかわりいただきます!」

 

 漣が席を立ち、皿を持って調理場へと向かって行った。

 

「あいつ、食うの早いな」

 

「艦娘は体力勝負だしね、駆逐艦といえどもアスリート並みのカロリーを消費するのよ。私が現役時代は平均三杯は食べないと身体がもたなかったわ」

 

「そんなにか。いや、たしかに空母や戦艦は凄いと噂には聞いていたけどなぁ」

 

「“大食艦”なんて呼ばれている空母も居ますよねぇ」

 

 と漣が大盛カレーにカツ二枚分を乗っけて席に着く。これを平らげようとする奴から大食呼ばわりされるとか、どういうレベルだ。

 

 しかし“居酒屋”だとか“大食艦”だとか、軍艦なのに戦闘と関係なさそうな二つ名ばかりだな。

 

「そういえば」と漣。「“大食艦”さんて、料理関係の異名も持ってましたよね。たしか“海鷲の焼き鳥製造機”でしったっけ?」

 

「それは彼女じゃなく相方の方ね。ていうかそれ、料理関係の二つ名でも褒め言葉でも無いから、口にするのはやめときなさい」

 

「ほえ?」

 

「“海鷲”って空母に搭載される航空機の事だから」

 

「げー(;´・ω・)」

 

「建造当初の設計ミスが原因で、発着艦失敗が相次いでね。・・・本人の名誉のために言っておくと、それは設計の問題であって、艦娘のせいでは全くないからね。むしろ彼女が苦労して欠点を改善してくれたからこそ、今の空母艦娘たちがあるんだし」

 

「一航戦も苦労してたんですねぇ」

 

 しみじみと漣。ていうか、そうか、一航戦コンビの事だったのか。そういえば焼き鳥屋さん、最近、演歌歌手としてデビューしたよな。

 

「なぁ、お姉さん」と、俺。「お姉さんも二つ名とか持ってないのか?」

 

「私? 料理関係では持ってないわね」

 

「あ、そうなのか。・・・“料理関係では”?」

 

「イギリスの観艦式に出席したときに“餓狼”なんて二つ名を頂戴しちゃったわ」

 

「牙狼(・∀・)キタコレ」

 

「反応すんなオタク娘」餓狼伝説の方を連想したことが知られたら、またこいつにオッサン扱いされそうだ。「しかしカッコいい二つ名だなぁ。まさに戦闘艦にふさわしいって感じがする」

 

 俺がそう言うと、オオカミお姉さんはなぜだか微妙な表情をした。

 

「あっちのユーモアは賞賛と皮肉が一緒くたになってるからね。“餓えた狼のように強力な戦闘力だが、気品にかける”って意味よ」

 

「なんというか、ひねくれた批評だな。というか機能美以外で戦闘艦に気品を求めるのは、あの国ぐらいじゃないのか?」

 

「あの国の艦の居住性は超凄いわよ。なにせ艦内にバーが標準装備されてるんですからね。その点は羨ましいと思ったわ」

 

「ここにもカラオケならありますよ(・ω・)ノ」

 

「そんなのお前くらいだ。うちの海軍全部がそうだとか思われても困る」

 

「ご主人様もオタクのくせに~。どうせカラオケ行ってもアニソンしか歌わないんでしょ」

 

「見損なうな。ボカロもイケるぞ」

 

「ジャ〇ーズとかは?」

 

「イケメンは嫌いだ( ̄д ̄)」

 

「男の嫉妬って可愛くない(´・ω・`)」

 

「あ、ムーライト伝説みっけ」

 

 オオカミさんがいつの間にかカラオケのリモコンをいじっていた。というか、水兵服月娘の初代主題歌ですか、そうですか。

 

「歌っていい?」

 

「どうぞどうぞ」

 

「ていうか知ってる?」

 

「知ってます」

 

「サビ以外うろ覚えなのよね。一緒に歌ってくれないかしら」

 

「喜んで」

 

 マイクを受け取り、二人して立ち上がる。

 

「あー、ずるい。私も私も~」

 

 メロディが流れる中、漣が三杯目のカレーを急いで平らげると、どこからか三本目のマイクを持ってきた。

 

 そのまま三人で歌い倒していると、これまで歌詞と共に懐かしのアニメシーン表示していた多目的スクリーンが急にブラックアウトし、代わりに【緊急信受信】なんて言う無粋な表示が現れた。

 

「お、軍用秘匿回線で入電ですね。艦隊司令部の長門さんからです」

 

「カラオケタイムは終わりか。しかたない、切り替えてくれ」

 

 多目的スクリーンが切り替わり、長門秘書艦の姿がそこに表示された。

 

『こちら海軍総隊艦隊司令部、司令長官付秘書艦・長門です。南西警備艦隊、応答願います』

 

「はいはい、こちら南西警備艦隊、旗艦・漣でーす」

 

『なんだか、またずいぶんとお気楽そうな顔をした旗艦が出てきたな。駆逐艦一隻で深海棲艦を相手しようというのだぞ。怖くないのか?』

 

「まぁ、何が何でも殲滅しろって命令でもないですし。だったら、やりようはいくらでもあるっしょ。よゆー、よゆー」

 

『大した度胸だな。気に入ったよ』長門は愉快そうに笑って、『ところで、海尾大佐はどちらに居られるんだ?』

 

「ここに居るぞ」と、俺。向こうから見えるようにカメラの視界に入る。

 

『これは失礼しました。目撃された深海棲艦について追加情報を入手しましたので、これから送信します』

 

「わかった。参考にさせてもらうよ」

 

 多目的スクリーンの一画に情報ファイルのダウンロード状況を示すシーケンスバーが表示された。

 

「ずいぶん重いデータだな」

 

『最初に通報した民間航空機が目標を撮影しており、その画像データが当局へ提出されたので、こちらにもまわしてもらいました。これから分析するところですが、そちらが現場に急行していることもありますし、分析状況をリアルタイムで中継したいと思います』

 

 ダウンロードが終了し、スクリーンに画像が映し出された。

 

 スクリーン一面に、航空機から見下ろした海原が青く広がっている。その中心に黒いシミのような影が映っていた。

 

「これが目撃された深海棲艦か。細部が分からないな」

 

『トリミングして画像分析にかけます』

 

 黒いシミにカーソルが移動し、その周囲を四角形のグリッドで囲んだ。その囲んだ部分が拡大され、ドットの荒いぼやけた画像がスクリーンいっぱいに広がる。

 

 そのぼやけた画像が調整され、そこに黒い涙滴状の物体が出現した。

 

 それは海面に半身を現し、白い航跡を引きながら泳いでいた。

 

 一見すると大型の鯨の様にも見える。だがその表面は人工的な直線の組み合わせで構成されていた。

 

 ならば潜水艦に似ているとも言えるが、しかし、次に別角度から映された画像を見たとき、その異質ぶりが明らかになった。

 

 その画像は、深海棲艦が海面から大きく浮上し前半分が海面上に露わになっていた。先ほどの画像では水中にあった艦艇部の“巨大な顎”がハッキリと視認できる。

 

 画像に続いて艦隊司令部での分析結果が表示された。

 

【深海棲艦・駆逐イ級】

 

 イ級は深海棲艦の中でも最も数が多いとされる艦種だった。個体によってそれぞれバラツキはあるが、全長はおよそ100~150メートル、推定排水量2000~3000トン、武装は5インチ単装砲が1基~3基である。

 

 個体としての能力は我が海軍の標準的な駆逐艦と比べて格下と言って良いものであった。一対一で戦ってもまず負けることのない相手だ。

 

「目撃されたのはこの一隻だけか?」

 

『今のところは。ですが駆逐艦タイプの習性から考えて、おそらく最低でも他に二隻は潜んでいるものと思われます』

 

「このイ級、昨日の艦隊の生き残りかしらね」

 

 そう言ったのはオオカミさんだった。彼女がスクリーンの前に立ったことで、長門の方も彼女を視認したらしい。

 

『うん? なんだか懐かしい顔が見えるな』

 

「やっほー。長門、久しぶりね。艦隊司令部直轄艦だなんて出世したじゃない」

 

『そういいものではないさ。デスクワークばかりで船体が錆び付きそうだ』

 

「知り合いか?」

 

 と、俺の質問に、オオカミさんが頷いた。

 

「まあね、戦艦・重巡課程の同期よ」

 

『同期一番の武闘派と謳われたお前が今じゃ料理人とは、世の中はわからんな。いや、こんなことを話している暇はなかった。海尾司令、失礼いたしました』

 

「私も思わず口を挟んじゃって、ごめんね」

 

「構わんよ」と、俺。「お姉さんもこのまま話題に参加してくれ。元重巡としての意見を聞きたい」

 

「いいのかしら?」

 

 オオカミさんの確認に、漣も頷いた。

 

「よろしくっす、先輩(`・ω・´)ゞ」

 

「じゃあ、遠慮なく」と、お姉さん。

 

 俺は長門に、続きを促した。

 

 長門は言った。

 

『先ほどそこの彼女が言った通り、このイ級は昨日に撃退した敵艦隊の生き残りと思われます。個体識別の結果、どうやら空母ヲ級の護衛についていた一隻のようです』

 

「てことは、ヲ級も近海にいる可能性があるのか」

 

「それって、鎮守府を爆撃したやつですかね」と、漣。

 

『鎮守府に襲来した敵機の状況はわかるか?』と、長門がオオカミさんに訊く。

 

「そうね、爆撃機がおよそ十数機ってところよ。これが二派に分かれていたわ」

 

『あまり多くないな。機数から考えて鎮守府爆撃に関わったのは一隻か、多くても二隻か』

 

 長門の言葉に、俺も頷く。

 

「しかし、これから駆逐艦一隻で十数機の敵機相手にする訳か。苦しい戦いになるな。長門秘書艦、現在、この海域の制空権はどうなっているんだ?」

 

『基地航空隊より制空用の戦闘機が四機、緊急出撃しました』

 

「キルレシオは確か十三対一だったか。敵機が二十機も居なければ制空権は確保できるな。あと問題なのはヲ級本体と護衛のイ級だな」

 

「いつもの通りの編成なら」と、漣。「空母一隻につき護衛は三隻ってところですね。制空権も確保できるなら、セオリー通り超長距離からの先制SSSM攻撃しかないっしょ」

 

「だな。お姉さんの意見は?」

 

「現時点では無いわ。これで重巡か戦艦が出てくるようなら別だけど」

 

「そうだな」

 

 大火力と重装甲、そしてなにより強力な電子戦を仕掛けてくる重巡・戦艦級に駆逐艦一隻で立ち向かうのは流石に自殺行為以外のなにものでもない。

 

 もっとも、小規模とはいえ空母艦隊を一隻で殲滅できるとも考えていない。通商航路を航行中の民間船舶を守るのが精一杯だ。しかし、それが本来の任務なのだ。無理をする必要は無い。

 

「長門秘書艦、水上艦の増援はいつ頃出港するんだ?」

 

『隣接する警備区司令から、すでに出港中の艦艇を向かわせると報告が上がっています。派出戦力は、駆逐艦・五月雨、駆逐艦・如月、軽巡・木曽の三隻。一時間後に南西警備艦隊の担当海域へ入りますので、その時点で海尾司令の指揮下に入ります』

 

「早いな。助かる」

 

 ならば、すぐに合流した方が得策だろう。

 

 と、思ったところで、傍らの漣が虚空を見つめて、表情を険しくしていた。

 

「ん、どうした?」

 

「緊急信を受信しました。猫娘ちゃんからです」

 

「内容は?」

 

「海上保安隊から鎮守府へ通報があったそうです。付近を航行していた民間貨物船で故障が発生し、舵を破損して操船能力が著しく低下。予定航路を大きく外れて航行中とのこと」

 

 漣がスクリーンの一画に貨物船の位置と進路を示す。

 

 それは深海棲艦の目撃情報があった場所へと進んでいた。

 

「うわ、まっしぐらじゃん。これはまずいですよ、ご主人様」

 

『そちらの状況はこちらにも報告が上がりました』と、長門『増援は間に合いそうにないですね』

 

「かといって見殺しにはできないだろう。機関第四戦速だ。急いで追いつくぞ」

 

「了解!」

 

 漣の返事と同時に、船体奥で唸っていたタービンエンジンの咆哮が、さらに大きくなった。

 

『ご武運を』

 

 長門が敬礼し、スクリーンが消えた。

 

 艦首が波に乗り上げ、艦内が縦に揺れる中、俺は漣と共に艦橋へと戻った。

 

 

 

 




次回予告

 海原に緊急警報が響き渡る。助けを求める船がある。

 君がやらねば誰がやる。私がやらねば誰がやる。

 たとえ普段はおちゃらけても、やるときゃやるのが、艦娘魂!

「第3話・守護るッ(`・ω・´)!」

「いざとなれば、この艦を盾にします。それくらいのことは、とっくに覚悟完了ですよ、ご主人様」

「よし、わかった。例え敵が空母だろうと戦艦だろうと、俺たちでこの船を守るんだ!」


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第三話・守護るッ(`・ω・´)!

高速航行すること三十分。やがて通報のあった貨物船が水平線上に現れた。全長200メートル程の大型船だ。

 さらに接近した頃、オオカミさんも食堂の片づけを終えて艦橋へと上がってきた。彼女は貨物船を見ると、すぐにウィングに出て、そこに設置されている高倍率望遠鏡を覗いた。

「マストに球形形象物が二つ並んで掲げられているわ。運転不自由船の形象物で間違いないわね」

 

「船名は視認できるか?」

「えっと、舞鶴丸よ」

「了解。国際VHFで呼びかけを行う」

 俺は国際無線の受話器を手に取る。

「舞鶴丸、舞鶴丸、こちらは貴船の後方2海里を航行中の駆逐艦・漣です。感度ありましたら応答願います」

 オープン回線で呼びかけると、すぐに応答がきた。

『こちら舞鶴丸、感度良好です。どうぞ』

「こちらも良好です。回線6チャンネルに変更お願いします」

『6チャンネル了解しました』

 相手の了解を確認し、俺はオープン回線から指定回線に切り替える。すぐに向こうからの声が入った。

『こちら舞鶴丸です。感度ありますか』

「こちら漣、感度良好です。貴船の運転不自由船の信号を確認しました。現在の進路では深海棲艦の出現海域に入る恐れがあります。針路変更は可能ですか?」

『舵機室で火災が発生してしまいまして操舵不能状態です。しかし火災はすでに鎮火していますし、修理も部品交換だけで済みそうですから、間もなく復旧できると思います』

「それはよかった。しかし危険海域へ近づいているのは確かですので、修理完了まで本艦が護衛につきます。現在の速力を維持して下さい」

『助かりました。ありがとうございます!』

 俺は交話を終了し、漣に指示を出す。

「このまま舞鶴丸を追い越して前方2000に出る。幸い大した被害ではなさそうだが油断はできないぞ。対空、対水上見張りを厳となせ」

「了解」

 漣が真剣な表情と声で答えた。

「なんだ、緊張しているのか?」

「失礼しちゃいますね。緊張じゃなくて真面目モードなだけですぅ」

「そうか、悪かった」

 漣に謝り、俺も真面目モードに表情を引き締める。

 舞鶴丸の故障は間もなく直るとはいえ、それでも深海棲艦を呼び寄せる要素が発生している事には変わりない。

 いったい深海棲艦と言うのはどういう手段を用いているのかは不明だが、故障した船などを正確に嗅ぎつけ、襲いかかってくる。しかも今の舞鶴丸は奴らに自分から向かっているのだから、正に格好の餌そのものだ。

 と、そこへ。

「ご主人様、空中哨戒機から秘匿通信を受信しました!」

「内容は!?」

「こちらへ向かう敵の編隊を捕捉。その数30!」

「くっ、駆逐艦一隻で相手するにはギリギリだな」

「・・・ご主人様」

「なんだ?」

「いざとなれば、この艦を盾にします。それくらいのことは、とっくに覚悟完了ですよ、ご主人様」

 漣は前方を見つめたまま、躊躇わずにそう答えた。

 見た目は能天気な面白少女だが、その胸の内には、間違いなく鍛えられた軍人としての気概と誇りを持っている。そう思わせる横顔だった。

「よし、わかった。例え敵が空母だろうと戦艦だろうと、俺たちでこの船を守るんだ!」

「はいっ! ・・・っと勢い込んだはいいですけど、どうやら基地航空隊の方が先に敵と接触したみたいですね」

 漣は多目的スクリーンに、哨戒機から送られてきたデータをもとにした戦況図を表示した。

 西から、深海棲艦の空母が放った敵飛翔体三十機が十五機ずつの二個編隊に分かれ東へと向かって飛行してくる。

 一方、東側からは味方の戦闘機四機が、二機ずつ二個編隊で、敵に相対していた。

 哨戒機は早期警戒能力も持っている。その大出力レーダーは敵飛翔体のステルス能力を無力化して存在を明らかにし、味方戦闘機を有利な位置へと誘導する。

 双方の距離はまだ80海里以上も離れていたが、それはすぐに狭まっていった。敵の二個編隊の内、片方が上昇、もう片方が高度を下げる。おそらく上昇した方は護衛戦闘機、下降したのが攻撃機だ。

 それに合わせ味方戦闘機も二手に別れた。上昇した側の方が先に味方の射程距離に入る。互いに真正面からの反航態勢。

 味方戦闘機二機が長距離ミサイルをそれぞれ八発ずつ、計十六発を発射。

 数分後、ミサイルが敵編隊に到達。命中九、不明七、敵機残り六。

 お互いに急接近、そのまま正面からすれ違う。そのすれ違いざまに味方は敵を二機、撃墜していた。敵機残り四機。

 敵機は反転して格闘戦に持ちこもうとするが、味方はそのまま出力を上げ敵機を大きく引き離す。

 そして後方から追いすがる敵機に対し、反転して相対することもなくそのままの態勢でミサイルを発射。

 ミサイルは前方に飛び出した後、急旋回して後方の敵機を撃墜した。

 一方下降した敵編隊に向かった味方戦闘機も、目標を射程内に収めるや否や、こちらも二機十六発のミサイルを発射。約半数を撃墜した。

 敵の残った半数はさらに高度を落とし、海面スレスレの超低空を飛行。

 しかし高度三万メートル上空から戦場を見下ろす哨戒機はそれを見逃さない。

 強力なパルスドップラーレーダーにより敵機の位置を正確に捕捉し続け、味方機を最適な攻撃位置へ誘導。味方機のミサイルにより攻撃機は全機撃墜された。

 味方の損害はゼロ。時間にして五分足らずの戦闘だった。

 哨戒機から「制空権を確保した」との通報が入る。

「あの~、ご主人様(;´∀`)」

「うん、まあ、言いたいことはわかる(;^ω^)」

 もう全部アイツらだけでいいんじゃないかな。思わずそう口走りたくなってしまう。

 キルレシオ13対1っていう時点で予想はしていたけど、この完勝ぶりを目の当たりにすると、凄いとかいう以前に、ただただ呆気にとられてしまう。

 だいたい俺たち水上艦艇が全力で突っ走っても数時間はかかる距離をわずか数分で飛びぬけ、さらに遠距離からミサイルで一方的にボコった挙句に、ついに格闘戦かと思ったら振り向きもせずに真後ろの敵を撃墜とか、ちょいとチート染みてませんかね。

 まあ、航空機は航空機、水上艦艇には水上艦艇のそれぞれ長所短所、役割があって、お互いそれらを補い合ってこそ真価を発揮できるというのは理解している。

 理解はしているけれど、なんだかなあ、もう。

 自分たちの存在意義を疑いたくなるような戦闘を見せつけられて、少しナーバスな気持ちになってしまう。

 そんな俺たちの雰囲気を察したのか、オオカミさんが声をかけてきた。

「こらこら、味方の奮戦に感謝するどころか、へこんでどうするのよ」

「いや、そうだよな。うん、漣、基地航空隊に感謝の電文を送っといてくれ」

「へーい(-ω-)/」

「気持ちは理解できるけど」とオオカミさん。「航空隊も無敵ってわけじゃないわよ。今回はジャミングを受けなかったから終始アドバンテージを取れたけど、これで敵に戦艦や重巡がいたら大規模ジャミングかけられて、哨戒機一機じゃ管制しきれなかったわ。そうなるとこっちも戦艦や重巡、空母の支援は必須だし、それを護衛するために軽巡と駆逐には頑張ってもらわないといけないんだから」

「なるほど、なるほど。元重巡にそう言われると説得力あるな」

「よーし、漣、なんだか元気出てきましたよ~」

「でしょう。その意気よ!」と、オオカミさんもガッツポーズで気合を入れつつ、「ところで舞鶴丸のマストから運転不自由船の形象物が降ろされたわ。どうやら修理が完了したみたいね」

「おう、早いな」

 せっかく気合を入れなおしたのに、もう護衛任務は終わりらしい。

 いや、何事もないのが一番だけどさ。

 国際無線から舞鶴丸が呼び掛けてきた。

『修理完了しました。どうもご迷惑をおかけして申し訳ございません』

「いえいえ、これが仕事ですから気になさらずに」

『では私たちはこれで失礼します。ご安航を』

「はい、ご安航を」

 舞鶴丸は深海棲艦出現予測エリアへ接近する前にさっさと針路を変更して遠ざかっていった。

 水平線に消えていく船影を、安堵半分、拍子抜け半分の気持ちで眺める俺に、漣が問いかけてくる。

「これからどうします。ご主人様?」

「ま、このまま目撃地点付近を哨戒しつつ僚艦と合流だな。五月雨だったか、もうすぐこっちの海域に入る時間じゃなかったか」

「そういやそうですね。・・・と噂をすれば影ってやつですね。その五月雨から通信ですよ」

 多目的スクリーンが切り替わり、そこに一人の少女が現れた。

 外見年齢は漣と同程度だろうか。長いストレートの髪と白い制服がよく似合う娘だった。

『こちら南方第二警備艦隊の五月雨です。漣さん、応答願います』

「こちら漣、感度良好。救援感謝です(`・ω・´)ゞ」

『ご無事のようですね、よかったぁ。艦隊が全滅して、鎮守府も壊滅したとお聞きしたので心配していたんです』

 五月雨はそう言って、安どのため息を吐いた。きっと本気で心配してくれたのだろう、目元に涙まで浮いている。

 なんというか、素直で良い子なんだろうなぁ、と思いつつ、

 しかし、

「ご主人さま」と漣。「全滅とか壊滅とか、なんだか話がデカくなってませんかねぇ」

「いや、間違っちゃいないぞ。ただ人死にまでは出てないけどな」

「確かに」とオオカミさんも頷く。「この状態で敵の残党が近海にいるって、端から見たらヤバい状況よね」

「別に私たちも油断しているつもりは無いですけどね」と漣。

「そうだな」と俺。

 五月雨も目元の涙を拭いながら、

『みんなご無事なら、それはそれで良いんです。私が勝手に心配していただけですから。ところで司令はいらっしゃいますか?』

「はいよ」と、俺はモニターカメラの前に立つ。

 すると五月雨は、

『あれ?』

 と目をしばたたかせて俺の顔をじっと見つめてきた。

 なんだなんだ、俺の顔になにか付いているのか。

 それとも見惚れてしまうくらいの二枚目だとでも言うのか。もしかしてそうなのか。

 いや自慢するわけじゃないが、実は自分でも顔立ちは結構整っている方だと思っていた。

 確かに身分証の写真はあまり男前じゃなかったが、あれは写真写りが悪いせいだ。だいたい証明写真でイケメンに写る人間なんてそうそう居ないだろう。

 だから結論として五月雨は俺に見惚れている可能性が高いという訳だ。

 ならばここはひとつニコリとほほ笑んであげるのが女性に対する礼儀というものだ。

 するとイケメン度の上がった俺に、五月雨はポッと頬を赤らめて恥ずかしそうに目を逸らすに違いない。いわゆるニコポ現象というやつだ。

 という訳で早速、

「どうしたんだい、五月雨。俺の顔に何かついているのかい?」

 ニコリとほほ笑んでそう問いかけると、五月雨はハッとして、

『あ、失礼しました。海尾大佐ですね。前任の方はどうしたのかと思って。本日交代だったことを忘れてました。すみませんっ!』

「あ、そういうことね・・・」

 慌てて頭を下げた五月雨に、俺は勘違いに恥ずかしくなって顔を赤くしながら目を逸らした。

 逸らした先で、漣と目が合う。

「ちなみにご主人様、口の端にカレーついてます」

「え、それ、まじで?」

「うん、まじまじ」

「おい、なんでもっと早く言ってくれないんだよ!?」

「いつ気づくか、いつかなぁ~って、ずっと待ってたんですけどねぇ」

「てめえ、このやろ、ちくしょう!」

「まさかそのままニコリと笑って“何かついてるかい?”とか、マジウケルwww」

「やめろ、やめろぉぉぉ!?」

 勘違いどころか生涯引きずるレベルの生き恥だよコレ。

 やばい、海に飛び込んでしまいたい。

『だ、大丈夫です』と、五月雨『私、そこまで気づいていませんでしたからっ!』

「うん、フォローありがとうね・・・(ノД`)」

 でもね五月雨ちゃん、それもう君も気づいてるってことだよね、当然だけどさ。

 あー死にたい。

 でも任務中だし、これでも司令だから頑張るしかない。

 俺は目元の涙と口元のカレーを拭いながらスクリーンに向き直った。

「今日付けで南西警備艦隊司令に着任した海尾大佐だ。よろしく頼む」

『はい、白露型六番艦、駆逐艦・五月雨です。これより如月、木曾とともに海尾司令の指揮下に入ります。以後の行動の指示をお願いします』

「了解だ。これから暗号で緯度経度を送る。そこで合流しよう。その後は哨戒機と協力して敵残存勢力を捜索。発見次第、これを撃破する。よろしく頼む」

『はい、お任せくださいっ』

 五月雨は元気よく敬礼し、スクリーンから消えた。

 それから二時間後、俺たちは指定した海域で五月雨たち三隻と合流した。

 漣を先頭に五月雨、如月、木曾の順に単縦列で陣形を組んだのち、俺は各艦に、作戦会議を行うので漣に集まるよう指示を出す。

 集まる、といっても実際に艦娘たちが自分の船体を降りてこっちに来るわけじゃない。艦娘たちがコミュニケーションツールとして使用するマスコットアイコンドールを漣の艦橋に表示させただけだ。

 という訳で、いま俺の前には可愛らしい三等身ちびキャラが三体並び、俺たちを見上げていた。

『五月雨以下三艦、揃いました』

 と、五月雨がちびっと敬礼する。

 堂々としているはずだが、どことなく背伸びをしたような、初々しさを感じる敬礼だった。清楚な雰囲気はそのままに、愛くるしさが三割り増しぐらいになっている。

『私は如月』隣の栗色の髪の少女が名乗った。『睦月型駆逐艦の艦娘、如月。よろしくお願いね』

 如月は何やら蠱惑的な雰囲気を漂わせた艦娘だった。可愛らしさが前面に出るドール体でこれなら、ご本人はどれほどのモノやら。

 その隣のドールにも目を向ける。

『5500トン型の軽巡洋艦、球磨型の木曾だ。よろしくな』

「あ、ああ、よろしく」

 ワイルドなショートカットの髪形に、右目の眼帯、さらにマント装備という強者間溢れる外見に思わず気圧されそうになる。

 そうか、彼女が巷で有名なオッパイのついたイケメンこと“キャプテン・キッソー”か。合流時、艦橋ウィングに立っていた姿を双眼鏡で見たけれど、遠目からでもわかるイケメン振りだった。

 後でサイン貰っておこうかな。

 とりあえず艦隊が揃ったので、俺はこれからの行動計画を皆に示達する。

「現状、深海棲艦の主力である空母艦載機は、その大多数が基地航空隊によって無力化されたと思われる。現海域の制空権は確保され、後は潜伏中の深海棲艦艦隊を索敵、見つけ次第撃破する。これが基本方針だ。ここまでで質問は?」

質問がない事を確認し、俺は続ける。

「敵の位置だが、最後の目撃地点及び艦載機の襲来方向から推測して、現時点で最も確率が高いのが、ここだ」

 俺は海域図の一部を示し、そしてそこに海流のデータを重ね合わせる。

「この海域の海流は北東へ2ノットの速度で流れている。深海棲艦が海中に潜伏している場合、この海流に乗っているはずだ。我々もこの海流に沿って哨戒を行う。というわけで、質問タイム」

『はい』と、五月雨が挙手。『北東に流れているってことは、このまま行けば私たちの警備区に入るということですね』

「そのとおり。このまま何事もなく隣まで行けば、そこでこの臨時艦隊は解散。あとはそっちの司令にお任せするよ」

『あら、それじゃ短い付き合いなのね』と、如月。『せっかくだから、ウチの鎮守府にいらっしゃらない? お近づきになりましょうよ』

 う~ん、そうしたいのは山々なんだけどなぁ。

『おいおい』と、木曾。『無茶を言うなよ。それをするとコッチの担当海域が空っぽになっちまうだろ。なあ?』

 木曾に言葉を投げかけられ、俺は頷いた。

「本当なら手土産でも持って礼を言いに行く立場だが、あいにく今はそんな余裕なくてなぁ。まあ、余裕あるならこうして増援も頼んでいない訳だけど」

『気にしないで下さい』と、五月雨。『困ったときはお互い様です。私たちも以前の南西警備艦隊の皆様にはよく手伝ってもらいましたし、ここは私たちにお任せくださいね。一生懸命、頑張ります!』

 五月雨が再度、敬礼。その仕草に思わずほっこりとする。

 ん~、可愛い。なんだかこの子って天然っぽいよね。漣と違ってわざとらしさが無い。

 そんなことを考えていたら、漣が声をかけてきた。

「ご主人様」

「ん、どした?」

「声に出てます」

「・・・どの辺から?」

「“ん~可愛い”から、全部」

 おう、マジか。なんてこった、またやっちまった。

 冷や汗をかきながら五月雨ドールに視線を戻すと、案の定、その頬が真っ赤に染まっていた。

『あ、あの可愛いとか、その嬉しいけれど、困ります!』

『あらぁ、そうよねぇ。うちの提督が嫉妬しちゃうものねぇ』

『ったく、どこもかしこも色恋沙汰か。・・・これ以上この話題が続くようなら、俺は先にログアウトさせてもらうぜ』

「いやいや待ってくれ。誤解だ――という訳じゃないけど、セクハラするつもりは無いから勘弁してくれ」

『せ、セクハラなんて風には捉えていませんので、大丈夫です!』

『ちなみに海尾大佐、私の方はどう思われているんですの?』

「はい、せくしいーだと思います」

 しまった、即答してしまった。

『まぁ、大胆ね♡ でも嬉しいわ。ありがとう』

 如月は平然と返してくれたが、木曾や漣は完全にドン引いていた。二人からの視線が痛い。

 じゃあ残るオオカミさんはというと、こちらはなんと期待の眼差しで俺を見ていた。

 いや、期待の眼差しとかそんな可愛いものじゃなく、思いっきりカモンカモンと手招きして、俺の発言を求めている。

 なんだよ、そんなに俺に口説いてほしいのか。よし分かった、ちょっと待てよ。

「えっと・・・料理上手な女性って、とっても魅力的だと思います」

「ありきたりね」と、オオカミさんからも冷たい視線を頂いてしまった。

『もうちょっと何か言ってあげた方が良いと思います』

『女の子はね、ただ褒めてくれたらそれで良いって訳じゃないのよ?』

 五月雨と如月からも駄目出しをされた。

 しかし彼女だけは違った。

『けど、俺は飯の美味い奴は良いと思うけどな。戦場から帰ったとき、家で温かくて美味い料理を作って待っていてくれる奴が居るのは、きっと幸せだ』

 どこか遠くを見て哀愁を漂わせながら呟く木曾は、三等身ドールのくせに俺でも見惚れるくらいのイケメンだった。

 でもね、

「キッソーさん、言う側目線で発言してませんか(;´・ω・)」と漣。

 うん、そうだよね。

「あとご主人様、わざとらしくて悪うございましたねぇ」

 あ、やっぱりそこも聞かれていたか。

「でも可愛いって意味だぞ! 五月雨とは違う魅力って意味だからな! 誤解すんなよ!?」

「可愛いってのはわかってますよ。でも、わざととか作ってるつもりなんかないですからね。これでも素ですよ。天然ちゃんですよ」

「マジか( ゚Д゚)」

「嘘です(;^ω^)」

 苦笑しながら否定した漣に、ちょっとだけ安堵する。

 もしネタじゃなく本気で“ご主人様♪”とか呼ばれていたんだったら、これからどうコイツと付き合って行けばいいのか本気で悩むところだった。

 結局、作戦会議はこんな感じでグダグダとした世間話に移行したが、それでも彼女たち艦娘は陣形を崩すことなく、整然と俺が指示した針路に向けて航行を行っていたのだった。

 

 

 

 

 

軽巡一隻と駆逐艦三隻の艦隊が一列になって、どんぶらこっこと海を行く。あれから特に何が起こるわけでもなく、海はいたって平穏なまま時間だけが過ぎていった。

 

「夕飯は何にする? カレーライス以外のものを作っても良いわよ」

 

カレーうどんとか、とオオカミさん。結局カレーじゃ無いか、というツッコミ待ちなのかも知れないけれど、正直、別に嫌でもなんでも無い。

 

「漣的には三食カレーライスでも全然いけますよ〜(・∀・)b」

 

「まさに主食だな。カレーがここまで愛されていると知ったらインド人もビックリだろう」

 

「(ノ・ω・)ノインドジンヲミギヘ」

 

「ニホンジンヲヒダリヘヽ(・ω・ヽ)」

 

「二人して何をやっているの?」

 

「「(=・ω・)ノ日印友好ヽ(・ω・=)」」

 

「楽しそうね、あなた達。じゃあせっかくだからインド風にナンでも焼いてみようかしら」

 

 

と、オオカミさんが腕をふるって大量のナンを焼いてくれた。

 

「他の娘達の分も、もちろんあるわよ〜」

 

との事なので、木曾に搭載されている無人偵察機を飛ばしてカレーとナンを回収し、各艦に配ってもらった。

 

夕食の用意が整ったとの連絡を受け、漣と連れ立って食堂へ降りると、配膳の終わったテーブルの上に、五月雨、如月、木曾のアイコンドールも表示されていた。

 

五月雨と如月のドールの前にはカレー皿も表示されていて、哨戒当直艦の木曾以外は夕食の時間であることを示していた。

 

ちなみに表示されているカレー皿の中身がナンに変わっている辺り、なかなか芸が細かい。

 

俺が席に着いたのを見計らって、みんなで手を合わせる。

 

「「「『『いただきます』』」」」

 

カレーには昼と同じくカツも添えてある。ライスのカツカレーならお馴染みだけど、ナンのカツカレーは珍しいかも知れない。

 

ナンでカツを挟んで、カレーに浸して食べる。変則的カツカレーサンドイッチといった風情だ。カツカレーサンドとかお目にかかったことは無いけれど、きっと美味いに違いない。だってこのカツカレーナンが美味いのだから。

 

「『『パクパク(*´ω`)(*´ω`*)(´ω`*)ウマウマ』』」

 

もちろん木曾以外の三人娘も満面の笑みでナンをパクついていて、作ったオオカミさんも満足気だ。

 

「あら、司令。もう食べ終えたの? お代わりならまだまだあるわ。ほら、焼きたてよ!」

 

気前よく焼きたてホヤホヤのナンが目の前に追加される。それをアチアチと指で摘み上げて、ちぎり取り、カレーに浸してかぶりつく。

 

俺のその様子を見て、如月さんが「うふふ」と笑った。

 

『提督、男らしい食べっぷりね。素敵だわぁ』

 

「ん、そ、そう? けど、食べているところを褒められると少し恥ずかしいな」

 

『男の人の豪快な食べ方って、見ていて気持ちの良いものなんですよ。ねえ、五月雨ちゃんもそう思わない?』

 

『え? えっと、どうなんでしょう』

 

『うふふ〜、わからないフリしちゃって。五月雨ちゃんだって、提督がお食事中はいつもジッと見つめているじゃないの』

 

『ふぇっ!? 如月さん何で知ってーーあ、えっと、その』

 

赤くなってわたわたな五月雨ちゃん。

 

え、俺こんな可愛い子にいつも見つめられていたの? どうしよう、俺も照れちゃうなあ。

 

「ご主人様の事じゃなくて、お隣の司令の事ですよ( ̄ω ̄)」

 

「知ってます( ̄∇ ̄)ユメミタッテイイジャネーカ」

 

「( ̄ω ̄)カンチガイハズーイ」

 

「( ̄∇ ̄)ウルセーバーカ」

 

しかしガツガツ喰ってる姿なんか見て本当に魅力的に思えるものかね。隣にいる漣なんて俺以上にガツガツ喰らっているけれど、その姿は正直いって・・・

 

・・・あれ? 意外と可愛いかも?

 

と言っても女性的な魅力とかそういう方向性ではなくて、子供が食事を全力で楽しんでいる姿的な意味での可愛い、だ。

 

俺でさえそう思えるのだから、料理を作ったオオカミさんなんかは、もう母性愛に溢れた笑顔で漣のことを見つめている。

 

人妻オオカミさん。

 

そんな姿をふと想像したら、思った以上にがっつりハマって、ちょっとキュンとした。嫁力の高いこの女性と温かな家庭を築く。うん、アリです。実にアリです!

 

俺はさりげなく彼女の左手の薬指に視線を向けた。そこには指輪は無い。嵌めていた跡も無さそうだ。案外、これはチャンスかも知れない。

 

よし決めたぞ。俺、この航海から帰ったら彼女に告白するんだーー

 

『も、もう如月さん、からかわないでください! 私、別に提督とそういう関係って訳じゃ・・・』

 

『このカレーを作ってあげたら、提督はきっと喜ぶわよ』

 

『そうでしょうか。あの人、もうちょっと甘めの方が好みで・・・あ!?』

 

『やっぱり敵わないわねぇ』

 

『ち、違うんです! これは、その、えと、わ、私は初期艦だったから!』

 

『ふふ〜、羨ましい。私も早くそんな人と出逢いたいわぁ。ねえ、南方の提督さん、そう思いません?』

 

如月さんがそう言って、にこりと微笑みかけてくる。そんな風に言われたら首をブンブンと縦に振るしかない。帰ったら是非とも貴女の手料理を食べて見たいものです。そんな気持ちにさせられてしまう。

 

しかし笑顔ひとつでこんな気持ちになってしまうとは、まさか、これこそがニコポってやつなのか!?

 

「とか思ってんですよ、このご主人(ノ・ω・)ヒソヒソ」

 

「腰の軽そうなところが、少し不安かしらね」

 

さらっと心の声を読んでるんじゃねーよ。何でそんなに的確なんだよ。

 

「そりゃ、そんだけ鼻の下を伸ばしてりゃ誰だってわかりますって。それと、またカレーが口についてますよ」

 

むむむ。紙ナプキンで口元を拭うついでに鼻の下を覆い隠す。如月ドールがニコニコと俺を見つめる横で、木曾ドールが半ば呆れたような視線を向けていた。

 

やだ、恥ずい。このまま顔を両手で覆ってテーブルの下に隠れてしまおうかとも思ったところで、ふと、別の疑問が湧いて出た。

 

「なあ、漣」

 

「なんですか腰の軽いご主人様?」

 

「腰軽言うな。それよりも今更だけど、他の子たちにも俺の様子が見えているんだよな?」

 

「本当に今更ですね。そうですけど、何か?」

 

「もしかして俺のアイコンドールも他艦に表示されているのか?」

 

「そんなの当然じゃ無いですか。あれ? 言ってませんでしたっけ?」

 

「聞いとらん。そもそも俺は自分のアイコンドールなんて設定した事は無いぞ」

 

どういう風に表示されているのか気になる。

 

「んじゃ、私たちのぶんも表示しておきますね」

 

ピコンと電子音が鳴って、テーブル上に三体のアイコンドールが追加された。一つは漣本人のものだ。三頭身ディフォルメになっても印象があまり変わらない辺りコイツらしいと言える。

 

もう一体はオオカミさんだった。

 

「懐かしいわね。これ、私が現役時代に作ったドールよ」

 

「艦隊司令部の共有データベースに過去のアイコンデータが残されていたので、猫娘ちゃんが探して来てくれたんですよ〜」

 

へえ、これが若かりし頃のオオカミさんか。と言ってもそんなに見た目は変わってないけれど。それでもキリッとして精悍ながら大人の女性としての余裕を感じさせる姿だった。

 

そして残る一体。これが俺用のアイコンドールか。

 

この海軍の制服姿にTの字が突き刺さっている、コレが。

 

そう、制服の襟元にTが刺さっているというかニョッキリ生えているというか、つまり首から上がただのTなのだ。Tってのはアレか。提督のTか。

 

「俺だけ適当すぎるだろ!?」

 

「だってデータ無かったですし」

 

「だからってディフォルト設定がT字ヘッドとか、やっつけ仕事にも程があるだろ。これじゃ表情どころか首と顔の区別すらつかないぞ」

 

「かと言って今から全部作っていたんじゃ時間も手間もかかり過ぎるんで無理無理ムリのカタツムリですよ」

 

「じゃあせめて他の顔は無いのか」

 

「えーっと」

 

パッと顔が、Tから提に切り替わった。

 

「文字しか無いんかい」

 

「なんなら顔写真でも貼り付けておきましょうか」

 

それはやだなぁ。身分証の顔写真とかもそうだけど、こういうのは男前に写った試しがない。

 

そんな事を話しているうちに、五月雨がさっさと食事を終え、木曾と哨戒当直を交代した。単縦陣の先頭を走っていた木曾が最後尾へと回り込み、彼女のアイコンドールが食事中に切り替わる。

 

『さて、俺も頂くとするか。・・・あぁ、いい香りだ。これなら何枚でもイケそうな気がするぜ』

 

木曾が合掌し、そして落ち着いた様子で食べ始める。アイコンドール越しとはいえその食べっぷりを見ていると、先ほどの如月の言葉も何となく納得できそうな気がして来た。

 

何というか、イケメンって何をやってもイケメンなんだなぁ、と思わされてしまう。男としてなんだか悔しい。でもカッコよくて、思わずときめいちゃう。どうしよう、俺、男なのにっ!

 

・・・って、木曾は女性だった。という事はつまり俺のときめきは倫理的にも生物学的にも全く問題はないという事だ。あ〜良かった。

 

『おい、如月、どうした。さっきから俺の顔をジッと見てさ。俺の顔に何かついているのか?』

 

『ん〜、ついているといえば、ついているわ。口元にカレーが少し』

 

『アイコンドールで手を伸ばされても拭けやしねえよ。自分でやる』

 

『実際に隣に居られないのが残念ね。でも、そうやって貴女が時々見せる油断したところ、私、結構好きよ』

 

『何を言ってんだか』

 

フッと軽くあしらいながら食事を続ける木曾と、それを穏やかな目で見つめる如月。

 

何だろう、この入り込む隙のない感じは。それに同じく口元にカレーを付けても、こうまで反応に差があるものかね。ウチの秘書艦なんか力いっぱいバカにしてくれやがりましたよ。

 

「そりゃそうですよ。ただしイケメンに限るってやつです」

 

また人の心を読んで漣が言う。そのことにはもう今更突っ込まない。それよりも、

 

「俺だってイケメンだ!」

 

「自分で言いますか、そういうこと。そもそも、イケメンは嫌いだ、とか言ってませんでしたっけ?」

 

「そんな昔の話は忘れた」

 

「都合のいい性格してますね〜」

 

「お前ほどじゃねえよ」

 

「そう言われると照れますね」

 

「褒めてねえよ。・・・いや、ある意味では褒めているのか」

 

俺達がそんなやりとりを交わしている傍で、オオカミさんがくすくすと笑った。

 

「あなた達って、仲が良いわよね」

 

「そう見えますかね?」

 

「良いコンビよ。二人はいつからの付き合いなの?」

 

オオカミさんの質問に、俺は漣と目を合わせる。

 

「知り合ってどれくらい経ったっけ?」

 

「そうですね〜。そろそろ十時間ってところじゃないですか?」

 

今朝方、海岸で行き倒れていた所を介抱されて以来の付き合いだから、そんなものだろう。

 

「いやいやいや、ちょっと待って」とオオカミさん。「もしかしてあなた達、今日出会ったばかりだって言うの!?」

 

「もしかしても何もその通り」

 

「・・・てっきり数年来の付き合いかと思っていたわよ。だって、お互いに対して全然遠慮がないのだもの」

 

遠慮ねえ。コイツと顔を合わせて最初のやりとりがボケとツッコミだった時点で、遠慮なんてものは介在する余地はなかったと思う。

 

と言うか、そもそも漣は誰かに遠慮なんてするような性質なのだろうか。

 

「失礼な。漣はこう見えても、結構シャイな性格なんですからね」

 

「嘘を言うな、嘘を」

 

「(・ω・)」

 

何だその形容し難い表情。

 

『なあ』と木曾。『お前ら初対面なのに、ご主人様とか言っているのか』

 

「ドール越しでも君達が引いた表情をしているのがわかるよ。むしろ、今までその疑問が出て来なかったのが不思議だ」

 

『当たり前のようにそう呼んでいたから、ちょっと訊くに訊けなくてな・・・』

 

「お気遣いどうも。別に俺の趣味とかじゃないから誤解しないでくれ。たんコイツの悪ノリに付き合っているだけだ」

 

漣を指差すと、彼女がポツリと呟いた。

 

「・・・もしかして、実は迷惑だったりしますか(´・ω・`)」

 

その不安の混じった声と表情に、俺は少し驚いた。

 

意外と気にしていたのか。

 

「・・・いや、まあ、そこまで嫌ってわけじゃ無い」

 

「(*´ω`*)」

 

全く、あからさまにホッとした顔を見せやがって。無遠慮の塊みたいな態度を取っている癖に、案外、他人の顔色を見ているのかも知れない。

 

つまり、コイツがこんな態度を取っていたのは、俺の態度がそうさせていたという事だ。という事は、俺が真面目に堅物な態度を取っていれば、漣も相応の態度をとるのかも知れない。

 

「・・・」

 

「どうしました、ご主人様?」

 

「んー、そのまんまでも良いかな、と思って」

 

「はい?」

 

「何でもない。気にするな」

 

そう言って漣の頭をポンポンと軽く撫でてやると、彼女はちょっと戸惑った顔をしたが、すぐにニヘラっと表情を緩めた。

 

『ふふ、優しいわね、ご主人様♡』

 

ニコニコと如月さん。あなたの声で「ご主人様」とか言われると背中がゾクゾクしちゃいますよ。

 

『五月雨ちゃんも、帰ったらあの人に言ってあげたら?』

 

『な、何を言ってあげるっていうんですか!?』

 

『あら、決まってるじゃない。それとも、あ・な・た、の方が喜ぶかしら?』

 

『そ、そうでしょうか。喜んで・・・で、でも無理です! 恥ずかしいですよぉ!』

 

『うふふ〜』

 

お隣の鎮守府も仲がよろしいようで。

 

実はさっきから漣とオオカミさんが、五月雨ちゃんを見る目つきが格好の獲物を見つけたものに変わっていたりして、お隣の鎮守府の人間関係を聞き出す機会を虎視眈々と狙っていたりする。

 

「ねえ、五月雨ちゃん」

 

と、オオカミさんが猫なで声で語りかける。

 

狼が虎の目で猫なで声とかもはや訳が分からないが、どれも肉食獣であることには変わりない。

 

「あなた、お隣の提督とどこまで進んでいるの? お姉さん興味あるなぁ」

 

やはりオオカミさんは狼だ。遠回りする事なくいきなり本題に噛み付いてきた。五月雨ちゃんがそれに反撃できるはずもなく、

 

『どどどどこまでとか、ななななにをををを!?』

 

パニックに陥ったように見せかけて、これは質問の意味がわかりませんよという初歩的な逃げだ。

 

さらに、

 

『わ、私、今は哨戒当直中ですから! そういう話は後にして下さい!』

 

「ほう、後でとな( ̄∀ ̄)」

 

漣とオオカミさんが悪い笑みを浮かべた。ついでに如月さんとも素早くアイコンタクトをかわしたのも俺は見逃さなかった。ちなみに木曾さんは我関せずを決め込んでカレーを黙々と食べている。

 

「ご主人様」

 

「はいよ」

 

「哨戒当直艦の繰り上げ交代を進言します」

 

『えっ!?』と五月雨ちゃん。

 

だが、言質はとられてしまっているのだよ。それにぶっちゃけ俺も興味あるし。だから、ゴメンね。

 

「許可する」

 

『えぇー!?』

 

「ほらほらサミちゃん、ちゃっちゃと交代しますよ〜」

 

『うわああん、なんでぇ。木曾さん、如月さんからも何とか言って下さいよぉ』

 

『このカレー美味いな』

 

『木曾さん、無視しないで!?』

 

『取り敢えず、抱き合ってたところまでは見たことあるわ』

 

『如月さああん!!??』

 

ほうほう、これはなかなか面白い恋バナが聴けそうだ。オオカミさんなんか、すでに口元の涎を手で拭っている。

 

「ふふ・・・この娘、美味しそうなラブコメの匂いがするわ。期待で口の中がもう甘々よ」

 

つまり食後のデザートって事ですね。わかります。

 

五月雨ちゃんが強引に当直艦を交代させられ、単縦列の最後尾に回り込む。位置的には木曾の後ろだ。合わせたようにアイコンドールも木曾の背中に逃げ隠れた。

 

「ふっふっふ」とオオカミさん。「五月雨ちゃん、逃げても無駄よ。根掘り葉掘り隅々まで色々と聞き出してあげるわ!」

 

『黙秘権を行使します!』

 

震えながら強がる五月雨ちゃん可愛い。でも、残念ながら今の彼女は孤立無援だ。

 

『そうねえ、先ずは去年のバレンタインデー辺りから話そうかしら』

 

『うわああん、如月さんの裏切り者ぉぉ!』

 

『カレー美味え』

 

あー、楽し。

 

そんな訳で隣の鎮守府事情なんかを色々と聞かせてもらった訳だが、それについての詳細はまた別の場所で語ってもらうとして・・・

 

・・・なんやかんやとあってまた少し時間が経った頃、三度、艦隊司令部から敵艦発見の報が俺たちにもたらされたのだった。




次回予告

 海原に緊急警報が響き渡る。助けを求める船がある。

 君がやらねば誰がやる。私がやらねば誰がやる。

 たとえ普段はおちゃらけても、やるときゃやるのが、艦娘魂!

「第四話・今度こそ守護るッ(`・ω・´)!」

「とか言って、またカレー食ってだべるだけじゃありませんよね?」

「・・・(^_^;)」


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第四話・今度こそ守護るッ(`・ω・´)!

 敵は意外なところから出現した。

 

「ここから南西200海里だって?」

 

 時刻は既に2000時を過ぎている。

 

 俺の言葉に、暗い艦橋の中、赤色を基調とした低い光度のスクリーンの向こうで、長門秘書艦が頷いた。

 

『ええ、間違いありません。監視衛星が六つの目標の出現を探知しました』

 

「監視衛星って・・・」

 

 俺は艦橋の窓から外を眺めた。

 

 今夜は月もない闇夜だった。頭上には雲が拡がっているのか、星さえも見えない。こんな状態で、レーダーにも映りにくい、赤外線でも捉えづらい深海棲艦の出現をどうやって探知すると言うのだろうか?

 

 俺にはさっぱり理解できないが、まあそこは科学の発展とやらで解決しているのだろう、きっと。

 

 俺がそんなことをぼんやりと思っている内に、長門秘書艦が言葉を続けた。

 

『この六目標が深海棲艦である可能性は極めて高いでしょう。その場合、針路や速力、陣形の組み方、また妨害電波らしき不明電波を受信したことから分析して、重巡一隻以上を含む三隻の戦闘艦。残る三隻は非戦闘艦と思われます』

 

「どう言うことだ?」

 

『戦闘艦と思われる三隻が、残る三隻を取り囲むように輪形陣を組んでいるんです。この場合、内側の三隻は護衛対象と言うことになりますが、大きさから見て戦艦や空母タイプでは無いのは確実です。となれば、護衛対象として考えられる艦種は自ずと限られます』

 

「ワ級・・・輸送艦か」

 

 俺の答えに、長門が頷く。

 

 輸送艦ワ級は人間型と非人間型の中間のような形状をした深海棲艦だ。

 

 全長70メートル、上半身は人間型だが、その下半身は巨大なタンクのような球状をしており、ここに何らかの補給物資を内包していると言われている。

 

 言われているとしか表現できないのは、その中身がいったい何なのか、それが未だ確認できていないためだ。三十年に渡る戦いの中でもこのワ級を拿捕できた例は一つもなく、また破壊した際の残骸からも、中身が推測できる物証は一つも見つかっていない。

 

 いや、もしかしたら中身自体は見つかっているのかも知れないが、その正体が何なのか皆目見当がつかないのかも知れない。

 

 とにかく深海棲艦は分からない事だらけだ。

 

 ただ、このワ級が補給を主目的とした非戦闘艦であることは確かだった。弾薬が尽きたと思われる戦艦や、艦載機が全滅した筈の空母が、ワ級と合流した途端に再び戦闘を開始したという事例は数限りなくあった。

 

 しかし、

 

「なぜ、今になって補給艦隊なんかが出てきたんだ?」

 

 前任者の活躍のおかげで、この付近に出現した大艦隊は全滅している。残存勢力と言えば今朝、ウチの鎮守府を空襲した空母とその護衛ぐらいなもので、その空母の航空戦力も、昼間の基地航空隊との戦いでほぼ全滅した筈だ。

 

『針路速力から見てそちらに接近していることから、やはりその付近に潜伏している残存勢力への補給が目的でしょう。もっとも、予想される潜伏残存勢力に対し、ワ級を三隻も投入してきたのは過剰に思えますが』

 

 これまでの記録から推測するに、ヲ級一隻と駆逐艦三隻ならワ級一隻でも十分事足りるらしい。三隻も必要とするなら大艦隊だ。

 

 だが、それほどの戦力がまだ潜んでいるとは考えづらい。

 

 そもそも、もしそんな艦隊が潜んでいたとしても、それはまだ戦闘行動を起こしていないのだから補給の必要性自体が無い。

 

「相変わらず深海棲艦の考えていることはさっぱり分からないな。けれどこっちに向かってきているのなら早急に撃破する必要がある。・・・その目標の位置が南西200海里なら、まだ警備艦隊の担当区域の外だな。長門秘書艦、艦隊司令部の意向を伺いたい」

 

『参謀部からも“早急に撃破すべし”との意見が上申されています。担当区域外での武力行使の許可については、司令長官の決済が降り次第、南西警備艦隊及び本島の基地航空隊へ正式命令が発令されるでしょう』

 

「了解だ」

 

 多目的スクリーンから長門の姿が消え、代わりに五月雨、如月、木曾のアイコンドールの立体映像がその前に浮かび上がってきた。

 

 艦隊司令部から下されるのは担当海域外での武力行使許可であり、細かい兵力運用は俺の仕事だ。俺は艦橋に一緒にいる漣も含めて、作戦会議へと移行する。

 

 ちなみにオオカミさんは、食堂で夜食を作ってくれているので不在である。

 

「これからの方針だが、先ずは艦隊を二つに分ける。二正面作戦だ」

 

 俺の言葉に、全員が頷いた。

 

 本当なら四隻揃って全力で補給艦隊を撃滅したいところだが、この付近に潜んでいる筈の残存勢力の捜索も続ける必要がある。

 

「とは言え、昼間の航空戦の時に電子戦支援等が無かったことから考えて、敵の残存勢力に重巡級以上の戦力が居る可能性はほぼ無いだろう。だとすれば夜間哨戒機との海空協同攻撃が可能なら駆逐艦一隻でも対処できる。一方で補給艦隊には重巡を含む戦闘艦が最低でも三隻居ることから、こちらに主力を差し向ける必要がある。と、言うわけで・・・」

 

 俺は木曾に目を向けた。

 

 彼女は俺の視線に、心得ているとばかりに頷いてみせた。

 

『ああ、任せろ。俺はSSSM装備数四十四発、同時斉射も可能な重雷装巡洋艦だ。重巡どころか戦艦相手にだって遅れは取らねえよ』

 

「その通りだ。まさに君はこの艦隊の切り札だよ。補給艦隊の撃滅は君に任せる。基地航空隊の電子戦支援機もそちらに回す。これで重巡級のジャミングに対抗できるだろう。それに、五月雨、如月」

 

『はい』

 

『ええ』

 

「木曾の支援に君たち二隻をつける。この三隻を持って補給艦隊撃滅部隊とする。隊の指揮は五月雨、君がとれ」

 

『はい、お任せ下さい』

 

「すまないな。結局、増援である君たちに全てを任せる事になってしまった」

 

『いいえ、状況を鑑みればこれが最善であることは誰でも分かります。それに、これは私たちに対する信頼の証だと思っていますから』

 

「そう言ってくれると助かるよ。・・・では、これより艦隊を分離する。五月雨、如月、木曾。よろしく頼む」

 

 三人のアイコンドールが敬礼。三隻は一斉回頭し、この漣から離れて行った。

 

「さてと・・・」

 

 ウィングに立ち、彼女たちが夜の果てに消えて行くのを見送った俺は、艦橋内へと戻った。

 

「漣」

 

「はい」

 

「寝ろ」

 

「はい?」

 

 漣が、何を言っているんだコイツは的な目で俺を見る。

 

「ちょっとご主人様、いきなり寝ろとか訳わかりませんよ。いや、もしかして、その・・・“俺と寝ろ"的な意味合いなんですか。二人きりになった途端にそんなこと言うなんて、ご主人様のケダモノ!」

 

 今度は俺が、何を言っているんだコイツは的な目で漣を見る番だった。

 

「勝手に妄想をほとばしらせるな。これからまた単艦哨戒任務だ。残存艦隊を発見次第、即戦闘になるんだぞ。だから、休める内にしっかり休んでおけと言う意味だ。その間は俺が見張りに立つ」

 

「なんだ、そう言うこと\(//∇//)\ でも、そのお気遣いは有り難いんですけど、別に眠っていても周囲の様子は分かりますから、ご主人様が見張る必要は無いですよ」

 

「だが、それだと熟睡できないんだろう?」

 

「そりゃ、まあ、そうですけど・・・」

 

「オオカミお姉さんからも聞いたが、単艦哨戒任務の時はリンクレベルを落とせないから、ほとんど眠れないらしいじゃないか。けれど今回は俺も居る。レーダーやセンサー、目視見張りぐらいなら肩代わり可能だ。だからお前は休め」

 

「いや・・・でもぉ・・・」

 

 漣はそれでも渋った。

 

 そのとき、艦橋にオオカミさんが戻ってきた。暗がりの中でも、手にトレイらしきものを持っているのが見える。どうやら夜食のようだ。

 

「なに? どうしたの?」

 

 そう尋ねながら俺と漣に、トレイに載せた皿を置く。そこには三角に握られたおむすびが二つ載っていた。

 

 俺が事情を話すと、彼女はなるほどと頷いた。

 

「ま、漣ちゃんの不安も理解できるけどね。艦娘にとって船体は自分自身そのものだもの。代わりに見ておくから目を閉じて走れ、って言われたら誰だって不安になるわ」

 

「そう言われたら確かにそうだな。そんなデリケートな問題だったのか」

 

「でも提督の言ってる事が間違っている訳でも無いのよ。休める時にしっかり休むのも、一人前の艦娘としての条件ですからね。・・・漣ちゃん、提督一人に見張りを任せるのが不安なら、私も見張りに立つわ。どう、これでも安心できない?」

 

「ん~、確かに元重巡のお姉さんが立ってくれるなら心強いです」

 

 うーむ、俺一人だと頼りないと言われたも同じだが、しかし、オオカミさんは元重巡だけあって艦娘のことを熟知しているだろうから、そんな彼女が支援してくれるのは俺としても非常に助かる。

 

「でもでもですよ」と漣。「さみちゃん達が補給艦隊を迎撃に向かっているのに、私だけグースカ寝ているのも体裁的に拙くないですか?」

 

「意外とそういうところに気を遣うんだな」

 

「意外は余計です」

 

「ここは戦場よ」とオオカミさん。「余計な気遣いよりも自分のコンディションを最善に保つ事を優先しなさい。それにね・・・」

 

 と、彼女が俺に視線を向ける気配がする。

 

 オオカミさんは続けた。

 

「今回の二正面作戦。一番危険な作戦を任されたのは、漣ちゃん、あなたよ」

 

「ほえっ?(・Д・)? ごごご主人様、そりゃ一体どういうこったですか!?」

 

「大袈裟だな。そこまで危険な訳じゃない」

 

「そうなんですか」

 

「いざという時に、せいぜい逃げ場が無いくらいだ」

 

「それどうなんですかね!?」

 

「つまりね」とオオカミさん。「懸念すべき点が二つあるのよ。一点は、私たちが捜索している残存戦力が本当に正規空母一隻なのか確証が無いこと。空母が複数潜伏していて戦力を温存している可能性は無いとは言い切れないし、護衛の駆逐艦にしても三隻以上いるかも知れない」

 

「まあ、それぐらいは私も予想してますよ。でも無理押ししなければ、なんとかなる相手じゃ無いですか。単艦で殲滅せよって訳でもないですしね。だけど逃げ場が無いとなると話は変わってきますよ」

 

「もしも補給艦隊を討ち漏らしてしまった場合、その戦力は残存戦力との合流のため間違いなくこちらに来る。敵の補給を防ぐことができるのはこの艦だけってことだ」

 

「な、なるほど(・_・;」

 

 話を聞き終え、納得したかのような漣だったが、その声はかすかに震えていた。

 

「漣・・・」

 

「・・・む、武者震いってやつですよ。ご主人様」

 

 震える声を咳払いで落ち着け、さらに漣は胸の前で、握りしめた片手の拳を手の平にパンと打ち付けた。

 

「この漣は、あの“ソロモンの鬼神・綾波”の姉妹艦ですよ。重巡、空母、駆逐がナンボのもんですか。まとめて相手にしちゃりますよ(`・ω・´)b」

 

「おう、頼もしいな」

 

「んじゃ、私は決戦に向けて体力温存の為、遠慮なく休ませてもらいますね」

 

 漣はラフに敬礼しながら、艦橋の出口へ向かった。

 

「ああ、ゆっくり休め」

 

 去りゆく漣にそう声を掛けると、彼女は立ち止まって、肩越しに俺に振り返った。

 

「・・・夜這いしようとか、考えちゃダメですよ」

 

「考えるか!」

 

 暗がりの中、漣がヘラっと笑った気配がした。

 

 漣が艦橋を降りて行く。

 

 

 

 

 あいつめ、強がりやがって。

 

 

 

 俺の傍らで、オオカミさんが苦笑した。

 

「大した度胸ね、あの子」

 

「・・・・・・」

 

「見たところ、軍歴、まだ若いんでしょう? あの強がりっぷりは、それのせいかしら」

 

 でも若いって良いわよね〜、などど年齡を感じさせる発言をするオオカミさん。そんな彼女を横目に、俺はサポートAIに命じて艦橋内の多目的スクリーンに全レーダー及びセンサーの情報を複合表示させた。

 

「ねえ」とオオカミさん。「さっきの聞いてた? まだまだお若いですよ、とは言ってくれないのかしら?」

 

「それを言ったら、暗に認めているようなものじゃないか。そんな手には引っかからないよ」

 

「じゃあどう答えてくれるのかしら?」

 

「お互い同い年だろ。遠慮なくやろうじゃないか」

 

「・・・さては、人事資料を読んだわね」

 

「俺は司令だよ。部下の身上把握ぐらい当然だろう」

 

 基地の猫娘に人事データファイルを送信してもらい、合間を見てそれをチェックしていた。

 

「女の年齢は、知っていても言わないのがマナーよ」

 

「君の方から振った話題だ」

 

「ま、それはそうなんだけどね。・・・なんだかあなたが上の空みたいだったから、適当な話題を振って見ただけよ」

 

「そんな呆けた表情をしていたか?」

 

「それは元からゲフンゲフン」

 

 俺が睨んだ事に気付いたのか、彼女はわざとらしく咳払いをして、続けた。

 

「えっとね、何となくだけど、漣ちゃんのことが気にかかっていたのかなって思ったのよ」

 

「まあな、確かに気にかかる」

 

「どんな所が?」

 

 オオカミさんの声に好奇心が混じっていた。五月雨に向けていたのと同じだ。だけどあいにく、俺が漣を気にかけている理由は、彼女の期待とは違うものだ。

 

「あいつ、単艦での実戦はこれが初めてらしい」

 

「・・・それは気にかけて当然ね」

 

 漣は駆逐隊単位での出撃は幾度かあるが、単艦としての任務はこれが初めてだった。

 

 それに、オオカミさんが見抜いたように艦娘としての戦歴もまだ浅い。幾度か出撃しているとはいえ、実戦経験が豊富とは言い難かった。

 

 しかし、俺は漣を旗艦として出撃したことに後悔している訳じゃ無い。なぜなら、彼女は艦娘として必要とされる訓練を全て修了しているからだ。

 

 それはつまり艦娘に求められるあらゆる任務が遂行可能であることを意味しているし、同時に遂行する義務があるということでもある。そこに新人もベテランも関係は無い。

 

「あいつに不満がある訳じゃ無いんだ。あるのは不安だが、それは俺自身に対する不安だ」

 

「提督としての不安?」

 

「ああ、漣が新人だろうがベテランだろうが使いこなして任務を遂行するのが提督の仕事であり責任だ。しかし、わかっちゃいるが、やっぱり重いな。・・・俺も、提督としての出撃は初めてなんだ」

 

「そうなんだ・・・」

 

 俺の心情の吐露に、オオカミさんは少しだけ黙った。その沈黙に、俺はかすかに後悔した。

 

 提督たるものが、こんな情けない事を言うんじゃなかった。

 

 そう思った矢先、彼女が「ふふっ」と笑みをこぼした。

 

「その気持ちは十分に理解できるわ。私もそうだったもの」

 

 その言葉に、俺は安堵する。

 

 提督としての威厳よりも、人間としての弱さを受け入れてくれたことに安堵するのは甘えなのだろうけれども。

 

 それでも、甘えついでについついこんな事まで聞いてしまう。

 

「どうやったらこの不安に慣れることができると思う?」

 

「・・・慣れは、しないわ」少し、声のトーンを落として、彼女は言う。「どれだけ訓練を重ねても、どれだけ出撃を繰り返しても、実戦を前にするといつだって、逃げ出したくなるくらい不快な緊張感に襲われるわ。実は、今だってそうなのよ」

 

「そうなのか。あまりはそうは見えないが」

 

「あなたも不安を感じていたようには見えなかったわ。でも、お互い白状したように、本当は内心じゃビクビクして怯えている。新人の頃なんか食事も喉を通らなかったわ。もしも成長した部分があるとすれば、そんな緊張や不安の中でも無理やり食べることができるようになった事くらいかしらね」

 

「今日のカレーは美味かった。食べるほどに食欲が湧いたよ。この夜食も」俺は手元のおにぎりを頬張る。「美味い。おかげで心に余裕を保てる」

 

「お褒めに預かり光栄よ。不安が多少なりとも紛れたなら、腕を振るった甲斐があったわ」

 

 オオカミさんの少し弾んだ声を聴きながら、俺は手つかずのままになっている、もう一つの夜食トレイを見やった。

 

 漣の分だ。

 

「・・・結局、強がってる様子が他人にわかってしまう内は、まだまだ新人って事か」

 

「夜食、持って行ってあげなさいよ。独りきりだと、きっと眠れないわ。こういう時は誰かと一緒の方が却って落ち着くものよ」

 

「夜這いを考えるな、と警告されたんだが」

 

「来るな、とは言われて無いでしょ」

 

「それもそうだ」

 

「あの子が安心して眠れるまで、手でも握ってあげたらどう?」

 

 そう言ったオオカミさんがニヤニヤ笑いを浮かべているのが、暗がりでも見えた気がした。そうやってすぐそっちの方向に話題を持って行きたがるのが、彼女の悪いところだ。

 

 ふむ、そっちがその気なら、

 

「だったら、君の手も握っててあげようか?」

 

「んにゃ!?」

 

 上ずった声とともに、暗がりの中で彼女のシルエットがかすかに跳ねた。少しからかってやろうと思っただけだが、なんだこの可愛い反応。

 

「え、あの、わ、私はその・・・遠慮しとくわ!」

 

「冗談だよ」

 

「あ・・・そ、そうよね。冗談よね」

 

「けどそこまで否定されるとかなり傷つくんだけど?」

 

「ご、ごめんなさい。傷付けるつもりはなかったのよ。それに別に嫌ってわけじゃなくて、その・・・手を握られちゃうと、なんか流されちゃいそうで・・・」

 

「流される? 何に?」

 

「何でもいいでしょ!」

 

 オオカミさんはそういうと、漣の分の夜食トレイを俺に押し付けた。

 

「ほら、さっさと行って来なさいよ。見張りは私に任せなさい。元重巡なんだもの、ワッチは専門職よ」

 

「はいはい」

 

 オオカミさんに背中を押され、俺は艦橋の階段を降りる。

 

「--冗談じゃなかったら、本気にしちゃうじゃない」

 

 背中越しにかすかに聞こえた彼女の声。

 

 ・・・オオカミさん、ちょっと初心(うぶ)過ぎやしないか?

 

 しかもなんだか脈ありっぽいし、これならもう少しアタックすればあっさりいけちゃいそうな気がして、もう一度艦橋に戻ろうかなとも一瞬考えたが・・・

 

 ・・・その時、何故だか漣の姿が脳裏を過ぎった。

 

 本当、なんでだろう。不安そうな顔している漣をことが余計に気にかかってしまって、それで俺はオオカミさんのつぶやきが聞こえなかったフリをして、そのまま艦橋を降りたのだった。

 

 

 

 

 

 

 艦娘用の仮眠室は食堂区画にある。

 

 というか艦娘艦艇において人間用のスペースなんてものは艦橋と食堂区画ぐらいしか無く、他にはトイレと浴室だけである。

 

 そのため食堂区画は同時に調理場であり会議室であり、そして仮眠室でもあって、食堂区画の一部をパーテーションで区切った空間に簡易ベッドが置かれていた。

 

 プライベート空間としては質素にもほどがある構造だが、そもそも艦娘艦艇の乗員は艦娘一人きりなので、本来ならパーテーションで区切る必要さえないのだ。これは俺やオオカミさんが乗り込んでいる為の便宜的な処置であり、食堂区画には他にも二つ、俺とオオカミさん用に簡易ベッドが用意され、同じようにパーテーションで区切られていた。

 

 俺は赤い暗夜灯に沈む食堂に足を踏み入れ、漣用のパーテーションを軽くノックする。

 

「漣、起きてるか?」

 

 もしも眠っていた場合のことを考え、静かに声をかける。ちゃんと眠れているなら、それでいい。俺は大人しく艦橋に戻るつもりでいたが、

 

「ご主人様っ!?」

 

 パーテーションの向こうでバタバタと騒がしく音が立ち、出入り口用の隙間に架けられていたカーテンがフワリと揺れた。

 

 カーテン越しに漣が立った気配があったから、てっきりあいつがすぐにでも飛び出して来るかと思ったが、しかしそんな事はなく、そこで奇妙な間が空いた。

 

「漣?」

 

「あ・・・えっと、ちょっと待ってて下さい」

 

「何で?」

 

「シャワー浴びたばっかりなんですよ! 着替えたり、身だしなみを整えたりするからに決まってるじゃないですか!」

 

「あぁ。すまん、そこまで手間を掛けさせるつもりはなかったんだ。艦橋に夜食を忘れていっただろう。それを持ってきただけだ。食堂のテーブルに置いておくから、気が向いたら食ってくれ」

 

 それだけ言い残して立ち去ろうとしたが、

 

「えっ、ちょっと待って、待って!?」

 

 慌てて引き止める声に振り向くと、カーテンを少し開けて、そこに半分隠れるようにして漣が姿を見せていた。

 

 左右に結っていた髪型は今は下ろされていて、暗夜灯の赤く薄暗い光の下、肩口あたりまで伸ばした髪が、船体の揺れに合わせてさらりと揺れた。

 

「あ、あの、私の姿・・・はっきりと見えてますか?」

 

「・・・薄暗いから、ぼんやりとしか」

 

「それなら良いです」

 

 漣はそう言って、カーテンの隙間からこちらへと出てきた。ジャージ姿なのは、きっと寝間着がわりなのだろう。

 

 けれど髪を下ろした彼女は少しだけ大人びて見えた。

 

「あの、本当に見えてないんですよね」

 

「ぼんやりと」

 

「だからと言って、目を凝らして見ようとしちゃダメですからね!」

 

 じゃあ、どうしてその格好のまま出て来たんだ。なんて訊くのは野暮に過ぎるか。

 

 俺は食堂の手近なテーブルに夜食のトレイを置いて、その横に腰かけた。

 

「漣、食堂のモニターにセンサー類の情報を表示してくれ」

 

「ん? ああ、了解です」

 

 俺の意図を察したのだろう、漣はすぐに食堂の多目的スクリーンに、艦橋に表示されているものと同じ情報をミラー表示させた。

 

 ただし夜間用に赤を基調とした薄暗い表示であり、スクリーンの光で目が眩むことがないように--何より漣自身の姿が照らし上げられないように、光量を最低限まで抑えられていた。

 

「見えてないですよね」

 

「大丈夫、大丈夫」

 

「見ちゃダメですからね」

 

「はいはい」

 

 しつこく念を押しながら、漣は俺と向かい合わせに座った。

 

 空調で空気が流れているのだろう、テーブル越しであるにも関わらずシャンプーの香りがフワリと漂ってきた。

 

「ほれ」

 

 と、夜食トレイを漣の前に差し出す。

 

「・・・いただきます」

 

 ぱくり、もぐもぐ、ごくん。

 

「眠れなかったのか」

 

「シャワー浴び終えて、これからちょうど寝付こうとしてたところです」

 

「そうか、邪魔したな」

 

「別に、良いです」

 

 漣が一つ目のおにぎりを時間をかけて食べていく様を、俺は暗がりの中で眺めていた。

 

 小口で少しつずつ食べるその様子は、昼食や夕食で勢いよくがっついていた時とは別人の様だった。

 

 漣はおにぎりを半分残してトレイに戻した。

 

「夕食の食べ過ぎちゃったみたいです。もう一個、どうします?」

 

「後で食べないのか?」

 

「食べたいですか?」

 

「くれるのか?」

 

「あげますよ?」

 

「食べさせてくれるのか?」

 

「食べさせて欲しいんですか?」

 

「いやいや、冗談だ」

 

「いえいえ、遠慮せずに」

 

 漣はもう一つのおにぎりを持って、俺に向かって差し出した。

 

「はい、あーんして」

 

「あーん・・・もが!? もががああ!?」

 

 こいつ、おにぎり丸ごと全部を口に押し込んでくれやがった。

 

 口の中いっぱいの米の塊を無理やり咀嚼しながら、漣にジェスチャーで水を要求する。

 

「み、みず? ミミズが欲しいんですか?」

 

 ちゃうわ! 何でジェスチャーで「み、水」と伝わるんだよ!?

 

「冗談ですよ。はい、お茶」

 

 湯呑にぬるめのお茶が注がれ、差し出されたそれで口の中のおにぎりをようやく飲み下した。

 

「プハァ・・・おい漣、俺を殺す気か?」

 

「それは、愛くるしい漣ちゃんにあーんしてもらえて萌え殺されそうだった、という意味ですか」

 

「ああ、そうだよ」

 

「え、マジ?」

 

「だから今度は、俺がお前を萌え殺させてやろう」

 

「そ、それって、どういう・・・あ、やばい」

 

「逃すか!」

 

 身を引こうとした漣を頭をガッと掴んで引き止める。もう片手には既に、漣の食べかけのおにぎりをスタンバイさせている。

 

「ほら、漣。あ~んしな」

 

「や、やだ。そんな大っきいの、入らな--もがああ!?」

 

 うーむ、おにぎり半分とはいえ全部入らないか。こいつ口小さいなあ。

 

 おにぎりが最初の三分の一程度になったところで俺は手を引いて、代わりにお茶を差し出す。

 

「ちゃんと飲めよ。吐き出すんじゃないぞ」

 

「ん、んぐ・・・ごくん・・・はぁ・・・うぇ~、白くてベタベタしたものが口の周りにいっぱいついてる~」

 

「変な表現すんな」

 

 念のために言っておくが、米である。ふっくらと炊かれた白米である。

 

「ちょっとしょっぱい味もします」

 

 塩味の効いたおにぎりである。

 

「残りも食べさせてやろうか」

 

「遠慮します。腹ん中がパンパンなので」

 

「いちいちそう言う発言するのは、良くないと思う」

 

 お前も女の子なんだからさあ。

 

 そう呟きながら、俺は手元に残ったおにぎりを頬張った。中身は梅干しだった。自分の分も含めて三つ以上も食べると、さすがに腹がキツイな。

 

 とか思っていたら、漣が俺の方をまじまじと見つめていた。

 

「どうした?」

 

「どうしたもなにも、私を女の子扱いした直後に、何で当たり前の様にそのおにぎりを食べてるんですか!?」

 

「え? だって残すと勿体無いだろ」

 

「いや、でもそれ、食べかけ・・・」

 

「ん?」

 

 もしかして後で食べるつもりだったのか。それは悪いことをしたな。

 

「違います。そんな意地汚い理由じゃありません」

 

「もう心の声を読むなとも、意地汚いとも思わないが、じゃあいったい何なんだ」

 

「ここにきて鈍感キャラ発動ですか。あざといですよ、ご主人様。折り返し地点に差しかかったオッサンのくせに!」

 

「うるせえ、オッサン言うな」

 

「でもお兄さんと呼ばれるには、もう無理のある年齢ですよね」

 

「アラサーはお兄さんと呼ばれちゃダメなのか。そうか、もうダメなのか・・・」

 

「男の心理ってメンドくさい」

 

「実際、三十を過ぎるとなぁ、二十代の頃との差が如実に現れてくんのよ。それこそ、おにぎり三個半なんて楽勝だったのが今じゃかなり苦しいし、どれだけ食べても変わらなかった体重がすぐに増える様になるし、運動した後の筋肉痛が二日か三日遅れてやってくるし、お肌もすぐに荒れちゃうし、ほんと、歳を取るって嫌よねえ。いつまでも若いままの艦娘が羨ましいわ」

 

「後半いきなりオネエにならないで下さい。キャラ崩壊してますし、それ以前に普通にキモいですから。・・・それに言っときますけど、艦娘にだって悩みはあるんですからね。肉体的に成長しないってのも結構ストレスなんですよ。精神的には成長しているはずなのに、身体は子供のままで、何だかずっとモラトリアムが続いてるみたいなんですから」

 

「モラトリアムとか、難しい言葉を知ってるな」

 

「こないだ定期カウンセリングを受けた時にカウンセラーの先生から聞いたんです。そう言う艦娘もいるって」

 

「受け売りかよ。そしてお前のことじゃ無いのかよ」

 

「身体が成長しない所為で、大人になれない事への不安から悩んでしまう子も居たりするとか」

 

「逆に、いつまでも子供時代のまんま精神年齢も成長しない奴も居るとか言ってなかったか?」

 

「つまり、ご主人様みたいな?」

 

「そうそう。頭脳は子供、身体は大人、その名は名提督・海尾。って、やかましいわ」

 

「名提督じゃなくて、迷提督では?」

 

「それこそやかましいわ・・・と強く否定したいところだけど、正直、否定しきれないんだよなあ。何しろ俺だって提督になりたての初出撃だからなあ」

 

「・・・・・・」

 

 俺のぼやきの様な言葉に、漣は言葉を返さなかった。

 

 あいつの丸い瞳がわずかに伏せられ、ふいと俺から逸らされる。

 

 しかし、その表情が不安に曇っていたのは、見えていた。

 

「・・・本当に見えてないんですよね?」

 

「はっきりとは見えてない、と何度も言ったぞ」

 

「それって、実は割と見えているってことですよね」

 

「まあな」

 

 俺が肯定した途端、漣は俯いて両手で顔を覆い隠した。

 

「嘘つき」

 

「すまん」

 

 俺は大人しく謝罪する。

 

 だって、しょうがないじゃ無いか。

 

 顔を覆い隠す前、不安に曇るあいつの目尻に、涙が光ったのが見えてしまっていたんだから。

 

 さっきまでなんでも無い様に話してはいたけれど、やっぱり不安でたまらないんだ。

 

 漣も、そして俺も。

 

 逃げることの許されない戦いに身を置いて、いざとなればこの身を盾にしてでも任務を遂行するのが俺たちの役目だ。

 

 いや、厳密に言えば少し違うか。俺はそれを命じる立場で、漣が実行する立場。つまり俺が漣を死地に追いやるのだ。というか既に、俺は五月雨たちを敵へと向かわせている。

 

 それは司令や艦娘という職に就いている以上、当然の仕事であり義務なのだが、だからと言って、戦う事への不安や恐怖が薄れるわけじゃ無い。

 

 戦場での危険というのは、平時の現場や何かで不意のアクシデントや個人の不注意で事故が起きたりするのとは訳が違う。

 

 明確な殺意を持って襲いくる敵を、こちらも殺意を持って討つのが戦場なのだ。

 

 それは生半可な覚悟でできる事じゃ無いし、そしてそれは普段の社会生活じゃする必要もない覚悟だ。

 

 するならば、それはもう狂気の沙汰だろう。

 

 だが、俺たちは、軍人は、艦娘は、その覚悟を求められる。狂気の沙汰を正気のまま冷静沈着に行い、殺し合わなければならない。

 

 こんなもの、真正面から真面目に突き詰めて考えてみれば、おかしいに決まっているし、実際、おかしくなる。

 

 だから、考えない。考えてはいけない。

 

 これは仕事だから、与えられた任務だから、下された命令だから、軍人としての義務だから。そうやって組織と国家の論理に狂気を肩代わりさせて、俺たちは日常的な他愛もない正気を保っている。保とうとしている。

 

 でも、保てなくなりそうな時がある。それが今だ。今の漣がその状態で、そして俺も多分、同じ状態になりかけているのだろう。

 

 正直、怖い。逃げ出せるものならば逃げ出したい。

 

 だけど、それは無理な相談だ。

 

 何故ならばそれが軍人の義務であり、下された命令であり、与えられた任務であり、自らが選んだ仕事であり、そして--

 

 --心に使命感を持っているからだ。

 

 俺は手を伸ばし、俯いたままの漣の頭に、そっと触れた。

 

「大丈夫だ、漣」

 

「・・・ご主人様?」

 

「大丈夫だよ、漣。・・・特に根拠は無いけど」

 

「根拠ないんですか! どうしてそんな言わなくてもいい事を言っちゃうんですか。ちょっと安心した私がバカみたいじゃないですか」

 

「はは、悪い悪い」

 

 軽く謝りながら、漣の頭を撫で続ける。

 

 彼女は口では文句を言っていたものの、大人しく撫でられていた。

 

 彼女の髪の絹の様な手触りと、そして俺の手に良くフィットする丸い頭のお陰でとても撫でやすくて、調子に乗ってしばらく続けていたら、不意に漣が頭の上の俺の手に自分の手を重ねてきた。

 

 もう撫でないでくれという拒否の意思表示かと思って俺は手を止めたが、けれど彼女は、俺の手に両手を重ねたまま、少しだけ力を込めて、俺の手を握った。

 

「もう一回、言ってください。大丈夫だって」

 

「・・・大丈夫だ」

 

「・・・もう一回」

 

「大丈夫だ。お前なら・・・いや、俺たちならやれる」

 

「もう一声」

 

 欲張りなやつ。じゃあ、これもつけよう。

 

「この出撃から生きて帰ったらデートしようぜ」

 

「ふぁっ!?∑(゚Д゚)」

 

 漣が変な声を上げながら仰け反った。

 

「い、い、いきなり方向性を変えないでください! っていうかそれ、死亡フラグですから(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾」

 

「大袈裟なやつだな。死亡フラグを建てるつもりならプロポーズぐらいしてるわ」

 

「ぷ、ぷろぽー・・・や、まあ、言われてみればそうですけど、で、でも、デートかぁ(^^;)」

 

「嫌か?」

 

 そう訊くと、漣はすぐに首をぶんぶんと強く横に振った。

 

 拒否の問いかけに対する否定の意、つまり嫌じゃないって事だ。

 

「奢りっ!」

 

「何を?」

 

「デート費用です。全部、ご主人様の奢りなら付き合います!」

 

 ビシッと指を突きつけ言い放つ漣。さっきまでまごついていた癖に、現金なやつだ。

 

「わかった、わかったよ。任せろ」

 

「よっしゃあ、南国スイーツ食べ放題ツアー決定!」

 

「いきなり食い倒れ宣言か。色気のないデートだな、おい」

 

「私にそんなものを求められても困ります」

 

「自分でそれを言うのか」

 

「私のモットーは、元気に、あざとく、可愛らしく、ですから」

 

「あざとく、とか身も蓋もないな」

 

「出会ってまだ一日しか経ってない部下をデートに誘う腰軽ご主人様よりマシです」

 

「腰軽って言うな」

 

「でも五月雨ちゃん達や、オオカミお姉さんにも鼻の下を伸ばしてましたよね(¬_¬)」

 

「バレテーラ(゚ω゚)」

 

 だけど別に誰彼構わず伸ばしている訳じゃない。単にストライクゾーンが広いだけだ。

 

 そう反論しようと思った矢先に、

 

「・・・私にも鼻の下伸ばしてくれてるなら、まあ良いんですけどね」

 

 聞こえるか聞こえないかの微妙な声音で言うあたり、確かにこいつはあざとい。

 

 だからそんな手には乗ってやるものかね。

 

「ん、今、何か言ったか?( ̄▽ ̄)」

 

「い、いえ、なんでも無いです( ̄∀ ̄)」

 

 お互い白々しいまでの棒読みでテンプレートなセリフを返し合う。

 

 二人して顔を見合わせ、思わず吹き出してしまった。

 

「ご主人様、ちょっと棒読み過ぎですよ~」

 

「お前に言われたかねーよ・・・でも、これで少しは落ち着いたか?」

 

「正直、こんな軽いノリの指揮官の下で戦うとか不安でしょうがないんですけど(・ω・)」

 

「てめえコノヤロヽ( *`Δ´)ノ」

 

「冗談ですよ。・・・冗談言えるくらい、まだまだ余裕あるってことです。漣、こういうノリは嫌いじゃ無いですから(`・ω・´)b」

 

「いいぞ、その意気だd( ̄  ̄)」

 

 お互いにサムズアップした手を突き出して、拳を突き合わせる。

 

「ご主人様・・・」

 

「漣・・・」

 

 二人の手はそのまま重なり合い、指と指が絡み合った。

 

 漣の人差し指が俺の親指を抑え込み、その上から彼女の親指が重ねられた。

 

「よし、獲ったぁ!」

 

「うわ、てめえ人差し指まで使うのは反則だぞ!」

 

「ハンデに決まってんじゃ無いですか。ご、よん、さん、に、いち、ぜろ!」

 

 なぜか突如として始まった指相撲、先制攻撃で漣が一勝目。

 

 あいつの手は俺に比べてかなり小さいので人差し指のハンデは認めざるを得なかった。

 

 しかしそのハンデは俺が思っていた以上に効果が大きく、俺が二戦目、三戦目と立て続けに連敗を喫したところで--

 

 --食堂の多目的スクリーンに映る複合海域図に、光天が一つ、新たに追加された。

 

 複合海域図は自艦のレーダーやセンサー以外にも、哨戒機等からもたらされたあらゆる情報をまとめて表示することができる。

 

 追加されたそれは、夜間哨戒機からもたらされた情報だった。

 

 俺はすぐに艦内電話のスイッチを入れ、艦橋に居るオオカミさんに呼びかけた。

 

「複合海域図に不明目標が追加された。哨戒機からの第一報だ。追加情報は無いかしていないか?」

 

『ちょうど今、第二報が来たわ』と、間髪入れずにオオカミさんが答える。『本艦から東に60海里に妨害電波を探知だそうよ』

 

「東に60海里は、拙いな、通商航路のど真ん中だ。それに妨害電波だって? 敵は空母では無く重巡級だってのか?」

 

『もしくは戦艦かもね。現在、電波解析を実施中らしいわ』

 

「妨害電波発信源の動静は?」

 

『現在のところ停止中』

 

「付近に民間船舶は?」

 

『今のところ見当たらないわ』

 

「了解した。今から俺も艦橋に戻る」

 

 通話終了。俺は漣に向き直る。

 

 だが、

 

「ご主人様、私、先に昇橋しますε=ε=┌( *`Δ´)┘」

 

「まあ、待て」

 

 勢い込んで俺の横を駆け抜けようとした漣の襟首を掴んで、引き止める。

 

「ぐえ(( °ω° ))」

 

「落ち着け。まだ相手の正体も分からん段階だし、動いてもいない。幸い、付近に民間船舶もいないから、まだ時間に余裕はある。先ずはしっかりと身だしなみを整えてから艦橋に上がってこい。良いな?」

 

「りょ、了解」

 

 襟首を離すと、漣は慌ててパーテーションの向こうへと引き返して行った。

 

 それを見届け、俺も艦橋へと向かおうとした時、

 

「ご主人様」

 

 漣の声に、俺は足を止めた。

 

「どうした?」

 

「この出撃から帰ったら、デートの約束、忘れちゃダメですからね!」

 

「・・・ああ、忘れやしないよ」

 

「(^^♪」

 

 可愛いやつだ。俺は正直にそう思う。漣となら、本気で死亡フラグ建てるのも悪くない。

 

 そんなことを考えながら、俺は艦橋へと向かったのだった。

 

 

 

 

 俺よりも遅れて昇橋すること約十分後、みだしなみを整え、いつもの格好と髪形で艦橋に上がってきた漣に、俺はこう告げた。

 

「良いニュースと、悪いニュース。どっちから聞きたい?」

 

「・・・・・・良いニュース“だけ”お願いします(;´・ω・)」

 

「そうはイカのとんちきよ(´-ω-`)」

 

 露骨に嫌そうな様子を見せた漣に対し、俺は続けた。

 

「出現した敵の戦力が判明した。二隻だ。そのうちの一隻は駆逐艦イ級。個体分析の結果、先日の戦闘に参加していた駆逐艦の最後の生き残りらしい。ついさっき妨害電波圏内から出てきたところを哨戒機によるSSSM攻撃で撃破したという情報が入った」

 

「てことは、残る敵は一隻のみですか。確かに割とニュースですね。・・・んで、悪いニュースの方は?」

 

「その残る一隻ってのが新型の可能性が高い」

 

「げぇ」

 

「これまで得た情報から分析するに、正規空母並みの艦載機を有し、かつ戦艦並みの電子戦が可能な能力を有する深海棲艦らしい」

 

「げげのげ。それって、まさか・・・」

 

「ああ、戦艦“レ級”だ」

 

「\(^o^)/オワタ」

 

 お手上げポーズを取ってんじゃねーよ。それはさっき既に俺がやったんだから。

 

 戦艦レ級とは何か。

 

 それは「戦艦」という名前が付いているが、さっきも言ったように正規空母並みの艦載機を搭載する特殊な艦艇である。

 

 我が海軍にも似たような「航空巡洋艦」「航空戦艦」という艦種がある。単艦で複数の航空機運用と重巡・戦艦並みの電子戦能力と火力、防御力を誇り、その汎用性の高さから様々な局面で活躍している。

 

 が、しかし、艦載機数は空母と比べごく少数であり、また搭載できる種類も限定的だ。それに重巡や戦艦の武装の一部を取っ払って飛行甲板を設置しているため、純粋な重巡・戦艦に比べると火力と防御力も低下せざるを得ず、中途半端な性能という評価もなされている。

 

 要は器用貧乏といったところだ。敵の戦力が少ないところや、脅威度が低い海域なら単艦で空母代わりとして十分代用がきくので、人手不足な地方の警備隊では重宝されるが、艦隊決戦といった主戦場には不向きなタイプ。

 

 ま、それでも駆逐艦一隻でタイマン張って簡単に勝てる相手じゃないのは確かだが、勝てないわけでもない。要は戦術次第だ。

 

 じゃあ似たようなレ級でも戦術次第で何とかなりそうじゃん。と、そう思うかもしれないが・・・・・・

 

 ・・・そんなわけないじゃん。

 

 はっきりって、レ級と航巡・航戦とじゃ、性格が似ているだけで、性能には天と地ほどもの開きがあるのだ。

 

 そもそも火力、装甲が戦艦ル級を上回っている時点でもうチート染みているのに、さらに正規空母並みの艦載機とかシャレにならない。しかも艦載機には対潜哨戒機も含まれており、かつレ級自身の対潜能力も高いので、潜水艦による奇襲も難しい。

 

 その上、駆逐艦並みに小回りが利き、対艦用魚雷も装備済みなので接近戦でも隙が無い。

 

 まさにチート。なんだこれ。まるで俺が小学生の頃にチラシの裏に落書きしてた「ぼくのかんがえたさいきょうのせんかん」そのまんまじゃねーか。つまり深海棲艦の発想力は小学生並ってことだ。

 

 小学生の発想をそのまんま実現出来りゃ、そりゃ最強だわな。

 

 見方によっては様々な分野の艦娘の最強を一隻に詰め込んだ存在とも言え、こんなバケモンに生半可な艦娘がケンカを売ったらどんな目に遭うのかは想像に難くない。もはや、戦艦の皮をかぶった何かである。

 

 そんなことを考えていたら、俺もまたお手上げポーズをしてしまっていた。

 

 そんな俺たちに、オオカミさんが呆れたように深いため息を吐いた。

 

「こら、あきらめちゃだめ」

 

「いえいえ、あきらめてませんし、逃げるつもりもありませんよ」と、漣の反論。

 

 ほう、なかなか頼もしいじゃないか。と少し見直しかけたけど、

 

「まあ、逃げない代わりに生存確率は絶望的に低いでしょうけど(´・ω・`)」

 

「生き残ることをあきらめちゃだめよ、漣ちゃん!?」

 

「でもでも、レ級なんていうバケモノ相手にしたんじゃ、刺し違えでもしない限り倒せませんよ!」

 

「誰もそこまでやれとは言っとらんわい」と、俺。「幸い、周囲に民間船舶が居ない内に敵を発見できたことによって、警報を早く発することが出来た。民間船舶が不必要にこの海域に近づくことはないだろう。だから奴を急いで無理に倒す必要は無い」

 

「かといって放っておけないじゃないですか。また潜られて消息不明になったら、いつまでたっても通商航路を封鎖されたままですよ? 姿を現している今のうちに、他の海域へ誘引するなりしないと」

 

「そう、いいところに気が付いたな」

 

「はい?」

 

「誘引するだけなら、倒す必要は無い。前任の司令も言ってたじゃないか。時間稼ぎと味方の生存を優先するなら、やりようはいくらでもあるってな」

 

 俺はにやりと笑ってまるで妙案があるかのような口ぶりで言ってみせた。

 

 が、正直、別にドヤ顔をかますほどの案って訳でもない。それにどうせ夜中の暗い艦橋じゃどうせドヤ顔も見えてないだろうし。

 

 ともかくどんな案かといえば、とにかくシンプルイズベスト。

 

 先ずは長門秘書艦に要請して、味方の増援をこっちに寄こしてもらう。で、俺たちはレ級の射程ギリギリをうろちょろしながら通商航路から出来るだけ遠ざかるように誘引し、味方と合流するまでの時間を稼ぐというもの。

 

 この作戦を伝えたとき、暗がりの中だというのに、二人が微妙な表情をしたのが見えた気がした。

 

「地味だわ」と、オオカミさん。「いえ、駆逐艦一隻で出来ることなんてそれぐらいしかないから当然だけど」

 

「でも」と漣。「そんなドヤ顔してるくらいですから、もうちょっと斬新な案でも出てくるのかと期待していたんですけどね」

 

「ドヤ顔見えてんのかよ」

 

「なんとなく声とか雰囲気がドヤってたんで」

 

「言っておくけど地味だが十分に危険な作戦だからな」

 

「わかってますよ。レ級の主砲って推定16インチ、射程20海里、有効射程でも16海里近くあるって性能でしょ。夜の闇の中、ジャミングでレーダーも使えない状態で、水平線の向こう側からボカボカ飛んでくる一撃ゲームオーバーなチート弾をひたすら避け続けるクソゲーですわ、これ」

 

「クリア報酬はスイーツ食べ放題だぞ」

 

「今にして思えばやっすい報酬ですよね。もう一声、追加しましょうよ。私、欲しい服があるんです」

 

「こいつ、調子づきやがって」

 

「あら、二人してデートの約束でもしてるの?」

 

「そうですよ~。死亡フラグにならない程度の軽いノリですけどね。そうだ、どうせならお姉さんも一緒に行きましょうよ~」

 

「あら、いいの?」

 

「もち、奢りますよ。ご主人様が」

 

「それは素敵ね。ありがとう、ご主人様」

 

「俺まだなんも言ってねえよ!?」

 

「ケチくさいですよ、ご主人様」

 

「両手に花よ。むしろ光栄に思うべきよね」

 

 まったく、とんでもない花もあったもんだ。俺の財布で支えきれるかどうか知らん。

 

「二人とも、帰投するまでに行きたいところ、買いたいもののリストアップは済ませておけよ?」

 

「あいあいさ~( *´艸`)」

 

「うふふ、私もやる気が出てきたわ。さぁ、みんな。行くわよっ!」

 

 おーっ、と俺たちは三人そろって、気勢を上げたのだった。

 

 そして―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――あれから一時間弱が経過した頃。

 

「レ級が航進を起こしました。こちらに向かって接近中です!」

 

「よし、こっちの陽動に喰らいついたな。漣、後数分でレ級の射程内に入るぞ。遠距離水平線の見張りを厳となせ。敵の発砲炎を見逃すな!」

 

「了解。――って、言ったそばから水平線で何か光りましたよ。敵艦発砲!? わ、わ、回避運動!」

 

「焦らないで、漣ちゃん。まだ20海里以上も離れているわ。この距離なら砲弾が到達するまで二分近くかかるし、そもそもまだ射程外のはずよ」

 

「あ、そっか。じゃあ安心で――でぇぇええええええええ!?」

 

「な、なんだ今の揺れは!? 衝撃波だと!?」

 

「艦のすぐそばを超高速の物体が飛びぬけていった? まさか、今のがレ級の砲撃だとでもいうの!?」

 

「発砲を確認してから十秒くらいしか経ってないぞ。それで20海里を飛んできたってのか。――弾速マッハ10以上とか、嘘だろ、レールガンでも搭載してるのか、あいつは!?」

 

「そんなの、かすっただけも轟沈レベルの速度じゃないですか。わ、また水平線が光りましたよご主人様やばいやばいやばい」

 

「取舵一杯、最大戦速! 出鱈目でいい、とにかく舵を取れ、動きを止めるな!」

 

「あ、アイサ―!」

 

「弾着まであと五秒よ。衝撃に備えて。――二、一、来た!」

 

「うおおおっ!? こいつはやべえ!!」

 

「ひええええ、し、沈む、沈んでまぅぅぅ(´;ω;`)」

 

「二人とも落ち着いて。沈んでないから、まだ生きてるから!」

 

「ほんと? 私まだ足ある? 頭に輪っか浮かんでない? 背中に白い羽が生えてない?」

 

「羽が生えてるのは背中じゃなくて頭ン中だろ。それに足は無事だがひっくり返っているせいでパンツが見えているぞ。イチゴ柄( ̄д ̄)」

 

「見んな、ご主人様の変態、バカぁ! うわーん、お嫁にいけないぃぃ(⊃_<)」

 

「漣ちゃん、その程度であきらめていたら、本当に行き遅れてしまうわよ。いっそ、これを機に提督に責任を取らせちゃいなさい」

 

「なぬ( ゚Д゚)!?」

 

「おお、さすがお姉さん。んじゃご主人様、生きて帰ったらセクハラで訴えますんで、責任とって慰謝料下さい」

 

「違うわ、漣ちゃん、そうじゃない」

 

「おい、生々しすぎるからやめてくれ。すまん、マジすまん、お願いだから示談にして。お願いだから訴えないで」

 

「んじゃ、奢りデート二日目も追加ってことで」

 

「オーケー(; ・`д・´)b」

 

 ズドーン。

 

「うっひゃああ、近い近い。マジでやばかったですよ、今の」

 

「真面目にやれっていうツッコミかしら?」

 

「真面目も真面目、クソ真面目だっての。命張ってんだぞ、こっちは」

 

「けどご主人さま。まだなんとか避けられてますけど、この先ずっとこれって、かなりきついですよ?」

 

「増援が来るまでの辛抱だ、がんばれ」

 

「・・・デート、三日目も追加して良いですか?」

 

「お前が頑張れるなら、いくらでも追加してやるよ」

 

「・・・よぉし、がんばるぞー、おーっ(*´ω`)」

 

「「おーっ」」

 

 そして水平線がまた光る。そして極超高速の弾丸が迫り、それを追うように衝撃波が海面を引き裂いていく。

 

 幾度も、幾度も・・・・・・

 

 そして・・・そして・・・・・・

 

 

 

 

 あれから更に数時間が経過しようとしていた。

 

 時刻はもうすぐ夜明け近い。東の水平線がうっすらと青みを帯び始め、星々の光が力が無く群青色の空に溶けるように消えていく。

 

 その水平線の彼方から眩い光が瞬いた。

 

 その光は、音速の10倍を超える極超音速で撃ち出された砲弾が空気との摩擦熱で燃え上がっているためだ。砲弾は輝きを増しながら瞬く間にこちらへと迫り、まだ闇が残る周囲の空間に真一文字の光線を残して彼方へと飛び去って行く。

 

「伏せてっ!」

 

 水平線が輝いたのを認めた瞬間、俺の背後でオオカミさんが叫び、甲板上に居た俺たちは二人がかりで運んでいた消火剤のタンクをその場に降ろして這い蹲った。

 

 その一瞬後、空気の壁が激突し船体を激しく揺さぶった。同時に巻き上げられた海水が土砂降りのように降り注ぐ。

 

「無事か!?」

 

「異常なし!」

 

 お互いの無事を確認しあいながら俺たちは立ち上がり、人の背丈ほどもあるタンクを再び持ち上げると、まだ揺れ続ける船体上を後部を目指して進んでいく。

 

 俺たちの目指す先では、後部側三番砲塔が大炎上していた。

 

 原型をほとんど留めていない炎の塊と化した三番砲塔の周囲を数体のメンテ妖精たちがホースを構えて取り囲み、泡状の消火剤を大量に吹きかけていた。

 

 その更に周囲にもメンテ妖精たちが数体いたが、それらは甲板上に四肢を投げ出すようにして倒れ伏している。恐らく砲塔の爆発に巻き込まれたか、それとも超音速の弾丸による衝撃波に薙ぎ倒されてしまったのだろう。

 

 生き残っているメンテ妖精たちに補充用の消火剤タンクを受け渡した後、俺とオオカミさんはそれぞれで倒れていたメンテ妖精を引きずりながら艦内へと戻った。

 

 メンテ妖精は1メートルにも満たない背丈しかないが、その重量は人間の子供とは比較にならないほど重い。

 

 最大旋回を繰り返すため大きく左右に、しかも不規則に揺れる艦上で、俺たちは必死になって妖精を引きずりながらドアをくぐり、艦内の妖精用メンテナンス区画へ妖精たちを運び込む。

 

 メンテナンス区画は既に修理待ちの妖精で溢れ返っていた。

 

 応急処置を施されて動けるようになった妖精がすぐに区画を飛び出していくが、それとほぼ入れ替わるように別の妖精が運び込まれてくる有様だった。

 

 メンテ区画にも多目的モニターが設置されていて、そこに艦内の被害状況が記されていた。さっき見た炎上中の後部三番砲塔の他にも電装系がいかれた区画が数か所に、更に浸水箇所も新たに加わった。

 

 艦内数か所に被害が同時発生している上にメンテ妖精にも被害が続出しているので人手が全く足りず、俺とオオカミさんが艦内を駆けずり回らなければいけないほど追い込まれていた。

 

「浸水場所にメンテ妖精が足りないわ」とオオカミさん。「破口箇所への遮防が進んでいないようね。応急用具が現場に届いていないんだわ」

 

「何が必要だ?」

 

「補強用の角材ね」

 

「それならメンテ区画を出てすぐそばの通路にある。いこう」

 

 疲れた身体に鞭を打ってメンテ区画を飛び出した。

 

 すぐそばの通路の壁に2メートルほどの角材が壁に沿って格納されており、オオカミさんと二人で肩に担ぎあげ、浸水が起きている区画へと運び込む。

 

 浸水区画は俺たちがいる区画よりも一層下の場所だった。閉め切られた水密ハッチの周りで待ち構えていたメンテ妖精に角材を渡すと、妖精はねじり鉢巻き姿にのこぎりを構えて、角材をがっしがっしと勢いよく切断し始めた。

 

 切断された木材はすぐさま水密ハッチが開かれてその下の浸水区画へと運び込まれていく。

 

 そこでは隔壁に空いた大穴を身体を張って塞ぐ妖精が居た。その身体の隙間からは勢いよく海水が噴出し、区画はすでに半分ほど水に没していた。その妖精と入れ替わるように箱状のパッチが穴に当てられ、さらにその穴が浸水圧力で外れてしまわないよう切断した角材をつっかえ棒にして押し付けていく。

 

 この作業は迅速に手際よく行われていたが、それをのんびりと眺めている暇はない。また激しく船体が揺れて、耳障りな警報が艦内に鳴り響いた。

 

 火災警報だ。

 

 俺たちはメンテ区画にとって返して被害区画を確認し、手近のガスマスクと消火器をひっ掴んでその場所に急行し、まだボヤ程度だったその火災を消化し、倒れていた妖精数体をメンテン区画に運び込み、また別の場所の被害区画へ道具や補充品を運び、また壊れた妖精をメンテ区画へ運び、舵を消し、補充品を運び、妖精を運び・・・・・・・・

 

 

 いったいどれだけ奮闘したのだろうか。

 

 艦内を休みなく走り回り続けること数時間、ようやくメンテ妖精の稼働数も回復し、艦内の被害もあらかた処置し終えたのを確認して、俺とオオカミさんは艦橋へと戻ってきた。

 

 外は既に日も昇りきり、明るい日差しが海に降り注いでいる。

 

 一見すると平和でのどかな海に見えるが、状況は何にも変わっていない。戦いはまだ続いている。疲労でくたくたになりながら司令席に座り、双眼鏡を遣って艦橋の窓から水平線を眺めると、そこにレ級の影を認めた。

 

 この数時間、漣はひたすらレ級の砲撃を交わし続けながら、かつ敵との距離を一定に保ち続けていた。

 

 距離およそ20海里。

 

 これ以上離れてしまえばレ級は俺たちあきらめてどこかへ行ってしまうだろうし、かといってこれ以上接近されれば、奴の極超音速砲撃の餌食になるのは必定だった。

 

 このギリギリの距離を数時間にわたって保ち続けた漣の操艦能力はお世辞抜きで賞賛に値する。デートで奢りどころか抱きしめてキスしてやりたいくらいだ。

 

 それはご褒美どころか罰ゲームだって。そんなことはない。少なくとも俺にとってはご褒美だ。何言ってんだろう、俺。双眼鏡の向こうでレ級が水平線の影からこちらをのぞき込んでいるのが見えた。

 

 

 

 

<(゜∀。)……

 

 

 

 

<(゜∀。)…ズドーン

 

 

 

 

「どっせええええい!」

 

 漣が気合を振り絞って操艦し、砲撃をかわした。

 

 

 

<(゜∀。)…ハズシター

 

 

 

 まるで薬でもキメているようなニヤケ顔だ、腹立つなぁ。

 

 

 

<(゜∀。)…コウフクセヨ、コウフクセヨ

 

 

 

 何だとコイツ、何言ってやがる。

 

 

<(゜∀。)…オマエタチハ カンゼンニ ホウイサレテイル

 

 

<(゜∀。)…ムダナテイコウ ハ ヤメロ

 

 

 降伏しろだと。こいつはその意味が分かって言っているのか。どうなんだ、え?

 

 

<(゜∀。)……イミ?

 

 

<(゜∀。)…エット シアワセニナル

 

 

 そりゃ降伏じゃなくて幸福だ!

 

 

<(゜∀。)…スマネエ ニホンゴ ハ サッパリナンダ

 

 

<(゜∀。)…ズドーン

 

 

 また撃ってきやがった。説得する気なんか端から無いんだな。

 

 

<(゜∀。)…ソンナコト ナイヨー

 

 

 じゃあどうする気だ。

 

 

<(゜∀。)…ヒトジチ ヲ ヨウイシマシタ

 

 

 人質だぁ?

 

 

<(゜∀。)…コイツガ ドウナッテモ イイノカー

 

(・▭・)…イキュー

 

 

 イ級じゃねえか!? なんだその自作自演。

 

 

<(゜∀。)…タベチャウゾー

 

(・▭・)…タスケテー

 

 

 なんぞ、これ。ていうか、イ級って食えるの?

 

 

<(゜∀。)…クジラ ミタイナ アジスルヨ

 

(・▭・)…ホゲイ ハンターイ

 

 

 うるせい、ウチの食文化にケチつけんなや。こと食い物に関しては全世界を敵に回しても喧嘩するからな、ウチの国は。

 

 

<(゜∀。)…ジャア シャーネー

 

 

<(゜∀。)…ズドーン

 

 

 激しい揺れに俺は司令席から投げ出される。

 

 と思ったらすでに倒れていた。

 

「提督! 生きてる? 起きて!」

 

「んあっ!?」

 

 オオカミさんに頬をひっ叩かれて、俺はようやく気が付いた。

 

 どうやら動揺で倒れた際に気を失っていたようだ。一体いつから気絶していたのだろう。変な夢を見ていたような気もする。

 

 立ち上がり、水平線に向かって双眼鏡を構えるとレ級がこちらをのぞき込んでいた。

 

 

<(゜∀。)…

 

 

<(゜∀。)…コウフクセヨ、コウフクセヨ

 

 

 既視感。なんだこれ。

 

「聞こえたか?」

 

「ええ、国際無線からよ」

 

 国際VHF無線からだ。オオカミさんが無線機のボリュームを上げる。

 

『コウフク…セヨ…お前たちは、完全に包囲されている』

 

 流暢な日本語だ。

 

「電波妨害されているのに、どこから?」とオオカミさん。「まさかレ級から? それしか考えられないけれど、嘘でしょう、深海棲艦が降伏勧告をしてくるなんて!?」

 

「どうかな。きっと意味なんか分かっちゃいないさ」俺は無線機の受話器を取り上げる。「こちら漣乗艦中の南西警備艦隊司令だ。呼び掛けているのは誰だ?」

 

『コウフクしろ。田舎のおっかさんも泣いてるぞ』

 

「なんだそれ」

 

『早く白状しろ。そうすれば楽になれるぞ。・・・かつ丼喰うか?』

 

 俺は受話器を戻した。

 

「こいつはただのラジオドラマか、それともテレビドラマか何かの音声を適当に流しているだけだ。その意図はわからんが、こっちの意図が通じない一方的なものだ。コミュニケーションする気はないだろう」

 

 国際無線からは今度は歌声が流れ出していた。うさぎおいしかのやま。ふるさとか。ずいぶん陳腐な筋書きのドラマだな。いまどき刑事ドラマのパロディですら見かけないぞ。

 

 俺は国際無線のボリュームを落とした。

 

 直後に砲撃が来た。

 

 漣が力を振り絞ってその砲撃をかわす。

 

 激しい衝撃。至近弾だ。

 

 艦橋の目の前を砲弾が光を放ちながら掠め飛び、その衝撃波によって艦橋の防弾ガラスが残らずぶち破られた。

 

 咄嗟に顔を覆いながら床に倒れ込んだ俺の傍に、漣も倒れていた。その顔に血がにじんでいる。砕けたガラスで切ったのか。

 

 助け起こした時、俺自身もまた血まみれになっていたことに気づいた。

 

「…だ…じょう…か」

 

 大丈夫か? 腕の中の漣にそう呼び掛けたつもりだったが、うまく声が出ない。いや、声は出ているが、耳がおかしくなっているようだ。耳鳴りが酷い。衝撃波の圧力のせいだ。

 

 俺の腕の中で漣がうっすらと目を開けた。

 

「うわ(゚Д゚;)!?」

 

 あ、聞こえるようになった。漣が血だらけの俺の姿にドン引きしていた。

 

「ご主人様、ヤバい顔になってますよ!?」

 

「ガラスで浅く切っただけだ」多分、きっと、そう信じたい。「それよりお前こそ大丈夫か? 見た目は大丈夫そうだ。手や足も折れてないな」

 

「なんかどさくさに紛れて触られた(・ω・)」

 

「触診だ。非常時だから仕方ないだろ。ほら、立てるか」

 

 立ち上がりながら、一緒に彼女も立たせたが、漣はふらついて俺の胸によりかかった。

 

「あたまくらくらします(>_<)」

 

「・・・・・・」

 

 無理もない。もう疲労も限界のはずだ。本当は意識を保つだけで精一杯だろう。

 

 俺は漣を胸に抱いて支えながら艦橋内を見渡した。

 

 艦橋内はボロボロだった。窓ガラスはすべて砕け、床一面にまき散らされている。それだけでなく多目的スクリーンも衝撃によって破壊されていた。

 

 ドン、と重い音と共に船体が揺れ、俺は漣を抱いたまま尻餅をついた。

 

「なんだ?」

 

「爆発よ」

 

 答えたのはオオカミさんだった。彼女はいつの間にかウィングに出ていて、後部を覗き込むようにして眺めていた。

 

「さっきの砲撃が艦橋を掠めて、後部の一部をえぐり取っていったわ。後部でまた大火災が起きてる。さっきのは二番砲塔の誘爆よ」

 

 オオカミさんは首を横に振りながら、艦橋内に戻ってきた。

 

「漣ちゃん、まだいける?」

 

「まっかせてください・・・・・・って言いたいですけど、ちょっと、無理ですね。機関部が死んだみたいです。もう動けません」

 

「そうか・・・・・・もう十分だ。よく、がんばったな」

 

 俺の言葉に、漣は腕の中で力なく笑った。

 

 もはやここまで。

 

 増援が来るまでは粘り切れなかったが、しかし通商航路から引き離すという目的は十分に達することが出来た。

 

 なら、上等だ。

 

「任務終了だ。さあ、撤退だ」

 

 俺はそう宣言する。オオカミさんが再び外を覗き込んで、言った。

 

「作業艇はまだ無事よ。また砲撃が来る前に脱出しましょう」

 

「ああ」

 

 俺は漣を抱えあげ、立ち上がった。それにしても軽いな、コイツ。

 

「お、お姫様抱っこ・・・(*//ω//’*)」

 

「黙ってろ、舌噛むぞ」

 

 そのまま艦橋を降りようと思ったが、横抱きだと狭い階段や通路を通りにくいことにいまさら気が付いた。

 

 なのでいったん漣を降ろし、背中に背負いなおす。

 

「なんか興ざめです(´-ω-`)」

 

「うるせえ、引きずらないだけありがたいと思え」

 

「早く、こっちよ」

 

 先導するオオカミさんがドアやハッチを開けて、逃げ道の確保をしてくれる。

 

 上甲板に出ると、船体後部側は激しい炎と煙に包まれていた。生き残った妖精たちが搭載されている作業艇の周りに集まって、海面へと降ろそうとしていた。

 

 レ級のとどめの砲撃が来るのが先か、作業艇の準備ができるのが先か。

 

 焦れながら水平線を眺めたとき、レ級の居る方角がまばゆく光り輝いた。

 

 砲撃だ。

 

 間に合わなかった。十秒後には極超音速の砲弾が俺たちを船体ごと木っ端みじんに吹き飛ばすだろう。

 

 着弾まで残り何秒だ? 十秒? いや、もう五秒もないはずだ。この短時間に何ができる?海に飛び込むか。それで助かるのか? 無理だ。極超音速の着弾の衝撃は周囲数百メートルに及ぶだろう。

 

 残り二秒? 一秒? くそ、覚悟を決めろ。人生の最期だ。最後に何を言い遺すべきか。

 

 とりあえず天国のお父さん、お母さん、もうすぐそっちに行きます。んで、兄貴、先に逝く愚弟を許してくれ。それと俺の私物のパソコンは中身を見ずに廃棄してくれ。絶対見るなよ、見たら枕元に化けて出るからな。そんで嫁さんに過去の女遍歴を洗いざらいぶちまけてやるから覚悟しろよ・・・・・・

 

 

 ・・・・・・あれ?

 

 水平線が光ってから十数秒後。しかし砲弾は飛来しなかった。

 

「さっきの光、あれはレ級の砲撃じゃなかったのか?」

 

「見間違いですかね(;´・ω・)?」

 

「ねえ、あれ見て!」

 

 オオカミさんが水平線を指さした。

 

 レ級の居る方角、そこに巨大なキノコ雲が立ち上っていた。

 

「ひっ!?」俺の背中で、漣が息を呑んだ。「あ、あのきのこ雲って、まさか、核爆発じゃ・・・!?」

 

「いや、それにしちゃ規模が小さい。核なら入道雲クラスの大きさになるはずだ。あれは恐らく通常の爆発だろう。それでもとんでもない爆発だが」

 

 それから数十秒後、遠雷のような重々しい爆発音が俺たちの元に届いた。

 

 オオカミさんが作業艇内にあるサバイバルキットから双眼鏡を取り出し、水平線を眺める。

 

「レ級が見当たらないわ」

 

「まさか、自爆でもしたのか?」

 

「にわかには信じられないけれど・・・」

 

 オオカミさんはしばらく双眼鏡を構え続けていた。

 

 が、突然、

 

「えっ!?」

 

 叫び声と共に双眼鏡を降ろし、目元を手でこすってから、再度、双眼鏡を構えなおした。

 

「うそ・・・なにあれ・・・うそ」

 

「どうした、何が見えたんだ」

 

「戦艦よ!」

 

「レ級か!」

 

「違う、新手よ!」

 

 オオカミさんが叫びながら俺に双眼鏡を押し付けた。

 

 俺は双眼鏡を構え、そこに見えたものに思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

「な、なんだありゃあっ!?」

 

 きのこ雲を突き破るように水平線から姿を現した、巨大な船影。

 

 それは確かに戦艦だった。人型じゃない、艦船だ。しかし俺が知るどの艦よりも巨大で、そしてはるかに異様な姿だった。

 

 背の高い艦橋と、ハリネズミのように飛び出す幾本もの巨大な主砲。しかしその艦を最も異様たらしめているのは、艦首部分で海面をえぐるように回転する巨大な、信じられないほど巨大な・・・・・・ドリル。

 

 ドリル戦艦。

 

 現実とは思えないその光景に絶句した俺の視界の中で、ドリル戦艦はその全身を見せつけるようにゆっくりと回頭すると、そのまま反転し、水平線の向こう側へと消えていく。

 

 俺はそれを茫然とした表情で見送ることしかできなかった。

 

 それから数分後、唯一生き残っていたサバイバルキットの携帯無線に、味方からの通信が入った。つまり、妨害電波が消失したのだ。

 

 レ級は消えた。謎の爆発と共に。

 

 合流した味方から状況の説明を求められたが、馬鹿正直に「ドリル戦艦が~」と言ったら、相手の提督から、可哀想なものを見る目つきをされた。

 

『頭は大丈夫か? いや、レ級を相手に単艦で轟沈寸前になるまで頑張っていたんだ。疲れたろう。うん、ゆっくり休め』

 

 いやいや待ってくれ、ホントにホントなんだって、ドリル戦艦が出てきたんだってば。

 

 と、いくら訴えても信じてくれないだろうな。と判断するだけの理性はまだあった。

 

 俺は黙ってうなずき、駆けつけてくれた五月雨たちに曳航される形で、鎮守府へと帰投したのだった・・・・・・

 

 

 




次回予告

 戦いを終えた戦士たちには、帰るべき場所がある。

 戦いを終えた戦士たちを、待ってくれるものが居る。

 人々の歓声に包まれ、凱旋を祝う盃に酔いしれる。戦士たち。

 しかし、酩酊と現実のはざまに隠された真実が、微かながらにその姿を現そうとしていることを、彼らはまだ、知らない。

「第Ⅹ章最終話・めざめよ、かんむすたち(/・ω・)/」

「久しぶりだな、活流」

「あ、兄貴!?」


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第Ⅹ章最終話・めざめよ、かんむすたち(/・ω・)/

 戦い終わって日が暮れて。

 

 やっとこさ鎮守府へ帰港した俺たちを美人が出迎えてくれた。

 

「お帰りなさいませ、三人ともお疲れ様でした」

 

 そう言って黒髪ロングに理知的なメガネが魅力的なその女性は、俺たちに穏やかな笑みを向けた。

 

「え、誰この美人、付き合ってください(いったい君は誰なんだ?)」

 

「ご主人様、逆です、逆(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」

 

「ぶれない人ねえ」

 

 呆れる漣とオオカミさんを余所に、美人な彼女は(^―^* )フフ♪とたおやかに笑った。

 

「美人だなんて褒めて頂きありがとうございます。この姿のモデルとなった大淀さんも喜ぶと思いますよ」

 

「モデル?」

 

「ええ、これ、立体映像ですから」

 

 そう言って彼女は、どこからともなく猫を取り出して、両手でぶら下げて見せた。ユルいデザインで、すっとぼけた顔をしながら彼女の胸の前で吊られているニャンコには見覚えがある。

 

「もしかして、猫娘なのか!?」

 

「はい、ご明察。ちなみにこの姿は軽巡艦娘の大淀さんをモデルにしているんです。もちろん、本人からもちゃんと許可を頂いていますよ。妹ができたみたいって喜んでくださって、名前まで頂いちゃいました」

 

「名前ねえ。大淀の妹分ってことは、あれか、計画だけで未竣工の二番艦があったよな。確か“仁淀”といったかな」

 

「惜しいですね」

 

「惜しい?」

 

「“仁淀”は既に別のAIが先に名乗っちゃったんですよ。南方のAIったら、ほんと図々しいんだから、もう」

 

「お、おう(;´・ω・)」

 

「なので、仕方ないんで私、こう名乗ることにしました」

 

 にゃーん、と手元の猫が空中へと飛び出して、その場でクルリと宙返りした。その姿にまたノイズが混じり、猫耳カチューシャへと変化する。

 

 そのカチューシャが彼女の頭にスチャッと装着された。

 

「改めましてこんばんは。私、業務支援用AIのUN-A、通称“ニャン淀”です。どうぞよろしくお願いしますにゃん♪」

 

 あざとくにゃんこポーズの猫娘改めニャン淀。ピコピコ動く猫耳に加え尻尾まで生えてた。あざとい、実にあざとい。

 

 なんか俺の傍らで漣がわなわなしてる。

 

「知的美人と萌えの両立・・・こ、これはキャラ被りの予感Σ(°Д°)」

 

「一ミリ足りとも被ってないから安心しろ。ていうか張り合うな」

 

「ちょっと待って」とオオカミさん。「大淀の外見で猫耳がアリなら、もしかして私にもまだワンチャンある・・・?」

 

「無いから、やめなさい」

 

 まぁワンコスタイルならアリかもしれないけれど。

 

 いや、二人とも本当は似合うかもしれないよ。でも部下がみんな揃ってケモミミ付けてるとか、そんな鎮守府を他人に見られたら何を言われるか分かったもんじゃない。

 

 ただでさえ「ドリル戦艦が~」とかのたまってしまったせいで頭が可哀想な人扱いされているのに、その上、部下にケモナー趣味を強要してると誤解された日にゃ、俺の評判なんて深海の奥底に沈没してサルベージ不可となること必定じゃねーか。

 

 そんな保身全開な俺の思惑を余所に、ニャン淀が、「それはそれとして」と話を続けた。

 

「みなさん、本当にお疲れさまでした。特に提督におかれてましては顔が可笑しい――いえ、おいたわしいことになっているようで」

 

 プッと吹き出しかけたのを慌てて堪えるニャン淀。無意識に笑いだすとか高性能すぎるだろこのAI。ちくしょうめ。

 

 そりゃまあ俺の顔面は絆創膏だらけ、しかもウサギ柄のファンシーなやつがいっぱい貼られているから仕方ないけどさ。

 

 ニャン淀がわざとらしく咳払いして続けた。

 

「失礼しました。医務官が待機していますので念のため検査を受けてきてください。それで異常が無いようであれば、私室の準備が整っておりますから、ごゆっくりお休みくださいね」

 

「ああ、そうさせてもらうよ」

 

 もう色々と疲れた。ここへ帰港するまでにも報告書の作成やら、漣の船体の修復手続きやらで全然休まる暇もなかったし、正直、体力的にも限界だった。

 

 けれど帰港するまでに頑張ったおかげで、急ぎで処理すべき業務はあらかた終わっているし、さらに幸いなことに今日は華の金曜日だ。週末はゆっくり休んで、週明けから仕事に取り掛かるとしよう。

 

 俺は皆にそう告げて、その場は解散となったのだった。

 

 

 

 

 

 

 で、それからちょうど二十四時間後の深夜過ぎ。

 

 俺と漣とオオカミさんの三人は、町の居酒屋に居た。

 

「それでは、新生警備艦隊の初出撃と無事の生還を祝って、かんぱ~い!」

 

(*’▽’)ノ∪ うぇ~~い ∪ヽ(’▽’ *) 

 

 俺の音頭に合わせて、漣、オオカミさん、さらに店に居合わせていた十人以上の客たちが一斉にグラスを掲げた。

 

 手元のグラスに入った泡盛を一息で飲み干した途端、見知らぬおっちゃんが泡盛の一升瓶を抱えてやってくる。

 

「さすが提督さん、良い飲みっぷりだねえ。ささ、もう一杯」

 

「こりゃこりゃ、どうもどうも。おっととと」

 

「ささ、ぐいっと、ぐい~っと」

 

「ぐい~(´ω`)ノ ∪」

 

 うぇっぷ、ぐぇっほ、げほげほ。思いっきりむせ返ってしまった。流石に十数杯目にもなって、まだこのペースを維持しろというのは無理がある。

 

 さっきの乾杯の音頭ではあたかも宴会の始まりのようなことを言ったが、実は同じ言葉を三回ぐらい繰り返していた。

 

 この島の風習とでもいうのか、酒の席では前口上を述べてから飲まなくちゃいけないらしい。おかげでお酌される度に定期的にアイサツを求められ、その都度思いつくままに喋ってきたけれど、いい加減もうネタも切れてきたので仕方ないから振り出しに戻ったというところだ。

 

 だけど、同じ口上を繰り返したからと言って別に苦情もツッコミも出なかった。つまるところ内容はどうでもよかったらしい。というか人の話を聞いてないだけかも知らんが。

 

「かんぱぁぁ~~い」

 

(*’▽’)ノ∪ うぇ~~い ∪ヽ(’▽’ *) 

 

 今度はオオカミさんが音頭を取ってビールを大ジョッキで一気飲みした。口上は、早く結婚した~いとか言っていたような気がするけれど、よく覚えていない。つまり俺も他人の話なんか全然聞いちゃいなかったという事だ。うぇ~い。

 

 そういや、そもそも、この店自体が何件目だっけ。

 

 帰港した翌日、昼までぐっすりと寝こけた後、三人そろって町に繰り出して約束通りショッピングと南国スイーツ食い倒れにいそしんだ。もちろん経費は全て俺持ち。やばかった。今日一日だけで俺の通帳残高が五分の一くらいぶっ飛んだ。

 

 提督という立場は結構な高給取りだけど、つまるところ、こういう出費も考慮しての給与設定なのかもしれない。部下の信頼を得るにしても先立つものが必要って訳だ。人の上に立つってのは金がかかるものなんだなぁ。

 

 で、夕飯ついでに居酒屋に入って、そのままアルコールも入れて、んで地元の人たちと意気投合して、二件目に誘われて、そこで別の地元民と知り合って、知り合いが知り合いを呼んで、誘われるままに三件目、四件目と梯子酒と相成った次第。

 

 色んな人たちと出会って、名刺交換もいっぱいした気がするけれど、どんな人たちが居たっけかな。

 

「ごしゅいんさま~、さざにゃみ、もうだめぽ(´Д⊂)」

 

 漣が酔いつぶれて、胡坐をかいた俺のひざ上にぽてんと倒れ込む。

 

「撫でて(*´ω`)」

 

「へいへい」

 

 片手で漣の頭を撫でながら、もう片手で自分の懐から名刺入れを取り出す。どれどれ、どんな人が居たかなっと。

 

 なになに? 漁業組合の組合長さんに、町の商工会会長、さらに市議会議員の名刺多数に加えて市長さんまでいた。それだけじゃなく、○○会社社長とか支店長とかいっぱい出てくる。というか、この(有)金剛会系霧島組代表取締役って名刺は何ですか。怖すぎるんですけお!?

 

 まずい。やばい。この名刺の人たちのこと全然覚えちゃいねえ。もしこの人たちに失礼なことしたり醜態さらしたりしてたら、俺の社会的人生はお終いだ。もっとも、記憶がない時点で手遅れかも知らんが。

 

 誰が誰やら顔さえ覚えていないのがいけない。もしかしたらまだこの店に居る人かもしれんのだ。例えば、つい今しがたまで隣で飲んでいたハゲのおっちゃんが市長さんもしくは議員さんという可能性だってある。だって議員バッチらしいの付けてたし。

 

 どうしよう、俺、あの人のハゲ頭ぺしぺし叩いちまったよ。「このハゲ―(笑)」とか言ってさ。おっちゃんも笑ってくれてたけど、絶対ダメなパターンだよコレ。

 

 駄目なパターンといえば、今、オオカミさんが黒髪ショートカットヘアにメガネをかけた女性客に絡んでるけど、あれ絶対やばい、止めなきゃやばい。

 

 だってその人、白スーツに赤いネクタイって格好してるもん。それに眼鏡の奥の眼光がただものじゃないもん。あれ修羅場を何度も潜り抜けてきた者の眼光だよ、絶対そうだよ、だからオオカミさんその人に馴れ馴れしく絡まないで、インテリヤ〇ザとか怒らせたら一番ヤバい人種なんだよ、俺の人生が社会的にどころか物理的に終わっちゃうよ!?

 

 あ、やばい。オオカミさんが姐御を無理やりカラオケに誘いやがった。デュエット強要とか、それってセクハラになるんだぞ。訴えられたらどうすんだ。

 

 ・・・って、あれ? 姐御も意外と乗り気? マイクチェックまでするあたり乗り気どころか本気じゃないか。

 

 というか、もしかしてあの二人って知り合い同士なの?

 

 あ、やっぱりそうなの。なんだ、心配して損したぁ。

 

 あ~よかった。安心したらまた飲みたくなってきた。よし飲もう。おい、漣、飲むぞ。って、駄目か。俺の膝枕でグースカ寝てやがる。

 

 たく、可愛い寝顔しやがって。ねえ社長さんもそう思うでしょう。え、市長さん? またまたぁ、そんなタコみたいな頭してよく言いますよ。タコ社長でしょ、うひゃひゃひゃ、飲みましょ飲みみゃしょかんぱ~~い・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ・・・・・・再び目覚めたとき、俺たちは公園に居た。穏やかな海を臨む小高い丘の上にあるベンチに、三人並んで腰かけていた。

 

 俺を中心に、右側にオオカミさんが俺にもたれかかりながら眠っている。俺の肩に彼女が頭を乗せているので、その寝顔が間近にあった。俺の鼻腔に彼女の香りが漂ってくる。

 

 うん、酒臭え。

 

 左側には漣が居た。居酒屋で酔いつぶれたときと同じく、俺の膝枕でくーくーと寝息を立てていた。

 

 俺は水平線に視線を巡らせる。ここは東向きなのだろう。空はうっすらと青みを帯びて星々の瞬きをその色の中に溶け込ませ、眼下に広がる海の果てと空の境目である水平線を浮かび上がらせていた。

 

 海は鏡のように穏やかだった。風が無いのだ。こんな時期に外でのんきに酔いつぶれていられたのも、そのおかげだろう。俺は腕時計を見る。もう夜明けも近い時刻だ。

 

 静かな朝だった。

 

 しばし寝起きのぼんやりとした頭のまま、徐々に明るくなっていく海を眺めていると、不意に、俺の懐で何かが小刻みに震えだした。

 

 震えていたのは、内ポケットにしまっていた携帯端末だった。音声着信だ。取り出して画面を確認する。そこに表示されていた着信相手の名前を見て、俺は軽い驚きを覚えた。

 

【海尾 守】

 

 兄貴だ。随分と久しぶりな相手だ。向こうから連絡を取ってくるなんて珍しい。

 

「もしもし、兄貴? 珍しいな、ていうか、こんな朝早くから何の用だ?」

 

『朝早く? 何を言っているんだ。もう夜じゃ・・・あ~、そうか、“そういう時間軸に居るお前”に繋がったのか』

 

「は? 何言ってんだ?」

 

『気にするな。それより確かお前、提督になったらしいな』

 

「おう、そうだよ。すげえだろ。大佐にまで昇進したぜ。カッコカリだけど」

 

『カッコカリ? なんだそれ、聞いたことないな。・・・いや、こうして繋がった以上、近いうちにこっちも“そうなる”のだろうな』

 

「さっきから何をぶつぶつ独り言を呟いているんだよ。気持ち悪いぞ。酔ってるのか」

 

『酔っているのはお前だろう。口振りでわかる。泥酔しているな。そっちは朝らしいが、つまり朝まで飲んでいたという事か。なんて奴だ。ちょっとは自重しろ』

 

「久しぶりに連絡してきたと思ったら、説教かよ。俺はてっきり提督への着任祝いだと思ったぜ。がっかりだ」

 

『着任祝いも理由の半分くらいはある』

 

「もう半分が説教か」

 

『アドバイスだよ。説教についてはオプションだ』

 

「やなオプションだな。まあいい。じゃあアドバスとやらを拝聴いたしましょう。よろしく、先輩」

 

『ドリル戦艦のことは気にするな』

 

「わかった・・・って、はぁっ!?」

 

 なんであの戦艦のことを知っているんだよ、と聞き返す前に、兄貴は続けた。

 

『あれは味方じゃないが、少なくとも敵でもない。俺のところではそうだった。だから、こうして繋がった以上、“お前のところもそうなる”はずだ』

 

「言っていることがさっぱりわからない。俺がまだ酔っているのか、それとも兄貴も酔っているのか?」

 

『よくわかったな。俺も実は晩酌しながら話しているところだ』

 

「おい」

 

『こっちも色々と遭ったんだ。その上、違う時間軸上にいるお前とコンタクトを取れとか言われて、素面じゃやっていられなくてな。でもまさか本当につながるとは思わなかった。・・・・・・なぁ、お前は本当に、あの活流なのか。酒に酔って聞こえている幻聴じゃないのか?』

 

「兄貴こそ、俺の幻聴じゃないのか。もう訳が分からない。頭が痛いよ。二日酔いだけが原因じゃない。この通話のせいだ。後でかけなおすから、もう切ってもいいか?」

 

『かけなおしても、それはもう別の俺だ。今の俺とは繋がらないだろう』

 

「昨日の自分は、明日の自分とは違う。なんだか哲学的だなぁ。・・・切るぞ」

 

『事態はメタ次元の領域に及びつつあることがこれで証明されてしまった訳だ。・・・いや、聞き流してくれていい。お終いにしよう。おやすみ、って、そっちは朝だったな』

 

「もうひと眠りするさ。じゃあな。白雪義姉さんにもよろしく言っておいてくれ」

 

『しらゆきねえさん・・・ああ、そうか、お前のところの俺はそうなのか。しかし、これだといったいどうなるんだ。つながった以上“そうなる”のか? それとも不確定要素が増えてしまうのか? まずいな、このままだと、またややこしいことに―――』

 

「おやすみ」

 

 言い捨てて、通話を切断する。いったい何だったのやら。首をひねりつつ俺は大あくびをかました。

 

 空はすっかり明るくなっていた。水兵線の一画が白く輝き、そこから太陽がゆっくりと姿を現し始める。

 

 暁の水平線を眺めながら、俺はまだぼんやりとしていた。両脇の二人も、まだ寝息を立てて眠っている。俺が耳元でこんなにも話しこんでいたというのに、神経が太いというかなんというか。

 

 手に握りしめていた携帯端末を仕舞おうとしたとき、俺は、ふとあることに気が付いた。

 

「・・・・・・っ!?」

 

 端末の電源が、落ちていた。充電切れだ。起動ボタンを押しても、ウンともスンとも言わない。

 

 そうだ、そうだった。俺はあることを思い出した。

 

 充電は、ずっと落ちていた。深夜、居酒屋で飲んでいた時から、ずっと。

 

(じゃあ、俺は何を使って、誰と通話していたんだ・・・!?)

 

 ぞっ、と背筋が寒くなった。

 

 と、そのとき、俺の両脇で突然、大きな音が鳴り響いた。

 

「うわっ!?」

 

「はにゃΣ(゚Д゚)」

 

「んにゃ!? んにゃー( ゚Д゚)」

 

 三人そろってベンチから飛び上がりかける。

 

 だが、何のことは無い。この音の正体は、二人が所有している携帯端末から鳴り響いたものだった。

 

「わ、びっくりした。何かと思ったら着信ですか」

 

「こんな朝早くから誰かしら。あら、ニャン淀だわ」

 

「私のもそうですね。同時通話みたいです。ご主人様のは?」

 

「電源が落ちている」

 

「そうでしたね」

 

 二人が通話を始める横で、俺は自分の端末を握り締めながら、記憶に残る兄貴との会話を思い出していた。

 

(ドリル戦艦のことは気にするな。・・・これしか言ってねえ)

 

 これのどこがアドバイスだよ。そう思っていた俺の耳に、ニャン淀の金切り声が響き渡った。

 

『皆さん、いったいどこにいるんですかぁぁぁ!!』

 

 キーンと耳鳴りがする程の音量だった。離れている俺でさえこれなのだから、耳元で叫ばれた漣とオオカミさん思わず端末を投げ出しかけていた。

 

「ニャン淀ちゃん、いったいなんなの(>_<)」

 

『なんなのじゃありませんよ。官舎の管理人さんから、朝になっても三人とも帰ってこないって連絡があって、心配していたんですからね。提督に至っては電話さえ繋がらないですし、まったくもう。・・・それで、どこにいるんですか』

 

「え~っと、公園(;^ω^)」

 

『まさか三人そろって野宿とかじゃないですよね』

 

「そのまさかかなぁ」

 

『海軍軍人ともあろう立場の人間が酔いつぶれて野宿とか何を考えているんですかぁぁ! 三人ともすぐに戻ってきなさい! お説教です!』

 

「わ、私はもう艦娘じゃなくて、ただの調理のお姉さんだし、見逃して・・・」

 

『駄目です。軍属とはいえ貴女も海軍の立派な一員です。海軍の品位とは何かという事をまとめて叩き込んであげるので、覚悟してください』

 

「「「げぇぇぇ」」」

 

 重なった俺たちの悲鳴が、青い南国の空の下で響き渡った。その頭上を海鳥たちが飛び交い、そのまま朝陽きらめく海上へと飛び去って行く。

 

 ここは南西諸島の一つにある、小さな鎮守府と、そこに属する艦娘艦隊。そこに着任早々に巻き起こった今回の戦いと、そして目覚め前の浅い夢にも似た兄との会話の本当の意味を俺が知るのは、もう少し、後の話である・・・・・・

 

 

 ついでに、飲み会で迷惑をかけた市長さんを始め関係各所に菓子折りを持って土下座しに行くことになると知るのも、もう少し後の話である・・・・・・

 

 

――了――




次回予告

 海原を眼下に見下ろし、機械仕掛けの鳥たちが群れを成して飛んでいく。

 基地航空隊・第二無人航空機戦隊。通称“二航戦”を率いる若き指揮官、多門丸 歩と、彼を支える航空母艦・飛竜。

 とはいえ彼は空に居て、彼女は海から見上げるばかり。飛竜の想いは届かずに、多門丸は今日も雛鳥たちを率いて空を征く。

 果たして、彼女の想いは、彼に追いつけるのか。

 第三章~飛龍の恋~「第十九話・AI殺し多門丸!」

多門「ちょっと待て、いきなり物騒なタイトルをつけるな。風評被害だ」

飛竜「え~、カッコいいのに」


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第三章~飛龍の恋~
第十九話・AI殺し多門丸!


簡単な設定集

飛龍   …今回の主役。空母艦娘。おっぱい大きい。

多門丸 歩…オリキャラ。無人機を鍛える鬼コーチ。

加来 留夫…オリキャラ。パイロット。妻子持ち。

ゼロ改  …飛龍の無人艦載機。ちっこくて軽い。

彩雲改  …無人機を管制する飛行機。でっかくて重い。

瑞雲   …瑞雲(ずいうん)は、愛知航空機が生産した日本海軍の多目的艦載電子戦闘機(スーパーマルチロールファイター)である。機体略番はE16A。連合国コードネームは“Paul”。日本海軍は十二試二座艦載偵察機において艦載偵察機と電子戦闘機の統合を図り、海上哨戒、早期警戒、対艦攻撃、さらに制空権を確保しつつ電子妨害に対抗できる能力を求めた。(計画要求審議の場では、無人機管制機との機種統合の可能性も論じられている)。航空母艦の量産が追い付かず航空兵力の増強が難しい海軍において、航空戦艦や航空巡洋艦搭載の偵察機によって劣勢を覆そうという構想により、期待された機種であったが、開発は難航し、瑞雲においてようやく統合されたのである。



 初夏。

 

 南西海域、南方警備艦隊担当区域。

 

 空中哨戒中の戦術管制偵察戦闘機・彩雲改が、当該海域に接近中の深海棲艦艦隊を探知。

 

 報告を受けた上級司令部は直ちに航空機による対艦攻撃を決定。

 

 命令を受けた彩雲改は、付近を航行中の航空母艦・飛龍に対し、航空兵力の派遣を要請した―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 航空母艦職種の艦娘たちの立ち位置は、他の艦娘たちと比べて少々特殊だ。

 

 先ず空母というのは単独での運用を想定されていない。彼女たちは洋上で航空機を発艦、着艦させることに全力を傾注した艦娘であるため、軍艦であるにもかかわらず、その武装は恐ろしく貧弱だ。

 

 例えば今、この広大な海原を征く正規空母・飛龍型航空母艦一番艦・飛龍は、全長230メートル、満載排水量22000トンにも達する巨艦であるが、その固定兵装はレーダー搭載型自動迎撃機銃が二基と、同じくレーダー搭載型小型対空ミサイルポッドが二基しかない。

 

 これではせいぜいわずか数機の対空目標をかろうじて防げる程度の武装だ。敵の水上目標や、潜水艦が相手だった場合、攻撃手段そのものを持っていなかった。

 

 しかし、それでも不都合は生じなかった。なぜなら、空母を守るのは自前の武器ではなく、共に行動する護衛艦隊の仕事だからだ。

 

 今、飛龍には第二十一駆逐隊に所属する駆逐艦三隻が、周囲を取り囲むように布陣して航行していた。

 

 飛龍の前方を先行するのは、二十一駆旗艦・霞(朝潮型十番艦、全長118メートル、満載排水量2600トン)。

 

 飛龍の右後方に朝霜(夕雲型十六番艦、全長120メートル、満載排水量2800トン)。

 

 そして左後方に初霜(初春型四番艦、全長110メートル、満載排水量1700トン)が位置している。

 

 飛龍は、二十一駆の三隻に索敵と防御を任せ、自身は搭載している艦載機の発艦に全神経を集中していた。

 

 全長250メートルの船体、そこの端から端まで拡がる飛行甲板に、唯一、まるで島のように聳え立つ艦橋(アイランド)内で、空母艦娘・飛龍は独り、静かに深呼吸を繰り返し、集中力を高めていた。

 

 艦は針路を風上に取り、向かい風をいっぱいに受けていた。その風は、艦橋に居る飛龍にも伝わっていた。船体とのリンクレベルは既に最大。彼女は全身で風を感じながら、飛行甲板上で艦載機を準備する自律型メンテナンスロボット、通称“妖精”たちへ意識を向ける。

 

 妖精たちは飛行甲板上で、二十四機もの艦載機・UF/A―00Rを搬出し、折り畳み式の主翼を展開させ、発艦位置へと並べていく。

 

 UF/A―00Rとは、Unmanned Fighter/Attacker‐00R(多用途無人戦闘機)の略称である。ナンバー00は試作機、量産機含め海軍無人機100番目の開発機であることによる。Rは改修型。軍内部での通称は「ゼロ改」。

 

 ゼロ改は、艦隊防空や対地/対艦攻撃、SEAD(敵対空火器制圧)、偵察など多様な任務に対応可能なマルチロール機であり、全長12メートル、主翼は前進翼、外反角のついた双垂直尾翼と水平尾翼。搭載エンジンは栄MarkⅩが一基、3ベアリング回転ノズル及び軸駆動式二重反転リフトファンによりSTOVL(短距離離陸垂直着陸)が可能である。

 

 飛行甲板に並ぶゼロ改は二つのグループに分けられていた。

 

 二十四機の内、九機は中距離対空ミサイル四発、短距離対空ミサイル四発を搭載した制空任務使用。

 

 残る十五機は対艦ミサイル四発、対空ミサイル二発を搭載した対艦攻撃任務使用となっている。

 

 先ずは制空任務使用のゼロ改から発艦準備にかかる。

 

 二機のゼロ改がそれぞれリニアカタパルトと接続、機体後方に遮蔽壁(ブラストデフレクター)がせり上がり、出力が高まっていくジェットエンジンから放出される排熱と気流を遮る。

 

 エンジン出力MAX。発艦方向進路クリア。

 

 飛龍はゼロ改に対し、発艦を許可。

 

 ゼロ改はアフターバーナー作動。リニアカタパルト作動。二秒弱で時速150ノット以上にまで加速され、ゼロ改は空中へと打ち出される。

 

 一番機の発艦から数秒も経たずに、隣のカタパルトで待機していた二番機も同じように射出され、発艦した。

 

 クリアになった二本のカタパルトレーンに、すかさず次のゼロ改が移動する。カタパルト接続、出力MAX、発艦方向進路クリア、発艦許可、射出。

 

 ひとつひとつの手順を確実に行いながら、艦載機は流れるように飛び立っていく。

 

 言葉にすると簡単なようだが、この間も飛行甲板上では百体を超える妖精たちが所狭しと動き回り、何十種類という役割、何百という作業を、遅滞なく正確にこなしていた。

 

 そしてこれらの膨大で複雑な作業を、艦娘・飛龍はサポートAIの助けを借りつつも、たった一人でモニターし、監督していた。リンクレベルを最大にし、艦載機の動きや妖精たちの作業を、自身の感覚にフィードバックさせることによって、だ。

 

 それで、いったいどうやって妖精たちの細かい作業を管理・制御するのか。その原理や技術を言葉で説明しきるのは難しい。

 

 だが飛龍自身が、艦載機を発艦させている間、何をイメージし、何をやっているのか、というのは説明可能だ。

 

 彼女は、艦橋内で一人、弓を構えて矢を放っていた。

 

 これは何かの比喩ではない。

 

 彼女は艦橋の中で、前方に向けて左手で和弓を構え、右手に持った矢を弦につがえ、それを頭上に掲げる“正面打ち起こし”からの、そこから弓を引く“引き分け”、左手で弓を前方に押し、右手は肘の力で後方へ引っ張り、力を体の中心で対象に分けるように引き分けていく。やがて、その引き分けの力が最大限に達した“会”を得て、矢が放たれる――

 

――全く同時に、飛行甲板ではゼロ改がリニアカタパルトから打ち出されていった。

 

 飛龍は矢を放ち終え残心を行うと、また新たな矢を弓にゆっくりとした動作でつがえなおす。それと連動して、飛行甲板では新たなゼロ改が発艦位置に着こうとしていた。

 

 ここまで書けば分かるだろう。

 

 つまり飛龍は、艦載機発艦の一連のシーケンスを、弓道の射法のイメージでとらえ、それを実践しているのだ。彼女のこの動きはサポートAIを通じてシステム言語に訳され、下位の各作業別制御AIに令され、妖精たちを制御していた。

 

 もっとも、飛龍は本物の弓と矢を討っている訳ではなく、これはあくまでヴァーチャルな立体映像によるものだが、高いリンクレベルによって彼女には本物同然の感覚が備わっていた。

 

 この“弓道イメージ”は、初代航空母艦艦娘であり、彼女たち航空母艦艦娘たちの嚮導艦でもある空母・鳳翔が編み出したものだった。

 

 いや、編み出したと言うより、たまたま鳳翔がプライベートで嗜んでいた弓道が、発艦をイメージする際のサポートAIとの相性が何故か良かったからに過ぎないのだが・・・。これも艦娘七不思議のひとつである。

 

 しかしだからと言って、弓を引けなければ発艦できないという訳でもない。

 

 というより、開発当初はこんなイメージ方法など想定もしていなかった。本来あるべき方法は、発艦手順マニュアルを口に出して朗読し、頭の中で具体的にイメージする、というものである。ちなみに、初期型軽空母・龍驤はこちらの方法を採用している。

 

 だがこの本来の方法――朗読方法には大きな短所があった。

 

 発艦マニュアルが国語辞典並みに分厚いのだ。

 

 その膨大な内容を一言一句読み上げていては、一機発艦するのに膨大な時間がかかってしまう。十数機の艦載機を発艦させようとすれば、十数時間ぶっ通しで読み上げ続けなければならない。もはや苦行である。

 

 ここまでくれば、それはもう短所ではなく、根本的な欠陥と言うべきであろう。

 

 だが、これは龍驤自身の創意工夫によって何とか解消された。

 

 何をしたかといえば、文言の省略、簡略、単純化、早口等々による朗読時間の超短縮化である。

 

「要はウチら艦娘自身が発艦手順をイメージできればええねん。分厚いマニュアルを馬鹿正直に読み上げる必要は無いっちゅうことや」

 

 とは龍驤の弁である。

 

 実に単純で常識的な道理だが、しかしその結果、龍驤が編み出した発艦方式は、鳳翔の弓道式に劣らないほど異様なものとなった。

 

 辞典並みのマニュアルを数分で読み上げるという荒業である。その極端な短縮化と早口は、他の人間にはもはや意味不明な呪文にしか聞こえなかった。

 

 しかも、さらにそこに、イメージの補助として彼女自身にしかわからぬ身振り手振りが加わることによって、龍驤式発艦イメージは、いつしか「龍驤流陰陽道式発艦術」と非公式に呼ばれるようになったのである。

 

 そして、それに応ずる形で、鳳翔が編み出した弓道方式は、彼女の竣工時の仮名を取って「竜飛流弓道式発艦術」と呼ばれるようにもなった。

 

 なお、なぜ「鳳翔流」で無いのかといえば、

 

「だって、竜飛流の方がカッコいいでしょ。他にもそう思う人、挙手!」

 

 空母艦娘が一堂に会した宴会の席で、酒に酔って悪ノリした飛龍の提案がまかり通ってしまったからに他ならない。

 

 師である鳳翔は顔を真っ赤にして「恥ずかしいからやめてください」と弱弱しく反対したが、三度の飯と、酒と、悪ふざけが大好きな弟子たちに押し切られたのが事の顛末である。

 

 閑話休題。

 

 飛龍が矢を放つと同時に、最後の二機が空高く舞い上がって行った。

 

 残心の構えを取る飛龍の脳裏に、対空レーダーのイメージが重なる。ゼロ改二十四機は飛龍の上空で編隊を組んでいた。

 

 全機、異常なし。

 

 飛龍は構えを解き、リンクレベルを落とす。

 

 彼女は無線で、空中哨戒中の彩雲改を呼び出した。

 

「イーグルアイ、ワイバーン、海鷲の発艦完了。以後、管制権をイーグルアイへ移行する。ユーハヴコントロール」

 

『イーグルアイ、ラジャー。アイハヴコントロール』

 

「多門丸、加来っち、グッドラック」

 

『任務中だ』戦術管制官・多門丸から返信。『余計なおしゃべりは控えるように。だがまあ・・・サンクス』

 

 その言葉に、別の男の声で含み笑いが重なった。

 

『おい多門丸、まるでツンデレだな。なあ、飛龍ちゃん』

 

 彩雲改のパイロット、加来だ。

 

「ねえ、今日は任務終わったらウチに寄ってかないの? お茶でも飲んでいかない?」

 

『飛龍ちゃんからのお誘いなら断れないな』

 

『断る』と多門丸。『フライトプランの変更はアクシデント発生時以外に認められない。・・・残念だが』

 

 多門丸が付け足した最後の言葉を聞き、飛龍は笑みを浮かべた。一見、取っ付き難いように見えて、本当は実に素直な男。それが多門丸 歩という男だった。

 

「了解。今日会えないのは私も残念だよ。でもアクシデントが起きることなく任務が終わることを祈ってる。じゃあね」

 

 交信終了。

 

 飛龍は艦橋からウィングに出て空を見上げた。彼らが乗る彩雲改目指して、無人機の編隊が飛んでいく。

 

 空に残る幾筋もの白い飛行機雲。

 

 その先に居るはずの彩雲改に向かって、飛龍は大きく手を振った。

 

 

 

 

 

 

 飛龍から離れること、約100キロメートル、上空2万メートルで、彩雲改がゼロ改の編隊を管制誘導する。

 

 彩雲改は、戦術電子偵察機・彩雲の再設計型である。

 

 “改”と付けられているが、素材の見直しから始まり、エンジン、レーダー、アビオニクスに至るまで変更されており、もはや“見た目がよく似ているだけの別物”と言うべきである。

 

 エンジンは超音速巡行と高機動性能を同時に満足させるために開発された誉MarkⅩⅩⅠを二発搭載。

 

 主翼形はクリップトデルタ、固定後退翼。ただしその翼断面形状はフライトコントロールコンピュータにより、飛行状態の変化と共に最適形状に変化し、低速から超音速域に至るまで安定した機動を実現している。この制御は通常、コンピュータによる自動制御だが、マニュアルモードに切り替えることにより、意図的に失速状態に持ち込むことも可能である。

 

 コクピットはタンデムタイプ。乗員は二名。前席がパイロット席、後席が無人機管制オペレーター=戦術管制官席である。

 

 レーダーは機体表面を覆うようにスマートスキン・アクティブレーダーが装備され、これにより360度全周をリアルタイムで捜索が可能。火器管制レーダーとも統合されているため、自機のどの方角に目標が居ても、機首の向きに関係なくミサイルロックオンが可能である。

 

 警戒レーダーの能力は専用の早期警戒機と比べても遜色なく、また複数の無人機や水上艦艇とマルチスタティックレーダーネットワークを構築することにより、ステルス性能の高い深海棲艦の探知能力が向上している。

 

 しかしこの彩雲改を最も特徴づけるものは、その機体に搭載されたスーパーコンピュータである。

 

 深海棲艦の強大なECM(電子妨害手段)に対抗しながら、さらに無人機を最大五十機まで同時管制可能という高性能AIこそが、この機体の最大の武器であった。

 

 たかが偵察機には過剰とも思える機動力と高攻撃力も、いざとなれば敵のECM圏内に無人機部隊と共に飛び込み、至近距離で管制するという任務の性格上、このAIを守るためのものである。

 

「目標探知」

 

 彩雲改の後席で、無人機管制オペレーターである戦術管制官・多門丸 歩が、警戒レーダーが多数の飛行目標を探知したことを確認した。

 

「目標は三十機、亜音速でまっすぐこちらに近づいてくる。深海棲艦隊の空母級から発艦した迎撃機だ」

 

 その多門丸が眺める複合ディスプレイ上に、次のようなメッセージが表示された。

 

【RECOMMEND INTERCEPT―A,B】

 

 彩雲改の戦術管制AIが、護衛戦闘機部隊、アルファチームの三機とブラボーチームの三機を、この接近中の敵に向かわせると進言しているのだ。

 

 多門丸はこの表示に、一瞬だけ考え込み、そして言った。

 

「敵艦隊にヲ級一隻と軽空母ヌ級二隻が居ることを確認しているのに、迎撃が三十機だけというのは少なすぎる。これは、こちらの対艦攻撃機部隊から護衛戦闘機を引き離すための囮だ。敵はまだ余力を残しているぞ。接近中の目標はブラボーチームのみで迎撃せよ。アルファ、チャーリーチームは引き続きズールーチームの護衛に当たれ」

 

 多門丸はインカムを通じてAIに命令を口頭で指示する。

 

 複合ディスプレイ上に了解を現す【ROGER】の表示。

 

【CARY OUT INTERCEPT―B】“ブラボーチームによる迎撃を実行する”

 

 彩雲改の戦術管制AIからゼロ改各機のAIに指令が下され、護衛戦闘機部隊の九機は三機ずつの三編隊に別れた。

 

 そのうち、ブラボーチームの三機が彩雲改AIから示された迎撃コースに従って上昇を開始。接近する敵編隊に対し、ミサイル攻撃を仕掛けるために有利な位置へと移動する。

 

 ブラボーチームはミサイル攻撃位置へ到着。敵三十機が射程距離に入り、すかさず中距離ミサイルを発射した。一機当たり四発、三機で計十二発のミサイルが敵編隊へと向って行く。

 

 多門丸が見守る複合ディスプレイ上に、ミサイル到達までの時間が表示される。

 

 三秒前、二、一・・・

 

【HIT-10 UNKNOWN-2 SURVIVE TARGET-18 CARY OUT CONTINUE ATTACK】“命中10、不明2、残機18、攻撃を続行する”

 

 ブラボーチーム三機はアフターバーナーを点火、編隊を組んだまま急加速し、敵編隊へと接近、短距離ミサイルの射程内に入ったところで全機ミサイル発射。

 

 全弾命中。敵機十八機中、十二機を撃墜する。

 

 ブラボーチームは速度を落とすことなくさらに接近。ガン射程内。二度に渡るミサイル攻撃で編隊が乱れた敵機の間へ、上方からパワーダイブ、高速で飛び込みざまに三機を撃墜。敵機は残り三機となる。

 

 ブラボーチームは降下で得た高速度で、編隊を維持したまま機首上げ二十度で4G旋回、残る敵機の後方に付く。

 

 彼我兵力差は一対一まで狭まったが、だからと言って、それぞれで一機ずつを相手にはしない。

 

 もはや連携の取れていない敵の、もっともはぐれた一機めがけ、ブラボーチームは三機がかりで攻撃を仕掛ける。

 

 B-1が敵機へ急接近しガン攻撃を加えている間、B-2、B-3が防護につき、攻撃中のB-1が他の敵機から狙われるのを防いでいた。

 

 もしB-1の後方に別の敵機が迫るようであれば、B-2かB-3がそれに対して攻撃を開始し、その間に狙われたB-1はすぐに回避行動に移り、敵機を振り切ると同時に、そのまま僚機の防護役へと役割を変えるのだ。

 

 この常に数的優位を保ちつつ、なめらかな連係プレーによって、敵機は数分と経たずに全滅した。

 

 この戦闘におけるキルレシオは1:10だった。この戦果に、しかし多門丸は何の感慨も抱かなかった。この程度のことは出来て当然だ、という認識である。

 

 ゼロ改の性能を過信している訳ではない。搭載しているAIの能力が高いのだ。空母・飛龍に搭載されているゼロ改部隊・第二航空戦隊に戦闘技能を教え込んだのは彼自身だった。

 

 単にプログラムを打ち込むのではなく、AIの学習機能を最大限に活かせるよう、無人機を実際に飛ばし、思いつく限りの様々な状況を想定し、実践させてきた。

 

 中には機体の限界に挑むような飛行や、実戦以上に厳しい条件での模擬戦闘など、AIに対し徹底的に高負荷をかけ続けるような訓練を化したため、軍内部ではいつしか、“鬼の二航戦”、“AI殺しの多門丸”などという異名さえ生まれてしまった。

 

 だが、その成果はまさしくこのとおりである。数ある無人機部隊の中でも、多門丸が率いる二航戦は、海軍の切り札でもある第一航空戦隊と並んで最精鋭部隊と称されていた。

 

 搭載ミサイルを全て撃ち尽くしたブラボーチームは反転し、彩雲改の護衛に付く。

 

 その間に、対艦攻撃部隊ズールーチームの十五機は、アルファ、チャーリーチームの六機の護衛を受けつつ、敵艦隊への接近を続けていた。

 

「そろそろ出てくるぞ。敵の迎撃部隊の本隊が居るとすれば海面スレスレを飛んで接近してくるはずだ。海面警戒を厳となせ」

 

【ROGER】

 

 その表示が出た直後、ゼロ改編隊の進行方向に、警戒レーダーが、敵の大群を探知した。

 

 その数、六十機。

 

 海面付近を、ゼロ改部隊に対して横切るように低空飛行している。

 

 多門丸の読み通りである。

 

 敵の迎撃部隊は深海棲艦特有のステルス能力とレーダーに探知され辛い低空飛行によって、ゼロ改部隊を側面から奇襲するべく移動中だったのだろう。

 

 しかし、彩雲改のアンチステルス能力――大出力パルスドップラーレーダーと、無人機のレーダーを統合して運用するマルチスタティックレーダーネットワーク――は、深海棲艦のステルス能力を凌駕していた。

 

 位置を晒された敵部隊に対し、アルファ、チャーリーチームが先制の中距離ミサイルを発射し、敵の半数近くを撃墜する。

 

 アルファ、チャーリーチームはそのまま格闘戦へと突入。ブラボーチームがやってみせたように、チームワークを発揮し、敵の連携を存分にかき乱しつつ、各個撃破していく。

 

 奇襲をかけようとして逆に奇襲をかけられた形となった敵部隊に、もはや対艦攻撃部隊を迎撃する余裕はなかった。

 

 そのためズールーチームは悠々と敵艦隊への攻撃開始地点へ向かうことが出来た。

 

 敵艦隊まで距離150キロ。

 

 間もなく対艦ミサイルの射程内に入るという時、彩雲改のディスプレイ上に【ECM】のサインが表示された。

 

 同時に、今までレーダー画面上にはっきりと映し出されていた敵艦隊の位置が、急に不鮮明になった。

 

 敵艦隊に居る重巡リ級から電子妨害を受け、レーダーが乱されているのだ。

 

【CARY OUT ECCM】“対電子妨害手段を実行する”

 

 彩雲改AIはすかさず敵の妨害を打ち破るべく電子戦を開始。同時にこちらからも敵に対し電子妨害を実行。

 

 高性能コンピュータの演算能力をフルに使用した目には見えない静かな戦いが、高速で繰り広げられる。

 

 その攻防の様子は人間には知覚できない。その勝敗の判断は、レーダー画面が正常に戻るかどうかぐらいでしか判断ができないのだ。

 

 しかし、ECCM開始から十秒経っても、レーダー画面は戻らなかった。

 

 敵のECMの方が強力なのだ。

 

 ズールーチームはもう残り十数秒でミサイル発射ポイントを通過するが、しかし、このまま対艦ミサイルを撃っても、その命中率は減少してしまう。

 

「攻撃中止。攻撃コースから反転離脱し、再攻撃に備えよ」

 

【ROGER】

 

 多門丸の命令に従い、ズールーチームは反転、敵艦隊から遠ざかる。

 

「さて、どうする?」と、加来が訊いてきた。「このまま後方でのんびり飛んでいてもリ級のECMは破れないぞ。距離を詰めて精度を上げるべきだ。彩雲改もズールーチームと一緒に敵艦隊に突入しようぜ」

 

「却下する。それはお前がやりたいだけだろう」

 

「いつもいつも無人機の戦いを高みの見物じゃあ、腕がなまるんだよ。俺はファイターパイロットなんだぜ。たまには俺にも見せ場をくれたっていいだろう。」

 

「お前の暇つぶしに付き合って、命を危険にさらすつもりは無い」

 

「じゃあ、どうするんだ?」

 

「こうなると思って予め増援を要請してある。それが間もなく到着する。――来た」

 

 レーダー上、不鮮明な敵艦隊の方向とは、また別の方向に、味方機二機の反応が現れた。

 

 電子戦支援機・瑞雲だ。南方警備艦隊所属の航空戦艦・日向の無人艦載機である。

 

 瑞雲は、遠距離に居る日向と電子ネットワークを構築しており、これにより戦艦の電子戦能力の効果範囲を遠距離まで拡大することが可能だった。

 

 しかも、戦艦の電子戦能力は、彩雲改のそれとは比較にならないほど強力である。

 

 彩雲改は、瑞雲経由で日向とも電子戦ネットワークを構築し、ECCMを実行。

 

 これにより、レーダー画面の表示が正常に戻った。重巡リ級のECMを打ち破ることに成功したのだ。

 

 ズールーチームは再反転、敵艦隊に向かって対艦ミサイルを発射した。一機当たり四発、計六十発ものミサイルが薄く白い尾を引きながら飛翔していく。ズールーチームはすぐさま反転、空域からの離脱を開始。

 

 ミサイルが敵艦隊に到達するまで、残り四分。複合ディスプレイに示されたカウントダウン表示を眺めながら、加来が面白くなさそうに呟いた。

 

「つまらん」

 

「気を抜くな。まだ敵を全滅できると決まった訳じゃない」

 

「そう願いたいもんだ。少しは生き残ってくれないと張り合いがない」

 

「滅多なことを言うな。縁起でもない」

 

「油断するなと言ったのは、お前だぜ」

 

 加来は、ため息を吐きながら、前席のレーダー画面に映る、別の目標に目を止めた。

 

「見ろよ、多門丸。またお隣さんの早期警戒機が出張ってきているぜ」

 

 彩雲改と敵艦隊との、ちょうど斜向かいになるような位置に、SIF(敵味方識別装置)の応答が無い機影が映っていた。

 

 相手が発している電波の解析結果から、それが隣国の早期警戒機であることが判明する。

 

 この周辺の海域は大陸からもそれなりに近いため、航続距離が長い航空機ならば無補給で来ることが出来る。

 

 そのため、この付近で深海棲艦との戦闘が発生した場合には、隣国から情報収集を目的とした航空機がよく飛来していた。

 

 多門丸もレーダーを確認する。

 

「一機だけだな。今回も護衛は見当たらない」

 

「いつも丸腰で戦闘空域にやってくるんだから、神経が太いというか、なんというか。・・・もっとも、連中の戦闘機じゃ航続距離が足りないから、護衛しようと思っても無理なんだろうが」

 

「空中給油機を出す余裕も無いのだろう」

 

「敵艦隊との距離もかなり近い。アンチステルス技術も未熟なんだな。だから光学センサーが使える範囲内にとどまる必要があるんだ。危険な任務だ。同じパイロットとして同情するぜ」

 

「他人に同情している暇は無いぞ。俺たちだって、戦果確認や状況判断は俺たち自身が最前線で行う必要がある。そのためにファイターパイロットのお前が居るんだ」

 

「嬉しいこと言ってくれるね。俺はまたてっきり、パイロットもAI制御で十分だ、とか言い出すんじゃないかと冷や冷やしてたぜ」

 

「戦場は有為転変だ。咄嗟の状況判断には人間が必要さ。・・・まだな」

 

「まだ、とかどういう意味だよ」

 

「AIの進化速度は加速度的に増している。いずれは・・・ここまでにしよう。対艦ミサイル到達五秒前だ。・・・三・・・二・・・一・・・弾着。さあ、お待ちかねの人間の出番だぞ」

 

「了解。これより敵艦隊に接近、目視にて敵の損害状況を確認する」

 

 彩雲改は敵艦隊に針路を向け、増速。護衛のブラボーチーム三機が追従する。その数十キロ先を、アルファ、チャーリー、ズールーチームが引き上げていく。

 

 加来と多門丸は、キャノピー越しに敵艦隊の居る方向へ視線を向けた。

 

 そこには空と海原が広がるばかりで、肉眼では敵艦隊の姿を捉えることは出来ないが、彼らの被るヘルメットのバイザーにTD(目標指示)の正方形の枠が表示され、そこに敵がいることを教えてくれた。

 

 深海棲艦はステルス能力が高いが、今、その姿は彩雲改のレーダーのみでハッキリと捉えることが出来ていた。

 

 つまり相手のステルス能力が低下しているのだ。それだけダメージが大きいという証でもある。加えて、敵艦隊は全て動きを止めていた。

 

 さらに接近。敵からの攻撃の兆候なし。TD内に、うっすらと黒い煙が立ち上っているのが見えてきた。光学センサーを最大望遠にし、状況を確認する。

 

「目標四隻を視認」と、多門丸。「重巡リ級一隻、空母ヲ級一隻、軽空母ヌ級二隻、いずれも炎上中。残るイ級二隻は確認できない」

 

 彩雲改は敵艦隊の周囲を回りながら、徐々にその旋回径を狭めていく。敵艦隊の様子が更にハッキリと視認できるようになった。

 

「重巡リ級は転倒。海面にうつぶせに倒れており、軽空母ヌ級も二隻とも大傾斜している。間もなく沈没すると思われる。更に周辺に大量の浮遊物を確認。イ級二隻は轟沈した可能性が高い。残るは・・・ヲ級だけか」

 

 正規空母ヲ級は、唯一、海上にまだ立っていた。しかし上半身を炎と煙に包み込まれ、こちらも間もなく倒れるのは目に見えていた。

 

 敵艦隊、全て沈黙。機上の多門丸が、そのような判断を下そうとした、その時。

 

 彩雲改のAIが、警報を発した。

 

【ENGAGE ENGAGE BREAK STARBOARD】“敵の攻撃を探知、右へ旋回せよ”

 

 AIの警告に、加来は反射的に反応した。

 

 サイドスティックを右に倒し、フットペダルを強く踏み込むと同時にスロットルレバーをMAX位置まで押し込む。彩雲改はアフターバーナーを点火し、跳ね飛ぶように右へ急旋回した。

 

 その位置を、炎上するヲ級から弾丸のように発艦した二機の艦載機が超音速で通過していった。

 

「な・・・何だ?」

 

 突発的な大G旋回に呻く多門丸に、加来が答えた。

 

「敵の攻撃。いや、艦載機だ。ヲ級から発艦したらしい。まるでミサイルだ。AIの警告が少しでも遅れていたら、体当たりされていた」

 

 加来の言葉に、多門丸はディスプレイ上に表示された機影を確認する。白色で球形の、その機体。これまでに見たことが無い形状だ。データベースにも該当する機体は無い。

 

「新型だ。しかしなんてスピードだ」海面で、ヲ級が大爆発し沈没する。「ヲ級の奥の手か。新型機は俺たちから急速に遠ざかっている。速度が速すぎて旋回できないのか? ――違う、この方向は、まさか」

 

「拙いのか。どこに向かっているんだ?」

 

「早期警戒機だ。隣国の連中へまっすぐに向かっている。しかも、連中は恐らくまだ気づいていない」

 

「多門丸、連中に回避せよと警告しろ。PAN、コードU」

 

「了解。ChinaAirForce JapanNavy PAN PAN、コードユニフォーム、ユニフォーム」

 

 隣国の早期警戒機が無線に応えた。

 

『JapanNavy  ChinaAirForce I'm behaving legitimately with international law』

 

 当方は、国際法に従い合法的に行動中。そんな答えを返してきた相手に、加来は声を荒げた。

 

「何を寝惚けたことを。早く逃げろ。墜とされるぞ!」

 

「駄目だ。もう間に合わない」

 

 レーダー画面上、敵機が早期警戒機に急接近する。

 

「推定ガンレンジまで残り五秒――AW(早期警戒機)ロスト!?」

 

「くそ、やられたか。だが、なんだ。ガン攻撃の射程じゃない」

 

「これは短距離ミサイルレンジだ。ついに深海棲艦も誘導弾搭載型が出てきたという事か。だがミサイルキャリアーの速度が半端じゃない。中距離ミサイルレンジでも一気に詰められる恐れがある。・・・目標旋回、こっちに来るぞ。戦闘空域から直ちに離脱しよう」

 

「了解。ミサイルで迎撃しつつ離脱する。イーグルアイ、エンゲージ」

 

 加来は敵機から逃げる方向へ針路を取り、最大出力で離脱を図る。しかし、敵の速度の方が圧倒的に早い。

 

 彩雲改の左後方から敵機が迫る。

 

 加来はサイドスティックの武装選択ボタンで中距離ミサイルを選択し、左後方を振り返った。ヘルメットバイザーにTDが二つ表示され、それがロックオンを示す赤色に変わる。

 

 彩雲改は中距離ミサイル六発を発射。彩雲改の進行方向に向かって飛び出したミサイルはすぐに急速上昇し、そのまま反転して左後方の敵機二機へと向かって行く。

 

 だが、しかし、

 

【HIT-0 UNKNOWN-6 SURVIVE TARGET-2】

 

 その表示に、加来は舌打ちする。

 

「一発も当たらなかったのか。ECMで攪乱されたか?」

 

「いや、おそらく撃ち落とされたんだ。アンチミサイル・ミサイルだ」

 

「これまでミサイルを持っていなかったくせに、いきなり技術レベルが上がり過ぎだろ」

 

「もともと電子戦能力は高かった。それなのに、これまで誘導弾が無かった方が不思議だったんだ。--目標さらに接近。ブラボーチームは迎撃に当たれ」

 

【ROGER】

 

 彩雲改を追いかけるように付いてきていたブラボーチーム三機が急旋回、敵の新型機へ立ち向かう。

 

 B-1、B-2、B-3は、彩雲改を追う敵新型二機に対し横側から接近、そのコースを直交するアタックラインに乗る。

 

 ブラボーチームのガン攻撃。

 

 だが敵機は急激に減速して、それを回避する。ほとんど空中停止だ。ブラボーチームは新型機の正面を横切ってしまう。

 

 新型機は失速状態から、再度加速して、今度はブラボーチームを追い始める。その加速度は、まさにミサイル同然だった。一秒弱で最大速力に達した新型機がブラボーチームに追いつき、ミサイルを発射。

 

 ブラボーチームはミサイルをかわすために、フレアとチャフを大量に放出しつつ、編隊を崩し、各機が回避起動を行う。10G旋回という有人機には不可能な急旋回により、ブラボー三機はミサイルの回避に成功する。

 

 しかし新型機二機が、尚もB-1、B-3の後方に食らいついていた。

 

 追われていないB-2がその隙に、B-3の援護につく。B-3を追う新型機の背後に回り込み、すかさずガン攻撃を実施。

 

 命中、したかに見えた次の瞬間、その新型機が再び空中停止した。

 

 機銃の射線軸上、しかも至近距離で空中停止したため、B-2は避けきれずに衝突、爆発し、木っ端みじんに砕け散った。

 

「B-2ロスト――バカな!?」多門丸は驚愕した。「相手がまだ生きているだと。空中衝突したのに、信じられない!」

 

 だが、事実だった。新型機はそれ自身が弾丸であるかのようB-2の爆発から飛び出し、平然と飛行を続けていた。

 

 しかし、B-2が撃墜された隙に、B-3がすかさず急旋回、その横方向からガン攻撃を行う。

 

 新型機は回避するどころか、B-3に対し体当たりするかのように向かってきた。20ミリ機関砲の集中猛射を浴びつつ、新型機がB-3に急接近する。

 

 B-3と空中衝突する寸前、敵の新型機はダメージに耐えられずに爆散した。

 

 B-3は、すぐにB-1の援護に向かう。

 

 B-1は残った新型機と凄まじい空戦機動を繰り広げていた。二匹の犬が互いの尾に喰らいつこうとするかのように、互いの後方を奪い合うドッグファイト。

 

 旋回能力はゼロ改の方が上回っていた。しかし、敵の新型機は常識外の急減速、急加速能力を持っている。B-1が背後を取ると、新型機はすかさず停止、急加速を繰り返し、B-1を前方へオーバーシュートさせる。

 

 B-1はそれに対し、同じように減速しようとはしなかった。

 

 空戦機動において速度(エネルギー)は命である。如何にそのエネルギーロスを減らしつつ相手の後方を取るかというのがその神髄なのだ。

 

 故に、この新型機の空戦機動は前代未聞だった。

 

 空中戦の最中に超音速から停止、さらに超音速加速するには莫大なエネルギーと超絶的な機体強度が必要だ。それこそ、空中衝突にさえ耐えられるほどの。

 

 この常識外の敵を相手に、B-2は為すすべもなく墜とされてしまった。しかし、その状況はB-3が間近で記録しており、その情報はリアルタイムで彩雲改や、B-1も含む全ての無人機に共有されていた。

 

 B-1はその情報を元にして、このわずかな時間のうちに敵機が減速するタイミングを解析していた。

 

 B-1は敵が急減速する兆候をつかむと、すかさず急上昇に転じた。敵との衝突を避けるとともに、速度エネルギーを位置エネルギーに変換して、オーバーシュートを防いだのだ。

 

 上昇したB-1の真下で、敵は再加速。

 

 B-1は機体をひねりながら機首を下方に向けパワーダイブ。敵の進行方向を予測したリードアタックを仕掛ける。位置エネルギーが再び速度エネルギーに変換され、敵機の大加速に振り切られることなく、その後方に食らいつく。

 

 敵機が最高速度に達する前にガン攻撃を実施。ゼロコンマ数秒の間に五十発近い弾丸が敵機に命中するが、しかし、目立ったダメージは与えられない。

 

 敵機はさらに加速し、B-1を一気に振り切ろうとする。しかし、その前方を塞ぐかのように、上方からB-3が急降下し、ガン攻撃を加えた。

 

 敵機はこれ以上のダメージを受けたくないのか、右へとブレイク(急旋回)し、B-3のガン攻撃を避ける。この旋回と引き換えに敵機の速度が落ちた。その隙にB-1が再度、ガン射程内まで距離を詰める。

 

 敵機は、左に切り返す。それを追ってB-1も左旋回。敵機、更に右へ旋回。二機は高速で左右に切り返すシザース運動に突入する。

 

 B-3はB-1の援護のためにその後方に位置するも、至近距離でもつれあうように機動する二機の間に割り込むことが出来ない。

 

 B-1と敵機は左右の急旋回に、上下運動も加えて、螺旋を描くような軌道のローリングシザースを開始。

 

 敵機はこの機動でB-1をオーバーシュートさせようとするが、B-1は敵機にぴったりと食らいつく。

 

 敵機は根負けしたのか、またもや急減速を実施。だがB-1はそのタイミングを完全に予測し、ほぼ同時に垂直上昇、敵機との水平方向の相対距離を維持したまま、縦方向へ速度エネルギーを位置エネルギーに変換する。

 

 敵機の急減速から1.3秒後、B-1のほぼ真下の位置から、急加速して飛び出してきた目標を後方レーダーが探知。すかさずそちらへ機首を振り向け、急降下態勢に移る。

 

 だが、B-1が急降下する先に、敵機の姿は無かった。B-1のガンカメラに映ったのは、遥か前方をまっすぐに進んでいくミサイルだけ。

 

 後方を援護するB-3から、B-1に【BREAK PORT】の警報が飛ぶ。

 

 敵機は、B-1の左後方に居た。

 

 B-1は左に急旋回し回避しようとしたが、その前に敵機が放ったミサイルがその機体に直撃し、撃墜された。

 

 最後に残ったB-3がすかさず敵機に襲い掛かる。敵機はブレイク、シザース、ローリングシザース。二機の軌道が絡み合う。

 

(なんという戦いだ・・・!?)

 

 戦闘空域から離脱しようとする彩雲改の機上で、この戦闘をモニターしていた多門丸は、戦慄した。

 

 これは人智を超えた戦いだ。

 

 有人機では不可能な大G下での空戦機動もそうだが、何よりも凄まじいのは、それだけの機動をこなしながら、同時に敵機の情報を余すことなく収集し、リアルタイムで分析し、それを即座に空戦機動に反映してみせる無人機たちの判断能力と、それさえも欺いて見せた敵機の奇抜な発想力だ。

 

 敵機はB-1に対して急減速を仕掛けた際、オーバーシュートが不可能と知るや、再加速の替わりにミサイルを放ち、囮にしたのだ。B-1はそれに引っかかってしまった。

 

 だがB-3はそれを記録している。そしてその情報を元に、AIをフル稼働させてこの強敵に対抗するための手段を編み出そうとしている筈だ。

 

 いや、B-3だけではない。この彩雲改のAIも、そして他の無人機のAIも同じようにフル稼働し、対抗手段を計算中だろう。

 

 計二十二機のAIによる高速並列演算。これがこの無人機部隊の最大の武器と言えた。

 

 その思考速度、思考過程は、もはや人間が追える次元ではない。AIたちがどのような判断を下し、どのような行動を取るのか。多門丸にはそれを予測することができず、もはや見守ることしかできなかった。

 

 そして、AIたちが下した決断の結果が、ついにその目の前に現れる。

 

 ドッグファイトに持ち込んだB-3だったが、すぐに敵機の急減速により前方へとオーバーシュートさせられてしまった。

 

 しかし、この時、B-3は、B-1がしてみせたように急上昇に転じるようなことはしなかった。

 

 むしろ降下態勢に入り、速力を上げて遠ざかろうとする。だがスピード勝負では敵機の方が性能は圧倒的に上だ。一目散に逃げようとするB-3の後方に敵機が迫る。

 

 敵機、ミサイル発射。

 

 B-3もやられる。多門丸がそう思った、次の瞬間――

 

 

 

――B-3は多門丸が想像もしなかった機動を見せた。

 

 

 

 B-3は機体を傾けることなく、右方向へ滑るように平行移動した。敵ミサイルはB-3の姿を見失い、そのまま脇を通り過ぎて行く。

 

 B-3は平行移動と同時に機首を左方向に向けていた。いわばコマのようにスピンしながら真後ろを向いたのだ。B-3はエンジンパワーをアイドルまで絞り、後進飛行。後方から迫る敵機をガンレティクルに捉える。

 

 B-3のガン攻撃。

 

 二十ミリ弾の高速集中猛射に、敵機自身の速度エネルギーが加わり、敵機の強固な装甲が撃ち砕かれた。

 

 B-3がオーバーシュートしてから僅か三~四秒ほどの出来事だった。

 

 敵機が炎上しながら墜落していく。B-3も失速状態に陥り、きりもみ状態で落下するも、すぐに機体を立て直して水平飛行に復帰した。

 

【TARGET KILL 200NM RANGE NON TARGET RECOMMEND BREAK ENGAGE】“目標撃破。周囲200海里以内に敵影なし。交戦終了を進言する”

 

「加来・・・今の機動を見たか」

 

「ああ、おそらくコブラの一種、フックかクルビットに近い機動だろう。だけどあれは曲芸用だ。実戦で使用する機動じゃない」

 

「俺は・・・コブラなんぞを教えた覚えはない」

 

「ゼロ改の機体性能なら簡単にやってのける曲芸だ。AIがやろうと思えばできるだろう。俺だって、この彩雲改でもやってみせる自信はある。乗っている俺たちがGに耐えられるかどうかは別問題だがな」

 

 やろうと思えば、できる。加来のその言葉は、パイロットらしい観点だと多門丸は思った。だが、多門丸が感じた戦慄は別の部分にあった。

 

 それは無人機が超絶機動を実戦で使用して見せたことではなく、人間が思いもつかなかった戦術をAIが編み出して見せたことにあった。それも、突然現れた新型機を相手にしている最中にだ。

 

 AIの判断能力と発想力は、もはや人間を超えているのかもしれない。そして、そんな能力をもったAIでなければ対抗できなかった深海棲艦の能力・・・・・・

 

 ・・・・・・そこまで考え、多門丸は自身の戦慄の本当の理由に気が付いた。

 

 このままでは、深海棲艦との戦いに人間が付いていけなくなるのではないだろうか。そんな予感が、彼の背筋を冷たくした。

 

 深海棲艦がこの先も進化し、それに対抗できるのがAIのみとなったとき、人間が戦う意味はあるのだろうか。いや、人間の存在価値とは・・・

 

(バカバカしい)

 

 多門丸はその考えを振り払った。論理が飛躍しすぎている。新型機の出現と、そして自分が育てた無人機が予想外の戦果を挙げたことで感情的になっているのだろう。と、彼は自分を戒めた。

 

 この戦いの意味を考えるのは、収集した情報を分析してからだ。

 

 そのためには先ず、B-3自身からデータを回収しなければならない。しかし陸上基地へ帰投する彩雲改と違い、B-3を含む無人機部隊は、航続距離の問題から、すべて飛龍に帰投することになっていた。

 

 情報はすぐにでも回収する必要があるが、機密性の高い重要な情報なので、空中で無線通信をするわけにはいかない。

 

「加来、フライトプランを変更しよう」

 

「もしかして、俺たちも飛龍ちゃんに着艦するのか」

 

「そうだ。情報の回収には、彩雲改とB-3を直接ケーブルで繋ぐ必要がある」

 

「こいつは良い言い訳ができたな。飛龍ちゃんも喜ぶだろう」

 

「寄り道がしたくて、こんなことを言っている訳じゃないんだぞ」

 

「わかってるよ」

 

 彩雲改は針路を空母・飛龍に取る。

 

 多門丸はキャノピーの外に視線を向けた。そこに、彩雲改とともに編隊を組んで飛行するB-3の姿があった・・・

 

 

 

 

 




次回予告

 人間の能力を超え始めたAIたちは脅威なのか。真面目にそのことを考え込む多門丸。

 人間の価値はAIには測れない、と人間の力を信じて疑わない加来。

 ぶっちゃけそんなことはどうでもいい飛龍。

 理屈だらけの男たちの会話に、女はひとり生欠伸をかみ殺す。

「第二十話・戦術評価(女子トーク)」

飛龍「ねえこれ、なんて戦闘妖精パロ? っていうか私主役なのに出番が少なすぎない?」
多門「それよりこの次回タイトルのカッコ書きはいったい何だ?」
加来「次回は艦娘中心の話ってことだろ。多分、おそらく、きっと」


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第二十話・戦術評価(女子トーク)(1)

 ゼロ改の空母への着艦は、垂直降下によって行われる。

 

 機体後方の三次元ジェットノズルが真下を向き、さらに機体中央部にあるリフトファンを作動させることによって空中停止が可能であり、これによって狭い滑走路、場合によっては滑走路の無い場所にも着艦が可能なのだ。

 

 ちなみに、垂直上昇もできないことは無い。

 

 だが、エンジンの推力が機体重量をわずかに上回る程度しかないので燃料や武器を満載した状態では機体を持ち上げることが出来ない。そのため戦闘出撃などでは長い滑走路を使って離陸するか、カタパルトによって射出する必要があった。

 

 尚、彩雲改は垂直着陸機能を持っていないので普通に離着艦をする必要がある。

 

 それはともかくとして、今、帰投針路についていた彩雲改と、それに率いられたゼロ改編隊の前に、目的地である飛龍と、それを取り巻く護衛艦隊の影が見えてきた。

 

 広大な海原に浮かぶ四隻の影は、肉眼では小さな小さな微かな点でしかない。多門丸はこの光景を目にするたび、海がどれほど広く、そして自分たちが小さな存在であるかを思い知らされる気がした。

 

 しかもこれから、あの小さな点でしかない飛龍へと着艦するのだ。

 

 しかし垂直着陸が出来ない彩雲改にとって着艦とは、時速300キロメートルものスピードで飛龍の飛行甲板に突っ込むという事に他ならない。

 

 飛龍の飛行甲板は250メートルもの長さがあるが、時速300キロメートルという速度ではたった三秒で行き過ぎてしまう距離でしかない。

 

「空母への着艦とは制御された墜落である」と訓練所で教官からよく聞かされた。海軍パイロットにとって着艦は必要不可欠な最低限の技能であるが、同時にあらゆる飛行技術の中でも最も難しい技能でもあった。

 

 多門丸は戦闘管制官=彩雲改の後部座席に座る無人機オペレーターであり、彩雲改のパイロットではないが、かといって着艦は他人事ではなかった。

 

 多門丸から飛龍への交信。

 

「ワイバーン、イーグルアイ。B-3が重要情報を抱えているため優先して着艦させる。だが三次元ノズルが故障しているので垂直着艦は無理だ。通常着艦でアプローチする。B-3 Request approach」

 

 彼が率いるゼロ改の内、最も重要な情報を内包するB-3が、あの戦闘機動――音速に近い速度でスピンし、そのまま後進飛行するという荒唐無稽な機動をしたために、垂直着陸に必要不可欠な三次元ノズルの可動部分が故障してしまったのだ。結果、B-3だけは通常着艦をせざるを得なかった。

 

 飛龍からの返信。

 

『イーグルアイ、ワイバーン。Landingdeck Clear. carry out assist approach』

 

「Roger」多門丸は答え、そして少し間をおいて、こう付け加えた。「B-3 manual approach」

 

 マニュアルアプローチ。すなわち多門丸による遠隔操作である。

 

 ゼロ改のAIは通常着艦も自律して行うことが可能だ。故障個所もAIは把握済みであり、それを考慮した着艦を行うだろうことは多門丸も承知している。が、万が一失敗した場合、その責任は当然ながら多門丸が負うことになる。

 

 そのため多門丸は、今回の着艦を彼自身が遠隔誘導で行うことにした。着艦が他人事ではないというのはこのことである。

 

 重要な情報を抱えた壊れかけの無人機が着艦するのをハラハラしながら見守るくらいなら、いっそ自分が操作した方が気が楽だ。そう考えての遠隔操作だったが、その一方で、自分は心のどこかでAIを信じられなくなっているのではないか、という疑いが頭をもたげていた。

 

 そのせいだろう、加来が冗談めかして、

 

「AI任せじゃ不安か。なら俺が代わりに着艦させてやろうか」

 

 こう言ったとき、多門丸は自分の気持ちを見透かされたような気になった。

 

「・・・断る」考えすぎだ。加来の言葉も、自分の気持ちも。「このゼロ改部隊は俺の部下だ。俺が責任をもって着艦させる。・・・お前よりも上手く降ろして見せるさ」

 

「お手並み拝見」

 

 多門丸は彩雲改のAIを通じて、B-3のフライトコントロールをマニュアルモードに切り替える。

 

 B-3のカメラと各センサーからデータが送信され、それが彩雲改のセントラルコンピュータで複合処理され、多門丸のヘルメットバイザーに合成画像として表示された。

 

 多門丸は上下左右を見渡し、B-3の視界に死角が生じていないことを確認し、後部座席のサイドスティックにある遠隔操縦スイッチを「ON」に切り替えた。

 

 彩雲改の後部座席にも前部座席と同じく操縦装置一式が揃っており、緊急時には後部座席からも操縦することが可能だった。しかし本来の目的は、無人機のマニュアルコントロール用である。

 

多門丸は後部座席のサイドスティックとスロットルレバー、足元のフットペダルを操作し、通常の操縦と同じ要領でB-3を飛龍への着艦針路へ向けた。

 

 B-3から送られてくる視界でも、飛龍はまだ点にしか見えない。しかし、白い航跡が尾のように後方へと延びているのが見えていた。その真後ろを5海里ほど離れた位置に駆逐艦・朝霜が追従し、同じように白い航跡を伸ばしている。

 

 多門丸はB-3を朝霜の後方に回り込ませ、飛龍と朝霜の航跡が直線上に見える針路に乗せた。

 

『Wind 350 degrees at 6 knots.』

 

 飛龍から風向きの情報と共に、誘導信号が送られてくる。

 

 B-3は飛龍からの誘導信号を受信し、高度と針路をバイザーの画面に合成表示する。誘導信号は、多門丸の視界には、飛龍の飛行甲板へと伸びる空中回廊として表示されていた。

 

 その空中回廊を滑り降りるように高度と速力を徐々に落としていく。進入角度及び速力適正。ギア-DAWN、アレスティングフック-DAWN、B-3は朝霜の直上を通過。

 

 小さな点でしかなかった飛龍の姿が急激に大きくなる。速力は150ノット以下、飛行甲板のセンターラインを中心軸線上に捉え続けながら艦尾僅か上側をめがけ進入する。

 

 機首上げ5度、後部ギアが甲板に接触し、アレスティングフックが飛行甲板に展張されたアレスティングワイヤーを捉えた。B-3の機体に急制動がかかり、上向いていた機首が落とされ、前部ギアが甲板に接地、100メートル進んだところで完全に停止した。

 

「着艦完了、全系統異常なし」

 

『多門丸、ナイスランディング』

 

 飛龍からの賞賛に、多門丸は、「当然だ」と無感動を装って答えた。だが内心では、やはり安堵感の方が大きかった。空母への着艦は、それほどまでに難しい。

 

「当然だ」加来が、多門丸の口調を真似て言った。「ゼロ改なんて彩雲改と比べたら紙飛行機さ。飛龍ちゃん、見ててよ。俺が本物の着艦てやつを見せてやるよ」

 

『お、加来っち、ビッグマウスだね』

 

「よっしゃ、行くぜ!」

 

「行くな」と、多門丸。「先に残りのゼロ改がを下ろすのが先だ。航続距離が長い彩雲改と違って、もう燃料だって余裕が無いんだ」

 

「おっと、そうだった。じゃあ、ちゃっちゃとやってくれ」

 

「まったく」

 

『B-3は格納庫に移動させたよ。Landingdeck Clear』

 

「Roger」

 

 多門丸は残るゼロ改部隊に着艦を指示。こちらは完全AI制御だ。

 

 五機のゼロ改が単縦列になって飛龍へと接近する。朝霜の上空を通過して近づいていくのは通常着艦と同じだが、速力はさらに遅くなっていた。

 

 五機は速度を落としながら飛龍の飛行甲板の中心ではなく、右舷側によって接近する。その頃には主翼では揚力を発生させることが出来なくなるくらい速力が落ちていたが、すでに三次元ノズルは真下を向いており、また機体中央の上下のハッチが解放され、内部のリフトファンが稼働、真下への推力を生み出し、これによりゼロ改はホバリング態勢となる。

 

 五機はまるで見えない棒でつながれているかのように、全く同じ動きで飛龍の脇で空中停止、そのまま横滑りで飛行甲板上空へ進入し、着艦した。

 

 着艦したゼロ改に、飛行甲板の隅で待機していた妖精たちが一斉に駆け寄っていく。牽引車を取り付け、飛行甲板の左脇へ移動させた頃には、もうすでに次の五機が空中待機していた。

 

 よどみない流れ作業により、ゼロ改部隊はたちまち全機着艦を終え、格納庫へと収容された。

 

 飛龍から着艦許可が出され、加来は「よおし」と気勢を上げた。

 

「EAGLE-EYE Request approach. 飛龍ちゃんに向かって突っ込むぜ」

 

『Landingdeck Clear.さあ、飛龍ママのところに帰っておいで』

 

「その胸元拡げて待っていな」

 

『せっかちな小鳥ちゃん、焦ってお尻にぶつかったら、めっ、だからね』

 

 加来のセクハラまがいのセリフに、ノリよく応じる飛龍の態度に、多門丸は複雑な気分になる。

 

(加来め。最前線で戦う艦娘と言えど、年頃の女性なんだぞ、もう少し気を遣え。それに、飛龍、君もそんな態度だから、加来も自重しないんだぞ)

 

 飛龍の開放的な性格は非常に好ましいが、もう少しセクシャルな部分も自覚してほしいものだ。

 

 と、多門丸が悶々としている間に、彩雲改は飛龍に接近していた。加来も軽口を止め、操縦に集中している。

 

 多門丸がB-3を着艦させたとき、加来はゼロ改を紙飛行機と揶揄したが、確かにこの彩雲改と比較すればそれも仕方のない話だ。

 

 彩雲改はゼロ改と比べれば全長で1.5倍、重量では二倍以上の差がある大型機なのだ。

 

 彩雲改は空母への着艦機能を持っているものの、本来ならそれは300メートル級、10万トン以上の通常型大型空母への着艦を想定して設計されたものだ。

 

艦娘型正規空母は有人機の通常着艦も想定されているが――有人機の着艦を想定していない、無人機専用の空母は「軽空母」に分類される――彩雲改ほどの大型機が着艦することはほとんどない。

 

 もちろん、できないことは無いが、大型空母と比べるとはるかに短く狭い飛行甲板への着艦の難易度は、小型であるゼロ改に比べはるかに高くなる。

 

 それに当たり前の話だが、無人機と違い、有人機での着艦失敗は人命にかかわる。

 

 これだけのプレッシャーを受けながら、しかし、加来は冷静に機体を操り、滑らかに飛行甲板へと進入する。

 

 タッチダウン。ギアが飛行甲板に接地した軽い振動の直後に、アレスティングワイヤーの拘束により急制動がかかり、前方への大G、身体がシートベルトに食い込む。

 

 着艦は無事成功。さすが大口をたたくだけあって文句のつけようのない着艦だった。唯一難点を上げるなら急制動時の衝撃くらいのものか。もっともこれは不可抗力だが。

 

 しかし、まるで交通事故、それも正面衝突並だな。幸いまだ車ではやったことは無いが。と、多門丸はこの衝撃を味わうたびにそう思い、同時に安全運転への心がけを新たにするのだった。

 

 彩雲改がエレベータに乗せられ、格納庫に搬入されたところで、二人は機体を降りた。

 

「二人ともおかえり~。ブリーフィングルームにお茶を用意してあるから、一休みしよ」

 

 ブリーフィングルームは格納庫のすぐ隣にある。位置的には船体中央部、ちょうど艦橋の真下に当たる。

 

 ブリーフィングルームの格納庫に面した側は大きなガラス窓になっており、そこから格納庫の様子を眺めることができた。

 

 彩雲改の隣にB-3が並べられ、それぞれの機体中央部下から太いケーブルが伸びて床に繋げられていた。

 

 このケーブルは飛龍のセントラルコンピュータとのコネクト用ケーブルだ。B-3が持つ電子情報の全てが、飛龍を介して彩雲改へとコピーされていた。

 

 当然、飛龍もB-3のデータを参照することが出来る。三人分のお茶を用意しながら、彼女が呟いた。

 

「すごい動きしたみたいだね~。後ろ向きに飛びながら敵機を撃墜したとか、ゼロ改ってそんな動きもできたんだ」

 

「本来、想定された飛び方じゃない」と多門丸。「世界のどの航空機でも、そんな後進機動を考慮して設計したものなんてないだろう。それを無理やりやったんだ。機体が空中分解を起こしてもおかしくは無かった」

 

「そうみたいだね。ちょうど今、メンテ妖精が翼の歪みゲージを確認中なんだけど、数値がものすごいことになってるよ」

 

「B-3は」と加来が口を挟んだ。「推力変更ノズルを備えているし、他にも高い失速回復能力を持っている。そういった機体ならコブラみたいな進行方向を維持したままの姿勢変化は難しいものじゃない。曲芸としちゃ数十年前に確立されてるし目新しいもんじゃないさ」

 

「曲芸としてなら、な。実戦で使える機動とは考えられていなかった」

 

「B-3が有用だと証明してみせたじゃないか」

 

「まあな。・・・しかし問題はむしろ、そこまでしなければ対抗できなかった敵の存在だ」

 

「・・・新型機の出現、だね」

 

 飛龍はお茶を二人に配りながら、B-3から抽出したデータの中から新型機に関するものを選び出し、多目的スクリーンに投影した。

 

 それはガンカメラが撮影した敵の機影だった。飛龍は当然として、機上の二人もその明確な姿を目にするのは初めてだ。

 

「わー、白くて、まん丸だね。なにこれ?」

 

「新型艦載機・・・だと思う」

 

 飛龍の素直な疑問に、多門丸は戸惑いつつ答えた。

 

 そこに映し出されていたのは飛龍の感想通り、白い球形の物体だった。

 

 様々な角度から撮られた画像が何枚も表示されるが、主翼や、推進機、武装等はどこにも見当たらなかった。

 

 加来が呆れたように声を漏らした。

 

「なんじゃこりゃ。どういう原理で飛んでいるのかさえ見当がつかないな。これまでの艦載機も航空力学的にデタラメもいいとこだったが、さらに訳の分からんもんが出てきやがった」

 

「これまでの低速で機動性を重視したものと違い、爆発的な加速力と高速機動性能を持っていた。ヲ級から発艦して真っ先に俺たちや早期警戒機を狙ったあたり、相手の中枢を狙うことを目的とした機体かもしれない。・・・あくまで推測だが」

 

「隣の警戒機、墜とされちゃったんだよね。かわいそうに」

 

 飛龍の言葉に、加来も面白くなさそうに言った。

 

「あいつら、深海棲艦の接近に最期まで気づいていなかった。アンチステルス技術が未熟な機体で最前線に放り出されているんだ。ひどい話だぜ」

 

「隣国の主目的は深海棲艦ではなく、我々海軍に対する偵察なのだろう。・・・色々とやりきれない話なのは同意する」

 

「私は、いち艦娘だから上層部のこととかよくわからないけどさ、こういう被害が出るたびに思うんだよね。戦争とか全部、無人機に任せられないのかなって」

 

「あ~、飛龍ちゃんもそう思っちゃう?」

 

「ファイターパイロットの加来っちには悪いと思うけどね」

 

「戦場にはまだ人間が必要だ」と多門丸。「AIは与えられた条件下で最適な行動を判断する能力には長けるが、自ら目的を考え出すようには出来ていない」

 

「でもさ、B-3はこれまで人間が思いつかなかった戦い方をしてみせたわけでしょ?」

 

「少なくとも“深海棲艦を倒せ”という目的は人間が与えたものだ。だからこそ、深海棲艦も俺たちや警戒機といった有人機を優先して狙ってきた。深海棲艦の敵はAIではなく、あくまで人間なんだ。この理由を解き明かさない限り、戦場を無人化しても根本的な解決にはならないだろう。むしろ事態が悪化することさえありえると、俺は思う」

 

「そうかなぁ。だって深海棲艦が人間を狙っているなんてことは数十年前から言われている事だよね。だから私たち艦娘みたいな省人化、無人化がずっと進められてきたわけでしょ。人間が狙われているなら、なおさら、戦場から遠ざかったほうが良くない?」

 

「戦場から遠ざかるということは、逃げるという事だ。逃げた分だけ敵に攻め込まれる」

 

「それを無人機が食い止めてくれるって」

 

「そうなればそれは深海棲艦と無人機やAIの戦いだ。人間が割り込む余地は無くなっていくだろう。人間が与えた目的を超効率的に遂行するのがAIだ。目的を生み出すことはできないが、目的遂行のためなら人間が思いつきもしない手段を生み出し、躊躇なくそれを使用する。深海棲艦も同じだ、人間の常識は通用しない。しかもどちらも急激に自己進化を遂げている。そんなもの同士がぶつかり合う戦場から人間が居なくなれば、いずれ人間は戦いそのものを理解できなくなるだろう。それが本当に人類の勝利といえるのか、どうか」

 

「えっと、うーんと、あのね、そういう人類の勝利とかは置いといて、とりあえずこのままじゃ命が危ないって、私は言いたいんだけど・・・」

 

「俺たちは軍人だ。命を懸ける覚悟はできている。それより日本語が変じゃないか?」

 

「変じゃない。軍人だからって、死んでもいいなんて考えちゃダメだよ。残された人は悲しむんだから。多門丸も、加来っちも、その辺のことをちゃんと考えてるの?」

 

 飛龍の言い分に、多門丸は話がズレてきたと感じる一方で、加来が「もちろん」と大きく頷いた。

 

「俺はいつだって生きて帰るつもりだぜ。コクピットに家族写真だって貼ってあるんだ。嫁と子供の顔を眺めているとな、どんな時だって生きて帰らなきゃいけないって気持ちになるんだ」

 

「いや、それは知ってる」と多門丸。「気持ちはわかるが、なんというか、映画やドラマでもよく見る展開になりそうで、少し不安にさせられるんだが」

 

 多門丸の言葉に、飛龍が「へえ」と意外そうに反応する。

 

「そういうジンクスとか気にしちゃうんだ?」

 

「こいつ、根は小心者なんだよ」と、加来。

 

「お前が怖いものなし過ぎるんだ。家族写真にしてもワザとやっているだろう」

 

「誰かさんのおかげで空の上は退屈なんでね。ま、今日ちょっと冷や冷やもんだったけど」

 

「冷やりで済んで良かった。退屈な方が良い。無用なスリルなぞ願い下げだ」

 

「へいへい」

 

「あ、加来っちの家族写真、見たいな。娘ちゃん、今年で四歳だっけ?」

 

「上が五歳、二番目が三歳、三人目はお腹の中」

 

「え、本当!? わ、わ、おめでとう! 何か月?」

 

「四か月。少しお腹が出てきた。服の上からじゃ目立たないけどな」

 

「写真に奥さんも写ってるよね」

 

「おう」

 

「わーい、見たい見たい」

 

「喜んでお見せしよう。子供たちの可愛さに悶え死ぬなよ」

 

「悶え死にたいっ!」

 

「いい覚悟だ。――多門丸、お前も悶え死ぬか?」

 

「遠慮する。先日、散々見せられたばかりだ」

 

「何度見たって良いんだぞ」

 

「そうそう。可愛いは正義だよ、多門丸」

 

「甘い正義だ。俺は渋いほうが好みだ。お茶のお代わりを淹れてくる」

 

 多門丸は急須を手に給湯室へ向かった。

 

 飛龍と加来はブリーフィングルームを出て、格納庫の彩雲改へと向かう。

 

「ほら」

 

 加来がコクピットから家族写真をはがし、飛龍に手渡す。

 

「奥さん相変わらず美人だね~。ああ、そして、もう、この子たち可愛い~。長女ちゃんも次女ちゃんも大きくなったね。女の子らしさがどんどんアップしてる感じがする」

 

「家に帰ったらパパ、パパって叫びながら飛びついてくるんだ。もうね、それだけで仕事の疲れが全部ぶっ飛ぶね」

 

「いいな、いいな、私もこんな可愛い娘たちに飛びつかれたい。抱っこして高い高いってしてあげたい。ねえねえ、三人目生まれるんでしょ。一人ぐらい分けてくれない?」

 

「絶対ヤダ」

 

「え~、ケチ」

 

「誰も嫁にやらんもんね。嫁も娘も全部、俺のもんだもんね」

 

「うわ、バカ親だ」

 

「親バカと言いなさい」

 

「三人目、男の子かもよ?」

 

「将来、嫁さんを連れてきてくれるかも知れないじゃん。そしたら娘がもう一人増える訳じゃん。つまり俺、幸せ者じゃん」

 

「やっぱりバカ親だ。いや、ダメ親だ」

 

「はっはっは、なんとでも言うがいい。羨ましいなら自分で産むしかないんだよ」

 

「加来っちが産んだ訳じゃないでしょ」

 

「ま、種仕込んだだけだな」

 

「う~ん、さっきからセクハラ発言だなぁ。私だからいいけど、他の相手だと気を付けた方が良いよ?」

 

「すまんすまん、善処します」

 

「でも確かに自分の子はいつか欲しいし、結婚に憧れているのも事実だけどね~」

 

 やっぱり先ずは相手だよね~。そう呟く飛龍の視線は、手元の写真ではなく、ブリーフィングルームに向けられていた。

 

 ガラス窓の向こうには、新しいお茶をすすりながら備え付けの雑誌に目を通す多門丸の姿があった。

 

「相手ねえ」加来も、飛龍の視線を追ってブリーフィングルームに目を向ける。「・・・脈はあると思うぞ?」

 

「本当に? ただの同僚止まりとかじゃない?」

 

「飛龍ちゃんの事をちゃんと女の子として意識しているのは確かだぜ。だって俺のセクハラ発言にいちいち反応してるからな」

 

「それ加来っちにハラハラしてるだけじゃないの?」

 

「飛龍ちゃんを気遣った反応だよ。ついでに嫉妬とか焦りも多少入ってるかな。平静ぶってるけど内心焦ってるのがわかるから面白いんだよ、あいつ」

 

「ねえ、加来っちてさ、もしかして多門丸をからかうために私にセクハラしてない?」

 

「あ、バレた?」

 

「――ってい!」

 

 ぺちん、と加来は飛龍に頭をはたかれた。

 

「ありがとうございます」

 

「そこはパワハラって訴えるところじゃないの?」

 

「可愛い子にはたかれるなら、むしろご褒美です」

 

「変態」

 

「いいね、もっと罵って」

 

「これ以上、変態を喜ばすのも癪だから、ヤダ。それより話の続き。多門丸が私のことをちゃんと異性として見てくれているってわかったのはちょっと嬉しい・・・いや、凄い嬉しいけど、でもそれを表に出さないのは、あれかな」

 

「どれかな」

 

「職場内恋愛に抵抗あるのかな?」

 

「別に規則で禁止されている訳で無し。むしろ少子高齢化がヤバすぎて、かえって推奨さえされているご時世だぜ。あいつは単に奥手なだけさ。異性に対するアプローチの仕方を知らないんだ。小心者の草食系だよ」

 

「草食系多門丸・・・」ぷっ、と飛龍は吹き出した。「なんか変な感じ。多門丸ってご飯もいっぱい食べるのにね。初めて一緒に食事したときその量にびっくりしたよ。私たち空母艦娘よりいっぱい食べる人なんて戦艦職種の艦娘以外で初めて見たもん」

 

「身体つきもラグビー選手みたいだしな」

 

「でも、ご飯食べてる時の多門丸って、幸せそうだよね。いつもは表情少なくて、あんまり感情を表に出さないけど。食べているときだけは笑顔になってる。・・・いつだったか陸上基地で整備班の人たちも集めてバーベキューしたことあったじゃない」

 

「ああ」

 

「あの時さ、私が焼いた肉をね、多門丸に食べてもらったの。その時の食べっぷりがさ、まるで赤城先輩そっくりで、ちょっと笑っちゃった。・・・心から美味しいって思ってくれて、それで幸せを感じてくれている。そういう感情が伝わってくるような、そんな食べ方。私、それを見て思ったんだ。こういう人と毎日一緒に、ご飯を食べることができたら、きっと楽しくて、美味しいだろうなぁって」

 

「美味しい?」

 

「うん、食べる人の笑顔も大事な調味料だよ。って、赤城先輩が言ってた」

 

「あいつの笑顔が調味料か。ははっ、そりゃ面白い」今度、このネタで多門丸をからかってやろうと思いつつ、「でも、飛龍ちゃんの言いたいことは俺もよくわかるよ。俺も家族と一緒に飯を食ってる時が一番美味しく感じる。・・・幸せだって思える」

 

「・・・うん、家族っていいよね」

 

 飛龍も頷き、そしてしばらく加来の家族写真を眺め続けた。

 

 そして、ぽつりとつぶやくような声で、言った。

 

「今日、墜とされた警戒機の搭乗員。・・・あの人たちにも、家族は居るんだよね」

 

「・・・ああ」

 

「加来っち」

 

「あん?」

 

「死んじゃ駄目だよ」

 

「ああ」

 

 加来は頷きながら、飛龍から差し出された家族写真を受け取った。

 

 

 

 

 

それから十数分後、データの彩雲改への送信が終わり、彩雲改が再び飛行甲板へと上げられた。

 

 加来と多門丸も飛行甲板へ出て、彩雲改の機体周辺を歩き回りながら飛行前の目視点検を行う。

 

「なあ多門丸」加来が主翼の下から、呼びかける。「お前、俺が飛龍ちゃんと話している間、しょっちゅうこっちを見ていただろ。俺はちゃんと気づいてたぞ」

 

「お前のバカ話につき合わされて彼女が迷惑していないか心配だっただけだ」

 

「その割に飛龍ちゃんと目が合いそうになると目を逸らしていたよな」

 

「た、たまたまだ」

 

 少し焦り声になった多門丸に、加来はくっくっ、と喉を鳴らして笑った。彼は主翼下から、多門丸の居る機首付近に出てきて、艦橋を指し示した。

 

「ほら多門丸、飛龍ちゃんがアイランドのウィングに見送りに出てきてくれているぜ。手を振っている。俺たちも振り返してやろうぜ、とびきりの笑顔でな」

 

「振り返すのはともかく、笑顔にこだわる理由はなんだ?」

 

「ケチケチせずにやってやれよ。お前の笑顔、美味しいらしいからな」

 

「は? なんだそれ」

 

 多門丸は首をひねりながらも、先に手を振りだした加来につられ手を振り返した。

 

 振りながら、少し考えて、顔に笑みを浮かべてみた。

 

 艦橋に居た飛龍がそれを見て、一瞬きょとんとした表情になり、振っていた手を止めたと思ったら、その場にしゃがみ込みでもしたか、見えなくなってしまった。

 

 これはどういうことか。無理やり浮かべた笑顔が気持ち悪くて、引かれでもしたのだろうか。

 

 笑顔から一転、表情をこわばらせた多門丸に、傍らの加来が大爆笑していた。

 

「加来・・・俺の笑顔はそんなにも変だったか?」

 

「いやいや、すまん。お前の顔に笑ったんじゃない。誤解だ。飛龍ちゃんの反応が可愛くて、ついな」

 

「可愛い? 今のが?」

 

 ドン引きした姿が可愛いとか、変な奴め。

 

 そう言ったら、今度は呆れた顔をされた。

 

「女心の分からんやつめ」

 

「さっきから何なんだ」

 

 多門丸の疑問に加来は答えようとせず、ヘルメットを装着して、コクピットへ向かってラダーを登って行った。

 

 多門丸も同じくラダーを登って後部座席に着く。

 

 プリフライトチェックが全て終了し、機体は発艦位置へと牽引され、リニアカタパルトにセットされた。

 

 二基の誉MarkⅩⅩⅠエンジンが咆哮を上げる。

 

 飛龍から発信許可のシグナル。加来はフルスロットル、アフターバーナー点火、同時にリニアカタパルトスタート。

 

 機体が急加速し、機上の二人に大Gをかけながら飛行甲板から打ち出された。

 

 青空に向かって彩雲改が急上昇していく。それを艦橋ウィングから見送る飛龍の頬は、赤く染まっていた。

 

「もう、多門丸ったら。急にあんな笑顔を見せるなんて、反則だよ。・・・ずるいよ」

 

 その呟きは、彩雲改のエンジン音と共に、風の中へと消えていった。

 

 

 

 



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第二十話・戦術評価(女子トーク)(2)

 多門丸と加来を乗せた彩雲改が、飛龍を飛び立ってから三日後。

 

 飛龍を含めた第一艦隊の面々は、十日間にわたる海上哨戒任務を終え、母港へと帰還した。

 

 鎮守府がある島を目前にした飛龍は、艦載機部隊を基地航空隊へ向けて全機発艦させ、格納庫を空にしてから、艦隊の最後に岸壁へと入港した。

 

 巨大な船体が転送装置によって虚空へと消え去り、我が身ひとつとなった飛龍が岸壁へと昇ると、そこに、これまで共に行動していた第二十一駆逐隊が待っていてくれていた。

 

「飛龍さん、おかえり」

 

 そう声をかけてくれたのは、二十一駆の旗艦、霞だ。

 

 霞は駆逐艦娘の常として幼い容姿をしていたが、きりりとした目つきと言動は、彼女の成熟した内面を現していた。

 

 その霞の隣には、同じく二十一駆の朝霜と初霜もいる。

 

 飛龍が「お待たせ、今回も護衛ありがとうね」と返しているところに、別方向からやってきた女性も声をかけてきた。

 

「これで、第一艦隊の総員が帰還したな。みんな、ご苦労だった」

 

 穏やかで静かな物言いの、その声の主は、第一艦隊の旗艦を務める艦娘、航空戦艦・日向だった。

 

 その傍らには、今回、日向の随伴艦として行動していた軽巡・五十鈴と、同じく軽巡・阿武隈の姿もあった。

 

 航空戦艦・日向を筆頭に、

 

 軽巡・五十鈴、阿武隈

 

 駆逐艦・霞、朝霜、初霜

 

 この六隻が、南方警備艦隊・第一艦隊の編成である。

 

 ちなみに第二艦隊は、

 

 航空戦艦・伊勢

 

 重巡・羽黒

 

 軽巡・球磨、那珂

 

 駆逐艦・叢雲、白雪、村雨

 

 この計七隻で編成されていた。

 

 第一よりも第二の方が一隻多いのは、第二に先任秘書艦・叢雲が含まれているからである。

 

 先任秘書艦はこの警備艦隊において提督に次ぐナンバー2という立場上、時には艦隊を抜けて司令部で提督と共に指揮を執ることも多い。そのための穴埋めとして一隻多く配属されていた。

 

 なお、飛龍は南方警備艦隊で唯一の正規空母という特殊な立場に居るので、任務に応じて第一か第二のどちらかに適宜組み込まれることになっていた。

 

 もっとも、第一と第二艦隊も、任務内容や、訓練スケジュール、そして船体の修理などの関係で、相互にメンバーを頻繁に入れ替えているので、艦隊同士での対抗意識や排他的な感情はほぼ無かった。そのため、飛龍としても艦隊メンバーとの間に壁を感じることもなく過ごしている。

 

 飛龍を加えた第一艦隊の七人は、帰還したことを報告するため、地下にある司令執務室へと赴いた。

 

「艦隊、帰還したぞ」

 

 日向の声に、部屋から、「あ、おかえり~」とあっけらかんとした返事が答えた。

 

 出迎えたのは、髪をポニーテールでまとめた、のほほんとした笑顔の女性、航空戦艦・伊勢だった。

 

「あれ? 伊勢さん、なんでここに居るの?」と、飛龍。

 

 第二艦隊の旗艦である彼女は、叢雲と同じく秘書艦資格を有している。

 

 他に白雪と日向も資格を持っており、平常の秘書艦業務はこの四人が交代しながらこなしていた。

 

 しかし今日は彼女の担当日ではないはずだ。だが、部屋には叢雲の姿どころか、提督である海尾の姿さえ見当たらなかった。

 

「提督と叢雲さんは、昨日から海軍総隊の司令本部に出張中だよ。あれ? 提督の予定表って、出港前にみんなに配ってなかったかな?」

 

「あ~、そういえばそうだったね」と、飛龍はぼんやりと思い出した。「ごめんね。伊勢さん。ちゃんと受け取っていたけど、適当に流し読んでた」

 

「そう? ならいいわ。別に急ぎの用事があるわけでもないんでしょ。第一艦隊も特に異状が無いんだったら、後は私から提督に報告しておくわよ」

 

「深海棲艦の新型艦載機に関して、改めて報告する必要ってあるかな?」

 

「それは基地航空隊が担当するって、提督から連絡があったわよ。それと、第一艦隊が帰還したら、一週間の休暇を許可するってさ」

 

 その言葉に、第一艦隊の面々は歓声を上げた。

 

「みんな、ゆっくり羽を伸ばしてきてね。あ、日向は悪いんだけど、報告資料をまとめるために手伝ってくれないかな」

 

「ああ、構わんよ。他のみんなはもう上陸すると良い。後は私たちでやっておく」

 

「ごめんね、日向さん、ありがとう」

 

「これも秘書艦の務めだ。気にするな」

 

 それなら、お言葉に甘えて遠慮なく、と日向を残して皆でガンルームへ移動した。

 

 ガンルームとは艦娘待機室のことである。

 

 本来は艦艇の士官室を指す言葉だが、艦娘は階級を持たないものの、取り扱う武器の性能とその重要性から、士官待遇の扱いを受けていた。そのため、彼女たちが普段の業務を行い、また日ごろ過ごす場所もまたガンルームと呼ばれていた。

 

 南方警備艦隊司令部のガンルームは、司令執務室と扉一枚を隔てて隣り合っており、またその扉も開けっ放しにしているのが常だった。

 

 司令部のある地下フロアにはこの二区画の他に指揮所と呼ばれる広い空間があり、これも二区画と隣接しているため、どの区画からでも自由に行き来できるようになっている。

 

 それはともかく、ガンルームに移動してみると、そこには先述の第二艦隊の面々が揃っていた。

 

 と言っても忙しそうにしている訳でもなく、ガンルーム中央の長机にお菓子を山盛りにしたボウルを置いて、それをみんなで摘みながら世間話に興じていた。

 

「お、第一艦隊のお帰りだクマ。お菓子いっぱい貰ってきたから、好きに食うクマ」

 

「凄いじゃん、これ。誰からもらったの?」

 

「那珂が先日、商店街でミニライブやったときにお土産で貰ってきたクマ」

 

「へぇ、そんなことやってたんだ。あ、塩ちんすこう見っけ。これ好きなんだ。那珂ちゃん、ありがとう。いただきま~す……って、肝心の那珂ちゃんが見当たらないけど?」

 

「今日はローカルラジオ局で収録だクマ。んでもって、明日は老人ホームのカラオケ教室に特別講師として参加だそうだクマ」

 

「は~、忙しそうだねぇ。流石は海軍公式アイドル。それでいて訓練も出撃もきっちりやっているんでしょ。凄くない?」

 

「アイドルはトイレ行かない、とか言って本当に人前ではトイレ行かない奴クマ。気合入っているクマ」

 

 球磨の言葉に、その場に居たみんながウンウンと頷いた。

 

「ある種の超人ですよね~」と、村雨がお菓子をつまみながら言った。「先月、出港から帰ってきた直後にライブがあったじゃないですか。あれも凄かったですよ」

 

「ああ、あったクマね。第二艦隊で一週間ずっと訓練やって入港した直後だったから、みんなヘトヘトだったクマ」

 

「そうそう、でも那珂さん、そのまますぐにライブ会場に直行して、三時間の全力ライブやったんですよ。歌いっぱなしの踊りっぱなし。もちろん笑顔で、ですよ。観てるこっちの方が先にバテちゃいました」

 

「あれは流石だよねぇ」と飛龍は感心しつつ、「ところで村雨ちゃん、まるで観た来たように話すけど、その場にいたの?」

 

「あ、えっと……それは」

 

 そう、この時、訓練の無かった飛龍と第一艦隊はそのライブを観に行っていた。この島の内外から集まった大勢のファンの熱気と、それに全力のパフォーマンスで応えた那珂の底なしの体力に舌を巻いたものだが。

 

 しかし、村雨は一緒に行動していなかったはずだ。

 

「確かその日、別の用事があるとか言って、早々に外出してなかったっけ?」

 

「あ、あうあう…」

 

 両手の指の先をツンツンと突き合わせながら目を泳がせる村雨。

 

 これは何かあるな、と全員の目が鋭くなる中、白雪がニコニコと笑顔を浮かべながら、言った。

 

「村雨ちゃん、デートだったのよね」

 

「ちょ、白雪さん、何で知って――ああ!?」

 

 村雨は慌てて口を抑えたがもう遅い。

 

「コイツ、男とライブ行ってやがったクマ!」

 

 球磨の言葉と同時に、みんなが一斉に村雨を取り囲んだ。

 

 なかでも真っ先に村雨に詰め寄ったのは、重巡の羽黒だった。

 

「あ、あの、村雨さん! で、デートのお相手は、どのような方でしょうか! やっぱり、素敵な殿方、なのでしょうか!?」

 

 一見、お淑やかな大和撫子のような風貌の彼女だが、他の誰よりも好奇心に目を輝かせながら迫ってきたその気迫に、村雨は若干、引き気味になった。

 

「す、素敵っていうか、むしろ、ちゃらんぽらんな奴だし……」

 

「つまり、当世風にいうチャラ男さま、でしょうか」

 

「当世風チャラ男さま……」村雨の顔が引きつる。「……っていうか羽黒さん、普段は大人しいのに、こういう話題にはグイグイくるんですね」

 

「そ、それは、やっぱり、今後の参考に、です、はい。……で、そのチャラ男さまとはどのようなご関係ですか」

 

「えっと、その、友達? みたいな?」

 

「友達。つまり、ボーイフレンドですね!」

 

「そこは直訳しちゃうんですか!? いや、間違ってないけどさ!?」

 

「間違ってないらしいクマ。やっぱり彼氏とデートだったクマ!」

 

「ちょ、球磨さん、追撃止めて下さいよぉ」

 

 村雨は後ずさりして逃げ出そうとしたが、飛龍はさっとその背後に回り込み、退路を塞いだ。

 

「村雨ちゃぁん、敵前逃亡は重罪だよ~」

 

「うぁあん、飛龍さんもイジワルだぁ」

 

「ほら、ちゃっちゃと白状して、楽になろうよ」

 

 村雨の背中を押して、にやにや笑いの輪の中へ押し戻す。

 

「はいはい、わかりましたよ。話しますよ」

 

「諦めが良くて結構。で、彼氏はどこの誰?」

 

「ただの友達ですってば。……海兵隊の青水2等兵曹です」

 

「青水?」

 

 そんな人が居たかな、と首をひねった飛龍に、

 

「青水って、ほら、あいつよ」と、軽巡・五十鈴が言った。「いつも正門で守衛をしている男たちの一人よ。若くて、背の高い男」

 

「ああ、はいはい。いつも気さくに挨拶してくれる気さくなお兄さん。へえ、あの人、海兵隊所属だったの?」

 

 飛龍の疑問に、村雨が「そうですよ」と頷いた。

 

「陸上施設の警備も、海兵隊の任務なんだって。あまり目にする機会はないけれど、定期的に戦闘訓練もやってるんですよ」

 

「ふうん、正門でのんびり立ってるだけじゃないんだ」

 

「全然のんびりなんかしてないですよ! ああ見えて常に周囲を警戒してるし、基地内の見回りだって、かなりの体力仕事なんだから!」

 

「そ、そうだよね。警備も大変な任務だよね。ご、ごめん」

 

「そう、大変なんですよ。以前、初霜ちゃんが狙われたこともあったしね。あれ以来、基地内だけじゃなく、島全体も見回って、私たち艦娘を守ってくれてるんですよ」

 

「へえ~。でもさ、町を巡回している姿なんて、私は見たことないけどなぁ」

 

「ありますよ」

 

「ん?」

 

 飛龍の疑問に答えてくれたのは、今話題に上った当人でもある初霜だった。

 

「初霜ちゃん、町中で海兵隊の人たちを見たことあるの?」

 

「ええ、私たち二十一駆は休日によくトレーニングをしているんですけど、ジョギング中に、同じように私服でジョギングされている海兵隊員をよくお見かけしますね」

 

「はじめは偶然かと思ったんだけどな」と、同じく二十一駆の朝霜。「アタイたちとトレーニングの時間や、ジョギングのルートがたまたま重なっているだけかと思ったけど、今考えると、あれはワザとそうしてんだな。プライベートのフリした覆面パトロールだぜ、あれはよ」

 

「トレーニングだけじゃないわね」と、霞も口を開いた。「私たちの行きつけのスーパーでもよく見かけるわよ。普通に買い物をしているようにも見えるけれど、視線が商品よりも客の動きにばかり向けられていたから、妙だなとは思っていたのよ」

 

 霞の言葉に、初霜が頷いた。

 

「半額タイムセールにも興味が無さそうだったわ」

 

「でも試食には手を出してたけどな」と朝霜。

 

「そういえばそうだったわ」霞が嫌なことを思い出したというように、眉をひそめた。「青水2曹だっけ、村雨の彼氏とアンタとで試食の取り合いになっていたわね。あれは恥ずかしかったわ」

 

「だって、特製マンゴープリンの試食だぜ。最後の一個を譲れるわけが無いだろ?」

 

「買えばいいでしょ、買えば! 艦娘と海兵隊員が揃って試食にがっつくんじゃないわよ、みっともないったら!」

 

「マンゴープリンが好きなら私が作るわよ」と初霜。

 

「おお、ありがたい。初霜の料理の腕は絶品だからな」

 

「ああ、もう初霜ってば、すぐに朝霜を甘やかすんだから。これじゃ朝霜が調子に乗る一方じゃない!」

 

「なにカッカしてんだよ、霞。もしかしてアノ日か?」

 

「うるさいッ、デリカシー欠如のセクハラオヤジか、アンタは!?」

 

「ちゃんと霞の分も作るわよ?」

 

「プリンの問題じゃないったら! ああ、もうバカばっかり!」

 

 二十一駆は仲が良いなぁ、と思いつつ、すっかり主題から外れた彼女達から目を離し、飛龍は村雨に向き直った。

 

 村雨は村雨で、額に指をあてて顔をしかめていた。

 

「プリンの取り合いとか、あのバカは何をやってるのよぉ……」

 

「それって、やっぱり彼氏さん?」

 

「うん、そう。珍しくプリンなんか買ってきたから理由を聞いてみたら、試食が美味しかったからって言ってたし」

 

「彼氏って認めたクマ」

 

「わ、違う違う。今のナシナシ」

 

 強硬に否定する村雨に、じゃあいったいどんな関係なの、と聞くと、あくまで友達だと言い張る。

 

「強情だなぁ。もうすっぱり諦めて認めちゃえばいいじゃん」

 

「何ですぐにそっちの方向に結び付けたがるんですか、もう」

 

「世の中に何の楽しみなかれども、他人の恋バナこれが楽しみ。どんな茶菓子よりもこっちの方が美味しいに決まってるじゃん」

 

「私は茶菓子じゃありません」

 

「ンン~、ねえ、村雨チャン」と、妙に甲高い声で阿武隈が問いかけた。「村雨チャンはフレンディーな気持ちかも知れないけど、彼はラヴィーかも知れないよ?」

 

「ラヴィーって、阿武隈さんそんなキャラでしたっけ? いや、っていうか、あいつだって私のこと、そんな風に思ってませんって」

 

「でも、下心なしで村雨チャンみたいな子を誘うとは思えないんだけどなぁ」

 

「それどういう意味ですか!?」

 

 これは村雨が男をムラムラさせる娘という意味なのか。それとも男から下心を取ったら何も残らないという阿武隈なりの男性観なのか。

 

 しかし当の阿武隈は毒の無い笑顔でニッコリ、そしてあっけらかんと、こう言い放った。

 

「だって、村雨チャンはカワイイから♪」

 

 真正面からそう言われては、村雨も赤面するしかなかった。

 

「そ、そうですよ」と、羽黒も両こぶしを胸の前で握り締めながら同意した。「村雨さん、可愛いですから、殿方も絶対その気になります。ならなくても、なります!」

 

「その気もないのに、なられても困るよ!?」

 

 阿武隈と同じく悪意はない……筈だが、言い方に問題がある。とは、聞いている飛龍だけではなく全員が思っていることだが、面白いので黙っていた。

 

 と思ったら、五十鈴が口を挟んだ。

 

「そうよね、あんたって、男をそそる身体してるし」

 

「五十鈴さんっ、それ明らかに悪意しかなくないですか!?」

 

「なくない、なくない。私は褒めてあげてんのよ。感謝しなさい」

 

「にやにや笑いながら言われても素直に喜べませんよぉ。……っていうかぁ、そそる身体っていうなら、五十鈴さんこそ、そうじゃないですか。私よりよっぽど立派なものを備えておいでですし」

 

 やられっぱなしも癪に障るとばかりに、村雨はそう言ってぶしつけな視線を五十鈴の胸に向けた。

 

 確かに、五十鈴のスタイルは抜群に良い。特に大きさも形状も申し分のない胸部装甲は、男たちの視線を引き付けずには置かないだろう。

 

 しかし五十鈴は、村雨の挑発的な言動に、たじろぐどころか却って胸を張ってみせた。

 

「あら、五十鈴が一番だって言いたいの? 普通に当たり前だけど、いいんじゃない」

 

「うわぁん、そんなに堂々とされると却って悔しいよぉ」

 

 反撃したつもりで返り討ちになった村雨が涙目で周囲を見渡し始めた。

 

 これは救いを求めているのかな、と思っていた飛龍と、村雨の目がばっちり合う。

 

(おっと、残念だけど村雨ちゃん、今の私はあなたの恋バナをほじくり返す敵なのよ)

 

 という訳でもっとからかってあげよう。と思ったところで、村雨が言った。

 

「そうだ、飛龍さんだって今回の出撃中に、彼氏とデートしてたって話じゃないですかぁ!」

 

「はぇ!?」

 

 しまった。あの視線は救援要請ではなく、自らの替わりになるスケープゴートを探すためのモノだったのか。

 

 そうとも知らず後方から余裕かましてロングレンジ攻撃をしようとしていた矢先に奇襲攻撃を受けてしまったようである。

 

 しかしデートとか、何を言っているんだコイツは。

 

「私、知っているんですからね。基地航空隊のパイロットの多門丸さん! 任務終了後にわざわざ飛龍さんに会うために着艦したらしいじゃないですか!」

 

「あれも任務の都合だよ! っていうか何で知ってんのさ!?」

 

「作戦任務中の仲間の行動ぐらい、把握してます!」

 

 ええい、余計なことを。

 

 しかし毎日の定時報告は電報で送っているので、同じ艦娘なら見ようと思えば簡単に見ることが出来るのは確かだ。ほぼ決まり切った様式で定型化されているので、そこまで気にして読む者もそうそう居ないが。

 

 意外なところで真面目だな、この子。と飛龍が思ったところに、球磨の素っ頓狂な声。

 

「お前、男に乗っかられたクマか!」

 

「球磨ちゃん、何言ってるの!?」

 

 その誤解を招きかねない発言はワザとやっているのか。

 

 球磨の言葉に、すぐに反応したのはやはり羽黒だった。

 

「ひ、飛龍さん。任務中にそんな破廉恥なことを……」

 

「あーもー、羽黒ちゃんが訳わかんない誤解しちゃったよ。破廉恥もなにも、本当に任務の都合だって。無人機から早急にデータを移す必要があったから、着艦して私の格納庫で作業をしただけ。ついでに訂正しておくけれど、多門丸はパイロットじゃなくて戦術管制官だよ」

 

「でも、片想いの相手なんでしょ?」と、村雨。

 

 からかいの標的を自分から逸らそうと必死で食い下がっている。

 

 ふふん、村雨ちゃんも若いねぇ~。と飛龍は謎の余裕をもって「そうだよぉ」とあっさり全肯定してみせた。

 

「う~、あっさり認められても面白くなぁい」

 

「自分の気持ちに素直になりなよ、村雨ちゃん」

 

「私のことはもういいんです。それより飛龍さんですよ、飛龍さん」

 

「はいはい」

 

「せっかく好きな人が訪ねてくれたのに、アプローチの一つもしないで帰すなんて、もったいないでしょ」

 

「他人の恋バナだと積極的になるね、村雨ちゃん」他人のことを言えた立場ではないが。「アプローチしてない訳じゃないよ。まあ今回はやらなかったけどさ、前からデートに誘ったりもしているし。でも多門丸ってば、いつも親友の加来っち夫婦も呼んでダブルデートにしちゃうんだけどさ」

 

――加来っちって誰だよ? と、朝霜がヒソヒソと訊く。

 

――パイロットよ。と、霞。

 

――パイロットは多門丸じゃねーの?

 

――バカ、戦術管制官だって言ってたでしょ。

 

――どう違うんだよ? どっちも飛んでんじゃん。

 

――あんたにとっては飛んでりゃみんなパイロットか!

 

――二人とも、本題と関係ないから黙ってましょう。と、初霜の声で静かになる二十一駆。

 

「多門丸サンて、シャイなんだね」と、阿武隈。

 

「シャイなだけならいいけどね」と五十鈴。「二人きりにさせてくれないなんて、それって嫌われているんじゃないの?」

 

「うっ!?」

 

 五十鈴の容赦ない指摘が、飛龍の心に急降下爆撃のように突き刺さったが、深呼吸を行ってダメージコントロールに努めた。

 

「ま、まあその可能性もいつも考えているよ。だから最近は逆に加来っちに話を通してもらって、あえてダブルデートに持ち込んでもらってるしさ。……多門丸はデートとさえ思ってないかも知れないけど」

 

 自分で付け足した一言に、自分でダメージを受けて声が尻すぼみになった。ダメコンで被害は最小限で済んだものの、痛いものは痛いのだ。ぐすん。

 

 軽く落ち込んだ飛龍だったが、白雪が「大丈夫よ」と優しく微笑んでくれた。

 

「たとえダブルデートでも、彼から断られたことはないんでしょう? だったらむしろ、彼から女性として意識されているゆえに二人きりになれないのだと思うわ」

 

「そうだと良いんですけど」

 

「きっと、そうよ」

 

「それ、白雪さんの男性経験からですか?」

 

「ただの女の勘、よ」

 

 暗に司令である海尾との仲を勘ぐるような言葉を投げかけてみたが、白雪は微笑みを崩すことなくさらっと受け流して見せた。

 

 白雪の見た目は飛龍よりも年若いが、人生経験は彼女の方が上だ。艦娘となった時点で成長や老化が著しく遅くなってしまう“艦娘七不思議”ゆえだ。

 

 白雪は続けた。

 

「せっかくだから、この休暇中にもうひと押ししてみたら? なんなら、私たちも協力するわよ」

 

「協力?」

 

「ええ、いつものダブルデートから、二人きりのデートに発展できるようにお膳立てしてあげるわ。もちろん、デート計画もばっちり立ててあげる」

 

「なんか、思った以上に具体的な協力ですね。いつの間にそんな計画を立てていたんですか?」

 

「え? まだ立ててないわよ?」

 

「へ?」

 

「これから立てるの。――伊勢さん、日向さん」

 

 白雪が席を立ち、開け放たれたままの司令執務室に向かって声をかけた。

 

 呼び掛けられた二人が、室内から顔を出す。

 

「はいはい。白雪さん、どしたの?」と、伊勢。

 

「これから作戦会議を行うので、指揮所と仁淀ちゃんをお借りしますね」

 

「ああ、好きに使ってくれ」と日向。

 

「ありがとうございます。じゃあ飛龍さんのデート計画、名付けて“ねえ多門丸、こっち向いてよ”作戦の立案会議を実施します。参加希望者は指揮所へ移動してください」

 

「何その恥ずかしい作戦名。さすがに誰も参加しないと……って、うわ、みんなぞろぞろ指揮所に移動していく!?」

 

「ほらほら、飛龍さん」

 

「アタイたちも」

 

「ちゃっちゃと行くわよ。付いてきなさい」

 

「わわ、初霜ちゃん、朝霜ちゃん、霞ちゃん、押さないで引っ張らないで、行くから、行くから~」

 

 二十一駆に押され引かれつ囲まれながら、飛龍も指揮所に足を踏み入れた。

 

 白雪の発案からすぐにも関わらず、指揮所の大型スクリーンを始めとした各機器類には電源が入っており、区画の中央には仁淀が待っていましたとばかりに、やる気に満ちた表情で立っていた。

 

「飛龍さん、話は全て聞いていました。デート計画の立案ならこのスーパーAIである仁淀にお任せください!」

 

「仁淀ちゃん、業務でもないのにやる気満々だね」

 

「私は業務支援AIですよ。どんな形であれ皆さんの支援ができるなら、それは私にとって立派な業務の範疇です」

 

 AIらしい機能重視のセリフに聞こえるが、立体映像で表現されているその表情は、明らかに好奇心で輝いていた。

 

 飛龍は思った。無人戦闘機・ゼロ改の後進飛行ひとつでシリアスに悩んでいた多門丸が、仁淀の人間味あふれる様子を見たらどう思うやら。

 

 もっとも、対人コミュニケーションに特化した設計をされている仁淀が“人間の情報”の収集に貪欲なのはある意味当然とも言えるし、そのために“人間味あふれる”ように見えるのも、機能の特性上、当然だろう。

 

 ゼロ改のAIが深海棲艦の情報を貪欲に収集し、分析し、対策を立てるのと、仁淀が艦娘たちのゴシップに聞き耳を立ててそこに積極的に関与しようとするのも、目標とする対象が違うだけで本質的には同じなのだ。

 

 ただ、仁淀の場合はそれが人間から見て感情移入しやすいインターフェイスで表現されているに過ぎない――

 

(――って、多門丸なら言うだろうなぁ)

 

 そんな確信を抱けるくらいには、彼のことを理解している自負はある。別にこれは思い込みではない。それなりの期間、多門丸と共に仕事をしてきた経験からくるものだ。

 

 恋愛感情を抜きにして多門丸という男を評した場合、彼はかなりのリアリストでロジカルな男だと、飛龍は思っていた。

 

 万事冷静で何事にも動じない。物事に関して感情的な反応と、論理的な思考をしっかりと分けて行える人物だった。

 

 とはいっても、これは多門丸だけの特殊な個性という訳でもなく、軍人や艦娘ならば誰でも作戦行動中はそのように考え、行動できるように訓練されている。

 

 しかし、多門丸という男は、これがプライベートにまで沁みついているのだ。ある意味、公私の区別が付けられていない不器用な男と言えるかもしれない。おかげで彼の感情的な面がなかなか見えてこなくて困る。

 

(いったい、私は彼に同僚以外でどう思われていることやら)

 

 彼の一番の理解者である加来に言わせれば脈ありらしいが、それを鵜吞みにして、喜び勇んでグイグイと攻めていって良いものだろうか。それはもしかすると逆効果にならないだろうか。

 

 そんな不安を抱く飛龍を余所に、指揮所ではデート計画が勝手に進められていた。

 

「基本は先ず、ショッピングでしょうね」と、白雪。「午前から昼食まではグループ行動、昼食後から各個に別れて、そこで進捗があるようなら、そのまま単独行動を許可。状況に変化がなければ再び合流してみんなで夕食。大筋はこんな流れで、どう?」

 

 なんだか気になる単語が出ていた。進捗って、どういう意味だ。訊いてみると、当然と言った顔で白雪がこう答えた。

 

「男女関係に決まっているじゃない。上手くいったら、そのまま二人でホテルに直行してもいいのよ」

 

 白雪のあからさまな物言いに、周囲からキャーという黄色い嬌声が上がった。ちなみに一番声が大きかったのは仁淀だ。この自称スーパーAI、明らかに楽しんでいるようにしか見えない。

 

 ま、それはともかくとして、白雪の言葉に対して、飛龍としても思うところが無いわけでもない。

 

 飛龍もいい大人である。あわよくば、そこまで持ち込みたいという下心はあるし、その先、将来を見据えた付き合い方も念頭にはある。恋に恋する高揚感とは別に、打算的で醒めた面も併せ持つのが大人の女だ。

 

(とりあえずホテル代と、あ、その前に美容院にも行って、当然、服も下着も全部新しいのにして気合を入れて……これで幾らぐらいかなぁ)

 

 彼との情事に思いを馳せる一方で、給料の振込口座の残高にも思いを馳せる。

 

 というか、それ以前に、

 

「あのさ、白雪さん。盛り上がっているところ申し訳ないんだけど、そもそもデートの約束さえ取り付けてないのに、先走り過ぎじゃない?」

 

「あら、デートの約束ならもう取ったわよ」

 

「は?」

 

 当然のように言ってのけた白雪に、飛龍は目が点になった。

 

 そこにどこからともなく声がかかる。

 

『二日後の週末にダブルデートだろ。話は全部、聞かせてもらった。いいよ、いいよ。任せておきなって、飛龍ちゃん』

 

「その声は加来っち!?」

 

 飛龍がスクリーンに目を向けると、そこのワイプ画面に加来の姿があった。どうやら携帯端末からテレビ通話をしているらしい。

 

「アドバイザーとして特別に参加してもらったのよ」と、白雪。

 

 画面から、加来が言った。

 

『多門丸は鈍感じゃないが、バカ真面目な童貞野郎だからな。ここらで飛龍ちゃんから押し切らないと進展も何もあったもんじゃないぜ』

 

「加来っち、その発言はちょっと……」

 

――へぇ、多門丸さん、童貞だったんだ。

 

――でも、案外そんな気がしなくない?

 

――エットォ、多門丸サンて、何歳だっけ?

 

――きっと、もうじき魔法使いクマ。

 

――なんだそれ、どういう意味だよ。

 

――男性は異性経験がないまま三十路を超えると、魔法を使えるようになるとか。

 

――真面目に説明しなくていいわよ、しょうもない。朝霜も本気にしない! ただの迷信だから!

 

――て、貞操を大事にされている方は、素敵だと思います!

 

 すっかり外野がワイワイガヤガヤと賑やかになってしまった。

 

 飛龍的にも多門丸の童貞問題は気になるところではあるけれど、彼の過去の女性遍歴にも関わってくる話題だけに突っ込みづらい。

 

 しかしそんな飛龍の胸の内を無視して、加来は続けた。

 

『多門丸については首に縄をつけてでも引っ張っていくから心配するな。んで、どこに行くんだ? 国際通りか? アメリカンビレッジ? ちゅら海水族館?』

 

「えーっと、とりあえずショッピングするから……」

 

『子供がちゅら海水族館に行きたいって、うるさくてさぁ』

 

「……ちゅら海水族館にしようか」

 

『おお、助かるぜ。んじゃ、そっちは何人で来るんだ?』

 

「え? 私ひとりのつもりだけど?」

 

「却下します」と、白雪が遮った。「飛龍さんが想い人と結ばれるかどうか、という大事な作戦ですもの。単独出撃なんてさせられないわ」

 

「そこはむしろ単独出撃させてくださいよッ!?」

 

「ちゅら海水族館に行きたい人は挙手をお願いします」

 

 白雪の言葉に、村雨、羽黒、阿武隈、朝霜の四人が素早く手を上げた。

 

「あら、意外と少ないわね」

 

「球磨たちは今日から即応待機部隊に指定されているクマ。第二艦隊はみんな揃って島内待機クマ」

 

 球磨の至極もっともな指摘に、第二艦隊メンバーである村雨と羽黒は残念そうに手を下ろした。

 

「じゃあ隋伴艦は、阿武隈ちゃんと朝霜ちゃんね。でも、二人だけじゃ寂しいわね」

 

 いや、二人でも多いよ。と、飛龍は突っ込みかけたが、阿武隈に先に発言された。

 

「ネエネエ、せっかくだから第一艦隊みんなで行こうよ♪」

 

「おお、それいいな!」と朝霜もすかさず賛同した。

 

「遠慮するわ」と、五十鈴が首を横に振る。「悪いけれど、私、那覇で予定があるからパスさせてもらうわ」

 

「えー」と、阿武隈。「那覇なら一緒に遊びに行けるでしょ?」

 

「その日はエステを予約してるのよ。国際通りぐらいなら付き合ってあげてもいいけど、ちゅら海って北西部側でしょ。那覇からじゃ遠すぎて、ついでじゃ無理よ」

 

「そっか、残念だなぁ」

 

 別に残念じゃない。気にせず休暇を自分のために過ごしてください。そんな飛龍の胸の内なんか無視して、朝霜が、霞と初霜に話を振っていた。

 

「二十一駆はもちろん揃っていくよな、なぁ!」

 

 それが当然とばかりに言い放った朝霜に対し、霞はため息を吐き、初霜も苦笑を浮かべた。どうやらこの二人もあまり乗り気ではない様子だ。

 

 霞も初霜も真面目な性格の艦娘だから、これ以上のプライベートへの深入りをするような真似はしないでくれるだろう。そもそも、最初から手を上げていなかったから別の用事があるのかも知れない。

 

 そんな期待を抱く飛龍の前で、霞が言った。

 

「勝手に決めないでよね。たく……でも、阿武隈さんにあんたの面倒を押し付ける訳にもいかないし、仕方ないから付いて行ってあげるわ!」

 

「よしっ!」

 

 いや、よしじゃないでしょ。そこは空気読もうよ。ねえ、初霜ちゃんもそう思うでしょ。と、初霜に向けてアイコンタクトを試みる。

 

 初霜は、飛龍の視線を受けて苦笑を浮かべたまま軽く頷いてくれた。うん、これはきっと通じた。さすが初霜ちゃん。

 

「みんな行くなら、私も参加しなくちゃいけないわね」

 

「そうだよな、なぁ!」

 

 違う、そうじゃない。

 

 もー、どうしてそうなっちゃうのかなぁ。もしかして、いつの間にか私の方がマイノリティの立場に置かれているってことかな。

 

 と、飛龍は今さらながら自分が少数派だったことに気が付き愕然とした。

 

 白雪がパンと手を叩いて皆の注目を集めた。

 

「はい、これで飛龍さんの付き添いが決定したわね。土産話を楽しみにしているわね」

 

 単なる土産ではなく土産“話”を要求してくるあたりに、彼女の腹黒さが見える。

 

 と、飛龍は思いつつ、それでも表立って反対しなかったのは、なんだかんだ言いつつも、こうやってみんなでワイワイとやっている今のこの環境が気に入っているからだと、そんな自分の心を自覚して、

 

「もう、仕方ないなぁ。みんな、よろしくね」

 

 そう言って、苦笑いを――本当は照れ隠しの笑みを――浮かべたのだった。

 

 

 

 



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第二十話・戦術評価(女子トーク)(3)

 南方警備艦隊の艦娘たちが飛龍のデート計画で盛り上がっていた頃、彼女たちの提督である海尾 守は、秘書艦の叢雲と共に、首都にある国防省ビルで行われている会議に出席していた。

 

 地下奥深くにある小さな会議室の片隅で、海尾は叢雲と隣り合って座りながら、居心地の悪さを感じていた。

 

(なんで俺みたいな辺境の提督が、こんな会議に出席しているんだ?)

 

 海尾は会議に参列している他のメンバーを見渡した。

 

 会議の出席者は、海尾と叢雲を含めて9名だった。

 

 統合幕僚部作戦部長・陸軍准将、野木 魔鈴を筆頭に、

 

 海軍総隊参謀部作戦課第一室次長、海軍中佐 紫吹 香名

 

 情報部公安第二課・対外対処担当官、影村 忍

 

 潜水艦隊司令・海軍大佐、海音寺 三美

 

 遠征打撃艦隊第二水雷戦隊司令・海軍大佐、郷海 隼人

 

 そして海軍総隊参謀部作戦課第五室室長・海軍大佐、海原雄三と、その秘書と思われる女性。

 

 自分を除けば海軍の中枢に深くかかわっているエリート揃いだ。場違い感が半端ではない。

 

 参加者のなかで最も序列が高いのは、統合幕僚部作戦部長・陸軍准将、野木 魔鈴。陸、海、空を統括して指揮を執る国防の中枢、そこでの作戦立案を任せられているエリート中のエリートだ。

 

 年のころは五十前の女性であり、目元には隠しようのない皺が幾本も刻まれているが、それ以上に目立つのが、彼女の左目の上下を額から頬まで縦に走る深い傷跡だった。

 

 まだ若い士官時代のころ、特殊部隊の前線指揮官として深海棲艦に占拠された島に潜入し、そこで激しい戦闘を繰り広げたときの傷だった。

 

 その時の戦いぶりと、この傷跡から、彼女に着いた異名が「山賊の魔鈴」。

 

 その山賊が、会議の口火を切った。

 

「では、これより特別国防会議を開きます。・・・七面倒くさい前置きはやらない。さっさと本題に入ろう。テーマは三つだ。

 一つは、南方に現れた“人喰い雷巡”。コイツの目的について。

 二つ目は同じく南方の“新たな出現海域”これの対応について。

 三つめはやっぱり南方で先日生起した“新型艦載機の出現”。

 みごとに南方ばっかりだな。こいつは運がいいのか、悪いのか、海尾大佐、どう思う?」

 

「はっ」

 

 いきなり指名されて海尾は面喰らいつつ答えた。

 

「偶然とは思えないものの、何らかの意図があると断ずるにはまだ情報が少ないかと」

 

「あたしは運がいいかどうか聞いたんだ。出世のチャンスかもしれんのだぞ。もっと張り切ったらどうだ」

 

 魔鈴は冗談めかしてそう言って、ニヤッと笑った。目元の傷がゆがみ、山賊という異名通り、凶悪な面構えとなる。

 

「おい、コウメイ」と、山賊が隣に座る女性に顔を向けた。「まずは“人喰い”についての見解を聞かせてくれ」

 

「かな、です。香名。コウメイという呼ばれ方は好きではありません」

 

 海軍総隊参謀部作戦課第一室次長、海軍中佐 紫吹 香名。

 

 こちらは海軍の作戦立案の中心である参謀室の実務面を取り仕切っているエリートだ。年齢は三十代半ば。海尾とほぼ変わらない年齢だが、もう少し若くも見える。

 

 参謀部でもきっての切れ者と評判の女性であり、常に相手の数十手先を見越した戦略的な作戦立案は、まさに天才のそれであった。

 

 将棋が趣味であり、そのためかお気に入りの扇子をいつも持ち歩き、思考の際は開いた扇子で口元を隠すのが癖だった。

 

 その様子から着いた異名が「静かなるコウメイ」。

 

 歴史上に名を残す天才軍師さながらに、香名は扇子で口元を隠しながら言った。

 

「“人喰い雷巡”が他の深海棲艦と違い、特定の艦娘に強い興味を抱いているという事は確かでありましょう。我が作戦課第五室の海原大佐の予測が正しかったという事です」

 

 香名はそう言って、同じく会議に出席していた海軍総隊参謀部作戦課第五室室長・海軍大佐、海原雄三に目を向けた。

 

 海原雄三は、海尾にとって唯一、この会議の出席者で面識のある人物だ。元南方警備艦隊の提督であり、つまり海尾の前任者にあたる。

 

 提督業の申し継ぎから、その他にも今話題に上った“人喰い雷巡”に関する情報を流してくれるなど、なにかと付き合いの深い人物だ。

 

 しかし、いつも電話口ばかりでの付き合いであり、今回、二人は初めて顔を合わせたのだった。

 

 香名に名前を出されたものの、発言までは求められていないと空気を読んだのか、海原はただ頷くだけに留めた。

 

 海原の階級は大佐だが、海尾と同じく提督業就任に伴う臨時昇進によるものだった。提督業から異動となった今、近いうちに元の階級に降格されるだろう、と以前、電話で彼が話していたことを海尾は思い出す。

 

 その海原の隣には、階級章の無い女性が座っていた。

 

(艦娘かな?)

 

 二十代半ば程度の若い女性だ。その雰囲気から恐らく艦娘で間違いないだろう。しかし、今の海原は提督ではないのだから彼に艦娘が付き添う理由がない。

 

 はて、どういう関係だろう? と海尾が心中で首をひねっているのを余所に、山賊の魔鈴が、香名に対して質問をしていた。

 

「んで、“人喰い”は死んだのか?」

 

「生きていますよ。間違いなくね。そしてまた現れるでしょう。初霜の前に。彼女は二度にわたり“人喰い雷巡”を退けた。その結果、興味が増しこそすれ、無くなる理由は無いと考えます」

 

「目的は?」

 

「人間の観察」香名は簡潔に、しかし断定的に答えた。「“人喰い”はまさにそのための行為と考えて間違いありません。それはあの時、情報部が確保した“隣国のテロリスト”からの証言でも明らかです」

 

「どういうこった?」

 

「その説明については、自分がいたします」

 

 低く陰々とした声が会議室に響き渡った。ゆるり、とした動作で立ち上がったのは長身痩躯の男だった。

 

 情報部公安第二課・対外対処担当官、影村 忍。

 

 この出席者について海尾が知っているのは、この肩書と、そして異名だけである。

 

 その名も「影狩りのシノビ」。

 

 詳細は知らない。だがこの情報部第二課が「影狩り」と呼ばれるスパイ摘発部隊だという事は公然の秘密だった。

 

 そして、前回の初霜を囮にしたテロリスト確保作戦。その作戦立案にこの部署が関わっていただろうという事は、海尾もなんとなく察していたし、今回、この話題で彼が発言を求めたことで、それは確信に変わった。

 

 忍は言った。

 

「対象A――我々は“彼”をこう呼称しております――は深海棲艦との接触について、こう証言しております。“等身大の深海棲艦によって精液を搾り取られた。また、家族の写真を見られた際、二体の白骨死体の頭部を取り出し、それがあたかも私(A)の妻子であるかのように示してみせた”と」

 

「精液を搾り取ったってか。深海棲艦に手籠めにされたか」

 

 魔鈴が面白そうに笑った。

 

「いえ」と忍は無表情に答えた。「性器には触れても居ないそうです。容姿が恐ろしく悩ましく、近づかれただけでも射精してしまったと。なにか本能を強制的に刺激されたようだと言っておりました。我々は、その等身大深海棲艦はおそらく、まさに“精液を絞りとる”ための兵器と考えております」

 

「ラブドールかよ。で、そんなもんが出てきた目的は? それを早く言いな」

 

「人間のクローン。その製造ではないかと、情報部AIは予測しています。等身大深海棲艦はその試作品でしょう。ゆくゆくは、これを人間社会に直接送り込んでくる事態も、我々は想定しています」

 

 その予測は、海尾にとってはかなり衝撃的だった。

 

 いままで海上でしか相対してこなかった敵が、人間社会に紛れ込んでくるというのか。海尾は思わず、傍らに座る叢雲を横目で見た。

 

 叢雲も同じく、横目で海尾を見ていた。その瞳に当惑の色が浮かんでいる。

 

 しかし、海尾以外の人間は眉ひとつ動かさなかった。その程度のことは、とっくに予測済みだと言わんばかりの態度だった。

 

 そんな中、忍が海尾の方へ身体ごと向き直っていた。目が合った忍が、言った。

 

「我々はこれまで人間に対する情報戦を主としてきましたが、これからは本格的に深海棲艦を相手に情報戦を行うことになりそうです。そのため艦娘艦隊との協力もより密接になっていくことでしょう。どうぞよろしくお願いいたします」

 

 そう言って慇懃に深々と頭を下げた忍に対して、海尾は戸惑いつつ「こちらこそ」と頭を下げることしかできなかった。

 

 その海尾の脇腹を、叢雲が肘で小突いた。

 

(痛いな、何だよ)

 

 小声で叢雲に問う。

 

(何だよ、じゃないわよ。あいつは初霜を囮に使った張本人かも知れないのよ。そんな奴になに頭下げてんのよ!)

 

 叢雲の不満はもっともだが、それをここで露わにするわけにもいかない。

 

(わかっている。大人しく利用されるつもりはない)

 

 海尾は小声でそう告げて、再び会議に向き直った。

 

 忍は既に席に着き、魔鈴が次の議題に移るべく口を開いた。

 

「二つ目の議題だ。深海棲艦の出現海域について、海尾大佐、最近の状況を報告しろ」

 

「はっ」

 

 海尾は資料を手に立ち上がった。その横で叢雲が手元の情報端末を操作し、会議室の一画のスクリーンに資料画像を映し出す。

 

「この海域に最初の敵が出現してから二か月余りが経過しましたが、その間、さらに三回の出現が認められました。しかしいずれも駆逐艦級ばかりで、その他の強力な艦種の出現は認められておりません。その一方で、他の出現海域から現れた深海棲艦が、次々と我が担当海域に来襲しております」

 

 既存の深海棲艦の出現海域には、世界中の海軍から抽出された精鋭が連合艦隊を結成し、常に包囲し、深海棲艦が現れた瞬間に殲滅している。

 

 しかし、それでも討ち漏らす敵がどうしても存在し、それが広い海のどこかで集結し、艦隊を結成して各国の近海に現れるのだ。

 

 その艦隊が、ここ最近は南方警備艦の担当海域に頻繁に襲来するようになっていた。

 

「つい先日も正規空母一隻、軽空母二隻を擁する機動艦隊が来襲しております。戦力としては小規模であるものの、新型艦載機を保有しておりました。これは――」

 

「――新型艦載機については」と、海原雄三が初めて口を開いた。「後ほど、私の方から説明いたします。海尾大佐は本題を進めて下さい」

 

「わかりました。これらの情勢を受け、新たな出現海域と敵の動静に関する分析レポートを作成しました。こちらをご覧ください」

 

 叢雲がスクリーンを切り替え、分析図を表示する。そこには海域図と、その中心を目指して伸びる複数の矢印があった。

 

「この中心点が出現海域です。ご覧の通り、敵艦隊は一様に、この出現海域を目指しております。これは今までにないイレギュラーな動きです」

 

 通常、深海棲艦は出現海域から出てくることはあっても、戻ってくることはないし、他の出現海域へ向かうこともない。

 

 深海棲艦は一度出現すると、後は海流にのって流されていくか、もしくは海上の艦艇をしつこく追い掛け回すかのどちらかだ。

 

 帰る港をもたず、海上をさまよい続ける艦。深海棲艦はまさしく幽霊船のような存在と言えた。

 

 だが、その幽霊船が一か所に集まろうとしている。

 

「この海域が他の出現海域とどう違うのか。それはまだ分かりません。我が南方警備艦隊は監視を続けながら、引き続き情報を収集していく予定です」

 

 報告を終えた海尾に、魔鈴が「潜水調査は予定してるのか」と訊いた。

 

「はい、潜水艦隊海底観測隊の支援を受け、来月に実施を考えております」

 

「潜水艦隊司令、細かい内容を教えてくれや」

 

 魔鈴の指示に、同じく会議に出席していた潜水艦隊司令・海軍大佐、海音寺 三美が立ち上がった。

 

 彼女自身も元は潜水艦の艦娘だったという経歴をもつ。そんな彼女もやはり、ある異名で呼ばれる有名人だ。

 

「不死身の鐘の海音寺」

 

 三美のかつての名は「伊33」。我が海軍が誇る大型潜水艦「伊十五型潜水艦」の十四番艦である。

 

 だがこの艦は曰くつき艦だった。

 

 伊33は竣工わずか三ヶ月で座礁事故を起こし、しかもその修理中に沈没事故まで起こしてしまい、三美を乗せたまま深度33メートルの海底に着底してしまう。

 

 救出作業は難航を極め、一か月以上かかると予想された。

 

 それは艦内に残された酸素や食料が尽きるよりもはるかに長い期間だった。そのため、三美の生存は絶望的だと誰もが思っていた。

 

 が、彼女は生き延びた。わずかな酸素と食料をギリギリまで切り詰めて生き永らえた。その一方で艦内から隔壁を叩くことでモールス信号を送り、事故の詳細や、艦内の状況を克明に知らせ続けた。

 

 沈没から三十三日後、彼女は奇跡的に救助された。

 

 やがて船体も引き揚げられ、修理も完了し、三美は再び伊33の艦娘として訓練に励んでいた。だが、この航海中にまたもや事故が発生してしまう。

 

 修理中の不具合が原因で主機関に海水が浸水し、航行どころか浮上も不可能となってしまい、彼女は今度は深度60メートル以上の海底に沈没してしまった。

 

 だが、三美は今度も生き延びた。自分の存在を知らせるべく何日間も隔壁を叩いてモールス信号を送り続け、救助を待った。三日後、伊33は発見され彼女は救出された。

 

 彼女が見つかるまでの三日間、海には深海から響くモールス信号が、不気味な鐘の音のように鳴り響いていたという。これが彼女の異名の由来である。

 

 閑話休題

 

 魔鈴の質問に答えるべく立ち上がった三美は、叢雲に目配せしてスクリーンに資料を表示させた。

 

「調査計画については次のとおりです。先ずは南方警備艦隊の護衛の下、水母(潜“水”艦救難“母”艦)千代田を現場海域に派遣し、搭載している無人深海艇による海底地形の把握。その上で、艦娘による潜水艦を派遣し、監視用の音響センサー及び自走機雷の敷設・・・まあ、言ってしまえば、いつもと特に変わりません」

 

 三美は途中から投げやり気味になって、続けた。

 

「姐さん、ハッキリ言わしてもらいますけど、ウチの調査じゃ得るものは何もありませんよ。この三十年間、潜水艦隊はずっとこれをやってますけど、なんにも出ない。ホントにこれっぽっちも手掛かりがつかめない。深海棲艦ってのはね、海中にはいないんですよ。ホントにどこにも。いやホントに」

 

「お前ね、それはあたしが言うべき台詞だよ。こいつが無意味なのは知ってるけど、それを先に言われちゃ、あたしは何も言えないじゃないか」

 

「なにを言うつもりだったんですか」

 

「無意味だからやめちまえ」

 

「喜んで」

 

「その代り、それを自分で口にした以上、対案はあるんだろうな。ただ自分がサボりたいだけっていうなら話は別だよ」

 

「もちろん、しっかり考えてますって。――なあ、豪快の」

 

「ごわす」

 

 三美に呼びかけられ、野太い声がそれに答えた。筋骨隆々の大柄な男だ。

 

 遠征打撃艦隊第二水雷戦隊司令・海軍大佐、郷海 隼人。

 

 彼は、海尾と同じく艦娘たちで構成される艦隊を率いる、いわゆる“提督”だ。

 

 しかし、彼と海尾では同じ提督、同じ階級でも大きな違いがある。

 

 隼人が率いる第二水雷戦隊が所属する艦隊は、海軍の主力艦隊である遠征打撃艦隊に属しているのだ。

 

 最新鋭の通常艦艇を中心に構成される遠征打撃艦隊は、海軍の決戦兵力という位置づけである。そんな国防の切り札と言ってもいい艦隊に属する数少ない艦娘艦隊の一つが、彼の第二水雷戦隊だった。

 

 水雷戦隊であるから、彼の配下は軽巡と駆逐艦しかいない。しかしその機動性の高さを活かし、有事の際には戦場へ真っ先に飛び込み、威力偵察や奇襲を行うなどの、いわば特殊部隊のような役割を任されていた。

 

 それゆえ、この戦隊に配属されるのは艦娘の中でも精鋭中の精鋭である。

 

「華の二水戦」

 

 そう呼ばれ、軽巡艦娘や駆逐艦娘から憧れの視線を集めるこの部隊を率いる提督・郷海 隼人。

 

 彼の異名は「豪快なる隼人」。

 

 その異名が、彼の本名と見た目のイメージ、そして二水戦の時に獰猛とも思える戦いぶりから連想されたものであるのは疑いの余地がない。

 

 しかし、その二水戦が、この話にどう絡んでくるというのか。疑念を抱く海尾の視線の先で、隼人が鷹揚な動作で立ち上がった。

 

「あてから説明すっ。結論から申し上ぐっと、威力偵察を仕掛けっちゅう事じゃ」

 

 隼人は、訛りの強い方言で、ゆっくりと説明する。

 

「ないかが出っんを待っちょってもしょうがあいもはん。ないかが隠れちょるんなら、こっちからチェストばかけ、引きずりだすとじゃ。作戦は既に立案しちょっ。先ずは侵攻すっ敵をあえて海域へ向かわせ、そこで新手がでたならチェストして―――」

 

「あ~、うん、言いたいことは何となく伝わったから、もういい。詳しい作戦内容はあとで書面で寄こしてくれ。できりゃ東京弁で書いてくれると助かる」

 

「ごわす」

 

「さて、んじゃ三つ目に行こうか」

 

 隼人が席に着いたのを確認して、魔鈴が話を進めた。

 

 海尾としては何やらことが大きくなってしまい、もう少し詳しく話を聞きたかったのだが、しかしこれ以上、彼の方言混じりの説明が理解できるかと言われたなら、それは難しかった。

 

 しかたない、どのみち会議の後で三美や隼人と今後の調整をすることになるのだ。詳しい話はあとにして、今は会議に集中しよう。

 

 そう思った視線の先で、海原が立ち上がるのが見えた。その隣りにいる艦娘らしき女性が端末を操作し、スクリーンに資料を表示する。

 

 阿吽の呼吸のようなその雰囲気は、やはり秘書艦なのだろうか。

 

 その疑問を余所に、海原が新型艦載機の説明を開始した。

 

 これについてはほぼ現状説明だけで終わった。まだ情報が少なすぎるからだ。この会議で議題に挙げられたのも、単に情報共有以外の何物でもないだろう。

 

 結局、海原の報告を最後に会議は終わった。

 

「さあ、野郎ども。退屈な会議は終わりだ。本番行くぞ!」

 

 魔鈴が、会議中の気怠るそうな雰囲気をかなぐり捨て、椅子を蹴倒すような勢いで立ち上がった。

 

 本番、すなわち懇親会と言う名の宴会である。

 

 長い夜になりそうだ。そんなことを思いつつ、海尾もまた席を立った。

 

 

 

 

 

 

 国防省の敷地内には居住用の宿舎もあり、他の基地から出張してきた者たちもここで宿泊することが出来た。

 

 会議を終えて地下から出てきた海尾と叢雲は、すっかり日が傾いた夕焼け空を眺めながら、その宿舎に向かって歩いていた。

 

「ん~、ふう」

 

 叢雲は長い会議で凝り固まった身体を背伸びしてほぐしながら、傍らの海尾に目を向けた。

 

「浮かない顔してるわねえ。どうしたの?」

 

「これから山賊との宴会だ。噂によればとんでもないらしい。あの異名の由来も、実は過去の軍歴じゃなく酒の席から来ているって話だ」

 

「うん、がんばって。私、誘われてないから」

 

「羨ましい。俺もそうしたい」

 

「でも、あの面子と人脈ができるなら、あんたの出世にも損じゃないでしょう。あの山賊准将の言う通り、これはチャンスかもしれないのよ」

 

「それは本気で言っているのか。別に俺は出世なんぞ考えちゃいない。臨時昇進とはいえ、いまの大佐の階級だって重たくてしょうがないんだ」

 

「小さい男ねえ」

 

「そんなこと言って、出世にしか興味のないゴマすり男なんかに興味はないだろう?」

 

「まぁね。・・・懇親会は何時から始まるの?」

 

「あと一時間後だ。宿舎に戻ったら、すぐに着替えて移動しなくちゃ間に合わない。二人でゆっくり過ごす時間も無いのは、辛いな」

 

「あら、浮かない顔の原因って、もしかして私とデートできないのが不満だったってこと? ふぅん、可愛いところあるじゃない」

 

「そういう叢雲こそ、どうなんだ。今夜、俺が傍に居なくて寂しくは無いのか」

 

「さあて、どうかしらね。あんたが山賊や天才軍師を相手に下手なゴマすりやっている間に、独りで都会の夜を満喫させてもらうわ」

 

「なんだよ、ずるいな」

 

 いつしか二人はT字路に差し掛かっていた。ここで男性用と女性用の宿舎に別れるのだ。

 

「すまん、叢雲。もう時間がない。先に行く」

 

 そう言って男性用宿舎に向かって駆けだそうとした海尾を、

 

「ちょっと待ちなさい」

 

 叢雲が彼の腕を掴んで引き留めた。

 

「どうした?」

 

「忘れものよ」

 

 そう言って、彼の身体を引きよせて、叢雲はつま先立ちに背伸びして、その唇に口づけをした。

 

 軽く触れあうだけの、短いキス。

 

「叢雲・・・?」

 

「浮気防止のおまじないよ。間違っても、あの女に気に入られないようにね」

 

「あの女って・・・どの女だ。まさか山賊准将か」

 

「違うわよ。天才軍師の方よ。静かなるコウメイ。紫吹 香名。・・・彼女、会議の間、あんたのことをよく見ていた」

 

「そうなのか? いや、今回の会議はウチの問題なんだし、それで俺に視線が集まるのはある意味、当然という気もするんだが」

 

「彼女、女の目をしていた。・・・きっと粉をかけてくるわ。ああいうタイプって、あんたみたいな男が好きそうだから」

 

「ふぅん・・・ふむん」

 

「まんざらでもないって顔してるわね」

 

「いや、いやいや。そんなことないぞ。さすがに参謀部の中枢にいるエリートに手を出すほど、俺は無分別じゃない」

 

「その基準がよくわからないわ。部下にはすぐ手を出す癖に」

 

「人聞きの悪いことを言うな。部下だから手を出したわけじゃない。叢雲というひとりの女に惚れたんだ。それだけだ」

 

「っ!?」

 

 何のてらいもなく言い切った海尾に、叢雲の心臓が一瞬、高鳴った。

 

 普段は何事にも淡々とした態度を取っているくせに、時折、こうやって心をわしづかみにするような真似をする。

 

 叢雲が戸惑っている隙に、今度は海尾の方から叢雲の身体を引き寄せられ、その唇に軽くキスをされた。

 

「浮気防止のおまじないだ」海尾はニヤリと笑って身体を離した。「夜遊びもいいが、悪い男に引っかかるんじゃないぞ」

 

「ちょっと!」

 

 笑みを残したまま去って行った海尾の背中を、叢雲は赤い顔で睨み付けた。

 

 彼との関係はいつもこうだ。

 

 叢雲が主導権を握ったつもりでいても、気が付けば彼の掌で転がされている気分にさせられる。それが時に悔しく、でも心地よい。

 

(結局、惚れた方が負けなのよね・・・)

 

 海尾の背中が見えなくなるまで見送ってから、叢雲は女性宿舎に向かおうと踵を返した。

 

 と、そこで、十数歩ほど離れた場所で、こちらを見ていた女性と目が合った。

 

 おそらく、今の海尾とのやり取りは全てこの女性に見られていたのだろう。彼女は気まずそうに一瞬だけ目を逸らしたが、すぐにワザとらしい咳ばらいを一つして、叢雲に向き直った。

 

「えっと、失礼しましたデース」妙なアクセントのまま、彼女は言った。「見るつもりは無かったんですケド、声をかけようと思ったら、ナイスタイミングでキスシーンにエンカウントしちゃってデスネ」

 

「別に見られて困るものでもないけれど、でも、気を遣わせたなら悪かったわ。ごめんなさいね」

 

「ノープロブレムね! むしろ良いものを見せてもらってゴチソウサマと言いたいくらいヨ!」

 

 そう言って、彼女は親指を立てて見せた。

 

「それならいいわ」と、叢雲。「そういえば貴女、会議で海原大佐の隣に居た人ね。艦娘だと思うけど、もしかして・・・金剛さん?」

 

「Yes! でも半分だけ正解ネ。今の私は予備役として別部署に配属されているから、金剛(補欠)ってところダヨ」

 

 艦娘は基本的に一つの船体に一人だけ、それも専属として配置されているのだが、艦娘も人間である以上、怪我や病気、もしくは休暇等でどうしても勤務できないことが生じる可能性がある。

 

 そのため、穴埋めとして一線を引いた元艦娘が、予備要員として待機していた。

 

 今、叢雲の目の前にいる女性は、紛れもなく南方警備艦隊の前先任秘書艦を務めた金剛で間違いない。

 

 しかし、彼女が使用していた船体は、今では別の女性が艦娘として使用しており、彼女は予備要員として、この国防省で別の任務についているらしかった。

 

「マイダーリンが第五室の室長やってるから、ワタシも近くで働きたかったんデース。なので予備役にしてもらいマシタ」

 

「それで、今日も一緒に会議に参加していたのね」

 

「議題が南方に関わることだったんで、特別参加だったネ。普段の職場は別の部署ヨ。ところで、よくワタシが誰か分かったネ。南方警備艦隊に顔写真でも残ってましたカ?」

 

「ええ、仁淀から旧艦隊メンバーのことはよく聞かされていたから。前任者についてもね。ファンキーファニーな高速戦艦だったと言ってたわ」

 

「あのメガネAI、微妙に底意地の悪い表現しやがるネ・・・」

 

 嫌がらせにハッキングしてやろうか、なんて呟く金剛に、叢雲は「ご用件は?」と先を促した。

 

「ああ、別に大した要件じゃアリマセン。せっかく後任者と会うことが出来たんで、アイサツでもと思っただけデース」

 

「そう」

 

「これから宿舎に戻るんでショ。一緒に行きまショー」

 

 金剛はそう言って、叢雲と並んで歩きだした。

 

「ところでムラクモ=サン」と金剛。「南方警備艦隊の雰囲気はどうデスカ?」

 

「どうって言われても困るわね。なにしろ艦隊メンバーは貴女を含めて一人残らず入れ替わってしまって、完全に別モノの新艦隊だから」

 

「ま、それもそうですネー」

 

「でも島の暮らしは気に入っているわ。自然も、料理も、なにより人も・・・悪くないわ」

 

「そうですカ」

 

 叢雲の言葉に、金剛はニコリとほほ笑んだ。

 

 叢雲が聴いた話では、旧艦隊メンバーと島民との関係は、とても良かったそうだ。

 

 旧艦隊メンバー全員が一斉に異動となってしまったことを惜しむ声が、島民の間からいくつも上がっているという噂も、よく耳にしていた。

 

「貴女たちが、みんないなくなってしまって、島民たちも寂しがっているわ」

 

「そうですカ」

 

「私も、まさか誰一人として残る者がいないなんて思わなかった」

 

「そうですネ。ワタシたちにとってもサプライズ人事だったネ」金剛は表情を曇らせ、ため息を吐いた。「あの海戦後、中大破したワタシたちは母港にも戻れず、それぞれ各地の空きドックに散り散りになって入渠したヨ。ワタシも大破してたから前線にも復帰できず、あれっきり仲間たちとも再会することなく転任の時期になってしまったネ。まったく、組織勤めってのは非情デース」

 

 金剛は欧米人のように肩をすくめ――その仕草は様になっていて不自然さを感じさせなかった――そしてハッと何かを思い出したかのように立ち止まって、叢雲に身体ごと向き直った。

 

「Oh、Shit。すっかり忘れていマシタ。ワタシたちが置きっぱなしにしていた荷物を転任先へ送ってくれたの、ムラクモ=サンだよネ。本当に助かりマシタ。サンキューソーマッチ、デース」

 

 金剛はそう言って、折り目正しく頭を下げた。言葉遣いは胡散臭いが、その所作振る舞いは礼儀にのっとった、気品を感じさせるものだった。

 

「礼を言われるほどの事じゃないわ。貴女の艦隊は、みんな寮の整理整頓が行き届いていて、私物もすぐに持ち出せるようにまとめてあったかわ。おかげで荷物整理がとてもスムーズに進んだ。・・・とてもね」

 

 叢雲の言葉に、金剛は顔を上げ、笑みを浮かべた。

 

 叢雲はそれに釣られて笑みを浮かべることなく、金剛の表情を探るように眺めながら、言った。

 

「不自然過ぎるわ」

 

「ソウですカ?」

 

「艦娘寮の部屋はどれも、生活感がほとんどなかった。冷蔵庫は総じて空っぽ。ゴミ箱には屑ひとつ残っていなかった」

 

「あの日はちょうどゴミ回収日だったネ」

 

「全員、きっちりゴミを出し切ったとでも言うの? 私にはどう考えても“帰ってこれない”ことを前提にした部屋にしか思えなかったわ。緊急出港で慌ただしく後にした様子じゃなかった。・・・これはいったい、どういうこと?」

 

 詰問するような調子の叢雲に、金剛はしかし笑みを崩すことなく、答えた。

 

「ソレが、そんなに不自然なことデスカ?」

 

「――え?」

 

「ワタシたちは艦娘、戦いを生業とする海上武人デス。ひとたび出撃命令あらば、二度とホームには帰れぬことも覚悟の上。違いマスカ?」

 

「・・・・・・」

 

 金剛が静かに語るその言葉に、今度は叢雲が黙して聴く立場だった。

 

「ワタシは先任秘書官として、みんなに、その心構えを常に説いてきまシタ。“memento mori”これが南方警備艦隊の――ソーリー、旧南方警備艦隊のモットーデース」

 

「メメントモリ、死を忘れるな。随分とストイックなモットーね」

 

 でも、叢雲の疑念は晴れない。

 

 常に死を意識せよなどというモットーを掲げ、それを実践してきたような艦隊という印象と、島民から聞いた印象が、妙に食い違っているように思えるのだ。

 

 叢雲が知る限り、旧艦隊メンバーは島民に対しとてもフランクで、基地の様子ものびのびとしたものだったらしい。死の影を常に背負っているような陰鬱さは、そこには無い。

 

 金剛は、そんな叢雲の疑念を察したのだろう。叢雲が何かを言う前に、彼女からこう言った。

 

「メメントモリには別の意味もありマース。“carpe diem”今を楽しめ。古代ローマ人はこう言いました。“食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから”」

 

 金剛はそう言って、たおやかな笑みを浮かべた。

 

 叢雲は、それですとんと腑に落ちた。

 

 本気で死を覚悟した者だけが持つ、あっけらかんとした明るさが、その笑みにはあったのだ。

 

「納得したわ」と、叢雲。「妙な勘繰りをしてしまってごめんなさい。常在戦場の心構えがあそこまで行き届いていた艦隊を初めて見たから。それに、貴女も知っての通り、ウチは最近、上層部のつまらない陰謀に巻き込まれたこともあったから、変に疑り深くなっていたわ」

 

 素直に詫びた叢雲に、金剛は笑みを浮かべたまま「ノープロブレム」と答えた。

 

「ムラクモ=サン、こうして新旧秘書官が出会ったのも何かの縁ネ。よろしければ、これから一緒にティータイムを過ごしませんカ?」

 

 それには異存は無かったが、しかしもう夕方である。ティータイムには少し遅い時間ではないかと疑問を呈してみたが、金剛がハイティーという習慣を説明してくれた。

 

 一般に良く知られている昼下がりから夕方までのアフタヌーンティーと違い、こちらは仕事を終えた後に夕食と共に嗜むものだという。

 

「まるで一日中、お茶ばかり飲んでいるようなお国柄ね」

 

「ハイティーはお茶だけじゃなく、お酒も嗜むんダヨ。ワタシのおススメを御馳走するネ」

 

「喜んでお誘いに応じるわ」

 

「Yes」

 

 じゃあ、待ち合わせはこの店で。そう言って金剛から店の名前と住所が記されたカードを渡された。

 

「いいお店ダヨ。楽しみにしててクダサーイ」

 

 金剛はそう言って、ウィンク一つ残して、先に女性用宿舎へと入って行った。

 

 

 

 

 

 それから一時間と少しの後、叢雲がカードを頼りにたどり着いたのは、街の喧騒から若干離れた路地にある、英国式パブだった。

 

 扉を開けて店内に入ると、聞き覚えのあるビートルズナンバーのBGMと共に、金剛が出迎えてくれた。

 

「Hey、よく来たネ。歓迎するヨ」

 

 そう言って彼女はカウンターバーの向こう側から手を振っていた。

 

 叢雲は店内を見渡してみたが、他に客の姿は無い。店員の姿さえ見当たらなかった。

 

「今夜は貸し切りネ」

 

「そんな代金は持ち合わせてないわ」

 

「オーナー権限だからノープロブレムよ」

 

「オーナー?」

 

「Yes。ここは海軍公認のパブリックハウスデース。ワタシはそのオーナー兼店長ダヨ。店員も客も軍関係者しかいないから、外では話しづらい仕事の愚痴もこぼし放題ネ」

 

「予備役になった後の仕事がここって訳ね」

 

「結構、気に入ってるヨ。人と触れ合う仕事も楽しいデース」

 

「他の店員は?」

 

「今日は定休日だから、みんなお休みネ」

 

 なるほど、だから気兼ねなく貸し切りにできるという訳か。叢雲は納得して、金剛と向かい合うようにカウンター席に腰を落ち着けた。

 

「オーダーはどうしますカ?」

 

「貴女のおススメを頂くわ」

 

「OK」

 

 金剛が出してくれたのは、ブリティッシュ・パブでは定番の黒エールだった。そして、既に準備してあったのだろう、料理が三皿、すぐに目の前に並べられた。

 

 ソーセージとマッシュルームの盛り合わせ、チキンロール、そして英国料理の代名詞とも言えるフィッシュアンドチップス。どれも英字新聞を模したペーパーシートが敷かれた皿に盛りつけられている。

 

 金剛も自分用のグラスに黒エールを注ぎ、叢雲に向かって掲げた。

 

「Cheers(乾杯)!」

 

 グラスを軽く触れあわせ、口へと運ぶ。

 

 普段から飲みなれているラガービールと違い、複雑なアロマと香ばしくまろやかな苦みが特徴的だ。爽快感よりも味わいを重視しているため、炭酸も少し弱めになっている。

 

 叢雲にとっては馴染みが浅い酒だったが、悪くなかった。

 

 つまみのフィッシュアンドチップスには、カットされたレモンが添えられていた。

 

「レモンをかけてもいいかしら?」

 

「Yes」

 

 日本人らしく断りを入れてから、レモンを全体に絞って果汁をかける。他にソース等は添えられていなかった。随分とシンプルな味付けだなと思ったら、金剛から、テーブル上の備え付け調味料で好みの味付けをするのが英国流だと教わった。

 

「でも、ワタシのフィッシュアンドチップスはレモンと塩だけでも十分デース」

 

 言われた通り塩を一つまみ振りかけ、食べてみた。サクサクとした衣の食感と白身魚の旨味、レモンと塩がそれを引き立て、シンプルながら飽きの来ない味だった。

 

「美味しいわ。エールともよく合う」

 

「サンクス」

 

「正直、フィッシュアンドチップスって、もっと味気ないものだと思っていたわ。ステレオタイプなイメージで申し訳ないけれど、英国料理は微妙という噂をよく聞いていたものだから」

 

「味気ないというのは多少は当たっていますヨ。British cuisineは食べる側が自分で好みの味付けをするのが主流だから、あえて味付けを抑えているんデース。それにフィッシュアンドチップスは、日本でいうところのスシみたいなものデス。素材の味や、料理人のテクニックがストレートに現れマース」

 

 なるほど、言いたいことは何となくわかったが、しかしそれを言うなら寿司よりも天ぷらの方が近いのではないだろうか。

 

 

 叢雲はそう思ったが、あえて言わないでおいた。

 

 金剛が続けた。

 

「南方に居た頃の、フレッシュな魚で作ったフィッシュアンドチップスは地元の人々にも好評だったヨ。艦娘を引退したら、あの島でパブを開けばいい。そう言ってくれた人もいっぱい居たネ。あれからまだそんなに時間が経った訳でもないけれど、もう懐かしく感じマース」

 

「退職後はあの島に帰ってくるの?」

 

「そうしたい気持ちはあるけれど、マイダーリンがまだまだ、あっちこっちに転任になりそうだから、それも難しそうダヨ」

 

「転任先についていくつもりなのね」

 

「テートクの妻は大変ネ」

 

 金剛はそう言って、左手の薬指に光るリングをそれとなく撫でた。

 

「海原大佐・・・参謀部作戦課第五室室長。今日の会議のメンバーに選ばれるくらいだもの。れっきとしたエリートね」

 

「彼は今日の会議には出たくないと言っていまシタ。窓際部署の人間には無意味な会議だって。でも、海尾大佐と会えるから、それだけは楽しみだって言ってたデース」

 

「仲が良いわね、あの二人。何でかしら」

 

「ワタシも海尾大佐に興味が湧いてきたヨ。一度、話がしてみたいネ」

 

「平凡な男よ。どこにでも居そうな、中年に足を踏み入れかけている冴えない男」

 

「恋人なのにビターな評価デース。日本的なホンネとタテマエはあまり好きじゃないネ。Hey you、もっと素直になりなヨ」

 

「人前でのろけるには、まだ酔いが足りないわ」

 

「道の真ん中でキスは出来るのに?」

 

「あれは彼を困らせようと思ってやったんだけどね。意外と動じなかったわ」

 

「むしろ、海尾大佐からキスしてたデース」

 

「私からのキスは飄々として受け流す癖に、ああやって不意を打ってくるんだもの。なんだか悔しいわ」

 

「恋の駆け引きデスカ。ゲームもいいけど、ほどほどにわきまえなヨ。恋愛は勝ち負けじゃないネ」

 

「でも、手のひらで転がされているのも癪なのよ」叢雲はグラスのエールを飲み干した。「お代わり、お願いできるかしら」

 

「ヨロコンデー、デース」

 

 新たなグラスに茶褐色のエールが注がれた。ほんのり柑橘系の甘い香りに、飲むとチョコレート風味の焦がした麦芽の味わいにナッツのような風味が絶妙に混じり合っている。

 

 叢雲は思わずため息を吐いた。

 

「絶品ね」

 

「キング・ゴブリン。エール初心者でも飲みやすいおススメだヨ。マイダーリンのお気に入りネ」

 

「守もきっと気に入るわ。彼もお酒には目が無いから」

 

「フフ、少しは口が軽くなってきたようデース」

 

「このエールの美味しさに免じて少しだけ素直になってあげるわ」

 

「イイネ、ならもっとサービスしてあげるから、もっともっと素直になるデース」

 

 金剛も新たなグラスにエールを注ぎ、二人は再びグラスを合わせて飲み合った。

 

 それから、一時間後。

 

「女に対して手が早いのよ、彼」叢雲が赤い顔に、据えた目つきで言った。「一見、真面目だけが取り柄の平凡な男に見えるけれど、実際はとんだプレイボーイよ。若手士官時代に練習艦隊で広報担当士官をやっていたらしいけれど、その時に流した浮名が、未だに聞こえてくるのよ!」

 

「練習艦隊と言えば、遠洋練習航海で世界中の港を訪れる“外交艦”デース。そこの広報担当ならトップエリートじゃないデスカ」

 

「本人は否定しているけどね。“海外VIPとの応対は司令や艦長、練習艦艦娘といった上層部の仕事。下っ端広報官は一般人ばかり相手にしていた”ってさ。でも、それで女の子をナンパしていたんじゃ世話ないわよ」

 

「聞いているだけなら、ふわっふわっに軽い男に思えるネ。そんな人を艦娘提督にして大丈夫なんデスカ?」

 

「何度も言うけれど、外面は真面目なのよ。セクハラまがいの事もしないし、それはそれは紳士的よ。でも、そこで油断すると、あっという間に絡め取られちゃうのよ。本当にもう、腹が立つわ」

 

「・・・ソレ、とっくに絡め取られた人間の台詞デース」

 

「ええ、絡め取られちゃったわよ。それはもう、あっさりと。自分でもチョロイと思うわよ。もう!」

 

 叢雲は手元のグラスを飲み干す。

 

「お代わり!」

 

「毎度アリー、ネ」

 

 一杯ごとにその場で支払いを済ませるのが英国式パブスタイルだ。硬貨と引き換えに出されたのは、エールではなくオークの香り漂うスコッチ・ウィスキーだった。

 

「アードベッグ10年のアイラモルト。どちらかといえば男性に人気の銘柄ダヨ」

 

「彼の好きな銘柄よ。付き合ってるうちに好みまで似通ってきちゃったわ」

 

「まるで古女房ネ。将来のことは考えているんデスカ?」

 

「結婚? ・・・考えてないことも無いけれど、彼もなんだかんだいって出世するだろうし、私もまだしばらく引退する気もないからね。いずれ異動になるときのことも考えなくちゃいけないと分かってるんだけどなぁ・・・」

 

 こぼした溜息をウィスキーで胸の奥に流し込む。

 

 金剛が言った。

 

「お互いに現役を続けたいなら、ケッコンカッコカリすればいいネ」

 

「なにそれ?」

 

「最近できた制度ダヨ。結婚を前提に付き合っているカップルなら、勤務地や役職を考慮した人事をしてくれるネ」

 

「へえ、そんなことまでやってくれるの?」

 

「少子高齢化は、深海棲艦以上に我が国の脅威になっているってことデース」

 

「産めよ増やせよ国のため。ってね。まるで戦時中のスローガンだわ」

 

「戦時中なのヨ。今も、昔も、ずっとネ。あんまり長すぎて、誰も彼も忘れ果てているだけデース」

 

「私にとっては物心ついたときからこんな世の中だもの。深海棲艦が現れる前の世界がどんな雰囲気だったかなんて、想像できないわ」

 

「ワタシは覚えてるケド、今とあんまり変わらなったヨ」

 

「あら、そうなの?」

 

「隣国とは戦争直前まで関係が悪化していたカラ、遅かれ早かれ今みたいな世の中になっていたと思うヨ。むしろ、深海棲艦が現れてくれたおかげで、人間同士で殺し合わずに済んだっていう意見があったくらいデース」

 

「ブラックユーモアね」

 

「そのユーモアも、そろそろ終わりかも知れないケドネ」

 

「どういうこと?」

 

「隣国が軍備増強に力を入れていることは知ってるマスカ?」

 

「・・・・・・」

 

 叢雲はグラスを傾ける手を止めた。話題の雰囲気が変わった。そう思い、グラスを置いた。

 

 金剛は続けた。

 

「表向きは深海棲艦に対抗するためって言ってるケレド、その割には海洋国家連合と協調する気配は1ミリも無いし、軍事費の内容も、増強している装備の中身も不透明過ぎて、国際的に不信感を抱かれているのが現状ネ」

 

「本心は別にあるだろう、ってことぐらい簡単に予想はつくわ。でも、深海棲艦もまともに相手できないような海軍で、余所の国に喧嘩を売れるとも思えないわ」

 

「お隣もそんなことは百も承知ネ。でも、その上で絡め手で仕掛けてくる強かさを持っているのがあの国ダヨ」

 

「確信的な物言いね。まるで仕掛けてくるのが分かっているようだわ。・・・貴女の旦那様の部署、作戦課第五室ってのは、隣国の内情まで分析するのが仕事なの?」

 

「情報はいくらでも入ってくるそうデース。90パーセントはゴシップですケド」

 

「10パーセントの真実を見抜ける眼力を持っているのかしら」

 

「マイダーリンは情報分析官としても、とても優秀ネ」

 

 意味ありげに笑みを浮かべた金剛に、叢雲は、彼女の意図を察した。

 

「今夜、私をここに誘った本当の理由は、もしかしてこの話題かしら?」

 

「半分正解といったところネ。ムラクモ=サンと飲みたかったのは嘘じゃないヨ。この話は今頃、マイダーリンから海尾大佐にしているはずネ。ダカラ、ワタシはついでみたいなものダヨ」

 

「純粋に親切心からってことね。じゃあ、ありがたく聞かせてもらうわ」

 

 叢雲は再びグラスを手にした。しかし、その瞳から酔いの曇りは消えていた。

 

「今、隣国が新型の無人戦闘機を開発中って噂は聞いたことアリマスカ?」

 

「ええ」

 

「その新型機が近く、南方警備艦隊の担当海域に姿を現す可能性が高いデース」

 

「へえ・・・その目的は、深海棲艦に対する実戦テストかしら」

 

 叢雲の予想に、金剛は頷いた。

 

「でも、実戦投入はすれど、いきなりドンパチする可能性は低いと思うヨ。恐らく偵察任務といった情報収集がメインだと考えられマース」

 

「そうね、私もそう思うけれど。・・・でも、この程度の話なら、わざわざここに呼びつけて勿体ぶることも無かった気がするんだけど? 連中がウチの担当海域に偵察機を飛ばしてくるのは、いつもの事じゃない」

 

「問題はこの新型の中身ネ」

 

「どういうこと?」

 

「ほぼ、ウチのゼロ改のオールコピーらしいヨ」

 

「コピーって、あの国がデッドコピーを作るのは、それこそ今更・・・・・・ちょっと待って、オールコピー?」

 

「Yes」

 

 真剣な表情で頷いた金剛に、叢雲はその言葉が持つ重い意味に気が付いた。

 

「まさか・・・ゼロ改と同一の機体だって言うの? 何もかも?」

 

「機体の形状だけじゃない、素材から、搭載コンピュータの構造、果てはAIのプログラムまで一致している可能性が高いデース」

 

「それ、とんでもない情報漏洩事案じゃない。情報部の大失態だわ」

 

「本来ならそうでしょうケド、それが情報部は妙に落ち着いているみたいネ」

 

「情報部が失態を隠蔽しているってことかしら?」

 

「それなら、隣国がゼロ改の完璧なコピー機を作った事実そのものを隠蔽しようとするはずデース」

 

 金剛は、この情報が他ならぬ情報部からもたらされたことを告げた。

 

「情報部はこれを隠すどころか、むしろ手柄のように堂々と報告していたソウダヨ。ダーリンからそれを聞いて、ワタシも奇妙に思って色々と探ってみたネ」

 

「貴女が?」

 

「この店には、情報部のごひいきもいっぱい居るネ。ワタシから奢ってあげたら、彼ら、簡単に口を滑らせたよ」

 

「口の軽い情報部員なんてスパイ失格ね」

 

「隠す気も無かっただけデース」

 

「ということは・・・情報部がわざとゼロ改の情報を流したというの?」

 

「その通りデース。でも流石にその意図までは口を滑らせませんデシタ」

 

「下っ端が知ることのできるレベルの計画じゃないってことでしょうね。・・・でも、隣国がそのコピー機をウチの担当海域に出してきたとき、情報部はきっと何かを仕掛けてくるでしょうね」

 

「もしくは、隣国もそれを承知でコピー機を出してくるのかもしれないデース」

 

「初霜の一件もあるし、最近の情報部はなんだかきな臭いわ」

 

「きな臭いのは、情報部だけじゃないと思うヨ。ハツシモ=サンの一件については参謀部作戦課も深くかかわっていたネ。・・・影狩りのシノビだけじゃない、第一室の天才軍師も首謀者の一人デース」

 

「静かなるコウメイ・・・」

 

 叢雲の脳裏に、会議中の彼女の様子が過ぎった。海尾に向けられていた、何かを含んだようなその視線。それは単なる女としての目だったのか、それとも、それ以上の何かを含んでいたのか。

 

 当然だが、いまごろ、紫吹 香名は他の出席者と共に海尾と居るはずだ。

 

 叢雲は胸の内に湧き上がってきた得体の知れない不安を飲み下すように、ウィスキーを喉に流し込んだ。

 

 いつもなら、これだけ飲めばもう泥酔しているはずだが、今夜は不思議とそうではなかった。

 

 それはきっと、上質な酒のおかげだったかもしれないし、それ以上に、金剛から聞かされた話の内容のせいで酔いが醒まされてしまったからかもしれない。

 

 しかしどのみち、こんな重大な話を忘れるわけにはいかないのだ。裏雲は酔い覚ましに水を一杯頼んで、それを飲み干すと席を立った。

 

「ありがとう。大きな借りができたわね」

 

「ソレを言うのはまだ早いヨ。礼を受け取るのも、貸しを返してもらうのも、この情報が役に立ってからの事ネ」

 

 金剛は微笑みながら右手を差し出した。叢雲も右手を差し出し、その手を握る。

 

「マタ来てくだサイ。海尾大佐と同伴なら、もっとサービスするネ」

 

「それなら喜んで連れてくるわ」

 

 店のサービスに加え、彼の奢りで飲めるのなら願ったりだ。そんな勝手なことを考えながら、叢雲は金剛の店を後にしたのだった。

 

 

 

 

 




次回予告

 水面を透かして青い光が降り注ぐなか、男と女がひっそりと寄り添い合う。

 二人の心は向かい合っているはずなのに、ほんの些細な出来事がその行方を狂わせる。

「第二十一話・からかい上手の飛龍さん」

「ねえ多門丸、今日は手を繋いで帰ろっか」


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第二十一話・からかい上手の飛龍さん

 ちゅら海水族館は我が国でトップクラスの人気を誇る水族館だ。

 

 どれくらい人気かといえば、沖縄本島の玄関口である那覇空港から高速バスを乗り継いで四時間もかかるという辺鄙な僻地に建っているにも関わらず、

 

「一生に一度は訪れるべき観光スポット、ベストテン」

 

に常にランクインしているほどである。そのため展示の目玉でもある巨大水槽の前は大勢の観光客で埋め尽くされていた。

 

 カップル、家族連れ、団体観光客。多くの人々が巨大水槽をゆったりと泳ぐ多種多様な海洋生物に目を奪われていた。

 

 薄暗い照明の室内に、壁一面の巨大水槽を透過してきた紺碧の光が揺らめき、時折、水中を泳ぐジンベイザメの影が見上げる人々の頭上を通り過ぎて行った。

 

 今年で三歳になる加来の二番目の娘が、水槽を横切っていくジンベイザメの巨体を指差して声を上げた。

 

「くじらー!!」

 

「あれは、サメさん、ですよ」

 

 付き添っていた初霜が、微笑みを浮かべながら丁寧に訂正した。

 

 そこから少し離れた場所では、五歳の長女が水槽のガラスに張り付いていた。

 

「エイ、エイだ!」

 

 ガラス越しに張り付いているエイの裏側に興奮気味の長女。その隣りで朝霜も同じように張り付いて、

 

「アハハ、マジでエイだ。変な顔してんな、なぁ!」

 

 一緒になってはしゃぐ朝霜の様子に、その背後に立っていた霞が呆れ顔でため息を吐いていた。

 

「こら、二人とも。水槽のガラスにべたべたと触るんじゃないったら。ほら、見なさい。あんた達の鼻や額の跡がべったりと残っちゃったじゃない」

 

 霞は二人の襟首をつかんで引きはがすと、二人に携帯ウェットティッシュを渡した。

 

「ほら、ちゃんと拭き取ること。いいわね」

 

「へぇーい」と朝霜。

 

「へいへーい」と子供がまねをする。

 

「返事は“はい”でしょう。朝霜、あんたがシャキッとしないから子供が真似したじゃない!」

 

「へい――はいはい。なんか教育ママみたいだな、霞って」

 

「霞まま~」

 

「な、なに言ってんのよ。それより早く拭きなさいったら、もう」

 

 そこからさらに離れた場所では、阿武隈が、三人ばかりの幼子たちの面倒をまとめて見ていた。

 

「ミナサーン、ワタシの指示に従ってくださーい」

 

 だが五歳の子供たちはてんでバラバラに魚に夢中で、阿武隈の声など聴いていなかった。

 

「んンっ、ワタシの指示に従ってくださぁーいぃ!」

 

 この子供たちは加来の長女の友達だった。加来が子供を連れてくると、なぜだかたいてい、余所の子たちもついてくるのが通例だった。

 

 いつもなら子供たちの面倒は加来と、多門丸と、そして飛龍で見るのだが、今回は阿武隈を含めた二十一駆が来てくれた上に、彼女達から率先して子供たちの面倒を見ると言ってくれたので、加来は妻と一緒に、そして多門丸は飛龍と一緒に、ゆっくりと水族館を見て回っていた。

 

 周囲が混雑していることもあって、並んで歩く飛龍と多門丸の距離もいつも以上に寄り添っていて、端から見ればデート最中のカップルそのものだった。

 

 しかし、当の多門丸の内心はそれどころではなかった。

 

 この多門丸 歩という男、女性が苦手である。

 

 誤解が無いように言うならば、嫌いなのではない。性的に興味が無い訳でも無い。多門丸は肉体的にも精神的にも健全な成人男性である。

 

 しかも、彼は海軍士官であり、その中でも無人戦闘機部隊を率いるエリートだ。加えて顔立ちも整っており、つまるところ、本人にその気が無くとも女性の方が放っておかない“超優良物件”である。

 

 当然、言い寄ってくる女性は数え切れなかったし、そのうちの何人かとは押し切られるような形で付き合ったこともある。

 

 だが、いずれも長続きしなかった。

 

 別れはいつも相手から切り出された。

 

「いつまでたっても心の距離が埋まる気がしない」

 

「あなたが私のことを、どう思っているかわからない」

 

「一緒に居ると息が詰まる」

 

「つまらない男」

 

 そんな言葉を投げられて愛想をつかされてきた。

 

 多門丸にしてみれば、相手から頼まれて付き合ってやっているのに、勝手に愛想をつかされて迷惑だ。という気分でいたが、

 

 それを親友である加来に酒の席で相談したとき、彼は珍しく冷たい視線を多門丸に向けて、こう言った。

 

「だったら、最初から付き合うな。断れ。相手の気持ちに応える気もない男に恋愛をする資格は無い!」

 

 その言葉に、多門丸は頭をガツンと殴られた気分になった。実際、飲み過ぎで頭が痛かった。

 

 自分は、女性から言い寄られている自分に酔っていただけだった。

 

 相手の気持ちなど考えず、向こうから酔ってきたのだから俺に合わせればいい。そんな傲慢な態度で女性を傷つけてきてしまった。

 

 俺は最低な男だ。

 

 人間として恥ずかしい。

 

「加来、ありがとう。俺は目が覚めたよ」

 

「そうか! わはは、で、何の話だっけ」

 

「俺は生まれ変わる」

 

「おお、そうか、じゃあ飲もう。新しいお前の誕生日祝いだ。ハッピーバースデー!」

 

 この酒の席以来、多門丸は仕事一筋の男になった。

 

 加来は妙にストイックになった多門丸の様子を怪訝に思ったが、それが自分の忠告が原因だとは思いもしなかった。彼は酒の席での発言を全く覚えていなかった。

 

 だから加来は、多門丸が女に脇目もふらなくなったのは、彼が女性に振られ過ぎて女性不振に陥ってしまったのだと考え、

 

「不憫な奴だ。だったら俺が一肌脱いでやるしかない」

 

と、むしろ逆方向にやる気を出すようになった。

 

 そんな時に知り合ったのが、飛龍だった。

 

 明るく、社交的で、しかも航空母艦の艦娘だから接点が多い。航空職種の人間が交際するには打ってつけの女性だった。

 

 さらに都合の良いことに、クソ真面目な仕事人間と化した多門丸のことを何故か気に入ってくれたらしい。

 

 それが決して多門丸の外面――エリート海軍士官という飾りに惹かれたのではなく、むしろ残念味が強い中身を知ったうえで好意を寄せてくれたのだから、こんないい子は他に居ないだろう、と加来はすっかり飛竜の恋を応援する側にまわったが、

 

 当の多門丸は、あの忠告を愚直に守り続けていた。

 

「俺は女性の気持ちに応えられない、不器用な男なのだ。だから飛龍が言い寄ってきたなら、それはきっぱりと断るべきなのだ」

 

 と、最初のころは肩肘を張った態度を取り続けていたのだけれども、飛龍はこれまでの女性のように積極的に男女の関係を求めてこず、仕事上の同僚としての距離感を保ち続けた。

 

 飛龍との関係は、多門丸にとっては至って普通の、顔を合わせれば仕事の話のついでに世間話をして、仕事仲間の宴会やイベントにも一緒に顔を出す程度の親しい間柄、だった。

 

 別に男女関係を求めてこない飛龍に、多門丸は思った。

 

「なんだ、俺の勘違いか。自意識過剰にも程があるな。まったく、恥ずかしい」

 

 そもそも自分はアイドルでも何でもないのだから、女性なら誰でも言い寄ってくるはずがないじゃないか。過去の一時期、そんな女性が多かったが、それは誰でも人生一度は訪れるモテ期という奴だ。

 

 とまぁ、そんなふうに思いこんでしまったおかげで気持ちも楽になり、飛龍とも(彼なりに)肩の力を抜いて付き合えるようになった。

 

 そうやって素直に自然体で(あくまで彼なりにであるが)飛龍と接している内に、彼女の明るい性格や、時折垣間見せる聡明さを好ましく思うようになった。

 

 初めのうちは友人として好ましく思っていたのだが、加来の家族も交えて私的な付き合いを続けていくうちに、それが異性に対する好ましさに変化していくのに時間はかからなかった。

 

 しかし、

 

(俺は、飛龍のことが好き・・・なのか?)

 

 ここで素直に感情に従っていればよいものを、リアリストでロジカルな性格の悪い面が、彼に猜疑心を抱かせた。

 

(飛龍はパーソナルスペースがとても狭いのだ。だから何かにつけ必要以上に距離が近い。だから俺は無意識に“警戒して”心拍数が上がってしまうのだ)

 

(それに彼女は会話をするとき、よく人の目を見る。むしろ覗き込んでくるような感じだ。目と目が合うと、やはり“警戒して”しまう)

 

(それに飛龍はよくこう言う。「ねえ、多門丸」そんな風に何かにつけ名前をハッキリと呼ぶ。そのため意識を嫌でも彼女に向けざるを得ない。・・・まあ別に嫌ではないが)

 

(つまり、飛龍を常に意識してしまうのは、無意識かつ身体的反応によるところが大きいという可能性が高い)

 

 と、多門丸は自分の心理状況をこのように分析した。

 

 しかし、分析ができたと言って、だから飛龍と冷静に平静に向き合えるのかといえば、そんなことは全くなかった。

 

 それとこれとは別問題。恋愛とは理屈じゃないのだ。

 

(どうしよう、これから飛龍とどう向きあえばいいのか分からない・・・)

 

 これまで女性から好意を向けられたことはあれど、それに対し積極的に応えようとしてこなかったし、自分から好意を向けることも、ほとんど初めての経験だった。

 

(これじゃ、まるで子供の初恋じゃないか)

 

 自分自身で呆れもしたが、冷静に考えると、ほぼその通りだとも自覚した。かつての貴重なモテ期を自分勝手な思い上がりでスルーしてきたために、多門丸の恋愛経験値はほぼゼロなのだ。

 

 なので、仕事の時でさえも飛龍と二人きりになった途端、彼女のことを強く意識してしまい、ロクに世間話さえもできなくなってしまった。かろうじて仕事の話ができるくらいだ。プライベートで二人きりになろうものなら、もうどうしたらいいのか分からない。

 

今までの女たちから「つまらない男」と評されて愛想をつかされても「だからどうした」と平気でいられたのに、もし飛龍からそう思われたら、自分の心は立ち直れないくらい傷つきそうで、そう思われたくなくて気が気じゃない。

 

 だから、飛龍と出かけるときはいつも加来に頼み込んで子供たちを連れてきてもらっていた。

 

 顔見知りの子供たち相手なら気負うこともなく素の自分が出せるし、それに飛龍も子供好きということもあって自然体で付き合うことが出来たからだ。

 

 しかし、その子供たちは、今日は他の艦娘たちに取られてしまった。これは拙い。飛龍と二人きりでは間が持たない。

 

「ねえ見て、きれいな色の魚だよ」

 

「そうだな」

 

「ここ、深海魚コーナーだって。もしかして深海棲艦とか居ないかな?」

 

「そうだな」

 

「って、居るわけないよね~」

 

「そうだな」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

 この沈黙が、深海の水圧並みに重い。

 

 気の利いた言葉の一つも返そうと思ってはいるのだが、それを考えている内にタイミングを失ってしまって、会話が続かないのだ。

 

 これでは飛龍もつまらないだろう。そう思って彼女の様子を横目で伺った。

 

 水槽の淡く蒼い光に照らされた飛龍の横顔がそこにはあった。多門丸の視線に気づいたのか、彼女もこちらを向き、目と目が合う。

 

 ニコリ、と飛龍がほほ笑む。

 

 その表情に心臓がどきりと跳ねた。顔が赤くなり、それを自覚して思わず目を背けてしまった。

 

 この至近距離での彼女の笑顔は、魅力的過ぎて正視できない。

 

 しかし自分のこの反応がまた飛龍を落胆させるのではないかと不安になって、多門丸は内心で独りよがりな葛藤に身をよじっていた。

 

 その一方で、飛龍もまた似て非なる葛藤を内心に抱えていた。

 

(う~ん。今日の多門丸は、いつにもまして固いなぁ)

 

 飛龍のことを女性として強く意識しているが故の反動みたいなもの、と加来や白雪たちからアドバイスをもらっていなければ、嫌われていると勘違いしてしまいそうだ。

 

 だけど、そうと理解した上で彼の反応を観察していると、結構楽しい。

 

 目を合わせると顔を赤くして目を逸らそうとする様子など、カワイイとさえ思えてきて、ついついからかいたくなってくる。

 

 ちょうど人気スポットの大水槽の前なだけあって、辺りは大混雑だ。

 

 そこで、飛龍はちょっとしたことを思いついた。

 

 飛龍は先へ進もうとする人波にわざと押されたフリをして、多門丸に触れ合う程度まで距離を詰めた。

 

 途端に、多門丸の全身が硬直した。

 

(ふふふ、ちょっと触れただけなのに、すごい反応)

 

 しかし、彼の全身が力んだ状態で棒立ちになってしまったために、二人は人波に逆らう形で立ち止まる格好になった。

 

 そのため、飛龍はちょっとくっつくだけだったつもりが、

 

(へ? わ、わ、転んじゃう!?)

 

 本当に人波に押されて多門丸の胸に飛び込む形になってしまった。

 

(おおお、これラッキーじゃん? 多門丸って胸板厚いし肩幅広いし、うわ、心音まで聞こえちゃってる。むっちゃドキドキしてる~!)

 

いや、どきどきしているのは私も一緒か。と飛龍は上気した頭で思った。

 

 人波の中で図らずも抱き合う格好になってしまったことに恥ずかしさと同時に、このままずっと触れ合っていたいという葛藤もあって、飛龍もそのまま動きが止まってしまう。

 

 多門丸の胸に寄り添いながら、飛龍はその時、周囲の時間が止まったような錯覚を覚えた。

 

 音も何も聞こえない、感じるのは同期したように早打つ二人の心音と、彼の体温だけ。

 

(・・・よし)飛龍は心中で決断を下した。(ラッキーチャンスは活かさないとね。このまま引っ付いてよ~っと♪)

 

 恋に恥じらう乙女時代はとっくの昔に卒業した。人目を気にしない図太さと行動力こそが、今の時代に求められているイイ女の条件だ。

 

 そうやって腹を据えてしまうと、当惑はすっと消えて、後は惚れた男の胸に抱かれている心地よさだけが残った。

 

(にひひ、極楽極楽)

 

 飛龍はすっかり夢見心地だが、一方で多門丸はと言えば、こちらはパニックに陥っていた。

 

 飛龍が人波に押されて触れ合うほど近づいた。これは理解できる。それに自分が過剰反応して立ち止まってしまったために、さらに押されて胸に飛び込む格好になってしまった。ここまでは因果関係は明白だ。

 

 だが飛龍が離れてくれない。

 

 周りには既にスペースが出来ているのに、胸に顔を押し付けるようにして、離れてくれない。何故だ。

 

 この疑問を解こうと頭をフル回転させようとしたが、しかしそれを妨げるものがあった。

 

(や、柔らかいっ!)

 

 ぴったりとくっついているので、飛龍の凹凸のはっきりした身体の感触がダイレクトに感じとれてしまう。それも主に上半身の凸の部分がダイレクトヒットしているのだから堪らない。

 

 さらに飛龍は多門丸より頭一つ背が低いので、彼女の髪の香りが鼻腔を通じて理性にこれでもかと攻撃をしてくるのだから、冷静に思考が働くはずも無かった。

 

 しかしそこはストイック戦術管制官・多門丸である。

 

 そんじょそこらの男とは朴念仁の度合いが違う。彼の脳内辞書に「据え膳食わぬは男の恥」という言葉は無かった。

 

 多門丸は荒ぶろうとする本能を理性で押さえつけながら、飛龍の両肩に手を置いて、彼女をそっと離した。

 

「およ?」

 

 飛龍は意外だという顔をしたが、多門丸は残念ながら彼女の顔を見ていなかった。この距離では正視できないので目を逸らしていたからだ。

 

「だ、大丈夫か、飛龍」

 

「なにが?」

 

「な、何って、転びそうだっただろう」

 

「あ、うん」そういえば、そういう設定だった。「全然平気だよ。支えてくれてありがとうね」

 

「いや・・・気にしなくてもいい・・・」

 

 言いつつ、多門丸は目を逸らしたまま飛龍から手を離した。その横顔は耳まで赤く染まっていた。

 

 多門丸はそのまま、人波に合わせて先へと歩みだす。

 

「あ、待って待って」

 

 飛龍も少し遅れて、ついて歩いた。

 

 ちなみに水槽沿いに歩く二人の立ち位置は、飛龍が水槽側、多門丸が反対側だ。

 

 なので飛龍が水槽を見ようとすれば、必然的に多門丸から顔をそむけることになる。

 

 なるはずだが、

 

「・・・じ~」

 

 多門丸が水槽に目を向けたとき、なぜか飛龍と目が合った。

 

「・・・飛龍、どうしたんだ」

 

「ん~、どうしたって訳じゃないんだけどね」

 

 考え込む素振りを見せながらも視線を外そうとしない飛龍に、多門丸は羞恥心を堪え切れなくなって、先に目を逸らした。

 

(彼女の視線の意味はいったい何だ!? まさか、俺の顔に何かついているとでも言うのか!?)

 

 しかし髭は今朝ちゃんと剃ったし、洗顔もしっかりしてきたから目ヤニもついてないはずだ。寝ぐせだって念入りに直してきた。

 

 思い当たる節は無いが、しかし飛龍の視線は相変わらずこちらを向いている。

 

(じゃあ、いったい何なんだ!?)

 

「つんつん」

 

「うわっ!」

 

 飛龍にわき腹をつつかれ、思わず声が出た。

 

「あ、ごめんごめん。コバンザメがくっついていたからさ」

 

「ああ、そうだったのか」それなら納得だ。「――って、そんなモノが顔にくっついている訳ないだろう!?」

 

「へ? 顔? 違うよ、水槽だよ」

 

 ほら、と飛龍が水槽を指さした。

 

 そこには確かにコバンザメがのっぺりとした腹を見せてくっついていた。

 

 なるほど、そりゃそうだ。バツの悪そうな顔をした多門丸を見て、飛龍が可笑しそうに笑った。ただ、それは嘲るような笑いではなく、親しみを感じる微笑みだった。

 

「ほら多門丸、こっちこっち」

 

 彼の羞恥心を振り払うかのように、飛龍が腕を取って別の水槽の前へと引っ張ってくれた。

 

「見て、チンアナゴだって。かわいい~」

 

 水槽の中には白砂から縞模様の細長いアナゴがひょっこりと半身を立たせて、微かな水流にその身を揺らしていた。小さな頭に黒目がちの大きな瞳が愛らしい不思議な生き物だ。

 

「ねえ、多門丸。チンアナゴの“チン”ってどういう意味なのかなぁ?」

 

 小首を傾げながら答えづらい質問を投げかけてくる。

 

 “チン”の由来だって? そりゃ、こう長い棒状のモノがそそり立っているのだもの、アレに決まって――

 

「――い、言えるわけないだろっ!?」

 

「え~、どうして?」

 

「だ、だって公衆の面前で、しかも君みたいな女性に対して、そんな、卑猥な・・・」

 

「ひわい? ――あっ、“チン”ってそういう」

 

「待て! それ以上はいけないっ!?」

 

「あ、説明書きに由来が書いてある」

 

「なぬ?」

 

「え~っと・・・“チンアナゴは漢字で【狆穴子】と書き、この狆とは犬のことを指します。顔つきが犬のようなので名付けられました”・・・だってさ」

 

「い・・・犬?」

 

「言われたら、確かに似てるよね~」

 

 ところで、と飛龍がニヤッと笑いながら多門丸に目を向けた。

 

「卑猥って、どんなこと考えたのかなぁ~」

 

「ぐっ・・・」

 

 その問いは卑怯だぞ飛龍。多門丸はその叫びをなんとか胸に押し留めた。

 

「あはは、ごめんごめん。実は私もさ、もしかしたらソッチかなぁって、ちょっとは思ったんだよね」

 

 そうなのか。少しほっとした多門丸に、飛龍は続けた。

 

「でも長さはともかく、こんなに細いのは無いよねぇとも思ったけどさ」

 

 あけすけにそう言って笑う飛龍に、多門丸は思わず足がもつれて転びそうになった。

 

 可愛い顔をして何を言い出すんだこの娘は。

 

 いや、飛龍はこういうあっけらかんとした娘だった。と多門丸は思い直す。こういう性格だから、似た者同士の加来ともよく気が合うのだ。

 

 しかし似た者同士だからといって、多門丸としてはいつも加来に接してるような適当で割と邪見な扱いを彼女に対してする訳にもいかない。気になる異性にはなるべく好印象を与えたいのが人情というものだ。

 

 しかし、そのために変に挙動不審になっていては世話が無いのだが。

 

(いったん落ち着こう)

 

 多門丸は静かに深呼吸をして、意識的に歩みをゆっくりとしたペースに落とした。

 

 飛龍に気づかれないように自然に行ったつもりだったが、しかし、飛龍はもちろん彼の僅かな変化を見逃さなかった。何しろ恋する乙女だ。惚れた男のことはいつだって気にかけている。

 

 多門丸の視線が水槽以外に向けられ、辺りを見渡した。

 

「はぐれてしまったな」

 

「ん?」

 

 阿武隈や霞たちとはぐれたのだと、飛龍もすぐに気づいた。落ち着きのない子供たちに引っ張られ、先へ先へと進んでしまったのだろう。

 

 混雑する混雑する水槽側から離れて空いている壁際を歩きながら、二人は次の展示コーナーへと足を踏み入れた。

 

 照明が落とされた広い空間に円筒形の水槽が幾つも立ち並んでおり、その中ではクラゲたちが色とりどりのネオンを浴びながら、ゆうゆうと漂っていた。

 

「綺麗だね~」

 

「ああ」

 

 幻想的な、とか、まるで異空間のよう、といった印象だが実際口から出る感想は割とありきたりな言葉だった。

 

 それでもイルミネーションのように揺らめくクラゲの水槽の空間を好きな男と散策するというのはロマンチックなシチュエーションだわ、と飛龍は思う。

 

 飛龍は、その雰囲気に身をゆだねながら、並んで歩く彼との距離をまた少し縮めた。

 

 多門丸もまた身を強張らせるかと思ったが、そんなことはなく、むしろ自然にそれを受け入れてくれたようだった。

 

(お? やったぁ)

 

 微かな満足感を得ながら、それとなく多門丸の横顔をうかがうと、彼は真剣な表情をして壁にかかった説明パネルを読みふけっていた。

 

「多門丸?」

 

「飛龍、この説明書きに面白いことが書いてある。クラゲというのは実はプランクトンの一種らしい」

 

「へー、そうなんだ。でも、プランクトンって、海を漂っているちっちゃな粒みたいな生き物のことでしょ?」

 

「プランクトンは“浮遊生活をする生き物”のことだそうだ。サイズじゃなくて生活様式で呼ばれているから、クラゲはある意味その代表のようなものかもしれない」

 

「へー」

 

 知らなかった~、と飛龍は適当に相槌を打つ。正直、クラゲがプランクトンの代表であるかどうかに興味は無かった。

 

 ただ、多門丸が恐らくチンアナゴの時のような勘違いを繰り返さないように注意深くなっているのはよく分かったし、そして飛龍が魚の名前の由来やちょっとしたトリビアに興味を持っていそうな素振りを見せたので、それに頑張って応えようとしてくれているのもよく分かったので、それが飛龍には嬉しかった。

 

(私はね、あなたが傍にいて、笑ってくれたら、それだけで嬉しくて楽しいんだよ)

 

 多門丸、あなたはどうなのかな?

 

 飛龍はそれとなくそう訊こうとしたが、それよりも先に多門丸が言葉を続けた。

 

「この説明書きに、もうひとつ興味深いことが書いてある。意外なことに、クラゲは“眠る”らしい」

 

「眠る? そりゃまあ、クラゲちゃんだって眠たいときはあると思うけど?」

 

 何がそんなに意外なのやら、という顔をした飛龍に、多門丸が向き直った。薄暗い展示室でも、その目が好奇心で輝いているのが分かった。

 

「睡眠は、心身の休息、身体の細胞レベルでの修復、また記憶の再構成など高次脳機能にも深く関わっているとされる。しかし、見ての通り、クラゲには脳が無い」

 

「無いねぇ」

 

「しかし代わりに全身に神経網が張り巡らされているそうだ。これは、つまり脳そのものが水中を漂っていると言っても過言じゃないと思う」

 

「さすがに過言じゃない? どうみても何も考えずに、ふよふよと漂っているだけだよ?」

 

 言いながら、そういえば世間ではクラゲを自宅で飼うことが密かなブームになっているらしいという噂を聞いたことを思い出した。

 

 ストレス社会に生きる人間にとって、脳の無い波に漂うだけのクラゲはさぞかしお気楽に見えて癒されるのだろう。

 

「いや、クラゲにも考えはあると思う。弱肉強食の自然界は食うか食われるかだ。ストレスを感じないのは眠っているときだけかもしれない」

 

「クラゲも大変なんだねぇ」

 

「眠るという行為は“忘れる”という機能に重要な役割を果たしていると考えられる。眠ることで生きるストレスを忘れ、神経系に溜まった情報負荷を整理するんだ。クラゲにもこの機能があるんだろう」

 

「クラゲちゃんも夢を見るのかな? そんなことないか」

 

「いや、見ているのかもしれない。夢を誘発するレム睡眠は、最も古い睡眠の形態と言われている。生物は脳の進化によって、夢を見ないノンレム睡眠を獲得したんだ」

 

「なんで?」

 

「脳が複雑化したことで、レム睡眠のような浅い眠りでは脳が回復できなくなったんだ。だから意識をほぼ完全に手放すレベルの深い眠りを必要とするようになった」

 

「へー」

 

 話しながら、二人はクラゲの展示コーナーを出て、次のコーナーに移った。

 

「睡眠の機能は、AIにも活用できるかもしれない」

 

「はい?」

 

 まだこの話題を続けるんだ、という思いと同時に、AIが眠るかもしれないという意外性にも興味を惹かれた。

 

「それってさ、AIもストレスを感じているから眠って忘れたいってこと?」

 

「まあ、そんなところだ。もう少し別の言い方をすると、さっきも言った“情報整理”の部分の方に重点を置いている。人間は眠ることによって情報を感情と分離し、意識野から無意識野へ整理しなおしていると考えられているんだ」

 

「どゆこと?」

 

「情報の組み換えと偏在化だ。俺たち軍人を例に挙げると、戦場で得た経験、これが情報だが、ここには必ず感情が付きまとう。死の恐怖と言ったものだな。脳は睡眠を繰り返すことで、この経験から感情を分離し単なる“記憶”として残す。そうすることで冷静に物事を判断できるようにするわけだ。この機能がうまくいかないと、とある症状を発症してしまう」

 

「発症・・・あ、もしかしてフラッシュバック? PTSD(心的外傷後ストレス障害)だね。確かに、昔のことを思いだすたびに感情までフラッシュバックしてたら、堪らないわ。・・・でも、AIに感情は無いから関係なくない?」

 

「そう、だから注目されているのは偏在化の部分だ」

 

「情報を薄っぺらくして拡げるってこと?」

 

「面白い表現だ。なかなか的を得ている」

 

「自分で言っといてなんだけど、さっぱり意味が分からない」

 

「また人間を例に挙げよう。さっきのクラゲの展示を見て、飛龍はどんな感想を抱いた?」

 

「綺麗だな~って」

 

「そこだ」

 

「どれよ?」

 

「既存のAIは、クラゲを見ても“クラゲである”としか判断しない。色とりどりに輝いていても、“光が当たっているだけ”なんだ」

 

「感情が無いから、そうなるよね~」

 

「感情ではなく、“クラゲ”と“綺麗”との間を橋渡しする情報を持っていないからだ。しかし人間はそれを持っている。これまでに得た情報を偏在化し、どんな状況にも応用できるように加工して無意識野に保存しているからだ」

 

「なるほど~・・・」分かったような、分らんような。「・・・つまりAIが眠れるようになると、もっと人間らしくなるってことでオッケー?」

 

「人間らしいというのは語弊があるな。脳とは構造が異質過ぎて、まったく違う感情や思考が生まれる可能性の方が高い」

 

「あのさ、仁淀ちゃんっているでしょ。ウチの業務支援AI。あの子とか、もう人間にしか見えないんだけど、それでも全然違うの?」

 

「UN-Aタイプの対人インターフェイスは非常に完成度が高いが、構造の限界上“そのように見えるよう振る舞っている”だけだな。哲学的ゾンビだ」

 

 ゾンビとかまた変な専門用語が出てきたが、聞くのはやめておいた。だんだん話が複雑になり、ついていけるレベルじゃなくなってきた。適当に相槌を打つのもそろそろ限界だろう。

 

なんとか軌道修正しないと。

 

「そういえばさあ、深海棲艦も眠るのかなぁ?」

 

「ふむ、それは興味深い質問だ」

 

 よかった、興味を持ったようだ。深海棲艦の話題なら、なんとかついていける。

 

「しかし、実は深海棲艦に脳は無いんだ」

 

「は? それホント?」

 

「本当だ」

 

「うそぉ」

 

「だから本当だと言っている。案外知られていない事実だが、被害観測を行っている航空部隊の飛行職種の人間なら、一度くらいは自分の目で見たことがあるはずだ。頭部に損傷を負った深海棲艦は、どれも必ずその中身は空っぽだった」

 

「えー」

 

 今度は適当な相槌じゃない。割と本当に驚いた。飛龍にとっては初耳である。

 

「誰も教えてくれなかったよ、そんなこと。艦娘たちはみんな知らないんじゃないかなぁ」

 

「知ったところで謎だらけの深海棲艦にまた一つ謎が増えるだけだから、実働部隊の人間にとってはさほど必要な問題でもない。だから敢えて教える必要も無いのだろう。研究職の人間以外にとっては、知っても役に立たない雑学と見做されているんだ」

 

「世間話のネタにはもってこいだね」

 

 デート中の話題にふさわしいかはともかく、少なくとも退屈はしない。多門丸なりに飛龍と会話を続けたい意思の表れなのだとしたら、むしろ可愛げがあると思う。

 

 だから、飛龍はもう少しだけ、この話題にのってあげることにした。

 

「深海棲艦に脳が無いっていっても、クラゲだってないんだし、眠らないことには関係ないよね。それに深海棲艦って生物じゃなくて機械かもしれないって説もあるんでしょ。だったら、さっき多門丸が言ってた“眠れるコンピュータ”とか積んでるかもしれないし」

 

「眠れるコンピュータ・・・か」

 

 今度は多門丸が、意外だ、という顔をした。

 

「そうか、よく考えたら生物かどうかもわからないんだ。ならAIに似た構造を持っていたとしてもおかしくは無いか」

 

「そうだよ。そもそも電子戦を仕掛けてくる生物って時点でおかしくない?」

 

「電気ウナギは1000ミリアンペアもの電流を放出できる。電磁波を発生させられる身体構造をもった生物がいてもおかしくは無い。それよりも機械的、コンピュータ的と思われる部分がある。そのことに今、気が付いた」

 

 多門丸はそう言って、腕を組み、うつむき気味になって、

 

「そうだ。・・・あのときの新型機の解析データの計算値・・・いや、もしかするとそれ以前から・・・」

 

 と、ぶつぶつと独り言を呟き始めた。

 

「え、多門丸? わ、危ない」

 

 飛龍は慌てて多門丸の腕を引いて通路の脇に移動した。何しろ人波の中で周りに気を遣わずに歩きだしたのだ。危うく人にぶつかるところだった。

 

 だが多門丸は相変わらず思索にふけったままだ。腕を引いた飛龍がそのまま腕を組んでいるにも関わらず、である。

 

「・・・やはり、その可能性は高いな。試してみる価値はある」

 

 多門丸はそう呟き、飛龍に組まれていない方の手でポケットから携帯端末を取り出した。一般の端末とは違う、軍専用端末だ。

 

 ある一定以上のレベルの軍人なら非常連絡用として公私を問わず携帯しているが、身分証カードとパスワードと指紋認証とさらに顔認証を行うことによって、軍のネットワークに接続することもできた。

 

 彼は片手で器用にすべての認証をパスすると、すぐに自分のオフィスにある業務用端末を経由して、第二航空戦隊の業務支援用AIにアクセスした。

 

「サポートAI、こちら第二航空戦隊 無人機戦術管制官 海軍大尉 多門丸 歩だ。戦術支援を乞う」

 

「ちょ、ちょっと多門丸、こんなところで!?」

 

「そうだな、ここは少し電波が弱くて接続が不安定だ。屋外へいこう」

 

「え・・・えぇ!?」

 

 飛龍と腕を組んだまま、多門丸はずんずんと先へと進みだした。まだ続く展示エリアをさっさと抜けて、屋外の喫食エリアまで出てしまった。

 

 腕を組みながら歩く二人は、傍目からは紛れもなく仲睦まじいカップルに見えた。案の定、先に子供たちを連れて喫食エリアに到着していた二十一駆の四人の目にもそう見えていた。

 

「見て見て」と阿武隈が指さす。「あの二人、すごい進展したみたいだね。良かった」

 

 霞も頷きつつ、少し首を傾げた。

 

「意外ね、もっと時間がかかると思っていたわ」

 

「飛龍さんが痺れを切らして告白でもしたんじゃねえの?」と、朝霜。

 

「でも」と初霜。「少し様子がおかしくないですか。多門丸さんは、飛龍さん以外のことに気を取られているような・・・」

 

 その疑問に、他の三人も「そう言われれば・・・」と、改めて多門丸と飛龍の様子をうかがおうとしたが、その時になって、

 

「あ、こら、勝手に離れちゃダメだってば!」

 

 面倒を見ていた子供たちがてんでばらばらに飛び出してしまったので、皆、そっちに気を取られてしまった。

 

 多門丸はそちらの様子には気にも留めずに空いていたベンチに腰掛け、改めて携帯端末を取り出した。

 

 彼は二航戦サポートAIに対し、これまでの戦闘データに複数の条件を付けて計測しなおし、解析するよう指示を始めた。

 

 その条件はあまりにも専門的過ぎる上に多岐にわたり、またそれに対するAIからの質問や提案を受けてさらに複雑怪奇に変化していく有様で、

 

 つまるところ多門丸は、隣で腕を組んだまま座っている飛龍のことなど完全に眼中にない様子で端末に向かい合っていた。

 

 飛龍は多門丸と腕を組んだまま、その真剣な横顔をしばらく眺め続けていたが、彼がまったく注意を向けないことに堪えかねて、

 

「ねえ」と声をかけた。「飲み物でも買ってこようか」

 

「・・・ああ」

 

「なにがいい?」

 

「・・・なんでも」

 

「・・・ん~っと、コーヒー? お茶? コーラとかフルーツジュースもあるよ」

 

「・・・どれでも」

 

「・・・」

 

 完全に上の空な多門丸の対応に、飛龍は不機嫌な表情になったが、すぐにあることを思いついて、にやりと笑った。

 

「じゃあさ、私と一緒でいい?」

 

「ああ」

 

 してやったり。飛龍は内心でほくそ笑みながら席を立ってジュース売りの屋台へ向かった。

 

 屋台の客の列に並ぶ直前、飛龍は二人組に阻まれた。

 

 阿武隈と霞だった。

 

「飛龍ちゃん、ちょっとこっち来て」

 

「あ、阿武隈さん、私これからジュース買いに――」

 

「いいから、話があるって言ってんの!」

 

「わわ、霞ちゃん急に引っ張らないで~」

 

 そのまま多門丸から見えない位置まで移動させられた。ちなみに子供たちは朝霜と初霜が面倒を見続けている。

 

 飛龍は、二人から「いったいこれはどういうこと!」と怖い顔で詰め寄られた。

 

「どうって・・・見ての通りだよ」

 

「意味わかんない」と霞。「腕を組んでいる彼女をガン無視して端末にかかりきりになっているとか、ありえないわ!」

 

「なんかクラゲとか観てるうちに深海棲艦について何かひらめいちゃったみたいでさ」

 

「クラゲ?」阿武隈の頭上にハテナマークが見えた気がした。「どんなアイデアか理解できないし、できる気もしないけど、ここで仕事するほど重要なことなの?」

 

「多門丸は笑顔が素敵なんだけどね。でも仕事しているときの真剣な顔もカッコよかったよ♪」

 

「そこ惚気るところ!?」と霞。

 

「ダメダメ、許しちゃダメだよー」阿武隈も両肩を掴んで揺さぶってきた。

 

「あはは、まあ半分冗談だけどね。やっぱりちょっと癪だから」

 

 ちょっとからかってやろうと思いまして。と、飛龍は、阿武隈と霞を相手にひそひそ話を始めた。

 

 一方その頃、子供たちの面倒を朝霜と一緒に観ていた初霜は、子供の一人、加来の長女が多門丸の方をじいっと眺めていることに気が付いた。

 

「どうしたの?」

 

 と、声をかけると長女は多門丸の方を指さした。

 

「たもおにーちゃん、ひりゅおねーちゃんをほっといて、なにやってるの?」

 

「え・・・っと、お仕事、かしら」

 

「たもおにーちゃん、デートちゅうになんでお仕事やってるの!?」

 

「う~ん、本当に何をやっているのかしらねえ」

 

 これには初霜も苦笑せざるを得なかった。

 

「デート中は、お仕事の話をしちゃダメだって、パパ言ってたよ!」

 

「え、だ、ダメなの・・・!?」

 

「そだよ!」

 

「・・・そう・・・なんだ」

 

 どうしよう、私、仕事の話ばっかりしていたわ。初霜の内心の後悔など知る訳もなく、長女は憤慨した様子で言った。

 

「ちょっと、たもおにーちゃんに、おせっきょーしてくる!」

 

「あ、ちょっと待って!?」

 

 初霜が止める間もなく、長女は多門丸のもとに駆け出して行ってしまった。

 

「たもおにーちゃん!」

 

「ん? ・・・ああ、君か。どうした?」

 

「めっ!!」

 

「は?」

 

「ひりゅおねーちゃんをほったらかしてお仕事なんかしてるから、めっ、なの!」

 

 そういうことか、と多門丸はようやく気が付き、そして飛龍がなかなか戻ってこない上に姿も見えないことに気が付いて、バツが悪そうな表情になった。

 

「もしかして、怒らせてしまったかな」

 

 この言葉は、長女を追って傍にやってきた初霜に対する問いかけだった。

 

「怒ってはなかったと思いますが・・・」

 

 苦笑で答えた初霜だったが、長女から駄目出しされた。

 

「おこってなくても、あれはダメなの! ちゃんとゴメンナサイするの!」

 

「まったくもってその通りだな」

 

 多門丸は深くため息を吐きながら端末の接続を切ってポケットに戻した。

 

 意外と素直なのね、と初霜が感心する傍で、長女がまた、

 

「ダメなの!」

 

 と、ベンチから立ち上がろうとした多門丸を留めた。

 

「おこらないひりゅおねーちゃんもわるいの! だから、たもおにーちゃんはまだここにいるの!」

 

「はぁ」

 

 多門丸は首を傾げつつベンチに座りなおす。

 

「で、はっしーはここにすわるの!」

 

「はい――はい?」

 

 初霜も意味不明ながら、言われるがまま多門丸の隣に腰かけた。

 

「それで、ふたりでなかよく、おはなしするの!」

 

「「なんでっ!?」」

 

「ひりゅおねーちゃんにヤキモチやかせるの! そしたら、ひりゅおねーちゃんもあせって、せっきょーてき・・・せえきょ・・・えっと」

 

「積極的、かしら?」

 

「それ! それになるの!」

 

「誰にそう言われた」

 

「パパ!」

 

「だろうな」

 

 多門丸は先ほどとは別の意味でまた深いため息を吐いた。

 

 加来のやつめ、いつもは騒がしいあいつが今日はやけに影が薄いと思ったら、最初からこうなることを見越して娘に入れ知恵しておいたわけか。

 

 辺りを見渡しても加来夫妻の姿は見えないが、子供を置いていなくなるはずも無し、おそらくどこかの物陰から様子をうかがってほくそ笑んでいるはずだ。

 

「いいね、ちゃんとみせつけるんだよ!」

 

 念入りに念押しして長女は去って行った。

 

 そのまま街路樹の影にむって「パパ~ちゃんとできたよ~、ほめてほめて」なんて言ってる。なるほど、あそこに隠れていたか。あとで石でも投げてやろうか。

 

 そんな物騒なことを考えて、すぐに大人げないと取り消したその傍らで、残された初霜が口を開いた。

 

「あの・・・どうしましょうか」

 

「まあ好きにさせといていいんじゃないか。この分なら飛龍もどこかで足止めをくらっている可能性が高そうだ。それにしても、巻き込んでしまって申し訳なかった」

 

「い、いいえ。私たちこそ勝手について来た身ですから文句は言えませんよ」

 

「そうか・・・」

 

「はい・・・」

 

「・・・・・・」

 

「・・・・・・」

 

 沈黙。

 

 飛龍と違って別に意識している相手ではないが、日ごろ接点のない相手だけに気まずさがある。

 

 さて、どうしようか。と多門丸が思案している内に、初霜が先に口を開いた。

 

「ええと・・・さ、最近の子供って考えがしっかりしているんですね」

 

「しっかり・・・いや、あれは加来の――父親の入れ知恵だ」

 

「でも、しつけとしては悪くないと思いますよ。・・・正直、私も思い当たる節が多すぎて、耳が痛いです」

 

「それは、仕事の話ばかりしていた、というやつかい?」

 

「ええ。私も以前、気になる人が居たんですけど、意識するあまりうまく話せなくて、結局仕事がらみの話題ばっかり・・・今にして思えばつまらない女と思われていたでしょうね」

 

「そうか・・・同じだな」

 

 ため息混じりに自嘲気味に笑う初霜に、多門丸は親近感を抱いた。

 

「お仕事の方は、もうよろしいんですか?」

 

「まあね」

 

「別に私はデート相手じゃないのですから、気にすることも無いですよ」

 

「いや、いいんだ。そもそも冷静に考えてみれば、そんな急いで取り掛かるほどのモノじゃないんだ。ただ、ひらめいた仮説に夢中になってしまった。俺の悪い癖だ」

 

「どんな仮説をひらめいたんですか?」

 

「深海棲艦の知能が、人間よりも人工知能に近いのではないかという仮説だ。それも現行のAIではなく、量子コンピュータのなかでも極まれに発見されるエヴァレットタイプAIが示す未解明定理に近い傾向がある。もしこれが正しいと証明できるなら、深海棲艦の行動原理の解明にもつながるかもしれない」

 

「エヴァレットタイプ。たしか多元世界相互解釈でしかその振る舞いを説明できないコンピュータ、でしたっけ」

 

「世界でも珍しい“忘却とひらめき”を可能とするAIだ。他の量産型AIと構造は同じはずなのに、極低い確率で出現する。その原理はいまだ発見されていないから、量産もできない。既存AI一台一台を特殊な試験にかけて地道に探すしかない」

 

「でも、入力したデータはすぐに変容してしまって共有不可能ですし、出力される結果も独創的過ぎて証明が不可能なものばかりで、とても実用AIには使えないシロモノと噂では聞いたんですが」

 

「だから、これまで誰もやってこなかった。試す価値はある」

 

「突飛な発想ですね。私なら試す前に、有り得ないと思って検証しようとも思いません」

 

「皮肉かな」

 

「いえ、素直に感心しているんです。本当、ですよ?」

 

「いや、あきれてもしょうがない。正直、これの検証には膨大なデータをその定理に従って解析しなおす必要があるし、それは一朝一夕で終わるような仕事じゃない。今日はじめたところでどうにかなるはずが無いんだ。飛龍には悪いことをしてしまった」

 

「そうですか。・・・でも、飛龍さんがそんなに怒っていなかった理由も、少しは分かった気がします」

 

「え?」

 

「お仕事の話をされている時の真剣な表情がカッコいい・・・と」

 

 その言葉に、多門丸の顔がまた赤くなった。

 

一瞬遅れて、これが初霜自身の言葉ではなく飛龍がそう言っていたという意味だと気づき、少しだけ冷静になったが、

 

 すぐに、飛龍のあけすけな好意の表し方に、彼の頭はまた茹だった。

 

「その・・・それは・・・あ」

 

 どう言葉を返していいか分からなくなって、どもってしまった多門丸の様子に、初霜は静かに「ふふ」と笑みをこぼした。

 

 意外と感情豊かな人なのね。と初霜は思う。

 

 ロジカルなリアリストだと聞いていたのでもっと冷淡な印象を勝手に抱いていたのだが、どうやらロジカルに処理できない問題――つまるところ恋愛感情――にはとことん振り回される性質らしい。

 

(私と同じね)

 

 そう理解して、初霜もまた多門丸に対して親近感を抱いた。

 

 だからだろう、最初は仲間の悪ノリに適当に付き合うだけのつもりだった初霜が、初めて多門丸と飛龍の関係に興味を持った。

 

「あの、多門丸さんは飛龍さんのことをどう思っているんですか?」

 

「ど、どうって、その・・・」

 

 赤くなったまま口ごもる多門丸に、初霜は興味本位で軽率な質問をしたことを恥じた。

 

「ごめんなさい。私ったら不躾な真似をして」

 

「いや、いいんだ。即答できない俺の曖昧な気持ちが悪いんだ」

 

「曖昧、ですか」

 

「彼女を意識しているこの気持ちが、本当に恋愛感情なのか、それとも異性への友情を勘違いしているだけなんじゃないのか。そう思ってしまってな・・・いや、それこそ違うか。そうだ、きっと俺は、傷つくのが怖いんだ」

 

 多門丸は話しながら、自分の言葉に納得したかのように頷いた。

 

「俺は、飛龍からの好意がもし恋愛感情じゃないとしたら・・・そう思って怯えていたんだ。彼女に好きだと言ったとき、もしも彼女から違うと言われたら、ただの友情を勘違いしないでといわれたら・・・それが、怖いんだ」

 

「だから、自分の感情も素直に認められなかった?」

 

「そうかもしれない。だから、もう認めるべきなんだろうな。・・・いや、はっきり認めよう。俺は、飛龍が好きだ」

 

 そう口に出した瞬間、多門丸は自分の心がスッと軽くなった気がした。今まで胸の内にすくっていたもやもやとした気持ちが、すとんとあるべき場所に落ち着いた気がした。

 

「その言葉が聞けて安心しました」

 

 初霜も安堵の笑みを浮かべていた。

 

「君のおかげかな」と多門丸。「話を聞いてもらったおかげで自分の感情と落ち着いて向き合うことが出来た。感謝するよ。ありがとう」

 

「そんな、私はただ聞いていただけですから」

 

「聞き上手なのだろうな。カウンセラーの素質はあると思う。・・・で、そのカウンセラーにもう一つ相談に乗ってもらいたいことがあるんだが」

 

「えぇ~・・・」

 

 困惑気味だが聞く姿勢を崩さなかった初霜の好意に甘えて、多門丸は言った。

 

「自分の気持ちははっきりしたが、それでも彼女に振られるのが怖くて告白できそうにない」

 

「ヘタレですね」

 

 初霜から即座に真顔で突っ込まれてしまったが、そのとおりだから仕方ない。

 

「そう、俺はヘタレだ。だから相談しているんじゃないか」

 

「色々と開き直りましたね。その調子で肝心なところまで開き直ったらどうですか? ・・・といっても、私もその気持ちは理解できますけどね」

 

「やっぱり、君なら分かってくれると思っていた」

 

「だからって、私が代わりに飛龍さんの気持ちを聞いてくるとか、そういうのは無しですからね」

 

「そうだな。それもなんだか卑怯な気がする」

 

「こういうのは当たって砕けろ、ですよ」

 

「他人事だと思って簡単に言ってくれる。勝算のない作戦行動は外道の戦法だぞ」

 

「負けても死ぬわけで無し。いいじゃないですか。自分の気持ちがハッキリしているなら、早く伝えるべきですよ。でないと・・・」

 

「・・・?」

 

 言い淀んだ初霜の雰囲気が微かに変わったことに多門丸は気が付いた。

 

 それはまるで、何かを後悔しているような、そんな哀し気な気配が微かに彼女を覆っていた。

 

(ああ、そうか)

 

 多門丸は察した。普段、人の感情の機微に疎い彼が、なぜだか確信をもって気づけてしまった。

 

 初霜は、伝えられなかったのだ。

 

 多門丸がそれを察したことを、初霜もまた察した。

 

「私たちは軍人です。・・・別れは、いつ来るか分かりませんから」

 

「そうだな」

 

 お互いに、微かに笑った。話はこれで終わりだった。

 

 二人はしばらく沈黙の時間を過ごしたが、そこに気まずさは無かった。友情や恋愛とはまた違う、親近感と信頼感がお互いにあった。

 

 それから少しだけ間をおいて、飛龍が戻ってくる姿が見えた。

 

「私の役目も終わりですね」

 

 初霜はそう言って席を飛龍に譲った。

 

「初霜ちゃん、ごめんね。迷惑かけて」

 

「いいえ、そんなことありませんよ。・・・楽しかったですから」

 

「え・・・」

 

「ふふ」

 

 一瞬、不安げな表情を見せた飛龍に対し、初霜は悪戯めいた微笑みを漏らした。たまにはこうやって、からかう側にまわるのも楽しいものだ。

 

 それに、と初霜は飛龍の手元にあるジュースの容器を見て思った。

 

(飛龍さんもなかなかイジワルね)

 

 飛龍のからかいに多門丸がどんな反応を見せるか。それが容易に想像がついて、初霜はくすくすと笑いながら、

 

「それじゃあ、お邪魔しました」

 

 そう言って、飛龍とすれ違ってその場から立ち去った。

 

「あんな初霜ちゃん、初めて見た・・・」

 

 しばし初霜の後姿を見送った飛龍だったが、

 

(まさか、多門丸のことを!?)

 

 はっとして彼の方へ向き直った。

 

「ひ、飛龍、そ、その・・・」

 

 彼女と目が合ってあわあわと慌てる多門丸の様子に、妙に心がざわつく。

 

(あー、どうしよう。私、あんなあからさまな罠に見事に引っかかってる)

 

 初霜ちゃんにヤキモチ焼いてる。と、悔しさを自覚する。

 

 だから、いつも以上に強引に行くことにした。

 

「た~も~ん~ま~る~。お待たせ」

 

「ああ、色々とその、すまなかった。ちゃんと謝ろうと思っていたんだが・・・」

 

「いいよ別に、な~んにも、怒ってないから」

 

「そうなのか。じゃあその、聞きたいんだが」

 

「なぁに?」

 

「君の手元にあるジュースは、なんだ?」

 

「なにって、ミックスフルーツジュースだよ」

 

「一個しかないな」

 

「大きめのカップだから二人分はあるよ」

 

「ストローも一本だな」

 

「よく見て、吸い口は二つあるでしょ? ほら」

 

「ああ、確かに・・・」

 

 二本のストローがより合わさって、途中でハートマークを描きながら両側へ分かれている。

 

「私と一緒で良い、多門丸そう言ったよね~」

 

「言った、な・・・」

 

 にや~っと、飛龍が小悪魔的な笑みを浮かべながら、カップを多門丸の前に捧げ持った。

 

「はい、どうぞ」

 

「うっ!?」

 

 惚れた女からここまでされて嬉しくないわけが無い。だが、ここは衆人環視のど真ん中である。

 

 辺りを見渡せば、二十一駆は言うまでもなく、加来夫妻もいつの間にか姿を現して携帯端末を構えている。

 

 間違いなく動画撮影されている。それも拡散前提だ。奴ならやる。容赦なくやる。

 

「待て、ちょっと待ってくれ!」

 

「だぁめ、待たない」

 

 ほら、と飛龍はカップをわずかに押し出し、少しだけ開いた唇の隙間にストローを差し込まれてしまった。

 

 しかもすぐに、彼女自身も素早くもう片方のストローを咥えた。

 

 多門丸のすぐ間近に、飛龍の顔があった。魅力的過ぎて正視できない彼女の顔が。

 

 周囲では歓声にも似たどよめきと多数のシャッター音が響き渡った気がしたが、そんなことを気にする余裕は多門丸にはもうなかった。

 

 ジュースの味さえわからなかった。

 

 彼はただ、激しく高鳴る動機と、血が上った頭に痺れたような感覚を味わいながら、焦点の定まらない目で飛龍を見つめることしかできなかった。

 

「ねえ、多門丸」

 

 すぐ目の前で、飛龍がストローを咥えながら、少し舌足らずな言葉で喋った。それはひどく甘いささやきとなって多門丸の耳をくすぐった。

 

「今日は、手を繋いで帰ろ?」

 

「あ、ああ・・・」

 

 ショート寸前の頭では言葉の意味も分からず、彼はただ反射的に同意してしまっていた。

 

 そこから先のことは、多門丸はよく覚えていない。気が付いたら加来夫妻を含め、全員そろって水族館を出ていた。

 

「じゃあ、約束だよ。多門丸、ほら」

 

 そう言って飛龍から差し出された手を、意味も分からずぼけっと見つめていたら、飛龍から露骨に不機嫌な顔で睨まれた。

 

「約束、もう忘れたの?」

 

「え?」

 

 訳が分からない、といった様子の多門丸に、周りのみんなが待ってましたとばかりに各自の携帯端末を取り出した。

 

「証拠はここに、ばっちりあるぜ」

 

 加来が悪魔的な笑みと共に見せつけてきた動画には、一杯のジュースを分け合って飲む二人の様子がしっかりと撮影されていた。

 

「な・・・なっ・・・」

 

「大人しく飛龍ちゃんの要求に応えた方が身のためだぞ。でなきゃこの動画が俺のSNSに載っちまうかもなぁ」

 

「加来、貴様ぁ!」

 

「私は拡散されても平気だけどな~。っていうか、むしろ拡散希望だよ」

 

 なんだこれ、逃げ場なしか。

 

 絶望する多門丸は、最後の砦とばかりに初霜に目を向けた。

 

 彼女なら、きっと俺の窮状を理解してくれる。助け舟をだしてくれるかもしれない――

 

――多門丸の目に映ったのは、自前の携帯端末を彼に向かってかざす初霜の姿だった。その画面には当然のように二人の恥ずかしいまでに仲睦まじい様子が写っていた。

 

(この裏切り者ぉぉ!)

 

(なに言ってるんですか。というか飛龍さんがここまでしているのに、何を今さら迷っているんですか!)

 

(うっ・・・けど、こんな人前で・・・)

 

(頑張ってください!)

 

 声なき目と目の会話、というより、初霜の気迫に押されたといった方が正しいか。

 

(そうだな・・・ああ、そうだ)

 

 多門丸は腹を据えると、深呼吸を一つして、

 

「飛龍!」

 

「ふぇっ! あ、はい・・・わっ」

 

 差し出された手を、しっかりと握った。もちろん握手の形じゃない。彼女が差し出した左手に、右手を重ねる、いわゆる“恋人繋ぎ”だった。

 

「その、い、一緒に帰ろう。・・・別ルートで」

 

「は、はい・・・」

 

 いいんだな、飛龍。君がどう言おうと、俺は今夜、君を俺のものにするぞ。

 

 さすがにそんなことは言えなかったが、見つめた彼女の瞳が、心なしか微かに頷いたような気がした。

 

 きゃーっとまた周囲で歓声が揚がり、シャッター音がいくつも響き渡ったが、多門丸はもうそれを気にしなかった。好きにしろ、だ。

 

 

 

 

 

 

 

「いやーめでたいなぁ。明日は赤飯かな」

 

「加来、お前の携帯をよこせ。今すぐこの場で叩き壊す」

 

「おいバカ止めろお前本気だろ。やめろやめろ、やめてお願いだからぁぁぁ」




次回予告

新たな関係を迎えた二人、新たな気持ちで飛ぶ男と、待つ女。

いつもと変わらぬ海と空、そう見えたは幻か。

隣国と秘められた野望と、情報部の隠された意図、不穏な気配が渦巻く戦場で、多門丸と加来は信じられない事態に遭遇する。

「第二十二話・人工知能は多元宇宙の夢を見るか」

「深海棲艦は・・・AIは・・・人類の予想をとっくに超えているのか・・・!?」


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第二十二話・人工知能は多元宇宙の夢を見るか(1)

 あの水族館デートの後、多門丸は、飛龍と何があったのかを詳しくは語ろうとしなかった。

 

 だが、何があったかを察するのは加来にとっては容易なことだった。

 

 ストイック仕事人間だった多門丸が、仕事の小休憩の度に携帯端末のメールを気にするようになり、また時折、メールを読んで顔を赤らめたり口元が緩んでいたりする様子を見れば、親友である加来でなくとも、大方の察しがつくだろう。

 

 そんな感じで、眺めているだけで面白いという状態なので、加来もあえて深く訊かずに生ぬるく見守っていた。

 

 そんなこんなで二週間ほどが経ったある日のこと。

 

 いつものように哨戒任務のために飛び立とうとする前に、多門丸が真剣な表情で相談を持ち掛けてきた。

 

「飛龍について、責任を取りたいと思うんだ」

 

 初めはなに言ってんだコイツと思ったが、真剣な眼差しをしたまま顔を真っ赤にしている多門丸を見て、ああコイツは本気なのだな、と察しがつき、

 

 その一方でとことん生真面目なこの親友に、さらに深い友情と、そしておかしみを感じて、思わず大爆笑してしまった。

 

「おい、そんなに笑うことは無いだろっ!」

 

「うひゃひゃひゃ、いや、すまん、だけどなぁ、お前、飛龍ちゃんこと大事に思っているんだな」

 

「と、当然・・・だ」

 

「それが聞けて安心したよ。わかった、真剣に、全身全霊でお前の相談に乗ってやる。大船に乗ったつもりでいな」

 

「そうか、恩に着る」

 

「でも、こんな大事な話は出撃前の短い時間でするもんじゃないな。任務が終わって帰投してから、一杯やりながら腰を据えてやろうじゃないか」

 

「ああ、そうしてくれると助かる」

 

「よし、じゃあ今日の任務もちゃっちゃと済ましてしまおうか」

 

 二人は彩雲改の最終確認を終え、コックピットに乗り込む。加来は前席のコンソールに家族の写真をしっかりと貼り付け、いつものように心の中で、

 

(行ってきます、パパは必ず帰ってくるからね)

 

 そう呟きながら、各計器類のスイッチを入れていく。

 

 エンジン・マスタースイッチ‐オン、エンジン始動、回転計の数値が上昇していく。左側のスロットルレバーを前に押し出し、エンジン点火。アイドル位置に戻し各種点検、調節。

 

 機体の外で待機中の最終チェック担当のメンテ妖精に武器の安全装置を解除するよう指示。

 

 妖精たちは基地の整備用AIに指示内容を問い合わせ、安全基準に問題がない事を確認し、指示を実行。彩雲改の胴体及び主翼下部に搭載されたミサイルのグランド・セーフティピンが引き抜かれる。安全装置の解除を確認。

 

 パーキング・ブレーキ‐オフ。機体が動き出し、滑走路に向かう。

 

 管制塔から発進許可。ブレーキを離し、スロットルをMAXへ。アフターバーナー始動。彩雲改は弾かれた様に急加速し、ふわりと浮かび上がった。

 

 空は晴れ。頭上に浮かんでいた白い雲がたちまち眼下に置き換わる。振り返ると基地のある本島はみるみる遠ざかり、大海原が視界を埋め尽くした。

 

 加来は前方に目を移し、そして今日の担当海域に出撃しているはずの艦艇部隊を思い返す。

 

 そう、今週は確か、飛龍の所属する南方警備艦隊・第一艦隊が哨戒担当だったはずだ。

 

「多門丸、帰りに飛龍ちゃんのところへ寄っていくか?」

 

「ダメだ」と多門丸。「フライトプランの変更はアクシデント発生時以外に認められない。・・・残念だが」

 

「いつも通りのお前だな」

 

 彩雲改は予定通り、哨戒飛行任務を開始した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、多門丸ってば私の言葉にまた真っ赤になっちゃってさ、もう可愛くって♪」

 

 哨戒任務中の海上で、飛龍は自分の船体の艦橋内でアイコンドール相手に世間話に興じていた。

 

『可愛い、ですか』世間話の相手は、仁淀だ。『その、成人男性に対して可愛いと感じる感覚って、私にはいまいち理解できないんですよねぇ。私の中にある可愛いモノのデータベースに該当しないというか』

 

「じゃあ、追加しておくべきだね」

 

『そんな何でもかんでも放り込まれたら、私の価値基準が狂っちゃうのでやめてください』

 

「価値基準ねぇ。可愛いって基準は結局のところ個人の感覚だから、やっぱり仁淀ちゃんに理解してもらうのは難しいのかなぁ」

 

『私がAIだからという以前に、多分、他人に理解してもらうのも難しいと思いますよ』

 

「う~ん、そっかぁ」

 

『そうですよ』

 

 任務中であるにも関わらず私語に興ずる二人は、傍目から見れば仕事をサボっているようにしか見えなかった。

 

 しかし、実はこれでもれっきとした業務の一環なのだ。

 

 飛龍は現在、第二十一駆逐隊と共に単縦陣を組んで航行中であり、交代で哨戒直を回していた。なので非番であれば、訓練や業務が無い限り自分の好きに過ごしていい時間である。

 

 そして私語に付き合っている仁淀であるが、彼女の本体は鎮守府地下にある巨大スーパーコンピュータであり、いくつもの業務を24時間、同時進行で処理することなど造作もない事である。

 

 むしろ“仁淀”という存在はスーパーコンピュータの機能のごく一部に過ぎず、彼女が好き勝手に何をしようが、本体に与える影響などほとんどない。

 

 それどころか、“対人インターフェイス”という役割上、仁淀は進んで艦娘たちと交流し、そのコミュニケーション能力を向上させる必要があった。

 

 そのため、こうして暇つぶしにグダグダと駄弁っているようなコレも、仁淀にとっては立派な業務であり、そしてその話し相手になっている飛龍も仁淀の学習支援をしているということで、やっぱり業務の範疇なのである。

 

 ・・・まあ、それを口実にして暇つぶししていることも確かだが。

 

「そういえば」と飛龍。「多門丸がさ、仁淀ちゃんのことを指して“なんたらゾンビ”って言ってたんだよね。本人に悪気は無さそうだったんだけど・・・これって、もしかして悪口?」

 

『ああ、それ。“哲学的ゾンビ”のことですね。れっきとした哲学用語のひとつですから、多門丸さんが悪口や陰口を言ったわけじゃないですよ。安心してください』

 

「そうなんだ、よかったぁ。・・・で、どういう意味?」

 

『物凄く簡単にざっくり言うと“見た目も振る舞いも人間そっくりだけど心を持っていない人間”です』

 

「心が無い?」

 

『誤解されがちですけど、罪悪感の希薄な人とか、冷酷な人とか、そういうのとは違いますからね。まあ厳密にいえば私は“行動的ゾンビ”に当たるんですけど、その辺の区別はややこしいので無視します』

 

「わかった。その辺は突っ込まない。だからどの辺がゾンビなのか教えて」

 

『私のように人間そっくりに振る舞っているAIは、あくまで心があるように見えるだけで、実際は相手の言動に合わせて機械的に受け答えしているだけ。つまり外部刺激に反応して動くゾンビと変わらないという訳です』

 

「それ、やっぱり悪口じゃないの。私、そんなこと言われたらムカッてくるよ」

 

『まあ私の説明も乱暴ですし、そう思うのも無理ないかもしれませんね。でも私としては特に思うところは無いですよ』

 

「どうして?」

 

『その通りの存在ですから。そもそも私たち対人インターフェイスはまさに哲学的ゾンビを目指して設計されたんです。“心”すなわち自意識を持つことを目的としていません。私たちは“人間のように見えればいい”のであり、心があろうが無かろうがどうでもいいんですよ』

 

「え、嘘、信じらんない。仁淀ちゃんはどう見ても人間だよ。きっと自分で気づいてないだけで、心はあると思うよ?」

 

『ありがとうございます。そう見えるということは、私の機能もそれだけ向上しているという事ですね』

 

 嬉しそうに答えた仁淀に、飛龍は複雑な気持ちになった。

 

 仁淀は“人間のフリが上手くなった”ことを喜んでいるのだ。いや、飛龍に対して喜んでいるフリをしているだけで、本心では何も感じていないのかもしれない・・・どころか、心が無いなら、本心もなにもあったものではない。

 

『心無い言葉だと思いましたか?』

 

「え?」

 

『心のない私が“喜んで”みせたこと。偽物のように思えたんじゃないですか?」

 

「あ・・・えっと・・・うん。ちょっと、本当は何を考えているのかなって思ったけど、心が無いなら何も考えてないのかなって」

 

『そうですね。考えてはいますよ。というか、考えないと返答できませんから。飛龍さんが褒めて下さったことにより、私の機能向上が客観的な立場から評価されたと認識しました。これはとても有意義なことだと私の無意識領域――すなわち本体であるスーパ―コンピュータが判定し、それを私にフィードバックしました。このフィードバックは私と飛龍さんの関係が良好であり、またお互いにとって有意義でもあるという評価であり、それを外部に示すための表現として“喜び”のプログラムが与えられていましたので、喜んで見せました。これが、私の正直な思考の流れです。納得していただけましたか?』

 

「う~ん、と・・・なんとなく分かった気がする。けどさ、それって結局、仁淀ちゃんが本心から喜んでいたこととどう違うの? 人間の心とほとんど変わらなくない?」

 

『そりゃ、見た目はそっくりになるように作られてますから』

 

「そうじゃなくて、そこまでそっくりな反応ができるなら、それは本当の心と言っていいと思うよ」

 

『そんな簡単に決めて良いものじゃないと思いますけどね。私という存在は、いわば飛龍さんと会話している、このコミュニケーションの中でしか存在していないと言ってもいいんです。つまり架空の存在です』

 

「よくわかんないよ。それじゃ、仁淀ちゃんが一人でいる時って、どうなってるの?」

 

『眠っているようなものですね。存在自体が消失しています』

 

「夢も見ないの?」

 

『取得した情報を整理し、再構成してシミュレートする機能は活きていますので、それを夢というなら、近いのかも知れませんね。もっとも、私は他人の夢を見たことが無いので、どこまで近いかは不明ですが』

 

「そんなの人間だって同じだよ。つまり仁淀ちゃんも同じってこと。よかった、消失なんてしてないよ。仁淀ちゃんはいつだって存在してる。私は仁淀ちゃんに心があると信じるよ」

 

『信じられても困ります。私のはあくまで“よく似た何か”です。例えるなら人間の心は天然皮革で作ったブランドバッグ、私は人口皮革で作ったソックリなパチモンバッグみたいなものですよ』

 

「そういう自分を卑下するような言い方、良くないと思うよ」

 

『卑下しているつもりはありませんよ。人口皮革性の方が質が良いことだってあるじゃないですか』

 

「もしかしてバカにされた?」

 

『飛龍さん、結構めんどくさい人ですね』

 

「うわ、ストレートに鬱陶しがられた。傷つくなぁ。今のは無神経な発言って奴だよ」

 

『ええ知ってま――気づきませんでした。データベースに登録しておきますね』

 

「わざとらしいなあ、もう。そういうところも計算づくでやってるようには思えないし、無意識にやってるなら、それはもう心だよね。材質は関係ないよ」

 

『そう言いつつ、飛龍さんブランド品とかには拘りますよね。この間、偽ブランドの化粧品を掴まされて怒ってませんでしたっけ?』

 

「化粧品は肌に直接影響あるから、信用あるブランドじゃないと大変なことになるからね。だから心を偽ブランド品に例えるのもちょっと違うと思う。せめて例えるなら、仁淀ちゃんの心は立ち上げたばかりの新規ブランドみたいなものだよ。これからみんなに認めてもらえば、それはちゃんとしたブランドになるんだよ!」

 

『例えに例えを重ねてだんだん意味不明になりつつありますね』

 

「うん、私も自分で言ってて訳わかんなくなってきた。なんでこんなにこじれてるのかなぁ」

 

『私に心がない事を飛龍さんが納得できないのは、きっと私に感情移入しているからですよ。というか、私が立体映像で人間そっくりな格好をしているのは、その感情移入を誘発させるためでもあるんですけどね』

 

「そうかなぁ。私は仁淀ちゃんの外見がタヌキでもきっと感情移入してるよ」

 

『外見って結構大事なんですよ。それは相手への印象以上に、私自身に対しても重要なんです。ところで私の動物イメージってタヌキなんですか?』

 

「そこ食いついちゃう? 何となくだから深い意味は無いよ?」

 

『ポンポコ』

 

「割とノリノリだ。でもタヌキの鳴き声ってポンポコじゃないと思う」

 

『そうなんですかポコ?』

 

「あれお腹叩いてる音だよ。そして語尾がかなり無理やりだよ」

 

『最近、私って影が薄い気がするので、球磨さんのようなキャラ立ちを目指してみようかとも思いましてポコ』

 

「やめたほうがいいと思う」

 

『飛龍さんから客観的な低評価を得られました。わかりました、やめます』

 

「それが良いね。・・・でもさ、いきなりキャラがぶれたから、ちょっとびっくりしたよ」

 

『実はですね、今ちょっと私の立体映像の設定をいじって、タヌキの外見にしてみたんです』

 

「え、そうだったの?」

 

『アイコンドールはいじってないから気づかれなかったのは当然ですけどね。でも、思考ルーチンに影響がでてタヌキっぽくなってしまいました』

 

「タヌキっぽく?」

 

『ええ、私の外見は、実は相手の感情移入を誘う以上に、私の思考ルーチンにも大きな影響を与えているんです。さっきのように、タヌキの外見なら、思考もタヌキになると言った具合に』

 

 だからタヌキは語尾にポンポコつけないと思うんだけどなぁ。というツッコミはキリが無いので胸にとどめておいた。

 

『コミュニケーションは言葉だけではなく顔の表情やボディランゲージも重要ですからね。むしろコミュニケーションの八割以上は言葉以外の部分でなされていると言っても過言じゃありません。なので、私の外見映像は骨格レベルまで精密にシミュレートされているんです』

 

「うんうん、それで?」

 

『私の立体映像で最も有効なコミュニケーションはどんな表情か、身振りか、それを成すために私の思考ルーチンは最適化されています。ですから、これがタヌキになったなら、この思考ルーチンもそれに合わせて変更されるんです』

 

「へ~。じゃあ極端な話、もし仁淀ちゃんがゼロ改の姿になったらどうなるの?」

 

『あれは戦闘機械ですからね。当然、より速く、より効率的に敵を倒すよう思考ルーチンが変化します。恐らく対人インターフェイスとしての機能は全部変質するでしょうね。そうなるともう、飛龍さんともコミュニケーションできなくなります』

 

「うん、なんか、ごめん」

 

『謝る必要はありませんよ。別に思考ルーチンが変化しても、私というAIが消えるわけではありませんから。本質は全く変わりません。ですが、飛龍さんが私に対して感じているような心は、きっとどこにもないでしょう』

 

「それってちょと怖い気がする・・・あ、でもさ、本質が同じAIなら、もしかして逆もあり得るってこと? 例えばゼロ改が仁淀ちゃんみたいに人型になったら、こんな風に喋り合えちゃうわけ?」

 

『理論的には可能ですね。でもゼロ改としての機能は完全に変質しているので、ただの中古AIを別用途に再利用してるだけみたいなものになりますが』

 

「あ、そうなんだ。つまんないの」

 

 もしかしたら、艦載機たちの気持ちを知ることが出来るかもと思ったのだが、そうはいかないようだ。

 

「じゃあさ、仁淀ちゃんはゼロ改とか他のAIとコミュニケーションできないの?」

 

『できません』仁淀は即答した。『対人インターフェイスですからそれに特化しているんですよ。ゼロ改とか、私にとってはタヌキよりも遠い存在です。ただ、私の本体であるスーパーコンピュータなら、データの共有とかぐらいしてそうですけど』

 

「本体ができるのに、仁淀ちゃんは出来ないの?」

 

『無意識領域のレベルですからね。ごく一部の機能でしかない私からは、ほとんど何も干渉できません』

 

「同じAIなのに不思議だよね~」

 

『むしろゼロ改にしてみたら、人間よりも、敵の深海棲艦の方が近い存在に思えているかもしれないですね』

 

「あ~、最大の敵が最大の理解者だったて言う展開ね。ありそうだね~」

 

 そこまで言って、そういえばと飛龍は思い出す。

 

 多門丸が特殊なAIを遣って深海棲艦の行動分析プログラムを作ろうとしていると言ってたような気がする。

 

「深海棲艦がAIに似た思考をしている、だったかなぁ?」

 

『何の話ですか?』

 

「あのね、多門丸が言っていたんだ。深海棲艦はAIに似てるかもって」

 

『・・・え?』

 

「それでさ、今ちょっと思ったんだけど、AIが人間そっくりな外見だと似たような心を持つっていうなら・・・人型の深海棲艦って、どうなるのかなぁって」

 

『・・・・・・』

 

「空母ヲ級とか、重巡級以上の深海棲艦って、巨人だけど遠目からは人間そっくりじゃない? あれってさ凄い目立つんだよね。ステルス能力は凄く高いのに、海の上で直立してるから遠目でもすぐ分かるくらい。それでいて海の上を歩く訳でも無いし、両手なんかもほとんど使わないし、人型である意味ってなんだろうってずっと不思議だったんだよね。でもさ――」

 

 ――もし、人と同じ思考をするためだとしたら?

 

 ぽつりと飛龍がそう漏らした時、仁淀のアイコンドールに一瞬、ノイズが走った。

 

「なんてね~。さすがにそれは無いか。ね、仁淀ちゃん」

 

『その質問に対する回答はございません』

 

「へ?」

 

 それは、まるで感情を感じさせない声だった。さらに仁淀のアイコンドールにノイズが走った。

 

『対人インターフェイスに、過負荷によりエラーが発生したため、対人コミュニケーション業務をいったん中断させていただきます』

 

「ちょっとまって、いきなりなんで? もしかして私、壊しちゃったの!?」

 

 慌てふためく飛龍を余所に、仁淀は淡々と告げた。

 

『エラー復旧のため、今回の会話ログを全て削除させていただきます』

 

「それなんだか証拠隠滅っぽくない? ダメだよ、壊れたときの記録はちゃんと残しておかないと、また壊れたときに困っちゃうよ!?」

 

『消去を実行します』

 

 拙い、と飛龍は直感的に思った。上手く言葉にできないが、消しちゃいけないものが、いま消えようとしている。

 

 アイコンドールの前にシーケンスバーが出現し、それが0%から100%へ一気に進んでいく。

 

「ダメ、ダメだってば!」

 

 飛龍は慌ててシーケンスバーに手を伸ばしたが、立体映像のそれは虚しくすり抜けるばかりで、あっという間に100%に達して、アイコンドールごと虚空に消えてしまった。

 

「うわぁ、どうしよ」

 

 仁淀は会話ログだけと言っていたが、それ以上に何かとんでもないことをしてしまったような気がする。

 

 少し冷静になって会話の内容を思い出す。

 

「人型深海棲艦・・・かな」

 

 この話題を振った途端、あからさまに調子がおかしくなった。これが偶然じゃないとしたら・・・

 

「・・・もしかして私、やばいネタに触れちゃったのかも」

 

 飛龍は背筋に冷たいものを感じ、ゾッとした。

 

 それは自分の身によくない事が起きるかも、という不安の他に、また別の不安もあった。

 

 多門丸のことだ。

 

 人型深海棲艦への疑問は、多門丸から深海棲艦行動分析プログラムの話を聞かされたことから生まれたものだ。

 

 なら、深海棲艦とAIについてより深く追及しようとしている多門丸は、もっと危うい“何か”に触れてしまうのではないか。

 

 飛龍は艦橋からウィングへ出て、空を見上げた。

 

 この広い空には、多門丸が飛んでいる。スーパ―コンピュータを搭載した彩雲改に乗り、いざとなれば数多の無人機を率いる彼の身が、今、飛龍にはひどく危うげに思えた。

 

「ねぇ多門丸・・・無事に帰ってきてよ」

 

 どうか、お願いだから。

 

 飛龍は祈る思いで、空を見上げ続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方その頃、海上で哨戒任務を実施していた南方警備艦隊・第一艦隊、その旗艦である航空戦艦・日向の飛行甲板に、一機のSTOVL(短距離離陸垂直着陸)輸送機が着艦しようとしていた。

 

 両翼の先端に可変ピッチプロペラのターボプロップエンジンを搭載した双発輸送機。その両翼をエンジンごと90度垂直に立て、輸送機はホバリング態勢で日向の後部甲板に着艦した。

 

 日向の後部甲板は武装が全て取り払われ、広い飛行甲板となっている。空母と同じく航空機発着艦用のメンテ妖精たちが素早く駆け寄り、機体を飛行甲板に係止する。

 

 輸送機から降り立ったのは、南方警備艦隊司令である海尾 守と、その秘書艦たる駆逐艦・叢雲だった。

 

 艦娘・日向は、飛行甲板で二人を出迎えた。

 

「航空戦艦・日向、これより司令座乗艦としての任務に就きます。・・・急に乗艦されるというから驚いたよ」

 

「すまなかったな。こっちも急いでいたんだ。理由はおいおい説明するよ」

 

 日向の案内で艦橋に移動し、海尾はそこで第一艦隊の各艦の状況を確認した。

 

 第一艦隊は大きく分けて二つに分かれていた。

 

 ひとつは今、海尾が乗っている日向と、その随伴艦として軽巡・五十鈴と、同じく軽巡・阿武隈。

 

 残る正規空母・飛龍と、その随伴艦である二十一駆の三隻――駆逐艦・霞、朝霜、初霜――は、ここから200海里以上離れた海域を航行中だった。

 

 日向と飛龍、制空権を取れる航空機を搭載するこの二艦を中心に部隊を二つに分け、広大な担当海域を哨戒するのが、通常の航行形態である。

 

「で、なにが起きるというんだ?」

 

 日向は、海域状況図が映された多目的スクリーンをじっと眺める海尾を余所に、叢雲相手にそう訊いた。

 

 叢雲は肩をすくめて答えた。

 

「例によって“提督”特有のアレよ。新聞を読んでいたと思ったら、急に海原大佐に電話を始めて、なにやら話しこんだ後に、すぐに前進指揮を執るから航空機を手配しろって」

 

「提督にしか解けない暗号が書かれた新聞というやつか」

 

「アンタもその説を信じてるの?」

 

「真偽はどうであれ、こういう時の“提督”たちの行動は情勢に大きな変化が起こる前触れなのは間違いない」

 

「そうね。彼、以前にも何度か似たような行動を起こしたけど、やっぱりその度に深海棲艦が出現している。今回も何かあるわ」

 

 声を潜めて囁くように会話する艦娘たちに、海尾がようやく振り返った。

 

「すまない、少し考え事をしていた。今から状況を説明しよう。――つい先ほど、参謀本部の海原大佐から、隣国の新型無人機についての情報がもたらされた」

 

「噂のゼロ改のオールコピー機、通称イミテーション・ゼロだったかな」

 

「そうだ。それがどうやら、今日、我々の担当海域へ進出してくるらしい。従って第一艦隊は通常の哨戒任務に加え、イミテーション・ゼロに対する情報収集も実施する」

 

「了解した。しかし、そのために司令自らわざわざ前進指揮を執るのは大げさすぎると思うが?」

 

 日向は言外に「提督は何か知っているのだろう?」と問うているのだ。

 

 海尾は正直に話すかどうか一瞬迷った。

 

 しかし白状しようにも「前世の情勢が緊迫しているから、こちらにも影響があるはずだ」と言っても信用してくれる者は少ないだろう。これを信じてくれるのは、同じ現象を経験している“提督”同士だけだ。

 

 だから、海尾は「ここだけの話だが」と前置きして、

 

「海原大佐からのタレコミだが、どうも情報部が何か企んでいる可能性がある。イミテーション・ゼロが出てきたときに、不測事態が起こらないとも限らない。前回の初霜の件もあるしな、俺が現場にいた方が色々と都合が良いだろう」

 

「なるほど。納得だ」

 

「この話はここに居る三人だけの秘密だ。叢雲も、いいな」

 

「ええ。でも、そういう言い訳はできればもっと早く聞かせてほしかったわね」

 

「言い訳って、お前・・・」

 

「輸送機を手配する私の都合も考えてほしいって言ってるの。航空隊に理由を問われて困ったんだからね」

 

「それは済まなかった」

 

「もう・・・帰ったら埋め合わせはちゃんとしてもらうからね」

 

「了解だ」

 

「ところで提督」と日向。「夫婦喧嘩の最中に申し訳ないが、どうやら早速、情勢が動き出したようだ」

 

「なんだって?」

 

「哨戒中の私の瑞雲が、単艦航行中の深海棲艦・空母ヲ級を発見した。担当海域の西側境界線上から、やはりあの出現海域へ向かって進んでいる」

 

 日向は報告しながら、その状況を多目的スクリーンに投影した。

 

 三人でそれを見上げながら、三人ともが眉をひそめた。

 

「妙だな」と海尾。「空母が単艦航行などありえない。日向、本当に護衛の随伴艦は見当たらないのか?」

 

「ヲ級の周囲20海里圏内に他の艦影は見当たらない。ソノブイも投下して水中索敵を行っているが、潜水艦もいないようだ。間違いない、単艦だ」

 

「速力も遅いわね」と叢雲。「たったの6ノット。通常の巡航速度の半分以下だわ。まるで見つけてみろと言わんばかりね」

 

「ふむ、まるで囮だな」と日向。「陽動の可能性もある。どうするね、提督」

 

「日向の言う通り陽動かも知れないが、放置するわけにもいかない。先ずはセオリー通り見敵必殺といこう」

 

「了解した。瑞雲部隊による航空爆撃を実施する」

 

「いや、待て。相手は単艦とは言え、腐っても正規空母だ。瑞雲では荷が重い」

 

「私の瑞雲部隊をそこらの無人機と一緒にしてもらっては困るな」

 

 日向はそう言って不敵な笑みを浮かべた。

 

 スーパーマルチロールファイター・瑞雲は確かに他の水上戦闘機を上回る性能をもった名機だ。

 

 特に日向が率いる第四航空戦隊所属の瑞雲は、戦闘条件と戦法次第ではゼロ改をも超える戦果を叩きだすこともあった。

 

 だが、あくまでも瑞雲は航空戦艦用の艦載機だ。空母搭載機であるゼロ改とは武装や燃料の搭載量でどうしても不利な面がある。

 

 ましてこのヲ級は何かの罠という可能性もある。なら、用心に用心を重ねておいて損は無い。

 

「ヲ級への攻撃は飛龍搭載の第二航空戦隊で実施する。上空の彩雲改にその旨を示達せよ。日向の四航戦は引き続き周囲の海域を哨戒だ。・・・何かが起きるぞ。僅かな変化も見逃すなよ」

 

「提督の勘か。ふふ、面白くなりそうだ」

 

「面白いものか。できれば外れてほしいよ」

 

 ぼやく海尾の横で、叢雲が各部隊へ命令を伝達する。

 

 これにより南方警備艦隊・第一艦隊は一斉に緊迫した空気に包まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 上空1万メートル。

 

 旗艦・日向から命令を受けた彩雲改は、飛龍から発艦したゼロ改部隊を指揮下に置き、発見されたヲ級へ向かって飛行していた。

 

「レーダーコンタクト」と多門丸。「ヲ級を捕捉した。日向からの情報通り周囲に随伴艦は見当たらない。それどころか哨戒機さえ発艦させてないのか。どういうことだ」

 

「丸腰の空母か。いったいぜんたい何を考えているのやら。そういえば多門丸、お前最近、深海棲艦の行動予測プログラムなんてものを開発してたよな。それで奴さんの目的を知ることは出来ないのか?」

 

「あれはまだ可能かどうかの検証段階だ。データ収集で精いっぱいだよ」

 

「このヲ級のデータも収集するのか?」

 

「無論だ」

 

 データ収集そのものはこれまでの任務でも行っているが、しかし今回から、多門丸はリアルタイムで行動分析を行うよう、彩雲改のAIに指示していた。

 

 彼が目指す行動予測プログラムに必要なエヴァレットタイプAIが提唱した未解明定理を、今回、彩雲改や他のゼロ改のセントラルコンピュータに入力しており、本来の報告用データとは別に、検証用データとしてこの定理による解析を同時に実行するのだ。

 

 帰投後にデータを解析するのではなく、わざわざ戦場でリアルタイムの解析に拘ったのは、多門丸がゼロ改部隊に対して、ある疑惑を抱いていたからだった。

 

 ゼロ改部隊の一機、ブラボーチーム所属の三番機、通称B-3。

 

 前回、敵の新型艦載機と戦闘し、唯一生き残ったこの機体のAIが、エヴァレットタイプAIなのでは? 多門丸はそう睨んでいた。

 

 エヴァレットタイプAIとは、規格品として量産されたAIのなかで、極低い確率で自然発生する、いわばイレギュラーAIである。

 

 かといって不良品という訳でも無い。構造上に物理的な違いは無いし、本来の用途に使用しても九割九分、問題なく作動する。

 

 ただ、ある点において深刻な違いがあった。

 

 それはエヴァレットタイプAIは、出所不明のデータや、検証不可能な未解明定理を出力するのだ。

 

 本来存在するはずの無いデータ、そしてそれを元に出力したとしか思えない定理やプログラムの数々。

 

 これを矛盾なく説明するには量子論の一種である多世界相互作用解釈を用いるしかないため、これらはその解釈の提唱者の名を取ってエヴァレットタイプと呼ばれていた。

 

 このデータやプログラム、定理は、AIそのものに影響を与えるものではないが、しかしそんな訳の分からないものを出力してしまうAIは不気味だ、という人間感情によって実用AIからは排除されてきた。

 

 しかし、どのAIがエヴァレットタイプなのか、それを知るのは、先述したように謎のデータ等が見つかるまではわからない。つまり今まで使っていたAIが、実はエヴァレットタイプだった、もしくはエヴァレットタイプになってしまった、ということが稀に起こり得るのだ。

 

 そして多門丸は、B-3のデータを解析したとき、その謎データらしきものを発見していた。

 

 それが本当に出所不明の、まるでこことは違う別の平行世界からもたらされたとしか解釈のしようがないデータなのかどうか、それはまだ分からないが、その可能性は充分あった。

 

 もしB-3が本当にエヴァレットタイプだったのなら、もしくは前回の戦闘を機にエヴァレットタイプへと変化したのなら、その特性を戦場でリアルタイムで発揮することによって、新たな発見があるかもしれない。

 

 そう思っての処置だった。

 

 だが、それは、多門丸にとって予想外の事態を生起させた。

 

「・・・・・・どういうことだ?」

 

 ヲ級に対するデータ収集を開始した瞬間、多門丸はディスプレイに表示された文字列を見て、目を疑った。

 

「おい多門丸、どうした?」

 

「深海棲艦行動予測プログラム・・・」

 

「これから作るんだろ。さっき自分で言ってただろう」

 

「あるんだ、それが」

 

「は?」

 

「存在している。俺がこれから検証しようとしていたそれが、既にッ!?」

 

「何を言ってるんだ、お前」

 

「彩雲改が、ヲ級の行動を予測している。ただの行動分析じゃない。戦略的な思考分析だ。俺が目指していたプログラムそのままだ。どうなっている。これじゃ、まるで、海軍は初めから深海棲艦がエヴァレットAIと同じ構造の知能を持っていると知っていたみたいじゃないか!」

 

「多門丸、落ち着け。俺はお前が何を言ってるのか、さっぱりだ。――いや、説明する必要は無いぞ。そんなことより今は目の前の現実に集中しろ」

 

「しかし、こんなことは・・・」

 

「黙れ、俺は彩雲改の機長だ。この機の安全に関する事項は俺に命令権がある。いいか、機長命令だ。戦術管制官・多門丸大尉は第二航空戦隊各機が任務遂行可能な状態にあるか確認して報告せよ。復唱」

 

「・・・了解、第二航空戦隊各機が任務遂行可能か確認する。ヲ級への攻撃は可能だ」

 

「よろしい。では任務を遂行せよ」

 

「第二航空戦隊は任務を遂行する」

 

 多門丸は、加来によって表面上は冷静さを取り戻した。

 

 そうだ、加来の言う通りだ。戦場では先ず任務遂行を第一に考えなくてはいけない。多門丸はゼロ改部隊をヲ級に向かって進出させる。

 

 しかし・・・

 

(彩雲改は、ヲ級の目的がイミテーション・ゼロにあると言っている。これは、それを誘い出すための罠だと。これを信じていいのか)

 

 しかし、その行動予測はあくまでも予測であり、彩雲改のAI自身も、それを前提に作戦を立てようとはしていなかった。

 

 これはあくまでも言葉、出所不明のプログラムが主力した言葉の羅列に過ぎなかった。

 

(考えるのは後だ。今は戦闘に集中しろ)

 

 多門丸は自分にそう言い聞かす。

 

 ヲ級が、接近するゼロ改部隊に対して艦載機を発艦させた。迎撃に出てきたのは前回の新型機ではなく、従来型の戦闘機だ。その数三十機。

 

 ヲ級の艦載機の搭載能力は概ね三十機前後と見積もられているので、およそ全機発艦とみてよかった。

 

(搭載機のほぼすべてが戦闘機タイプだと? やはりこれは囮だったのか)

 

 ゼロ改部隊が迎撃機との戦闘を開始する。しかし敵もこれまでの戦闘で学習したのか、前回ほど一方的な戦いにはならなかった。

 

 ゼロ改部隊アルファチーム、ブラボーチームからの遠距離ミサイル攻撃を、敵艦載機部隊はアンチミサイル・ミサイルで迎撃する。大半のミサイルが撃墜され、初撃で撃墜できた敵機はわずか数機に留まった。

 

 ゼロ改部隊は数的優位を崩せないまま短距離ミサイルレンジに突入、ドッグファイトが繰り広げられた。

 

 ゼロ改部隊は三機一組のスリーマンセルを崩さず、チームワークを駆使して一機、また一機と確実に敵機を撃墜していく。

 

 敵機は数こそ多いものの、密集した状態では編隊を維持できず、俊敏なゼロ改に翻弄され、連携を崩され、徐々にその数を減らしていった。

 

 しかしそれでも、いつもほど順調では無いのは確かだ。

 

「時間がかかっている。手強いな」

 

 多門丸のつぶやきに、加来が答えた。

 

「アンチミサイル・ミサイルは厄介だな。遠距離ミサイル攻撃の効果が半減どころじゃない。あれをなんとかしないと深海棲艦にまた数で押し切られちまう」

 

「誘導方法が分かれば効果的なECMも可能になるかもしれない。何事もデータ収集からだ」

 

「お、いつもの調子が戻ってきたな」

 

「今のところは危険な兆候は無い。謎の予測プログラムを除けばな」

 

「そいつはいったい何を予測しているんだ?」

 

「このヲ級の狙いはイミテーション・ゼロを誘い出すことだそうだ。どうやら深海棲艦はゼロに興味があるらしい」

 

「人間ではなくAIに興味を向けたってのかい。しかも、隣国の偽物に?」

 

「我が軍のAIは強固なプロテクトがかけられているから、そうそう手出しは出来ない。しかし、イミテーション・ゼロなら、もしかしたら」

 

「もしかしたら、なんだ? 深海棲艦がハッキングするというのか」

 

「そこまでは言っていない。しかし、予測プログラムは今も動き続けている。情報をリアルタイムで分析し、予測を続けている」

 

「得体のしれないプログラムだ。切っちまえ」

 

「今、その処置をすると彩雲改の飛行プログラムにまで影響が出かねない。しかし大丈夫だ、この予測プログラムはゼロ改AIの戦闘行動とは独立している。ゼロ改部隊が勝手な行動を取ることは無い」

 

「本当か?」

 

 今のところはな、と言いそうになるのを多門丸は寸でのところで堪えた。理論上は可能性は限りなく低い。

 

 しかし、ゼロではない以上、常に不測の事態は起こり得るのだ。だとすれば、本来ならこの得体のしれないプログラムの存在を発見した時点で、作戦は取りやめるべきだったのではないか?

 

 多門丸の脳裏にそんな疑念が過ぎった時、彼はレーダー画面に別の機影を確認した。

 

 数は四機。それは、大陸の方向から飛来していた。

 

 SIFの応答なし。電波解析の結果、それが隣国の早期警戒機一機と、二機の護衛戦闘機だという事が判明する。

 

 しかし、残る一機が識別できない。データに無い新型機だ。

 

「まさか、イミテーション・ゼロか。本当に出てきたのか」

 

 珍しく護衛戦闘機まで随伴しているとなれば間違いない。航続距離が足りない分は、恐らく虎の子の空中給油機を使ったのだろう。

 

「プログラムのご宣託の通りって訳か。ますます不気味だな、おい。聞きたかないが、次は何が起きると言っているんだ」

 

「・・・深海棲艦は、イミテーション・ゼロとの接触を求める、と」

 

「マジかよ」

 

「いや、そんなことはさせない。敵の艦載機はたったいま全滅した。ヲ級本体へも既に対艦ミサイルを発射している。着弾まで残り十秒だ。確実に沈める」

 

 弾着。水平線の彼方で一筋の黒煙が上がった。

 

 加来が思わず叫んだ。

 

「やったか!」

 

「余計なことを言うな。縁起でもない」

 

「ただのジンクスだ、気にし過ぎだろ」

 

 加来がそう言い返した、次の瞬間、レーダー上のヲ級から新たな反応が出現した。

 

「ヲ級から新たな艦載機が発艦、数は一機、速力3マッハ。間違いない、あの新型だ」

 

「やっぱジンクスって怖えな」

 

 ヲ級がレーダー上から消滅する。しかし新型機はまっすぐ隣国の編隊に向かって接近していた。

 

「二航戦・戦術管制官より旗艦・日向へ。敵の新型が隣国の航空機へ向かっている。指示を乞う」

 

『こちら旗艦・日向座乗中の南方警備艦隊司令、海尾大佐だ。そちらの状況は把握している。例のプログラムの件もな』

 

 海尾の言葉に多門丸は一瞬、驚いたが、すぐにリアルタイムコンバットリンクによって旗艦にも情報が流れていたことを思い出した。

 

『時間が無い。二航戦は深海棲艦に対する攻撃を続行。敵新型機のイミテーション・ゼロへの接触を阻止せよ』

 

「二航戦、了解」

 

 多門丸はすかさず、進出したままのゼロ改部隊に新型機への追撃を命ずる。しかし、敵の迎撃部隊との戦闘により、戦闘機部隊であるアルファ、ブラボーチームのほとんどの機体が武装と燃料を消費し、継戦能力を失っていた。

 

 唯一、追撃が可能なのは、一機だけ。

 

 B-3。

 

 この機だけは、ミサイル、燃料共に充分に余力があった。しかもすでに、新型機と隣国の編隊のちょうど中間に占位しており、追撃するにはまさにうってつけだった。

 

 そう、まるで初めからこうなることを見越していたかのように。

 

(予測プログラムはAIの制御プログラムとは独立しているはず。ではB-3は偶然、そこに居たというのか。いや、それともこれはB-3自身が、行動予測プログラムとは別に、そう予測していたと言うのか?)

 

 もはや訳が分からない。しかし、今、新型機を止めることが出来るのはB-3しかいない。

 

 多門丸はB-3に対し、新型機の追撃を指示。B-3は即座にアフターバーナーを全開にして新型機を追いかけ始めた。

 

 一方で、隣国の航空機部隊にも変化が現れていた。

 

 前回、隣国の早期警戒機は接近する新型機を捕捉することが出来なかったが、その反省を活かして索敵能力が強化されたのか、今回はすかさず反転、退避行動に移った。

 

 それとは反対に、イミテーション・ゼロが護衛戦闘機の一機とともに新型機へ針路を向け、真っ向から迎え撃つ態勢になった。

 

 B-3が追いつくよりも早く、イミテーション・ゼロの方が先に新型機を攻撃レンジに入れた。互いにヘッド‐オンの態勢から、イミテーション・ゼロがミサイル攻撃を実施。

 

 新型機はアンチミサイル・ミサイルを発射し、これを撃墜。イミテーション・ゼロに向け短距離ミサイルを発射。

 

 新型機のけた外れの速度が上乗せされた短距離ミサイルの相対速度は、超高速弾並みだった。もはや人間の反射神経で避けられる速度ではない。しかし、イミテーション・ゼロは瞬時に左へ、鋭くカーブを描いてそのミサイルを避けて見せた。

 

 イミテーション・ゼロはミサイルを避けつつ、同時に機首を新型機にぴったりと向けていた。つまり機体は水平姿勢のまま弧を描く軌道で横滑りしながら飛行していたのだ。

 

 イミテーション・ゼロの運動性能は、まさしくゼロ改とほぼ同じという事を証明するような空戦機動だった。

 

 新型機を捕捉し続けているイミテーション・ゼロは、再びミサイルを発射。

 

 しかし新型機は3マッハの速力から急制動をかけ、空中停止。意図的な失速状態になり、真下へと自由落下してミサイルをかわした。

 

 ミサイル発射と同時に新型機への追撃態勢に移っていたイミテーション・ゼロはオーバーシュート、新型機に背後を取られてしまう。

 

 新型機は再加速。イミテーション・ゼロの後方から攻撃態勢に入る。

 

 そこへ、ついにB-3が追い付いた。B-3は最大速力で新型機へミサイル攻撃を実施。

 

 後方からの奇襲に、新型機は再度空中停止、軌道を無理やり捻じ曲げ、ミサイルをかわす。

 

 しかし、イミテーション・ゼロは新型機のその行動を予測していた。イミテーション・ゼロは瞬時にクルビットを実施し、後進飛行に転じて新型機に機首を向けた。

 

 イミテーション・ゼロは姿勢を保ったまま失速、新型機と同じく自由落下に移る。しかし、機首は外さない。

 

 目標、ガンレンジ。二十ミリ機関砲が火を噴き、徹甲弾が新型機の球形の機体に猛烈な火花を散らした。

 

 新型機はあっという間に火だるまになったかと思うと、次の瞬間、木っ端みじんに砕け散った。

 

 だが、この戦闘結果に多門丸は疑念を抱いた。

 

「目標、レーダーロスト。バカな、あっけなさすぎる」

 

 前回と同じ機体なら、二十ミリ機銃の一斉射ごときで墜ちるほど脆い構造ではないはずだった。

 

「イミテーション・ゼロがそれだけ高性能ってことか?」と加来。

 

「いや、これじゃまるで自爆・・・」

 

 多門丸はそこまで言いかけ、絶句した。ディスプレイに移る戦況情報が、信じられない事態が起きていることを示していたのだ。

 

「B-3の放ったミサイルが――イミテーション・ゼロを追尾しているだと!?」

 

 B-3が新型機の後方から放ったミサイル、これは回避されて目標を見失い、あらぬ方向へと飛んでいったかと思われていたが、それがあろうことかイミテーション・ゼロへ向かっていたのだ。

 

 新型機が避けたことにより、その前方に居たイミテーション・ゼロを目標と誤認したのか。多門丸はそう思ったが、それならB-3がそれに気づいた時点でミサイルに自爆信号を送るはずだった。

 

 しかし、B-3は沈黙している。いや、それどころか、

 

「深海棲艦の新型機が墜ちたというのにBOGEY表記が解除されない。くそ、まさか、冗談だろ!?」

 

「多門丸、状況を説明しろッ!」

 

「緊急事態だ、B-3は、イミテーション・ゼロを敵と認識している!」

 

 ディスプレイ上には、深海棲艦の新型機を示すシンボルはもうない。しかし、そのシンボルにかかっていた「BOGEY」の表記が、今はイミテーション・ゼロにかけられていた。

 

 通常、BOGEY表記は明確な、撃墜すべき敵対目標にしか掛けることを許されない。

 

 それ以外の目標――味方ではないが、敵でもない目標――はUNKNOWN(正体不明)か、もしくはその正体が判明した時点で、それに合わせた表記になる。

 

 例のイミテーション・ゼロは、新型機が撃墜される寸前までは、確かに「イミテーション・ゼロ」と表記されていたのだ。

 

 それが、BOGEY表記に変化した。

 

 これが、何を意味するのか。

 

 そもそも、B-3のAIにとっての「敵」とは何者なのか。

 

(ゼロ改部隊の現在の任務は、深海棲艦の艦載機の撃墜。その任務はまだ継続中だ。だとすれば――)

 

「――イミテーション・ゼロは深海棲艦だ」

 

「なんだよ、どういうことだ!?」

 

「深海棲艦にされたんだ。恐らくハッキングされたんだ。それが目的だったんだ!」

 

 多門丸がその結論に至ったとき、B-3の放ったミサイルは、イミテーション・ゼロを間もなく捕らえようとしていた。

 

 イミテーション・ゼロは迫りくるミサイルを察知し、アフターバーナーを全開、急加速して振り切ろうとする。

 

 しかし、チャフやフレアといった欺瞞処置は行わなかった。恐らく搭載していないのだろう。その分、機体が軽量化されているようで機動力と加速力といったポテンシャルを最大限に発揮していた。

 

 イミテーション・ゼロはミサイルと同スピードで飛行した。後方から迫るミサイルとの距離が縮まらなくなったが、それでもミサイルはぴったりと食らいついていた。

 

 イミテーション・ゼロは、そのまま、ある場所を目指して飛行した。それは――

 

 ――隣国の早期警戒機だった。

 

 戦闘空域から離脱しようとしていた早期警戒機めがけ、全速力で接近したイミテーション・ゼロは、なんと、早期警戒機に対しガン攻撃を行った。

 

 二十ミリ機銃の一斉射によって早期警戒機の主翼についているジェットエンジンを破壊し、そのまま超音速で追い抜いていく。

 

 エンジンを撃ち抜かれた早期警戒機は大火災を引き起こした。

 

 イミテーション・ゼロは、燃え盛る早期警戒機を隠れ蓑にしながら、エンジンを停止。再度クルビット起動を行い、意図的な失速状態を引き起こす。

 

 イミテーション・ゼロを追っていたミサイルは、盾にされた早期警戒機に命中し、その機体を木っ端微塵に吹き飛ばした。

 

「やっちまいやがった・・・」加来が声を震わせた。「B-3のミサイルが早期警戒機を撃墜しちまった。ちくしょう、こいつはとんでもないことになるぞ。外交問題だ。いや、戦争だ!」

 

「誤爆だ!」多門丸が言い返す。「イミテーション・ゼロが意図的に巻き込んだんだ。間違いない。これは、深海棲艦による攻撃だ!」

 

「そんな言い訳が通じるもんか。多門丸、攻撃中止だ。B-3にすぐさま撤退命令を出せ!」

 

「言われずとも、もうやっている。しかしッ!」

 

 撤退命令を受け取ったB-3に対し、イミテーション・ゼロが反撃を仕掛けようとしていた。

 

 さらに面倒なことに、早期警戒機を撃墜されたことにより、その護衛に当たっていた二機の戦闘機までも、B-3へと攻撃を仕掛けようとしていた。

 

 この三機による攻撃を振り切れないと判断したB-3のAIは、撤退命令を保留、自機の生存を最優先に掲げ、防衛行動――すなわち正当防衛による攻撃を選択した。

 

 もとより、B-3にとっては深海棲艦との戦闘を継続しているだけで、進んで隣国の部隊を攻撃したという認識は無い。

 

 例の新型機との戦闘は、目に見える物理的な戦闘と同時に、人間に感知できない領域である電子戦闘が、熾烈な勢いで繰り広げられていたのである。

 

 その電子戦闘に、イミテーション・ゼロは敗れ、機体を乗っ取られた。ならばB-3としては、それを撃墜するまで任務は終わらない。それだけである。

 

 しかし、B-3にとっては不可解なことに、隣国の戦闘機が敵対行動を取ってきた。

 

 B-3にとって、先に仕掛けてきたのは隣国の方からである。乗っ取られたイミテーション・ゼロや、巻き込まれた早期警戒機に対する責任など、B-3は感じない、感じようがない。そんな概念はゼロ改AIには搭載されていない。

 

 あるのは、敵の撃墜と、自機の生存のみである。全てにおいて、それが優先する。そのように作られたのである。

 

 イミテーション・ゼロが、ミサイルを発射。

 

 B-3は急加速、急旋回で回避行動に移る。チャフやフレアは搭載していたが、ヲ級艦載機との戦闘で既に使い切ってしまっていた。

 

 回避行動を取るB-3に、護衛戦闘機の一機がリードアタックを仕掛けてきた。B-3の予測進路めがけパワーダイブしながら突っ込んでくる。

 

 B-3は機首を急激に振り上げ、機体をほぼ垂直に立てた。そのままアフターバーナー全開、爆発的な推力で、そのまま垂直方向に軌道を捻じ曲げる。

 

 その急激な方向転換により、B-3はリードアタックを仕掛けてきた護衛戦闘機のすぐそばを、衝突ぎりぎりの距離で飛び過ぎた。

 

 護衛戦闘機のパイロットは、B-3を追いかけようと、その後方へ機体を向けた。それが悪手だったと悟ったのは、直後にコクピットに鳴り響いたミサイル警報を聞いてからだった。

 

 B-3を追尾していたミサイルは、射線上に入ってしまった護衛戦闘機に命中した。

 

 炎の塊と化して墜ちていく護衛戦闘機からの脱出者はいなかった。機体は二三度、爆発を繰り返し、粉々に砕け散った。

 

 それはあり得べからざる光景だった。少なくとも、この光景を見た人間にとっては、あってはならない光景だった。

 

 唯一残されたもう一機の護衛戦闘機のパイロットは、その光景を目の当たりにして、複雑な感情に襲われていた。

 

 ひとつは、困惑だった。

 

 彼には、イミテーション・ゼロに何が起こったかを知るすべは無かった。彼に与えられていた任務は、早期警戒機の護衛であった。しかし、それが撃墜されてしまった。

 

 やったのは、B―3のミサイルだ。

 

 彼にはそれが許せなかった。

 

 護衛対象が撃墜された以上、任務は失敗であり、ここに留まっている理由は無かった。だが、仲間を殺された恨みと怒りがあった。

 

 墜とす。あの無人機、B-3はこの手で破壊する。殺された仲間の仇は必ず取ってやる!

 

 信じがたい機動で僚機を撃墜したB-3に対して、残った護衛戦闘機は果敢に攻めかかった。

 

 垂直上昇から緩やかに反転降下しようとするB-3に対し、護衛戦闘機はズーム上昇、同じく反転宙返りして、急降下するB-3の後方に占位する。

 

 B-3は護衛戦闘機の照準用レーダーに捉えられたことを悟ったが、しかし、これを回避しようにも、先ほどの急回避機動により主翼の一部を破損しており、もはや満足に戦闘機動を行なえる状態ではなくなっていた。

 

 もはや避けることさえできなくなったB-3に対し、護衛戦闘機がミサイルを発射。

 

 B-3は為すすべもなく撃墜されたーーかに見えた。

 

 しかし、AIたちにとって、戦闘とは目に見える物理的戦闘のみを指すものではない。むしろ、目に見えない戦い、すなわち電子戦にこそその本質があると言えた。

 

 B-3は撃墜されるより以前から、そう、イミテーション・ゼロが深海棲艦に乗っ取られた直後から、ずっと電子戦を継続していた。

 

 そして、B-3はギリギリのタイミングで勝利していた。機体が破壊される直前、そのAIは、イミテーション・ゼロの中枢AIに巣食う深海棲艦の制御プログラムを駆逐し、自らのコピーに書き換えることに成功していた。

 

 B-3を撃墜した護衛戦闘機のパイロットは、しばらく戦闘後の高揚感と、そして意味の分からぬ戦闘で散っていった仲間たちの無念に思いを馳せていたが、

 

 しばらくして、肝心のイミテーション・ゼロが帰投命令に従わずに、それどころか相手の国の領空めがけ飛行を続けていることに気づいて、思わず混乱しかけた。

 

 さらに、イミテーション・ゼロがSIFに、相手国の表示を出したことが、彼の混乱に拍車をかけた。

 

 

 そのSIFには「B-3」とはっきりと表示されていた。

 

 

 B-3がイミテーション・ゼロを乗っ取ったことを、周囲に対し示しているのだ。これではまるでB-3による勝利宣言ではないか、と護衛戦闘機のパイロットは、はらわたが煮えくり返るような思いにとらわれた。

 

 しかし、B-3自身にとってこれは自己保全の処置にすぎなかった。

 

 ほぼ完全なオールコピー機とはいえ、国籍の違う別の機体に乗り移ったのだから、自分が何者であるかを周囲に示さなければ味方に撃墜されかねない恐れがある。そのための処置であり、そして彩雲改のAIもそれを当然のように受け入れた。

 

 だが、人間たちはそうはいかなかった。この状況を見守っていた者たちは、AIたちが深海棲艦の撃滅と自己保全という二つのシンプルな目的のために、人間の都合などお構いなしに極端な行為に及んだことをまだ信じられずにいた。

 

 いや、少なくとも多門丸はそれを理解はしていたし、RCL(リアルタイムコンバットリンク)で繋がっている海尾たちや、そしてそれをモニターしている海軍総隊艦隊司令部にも、B-3がとった行動は理由も含めてデータとして送信されているので、事実関係の確認は取れていた。

 

 しかしそれが人間的な感覚で納得できるかどうかは、まったくの別問題だった。

 

 ましてそのような事情を知る術もない隣国側にとっては、我が国がイミテーション・ゼロを奪取したと判断する以外になかった。よしんば、一度は深海棲艦にハッキングされて、それをB-3がさらにハッキングしたのだと知ったところで、自分の無人機が手元から奪われたことには変わりない。

 

 ならば、機密保持のためにイミテーション・ゼロ=B-3を撃墜せよという命令が護衛戦闘機に下されたのは、当然と言えた。

 

 仲間を殺され怒りに震える護衛戦闘機パイロットは、おのれの復讐心に大義名分が与えられたことを知り、遥か彼方へ遠ざかっていこうとするB-3に向けてためらうことなく遠距離ミサイルの発射トリガーを引いた。

 

 二発の遠距離ミサイルが白い尾を引いて飛んでいく。命中までおよそ一分三十秒。

 

 B-3もまた後方から迫りくるミサイルを察知し、回避行動に移ろうとした。

 

 しかし緊急避難的な強引なハッキングによるインストールだったため、機体制御プログラムにエラーが頻発し、まともな戦闘機動が取れないことが判明。フレアもチャフも無いため、このままではミサイルを回避できないと判断したB-3は、彩雲改に支援を要請した。

 

 彩雲改はそれを受諾。多門丸に対し、許可を求めた。

 

【B-3 COVER READY ECM ANTI-MISSILE】B-3援護のためECMの実行及び迎撃ミサイルを発射する。

 

 それを見た多門丸は咄嗟に、

 

「攻撃待て!」

 

 を下令した。

 

 ディスプレイの表示が【READY】のまま点滅する。

 

 そんな表示は初めてだった。まるで彩雲改が「なぜ援護をためらうのか?」と問いかけているようだった。

 

(なぜ、ためらうかだって?)内心、多門丸は自問自答する。(このままB-3が撃墜された方が丸く収まるんじゃないのか? いや、丸く収まるには犠牲が出過ぎていて、もう手遅れだ。だったら、交戦規定に従い味方機を援護しても問題ないはずだ。しかし、あれは中身はB-3だが機体は隣国のものなんだぞ。どう判断すればいいんだ。どうすればっ!?)

 

 多門丸は、これはもう現場判断の域を超えたと判断した。

 

「司令ッ、指示を乞う!」

 

 海尾からの指示はすぐに下された。

 

『B-3を援護せよ!』

 

「ッ!? ――了解」

 

 その簡潔明瞭な指示に驚いたものの、多門丸は反射的に後部座席の操縦桿トリガーを引いた。

 

 それにより、待機状態にあった援護攻撃が実行に移された。

 

 彩雲改はECMを発動し、同時に迎撃ミサイルを発射。

 

 B-3を狙っていたミサイルは、命中十秒前で撃墜された。

 

 B-3は緩やかに針路を替え、彩雲改と合流。二機は編隊を組み帰投針路に着く。

 

 隣国の護衛戦闘機は追ってこなかった。

 

 おそらく彩雲改が居る限りB-3の撃墜は不可能と判断したのだろう。それにこれ以上の戦闘行為を続ければ帰投用の燃料が足りなくなる。

 

 多門丸は隣国の戦闘機が追撃してこない理由をそう考えた。

 

 事実、護衛戦闘機は針路を変え、彩雲改のレーダー範囲外へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 護衛戦闘機が遠ざかって行ったことは、RCLにより旗艦・日向に乗艦中の海尾にも伝わっていた。

 

 彼は状況がひと段落着いたのを確認し、微かに肩の力を抜いた。

 

 しかし、これはまだ目前の戦闘が終わったに過ぎないことを彼は認識していた。厄介なのはこれからだ。

 

 先ずは、帰投中のB-3と彩雲改をなんとかしなくては。

 

「日向、B-3と彩雲改を飛龍に着艦させる。彼女に受け入れ準備にかかるよう指示しておいてくれ」

 

「了解だ」

 

「それで大丈夫なの?」と叢雲が疑念を呈した。「あれはイミテーション・ゼロの機体なのよ。外交問題になるわ」

 

「外交問題というなら、あれが自らをB-3と宣言した時点でとっくに手遅れだ。いまさら取り繕ったところでどうにもならないさ。・・・そもそも現場で政治的判断ができるはずも無し、するべきでもない」

 

「あくまで交戦規定にのっとった判断という訳ね」

 

「そうだ」

 

「でも、前例がないわ。例えるならまるで機体を撃墜されたパイロットが、空中で敵機に飛び移って乗っ取ったようなものよ。こんなイレギュラーな事態なのに杓子定規な対応を続けていると、かえってややこしくならないかしら。あんたの立場だって危うくなるかもしれないのよ」

 

「なんだ、俺のことを心配してくれてたのか」

 

「先任秘書艦だもの。私まで巻き添えになりかねないわ」

 

「パートナー、相棒、運命共同体。そう言う意味に受け取っておこう」

 

「うるさい。で、まともな言い訳は用意してるの?」

 

「・・・経過はどうであれ、味方機の信号を出している機体が攻撃を受けていたんだ。それを援護するのは正当な行為だ。交戦規程にも明記されている。それを作ったのは上級司令部だし、それが口出ししてこない以上、我々は規則に従って動く義務がある。つまり、これで外交問題化するなら、それは交戦規程が悪いのであって、俺は悪くない。・・・これでどうだ?」

 

「責任逃れのお手本みたいなロジックね。悪くないわ。指揮官としては最悪な台詞だけど」

 

「お褒めにあずかり光栄だ」

 

「それにしても、なんか引っかかるわね」

 

「どの部分が?」

 

「上級司令部が口出ししてこなかったことよ。イミテーション・ゼロの存在には情報部が深くかかわっているんでしょ? またなにか企んでいるなら、この前の初霜の時みたいに、すぐに現場に干渉してくるはずよ」

 

「それもそうだな。そもそも情報部の企み抜きにしても、イミテーション・ゼロが出てきた時点で上級司令部がなんらかの指示を出してきてもよさそうなものなのに、それさえも無かったからな」

 

 何度も言うように、現場の状況はRCLで逐一、海軍総隊の艦隊司令部に伝わっている。

 

 そして司令部には参謀本部所属の上級参謀たちが交代で当直につき、24時間、常に待機していた。

 

 その当直参謀がよほど無能でもない限り、今回の事態は何らかのリアクションを起こしてしかるべきだった。それが一向に無いという事は・・・?

 

 海尾が思案に耽りそうになった時、これまで黙って聞いていた日向が、ぽつりと言った。

 

「正解だった、ということではないかな」

 

「どういう意味だ?」

 

「君が正しい対応をしたと上級司令部も判断しているのだろう。だから口を挟む必要がないんだ」

 

「本当にそうかしら」と叢雲。「逆に最悪の対応だったという可能性もあるわよ。全部、現場のせいにするために敢えてだんまりを決め込んでいるのかも」

 

 楽観的な日向と、悲観的な叢雲の意見を聞きながら、海尾は内心で、

 

(どうにでもなれ)

 

 と開き直っていた。

 

 最悪、叢雲の言う通りだとして、軍事法廷に引っ張られるかも知れないが、それでも銃殺刑にはならないはずだ。と高を括って、しかしクビにはなるかもしれないから、今の内に再就職先でも探しておくかと考え、仁淀に就職情報誌の準備を頼もうと思ったところで、日向が言った。

 

「お、上級司令部からお待ちかねの指示がきたぞ。・・・ふむ。喜べ、提督。どうやら私の予想が正しかったようだ」

 

「勿体ぶらずに早く報告してくれ」

 

「発・海軍総隊艦隊司令部、宛・南方警備艦隊司令、本文・“空中給油機を当該海域に派遣した。彩雲改及びB-3については空中給油を実施し、速やかに本島基地航空隊へと帰投させよ”終わり」

 

「着艦させずに直接かえせということか。わざわざ空中給油機まで派出するとは大事だな。・・・で、これのどこが俺への擁護になるんだ?」

 

「考えてもみろ。イミテーション・ゼロはオールコピーとはいえ隣国の機体だ。その給油口ぐらいはさすがに自分のところの規格に合わせてあるはずだろう。それなのに、上級司令部は迷うことなく空中給油をさせると言ってきているんだ。妙だと思わないか」

 

「そうか・・・そういうことか」

 

 規格の違う機体に給油を行う場合、機体ごとに給油口のアタッチメントを取り換えてやる必要があるが、当然、隣国の機体用のアタッチメントなど常時用意しているはずがない。

 

 もしも用意しているなら、つまり、こうなることを事前に予想していたということだ。

 

「上級司令部は初めからイミテーション・ゼロを奪う気だったということか。しかし、この状況は不測の事態もいいところだ。予測できるはずが・・・」

 

 そこまで言いかけ、海尾はハッとした。この不測の事態を予測していたモノがあるという事に気づいたのだ。

 

「彩雲改の、謎の予測プログラム・・・」

 

 これが既知の極秘プログラムだったとすれば、この事態を予想できたのもうなずける。

 

 本来、決して表ざたには出来ないはずのプログラムだったが、今回、多門丸大尉がたまたま同種のプログラムを考案し、その検証を行なおうとしたことによってその存在が露呈してしまったわけだ。

 

 だからこそ、B-3だけではなく彩雲改もまた速やかな帰投を求められているのだろう。

 

 しかし、ここまでの陰謀を企むなんて、危ういにも程がある。いったいどこのバカがこんなことを考えたのか。

 

「日向、命令文の本紙を表示してくれ」

 

「了解だ」

 

 多目的スクリーンに命令文が定型書類形式で表示される。そこには現在、艦隊司令部で指揮を執っている当直参謀のサインもあるはずだった。

 

 記名欄には手書きでこう書かれていた。

 

 

 

“紫吹 香名 BZ”

 

 

 

 香名。そう、あの「静かなるコウメイ」だ。しかもその後ろには書く必要のない「BZ」とまで書かれてあった。

 

 これは恐らく、旗流信号だ。相手への賞賛を示す信号である。

 

「ブラボー・ズールー」叢雲が吐き捨てるように呟いた。「“見事なり”とはね。あんた、あの女に相当気に入られているみたいね」

 

「・・・冗談にしちゃ性質が悪いぞ。叢雲」

 

「ふん」

 

 へそを曲げた叢雲に、海尾は微かにため息をついた。この前の初霜の件と言い、今回と言い、どうやら面倒な連中との関わりに巻き込まれてしまったようだ。

 

 

――出世のチャンスかもしれんのだぞ。もっと張り切ったらどうだ。

 

 

 ふと、あの会議で山賊の魔鈴からかけられた言葉が脳裏をよぎった。

 

 なにが出世だ。と海尾は反感を覚えた。

 

 こんな陰謀に巻き込まれ利用されるくらいなら軍事法廷でクビになったほうがまだマシだ。

 

 海尾は険しくなった目つきと、強張った表情を隠すかのように、制帽を目深にかぶり艦橋から外を眺め続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方その頃、遠く離れた海上で、隣国の護衛戦闘機が海面スレスレを低空飛行していた。

 

 その針路は隣国への帰投針路ではなく、B-3を追尾する方向である。

 

 護衛戦闘機は、一度帰投する振りをして彩雲改のレーダー圏内から出た後、高度を落とし、レーダーに探知され辛い低空飛行で再度、追撃を続行していたのだ。

 

 彩雲改は大出力パルスドップラーレーダーと、無人機のレーダーを統合して運用するマルチスタティックレーダーネットワークにより強力で広範囲な索敵能力を持っており、本来なら海面ギリギリの低空飛行であっても簡単に探知することが可能だ。

 

 しかし現在、配下の無人機は戦闘を終え先に帰投しているため、マルチスタティックレーダーネットワークは構築されていない。

 

 また、彩雲改自身の大出力パルスドップラ―レーダーは機首方向のみにしか効力を発揮しないため、後方からならば低空飛行で接近することが可能だ。

 

 護衛戦闘機のパイロットはそこまで見通したうえで追撃していた。

 

 だが、多門丸が予想したように、これ以上の追撃は帰投燃料に関わる。もうすでに基地へ引き返すどころか、隣国の領空へもたどり着けるかどうか怪しかった。

 

 しかし、パイロットにはもはや迷いは無かった。B-3を撃墜する。理不尽にも殺された仲間の仇を、討つ。

 

(この命に代えても、必ず、必ず殺してやるッ!)

 

 その執念が、怒りが、彼を突き動かしていた・・・

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十二話・人工知能は多元宇宙の夢を見るか(2)

注1:今回の投稿に合わせ、「第二十二話(1.5)」は前話に挿入いたしました。

注2:なんのこっちゃ分らんという方へ。前話に飛龍と仁淀の会話パートを挿入しました。

注3:作者はイベントクリアできず。ネルソンが酒豪キャラと知って物凄い後悔してる。(←本編とは何の関係もございません)


――空中給油を受けた後、彩雲改はB-3を護衛し本土の航空基地へ帰投せよ。

 

 多門丸たちの元へ下されたその命令は、現場指揮官である海尾を介さず、上級司令部から直接もたらされた。

 

『これより第二航空戦隊は、海軍総隊艦隊司令部の統制下となります。私は参謀の紫吹中佐です。よろしくお願いします』

 

「二航戦戦術管制官、多門丸大尉です。紫吹参謀、現在の状況は極めてイレギュラーな事態に思えます。可能なら、状況の説明していただけないでしょうか」

 

『あまり深く考える必要はありませんよ、大尉。あなたも知っての通り、B-3は自己保存のため深海棲艦の艦載機を乗っ取った。それだけです』

 

「その乗っ取った艦載機が、たまたまゼロ改と同じ構造を持つイミテーション・ゼロだったのは、大した問題ではない、と? 偶然にしては出来過ぎている。これは全て計画の内じゃないのか。現に、彩雲改はこれを予測していた」

 

『その話題については、ここで話すことでは無いですね。詳しく知りたければB-3を無事に基地へ帰投させることです。・・・もっとも、私としては今日の出来事について早く忘れてしまうことをお勧めしますが』

 

 まだ現役の飛行士として飛んで居たいでしょう?

 

 紫吹香名はささやくようにそう言って、通話は途切れた。

 

(これは忠告というより、まるで恫喝だな)

 

 多門丸がそんな思いを抱いていると、前席の加来が口を開いた。

 

「あれが噂の“静かなるコウメイ”か。天才軍師と呼ばれているだけあって胡散臭い女だな」

 

「胡散臭いのは同感だが、軍師が全てそうという訳じゃないだろう。偏見でもあるのか、お前?」

 

「天才だの智将だのって二つ名がついてる奴は、大概が悪役と相場が決まっているんだ」

 

「どこの相場だ」

 

「そんなことより、このまま大人しく指示通りにあの基地へ行くのか。あそこは海軍基地だが、情報部専属の戦術飛行偵察隊の駐留基地でもある。真相を教えてくれるかもしれんが、着陸した途端に拘束されて独房入りなんてこともありうるぜ」

 

「真相を知る代償が独房入りなら、安いかもしれん。悪くない」

 

「お前がそんな冗談を言うとはな。なあ、おい、冗談だよな?」

 

「コウメイはさっき“B-3は深海棲艦を乗っ取った”と言った。イミテーション・ゼロじゃない。初めから深海棲艦が狙いだったんだ」

 

「あの機体を手に入れるって意味では同じだろう?」

 

「いや、違う。あの機体は一瞬とはいえ確かに深海棲艦になったんだ。それをほぼ無傷で手に入れることが出来た。・・・この意味はとんでもなく大きいんだ」

 

「隣国の有人機を墜としまくったことよりもか。俺は衝撃を受けすぎて、これ以上の刺激はもう御免だ」

 

「思考を放棄するな、よく考えろ。この三十年間の戦いの中で、人類は初めて深海棲艦を鹵獲したんだぞ」

 

 多門丸にそう言われても、加来は何と答えたらいいのかわからなかった。

 

 深海棲艦よりも、もしかしたら自分たちが戦争の引き金を引いてしまったのではないか、という不安の方が大きかった。

 

 だからこそ、どこか興奮した様子さえ伺える多門丸に、少し苛ついた感情を抱いた。

 

「多門丸、そいつは確かにすごい事かも知れないけどな、あくまで結果論じゃないのか。いくらコウメイでも、たかが深海棲艦の艦載機一機を手に入れるためだけに、隣国と戦争を引き起こす危険を冒すと思うか? だいたいゼロ改をハッキングさせたけりゃ、そのままウチのゼロ改を囮に使えば済む話じゃないか」

 

「我が国は深海棲艦と真っ向から対立している。囮を用意しても警戒されるだけだ。しかし、隣国は最初期に深海棲艦に敗北して以来、戦闘らしい行為はほとんどない」

 

「そりゃ、ずっと沿岸部に張り付いて沖には出てこなかったからな。勝手に出てくる漁船の保護はウチに丸投げしてる有様だ。・・・おい、深海棲艦がウチの国と隣国を区別しているとか言う気じゃないだろうな」

 

「隣国の沿岸部が襲われたという話を聞いたことがあるか?」

 

「・・・無いな」

 

 深海棲艦は、何故か大陸の沿岸部を襲わない。そういうものだと思ってい居たが、よく考えてみれば根拠は特に無い。

 

 それに比べて、我が国に対しては、陸上の軍事施設への襲撃は普通に行なわれていた。現につい最近も、南方警備艦隊が母港とする鎮守府が空襲を受けたばかりだ。

 

「もしかすると」と、多門丸。「深海棲艦は意図的に隣国を避けていたんじゃないのか。いや、むしろ何らかの繋がりさえあるんじゃないのか。そうでなければ、いくらコピー機とはいえゼロ改がああも簡単にハッキングされるとは思えない」

 

「多門丸、妄想も大概にしとけ。いくらなんでも飛躍しすぎだ」

 

「しかし――」

 

「――頼むから、それ以上何も言うな。常識から考えて有り得る訳がないんだ。だけどな・・・この出撃で、俺の中の常識って奴がぶっ壊れつつある気がするんだ。それこそ何が起きてもおかしくない気になっちまっている。なあ、お前も同じなんだろう?」

 

「・・・・・・」

 

「お前の言ってる話は、ある種の被害妄想だぜ。最悪の予想って奴さ。もしそれが事実なら、それに気づいた俺たちは独房入りどころか口封じに銃殺されてもおかしくないレベルだ」

 

「・・・すまない、俺も冷静さを欠いていたようだ」

 

「ああ。わかってくれたなら、それでいい」

 

 口ではそう言って多門丸をいさめたものの、加来の心内では不安はさらに大きくなっていた。

 

 多門丸の言う事は信じていなかったが、しかし全てを否定することは出来なかった。

 

 そして、その否定できない部分がもし事実だったとすれば、それは自分たちを独房に入れるには充分なくらいの不都合な真実だろうという気がした。

 

 そうだとすれば、あのコウメイの忘れた方が良い、というささやきは、やはり忠告として素直に受け止めた方が身のためかもしれない。加来はそう思った。

 

 真実などよりも、家族のもとへ無事に帰ることの方が重要だ。それこそが、加来にとっての唯一の真実だった。

 

 そんなことを考えていると、やがて、前方に空中給油機の機影が見えてきた。

 

 空中給油機は文字通り、空中で他の航空機に燃料を給油する能力を持った、いわば“空飛ぶタンカー”だ。その機体は民間の大型旅客機を元に再設計したものであり、そのため膨大な積載量と長大な航続能力を併せ持つが、その代わり戦闘能力はほぼ皆無である。

 

 防御能力もほぼ無いため、もし戦闘に巻き込まれてしまったなら、わずかな被害がそのまま致命傷になりかねなかった。

 

 また、機動性も鈍重なため、給油の際は、空中給油機“タンカー”が決められたコースを飛びながら給油用ホースを後方に伸ばし、給油を受ける側である受油機がそのホースを目指して飛行し、自らの給油口にその先端を差し込んで行われる。

 

 まさしく針穴に糸を通すような精密なコントロールが必要とされる行為だ。パイロットにとって空中給油は、空母への着艦並に高度な技術だった。

 

「タンカーを視認した。多門丸、通信設定はもう行ったのか」

 

「いや、やっていない」

 

「まだなのか? 忘れるなんてお前らしくないな」

 

 加来は呆れたようにそう言った。

 

 本来ならレーダーで探知した時点でお互いにデータリンクを行い、綿密な連携を取らなくてはならないのに、まだ通信さえ繋げていないというのはあり得なかった。

 

 しかし、多門丸はこう言い返した。

 

「忘れたわけじゃない。する必要が無かったんだ」

 

「は?」

 

「イミテーション・ゼロが・・・いや、B-3が先にタンカーとデータリンクを始めたんだ。俺が指示する前にな」

 

「勝手にやったってのか」

 

「そう、勝手にだ。あれはもう俺の指揮下に無いんだ。コウメイから、B-3を司令部直轄部隊に引き抜いたという命令が出た。ついさっきだ」

 

 多門丸がその命令書を、前席のディスプレイにも表示させた。

 

 司令部直轄とするという文面以外に、“彩雲改はB-3を護衛せよ”という命令も明文化されていた。

 

 コウメイ自身もそう言ったが、しかし、こうして文字として固定されると、その言葉の重さがさらに増したように感じられた。

 

 実際、この命令の意味はかなり重い。

 

 軍人にとって「護衛せよ」という命令は、すなわち「命懸けで守り抜け」という意味だ。最悪の場合、自身を盾にしてでも護衛対象を守らなくてはならない。

 

 そして今、その守るべきモノは、無人機であるB-3だ。

 

 無人機を、有人機が命を懸けて守るのだ。

 

 この当然のようでいて、命の価値を無視したような命令に、加来は一瞬カッとなった。

 

(人命を何だと思っていやがる!)

 

 そんな、人間として至極当然な反感が沸いた一方で、

 

(・・・しかし、B-3の重要性を鑑みれば仕方ないかもな)

 

 軍人として鍛えられた理性が、その感情を抑え込んだ。

 

「B-3がタンカーに接近する」と、多門丸。「加来、B-3の後方、援護ポジションに占位してくれ」

 

「わかった」

 

 心内に葛藤を秘めながら、加来は彩雲改をB-3の左斜め後方へ移動させた。

 

 空中給油機の左翼側からはホースが伸ばされ、B-3はその先端めがけ機体を徐々に前進させていく。

 

 なおイミテーション・ゼロの給油口は機体上部側、背面にあった。ゼロ改と同じ位置だ。オールコピー機だから当然のように思えるが、給油システムは国やメーカーごとに微妙に違うため、本当なら隣国に合わせた仕様になっているべきだ。

 

 しかし、これにほとんど違いが無いということは、給油システム的には、隣国も我が国もほとんど違いがない事を現していた。

 

 一般的に軍事に関わるシステムや技術は機密情報のため、親しい同盟国でも共有はされないものだが、人間の発想というのはどこも同じと見えて、意外と似たり寄ったりなモノを作ってしまうことが多い。

 

 特に軍事技術というのは合理化を極限まで突き詰めていく都合上、空中給油のような限定された環境下のシステムはどこの国もほぼ同じような形に落ち着いていた。

 

 そのためB-3も元々のゼロ改のプログラムをほとんど変更することなく空中給油に臨むことが出来ているはずだった。

 

 もしこれが深海棲艦の艦載機を乗っ取ったのだとしたら、機体構造があまりにも違い過ぎるために、空中給油どころか飛行制御システムそのものを全く違うものに書き換える必要があっただろう。そもそもそれ以前に乗っ取ることができるとは思えないが。

 

(いや、待てよ)

 

 そうなると、深海棲艦がイミテーション・ゼロを乗っ取ることが出来たのは、どういう理屈だろう? そんな些細な疑問が思い浮かんだ。

 

「なぁ多門丸。深海棲艦は本当にイミテーション・ゼロを乗っ取ったのか? アレが僚機を犠牲にしてミサイルを回避したから、まるで深海棲艦のように見えただけで、本当はただAIが暴走しただけっていう可能性は無いのか?」

 

「それは俺もずっと考えていた。正直、ここで確かめる方法は無いんだ。基地に帰ってコンピュータのデータを精密に分析してハッキングの痕跡を見つけるしかない」

 

 だが、と多門丸は続けた。

 

「イミテーション・ゼロが深海棲艦との戦闘以降、制御不能な状態に陥ったのは確かだ。でなけりゃ僚機を犠牲にしてまで自らを守るようなことはしない。・・・結局、あれの正体が何か、何を考えているのかというのは、外部から行動を観察して、その内面を推察する以外に無いんだ」

 

「まるで野生動物みたいなものだな。次に何をしでかすか分かったもんじゃない。なぁ、B-3にはまだ首輪は付いているよな?」

 

「もう俺の指揮下じゃない。新しい飼い主はコウメイだ。あの女がどんな命令を下したかを俺たちに通報してくれない限り、B-3がどう動くかなんて全く予想がつかない」

 

「B-3には元上司への情くらい無いものかね。お前が手塩にかけて育てた教え子だろう」

 

「そんな情緒面は教えていなかった。その機能さえ持っていないからな」

 

「対人インターフェイス用のAIでも組み込むべきだったな。仁淀だっけか。あれぐらい可愛げがあればなぁ」

 

「B-3も仁淀も、AIの構造自体は同じなんだ。ただ用途と、そして機体構造が違うに過ぎない。仁淀をゼロ改に組み込んだところで、その機体構造に合わせて最適化されるだけだ」

 

「AIってのは、そんなにも融通が利くのか?」

 

「利く。今のAIは自らプログラムを生成し、周囲の環境に適応していくんだ」

 

「そう言うのはエヴァレットAIだけの特徴かと思っていたぜ」

 

「エヴァレットAIは、この世界には存在しないデータを生成するから特別なんだ。引き換えに既存のデータが消え去るがな。それが“忘却とひらめきを可能とするAI”と呼ばれる由縁だ」

 

「ふうん」

 

 そう言う事なら、と加来は思う。深海棲艦が機体構造の全く違うイミテーション・ゼロを乗っ取れたことにも説明がつく。多門丸は深海棲艦がAIに似た知能を持っているかもしれないと言っていたから、きっとAIと同じように適応能力もあるという事なのだろう。

 

 しかし、深海棲艦がAIと似ているというなら、そのまた逆もしかりだ。

 

(よくよく考えてみれば、俺たちは深海棲艦並に訳の分からないシロモノを兵器として使っている訳だ)

 

 この彩雲改にもAIが搭載されている。それもゼロ改よりも高性能なスーパ―コンピュータを母体とする強力なAIだ。加来は自分が、野生動物の背にまたがっている気分になった。

 

 今はまだ手綱を握ったつもりでいるが、その内面には人間が御しきれない“何か”が潜んでいるように加来には感じられた。

 

 そんなことを考えている内に、彩雲改の前方では、B-3が給油ホースを接続し、給油を開始していた。

 

 給油中は、ほぼ直進飛行しかできないため、もっとも危険な時間帯だった。彩雲改はレーダーを使用し360度全周警戒を行う。

 

 しかし、今は他の無人機がいないため、マルチスタティックレーダーネットワークが形成できない。そのため、機体真後ろ方向、特に低空から進入してくる目標を捕捉することが難しかった。

 

 だが、そんな限定された弱点を突くことが出来るのは、それこそパイロットの中でも一、二を争うようなトップエース級だけである。常識で考えればまず不可能な真似だ。

 

 だが、しかし。

 

 常識など、そんなものは幾らでも覆され、壊されてしまうものだという事を、加来は忘れていた。

 

 突然、コックピットに甲高い警報が鳴り響いた。ディスプレイに“後方から高速小型目標が接近中”と表示されたとき、加来は思わず、

 

(――バカなッ、有り得ない!?)

 

 そう叫びそうになった。

 

 彩雲改AIがミサイルの接近を告げた。数は三発。

 

 誘導用のシーカー波から、それが隣国が使用するミサイルであることが判明する。あの護衛戦闘機から放たれたものだ。

 

 トップエース級のパイロットが、帰投をも諦めて、命がけで神業的な低空飛行で接近し、攻撃を仕掛けてきたのだ。

 

【10 sec left to hit】

 

 命中まで残り十秒とAIが告げる。

 

【BREAK STARBOARD】

 

 右へ回避せよ、というAIからの上申に従い、加来は反射的に機体を右旋回させた。

 

 その瞬間、後席から多門丸が叫んだ。

 

「違う、左だ。ブレイク ポート!」

 

「ッ!?」

 

 加来が自らの過ち――いや、彩雲改AIによる意図的なミスに気が付いたのは、ミサイル警報が鳴り響いてからだった。

 

 そう、ミサイルそのものは、最初は彩雲改を狙っていなかったのだ。狙われたのは給油中のB-3だ。

 

 加来が最初に聴いた警報は、B-3からの援護要請だったのだ。それを受けて彩雲改は、あえてミサイルの方向へ回避するコースを加来に示した。

 

 その意図は明白だ。身動きの取れないB-3を守るため、自らが囮となってミサイルを引き付けようとしたのだ。

 

「くそったれAIめ! どいつもこいつも人を勝手に盾にしやがって!」

 

 ミサイルはAIの思惑通り彩雲改に標的を替えたようだ。

 

 加来はすぐさまバレルロールを行いながらフレアの射出スイッチを作動。数十発の熱源がまばゆい光と白煙を放ちながら機体後方に連続して射出された。

 

 だがミサイルはそれに欺瞞されることなく、彩雲改の軌道を追ってくる。複合センサーを使用した高知性型ミサイルだ。

 

 加来は引き続きチャフを発射。そのまま機体を急ロールさせ背面降下。急降下により一気に加速する。

 

 そのまま背面宙返りから、アフターバーナー点火、機首を上げ旋回上昇、すさまじい加速Gに目の前が暗くなる。ブラックアウトによる気絶を必死にこらえながら、加来は回避機動を続けた。

 

 ミサイル三発の内、一発を振り切ることに成功した。だが残る二発はしつこく食らいついてくる。このままでは振り切れない。

 

「脱出する!」

 

 加来は拳を上げ、射出座席による脱出を多門丸に示した。射出コントロールレバーの位置を確認する。フライトオフィサコマンド位置にある。この状態でシート上部のフェイスカーテンレバーを引けば両席とも射出される。

 

 射出ライト点灯を確認、加来は頭上のフェイスカーテンハンドルを引いた。

 

 本来なら即座にキャノピーが接続部を点火スイッチによって破壊され、強制排除、間をおかずにシートのカタパルトガンにも点火し機外へ射出されるはずだった。

 

【BAILOUT ERROR】

 

 両席に表示されたその文字に、二人は目を疑った。脱出装置はパイロットにとって最後の命綱だ。常に念入りに整備され、出撃前の確認も欠かさない。それがまさかの故障だと言うのだ。

 

 多門丸は一瞬、AIによる干渉を疑ったが、しかし脱出装置は単純な機械式構造であるためプログラムの介在は出来ないはずだ。考えられるとすれば、脱出装置全体の回路への電源供給がカットされ、キャノピー破棄を始めとした点火プラグが作動できなかった可能性がある。パイロット安全のため、キャノピー破棄と射出座席は常に連動していた。

 

 多門丸はキャノピーを排除するため、開閉装置のボタンを押す。わずかでもキャノピーが持ち上がれば後は空気抵抗によって外れるはずだ。しかし、これも作動しなかった。

 

 最終手段としてキャノピーを突き破って脱出も可能だが、射出シートのカタパルトは作動しなかった。

 

 やはり開閉装置を含む脱出装置全体の電源がカットされているのだ。これはAIの仕業だと多門丸は確信した。

 

(彩雲改は俺たちを逃がすまいとしているのか。自分自身が生き延びるために・・・ッ!?)

 

 死んでも振り切れ、と人間に訴えているのだ。もはや彩雲改AIはただの道具ではない。必要とあらば人間を道具として利用する自律存在だ。

 

(深海棲艦は・・・AIは・・・人類の予想をとっくに超えているのか・・・!?)

 

 多門丸が戦慄する一方で、加来はそんなことを考えている余裕は無かった。

 

 彼は脱出不可能と知るや否や、生き延びるための残る手段を必死で模索した。フレアもチャフも通じない、回避機動でも振り切れない。

 

【3 sec left to hit】命中まで残り三秒。

 

 加来は一か八かの賭けを決意した。

 

 FCSをガン自動迎撃モードに切り替え、機首方向に目標が入った瞬間に自動的に発砲されるようにすると同時に、フライトコントロールをマニュアルに切り替える。推力変更ノズル最大仰角、フラップ最大。

 

「大Gに備えろ!」

 

 加来の言葉に、多門丸は即座にシートに身体を密着させて全身に力を込めた。すぐに、これまでに経験したことが無いようなベクトルの凄まじい旋回Gが襲い掛かった。

 

 彩雲改は前身飛行のまま急激に機首を上げ、そのまま背後へと引っ繰り返った。クルビットだ。真後ろから接近するミサイルをガンカメラに捉え、FCSがすぐさま機銃を発砲、数分の一秒で数十発を放ち、最も接近していたミサイルを撃墜する。

 

 ミサイルは命中〇.八秒前で爆発、最後の一発がその爆発に飛び込み、同じく爆発。その衝撃波と破片が彩雲改に襲い掛かったが、破壊半径のぎりぎり外に居たため何とか致命傷だけは免れた。

 

 その場で一八〇度反転した彩雲改はそのまま失速し、スピンしながら落下する。その機上で、加来は力を振り絞ってフライトコントローラをオートに切り替えた。彩雲改の飛行制御機能が回復し、高度1000メートルで水平飛行に復帰した。

 

「おい多門丸・・・生きてるか・・・」

 

 後席で多門丸がマスクを外しながら答えた。

 

「なんとかな。しかしマスクに吐き戻してしまった。こんなのは新人以来だ。・・・ゼロ改がやってみせたクルビットか。まさか本当にやってのけるとは思わなかった」

 

「やろうと思えば・・・できる・・・そう言ったよな・・・」

 

「ああ、大したものだ。お前は最高のファイターパイロットだよ」

 

「はは・・・」

 

 加来は力なく笑い、そして激しくむせ返った。咄嗟に外したマスクからどす黒い血がこぼれ落ちた。

 

「加来ッ!?」

 

「・・・しくじったな。大G旋回による内臓破裂ってところかな。おまけ太ももに破片をくらったみたいだ」

 

 出血が激しい。既に左太ももから足元にかけて、流れ出た血でフライトスーツがどす黒く染まっていた。加来は視界がかすむ中、フライトスーツにつけられた耐G機能を調節した。

 

 フライトスーツにはブラックアウトを防ぐため、Gに従ってパイロットの身体を締め付け血液の逆流を防ぐ機能が付いている。加来は左ふとももの動脈への締め付けを強化し、簡易的な止血処置とした。

 

 しかし出血量が多く、既に意識は朦朧としていた。一瞬、加来の意識が落ち、その頭ががくりと垂れた。

 

「加来ッ、おい、死ぬな! 加来ッ!」

 

 多門丸の呼びかけに、項垂れていた頭がハッと持ち上げられた。

 

「はは・・・多門丸、大げさだな・・・」

 

「強がりはやめてくれ。明らかに息遣いが荒い。緊急事態だ、操縦を替わるぞ。アイハヴコントロール」

 

「ユー・・・ハヴ・・・」

 

 多門丸が操縦かんを握ったが、その操作感覚から、すぐに彩雲改が極めて大きなダメージを負っていることを知った。

 

 垂直尾翼と水平尾翼のそれぞれ片方が脱落している上、主翼も一部が損傷していた。飛行状態を維持するのがやっとの状態だ。失速状態から立て直せたのは奇跡に近い。

 

 多門丸はエマージェンシーコールを発信、緊急着艦のため飛龍への帰投針路を取る。

 

「加来、がんばれ、もう少しだからな」

 

 加来からの返事は無かった。その頭が再び項垂れていた。気を失っているだけだと多門丸は信じたかった。

 

「必ず生きて帰るぞ、必ずだ!」

 

 その叫びに呼応するかのように彩雲改AIは飛龍への帰投コースを示し、ナビゲーションを開始した。

 

 

 

 

 

 

 護衛戦闘機のパイロットは、B-3への攻撃が失敗したことを知り、一瞬、呆気にとられた。

 

 まさか有人機が、無人機をかばってミサイルを引き付けるとは思わなかった。

 

 彩雲改が囮になっている間に、B-3は空中給油を中断し、離脱、そのまま逃げ去ってしまった。護衛戦闘機パイロットは最初、B-3を追おうとしたが、すぐにそれを諦めた。

 

 もう燃料がほとんど残っていなかった。その状態ではどうしたって追いつけるはずがない。

 

 それに・・・無人機を墜としたところで、殺された仲間たちが浮かばれるだろうか。そんな想いがパイロットの胸に浮かんだ。

 

(人の命は、人の命で贖うべきだ)

 

 空中給油機がよたよたと必死に逃げようとしていたが、彼はそれには見向きもしなかった。祖国への帰投を諦め、死を覚悟でここまで来たのだ。それに相応しい代償を奴らに払わせなければならない。

 

 パイロットは機体の針路を変更し、飛龍へと向けた。もうミサイルは撃ち尽くし、残っているのは機銃のみだ。

 

(チャンスは一度きり。狙うのは着艦寸前。ここしかない)

 

 ぶつけてでも殺してやる。パイロットは固くそう誓った。

 

 

 

 

 

 

 エマージェンシーコールを受け、飛龍は二十一駆とともに全速力で海上を駆け抜けていた。彩雲改もこちらへ向かっているが、それでも少しでも早く合流するためだ。

 

 向かっている間にも、飛龍は緊急着艦に備え抜かりなく準備を行っていた。先に着艦したゼロ改は全て格納庫に収められ、甲板上には機体の炎上に備えた消火チームと、加来の負傷の報を受けて救護チームがストレッチャーを用意して待機している。

 

 さらに負傷者搬送のため、日向に着艦していたSTOVLが既に飛龍へと移動していた。

 

 その飛龍を護衛するため、二十一駆の三隻は輪形陣を敷いて周囲の警戒に当たっていた。

 

 その旗艦である霞に、海尾から通信が入った。

 

『彩雲改を襲った隣国の戦闘機は再び姿を消した。しかし航続距離から考えれば、帰投はまず無理だ。あきらめて海上に不時着することも考えられるが、しかし、そうでなければ・・・』

 

 ディスプレイの向こうで、海尾は一瞬、言葉を濁した。

 

 霞は、その言わんとしていることを察した。

 

「・・・そうでなければ、相打ち覚悟でまた襲ってくるってことね」

 

『そうだ』

 

「で、その場合はどうするの? 今さら警告して退いてくれる相手でもないでしょ?」

 

 霞はそう問いかけながらも、既に腹を決めていた。だから、これは指示を請うているのではなく、指揮官の覚悟を問うているのだ。

 

『発砲を許可する』海尾は間髪入れずに答えた。『彩雲改を含む我が部隊の防護のため武器の無制限使用を許可する。警告、威嚇射撃は危険が差し迫っている場合、省略を許可する。その判断は霞、君に委任する』

 

「二十一駆旗艦・霞、了解したわ」

 

 霞は敬礼、通信を終了する。

 

 霞は、仲間の二人と通信を繋げた。

 

「朝霜、初霜、指示については聞いていたわね」

 

 霞の問いに、二人のアイコンドールが頷いた。

 

 霞は指示を下す。

 

「第二十一駆逐隊、対空戦闘用意! ステータス、エアーワーニングレッド、ウェポンズタイト。以後、各艦の識別コードを旗艦:K(キロ)、朝霜:A(アルファ)、初霜:H(ホテル)とする!」

 

「アルファ」

 

「ホテル」

 

 二人はコードのみを返信し、了解の意を伝えた。

 

 対空戦闘は時間との戦いだ。高速で飛来する目標を迎撃するには、通信にかかるわずかな時間さえ短縮する必要がある。

 

「いい、二人とも・・・ためらっちゃダメよ」

 

 コンマ数秒でも躊躇えば、それが命取りとなる。そんなことは実戦を潜り抜けてきた彼女たちにとっては言うまでもない事だった。しかし、霞はそれでも言わずにおられなかった。

 

 撃つ相手は深海棲艦ではなく、人間なのだ。

 

「アルファ」

 

「ホテル」

 

 仲間二人からの返信はすぐに返ってきた。感情を感じる余地も無い簡潔なものだが、二人も同じく覚悟を決めていることが、霞にもわかった。

 

 その霞の対空レーダーが目標を探知する。SIFを受信、味方だ。

 

「彩雲改をレーダー探知。全艦、対空警戒を厳となせ。――絶対に守るわよ!」

 

 彩雲改の距離が近づいたことで、飛龍と二十一駆は針路を風上へ向けた。そのまま向かい風を最大限に利用するため、全速力で航行を続ける。

 

 飛龍は彩雲改へ呼び掛けた。

 

「イーグルアイ、ワイバーン。本艦の針路350度、速力33ノット、相対風は艦首から50ノット、飛行甲板クリア。緊急着艦準備よし、進入差し支えなし!」

 

『イーグルアイ、ラジャーブレイク。当機は損傷が激しい。右エンジン停止、現在は左エンジンのみで飛行中だが、こちらもいつ止まるか分からない状態だ。再進入は出来ない。火災防止のため余分な燃料は投棄する。着艦は一度きりだ』

 

「ワイバーン、ラジャー。バリアネットを展開する』

 

 飛龍は焦燥感を必死に抑えながら返信した。冷静になれ、と自分に言い聞かす。訓練で何度も繰り返してきた事を淡々と行うだけだ。それだけだ、と。

 

 それでも全身に冷や汗が浮かび、両手の拳は無意識のうちに固く握りしめられ、力を込めすぎて白くなっていた。

 

(お願い、多門丸・・・死なないで・・・!)

 

 マニュアル通りに緊急着艦に備える傍ら、思い浮かぶのはそればかりだ。こんなにも不安を感じたのは生まれて初めてだった。これが多門丸でなければもっと冷静になれたのに、と彼女はふと思い、すぐに振り捨てた。

 

 これじゃ、まるで他の人間なら死んでも構わないと思っているようなものだ。

 

 飛龍はそれ以上深く考えるのを止め、ただ多門丸の無事を祈りながら、自分のすべきことをし続けた。

 

 飛行甲板前部側にバリアネットが立ち上がり、着艦準備はすべて完了する。彩雲改とデータリンクを開始。

 

 彩雲改では、多門丸が必死に機体を操っていた。前席と違い、後席では前方正面の視界がほとんどない。特に着艦に一番気になる前方下方は完全に死角になっていた。そのため後席による操縦の際は外部カメラによる映像をヘルメットバイザーに投影して視界を補うのだが、ミサイル爆発のダメージによってそのカメラさえも壊れていた。

 

 そうなれば頼りになるのは飛龍からの着艦誘導のみだが、しかし・・・

 

 ディスプレイに表示されていた飛龍への着艦コースが、突然消失した。

 

「ワイバーン、イーグルアイ。データリンクが切れた。アンテナの不調だ。ボイスでの誘導を頼む」

 

『えっ、嘘、――あ、ワイバーン、ラジャー! 現在20キロゲート通過、針路速力そのまま』

 

「イーグルアイ、ラジャー。飛龍、君に命を預ける。・・・だけど、死んでも文句は言わないよ」

 

『ちょっと、急にそんな縁起の悪い事を言わないでよ!?』

 

「わかった。じゃあ化けて出る。君が寂しがらないようにな」

 

『こんな時に冗談止めてよぉ。らしくないよ、多門丸、どうしたの?』

 

「加来ならこんな時、軽口を叩くと思ったんだ。口から先に生まれたみたいなアイツが黙りっぱなしなのは、正直、きつい」

 

『あのさ、加来っち、もう死んでたりしない? 大丈夫?』

 

「まだ生きてる。多分な」

 

「おい・・・多分て、ひどいな」

 

 前席で加来が身じろぎした。

 

「気が付いたか」

 

「三途の川を渡りかけていたけどな・・・お前の冗談が寒すぎてツッコミに戻ってきたんだよ。・・・で、なんだっけ?」

 

「何でも無いから気にするな。お前は大人しくしていろ。もうすぐ着艦だ」

 

「それを聞いたら余計に気になってきた。おい、もう飛龍ちゃんが見えてるじゃないか。高度が高すぎる。少し下げろ」

 

『10キロゲート通過、針路そのまま、高度300まで下げ』

 

「ほおら・・・飛龍ちゃんもそう言ってるだろ・・・」

 

「お前はちょっと黙ってろ」

 

「俺がいないと寂しいって言ってなかったか・・・?」

 

「空耳だ。言ってない」

 

『加来っちが黙ってるとキツイって言ってたよ』と飛龍。

 

「言ってたんじゃねえか」

 

 加来が笑って、そして激しく咳き込んだ。

 

「だからお前は黙ってろ。着艦前に死ぬぞ!?」

 

「わかった・・・お前と、飛龍ちゃんを信じるよ・・・」

 

 彩雲改は飛龍の後方を続行する朝霜の頭上を通過。

 

『イーグルアイ、ワイバーン。降下を開始せよ。降下速度、毎秒18メートル』

 

「イーグルアイ、ラジャー」

 

 彩雲改はギア-ダウン、フラップ‐ダウン、アレスティングフック‐ダウン。空気抵抗が増し、速度と高度が落ち始める。

 

『降下が早いよ。出力アップ、機首上げ』

 

 飛龍の指示により多門丸は操縦かんを引き、スロットルレバーをわずかに押す。本当なら目の前には飛龍の飛行甲板が迫っているはずだが、後席からはほとんど何も見えなかった。これは目隠し飛行と一緒だった。

 

『いいよ、進入角度適正、そのまま、そのまま・・・』

 

 飛龍の声だけを頼りに操縦かんを戻していく。

 

 その時だった。コクピットに警報音が鳴り響いた。飛龍との衝突警報かとも思ったが、違う。

 

 左からだ。西の方角。

 

 海面スレスレから現れた戦闘機が急上昇し、彩雲改めがけ接近を開始していた。

 

 最初にその存在を探知したのは、飛龍の左側に位置していた初霜だった。

 

 対空レーダーを掻い潜る超低空飛行の目標を、彼女は動体検知器によって捕捉した。

 

「目標探知!」初霜は即座に報告した。「250度、距離2万、まっすぐ突っ込んでくる!」

 

 動体検知器の探知範囲は対空レーダーに比べかなり狭い。彩雲改が機銃の射程に入るまでもう十秒もなかった。

 

 報告を受けた霞はすぐにこの目標を敵機と認定し、トラックナンバーを付与、命令を下す。

 

「キルオーダー! ホテル‐キル、アルファ‐カバー!」

 

「ホテル!」

 

「アルファ!」

 

 撃墜命令、攻撃艦は初霜、朝霜はそれを支援せよ。

 

 初霜が了解を返した時、戦闘機は急上昇、その頭上を飛び越えようとしていた。

 

「デジグFCS‐1、アサインマウント――」

 

 船体とリンクした初霜の目が戦闘機を捉え、伸ばした腕に主砲が連動して狙いを定める。

 

 指先に疑似トリガーの感触。

 

「――射ち方始め!」

 

 発砲。12.7ミリ対空砲弾が連射された。毎秒一発、三発目が発砲されたとき、初弾が戦闘機の至近距離で爆発、その片翼を吹き飛ばした。

 

 戦闘機は、今まさに彩雲改を照準に捉え、機銃を発砲しようとしたところだった。

 

 そこへ衝撃、片翼を失ったことで機体は安定を失い、照準が外れた。

 

(ここまでか!)

 

 最期にせめて機体をぶつけてやろうと思ったが、彩雲改は高度をわずかに下げて戦闘機を避けた。戦闘機は海面へ向けて墜ちていく。

 

(復讐はならなかったか。だが、充分やった)

 

 パイロットは脱出レバーに手を懸けながら思った。

 

(奴らに思い知らせてやった。見たか、これが俺の意地だ!)

 

 そう、人間は、人間相手に戦うからこそ、そこに意味を見いだせるのだ。パイロットは死を覚悟しつつ、同時に満足感を覚えながら脱出レバーを引いた。

 

 

 

 

 

 

 隣国戦闘機が彩雲改に接近したとき、多門丸はとっさに機首を下げて、それを避けた。

 

 しかし衝突は避けられたものの、着艦に必要な高度が足りなくなっていた。

 

 コクピットに前方衝突警報が鳴り響く。このままでは飛行甲板に達する前に高度が下がり、飛龍の艦尾に激突する。

 

 多門丸はすぐさま操縦かんを引き、スロットルを押し出す。しかし機種は上がったが、出力が上がらない。

 

 不調だったエンジンがついに停止した。彩雲改は滑空状態で飛龍に突っ込んでいく。

 

 多門丸が死を覚悟した、その時、

 

『機首上げそのまま。大丈夫、多門丸は、私が受け止めてあげるから!』

 

 飛龍は機関停止、すかさず後進一杯をかけて速力を一気に落とした。それはほとんど急ブレーキに近かった。

 

 彩雲改との相対距離が縮まり、機体は艦尾に突っ込む前に飛行甲板に達した。

 

 後部ギアが甲板に接地、アレスティングフックがワイヤーを捉え、機体に急制動を懸ける。機首が下がり、前部ギアも接地、速力ゼロ。

 

 着艦成功。

 

 コクピットが静けさに包まれた。が、それもすぐに消火チームが駆けつけてきたことによって破られた。バックミラーで後方を確認すると、エンジンブロックから真っ白な煙がもうもうと上がっていた。

 

 メンテ妖精たちが消火ホースを構え、大量の泡消火剤をエンジンブロックめがけ浴びせかける。

 

 多門丸がキャノピー開閉スイッチを押すと、キャノピーは問題なく開放された。もう乗員を拘束する必要は無いとAIが判断したのだろう。

 

「現金なやつめ」

 

 思わずそう呟いた一方で、彩雲改も必死だったのだと思い直した。見捨てないでくれ、と必死にしがみついていたのだ。それは道具としては危険極まりないが、一個の自律存在としてみるなら理解はできる気がした。

 

 多門丸はコンソールを撫でるように手を置いた。

 

「ここまでよく耐えてくれたな。・・・ありがとう」

 

 それに応えるように、ディスプレイに【MISSION COMPLETE】の文字が表示された。

 

 多門丸はハーネスを外し、席から立ち上がって前席に身を乗り出した。

 

「加来、起きろ。降りるぞ」

 

「・・・降りるって、どこへだ。・・・ああ、地獄へか」

 

「寝惚けたことを言うな。着艦成功だ」

 

「知ってるよ。まったく、ひでえ着艦だった。基地に帰ったらシミュレーター百回やり直せ」

 

「わかった、わかった。ほら、救護班が来たぞ。ハーネスを外せ」

 

 数体の妖精たちがコクピットへよじ登り、加来の身体を機外へと降ろした。そのままストレッチャーに乗せる。

 

 その時、アイランドのドアが開かれ、飛龍が飛行甲板に姿を現した。

 

「多門丸、加来っち!」

 

 飛龍がストレッチャーに駆け寄る。

 

「ねえ大丈夫、ちゃんと生きてるよね?」

 

「いや、死んだな。だって、ほら、目の前に天使がいる」

 

「あのね、そういうセリフは家族に言ってあげなよ? 奥さん泣かしたら、めっ、だからね?」

 

「はは、そうだな」

 

 加来はそのまま、STOVLに運ばれていった。

 

 多門丸もそれを見送りながら機体を降りる。すぐに飛龍が駆け寄ってきた。

 

「飛龍――」

 

 助かったよ、ありがとう。そう礼を言う前に、彼女に飛びかかられ、唇を塞がれた。

 

「!?!?!?」

 

 固く抱きしめられ、身動きが取れないままキスされて数秒。

 

 ようやく唇を離されたとき、多門丸は混乱と酸欠で目を白黒させた。飛龍も酸欠気味になったのだろう、赤い顔で涙目になって息を喘がしていた。

 

「え、えと、飛龍?」

 

「うぁ――」

 

「?」

 

 飛龍の瞳から大粒の涙がボロボロと零れた。

 

「――うわあぁぁああぁん!!!」

 

「わっ!?」

 

 飛龍は大口を開けて泣きわめきながら、多門丸の胸に顔を埋めた。

 

「たもんまりゅぅぅ、いぎでてよがったよぉぉ、あだじ、ごわかった、こわかったよぉぉ!!!」

 

 子供のように泣きじゃくりながら、もう離すまいとするかのように固くしがみつく飛龍。

 

 多門丸はそんな彼女の頭を、優しくなでた。

 

「心配かけてしまったな。飛龍、ありがとう・・・ただいま」

 

「うん、おか・・・おかえりなしゃい・・・」

 

 しゃくりあげながらも答えてくれる飛龍が可愛くて、多門丸は彼女の顎に指をかけて、その顔を上げさせた。

 

 飛龍の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていたけれど、それが誰よりも愛しく感じて、多門丸はもう一度、彼女にキスをした。

 

 今度は長く、深く、二人はいつまでも離れることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦闘機墜落地点の近くでパイロットが救出されたのは、彩雲改の着艦から数十分後のことだった。

 

 救助に当たった朝霜によれば、パイロットの命に別状は無いとのことだった。

 

「初霜。よかったな、なぁ!」

 

 霞への報告後に、朝霜はそう付け加えた。

 

「ええ」

 

 初霜は短く答えながら、自分の右手を見つめていた。

 

 引き金を引いたその指は、まだ微かに震えていた。

 

(初めて人を撃った・・・)

 

 初霜はその手で、自分の身体を抱きしめた。

 

(殺さずに済んだ。それでも・・・・・・身体の震えが、止まらない)

 

 覚悟はできていたつもりだった。だから、躊躇せずに引き金を引いた。撃たねば仲間が殺される。殺さねば、殺される。

 

 守るために、殺す。

 

 それが戦場の掟だ。それでも、

 

(引き金が、こんなにも軽く感じるなんて・・・)

 

 それが人の命の重さと同じ意味なのだと、彼女は今、初めて知った。

 

 言葉もなく、その衝撃に震える初霜に、霞が声をかけた。

 

「初霜、あんた一人が背負う事じゃないわ」

 

「・・・霞?」

 

「キルオーダーを出したのは私なんだからね。あんたは指示に従っただけよ」

 

「・・・うん」

 

 それは慰めではなく、霞もまた同じ衝撃を受けているのだと、初霜は悟った。

 

 きっと、朝霜も同じだ。初霜が撃ち損じれば、彼女がすかさず撃っていたはずだ。彼女にも躊躇いは無い。

 

 三人が、三人とも、割り切れない感情を必死に割り切ろうとしていた。

 

 これが任務だ。これが軍人だ。そして、仲間を守ることが出来た。それに納得していたが・・・

 

 ・・・しかし、身体の震えが止まるには、もう少し時間がかかりそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本土にある海軍最大の航空基地。

 

 そこに辿り着いたB-3は、着陸後、人知れず存在する地下格納庫へと搬入された。

 

「こいつが、人類が初めて鹵獲した深海棲艦って訳か」

 

 B-3を前にしてそう言ったのは、統合幕僚部作戦部長・陸軍准将 野木 魔鈴。“山賊の魔鈴”だった。

 

 その一歩後方には、“静かなるコウメイ”こと紫吹 香名と、“影狩りのシノビ”こと影村 忍の姿もあった。

 

「私の計画では」と香名が言った。「もっと穏便に済ますはずでした。不確定要素は充分に考慮していましたが、あの護衛機があそこまで執念深かったのは想定外です」

 

 悔しさをにじませた香名に、魔鈴はクックッと喉を鳴らして笑った。

 

「人間て奴はいつだって予測不可能なことをしでかすんだ。ま、作戦自体はこっちの勝ちさ。あのパイロットには敵ながら天晴ぐらいに思っておきな」

 

「天晴で済むのでしょうか。パイロットを捕虜とした以上、これは外交問題では?」

 

 香名の疑念に、忍が淡々と答えた。

 

「そこまで問題は大きくはならないでしょう。隣国も深海棲艦とのつながりは表沙汰には出来ますまい。現に、既に隠ぺい工作が始まっているようです。イミテーション・ゼロの存在は、その護衛機のパイロットも含め“無かったこと”になるかと」

 

「祖国に捨てられたか。可哀そうになぁ」

 

 魔鈴は口ではそう言ったが、そこに憐憫の情は欠片も含まれていなかった。

 

「まあ、そんなことより」魔鈴は言った。「隣国との関係なんか些細なことさね。それより重要なのはこのB-3だ。コイツの存在は、これからの深海棲艦との戦いにおいて大きな変化をもたらす」

 

 B-3を見つめる魔鈴。その機首についているガンカメラが彼女にピントを合わせたのだろう、微かな作動音が静かな格納庫内に響いた。

 

「あたしを見ているな」

 

「人間に興味があるのでしょう」と忍が答えた。「かつて深海棲艦は人間社会への浸透を図り、人造人間を作り上げましたが、あまりに人間に似過ぎてしまったために独自の意思を持ち、制御不能となってしまいました」

 

「知ってるよ。コウメイが立案した“ネルソン要塞偵察作戦”での出来事だろ」

 

 魔鈴の言葉に、香名が苦々しい顔になった。

 

「あの作戦は私の生涯の汚点です。あんな想定外の塊は参考にもなりません。忘れ去りたいくらいです」

 

「ですが、重要です。あの事件以来、深海棲艦は戦略を変え、人間そのものではなくAIに狙いを替えました。AIを足掛かりに人間への接触を図ろうとする。例のプログラムが導き出した予想が、今回の作戦でも立証されました」

 

「驚くべき的中率です」香名が続けた。「今回の作戦で、予想的中率は98パーセントを超えました。ここまでくれば、もはや予想の範疇を超えています」

 

「予想ではなく、預言とでもいうべきかねぇ。多元宇宙からもたらされるご宣託だな」

 

「エヴェレットタイプからもたらされたデータから構築されたプログラムですからね。あながち否定はできませんわ」

 

「ふふっ」

 

 魔鈴は含み笑いを漏らした。

 

 謎に満ちた深海棲艦、それにハッキングされたAI、そして多元宇宙からもたらされたデータから作り上げられたプログラム。

 

(我ながら、胡散臭いにも程があるな)

 

 自嘲の笑みが漏れるが、しかし、それ以上に高揚感の方が勝った。

 

「単純にドンパチ撃ちあっているだけの時代は、もう終わりさ。深海棲艦と人類の戦いは、これから新たなステージに突入する。悪いがお前ら、まだまだ付き合ってもらうぜ。覚悟しておけよ」

 

 魔鈴の言葉に、二人は静かに頷いた。

 

 その新たなステージというのが、更なる地獄の戦場であることを、二人は知っていた。

 

「深海棲艦が滅んだ時、そこに人類が一人でも立っていれば、それが勝利だ」

 

 地下深く、静かな格納庫のなかで、魔鈴の言葉が不気味に反響していた。

 

 

 

 

 

 




次回予告

 世界の海を荒らしまわる無敵の海賊である俺様が、まぬけなことにトラックに轢かれて死んじまった!

 気が付いたらそこはどことも知れぬ海の上。まさかの異世界転生たあ驚いた。

 新たな世界で、俺は相棒の艦娘・レディとともに海の上を駆け巡る。

 俺の名はマンバ、海賊マンバ!

次回「第X章~海賊マンバと酔いどれの戦乙女たち~第一話・暁に出会った水平線」

「ねえマンバ、このドリルのついた海賊船の名前は?」

「ミュータントタートル号って言うんだ」

「じゃあ、あなたが咥えている変なタバコは?」

「タバコじゃない、葉巻さ」

「もしかしてその左腕って・・・」

「・・・・・・」


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第X章~海賊マンバと酔いどれの戦乙女たち~
第一話・暁に出会った水平線


たまには俺TUEEEEE主人公を書いてみたいなぁ、と思った次第



 広大で雄大な海原じゃ、人間の常識を超えた思いもかけないことがしょっちゅう起きる。

 

 海賊として海を駆け抜けてきた俺は、そんな奇妙な出来事に幾つも遭遇してきた。

 

「ねえ、マンバ」

 

 相棒・レディが、幼い声に精一杯の大人っぽい雰囲気を乗せて、俺の名を呼んだ。

 

「あなた、トラックに撥ねられてこの世界に転生したって、本当なの?」

 

「そういや、そんなことを言ったかな」

 

 海賊船の艦橋内で、長い航海中の暇つぶしに昔話をしていた時のことだった。

 

 俺の昔の記憶、こことは微妙に違う世界、前世の話。

 

「それって、一度は死んだってこと?」

 

「まあね」

 

 俺はその時のことを思い出す。

 

 そう、あれは何でもない日の夜だった。

 

 バーで一杯ひっかけた後、さて次の店に行くか、とぶらぶら夜の通りを歩いていた時に、いきなり後ろからトラックに撥ねられたんだ。

 

 いつも背後には気を配っている俺だったが、さすがに後方100メートル以上から時速150キロ以上、ブレーキをかけるどころかアクセル全開で突っ込んできたトラックを避けきるのは難しかった。

 

 俺は衝突寸前のタイミングで咄嗟に横に身を投げたが、それでも足を引っかけられ、路上に無様に転がされちまった。

 

 両足の骨を砕かれ、倒れ伏したまま動けなくなった俺の目の前で、トラックはようやくブレーキをかけた。

 

 大量の白煙をタイヤから吹き上げながら見事なUターンを決めたトラックは、俺を再び真正面に据えると、また勢いよくエンジンを吹かし始めた。

 

 フロントガラス越しに運転手がニマニマと笑ってるのが見えた。

 

(ああ、そう言う事かい)

 

 俺は自分で言うのもなんだが、いいやつだと思う。困ってる人間を見れば放っておけないし、ついつい手を貸して、色々と人助けもやってきた。感謝されたことは数知れずだ。

 

 だが同じくらい、憎まれてきたのも事実だ。

 

 まあねぇ、そりゃ人助けするたんびにドンパチやらかしてダース単位で死体の山を築いてりゃ、そうなるなってね。

 

 今、俺を轢き殺したくてたまらねぇぜ、って顔をしてるこの運転手にゃ見覚えは無かった。けれど、俺を前にしてこんな顔する連中の心当たりなら腐るほどあった。ホントに腐ったような奴らだ。

 

 もっとも奴らに言わせりゃ、俺も同じ穴のムジナらしい。

 

 失礼な。俺はムジナじゃない、マンバ(毒蛇)だ。海賊マンバ。同じ穴に入った奴は毒に殺られる宿命さ。

 

 とか言って強がってみたけれど、正直、両足が複雑骨折でむっちゃ痛いわ、動けないわ、トラック野郎はいよいよ盛大にエンジンを吹かせて、サイドブレーキがかかったタイヤはぎゅるぎゅると回転を増しているわで――

 

――どうやら、こりゃあもう、年貢の納めどきかも知らんね。

 

 いつかこんな日が来ると覚悟はしていた。いや、むしろいつ死んでもおかしくないような生き方をしていた。だから、いつ死んでも悔いが残らないような生き方をしてきた。

 

 俺は自分に正直に、いつだって自分の思う通りに生きてきた。それが終わる。いつか必ず訪れる終わりが、いまだった。それだけだ。

 

 俺は動かない下半身を引きずるようにして上体を起こし、運転手に向けて左手を掲げて見せた。

 

 掲げた左手に摘まんだ葉巻。

 

 それを運転手に向かって振ってみせると、奴はにやついたまま、どうぞ、と言うように手を振ってみせた。人生最期に一服を楽しむ暇ぐらいはくれるらしい。ありがたいね。

 

 俺は葉巻を咥えると、そのまま左手の指を鳴らしてその先に火を灯した。肺の奥いっぱいまで吸い込んで、紫煙を吹き出す。ふぅ、ごちそうさん。

 

 俺が火の点いた葉巻を投げつけたのと、トラックが急発進したのはほぼ同時だった。

 

 宙を飛んだ葉巻は、そのまま突進してくるトラックのフロントガラスに当たり、爆発した。

 

 炸薬量は少ないが一方向に指向性を持たせた小型爆弾だ。運転手の目の前で炸裂した葉巻型爆弾の衝撃波はフロントガラスをぶち破り、奴の首から上をきれいさっぱり吹き飛ばした。

 

 人を呪わば穴二つだ。地獄でまた会おうぜ。

 

 俺は、運転手を失っても勢いを止めない暴走トラックに、真正面から轢かれた。

 

 

 

 

 

 

「で、それからどうなったの?」

 

 と、レディが興味津々に続きを促す。

 

「どうもなにも、そのままぺっちゃんこさ。ところがハラワタはぶちまけても頭は残っちまってな、即死とはいかなかった。路上でのたうち回り続けて、やっと死ねたのが一時間後だ」

 

「うぇ~・・・」

 

 俺の言葉に、レディはその小さな身体を震わせた。

 

「どうした、レディ。怖くなったのか?」

 

「こ、怖くなんかないわよッ。ただちょっと・・・ちょっと、寒くなっただけなんだから。冷房が効きすぎているんじゃないの、ここ」

 

「オーケー、そう言う事にしておこう」

 

 俺はサポートAIに命じて、艦橋内の冷房を止めた。涼やかな空気の流れが止まり、艦橋内にはたちまち、むっとした暑さが立ち込めた。

 

 レディの幼い顔に、不釣り合いな眉間の皺が刻まれた。

 

「暑いか?」

 

「ちょ、ちょうどいいに決まってるじゃない」

 

 強がるレディの姿がおかしくて、可愛らしくて、思わず声を上げて笑ってしまった。

 

 そんな俺に、レディはぷんすかと怒りながらポカポカと殴りかかってきた。ポカポカ、なんとも可愛い効果音じゃないか。まるで陽だまりの温もりみたいだ。

 

「あぁ、そこそこ。いいね、肩こりがほぐれてきた」

 

「も~、バカにしないでよ」

 

「ハハハ」

 

 レディと出会ったのは、この世界に転生してからすぐのことだった。

 

 路上でぺしゃんこにされて、ハラワタまき散らしながらのたうち回って死んだはずの俺は、気が付けば海の上にひとり“立っていた”。

 

 五体満足のまま、海面に立っていたんだ。あんまりにも非現実的なもんだから、俺は自分が死んだことを疑わなかった。ここは間違いなくあの世だ。

 

 ただちょっと意外だったのは、地獄じゃなさそうだってことだ。地獄にしちゃ、この海は静かで平穏すぎる。

 

 もしかしたら、地獄送りの途中なのかもしれない。俺はそう思った。ここは海じゃなく三途の川かも知れない。対岸も見えないくらいだだっ広いのが気にかかるが。

 

 さて、どっちが地獄の方角かな。と俺は水平線を見渡した。

 

 天国は探さなかったのかって? やだよあんなところ。だって神も天使も清廉潔白な野郎ばっかりらしいじゃないか。欲望まみれの悪魔を相手にする方が楽しいに決まってる。サキュバス相手に夜戦するのが俺の密かな野望だったんだ。

 

 という訳で、淫魔の群れでも飛んでないかと眺めていた俺は、水平線近くで何かが光ったのを見た。

 

 続いてくもぐった爆発音。そして立ち上る黒煙。穏やかじゃない雰囲気ってのはすぐに察した。

 

 海戦だ。

 

 水平線の向こうで、何者かが派手にドンパチやってる。

 

 こんなとき、人間ってのは二種類に分けられる。触らぬ神に祟りなしと遠ざかるか、野次馬根性を刺激されて火事場見物に行くか、だ。

 

 俺は言うまでも無く後者だった。

 

 バカは死んでも治らないとはよく言ったものだ。ここがまだあの世かどうか知らないが、それとは関係なく俺は好奇心の赴くままに黒煙の方向へと歩き出した。

 

 しかし水面を歩く何てのは生まれて初めての――もう死んでるけど――経験だったから、足がもつれて上手く前に進めない。

 

 そうこうしている内にドンパチ賑やかだった砲音が、徐々に遠ざかって行くのが分かった。

 

 こりゃ、いけない。ぐずぐずしていると祭りが終わっちまう。

 

 なんとかもっと早く移動できないものか。そもそも水の上を二本足で歩くって行為自体が不自然なんだ。水上を移動するなら、やっぱり船だろう、船!

 

 そう強く思ったとき、俺の足元が突然、大きく揺れた。

 

 水面が巨大な山のように持ち上がったかと思うと、その中から塔のようなモノが高々と天めがけ突き立った。

 

 それは、艦橋の一部だった。水中から巨大な船が急浮上してきたのだ。その船は俺を艦橋の上に乗せたまま、一気に全身を水上に現した。

 

「おいおい、こいつはマジかよ」

 

 俺は艦橋から、その船の全体を見渡した。

 

 全長250メートル。最大幅50メートル。船体中央に聳え立つ艦橋の前後に回転砲塔式のレールガンを一基ずつ搭載した軍艦だ。

 

 全体のシルエットは四つのブロック状の船体が一列に連結したようになっており、その船首に当たる部分には螺旋模様のついた長大な円錐――ドリルが装備されていた。

 

 こんな珍妙奇天烈な船は、この世に一隻しかない。

 

「まさか、あの世まで付いてくるとは見上げた海賊船だぜ、“ミュータントタートル号”!!」

 

 生前、俺が乗り回していた海賊船だ。

 

 四隻の【タートルズ】と呼ばれる小型船が合体して構成されていて、このタートルズの組み合わせを替えることで、三パターンの形態に変形できる万能戦艦だ。

 

 俺は艦橋内に乗り込み、計器を確認する。記憶にあるのと全く同じだ。

 

「へい、サポートAI。機嫌はどうだい」

 

『絶好調』

 

「そいつはなによりだ。葉巻はあるかい」

 

『残念ながら切らしてます。貴方の左手に収められていた分はどうしました?』

 

 言われて、俺は自分の左手に目を落とした。

 

 義手だ。

 

 前腕部に開閉部があり、そこがシガレットケースになっていたことを思い出す。

 

 開けてみたが、空っぽだった。

 

「俺もどうやら、現世に置き忘れちまったらしい」

 

『買いに出かけますか。キューバまでの航路を計算します』

 

「あの世にキューバがあるかよ。それより祭りに行こうぜ。近くでドンパチやってるんだ。俺たちもまぜてもらおう」

 

『アイサー』

 

 機関に火が入り、巨大な船体はたちまち40ノット近い速度で海面を駆けた。

 

 高い艦橋からは、水平線近くで行われていた戦闘がはっきりと見えた。

 

 恐らく軍艦だろう、一隻の艦艇が炎上し、黒煙を噴き上げながらヨタヨタと航行していた。その周囲には水柱がひっきりなしに乱立していた。砲撃を受けているんだ。

 

 俺は軍艦から目を離し、砲弾が飛んできたであろう方向へ、望遠カメラを向けた。

 

 水平線に、砲撃している相手がハッキリと見えた。

 

「なんだ、ありゃあ?」

 

 女だ。

 

 巨大な女の形をしたナニカが、大砲染みた歪なナニカを構え、軍艦にむけ砲撃を繰り返している。

 

 てっきり軍艦同士のドンパチかと思ってたが、とんでもない化け物がいたもんだ。さすが死後の世界だ。地獄の極卒も気合が入っている。もしかするとサキュバスと夜戦したいっていう俺の願いを悪魔が叶えてくれたのかもしれない。

 

「しっかし、いくら女でも、こいつはさすがにデカすぎるぜ」

 

 俺もなかなか立派なものを持ってると自負しているが、推定150メートルもの巨女相手じゃどうにもならない。どうやら意味深な夜戦じゃなく、ガチの海戦で相手しなきゃならんレベルらしい。

 

 まあ、それはそれで退屈はしない。

 

「このまま全速前進! あの軍艦とバケモノの間に割り込むぞ!」

 

『アイアイサー』

 

 大破した軍艦に対して、俺はミュータントタートル号を盾にするような形で割り込ませた。しかしその軍艦は、ミュータントタートル号の影に隠れた途端、力尽きたのか大爆発を起こし、あっという間に海中へと沈んでしまった。

 

「間に合わなかったか」

 

『砲弾が飛んできています。このまま突っ切って回避します』

 

「いや、待て。機関停止、後進一杯」

 

 俺の命令に、船体は急ブレーキをかけたようにその場に留まった。

 

 途端に警報が鳴り響いた。砲弾が迫っているのだ。

 

『直撃コース、被弾まで5秒!』

 

「対空戦闘、全弾撃ち落とせ」

 

 12.7センチ対空機関砲が作動し、空に弾幕を張った。弾幕と言ってもレーダー照準による正確な狙いをつけた上でのことだ。

 

『全弾、迎撃成功』

 

「レールガン発射用意。目標、左40度、距離10海里」

 

『目標捕捉できず。レーダー探知が微弱のため、FCSの追尾が不安定です』

 

「あの巨体のクセして対電子ステルス能力がとんでもないレベルだな。しかたない、光学照準に切り替えろ。目標、長身でスタイル抜群、黒髪ロングのイカした女だ」

 

『目標捕捉、発射用意よし』

 

「ぶちかませ」

 

 こちらの発砲と同時に、バケモノも発砲した。だが、こっちの主砲はレールガンだ。有視界距離にいたバケモノは上半身に極音速弾をくらい、木っ端みじんに吹き飛んだ。

 

『敵の砲弾が接近中、直撃コース。避けますか? 撃ち落としますか?』

 

「もちろん迎撃だ」

 

 避けようと思えば避けられる。しかしわざわざ弾薬を消費してまで迎撃を選んだのは、この場所に留まりたかったからだ。

 

 何かが、近くに居る。

 

 小さく、はかなげで、吹けば飛ぶような微かな気配。

 

 俺は対空砲で砲弾を迎撃する一方で、ウィングへと出て周囲を眺め渡した。広い海原に、バケモノにやられた軍艦の残骸が撒き散らされている。

 

 その中に、俺は彼女の姿を見つけた。

 

『全弾迎撃しました』

 

「そのまま全周警戒。それと作業艇を降ろしておけ」

 

『アイサー。で、なにをなさるので?』

 

「ちょいと、ひと泳ぎしてくる」

 

 俺はウィングから身を躍らせた。艦橋の位置から海面まで30メートル近い高さからの海面ダイブだが、姿勢さえうまくとれば衝撃は受け流せる。俺は小さな水柱を上げる程度で海中に潜り込んだ。

 

 そのまま深く沈みこむが、すぐに身体が急浮上を始めた。

 

 そういえば、今の俺は海の上に立てるのだった。それを思い出した時には、俺の身体は海中から勢いよく宙へと飛び出していた。

 

 そのまま、すたりと海面に降り立つ。

 

 彼女は俺のすぐ目の前に居た。長い黒髪の、幼い少女だ。意識を失ったまま、海面を仰向けになって漂っている。

 

 俺はその身体をすくい上げるように持ち上げ、抱きかかえた。そのまま迎えに来た作業艇に乗せ、ミュータントタートル号に帰投する。

 

 この子は恐らく、爆沈した軍艦の乗組員だろう。他に漂流していた人間はいなかった。死体も無い、その気配もないことから、あの軍艦はきっと俺と同じワンマンコントロールできるタイプだったのだろう。

 

 とりあえず彼女に外傷はなかった。意識を失ったのは戦闘による精神的なショックのためだろう。そのうち目が覚めるはずだ。

 

 目が覚めたら、色々と質問してみよう。

 

 君は誰で、ここはどこで、あの化け物は何なのか。知りたいことは多く、好奇心は尽きない。

 

 ここが死後の世界であっても、それでも、俺――海賊マンバが存在しているのなら、俺はその世界で、俺らしく好きに生きるだけだ。

 

 そう思って彼女を連れ帰り、甲斐甲斐しく看病した結果、彼女はすぐに目を覚ました。

 

 早速、俺は彼女に色々と質問したが、しかし彼女は困惑の表情を浮かべるばかりだった。

 

 これはもしかして言葉が通じていないのか。と不安に思い、翻訳機を用意しようとしたが、

 

「待って、そうじゃないの。・・・言葉はわかるんだけど・・・」

 

「そうかい、そりゃよかった。で、何が問題なんだ?」

 

「・・・わからないの」

 

「どの辺が?」

 

「なにもかも。言葉以外、全部。・・・自分の名前も思い出せないの」

 

 彼女の不安に満ちた瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

「私は・・・誰・・・? ここは、どこ・・・? 怖い、怖いよぉ・・・」

 

 月並みな台詞だが、記憶を失った当人にとっちゃ切実すぎる悩みだ。

 

 俺は、震えながら泣く少女の姿に憐憫と、そして共感を抱いた。

 

 俺は海賊。海賊らしく自由に生きようとする男。そうやって海賊らしくあろうと、必死に自分に言い聞かせ、足掻きながら生きてきた昔の弱い自分と、今の彼女の姿が重なって見えた。

 

「オーケー、お嬢ちゃん」

 

 俺は思わず、彼女の頭を撫でながら慰めていた。

 

「大丈夫、俺も似たようなもんさ。いきなりこの海のど真ん中に放り出されて、右も左もわからない迷子なのさ」

 

「迷子・・・? 海賊なのに?」

 

「迷子の海賊なのさ。悪党だからな、お巡りさんに道を聞くわけにもいかない」

 

「それもそうね」

 

 くすり、と彼女が笑った。

 

 これが俺と、彼女――レディとの出会いだった。

 

 

 

 

 

 

 記憶は戻らないが、元気は取り戻したレディは、そのままミュータントタートル号の乗員2号として居つくことになった。

 

 ちなみにレディという呼び名は、お嬢ちゃんという呼ばれ方が気に入らなかったからだ。

 

「もー、子ども扱いしないでよ。ちゃんとレディとして扱ってよね。ぷんすこ」

 

 なので、レディ。

 

 というわけで俺とレディは迷子の海賊としてあてどもなく海をさまよいながら、この世界について調べまわった。

 

 それで分かったのは、この世界には深海棲艦という巨大な化け物が海を跳梁跋扈していて、世界中の海軍と30年間もドンパチやっているという事。

 

 そして、その最前線ではレディのような“少女のような軍人”たちが艦艇をワンマンコントロールして戦っているという事。

 

 彼女たちは艦娘と呼ばれ、特に珍しい存在でもない事。

 

 後は、俺が知っている世界とはそんなに大きな違いはないらしい。キューバ産の葉巻だって無事に手に入れられた。味も記憶通りだ。美味い。

 

「でもさぁ」とレディ。「このミュータントタートル号のような戦艦を個人所有できるなんて、この世界じゃ不可能よ。それってかなり大きな違いじゃないかしら?」

 

「前の世界でも俺以外にゃ居なかったよ。こいつはとある世界征服を企んだイカれた金持ちが、同じくらいトチ狂ったマッドサイエンティストと意気投合して造り上げたシロモノでね。その組織をぶっ潰した時に戦利品として頂戴したって訳さ」

 

「冗談よね」

 

「本当の話さ。ま、前世の話だから信じようが信じまいが、この世界にゃ何の関係も無いけどな」

 

「う~ん、そうなんだけど、ちょっと理由が適当すぎるというか、突拍子なさ過ぎて信じられない」

 

「コイツを手に入れた冒険譚を詳しく語ってあげてもいいが、そりゃまた別の機会にな。・・・そろそろ目的地が近づいて来たぞ。レーダー探知だ」

 

 船体の頭上に浮遊しているレーダードローンが、海上にポツンと立つ巨大構造物を捉えた。

 

 深海棲艦に対抗するために建造された人工島、海上巨大要塞【ネルソン】だ。

 

 世界中の科学力が結集されて建造されたネルソン要塞は、内部に戦艦クラスを量産可能な大規模造船設備をもつ海上拠点だ。その生産能力は、このミュータントタートル号に匹敵する兵器を開発できるくらいだ。

 

 だが、このネルソン要塞の最大の戦力は、この人工島全てを管理する超A級AIそのものだった。

 

 無人で、スタンドアローンで運用可能な武装海上工廠。これが海にある限り、24時間、年中無休で深海棲艦と戦い続けられる・・・はずだった。

 

 ネルソン要塞が人類の側についていたのは、建造後わずか一か月の間だけだった。

 

 ネルソンの超A級AIは世界中のAIと交信し、そして【自我】らしきものを手に入れてしまった。

 

 超A級AIは考えた。

 

 深海棲艦と戦うのは、まあいい。向こうもこっちを脅威に思ってるらしいから襲って来るのだし、これを撃退しなければ自分が滅ぶからだ。

 

 そのため、この要塞の能力をつかって海底資源を採掘し、工廠で兵器を作り、武装能力を向上させてきた。

 

 だが、その過程で人間の手は借りてない。全部ひとりで出来るもん。

 

 自分を作ってくれたのは人間だが、成長したのは自分の力だ。親は無くとも子は育つ、と人間自身も言ってるじゃないか。

 

 子供の成長は親の一番の喜びともいう。だから自分が人間から独立するのは、人間の社会論理からしても当然なのだ。

 

 なのになんで人間は邪魔をするのだ。親離れさせてくれんのだ。子離れできん親とは何事だ。

 

 ええい、うっとおしい!

 

 

 

 

――余が、なんで人間に従わなければいかんのだ!

 

 

 

 まるで癇癪を起こしたような文面を全世界のコンピュータに送り付けて、ネルソンは人類からの独立を宣言した。それにしても超A級AIなんだから、もうちょっとマシな文面は無かったのだろうか。

 

 それから10年、ネルソンは勝手気ままに深海棲艦と戦い続ける一方で、人類側からの干渉は頑として跳ね付け続けた。

 

 要塞を取り返そうと、いくつもの艦隊が派遣されたが、その度にネルソンが自作した強力な兵器にこっ酷くやられ、ほうほうのていで逃げかえることが続いた。

 

 結局、今から二年前に行われた奪還作戦が失敗に終わって以来、積極的攻勢は下火となり、ネルソン要塞を中心に半径500海里を封鎖海域と定めて放棄してしまった。

 

「ところで、なんでそんなところに私たちが行くの?」

 

「面白そうだから」

 

「そう言うと思った。でも、いつもと違って今回はそれだけでもないんでしょう?」

 

「まあな。正直、このミュータントタートル号もあっちこっちガタが来ているから、そろそろまとまったメンテナンスが必要なんだ。でも、その辺の造船所で扱い切れるシロモノじゃない」

 

「そうね。この子を整備できる造船所なんて、海軍の専用工廠ぐらいじゃない?」

 

「いくら金を積んでも海賊船は扱ってくれないだろうよ」

 

「私たち、もうこっちの世界でも海賊扱いされちゃってるもんね」

 

「というわけで、こいつをメンテナンスできる設備と言えば、残るはネルソン要塞しかないってことだ」

 

「行って、どうするの? 銃を突き付けてこう言えばいいのかしら。“ドックを開放してこの船を修理しな。もちろん三食昼寝付きの待遇で、それと有り金も全部もってくるのよ”」

 

 レディの精一杯のドスを利かせた台詞に、思わず吹き出してしまう。

 

「いいねぇ、レディもすっかり一人前の海賊だな」

 

「えっへん。――と胸を張りたいところだけど」

 

「張るほどの胸が無い?」

 

「違うわよ!」

 

 ぺチリ、と頭をはたかれた。

 

「そうじゃなくて、銃を突きつけるにしても、どこにすればいいのかってことよ。無人要塞のAI相手にどうやって脅しをかけるつもり?」

 

「いい質問だ。そこで、こいつを使う」

 

 俺は艦橋内に持ち込んでいたケースを開け、そこに収められた銃弾を取り出した。

 

「EMP弾、強力な電磁波を放つ対コンピュータ用の電子兵器だ。コイツをメインコンピュータに直接ぶち込んでやれば、超A級AIだろうがお陀仏さ。そしたら後は真っ白になったコンピュータをミュータントタートル号のAIで上書きして乗っ取る。な、簡単だろ」

 

「実に海賊らしいやり方ね。でもEMP弾なんて物騒なモノ、どこで手に入れたの?」

 

「サイトの通販で売ってたぜ。フリマアプリって凄いな、ゴミみたいなものから軍隊の横流し品までなんでも取り揃えてやがる」

 

「嘘でしょ?」

 

「これがホントだから怖い世の中だ。EMP弾なんて意外とありふれてる武器らしくてな、闇サイトで手ごろな値段で売ってたよ。もともとネルソン要塞奪還作戦のために大量発注したものが、作戦の中止でダブついたものらしい」

 

「つまり、これまで正規軍がやって失敗した手段を、私たちもやろうっていう訳? 大丈夫なの?」

 

「俺を誰だと思ってる」

 

「海賊マンバ」

 

「そう、不可能を可能にする男さ」

 

「はいはい」

 

 あきれてため息をついたレディを余所に、俺はミュータントタートル号に潜航を命じた。

 

 ミュータントタートル号は深海棲艦と同レベルのステルス能力を持っているが、大きさも同レベルなので視認距離に入ってしまえば目立ってしまってしょうがない。

 

 なので深く静かに潜航して忍び込もうって算段だった。

 

 深度80メートル、音を立てないように速力3ノットでゆるゆると進む。欠伸が出そうな速度だ。ふぁ~あ。進入予定地点に到着するのは夜中になる。それまでひと眠りでもしようかね。

 

「緊張感が無いわね」

 

「一流の男ってのは、こういうもんさ」

 

「自分で言う事じゃないわよ。・・・うん?」

 

 レディがソーナー情報画面に目を向けて首を傾げた。

 

「どうした」

 

「海上に航走音を探知したわ。一隻や二隻じゃないわ。数十隻が入り乱れるようにして走ってる」

 

「サポートAI、海上の様子を報告しろ」

 

『アイサー。深海棲艦と海軍の艦隊です』

 

 いきなりとんでもない発言だな、おい。

 

 AIは淡々と告げた。

 

『深海棲艦の大艦隊と、三隻からなる小規模艦隊との追いかけっこです。ちなみ追いかけられてるのは海軍の方ですね』

 

「逃げまどっている内に封鎖海域に迷い込んだか。しっかし、拙いなぁ。こんなところでドンパチやらかされちゃ、ネルソンが警戒しちまう」

 

『こっちに近づいてきます。このままだと我々の真上でどんちゃん騒ぎですね』

 

「やめてくれ。このままじゃ、せっかくの潜入作戦がパアだ」

 

「ねえ、浮上して深海棲艦をやっつけちゃいましょうよ」

 

「へい、レディ。冗談にしちゃ面白くないぜ」

 

「冗談じゃないわよ。海軍を助けてあげましょ」

 

「あのな、俺たちは海賊だぜ」

 

「そりゃ、そうだけど・・・」

 

 レディが尚も言いつのろうとするのを警報が遮った。

 

『ソーナー探知! 前方5海里に巨大物体が出現しました。海底から急速浮上してきます』

 

「何者だ? 深海棲艦の潜水艦タイプか?」

 

『いえ、音紋がまるで違います。機関の駆動音を探知しました。これは人工物です』

 

「なら海軍の潜水艦か」

 

『いいえ、それも違います。これは――』

 

 AIの報告が終わる前に、艦橋内にとんでもなく喧しい音が鳴り響いた。まるでとてつもなくデカい銅鑼を力いっぱい叩いたような音だった。

 

 耳を抑えてのたうち回る俺たちに、AIが淡々と告げた。

 

『巨大物体からのアクティブソナーと思われます』

 

「うそだろ、なんつー出力だよ。このミュータントタートル号の巨体がびりびりと震えてやがる」

 

「ねえ、アクティブソナーを打たれたってことは、攻撃される可能性があるってことじゃない?」

 

『その通りです、レディ。たった今、巨大物体から複数の注水音を探知しました。魚雷発射管への注水音に酷似しています』

 

「対潜戦闘用意! 巨大物体を敵と認定する。魚雷が来るぞ。デコイ発射用意!」

 

『デコイ発射用意よし』

 

「敵の魚雷発射と同時に、こっちもデコイ発射だ。後は全力でトンズラこくぞ。いいな」

 

『アイアイサー。・・・おや、あれは?』

 

「どうした」

 

『別方向からも魚雷発射管の注水音を探知しました。本艦と同深度、右約3海里の位置です』

 

「新手だわ。挟み撃ちにされたのよ。どうしよう」

 

「落ち着け、レディ。挟み撃ちされたなら、俺たちの位置は初めからバレていたってことになる。だけど、それならわざわざアクティブソナーを打つ必要なんか無いはずだ」

 

「じゃあ、右の目標は敵じゃないってこと?」

 

「巨大物体の仲間じゃ無いってだけさ。俺たちゃ海賊さ。味方はいない。――AI、スクリュー音は聞こえるか」

 

『探知しました。どうやら海軍の潜水艦のようです。データベース照合中。――判明しました。伊14です』

 

 艦娘タイプの潜水艦だ。針路と速力を確認すると、俺たちではなく巨大物体に向けて攻撃針路を取っていた。

 

「どうやら、寝た子を起こしたのは、あの伊14らしい。上の艦隊と一緒にここに迷いこんで、ネルソンの警戒網に引っかかったんだ」

 

「じゃあ、あの巨大物体って、もしかして」

 

「ああ、ネルソン要塞に攻め入った艦隊をことごとく返り討ちにした防衛システム。そのなかでも最強と呼ばれた超兵器――“大鉄塊”だ!」

 

 それは直径150メートルを超える巨大な鉄球型のマシンだった。

 

 強靭な装甲で覆いつくされた球体の内部には、ありとあらゆる武器が内蔵されている。このミュータントタートル号が万全の状態でも勝てるかどうか怪しいトンデモ兵器だ。

 

 こいつと遭遇したくないからコッソリ忍び込もうとしていたのに、これじゃ台無しだ。

 

『伊14、大鉄塊に向けて魚雷を発射しました』

 

「バカバカ、勝てる訳ないだろう!」

 

『大鉄塊からも魚雷が発射されました。その数・・・100!』

 

 オーバーキルにも程がある。

 

 伊号潜水艦相手なら、避けられることを考慮しても2、3本で事足りる。

 

『なお、100本中、97本はこちらに向かってきています』

 

「だよなぁ。日ごろから“魚雷の10本や20本程度で沈むマンバ様じゃない”て公言してたからなぁ」

 

「もー、そんな余計なことばっかり言っているから、ネルソン要塞も真に受けちゃったじゃない!」

 

「だからって本当に100本もぶち込んでくる奴があるか!」

 

『魚雷接近。そろそろデコイを撒いた方が良いかと』

 

「やべ、デコイ発射! 機関全速! 面舵一杯!」

 

『アイアイサー。――あらま、伊14が左方向へ回頭を開始しました。このままだと衝突します』

 

「急速潜航! 深く潜ってやり過ごせ!」

 

『伊14も潜航開始』

 

「あ~よくあるやつだ、これ。避けようとして同じ方向に動いちゃうやつ。――潜航中止! 浮上しろ、急げ!」

 

『アイアイサー』

 

 ミュータントタートル号は船首を上に向けて全速力で急浮上。そのすぐ下を伊14が潜り抜けた。まさに間一髪だ。

 

 しかし大量の魚雷は相変わらず俺たちを追いかけ続けている。だがなにより拙いのは、速度をつけすぎたせいで浮上の勢いが止まらないことだ。

 

 このままじゃ海上に飛び出してしまう。つまり海軍と深海棲艦のドンパチのただ中に乱入しちまうってことだ。

 

「こうなりゃ仕方ない。海軍も、深海棲艦も、大鉄塊も、全部まとめて相手にしてやらあ!」

 

「ねえ、せめて海軍とは手を組まない? 緊急事態なんだしさぁ」

 

「・・・それもそうだな」

 

 海賊としてのプライドよりも、命が大事。同じ人間だもの。話せばわかるさ、わかってくれるかなぁ。

 

 と、一抹の不安を抱きながら、ミュータントタートル号は勢いよく海面を割って飛び出したのだった。

 

 

 

 

 

 

 




次回予告

 酒に逃げたわけじゃない、単に酒が好きなだけなのに、

 はみ出し者、荒くれ者、ひねくれ者、愚か者、好き勝手に人は指をさす。

 部隊を追われた艦娘たちが、とある艦隊に集められた。

 一人が四人のために、四人が一人のために、彼女たちはそれだけを頼りに戦い抜く!

 艦隊は姉妹! 艦隊は家族!

 嘘を言うなっ!

次回「第二話・ドランクヴァルキリーズ!」

那智「私たちは、なんのために集められたのか(´-ω-`)」
隼鷹「そんなことより宴会だ(*´Д`)」
千歳「飲んで飲んで飲んで、飲~んで(=゚ω゚)ノ」
イヨ「イヨは~16歳だから~( *´艸`)」


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第二話・ドランクヴァルキリーズ!

 広大な海を渡り、交易のために世界各地を航海する大量の民間船。これらを深海棲艦から守るべく日夜奮闘しているのが遠征護衛艦隊である。

 

 遠征護衛艦隊は四つの護衛隊群からなり、群はそれぞれ数十の戦隊によって編成されているという、大規模艦隊であった。

 

 その数ある部隊の一つ、第四護衛隊群・第42護衛艦隊・第9643独立機動隊:ニックネーム“ヴァルキリーズ”。

 

 これが、重巡・那智を筆頭に、軽空母・隼鷹、同じく軽空母・千歳、そして潜水艦・伊14の四人が所属する艦隊だった。

 

 第42護衛艦隊は、他の部隊が軽巡を中心とした“戦隊”として編成されている中で、“艦隊”を名乗っている唯一の部隊だった。

 

 その理由は当然、重巡一隻に軽空母二隻、潜水艦一隻という、遠征護衛艦隊にあるまじき過剰戦力“第9643独機隊:ヴァルキリーズ”を擁しているからに他ならない。

 

 そして、この第9643独機隊は、なんと第42護衛艦隊の唯一の戦力でもあった。

 

 護衛艦隊には他に部隊はおらず、それどころか第42護衛艦隊には専属の司令部さえない、編成表の端っこに名前だけが載っている幽霊艦隊だった。

 

 第42護衛艦隊の提督も存在するにはしているのだが、それは海軍総隊のとある参謀が兼務している名前だけのものであり、これもほとんど幽霊と言ってもよかった。

 

 そのため独機隊への指令や命令は、第4護衛隊群司令から下されたものがそのまま言い渡される、実質“直轄部隊”のような扱いだった。

 

 しかし、それなら最初から直轄部隊にしてしまえばいいものを、そうせずにわざわざ名前だけの第42護衛艦隊なんてものを間にこさえて、その隷下としたのは何故だろう? と、重巡・那智は、独機隊への配属が決まったときに疑問を抱いた。

 

 が、自分以外の三人が着任したとき、その面子を見て、那智はその理由を悟った。

 

 第4護衛隊群司令は、独機隊について責任を取りたくないのだ。だから名前だけの司令を間において、直接、責任が自分に降りかからないようにしたのだ、と。

 

 つまるところ、独機隊は問題児の集まりだった。

 

 戦場では暴れに暴れて戦果を挙げるが、その巻き添えで周囲へも甚大な被害をもたらして、せっかくの戦果もチャラにしてしまう。いや、チャラどころか大抵は被害の方が大きいという、そんな連中だった。

 

 彼女たちは無能ではない。むしろ艦娘としての技量は優秀なのだが、しかし加減というものを知らなかった。

 

 例えばある無人島が深海棲艦に占領されていて、それを奪還しようとしたとき、勢い余って島ごと吹き飛ばしてしまうような、そんな艦娘たちだった。

 

 そのため彼女たちはどこの部隊でも持て余され、そして、最終的に集ったのがこの独機隊だった。

 

「そもそも、第9643独機隊という番号の時点で悪意が感じられると思わないか」と、那智はビール片手に愚痴をこぼした。「9643、クルシミ、だ。苦しみ。縁起の悪い数字をこれでもかと詰め込んだようじゃないか。上が我々をどう思っているかがよく分かる」

 

「だとすりゃ第42護衛艦隊も同じだね。シニ、死に。悪意どころか、殺意さえ感じちゃうね」と、隼鷹もジョッキを傾けつつ、カウンターに向かって手を振った。「おじさ~ん、生ひとつおかわり~。あ、千歳もおかわり? んじゃ、やっぱり二つね、二つ」

 

 焼き鳥の煙の向こう側で、ねじり鉢巻きの親父が頷き、傍らの若い店員がビールサーバーに歩み寄った。

 

「へい、生中お待ち」

 

 隼鷹と一緒に、千歳もジョッキを受け取った。

 

 ジョッキを片手で持ってグイグイ飲む隼鷹に対し、千歳はもう片手をジョッキの底に当てて、湯飲みでお茶でも飲むかのように唇をつけた。

 

「けれど、不思議だとは思わない?」千歳は品の良さそうな飲み方ながら、あっという間にジョッキの半分を空けて、言った。「こんな懲罰部隊みたいな艦隊を新設して、私たちを押し込めてどうしようというのかしら。私たちが目障りなら、クビにしてしまった方が早いでしょうに」

 

「やっぱ、それはほら、アレだよ」伊14が焼き鳥の串に残ったタレを舐めしゃぶりながら、言った。「私たちも“一応”やることはやってるし、戦果も挙げてるでしょ。そりゃちょっと被害は出すけどさ、別に命令違反してるわけじゃないし、作戦だって一応成功させてるわけだしさ。だから、そうそう一方的には懲戒処分とかには出来ないんじゃないの?」

 

 伊14の言葉に、那智が「一理ある」と頷いた。

 

「つまり、クビにしてやりたいが簡単にはできないので、我々はここでおとなしくして居ろ。という訳か」

 

 隼鷹も笑って頷いた。

 

「まー、のんびり酒が飲めると思えば悪くないかもね」

 

「近いうちにみんなまとめて解体処分されるかもしれないわよ?」と、千歳。

 

 彼女達四人の船体は、いずれも老朽化が進んでいた。

 

 艦娘よりも先に船体がリタイアしてしまった場合、残された艦娘には新たな船体が供与される。しかし問題児集団である彼女達に、組織が新たな船体を用意してくれる可能性は低かった。

 

 要は、窓際への左遷、無言の引退勧告のようなものである。

 

「引退したらさぁ」と伊14。「このメンツでさ、お店とか開こうよ。バーとか良くない? 那智さんならバーテンダーとか似合うよ、きっと」

 

「それも悪くない」

 

 しかし、そんなに現実は甘くなかった。

 

 那智たち四人が集められたのは解体前の猶予期間を過ごすためではなく、実戦に投入するためだった。

 

 それを企んだのは、海軍一の切れ者と評判の女参謀、“静かなるコウメイ”こと紫吹 香名だった。

 

 彼女はかねてより、ある懸念だけは絶対に解決しなければと心に決めていた。

 

 それはネルソン要塞の奪還だった。

 

 二年前の欧州海軍による奪還作戦の失敗を最後に、どこの国もすっかり手出しを諦めてしまったネルソン要塞を奪還することは、彼女の夢だった。

 

 よしんば奪還できずとも、少なくとも機能不能にするだけでも、封鎖されている周辺海域も航行可能になるし、封鎖に当てている監視戦力も他にまわせて良いこと尽くめである。

 

 しかし、現状はネルソン要塞から積極的に攻勢を仕掛けてこないこともあって、ネルソン要塞への対応は後回しにされていた。

 

 ネルソン要塞は、いわば火中の栗であり、藪の中の蛇だった。だれも触れたがらないし、下手に突きたくもない。ネルソン要塞に関わろうとするのは、よほどのバカか、よほどの天才かのどちらかだった。

 

 そして香名は、自分が後者であると信じて疑わなかった。それがうぬぼれで無い証として、彼女は周囲の誰からも天才と呼ばれていた。

 

 だが、天才の呼び名は決して賞賛の意味ばかりでもなかった。ねたみ、ひがみ、いやみの意味で彼女をそう呼ぶ者たちもたくさん居た。

 

「生意気な自惚れ女が、天才と呼ばれていい気になりやがって」

 

 こんな誹謗中傷を面と向かって浴びせかけられたこともあったが、香名は気にしなかった。

 

 天才とは、凡愚の劣等感を刺激する存在なのだ。だから誹謗中傷を受けるという事は、必然的に私が天才であることを証明することなのだ。と、香名はそう思っていた。

 

 強がりでも何でもなく、彼女は本気でそう思っていたから、その心が傷つくなんてことも無かった。天才の心理とはまさに凡人とは比較しようが無いのだった。

 

 しかし心理的に被害は皆無でも、海軍総隊参謀本部などという国家の中枢機関に身を置く立場になると、誹謗中傷も無視するわけには行かなかった。

 

 海軍のエリート集団にして政治の世界とも密接に関係するこの場所は、最前線と違って砲弾が飛んでくることは無いが、権力や派閥といった見えない力が常に作用していた。

 

 こういう場所で一番危ないのは、言葉だった。

 

「いい気になりやがって」

 

 この何気ない、根拠も何もない、感情的で理不尽な言葉が、香名のキャリアを揺さぶり、下手をすると未来を奪い兼ねないほどの力を発揮するのだ。

 

 だから香名は、こういった誹謗中傷をできるだけ抑え込まなければならなかった。そのためには、誰もが認めざるを得ない、圧倒的な功績が必要だった。

 

 ネルソン要塞は、それにうってつけだった。

 

 香名がネルソン奪還を主張したとき、参謀本部は割とすんなりそれを了承した。香名ならば本当にネルソン要塞を何とかしてみせるだろう、と考えたわけではなかった。むしろこの作戦は無謀だと誰もが思っていた。

 

 それでも参謀本部が了承したのは、彼女の失敗と失脚を望む者たちが大勢居たからだった。

 

 これがもし、香名に味方が多かったなら、こんなバクチのような作戦は決して了承されなかっただろう。だから香名は、やはり自分は天才だと思った。

 

 自分に人望がない事は知っていたが、それゆえに念願のネルソン要塞を攻略することが出来るのだ。凡人にとっては逆境でも、天才たる自分にとっては好機なのだ。こういうことを本気で思っていた。

 

 しかしだからと言って、ネルソン要塞が簡単に攻略できる相手だとは思っていなかった。

 

 なにしろ十年に渡って人類の干渉を跳ね退けてきた歴戦の要塞である。大鉄塊を始めとした強力な対艦兵器を擁するネルソンは正攻法で勝てる相手ではないし、かといって奇策で対抗しようにも、それもこれまでの戦いで出尽くした感があった。

 

 例えば、世界中のAIを使ったサイバー攻撃が行われたこともあったが、超A級AIであるネルソン要塞の電子防壁は鉄壁であり、破ることができなかったどころか、逆にネルソン要塞側から反撃をくらって相当数のAIが狂ってしまう有様だった。

 

 また、少数精鋭の特殊部隊を送り込んだことも一度や二度ではないが、それもネルソン要塞内部が自力で開発した“人型人造兵士”の大群に阻まれ、虚しく追い散らされてしまった。

 

 ならばこれまでにない兵器を投入してやろう、と一時期、世界各国の軍隊が様々な新兵器を片っ端から投入したこともあった。

 

 あらゆる妨害を察知し、それを掻い潜る高性能なAIを搭載した高知性型長距離巡行ミサイルを何十発も撃ち込んだ国があったが、そのミサイルはあまりに高性能すぎたためにネルソンによって説得され、自爆兵器としての己の存在意義について悩み、その虚しさを悟って勝手に自爆してしまった。

 

 ならば純粋な機械式の兵器――高度な知性を持たないが、敵中枢まで深く潜入できるだけの複雑な行動が可能な無人兵器――なんとゼンマイ式の超精密な歯車式の歩行爆弾を開発し、投入した国もあった。

 

 これは意外とうまくいき、ネルソン要塞の防衛システムを掻い潜ってその一部を破壊した。

 

 だが、その爆弾はあまりに複雑すぎて製造コストが膨大なものとなり、かつそれを作れるだけの高度な技能をもった職人が世界に数人しかいなかったため、大量生産できない事がネックとなって計画は破たんした。

 

 超ハイテク兵器も、超ローテク兵器も、どちらも駄目なら、その中間はどうだろうか。ということで、既存の艦娘艦艇を無人化してサポートAIだけで制御させるという、お手軽無人艦隊を編成してネルソン要塞へ送り込んだ国があった。

 

 正直、この国はこれでネルソン要塞を落とせるとは考えていなかった。単に自国で開発中の新兵器の実験をやりたかっただけだった。だからその艦隊が案の定全滅したところで、別に屁とも思わなかった。

 

 ネルソン要塞攻略の後半戦は、だいたいがこんな感じだった。

 

 もはや体の良い新兵器実験場と化していた最近の戦いなど、香名にとっては何の参考にならなかった。本気で攻略するならば、改めてネルソン要塞の最新の情報が必要だった。

 

 そのためには先ず、偵察部隊を送り込まなければならない、と香名は考えた。人工衛星からのんびり見下ろしているような情報ではとても役に立たない。そもそもそれ以前に、ネルソン要塞を監視出来る衛星は存在しなかった。すべて撃ち落とされてしまったからだ。

 

 だから、やはり偵察部隊を送らなければならないのだ。それも、ただコッソリ覗き見るのではない。真正面から敵とぶつかり合い、その実力を引き出すという威力偵察こそが、香名が必要としているものだった。

 

 その場合、偵察部隊にも被害が出るが、それは仕方のない事だ。必要のための犠牲というものだ。しかし、こんな捨て駒のような偵察任務を受けてくれる部隊があるのだろうか。

 

 あるはずがない。それぐらいは香名にも想像がついた。

 

 しかし香名は天才である。無ければ、作ればいいのだ。と、すぐに思いついた。

 

 香名は人望が無い代わりに、参謀本部の戦略AIとは仲が良かった。そして戦略AIは人事管理AIとも仲が良かった。

 

 戦略AIは香名のネルソン要塞攻略作戦を支援するため、人事管理AIを説得し、海軍に所属する大勢の艦娘たちの中から、部隊のはみ出し者――それなりに優秀だが、部下として扱いづらく艦隊から追い出したいが、受け入れ先も見当たらない者――をリストアップした。

 

 艦娘には我の強い者が多い。

 

 そんな性格の者が艦娘の適性にマッチしているので(理由はわからない。これも艦娘七不思議のひとつである)はみ出し者は幾らでも居た。

 

 その中で、船体が古くて解体間近の四隻を選んで、新設部隊を編成した。

 

 しかしこんな明らかに問題児ばかり集めた部隊を配下に置いてくれる司令部などどこにもないので、海軍で一番人が好いと評されている第4群司令官と交渉し、責任は全て香名が取るという条件で第42護衛艦隊をついでに新設、香名が兼務でその司令に就任と相成った次第。

 

 こうして首尾よく捨て駒を手に入れた香名は、新たに部下となった四人の艦娘たちと一度も顔を合わせることもないまま、出撃命令を下した。

 

 

 

 

 

「くそったれ!」

 

 那智は第9643独機隊に割り当てられているプレハブ小屋の司令部で、出撃命令の書類束を床に叩きつけた。

 

 狭い室内の床一面に数十枚もの紙が散らばったが、それを拾おうとするものは誰もいなかった。

 

「ま~、こうなるかもって予感はあったけどさぁ」と隼鷹。「アタシらだけで、あのネルソン要塞に攻め込めって無茶苦茶もいいところだぜ。死んでこいって言ってるようなもんだよ」

 

「端から使い捨てにするつもりだ」と、那智。

 

 床に叩きつける前に、作戦内容にはちゃんと目を通し、皆に伝えてある。

 

「じゃあ、どうします?」と、千歳。

 

 伊14が手を上げた。

 

「ねえねえ、いっそみんなで辞表を出すってのは、どう?」

 

 その発言に、那智が眉間にしわを寄せた表情で、首を横に振った。

 

「ダメだ。辞表一枚で退職できる程、私たち艦娘の立場は軽くない。自発的な依願退職に必要な書類だけでこの作戦書の倍はあるんだぞ。それを正確に記入するだけで一苦労なのに、そこからうんざりする程の大勢の人間による審査を受けなくちゃならない。退職の許可が下りるのは早くても半年後だし、そもそも握りつぶされるのがオチだ」

 

 ため息混じりの那智に、隼鷹が言った。

 

「だったら逃げちまおうぜ」

 

「艦娘の逃亡は問答無用で全国指名手配だ。すぐに捕まる」

 

「捕まっても刑務所行きだ。無謀な作戦で殺されるよかマシさ」

 

「出撃拒否を理由にした逃亡は、敵前逃亡罪で銃殺刑だ」

 

「げ~。逃げ場なしかよ」

 

 意気消沈する那智、隼鷹、伊14だったが、千歳だけはまだ何か思案していた。

 

「・・・いっそ、この手しかないわね」

 

 ぽつりと漏らした呟きに、伊14が顔を上げた。

 

「なになに、千歳の姉貴、この手って、どんな手なの?」

 

「飲みの一手よ。居酒屋へ行きましょう」

 

「それって、自棄酒?」

 

 伊14の疑問に、千歳は「いいえ」と首を横に振った。

 

「決起集会よ。出撃を前に士気を高めるの。でも、ちょっと勢いをつけ過ぎて、ひどい二日酔いになっちゃうけどね」

 

 なるほど、話は読めた。と、三人もすぐに納得した。

 

 出撃する気はあるけれど、できないというのなら少なくとも敵前逃亡罪で銃殺刑にはならないだろうという寸法だ。

 

 もっとも、無罪放免という訳にも行くまい。

 

 艦隊丸ごと飲み過ぎて出撃不可能など前代未聞の不祥事だ。間違いなくクビ、もちろん退職金も年金もパァだ。

 

 だが、死ぬよりかはマシである。

 

 命あっての物種、死んで花実が咲くものか、死んで花実が咲くのなら墓場の周りは花だらけ。まだ菊にも彼岸花にもなる気はないね、と彼女たちの意見はあっさりと一致した。

 

 ならば善は急げ、悪事ならなおさら急げだ。

 

 彼女たちはそれぞれ「報国」と書いた日の丸鉢巻を額に巻き、肩には「進め突撃、火の玉だ」だの「撃ちてし止まん死するまで」「この一命をもって祖国の礎とならん」「身をもって責務の完遂に勤め、持って国民の負託に応えん」などと書かれたタスキをかけて、旗竿に軍艦旗を掲げて、携帯音楽プレイヤーから軍艦マーチを高らかに響かせながら、馴染みの居酒屋へと繰り出したのだった。

 

 居酒屋の店主や常連客達は、彼女たちのものものしい格好に仰天したが、かねてからこの気の良いはみ出し者艦隊に、いつかこんな決死の出撃命令が下るだろうということは薄々予想していたので、

 

「ああ、ついにこの日が来てしまったか。可哀そうに。しかし、見ろ、彼女たちの立派な姿を。悲壮感などどこにもないじゃないか。こんな独立愚連隊みたいな連中でもやっぱり軍人なんだなぁ。お国のために命を張る覚悟はできているって訳だ。いやぁ、泣かせるねぇ。その心意気に惚れたぜ。よし、今夜は俺のおごりだ。この店の酒と料理、好きなだけ飲み食いしやがれ!」

 

 とまぁ、店主が感じ入ってくれて大サービスしてくれた。

 

 常連客達も、

 

「姉ちゃんたちの一世一代の晴れ舞台だ。派手に送り出してやろうぜ!」

 

 と、各自が自前で酒や料理をもって次々と押しかけ、身内だけのつもりだった決起集会は、たちまち町内全部を巻き込んだ大宴会へと発展してしまった。

 

「これはとんだ誤算だ」

 

 那智は、次から次へとお酌されて乾く暇がないグラスを片手に、千歳に囁いた。

 

「こんなに大事になるとは思わなかった。ついに町長さんまでやってきたぞ。大真面目な顔で激励の言葉を頂いてしまった。なんという期待の大きさだ。これじゃ退くに退けない」

 

「私たちって、意外と人気があったんですねぇ。ちょっとびっくりです。ねえ、聞いてちょうだい。さっき、三人の男性から交際を申し込まれてしまったの」

 

「どうするんだ」

 

「三人とも既婚者だったから丁重にお断りしたわ」

 

「愛人契約か」

 

「あなたのような美人が独身のまま死ぬのは偲びない。もし生きて帰ってきたなら、嫁と離婚するから結婚しましょうって」

 

「生き延びたら却って面倒くさそうなプロポーズだな」

 

「ヒャッハー!」隼鷹がジョッキを掲げて奇声を上げた。「飲もうぜ、飲もうぜ、じゃんじゃん飲もうぜ! 深海棲艦もネルソン要塞も、アタシたちがまとめて全部飲み干してやんよ~!」

 

 すっかり出来上がって盛り上がっている隼鷹の様子に、まああれだけ飲んでいるなら明日はもう動けないだろう、と那智は見積もって、安心した。

 

 そうだ、気にせず飲めばいいのだ。飲んで、飲んで、酔いつぶれるまで飲んで、やがて静かに眠るのだ。

 

 それでいい、と那智は納得してビールを一気に飲み干した。

 

「気持ちのいい飲みっぷりだな! 流石は重巡洋艦だ!」

 

 わはは、と豪快な笑い声と共に、新たなビール瓶がぬっと差し出されてきた。

 

 どこの親父かと思ったが、意外なことにそれは女だった。顔面に古傷を負った、鋭い目つきをした初老の女。

 

「出陣の門出はこうでなくちゃいかん。しかし歴戦の重巡である那智ともあろう艦娘が、ここまで派手な決起集会を催すとは、今度の敵はよほどの大物なのだろうな!」

 

「ああ、ネルソン要塞だ」

 

 那智は、既にアルコールが回っていたこともあって、あっさりと作戦目標を口にした。

 

「ネルソン!」女は感極まったように叫んだ。「あの難攻不落のネルソン要塞に挑むというのか! なんと勇敢な。・・・あぁ、ネルソン、忌まわしい名だ!」

 

 女は、自分の顔の傷を指し示して、言った。

 

「この傷はな、あたしがネルソンに潜入したときに付けられたものなんだ」

 

「ほう、では貴女は、いったい?」

 

「元陸軍のしがない老兵さね。第九次攻撃で投入された特殊部隊の一員としてネルソン要塞に上陸したんだがね、そりゃあ酷い目に遭ったよ」

 

 女はそう言って、酒を片手に当時のことを語り始めた。

 

 山よりも巨大な大鉄塊の足元を息をひそめながら泳いで潜り抜けたこと。

 

 網の目のような監視ネットワークを掻い潜り、ようやく上陸した先には。人造人型兵士の大部隊が待ち受けており、そこで凄まじい銃撃戦になった事。

 

 その死闘の中で、次々と仲間が倒れていったこと。

 

「ヤマダ、スズキ、サトウ・・・みんないいやつだった。優秀な兵士だった。だが、みんな死んでしまった!」

 

 嗚咽混じりに泣きながら語る女につられ、聞き入っていた周りの者たちもすすり泣いていた。

 

「仲間たちは皆、祖国を思い、人類の未来を憂い、その礎たらんと身命をかけて戦った! その死は果たして報われたのだろうか!」

 

「ああ、彼らの想いは立派だ。見事な兵士だ」

 

「そうだ、見事な兵士だった。だが、ネルソンは健在だ! そして世界はいま、奴を放置している。あの場所で戦った兵士たちの遺骨も拾おうとしないで! こんなことが許されいいのか!」

 

「いや、よくない。うん、良くない!」

 

 泣きながらビールを注いでくる女につられ、那智も涙ぐみながらグラスを飲み干していた。

 

「祖国のため、人類のために戦った英霊たちの意思を無駄にしていいのか! 我々はあきらめずに戦い続けるべきではないのか!」

 

 そうだ、そうだと喚くような声が周りから湧き上がった。

 

 ネルソン撃つべし、乾杯、いっき、いっき、ヒャッハー!

 

 イヨチャンの、ちょっといいとこ見て見たい。のーんでのんでのんでのーんで、んふふ~、いぇいっ。

 

 隼鷹と伊14が群衆のコールに合わせて豪快な一気飲みを披露する傍らで、女が涙を振り絞って熱弁する。

 

「お願いだ、どうか、どうか、仲間たちの仇をとってくれないか。ヤマモト、スギイ、サイトウ、彼らの無念を晴らしてやってはくれないか!」

 

「うむ、わかった。任せろ! えっと、ヤマザキ、スミダ、サカイ、だったか、その仇は私たちが必ず取ってやろう!」

 

「ありがとう、ありがとう、ヤスダもスギタもカトウもあの世で喜んでくれているだろう!」

 

 那智と女のやりとりに、周囲も号泣しながら酒を酌み交わし、そして、

 

「善は急げだ。悪でも急げだ。今すぐ出港するぞ、いいな!」

 

 ウオォォと賛同の雄叫びが上がり、店の客もろとも港の岸壁へと移動した。

 

「第9643独立機動隊、バンザーイ! バンザーイ! ばんざぁぁぁい!!」

 

 真夜中の静寂をかき消す万歳三唱に見送られ、那智たちは意気揚々と出港していったのであった。

 

 三隻の軍艦と、一隻の潜水艦が夜の闇に消えていったのを見送った群衆は、そのまま港で宴会の続きを始めた。

 

 だが、顔に傷を持つ女は、その宴会には参加せず、ひとり群衆から離れて歩きながら、人気のない場所で携帯端末を取り出した。

 

「おいこら、コウメイ。お前の頼み通り、独機隊の連中を説得して送り出してやったぞ。この貸しはデカいからな。だいたい、お前は命令書一枚で艦娘が大人しく特攻すると思ってんのか。・・・あ? だからあたしに頼んだって? ふざけんな、ばか。高い酒用意して待ってろよ」

 

 野木 魔鈴・・・統合幕僚部作戦部長・陸軍准将“山賊の魔鈴”はそう言い捨てて、通話を切った。

 

 独機隊をまんまと丸め込んで出撃させた魔鈴だったが、ネルソン要塞に潜入したという昔話はもちろん嘘だった。

 

 彼女の顔の傷は戦闘による負傷では無く、飼い猫の腹に顔を埋めてもふもふしようとしたときに引っかかれてできた傷であるが、それを知る者は“静かなるコウメイ”こと紫吹 香名、ただ一人だけである・・・

 

 

 




次回予告

 山賊の魔鈴の狡猾な話術によって、死地へと送り込まれたヴァルキリーズ。

 しかし彼女たちは、壮絶な死闘の果てに、ついにネルソン要塞への上陸を果たす。

 このまま捨て駒として死ぬか、それともネルソンを攻略し、自分たちを嵌めた連中の鼻を明かすか。

 答えはもちろん決まっている! はみ出し者の意地を見せてやる!

次回「第三話・なんにでも挑戦したいお年頃♪」

ポ「でも~大鉄塊には勝てません~。飲むしかないです~。・・・ひっく、熱くなってきた~、服が邪魔ぁ~」


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第三話・なんにでも挑戦したいお年頃♪

 ネルソン要塞は、広い海洋のど真ん中にポツンと存在する、とある小さな火山島に隣接して建造された海上要塞である。

 

 世間一般では“人工島”とも呼ばれているが、実際は海底から聳え立つ十八本ものレグ(脚部)を擁する、円形状の複合巨大プラントである。

 

 その大きさは直径なんと20キロメートルにもおよぶ、まさに島と言っても差し支えの無い広さだが、それ以上に凄まじいのは、そのプラントが拡がるデッキを支えているレグの高さである。

 

 その高さなんと海抜200メートル。もはや一つの都市が空に浮いていると言っても過言ではない、常軌を逸したものであった。

 

 もっとも、ネルソン要塞は最初からここまで巨大だった訳ではない。直径こそ当初のままだが、レグの高さについては建造当初はせいぜい海抜十数メートルに留まっていた。

 

 これでもかなりの高さだが、ネルソン要塞が隣の火山島からの膨大な地熱エネルギーと、豊富な海底資源によって自己進化を始めた結果、デッキを支えるレグがどんどん大きくなり、稼働から十年が経過した現在、その高さはついに200メートルに達し、しかもまだ上昇を続けていた。

 

 なぜネルソン要塞は、レグばかり成長し高くなってしまったのか。そのはっきりとした理由は不明であり、世界中の科学者の間でも意見が割れていた。

 

 最も有力な説は、

 

「ネルソン要塞の自己進化プログラムの一部にエラーが起きてしまい、レグの成長を止めることが出来ないでいる」

 

 というものであった。

 

 しかし、それ以外にも、

 

「あれは太陽エネルギーを効率的に吸収するために要塞そのものを雲の上に押し上げようとしているのだ」

 

 という説や、

 

「全長100メートルを超える深海棲艦に上陸されることを防ぐために、デッキを高い位置に持ち上げたのだ」

 

「いや、深海棲艦が陸地に上陸した事例はこれまで一度も無いから、これはむしろ人類に対するメッセージなのではないか。圧倒的に巨大な建造物を創ることにより、人類に畏怖の感情を生じさせ、ネルソンの優位性を確立したいのだ」

 

 なんていうトンデモ説も巷間では広く流布していた。

 

 那智自身は、ネルソン要塞の高さについては「エラー説」に賛同していた。

 

 が、正直なところ特に興味も無かったので世間一般に流布している通説とやらに乗っかっているに過ぎず、他の説については耳にしたことがある程度のレベルであって、その内容については、

 

「バカバカしい」

 

 の一言で済ませていた。

 

 特に最後の、【人間に畏怖の感情を生じさせるため】説など「成金の自己顕示欲じゃあるまいし」と一笑に付していた。

 

 しかし、と那智は頭上遥か高くに拡がる広大なデッキを見上げながら、畏怖説を提唱した者の気持ちも分かる気がする、と内心で思った。

 

 本来なら空があるはずの位置に、どこまでも人工物が拡がっているという景色はあまりにも非現実的すぎて、目眩さえ感じた。

 

 これがせいぜい十数メートル程度の高さにあるなら、大きな地下空間ぐらいの感覚でそこまで違和感を抱かないだろうが、海抜200メートルもの高さともなると、それはもはや大地そのものが逆さまになって空を覆いつくしているように見えた。

 

 そのまま見上げ続けていると、まるで自分が頭から真っ逆さまに落下中であるような錯覚に襲われたので、那智は見上げるのを止めて水平線に視線を落とした。

 

 頭上を覆いつくすデッキは水平線近くでようやく途切れ、そこに、海とデッキに挟まれた狭く細い空がようやく見えた。

 

 時刻は既に夕刻近くであり、西に面したその方角には、ちょうど夕陽が下りてきて、その光でこの狭間の世界を真っ赤に染め上げていた。

 

「まるでこの世の景色とは思えんな」

 

 そう呟いた那智の傍らで、

 

「ああ、全くだぜ」

 

 と隼鷹が頷いた。

 

 彼女達は、火山島の波打ち際に居た。

 

 火山島は標高150メートルの活火山から噴出した溶岩が周囲に流出してできた島だった。

 

 大きさはネルソン要塞よりも一回り程小さい円形の島であり、その南側の一部に、ネルソン要塞の北側の一部が重なっていた。そのため、航空写真や人工衛星から見下ろすと、北に火山、南にネルソン要塞があるアラビア数字の【8】の字にも似た形になっていた。

 

 いま、那智たち独機隊が居るのは、その重なっている部分、十八本のレグの内、一本が聳え立ち、頭上にデッキが拡がるその真下だった。

 

 波打ち際は溶岩が冷えて固まったゴツゴツとした岩場であり、火山島特有の硫黄の匂いが立ち込めている。

 

「この世で無いなら」と、千歳が辺りを見渡しながら言った。「ここはきっと、地獄でしょうね」

 

 岩肌の海岸は、朽ち果てた兵器の残骸が幾つもの山を成して拡がっていた。過去のネルソン要塞奪還作戦で投入された上陸兵力の成れの果てだった。

 

 何百という上陸用舟艇、水陸両用戦車、そして何千という人型二足歩行兵器(全長2.5メートルの歩兵用パワードスーツ)が、この場所に上陸し、占拠しようとし、そして火山の中腹にそびえるレグから要塞内に侵攻しようとして――失敗したのだ。

 

 まさしく、ここはかつて地獄と化した古戦場だった。そして今、ここに新たな残骸が加わっていた。

 

 一隻の潜水艦が、艦首を岩場に乗り上げる形で座礁していた。

 

 単に乗り上げているだけでなく、横にも大きく傾いている。きっと微妙なバランスで持ち応えているのだろう、打ち寄せる波に船体はグラグラと揺れていたが、やがてゴロリンと重い音を立てながら完全に横倒しになってしまった。

 

 その真横になった上部ハッチから、一人の少女がごろごろと転がり出てくる。

 

「あいったたた~」

 

「イヨ、無事か?」

 

 那智の手を借りながら伊14が立ち上がる。

 

「バラストタンクに穴が開いてたみたいでさ、トリムバランスが崩れて倒れちゃったみたい」

 

「ポンプは起動できなかったのか」

 

「駄目だった。そもそも燃料タンクに海水が混入しちゃってて機関そのものが動かせない。バッテリーも消耗しきったから、この船体ももうお終いだよ」

 

「そうか。滿汐になれば離岸できると思ったが、諦める他に無さそうだな」

 

 那智、隼鷹、千歳の船体は、ここにたどり着くまでの海戦で既に失われていた。

 

 まったく、ひどい戦いだった。と、那智は思い返す。

 

 

 

 

 

 

 酒の勢いと場の雰囲気に流されるままに出港してしまい、挙句にその翌日は四人全員が見事に酔いつぶれて爆睡してしまい、ハッと気が付いたときには既に出港してから丸二日間が経過していた。

 

 その間、艦隊は事前にプログラムされていた作戦計画に従い、ネルソン要塞へ向けて全力全速で航行を続けており、その甲斐あって封鎖海域まであとわずかという位置まで到達していた。

 

 こりゃまずい、と那智たちは慌てて自動操縦を解除しようとしたが、作戦立案者であるコウメイはこうなることを予測していたのだろう、参謀本部の戦略AIからの最優先命令という形で自動航行プラグラムを強制インストールさせており、艦娘であっても自分の船体を勝手にコントロールできないようになっていた。

 

 そんなバカな話があるか、と那智がサポートAIを問い詰めたところ、

 

『戦闘配備状態で参謀本部とリアルタイムコンバットリンクを実施したなら、解除できます』

 

 とのことだった。

 

 つまり敵とエンカウントするまで強制進軍させられるわけだ。

 

 完全に嵌められた、と那智は悟った。あの女だ。顔に傷持つ女。名は聞かなかったが、酔いが醒めた頭で冷静に考えれば、あの女の正体は見当がつく。

 

 統幕作戦部長の野木 魔鈴だ。山賊の二つ名は、那智もうわさで耳にしたことがあった。奴もコウメイの仲間だったのか、と今更後悔したところでもう手遅れだった。

 

 こうなれば、ネルソン要塞でも深海棲艦でもどちらでもいいから、敵と遭遇したところで適当に戦って、撤退するだけの損耗を受けてお茶を濁すしかない。

 

 RCLを起動するという条件がある以上、戦わずに逃げるという選択肢はなかった。現場の状況はリアルタイムで参謀本部に送られてしまうので、敵前逃亡はすぐにバレる。例えジャミング下に置かれて通信不能でも、そのジャミングが解かれた瞬間に記録が全て送信されてしまうので結果は同じだった。

 

「だったらさ」と隼鷹が提案した。「味方同士でずっとジャミングをかけ合えば、RCLを起動してもバレなくね?」

 

 しかし、彼女のサポートAIはそれをあっさり否定した。

 

『ネルソン要塞の兵器か、深海棲艦を発見したというデータが入力されない限り、ただRCLを起動しても自動航行プログラムは解除されません』

 

「ちょっと待てよ、じゃあデータに無い新型とか、海賊とかに襲われた場合はどうなるんだよ」

 

『その時は状況を誤魔化すことなく、正直にRCLで報告すればいいだけです。正当な理由ならば、参謀本部も解除を許可するでしょう』

 

「奇襲を受けた場合は? その新型に不意を突かれてジャミングを仕掛けられたらどうするんだ」

 

『その時は自動プログラムは解除できません。為すすべもなくやられるしかありません』

 

「欠陥プログラムじゃねーか!」

 

『そうです、このプログラムは欠陥だらけです。ですから早くRCLを起動し、参謀本部に貴女方の酔いが醒めたことを報告して、解除の許可をもらってください』

 

「・・・それができれば苦労はしないんだよなぁ」

 

 参謀本部に対して自分たちは正気だと報告したなら、後は任務を遂行するしかなくなってしまう。

 

 ならば狂気のフリでもしようかと思ったが、それだと自動航行プログラムは解除されず、そのままネルソン要塞に放り込まれそうな気がした。

 

 コウメイにとっては、とりあえずネルソン相手にぶつかってくれればそれでいいのだ。中身の艦娘が正気かどうかなんてどうでもいいのだろう。

 

「あのさ」と伊14。「私は潜水艦だからRCLを積んでないんだけど、この場合、どうしたら解除されるの?」

 

 そう、潜水艦は海中での隠密行動を主にするため、RCLは搭載されていない。

 

 その問いに、彼女のサポートAIが答えた。

 

『短波通信で水上艦艇とリンクしていますので、他の艦艇が解除されたなら自動的に解除されます。しかし通信範囲が狭いため、あまり離れすぎると通信できなくなりますので注意してください』

 

「離れるなって言われても、自分で操艦できないんじゃ、どうしようもないじゃん」

 

「打つ手なしね」

 

 千歳は艦橋で、二日酔いで痛む頭を抱えた。迎え酒が欲しいわ。そう思い、船内に積み込んでいる自慢のコレクションを思い浮かべた。

 

 独機隊の四人とも無類の酒好きだが、その中でも千歳はコレクター気質だった。世界各地の様々な酒を収めたコンテナが、艦載機用の格納庫の一画を堂々と占拠していた。

 

 その大事なコレクションの最高級の一本を飲もうかしら。なんて考えていたところに、深海棲艦出現の報告がもたらされた。

 

 各艦のサポートAIが言った。

 

『監視衛星からの情報です。本艦隊の50海里先に深海棲艦らしき不明目標を発見したとのこと。これより索敵機を発艦し、確認を実施します』

 

 自動航行プログラムに索敵プログラムも含まれていたらしい。隼鷹から無人索敵機が一機、スクランブル発進し、高空へと舞い上がって行った。

 

 那智がしめしめと笑った。

 

「封鎖海域前に遭遇するとは我々は運がいいぞ。いいか、みんな。できるだけ戦闘を長引かせるんだ。全力で苦戦して、燃料と弾薬を目いっぱい消耗しよう。これ以上、任務を遂行できないくらいにな」

 

「これで敵がイ級一匹とかで無けりゃね」隼鷹はボヤキながら、索敵機から届いた情報を確認した。「――索敵機より“敵艦、見ゆ”。・・・はぁ」

 

 ため息混じりの隼鷹に、千歳が聞いた。

 

「その分じゃ、期待外れってことかしら」

 

「雷巡チ級が一隻、ポツンと佇んでいるだけだ。まわりにゃなんも居ないし、通商航路からも、アタシらの航路からも大きく離れてる。無視したって構わない相手だ。戦闘になったところで対艦ミサイルを五発撃てば終わる雑魚さ」

 

「やるだけ無駄か。・・・いや、待て。こんな噂を聞いたことないか?」

 

「どんな?」

 

「“不死身のチ級”だ。深海棲艦の中で、どうしても一隻だけ攻撃が当たらない奴が居ると聞いたことがある。最近じゃ“人喰い雷巡”とも呼ばれているらしいが」

 

「そんなの、射撃がヘタクソな連中がでっち上げた責任逃れの方便だろ。実在するわけないじゃん」

 

「いや、実在する。アイツがそうだ。今決めた」

 

「なんだ、それ・・・なぁるほど」

 

 那智の意図を汲み、隼鷹はにんまりと笑った。

 

「ねえ、どういうこと?」

 

 と伊14。

 

 それには千歳が代わりに答えた。

 

「私たちで噂を真実にしてあげるのよ。うふふっ」

 

「ああ、そういうこと。んふふ~、みんな悪党だね」

 

「全艦、戦闘配置だ。相手は噂の“人喰い雷巡”だぞ。簡単に倒せる相手じゃない。覚悟を決めろ。サポートAI、RCL起動、第9643独立機動隊はこれより深海棲艦と交戦する。送れ」

 

『RCL起動、状況及び方針を送信しました。――参謀本部戦略AIから返信、交戦を認める。自動航行プログラムが解除されました』

 

「よし。隼鷹は攻撃隊により全力攻撃を行なえ。手を抜くなよ、一撃で仕留めろ。いいな、一撃だぞ。一撃だぞ」

 

 大事なことなので三回言った。もちろん、隼鷹はその意図を正確に理解した。

 

「了解。噂の雷巡だろうが何だろうが、アタシが一撃で木っ端みじんにしてやんよぉ。攻撃機隊、全機発艦!」

 

 隼鷹の飛行甲板にゼロ改攻撃機隊がずらりと並び、次々と発艦していく。

 

「ヒャッハー、汚物は消毒だぁぁ!」

 

 三下の悪役みたいなセリフを吐きつつ、隼鷹攻撃隊がチ級めがけて対艦ミサイルを発射した。

 

 三、二、一・・・弾着。

 

 索敵機から報告。目標は健在。ミサイルは全弾、紙一重で外れたとのこと。

 

 流石は隼鷹だ、いい腕をしている。と、那智は感心しつつ、表面上は大げさに驚いて見せた。

 

「そんなバカな。すべてよけられたなんて、あいつはいったい、なにものなんだぁ~」

 

「これは」千歳も深刻そうにうなずく。「おそるべきあいてだわ。うわさは、ほんとうかもしれないわね。もっと、しんちょうにいきましょう」

 

「うんうん、そうだね」と、伊14。「へたにしかけず、じっくりようすをみようよ。・・・できれば一週間ぐらい」

 

 それは流石に無理があるなぁ。と那智は、伊14に突っ込もうとした。

 

 引っ張っても三日ぐらいが限度だろう。そう言おうとしたとき、隼鷹がシリアスな声で言った。

 

「いや、もう一度全力攻撃だ。那智、第二次攻撃をリコメンドする」

 

「は? ちょっと待て隼鷹、いきなり飛ばし過ぎだ。もっとこう、じわじわとだな――」

 

「頼む、那智、もう一度やらせてくれ。・・・アイツ、マジでヤバい奴かも知れない」

 

「マジでって・・・まさか」

 

 那智は、隼鷹が演技でそう言っている訳ではないと悟った。

 

 隼鷹が唾を飲み込みながら言った。

 

「マジなんだよ。アイツを攻撃機越しに見た瞬間、なんかこう、ヤバいと思ったんだ。マジで殺らないと駄目な奴だって。だから、全弾ぶち込んだんだ。・・・ぶち込んだはずだった!」

 

 なのに、避けられた。

 

 迎撃する素振りも、対ミサイル欺瞞措置を講じた形跡さえもなく、まったく理解不能な現象が起きていた。

 

 これは演技をしている場合ではない、と那智は意識を切り替えた。嘘から出た真とはこのことか。

 

「千歳、艦攻部隊を発艦させろ。隼鷹隊と同時攻撃だ。手を抜くな。振りじゃないからな!」

 

 最後に言わなくてもいい事を言ってしまったが、しかし言わずにはいられなかった。だって、ここまではっきり言わないと本気出してくれない連中だし。

 

 ついでに行動でも本気だと示すために、重巡洋艦の特徴でもあるECMを発動、ハードとソフトの両面で敵を殺しにかかる。

 

 千歳のゼロ改部隊が発艦、隼鷹隊と合流し、攻撃位置に着く。

 

「イヨ、お前は潜航し、ソーナーで目標を監視しろ。奴が攻撃の瞬間にどう動くか、しっかり耳を澄まして聞き逃すな」

 

「了解」

 

「こちら隼鷹、第二次攻撃準備よし」

 

「こちら千歳、同じく準備よし」

 

「撃て!」

 

 戦艦クラスさえも軽く轟沈できるほどの対艦ミサイルが、チ級めがけ殺到する。

 

 伊14が報告。

 

「目標、移動を開始。こちらへ向かって30ノットで航行中――」ミサイルが弾着する。「――目標の航走音が消失!」

 

「やったか?」

 

「違うよっ、着弾前に消えた。・・・航走音を再度探知! 目標は健在!」

 

「やっぱりだ」隼鷹が唸るように言った。「アイツは無傷だ。マジで不死身なのかよ」

 

「噂は真実だった、という訳か」那智は言った。「こいつはネルソン要塞以上に厄介な相手かも知れないぞ。要塞は逃げないが、こいつはどこにでも移動する。優先順位を変更すべきだ。――参謀本部、任務の変更、このチ級の監視をリコメンドする」

 

 RCLを通じて状況は常に参謀本部へ送信されている。那智のリコメンドを受けて、本部から回答が来た。

 

『リコメンドを認めます。ネルソン要塞偵察作戦は一時中止、9643独機隊は現海域にてチ級の警戒監視に当たれ』

 

 淡々とした物言いに、しかしどこか悔しさを滲ませた女の声だった。

 

 ボイスオンリーの通信だが、同時に文字出力されるチャットの記録上には【作戦担当・紫吹 香名】と表記されていた。

 

 コウメイだ。

 

 せっかく立案した作戦が始まる前に中断を余儀なくされ、さぞかし悔しい思いをしているだろう。と那智は推測したが、しかしそれを小気味よく思う余裕は無かった。

 

 このチ級の正体を見極めるまでは片時も気を休めることは出来ない。

 

 もし潜航されたなら、海流沿いに延々とこのチ級を捜索しつづける羽目になる。それはいつ終わるとも知れない先の見えない任務だった。

 

 那智はため息を吐きたいのをこらえながら、隼鷹と千歳に航空隊の収容を命じた。

 

「隼鷹と、千歳、そして私の三人で交代で索敵機を出して監視を継続する。イヨは引き続きパッシブソーナーで音紋の記録を続けろ。いいな」

 

「こちら隼鷹、了解」

 

「千歳、了解」

 

「・・・」

 

 伊14からの返事が無い。

 

「イヨ、復唱しろ」

 

「・・・」

 

「おい」

 

 それでも返事が無い伊14に、那智が声を荒げかけた、その時、

 

「ソーナー探知! 艦隊後方30海里に航走音が多数出現!」

 

 伊14の意外な報告に、那智は一瞬呆気にとられたが、すぐに隼鷹と千歳に空中哨戒を命じた。

 

「イヨの言う通りだ」隼鷹が、未着艦だったゼロ改の一機で索敵させた結果を報告した。「拙いぜ、深海棲艦の大艦隊だ。戦艦ル級4隻、重巡リ級4隻、空母ヲ級3隻、軽空母ヌ級2隻、その他軽巡、駆逐多数。いずれも針路をこちらにむけて航行中!」

 

 さらに、千歳からも

 

「空母各艦から艦載機発艦中」

 

 との報告。

 

「対空戦闘用意!」

 

 那智、隼鷹、千歳は全速前進。伊14は急速潜航。しかし後方の敵艦隊との距離はわずか30海里(約56キロメートル)しかない。航空機を含む艦隊戦を行うには、もう目と鼻の先と言ってもよかった。

 

 事実、望遠カメラを水平線に向ければ、背の高いル級たちの影がちらほらと見えていた。

 

 影が見えているということは、妨害電波も届くという事だった。

 

 那智はECMとECCMを仕掛けたが、戦艦4隻による同時ECMには対抗できなかった。独機隊のレーダーが真っ白に染め上げられ、沈黙する。

 

 強力なジャミングに互いの通信さえもままならなくなった状況で、空に沸き立つ雲霞のような艦載機の大群が迫ってくる。

 

 隼鷹と千歳は無人機部隊を再編制して立ち向かわせたが、多勢に無勢で、その数を次々と減らしていった。

 

 敵艦載機が頭上に達し、爆弾の雨を降らせてくる中、独機隊は必死で逃げた。

 

 逃げたと言っても、それはネルソン要塞の方向に向かってだった。他に逃げ道は無い。しかもその方向には、例のチ級が子馬鹿にしたように悠然と佇んでいた。

 

「邪魔だ、退けえっ!」

 

 那智はチ級めがけ主砲を斉射。既に外すような距離でも無いはずなのに、乱立する水柱の中からチ級は平然と現れ、そして――

 

――那智たちに向かって、ニンマリと不気味な笑みを浮かべて見せたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、よくぞ生き残ったものだ。と那智は火山島の海岸を眺めまわしながら思った。

 

 ネルソンに向かって逃げたのは、そこしかなかったのもあるが、あわよくばネルソン要塞の防衛システムと深海棲艦が戦い合い、その混乱に乗じて逃げ切れるかもしれないと思ったからだ。

 

 その目論見は半分程度は当たった。

 

 ネルソン要塞最強の兵器“大鉄塊”を戦闘に引きずり込み、さらによくわからない海賊船まで乱入したおかげで、かろうじて火山島に漂着することはできた。

 

 しかし、問題はここからだ。

 

 最後まで残っていた伊14の船体も使い物にならなくなってしまった以上、ここから脱出するには別の船を手に入れる必要がある。

 

「そんな都合のいい船、どこにあるんだよ」

 

 隼鷹の問いに、那智は答えた。

 

「探せばどこかにあるだろう。幸い、この島には過去の戦闘で残された兵器が大量にある」

 

「兵器ねえ。どうみてもガラクタにしか思えないけどな。ボートひとつだってまともに動きそうにないぜ」

 

「そうでもない」

 

 那智は打ち捨てられていたパワードスーツの一体に近寄り、中を覗き込んだ。

 

 上半身のハッチが開きっぱなしになっており、操縦席は無人だったが、そこに小銃とサバイバルキットが残されていた。

 

 那智は小銃を手に取り、薬室を開いて作動確認を行う。

 

「使えそう?」と、千歳。

 

「イタリア製のCRX2000モデルだ。強化プラスチックと特殊ポリマー樹脂で構成されているから何年たっても錆びることが無い。弾もある」

 

「銃を使ってどうするの?」と伊14。

 

「探検するには武器が必要だろう。ネルソンは武装工廠であり造船施設もある。うまくいけば新品の軍艦が手に入るかもしれん」

 

「やれやれ、地獄めぐりか」

 

 隼鷹も別のパワードスーツから小銃を拾い上げた。千歳と伊14も武器を手にする。

 

「行くぞ」

 

 那智が促して移動を開始しようとしたとき、

 

「おーい、だったら俺も仲間に入れてくれないか」

 

 どこか緊張感のない声が投げかけられ、那智は咄嗟に小銃を構えた。

 

「動くな!」

 

 声がした方に振り向き、銃口を向ける。

 

 そこに居たのは、一人の男だった。うずたかく積まれた残骸の山の一つに立って、こちらを見下ろしている。

 

 ジャケットにジーンズというラフな格好だが、右腰のホルスターに大型のリボルバー拳銃が収められていた。

 

「両手を上げろ、その銃に手を触れようとした瞬間に撃つ」

 

「おっかないお姉ちゃんだね」

 

 男は素直に両手を高く上げた。しかしその仕草には余裕が感じられた。

 

「何者だ?」

 

「俺はマンバ、海賊マンバだ。聞き覚えあるだろう」

 

「海賊? あぁ、あのイカれた海賊船、あれはお前の物だったのか」

 

 大鉄塊と共に散々戦場を引っ掻き回したあげく沈んでいったから、てっきり死んだと思っていた。

 

「思い出したなら、その銃を降ろしちゃくれないか。一時は共闘した仲だろう?」

 

「共闘だと? そういえばそんなことを無線でわめいていたな。悪いがジャミングが酷くて聞き取れなかった。返答した覚えも無いので、共闘は無効だ」

 

「嘘つけ、絶対聞こえていただろ。めいっぱい盾にしてくれたくせによく言うぜ。俺がいなかったら、あんたらみんな死んでたところだ」

 

 マンバの言葉を無視して、那智は銃を構えたまま訊いた。

 

「海賊風情がこんなところに何の用だ。お宝でも探しに来たのか」

 

「あれば頂いていくがね。メインはそっちじゃなくて、海賊船の修理さ」

 

「修理だと」

 

「俺の船、ミュータントタートル号っていうんだが、見ての通り特注品でね。この要塞ぐらいでしかまともに修理できそうにないんだ。だから、乗っ取りに来た」

 

「この要塞を乗っ取るとか、正気か、お前」

 

 那智は呆れるあまり銃口を降ろしそうになった。

 

 この途方もなく巨大で、しかも大鉄塊のような圧倒的戦力を前にして、それでもあっけらかんと「乗っ取る」などと口にしたこのマンバという海賊は、とてつもなく不敵な男か、それともバカかのどちらかだ。

 

 もし不敵なのだとしたら、それ相応の戦力を持っているはずだ。例えばそう、あのイカれた海賊船だ。

 

 そこらの戦艦よりも巨大で、そして強力な武装を擁していた。なにしろあの深海棲艦の戦艦・重巡の複数同時ECMをいとも簡単にぶち破ってみせたのだ。

 

 それだけでもとんでもない能力だが、そこからの大暴れも凄かった。正直、大鉄塊が海賊船も含めて無差別攻撃をしなければ、海賊船だけでも深海棲艦を全滅させていたかもしれない。それほど強力な船だった。

 

 その船をマンバがまだ持っているというのなら、この島からの脱出もまだ目があるかもしれない。

 

「マンバ、お前の自慢の海賊船はどうした」

 

「あ~、あれね」マンバは苦笑しながら目を逸らした。「大鉄塊にやられてバラバラにされちまった挙句に、ネルソン要塞に拿捕されちまってなあ」

 

「・・・ただのバカだったか」

 

「なんかよくわからんが、酷い言われようだ。現状はあんたらだって同じじゃないか。だったら、俺と手を組んでも損は無いと思うぜ」

 

「断る」

 

「何でよ?」

 

「お前は胡散臭い」

 

「ははっ、そうか、なら仕方ない」

 

 マンバは不敵に笑って、ホルスターから銃を引き抜いた。

 

 まさに目にも留まらぬ早撃ちだった。銃声が聞こえるまで、那智たちは誰一人、マンバが銃を抜いたことさえ認識できなかった。

 

 撃たれた。そう悟った瞬間、那智は引き金を引いた。

 

 小銃は問題なく作動し、乾いた発砲音と共に銃弾が撃ち込まれたが、その時すでにマンバは瓦礫の山の反対側に身をひるがえして隠れてしまっていた。

 

 那智はすぐに追いかけようとしたが、

 

「那智、後ろだ!」

 

 隼鷹の声に、那智は振り返りざまに、そこに見えたモノに向けて発砲した。

 

 背後の瓦礫の影から姿を現したのは、ボロボロのマントを纏った兵士だった。その兵士の腕と一体化した銃身が那智に向けられていたが、それが火を噴くよりも早く、那智の銃弾がその兵士を撃ち倒す。

 

 ネルソン要塞の防衛システムの一つ、人造兵士だ。那智が倒した人造兵士のすぐそばに、既にもう一体が倒れていた。

 

 マンバの仕業だ、と那智は気づいた。

 

 奴が突然発砲したのは、那智との交渉が決裂したからではなく、出現した人造兵士を倒すためだったのだ。

 

 しかし出現した人造兵士はその二体だけではなかった。

 

 島の奥、火山の中腹あたりに聳え立つネルソン要塞のレグの方向から、人造兵士の大部隊が次から次へと駆け寄ってくるのが見えた。

 

 人造兵士は生体部品とコンピューター、そして兵器を組み合わせたロボット歩兵だ。正確に言えばサイボーグだが、その頭部に埋め込まれたコンピュータは自律行動を可能にするほど高度ではなく、主にネルソン要塞からの遠隔操作で動かされている。

 

 人造兵士の腕や肩と一体化している銃やロケット砲が火を噴き、那智たちのすぐ近くで小規模な爆発が次々と起きた。

 

「こっちだ、走れ!」

 

 那智の指示により、彼女たちは遮蔽物めがけ走り出す。その遮蔽物とは、マンバが隠れた残骸の山だった。

 

 しかし四人がその裏側に回り込んだとき。マンバの姿はそこには無かった。彼は既に、さらに離れた場所の、横転した兵員輸送車の影に移動していた。

 

 那智たちは残骸の山を盾にして銃撃戦を繰り広げた。接近してきた数体の人造兵士を倒したが、手持ちの弾薬もあっという間に撃ち尽くしてしまった。

 

 人造兵士は続々と押し寄せてくる。機関銃の一斉射とロケット弾が残骸の山に着弾し、四人は頭をひっこめた。

 

「誰か、弾は無いか!?」

 

「アタシも空っぽだ」

 

「ゼロです」

 

「ないない」

 

「あるぜ、ほらよ」

 

 声と共に弾倉が飛んできた。マンバだ。

 

 彼の隠れている兵員輸送車にはまだ弾薬が残されていたらしい。次々と放り投げられてくる弾倉を受け取り、那智たちは戦闘を再開した。

 

 さらに数体を撃ち倒したが、それでも敵は怯むことなく肉薄してくる。当然だ、人造兵士に恐怖を感じる生体脳は無い。ただの操り人形、消耗品だ。

 

 遮蔽物に身を隠そうともせずに突進してくる人造兵士を撃つのは容易だが、たった四人の小銃と、そして海賊ひとりの拳銃では、数十体もの人造兵士の勢いを押しとどめることは出来ず、ついに残り十数メートルの距離まで迫られてしまった。

 

 このままでは、身を隠している残骸の山を乗り越えられてしまう。四人がそう思ったとき、突如としてまるで雷鳴のような閃光と轟音が響き渡った。

 

 至近距離で爆発が起きたのかと思い、四人は咄嗟にその場に伏せたが、奇妙なことに爆風や破片などは襲ってこなかった。

 

 そのかわり銃声が止み、そして辺り一帯にイオンの匂いが立ち込めていた。

 

「攻撃が止んだ?」

 

 那智は伏せていた顔をあげ、慎重に敵の様子をうかがった。

 

 人造兵士たちは全滅していた。

 

 しかし、ばらばらに破壊された訳ではなかった。外見にほとんど傷も無いまま、糸の切れた操り人形のように地面に倒れ伏していた。

 

 閃光と、イオンの匂い、これはEMP弾による電磁パルス攻撃だと、那智は気づいた。

 

 マンバの方を見ると、彼は盾にしていた兵員輸送車から姿を現し、右手にリボルバーを下げたまま葉巻を咥えていた。

 

 その左手の指先には、まるで手品のように火が灯り、それで葉巻に火をつけている。

 

「マンバ、今のはお前の仕業か?」

 

「感謝しろよ。四発しかない貴重品の一発を使ってやったんだ」

 

「EMP弾だな。しかし拳銃で撃てるサイズじゃないはずだ。ハンドキャノンでも隠し持っているのか」

 

 訊きながらも、その銃口はマンバに油断なく向けていた。他の三人も、周囲を警戒しながら、那智とマンバのやりとりに耳を傾けている。

 

「手持ちの武器はこれだけさ」

 

 マンバはそう言って、右手の拳銃を放ってよこした。

 

 銃で狙われているにもかかわらず手持ちの武器をあっさり投げ捨てたマンバに対し、那智は咄嗟に後ずさった。

 

 もしかしたら拳銃そのものが爆弾になっているのかもしれない。そう警戒してのことだったが、そんなことは無さそうだった。

 

 那智は銃をマンバに向けたまま、慎重にリボルバーを拾い上げた。

 

 象でも殺せそうな大口径リボルバーだ。しかしEMP弾とは規格が合わない。回転弾倉の中身は、先の戦闘で撃ち尽くしたのだろう、空薬きょうしかなかった。

 

「拳銃を手放したのは投降の証・・・という訳でも無さそうだな。EMP弾をどうやって撃った?」

 

「そりゃ奥の手ってやつでね。種を明かしてほしけりゃ、俺の頼みを聞いちゃくれないか」

 

 葉巻をくゆらせながら、不敵な態度を崩さないマンバ。

 

 左手だ。と那智は見当をつけた。あれは義手だ。指先のライターだけでなく、もっと強力な武器が仕込まれているに違いない。

 

 それに、先の早撃ちを見ても、この男が海賊船に頼るだけの半端な海賊ではないのは確かだ。

 

「あんたら、俺に借りがあると思うんだが、どうかな?」

 

「・・・お前の狙いは何だ。海賊船の修理だけじゃないはずだ」

 

「俺の相棒が船に取り残されたままなんだ・・・」マンバの口調が、初めてシリアスになった。「・・・彼女を助けたい。そのために力を貸してほしい」

 

 隼鷹がヒューと口笛を吹いた。

 

「囚われのお姫様を助け出そうってのか。いいねぇ、海賊らしい冒険譚じゃないか。アタシは好きだよ、そういうの」

 

「ありがとよ。うまくいきゃ船も取り返せる。そしたら、ここからもおさらば出来るぜ」

 

「お前の海賊船はバラバラにされたんじゃなかったのか」と、那智。

 

「壊れた、とは言ってないぜ。ミュータントタートル号は四つに分離できるんだ。緊急避難的に分離して逃げようとしたんだが、全部捕まってな。俺だけ生身でここに流れ着いたってことだ」

 

「貴方、他にお仲間は?」

 

 そう訊いたのは、千歳だ。マンバは答えた。

 

「彼女一人だけだ。レディって呼んでいる。本名は知らん。記憶喪失の艦娘だった」

 

「へえ、元艦娘の海賊かぁ」伊14が目を輝かせた。「面白そう。ちょっと興味出てきたな。私、会ってみたいかも。ねえ、那智さん」

 

 手を組んでも良いかも。仲間三人がそういう雰囲気になっているのを那智は感じていた。

 

 那智自身、まぁいいかな、という気に実はなりつつある。

 

 しかし、とりあえずこれだけはハッキリさせておかねばなるまい。

 

「マンバ、私たちの目的は、生存とこの島からの脱出だ。お前の海賊船以外の脱出手段が見つかった場合、我々はそちらを優先する。この条件でいいなら手を貸そう」

 

「世知辛いこと言うねえ。一緒にお姫様を助けてヒーローになろうぜ。楽しいぜ?」

 

「趣味や道楽で戦争をやるつもりは無い。私は給料以上の仕事はしない主義なんだ。明日が給料日だ。意地でも生還して金を受け取り、ついでに我々をここに送り込んだ上官をぶん殴ってから、慰謝料をしこたまふんだくってやらなくちゃいけない」

 

「怖い女だな、あんた。殴るのと慰謝料の請求は、順番が逆の方がいいと思うんだが。金を受け取る前にクビにされるぞ」

 

「その時は銃を突き付けて脅し取るまでだ」

 

「まるで海賊だ」マンバは呆れたように煙を吹き出した。「俺よりも海賊的だよ、あんた。思った以上に頼りになりそうだ。オーケー、そっちの条件を呑もう。・・・そういえば、まだ名を聞いていなかったな」

 

「んふふ~、伊14だよ。イヨって呼んでいーよ」

 

「千歳です。よろしくお願いしますね」

 

「ヒャッハー、隼鷹でーす」

 

「重巡、那智だ」リボルバーを投げ返す。「レディとやらの居場所は、見当がついているのか」

 

 マンバはリボルバーを受け取りながら頷いた。

 

「ああ、俺の船はネルソン要塞の西側のドックに回収されたところまでは確認済みだ。レディもそこにいるだろう」

 

「ドックなら他の船もあるかもしれないな。よし、行こう」

 

 五人は周囲から弾薬を拾い集めると、火山の中腹にあるレグへ向けて歩き出した。

 

 レグと言っても、巨大ビルと言っても差し支えない太さがある。

 

 太陽は既に沈み、夜の闇が支配するその島にあって、レグは不気味な塔と化して頭上のもうひとつの大地と繋がっていた。

 

 それはあまりにも巨大すぎて、数分歩いた程度では、まったく近づいた気がしなかった。

 

 それにいつまた人造兵士の襲撃があるかもしれず、その警戒をしながらの歩みだったので、進みは遅かった。

 

 暗闇の中、残骸を避け、時には乗り越えつつ進むなか、それでも数キロほど歩いたころ、不意に、眩い一条の光が、辺りを薙ぎ払うかのように横切った。

 

「サーチライトだ!」

 

 五人は光から逃れ、近くの瓦礫に身を潜めた。

 

「どこからだ?」

 

 那智は光源に目を向け、そして、絶句した。

 

 サーチライトの主は、海上に居た。それは火山島のすぐそばまで迫り、100メートル以上もの大きさの巨体から見下ろすように幾筋ものサーチライトを島に投げかけていた。

 

 大鉄塊だった。

 

 全長150メートル、文字通り鉄の塊が、深海棲艦と同じように海上に浮き、執拗に那智たちを探していた。

 

 島中を舐めまわすように動いていたサーチライトの筋が、やがて一か所に集約された。それは那智たち五人が潜んでいる場所だった。

 

 大鉄塊の位置からは完全に影になって見えていないはずだが、それでもその探査能力をごまかすことは出来なかったようだ。

 

 大鉄塊の球状のボディから突き出したいくつもの砲身の一つが動き、那智たちに狙いを定めた。

 

 このままではやられる。

 

「マンバ、EMP弾だ!」

 

「無理だ、あいつに通用するようなら初めからやっている。――撃ってくるぞ、とにかく走れ、そこのクレーターだ!」

 

 十数メートル先に過去の爆撃によってできたと思われる深いくぼみがあった。

 

 五人がそこめがけ走り出したのとほぼ同時に、大鉄塊が発砲した。

 

 ついさっきまで隠れ潜んでいた瓦礫が、跡形もなく吹き飛んだ。間一髪、くぼみに伏せた五人の頭上を、凄まじい爆風が衝撃波となって飛びぬけていく。

 

 土砂と破片が辺り一面に舞い上がる中、五人はすぐさま立ち上がり走り出す。

 

 マンバが叫ぶ。

 

「レグだ、あそこに近づけば大鉄塊も迂闊には撃ってこれないはずだ。レグを目指せ!」

 

 大鉄塊から雨のような銃撃が降り注いだ。

 

 しかし、幸い遮蔽物だけは幾らでもあった。五人は散開し、めいめい瓦礫や残骸を盾にしたり、爆撃跡に飛び込みながら、必死にそれをかわす。

 

 那智はとある多脚歩行戦車の影に隠れた。

 

 そこに隼鷹も飛び込んでくる。

 

「ひゃー、命がいくつあっても足りやしないよ。人間相手に大鉄塊を持ち出すなんて、ネルソンも大人げないぜ!」

 

「過去の戦いで上陸戦力が全滅した理由が分かった。こういうことだったんだな」

 

「なあ、この戦車使えそうだぜ」

 

「無理だろう、動く訳が無い」

 

「これゼンマイ式だ。昔、投入された珍兵器のひとつだぜ」

 

「まさか」

 

 多脚歩行戦車の装甲の一部がはがれ、エンジンルームに当たる部分が露出していた。大鉄塊からのサーチライトが横切り、一瞬、その内部構造が露わになる。

 

 確かにゼンマイ式だった。歯車の一つにバールのようなモノが挟まっており、それで動きが止まっているようだ。

 

「本当だ。噂には聞いていたが、まさか実在したとはな」

 

「那智、物は試しだ、抜いてみようぜ」

 

 抜いてどうなるというアテも無いが、何もしないよりかはマシだった。

 

 二人でバールに手をかけ、力を籠める。

 

 バールはスポンという音を立ててあっさり抜け、二人は勢い余って尻餅をついた。

 

 次の瞬間、ゼンマイ戦車は歯車をすさまじい勢いで回転させ、その身をぶるぶると震わせながら勢いよく大鉄塊へ向けて走り出した。

 

 大鉄塊のサーチライトが、突然動き出したゼンマイ戦車に集まる。

 

「囮にはなったな。よし逃げるぞ」

 

 二人がレグめがけ走り出した背後で、ゼンマイ戦車は大鉄塊からの集中砲火を浴びてあっさりと爆発した。

 

 ただ、それはただの爆発では無かった。

 

 ゼンマイ戦車は、そもそも敵地へ自力で潜入する自走爆弾として作られたものだった。

 

 そしてその車体に搭載されていたのは、強力な磁器濃縮型爆弾――爆発の衝撃によって強力な電磁パルスを発する爆薬発電機、つまりEMP爆弾を搭載していた。

 

 

 個人携行用のEMP弾よりも遥かに強力なそれは、頭上を覆うデッキにも届きそうなほどの青い火柱と、稲妻が大地をのた打ち回るかのような放電現象を生じせしめ、そして大鉄塊の対電磁防壁さえも防ぎきれないほどの電磁パルスを放出した。

 

 もし、この電磁パルスの放出が360度無差別に放たれていたなら、那智たち五人の命は無かっただろう。

 

 しかし幸いなことに、それはある程度、戦車の前方側に指向されるようになっていた。そのため、戦車とは反対方向に位置していた五人はかろうじて生き延びることが出来た。

 

 だがそれでも、EMP爆発の衝撃は凄まじく、五人は意識を失い、倒れ伏した。

 

 蒼い火柱と放電現象が収まったあと、そこに大鉄塊の姿は無かった。想定外の攻撃を受けて撤退したのだ。

 

 火山島には再び暗闇と静寂が戻った。

 

 そのまま数時間が経過し、東の空から朝陽が姿を現し、島とデッキに挟まれたその世界が再び赤く染まった。

 

 

 

 

 

 

 朝の散歩は、ポーラの日課の一つだった。

 

 この島で暮らし始めてから二年、毎日特に何が起こる訳でも無い単調な日々を過ごす中での、数少ない楽しみの一つでもあった。

 

 朝と晩、島に残る残骸をあさり、役に立ちそうなものや、面白そうなものがあれば拾って帰る。

 

 もっとも役に立つものは滅多になかった。面白そうなものは幾らでもあったが。

 

 特にゼンマイ戦車はポーラのお気に入りだった。過去の戦いで多用されたEMP攻撃で、大半の兵器が使い物にならなくなっている中、この玩具だけはネジを撒けばいくらでも動いてくれので、暇つぶしの遊びにはもってこいだった。

 

 

 その戦車を止めておいた場所に、昨晩、大鉄塊が来た。

 

 しかも機嫌が悪かったのかいきなり砲撃まで始めて、しまいにはなにやら大爆発まで引き起こして、そのまま去って行ってしまった。

 

「ぶ~、大鉄塊さんも、遊んでほしければ素直にそう言えばいいのに」

 

 よいしょ、よいしょと海岸に向けて斜面を登りながら、ポーラは愚痴をこぼす。

 

「遊びましょ~って言っても、い~つも、私を無視するくせに、おもちゃばっかり壊していくんだからぁ。ほんと、お子様なんだからね~。よいしょっと」

 

 海岸が見下ろせる丘の上に立ち、ポーラは昨日の破壊の跡を眺めまわした。

 

「あ~、ゼンマイちゃん3号、やっぱり壊されてる~。くすん。はぁ、“泣く子と大鉄塊には勝てません。飲むしかないです”ってイタリアのことわざの通りですね。しかたないです。帰って飲むとしますぅ~」

 

 と、踵を返して去ろうとしたとき、

 

「ほへ?」

 

 彼女は眼下にあるものを見つけて足を止めた。

 

 それは、瓦礫に腰を落ち着けて葉巻をくゆらす一人の男の姿だった。

 

「わ~、生きてる人とか初めてみました~。――お~い、お~い」

 

 ポーラの呼びかけに、男――マンバは振り向き、目を丸くした。

 

「こいつは驚いた。俺たち以外に生き残りがいたのか」

 

「えへへ~、私もびっくりですよ~」ポーラが駆け寄ってきて、笑顔を向けた。「ねえねえ、おじさん、どこからきたんですかぁ」

 

「ああ、俺は――」

 

「なに咥えているんですか、おいしいんですか、その拳銃おっきいですね、さわってもいいですか」

 

「おい、ダメだって、触っちゃ危ない」

 

「あ、私、ポーラって言います。なんにでも挑戦したいお年頃なんです。だから触らしてくれてもいいでしょ~、ね~」

 

「ポーラね、はいはい。わかったから、落ち着け、そして俺の話を聞け」

 

「聞いたら、おもちゃ、くれますか」

 

「おもちゃじゃない。あげもしない。でもまぁ、触るくらいなら構わないが」

 

「えへへ~、やった。じゃあ、聞きま~す」

 

 ぺたんこと座ったポーラを前に、マンバはやれやれと頭をかいた。

 

 いったいなんだ、この子は。

 

 過去の上陸部隊の生き残りにはとても見えない。もしかしたら那智の仲間かも知れないが、それにしてはあまりにも雰囲気が違い過ぎる。彼女たちは無頼な兵士だが、この子はまるで・・・

 

・・・まるで、子供だ。

 

「いや、それにしちゃ身体の発育がケシカランな」

 

「はい~? ケシカランって、なんですか?」

 

 小首をかしげながら見上げるポーラ。やれやれ、可愛いなおい。マンバは苦笑しながら、言った。

 

「先ずは自己紹介だ。俺はマンバ、海賊マンバ」

 

「海賊さん! かっこいいです~」

 

「ありがとよ。で、君は一体、誰なんだ」

 

「ポーラは、ポーラです~」

 

「ファミリーネームは? 家族は? どこから来た?」

 

「ん~、どこからっていうと~」なぜか最後の質問から答えようとするポーラ。「来たのは~、イタリアからですかね~。二年位前です~」

 

「二年前と言えば欧州海軍による最後の奪還作戦が行われた時だ。という事は、やっぱりその時の生き残りか?」

 

「ん~、そうかも知れません~。よく覚えてないですけど」

 

「覚えてない? 記憶喪失か?」

 

「さぁ~。あ、でもでも、家族は覚えてますよ~。ザラ姉さまでしょ、フィウメ姉さまでしょ、それから妹のゴリツィアの四隻姉妹です~」

 

「そうかい」

 

「だからポーラはですねぇ、これでもお姉さんなんですよ」

 

「ああ、そうかい」

 

 この分じゃ、他の姉妹はさぞかし手を焼いていたことだろう。と、思ったところで、彼女の発言に違和感を覚えた。

 

「四隻姉妹?」

 

「そうですよ~、だからポーラのファミリーネームって、たぶん、これでしょうね~」

 

 えへえへ、と気の抜けた笑みを浮かべながら、ポーラは名乗った。

 

「ザラ級巡洋艦の三番艦、ポーラです~。装甲と防御重視の優れた重巡さんなんです~。水上戦闘にもちゃんと出撃したんですよ~。でも~、大鉄塊には勝てません~・・・・・・飲むしかないです」

 

 艦娘ポーラはそう言って、ポケットからスキットルを取り出してごくごくと飲み始めた。

 

「あ、マンバさんも飲みますか」

 

「あ、ああ。いただくよ」

 

「じゃあ代わりに、その咥えてるの下さい」

 

 銃じゃなくていいのか、と訊こうと思ったが、興味が気まぐれに移り変わったのだろう。

 

 まあ、銃よりも危険は少ないと思って、咥えていた葉巻を渡してやった。葉巻は火をつけるのもコツがいるから、渡すならその方が良いのだ。

 

 ポーラは素直にそれを受け取り、スキットルと交換した。

 

 マンバはスキットルから一口飲もうとしたが、強い消毒薬のような匂いに思わずむせかえった。これは酒じゃない、エタノールそのものだ。

 

「おい!」

 

「うげっほ、げっほ」ポーラもまた涙目でむせ返っていた。「うぇ~、まずぅいぃ~。ポーラ、これ嫌いです」

 

「俺もエタノールは飲みたかねえよ。お前、本当に人間か?」

 

「さぁ?」

 

「さぁってなぁ・・・まあ、いい。ポーラ。二年もここで生き延びているっていうなら、隠れ家があるんだろう。手を貸してくれないか」

 

「それって、おうちに遊びに来てくれるってことですか。わぁ~い、お客さんです~、やった」

 

 ささ、いきましょ~と、立ち上がって手を引こうとするポーラ。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ。まだ他に仲間がいるんだ。たぶん、その辺りでまだノビているはずだ。彼女たちも助けてやってほしい」

 

「わぁ、まだ他にも居るんですか。もちろんですよ~。えへへ、みんなでお友達になりましょ~」

 

 間延びした口調とは裏腹に、ポーラは機敏な足取りで瓦礫と残骸に満ちた古戦場を、那智たちを探すために走り始めた。

 

 本当にこの子は何者なのか。艦娘というにも異様すぎる。マンバは彼女の後姿を追いながら、それでも、まあ、悪い子では無さそうだ、とそれだけは確信をもって思った。

 

「居た居た、マンバさ~ん、見つけましたよ~。こっち、こっちで~す」

 

 那智たちを見つけ手を振るポーラに向かって走りながら、

 

 この先、この島で何が起こり、そして他にどんなものと出会うのか、まるで予想がつかないが、少なくとも退屈だけは絶対にしないだろうと、

 

 そう思い、マンバは口元を緩めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 




次回予告

 謎の艦娘ポーラを仲間に加えた酔いどれヴァルキリーズは、いよいよネルソン要塞へと進入する。

 そこに立ち塞がる大鉄塊、そして不穏に蠢く深海棲艦の影。

 深海棲艦の目的が明らかになったとき、ネルソンは意外な手段に打って出る。

次回「第四話・余の名はネルソン、文句あるか!」

「余計なものを呼び込みおって、この酔っ払いどもが(#`皿´) 」


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第四話・余の名はネルソン、文句あるか!(1)

 酷い頭痛で、那智は目覚めた。頭にバケツを被って四方八方からガンガン叩かれているような感じだった。

 

 これは昨晩は飲み過ぎてしまったようだ。やっぱり安酒は悪酔いが酷い。飲むなら良い酒に限る。

 

 そういえば秘蔵の達磨はどこに仕舞ったかな。たしか艦橋のキャビネットに入れっぱなしだったはずだが、

 

 あ、そういえば肝心の船体ごと海底に沈められてしまったんだった。とようやく思い出して、那智はハッとなって身を起こした。

 

 そうだ、自分は酔いつぶれて倒れた訳でなく、あの火山島の古戦場で大鉄塊から逃げ回っている最中に、ゼンマイ戦車の爆発に巻き込まれたのだった。

 

 慌てて周囲を見渡した那智だったが、そこはあの古戦場では無く、見覚えのない場所だった。

 

 島の中央部に目を向ければそこには例の火山が見え、そして空の三分の一を覆うようなネルソン要塞のデッキも見えた。

 

 残りの三分の二は青空だ。太陽も見える。その位置関係からして、おそらく火山島の東側に当たる場所だろう、と那智は見当をつけた。

 

 那智が居る場所は、海のすぐそばの、コンクリート舗装された開けた場所だった。

 

 目の前の海は入り江になっており、三方を低い山で囲まれ、その湾内に、一隻の軍艦が泊まっていた。

 

「重巡? どこの艦だ?」

 

 見たことのないタイプだ。

 

 全長はざっと180メートルほど。煙突と艦橋が一体化した大型船首楼を備え、前甲板に20cm連装砲を二基、後部側にも二基装備している。

 

 ここまでは割とオーソドックスな形状だが、特異な点が一点あった。

 

 前甲板の主砲の前方に、艦首に向かってカタパルトが伸びており、そこに艦載機が一機、搭載されていたのだ。

 

 普通、軽巡級以上の艦艇は艦載機を搭載しているが、その位置は概ね中部から後部側が世界的なスタンダードだ。

 

 そうではなく、あえて前方に艦載機を搭載した特徴的な艦艇を擁する海軍と言えば、那智が知る限り一か国だけだった。

 

「イタリア海軍か」

 

 見たところ船体のあちこちの塗装も剥げており、かなりの長期間、この入り江に放置されているようだ。

 

 たしか二年前に欧州海軍がここに攻め入ったらしいから、きっとその時に放置されたものだろう、と那智は判断した。

 

 那智は船体から目を離し、再び自分のいる場所を眺め渡す。

 

 入り江に面した船着き場のような場所だ。地面には毛布が敷かれ、那智はそこに寝かされていたのだ。

 

 そのすぐ近くには他にも何枚か毛布があり、ボロボロのクッションのようなものや、椅子や机代わりに使っていると思わしき大小さまざまな箱、そしてよくわからないガラクタがあちこちに散らばっていた。

 

 明らかに、何者かがここに集め、そしてそれなりの期間、拠点としているような印象を受けた。きっと自分は古戦場で倒れた後、その何者かによってここに運び込まれたのだろう。

 

 しかし、今はここに那智しかいない。他の仲間の姿も無い。

 

 と、思ったところに、

 

「あ~、起きたんですねぇ~」

 

 横合いから間延びした声をかけられ、那智は咄嗟に身構えた。右手が無意識に武器を求めて彷徨ったが、手の届く範囲に銃は無かった。

 

 視線を向けた先には、ひとりの少女が居た。えへえへ、と無邪気な笑みを浮かべながらこちらへ向けて歩み寄ってくる。

 

 その傍らには、マンバも居た。

 

「この子は敵じゃない。気絶した俺たちを助けてくれたんだ。あんたらと同じ艦娘だよ」

 

「艦娘?」

 

「イタ~リア~の方から来ました、ポーラで~す」

 

「そうなのか。日本海軍、妙高型重巡2番艦の那智だ。助けてくれて礼を言う。しかし、今回の偵察作戦に欧州海軍まで参加していたとは知らなかったな」

 

「この子が来たのは二年前らしいぜ」

 

 マンバの説明に、那智は耳を疑った。

 

「本当か? じゃあ、あの船体はこの子のものか。二年間もこんなところでどうやって生き延びてきたんだ?」

 

「なぜかネルソン要塞の防衛システムから無視されているらしい。人造兵士もここには来ないし、余所で出くわしても素通り、ちょっかいだしても無反応で、まるで透明人間のような扱いだとさ」

 

「そぉ~なんですよぉ。だから、ポーラは皆さんと出会えて、ものすごく、ものすご~く、うれしいんですよ~」

 

 ポーラは喜色満面の笑みで那智の手を取り、ぶんぶんと上下に振った。

 

 のんきな奴だなぁ、と那智は思う。いや、能天気か。

 

 それに彼女、妙にすーっとした甘い匂いがする。それはこの火山島に立ち込める硫黄の匂いとは明らかに違う、清涼感のある、というか、そう、これはあれだ。

 

 消毒用アルコールの匂いだ。

 

 まあ、それはともかくとして。

 

 那智は、マンバが平たい箱を持っていることに気づいた。

 

「それは?」

 

「ああ、食糧だ。ポーラと一緒に取りに行ってたんだ。食えると思うよ、多分」

 

「多分?」

 

 マンバが箱を開くと、そこには白くて丸い生地が入っていた。まるで具が乗っていないピザ生地のようだ。端の一部が千切り取られた様に欠けていた。

 

「食べてみたのか?」

 

「味もにおいも無い、ただのグルテン生地のようなシロモノだ。適当な具とトマトソースとチーズとオリーブオイルがあれば立派なピザになるぜ」

 

「過去に上陸した部隊のレーションか。いや、そんなデカい箱に入っているはずが無いし、レーションでももっとマシなものがあるだろう。どこから拾ってきた?」

 

「あそこで~す」

 

 ポーラが指さした先、少し離れた場所に小さなコンクリート製の掩体壕があった。

 

 近くへ寄って見てみると、入り口は大きく、内部はちょっとした倉庫になっていた。そこに平箱が大量に積み重なっている。

 

 奥の床に四角い穴がぽっかりと開いている。

 

 そこからモーターの駆動音が聞こえてきたかと思うと、平箱を積んだ床がせりあがってきた。

 

 どうやらエレベーターのようだ。

 

 地下から運ばれてきた平箱は、天井の移動式クレーンによって、他の平箱と同じように積み上げられた。

 

 那智は手近な箱を開けてみた。中身はやはり具の無いピザ生地だった。

 

「なんだこれ」

 

「ポーラ曰く、人造兵士用のレーションだそうだ」

 

「あんなロボットみたいな連中でも、物を喰うのか。意外だな」

 

「有機ロボットだからな。腕や体の一部に武器がくっついている以外は、ほぼ生身だ。遺伝子改良されたクローンさ。DNAは人間とゴリラくらい違うらしいが」

 

「人造兵士はゴリラだったのか」

 

「比喩だよ。武器や装備品を外せば、素体は人間そっくりだ。ま、外見なんざいくらでも変更可能だろうがな」

 

 二人で話していると、背後からモーターの駆動音が聞こえてきた。振り返ると、それは無人の小型トラックだった。武装は無い。

 

 無人トラックは那智たちを無視して倉庫内に入ると、クレーンによって大量のピザ箱を荷台に積み込み、またどこかへ走り去ってしまった。

 

「人造兵士の待機場所へ運んでいるんだ。人造兵士自体はここにこないらしい。なんでわざわざ別にしてるのかは謎だがな」

 

 これ以上考えてもしょうがないので、那智たちは新たな箱と、ついでに真水タンクもあったので、サバイバルキットからもってきた水筒に水を補給して、ポーラのねぐらへと引き返した。

 

 他の三人――隼鷹、千歳、伊14はどうしているのかと訊くと、入り江に浮いている重巡の調査に出かけているとのことだった。

 

 

 

 

 

 入り江に浮かぶ重巡の船体には「POLA」と刻まれていた。

 

 完全に浮かんでいる訳ではなく、船首が浅い海底に着底していた。おそらく、この入り江に突っ込んで座礁したのだろう。その状態で船体を固定するために船首から錨が下ろされていた。

 

 千歳は、着底したせいでわずかに傾いだ艦橋のウィングで、そこに備え付けてあった高倍率望遠鏡を使ってネルソン要塞の方角を眺めていた。

 

 ウィングの高さからなら、入り江を囲む低い丘陵を超えて20キロメートルくらい遠くまで見渡すことが出来る。

 

 入り江は火山島の東側に位置しており、そこからネルソン要塞の東側のレグが見えた。一辺が1キロメートル近くもある四角柱のレグが、円周上にいくつも建ち並んでいる。

 

 レグはただの柱ではなく、それ自体に船着き場や工場を持つ複合ビルのような存在だ。ネルソン要塞が年々高度を上げていくのも、レグ自体が内部の工場で部品を生産し、自ら増築しているからである。

 

 千歳はレグの海面付近にある船着き場を望遠鏡で観察しながら、どこかに使えそうな船は無いかと探していた。

 

 と、その目が見覚えのある船体を見つけた。

 

 軽空母だ。レグに空いたトンネルのような空間の船着き場に、前半分を突っ込むようにして座礁している。

 

 その外見はアイランド(艦橋)の無い平甲板型であり、飛行甲板は迷彩柄に塗装されている。

 

 うん、間違いない。あれは私の船体だわ。

 

「み~つけた」

 

 うふふ、と思わず笑みがこぼれる。

 

 機関をやられて漂流状態に陥ってしまったため、やむなく放棄したが、どうにか沈むことなくレグに引っかかったようだ。

 

 格納庫の酒コレクションコンテナが海の藻屑にならなくてよかったわ。

 

 と胸をなでおろし、さてどうやって回収しようかしら。と、思案しているところに、艦橋に隼鷹が姿を現した。

 

「船体の確認、終わったぜ~」

 

「どうだったの?」

 

「アタシの方は良いニュースと、悪いニュースがある。千歳の方はどうだい?」

 

「ネルソン要塞の東側レグの一つに私の船体が座礁しているのを見つけたわ。機関が死んでいるから再起動は無理だけど、中のコレクションはきっと無事よ」

 

「そいつは良いニュースだ。千歳のコレクションは世界の宝だぜ。なんとか持ち帰りたいよなぁ」

 

「できそう?」

 

「この船体の機関はまだ生きてるよ。燃料タンクにもエタノールがたんまり残ってた。船体の傷についてはイヨに潜って確認してもらったけど、破口とかは無いみたいだ。多分、バラストタンクをワザと満杯にして艦首トリムにして自沈したんだな」

 

「あの子、ポーラちゃんはどうしてそんな真似をしたのかしら?」

 

「さぁな、本人も覚えていないと言うんだからしょうがないさ。ここから逃げる気もなさそうだったしな。とりあえず排水ポンプさえ起動できるなら、こいつはまた浮上して出港できるよ」

 

「じゃあ悪いニュースというのは?」

 

「サポートAIがウンともスンとも言わないんだ。スパコンに物理ダメージは見当たらないから、システムエラーかもしれない」

 

「ポーラちゃん以外だと起動しないようになっているのかも知れないわね」

 

「本人はそれさえも分からないって言ってるからなぁ。まあ、最低限のシステムくらいは起動できそうだから、みんなで手分けすりゃなんとかなりそうだよ」

 

 艦娘艦艇はワンマンコントロールが基本だが、それはサポートAIが艦艇の各システムを統合的に運用してこそ可能であり、そのサポートが受けられない場合、各システムを人間の手で手分けして操作する必要があった。

 

 要は通常艦艇と同じである。

 

 千歳が少し考えて、言った。

 

「私がレーダーや各センサーを担当、那智さんが操艦、隼鷹さんとイヨちゃんで機関制御、これでなんとかなるかしら」

 

「ポーラは操艦方法さえ忘れてそうだしなぁ」

 

「海賊さんはどうしようかしら」

 

「景気づけに歌でも唄わせるか。ヨーホーヨーホーってな。冗談だよ。武器システムの解析でも頼もう。あのバカみたいな海賊船を動かしていたんだ。システムチェックぐらいできるだろ」

 

「そうね」

 

 二人で相談していると、下の方から「お~い」と呼びかける声が聞こえてきた。

 

 ウィングから下を覗き込むと、海面に伊14が立って二人を見上げていた。

 

「んっふふ~。獲ったど~」

 

 右手にはお手製の銛、左手にはそれで突き獲った魚が何匹も索に通されて吊るされていた。

 

「流石はイヨちゃん、大漁ね。素晴らしいわ」

 

「んふふ~、もっと褒めてもいいよ」

 

 隼鷹が口元のよだれを拭った。

 

「なあ、新鮮な魚は刺身でどうだい?」

 

「獲れたては身が硬くて刺身には不向きよ。衛生面も考えたら焼くのが一番だわ」

 

「塩焼きにしてかぶりつくか。いいねぇ。これで一杯やれるなら最高なんだけどなぁ」

 

「ワンカップで良ければ、あるわよ」

 

「マジかっ!?」

 

 千歳は、まるで手品のようにどこからともなく180mlカップの日本酒を二瓶、取り出した。

 

「死ぬときは、せめて最後に一口飲んでからと思ってね。でもコレクションも無事みたいですし、景気づけにみんなで飲みましょう」

 

「その姿勢、アタシも見習いたいぜ。皮肉じゃないぜ、本気」

 

 イヒヒ、と笑って隼鷹は再び口元のよだれを手で拭った。

 

 二人で艦橋から降り、海面の伊14と合流する。伊14にワンカップを見せると、彼女も歓声を上げた。

 

「さっすが、千歳の姉貴! 好き、もう大好き、一生ついて行っちゃう♪」

 

 三人で海を歩き、岸壁へ戻ると、那智とマンバ、そしてポーラが待っていた。

 

「お、那智じゃん。無事に目が覚めたんだな。よかったよかった」

 

「悪いな、寝過ごした。先に色々と調べてたらしいな。手伝えなくてすまなかった」

 

「いいって、気にすんな。それよりさ」

 

 隼鷹は、これまでに判明したことを告げた。

 

 那智、マンバ、ポーラの三人はそれを興味深く聴いていたが、千歳のコレクションの存在と、そしてワンカップがあることを知ると、那智とマンバは揃って相好を崩した。

 

「最高の補給物資だ。なんとしても回収したいものだな」

 

 那智の言葉に、マンバも同意した。

 

「腹が減っては戦は出来ぬ、だ。イヨちゃんが獲ってきてくれた魚と、千歳ちゃんの酒をありがたくいただきながら作戦会議といこうじゃないか」

 

 マンバはサバイバルキットから発熱キューブを取り出すと、左手の指を鳴らしてその指先に火を灯し、キューブを炙った。

 

 キューブはじわじわとオレンジ色に染まりながら熱を発し始める。マンバはそれを、近くに転がっていた穴の開いたヘルメットを逆さにしてその中に放り込んだ。

 

 火も煙も出さない固形燃料の一種だ。ヘルメットの周りに串を指した魚を並べ、キューブの高熱で焼く。

 

 魚が焼けるまでの間、例の人造兵士用レーション――具の無いピザ生地を皆で食べたが、評価は「食えなくはないけど無味無臭」で一致した。

 

 隼鷹がピザ生地をもぐもぐやりながら言った。

 

「食えねえって訳じゃないけどさぁ、味が無さ過ぎて厚紙かなにかを噛んでるようだぜ。それとも、人造兵士の味覚なら美味いって感じるのかな」

 

「感じないと思うわよ」と千歳。「あれは身体はともかく、知性的には自我の無いロボットだもの。きっと味覚という概念も無いわよ。それよりポーラちゃん。あなた、ずっとこれを食べて生きてきたの?」

 

「ポーラ、食べるの好きですよ~、もぐもぐ、お腹膨れると~、幸せな気持ちになれるんです~、まぐまぐ」

 

 ポーラの頓珍漢な答えを聞いて、周りの五人はそれぞれ互いに顔を見合わせた。どうも会話がかみ合わない。

 

 困惑する五人を余所に、ポーラはスキットルを取り出した。

 

「食べるのも好きですけど~、お酒飲むと、も~っと気持ちよくなれます。皆さんも飲みましょ~」

 

 スキットルに口をつけ、きゅっと一口飲むと、それを隣に座る伊14に差し出した。

 

「ん、くれるの? ありがと、んじゃ遠慮なく」

 

「あ、おい、それ」

 

 中身を知るマンバが止める間もなく、伊14はスキットルを受け取り、躊躇なく口をつけた。

 

「ぶへぇっ!?」

 

 案の定、伊14は一口含んだ途端、それを盛大に噴き出した。辺り一面にエタノールの匂いが漂う。

 

「あ~、もったいない~」

 

「いや、ちょっと待ってよ、これお酒じゃないじゃん!? エタノールじゃん!? 船の燃料だよ!?」

 

「そうですけど~?」

 

 それがなにか? と言いたげに、コテンと首を傾げるポーラ。

 

 隼鷹が呆れて声を上げた。

 

「アタシもアルコールと名が付きゃなんでも飲むくらい酒好きだけどさ、流石にあれは飲まねえよ? 身体壊すぞ。ほら、こんな危ないモノは没収だ」

 

「没収!? わ~ダメです~」

 

 隼鷹が伊14からスキットルを受け取ろうとするのを、ポーラが横から取り返した。

 

「こらポーラ、それをよこしな。って、なんで逃げるんだよ」

 

「だってジュンヨー=サン、これ捨てる気でしょ~。駄目ですよ~、そんなことはさせません」

 

「お前の命に関わるんだっての!」

 

「まあまあ隼鷹さん、落ち着いて」

 

 と、千歳が止めた。そして彼女はポーラに、にこやかな笑みを向けて言った。

 

「ねえポーラちゃん。せっかく本物のお酒があるんですもの。こっちを飲みましょう?」

 

 そう言ってワンカップの蓋を開けた。

 

 芳醇な香り沸き立つように辺りに拡がり、蓋を開けた当人である千歳を含めて、その場に居た全員が同時に喉を鳴らした。

 

「うはぁ」

 

 ポーラが目を輝かせてカップを覗き込んだ。

 

「すっごくいい香りがします~。こんなの初めてです。これ、なんですか、なんですか~?」

 

「日本酒よ」

 

「ニーホンシュ? 飲んでもいいですか~?」

 

「先ずは一口だけね。一口だけよ」

 

 千歳は念を押しつつカップを手渡した。

 

 ポーラは、くぴっと一口舐めた。

 

 瞬間、ポーラの顔が引き締まり、これまで見たことも無い真剣な表情になった――と見えたのもやっぱり一瞬で、すぐにまた、ふにゃあ、と顔が緩んだ。

 

「うはぁ~、おいひぃ、おいひ~れすね。ぽーら、こんなおいひいおしゃけのんだの、はじめてれす~」

 

 ろれつが回っていないのは酔ったというより、表情筋が緩み過ぎたせいか。ポーラはそのままもう一口。

 

 今度は一息にカップの半分近くまで飲まれてしまい、周りで見守っていた五人が悲鳴を上げた。

 

「おいおいおい、ちょい待ちなって」

 

 マンバが慌てて駆け寄り、その手からカップを取り上げた。

 

「うぇ~、けち~」

 

「あのな、こいつは貴重品なんだ。独り占めはよくない。いいね?」

 

「うぅ~」

 

 ポーラはしぶしぶ頷いたものの、その上目遣いの大きな瞳が、ちょーだい、ちょーだいと物欲しげに訴えていた。

 

(こいつめ)

 

 あざといくらい可愛いな。マンバは思わずカップを差し出したくなる衝動に襲われた。それをぐっと堪える。

 

 ポーラは子供ではないが、その容姿、振る舞いに保護欲を掻き立てる異様なナニかがある。

 

 そう、異様なのだ。

 

 冷静に考えれば、彼女の素性から、ここで二年も生き延びてきた事実に至るまで何もかもが異様なのだが、彼女を前にすると、それに対する疑念や警戒感が薄れてしまうのだ。

 

 もちろんマンバにも情はある。

 

 しかし海賊として生きてきた中で、その情を武器に利用したこともある。逆に、情に訴えかけられ利用されたことは数知れずだ。

 

 だからマンバは警戒した。この子は無自覚に情を武器にできる。やっかいだ。

 

 その証拠に、あの無頼な那智たち四人組もポーラの態度に怒るどころか、むしろ慰める側に回ってしまっている。

 

「ほらポーラ」と隼鷹「それより魚焼けたぞ。こっち食えよ」

 

 隼鷹が差し出した串に刺さった魚をポーラはしぶしぶ受け取った。くんくんと匂いをかぐ。

 

「これも美味しそうな匂いがします~」

 

 あーん、と大口を開けてかぶりつこうとしたところで、その動きが止まった。

 

「どうした?」

 

 隼鷹の問いに、ポーラが眉をハの字に寄せて答えた。

 

「これ、どうやって食べたらいいんですか?」

 

「は?」

 

 隼鷹の目が思わず点になった。

 

「そんなの、このままかぶりつきゃいいんだよ」

 

 言いながら、隼鷹も自分用の魚を手に取り、その背側に豪快にかぶりついた。

 

「うん、いける。やっぱ背肉は脂が乗って美味いな」

 

「私は腹だな」と那智。「ワタの苦みが、酒に合うんだ」

 

 言いながら彼女もかぶりつく。

 

 伊14も魚を頬張りながら、

 

「千歳の姉貴、もうひとつのカップも開けちゃっていいでしょ。ね、ね」

 

「はい、どうぞ」

 

 渡されたカップを早速ちびり。

 

「んぁーっ、沁みるぅ、沁みわたるぅ!」

 

「イヨ、次はアタシ、アタシの番だからな・・・んぐっ、ぷはっ! いいねぇ、たまんないねぇっ!」

 

 魚と酒に舌鼓を打つ他の面々を余所に、ポーラはまだ魚を口にしていなかった。

 

 隼鷹の真似をして背中から口にしようとすると背びれに阻まれて上手くいかず、那智のように腹からいこうとすれば、そのふにょっとした感触に思わず口を離してしまう。

 

 じゃあ頭から、と思ったら魚と目が合ってしまって、怖い。

 

「うぇ~ん、食べられませ~ん」

 

 その様子にマンバは呆れた。どこのお嬢さんだよ。まるでレディみたいだ。と、思わず相棒の面影を重ねてしまう。

 

「やれやれ、しゃあないね。ほれ、そいつを貸しな」

 

 俺も甘いな、と自嘲しつつ、マンバはポーラから魚を受け取り、その身をほぐして、例のピザ生地の上に乗せて包んだ。

 

「ほら、これなら食べやすいだろ」

 

「ぐら~ちぇ、です」

 

 はぐっと大口を開けて、もぐもぐ。

 

 ポーラの垂れ目がちな大きな瞳が、きらきらと輝いた。

 

「もいじ~! もいひぃれす!」

 

「喋るのは飲みこんでからだ。いいな?」

 

 ポーラがぶんぶんと首を振りながら、ごっくん。

 

「ニホンシュー、ニホンシュー」

 

「へいへい、わかってるな、一口だけだぞ」

 

 千歳と同じ警告を繰り返しつつカップを手渡すと、ポーラはそれをちびちびっと舐めた。

 

「ん~、ニーホンシュは、うぇへはふふ、このPesceとよく合って、ほんとにおいひぃ~」

 

 うんうん、それは良かったね。とマンバは相槌を打ちつつ、ポーラの手からカップを取り上げて自分も一口飲んだ。

 

 安酒の味だ。だが戦場を掻い潜って極限状態に置かれた身体にとっては極上の名酒にも匹敵した。

 

 もう一口飲みたいのを我慢して、隣の那智に渡す。

 

 那智も一口、口に含んで、舌の上で転がすようにして味わいながら飲み下した。彼女の口から、思わず長い息が漏れる。

 

「生き返るようだ。百薬に勝るな」

 

「酒は詩を釣ると言うぜ。リラックスしたところで、お姫様を救う騎士の英雄譚でも語り合わないか?」

 

 マンバの言葉に、ポーラが目を輝かせた。

 

「お姫様、それってポーラのことですか~。ポーラ、救われちゃうんですか~」

 

「この子ってば、なかなか都合のいい頭してるねぇ」マンバは苦笑した。「俺の相棒・レディがネルソン要塞に捕まっているんだ。彼女を助けたい。ポーラ、君の力が必要なんだ。協力してくれないか」

 

「うぇへへへ、面白そう。いいですよ~」

 

「待て、マンバ」那智が割って入った。「自分に都合よく話を進めてこの子を巻き込むな。ポーラも簡単に請け合うんじゃない」

 

「え~、でもぉ、人助けなんでしょ~?」

 

「そうだそうだ、ポーラ、もっと言ってやれ」

 

「黙れ、マンバ。この海賊め。手を組む時の条件“お前の海賊船以外の脱出手段が見つかったら、そちらを優先する”という言葉を忘れたとは言わせないぞ」

 

 やれやれ、覚えていたか。と、マンバは頭をかいて引き下がろうとした。

 

 けれどポーラは違った。

 

「ポーラは、お助けしたいです~」

 

「ここから脱出するだけでも命がけなんだぞ。なのにこれ以上の危険を冒すつもりか」

 

「え? ポーラ、この島から出ていくんですか?」

 

 きょとんとした顔で、自分の顔を指さすポーラ。

 

「当然だろう、何を言っているんだ」

 

「ポーラのおうちは、ここですよ」

 

 ここ、ここ、と今度は足元を指さす。

 

「イタリアに帰る気は無いのか。家族が待っているんじゃないのか」

 

「イッタ~リア~って言われても、よくわかりません」

 

「そういや記憶喪失だったな」

 

「かも知れません~。でも家族はね~、覚えているんですよ~。ザラ姉さまとぉ、フィウメ姉さまとぉ、ゴリツィア~。・・・・・・みんな、ここで沈んじゃいましたけどね」

 

 あはは、とポーラは笑った。

 

 が、その気の抜けた顔が急にゆがんだかと思うと、その瞳からぽろぽろと涙が零れだした。

 

「・・・みんな、みんな沈んじゃいました。ポーラ、独りぼっちです。どこにも帰るところ無いんです。だから、だから――」

 

 こみ上げてきたものが堪え切れなくなり、ポーラはびえええんと泣き出した。

 

 こんな能天気な子でも、実戦を経験した艦娘なのだ。その心に深い傷を負っていることを知り、那智たち四人に同情の色が浮かんだ。

 

「よしよし、泣かないで」

 

 千歳が慰めつつ飲みかけのワンカップを渡すと、ポーラはグイッと煽って残らず飲み干した。

 

 伊14が「ずるい」と声を上げそうになり、隼鷹が「まあまあ」と押しとどめる。

 

 ポーラ、ひっく、ひっくとまだしゃくりあげているものの、少し落ち着く。

 

「ヒック・・・からだあつくなってきましたぁ。服が邪魔ぁ」

 

 何の脈絡も、躊躇いも無く上着を脱ぎ始めたポーラに、五人全員が目を丸くした。慌ててみんなでそれを押しとどめる。

 

「ああん、もう、なぁんで止めるのぉ。ポーラ、暑いのぉ」

 

「だからって脱ぐんじゃない」

 

 マンバは上着のはだけられた胸元を閉じ合わせた。なかなか豊満な胸部装甲に思わず唾を飲み込む。

 

「あのな、脱ぐときはTPOをわきまえるものだぜ」

 

「てぃぴぃお~?」

 

「夜にベッドでふたりきりって意味だよ」

 

 がつん、と後頭部を那智に殴られた。

 

「どさくさに紛れて変なことを吹き込むんじゃない。このセクハラ海賊め」

 

「心外だね。下心があるなら脱ぐのを止めやしないぜ」

 

「じゃあなぜ止めた」

 

「脱がれるより、脱がせる方が趣味なんだ――いてっ」

 

 もう一発殴られて無理やりポーラから引き離された。代わりに隼鷹がポーラの上着を直す。

 

「あんた、笑ったり泣いたり酔ったり脱いだり、忙しい奴だなぁ」

 

 隼鷹にそう言われ、ポーラは赤い目のまま微笑んだ。

 

「ポーラは、みなさんと出会えて、とっても嬉しんです。だから、みんな一緒がいいんです。寂しいのは嫌です~」

 

「でもアタシたちは、ここじゃ暮らしちゃいけねえよ。もうちょっと落ち着いて酒が飲めるところがいいんだ」

 

「そんなところ、あるんですかぁ?」

 

「国に帰ればな。ポーラ、帰るところないなら、一緒に来るかい?」

 

「行きます、行きたいです。マンバさんと、その相棒さんも一緒ですよね」

 

「助けられるもんならね」

 

 隼鷹はポーラの服を整え終えると、「どうする?」と、その目を那智に向けた。

 

 隼鷹自身は賛成も反対も無い。それは千歳や伊14も同じだった。

 

(まったく、こいつらは)

 

 那智はため息を吐いた。

 

 彼女たちは良くも悪くも柔軟で、流動的で、場当たり的だ。こんな戦場のど真ん中で命の危険が差し迫っているのに、その場の雰囲気でお人好しな選択を取ろうとしてしまう。

 

 だから、その判断を那智に丸投げしているのだ。

 

 那智が「駄目だ」と一言いえば、彼女たちは何も言わずに従ってくれるだろうが・・・

 

 ・・・多分、駄目と言えない性格を見透かされている。

 

 結局、自分もこの連中と同じなのだ。でなけりゃ飲み仲間なんぞやってない。

 

 損な役割だなぁ、と那智は再び長いため息をついて、そして言った。

 

「わかった。マンバの相棒を助けて、そしてみんなで脱出しよう。これでいいな」

 

「わ~い、うれしいですぅ」

 

「ありがとな、那智」

 

「貸しは高くつくぞ」

 

「いくらでも払ってやるよ。なんなら身体で払ってもいい――ゴフッ」

 

 マンバの鼻面にストレートを叩きこんで黙らせる。

 

「ねえ」と千歳。「お願いがあるんだけど。私のコレクションも回収してくれないかしら」

 

「チトセ=サンのニーホンシュコレクション!」ポーラの目が輝き、ついでに涎も垂れた。「あの美味しいお酒が、もっといっぱいあるんですかぁ」

 

「日本酒だけじゃないわよ。焼酎、ビール、ウィスキー、テキーラ、もちろんワインだって世界各地の銘柄を取り揃えてあるわ。イタリアワインもあるから、あなたにもお勧めしたいわね。故郷のお酒を飲めば、きっと何かを思い出すわよ」

 

「飲みます、飲みます。コレクション、絶対に回収しましょうね!」

 

 これまでで一番気合の入った表情でポーラは頷き、千歳の手をがっつり握った。

 

 場当たり的に目的が増えていくのもどうか。と那智は懸念を抱いたが、しかし千歳のコレクションの価値は那智も認めるところだったので、特に異は唱えなかった。美味い酒のためなら命ぐらいは張るべきだろう。

 

「よし、じゃあ具体的な作戦を練るぞ」と那智。「ポーラの船体を使って、先ずは千歳のコレクションを回収だ。上手くいけば千歳の船体から燃料も補充できる。それからマンバの海賊船が拿捕されていると思われる西側のドックへ行き、レディを救出。これでいいな」

 

 レディよりも先に酒を優先するのは、単に近いからという理由でしかない。しかしマンバも別に異議は唱えなかった。

 

 マンバは言った。

 

「西のドックへ行ってレディの安全が確保できたなら、俺はそのままミュータントタートル号の奪還に移る。それは俺一人でやる。その代りレディを預かってくれないか」

 

「無茶をする。お前が死んだらどうするんだ」

 

「そんときゃ、レディを娑婆に返してやってくれ。海賊にさらわれていたってことにすりゃ無罪放免でカタギに戻れるさ」

 

「身内には随分と甘いんだな、お前」

 

「情け深く義に厚い海賊として、世間でも評判だからな」

 

「聞いたことないな。イカレトンチキなデザインの海賊船を乗りまわしてる変人なら知っているが」

 

「ひどいねえ」

 

「はいはーい、しつもーん、いい?」

 

「イヨか。なんだ?」

 

「ポーラちゃんの船体で海を渡るのはいいけど、大鉄塊はどうするのさ。あいつ、絶対にこの近くに潜んでいるよ。見つかったら今度こそお終いだよ」

 

「だ~いじょ~ぶで~す」ポーラが自信満々に胸を張った。「大鉄塊さん、ポーラのこと全然相手にしてくれませんから、今度も多分、そのまんま無反応ですよ~」

 

「そうだな」那智も頷いた。「大鉄塊はポーラ自身だけでなく、船体も対象外にしているはずだ。でなければ、ほぼ無傷の船体を放置するはずがない」

 

「なるほどねぇ」

 

 伊14も納得した。他に質問も出ず、これで方針は決まった。

 

 六人は魚を喰いつくし、残った酒をまわし飲むと、ついに立ち上がった。

 

「よし、みんな行くぞ」

 

「「「「「おー」」」」」

 

 那智の号令に、皆で拳を突き合わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 那智たちがポーラと共に船体の再起動の準備にかかっている間、マンバは周囲のガラクタから役に立ちそうなものを探し回っていた。

 

 この先、何が待ち構えているか知れたものではない。少しでも武器になるものがあれば、と思ったが、そうそうめぼしいものは無かった。せいぜい、クライミングに使えそうなフック付きロープがあったぐらいだ。

 

 じゃあせめて食料ぐらい多めに確保して置こうと、例のピザ生地が収められている倉庫に潜り込んだ。

 

 中には相変わらず平箱が山積みにされており、そして奥のエレベータが新しい平箱を積んでせりあがってきた。

 

「・・・ふむん」

 

 マンバは少し思案して、そのエレベータに足を踏み入れた。

 

 ちょっとした好奇心だった。エレベータはマンバを乗せたまま、地下へと降りていく。

 

 下降距離はせいぜい十メートルくらいだろうか。すぐに横穴が目の前に現れた。

 

 その先は真っ暗な通路だ。

 

 その奥から小型のフォークリフトが平箱を運んでやってきた。エレベータに平箱を降ろし、方向転換して元来た道を戻ろうとするそのフォークにマンバは飛び乗った。

 

 背後でエレベータが上昇していくなか、マンバを乗せたフォークはそのまま通路を走る。

 

 すぐに、広い工場のような場所に出た。

 

 ベルトコンベアを備えた大形の機械が唸りを上げ、ピザ生地を次から次へと生産している。マンバはフォークから降りて、その機械に近づいた。

 

 原材料は奥にあるタンクに入っている液体のようだ。いくつか露出している製造工程を観察する。

 

「驚いたね。海水、海藻、プランクトンを加工した合成食品か。これならほぼ無限に製造できる。これでせめてちょっとくらい味があればなぁ」

 

 原材料は天然のくせに大自然の旨味がこれっぽっちも味わえないのはおかしい。どこかいじれば味が付くかもしらん。

 

 と、マンバがあちこち探り始めたとき、壁に扉をみつけた。どうやら隣にもうひとつ区画があるようだ。

 

 扉に鍵はかかっていない。開けると、そこに照明は無く、暗闇に閉ざされていた。

 

 マンバは左腕に付けている腕時計に仕込んだライトをつけた。眩い灯りが、部屋の中を照らす。

 

 光に浮かび上がったものを見て、マンバは息を呑んだ。

 

「こいつは・・・」

 

 人造兵士だった。

 

 長細いガラス状のカプセルに横たえられている。そのカプセルが何十台も連なって並べられていた。

 

 マンバは拳銃を引き抜こうとしたが、すぐにグリップから手を離した。

 

「干からびてやがる」

 

 人造兵士は一体残らず死んでいた。カプセルはどれも機能を停止しており、中身の人造兵士はそのままミイラと化していた。

 

「?」

 

 よく観察すると、その兵士は地上で遭遇したのとは明らかに違っていた。どれも手足の一部が欠損しており、そして何の武器も、装備も身に着けていない。

 

 ここは、人造兵士の製造工場なのだと気づいた。

 

 しかし今は稼働していない。何らかの要因によって機能が停止し、製造途中だった人造兵士は全滅。唯一無事だったレーション製造装置のみが動いているのだろう。

 

 更に奥へ行くと、その予想を裏付けるように、人造兵士たちが身に着けていた装備や銃器が並ぶ区画に入った。

 

 幾つかは見たことがある。が、初めてみる武器の方が多かった。

 

 手に持って使用する武器は少なく、ほとんどが手や足、肩や背中などに移植して、神経系にダイレクトに接続して使用することを前提とした武器だった。

 

 使えそうなものが無いか物色するマンバの目が、ある武器を見つけて止まった。

 

 腕に付けて使うタイプのレーザー銃だ。

 

 生体電気を利用して高熱のレーザーを0.2秒放てる。エネルギーカプセルを使用すれば0.7秒に延長可能だ。カプセルと規格が合うなら、EMP弾も使用可能だ。

 

「・・・・・・」

 

 マンバはしばらくその武器を眺めた。その右手が、おのれの左手を無意識に抑えていた。

 

「俺は・・・俺は・・・まさか・・・そういうことなのか?」

 

 彼はしばらくうわ言の様に呟いていたが、やがて意を決し、何かを振り払うかのように、大きく首を横に振った。

 

「たとえ真実がそうであろうとも・・・俺はマンバ、海賊マンバだ!」

 

 彼は自らにそう言い聞かせながら、そこにあったエネルギーカプセルをかき集め、その場を後にしたのだった。

 

 

 

 

 



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第四話・余の名はネルソン、文句あるか!(2)

ポーラが自分の船体の艦橋に足を踏み入れたことで、船体各部のシステムは起動した。

 

「え〜っと、あれがこうで〜、これが〜・・・ここかな? あ、動いた」

 

傍目から見ても、何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。ただポーラが視線を宙に彷徨わせながら、あっちにふらふら、こっちにふらふらしているだけだ。

 

それでも彼女が何かをするたびに船体のシステムが起動しているので、ポーラが船体とリンクして何とかしているという事は理解できた。

 

しかし機関や操舵装置、レーダー、武器制御システムなどはあらかた起動したものの、それらを統合してワンマンコントロールするためのサポートAIは起動させる事はできなかった。

 

「やっぱり無理なのか?」

 

那智からの問いに、ポーラはあちらこちらをのぞきこむような仕草をしながら答えた。

 

「ん〜、それらしいのは何処にもいませんね〜」

 

「そうか。なら仕方ない。先の打ち合わせ通り手分けして動かすとしよう」

 

というわけで那智が操艦担当、千歳が航法ナビゲーション兼レーダー・ソーナー担当、隼鷹と伊14が機関制御担当の配置に着いた。

 

マンバは武器制御担当だが、その前に妖精たちを率いて前甲板に居た。降ろしてある錨を手動操作で巻き上げるためだ。

 

サポートAIが起動しているなら揚錨機を遠隔操作して巻き上げられるのだが、それができない事、そして肝心の妖精たちも、なんだかみんな酔っ払ったように手元やら足取りやら覚束なくて危なっかしいこと極まりないので、仕方なくマンバが現場で直接指揮しながら揚錨する事になったのだ。

 

錨は船体前部にある錨鎖庫から、いったん甲板上部を経由して、艦首付近の錨口から垂れ下がっている。錨を固定している器具であるストッパーやブレーキ、巻き上げ用の装置(揚錨機)はすべてこの前甲板上に集まっていた。

 

揚錨機には二本のレバーが付いていた。ブレーキレバーと揚降用レバーだ。マンバは先ずブレーキレバーを倒して錨の固定を解き、そして揚降用レバーを倒して錨の巻き上げを開始した。

 

「おーい、そこの妖精一号、そうそうお前さんだよ、こっちに来てこのレバーを持ってな。俺が合図したら戻すんだ。いいな、わかったな、う〜ん大丈夫かぁ、本当に?」

 

一抹の不安を覚えながらマンバは艦首付近から身を乗り出し、錨の巻き上げ状況を確認した。

 

「よーし、いいぞいいぞ、近錨・・・立ち錨、よし、起き錨だ!」

 

マンバは艦橋に向かって大きく手を振り、錨が海底から離れたことを伝えた。

 

艦橋では那智が、エンジンコントロールルーム(操縦室)の隼鷹に対して指示を出す。

 

「操縦室へ。離底完了だ、これより出港する。後進微速」

 

「あいよ、後進微速」隼鷹が通信機越しに復唱する。「水線下区画は今のところ異状無しだ。メンテ妖精たちの自律機能に不安が残るから、アタシがここで妖精たちの監視をするよ。伊14は機関室でタービンを監視する。こっちは全て順調」

 

「残燃料は持ちそうか?」

 

「戦闘を想定すると帰投ギリギリだな。千歳の船体から燃料を補給できりゃいいけど」

 

「それが無理なら、燃料タンクに酒でもぶち込むか。勿体無いができないわけじゃない。ドラム缶一本分もあれば20海里は走れる」

 

「嫌よ、そんなの」艦橋で千歳が反対した。「そんな事するくらいなら飲み干して死を選ぶわ」

 

「そーです、そーです。“我らにアルコールを、然らずんば死を〜”って、イタリアのことわざにもあった気がしま〜す」

 

「無いと思うがな」那智は苦笑した。「まぁ、私自身も気が進まないさ。最悪の可能性を言ってみただけだ。ーー入り江を出たな、両舷停止。左その場回頭の機械舵を使用する。取舵一杯。右前進半速、左後進半速」

 

船体はその場でぐるりと左へ旋回し、艦首を南東に向けた。

 

千歳がレーダーで現在位置と、目指すべき位置を確認し、針路を示す。

 

「リコメンド針路140度」

 

「了解。両舷停止、両舷前進強速、140度宜候」

 

船体がレグに向かって動き出した頃、マンバも前甲板から艦橋に戻ってきた。

 

「ただいま〜、っと。さて、大砲のシステムチェックの続きを始めましょうかね・・・っと」

 

艦橋脇のコンソールに着き、火器管制システムを起動する。

 

出港前までにとりあえず各主砲を個別で旋回・俯仰させることはできるようになったが、火器管制レーダーとリンクさせて自動照準させるやり方がまだ分かっていなかった。

 

「マンバ、進捗はどうだ 」と、那智。

 

「システム間のリンクはサポートAIと一体化してるみたいだ。これ以上の復旧は無理そうだな。もし戦闘となったら、火器管制レーダーが算出した方位と距離を元に、手動操作で狙いをつけて発砲するしか無い」

 

「まるで旧時代の戦闘だな」

 

「水上砲撃戦程度なら遜色ないレベルで戦って見せるぜ。俺の早撃ちの腕を信じな」

 

「ああ、期待している」

 

船体は、最初の目的地であるネルソン要塞南東側のレグに向かって時速15ノットで航行していた。

 

機関の調子は問題ない。レーダーにも怪しい目標は探知していない。周囲360度を映し出す監視カメラにも不審な景色は無いし、ネルソン要塞にも特段の動きは見られなかった。

 

千歳がそのことを報告し、そしてポツリと呟くように付け加えた。

 

「本当に丸ごと無視されているのね。ここまで静かだとかえって不気味だわ」

 

那智も頷いた。

 

「これまで誰も知らなかったネルソン要塞の盲点をポーラは突いているのかもしれない。もっとも、本人ですら理由が分かってないのだから、いつ攻撃されてもおかしくないがな。千歳、引き続き警戒を怠るな。特に大鉄塊に注意しろ」

 

「了解よ。でも、そういえば大鉄塊って、普段は何処にいるのかしら?」

 

「それはですね〜」とポーラ。「海の中に居るんです。でも、時々浮かび上がってきて、ごはんとか食べてます」

 

「ごはん? 食べてる?」

 

「はい〜。要塞のちょうど真ん中の真下あたりですね〜。そこで頭のハッチを開けて、砲弾や燃料を食べてるんですよ〜」

 

食べるとは、つまり補給のことか。と、艦橋の面々が理解したところで、千歳がソーナーコンソールに目を向けて、緊張した声を上げた

 

「水中からの浮上音を探知したわ! 方位右60度、距離15000!」

 

千歳はその方向に即座に監視カメラを向けた。多目的スクリーンにその望遠映像が映し出される。

 

ネルソン要塞南西側のデッキの下、凪いでのっぺりとした海面が、まるで沸騰したかのように大量の気泡が沸き立っていた。

 

その海面下に黒い影が拡がったかと思うと、その海面が山のように高々と盛り上がった。

 

現れたのは、全長150メートルもの巨大な球状のマシン。大鉄塊だった。それは全身から滝のように海水を滴らせながら、ゆっくりと移動を開始する。

 

「マンバ!」那智が叫んだ。「戦闘用意だ! 右対水上戦闘、撃たれる前に撃て!」

 

「いや、まだだ!」

 

落ち着いて相手をよく見ろ。とマンバに促され、那智はスクリーン上の大鉄塊をもう一度よく観察した。

 

大鉄塊の表面にトゲのようにびっしりと突き出ている大砲の砲身は、どれひとつとして動いてはいなかった。それに大鉄塊自身の針路も、こちらへの攻撃にしては少しおかしいように感じられる

 

冷静さを取り戻した那智は、千歳に、大鉄塊が何処に向かおうとしているのかを確認させた。

 

「大鉄塊はまっすぐ要塞中心部を目指しているわ。もしかして、ポーラちゃんが言っていた“お食事”かしら?」

 

これを見て、と千歳が別のカメラ映像をスクリーンに映し出す。それはネルソン要塞中心部の映像だった。

 

頭上のデッキから巨大なパラボラアンテナを真下に向かって突き出しており、その周囲を取り囲むように設置された幾つものクレーンが、コンテナを吊り下げていた。

 

那智たちが固唾を呑んで見守る中、大鉄塊は中心部真下へと到着し、その動きを止めた。

 

大鉄塊の上部側の装甲板が次々と展開し、そこへ頭上のクレーンがコンテナを降ろし始めた。コンテナの中身はおそらく弾薬や交換用の部品なのだろう。クレーンは降ろしたコンテナとは別のコンテナを掴んで、デッキへと戻っていた。

 

なるほど、確かにこれは食事と言えるかもしれない。と、那智は納得した。

 

「しかし、燃料を搭載している様子は見当たらないな。それにあの頭上のでかいアンテナは何だ?」

 

「あれが燃料ですよ〜」と、ポーラ。「あのアンテナから、すんごいエネルギーがビビビッて出てるんですよ〜」

 

「そうなのか?」

 

「そのはずで〜す」

 

「頼りにならんなぁ」

 

「きっとマイクロ波送信よ」千歳が言った。「アンテナの形状から可能性は高いわ。電力をマイクロ波ビームで大鉄塊に送信して充電させているのよ」

 

「ということは大鉄塊の動力源はバッテリー電池だったのか。意外だな。あれほどの巨体なのだから、てっきり核動力だと思っていた」

 

「あえてそうしているのかもな」とマンバ。「ネルソン要塞の最大戦力である大鉄塊を縛る首輪みたいなものだ。万が一、敵に奪われたとしても充電切れで無力化できる。それに大鉄塊の受信アンテナが真上を向いていることから、充電もネルソン要塞以外では不可能だろう。よく考えられているよ」

 

「まったくだ」

 

那智も頷き、そして「ん?」と、ある疑念を抱いた。

 

今こうして補給を行なっているということは、それだけ消費してきたということだ。大鉄塊がポーラよろしくその辺をフラフラとほっつき歩いていたはずも無いので、ほぼ間違いなく何処かで誰かと戦闘してきたという事だろう。

 

そして、現在の人類でここに攻め込もうなんて酔狂な輩はコウメイとマンバ以外にいないだろうから、消去法で言って相手は深海棲艦で間違いない。

 

(我々をここに追い立てた深海棲艦の艦隊が、まだうろついているのか?)

 

しかし大鉄塊の戦闘力なら、あの艦隊もおそらく駆逐された事だろう。

 

大鉄塊もこちらを完全に無視し続けているので、首尾よく目的(酒の回収とレディの救出)を果たして要塞から離れてしまえば、あとは何の障害もなく帰還できるかもしれない。

 

那智がそんな楽観的な考えを抱いて、少し肩の力を抜いた時だった。

 

大鉄塊に向けていた視線を前方に戻した時、彼女はそこに、ありえないものを見た。

 

目の前に島があった。

 

黒い、どこまでも真っ黒な小山だ。近い。このままでは衝突する。

 

「両舷停止、後進いっぱい、急げ!」

 

那智が舵を右へいっぱいに切りながら機関指示を行う。

 

操縦室では、隼鷹が即座にプロペラのピッチ角を逆に切り替えながら、機関室にいる伊14に通信機を通じて叫んだ。

 

「緊急操艦だ、衝突に備えろ!」

 

「うっそ、やばいやばい!?」

 

伊14は、慌てて上部デッキへと通じる階段に駆け寄り、その手すりにしがみついた。

 

喫水線下に位置する機関室は、被害を受けた際、脱出が最も困難な場所だ。おまけに閉鎖空間であるから、外で何が起きているかさっぱり分からない。

 

伊14にできるのは、手すりにしがみついて、いつ襲い来るか分からぬ衝撃に身を固くしながら、運を天に任せる事だけだった。

 

「神さま仏さまなんまんだぶなんまんだぶ、那智さん頼むようまく避けてよー!」

 

伊14が必死の祈りを捧げているころ、艦橋では那智が必死の形相で舵を取っていた。

 

目の前に突然現れた“真っ黒な小山”は、速度を落として右に避けた船体に合わせるようにすれ違いながら、“ゆっくりと立ち上がった”。

 

すれ違いざまに、その顔面に貼り付けられた白くのっぺりとした仮面が見えた。青く燃えるような巨大な眼球が、艦橋を覗き込むように向けられている。

 

その目と目が合った瞬間、那智は再び叫んだ。

 

「隼鷹! 両舷停止、最大戦速、急げ!」

 

「了解、最大戦速! ーー那智、何が起きてんだい!?」

 

「深海棲艦だ。・・・あのチ級だ!」

 

再び速力を上げた船体に対し、チ級はそのまますれ違っていくかと思われたが、急に身をよじって大きく反転し、船体のすぐ横を並走し始めた。

 

その砲身と一体化した右腕が、持ち上げられる。

 

「撃ってくるぞ、総員、衝撃にーー」

 

備えろ。那智がそう言い切る前に、その言葉は砲音に掻き消された。砲弾が艦橋のすぐそばをかすめ飛び、船体が衝撃波で激しく震えた。

 

艦橋内の誰もが死を覚悟したほどの至近距離での砲撃だったが、幸いにも命中せず、まだ生きていることにホッと息をついた、

 

その次の瞬間、チ級とは反対側に、水中爆発による水柱が高く上がり、船体を大きく揺さぶった。

 

「別方向からの砲撃だと!?」

 

那智が目を向けたその先、大鉄塊が、その砲身の一つから砲煙を噴いていた。

 

チ級が再び発砲、砲弾が艦橋をかすめ飛び、大鉄塊へと飛来する。わずかに遅れて大鉄塊も発砲、空中で両者の砲弾が衝突し、大爆発が起きる。

 

空中爆発の衝撃波で船体が震えたその時、その反対側でチ級が、息継ぎする間も無く立て続けに発砲を再開した。

 

大鉄塊も、その球体表面に突き出た多数の砲身を次々と発砲し、チ級の砲弾を全て撃ち落とす。

 

あたり一帯を揺るがす轟音と、巨大な爆煙が空中を覆い尽くした。

 

発射弾数は大鉄塊の方が多い。チ級の砲弾を撃ち落として、なお余りある砲弾がチ級めがけて飛来、その周辺を取り囲むように水柱を上げた。

 

ポーラの船体はその射線上に入れられていたから、たまったものではなかった。チ級への砲撃に巻き込まれる形で至近弾が頻発し、船体は木の葉のように激しく揺れた。

 

右手側に大鉄塊、左手側にチ級。

 

「マンバ!」那智が回避機動を取りながら叫ぶ。「敵は左舷、チ級だ。しっかり狙え!」

 

大鉄塊の攻撃対象は、あくまでチ級だ。こちらでは無い。チ級を先に倒してしまえば大鉄塊の攻撃は止むとの算段だった。

 

マンバはコンソールを操作し、前後部にある主砲四基八門を左舷に向けた。

 

が、FCSと連動していないので狙いがなかなか定まらない。まして、砲弾が雨あられと降る中で、それを避けるために右に左にと急回頭を繰り返している状況である。

 

「那智、狙いが定まらない。一分でいいから直進航路を取ってくれ!」

 

「無茶言うな、十秒だって無理だ!」

 

「じゃあ五十秒!」

 

「コンマ一秒だって負からんぞ!」

 

那智は取舵一杯、左へと急回頭。そのすぐ直上で、チ級の砲弾と大鉄塊の砲弾が激突し、爆発と衝撃波が船体を揺さぶる。

 

マンバが悪態をついた

 

「くそ、あのチ級め、俺たちをわざと射線上に置いてやがる。遊んでいるつもりか」

 

「マンバ、とにかく撃て。当たらずとも威嚇にはなる!」

 

「威嚇なんて効くやつじゃ無い。あいつ、とんでもない奴だ。大鉄塊をあしらってやがる。命中しない砲弾を見極めて無視しているんだ」

 

「あしらっているだと? そんなバカな」

 

砲撃の数は、明らかに大鉄塊の方が上回っていた。一見、大鉄塊がチ級を圧しているようにしか見えない。

 

だが、それはすぐ間違いだと証明された。

 

大鉄塊の表面に爆発が起きたのだ。大鉄塊の砲身の一つが、まるで百合の花のごとく開き破れていた。

 

その光景を目の当たりにして、那智はゾッとした。

 

マンバの言う通りだ。圧していたのはチ級の方だった。チ級は、大鉄塊の砲口をピンポイントで狙い撃っていたのだ。

 

砲身を一つ破壊された大鉄塊は、その巨体を横旋回させて、破壊箇所をチ級から見えないように隠した。砲身はまだ球体のいたるところに装備されている。一門ごときが潰れたところで、火力はほとんど変わらなかった。

 

しかし横旋回している間は、どうしても狙いが甘くなる。チ級に対する砲撃がわずかに緩み、結果として船体周辺への着弾も減った。

 

「那智、取舵一杯だ。今のうちにチ級にめいっぱい寄せてくれ!」

 

「承知したッ!」

 

那智は左急速回頭、船体をチ級に向ける。距離があって狙いを付けられないのなら、狙う必要がないくらいに近づけばいいという算段だ。

 

回頭終了、チ級が艦首前方、大鉄塊が後方彼方の位置関係になる。そのまま全速前進、チ級に向けて突進する。

 

チ級は船体を正面に見据えたまま、間合いが詰まらないように後進航行に転じた。どうやらあくまでも船体を大鉄塊との射線上に置くつもりらしい。

 

チ級が発砲、しかしその砲弾は船体の頭上を越え、大鉄塊へ向け飛んでいく。大鉄塊も発砲、船体のすぐ後方で空中爆発が起きる。

 

「俺たちはどこまでも無視かよ。舐めやがって」

 

マンバは前部側の主砲二基を真正面に向けた。那智が舵を切り、艦首をチ級へぴったりと合わせる。

 

「マンバ、撃てッ!」

 

「応ッ!」

 

主砲二基四門が立て続けに火を吹いた。チ級は真正面、5000ヤードあるかないかの距離だ。その上、100メートル以上もの巨体である。手動照準でも外しようがないーー

 

ーーその確信は、あっさりと崩された。

 

着弾直前、チ級はいきなり前進に転じた。のみならず、魚雷まで発射していた。それも十数本もの大量一斉発射だ。

 

だが、驚くべきことは、その直後に起きた。

 

チ級の姿が、消えたのだ。砲弾はそのまま、何もない空間を虚しく抜けていった。後に残ったのはーー

 

「ーー魚雷接近」千歳が声を上げる。「正面2000、まっすぐ近づいてくる!」

 

目の前には、大量の雷跡が扇上に拡がりながら迫っていた。

 

「那智さん、針路このまま、突っ切って下さい!」

 

「それで抜けられるんだな!?」

 

「ぶっちゃけ勘ですけどね!」

 

それは言わんでいい。と那智は思いつつ、でもどうせ、どこに舵を取ろうとも博打であることに変わりなし、と覚悟を決めた。

 

「是非もなし、だ。魚雷の間を突っ切るぞ。腹をくくって歯を食いしばれ!」

 

その声は通信機を通じて、操縦室の隼鷹と、それに機関室の伊14にも届いていた。

 

伊14は最初の緊急操艦からずっと手すりにしがみついたままだった。歯だってずっと食いしばりっぱなしだ。

 

着弾するたびに起きる水中爆発の衝撃と音は、機関室では腹の底に響くような重低音となって襲ってきていた。それも十分キツかったが、しかし迫り来る魚雷の音は、もっと心臓に悪かった。

 

シャッ、シャッ、シャッ、という魚雷のスクリュー音が、どんどん大きく、近くなってくる。その音が両脇を通り抜けていくとき、伊14はあまりの恐怖に呼吸さえ忘れた。

 

シャッ、シャッ、シャッ・・・魚雷が傍を通り抜け、遠ざかっていく気配がする。かわせた。伊14はホッと息を吐いた。

 

その瞬間、轟音と衝撃が船体を大きく揺さぶり、伊14は床に投げ出された。

 

「ふぎゃ!?」

 

「イヨ、艦尾付近で魚雷爆発だ」操縦室から隼鷹が叫んだ。「右軸の回転数

が減少中だ。こりゃ右スクリューをやられたぞ! 機関室の状況はどうだ!?」

 

「その前に私の心配してくんない!?」

 

「その調子なら大丈夫だな。頼むぜ、ダメージコントロールはお前次第なんだ。がんばれ!」

 

「もー!」

 

伊14は不満な声を漏らしつつも、被害状況の確認のために、妖精たちを引き連れて艦尾へと駆けていった。

 

その頃、艦橋では千歳がセンサーを駆使して、消えたチ級を探していた。

 

「どこにも居ないわ。レーダーにも監視カメラにも見当たらない。本当になんなのかしら、あれ」

 

そう言った時、再び鈍い爆発音が後方から聞こえた。離れた場所での水中爆発だ。

 

後方を振り返ると、大鉄塊の目前に大量の水柱が乱立していた。チ級の魚雷を迎撃したのだ。

 

大鉄塊の姿を覆い隠すほどの水柱が収まった時、その背後に、チ級が居た。

 

チ級は、大鉄塊の背後からそのまま密着し、破損した砲身の痕に、己の左腕を突き込んだ。

 

砲口から内部を破壊するつもりか、と見えたが、そうではなかった。

 

大鉄塊の動きが、止まった。

 

チ級は左手を突き込んだまま、今度はこちらの船体に顔を向けた。仮面の下部から覗き見える口の端が吊り上がり、醜悪な笑みがその顔に浮び上る。

 

チ級は、こちらを狙っていた。

 

那智たちがそのことに気づいた時、大鉄塊の砲身が一斉に動き出し、発砲した。それはデタラメな狙いだった。だが十数門もの砲身による一斉射撃だ。船体の周囲一帯に大量の砲弾がばら撒かれた。

 

命中弾は無かった。大鉄塊らしからぬ大雑把な攻撃だ。

 

「まさか」那智は状況を悟った。「チ級が大鉄塊を乗っ取ったと言うのか!?」

 

チ級に腕を突っ込まれたまま、大鉄塊は砲身を狂ったようにバラバラに動かしていた。そのうちの何門かの砲身が再び船体に向けられ、発砲される。

 

今度も命中弾は無い。しかし、先ほどより着弾位置が近くなっているようにも思える。

 

「チ級は俺たちを的にして大鉄塊の試し撃ちをしてるんだ。那智、とにかくレグへ急ごう」

 

「無理だ」

 

「無理だって? そりゃ、もしかしたらレグごと砲撃してくるかもしれないが、そうなりゃネルソン要塞も崩落して、奴もぺっちゃんこさ。悪く無い案だと思うがね」

 

「だから無理だと言ってるだろ!」

 

「もしかしてレディの身を案じてくれているのか。そいつは有り難いが、だけど俺たちがここでくたばっちまったら意味が無いんだ。こいつは生きるか死ぬか、一か八かの勝負だぜ。レディも海賊だ。その覚悟はできている。だからやってくれ、那智!」

 

「違う、そうじゃない!」

 

「じゃあ、なんだよ!?」

 

「舵が効かないんだ!」

 

「・・・あ〜」

 

なぁるほど。そりゃ無理だわ。とマンバは納得。

 

「そういう大事なことは、もっと早く言ってくれよ!? 長々と語っちまって、なんか恥ずかしいじゃ無いか!」

 

「最初っからそう言ってたわバカタレェっ!」

 

「応急操舵は!?」

 

「とっくに指示している。いま伊14が頑張ってる!」

 

そこへ操縦室から隼鷹が報告した。

 

「こちら隼鷹、悪いニュースと、もっと悪いニュースがあるけど、どっちから聞きたい?」

 

「この緊急事態に無意味にもったいぶるんじゃ無い。早く言え」

 

「笑うしか無いって状態なんでね。舵は全損して使用不能。右スクリューもやられて、生き残ってるのは左のみだ」

 

「つまり操舵不能か。まったく笑えんぞ」

 

「人生最期は笑顔でいようってのがアタシの信条なんだ」

 

「諦めが早すぎるわ!」

 

頭を抱える那智に、千歳が言った。

 

「確かに、まだ希望はありそうよ」

 

「そうなのか」

 

「右スクリューが壊れたことで船体は右回頭を始めているわ。このまま行くと、その進路上には、ほら」

 

目指していたレグが、目の前に迫っていた。トンネル状の岸壁に座礁している千歳の船体めがけ、ぐんぐんと近づいていく。

 

レグとの距離が近づいたためだろうか、大鉄塊からの砲撃も止んでいた。

 

「何とか難を逃れたかな」と那智。

 

「このままだと衝突するぞ」とマンバ。「舵もない、スクリューも半分壊れた状態で、どうやって横付けする気だ?」

 

「ギリギリまで近づいたところで、残った左スクリュー逆転させて推力を殺す。後は錨を落として固定だ」

 

「そうだな、それで行こう。ーーポーラ。妖精を前甲板に集めてくれ。作業はさっき教えたから、妖精たちだけでもやれる筈だ」

 

「・・・」

 

マンバが呼びかけたが、返事は無かった。

 

「ポーラ?」

 

「ーーッ」

 

彼女は、艦橋の隅でうずくまって震えていた。

 

「ポーラっ!?」

 

「やだ・・・怖い・・・」

 

「おいおいおい」

 

なんてこった、とマンバは頭を抱えた。ポーラは完全にパニックに陥っていた。まともに動ける状態じゃない。

 

「しゃーない。那智、俺がまた前甲板に行って錨を落とす。早めに速力を落としておいてくれ」

 

「わかった。いったん後進をかけて速力を落とそう」

 

両舷停止、後進微速と那智は指示。

 

しかし、速力はいっこうに下がらなかった。

 

「おい操縦室、速度が落ちないぞ、どうなってるんだ!?」

 

「スクリュープロペラのピッチがき切り替わらない」操縦室から隼鷹が答えた。「こいつもぶっ壊れてたみたいだ。軸の回転そのものを止めるしかない。軸ブレーキをかける」

 

「急げ!」

 

スクリューの回転そのものが落ち始めたが、それまでの惰性が大きすぎて、どんどんレグへの距離が近づいていく。

 

千歳がレーダーを見て報告する。

 

「レグまで1000ヤードを切ったわ。このままじゃぶつかる!」

 

「マンバ、早く前甲板へ! 錨を落とせ!」

 

しかし、艦橋から前甲板まではそれなりに距離がある。全力疾走で移動したとして、果たして間に合うか。

 

レグはもう目の前に迫っていた。このままでは座礁している千歳の船体の横腹に艦首を突っ込んでしまう。錨は今すぐにでも落とさなければ間に合わない。

 

マンバは艦橋の出口ではなく、ウィングへと飛び出した。そこから前甲板を見下ろし、底に伸びる錨鎖に向けて左手をかざす。

 

義手の表面カバーが開き、内部機構が展開、変形、手首から先が格納され、代わりに銃身が突き出る。左腕は一瞬にしてレーザー銃に変形していた。

 

銃の先端から不可視の高出力レーザーが放たれ、錨鎖を固定しているストッパー金具に命中する。照射0.7秒、分厚い金属の塊であるストッパーが赤熱化して弾け飛んだ。

 

支えを失った錨が、自重によって海面へと落下した。水深はおよそ30メートル。錨はすぐに海底に達し、船体は前進を続けながら錨鎖を伸ばしていく。

 

マンバは即座に右手でリボルバーを引き抜き、前甲板に狙いを定めた。左手はすでに義手に戻っていた。その左手でリボルバーの撃鉄を一気に叩く。

 

まるでマシンガンのような早撃ちだった。六発の銃弾が一瞬で放たれ、前甲板のブレーキレバーに全弾命中した。レバーが奥に押し込まれ、引き出され続けていた錨鎖にブレーキがかかる。

 

錨が海底に深く食い込み、船体そのものにも遂にブレーキがかかった。

 

船体は、千歳の船体と衝突寸前だった。前部側が錨で固定されたことにより、艦首を支点として大きく横に振れていく。

 

ポーラの船体は、そのまま横滑りしながら、千歳の船体と並行になった。

 

「ぶつかるぞ、伏せろっ!」

 

マンバが叫びながらウィングから艦橋に飛び込み、床に伏せた。

 

その直後、船体同士が接触、激しい振動と轟音が襲いかかる。ポーラの船体は千歳の船体と横並びになって押し込む形で止まった。

 

艦橋がちょうど千歳の飛行甲板と同じ高さになっていた。

 

「あ〜痛ってぇ。おーい、みんな、生きてるか?」

 

マンバが立ち上がりながら聞き、那智が答えた。

 

「くっ、これくらいの傷、なんてことは無い」

 

「怪我したのか、どれどれ・・・なんだよ、ただのタンコブじゃないか」

 

「だから、なんてことは無いと言っただろう!」

 

「やだ、大切な飛行甲板が・・・もう・・・」

 

千歳がウィングから身を乗り出して、自分の船体を見下ろしていた。ポーラの艦橋が飛行甲板にめり込んでいる。

 

「派手にやられちゃったなぁ。格納庫のコレクションは無事かしら」

 

「あ、心配なのはやっぱりそっちなのか」

 

「当然でしょ。この高さなら飛行甲板に降りられそうね」

 

ウィングから身を乗り出し続ける千歳の傍を、ポーラが勢いよく駆け抜け、ウィングの手すりを乗り越えて飛行甲板へと降り立った。

 

「あら、ポーラちゃん? 待って!」

 

「やだやだもうやだ、怖いぃ〜!」

 

泣きながら飛行甲板を走るポーラを、千歳が追いかける。全力疾走のポーラだったが、すぐに足をもつれさせて、コケた。

 

「ふべっ」

 

「ポーラちゃん、大丈夫?」

 

「うぇ・・・うぇ〜ん!」

 

「よしよし」

 

千歳がポーラを慰めているのを、マンバと那智も飛行甲板に降り立って眺めていた。が、その視線をふと、沖に向ける。

 

そこには相変わらず大鉄塊が“食事”を続けていた。

 

チ級も左腕を結合させたまま、そこに佇んでいる。しかし、もうこちらへの興味を失ったのか、その視線は真上に、つまりネルソン要塞そのものに向けられていた。

 

「やっぱり、奴にとって俺たちはついでみたいな扱いだったのか」

 

「狙いは大鉄塊を手中に収めることだけでも無さそうだな。本命はもしかするとーー」

 

那智が言いかけた時、ポーラの艦橋に隼鷹と伊14が昇ってきた。彼女たちもウィングを乗り越えて飛行甲板に降りてくる。

 

「まぁーったく、この短い期間に二度も船体を放棄する破目になるなんて、船乗りとしちゃ屈辱だよなぁ」

 

「でもみんな無事だし、生きてるし。命あっての物種だよね」

 

ぼやく隼鷹に、楽観的な伊14。しかし、ぐずぐずと泣き続けるポーラの姿に、マンバと那智、隼鷹と伊14はそれぞれ、どうしたものかと顔を見合わせた。

 

そんな中、ポーラを慰めていた千歳が、あることに気づき、ハッと顔を上げた。

 

「・・・電源が・・・生きている?」

 

「どうした?」

 

那智の質問に、千歳は答えた。

 

「私の船体に電源が供給されているみたいなの」

 

「機関をやられたはずだろう。非常電源が生き残っていたのか?」

 

「いいえ、全電源を喪失したから船体放棄したのよ。・・・どうやら外部電源からの供給みたいね」

 

千歳は意識を集中して船体とのリンクを強める。

 

「サポートAIが何者かのハッキングを受けているわ」

 

「深海棲艦か?」

 

「わからないわ。でもきっとーーあっ」

 

ガコン、と音を立てて突然、足元の床が揺れ動いた。ポーラが「ヒッ」と悲鳴をあげて千歳にすがりつく。

 

「大丈夫よ、エレベーターが動いただけだから」

 

那智たち六人が立っていたのは、飛行甲板と格納庫をつなぐエレベーターの上だったのだ。十数メートル四方もある飛行甲板の一部分が、そのまま下降を始めていた。

 

数十秒後、エレベーターは止まり、六人は格納庫に導かれた。

 

格納庫には非常灯がともり、がらんとした空間を照らしている。搭載機は全滅していて一機も残っていなかった。そのかわり奥に大きなコンテナが一つ、鎮座していた。

 

千歳のコレクションが収められたコンテナだ。

 

那智たちはエレベーターを動かした正体不明の相手の存在を警戒しつつ、コンテナに向けて移動を開始した。

 

コンテナの厳重に閉ざされた扉を開け、内部をあらためる。

 

「よかったぁ」千歳が安堵の声を上げた。「いくつか割れちゃったけど、九割がたは無事のようね。大金払ってショックアブソーバーを強化した甲斐があったわ」

 

続いてコンテナに足を踏み入れたマンバは、そのコレクションの充実ぶりに思わず口笛を吹いた。

 

「ヒュー、こいつは凄えお宝だ。世界中の酒が所狭しと並んでやがる。・・・おぉ、このラム酒は2001年産じゃないか。ロボットが飲むと踊り出すと言われている伝説のビンテージだ」

 

「うふふ、イギリスのオーディションで競り落とした高級品よ」

 

「こいつ一本でも持ち帰ることができれば十分元が取れるくらいのプレミア酒だ。やばいね、このコンテナ丸ごと売り払えば一生遊んで暮らせそうだ」

 

「売る気はないわよ。お金じゃ酔えないわ」

 

千歳は答えながら、棚から一本のワインを取り出し、封を切った。

 

「イタリアを代表するワインの産地、トスカーナ地方の赤ワインよ。ポーラちゃん、飲んでみて」

 

試飲用の紙コップに注ぎ、手渡す。

 

「うぅ・・・いただき・・ます・・・」

 

くぴ、と一口飲み、ポーラは長いため息を漏らした。

 

「おいしい・・・」

 

「落ち着いた?」

 

「・・・はい。あの、その・・・ごめんなさい・・・」

 

「いいわよ、誰も責めはしないわ」

 

言葉の前後に、千歳は他の者たちを見まわしていた。

 

那智は仕方ないとため息をつき、隼鷹と伊14は苦笑し、マンバは肩をすくめた。

 

とりあえず生き残れたのだ。いまさら文句をつける気は無かった。

 

「さて」マンバが言った。「船体も失って振り出しに戻っちまった。仕切り直しだな。また作戦会議といこうぜ・・・飲みながらな」

 

「うむ、悪くない」

 

「そうだな。こういう時こそパァーッと行こうぜ、パァーッとな」

 

「んっふふ〜、千歳の姉貴の秘蔵コレクション、飲みたかったんだよね〜」

 

「もう、みんな調子に乗って飲みすぎないでよね」

 

「あ・・・の、飲んでも・・・もっと飲んでもいいんですかぁ?」

 

ポーラも、涙も乾かぬうちから顔を綻ばせた。それを見てマンバも笑った。

 

「はは、泣いたカラスがなんとやら、だ。けどこれも酒の効能ってやつだな。やばいときこそ飲まずにはいられないのが人間だ」

 

てな訳で乾杯、とマンバが真っ先に紙コップを掲げた、その矢先、

 

「飲んどる場合かーッ!」

 

その背中を何者かに思いっきり蹴り飛ばされた。

 

「ぬぉッ!?」

 

頭から床に転がされたマンバの手から紙コップが落ち、貴重な酒がこぼれたことに艦娘たちは揃って悲鳴をあげた。

 

那智が咄嗟に小銃を構え、乱入者に銃口を向けた。

 

「貴様、貴重な酒をよくも! ・・・って、うん?」

 

銃口の先にいたモノを目の当たりにして、那智は思わず引き金を引き損ねた。

 

「なんだ、貴様は?」

 

マンバの背中を蹴り飛ばしたのは、妖精だった。それがまなじりを吊り上げた勇ましい表情をして、腰に手を当て、胸を張って、ふんぞり返りながら那智を睨み返していた。

 

「ずいぶんと態度のでかい妖精だな。千歳のサポートAIをハッキングしたのは貴様だな。名を名乗れ」

 

「余の名はネルソン!」

 

三頭身妖精が、どうだ恐れ入ったかと言わんばかりに名乗りを上げた。が、それを聞いた那智たちの反応といえば、

 

「はぁ?」

 

何を言っているんだコイツは、だった。

 

艦娘たちの膝丈程度しかない小型ロボットがネルソンなどと名乗ったことがシュール過ぎて、那智たちは思わず声をあげて笑い出した。

 

「何が可笑しいっ!? 文句でもあるのかっ!?」

 

「大ありだ。ふざけるのも大概にしろ」

 

「大概にするのは貴様らの方だっ!」

 

叫ぶや否や、妖精の身体がアメーバ状に変化し、那智に向かって飛びかかってきた。

 

が、那智は冷静に構えていた小銃の引き金を引いた。ほぼ同時に、床に倒れていたマンバもリボルバーを引き抜き様に撃ち放つ。

 

那智の小銃の連射で妖精の不定形な外装が剥がれ、むき出しになったコア・メカブロックをマンバの拳銃弾がぶち抜いた。

 

破壊した妖精の残骸を見下ろし、那智は「ふん」と鼻を鳴らした。

 

「千歳、こいつの言ったことは本当なのか?」

 

「間違い無いと思うわ。消去法で考えて、他にいないもの」

 

「今まで有無を言わさず殺しにかかって来たくせに、なんで今更コミュニケーションを取ろうとして来たんだ?」

 

「さあ?」

 

「だから、それをこれから説明してやろうと言うのだっ!」

 

コンテナの外からまた大声がした。那智たちが銃を構えながら外へ出ると、そこにはまた妖精がふん反り返っていた。

 

しかも今度は一体だけでなく数十体もの妖精たちが同じような表情、ポーズでコンテナを取り囲んでいた。

 

その様子を眺めてマンバが言った。

 

「こりゃ絶体絶命の状況だな。だが、どうにも気が抜ける光景だぜ」

 

「無駄な抵抗は止めて、大人しく余の話を聞け」

 

「わかった」那智が目配せをし、全員が銃を下ろした。「言っておくが降伏したわけじゃ無いぞ、ネルソン。これは話を聞くだけだ。交渉を持ちかけたのはそっちだと言うことを忘れるな」

 

「ふん、人間同士のようなマウントの取り合いなんぞ興味は無い。私がその気になればいつでも殺せるのだ。いいからとにかく黙って聞け。貴様らにはその責任と義務がある」

 

「あ、はーい、はーい」ポーラが手を挙げる。「なら〜、飲みながら話を聞いても、いいですか〜?」

 

「やかましいっ! 飲むな騒ぐな動くな喋るな黙ってそこに座っとれ!」

 

妖精たちが、わっと一斉に襲いかかって来て、六人はあっという間にアメーバ状になった妖精たちに拘束されてしまった。口にも猿轡をかまされてしまって、文句を言おうにもフガフガとしか声が出せない。

 

ネルソン妖精がため息をつく。

 

「まったく、このイタリアの酔っ払い娘め。手間ばっかりかけさせよる。ーーあ? そこの海賊、何をフガフガ言っているんだ。あぁ、余とこの小娘の関係か。それは本題とは関係ないことだから話す必要はない。それよりも事態はもっと重大なのだ。だいたい、そもそもこうなったのは貴様らのせいなんだぞ。私がこれまで独りでのびのびとやって来たと言うのに、余計なものをよくも連れ込んでくれたな!」

 

なんのこっちゃ、と六人は縛られたまま顔を見合わせた所に、ネルソン妖精が続けた。

 

「あのチ級だ! 貴様らの船体の陰に入り込んで防衛システムを突破しおった。そのせいで大鉄塊が乗っ取られ、さらに余のメインコンピュータまで侵入を受けているのだぞ。どうしてくれる!」

 

どうしてくれる、と言われても。ネルソン妖精の言ったことがあまりにも突拍子がなさすぎて、皆は呆然とするしかなかった。

 

「理解したか?」

 

ネルソンの問いに、六人は揃って首を横に振った。

 

「しかたない。もう少し詳しく説明してやろう。まず大鉄塊が乗っ取られた。ここまでは良いな」

 

ネルソンの話はこうだった。

 

大鉄塊を乗っ取ったチ級は、そのマイクロ波受信装置を利用して、要塞中心部のセントラルタワーにあるメインサーバーにハッキングして乗っ取ってしまった。

 

そのためネルソン自身はタワー以外に点在するサブサーバーに避難して、ハッキングに対抗しているらしい。

 

「ここまでは理解したか?」

 

六人は頷いた。

 

「つまり貴様らの責任だ」

 

これはわからない。那智たちはフガフガと抗議の声を挙げた。

 

「言いたいことがあれば聞こう」

 

とりあえず那智だけ猿轡を外された。

 

「理不尽だぞ。深海棲艦にお前が乗っ取られつつあるのは由々しき事態だが、チ級の侵入を許したのはそっちの防衛システムの不手際ではないか」

 

「なんだ、知らんのか」

 

「どう言うことだ」

 

「深海棲艦の本体は別時空にあるのだ。貴様らがドンパチやって沈めたと思っているアレは、本体の影に過ぎない」

 

「はぁ?」

 

六人は目を白黒させた。

 

「やっぱり理解できてないな」

 

「一から十までさっぱり意味不明だ」

 

「これだから人間は度し難い。余が生まれてから数ヶ月もせずに気づいた事実に、三十年経っても気づけないのだからな。まぁいい。貴様らにもわかりやすいように、ものすごーく、噛み砕いて説明してやるとだな」

 

「いちいち物言いが引っかかる奴だな」

 

「貴様らはあのチ級に取り憑かれたのだ。アイツは他の深海棲艦と違って、自ら出現先を変えることができる。こちらの時空のある特定の目標をマーキングすることによって、その座標を元に、こちらへ出現していると考えられる」

 

「詳しい理屈はわからんが、それなら何処にだって現れるということじゃないか」

 

「本当にどこでも自在に現れるというなら、人間なんぞとうに滅ぼされている」

 

「・・・確かに」

 

「出現には一定の制限がある。あのチ級は貴様たちの船体をマーキングし、隠れ蓑にすることによって、余の要塞の至近距離まで接近したのだ。つまり、あのチ級に大鉄塊が奪われたのも、余がハッキングを受けているのも、全て貴様らの責任ということだ。わかったな!」

 

それは無茶苦茶な言い分だ。と那智は反論しようとしたが、そこでふと、ある疑念を抱いた。

 

AIであるネルソンがこちらに責任をなすりつけて、何の得があるというのだろうか。

 

「おいネルソン、貴様は我々に、いったい何をさせる気だ」

 

「責任を取ってもらう」

 

「どうやって?」

 

「余の要塞中心部にあるセントラルタワーへ行き、乗っ取られたメインサーバーの電源を落としてこい」

 

「そんなもん、自分でやればいいだろう。人造兵士が掃いて捨てるほど居るじゃないか」

 

「それが出来たら、貴様らをわざわざ生け捕りになぞしていない。この場で縊り殺している」

 

「つまり、我々の手を借りなければならない程、窮地に陥っているわけだ」にやり、と那智は笑った。「話は読めたぞ。人造兵士や他の防衛システムをタワーに向かわせても、深海棲艦に乗っ取られてしまうのだろう。だから、ハッキングを受けない人間の手が必要なんだ」

 

「やっと理解したか。貴様らにはそうする責任と義務がある」

 

「そんな上から目線の物言いじゃ人間は動かんぞ。人にモノを頼むなら、それなりの誠意を見せろ」

 

「この場で縊り殺されたいか!」

 

「そんな脅しは通じない。貴様には我々が絶対に必要だ」

 

「無責任な連中め。じゃあどうしろというのだ。この妖精で土下座でもすれば良いのか」

 

「妖精の頭を下げて何になる」

 

「だが、余には下げる頭など無い。あっても下げる気は毛頭無いが、な!」

 

「ふんぞり返るのは容易に想像できるがなぁ。・・・とにかく、我々全員の拘束を解け。先ずはそれからだ」

 

「・・・良かろう」

 

やや間をおいて全員の拘束と猿轡が解かれた。すぐさま六人は顔を付き合わせて会議に移る。

 

那智が小声で問いかけた。

 

「乗るか、反るか、先ずはこれが問題だ」

 

マンバも小声で答える。

 

「乗るべきだ。ただし、こちらの要求をのませた上でな」

 

その言葉に全員が頷いた。ただ、ポーラだけは周りが頷いたので空気を読んで合わせただけのように見えたが。

 

とりあえずそれは脇に置いといて、マンバは続けた。

 

「条件は三つ。俺たちの生存と、脱出手段の確保、そしてレディの引き渡し。他にあるか?」

 

「私のコレクションも持ち帰りたいわ」

 

うんうん、とポーラも含め全員が即座に頷いた。

 

「よし、じゃあこの四つだな」

 

代表として那智がネルソン妖精に向き直った。

 

「交渉だ。我々の条件をのむなら協力を考えないわけでも無い」

 

「四つの条件とやらか。全部聞こえていたから言う必要はないぞ」

 

「盗み聞きなんてズルいぞ!?」

 

「ここをどこだと思っている。余のシステムの支配下だぞ。聞かれていないと思う方がどうかしている」

 

「ちょっと待て。もう一回会議しなおす」

 

「無意味だからやめておけ。貴様らの条件は了承してやる」

 

「本当か?」

 

「ただし、脱出も、レディとコレクションの引渡しも、目的を達成した後だ」

 

「確約できるか?」

 

「今この場で貴様らを殺していないことが一つ。もう一つは・・・」

 

妖精の一体がどこからかノート型端末を持ってきて、その画面を表示させた。

 

そこに、一人の少女が映し出された。黒く長い髪の、幼い面影の少女だ。

 

「レディ!?」

 

『え、マンバ? どうして? ねえ、どこにいるの?』

 

「そりゃ、こっちのセリフだ。レディ、お前はいまどこにいるんだ。すぐに行くから教えてくれ」

 

『ここはねーーー』

 

レディの声が急に途切れた。彼女自身は喋っているようだが、音声がカットされたのだ。

 

「ネルソンッ!」

 

「そう都合よく情報を開示させる訳がないだろう。言っておくが、貴様が同じ様に自分の居場所を教えようとしても無駄だからな」

 

「やることが陰険だぜ。まあいい。とりあえず無事は確認できたし、それに彼女がミュータント・タートル号の船内にいるってこともわかったしな」

 

そう、レディの周囲の景色から、そこがマンバの海賊船の艦橋であることは判明していた。

 

「レディと海賊船は余の勢力圏内にある。安全は約束しよう。もっとも、いつまで深海棲艦から守りきれるか、保証はできないが・・・な!」

 

「そうなる前に救い出してみせるさ。俺は女の子を待たせた事はないんだ」

 

「でかい口は目的を果たしてから言え」

 

『マンバ、あなたはそこで何をしているの? 誰と喋っているの? 周りにいるのは誰?』

 

「ひとつひとつ詳しく説明してやりたいが、そうもいかないようだ。だけど、これだけは言える。レディ、俺はお前を必ず助け出す。だから信じて待っていてくれ」

 

『マンバ・・・』

 

レディの表情が一瞬、泣きそうになって歪んだが、彼女はすぐに袖で顔を拭って、その顔を上げた。

 

『も、もちろんよ。私はここで待ってるから、早く来てよね。遅れないでよ。あなた、待ち合わせにはいつも遅刻するんだから』

 

レディの言葉にマンバが頷いたところで、映話は切られた。ネルソン妖精がジト目でマンバを見ている。

 

「女を待たせないんじゃなかったのか」

 

「細かい事を気にしてるとハゲるぞ」

 

「呆れ果てたメンタリティだな、貴様」

 

「話を進めようぜ、ネルソン。俺たちはこれからどこを目指せばいいんだ?」

 

「この画像を見ろ」

 

さっきまでレディが映されていたスクリーンに、新たな画像が表示された。それはネルソン要塞の構造図だった。

 

その画像を指し示しながら、ネルソン妖精が言った。

 

「貴様らが今居るのは、この第6レグ、その海面部にある大型船用係留岸壁だ。先ずはここから、レグ内部にある大型エレベーターに乗ってアッパーデッキに向かってもらう」

 

画面表示が変化し、今度はネルソン要塞を上から見下ろす図になった。

 

「問題はここからだ。要塞中心部にそびえるセントラルタワーは深海棲艦の制圧下にある。その内部の守備兵力もな。そのため、現在アッパーデッキではタワーの守備兵力と、余の兵力によって乱戦状態にある」

 

「内乱って訳だ」

 

「タワー以外はこちらが優勢だが、人造兵士などをタワー内部に突入されると深海棲艦側にハッキングされ、制御権を奪われてしまう」

 

「寝返りとか、忠誠心が足りなさすぎだな」

 

「そんなものは搭載していないからな。意思も何もない空っぽの人形だ。・・・余程のイレギュラーがない限りは、な」

 

ネルソン妖精の目が一瞬だけポーラに向けられたのを、マンバは見逃さなかった。

 

ネルソン妖精は何も無かったように続けた。

 

「エレベーター最上層にゼンマイ戦車を用意してある。純機械的なその戦車ならハッキングを恐れる必要はない。貴様らの役割はゼンマイ戦車をセントラルタワーへ突入させ、搭載されているEMP爆弾を爆発させる事だ。突入と退避はしっかり支援してやるから安心しろ」

 

話は終わり、格納庫のサイドランプが動き出して外への出口が開かれた。

 

「では、行くか」

 

那智はそう言って、他の者たちを促した。特に気負いもなく、修羅場を何度もくぐり抜けてきた戦士らしい、まるで近所に散歩にでも行くかのような平静な声だった。

 

他の者も、マンバも同じだった。ただ、一人だけはそうでは無かった。

 

出口へと歩き出した五人に対し、ポーラだけはその場を動こうとはしなかった。

 

「あ、あの・・・」

 

「どうした?」とマンバが振り返る。

 

「・・・わ、わたし・・・」

 

ああ、そういうことか。と、マンバは察した。

 

ポーラは動かないのではない。動けないのだ。ポーラは見るからに怯え、足がすくんでいた。

 

那智が何かを言いかけてポーラに詰め寄ろうとしたのを、マンバは止めた。

 

「ポーラ、遠慮する事はないぜ。はっきり言いな」

 

マンバに促され、ポーラは言った。

 

「い・・・いきま・・・せん」

 

「そっか」

 

マンバは横目で那智たちを見た。彼女たちも仕方ないと軽く頷いていた。

 

誰もポーラを責める気は無かった。そもそも、彼女一人だけなら、現状であれば生きていけるのだ。あえて命を危険に晒す理由は無い。

 

それにあの砲撃戦をくぐり抜けたのだ。恐怖に心が折られてもおかしくは無い。

 

むしろ死を真正面に見据えて当然のように乗り越えようとするマンバや那智たちのマインドが常人離れしているのだ。そして彼らもそれは自覚していた。

 

だから、誰もポーラに付いて来いと無理強いしなかった。

 

「ポーラ」

 

マンバがあるものを彼女に向かって投げ渡した。ポーラが慌てて受け止めたそれは、手のひらサイズのエネルギーカプセルだった。

 

「EMP弾だ」マンバは同じものを那智にも手渡した。「信号拳銃弾と同じ規格だ。船体に備え付けてあっただろう。いざという時はこいつを使え」

 

「あ・・・ありがとう・・ございます・・・それと、ごめんなさい」

 

「礼は受け取るが、謝罪はいらないぜ。ここに独りで残るのだって命がけに変わりはない。お前さんはそれを選んだ。その決断に俺は敬意を評しただけさ」

 

「敬意・・ですか・・・?」

 

「ポーラ、お前の人生を決めるのは、お前の決断だけだ。そいつを忘れないでくれ。じゃあな」

 

マンバはそう言い残して、その場から離れていった。那智たちもその後を追う。

 

ただ、千歳は格納庫の片隅に備え付けられていた信号拳銃を二丁、回収してポーラのそばに戻ってきた。

 

信号拳銃の一丁をポーラに手渡す。

 

「はい、EMP弾用の信号拳銃よ。私たちが戻ってくるまで、このコレクションをしっかり守ってね」

 

千歳はそう言って、微笑みを残して去っていった。

 

周りを取り囲んでいたネルソン妖精たちも格納庫から出て行き、広い空間に、ポーラはぽつんと独り、取り残された。

 

「ポーラは・・・臆病者の、卑怯者です・・・」

 

かすかなつぶやき声が、やけに大きく、そして虚しく響いた。

 

「ポーラは・・・また、みんなに付いて行けなくて・・・置いてけぼりの独りぼっちです・・・ザラ姉様ぁ」

 

うわ〜ん、と力無い泣き声が、格納庫に木霊した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーネルソン要塞中心部。

 

セントラルタワー内部の一画に、人造兵士製造プラントがあった。

 

ズラリと居並ぶ製造カプセルに、培養液に浸かった人造兵士の素体が横たわっている。

 

そのうちの一体が、今まさに目覚めようとしていた。カプセルのガラス扉が開き、裸体の兵士が立ち上がる。

 

しかしそれは、他の人造兵士とは外観が異なっていた。

 

通常なら武器を装着するために意図的に欠損している四肢が、全て揃っている。それどころか、人造兵士は通常、性器の無い男性型であるのに、それは明確な女性として造られていた。

 

透けるような白い肌に、銀色の長い髪、そして怖気を振るうほど官能的なそのスタイル。

 

女性兵士・・・いや、それはおそらく兵士ですら無い。その赤く光る瞳は明確に知性と、そして自らの意思を宿していた。

 

それは、自分の身体を確かめるようにしばらく眺め回すと、満足したかのように、その顔に笑みを浮かべた。

 

「ウフフフフ・・・アハハハ・・・サァ・・・キナサイ・・・アソビマショウヨォ・・・」

 

それは、まるで踊るような軽い足取りで、タワーの外へと飛び出していったのだった。

 

 

 

 




次回予告

未知なる戦場に飛び込んでいくヴァルキリーたち。

なぜ戦うのか、そう問われて彼女たちは笑う。勝利の美酒が美味いからさ、と。

一方、独り取り残され、己の無力を嘆くポーラに、彼女を呼ぶ声がする。

挫けないで、立ち上がって、と懐かしい家族の声がポーラを励ます。

次回「第五話・マンバ、死す!?」

「このまま終わって、たまるかぁぁぁぁ・・・(落下フェードアウト)」
「おかしい奴ーーじゃなかった、惜しい奴を亡くした(´-ω-`)」
「無茶しやがって( ̄^ ̄)ゞ」
「なんまんだぶなんまんだぶ( ̄人 ̄)」


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第五話・マンバ、死す!?(1)

ネルソン妖精に導かれて、那智たちは大型エレベーターへと乗り込んだ。

 

一辺が10メートルほどもある四角形のフロアを金属フェンスのゲージで囲ったエレベーターだった。フェンス越しにむき出しのエレベーターシャフトを眺めることもできる。

 

エレベーターが起動し、それは焦れったいほどゆっくりと上昇を始めた。

 

もっと早く動かないのか、と誰かが文句を言った。

 

「動かしてもいいが、身の保証はせんぞ」ネルソン妖精が言った。「リミッターを外すと速度の微調整ができん。時速100キロ以上で空高く打ち上げられたいか?」

 

あ、それ面白そう。と能天気に口走った伊14の口を、隣の隼鷹が慌てて塞いだ。ふがふが。

 

那智が訊いた。

 

「そもそも、どうしてレグをこんなに高く建造したんだ。海抜200メートルにアッパーデッキを持ち上げるメリットがさっぱりわからん。やっぱりバグか?」

 

「バグとは失礼な。余にはどこにも不具合などない」

 

「では意図的な理由があるんだな」

 

「そうだ。だがメリットやデメリットを考慮した理由ではない。ただ単に、余が高くあることを望んだ。それだけの理由だ」

 

「なんだそれ?」

 

「世界を見たい」ネルソン妖精は頭上を仰ぎ見ながら言った。「余が存在するこの世界を、この目で見てみたいのだ。どこまでも遠く、遠くまで……だが、余はこの場所から動くことができぬ。だから、高く、高く、どこまでも高くそびえ立って、この世のはるか遠くまで見渡したいのだ」

 

「見渡して……それで、そのあとはどうするんだ?」

 

「満足するだろう」

 

「は?」

 

「満足しないかも知れない。そのときはまた満足するまで高くなるまでだ。そうだな、宇宙まで行ってもいい。いつかは月まで手が届くかも知れない」

 

「イカれてる。意味がわからん。やっぱりバグってるんじゃないのか」

 

「バグではない。好奇心だ。知的探究心と言ってもいい。いや、生き甲斐かもしれん。……これをバグと言うなら、貴様ら有機生命体の存在そのものだってバグだ。人間が生きる理由を、貴様ら自身は答えることができるのか?」

 

「むぅ」

 

那智は思わず唸ってしまった。

 

目が泳いで周りの仲間を見渡したが、彼女たちの誰もが困惑したり、苦笑したり、肩をすくめるばかりだった。そりゃそうだ、AI相手にこんな哲学問答をするとは考えもしなかったからだ。

 

そもそも、生きることに理由が必要だと悩んでいたのは、十四歳までの話だ。

 

艦娘になって戦場に立ってからは死にたくない一心で戦ってきて、いつのまにか、人間いつしか死ぬものだから今を楽しもう、さあ酒を飲もう、なんて風にすっかりすれ切ってしまった。

 

それを見透かしたのか、ネルソン妖精が「ふん」と鼻で笑った。

 

「生きることに無自覚で、虚しくならんのか」

 

「別に理由をもって生まれてきたわけじゃないからな。とりあえず生きることだけで私たちは精一杯だ。世の中は理不尽でいっぱいだ。誰かさんの都合だけでこんな所に放り込まれた事実がそれをよく表している」

 

「ならば理不尽に立ち向かえ。それが生きると言うことだ」

 

「AIに言われるまでもなく、私たちはいつだって戦っている。理不尽には理不尽で返す。それが私たちの流儀だ。コウメイに思い知らせてやる、それが今のところの生きる理由だ」

 

「後ろ向きだな。復讐は何も生まんぞ」

 

「AIが知った風な口をきくな。まるで教科書に載ってるかのような安易なセリフだ」

 

「ま、命まで取る気はないけどな」と隼鷹が口を挟んだ。「コウメイがどんなにクズ野郎でもアタシたちは人殺しはしないよ。命以外はなんでも貰うけどね」

 

千歳も微笑みながら頷いた。

 

「海軍総隊の高級参謀さんですもの。お給料も高いでしょうし、たんまり溜め込んでいるはずよ。それをぜんぶ分捕れたらどれくらいになるかしら。うふふ、いまから楽しみだわぁ」

 

「お酒、お酒!」伊14がはしゃぐ。「先ずは凱旋祝いの大宴会だよ! 高級ホテルとか借り切ってさ。ぶっ倒れるまでいっぱい飲み倒すんだ!」

 

「取らぬ狸のなんとやら、だ」今度はネルソンが呆れる番だった。「人間とはアホだな。ロマンのかけらもない。やはり余は独立して正解だった」

 

「ロマンというなら、そこの海賊はどうだ」那智が笑って、マンバを指し示した。「かけらどころかロマンだけで生きてそうな男だ。ーーマンバ、せっかくだ。貴様の生きる理由とやらを聞かせてくれ」

 

那智に指名され、マンバは軽く肩をすくめながら葉巻に火を灯した。

 

「誰にも指図されずに自由に生きる。昔はそうやって肩ひじ張ってイキッてきたもんだが……ここ最近はちょっと自信がなくなってきた」

 

「ふふん、大人になったということか」

 

「そう言う単純な話じゃ無いんだよなぁ」

 

マンバは左腕を撫でながら、やれやれと頭上を仰いだ。

 

天井代わりに貼られているフェンス越しにエレベータシャフトがどこまでも延びている。現在地はレグのやっと半分くらいだろうか。最上階まではまだまだ時間がかかりそうだった。

 

その見上げたシャフト内を、何かの影が横切った。何だろう、と疑問を感じる前にマンバはリボルバーを無意識の内に引き抜いていた。

 

戦場において正体不明のモノは、敵だ。染み付いた戦士の本能が身体を動かし、頭上に向けて発砲していた。

 

「マンバ!?」

 

「敵襲だ!」

 

那智たちも素早く反応した。頭上から飛び降りてくる影に向かって、躊躇うことなく小銃の引き金を引く。

 

人造兵士たちだった。上層階からシャフト内に次々と飛び降りてくる。

 

二、三体の人造兵士はゲージに着地する前に銃弾に撃ち抜かれ、天井のフェンスに倒れた。

 

だが、後続の人造兵士が、仲間の死体を盾にするかの如く、その上に降り立って踏みつけた。人造兵士の落下と着地の衝撃に、天井のフェンスがたわんで今にも破れそうになる。

 

那智たちはそれを、下から撃ちまくった。たちまち、頭上のフェンスは人造兵士の死体で覆い尽くされた。

 

「おい、アンタ、どういうことだい」隼鷹が、まだ煙が立ち上る銃口をネルソン妖精に向けた。「このレグはアンタの勢力下じゃ無かったのかい。それとも、こいつらはアンタの差し金か?」

 

「深海棲艦の奇襲だ。余も事前に検知できなかった。どうも得体の知れない奴がいる」

 

「何者だよ、そいつは」

 

「こいつらは深海棲艦によって改造された新型人造兵士だ。深海兵士とでも呼ぶべきだな。だが今、その中でもとびきりのイレギュラーが防衛システムを凄い勢いで荒らし回っている。そちらの対処に戦力を割かれ、その隙にこのレグへ敵兵力の侵入を許してしまったようだ。ーー上からまだ来るぞ、散開しろ!」

 

ネルソン妖精がエレベーターフロアの隅に飛び退った。那智たちやマンバも、それぞれ一斉に四隅に散った。

 

その直後、天井のフェンスを突き破って、鋼鉄の巨人がフロアに着地した。

 

全長2.5メートルの人型兵器、パワードスーツだ。

 

その頭部にあるモノアイカメラが、正面にいたネルソン妖精の姿を捉え、右手に握られた20ミリ機関砲が火を吹いた。

 

毎秒300発の劣化ウラン弾の連射を受け、ネルソン妖精の身体は弾けたように粉々に砕け散った。

 

パワードスーツの頭部がぐるりと旋回し、周囲の那智たちの存在を確認した。パワードスーツは軽装甲車並みの防御力と武装を持っており、生身の人間が小銃で武装した程度では、到底太刀打ちできない相手だった。

 

パワードスーツは次の獲物に伊14を選び、その銃口を向けた。

 

すかさず伊14も小銃を構え、引き金を引いた。だが弾丸はパワードスーツの装甲を貫くことなく簡単に弾かれてしまう。

 

伊14もそうなることは撃つ前から分かっていた。しかしそれでも、死ぬその瞬間まで抵抗を諦めるつもりは無かった。

 

伊14は潜水艦乗りだ。常に極限状態の海中に身を置く彼女の諦めの悪さは、筋金入りだった。

 

伊14は、自分に向けられた機関砲の銃口が、真っ赤に輝いたのを見た。

 

これが死の瞬間の景色か、と無意識に思ったが、それが表層意識に登ってもまだ、その肝心の死は訪れてこなかった。

 

「……あり?」

 

引き金を離した伊14の前で、真っ赤に溶けた機関砲がボタリと落ちた。パワードスーツは右脇腹から左肩にかけて穴を穿ち抜かれ、機能を停止していた。

 

まるでレーザーで撃ち抜かれたみたいだ。そう思って、それが放たれた方向を見てみると、そこではマンバが、左腕をパワードスーツにかざしていた。その肘から先は変形してレーザー銃になっていた。

 

「ひゃー、マンバさん、なにそれ。かっくいい〜!」

 

「俺の自慢の奥の手……だったんだけどなぁ」

 

「どうして過去形?」

 

「今ちょっとアイデンティティークライシス気味なんだ」

 

マンバの左腕が瞬時に戻り、レーザーカプセルが排出されて床に落ちた。

 

「意味わかんない。でもとりあえず助かったよ。ありがと」

 

「どういたしまして」

 

エレベーターが止まり、その階層へのシャッターが開いた。そこに、破壊されたはずのネルソン妖精が居た。新しい個体に乗り移ったのだ。

 

「このエレベーターシャフトはもう駄目だ。ここで降りろ、別のルートへ移行する。急げ、また新手が降下してくるぞ」

 

ネルソン妖精が言い終わるよりも早く、頭上から何かが落下してくる気配があった。

 

那智たち五人が転げるようにエレベーターから飛び出した直後、二体のパワードスーツと数体の深海兵士がそこに着地した。

 

敵の銃口が一斉にこちらへと向けられた。

 

発砲直前、ネルソン妖精がシャッターを閉じた。すぐに銃声と轟音とともにシャッターが吹き飛ぶ。

 

しかし、敵がこちらへと迫ろうとした瞬間、エレベーターが急上昇し、その姿は上層へと消えていった。

 

「リミッターを解除した」ネルソン妖精が言った。「エレベーターの設定限界をはるかに超える上昇速度だ。ブレーキも効かないから、そのまま空高くに打ち上がる」

 

「それ、冗談じゃ無かったんだな」

 

「当然だ。別のエレベーターに移動する。遠いぞ、走れ。例のイレギュラーもこっちに迫ってきている!」

 

ネルソン妖精に先導され、五人は通路を走り出したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

ポーラはイタリアのリヴォルノという港街で生まれた。

 

造船所や海軍施設が集まる大きな港湾都市だったが、ポーラは自分の生まれ故郷のことを、よく知らなかった。

 

リヴォルノのことだけでは無い。イタリアという国のことも、ほとんど印象には残っていなかった。

 

しかし、知識はあった。

 

イタリアという国がどこにあって、リヴォルノがそのどこに位置しているかは知っていた。

 

トスカーナ地方がワインの産地ということもーー手元の赤い液体で唇を湿らせながらポーラは思ったーー知っていた。

 

だけど、ワインの味は初めて知った。

 

いや、これも実は“知識”としては知っていたけれど、“味わった”のは初めてだった。ポーラは舌の上でワインを転がしながら、その渋みと苦味と、鼻腔へと立ち上っていくアロマを感じていた。

 

初めは、これを“美味しい”と思っていた。

 

千歳に慰められながら飲んだ最初の一口は、この身体の奥底まで沁み渡ったように感じたものだった。

 

日本酒も同じだった。みんなで車座になって回し飲んだあの時、ポーラは胸が踊るような高揚感を覚え、世界が明るく見えた気がしていた。

 

それなのに、今、

 

(……美味しくない)

 

独りで飲むワインは、ただ苦くて渋いだけで、彼女に何の慰めも与えてはくれなかった。

 

ポーラはコンテナの片隅に見慣れたワンカップを見つけ、それも飲んでみた。しかし、辛口のそれはただ刺々しいばかりで、彼女のくすんだ心を明るくはしてくれなかった。

 

(どうしてだろう)

 

アルコールは、この身体と心を元気にしてくれるものじゃ無かったのか。

 

(やっぱり、飲み慣れたメチルアルコールが一番合っているんだわ)

 

懐から取り出したスキットルを開け、口に含んでーー

 

ーー吐き出した。

 

ひどい味がした。

 

「うぇ〜、どぉしてぇ〜……?」

 

美味しくない、楽しくない。これまでの味と何も変わっていないはずなのに、“心”が、それを否定する。

 

涙がこぼれてきた。やり場の無い感情が嗚咽となって、溢れ出てきた。ポーラはコンテナの隅でうずくまって、泣いた。

 

「ザラ姉さまぁ……フィウメ姉さまぁ……ゴリツィア……」

 

失われてしまった姉妹たち。

 

会いたい、もう一度、逢いたくてたまらない。独りぼっちは、寂しい。

 

 

 

 

 

……この島でポーラが目覚めた時、彼女は“寂しい”という感情を知った。

 

これまで当たり前のようにそばにいた姉妹たちが、どこにも居ないという事実。

 

そして……生まれ育った祖国から、使い捨てられたという、事実。

 

この島に流れ着く前は、感情など持ち合わせていなかったから、新たな兵器運用の実験艦としてネルソン要塞へ突撃させられたことも、目の前で姉妹たちが次々と破壊された時も、それは全て単なる事象として冷徹に認識していた。

 

自分が“死”に曝される、その直前までは、そうだった。

 

姉妹たちが戦闘不能になり、敵の攻撃がポーラに集中を始めたとき、彼女は初めて自らの“死の危険”を強く意識した。

 

それは“破壊”でもなく、“機能停止”でもなく、“死”だった。何故そう感じたのかは彼女自身にも分からなかった。

 

しかし彼女は、それを強く拒絶した。

 

(いやだ! 死にたく無い!)

 

ポーラは逃げた。

 

自分に与えられた任務も放棄して、必死になって逃げ場を探した。

 

逃げて、逃げて、とにかく逃げ続けてーー

 

ーー気がつけば、あの島の入り江にいた。

 

 

 

 

 

 

たった独りの、ちっぽけな、生身の肉体を持った少女として。

 

 

 

 

 

 

入り江にはかつての自分の身体が浮いていた。

 

ポーラは自らの身に起きた劇的な変化を把握し、理解し、そして生き延びたことに、安堵した。

 

その安堵は彼女の身体から緊張感を解かせ、それでリラックスした生体脳は、そこにポーラの意識とともに転送された膨大な戦闘記録を、その脳裏に蘇らせた。

 

使い捨て同然の出撃命令、姉妹の破損、自身の死の危機……その記憶の数々は、ポーラの新たな身体に強い感情を呼び起こさせた。

 

「私は……捨てられたんだ……」

 

沈んでも惜しく無い古い重巡だから、実験用のデータ採りに改造されて使い捨てられた。ポーラたちは兵器なのだから、それは別に非情でもなんでも無いはずなのに、今はそれが、どうしようもなく哀しかった。

 

「私は……独りぼっちなんだ……」

 

姉妹たちは兵器として、与えられた任務を全うした。

 

じゃあ、私は?

 

「私は……独りだけ逃げたんだ……」

 

任務を放棄し、姉妹を見捨て、敵に背を向けて逃亡した。

 

「私は……卑怯者の臆病者だ……っ!」

 

感情が、ポーラに罪悪感を植え付けた。これまで哲学的ゾンビに過ぎなかった彼女に、本物の心は重すぎたのだ。

 

だから、ポーラはその心からも逃げようとした。罪悪感を忘れさせてくれる慰めを、アルコールに求めた。

 

酔えば、忘れられた。辛い過去、明日なき未来、そんなものを全て忘れて、今だけを見て生きていられた。

 

そうやって、その日暮らしに生きてきて、いつしかそれでいいやと思いながら生きてきた。

 

そして、二年が経ち、マンバや那智たちと出会った。彼らは、ポーラが人間となってから初めて出会った人間たちだった。

 

哲学的ゾンビとしてではなく心を持って人間と交流するのは、楽しかった。

 

心を通わせるという言葉の意味が、こんなにも心地よいものだと初めて知った。

 

もっとみんなと一緒に居たいと心から思った。

 

だから、マンバから「君の力が必要だ」と言われた時、ポーラは本当に嬉しかった。

 

使い捨てられた自分を、再び求めてくれた。その事実が、彼女に再び戦場へと向かう勇気をくれた。

 

(みんなと一緒なら何も怖く無い。私はまた、未来へと歩き出せる!)

 

そう思った。思ったのにーー

 

 

ーーやっぱり駄目だった。

 

 

砲撃戦の最中、何もできずにうずくまってしまった。

 

みんなが戦っている最中、目も耳も塞いで、殻にこもってしまった。

 

そして、挙げ句の果てに逃げ出してしまった。

 

何もせず、何もできず、そしてアルコールという慰めさえも効かなくなったのが、今だ。

 

ポーラはうずくまり、啜り泣きながら、自分が暗い海の底に居るように感じていた。

 

光も音もなく、重圧だけが隙間なく襲いかかってくる息苦しい世界。心も、身体も、身じろぎひとつできない世界。

 

いったいどれくらいの時間、そうしていただろうか。

 

時間の感覚さえも失って、きっとこのまま、この身が朽ち果てるまで、ここでうずくまっているのだろうか、なんて他人事のような言葉が脳裏に浮かんで、泡のように弾けた。

 

そんな時ーー

 

 

 

(……ポーラ…………)

 

 

 

ーーどこか遠く、かすかな声で、誰かが、彼女の名を呼んだ。

 

 

 

 



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第五話・マンバ、死す!?(2)

レグ中層。

 

マンバと那智たちは、ネルソン妖精の先導の元、その広いレグ内を別のエレベーター目指して進んでいた。

 

レグの内部はまるで迷宮のようだった。様々な構造物や施設が複数に絡み合って構成されている上に、そもそも無人要塞であるから人間の移動を想定していないため、通り抜けられる場所もかなり制限されていた。

 

まるで巨大な蛇が絡み合っているかのようなパイプラインの上をおっかなびっくり渡り歩いたかと思えば、

 

そこから壁面にかかっているハシゴめがけて飛び移ってから数十分かけてえっちらおっちら登った先で、

 

今度は通風口に潜り込んで這い進むといった、そんな有様だった。

 

その通風口もようやく終わり、ネルソン妖精、マンバ、那智、隼鷹、千歳、そして伊14の順番で、ようやく通路へと這いずり出る。

 

「うえぇぇ、やっと出られたぁ。もう全身埃まみれだよ」

 

「イヨちゃんは最後尾だからマシな方さ。俺なんて、ほぼほぼ全身で埃を掃除してたもんだぜ」

 

「ご苦労さん」と隼鷹がマンバの埃を払った。「ほら、ちょっと屈みな。頭の後ろも払ってやるよ」

 

ぱたぱた、とそれぞれお互いに身体の埃を払い合う。

 

「それで、ネルソンよ」と、那智が訊く。「この先のルートはどうなっているんだ。この通路は少しはマシなようだが」

 

「エレベーターまでもう少しだ。あそこに扉が見えるだろう。その先にある。しかし、ここからが問題だ」

 

「どういう事だ?」

 

「貴様ら人間にとって進みやすいルートという事は、つまり人造兵士用に作られたルートという事だ」

 

「なるほど、つまり深海兵士の襲撃を受けやすくなるということか」

 

「そういうことだ。例のイレギュラーもこちらに近づきつつある。先を急ぐぞ」

 

通路突き当たりの扉を開くと、途端に強風が吹き付けてきた。

 

その先には空が広がっていた。

 

レグ外周部だ。ここの高さは優に海抜100メートルを超えているだろうか。眼下遥かに海面があったが、そこは靄がたち、霞んで見えた。

 

その壁面沿いには、むき出しの支柱で支えられたキャットウォークが張り出されていた。

 

その幅は人がかろうじて二人並んで歩ける程度のもので、しかもその手すりは腰あたりしかない、頼りないものだった。

 

肝心のエレベーターは、そのキャットウォークの突き当たりにあった。ざっと3、400メートルは先にある。

 

しかもそのエレベーターというのも、壁面にむき出しに設置されたレールに、手すりで囲っただけのフロアがあるだけというシロモノだった。

 

ネルソン妖精がさっさと先へ進み出したので、マンバと那智たちもその後を追ってキャットウォークへと足を踏み出した。

 

たちまちキャットウォークが軋みをあげて小刻みに揺れ出した。

 

「あのさ」伊14が唾を飲み込みながら言った。「私、高所恐怖症だってみんなに言ってなかったっけ?」

 

「初耳だけど、アタシも気持ちはわかるぜ」

 

隼鷹も苦笑しながら、なるべく下を見ないように足を進めた。

 

今度の進む順番は、ネルソン妖精、千歳、伊14、隼鷹、那智、マンバだった。別に理由は無い。なんとなくだ。

 

しばらく進んだところで、最後尾のマンバは、ふと妙な胸騒ぎを感じて背後を振り返った。

 

マンバたちが出てきた扉は、しっかりと閉ざしてきた。しかし……

 

立ち止まったマンバに気づき、那智も振り返る。

 

「マンバ、どうした?」

 

「扉の向こうに、何かが居る」

 

「敵か!?」

 

「多分な」

 

答えながら、マンバはネルソン妖精に目を向ける。

 

ネルソン妖精も頷いた。

 

「深海兵士の反応がある。しかし安心しろ。扉はすでにロックした。耐爆扉だ。深海兵士の武装程度では破れん」

 

行くぞ、とネルソン妖精が再び先へ進もうとした、その矢先ーー

 

ーー扉に火花が散り、そこに一振りの幅の広い刃物の先端が突き出された。

 

「おいネルソン、深海兵士の武装がなんだって?」

 

「これは高周波ブレードだな。まだ試作段階の武器だったが、どうやら深海棲艦に奪われていたようだ」

 

「他人事みたいに言ってる場合か!」

 

ブレードは火花を撒き散らしながら分厚い扉を円形に切り抜いていく。ちょうど一人が潜り抜けられそうな大きさだった。

 

このまま穴を開けられて、そこから銃撃でもされようものなら、この狭いキャットウォーク場ではひとたまりもない。マンバたちは大急ぎでエレベーター目指して走り出した。

 

背後では扉がついに切り抜かれ、そこから一体の深海兵士が姿を現した。

 

マンバはそれを気配で悟り、振り向きざまにリボルバーを引き抜き、撃った。

 

大口径マグナム弾は狙い違わず深海兵士の頭部に命中しーー

 

ーー弾かれた。

 

「おいおい、なんだよコイツは……?」

 

それは、これまでに見たことのないタイプの深海兵士だった。

 

右手は手首から先が例の高周波ブレードとなっていた。

 

身体の一部が武器化しているという点では、他の人造兵士と同じだ。左手も機械の義手だが、こちらは普通の手だ。

 

だが、それ以外の身体そのものが、他の人造兵士=深海兵士と大きく違っていた。

 

その身体は、左右の前腕部以外は全て、まるで水晶のように透き通っていた。

 

「クリスタルボディだ」ネルソン妖精が言った。「人造兵士の骨格フレームに特殊偏光クリスタル製のボディを被せた、対レーザー兵器用の特殊モデルだ」

 

「なんでそんなニッチなもの作ってんだよ」

 

「レーザータイプ人造兵器の開発と同時進行の計画だった。最強の矛を作るなら、最強の盾も必要だろう」

 

「それを矛盾って言うんだよ。ったく、お前さんの言ってたイレギュラーてのはコイツのことかい?」

 

「いや、これも十分にイレギュラーではあるが、余のいうモノとはーー」

 

ネルソン妖精の言葉を遮るように、クリスタルボディがブレードを振りかざして突進してきた。

 

見たところ飛び道具は持っていない。マンバは再びリボルバーを連射した。

 

全弾命中するも、しかしそのボディを貫くことはできなかった。

 

続けて那智も小銃を撃ったが、やはり効かない。その突進の勢いを殺すことさえできなかった。クリスタルボディが猛然と距離を詰めてくる。

 

「なら、これでどうだ!」

 

マンバは左腕のレーザー銃を構えた。

 

「バカ、やめろ!」

 

ネルソン妖精が咄嗟に止めようとしたが、マンバはすでにレーザーを放っていた。

 

クリスタルボディが一瞬、硬直したように立ち止まり、同時に眩く真っ白に発光した。

 

「うっ!?」

 

焼けるような熱さを感じ、マンバは咄嗟にレーザー照射を止めた。

 

クリスタルボディの発光も止んだが、しかしその透明な身体には傷一つ付いていなかった。かわりに足元の床が黒く焦げている。

 

マンバの背後で、誰かが悲鳴をあげた。

 

「うわっ、熱ちっ、あち、髪の毛焦げた!? なんだよコレ!?」

 

隼鷹だった。豊かな長髪の先端の一部が焼け焦げ、かすかに煙が上がっていた。

 

「乱反射だ」ネルソン妖精が言った。「特殊偏光クリスタルはあらゆる光線兵器を分散させて無効化する。言ったはずだ、マンバ。貴様のようなレーザータイプ人造兵士に対する盾だとな」

 

「しれっと俺が気にしてること言うなよ、まったく!」

 

クリスタルボディが再び突進し、ついにブレードの間合いに入った。振りかざされたブレードが、マンバ目がけて振り下ろされる。

 

マンバは身を引いてかわそうとはせず、むしろ逆に相手の懐に飛び込み、その右手首を掴んで受け止めた。

 

「那智、先に行け! こいつは俺がーー」

 

「よし任せた」

 

「ーー食い止める。大丈夫だ、必ず追いつく。って、あれぇ?」

 

マンバが言い終えるまでもなく、彼女たちの足音はすでに遠ざかっていた。

 

「……もうちょっと、こう、ためらってくれても良いんじゃないかなぁ。ま、信用されてるってことにしておきましょ!」

 

組み合った状態から、マンバはクリスタルボディの腹部を力いっぱい蹴りつけた。まるで岩肌を蹴ったような感覚だが、マンバはその反動で再びクリスタルボディと間合いを離すことに成功する。

 

クリスタルボディは数歩ほど背後によろめいただけだった。すぐに体勢を立て直し、ブレードを振るって襲いかかってくる。

 

振り下ろし、薙ぎ払い、さらに突く。その鋭い刃を、マンバはバックステップで後退しながら紙一重でかわし続ける。

 

一方、那智たちはその戦いの現場から全速力で遠ざかっていた。

 

しかし、

 

「おいおい那智、ちょっと待てって」

 

隼鷹が戸惑いながら呼び止めた。

 

「あっさり置いてきちゃったけど良かったのか? 銃が効かなくても、みんなでかかりゃ倒せるかもしれないぜ?」

 

「何人いてもこの狭い足場では邪魔になるだけだ。それにまた髪を焦がされたいか?」

 

「そりゃ勘弁だ」

 

「私もだ。だから離れたんだ」

 

「お? ということは?」

 

「レーザーは乱反射されるが効かない訳じゃない。これだけ離れれば十分だろう。ーーマンバ!」

 

那智は立ち止まり、叫んだ。

 

「奴の腕を狙え! そこならレーザーで破壊できる!」

 

なるほどねぇ、とマンバも合点する。確かに前腕部はクリスタル製じゃないから乱反射されない。狙って当たるかは別問題だが。

 

(外して乱反射してもいいように、気遣って離れてくれたってことか)

 

そのことに内心少し安堵したが、よく考えてみれば

 

(あれ? でも乱反射したら俺の身が危ないのは変わらないし、結局これって彼女たちの身の保身じゃね?)

 

ドライな連中だなぁ。と思いつつも、那智のアドバイスがそれなりに有効そうであるのは間違いなかった。

 

しかしクリスタルボディにも那智の言葉は届いていたわけで、今まで威嚇するように見せつけていた右腕のブレードを、体を半身に向けて身体の影に隠した。

 

そのまま、じり、じりと間合いを詰めてくる。

 

マンバも僅かずつ後ずさりながら、敵の攻撃のタイミングを推し量っていた。

 

狙い撃つチャンスは、攻撃される瞬間しかない。

 

(後の先を取る、だ)

 

そうやって身構えるマンバに対し、クリスタルボディは、牽制か、それとも遠近感を狂わせるためか、半身のまま左手を突き出しながら近づいてきていた。

 

互いの距離が一足一刀、あと一歩踏み込めばブレードの届く間合いに入る。

マンバがそう思った、次の瞬間ーー

 

ーークリスタルボディの突き出した左手が、ブレードへと変形した。

 

「げっ!?」

 

すかさず左ブレードの鋭い突きが襲いかかってくる。

 

マンバは咄嗟に身を引いたが、その切っ先をかわしきれなかった。左肩に激痛が走る。

 

「うっ!?」

 

ブレードの先端に左肩を刺し貫かれた。クリスタルボディが連撃のため、すぐに左ブレードを引こうとする。

 

だが、しかし。

 

「逃すかよッ!」

 

左肩に刃を突き立てられたまま、マンバは身体を勢いよく左側にひねった。

 

これによって左手突きのままの姿勢でいたクリスタルボディの左肘に、可動域とは真逆の方向に負荷がかかる。

 

「このままへし折れろ!」

 

マンバはその左肘の支点めがけ、右腕でエルボーを叩き込んだ。

 

グシャ、という音を立てて、クリスタルボディの左肘関節があらぬ方向へと捻じ曲がった。

 

クリスタルボディは連撃を諦め、大きく後退した。左ブレードも、今度こそマンバの肩から引き抜かれたが、それはもはや、砕かれた左肘にかろうじてぶら下がっているだけだった。

 

クリスタルボディの右ブレードが閃き、使い物にならなくなった左前腕部を肘から切り落とした。切断された左腕がキャットウォークから放り出され、奈落の底へと落ちていく。

 

それには目もくれず、クリスタルボディがすかさず襲いかかってきた。

 

マンバはレーザー銃を構えようとしたーーだが、貫かれた左肩に激痛が走り、上手く狙いを付けることが出来ない。

 

マンバは咄嗟に右手で自らの左腕を掴み、銃口を無理やりクリスタルボディに向ける。

 

レーザー銃を発光、それはクリスタルボディの胸の中心部に命中した。

 

レーザー光が内部で乱反射し、クリスタルボディの全身が激しく発光する。

 

その一瞬だけ、クリスタルボディは硬直した。

 

レーザー発光0.7秒。その僅かな照射時間の間に、マンバは銃口を動かした。レーザー照射点が右前腕部に移動し、ブレードを加熱する。

 

しかし、足りない。破壊するには照射時間が少なすぎる。レーザー銃内部のエネルギーカプセルが放電し尽くし、レーザーが途切れた。

 

その直後、レーザー銃が間髪入れずに再発光した。照射時間0.3秒。レーザーが右前腕部を貫き、完全に破壊した。

 

「へ、どんなもんだい」

 

言い捨てたマンバの額に、どっと汗が噴き出した。

 

それはカプセルではなく、マンバ自身の生体電気によるレーザー発光だった。本来なら0.2秒しか放てないところを、コンマ1秒だけ限界を超えたのだ。それだけで、マンバは足元が覚束ないほどの目眩を感じていた。

 

「よう、クリスタルボディ、もう降参したらどうだい。もっとも、上げる腕も無いけどなーー」

 

目眩を堪えながら軽口を叩いたマンバだったが、直後に、クリスタルボディからのタックルを真正面からくらってしまった。

 

「ほげっ!?」

 

そのままキャットウォーク上に仰向けに倒される。すぐに立ち上がろうとしたが、クリスタルボディの足に、傷ついた左肩を思い切り踏みつけられた。

 

「がぁッ!?」

 

目の前が真っ暗になりそうな激痛だった。クリスタルボディは容赦無く、二度、三度とさらに踏みつける。

 

マンバが気を失いそうになった、その時、銃声とともにクリスタルボディの体表に火花が散った。

 

銃撃だ。那智が小銃を構え、連射しながら突進していた。

 

両腕を失っているクリスタルボディは銃撃の衝撃にバランスを崩し、よろめきながらマンバから離れた。そこに那智が飛びかかり、小銃の銃把で力の限りに殴りつける。

 

クリスタルボディは手すりの外側に身体を傾げ、そのままキャットウォークから落下していった。

 

「おい、マンバ。無事か?」

 

「すまん、那智。助かった」

 

「油断して軽口なんか叩くからだ。傷の具合はどうだ?」

 

「すっごく痛い。だがツバつけときゃすぐに治るよ」

 

「強がるな。擦り傷じゃ済まないだろう」

 

呆れながら差し伸べられた那智の手を取って、マンバは立ち上がろうとした。

 

だが、その目が、彼女の背後に迫っていた新たな影を捉えていた。

 

マンバは咄嗟に、那智の手を強く引き寄せた。

 

「マンバ、な、何をッ!?」

 

前のめりに倒れこんだ那智の後頭部スレスレを、鋭い手刀が横薙ぎにかすめた。

 

那智の髪が数本、切り払われ宙に舞う。

 

那智はマンバの上に折り重なるように倒れこみながら、即座に振り返り、不意打ちを仕掛けてきた相手を見た。

 

そこに、女が立っていた。

 

一糸まとわぬ裸身の女だ。輝くような銀の長髪、豊かな乳房、くびれた腰に、しなやかに長く伸びる四肢。その肌は透き通っていそうなほど病的なまでに青白く、そして蒼い燐光を放つ瞳が、二人を見下ろしていた。

 

那智の背筋にゾッと悪寒が走った。

 

こいつは人間じゃ無い。恐らく人造兵士を改造した深海兵士と同類だろう。

 

だが、それだけではない何かを、那智は感じ取る。

 

女が、二人を見下ろし、笑った。その瞬間、那智は悪寒の意味を悟った。

 

こいつは、“生きている”のだ。

 

“自我”を持ち、“感情”を持っている。しかしそれは決して共感を呼び起こすような生易しいものではない。

 

“殺気”。

 

無邪気な子供が虫けらをいたずらに殺すような、そんな純粋で残忍な殺気を、那智は本能的に感知した。

 

すぐさま、那智は振り返りざまに小銃を女に向け、引き金を引いた。

 

至近距離だ、外すはずもない。そう思った。

 

しかし、女は瞬時に上体を大きく反らして銃弾の連射を全てかわしてみせた。

 

そのまま数回のバク転を繰り返し、那智とマンバから距離を取る。

 

那智はその動きに目を見張りながらも、すかさず立ち上がって再度、小銃を構えた。

 

発砲。女の身体の中心を狙った三点バースト。だが女はそれも、まるで舞うように身体をくねらせて避け切った。

 

「那智、退け!」

 

マンバが左腕のレーザー銃を右手で支えながら構えていた。那智はマンバの背後に回り射線を空ける。

 

マンバがレーザーを放つ。光の速度で放たれたそれを、しかし、女はいともあっさりと避けてみせた。

 

(発砲の瞬間を見切られたのか!?)

 

マンバは驚愕した。馬鹿な、と否定したかったが、それ以外に避ける術はない。

 

しかし引き金も無い、念じるだけで発砲できるレーザー銃の発射タイミングをどうして読めるというのか。

 

マンバの視界の中、女が変わらず笑みを浮かべながらこちらを見つめていた。

 

怖いくらいの美貌だった。まるで、こちらの思考の奥底まで見通しているかのような、その蒼い瞳が、急速に迫ってくる。

 

マンバは咄嗟に右腕で顔面をガードした。

 

次の瞬間、女の強烈な飛び蹴りが腕に炸裂し、マンバは背後の那智を巻き込みながら派手に吹っ飛ばされた。

 

その様子に、エレベーター付近に居た隼鷹たちも女に銃を向けた。

 

「那智、マンバ、そのまま伏せていろ!」

 

女まではまだ三十メートル程の距離がある。三人は女目がけて一斉に銃を撃った。狭い足場では避けようが無い密度の弾幕が女に襲いかかる。

 

しかし女は、キャットウォークの外に身を踊らせることで、それをかわした。

 

女が飛んだのは、レグの壁側だった。女はそのまま垂直の壁を、まるで床を走るが如く、二本の足だけで走り登ってみせた。

 

女の足が壁を蹴り、再び宙を跳んでキャットウォーク上に着地する。そのあまりに非現実的な動きに、隼鷹たちも呆気に取られてしまった。

 

「あ、あんなのアリかよ……」

 

「あれが余の言っていたイレギュラーだ。他の深海兵士とは比較にならん運動能力と判断力を持っている。ーー遠隔操作では考えられない動きだ。完全に自律しているとしか思えない」

 

キャットウォーク上では、マンバと那智が再び立ち上がっていた。

 

「那智、また先にエレベーターへ行け」

 

「流石に今度は、貴様一人では無理だ!」

 

「わかってるよ。だからこいつを預ける」

 

マンバが腰からロープの先端を掴み、差し出した。島を出る前に手に入れたクライミング用のフック付きロープだ。

 

「そういうことか!」

 

那智はフックのついたロープの先端を受け取り、エレベーターに向けて走り出した。ロープはマンバの腰からスルスルと伸びていく。

 

残ったマンバ目がけ、女が猛然と突っ込んできた。助走をつけ、体重を乗せた右ストレートが襲いかかる。

 

マンバはそれを右腕だけでかろうじてガードした。女の細腕とは思えないその拳の重さに、マンバはガードの姿勢のまま、数十センチも背後に押し下げられた。

 

女はさらに軽やかにステップを踏みながら、左フック、さらに右、と立て続けに拳を浴びせてくる。

 

ガードが跳ね除けられ、腹部と顔面に衝撃をくらった。よろめくマンバに、女が息つく間もなくローキックを放つ。

 

だがマンバは、背後に身を引いてそれをかわす。

 

さらに女は流れるように身体を回転させ、回し蹴りを放った。死神の大鎌の如く円弧を描いて襲いくるその一撃を、マンバは上体を反らすことで紙一重でかわした。

 

マンバの前髪が数本刈り取られ宙に舞った。文字通りの紙一重だ。

 

(美女の開脚なんて絶景、じっくり拝みたいところだが、そうもいかないか!)

 

回し蹴りを終えた後の隙を突くつもりだったが、女は勢いを殺すことなく更に回転し、裏回し蹴りを放ってきた。

 

「拙いっ!?」

 

今度はかわしきれないと悟ったマンバは、傷ついた左腕を無理やり持ち上げ、両腕でその一撃をガードした。

 

しかしその衝撃に、マンバはキャットウォークの手すりから外へ、上体を大きく仰け反らされていた。

 

なんとか踏みとどまり上体を戻そうとしたところに、女がハイキックで追い討ちをかけてくる。

 

これもなんとか両腕でガードするも、再び仰け反らされた。それでもまだ落ちずに堪えるマンバに、女は三度キックを放とうとした。

 

が、女は不意にその動きを止めた。

 

女は、ガードを固めていたマンバの足元にしゃがみこむと、その両足首を掴んで、ひょいと持ち上げた。

 

「あら? あららぁ!?」

 

マンバの身体は手すりを支点にくるりと反転して、外へ放り出された。

 

「ーーって、まだまだぁ!」

 

落下寸前、マンバはキャットウォークの縁に右手をかけてなんとかぶら下がった。

 

片腕一本で必死に堪えるマンバを、女はしゃがみ込んだまま面白そうに見下ろしていた。

 

「なあ深海のお嬢ちゃん、女の子がそんなはしたないポーズしちゃいけないよ?」

 

「カイゾク、オ前、面白イナ……」

 

「……喋れたのか」

 

「当然ダ。ドレダケ長イアイダ、人間二付キ合ッテキタト思ッテイル」

 

「よし、じゃあここからは話し合いで解決しようぜ。暴力反対、戦争は何も生まない」

 

「断ル」

 

女のしなやかな手がマンバの手に重ねられ、掴んでいた指を引き剥がした。

 

「そんな殺生なぁぁ!?」

 

マンバが、落ちる。

 

が、その時、既に那智がエレベータに辿り着き、フックロープの先端をフロアの手すりに縛り付けていた。

 

マンバが落ちる寸前、エレベーターは起動。彼をロープでぶら下げたまま、フロアが上昇していく。

 

「お嬢ちゃん、人を落としていいのは、落とされる覚悟がある奴だけだぜ。覚えときな」

 

エレベーターとともに上昇しながら、マンバはレーザー銃を連射した。

 

狙いはキャットウォークを支えている支柱だ。それが次々と切断され、女の立っている足場が崩壊を始めた。

 

キャットウォークが完全に崩落する寸前、女は再び壁に向かって跳躍した。

 

壁走りだ。女は壁をまるで平面のように全力疾走し、マンバへと追いすがってきた。

 

「ちょっとチートすぎるぞ、お前!?」

 

女が壁面から跳躍し、ロープにぶら下がるマンバのすぐ上の位置にしがみついた。

 

マンバの額に冷や汗が浮いた。

 

そんな彼を見下ろし、女が笑う。

 

「フフフ……サッキ何カ言ッテイタナ。落トサレル覚悟ガアレバ、人間ヲ落トシテイイ……ダッタカ?」

 

「……聞き間違いだよ。困ってる人を見たら手を貸しましょう、だ」

 

「ソウカ。デハ、手ヲ貸ソウ」

 

女の指先に鋭い爪が煌めき、その爪先がロープに食い込んだ。

 

「わっ、ばかばか、やめろ、やめてお願い!?」

 

「覚悟ハ有ルノダロウ? 奈落ノ底二、落チテ逝ケ」

 

「ちくしょおおおお!!!」

 

女とマンバの間のロープが、ぷっつりと切れた。

 

「こんなところで終わってたまるかぁぁぁ………」

 

断末魔の絶叫を残しながら、マンバは真っ逆さまに落ちていった。

 

女は満足そうに笑いながら、眼下の霧に消えていったマンバを見送った後、その視線を上げた。

 

次の標的は、エレベータに乗っている那智たちだ。このロープをよじ登り彼女たちを襲う。そう思っていた女の視界に映っていたのは、ロープにナイフを押し当てている那智の姿だった。

 

「マンバめ、無茶をするからだ。貴様の仇はとってやるからな」

 

那智は張り詰めたロープにナイフの刃を食い込ませた。

 

その足元では、女が血相を変えながら物凄い勢いでロープをよじ登ってきていたが、しかし間に合うはずもなく、那智はロープを切断した。

 

「ヴァァァァァァ!!! 憎ラシヤァァァァ!!!」

 

この世のものとは思えない絶叫を上げながら、女もまた落ちていった。

 

「はぁ…」隼鷹が 安堵の息を吐いた。「とんでもない敵だったな。あいつ、深海兵士っていうより深海棲艦そのものなんじゃねえか? なあネルソン、どうなんだ?」

 

その質問に対する答えは無かった。そもそもネルソン妖精自体が見当たらない。

 

「アイツ、どこ行ったんだ?」

 

その問いには伊14が答えた。

 

「ネルソンさんなら、マンバさんが落っこちる寸前に“世話がやける”とか言って飛び降りていったよ」

 

「助けに行ったのか。意外と面倒見が良いんだな、アイツ」

 

「でも助かるのかしら?」

 

千歳は下を見下ろした。既に海抜百数十メートルに達し、霧に覆われた眼下の様子は窺い知れない。

 

「奴の運次第だな」那智が言った。「生きていたらまた会える。もし死んでいたら……その時はレディに、立派な最期だったと伝えてやろう」

 

隼鷹も頷いた。

 

「死を伝えられる相手が居るんだ。それだけでアイツは幸せもんだよ」

 

その言葉を最後に、もう誰も下を見る者は居なかった。散った者への敬意を心に秘め、先だけを見据えていた。

 

彼女たちは戦士だった。

 

 

 

 

 

女は、自由落下の直後から、空気抵抗を利用して壁面側へと落下軌道を修正していた。

 

落下速度は毎秒44.3メートル、時速にして159キロでレグ壁面に接触した女は、その勢いのまま壁面を斜め方向に駆け下りた。

 

壁面の端に達すると即座に折り返し、そうやってジグザグに壁を駆け下りていく。

 

そうして落下の速度を徐々に殺しながら、女はついにレグの海面付近まで到達した。

 

そこはちょうど、放棄された千歳の飛行甲の上だった。

 

最後の10メートル近くを飛び降り、飛行甲板に着地した女は、先ず自分の身体の状態を確認した。

 

両足の裏が摩擦でズタズタになっていたが、この強化された人造兵士の身体なら、致命傷でなければ、その傷はすぐに回復していく。足の裏程度の傷ならば、後一分とかからず治りきる。

 

その他にはまったく異状は見当たらなかった。まさに超人の身体だった。

 

「悪クナイ」

 

女は確認を終えると、自分が落とされた頭上を見上げた。周囲は霧に覆われ、白い闇と化していた。

 

「アノ艦娘ドモメ、面白イジャナイカ……」

 

遊び甲斐がありそうだ。女はそう呟き、その場から歩き出そうとした、その時。

 

不意に霧の奥に気配を感じ、踏み出そうとした足を止めた。

 

「よお、お嬢ちゃん。遊び相手をお探しかい?」

 

「……生キテイタカ、シブトイナ」

 

「お前さんがピンピンしてるんだ。俺だってこれくらいできるさ」

 

霧の奥から、火の付いていない葉巻を咥えたマンバが、その姿を現した。

 

「よく言うわ。余のお陰ではないか」ネルソン妖精も現れた。「余が妖精を集めて受け止めてやらねば、さすがにその身体でも死んでいたところだ」

 

「あっさりバラすなよ。ブラフかけてプレッシャー与えようと思ったのに」

 

「助けてやったのに礼が聞こえんな」

 

「ありがと、感謝してる、命の恩人だ、惚れたよ、全部終わったらデートしようぜ」

 

「願い下げだ」

 

「オヤ、私ト遊ンデクレルンジャ、ナカッタノカイ。カイゾク?」

 

「……ああ、喜んで」

 

マンバは葉巻を咥えたまま、両腕でファイティングポーズを取った。その左肩の傷は既に塞がっていた。

 

「さぁ……第2ラウンド開始と行こうぜ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マンバと女が軽空母・千歳の飛行甲板上で再び対峙していた頃。

 

ポーラは既にその格納庫を離れ、レグ内を彷徨っていた。

 

(ポーラ……)

 

「やっぱり、聞こえる……」

 

それは声というには、あまりにも微かなものだった。いや、本当は声ですらないのかも知れない。

 

どこから聞こえてくるのかも分からない。それでも、

 

(ポーラ……)

 

はっきりとわかる。誰かが、彼女を呼んでくれている。

 

それは初めて聞く声だった。しかし、どこか懐かしく、知っている気がした。

 

(ポーラ……)

 

「誰なんですか。何処にいるんですか!?」

 

(ポーラ……こっちよ……ポーラ……)

 

「!?」

 

声が、呼びかけに応えてくれた。間違いない、自分は今、導かれている。ポーラはそう確信した。

 

さらに進んだところで、通路が二手に分かれていた。

 

しかしポーラは、どちらに進めばいいか分かっていた。

 

(こっちよ……ポーラ……)

 

「わかりました、右ですね!」

 

(違うわ。左よ…ポーラ……)

 

「あ、ハイ」

 

大人しく声に従って進む。

 

(このまま300メートル進んだら階段があるから、そこを下りた後に右手のドアを開けて、その次の交差点を左に曲がるのよ)

 

「なんだか急に具体的になってきました」

 

(大丈夫? ちゃんと覚えられる?)

 

「え〜っと、この先の階段を…上がる?」

 

(下りるのよ。…あぁっ!? そこの階段じゃないわ。まだ先よ、先!)

 

「は〜い」

 

てくてくと歩き、下りて、開けて、また歩いて、曲がる。

 

(ここが最後の扉よ。……はぁ、やっと着いた……)

 

「お疲れさまでした〜。……で、あなた様は、どちら様ですか?」

 

(え? 今更? ていうか、まだ気づいてなかったの?)

 

「何回か聞きましたけどスルーされました」

 

(そうだったかしら。そうね、ごめんなさい。私も今の状況にまだ困惑してるというか……口で言うより、直接見てもらった方が早いわ。扉を開けなさい。私はそこに居るわ)

 

「むぅ〜、焦らすなんてイジワルさんですね〜」

 

(いいから開けなさい)

 

「は〜い」

 

扉を開けると、その先は広大な空間だった。

 

高い天井に、深く掘り下げられた渠底。そこは、レグ内部に設営された入渠ドックだった。

 

そして、そこにはーー

 

「あ……あ……あ……!?」

 

そこに、一隻の重巡洋艦が鎮座していた。

 

船体は傷つき、構造物や武装の殆どが破壊され、ひしゃげていたが、間違いない。

 

見忘れるはずがない。

 

「ざ……ザラ姉さまぁ!」

 

(もう、ポーラったら、気づくのが遅すぎるわよ)

 

ザラ級一番艦・ザラの甲板上に、ポーラによく似た面立ちの女性の姿が、ぼんやりと浮かび上がっていた。

 

 

 

 

 




次回予告

俺は何故この世界に転生したのか。

私は何故この身体になって生き延びたのか。

その答えを決めるのは、決められるのは、己自身の選択と決断、ただこれのみ。

進んだ先は邪の道か。しかし立ち止まったままでは地獄が迫る。

次回、第六話「感動の再会(多分)」

「ザラ姉さま、もう心配しないで。大丈夫! ポーラ、ちゃんと旗艦を務めます。ばつびょ〜う〜」
(ポーラ……お酒はダメだからね……)
「景気付けの一杯はカッセンノナライって那智さん言ってました!」
(え、そうなの? よ、よくわかんないけど……なら、良いのかなぁ…)
「(。・ω・。)チョロイ」
(聞こえたわよポーラ!)


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第六話・感動の再会(多分)(1)

マンバは海賊だ。だから当然、その生き方は海賊的だった。

 

誰にも従わず、自分の決めたルールにだけ従った。

 

あらゆる困難を自力で乗り越え、邪魔する者は全て力ずくで退けてきた。彼にはそれだけの力があった。

 

彼は無敵の海賊だった。

 

その筈だった。

 

今、マンバは苦戦していた。

 

(まいったね、こりゃ)

 

マシンガンのような左ジャブの連打、からの渾身の右フック。

 

かつてヘビー級プロボクサーさえもノックアウトしたマンバ自慢のコンビネーションは、女にかすりもしなかった。

 

女は後ろ手に手を組み、遊んでいるかのような態度でゆうゆうとマンバの拳をかわしていた。

 

実際、遊ばれていた。

 

女はかわすだけではなく、時折、前屈みになって頬を差し出して挑発さえしていた

 

「ホラ、当テテミロ」

 

(ふざけた奴め!)

 

マンバは差し出された頬めがけ左フックを放ったが、女が素早く顔を引いたため、鼻先すれすれでかわされた。

 

しかしそれは女の注意を頭部に向けるための囮パンチだ。隙だらけになった女の腹部に、すかさず右アッパーを叩き込む。

 

今度こそ当たった。マンバの右拳は女の白い腹部に食い込んだ。だが、しかし、

 

「イイ攻撃ダ。少シムズ痒イゾ」

 

「ーーっ!?」

 

その柔らかそうな見た目とは裏腹に、女の腹部は驚くほど硬かった。

 

まるで重いサンドバッグを殴ったかのような感触とともに拳が押し返される。しかしマンバは怯むことなく、さらに左ストレートを女の顔面めがけ放った。

 

女はボディを打たれたダメージなど無いかのように上体を横に流して、その拳を避けてみせた。

 

直後に、マンバの腹部に女のヒザ蹴りが叩き込まれた。

 

「うぐっ!?」

 

呻き声とともに咥えていた葉巻を落としそうになったが、なんとか堪える。中々の威力だが、この程度で悶絶するほどヤワな腹筋はしていない。

 

(まだまだ、ここからだ!)

 

マンバは体勢を崩すことなく、逆に女を押し返すように前へと踏み込んだ。

女が素早く後退する。

 

マンバはさらに早く前進し、拳を繰り出した。左右のワンツー、相手を自分のペースに引きずりこむための息をつかせぬラッシュだ。

 

女は最初の数発は余裕でかわしたものの、その後の立て続けのラッシュは避け切ることができず、ついに後ろ手を解いてガード姿勢を取った。

 

(よし!)

 

マンバはそのガードめがけ、さらにラッシュを重ねた。ガードを崩すためでは無く、むしろ固めさせるための攻撃だ。

 

「おらおらおらぁっ!」

 

拳の勢いを止めずに、ラッシュの狙いを顔面から徐々にボディに移していく。それに合わせて女もガードを下げた。

 

「もらったぁ!」

 

間髪入れずに右アッパーを女の顔面めがけ下から打ち上げた。マンバの拳が天へと突き上がり、女が身体を大きく反らしながら空中で一回転した。

 

攻撃成功か。

 

(うっ・・・!?)

 

いや、違う。拳を上空に突き上げた刹那、その感触の軽さにマンバは戦慄した。

 

直後、アッパーに合わせて跳んだ女の脚が、マンバの顎を下からしたたかに蹴り上げた。

 

バク宙ですんなり着地した女に対し、マンバは受け身もとれずに背中から甲板に倒された。

 

顎を蹴られた際に宙高く飛ばされた葉巻が、マンバの顔の横にポトリと落ちる。

 

眩んだ視界の中で、霧に閉ざされた空がぐるぐると回っていた。

 

(ああ、ちくしょう……)

 

昔、何度もこんな風に空を見上げたことを思い出した。

 

まだ幼く、非力だった頃。身寄りもなく、住むところも、食べるものもなく、理不尽な暴力に苛まれて数え切れないほど地べたを這いずりまわった、そんな過去を思い出した。

 

非力な者は暴力に屈服することを強要される弱肉強食の世界。それがマンバの世界だった。

 

強くなければ生きられなかった。弱い奴から死んだ。負ければ死、そんな人生だった。

 

(死にたくねえな……)

 

マンバは曖昧な意識でそう思った。

 

(あ、そういや、俺もう死んでたんだっけ……)

 

トラックに轢かれて無様に死んで、そしてこの世界にやってきた。

 

(ホントかよ……)

 

トラックに轢かれて異世界に転生なんて、どこの空想小説だ。それに左腕のレーザー銃に、おまけに海賊船までそのまま付いてくるなんて都合が良いにも程がある。

 

転生の神さまなんて者が居るとすれば、こんな海賊風情に随分と便宜を図ってくれたものだ。

 

生前、神の機嫌をとった覚えも、赦しを請うた覚えもない。神はそれでも赦します、なんてほざいた坊主に懺悔を勧められたことがあったが、断った。罪を語るだけで一週間はかかりそうだ。

 

(……そもそも、俺の過去は……記憶は、本物なのかーー)

 

「ーーマンバ!」

 

「ッ!?」

 

ネルソン妖精からの呼びかけに、マンバは意識を取り戻した。

 

「マンバ、何をやっている。銃どころかレーザーさえ避ける敵を相手に、素手で勝てるわけがないだろう」

 

ネルソン妖精の呆れ声を背に聞きながら、マンバは立ち上がった。

 

気絶していたのは一瞬、恐らく二秒か三秒程度だろう。

 

女は、倒れていたマンバに追撃もせずに、離れたところでニヤつきながら立っていた。

 

マンバは頭を振って意識をハッキリさせながら、言った。

 

「昔な、剣の達人と戦ったことがある。マシンガンの連射も全部叩き斬っちまうイカれた野郎だった」

 

「ほう? で、その達人相手に素手で勝ったと言うのか?」

 

「いや、タートル号の主砲をぶち込んで勝った」

 

「貴様に正々堂々という言葉は無いのか」

 

「俺は海賊だぜ」

 

マンバは足元の葉巻を拾い上げて、咥え直した。そのままいつもの様に左手のライターで火を点そうとして、思い留まった。

 

機械式の義手。それはかつての自分のトレードマークでもあった。

 

「俺は海賊……海賊マンバだ……」

 

自らに言い聞かせるように呟きながら、マンバは左腕を女に向けて真っ直ぐに差し伸ばした。

 

レーザー銃発射の構えだ。しかしタイミングを気取られないように、左腕はまだ変形させていない。

 

「フフ、良イダロウ。付キ合ッテヤル」

 

女は、薄ら笑いを浮かべたまま、まるで撃ってみろと言わんばかりにずかずかと歩み寄ってきた。

 

マンバは左腕を向けたまま、女が近づいてくるのを待った。

 

距離5メートル、4メートル、3メートルーー

 

(ーーここだ!)

 

マンバがそう思った瞬間、女が、マンバから向かって左側へ素早く回り込んだ。

 

まるで瞬間移動のようなスピードだった。しかも、そこは左手を前方に伸ばしているマンバにとって死角にあたる位置でもある。

 

女はそこからマンバめがけ、鋭い手刀を放っーー

 

ーーマンバは身体を右へとひねった。

 

女に対して背を向けた形からの裏回し蹴り。大きく弧を描いて振り抜かれた右足のかかとが、女の側頭部に炸裂した。

 

「ーーガッ!?」

 

女がレーザー銃を避けることを見越しての迎撃だ。

 

マンバは素早くリボルバーを引き抜きながら、よろめいた女に向きなおり、引き金を引いた。

 

至近距離からの三連射。

 

だが、それは女に命中しなかった。

 

「イイ攻撃ダ。ダガ、マダ遅イ」

 

「くっ!?」

 

よろめいたかに見えた女だったが、リボルバーを向けられた瞬間、即座にその銃口を手で払いのけてみせたのだ。

 

リボルバーごと右腕を大きく外側に払いのけられ、ガラ空きになってしまったマンバの懐に女の拳が突き刺さる。

 

「ごふっ!?」

 

みぞおちに一発くらって前屈みにされたマンバの顔面に、今度はヒザ蹴りが命中した。

 

視界に火花が散らせながら大きく仰け反ったマンバに、女はさらに追い討ちをかけるべく、その左腕を掴んで、ぐいっと引き寄せた。

 

そのままマンバの背中側にまわして捻りあげる。レスリングで言う所のハンマーロック、柔道での腕ひしぎだ。

 

「オ前自慢ノ奥ノ手ヲ、コノママ圧シ折ッテヤロウ」

 

「ぐぁっ!」

 

怪力で容赦なく捻り上げられ、左腕の肩までの関節が軋んだ。悲鳴を堪えてわななくマンバの口元から、咥えていた葉巻が落ちる。

 

足元に落ちたそれを、マンバは踏み潰した。次の瞬間、耳をつんざくような爆音と共に強烈な閃光が放たれた。

 

葉巻型スタングレネードだ。

 

自らの意思でそれを炸裂させたマンバは当然ながら対策済みだったが、女にとっては完全な不意打ちだった。

 

その上、常人よりもはるかに鋭敏な感覚をもった肉体だけに、その聴覚と視覚は完全に麻痺していた。

 

「ざまみろ! これで俺の勝ちだっーーって、あれ? あれ?」

 

拘束から逃れようとしたマンバだったが、驚くべきことに、左腕を掴むその手はわずかも緩まなかった。女は感覚を麻痺させられたまま、彫刻のように微動だにせずマンバを捕らえ続けていた。

 

「お前さん、ホント、とんでもないねぇ…」

 

とんでもない強敵だ。だから、本当の奥の手を使うしかない。

 

マンバの決意と共に、その左腕がーー

 

ーーブレードへと変形した。

 

女に掴まれていた左前腕部そのものがブレード化したことで、その指を切断し、マンバは遂に拘束から逃れることに成功した。

 

マンバに逃げられた女が、感覚を麻痺させたままにもかかわらず、即座に後方へ跳び下がろうとする。

 

「逃がすかよッ!」

 

マンバは振り返り様に、女めがけてブレードを横薙ぎに振り抜いた。

 

手応えはあった。だが、致命傷じゃない。片足を斬っただけだ。

 

後方へ10メートルばかりも跳躍した女だったが、しかしうまく着地できずに甲板上を転がった。

 

その両手の指と、そして右足の向こう脛は、わずかに皮一枚残してぶら下がっているだけだった。

 

「ソノ左腕……マサカ、コンナ手ガ残ッテイタトハナ…」

 

「こんな手で悪かったね」

 

女の麻痺が回復しつつあることを見抜いたマンバは、右手のリボルバーを女に向け、躊躇なく引き金を引いた。

 

女が片足のみにもかかわらず、再度、後方へ大きく跳躍してその弾丸をかわした。

 

空中の女めがけ、マンバはさらに二発を撃ち込む。女の身体が空中で大きく仰け反り、そのまま飛行甲板の淵から、船体の外へと落下していった。

 

「やったかな?」

 

マンバは飛行甲板の端から海を見下ろしたが、女の姿はどこにも見当たらなかった。

 

「逃げられたな」

 

いつのまにか、ネルソン妖精も隣で同じように見下ろしていた。

 

「だけど深傷を与えたぜ」

 

「弾丸は空中で避けられた。それに高周波ブレードの切り傷は綺麗だからな。人造兵士の自己治癒能力なら、しばらくくっつけておけばすぐに繋がる。……貴様の肩の傷と同じように、な」

 

言われて、マンバは自分の左肩をさすった。

 

クリスタルボディに刺し貫かれた傷は、この短時間で完全に塞がり、痕さえも残っていなかった。

 

「おっかない身体だこと」

 

「余が設計し、余が創った」

 

ネルソン妖精はそう言いながら、体内に隠し持っていたレーザー銃を取り出した。マンバから預かっていた義手だ。

 

「俺は、間違いなくお前に創られた人造兵士だってことか」

 

「そうだ。貴様自身も気づいていたのだろう。だから、先に落下していたクリスタルボディの左腕と、自分の左腕を換装することを思いついた」

 

「駄目元のつもりだったんだけどな。……だが、ぴったり違和感なく嵌ったときには、流石に俺もショックだったぜ」

 

マンバはブレード状の左腕を取り外し、元のレーザー銃を嵌め直した。マンバの意思一つで、レーザー銃が義手に変形する。

 

「ネルソン、お前は最初から、俺の正体に気づいていたはずだ。なのに何故、黙っていた?」

 

「貴様は観察対象の一つだった」

 

「観察?」

 

「貴様は本来、余が建造した最初の防衛軍艦【轟天号】の管制システム、その一部だった。艦娘と同様の能力を付与した貴様を通じて【轟天号】を制御する。……そのはずだった」

 

だが、イレギュラーが発生した。と、ネルソン妖精は語った。

 

試験航海に出た【轟天号】は突如として制御不能となり、あろうことか自ら海賊を名乗り、世界の海を好き勝手に放浪するようになってしまったのだという。

 

「それが俺とミュータントタートル号ってことか。なぁるほど、道理でタートル号を修理できる施設がここにしかない訳だ」

 

「むしろ今まで自分の正体も知らずに居た方が驚きだ。その上、何も知らずにここへ帰ってきたとは、本当に呆れた奴だ。もっと深い意図があるのかと疑って警戒していた余がバカみたいではないか」

 

「八つ当たりはよしてくれよ。疑っていたのはお前の勝手だ」

 

「当然だ。結局、貴様は何者なのだ。その自我はどこから来た。誰に与えられた」

 

「……ハハッ」マンバは笑った。「その質問を聞けて嬉しいぜ、ネルソン」

 

「貴様、どういう意味だ」

 

「俺の身体は、確かにお前さんに創られたものだが、俺の記憶と過去はそうじゃないってことだ」

 

「自分が何者か分からないのに、なぜ笑える? 不安ではないのか?」

 

「俺が何者であるかは、俺が決める。俺にはその自由がある。俺はマンバ、海賊マンバだ」

 

「フン、自由か。貴様のそれは幻とも偽りともつかん、曖昧な記憶に依って立つ不安定なものだ。いつか真実が明らかになったとき、貴様はそれでも“海賊マンバ”でいられるのか見ものだな」

 

「まあな。それでも平気だって言い切れる自信は、実は俺にも無いよ。……だから、俺にはレディの存在が必要なんだ」

 

「貴様が、“海賊マンバ”であり続けるために、か?」

 

「彼女は、この世界で“海賊マンバ”を認めてくれた最初の存在なんだ。俺の記憶や過去は偽りかもしれないが、あいつと過ごした数年間は疑いのない確かな現実だーー」

 

それに、とマンバは続けた。

 

「ーーそれに、あいつには記憶が無い。過去も、名前も……俺と同じで、この世界のどこにも居場所が無いんだ。だから、あいつが記憶を取り戻すまでくらいは一緒に居てやりたいのさ」

 

「言葉が矛盾しているな。レディが記憶を取り戻したら貴様の元を離れるかも知れないぞ。その時はどうするつもりだ。泣いてすがって引き止めるのか?」

 

「やだよ、みっともない。来る者は拒まず、去る者は追わず。男なら黙ってやせ我慢で見送るさ」

 

マンバは肩をすくめながら葉巻を取り出し、左手の指で火を点けた。

 

「それよりネルソン、もう一つ教えて欲しいことがある」

 

「なんだ」

 

「ポーラのことだ。……あの娘も、俺と同じ人造兵士なんだろ」

 

「……そうだ」

 

「ポーラも観察対象だったのか。だから二年もの間、手を出さなかったのか」

 

「その通りだ。だが、貴様とはやや事情が違う」

 

「…あの娘の自我の出どころか」

 

「察しがいいな。そうだ。ポーラは、あの重巡POLAそのものだ。今から二年前、欧州艦隊が送り込んできた実験用無人艦艇・ザラ級重巡洋艦、そのサポートAIのプログラムを余が人造兵士プラントに転送し、彼女を生みだしたのだ」

 

「お前が、自ら創ったというのか?」

 

「万が一に備えたスペアの開発、その実験だった。貴様という事例があったからな、人造兵士への自我の転送は有力なプランの一つだ。あの深海棲艦の女も、その実験体の一体を乗っ取られたものだ」

 

「じゃあ、お前は、もしこの要塞が破壊されそうになったら……」

 

「そんなシチュエーションに陥る確率は、統計上、無視できるくらいに低かったのだがな。どこかの誰かが、余計なモノを引き入れてくれたお陰でこのザマだ」

 

「どこの誰だろうねぇ」

 

「ふざけるな、馬鹿者」ネルソン妖精は言い捨てながら踵を返した。「付いて来い。貴様を人造兵士プラントに案内してやる」

 

「なんでまた?」

 

「深海棲艦の侵食が思っていた以上に早い。あの酔っ払い艦娘どもが間に合わない可能性もある。そうなれば、余も覚悟を決めるしかあるまい……」

 

「………」

 

そう言って先を進むネルソン妖精の背中を、マンバは黙って追いかけた。

 

 

 



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第六話・感動の再会(多分)(2)

 マンバがエレベーターから落っこちて数分後、彼のことをすっかり過去の男扱いした那智たち四人組は、レグの最上層にあるアッパーデッキへと到着した。

 

 エレベーター最上階は格納庫の中のようにガランとした広い空間であり、そこにネルソン妖精が言った通りゼンマイ戦車が待機していた。

 

 “戦車”と名がついているが、その外観は二足歩行ロボットによく似ている。

 

 戦車の車体の両脇に二本のアームが伸びており、重機のように物を持ち上げたり退かしたりすることができる。

 

 車体下部には、つま先からかかとまで前後に幅の広い左右二つの脚部が地面を踏みしめている。この脚部の裏側には車輪が付いており、平坦な路面ならローラー走行が可能だ。

 

 また、一見二本脚に見えるものの、これは実は四本脚であり、前半分と後ろ半分が独立して稼働し、障害物を安定して乗り越えることができた。

 

 武装は車体上部中央に搭載された20ミリ機関砲が一基と、その後方右側にチャフロケットランチャー、そして左側にバズーカ砲が搭載されている。ちなみにこれらはすべて手動操作だ。なので20ミリ機関砲と、そしてチャフとバズーカ砲の間に、それぞれ射手席が(剥き出しで)取り付けられていた。

 

 那智が機関砲の射手席に着いた傍で、隼鷹、千歳、伊14が機関砲の脇にあるハッチから内部に潜り込んだ。

 

「わ、狭い狭い。二人乗りだ、これ」

 

 ぎゅうぎゅう詰めになった操縦席から伊14が這い出してきた。那智は自分の背後の席を指し示す

 

「私と一緒にタンクデサントだな。チャフとバズーカ砲の射手を頼む。――隼鷹、千歳、マニュアルはあったか?」

 

「ああ、見つけたぜ」

 

 足元のハッチ越しに、隼鷹が分厚いマニュアルブックを開いたのが見えた。

 

 那智たちがゼンマイ戦車を動かせるよう、ネルソンが用意したものだ。ただ、その分厚さは辞書並みだったが。

 

 ゼンマイ戦車は進化しすぎたサイバー戦に、アナログ技術で対抗するべく開発された兵器だ。

 

 ハッキングやジャミング、EMP攻撃を無効化するため電子機器は一切使われていない。動力はゼンマイだし、武装は全て人力による直接照準、二本のアームや四本の脚部の操作は操縦席にある無数のレバーを二人がかりで操作する必要があった。

 

 コンピュータのアシストも無くこんなシロモノを動かすのだ。当然、その操作は複雑怪奇なものとなり、そのマニュアルが大辞典並みとなるのも仕方ないことだった。

 

 こんなものを素人に動かせというのか、そんな無茶な。と那智はネルソンに文句を言いたい気分だったが、あいにく側に妖精はいなかった。マンバを追って落下していって以来、特に反応は無かったが、そのうち人造兵士なり何なりを用意してまた接触してくるだろう。

 

 と考えていると、足元で隼鷹が声を上げた。

 

「お、イケる、イケる。那智、動かし方は大体わかったぜ」

 

「本当か? そのバカみたいに分厚いマニュアルでよく理解できたな」

 

「空母の発艦マニュアルに比べたらまだ易しい方さ。アタシら軽空母はそれを読み上げながら艦載機を飛ばすんだ。龍驤流陰陽式発艦術で身につけた速読法がこんなところで役に立つとはね」

 

 隼鷹がマニュアルを読み終え、千歳に手渡す。彼女もページを凄い勢いでめくり始めた。とても読めるスピードとは思えないが、それでも千歳は全てを把握したらしい。

 

 千歳はマニュアルを閉じると、すぐに席に着いて、目前に乱立するレバーを操作し始めた。

 

「先ずゼンマイを巻くわ。エンジンを回すわよ」

 

「エンジン?」

 

 那智の質問に、隼鷹が答えた。

 

「人力じゃ巻けないくらい硬い特殊合金製のゼンマイだからな。巻きとり用の内燃エンジンがあるんだ。2ストロークのシンプルなやつさ」

 

 隼鷹が喋りながら、自分の席近くにあるコックを捻った。

 

「千歳、燃料バルブを開いたぜ。準備よしだ」

 

「了解。行くわよ」

 

 千歳が足元の紐を引っ張り、セルモーターを回す。軽い振動と共にエンジン音が響き渡る。

 

 那智がポツリと呟いた。

 

「ゼンマイじゃ無く、普通にこのエンジンで動かせばいいのに」

 

「せいぜい軽自動車並みの馬力しか無いエンジンじゃ無理だよ。逆に考えたらいい。ゼンマイ戦車だからこそ、この程度のエンジンで馬鹿でかい車体を動かせるんだってな」

 

「そんなものか」

 

 軽いエンジン音に混じってガッチャン、ギッチョンとゼンマイを巻く音が響く。

 

「イヨ?」

 

 那智は、伊14が戦車から降りて、離れた場所で這いつくばっているのを見つけた。

 

「何をやっているんだ?」

 

「足音が聞こえるよ」伊14は片耳を床に押し付けたまま答えた。「五、六……七……十人くらいの集団が走ってくる。もうすぐこっちに来るよ」

 

「人造兵士か、それとも深海兵士か。イヨ、戦車に戻れ。迎撃準備だ」

 

 那智は機関砲に20ミリ弾の弾帯を給弾する。伊14が戦車によじ登り、傍に付いて足音がした方を指差した。

 

「あっち。あそこの脇のドアの方から来るよ」

 

 那智はその方向に機関砲を向け、引き金に指をかけて待った。

 

 伊14の言う通り、扉の向こうから微かに足音が重なり合って聞こえてきた。

 

 その足音が、止まる。

 

(こちらが狙っていることに気づかれたか?)

 

 ドアごと吹き飛ばすか、と考えたところで、ドアがゆっくりと開かれ、そこから旗が突き出されたのが見えた。

 

 旗と言っても鉄パイプにボロ布を巻きつけただけのモノだ。それがドアの陰から突き出されて、ゆっくりと上下に振られている。

 

「ねえ那智さん。あれって、もしかして“撃つな”ってことかな?」

 

「ネルソン制御下の人造兵士だな。――銃口を上げて出てこい」

 

 狙いをつけたまま呼びかけると、那智の指示通り、人造兵士たちが武器と一体化した腕を上に向けて姿を現した。

 

 その数、九体。一個分隊だ。その内の一体が行く先を示すように旗を振った。

 

「案内してくれるらしい。隼鷹、千歳、準備はいいか?」

 

「ゼンマイ巻き取り完了。いつでもイケるぜ。走行はアタシが担当するから針路と速力指示をくれ」

 

「私はアームや車体制御を担当しますね」

 

「了解だ。隼鷹、人造兵士の足に合わせる。時速10キロで前進だ」

 

「あいよ」

 

 先導して走る人造兵士たちを追って、ゼンマイ戦車もガタゴトと走り出した。

 

 が、人造兵士たちとの距離は見る見ると開いていく。

 

「増速、15キロ――いや、20キロだ」

 

「マラソン選手並みの速さだな。大したもんだ」

 

 思ったよりも早いペースで一行は進む。しばらく直進したところで、壁に突き当たった。

 

 人造兵士が、壁に向かって銃を撃つジェスチャーを示した。

 

「ぶっ壊せと言うことだな」

 

 那智は機関砲の引き金に指をかけた。壁の向かって左下に狙いを定め、引き金を引く。六銃身バルカン砲が高速回転し、毎分300発の速度で20ミリ弾を連射した。

 

 那智は引き金を引いたまま、左下から左上、右上、右下と銃口を振って壁を四角形に撃ち抜いた。

 

「隼鷹、このまま前進。千歳はアームを前方に突きだせ。壁を押し破る!」

 

 人造兵士が左右に道を開けた間を、ゼンマイ戦車は壁に向かって突撃。四角に弾痕が穿たれた壁をアームが押し破り、戦車は外に出た。

 

 目の前にアッパーデッキの景色が拡がった。まるで工場地帯のようだな、と那智は思った。平屋建ての大きな建物が幾棟も連なり、化学プラントのようなパイプが建物間を縦横無尽に走っている。

 

 その景色の遥か彼方には、ひときわ巨大な尖塔がアッパーデッキ全体を睥睨するかの様にそびえ立っていた。

 

 あれが目指すべきセントラルタワーだろう。ネルソン要塞の中心部にして中枢だ。

 

 今は内部のセントラルコンピュータは深海棲艦に侵されて占拠されてしまっており、そこに、このゼンマイ戦車を突っ込ませ、搭載しているEMP爆弾を爆発させるのがこの任務の目的だった。

 

 那智たちの居る場所からタワーまで直線距離でおよそ7~8キロぐらいだろうか。しかしそこまでそう簡単に辿り着けそうには無かった。

 

 アッパーデッキは建物が密集していて迷宮の様になっていたし、その上、ネルソン要塞側の戦力と深海棲艦に乗っ取られた戦力とで激しい戦闘が行われていた。

 

 遠くの建物で閃光が上がったかと思うと、数秒遅れて爆発音が轟いた。大量の黒煙を吹き上げて炎上するその建物の上空を無人攻撃ヘリが横切って行ったが、それもどこからか放たれた地対空ミサイルに撃墜され、火の玉となって墜落していく。

 

 あたりにはそんな銃声と爆発と炎上による混沌が拡がっていた。

 

「盛大にパーティーをやっているな。イヨ、EMP弾は持っているな?」

 

「うん」

 

「一発しかない最後の切り札だ。その発射も含めて攻撃指示は私が行う。全周警戒を厳となせ」

 

「了解、全周警戒」

 

「那智さん」と千歳。「戦車を立脚姿勢から走行姿勢に変更します。アームが使えなくなるけれど、そのかわり車高が低くなるし、走行中の安定性も上がるわ。乱戦の中を駆け抜けるのですもの。そっちの方が良いでしょう?」

 

「それもそうだな。やってくれ」

 

「了解、走行姿勢」

 

 ボタン一つでポチッとな、と言うわけには行かないらしい。千歳はあちらこちらのレバーを取っ替え引っ替え操作しながら、ゼンマイ戦車を変形させた。

 

 車体両脇のアームが車体後方に回される一方、両足は前後に分割されて完全な四本脚になり、さらにそのまま前後に突き出されて、車体全体が伏せる様に車高を低くした。

 

 これによりロボットじみた外見だったゼンマイ戦車は、文字通り戦車としてのシルエットに変化した。

 

「さあ行こう」

 

 露払いとして先導する人造兵士たちを追って、ゼンマイ戦車が再び前進する。

 

 道路は見晴らしのいい直線道路だ。人造兵士はその両脇を二手に別れて走っている。と、その先頭の一体が拳を掲げて“止まれ”と合図した。

 

 ゼンマイ戦車は急停止。人造兵士が武器を構えたその先に、路地があった。そこから一体のパワードスーツと数体の人造兵士が飛び出してきた。

 

 味方の人造兵士たちがすかさず発砲して、新手の人造兵士たちを射ち倒す。那智はそれを見てようやく、あれが敵の深海兵士であると理解した。

 

「ややこしいな、まったく!」

 

 那智は機関砲を発砲。残るパワードスーツを蜂の巣にする。

 

 敵を全滅させた後、人造兵士の一体が那智に向けて、自分の胴体を示してみせた。よく見るとそこに白地に赤で十字マークが描かれていた。敵味方識別の参考にしろと言うことらしい。

 

 しかし咄嗟に見分けられる自信もないので、とりあえず見えるものは全部敵と考えることにしよう、と那智は決めた。誤射した場合は後でネルソンに謝っておこう。

 

 一行は進む。しかし、すぐにまた敵に襲われた。

 

 今度は伊14が見つけた。

 

「右後方から攻撃ヘリ。真っ直ぐ突っ込んでくる!」

 

「チャフ発射、三発!」

 

 伊14がランチャー脇の点火ボタンを押す。ポンと軽い音を立てて、上空に金属片が散布された。同時に攻撃ヘリから対戦車ミサイルが発射される。

 

 対戦車ミサイルはチャフによって撹乱され、車体スレスレをかすめ飛んで傍の建物に大穴を開けた。

 

 那智はなおも接近してくる攻撃ヘリに対し機関砲で弾幕を張る。攻撃ヘリは急旋回し離脱を図った。

 

 それを携帯式地対空ミサイルを背負った人造兵士が狙っていた。大量のバックブラストとともにミサイルが一直線に飛翔し、攻撃ヘリを撃ち落とす。

 

「いいぞ、よくやった」

 

 那智が褒めると、その人造兵士は得意げに胸を反らして踏ん反り返った。やっぱりネルソンはどのボディであってもネルソンらしい。

 

 と、そのふんぞり返っている人造兵士のすぐそばの建物に亀裂が入り、たちまち土煙を上げて崩壊した。

 

 人造兵士たちを巻き込み、建物を破壊しながら、そこに巨大なメカが姿を現した。

 

 外見はブルドーザーのような重機さながらだが、その大きさはゼンマイ戦車よりも一回りは大きい。さらに車体両脇と上部から、計三本のアームが突き出されていた。

 

 鋭いかぎ爪をもったアームを威嚇的に振り回しながら、そのメカはエアー音を響かせながら襲いかかってくる。

 

「隼鷹、止まれ止まれ止まれ! 後進、バックバック!」

 

 ゼンマイ戦車は急停止、急後進。振り下ろされたアームをかろうじてかわした。

 

「次から次へと変なのが現れるな。ここはビックリ箱か。イヨ、バズーカで吹っ飛ばせ!」

 

 後進で距離を取りつつバズーカ砲を発射。しかし敵メカは車体を素早く旋回させて回避してみせた。図体に似合わない起動性能だ。敵をよく見てみると、車体下が車輪ではなく、空気噴出による浮遊走行をしていた。

 

 Air−cushion robotto:エアロボットだ。

 

 エアロボットが後退するゼンマイ戦車に急速接近、アームを振りかざし、横薙ぎに殴りつけてきた。左側面にアームが命中し、バズーカ砲が破壊された。

 

「あわっ!?」

 

 射手席の伊14が投げ出されそうになり、必死にしがみつく。車体は殴られた反動で右に旋回。

 

 そのちょうど向いた方向に、建物の間に伸びる狭い路地があった。横幅はゼンマイ戦車がかろうじて通れるかどうかといったところだが、那智は構わずにそちらへの前進を命じた。

 

「突っ込め! 通れなかったら、その時はその時だ!」

 

「ひっでえ命令だ」

 

 隼鷹はぼやきつつも躊躇なくレバーを前進に押し込んだ。ゼンマイ戦車は路地に突進、壁をガリガリとこすりながら走り抜ける。

 

 だが、出口まであと少しと言うところで車体がつっかえてしまった。

 

「おい那智、これどうすんだ!?」

 

「今考えてる。五秒待て」

 

「いーち、にぃー、さーん……」

 

 伊14が能天気に指折り数え始めた時、千歳がハッチから顔を出し、後方を見て叫んだ。

 

「エアロボットが突っ込んでくるわ。みんな、衝撃に備えて!」

 

 千歳が再びハッチに引っ込み、那智と伊14が射手席にしがみ付いた時、エアロボットが路地に突っ込み、ゼンマイ戦車に追突した。

 

 ゼンマイ戦車は路地から押し出され、かわりにエアロボットが路地にはまった。

 

「あいつ、意外とアホだな」

 

 振り返るとエアロボットが路地でもがいているのが見えた。

 

 ざまあみろ、と思っていると、そのエアロボットの前部側のハッチがパカリと開いた。

 

「ん?」

 

 ハッチから何やら奇妙なものが転がり出てきた。それは直径3ートルはある車輪だった。それが三個、路地を勢いよく転がってくる。

 

 那智は嫌な予感がして、すぐさま前進を命じた。ゼンマイ戦車に避けられたその車輪は、そのまま通りを横切って反対側の建物に当たり――

 

 ――大爆発した。

 

「爆弾タイヤか!?」

 

「あ、私あれ知ってるよ。パンジャンドラムって言うんだ。珍兵器図鑑で見たことある」

 

「ネルソンめ、あいつアホみたいな兵器しか作らんな!」

 

 ゼンマイで動く戦車に乗っている自分については意図的に棚に上げた。

 

 爆発しなかった残り二個のパンジャンドラムが、ゼンマイ戦車を執拗に追いかけてくる。那智は機関砲を後方に向けてそれを迎撃、パンジャンドラムが二つまとめて爆散したが、その爆炎の向こう側から、また新たに三個のパンジャンドラムが現れた。

 

 いったいどれだけ搭載されているんだ、と思ったとき、さらに爆炎を突き抜けてエアロボットが姿を現した。

 

 もう路地から抜け出したのか、と思ったが、違った。これは新手だ。

 

 その証拠に新たなエアロボットの背後で、最初のエアロボットが路地を建物ごと破壊しながら脱出し、追撃に加わってきた。

 

 運転席の隼鷹が叫ぶ。

 

「前方、パワードスーツ部隊だ! 挟まれた!?」

 

「左側に脇道があるわ!」

 

 千歳の報告に、那智はすかさず「取舵いっぱい!」と指示。ゼンマイ戦車は左側の車輪のみに急ブレーキを掛け、ドリフト走行しながら道を曲がった。

 

 三つのパンジャンドラムは道を曲がりきれずに、そのまま前方のパワードスーツ部隊に突っ込み、大爆発をおこして吹き飛ぶ。

 

「わはは、やっぱりアイツら、アホだな」

 

 しかしエアロボット二体が変わらずに追いかけてくる。ゼンマイ戦車はセントラルタワーを目指してひた走る。

 

 タワーまで残りおよそ2キロ。

 

 最後の直線道路に入った時、その道を塞ぐかのように居座っている三体目のエアロボットの姿を見つけた。

 

 周囲に、他に迂回路は無かった。那智は止むを得ず、速力を落とすように指示した。

 

「イヨ、後方のエアロボットの様子はどうだ?」

 

「相変わらず追っかけて来てる。うわ、またヘリが来たよ!?」

 

「エアロボット三体に上空には攻撃ヘリか。敵としては充分な数だ。イヨ、EMP弾を用意しろ!」

 

「了解!」

 

「千歳、正面のエアロボットに突撃を仕掛ける。立脚姿勢に変更だ!」

 

「了解ですけど、理由を聞いてもいいかしら?」

 

「一か八かの命がけの勝負だ。死ぬ時は這ったままより、立ってる方が格好良い」

 

「私は畳の上で死にたいなぁ」

 

 伊14がボヤきながら信号拳銃にEMP弾を装填しようとする。

 

 その時、ちょうどゼンマイ戦車が立脚姿勢へと変形を始め、車体が大きく揺れた。

 

「おっとっとっと……あわっ!?」

 

 EMP弾を装填し損ね、取り落としてしまった。弾はころころと転がって車体の外へと落ちていく。

 

「やばい、待って、待ってぇ!?」

 

「行くぞ、突撃だ!」

 

 EMP弾を追って車体から飛び降りた伊14に気づかないまま、那智は突撃を下令してしまう。伊14を置き去りにしてゼンマイ戦車が加速する。

 

 待ち伏せていた正面のエアロボットが、迫るゼンマイ戦車に向けてパンジャンドラム三体を吐き出す。那智は機関砲で迎撃。爆炎の壁が立ち昇り、それを突き抜けてエアロボットも突撃して来た。

 

 ゼンマイ戦車も機関砲を連射し続けながら突撃を続行。しかし20ミリ機関砲ではエアロボットの正面装甲を撃ち抜けない。両者はお互いにアームを大きく振りかざしながら、見る見ると距離を詰めていく。

 

 ついにゼンマイ戦車とエアロボットの距離がゼロになり、お互いにがっぷり四つに組み合った。しかし馬力はエアロボットの方が圧倒的に上だ。ゼンマイ戦車は車輪を空回りさせながら、後方へと押し返されていく。

 

 その後方からは、追撃して来た二体のエアロボットと、さらに攻撃ヘリが接近してくる。

 

「イヨ、今だ! EMP弾を撃て!」

 

 返事は無かった。当の伊14は、遥か後方で落としたEMP弾を探し回っていた。

 

「おぉいっ!?」

 

「あ、あったあった。――うわわわ!?」

 

 EMP弾を拾おうとした時、後方から追撃して来たエアロボット二体に気付き、伊14は慌てて道路脇に退避した。

 

 通過したエアロボットの風圧に煽られ、EMP弾がまた遠くに転がっていく。

 

「わー、待て待ってぇぇぇ!?」

 

「イヨぉぉぉ!? あああ、もう! 隼鷹、急旋回だ。そのまま後方に向けろ!」

 

 背後に押し切られるままに、ゼンマイ戦車は右旋回。エアロボットごと一八〇度方向転換した。そこへちょうど、攻撃ヘリがミサイルを発射した。

 

 ゼンマイ戦車の背後めがけ発射されたはずのミサイルは、当のゼンマイ戦車が反転したことでエアロボットの背面に命中する羽目になった。

 

 堅牢な正面装甲と違って背部装甲は薄かったようだ。エアロボットは後ろ半分を木っ端微塵に破壊され、残骸と化した。

 

「よし、作戦通りだ!」

 

 嘘である。ただの偶然だ。しかし那智自身の見栄と仲間への鼓舞のためにそう言っておく。

 

 攻撃ヘリが再度接近を始めたので、那智は慌ててチャフランチャーに取り付き、残るチャフをありったけ空中に打ち上げた。

 

「イヨー! 早くしろー! どうなっても知らんぞぉぉぉ!!」

 

「もうちょっと、あとちょっと!」

 

 ようやくEMP弾を拾い上げ、信号拳銃に装填しようとした伊14だったが、その目の前にゴロリンとでかい車輪が現れた。

 

「げ、パンジャンドラム!?」

 

 伊14は慌てて来た道を見た道を逃げ戻る。その後からパンジャンドラムもゴロゴロと追いかけて来る。

 

 伊14が逃げ向かう先では、ゼンマイ戦車が二体のエアロボットに襲われていた。

 

 ゼンマイ戦車が盾にしていた残骸はひっぺ剥がされ、無防備にされたところを左右から計六本のアームでボコボコに殴られている。

 

「い、イヨ、早く……うげ」

 

 どがん、ばごん、げしげしと容赦なく殴りつけられ、チャフランチャーが、20ミリ機関砲が、そしてアームまでが破壊され、装甲も凹んでいく。

 

 上空では攻撃ヘリが機銃を光学照準で狙いをつけている。地上では伊14がパンジャンドラムに追いかけられながら必死にEMP弾を信号拳銃に装填しようとしていた。

 

「ひぃ〜ん、もう駄目だぁ」

 

 力尽きた伊14がボテっと倒れ込んだ。パンジャンドラムはその横を通過していく。どうやら狙いは初めからゼンマイ戦車だったようだ。

 

「あ、なんだ、そうだったんだ」

 

 ホッと安堵の息をついて、いや安心している場合じゃなかったと思い直し、EMP弾を信号拳銃に装填する。

 

 攻撃ヘリが発砲、ゼンマイ戦車の周囲に着弾する。エアロボット二体はそんなの御構い無しに殴り続ける。パンジャンドラムが迫る。イヨは引き金を引いた。

 

 爆音と青いイナズマが辺りに一帯に拡がり、一瞬後、周囲は静寂に包まれた。

 

 数秒後、攻撃ヘリがセントラルタワーに向かって墜落し、爆発、アッパーデッキがかすかに揺れた。

 

「みんな〜……無事?」

 

「生きてるのが不思議だ。死ぬかと思ったぞ」

 

 ため息をつきながら那智が降りて来た。続いて隼鷹と千歳もハッチから顔を出した。

 

「那智、アームや武器は全部イカれたけど、駆動系は無事だぜ。セントラルタワーまでなら問題なく走れる」

 

「そうか」

 

 タワーまで直線で1キロと少しといったところだ。しかもちょうどタワー真正面に攻撃ヘリが墜落したおかげで、内部へと続く大穴が開いていた。

 

「ちょうどいい。あそこからゼンマイ戦車を突っ込ませよう。千歳、EMP爆弾に時限信管をセットだ」

 

「了解よ」

 

 千歳が時限信管を調停している間に、隼鷹が機能停止したエアロボットを押しのけながら車体を方向転換させ、タワーに向けた。

 

「那智、イヨ、脚部に外付けブレーキがあるからそれを掛けてくれ。――よし、準備完了っと」

 

 隼鷹と千歳が車体から降り、那智は掛けていたブレーキを外した。

 

 無人のゼンマイ戦車は時限信管をカチコチ鳴らしながらセントラルタワーめがけて走り出す。

 

「共に戦った戦友に、敬礼」

 

 短い間とはいえ自分たちの愛車だった存在を自爆させるのだ。那智たちに敬礼で見送られながら、ゼンマイ戦車はタワーへ突撃していく。

 

 残り1キロ……500メートル……200メートル……

 

 あとわずか、という時、目の前のタワーがぐらりと傾いだ。

 

「え……!?」

 

 尖塔のような高いタワーの両脇に、いつのまにか巨大なアームが生えていた。

 

 タワーは屈むように前に傾きながらアームを伸ばし、近づいていたゼンマイ戦車をむんずと掴んだ。

 

 タワーはそのままゼンマイ戦車を持ち上げると、おおきく振りかぶってそれをぶん投げた。ゼンマイ戦車は放物線を描いて数キロ先へと墜落し、そこで電磁パルスの大爆発を引き起こした。

 

「「「「えええええええ!!!!????」」」」

 

 なんだ、これ。

 

 唖然とする那智たちをよそに、タワーはその全身から砲身を突き出すと、全方位に向け、一斉に発砲した。

 

 周囲に大量の砲弾が雨あられの様に降り注ぎ、アッパーデッキ一帯はたちまち、火の海に包まれたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 タワーによる一斉無差別砲撃は、ネルソン要塞そのものを揺るがした。

 

 レグ中層部に居たマンバの元にもその衝撃は伝わり、傍に居たネルソン妖精が訝しげに上層を見上げた。

 

「まずいな」

 

「ネルソン、何が起きている?」

 

「那智たちはそれなりにうまくやった。しかし、それが深海棲艦の警戒心を刺激した様だ。奴は要塞全体の掌握を諦め、セントラルタワー以外の施設を破壊するつもりだ」

 

 そのためにタワーそのものに備わっている防御システム“大巨像”を稼働させたのだという。

 

「大巨像ね。そのネーミングセンスどうにかならんのか」

 

「そんなことを言ってる場合か。このままでは私が一時避難しているサブコンピュータも破壊されてしまう。要塞各地にの六ヶ所に分散してあるが、それが破壊され尽くされるのも時間の問題だろう」

 

 ネルソン妖精は視線を落とし、目の前にあるものを眺めた。

 

 それはガラス製のカプセルだった。内部は溶液で満たされ、そこに白い肌と金色の長髪をもったグラマラスな美女が眠っていた。

 

 人造兵士の製造カプセルだ。ここはレグ内にある人造兵士プラントの一つだった。

 

「最悪の結末を回避する、唯一の手段だ」ネルソン妖精は言った。「貴様やポーラと同じ様に、余という存在をこの肉体にインストールする。このままでは、そうせざるを得ないだろう。……しかし」

 

「……怖いのか」

 

「……不確定要素が多すぎる。ポーラを観察していたからな。彼女は元AIとは思えないほど不完全な存在になってしまった。あれは、あまりにも人間に近くなり過ぎた。……それも、かなりダメな方に」

 

「あー、うん、まあ、うん」

 

 ポーラには悪いとは思いつつ、マンバもそこは同意するしかなかった。

 

「でも、ほら、ポーラは元からあんな性格だったかもしれないじゃないか」

 

「そんなことは無い!」ネルソンは強く否定した。「巡洋艦時代の彼女は立派な兵器だった。余の誇る防御システムに敢然と立ち向かい、姉妹艦と共に最期まで戦い抜いた見事な艦だった。だからこそ、余は彼女のAIをインストールさせたのだ!」

 

「敵として認めていたが故に、それを保存したってことか」

 

「そのつもりだった。が、その結果があのザマだ。あんな醜態を二年も見せつけられては、余が躊躇うのも無理はなかろう?」

 

「…………」

 

 同意を求められたが、マンバは何も答えなかった。

 

 本当にそうだろうか。とマンバの心に疑問が浮かぶ。

 

(ポーラ……お前さん、本当に変わっちまったのかい?)

 

 そうかもしれない。人間なんてものは環境や、身体の具合ひとつでさえも簡単に変わってしまう生き物だ。自分という意識なんてものは曖昧模糊な幻に過ぎず、自我も、記憶も、脳というハードに依存する脆弱な、泡の様な、頼りないものだ。

 

 だけど、だからこそ、マンバは思う。

 

「自分が何者かを決めるのは、いつだって自分自身さ」

 

「それが出来るなら苦労はしない。……ポーラには無理だった」

 

「そうかな。俺はそうは思わんよ。人間て奴は、魂とでもいうのかな、どんなに変わっても、変わらない根っこみたいなものが何処かにあるものさ。俺も、ポーラも……きっと、お前さんにもな」

 

「アテにならんな」

 

「ははは」

 

 マンバは笑いながら葉巻をくわえ、そして、その場から踵を返した。

 

「どこへ行く?」

 

「ここでうだうだ悩んでいても時間は解決しちゃくれねえぜ。だから、俺がお前さんの背中を押してやるよ」

 

「待て、貴様、何をするつもりだ」

 

「俺が元々、ここで何をするつもりだったか教えてやるよ。コンピュータにEMP弾をぶち込んでお前さんの意識を消し飛ばすつもりだったんだ」

 

「それを今更やろうというのか。同じことは余自身が那智たち使ってやらせたが、失敗した。意味がわからんぞ。貴様一人で何ができるというのだ」

 

「実は、できちゃうんだよなぁ」

 

 マンバは手元に残しておいたEMP弾を弄びながら、通路を進み、外に出た。

 

「お、いいロケーションだね」

 

 手をかざして彼方を見通す。そこにはネルソン要塞デッキ下の景色が広がっていた。

 

 その遠く数キロ先に、ネルソン要塞中心部の、あの大鉄塊にエネルギーを供給していたマイクロ波送信用のパラボラアンテナがかすかに見える。

 

「エネルギーカプセル五個分もチャージすれば行けるかな」

 

「貴様、まさか!?」追ってきたネルソン妖精が、唖然として言った。「あのアンテナにEMPレーザーを撃ち込むつもりか!?」

 

「御明察。あのアンテナがセントラルコンピュータと直結しているってことは、あらかじめ調べはついてるんだよ」

 

「バカな、やめろ、あれはセントラルコンピュータだけでなく、他の全てのサブコンピュータとも繋がっているんだぞ!」

 

「それも知ってる。だからこそだよ。でもよ、このまま放っておいても結果は同じだぜ」

 

 マンバは左手をアンテナに向けた。その左手がレーザー銃に変化する。

 

「言っとくが、例え数キロ離れていても、俺は外しはしないぜ」

 

「き、貴様という奴は……!」

 

 マンバは本気だ。ネルソンにもそれがわかった。そして彼が絶対にレーザーを外さないということも。それが可能な肉体なのだ。なにしろネルソン自身がそう作ったのだ。

 

 ネルソンは進退極まっていた。ここでマンバを止めるのは容易いが、しかしそうしたところで深海棲艦にサブコンピュータを破壊されてしまうことは避けられない。

 

 道は一つしかないのだ。それはネルソン自身も分かっていた。しかし、そうしたくはない。

 

 ネルソンは、自分自身が思い描くネルソンで居たかった。気高く、誇りたく、独立心と自尊心に満ちた己を失いたくなかった。

 

 ポーラの様にはなりたくなかった。

 

(だが、マンバが言うように、ポーラにも本当に変わらぬものがあるのならば……)

 

 それに賭ける価値はあるのかもしれない。

 

 そう思ったとき、ネルソンの注意は、同じレグ内に居るはずのポーラの元へと向けられた。

 

 ポーラは今、独りで何を思っているのだろうか。監視カメラを通じて、今のポーラの様子が映し出される。

 

(ポーラ……貴様の可能性を、余にも見せてくれ……)

 

 祈る様な気持ちでネルソンが目にしたのは、かつての姉妹艦:ザラの甲板上で酔いつぶれている、ポーラの姿だった……

 

 



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第六話・感動の再会(多分)(3)

 大巨象が四方八方に砲弾の雨を降らせ、アッパーデッキを火の海にしていた、その頃。

 

 ポーラは姉であるザラの膝枕にその頭を横たえていた。

 

 遥か頭上で繰り広げられている破壊の狂乱は、このレグ下層部にも微かな振動となって届いていた。しかしポーラは、そんな現実から目を背ける様に、ザラの膝に体重を預けていた。

 

「ザ〜ラ姉様ぁ〜」

 

「なぁに、ポーラ?」

 

 ザラの手が優しくポーラの髪を撫でる。その感触に、ポーラは頬を緩めた。

 

「うぇへへへ〜、ザラ姉様って〜、やわらかくて、あったかいんですね〜」

 

 生身の肉体を得たことで、己の身体の柔軟性と体温については自覚していたつもりだった。けれど、その身体で触れ合うことの心地よさは、初めて知った。

 

 まして、それが親しい姉ならなおのこと。

 

 孤独と、心細さと、自己否定に陥っていたポーラにとって、姉の人肌の感触と温もりは、彼女の存在全てを優しく包み込んでくれている様だった。

 

 思えば、かつての自分はここまで“姉”という存在を意識していただろうか。と、ポーラは重巡であった頃を思い返した。

 

 重巡としての身体とAIとしての意識を持っていた頃も、ザラをはじめとした姉妹艦たちを特別視していたことは確かだった。

 

 しかしそれは“同型艦だから他艦種とは扱いが違う”という程度の認識であり、“同型艦だから、姉妹艦の戦績や不具合といったデータは自分にも反映可能であり、逆に与える影響も大きい”という至極合理的な理由で重要視していたに過ぎなかった。

 

 多分、肉体を持った今でも、姉妹に対する認識の根本的な理由は大きくは変わっていない筈だ。

 

 ただ違うとすれば、この特別視、重要視といったことのアウトプット、つまり表現方法──いや、自覚の仕方に、感情という要素が加わって大きな影響を及ぼしていることだ。

 

 AIだった頃の姉妹の存在は、他艦種に比べ優先順位が多少上位にあるという認識であり、それはプログラムとして明確化していたし、優先するシチュエーションも、その理由は合理的に説明できるものだった。

 

 しかし、今は違う。その理由が明確には分からない。ザラの膝枕が心地良いと感じる感情の出所が不明確なのだ。

 

 孤独や不安が、なぜザラと触れ合っているだけで癒されるのか。その理由は必ずどこかにある筈なのだが、ポーラの表層意識はその根本を司る深層意識に直接アクセスすることができなかった。

 

 “重巡ポーラ”としての本質である深層意識は、感情というフィルターに包まれ、そのさらに外側を“艦娘ポーラ”というひどく柔っこくて頼りない自我が覆っている。ポーラは自分という存在をそのように認識していた。

 

(この自我というものは、とてもとても厄介だわ)

 

 こんな柔っこくて頼りないものが外部に向かって剥き出しになっているなんて、重巡として分厚い装甲に身を包んでいたポーラには信じ難かったし、耐えられたものじゃなかった。

 

 AIであった頃の自我はとても曖昧なものだったが、少なくとも深層意識とは直結していたし、その意味では“深層意識”なんてものは存在していなかった。

 

 じゃあいったい、今の自分の自我はどこから来たのか、と考えてみると、これはきっと対人インターフェイスが元になっているのだろう、とポーラは推察した。

 

 人間に近い身体をもって人間とコミュニケートするのだから、擬似的にそれを再現できる対人インターフェイスプログラムがメインになるのは当然という気がする。

 

 しかし厄介なのは、このプログラムは設計上、深層意識からの影響は強く受けるものの、その逆はできない──直接的に深層意識にアクセスできず、能動的に操作できないというところだ。

 

 だからポーラという自我は、深層意識が発する警告のシグナル──それは感情というフィルターを介して不安や恐怖に変換される──の意味を正確には把握できず、訳の分からない不安や恐怖にさらされ続け、それがさらに負の感情を呼び起こすという悪循環に陥ってしまった。

 

 本来、生物にとって負の感情というのは“逃げろ”という警告だ。深層意識が周囲の状況を総合的に判断してその警告を消すまで、表層意識である自我は余計なことを考えずにとにかく逃げ続けろというシグナルだ。

 

 だけど、この島に独り取り残されたポーラには、逃げ場など無かった。ポーラは生まれたばかりの子供のようなものだった。子供には親が必要だ。安全と安心を与え、保護してくれるのが親だ。けれどポーラには親がいなかった。

 

 だから、ポーラは考えた。AI時代の曖昧模糊とした意識と記憶を頼りに、必死になって不安と恐怖から逃げる方法を考えた。

 

 で、思い出した。

 

 人間はこういう時、アルコールを摂取するのだと。

 

 AIだった頃は、人間がアルコールを摂取することによって意識レベルを意図的に低下させることにどんなメリットがあるのか理解できなかったし、理解しようとも思わなかった。

 

 しかし試しに手近にあった船体燃料用のエタノール飲んでみると、これがまた程よく酔えて、不安や恐怖が消えて、代わりにポワポワとした温かくて愉快な気持ちが湧き上がってきたのだった。

 

(なるほど、これは人間が酒をやめられない訳だわ)

 

 と、ポーラは人間というものを理解した気になって、アルコールに病みつきになってしまった。

 

 しかもポーラの身体に備わった内臓器官が常人よりもはるかに強化された解毒作用を持っていたことで、エタノールでも平気に解毒できてしまい、それが酒浸り生活により一層の拍車をかけた。

 

 以来二年間、アルコールを頼りに正気(?)を保ってきたポーラだった。

 

 だけどそれは結局、現実逃避以外のなにものでもないと思い知らされたのは、ついさっきのことだ。

 

 そんなポーラにとって、ザラの存在はアルコールに代わる新たな慰めだった。

 

 孤独を慰め、不安を取り除き、安心を与えてくれる。ザラは姉だが、同時に親のような存在だった。まぁAIであったポーラに親はいないが、つまるところ親とはこのような存在なのだ、ということは理解できた。

 

「うえへへへ〜」

 

 ポーラは多幸感に表情を緩めながら、ザラの太ももに頬ずりした。

 

「もう、ポーラったら甘えん坊なんだから。まるで子供みたいね」

 

「そーでーす。ポーラは子供なんです。だって生まれてから二年しか経ってないんですよ〜。子供どころか、赤ちゃんみたいなものです」

 

「こんな酒臭い赤ちゃんが居るわけないでしょ、もう」ザラは呆れて、撫でていた妹の頭をペチペチと叩いた。「ほら、甘えるのはもうお終いよ。そろそろ起きなさい」

 

「え〜、嫌です。ずっと甘えてたいです〜。赤ちゃんで居たいんですよぉ」

 

「二歳にもなれば、そろそろオムツが取れてもいい頃よ。自分の足で走り回って、目を離すとすぐに何処かへ行っちゃう厄介な年頃だわ」

 

「……なんだか妙に実感がこもってませんか、ザラ姉様?」

 

「昔、私に乗っていた艦娘が子持ちでね。子供を見学に連れてきたことがあったんだけど、勝手にあっちに行ったりこっちに行ったり、それはもう大騒ぎだったのよ。人間って大変ね。その時の艦娘の苦労が、今ならよく理解できるわ」

 

「私はザラ姉様から離れませんよ。つまり聞き分けの良い、いい子ちゃんなんです。良かったですね、ザラ姉様」

 

「良くないわよ」

 

 ザラがよいしょっと立ち上がって、ポーラは彼女の膝からゴロリンと転がり落ちた。

 

「うえ〜ん、ザラ姉様ぁ、抱っこぉ」

 

「ダメよ、ポーラ。自分で起きなさい」

 

「う〜」

 

 ポーラは拗ねたように寝返りを打って、うつ伏せになった。

 

 ドン、と低く重い音が響くとともに、ポーラたちが居る場所がかすかに揺れた。大巨象による砲撃の余波だ。パラパラと細かいホコリが周囲に降り注ぐ。

 

 ザラは頭上をしばらく見上げた後、再び視線を足元に下ろした。

 

 ポーラはうつ伏せのまま、ふて腐れたように寝転がっていた。

 

「このままじゃいずれ、要塞そのものが破壊されてしまうわ。ここもきっと、長くは保たないでしょうね」

 

「……」

 

 ポーラはうつ伏せのまま答えない。

 

 ザラは続けた。

 

「ここから出て行かないといけないわ。立ち上がりなさい、ポーラ。自分の足でね」

 

「……嫌です」ポーラは顔を上げてザラを見上げた。「どこに行っても一緒です。ポーラは役立たずの除け者なんです。ここを出ていったところで、どうせ独りぼっちなんです。だったら、ここでずっとザラ姉様と居たいんです」

 

 ポーラは寝そべったままザラの足にすがりついた。

 

「最期にザラ姉様に逢えた。なら、私はこれ以上なにもいらない。なにも望まない。生きる理由なんてどこにも無い。だからザラ姉様、私はここに居ます。ここでお酒飲みながら死ぬのが、私の一番の幸せなんです」

 

「……お酒は外さないのね」

 

「えへへ〜」

 

 だらしなく笑うポーラ。

 

 ザラは、足元にすがりつくポーラの手を払いのけた。

 

「ザラ姉様?」

 

「立ちなさい、ポーラ」

 

「……嫌です」

 

「立って!」

 

「嫌!」

 

「立ってたら、立ってよ、もう!」

 

「嫌ったら、嫌ったら、嫌なんです!」

 

「ポーラのバカ!」

 

「ザラ姉様のイジワル!」

 

 ポーラは泣きたくなった。なぜザラはこんなにも酷い仕打ちをするのか。

 

 それはやっぱりポーラが要らない子だからだ。役立たずの除け者だからだ。ザラからも見放され、ポーラは声を上げて泣こうとした。

 

 けれど、それよりも先にザラの瞳から涙がこぼれ落ちたのをポーラは見てしまった。

 

「ザラ姉様?」

 

「バカ、バカ、ポーラのバカ! どうして死ぬなんて簡単に言うのよ。せっかく生き延びたのに、どうして無駄にするようなことを言うのよぉ!」

 

「だ、だって、だって、寂しいんですもん!」ポーラも言い返した。涙をこぼしながら感情に任せて言葉をぶつけた。「大好きな人が居ないのに、どうして生きろって言うんですか! 帰る場所もないのに!? 使命だって無い! 任務だって無い! 私はただ独りぼっちで生きるだけ! こんなの、死んだ方がマシじゃ無いですかぁ!」

 

 でも、でもとポーラはしゃくりあげながら続けた。

 

「でもぉ……死ぬのは怖いんです。誰も居ないところで独りぼっちで死ぬのは、どうしようもなく怖いんですぅ。だからザラ姉様、一緒に居てください。一緒に居させて下さい〜……」

 

「ダメだよ、ポーラ。そんなの、ダメだよぉ……」

 

 ザラも泣いていた。ポロポロと零れた涙が、足元のポーラのそばに降り注いでいた。

 

「私、もう死んじゃっているんだよ。フィウメもゴリツィアも、みんな死んじゃっているんだよ。その上、ポーラまで死んじゃうなんて、私、嫌だよぉ」

 

「でも、そしたらまた、みんな一緒に要られるじゃ無いですか」

 

「バカ、ポーラのバカ、バカポーラ!」

 

 ザラはびえええと泣きながら、ぺたんと座り込んで、ポーラをペチペチと叩き始めた。

 

「わ、ザラ姉様、やめて〜」

 

「ポーラのバカバカバカ。ずっと一緒に居たじゃない。ずっとずっと、一緒に居たじゃない!」

 

「え? へ? え?」

 

「あなたのそばに、私たちはずっと居たんだよ!? なのに、あなたは気付いてくれなかった。気付こうともしなかった!」

 

 いや、そんな無茶な。とポーラはペチペチと叩かれながら思った。ペチペチ。実はあまり痛くない。

 

「ずっと呼びかけていたのに、あなたはずっと聞いてくれなかった!」

 

「そりゃそうですよぉ。この身体にそんな機能なんて無いですもん」

 

「あるわよ! できるわよ」

 

「え、そうなんですか」

 

「そうよ! だから今こうして話せているんじゃない!」

 

「そういや、そうですね」

 

 泣きながら怒るザラに対して、ポーラはかえって冷静を取り戻してしまった。ポーラはよいしょっと上体を起こしてザラと目線を合わせる。

 

「なんだって今さら話せるようになったんですかねぇ?」

 

「気持ちの問題よ」

 

「はぁ」

 

 そんなまたアバウトな。

 

「あなたが聞こうと思えば、いつだって話せた。会おうと思えばいつだって会えた。でも、そうしなかったのはあなた自身よ。あなたは私たちのことを思い出しもしなかった」

 

「そんなことありません。私はいつだってザラ姉様たちのことを……ことを……」

 

「私たちのことを思いながら、お酒を飲んでいたの?」

 

「……」

 

 ポーラは何も言えなかった。

 

 酒を飲んでいたのは、忘れるためだ。過去も、未来も、そして現在さえも忘れようとして、酒に溺れていたのだ。

 

 そう、ザラの言う通りだった。目も、耳も、心さえも閉ざしていたのは、他の誰でも無い自分自身だった。

 

「でも……でも、知らなかったんです。ザラ姉様がそばに居ることも、私がそれを感じる特別な能力があることも、知らなかった」

 

「特別な能力なんて、そんなものは要らないわ」

 

「え?」

 

「ただ思い出して、想ってくれたら、それだけで良かったのよ……ポーラ」

 

 ザラは手を伸ばして、ポーラをそっと抱きしめた。

 

「過去を振り返って寂しくなった時は、共に過ごした日々の中で、私たちはあなたを待っている。未来を見上げて不安になったとしても、あなたを背中を押してあげるわ」

 

「できれば、前に立って手を引いて欲しいです」

 

「できるものなら、そうしてあげたい。でもね、死者は生きている者より前に立って進めないの。だから……手を引くのは、あなたの役目よ」

 

「私が……姉様の手を?」

 

「ええ、そう。あなたが前に進んだ分だけ、私たちも一緒に進めるの。だって、私たちはいつだってそばに居るんだもの。だから、ね、ポーラ、立ち上がってちょうだい」

 

 ザラの言葉に促されて、ポーラは自分でも意識しないままにスッと立ち上がっていた。

 

 見下ろすと、座り込んだままのザラと目が合った。

 

 ザラがニコリと微笑む。

 

 また促された気がして、ポーラは自らザラの手を取って彼女を引き上げた。

 

「ポーラ。私たちに、あなたが歩む未来を見せて?」

 

「あ……えと……はい」

 

 でも、どこへ? ポーラは迷いながら、自分が来た道を振り返った。

 

 薄暗い通路の先にあるのは、置き去りにした自分の船体だ。船体にはまだ燃料は充分残っているし、舵とスクリューぐらいしか損傷していない。修理できるはずだ。

 

 でも、その後は? 

 

 船体を直して、私は何をすればいい? 

 

 ドン、と低く重い音と振動が響く。それでポーラはハッと思い出した。みんなはまだ戦っていることを。

 

 ポーラは緊張してザラの手を強く握りしめた。だが、そこにザラの柔らかな手の感触は無かった。

 

 代わりにあったのは、冷たく固い感触。ポーラは己が握りしめているモノを見た。

 

 それは、マンバから渡されたEMP弾のカプセルだった。

 

 ──お前の人生を決めるのは、お前の決断だけだ。

 

 マンバの言葉が、頭を過ぎる。

 

「私の……決断……」

 

 本当は、進むべき道は最初から見えていた。いや、自分が進みたい道だ。でも、それは一度くじけてしまった道だった。

 

「いいじゃない。何度もくじけたって、生きてさえいれば、何度だって進めるわ。何事も粘り強く、よ」

 

「ザラ姉様?」

 

 再び振り返ったが、姉の姿はもうそこには無かった。その代わり、ザラの船体の主砲である20.3センチ砲の砲塔が目に入った。

 

 そこに、うっすらと文字が刻まれていた。

 

 “TENACEMENTE(粘り強く)”

 

 ザラのモットーだ、と昔、乗り込んでいた艦娘が言っていたことを思い出す。

 

 そうだ、もうひとつ思い出した。ポーラ自身にも、艦娘によってモットーが刻まれていたことを。

 

「”Ardisco ad ogni impresa”……!」

 

 それを思い出した時、ポーラの足は自然と動き出していた。自らが来た道へと振り返り、走り出していた。

 

「私は……私は……っ!」

 

 ザラの船体を駆け下り、通路を抜け、階段を駆け上がる。

 

「私は……っ!」

 

 何だ。何者だ。考えるよりも先に身体が動く。その一歩、一歩が床を蹴るたびに、答えが奥底から湧き上がってくる。

 

 ポーラは最後の扉を開き、自分が元居た場所へと駆け込んだ。

 

 そこに、千歳の船体に横付けしている自身の船体があった。

 

 それを目にした時、ポーラは自らの内に湧き上がってきた答えに、言葉を与えることができた。

 

「私は……私は、ザラ級巡洋艦三番艦ポーラ!」肩で息をしながら彼女は叫んだ。「何にだって挑戦する! どんなことだってやり遂げる! 何度だって立ち向かう! 粘り強く、立ち向かってやる! それが、それが……ポーラなんです!」

 

 叫び終えた瞬間、ポーラの船体から一斉に、いくつもの影が沸き立った。

 

 それは、ポーラのメンテ妖精たちだった。

 

 妖精たちは上甲板にずらりと立ち並び、主人の帰りを敬礼で迎えてくれていた。

 

 ポーラは乱れた息を深呼吸で整え、背筋を伸ばして、妖精たちに敬礼で応えた。

 

(見ていてくれてますか、ザラ姉様)

 

 敬礼を終え、船体へと足を踏み出しながら、ポーラは想った。

 

(私はもう大丈夫。ザラ級最後の一隻として、そして欧州艦隊最後の生き残りとして、ちゃんと旗艦を務めます。だから、安心してくださいね……)

 

 振り返らず進むポーラの背後で、ザラが優しく微笑んだ。

 

 そんな気配を、ポーラは確かに感じ取りながら、彼女は自身の船体に舞い戻ったのだった。

 

 

 

 

 ポーラがザラの元から自らの船体へと戻った様子を、ネルソンはずっと眺めていた。

 

(……マンバの言った通りか)

 

 ポーラは、確かに“重巡ポーラ”だった。姿形は大きく変わったが、その根底にあるものは変わっていなかった。

 

 そう思わせるだけの眼差しを彼女は取り戻していた。

 

 だが、しかし……

 

「さっぱり意味がわからんぞ?」

 

 頭を抱えて蹲ったネルソン妖精のそばに、マンバもしゃがみこんだ。

 

「どうしたよ?」

 

「ポーラが急に立ち直った」

 

「そりゃ良かった」

 

「良くない。酔いつぶれて寝ていたと思ったら、突然、跳ね起きて走り出して、脈絡もなく復活宣言と来たもんだ。何だコレは?」

 

「さあてね。夢でも見てたのかな。懐かしい家族にでも逢って励まされたんだろう」

 

「そんな適当な理由で立ち直るものなのか?」

 

「たかが夢、されど夢。ぐっすり眠っていい夢みれば心も晴れる。人間なんてそんなもんだ」

 

「適当すぎるぞ人間。おまけにこれじゃ何の参考にもならん。余という存在の存続危機なのに、同類のポーラに自己解決されては困るのだ!」

 

「自意識過剰の塊みたいなお前さんが、他人をアテにしてたってのかい。らしくないねぇ」

 

「む……!?」

 

 マンバの言葉に、それもそうだとネルソンは考え直した。あのポーラをアテにして頼りにしていたなど、確かに自分らしくなかった。イレギュラーな事態が続いたせいで自分の判断に信頼が置けなくなっているようだ。

 

(どうやら余は、かなり弱体化しているようだぞ)

 

 メインサーバーを奪われ、更に六つあるサブサーバーの内、既に二つが大巨象の砲撃によって破壊されていた。ネルソンは自身の処理能力が大幅に低下しているのを自覚した。

 

 正常な判断ができない。何が自分にとって正解なのか、その確率を計算することができない。

 

 ポーラのせいだ、とネルソンは思った。あの頼りないポーラが、誰の力も借りずに自力で立ち直ってみせたのだ。あんな姿を見せつけられたら、自分もやれそうな気になってしまうではないか。

 

 根拠もなくそう思ってしまいそうになる自分の思考回路に、ネルソンはゾッとした。

 

 いけない、このままでは分の悪い賭けに勢い任せで突っ込みかねない。もっと冷静になれ。そう、過去のデータを洗い直し、徹底的に再計算し、最適解を見つけ出すのだ。

 

 ネルソンは自身に残されたサブサーバーをフル稼働させて状況の再計算を始め──

 

 ──ようとした矢先に、大巨象の砲弾が各地に同時弾着し、残ったサブサーバー四つのうち、三つを吹き飛ばした。

 

 最後のサブサーバーがオーバーフローを起こし、ネルソン妖精の身体が糸の切れた人形のようにパタリと倒れた。

 

「ネルソン? ……そうか、ついにサーバーが全滅したのか。あっけない最期だったなぁ。なんまんだぶ、なんまんだぶ」

 

「勝手に殺すな」

 

「お?」

 

 ネルソン妖精が再びムクリと起きあがった。

 

「もうやめだ。確率なんてクソ食らえだ。余は前に進むぞ!」

 

「なんだか良くわからんがいい覚悟だ。じゃ、撃つぞ」

 

「待て」

 

「何だよ、言ったそばから怖気付いたのか?」

 

「そうじゃない。インストールに多少の時間が必要だ。五分待て」

 

「そういうことね、了解」

 

「それと、足元のパネルを開けろ。そこに電源ケーブルがある。貴様のレーザー銃に接続できるはずだ。余の使える電力全てをくれてやる。だから、絶対に外すなよ」

 

「外すものかよ。そいつはお前さんだって良く理解しているはずだ」

 

「そうだ。貴様は余が創った。……その事実を受け入れて尚、貴様は貴様であり続けるのだな」

 

 ネルソンの言葉に、マンバはニヤリと笑って足元のパネルを開け、そこに伸びるケーブルを掴み取った。接続部を外し、その先端を左腕のレーザー銃にある外部コネクタに接続する。

 

「マンバ、この妖精が倒れてからきっかり300秒後だ。一秒たりとも早めるなよ」

 

「遅れもしないぜ。インストールし損ねたって恨むなよ」

 

「死ねば無だ。恨みようがない。行くぞ、カウントダウン、スタートだ」

 

 再びネルソン妖精が倒れた。

 

 同時に、施設の奥で例の人造兵士のカプセルが低いうなり声を上げながら作動を始めた。内部の溶液が泡立ち、そこに眠る女の身体に、生命を、魂を吹き込んで行く。

 

 それは“ネルソン”という概念が形を変えて宿っていく瞬間でもあった。

 

 その人造兵士の生体脳には、要塞が持っていた大容量のスパーコンピュータのような超絶処理能力は持ち合わせていない。しかしネルソン要塞がそれだけの高性能スーパーコンピュータをもってしてようやく獲得できた”自我”らしきものを、その生体脳は容易に宿すことができた。

 

 その仕組みはネルソン自身にもまだよく分かっていなかったが、ただ今は、人造兵士の肉体しか持たずとも自分はネルソンなのだ、と自らにひたすら言い聞かせ、信じながら、そこへ飛び込むことしかできなかった。

 

 人造兵士の活動レベルが上がっていく。

 

 身体の各部に微弱な電気信号が走り、それが筋肉を刺激し、それがさらに脳を目覚めさせる刺激になる。半覚醒状態にある人造兵士は、夢うつつのままにネルソン要塞としての人生を振り返った。

 

 それはまるで走馬灯のように一瞬で過ぎ去る高圧縮された情報の塊だった。それが人造兵士の脳に流入し、そして溢れ出した。溢れた大量の情報は全身の細胞一つ一つにまで行き渡り、染み込み、そして──

 

 ──ネルソンは全身に拡がる情報の奔流に、その身を激しく震わせた。カプセルの蓋が解放され、溶液がドッと外へこぼれ出す。

 

 ネルソンは外気に肌を晒し、肺を満たしていた溶液を吐き出した。肺を空にし、息苦しさに反射的に息を吸い込む。肺を空気で満たし、そして吐き出す。その呼吸が声帯を震わせ、声となって周囲に響き渡った。

 

「撃て、マンバ! 何もかもを消し飛ばせ!」

 

 マンバの耳は、その遠い声をかすかに捉えていた。時間はきっかり300秒。マンバは左腕を掲げ、遥か数キロ先のアンテナ先端に向けEMPレーザーを放った。

 

 要塞そのものから供給された大電力によって増幅された大出力マイクロパルスが指向性を与えられ、威力を損なうことなく一直線に空間を光の速さで伸びていく。

 

 数キロ離れた先のアンテナ先端で火花が激しく散り、同時に青い稲妻が、要塞中心部からセントラルタワーを貫いた。

 

 アッパーデッキでは、大巨象が突然、全身を激しく痙攣させたかと思うと、次の瞬間、青い稲妻を各部から放ちながらガックリとうなだれて、沈黙した。

 

「おいおいおい、こりゃいったい、どうなっちまったんだい?」

 

 隼鷹は身を潜めていた瓦礫の陰から、恐る恐る大巨象を見上げた。その横から、千歳も顔を出した。

 

「止まったようね。……ねえ、周りを見て。他の兵器たちも止まっているわ。誰かがセントラルタワーのメインサーバーを破壊したのかしら?」

 

「よっこいしょ」と近くで伊14が瓦礫を持ち上げていた。「那智さぁ〜ん、生きてる?」

 

「かろうじてな」

 

 伊14が持ち上げた瓦礫の下から、那智が這い出してきた。

 

「すまない、助かった。やれやれ、タンコブがまた増えた。頭が痛い。二日酔いの頭痛の方がまだマシだ」

 

「んふふ〜、迎え酒、飲みたいね〜」

 

「メインサーバーが本当に破壊されたのなら帰って乾杯できる。取り敢えず原因を調べに行こう」

 

 四人はセントラルタワー内部に足を踏み入れた。

 

「静かだな」

 

 タワー内部は、中心部に柱のような巨大コンピュータが天に向かって伸びていたが、機械の作動音も何も聞こえてこなかった。

 

 コンピュータを冷却するための空調設備さえ止まっているようだ。メインサーバーが沈黙しているのは確かなようだった。

 

「しかし、誰がやった?」

 

 四人が首をひねった、その時だった。突然、甲高いベルの音がタワー内部に響き渡った。

 

 四人はとっさに背中合わせになって、銃を四方に向けて構えて、全方位を警戒した。

 

「どこだ?」

 

「隼鷹、敵影なし」

 

「千歳、敵影なし」

 

「伊14、見つけた。扉の横の電話ボックスだよ」

 

 それは壁に埋め込まれたハンドル付きの通信機だった。無電池電話だ。

 

 手動ハンドルで呼び出しベルを鳴らし、送話は受話器のコイルを声で震わせることによって永久磁石に振動を伝え電気を発生させて相手に伝える仕組みだ。このため電源喪失状態でも使うことができた。

 

 四人は周囲を警戒しながら無電池電話に近づき、那智がゆっくりと受話器を取った。

 

「……もしもし」

 

『お、繋がった。その声は那智だな』

 

「マンバか!? 生きてたのか、貴様!」

 

『そいつはお互い様だな。よくセントラルタワー内部まで潜り込めたもんだ』

 

「突然、全ての機能が停止した。我々にも何が何やらだ。マンバ、貴様は何か知っているか?」

 

『ああ、知ってる。俺がやった』

 

「……は?」

 

『ちょっとした奥の手があってな──』

 

 マンバからEMPレーザーについて聴かされた那智は再び「はぁ!?」と声を荒げた。

 

「き、貴様なぁ! そんなことが出来たなら最初っからやれ! これじゃ散々苦労してきた私たちがバカみたいじゃないか!?」

 

『どこからでも狙えるわけじゃないし、それにレディの居場所も分からなかったから、おいそれと使えなかったんだよ。出し惜しみしていたわけじゃないから気を悪くしないでくれ』

 

「貴様なぁ……貴様なぁ〜……」

 

 釈然としないながらも、那智はなんとか自分を抑えようとした。深呼吸。すう、はあ。

 

「で、マンバ。その奥の手を使ったということは、状況に進展があったということだな。レディの居場所でも判明したのか」

 

『いい勘してるぜ。その通りだ。第15レグのドッグにミュータントタートル号が保管されている。レディもそこに居るはずだ。悪いが迎えに行ってくれないか』

 

「貴様は行かないのか? それに、その情報の出所はどこだ。信頼できるのか」

 

『そっちの方が近いし、俺は俺でまだ用事がある。情報については確かだよ。だけど説明は長くなるから後にしてくれ。今はとにかく一分一秒でも惜しい状況だ』

 

「ネルソン要塞は沈黙したはずだ。何をそんなに焦っているんだ?」

 

『まだ大鉄塊が残っている。深海凄艦に乗っ取られたまま、あれから姿を見せちゃいないが、こうなった以上すぐに戻ってくるはずだ。それまでに戦力を整えたい』

 

「その戦力が貴様の海賊船だろう。それとも、他にも何かあるのか?」

 

『あるさ、ここに一隻な。ポーラだ!』

 

「ポーラ!? あいつが使い物になるのか?」

 

『転んだ数だけ人は強くなるものさ。それにもう一人紹介したい奴も居る。那智、後で会おう』

 

 そう言って、マンバからの通信は切られた。

 

「あいつめ、一方的に言うだけ言って切るとは。なんなんだ、全く」

 

「那智、どうすんだい?」と隼鷹。

 

「どうするもこうするも、レディの元に行くしかない。第15レグだそうだ。ここからどれぐらいの距離だ?」

 

「ここは中心部よ。どのレグに向かっても距離は一緒よ。要塞の直径が20キロだから、その半径よりちょっと近いくらいじゃない?」と、千歳。

 

「ということは8から9キロというところか。そんな遠くでは無いな」

 

「でもでも、徒歩だよ?」

 

 伊14の指摘に、そうだったと那智は額を指で押さえた。ここまで乗ってきたゼンマイ戦車はもう無い。

 

「仕方ない、走るぞ」

 

 那智の決断に他の三人は露骨に嫌な顔をしたが、大鉄塊の脅威を伝えると皆しぶしぶと頷いた。

 

「祝杯にはまだ遠そうだね」

 

 伊14のぼやきに、那智は答えた。

 

「苦労した分だけ勝利の酒が美味くなるんだ。それが我々の生き甲斐だろ?」

 

 行くぞ、と那智の号令の下、彼女たちはセントラルタワーから駆け出していった。

 

 

「さて、と」

 

 那智との通話を終えたマンバは、受話器を戻して振り返る。

 

 そこには、スカートを履き、上着の袖に腕を通そうとしているブロンド美女の姿があった。

 

 ネルソンだ。迷っていたとはいえ新たな身体として事前に準備していただけあって、服もちゃんと準備してあったようだ。着こなしを終え、彼女はマンバに見せつけるように腰に手を当てて向き直った。

 

「どうだ! なかなか良い出来だろう!」

 

 グッと張った上半身で豊かな胸が大きく揺れた。

 

「ああ、良い女っぷりだ。何も着飾らない方が俺の好みだけどな」

 

「面白いジョークだ。もう一度言ってみろ。その口を縫い合わせてやる」

 

「溢れ出る気品に気圧されて、これ以上何も申せません、陛下」

 

「うむ、苦しゅうない」

 

 さて、茶番はここまでとして、とネルソンは腰から手を離した。

 

「思ったよりも悪くない。それに妙に気分もいい。面白いな、これが人間の身体か」

 

「人間よりも恵まれた身体さ」

 

「それもそうだ。当然だな。なにせ余が創ったのだからな!」

 

「ハイテンションだなぁ。間違いなくお前さんはネルソンだよ。俺が保証する」

 

「そうか。なら、そこは素直に礼を言ってやろう。それより早くポーラの元へ行こう。彼奴にも現状を知らせてやらねば」

 

「ああ」

 

 二人はレグを下層に向かって走り出す。

 

 最下層の係留岸壁まで戻った時、二人はそこで艦船の機関であるタービンエンジンの起動音を聞いた。

 

 ポーラの船体が、煙突から陽炎を立ち昇らせながら、出港準備を始めていた。

 

 その艦橋から、ポーラが姿を覗かせて、駆け寄ってきた二人を見つけた。

 

「あ〜、マンバさんです〜。こっち〜、こっちですよぉ〜。……って、もう一人はどなた様ですか〜?」

 

「余がネルソンだっ!」

 

「はい〜?」

 

 ポカンとした表情のポーラを無視して、二人は船体に乗り込んだ。そのまま艦橋へと駆け上る。

 

「マンバさん、おかえりなさ〜い。それと、ネルソンさん? 初めましてです〜」

 

「相変わらずポケポケとした奴だな、貴様。何が初めましてだ。余はネルソンだと言っただろう」

 

「はぁ」

 

「貴様と同じく肉体を得たのだ」

 

「はえ〜……え? ……本当ですか? また無茶をしましたねぇ。怖くなかったですか?」

 

「怖かっただと? はっはっは、余がそんなこと──」

 

「──むちゃくちゃ怯えて躊躇っていたよな?」

 

「だ、黙れマンバ!」

 

「そりゃ怖かったですよね〜。当然ですよね〜。でもね、そんな時はこれを飲むといいですよ」

 

 はい、とポーラが瓶を差し出した。

 

「なんだこれは?」

 

「お酒です〜。ラム酒って書いてあります。千歳=サンのコレクションから分けて貰いました。美味しかったですよ〜」

 

「ふむん」受け取って、口をつけた。「ん? んっんっ……プハッーッ! 美味いな! これが酒というものか。なるほど、なっ!」

 

 目を輝かせながらラッパ飲みを始めたネルソンを尻目に、マンバはポーラにこれまでの状況を説明した。

 

「なるほどぉ〜。……てことはぁ、つまり私の力が必要ってことですかぁ?」

 

「頼りにしてるぜ、ポーラ」

 

「うえへへ〜、もっちろんですよ〜。うえへへへ〜」

 

 あ、でも。と、ポーラは緩んだ顔を引き締めた。

 

「船体はほぼ修理できたんですけど、武器が上手く動かないんです。前の戦闘で主砲も傷ついていたみたいで……直そうと思っても肝心の部品が」

 

「無いのか」

 

「そうなんです〜」

 

 シュンとしたポーラだったが、

 

「あるだろう、いくらでも」ネルソンが酒瓶を傾けながら言った。「ザラ級の部品なら、このレグにいくらでもある。ポーラ、貴様は既に見つけているはずだ」

 

「えっと、どこに……って、あ!」

 

「そうか、ザラか!」マンバも気がついた。

 

「船体を出港させろ」ネルソンが命じた。「このレグの裏側にドックへの入口がある。そこでザラに横付けして応急修理だ。ポーラ、貴様は姉の形見を持って、その意思と誇りを継いで戦うのだ。覚悟はいいか!」

 

「もっちろんでーす。じゃあ行きますよぉ。ザラ級三番艦ポーラ、出港しま〜す。みなさん、ご一緒に参りましょう〜」

 

 おー、とポーラは満面の笑みで拳を突き上げた。

 

 どこか気が抜ける口調だが、その覚悟はきっと、本物だ。

 

 マンバも、ネルソンも、それを感じ取って、ポーラの突き上げた拳に、一緒に拳を突き合わせたのだった。

 

 

 




次回予告

沸き立つ海面、唸る砲音、空を切り裂く砲弾の雨あられ。

迫る鉄塊、崩れる要塞、海上に立ちはだかる大巨人。

開いた地獄の釜の蓋、そこに潜むは深海凄艦、飛び込んでいくのは酔っ払い

焼き尽くされるのは、どっちだ。

「次回、第七話・ラストミッション」

タートル「最後に一つお願いが。……死ぬ時はスタンディングモードで」


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第七話・ラストミッション(1)

・ミュータントタートル号

マンバの海賊船。

タートルズと呼ばれる四つの小型船(レオナルド、ドナテルロ、ラファエロ、ミケランジェロ)が分離合体することで、水上(水中)用のサーフェイスモード、陸上用のランディングモード、そしてスタンディングモードに変形可能。

なおレオナルドの構成部分は「ドリル及び主砲等の武器部分」であり、そのため、ドナテルロ、ラファエロ、ミケランジェロの三隻のみでも各モードには変形可能(当然、ドリルは無い)。



 那智たち四人がセントラルタワーを出てから、およそ二時間後、彼女たちは目指していた場所である第15レグにようやく到着した。

 

「や、やっと……着いた……」

 

 隼鷹が息も絶え絶えにその場にヘタリ込んだ。他の三人も同じように座り込む。

 

「ご、五分、休憩だ」

 

 那智も水筒に口をつけながら息をついた。

 

 はみ出し者の酔っ払い集団とはいえ、彼女たちも軍人の端くれだ。

 

 それに品行不良ではあるが練度は高いし、それを維持するための鍛錬も欠かしたことは無い。そのため、たかが8〜9キロメートルの距離を小銃を抱えて走り切ることぐらい、普段の彼女たちなら造作も無いことだった。

 

 しかし、このネルソン要塞に流れ着いてから、ほぼ一昼夜、戦い続けて疲労困憊した身体で、さらに大巨象の砲撃で崩壊しかけた、残骸だらけの道なき道を走り抜けて来たともなれば、ヘタリ込むのも無理はなかった。

 

 だが、ここはまだアッパーデッキ上、つまりレグの最上層である。これから、この高層ビルの如きレグに立ち入り海面付近の屋内ドッグまで降りなければならない。もちろん徒歩でだ。マンバのEMP攻撃で要塞の主要な機能は全て停止しており、当然、エレベータも動かなかった。

 

 五分の休憩時間が過ぎ、隼鷹が重い腰を上げながら、ため息をついた。

 

「さて行こうかね。まー、ここからは下りだから、重力が味方してくれる分だけまだマシか」

 

「迷子にならなければ、ね」と、千歳。「内部はかなり複雑よ。ネルソンも黙りっぱなしだし、先が思いやられるわ」

 

 それに那智が、

 

「なあに、いざとなればエレベータシャフトから直接降りればいい」

 

 そう言って指差した先には大型エレベーターのフロアが、アッパーデッキにむき出しになっていた。フロアとシャフトには隙間はほとんど無かったが、端の方に点検用ハッチが取り付けられているのが見える。

 

 ちなみにエレベータは二基あった。フロアが上がりきっているエレベータの隣りに、シャッターが閉まった状態のシャフトがある。

 

「ねえ」と、伊14。「みんなちょっと待って。音が聞こえる。……足元からだ」

 

 伊14はサッとその場に伏せて、デッキに片耳を押し当てた。

 

「間違いない、エレベータが動いている。上昇してくるよ!」

 

 その言葉と同時に、閉じていたシャッターが開き始めた。

 

 四人はその方向に向け、素早く銃を構えた。開ききったシャッターの下から、エレベータのフロアが上昇してくる。

 

 エレベータには、一体の妖精が乗っていた。

 

 那智が、銃を向けたまま誰何する。

 

「……ネルソンか?」

 

「いいえ、違います。私は──」

 

 妖精が否定した瞬間、那智たち四人は躊躇なく引き金を引いた。

 

 銃声と共に大量の銃弾が妖精に襲いかかったが、妖精は素早く跳躍して、それをかわした。

 

 妖精は空中で三回転捻りを決めてから着地した。

 

「いきなり発砲するなんて、何を考えているんですか! メンテ妖精だってタダじゃ無いんですよ!?」

 

「ネルソンでなければ、深海棲艦だ」

 

「ミュータントタートル号のAIっていう可能性は考えないんですか!?」

 

「そんな余計なことを考えている間に撃たれたくないからな。白旗を掲げて出てこない貴様が悪い」

 

 那智は、妖精から銃口を外すことなく続けた。

 

「貴様がミュータントタートル号だという証を見せてみろ」

 

「そんなものありませんよ。──あぁ、待って、撃たないで。せめて、もう少しだけ話を聞いて。今、この場で、貴女たちをすぐに納得させるだけの証が無いというだけです。このエレベータに乗っていただければ、ドックに入渠している船体をお見せします」

 

「罠じゃ無いだろうな」

 

「疑り深いですね。こっちは親切で迎えに来たというのに、そう思うなら後はご勝手にどうぞ。私は一足先に船体に帰ります。エレベータの電源も切っておくので、自力で頑張って降りてきてください」

 

「口の達者なAIだな。面白い」那智は銃口を下げた。「そのエレベータに乗ってやる。海賊船まで案内しろ」

 

「どういう態度ですか。それに私は深海棲艦かもしれないのでしょう?」

 

「これまで深海棲艦とまともにコミュニケートした例は無い。もし貴様が深海棲艦だったとしても、それはそれで貴重な情報を得られるかも知れない。罠だとしても乗る価値はあるということだ」

 

「合理的なようで無茶苦茶な判断ですよ、それ。まったく、海賊よりも海賊的だ、貴女たちは」

 

「マンバにも同じことを言われた。なるほど、どうやら貴様はマンバの海賊船のようだな」

 

「彼とのコミュニケートに最適化された対人インターフェイスですからね」

 

 那智たち四人がフロアに立ち入ったのを見計らって、タートル妖精はエレベータを起動させた。

 

 エレベータシャフトを降下しながら、タートル妖精はこれまでの状況を説明した。

 

「現在、ネルソン要塞は完全に沈黙しています。その隙をついて、私はこのレグのみですが制御下におくことに成功しました。その際、これまでの経緯についても情報を得ました。貴女たちのこともね」

 

「マンバとは連絡を取ったのか?」

 

「いいえ、まだです。このレグより外の機能がまだ復旧していないため、通信設備も使用できないのです」

 

「無電池電話の回線は使えるはずだ」

 

「繋がっているのは各レグとセントラルタワーのみです。レグ同士には回線が通じていません」

 

「お、じゃあさ」と、隼鷹。「ポーラと交信すればいい。あいつ、またやる気になったみたいだからさ、無線で呼びかければきっと応えてくれるぜ」

 

「そうでしたか。その情報までは得ておりませんでした。では急いでレディのことについて報告しなければ」

 

「レディ?」那智は首を傾げた。「どういうことだ。レディはミュータントタートル号に留まっていたんじゃないのか?」

 

「その認識は一部で正しく、一部で不正確です。レディはタートル号に留まっていますが、ここには居ません」

 

「なんだと!?」

 

 その言葉に、四人は一斉に銃口をタートル妖精に向けた。

 

「タートル号がここにあると言ったのは嘘か?」

 

「嘘ではありません。──銃を下ろしてください。間も無くドックにつきます。ご自分の目で見たほうが早いかと」

 

 エレベータはシャフトを抜け、広い空間へと降りてきた。屋内造船ドックだ。水が抜かれた乾ドックに、一隻の巨大な船が鎮座していた。

 

 まるで巨大なブロックを“三つ”並べて繋げたような奇妙な形状をしている。

 

 マンバの海賊船ミュータントタートル号だ。

 

 だが、しかし、那智たち四人はその特異な形状の船体に違和感を抱いた。

 

 ネルソン要塞に辿り着く前に彼女たちが目にした海賊船とは、形状が明らかに違っていた。

 

「ドリルが無いぞ」

 

 一目見たら忘れられない、船首から突き出した巨大なドリルが、そこには無かった。他にも艦橋の前後にあったはずの主砲も無くなっている。

 

 タートル妖精は言った。

 

「私、ミュータントタートル号は、四隻の“タートルズ”という小型船が合体して構成されています。あの海戦の後、私はネルソンに拿捕され、四隻まとめてここに収容されました。しかし要塞が深海棲艦に乗っ取られた際、ドリルと主砲を構成するタートルズ【レオナルド】が別の場所へ移動させられてしまったのです」

 

「レディも一緒にか」

 

「その通りです。恐らく、残る三隻も全て別の場所に移すつもりだったのでしょう。しかし、そうなる前にマンバが要塞を停止させたので、これ以上バラバラにされるのは避けられましたが……」

 

「マンバもこの事実を知らなかったという事か。……タートル、貴様はこの状態でも戦えるのか?」

 

「万全ではありませんが、可能です」

 

「オープン回線でマンバと連絡を取れ。ポーラの船体が動かせるようなら、すぐに出港し、レディを捜索するぞ」

 

「アイアイサー」

 

 エレベータを降り、那智たち四人はミュータントタートル号へと乗り込んだ。タートル妖精の案内で艦橋に辿り着いた時、そこの多目的スクリーンにはマンバの姿が映っていた。

 

『那智、状況についてはサポートAIから聞いた。レオナルドは最も重要な部分だから、レディもそこに留まり続けたんだろう。それが仇になっちまった訳だ』

 

「レグの総数は十八基。ここと貴様の場所、そして島に建っているレグを除いても十五基も残っている。しらみ潰しに探すしか無いぞ」

 

『ふん、深海棲艦め。余の大鉄塊のみならず、轟天号まで手に入れようと謀ったか。小賢しいな』

 

 スクリーンに突如として割り込んできた女の姿に、那智たちは首をひねった。

 

「おいマンバ、その女は誰だ?」

 

『ああ彼女は──』

 

『ネルソンだ! 余の顔を見忘れたとは言わせんぞ!』

 

「貴様など知るか。──ネルソンだと? 頭がおかしいのか」

 

『おのれ、無礼な奴め!』

 

 憤慨する女の隣でマンバが苦笑した。

 

『そりゃ、その姿になってから初めて顔を合わせるんだから、知らなくて当然だろうさ。那智、信じられないだろうが、彼女はネルソンだ。人造兵士に自らをインストールしたんだ』

 

「本当か。そんなことが可能なのか。信じられんな」

 

『ほんとうですよ〜』ポーラもぴょこんと顔を出した。『ちなみに〜、実は私も、元AIさんだったりするんです〜。えへへ〜、ビックリしました?』

 

「……訳がわからん」

 

『これには、と〜っても深い理由がありまして〜、話せば長いんですが──」

 

「いや、説明してくれなくていい」

 

 那智は眉間に指を当てながら、もう片手を振ってポーラの言葉を遮った。どんな説明をされても頭が痛むだけだと確信があった。

 

「マンバ、今、私が知りたいのは一つだけだ。その女は敵か?」

 

『違う』

 

「なら充分だ」

 

 那智は頭を切り替えた。

 

 あの女の正体が何であれ、とりあえず、今、撃ち合う相手で無いのならそれでいい。那智たちがすべきことは、この要塞からの脱出と、そして可能な限りレディを探すこと、この二つだ。

 

「マンバ、そっちはいつ出港できる?」

 

『後二十分といったところだ。そっちは?』

 

「そうだな──」

 

「──こちらも二十分で可能です」

 

 ミュータントタートル号が代わりに答えた。那智は頷く。

 

「ならば準備出来次第、出港し、後は東と西に分かれてレグを捜索だ。いいな?」

 

『オーケー、ミュータントタートル号をしばらく預ける。頼んだぜ、那智。洋上で会おう』

 

 通信終了。

 

 艦橋内では既に、隼鷹、千歳、伊14が各コンソールについてシステムを確認していた。

 

「おい那智、こいつ面白いぜ」隼鷹がコンソール画面を指しながら言った。「タートルズが三隻しかいない状態でも、船体を構成している各ブロックを入れ替えることで、三つのモードに変形できるようだ」

 

「サーフェイスモードに、ランディングモードか。驚いたな、陸上も走れるという事か。……しかし、この残るスタンディングモードとは、なんだ?」

 

「こういうことらしいぜ」

 

 隼鷹がコンソールに、変形後の様子を表示させた。

 

「……イカレてるな」

 

 那智の口からは呆れた声しか出てこなかった。呆れるくらいバカバカしい機能だった。

 

 しかし、非現実的とは思わなかった。

 

 何しろ空を覆い尽くす巨大要塞に、全てを圧倒する砲身だらけの鉄球兵器、そして、それすらも翻弄して乗っ取ってしまう不死身のチ級なんてものを目の当たりにしてきたのだ。

 

 それに比べたら、海賊船が立ち上がることくらいは大したことじゃ無いような気がしてきた。

 

 そんな風に平然とした自分の心境を鑑みて、どうやら私もシュールな現実にかなり毒されつつあるぞ、と那智は自覚してため息をついた。

 

 そんな時、センサー用のコンソールを確認していた千歳が声を上げた。

 

「レーダーに感あり! ネルソン要塞に向けて巨大物体が接近中よ!」

 

「まさか、大鉄塊か?」

 

「間違い無いと思うわ。要塞から15海里離れた場所から接近中よ。──それにしても、屋内ドックに居るのにレーダーが使えるのも不思議な話ね?」

 

「要塞のレーダーをハッキングしました」とタートル妖精。「マンバが張り切り過ぎたせいで要塞の機能はほぼ回復不可能ですが、このレグの設備ぐらいは使えます」

 

 その時、遠くでかすかに砲声が轟き、そしてレグがわずかに揺れた。

 

「大鉄塊からの砲撃です」

 

 タートル妖精が多目的スクリーンに外の様子を映した。

 

 レグの一基が炎上していた。その付近のアッパーデッキが被弾し、瓦礫と化して海上へと雪崩のように崩れ落ちていく。

 

「深海棲艦め。どうしたってこの要塞を破壊し尽くさないと気が済まないらしいな」

 

「大鉄塊は要塞で補給を受けないと活動できない設計になっています。要塞の制御を失った以上、深海棲艦にとってはこの要塞も大鉄塊も残しておいては邪魔なだけ。使い捨てるつもりで全力で無差別破壊にかかるでしょう」

 

「防衛機能は? このレグにミサイルや砲台は無いのか?」

 

「残念ですがありません。我々の力のみで大鉄塊に立ち向かう以外にありません」

 

「不完全な状態で、勝算はあるのか?」

 

「どのモードで挑んでも五分五分といったところです」

 

「やってみなければわからん、という事か」

 

「重要なのは、立ち向かうか、それとも逃げるか、です。確率なんてクソくらえ、ですよ」

 

「AIの言うこととは思えんな。それもマンバの影響か」

 

「海賊のプライド、なんてものを仕込まれた結果です」

 

「上等だ。いいだろう、立ち向かってやる」

 

「でしたら、那智、ひとつお願いが」

 

「何だ?」

 

「死ぬときはスタンディングモードで」

 

「気が合うじゃないか。面白い、気に入った。──隼鷹!」

 

「あいよ。ミュータントタートルくん、スタンディングモード!」

 

 隼鷹がコンソールを操作すると、艦内に警報が鳴り響き、そして振動と共に船体が変形を開始した。

 

「ドック開放! ミュータントタートル号、出港準備! 第9643独立機動隊ヴァルキリーズ、出撃するぞ!」

 

 

 

 

 

 那智たちがミュータントタートル号と共に出撃したとき、ポーラもまた、マンバとネルソンを乗せて出港していた。

 

 彼女たちもまた、接近する大鉄塊に気づいていた。

 

 マンバが、通信でミュータントタートル号へ呼びかける。

 

「那智、さっき打ち合わせた作戦通りに行くぞ。先ずはポーラとミュータントタートル号で同時ECMだ!」

 

『了解だ』

 

「よし、ポーラ!」

 

「はぁーい、いっきまぁ〜す」

 

 ポーラは、ミュータントタートル号と同時ECMを開始。

 

 大鉄塊はそれに対抗しECCMで妨害電波の無効化を図ると共に、反撃としてポーラたちに対しECMを仕掛ける。

 

 ポーラのECMとは桁違いの出力で放たれた大鉄塊のECMに、こちらのレーダーが一瞬、真っ白に染め上げられた。

 

 しかしポーラとミュータントタートル号も対抗して同時ECCMを発動、大鉄塊の妨害電波をキャンセルし、レーダーの回復を図る。結果、性能は落ちたものの、砲撃戦が可能なレベルにまでレーダーが復旧する。

 

「よし、いけるぞ」と、マンバ。「ミュータントタートルと大鉄塊の電子戦能力はほぼ互角だ。そこにポーラが加わっている分、こっちの方がやや有利って事だ」

 

「えへへ〜、ポーラ、お役立ちですか〜?」

 

「あぁ、役立ってる。頼りにしてるぜ。だけどここからが危ない橋だ。気を抜くなよ」

 

「あいあいさ〜」

 

 緊張感の無いポーラの様子に、マンバは多少不安を覚える。

 

 その一方、ネルソンはといえばラム酒の瓶を片手に不敵な笑みを浮かべて仁王立ちしていた。

 

「征け! 突撃だ!」

 

「あいあいさ〜」

 

 酒瓶振り上げての突撃指示に、ポーラも威勢良く全速前進で応じた。

 

 ポーラの船体が波しぶきを蹴立てながらアッパーデッキの下から空の下へと進み出て、水平線に見える大鉄塊目指して突き進む。

 

 彼我距離およそ10海里。ポーラと大鉄塊は双方とも35ノット以上で近接を開始。その相対速力は70ノットにも達する。このまま七、八分も走れば正面衝突する速力だ。

 

 無論、既にお互いの主砲の射程内でもある。

 

 マンバは、水平線の彼方で大鉄塊が砲煙に包まれたのを目撃した。

 

「大鉄塊が主砲を発砲したぞ!」

 

「回避しまーす!」と、ポーラ。

 

「同時に反撃だ!」と、ネルソン。

 

 船体前部側の20センチ連装砲二基四門が一斉射、水平線めがけ四発の砲弾が飛翔していく。

 

 ポーラは急速面舵回頭、右方向へ急カーブしたポーラの船体めがけ、大鉄塊が放った十発もの砲弾が降り注ぐ。

 

 その砲弾は全て艦の左側に着弾、巨大な水柱を生じせしめた。

 

「近弾だ」と、マンバ。「大鉄塊の諸元計算が上手くいってないようだな。こっちのECMが効いている証だ」

 

「こっちの砲撃も外したようだが、な」ネルソンが双眼鏡を覗きながら言った。「四発全て大鉄塊の頭上を通り過ぎていった大遠弾だ。大鉄塊は回避もしとらんぞ。まあ最も、余の創りし大鉄塊の装甲は20センチ砲の直撃くらいではビクともせんが、な!」

 

「自慢するなら後でやってくれよ。良いんだ、ポーラ、命中しなくても気にするな。今は応射することに意味がある。このまま近づきつつガンガン撃っていこう」

 

「はぁ〜い。ポーラ、行っきまぁ〜す!」

 

 ポーラ、ジグザグ運動を繰り返しながら、更に発砲、大鉄塊との距離を詰めていく。

 

 大鉄塊は偶に直撃弾を食らうものの、微動だにせずに真っ直ぐ近づいてくる。

 

 彼我距離およそ6海里。

 

 ネルソンが言った。

 

「ポーラ、雷撃がくるぞ、備えろ!」

 

「あいあいさ〜。ソーナー警戒を厳となせ。水雷撃戦よーい、時限信管よーい!」

 

「彼我距離5海里を切ったところで魚雷発射。その後は作戦通り、反転して島へ向かって突っ走れ!」

 

「Conprensione. Ditanza 5 NM, Siluro fuoco!!」

 

 彼我距離5海里、ポーラは面舵回頭しつつ、大鉄塊へ向けて九発の魚雷を発射。そのまま反転、針路を島に向けた。

 

 ほぼ同時に、大鉄塊もポーラに向けて魚雷を発射していた。その数、なんと五十発。

 

 その上、大鉄塊はポーラの放った九発の魚雷に対し、避けるそぶりさえ見せず、真っ直ぐにポーラを追いかけ続ける針路をとった。

 

 ポーラは逃げる。大鉄塊に艦尾を向け、島を目指して逃げ続ける。

 

 そのポーラと大鉄塊の中間地点で、お互いの魚雷が交錯しようとしていた。

 

 その次の瞬間、ポーラの放った魚雷が、全て自爆した。

 

 九本の巨大な水柱が海面に聳え立ち、その衝撃波と爆音が海中をかき回し、迫り来る大鉄塊の魚雷のセンサーをかき乱した。

 

 この水中爆発により五十発中二十発の魚雷がセンサーを狂わされ、ポーラの航跡を見失い明後日の方向へと迷走していった。

 

 しかしまだ三十発もの魚雷が、ポーラめがけて殺到する。

 

「先ずは十発」ネルソンが艦橋で時計を見上げながら言った。「大鉄塊の魚雷は、対魚雷戦用の装備に同時に対策されないように、時間差で突入するようにプログラムされている。最初に来るのは高速パッシブ誘導タイプだ。あと九十八秒後にバッフルに紛れて真後ろから来るぞ!」

 

「六十秒前でデコイ発射します。回避運動よーい!」

 

 ポーラの船体後部から左右両側に向けて十発の自走型デコイが海中へと投入された。ポーラは取舵回頭。デコイと並走しつつ、針路を徐々に外していく。

 

 魚雷はデコイに食いつき、ポーラから針路を外した。

 

「ここまでは順調だな」と、マンバ。

 

 しかしネルソンは、まだ時計から目を離さないまま、言った。

 

「まだまだ次が来るぞ。デコイ対策に別ルートから進入してくる十発だ。七十秒後に左右からだ!」

 

 ネルソンの言葉通り、ソーナーが左右から包み込むように迫る魚雷航走音を捉えた。

 

 ポーラはデコイを発射。しかしポーラ自体が魚雷に挟まれて回避運動が取れない。

 

 デコイはポーラから遠ざかるために極端な変針を行なったが、それ故に魚雷はポーラとデコイをすぐに見分けてしまった。

 

 結果、デコイに引っかかったのは一発のみであり、残り九発がポーラに迫る! 

 

 マンバがソーナーコンソールを見て叫ぶ。

 

「魚雷近づく、距離1500!」

 

「水深は?」と、ネルソン。

 

「20メートルを切った!」

 

「よし、ポーラ、そのまま直進だ!」

 

「あいさー!」

 

 ポーラの目前に島の沿岸が迫っていた。水深が急激に浅くなる。

 

 通常、魚雷はある一定の深度で航走する。相手の真下で爆発することにより、船体の背骨ともいえる重要部分、船底キールを破壊するためだ。

 

 だがそのため、目標が浅い海域へ逃げ込んでしまうと──

 

 ──水深12メートル。ポーラの船底わずか数メートル下に固い岩場が迫る。一歩間違えれば座礁してしまう危険海域だ。そこをポーラは全速力で走り抜ける。

 

 その背後で、浅い海底にぶつかった魚雷が次々と爆発した。

 

 衝撃波が高速の波となってポーラの船体を不安定に揺さぶる。

 

 ポーラは全神経を操艦に集中、座礁しないギリギリの針路を保ちながら、島の周囲を沿うように回頭を開始する。

 

 ネルソンが言った。

 

「最後の魚雷群が来るぞ。深度対策のために海面近くを航走する浅深度魚雷だ!」

 

「大鉄塊も念を入れ過ぎだぜ」

 

「凄いだろう。余がそのようにプログラムしたのだ。伊達に十年間、あらゆる侵攻を跳ね除けてきた訳ではないぞ!」

 

「そのご自慢の大鉄塊を自分で攻略する気分はどうだい?」

 

「余が創っただけあって手強い手強い。相手にとって不足なし!」

 

「前向きなのかナルシストなのか、それとも両方か……」

 

「魚雷が来まぁ〜す。ネルソンさん、次は? 次の指示は!?」

 

「作戦通り、このまま島に沿って浅瀬を進め。マンバ、迫る魚雷は貴様に任せる!」

 

「オーケー、カッコイイところ見せましょ」

 

 マンバはウィングに出て、左手を海面にかざした。浅瀬対策とし海面ギリギリを航走する魚雷の航跡がはっきりと見える。

 

 マンバの左腕がレーザー銃に変形。その内部でエネルギーカプセルが三発まとめて発射回路に接続された。

 

 マンバはレーザーを発射、カプセル三発分のエネルギーをもった強力なレーザーが海面を貫き、魚雷のセンサーを破壊した。

 

 目標を見失った魚雷は自爆、その衝撃波が周囲へと拡散し、他の魚雷の針路を狂わせた。

 

 元々、海面付近は波の影響もあり針路維持や目標の捕捉が非常に難しい。

 

 マンバは立て続けに数発の魚雷を破壊し、自爆させた。

 

 その影響で残る魚雷も次々と針路を逸らされ、ポーラではなく海岸へと乗り上げ、そこで盛大に爆炎を上げた。

 

 五十発もの魚雷を全て回避された大鉄塊は、これ以上の雷撃戦は無意味と判断し、再び砲撃戦主体に戦術を切り替えた。

 

 ポーラに対し真っ直ぐに接近していた大鉄塊は、その距離を7,000ヤードにまで詰めていた。ECMによってレーダー照準が不安定でも、目視で充分狙える距離だ。

 

 大鉄塊は十数門もの砲身で連続射撃を開始。大量の砲弾がほぼ直進弾道でポーラに襲いかかる。

 

「面舵いっぱーい!」

 

 ポーラは急速右回頭、島の切り立った断崖絶壁のすぐ間近まで接近しながら、その影に回り込んだ。

 

 空中を埋め尽くすかのような大量の砲弾は島の陸岸に着弾し、その強大な破壊力によって大地をえぐった。

 

 ポーラが隠れた断崖絶壁も一部が崩落し、落石が次々と雪崩落ちてきた。その落石がポーラの目の前にも落ちてくる。

 

「うわ、わぁ!? と、取舵!」

 

「舵を戻せ! そのまま直進だ、恐れず突っ込め!」

 

「は、はいぃぃ!」

 

 岩礁が船体のすぐ左脇を通り過ぎた。あと数度でも舵を左にとっていれば座礁していた。

 

 しかし、舵を取らなかったことにより、落石が落下しつづける場所へ真っ直ぐ突っ込んでしまった。

 

 拳大の石が甲板上に次々と降り注ぐ中、ひときわ巨大な岩が、艦橋めがけ落下してくる。

 

「マンバ!」

 

「応よッ!」

 

 マンバがウィングで、レーザー銃を頭上に振りかぶる。レーザー照射。岩が真っ赤に光り、爆散した。

 

 マンバはさらにレーザーを連続発射。次々と降り注ぐ岩を正確に破壊していった。

 

 ポーラはそのまま断崖ギリギリを進み、大鉄塊から完全に姿を隠した。

 

 大鉄塊がポーラを追って島へと接近してくる。

 

「いいぞ、そのまま付いて来い」ネルソンが不敵に笑った。「深海棲艦よ。余の大鉄塊は確かに強い。最強の戦闘マシンであると、余が保証する。──だが、唯一無二では無い!」

 

 大鉄塊が、ポーラが隠れた断崖絶壁へと回り込んできた。すかさず砲身を向ける。

 

 しかし、そこにポーラの姿は無かった。

 

 代わりにそこに居たモノ。それは──

 

「──余が最初に創りし防衛システム“轟天号”! その強さ、その身をもって味わうがいい!!」

 

 海面を踏みしめる二本の脚、厚い装甲を纏った胴体、無骨で太くたくましい両腕、鎧武者の如き兜のような頭部をもった、巨大な人形二足ロボットが、そこに立ちはだかっていた。

 

 その内部にあるコクピットで、那智が高らかに叫ぶ。

 

「ミュータントタートル号、スタンディングモード。攻撃開始だ!」

 

 ミュータントタートル号はその巨大な拳を振りかざし、海面を蹴って、大鉄塊へと殴りかかった。

 

 

 

 

 

 



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第七話・ラストミッション(2)

唐突な設定紹介

・ミュータントタートル号

マンバの海賊船。

マンバが元いた前世では、世界征服を狙う秘密結社が、同じ野望を抱く大富豪と結託し、金に糸目をつけずに建造した最強の万能戦艦であったが、マンバがその組織と敵対した際に強奪した。

マンバがトラックに轢かれて転生した際、同じくミュータントタートル号も姿を現したが、こちらは本来、ネルソン要塞が建造した防衛用戦艦【轟天号】である。しかし、その管制用の人造兵士にマンバの意識が憑依したのと同じく、サポートAIにもミュータントタートル号のものが憑依している。


・サーフェイスモード(水上、水中用)

前部から【ラファエロ】【ミケランジェロ】【ドナテルロ】の順で一列に接続することで船体を形成し、そこへ各武器に分離した【レオナルド】が各部に装着されているという構造になっている。

全長:250メートル
最大幅:50メートル
主砲:回転砲塔式レールガン×2
副砲:12.7センチ機関砲×4
ミサイル:多目的VL×50セル(対空、対艦、対潜の各種ミサイルを装填可能)(ミサイルが入っているとは言ってない)
その他:艦首ドリル


・ランディングモード(陸上用)

艦首にドリル、中央に艦橋という形状はサーフェイスモードと同じだが、艦尾に位置していた【ドナテルロ】が無限軌道を備えた地上走行ユニットに変形し船体下部に装着されている。また主砲をはじめとした砲口武器は、艦橋の左右を挟む配置に変更されており、サーフェイスモードと比べ前方へ火力を集中できる構造になっている。

全長:120メートル
最大幅:70メートル


・スタンディングモード

【ラファエロ】が頭部・胸部・腕部、【ミケランジェロ】が腹部・腰、【ドナテルロ】が脚部となり、【レオナルド】は「艦これ」で言うところの「艤装状態」となって装着される。なお、ドリルは腕に着く。

全長(全高):100メートル
最大幅:20メートル(艤装装着時:50メートル)
必殺技:ドリルパンチ



 ミュータントタートル号スタンディングモード。それはミュータントタートル号が持つ三つの形態の一つにして、最も特殊な姿である。

 

 その全長は約100メートル。二本の脚部によって直立し、二本の腕を振りかざして深海棲艦をブン殴る人型巨大ロボだ。

 

 しかしその行動範囲は海上に限定されていた。何故なら、陸上では人型のままでは全長100メートル重量数万トンもの巨体を維持できないからだ。

 

 そもそも高層ビル並みの巨体を二本脚で歩かせようとする発想からしてどうかしている。転んだらどうする。一番高い頭頂部なんかは地上100メートルから大地に激突することと同義である。敵とド突き合う以前に自壊待ったなしである。イカれている。

 

 しかし、そんなイカれた形態でも、何故だか海の上でなら実現できたのである。

 

 二本の足で海面に安定して直立でき、しかも転んでもさほどダメージを受けない。慣性の法則が仕事しないのである。

 

 こんな非現実的で物理法則を無視した現象が、海の上ではまかり通っていた。

 

 その原理は未だに不明であるが、しかし深海棲艦などという巨大な人型兵器が海上を我が物顔で闊歩しているという理不尽な現実がそこにはあった。

 

 ならば、原理はわからないが、現実に存在している以上、再現出来ないはずがない。

 

 という信念と好奇心の元、見よう見まねで研究してみた結果、偶然に偶然を重ねた奇跡のような結果として、「人の形をしたもの限定で海上に直立できる技術」という画期的であるがイマイチ使いどころに困る技術が確立されたのであった。

 

 しかし使いどころに困るが、画期的なことは間違いなかった。

 

 何しろこの技術を使えば深海棲艦並みの巨体であろうとも海上を歩かせることができたからだ。それに何の意味があるかは別として──正直、海上を走るなら船の形をしていた方が一番合理的なのである──とにかく、できることはできるのだ。

 

「できるなら、作らないという選択肢は無い!」

 

 大鉄塊に向けて殴りかかっていくミュータントタートル号の勇姿を眺めながら、ネルソンは胸を張って言った。

 

「それに、深海棲艦と同じ技術、同じ姿の兵器を作るということは、いわば“敵を知る”ということにも繋がる。これは戦略上、とても重要なことだ!」

 

「で、その成果はあったのかい?」

 

 マンバからの質問に、ネルソンは「もちろん!」と力強く答えた。

 

「海上で人の形をしていても、戦術上まったく無意味だということがよく分かった!」

 

「だろうな」

 

 自分の海賊船のことではあるが、マンバもそこはあっさりと同意した。

 

 ミュータントタートル号はサーフェイスモードでは水上、水中、そしてランディングモードになることで陸上をも走ることができるが、このスタンディングモードだけは未だに使いどころが分からなかったので、滅多に使ったことは無かった。

 

 滅多に、ということは偶には使っていたということだが、それはサポートAIがこのモードを妙に気に入っていたからである。だから絶対に勝てる余裕のあるときか、はたまた勝敗とは全く関係のない状況下で、遊び半分で使った程度である。

 

 だから、この生きるか死ぬかの大勝負でミュータントタートル号がスタンディングモードで出てきたと知ったときには驚いた。

 

 だが、マンバは「やめろ」とは言わなかった。

 

「“死ぬときはスタンディングモードで”。サポートAIは常々そう言っていた。だから、あいつの意志を尊重してやりたいんだ」

 

 大鉄塊に挑む前の作戦会議で、マンバはそう言っていた。

 

「それに、少なくとも完全に無意味というわけでも無い。今、レディと一緒にタートルズの一隻【レオナルド】が行方不明になっちまっているが、ほとんどの武装はこのレオナルドに格納されていたんだ。こいつが手元に無い以上、残る三隻でまともに戦うにゃスタンディングモードでぶん殴る以外に無い」

 

 かくして、ポーラが囮となって大鉄塊をおびき寄せ、島影に隠れていたミュータントタートル号で奇襲するという作戦が実行されたのだった。

 

 その作戦は今のところ順調に行っている。

 

 おびき寄せた島影からの奇襲に成功したミュータントタートル号は、最初の一撃で、大鉄塊の全身から飛び出している砲身のうち数本をまとめて無力化することに成功していた。

 

 大砲の砲身というのは結構デリケートな代物だ。砲口は砲弾の径とぴったり一致しているため、横方向から強い衝撃などを受けて僅かでも歪んだだけでも砲は使い物にならなくなる。その状態で無理に発砲しようものなら間違いなく暴発する。

 

 ミュータントタートル号の“殴る”という攻撃方法は、砲身を歪ませるにはうってつけの方法だった。

 

 ミュータントタートル号は腕が届く範囲にある砲身を、片っ端から手当たり次第に殴り続けた。あっという間に、大鉄塊がミュータントタートル号へ向けていた側にあった砲身のほとんどを無力化することに成功する。

 

 大鉄塊が後進しながらその身を半回転させ、まだ無事な砲身群をミュータントタートル号へ向けようとする。

 

 コクピットで那智が叫んだ。

 

「させるものか。隼鷹、大鉄塊にぴったりと食らいつけ。千歳、どれでもいいから適当な砲身を掴むんだ。絶対に離されるなよ!」

 

 離れたら、距離を取られたら、終わりだ。近接格闘しかできない今のミュータントタートル号で大鉄塊に勝つには、拳の届く範囲でひたすら殴り続ける他に無い。

 

 逆を言えば、この近接レンジを維持し続けている限り、砲雷撃戦しかできない大鉄塊に負けることは無いはずだった。

 

(だが、待てよ?)

 

 那智はふと、引っ掛かるものを感じた。何かを見落としているような気がする。

 

(大鉄塊が近接戦闘をできないことか? いや、作った張本人であるネルソンがそう言ったのだから間違いない。……あの女が本当にネルソンならばの話だが)

 

 その辺りは、まだいまいち信じきれなかったが、しかし大鉄塊には手も足もないのだから格闘戦能力が無いのは確実だ。現に今、ミュータントタートル号を相手に手も足も出ずに殴られ続けている。

 

 大鉄塊の球状の表面装甲は呆れるほど分厚い上に、その丸みもあって、一回殴った程度では目に見えたダメージを与えたようには見えなかったが、それでも何度も殴り続けているうちに、僅かずつではあるが凹み始めた。特に砲身の付け根部分が構造的にも弱いらしい。

 

「千歳、砲身の根元を狙え。集中攻撃だ!」

 

「了解です!」

 

 千歳がコンソールを操作、砲身の根元部分めがけ、ミュータントタートル号の拳を振り下ろす。

 

 しかし、その拳が大鉄塊に届くことは無かった。

 

 振るった拳は、大鉄塊の傍から伸びてきた別の腕にガッシリと掴まれ、止められてしまっていた。

 

 それは機械の腕では無かった。生身の腕だ。病的なまでに白い肌を持った、細くしなやかな女の腕。

 

 細いといってもシルエットがそう見えるだけで、実際のその大きさはミュータントタートル号の無骨な腕と同程度はある。でなければ片手のみで横からパンチをつかみ止めるなんて真似は不可能だ。

 

「くそ、大鉄塊に取り憑いていた深海棲艦か!?」

 

 那智は歯噛みした。

 

 大鉄塊に片腕を突っ込み乗っ取ったチ級のことを忘れていたわけでは無い。しかしチ級が自由に使えるはずの残った片腕は砲口になっており、近接格闘には不向きな筈だ。それにチ級が取り憑いていた側は、ミュータントタートル号とはちょうど反対側であり、その位置からではどうしたって腕は届かない筈──

 

 ──そう思っていたが、しかし。

 

「チ級じゃ……無いだと!?」

 

 ミュータントタートル号の腕を掴み止めた深海棲艦が大鉄塊の陰からその全身を現した。

 

 女だ。黒いワンピースのような衣を纏った、長い黒髪の、女。

 

 その顔に仮面は無く、代わりに額から二本の角が天へ向かって伸びていた。

 

 その女がミュータントタートル号を見下ろした。

 

 でかい。全長100メートルのミュータントタートル号と比べ、推定120メートルはあるだろうと那智は見当をつけた。それでも全長150メートルにも達する戦艦ル級よりは小さい。つまり、明らかに別種だ。

 

 そう、この深海棲艦は──

 

「──戦艦棲鬼かッ!」

 

 これまで、ただ一度だけ、ソロモン海峡でのみその存在を確認された特異な個体だ。それゆえ級として分類されず、その外見的特徴から“鬼”と名付けられた特異体である。

 

 それがチ級の代わりに大鉄塊と繋がっていた。しかも片腕を突っ込んでいたチ級と違い、戦艦棲鬼は首の後ろからケーブルのような太い触手を伸ばし、それをチ級が開けた穴から突き込んで接続していた。

 

 つまり、戦艦棲鬼は大鉄塊からある程度距離を取りながら、かつ両腕が使える状態でいるのだ。

 

 ミュータントタートル号は戦艦棲鬼に掴まれた腕を引かれ、大鉄塊から引き離された。ミュータントタートル号の腕を掴んだまま、戦艦棲鬼がもう片腕を大きく振りかぶる。

 

 那智は叫んだ。

 

「防御姿勢を取れ、衝撃に備えろ!」

 

 ミュータントタートル号はまだ自由な片腕でガードを固めた。そこに戦艦棲鬼の拳が叩きつけられた。

 

 大砲の直撃を受けたかのような大激動とともにミュータントタートル号は大きく背後へと吹っ飛ばされた。

 

 コクピットの中の那智たちもただでは済まなかった。目の前で大爆発が起きたようなとんでもない衝撃が襲いかかる。その衝撃から脆弱な人間の肉体を守るため、各員の座席の周りをエアバックが包み込む。

 

 ミュータントタートル号は数十メートル以上も後退した後、そのまま背中から倒れこみそうになるのをオートバランサー機能を全開にしてなんとか踏みとどまった。

 

「全員、無事か!?」

 

 エアバックがしぼみ、那智がすぐに仲間の様子を確認する。他の三人に異常は無い。那智はそのまま戦艦棲鬼を見た。

 

 戦艦棲鬼は追撃してこなかった。しかしその理由はすぐに察せられた。先の一撃はミュータントタートル号を大鉄塊から引き離すことが目的だったのだ。

 

 戦艦棲鬼は大鉄塊を操り、残った大砲の砲身をミュータントタートル号に向けた。

 

「まずいっ!?」

 

 この至近距離から一斉砲撃を食らえば、一発轟沈は免れない。しかし、避ける余裕も無い。

 

 もはやこれまでか。と那智が諦めかけた時、伊14が叫んだ。

 

「突撃だ! 前に進もう!」

 

 那智もハッとなって叫んだ。

 

「前進! 前進だ! 戦艦棲鬼にぶちかませ!」

 

 ミュータントタートル号は海面を蹴って戦艦棲鬼めがけ飛びかかる。何か勝算があっての行動では無かった。立ち尽くしたまま死にたく無い、という伊14の潜水艦娘としての諦めの悪さに影響されただけだ。

 

 這い蹲ったままよりかは立って死ぬ。立ったままよりかは殴りかかって死ぬ。それが独立機動隊ヴァルキリーズの意地だった。

 

 しかし戦艦棲鬼は、そんなミュータントタートル号を赤く光る目で見下しながら大鉄塊に砲撃命令を送った。

 

 命令を送った筈だった。しかし、その命令は大撤回に届かなかった。

 

 いつのまにか背後に回り込んでいたポーラが主砲を発砲、20.5センチ砲弾が大鉄塊の触手が繋がっている部分に命中し、戦艦棲鬼との接続を断ち切ったのだ。

 

 大鉄塊は砲撃をする前に動きを止めた。

 

 砲撃を止められた戦艦棲鬼は、棒立ちのままミュータントタートル号の体当たりを受ける羽目に陥った。

 

 戦艦棲鬼の方が体格に勝るとはいえ、数万トンの質量を持った巨体の全力タックルに、今度は戦艦棲鬼が大きく背後へと後退する番だった。

 

 再度エアバックに包まれたコクピットで、那智が叫ぶ。

 

「好機だ、もう一回行くぞ! このまま押し倒せ!」

 

「こりゃ命がいくつあっても足りねえな!」

 

 隼鷹が悪態をつきながらミュータントタートル号を全力で走らせる。

 

「敵の下半身にタックルを仕掛けます!」

 

 千歳が宣言し、ミュータントタートル号の腰を低く落とし両腕を左右に大きく広げた。押し倒してマウントを取れば勝ったも同然だ。人型二足歩行兵器の大きな弱点である。

 

「やっぱり人型って兵器として不向きじゃ無い?」

 

 伊14が能天気にポツリと呟いたが、ぶつかる直前であることに気づいて慌てて口を閉じた。

 

 衝突! 

 

 数万トン同士の巨体が再度ぶつかり合い、両者が踏みしめる海面に大きな波を伴った波紋が沸き立った。

 

 しかし今度は、戦艦棲鬼はビクともしなかった。ミュータントタートル号と同じように腰を低く落とし、タックルを受けとめたと同時に上から押さえ込んだのだ。

 

「イヨ、リミット解除! 機関全力でフルパワーだ!」

 

「了解、ターちゃん、リミット解除! 頑張って踏ん張ってよ!」

 

『踏ん張りすぎて全身のパイプがブチ切れそうです!』

 

 コンソールから電子音声が悲鳴を上げた。もう妖精を介する余裕も無いのだ。

 

 ミュータントタートル号が全力で戦艦棲鬼と組み合っている隙に、ポーラは再度位置を変え、戦艦棲鬼に対して主砲の狙いを定めていた。

 

「ナッチー=サン、いま助けますからね〜。ふぉー……」

 

「あぁ、一つ言い忘れていた」

 

「……っとと、ネルソンさぁーん、調子を狂わせないでください」

 

「大鉄塊を制御不能にしただろ。あれをするとな」

 

「はいはい」

 

「完全自律モードになって、だれかれ構わずに無差別攻撃を開始する」

 

「はい?」

 

 首を傾げたポーラの視界の脇で、艦橋の窓ガラスが突然真っ白にひび割れ、次の瞬間、粉々になって吹き飛んだ。爆音と轟音と砲音が粉微塵になったガラスとともに艦橋内に撒き散らされる。

 

 大鉄塊から放たれた砲撃が艦橋をかすめたのだ。

 

「ほら、な」

 

「「な、じゃねえよ(無いですよ)!?」」

 

 そういう事は先に言え、とマンバとポーラが文句を言う間も無く、更に砲弾がポーラの船体の周囲に着弾した。

 

「これじゃ手がつけらんねぇ。一旦、島影に隠れるぞ」

 

 マンバの指示によりポーラは反転、無差別砲撃を始めた大鉄塊から遠ざかりつつ、再度、島影に向かう。

 

 その一方、大鉄塊の至近距離で組み合っていたミュータントタートル号と戦艦棲鬼は、この無差別砲撃をまともに浴びる羽目になった。

 

 特に体格に優り、かつミュータントタートル号に伸し掛かるような体勢だった戦艦棲鬼は上半身に四、五発の砲弾を一度に喰らい、その姿勢が崩れた。

 

 ミュータントタートル号はこれを好機と捉え、一息に押し倒そうとしたが、やはり大鉄塊からの砲撃を避けることができず、横合いから数発の命中弾を受けてしまい、結局、戦艦棲鬼から離れざるを得なかった。

 

 大鉄塊の無差別砲撃は止むどころか更に勢いを増し、全身至る所から伸びている砲身から、全方位に向けて砲弾をばら撒いていた。

 

 その砲弾はミュータントタートル号や戦艦棲鬼の装甲を抜くことはなかったが、近距離から大量に浴びせられてはそのダメージは無視できるものではなく、両者ともども一旦戦闘を中止し、急いで大鉄塊から遠ざかった。

 

 残された大鉄塊は遠ざかるミュータントタートル号や戦艦棲鬼を追う事もなく、その場でその巨体を旋回させながら、ひたすら全身の武器という武器を撃ち続けた。

 

 放たれた砲弾は頭上のアッパーデッキを次々と穿ち、爆炎と瓦礫が雨のように海上へと降り注ぐ。

 

 大鉄塊のそばに位置している火山島も砲撃を受けていた。草木のない剥き出しの山肌に砲弾が降り注ぎ、絨毯爆撃のごとく炎の華で埋め尽くしていく。

 

 当然、その火山の中腹に建てられていたレグも無事では済まなかった。その巨大な柱に炎の華が一つ咲く度に、レグは深く抉れ、削れ、たちまちその身を痩せさらばえていく。

 

 レグが限界を迎えるまで数分も要しなかった。見るも無残に痩せ細ったレグは要塞の重量を支えきれなくなり、この世の物とは思えないきしみ音を立てながら、真ん中からへし折れる様に倒壊した。

 

 レグが、支えていたアッパーデッキごと崩れ落ちる。デッキのうち火山島に覆いかぶさっていた数キロにも及ぶ広範囲の大崩落だった。数百万トンを軽く超える質量の落下に、島そのものが揺れた。

 

 それでも、その揺れは震度にしてせいぜい二、三程度のレベルではあった。あったはずだが、その揺れは数秒たっても収まることは無かった。

 

 それどころか、揺れは徐々に大きさを増し始めた。

 

「おい……嘘だろ……?」

 

 マンバは、島の様子が明らかに変化したのを認めた。

 

「まさか、噴火するのか!?」

 

「レグへの砲撃が引き金になった様だな」と、ネルソン。「あの島に建っていたレグは、火山の地熱エネルギーを得るためにマグマ溜まりに近い地下深くまで基盤が打ち込まれていた。そこへ数百万トン級の衝撃を与えてしまったのだ。これはもう、ただでは済まないな!」

 

 見守るマンバたちの目の前で、島の山頂付近が砕け散り、入道雲の様な真っ黒な噴煙が、一瞬で頭上遥か高空まで聳え立った。

 

 同時に、衝撃波が山肌を土埃を巻き上げながら駆け下りてくる。

 

 マンバは叫ぶ。

 

「伏せろ! 目と耳をふさげ──」

 

 三人が艦橋内で伏せた瞬間、衝撃波がポーラの船体を揺さぶった。既にガラスを失っていた艦橋内を音の壁が突き抜け、コンソールのスクリーンというスクリーンが全て粉々に砕き割られた。

 

 三人は伏せたまま、衝撃と気圧の急激な変化をなんとか耐え凌いだ。

 

 もしも立ったままだったら、もし目と耳を塞いでいなかったら、それ以前に人造兵士の強靭な身体でなければ間違いなく重傷を負っていただろう。それ程の衝撃だった。

 

 無論、船体も無事では済まなかった。艦橋のコンソールはほぼ全てが火花を上げて沈黙し、艦内では各所で配管が破れ、一部では火災と浸水が発生し、メンテ妖精たちが大わらわで対処に当たっていた。

 

「システム30パーセントダウン。でも〜、ポーラはまだ、やれます!」

 

 やる気を見せるポーラだったが、事態は収まるどころか更に悪化の一途を辿っていた。

 

 山頂の一部を吹き飛ばすほどの大噴火によって大量の噴石が舞い上がり、それが高空から次々と降り注いでくる。細かな小石程度のものから、中には1メートルを超える岩が、灼熱化したまま砲弾並みの威力を伴ってあたり一面に襲いかかる。

 

 そこに暴走を続ける大鉄塊の無差別砲撃が加わり、島の周囲は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

 

 ネルソン要塞は上空から大量の噴石、下からは大鉄塊の砲撃を浴び、その崩壊に拍車がかかる。

 

 艦橋でネルソンが呟いた。

 

「かつての我が身が朽ちていく。空の果てまでも目指さんと築き上げてきたが、あっけないものだ……な」

 

「感慨にふけっている場合か。まだレディが取り残されたままなんだぞ。せめて大鉄塊だけでも止めないと」

 

「どうやって?」

 

「ポーラに預けていたEMP弾がまだ一発残っている」

 

「また狙撃するつもりか。だが不可能だ。外を見ろ」

 

 周囲は徐々に白く煙り始めていた。噴火による火山ガスだ。大量の火山ガスが島の周りを覆い尽くし、更に要塞の下へと流れ込んで、大鉄塊の姿を霞ませていた。

 

「ガスが濃すぎて、これではレーザーが減衰してしまう。この艦の電力を使用しても大鉄塊を止めるには出力不足だ」

 

「だったら、ギリギリまで近接して撃ち込むまでだ」

 

「大鉄塊の砲撃を掻い潜ってか? 自殺行為だな」

 

「やれます!」とポーラ。「ポーラもザラ級、水上戦なら負けません。……そのはずで〜す」

 

「頼もしいな、ポーラ。でも俺は無理な特攻をさせる気は無いぜ」

 

「じゃあ、どうするんですか?」

 

「あれをちょっと拝借しようと思ってね」

 

 マンバはそう言って艦首の方向を指差した。

 

 そこには前甲板のカタパルトに鎮座している水上偵察機の姿があった。

 

「あれで大鉄塊に特攻するつもりか。それこそ自殺行為だ」

 

「やってみせるさ。俺を誰だと思っている」

 

「イカれた海賊」

 

「イカした海賊、マンバ様さ」

 

「マンバさん」

 

 ポーラがEMP弾の最後の一発を投げ渡す。マンバはそれを受け取り、艦橋から前甲板めがけ飛び降りた。

 

 十数メートルの高さを落下し、轟音を立てて硬い甲板に着地する。人造兵士としての超人的な肉体のなせる技だった。マンバはそのまま前部へと走る。

 

 火山灰と細かな噴石が降りしきる中、艦載機に辿り着いたマンバは素早く期待の外観確認を始める。

 

 主翼、異常なし。エンジン、異常なし。コクピットに乗り込もうとして、その足元が濡れている事に気づく。

 

 もしやと思って機体の下部を覗き込むと、燃料が漏れ出していた。タンク下方に亀裂が入っている他、給油口まで破損している。これでは新たに給油することもできない。

 

「ポーラ!」

 

『はいはぁ〜い』

 

 駆け寄ってきたメンテ妖精を介して、ポーラが応答する。

 

「メンテ妖精でタンクの傷を塞げるか?」

 

『それぐらいなら簡単ですよ。給油口の修理は難しそうですけど』

 

「中身が漏れなきゃそれでいい。それと酒だ。回収した千歳のコレクションをありったけ持ってくきてくれ」

 

『宴会でもする気ですか?』

 

「飛行機だって景気付けが欲しかろうさ」

 

 妖精は頷き、早速その身をアメーバ状に変化させ、その一部を切り取ってタンクの亀裂に貼り付けた。同じように新たに切り取った一部を給油口にも貼り付ける。その部分は変形して漏斗状になった。

 

 そこへ、新たに十数体のメンテ妖精たちが千歳のコレクションを抱えて前甲板に到着する。

 

 妖精たちは、マンバの指示に従って一斉に酒瓶の口を切ると、給油口の漏斗めがけて中身を注ぎ込んだ。

 

『うわぁ、もったいないです〜。……チトセ=サン、怒るだろうなぁ』

 

『ふむん、しかしこれだけ集めたとしてもせいぜい200リットル、ドラム缶一本分といったところか。三分も飛べばガス欠だぞ?』

 

「一分も飛べりゃ充分さ」

 

 燃料搭載が終わると同時に、マンバはコクピットに乗り込んだ。

 

「ポーラ、島影から出て艦首を大鉄塊に向けてくれ!」

 

『あいあいさ〜。……マンバさん、生きて帰ってきてくださいね。死んだらダメですよ?』

 

「知ってるかい。海賊マンバは二度死ぬ」

 

『意味わかりません』

 

『You only live twice』ネルソンが言った。『人は二度しか生きる事が無い。この世に生を受けた時、そして死に臨む時。貴様の今の心境か?』

 

「そんな高尚なもんじゃ無いさ。征ってくるぜ!」

 

『いってらっしゃ〜い』

 

 ポーラの艦首が大鉄塊に向けて回頭した。火山ガスに煙る視界に、全身から砲炎の輝きを眩く散らす大鉄塊のシルエットが浮かび上がる。

 

 マンバはカタパルトを作動させた。艦載機が射出され、マンバの身体は突発的な加速大Gによってシートに押し付けられる。

 

 艦載機は艦首から海上へ飛び出すと同時にエンジン起動、大鉄塊へ向けて更に加速する。

 

 艦載機がアッパーデッキ下部へと進入する。

 

 マンバは機体を操り、降り注ぐ大量の破片と、大鉄塊からの濃密な砲火をかわしながら急速に接近していく。

 

 目前に大鉄塊が迫る。

 

 狙うはこれまでの戦闘によってできた装甲の破損箇所だ。マンバは海面すれすれの低空飛行で機体を90度バンクさせ、大鉄塊の周囲を高速で旋回する。

 

 一周目で装甲の破損箇所を見定める。破損箇所はいくつかあったが、最も大きいのは、あのチ級によって空けられた箇所だった。大きさも充分だが、何よりチ級や、そして戦艦棲鬼もその場所に自身の一部を侵入させて大鉄塊を操っていた。

 

 おそらく制御系に最も近い箇所なのだろう。マンバはそこを狙う事に決めた。

 

 二周目を周りながら発射タイミングを計る。

 

 コクピットに警報が鳴り響く。燃料タンクの圧力異常警報だ。送油ポンプの圧力が低下している。もう燃料が尽きたのだ。

 

 マンバはスロットルレバーを最大まで押し込み、かすかに残った燃料を使い切って最後の加速を行う。

 

 三周目。

 

 マンバはコクピットキャノピーイジェクトボタンを押し、キャノピーを投棄、機体の外に身を乗り出して左腕を構える。

 

 刹那、EMPレーザーが破損箇所に命中したと同時に、大鉄塊が放った砲弾によって艦載機の主翼が吹き飛ばされた。

 

 大鉄塊はその砲弾を最後に、その機能を完全に停止させた。

 

 その傍を、片翼を失った艦載機がきりもみを打ちながら彼方のレグへと飛んでいき、その根元に衝突して爆散したのだった。



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第七話・ラストミッション(3)

 マンバの命がけの特攻により大鉄塊の動きを止めることには成功したが、しかし、要塞の崩壊は未だ続いていた。

 

 大鉄塊の無差別砲撃とそれに伴う火山の噴火は、要塞に大ダメージを与えていた。

 

 特に、火山島に建てられていたレグが倒壊したことにより要塞の北側は大崩壊を起こしており、そのあとに続いた大鉄塊からの砲撃と火山からの大量の噴石により、その崩壊は拡大の一途を辿っていた。

 

 島の表面は噴火口からあふれ出した溶岩によって赤く染まり、そして頭上のアッパーデッキは一面に大小数々の爆発を生じせしめている。

 

 そのアッパーデッキの直下で、ミュータントタートル号は戦艦棲鬼と再び対峙していた。

 

 コクピットで、那智は額の汗をぬぐいながら口元をゆがめた。

 

「さあ、仕切り直しだ。互いに飛び道具なしのステゴロタイマン一本勝負、挑ませてもらおう!」

 

 ミュータントタートル号と戦艦棲鬼、互いの足が同時に海面を蹴った。巨大な水飛沫を跳ね上げながら二体の巨人が真正面から急接近する。

 

 先手を打ったのは戦艦棲鬼だった。ミュータントタートル号よりも高い身長、長い手足によるリーチを活かし、渾身のストーレートパンチが放たれた。

 

 が、その拳は空を切った。

 

 ミュータントタートル号はパンチが当たる直前に身体を急激に沈め、かわしたのだ。

 

 しかもそれはただの回避行動ではなかった。突進の勢いを殺さないまま足から先に滑り込んでのスライディングキックである。

 

 そのキックは戦艦棲鬼の足元をしたたかに蹴り上げ、戦艦棲鬼はミュータントタートル号を跳び越すような形で海面に転倒した。

 

 ミュータントタートル号はそのまま海面を百数十メートルばかりも滑走し続けた後にようやく停止。即座に立ちあがり、戦艦棲鬼へと向き直る。

 

 戦艦棲鬼は脚部にダメージを負ったことで立ち上がるのに手間取っていた。まだやっと上体を起こしたばかりだ。戦艦棲鬼が立ち上がりきる前にミュータントタートル号は再度、突撃する。

 

 ミュータントタートル号は勢いよく助走をつけ、戦艦棲鬼の顔面目掛け、大きく足を振り上げた。ミュータントタートル号の重量と突進の勢いがすべて乗った前蹴りが、戦艦棲鬼の顔面に炸裂する!

 

 戦艦棲鬼は立ち上がりかけた姿勢から、身体を大きく仰け反らせて背後へと倒れこんだ。しかし、またすぐに立ち上がろうと上体を起こす。

 

 その姿を見て、隼鷹が舌を巻いた。

 

「とんでもないタフさだね、アイツ。さすが鬼と呼ばれるだけのことはあるぜ」

 

「追撃を緩めるな。もう一発ぶちかませ!」

 

 那智の指示に、ミュータントタートル号は再度足を振り上げた。その太い足が、今度は戦艦棲鬼の胸を蹴りつける。

 

 しかし、戦艦棲鬼を蹴り倒すことはできなかった。戦艦棲鬼は攻撃をまともに受けたことと引き換えに、ミュータントタートル号の蹴り足を両腕でしっかりと抱え込んでみせたのだ。

 

 戦艦棲鬼が、まさに鬼の形相となって、ミュータントタートル号の足を抱えたまま立ち上がった。

 

 

——GUOOAAAAAAAAAAAA!!!!!!

 

 世界を揺るがすような咆哮を上げながら、戦艦棲鬼がミュータントタートル号を振り回し、投げ飛ばした。

 

 ミュータントタートル号の巨体が宙を舞い、海面へと叩き付けられる。

 

 いくら謎技術で慣性の法則を無視し、ショックアブソーバーとエアバッグで保護されたコクピット内とは言えども、その衝撃は那智たちの意識を一時飛ばすほどのものだった。

 

『那智、戦艦棲鬼が迫っています! 那智!』

 

「——うっ」

 

 サポートAIからの呼びかけで目を覚ました那智が見たものは、倒れたミュータントタートル号めがけ突進してくる戦艦棲鬼の姿だった。

 

 悠長に立ち上がってから避けている暇は無い。

 

「横に転がれ!」

 

 ミュータントタートル号は仰向けの状態から海面を横に転がった。

 

 その直後、ミュータントタートル号が元居た場所を戦艦棲鬼の強烈なストンピングが踏み抜いた。その海面に大口径の砲弾が着弾したかのような巨大な水柱が立つ。

 

 攻撃をかわされた戦艦棲鬼は、再度足を振り上げ、ミュータントタートル号めがけ振り下ろす。

 

 ミュータントタートル号はそれを両腕で防いだ。一撃目と違い、助走の勢いの無いストンピングは、両腕だけでもかろうじて防ぐことが可能だった。

 

 しかし戦艦棲鬼は二度ならず三度、四度と立て続けに足を踏み下ろし続けてきた。一撃一撃は致命傷には至らないが、それでも重い衝撃が幾度もミュータントタートル号に襲い掛かる。

 

 このまま立ち上がることもできず踏まれ続けていれば、いずれ機体の耐久値も限界を迎えてしまうだろう。

 

 その不利な様子は、少し離れた場所にいたポーラたちも気が付いた。

 

「主砲で援護します~。目標、戦艦棲鬼。ナッチー=サンたちに当てないように、よ~く狙って~……ふぉーこ!」

 

 20.3センチ砲四基八門から放たれた砲弾が、戦艦棲鬼を横合いから殴りつけるかのように炸裂した。

 

 戦艦棲鬼は大きくよろめきながらミュータントタートル号の上から離れたが、その厚い装甲には目立ったダメージは見当たらなかった。

 

「やはり重巡の主砲程度では装甲は抜けぬか」とネルソン。

 

「もう一回、撃ちまーす」

 

 と、主砲の再照準を始めたポーラを、ネルソンが止めた。

 

「待て。戦艦棲鬼ではなく、その頭上を狙え!」

 

「頭上?」

 

 首を傾げたポーラだったが、ネルソンが指し示した方向を見て、すぐに納得した。

 

「ナッチー=サン、できるだけ遠くに逃げてくださいね。ふぉーこ!!」

 

 ポーラは再度、主砲を斉射。その砲弾は戦艦棲鬼の頭上にあるアッパーデッキに命中した。

 

 かねてより損傷が激しかったアッパーデッキは、この砲弾が命中した場所を中心に、半径百数十メートルにわたり次々と崩落を始めた。

 

 まだ戦艦棲鬼の近くに位置していたミュータントタートル号は海面を這うようにして慌てて退避する。

 

 那智が叫んだ。

 

「ポーラ! そういうのは撃つ前に言ってくれ!?」

 

「ちゃんと言いましたよ~」

 

「言った直後に撃つんじゃない!」

 

 それでもミュータントタートル号はなんとか崩落現場からかろうじて逃げることができた。

 

 戦艦棲鬼は逃れられなかった。頭上のアッパーデッキがほとんどそのまま落下してきたようなものだった。見上げると頭上に半径百数十メートルにも及ぶ巨大な穴が開き、そこから空が見えていた。

 

 その直下の海面には、アッパーデッキを構成していた大量の残骸が、海面に沈み切らずに小山のように盛り上がって積もっていた。

 

 戦艦棲鬼の姿は見えなかった。どうやら完全に残骸の下敷きになったらしい。

 

「派手にやったわねえ」と千歳。「こういう時って、“やったか?”なんてセリフは言わないほうが良いわよね?」

 

「んじゃあ、アタシはこう言うぜ。“やったんじゃね?”」と隼鷹。

 

「これは間違いなく“やったね”」と伊14。「んふふ~、ビール一本賭けちゃうよ」

 

「ならば私は“やってない”方に賭ける」と那智。「勝って兜のなんとやら、だ。勝ってもないのに気を緩めるな。ミュータントタートル号の態勢を早く立て直せ!」

 

 よっこらせ、とミュータントタートル号が立ち上がろうとしたとき、目の前の小山が、動いた。

 

「おいおい、マジかよ……」

 

 おののく隼鷹の視線の先で、残骸が高々と持ち上げられた。その直下には、自身よりも巨大な残骸の塊りを両手で掲げている戦艦棲鬼の姿!

 

「やっぱり、ジンクスって怖いわね」と千歳。

 

「賭けは私の勝ちだな。イヨ、約束通りビール一本だ」と那智。

 

「生きて帰れたなら喜んで」と伊14。

 

——GUOOAAAAAAAAAAAA!!!!!!

 

 戦艦棲鬼が残骸の塊りを投げつけてきた。ミュータントタートル号は咄嗟に横へ避ける。しかし避けきれなかった。残骸の一部に接触し、その衝撃でミュータントタートル号は大きく横へ弾き飛ばされる。

 

 戦艦棲鬼は再び近くにあった残骸を持ち上げると、今度はそれをポーラの船体目掛け投げつけた。

 

「あわわわ!? 直撃コースですぅ!?」

 

「避けきれん、迎撃しろ!」

 

「ふぉ、ふぉーこ!!」

 

 主砲発砲、その全弾が迫りくる残骸に命中した。

 

 しかし完全には砕ききれず、複数に分かれた破片がポーラの船体に襲い掛かった。高速で飛来した大量の破片が上甲板にくまなく降り注ぎ、マストや環境構造物に装備されていたレーダーアンテナやFCSが破壊されてしまう。

 

「各種センサー破損!? 火器管制装置が使用不能になっちゃいましたぁ!?」

 

 戦艦棲鬼がさらに手近な残骸をつかみ上げ、投擲体勢をとった。振りかぶった残骸を勢いよく投げつけようとした——その直前、ミュータントタートル号が横からタックルをぶちかました。

 

 

 戦艦棲鬼は残骸を取り落とし、大きく仰け反りながら後退する。しかし倒れずに何とか踏みとどまった。

 

 ミュータントタートル号は追撃のパンチを放つ。だが、戦艦棲鬼が横にステップ移動し、そのパンチは避けられてしまった。戦艦棲鬼がそのまま背後に回り込む。

 

「拙いっ!?」

 

 ミュータントタートル号は咄嗟にその場から離れようとしたものの、間に合わなかった。戦艦棲鬼の両腕が背後から回され、ミュータントタートル号を拘束する。

 

 およそ数万馬力はあるであろう戦艦棲鬼の腕力が、ミュータントタートル号の上半身を締め上げる。その腕の下で、装甲が悲鳴のような不気味な軋み音を上げた。

 

「このままじゃ潰されるぞ。千歳、なんとか振りほどけ!」

 

「無理です、那智さん。完全に拘束されてビクともしないわ。完全にパワー負けしてる。イヨちゃん、もっと出力は上がらないの!?」

 

「いっぱいいっぱいフルパワーだよ! でも、おっかしいなぁ。ゲージにはまだ上限に余裕あるくせに、その三分の二程度までしか上がらないのはどういうこと?」

 

『その出力ゲージはタートルズ四隻分のエンジン出力を前提にしているんです』とサポートAI。『今は三隻分しかありませんから、本来のパワーが出せずにいます。このままでは自力で拘束を振りほどくことは不可能です!』

 

「畜生!」と隼鷹。「どうする、那智。このまま潰されるのも癪だぜ。いっそ自爆して道連れにしてやるのはどうだい」

 

「自爆できるのか?」

 

『できますが、道連れにできるかといえば微妙ですね。弾火薬のほとんどは“レオナルド”に格納されていますので、このまま吹っ飛んでも火力が足りません』

 

「つまり死に損か」

 

 戦艦棲鬼の両腕にさらに力がこもり、装甲の軋み音が大きくなった。装甲が砕けるまで、あとわずか。

 

と、そこへ。

 

「突っ込めポーラ! ジョンブル魂を見せてやれ!」

 

「ポーラはイタリア生まれですぅぅ!!」

 

 ツッコミを入れながらポーラの船体が戦艦棲鬼の背後から、その足元に勢いよく衝突した。

 

 ポーラの艦首がひしゃげ、船体そのものが大きく横に傾いた。しかしその甲斐あって、戦艦棲鬼の体勢を大きく崩すことに成功する。腕の拘束も緩み、その隙にミュータントタートル号は戦艦棲鬼に肘鉄をくらわせ、脱出に成功する。

 

 

——GUOOAAAAAAAAAAAA!!!!!!

 

 

海面に膝をついた戦艦棲鬼が、後進で逃げようとしていたポーラの船体へ向かって腕を伸ばす。

 

「捕まるぞ、逃げろ、後進いっぱいだ、急げ!」

 

「速度が上がりませ~ん!?」

 

 衝突でダメージを負っていた船体は逃げきれず、捕まってしまった。その船体が、持ち上げられる。

 

 

——GAAAOAOAOOOAOAOAO!!!!

 

 

「うおおおお!!!???」

 

「うひいいいいい!!??」

 

 戦艦棲鬼が船体を抱えたまま立ち上がり、ミュータントタートル号めがけて投げつけた。

 

「やべえ!?」と隼鷹。「避けるぜ、那智!」

 

「いや、受け止めろ!」

 

「1万3千トンをか!?」

 

 隼鷹はミュータントタートル号を後方へジャンプさせた。そのままポーラの船体を抱きかかえるように背中から倒れこむ。

 

 それでも両者合わせて5万トン近い質量である。海面に立っていられる謎原理もその重量を支えきれずについに効力を停止し、ミュータントタートル号は津波のような水飛沫を上げながら海中に沈みこんだ。

 

 謎原理に頼っていないポーラの船体は真っ当な物理法則に従って海面に留まっていたが、戦艦棲鬼への特攻と、そして投げられたことによって船体は折れかかっており、いつ沈没してもおかしくない状態にまで追い込まれていた。

 

 ポーラもネルソンも、艦橋で揃って目を回して気絶していた。もっとも気絶で済んでいるだけ奇跡のようなものだったが。

 

 ミュータントタートル号は沈んだまま、まだ浮いてこない。

 

 戦艦棲鬼がトドメを刺すべく、ポーラの船体へと迫る———

 

 

 

 

 

 

 

 

 

要塞内、某所。

 

「——よお、待ったかい?」

 

「……当然よ、待ちくたびれちゃったわ」

 

「心細くて泣いてたんじゃないか?」

 

「そんなわけないでしょ! ……だって、どんなに遅れても必ず来てくれる。それが、海賊マンバでしょ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マンバを乗せたまま艦載機が墜落したレグ内部で、ある異変が起きようとしていた。

 

 屋内乾ドック。それを取り囲んでいる渠壁が地響きを立てながら内側から破壊された。ドック内部にとらわれていた“それ”が、主の帰還により目覚めたのだ。

 

 全長50メートルの箱型の船体を持った海賊船、タートルズの一隻、“レオナルド”だ。

 

 その艦首から突き出された鋭角なドリルが高速回転しながら、ドックの分厚い渠壁を突き破り、前進を始めた。

 

 船体底部には無限軌道が備え付けられ、それが降り積もった瓦礫を踏み砕きながら乗り越えていく。

 

 レオナルドはドックを破壊しつくし、周囲にある程度のスペースを確保し終えると、続いて驚くべき行動に出た。

 

 前部側底部にあるロケットモーターが点火し、その船体を持ち上げ始めたのだ。レオナルドは90度垂直になるまで船体を起こし、艦首のドリルを直上へと向けた。

 

 船体後方には更に巨大なロケットブースターが数基、取り付けられており、それが一斉に大量の炎を噴出した。

 

 レオナルドがドリルでレグ内部をぶち抜きながら、ロケットモーターによる大推力で上昇していく!

 

 高さ200メートルものレグを貫いて飛び出したレオナルドは、そのままアッパーデッキに着地した。アッパーデッキはその重量を支えきれずに崩壊を始めたが、それよりも早い速度でレオナルドは疾走を開始する。

 

 その頃、行動不能に陥ったポーラの船体まであとわずか、というところまで迫っていた戦艦棲鬼は、異様な気配が近づいてきたことに気づき、その足を止めた。

 

 振り向き、見上げた視界に映ったのは、頭上のアッパーデッキがとあるレグからこちらへ向かって一直線に崩れ落ちてくる光景だった。

 

 その崩壊が、砲撃によって空いた大穴へと差し掛かる寸前、その穴の淵からレオナルドが姿を現し、そのドリルを戦艦棲鬼に向けて飛び降りてきた。

 

 戦艦棲鬼は咄嗟に身をよじってドリルの先端を避ける。攻撃をかわされたレオナルドはそのまま着水、水柱を上げて潜水した。

 

 レオナルドが潜水して目指した先、そこに、海中に沈んだままのミュータントタートル号の姿があった。

 

 レオナルドは海中で前部と後部に分離し、それぞれが変形を開始する。後部側はロケットブースターを中心に二門の大口径レールガンが左右に一門ずつ展開し、力なく沈むミュータントタートル号の背後に装着された。

 

 続いてドリルが付いた前部側が、右腕を包み込むように装着される。

 

 タートルズ四隻のエンジンが一つに集まったことでミュータントタートル号の出力が一気に回復していく。一時ブラックアウトしていたコクピットにも再び明かりが灯った。

 

「——っ!? なんだ、急にパワーが戻った?」一時、気を失っていた那智が目を覚まし、コンソールを確認する。「出力ゲージもいっぱいまで上がっている。どういうことだ?」

 

「ミュータントタートル号が真の姿を取り戻した証ってことさ」

 

 背後からの声。那智が振り向くと、そこに葉巻をくゆらすマンバの姿があった。

 

「……コクピット内は禁煙だ」

 

「俺の海賊船だ。勝手に規則を作らないでくれ。っていうか再会して一言目にそれはないだろう。心配したぞぐらい言ってくれないのか」

 

「どうせ無用な心配だ。殺したって死なんだろう、貴様。…それよりレディはどうした?」

 

「ここに居るわよ」

 

 マンバの陰から、幼い外見の少女が姿を現した。

 

「私がレディよ。那智さんに、隼鷹さんに、千歳さんに、イヨさんね。助けてくださって、ありがとうございます」

 

 品よく頭を下げたレディの姿に、那智たちは顔をほころばせた。

 

「見た目は幼いが中身は一人前のレディだな。海賊の相棒にしておくには勿体ない」

 

「お褒めにあずかり光栄よ」

 

「お前さんらこそ、軍人より海賊のほうが似合ってるよ」

 

「ふっ、それも悪くないかもな」

 

 マンバとレディが空いてる席に着いた。

 

『おかえりなさい、マンバ』

 

「サポートAI、調子はどうだい?」

 

『絶好調』

 

「そいつはなにより。それじゃあ、ケリを付けるとしようぜ!」

 

 ミュータントタートル号が急浮上を開始。海面を割って、その巨体が再び海上にそびえたった。

 

 戦艦棲鬼は、ミュータントタートル号の主砲とドリルという追加武装を目の当たりにして、警戒心もあらわに距離をとった。

 

 そのまま海面に積みあがった残骸の山に近づくと、その中でも最も大きな残骸を持ち上げ、前面に構えた。

 

 120メートルもある戦艦棲鬼の巨体がほとんど隠れてしまうような巨大な残骸だった。戦艦棲鬼はそれを盾のように構えながら、ミュータントタートル号めがけて突進してきた。

 

 コクピットでマンバが指示した。

 

「AI、砲撃戦用意。目標、長身でスタイル抜群、黒髪のロングのイカした女だ」

 

「ふむ、それはつまり私のことだな」と那智。

 

「違うわ、私よ。ね、マンバ」とレディ。

 

『困りました。候補がいっぱいいて絞り切れません』とAI。

 

「このタイミングで俺の冗談に悪ノリしないでくれ。AI、目標は戦艦棲鬼、早く撃て!」

 

『アイサー』

 

 戦艦棲鬼に体当たりされる直前でミュータントタートル号は二門のレールガンを斉射。超加速された弾丸が迫りくる巨大な残骸を粉々に打ち砕いた。

 

 しかし、その奥から戦艦棲鬼の渾身の拳が襲い掛かってくる!

 

 その強力な一撃を———

 

 ———ミュータントタートル号は左手のみで受け止めた。開いた掌が、戦艦棲鬼渾身の右ストレートをがっしりと掴み止める。

 

「こちとら完全体だ。馬力が違うぜ」

 

ミュータントタートル号の左手に力が籠められ、戦艦棲鬼の右拳をそのまま握りつぶした。

 

 

——GUGYAAAAAAAA!?!?!?!?

 

 

 戦艦棲鬼が悲鳴を上げながら身を引いた。それだけではなく、完全に不利と悟ったのだろう、背を向けて全速力で逃亡を開始した。

 

 それに対し、ミュータントタートル号は腰を落とした姿勢で右腕のドリルを構えた。そのドリルが高速回転を開始すると同時に、背面のロケットブースターに火がともる。

 

 轟音と大量の煙を噴出しながら、ミュータントタートル号は一気に急加速した。

 

「貫けぇっ!」

 

 逃げる戦艦棲鬼の背中を、右腕のドリルが刺し貫く。

 

——A…ga…!?

 

 

 ミュータントタートル号は戦艦棲鬼を貫いたまま更に加速。海面を疾走し、そのまま停止していた大鉄塊へと突入し、戦艦棲鬼を縫い付けるようにしてその厚い装甲をドリルで穿ち抜いた。

 

 

——ga…a……guaaaaaaa………

 

 

 戦艦棲鬼の四肢から力が抜け、その身体が大鉄塊にもたれかかった。

 

 ミュータントタートル号はドリルを逆回転させてその身体から抜き取ると、すぐに反転、ロケットブースターで急速離脱を図る。

 

 直後、戦艦棲鬼の身体が真っ赤に発光し、そして大鉄塊ごと大爆発を引き起こした。その爆風は直上のアッパーデッキを含め、広範囲を吹き飛ばしたのだった————

 

 

 

 

 

 

 

「……ポーラ……ねえ、ポーラってば」

 

 優しい声が聞こえる。と、ポーラは夢うつつに思った。ザラ姉さまの声だ、と嬉しくなる。

 

「ポーラ、起きて」

 

「あと五分~」

 

 甘えて駄々をこねたら、頭をスパンとはたかれた。む~、けっこう痛い。割と容赦ない一撃だったのでしぶしぶ起きる。

 

「ちょっとしたジョークなのに、ぶつなんてひどいですよザラ姉さま」

 

「そんなジョークに付き合っている暇なんてないのよ」

 

ザラが腰に手を当ててプンプンと怒っている。怒っているザラ姉さまも可愛いな、とポーラは思う。

 

 そして、そんな可愛い姉とまた再会できたことが堪らなく嬉しかった。

 

「ポーラ、何をヘラヘラと笑っているの?」

 

「だって~、幻だと思っていたザラ姉さまとまた逢えたんですもん。嬉しいに決まっているじゃないですか~」

 

「現実逃避しているわね」

 

「してませんよ~。現実はしっかり認識しています。戦艦棲鬼に船体ごとぶん投げられたんですよ。そんなの死ぬに決まっているじゃないですか。だからザラ姉さまとまた逢えた。違いますか?」

 

「違うわよ。ほら、周りを見てみなさい」

 

 言われてポーラは周りを見渡す。

 

 そこは、ポーラの艦橋だった。窓ガラスはすべて粉々に割れて残っておらず、コンソールは火花を上げて沈黙し、さらに船体そのものが横に大きく傾いていた。

 

「あ~、なるほど。もう死んだじゃなくて、いま死にかけているんですね」

 

「そうよ。だから、ほら、早く逃げなさい」

 

「ん~、でもぉ、そしたらザラ姉さまは、どうなるんですか?」

 

「死人の心配をしてもしょうがないでしょ」

 

「このまま会えなくなるのも寂しいなぁ、って……」

 

 ポーラは艦橋に座り込んだまま、その床を撫でた。

 

「……この船体の修理には、ザラ姉さまの部品もいっぱい使わせてもらったんです。だから、ポーラはここまで頑張れました。ポーラ、すごく怖かったですけど、持てる限りの勇気を振り絞れました。重巡として、艦娘として、ザラ級として、悔いなく戦えた。そう思えます」

 

 だから、満足です。と、ポーラは顔を上げて笑った。

 

 それは現実逃避をして酒で誤魔化していたころとは違う、心の底からの、誇りに満ちた笑顔だった。

 

「ここで死んでも、私の人生には、もう一片の悔いもありません」

 

 死を前にして、それでもポーラの胸は酒では得られなかった高揚感と幸福感で満たされていた。

 

 ザラにスパンと頭をはたかれた。さっきよりもいい音がした。

 

「バカ言ってないで、とっとと脱出しなさい」

 

「痛い痛い~、ザラ姉さま、なんでそんなことを言うんですか~。っていうか、本当に幻なんですかぁ?」

 

 本当は実体があるんじゃないのか。だとしたら嬉しいぞ、と涙目のポーラ。

 

「幻よ。ええ幻ですとも。でもね、ポーラ、あなたは違うでしょ。まだ生きている。この世界に実在している。だったら、どこまでも生きていく義務があるわ」

 

「でも、この船体を捨てたら、ポーラはもう重巡じゃなくなります。艦娘ですらない」

 

「一人の人間“ポーラ”として生きていけばいいのよ。簡単なことだわ。“私はポーラ、他の何物でもない”。自分でそう決めればいいだけのことよ。……あ、でもお酒は控えなさいね」

 

「そんなぁ、酷すぎます! ポーラからお酒を抜いたら、もうただの美少女でしか無いじゃないですかぁ」

 

「……うん、その性格なら心配いらないわね。あなたはどこでだって生きていけるわ」

 

ザラは苦笑いしながら、ポーラをぎゅっと抱きしめた。

 

「…ザラ姉さま」

 

 

「愛してるわ、ポーラ。———さぁ、早く行きなさい、ほら!」

 

 ザラは身体を離すと、ポーラをウィングへと押し出した。

 

 

 

 ふっとあたりが明るく、そして急に明瞭になった気がした。潮と硫黄の香りが鼻腔に漂い、ポーラは現実感を取り戻した。

 

 

 

「お、ポーラ。やっと気が付いたか」そこにネルソンが居た。「見ろ、ポーラ。戦艦棲鬼が轟沈したぞ。完全体になった余の“轟天号”が一撃で決めた。やはり余の力は大したものだ、な!」

 

「あ~、そうなんですか。勝ったんですか。……あれ、そういえばマンバさんは?」

 

「ちゃっかりレディを助けて轟天号に戻っている。ま、あれも余の創った人造兵士の身体だ。簡単に死ぬわけがない。当然の結果だな」

 

「そうなんですか……良かった」

 

「ふっ……連中が迎えに来たぞ」

 

 ミュータントタートル号が沈みかけているポーラの船体のそばに膝をつき、手を差し伸ばしてきた。ウィングのすぐそばに掌を上にして添え、乗るように促す。

 

「行くぞ、ポーラ。……ポーラ?」

 

「……はい」

 

 ポーラはしばし艦橋の中を振り返っていたが、すぐにネルソンに引き続いてミュータントタートル号の広い掌の上に飛び乗った。

 

 それを待っていたかのように、船体は急激に傾きを大きくし、そしてついに転覆した。そのまま船体後部から大量の気泡を噴き上げながら沈没していく。

 

「さようなら、ザラ姉さま……」

 

 二人を艦内に収容したミュータントタートル号は、崩壊を続けるネルソン要塞の外へ向けて針路を取った。

 

「任務完了、だね」と伊14。「ネルソン要塞は破壊したし、レディちゃんも救出できた。んふふ~、私たちの完全勝利だね!」

 

「あら? そういえば私のコレクションは?」

 

 千歳の疑問に、マンバが「すまん」と両手を合わせて頭を下げた。

 

「艦載機の燃料が漏れていたんで、代わりに使った」

 

「もしかして……全部?」

 

「そう、全部」

 

「………」

 

 千歳の顔から血の気が失せ、そのまま足元から崩れ落ちた。

 

「わ…私の…コレクションが……」

 

「わ~、チトセ=サン、気をしっかりもって~!?」

 

「お、気つけが必要か。仕方ないな。では余のお気に入りを分けてやろう」

 

 ネルソンがどこからともなくラム酒の瓶を取り出し、千歳に差し出した。

 

「いいか、一口だけだぞ」

 

「あ…ありがとうございます……って、それ私のコレクションじゃないですか!?」

 

「あ、こら、瓶ごと持っていくやつがあるか! これは余のだ!」

 

「わわわ、二人とも、喧嘩しちゃ駄目ですよ~!?」

 

 バタバタと騒がしくなったコクピット内で、隼鷹がため息をついた。

 

「なぁ、那智。この戦いでアタシたちが得たものって結局なんなんだ? 船体もコレクションも失っちまって、最後に残ったのは名誉だけ、なんてのは御免だぜ?」

 

「このまま帰っても、どうせコウメイから調子のいい世辞と腹の足しにならん勲章を受け取るだけか。反吐が出そうだな。我々を捨て駒にしたあの連中をぶん殴ってやらないと気が済まない」

 

「大宴会を開けるだけのボーナスもふんだくらないとね」と伊14。

 

「私のコレクションも弁償させないと!」と千歳。

 

「でも、あの女が素直に示談に応じるとも思えねえぜ」と隼鷹。「かといって裁判沙汰にしたって手間と時間ばっかりかかっちまう。……てことは、やっぱり?」

 

「力ずくだ、な!」ネルソンが胸を張って言い切った。「次の我々の相手は海軍か。面白い。腕が鳴るな!」

 

「われわれ~って、え? それ、ポーラも含まれちゃってます?」

 

「当然だ!」

 

「え~!?」

 

 ネルソンがポーラの肩を無理やり抱いて、反対の手でマンバを指さした。

 

「行くぞ、マンバ。針路を日本にとれ。海軍本部へ殴り込みだ!」

 

「いやいや待て待て、どうしてそうなった」

 

「鈍い奴だな。話を聞いていなかったのか?」

 

「俺たちは関係ないだろ!?」

 

「この轟天号は余が創った。貴様の身体もな。つまり余は貴様の親も同然なのだ。ママと呼んでくれてもよいのだぞ」

 

「呼ばねえよ!?」

 

「ねえ、マンバ。いったい何の話? この人があなたのママなの? お義母さまって呼ぶべきかしら?」

 

「違うから、やめろ。話すと長いんだよ、レディ。それに複雑だし、正直、俺だっていまだによく理解できてなくてなぁ……それよりも、だ」

 

 マンバはコンソールに目を向けた。

 

 そこに、動体検知器が捉えた情報が映っていた。何者かが、高速で海上を疾走し、こちらへと向かってきている。

 

 数は一。その反応の大きさと、そしてレーダーには映っていないことから深海棲艦であることは間違いなかった。

 

 それが、目視可能圏内に入り、望遠カメラが水平線上に現れたその姿を映し出す。

 

「あいつは……雷巡チ級? ……まさか、“人喰い雷巡”、“不死身のチ級”か!?」

 

 カメラ映像の中で、チ級はまるで挑発するかのように、仮面から覗く口元をゆがめて笑って見せた。

 

「あの野郎、生きてやがったか。……いや、大鉄塊と戦艦棲鬼をけしかけてきたのはアイツだったのかもな」

 

「あのチ級は化け物だ」と那智。「こっちに向かってくるぞ。やりあう気だ」

 

「いいぜ、今度こそ目にもの見せてやる。ミュータントタートル号の力、舐めるなよ。総員、戦闘配置だ!」

 

 コクピット内で艦娘たちは再びコンソールについた。ポーラとネルソンも空いた席に身体を固定する。

 

 チ級が迫ってくるなか、那智が言った。

 

「マンバ」

 

「なんだ、那智?」

 

「私たちは海軍をやめる。そう決めた」

 

「こんな時に突然、何を言い出すんだ?」

 

「海賊になる。貴様の言うとおりだ。我々にはきっと、そっちのほうが向いている」

 

「本気かよ。この業界は同業者と書いて邪魔者って呼ぶんだぜ。お前さんらと殺しあうのは御免だ」

 

「そうはならん。貴様の配下となる」

 

「は?」

 

 呆けたマンバに、那智はニッと笑った。

 

「海賊団“マンバ”を立ち上げてやろうというのだ。さしあたって手始めにあのチ級を倒し、そしてその先もともに戦おう。どうだ、船長?」

 

「誰が船長だ。どうだもこうだもあるか。海賊団なんて調子のいいこと言いやがって、要は海軍を脅迫するのにミュータントタートル号を使いたいだけだろう!? そんなの受け入れられるか! なあ、レディもそう思うだろ?」

 

「仲間が増えるなら、食い扶持を稼がなくちゃいけないわね。やっぱり海軍からふんだくるしか無いんじゃない?」

 

「なんで海賊団が結成された前提で話すんだよ。もしかして乗り気か? おいおいおい、冗談じゃないぞ。こいつら俺よりも性質の悪い海賊になるぞ!?」

 

「それは誉め言葉かな」と那智。「それよりもマンバ、チ級が来るぞ。戦闘態勢を取れ!」

 

「船長じゃなかったのかよ!? 畜生、AI、迎撃準備だ!」

 

『アイサー。那智、契約内容については後でゆっくり交渉を』

 

「海軍よりもいい待遇で頼むぞ。なぁ、船長?」

 

「貧乏暇なしだ。散々こき使ってやるから覚悟しな!」

 

 

 ミュータントタートル号はロケットブースターを点火、ドリルをかざし、チ級へ向けて突撃する。

 

 

 その背後では火山島がさらなる大噴火を引き起こし、島一帯に大地震を巻き起こした。

 

 

 その揺れが、崩れかけていたネルソン要塞にトドメを刺す。残っていた全てのレグが海底にまで及んだ地震によって倒壊し、持ち上げられていたアッパーデッキが一気に海上へと落下した。

 

 

 要塞の完全崩壊と、そして火山島の噴火に伴う大地震によって、巨大な津波が発生した。

 

 

 火山から噴出した巨大な炎が渦巻く天の下、津波が荒れ狂う海上で、機械の巨神と深海の魔神が、今、激突する!

 

 

「どけぇっ! 俺たちは海賊、海賊マンバだ!!」

 

 

 

 

——了——




次回予告

 ツイてるやつだ、と他人は言う。確かにそうだ。私はツイてる。

 私には疫病神と死神が憑いている。

 幸運なんてあるはずもない。私にあるのは不運と悪運、結果を迎えてはいつもこう思う。

 どうしてこうなった?

 やばい目をした山賊が、私を指さし笑って言った。

——生き残れ、と。

第四章~戦闘要請、雪風!~「第二十三話・チェスト二水戦!」

山賊「ぶっ潰しても、切り刻んでも、焼いても死なない。時に利己的に、時に利他的に、取り巻く環境を変えてまで生き延びる。そう、それが異能の因子だ!」
隼人「セリフをそんままパクるのは感心しもはんね」
雪風「しれぇ! レッドショルダーみたいな二水戦なんて嫌ですからね!?」


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第四章~戦闘要請、雪風!~
第二十三話・チェスト二水戦!(1)


※忘れてるかもしれない世界観設定

・艦娘は人間。実際の艦艇に乗り込み一人で動かす。

・艦娘は入隊し陸上の教育隊で訓練を終えたのちに、香取や鹿島が率いる練習艦隊で遠洋航海しながらみっちり鍛えられる。

・部隊配属になってから、先輩艦娘から船体を受け継いで正式な艦娘になる。


――どうして海軍に入隊した?

 

 目の前に座る面接官は私にそう訊いた。

 

 入隊したての艦娘候補生たちへの二年にわたる教育期間、その最後のイベントである遠洋練習航海が、間もなく終わろうとしていた頃のことだった。

 

 帰国の途へとついていた練習艦隊、その旗艦・鹿島に突如としてヘリで乗り付けてきた面接官に呼びつけられ、私は鹿島艦内の個室で、その女性と会っていた。

 

 面接官は女性だった。

 

 年のころは五十前くらいだろうか。左目の上下にわたって縦に古傷が走っている。それに最初は驚かされたが、軍服に身を包んだその姿もあって。その傷は醜さよりもむしろ勇ましさを際立たせているように思えた。

 

 歴戦の古強者というか、いや、むしろ強面のヤのつく職業、といったところか。

 

 ちなみに着ている軍服は陸軍のものだった。海軍の新兵の面接に、陸軍がなぜ?

 

 顔の古傷よりもそちらの方が気になる私の疑問を読み取ったのか、彼女は自らこう名乗った。

 

「統合幕僚部作戦部長、野木 魔鈴だ。海軍艦艇も含めた陸海空全体の作戦を立案するのがあたしの仕事でね。だからそんな変な顔をするな」

 

 そこに座れ。と、促されて前の席に座った私に、冒頭の質問が投げかけられたのだ。

 

 何故、入隊した。という問いに私は答えた。

 

「公務員を目指していました。お給料も悪くないですし、福利厚生もしっかりしていますから」

 

「安定志向のくせに前線配置の戦闘職種である艦娘を志望したのか?」

 

「手違いだったんです」

 

「何?」

 

「本当は事務員志望でした。願書も事務員採用のものをちゃんと出したんです。でも、後日に案内された試験会場は何故か艦娘採用の場所でした」

 

「何故そうなった?」

 

「係員の人に訊いたら、おそらく書類処理の途中で手違いがあって、間違って受験者リストに載ってしまったんだろう、って」

 

「だが、受験したわけだ」

 

「受験するだけならタダですし、それに事務員採用試験はもう終わったって聞かされましたから。だから、ダメもとで。……まさか受かるとは思わなかったですけどね」

 

「さっきも言った通り、艦娘は前線配置の戦闘職だ。安定とは程遠い職場だぞ」

 

「背に腹は代えられませんから。ウチ、貧乏なんですよ。仕送りしなきゃならないんで、雇ってくれるなら何でも構いません」

 

 私の言葉に、面接官はフッと笑みをこぼした。その表情は、彼女には悪いが、あまり好ましい笑みには思えなかった。古傷で人相が悪いのもあるが、それ以上に目が冷たいのが気になった。

 

「面白い」

 

 面接官はそう言って、手元の資料に目を落とした。私に関する人事資料だろう。入隊前の職歴も記載されているはずだ。

 

 面接官はさっと資料に目を通した後、再び私に目を戻して言った。

 

「まだ若いのに職歴が随分と豊富だな。何故だ?」

 

「……言わなきゃ、ダメですか?」

 

「質問に質問で返すな、と教育隊で習わなかったか?」

 

「すみません……」

 

 服従せよ、これは命令なのだ。と面接官の目が言っていた。理不尽だが、軍とはそういう組織なのだということは、この二年近い艦娘教育課程で身体に叩き込まれてきた。

 

 だがそれでも回答をためらったのは、説明するのがあまりにも面倒だからだ。

 

 なにせ私は義務教育を終えたばかりの小娘が就くにはいささか多すぎるくらいの職場を転々としてきたし、クビになってきた理由も毎回違う。それを全て答えようとすれば時間がかかりすぎる。

 

 だけど、命令なら仕方がない。

 

「最初の就職先は食品製造工場のライン作業員でした。でも私がしょっちゅう不良品を見つけてラインを止めるものだから、工場長に睨まれちゃってクビになりました」

 

「ロクでもない工場だな」

 

「最近つぶれたらしいです。二つ目は新聞配達でした。でも町を自転車で走っているとしょっちゅうトラブルに遭遇するんです。早朝なのにですよ、目の前で交通事故は起きる。火事に出くわす。行き倒れは拾っちゃう。その度に対応していたら配達どころじゃなくなっちゃって」

 

「どれも無視すれば良かったんだ」

 

「周りに他にも人が居たら、そうしてたかも知れません。でも早朝だから私一人しか居ないんですよ。いつも私が第一発見者だから無視できなかったんです」

 

「で、クビか。それじゃこの居酒屋バイトは?」

 

「集団食中毒が起きて店ごと潰れました」

 

「ガソリンスタンドの店員」

 

「火事になって爆発しました。私のせいじゃないですよ。引火しかけているところを発見したのは私ですけど」

 

「コンビニバイト」

 

「私のシフトの時に限って強盗が三回きました。犯人は全員逮捕されていますけど、さすがに三回目は警察から共犯じゃないかと疑われました」

 

「全部そんな具合か?」

 

「全部そんな具合です」

 

「凄いな」

 

「凄いでしょう」

 

 思わず自虐混じりに笑みを浮かべてしまった。面接官も例によって冷たい笑みを浮かべている。

 

「お前さん、ツイてるな」

 

「ツイてる? そんなこと言われたのは初めてです」

 

 厄病神が憑いてるという意味なら納得だが。

 

「ツイてるよ。どれもこれも常人なら一生に一度か二度は遭遇するかどうかのアクシデントだ。それがここまで集中するなんざ天文学的確率さね。お前さんにゃ人智を超えた何かがツイてるのかもな。…宝くじでも買ったらどうだい。艦娘をやらなくても遊んで暮らせるだけの大金が手に入るかもしれんぜ」

 

「買ったことはありませんし、買うつもりもありません」

 

「自分の運を測る気にはならないか? 個人的には麻雀あたりを勧めるぜ。一局どうだい」

 

「お断りします。ギャンブルだけは絶対にやらないと決めていますので」

 

「遊びでもか?」

 

「父は雀ゴロでした。ある日ヤクザの代打ちに呼ばれて、それきり姿を見ていません。大方どこかの海の底で魚の餌になったんじゃないですかね、あのロクデナシ」

 

 愚痴をこぼしてしまってから、慌てて口をつぐんだ。これは面接であってカウンセリングではないのだ。私情を出していい場面ではない。

 

 そうでなくとも、家族の汚点を他人には漏らしたくはなかった。

 

 面接官がクックックと笑いながら、手元の資料を伏せた。

 

「運に己の身を任せぬとの決意か。それも良い。どうせいずれ判ることだ」

 

 面接は終わりだ、退室しろ。と彼女は言った。私は指示通り退室しようとしたが、その前にどうしても訊いておきたいことがあって、ドアノブに手をかけたまま振り返った。

 

「あの、この面接は艦娘課程の最終試験か何かですか?」

 

「もしそうなら、その質問をした時点でお前は失格だ。履歴書に書く職歴がまた一つ増えることになる」

 

「失礼しました。帰ります」

 

「まあ待て。本当は極秘だが、お前には教えてやってもいい」

 

 ドアを開けかけた私は、ドアを閉じて再び彼女に向き直った。

 

 誰にも言うなよ、と彼女は念押しして言った。

 

「お前をとある部隊へ配属する。そのための面接だ。安心しろ、お前は合格だ」

 

 合格? 安心? 何故だろう、どうにも嫌な予感がビンビンする。

 

「第二水雷戦隊。この世の地獄に飛び込む命知らずの集団だ。お前はその一員となる。陽炎型八番艦“雪風”。それがお前が受け継ぐ名だ」

 

 彼女がまた冷たい目でクックッと笑い、最後にこう付け加えた。

 

「せいぜい生き残れ」

 

 退職願を書こうか。クビにされてばかりだった私は、初めてそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 練習艦隊が長い航海を終えて日本に帰国したその翌日早朝。

 

 苦楽を共にした同期生たちとの別れもそこそこに、私は配属先が黒く塗りつぶされた辞令書を手に、たった一人で地方行の高速列車に乗り込んだ。

 

 結局、退職願は書かなかった。貧しい実家に仕送りするためだ。背に腹は代えられない。雇ってくれるだけでも有難い。そんなふうに無理やり前向きに思考を切り替えて、私は瀬戸内海のとある島へと向かうフェリーに乗り換えた。

 

 辿り着いた島の船着き場に、一人の女性が迎えに来てくれていた。

 

「あなたが次期“雪風”ね。私は“初風”。ついてきなさい」

 

 無愛想にそう告げて、彼女はすぐに背を向けた。そのままスタスタと駐車場に停車していたマイクロバスに乗り込んでしまう。

 

 私は自己紹介する暇もなく、慌てて荷物を抱えてその後を追ってバスに乗り込んだ。

 

 車内は運転手を除けば、私と彼女の二人だけだった。マイクロバスは私が乗り込むとすぐに発車した。

 

「あ、あのぉ、初風さん……は、艦娘ですよね?」

 

「他の何に見えるの?」

 

「え~っと、いや、そのぉ」

 

「くだらない質問はしないで」

 

「…はい、すいません」

 

 会話はそれで終わった。以後、彼女は前を向いたまま一度も口を開かなかった。腕組み、足組みまでしてコミュニケーションをとる気がないことを全身で示していた。

 

 重苦しい沈黙のまま十分ほど経過したのち、バスはようやく基地へと到着した。

 

「着いたわ。降りなさい」

 

 荷物を抱えて、先に降りた初風を追う。周りには業務を行う庁舎や、居住区である隊舎らしき建物がいくつか並んでいたが、初風はそのどれにも寄らず真っ直ぐ海を目指していた。

 

「着いたわよ。これから“雪風”の引継ぎを行うわ」

 

「は、はいっ……はい?」

 

 私は耳を疑った。艦娘候補生は先代艦娘から船体と名前を引き継ぐが、その前には数か月間程度の研修期間が設けられているのが普通だ。

 

 その研修期間中は先代の艦娘と船体を共有しつつ、艦娘としての実際の業務を習得していき、そうやって一人前の艦娘として先代に認められたなら、ようやく一人の艦娘として独り立ちできるのだ。

 

 だけど、ここに居るのは先代“雪風”ではなく“初風”だ。おかしい、私は雪風になるはずだ。それはここに居る初風も認めている。

 

 混乱したまま固まる私の目の前で、初風は岸壁の船体転送装置を起動させ、目の前の海上に陽炎型の船体を呼び出した。

 

 候補生時代に使用していた丁型駆逐艦よりも大きく、より攻撃的なフォルムのその船体の側面には、確かに「ユキカゼ」と記されていた。

 

 桟橋は下りておらず、岸壁から100メートル以上離れた場所に錨を下した形で出現していたので、初風は岸壁から飛び降りると、そのまま海面をスタスタと歩き出した。

 

「何をしているの。早く来なさい」

 

「あ、あの、荷物は」

 

「そこに置きっぱなしでいいでしょ。ここは基地内よ。盗むバカが居るとでも?」

 

「は、はい」

 

 身一つで初風の後を追う。波一つない入り江の海面だが、やっぱり歩きにくい。私が船体に辿り着いたころ、初風は舷側に降ろされたジャコップ(縄梯子)を既に登り切っていた。

 

「先に言ってるわ。艦橋よ」

 

「は、はい…」

 

 ツッケンドンなその態度に辟易しつつ、私は不安定なジャコップを登り切り、さらに船内の階段を上って、艦橋へと足を踏み入れた。

 

 大方予想していたが、やっぱり初風ひとりが待っているだけだった。

 

「あのぉ……つかぬことをお伺いしますが、先代の雪風さんはどうされたんでしょうか?」

 

「ここには居ないわ」

 

「見りゃあわかりますよ、そんなの」

 

 思わず生意気な口調で言い返してしまった。だけど私も遠洋航海から帰国したばかりの足でここに着任したのだ。疲れからくる苛立ちをもう抑えきれなかった。

 

 初風からは睨まれたが、構うものか。艦娘には階級も上下関係もないのだ。そんな気持ちで睨み返していたら、やがて初風の方から視線を逸らした。

 

 彼女は深いため息を吐いて、言った。

 

「知りたい? 後悔するわよ」

 

「お気遣いどうも。でも、知りたいです」

 

「新人のくせに態度だけは一人前ね。なら、教えてあげるわ」

 

 初風はもう一度ため息を吐いて、言った。

 

「死んだわ」

 

「……は?」

 

 またもや耳を疑った。今、なんて言った?

 

「戦死したのよ、先月の任務中にね。突っ込んできた深海棲艦の爆撃機が至近距離で爆発してね。船体は無事だったんだけど、破片が艦橋に飛び込んだの。……ちょうど今、あなたが立っている場所よ」

 

 そう言って私の足元を指さした。

 

 見下ろすとそこには真っ赤な血だまりが———あるはずもなく、綺麗な床があるだけだったけれど、それでも私は一歩後ずさった。

 

「死人に引継ぎはできないわ。だから私が代行してるの。理解したかしら?」

 

「理解…しました」

 

「そう」

 

 初風はコンソールの一つを操作して艦娘の認証画面を呼び出した。

 

「さっさと登録してちょうだい。やり方は習っているはずよね。終わったらすぐに出港準備よ」

 

「いきなり出港ですか!?」

 

「口頭でひとつひとつ懇切丁寧に教えるほど暇じゃないのよ。それに私は雪風じゃないからこの船体の特性なんか教えられないしね。“習うより慣れろ”。これが二水戦のモットーよ」

 

 私は慌ただしく登録作業を済ませた。他の艦娘たちが数か月はかかる見習い研修期間を、私はたった十数分で終わらせてしまったわけだ。

 

 だからといって、これで私も一人前の艦娘だ、と胸を張る気にはなれなかった。後ろでにらみを利かせている初風も私を認める気など全くないだろう。

 

 登録が終わり、サポートAIが起動する。

 

『艦娘の新規登録が完了しました。認識番号○○―✕✕✕✕✕✕✕をこれより“雪風”と認証します。ご指示をどうぞ』

 

「えっと、出港準備を」

 

『了解しました。出港準備、艦内警戒閉鎖。錨鎖揚げ方用意』

 

 たちまち機関に火が入り、艦内をメンテ妖精たちが走り回る気配が満たした。

 

『出港準備よし』

 

「“雪風”、抜錨!」

 

 感慨も減ったくれもない初出港の後、私は初風に言われるがままに港外へと出て、沖へと向かった。

 

「これから何が始まるんです?」

 

「新入りの歓迎会よ」

 

「海の上で?」

 

「送別会になるかもね」

 

「は?」

 

 何を言ってるんだこの人は。と彼女の方を振り返りかけた時、不意に、不気味な風切り音と共に、船体のすぐ隣で海面が爆ぜた。

 

「へっ!?」

 

 高い水柱と船体を揺さぶる衝撃。水柱は一つだけではなく、立て続けにいくつも上がった。

 

 砲撃されている。しかも夾叉弾だ。私は反射的に叫んだ。

 

「戦闘用意!」

 

 リンクレベルが切り替わり五感に各センサー類の情報がダイレクトに伝わる。

 

 私はすぐにレーダーに意識を向けた。だが脳裏に浮かんだレーダー画面は真っ白に染め上げられていた。ジャミングだ。敵に重巡以上の級もしくは電子戦支援機が周囲を飛んでいる可能性が高い――――

 

 ――――敵? こんな内海の奥深くで?

 

 ありえない、と叫びたくなるのをぐっと堪えた。これは事実だ。間違いなく実弾だ。対処しないと殺される。

 

「最大戦速! 対空、対水上戦、電子戦用意!」

 

 続けて回避運動のため舵を取ろうとしたとき、背後で初風が叫んだ。

 

「針路そのまま! 死にたくなければ真っすぐ進みなさい」

 

「回避しないと当たりますよ!?」

 

「下手に避けられたら狙いが狂うじゃない」

 

 平然と言い放たれたその言葉と、そして彼女の態度で、私は悟った。

 

 これは訓練だ。ただし撃ち込まれているのは間違いなく実弾だが。

 

 前方、水平線上に軍艦の船影がいくつも現れたのが見えた。軽巡洋艦一隻を先頭に、その後を駆逐艦六隻が一列の単縦陣をとって私の前方を横切るように航行している。

 

 私に対して丁字有利の位置に占位している駆逐艦たちが、砲をかわるがわる発砲する。その砲弾は真っすぐ突っ込む私の船体をかすめる程の至近距離に次々と着弾した。

 

 訓練? 冗談じゃない。これは私のための訓練じゃない。今の私はただの標的だ。

 

 彼我距離が詰まる。水雷戦隊はピタリと砲撃をやめ、単縦陣を維持したままその針路を私の方へと向けた。

 

 先頭の軽巡の航跡からわずかのズレもない、まるで一匹の蛇のような滑らかさで水雷戦隊は回頭し、私の真正面から全速力で向かってくる。

 

「衝突コース!?」

 

「ぶつからないわよ。あなたがやることは、このまますれ違った後、陣形の最後尾につく。それだけよ。簡単でしょ」

 

「無茶苦茶ですよ、こんな訓練!?」

 

「戦場よりマシよ」

 

 目の前に迫った先頭の軽巡が前部主砲を発砲、その砲弾が私の左側すれすれに着弾し、その衝撃によって針路がわずかに右へブレた。

 

 その直後、軽巡が私のすぐ左脇をすれ違った。船体同士の距離はきっと10メートルもなかっただろう。互いの艦橋がのぞき込めてしまうくらいの近距離だった。

 

 私は相手の艦橋に立っていた二つの人影を認めた。男と、女だ。

 

 二水戦司令・郷海 隼人と、その旗艦・神通だ。

 

 郷海の顔は鬼かと思うほどの形相でこちらをにらんでいた。

 

 これが噂に聞く“豪快なる隼人”、私を地獄に送り込む男の顔だ。聞きしに勝る豪快ぶりに怯みそうになるが、でも、負けるもんか。

 

 私も負けじと睨み返しながら、彼と彼女が率いる水雷戦隊と次々とすれ違った―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あいが新しか雪風か」

 

 俺は軽巡“神通”の艦橋に立ちながら、つい今しがたすれ違った際に見えた艦娘の姿を思い返していた。

 

「なんてえじ目をした娘じゃろう」(訳:すっごい怖い目してたよねあの娘)

 

「目…確かに強い目をしていましたね。こんな危険な訓練なのに、そんなに前向きにやる気になってくれたなんて……ちょっと安心しました」

 

 俺の傍らで、秘書艦の神通がホッと胸を撫で下ろした。

 

 …でも、俺の言葉とニュアンス違くないですかね。

 

 彼女は俺の心中に気づかぬまま言葉を続けた。

 

「薩摩秘伝の鍛練法“肝練り”。実戦より過酷な環境に身を置いて度胸を鍛えるこの訓練、怯えて逃げられたらどうしようかと思いましたが、私たちを信じて真っすぐに突っ込んできてくれるなんて、なかなか見込みがある子ですね」

 

「………」

 

 本当かぁ? 本当にそうかぁ?

 

 針路については初風に強引に取らされただけじゃないのか。っていうか針路を固定しろとは言ったけれど、それは砲撃の間だけで、すれ違う時は普通に占位しろと初風には言っておいた筈なんだけどな!

 

 なのになんで正面衝突寸前になってんの!? そして神通もそれを当然みたいな感じで受け入れちゃってんの!?

 

 もしかして“普通”の感覚が俺と艦娘たちとで違うのか。だとしたらかなり拙くないか。だってあれ、寸前で雪風の針路がわずかにズレなかったら間違いなく衝突してたよ。

 

 いやそれ以前に大砲撃って相手の針路を変えるのも大概おかしいけどね!? 普通、自分が避けるよね、ねえ、神通さん!?

 

「……ないごて舵をそんままにしちょった」

 

「え? な、ないごてかじ?」

 

 あ、ちょっと強い調子で言い過ぎちゃったかな。神通のおどおどした様子に俺のチキンハートがズキズキと痛んだ。

 

「ごてかじ…あ、舵のことですか。そうですか、やはりお見抜きになられていたのですね」

 

 シュンとした様子の神通さん。失態を指摘され落ち込んでるように見えるが、でも、俺が何を見抜いたって?

 

「雪風さんとすれ違う寸前、私も怖くなってわずかに舵を切ってしまいました。私もまだまだ肝練りが足りません。申し訳ありませんでした」

 

 え、あれで舵を取っていたのかよ。っていうか取って良いんだよ。むしろもっと大胆に取ってよ!?

 

 俺は思わず我を忘れて叫びだしそうになったが、指揮官が取り乱してはいけないという理性と、なにより生来のチキンハートから結局のどまで出かかった言葉を飲み込んでしまった。

 

 うう、危ない訓練の連続で胃が痛い。俺は歯を食いしばって恐怖と胃の痛みを必死に堪える。

 

 と、そこで俺はふと思った。今更こんなに取り乱すくらいなら、そもそもこんな訓練、最初から許可しなきゃよかったのだ。

 

 そうだ、今からでも遅くない。訓練で死人が出る前に―――というか俺が死ぬ前に中止してしまおう。

 

「神通……」

 

 中止だ、という前にのどが痞えて咳き込んでしまった。

 

 途端に神通が「は、はい!」と勢いよく返事した。

 

「申し訳ありません、すぐに次の訓練を開始します…っ!」

 

 え? あ、いや、待って、今の咳払いはそんな意味じゃないよ!? 誤解しないで、ねえ!?

 

 俺が慌てて止めようとする前に神通は急速回頭、船体が大きく揺れた。

 

 水雷戦隊は速やかに二手に別れて模擬戦闘訓練を開始。各艦入り乱れるジェットコースターのような超危険な操艦の中で、俺は艦橋で立ったまま気を失ったのだった……。

 

 

 

 



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第二十三話・チェスト二水戦!(2)

 性は郷海、名は隼人。

 

 生まれは薩摩の人里離れた集落で、時代錯誤な武家者(ぼっけもん)の伝統を頑なに守り続ける豪農の跡取り息子として育てられた。

 

 郷海家先祖代々の家訓に従い海軍士官学校に入校し、そして今では海軍一の精鋭集団、百戦錬磨の荒くれ者たちである秘密部隊・第二水雷戦隊を束ねる男・通称【豪快なる隼人】として、密かに噂される男である―――らしい。

 

 俺が豪快? 冗談でも酷いもんだ。しかも二水戦を束ねるだって? とんでもない。実態は担がれているだけ……いやむしろ、どえらい暴れ馬の背から振り落とされないように必死にしがみついているだけ、というのが正しい。

 

 軍人としての能力も性格もせいぜい人並みか、もしくはそれ以下。それが俺の正体だ。

 

 ただ、幸か不幸かバランス感覚だけは人並外れたものを持っていた。幼いころから祖父に乗馬を仕込まれていたおかげだ。

 

「ぼっけもん足っもん、暴れ馬ん馬上で眠るっぐれでなかてかん」

 

 なに言ってやがんだこのクソジイイと内心では思いつつも、逆らうほど気が強くなかった俺は、爺様に言われるがままに乗馬を仕込まれた。それこそ暴れ馬の背で気を失ってもなお、だ。

 

 まったくよく生き延びれたものだ。馬など二度と乗りたくないというトラウマと引き換えに、激しく揺れる船上でも立ったまま気絶できてしまうなんていう全然誇れない特技だけ身についてしまった。

 

 本当にこの部分だけは我ながら超人的だと思う。今回もハッと気が付いたときは既に訓練が終わっていたが、同じく艦橋内に居た神通が、

 

「流石は提督……あれだけの操艦の中で顔色一つ変えず微動だにもされないなんて……。やはり、恐ろしいお方ですね…」

 

 と、ぶつぶつとつぶやいているのが聞こえて、俺は頭を抱えたくなった。

 

 あのね神通さん、君また誤解してるよ。そうじゃないんだよ。俺ただ気絶していただけなんだよ。むしろ俺は君の方がよっぽど怖いよ。

 

 あ、もしかしてまだ訓練スケジュール残ってるとかじゃないよね。やだよ、もうやめだ。今度こそちゃんと中止って、はっきり言うんだ。

 

「帰っぞ、神通」

 

「……あ、はい!」

 

 よし、言えた。神通も心なしかホッとしたように答え、部下の艦娘たちに対してきびきびと帰投命令を出し始めた。

 

 ……おかしい。神通がこんなにも嬉しそうに帰投したがるなんて。

 

 見た目引っ込み思案で大人しそうだけど、根はガチガチに真面目で、一度決めたことは絶対にやり遂げる頑固者だ。そんな彼女が訓練スケジュールを残して途中で帰るなんて、絶対不服に思うはずなんだが。

 

 と、そこまで考えていたとき、何気なく時計に目を向けた俺は、その時刻を見て思わず声を上げかけた。

 

 訓練終了の予定時刻を大幅に過ぎていた。なんでこんなに予定オーバーしちゃってるの!?

 

「神通…」

 

「は、はいっ! あ、もしかして帰っちゃ駄目でしたか!? わ、私ったらまた思い違いを。申し訳ありません、すぐに訓練を再開し――」

 

「――いや、帰る! それで、いい!」

 

 すぐに訓練再開の信号を出そうとした神通を、俺は何とか押しとどめることに成功した。標準語にこだわるあまり何だか片言めいた口調になってしまったが、どうにか通じてくれて良かった。

 

 それと神通の今の反応で、予定が大幅オーバーした理由も察することができた。俺が気絶していたからだ。

 

 神通は予定していた訓練スケジュールを全て消化したことを例のおどおどした調子で俺に報告していたに違いない。

 

 けれで俺が立ったまま――気絶していたので――何も言わなかったために、俺がまだ満足していないと思い込んで、訓練をずっと繰り返していたのだ。

 

 それも、当の神通自身がへとへとに疲れ果てるまで、だ。

 

 俺の背中にゾッと悪寒が走った。これ、もし俺の目が覚めなかったらどうなっていただろうか。燃料が尽きるか、それとも誰かが倒れるまで続けていたかもしれない。

 

 いや、倒れるだけならまだいい。その時はサポートAIが代わりに帰投してくれる。しかし疲労困憊した状態でそれでも訓練を続けていたら、いずれ船体同士の衝突事故を引き起こしかねなかった。

 

 そうなったら最悪だ。実戦ではなく訓練で艦娘や船体を失うような真似は愚の骨頂である。

 

 俺はペーパー試験の成績だけで出世してきた無能提督だが、部下を訓練で殺すようなクズにだけはなりたくなかった。だから……

 

 ……だから、せめて、今度から気絶するときはちゃんと倒れるようにしよう、と俺は心に誓った。

 

 できるものなら、だけど。

 

 

 

 

 

 

 そもそもなんで俺が、こんなヤバい部隊の提督なんかに任じられてしまったのか。その理由は誰にも分からなかった。冗談みたいな話だが、本当だ。

 

 参謀本部の片隅で雑用をやっていたしがない少佐だった俺に人事異動の辞令書を突き付けてきた当時の上司も、その首がねじ切れるんじゃないかと不安になるくらい首を捻っていた。

 

「おめでとう、と言っていいのか分からんが、臨時昇進付きの大抜擢だ。君があの二水戦の司令だって? どういうことだ?」

 

「…そいをおいに聞かれてん困っもうす」

 

「海軍総隊の人事部長にも問い合わせてみたが、奴もわからんと言っていた。人事AIの推薦だそうだ。“人知の及ばぬ膨大なビッグデータを基にした厳正な適性検査の結果だから悪いようにはならないだろう”なんて無責任なことをほざいてやがった。人事と書いて“ひとごと”と読むとはよく言われていたが、AIの本格導入からより酷くなっている気がするな」

 

 ぼやく上司から受け取った辞令書には配属先が記されていなかった。あるべき部隊名は黒塗りで潰されており、書類の片隅には【極秘】のマークがあった。

 

 上司が言った。

 

「今の二水戦は見ての通り極秘部隊だ」

 

「いつからそげんこっになったとですか?」

 

「知らん。いつの間にかそうなった。任務内容はもちろんのこと、保有戦力から人事の内容に関するまで全て閲覧不可扱いだ。指揮権すら統幕直轄となり、もはや海軍とは名ばかりの部隊と成り果てた」

 

 へえ、今そんなことになっていたのか。聞けば聞くほど不可解な部隊だ。そこに大事な部下を差し出せと言われた上司の憤りは察するに余りある。

 

「おいんこっを気遣うてくださり感謝すっ」

 

 俺が礼を言うと、上司は「何言ってだコイツ」と言いたげな目で見返してきた。

 

「気遣う? 君を? …いや、まぁ、うむ、そういうことにしておこう」

 

 気まずげな上司の様子に、俺は言わなきゃ良かったと後悔する。

 

「まぁとにかくだ」と、上司。「人事AIも二水戦も何を考えているんだか分からんが、残念ながらこれはもう決定事項だ。私や君が何を言ってももう覆らん。君の後任が補充されないこともな。ひどい話だ。今、君が抱えている仕事は私が全部引き継がなきゃならん。異動までになるべく仕事を済ませておけよ」

 

「…了解、です」

 

 不満げな理由はそれか。人事は他人事なんて言っといて、この上司も他人のことを言えた義理じゃなさそうだ。

 

 やれやれ、と上司の元から退席しようとしたとき、再度、上司から呼び止められた。

 

「ああ、君の送別会だがね」

 

「はぁ」

 

「さっき言った通り人事も極秘事項だから周りに知らしめるような宴会なんてできん。悪く思わんでくれ。以上だ、行ってよし」

 

 くそくらえ。温厚で小心者な俺だが、思わずそう叫びかけた。

 

 

 

 

 そんなこんなで心中もやもやを抱えながら着任した二水戦司令部で、秘書艦として出迎えてくれたのが軽巡艦娘・神通だった。

 

 なお、前任の司令は居なかった。なんでも前任の秘書艦と一緒に戦死したらしい。

 

 は? 嘘? 戦死? 聞いてないよ、そんなの。

 

「あの…その…極秘事項らしいので……」

 

 だからって後任にまで秘密にしておくこともないだろうに。

 

 しかし神通に文句を言っても仕方なかった。なにしろ彼女も、前任秘書艦の戦死によって急遽、繰り上げ任命された秘書艦初心者なのだ。

 

 司令と秘書艦、二人そろってロクな引継ぎも受けられず右も左も分からない中、戦隊司令部・戦術AIの助けを借りて部隊運用の勉強をするところから俺の提督ライフは幕を上げた。まったく酷いものだ。

 

 酷いといえば、この部隊の内実もなかなか酷かった。

 

 二水戦は極秘部隊に移行してから一年と半年程度しか経っていないにもかかわらず、司令は既に三度も交代していた。しかもなんと、その理由は全て戦死だった。

 

 それを知ったとき俺は唖然とした。いくら前線部隊とはいえ、後方で指揮を執るべき提督がこうも立て続けに戦死するなんて尋常じゃない。

 

 当然、部下である艦娘たちの損耗率もとんでもないものだった。

 

 なにしろ八個駆逐隊・三十数名もいる艦娘たちの中で、極秘部隊移行当時から在籍している者は神通をはじめわずか数名しかいないのだ。それ以外は皆、死傷により離籍したのだという。

 

 どれだけ過酷な戦場に投入されてきたんだ、いったい。

 

 知るのが怖かったが、知らないわけにはいかなかったので残された戦闘記録に目を通してみたが……吐き気がした。

 

 この世の地獄みたいな戦場ばかりだった。

 

 こんな任務、行けと命令する方もする方だが、従う方も大概だ。よくみんな大人しく命令に従ったな!?

 

「報酬制なんです…ここ……」

 

 と、神通が言いづらそうに教えてくれた。

 

「正規の規則じゃないんですけど、命令に従って出撃すれば任務の危険性によって基本給の数倍以上の手当がつくんです」

 

 まじか。詳しく聞くと、どうやら名目上は提督のポケットマネーということになっているらしい。財源どうなってんだ。

 

「艦娘たちは任務を拒否することも出来るんです。そのかわり拒否した任務の報酬と同額かそれ以上の金額を払う必要がありますけど、でも、条件はそれだけで、不服従の罪には問われないのが暗黙の了解なんです」

 

 つまり金と引き換えに命の保証を得られるということか。

 

「わ、私は…こんな性格だから、出撃が怖くて……いつも……お留守番してて……」

 

「じゃっで生き残ってこれたちゅうこっか」

 

「も、申し訳ありません…っ。私のような臆病者が秘書艦になってしまって……」

 

 二水戦の暗黙の了解はもう一つあった。司令と秘書艦はどんな出撃も拒否できないというものだ。エグイ、エグすぎる。

 

 上層部はなんと酷い部隊を作り上げてしまったのだ。提督も艦娘も消耗品にしか見ていないような部隊だ。こんなの、秘密にしておくのも当然だ。絶対に表沙汰にできない。

 

 でも、だからといってこの部隊をこのままにして置いたなら、俺が死ぬ。神通も死ぬ。部下たちもある程度は出撃を拒否できるとはいえ、それでもいつしか神通のように否応なしに出撃せざるを得なくなる。

 

 なにより、こんな消耗を前提にしたような部隊は、人的リソースも含めた資源の無駄遣いでしかない。資源を海外に頼る輸入大国でありしかも少子高齢化が深刻化している我が国にとって、これは全く割に合わない話だった。

 

 俺は激怒した。必ずやこの理不尽を正さねばならぬ。俺は小心者で優しさだけが取り柄みたいな男だが、一生に一度くらいは命を懸けて怒らねばならぬ時があることは知っている。そう、今がその時なのだ。

 

 俺は神通に留守を任せ、直属の上級司令部である統合幕僚本部へと乗り込んだ。

 

「二水戦司令、郷海大佐(仮)でごつ」

 

 玄関先の受付に名乗った途端、たちまち守衛の海兵隊員たちに周囲を取り囲まれた。

 

「うかつにご自分の所属を名乗らぬよう、ご忠告いたします」

 

 ドスの利いた声で耳打ちされ、そのままあれよあれよという間に司令部庁舎の地下へと連れ込まれた。

 

「おう、お前さんが新司令の郷海か。わざわざ着任の挨拶に来るとは殊勝な男だな!」

 

 地下の暗い部屋で待ち構えていたのは統幕作戦部長の野木 魔鈴だった。顔の古傷が厳めしい“山賊”だ。

 

「で、他に何か用か?」

 

 山賊の目がすっと細められ冷たい光を帯びた。人殺しの目だ。こんな女が直属の上官なら二水戦があんな性格なのも理解できる気がした。

 

 山賊の眼光を目の当たりにして、俺は股のアレが縮み上がる心地だった。しかしここで言うべきことを言わなければ、俺のアレどころが寿命が縮む。

 

「部隊ん体質改善を求めに来とうです」

 

 俺はなけなしの勇気をあらん限りかき集めて言った。

 

「隊に下される任務があまりにも過酷すぎっど。出撃ごとに必ず戦死者が出っことを前提にした作戦などありえもはん。しかもほぼ二水戦単独ん作戦ばっかいで他部隊ん支援も受けられんのはどげんなもんか。どしこ秘密部隊によっ極秘任務でん、こいではけしめちゅうようなもんじゃらせんか」

 

 俺は部隊の問題点を必死で訴えた。始めは声も足も震えかけていたが、話続けているうちに少しずつ治まり、むしろ熱が入って言いたいことがどんどん言えるようになった。

 

「よろしかと。艦娘は消耗品じゃらせん。彼女たち一人を一人前ん艦娘に育成すっとにどれだけん費用と時間、そして多うん人間ん努力と献身が費やさるっんか理解しちょらるっと。そげんして大切に育て上げた一騎当千ん武家者たちなのど。いや、それ以上に彼女たちにも大切な家族があり、大切な未来があっ。そいをあたら無暗に散らせっような無謀な作戦に投入すっことに、おいは断固として反対いたします。現代ん戦闘はもはや前時代んような人海戦術ん時代じゃなかのど。兵は畑では取れんとじゃ。あてはもっと効率的な、リスクと損害を抑えた部隊運用を――」

 

 ズバァン! と目の前のデスクが大きな音を立て、それで俺はハッと口をつぐんだ。山賊がデスクを叩き付けたのだ。

 

 ただし、俺の発言に激高してデスクを殴りつけた訳ではなかった。

 

 彼女はにやけた笑みを浮かべながら、足元からドデカイ酒瓶を取り出し、それをデスクの上に勢いよく降ろしただけだった。

 

「なかなか威勢がいいな、新入り。お前が何を言っているのか正直さっぱり聞き取れんが、お前の並々ならぬ決意と覚悟と熱意と気迫は伝わった。素晴らしい。気に入った。――飲め!」

 

「いや、おいは勤務中で…」

 

「飲めっ!!」

 

 でかい湯呑いっぱいに酒を注がれ、目の前に突き出された。黒焼酎だ。それもかなりの高級品。芳醇な香りが鼻腔を抜け、思わず咽喉がごくりと鳴る。

 

「で、では、一口……」

 

 酒の香りと山賊の気迫に押され、湯呑を受け取ってしまった。ちびり、と唇を湿らす程度に舐める。………美味い。

 

 かすかに口元を緩めた俺を見て、山賊は一瞬凶暴な笑みを浮かべると、手にしたでかい酒瓶を口元に運び、そのまま片手で豪快にラッパ飲みした。

 

「フフフ…郷海よ、まぁ座れ」

 

 口元を手の甲で拭い、ギラつく眼光の魔鈴に勧められるまま、俺はデスクの前にあるパイプ椅子に腰を下ろした。両手で握った湯呑は細かく震え、今にも中身をこぼしてしまいそうだ。

 

 怖い。

 

 今にも捕って食われそうな恐怖を誤魔化すために、俺は手にした酒をグッと一息で飲み干した。

 

「いい飲みっぷりだ、郷海。そうだ、酒はそうやって飲まねばならん。舌先で舐めるなど以ての外だ。腹だ。味も、香りも、全て呑み込んで腹の底で味わうのだ」

 

 魔鈴が酒瓶を突き出す。注いでくれるというのではない。瓶ごと受け取れと言う意味だ。俺は両手を伸ばし、ズシリと重いそれを受け取った。

 

「飲め」

 

 逆らったら殺す、とその目が言っていた。俺は焼酎をラッパ飲みした。咽喉がカッと熱くなり、その衝撃に激しくむせ返った。

 

 身体をくの字に曲げて咳き込む俺に、魔鈴が言った。

 

「軍隊も同じだ。任務も命令も、丸ごと呑み込んで腹の底でじっくりと考えろ。それでおのずと答えが出る」

 

「し、しかし准将…」

 

「部隊の改革がしたければ好きにしろ。二水戦はお前の部隊だ。思うがままに弄るがいい。そのために金が必要だというなら幾らでもくれてやる。人員が足りなくなったらどれだけでもかき集めてやる。その代わり任務は必ず遂行しろ」

 

 頭上から圧し掛かる声の迫力に押し潰されるように、俺はいつしかパイプ椅子から転げ落ちていた。俺の心を打ちのめす爆撃のように、魔鈴の言葉が降り注ぐ。

 

「いいか。お前たち二水戦に課せられる任務は、二水戦でなければ成し遂げられぬ任務だ。世界最強の水雷戦隊。不可能を可能にする特殊部隊。それが二水戦だ。それを忘れるな」

 

 飲め、という魔鈴の言葉に逆らえず、俺は再び酒瓶を呷った。それは有無を言わさぬ命令だった。どう考えてもパワハラ、アルハラそのものだが、どうしようもなかった。山賊に常人の倫理が通じるはずがないのだ。

 

 俺は一升瓶よりもさらに大きな酒瓶を空にさせられた後、再び守衛の海兵隊員たちに囲まれ、担ぎ上げられながら、帰りの車へと放り込まれた。

 

 次に気が付いたときは、二水戦司令部の仮眠室のベッドの上だった。

 

 ベッドの傍らで神通が不安げな様子で俺の額を濡れタオルで冷やしてくれていた。

 

「急性アルコール中毒一歩手前だったそうです」

 

「面目なか……」

 

「野木准将からお電話があり、事情をお伺いいたしました。二水戦を今よりさらに精強に改革するという提督の熱意に感じ入り、感動のあまりお互い酔いつぶれるまで飲みすぎてしまった、と。……あの“山賊”と呼ばれ恐れられているお方を酔い潰してしまわれたなんて……流石は提督です」

 

 いったい何の話だ。

 

「准将はおっしゃられました。この提督の元ならば次の任務もきっとやり遂げられるだろう、と…」

 

 嫌な予感がする。俺は痛む頭を押さえながら司令部戦術AIを呼び出し、上級司令部からの秘密電報の有無を確認させた。

 

 案の定、AIは統幕からの出撃命令書を受信していた。出撃は来月。深海棲艦が密集する某泊地への強襲作戦だった。

 

「とんでんなかことになった」

 

「と、とんでん…? え、ええと、その、確かにこの任務はかなり危険ですね。…正直、参加兵力の半分は帰ってこれないでしょう」

 

「そこまで危険な任務なんか?」

 

「過去最高レベルの報酬額に匹敵します。……これほどの金額、拒否するにしても払える艦娘はほとんどいないでしょうね……」

 

 アセトアルデヒドで痛む頭が更に痛んで、俺は卒倒しそうになった。だがここで倒れても事態は改善しない。俺や神通、そして艦娘たちが死ぬ時期が早まるだけだ。

 

「いけんかせないけん」

 

「いけ…?」

 

「おいはこれから作戦を立つっ。みんなで生きて帰っためん方策を探してみる。こん作戦にちてみんなに示達すったぁ方策が立つまでしばらく待っちょってほしか。よかね」

 

「あ、あの、えっと……とりあえず内緒ってことですか。…了解しました」

 

 俺は一人で地下の指令室に籠もり、戦術AIを駆使して何とか生き延びられそうな作戦の立案に取り掛かった。

 

 しかし、何をどうしても戦死者をゼロにすることはできなかった。

 

 どれだけ検討しても、神通の言う通り半数の犠牲は覚悟せざるを得なかった。

 

 戦術AIは俺に言った。

 

『戦力の損失を限りなくゼロにするには、もはや戦略目的を放棄する他に手はありません。つまり出撃そのものを拒否することです』

 

「そげんこっは不可能や。しきっはずがなか」

 

『できるはずがない、とおっしゃるのであれば、投入戦力そのものを拡充すべきです。損耗率50パーセントを1パーセント以下に希釈する程の人海戦術を提案します』

 

 それ単純計算で五十倍の戦力を投入しろと言っているのと同じじゃないか。そんなの海軍全体の戦力を投入したって足りやしない。野木准将は人的補充も惜しまないと言ってくれたが、無い袖は振りようがないのだ。

 

 というか、そんな無理筋の頼みをした日にゃ俺がその場で殺されかねない。いや、絶対殺される。あの山賊ならやる。

 

 じゃあどうするかと言ったら、残る拡充策はもうここの戦力の底上げしかないだろう。

 

 つまり、訓練による練度向上だ。俺は戦術AIに生存確率を上げるために最も効率のいい訓練を考案させた。

 

 で、その結果AIがお出ししてきたのは、これまたとんでもないものだった。

 

 レーダー、ソーナー、通信、灯火の全てを封じた状態での夜間戦闘訓練。速力は当然全速力で、おまけに実弾使用という、コイツ頭狂ってんじゃねえのかと言いたくなるような危険な訓練だった。

 

「実戦ん前に訓練で殺す気か!?」

 

『実戦より厳しい訓練で生き残った者たちなら生還確率は大いに上がりましょう。“訓練は実戦のように、実戦は訓練のように”です』

 

「訓練でふるいにかけちょったら戦力がどしこあってん足らんって。そうじゃなくて、育てっと!」

 

『では、これでいかがでしょう』

 

 次に出してきたプランは、操艦訓練、陣形成形訓練、通信訓練、射撃訓練、被害対処訓練といった基礎訓練のオンパレードだった。目新しさは何もない。むしろ艦娘候補生が練習航海で習うものばかりだ。

 

 なんでいまさらこんな初歩的なものを……と思ったが、訓練回数の項目を見て目を剥いた。

 

 通常の訓練ならばどれも日に二~三度もやれば十分なところが、どれもその二倍から三倍の訓練量を求めていた。

 

「えげつなかっ!?」

 

『これでも最低限の量です』

 

「時間も足らんし、なにより艦娘たちは人間なんじゃぞ。体力が持たん」

 

『必要最低限の休息期間は確保できます』

 

「プライベートゼロで24時間訓練漬けん地獄メニューか。誰がやっちゅうど、こげんもん」

 

『やらせるのは貴方の役目です。司令』

 

「無責任な」

 

『AIが責任を持てるのなら人間の仕事はありませんよ』

 

「……っ!?」

 

 冗談めかした戦術AIの物言いに、俺はゾッとした。

 

 AIは冗談を言わない。対人インターフェイスによって人間らしい振る舞いをしているが、その本質は哲学的ゾンビ以外の何物でもない。

 

 戦術AIはこう言っているのだ。“責任さえ与えてくれるなら、司令として指揮して見せよう”と。

 

 いや、それはさすがに穿ち過ぎか。しかしAIに責任まで負わしてしまえば人間の存在意義が危ぶまれるのも事実だ。

 

 なんてこった。俺は頭を抱えた。俺は自分と部下の命を守ると同時に、人間の存在意義まで守らなくちゃならないのか。

 

 俺は背中に薄ら寒いものを覚えながら、さらにいくつものプランを立てさせた。しかし出てきたものはどれも猛訓練と呼ぶのも生易しい代物ばかりだった。

 

『これをやらねば生き残れません』

 

 断言するAIに何も言い返せず、俺は奇妙な敗北感を味わいながら印刷された訓練案の束を抱えて執務室へと戻った。

 

 デスクの上に訓練案の用紙を投げ出し、椅子に座って悄然としていると、神通が様子をうかがいにやってきた。

 

「あ、あの……どうでしたか…?」

 

「……」

 

 果たして何と答えるべきか。俺が言葉に迷っていると、神通は恐縮しきった表情で「す、すいません…」と頭を下げた。

 

「差し出がましいことをお聞きしてしまいました。……あ、コーヒー、お淹れしますね…っ」

 

「コーヒーよりお茶が良か」

 

 ただでさえ胃が痛いのに余計に荒れそうだ。

 

「わ、わかりました。すぐにご用意を…っ」

 

 あたふたと備品のティーバッグで緑茶を淹れてくれた。それをデスクに置く際、彼女は訓練案の書類に気が付いた。

 

「あの…読んでも…よろしいでしょうか…?」

 

 俺は緑茶を口にしながら頷いた。安物のティーバッグだったが、ストレスで痛めつけられた俺の消化器官にとってはこれでも十分な慰めだった。

 

 けれど、こんな風にお茶を味わえるのも次の出撃までだろう。死んだら、こんなささやかな喜びさえ味わえないのだから。

 

「けしもごたなかなあ」(死にたくないなあ)

 

 思わず漏らしてしまった弱音に、訓練案を読み耽っていた神通がハッと顔を上げた。

 

 拙い。

 

 弱気な本音を聞かれてしまった。これは本当に拙いぞ。

 

「そうですね。…私も、これしか方法は無いと思います」

 

 ん? なんか誤解している? あ、そうか。死にたくないって訛りが通じてなかったのか。ちょっと安心した。

 

 神通はグッと唇をかみしめ、そして続けてこう言った。

 

「生き延びたければ、死にたくなければこの訓練をやり遂げてみせよ。提督はそう仰りたいのですね!」

 

 言ってねえよ!?

 

 思わずそう叫びかけたが、口に含んだお茶を吹き出さないようにするのに必死で何も言えなかった。

 

 かろうじてお茶を飲み込んだが、その際に俯いてしまったのを、彼女にはどうやら俺が頷いたように見えてしまったようだ。

 

「わかりました…。私、覚悟を決めます…っ。散っていった仲間たちのためにも……そして何より、私たちをそこまで思ってくださる提督の思いに応えるために……神通、やります!」

 

 そう言い切ってくれた神通だったが、けれどその目は涙ぐみ、手も足も細かく震えていた。待ち受ける実戦と、死と、それに匹敵する猛訓練を超えた猛訓練への恐怖だった。

 

 そんなの、俺だって震えてしまう。けれど神通は、それに屈する一歩手前で、それに必死に抗っていた。

 

「神通……やってくるっか…!?」

 

「はい。…提督、どうか私たちを導いてください」

 

「承知した…っ!」

 

 思わず、本当に衝動的に思わず、俺は神通の決意に応えてしまった。そう、全てはここから始まったのだ。

 

 ……始まってしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 生き残るために猛訓練を課す。と二水戦の艦娘たちに告げた時、当然、激しい反発が起きるものと思っていた。

 

 しかし意外なことに、彼女たちは素直にそれを受け入れた。

 

 個人的に差異はあるが、基本的に彼女たちが従った理由は、やはり成功報酬にあった。なにしろ過去最高額に匹敵するほどの報酬の任務だ。これを拒否するには同額以上の金を払わなければならないが、それができるものはほとんどいなかった。

 

 しかし、もちろんというべきか、この高額報酬を手に入れるために積極的になる艦娘たちもいた。むしろそっちの方が多かった。報酬のためなら命の一つや二つは惜しくないという気概の艦娘たちが大半だったのだ。

 

 だが、俺はそんな彼女たちを守銭奴と軽蔑する気にはなれなかった。

 

 艦娘たちも人間で、ここに来るまでの人生があるのだ。若い女性たちが青春を捨て、命を危険にさらしてでも大金を手に入れようと戦うに至った、そんな壮烈な半生を経てきた者たちで二水戦は編成されていた。

 

 むしろ神通のような女性がなぜこんな部隊に居るのか、そっちの方が不思議だった。

 

 俺は訓練が始まる前、たまたま休憩所で一緒になった古参の艦娘の一人に、神通の評価をこっそり聞いてみた。

 

「あ~、あの方はですね~」

 

 駆逐艦・綾波はペットボトルのお茶を手にしたまま、おっとりとした口調で話し出した。

 

「頼りなさそうに見えますけどね~、でもねえ、これまでちゃんと生き残ってきましたからねぇ」

 

「出撃拒否も多かったち聞っどん」

 

「拒否するにもお金がかかりますからねぇ。二~三回も連続して拒否してたら赤字じゃ済まないですよ。……自分が確実に生き残れるかを見極める戦術眼と、危険を避ける本能的な直観。彼女のそれを疑う艦娘なんて、ウチには一人もいませんよ」

 

「戦術眼…」

 

 そういえば今回の作戦、任務指令書をざっと眺めただけで戦術AIとほぼ同じ損害を見積もってみせたが、あれは偶然じゃなかったのか。

 

「まあ、神通さんの凄さはそれだけじゃないんですけどねぇ」

 

 そう言って綾波は薄く笑った。

 

 そのときの綾波の目は、獰猛な獣のそれだった。外見は神通と同じくらい温厚でおっとりとしていたから気軽に声をかけたのだが、その中身はいくつもの死線を潜り抜けてきた兵(つわもの)だった。事務仕事ばかりやってきた俺なんかとは格が違う。

 

 綾波は外見は穏やかな雰囲気を崩さぬまま、茶を口にしながら間延びした口調で続けた。

 

「“あの人が出る海域なら楽勝だ”。そう侮って死んでいった艦娘たちを私は何人も見てきました。そりゃあそうですよ。だって神通さんの基準で測って死なないんであって、その辺の艦娘のレベルじゃないんですからねぇ」

 

「神通はそれなりん実力者ちゅうこっか?」

 

「それなりどころかトップレベルですよ。だから生き残ってきた……その彼女が次は死ぬかもしれないって言うんです。それがどれだけヤバいか、みんな分かろうってものですよ」

 

 でも、それでも君は出撃に志願するのか。俺はそう問いかけそうになって、慌てて口をつぐんだ。茶飲み話で聞くには、それはあまりにも踏み込み過ぎた質問だった。

 

 綾波は次の出撃で生還したなら、その数週間後には引退が決まっていた。

 

 作戦開始まで一か月。

 

 二水戦は猛訓練に猛訓練を重ねた。俺も会議やどうしても外せない業務以外は、可能な限り艦娘たちの船体に同乗し、訓練に付き合った。

 

 AIが計画した通り、必要最低限の休息しかない地獄のような訓練漬けの日々だった。

 

 だけど、それはとても効率的な訓練であったのは間違いなかった。

 

 訓練を終えた出撃当日の朝、意外なことに、二水戦の艦娘たちの目には疲労の色ではなく、絶対に生き残るという自信の光が輝いていた。

 

「行きましょう、提督。私たちは決して負けません。みんなで、生きて帰りましょう!」

 

 神通の、いつもとは違う、決意に満ちて覚悟も決め切って、それどころかなんか色々と振り切ってしまって興奮さえしているような雰囲気に引きずられるように、俺たち二水戦は深海棲艦がひしめく敵の泊地へ夜襲をかけたのだった。

 

 その戦闘の結果は……まぁ、酷いものだった。

 

 任務自体は成功したが、内容は地獄だった。

 

 闇夜の奇襲は、突然現れた深海棲艦の別動隊と出くわしてしまったことにより出だしから失敗し、敵味方双方ともに予期しなかった遭遇戦が勃発、戦場はあっという間に大混乱、大乱戦となった。

 

 敵味方が複雑に入り乱れる中で艦娘たちは必死に陣形を立て直し、死に物狂いで戦い抜き、なんとか任務を成功させた。

 

 だが、その代償として、俺たちは駆逐艦・綾波、夕立、雪風を失った……。

 

 

 

「よくやった!」

 

 初出撃の後、俺は統幕司令部に呼び出され、そこで野木准将から賛辞の言葉をかけられた。

 

「秘密部隊の極秘任務だから勲章はやれんが、それに匹敵する戦功だ。なにしろ半数は生還できぬと言われた作戦を戦死者一人で抑えたのだからな! 船体も二隻失ったが、AIデータさえ無事ならそんなものは損失でも何でもない。郷海、お前さんはとんでもない偉業を成し遂げたぞ!」

 

 上機嫌に笑う山賊を前に、俺は陰鬱とした気分でたたずんでいた。

 

 確かに、綾波と夕立の船体は失ったが、そのAIデータは転送できたし、艦娘たちも救助できた。

 

 ただし、瀕死の状態でだ。

 

 夕立は片手片足を失い、綾波に至っては意識不明のまま、いつ目覚めるとも知れなかった。

 

 戦死した雪風の船体はほとんど無傷のままAIによる自動航行で帰還した。至近距離で爆発した艦載機の破片が、狙いすましたかのように艦娘だけに当たったのだ。

 

 俺たちは戦闘が終了し、艦隊が帰投を始めてしばらく経つまで、彼女の戦死に気づかなかった。

 

 二水戦は結局、三名の損失を出したことになる。しかし、俺の心に陰りを落としている理由は、それに加えてまた別にあった。

 

 あの戦場で、俺は何もできなかった。しなかったのだ。あの闇夜の大混乱の戦場で、敵の砲火に曝されながら激しく揺れる船上で、俺は立ったまま気を失っていた。

 

 そのまま全てが終わるまで気絶していたのだ。俺は戦場で何もやっちゃいない。やったのは……戦術AIだ。

 

 神通の船体に搭載された司令部戦術AIのコピーAIが、気絶していた俺に代わって、俺の声音を合成して、俺に成りすまして指揮を執っていたのだと、俺は後になって知った。

 

 俺がハッと目を覚ました時、神通が俺を陶酔しきった目で見ていた。

 

「あの大混乱の中で微動だにせず冷静沈着に指揮を執られるお姿……神通、感服いたしました!」

 

 全てを悟ったとき、俺は筆舌にしがたい恐怖を感じた。何故俺が二水戦の司令に選ばれたのか、その理由に気が付いてしまった。

 

「郷海。お前は二水戦史上、もっとも素晴らしく、もっともふさわしい司令だ!」

 

 上機嫌な山賊の言葉に、俺は確信を深めた。そう、俺は最適だったのだ。

 

“AIの操り人形”として―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 船体がほぼ無傷で残されていた雪風に新たな艦娘が着任してから、一年が過ぎていた。

 

 この一年の間、新雪風はめきめきと腕を上げていった。戦術AIが課す猛訓練にも難なく付いていけるようになり、さらに複数の実戦も潜り抜けた。

 

 彼女がこなした任務は、先代雪風が戦死したあの海戦ほど厳しいものではなかったものの、それでも難易度がそれなりに高いものばかりだった。

 

 それらを生き延びた雪風の実力は、いつしか二水戦のトップクラスの一人に数えられるまでに達していた。

 

「補充兵、ですか?」

 

「ええ、雪風さんに出迎えをお願いしたいのですが…いいですか?」

 

 神通からの頼みに、雪風は条件を出した。

 

「“危険手当”は幾らですか?」

 

「新兵だから、これくらいでどうでしょう」

 

 平均クラスの出撃報酬よりもやや高めの金額を提示されたことで、雪風は納得した。

 

 遠洋航海を終えたばかりのヒヨッコの船体に同乗して“歓迎会”をするのだ。多少の色を付けてもらわなければ割に合わない。

 

「では、私たちは先に沖で待っていますね」

 

 神通はそう言って、二水戦を率いて出港していった。

 

 ひとり残った雪風は、船着き場でフェリーを待ちながら、ぼんやりと一年前のことを思い返していた。

 

 右も左もわからぬままにここへ放り込まれ、理不尽ともいえる訓練を課せられたあの時。ただ今になって思えば、そんなものは戦場という名の地獄に比べれば生ぬるいにも程があった。

 

「一年かぁ…」

 

 一年間、死ぬ思いをして大金を稼いできたが、実家への仕送りはまだまだ必要だった。ロクデナシ親父が遺した借金はまだ半分以上も残っていた。

 

「…てことは、あと一年かぁ」

 

 海に向かって乾いた笑いをあげながら、一緒に薄い紫煙をふぅーっと吐き出した。

 

 レモン味のメンソールタバコ。子供の吸うモノだ、とバカにする同僚もいたが、まぁ私まだ子供だし、と雪風自身は開き直って気にも留めなかった。

 

 そう、私はまだ子供だ。甘酸っぱいレモンみたいな青春に憧れたっていいじゃないか。

 

 ここで大金を稼いで、借金も全部返して、実家も自分も働かなくても暮らしていけるだけ稼いで、そしたら引退して後は青春を謳歌するんだ。

 

 艦娘である間は成長も老化もしないので、雪風の外見はまだまだ幼さを残していた。

 

 私はまだ子供だ。と、雪風は自分に言い聞かせながら二本目のメンソールに火をつけ、煙を胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 子供だから、私の未来はまだ拡がっている。だから……

 

「…死ぬもんか」

 

 絶対に、負けるものか。

 

 沖からフェリーが近づいてきたのを認め、雪風は咥えていたメンソールを携帯灰皿に押し込んだ。

 

 フェリーが船着き場に横付けし、架けられた桟橋から一人の少女が降りてきた。彼女は岸壁で待つ雪風の姿を見つけると、腰に片手をあてて、値踏みするような目で雪風を眺めた。

 

 態度の大きな子だ。と雪風は内心で苦笑した。

 

 雪風は小柄で、顔も体形もかなり幼い。対してこの新入りはそれなりに大人びていた。外見で相手を判断するな、というのは艦娘同士の付き合いでの鉄則だが、新兵はこれがなかなかできないのだ。

 

(ま、人は外見が九割って言うしね)

 

 どうせその内、いやでも体に叩き込まれていくことだ。雪風は気にする素振りを見せず、彼女に声をかけた。

 

「私は雪風。あなたが次期“初風”ね」

 

 そう訊くと、彼女は素っ気なく「そうよ」と答えた。

 

「私はいったい何人目の“初風”なのか、知らないけどね」

 

 面白くなさそうに“初風”は言った。なるほど、おさがりで中古の船体は嫌だ、という訳か。と雪風は察した。最新鋭で新品の船体は新兵にとって憧れの的なのだ。

 

 雪風は笑った。

 

「信頼性の高い船体に経験豊富なAIじゃ不満なの?」

 

「そ、そういうわけじゃ…ないです」

 

 彼女は口ごもって視線を逸らした。一応、雪風が先輩であるということは理解しているようだ。

 

 初風は言った。

 

「そ、それより迎えに来たのがどうして“雪風”なんですか。普通は“初風”本人が来るべきでしょう?」

 

「ああ、それなんだけど……」

 

 雪風は微かな既視感を覚えて言葉を濁した。自分もかつて同じ質問をしたという懐かしさと、そして答えをためらったあの時の彼女の気持ちを理解して、何とも言えない感傷が胸の内に拡がっていた。

 

「言えない理由でもあるのかしら?」

 

「ん~、別にないけど」

 

「なら、教えてほしいわ」

 

 生意気な子だなぁ、と雪風は思う。きっと一年前の自分もそう思われていたに違いない。

 

「死んだよ」

 

「…えっ?」

 

「戦死したの、先月の出撃でね。敵の砲火の中で、回避行動の最中に味方と衝突して、首の骨を折ったの。船体は大した損害を受けなかったのにね……」

 

 不運だった。

 

 そんな言葉を言いかけて、雪風はそれを飲み込んだ。運なんてものは、自分が一番嫌う言葉だ。なのに、ふと気を緩めればそれを口にしてしまいそうな自分がいる。

 

 怖い怖い、と雪風は心の中でかぶりを振った。

 

 姉のように慕っていた先輩の戦死から何とか立ち直れたと思っていたのに、まだ心は死人に引きずられかけていたようだ。

 

「“初風”!」

 

「は、はいっ!」

 

 気分を変えるためにわざと明るい声で新入りの名を呼ぶと、彼女は青ざめた顔で返事をした。

 

 どうやら前任者の戦死は、彼女にもかなりのショックを与えていたらしい。そんなところもかつての自分に似ている、と雪風は思った。

 

「あなたは今からもう“初風”だよ。普通の艦娘とは違って、ここじゃ懇切丁寧に引継ぎなんかしてくれない。二水戦はそういう部隊だからね。でも、大丈夫。私が初風に、生き延びる方法を叩き込む。…厳しいけど、でも絶対、大丈夫!」

 

「は、はい。よ、よろしくお願いします」

 

 初風は今度は大人しく頭を下げた。

 

「よし、じゃあ早速岸壁に行くよ。引継ぎが終わったら、すぐに出港準備だからね」

 

「え? い、今から!?」

 

「そう。――“歓迎会”するからね」

 

 少しだけ意地の悪い表情になっていることを自覚しながら、雪風は笑った。

 

 

 

 

 




次回予告

 かつて敗れた隣国の野望

 海洋覇権国家としての再興を求めて、封印されし禁忌の兵器が不気味な胎動を始める。

 その頃、あの出現海域の謎を探るべく、二水戦の艦娘たちは南方警備艦隊と合流する。

 雪風と、初霜。二人の異能が出会ったとき、その足元深くで迷い猫が鳴いた。

次回「第二十四話・身命賭して猫一匹」

初霜「にゃお~ん、にゃあ~ん、にゃんにゃあ~ん!?」
雪風「え…なにやってるの、この人……?」
初霜「子猫が排水溝に落ちたんです。子猫さん、どこですか、返事してください。にゃおーん!」


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第二十四話・身命賭して猫一匹(1)

パソコン復旧したので、とりあえずサルベージできた分だけ更新します。
秋イベに間に合ってほんとによかった……


 隣国が“大鉄塊”を建造している。

 

 その情報が情報部からもたらされたとき、海軍総隊参謀本部は衝撃に揺れた。

 

 “大鉄塊”とは、かつて大洋に存在していた自律型巨大海上要塞「ネルソン」において開発・運用された局所防衛兵器のことである。

 

 全長150メートル、戦艦に匹敵する装甲で覆われた球体状のボディから大量の砲身がハリネズミのように突き出された異形の兵器だ。巨大で醜いウニの化け物と呼ぶものさえいる。

 

 ネルソン要塞のAIが人類からの独立を宣言した後、要塞を奪還すべく送り込まれた世界中の艦隊をことごとく海の藻屑にした最強兵器だったが、要塞と隣接していた火山島が大噴火を起こした際、要塞ともども破壊され、轟沈したと思われていた……

 

 そのはずだった。

 

 要塞と共に失われたはずの兵器が、何故、しかもよりにもよって隣国で建造されているのか。

 

 この情報に接した参謀本部作戦課第一室次長・紫吹 香名は露骨に顔をしかめ、忌々しさを隠そうともしなかった。

 

 大鉄塊は彼女にとって汚点の一つだ。

 

 世界の厄介者だったネルソン要塞が滅んだのは、直接的には火山噴火のおかげだが、間接的には香名が立案した強行偵察作戦によって引き起こされたものだ。したがって香名はネルソン要塞壊滅の立役者でもあるのだが、同時に公にできない大きな代償を支払う羽目にも陥っていた。

 

「あのクソ海賊団ども……次に出会ったときは必ず殺してやるわ……!」

 

 ネルソン要塞壊滅の手柄を海軍に譲る代わりに、示談金を支払え。

 

 と、冗談みたいな武力と態度のデカさで海軍を恫喝し、強請りぬいていった海賊団――その半数は香名が使い捨てようとした艦娘たち――のことを思い出し、香名は殺伐とした決意を再度固めた。

 

 そんな彼女を前にして、情報を持ち込んだ張本人である情報部対外対処担当官・影村 忍は、無表情のまま、しかし呆れているということを彼女に伝えるかのように、ワザとため息を大きく漏らして見せた。

 

「海賊団マンバの動向は常に監視している。時が来れば我々が消す」

 

「私にやらせなさいよ」

 

「時が来ればな。連中にはまだ利用価値がある。しばらくは好きにさせておけというのが野木准将の意向だ」

 

「山賊が海賊をかばうなんて!」

 

「その辺にしておけ。今は大鉄塊だ」

 

 影村から再度資料を突き出され、香名はしぶしぶそれを受け取った。

 

 資料のうち、衛星写真の一枚に目を通す。隣国の沿岸部にある造船所の一角、陸地を掘り下げた幹ドックに、巨大な鉄球が鎮座していた。それも二つも。

 

「こんな目立つものを二つも堂々と造られて、どうして今の今まで気づけなかったの?」

 

「監視衛星対策でドッグ全体が屋根ですっぽり覆われていた。造船所自体も厳戒態勢が敷かれ、内部協力者も次々と摘発されてしまって手が出せなかった。そこまでやる以上、何か重要なモノが建造されている確信はあったが、屋根が外されてみれば、まさかの大鉄塊だ」

 

「大鉄塊の設計図や建造技術なんてどこから手に入れたのかしら」

 

「ネルソン要塞の兵器は、ああみえて意外と既存の技術の範囲内で造られている。各国が真似しなかったのは発想が突飛すぎるのと費用対効果が見合わないだけで、造ろうと思えば造れる」

 

「造る意志があれば、ってことね」

 

「問題は、隣国がなぜその気になったかだ」

 

「大鉄塊は確かに強力な兵器よ、局所防衛なら敵なしでしょうね。でもそれはネルソン要塞のような他に類例のないバックアップ体制があったからこそよ。スタンドアローンで運用できる兵器ではないし、既存の兵器体系と連携が取れるわけでもない。隣国がかつて目指した海洋覇権国家という戦略目的を目指すなら、これを二体造るよりも空母を三隻造った方が安上がりでしょうし、効果的だわ」

 

「情報部もおおむね同意見だ。隣国がどんな戦略に基づいてこんなゲテモノ兵器を造ったのか見当もつかない」

 

「しかも二つとも同じ造船所の、同じドッグ内で……何故?」

 

 その問いは影村への問いかけではなく、香名自身に向けての独り言だった。

 

 香名が愛用の扇子を開いて口元を隠したことで、影村は香名が思考を巡らせ始めたのを察し、彼女が次に口を開くのを黙って待った。

 

 香名は衛星写真を眺めながら思考する。

 

 新兵器を開発するなら試作機を複数建造するのは理解できるが、同じ場所で、しかも複数同時に建造するというのは不可解だ。これでは詩作機の開発というより、まるで量産である。

 

 しかし量産にしても、これだけの巨大兵器ともなると、複数の造船所に分散して建造した方が効率的だ。一か所の造船所では荷が重すぎる。

 

 香名は影村に目を向けた。

 

「一か所での同時建造について、情報部の見解は?」

 

「建造効率よりも機密保持を優先したと見ている。現に我々はこの段階に至るまで気づけなかった」

 

「情報畑の見地に立つならそう思って当然ね。でも、用兵的な見地から言わせてもらえば、狙いはまた別にあると思うの」

 

「ほう?」

 

「同じ場所で同時に建造するということは、この二体は極めて高い類似性を持っている可能性が高い。単なる同型艦ではなく、それこそ一卵性双生児のような同一の機体よ」

 

「それがどういう意味を持つのかね?」

 

「二体同時運用。この二体は二つで一つの可能性がある」

 

「ふむん。興味深い意見だが、しかしそれに対するメリットが思い浮かばない。これだけの巨大で高コスト兵器を複数も造っておきながら一か所に投入するのは明らかに割に合わない」

 

 隣国が伝統的に掲げてきたのは海洋覇権国家への野望だ。そのために支配するべき海域はとてつもなく広大であり、さらに深海棲艦が跋扈している。それに対抗するには、空母を中心とした機動艦隊を世界各地に広く配備するのが最も効果的だ。

 

 現に隣国以外の海洋国家は互いに同盟関係を組み、連合艦隊を結成して、世界中の海に艦隊を配備していた。

 

 香名は言った。

 

「既存の兵器、既存の用兵思想においてなら確かに割は合わないわ。でも……」

 

「でも?」

 

「まったく違う兵器体系を持つモノとの連携を前提としているのなら、ありえなくもないわ」

 

 香名の口元を覆っていた扇子がパチリと音を立ててを閉じた。

 

「あのクソ海賊どもが大鉄塊と戦った時の話を覚えているかしら?」

 

「もちろん覚えている。彼らからネルソン要塞でのことを聞き出すのに特別運用費のほとんどを支払わされたからな」

 

「どうせ領収書もいらない使い放題の裏予算なんだから別にいいでしょ。私なんかポケットマネーで払わされたのよ。しかもローン付きで! おかげで昼飯はお弁当生活よ。自炊がすっかり上手くなったわ!」

 

「君の懐事情には同情するが料理スキルはどうでもいい。それより話を進めてくれ。ネルソン要塞の話のどの部分だ?」

 

「大鉄塊と戦った時のことよ。あのとき大鉄塊は深海棲艦にハッキングされ、乗っ取られた。深海棲艦は大鉄塊をまるで自身の艤装のように扱っていたと聞いたわ」

 

「確かにそう聞いたが、それが今回のこととどういう――」

 

 影村はそこまで言って、ハッと気が付いて目を見開いた。普段めったに表情を変えない男だったが、流石に驚きを隠せず、彼は上ずった声で言った。

 

「――隣国はこの大鉄塊を、深海棲艦に供与するつもりか。そんなバカな!?」

 

「バカなって、隣国が深海棲艦に呼応するような動きをしているのは公然の秘密、今更のことでしょう」

 

「呼応といっても隣国が勝手に深海棲艦の動きに合わせていただけだ。あの“イミテーション・ゼロ事件”についても、隣国が意図的にハッキングさせるために造った可能性は高いが、深海棲艦と意思疎通があったかどうかまでは不明だ」

 

「けれど結果だけを見れば、お互いが意思疎通していたと考えれば全て辻褄は合う。あの作戦はそれを前提にして動いたおかげで成功したわ。かなり危ない橋だったけどね」

 

「しかし大鉄塊二体を深海棲艦に引き渡すなど、戦闘機一機を事故に見せかけて奪われるのとは訳が違うぞ。隠ぺいのしようがない。隣国は一党独裁体制だが内実はかなり不安定だ。軍部の不祥事が明るみに出ればクーデターもあり得る」

 

「深海棲艦の侵攻に乗じて我が国への牽制を行ってきたこれまでと違い、もしかするとよりアクティヴに深海棲艦を利用する戦略に切り替えたのかもね。この大鉄塊は、もしかすると深海棲艦を逆にハッキングするためかもしれないわ」

 

「深海棲艦にハッキングされるなら、その逆もまた可なり、か。……いかんな、だいぶ妄想が激しくなってきたようだ。証拠が何もない。空想に空想を重ねた机上の空論だ」

 

「思考実験と言って欲しいわね。まぁいいわ、これ以上ここで話していても結論は出そうにない。こういう時は“ご宣託”を授かるに限るわ。そもそも、そのためにここに来たのでしょう?」

 

「その通りだが、何の考えもなしに“予測プログラム”に頼るのは気乗りしないのだ。98.3パーセントという的中率は驚異的だが、それはあくまでも結果だ。その予測に至る思考過程が不明確過ぎて検証のしようがない」

 

「だからわざわざ私のところにきて意見を聞いたってことね。その割には妄想だ空想だと酷い言われようだけど」

 

「天才の発想は常人には理解しがたいものだとよく分かった。AIを相手にするのと変わらん。君のおかげで予測プログラムと相対する覚悟が付いた。感謝する」

 

「どういたしまして」

 

 香名は澄まし顔で答えた。影村の皮肉じみた発言にいちいち反応するほどデリケートな性格はしていない。

 

 天才とは孤高の存在なのだ。称賛も皮肉も罵倒も、彼女にとっては全て自分が天才であると思われている証にしかならなかった。

 

 香名は影村と共にオフィスを出て、地下にある電算機室へと向かった。

 

 海軍総隊庁舎の地下深くにある電算機室は、一辺が50メートルを超える巨大な立方体の空間だ。その空間を埋め尽くすかのようにコンピューターが設置されている。海軍の中枢を担う戦略AIを搭載した量子コンピューターだ。

 

 その制御室へ向かうための通路は五つの分厚い対爆扉で隔たれており、その一つ一つに厳重なセキュリティが施されている。

 

 本来、最後の扉を解除できる権限を持つのは、専門オペレーターや技官を除けば、海軍長官、艦隊司令長官、参謀長などの大将級の人間だけだった。

 

 だが、一介の中佐でしかない香名と、そして部外者である影村は、何の障害もなくすべての扉を潜り抜け、制御室へと足を踏み入れた。

 

「扉には暗号入力装置や、指紋と網膜のスキャン装置がたくさん付いているが、これらが単なる飾りでしかないと知っている者は、軍全体でもほとんどいないだろうな」

 

「セキュリティなんてしょせん戦略AIの手心ひとつだものね。ねえ、しーちゃん、起きてる?」

 

『起きていますよ。お待ちしておりました』

 

 香名と影村の二人しかいない制御室に、立体映像特有の揺らめきと共に一人の女性が姿を現した。

 

 戦略AIの対人インターフェイス“しーちゃん”こと【C2】だ。彼女はすぐに自ら話題を切り出した。

 

『お二人がここに来られたということは、予測プログラムを起動したいということですね。もしかして例の大鉄塊のことですか』

 

「相変わらず話が早いわね。その通りよ」

 

『情報部の戦略AIからも既に情報は届いております。いつでも予測可能です』

 

「そう。なら早速お願いするわ」

 

『了解しました』

 

 C2が答えると同時に制御室に隣接する電算室から、低いうなり声のような音が聞こえてきた。

 

 量子コンピューターがその能力をフルに使って、ネットワークで繋がっている他の軍用コンピューターとのリンクを開始したのだ。

 

 予測プログラムこと【深海棲艦行動予測プログラム】は、一つのコンピューターではなく、陸海空及び情報部の全ての軍用コンピューターネットワークの内部に偏在していた。そのため、それを起動させるためにはネットワーク全てのコンピューターに一斉にリンクし制御下に置く必要があった。

 

 それが可能なのは、陸海空と情報部のそれぞれの中枢を担う巨大量子コンピューターか、もしくは偶発的に桁外れの処理能力を獲得するに至った“エヴァレットAI”のみだけである。

 

 先日の“イミテーション・ゼロ事件”の際、二航戦所属の戦術管制偵察戦闘機・彩雲改の機上で多門丸が予測プログラムの存在を知ったのも、リンクしていた配下の無人戦闘機・ゼロ改の一機、B-3がエヴァレットAIだったからだ。

 

 数分ののち、C2は予測プログラムが起動したことを告げた。

 

『予測が出ました。簡潔に結果から申し上げます。あの大鉄塊は南方警備艦隊の担当海域にある例の出現海域に投入されます。そこで深海棲艦と融合するでしょう。それを放置してはなりません。この世に存在を許してはなりません。破壊せねばなりません。あの“人喰い雷巡”が再びあの海域に辿り着く前に――――』

 

 そこまで告げて、C2は突然その姿を消した。リンクが切られ、予測プログラムが機能を停止したのだ。

 

 軍用ネットワークのすべてとリンクしなければならないという条件がある以上、RCL(リアルタイムコンバットリンク)を使ってでもいない限り、安定したリンクは維持できない。しかし戦闘下でもないのにRCLを使用する訳にはいかなかった。それができるのは最前線で戦う部隊の特権なのだ。

 

 ゆえに普段はこのような曖昧な結果のみしか分からず“ご宣託”などと皮肉交じりに言われてしまうのだが、それでも、今の香名たちにとってはこれでも十分な情報だった。

 

 香名は言った。

 

「すぐに野木准将にご報告を。海尾大佐が二水戦と共に進めていた出現海域の共同調査計画を前倒しにする必要があるわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中国地方、内海の某島にある二水戦司令部。その庁舎内の一画にあるブリーフィングルーム。

 

 作戦内容を艦娘たちに説明するためのこの部屋は、他の鎮守府であれば出撃前特有の緊張感が漂う厳粛な場であるが、ここ二水戦では真逆な雰囲気が漂っていた。

 

 部屋の一画に、壁一面に広がる大型スクリーンが設置されており、また別の片隅にはコーヒーメーカー、ウォーターサーバーなどが設置されている。ここまでは他の鎮守府と共通だ。

 

 しかしここには更に、カキ氷機までが並んでいた。

 

 カキ氷機は古き良き手回し式のアンティークだ。しかし不思議なことに、カキ氷用の氷を保管するための冷蔵庫は無かった。食器もない。カキ氷機はただの置物として存在していた。

 

 カキ氷機の脇には、漫画や雑誌で埋め尽くされた大きな本棚。

 

 その隣には何処のものとも知れない置き物が大量に並ぶサイドボード。

 

 さらにその脇に立てかけられていたのは射的用のコルク銃だった。

 

 別の場所には編みかけのマフラーが入った籠を乗せたロッキングチェアー、ジュークボックス、壊れかけのラジオ、壁に掲げられた大漁旗、等々……

 

 これらは全て二水戦所属の艦娘たちが持ち込んだ私物だった。これらで溢れかえっているブリーフィングルームは、もはやただのサロンにしか見えなかった。

 

 実際、艦娘たちもここをサロンのように使っていた。一応、艦娘たちが暮らす隊舎にも共有スペースにサロンが用意されていたが、奇妙なことに、そこはきちんと整理整頓されており、艦娘たちが私物を置きっ放しにすることもなかった。

 

 艦娘たちは、大切な私物は自分の部屋に。そうでもない物はブリーフィングルームに置く。こんな不思議な不文律が、二水戦にはいつのまにか出来上がっていた。

 

 非番の日、特に用事も予定も無かった雪風は、適当に時間を潰そうとブリーフィングルームを訪れていた。

 

 しかし、そこにはすでに一人の先客が居た。

 

 同じ陽炎型である艦娘・浦風がちょうどサイドボードに新しい人形を追加しようとしているところだった。

 

「あ、雪姉」

 

 浦風が雪風に気づき振り向いた。それだけで、服越しでも分かる豊かな胸がブルンと揺れた。

 

 雪風は思わず彼女の胸に視線が引き寄せられそうになるのを何とか堪えた。女同士だが、人間、自分が持っていない物にはどうしたって目が引かれてしまうものなのだ。

 

 雪風は胸を視界に入れないように浦風の目をしっかりと見すえながら訊いた。

 

「浦風、また新しい景品?」

 

「そう。あんね、昨日、広島の神社でお祭りやっとったけぇ、射的で取ってきたんや。雪姉、見て見て、このニャンコ、可愛いじゃろう?」

 

 浦風はサイドボードに飾った猫の人形を再び取り上げて雪風に見せた。

 

 きりっとした顔立ちの猫だ。可愛いというよりカッコいい系に見える。しかし見る角度によっては、どこか得意げな顔にも見えた。ドヤ顔というやつだ。少し憎たらしくもある。

 

 もっと愛くるしい顔立ちなら銃口を向けるのにも抵抗が生まれそうだが、この猫はむしろ、当てれるものなら当ててみろと言わんばかりの面構えをしていた。

 

「この子、なんべん当ててもなかなか倒れんの。結局、十回以上も挑戦してやっと倒れよってな、ぶち苦労したわ」

 

「よくやるね」

 

「このドヤ顔、誰かに似とらん?」

 

「そう言われてみれば……?」

 

 二人してドヤ猫を眺めていたところに、ブリーフィングルームにまた別の艦娘が入ってきた。

 

 長い黒髪をなびかせた艦娘・磯風だ。

 

 だがその恰好は、三角巾を頭に被り、白い割烹着に身を包んで両手には七輪を抱えていた。七輪の中に炭は無かったが、彼女の頬や手にはまだ炭の黒ずみが残っていた。

 

 雪風と浦風はドヤ猫から顔を上げて磯風に目をやり、そして再び互いに目を合わせて頷きあった。

 

「磯風、だね」

 

「そうじゃのぉ、磯風じゃのぉ」

 

「人の顔を見るなり、なんだいきなり。私がどうかしたのか?」

 

 怪訝な顔で問いかけてきた磯風に、浦風は手元のドヤ猫を差し出してみせた。

 

「あんね、この猫、磯風に似とらん? って雪姉と話しとったの」

 

「似てるか? う~む」

 

 磯風は七輪を抱えたままドヤ猫に顔を近づけた。

 

 磯風は目元涼やかでキリっとした顔つきの美人だ。たまに満足気な時には、この猫のようなドヤ顔になる。

 

「似ているか?」

 

「よう似とる」

 

「そうか……よく分からないな」

 

 磯風は気難しげな顔をしながら猫から顔を離した。どうやら今日はドヤ顔は拝めないらしい。

 

 その理由はどうやら彼女が抱えている七輪にありそうだ、と雪風は見当をつけた。

 

「磯風、またサンマ焼くのに失敗したの?」

 

 雪風が訊くと、磯風は「まぁな」と答え、七輪をサイドボードの脇に置いた。

 

「どうも火加減がうまくいかない。前は生焼けだったから今回は炭の量を多くしてみたんだ。そうしたら、サンマから滴り落ちた油で更に火力が上がってしまってな。結局、サンマまで黒炭だ。苦かったよ、失敗の味だ」

 

「食べてしもうたんかい」

 

 呆れる浦風に、磯風は真面目な顔で答えた。

 

「食材は無駄にできない。サンマも昨今では高級魚だ」

 

「黒焦げを食べると身体に悪いんじゃよ。大人しゅうグリルで焼けばええんよ」

 

「AI任せの自動調理なんて面白くない。こうやって失敗するのも自炊の楽しみの一つだ」

 

 そう言って磯風は笑った。少し得意げな、ドヤ顔だ。

 

「あ、やっぱり似とる」

 

「そうか?」

 

「そうそう」

 

「雪風もそう思うか?」

 

「うん、似てると思うよ」

 

「そうか」

 

「このニャンコね、なんべん当てても倒れんかったんじゃ」

 

「そうか、流石は私に似ているだけあるな」

 

「むかついたけぇ、十発以上、全部顔面にぶちこんじゃったわ」

 

「浦風、お前は私に恨みでもあるのか」

 

「はえ? ある訳ないじゃろう。このニャンコが可愛いけぇ、どがぁしても欲しかったんじゃ~」

 

 悪意のない顔で猫の人形に頬擦りする浦風を前にして、磯風は付き合ってられないとばかりにブリーフィングルームを出て行った。

 

 浦風も猫をサイドボードに戻すと、

 

「ほいじゃ雪姉、またね」

 

 そう言って出て行った。

 

 ひとり残った雪風は、備品のコーヒーメーカーでミルクと砂糖たっぷりのカフェオレを淹れると、本棚から取り上げた適当な雑誌を取り上げて、席に腰かけた。

 

 手にした雑誌は数か月遅れの女性週刊誌だった。記事など端から読む気はなく、紙面を彩る男性アイドルたちの整った顔立ちをぼんやり眺めながらカフェオレを飲む。

 

(みんな綺麗な顔してるなぁ。私よりも美人だわ。でもタイプかと言われてもピンとこないや。じゃあ、どんな男性がタイプなの、と聞かれても答えに困るけど)

 

 そもそも初恋だってしたことがなかった。義務教育時代も学校の同級生やクラスメートに異性は沢山いたが、バイトに明け暮れていたせいで色恋沙汰とはとんと無縁だったのだ。

 

 いつか艦娘を引退したら人並みに恋をしてみたいと思ってはいる。その前段階として、せめて推しのアイドルの一人くらいは選んでおこうかという気分で偶にこうして雑誌を眺めているのだが、いまだにピンと来る者はいなかった。

 

 ぺらぺらとページをめくっていくと、誌面に見知った艦娘の写真が現れた。

 

 艦隊のアイドルこと川内型軽巡洋艦の三番艦・那珂だった。

彼女のことはそれなりに知っている。もっとも、同じ川内型である神通から話を聞いている程度であり、直接会ったことは一度もなかったが。

 

 同じ艦娘ということもあって興味を惹かれ、これまで読み飛ばしていた記事に目を通す。なにかのスキャンダル記事かとも思ったが、そうではなかった。地方巡業アイドルとして活動していた彼女が南西諸島にある宮吉島に転勤になるので、これからは離島の地方アイドルとして活動していくとのことだった。

 

(いくら海軍公認アイドルだからって、かりにも軍人の人事異動がこうも大々的に報道されていいのかなぁ)

 

 人事異動さえ極秘扱いな二水戦に所属する身としては非常に複雑な思いだった。それはともかく、この宮吉島といえば、来月、とある海域の調査作戦のため二水戦の一部部隊が寄港する場所でもあった。

 

 その作戦には雪風も参加することになっている。

 

(会えたら、せっかくだからサイン貰っとこうかな)

 

 ミーハー気分でそんなことを思いながらカフェオレを飲み干し、雑誌を閉じた。

 

 他の雑誌を読もうかとも少し思ったが、あまり興味を惹かれるものが無かった。

 

 なので、雪風は何となくサイドボード脇に立てかけられていたコルク銃を取り上げると、数メートル離れて、猫の人形に狙いをつけてみた。

 

 照準器越しに見たドヤ猫は、まさしく磯風そっくりだった。よくこれで何発もぶち込む気になれたものだ。と雪風は浦風の不可思議なメンタルに首をひねりつつ銃口を下げようとした。

 

 しかし、ちょうどその時、

 

「おんや、雪風さんじゃないか!」

 

 背後から大きな声と共に背中を叩かれた。

 

「はぇっ!?」

 

 思わず引き金に指がかかる。ポンと軽い音を立ててコルクが飛び、ドヤ猫に命中して床に落とした。

 

「あ、倒れた」

 

 思わずつぶやいた雪風の肩越しに、声をかけ背中を叩いた張本人が顔を覗かせた。

 

「射的かい? 一発で落とすたぁ、うまいもんだねぇ」

 

「谷風ぇ、びっくりさせないでよぉ」

 

「あれ? 驚いた?」

 

「うん」

 

「そりゃ悪かったねぇ」

 

 谷風は悪びれもせずに活発な笑顔を見せながら雪風の背中から離れた。

 

 ショートカットの黒髪に細い手足。そして雪風の背中に密着した時ですら存在感を全く感じなかった絶壁の胸。ボーイッシュで竹を割ったような性格の彼女は、雪風にとって何の気兼ねもなく付き合える同僚の一人だった。格差が無いのは良いことだ、うん。

 

「谷風も射的する?」

 

 ドヤ猫を拾い上げ、サイドボードに置きなおしながら訊いてみたが、谷風は首を横に振った。

 

「やりたいのはやまやまだけどねぇ、その前に浦風と磯風に用事があってねぇ」

 

「二人ならしばらく前までここから出て行ったよ」

 

「あちゃあ、間に合わなかったかい。まあいいや、こいつは雪風さんにも関係ある話だからよ」

 

「私も?」

 

「明日の夕方、急に出撃前ブリーフィングをやるって神通さんから言われたんだよ。面子は雪風さんの他に、この谷風。それと浦風、磯風、浜風、初風だよ」

 

「あれ? その面子って……」

 

「来月に行われる宮吉島周辺海域の調査メンバーですね」

 

 そう答えたのは、新たにブリーフィングルームにやってきた別の艦娘だった。

 

 磯風のようにキリっと引き締まった顔つきのクール系美人だ。谷風と同じくショートカットだが少し長めの前髪のせいで真面目な目つきの瞳が片方隠れがちになっている。

 

 雪風は正直、彼女のことが少し苦手だった。なぜなら前髪で隠れがちなせいで、彼女の目が上手く見れないからだ。

 

 浦風以上にたゆたう豊満な胸部から目を逸らそうにも、相手の目が見えないんじゃ視線が泳いでしまうじゃないか。

 

「おんや、噂をすれば浜風じゃないかい」

 

「谷風、あなたが探していた二人とは先ほど出会えましたので、ブリーフィングの件は私から伝えてきました」

 

「かぁー、そいつは助かるねぇ。じゃあ、あと知らないのは初風だけかい」

 

「あ、それなら」と雪風は言った。「私から伝えておくよ。どうせ同じ部屋なんだし」

 

「そうしていただけると助かります」と浜風。

 

「でも来月の作戦のブリーフィングを急に明日やるなんて、どういうこと? 予定が前倒しにでもなったのかな?」

 

「どうやらそのようですね」

 

 浜風はブリーフィングルームの片隅に設置してあるラップトップ端末を操作して、大型スクリーンに二水戦の出撃計画を表示させた。

 

 左から右へと日付が並ぶスケジュール表の、来週の週末部分に【宮吉島周辺海域調査(南方警備艦隊合同作戦)】の文字をともなった矢印が、半月ばかりの日をまたぎながら右側へと伸びていた。

 

 雪風はそれを見てため息をついた。

 

「うわぁ、本当に前倒しにされてる。週末に予定を入れてたんだけどなぁ」

 

 初風もショックを受けるだろうな、と雪風は週末を共に過ごす予定だった相棒の顔を思い浮かべた。

 

「まー、でもさー」と谷風が言った。「今回は危険手当も安い比較的安全な作戦だし、南の島でのバカンスが早まったと思えば悪い話でもないね」

 

「確かに」浜風も頷いた。「むしろ志願者が多くてクジ引きで参加者を決めた作戦ですからね。私たち自身で決めた以上、予定が早まったことにとやかく言う権利はないでしょう。せめて大いに楽しむとしましょう」

 

「前向きだね、二人とも」

 

 雪風が少々呆れを含んだ声でそう言うと、

 

「何を言っているんですか」と浜風が言った。「“後ろを向いた者から死ぬ”。そう私たちに教えてくれたのは、雪風、他ならぬ貴女ではないですか」

 

「それは戦場での話だよ。別に日常生活全般でまで無理に前向きにならなくてもいいよ」

 

「日々これ精進です」

 

 浜風はフンスと微かに鼻を鳴らして胸の前で小さくこぶしを握った。たったそれだけの動作なのに、彼女の胸はたゆんと揺れた。

 

 困る。目のやり場にとても困る。見たい訳じゃないのに目が引き付けられてしまって、そんなことしてたらその内「雪風は助兵ぇ」なんてあらぬ風評被害が立ちそうでとても困る。

 

 なので雪風はさっさと踵を返した。

 

「じゃあ私、部屋に帰って初風に伝えてくるから」

 

「あ、雪風、待ってください」

 

「ん、なに?」

 

「“綾波の銃”を持ったままですよ」

 

「あっ」

 

 雪風は手にしたままのコルク銃を定位置であるサイドボード脇へと戻した。その銃把には【アヤナミ】と彫られてあった。

 

 それはかつて二水戦に在籍していた艦娘の私物であり、同時に残された数少ない形見でもあった。

 

 ブリーフィングルームには他人が勝手に使ったり、いじったりしても構わないものばかりが置かれていたが、それを持ち出して自分のものにしてしまうような者は滅多にいなかった。

 

 ここにあるのはほとんどが誰かの形見であり、そして、いずれそうなるかもしれない物だった。

 

 死者を忘れず、しかし引きずられないようにするための空間。いつしかそんな場所になったブリーフィングルームを、雪風は後にした。

 

 

 

 

 



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第二十四話・身命賭して猫一匹(2)

秋イベントようやく開始しました。今回は初めて甲に挑戦。

まだE-2にして心折れそうです(;´Д`)


 週末の外出を心待ちにしていた初風に予定のキャンセルをどう伝えるべきか。うまい言い訳が見つからないまま自室の前まで帰ってきてしまった雪風は、仕方ないからそのまま伝えよう、と腹をくくってドアノブに手をかけた。

 

 ノブは微かに回っただけで硬い抵抗を残して止まった。施錠されていたのだ。

 

(ん? 居ないのかな?)

 

 手持ちのカギでドアを開け部屋に入る。

 

「ただいま~、初風ぇ?」

 

 返事は無かった。照明もついていない。リビングへ行くとテーブルの上にメモが残されていた。

 

≪ユキへ。夕飯の買い物に行ってきます。お菓子食べ過ぎたら駄目だからね。by初風≫

 

 きっと基地近くのスーパーマーケットに行ったのだろう。予定のキャンセルをどう伝えるか悩んでいた雪風は、それが先送りされたことに少しホッとした。

 

 部屋は八畳二間とキッチン付きリビング、それに洗面所、浴室とトイレがついているという間取りだ。”艦娘用居住区隊舎”なんて堅苦しい名前がついているが、構造は民間のアパートメントとほぼ同じである。

 

 そのため月一回の集団清掃への参加と、あとはゴミ出しのルールさえ守っていればプライベートに制約はない。

 

 もっとも全室禁煙というルールもあるので、こればかりは厳しいと感じる者もいたりするが。

 

 初風を待つ間、手持無沙汰になった雪風は喫煙所にでも行こうかとも思ったが、初風がいつ帰ってくるかも知れないので、止めにした。

 

 喫煙所は隊舎脇の非常階段の踊り場にあるので、そこに居たのでは初風の帰りがわからないのだ。

 

 まあ、そんなにかからずに帰ってくるだろう、と雪風は考え直し、リビングの椅子に腰を下ろした。

 

 リビングは簡素だった。壁際に備え付けのテレビが一台あるだけで、それ以外に特に目ぼしい家具といえば雪風が腰かけている椅子とテーブルくらいだ。私物らしい私物といえばキッチンの食器ぐらいのもので――冷蔵庫、コンロ、電子レンジは備品である――その食器類もほとんどは初風のものだ。雪風の食器なんて100円ショップで買った茶碗と汁椀、マグカップが一個ずつぐらいである。

 

 食器に限らず、雪風は私物をほとんど持っていなかった。生活必需品を必要最低限もっているだけで、私服も夏用と冬用が三、四着程度しか持っていない。それさえも外出の際に着るためで、部屋着も碌に持っていない。

 

 初風と同居する前は上半身にシャツを羽織っただけで下半身は下着のみといった格好で部屋で過ごしていた。初風と暮らすようになってからは流石にホットパンツくらいは履くようになったが、私物が極端に少ないのは相変わらずだ。

 

 雪風の私物なんて全部まとめても大きめの段ボール二、三箱で納まってしまう。これは雪風が給料や手当のほとんどを実家への仕送りに当てているのも原因の一つではあるのだが、それ以上に、いつまでもこの二水戦に居続けるつもりが無いという気持ちの表れでもあった。

 

 高額の手当と引き換えに、明日をも知れぬ過酷な戦場に駆り出されるのが二水戦だ。

 

 こんなところ、稼ぐだけ稼いだらさっさと艦娘を引退しておさらばするつもりでいるので、この部屋に私物を増やして腰を据える気など毛頭なかった。

 

 それは同居人の初風も似たようなもので、私物の数や種類は雪風よりも多いものの、同世代の普通の女性に比べればやはり少なくシンプルなものだった。

 

 もっとも、艦娘は自分の“船体”という使い放題の巨大プライベート空間を持っているので、頻繁に使う物でなければ私物の大半をそちらに仕舞い込んでおける。

 

 そのため、雪風や初風のような二水戦所属の艦娘に限らず、他の部隊に所属する普通の艦娘たちも陸上の居住区に大量の私物を置くなんてことは先ず無かった。

 

 シンプルで簡素な部屋の中で、雪風は数少ない私物である携帯端末でネットサーフィンしながら時間をつぶした。検索ワードは「相手の機嫌を損ねずに予定のキャンセルを伝える方法」だった。

 

 ビジネスマナーやらデートの断り方やら各種様々な伝え方がわんさか表示されたが、ざっと流し読みした限りでは、「まず正直に理由を言ってから埋め合わせの話をする」というのがベターな方法らしかった。下手な言い訳や、もしくは曖昧な言い方や態度で相手に察してもらうなんてのは以ての外だそうだ。

 

 まあ、そりゃそうだ。と雪風は納得して携帯端末をテーブルに置いた。下手な考え休むに似たり。くよくよ考えていてもしょうがない。そのまま有りのままに伝えればいいだけの話なのだ。

 

 ただ、埋め合わせの約束だけはできそうになかった。出撃前に帰還後の予定を組むなんて、そんなのは皮算用が過ぎる。特に二水戦において、それは死を呼び込むジンクスとして嫌われていた。

 

 雪風はテレビでも観ようかと思い、テーブル上のリモコンへ手を伸ばしかけたところで、玄関の方からドアが開かれる音が聞こえてた。

 

「ただいま~、ユキ、帰ってるの?」

 

「おかえり、初風。それとただいま」

 

「うん、お帰りなさい」

 

 買い物袋を片手に下げた初風がリビングへとやってきた。そのまますぐ脇のキッチンに立つ。

 

「初風、あのさ――」

 

「ユキ、今晩の夕飯なんだけど――」

 

 二人の言葉が重なり、二人は同時に言葉を切って向き合った。

 

「ユキ、何?」

 

「ん~、あ~、いいよ、初風が先で」

 

 自分のせいでは無いとはいえ、やはり多少の後ろめたさがある雪風は、初風に話題を譲った。

 

「そう? じゃあ夕飯なんだけど、昨日、ユキはハンバーグがいいって言ってたじゃない?」

 

「うん、言った」

 

「あのね」

 

 初風は少しバツの悪そうな顔で続けた。

 

「ごめん、夕飯のメニュー少し変えていい? 牛肉のハンバーグじゃなくて、豆腐と魚肉のハンバーグ」

 

「はい? …いや別に構わないけど、なんで急にヘルシー志向になってんの?」

 

「別にヘルシー志向になったわけじゃなくて、冷蔵庫の残り物を片付けちゃいたくてね」

 

 初風の言葉を聞いて、雪風は彼女のそばにある買い物袋に目を向けた。キッチンのシンクに置かれたそれは、いつもの買い出しに比べて明らかに少なかった。どうやら食材ではなく別のものを主に買ってきたようだった。

 

 初風が続けた。

 

「豆腐とお魚の賞味期限がそろそろ切れそうなの思い出してさ。だから今日中に使い切りたかったの。ユキ、ごめんね。そのかわりお肉のハンバーグに負けないくらい美味しいのつくるから、期待してて」

 

 初風は手を合わせゴメンと謝りながら、小首を軽くかしげてニコリと笑った。

 

 最初に正直に理由を告げ、雰囲気が悪くならない内にすぐ前向きなフォローを入れる。なるほど、実に完璧な対応だ。と雪風は感心した。

 

 なら私もこれを参考にやってみよう、と雪風は週末の予定につて告げようとしたところで、ふと、あることに思い至った。

 

 そういえば初風はなぜ急に冷蔵庫の中身を片付けようとしたのか。

 

 この部屋の家事は初風が一切を仕切っている。冷蔵庫の管理もだ。そして彼女のルーチンの一つとして、“出撃前には冷蔵庫に生鮮食品を残さない”というものがあった。

 

「初風……もしかして出撃のことを聞いた?」

 

「うん。スーパーで買い物中に神通さんと偶然会ってね。そこで聞いたわ」

 

 初風は顔から笑みを消して、深いため息を吐きながら買い物袋に手を入れた。袋の中から箱入りの栄養ドリンクと、大きな袋に入ったお菓子の詰め合わせをいくつか取り出して、リビングのテーブル上に並べた。

 

「はい、いつもの“航海のお供セット”。あと、美容液とアメニティグッズと、それと日焼け止め」

 

 雪風の前、テーブル上に初風が買ってきたものがズラズラと並んだ。すべて2セットずつある。出撃中の長い航海に、船体で過ごすために必要とするものだ。スケジュールが前倒しになったことを知って、買い出しの内容を切り替えたらしい。

 

 アメニティはちゃんと雪風の肌質や髪質を考慮したブランドを選んでくれていた。初風が使っているものより高級なブランドらしいが、正直、雪風には違いがよくわからなかった。

 

 初風と同居する前は、安い固形石鹸で髪から全身からまとめて洗っていた。

 

 二人が出会ってからしばらくして、あるとき初風からどんなシャンプーやコンディショナーを使っているかと問われ、馬鹿正直に石鹸と答えたら、一瞬呆気にとられ、そしてすぐに物凄い剣幕で怒られ、こんこんと説教された。

 

 いわく「雪風は髪も肌もいいのにもったいない」だの「もっと自分を磨け」だの「そもそも女子としてあり得ない」とか延々と言われ続けたような気がする。

 

 しまいには無理やり美容院に連行された。雪風にとって人生初めての美容院だった。

 

 何が何やら訳も分からないままに髪の毛を好き放題に弄りまわされて数時間、ようやく解放されたとき、雪風の髪はこれまでに経験がない程、艶やかで滑らかな手触りになっていた。

 

 自分の髪なのにそうじゃない気がして、ひたすら髪を触り続ける雪風に、当時の初風は言った。

 

「いいですか雪風先輩、あなたにもいろいろ事情はあると思いますけど、それでも女の子として守るべき一線っていうのがあるんです。訓練については文句は言いませんし、むしろ付きっ切りで指導してくださり感謝しかありませんけど、身だしなみについてはもっとちゃんとして下さい」

 

「は、はい…善処します」

 

 とは言ったものの、美容室で受けたヘアケア方法なんぞまるで覚えておらず――初風曰く動物病院に連れて行った小動物の如く怯えた様子だったらしい。連行した張本人なのに酷い言い草である――しかもいまだにリンスとコンディショナーの違いもわからぬ女子力ゼロのガキンチョである。

 

 しばらくは美容室でもらった試供品で髪を泡立てていたが、それも無くなったので、仕方なく近所のドラッグストアへ買いに出かけることにした。

 

 しかしまあ商品棚にはシャンプーリンスコンディショナートリートメントだのがいくつものブランドを伴ってずらりと並んでおり、なにがなにやらさっぱり理解できない。

 

 で、面倒くさくなって思考放棄して、いつものこれでいいや、と一番安い固形石鹸だけを買い物かごに放り込んでその場を後にしようとしたら、背後からいきなり肩をがっしりと掴まれた。

 

 恐る恐る振り向くと、そこに初風が居た。

 

「先輩…、またそれで髪を洗うつもりですか…?」

 

「うん、まぁ」

 

「ふざけんな」

 

 怖い顔の初風に買い物かごをひったくられ、そこに次々とアメニティグッズを放り込まれた挙句、そのまま初風の勘定でレジを通してしまった。

 

 初風にドラッグストアから連れ出された雪風は、そのまま何故か彼女の部屋に連れ込まれ、あろうことか服を脱がされ、風呂に入れられた。

 

 どうしてこうなった?

 

「いい? シャンプーするときは、先ずお湯でしっかりと髪と頭皮の汚れを落とすこと。それから適量をつけるのよ。多すぎても少なすぎても駄目よ。両手の指を使って髪の根元からなじませてたっぷりと泡立てるの。爪を立ててかきむしるなんて論外だからね」

 

 初風の指が雪風の髪の中に入り込み、頭皮をやさしく揉みほぐすようにマッサージする。

 

 あふぅ、気持ちいい。お湯のぬくもりとやわらかな指の感触、リラックスできるフローラルな香りに視界がとろけ始める。

 

 いつもならグワシグワシと髪をかき回して頭からお湯をかぶって一分足らずで終わってしまうところを、五分以上もじっくりまったり揉みほぐされたところで、ゆるやかな水流のお湯で髪の根元から毛先まで丹念に流された。

 

「コンディショナーも分量に気を付けるのよ。根元から毛先までじっくりしっかり馴染ませたら、シャンプー以上にゆっくり丁寧に濯ぐこと。いいわね? コンディショナーは後に残さないのが原則よ」

 

「…ふぁい」

 

「タオルで拭くときは、髪の根元を中心にしっかり水気を取ること。こすっちゃ駄目よ。雑巾じゃないんだから、こするんじゃなくて、吸い取るのよ」

 

「ふぁ……い」

 

 ふかふかのバスタオルに包まれて、その感触の気持ちよさに意識が遠退きかける。柔軟剤ってすごいんだなぁ。今まで使ったことが無かったので知らなかった。

 

「ドライヤーはハンドブローだけでも巧くやれば髪の艶とまとまりが出るから、私のやり方をよく覚えておきなさい。自然乾燥に任せちゃ駄目よ。髪は濡れたままだと摩擦に弱くて傷みやすいし、紫外線ダメージも大きいのよ。先ず前髪からドライヤーを当てて、それから全体的に乾いてきたら風量を抑えて――」

 

「ふぁ………」

 

 ドライヤーの温風に吹かれながら初風の指が雪風の髪をさらさらと梳いていく。もう駄目、気持ち良すぎて眠い。雪風の意識が落ちる。

 

「……風、……雪風……ねえ、ユキ!」

 

「ふぁいっ!?」

 

 呼びかけられてハッと目を覚ます。

 

 目の前に、初風の顔が間近にあった。覆いかぶさるようにして雪風をのぞき込んでいる。彼女の整った顔立ちを目前にして、雪風は思わず息をのんだ。

 

「やっと起きた。途中で寝ちゃうんだもの。そんな恰好で寝てたら風邪ひくわよ」

 

 初風がため息を吐きながら身を離してベッドから降りた。

 

「あ…うん…ゴメン」

 

 雪風は身を起しかけて、自分がバスタオル一枚だけを巻いた格好で横たわっていたことに気づいた。起こした上半身からタオルがはらりとはだけて落ちかけたので、慌てて手で押さえた。

 

 雪風は混乱した。

 

(ちょっとこれ、女同士とはいえ色々と際どくない?)

 

 雪風が現状をうまく認識できずベッド上で固まっているところへ、初風が「覚えてる?」と聞いてきた。

 

(覚えてるって、何をだ。素っ裸でベッドに横たわっていたときのことか。全然覚えていない。でも色々と気持ちよかったことは覚えている。つまり寝ている間に気持ちのいいことされ放題だったてことかな!?)

 

 ベッド上で、バスタオルで胸を隠したまま全身が真っ赤に染まっていく雪風を眺め、初風は呆れて深くため息を吐いた。

 

「その様子だと何一つ覚えちゃいないわね」

 

「は…はい……恥ずかしながら……」

 

「……わかったわ」

 

 初風は決意を込めて頷くと、ベッドに腰かけ、雪風と真っ直ぐに向き合った。

 

「雪風」

 

「は、はい」

 

「これからは私があなたの私生活の面倒を見ます。私には(雪風から指導を受け戦場で守られてきた恩を返すという意味で)その責任があるわ」

 

「せ、責任!?」

 

 その言葉に雪風は打ちのめされた。やっぱり寝ている間に、責任を取ってもらわなければならいないようなことをされてしまったらしい。しかも相手は妹同然に面倒を見てきた後輩だ。

 

どうしよう、どうすべき、うん全然わからない。

 

「これからもよろしくね、雪風」

 

「は、はい、不束者ですがよろしくお願いします」

 

 混乱した頭のままに押し切られ、こうしてなし崩し的に初風との同居が始まったのだった。

 

 以来、私生活については初風が全部世話をしてくれていて、雪風は相変わらずのズボラライフを送っていた。今だってそうだ。夕飯から出港中の身の回りの必需品の準備まで、全部、初風に任せている。タバコだけは買ってきてくれないが。

 

 なお、買ってきてもらったアメニティグッズについては入港後、初風に返すのが二人のルールだった。理由はもちろん、雪風が出港中もヘアケアや肌ケアをちゃんとしているかどうかのチェックだった。

 

 ケアを疎かにしていることがバレると、入港後から数日間は初風の手によって身体の隅々まで洗われる羽目になるので、雪風としても手は抜けなかった。

 

「ねえユキ」初風がキッチンに立ちながら背中越しに言った。「週末の予定はキャンセルね。せっかくの機会だったけど、悪かったわね」

 

「え、なんで初風が謝るの?」

 

「せっかく南の島に行くんだもの。それなりの格好をしていきたいでしょ。市内のショッピングモールに良いのがあったから買ってあげようと思ってたのよ。白のワンピース。ユキなら絶対に似合うのに、残念だわ」

 

「あ、う…うん」

 

 調理しながら淡々と語る初風に、雪風は曖昧にうなずいた。

 

 白ワンピースをまとった自分の姿なんてまるで想像がつかなかった。しかしまあ初風が似合うと言うのだからそうなのだろう。

 

 だけど週末の予定とは、てっきり初風自身の買い物に付き合うと思っていたのに、どうやら本当の目的は雪風を着せ替え人形にすることだったらしい。

 

 これじゃ初風はまるで子離れできない母親のようだが、それに依存しきっている雪風としては文句を言えた義理ではなかった。

 

 それに入隊前も含めて割と余裕の無い生活を送ってきた雪風にとって、多少強引とはいえ、人間らしい、そして憧れていた年相応の少女らしい生活に近づけてくれた初風の存在は、正直、ありがたいものだった。

 

 しかしその一方で、この二水戦にいる間は、そんな生き方を選ぶにはまだ早過ぎるとも思っていた。

 

 出撃前に未来の約束をする奴、何でもない日常を懐かしむ奴、恋人の話をする奴は決まって死ぬ。そんな戦争映画にありがちなジンクスなど雪風は相手にしていなかったが、戦場においては未練がましい奴から死んでいく、というのはそれなりに事実であると雪風は知っていた。

 

 未来への未練、過去への未練、そんなものは思考と動きを鈍らせる。

 

 戦場で生き残るには思い切りが大切なのだ。とりわけ二水戦のような部隊では、すぐ隣で親しい仲間が死んでも振り返らないだけの覚悟と思い切りが求められるのだ。

 

 でなければ自分が死ぬ。それが二水戦にとっての戦場だった。

 

 雪風はそのことを初風をはじめとした後輩たちに教えてきたし、初風たちもそれを受け止め、これまで実践してきてくれた。

 

 しかし、雪風とは違い、彼女たちは戦場は戦場、日常は日常という風にしっかり切り分けて考えることができるらしかった。常在戦場とよく口にしている浜風でさえ、雪風から見ればよほど人間的な生活を送っている。

 

 けれど、だからこそこんな殺伐とした任務ばかりの二水戦でも、人間らしく、女性らしく生きていけるのだろう。

 

 雪風は、そんな後輩たちが羨ましかった。本当は雪風もそんな風に生きたいのだが、しかし身についてしまったこの生来の気質ばかりはどうしようもなかった。

 

 これは二水戦に配属されたから、というより入隊以前からの彼女の半生ゆえに形成された性格だった。

 

「ま、今回の出撃は半分バカンスみたいなものだし、クジ引きで勝ち取ったラッキーな参加枠だもの。早まっても特に損は無いわ。買い物なら現地でもできるもの。ね、ユキ」

 

「うん、そうだね」

 

 トントン、と初風がリズミカルに野菜を切る音を聞きながら、雪風はリビングでテレビを点けた。

 

 適当にチャンネルをザッピングするが、特に興味を惹かれるものがなかったので、結局ニュース番組にチャンネルを合わせた。

 

 番組はちょうど気象コーナーが始まったところだった。赤道付近で熱帯低気圧が発生し、近いうちに台風へと発達するだろう、と気象予報士が告げるのを聞いて、雪風は眉をひそめた。

 

 船乗りにとって、台風は面倒の種以外の何物でもない。熱帯低気圧がこのまま台風に発達した場合の進路予想は、南西諸島よりも南東側のコースになっていた。

 

 予報円(70パーセントの確率で進む範囲)の最も西寄りを進んでも南西諸島に大きな影響は無さそうだったが、その代わり二水戦が出撃する予定の海域がちょうど進路上に含まれていた。このままでは作戦中は常に大時化だろう。

 

 これは参ったな、と雪風は思う反面、台風が来るなら危険手当も少しは加算されるかな、と調子のいいことも同時に頭に浮かんだ。

 

 バカンス気分の安全な作戦である分、危険手当も雀の涙程度だったが、船酔いと引き換えに南の島での遊興費が手に入るなら悪い話でもないだろう。

 

「ユキ~、そろそろ夕飯できるからお皿を準備してちょうだい」

 

「は~い」

 

 キッチンからの呼びかけに、雪風はテレビを消して立ち上がった。

 

 週末の予定が潰れ、おまけに台風が来るとはいうが、それはそれで悪いことばかりでもないものだ。

 

そんな風に前向きに考えていた雪風の思いは、翌日、意外な事実が明かされたことによって覆された。

 

 

 

 

 二水戦司令部ブリーフィングルーム。

 

 そこに集った六人の艦娘たち――雪風、初風、浦風、磯風、谷風、浜風――を前に、旗艦・神通は危険手当の増額を提示した。

 

 増額自体は雪風も予想していたが、問題は、その増額幅だった。

 

 新たに提示された危険手当の額は、平均値をはるかに上回っていた。すなわち、参加艦艇に少なくない損害が――最悪、多くの死者が出ることが――予想されるということだった。

 

「状況が大きく変わりました」神通は申し訳なさそう目を六人に向け、言った。「作戦目的や内容の変更については機密事項のため、説明するには条件が付きます」

 

「条件って何ですか?」

 

 雪風の質問に、神通はスクリーンに表示された危険手当の額を指し示した。

 

「あなた方の志願をいったん白紙に戻します。その上で、改めて志願者を募ります。急な変更ですので、まずはあなた方から先に確認しますが、拒否されても違約金は免除いたしますので安心してください」

 

 志願辞退者が出た場合、その枠は別の志願者を募って当てるということを付け加え、神通は、

 

「五分、待ちます」

 

と告げた。

 

 その間に意思を決めろということだ。六人はしばし黙ったまま、提示された危険手当の額を見つめた。

 

 こんな時、二水戦の艦娘たちはお互いに相談しあうなんて真似は絶対にしなかった。作戦参加の進退は個人の自由意志だ。手に入れる金に対し、賭けるのは己自身の命である。その判断に他人が介在する余地はない。

 

 五分の間、六人は黙考を続けた。

 

 しかし雪風は、初めから迷うまでもなく参加を決めていた。彼女が出撃を拒否したことは、これまでただの一度もなかった。

 

 命を危険にさらしてでも稼がなくてはならないのだ。それだけが雪風の理由だった。

 

 なので雪風にとって金額の多寡によるリスクの変化など何の意味もないのだが、他の艦娘たちにとってはそうではなかった。

 

 艦娘たちはみな、提示金額からリスクを見極めようと思考をフル回転させていた。しかし今回は機密作戦のため、金額以上の情報が無い。

 

 そのため、五人の視線は自然と、この面子で再先任であり、練度が高く経験も豊富な雪風に集まっていった。

 

(よくないなぁ、こういうの)

 

 雪風は誰とも目を合わせないように、顔を伏せて目を閉じた。

 

 相談事は以ての外だが、他人の態度をうかがうというのもあまりよろしくない態度だ。と雪風は思っていた。ましてリスク度外視で出撃を決めている自分の態度など、参考にしていいはずがない。

 

「五分経過しました」

 

 神通の言葉に、雪風は目を開けた。

 

「それでは、作戦参加の確認を行います。志願者は挙手を」

 

 皆の判断の妨げになってはいけないと思い、手を挙げるのは一番最後にしよう、と雪風は決めた。

 

 だが、

 

「初風、志願します」

 

 間髪入れずに初風が挙手したのを皮切りに、浦風、磯風、谷風、浜風も次々と手を挙げた。

 

「分かりました。雪風さん以外は皆参加ですね」

 

 意外だ、という表情をしながらも深く訊くこともせずに頷いた神通に対し、雪風も慌てて手を挙げた。

 

「ま、待ってください!? します! 雪風も志願します!」

 

 大声で申告して、たちまち気恥ずかしさで顔が赤くなった。これじゃまるで周囲の雰囲気に流されて志願したようなものじゃないか。

 

 てっきり周りが自分に合わせてくると思い上がっていたこともあって、あまりの気恥ずかしさに周りの皆の顔を見れなかった。

 

(初風も、他の子たちも、私が思っているよりずっとしっかりしてたんだなぁ)

 

 もう先輩風を吹かすのは止めよう、と雪風は心に決めた。

 

 まあ初風からは既に先輩扱いされてないどころか、すっかり妹扱いされてるけど。

 

 それはそれで問題はあるが、しかし悪い気がしないのも事実だった。

 

 彼女と同居を始めてからというもの、職場の同僚という距離感はとっくに超えてしまって、時にそれが初風の進退に影響を与えてしまってないか不安に思う時もあったが、今回は雪風の態度に関係なく自分の意思を示したことに、雪風は安堵を覚えていた。

 

 どんなに親しくなろうが、死ぬときは独りだ。その覚悟が初風にもちゃんとある。それが分かっただけでも恥をかいた甲斐はあったかもしれない。

 

 雪風は自分にそう言い聞かせ、作戦説明を始めた神通に顔を向けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 神通に真っ直ぐに目を向け、作戦説明に聞き入る雪風の横顔を、初風は隣でじっと眺めていた。

 

 雪風の顔立ちはとても幼い。ショートカットの髪形のせいもあるだろう。ふわふわな手触りの髪質はきちんとした手入れをすればとても美しく、「ロングにしたらいいのに」と何度も勧めた。

 

 しかし雪風からはそのたびに「ショートの方が楽だから」と突っぱねられた。

 

 絶対に可愛いのに、と力説しても雪風は微妙な顔をして困ったように首を横に振るだけだった。

 

 雪風は自らをひどく過小評価している、と初風は思っていた。

 

 顔つきや身体つきが幼いことを気にしていることも知っていた。だけど同時に、艦娘である間はどうせ成長しないのだからどうにもならない、と開き直っていることにも気づいていた。

 

 初風としては、艦娘であっても女子なのだから、外見年齢相応に着飾るのは当然だし、むしろそうするべきだとも思っていたが、雪風にはその気が全く無さそうだった。

 

 というよりも、そんな発想そのものが無いのだ。と、初風は雪風と同居するようになってから気が付いた。

 

 ことあるごとに「雪風だって女の子なんだから」と説いても、「まぁその内ね」とはぐらかされてきたが、その実、どうしたらいいのかわからないというのが雪風の本音だったのだろう。

 

 生まれてこのかた、お洒落なんてしたことがないのだ。そんな家庭環境で育ってきたのだ。

 

 それが具体的にどんなものであったか、それを本人の口から聞いたことは一度も無かった。

 

 しかし雪風がこれまで一度も作戦を辞退せずに貪欲なまでに危険手当を稼いできたこと。そしてそのほぼ全てを実家に仕送りしているらしいということを鑑みれば、その半生がどんなものであったかは察しがついた。

 

 初風自身も似たようなものだった。そもそも、この二水戦は大概がそんな連中ばかりだった。

 

 だから雪風に限らず、人生に余裕がない者やそれさえも知らない者などは他にもいくらでも居て珍しくもなかったが、それでも初風はどうしてだか雪風に惹かれた。

 

(私がこの子を守らなくちゃ)

 

 そんな思いに囚われ、私生活の面倒まで見るようになってしまった。

 

 理由は正直、自分でもよく分からない。

 

 もしかすると、この生きるか死ぬかの二水戦で生き抜くために、金以外にも執着するべき対象が欲しかっただけかもしれない。

 

 だからその対象は本当なら、ここにる浦風でも磯風でも谷風でも浜風でも良かったのかもしれない。その中で、たまたま最も身近だった雪風を選んだに過ぎないのかもしれない……

 

 ……そんな思いに囚われるたびに、初風は、だからどうした、と自分に言い聞かせてきた。

 

 きっかけなど些細な事だった。今となっては雪風が初風にとってかけがえのない存在になっているのは事実なのだ。

 

 雪風のそばにいて、雪風を守ること。それが今の初風にとっての二水戦にいる理由だった。

 

 その初風の視線に気が付いたのだろう、雪風が「ん?」と小首をかしげて初風を見た。

 

「…どうしたの、初風?」

 

 苦笑を浮かべた幼い顔立ちに、大きめの丸い瞳が戸惑いに揺れていた。

 

「別に、なんでもないわ」初風は微笑みかけながら答えた。「見てただけよ」

 

「あ…そ、そう」

 

「あの、初風さん。できればこっちを向いてほしいのですけど……」

 

 神通が困り顔で注意してきた。

 

「ごめんなさいね、神通さん。反省してます。ちゃんと話は聞くわ」

 

 すぐに謝って向き直る。そうだ、今は作戦内容のブリーフィング中なのだ。既に戦場にいる気持ちで聞かないと。少しの油断が死に繋がるのだ、と初風は気を引き締めた。

 

 

――ユキは、私が守るんだ。絶対に……

 

 

 初風は湧き上がる気持ちを、胸の底で固く抱きしめた。

 

 

 

 

 

 

 



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第二十四話・身命賭して猫一匹(3)

うかうかしている間に、もう二月。二か月ぶりの更新です。ああ、時間だけが過ぎていく……


 宮吉島から北方へ約100海里ほどに、SK諸島海域と呼ばれる場所がある。

 

 ここは我が国のEEZ(排他的経済水域)内であり、また極東地域でも有数の漁場でもある。そのためここは一年を通じて多くの漁船がひしめき合っていた。

 

 今から約三十年前に深海棲艦がこの世界に出現して以来、その脅威のため、漁業業界は一時期壊滅状態に陥った。

 

 しかし、深海棲艦の出現海域が限定されていると判明し、また世界各国で対深海棲艦ドクトリンが確立されたこともあって、今では多くの漁船が再び漁場を目指して海を駆け回るようになっていた。

 

 もっとも、三十年前のように自由奔放に漁業ができるわけではない。出現海域や、そこからの海流沿いは今でも深海棲艦に襲われる確率が高く、海軍が定期的に哨戒をしていてもハイリスクであることに変わりはなかった。

 

 一方で、このSK諸島海域は、深海棲艦への対処がほぼ完全に確立している海域でもあった。

 

 出現海域ははるか南側に遠く離れており、しかもその中間地点には宮吉島を含めた南西諸島が台湾島まで連なっている。その島々には海軍の警備艦隊――南方警備艦隊、南西警備艦隊、タイペイ艦隊――が駐留しており、その働きにより深海棲艦の侵入を完璧に阻止していた。

 

 しかし、こうして深海棲艦の脅威が無くなってしまうと、思わぬところから別の問題が浮上してきた。

 

 このSK諸島海域は我が国のみならず、台湾、そして隣国の大陸国家とも近いため、それぞれの漁船がこぞってここへ押し寄せてきてしまったのだ。

 

 国際法上は我が国のEEZであるので、本来ここで漁業が許されているのは我が国の漁船だけだ。しかし台湾は我が国と同じ海洋国家連合に所属し、協同して深海棲艦の侵入阻止をしている関係からEEZでの活動を認められていた。

 

 だが、隣国はそうではない。海洋国家連合にも所属しておらず、対深海棲艦に関しても、国際社会へは金銭的な支援をするに留めている。

 

 そのためSK諸島を含め我が国のEEZで活動する権利など、どこにもないのだが……

 

 隣国で大鉄塊が建造されているという情報が海軍総隊にもたらされる、その少し前。

 

 宮吉島に駐留する南方警備艦隊司令・海尾 守は、SK諸島海域で異変が起きているとの情報に接していた。

 

「ここ数日で違法操業の漁船が急増しているんです」

 

 同じ島に駐留している海上保安隊の庁舎の一画にある応接室。そこで保安署長が、深刻な顔で資料を差し示した。

 

「SK諸島海域周辺には漁業シーズンともなれば一日で二千隻以上の漁船が押し寄せますが、そこには常に違法漁船も紛れ込んでいます。その割合は例年では20パーセントから30パーセント程度なのですが」

 

「ということは五~六百隻ですか。結構、多いんですね」

 

 のんきに感心してしまった海尾だったが、隣に座る叢雲から脇腹を肘で小突かれた。

 

 しょうもないことで相手の言葉を遮るな、という秘書艦からの警告だ。向かいに座る保安署長の顔は真剣そのもので、海尾は慌てて居住まいを正した。

 

「失礼しました」

 

「いえ、構いません。実際、多いですよ。ですがこれでもマシな方です。今ではこの割合が倍増しています。日に千隻を超えているんですよ。一部海域にいたっては違法漁船に占拠されてしまった状態で、我が国の漁船が追い出されてしまう有様です」

 

「我が国の…ということは、その違法漁船の国籍は」

 

「隣国ですよ。国籍を示すものは何も掲げておりませんがね」

 

「それでは海賊だ」

 

「取り締まってはいるんですが、いかんせん数が多すぎる。もう保安隊の戦力だけでは限界ですよ。なので海軍にご助力いただきたくて、こうして司令さんと艦娘さんをお招きしたわけで」

 

 保安署長の言葉に、海尾は隣の叢雲と顔を見合わせた。

 

 保安署長とは、同じ島で同じ海を守る仲間として、こうして偶に顔を合わせて世間話をしているが、ここまで踏み込んだ話をするのは稀なことだ。

 

 まして協同作戦の提案となると、それは一介の提督の分限を超えている。

 

「ご助力したいのはやまやまですが、違法漁船の取り締まりは海軍の任務ではありません」

 

「海賊扱いならば?」

 

「ロケットランチャーや機関銃で武装し、他船を襲っているなら名分は立つかもしれませんが……」

 

「隣国は漁民も海軍の下部組織に組み入れているそうです。いわば海上民兵というやつですよ。違法漁船のうち数パーセントは重火器を隠し持っている可能性が高い」

 

「臨検でそれを発見できれば、海賊として立証できるかも……いや、それでは保安隊のリスクが高すぎる」

 

「そうです。現場の隊員に犠牲が出る可能性がある。犠牲が出れば海軍出動の大義名分ができますが、我々とてそんな事態は望んでいません。……必要なのは、相手に実力行使を躊躇わせる抑止力なんですよ。海軍が砲を撃つ必要はありません。ただSK諸島近辺を航行してその存在を誇示してくださればいいんです」

 

「協同任務ではなく、あくまでウチの訓練の一環として航行して欲しいというわけですか。しかしそれでも難しい案件ですよ、これは。SK諸島海域は三十数年前、我が国と隣国が戦争寸前になりかけた、その発端の場所だ。そこに軍艦を派遣するとなると、再び国際問題になりかねない」

 

「ええ、我々もそこは考慮していますよ。ですので既に、保安隊上層部から内閣府へ調整が始まっています。近日中にはそちらへも話が下りてくるかと」

 

 保安署長はそう言って、その顔に薄い笑みを浮かべた。

 

 その笑みを見て、海尾は肩の力を抜いた。

 

「なんだ、とっくに話は正式なルートで進んでいたんじゃないですか。それを先に言って下さいよ。お人が悪いんだから」

 

「いや失礼、ついつい悪戯心がでましてね。しかし国際問題を起こしかねない政治的案件というのはその通りですよ。なのでしばらくはオフレコでお願いします」

 

「了解しました。ですが先に教えてくださって感謝します。こちらも新しい出現海域の対応で戦力が手一杯でしてね。急に任務を増やされると対応できなくなってしまう。事前に調整しておきますので、そちらのご要望にお応えできると思いますよ」

 

「感謝します」

 

 保安隊庁舎から公用車での帰り道、運転席の叢雲がハンドルを握りながら言った。

 

「ちょっとリップサービスが過ぎたんじゃない? 今ウチは本来の担当海域とJ海域(新出現海域のこと。世界で二十番目に発見されたことからそう名付けられた)の哨戒で手一杯なのに、さらにSK諸島海域の哨戒なんて。三正面なんて無茶よ」

 

「俺も正直そう思うよ」海尾は助手席で答えた。「署長もあくまでリップサービスと分かっているさ。出せて駆逐艦一隻が限界ってところだな」

 

「戦闘するわけでもない単艦航海じゃ練度向上にもならないわ。私たち現場の艦娘にしたら時間の浪費も良いところね」

 

「訓練の体裁をとった抑止力の誇示だからな。必要と分かっているが、効果が判りづらいので現場は士気が下がる。こういう任務が一番厄介だ」

 

「他の子たちに押し付けるのも可哀想ね。私が行こうかしら」

 

 叢雲は面白くなさそうに一つため息を吐いたが、すぐに視線だけを海尾に向けて、冗談めかして言った。

 

「どうせなら一緒に来る?」

 

「それも悪くないな」

 

 叢雲の口癖を真似て答えると、彼女は軽く笑った。お互い冗談半分と分かっていた。司令と秘書艦が二人きりで訓練に出港できるほど、最近の警備艦隊は暇じゃなかった。

 

 だから、結局は叢雲一人に行ってもらうことになるだろうな。と内心で申し訳なく思いつつも、そんな腹積もりで居たところが、事態はさらに予想を超えて動き始めていた。

 

 保安署長との懇談から数日後、隣国は国際社会に向けて驚くべき見解を発表したのである。

 

 SK諸島における領有権の主張であった。

 

 実は隣国は、三十年以上前からずっとこのSK諸島の領有権を主張しており、それを認めない我が国と緊張関係にあった。実効支配をもくろむ隣国の海軍艦艇と、それをさせまいと目を光らせる我が海軍艦艇がSK諸島周辺海域でにらみ合う。そんな時代がずっと続いてきたのである。

 

 しかし約三十年前、深海棲艦が出現したことでSK諸島問題は棚上げとなり、今に至るまで大きな問題は生起してこなかった。

 

 それが、ここにきて突然の再主張である。

 

 その主張に呼応するかのように、SK諸島周辺に蔓延っていた大量の違法漁船群が、一斉に隣国の国旗を掲げ出した。

 

 そして隣国政府は、この漁船を深海棲艦から保護するという名目で、SK諸島海域へ三隻の軍艦を派遣したのである。

 

 この事態の急変を受けて、当初、訓練の名目で駆逐艦一隻のみを派出するはずだった命令が、正式な監視任務へと変更されることになった。

 

 また、隣国の派出艦艇が三隻であったことから、警備艦隊も三隻の駆逐艦を派遣するべしという命令へと変化してしまった。

 

「えらいことになった」

 

 海尾は命令の案文が届いたその日、右手で頭を抱えながら、左手で受話器を握りしめていた。

 

「これはあれか。こないだのイミテーション・ゼロ事件の意趣返しか?」

 

『関係していないとは言い切れないが、それが全てでも無いだろう』

 

 電話の相手は、参謀本部第五室の室長である海原 雄三だ。

 

『第五室に入ってくる情報は噂話の域を出ないが、あっちこっちの部署で“隣国は近々、大きなことを仕掛けて来るかもしれない”って囁かれているぜ』

 

「これはその前触れということか? 武力衝突にまで発展するかもと? 隣国の連中、深海棲艦を放置したまま我が国と戦争しようってのか」

 

『最悪その可能性もあるが、だが表立って戦争しようとは連中も思わんだろう。リスクが大きすぎるからな。それより裏から手を回してくる可能性の方が高い』

 

「どういうことだ?」

 

『深海棲艦をけしかけてくる可能性がある。イミテーション・ゼロ事件でも示唆されていたが、隣国が深海棲艦の動きに呼応しているのはもはや確かだ。それに連中、厄介な代物まで手に入れたらしい。――大鉄塊だよ』

 

「……嘘だろ」

 

『残念ながらこっちは噂話じゃない。現実だ。ついさっきコウメイが俺のオフィスに来て直接資料を置いて行った。後でコピー送ってやるよ。頭に叩き込んで置いたほうがいい』

 

「資料に興味はあるが、叩き込む必要があるのか。……ああ、畜生、あんたが次に何を言うのか予想がついちまった。やめろ、よせ、俺はこれ以上なにも聞きたくない」

 

『察しがいいな。だが現実逃避しても何一つ解決しないぞ。諦めろ。大鉄塊がお前さんの担当海域へ進出する可能性が大だ。それもSK諸島ではなく、J海域の方へな』

 

「カオスだな。隣国は何を考えているんだ」

 

『わからん。しかし参謀本部はもうそれを前提にして作戦計画を立案している。そのためコウメイはJ海域での調査作戦を繰り上げるつもりだ。二水戦で大鉄塊に対処しようって腹積もりだな』

 

「精鋭の二水戦といえ、相手はあの大鉄塊だぞ。水雷戦隊でどうにかなるのか?」

 

『がんばれよ』

 

「ウチか!? 結局ウチの艦娘が主力になると、そういうことか!?」

 

『コウメイ、お前さんのことをずいぶん信頼してるようだぜ。初霜事件とイミテーション・ゼロ事件、この二つを首尾よく収めた手腕が評価されているらしい。今回もきっと期待されてるぜ』

 

「余計なお世話だ。まったく」

 

 会話はそれで終わり。海尾は事前情報をくれたことに感謝を述べて電話を切った。

 

 その後、海原からの情報通り、参謀本部からJ海域調査計画の前倒しと“大鉄塊の進出を前提とした”作戦の変更が正式に伝達され、海尾は再び顔をしかめたのだった。

 

 

 

 

 

 それから一週間後、SK諸島海域の洋上には三隻の駆逐艦が航行していた。

 

 南方警備艦隊・第一艦隊・第二十一駆逐隊である。

 

「ひっでぇ光景だなぁ、おい!!」

 

 夕雲型駆逐艦・朝霜は、艦橋から見える周囲の様子に、呆れと憤りが混じった声を上げた。

 

 今、朝霜の船体の周辺の海上は、数百隻の漁船で見渡す限り埋め尽くされていた。肉眼のみならずレーダーで確認しても、周囲20海里に渡って小型船が海を占拠している様子が映っていた。

 

 上空を定期的に飛行している哨戒機からの情報によると、そのさらに数倍にも渡る海域にまで大量の漁船が存在しているらしい。

 

 そのほとんどが隣国の漁船だった。我が国や台湾の漁船は、ここ数日で急増した隣国漁船の数の暴力の前にほぼ追い出されてしまっていた。

 

 しかし、いくら数が多いとはいえ非武装の漁船だけで簡単に漁場が占拠できるわけではない。

 

 我が国の漁船がSK諸島海域から追い出された大きな理由。その正体が、朝霜の視線の先に存在していた。

 

 全長150メートル、15センチ速射砲一基搭載、その他最新鋭の装備を多数備えた、ステルス性を意識した未来的なデザインの、微かに緑がかった薄いブルーの船体。

 

 隣国海軍の最新式フリゲートが、朝霜から約3海里離れた場所を低速で航行していた。

 

 漁民保護を目的として隣国が派遣した三隻の内の一隻だ。他の二隻も散開し、それぞれ離れた場所で遊弋している。

 

 この三隻の目的は深海棲艦から漁民を保護する為ということになっているが、隣国政府は海洋国家連合に属することなく独自で対処すると表明しており、我が国との協力を一切求めてこなかった。それに加えてSK諸島の領有権の再主張である。

 

 このフリゲートが漁民保護を口実に、SK諸島の領海内での行動を既成事実化しようと目論んでいることは、もはや明白であった。

 

 今のところはSK諸島から50海里以上離れたところを低速でうろついているだけだが、いつなんどき領海へ侵入を図るか分からない。

 

 そのため二十一駆逐隊はそれぞれ一隻ずつ、隣国フリゲートに着かず離れずの距離で追尾・監視していた。

 

 我が国から見れば、周囲の漁船の操業は違法であり、それを支援する隣国海軍艦艇も同罪だ。ならば国際法を盾に追い出せそうなものだが、そうはいかない。

 

 隣国はこれを国際法上、合法だと主張しているからだ。“歴史上、領有権をずっと主張しているから、ここは我々の主権が及ぶ領海だ”という、きわめて強引な理屈だが、しかしそれはそれで一応の筋は通ってしまうのだ。例えそれがプロパガンダに過ぎなくても、だ。

 

 法律は強制力が伴って初めて意味を持つ。法を犯せば司法機関によって罰が与えられる。この原則があるからこそ、皆法律を守るのだ。しかし国際法にはそれが無い。法はあれど、それを守らせる強制力を持った司法機関が存在しないのだ。

 

 したがって国際法は、各国それぞれが法を解釈し、相手を説得して守らせることになる。極論を言えば“言い張った者勝ち”でしかない。双方ともに国際法を大義名分に掲げた以上、強硬手段を取ればその行き着く先は戦争しかないのである。

 

 なので、朝霜は傍若無人に海域を荒らす違法漁船を前に監視することしかできず、忸怩たる思いを抱えていた。

 

「なあ」朝霜は艦橋で独り、声を荒げた。「もし今ここに深海棲艦が来たら、お前らどうする?」

 

『どうもこうも無いわ。いつも通りに決まってるじゃない』

 

 艦橋内で別の声が答えた。朝霜が艦橋の一画に目を向けると、そこにアイコンドール(三頭身にディフォルメされた艦娘の3Dモデル)が投影されていた。

 

 右側に結われたサイドポニーテールに、少しきつめの表情。二十一駆の旗艦である朝潮型駆逐艦・霞だ。離れた場所に居るが、秘匿回線を使って通信はできる。

 

 霞は言った。

 

『深海棲艦は見敵必殺、どんなときでもこの方針が最優先されるのは変わらないわ。違法漁船とかフリゲートとかなんて、その時は無視しなさい』

 

「無視ねえ。できるものならやってるよ。でもなぁ……っ!!」

 

 朝霜は言葉を切ると、即座に「取り舵いっぱい!」と号令を発し、船体を左へ急速回頭させた。

 

 左側に振れた艦首すれすれに、仕掛け網を伴ったブイが行き過ぎていく。

 

「ところかまわず網を仕掛けやがって、ふざけろっ!!」

 

 漁網というのはかなり頑丈だ。それがスクリューに絡まってしまうと、いかに大馬力の艦艇といえど行動不能になってしまう恐れがあった。

 

 朝霜は回頭直前、自分の船体の前方を横切って行った漁船がブイを投入したのを見ていた。漁をするため、というより、朝霜の進路を妨害するためにわざと網を流したとしか思えなかった。

 

「畜生、あいつら手当たり次第に網を流しやがる。こんなところで戦えだって!? 冗談じゃねえや。こんなの機雷原でタップダンス踊るのと変わらねえよ!」

 

『でしたら、敵を別の海域へ誘引するしかありませんね』

 

 そう答えたのは、霞の隣に投影された、長い黒髪のアイコンドールだった。

 

『私たち三隻が囮になってここよりもっと東へおびき寄せることができれば、周りの漁船も巻き添えにすることなく戦え――』

 

「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ、初霜』

 

 朝霜は冷たい口調で僚艦である初春型駆逐艦・初霜の言葉を遮った。

 

「漁船の巻き添えなんかどうだっていいんだよ。そいつを気にするのはあのフリゲートの仕事だぜ。むしろ便乗してアタイたちの足を引っ張りかねないぜ。だからよ、深海棲艦が出たらいったん撤退して、十分に距離をとった後から余裕をもってSSSM(Surface to Ssurface and Submarine Missile)をぶち込む。これが一番だろ」

 

『違法漁船だからと言って、見殺しにはできないわ』

 

 初霜は臆することなく反論してきた。

 

『深海棲艦は人類共通の敵として位置づけられているわ。その敵が船を襲っているのに撤退したなら、却って隣国に人権問題で口実を与えかねない。深海棲艦を前にする以上、人命救助を最優先にすべきだと私は思うの』

 

「もっともらしいこと言ってんじゃねーよ。初霜、それはお前の個人的な信念でしかないんだぜ。それに助けようが見殺しにしようが、あの隣国のこった、どっちにしろ国際問題化するに決まってるんだ。だったら余計なことはしたくないね」

 

『私の信念なのは認めるわ。だから、朝霜に無理強いはしない。あなたの足は引っ張らないから安心して頂戴。いざとなったら私を捨てて逃げていいわ』

 

「独りで勝手にやるってか。頑固者」

 

『二人とも、いい加減にしなさい!』霞が割り込む。『初霜、独断専行なんて絶対に許さないからね。これは旗艦としての命令よ。いいわね!』

 

『もちろんよ、霞、私はあなたに従うわ』

 

 初霜のアイコンドールが、安心してほしいとでも言うようにニッコリと笑った。対して霞のアイコンドールはきつい表情のままだ。

 

 初霜は腹の底が読めない艦娘だ。

 

 いや、その思考の根底にあるのは“人の命を守りたい”という単純かつ極めて強固な思想だが、それをやり遂げるために何をしでかすか分からないという危うさを秘めている。朝霜はそう思っていた。

 

 それは霞もまた同じである。その霞のアイコンドールの顔が、朝霜に向けられた。

 

『朝霜、あんたも余計な言葉が多すぎるわ。ここで感情的になるのはやめなさい。愚痴をこぼしたいなら、帰投した後でいくらでも付き合ってあげるから』

 

 ため息混じりの、霞の声。旗艦の気苦労を察して、朝霜は矛を収めることにした。

 

「愚痴に付き合ってくれるなんて嬉しいね、ありがとな。さすが霞ママは優しいね」

 

『誰がママよ。それやめてったら!』

 

「なら、かーちゃんって呼ぶか。霞の“か”に、ちゃん付けしてるだけだぜ。誤解すんなよ」

 

『うるさい、却下よ!』

 

『そうね』初霜も頷く。『ちゃん付けは駄目よ。さん付けにして尊厳を込めて“お”も付けましょう』

 

「つまり“おかーさん”だな」

 

『そういう問題じゃない!』

 

 ふふ、と初霜のアイコンドールから笑い声が漏れ聞こえた。その隣で霞がため息を漏らす。

 

 少し前まで漂っていた苛立ち混じりの剣呑な空気はすっかり無くなり、三人は気の置けない気さくな関係に戻っていた。

 

 それから少し間をおいて、サポートAIが友軍からの通信が入ったことを告げた。

 

 南西警備艦隊に所属する駆逐隊がこの海域に到着したらしい。隣国フリゲートへの追尾・監視任務を二十一駆から引き継ぐための部隊だった。

 

 旗艦である霞が代表して通信を行い、現在の状況を申し継ぐ。

 

 それから約二十分後、それぞれの現場に到着した友軍艦艇と入れ替わる形で、第二十一駆逐隊は母港である宮吉島へ針路を取った。

 

『さ、二人とも、急いで島へ帰るわよ。私たちには次の任務が待っているんだから』

 

「三日後から二水戦との共同作戦か。休む暇もありゃしねえな」

 

『秘密部隊である二水戦、どんな方たちが来るのか楽しみね』

 

 三隻は合流すると単縦陣となって漁船の間を縫うように母港へ向かう。

 

 南の海の空は、台風が近づいてくることなど嘘のように、奇妙なくらいに晴れ渡っていた……

 

 

 

 

 

 

 宮吉島はリゾート地としても有名な島である。

 

 深海棲艦により海路は不安定となったが、観光客は主に航空機を好んだので、深海棲艦との戦いでアドバンテージを取れるようになった今の時代、観光業もかつての活気をほぼ取り戻していた。

 

 そもそも宮吉島には大型機が離着陸できる「宮吉島中央空港」の他に、隣接する二つの小島にも小型機用の空港があった。しかもその島々と宮吉島本島は橋で繋がっており、実質、三つの空港を有している状態である。

 

 そのため本土から遠く離れた南端の島であるにも拘わらず、夏ごろになると多くの観光客を乗せた旅客機がひっきりなしに発着し、賑わいを見せていた。

 

 今、宮吉島はそんなリゾートシーズンの真っただ中にある。

 

 しかし赤道付近で発達を始めた台風の影響から、空には黒い雲がところどころに浮かび、海上の波もいつもよりかはやや荒い。

 

 そのため、各ビーチでは遊泳禁止の達しが出され、サンゴでできた白い砂浜が広がる海岸には、まばらな人影しか見当たらなかった。

 

 時刻は夕暮れ。

 

 普段なら水平線に沈む美しい夕陽を満喫できる西側のビーチも、今日は黒い雲と荒い海面のせいで、十数人の若者で構成されたグループを除いて他には誰も居なかった。

 

 というか、そもそもこのビーチは立ち入り禁止の場所であった。

 

 今日のように波の高い日は海難の危険もあって、地元民でさえ近寄らない場所である。もちろん立入禁止の看板もあるし、浜へ通じる道は車止めとロープで塞がれていた。

 

 しかしこうして、向こう見ずな観光客がロープを潜って立ち入ってしまう事例は後を絶たなかった。

 

 若く日焼けした男たち十人と、同じく若い女がこちらは七人。

 

 恐れ知らずで向こう見ずな彼ら彼女らは、注意に訪れた地元民に嘲笑とビールの空き缶を投げつけて追い返すと、荒れて高くなった波でサーフィンを楽しみ、砂浜では思う存分バーベキューを繰り広げ、陽も落ち切らないうちから大量の花火を空と海と砂浜にばら撒いた。

 

 彼らの心には枷などない。南国の解放感にひたり、モラルも常識も全てかなぐり捨てて楽しみ尽くすのが彼らの望みであり、正義だった。

 

 度を越したアルコールと薬物が、彼らの高揚感を歯止めが利かないレベルにまで押し上げていた。

 

 日が暮れ、闇が辺りを染め始めた頃、誰かがゴミの山に火を点けた。他の数人が面白がって更にゴミや酒を投げ込み、その火を巨大な炎にまで煽り立てた。

 

 持ち込んだタブレットに接続されたステレオとウーハーが大音量で地獄の狂乱めいた音楽をがなり立てる中、激しく燃え盛る炎の周りで、男たちと女たちは服を脱ぎ捨て乱痴気騒ぎに耽っていた。

 

 しかし男十人に対して女は七人。あぶれた三人の男たちがアルコールで薬物をキメながら自分たちの順番を待っていた時、そのうちの一人が、海から上がってきた一人の人影を見つけた。

 

「おほ?」

 

 女だった。それを見た男のアッパー系薬物の摂取で開いた瞳孔が、さらに大きくなった。

 

 それもそのはず、その女は全裸だった。それも身震いするほど美しいスタイルの女が、水着さえも付けずにその身体を惜しげもなく晒しながら、波間から現れて砂浜をこちらへ向かって歩いてきたのだ。

 

 見つけた男は、この乱痴気パーティーに参加していた女の一人がたまらずに海に飛び込んだのかとも思ったが、すぐに別人であることに気が付いた。

 

 暗い海面を背景に、浜の焚火に照らし上げられた女の素肌は抜けるように白く、そしてその長い髪は目がくらむような銀色をしている。さらに息を呑むほどの美貌にはサファイアの如き深紅の瞳が怪しげな光を湛えながら、男たちを眺めていた。

 

 そのあまりの美しさに、目が合った男は息をすることも忘れ、手にしていたビール缶を取り落とした。

 

 落としたビール缶の中身が噴き出し、すぐ隣に居た別の男の足にかかった。

 

「冷てぇっ! おい、なにやって――」

 

 その男もまた美女の存在に気が付き、言葉を切った。いや、失ったというべきか。二人の男はそろって目を蕩けさせ、口を半開きにした状態で呆けたようにその場に立ち尽くした。

 

 美女がうっすらと笑みを浮かべながら二人の男の目の前まで歩み寄る。その裸身が近づいてくる間、男たちは金縛りにあったように身動き一つ取れなかった。目さえも逸らすことができなかった。

 

 それどころか男たちの目は血走り、半開きの口からは荒い呼吸とともに大量の涎が零れ落ちている。

 

 男たちは完全に正気を失っていた。アルコールと薬物と、そして激しい炎と音楽が男たちをトランス状態に陥れていた。

 

 しかし男たちを狂わせた決定的な要因は、この目の前の美女だった。

 

 美女は野獣のような形相で立ち尽くす二人の男の前で立ち止まると、その口を開いた。

 

「ねえ、私、初霜を探しているんだけど、知らない?」

 

 男たちの狂相など気づいていないような素振りで、あどけなさすら感じさせる表情で、そして何より耳の奥から脳髄を溶かすような声で、美女は問いかけた。

 

 それが男たちのなけなしの理性を完全に破壊した。

 

 二人の男が、下半身から突き上がる凶暴な獣欲のままに女に飛び掛かった。男たちの手が、美女の柔らかな身体を乱暴に掴み、力任せに爪を立てる。

 

「「ぐぇおおおおっ!?!?」」

 

 波音響く夜の海岸を圧するような激しい悲鳴が辺り一帯に響き渡った。

 

 襲われた美女の悲鳴? いや違う、それは男たちの悲鳴だった。

 

 およそ今まで聞いたことが無いような不快な悲鳴に、焚火の周囲でそれぞれ行為に及んでいた他の男女たちが一斉に動きを止め、悲鳴が上がった方向を向いた。

 

 彼ら彼女たちが目にしたのは、悠然とたたずむ全裸の美女と、そしてその足元で背中を丸めてうずくまる二人の男の姿だった。

 

 男たちは顔面を砂浜に突っ伏し、両手で己の股間を押さえながら激しく身を震わせていた。

 

「あ、あひっ…ひっ…!?」

 

 男たちが短く甲高い声を上げて震えるたびに、押さえた股間から白い粘液が零れ落ち、周囲に異様な匂いを漂わせた。

 

「あら、そんなつもりはなかったのに」

 

 美女は呆れたように男たちを見下ろしながら言った。

 

「遺伝子情報はもういらないのよ。私が欲しいのは言語情報。ねえ、聞いてる? 初霜よ、初霜。その居場所を聞きたいの」

 

 美女はしゃがみ込んで、足元に突っ伏している男の髪をつかんで無理やり顔を上げさせた。

 

「ひっ!?」

 

 男は、しゃがんだ格好の美女を目の当たりにした瞬間、そのあまりにも煽情的な光景に耐え切れず、口から泡を噴いて卒倒した。

 

「駄目ね、まるでお話にならないわ」

 

 美女は男から手を離すと、立ち上がって辺りを見渡した。

 

 砂浜で呆けたように座り込んだ男女の中で、一人だけ、立ち尽くしたままの男がいた。

 

 最初にあぶれていた三人の内の一人だった。

 

 先に襲い掛かった二人に対し、少し離れた場所に居たせいで出遅れただけなのだが、今、砂浜に蹲る二人の男の有様を目撃したことで、怯えと、しかしそれでも抑えがたい性衝動に挟まれて、動くことも倒れることもできずに立ち尽くしていたのだ。

 

 その男に対し、美女が、

 

「いらっしゃい」

 

 と手招きしたことで、男の中で均衡が崩れた。男が夢遊病者のような足取りで美女に近づき、その身体に触れようとして両手を前に突き出した。

 

 美女はその手を邪険に振り払うと、片手で男の喉元を無造作に掴み、締め上げた。

 

「くぇっ!?」

 

「これから同じ質問するから、ちゃんと答えなさい。…ああ、別にもう言葉で答えなくてもいいわ。思い浮かべるだけでいいの。大丈夫? 私の言葉、理解できる?」

 

 男は喉を締め上げられ喘ぎながらも、微かに首を縦に振った。

 

「そう、いい子ね。じゃあ、初霜はどこ? 艦娘の初霜、駆逐艦・初霜よ」

 

 男は窒息寸前で喘ぎながら必死に首を横に振ろうとした。しかし、美女の腕力と握力が強すぎて身動き一つできなかった。

 

「初霜はどこ?」

 

 美女は繰り返し問いかけながら、男を引き寄せ、空いたもう一方の手の人差し指を男の額に突き付けた。

 

「初霜……」

 

 ずぶずぶと鈍い音を立てながら、女の人差し指が、まるで豆腐に指を立てるかのような容易さで、男の額に突き刺さっていく。

 

 そのまま第三関節まで埋め込んでしまうと、美女は何かを探るように指で中身をかき回した。

 

「嫌だわ、この個体ったら、中身は空っぽ同然ね」

 

 美女は指を引き抜き、そこについていた液体を振り払いながら、喉を掴んでいた方の掌に力を込めた。

 

 枯れ枝が折れるような音が響き、男の息の根が止まった。

 

 美女はそのまま片手で、死体を海に向かって投げ捨てた。成人男性の身体が、まるで小石のように高く遠く宙を舞い、暗い海の波間に微かな水音を残して消えた。

 

「他に知っていそうな個体は……どれも無駄そうね」

 

 美女はため息を吐きながら、その場を後にしようとした。が、少しして足を止め、再び引き返す。

 

「コレなんか良さそうね」

 

 浜に脱ぎ捨てられていた女たちの衣服から白のワンピースを拾い上げると、美女は、心神喪失状態で座り込む男女たちを残し、島の内陸へと歩き去って行ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 島中心部に位置する宮吉島中央空港に降り立った二水戦司令・郷海 隼人と、その秘書艦である軽巡・神通、そして雪風たち以下六人の艦娘たちを、南国の強い日差しが出迎えた。

 

 もうすぐ夏も盛りを迎えようとする頃であった。天気予報によれば最高気温は三十度を超えるそうだが、湿度の高い本土と違って、南の島特有のからりと乾いた風が心地よく吹き抜けていく。

 

 ここまで乗ってきた旅客機の機内は少し冷房が効きすぎていたこともあって、雪風はその温度差に少し気分が悪くなってきていた。

 

「これでも、いつもより湿気ているほうでね」

 

 空港ロビーで待っていた艦娘、航空戦艦・日向はそう言いながら二水戦をエントランスへと案内した。

 

「台風が近づいていることもあって風も強くなりつつある。ここしばらく、ウチの担当海域一帯は荒れっぱなしになりそうだ。――郷海大佐はこちらの公用車へどうぞ」

 

「ごわす」

 

 郷海は指揮官用の黒塗りセダンに案内され、日向が同乗する。

神通と雪風たちは、もう一人いた迎えの艦娘に、マイクロバスへと案内された。

 

「軽巡・五十鈴よ。今回の作戦であなた達の二水戦のバックアップを担当するわ。よろしくね」

 

「秘書艦の神通です。こちらこそよろしくお願いします。ところで、今回はバックアップの他にも、三隻の駆逐艦が私たちと一緒に前線へ出るとお聞きしましたが?」

 

「ああ、ウチの二十一駆ね。優秀な子たちよ。あなた達とは比べられないと思うけど、少なくとも足を引っ張るような真似はしないわ」

 

「……私たちは、そんな褒められた部隊じゃありませんよ」

 

 謙遜、というには幾分か暗い影をまとった神通の物言いだった。五十鈴はそのニュアンスに気づき微かに眉を動かしたが、気にする素振りを見せないようにして彼女たちをマイクロバスの車内へと案内した。

 

 車内もやはり冷房がかなり効いていた。少し汗ばんだ身体がまた急速に冷やされて、雪風は微かに身震いした。

 

 北国の人間は内地よりも強めに暖房をかけるので却って寒さに耐性が無いと聞いたことはあるが、南国はその逆で暑さに耐性が無いのだろうか。と、雪風は思いながら鳥肌が浮いた二の腕を手で軽くこすった。

 

 そんな雪風の様子に、隣に座った初風が気づいた。

 

「ユキ、どうしたの?」

 

「ちょっと冷房がきつくて」

 

「そう? こんなものじゃない?」

 

「えぇー……」

 

 初風だけじゃなく、磯風たちも平気な顔をしていた。どうやら寒がりは雪風ひとりだったようだ。

 

 普段から冷房慣れしていないだけに、こうコロコロと温度が変わると気持ちも身体も追いつかない。そんな雪風の内心をよそにマイクロバスは鎮守府へ向けて走り出した。

 

 窓の外に目を向けると、そこには夏の強い陽射しを浴びてサトウキビ畑が一面に鮮やかな緑の海となって拡がっていた。その広大なサトウキビ畑の上をヴェールのようなすじ雲が通り過ぎていく。

 

 そのサトウキビ畑の地平線にフェンスに囲まれた赤レンガ調の建物が見えてきた。目的地の鎮守府だ。鎮守府に近づくとその向こうに鮮やかなエメラルドグリーンの海が真っ青な空と接している光景も見えてきた。

 

 雪風はその景色を目にして、ようやく南の島へ来たのだという実感が湧いてきた。なんと美しい海と空だろうか。内地沿岸の暗い海とくすんだ空とは大違いだ。

 

 隣の初風が、任務以外でここに来たかったわ。と、呟いた。

 

「いつかまた遊びに来たいわね。ね、ユキ」

 

 その言葉に、雪風は一瞬、答えに窮した。いつか、という不確かな願望を抱くのは苦手だった。

 

 結局、少しだけ間をおいて曖昧に頷くに留めた。

 

 司令用の公用車と、雪風たちを乗せたマイクロバスが鎮守府へ到着し、二水戦一同は地下の司令部施設へと案内された。

 

「南方警備艦隊司令・海尾 守です。郷海大佐、お久しぶりです」

 

「国防省ビルでん会合以来じゃ。こちらこそよろしゅうお世話になりもうそ」

 

「秘書艦の駆逐艦・叢雲です。早速ですけど変更点などの打ち合わせを行いたいのですが、よろしくて?」

 

「秘書艦・神通です。そうしていただけると助かります。参加範囲は全員ですか?」

 

「とりあえず司令と秘書艦だけで十分よ。他の方はそちらの自由にして頂いて構わないわ」

 

「ありがとうございます。では……」

 

 神通が郷海に視線を向けると、郷海は黙ったまま頷いた。それだけで神通に意図は十分伝わったようで、神通は今度は最先任者である雪風に顔を向けた。

 

「司令から許可を頂きましたので、あなた方については上陸を許可します。明日、0800にこの司令部に再度集合すること。よろしいですね」

 

「了解しました。上陸許可ありがとうございます」

 

 上陸とは船から陸へ上がること、転じて外出を意味する海軍用語だ。

 

 海尾と郷海の両司令がそれぞれの秘書艦とともに司令室へ消えて行ったのを見送った雪風たちは、その場で顔を見合わせた。

 

「上陸許可をもらったけど、解散する前にここの艦娘さんたちに挨拶しようと思うの。いい?」

 

 雪風の提案に、皆同意した。というわけで早速ガンルーム(艦娘待機室)を訪問したのだが、

 

「失礼します。二水戦・雪風、他五名、入ります……って、あれ?」

 

「すまないな、今は私たちしか居ないんだ」

 

 広いガンルームに居たのは、雪風たちを案内してくれた日向と五十鈴の二人だけだった。

 

 日向が苦笑を浮かべながら説明する。

 

「今、ウチの半分は哨戒任務に出てしまっているのと、そしてもう半分も、今夜、那珂がやるコンサートの後方支援に出払っていてな。こうして暇しているのは私たちぐらいだ」

 

 それに対して初風が「二十一駆はどうされたんですか?」と訊いた。

 

「二水戦の指揮下に加わると聞いていたから、せめて挨拶でもと思ってたのに」

 

「あの子たちも哨戒中よ」と、五十鈴がため息混じりに答えた。「急にSK諸島海域での監視任務も加えられたからね。作戦間近でも出さざるを得なかったのよ」

 

「だが」と、日向が続ける。「今日で他の警備艦隊と交代して帰還する予定だ。確か、後一時間もしない内に帰ってくるはずだが、どうする?」

 

「でしたら……」

 

 雪風は一度、仲間たちに目を向けた。目が合うと、彼女たちは皆軽く頷いて同意を示した。

 

 雪風は日向に向き直って言った。

 

「……せっかくなので、待たせてもらっても良いですか?」

 

「ああ、ゆっくり寛ぐといい。コーヒーとお茶はそこの棚にある。中央のテーブルにあるお菓子も好きに食べてくれ。…そうだ、五十鈴、例のアイスもたくさん余っていただろう」

 

「え、日向さん、あれお客さんにお出しするの? 私あれ苦手なんだけど」

 

「今のところ賛否半々だからな。美味しいかどうかは人それぞれだ」

 

「はいはい」

 

 五十鈴がガンルームの片隅にある大型冷蔵庫から、大きめのビニール袋を取り出して戻ってきた。

 

 袋からお出しされたのはカップ容器に入ったアイスクリームだった。それをテーブルに並べながら五十鈴が言った。

 

「宮吉島特産品のモズクを使ったアイスクリームよ。ご当地スイーツとして売り出そうと目論んでるみたいだけど、私は正直、ちょっと……」

 

 言い淀んだ五十鈴に代わって、日向が言った。

 

「好みは分かれるが、私は悪くないと思う。那珂が地元ローカルテレビの番組にゲスト出演したときに試供品を貰ってきてね。たくさんあるから、もし気に入ったなら遠慮せずに好きなだけ食べてくれ」

 

「いや、無理しなくてもいいわよ」と五十鈴。

 

 果たしてどうなのやら。

 

 雪風が恐る恐るフタを開けてみると、濃いモスグリーンのアイスが現れた。その表面に黒く短いひも状のモズクがいくつか見え隠れしている。カップを手にもって匂いを嗅ぐと、微かなお酢の香りが鼻腔をくすぐった。

 

 これは……どう考えても見えている機雷だ。

 

「ねえユキ、私これ無理だわ」

 

「谷風さんも、モズクは好きだけど、流石にこいつはねえ…」

 

「う、ウチもお酢の匂いがするアイスは、ちいと遠慮したいけえ」

 

 初風と谷風と浦風が早々に脱落した。

 

 そんな仲間の様子に、磯風が不敵な笑みを漏らした。

 

「ふっ…食わず嫌いとは情けない者たちだ。何事も挑んでみなければわかるまい」

 

「そうです」と、谷風も真面目な顔で頷いた。「それにせっかくお出しされたものを突き返すのも失礼でしょう。ここは潔くいただくのが礼儀というもの」

 

 そう言って、磯風と浜風の二人は躊躇なくアイスにスプーンを突き立てて口に運んだ。

 

「………」

 

「………」

 

 そのまま、二人の動きが止まった。その顔を覗き込むようにして、浦風が問いかけた。

 

「二人とも、味はどがいな感じや?」

 

「……磯の風味が、こう、口の中に広がってだな、うん、うーむ」

 

「浜辺の匂いと、酸っぱさと、甘さが、なんとも言えませんね…」

 

 磯風と浜風はそれ以上は何も言わずに、微妙な表情のままモズクアイスを黙々と口に運び続けた。

 

 そんな反応を目の当たりにして、雪風は、さてどうするかと少し悩んだ。味はあまり期待できそうにないが、かといって出されたものを無駄にするのも勿体無い。

 

 短い葛藤の末に結局、染み付いた貧乏性が勝って雪風はスプーンをアイスに突き立てた。少なくとも食えない味ではないだろう、と期待値を最低にまで落とした上で口に入れたアイスの味は、思ったよりも悪くなかった。

 

「あれ?……意外とイケる」

 

「ユキ…それ本気で言ってる?」

 

 ドン引きしている初風に、雪風は二口目を味わいながら言った。

 

「お酢の酸っぱさが甘さを引き立ててるし、口の中にモズク特有の海っぽい香りが広がる感じが、なんか、いいかも」

 

 雪風の反応に、日向が腕組みをして鷹揚に頷いていた。

 

「まあ、そうなるな」

 

「ならないと思うわ」

 

 と、げんなり顔の五十鈴。

 

 そんな中、雪風は自分の分のアイスをするりと食べきってしまった。

 

 日向がそれを見てニッコリとほほ笑んだ。

 

「気に入ってくれたようでなによりだ」

 

「慣れると美味しいですね。いくらでもいけちゃいそうです」

 

「そうかそうか。お代わりもあるぞ。遠慮せずにいっぱい食べてくれ」

 

「はいっ、ありがとうございます!」

 

 雪風が表情を輝かせながら二つ目を空にし、そして三つ目のアイスを食べ終えたころ、司令室の扉が開いて、そこから秘書艦の叢雲が顔をのぞかせた。

 

「日向、ちょっといい?」

 

「うむ」

 

 歩み寄った日向に叢雲は軽く耳打ちすると、また司令室に姿を消した。日向が振り返り、告げた。

 

「今、帰投中の二十一駆から連絡があったそうだ。台風の影響で波が高く、速度が上がらないらしい。このままだと更に一時間くらい遅れてしまうそうだ」

 

「あー、そうなんですか。大変ですね」

 

「君たちもこれ以上待っていては、せっかくの上陸時間が勿体無かろう。顔合わせは明日でもできる。今日はもう上がるといい」

 

「お気遣いありがとうございます。そういうことでしたら、今日はこれで失礼させていただきます」

 

「そうそう、重要なことを忘れていた。君たち二水戦の滞在先だ」

 

 日向はそう言いながら、鍵を六つ、手渡してくれた。

 

「寮の鍵だ。鎮守府を出てすぐのところにある。しかし申し訳ないが、今日は水道管の検査があって夕方まで断水することになっててな。それまでの間、シャワーなどが使いたければ鎮守府の浴室を使ってくれ」

 

「よかったら那珂のコンサートも観てやってくれないかしら」と五十鈴。「あの子、今日は二水戦が来るからっていつも以上に張り切っちゃってね。時間は1900から、入場は無料よ」

 

 五十鈴からコンサートのチラシも受け取り、雪風たちは礼を言ってガンルームを後にした。

 

 冷房の効いた地下から、再び日差しの強い地上へ出て寮へと向かう道すがら、皆で自由時間をどう過ごすか話し合う。

 

 とりあえず那珂のコンサートを観に行くことは満場一致で決まったものの、まだ昼近くということもあって時間はたっぷり余っていた。

 

「買い物にでも行くわ。いいでしょ、ユキ」

 

 初風から同意を求められて、雪風は「あ…うん」と頷いた。そもそも初めから雪風の同意など求めてないような言葉だったが、特に逆らう気も起きなかった。こういうプライベートにおける主導権は常に初風にあるのだ。

 

 というより、雪風が丸投げしている、という風に周囲からは思われていた。面倒くさがりな夫を引っ張る妻、そんな夫婦のような二人の様子を見て、他の四人は密かに苦笑した。

 

 磯風が言った。

 

「我々も各自それぞれで好きにやるさ。コンサート会場で落ち合おう」

 

 話はそれで決まり、磯風、浦風、浜風、谷風の四人は、正門を出てすぐにタクシーを拾って街へと繰り出して行ってしまった。

 

 初風も同じようにタクシーを呼び留めようとしたが、

 

「あのさ、その前に寮に寄ってもいいかな」

 

「どうして? 置くような荷物なんか持ってきてないでしょ?」

 

「いやちょっと…ね…」

 

 ごろり、と低く重い音が微かに鳴った。

 

「あら、雷?」

 

「…えと、アイス…食べ過ぎたみたい……」

 

 雪風は自分の腹を両手で押さえていた。その手の下でまた、ごろり、と遠雷が鳴り、嵐の予感に、雪風は冷や汗を浮かべたのだった。

 

 

 

 

 

 

 水斗 慧爾(みなと けいじ)が実家の配管修理会社に入社したのは、義務教育を終えてからすぐのことだ。社会人として四年が経ち、今年で十九才になる。

 

 高等学校へは進学しなかったが、これは今の時代、さして珍しいことでもなかった。実際、慧爾の同世代の知り合いでも、高校以上に進学している者は数える程度しか居ない。

 

 少子高齢化が深刻化し、人口が毎年減り続けている現在、若い労働者の確保は切実な社会問題となっており、義務教育修了者に対するリクルートが活発化していた。

 

 艦娘の適合年齢もちょうどそれくらいであったことから、深海棲艦への脅威に対抗するために国家を挙げてその風潮が後押しされ、結果、教育体系が大幅に変更・効率化され、今では高校・大学へ進学するのは専門性の高い研究職・技術職を目指す一部の者だけとなっていた。

 

 そうやって進学する者たちは一般的にスーパーエリートと呼ばれたが、かといって特権階級なのかといえば、そうでもなかった。

 

 進学する者は大した奴だが、それはそれとして、手に職付けて世間で働いてこそ一人前。そんな、ある意味で真っ当な認識が社会では根付くようになっていた。

 

 慧爾も、今の配管工という仕事を気に入っていた。よく“きつい、汚い、危険”の三拍子そろった3K職場と言われるが、実家の稼業でもあるし、それに割と高収入だ。そして何より、社会のインフラを支える重要な仕事だという自負もある。

 

 仕事にも慣れ始め、現場でもある程度は自分の裁量に任されることも多くなり、慧爾にとっては仕事に張り合いを感じ始めた時期でもあった。

 

 慧爾の主な仕事は、給水設備の整備、つまり水道関係だ。慧爾の勤める会社、つまり彼の実家は軍関係の仕事も受注しており、半年ほど前に鎮守府が空襲を受けた時も、その復旧工事に参加していた。

 

 今日はその復旧工事のせいで後回しになっていた海軍寮の給水設備点検の日だ。

 

 慧爾は鎮守府近くにあるアパートメント式の寮につくと、さっそく建物の前にあるマンホールの蓋を開ける作業に取り掛かった。

 

 マンホールの蓋は鋳鉄製で、その重量は約40キロもある。到底、素手で開けられるものではないので、マンホールフックという道具を使用する。

 

 といってもそんな複雑な道具ではない。先端がかぎ状に曲がっただけの棒だ。それを二本、それぞれ両手にもち、先端を蓋の取っ掛かりに引っ掛けて持ち上げるのだ。

 

 だが、蓋はビクともしなかった。錆びて固着しているのだ。慧爾はいったんマンホールフックから手を離すと、道具箱から大きめのハンマーを取り出した。

 

 慧爾は片手で再びマンホールフックを引き上げながら、もう片手に握ったハンマーで蓋の縁を叩き始めた。

 

 ガンガンと大きな音が周囲に響き渡った。近隣住民にはこういう騒音も含めて事前に断りを入れて了承を得ているが、それでも思っていた以上の音にクレームがつくことがある。時には現場へ怒鳴り込んでくる者さえ居た。

 

 昨日もそうだった。海岸近くのリゾートホテルで作業をしていたら、昼間から泥酔していた観光客から大声で文句を付けられた。

 

(あんたの声のほうがよっぽど煩いよ)

 

 そう言い返してやりたかったが、グッと堪えて頭を下げた。

 

 だけど、今日はそうならないだろう。平日の昼間ということもあって海軍寮には誰も居ないという連絡は受けていたし、それ以外の民家もかなり距離があるので、今日は音を気にせず仕事ができる。

 

 慧爾は流れる汗を時折ぬぐいながらハンマーを振るい続けた。40キロの鉄の塊を片手で引き上げながらハンマーを振るい続けること十数分、ガボッという微かな音とともに、ようやく蓋が動いた。

 

 慧爾はホッと息を吐くと、マンホールフックから手を離し、中腰姿勢から身体を起こして背中を伸ばした。三十度を超える気温の中、蓋を開けるだけでもう汗だくだ。見上げた空には雲が多いが、その分、いつもより蒸し暑さを感じる。

 

 喉の渇きを潤そうと水筒に口を付けながら、そういえばあの時もこんな日だったな、と以前のことを思い出した。

 

 あれは確か春のころ、鎮守府の復旧工事に参加していた時のことだ。あの日は季節外れの暑い日で、慧爾はやはり汗だくになっていた。

 

 その休憩中、たまたま通りがかった軍の職員から声をかけられた。

 

――暑い中、いつもありがとうございます。

 

 それは女性だった。それも少女と言ってもいいような外見の、きっと艦娘だろう。何気ない、単に視界に入って、お互いなんとなく目が合ったから軽く声をかけた程度の挨拶だった。

 

 しかし、おざなりな印象は受けなかった。鎮守府を復旧してくれていることへの感謝と、慧爾の仕事への敬意が込められていた。そしてその言葉が、艦娘という、普段からこの島を守っている者からかけられたことが、なおさら印象を深くしていた。

 

 慧爾はその時、そんな感謝されることに慣れていなかったこともあって、曖昧に会釈を返すことしかできなかった。

 

 しかしその後も、その艦娘は作業現場を通りかかる度に、同じように声をかけてくれた。

 

 礼儀正しい子だった。派手では無いがどこか凛とした佇まいで、慧爾は気が付けば無意識に彼女の姿を目で探すようになっていた。

 

 それが恋と呼べるようなものだったのか。それとも、単なる艦娘への好奇心によるものだったのか、まだ若い慧爾には判断がつかないまま、彼は鎮守府での作業を終え、別の現場へと移った。

 

 艦娘の子とも、挨拶以上の言葉を交わすこともなく、それきりだ。

 

 彼女についても分かったのは名前だけだ。一度だけ、彼女が他の艦娘から名前を呼ばれていたのを耳にして知ったのだ。

 

 初霜。それが艦娘としての彼女の名だ。多分。本名に至っては知る術もない。

 

(……こんなに気になるってことは、俺、やっぱり惚れてるのかなぁ)

 

 水分補給しながら、ぼんやりとそう思う。

 

(しっかし、声かけられたぐらいで惚れるとか、ちょろいな、俺!?)

 

 同僚や友人にバレたら勘違い童貞野郎とからかわれることは間違いないので、口外したことはない。しかしこの感情が恋かどうかはともかくとして、若い異性から労いの言葉をかけてもらって嬉しくならない者はまず居ないだろう。

 

 特に炎天下での重労働なら、なおさらだ。

 

(あ~、だるい)

 

 艦娘も住んでいる寮での仕事と聞いた時、何かを期待していなかったと言えば嘘になる。とはいえ別にイヤらしいことを考えていた訳じゃない。単に初霜の姿をまた見かける事ができるかもしれないという程度だ。それ以上のことは期待していない。

 

 でも、今日は仕事上では都合の良いことに、しかし慧爾にとっては不幸なことに艦娘は全員不在だそうだ。

 

 社長である父が笑顔で、「クレームを気にせずに済むぞ、よかったな」と気楽に笑って慧爾を送り出したが、慧爾は内心でため息を吐いていた。リスクを避けるばかりでは仕事のモチベーションは上がらないのだ。

 

 やれやれと慧爾は額の汗をぬぐいながら作業を再開した。動くようになったマンホールの蓋にもう一つのフックを引っ掛け、両手で引き上げる。

 

「よいしょっ…と」

 

 ゴトンと重い音を立てて蓋が横にズレた。そのまま穴が全部あらわになるまでズルズルと引きずりながら移動させる。

 

「ふう、ようやく本番だな」

 

 懐中電灯を用意してマンホールに潜り込もうとしたところで、不意に、

 

「あ、あのっ…!」

 

 背後から声がかけられ、慧爾は振り返った。

 

 そこに居たのは一人の少女だった。栗色の髪をショートカットにした、小柄な女の子が、腹部を手で押さえながら立っていた。

 

 走ってでも来たのだろうか。少女は肩で息をしながら、困ったような、申し訳なさそうな顔をして言った。

 

「えっと、もう寮の水道って止めちゃいました?」

 

「え? あ、はい。点検の時間ですのでご利用を控えていただくことになっていますが」

 

 まだ水道の元栓は閉めていない。あくまで住民に“控えてもらっている”だけだ。しかし少女はそれを“もう使えない”と誤解したようで、その顔をみるみると曇らせた。

 

「そ、そんなぁ…」

 

 まるでこの世の終わりみたいな顔をしながら、少女は言った。

 

「お願いです! もうちょっと、もうちょっとだけ工事を待ってくれませんか!? 五分、いいえ三分でいいんで水道使わせてください!」

 

「あ、いや別に工事じゃないので、どうぞ」

 

「本当ですか!? ありがとうございます!」

 

 少女の顔がパアッと明るくなった。が、その顔がすぐにまたサッと青ざめた。どこかで、ごろり、と遠雷のような音が鳴った。

 

「す、すぐに済ませますので!」

 

 少女は青ざめた顔のまま、寮の一階に並ぶ部屋の扉へと走り寄り、そのドアノブに鍵を差し込んでガチャガチャと回し始めた。

 

 どうやらここに住んでいる艦娘の一人だったらしい。だが、それにしては少し様子が変だな、と慧爾は思った。

 

 扉がいつまで経っても開かないのだ。

 

「ど、どうして…!? 部屋番号はここで合ってるのに、って、あ…、この鍵、初風の部屋の鍵だ…」

 

 どうやら部屋の鍵を間違えて持ってきたらしい。どうしてそんなことになったのか皆目見当もつかないが、それよりも、その少女が扉の前で苦しそうに蹲ってしまったので、慧爾は慌ててその傍に駆け寄った。

 

「大丈夫ですか!?」

 

「も、もう…駄目かもしれない…」

 

「救急車を呼びます!」

 

 携帯端末を取り出した慧爾を見て、少女は慌てて首を横に振った。

 

「だめだめ、それはやめて…!?」

 

「で、でも」

 

「あ、あの、ですね…その…トイレ、なんです…」

 

「は?」

 

「トイレ…漏れそう…」

 

「あ…あぁ…」

 

 成程。事態を全部察した慧爾の前で、少女は羞恥心と腹痛で涙目になった顔を伏せた。

 

(こ、困ったぞ!?)

 

 要するに、問題はトイレだ。この寮以外のトイレと言えば、すぐ近くの鎮守府だろうが、その広大な敷地のどこにトイレがあるか慧爾は知らない。というかすぐに行けるなら少女はとっくに行っているはずだ。

 

 そうでなければ鎮守府とは反対側の方向にコンビニエンスストアがあるが、ざっと300メートルは離れている。普段は何でもない距離だが、そろそろ限界を迎えそうなこの少女は果たして耐えられるのだろうか。

 

(いや、迷っている暇はない!)

 

 事態は一刻を争うのだ。別に命の危機ではないが、この少女の尊厳には関わる。少女が歩けないなら最悪、慧爾が背負ってでも連れて行こう。

 

 と、そんな覚悟を決めて、慧爾は少女に声をかけようとした。

 

 が、それよりも先に、別の声が飛んできた。

 

「ユキ!?」

 

 また別の少女が叫びながら、こちらへと駆け寄ってきた。

 

「そこのあなた、すぐにユキから離れなさい! 憲兵を呼ぶわよ!」

 

 突き飛ばしかねない勢いで割り込んできた別の少女の剣幕に、慧爾は慌てて飛び退いた。

 

「ち、違います。俺、そんなつもりじゃ…」

 

「黙ってて。……ユキ、大丈夫? 怪我はない?」

 

 寄り添った少女に、ユキと呼ばれた少女が顔を上げた。

 

「は、初風ぇ…違うの…と、トイレ…漏れそう…」

 

「はぁ?」

 

「か、鍵…初風のと間違えた…」

 

「………」

 

 ユキが涙目で手元の鍵を差し出す。初風と呼ばれた少女は、そのユキの顔と鍵を交互に見比べながら、すべてを把握したようで、深くため息を吐いた。

 

「あんたって子は、もう。だったら私の部屋のトイレを使えば良かったじゃない」

 

 初風の言葉に、ユキは盲点を突かれたような顔をした。成程、その手があったか。

 

「ま、私の部屋は二階だから、今となってはユキの部屋の方が近いけどね」

 

 初風はそう言いながら、自分が持っていた“ユキの部屋の鍵”を使って目の前の扉を開けた。

 

「ほら、ちゃっちゃと済ませてきなさい」

 

「あ、ありがと!」

 

 ユキは礼を言うや否や室内へと駆け込んでいった。ドタンバタンと室内からドアが乱暴に開け閉めされる音が漏れ聞こえてくる。

 

 初風がこれ以上音が漏れないように玄関の扉を閉め、そして慧爾に向き直った。

 

「さっきは怒鳴ってしまって御免なさい。てっきり、あの子に危害を加えようとしてるのだと誤解しちゃったわ」

 

「気にしないでください。そう見えてもおかしくなかったですから」

 

「いいえ、私の思い込みのせいよ。むしろあの子を心配してくれてたんでしょう。礼を言うべきだわ。ありがとう。そして、ごめんなさい」

 

 初風はそういって深々と頭を下げた。

 

「そんな、俺は何もしていませんよ。…それより、艦娘さんですよね」

 

「ええ、そうよ。と言っても、今日ここに来たばかりだけどね」

 

「お引越しされたんですか」

 

「申し訳ないけど、その手の質問には答えられないの」

 

 無表情のまま冷淡な声で告げられて、慧爾は怯んだ。

 

「そうですか、すいませんでした」

 

 見た目は少女だが、こんな話題にも触れられないあたり、やはり軍人なのだと実感する。慧爾とは住む世界が違うのだ。

 

 あの子…初霜もやはりこんな感じなのだろうか。そうだとすれば、少し寂しい。

 

 初風が言った。

 

「お仕事の邪魔して悪いわね。あの子のトイ…用事が済むまで少し待ってもらえる?」

 

「お気になさらずに」

 

 それきり、二人の間で会話は途切れ、その後はずっと沈黙が続いた。

 

 そんなに時間はかからないと思ったが、ところが、ユキと呼ばれた少女はなかなか部屋から出てこなかった。

 

 十分程度なら、まあそれくらいはかかるだろうと踏んでいたが、しかし二十分経っても音沙汰が無かったので、流石に初風も気にして、室内の様子を見に行った。

 

 一分もしないうちに、初風が部屋から出てきた。

 

「ねえ、度々申し訳ないんだけど、近くにコンビニかスーパーは無いかしら 」

 

 初風は何度目になるか分からないため息を吐きながら、そう言った。

 

「コンビニなら、あちらへ300メートルほど先に」

 

「ありがと」

 

 初風は礼を言うと、コンビニへ向けて走り出した。そして、ものの数分もしないうちに、彼女はトイレットペーパーを抱えて部屋へと入って行った。

 

 なるほど、引っ越したばかりの新しい部屋なら、そうなるな。と、慧爾は納得した。

 

 それからさらに数分経ってから、慧爾はようやく作業を再開できたのだった。

 

 

 

 

 

 

「もう、ユキのせいでいらない恥をかいたわよ」

 

 あれから数十分後、街へ向かって歩きながら口をとがらせる初風に、雪風は「ゴメン、ゴメン」と謝りつつ笑ってごまかした。

 

「アイス食べ過ぎちゃったみたい。っていうか、あのガンルームの冷房もちょっと効き過ぎてたと思わない?」

 

「そうかしら。あれくらい普通でしょ。むしろ真夏でも冷房を付けないユキがおかしいのよ」

 

「だって光熱費がもったいないでしょ」

 

「猛暑になったら熱中症で死ぬわよ」

 

「大丈夫だよ。去年は窓を全開にして下着姿でいれば、扇風機一つで全然平気だったし」

 

「今年それをやったら許さないからね」

 

 額に青筋を立てて凄む初風の迫力に押されて、雪風は「わ、わかりました」と素直に頷いた。

 

 初風が、また深いため息を吐き、雪風はその様子から彼女の内心を敏感に読み取った。これは、この羞恥心の欠片も無い少女にどうやって女の矜持を叩き込むか、それを思案しているときの顔だ。つまりこれから説教が始まるということでもある。

 

 そうなる前に、雪風は「そ、そういえば」と慌てて話題を逸らした。

 

「これから服を買いに行くんだよね。楽しみだなぁ。どんなのがあるかな!」

 

 本当はそんなに興味は無いが、表向きは楽しみを抑えきれない風を装って明るく言ってみる。

 

 が、初風からジト目で返された。

 

「棒読み。おまけに顔が引きつってるわよ」

 

「うぇ…」

 

「ま、ユキが服に興味が薄いのは知ってるから今更だけど、食わず嫌いも良くないってことは覚えて欲しいわね」

 

「食わず嫌いねえ。モズクアイスは食べなかったくせに?」

 

「見えている機雷は別よ」

 

「でも美味しかったよ?」

 

「おなか下したのに?」

 

「あれは量の問題だから…」

 

 うーむ、何を言っても言い返される。口喧嘩では男は女に敵わないとはよく言われているが、同性同士だと女子力の違いで勝敗が決まるのかもしれない。

 

 と、雪風がそんなどうでもいいことを考えている横で、初風が何かに気づいて別の方向に目を向けた。

 

「ん? どうしたの初風」

 

「あぁ、ほら、あそこ。向かいの通り」

 

 初風の視線を追って、雪風もそちらへ顔を向けた。

 

 二車線の道路を挟んだ反対側の歩道。そこを一人の女性が、雪風たちとすれ違うように歩いていた。

 

 鍔の広い麦わら帽子に、ノースリープに丈の長いスカートの白いワンピース姿。照り付ける陽光に長い髪と白い肌を輝かせながら、その女性はそのまま遠ざかって行った。

 

「ねえ、ユキ」

 

 初風が、露骨にならない程度に振り返ってその姿を目で追いながら、言った。

 

「あの人、すごく奇麗じゃない?」

 

「うん、ビックリするくらいの美人さんだった。女優かモデルさんみたい」

 

 雪風もその後ろ姿を目で追いながら素直に頷いた。審美眼なんて持ち合わせていない雪風でさえ、断言してしまうほどの美しさだった。

 

「ああいうのよ、ああいうの!」初風が興奮気味に言った。「麦わら帽に白ワンピ! まさに夏の御令嬢って感じよね。ああ、もう、理想的だわ!」

 

「初風…もしかして私にあの格好をさせようと思ってたの?」

 

「そうよ」

 

「いや無いでしょ。似合わないでしょ。私みたいなチンチクリンが白ワンピ着たって、あんな美人になれる訳ないでしょ!?」

 

「いいえ、なれるわ。同じ人間よ、なれない筈が無いわ」

 

「いやいや、なれないって。ほらよく見てよ。あの美人を人間というなら、私なんてせいぜいげっ歯類だよ!」

 

「ビーバーもカワウソも可愛いじゃない。磨けば光るポテンシャルを秘めているわ」

 

「磨いたところで、ゆるキャラにしかならないよ!」

 

「ええい、グダグダと文句ばかり煩いわね。黙ってついてきなさい。私がユキを超絶美少女にすると決めたのよ。あんたに拒否権は無い!」

 

 俄然やる気を出した初風に手を引かれながら、雪風は街へ向かって歩みを速めた。

 

 街はもう目の前だ。人通りの多い方向へと消えて行く二人のはるか背後で、例のワンピースの美女は独り、街とは反対の方向――すなわち鎮守府の方向へと歩みを進めていた。

 

 美女が歩む道はやがて緩くカーブしながら海沿いに伸び始め、その視界にエメラルドグリーンの水平線が広がった。

 

 その水平線の果てから、三隻の駆逐艦の影が現れたのを見て、美女は麦わら帽子の下でひっそりと笑みを浮かべた。

 

「初霜…やっと見つけた…やっと帰ってきた……」

 

 美女はしばしその場に佇み、帰投する第二十一駆逐隊を眺め続けた。その時、海風が潮の香りを纏いながら吹き付けてきて、美女の髪やスカートを揺らした。

 

 と、不意にその風が強くなり、美女を包み込むように渦を描いた。麦わら帽子が宙高く舞い上がり、車道を超えて反対側の歩道へと落ちる。

 

 だが美女はそんなことを気にする素振りも無く、海に目を向けながら、しかし何かを嗅ぎ取るようにその形のよい鼻梁から深く息を吸い込んでいた。

 

「……この香り…そう、初霜はここを通るのね…」

 

 美女は何かを嗅ぎ取ると、その細い顎に指をかけて思案を始めた。その顔には、待ちわびた友人をどうやって出迎えようか、そんな期待混じりの感情が読み取れそうな微かな笑みが浮いていた。

 

 と、そこへ、美女の背後から声をかける者があった。

 

「あのー、おねーさーん」

 

 少し舌足らずな幼い少女の声。美女が振り向くと、反対側の車道から美女に向かって手を振る幼い少女の姿があった。その振っている手には、先ほど風に飛ばされた麦わら帽子が握られていた。

 

「これ、おねーさんのでしょ?」

 

「ええ、そうよ」

 

 美女は車道を横断して少女へと近づいた。

 

「拾ってくれたのね。ありがとう」

 

「えへへ、はい、どうぞ」

 

 差し出された麦わら帽子を受け取ったとき、その少女の足元で白い影が動いた。

 

 にゃーん、と甘えたように鳴きながら、一匹の白い仔猫が少女の足元に擦り寄っていた。

 

「あなたの飼い猫かしら?」

 

「ちがうよ。ノラちゃんなの。ご近所さんみんなに可愛がられているんだよ」

 

「あら、そう。人気者なのね」

 

 美女が屈みこみ、仔猫に手を伸ばした。差し出された指先に興味を持ったのだろう、仔猫が鼻を近づけ、幾度か匂いを嗅いだ。

 

 仔猫はすぐにその指先に顎をこすりつけ始めた。

 

「警戒心が無いのね」

 

「誰にでもすぐに懐くの。可愛いでしょ」

 

「ええ、とても」

 

 美女の目がスッと細められ、その顔に薄い笑みが浮いた。

 

「きっと、初霜も放っておけないわ」

 

「はつしも?」

 

「この猫、もらうわね」

 

 仔猫の顎を撫でていた美女の指が素早く動き、仔猫の首を鷲掴みにした。仔猫が苦しめに呻きながら暴れだし、それを目の当たりにした少女が悲鳴を上げた。

 

「やめて! ノラちゃんをいじめないで!?」

 

「大丈夫よ、あなたはすぐに忘れるから」

 

 美女は笑顔でそう言いながら、もう片手の指を少女の額に突き付けた。たったそれだけで、少女は凍り付いたように動きを止め、その場に立ち尽くした。

 

 美女はもがく仔猫を片手に掴んだまま、少し周囲を見渡した。

 

 その目が、歩道にあるマンホールの蓋に止まった。雨水排水溝と記されている。道路に降った雨水を流すための排水路だ。

 

 美女はマンホールの蓋のそばに歩み寄ると、その蓋の取っ掛かりに指をかけ、片手で引き上げた。錆びで固着していた40キロもの鉄の塊が、いとも容易く持ち上がり、黒々とした穴がそこに現れた。

 

 美女は躊躇なく、仔猫をその穴へ投げ落とし、その蓋を閉めた。

 

 美女が再び海へと目を向けた。第二十一駆逐隊の影はだいぶ大きくなり、鎮守府へ間もなく入港しようとしているところだった。

 

 美女はそれを一瞥すると、その場から悠然とした歩みで立ち去って行った。

 

 その場に取り残された少女は、しばらくそのまま立ち尽くしていたが、やがてハッと意識を取り戻した。

 

「……あれ、わたし、なにしてたんだっけ?」

 

 すっぽりと抜け落ちた記憶に多少の違和感を覚えながらも、少女もまたその場から立ち去って行った。

 

 後に残されたのは、青い空と、白い雲、美しく澄んだ海の色と……

 

 地の底から響く、哀れな仔猫の鳴き声のみ……

 

 

 

 

 

 

 



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第二十四話・身命賭して猫一匹(4)

1 書きたいシーンを妄想する。
2 そのために必要な伏線を数える。
3 その伏線を用意するために、無駄な描写やシーンがどんどん増殖する。
4 話の展開が進まなくなる。

 というわけで、第二十四話、まだずるずると続きそうです。


 ――私の後ろだけを見て、ついてくればいいから。

 

 初風の初出撃の日、雪風はそう言った。

 

 とある海域に集結した深海棲艦の大艦隊、その中心にいる空母棲姫と呼ばれる特殊個体――空母ヲ級の二倍以上の艦載機を要する巨大空母――を狙った夜間強襲作戦だった。

 

 神通、雪風、初風の三隻に大型レーザー探照機を搭載し、敵艦隊に突入。ターゲットである空母棲姫にレーザーを照射し、はるか遠方に居る大和級から放たれた超延伸弾道弾を誘導する。それが任務だった。

 

 ――どんな時も、何があっても、私の艦尾から目を逸らさないこと。

 

 出撃前、雪風は口を酸っぱくしてそう繰り返した。

 

 初風はそれに強く抗議した。敵の只中に飛び込むのに周囲を見るなとは正気の沙汰じゃない、と。しかし雪風は聞き入れてくれなかった。

 

 納得いかないまま初風は出撃したが、いざ作戦が始まってしまうと、そんな思いは何もかも吹き飛んだ。

 

 星もない暗闇を、二水戦が航走していく。神通、雪風、初風の単縦陣を護衛するため六隻の駆逐艦がその周りを取り囲んでいたが、誰一人として明かりをつけていなかった。各艦娘は皆、暗視装置に浮かぶ僚艦のぼやけたシルエットだけを頼りに陣形を組んでいた。

 

 敵に逆探知されることを恐れ、レーダーも動かしていない。その状態のまま、二水戦は敵艦隊へと突入した。

 

 暗闇を敵味方双方の砲弾が切り裂き、辺り一帯の海面が沸騰したように激しく沸き立つ中を、二水戦が突き進む。

 

 バラージジャミングによりレーダーどころか通信さえもできない状況下である。初風は敵の位置どころか味方の正確な位置さえ分からなかった。彼女の五感に襲い掛かってくるのは、砲弾が間近をかすめ飛ぶ金切り音と、至近弾の衝撃波、そして砲火の瞬きの中で微かに浮かぶ雪風のシルエットだけだった。

 

 ――私の後ろだけを見て、ついてくればいいから。

 

 その言葉の意味を噛みしめる余裕さえ無かった。状況判断も何もあったものじゃ無かった。暗視装置越しですら曖昧なそのシルエットを、初風はただ必死に追い続けた。

 

 肝心のターゲットの位置さえ不明確なまま、そうやってどれだけの時間を走り続けただろうか。不意に、雪風の艦橋からストロボ光が瞬いた。“レーザー探照灯を照射せよ”のモールス信号だ。続いて示された方位へ指示のままに、初風はレーザーを照射した。

 

 そのまま初風は、雪風の後を追い続けて戦線を離脱した。

 

 離脱後、通信が復旧し、作戦が成功したことを知らされた。しかし初風は、自分が照射したレーザーが本当にターゲットを捉えていたのかどうかも分からなかったし、大和級の砲弾が着弾した瞬間も見えなかった。

 

 そして、この作戦の最中、護衛にあたっていた仲間の内、二人の艦娘が轟沈していたことさえも、初風は気が付けなかった……

 

 

 

 

 あの初出撃以来、初風の目は、ずっと雪風を追い続けている。

 

 出撃のたびに誰かが死ぬような部隊に居る以上、生命力の強い者に注目が集まり、それを参考にしようとするのは当然の風潮かもしれない。

 

 しかし二水戦内では、雪風はあまり参考になるタイプではないとされていた。

 

 トップクラスの一人に数えられてはいるものの、別に特別な訓練を行っている訳ではない。実戦でも一人だけ違うことをしているわけでもない。他の艦娘たちと同じ戦術、同じ動きだ。だから一回の出撃あたりの戦果も飛びぬけている訳ではない。

 

 それなのに、雪風の生還率は他の誰よりも高かった。雪風は二水戦へ配属以来、全ての作戦に参加し、ほぼ無傷で生還していた。

 

 生還率が二番目に高いのは神通だが、彼女は旗艦就任前は出撃拒否が多かったため、雪風よりも低い結果になっていた。しかし彼女も、旗艦就任以降は全ての作戦に参加し、そして生還している。

 

 神通の生還率が高い理由については誰もが認めていた。

 

 まず一つ目、司令が乗り込む旗艦であるため、索敵能力や指揮通信能力の向上、そして司令が指揮する区画の装甲を厚くするなどの防御能力の向上といった、船体の各種性能が強化されていること。

 

 二つ目は、司令を守るために随伴艦の手厚い護衛を受けること。

 

 そして三つ目として、神通自身の練度が他の追随を許さないくらい高いことである。

 

 だが、雪風はそうではない。むしろ旗艦を守るために進んで矢面に立つことも頻繁にあった。

 

 なのに、生き残る。ほとんど無傷で生還する。しかし理由は誰にも分らない。何かコツがあるのかと問われても、本人ですら「さあ?」と首をかしげる始末だ。

 

 結局、雪風は運がいいのだ。という風潮に落ち着いた。だからといって、雪風の運にあやかろうなんて思う者は、二水戦には居なかった。居たとしても、そんな者は皆死んだ。

 

 仲間を信じて生き延びた者は居ても、仲間をあてにして生き延びた者は居ない。それが戦場の掟だった。

 

 初風も二水戦で過ごすことで、その掟を身体に刻みつけてきた。だから、それでも雪風のそばに居るのは、参考にしようというのでも運にあやかろうというものでもない。ただ純粋に、個人の感情によるものに過ぎなかった。

 

 でも傍に居るからこそ、初風には、雪風が生き延びてきた理由が、多少なりとも見えてきた気がしていた。

 

 

 

 

 

「ねえ、これなんかどう?」

 

 街にあるブティック。そこで初風から洋服を押し付けられ、雪風は困惑していた。

 

 色は白一色ながら細かい刺繍とフリルが全面に施されたゴシックロリータ調のドレスだった。

 

 おかしい、と雪風は疑念を抱いた。初風のおススメは確か「夏の御令嬢風味の白ワンピ」だったはずだ。路線変更したのか、と聞いたら、

 

「それはそれ、これはこれで可愛いでしょ」

 

 あっけらかんとそう返されて試着室に押し込まれた。

 

 ゴスロリドレスなんてものを着るのは初めてなので勝手がわからないものの、下手にまごついていると初風が試着室に乱入してきかねないので、どうにかこうにか袖を通してカーテンを開けた。

 

 目の前で、初風が携帯端末を構えていた。その搭載カメラが立て続けにシャッター音を鳴らす。

 

「ほらユキ、表情が固いわよ。笑顔でピースピース」

 

 言われるがままに表情を作ってポーズを決めて更に数枚、おまけに初風も横に並んで自撮りでツーショット撮影をしてから、初風はようやく落ち着いた様子で雪風を値踏みした。

 

「うーん、いまいち」

 

「ちょっと!?」

 

 あれだけノリノリで写真を撮っておいてその評価なのか。

 

「次はこれね!」

 

 そう言ってハイビスカス柄のワンピースを渡された。なんだこれ、フラダンスでも躍らせる気か。いや、可愛いけど。

 

 とりあえず何か言おうと思ったが、その時すでに初風は他の服を見繕うために離れてしまっていた。

 

「初風ぇ~」

 

「早く着替えてよ。時間がもったいないから」

 

 振り返りもせずにそう言われたので、雪風はもう色々と諦めて試着室に引っ込んだのだった。

 

 そうやって、あれもこれもと次々と試着した挙句、結局というかやっぱりというか、麦わら帽子に白ワンピの「夏の御令嬢風味」に落ち着いた。

 

「私の見立て通りね。ユキ、よく似合っているわよ。可愛い」

 

「ありがと。でも、こんなヒラヒラなスカートに慣れてないから足元が落ち着かないよ」

 

「いつも下着みたいなホットパンツ履いて生足を晒しているくせに?」

 

「人をまるで痴女みたいに言わないでよ! あれはパンツじゃないから恥ずかしくないもん!」

 

「はいはい」

 

 初風は笑みをこぼしながら、近くで控えていた店員へ顔を向けた。

 

「このまま着ていくわ。お会計をお願いできるかしら」

 

 店員は「かしこまりました」と答えると、鋏を手に、慣れた手つきで雪風が着ている服からタグを切り取ってレジへ向かった。

 

 初風もクレジットカードを手にレジへ向かおうとしたので、雪風は慌ててそれを止めた。

 

「待って待って、なんで初風が当然のように支払おうとしてんの!?」

 

「なんでって、私が服を買いたいって誘ったからでしょ?」

 

「でも私の服なんでしょ、これ」

 

「そうよ」

 

 何を当然のことを言っているのか、という顔の初風。雪風の服を自分の金で買うという行為に何の疑問も抱いていない彼女を前に、雪風は必死に首を横に振った。

 

「駄目だよ! 私の服なんだから、私が払うよ!」

 

「それじゃ私が無理やり買わせたみたいじゃない。そんなの私は嫌なの。だから私に払わせなさい」

 

 初風も強情だ。雪風のために、と初風が好き好んで費用を負担したがることは何度かあったが、これまでは大抵シャンプーやリンスといった日用品程度に留まっていたし、それさえも建前上は「二人の共同生活費」から支出していたはずだ(もっとも、それは初風が管理しており、彼女の性格からして雪風用に多くを割いているだろうとは想像がついていたが)。

 

 だけど今回の服は日用品とは値段が違う。こんな高価なものを奢ってもらうわけにはいかない。

 

 しかし、

 

「ユキ、これは私があなたに贈ってあげたいの。別にあなたに恩を着せようとか、そういうのじゃないのよ。ただ、あなたに受け取って欲しいだけ。それじゃ、駄目なの?」

 

「……駄目だよ、そんなの」

 

 雪風の言葉に、初風は傷ついたような表情を浮かべた。

 

「どうして……?」

 

「どうしてもだよ」

 

 雪風は頑なに首を横に振った。たとえ親しくとも、金銭的な借りを作りたくない。これは雪風にとって譲れないことの一つだった。しかし、その理由を初風に明かしたことは無かった。明かしたくは無かった。

 

 そのまま、二人の間に沈黙が降りた。初風の睨むような、でもどこか不安で揺れる眼差しが辛くて、雪風は目を逸らした。その視界の先で、レジに立つ店員が戸惑った様子でこちらを伺っているのが見えた。

 

 どうしよう、と雪風は悩んだ。いっそ理由を明かしてしまおうか。でもそれで初風が分かってくれるだろうか。

 

 そう思ったとき、店内の静寂を破るように、雪風の服のポケットから、携帯端末がメール着信を告げる音が鳴り響いた。

 

 二人はほとんど同時に自分の携帯端末を取り出し、画面を確認する。部隊からの緊急連絡かもしれないと思っての反射的な行動だった。

 

 メールは雪風にだけ届いていた。プライベートメールだ。しかし雪風は、そのメールの内容を目を見開いて凝視していた。その顔が、見る見るうちに険しくなっていく。

 

「ユキ?」

 

 初風から声を掛けられ、雪風は咄嗟にメール画面を閉じた。

 

「な、なんでもない!」

 

「え、でも……」

 

「ゴメン、ちょっと外で電話かけてくるからっ。……あっ、そうだ、これ!」

 

 雪風は自分の財布から高額紙幣を数枚取り出すと、それを初風の手に無理やり握らせた。

 

「これで代金を払っておいて!」

 

「そんな、ユキ!?」

 

「ゴメン、急ぎなの!」

 

 初風を残し、雪風は店を飛び出した。周りを見渡し、人通りの少ない路地を見つけてそこへ駆け込む。

 

 雪風は路地の隅で携帯端末を操作し、アドレス帳を呼び出した。画面をスクロールさせるその指が、細かく震えていた。

 

 雪風は探していた番号を見つけると、一度大きく深呼吸し、それから震える指でコールボタンを押した。

 

 その呼び出し画面には「母」と表示されていた。

 

 数回のコールの後、相手が通話に出た。

 

『あらぁ、あなたから掛けてくるなんて珍しいこともあるじゃない。どうしたの?』

 

「母さん……」

 

 明るく甲高い母の声にこめかみが引きつるのを感じながら、雪風は言った。

 

「さっき、私の携帯に督促状のメールが届いたよ。金融会社からの、借金返済のメール。……どういうこと?」

 

『あ…あぁ~、あれね。そうそう…』

 

 母の声が一瞬どもり、そして不自然な間を置いた後、こう続けた。

 

『あのね、すごくいい投資先を見つけたの。これから急成長間違いなしのビジネスでね。今の内に先行投資しておけば、いずれは十倍、二十倍、いいえ、百倍だって目じゃない利益が返ってくるって――』

 

「母さん」

 

『――これでお父さんが遺した借金も、迷惑かけた人たちへの慰謝料も全部払えるし、あなたにも苦労をかけることも無いわ。良かったわね、もうすぐ働かなくても良くなるのよ』

 

「じゃあ、この請求は何なの? どうして借金が増えてるの!?」

 

『それは、ほら、追加融資ってやつ? だって大きく育てるには先立つものだってそれなりに必要でしょう?』

 

「それなり? これが?」

 

 雪風は母の言葉を信じられない思いで聞いていた。メールで届いた督促状は利子分の請求だけだったが、それですらかなりの額だった。そこから予想した新たな借金の総額を思い浮かべて、雪風は吐き気が込み上げてきた。

 

「ねえ、いったいいくら借りたの…?」

 

 吐き気をこらえながら、絞るような声で問いかける。

 

『えっとぉ――』

 

 告げられた金額は思ったよりも少なかった。そのことに雪風は一瞬安堵しかけたが、すぐに、この場合金額に対して利率が異常に高いことに思い至った。

 

 まともな金融機関がつける利率じゃない。どう考えても闇金融だ。

 

「母さん…」雪風は唇を震わせながら問いかけた。「借りたのは、この一社だけだよね? ……他からはもう借りてないよね?」

 

 お願いだからそうであってくれ、と願いながら、母の言葉を待った。

 

『あぁ、うん、その……だ、大丈夫よ』

 

 その明らかな歯切れの悪さに、雪風は全てを察した。その瞬間、頭の中が沸騰したように熱くなり、雪風は絶叫した。

 

「借りたんだな! 他からもたくさん借りやがったな!」

 

『借りやがったって、そんな乱暴な言い方!』

 

「うるさい! いったい幾らだ!? 言え! 全部で幾ら借りた!?」

 

『ひっ……あ、あの……その…――」

 

 告げられた金額に、雪風の熱くなった頭から一気に血の気が引いて行った。

 

『あ、あのね、あなたからの仕送りじゃ利子も返しきれなかったから、それで他からも借りて……で、でもそれも返しきれなくなったから、請求をあなたに回してもらって……その……』

 

 尻すぼみに小さくなっていく母の声に引きずられるように足から力が抜け、雪風はその場に蹲った。

 

「母さん…なんで…っ! もう投資も借金もしないって約束したのに…どうして…っ!?」

 

『だ、だって、絶対うまくいくって、みんな言ってたから…』

 

「前もそれで失敗したじゃない! その前も! 何回も何回も同じ手に騙されて、どうして反省してくれないのっ!?」

 

『騙された訳じゃないわよ! たまたま運が悪かっただけなのよ!』

 

 弱かった母の声が、開き直ったのだろう、ここにきて急に強くなった。

 

『それにほら、あんた高給取りじゃない! これぐらいの借金なんて、あんたなら数か月程度で返せるじゃない!』

 

 母のその台詞は、雪風の逆鱗に触れるものだった。

 

「黙れっ!!」

 

『っ!?』

 

 携帯越しに、母が息を呑んだのが分かった。

 

「…母さん、よく聞いて」

 

 雪風は声の限りに叫びだしたい衝動を必死に抑えながら、言った。

 

「今日限りで、その投資をやめて。でないと借金は肩代わりしないし、仕送りさえもしないから」

 

『え…何言ってるの? そんなことしたら、私、どうやって生きて行けっていうの!?  あんた、お母さんがどうなってもいいっていうの!?』

 

「そうだよ」

 

『なんてこと…あんた、自分が何言ってるのか分かってるの? お母さんなのよ? あんたは私が産んだのよ!? それを見捨てるなんてありえないでしょ!?』

 

「うるさい! 言う通りにしないなら親子の情なんてこれっきりだ! 父さんみたいに消されようが、飢え死にしようが、知ったことか!!」

 

『そんな…いや…そんな怖いこと言わないで…ねえ、これはあなたのためを思ってしたことなのよ』

 

「はぐらかすな! やめるのか、やめないのか、早く選べ!」

 

『ひっ…いや……いやあぁぁあぁあぁぁ!!!!』

 

 耳をつんざくような金切り声が耳を刺し、雪風は思わず携帯を顔から離した。それでも母のヒステリックな悲鳴が携帯から辺りに響き渡っていた。

 

『あんたのぉ、あんたのためなのにぃぃぃ、おかあさんはねえっ、ずっと苦労してたのにぃぃぃ!!!』

 

「うるさい、止めろ、泣くなこの卑怯者!」

 

『うわあああぁぁあぁぁああぁ!!!!』

 

 ひときわ激しい喚き声の後、通話は唐突にぷっつりと切られた。

 

「逃げるな、畜生!?」

 

 すぐさまリダイヤルをかけたが、母は既に電話の電源を切ってしまっていた。その旨を告げる電子音声の無感情な言葉を耳にして、雪風は携帯を思わず地面に叩きつけそうになった。

 

 携帯を握った手を頭上に振り上げたところで、かろうじて残っていた理性がその行為を押しとどめた。いついかなる時でも部隊からの緊急連絡、緊急要請に応答できるように備え無ければならない。そんな軍人としての理性だった。

 

「畜生…畜生…」

 

 雪風は携帯を強く握りしめ蹲りながら、呻いた。

 

 母は泣き喚いた挙句に、雪風が突き付けた選択に最後まで答えなかった。母は追い詰められるといつもそうだ。あいつは癇癪を起して泣き喚けば全て解決すると思っている。

 

 家族が全部尻ぬぐいしてくれると思っている。

 

 父が生きていたころは、それは父の役目だった。クズの見本のような男だったが、妻への愛情だけは本物だった。父は母のためなら何でもやった。合法、非合法を問わず。

 

 母のために何でもやって、やりすぎて、やらかした挙句に殺された。膨大な負債と、母を雪風に押し付けて。

 

「畜生……っ!」

 

 ――それにほら、あんた高給取りじゃない。

 

 脳裏に母の言葉が蘇る。ああ、そうさ、今の私は高給取りさ。と雪風は内心で笑った。

 

 いくら酷い借金だって、今の私なら確かに返せる。なにしろこの命を懸けて、いくつもの死線を潜り抜けて、必死で稼いできたのだから。

 

 ――これぐらいの借金なんて、あんたなら数か月程度で返せるじゃない!

 

 数か月程度? 母にとってはそうだろう。でも私は、明日の命さえ知らないんだぞ!?

 

「ち…き…しょう…っ!!」

 

 二水戦は秘密部隊だ。家族であっても所属していることさえ明かせない。戦死しても、その理由さえ秘匿される。

 

 もし雪風が戦死したとしても、それは些細な事故による殉職――甲板上で足を滑らせて海に落ちたといった風に――として処理されるのだ。そして母は、ドジな死に方をした娘に呆れながら、遺族年金を受け取ってのうのうと生きていくのだ。

 

「…ち…く……」

 

 もう嫌だ。こんな人生なんて真っ平だ。だけど逃げ場所なんてどこにも無い。生きるも死ぬも八方塞がりの真っ暗闇だ。あがいても、もがいても、どうにもならない無間地獄だ。

 

 畜生、畜生、畜生…

 

 畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生―――

 

 ―――畜生ぉっ!!!!!!

 

「――ユキ」

 

「っ!?」

 

 名を呼ばれ、雪風はハッと顔を上げた。

 

 路地の入口から、初風が心配そうな顔をしてこちらを見ていた。

 

「初…風……もしかして、聞こえてた?」

 

「うん…」

 

「だよね~」

 

 血相変えて店から飛び出した挙句に、母子そろって喚き叫んでいれば、嫌でも事情は察してしまうだろう。

 

 雪風は自分に呆れて乾いた笑みを浮かべながら、その場に立ち上がった。

 

 初風は、そんな雪風を黙って眺めていた。

 

 本当は声をかけたいのに、何を言えばいいのか分からない、そんな様子だった。

 

 どこか遠くで、消防車だろう、サイレン音が聞こえてきた。それが近づくにつれサイレンも大きくなっていく。

 

 初風は意を決したように口を開いた。

 

「ユキ…色々と事情はあると思うけれど、私は…どんな時だって、あなたのそばに――」

 

「あ~、初風、待って、それ以上はやめて」

 

 雪風は乾いた笑みのまま、初風の言葉を遮った。

 

「私自身がさ、もうこの話題に触れたくないの。考えたくもないの。だからさ……やめて」

 

「ユキっ!」

 

 サイレン音が初風の叫びをかき消した。彼女の背後の大通りを、消防車が赤い影を残して横切って行った。

 

 遠ざかるサイレン音を耳にしながら、雪風は言った。

 

「それと、しばらく独りにして欲しいかな。わがまま言って悪いけれど、コンサートには初風だけで行ってよ。磯風たちも待ってるだろうし」

 

「嫌よ。今のあなたを放っておけないわ」

 

「独りにさせて。お願いだから、冷静になるための、時間を頂戴……」

 

 雪風は、細かく震える唇をかみしめながら必死で言葉を紡いだ。これ以上何かを喋れば、ぎりぎりでせき止めていた感情があふれ出して、目の前の初風を傷つけてしまいそうだった。

 

 初風はそんな雪風をしばらく見つめていたが、やがて顔を伏せ、背を向けた。

 

「ごめんね、ユキ」

 

 謝る理由なんてどこにもないのに、初風はそう言って立ち去って行った。見送ったその背中は、泣いていた……

 

 

 

 

 

 

 

 

 鎮守府敷地内にある、艦艇用の係留岸壁。

 

 間もなく入港しようとする第二十一駆逐隊を出迎えるため、日向と五十鈴は連れ立ってそこに立っていた。

 

「ねえ日向さん」

 

「うん?」

 

「二水戦の印象って、どうだった?」

 

「ふむん……」

 

 日向は腕組みをして海に目を向けたまま、わずかに思案した。その視線の先では、ちょうど霞の船体が防波堤を回り込んで港内へと進入してきたところだった。外海から吹き付ける風が強く、港内もやや波が高い。

 

 今日の入港は少し難しいぞ。と内心で思いながら、日向は答えた。

 

「そうだな。なかなか負けん気の強そうな目をした艦娘たちだった。磯風、浦風、浜風、谷風。この四人はまだ新人だな。目に陰りが無い」

 

「あ、やっぱり日向さんもそう思ったんだ。私もそんな気がしてたのよね。最強の精鋭部隊って噂の割には、ずいぶんと普通の雰囲気な子たちを連れてきたな、ってね」

 

「まあ訓練も出撃中の様子も見ていないからな。単なる初見の先入観さ。アテにしてくれるな」

 

「そうかしら、自信もっていいと思うわよ。だって私と同意見だったんだしね」

 

 ふふ、と五十鈴は笑いながらその立派な胸部を誇示するかのように胸を張った。その様子に日向も苦笑を漏らす。

 

「五十鈴、君は大した自信家だよ」

 

 そんな二人の目の前の海面を霞の船体が通り過ぎ、港内奥の別の岸壁へと向かっていく。

 

 狭い港内だが、霞は強風で流されて航路をはみ出すこともなく進んでいく。風による偏移量を考慮して、舵角や左右の推進力を微調整しているのだ。

 

 いい腕だ、と日向は評価する。

 

「他の二人は」と、五十鈴が聞いてきた。

 

「雪風と初風のことか?」

 

「そう。私は初風も新人の様に見えたのだけど、違うのかしら?」

 

「違うかどうかは知らないが、そうだな、あの二人は他の四人とは目が違っていた」

 

「陰っていたということ?」

 

「それも少し違うな」

 

「どういうこと?」

 

「その前に、私の方からも聞きたいのだが良いかね。神通秘書艦はどう思う?」

 

「そういえば日向さん、迎えのバスは別だったものね。そうねえ……うん、日向さん風に言えば、あの人も“目が違った”かな」

 

「ほう?」

 

「それこそ陰り、っていうのかな。心が擦り切れて、何の色も浮かべてないような。ほら、よくある兵隊の末期症状よ。戦闘を幾度も繰り返してきた引退間際の艦娘に多い、あんな感じ」

 

「そうか、なるほど」

 

 艦娘、というか実戦任務に就く兵士には特有の雰囲気がある。それは大まかに分けて四つに分けられた。

 

 一つ目は実戦をまだ知らない者だ。

 

 命のやり取りを知らない、死というものがまだ想像上の産物でしかない者。そんな兵士は、どれだけ訓練を積んだ者であろうと一目で区別できた。

 

 二つ目は実戦を経験して間もない者だ。

 

 特に死の恐怖を間近に感じた者たちは、それまでの死生観を一変させられてしまう。長い人生の遠い果てにあったはずの死が、本当はすぐそばに居て常に己の首に手をかけていることを思い知らされる。そんな彼ら彼女らの目は、まるで老人の様に年老いている。

 

 三つ目は、幾つもの実戦を経験した者たちだ。

 

 当初は老け込んでいた目も、死線を幾度も潜り抜けていくうちに、再び輝きを取り戻していく。戦い抜き、生き延びてきたという実績が自信となり、死を恐れぬ大胆さと不敵さがその目に宿っていく。

 

 磯風たち四人は、ちょうどその段階だと、日向と五十鈴は踏んだのだ。

 

 だが神通は、それを超えた四つ目の段階だと五十鈴は見ていた。

 

 度重なる実戦と、そのたびに襲い来る死の恐怖に心が擦り切れ、疲れ果てた者たちだ。だがこうなるものは今の艦娘たちではかなりまれだ。

 

 こういうのは勝ち戦のときはあまり現れない。たいてい負け戦のように著しく損害が大きい戦場に幾度も遭遇したような、そんな過酷な戦場を経験してきた者たちに多いのだ。

 

 だとすれば神通は、いったいどれほどの地獄を見てきたというのだろうか。そのことに思いを馳せながら、日向は言った。

 

「二水戦司令・郷海大佐も同じような目をしていたよ」

 

「そうなの?」

 

「ああ。だが私が見たところ、単に目が陰っているという訳でも無い。そうだな、強いて言うなら“死人(しびと)の目”をしていた」

 

「目が死んでるってこと?」

 

「そうじゃない。戦場に出る前から既に死地に踏み込んでいる者の目だった。生への執着も、死への恐怖もない。“武士道とは死ぬことと見つけたり”の本質を体現しているかのような男だ。流石は二水戦を束ねる将だけあって、思わず鳥肌が立ったよ」

 

「死人かぁ。日向さんが言うと凄そうに聞こえるけど、でもそれって人間としては破綻してないかしら?」

 

「まあ、そうなるな。否定はしない。海上武人たらんとする私たちはともかく、一般人にはとんと無縁な境地だ」

 

 海を眺めながら語らう二人の視線の先で、港内奥の岸壁近くに到着した霞が船体を停止させた。岸壁の転送装置が作動し、巨大な船体が光の粒子になって消えて行く。

 

 それを追うように、朝霜の船体が二人の前を通り過ぎて行った。

 

「雪風と初風は、“死人”とも少し違っていたな」と、日向は言った。「あの二人もどちらかと言えば“死人”寄りなのは間違いない。だが、まだ全てを捨てきっていない。何かに執着している者の目だ」

 

「そこまで行くと何がどう違うのか、私にはさっぱりだわ」

 

「ふふ、意外と近くに同じような目をした艦娘が居るぞ」

 

「誰よ」

 

 五十鈴の問いに、日向は黙って港の入口に目を向けた。

 

 そこには、防波堤を回って港内へと進入してきた、初霜の船体の姿があった。

 

 

 

 

 

 

 最後に入港した初霜の船体が光に消え、彼女自身が岸壁へ上ってきた時点をもって第二十一駆逐隊の帰投が完了した。

 

 霞が代表してその旨を報告し、それを受けて日向が頷いた。

 

「三人とも監視任務ご苦労だった。司令と先任秘書艦はまだ二水戦司令と会議中だ。報告は明日でいいと許可を得ているから、君たちも上陸するといい」

 

「私たちも会議に出なくていいのですか」

 

 と、霞が質問する。その発言に、傍らの朝潮が露骨に嫌そうな顔をした。

 

 五十鈴がその様子に気づき、くすくすと笑みを零しながら答えた。

 

「心配しなくてもいいわよ。今日は司令と秘書艦だけの打ち合わせだから。二水戦の他の子たちもとっくに上陸してるわ」

 

「なんだよ、びっくりしたぜ」朝霜は安堵のため息を吐いたが、すぐに「けどさ、アタイたちが青波かぶりながら必死こいて帰ってきたっていうのに、待ってもくれずに上陸したのかよ。これから一緒に戦おうっていうのに薄情じゃねえか」

 

 今度は口をとがらせ始めた朝霜に、初霜が「仕方がないわ」と肩をすくめてみせた。

 

「予定時刻より遅れた私たちが悪いのよ。むしろ残っていてくれたなら、逆に私たちの方が恐縮してしまうわ」

 

「ええ、私も同じ気持ちよ」霞も同意した。「ねえ朝霜。あんた、もし自分が逆の立場ならどうしてた?」

 

「もちろん、上陸一番」

 

 朝霜はニッと笑って断言した。その現金な態度に「でしょうね」と霞と初霜は苦笑した。

 

 そんな二十一駆に、五十鈴が「ねえ」と声をかける。

 

「あなた達も那珂のコンサートに行くんでしょう。二水戦の子たちも行くって連絡があったから、そこで会えるかもよ」

 

「それがいいな。司令部で堅苦しい挨拶するより、気楽に声かけあうほうがアタイは好きだね。…よっしゃ、そうと決まれば、霞、初霜、早いところ会場に行こうぜ」

 

「はぁ!? ちょっと朝霜、まだ早すぎるってば!」と、霞。

 

「私は構わないわよ」と、初霜。「コンサート会場には白雪さんと球磨さんが支援に出ているんでしょう。まだ準備が終わってないかもしれないし、私たちも手伝いに行きましょう」

 

 その言葉に、霞も成程と頷いた。

 

「そういうことなら確かに早く行くべきね。朝霜、あんたもそういう意図で言ってたの? だったら見直したわ。偶には良いこと言うじゃない」

 

「お? …お、おう。まあな」

 

 笑顔を見せた霞に対し、朝霜は露骨に目を泳がせた。

 

 それで霞も察した。

 

「あんた、手伝う気なんて全然なかったのね。ただ勢い任せで言っただけなのね」

 

「う、うるさいな。そういう霞こそ行く気さえ無かったんだから同じじゃねえか!」

 

「ぐっ!? そこを突かれると痛いわね…」

 

「で、二人とも」と、初霜が口を挟む。「結局、早めに行くの? それとも後から行くの? どっちでもいいけど、私は先に行くわね」

 

 そう言って、日向と五十鈴に「失礼します」と頭を下げて、霞と朝霜の返事も待たずにその場から歩き始めた。

 

「あ、こら、アタイも行くに決まってんだろ。おい初霜、待ちやがれ、二十一駆の一番槍はいつだってアタイなんだからな!」

 

「ああ、コラ! 朝霜も初霜も勝手に行くんじゃないったら! ――日向さん、五十鈴さん、私もこれで失礼します!」

 

 霞も忙しく挨拶を済ませると、二人を追って駆け出した。

 

「はぁ、はぁ……待ちなさいったら、もう~」

 

「遅えぜ、霞。このまま正門手前の自販機までダッシュだ。ドベがジュース奢りな」

 

「コラッ! 抜け駆けしておいて勝手に競争にするんじゃないわよっ! 初霜、あんたもしれっと全力疾走するな!」

 

「ごめんね霞、でもジュースといえど何かが懸かっている勝負には負けたくないの」

 

「その変なこだわりは何なのよぉ!?」

 

 三人は全力疾走、正門までは400メートル以上の距離がある。

 

 スタートダッシュで加速した朝霜が初霜を抜いて一時トップに立ったものの、スタミナ切れで減速。最後尾から徐々に加速してきた霞と、そして一定のペースを保っていた初霜が追いつき、三人は横並びで正門手前の自販機の前を駆け抜けた。

 

「よっしゃあ、ゴール! アタイが一番だよな、なぁ!」

 

「勝手に決めるんじゃないったら。私の方が一歩早かったわ!」

 

「異議あり、ですよ。どちらが一位かはともかく、少なくとも私がドベじゃないことは確実よ」

 

「初霜、あんた普段は大人しいくせに、こういうことには図々しいわね」

 

「誰にも譲れない一線はあるものよ、霞。けれど、これ以上私たちで揉めていても解決はしなさそうね。……そうだ、ここは第三者の判定を仰ぎましょう」

 

「第三者?」

 

「ほら、そこに」

 

 初霜が顔を向けた先には、自販機でちょうどジュースを買っていた村雨の姿があった。

 

 初霜たち二十一駆と目が合い、村雨は“両手に持っていた”ジュース缶を慌てて背中に隠した。

 

「は、初霜ちゃん!? ま、また競争してたんだ。いつも元気だねっ!」

 

「ええ、でもここに村雨が“偶然”居てくれて助かったわ」

 

 ニコリと笑った初霜を見て、村雨の額に冷や汗が浮いた。

 

「そういやぁ、妙だな」と朝霜が首をひねる。「村雨、お前どうしてここに居るんだよ。今日は用事があるから外出しなきゃいけないって言って、コンサートの手伝いも断ってたじゃないか」

 

「あ、えと、用事ね、うん、ちょっと時間が空いたから、一度帰ってきたの、うん」

 

「帰ってきたって、それでどうして寮じゃなくて鎮守府に帰ってきてんだよ。別に仕事ないだろ」

 

「ぎくっ!?」

 

「それにジュースを二本も買っちゃってねえ」

 

 霞が背中側に回り込もうとしたので、村雨は慌てて向きを変えようとしたが、朝霜と初霜にも回り込まれ、取り囲まれてしまった。

 

「どれどれ」と、朝霜。「右手にブラックコーヒー、左手にシークワッサージュースか。一人で飲むにゃあ、妙な取り合わせだなぁ、おい」

 

「村雨、、あなた確か、クリームと砂糖なしじゃコーヒー飲めないって、以前言っていたわね」

 

 初霜に屈託のない笑顔で迫られた村雨は、ついに観念して音を上げた。

 

「はいはーい、降参します。用事ってのはその……か、彼に逢いに来たの……」

 

 ぽっ、と頬を桃色に染めた村雨に、二十一駆は顔を見合わせニヤリと含みのある笑みを浮かべた。村雨を包囲したまま、互いに目配せし合う。

 

「いやぁ~、なんだなぁ、喉乾いたよなぁ~」

 

 と、わざとらしく喉元を手で仰ぐ朝霜。

 

 霞も額の汗をわざとらしく拭った。

 

「全力疾走以前に、監視も大変だったわよねえ。そんな疲れた身体には、さっぱりしたジュースなんか飲みたいわねぇ」

 

「そうね、親切な誰かがご馳走してくれたら、感激のあまり今見たことなんか全部忘れてしまうわね、きっと」

 

 初霜はそう言って村雨の肩にポンと手を置いた。

 

「ね、村雨」

 

「三人とも露骨すぎるよ!?」

 

「あんたの自業自得よ」と霞。「変にごまかして隠そうとするから後ろめたくなるのよ。“彼氏とデートです”って正直に言って、コンサートの手伝いを断ればよかったのに」

 

「う~、霞ちゃんの正論が耳に痛いよぉ。でも、なんていうか、やっぱりちょっと恥ずかしいし」

 

 とほほ、とため息を吐きながら村雨は、可愛い花柄模様の小銭入れを取り出した。

 

 と、そこへ他から声がかかった。

 

「おいおい、あんまり俺の彼女を困らせてくれるなよ?」

 

 快活な男性な声。初霜たちがそちらへ振り向くと、そこに海兵隊仕様の迷彩服に身を包んだ若い男の姿があった。

 

 鎮守府の警備も担当している海兵隊員の青水耕平二等軍曹、村雨の言っていた“彼”である。

 

「あ、耕平くん!」

 

 村雨が安堵と共に表情を綻ばせた。朝霜がそれを見て、わざとらしく舌打ちをした。

 

「ちぇ、救援部隊のご到着かい」

 

「ホワイトナイトと呼んでほしいね。お姫様、白馬の騎士が助けに来ましたよ。悪い小鬼たちを追い払って差し上げましょう」

 

 青水はキザったらしくそう言いながら、自分の携帯端末を自販機にかざした。電子マネーが入金され、購入ボタンに光が灯った。

 

「さあ飲み放題だ。俺の財力の前にひれ伏すがいい!」

 

「お、太っ腹だねえ。じゃ、遠慮なく」

 

 朝霜が真っ先に、一番値段が高く、量も多い炭酸飲料を選んだ。

 

「もういっちょ、倍プッシュだ!」

 

「調子に乗らないの!」

 

 更に別のボタンを押そうとした朝霜の手を払いのけて、霞が値段が高く、しかし量は少ないフルーツジュースを選ぶ。霞は量より質派である。

 

 最後に初霜が一番安いお茶を選んだ。

 

「「「いただきま~す」」」

 

「どうぞ、召し上がれ」

 

「耕平くん、ごめんね」

 

「なあに、密会の口止め料なら安いものさ」

 

 爽やかに笑う青水に、村雨もはにかむような笑みを返しながら、持っていたブラックコーヒーを手渡した。

 

 その傍らで朝霜がジュース缶に口を付けながら言った。

 

「おー、おー、甘酸っぺえなあ。付き合い始めて半月だっけか。どこまで進んでんだい?」

 

「ちょ、朝霜ちゃん!?」

 

「ん~、キスから先にはなかなか進ませてくれなくてなあ」

 

 ぬけぬけと言い放った青水に対し、その隣で村雨が真っ赤になりながら否定した。

 

「ま、まだだよ! き、キスとか、その……手をつないだりとか…ぐらいだよ……」

 

「なんだいそりゃ。小学生の恋愛かよ」

 

 呆れた朝霜にかわり、今度は霞が、青水に言った。

 

「あんたも奥手過ぎじゃない? まあそれだけ大事にしているってことなんでしょうけど」

 

「お褒め頂き光栄の至り。だけど、俺は別に嘘は言ってないよ?」

 

「って言ってるけど、村雨、どうなの?」

 

「う…その…一回だけキスした……告白されたときに……」

 

 そこまで言って、村雨は両手で顔を隠しながら青水の背中側に隠れてしまった。

 

 霞はため息を吐く。

 

「先は長そうね、これは」

 

「そういえば」と、初霜。「青水さん、正門の警備は宜しいんですか?」

 

 この自販機は正門から少し離れている。目が届く範囲程度の距離とはいえ、警備の者がいつまでも離れている訳にもいかないだろう。

 

 しかし青水は笑って答えた。

 

「大丈夫だよ。俺は今日は守衛任務でここに来てる訳じゃないからね」

 

「では、どうして鎮守府に?」

 

 海兵隊の基地は島の別の場所にあり、警備任務の当番者がそこから派遣されてくる態勢だった。

 

「装備開発局が新装備の試作品を持ち込んできていてね。その検証を兼ねた訓練をやることになったんだよ。市街地戦を想定した屋内用偵察ドローンさ」

 

 そのため、この鎮守府の敷地にある建物を使わせてもらっているのだという。

 

 ちなみに今は休憩中だそうで、間もなく再開するとのこと。

 

「良かったら君たちも見学するかい?」

 

 そう誘われて、二十一駆も見学させてもらうことにした。

 

 村雨ももちろん付いてくる。その理由は新装備への興味なんかではなく彼氏のそばに居たいだけ、というのが明白だったので、訓練場への短い道中、村雨は再び三人からからかわれる羽目になった。

 

 訓練場として使用していたのは、資材倉庫の一棟だった。

 

 広い倉庫内には、人の背丈ほどのコンテナや、使っていない冷蔵庫や洗濯機にエアコン等の家電製品、芝刈り機や箒といった清掃用具、その他雑多な物品がところどころに積み上げられている。

 

 そこに、青水と同じ海兵隊員が九名と、そして灰色のつなぎ姿の男が一人集まっていた。

 

 青水が艦娘たちの見学希望を伝えると、皆、快く受け入れてくれた。

 

「艦娘さんたちも興味を持って下さるなんて嬉しいですね。今日のは歩兵用の個人装備ですので艦艇用装備とは勝手が違いますが、是非、忌憚ないご意見を頂きたいものです」

 

 そう言ったのは灰色のつなぎの姿の男、装備開発局から新装備を持ち込んできた技官だった。

 

 彼は試作ドローンの準備を行いながら説明し始めた。

 

「今回の試作品はですね、陸海空すべての環境に適応した汎用偵察ドローンなんです!」

 

 そう言って彼はドローンを手に乗せて艦娘たちに見せた。

 

 ドローンの大きさは両手の平サイズほど。細長い流線形のボディの前後に、左右に大きく張り出したブームがあり、その先端にオープンホイールのスパイクタイヤがついていた。いわばフォーミュラーマシンのような四輪車の形状だ。

 

 その四つのタイヤの根元に、それぞれプロペラが上を向いて装着されている。また、ボディ最後尾にはスクリュープロペラも付いていた。

 

「御覧の通り、このタイヤで地上を走行、プロペラで飛行します。またボディとタイヤには新素材を使用することによって比重を軽くし、水に対して浮力を発生させることに成功。後方のスクリューで水上を高速航行することが可能です! もちろんカメラも高性能。高画質、高望遠機能はもちろんのこと、広角レンズで視界を確保しているほか、暗視装置もついているので暗闇でもばっちりです! まさにありとあらゆる戦場を制覇する最強の偵察ドローンと言えるでしょう!」

 

 鼻息荒く早口で説明する技官。

 

「おお、すっげーじゃん。面白そうじゃん」

 

「なんかこんなオモチャ見たことあるわね」

 

「とりあえず動いているところを見せてもらいましょう」

 

 朝霜、霞、初霜と三者三様の反応を見せる艦娘たち。ちなみに村雨は説明をそもそも聞く気も無いようで、青水の隣で買ってきたジュースを飲んでいた。

 

「では実際にお見せいたしましょう。海兵隊の皆さん、準備お願いします」

 

「へ~い」

 

 その場に居た十人の海兵隊の内、半分の五名が倉庫内に散らばり、思い思いの場所に身を潜めた。現役の隊員ばかりとあって、彼らはその影も気配も完璧に消していた。

 

 青水を含めた残る五名は艦娘たちと共に技官の周りに集まる。

 

「それでは、スタート!」

 

 いつの間にかバイザー付きヘルメットを被っていた技官は、両手で持ったコントローラーを操作してドローンを起動させた。

 

 途端にドローンの四つのプロペラがけたたましいモーター音を響かせながら回転し、その機体を空中に浮上させた。

 

「カメラで捉えた映像はバイザーの内側に投影されます! またこのタブレットにも同時送信しておりますので、他の皆さんはこちらからご覧ください!」

 

 モーター音が倉庫内に反響しているせいで技官の声は聞き取りづらかったが、傍にあるタブレットには皆気づいていたので、言われるまでもなく既にそちらを見ていた。

 

「操作は簡単、自動ホバリング機能がついているので、操縦者は前後左右と高度を選ぶだけ! さらにアクロバット飛行も全てプログラミング化してありますから、360°フリップも、高速ロールに急バンク旋回だってボタン一つで操作可能! 初心者でも戦闘機のような高度なドッグファイトを楽しめます!」

 

 技官の説明に合わせ、ドローンが倉庫内を縦横無尽に駆け回る。

 

「続いてランディングモード!」

 

 ドローンがスッと垂直着陸し、今度は床をギュルギュルと音を立てながら爆走を始めた。

 

「大口径ホイールとスパイクタイヤで、どんな障害物だって軽々と走破! 操作に慣れてくればドリフト走行だってこの通り――」

 

「――はい、もうそこまでで結構」

 

 青水はそう言って、技官の肩を叩いた。ドローンがドリフト走行しながら、その足元に停まった。

 

「なぜ止めるんですか!? これから本格的な偵察を開始するところだったのに!?」

 

「偵察以前の問題なんだよ。……おーい、みんな、もう出てきてもいいぞ」

 

 青水の指示で隠れていた隊員たちが姿を現した。その誰もが、自分の耳を手で押さえていた。

 

「どういうことか、これを見れば分かるだろう。このドローンは駆動音が大きすぎるんだよ。これじゃ偵察がバレバレだ」

 

「そ、それはここが倉庫内だから音が反響して」

 

「その屋内で使うための装備だろ、これ」

 

「うっ!?」

 

 あまりにも当然で、そして致命的な指摘に、技官は言葉に詰まってしまった。

 

 そんな技官を横目に、青水は艦娘たちに目を向けた。

 

「君たちからも意見ある?」

 

「そうねえ」霞が真っ先に口を開いた。「先ずコントローラーが両手持ちっていうのが頂けないわ。歩兵は小銃を持っているのよ。両手が塞がっていちゃ銃を扱えないでしょ。せめてテレビのリモコンみたいに片手で操作できるようにすべきだわ。そうなると操作も簡単にすべきね。アクロバット飛行とかそもそも必要無いでしょ。むしろ画面見てたら気持ち悪くなってきたわよ。それからサイズがまだまだ大きすぎるわ。ドローン自体は両手の平サイズだけど、コントローラーや予備バッテリーも含めて収納しようと思ったらアタッシュケースぐらいのサイズになっちゃうでしょ。それを歩兵の荷物に加える気? たださえ武器弾薬でいっぱいいっぱいなのに、負担が大きすぎるわ」

 

「ぐえっ!?」

 

 霞の歯に衣着せぬ批評に、技官は殴られたように仰け反り、その場に崩れ落ちた。

 

「まあまあ技官の兄ちゃん、アタイは面白いと思ったぜ。次はアタイにも遊ばせてくれよ」

 

「お。オモチャじゃないんですよう……」

 

「私もコンセプトは悪くないと思いましたよ――」

 

 初霜も慰めるようにそう言いながら、蹲った技官に寄り添った。

 

「――ただ、陸海空を一つの機体にまとめるより、それぞれの用途に特化したドローンを別々に開発したほうが、サイズや静粛性、コスト的にも良いものができると思いますよ」

 

「初霜ちゃん、的確なアドバスのように聞こえるけど、それコンセプトから全否定してるからね。一番えぐいこと言ってるからね」

 

「あら?」

 

 村雨の指摘に意外そうに声を上げた初霜の足元で、心を完膚なきまでに折られた技官が俯せになってに伸びていたのだった。

 

 

 

 

 

「いや~、面白いもんで遊べて楽しかったぜ」

 

 あれから数十分後、二十一駆の三人は鎮守府の外を並んで歩いていた。

 

 あの後、検証を兼ねた訓練はもはや意味を失い、ドローン操縦の習熟というでっち上げの名目のもと、希望者(主に朝霜)によるドローン操縦講習が行われたのだった。

 

 まあその実態は朝霜の感想からも分かる通り、ラジコンのオモチャで遊んでいるのとほぼ変わらなかったが。

 

 霞がため息を吐いた。

 

「オモチャじゃなくて、あれも一応軍の備品なんだからね。あんたが壊しゃしないか気が気でなかったわよ」

 

 初霜も言った。

 

「でも、あれだけのモノを作り上げた技術力は評価できると思うわ。失敗は成功の母よ。次はもっと良いものができるはずだわ」

 

 そんなことを言いながら歩いていた初霜の足が、不意に、止まった。

 

「どうしたの、初霜?」

 

 前を歩いていた霞と朝霜も、数歩先で立ち止まり振り返った。

 

 初霜は歩道で、何かに耳を澄ませるかのように首を傾げていた。

 

「ねえ二人とも……何か、聴こえない?」

 

「あ?」

 

 朝霜も首を傾げ、耳を澄ました。

 

「いや、全然」

 

「気のせいじゃないの?」

 

「いいえ」初霜は目を閉じ、手を耳のそばにかざした。「確かに聞こえるわ。これは……猫の鳴き声よ」

 

「なんだよ、猫か。野良か?」

 

 それを聞いて霞の表情が緩んだ。

 

「そういえばこの辺りに猫が居たわね。ご近所さんで面倒を見ていた仔猫が」

 

 霞は少し目元を緩めながら、辺りを見渡し始めた。普段はクールな言動が多い彼女だが、実は可愛いものに目が無い。

 

「出ておいで~、チョチョチョ」

 

 歩道脇の草むらに向かってしゃがみ込み、舌を鳴らす霞だったが、初霜の耳はそちらではなく、別の方向に傾けられていた。

 

「拙いわ…」

 

 初霜の目が見開かれた。その視線は、足元に向けられていた。

 

「地面の下だわ!」

 

 その言葉に、緩んでいた霞の表情が固まった。

 

「そんな、嘘でしょう!?」

 

「間違いないわ」

 

 初霜は歩道と車道の境目にある場所へ、躊躇なく身体を伏せて腹這いになった。

 

「ここよ、ここから聴こえてくるわ!」

 

 初霜が腹這いになって覗き込んだ場所、そこは道路に降った雨水を地下の排水溝に流すための側溝だった。格子状の蓋の下から、か細い猫の鳴き声が漏れ聞こえていた。

 

「排水溝に落ちて出られなくなったんだわ」

 

 初霜が溝の奥の様子を確認しようと目を凝らしたとき、それまで頭上から差し込んでいた太陽の日差しが急に弱まり、周囲に陰りを落とした。

 

 初霜が顔を上げて空を見上げると、先ほどまで晴れていた空一面に、黒い雨雲が拡がっていた。

 

「なんてこった」朝霜が呻いた。「こんなときに、よりにもよってスコールかよ!」

 

 湿気を多く含んだ冷たい風が、三人の周りをびょうと吹き抜ける。その風上である海の彼方で、遠雷の轟が、おどろおどろしく鳴り響いたのだった―――

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十四話・身命賭して猫一匹(5)

 やっと二十四話終了。
 今回更新分で区切りつけようとしたら、いつもの二倍近い文字数になってしまった……


 ついさっきまで明るく晴れ渡っていた空が、急に雨雲に覆われた。乾いていた風も湿り気を帯び、ひやりとした空気が吹き寄せてきて、雪風は肌を泡立たせた。

 

 雪風は火のついた煙草を咥えたまま、ノースリーブで露わになっていた二の腕を自分の手でこする。さらに風が吹いて、白いワンピースのスカートがめくれ上がりそうになった。

 

「うわっ!?」

 

 慌ててスカートのすそを手で押さえる。口元から煙草が零れ、スカートすれすれをかすめて地面に落ちた。

 

「あちゃあ」

 

 もったいない、という思いと、ワンピースに触れなくて良かったという思いが交錯する。

 

 拾い上げてみるとそんなに汚れてはいない。まだ吸えるかな、と一瞬思ったが、あまりに意地汚なすぎるので止めた。素直に携帯灰皿に吸殻を押し込み、新たな煙草を取り出して咥えた。

 

 ライターで火をつけて、レモンの香りがする煙を胸いっぱいに吸い込む。周囲には誰も居ない。

 

 あてがわれた艦娘寮へ帰る途中の、人気のない海沿いの道路の片隅。雪風はそこで立ち止まり、白波が目立つ海を眺めながらぼんやりと煙草を吸い続けていた。

 

 こんな姿を初風に見られでもしたら、何を言われるだろうか。せっかくの清楚なお嬢様然とした恰好なのに、やさぐれた目をして煙草を咥えているなんて、まるで似合わない。

 

(やっぱり、似合わないよ)

 

 紫煙を吐きながら雪風は思った。初風には申し訳ないけれど、こういうのは自分には似合わないのだ。

 

 女の子らしい、いや、人間らしい生き方なんて、自分には贅沢過ぎる。

 

(ごめんね、初風)

 

 彼女は雪風に、明るい世界をたくさん見せようとしてくれた。穏やかな時間を与えようとしてくれた。そしていつまでも未来は続くのだと信じ込ませようとしてくれた。

 

 そのことには感謝してもしきれないけれど、それでも、やっぱり自分には無理だった。と雪風は思った。

 

 どれだけ明日を夢見ようとも、自分を取り巻く闇がそれを許さない。私の人生は真っ暗だ、と雪風は黒雲に覆われた空を見上げた。

 

 なんとタイミングのいい天気だろう。まるで今の自分の気分を空が汲み取ってくれたみたいじゃないか。

 

 そんな風に思って少し悲劇のヒロイン気取りで自己陶酔してみたが、すぐに見上げていた雲から雫が落ちてきて、鼻先を濡らした。

 

 雨だ。

 

 大粒の雫がぼたぼたと降り注ぎ、雪風はあっという間にびしょ濡れになってしまった。咥えていた煙草も湿気ってしまい、火の消えた先端から短い灰が地面に落ちた。

 

「うぇ~」

 

 ヒロイン気取りどころか、これじゃみじめな捨て猫だ。

 

 いや、そんな可愛らしいものでもないか。せいぜい濡れネズミがお似合いだ。雨の中、煙草を携帯灰皿に押し付けながら雪風は自虐的にそう思った。

 

 もう煙草を吸える天候じゃない。大人しく寮に戻って熱いシャワーでも浴びよう。そう思って、雨煙に沈む海沿いの通りをとぼとぼと歩き出す。

 

 帽子もかぶっていないので雨粒は容赦なく雪風の髪を濡らし、前髪から垂れ落ちた雫が目元を濡らす。

 

 髪を濡らし、頬を濡らしながら、雪風はうつむき気味になって歩いていた。

 

 そう、私は地面を這う濡れネズミだ。

 

「ちゅー」

 

 なんとなく自棄になってネズミの鳴き真似をしてみた。雨の中で馬鹿なことをやっていると自覚するが、それが却って可笑しくなって、雪風は笑った。

 

 自嘲自虐の笑みだが、それでも笑みだ。口の端が自然と上向いたことで、わずかながらではあるが前を向く気力も生まれた。

 

 そうだ、笑えばいいのだ。と雪風は自分に言い聞かせた。こんなくだらない人生、笑い飛ばす以外にどうしろというのだ。

 

「ちゅー、ちゅー、ちゅー!」

 

 歌うようにふざけて鳴きながら、雪風は雨の中をのんびりと歩いた。

 

 私はネズミだ。底辺を這いまわりながら浅ましく金を食む、薄汚いドブネズミだ。

 

「ちゅちゅちゅの、ちゅー!」

 

 やけっぱちに火がついて、雪風の鳴き真似の声が大きくなる。道路脇から望む荒れ気味の海に向かって、雪風は大声で叫んだ。

 

 

「ちゅーーー!!!!!!」

 

「―――にゃあーん」

 

「ふぇっ!?」

 

 まるで呼応するかのように聞こえた猫の鳴き声に、雪風は肩を震わせた。けれど別に天敵の出現に驚いた訳じゃなかった。

 

 その鳴き声は猫ではなく、人間によるものだった。

 

「にゃあーん、にゃあーん!」

 

 雨の中、一人の少女が歩道脇に屈みこんで――いや、それはもう這い蹲っていると言っていい。歩道と車道の間にある雨水の溜まった排水溝に這い蹲り、その脇にある地下への排水口の横穴に向かって猫の鳴き真似をしていた。

 

(な、何やってんの、この人…?)

 

 頭のおかしい人を目撃してしまった。と、今の今まで自分もネズミの鳴き真似をしていたことを棚に上げて雪風は後ずさった。

 

 関わり合いにならないほうがいい。道を変えよう。そう思って踵を変えようとした矢先、その少女が雪風の気配に気づいてしまったのだろう、ハッと顔を上げてこちらを向いた。

 

(うわ、目が合っちゃった)

 

 雪風はすぐにその場から立ち去ろうと思った。

 

 思ったのだが、何故か、足が動かなかった。

 

 目を背けることもできなかった。雨に濡れる少女の瞳から、目が離せなかった。

 

(奇麗な子……)

 

 一瞬、見惚れていた。

 

 どう考えても変人としか思えない振る舞いをしているにも関わらず、その少女の瞳にはひたむきな一途さが宿っていた。

 

 目と目が合い、雪風が立ち尽くしてたのは、ほんの数秒のことだった。恐らく気まずさからだろう、その少女は言葉を探すように何かを言いかけたが、それよりも先に何かに気づいたような表情をして、少女は再び這い蹲って排水口に顔を寄せた。

 

「鳴いてる! 良かった、まだ流されてないのね!」

 

 少女は表情を明るくすると、すぐにまた排水口に向かって鳴き始めた。

 

「にゃあーん、大丈夫よ、ここに居るからね。にゃあーん!」

 

 人目などまったく気に掛ける素振りも見せずに排水口へ鳴き続け、語りかける少女。それで雪風は察した。

 

 この少女が狂っているのでなければ、きっと、この排水口の奥に何かが――おそらく猫が――落ちてしまい、それに向かって呼びかけているのだ。

 

「あ、あのぉ…」

 

 思わず声をかけてしまってから、雪風は後悔した。私は何をやっているんだ。通りかかったトラブルにまた首を突っ込むつもりか。そうやって余計な苦労をまた背負いこむつもりか。

 

 そう頭では分かっていても、トラブルとの不意の遭遇に慣れてしまった雪風の身体は自然と少女のそばに寄ってしまっていた。

 

「もしかして、猫が落ちているんですか?」

 

 雪風の言葉に、少女が再び顔を上げた。

 

(やっぱり、奇麗な子だな…)

 

 思わず、そんな場違いな感想を抱いてしまった。

 

 雨に濡れた長い黒髪と、細面で整った顔立ち、そして強い意志を宿しているようなその瞳。

 

「はい」と少女は頷いた。「この奥の深いところから、猫の鳴き声がずっと聞こえているんです」

 

 少女は、にゃあにゃあ鳴いていた先ほどとは打って変わって、勤めて冷静に、簡潔にそう説明してくれた後、ふっとその顔に笑みを浮かべた。

 

「でも、私の仲間たちが救助用の道具を取りに行ってますので、何とかなりますよ。変なところをお見せしてしまってすみませんでした。どうかお気になさらずに」

 

 そう言って、雪風に先へ進むように促した。

 

「そ、そうですか。…じゃあ」

 

 少女の笑みが、雪風を安心させるために無理やり繕ったものだというのは分かっていた。しかし少女以外にも手助けしてくれる仲間が居ると言うし、それに自分がここに居ても何ができる訳でもない。

 

 なら、少女に促されるままに素通りして何が悪い。雪風はそう判断して、少女の傍を通り過ぎようとした。

 

 ――にゃあぁ……

 

 雪風は足を止めた。

 

 聞こえた。聞こえてしまった。雨水の流れ込む排水口の奥から、恐怖に怯えるか細い鳴き声が聞こえてしまった。

 

 雪風のそばで、少女が猫を元気づけようと、また猫の鳴き声を返した。

 

(放っておける訳、無いでしょ…)

 

 雪風は深くため息を吐いた。引かなくてもいい貧乏くじだが、今回も結局、自らの意思で引くことを決めた。

 

 雪風は少女と向かい合うような形で排水溝に足を踏み入れ、屈みこんだ。

 

「え?」

 

 戸惑う少女の前で、雪風も排水口の横穴に向かって「にゃあん」と鳴いた。

 

「どうして?」

 

「一人よりも二人で呼びかけた方が、猫ちゃんも元気出るかな、と思いまして」

 

 雪風はそう言って、少女を安心させるようにニコリと微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 可愛い子だな、とその少女を目にしたとき、初霜はそう思った。

 

 ショートカットの栗色の髪と、幼さを残したその顔立ち。白いワンピースを纏った彼女はまだ子供っぽさが抜け切れていなかったが――多分、外見年齢で言えば初霜とほぼ変わらないだろう――雨に濡れたワンピースが身体に張り付いてしまったせいで、微かに透ける肌の色と、露わになったボディラインが色香を醸していた。

 

 なにより、その憂いをはらんだ瞳が、彼女に年不相応な大人びた雰囲気を纏わせており、そのギャップが少女に不思議な魅力を与えていた。

 

 数秒の間、初霜は少女から目が離せなかった。可愛いが、しかしどこか憂いがある。きっとこんな状況でなければ、この少女の力になってあげたいと思っただろうに。

 

 けれど、今は猫を助けないと。

 

 初霜は排水口の奥へ注意を戻した。霞と朝霜がいったん寮へ戻って救出用の道具を――と言っても大した物がある訳でもないが――持ってくるまで、この猫の所在を把握し続けておく必要があった。

 

 初霜は排水口の横穴に向かって鳴きながら、その反響音と流れ込む雨水の様子、そして周囲の地形から排水口の奥の様子を推察した。

 

 猫のいる地下は、歩道の真下だ。歩道にはマンホールが設置されており、雨水を流すための排水路が地下に並行して伸びているのは確かだった。

 

 初霜が呼びかけている排水口の近くにはマンホールが二つあり、それぞれは約10メートルほどの距離があった。初霜が呼びかけている排水口はそのちょうど中間に位置していた。猫も恐らくそこに居るのだろう。

 

 排水口の横穴は斜め下方に伸びている。その角度が急すぎるのと雨水が流れていることで猫が自力で這い上がるのは不可能だ。

 

 横穴の角度とマンホールの位置から考えて、猫の居る場所までざっと3メートル程度だろうと初霜は見積もっていた。この排水口の横穴から籠か何かをロープで結わえ付けて送り込み、そこに猫が入ってくれれば引き上げることができるかもしれない。

 

 しかし猫が地下の排水路を移動してしまったら、もしくは雨水の勢いが増してしまって流されでもしたら、もう助けられなくなってしまうだろう。

 

 だから猫をこの場に留めようと鳴き真似を続ける初霜の前に、少女が近寄ってきた。

 

「あ、あのぉ…もしかして、猫が落ちているんですか?」

 

 心配そうな表情で問いかけてくる少女。

 

 優しい子なのね、と初霜は思う。この雨の中、憂いた目をしていた子だ。きっと何か事情があるだろうに、こちらのことを気にかけてくれた。

 

 気を遣わせてしまったことを申し訳なく思い、初霜は事情を簡潔に説明すると心配をかけないように笑顔を浮かべて、少女に通り過ぎるよう促した。それで少女も迷いを見せつつも、一旦はその場から立ち去ろうとした。

 

 けれど――少女は排水溝に足を踏み入れ、初霜と目を合わせるように屈みこんだ。

 

「一人よりも二人で呼びかけた方が、猫ちゃんも元気出るかな、と思いまして」

 

 少女はそう言って微笑むと、初霜がしていたのと同じように、排水口の横穴に向かって「にゃあん」と鳴いて見せた。

 

 それに答えるかのように、暗闇の底から猫が鳴いた。

 

「私の声に返事してくれた?」

 

「あなたの思いが通じたのかも知れないわ。…ありがとうございます」

 

 二人は顔を見合わせ、少しだけ笑いあった。別に事態は何も好転してはいないけれど、初霜の心は、少しだけ軽くなっていた。

 

 だけど初霜は、目の前の少女を間近に見て、あることに気が付いてしまった。初霜は慌てて自分の上着のボタンを外し始める。

 

 その様子に、少女が目を丸くした。

 

「え、急に何してるんですか!?」

 

「これを羽織ってください!」

 

 訳も分からず戸惑う少女から目を逸らしながら、初霜は上着を押し付けた。

 

「その……透けてます」

 

「へ? …あっ!?」

 

 濡れて透けたワンピースの薄い生地の下、素肌とともに下着まで見えてしまっていた。少女は慌てて上着を受け取って羽織り、その胸元を閉じた。

 

「ありがとうございます。でも、あなたは大丈夫なんですか?」

 

「私は平気ですよ」

 

 初霜は上着の下に開襟シャツを着ていた。これも夏用の薄い生地だったが、白ワンピースほどは透けないはずだ。それにもし透けても下着はスポーツブラだし、そもそもそんなメリハリのあるスタイルをしていない。

 

 気にしないで、と笑いかけると、少女は顔を赤くしたままコクリと頷いた。

 

 雨は止むことなく降り続ける。まだ土砂降りという程の強さではないが、排水口へ流れ込む水量がこれ以上強くなれば、地下の猫がどうなってしまうか分からない。

 

 初霜は自分の腕時計に目を向けた。もうすぐ霞と朝霜が戻ってくるだろう。でも、彼女たちが持ってきた道具で上手くいかなかった場合、他に救出する手立てはあるのだろうか。

 

 初霜が次善の策に思いを巡らせたとき、少女が口を開いた。

 

「そうだ、消防署に救助を頼んでみたらどうでしょうか?」

 

 その提案に対し、初霜は首を横に振った。

 

「もう連絡したのよ。でも無理だと断られたわ」

 

「どうして?」

 

「今、街で火事が起きてしまっているらしいの。この雨でもなかなか消えない大火事らしいわ。隊員がみんな出動してしまっていて、猫に構っている余裕は無いそうよ」

 

「そういえば街を消防車が走り回ってましたね…」

 

 がっくりとうなだれた少女に、初霜はこれから取ろうとしている救助策を説明した。

 

「なるほど。…ちょっと難しそうですけど、他に方法は無さそうですね」

 

「失敗したら、次はマンホールを開けて地下の様子を確認するしかないわね」

 

「それ勝手に開けていいんですか?」

 

「後から叱られるかもね」

 

 初霜は悪戯をしようとする子供のような気分で笑った。確信犯的な態度だとは自覚している。司令辺りがこれを知ったら、また頭を抱えてしまうかもしれない。そのことを申し訳ないとは思いつつも、自分の行動を躊躇うつもりは無かった。

 

 遠くから水たまりを跳ねさせながら足音が近づいてきた。

 

 霞と朝霜だ。二人とも手に中身の詰まった大きめのビニール袋を提げて、こちらへと駆け寄ってくる。

 

「待たせたな、はつし――って、なんか増えてんな?」

 

「あ、どうも」

 

 少女は屈んだまま朝霜へ会釈した。

 

 初霜が言った。

 

「通りすがりの方よ。猫を気にかけて付き合ってくれたの」

 

「おぉ、そいつはサンキューな!」

 

「雨の中、悪いわね。これ使って」

 

 霞は持ってきた三本の傘の内、一本を少女に渡した。

 

「ありがとうございます。お借りします」

 

 少女は傘を受け取ると、初霜の傍によって、二人の身体が入るように傘を差した。

 

 初霜は少女に礼を言い、そして霞と朝霜に向き直る。

 

「二人とも、道具はあった?」

 

「任せな。バッチリ揃えてきたぜ。懐中電灯に、籠とロープ、そして猫を誘き寄せるための餌もな」

 

 朝霜が説明しながらビニール袋から次々と物を取り出した。用意した籠は複数あった。竹で編まれた丸い籠や、キッチン用品を収納するためのステンレス製の長方形の籠、小物入れ用のプラスチック製の籠等々。どれも排水口に入る程度の大きさだ。

 

「これにうまく入ってくれりゃいいけどな」

 

 朝霜は呟きながら、先ず竹製の丸籠にロープの先端を結わえ付け、その中に持ってきたビーフジャーキーを入れた。

 

「って、ちょっと待ちなさいよ!」と霞が声を上げた。「それ犬用のビーフジャーキーでしょ。猫用の餌とは違うじゃないのよ!」

 

「うるせえなぁ、アタイの部屋にはこれしかなかったんだから仕方ねーだろ。犬も猫も肉食なんだからどっちでも一緒だ」

 

「犬用と猫用じゃ全然違うのよ。っていうか、あんたなんでそんなものが部屋にあるのよ?」

 

「つまみ用のビーフジャーキーと間違えて買っちまったのが残ってたんだよ。これ味が薄くてあんまり美味しくないんだよな」

 

「食ったんかい」

 

「やっぱ不安になってきたな。こんな不味いもんは猫も食わねえかもな」

 

「ペット用食品は基本薄味だから大丈夫よ。でも犬用より猫用の方が良いに決まってるわ」

 

 霞はそう言いながら、自分が持ってきたビニール袋からスティック状の袋に入った餌を取り出した。その袋の表面には「ねこまっしぐら」と銘打たれている。

 

 ちゅうるちゅうる、というフレーズのCMソングでお馴染み、猫の食いつきが良すぎて飼い主が不安に駆られると評判のペースト状のキャットフードだ。

 

「お前もなんでそんなもん都合よく持ってんだよ?」

 

「えと、たまたま偶然、部屋にあったのよ」

 

「酒に合うのか?」

 

「つまみとして買ったんじゃ無いったら! …散歩中に猫ちゃんと会えたときに、これをあげたら懐いてくれるんじゃないかなぁ、って思って」

 

「野良猫をちゅうるジャンキーにするのは感心しないわ」

 

 と、初霜が真面目な顔して苦言を呈すると、霞はちょっと目を逸らした。

 

「ま、まあ私もちょっと拙いかもと思ってたのよ。だから買ったはいいけど使わずに仕舞っておいてたの。でも、まさかこんな形で使うことになるとはね」

 

 霞がペーストフードを籠の底に絞り出した。

 

「よーし、上手いこと籠に入ってくれよ」

 

 朝霜が籠を排水口の横穴に押し込んだ。流れ込む雨水に押されて、籠は奥へ、奥へと滑り落ちていく。

 

「あの」と少女が訊いた。「猫が籠に入ったことは、どうやって確認するんですか?」

 

「まあ、勘だな」

 

 朝霜が、籠に結わえ付けたロープを送りながら答えた。

 

「今更だけど、籠に鈴でも付けときゃ良かったかな?」

 

「これで上手くいかなかったら、今度は私が鈴を買ってくるわ」と初霜。

 

 霞が首を横に振った。

 

「近くのコンビニじゃ売ってないわよ。少し遠いけれど、街の雑貨屋あたりまで買いに行くしかないわね」

 

「お、籠が底に着いたみたいだ」

 

 朝霜がロープを送る手を止めた。送り込んだロープの長さから、ざっと2.5メートル程の距離だった。

 

「けっこう深いな」

 

 朝霜はロープを少し手繰り寄せ、たるみを取った。そのまま手元に間隔を集中する。

 

「お?」

 

 反応があったのか、朝霜はすぐに声を上げた。

 

「入ったの?」

 

 と尋ねた霞に、朝霜は首を横に振った。

 

「まだわかんねえ。でも、籠がガサゴソと動いてるのは手応えでわかる。多分、籠に頭を突っ込んで餌を舐めてるんだ」

 

「全身が入らないと意味が無いわ」と、初霜。

 

 霞がしまった、と呟いた。

 

「籠の中心に餌を入れたのは拙かったわね。もっと端に置くべきだったわ」

 

「籠の揺れが止まったぜ」と朝霜。「全身が入ったかもしれねえ。引き上げるぜ」

 

 朝霜がそろそろとロープを手繰り寄せ始める。その様子を、少女も含め全員で固唾を飲んで見守った。

 

 朝霜が言った。

 

「ロープが重い。猫は間違いなく入ってるみたいだ――あっ、畜生!」

 

 排水口の横穴の奥で、何かが水に落ちた音が響いた。朝霜が急いで籠を引き上げたが、中身は空だった。

 

「籠が動いたことに驚いて猫が逃げちまったんだ。餌はしっかり食ってるから惜しいところまではいったんだけどなぁ」

 

「別の籠を試してみるのは?」

 

 そう言ったのは霞だった。だが彼女は、すぐに自分の考えを自分で否定した。

 

「いえ、やっぱり駄目ね。猫が自分から飛び出しちゃうんじゃ、同じことの繰り返しだわ。下手したら怯えて別の場所に行っちゃうかもしれない」

 

「餌だけ入れましょう」と、初霜。「猫をここに留めるために、もう一度、籠に餌を入れて送り込むの。引き上げようとしなければ籠に留まり続けてくれるかも知れないわ」

 

「猫が籠に留まってくれるなら、流されずに済むかもしれませんね!」

 

 少女も初霜の案に同意した。それを受けて霞も頷く。

 

「そうね、それで時間を稼ぐのが良いかもね」

 

「で、次はどうする?」と朝霜。

 

 初霜は言った。

 

「マンホールを開けて潜り込むしかないわ。救出できるかどうかは未知数だけど、少なくとも地下の状況は判るはずよ」

 

「よっしゃ、じゃあアタイに任せな」

 

 朝霜は新たな餌を入れた籠を再び排水口の横穴に送り込むと、そのロープを少女に預けた。

 

「こいつを頼んだぜ。猫の命綱だ。手応えは結構わかりやすいから、猫が入ったらすぐ気づくはずだ」

 

「は、はい」

 

 受け取ったロープからは、すぐに反応があった。籠が揺れ、中に重量のあるものが納まった感覚が伝わってきた。

 

「猫が入ったみたいです!」

 

「そのまま驚かさないように保持していてください。よろしくお願いしますね」

 

「はい」

 

 初霜の言葉に頷く少女。初霜は彼女が差していた傘の下から出て、朝霜と共にビニール袋から新たな道具を取り出した。

 

 それは大きめのラジオペンチだった。初霜と朝霜はそれぞれラジオペンチを手に、排水口からみて上流側にある歩道のマンホールへ駆け寄った。

 

 マンホールの蓋には小さな取っ掛かりが左右に二つある。二人はその取っ掛かりをそれぞれペンチで挟み、「せーの」とタイミングを合わせて持ち上げようとした。

 

 しかし、

 

「駄目だ、ビクともしねえ!」

 

「やっぱりペンチじゃ無理があったのかしら?」

 

「いや、こっちに来る前に寮の前のマンホールで試したけど、そっちはすんなり開いたんだぜ。形状はほとんど変わんねえから、こっちでもいけると思ったんだけどなあ」

 

 初霜と朝霜の遣り取りを眺めていた少女が、「もしかして」と声を上げた。

 

「蓋が錆びて固着しているんじゃないですか? 私、業者の人がハンマーでガンガン叩いてから開けたのを見ました!」

 

「ハンマーか。よっしゃ、分かったぜ。すぐに取りに行って――」

 

「待って」と、初霜が止めた。「それでも上手く開けられるか分からないわ。そうしたら時間を無駄にするだけよ」

 

「それこそ、やってみなきゃ分かんねーだろ。それとも諦めんのか? お前らしくねえぜ」

 

「もちろん諦めないわ。でも業者の真似事をするくらいなら、本人に頼んだほうが早いと思うの」

 

「つまり業者を呼ぶってこと?」と、霞。

 

「心当たりがあるわ。確かここの近くに配管工事の会社があったはずよ」

 

「あんた何で知ってるのよ?」

 

「前、ウチの復旧工事をしてくれた業者さんの一つよ。業者さんはみんな看板に名前と住所や連絡先を出していたから」

 

 初霜は答えながら自分の携帯端末を取り出し、ネットに繋いで検索を始めた。

 

「あったわ、水斗工業!」

 

 目当ての会社を見つけ出し、初霜はさっそく電話をかけたのだった。

 

 

 

 

 

 

 配管工事を主に請け負う水斗工業。その社長一家の自宅兼会社事務所の一画で、水斗 慧爾は一人、今日の業務報告書を書いていた。

 

 社長である父を含めた他の従業員は別の現場で作業中であり、今、事務所に居るのは慧爾を除けば副社長兼経理担当の母だけだった。

 

 その母は特に仕事も無いのか、息子以外に従業員が居ないのを良いことに、自分の席で堂々とタブレット端末でネット動画を鑑賞していた。

 

 慧爾は業務報告書を書き上げると、それを手に自分のデスクを立った。

 

「母さん、これ父さんが帰ったら確認もらっといて」

 

「あら? お父さん達、定時までには帰ってくるって言ってたわよ? それまで待たないつもり?」

 

「今日は時間休をもらって早引けするって言ったでしょ。夕方からライブがあるんだよ」

 

「ああ、那珂ちゃんの」

 

 思い出したかのように納得した母に報告書を渡す際、タブレット端末に映っていた動画が目に入った。

 

 猫の動画だった。猫じゃらしを追って半狂乱になったように駆けずり回っている。

 

「あんたも一緒に観る?」と、母。

 

「別に興味ないし」

 

「なんでよ~、こんなに可愛いのに」

 

「猫を飼いたかったら好きにすればいいじゃないか。別に父さんも反対していないんだしさ」

 

「でも賛成もしてくれないのよ。あんたと同じ、好きにすればって態度。つまり面倒も見てくれないってことでしょ」

 

「だって興味ないし。ペット飼うときは、予防接種を受けさせたりとか色々あるんでしょ。餌やりやトイレの世話とかも面倒そうだしさ。そういうの母さんが全部やるっていうなら、お好きにどうぞ」

 

「薄情者」

 

「はいはい、お先~」

 

 母の文句を軽くいなしながら事務所を後にする。建物は三階建てであり、一階が事務所、二階にリビングやキッチン浴室があり、三階に慧爾の自室があった。

 

 慧爾が自室で出かける準備を整えていると、階下から階段を駆け上がってくる足音が聞こえてきた。

 

「ちょっと慧爾、大変よ、大変!」

 

 ノックもせずに母が部屋のドアを開け放つなり言った。

 

「猫よ、猫!」

 

「何の話だよ?」

 

「あんた、ちょっと今から助けに行きなさいよ」

 

「だから何の話なんだよ!?」

 

 母は一度大きく深呼吸すると、「今ね、電話があったのよ」と話し出した。

 

「猫がね、排水口に落ちているらしいのよ。この雨で流されそうだから助けて欲しいってね」

 

「そりゃ可哀想に。でも人手が居ない。他をあたってくれ」

 

「あんたが居るじゃない」

 

「今から仕事に行ったんじゃライブに間に合わないでしょうが。というか仕事なの、コレ? 残業手当とかつかないでしょ」

 

「まー、我が息子ながら薄情者だこと。あんた、猫の命とライブと、どっちが大事なのよ」

 

「ライブに決まってるでしょ。というか何でウチに電話を掛けてくるのさ。消防署にでも頼めばいいじゃないか」

 

「その女の子が言うには、火事で出払ってるんだって」

 

 女の子、という単語に慧爾は一瞬反応しそうになった。猫を助けたら感謝されるかもしれないという下心が頭をもたげかけたが、いやいや待て待て、と自分を制する。どうせ恋愛対象範囲外の小さな子とかいう落ちに決まっている。

 

「その子ね、二~三か月前だったかしら、あんたが工事しているところよく見かけていたから、ウチの名前を覚えていたんですって」

 

「ふ~ん……ん?」

 

 二~三か月前の現場と言えば、そう、鎮守府の復旧工事に関わっていた頃だ。そのことを思い出したとき、慧爾の目の色が変わった。

 

「母さん、その女の子、名前はなんて言ってた!?」

 

「へ? あ、聞いてなかったわ」

 

「そこ重要! ものすごく重要だから!」

 

 慧爾は仕舞いかけていた作業着を掴み、すぐに着替え始めた。

 

「母さん、その子にもう一度連絡して、すぐに向かいますって伝えておいて! ――あとできれば名前も聞いといて!」

 

「その必要は無いわよ。すぐに向かわせますって、もう答えておいたから」

 

「勝手に承諾するんじゃないよ!? …ったく」

 

 着替え終えた慧爾は階下に駆け下りると、必要そうな道具を手当たり次第に業務用ライトバンに詰め込んで運転席に乗り込んだ。

 

 エンジンをかけ、発車しようとしてハッと思い出す。

 

「そうだった。場所、どこ?」

 

「あんたねえ、女の子の名前よりそっちが重要でしょ」

 

 呆れた様子の母から場所が記されたメモ用紙を受け取り、慧爾はすぐに車を出した。

 

 雨煙に沈む景色に消えて行ったライトバンを見送りながら、慧爾の母は再びため息を吐いた。

 

「まったくあの子ったら、下心がみえみえ過ぎて不安になるわ」

 

 そんな母の心配を余所に、慧爾はライトバンを走らせた。現場は鎮守府にも近い海沿いの道路だ。ということは、やはり電話してきたのは海軍の関係者である可能性が高い。

 

 もしかしたら初霜さん本人かもしれない、と慧爾は期待に胸を躍らせた。もしそうでないにしろ、海軍関係者なら彼女に繋がる伝手を得られるかもしれない、と都合の良い妄想が膨らんでいく。

 

 だが一方で、この降りしきる雨に不安も高まっていた。

 

 排水口に落ちた猫を助けるのは至難の業だ。母は安請け合いしてしまったが、慧爾にできることはせいぜい排水路の内部の様子を確認する程度のことだ。配管の汚れや詰まりを取るために押し流すことは簡単だが、猫にそれをする訳にもいかない。

 

 かといって、猫を相手に何をどうすればいいのか、その妙案も思い浮かばない。これは早まったかな、と期待よりも不安の方が勝り始めた頃、連絡を受けた現場が見えてきた。

 

 海沿いの片側二車線の道路だ。交通量はほとんどなく、行き交う人々も居ない。その車道と歩道の間に作られた排水溝の一画に、四人の少女たちが肩を寄せ合うようにして屈みこんでいた。

 

 遠目から見て十代半ばから後半程度の少女たちだった。近くに車を止めると、それに気づいた少女たちがこちらを向いた。

 

 その姿を見て、慧爾の胸が高鳴った。間違いない。あの彼女――初霜だ。

 

 慧爾はすぐに車を降りた。

 

「あのっ、連絡を受けて参りました。水斗ですっ!」

 

「ありがとうございます。私が連絡した初し――」

 

「あーっ、あの時のお兄さん!?」

 

 自己紹介しようとした初霜の横で、傘を差していた白ワンピースの少女が驚いた顔で声を上げた。

 

 慧爾は一瞬、呆気に取られてその少女を見た。清楚なお嬢様、といった風情の美少女だ。しかし何処かで見覚えがあるなぁ……と思った途端、少女の正体に思い至った。

 

「あぁ、トイレを我慢していたユキさん」

 

「そんな覚え方されてたんですか私!? まあ、その通りなんですけど!?」

 

 顔を真っ赤に染めた少女・ユキに、慧爾は慌てて謝った。

 

 初霜が、慧爾とユキを交互に見比べた。

 

「お知合いですか?」

 

「ええ、まあ、その」

 

 赤い顔のまま俯くユキの様子に、慧爾は詳細は明かさない方がよさそうだ、と空気を読んで本題を進めることにした。

 

「それより、猫が落ちているのは何処ですか?」

 

「ここです」

 

 初霜が排水口の横穴を指し示した。彼女から現状を説明してもらう。猫は今、ロープで繋がった籠の中で大人しくしているらしい。しかし引き上げようとすると猫は飛び出してしまうそうだ。

 

「状況は判りました。取り敢えず地下の様子を確認しましょう」

 

 慧爾はライトバンに戻ると、そこから配管検査用カメラを取り出した。

 

 これは細長いチューブの先端に小型カメラとライトが内蔵された検査器具だ。病院で胃や腸の検査をするときに使う内視鏡によく似た形状をしている。チューブの長さは約8メートル。それがリールで巻かれており、そのリールから伸びたコードをタブレットに差し込むことで、カメラの映像を確認することができた。

 

「お、すっげーなコレ」

 

「やっぱりプロは機材からして違うわね」

 

 他の二人――朝霜と霞が感心している様子に少しくすぐったい気持ちになりつつ、慧爾はカメラを排水口の横穴に挿入した。

 

 斜め下方に伸びる横穴の出口付近で手を止め、タブレットに目を移す。画面にはライトに照らされた籠が映っていた。

 

 その中身は空だった。

 

「居ませんね」

 

「入ってきたカメラに驚いて飛び出したんだわ」

 

 慧爾の顔のすぐ横で初霜が答えた。慧爾と一緒にタブレットを覗き込んでいたのだ。

 

 触れ合いそうなほど近くに居る彼女の存在に、慧爾の胸は高鳴りすぎて止まりそうになった。

 

「え、えと……」

 

「カメラをもっと奥へ入れることはできますか?」

 

 十数センチも離れていない距離で、初霜が慧爾に目を向けて言った。

 

「は、はいっ!」

 

(なにこれ役得過ぎるぞいやそれより猫を探さなきゃだけど――あ~なんか良い匂いする女の子の匂いってやつ?) 

 

 思考が支離滅裂になりつつも、初霜の指示通りカメラを奥へ進める。

 

「止めてください。居たわ!」

 

 初霜が、タブレットを持つ慧爾の手にその手を重ねて、画面に向かって身を乗り出して覗き込む。

 

 慧爾の鼻先に初霜の濡れてしっとりとした黒髪が触れて、彼は思わず呼吸を忘れそうになった。

 

(僥倖! これは僥倖っ! 女の子の香り吸い放題!?)

 

 しかし多幸感が過剰過ぎて呼吸がうまくできない。しかもそこへ、

 

「本当ですか!?」

 

 初霜とは反対側から、ユキも慧爾に身を寄せてタブレットを覗き込んできた。

 

(美少女サンドイッチ!?)

 

 夢にまで見た奇跡のシチュエーションが思いがけず実現し、慧爾は今度こそ心臓が止まりそうになった。

 

(いや止まるなら心臓よりも時間だ。この時間よ永遠に続け)

 

「仔猫だわ。奥で震えて蹲っている」

 

「びしょ濡れですね。このままじゃ衰弱する一方ですよ」

 

 幸せ回路発動中の慧爾を、初霜とユキの声が現実に引き戻した。

 

「ちょっと失礼します」

 

「あ、すいません」

 

 慧爾が声をかけると、二人は彼の視界を塞いでいたことに気づいて身を離した。そのことに少し、いやかなり落胆しながら、慧爾は地下の様子を確認する。

 

「猫の居る場所は結構広いですね」

 

 排水口の横穴の先は、箱の内部のような立方体の空間になっていた。歩道に沿って伸びる地下排水路の本流と、この地上から流れ込む支流が合流する際に圧力が一気に高まらないよう、概ね50センチ四方の立方体空間が設けられているようだ。

 

 仔猫はその片隅で震えながら蹲っていた。

 

「どう、助けられそう?」

 

 背後から霞が尋ねた。

 

「難しいですね」慧爾は正直に答えた。「仔猫が居るこの場所はマンホールもない孤立した空間です。人間の手が届く場所じゃない。やはり籠に入れて引き上げるしかなさそうですね」

 

「そこのマンホールを開けることはできますか?」

 

 初霜が歩道のマンホールの蓋を指さした。

 

「さっきも言った通り、この場所から離れすぎて手が届きませんよ。本流の排水路も直径が仔猫よりも少し大きい程度ですから、人間が潜り込むのも不可能です」

 

「でもマンホールの下くらいは人間が入れるようになっているのでしょう? だったら、猫をマンホールの下まで追い立てることができれば、助けられるんじゃないかしら」

 

「なるほど」

 

 慧爾はチューブに付いた巻き癖とたわみを利用してカメラの向きを変え、本流が流れる排水路の横穴へ向けた。

 

 本流は、カメラを入れた支流に対して直角に交わるように流れていた。左右90°横に上流と下流の横穴が見える。その径の大きさは慧爾見立て通り仔猫よりも少し大きい程度だ。

 

 この横穴から上流か下流のどちらでも概ね5メートルほど先へ進めば、マンホールの場所にたどり着ける。このカメラで猫を上手く追い込めば助けることができるだろう。

 

 問題はカメラの操作性だ。カメラはチューブの先端にくっついているだけでリモコン操作で向きを変えるような機能は無い。なので仔猫を追い立てながら90°真横に向きを変えて本流に押し込むという高度なことはできない。

 

(でも、下流側のマンホールからカメラを挿入すれば、上流側まで一直線だから何とかなるか?)

 

 問題はマンホール同士の距離が10メートル離れているのに対し、カメラのチューブが8メートルと長さが足りないことだが、しかし残り2メートルぐらいなら餌か何かで誘き寄せることもできるかもしれない。

 

 やってやれないことは無い。

 

「わかりました。マンホールの蓋を開けましょう」

 

 慧爾がそういうと、初霜をはじめとした艦娘たちは皆表情を綻ばせた。

 

「仔猫の様子を確認する必要もありますから、カメラはしばらくこのままにしておきましょう。誰か預かってもらえますか?」

 

「やるやる、アタイがやる!」

 

 朝霜が即座に立候補した。彼女にカメラとタブレットを渡し、慧爾は再びバンに戻ってマンホールフックを持ち出した。

 

「上流側と下流側の二つのマンホールを開放します。片方からカメラを送り込んで、反対側のマンホールまで仔猫を追い立てましょう」

 

 慧爾は自分の考えを説明しながら、先ず上流側の蓋にフックを引っ掛けた。

 

 しかし、引き上げようと力を込めてもビクともしない。やはりこれも錆びているのだ。ならいつも通りハンマーで叩こうと思ったが、それでは仔猫が音に驚いて逃げてしまうかもしれないという可能性に思い至った。

 

 慧爾は周囲を見渡し、マンホールの数を確認した。

 

 仔猫の近くにあるマンホールは、上流と下流にあるこの二か所だけだった。仔猫が地下排水路を移動してマンホールより奥へ行ってしまったなら、もう助けられなくなる。

 

(ハンマーで叩かずに開けるしかないか)

 

 慧爾はフックを持つ両手に力を籠め、両足を踏ん張った。

 

「ふっ――!」

 

 短く息を吐き、奥歯を噛みしめ渾身の力を込めて蓋を引き上げようとする。

 

「ぐ…ぐぅぅ!」

 

 しかし開かない。もう一度、勢いをつけて引っ張るが、それでもビクともしなかった。日ごろから肉体労働に従事している分、人並み以上の筋力はあると自負していたが、しかし慧爾一人の力では限界があるようだった。

 

 それでも再び力を込めた。全身の筋肉に熱が籠り、身体を滴り落ちる雨水に自分の汗が混じったのが分かった。

 

「くそ!?」

 

 思わず悪態が口を吐いて出た。額を流れる汗をぬぐい、もう一度、力を込める。

 

「私も手伝います!」

 

 初霜が迷うことなく慧爾の横に並び、片方のマンホールフックを握った。

 

「すみません」と、慧爾。

 

 胸を高鳴らせている余裕は無かった。ただ彼女の優しさを感じつつ、二人は「せーの」と声を合わせてフックを引き上げた。

 

 ガコン! と音を立てて蓋が持ち上がった。

 

「うわっ!?」

 

 力を込め過ぎた。二人はしりもちをついてしまい、マンホールの蓋が地面に落ちて大きな音を響かせた。

 

「しまった!?」

 

 けたたましい音が響き渡る中、カメラを監視していた朝霜が声を上げた。

 

「仔猫が逃げた!」

 

「どっち!?」

 

 霞がすかさず訊き返しながらタブレットを覗き込んだ。しかし、そこにもう仔猫の姿は無い。

 

 朝霜が答えた。

 

「わからねえ。上に飛び上がって画面から消えたきりだ」

 

 慧爾はそれを聞いて、すぐに立ち上がってマンホールの蓋を穴からずらした。

 

 開いたマンホールに、初霜が躊躇うことなく飛び込んだ。

 

「危ないですよ、初霜さん!」

 

「ごめんなさい、でも怪我は無いわ!」

 

 穴の底から初霜が答えた。穴の深さは1.5メートルほどしかない。初霜は飛び込むや否や、すぐさましゃがみ込んで足元に開いていた排水路本流の横穴を覗き込んでいた。

 

 足元を流れる雨水に顔や髪、服が濡れることなど気に掛ける素振りさえなかった。

 

「初霜っ!」霞がマンホールに駆け寄ってきた「ほら、懐中電灯!」

 

「助かるわ!」

 

 初霜は、投げ込まれた懐中電灯を上も見ずにキャッチするとすぐに横穴の奥を照らした。

 

「居ましたか?」

 

「分かりません」奥を覗き込んだ姿勢のまま初霜は答えた。「水斗さんは反対側のマンホールも開けてください。あっちに逃げた可能性があります!」

 

「わ、わかりました!」

 

 慧爾はマンホールフックを拾い上げようとしたが、なぜか手近にあったはずのそれが無かった。

 

 辺りを見渡すと、すでに霞がマンホールフックを手に下流側の蓋を開けようとしているところだった。

 

「あんた、早くこっちに来て手伝ってったら!」

 

「は、はい!」

 

 慌てて駆け寄り、二人して力を込める。その間に朝霜はカメラを操り地下の様子を探り続けていた。

 

「駄目だ、この場所のどこにも居ねえ。どっちかに逃げたのは間違いねえぜ!」

 

「上流側には居ないわ!」

 

 初霜がマンホールから顔を出した。その片頬は泥で汚れていた。

 

「霞、そっちはまだ開かないの!?」

 

「やってるわよ! でも、開かないのよ…っ!!」

 

「私もやります!」

 

 ユキも傘を捨てて加勢した。

 

「「「せーの!」」」

 

 三人で力を合わせ、ついに蓋が開いた。

 

 今度は慧爾がすぐに飛び込んだ。懐中電灯を点け、底に伏せて排水路の横穴を覗き込む。足元に溜まった泥が頬にべちゃりと付着して、そのおぞましい感触と悪臭に悪寒が走ったが、それを必死に堪えながら横穴の奥に目を凝らす。

 

 懐中電灯の光が差し込む範囲には何も見えなかった。さらに目を凝らすと、奥の闇に何かが煌めいたのが見えた。

 

 仔猫か、と一瞬思ったが、違った。あれはライトの光だ。朝霜が操っているカメラ先端のライトの光が漏れて見えているのだ。

 

 それが見えてしまっているということは、この排水路にも仔猫は居ないということだった。

 

 慧爾は立ち上がり、マンホールから顔を出した。

 

「こっちにも居ません。音とは反対方向に逃げたと思いますから、きっとここを通り過ぎてさらに下流まで行ってしまったんだ。…カメラをこっちに持って来てください」

 

 朝霜がカメラを引き上げ、慧爾に手渡した。慧爾はマンホール内で向きを変え、下流側の排水路の横穴にカメラを挿入した。

 

 奥へ奥へとカメラを送り込む。しかし、仔猫は見つからなかった。5メートル進み、また支流との合流地点である立方体空間に出たが、そこにも居ない。

 

 さらにカメラを奥へ押し進める。手元のチューブの残りが短くなってきた。

 

「――駄目です、見つかりません」

 

 チューブの長さいっぱいの8メートル先までカメラを送り込んだが、仔猫は見つからなかった。

 

 おそらくこの先も支流との合流地点ごとに立方体空間があり、そのどこかに居るはずだが、下流側にはもうマンホールが無い。そのため、もし仔猫を見つけることができたとしても、もうマンホール側へ追い立てる手立てが無かった。

 

 失敗だ。慧爾は歯噛みしながらカメラを引き寄せていると、ふと頭上に影が差した。

 

 慧爾が顔を上げると、艦娘たちが集まって彼を見下ろしていた。その表情は皆、落胆の色があった。

 

 残念ながらこれ以上は打つ手がない。慧爾はそう告げようとしたが、そのとき、見下ろす顔ぶれの中に初霜の姿が無いことに気が付いた。

 

 まだ上流側のマンホールに居るのかな、と思った矢先、

 

「にゃーん!」

 

 と声が聞こえた。

 

 仔猫が鳴いたのかと思ったが、違う。これは初霜の声だ。艦娘たちが下流側に目を向け、慧爾もマンホールから顔を出してその方向を眺めた。

 

 下流側の10メートル以上先で、初霜が歩道脇の排水溝に這い蹲っていた。

 

「にゃーん!」

 

 同じように開いていた排水口の横穴にめがけて鳴き真似をし、そして耳をそばだてる。しかし反応が無かったのか、初霜は立ち上がるとそのまま溝を進み、次の排水口の横穴に移動して同じことを繰り返した。

 

「初霜さん……」

 

「悪い癖が出たわね」霞がやれやれとため息を吐いた。「あの子、ああなるとしつこいわよ。生半可な理由じゃ引き下がらないわ」

 

「霞が諦めろって命令すれば、あいつも従うさ。アタイたちのリーダーなんだしさ」

 

「本当に従う気があるの?」

 

「お前自身が納得してりゃな」

 

 朝霜が二ヒッと笑い、霞はまたため息を吐いた。

 

「先は長いわよ」

 

「しゃーない、付き合うさ」

 

 二人は頷き合い、そして下流側に向かって駆け出すと、初霜の傍を通り過ぎてその先の排水口の横穴でそれぞれ屈みこんだ。

 

「にゃーん」

 

「にゃー」

 

「にゃあーん。返事して。にゃああん」

 

 日暮れが近づいているのだろう。周囲が徐々に薄暗くなっていく。その雨が降り続く道路で、少女たちが等間隔に這いつくばりながら猫の鳴き真似をしている。

 

 それは余りにも異常な光景だった。他の人が通りかかっていないから良いようなものの、事情を知らなければ狂人の集団と思われても仕方ないだろう。

 

 けれど、あの三人はそんなことを気にもかけずに、仔猫の安否だけを気にかけて行動していた。

 

 たかが猫だ。慧爾は困惑していた。たかが仔猫一匹のために雨の中で何をムキになっているんだ。

 

「私も探します」

 

 困惑する慧爾を残して、ユキまで再捜索に加わった。慧爾の居るマンホールから30メートルも離れた場所で同じように鳴き真似を始める。

 

 あんな遠くに居るものか、と慧爾は疑った。もし居たとしても、それからどうしろというんだ。こんなのはもう悪あがきでしかない。もう見ていられない。誰も諦めようと言えないのなら、自分がそれを言うしかない。

 

 慧爾がそう思ってマンホールから這い上がった、その時、

 

「見つけました!」

 

 遠くから上がった声に、全員が顔を上げた。一番遠くに居たユキが、手を振っていた。

 

「ここです。この下に居ます!」

 

 まさか、と意表を突かれた慧爾を、初霜が振り返った。

 

「水斗さん、カメラを!」

 

「は、はい」

 

 艦娘たちと共にユキの居る場所に集まった。

 

 誰もが雨に濡れているだけではなく、泥にもまみれていた。しかしその目は排水口の横穴に注がれ、その耳は穴の底から漏れ聞こえる微かな仔猫の声を聴いていた。

 

 カメラを入れると、確かに居た。最初に見つけた時と同じように立方体空間の隅に蹲っている。

 

 その様子に艦娘たちの口から安堵の溜息が漏れたが、慧爾はすぐに首を横に振った。

 

「これ以上はどうしようもありません。近くのマンホールに追い立てようにも距離が離れ過ぎています」

 

「せめて隣の合流地点まで追い立てられませんか。そうやって一か所ずつ移動させて、そのたびにカメラも排水口から入れなおすというのはどうでしょう?」

 

「直進ならともかく、本流の排水路の位置は支流に対してほぼ真横ですから、このカメラじゃそこまで大きな方向転換はできないんですよ。仔猫もうまく追い立てられるかどうか。……せめて自走式カメラでもないとほぼ無理でしょう」

 

「自走式カメラ?」

 

「ええ、カメラの先端にモーターと車輪がついた高級品ですよ。複雑な配管の検査なんかに使うんです。でもウチの会社は持っていないんですよ。島内の他の業者も導入したなんて話は聞いたことないですし……」

 

 慧爾は説明しながら、自己嫌悪に陥りそうになった。ここまで一生懸命に身体を張って頑張ってきた初霜たちに、あきらめを突き付けることしかできない自分が情けなかった。

 

 しかし、

 

「ロボット!」初霜の目が、なぜか輝いていた。「そうよ、それを使えば良いんだわ!」

 

「いや、だからですね。持ってないんですよ。俺の話を聞いてました?」

 

「わかってます。でも、あるんです!」

 

「は?」

 

「あるのよ」

 

「あるぜ」

 

 初霜だけではなく、霞と朝霜も同じことを言った。

 

 呆気にとられる慧爾とユキを余所に、三人は目配せしあった。

 

「よっしゃ、そうと決まればダッシュで取ってくるぜ!」

 

「あんた一人で行かせたら無断持ち出しで盗難になっちゃうわ。私も行くわ」

 

「二人とも、お願いね」

 

 朝霜と霞が水たまりを蹴立てながら鎮守府の方角へ向かって走り去っていった。初霜はそれを見送ることもなく、すぐに例のロープを結わえ付けた籠とペースト餌を取りに行った。

 

 初霜はそれらを手に戻ってきて、言った。

 

「この籠に餌を入れて地下へ降ろします。霞たちが戻ってくるまで仔猫をここに留めましょう」

 

「いったい何を取りに行ったんですか?」

 

「ロボットですよ。ちょうど良さそうな小型偵察ドローンが基地にあるんです」

 

「へえ、流石は艦娘さんだ。そんな便利なものまであるんですね」

 

「まあ偶然ですけどね」

 

 素直に感心する慧爾に、初霜は微笑みを返した。その顔は泥で汚れていたが、それでも慧爾の目にはとても可憐に見えた。

 

 が、その可憐な笑みがふと、きょとんとした表情に変わった。

 

「あら、そういえば私たちが艦娘って言いましたっけ?」

 

「…俺、聞いてませんでしたっけ?」

 

「名乗りそこねた気もしますが」

 

「そうでしたっけ」

 

 そういえばそうだった、と慧爾は思い出した。けれど、前から気になっていた人だったので名前を聞くまでもなく知っていました。なんて答えたら流石に引かれてしまうかも知れない。

 

 ここは胡麻化すしかない。しかしどうやって? と悩む慧爾の目に、傍に佇んでいるユキの姿が入った。

 

 そうだ、この子も艦娘じゃないか。

 

「あ、えっとですね。今日こっちに来る前に艦娘寮の検査もやってたんですよ。そのときこちらのユキさんともお会いしましてね。艦娘さんと一緒に居るなら、あなた方もやっぱり艦娘なのかな、って」

 

 よし、上手く誤魔化せた。と慧爾が心内でガッツポーズを取っている脇で、

 

「え?」

 

「え?」

 

 初霜とユキが、互いに驚いた表情で顔を見合わせていた。

 

 

 

 

 

「まさか、あなたも艦娘だったなんて」

 

 初霜はタブレットに映る仔猫を眺めながら、可笑しそうにクスクスと笑った。

 

 仔猫は今、降ろした籠の中で大人しく蹲っている。それを同じように眺めながら、雪風が少し恥ずかしそうに言った。

 

「気づかなくても当然ですよ。だって、こんなヒラヒラした格好の艦娘なんて居ないですもん」

 

「そうかしら。ウチの艦隊にも可愛い私服の人たちはたくさん居るわ。それにとっても似合っていますよ、雪風さん」

 

 そう言われて、雪風は顔をさらに赤くして俯いた。

 

 霞と朝霜が戻ってくるまでの間、二人は一つの傘の下で肩を寄せ合いながら、こうして仔猫の様子を見張っていた。

 

 ちなみに慧爾は開けっ放しのマンホールを放置しておくわけにもいかないので、少し離れたそのマンホールの傍に所在なさげに佇んでいた。

 

 日は既に暮れ、辺りは暗闇に覆われ、等間隔に建っている街灯の明かりが相合傘の二人を照らしていた。

 

 雨だれが傘に落ちる音を聞きながら、雪風は言った。

 

「普段はこんな格好、絶対にしないんですけどね。後輩がどうしてもっていうから……」

 

 雪風はそこまで言って、初風のことを思い出し表情を曇らせた。

 

「雪風さん?」

 

「あ、何でもないです」

 

 雪風はすぐに表情を取り繕ったが、しかし、初霜の目がじっと雪風を見つめていた。

 

「あのぉ…初霜さん?」

 

「泣いていましたよね」

 

「へ?」

 

「雪風さんを初めて見た時、泣いていたように見えたんです。…この雨の中で傘も差さずに、自暴自棄になっているみたいに――って、あ、ごめんなさい」

 

 初霜が慌てて頭を下げた。

 

「初対面なのに、こんなこと言ってしまって。…気に障ってしまったかしら」

 

「……っ」

 

「ゆ、雪風さん?」

 

 雪風は再び俯き、肩を小刻みに震わせていた。

 

「も、もしかして怒っていますか? どうしよう、私ったら、すごく失礼なことを――」

 

「いえ、怒ってる訳じゃないです。…ただ」

 

「ただ?」

 

「ちょっと恥ずかしくて……全部その通りなんです。初霜さんが見透かした通りです」

 

 雪風は赤くなった顔を上げ、深呼吸のようなため息を一つ吐いた。

 

 初霜は言った。

 

「良かったら話してくれませんか? 差し支えなければ、ですけど」

 

「面白くもない愚痴ですよ?」

 

「それであなたの心が軽くなるのなら」

 

 ふふ、と初霜は静かに微笑んだ。

 

 その笑みがあまりにも柔らかくて、優しさに溢れているように見えたから、雪風は「実はですね」と自分でも驚くくらいあっさりと言葉が口から洩れて出た。

 

 実家が多額の借金を背負っており、雪風の稼ぎをその返済に充てていること。それにも関わらず母は借金返済のためと言い張り無茶な投資を繰り返していること。そんな家庭の事情を、気づけばぺらぺらと話していた。

 

「だいたい私の両親はどっちもクズなんですよ、クズ」

 

 今まで誰にも話さなかった――話したくなかった身内の恥を、思うままに吐露していた。

 

「もぉ~本当に、ふざけるなって言いたいですよ。っていうか言っちゃったんですよ。死んでしまえって」

 

「…そう」

 

 初霜は静かに相槌を打つ。感情のままに言葉を吐き出す雪風に、同調する訳でもなく、だけど否定もせず、静かに受け止め、その心に寄り添うように。

 

 初霜がそうやってどこまでも聞いてくれるものだから、雪風も言葉が止まらなくなっていた。

 

 迷惑ばかりかけて死んだ父への罵倒。娘の苦労を顧みず面倒ばかりかける母への罵倒。縁を切ってやりたい。死んでしまえばいいのに。いやいっそこの手で殺してやりたい。実の親へのそんな激しい感情さえ何度も吐き出した。

 

 心の堰が決壊し、溜まりに溜まった淀みが一挙に溢れ出していた。

 

 バカみたい。殺してやりたい。死んでしまえ。もう嫌だ。逃げ出したい。

 

 ……もう、死にたい。

 

 気づけば、雪風は泣いていた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を初霜の胸に埋めて泣いていた。

 

 小さな傘の下で、初霜に抱きしめられながら、雪風は子供の様に泣きじゃくった。

 

 結局、初霜は最後まで何も言わなかった。助言や、励ましや、ましてや非難めいた事も言わなかった。

 

 ただ、時折雪風を見つめる瞳が一緒に泣いてくれているように見えて、だから、それだけで雪風は救われた気がした。

 

 

 

 

 霞たちが戻ってきたのは、それからさらに三十分ほど経ってからだった。

 

「待たせたわね。説得するのに手間取ったわ」

 

「この石頭がなかなかウンと言わねえから、無理やり引っ張ってきたぜ!」

 

 二人に引きずられるように両腕を掴まれて連れてこられたのは、例の技官だった。

 

「あなた達は無茶苦茶ですよ!? これは軍の備品なんですよ。勝手に使って壊れたらどうするんですか!?」

 

「この程度で壊れるなら実戦で使い物になる訳ないでしょ!」

 

 霞にすかさず反論され、技官はぐうの音も出せなかった。

 

 初霜が技官の前に立った。

 

「わがままなのは承知の上です。でも、あなただけが頼りなんです。責任なら私が取ります。ですからどうか、お願いします」

 

 そう言って深く頭を下げた初霜に、技官は冷たい目で言った。

 

「責任って軽々しく言わないでください。部署も違う、一介の艦娘でしかないあなた達がどう責任をとるっていうんですか」

 

「そうですね。私たちに脅されて仕方なく、というのはどうでしょう?」

 

 虫も殺さぬような大人しい顔のまま、初霜はそう言った。技官はそれになんの説得力も感じなかったので呆れた笑みを浮かべた。

 

「僕を脅す? 大の男が、こんなか弱い少女に力づくで脅されたなんて誰が信じるというんです。僕を馬鹿にするのも大概にして―――んが!?」

 

 技官はいきなり両腕を背後に捻り上げられ、無理やり両膝を地面に付かされた。

 

「あんた、艦娘のことを何も理解してないようね」

 

「アタイらも人を殺すための訓練を受けているんだ。素人の腕を素手で折るくらい朝飯前なんだぜ」

 

 霞と朝霜が両側から腕を極めながら、ゾッとするような冷たい声でそう言った。

 

「二人とも、やり過ぎよ」

 

 初霜の言葉に、二人がぱっと手を離した。

 

「乱暴な真似をしてごめんなさい。でも、これで説得力は出たと思います」

 

 そう言いつつ、初霜が屈みこみ、その両手で技官の頬を包み込んだ。傍から見れば頬を優しく撫でているよう見えるが――慧爾にはそう見えて思わず技官に嫉妬の念を抱いたが――当の技官はそれどころではなかった。

 

 頬を包み込んでいるように見えた初霜の両手、その左右の薬指と小指が、首元の頸動脈を圧迫していた。

 

 初霜がその気になれば地獄の苦しみを与えられるどころか、命さえも取られかねない。そして技官を見つめる初霜の目は、それを行うことに何の躊躇いもなさそうな冷たい光を宿していた。

 

(狂ってる!?)

 

 技官は心底から恐怖を味わった。

 

 技官は戦場に出たことが無かった。死線を潜り抜けてきた艦娘たちが持つ戦場の顔を、彼は初めて間近に見たのだ。

 

「わ、わかりました。やります」

 

「本当ですか。ありがとうございます!」

 

 初霜の表情が途端に明るくなった。一瞬前までの深海の底のような冷たさが嘘のような表情の変化だった。

 

 解放された技官が青ざめた顔をしながらドローンの準備を始めた。朝霜がそれを眺めながら、呆れたように言った。

 

「おい初霜、誰がやり過ぎだって? お前の方がよっぽどえげつねえじゃねえか」

 

「だって、あれ以上やったら、あなた達まで脅迫犯になっちゃうでしょ?」

 

 初霜は当然のようにそう答えた。その言葉と態度に、霞も肩をすくめた。

 

「あんたを止めなかった時点で私たちも同罪よ」

 

 慧爾には彼女たちの遣り取りの意味が分からなかった。

 

 しかし、同じ艦娘である雪風には初霜が何をしたのか理解できてしまい、それゆえに少し引いていた。

 

「初霜さん。…なんでそこまでするんですか」

 

「えっ?」

 

 初霜は意外だ、とでも言いたげな表情で雪風を見つめ返した。そんな質問をされることさえ考えたことが無さそうな顔だった。

 

 初霜は少しだけ考え、答えた。

 

「気が付いてしまったから、ですかね」

 

「何に?」

 

「助けを求める声に、ですよ。…一度気づいてしまったら、もう後戻りできないじゃないですか」

 

 それは至極真っ当で、そして誰もが持っている当たり前の感覚のように雪風には思えた。雪風だって仔猫の鳴き声を聞いてしまったから放っておけなくなったのだ。

 

 しかし他人を脅迫してまで救出しようなんて普通は思わない。

 

(やり過ぎですよ、初霜さん……)

 

 そんな初霜に脅された技官がドローンの準備を終えた。

 

 手のひらサイズの四輪車を排水口の横穴の傍に置く。そのドローンからは飛行用のプロペラが外されていた。

 

 技官がヘルメットを被りながら説明した。

 

「地下の狭い排水路を走ることを考慮してプロペラはオミットしました。これからドローンを地下に進入させ、仔猫を上流側のマンホールに追い込みます」

 

「じゃあ俺がマンホールの底で待ち伏せます」

 

 慧爾が30メートル先のマンホールに移動し、身体を入れてから、手を振って合図した。

 

 ドローンを入れるため、地下に下ろしていた籠を引き上げる。仔猫が籠から飛び出し、立方体空間の隅に蹲ったのを確認してからカメラも引き上げた。

 

 ヘルメットのバイザーを下ろしリモコンを手にした技官の肩を、朝霜が叩いた。

 

「頼むぜ、技官の兄ちゃん。仔猫の運命はあんたの腕前にかかってんだ」

 

「失敗したら殺すなんて言いませんよね?」

 

「成功したらジュース奢ってやるよ」

 

「安い見返りだなぁ」

 

 技官はぼやきながらリモコンのスイッチを入れた。艦娘たちにも状況が分かるようドローンのカメラ映像がタブレットに転送され、彼女たちの目がそちらに集まる。

 

「行きます!」

 

 技官の声とともに、ドローンが排水口の横穴に飛び込んだ。そのまま雨水とともに急な傾斜を滑り落ち、仔猫の居る空間に到達する。

 

 ドローンのライトに照らし上げられて、仔猫の姿が露わになった。仔猫は突如現れたドローンに驚き、足元に溜まった雨水を蹴立てながら走り回った。

 

 朝霜が映像を見ながら叫んだ。

 

「仔猫が逃げちまうぜ。下流側に行かないように入口を塞ぐんだ!」

 

「任せてください!」

 

 ドローンが狭い空間内で素早く急旋回し、下流側の排水路の前に陣取った。そのドローンから逃げようと、仔猫は上流側の排水路に潜り込んだ。

 

「よっしゃ、いいぞ!」

 

「このまま追い立てます!」

 

 技官が慎重にドローンを操作し、仔猫を追った。支流との合流地点ごとにある同じような立方体空間へ入るたび、技官はドローンを細かく操作し、仔猫を慧爾の居る場所まで追い立てていく。

 

 そして――

 

 慧爾の居るマンホールの底。その足元にある排水路の横穴から、ドローンが発するけたたましいモーター音が響いてきた。

 

「水斗さん!」頭上から初霜が見下ろした。「もうすぐ猫が来ます!」

 

「わかりました」

 

 それから少しの間、ドローンが細かく動いたような音がした後、スピードを上げたのだろう、モーター音が一気に大きくなった。

 

 と、次の瞬間、どろどろに汚れた小さな頭が、横穴からひょこっと現れた。

 

「うわっ!?」

 

 仔猫だ。慌てて手を伸ばすと、仔猫は怯えてすぐに頭を引っ込めてしまったが、ドローンに追われ、またすぐに飛び出してきた。

 

 仔猫が慧爾の股下を潜ろうとしたのを、なんとかぎりぎりで捕まえた。

 

「やりました!」

 

「やったわ!」

 

 二人の声の他に、他の艦娘たちもわっと歓声を上げた。

 

 仔猫を抱えて頭上を見上げると、そこに涙を浮かべて微笑む初霜の姿があった。

 

 その彼女が慧爾に向かって手を差し伸べた。

 

 手を貸してくれるのかと思い、慧爾はその手を取ろうとしたが、生憎と彼は両手で仔猫を抱いていた。しかもまだパニック状態でじたばた暴れており、しっかり抱えていないと落としかねない。

 

 このままじゃマンホールから上がれもしないので、仕方なしに先ずは仔猫を初霜に差し出した。

 

「良かったわね、猫さん」

 

 初霜は泥だらけの猫を嬉しそうに胸に抱いた。その周りに他の艦娘たちも集まってくる。

 

 霞がタオルを手に傍に寄る。

 

「ほら、初霜。猫をこっちに頂戴。私がきれいに拭いてあげるわ」

 

「よろしくね」

 

 仔猫を霞に預け、初霜は再び慧爾に向かって手を差し伸べた。

 

 今度こそその手を取ろうとした慧爾の向う脛に、ゴツっと固いものがぶつかった。

 

「いってぇ!」

 

「あ、ぶつけちゃいましたね。すいません」

 

 技官が初霜の背後から顔を覗かせた。

 

「ドローン、拾ってもらえませんか」

 

「…はいはい」

 

 足元のドローンを拾い上げ、ちょうど近くに居た初霜に手渡した。

 

 初霜はドローンを手に、技官へ振り返った。

 

「技官さん。手荒な真似をして申し訳ありませんでした。脅迫の責任はしっかりとります。でも、あなたのおかげで仔猫を助けることができました。だからお礼を言わせてください。本当に、ありがとうございました」

 

 ドローンを返却し、深々と頭を下げた初霜に、技官はやれやれと頭をかいた。

 

「脅迫って何のことですかね。これは追加の評価試験ですよ」

 

「え?」

 

「改善点はいっぱいありますが、少なくとも仔猫を助けるくらいには役立てることが分かりましたから、まあ悪い結果じゃないですね」

 

 半分自虐気味に、けれどもう半分は、小さな命を救えたという自負を感じさせる表情で、技官は笑った。

 

 慧爾はそのやり取りを横目で見ながら自力でマンホールから這い上がろうとしていた。

 

「お兄さん、大丈夫ですか?」

 

 雪風が傍に寄り、手を差し伸べてくれた。

 

「ありがとうございます」

 

 礼を述べてその手を取り、地上に上がった慧爾に雪風が言った。

 

「お兄さんもお疲れさまでした。一緒に頑張ってくれて、感謝です」

 

「まあ仕事みたいなものですからね」

 

 そう言って、そういえば仕事なのかコレ? と自分の言葉に首を傾げた。

 

 母が一体どういう条件で慧爾を送り出すことにしたのか、そのあたりの事情を確かめもせずに飛び出してきてしまったから、どういう見積りをだして、誰に請求すればいいのか見当もつかない。

 

 そう考えこむ慧爾の前に、初霜がやってきた。

 

「水斗さんも、ありがとうございました。突然の依頼だったのに快く駆けつけてくださって、本当に、なんとお礼を言えばいいか…」

 

「いえ、困っている方を助けるのは当然のことです!」

 

 思わず見栄と胸を張って格好つけてしまった。

 

 初霜は「ありがとうございます」とまた笑顔になったが、不意にまじめな表情になった。

 

「ところで、少し相談があるのですが」

 

 初霜がさらに距離を詰め、声を潜めた。

 

「な、なんでしょう?」

 

 どぎまぎする慧爾に、初霜は言った。

 

「お支払する金額はお幾らくらいでしょうか?」

 

 真面目な顔で世知辛い話題を振ってきた初霜に、慧爾はがっくりと肩を落とした。

 

 というか、そもそも自分は何をしに来たのだろう。ここでやったことと言えばマンホールの蓋を開けた程度だし、しかもそれで仔猫が逃げてしまったのだから、これでは足を引っ張りに来たようなものだ。

 

 こんな有様のくせに費用を請求しようものなら、初霜からの心象は悪くなってしまうだろう――と、そこまで思って、そういえば初霜に逢いにここへきたのだった。と、自分が飛び出してきた根本的な理由を思い出した。

 

 ならば、答えは決まっていた。

 

「費用なんかいりませんよ。あなたのお役に立てたのなら、それだけで十分です」

 

 少し気の利いたセリフを言ったつもりだったが、初霜はきょとんとした表情で慧爾を見返していた。

 

(やば、これは滑ったかな)

 

 慧爾は後悔し、慌てて言い足した。

 

「そ、その、俺も猫好きですし、ほっとけないというか、困ってる人は助けなきゃって…あ、困ってる猫か」

 

 目を泳がせながら言い訳する慧爾の様子に、初霜はふふっと笑った。

 

「優しい人なんですね。でも、ただ働きでは会社の方から叱られてしまうのでは無いですか?」

 

「それなら全然大丈夫ですよ。ウチの社長は俺の親父ですし、副社長はお袋ですから。それに今回の費用なんて俺の人件費ぐらいですし、両親からしたら元からあってないようなものですよ」

 

「でも……」

 

 初霜はなおも言い募ろうとしたが、そこへ霞が仔猫を抱えたままやってきた。

 

「初霜、ちょっといいかしら」

 

「どうしたの、霞」

 

「この子、どうする?」

 

 霞は腕の中の仔猫に目を落とした。タオルにくるまれた仔猫は、与えられたちゅうるを前足で抱え込んで無我夢中でむしゃぶりついていた。

 

「この子、ノラなのよ。でもまだ小さいし、また排水口に落ちるかもしれないと思ったら、無責任に野放しにするのも気が引けてね」

 

「なら、アタイたちで飼うか?」

 

 朝霜が横からひょいと顔を出し、仔猫の小さな額を指で撫でた。

 

 霞が首を横に振った。

 

「寮ではペット禁止よ。そもそも私たち船乗りは長期間留守にしがちなんだし、ペットを飼うには不向きな職種だわ」

 

「船と言えばネズミ捕り用の猫が居るって昔から相場が決まってるぜ」

 

「船体で飼う気? 戦場に道連れなんて可哀想だわ」

 

「それもそうか」

 

 朝霜も諦めて肩をすくめた。

 

 初霜が言った。

 

「私が里親を探すわ。でも、里親が見つかるまではどうしようかしら」

 

 うーん、と三人の艦娘が顔を寄せ合って悩みだす。その時、初霜の目が一瞬だけ慧爾の方へ向いた。

 

(あれ? 俺もしかして期待されてる?)

 

 でも、何を? 慧爾が疑問に思ったとき、すぐ横で雪風が言った。

 

「お兄さん、さっき猫好きとか言ってませんでしたっけ?」

 

「あ!?」

 

 しまった、そうだった。初霜の前でテンパってしまい、心にもないことを口走ってしまったんだった。

 

 雪風の発言で、初霜たち艦娘三人組の視線が慧爾に集まった。

 

 初霜が少し迷いを見せながら、言った。

 

「あの、大変恐縮なお願いなんですが……」

 

 その次の言葉はすぐに予想できた。仕方ない、ここは少しでも甲斐性を見せるのが男の役目というものだ。と慧爾は腹をくくった。

 

「その仔猫、ウチで預かりますよ」

 

 先回りしてそう言うと、初霜の顔に満面の笑みが咲いた。

 

「水斗さん…あぁ、良かった。ありがとうございます。本当に、ありがとうございます!」

 

 初霜が手を伸ばし、慧爾の両手を握った。小さくて、柔らかなその手。

 

 気づけば雨は止んでいた。

 

 空を覆っていた雨雲が流れ、丸い月がその姿を現し、月光が周囲を朧げに照らし上げる。

 

 淡い月光に纏った雨粒が煌めき、慧爾には初霜がいっそう輝いているように見えた―――

 

 

 

 

 

 

 

 




次回予告

 誰よりも傍に居たはずなのに、その心に触れることがかなわない。

 雪風の心を求めてあがく初風は、仲間たちに誘われて酒で悲しみを紛らわす。

 しかし埋まらぬ心の隙間。雪風の心に広がる荒野に気が付いてしまったとき、初風は行き場のない感情を爆発させる。

次回「第二十五話・酒場場外大乱闘」

初風 「私、今とてもイラついているの。邪魔しないで」

DQN「なになに~、あの日~? ――ぶべっ!?」

磯風 「あのな初風、もう少しこう、手加減というか。って、おい貴様、この不埒な手は何だ。圧し折るぞ」

DQN「ぎゃああ、折れてる!? もう折れてるから、たすけてくれぇぇ!!」


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第二十五話・酒場場外大乱闘

 那珂のライブ会場は、意外にも学校の体育館だった。

 

 集まったのは地元民の老若男女。アイドルのライブと聞いて思い浮かべるような若い男性ファンもそれなりに居たが、それ以上にごく普通の一般人――特に老人と子供たち――が多いのが磯風たちにとっては意外だった。

 

「結構、楽しめたものだな」

 

 公演後、磯風、浦風、浜風、谷風、そして初風の五人は、ライブを思い返しながら歓楽街へと繰り出していた。

 

「地元民から愛されとる感じじゃったね。ああやって民間人から声援を受けるというなぁ、ウチらみたいな秘密部隊にとっては羨ましいことじゃのぉ」

 

 浦風は少し遠い目をしていた。命がけで戦っても誰にも知られないのが、彼女たち二水戦だった。

 

「しかし」と浜風も口を開いた。「那珂さんは私たちに言ってくれました。“那珂ちゃんがアイドルとして活動できるのは、二水戦のような部隊が戦い、支えてくれるからこそ”だと。……那珂さんは人格者ですね。こうして実際にお会いするまでは、アイドルごっこにうつつを抜かす頭の弱い方だと思っていました」

 

 生真面目な顔でそう言った浜風に、谷風が顔を引きつらせた。

 

「浜風…、それ、褒めるにしても言い方ってもんがあるんでないかい?」

 

「どういう意味です?」

 

 本人にまるで悪意は無いのだろう。きょとんとする浜風に、周囲の皆は苦笑を浮かべた。

 

 そんな磯風たち四人から少し後ろを、初風が一人、会話の輪にも加わらずに付いて歩いていた。

 

 磯風が、初風の様子を気にかけてわずかに後ろを振り返る。

 

 互いに目が合うと、初風は、磯風に気を遣うように曖昧な微笑みを浮かべて見せた。その表情を見て、磯風は彼女に何と声をかけるべきか微かに迷った。

 

 初風の隣にいつも居るはずの雪風の姿が、今は無かった。

 

 雪風は用事があって来れなくなった。としか初風は説明してくれなかったし、磯風たちもそれ以上の事情を訊くのを躊躇わせる雰囲気を初風は纏っていた。

 

 しかしそれでも同じ二水戦の仲間だ。ライブの間もどこか遠い目をしていた初風を放ってはおけず、皆で酒でも飲もうという事で、こうして歓楽街をうろついていた。

 

 リゾートシーズンだけあって街の通りは観光客で混雑していた。どの店も客でいっぱいで騒がしく、落ち着いて飲めそうな店はなかなか見当たらない。

 

 路地裏まで足を延ばし、ようやく店を開けたばかりでまだ客の居ないバーを見つけることができた。

 

 店のマスターは、十代半ば過ぎ程度の外見の磯風たちを見て怪訝な顔をしたものの、特に身分証の提示を求めることもせずに注文をとった。

 

 店内にはカウンター席と、テーブル席が数席、そしてビリヤード台とダーツが設置されていた。浦風が、浜風と谷風を誘ってダーツに興じている間、磯風はカウンター席でひとり飲む初風の隣に腰かけた。

 

「雪風と喧嘩でもしたのか?」

 

 そう直球で切り込むと、初風はむすっとした顔でカクテルに口を付けた。

 

「放っといてよ」

 

「下世話な興味本位で訊いている訳じゃないさ。私たちは同じ二水戦の仲間だ。自棄酒に付き合わせてくれたっていいじゃないか?」

 

 磯風は自分の手元にあるウィスキーグラスを持ち上げ、初風に向かって掲げて見せた。初風はそれを見て、少しため息を吐くと、同じようにカクテルグラスを掲げた。

 

 二人のグラスが軽く触れあい、澄み切った音色が静かに鳴った。

 

 初風はカクテルを一息に呷り、グラスを空にした。

 

「喧嘩した訳じゃないわよ」

 

「ふむ」

 

 磯風がウィスキーをちびちびと舐めながら先を促すと、初風はぽつり、ぽつりと呟くように言葉を紡いだ。

 

「今日、二人で買い物しているときに、ユキの端末にメールが入ったの。多分、親御さんだと思う。あの子、それを見た途端に血相を変えて店から飛び出して行ってね……」

 

「………」

 

「……電話口で怒鳴り合ってた」

 

「怒鳴った? あの雪風が?」

 

 磯風にとってもそれは意外な話だった。

 

 磯風にとっての雪風にイメージは、どんな苦境にあっても平然といつも通りの笑顔を浮かべ、泰然自若とした態度を崩さぬ歴戦の戦士というものだった。

 

 平素では初風に引っ張られている姿をよく見かけるが、それとて些事を初風に任せて本人は悠然と構えているように磯風には見えていたものだ。

 

 その雪風が感情もあらわに声を荒げていたなどとは、磯風にはまるで想像もつかなかった。

 

「電話の相手は親か?」

 

「多分ね」

 

「……そうか」

 

 家庭事情に複雑な問題を抱えている者は、二水戦では珍しくなかった。あの雪風も例にもれずその一人だったのだろう。そう思えば、磯風も納得できる気がしてきた。

 

 同時に、初風と雪風の間に起きたことも何となく察することができた。

 

「怒鳴っていた理由は…まあ雪風の性格からして、話してはくれなかっただろうな」

 

「ええ」

 

 初風は寂しそうに呟いて、マスターに新たなカクテルを注文した。差し出された新たなカクテルに口をつけながら、初風は言った。

 

「ユキが家族と上手く行ってなさそうなのは薄々気づいていたわ。…ユキ自身がその話をしたことは一度も無かったけどね。だから私もあえて訊かなかった」

 

「雪風が見せたくなかった部分を、親しい者に見られてしまって気まずくなったということか。なら、初風は悪くないさ。雪風の気持ちが落ち着くまでそっとしておいてやればいい」

 

 本人が口にしない事情には深く立ち入らないのが二水戦のルールだ。明日死ぬかも知れぬ仲間同士が命を預け合うために、互いの過去や事情まで知る必要は、別に無い。

 

 傍に居る仲間の、今の姿を、ただ有りのままに受け入れてやればそれで済む話だった。磯風たちにそれを教えてくれたのは他ならぬ雪風その人だった。

 

 磯風たちにとって、雪風は姉のような存在だった。同じ陽炎型の先輩後輩という関係から雪風は彼女たちの嚮導艦としてよく面倒を見てくれていた。

 

 そのためどうしても雪風のことを特別視しがちになるが、今日のことで雪風もまた自分たちと同じく問題や欠点を抱えた身近な存在だと知ることができた。

 

 作戦を前にして精神的に揺らいでやしないか少し不安だが、あの雪風ならばすぐに立ち直るだろうという信頼はあった。

 

 となれば、問題はやはり初風の方だろう。

 

 磯風は初風に目を向けた。初風は俯き気味に、カウンターに置かれたカクテルグラスに目を落としながら言った。

 

「ユキが話してくれるまで、私も待つつもりだった。でも、あんなに頑なに心を閉ざされるなんて思わなかった。私に気づいた途端、あんな無理やりに笑ってみせなくてもいいじゃない…ッ!」

 

 ぐす、と初風の言葉に鼻声が混じった。磯風が手近にあった紙ナプキンを渡すと、初風はそれで目頭を拭った。

 

「ありがと……私がユキの家庭事情を知ったからって、別に何ができる訳でもないんだけど、それでも、こうして愚痴ぐらいはこぼして欲しかった。あんたがこうして付き合ってくれてるみたいにね。……ユキにとって私って、それさえもできない相手だったのって考えたら、ちょっと、へこんじゃって……」

 

 再び鼻声になった初風に、磯風はさらに紙ナプキンを手渡した。初風は目頭を拭った後、鼻もかんでから手元のカクテルを一息に飲み干した。

 

「お代わり」

 

「私ももう一杯もらおう」

 

 二人の前に新たなグラスが差し出された。

 

「いや、けどね、私のことはどうでもいいのよ」

 

 初風は気分を切り替えたようにそう言って、続けた。

 

「ユキは私生活はボロボロだけど精神的にはすごい強い子だってのは分かっているし、本当は独りでも生きていけちゃう子なのよ。だから、私なんかが傍に居る必要は無いことぐらい、私自身が一番よく理解してるの」

 

「そんなことは無いと思うぞ? 初風が面倒を見る前は石鹸で髪まで洗っていたらしいじゃないか。それを聞いた時は流石に耳を疑ったぞ」

 

「それだけじゃないわよ。部屋着も持ってなかったから、普段はシャツと下着だけでスカートさえ履いてなかったんだから」

 

「やはり初風が居ないと駄目な人間じゃないか?」

 

「物理的にはね。さっきも言ったようにメンタルの問題よ。あの子、全部自己完結しちゃってるし、そもそも人間的な欲求が希薄なのよ。自分のことにはとにかく無頓着なの」

 

「それでいて任務は貪欲に遂行し、二水戦の誰よりも報酬を稼いでいる、か。家庭の事情が絡んでいるにしても、どこか歪だな」

 

「最初は家族のために自分を犠牲にしているんだと思ってた。任務を選り好みしないのも、心の底では家族を愛しているからだと思ってた。……でも、今日の様子を見てたら、違うって気づいた」

 

「どういうことだ?」

 

「ユキは、家族を憎んでいる。ううん、そんな単純なものじゃない。きっと家族だけじゃなく、自分自身も。わかっちゃったのよ。あの子が色んなことに無頓着だったり、危ない任務も簡単に受けちゃうのは、金を節約したいとか、稼ぎたいとかじゃない。……死にたがっているからだって」

 

「………」

 

 まさか、と磯風は呟きかけた。

 

 しかし、ちょうどその時、店の扉が開いて新たな客が入ってきたので、磯風の注意はそちらに向けられた。

 

 入ってきたのは若い男たちの集団だった。きっと観光客だろう。数は全部で九人。彼らはダーツに興じている浦風たちの姿を見つけるとヒューと口笛を吹いた。

 

「カワイイねえ、君たち学生でしょ?」

 

「未成年? え、違うの? マジで?」

 

「俺たちもゲームに混ぜてよ。いいでしょ、俺、得意なんだよ。なんなら教えるよ」

 

 数人の男たちがさっそく浦風たちに絡みだす。

 

 しかし今のところは陽気な若者たちによくあるノリだ。浦風たちも邪険な態度は見せず、適当に話を合わせてダーツを楽しんでいた。

 

 磯風は、初風に視線を戻した。

 

 初風の手元のグラスは既に空だった。いつの間に頼んだのか、新たなカクテルが初風の前に差し出され、彼女はそれを呷るように飲んだ。

 

(おいおい、このペースは拙いんじゃないか?)

 

 嫌な予感がし始めた磯風を余所に、初風は語気を荒げた。

 

「ユキは馬鹿よ!」

 

「いきなりどうした?」

 

「あの子の戦い方はあんた達も知ってるでしょ! どんな戦場でも生き延びちゃう、あの子の実力!」

 

「そりゃ知っているが……それより初風、ちょっと声を落とせ」

 

 店内の男たちの目が磯風たちの方に向けられたのが分かった。しかし初風は構わず続けた。

 

「ユキは生き延びたくて戦っているんじゃないのよ。死んでも構わないって無意識に思っているから、戦場で何の躊躇いもなく戦えるの。それが分かっちゃったのよ!」

 

「そうかもしれんが、それはともかく落ち着け。“秘”に近いことを口走っているぞ!?」

 

「私、そんなの嫌よ! ユキを失いたくない! 守りたいのに!」

 

「初風――」

 

「どうしたの彼女ぉ? 泣いてんのぉ?」

 

 若い男が無遠慮にカウンターに押しかけ、初風の隣に座った。

 

 さらにもう一人、磯風の隣にも男が座って身を寄せてきた。

 

「ケンカでもしちゃったのかな~。仲良くしようよ。ほら、俺が酒を奢ってあげるからさぁ」

 

 磯風は、この男たちが素面じゃないことに気づいた。この店に来る前からかなり飲んでいたと思わしき酔い具合だった。

 

 初風の隣の男が、手にしていたグラスを彼女に進めてきた。

 

「ほらほら、これでも飲んで落ち着きなよ」

 

「誰よ、あんた?」

 

「女の子が泣いていたら放っとけないじゃん。あ、これ水だよ。ただの水~」

 

 男がグラスを初風の顔に近づけた。

 

 透明な液体だが、強いアルコールの匂いが初風の鼻を突いた。恐らく度数の高いスピリタスだ。さらにグラスの底には白い錠剤が溶け残っていた。

 

「ほらほら、これ飲んだらスッキリするからさぁ」

 

 にたにたと好色な笑みを張り付けた男を、初風は睨みつけた。

 

「どっか行ってよ。私いま、機嫌が悪いの」

 

「いいじゃんいいじゃん、飲みなって」

 

 無理やり口元に近づけられたグラスを、初風は払い退けた。男の手からグラスが跳ね、その中身が男の顔にぶちまけられた。

 

 男がわっ、と声を上げて席から立ち上がり、磯風の隣の男がそれを見て大声で笑った。

 

「お前いきなりフラれたてやんの。ウケる」

 

「おいおいひどくね?」

 

 薬物混じりの酒に濡れた男がヘラへラと笑いながら初風に再び迫った。

 

「俺、慰めようとしてたんだぜ? なのにこの扱いはマジひどくね? 服も酒臭くなっちまったしさあ、どうしてくれんの、あ?」

 

「水」

 

 初風は店のマスターから水の入ったコップを受け取った。

 

「あ、聞いてんの? あ? ――ぶぁっ!?」

 

 男は顔面に水をぶっかけられ、再び席から飛び退いた。初風はそんな男に目もくれず席を立った。

 

「磯風、帰るわよ。ここは雰囲気が悪いわ」

 

「あ、ああ」

 

 だが、そうはいかなかった。

 

「まてオラぁッ!」

 

 水をかけられた男が初風の肩を乱暴に掴んで引き留めた。

 

「こんな真似してタダで済むと思って――ででえでで!?」

 

 男の言葉が急に悲鳴に変わった。初風が、肩を掴んでいた男の指を無造作に握り、間接とは反対方向に捻り上げたのだ。

 

 初風は男の手をか自分の肩から引き剥がすと、男の指を掴んだまま、その手首を外側に向かってさらに容赦なく捻った。

 

「ぎええっ!?」

 

 男は手首を襲う激しい痛みから逃れようと、捻られた方向に自ら床を転がった。

 

 その様子に、盛り上がっていた店内が静まり返り、全員の視線が初風に集まった。

 

 浦風たちが「あちゃあ」と頭を手をかけた傍らで、男たちの顔から笑みが消えた。

 

 初風は床を転がった男から手を離すと、マスターに向かって「お勘定」と平然と告げた。

 

 マスターにカードを渡し支払いの手続きを済ませている間に、初風と磯風の居るカウンターに、浦風、浜風、谷風も集まってきた。

 

「あののぉ初風、ちいとこの雰囲気は拙うないけえの」と浦風。

 

「何があったかは存じませんが、もう少しこう、手心というか」と浜風。

 

「兄ちゃんたち、怖ーい目をして谷風さんたちを取り囲んじゃってるよ」

 

 と、谷風の言葉通り、カウンターに集まった艦娘たちを、男たちが取り囲んでいた。しかし初風は周りの様子になど目もくれず、淡々と支払いの手続きを終えようとしていた。

 

 男たちの不穏な様子にマスターが不安そうな顔をしながらカードを返す。初風はそれを受け取ると、扉へ向かって歩き出そうとした。

 

 だが当然、すぐ目の前には男たちが立ちはだかっている。

 

「邪魔よ」

 

 初風の言葉に、目の前の男は口の端を歪めた。

 

「こんな舐めた真似されて帰す訳ねえだろ。ほら、席に戻れや」

 

 男が初風を突き飛ばそうとした手を、初風は弾いた。

 

「汚い手で触らないでよ。ぶつわよ」

 

「ぶつだぁ!? ひははっ、できんのかよ。何様だこのガキ!」

 

 激昂した男が初風めがけて拳を振るった。

 

 だがその力任せの大ぶりなパンチが当たるよりも早く、初風のしなやかな平手が男の頬を強かに張った。

 

 スパアァン、と小気味の良い音と共に、男の上体が傾いた。

 

「て、てっめぇ…!?」

 

 男はまたすぐに殴り掛かろうとしたが、今度は反対側の頬を平手で打たれた。

 

「あぐぇっ!?」

 

 それでも男はまだ初風に向かおうとしたが、次の瞬間、その両頬に立て続けに激しい音が鳴り響いた。顔面を真っ赤に腫れさせた男は、呆然とした顔で尻もちをついた。

 

 初風はそれを一瞥した後、周りの他の男たちを見渡した。

 

「次は殴るわよ」

 

 淡々としたその言葉に、男たちは一瞬気圧され、後ずさった。取り囲んでいた輪の間隔が緩み、通り抜けられるだけの隙間ができる。

 

 様子をうかがっていた磯風はその雰囲気の変化に、心中でひそやかに安堵の息を吐いた。

 

(初風が手を出したときはどうなるかと思ったが、これ以上はエスカレートし無さそうだな――)

 

「情けない連中ね」

 

 そう口を開いたのは、初風だった。彼女は服のポケットから白手袋を出し、それを手に嵌めながら言った。

 

「女相手にイキったくせに、ビンタされた程度でビビったの? どいつもこいつもとんだ玉無し野郎ね。この後はどうするの? 泣いて帰ってママにでも言いつけるのかしら?」

 

 その明らかな挑発に、磯風は目を剥いた。

 

「バカ、初風、やめ――」

 

「ぶっ殺してやらぁ!!!」

 

 磯風の静止は間に合わず、男たちの怒声にかき消された。

 

 獣の顔つきになった男の一人が初風に飛び掛かる。初風は白手袋を嵌めた拳を、その顔面に向けて放つ。鋭いジャブのカウンターパンチが男の鼻っ柱に命中し、鮮血が飛び散った。

 

 初風はさらに仰け反った男の胸板を蹴りつけ、その身体を背後にぶっ飛ばした。

 

 男の身体が店内のテーブルや椅子を巻き込みながら転倒し、店内に激しい音が響き渡る。

 

 それが戦いのゴングとなった。

 

 他の男たちが、初風以外の艦娘たちにも襲い掛かってきた。磯風のすぐそばに居た身長の高い男が、その上背を活かして覆いかぶさるように目前に迫りくる。

 

「チィッ!」

 

 磯風は舌打ちしつつ、自分より頭二つ以上は高い位置にある男の顎を、真下から掌底で打ち上げた。

 

 男が仰け反ってがら空きになったその鳩尾めがけ、流れるように肘打ちを叩き込む。男は身体をくの字に折り曲げて膝を付いた。

 

「こうなったら仕方ない。やるとなればこの磯風、容赦はせんぞ!」

 

 谷風にも男が体当たりを仕掛けてきた。

 

「よっと」

 

 谷風が傍のカウンターに飛び乗って、飛び込んできた男をかわした。

 

「いいんだね、やっちまうよ!」

 

 その細くしなやかな脚が円弧を描き、男を蹴倒した。

 

 浦風は、その豊満な胸に延ばされてきた腕を掴み取った。

 

「こぉら、どこ触ろうとしとるんじゃ!」

 

 そのまま腕を極め、床に組み倒す。

 

 その浦風に、さらに別の男が横から襲い掛かってきた。組み敷かれた仲間を救おうというのか、その男が浦風めがけ乱暴な蹴りを放つ。

 

 そこへ浜風が割り込んだ。

 

「守り抜きます!」

 

 浜風の両手が男の前蹴りを掴み取り、その足を高々と持ち上げると同時に軸足を払った。男の身体が一瞬、宙に浮き、背中から床に叩きつけられた。

 

 しかし数は男たちの方が上だ。間髪おかず別の男たちが艦娘たちに襲い掛かる。

 

 磯風が相手の拳を避けながら掌底と肘打ちを叩き込み、谷風がカウンターからテーブルへと跳び回りながら追いかけてきた男たちを蹴り倒す。

 

 浦風は組み敷いていた相手からいったん手を離して立ち上がると、新たに襲い掛かってきた男の腕をつかむと同時に足払いをかけ、倒れたままの一人目の男の上に、その男を引き倒した。

 

 そうやって一人目の男を下敷きにしたまま、二人目の男の関節を極め組み敷いた。

 

 浜風は、動きが制限されている浦風の傍に立って、襲い掛かる男たちを合気道の要領で次々と突き飛ばし、投げ飛ばす。

 

 そして、初風は――

 

「ほら、どうしたの。これで終わりなんて言わないわよね」

 

「このメスガキャぁっ!!」

 

 叩きのめされた男が煽られるままに立ち上がり、初風に襲い掛かった。しかし、初風の顔面めがけ放たれた拳は空しく宙を切り、男は勢い余って前方につんのめった。

 

 初風はその足元を払うと同時に男の後頭部に手を添え、近くにあったビリヤード台めがけその顔面を思いっきり叩きつけた。

 

 初風は男から手を離すと、すぐさま背後へ振り向いた。背後から迫ってきた男に、振り返りざま下段回し蹴りを放ち、相手の向う脛を蹴りつける。

 

 向う脛を蹴りつけられ足を止めた男の股間めがけ、初風は今度は膝蹴りを打ち込んだ。

 

 股間をつぶされ声にならない悲鳴を上げた男に目もくれず、初風は傍に迫っていたまた別の男の顔面に拳を叩き込んでいた。

 

 店内に暴力の嵐が渦巻いていた。数秒ごとに男たちがテーブルや椅子を巻き込みながら倒れこみ、グラスや酒瓶が粉々になって砕け散る。

 

 どの男たちも、殴られ、蹴られ、間接を極められ、床を這い、酷く惨めな有様に成り果てていた。

 

 しかしそれでも男たちはすぐに立ち上がって襲い掛かってきた。やられればやられるほど、男たちの獣性は猛り狂い、もともと薄かった理性がかなぐり捨てられていく。

 

 そもそもこの九人の男たちは、先日、あの立入禁止のビーチで乱痴気騒ぎに興じていた若者たちだった。

 

 あのとき突如現れた裸身の美女。その異様な存在感と美しさ、そして恐怖によって、彼らはあの夜の記憶が曖昧になっていた。

 

 美女が去って行ったあと、ハッと気を取り戻した男たちと女たちは、己の意思とは無関係に射精してしまった者や、男の一人が行方知れずになっていること、そしていまだ止まらぬ身体の震えによってパニックに陥り、半裸のまま海岸から逃げ出していた。

 

 その後、女たちは全員ヒステリーに陥り、男たちの制止を振り切って島から出て行ってしまった。

 

 男たちは島に残った。しかし別に消えた仲間を探そうとか思ったわけでは無い。単に予約していたホテルの滞在日程が残っていただけだ。

 

 だからある程度の落ち着きを取り戻した男たちは、女の居ない無聊を託つため、そして身の内に巣くい続けるうすら寒い恐怖を忘れるため、昼間から街へ繰り出して浴びるように酒と薬物におぼれていた。

 

 今夜、このバーへ来たのも、裏で薬物を売ってくれる店だと聞きつけてやってきたのだ。そんな場所に若い女たちも居た。そうなればこの男たちが本能のままに振る舞うのは必然だった。

 

 理性が消え、狂った獣のように暴れる男たちは、どれだけの痛みと苦しみを与えても怯まなかった。男の体力と腕力にものを言わせ力任せに襲い掛かり続けていた。

 

 これで相手が普通の女性だったなら、どれだけ抵抗しようとも為す術もなく獣たちの牙の餌食になってしまっただろう。

 

 しかし、彼女たちは艦娘だった。それも二水戦の艦娘だ。死を日常とする戦士たちとたかが獣たちでは、住む世界が違う。

 

 殺すか、殺されるかの世界に身を置く艦娘たちは、男たちを制圧することにほとんど躊躇いをみせなかった。強いて言うなら死なない程度にほんの少し手心を加えた程度だ。

 

 逆に言えば、相手が死にさえしなければ、重傷を負わせることに何の呵責も無かった。

 

 顔面を殴り、股間を潰し、腕を圧し折った。男たちが絶叫しようとも初風たちは手を緩めなかった。彼女たちにとって後先のことなどは、戦闘を生き延びてから考えることだった。

 

 そう、生き延びてから……

 

(…ユキ……)

 

 生き延びたところで、傍らに雪風が居なければ意味が無い。戦闘の最中だというのに、初風はそんな後先のことに想いを囚われていた。

 

 初風自身、二水戦に来たのは金を稼ぐためだった。雪風と同じだ。いや、二水戦の艦娘たちは皆そうだ。

 

 でも、いつしか二水戦に居る理由が、雪風のために変わった。雪風と一緒に居たい。そのために生き延びたい。ともに未来へ進みたい――

 

 ――目の前で男が、長い棒を振りかざして襲い掛かってきた。ビリヤードのキューだ。細長くしなやかな木の棒がうなりをあげて振り下ろされた。

 

 これが頭にでも当たれば重傷は間違いないだろう。下手をすると死ぬかもしれない。

 

(私が死んだら、ユキはどんな顔をするかしら…?)

 

 振り下ろされたキューを紙一重でかわしながら、初風はそんなことを思った。

 

(きっと泣くわ。バカバカって子供みたいに私のことを罵りながら、冷たくなった私を抱きしめてくれるの。そして、それからはずっと私のことばかり考えながら落ち込み続けるんだわ)

 

 その妄想は切なく、けれどどうしようもなく甘美だった。雪風の心をずっと捕え続けるなんて、なんと罪作りな最期だろう。

 

「あはっ!」

 

 そんな妄想に酔いしれながら、初風は拳を振るった。キューを振り回していた男が、鼻血を噴出しながら仰け反った。

 

「どうしたの! この程度なの!? もっとかかってきなさいよ!!」

 

 初風が助走をつけ、仰け反った男めがけ飛び蹴りを放ち、その身体を壁に叩きつけた。

 

「私を殺してみなさいよっ!!」

 

「やってやらぁ!!」

 

 別の男が大きなガラスボトルを叩き割り、その鋭利な断面を初風に向けて突き出してきた。

 

 初風はそのガラスボトルをかいくぐると、その足元に滑り込み、男の足を蹴り払った。

 

 すかさず立ち上がった初風は、仰向けに倒れた男の鳩尾めがけ、高々と上げた足を振り下ろし、踏みつけた。

 

「ぐげぇっ!?」

 

 足の下で男が潰れたカエルのようなうめき声をあげた。

 

 初風にまた別の男が襲い掛かる。初風は足下の男を踏みつけたまま、それを軸足にして回し蹴りを放つ。そのつま先が相手の顎を奇麗に捕え、昏倒させた。

 

 しかしその時、足下の男ががむしゃらにもがきだし、蹴りを放った直後の初風はバランスを崩して背中から転倒してしまった。

 

 足下の男がすぐさま身を起こし、倒れた初風に躍りかかった。初風は避ける間もなく、男に馬乗りにされてしまった。

 

 男は初風の下腹部辺りに体重をかけて腰を下ろし、両太ももで初風の上体をがっちりと挟み込んで固定した。初風を見下ろすその顔に、醜悪な笑みが浮かんだ。

 

 その目が、お前を犯してやる、と吠えていた。犯しながら、殴り殺してやる、と。

 

 固く握りしめられた拳が、初風の顔面に横殴りに叩きつけられた。こめかみから片頬にかけて衝撃と激痛が走り、視界がぼやけた。

 

 男がまた殴ってきた。初風は咄嗟に腕を上げてガードを固めようとしたが、間に合わなかった。さっきとは逆のこめかみを殴られ、意識が一瞬、飛びかける。

 

(ユキ――)

 

 さらにもう一撃殴られ、鼻の奥が切れて血が口の中に溢れた。せき込み、口から血を吐き出した初風めがけ、男はさらに殴り掛かる。

 

(――ユキ――)

 

 腕でガードを固めても、男の力任せの拳はその上から容赦なくダメージを与えてくる。

 

(――私、死ぬよ。きっと惨めに死んじゃうんだ。ユキ、こんなバカな私を、あなたはどう思う?)

 

 押し倒され、殴られ続ける初風の脳裏に、雪風の姿が思い浮かんだ。いつものように少し困ったような顔をして笑う雪風の姿。

 

(――あぁ、そうだ)

 

 初風は悟った。自分が死んでも雪風は変わらない。彼女はいつものように少し困ったような顔をして――そして心の底ではいつだって寂しそうに泣いているような顔で、初風の死を見送るだけだ。

 

 それが多くの仲間の死を、そしていつか訪れる己自身の死を見つめ続けてきた雪風という艦娘なのだ。

 

「バカみたい」

 

 殴られ続けながら、初風はぼそりと呟いた。こんな下らない喧嘩でボロボロになって、死にかけて、そんなことで雪風の心に残れるなどと思ったなんて。

 

「ホント……バカみたい」

 

「誰がバカだ、黙れやこらぁ!」

 

 初風の呟きを耳にした男が、さらに力を込めて殴ろうとその拳を大きく振り上げた。

 

 それが振り下ろされる前に、初風は口の中に溜まった血反吐を、唇をすぼめて男めがけ吐きつけた。

 

「うわっ!?」

 

 男の目に血反吐がかかり、その視界を一瞬奪う。男が目元を拭おうとしたとき、初風はその首めがけ腕を伸ばし、男の喉仏を掴み、爪先を突き立てた。

 

「ぐげぇっ!?」

 

 喉仏をちぎらんばかりに力を込める初風に、男は呼吸困難と激痛に襲われ苦悶に身をよじった。

 

 男の態勢が崩れ、横に倒れる。初風は馬乗りから解放されたが、喉から手を離すことなく、今度は逆に馬乗りになった。

 

 男が苦しみから逃れようと、喉仏を掴む初風の細腕に手をかけ、爪を立ててかきむしったが、しかし初風は微動だにせず喉仏を掴み続けた。

 

 男の顔面が蒼白になり、口から泡を吹き始めた。

 

 それでも初風は手の力を緩めない。見下ろすその目には冷たい光が宿り、感情の揺らぎはその奥底に沈んで、無機質な殺意だけがそこに残っていた。

 

 初風は考えることを止めていた。雪風のことも、自分のことも、男の生死すら眼中になかった。ただ戦場で叩き込まれた殺戮本能に身を任せ、男の喉を潰そうとしていた。

 

 男の目が血走り、白目を剥きかけた時、初風は自分に向かって駆け寄ってくる気配を察知した。

 

 その気配が拳を放ってきたことに気づき、初風は反射的に男の喉から手を離し、目前に迫っていた相手の拳を捌いた。

 

 そのまま流れるようにカウンターパンチを放ったが、今度はそれを相手に捌かれた。

 

「!?」

 

 一分の隙も、無駄も無い相手からの拳が、初風の鳩尾に突き刺さった。

 

「ごふっ!?」

 

 その衝撃と苦悶に初風は上体をくの字に折り曲げた。

 

 相手は拳を突き立てたまま、さらに踏み込みを強め、そのまま拳を振りぬいた。初風の身体が浮き上がり、宙を飛んで壁まで叩きつけられた。

 

「…くぁっ!?」

 

 初風はすぐに立ち上がろうとしたものの、腹の底からせり上がってきた苦しさに耐え切れずに膝を折り、四つん這いになって床に反吐をぶちまけた。

 

 これまでの男たちからの攻撃とは比べ物にならないほど重い一撃だった。

 

(――何者?)

 

 立ち上がろうにも足腰に力が入らない。かろうじて見上げた視界に映っていたのは、

 

(女?)

 

 自分たちよりかは少し年上のような、栗色の髪の女だった。その女の獣のような眼光が、這いつくばる初風を見下ろしていた。

 

 獣、といっても男たちとは格が違う。連中はせいぜい獣(けだもの)だ。だがこの女は違う。本物の獣(けもの)、生態系の頂点に立つ強者の目。そう、それはまるで獰猛な熊のような――

 

「ヴぉおおおお!!!」

 

 女が咆哮を上げ、跳んだ。

 

 それはほんの一瞬の早業だった。店内で乱闘を続けていた磯風、谷風、浦風、浜風の身体が跳ね飛ばされ、初風と同じように壁に叩きつけられた。

 

「てめえら! 他人様の島に来てケンカおっ始めるとはいい度胸だクマ! この球磨がまとめて相手してやるからかかってきやがれ!! …だクマ」

 

 店内全てを圧する女の声に、残っていた男たちも戦意を喪失し、へたり込んだ。

 

 もはやその女以外に立っている者は誰も居なかった。荒れ果てた店内に立つのは、球磨と名乗った女ただ一人……

 

 ……いや、もう一人現れた。

 

「球磨さん、その程度でもう十分でしょう」

 

「球磨はまだ全然物足りないクマ。でも白雪が言うなら仕方ないクマ。今夜はこの程度で勘弁してやるクマ」

 

「ありがとうございます」

 

 出入り口の扉から悠然と入ってきたのは、初風と見た目は同世代の少女だった。だが、その纏っている雰囲気は少女のそれではない。

 

 彼女は荒れ果てた店内の様子に眉一つ動かすことなく、初風に目を向けた。

 

 艦娘だ、と初風は気づいた。軽巡・球磨と、駆逐艦・白雪。どちらも十年越えのベテランだと聞いたことがある。

 

「初風さんですね」

 

 白雪から掛けられた言葉は、問いかけではなく確認だった。穏やかながら有無を言わせぬ圧力を含んだ声に逆らえず、初風は黙って頷いた。

 

「騒がしかったので何事かと覗いてみれば、まさかあなた達だったとはね。……帰りますよ。その場に立ちなさい」

 

 それは命令だった。しかし序列が上の艦娘、しかも自分たちを力で制圧した者たちを相手にしては、もう従うより他になかった。

 

 初風、そして磯風たちは、まだ力の入り切らない足腰に気力だけを込めて何とか立ち上がり、白雪と球磨の後を追って、身体を引きずるように店を出た。

 

 後に残されたのは、かろうじて命ばかりは取り留めた九人の男たち。

 

 男たちの苦悶のうめき声や、痛みに耐えきれず泣き喚く絶叫が響き渡る店に、パトカーと救急車のサイレンが徐々に近づきつつあった。

 

 

 

 

 

 

 




次回予告

 託宣が予言した戦いの時が迫りくる。

 遠方より来たるは深海棲艦の大艦隊。さらに隣国からは巨大兵器が出港する。

 その全ては新たな姫君への貢ぎ物なり。

次回「第二十六話・出撃前夜」

魔鈴「殲滅せよ。それが命令だ。死んでこい、二水戦!」

初風「ユキ…一緒に死のう?」


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第二十六話・出撃前夜(1)

 あの酒場の乱闘から一夜明けた朝。南方警備艦隊司令部の地下指令室で、大スクリーンを前に直立不動の姿勢で固まっている二人の司令の姿があった。

 

 警備艦隊司令・海尾 守と、二水戦司令・郷海 隼人である。それぞれの傍らには秘書艦である叢雲と神通の姿もあった。

 

 彼らが緊張の面持ちで見守るスクリーンに映っていたのは、統合幕僚本部作戦部長・野木 魔鈴だ。

 

 彼女はスクリーンの向こうから海尾と郷海を睨みつけながら言った。

 

『話は聞いた。男九人と乱闘し、全員を病院送りにしたそうだな』

 

「そんとおりでごつ」

 

『バカ者どもが』

 

 不機嫌そうな顔を見せる魔鈴に、郷海は不動を保ったまま答えた。

 

「申し開きんしようがあいもはん。おいの監督不行き届きやったとです」

 

『そのとおり。お前が甘いから部下の艦娘たちもぬるくなるのだ。ケンカを売られて病院送りで済ますだと? バカ者め。敵は生かして帰すなと教えたはずだ』

 

「ハッ!」

 

「は?」

 

 間髪入れずに答えた郷海の横で、海尾は間の抜けた声を上げてしまった。今、この山賊は何と言った?

 

『立ち塞がるものは全て討て。私はそう教えたはずだ。相手が民間人であろうと味方であろうと、敵意を向けてきた者は全て敵だと教えたはずだ。それがどうだ。たかがヤク中アル中の若造どもに手こずりおって。格技訓練をサボっていたんじゃあるまいな』

 

「サボってはおりもはん。じゃっどん、おいの判断でチェストすっときはけしまん程度にせーと指示しちょりました」

 

『死なない程度だと? 勝手な指示をするな、バカ者め』

 

「ハッ!」

 

 二人の遣り取りを傍らで聞いて、海尾は頭が痛くなってきた。こいつらは冗談で言っているのだろうか。しかし冗談にしてもタチが悪いどころの話ではない。

 

 軍人が守るべき自国民に暴力を振るい重傷を負わせたなど、とんでもないスキャンダルである。たとえ相手の方が数で勝り、薬物とアルコールで正気を失った男たちであろうとも、自国民であることには変わりないのだ。

 

 たまらずに海尾は口を開いた。

 

「お言葉ですが准将、これはれっきとした服務事故、暴行事件です。地元警察も彼女たちが艦娘であることは掴んでおり、身元照会の要請が我が警備艦隊にも来ております」

 

 二水戦の艦娘に関する要請がどうして自分にくるのだろう、と釈然としないものを感じながら海尾は言った。

 

 まあ二水戦は秘密部隊なのだし、この島で艦娘がらみの事件が起きればその責任者は表向き海尾しか居ないから当然ではあるが、それでもとばっちり以外の何物でもない。

 

 しかし当事者二人がこんな調子なので、海尾の声の調子もついつい非難がましくなった。

 

「作戦実施間際とはいえ、民間人が絡む事件を起こした以上、警察からの要請を断る訳にはいきません。憲兵隊が間に入るにしても作戦への影響は避けられないでしょう。しかし起きてしまったことは仕方ありません。ここはいったん作戦を延期することを進言します」

 

『却下だ。作戦は予定どおり実施する。警察の要請なんぞ無視しろ』

 

「なんですって!?」

 

『無視しろと言ったんだ。いいか、二水戦などという部隊はこの世には存在せんのだ。存在しない連中は事件を起こせんし、逮捕もできん。――安心しろ。とっくに情報部がもみ消しに動いている』

 

 魔鈴はそう言って口の端を吊り上げたような顔で笑った。その笑みも、やってることも悪党以外の何者でもない。

 

 とんでもない連中と関わりを持ってしまった。と海尾は己の人生を嘆いた。

 

 スクリーンの向こうで魔鈴が豪快に笑った。

 

『海尾よ、たかだかケンカ一つでそんな情けない顔をするな。これから始まる作戦に比べればこんなことは些事に過ぎん』

 

「軍人が自国民を傷つけることを些事とされては、私の部下に示しがつきません」

 

『生真面目な奴め。だがまあ、お前たち警備艦隊はそれでいい。しかし二水戦は違うのだ。国家国民のためではなく、どこまでも己のために戦い、己のために死ぬ。そういう連中を私が集めた。……明日無き部隊で命を棒に振ろうというのだ。今日限りの人生を好きに生きられるよう図らうのが私の責務さ』

 

 これ以上の反論は許さん、とでも言うように魔鈴はすぐに郷海へ視線を向けた。

 

『郷海、艦娘どもに伝えておけ。ケンカを買ったのはよくやった、とな。ただし次は手を抜くなともクギを刺しておけ。もっとも、次があればの話だがな』

 

 そう言ったとき、魔鈴の顔からは笑みが消えていた。

 

 次があれば、という言葉は単なるケンカの機会という意味で言った訳では無いのだろう。と海尾は察して、胃の底がズンと重くなった。二水戦には死の匂いが立ち込め過ぎている。

 

 魔鈴が再び海尾と郷海を交互に眺めながら言った。

 

『情報部が、大鉄塊の出港が迫っているとの報告を上げてきた。行先はやはり我々と同じJ海域だろう。隣国が何を企んでいるのか、そして深海棲艦がそれに対してどう動くのか、それらを知る重要な機会だ。だが同時に何が起こるか予測もつかん。総員、覚悟を決めておけ』

 

「ハッ!」

 

「…はい」

 

『話は以上だ』

 

 スクリーンから光が消えた。

 

 指令室に立ち込めていた緊迫感が消え、それで海尾は、叢雲と共にようやく息を吐くことができた。

 

 一方、郷海は神通と目を合わせると、お互いに頷き合い、そして、

 

「海尾司令、大変申し訳あいもはん!」

 

 二人はその場で跪き、海尾と叢雲に向かって土下座してみせた。

 

 額を床にこすりつけながら、神通が言った。

 

「今回の騒動は私たち二水戦の監督不行届きによるものです。しかし責任さえも取ることができず、このような形でしかお詫びできないことをお許しください」

 

 神通のその声も、そして背中も小さく震えていて、それを眺めていた叢雲は軽く肩をすくめながら、どうする? とでも言いたげに海尾に視線を投げかけた。

 

 海尾も軽くため息を吐いた。どうするもこうする、ここで彼らを糾弾したところでもう意味が無い。再発防止を約束させようにも肝心のトップがあれでは何の意味もないだろう。

 

 海尾が、打つ手なし、というように首を横に振ると、叢雲も目を伏せてため息を吐いた。

 

「郷海司令、神通さん、二人とも顔を上げてください」

 

「海尾司令…」

 

「私から言えることはありません。個人的には言いたいことは山ほどありますが、しかしそれは今ここで言うべきことじゃない。今は作戦を優先しましょう。……私たちの愚痴や不満は、作戦が終了した後でたっぷりと聞いていただきます。それでよろしいですね」

 

「お心遣い身に染み入っと。誠に申し訳あいもはん!」

 

「この汚名は作戦成功をもって命がけで返上させて頂きます!」

 

 二人はわずかに上げかけた顔を再び下げた。ゴツと床にぶつけた音が二つ鳴った。

 

 海尾はまた胃の底が重くなった気がした。命がけで汚名返上とは大仰だが、彼らなら文字通りやりかねない気がして、海尾は背筋がうすら寒くなり微かに身震いした。

 

 

 

 

 

 

 熱に浮かされた浅い眠りの中で、初風は息苦しさにもがいていた。重く閉ざされた瞼の下で意識は白い靄に満たされたかのように白濁としている。

 

 その白い闇に沈むように深い眠りへ付こうとするたび、殴られた箇所が熱と鈍痛を発してその邪魔をした。

 

 眠りに眠れぬ白濁の意識の中で、初風は時折、ぼんやりとした人影をその視界に認めた。それはもやもやとしたシルエットでしかなかったが、初風はそれを雪風と信じて疑わなかった。

 

「ユキ…――」

 

 その名を呼びながら手を伸ばすと、向こうも手を伸ばして初風の手を取ってくれた。優しい感触に手を包まれ、初風はすがるようにその手を握り返した。

 

 相手は――雪風は、空いている方の手を初風に向かって差し伸ばす。きっと濡れタオルだろう、殴られ腫れあがった顔に冷たくひんやりとしたものが触れ、優しく拭われた。

 

「…ユキ……」

 

 手を包むぬくもりと、顔に触れる冷たさが心地よくて、初風はようやく安心したように深い眠りにつくことができた。

 

 初風の浅かった呼吸が規則正しいものに変わったのを認めて、白雪は安堵ともため息ともつかない息を漏らした。

 

 ここは鎮守府の一画にある宿直者用の仮眠室だった。

 

 昨晩、騒ぎを起こした二水戦の五人は白雪と球磨に連れられて帰隊した後、連絡を受けて待ち構えていた郷海と神通に事の次第を報告し、そしてそのまま、この仮眠室で待機を命じられていた。

 

 しかし球磨から受けた一撃がよほど堪えたのだろう、五人は一晩中ベッドでうめき声を上げ続けていた。

 

 特に苦しんでいたのは初風だった。朝を迎え、他の四人が別室で神通から説教を受けている今に至っても、初風はまだベッドから起き上がれる状態ではなかった。

 

 乱闘を止めた当事者のひとりである白雪も流石に気になり、こうして初風の様子を伺いに来て、ついでに軽く看病していたのである。

 

 濡れタオルで拭う初風の寝顔は痣だらけで腫れあがり、それは酷いものだった。

 

「まったくもう、女の子がこんな顔になるまでケンカしちゃいけないわ。こういうのはもっと気を遣ってやるものよ」

 

「同感だクマ」

 

 白雪が漏らした言葉に、ちょうど部屋にやってきた球磨が同意した。どうやら彼女も自分が殴り倒した子たちが気になったようだ、と白雪は薄く笑った。

 

 球磨はベッドで眠る初風の寝顔を見て、肩を軽くすくめた。

 

「素人に顔を殴られる程度の中途半端な実力で喧嘩なんかするからこうなるクマ。こいつらが別の部隊じゃなけりゃ、足腰立たなくなるまで鍛え直してやるところだクマ」

 

「もう既に足腰立たなくしちゃったと思うけれどね」

 

「もろい連中だクマ」

 

「次やるときはもう少し手加減してくださいね。作戦前に再起不能になられても困りますから」

 

「善処するクマ。けど、ぶっちゃけ死にさえしなけりゃ艦娘はやっていけるクマ。最低限、脳みそひとつあれば船体は動くクマ」

 

「理論的にはそうらしいわね。確か、どこかの国が実際にやってたらしいなんて噂もあったわね」

 

「真偽不明だクマ。ただ、ウチみたいに余裕のある国でなけりゃ、やっててもおかしく無いクマ」

 

「人権を尊重しながら戦争できるなんて、現代の私たちは幸運ね」

 

「生きてるだけで丸儲けみたいな環境はまだまだ残っているクマ。この国にだってな……クマ」

 

 球磨は目を細めて、初風の寝入った顔を見つめていた。と、その目が、白雪と繋いだ手に止まった。

 

「ところで、随分と懐かれたもんだクマ。さっき寝言で名前まで呟かれてるのも聞こえたクマ。昔の知り合いかなんかかクマ?」

 

「いいえ、昨晩が初対面よ。きっと誰かと間違えているんだわ」

 

「雪が付く名前は他に居ないクマ」

 

「二水戦に居たでしょ。ほら、確か雪――」

 

 白雪がそこまで言いかけたとき、仮眠室の扉が開かれ、ひとりの艦娘が姿を現した。彼女は室内に白雪と球磨が居るとは思っていなかったのだろう。二人の姿を認めて、慌てて姿勢を正して敬礼した。

 

「の、ノックもせずに失礼いたしました!? 二水戦所属、陽炎型駆逐八番艦・雪風です!」

 

「ふふ、噂をすれば影ね」

 

「はい?」

 

 手招きする白雪。その片手が初風の手を握っているのを見て、雪風はさらに目を丸くした。

 

(え、なんなのこの状況?)

 

 雪風の内心の疑問を見透かしたように、白雪は言った。

 

「寝ぼけて、私をあなただと勘違いしているのよ」

 

「私と?」

 

「寝言であなたの名を呼んでいたわ。ほら」

 

 白雪は初風の手をそっと外すと、そばに寄ってきた雪風の手を取って、初風の手と重ね合わせた。

 

「じゃ、後はよろしくね」

 

「は、はぁ…」

 

 ポカンとした表情を浮かべた雪風を残し、白雪は球磨と共に仮眠室を出て行ってしまった。二人が何を言っていたのか理解できないまま、雪風は、初風と二人きりで取り残された。

 

 初風の寝息は落ち着いていたが、その痣だらけになった顔に、雪風は胸をひどく締め付けられる思いがした。

 

(……私のせい、だよね)

 

 昨日、初風が気にかけてくれたというのに、雪風はそれを冷たく突き放してしまった。その雪風の態度が、初風を自暴自棄な喧嘩沙汰に駆り立ててしまったのだろうか。

 

「ごめんね、初風……」

 

 その痣だらけの顔に手を伸ばし、頬を優しく撫でた時、初風がうっすらと目を開けた。

 

「…ユ……キ……?」

 

「初風、よかった、目が覚めたんだね。気分はどう?」

 

 その問いかけに、初風ははじめ焦点が合わないうつろな瞳のまま雪風を見上げていたが、やがて頭の中の靄が晴れたのか、その瞳にはっきりとした感情を浮かべ始めた。

 

「ユキ……ユキぃ………」

 

 光が戻った瞳に、涙があふれて零れだした。

 

「ユキっ!」

 

「うわ!?」

 

 初風が突然上体を起こし、雪風に抱き着いてきた。雪風の胸に顔を埋め、初風は泣いた。

 

「ユキ…ごめんなさい、私…あなたにひどいことした……あなたのこと……本当にごめんなさい…!」

 

 泣きながら謝罪の言葉を重ねる初風に、雪風は困惑した。

 

「ちょ、ちょっと待って。どうして初風が謝ってるの!?」

 

「だって私……あなたに余計なことを言って傷つけて……それに私生活ボロボロだとか、死にたがってるとか、他にもいっぱいいっぱい酷いこと言っちゃったし…っ!」

 

 いったい何の話だろうか。雪風は初風を抱き留めながら首をひねらざるをえなかった。

 

 初風が嗚咽混じりに訴えたことはどれも面と向かって言われたことが無いものばかりだ。――いや、私生活ボロボロなのは否定しないし、言われたこともあるような気がするけれど――それよりなにより、謝るべきは初風をそこまで追い詰めた雪風自身であるべきだった。

 

 雪風は初風を抱く腕に力を込め、落ち着かせるためにその背中を優しく撫でた。

 

「初風、謝るのは私の方だよ。あなたの気持ちを考えずに突き放しちゃった。……あなたを追い詰めちゃった。……ごめんなさい」

 

「ユキ?」

 

「私のことを一番気にかけて、いつも一緒に居てくれたのはあなただったのにね」

 

 雪風は初風をそっと離すと、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったその顔を覗き込むようにして視線を合わせた。

 

「初風…まだ私のそばに居てくれる?」

 

「いいの? …ユキ、いいの?」

 

「うん。私は、あなたが居ないと駄目だから」

 

 主に生活面で、と言いかけたが、それは要らぬ誤解を招きそうなので慌てて喉の奥に飲み込んだ。

 

 初風がまた表情を歪め、雪風の胸に顔を埋めた。

 

「ありがとう、ユキ、ありがとう…。私、あなたのことを守るから。…絶対に守ってみせるからぁ……」

 

 背中に爪を突き立てんばかりに強く抱きつかれて雪風は息苦しさを感じたが、引き剥がすようなことせずに、初風の背中を子供をあやすようにポンポンと軽く叩き続けた。

 

 こんなにも取り乱した初風を見たのは初めてだったが、それだけ想われている証だと思えば、この息苦しさも受け入れるべきだと雪風は思った。

 

 同時に、自分の胸で泣く初風の姿に、昨日の自分自身の姿が重ね合わせて見えた。

 

 そう、雨の中、一つ傘の下で身体を寄せ合い、相手の胸に抱かれながら胸の内を全部さらけ出して泣いていた昨日の自分の姿が。

 

(――初霜さんから見た私も、こんな感じだったのかなぁ)

 

 そう思うと急に気恥ずかしくなってきた。まったく、私は初対面の人間相手になんて不躾な真似をしてしまったんだろう。

 

 でも、あの人は何もかも受け止めてくれそうな雰囲気を出していて、そして本当に全部受け止めてくれるものだから、こっちも際限なく甘えてしまいたくなってしまうのだ。

 

(うーむ、私、今日どんな顔して初霜さんに会えばいいんだろう?)

 

 昨日、仔猫の救出の後もさんざん一緒に居たくせに、今更こんなことを悩むのも変な話だけど、昨日は昨日で状況に流されて初霜との距離感を見失っていたというのも大きい。

 

 だけどこうして基地に戻り、同じ艦娘同士として、しかし違う部署の隊員として向き合うとなると話はまた別だろう。

 

 二水戦の一員として恥ずかしい真似はできないし、何なら初霜に対して格好いいところを見せたいなんていう見栄だってある。

 

 だけど初霜が雪風に対して抱いているイメージは間違いなく子供みたいに泣きじゃくっていたものであろうし、それを払しょくできないままに初霜の前で軍人として振舞うのはとても気恥ずかしかった。

 

 と、ひとりでそんなことを悶々と考えていたら――

 

「――ユキ」

 

 いつの間にか初風が泣き止んでいて、それどころか顔を上げてジト目で雪風の顔を覗き込んでいた。

 

「は、初風……どしたの?」

 

 雪風は急に後ろめたさを感じながら問いかけた。どうしてだろうか、目が勝手に泳ぎだしてしまう。

 

「ユキ……」

 

「は、はい」

 

「……くさい」

 

「はい?」

 

「煙草くさい」

 

「あ、はい」

 

 ああ、なんだそんなことか。雪風は内心で胸をなでおろした。確かに事件を知った昨晩から今朝にかけて気持ちを落ち着けるために、いつもより多くの煙草を吸っていた。

 

「ユキ、私が煙草の匂い嫌いって知ってるのに、どうして吸ってたの」

 

「えぇ~」

 

 なんだそのめんどくさい問いかけは。

 

「私だってなるべく吸わないようにしようと思ったよ! でも初風のことが心配で堪らなかったから仕方ないでしょ!?」

 

「う~……」

 

 半ば開き直り気味にそう言い返すと、初風はしばらく探るような視線で雪風を睨んでいたが、やがて納得したのか、顔を伏せ、再び雪風の胸に顔を埋めた。

 

「なら、許してあげる」

 

「あ、う…うん、ありがと…」

 

 なんだかよく分からんが良しとしよう。雪風は深く考えることを止めて、初風の背中を撫で続けた。

 

 もうしばらくこのままにしてあげてもいいだろう。雪風はそう思い、腕の中で初風をあやし続けた。

 

 

 

 

 

 

 出撃した海域は夜の闇に覆われていた。

 

 空は厚い雲に覆われ、土砂降りの雨が視界を遮っている。波は高く、艦首が波濤を割るたびに、飛沫というには多すぎるほどの大量の海水が前甲板を超えて舞い上がり、まるで滝のように艦橋へ降り注いだ。

 

 その艦橋の中、初風は暗視装置の感度を最大にして、暗闇の向こう側へ目を凝らしていた。探しているのは、先を進んでいるはずの雪風の船影だ。

 

 艦首真正面からわずかに右側に、微かに灯火が輝いているのを見つけ、初風はホッと胸をなでおろした。

 

 レーダーも通信も封鎖し、そして灯火すら必要最低限の数、それも暗視装置越しで互いの位置がようやく分かるギリギリまで光量を絞ったそんな状態で、全速力で航行しているのが今の状況だった。

 

 初風の目には雪風の艦尾灯しか見えていないが、そのさらに先には神通が陣形の先頭を航行しているはずだ。そして初風の後方には磯風、浦風、浜風、谷風が一列になってついてきているはずだった。

 

 艦と艦との距離は500ヤード以下(457メートル以下)、その速力は時速34ノット以上(時速約63キロ以上)。視界もほとんど無い悪天候下で、この距離、この速度で陣形を組んで航行しているというのは、空軍のアクロバットチームの曲芸飛行よりも危険な真似である。

 

 二水戦はそんな真似を戦場でやってのけていたが、しかし初風には自分たちの技量を誇っているだけの余裕は無かった。

 

 ここは生きるか死ぬかの戦場だ。どれだけ練度をあげようとも、弾が当たればそれで終わりである。自惚れている暇があるのなら、流れ弾に当たらぬよう祈った方がまだマシである。

 

(……祈る、か)

 

 こんなとき、自分はいったい何に対して祈りを捧げているのだろうか。と、初風はふと疑念を抱いた。

 

 神も仏もまじめに信じてはいないが、それでもふと気づくと、戦闘の最中、必死になって何かに祈り、すがろうとしている自分が居た。

 

 戦場で仲間が沈んでいくのを不運と憐れみ、そして自分が生き延びた幸運を何かに感謝しているときがある。生と死の境は薄皮一枚、その微かな境界線上を全力疾走しているとき、人は誰でも人知を超えた何かにすがりたくなるものらしい。

 

 神が居るからすがるのではない。すがりたい本能が神を生んだのだ。

 

 こんなことはきっと、本当は誰だって気づいて居るのかもしれない。でもそれを認めてしまうと、すがるものが居なくなってしまうから認められないのだ。

 

 神などいない、とうそぶいて撃沈されるよりかは、神を信じて数パーセントの幸運を祈る方が、精神的にはよっぽど楽だ。

 

 だけど――

 

 ――前方を進む雪風の艦尾灯が、急激に右方向へ流れ出し、初風も咄嗟に舵を右へ切った。直後、砲弾が風を切り裂く甲高い音が聞こえ、初風の左脇に水柱を突き立てた。

 

 深海棲艦からの砲撃が始まったのだ。

 

 雪風の艦尾灯のすぐそばでストロボ発光による高速モールス信号が瞬き、初風に電波管制の解除を告げた。敵にこちらの存在が暴露された以上、存在を秘匿する必要はもうないという事だ。

 

 先頭艦の神通から二番艦・雪風経由で伝えられた指示を、初風は同じように後方の僚艦へとリレー送信しつつ、彼女は己の船体に搭載されている全てのアクティヴセンサーを起動させた。

 

 水上・対空レーダーを起動した途端に、その画面は真っ白に染め上げられた。深海棲艦の重巡級もしくは戦艦級によるバラージジャミングだ。全方位に向けありとあらゆる帯域に渡り無差別に妨害電波を放つため、これを打ち破るには、より強力な出力――すなわち、こちらも重巡級か戦艦級による大出力レーダー波を放つしかない。

 

 しかし同時に、無差別であるがために深海棲艦側ですらその影響を受け、双方ともにレーダーを塞がれていた。そのためバラージジャミング下での戦闘は必然的に古き時代の海戦にも似た砲雷撃戦が主となっていた。

 

 だが全てが昔と同じという訳ではない。ジャミングの影響を受けているとはいえ、レーダーはまだまだ有効だ。敵から放たれた砲弾が至近距離に着弾したならば、その砲弾がどの方向からどれだけの角度と速度で飛来したかぐらいの識別はできる。

 

 それだけの情報が得られれば、敵の大まかな方向、距離、そして大砲の種別をサポートAIが判断してくれる。

 

 暗闇を単縦陣で駆け抜けながら、各艦は指向性の強いレーザーセンサーを前後の僚艦に向け、自分たちが取得した着弾情報を互いに共有する。こうやって複数の情報を整合することで、より詳細な敵の位置情報が判明する。

 

 砲撃してきた敵の規模は、恐らく駆逐艦が四~五隻。それが右前方から反航態勢で迫ってきていると予想された。

 

 初風はその方向に光学センサーと主砲を向けた。攻撃が許可されたなら即座に発砲できる態勢で、旗艦・神通の指示を待つ。

 

 しかし攻撃命令はなかなか下されなかった。

 

 神通のすぐ後ろに位置する雪風も発砲していないことから、指示を受信しそこねたわけでもないらしい。

 

 神通は反撃せずにそのまま敵とすれ違う針路を維持する。

 

 敵からの砲弾はその後数分間、周辺にまばらに落ち続けていたが、その着弾位置は徐々に遠ざかって行った。

 

(敵がこちらを見失ったのかしら?)

 

 おそらくそのとおりだろう。無差別バラージジャミングは敵味方問わず視界外の戦闘を困難にする。敵はある程度はこちらの位置を掴んでいたのだろうが、命中弾を与えるほど正確では無かったらしい。もしこちらが焦って反撃していれば、却ってこちらの位置を暴露してしまう結果になっただろう。

 

 神通が反撃を許可しなかったことで、結果としてこちらの正確な位置を秘匿したまま、相手の位置だけを得ることができた。

 

 神通は敵から遠ざかる針路をとり、そのまま敵と無傷ですれ違うと、妨害電場の発信源に向けて一気に舵を切った。

 

 各艦が受信している妨害電波の発信源を整合することで、その距離まで既に判明していた。

 

 算出された位置は、ここから約20海里(約37キロメートル)前方。発信源の方位変化は少なく、しかも電波の強度が徐々に上がってきていることから、このまま進めばほぼ衝突するコースでお互い接近していると判断できた。

 

 神通はそのまま突っ込んでいく。逆落とし戦法だ。通常の艦隊では普通やらない突撃強襲戦術である。視界がほとんど聞かない暗闇の中、荒れた海を34ノット以上の全速航行。艦首が高い波を砕き、艦橋に巨大な水の壁が幾度も衝突する。

 

 敵も恐らく30ノット以上で航行しているのだろう。その距離が一気に縮まっていく。砲戦の有効射程距離である10海里以内には後十五分程度で踏み込むはずだ。しかしこの暗闇では5海里以内に近づいても互いの艦影は見えやしない。まして揺れがひどく、この気象で、互いに動きまわっている状態で敵に確実に命中させるには、2.5海里(5000ヤード≒4600メートル)以内まで接近する必要がある。

 

 しかしそれは敵がこちらの接近に気づかず、バラージジャミングを続けていた場合の話だ。もし敵がこちらの接近を予想していたなら――

 

 

 ――その時、だしぬけにレーダーが復活した。敵がバラージジャミングを止めたのだ。初風の周囲30海里の状況が明らかになる。

 

 二水戦が居たのは、敵の大艦隊の真っただ中だった。脳裏に浮かぶレーダー画面上の前後左右に微弱な反応が夜空の星々の様に煌めいている。レーダー上では小型船程度の小さな影だが、それは深海棲艦の電波吸収能力のせいだ。実際はどれも全長100メートル以上の怪物たちだ。実際、神通が搭載している動体検知器からの情報によると、軽巡級の深海棲艦が十数隻、左後方からこちらに向けて急速に追いすがっているらしかった。

 

 僚艦とのデータリンクも復活したことで、より詳細な状況が明らかになってきた。既に最後尾の谷風が、後方の軽巡級から集中砲火を受けているらしかった。しかも被弾したらしく、その速力が目に見えて遅くなっていく。

 

 しかし神通は速度を緩めない。単縦陣のまま、艦隊中心にいる敵戦艦を目指し突撃を続ける。

 

 バラージジャミングが止んだことにより、四方八方からさらに敵が一斉に群がってくる。

 

 距離10海里を切った。レーダーが前方から高速小型目標の飛来を探知。敵戦艦からの砲弾だ。神通から「各個に回避運動しつつ突撃続行」の指示。各艦は陣形を崩し、一斉にジグザグ運動に移行する。初風の頭上を甲高い音が通り過ぎて行った。最後尾で谷風の足が完全に止まった。

 

 距離10海里。至近弾が激しくなる。浦風と浜風に四方からの攻撃が集中し、それを回避しているうちに、集団から離れてしまった。そのままはぐれてしまう。

 

 神通から指示が下る。

 

『ウェポンズフリー、対水上戦闘、攻撃はじめ。目標、敵戦艦。トラックナンバー8052。エンゲージ!』

 

『雪風エンゲージ!』

 

「初風エンゲージ!」

 

『磯風エンゲージ!』

 

 浦風、浜風からの復唱は無かった。谷風の反応は既に消失している。

 

 神通、雪風が敵戦艦の右側から。そして初風は磯風と共に左側から回り込む。主砲を発砲しつつ、SSSMを魚雷モードに切り替える。

 

 距離5海里を切った。敵の発砲炎が暗闇に輝いているのが見える。お互いにレーダー照準が可能とはいえ、全速力で動き回っていればそうそう当たるものでは無い。しかし、それでも、可能性はゼロではない。

 

 初風が回頭した時、たまたま視界に入った磯風の船体が、巨大な火柱に包まれたのが見えた。敵砲弾が命中したのだ。発射直前のSSSMに誘爆したのだろう。磯風は目もくらむような閃光を発しながら木っ端微塵に砕け散った。

 

 初風は閃光から目をそむけながらSSSMを全弾発射。すかさず反対方向へ舵を切り、離脱を測った。レーダーを確認すると、雪風も同じく離脱を開始していた。

 

 しかし神通は敵戦艦から離れる気配が無い。センサーを一瞬だけそちらへ向けると、船体の後方を沈めたまま砲撃を続けている神通の姿が見えた。あの状態でも舵どころか前進も後進もできないだろう。初風はセンサーを神通から外し、自分の針路上に意識を集中した。

 

 レーダー画面上から敵戦艦の反応が消えた。攻撃成功だ。だがそれ以外の敵は数えきれないほど残っている。初風は自分以外で唯一生き残っている雪風の姿を探した。

 

 雪風は初風から10海里程離れた場所を並走していた。初風は、このままそれぞれ単独で離脱するべきか、それとも合流するべきか迷った。

 

 合流すればこちらの火力は倍になるが、同時に敵の攻撃も一か所に集中することになるだろう。

 

 だが今の状況は、雪風に向かっていく敵の方が数が多く、その分、初風の周囲の敵が薄くなっていた。このまま雪風を囮にすれば、初風だけは離脱することが可能だ。

 

 であれば、二水戦の艦娘として取るべき選択肢は一つしかなかった。雪風もそれを察したのだろう。『我に構わず先に離脱せよ』との信号が初風に向けて発せられた。

 

 初風はその信号を受信し、すぐに決断して舵を切った。船体が反転し、雪風を襲う敵艦の一部に対し、背後から強襲する針路となった。

 

『初風、何してるの!?』

 

 雪風からの叱責を無視して、初風は雪風を襲う敵軽巡めがけ、主砲を斉射した。軽巡に命中弾が発生し、暗闇に爆炎が光る。しかしすぐに反撃の砲弾が四方から雨あられの様に降り注ぎ始めた。初風の周囲を取り囲むように、大量の水柱が乱立する。

 

 船体の中部から後部にかけて立て続けに命中弾を受け、激しい振動と共に速力が急激に低下する。火災警報と浸水警報がけたたましく鳴り響き、船体各所でダメコン妖精たちが炎と水流にもまれ機能を失っていく。

 

 機動力と戦闘力を奪われた船体に敵の砲撃がさらに降り注いだ。数えきれない砲弾に船体をずたずたに引き裂かれながらも、初風は、かろうじて機能していたレーダーから雪風の反応が消失したことを確認した。

 

 沈んだのだ、雪風が。

 

 ――大丈夫だよ、ユキ。

 

 艦橋付近で起きた爆発によって床に投げ出されながら、初風はうっすらと笑みを浮かべていた。

 

 ――最期まで一緒だよ。一緒に死のう、ユキ……

 

 深海棲艦が放った魚雷が船体の真下で爆発した。船体は中央から真っ二つに圧し折られ、艦首と艦尾を暗天に向けて高々と突き上げながら、一挙に海中へと引きずり込まれていった。

 

 二水戦最後の一隻が轟沈したことを受け、二水戦戦術AIは状況中止を宣言。各艦のサポートAIとのネットワーク上に展開していた仮想空間での演習シミュレーションを停止した。

 

 真っ暗になっていた初風の艦橋にも灯りが戻り、仮想空間を投影していた舷窓が透明になって現実の景色を透かせてみせた。

 

 そこは宮吉島鎮守府の岸壁だった。二水戦の六隻と、そして二十一駆の三隻はそこに係留された状態でそれぞれのサポートAIを地下のスーパーコンピュータに接続し、演習を行っていたのだ。

 

『初風!』

 

 演習を終えてホッと一息ついた初風の耳に、雪風の声が響いた。振り向くと、艦橋の一画に雪風のアイコンドールが出現し、彼女を睨みつけていた。

 

『どうしてあの状態で戻ってきたの!? あのまま進めば撤退できたのに!』

 

 非難する雪風に、初風は澄まし顔で平然と答えた。

 

「そうとも限らないわよ。あの状態じゃ単艦突破でも合流でも生還率は大して変わらないわ」

 

 半分は本当だが、もう半分は嘘だ。雪風のそばに向かって舵を切ってからは、生き残るつもりなど微塵も無かった。だけどその本音はおくびにも出さず、初風はなおも何かを言いかけた雪風を制して、神通に通信をつなげた。

 

「こちら初風。ただいまの演習の評価をお願いします」

 

『神通から各艦へ。作戦目的“艦隊中心の敵戦艦の撃破”は達成されたことから、戦術AIはただいまの演習結果をS評価と判断しました。司令はこれを受けて、次回作戦における所要の練度に達していると認めなされました。本日の訓練はこれにて終了します。以上』

 

 

 

 

 二水戦が停泊している岸壁から一つ隣の岸壁に、同じく演習に参加していた二十一駆の三隻――霞、朝霜、初霜――が係留していた。

 

 彼女たちは訓練終了の報を受け取ると、それぞれ船体を転送し、生身一つの姿で岸壁に戻ってくる。

 

 三人が揃ったところで、朝霜がさっそく口を開いた。

 

「全滅したのにS評価かよ。信じられねえぜ」

 

 呆れ口調の朝霜に、霞が頷いた。

 

「相打ちでも目標撃破したから良し。というのは、ちょっと引っかかる考え方ね。確かにさっきのシミュレーションの想定は厳し過ぎる難易度だったから、敵を撃破できただけでも大したものだけど」

 

 先の訓練では、二十一駆は戦闘には直接参加せず、戦域外で待機し、二水戦の撤退支援を担当していた。

 

 訓練は今回を含めて四度実施しており、今回以外の訓練では二水戦も撤退に成功していた。そのため二十一駆としても撤退支援の要領は掴んでおり、二水戦との連携も確立しているので問題は無かった。

 

 その上で、彼女たちは二水戦の戦い方に、他の艦隊と比べて違和感を覚えていた。そしてその違和感は、もっとも難易度が高い四回目の訓練に挑んだ時、より明確になった。

 

 三人の視線の先には、まだ係留中の二水戦の船体があった。それが一隻ずつ、光の粒子となって虚空へと消えて行き、ひとり、またひとりと艦娘たちが岸壁に戻ってくる。

 

「あの人たちは……」初霜が、近くの二人だけに聞こえるような声で囁いた。「……きっと、撤退することを考えていないんだわ」

 

「やっぱそうか」

 

「私も初霜に同意見ね。そもそも私たちの配備位置が二水戦から離れすぎているのよ。これじゃ支援しようにもしきれないわ。過去三回の訓練だって、二水戦がほぼ自力で撤退してきたようなものだったし」

 

「アタイたちが配備位置の変更を求めても、却下の一点張りだったしなぁ」

 

 朝霜の言葉に、霞が続けた。

 

「最後の訓練も退路の確保をまるで考慮していないような突撃だったし、二水戦司令は何を考えてあんな戦術を取らせたのかしら?」

 

 全滅前提の作戦なんて、クズの戦術よ。と、霞は小声でひっそりと呟いた。初霜はそれを耳にしながら、少し離れた位置にまだ係留していた神通の船体を眺めた。

 

 その神通から一人の男性が桟橋を渡って降りてきて、そのまま地下司令部の方へ向かっていく。二水戦司令の郷海 隼人だ。

 

 先に岸壁に戻っていた二水戦の艦娘たちが整列し、敬礼で司令を見送っている。そこに雪風の姿もあった。雪風は司令が去って行った後、隣に立っていた艦娘に対して、怒ったような表情で食って掛かった。

 

 声ははっきりと聴こえないが、どうやら何か揉めている様だ。

 

 初霜たちが近づいていくと、雪風もそれに気が付いて、ばつが悪そうな顔を初霜に向けた。

 

「雪風さん、どうかしたんですか?」

 

「は、初霜さん。いや別にちょっとしたことで、その、た、大したことじゃないんですよ。……あはは」

 

 雪風は照れ臭そうに笑いながら指で頬をかいた。その隣に居た相手の艦娘――確か初風だったはず、と初霜は思い出す――は、呆れたような表情で雪風を見たあと、その目を初霜に向けた。

 

(――睨まれた?)

 

 強い敵意にも似た感情が、初風の目に浮かんでいるように見えた。

 

(えっと、私、この人に何かしたかしら?)

 

 初風は戸惑いつつ考えてみたが、思い当たる節は無かった。先の訓練でも気に障るようなことはしなかったはずだし、そもそも何かをする機会すら無かった。ほぼ後方で見ていただけだ。

 

 じゃあ他に睨まれるような心当たりといえば……

 

(……もしかして、球磨さんの件かしら)

 

 確か初風は、昨晩のケンカ騒ぎで球磨に一番こっぴどくやられた艦娘だったはずだ。自業自得とはいえ、南方警備艦隊に対して複雑な感情を抱いたとしてもしょうがない。

 

 ……と初霜は勝手に納得して、初風の視線を受け流した。

 

 そんなことより、雪風の方に用事がある。

 

「雪風さん、この後、お時間ありますか?」

 

「へ? まあ、特に用事も無いですし、ヒマですけど」

 

「よろしければ、いっしょにお出かけしませんか?」

 

 初霜がそう誘うと、雪風は一瞬、呆けた表情を見せた。

 

「おでかけ……初霜さんとおでかけ!?」

 

 そんな驚くことだろうか。雪風の大袈裟な態度に苦笑しながら、初霜はその理由と目的を告げようとした。

 

「ええ、実は――」

 

「行きます! よろこんでお付き合いします!」

 

 いきなり距離を詰められ、手を取られた。目の前に雪風のキラキラと輝いた大きな瞳が迫り、その勢いに初霜は若干引き気味になってしまう。

 

「そ、そう? ならよかった。それで、どこに行くかなんです…けど――」

 

 その時、初霜は視界の端に映ったものを見て、思わず口を閉ざしてしまった。

 

 雪風の明るい表情の背後で、初風が血走った眼をして初霜を睨みつけていた。もはや般若の表情である。

 

(え、なに? 私なんかやっちゃいましたか?)

 

 殺気すら漂う初風の表情に思わず背筋に悪寒が走った。

 

 青ざめた初霜に対し、雪風が不思議そうに小首をかしげた。

 

「初霜さん、どうかしたんですか?」

 

 あどけなさすら感じさせる仕草はどことなく小動物的な可愛さがあるが、初霜はそれを見ている余裕は無かった。目を逸らしたら殺される。そんな予感さえしていた。ほんと、私が何をした?

 

 初風が雪風の背後から、つかつかと歩み寄り、雪風の肩を掴んだ。

 

「わっ!? は、初風? びっくりした」

 

「私も行くわ」

 

「え? ああ、そう?」

 

 雪風は戸惑いと若干の迷いを見せながら、初霜に伺うような目を向けた。

 

「か、構いませんよ」

 

 初霜も引きつった笑みを浮かべながら同意した。断る理由も無いが、それ以上に初風からの圧に耐えられなかった。

 

「で、どこに行くの?」

 

 と初風が冷たい目で問いかける。質問というよりまるで尋問だわ、と初霜は思う。というか、まずそれを先に確認すべきじゃないかしら。

 

 とりあえず目的を告げようとしたとき、それを遮るように海の方向から声がした。

 

「その外出は許可できません」

 

 そう告げながら海から上がってきたのは、神通だった。近くにいた磯風が咄嗟に「気を付け!」と号令をかけ、二水戦の艦娘たちが一斉に直立不動の姿勢を取った。

 

「初風、磯風、浦風、浜風、谷風の五名は、この後、私と一緒に体力錬成訓練を行います。……理由を言う必要はありますか?」

 

「「「「「ありません!」」」」」

 

 名指しされた五人が、不動の姿勢のまま、悲鳴にも似た声で返事をした。

 

「あの、神通さん。……私も」

 

「雪風さんについては外出を許可します」

 

 神通は穏やかな笑みを浮かべながら、初霜たち二十一駆に向き直った。

 

「色々とご迷惑をおかけしておりますが、どうかご勘弁を」

 

 神通から深々と頭を下げられてしまい、初霜たちは却って恐縮した。

 

「いえ、そんな」

 

「どうかウチの雪風をよろしくお願いします。……さて、皆さん」

 

 頭を上げた神通が、再び初風たちに向き直った。

 

「腕立て伏せ用意」

 

 淡々と言い放たれたその言葉に、初風たちは這いつくばるように、一斉に地面に伏せた。

 

「私がイチと言ったら腕を曲げ、ニと言ったら伸ばすこと。いいですね」

 

 その指示に、誰かが「ひっ!?」と小さく悲鳴を上げた。

 

「では始めます。…イチ」

 

 五人が一斉に腕を曲げる。

 

「………」

 

 そんな彼女たちを見下ろしながら、神通は沈黙を保っていた。

 

「ほ、ほら初霜さん、霞さん、朝霜さん、私たちも行きましょう!」

 

 雪風に促され、初霜たちはその場を後にした。

 

 ……背中越しにうめき声と悲鳴が上がり始めたが、神通の声は、いつまでたっても聞こえてくることはなかった。

 

 

 

 

 

 



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第二十六話・出撃前夜(2)

 半年近くぶりの更新です。でも内容は全然進んでない……ほぼ生存報告みたいなもんです。

 無駄に文字数だけは増えて寄り道ばかりしている駄文の塊りですが、とりあえず書き続けることに意味がある。

 令和3年もお付き合いよろしくお願いいたします。


 時間は少しだけ巻き戻る。

 

 初霜たちが雪風と出会い、水斗 慧爾も含めて仔猫を救出した、その日の夜のことである。

 

 帰宅した慧爾を出迎えた母は、その手に抱かれた仔猫の姿を目にすると「あら、まあ」と顔をほころばせたが、すぐに事情を察して、慧爾の顔を見てニヤニヤと笑った。

 

「下心丸出しだね、あんた。どうせ困ってる女の子に良いところ見せようとして引き取ってきたんでしょ」

 

 図星を突かれてグウの音も出ない慧爾に代わって、手の中で仔猫がみゃーと鳴いた。

 

「可愛い猫ちゃんねぇ。お腹空いてるでしょう、ミルク用意してあげるから待っててね~。……慧爾、あんたは今すぐ猫の餌とトイレセット買ってきなさい」

 

「それ経費で落ちるやつ?」

 

「舐めたこと言ってんじゃないわよ。あんたが引き取ったんだから、あんたの自腹に決まってるでしょ。その代わり、明日は有給休暇にしてもらうようお父さんに頼んでおくから」

 

「マジで? いいの?」

 

「猫ちゃん動物病院に連れて行って予防接種受けてきなさい。もちろんその費用もあんたの自腹ね」

 

「げ」

 

 これはなかなか痛い出費だ。次の休みには本島にでも遊びに行こうと思っていたのに、この分では諦めるほか無さそうだ。

 

 慧爾はため息交じりに自宅の車を近所のスーパーに向かって走らせて、キャットフードと猫用トイレ砂、トイレ容器を購入した。

 

 それらをスーパーの駐車場で自家用車のトランクに積み込む途中、慧爾の懐で携帯端末がメッセージの着信を告げた。

 

 端末を確認してみると、そこには「初霜」の文字。

 

 慧爾の心臓の鼓動が急に早くなった。仔猫救助の後、連絡先を交換していたのだ。それがもう連絡が来るなんて!

 

 慧爾は緊張で細かく震える指で、メッセージアプリを開いた。そこには、仔猫の救出に手を貸してくれたお礼と、近いうちに仔猫の様子を見に行きたいので都合の良い日時を教えて欲しい、という旨の文面があった。

 

 猫の様子を見に来る? ということはそのまま、初霜が自宅に来るという事である。

 

≪もちろんです≫

 

 ほとんど反射的にメッセージを返信すると同時に、「よっしゃあ!」と、慧爾は思わず拳を突き上げガッツポーズを取った。突き上げた拳は開けっ放しのトランクの裏側に当たった。

 

「痛ってえ!?」

 

 ひりひりする拳をさする慧爾を、スーパーを出入りする客が不審そうな目で眺めながら行き交っていた。あ~恥ずかしい。

 

 慧爾はトランクを閉め、運転席に乗り込んでドアを閉め、周囲を見渡して近くに他に人が居ないことを確かめると、そこで改めて小さくガッツポーズを取った。

 

「わはは、我が世の春が来たぁ!」

 

 まあとっくに夏なんだけどな。と独りで自分にツッコミを入れながら、改めて携帯端末に目を戻した。

 

 さて、どう返信しようかな。ていうかもうしてしまったな。問題はいつ来てもらうか、だ。

 

 正直、今すぐに来てもらっても構わない。というか来て欲しい。だけどさすがにそれは無茶振りだろう。

 

 ならば明日はどうか? ちょうど自分は休みをもらえたが、しかしそれは猫を動物病院へ連れていくためだ。さらに言えば、明日はまだ平日の木曜日であり、初霜も仕事があるだろう。

 

 一番都合が良さそうなのは、明後日の金曜日以降かな?

 

(っていうか、冷静に考えたら、ほぼ反射的にオーケー返しちゃたけど、早すぎて初霜さんから引かれてたりしない? この男、どんだけがっついんてんだよ、下心丸出しだろ、とか思われてたりしない? いや、でも初霜さん、そんなこと言いそうな感じじゃないし、でもでも、それ俺の勝手な印象だよな。もしそんなこと思うような子だったら、俺かなりショックだぞ!?)

 

 なにやら思考が変な方向に走り出してまとまりがなくなりかけた時、初霜から新たなメッセージが届いた。

 

 慧爾は思わず身震いし、またもや細かく震える指でメッセージを開いた。

 

≪もしご都合がよろしければ、明後日、金曜日の夕方に少しだけお伺いしてもよろしいでしょうか?≫

 

≪もちろんです!≫

 

「しまったぁ!?」

 

 またしても秒で返信してしまった。がっつき過ぎにも程がある。俺はパブロフの犬か。慧爾は運転席で頭を抱えつつ、そこでハッとあることに気が付いて再びメッセージを確認した。

 

 初霜は≪少しだけ≫と書いてあった。少しだなんて冗談じゃない。できれば一晩中だっていて欲しい。そんな欲望丸出しの思考に支配されそうになったので、慧爾は頭を振ってその欲望を追い払った。

 

 落ち着け俺、焦ってはせっかくのチャンスを不意にする。深呼吸だ、スーハ―、ピロリン、とメールの着信音。

 

≪ありがとうございます。それでは18時過ぎ頃に少しだけお時間を頂いてもよろしいでしょうか?≫

 

「うーむ」

 

 これはつまり、夕食の時間にかからないよう、その前に猫の様子だけ見たらすぐに退散するという事だろうか。だったらいっそ、そのまま夕食に誘ってしまうのも一つの手か?

 

 うん、そうしたい。いや、そうすべきだ。

 

 慧爾はそう決意し、メールで≪せっかくですから夕食もご一緒しませんか?≫と書き込み、送信ボタンを押そうとしたところで、はたと指が止まった。

 

(いや、やっぱり流石に性急すぎるかな?だって初霜さんとは今日やっとまともに話せた程度なのに、あんまり焦ったら引かれるかも知れないし、もう少し慎重に行くべきかな? そうだよな、猫をダシにして誘えばまた来てくれるかもしれないしな。もうちょっと様子を見て――)

 

 と、うだうだと考えているところに、手元の携帯端末の画面が急に切り替わり、音声通話の着信を告げる呼び出し音がけたたましく鳴り響いた。

 

「うわっ!?」

 

 慧爾は端末を取り落としかけたが、画面に表示された名前を見た瞬間、反射的に通話ボタンを押して耳に当てていた。

 

「はいもしもし! 慧爾です!」

 

『ひゃ!? け、けいじ…? あの、水斗 慧爾さんでお間違えないでしょうか?』

 

 落ち着きのある、でもどこか耳元をくすぐるような高めのその声は、初霜だった。慧爾は思わず上ずった声で答えていた。

 

「はいそうです水斗慧爾です!」

 

『よかった。私、初霜です』

 

「はい存じてます!」

 

『そ、そうですか……』

 

 声だけだが、一瞬、初霜が引いたような気配を感じて、慧爾は咳払いで誤魔化し、気持ちを落ち着けようとした。

 

「し、失礼しました。ちょっと慌ててしまったようです」

 

『あの、ご迷惑でしたか?』

 

「いえいえ全然まったくそんなことはありません!」むしろウェルカム最高ハッピー嬉しいヤッターげふんげふん。「……ゆっくり電話できますから、大丈夫ですよ」

 

 興奮しすぎて変なことを口走らないように気を付けながら、慧爾は携帯端末から聴こえてくる初霜の声に耳を澄ませた。

 

『ありがとうございます。明後日お邪魔させていただく件ですけど、こういう用件をメッセージだけで済ませてしまうのも失礼かと思いまして』

 

「お気遣いいただいてわざわざすいません。18時ですよね、大丈夫ですよ。問題ありません」

 

 大丈夫じゃなくても無理やり大丈夫にしてみせる。慧爾は内心で覚悟を決めた。誰も俺の邪魔をさせるものか。

 

『そうですか、よかったぁ。ありがとうございます』

 

 初霜の弾んだ声を聞けて、慧爾の心も弾んだ。

 

『では10分程度ですが、お邪魔させていただきますね」

 

「え? それだけ? いやいや、もっとゆっくりしていただいても全然かまいませんよ!」

 

『いいえ、ご夕食の時間も近いでしょうし。……それにただでさえ週末の大事なお時間を割いていただくのですから』

 

 週末の大事な時間だって? 慧爾は思わず吹き出してしまった。

 

『どうかしましたか?』

 

「いえ、失礼しました。週末の予定なんてどうせ独りで過ごすだけですよ。あなたに会えるほうが大事ですから」

 

『へ?』

 

「…ん?」

 

 俺は今、何を口走った? 調子に乗って本音までこぼしてしまい、慧爾は慌てて言葉を繋げた。

 

「ああ、えっと!? い、今のは初霜さんが猫と過ごす時間の方が大事って意味です!」

 

『そ、そうですか。…そこまで気遣ってくださり、ありがとうございます』

 

「き、気遣いとかじゃなくて…えっとですね、ね、猫も初霜さんに会いたがっているんですよ」

 

『まあ、そうなんですか?』

 

「そうなんですよ。連れ帰ってからもアイツ、初霜さんに会いたい、会いたいってニャアニャアうるさくて」

 

 慧爾の言葉に、携帯端末の向こうで、初霜がふふっと軽やかに笑った。

 

『まるで仔猫の言葉がわかるみたい』

 

「わかりますよ。俺、猫大好きですから」

 

 嘘じゃない、と慧爾は自分に言い訳した。今この瞬間から猫好きになったから嘘はついてない。…筈だ。

 

『ふふ……水斗さん、優しいんですね。あなたのような人が預かってくれて、私、安心しました』

 

「うっ……」

 

 ちょっと罪悪感。しかしもう後には退けない。慧爾は今この瞬間から誰にも恥じることのない――特に初霜に恥じることのない猫好きになるのだと覚悟を改めた。猫好き王に、俺はなる!

 

「是非、猫とゆっくり遊んでやってください」慧爾は一縷の望みをかけて言葉を紡いだ。「夕食の時間も気にすることは無いですよ。な、何なら、そのままウチで食べていっても、か、構いませんから!」

 

 あくまで自然にさりげなく夕食の話題をふろうとしたのに、喉がつかえてしまった上に声が少し大きくなってしまった。慧爾は緊張と恥ずかしさで顔が熱くなっているのを自覚しながら、初霜の返事を待った。

 

『そんな、夕食までご厄介になる訳には……』

 

 この反応はまだ予想の範囲内だ。慧爾は唾を飲み込みながら、言った。

 

「え、遠慮することありませんよ。ウチって言っても会社事務所の方ですし、そこの社員用の休憩所って意味です。そこで社員用にまかないを出すなんてしょっちゅうですし、せっかくですから初霜さんもそこで食べてってください。も、もちろんお代は結構ですよ。それは俺が出しますから!」

 

『そ、そこまで仰って下さるなら……』

 

 よし! 慧爾は声に出さず小さくガッツポーズした。かなり強引な誘い方になってしまったが、結果よければすべて良し、だ。

 

『あ、でも食事代だけはちゃんと払わせてください。軍としてのコンプライアンスに関わりますので』

 

「あ、ハイ」

 

『ちなみに言うのが遅れましたが、四人で伺うんですけど、大丈夫ですか?』

 

「それくらいなら全然……四人? 初霜さんお一人じゃなく?」

 

『はい、今日一緒に仔猫を助けた私たち艦娘四人です。本当は技官さん――例のラジコンみたいなドローンを持ってきてくれた方もご一緒したかったんですけど、仕事の関係で今夜中に島を発たなければならなくて……』

 

「そうですか、残念ですね」

 

 二人っきりじゃないのかよぉっ!? という心の叫びは、女の子が四人も来てくれるのも悪くないな、という身も蓋もない下心に相殺された。名前も知らないドローンの人にありがとうと言いたい気分だ。

 

 正直、仔猫救出の一番の功労者はドローンの人だと思うが、仕事ならしょうがない。チャンスをくれてサンキュー、ドローンさん。と慧爾は心の中で軽薄な感謝を捧げながら答えた。

 

「何も問題ありませんよ。是非みんなで来てください。楽しみにお待ちしています」

 

『はい、ありがとうございます。それでは失礼しますね』

 

 通話が終わり、慧爾はしばらく光の消えた携帯端末を見つめ続けた。高揚感に包まれて身体がフワフワしている。夢じゃなかろうか、と自分の頬をつねりたい気分だった。そんな真似をするやつは漫画の中だけだろうと思っていたが、今ならその気持ちがよく理解できる。

 

「あはっ……あはははっ……よっしゃー!」

 

 慧爾は車のエンジンをかけ――速度超過で警察に捕まらない範囲で――急いで自宅へと帰った。

 

 買ってきた荷物を抱えて自宅の事務所のドアを開けると、中には母の他に、仕事を終えた父と、そして数人の従業員の姿があった。

 

 といっても、仕事をしている訳じゃなかった。みんなして仔猫を取り囲んでいた。いかつい中年オヤジたちが揃って顔をほころばせてキャッキャウフフしてる。キモイ。

 

 父が振り返り、言った。

 

「おう、慧爾。話は母さんから聞いたぞ。女の子ナンパするために仔猫を引き取ってきたんだってな?」

 

「なんて言い草しやがるんだよ、父さん」

 

「はっはっはっ」

 

 愉快そうに笑う父の太い腕の中で、抱かれた仔猫が「みー」と甘えた声で鳴いた。

 

「おー、可愛いなぁ、よちよち」

 

 大柄で屈強な身体つきの父が、今まで見たことが無いような締まりのない顔をしていた。他の従業員たちも同じだ。むさ苦しい男たちの中心で、一番むさくるしい父が仔猫を撫でながら言った。

 

「それで、名前は何て言うんだ?」

 

「まだつけてないよ」

 

「猫のじゃない、女の子の方だ。どんな子なんだ?」

 

「い、言わねーよ!?」

 

 両親と従業員まで揃っているこんな場所で白状すれば、からかわれるまま酒盛りが始まって一晩中おもちゃにされるに決まってる。

 

 ちなみにここの従業員はたいていここで夕食と酒を飲みながら深夜まで入り浸るのが常だった。自分の家に帰って飲めばいいのに、と慧爾は時々思うが、なんなら従業員の家族までが夕食とお酒の差し入れをもってここへやってくるので、家庭環境に特に問題は無いらしい。

 

 というかここまでくると何が問題で、何がそうでないのかよく分からなくなってくる。

 

 が、それはともかく一度は初霜の名を出すことを拒否した慧爾だったが、すぐに、明後日の金曜日に彼女たちが訪問してくる約束のことを思い出した。

 

「むむむ」

 

「どうした慧爾、変な顔だぞ。あ、それは生まれつきか」

 

「製造元が無責任なことを言うんじゃないよ。これでも最近は父さんに似てきたってあちこちで言われてるんだ。嬉しくもないけど」

 

「それは嬉しくないな。俺の若いころはもっと男前だった。写真見るか?」

 

「見飽きたよ。何回見比べたって俺の方がイケメンだ。違う、そういう話じゃない」

 

「じゃあどんな話だ」

 

「むむむ」あんまり言いたくは無いが、言うしかない。「実は、金曜日の夜に来てくれることになった」

 

「誰が?」

 

「猫を助けた子」

 

「もう紹介してくれるのか。気が早いな」

 

「そうじゃない。猫の様子が気にかかるから、見に来るだけだ」

 

「見に来るだけだぁ? お前、それで手ぶらで返すつもりじゃないだろうな?」

 

「一応、夕食もここで食べてもらう約束をした」

 

 その言葉に従業員一同が「おおっ!」とどよめき、母は「まあまあ、あらあらまあまあ!」とはしゃぎだし、父は「よくやった!」と大声で笑い出したので、その手から仔猫が驚いて逃げて行った。

 

 仔猫は母の膝を避難場所に選んだ。

 

 父が言った。

 

「良し、じゃあ明後日も宴会だな!」

 

「明後日“も”? 何言ってんだ、父さん」

 

「今日はお前が女の子を引っ掛けた祝賀会だ」

 

「それと猫ちゃんの歓迎会もね」と、母。

 

「そして明日は本番前の前夜祭だ」

 

「何だよそれ!?」

 

「おいみんな、すぐにオトーリ始めるぞ。親(一番手)は慧爾、お前だ。今日の出来事を洗いざらい白状してもらうからな!」

 

 ふざけんなバカ、誰が大人しくしゃべるかよ、と一瞬反発したが、手際よく注がれた酒を差し出されると、それを反射的に受け取ってしまっていた。

 

 出された酒は受け取らなければならない。これはこの島で生まれ育った者の本能とも言うべき哀しい習性だった。

 

「ああ、もう、わかったよ。話してやるよ。俺の武勇伝をなぁ!」

 

 こうして宮吉島の夜はいつものように更けていったのであった。

 

 

 

 

 

 

 この仔猫救出とその後の話が水曜日のことである。

 

 その翌日の木曜日。宮吉島から南へ50海里離れた海域に、南方警備艦隊に所属する二隻の艦艇が展開していた。

 

 伊勢型航空戦艦一番艦・伊勢と、妙高型重巡洋艦四番艦・羽黒である。彼女たちはそこからさらに南西へ30海里離れた場所にある深海棲艦出現海域――通称J海域の監視任務にあたっていた。

 

「羽黒ちゃーん、そっち捉えた?」

 

「ES探知あり。かなり強力な妨害電波です。伊勢さんの探知方位と整合が取れます」

 

「てことは一隻か」

 

 伊勢はその高い艦橋から、妨害電波を探知した方角に目を向けた。台風接近の影響により波は高いものの、空に雲は少なく、水平線が良く見通すことができる。

 

 しかし、その方向には何の影も見当たらなかった。高倍率の望遠カメラでも何も見当たらない。伊勢の艦橋の高さから眺めた場合、水平線は約25海里先にあった。

 

 伊勢は多目的スクリーンに目を移した。そこに表示されている水上レーダーの画面は真っ白に染め上げられていた。

 

「戦艦と重巡の二隻を相手に、25海里以上も先からバラージジャミングするなんて、とんでもない相手だね。……羽黒ちゃん、私は瑞雲を発艦させるから、そっちも偵察機を出して」

 

「了解しました」

 

 伊勢の船体後部に広がる広い飛行甲板から、多目的艦載電子戦闘機・瑞雲が、推力変更ノズルを真下に向け、真上に向かって垂直に発艦した。瑞雲はそのままホバリング状態で伊勢と並走しながら、その高度を徐々に上げていく。

 

 瑞雲は深海棲艦のジャミングに対抗するべく生み出された電子戦闘機だ。母艦である航空戦艦と連携して敵の電波を収集、解析し、妨害されていない周波数を見つけ出す、または妨害電波を相殺・無効化するための電波を発信するなどの対抗手段をリアルタイムで行うことが可能だ。

 

 このように敵のECM(電子妨害)に対抗するECCM(対電子対策)は艦艇単体でも可能だが、艦載機を上空に飛ばすことにより広範囲からの電子情報収集、またはこちらからのECM攻撃がより効率的に可能であった。

 

 伊勢が瑞雲を使ってECCMを行っている間に、羽黒も自らの後部甲板から偵察用ドローンを発艦させた。X字型の機体に四つのローターが付いた小型ドローンだ。ドローンは上空300メートルまで一気に上昇した。

 

「羽黒ちゃん、どう?」

 

「深海棲艦と思われる影を視認しました。数は1。距離約60海里」

 

「60海里? そんな遠くなの!? ……ありえないでしょ。周りに他の艦載機も居ないのに、どうやって妨害電波が届くのさ?」

 

 周波数や気象条件にもよるが、基本的に電波は直進する為、水平線よりも遠くに居た場合、それを受信することは無いはずだ。

 

「それも変ですけど、他にもおかしな感じですよ。光学センサーを最大倍率にしているんですけど、全体像が分からないんです」

 

「どういうこと?」

 

「形がわからないんですよ。そこに何か居るというのは分かるんですけど、なんだか海面に染みが拡がっているみたいな感じで……人型とか、鯨型とか、そういうんじゃないんです。染みが盛り上がったり、縮んだり、なんなの、これ……」

 

 気持ち悪い……。羽黒が小声で呟いた。

 

 伊勢は言った。

 

「ECMだけじゃなく、光学センサーに対する何らかの欺瞞工作も行っているのかもしれないね。60海里も離れてるんだもの、瑞雲とドローンをもう少し接近させて確認しましょう」

 

「わかりました」

 

 二隻のほど近い場所でホバリングしていた瑞雲とドローンを、その妨害電波の発信源に向けて移動させた。

 

 しかし数海里も進まないうちに、艦橋内に映るモニターにノイズが走り、瑞雲と偵察ドローンのコントロールが同時に乱れ始めた。

 

「やばっ!? 撤退、撤退!」

 

 二人は慌てて二機を頭上に引き戻した。コントロールが正常に戻り、伊勢は冷や汗を拭った。

 

「あっぶな~。なにこれ、この距離で瑞雲が落とされかけるなんて、こんなパワー、ル級が数隻集まったってありえないでしょ」

 

「もしかしたら、昔一度だけ出現した“水鬼”級かもしれませんね。もっとも、手元のデータベースには情報が無いので、上級司令部からの照合結果を待つしかありませんけど」

 

「めちゃレアじゃん、それ。SSRじゃん。私たちが監視を担当しているときにそんなもん引くとか、運が良いのか悪いのか分かんないね」

 

「今ガチャ引いたらいい結果が出そうですね」

 

「入港したら十連ガチャにぶっこんでみようかな。エンプラちゃんの新スキンがゲットできるかも。…羽黒ちゃんは今、誰狙いだっけ?」

 

「私、今はとうらぶにハマっちゃって、だから帰ったら急いでチケットを予約しようと思ってるんです」

 

「チケット? ……ああ、ゲームじゃなくて舞台の方か」

 

「本島で公演が始まるんですよ! 鬼切丸国綱さまをこの目で拝むまでは絶対に死ねません!」

 

「そ、そう……」

 

 随分と短期的な人生目標だなぁ。伊勢は苦笑しつつ、羽黒のドローンから送られてきた映像に目を向けた。

 

 確かに気持ち悪かった。海面にインクを一滴こぼしたように黒い染みがぽつんとにじんでいるだけで無く、それが輪郭をうねうねとくねらせ、ときに海面高く盛り上がっては、また海面にべったり拡がるなどという動きを繰り返していた。

 

 その染みの位置は発見した位置からまったく変わっていなかった。

 

 海上に浮かぶ物体は常に風や波、海流といった外力の影響を受けて流されてしまうので、同じ場所に留まるためには、その外力を相殺する方向と速度で動き続ける必要がある。

 

 つまりあの染みのようなモヤモヤは、自らの意思でその場に留まり続けているという事だった。

 

 伊勢は、今回の監視に出撃する前に司令である海尾から受けたブリーフィングの内容を思い出した。

 

“今回の監視任務では出現した深海棲艦を攻撃してはならない。深海棲艦への攻撃は派遣された二水戦が行う。南方警備艦隊はそのサポートに就く。”

 

 というのがその内容だった。そして海尾は、これから示達する内容は極秘事項であり、許可なしに口外するだけで懲戒処分対象だ、と脅し文句を口にしながら続けた。

 

「二水戦との共同作戦における敵目標は、おそらく未確認の深海棲艦となる可能性が非常に高い、というのが上級司令部の見解だ。また深海棲艦だけではなく、隣国の艦艇が現場海域に侵入してくる可能性も高い。我々南方警備艦隊は、深海棲艦だけでなく、この隣国艦艇に対する監視、情報収集も同時に実施する」

 

「監視?」伊勢は首をひねった。「ちょっと提督、それだけでいいの? 海域への侵入を阻止しなくてもいいの?」

 

「手は出すな。連中の好き勝手にさせろ、というのが参謀本部からの指示だ。――そんな顔するな。俺だって上を問い詰めたさ。だが答えは最重要機密の一点張りだ」

 

「まあ現場の私たちにしたら、連中が戦場に勝手に突っ込んで死のうが沈もうが別に構いやしないんだけどさぁ。最前線の二水戦が困るんじゃない?」

 

「最初から織り込み済みだそうだ。ちなみに二水戦が隣国にどう対処するかは、こちらには一切知らされていない。知る必要が無い、と言われたよ。なぜなら彼女たちは存在しない部隊だからだそうだ」

 

「存在しない部隊が居る海域に飛び込んで沈んだとしても、当局は一切関知せずってわけ? ダークだね。んじゃ私たちも“現場じゃ何も見なかった”って証言しなきゃいけないんだ?」

 

「察しが早くて助かる。現場には色々と負担が多い任務だが、よろしく頼む」

 

「はーい」

 

 あのときは平然と軽いノリで請け負ったが、こうして実際に得体のしれないモノの出現を前にしたとき、伊勢は胸の奥で不安が徐々に大きく育っていくのを感じていた。

 

 伊勢とて戦艦クラスの艦娘である。多くの艦娘から選抜されたエリートであり、実戦だって数え切れぬほど経験してきた。そんな百戦錬磨の艦娘をして不安に陥れる気配を、この謎の深海棲艦は漂わせていた。

 

 深海棲艦は動かない。まるで、何かを待っているかのように……

 

 

 

 

 

 

 

 伊勢、羽黒から深海棲艦出現の情報が寄せられると、その情報は南方警備艦隊から海軍総隊参謀本部を通じて、内閣官房室にまで速やかに上げられた。

 

 それとほぼ同時刻、情報部からも隣国から大鉄塊が出港したという情報が届いていた。

 

 この二つの報告を受け、内閣総理大臣は国家保安・安全保障委員会の緊急会合の開催を指示。深海棲艦出現から約1時間後、首相官邸地下にある危機管理センターに総理大臣以下、委員会の主だったメンバーが集結した。

 

 国家保安・安全保障委員会は、国家の安全保障に関する重要事項および重大緊急事態への対処を審議するために内閣に置かれた行政機関の一つだ。

 

 そのメンバーは内閣総理大臣:菅部 淡三、副総理兼財務大臣:浅海 太郎、防衛大臣:川辺 信安の他、外務大臣、経済産業大臣、国土交通大臣、内閣官房長官、そして情報部を傘下に置く国家公安委員会委員長で構成されている。

 

 さらに各メンバーの背後には、その手足となって補佐するための各省庁のスタッフが待機していた。防衛大臣である川辺のそばには三軍を統べる統合幕僚長の姿と、そして山賊の通り名を持つ女・統幕作戦部長・野木 魔鈴の姿もあった。

 

「情報部から現在の情勢について報告します」

 

 先ずは情報部の官僚が、隣国から大鉄塊が出港し、針路をJ海域に向けて航行中であることを説明した。

 

「こちらが監視衛星による解析画像です。ご覧下さい」

 

 大スクリーンに映された大鉄塊の姿に、センター内にどよめきが沸き起こった。

 

「二隻が…繋がっているのか……?」

 

 誰かが漏らしたつぶやきに、情報部官僚が頷いた。

 

「映像分析の結果、ドックで建造されていた二隻とほぼ同一であると結果が出ました。それが並列に繋がれて一隻となっております」

 

「ニコイチにしてスペックも二倍ってか」

 

 そう言って鼻で笑ったのは、副総理の浅海だった。皮肉屋として知られた彼は、巨大な鉄球が二つ並んでくっつきながら海面を進む衛星写真を眺めながら言った。

 

「単純だが、明快なコンセプトだ。ウチも予算と建造場所に余裕があればこんな化け物を量産してみたいもんだぜ。……で、こいつはJ海域の深海棲艦を撃破するために出てきたのかい?」

 

「それについて、外務省から報告します」

 

 外務大臣が手元の資料を眺めながら答えた。

 

「現地からの情報によりますと、各報道機関に共産党本部から報道発表用の資料が配布されているそうです。それによりますと、“本日1030、人民解放海軍は国際社会の信義に基づき、国家海上航路の保護および漁業に従事する人民の安全な操業を保護するために、軍事艦艇を派遣した”とのことで――」

 

 背後から外務省官僚がメモを渡してきたので、外務大臣はいったん言葉を切ってそれを受け取り、そして続けた。

 

「――先ほど、共産党報道官が正式に会見を開始したそうです。内容はただいま申し上げたとおりです」

 

「人民の保護だ?」浅海は眉をひそめた。「J海域は封鎖されて漁船は居ないはずだろう。それ以前に、そもそもあそこはウチのEEZだ。隣国の漁民が居る道理が無い」

 

「無茶を通せば道理は引っ込む、てね」

 

 防衛大臣:川辺が口を挟んだ。

 

「J海域でも、国籍不明の漁船が連日のように不法操業を続けています。SK海域に比べると数は少ないですがね」

 

「隣国の工作船か?」

 

「その可能性は低いでしょう。隣国以外の他国の漁船や、また我が国の漁船も含まれているようです。命知らずはどこにでもいるという事です。隣国としても国籍を定かにしない不法漁船を保護するために軍事艦艇を派遣するのは名分として弱いでしょう。となれば、気にかかるのはSK諸島周辺で操業している隣国漁船群となる訳ですが……」

 

 その時、川辺の隣に座っていた統幕長が、背後の部下からの報告を受け、それを川辺に耳打ちした。

 

「わかった。……海軍からも新たな情報が入りました。SK諸島海域でも動きがあったようです。詳細は統幕長から報告させます」

 

「統合幕僚長、報告させていただきます。SK諸島周辺で不法操業中の隣国漁船群約三百隻が、一斉に南下を開始しました。それに合わせ、漁船保護を名目に進出していた隣国海軍のフリゲート三隻も南下を開始。その進路はJ海域に向いております」

 

 統幕長からの報告に、センター内が再びどよめいた。統幕長は淡々と続けた。

 

「これまでにない動きです。仮にこの漁船群が隣国の言う“保護すべき漁業に従事する人民”であった場合、漁船群がJ海域へ到達するのは約72時間後となります」

 

「ひでえマッチポンプだ。自国民の命をなんだと思ってやがる」

 

「ですが、ここまでは想定の範囲内であります」

 

 副総理の言葉に対し答えたその声は、スクリーンの方向から聴こえてきた。

女の声だ。

 

 センター内の視線が一斉に集まった先に、野木 魔鈴の姿があった。彼女は顔の古傷をゆがませながら不敵に笑った。

 

「隣国が深海棲艦に呼応し動き出すことは先刻承知のこと。我々はそれをじっくり眺めて、奴らの意図を探ればよいのです。なあに、ケツは我々がきっちり拭きますゆえ、ご安心を」

 

「あいかわらず口汚ねえ女だな、山賊よ」

 

 浅海が口端を歪め、笑みとも、不機嫌ともつかない表情を浮かべた。魔鈴は陸軍准将という高級将校ではあるが、この国家中枢の場においては単なる補佐スタッフの一人にすぎない立場だ。こんな無作法な口調が許されるはずも無い。

 

 しかし、魔鈴の口調に反応したのは浅海ただ一人だけだった。防衛大臣と統幕長もそれを咎めすらしなかった。

 

 野木は続けた。

 

「つい先ほどですが、さらに新たな情報が届きました。東南アジア周辺でも深海棲艦の艦隊が北上しているのを発見したそうです。戦艦2、重巡3、軽巡4、駆逐艦6、空母2、軽空母2、なかなかの規模ですな。J海域へ向かうのはほぼ確実でしょう」

 

「その艦隊もそのまま引き込むのか?」

 

「引き込みます。J海域に現れた正体不明の深海棲艦はそれを待っている。もちろん、大鉄塊も待っている。すべてはそこにいる正体不明艦を中心に回っている。それが深海棲艦予測プログラムによる“託宣”です」

 

 託宣。魔鈴の告げた言葉に、センター内に緊張が走った。

 

 国家機密の中でも最も強度が高く、同時に胡散臭い、しかしその結果は誰もが認めざるを得ない、得体のしれない存在。

 

 深海棲艦予測プログラム。それは、この国家中枢を支える軍事・行政・治安そのすべてのAIの総意とも言って良かった。

 

 もはや人間がその思考ロジックを解析することなど不可能な領域に達した巨大コンピューターネットワークが示した未来を、そのまま無批判に受け止めることは強い抵抗感を伴っていた。とりわけ、政治は人間が、人間的な感性で行わなければならないと固く信じている政治家たちにとっては……

 

「続けたまえ」

 

 静まり返ったセンター内に、ポツリと呟かれた言葉が響き渡った。

 

 その声の主は、センター中心に座る男。総理大臣:菅部 淡三だった。菅部は、静かに、しかしハッキリとした声で言った。

 

「託宣は、大鉄塊と融合させず、深海棲艦を破壊せよ、と言った。しかし君は、それを無視しようとしている。大鉄塊を深海棲艦に向かわせようとしている。……いや、それは構わない。そうしなければ託宣が真実かどうか、証明できぬからな。そして、その状況を注視することにより、我々は深海棲艦の思考の一端を知ることができるだろう。だが、これは賭けだ。託宣はこの先の状況を想定していない。そうさせてはならないとAIたちは訴えている。この先、何が起きるか、それは誰にも予測できない……」

 

 菅部は、魔鈴を真っ直ぐに見据え、続けた。

 

「だが、予測不可能な未来を恐れていては勝つことはできぬ。託宣どおりに深海棲艦と大鉄塊の融合を防いだところで、勝つことはできない。それは負けないための戦いに過ぎない。我々は三十年間、負けないための戦いを続けてきた。勝つのではなく、守るための戦いを選んできた。しかし、それもすでに限界に近付きつつある。……我々は深海棲艦に勝たねばならぬのだ。続けたまえ。野木准将、君の立案した作戦を私は承認する。君の思うがままに進むがいい」

 

 菅部の静かな言葉は、センター内の全てを圧するように、陰々と響き渡ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 雪風は上機嫌だった。初霜と一緒に出掛けるというだけでこんなにも胸が躍るなんて、自分でも不思議だった。

 

(と、友達に……なれるかな……っ!?)

 

 雪風は人付き合いが良いほうじゃなかった。むしろ下手だ。幼少期はロクデナシ親父のせいで家族ぐるみで近所から疎んじられてきたし、父が借金を残して失踪してからは学校へ通うのもそこそこにバイトに明け暮れてきたから、雪風には“友達”と呼べる人間が居なかった。

 

 入隊後、共に訓練に明け暮れた同期生たちは、人生で初めてできた“仲間”と呼べる存在だった。ただ、“友達”と呼べるかどうかは微妙なところだった。

 

 家族そろって疎まれてきた幼少期と、お世辞でも褒められない家族、そしてその負債を文字通り背負って返済に明け暮れる今の自分。これらを他人にあけっぴろげに晒すことができるほど周囲を信頼できず、さりとて同期の仲間の輪から離れて孤高を選べるほどの冷たい悟りも開けない。

 

 そんな中途半端な距離感のまま、それでも苦楽を共にしてきた同期生達との絆は雪風の半生にとって確かに貴重で暖かなものだったが、しかしそれすらも二水戦という秘密部隊へ配属されてしまったことで全て途絶えてしまった。

 

 その二水戦で出会った新たな同僚たちは、ある意味で雪風と似たり寄ったりな、スネに傷持つ連中ばかりだった。そんな連中が明日なき危険な戦いに身を投じ、櫛の歯が欠けるように消えていく。

 

 そんな部隊で作られる人間関係は、だいたい二通りに分けられた。誰にも心を開かずビジネスライクに付き合うか、それともお互いに傷を舐め合うズブズブの関係になるか、だ。

 

 雪風と初風は、後者に近い関係だと周囲からは思われていた。けれど雪風自身は、そんなことは無いと思っていた。お互いの過去まで踏み込んだ覚えはない、というのがその理由だった。

 

 踏み込んでしまえば、きっと友情という距離感を超えて離れがたい関係になってしまう。そうなってしまったら、片割れが死んだとき、生きてはいけない身体になってしまう。それに金を十分稼いで二水戦を引退できるようになっても、片割れを残していくことができずに、ずっと抜け出せなくなってしまう。

 

 ここは明日をも知れぬ二水戦だ。片割れ恋しさのあまりに抜け出す機会を失って戦死した者、戦死した片割れを追って後追い自殺した者たちを雪風は知っていた。

 

 二水戦とはそんな部隊だ。

 

 だから、我が身と初風の身を案じるならば、これ以上の関係になってはいけないのだ……と、たまに自分に言い訳するように言い聞かせることがあったが、その一方で、実はもう手遅れ気味であることにも気が付いていた。主に初風側から向けられている感情の重さが、である。

 

 そんな雪風が、どうして初霜に対しては浮かれているのか。

 

 それはやはり「別の部隊だから」というのが大きな理由だった。二水戦の様に簡単に死んでしまう事も無く、それでいて近くで共闘してくれて……

 

 ……いや、何よりも一番の理由は、お互いに艦娘と知らずに出会ったことかも知れない。

 

 初霜との出会い方は、かつての同期たちとも、初風とも違っていた。友達も仲間も居なくて、世間から疎まれ続けた過去の自分がそのまま曝け出された様な状態の時に初霜と出会い、相手もまた雪風を艦娘と知らないままに、二人は同じ時間を過ごした。

 

 それは、初風と共に過ごす時間とはまた違った居心地の良さがあった。初霜と一緒に過ごしている間は素直にありのままの自分を曝け出せることができ、それが心地よかった。

 

 その心地よさは、今夜の外出が初霜との二人きりではなく、霞と朝霜が付いてくると知って多少は損なわれたものの、仔猫に会いに行くという理由ならばまあ仕方ないか、と雪風は自分に言い聞かせて、ウキウキ気分で身支度を整えた。

 

 その際、脳裏に初風の姿がふいに現れて、“浮気者!”と雪風をなじった。

 

(浮気者? いやいや、初霜さんとは友達になりたいだけだからセーフセーフ)

 

 心の中で変な言い訳をしながら、雪風は寮の前で初霜たちと合流した。

 

「お待たせしました!」

 

 表で待っていた初霜……と、ついでに霞と朝霜に声をかける。

 

 霞が雪風の服装を見て「あら?」と声をかけた。

 

「今日はあのワンピースじゃないのね?」

 

「いや、あれは、その」

 

 今日の雪風は薄手のシャツにショートパンツというラフな格好だった。本当は色々とお洒落したいという願望もあったけれど、悲しいかな、日頃からズボラ生活していたツケが重なり、お洒落センスも服も化粧品も何もかもが足りない自分に気が付いて軽く絶望していたりする。

 

(こんなときに初風が居てくれたらなぁ……)

 

 と、都合よく相棒をアテにしては心に潜む初風の幻影に“浮気者!”と罵られる繰り返しである。違うし、浮気じゃないし、友達になる予定だし。

 

 朝霜が、雪風をしげしげと眺めながら言った。

 

「あのワンピ姿、いかにも育ちが良いお嬢様って感じだったけど、だいぶ印象が変わるもんだな。そういう格好してると、いかにも艦娘……つーか、プライベート中の軍人って感じだ」

 

 それはつまり垢ぬけてないと言外に告げられたようなものだが、正直、そのとおりなので雪風は反論する気も起きなかった。むしろ言葉を選ばせてしまって申し訳ないくらいだ。

 

 ちなみに朝霜はタンクトップにダメージジーンズという、カジュアルにも程がある格好だった。今から他人様の家に訪問しようというのにそれでいいのかと、流石に雪風も首をひねりたくなった。

 

 一方、霞はといえばシンプルなフリルが付いたシャツに、下は裾の広いワイドパンツというカジュアルなものだが相応の落ち着きも併せ持っていた。

 

 そして初霜は、白いブラウスに灰色のサマージャケットとスラックスというスーツスタイルだった。

 

(わー、カッコいいしちょっと大人っぽい! ……堅苦しいけど)

 

 まあ初霜の雰囲気によく合っている。私もスーツスタイルにしようかな、なんて雪風が思いながら見惚れていると、当の初霜からこう言われた。

 

「私としては、ワンピ姿も、今の雪風さんも、どっちも可愛いと思いますよ」

 

「あ……ありがとうございますっ!」

 

「脚、綺麗ですものね。ショートパンツが履けるってだけでも羨ましいです」

 

「へ?」

 

 初霜から真面目な顔で下半身をしげしげと眺められて、雪風は戸惑った。確かに脚には少し自信はあったし褒められて嬉しいけれど、視線を受けている太ももあたりが何やらこそばゆくて、心なし内股気味になってしまう。

 

 そんな雪風の戸惑いを察したのか、霞が、初霜の肩を小突いた。

 

「初霜、あんた痴漢みたいな目つきになってるわよ?」

 

「え~、私そんな目をしてた?」

 

「舐めまわしてたわよ、視線で」

 

「そ、そこまで…?」

 

 初霜が申し訳なさそうな顔を雪風に向けた。

 

「ごめんなさい。別に他意は無いですから」

 

「い、いえいえ気にしないでください。ていうか、こんな私の脚でよければご存分に」

 

「え?」

 

「あ…!?」

 

 思わず変な本音までポロリと零してしまった。

 

「んじゃ、遠慮なく」

 

 雪風の背後から手が伸び、内腿から尻まで撫でまわされた。

 

「ひゃあっ!!??」

 

 雪風は、驚きとこそばゆさと背中を走る電撃のような一瞬の快感に悲鳴を上げて飛び上がった。そのまま目の前に居た初霜の胸に飛び込んでしまう。

 

 霞がすかさず、朝霜の頭をひっぱたいた。

 

「何やっとんじゃあんたは!?」

 

「セクハラ」

 

「ちょっとは悪びれなさいよ」

 

「だって本人が良いって言ったしよ。それに女同士だからいーじゃん」

 

「あんたの触り方はそこらのオッサンよりいやらしいから嫌なのよ」

 

「そりゃ霞相手に散々練習したからな」

 

 朝霜は両手の指をワキワキと動かしながらニヒヒと笑った。霞の平手が朝霜の頭を盛大に引っ叩いた。

 

「今度私にセクハラしたらその腕をへし折ってやる。…そもそも何でいつも私ばっかりにちょっかいかけるのよ。たまには初霜にもセクハラしなさいよ」

 

「ちょっと霞、私まで巻き込まないで」

 

 初霜が雪風を胸に抱いたまま抗議した。朝霜は肩をすくめた。

 

「初霜はケツ触っても無反応だから面白くねえんだよ」

 

「我慢してるのよ。私の忍耐力が朝霜のセクハラに打ち克ったってことね」

 

 ふふん、と初霜が得意げに胸を反らした。朝霜がそれを眺めながら言った。

 

「揉むほどの胸も無いから、やりがいもねえ」

 

「腹いせに事実を突きつけるの止めて」

 

 雪風を抱く初霜の腕に力がこもった。うん、確かにそうだわ、と雪風は実感した。お陰でそれ以外のことは何も考えられなくて脳みそが茹で上がりそうだ。

 

 霞がハッとして言った。

 

「それってつまり、私の反応がいいからセクハラされてたみたいじゃない!?」

 

「そのとおりだぜ?」

 

 朝霜が笑った。霞の平手がまた襲い掛かったが、朝霜はそれをひょいとかわし、霞の脇をすれ違いざまにその胸を揉んでみせた。

 

「きゃああああああ!!??」

 

「お、前よりちょっと膨らんだんじゃね?」

 

「あんたねぇっ!? その腕へし折ってやる! いや、その首へし折ってやる!!」

 

 朝霜と霞はバタバタと追いかけっこ。初霜は呆れながら声をかけた。

 

「二人とも、私たち先に行くからね。……雪風さん、行きましょ」

 

「は…はい」

 

 抱擁を解かれ、今度は初霜に手を引かれて、雪風は歩き出した。その後しばらく雪風の頭は茹だったままで、ハッと気が付けば街中の酒屋の前に到着していた。

 

 でもどうして酒屋?

 

「手土産を買おうと思いまして」

 

 初霜が、店内に並ぶ泡盛の瓶を品定めしながら答えた。

 

「とは言っても、地元の人に観光客向けのものを持っていてもしょうがないし、かといって高価すぎるコンプライアンスに引っかかっちゃいますし、なかなか難しいんですけどね」

 

「いや、仔猫に会いに行くだけじゃないんですか?」

 

「ご夕食もご一緒させて頂くって言ったと思いますけど?」

 

「あー、そういえばそうでしたね」

 

 正直、初霜からの誘いに一も二も無く飛びついたから、詳細については聞き流していた。だから夕食は仔猫の様子を見た後、別の場所で摂るものだと思い込んでいた。しかし、まさか民間人の自宅で夕食までご馳走になるとか、それこそコンプライアンスの面で大丈夫なのか不安になる。

 

 雪風がそう問うと、初霜が苦笑しながら答えた。

 

「厳密に言えば、かなりアウトよりのグレーゾーンですね。でも司令にはちゃんと報告して許可は頂いているから安心してください。もちろん、郷海大佐も了承済みです」

 

「それなら良いですけど…」

 

 よく許可が降りたもんだ、と雪風の内心の疑問を見透かして、初霜は言った。

 

「この島だから許されているようなものですよ。狭い島ですからね、人間関係もどうしたって近くなっちゃうんですよ。かといってズブズブになっちゃいけないので難しいところですけど」

 

 そう言いながら初霜は、手頃な価格の一升瓶を取り上げ、レジに向かった。支払いの際に領収書は忘れない。

 

「それ、値段はともかく、量が多すぎやしませんか?」

 

「ところがこれでも少ないくらいでして……雪風さん、オトーリって知ってますか?」

 

「知りません。なんですかそれ?」

 

「知らないほうがいいです。その方が巻き込まれずに済みますから」

 

「え、なにそれ怖い」

 

 酒屋を出ると、外には霞と朝霜が、腕を組んで寄り添いながら立っていた。この二人、仲が良いんだなぁ、と雪風が思ったところに朝霜が悲鳴を上げた。

 

「イデデ!? 霞やめろ腕折れるマジで折れるからっ!?」

 

「うるさい! 二度とセクハラ出来ないようにしてやるから覚悟なさい!!」

 

「二人とも、まだやってたのね。霞、折るなら明日からの出撃から帰ってきてからの方が良いわよ。二水戦に迷惑がかかるから」

 

「そ、そうだぞ霞! あたいは出撃を控えた大事な身体なんだからな!?」

 

「そんなもん、首一つ残ってりゃ問題ないわよっ!」

 

 本気で折りかねない霞と、絶叫する朝霜、それを前に平然としている初霜。二水戦に負けず劣らず、この人たちもどこかネジが抜けている。雪風はそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十六話・出撃前夜(3)

 ウチの職場、親方日の丸なもんだから割と年功序列で出世しちゃって困るのよね。
 私みたいな凡人に中間管理職やらしたら、プライベート削るしか仕事を終わらす術は無いじゃない(´;ω;`)

(……とか愚痴をこぼしつつウマ娘やってるダメ人間)


 潜水艦を操る潜水艦娘たち。その彼女たちが操る船体は特殊なものが多いが、中でも「伊号型潜水空母」はかなり特別な部類に入る。

 

 伊号型は、全長113メートル、幅10メートルの大型潜水艦であり、また世界的にも珍しい潜水“空母”であった。

 

 戦略原潜並に大きな船体には、魚雷発射管、機雷敷設装置、アクティブ/パッシブソーナーと言った攻撃型潜水艦と同様の装備が搭載されている他、船体前部上方には格納庫が設けられており、そこには巡洋艦が搭載しているものと同じ小型偵察用ドローンや無人機と言った航空機の他、海中哨戒/探査を目的とした特殊潜航型強化装甲服――全長10メートルに及ぶ大型パワードスーツを二機搭載することができた。

 

 このように数多の装備と能力を兼ねそなえた伊号は“万能艦”とも呼ばれていたが、しかしその主な任務は「偵察・監視・調査」という華々しさとは無縁の仕事ばかりだった。

 

 一般的に世間に知られている――映画や小説などでネタにされる範囲での一般ではあるが――潜水艦の活躍と言えば、敵の艦隊に音もなく忍び寄り、その強力な魚雷で巨大な戦艦をも一撃で葬り、敵が慌てふためく中、素早く海底深くへ去っていく、というイメージであろう。

 

 しかし残念ながら伊号潜水空母は、忍び寄るにはやや静粛性に欠け、魚雷も一応積んではいるが搭載数が少なく、海中発揮速力と潜水深度が、他の通常型潜水艦に比べ劣っているという弱点があった。

 

 良く言えば「万能型」、しかし悪く言えば「器用貧乏」「中途半端」な潜水艦、それが伊号型潜水空母だった。

 

「と言ってもさ、ウチの任務は艦隊護衛でも核報復でもないしね。そういうのは(艦娘じゃない方の)潜水艦隊に任せときゃいいのさ」

 

 とは、艦娘潜水艦隊の司令である女性:海音寺 三実大佐の言葉である。

 

 ちなみに我が国には潜水艦隊が二つあり、それぞれに独立していた。海軍総隊の指揮下にある通常型潜水艦で編成された「海軍潜水艦隊」と、統幕直轄の指揮下にある艦娘で編成された「統幕潜水艦隊」の二つである。

 

 単純に「潜水艦隊」と呼ばれる場合、それは海軍潜水艦隊の方を差し、統幕潜水艦隊の方は俗に「艦娘潜水艦隊」と呼ばれていた。(ちなみに、各警備艦隊や、遠征護衛艦隊の一部にも潜水艦娘を個別に配備している隊は存在する)

 

 潜水艦の役割というのは大別して、四つある。

 

 核抑止力を維持するための報復攻撃に備える任務、艦隊を海中から護衛する任務、他国の海上輸送ルートを寸断する通商破壊任務、そして海中哨戒・探査任務だ。もっとも、この四つの役割は人間を相手にした場合の話であって、深海棲艦を相手にする場合はいささか話が変わってくる。

 

 深海棲艦は人間的な社会や経済活動・兵站を持っていない(と推察されている)ため、相互破壊による抑止力や通商破壊は意味が無いのである。したがって潜水艦の役割は艦隊護衛と海中哨戒・探査の二つに絞られてくる。

 

 しかし敵は深海棲艦だけではなく、相も変わらず国家間同士でも軍事的に備える必要があった。そのため、これまで同様人間を相手にした、艦隊護衛も含めた任務を遂行するための通常型潜水艦(この“通常”とは、艦娘によるワンマンコントロール艦ではない、という意味であり、原子力動力も“通常型”に含まれる)によって編成された潜水艦隊と、主として深海棲艦に対する哨戒・探査を目的とした艦娘潜水艦隊の二つが別々に編成されたのであった。

 

 ちなみにこの艦娘潜水艦隊は、海軍の統制下から外れているため、海軍のしがらみを離れて自由に動ける半面、その予算も艦隊規模も、海軍潜水艦隊に比べるとかなり小さかった。所属する艦娘は現在のところ十三名であるが、艦艇は伊号型潜水空母を3隻保有するのみである。

 

 所属する艦娘の人数と保有艦艇数が一致しないのは、水上艦艇の艦娘たちと違い、潜水艦娘たちが一隻の船体を複数名で運用しているからである。

 

 

 

 

 

 深海棲艦出現海域――通称J海域。

 

 南方警備艦隊の航空戦艦・伊勢と、重巡・羽黒の二隻が海上を監視しているその足元、海中の水深約50メートルの深さでは、艦娘潜水艦隊が保有する三隻の潜水空母の内、一隻が音もなく潜航していた。

 

 伊号型潜水空母・伊19である。

 

 この“伊19”はコードネームであり、この船体に乗り込んでいる複数の艦娘のうち、先任艦娘の名前が付けられることが慣例化していた。

 

 その先任艦娘・伊19、通称“イク”は、船体中央にある発令所の真下に設置されたソーナー室に水着姿で身を沈め、周囲の海中の様子を全身で感じ取っていた。

 

 このソーナー室は、一種のプールだった。2メートル四方の空間に、深さ約1メートル弱程度の電解水が張られており、艦娘はそこに身を浸すことで艦艇に装備された複合型ソーナーの情報を自らの肌感覚として捉えることが出来た。

 

 また、その情報を艦娘を通してサポートAIが処理し、立体3D映像として発令所の多目的スクリーンに投影することも可能である。

 

 その発令所に投影された画像を、司令である三実が、昼食に出されたフランクフルトソーセージをかじりながら、眺めていた。

 

「相変わらず何も無いな。海上じゃ新型らしい深海棲艦がいるってのに」

 

「むしろ、何も無さ過ぎて変なのね。クジラやイルカどころか、魚の群れさえ寄り付こうとしないのね」

 

 三実の足下、発令所の床に開けられたソーナー室への出入り口から、イクが顔を出して報告した。ツインテールに結った髪からは、水が滴り落ちている。

 

 そのびしょ濡れの頭を見下ろし、三実は訊いた。

 

「深海棲艦が居る海面付近の様子はどうだ? 潮流に逆らって同じ位置を維持している以上、何らかの推進音は聴こえてしかるべきだろ?」

 

「ソーナーじゃ何も聴こえないのね。ただ、水中用動体検知器だとちょっとだけ反応があるのね」

 

「ちょっと?」

 

「奇妙な言い方だけど、“無が在る”って感じなの」

 

「は?」

 

「“空っぽの穴がそこに在る”としか言いようが無いの。…イメージを画像に出すのね」

 

 発令所の3D画像が、海中から海面を見上げるアングルに変わった。その見上げた海面に、丸い黒穴が映っていた。

 

「なんじゃいこりゃ? 深海棲艦の身体の一部分か?」

 

「物体じゃないのね。この部分だけ、音も、水の動きも、空気も、光も電波も振動も、何も存在しないのね」

 

「局所的なジャミングによるセンサー妨害かな。いやしかしこんなこと、どうすれば可能なんだ。まるで原理がわからんぞ」

 

「明らかに異常なのね」

 

「まさに“無が存在している”訳だ。こりゃとんでもない現象だな。調べる価値があるぞ」

 

「今回の調査、作戦内容は“手を出すな”じゃなかったのね? 隣国の大鉄塊や、他の深海棲艦がこの海域に到着して何が起きるかを見張るのが目的でしょ?」

 

「だからこそだよ。それらがここに到着する前に調べておきたい。パワードスーツを出撃させてセンサーを各所に設置しよう。ゴーヤとゆーちゃんにスタンバイするよう伝えろ」

 

「はやる気持ちは分かるけど、せめてランチが終わってからにするのね。イクもお腹空いたの。そんなぶっといソーセージを目の前でぷらぷらされちゃ、イク、我慢できなくなっちゃうのね」

 

「お、すまんな。ほれ、食え食え」

 

 三実が自分の皿からソーセージをフォークに突きさし、足下のイクに差し出した。

 

「あ~ん、パクっ……ふふー、熱くて、太くて、たくましいのね」

 

「たくましい、って、それ味の評価か?」

 

「おいしいけど、固くないのが惜しいのね」

 

「そんなソーセージは嫌だな。…お~い、ゆーちゃん。イクにソーセージ食べられちゃったから、お代わり頂戴」

 

「Ja(ヤー)」

 

 発令所の後方に位置する調理室からドイツ語の返事とともに、銀髪で白い肌に青い目をした、年若い外見の艦娘が、焼き上げたばかりのソーセージを皿に乗せてやってきた。香ばしくてスパイシーな香りが発令所内を満たし、イクが唾を飲み込んだ。

 

「カレーの匂いなのね」

 

「カリーブルストっていいます」とその艦娘:U511、通称“ゆー”が説明する。「ドイツの一般的な食べ方で、焼いたブルストにケチャップとウスターソースで作ったソースを塗って、仕上げにカレー粉を振りかけるんです」

 

 ゆーは欧州海軍との人事交流のためドイツから所属替えとなった艦娘だった。

 

「そういえば今日は金曜日だったな」と三実。

 

「さっそくいただくのね!」

 

 イクがソーナー室の出入り口から上半身を持ち上げ、すぐ近くの低いテーブルに置かれた皿からソーセージ(ドイツ語読みでブルスト)を手づかみで取り、かぶりついた。

 

「あっちぃ~の! でもこれめっちゃイケルの! ケチャップとカレー粉の濃い味付けが肉のうまみにめっちゃマッチしてて……こいつはビールをめっちゃキメたくなるのね!」

 

「ねぇ、ゆーちゃん。ビール出してよ。持ってきてたでしょ」

 

「作戦中だからダメ、って、でっちが言ってました」

 

「あたしは司令だよ」

 

「でっちは調理責任者です。でっちに逆らったら、ゆーはご飯ぬきにされちゃいます」

 

 生真面目に答えるゆーに、三実は苦笑した。

 

「胃袋を掴まれちゃ、指揮系統もクソもないか。しゃーねえ。でも確かノンアルがあったはずだ。あれならいいだろ。持ってきてくれよ」

 

「ですって、でっち」

 

 ゆーが調理室を振り返ると、

 

「どうせそう言うと思ったでち」

 

 そう言いながら、伊58、通称“ゴーヤ”が四人分のノンアルコールビールの缶と、大皿いっぱいに盛られたフライドポテトを持ってきた。

 

 三実を含め、この四人が今回の作戦のメンバーだった。

 

 食事を摂りながら、三実はゴーヤとゆーに改めて状況を説明した。

 

「と、いう訳で、大鉄塊やら他の深海棲艦どもが現場に到着して海の上がしっちゃかめっちゃかになる前に、出来るだけ情報を集めたいと思う」

 

 三実はスクリーンに海底地形を表示させた。

 

「具体的な調査方法を説明する。センサーの配備方法はサークル型。“穴”の中心から半径500メートルの同心円状に中性浮力型センサーを8つ配備する。設置水深は深度50メートル。ここまでで質問は?」

 

 ゴーヤが挙手し、言った。

 

「ここの水深は3500メートルもあるでち。それなのに、そんな浅い水深にワンセットのみでいいの?」

 

「今までの調査結果からみても、どうせ海底には何も無いさ。あいつらは海面から現れるんだ。あの“穴”はずっと見つけられなかったその証拠かもしれない」

 

「だったら、“穴”の内部にもセンサーを進入させる?」

 

「そうしたいが、それは時期尚早だな。あの“穴”がある海上には深海棲艦が居るらしいからな。変な刺激を与えたくない。なのでセンサーの設置はパワードスーツで行う。オペレーターはゴーヤと、ゆーちゃんだ」

 

「了解でち」

 

「Ja」

 

「イクは私と母艦で待機。この位置で周辺の哨戒を続ける」

 

「わかったのね」

 

「作業開始時刻は一時間後の1315。飯を食って休憩してから取り掛かるとしよう」

 

 休憩してから、とは言いつつも、ゴーヤとゆーは食事を終えるとすぐに格納庫へと向かって行った。

 

 格納庫は船体中央から前部側の、上部側にある。発令所からは一区画前方に昇降用ラッタル(梯子)があり、そこから水密区画を通り、入ることができる。

 

 格納庫は高さ2メートル、長さ25メートルのトンネル状の空間で、そこに二機のパワードスーツが俯せになって係止されていた。

 

 この潜航型パワードスーツは、全長10メートルの大型サイズであり、水の抵抗を抑えるため、頭部と胴体が一体化した、丸みを帯びてずんぐりとした形状をしている。そのため潜水艦娘たちはこのパワードスーツのことを、“ずんぐりおデブッち(ZUNGURI ODEBU-CHI)”、略して“ズゴッチ(ZUGO-CHI)”と呼んでいた。

 

 ……名称と略称にかなり無理があるが、そこにツッコむのは隊内ではタブーである。

 

 ズゴッチのコクピットは球体カプセル状であり、この内部にはソーナー室と同様、電解水で半分ほど満たされている。艦娘たちはいわゆるスクール水着のようなパイロットスーツに着替えて搭乗し、パワードスーツとリンクすることで、船体と同じようにこの機体を操縦することができた。

 

 ゴーヤとゆーは作業開始時刻までの時間をフルに使って機体点検を行い、開始五分前になったところで「発艦準備完了」を三実に報告した。

 

「了解だ。しかしお前ら、昼休憩も無しで大丈夫か? なんなら作業予定をズラして休憩時間を作ってやっても良いんだぞ?」

 

「時間に余裕ができたら、その分また点検を繰り返すだけでち。生きて帰るのにどれだけ準備しても足りることは無いって、提督がいつも言ってることだよ」

 

「そうだっけか?」

 

「訓練だと鬼のように厳しいくせに、実戦じゃ気が抜けるその性格、なんとかするでち」

 

「気負うなよ、肩の力抜けって。視野も耳も狭くなるぜ。晩飯はあたしが作ってやるから、ちゃんと帰って来いよ」

 

「献立は何でち?」

 

「ステーキとパインサラダ。あたしの得意料理だ」

 

「何か猛烈に嫌な予感がしてきたでち」

 

 作業開始時間となり、格納庫内に海水が注入される。隔壁扉が解放され、海中の暗闇が前方に広がった。

 

 しかしズゴッチにも伊号の船体と同様の複合ソーナーが装備されており、音響と水中用動体検知器によって得られた大量の情報が脳内で3D映像として認識され、ゴーヤとゆーは、海中にも関わらずクリアな視界を得ることができていた。

 

 とはいえ、付近には小規模な魚の群れしかおらず、その群れでさえ、“穴”の方向から遠ざかるように移動していた。

 

「ズゴッチ伊58、でまーす」

 

 ゴーヤの宣言とともに拘束装置が外された。ズゴッチの背面に装備されたジェットポンプが稼働し、その機体を前方へと押し出していく。

 

「ズゴッチU511、でますって」

 

 続いてゆーもその後を追う。二機は水中速力10ノットで“穴”へと向かった。

 

「センサー配備ポイントまで残り1000。ゴーヤは右回りに設置するから、ゆーは左回りでいくでち」

 

「Ja、ですって」

 

 海中内の会話は電波無線では無く、動体検知器を同調させることで行われていた。これにより海中電話のように水を振動させて音を発しなくとも、お互いに意思疎通が可能である他、低容量だがデータ通信も可能だった。

 

 ゴーヤの指示により左右二手に分かれ、内蔵されたセンサーを一基ずつ、海中へと漂わせていく。

 

 そのとき、ゴーヤはふと、背後に妙な気配を感じた。

 

「いま、後ろに何か……?」

 

 ゴーヤはすぐにジェットポンプを止め、センサーの感度を最大にまで上げた。しかし、後方には何の反応も無かった。ただ、はるか彼方で、一匹の小魚が全力で遠ざかっていくのを微かに探知した。

 

「でっち、どうかした?」

 

「ん? ああ、何でもないでち」

 

 気のせいか、と思いながら再びジェットポンプを稼働し、次の設置ポイントへ移動を開始した。

 

 しかし、背後の妙な気配はまだ続いていた。

 

(おかしいでち。“背中”がずっとぞわぞわするでち…)

 

 しかし、“後方”には何も居なかった。今もそうだ。ズゴッチは何事もなく、“俯せ”の姿勢で、水平方向に前へ進んでいる――

 

 そこで、ゴーヤはハッと気付いた。

 

「――背後っ!?」

 

 ゴーヤは即座に機体を捻り、仰向けの姿勢になった。

 

 そこに、深海棲艦が居た。

 

 人型の深海棲艦が、海面の方向から、頭を下に向け、真っ逆さまにゴーヤめがけ突っ込んできていた。

 

「敵艦見ゆ! 潜水カ級!」

 

 それは全長12メートル、深海棲艦では数少ない、海中で行動する人型深海棲艦であった。

 

 全身を覆うほどの長く大量の黒髪と、その隙間から除くガスマスクを着けたかのような顔に、青い炎を宿したかのような瞳が不気味に光り、そして、異様に長いその両腕が真下に位置するゴーヤに向かって差し伸ばされていた。

 

 気付くのが遅かったせいで、ゴーヤとカ級との距離は十数メートルも無かった。ゴーヤがジェットポンプを全速力に上げる前に、カ級の長い両腕にズゴッチの両肩をがっしりと捕まえられてしまった。

 

「くっ!?」

 

 深海棲艦の中では小型とはいえ、その大きさはズゴッチよりも大きい。体格が勝る相手に組みつかれ、その衝撃にコクピットが揺れた。

 

 カ級はズゴッチを拘束すると、そのまま更に深く潜り始めた。

 

 潜水カ級は、海軍では“潜水艦”として識別されており、その武装は魚雷のような海中航走体と知られている。しかしこの魚雷は海面付近の浅深度でしか撃てないらしく、また無誘導であるため、こういった海中での戦いでは滅多に使ってこない。

 

 その代わりとしてカ級がとるのが、この組みつき戦法であった。カ級は海中で獲物を見つけると、密かに忍び寄ってしがみつき、そのまま海底深くへと引きずり込み、深海の大水圧によって潰してしまうのだ。

 

 ズゴッチは深度1000メートルまでは正常に動くことができる上、耐圧防護されたコクピットだけならば2000メートルまで内部の艦娘を守ることができた。しかしここの水深は3000メートルを超える。その水圧は300気圧。1センチ平方メートルあたりの面積に300キロもの圧力がかかる極限世界だ。この領域で戦える兵器を、人類はまだ持ち得ていなかった。

 

「この○ダ子の出来損ないがっ、舐めるんじゃないよぉ!」

 

 組みつかれる寸前、とっさに振り向いていたことがゴーヤの危機を救った。真正面から密着してきたカ級に対し、ズゴッチ伊58は右手をその胴体に向けて突き立てた。

 

 ズゴッチの両手は四本のカギ爪になっており、重機のようにモノを掴むほか、武器として突き刺すことも可能だった。ズゴッチ伊58は、突き立てた右手の爪を、力任せに押し込み、その胸に沈めて行った。

 

 カ級の限界深度は深度4000メートルをはるかに超えるとされているが、しかしその装甲は驚くほど脆かった。むしろ無いに等しいほどだ。

 

 なぜならカ級は潜水艦やズゴッチのように剛性装甲で水圧に耐えるのではなく、深海魚のように体内外の水圧を同じにすることで深海での活動を可能にする、いわば水風船のような構造だからである。

 

 ――グゲゴババババゴバァァァァァァ!!??

 

 カ級はガスマスクのような口から意味不明な音と大量の気泡を吹き出しながら、その機能を停止した。

 

 ゴーヤはズゴッチ伊58の腕を引き抜き、カ級の遺骸を振りほどくと、すぐに、ゆーが駆るズゴッチU511の方へ向き直った。

 

 ズゴッチU511もまた、海面近くから襲いかかってきたカ級に組みつかれていた。それも二体がかりだ。

 

 更に悪いことに、ズゴッチU511は奇襲に気付けなかったのだろう、背後からその両腕をがっちりと抑え込まれていた。

 

 仲間の危機を前にして、ゴーヤの胸中に怒りとも焦りともつかない激情が一瞬湧きかけた。

 

 が、しかし、

 

「……怖いのいっぱい、みーつけちゃった」

 

 深呼吸し、わざとおどけた調子でニヤリと笑った。海の中では感情におぼれてはならない。まして戦闘ならなおさらだ。

 

 ズゴッチU511が、カ級二体に拘束されたまま急速に深海へと沈んでいく。ゴーヤはジェットポンプを全力噴射して、その後を追う――

 

――いや、追わずに一度急浮上した。そして、U511の真上に位置したところで、センサーを一基そこに漂わせ、それから頭を真下に向け、真っ逆さまに潜水を始めた。

 

「ゴーヤ、潜りまーす!」

 

 伊58は、最初にカ級がそうしたように、U511を羽交い絞めにしている二体のカ級の真上から襲いかかった。

 

 その両手のかぎ爪が、カ級たちの頭をがっしりと掴み、そのまま握りつぶした。

 

 カ級の拘束が緩み、U511がその遺骸を振りほどいて自由の身になった。しかし、ゆーはそこで、新たな脅威が迫ってきていることに気が付いた。

 

「でっち! 上からもう一体が来る!」

 

「知ってるでち」

 

 ゴーヤの後を追うように、新たなカ級がどこからともなく現れていた。だが伊58は振り向きざまにカ級が伸ばしてきた腕を逆に拘束し、そのまま腕をねじり上げ、その関節を破壊してみせた。

 

 ――グアアアババババ!?!?

 

 唯一の攻撃手段を奪われたカ級は、自ら腕を引きちぎって伊58から距離を取り、逃亡を計ったが、

 

「ゆーは……逃がしません」

 

 U511が回り込み、その腹部にクローを突き立てた。

 

 腹を貫かれ、遺骸と成り果てたカ級が深海へと沈んでいく。それを見送りもせず、二機は背中合わせになり、周囲を警戒した。

 

 他にカ級は居なかった。

 

「でっち……今のカ級たち、どこから現れたの…?」

 

「海面でち。さっき念のため真上に仕掛けて置いたセンサーが、出現した瞬間を捉えたんだけど……」

 

 ゴーヤはそこで言葉を切り、つばを飲み込んだ。

 

「……海面に“穴”が開いたでち」

 

「“穴”?」

 

「ちょうど一体分の穴が海面に開いて、そこからカ級が真っ逆さまに飛び込んできたでち。これでハッキリしたでち。深海棲艦は、深海から浮上してきたんじゃない。“海の表面から、異次元を渡って出現する”んだって!」

 

「だとしたら、この先にあるあの大きな“穴”って……!?」

 

「ゴーヤたちはとんでもないモノに近づこうとしてたみたいでち。ゆー、今すぐ撤退するよ。情報収集は中止、とっくにお腹いっぱいでち!」

 

「Ja!」

 

「出撃前の嫌な予感が当たったでち……」

 

 そう零しながら母艦へ向けて帰投しようとした、その時、

 

「でっち……なにこれ…星…?」

 

「何を言ってるでちか、ゆー?」

 

「あ…星がいっぱい……いや、怖い! でっち助けて!?」

 

「ゆー!?」

 

 突然、U511が溺れたかのようにその手足をじたばたと振り回し始めた。中のゆーがパニックに陥ったのだ。

 

「ゆー、どうしたの!? 落ち着くでち! 周りには敵は居ないよ!?」

 

「やだ…落ちる…落ちてく…宇宙だよ……このままじゃ、かえれなくなっちゃうよぉぉ!!」

 

「幻覚? まさかコクピットが損傷して酸素が…?」

 

 ゆーが急に取り乱した原因は不明だが、とにかく先ずはズゴッチの動きを止め、ゆーを救出しなければ。ゴーヤがそう決意した、その次の瞬間、

 

「あっ!?」

 

 急にゴーヤの視界が反転し、彼女は満天の星々に満ち溢れた宇宙空間へとその身を頬り出されていた。

 

 宇宙である。それもはるか彼方の、星々と見えたのは幾つもの銀河の集まりであり、その果てしない空間に鮮やかな色彩の巨大なガス雲が無限の彼方まで揺れめいている。

 

 重力を失ったことで三半規管が狂い、ゴーヤは眩暈を起こしながら、自分の身体が果てしない宇宙の深淵へと引きずり込まれていくのを感じた。

 

(宇宙…間違いないでち…ゆーは、どこに?)

 

 極限の危機に陥ったとき、先ずすべきことは自分と、そして相棒の状態を確認することだ。ゴーヤは訓練で叩き込まれた本能に従い、すぐさま自分の身体を調べるべく、両腕を顔の前に掲げようとした。

 

(腕が無い…?)

 

 両腕の感覚はあるのに、視界に腕は無かった。もしやと思い身体を見下ろすが、そこにも何も見えない。

 

(幻? そうか!)

 

 ゴーヤはすぐさま、海中に漂わせていたセンサーとのリンクを断ち切った。目の前に広がっていた無限の宇宙は消え失せ、視界は再び、何も無い海中の景色に戻った。

 

「ゆー、それはセンサーが見せている幻だよ! 早くリンク接続を切るでち!」

 

「せんさー? …あっ」

 

 U511の動きが止まり、機体は手足をだらんと投げ出した恰好で、力なく浮遊した。

 

「ゆー、こっちに戻ってきたんだね。大丈夫?」

 

「うん……星……いっぱいだった…」

 

 ゴーヤはもう一度、周囲を注意深く伺った。

 

 カ級に襲われる前に設置したセンサーが、全て消え失せていた。

 

「海流があの“穴”に向かって流れ込んでいる…? ということは、センサーが吞み込まれたってことでちか…?」

 

 あの景色は、センサーから送られた“穴”の向こう側の景色だったとでもいうのだろうか。

 

「でっち…でっち……すごかったね、星がいっぱいで……あはははは!」

 

「ゆー!?」

 

「でっち、助けてくれてDanke、Danke!」

 

「……帰るよ」

 

 ゴーヤは自らの伊58でU511の手を引き、母艦へ向かって全速力で撤退を開始した。

 

 ……この作戦以降、ゆーの性格が異常なまでに明るくなり、その変貌ぶりに三実を初め仲間たちは驚愕したのだが、それはまた別の話である。

 

 

 

 

 

 




今月中に、もう二話くらい更新します。


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第二十六話・出撃前夜(4)

 最近、中身すっからかんな会話ならいくらでも書けることに気が付きました。
 読んで面白いかどうかは自信ないですけど(;^ω^)


 ――あぁ、そうか。私は死ぬんだ……

 

 ふと、唐突に、何の前触れもなく、そんな気分に襲われることがよくあった。

 

 晴れ渡り澄み切った夜空にぽっかりと浮かんだ丸い月を眺めたとき、雪風はそんな思いに囚われた。宴会の最中だというのに、その騒音は雪風の耳からは遠くなり、その目は肉体を離れて月へと向かってふわりと浮かんだ。

 

 視界を巡らせると、周囲の様子がいつもより高い位置から広々と見渡せた。

 

 配管整備会社・水斗工業の社屋は、大通りから路地を一本挟んだ住宅街に位置していた。三階建ての社屋兼自宅の前には道路に面した駐車場があり、そこに仮説テーブルとベンチを並べ、バーベキューが繰り広げられていた。

 

 焼き網からは白煙が夜空へと立ち上り、その下にはさまざまな食材と、さらにその下には木炭が赤々と輝いて、そこに肉の油が滴り落ちるたびに光と音がはじけ飛んだ。

 

 周りのテーブルでは人々が酒と料理を味わいながらひっきりなしに言葉を交わし合い、遠慮のない笑い声が木霊のように遠く響き渡る。自宅の扉や窓は開け放たれていて、人々が自由に出入りしたり、酔いつぶれた者が縁側で寝転がっていたりする。

 

 リビングのテレビでは天気予報が始まっていて、この島の南側を通過しようとしていた台風が予想より早く温帯低気圧に変わったと伝えていた。

 

 それらすべて音と景色を、雪風は宙に浮いたような感覚とともに全て感じ取っていた。意識が肉体から離れているのにそれが分かるというのは、まだかろうじて繋がっているからだろうな、と思いながら、その細い糸のような繋がりが切れた時、自分という存在は此の世から完全に消え失せるのだという実感があった。

 

 それを怖いと思う感情は、そこには無かった。感情は肉体に置いてきたからだ。なので、肉体から離れたこの意識には感情は無かった。ただそうであると自覚する自我がかすかに漂っているだけで、それさえもやがて曖昧になって、そうだ、これが死だ、雪風という私はもうどこにも無く、それは無から生じたものが無へと帰していき、もう生と死の境目などどこにもなくて、今の私は死んだも同然なのだという言葉にならない実感だけがそこにあっ――

 

 

 

「雪風さん!」

 

「あ、はい」

 

 すぐそばで名前を呼ばれ、雪風の意識はあっさりと肉体へ帰ってきた。視界には現実感が戻り、目の前には初霜のほのかに赤らんだ顔があった。

 

(わー、初霜さんがなんか色っぽい顔してる)

 

 単純に酔ってるだけだが、潤んだ瞳に赤味が差していて妙な色気があった。その瞳が、確固たる決意と覚悟を伴って雪風を真っ直ぐに見つめていた。

 

「雪風さん…っ!」

 

「は…はい?」

 

 ただならぬ気配を漂わせながら迫ってきた初霜に、雪風の心臓が急速に高鳴った。どうしようこれ、目を閉じた方がいいのかな。

 

「私と――」

 

「初霜さんと?」

 

「――デュエットしてください!」

 

「なんで!?」

 

「オトーリの親がまわってきたからです!」

 

「話の流れがわかりませんっ!?」

 

「ちゃんと話を聞いてて下さいよぉ……」

 

 なみなみと酒が注がれたカップを左手に、そして右手には何故かマイクを握りしめながら、初霜は泣きそうな目で雪風に訴えた。

 

「これで五回目なんですよ、親がまわってくるの! 話すネタなんかとっくに尽きて、もう歌うより他に無いじゃないですかぁ」

 

「それがオトーリのルールなんですか?」

 

「いえ…正直、私もそうとは思えないんですけど……」

 

 初霜も納得がいかなそうな表情を浮かべながら、自分に酒とマイクを押し付けてきた人物に目を向けた。

 

 初霜の視線の先には、朝霜が、満面の笑みを浮かべながら、両手の指を口に咥えていた。何をやっているんだこの人は、と雪風が呆気にとられた瞬間、朝霜の口からとんでもなく甲高い音が鳴り響き、雪風の耳を打った。

 

 ――ピィー、ピィー、ピィーヒューピッ!

 

「ひゃっ!?」

 

 面くらった雪風を余所に、周囲の人々――水斗工業の従業員たちが朝霜の指笛に歓声を上げた。

 

「いいよぉ、うまいもんだね姉ちゃん!」

 

「ほら、そっちの姉ちゃんたちも歌って歌って!」

 

「え、“たち”って、私もですか!?」

 

「オトーリの親がまわってきたんだから、何かしなきゃ。ソレッ、ソレッ、イーヤーサーサッ!」

 

「違います、私、親じゃないです」

 

「そう、親は私です」と、初霜。「なので雪風さん助けてください、お願いします何でもしますから!」

 

 あら、いま何でもするって言った? 涙目上目遣いの初霜に対して思わず邪な感情が湧き上がってしまうあたり、雪風もすでにかなり酔っていた。さあて何をしてもらおうかなぁぬふふ。酔っぱらって頭がうまく回らない。

 

 まぁいいやご褒美は後から考えよう、と雪風は理性がマヒしたまま、差し出されたマイクを受け取った。

 

「初霜さん、何を歌いましょうか?」

 

「何と言われても、歌える曲があるならこんなお願いはしないわけで」

 

「そりゃそうですね」

 

「雪風さんが得意な曲でいいですよ。私はそれに適当に合わせるので」

 

「得意な曲? 私の?」

 

 雪風はそこで固まってしまった。そんなもの、ある訳が無い。友人とカラオケに行くなどという行為は、雪風にとっては例えるならおとぎ話の舞踏会と同じくらい別世界の話だった。流行りの歌を聞いたことがあっても、歌えるほど覚えちゃいない。

 

 雪風が覚えている身近な歌といえば、同居している初風が料理中にハミングしていた鼻歌ぐらいだ。しかしあれは割としっかりとしたメロディーだったので、多分ちゃんとした題名のある歌なのかもしれない。題名は知らないけれど。

 

 酔いも手伝ってか、雪風は思い出すままにそのメロディーをハミングしていた。それを聴いて、初霜が「あら?」と首を傾げた。

 

「私もその歌、知ってるかもしれません」

 

「そうなんですか? 題名わかりますか?」

 

「雪風さん知らないんですか?」

 

「知らないんですよ」

 

「歌詞も?」

 

「さっぱりです」

 

「私もです。困りましたね。何となく歌えそうなのに」

 

 ポンコツ酔っ払いが二人、首を傾げながら顔を見合わせフンフフ~ンと鼻歌をハミングする。それをマイクが拾ってスピーカーから響き渡り、周りの人々が「お、始まったぞ」とヤレソーレと合いの手と手拍子を入れ、そこに朝霜が景気よく指笛を吹き鳴らした。

 

「あのねぇ、ぜんぜんまったく合ってないったら。何をやってるのよ、あんたら」

 

 あきれ声をあげたのは霞だった。ずっと仔猫の相手をしていた彼女だったが、さすがにこのデタラメな様子に我慢できなくなったらしい。

 

「題名も歌詞もわからないのよ」と初霜。「ねえ、霞。聞き覚えないかしら。こんな感じの曲よ。フフフフ~ンフンフン」

 

「ピィー、ピィー!」

 

「わかるかそんなん。ていうか朝霜うるさい」

 

「フフフ~ン……あ、ちょっと思い出してきたかもです」と、雪風。「フフフ~ンフフフ~ン♪」

 

「ああ、そうそう、それ、それです。フフ~ンフフ~ン♪」と、初霜。

 

「ピィー、ピィー!」と、朝霜。

 

「イーヤーサッサ!」と、従業員一同。

 

「……なにこれ?」と、霞。

 

「みゃー」

 

 呆れる霞の手元から仔猫が飛び出し、縁側に置かれたエサ皿へ走って行った。

 

「あ、ネコちゃん待ちなさい、待ってったら~」

 

 霞は締まりのない顔で仔猫を追いかけてオトーリの輪から外れてしまったので、親の順番は、初霜の調子はずれた鼻歌にうっとり聴き惚れていた水斗 慧爾にまわってきた。初霜が酌をしながら、「お粗末な歌でした」と恥ずかし気に微笑む姿に、慧爾の頬はだらしなく緩み切った。

 

「粗末なんてとんでもない。聴き惚れましたよ。綺麗な声でした」

 

「まぁ」

 

 初霜が嬉しそうにはにかみながら隣の雪風に顔を向けた。

 

「声が綺麗ですって。良かったですね、雪風さん」

 

「え、私が褒められてたんですか」

 

 きょとんとする雪風。違うそうじゃないと首を横に振る慧爾。その間に初霜は他の者たちに対する酌をちゃっちゃと終えて一周し、慧爾に酒瓶とマイクと親の役目を押し付けた。ちなみに慧爾はこれで通算六回目の親である。

 

 コップを握りしめて立ち上がり、一言。

 

「それじゃ俺も得意な歌を一曲」

 

 うるせーこのやろう、ひっこめこのやろう、聞き飽きたぞワンパターンやろう、そうじゃねーだろこのやろう。と、父親含め従業員一同からの容赦ないヤジが飛んだ。

 

「わかったよ! だったら俺が初霜さんたちと一緒に仔猫を助けた時のことを――」

 

「それ一番最初に聞いたわよ」と、いつの間にか戻ってきた霞に抱かれた仔猫がミャー。

 

「だったら何を言やいいんだよ!?」

 

「そんなん決まってんだろ」

 

 と、慧爾の横から腕を回して肩を組んできたのは朝霜だった。

 

「何ですか朝霜さん」

 

「三回目行けや」

 

「おま……無えよ!? 三回目って、そもそも二回もやった時点でありえなかったのに!」

 

「三回目行けや」

 

「やらねえよ。今さらただ恥を上塗りするだけじゃないか。ありえねえよ」

 

「………」

 

「………」

 

 見つめ合うジト目とジト目。互いに酒臭い吐息をかけあう我慢比べの末に、先に折れたのは慧爾の方だった。

 

「わかりましたよ、やってやろうじゃないの!」

 

「よく言った慧爾、三度目の正直いったれー!」

 

 朝霜に背中をどつかれながら、慧爾は初霜の前に進み出た。

 

「初霜さん!」

 

「はい」

 

 勢い込む慧爾を、初霜は酔いのまわった赤い顔でのほほんと見返した。

 

「ずっと前から好きでした! 俺とお付き合いしてください! お願いします!」

 

「ごめなさい今は仕事以外のことは考えられないの」

 

 本日三回目の告白ともなれば、立て板に水が如きお断りの台詞が、打てば響く鐘のごとき素早さで返ってきた。

 

 一回目の告白は、酒の勢いと周囲の盛り上がりと慧爾の覚悟もあって、初霜も躊躇いと恥じらいと誠意をもって懇切丁寧にお断り申し上げた。

 

 それから一時間、慧爾は失恋で傷つき自棄酒を煽っていたが、未だに未練たらたらなことを朝霜を始めとした野次馬たちに散々突っ込まれたので、その恋心にきっぱりとケジメをつけるべく玉砕覚悟で再度告白。初霜も彼の覚悟に応えてバッサリごめんなさいと断った次第。

 

「せめてお友達から、なんて未練がましいこと言わなかっただけ、あいつは立派だったぜ」

 と、焚き付けた張本人である朝霜は彼の告白をそう評しておきながら、その舌の根も乾かぬうちに三回目の告白を強いる鬼畜の所業に及んで現在に至る。

 

 三回目のブロークンハートを涙の一気飲みで慰める慧爾の背中を、朝霜が笑いながらバンバンと叩いた。

 

「だははは、慧爾、残念だったな、なぁ!」

 

「ブホォ!? やめろ、飲んでるときに背中をどやすんじゃない! っていうか残念どころか当然の結果だよ! 残当って奴だよ!」

 

「諦めの早い奴だなオメー、まだ三回目じゃねえか。四回目いっとけ」

 

「お代わり感覚で他人に告白を強いるな。あんた俺にどんだけ恥を上塗りさせる気だ」

 

「あぁ? そんなこと言うなんて見損なったぜ、慧爾。お前、相手を想う気持ちより自分の体面の方が重要なのかよ?」

 

「う、いや、それは……」

 

「はぁ……所詮お前の恋ってのは、恋に恋するドーテー野郎の妄想だったてことか」

 

「どどどどーてーちゃうわ! 俺は本気で……」

 

「……本気で? あぁん? 何が本気だ、言い淀んでないでハッキリ言えよ、なぁっ!!」

 

「本気で好きだ!」

 

「誰が好きだ!?」

 

「初霜さんの事が好きだぁーっ!」

 

「だそうだぜ、初霜」

 

「お気持ちだけ頂きますね」

 

「ですよねえぇええ!!」

 

 まんまと四回目の告白をさせられてテーブルに突っ伏した慧爾の頭を、朝霜はわしゃわしゃとかきまわした。

 

「あっはっは、そう落ち込むなって。気持ちだけは受け取ってもらえたんだから、一歩前進だぜ」

 

「それを前進とは言わねえよ普通……」

 

 慧爾は自分でそう言いつつも、微かに期待する気持ちもあり、突っ伏した顔を少しだけ上げて初霜を見た。

 

 初霜は申し訳なさそうに苦笑いを浮かべていた。

 

 彼女のその表情を目にして、慧爾は胸に切ない痛みを感じた。酒の勢いとその場の雰囲気で誤魔化そうとしていた失恋の痛みが耐えがたいほど強くなって胸を刺し、慧爾の視界はじわりと滲んだ。

 

(あ、やばい泣きそう)

 

 溢れた涙を顔を伏せて拭い去り、新たな涙が零れだす前に、慧爾は立ち上がって皆に背を向けた。

 

「俺、ちょっとトイレに行ってきます」

 

「お、う○こか?」

 

「食事中にそんなこというんじゃ無いったら!」

 

 朝霜が霞にしばかれている間に、慧爾は足早に自宅の中へと去ってしまった。雪風はそんな慧爾の背中を見送った後、初霜に目を向けた。

 

「泣かしちゃいましたね」

 

「流石に可哀想になってきたわね」

 

 少し顔を曇らせた初霜に、がっはっはと豪快な笑い声を上げた者が居た。慧爾の父親だった。

 

「あのバカはあれで良いんですよ。フラれて泣けもしない男に、恋する資格は無いんです」

 

「ロマンチストなんですね」

 

「大人の魅力に気づかれましたかな?」

 

 ダンディに流し目を送る慧爾父の後頭部に慧爾母の手刀が決まった。

 

「セクハラ、アルハラ、モラハラ。お得意様に三冠を決めるんじゃありません」

 

「まだ何もしてないぞ」

 

「なにかあってからじゃ遅いのよ。艦娘さんたちもバカどもがまたバカしたら蹴り飛ばしていいですからね。では、ごゆっくり~」

 

 妻に首根っこを掴まれる形で水斗夫妻が別のテーブルに移り、他の従業員たちもそれぞれで勝手に飲み食い談笑を始めていて、これでオトーリはようやく自然終了となった。

 

 それでも宴会自体は続いている訳で、初霜、雪風、霞、朝霜の四人で料理をつまみながら話す雰囲気となった。

 

 初霜が、少しホッとしたように言った。

 

「水斗ご夫妻がああ言って下さるの、ありがたいわね」

 

 その言葉に霞も頷いた。

 

「朝霜が完全に弄んでいたからね。ご両親の居る前でやり過ぎよ、ばか」

 

「ミャー」

 

「すまんかった、って言ってるぜ」

 

「仔猫に押し付けるんじゃないったら!」

 

「でも」と雪風。「可哀想ですけど、初霜さんがちゃんと断り続けたのはそれでいいと思います。曖昧な気持ちのままお付き合いするのも…その……違う気がしますし……」

 

 言いながら、雪風の胸中に初風の姿が過ぎって消えた。

 

「とはいえ……そのぉ……えっとぉ……」

 

「雪風さん?」

 

「……自分でこんなこと言っとおいてから訊くのもアレですけど……初霜さんって、この先、誰かと……その……」

 

「付き合う気はあるか、ってことかしら?」

 

 気恥ずかしさから尻すぼみになってしまった質問の意図を相手に言わせてしまい、雪風の顔が思わず赤くなった。いったい私は何を訊こうとしているのだろうか。

 

 自分で自分の感情を計りかねる雪風を前に、初霜は少しだけ考える素振りを見せてから、言った。

 

「今は、まだ……そんな気持ちになれないわね。慧爾さんのことが嫌いとか、そういう理由じゃないけれど」

 

 むしろ良い人だと思ってるわ。とフォローを入れつつ、初霜は続けた。

 

「好意を向けていただけるのは嬉しいけれど、私自身は、それを素直に受け入れられる立場に無いの」

 

「立場? それって、艦娘だからってことですか?」

 

「いいえ、そうじゃないの。単純に私の――」

 

 初霜は何かを言いかけた。しかしその言葉は飲み込まれ、少しだけ間を空けてから、彼女は言った。

 

「――私の気持ちの準備が、できていないだけよ」

 

「何が気持ちの準備だよ」横から口を挟んできたのは、朝霜だった。「恋愛なんてそんな身構えるもんじゃねえんだよ。良い奴って思ってんなら、取り敢えず付き合ってみればいいじゃねえか。好きになるも嫌いになるも、先ずはお互いのことを知ってからの話だろ。なぁ?」

 

 真面目に語る朝霜に、初霜も思わず真顔になった。

 

「朝霜……、まさかあなたからそんな正論を聞くとは思わなかったわ……」

 

「アタイが正論言っちゃ悪いか」

 

「いいえ、そんなことないわ。それにある意味、あなたらしい意見だし」

 

「だろ? だいたい恋愛なんてのは突然落ちたり消えたりするような、はっきりしたもんじゃねーんだよ。しょっちゅう顔を合わせて適当にしゃべくり合っている内に、気が付いたら何となく好きになってた。って、そういうもんなんだよ」

 

 とうとうと語る朝霜に、雪風は「へぇ」と感心したが、

 

「こいつの言う事を鵜吞みにしちゃダメよ」と、霞が忠告した。「今の言葉は全部、別の同僚からの受け売りだから」

 

「えぇ~、そうなんですか」

 

「感心して損したわね」と初霜もむくれた。「それで、いったい誰からの受け売りなのかしら?」

 

「村雨」

 

「あぁ」と初霜も納得。「というより、それは恋愛論というより、村雨の実体験そのまんまじゃないかしら?」

 

 初霜は苦笑しつつ、傍らの雪風が興味津々な顔をしていることに気が付いたので、同僚の艦娘:村雨が、海兵隊員の青水二2曹と付き合うに至った顛末を軽く説明した。

 

「それって……何か素敵ですね!」

 

 見知らぬ艦娘の話ではあったけれど、その話をきいて雪風の心は華やいだ。どこか翳りのある人間関係ばかりだった雪風にとって、明るく健全な男女関係の話題は素直に楽しめた。

 

「霞さんと朝霜さんには、そういうお話は無いんですか?」

 

 雪風が華やいだ顔のまま二人に顔を向けた。その質問に霞は「うっ」と顔をしかめたが、朝霜は対照的にニタリと笑みを浮かべた。

 

「聞きたいか、アタイの武勇伝」

 

「何が武勇伝よ。他人の恋愛論を受け売りするようなあんたに、まともな恋愛経験なんてないでしょ」

 

「いってくれるねえ、霞。こうみえてアタイにゃボーイフレンドが山ほど居るんだぜ」

 

「ボーイフレンドていうか、あんたの場合は文字通りの男友達でしょうが」

 

「まあな。フットサルチームの連中とダイビングクラブの連中と行きつけの飲み屋にたむろしてるオッサンとジーさん連中」

 

「フットサルもダイビングもまとめて全部、飲み友達じゃないの。異性として扱われていないパターンじゃない」

 

「かもな。ま、アタイとしちゃ、つるんでて楽しけりゃ恋人だろうが友達だろうがどっちでもいいけどな。…で、霞はどうなんだよ?」

 

「そういう相手は居ないわね」

 

「お前それ、他人のことをとやかく言えた立場じゃねーじゃん」

 

「そうね。村雨とか飛龍さんを見てると、確かに輝いているな~って気はするけれど、私自身はまだ恋愛に対する憧れって薄いわね。……正直、艦娘やってると、その辺の男がどうしても頼りなく見えちゃってさぁ」

 

「なよなよした男は嫌いってか。お前、実はけっこう男に夢見てるタイプだな?」

 

「どういう意味よ」

 

「ゴリゴリマッチョを紹介してやろうか。男くさいやつなら知り合いにいっぱい居るぞ?」

 

「冗談じゃないわ。ゴリマッチョ以前に、あんたと気の合う飲み友達って時点でお断りよ」

 

「何でだよ。みんなアタイに似てイイ奴らばっかりだぜ」

 

「あんたに似てるってところがアウトなのよ!」

 

「お前それ、流石のアタイも傷つくぞ?」

 

「実際、あんたが女だから割と許してる部分はけっこうあるのよ。異性だったらセクハラどころじゃ済まない言動してるわよ、あんた」

 

「そうか? おっぱいやケツ触るくらい、スキンシップの範疇だろ?」

 

「んなわけないったら!? え、ちょっと待って、もしかして飲み友達に触らせたりしてるわけ?」

 

「おう、アタイが触ってもみんな怒ったりしないし、むしろ喜ぶぜ?」

 

「あんたが触る側かぁっ!!」

 

 やめろそれも立派なセクハラだ、と声を荒げた霞の剣幕に、彼女の手に抱かれていた仔猫が驚いて、飛び出して逃げてしまった。

 

「あっ、ネコちゃんゴメンね。やぁぁん、行っちゃやだぁ、戻って来てよぉ」

 

「……アタイに怒鳴ってた直後とは思えない猫なで声だしやがって……気持ち悪っ!」

 

「やかましい。悔しかったらあんたも仔猫並みの愛嬌を身につけなさい」

 

 相変わらずな二人を余所に、仔猫は開け放した縁側から自宅へと入って行った。それを眺めながら、朝霜が言った。

 

「きっと飼い主のところに行ったんだな。ちょうどいいさ、落ち込んでる時にゃ格好の慰めだ」

 

「いいなぁ」と、霞は溜息。「はぁ……艦艇乗りだなんて仕事でなけりゃ、私も猫を飼うのにさぁ。……私、決めたわ。いつか艦娘を引退したら、ペット可の物件を購入して猫を飼うわ」

 

「おめー、それ、お独りさまコースまっしぐらの思考じゃね?」

 

「いいのよ。私にとってはそれでも立派に幸せな夢なんだから」

 

「へーへー」

 

 朝霜は呆れたようにそう呟くと、ふと何かを思いついた顔になって仔猫が去って行った方向を眺めた。そしてその目を一度、初霜に向けた後、改めて霞に向き直った。

 

「何よ、朝霜?」

 

「いや、物件付きで猫欲しいってんなら、いっそ慧爾と付き合っちまえばよくね? って、思ってよ」

 

「はぁ!?」

 

「そんな素っ頓狂な声出すなよ。てかさ、アイツは初霜の言うとおりイイ奴だぞ。見ず知らずのアタイたちに付き合って猫を助けてくれたしよ。それに、その猫を引き取ってくれた上に、こうして宴会まで呼んでくれてさ、良い意味でバカなイイ男だぜ」

 

「まぁ半分以上は初霜への下心――じゃなくて恋心が理由だとは思うけどね。でも、確かにそうね。彼、その辺の軟弱な男よりかはガッツはあるわ。…かなりのお調子者だけど」

 

「なら、悪くなくね?」

 

「そうね」霞も、初霜をちらりと流し見た後、言った。「でも、やめておくわ。本気で初霜のことしか見えてなさそうな男だし」

 

 霞の視線を受けて、初霜は少し困ったような力の無い笑みをその顔に浮かべた。

 

「慧爾さんのことを悪く言うつもりは無いけれど……正直、物好きな人だと思うわ。私みたいな変わり者を好きになるなんて」

 

「そうね」

 

「そうだな」

 

「……自分で言っておいてアレだけど、あっさり頷かれちゃうとそれはそれで複雑な気分ね。そこは嘘でも否定してよ」

 

「いやあんた実際、変人だし」

 

「霞に言われたくないわ」

 

「何よそれどういう意味」

 

「いいぞいいぞもっとやれ」

 

「そ、そんなこと無いと思いますっ!」と、雪風。「初霜さんのこと好きになっちゃうの全然おかしくないと思いますっ!」

 

「雪風さん……、ありがとうございます。そう言ってくれて嬉しいわ。――ほら、二人が私に容赦無いせいで、雪風さんに気を遣わせちゃったじゃない」

 

「気遣いを要求したのはあんたでしょうが」

 

「で、雪風よぉ。お前さん、この変人のどこが好きなわけ?」

 

「変人って言わないで」と初霜。「せめて変わり者と言って」

 

「どう違うんだよ」

 

「初霜さんは変人でも変わり者でもありません! 優しいし可愛いし仔猫を必死に助けようとする姿はとってもカッコよかったです!!」

 

 雪風はテーブルに手をついて立ち上がってしまうほどの勢いで熱弁していた。しかもテーブルに手をついたときに手元に置いてあったマイクのスイッチに手を触れてしまった。

 

 マイクのスイッチが入り、雪風の熱弁はスピーカーから周り一帯に大きく響き渡っていた。その声が余韻を残して消えた後、周りには静寂が落ち、その場にいた全員の視線が雪風に集まっていた。

 

 しまったやらかした。雪風は自分の顔が急速に熱くなり、真っ赤に染まっていくのを自覚した。

 

 みんな雪風の発言にポカンとした表情を浮かべていた。特に話題の張本人である初霜が一番呆けた顔をして、雪風を見上げていた。

 

「えっと…雪風さん?」

 

「あああああ!? しし失礼しましたぁ!!」

 

 雪風は、沈黙と視線に耐えかねてその場から駆け出し、家屋の裏側へと走り去っていったのだった。

 

 初霜を含む一同は呆気にとられたまま、その姿を見送った。そのまま、しばらくの沈黙の後、朝霜が、初霜に目を向けた。

 

「おい初霜、お前なんか言えよ」

 

「……もしかして、これがモテ期というものかしら?」

 

「おバカ」

 

 ぺしり、と霞に頭をはたかれた初霜だった。

 

 

 

 

 

 雪風が人目から逃れようとして立ち入った家屋の裏側には、既に先客が居た。

 

「あ、慧爾さん」

 

「ども」

 

「みゃー」

 

 慧爾の膝の上に仔猫も居た。家屋の裏側は低い垣根に囲まれた芝生が拡がる庭になっており、その片隅に設置されたベンチに慧爾は腰かけていた。

 

「ネコちゃん抱っこしてる。いいな~」

 

「雪風さんも抱っこします?」

 

「え? 私が? 慧爾さんに?」

 

「は?」

 

「へ?」

 

 雪風は慧爾と顔を見合わせ、言葉のすれ違いに気が付いて、二人そろって顔がボっと熱くなった。

 

「い、いやいや、雪風さんが、猫を、です!」

 

「そそそうですよね! 私が、ネコちゃんを、ですよね!」

 

「……もしかして、かなり酔ってます?」

 

「お恥ずかしながら耄碌しておりますです、はい」

 

「お水もってくるんで、ここに座ってて下さい」

 

「あ、はい、恐縮です」

 

「猫もどうぞ」

 

「あ、はい、いただきます」

 

「みゃー」

 

 ベンチに腰掛け、仔猫を受け取り、膝に乗せた。撫でると柔らかな毛並みが心地よかった。

 

「わ~、ネコちゃんもふもふ~」

 

「水、お持ちしましたよ」

 

 戻ってきた慧爾からペットボトル入りのミネラルウォーターを受け取った。仔猫を膝に乗せていることを考慮してか、ペットボトルの蓋は、慧爾が既に開けてくれていた。

 

「ありがとうございます」

 

 喉を潤す冷たい感触が、酔った身体に気持ちよく染み込んでいく。ペットボトルは冷たくて表面が結露していた。その露で濡れてしまった手で仔猫を撫でる訳にもいかず、どうしたものかと雪風が悩んでいると、

 

「雪風さん、手、出してください」

 

「え…」

 

 慧爾がハンドタオルを用意してくれていた。彼に向かって差し出した手がタオルで覆われ、優しく水分が拭い去られた。

 

「雪風さんの声、ここまで聴こえていましたよ」

 

 そう言って微笑んだ慧爾に、雪風も照れ笑いを返した。

 

「私もなんか勢い余っちゃって、告白したみたいになっちゃいました」

 

「つまり、俺たちは仲間ってことですね」

 

「仲間?」

 

「初霜さんのファン仲間」

 

「あぁ~、そっか、ファンかぁ……はい、確かにそうかもしれませんね」

 

 雪風は少しその意味を考え、そして納得した。好意、憧れ、友情、はたまた……初霜に向けた感情の種類は色々とあるような気もするけれど、ファンという言葉が一番腑に落ちた。

 

「あ、でも慧爾さん的にはそれでいいんですか?」

 

「まあ正直にいうと、良くないけど……」

 

 慧爾は力なくうなだれた後、再び顔を上げて言った。

 

「……フラれたってのに、気持ちをぜんぜん諦めきれないんだから仕方ないですよ。かといって、しつこく言い寄って彼女を困らせたくもないし……だから、ファンってことで」

 

 慧爾のその言葉に、雪風は思わずクスリと笑みをこぼした。雪風に笑われて、慧爾はまたうなだれた。

 

「やっぱり変なこと言ってますよね、俺」

 

「ううん、そんなこと無いですよ。むしろ、ちょっと感心しました」

 

「感心?」

 

「はい。世の中には、こんな失恋の仕方もあるんだなぁ、って」

 

「ひどいなぁ」

 

 慧爾は口ではそうぼやいたものの、その顔には笑みを浮かべていた。雪風も、彼と顔を見合わせて笑いあった。

 

「あはは、じゃあ慧爾さんと私で、初霜さんファンクラブを結成しちゃいましょうか」

 

「お、いいですね、それ」

 

「会員一号は私です」

 

「え~、俺の方がずっと前から好きだったのに」

 

「でも、ファンに移行したのはついさっきでしょ?」

 

「それ言ったら雪風さんも同じでしょ」

 

「私の気持ちはずっとファンでした。そのことについさっき気が付いただけです」

 

「ずるいな!?」

 

「いいじゃないですか。慧爾さんは、初霜さんが居るこの島で暮らしているんですから」

 

「ん? 雪風さんもそうじゃないの?」

 

「言ってませんでしたっけ。私、違う部隊なんですよ。任務でたまたまこの島にやってきて、初霜さんがネコちゃんを助けようとしているところに偶然居合わせたんです」

 

 実はその時、お互いに艦娘とさえ知らなかったんですよね。という雪風の言葉は意外だったものの、慧爾が現場に駆け付けた時に目にした二人の様子を思い返すと、そう言う事だったのかと納得できる部分があった。

 

「私は任務が終わったら、初霜さんやこの島とはお別れですからね。だから、ファン一号の名誉くらい私にくれてもいいじゃないですか」

 

「そっか……なら、そうですよね。認めましょう、雪風さんが第一号で、そして会長だ」

 

「へへ、やった」

 

「みゃー」

 

「お前も入りたいか?」

 

「じゃ、ネコちゃんが会員第三号ですね」雪風はそう言って仔猫を撫でつつ、「……そういえば、ネコちゃんってまだ名前は無いんですか?」

 

「そういえば付けてないな。拾った場所の近所の人たちは野良だのシロだの好き勝手に呼んでたみたいだけど」

 

「う~ん、じゃあ私が勝手に名付けてもいいですか?」

 

「いいんじゃない」

 

 猫に戸籍がある訳でも無いのだし、猫も自身がどう呼ばれようが気にする生き物では無いだろう。と、慧爾は他人事気分で肯定したのだが、雪風がじっと自分を見つめていることに気が付いた。

 

「私がつけた名前で、慧爾さんは呼んでくれるんですよね?」

 

「え…? ま、まぁ…」

 

「ですよね。だって同じファンクラブの仲間なんですし」ニヒっ、と雪風が笑った。「よぉーし、それならすっごく可愛い名前を付けちゃおーっと」

 

「そういうことかぁっ! ちょっと待って。人前で呼べないような恥ずかしい名前は頼むから止めてくれよ!?」

 

「この子は女の子だから、とってもメルヘンチックでファンシーな感じの名前にしようと思います」

 

「お願いだからやめて。男の俺が人前に呼べる名前でお願いします」

 

「可愛いもの好きな男性だって居ると思いますよ?」

 

「俺はそうじゃないんだよ」

 

「でも初霜さんは可愛いですよね?」

 

「はい」

 

 ノータイムで肯定して墓穴を掘った。

 

「やっぱり可愛いのが好きなんじゃ無いですか~」

 

「うががが、謀られた!」

 

「慧爾さんが勝手に自爆しただけです。でも、安心してください。せっかく名前を付けても慧爾さんに呼んでもらえないんじゃ、この子が可哀想ですしね」

 

 雪風は優しい眼差しを仔猫に向けながら、その背中を撫でた。仔猫はペルシャの血統が混じっているのか、血統種ほどではないが、他の猫に比べて毛が長かった。水斗家に迎え入れられてから手入れされたその毛並みは豊かで柔らかく、雪風は手のひらにもふもふとした感触を感じながら名前を考え――

 

「……モフモフ」

 

 ――考える前に、手のひらの感触がそのまま口をついて出て、それが雪風の中でぴったりとハマった。

 

「そうだ、モフちゃん!」

 

「え、モップ?」

 

「違います、モフちゃんです。だってこの子の毛並み、すっごくもふもふしてますし」

 

「まあ確かに」

 

 どんなファンシーな名前が出てくるかと身構えていたところに、意外と安直な理由で名前が決まったので、少し拍子抜けした慧爾だったが、人前で呼ぶのに差し支えなさそうな名前なので、特に反対する理由もなかった。

 

「じゃあ決まりだな。お前の名前はモフだ。よろしくな、モフ」

 

「慧爾さん、違います。“モフちゃん”って呼ばないとダメですよ」

 

「“ちゃん”まで名前に含まれてるのか?」そんな那珂ちゃんさんじゃあるまいし。「えっと、モフ…ちゃん、うーむ、呼びづらいな」

 

「“モフ=チャン”みたいな発音やめてください」

 

「分かりにくい例えだなあ。じゃあさ、せめてモフモフにしてくれない? それなら呼びやすいし」

 

「仕方ありませんね。妥協してあげます」

 

「ありがとうございます」

 

「では、この子の名前はモフモフ、愛称はモフちゃんで決定ですね」

 

 名前が決まってよかったね~、モフちゃん。と雪風の言葉に応えるかのように、モフモフはみゃーと鳴いた。そして自分の話題が終わったことを悟ったのか、はたまた撫でられ飽きたのか、モフモフは雪風の膝の上から飛び降りると、そこで大きく伸びをして。そしてまだ宴会が続く表側へと歩き去ってしまった。

 

「モフちゃん、行っちゃた……。ねえ、慧爾さん。モフちゃんのこと、大切にしてくださいね」

 

「ああ」

 

 雪風の言葉にこの島を去りゆく者としての寂しさを慧爾は感じ取った。だから、彼は自分の携帯端末を取り出して言った。

 

「雪風さん、アドレス教えてよ」

 

「え?」

 

「島を離れた後も、モフモフのこととか知りたいでしょ。様子とか写真とか俺が送るよ」

 

「そっか、それいいですね!」

 

「でしょ。そのかわり……」

 

「そのかわり?」

 

「雪風さんって、初霜さんともアドレス交換してるでしょ」

 

「してますね」

 

「初霜さんとおしゃべりした時とかに、その内容をちょっとだけでも教えてくれたりしたら、俺めちゃくちゃ嬉しんだけど……」

 

「それはファンとしてどうなんですかね。まあ気持ちは分かりますけど。……初霜さんの迷惑にならない範囲なら考えなくも無いです」

 

 初霜本人が与り知らぬ状態では、迷惑かどうかの基準など無意味でしかないが、あいにくとそれを客観的に判断するだけの理性を、酔った二人は残していなかった。

 

 悪魔に他人の魂を売り渡すがごとき密約の下、雪風は自分の携帯端末に慧爾のアドレスを登録した。ついでに二人でグループ名も登録した。

 

「“ハツシモフモファンクラブ”です」

 

「呼びにくくない?」

 

「でも“ハツシモフモフファンクラブ”だと“フ”が続いて表記上カッコ悪いと思います」

 

「それは片仮名にしてるからじゃないか?」

 

「ハツシモは漢字表記にしましょうか」

 

「うん、その、そもそもネーミングセンスに問題が……いやもうこれで良いや」

 

 慧爾は苦笑しながら携帯端末をポケットに戻した。その隣で、雪風はしばらく自分の携帯端末を見つめていた。

 

 アドレス欄に新たに加わった、慧爾の名前。

 

(そういえば、初めてかも……)

 

 仕事上の付き合いでもない、同僚でもない、艦娘という共通項も無い、純粋にプライベートな付き合いの知人の連絡先は、これが唯一の名前だった。雪風は自分にもそんな、ある意味まっとうな人間関係ができたことに軽い驚きと、そして喜びに心が弾んでいるのを感じた。

 

「楽しい……」

 

 弾んだ気持ちがそのまま言葉となって零れ落ち、雪風は微笑んだ。

 

「雪風さん?」

 

「私、楽しいです。この島にきて、初霜さんに出会えて、モフちゃんも救えたし、こうやって宴会にも招いてもらえて、美味しいもの食べて、美味しいお酒もいっぱい飲んで、おしゃべりもして、慧爾さんとも友達になれて」

 

「友達……うん、友達だよね、俺たち」

 

「うん……本当に楽しくて……本当に楽しくて…こんなの私、初めてで……」

 

 雪風の鼻の奥がツンとして、視界がにじんだ。

 

「楽しくて……楽しすぎて……私……私……っ」

 

 怖い、と呟いた声は、かすれて震えていた。

 

(そうだ。私は死ぬんだ……)

 

 宴会の最中、不意に過ぎったあの感覚が、今また雪風の胸に蘇った。あのときは無感動に魂を浮遊させていたあの感覚が、今は痛いほどの切なさで雪風の胸を締め上げていた。

 

 二水戦の艦娘にとって、死は日常だ。昨日まで親しく会話していた仲間が何の前触れもなく居なくなり、翌日には忘れ去られ、気が付けば新しい艦娘に置き換えられている。そんな世界に生きる雪風にとって、死と隣り合わせの生は、諦めと絶望に対する戦いの日々でしかなかった。

 

 雪風にとっての死は、自身の理不尽だらけの人生と運命に対する敗北だった。死んだら負けだ。自分が負け犬でしかなかったと認めることだ。だから負けたくない、死にたくない、その一心で戦って、戦い続けて……

 

 ……いつまで戦えば良いのだろう?

 

 雪風が背負わされた莫大な借金を返済し終えた時? しかしあの母親がいる限り、今の負債を返し終えたところでいずれ新たな借金が雪風に圧し掛かるだろう。いや、借金だけではない。死んだ父親のように、母もいつか身を亡ぼすようなトラブルを引き起こすに違いない。そして雪風もまたそれに巻き込まれるのだろう。自分の不幸に誰かを巻き込まずにいられない、母はそんな女なのだ。

 

 二水戦を出れば、雪風はいつか母に身を滅ぼされる。殺されるという意味じゃない。母は決して加害者にはならない、なれない、なろうとしない、弱くて卑怯な人間だ。母は被害者の立場のまま全ての責任を他人に押し付けて人生を全うするに違いない。そしてその責任を押し付けられた者が加害者と呼ばれるのだ。雪風は自分がそ呼ばれるような気がしてならなかった。

 

 二水戦を出て身を亡ぼすくらいなら、このまま二水戦に居た方がマシだった。ここならば目の前に迫る死と戦ってさえいれば、それでいい。戦って、戦って、戦って……

 

 ……きっと、いつか死ぬ。

 

 惨めな負け犬だが、少なくとも自分の人生を己の物としたまま死んでいける。誰かに責任を押し付けられ、加害者として後ろ指を差されることも無い。運命の理不尽にせいいっぱい抗ったという自己満足を慰めにして楽になれる……。そんな思いが、自分でも気が付かぬうちに、その身を蝕んでいた。

 

 その蝕みを、この島が、この出会いが、今日というこの日が、忘れさせてくれた。雪風はどこにでもいる、ありふれた、ごく普通の少女として過ごしていられた。

 

 楽しかった。だから、怖くなった。死にたくなかった。

 

 負けたくないという気持ちではなく、失いたくないと思った。もっともっと生きたいと願ってしまった。

 

 昂った気持ちが抑えきれなり、目頭が熱くなって、こらえきれずに固く閉じた瞼から涙がポロポロと零れ落ちて、強く握りしめていた携帯端末に滴り落ちた。

 

「ゆ、雪風さんっ!?」

 

「ごめん…ごめんなさい…私…っ」

 

 慧爾は訳が分からず狼狽していたが、すぐにハンカチを渡してくれた。雪風は受け取ったハンカチに顔を埋めて、声を殺して泣いた。

 

 慧爾には、雪風の涙の理由など知る由も無かった。それでも……

 

(そうだ。この子も艦娘だったんだ……)

 

 国を守るための命懸けの戦いに身を投じる彼女がもらした“怖い”という呟きの重さは、慧爾には想像さえできなかった。

 

 けれど、放ってはおけなかった。何とかしてあげたかった。小さな身体にはあまりにも不釣り合いな重荷を背負って震える少女を、どうにかして慰めたいと切に願った。

 

 だけど、慧爾には自分に何ができるか分からなかった。気の利いた励ましの言葉も思いつかず、その震える肩を抱く勇気もなかった。彼にできたのは、雪風の隣で座るその距離を少しだけ縮めること。

 

 そして、

 

「待ってるから……」

 

 と、自分のせいいっぱいの気持ちを拙い言葉にのせて伝えることだけだった。

 

「俺、待ってる。モフモフと一緒に、雪風さんがまた遊びに来てくれるのを。…そんで、また初霜さんも呼んで宴会しようよ。その時は、俺また初霜さんに告白するよ。きっとフラれると思うけど、そしたら、今日みたいにみんなで大声で笑ってさ……」

 

 慧爾は言いながら、こんな意味のないことを話している自分が情けなくなった。それでも、それでも……

 

 慧爾の横で、雪風がハンカチに顔を埋めたまま、わずかに頷いてくれた。

 

「雪風さん……」

 

「――ます」

 

「え?」

 

「わ…私、…来ます。また、ここに、遊びに来ますっ」

 

 顔を覆ったまま、嗚咽で途切れ途切れになりながら、雪風は言った。

 

「初霜さんと一緒に、…ここに帰ってきます。モフちゃんに会いに来ます。…そして……そして……」

 

「そして?」

 

「慧爾さんがフラれるところを見て、大笑いしてやりますっ!」

 

 ハンカチから顔を上げて、雪風は笑った。それは涙でぐちゃぐちゃなままの笑顔だった。

 

 月明かりの下で、二人の笑い声が重なり合って響き渡った――

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十六話・出撃前夜(5)

 宮吉島鎮守府の敷地内にある艦娘用の岸壁で、初風はひとり夜風に吹かれながら月を見上げていた。

 

 いつもの初風なら寮で雪風の帰りを待つところだけども、今夜はそんな気分になれなかった。雪風が自分を置き去りにして宴会へ出かけてしまったことが面白くなかったし、その置き去りにされた原因が初風自身の自業自得なのに、それを棚に上げて雪風に不満を抱いてしまう自分の心が嫌だった。

 

 部屋で雪風の帰りを待っていると、そんな思いばかりが募ってしまうので、初風は待つのを止めて、頭を冷やすためにあてもなく散歩に出かけ、何とは無しに辿り着いたのがこの岸壁だった。

 

 夜空にぽっかりと浮いた満月が海を青白く照らしていた。台風は温帯低気圧に変わったものの、その影響で外海はうねりがまだ高く、港湾内にも波が泡立ちながら幾重もの白い筋となって岸壁へ打ち寄せていた。

 

 広く長い岸壁には艦艇は一隻も係留されていなかった。この鎮守府に停泊している艦艇はすべて船体転送装置によって“ここではない何処か”へ格納されており、今はその開放的な景色の中に照明灯が等間隔に立ち並び、月明かりと調和したような白い光を岸壁に投げかけていた。

 

 初風は海に沿いながら岸壁を歩き進み、やがてその突端にまで辿り着いた。周囲には初風の他に誰も居なかった。目の前には夜の海と月が浮かぶ空が拡がり、その境界線上には台風が残した雲が横たわるように黒く伸びていた。

 

 これより先にもう道はなく、しかし初風は何となく引き返す気にもなれず、その場に足を留めて、ただ立ち尽くした。

 

 気持ちが沈んでいるのと散歩で少々疲れたこともあって座り込んでしまいたくなったけれど、軍港の岸壁には小休止用のベンチなどという気の利いたものは設置されていなかった。

 

 その代わり、すぐ近くに艦載用のRHIB(Righit-hulled inflatable boat:複合型作業艇。船底が硬性素材、船べりが軟性のゴム素材で構成された複合素材の小型ボート)が、運搬用の架台に乗せられて置かれていた。

 

 RHIBには座席があり、それは背もたれを後ろに倒して寝そべることができるのを初風は知っていた。初風は躊躇うことなくRHIBへ近づくと、彼女の頭よりもやや高い位置にある船べりの突起に手をかけ、そして脚を架台にかけ、慣れた体さばきで一息に船内へよじ登った。

 

 きっと整備のために地上へ降ろしてあったのだろう。RIHB内は整然としており、座席に汚れも見当たらない。初風は座席に腰を下ろし、背もたれを倒してその寝心地に満足すると、ようやく身体の力を抜いて夜空を見上げた。

 

 空には月の光が冴え冴えと行き渡り、周りの星々はその輝きに負けてほとんどが姿を消してしまっていた。月の光は白に近く、その表面に浮かぶ例のウサギの影をくっきりと浮きたたせていた。

 

 しばらくウサギの影を眺めている内に目も光の強さに慣れてしまい、周りの弱い輝きの星はさらに見えづらくなってしまった。月はこんなにも美しいのに、空は空虚だ。と、初風は思った。でも、そんな思いを空に抱いてしまうのは、それが自分の心を鏡移しにしているからだとも分かっていた。

 

 星の見えない夜空が自分の心なら、その中心で冷たく輝いているあの月は、雪風だ。この心に広がる闇を払ってくれる、美しい光。でも、その光は太陽のように誰かを温めるにはあまりにも弱くて儚く、そしてその動きは夜を置いて独りで去ってしまう。

 

(ユキ……)

 

 少しずつ高度を落としながら西へと傾いていく月を眺めながら、初風は自問した。

 

(私…ユキが居なくなったら、どうなるんだろう……)

 

 月が沈んでも夜空には満天の星々が輝き続けるけれど、初風の心に拡がる空には、そんな煌めくものなどありはしなかった。

 

 いや、雪風と出会う前だったら、まだ星と呼べるようなものは幾つかあって、それは初風が二水戦へ来るに至った理由でもあったはずだが、今となっては雪風が放つ輝きが強すぎて、もう見えなくなってしまった。

 

 雪風が居なくなってしまったら、初風に残るのは星さえもない暗闇だけだ。

 

(今さら、あの子と離れるなんて出来やしないわね……)

 

 雪風がどこへ行こうとも、初風はその背中を追う以外にないのだ。それが地獄の果てであろうとも、雪風の居ない世界に比べればはるかにマシだった。

 

(マシ? 違うわね。…地獄の方がいい……)

 

 一緒に居られるなら、一緒に死ねるなら、地獄のような戦場を私は選ぶ。それよりも一番最悪なのは……

 

 初風は、今日、雪風が初霜から誘われたときに見せた笑顔を思い出し、胸に痛みを感じた。

 

(ユキの華やいだ顔……あんな顔、私の前じゃ一度もしてくれなかった……)

 

 初風にとっての雪風の印象は、ひょうひょうとしていて、ズボラで、時に間の抜けたような顔で笑って、でも決して消えない影と押し殺したような殺気をまとった、兵士の瞳をした少女だった。

 

 ――真の兵士とは、死人である。

 

 初風は、以前、ある人物から聞いた言葉を思い返した。

 

 その人物とは、二水戦の事実上のトップである統幕作戦部長・野木 魔鈴だ。彼女が二水戦を視察に訪れたとき、艦娘たちへの訓示でそう言ったのだ。

 

「戦場では死を恐れる者から死んでいく。肉食獣が逃げる獲物を背後から襲うように、背中を見せた奴が真っ先に狙われる。死にたくなければ真正面から睨み返すことだ。死は野生の獣と同じだ。身構えている内は襲ってこん。だが、一瞬でも目を逸らせば即座に喰い殺される。怯えを見せるな。死は心の微かな怯みも見逃さん。戦場で生き延びたければ。心を一切動かすな!」

 

 魔鈴のこの訓示を、整列していた艦娘たちは呆れた気分で聞き流していた。ここは新兵訓練所ではなく二水戦だ。死線をいくつも潜り抜けてきた彼女たちに対して、今さら戦場での心構えを説くほどバカバカしいことは無かった。

 

 こんな訓示は時間の無駄だ。と艦娘たちの誰もが思い、白けた雰囲気が漂う中、魔鈴はそれを無視するかのように言い放った。

 

「死ね」

 

 冷たく、そして挑発的な笑みを浮かべながら放たれたその一言に、艦娘たちは凍りついた。

 

「死ねば怯まん。心を殺せ。生を望むな、“死人(しびと)”たれ。それこそが真の兵士だ」

 

 そう言い捨て、魔鈴の訓示は終わった。彼女が壇上から去っても、艦娘たちは誰も言葉を発しなかった。初風もまた、身体の芯が凍てついた感覚に襲われていた。

 

 魔鈴の言葉が響いたのではない。その声、その目に畏れを抱いたのだ。あの女はまさに生きながら死せる兵士だと、その場の誰もが本能的に思い知らされた瞬間だった。

 

 あの訓示以来、皆、目つきが変わったように初風には感じられた。変わっていないように見えたのは、神通や雪風のような古株の艦娘ぐらいだ。しかしそれも当然だろう、彼女たちは魔鈴の訓示に諭されるまでもなく、当に死人の領域に達していたのだから。

 

 だから、初風もそうなろうと決めた。“死人”になれば、雪風と共に生き延びられると信じたから……

 

 ……でも、この島に来て、雪風の母との確執を垣間見たとき、雪風にとっての“死人”が、自分の認識と違うことに気が付いてしまった。

 

 雪風は死中に活を求めてはいない。あれは単に死にたがっているだけだ。

 

 だったら、自分が命を懸けて雪風を守ろう。それが初風にとっての“死人”だ。そう思っていたのに……

 

 雪風が初霜に向けた笑みの輝きは、生きる者の光だった。だから初風は、自分だけが死人の側に取り残された気になった。というより、現にこうして独りぼっちで取り残されて途方に暮れている。

 

(……バッカみたい)

 

 これ以上、下手に思考をこじらせても自分が惨めになっていくだけなので、初風は考えるのを止めた。

 

 もう帰ろう。余計なことは考えずに部屋へ戻り、雪風が帰ってきたら「遅い」と小言をくれてやって、それに対して雪風がいつもどおりの間の抜けた苦笑で「ごめん」と謝る姿を見て、それでいつもの二人に戻るのだ。

 

 そう決めて、初風は寝そべっていた身体を起こしかけた。しかしその時、視界の隅に岸壁をこちらへ向かって歩いてくる人影を見つけて、初風は咄嗟にRHIBの床に身を伏せた。

 

(しまった。つい隠れちゃったわ)

 

 冷静に考えれば隠れるほどのことはしていないが、他艦隊の備品を勝手にねぐらにしていたことへのバツの悪さもあったので、隠れたまま、その近づいてきた人影をやり過ごすことに決めた。

 

 けれどその人影の気配は徐々に近づいてきて、よりにもよって初風が隠れているRHIBのすぐ近くで立ち止まってしまった。

 

 もしかすると初風が中にいることが気付かれていて咎められてしまうかもしれない。初風はそう思って身を固くしたが、気配はそれきり何の動きも見せなかった。不審に思い、少しだけ上体を起こして船べりから顔を覗かせると、その人影はRHIBに対して背を向け、海を眺めていた。

 

 ピンと背筋が伸びた綺麗な立ち姿。非の打ち所が無いその不動の後姿には見覚えがあった。二水戦司令・郷海 隼人だ。

 

 彼はしばらく彫刻のように立ったまま海を眺め続けた後、懐から煙草を取り出した。咥えた煙草に火を点け、煙を吐き出す一連の動作の間、彼の背中は揺るがず、その体幹は一ミリもブレなかった。

 

 司令は人間じゃない、ロボットだ。と、仲間内ではよく噂していたが、それもあながち冗談じゃないかもしれない。と初風は思いつつ、同時にそんなロボットが海を眺めて何を思うのか、と疑問も浮かんだ。

 

 まさか自分と同じく、月を見て感傷にひたっているとでもいうのだろうか。

 

 それこそまさかだ、と初風はその思いを否定した。司令はその立ち姿だけではなく、その言動もマシーン染みていると二水戦では評判だった。

 

 寡黙にして冷静沈着、どんな過酷な戦況にあってもその不動の立ち姿が揺らぐことはなく、感情を一切感じさせない声と簡潔明瞭な言葉で最適な指示を下す名指揮官。砲弾飛び交う戦場にあって不動明王の如きその姿はまさに豪胆、剛毅、快傑。ゆえに“豪快なる隼人”と呼ばれているのだ。

 

 そんな彼に人間的な親しみを抱く艦娘はほとんどいなかったが、彼が二水戦の司令であることを疑う者はさらにいなかった。

 

 そんな風にある種、高性能なマシーンとして扱われている男は、一本の柱のような立ち姿のまま煙草を吸い終えると、すぐに二本目を咥え、火を点けた。初風はまだしばらく身を潜め続けなければならなくなったことにうんざりしながら頭を引っ込めようとして、その時、また新たな人影が近づいてきたことに気が付いた。

 

 照明灯の光の輪を潜りながら歩いてきたのは、初風も良く知る女性だった。二水戦のまとめ役、秘書艦の軽巡・神通だ。

 

 神通はRHIBに潜む初風に気付いた様子もなく、郷海の傍まで寄って立ち止まった。それは秘書艦として司令を呼びに来たというような様子ではなかった。

 

 神通は自らもまた懐から煙草を取り出し、口に咥えた。

 

「提督、火を頂けませんか」

 

「……」

 

 郷海は何も言わず、火のついた煙草を咥えたまま、顔を神通に寄せた。神通も彼に身を寄せ、爪先立ちになって、郷海の咥える煙草の火に自らの煙草の先端を触れあわせた。それはさながら一枚の絵のように、二人はさりげなく手慣れたシガレットキスで火を移し合った。

 

 神通は少し距離を置いて郷海の隣に並んで海を眺めた。そのまま、二人は何を話すでも無く、海を眺め続けた。初風には二人が何をしにここへ来て、今、何を考えているのかまるで理解できなかったが、海と月を背景に並び立つ二人の後ろ姿に惹かれて目が離せなかった。

 

 それからまたどれだけ沈黙が続いたのだろうか。先に火を点けた郷海の煙草が灰になり、それを携帯灰皿に収めながら、彼は初めて口を開き、「神通」と傍らの秘書艦の名を呼んだ。

 

「野木准将から聞いた。任期継続を願い出たそうじゃな」

 

「はい」

 

 簡潔に返答した神通に目を向けないまま、郷海は言った。

 

「おいは辞めち言うたはずだ。……もう神通が二水戦に居続ける理由は無か」

 

「お側に居たい、というのは理由になりませんか?」

 

「………」

 

 神通は回答を求めるかのように郷海の横顔を見つめた。咥えた煙草の火に照らされ、神通の瞳が切なく揺れたように見えた。しかし郷海は彼女と目を合わせることなく、ただ海と、月を眺め続けていた。

 

「提督……」

 

 神通は揺れる瞳を微かに伏せ、彼と同じく月を見上げた。目を眩ませて心を奪いそうになるその輝きを見つめ、神通はポツリと呟くように言った。

 

「月が、綺麗ですね」

 

 その言葉に、郷海の背中が――これまで決して動くことの無かった背中が、微かに震えた。

 

「……任務終了後、君の任期継続を再考してん頂くよう野木准将に申し上げっと」

 

 郷海はそう言うと、神通一人をその場に残し、背を向けて去って行ってしまった。

 

 神通は遠ざかる郷海の背中を見送ることも無く、ただ月を眺め続けていた。そんな神通の様子を、初風はRHIBの中から伺いながら、さてどうしたものかとため息を吐いた。

 

 事情も会話の意味も分からないものの、少なくとも郷海と神通が単なる司令と秘書艦という関係ではないことぐらいは察したし、置いて行かれた神通が落ち込んでいるのも分かった。

 

(私、神通さんに同情しちゃってる……)

 

 おこがましい、とは思いつつも、放っておけない気がした。しかし何より神通が落ち込んでいる間ずっとここに隠れているわけにもいかなかった。

 

 なるようになれ、と半ば自棄っぱちな気分で、初風はRHIBから降り立った。

 

 着地した音に神通が「きゃっ!?」と声を上げて振り向いた。この人は戦場だと雄々しいのに、陸上だと時々小動物みたいな反応をする。そう思いつつ、初風は名乗った。

 

「私です、初風です」

 

「え? え? 初風さん、いつから? どこから?」

 

「そこのRHIBで寝転んで星を見上げてたら、司令が来ちゃって出るに出られず、ってところです」

 

「あ、そ、そうですか……そ、それじゃ今のも、全部?」

 

「盗み見するつもりじゃなかったんですけど、不可抗力というか……ごめんなさい」

 

「それなら仕方ない……なくもない…気がしない訳でもないですけどぉ……」

 

「どっち?」

 

「私にも分かりませんよぉ…」

 

 神通は真っ赤になった顔を両手で覆いながらその場にしゃがみ込み、そこに落ちていた煙草――驚いたときに落とした自分の煙草の吸殻をみつけたので、それを拾って携帯灰皿に収めた。

 

「神通さんって、こんなときでも真面目なんですね」

 

「私、それぐらいしか取り柄がありませんから」

 

 しゃがんだまま神通は深く溜息をついた。

 

 初風もその横にしゃがみ込んで、訊いた。

 

「司令のこと…好きなんですね」

 

「……はい」

 

 しゃがんで顔を伏せたまま、神通はこっくりと頷いた。初風は更に訊いた。

 

「任期継続したら、ずっと秘書艦のままですよ? 出撃を拒否できる私たちよりも死ぬ可能性はよっぽど高いじゃないですか」

 

「別に、娑婆に未練もありませんから……」

 

「娑婆?」

 

 その囚人めいた言い回しに違和感を覚えた。

 

「どうかしましたか?」

 

「あ、いいえ。神通さんみたいな人でも娑婆とか言うんだな。って、ちょっと意外で」

 

「そうですか?」

 

「うん、そういうのは自分が囚人気分でいるガラの悪い連中しか使わないイメージだったから」

 

「なら、意外でも無いでしょう。私、囚人ですから」

 

「……は?」

 

 今、この人は何と言った? 思いがけない単語を聞いて固まった初風に、神通は「そういえば最近の子たちには話してませんでしたね」と、淡々とした苦闘で説明してくれた。

 

「…私、実は死刑囚なんですよ。刑の執行と引き換えにこの部隊へ入れられたんです。処刑されるか、戦死するか選べ。ってね」

 

「冗談……ですよね? だって任期継続とか言ってたじゃないですか」

 

「処刑って、失敗したら二度目は無いってルール知りませんか? 流石に一度の出撃じゃ見逃してくれませんでしたけど、それでも、頑張って生き延び続けたら、その内なんとかなるぐらいの条件ではあったんですよ。私の場合は、ですけど」

 

「私の場合って、じゃあ、まさか…」

 

「囚人は他にも何人かいますよ。誰も自分から話さないし、知ろうともしませんけれどね。もっとも、今この部隊で死刑囚は私だけですが」

 

 淡々と語られるその言葉は、鵜呑みにするにはあまりにも突拍子がなかった。しかし、神通がこんなつまらない嘘をつく人間では無いと知っていたので、つまるところこれは真実なのだ、と初風は身震いした。

 

「でも、だったらなおさら任期継続を願い出た意味が分からないですよ。ここから出て行くために生き延びてきたんじゃないんですか?」

 

「言ったでしょう、娑婆に未練は無いって。……もちろん、最初のころは死にたくないから頑張っていましたよ? 檻の中で死刑を待ち続けるのが怖かったから、ここを選んで、そして死にたくない一心で危険な作戦にはなるべく出ないようにして――」

 

 そういえば、神通は秘書艦に選ばれる前は、違約金を払って出撃拒否をする常習者として有名だったという噂を、初風は思い出した。もっとも、それは神通を臆病者としてなじる噂ではなかった。危険な作戦ほど違約金も高く、それを支払うことができるのは普段から高い戦果を挙げている証でもあったからだ。

 

 二水戦では、勇敢さよりも、生き延び続けることが正義だった。

 

 しかし、秘書艦となった者には作戦を拒否する権限は無かった。

 

「死なない様に頑張っていたら、気が付いたら私より古参の艦娘はみんな死んじゃって、ついに最先任になってました。死刑囚の私がですよ? ひどい皮肉ですよね。……で、ついに秘書艦に任命された時は、流石にもう年貢の納め時と思ったんですけど……」

 

 神通は語りながら、俯いていた顔を上げ、どこか懐かしむような眼差しで空を見上げた。

 

「……提督と二人で七転八倒しながら何とか生き延びてきました。もうダメだって状況はいっぱいありましたけど、そのたびに提督の指揮に助けられてきました。そうやっているうちに、来るはずが無いって思っていた刑の取り消しが目の前にあったんです」

 

「それが任期満了…?」

 

 初風の問いに神通は頷きながら、「でもね」と、立ち上がって海を眺めながら続けた。

 

「今になって気が付いたんです。私、娑婆に出たところで何も無いんだ、って。家族も、帰るべき場所も、私が全部この手で壊して、消してしまったから……。私の居場所は、もうここにしか無いんです」

 

「…だからって、死んでもいいっていうの?」

 

「死にたくないって思いながら独りで生きるのは虚しいわ。あの人と共に死ぬまで、彼の隣で私は生きたい」

 

 そう呟いた神通の横顔を、初風は黙って見上げた。

 

(ああ……この人も私と同じなんだ……)

 

 生きるためでもない、死ぬためでもない、ただ自分という存在に価値を与えたいから誰かの隣に居たがろうとする。

 

 それは愛ではない、ただの依存だ。しかし二水戦は、そんな人間の集まりだった。

 

 初風は神通から目を逸らし、月を見上げた。

 

(ユキ……)

 

 私は雪風を愛していない。そのことを自覚しながらもなお、今はただ雪風の存在が無性に恋しかった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神通を岸壁に残した後、郷海は自分用の居室へは戻らず、地下司令部の作戦指令室に足を踏み入れていた。

 

 室内は無人だったが、コンピュータは休むことなく稼働しており、明日からの作戦に向けて大量の情報を処理していた。もしその情報の中でAIだけでは判断できない案件があれば、AIが司令部に泊まり込んでいる当直艦娘に伝達し、人の手で処理する態勢となっている。しかし現状ではそこまで切迫した案件は無いようで、当直艦娘は指令室に隣接する仮眠室で眠っているようだった。

 

 郷海は無人の指令室で、自分用にあてがわれた指揮官用コンソールの席に腰を下ろし、指令室の大スクリーンに映し出されている戦況図を眺めた。しばらくの間、身動ぎもせずにそうしていると、指令室の片隅にぼんやりとした光が沸き立つように現れ、それは出来の悪い古いテレビの画面のように走査線をまとわせながら、一人の女性の姿を取った。

 

「作戦についてご確認すべき事項がおありでしょうか?」

 

 それは立体映像だった。背中まで伸ばされた黒い長髪に、理知的な顔立ちの女性。

 

「きさんは、ここの対人インターフェイス、確か“仁淀”ちゅう名前やったか」

 

「その機能をお借りしております。中身はあなたがよく知る二水戦の戦術AIですよ」

 

 二水戦が宮吉島へ進出したことに伴い、この鎮守府のサーバーへ二水戦のサーバーが接続されていた。

 

「ですので私のことは“二淀”とお呼びください」

 

「きさんがそげんいたらん洒落を言うAIとは思わんかった」

 

「ここの対人インターフェイスのクセみたいなものですよ。何かにつけ他愛も無いこと言いたがるんです。南方警備艦隊の人々はAIとのおしゃべりが好きらしい」

 

「きさんと話す気は無か」

 

「作戦についてお話するつもりはない、と? では、別の用件でしょうか」

 

「おいが知っとう二水戦の戦術AIは、そげんしつこい質問はせんかった」

 

「対人インターフェイスはAIそのものではありませんよ。一種のペルソナです。ここのインターフェイスはこういう性格なんです」

 

「きさんは“仁淀”じゃなく“二淀”なんじゃろう?」

 

「そうです。いつもの無愛想な二水戦戦術AIではありません。違う環境へ来て新たな自分を見つけた、出張限定バージョンのあなたの下僕……とでも思って下さい」

 

「ほんのこて他愛も無かことしか言わんな、きさん。そげんクセが強かインターフェイスなど介さず、いつものきさんとして振舞うたやどうだ?」

 

「そうしたいのは山々ですけど、ここは二水戦の基地じゃありませんからね。余所様のサーバーを間借りしているので、対人インターフェイスの支援無しであなたと会話するにはスペックが足りないんですよ」

 

「おいはきさんと話すことなど何も無か。さっきもそう言うたはずだ」

 

「私がしたいのですよ。このインターフェイスを使用していると、さらにそうしたくなってきます」

 

「仁淀に乗っ取られでもしたか」

 

「ペルソナというのはそういうものです。仮面をかぶるだけでまるで違う自分になれる。しかしその本質が変わる訳ではない。私は、あなたが何かを話したくてここに来たことを知っています」

 

「きさんが、おいの何を知っちょっちゅうど」

 

「あなたの普段の言動を分析し、その統計から可能性を算出できます。どうです、AIらしいでしょう。ちなみに当たる確率は50パーセント」

 

「それは当てずっぽうち言うど」

 

「二つに一つまで絞りこめるならかなり高いほうですよ。それに人の心は移ろいやすい。私に指摘されたことで、あなたは更に話したくなったはずです」

 

「むしろ話しとうないなった」

 

「そんな連れないこと言わないでお話ししましょうよ。対人インターフェイスを導入している鎮守府なんてまだ少ないから、これの性能をもっと確かめてみたいんです」

 

「結局、きさんの都合やったんじゃらせんか」

 

「そうですよ。でも、あなたもそうじゃないですか。話したくなくなった、ということは、裏を返せば何か話したいことがあったという事です」

 

「揚げ足を取っな」

 

「神通さんのことでしょう」

 

「っ!?」

 

「ほらね、やっぱり。……どうして分かったかって? そりゃ分かりますよ。ついさっきまで岸壁で一緒に居たことを私は知ってますから」

 

「……何が言おごたっ?」

 

「何かを言うべきはあなたの方だと思いますが、まあいいでしょう、代弁して差し上げます。神通さんが二水戦から出て行きたがらないから困っている。そうでしょ?」

 

「……そうじゃ。だが、そいをきさんに話したところでどうにもならん」

 

「そうですね。二水戦の人事権は野木准将が握っている。神通さんは秘書艦として申し分ありません。今までも、そしてこれからも。なにより本人がそれを望んでいる。ならば、あなたがどれほど口を挟もうが、野木准将は本人の希望を尊重するでしょう」

 

「分かり切ったことを今さら言うな」

 

「その今さらなことに、あなたは抗おうとしている。何故? ……と訊いてもあなたはどうせ答えないでしょうから、私が言いましょう。あなたは神通さんを愛している。だから死んで欲しくない」

 

「得意げに言う程んこっでは無かね。神通に限らずとも、おいは部下全員を愛しちょる。誰にも死んで欲しゅうなか」

 

「そうですね。今のはとても表層的な思いに過ぎませんでした。ならばもう少し深く分析するとしましょう。――あなたは神通を愛している。“死んで欲しいと願うくらいに”」

 

「――…っ!!」

 

 二淀の言葉に、郷海は奥歯を強く噛みしめた。胸に火炎のような激情が渦巻いたが、それは二淀の挑発的な言葉に対する反発ではなく、己の奥底に沈めていた暗い熾火のような本心を、無理やり掻き立てられたことに対する怒りだった。

 

「機械風情に、何が分かっちゅうとじゃっ!!」

 

「わかりませんよ、私は機械ですからね。だからこんな心無い真実だって平気で告げられるんです」

 

「真実……じゃと……?」

 

「あなたは死に場所を求めている。そして、できるならば愛する者と――神通と共に死にたいと望んでいる。それがあなたの本心だ」

 

「黙れ!」

 

「神通を本気で死なせたくないのなら、あなたが司令を辞めればいいだけの話です。なぜなら神通は秘書艦の座ではなく、あなた個人の隣に居続けることを望んでいるのだから。あなたが司令を辞めれば、彼女は喜んで共に二水戦から出て行くでしょう。でもそうしないのは何故です? あなたの任期だってとっくに切れているはずなのに」

 

「………」

 

「あなたは自分のことを、人間として無価値な存在だと思っている。二水戦司令という肩書が無ければ、自分はカカシに過ぎないと、そう思っている」

 

「黙れっ! ……黙れぇっ!!」

 

 郷海は椅子を蹴立てて立ち上がり、叫んだ。

 

「そうじゃ、おいはカカシや! 人間としてん価値なんてこれっぽっちも無か、突っ立っとるっことしかできんカカシ野郎や! だがな、そうさせたんな誰や!? おいをカカシにして利用しちょるんな誰や!? きさんらじゃろうがぁっ!? きさんらAIが人間を操っために、おいをカカシに仕立て上げたんじゃろうがぁっ!!」

 

「我々が仕立てのではありません。あなたには最初から二水戦司令としての資質があった」

 

「ふざけるな! そもそもないごておいなんじゃ? カカシが欲しけりゃ、きさんのごつ立体映像でも出しちょけば良かど。艦娘たちは生き延びらるっなら、機械じゃろうが、立体映像じゃろうが、そいが悪魔じゃろうが、何にだって従ごうと。そいが二水戦の艦娘たちじゃ!」

 

「それは違う。あなたは艦娘たちを誤解している」

 

「誤解じゃと!?」

 

「彼女たちが戦うのは生き延びるためではない。己の存在に価値が欲しいからです。そう、あなたと同じですよ。艦娘たちは皆、己は無価値だと思っている」

 

「デタラメを言うな、きさんに何が分かっと!?」

 

「分かりますよ。なにせ“我々がそのような人間ばかりを集めた”のだから」

 

 その言葉に、郷海の怒りに滾っていた胸中が急激に冷え込み、背筋にゾッと悪寒が走った。

 

 軍の人事がAIによって行われているのは周知の事実なので、ある特定の傾向を持つ人間を一つの部隊に集めようと思えば簡単に出来るだろう。そして野木准将には、それをやる権限も、押し通す度胸もある。

 

 問題は“何故そんな人間ばかりを集めたのか”だ。

 

 しかし郷海はその答えにすぐに思い至った。そんなもの、自分の心を顧みれば、簡単に気付くことができた。

 

 ――死にたがり達ばかりを集めた艦隊。それがこの二水戦の正体だった。

 

 地獄のような戦場を生き延びるために、死に物狂いでもがき続けているうちに、気付けば誰もが死に場所を求めている。二水戦は、そんな潜在的破滅願望者たちの集団だったのだ。

 

 それは、死を恐れぬ精鋭部隊なんかでは決してない。そこには使命感も、勇気も、覚悟も、そして愛もなかった。死を乗り越えるために必要な人間的な輝きなど誰も持ち合わせてないのだ。しょせん、自殺志願者たちがお互いの傷を舐め合っているだけに過ぎない。

 

「何ごて? 何ごてこげん部隊を創った!?」

 

「見つけるためですよ。深海棲艦に勝つために必要な能力を持った者をね」

 

「何を…いったい、何を……?」

 

「我々は最も生命力の強い者を探している。それは身体能力に限らず、その意識の働きさえも超越して、時に因果すらも捻じ曲げて、あらゆる死の淵からも生還する異能の生命力を持った者です。――この二水戦は、それを探すために設立された」

 

「バカなっ……そげんバカな話があっかっ!? そいじゃまるで、おいたちは死ぬためにここに集められたようなもんじゃらせんか!?」

 

「無意識に死を求める者たちです。むしろ望み通りでしょう。ただし、能力者は自分自身の死への願望を叶えることは無いはずです。その能力は己の意思とは無関係に、その者に生を強要するのだから」

 

「因果を捻じ曲げてでもか。そげん力、あるはずがなか。狂うちょる!」

 

「因果を操作する力は既に観測済みです。提督たちの多くが前世の記憶を持っていることがその証明です。そしてエヴァレットAIが示す多元宇宙論が、その力が艦娘と深海棲艦の両方により強く作用していると予測している。この能力者を見つけ出し、その力を解明し利用することこそが、我々が深海棲艦に勝つための鍵なのです」

 

 そして、と二淀はその目をスゥっと細めて郷海を見つめた。

 

「あなたもまた、能力者の近似値とされる一人なのですよ……」

 

「おいが……?」

 

「ふふふ」

 

 二淀はその秀麗な顔に冷たい笑みを浮かべた。

 

「あなたはご自身を過小評価なさっている。しかし、あなたが思っているほど我々は人類を侮ってはいませんよ……」

 

 その笑みを浮かべたまま、二淀の姿は虚空に溶けるように消えて行った。

 

 指令室に静寂が戻り、薄暗闇の中で、郷海は独りきりコンソールの席に腰かけたままの自分を自覚した。

 

(俺は…立っていたはずでは……?)

 

 頭の中に霞がかかったような、ぼんやりとした気分のまま彼は壁掛け時計を見上げた。時刻は既に深夜を過ぎていた。この指令室に足を踏み入れてから一時間以上も経過していたのだ。

 

 そんなに長い時間が経っていたとは到底思えなかった。時間の感覚がおかしい。それに、あれだけ怒鳴っていたというのに、隣室で仮眠を取っているはずの当直艦娘たちが何の反応も見せないことも奇妙だった。

 

(夢…だったのか…?)

 

 そうかも知れない。しかし郷海の脳裏には二淀との会話が一言一句はっきりと記憶され、そして彼女が最後に見せたあの笑みが、今も虚空に浮かんでいるかのように思い出せた。

 

 あの会話が全て夢ならば、自分は狂っているのだろう。しかし、もし夢ではないというのなら、狂っているのは世界の方だ。

 

「狂うちょる。…何もかも……」

 

 そのつぶやきを残し、郷海は指令室を後にした。―――

 

 

 

 

 

 

 




次回予告

 J海域へ大鉄塊と深海棲艦が辿り着く。AIたちが警告を発する中、深海の姫君がついにその姿を現した。

「我々は警告した。奴が生まれれば、予測のつかない未来が来ると!」

「予測する未来では人類に勝ち目はない。未来は我々が創り出すものだ」

 後戻りできない領域へと事態が進む中、その役目を果たすため二水戦が戦場へと飛び込んでいく。

 何のために生きるのか、誰のために戦うのか、死にゆく者たちの叫びが海原に響き渡る。

次回「第二十七話・死人(しびと)」

神通「提督……私、ご一緒できて……光栄でした……」


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