恋のリート (グローイング)
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西住編・大洗編──アトム・ハートは絆を繋ぐ
西住家の末弟


 世に(せい)()るは事を()すにあり

 

──坂本龍馬

 

 

 ◇序曲──Ouverture──

 

 己の存在意義を問うとき、少年の胸に去来するのは過去に結んだ誓い。

 それは“原体験”のひとつ。

 

 ──お前はどんな大人になりたいんだ?

 

 暗い面持ちで沈む少年に対し、“父”と呼ばれる存在がそう問いを投げた。

 どんな答えでも受け入れる。そんな懐の広さに満ちた声色だった。

 だからこそ少年は自然と答えることができた。

 

 ──僕は……

 

 それは少年でも自覚していなかった己の理想の形。

 変えようのない現実に立ち向かうために選択した自身の在り方。

 だからこそ、そのとき口にした言葉を、少年はしかと胸に刻みつけた。

 たとえこの先の未来、(くじ)けることが何度あっても、決して(あやま)たないために。

 惑い苦しむ局面と対峙しても、この瞬間に立ち戻れるように。

 

 そして、その誓いを果たすべき日は目前に訪れる。

 

 ──ねえ。何が一番正しいのかな?

 

 精一杯強がった笑顔で、少女は訊く。

 

 ──おねーちゃんは、どうすればいいと思う?

 

 眠りついていた“心”に炉は回る。

 息吹を上げて、あるべき姿へ転じる。

 決して彼女に涙を流させないために。

 その笑顔を失わせないために。

 

 鉄のように、鋼のように強い彼女たち。

 しかし、ゆえに秘め隠されてしまう大切なもの。

 明るみに出ないまま沈んでいってしまうもの。

 

 だからこそ、少年は誓う。

 鋼の内で静かに泣き叫ぶ鼓動を、危うげに切れかけている絆を、決して見失わないためにも──

 

* * *

 

 

『次のニュースです。学園艦を集中的に狙った海上テロが急増する中、政府は各学園に警備力強化の徹底を呼び掛けておりますが、統廃合計画を進めている文科省からは「被害を避けるのであれば警備の強化以前に不要な学園艦そのものを失くすべきだ」という主張が上がっております。この発言に対し、世界プロリーグを間近に控えた戦車道連盟始め、各武道連盟は「優秀な人材の育成を妨げる悪辣な行為だ」と苦言を申しており……』

 

 バスが目的地に到着したところで、音楽プレイヤーで聞いていたラジオを停止させる。

 

「あいかわず物騒な世の中だな。姉さんたちの学園艦、何も起こらないといいけど」

 

 独り言ちながらバスを降りる。 

 代わり映えしない道に郷愁を覚えながら、僕は歩を進める。

 故郷に吹く風が、火照った身体に心地よく当たる。

 海の上で浴びる風とは、やはり違う。まるで子どもを柔らかく包み込むような優しさを、肌で感じる。

 あくまで気がするだけだけど。それはやっぱり思い入れがあるからこそ、感じるのだろう。

 

「ん……」

 

 額に流れる汗を拭う。

 

(夏、だなぁ)

 

 夏日の眩しさは、幼い頃を思い起こさせる。

 

(今日みたいな日はよく姉さんたちと一緒にアイスを買いに行ったっけ)

 

 一番上の姉さんは僕と手を繋いで「ちゃんと帽子を被るんだぞ?」といつものように優しく面倒を見てくれた。

 二番目の姉さんはまだその頃やんちゃで、一人真っ先に駄菓子屋さんに向かって「はやくはやく!」って急かしていた。

 

(懐かしいな)

 

 時間も忘れて三人で遊べた夏休み。この季節が来ると僕の心は弾んだ。

 

(……)

 

 しかし、いまこうして家路に向かって歩く僕にあるのは不安という感情。

 学園艦から実家に戻るときは、いつもそうだ。ひとつの懸念が、僕の足を重くする。

 そんなことは絶対にありえないと心の底で思っていても、もしやという可能性を頭に思い浮かべてしまう。

 いつのまにか、そんな風になってしまった。

 

 学園が長期休暇になると、僕は必ず実家に帰省する。

 独り暮らしはあまり好きじゃない。

 自立心を育む学園艦は確かに画期的で素晴らしい制度だと思う。学生が親元を離れて生活することはもはや世間の常識だし、そこに違和感をいだくほうがおかしいということもわかっている。

 それでも、僕は実家で家族と暮らすほうが好きだ。

 

 たぶん僕ほど頻繁に実家に帰る学生もいないだろう。

 友人の中には「どうせ帰っても小言を言われるだけだ。独りのほうが気楽じゃないか」と言って帰省しない者が当たり前にいる。だから僕みたいな人間は「親孝行だ」と言われる。

 

 ……そういうのとは違う。

 どちらかというと、これは“儀式”のようなものに近い。

 自分を納得させ、自分を安心させるための慣行。実家で過ごすことは、僕にとって重要な意味を持つ。

 

 いま、ふたつの感情が僕を揺さぶっている。

 家に帰りたい気持ちと、家に入ることを躊躇う気持ち。

 氷炭相容れない葛藤。

 ひとつの言葉が脳の中で反復する。

 

(言ってくれるだろうか)

 

 僕が一番求めている言葉を、あの人たちは変わらず口にしてくれるだろうか。

 いつものように、親しみを込めて、僕の名を──

 

 

武佐士(むさし)

 

 

 慈しみに富んだ、しなやかな声が僕を呼び止める。まるで母に呼ばれた幼子のように、反射的に振り返る。

 木漏れ日の下で、美しい女性がほほ笑みを向けている。散歩の帰りなのか、傍らには愛犬が嬉しそうに鼻を鳴らしている。

 何度も繰り返し見てきた、日常のいち風景。

 愛してやまない“原風景”のひとつ。

 

「まほ姉さん」

 

 声が弾んでいた。不安が嘘のように消えていく。

 彼女に名前を呼ばれただけで、彼女の凜とした笑顔を見ただけで、心に安らかな風が吹き渡った。昔と変わらない優しい顔で、彼女は最も欲しい言葉を夏の風に乗せる。

 

「お帰り」

 

 その言葉を聞いて初めて、僕はようやく安堵することができる。

 堂々と、言葉を返すことができる。

 

 ただいま、と。

 

 この当たり前のやりとりを、当たり前にできることに深い感謝を込めながら、僕はそう言った。

 

 

 

 今年も僕──西住(にしずみ) 武佐士(むさし)は、西住家の末っ子長男として帰郷することができた。

 

* * *

 

 戦車道というものがある。

 礼節のある、淑やかで慎ましく、凛々しい婦女子を育成することを目的とした、()()()()に許された武芸。

 

 西住流というものがある。

 戦車道を嗜む者なら知らぬ者はいない、最古にして最大の流派。

 西住家に生まれる娘は、戦車道の最前線を担う運命を背負う。

 幾年と繰り返されてきた厳しい教育によって、いまなお、最大の流派としての命脈をたもっている、完全なる女系の一族。

 

 僕が暮らしている家は、そういう家だ。

 

 実家の西住邸は門下生を迎える道場でもある。異様に広い敷地は戦車を運用するためのものだ。

 戦車の砲撃音、履帯が軋む音はこの家に暮らしていると慣れ親しんだものになる。

 しかし、いまは師範であるお母さまが外部に出向いているためか、屋敷は静かだ。風鈴の清涼な音色が耳に届いてくるほどに。

 そのことに、僕は少しホッとした。母とは、いま気まずい雰囲気だからだ。

 本当は仲直りしたいけど、しかし譲るわけにはいかないものが僕にはあった。あの人が折れるまで、僕も折れる気はない。

 

「んくっんくっ……ふぅ」

 

 冷えた麦茶で一服し、熱した身体を冷ます。

 

「武佐士、長旅で疲れたろ?」

 

 部屋着に着替えたまほ姉さんがそう聞いてくる。

 

「そうでもないよ」

「遠慮をするな。お母様が帰ってくるまで、まずゆっくり休め。ほら、膝枕してあげるから」

「……うん」

 

 庭の見える縁側。

 ちょうどよく日陰のある場所で、まほ姉さんに膝枕をしてもらうことになった。

 

「ほら」

 

 ポンポンと膝を叩くまほ姉さんの膝に、恐る恐る頭を乗せる。

 

(……柔らかい)

 

 安眠枕でも敵わないんじゃないかと思う心地いい膝。

 昔ならともかく今だとちょっと恥ずかしいなと躊躇したが、いざやってもらうと瞬く間に「ま、いっか」と身をゆだねた。それぐらい寝心地がいい。

 

「熱かったろ? あおいであげるからな」

 

 膝に僕を寝かせつつ、まほ姉さんは団扇で心地いい風を送ってくれる。

 もう片方の手で、僕の頭を「よしよし」と撫でながら。それが当然のことのように、ごく自然な手つきで。

 

「気持ちいいか?」

「うん」

「そうか」

 

 僕の返答にまほ姉さんは満足し、ますます柔和なほほ笑みを浮かべる。

 戦車に乗っているときとは異なる、とても情愛に満ちた表情。

 

 西住家の長女として、幼い頃から厳しい教育にも、訓練にも耐えてきた、立派でたくましい自慢の姉さん。

 彼女が放つ貫禄は、もはや高校生のものではない。

 多くの人は、そんなまほ姉さんを近寄りがたい怖い人だと思い込んでいる。

 けれど、僕の記憶にあるまほ姉さんは、いまのように面倒見のいい優しいお姉さんだ。むしろ僕が知っているのは、そんな面ばかりである。

 もちろん、昔は叱るべき場面ではちゃんと叱っていたけれど。

 

『男がめそめそ泣くな! もっと強くなるんだ!』

 

 でも、いまではそういう風に叱られることもなくなった。

 近頃のまほ姉さんはやたらと僕に優しい。昔以上にスキンシップが多くなっているような気がする。

 険悪になったり素っ気なくなるよりはずっといいけど、互いに成長したいまだと何だか背徳感が出てくる。

 

「どうした武佐士?」

「あ、その……」

 

 包み込むような暖かな視線に、僕は思わず顔を逸らす。

 まほ姉さんは年々綺麗になっていく。もともと容姿端麗だけど、近頃は大人の美しさも備わって、さらに魅力的になっている。

 彼女の弟として育った僕でさえドキドキする。けどそんなことを言うのは家族としておかしいから……

 

「何でも、ないよ」

 

 とだけ言って誤魔化す。

 

「そうか。具合が悪ければ言うんだぞ? 熱中症は怖いからな」

「うん。ありがと」

 

 まほ姉さんはいつもどおりだ。たぶん意識し過ぎる僕がおかしいのだろう。

 せっかく姉弟水入らずの時間だ。ここは弟らしく素直に甘えよう。そのほうが、まほ姉さんも喜ぶし。

 

「高校生活はどうだ? うまくいっているか?」

「うん。楽しいよ」

「無茶なことはしていないか? 武佐士はいつも自分を追い込み過ぎるところがあるからな」

「そっくりそのまま返すよ姉さん」

「姉さんは強いから心配いらない」

「じゃあ僕のことも心配しなくても大丈夫だよ」

「こいつめ。いつのまに言うようになったな」

 

 ちょんちょんと頬を指でつつかれる。

 くすぐったくて僕が身をよじると、まほ姉さんはクスクスとほほ笑む。

 

「この間の試合テレビで観たぞ。いい試合だった」

「あ、見てくれたんだ」

「弟が活躍する試合だ。当然ぜんぶチェックしているぞ」

「恥ずかしいな」

「何を言うんだ。小さい頃はあんなに泣き虫だった武佐士が、あそこまでたくましく戦えるようになったんだ。姉としては誇りに思うぞ?」

「まだまだだよ。強い人たくさんいるもの」

「けど通り名があるそうじゃないか。“眠れる獅子”とか、“刀剣の修羅”とか、“白銀”のなんとやらとか……」

「それ言わないで。名前負けもいいところだから」

「そうか? 私は武佐士なら通り名にふさわしい素晴らしい選手になれると信じているぞ」

「……うん、ありがと。そうなれるよう頑張るよ」

 

 姉さんたちが戦車道をやっているように、僕もとある武道を嗜んでいる。

 戦車道が“乙女の武道”だというのなら、僕がやっているのは“男の武道”と称されるものだ。

 中学生間の試合だとあまりテレビで取り上げられないが、高校に進級するとメディアで公開される機会が増えてくる。

 家に恥をかかせるような試合はもちろんできない。たとえそれが戦車道と関係のないものでも、西住の名を背負うというのはそういうことだ。

 

 最も僕が鍛錬を続けるのは、それだけが理由ではないが。

 チームメイトはよく僕に言う。

 

『武佐士さんってすごく自分に厳しいですよね。ときどき見てるほうが怖くなります』

 

 傍から見ればそうなのかもしれない。もっと手を抜いても許されることでも、僕はいつだって全力で挑む。

 まるで修身の苦行のように。

 

 でもそこまでしないと……

 

「武佐士は志が高いな。さすが、私の弟だ」

 

 いつも頑張っている『姉さんたち』と対等になれない気がするのだ。

 

* * *

 

 縁側で涼み終えた僕たちは一緒にチェスをすることにした。

 

「うーん……」

「ふふ。どうした? 降参か?」

「まだまだ」

 

 優勢なのはやはり、まほ姉さん。

 趣味で嗜んでいるだけあって本当に強い。

 僕はさっきから、どこにどの駒を進めるべきかずっと悩んでいる。

 うーん。将棋なら僕も自信あるんだけど、チェスになった途端、異文化に戸惑うように調子が出ない。

 

「むむむ」

「ふふ」

 

 頭をひねる僕を姉さんは顎を手に乗せて楽しそうに見つめている。

 余裕だな姉さん。でも僕だっていつまでも負けっぱなしじゃない。

 今日こそはひと泡吹かせてみせよう。

 

(ここ!)

 

 自信満々に駒を進める。

 

「本当にそこでいいのか?」

「え?」

 

 まほ姉さんの声で手が止まる。

 しまった。姉さんめ、心理戦に持ち込む気か。

 こんな風に言われたら悩んでしまうのが人間というもの。

 姉さんは笑みを絶やさず僕の動向を伺っている。

 

「ほら、どうするんだ武佐士? ん?」

「むむむ」

 

 姉特有の弟をおちょくる戦法。ついつい乗せられてしまいそうになるが。

 

(いや、大丈夫だ)

 

 ここは自分の判断を信じよう。僕だって少しは成長しているのだから。

 予定通りのマスに駒を置く。

 

「うむ」

 

 姉さんは迷いなく駒を取ってコトンとマスに置く。

 

「チェックメイト」

「むうう……」

 

 まるで成長していませんでした。

 

「ふふ。あいかわらず武佐士は詰めが甘いな」

「返す言葉もございません。参りました」

 

 こういうボードゲームだと姉さんたちは本当に強い。

 みほ姉さんもしょっちゅう僕をカモにしては罰ゲームをしていたものだ。チェスで負けた者は勝者のお願いを何でもひとつ聞くという、ありふれたもの。

 ちなみに僕は一度もお願いする側になったことはない。

 

『じゃあ罰ゲームで今日一日ボコの恰好しててね! はうう! かわいいよお!』

 

 という具合にコスプレをさせられ、一日中みほ姉さんの抱き枕にされたことが何度あったことか。

 そして無論、まほ姉さんも……

 

「さて武佐士。約束どおり罰ゲームだ」

 

 嬉々として弟にペナルティをしかけてくる。

 

 姉二人に弟一人。

 こういう図式だと弟はどうしても姉たちのオモチャにされるものだ。末っ子長男の宿命である。

 

「さて、何をしてもらおうか」

「お手柔らかに」

 

 優しいまほ姉さんのことだから、そんな理不尽なことは要求してこないとは思うけど。

 

「ふむ。悩ましいな」

 

 よほど候補があるのか考えあぐねている。

 ちょっと不安になってきた。

 

「……うん。よし決めたぞ」

 

 そう言って椅子から立ち上がる。

 どこか妖艶な笑みを浮かべて姉さんは僕の傍によると……

 

 むにゅうううっと豊満な物体に顔面が包まれる。

 まほ姉さんは思い切り僕を抱きしめてきた。

 

「むぐ……姉さん?」

 

 もごもごと柔肉の中でもがくと、ぎゅっとその動きを抑えられる。

 

「こら、動くな。罰ゲームなんだぞ?」

 

 これが罰ゲーム?

 世の男性陣にとってはご褒美でしかないと思うのですが。

 

「今日は一日、私に思い切りかわいがられろ。それが罰ゲームだ」

「えー」

 

 やっぱりそれはご褒美ではないでしょうか姉さん。

 いや、羞恥に見舞われるという意味では確かに罰ゲームかもしれないが。

 

「なんでこのような?」

「弟分が足らん。その補給だ」

 

 左様ですか。

 まほ姉さんは弟の僕やみほ姉さんとスキンシップを取ることが大好きだ。それが元気のもとだということも幼い頃から身に染みて知っている。

 けれど、さすがにこの歳でこういうのはシスコン気味の僕でも躊躇いが……

 

「まさか武佐士。私との約束を(たが)えるような真似はしないだろうな?」

「む」

 

 そう言い方をされてしまうと僕はとても弱い。

 

「私の弟はそんな義理も守れない薄情な男だったか?」

「滅相もない」

「そうだ。お前は素直で聞き分けの良い子だ。だから抵抗せず私に抱かれろ」

 

 まほ姉さん。そのニュアンスだといろいろ危ういです。

 いや、男よりも凛々しいまほ姉さんが言うとぴったりだけどね。

 

「ふふ」

 

 僕が抵抗をやめると、まほ姉さんはすっかり機嫌をよくして抱擁を深める。

 とてもいい匂い。

 抗う意識なんて瞬く間に消えてしまう魔力を秘めた芳香に、酔いにも似た感覚に囚われる。

 

「武佐士……」

 

 胸の中にいざないつつ、頭をナデナデする姉さん。

 意識が小さい頃に戻っていくようだ。

 

「まったく、お前という奴は。せっかく黒森峰に分校が新設されて男子でも通えるようになったというのに。なぜわざわざ黒森峰以外の学園に進学したんだ?」

「いや、それは……」

 

 確かに姉さんと同じ学園艦に通えるのは嬉しいことだけど、でもそれだと甘えん坊の癖が抜けないと思ったのだ。

 さすがにこのままじゃいけないよなと判断して、武道が盛んな男子校に通うことにしたのである。でもまほ姉さんは、いまでもそのことにご立腹みたいだった。

 

「いいか武佐士。私は何もお前を縛りつけたくてこのようなことを言っているのではないんだぞ? ただな、大人しいお前が男子校でうまくやれているか心配でしょうがないんだ。いじめに遭っていてもお前のことだから内緒にしているんじゃないかと……」

「いや、友達は結構いるし、うまくやってるよ? いじめがあったらむしろ助ける側で……」

「黙って聞け」

「あ、はい」

 

 横槍を入れてはいけない独白タイムなのですね姉さん。

 武佐士、了解しました。

 

「確かに昔と比べたらお前はたくましくなった。だがそれでも心配なものは心配だ」

 

 壊れものを扱うように姉さんは背中をさする。

 僕は黙って姉さんに身を任す。

 

「昔は私もよく『強くなれ』と言ったが、いまは逆の気持ちだよ。お前が私の見えないところで何かトラブルに巻き込まれているんじゃないかと思うと、不安になる」

 

 腕の力を強めて僕を引き寄せる。

 

「過保護なのは百も承知だ。だが武佐士。それは前例があるからこそだ。お前は中学時代、厄介ごとばかりに顔を突っ込んでいただろう」

 

 僕にとっては厄介ごとというより人助けのつもりだったのだが、姉さんにとってはそうではない。

 実際それで何度か大怪我したこともあるわけだし、気がかりになるのは当然と言える。

 素直に申し訳ないと思う。だから僕はただ黙って姉さんに身を任す。

 

「武道ならばまだいい。安全が保障されているからな。だが、それ以外のことでお前に危険な真似はして欲しくない。だから手が届くところにいて欲しいと思ってしまうんだ」

 

 姉さんは本当に弟思いだ。

 こんな優しい姉さんを心配させるなんて、僕は悪い弟だ。

 反省の意味も込めて僕は黙って姉さんに身を任し、そのまま一緒に布団に横たわり……

 

 え? 布団?

 

「ちょっと待って姉さん。いつのまに布団なんて敷いたの?」

「武佐士」

 

 僕の質問を無視して、まほ姉さんはしなだれかかってくる。

 その表情はとても色っぽく、動揺なんて一発で吹き飛んでしまうほどに見惚れてしまう。

 立派に発育した女性的なカラダを惜し気もなく押し当て、耳元に唇を寄せる。

 

「お前はどこにも行かないでくれ」

 

 痛切な祈りの込もった言葉。

 そこで僕は冷静になり、すべてを察する。

 そうか。つまり、まほ姉さん……

 

 僕は彼女の背中に腕を回す。

 

「武佐士。やっとその気に……」

「まほ姉さん──みほ姉さんがいないと、やっぱり寂しい?」

「……」

 

 まほ姉さんの表情が一瞬で悲壮なものに変わる。

 滅多に人には見せない、僕やみほ姉さんにしか見せない彼女の弱い部分。

 

 なんて察しが悪いんだろう僕は。帰ってすぐに気づいてあげるべきことじゃないか。

 今年の帰省は、僕たち姉弟たちにとって、いつもの帰省とは違うのだから。

 

「……ごめんね。確かに、みほ姉さんの代わりに、僕が傍にいてあげられればいいんだけど」

 

 戦車道の名門校、黒森峰。全国大会において幾度も優勝を続けた王者の学園。

 まほ姉さんはその部隊の隊長として、次女のみほ姉さんは副隊長として、十連覇を賭けた試合に臨んだ。去年のことだ。

 そして、悲劇が起きた。その悲劇によって、みほ姉さんは黒森峰を去ることになった。

 もう二度と戦車道に関わることはないように思えた。それほどまでに、みほ姉さんの心は傷ついたのだ。

 

 だが、大洗という無名校で、みほ姉さんは再び戦車道を始めた。

 そうして、まほ姉さんが率いる黒森峰と決勝で戦った。

 

 いつだって二人は、同じ場所で、手と手を取り合って、戦車道をやっていた。

 そんな彼女たちが──

 

「まさか、二人がライバルとして戦うだなんて、僕には想像もできなかったよ」

 

 ただ黙って見ていることしか僕にはできなかった。戦車道に関して男の僕が口出しするのはタブーだったから。

 だけど……

 

「ライバルとしてじゃなくて、最後まで一緒に戦いたかったんだよね?」

 

 まほ姉さんは、ずっとみほ姉さんと支え合いながら戦車道を続ける未来を夢見ていた。

 そのことを知っているのに、僕は何もしてやれなかった。何かをする勇気すらなかった。

 

「ごめんね、まほ姉さん」

 

 いまの僕には謝ることしかできない。その寂しさを、抱擁によって埋めることしかできない。

 

 誰もがまほ姉さんを強い人だと言う。何事にも動じない心が強かな女性だと。

 でも、まほ姉さんはただ真面目なだけだ。

 どんなことにも一生懸命に取り組み、感情を表に出さないだけで。本当は誰よりも思いやり深く、そして当たり前のように脆さも持っている。

 僕はそんな姉を強く抱きしめ、約束の言葉を送る。

 

「大丈夫だよ。僕は、離れないから。今日みたいに、絶対に帰ってくるから」

 

 まほ姉さんに同じような思いは、二度とさせない。

 それだけは、絶対に守ろう。

 

「……ああ」

 

 僕の言葉にまほ姉さんは頷き、僕の胸に顔をうめる。

 

「傍にいてくれ」

 

 ぬくもりを手離さないように、まほ姉さんは眠るように僕にしがみついた。

 

 まほ姉さんに悲しい顔はさせたくない。笑っていて欲しい。

 もちろん、みほ姉さんも。

 

「……」

 

 みほ姉さんのことを思い出すと、彼女の無邪気な笑顔が恋しくなった。

 

(……会いたいな)

 

 やっぱり、今年は帰ってこないのかな。

 結局なんの言葉もかける間もなく、みほ姉さんは大洗に行ってしまった。

 もっと弟として、してあげられることがあったんじゃないのか。いつもそう後悔している。

 

(会いに行ってみようかな)

 

 夏休みを利用して、大洗に行くのもいいかもしれない。

 

 巨大な都市として海を進む学園艦は、学び舎としてだけではなく観光スポットとしても成り立っている。

 最大級規模の黒森峰やサンダースなどは人気の高いスポットだし、艦の上という限られた空間で営業をする経営者たちにとっては、外部の客人はむしろ歓迎すべき相手だ。

 うん。ヘリの免許も取ったことだし、予定を決めて行ってみよう。

 

 

 でもいまは、

 

「暖かいな、武佐士は」

 

 まほ姉さんとの時間を大事にしよう。

 

「暑くない?」

「構わない。もう少しこうさせてくれ」

「わかった」

 

 まるで小さな頃のように、僕たちはひとつの布団の上で抱き合った。

 懐かしい気持ちが、僕の心を満たしていく。

 けれど、昔とは違うところもある。

 腕の中にいる姉は、僕よりも小さい。昔は僕が抱きしられる側だった。いまは、僕が彼女を包んでいる。

 いつのまにか、こんなにも体格差ができていたのだ。

 

 戦車に乗らず、こうして僕の腕に抱かれるまほ姉さんは、とても華奢で、とてもか弱く、いまにも消えてしまいそうなほどに、(はかな)かった。

 どんなに凛々しくとも、人よりも勇ましくとも、彼女も『少女』なのだ。

 

 自分でも理解しがたい不思議な気持ちが、ふつふつと湧いてくる。

 彼女を抱きしめる力が、一層強まった。

 

「ん……」

 

 ついチカラを込めてしまったが、まほ姉さんは苦しさを訴えなかった。

 むしろ、どこか歓迎するように甘い吐息を洩らして、しがみついてきた。

 

「武佐士……もっと、強く抱いてくれ」

 

 言われるままに、さらに彼女を抱き寄せる。

 ひとつに溶け合ってしまうのではないかと錯覚するほど、僕たちは深く深く、互いの温もりを共有する。

 

 そうしていると、だんだんと眠気がやってきた。ここで長旅の疲れが出てきたみたいだった。

 こくん、こくんと船を漕ぎ始める。

 そんな僕を見てまほ姉さんはクスリと笑う。

 

「眠ってもいいぞ?」

「ん……でも」

「気にするな。私も、少し眠るから」

「うん。じゃあ……」

 

 お言葉に甘えるとしよう。

 ひぐらしの鳴き声を子守歌代わりにしながら、僕は瞳を閉じる。

 

(小さい頃の夢が、見れるといいな……)

 

 三人で遊んだ一番楽しいひとときに思いを馳せて、僕はまどろみの中に沈んだ。

 

 

 

 ──おやすみ、武佐士

 

 優しい言葉と共に、柔らかな感触が頬にあてがわれた気がした。

 

 



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母しほの苦悩

 外での仕事を終えて、西住しほは帰宅した。

 

「お帰りなさいませ、奥様」

「ええ」

 

 家政婦の菊代が物腰柔らかく主人の帰りを迎える。

 彼女はこの西住家で長く働いているベテランの家政婦だ。

 しほの数少ない気心知れた相手でもある。

 

「……」

 

 玄関に置かれた見覚えのある靴に、しほは視線を向ける。

 

「……武佐士は、帰っているのかしら?」

「ええ。お昼頃に」

「そう」

 

 息子のこと聞くわりには、その表情は氷のように冷たい。

 とても母が浮かべる顔とは思えない、と人は言うだろう。

 しかし、しほの理解者である菊代はその胸の内を察している。

 

「ご不安ですか? 坊ちゃまとお会いするの」

「……なんのことかしら?」

「だって、いまだに坊ちゃまと喧嘩したまま仲直りなさっていないじゃないですか」

「喧嘩などしていません。あの子が一方的に意地を張っているだけです」

「それ、坊ちゃまも同じこと考えていると思いますよ?」

「……」

 

 親子ですねーと菊代はほほ笑ましそうに言う。

 ふん、としほは顔を逸らす。

 

「とりあえず、今回こそは坊ちゃまとしっかりお話しされたほうがよろしいと思いますよ?」

 

 意地の張り合いで依然として気まずい関係になっている親子二人を菊代は気にかけていた。

 ここは大人であるしほが折れるべきだということも、何度か伝えている。

 しかし、しほは頑なに首を横に振るだけであった。

 

「必要ないわ。遅い反抗期が来ただけでしょう」

「まあ、そうかもしれませんが……」

「むしろホッとしているわ。あの子にもちゃんとそういう一面があったことに」

 

 武佐士はとにかく聞き分けのいい子で、わがままを言うことがほとんどなかった。

 母親らしいことなど滅多にできなかったというのに、武佐士はしほを深く慕い、いつも敬っていた。

 

『お母さま。いつもお疲れ様です』

 

 学園艦から帰省すると、武佐士はいつもそう言って手土産を渡し、日ごろの感謝を伝えた。

 世の母からすれば、まさに理想の息子像であった。

 

 しかしそんな武佐士も、初めて母親に反抗を示した。

 去年からのことだ。

 ずっと母の言葉を忠実に聞いてきた武佐士がそんな態度を取り始めたことに、しほは少なからず衝撃を受けた。

 しかし、一方でこれが普通なのだとも考えていた。

 あまりにも聞き分けが良すぎても、親としては心配になるものだ。

 

「この機会に一度母親離れしたほうが、きっとあの子のためです」

「坊ちゃまに『お母さまなんて大嫌い!』と言われた日に屋台でヤケ酒したのはどこのどなたでしたっけ?」

「黙りなさい菊代」

 

 西住しほは女傑とうたわれる強かな女性である。

 そんな人物が息子に「大嫌い!」と言われたぐらいでショックなど受けるはずがない。

 その日はちょっと多めに酒が飲みたくなっただけである。

 飲む相手が欲しかっただけである。

 

 最も、その人選は失敗だったが。

 

『あら~。そちらのお子さんは随分と反抗的ですのね~。うちは娘の愛里寿といまでも一緒にお風呂に入るぐらい仲がいいんですのよ~♪ おほほほ』

 

 

「菊代。急に戦車を乗り回したい気分になってきたわ。用意してちょうだい」

「鬱憤晴らしで砲撃しようとするのはおやめください」

 

 菊代は主人に気づかれないよう呆れの溜め息をつく。

 

「わたくしは坊ちゃまが心配です。お慕いしている奥様と喧嘩をなさるだなんて、きっと坊ちゃま自身が心を痛めていらっしゃることでしょうから」

 

 武佐士の内心を慮ってそう口にする。

 武佐士が小さい頃からお世話をしてきた菊代ならではの推察だ。

 ヘタをしたら母のしほ以上に彼のことを理解している。

 

「奥様が見えないところで泣いていたりしているんですよ? 気づいていらっしゃいましたか?」

「……」

「ああ、わたくしが母親でしたら絶対にあんな顔させないのに」

 

 ピクっとしほの眉が吊り上がる。

 あ、これは好感触と菊代は心の内でほくそ笑んだ。

 さらに追い討ちをかける。

 

「今夜にでも慰めてさしあげようかしら」

「あまり息子を甘やかさないでちょうだい菊代」

「奥様が厳しい分わたくしが優しさをですね……」

「必要ありません」

「もう。少しは坊ちゃまのお気持ちも考えてあげてくださいまし。あの子は“ファミコン”なのですから」

「? 最近のゲーム機となんの関係が?」

「奥様、世代としては、それはもう古い機種ですよ?」

「……」

 

 嘘でしょ? という具合に目を見開くしほを無視して菊代は話を続ける。

 

「ファミリーコンプレックスの略です。武佐士坊ちゃまは家族が大好きですからね」

「……そうね」

 

 作文でも、武佐士はよく『僕は家族が大好きです』と書いていた。

 母のしほはもちろん、父の常夫を大人の理想像として尊敬し、二人の姉にとても懐いている。

 だからこそ、一年前に武佐士がしほに怒りを見せたことは、一家全員が驚愕することであった。

 しかし、それはある意味必然でもあった。

 

 

 

『お母さま! みほ姉さんを勘当するというのは本当ですか!』

『まだ決まったわけではありません。ですが、あの子がこれ以上西住流の名を穢すような真似をすればすぐにでも……』

『どうして……』

『?』

『どうしてそんなこと言うんですか!!』

『っ!?』

 

 それは初めて見る息子の本気の怒りだった。

 しほは年甲斐もなく、母の威厳も忘れて、思わず「ひゃうっ」と言いそうになるのを必死にこらえた。

 それほどの剣幕だった。

 

『……許さないから。たとえお母さまでも、みほ姉さんを勘当するなんて、絶対に許さないから!』

『む、武佐士。落ち着きなさい』

『落ち着けるわけないだろ! 勘当ってそれ、家族じゃなくなるってことじゃないか! どうしてそんな……()()()()()()()()()()()をみほ姉さんにするのさ!』

『……』

『そんなひどいことしようとするお母さまなんて──大嫌いだ!』

 

 

 

「奥様。急に膝をつかれてどうされました?」

「なんでもないわ」

 

 ちょっと仕事の疲れが出たのだろう。

 別に息子とのやり取りを思い出してブルーになったわけではない。

 ないったらない。

 

「……はあ。菊代」

「はい」

「今晩の食事は鶏の唐揚げにしてちょうだい。それで一杯やりたいわ」

「かしこまりました。……うふふ」

「何かしら?」

「いいえ。坊ちゃまの大好物の鶏の唐揚げをわざわざご希望されるものですから」

「……」

「あいかわらず不器用ですね」

「偶然です」

「奥様が作ってさしあげるときっと喜びますよ?」

「菊代。人には不向きというものがあるのよ」

「覚える努力が足りないだけでは?」

「黙りなさい。だいたい私が作ったもので……」

「? どうかされました?」

「なんでもないわ」

 

 口から出そうになった言葉をしほは飲み込んだ。

 言えるわけがない。

 自分が作った料理で武佐士がお腹を壊しでもしたら今度こそ本当に……などと口が裂けても。

 

「……武佐士はいまどうしているの?」

「お昼寝をなさっています」

「お昼寝? まったく。あいかわらずよく寝る子ね」

 

 そう言うしほだったが、その口調はどこか穏やかなものが含まれていた。

 

「本当に、いつまでも小さな子どもみたいに……」

 

 息子の温厚な笑顔が脳裏に浮かぶ。

 

『お母さま。僕、西住の家にふさわしい立派な男になります!』

 

 母を信頼しきった無垢な瞳。

 それを思い出すと、いまこうして変な意地を張っていることが、なんだかバカらしく感じてくるのだった。

 

「……ふう」

「奥様、どちらに?」

「起こしに行ってくるわ。そろそろ夜になるのだから」

 

 たとえ(いさか)いを起こしている最中でも、それぐらいのことはしても不自然ではないだろう。

 別に寝顔を見たいとか、久しぶりに母親らしいことがしたいとかそういうわけではない。

 

「ああ、奥様。いまはやめたほうが……」

「なぜ止めるの菊代?」

 

 もしや自分の役目を横取りしようという気か。

 家政婦の分際で、と昼ドラみたいなことでも言ってやろうかと思った矢先、

 

「いえ、まほお嬢様と同衾されておりますので、いまお邪魔するのは無粋かと」

「ぶっ!」

 

 何気なく、とんでもない爆弾発言をされた。

 

「あ、あの子たち姉弟同士でなにをしているの!」

「落ち着いてください。奥様が想像しているような破廉恥なことはしておりません。普通に姉弟仲良くお昼寝をしているだけですよ。やですねーこの人は」

「あなたがややこしい言葉使うからでしょ!」

 

 なにより、しほがそのような早とちりをしてしまうには、ちゃんと理由があった。

 

「心臓に悪いからやめてちょうだい。まほなら本気でそんなことしても、おかしくないのだから……」

 

 憂鬱気(ゆううつげ)に溜め息をもらす。

 

「あの子は、弟に対して本気なのよ?」

 

 

 

 それは、跡取りについて長女のまほと話をしているときに起きた出来事だった。

 

『まほ。あなたが次期家元として西住流を継ぐことに異論はありませんね?』

『ありません。私が西住流を背負います』

『よろしい。では次に跡取りのことです。まほ、そろそろあなたも許嫁を決めるべきとき……』

『いやです』

『話は最後まで聞きなさい』

『いずれ夫となる相手を決めろとおっしゃるのでしょう? でしたら絶対にいやです』

『はあ……どうしてこの話題になるとあなたはワガママになるのですか?』

 

 武佐士と同様、まほもいつだって母の躾に素直に従ってきた。

 しかし婚姻のことになると、この娘は極端に反抗を示すのだ。

 

『あなたも西住の女なら家の行く末は考えているでしょう?』

『当然です。私の代で流派を絶やすわけにはいきません』

『だったら跡取りを生むためにも相手を……』

『いやです』

 

 ああもう、としほは頭を抱える。

 こんなやり取りを自分たちはいったい何度やっていることか。

 成長すれば、まほだって冷静になって母の言うことを聞いてくれるだろうと踏んでいたのだが、

 

『私には武佐士がいます。ですから許嫁は必要ありません』

 

 成長をした今でも、まったくその意志を変えようとしていない。

 

『まほ、武佐士は弟なのよ?』

『何か問題でも?』

 

 まるで試合に挑むときのような鋭い目で言う愛娘。

 

『大ありです』

 

 本気で『その程度の障害が何か?』と思っているところが我が娘ながら何とも恐ろしい。

 

『お母様。武佐士以上の男性がいるというのなら私も許嫁に異存はありません。そして断言します。この惑星に武佐士以上の男性など存在しません。ですから、いやです』

『会ったこともないのに断言するんじゃありません』

『どんな男に出会っても、私の中で武佐士の座は揺らぎません。この気持ち、まさしく愛です』

『その愛は姉弟愛に留めておきなさい』

『無理です。もうこの思いは止められません。姉としても、女としても、私は武佐士を愛してしまっているんです』

『……』

『性的にも愛しているんです』

『そこまで詳細に言わなくてよろしいです』

 

 いったいこの娘はどこで道を踏み外したのか、弟の武佐士を本気で愛しているのだ。

 もともと溺愛するほどにかわいがっていたが、それが女としての愛に変わるなど誰が予想できようか。

 

『私と武佐士は幼い頃から互いを知り、そしていまでも仲睦まじく支え合っているのです。これほど私の夫にふさわしい男がいるでしょうか? いや、いません』

『少し落ち着きなさい』

 

 本当にこの長女は武佐士が絡むと人が変わる。

 

 確かに身内贔屓を差し引いても武佐士はどこに出しても恥ずかしくない好青年だ。

 自慢の息子である。

 だからと言って、これとこれとは話が別である。

 

『現実を見なさいまほ。どう考えても弟と結ばれるだなんて道徳的に許されるわけが……』

『血縁上では問題ないはずでは?』

『……』

『……わかりました』

 

 沈黙を決め込む母に対し、まほは挑戦的な笑みを浮かべた。

 

『では、約束を交わしてください』

『約束ですって?』

 

 いやな予感しかしなかった。

 そしてそれは当たっていた。

 出来のいい自慢の長女は、師範でもある母に対し真顔で言った。

 

『武佐士との間に“愛の証”が無事にできた際には、お母様も認めてください』

 

 そう宣言したまほの瞳には、まるで肉食獣のような光が瞬いていた。

 

 

 

「ああ……」

 

 思い出すだけ頭痛がしてきた。

 娘からとんでもない宣告を受けてからというもの、自分の見えないところでアブノーマルなことが起きているんではないかと気が気でないのだ。

 二人が一緒に昼寝をしているというだけでも不安になる。

 はたして息子は無事だろうか。二重の意味で。

 

「先が思いやられるわ……」

 

 母としても、家元としても、しほの悩みは尽きない。

 

「ちなみに奥様。わたくしはまほお嬢様の味方ですからね? あの二人が結ばれるのなら、わたくしは盛大にお祝いいたしますわ」

「菊代、あなたまで冗談言わないでちょうだい」

「本気ですよ? 武佐士坊ちゃまを旦那様って呼ぶ日が来るのを、わたくしひそかに楽しみにしているんですから♪」

「あのね……」

「それにしても、血は争えませんね?」

「なんの話かしら?」

「奥様も同じことおっしゃっていたじゃないですか。常夫様との婚姻を認めてくださらないお母様に対して『なら既成事実を作れば文句はありませんね?』って強引に……」

「忘れなさい」

 

 そんな子どもたちに絶対に明かせない最大級の秘密を軽々しく口にしないでほしい。

 

「奥様。母娘ならお嬢様の決意も理解できますでしょ?」

「……私とまほでは、あまりにも状況が違います」

 

 しほが母と対立したのは、決められた許嫁よりも常夫との恋愛結婚を優先しようとしたからだ。

 

 それだけの障害ならば、まだ説得で解決できるだろう。

 ……しかし、まほと武佐士は姉弟だ。

 その障害はあまりにも大きい。

 

 それがたとえ、

 

 

 

 ──まほ。()()()()()()()()()としても、武佐士は弟なのよ?

 



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みほ、弟について語る

 西住みほは大洗に来たことで、夢見た学園生活がいくつも実現している。

 気心知れた友人たちと気軽に談笑するという当たり前のやり取りも、そのひとつであった。

 

「へえ、みぽりん弟がいるんだぁ」

「うん。ひとつ年下の。言ってなかったっけ?」

「はい、初耳です。まほさんのときも戦車喫茶でお会いしたときに初めてお姉さんがいると知りましたし」

「そうだったっけ」

 

 もはや談笑をする上で馴染みの場となった戦車の格納庫。

 戦車道が“乙女の嗜み”と称されるこの世界といえども、華々しい女子高生が団欒(だんらん)するために集まるには(いささ)か不適切と思われる鉄臭さと油の匂いが漂う空間。

 しかし少女たちの笑声で満たされれば、たちまちそこも華やかな雰囲気に包まれた光景に風変わりする。

 

 あんこうチームのお馴染みのメンバーは、その日も自主練のあとの休憩中に会話に花を咲かせているところだった。

 話題は現在、みほの弟について盛り上がっている。

 

「西住殿の弟殿ですか。ちょっと興味深いですね」

「うん! わたしも気になる!」

「男の話になると食いつきがよくなるな沙織」

「人聞きの悪いこと言わないでよ麻子!」

「でも、わたくしも気になります。どんなかたなんですか? みほさんの弟さん」

「えーっとね」

 

 思いのほか友人たちが弟に関心を示すので、みほは困惑した。

 そこまで気になる内容かなぁと思いつつ、弟について記憶を掘り起こす。

 

「ん~……」

 

 はて、あの弟をひと言で表現すると何だろうか、と頭をひねる。

 唐突なことだったのでうまい言葉が見つからない。

 だがあえて言うならば、小さい頃からよく見てきた一面であろうか。

 

「……よく、寝る子かな?」

「ほう。わたしと気が合いそうだな」

 

 すぐに反応を返したのは麻子だけだった。

 他の三人はあまりにアバウトな紹介に苦笑いを浮かべる。

 

「いやいや。それだけじゃどんな子かわからないって、みぽりん」

「あ、あはは。ごめん。意外と家族のこと説明するのって難しいね」

 

 これまで身内について語れる友人に恵まれなかった、という悲しい理由もあるが。

 

 

 

 そもそも、どうしてこういう流れになったのだったか。

 確か、沙織が相談を持ちかけたところから始まった気がする。

 

 ──うちの妹の詩織がね、進学先で悩んでるみたいなんだぁ

 ──そうなんだ。うちの弟は確かこうこうこうで今の学園を決めたよ?

 

 という具合に、参考になればと思って弟の進学先について話したのだ。

 みほとしては別段、大した話のタネをふったつもりはなかった。

 が、男気のない女子校だと異性の話題というのは過敏に反応されるものなのかもしれない。

 もちろんそれも理由のひとつであろうが、この場合は“みほの弟”というキーワードのほうが効力としては強い。

 みほ自身含め他四人も無自覚だが、グループ内で影響力のある存在とは、どんなことでも関心を引き付けるものである。

 その身内ともなれば、同様に興味の対象と成り得ても不思議ではない。

 西住という特殊な家系で生まれ育った男児がどのような人物なのか、という純粋な好奇心もあるのは確かだったが。

 優花里は特にその色合いが強い。

 

「やはり西住家の男児ともなると、屈強で(いさ)ましい大和魂を秘めた益荒男(ますらお)のような人物が育つのではないでしょうか!?」

「ど、どうかな? うちの弟はどっちかって言うと大人しいほうかな? 戦車道とはあまり関係なく育ったし」

 

 瞳を星のようにキラキラさせる優花里にみほはそう言った。

 

 弟は小さい頃よく泣く子であり、いまはだいぶマシになったが、相当な甘えん坊でもあった。

 戦車道とは別の武道を始めてからは大人びた落ち着きを持つようになったが、それでも優花里が想像するような猛々しさは身についていないと思われる。

 どちらかというと、穏やかで物静かな子だ。

 良い意味での人畜無害であり、自然と相手の警戒心を解き、気づくと毒気を抜いてしまうような無邪気な性格の持ち主。

 色でたとえるなら“純白”。

 

 一方で情に厚いところもあり、自分のことよりも相手を優先し、困っていればできる限り力になろうとする。

 両親を尊敬し、姉である自分たちを思いやり、屋敷で働く者たちにも日ごろからの感謝を欠かさない。

 人にはもちろん、草木や虫にすら優しさを見せるような、そんな少年だ。

 姉のみほとしては、そういう面が自慢であった。

 その辺りのことを皆に打ち明ける。

 

「まあ。とても思いやり深いかたなのですね、みほさんの弟さんは」

 

 人格面を重視する華はさっそく好印象をいだいた。

 

「なるほど。つまり弟殿は西住殿寄りの好青年なのですね!」

「みぽりんっぽい男の子ってことね。うん、ちょっとイメージしやすくなった」

「いまどき珍しいくらいのお利口さんだな」

「いや、そんな、えへへ」

 

 他の者も口々に弟のことを褒めたたえるので、みほは自分のことのように機嫌をよくした。

 そんな様をクスクスと笑われる。

 

「みぽりんが照れることないのに」

「実は結構なブラコンさんか?」

「ふぇ!? そ、そんなことないよ。普通だよぉ」

 

 弟のことはもちろんかわいいと思っているが、それは姉ならばごく普通にいだく平均レベルの感情である。

 ブラコンとまでは行かないだろう、とみほ自身は思っている。

 

「でも西住殿なら弟殿に深い慈愛を注いでいそうなイメージがありますね」

「あ、わかる。みぽりんすっごく弟のことかわいがりそう」

「確かに仲はいいけど……でも昔はけっこう意地悪もしてたんだよ?」

「まあ。あまり想像できない光景ですね」

 

 華が意外そうな顔をする。

 現在のみほしか知らない彼女たちからすれば、確かに思わぬ事実だろう。

 

「これでもわたし昔はやんちゃだったんだ。お菓子を取り合ったり、いたずらで泣かしたりなんてしょっちゅうだったし」

「わわわ。本当に意外だね、みぽりんがそんなことするなんて」

「姉弟らしいと言えば、らしいですけどね」

「いまとだいぶ違う子だったんだな」

 

 おっしゃるとおりで、とみほは頷く。

 いまならば躊躇するような酷なことを、小さい頃は当たり前にやっていたものである。

 近所の田んぼで捕まえたカエルを、泣き叫ぶ弟に向かって笑いながら突きつけたり、お昼寝している横に昆虫を置いて、起きたところでビックリさせたり。

 世の中の姉の例に漏れず、弟をオモチャにしていたわけである。

 

(我ながら結構ひどいことしてたなぁ……)

 

 年月が経ったいまでは、両生類や昆虫を手で触るなど絶対に無理だ。

 逆にいまでは弟のほうが平気という始末である。

 実家に“宇宙外生物染みた黒いアレ”が発生した際、救世主として事に当たるのも弟である。

 

「しかし、西住さんがお姉さんしているところをあまり想像できないな」

「ちょっと失礼でしょ麻子」

「あ、あはは。わりと間違ってないかな? 弟のほうがしっかりしてるところあるから」

 

 大人たちもよく言っていることだった。『若いのにしっかりしている』と。

 それは恐らく、姉弟の中で一番家の言いつけを守ってきたからだろう。

 一時期は歳相応に駄々をこねることが多かった弟だが、箸の持ち方や襖の開け方といった礼儀作法を学び始めると、幼稚な面は減っていき、成人も顔負けな気骨を持つ少年へと成長していった。

 いま思えば、あれは大好きな母に褒めて欲しかったゆえの努力だったのかもしれない。

 

「いつのまにか、わたしより弟のほうが立派になっちゃってたなぁ」

 

 反して、みほは現在のように自信のない大人しい性格になっていき、弟を頼りにする一面が増えていった。

 姉の威厳もあったものではないと、みほは自嘲する。

 

「でもね。こんなしょうもないお姉ちゃんでも、『姉さん』って呼んで慕ってくれるようないい子なんだ」

「なにをおっしゃいますか! 西住殿ほど素晴らしい姉上がいれば尊敬するのは当然であります!」

「えっと、そう、かな?」

 

 自分に自信を持てないみほとしては、その辺りのことは確証を得られない。

 しかし優花里の熱弁どおり、弟は長女のまほだけでなく、次女のみほにも分け隔てない尊敬の念を向けてくれている。

 いつだって優秀な姉と比較され続けてきたみほだが、弟に限ってはそうではなかった。

 

『人と比べることに意味はないよ。どっちが強くて弱いかなんて、所詮は相性の問題でしかないんだから。ジャンケンだって一番強い手なんてないでしょ? みんな違うなら“相子”さ』

 

 人の価値とは唯一無二であり、比べるべきものではない。

 というのが弟の座右の銘だった(弟を鍛えた師の言葉らしい)。

 

『グーのように豪胆な人もいれば、チョキのように鋭い人もいて、パーのように大らかに受け止めるような人がいる。みんなが違うからこそ、世の中はうまく回っているんだって思う──だから、みほ姉さんはみほ姉さんのままでいいんだよ』

 

 

 

「──ふふ」

 

 在りし日に言ってもらえた弟の言葉を思い出して、みほは思わず頬を緩ませた。

 

「何か楽しいことを思い出されましたか?」

 

 そんなみほに、華は微笑ましいものを見るような顔を浮かべて尋ねる。

 

「うん。ちょっとね」

 

 懐かしさから来る喜悦が表情に出てしまったらしい。

 みほの多幸に満ちた相好は、その姉弟仲が実に良好であることを充分すぎるほどに物語っていた。

 ここにいる全員までもが、みほに連れられて和やかな気持ちになってしまうほどに。

 

「仲いいんだ、弟くんと」

「うん♪」

 

 沙織の言葉にみほは躊躇うことなく頷く。

 それだけは、自信を持って肯定できることだった。

 

 いつしか実家に帰ることは、みほにとって憂鬱とまではいかなくとも気後れするものになっていた。

 西住の娘として相応しい振る舞いをしなければ、厳格な母の寵愛をもらえないという不安に、常に翻弄されていた。

 だが、そんなものを抜きにしてまっさらな気持ちで向き合ってくれたのが弟だった。

 彼と過ごす時間だけは、西住流も戦車道も関係ない、どこにでも見られる普通の姉弟でいられた。

 

(会いたいな……)

 

 大洗に転校して以来、弟とは一度も顔を合わせていない。

 西住の屋敷を去る自分を、辛そうに見送った弟の顔が、いまでも忘れられない。

 

『……どうして、みほ姉さんだけが責められなくちゃいけないんだ』

 

 戦車道流派の家に育ちながら、戦車道について何か意見を言うことは許されない弟が、痛切に呟いたのがその言葉だった。

 家の言いつけは守らなくてはいけない。しかし仲の良い姉への仕打ちを前に、彼はどれほどの歯痒さを覚えたことだろう。

 

(寂しがってるかな……)

 

 長女のまほがいるから、その心配はないかもしれないが……それでも、安心させてあげたかった。

 もう、心配ないよと。

 自分には、こんなにも楽しい時間を一緒に共有できる仲間と友人たちがいるのだから。

 

(でも)

 

 残った懸念があるとするならば、それは母との確執だけ。

 面と向かって言葉を交わす勇気は、いまでもない。

 

 思えば、それこそが弟にとって最大の心配事であるかもしれないというのに……

 

 

 

「そういえば、弟くんの名前なんていうの?」

 

 沙織の問いかけに、みほは暗い淵へ沈みかけた意識を引き戻した。

 確かに肝心な名前を口にしていなかった。

 

「あ。うん。名前はね、むさ……」

 

 弟の名前を言おうとしたところで携帯電話の音が鳴った。

 

「誰のケータイ?」

「あ、わたしだ」

 

 いまとなっては珍しいガラケーの携帯電話をみほは取り出す。

 

「電話みたい。いいかな?」

「もちろん。どうぞどうぞ」

「ありがとう。誰からだろう?」

 

 画面に表示された名前をみほが確認すると……

 

「あっ!」

 

 パァッ! とその顔が輝いた。

 思わず「うおっまぶしっ」と言ってしまいそうなほど、それは歓喜いっぱいの笑顔だった。

 

「え? どうしちゃったのみぽりん?」

「なんと幸せに満ちたご尊顔!」

 

 そんな周りの動揺も気づかないほど意識がハイになっているのか、みほは光の速さにも負けないスピードで電話に出る。

 

「もしもし! “むうちゃん”!?」

 

(むうちゃん!?)

 

 みほ以外の四人の心がひとつに重なった瞬間である。

 まず驚いたのは、これまで見たことがないほどの嬉しげなみほの顔。

 彼女が好きだというボコを前にしたときでさえ、ここまでテンションを高くしたことはないのではなかろうか。

 そして彼女が親しげどころか、慈愛を込めて呼ぶ“むうちゃん”とは何者か。

 そんな四人の反応も露知らず、みほは高揚を維持したまま電話を続ける。

 

「うん! みほおねーちゃんだよ! 久しぶりだね!」

 

 まず疑問がひとつ解決する。

 口振りから推察するに、どうやら件の弟から電話がかかってきたようだ。

 しかし、そこでまた疑問が生まれる。

 いくら仲の良い弟が電話してきたとはいえ、ここまで“喜”の感情を爆発させるものだろうか。

 そう思わせるほどまでに、いまのみほは尋常でない喜び方をしているのだった。

 

「うん! うん! 元気だよ! 心配してくれてたの? えへへ、ありがとう。大丈夫だよ。いまの学園生活すごく楽しいから。むうちゃんも変わりない? そう? よかった♪」

 

 当たり障りない近況報告だが、そのやり取りすらもみほは愛しんでいるように見えた。

 

「ふふ。むうちゃんの声聞くの久しぶりだなぁ。むうちゃんも嬉しいの? えへへ、一緒だね♪」

 

 姉弟の会話というよりも、まるで久しく会っていなかった恋人同士が語り合っているような、そんな雰囲気があった。

 

「それで、どうしたの? むうちゃんが電話してくるなんて珍しいね。うん。うん……え? 大洗に来るの!? 本当!?」

 

 ただでさえ眩しかったみほの表情の周りに星雲が瞬く。

 

「もちろんいいよ! みんなにも紹介したいし! うん! うん! え、ホテル? そんな宿泊代が勿体ないよ~。おねーちゃんのお部屋に泊めてあげるから。ね? うん♪ いいよ、おいで♪ おいしいご飯作ってあげるからね! ……え? つ、作れるもん! もう、むうちゃんたら!」

 

 まさに喜怒哀楽の百面相。

 ひとつひとつのやり取りで、ポンポンとみほの表情が変わっていく。

 そんな様子を見ている友人たちは、

 

「……なんかさ」

「はい」

「いまのみほさんを見ていると」

「うむ。とても──」

 

(なごむ~)

 

 と、心をホッコリとさせた。

 まるで幼子のように感情のビックリ箱となっているみほ。

 普段なら決して見せない遠慮のない態度がまた新鮮で、見ていて飽きない。

 きっと身内の前ではこんな感じなのだろう。

 親友の新たな一面を垣間見ることができて、四人は満足げな笑みを浮かべた。

 そんな癒し効果を与えているみほの表情は、やがて愛情の込もった優しいものへと落ち着いていく。

 

「──うん。じゃあ、待ってるね? うん──ふぇ!? も、もう、むうちゃん! あいかわらず平気でそういうこと言うんだから、もう~……」

 

 何か恥ずかしくなることを言われたのか、みほは顔を真っ赤にする。

 しかし、満更でもないような顔つきであった。

 

「……ううん。そんなこと、あるわけないでしょ? ……言ってほしいの? もう、甘えん坊さんなんだから」

 

 身体をモジモジとさせながら、みほはまるで口づけでもするように唇を電話口に寄せて、

 

「──おねーちゃんも、大好きだよ?」

 

 恥ずかしがりつつも、しかしたっぷりとした情愛を込めて、そう言った。

 

 

 

 顔を紅潮させたまま、みほは電話を終える。

 

「はあ……ふふ」

 

 持ち前の性格から照れくささが抜けないようだったが、その顔はご機嫌だった。

 久しぶりに弟と話せて気持ちが大いに弾んだのだ。

 つい名残惜しむように、携帯電話に視線を注いでしまうほどに。

 

「もう、本当にむうちゃんはいつまでも……はっ!」

 

 そこでみほは友人たちが目の前にいることをようやく思い出す。

 四人の親友はニヤニヤとニコニコと暖かな笑顔をみほに向けている。

 それは、とてもとても優しい笑顔だった。

 ボンっとみほの頭から湯気が上がる。

 

「あ、あの、そのね? いまのはね」

 

 周りの目も気にせず、弟を前にしているときと同じ調子を恥ずかしげもなく披露してしまったことを誤魔化そうとするみほだったが。

 時すでに遅し、である。

 

「“むうちゃん”、ですかー」

「ふ、ふええ!」

「みぽりんったらぁ、弟くんとアツアツじゃーん」

「はにゃあああ!」

「本当に仲のよろしいご姉弟なのですねー」

「あうあうあうあう!」

「やっぱりブラコンだったんじゃないか」

「ち~が~う~の~~!」

 

 畳みかけてくる追い打ちの数々に、みほは首をぶんぶんと振って否定する。

 

「な~にが違うのよ~。あーんな甘ったるい声で『むうちゃん♡』なんて言ってぇ。みーぽりんったらカワイイんだからぁ♪」

「そそそ、それはぁ! えーと……お、弟の名前『武佐士(むさし)』って言うんだけど、ほらそのまま呼ぶと堅い感じするでしょ? だから親しみやすさを込めて“むうちゃん”って呼んでるだけだから! 昔の習慣が抜けてないだけだからぁ!」

 

「でも、ご自分の部屋に泊めても気にならないほど仲がいいわけですよね?」

「ゆ、優花里さんまで! きょ、姉弟なら普通だよ! 弟はあくまで弟だもん!」

 

「ですが先ほど『大好き』と……」

「弟が先に言ってきたの華さん! わたしも言わないと、ほら、ショックで泣いちゃうかもしれないし……」

 

「普通はその歳で『大好き』とは言い合わないと思うぞ。やはりブラコンにシスコンか」

「麻子さーーん!」

 

 みほはすっかり茹蛸のようになった。

 いくら言い訳をしようと決定的な場面を見せてしまった以上、どう頑張ったところで印象が覆ることはないのだった。

 

「まあとりあえず、みぽりんの大好きな弟くんが大洗に来るわけね!」

「うー……」

 

 当分これをネタにからかわれるんだろうなぁと、みほは半ば観念した。

 幸い、いま話の流れはみほの弟を迎える方向へ転じているが。

 

「西住殿の弟殿ならば盛大に歓迎しなくてはいけませんね!」

「はい。ではわたくしは歓迎の花をご用意いたしますね♪」

「せっかく姉弟水入らずで会うんだぞ? あまり騒がないほうがいいんじゃないか?」

「なーに言ってるの麻子! どうせなら大洗のいいとこ知ってもらおうよ!」

 

 相変わらずの切り替えの早さに、みほはタジタジとなる。

 

(でも、まあ……)

 

 こういう落ち着きのないハチャメチャな日常が、愛おしくもあるわけだが。

 きゃっきゃっと弟をどう迎えようかと盛り上がるその光景は、実に大洗らしい。

 

「みぽりん! 弟くんの好きな料理って何? わたし男の子が好きな料理なら大抵作れるから、ご馳走してあげられるよ?」

「西住流家元で育った男児というのはやはり興味深いですね。ぜひお話してみたいです!」

「みほさんの幼少時のお話などもお伺いしたいですね♪」

「まあ、わざわざ来るって言うなら挨拶ぐらいはしておくか。遅刻の件といい、おばあの件といい、西住さんたちには世話になったからな」

 

 快く弟の武佐士をもてなそうとしている親友たち。

 そんな彼女たちを前にすると、みほは先ほどの失態も忘れて、その情の深さに感謝したい気持ちになるのだった。

 彼女の表情はすでに、いつもどおりの笑顔だった。

 

「──みんな、ありがとう。来たら紹介するね? 弟の武佐士を」

「あれ? “むうちゃん”って呼ばないのみぽり~ん?」

「も、もう沙織さん!」

 

 格納庫にのどかな笑い声が広がった。

 

 

 

 親しいからこそ、からかったり、冗談を言い合ったり、笑い合うことができる。

 一見当たり前のようで、しかしとても掛け替えのない日常の断片。

 そんな尊い日々を送っていることを、弟の武佐士に知ってほしい。

 自分の新しい居場所を、自分が大好きな仲間たちのことを、たくさん知ってほしい。

 

(楽しみだな)

 

 愛弟と再会できる日を、みほは待ち遠しく思うのだった。

 

* * *

 

 一方、西住邸では。

 

「……」

「まほ姉さん。機嫌直してよ」

「約束が違うじゃないか武佐士。ずっと私の傍にいると言ったくせに、大洗へ行くのか?」

「ずっと、とは言ってないと思うよ?」

「私よりも、みほがいいということか」

「どうしてそうなるの」

 

 大洗へ出発する前夜、武佐士はむくれている長女を嗜めていた。

 子どものようにぷくぅっと頬を膨らませている姿からは普段の威厳など何も感じられない。

 黒森峰の隊員たち(特にハンバーグ好きの副隊長)が、こんな有り様を見たらショックのあまり卒倒するに違いない。

 半分はギャップ萌えで卒倒するかもしれない。

 

「三日ぐらいで帰ってくるから。ね? お土産も買ってくるから」

「三日も武佐士と触れ合えないだと? 私に死ねと言うのか?」

「大袈裟だよ姉さん。学園艦にいる間はもっと長く離れてるでしょ?」

「正直に言えば毎日でもエリカにヘリを出してもらってお前の学園艦へ押しかけようと思っているんだが、我慢しているんだ」

「これからも我慢してね。そのエリカさんって人が気の毒だから」

「我慢している分、この休みの間はお前と大いに触れ合おうとしているというのに……お前という薄情者は」

 

 そう言って、まほはツーンとそっぽを向いてしまう。

 

「まほ姉さんったら」

「ツーンだぞ」

「口で言わないでよ」

 

 まほは一度こうなると、なかなか許してくれない。

 母に似て本当に頑固であり、そして素直でないのだ。

 

(もう。一緒に行きたいなら、そう言えばいいのに)

 

 自分だけが気掛かりなくみほと会うから拗ねているのだろう、と武佐士は見当違いな推察をしていた(その辺りの嫉妬が若干混じっているのは事実だったが)。

 

 とは言え、前もって相談もなく勝手に決めてしまった分、自分に非があるのは事実。

 ここは年下の自分が折れるべきだろう。

 

「わかったよ姉さん。今夜は姉さんの言うこと何でも聞くから、それで機嫌を……」

「ほう。何でもと言ったな?」

 

 ギラリとまほの目に妖しい光が瞬いたのを武佐士は見逃さなかった。

 武佐士は思わず身震いした。

 

「男に二言はないな?」

「あ、ありません」

 

 正直「あ、やっぱタンマ」と言いたかったが、それだと余計に機嫌を損ねてしまうので押し黙った。

 

「覚悟しろ。今夜はたっぷりと“ムサシニウム”を補給するからな」

「何ですか“ムサシニウム”って」

「細かいことは聞くな。とにかく、命令を言うぞ?」

 

 ごくり、と緊張から唾を飲み込む武佐士。

 まほのほうも、なぜか頬を赤く染め、決意を固めた表情でいる。

 よし、という具合に、口を開く。

 

「武佐士──私と、寝ろ」

「え? ……ああ。いいけど」

 

 なんだそんなことか、と武佐士は拍子抜けした。

 

 一緒の布団で眠る。

 それぐらいのことなら実家に帰ってからというもの、ほぼ毎日のようにやっているではないか。改まって言うことでもないだろうに。

 とにかく無理難題を言われないで本当に良かった、と武佐士は心底安心した。

 

「……思いのほかあっさりと受け入れるんだな。男らしいぞ、武佐士」

 

 あっけらかんとしている武佐士に、まほはうっとりとした眼差しを向けるのだった。

 

 草木が眠る時刻。

 月の明かりしかない闇の中で、二人の姉弟は互いに寝間着浴衣に着替えて同じ寝床に横たわる。

 

「……」

 

 まほは薄着に隠された肉感的な肢体を愛弟に押しつける。

 当然、下着など身に着けていない。

 ちょっとしたことでも豊かな胸元がはだけそうな状態で、まほは妖艶的なほほ笑みを浮かべる。

 

「武佐士……今夜は寝かさないからな」

「いや、夜更かしは良くないよ姉さん? それに僕、明日は早いし」

 

 ごとん、とまほは布団の中で器用にズッコケた。

 

「お、お前という奴は、意味を理解していなかったのか。あいかわらず乙女心がわからん奴め。いいか武佐士、こういうとき女が覚悟を決めて『寝ろ』と言ったらそれは……」

「すぴー」

「そしてあいかわらず寝つきのいい奴だな」

 

 ハァと、まほは溜め息をついて先に眠ってしまった弟の頬を憎らしげに突いた。

 

「まったく。お前が同意してくれないと意味がないんだぞ? 無理やりというのは、私も好かないからな」

 

 弟を伴侶としたい自分の()()()思いを頑なに認めない母を説得させるためには、武佐士にも合意してもらわなければならない。そう考えられる程度には、まほもまだ冷静ではあった。

 そして、()()()()のはやはり、互いを深く思いやりながらが乙女としては望ましい。

 一方的なのは、暴力と変わらないのだから。

 

「仕方ない」

 

 その日は愛弟を抱きしめながら寝ることにした。

 大洗への旅は、それで許すことにしよう。

 気を付けて行くんだぞ、と心の中で呟きながら頭を撫でる。

 

「姉さん……」

 

 胸の中で武佐士が寝言を呟く。

 はたしてどちらの姉と夢の中で会っているのだろう。

 自分であってほしいと思ったが、しかし、みほであってほしいとも思った。

 

「……ふっ」

 

 姉としてのほほ笑みを、まほは静かに浮かべる。

 すやすやと眠る愛弟を抱きしめながら、まほも目を閉じた。

 

 ──みほに、よろしくな?

 

 どうか妹と弟が無事に再会できますようにと祈りながら、まほは眠りに落ちた。

 



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親友の弟① 奇妙な出会い

 近頃のみほは、やたらと上機嫌だった。

 気づくと鼻歌を奏でていたり、奇妙なステップを踏んでは「ふふふ♪」と笑っている。

 見るからに浮かれているそのサマを指摘すると彼女は、

 

『え~? そんなことないよ~。いつもどおりだよ~』

 

 と蕩けた声で否定し、ぽわわ~んとした表情を親友たちに向けるのであった。

 

「みぽりん、どう見ても弟くんが来るのが待ち遠しくてしょうがないって感じだよね~」

「本当に弟さんのことが好きなのですね」

「生粋のブラコンだなあれは」

「ちょっとだけ弟殿が羨ましく思えてきました」

 

 あんこうチームの四人は街中で買い物をしながら、みほの過剰な喜びように戸惑っていた。

 同時にまだ見ぬ弟に対しての関心をますます深めていく。

 

「どんな子なんだろうね~みぽりんの弟」

 

 優しい性格をしているみほが弟を大事にしていること自体は不思議ではないし、違和感もない。『弟思いのお姉さん』という称号は、みほのイメージにピッタリだ。

 しかしそれでも、あそこまで弟の来訪を喜び、待ち望む姿を見ると『弟思い』では済まされない何かを感じさせる。

 

「みほさんの様子を見るに、きっと良い子なのでしょうけど」

「それでもあそこまで溺愛するものか? いくら仲がいい姉弟だからって」

「一人っ子の身ですとわからないですね。その辺どうなんですか武部殿?」

 

 一人っ子である三人組は、この中で唯一姉妹持ちである沙織に意見を求める。

 ずばり、姉というのは下の子に対してあそこまで感情的になるものなのかと。

 尋ねられた沙織は「いやいや、みぽりんのは過剰すぎだって」と首を振る。

 

「わたしも妹とは仲はいいけど……それでもみぽりんほど浮かれたりはしないかな。そりゃわざわざ会いに来てくれるのは嬉しいけどね」

 

 普段は会えない身内と久方ぶりに会えることになれば、程度の差はあれど心が弾むだろう。

 だがみほの場合は四六時中、夢見心地に舞い上がっているのだ。みほ本人は「ブラコンじゃないよ。普通だもん」と主張しているが、もはやブラコンと言っていいのかすら怪しい領域に踏み込んでいるように思える。

 

 異性の兄弟姉妹ではそれが普通なのか、やはり西住家が特殊なのか。なにはともあれ……

 

「実際会ってみないことには何もわからんだろう」

 

 麻子の冷静な指摘に「それもそうだ」と他の三人は頷く。

 

「予定では今日来るはずだよね、弟くん」

「お会いするのが楽しみですね」

 

 彼女たちが持つ買い物袋の中身には、みほの弟を迎えるパーティーのための用品が入っている。『姉弟水入らずなのだからあまり大袈裟に騒がないほうがいい』という麻子の言葉に一度は従おうとした彼女たちだったが、みほが快く歓迎パーティーを提案してくれたのだ。

 

『むうちゃんもそのほうが喜ぶと思うから。皆のことも、その……大切な友達ができたよって紹介したいし』

 

 そんな嬉しいこと言われてしまえば、遠慮の気持ちも吹っ飛んでしまうというもの。彼女の親友として、弟を盛大に歓迎しようという運びになった。

 そういうわけで今日はこのあんこうチームのメンバーだけでささやかな歓迎会をすることになっている……のだが、

 

「本当ならさぁ、わたしたちだけで弟くん歓迎して『楽しい思い出つくろう』って思ってたのに……」

「いつのまにか大ごとになっちゃいましたね~」

 

 溜め息をつく沙織に合わせて、優花里も苦々しく笑う。

 

 実はもうひとつの歓迎会が後日の予定に含まれている。

 あんこうチームが意図しない形で、それは決まってしまった。

 

『へえ~西住ちゃんの弟が来るんだあ。じゃあ思いきりお持てなしをしないといけないね~』

 

 どこから情報が入ったのか生徒会長の角谷杏に知られると、戦車道履修者総出でみほの弟を歓待する流れになったのだ。

 ささやかな歓迎会だけで済ますつもりが、騒がしい大イベントも加わってしまったわけである。

 

「お祭り好きの会長に知られたら、こうなるのも無理はないだろう」

「だよね~。絶対に騒ぎたいだけだよねあの人」

 

 何かとイベントを好み、事あるごとに急な催し物を開催する杏。そんな彼女がこんなおいしい話を見逃すはずがなかった。

 学園内に入るための申請許可はすでに通っているらしいので、いつでも迎えることができるという徹底ぶりだ。

 

「弟くんビックリするだろうなぁ」

「ちょっとお姉さんに会うつもりだったのが、旅行先の女子校で手厚く迎えられるわけだからな」

「男子としては、逆に居心地悪く感じるかもしれませんよね」

「お気を悪くされないといいのですが」

 

 会長の企てに知らず巻き込まれる形になってしまったみほの弟に、申し訳ない気持ちになるあんこうチームだった。

 

 主催者の杏が『イエイ! 西住ちゃんの弟ちゃん滅茶苦茶もてなしちゃうよ~!』と煽るおかげで、戦車道履修者の間ではみほの弟のことで話題が持ちきりだった。

 それは純粋な好奇心であったり、動揺であったり、警戒心であったり、一方で甘酸っぱい期待もあったりと、千差万別で(かしま)しい女子トークが繰り広げられている。

 

 これが観光客の多い学園艦ならばそこまで騒ぐこともなかったのだろうが、観光地として注目度の低い大洗女子では外部の人間そのものが珍しいのである。

 歳の近い異性がやってくるともなれば、お祭り騒ぎになるのは無理からぬ話だった。

 

「でもさ、やっぱりみぽりんが一番ウキウキしてる気がするなあ」

 

 沙織の発言に三人も「うんうん」と同意する。

 まったくもって、あそこまで陽気に浮かれるみほは見たことがない。

 

「今日なんて腰フリフリしながら部屋の掃除してたもん」

 

 エプロンを着て弟を迎える準備をしていたみほの姿は、身内が来ることを楽しみにしている姉というよりも、遠距離恋愛している恋人を待ち侘びている乙女さながらであった。

 

『今日はむうちゃんの大好きな鶏の唐揚げとアップルパイ用意してあげなくっちゃ~♪』

 

 そう呟くみほの周りには大量のハートマークがぽわぽわと浮かんでいた。

 

「みぽりんがあそこまで溺愛するなんて……もしかしてぇ、それぐらい弟くんがカッコイイってことなのかなぁ?」

 

 沙織はどこか所望を込めた顔つきで疑問を口にする。瞬く間に表情が緩んでいく。

 

「弟くん超イケメンだったらどうしよう~。わたし親友の弟に恋しちゃうかも~♪」

 

 うっとりと夢見心地な世界に陥る沙織を見て、他の三人は「また始まったか」と溜め息をつく。

 

「はっ!? も、もしかしたらこれが本当に運命の出会いになっちゃったりするんじゃない!? やだも~! みぽりんのこと“お姉さん”って呼ぶ日が来ちゃうかも~?」

「沙織さんはともかく、向こうも沙織さん相手に恋するとは限らないのでは?」

「華はどうしていつもそう夢ないこと言うの!?」

 

 相変わらずの恋愛脳で暴走する沙織に対し、あくまでも天然に言葉の刃を振り下ろす華。

 何度繰り返しているか分からないお馴染みの光景に麻子は呆れ顔を、優花里は苦笑いを浮かべる。

 

「沙織。そういうことは冗談でも西住さんの前では口にするんじゃないぞ」

「ええ。なんとなくですが、西住殿に対しては禁句のような気がします」

「まっさか~。みぽりんもそこまでブラコンじゃないでしょ~」

 

 麻子と優花里の注意に、沙織は「ないない」と手を左右に振る。

 いくら弟を溺愛しているからといって、あの温和なみほが親友の自分に逆鱗の怒りを向けるはずがないではないか。

 

 ──と、このときの沙織は呑気に考えていた。しかしいざその類いの話題をみほ本人の前で口にしたとき、彼女は親友の思わぬ一面を知って生涯残るトラウマを作る羽目になるのだが……それはまだ先の話。

 

 

 そのようにして、みほの弟についてあれこれ想像を働かせながら道を歩いていると、

 

「……ナゴオォ」

 

 どこからか奇怪な鳴き声が耳に届いてきた。

 一度聞くと無視できない慟哭といえる切実な声音だった。

 

「なんでしょう、いまの?」

「赤ちゃんの声?」

「……いや、猫の声だな」

「あ。見てくださいあれ」

 

 声がする方向へ優花里が指を差す。

 見ると、木の枝に乗った一匹の猫がぷるぷると震えていた。

 

「あらら。木に登って降りられなくなっちゃったんだ」

「お可哀そうに。助けてさしあげましょ?」

「すごく高いところにいるぞ。誰も届かないんじゃないか?」

 

 麻子の言うとおり、猫が留まっている枝は誰が背伸びしても届かない高さだった。

 そこで優花里が得意げに胸を叩く。

 

「自分にお任せください! 木登りでしたら心得がありますので!」

 

 趣味で日頃からサバイバル訓練をしている優花里にとって木登りなどお茶の子さいさいであったが、

 

「いやいや、ゆかりん。スカートで木登りなんてしたらはしたないってば」

「あっ! そ、そうでした……」

 

 沙織の指摘でハッと我に返った優花里は顔を真っ赤にして制服のスカートを手で抑える。

 その日も戦車道の訓練の帰りであるため、全員制服姿だった。

 いくら木登りが得意という能動性はあっても、衆目でサービスシーンを曝すことにはさすがの優花里も恥ずかしがった。

 

「心優しい男が助けることを期待して見なかったことにしよう」

「ええ~見捨てるなんてかわいそうじゃん!」

 

 麻子の発言に沙織が難色を示す。一度見つけてしまった以上、スルーして素通りするのは良心が痛む。

 こうしている今も猫は枝の上で助けを求める鳴き声を上げている。

 

「ナゴオォォォオッ……」

「ほら麻子! あんなに悲しそうに鳴いてるじゃない!」

「悲しそうというより、死にそうな声だな」

「猫の鳴き声ってそういうもんだって」

 

 あまり憐憫を刺激されない愛嬌に欠ける鳴き声に麻子は渋るが、お人好しの沙織は助ける気満々だった。

 

「ナゴオォン……」

「むむむ……」

「しかもほら、もう一匹猫ちゃんいるみたいだよ?」

 

 甲高い鳴き声に続いて重苦しい唸りまで聞こえてくる。

 遠目では見えないが、一匹の猫の後ろに生き物の影らしきものが伺える。

 仲間と一緒に木登りしたのか。なんにせよ切なげな声の二重奏はより沙織を駆り立てた。

 

「とりあえず声だけかけて、猫さんの様子を見ましょうか?」

 

 華の提案に沙織と優花里が頷く。手が届かないのなら、枝から飛び降りるよう誘導するしかない。

 

「一匹はわたしがキャッチするのでお任せください」

「じゃあもう一匹の猫ちゃんはわたしがキャッチするね?」

「仕方あるまい」

 

 木の傍に寄るあんこうチームの四人。

 

「ほらほら猫ちゃ~ん? もう大丈夫だから降りておいで~?」

「ナゴ?」

「むむ?」

 

 安心させる声色で沙織は猫に呼びかける。反応の鳴き声がふたつ。沙織は母性に満ちた顔を浮かべて腕を広げる

 そのふくよかなバストで落ちてくる猫を受け止める態勢を取る。優花里も並んで猫に呼びかけをする。

 

「わたしたちがちゃんと受け取ますから、どーんと飛び込んできてくださーい」

「うん。だから怖くないですよ~。ほら、後ろにいる子もこの胸に飛び込んでおいで~?」

「魅力的なご提案ですが、さすがに倫理的な意味でも物理的危険を鑑みても止めたほうが宜しいと進言いたします」

 

「「え?」」

 

 少女たちは耳を疑った。猫が言葉を話した?

 もちろん、そうではなかった。

 

「ご厚情いたみいりますが、できれば脚立(きゃたつ)などをご用意していただけると幸いです」

 

 よく目を凝らしてみると、密集した枝の葉に隠れるように一人の少年がいた。

 その少年は猫と同じように、枝に捕まってプルプルと震えていた。

 

 少年の目と少女たちの目が合う。

 

「……」

「……」

 

 不意打ち気味の対面に、両者は言葉を失う。

 

 木の上にいる少年。年齢は自分たちと近いように思えた。

 童顔な顔作りのせいで見様によっては中性的な少女と見間違われるかもしれないが、引き締まりながらも雄々しいカラダつきが彼を『男』であると判別させる。

 客観的に見て水準以上の容姿ではあるが、好みの煩い女性からは「パッとしない」という厳しい評価を貰うだろう。

 つまり印象に残る魅力が特に見当たらない。

 しかし眠たげな瞳はどこか愛嬌を感じさせ、見ていると自然に毒気が抜かれていくようだった。

 長く付き合えば愛着が湧くであろう庇護欲を刺激する雰囲気がある。

 

 ただ、木の枝にしがみついているというシュールな絵面のせいで、それらの印象は地平線の彼方へ飛んでいく。

 いま少女たちの胸中にあるのは、ただただ戸惑い。

 ずばり「何なんだこの子」という珍生物を見つけたときのような心境だった。

 

 気まずい沈黙の中、猫の「ナゴオォォ……」と、もの悲しい鳴き声だけが上がる。

 

「……良いお日柄ですね」

 

 少年から無難な挨拶をされた。「は、はぁ~」と少女たちも無難に応える。

 枝に捕まった状態で、少年は高い位置から見える空を見渡す。

 

「涼しい風も吹いていて、夏としてはとても心地いい日です。お出かけ日和ですね」

 

 気まずさを誤魔化すためか、少年は世間話染みた独り言をつぶやき始める。

 態度には出していないが「あ、この子恥ずかしがってるな」と少女たちは察した。

 

「先ほど小休憩のつもりで木陰の当たる場所で休んでいたのですが、あまりにも気持ちがいいので、ついつい眠りこけてしまったほどです」

「……まあ、そうしたい気持ちもわからんでもない」

 

 スルーするのはかわいそうなので、麻子はとりあえず同意を示してあげた。

 

「そして、どこからともなく猫の声が聞こえてきて目を覚ましてみると、木から降りられなくなった猫がいるではないですか。困っている猫を見たらやはり助けたくなるものです。それが人情というものです」

「う、うん、まあわかるよ……」

 

 同じことをしようとした沙織が少年の言葉に頷く。

 

「特に僕は動物がとても好きなので、見捨てることなどできませんでした」

「それは、感心なことですね」

 

 華が素直に褒めたたえる。

 

「幸い、普段から武道で鍛えておりますので、木を登ること自体に支障はありませんでした。問題はその後です」

「と、おっしゃいますと?」

 

 優花里が先を促す。

 少年は深刻な顔を浮かべて少女たちを見据える。

 

「自分も高いところから降りられないという致命的欠陥を抱えていることを、登ってから思い出しました」

「アホだなお前」

 

 ズバッと麻子が容赦なくそう言うので、他の三人は慌てた。

 

「麻子! あんたね!」

「そういうことは思っていても」

「口にすべきじゃないであります!」

 

 正直に言えば自分たちも麻子と同じ感想を持ったが、何もそこまでハッキリと指摘しなくともいいであろうに。

 

「いや、だってな。ミイラ取りがミイラになってどうする?」

「気持ちはわかるけど初対面相手の人に言うことじゃないでしょうが!」

 

 天才少女というのは物怖じせず正論を言うものだが、これはさすがに怖いもの知らず過ぎる。

 しかし、幸いなことに少年が怒っている様子はない。むしろ己の不甲斐なさを恥じているようだった。

 

「その人のおっしゃる通りです。このような無様な醜態を曝している以上、僕はアホに分類される人種です。向こう見ずのへっぽこです。判断力に欠けるアンポンタンで、知能指数の足りないマヌケであり、愚鈍を象徴とした道化そのものです。どうぞ、笑ってやってください」

「わたしの幼なじみそこまで酷いこと言ってないよ!?」

 

 真面目なのか、卑屈なのか、被虐趣味なのか、少年は過剰に己の行いを恥じていた。

 申し訳なさそうに目の前で震える猫を見つめる。

 

「すまない“ぴょんのすけ”。僕が未熟なばかりに、お前を助けてやれなくて……」

「ヌゴォ~」

 

 ヘンテコな名前で呼ばれた猫は「なんとかしちくり~」という具合に少年を見つめている。

 

「あなたの猫なんですか?」

 

 優花里がそう尋ねると、少年は首を横に振る。

 

「いえ。ここで初めて会った野良猫です」

「え? ではどうして名前が?」

「動物を見ると愛おしさのあまり、ついついその子にピッタリの名前を付けてしまうのです」

「は、はあ……」

 

 ピッタリ、という言葉に些か疑問を浮かべる。

 

「そのネーミングセンスはどうかと思うぞ」

「よく言われます」

 

 またもや麻子が思ったことを代弁してくれた。してくれたところで湧いてくるのは感謝よりも焦りだが。

 

「だから麻子! 思ってもそういうこと正直に言わないの!」

「自分が小さい頃から芸術性に欠ける人間であることは自覚しています。尚且つ風流を理解できない己の感性の鈍さには常々自己嫌悪を覚えており……」

「君も! わたしの幼なじみそこまで言ってないから! そんなに思い詰めないの!」

 

 少年の態度があまりにも慇懃(いんぎん)なので、沙織の良心は必要以上に痛んだ。

 どうも一般的な男子とは一線を画すタイプだった。

 育ちがいいのか、その言葉遣いも若い子にしては丁寧過ぎる。

 吸っている空気が違うというか、別世界の住人のように掴み所がない。

 普段なら若い異性相手に無条件でときめく沙織ですら、目の前の少年に対しては困惑の感情のほうが大きかった。

 

「お気を落とされないでください。わたくしも日々華道の神髄を探求する日々ですが、芸術に果てはありません。そして正解の形も人それぞれです。あなたなりの美学があれば、それで宜しいと思いますよ?」

「ありがとうございます。なんと勇気づけられるお言葉でしょう。お優しいのですね」

 

 生粋のお嬢様である華だけは、いつのまにか意気投合している。

 ほわわんと似た者同士の空気が二人の間に漂っていた。

 

「いや、というかこの状況いい加減なんとかしようよ……」

 

 呑気に会話しているが、猫だけではなくこの少年も救出しなくてはならない状況である。

 なにより、いつまでも木の上にいる少年と話しているので首が痛くなってきた。

 

「とりあえず、どこかのお店から脚立を借りてきましょうか?」

「お願いしてよろしいでしょうか」

 

 プラクティカルに動いてくれようとする優花里に頭を下げる少年。

 

「そもそも、高い所がダメなのによくそんな場所まで登れたな」

 

 麻子がそもそもの疑問を口にする。

 言われてみればそうだ。

 

「いえ、別に高所恐怖症というわけではないのです」

「どういうことだ?」

 

 少年の不自然な解答に麻子は追及をかける。

 

「高いところがダメなのではなく、『落ちる』という行為がダメなんです。どうしてか自分でもわからないのですが、昔からそうなんです。一瞬の浮遊感、地面にまで落ちるまでの()、そういうのが心理的にダメなんです。足が(つまず)いたときに倒れるまでの間を想像していただけると、わかりやすいかもしれません。あのときの独特な、落下していく感覚が苦手なのです」

「そうか……」

 

 わかるようでわからない苦手意識だった。

 

「自分でも、どうしてそうなのか不思議なのです。持って生まれ持った苦手意識と申しましょうか。武道の試合中では極限の集中状態に入っているので気にならないのですが、それ以外のOFFの状態ではどうも……」

「……ひとつ聞いていいか?」

「なんでしょう?」

 

 麻子は手を上げて「ひと言申したい」という具合に質問する。

 

「木登り自体はできるわけだよな?」

「はい。小さい頃、まだやんちゃだった次女の姉さんとよく一緒に登っていたので、手慣れてはいます」

 

 過去のことを思い出したためか、少年の表情がなごやかな色合いに染まる。

 

「懐かしいです。あの頃の姉さんは、嫌がる僕を無理やり誘い、天辺まで登ったところでよくバンジージャンプを強行させたものでした。今となっては、良き思い出のひとつです」

「落ちるのが怖くなった原因、絶対それだと思うんだけど……」

 

 とても美談とは言えない回想に沙織が冷静な突っ込みを入れるが、少年は「まさか」と認めたがらなかった。あくまでも良い思い出にしたいらしい。

 

「とにかく、木には登れると」

 

 麻子が再三確認を取る。「はい」と少年は答える。

 

「で、落ちるのは無理と」

「はい」

「なら……」

 

 麻子は木そのものに指をさして言う。

 

「登ったときと同じように、木にしがみついてゆっくり降りるのはダメなのか?」

「……」

「……」

 

 沈黙が降りる。

 

「……ぴょんのすけ。おいで」

「ナゴォ」

 

 しばらくして、少年は猫を頭に乗せた。

 

「しっかり捕まっているんだよ?」

「ニャゴ」

 

 木に抱き着いた状態で、少年はコアラのようにピョコピョコと地上を目指してゆっくり降りていく。

 

 少年と猫は、あっさりと地上に帰還した。

 

「……」

「……」

 

 なんとも言えない()が続く。全員笑顔だったが、瞳の中から光は消えていた。

 

「……ぴょんのすけ!」

「ナゴオオ!!」

 

 少年と猫はひしと抱きしめ合った。

 

「よかったね。僕たち、助かったんだよ」

「ニャゴ~ン」

 

 無理やり感動的場面を演出して誤魔化されているような気がしたが、「ま、いっか」と少女たちは納得することにした。

 

「皆様ありがとうございます。この子の分も含めてお礼を申し上げます」

 

 少年は深々と少女たちに頭を下げた。

 傍らの猫も「ニャゴ」と真似するように(こうべ)を垂れる。

 

「いいよいいよ。そんなに気にしなくても」

「なにはともあれ、ご無事でなによりです」

「わたしがいなければ木の上で猫と一夜を過ごしていたかもしれないな」

「冷泉殿。もっとオブラートに包んであげてください」

 

 少女たちは謙遜気味に少年の謝礼を受け取る(一名を除く)。

 

「本当にお恥ずかしい限りです。あのような基本的なことにも気づけないとは……」

「気にしない気にしない。わたしだって『こんな簡単なことも思いつかなかったの?』って自分で自分にビックリすることあるし」

 

 赤くなっている少年の懺悔を聞き上手の沙織は巧みにフォローするが、少年は尚も照れくさそうに言葉を並べる。

 

「武道で激しい試合をしていると、ついつい日常面での通常動作を忘れがちになってしまうのです。試合では木に登ったなら、そのまま跳躍して着地するか、木々の間を飛び越えて移動するか、伐採して突破口を開くという状況ばかりでしたので、このような当たり前のことが完全に意識から抜け落ちていたのです」

「ごめん。何言ってるのかワカラナイ……」

「どんな武道やっとるんだ」

「ご冗談で言っているのでは?」

 

 異次元の言葉を前に、沙織を含めた少女たちの頭は真っ白になった。

 ただ一人、その異相に馴染みがあるらしき優花里だけは「もしかしてあなたがやっている武道って……」と話を聞きたがっているようにしていたが、それは少年の再度の謝礼で遮られる。

 

「とにかく何かお礼をさせてください。あなた方がいなければ、ここで立ち往生していたのは間違いありませんから。おかげで大事な約束事を破ってしまうところでした」

「そんな、気にしなくていいってば。約束事があるならそっちを優先したほうがいいよ?」

 

 沙織はそう言って遠慮をするが、少年は「いえ」と頑なに譲らなかった。

 眠たげな瞳をキリリと引き締めて、誠意の込もった光を灯す。

 ここでようやく沙織の乙女心は少しだけ「ドキリ」と鼓動を打った。

 

「ここで恩人に対し礼を尽くさないようでは、男の恥です」

「そ、そんな大げさなぁ」

「事実です。どうかお礼をさせてください。そうしなければ、僕は胸を張って──西住の家に帰ることができなくなってしまう」

「ん~そこまで言うなら……ん?」

「いま、」

「西住って、」

「おっしゃいましたか?」

 

 少女たちにとって、聞き逃せないワードが出てきた。

 いま少年は確かに口にした。親友の苗字を。

 

「もしかして、あなたって……」

 

 思えば、大洗の学園艦(ここ)に歳の近い男子がいること、そのものが不自然だ。

 どう見ても艦内に務めている社会人ではない、若すぎる少年。

 そして昔はやんちゃだったという姉。大事な約束事。

 すべてが直結する。

 

 少年は再び、恭しく頭を下げる。

 

「見間違いでなければ、あなた方はⅣ号戦車の乗員ですね? 試合や月刊戦車道などで確認しております。ならば、やはりあなた方に非礼は許されません。姉にとって、大切なご友人なのですから」

 

 もはや否定する材料がない。

 

「じゃあ、あなたが……」

「申し遅れました」

 

 少年は背筋を伸ばして、四人の少女たちと向き合う。

 まるで、名乗ることそのものが誇りであるように。

 

「西住家長男、西住武佐士(むさし)です。姉のみほが、いつもお世話になっております」

 

 

 予定よりも早い、親友の弟との邂逅であった。

 

 

* * *

 

 一方、部屋の掃除をしているみほはというと……

 

「ふえ~」

 

 ベッドの前で顔を真っ赤にして悶えていた。

 手元には弟用に用意した枕が握られている。

 みほはその枕を自分のベッドに並べては抜き取ったり、また置いたりと繰り返している。

 

「ど、どうしよう。むうちゃん、おねーちゃんと一緒に寝たいって言うかな~? で、でもむうちゃんも高校生だし、さすがにないかなぁ……」

 

 それはそれで寂しいなぁ、とみほは枕をふたつ並べる。

 

「中学のときも実家に帰ったら一緒に寝てたし……あうう、でも恥ずかしいよ~」

 

 目をバッテンのようにして、みほは枕をひとつ抜き取る。

 

「でもでもでも、イヤってわけじゃないよ? ただ恥ずかしいだけで……あう、でも断ったらむうちゃん泣いちゃうかも。せっかく会いに来てくれるんだからやっぱり一緒に……」

 

 また枕をふたつ並べる。

 

「……ふえ~! どうしよう~!」

 

 慈愛と羞恥の狭間で葛藤しながら、みほは「ふえ~ふえ~」と枕を交互に入れ替え続けた。

 その姿はさながら“西住流ステップ”に次ぐ“西住流ダンス”と揶揄できそうな奇妙な動きであった。

 



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親友の弟② 不思議な少年

 基本的に武部沙織という少女は、若い男性と出会うと条件反射のように胸をときめかせる。

 これは決して男たらしというわけではなく「もしかしたら運命の相手かも!」という淡い期待が常に働くからに他ならない。

 恋というのは、いつどんな時に始まるかわからないものである。

 だからこそ親友の弟が大洗に来ると知ったときも、彼女はいつものように甘酸っぱい出会いが繰り広げられるのではないかと、内心ワクワクしていた。

 のだが……

 

(なんか、思ってたのと違うなぁ……)

 

 みほが弟の武佐士(むさし)のことを説明するとき、頭を悩ませた理由がわかった気がした。

 確かに、目の前の少年をひと言でどう表したものか。

 

「ぴょんのすけ。君が良ければ、このまま僕と一緒に来るかい?」

「ニャゴォ……」

 

 武佐士はそう言って優しい目線を猫に投げかける。動物好きの彼は、助けた野良猫をそのまま引き取るつもりでいた。

 

「実家に犬の“こじろう”って子がいるんだけど、君とならきっと仲良くなれると思う」

 

 小さい頃から飼っているという愛犬の話は、以前みほからも聞かされていた。

 ただ、そのときみほが口にした名前は『こじろう』ではなかったと思う。

 ひょっとしたら武佐士が勝手にそう呼んでいるのかもしれない。

 

「大洗から熊本まで一緒に旅するってのはどうかな? あいにくバイクじゃなくてヘリだけど、君と一緒なら楽しい旅になる気がするんだ」

 

 何かの作品の影響か、武佐士は猫と共に旅することを夢見ているらしい。

 

「どうかな、ぴょんのすけ……あっ! ぴょんのすけ!」

 

 しかし猫は武佐士の腕から抜け出した。拒むというよりは、まるで少年のためを思って逃げ出すように。

 猫はそのまま背を向けて歩いていく。

 

「ぴょんのすけ」

 

 武佐士の切なげな呼びかけに、猫はキリッと鋭い視線を向ける。

 

「ニャゴッ」

「ぴょんのすけ……」

「ヌゴオオオ」

「……そうか。わかったよ。『真似事ではなく、お前はお前の物語を突き進め』と。そう言うんだね、ぴょんのすけ」

「いやいや。本当にそんなこと言ってるのあの猫ちゃん?」

 

 涙をホロリと流す武佐士に思わず突っ込みを入れてしまう沙織。

 だが何やらムードに浸ってしまっている武佐士の耳には届いていない。

 

「ありがとう、ぴょんのすけ。君と過ごした日々は忘れない」

「いまさっき会った猫ちゃんだよね?」

「たとえ人間に助けられても決して()びを売ったりはしない。その猫としての気高さを僕はずっと覚えているよ」

「それ単に恩知らずって言わない?」

「さようなら、ぴょんのすけ……」

「号泣!? そこまで悲しいの!?」

「ぴょんのすけー!」

「なんなのこの子~!」

 

 一見するとごく普通の優しい少年。

 しかし、その様子を観察すればするほど、明るみに出てくるのは捉えどころのない天然ぶり。

 あるいは電波さんというべきか、または不思議ちゃんというべきか。

 そこそこ顔立ちの整った年下の少年と出会ったにも関わらず、沙織の胸の内を占めるのは困惑。沙織の人生において、こんなことは初めての経験だった。

 この既知の言葉では言い表せない奇妙な空気感はなんだろうか。

 まるで異次元に引きずり込むような武佐士の独特なペースに、沙織は適切な言葉を見つけられないでいた。

 

 ただ、ひとつだけ確信を持って言えることがあった。

 

 ああ、この子は間違いなく、()()()()の弟だ。と。

 

 

* * *

 

 

「くっちゅん! ふえ~。なんか嬉しいような納得いかないようなこと言われた気がする~」

 

 

* * *

 

 さて、本来ならば歓迎会で顔を合わす予定だったはずのみほの弟と、思わぬ邂逅を果たしたあんこうチーム一行。

 双方とも事前に相手の名前を知ってはいたものの、礼儀として互いに自己紹介を済ませた。

 武佐士の挨拶は改めて育ちの良さが伺えるしっかりとしたもので、思わず自分たちまで畏まってしまうほどだった。

 

 みほの言うとおり、悪い子ではない。むしろ良い子すぎると言えた。

 動物好きという思いやり深い性格の上、落ち着いた佇まいで、とても礼儀正しい。悪いところを上げるほうが難しい。

 確かにみほが胸を張って自慢してもおかしくはない好青年だ。

 

 好青年、ではあるが……ただ扱いに困る。

 

「約束するよ、ぴょんのすけ。僕は、僕だけの道を突き進むことを」

 

 しくしくと泣きながら拳を強く握りしめる武佐士に、はたしてどうリアクションを取ってあげればいいものか。

 コミュニケーション能力の高い沙織であっても対応しきれない何かが武佐士にはあった。

 

「それにしても、あまり西住殿に似ていませんね」

 

 優花里が武佐士本人に聞こえないようにボソリと呟いた。

 話を振られた沙織も「そういえば」と思う。

 

 以前みほが言っていた。

 長女のまほは母親似であり、次女である自分は父親似であると。

 しかし、目の前にいる武佐士からはそのどちらの面影も感じられない。

 見た目から似通った部分を探せと言われても、『他所(よそ)の子だ』と断定したほうが早く話は済みそうなほどに。

 

 男児特有の体格の違いがそう思わせるのだろうか。

 武道をやっているというだけあって、武佐士の身体は細身でありながら筋肉の形が服越しでもわかるほどにがっしりとしている。

 背丈は目測だと167cmほど。男子としては小柄だが、背筋がピンと糸で引っ張られるように伸びているので、弱々しい印象は与えない。どこか気迫すら備わっている。

 

 背に抱えた長物は武道のための道具だろうか。

 瀟洒(しょうしゃ)な布に包まれたソレを、少年は身体の一部とでも言うように肌身離さなかった。木に登っているときも背負っていたほどである。

 

 その姿は、どこか“剣豪”を思い起こさせた。ファッションで模造刀を身に着ける若者がいるが、その手特有の不釣り合いな感じはなく、むしろ馴染んでいた。

 もしもカバさんチームの左衛門佐やおりょう辺りが彼と出会ったら、おもしろい反応が見られるかもしれない。

 

 どの道、写真だけを見せられていたら、みほの弟だとは思えなかっただろう。

 それでも彼が西住家の末弟だと納得したのは、その態度や挙動に共通点があったためだ。

 

「別れというのは、何度経験しても慣れるものではありませんね……」

 

 猫との別れを引きずってポロポロと涙を流す武佐士だが、その表情は堅く、一見すると悲しんでいるようには見えない。感情の読めない顔つきはどこか、まほを連想させる。

 しかし涙を流している以上、その内心は激しい感情の波で揺らされているはずである。それも猫とお別れしたというピュアな理由からである。

 純粋過ぎるその情緒は、彼女らがよく知るみほを連想させた。

 

 相好はまほ。中身はみほ。

 武佐士が西住姉妹の弟であることを物語る要素は、しっかりとあった。

 

「武佐士さん、お気を落とされないでください」

「また次の出会いがあるさ」

 

 親友に似た挙動が情を誘ったのか、華と麻子はショックでその場にへたり込んでいる武佐士を慰めていた。

 華はおっとりとした優しい眼差しを向け、麻子は自分が年上であることを誇張するように武佐士の頭をよしよしと撫でている。

 何かと適応力の高い二人はもう武佐士の独特なノリに馴染んだらしい。

 

 柔らかな(いたわ)りを前に、武佐士は眩しいものを見るような瞳を二人に向ける。

 

「五十鈴さん、冷泉さん、ありがとうございます。お二人とも、お優しいのですね。みほ姉さんが全幅の信頼を寄せる理由がよくわかります」

「まあ。そんな……」

「照れるのう」

 

 武佐士の直球な賛辞に華は顔を赤くし、麻子は口で言うわりに得意げになった。

 

「秋山さんと武部さんも先ほど進んで僕とぴょんのすけを助けようとしてくださいましたし、本当に皆さん、深い温情の心を持たれた方なんですね」

「え? い、いえそんな~。人として当然のことをしただけであります」

「そ、そうだよ~。褒め過ぎだって弟くん」

 

 不意打ち気味に褒められた優花里は照れくささからフワフワヘアーをもじゃもじゃとかく。

 沙織も過度な絶賛にくすぐったさを覚えた。

 

 月刊戦車道や試合中継などで、あんこうチームの人となりを事前に把握していたためか、武佐士が少女たちに向ける好感度は出会った瞬間から高かった。

 そしていざ本人たちと触れ合うことで、その人徳の高さをより実感し、ますます思慕の念を強めているようだった。

 濁りなき真っ直ぐな敬愛の眼差しは、程度の差はあれ少女たちに面映ゆい感情を引き起こさせるものだった。

 

「こんなにも善良な方々に、僕はどんなお礼をすればいいものか……」

 

 武佐士は姉の友人たちにどこまでも恭しい態度を取る。

 ここまで持ち上げられてしまうと、却って身が縮こまる思いだ。

 

「もう~弟くん。そんなに堅苦しく考えなくってもいいってば」

「そうでありますよ~」

「いえ、そういうわけにはまいりません武部さん、秋山さん」

 

 沙織と優花里は気さくに武佐士を嗜めるが、彼はあくまでも譲ろうとしない。

 

 揺るぎない意志の込もった少年の瞳に、沙織はまた一瞬だけ胸をときめかせた。

 とつぜん見せる武佐士の真剣な表情は、こう心に来るものがある。

 

「みほ姉さんが笑顔を取り戻せたのも、また戦車道を続けられるようになったのも、姉さんをいつも傍で支えてくださった、あなたがたのおかげなのですから。感謝しないわけにはまいりません」

 

 またもや直球な賛辞に顔を赤くするあんこうチーム。

 

「その上、僕とぴょんのすけの危機まで救ってくださいました。感謝しないわけにはまいりません」

「いや、そっちのほうは別に感謝しなくてもいいよ?」

 

 されても逆に反応に困るだけである。

 

「どうあれ、あなたがたがみほ姉さんの恩人であることに変わりはありません」

 

 武佐士はそう断言する。

 どうやらこの子は本当にお姉さん思いで、真面目な子らしい。

 恐縮を越えて深い感心があんこうチームに芽生える。そんな彼女たちに武佐士は口を開く。

 

「この御恩は必ず──(あだ)で返さなくては……」

「「なぜに(あだ)!?」」

 

 唐突に不穏な顔になっておっかないことを言う武佐士に、突っ込みを入れる沙織と優花里。

 

「いい子だと思ってた子がいきなりとんでもないこと言い出したんだけどゆかりん! 怖い!」

「怖い!」

 

 そんな彼女たちの反応を見て、武佐士はどこかやり遂げたような顔で、

 

「いまのは西住流ジョークです」

 

 ドヤッと親指を立てた。

 

「見事なツッコミでしたお二人とも。いかがでしたか? 僕が考案した渾身のボケは」

 

 得意げになっている武佐士に沙織たちは「いやいやいや!」と突っ込みを続ける。

 

「ちっとも笑えないジョークだよ!?」

「単純にびっくりするだけであります! 心臓に悪いであります!」

「え……」

 

 沙織と優花里の指摘にガーンと擬音が付きそうなほど武佐士は気落ちした顔を浮かべる。

 

「笑えませんでしたか?」

「そりゃそうでしょ!」

「というか何であの場面でいきなりジョークを!?」

「実は武道の試合を通じて知り合った友人たちに『お前は話し方が固すぎて絡みにくい。もうちょっと冗談とか言えないのか?』と言及されたことがあるんです。それがわりとショックでして……」

 

 しょぼんと小動物のように縮こまる武佐士。

 

「事実そうなので考えたのです。

 ①まず真面目な会話の(はし)に場を(なご)ませるジョークを投下。

 ②馴染みやすさと親しみやすさをアピール。

 ③心の壁を取り払う。

 ──結果、そこにはきっと円滑な交友関係が築かれ……」

「いやいや! ぜんぜん(なご)まないよ!? 築かれないよ!?」

「円滑な関係どころか誤解から喧嘩沙汰になると思いますよ!?」

 

 今回は人格者のあんこうチームだったからこそ穏便に済んでいるが、相手によっては心の壁がなくなるどころか、そのまま壁をぶち破ってリアルファイト直行である。

 武佐士はガックリと頭を垂らした。

 

「残念です。お笑い番組を見ながら研究を重ねた自慢の一発ネタだったのですが……」

「それにしたって使いどころ間違えてると思うよ!? ダメだからね!? 他の人たちにそのネタ絶対に使っちゃダメだからね!?」

 

 いろいろと危うい天然ぶりを発揮する武佐士に、沙織は年上のお姉さんとして必死に釘を刺した。

 沙織の言葉に素直に頷いた武佐士だったが、「はあ……」と本気で落ち込んでいるらしき溜め息を吐いた。

 

「お笑いの道とは険しいものなのですね。その場にいるだけで指をさされて笑われるサンダースのカズヒロさんが如何に偉大な人物か実感させられます。僕も彼のように自然と周りを笑顔にできる人間になりたいと思っているのですが」

「あの、それ、ただ嘲笑されてるだけなのでは?」

 

 優花里が恐る恐る言うと、武佐士は「まさか」と首を振った。

 ポジティブにもほどがあった。

 

「黒森峰分校に通っているレイジさんは、いつも真新しい発明品で人々に感動の涙を流させる偉大なエンターテイナーですし。みんな気が狂ったように笑いながら血走った目でレイジさんに突撃していくのです。人気者の証ですね。尊敬します」

「それ本当に感動してるの? なんとなく違う意味で突撃してる絵面が浮かぶんだけど」

 

 沙織が疑い深く聞いても、やはり武佐士は「いや、まさかまさか」と首を振る。

 プラス思考にもほどがあった。

 

 類は友を呼ぶのか。武佐士の友人とやらも、マトモな人物ではなさそうである。

 というか、あのサンダースと黒森峰にそんな人物がいることに驚きである。

 

「まあ、慣れないことは無理にするもんじゃない、ということだな」

 

 消沈する武佐士の背中を、麻子がポンポンとあやすように叩いた。年下の少年に対して何かと姉御肌を発揮したいようだった。

 

「冷泉さんのおっしゃるとおりかもしれません」

 

 小さな姉御の言葉を、武佐士は素直に聞き入れる。

 

「僕の兄貴分であるライヤさんも『お前はそのままでいいんだぜ』と以前に優しい言葉をくれたことがあります。大親友のユーリくんも『ありのままの武佐士くんが好きだよ』と僕には勿体ないことを言ってくれました……。そうですね。人間、身の丈に合ったことをするのが一番ということなのでしょう。勉強になりました」

 

 一応、真っ当なことを言ってくれる知人友人もいるらしい。沙織と優花里はホッとした。

 なぜホッとするのか、我ながら不思議だったが。

 

「なにはともあれ失礼を働きました。以後、気を付け……」

「ぷっ。う、うふふふっ……」

 

 反省しようとする武佐士の横で、一人笑いを堪えている人物がいた。

 五十鈴華である。

 口元を抑え、目元に涙を溜めるほどに、込み上がる笑いを留めている。

 

「え? ちょっと華?」

「もしかして今のジョーク……」

「ツボったのか?」

 

 他の三人が信じられないものを見るような目で華に尋ねる。

 華はプルプルと震えながら頷く。

 

「だ、だって皆さん。『仇で返す』って。どう考えてもそう言うべきじゃないところで『仇で返す』って……ぶふっ!」

 

 思い出し笑いでついには吹き出す始末。

 

「あらやだ、わたくしったらはしたな、でも、ヒィ、うふふふふっ。武佐士さんったら、おもしろいご冗談を、ヒィ、あははははっ」

 

 華は笑う。いつまでも笑う。

 以前から彼女の美意識や感性には理解が及ばないところがあった。だがこうも顕著に表れると、さすがの友人たちも……ドン引きしていた。

 

「五十鈴さん!」

 

 しかしそんな華に感動する少年がここに一人。言うまでもなくジョークを口にした武佐士である。

 彼はヒシッと華の柔手を包み込んだ。

 

「まあっ。む、武佐士さん?」

 

 いきなり手を握られて、華は笑いを止めて頬を紅潮させる。

 しかし武佐士は嬉しさのあまり気にしていない。その瞳は感涙で満たされていた。

 

「ありがとうございます五十鈴さん。あなたのような方を笑顔にするために、僕はこれからもジョークに磨きをかけ精進していきます」

「待って弟くん! 精進しなくていいの! 華が特殊なだけだから!」

「武佐士さん……はい、がんばってください。とても面白いご冗談のおかげで、わたくしの心と武佐士さんの心の距離は一気に近づいた気がします」

「華もそんなこと言わないの! 誤解して調子乗っちゃうでしょこの子が!」

 

 的外れな感動に浸る二人の目を覚まそうと沙織は必死に騒いだが、天然の耳には届いちゃいなかった。

 

「苦労して考えたアイディアが面白いと反応されたときの嬉しさはなんと素晴らしい心地なのでしょう。五十鈴さん、あなたはいい人です」

「華でかまいませんよ? 武佐士さん♪」

「はい、華さん」

「はい♪ なんですか武佐士さん♪」

「……あっ。む、むむ……」

「あら、どうされました? 急にお顔を赤くされて」

「あ、その……姉さんたち以外の女の人を名前で呼ぶのは初めてのことなので。勢いで口にしたら、なんだか照れくさくなってしまって……」

「あらあら」

 

 顔を真っ赤にしてもじもじと恥ずかしがる武佐士。

 そんな年下の少年の初々しい反応が、華の琴線に触れたのか。

 

「かわいらしい♪」

 

 ぎゅっと愛しそうに、華は武佐士を抱きしめた。

 

「華さん、何を?」

「うふふ。みほさんが溺愛される理由が、わかった気がします」

 

 戸惑う武佐士を、華はたまらないとばかりに、その豊満な肉体で包み込む。

 チーム内で一番立派なふたつの膨らみが、二人の間でやんわりと押し潰れる。

 思春期の少年は、瞬く間に慌てだした。見てくれの態度からではわかりにくかったが、明らかに激しく動揺していた。

 

「華さん。こんなことをされては、いけません」

「わたくしは気にしませんよ?」

「僕が、気にします」

「うふふ。遠慮なさらず、甘えても構いませんよ?」

「でも」

「なんでしたら、わたくしのことをもう一人お姉さんのように思ってみてください」

「そんな。恐れ多いです。華さんのような、お美しい女性にそのような馴れ馴れしいことを……」

「武佐士さん。ためしに呼んでみてください」

「え?」

「お姉さん、って」

「む、う……」

 

 お淑やかな笑顔は、少年の抵抗意識をたやすく蕩かしていった。

 唇が勝手に言葉を紡ぐ。

 

「──華、姉さん」

「んぅっ」

 

 耳元で呟かれたその呼び名が、華の中にある何かを刺激した。艶っぽい声を上げて、背筋を官能的にのけぞらせる。

 

「なんでしょう。この感覚」

 

 昂揚した表情で華はさらに武佐士を抱きしめた。

 たっぷりとしたふたつの房がますます押し潰れる。

 

「華さん、これ以上は……。生物学的に危うい状況です」

「いけません武佐士さん。もっと、“姉さん”と呼んでください」

「むむむ」

「うふふ。かわいらしい♪」

 

 うっとりした顔で、華は本当の弟にしてあげるように、慈愛の抱擁を続けるのだった。

 

 

 

「……なにあれ?」

「さ、さあ」

「なにか相通ずるものがあるんじゃないか。あの二人」

 

 そんな二人のやり取りを放心しながら眺める沙織、優花里、麻子の三人組。

 いつのまにか誰も入り込めない二人だけの世界を生み出してしまった彼女たちに、どう声をかけていいものやら。

 

(というか、華ってああいう男の子が好みなのかな?)

 

 親友のいままで見たことのない一面に、沙織は戸惑うばかりだった。

 いつもならあのように異性相手に舞い上がるポジションは沙織だというのに、それが今回では華がそのポジションについている。

 実に珍しい光景と言えよう。

 

 もっとも華がいだいている感情がどういう類のものなのか、それは判別がつかなかったが。

 それでも、あの華があそこまで異性相手に感情的になるのは滅多にないことである。

 自分では感じ取れない武佐士の魅力を、華は感じ取ったのかもしれない。

 

(う~ん……)

 

 沙織本人は、男を見る目に自信があるつもりである。

 だからこそ、武佐士という少年の実体を掴めないこの現状は、彼女としては何となく悔しいことだった。

 決して悪い子ではない。良い子過ぎる。それはとっくにわかっている。

 

 ただ、彼と恋愛関係になるというイメージが、どうしてもできなかった。

 マイナスの意味でそう言っているのではない。そもそも、その発想ができない。

 どんな男性相手でも素晴らしい想像に耽ることができるのに、武佐士相手ではそれができない。

 そんなことは、沙織にとって初めてのことだった。

 何故なのだろう。

 

(やっぱり、よくわからない子だなぁ……)

 

 みほの弟、西住武佐士。

 まことに不思議な少年であった。

 

 

 

 

 

 

 結論から言ってしまえば、

 どんなに恋愛について研究熱心であっても、武部沙織は一度も本気の恋をしたことがない。

 彼女が思い浮かべる恋愛は、常に都合のいい空想で塗りつぶされた、おとぎ話に過ぎない。

 現実の恋が実際どういう経緯から始まるのか、結局のところ彼女は未だに知らない。

 経験がない以上──その“予兆”を正しい形で感じ取れないのは、当然と言えば、当然のことだった。

 

* * *

 

 同時刻、みほの部屋にて……

 

「はっ!」

 

 奇妙な危機感を覚えて、みほは窓の外を見つめた。

 

「なに、この胸騒ぎ。なんだか、むうちゃんのおねーちゃんとしてのポジションが奪われかけているような……」

 

 まさか、武佐士が自分とまほ以外の女性を姉として意識して甘えているとでも言うのだろうか。そんな()()をあの子が……。

 ぶんぶんとみほは首を振った。

 そんな筈はない。あのお姉ちゃん子の武佐士が、余所の女性に弟の顔をして甘えるはずがない。

 

「……あう~。でもなんだか不安だよ~」

 

 とりあえずベッドの枕はふたつ並べることにしたみほだった。

 

* * *

 

 同時刻、西住邸にて……

 

 甲高い悲鳴が西住の屋敷に上がる。

 

「どうされましたまほお嬢様? 坊ちゃまが旅行に行かれてからまだ半日しか経っていませんよ? もうお気が触れたのですか?」

 

 悲鳴を聞いて駆け付けた家政婦の菊代は、なぜか武佐士の部屋に入り浸っているまほの様子を確認した。

 布団の残り香を堪能していたまほは白目を剥いてビクビクと震えていた。

 

「あ、ああ。感じる。武佐士が私とみほ以外の女に()()()をしているのを……やめろ武佐士! 目を覚ませ! お前のそんな顔を見ていいのは私だけだ! それに……私のほうが大きいぞ!」

「あらあら。初日からこの様子では先が思いやられますね」

 

 愛弟の欠乏症から半狂乱になっているまほを、菊代は手慣れた調子で介抱してあげるのだった。

 



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親友の弟③ 豹変

 さて、いつまでも立ち話も何だという具合に、あんこうチーム一行と武佐士は移動を開始した。

 

「じゃあ弟くん。このまま一緒にみぽりんの寮に行こうよ。わたしたちが案内するから」

「重ね重ねのご厚情、いたみ入ります」

 

 沙織の言葉に武佐士は恭しく頭を下げる。

 相変わらず歳不相応な礼節を少女たちに見せる武佐士であったが、その頬は子どものように朱に染まった。

 

「実は、なかなか姉さんの住まいにたどり着けなくて、困っていたところだったのです」

 

 言葉は堅くとも照れくさそうに頭をかく少年の姿に、沙織は思わずクスリと笑ってしまった。

 

「初めて来た場所ならしょうがないよ弟くん。お姉さんたちがちゃんと案内してあげ……」

「みほ姉さんの気配を追って進んでいたのですが、やはり障害物があるとどうも真っ直ぐにたどり着けなくて」

「うん。いろいろと突っ込んでたら、たぶん日が暮れると思うからもう何も言わないね♪」

 

 沙織も沙織で、そろそろ武佐士の奇抜な言動に対応できるようになっていた。

 

「武佐士さん。よろしければわたくしと手を繋いで行きましょう? そうすれば迷いませんよ♪」

「え?」

 

 華はウットリした顔でそんなことを提案してきた。

 武佐士のみならず友人の三人も、大胆なことを言う華相手に驚きの声を上げた。

 

「華さん。さすがに僕もそれは羞恥心が生じると申しますか……」

「もう。“華姉さん”とお呼びくださいと言っているじゃないですか、武佐士さん」

「む、むむう……」

 

 鉄面皮ながらも恥ずかしがる反応を見せる武佐士。そんな姿を華はますます愛らしく感じたのか、「さあさあ武佐士さん♪」と良い笑顔でズイズイと少年に迫っていく。

 

「も、もう華ったら!」

 

 法悦に濡れた顔つきで距離を縮めようとする華の動きを、沙織は肩を掴んで制した。

 

「お、弟くんちょっと待っててね~」

「まあ。何をなさるんですか沙織さん?」

「いいからこっち来て!」

 

 見かねた沙織は、華の背中を押して少年から遠ざけた。武佐士の耳に届かない距離でひそひそと華に尋ねる。

 

「もう、どうしちゃったのよ華」

「何がですか?」

「何がって……華があそこまで男の子相手にお熱上げるところなんて初めて見たよ」

「そうでしょうか?」

「自覚ないんかい」

 

 いつものように「ぽやっ」とした顔で首を傾げる華だったが、長い付き合いである沙織だけは今の親友が明らかに舞い上がっていることを見抜いていた。

 

「さっきだって弟くんに抱きついたりしてたし。ダメでしょ男の子相手にあんな大胆なことしちゃ」

「わたくし、そこまで大胆なことしていましたか?」

「どう考えても年頃の男の子には刺激が強すぎるでしょうが」

 

 お淑やかでスタイル抜群の美人に強引に迫られて動揺しない青少年はいないだろう。

 しかし生粋のお嬢様育ちであり、奉公人の新三郎以外の男性と触れ合ってこなかったためか、思春期まっただ中の少年の感情の機微に関して、華はいっさい無頓着であるようだった。

 別に友人の弟をかわいらしく思うのは悪いことではない。が、だからといって年端も考えない過剰なスキンシップは淑女を志す戦車道女子として如何なものだろうか。親友としては見過ごせないことだ。正気に戻さなければならない。

 

 ……というよりも自分の前でラブコメっぽいことをされるのは我慢ならない。

 

「直球で聞いちゃうけど、華ってああいう子が好みなの?」

「好み? 恋愛対象として好いているかという意味ですか?」

「そうそう」

 

 沙織の問いにきょとんと驚きの顔を浮かべた華だが、すぐに清楚で爽やかな笑顔を見せ、

 

「まさか~。沙織さんじゃあるまいし、出会って間もない殿方に恋愛感情をいだくわけじゃないですか~」

「あのね華……人のこと男たらしみたいに引き合いに出さないでよ」

「違うんですか?」

「わたしだって見境なく惚れるわけじゃないよ!」

 

 相も変わらず天然で毒舌を放つ親友であった。

 

 とりあえず、華は別に恋愛感情による暴走から武佐士に熱烈なアプローチをしかけているわけではないらしい。

 となると、やはり今の華の浮かれぶりは戸惑いを起こさせるものだった。

 

「恋愛感情ないなら、何であそこまで弟くんとスキンシップ取ろうとするの?」

「それは、その……」

 

 ここで華は人並みに少女らしい恥じらいを見せた。手を交差させてモジモジとしだす。

 おかげで両方の二の腕に挟まれた豊満なバストがなんとも悩ましくたわむので、沙織は青少年の目に映らないよう、自らの身体を壁にして遮った。

 華は熱に浮かされたような色っぽい吐息をつきながら語る。

 

「そのですね。武佐士さんが……」

「弟くんが?」

「わたくしの──理想の“弟像”なんです」

「うお……っ」

 

 沙織の問いに、華はまたもやウットリとした笑顔を浮かべて答えた。女の沙織から見ても思わず「エロッ」と感じてしまうほどに、それは女性の艶を宿した笑顔だった。

 

「わたくしずっと一人っ子でしたから、妹や弟がいたらなあと、ひそかに憧れていたんです」

「そ、そうなんだ」

「特に武佐士さんのような弟が欲しかったんです♪」

「へ、へえ」

 

 つまり今の華を例えるならば、

 

『遊びに行った友人宅で出会った下の子が可愛いあまり、お姉さんのように構いたくてしょうがない』

 

 という具合に、一人っ子特有の感情を持て余しているだけのようである。

 ……ただ、口で言うわりに華の表情がずいぶん雌としての色情に満ちあふれているのは気になったが。

 

「ああ、みほさんが羨ましいです。あんなに純粋で優しくて愛らしい弟さんがいらっしゃるだなんて。わたくしが姉だったら絶対に溺愛してしまいます」

「まあ確かに、ちょっと放っておけないなあ、って気持ちにはさせられるけど」

 

 華が武佐士に対していだく感情が母性愛ならぬ『姉性愛』ならば、沙織のは順当に前者であった。

 もともと面倒見のいい『オカン気質』の沙織である。礼儀正しくはあるがマイペースに天然を見せつける武佐士のようなタイプは、見ていてつい「危なっかしいなあ」と世話を焼きたくなってしまう。転校したばかりで独りぼっちだったみほ相手にそうしたように。

 そう思わせる点は、さすがは姉弟だと実感する。だからなのか、会って間もない少年をすでに身近な存在として意識しつつある。

 

「なんだか、不思議な子だよね。今日初めて会った感じがしないもん」

 

 程度の差はあれ、短時間の触れ合いだけで少女たちが武佐士に対し親しみを覚えているのは事実であった。

 彼の純朴でひたむきな姿勢は、気づくと人の警戒心を解き、なごやかな空気を生みだす。

 いつのまにか旧来の友人のように語り合っており、遠慮のないやり取りができてしまう。

 場合によっては、華のように庇護欲を刺激し、心の壁を取り払っている。

 それはひとえに武佐士の人柄によるものかもしれない。小動物を無条件で愛でたくなるのと似た感覚を、彼は醸し出す。

 子猫が人間の少年に化けたとしたら、武佐士のようなタイプができあがるかもしれない。

 

 

 

 猫とはよく気まぐれを起こして、周りを振り回す動物である。

 例えがまさしく的を射ているような展開に、これから彼女たちは巻き込まれることになる。

 

「あ、あの武部殿、五十鈴殿! お取り込み中すみませんが……」

「どうかしたのゆかりん?」

 

 とつぜん優花里が慌てて声をかけてきたので首を傾げる沙織。

 

「その、お二人が話している間に弟殿が……」

「武佐士さんがどうかされたんですか?」

 

 華の問いに麻子は平静な顔つきで答える。

 

「『助けを求める気配がする』とか言って、どっかに飛んでいったぞ」

「「え?」」

 

* * *

 

「おばあさま。よろしければ階段に昇るのをお手伝いいたします」

「あら、ご親切にどうも」

 

 歩道橋の階段で難儀していた老婆に武佐士は手を貸し、歩幅を揃えて一緒に昇っていた。

 

「いまどき感心な若者さんだね~」

「いえ。見て見ぬフリする自分が許せないだけですから、お気になさらず」

 

 老婆の賛辞に武佐士は謙遜気味にほほ笑んだ。

 

「うわーん! お母さ~んどこ~!?」

 

 一方、商店街では男の子の泣き声がけたたましく響いていた。

 学園艦に務めるスタッフが所帯持ちで子どもがまだ幼い場合、一家全員が海上で生活を送る。そのため今のように親とはぐれた迷子が出るのは学園艦でも日常的な光景だった。

 日常的であるがゆえに、通行人の誰も気に留めず過ぎ去ってしまう中、一人の少年が声をかける。

 

「坊や。泣いてるだけじゃ何も変わらないぞ?」

「え?」

 

 男の子の前に屈んだ武佐士は、ぽんと小さな頭に手を置いた。

 

「ここに立ったままで、助けを待ってるだけじゃダメだ。自分から動かないと」

 

 穏やかな口調ではあったが、子ども相手でも甘やかさない色合いがあった。

 

「歩こ。お母さんを捜しに」

「歩きたくないよ」

「お兄ちゃんも一緒に捜してあげるから。ほら、いつまでも泣かない。男だろ?」

「……うん」

 

 武佐士の静かな檄が幼い心にも響いたのか、男の子は泣き止んで歩き出した。

 手を繋いでしばらく一緒に歩いていると、息子の名前を呼ぶ母親と無事会うことができた。

 

「よかったね坊や」

「うん! おにいちゃんありがとう!」

「君が勇気を出して歩いたからだよ? 偉い偉い」

 

 武佐士が頭を撫でると男の子は誇らしげに白い歯を出した。先ほどの泣きベソは微塵もなかった。

 男の子はこの武佐士との出会いをきっかけに泣き虫を卒業し、母親も感心する勇気ある少年へと育っていくことになる。

 

 そんな具合に武佐士は次々と……

 

「ああ! せっかく買った果物が坂道に落ちて!」

「ふんふんふん! すべて拾いました。幸いすべて無事です」

「え? あ、ありがとうございます」

 

 買い物袋から落ちた果物の山を拾ったり、

 

「離婚よ離婚! あなた仕事と家庭どっちが大事なの!? 子どもだってもうすぐ陸の小学校に通うのよ!? いつまで学園艦で暮らすつもり!?」

「そんなこと言われたって、いまさら陸で職探しするのもなあ……」

「お二人とも。まず、お子さんのことを一番に考えてあげてください」

「っ!? そ、そうだな。子どもの将来をなによりも考えないとな。わかった。俺、陸で働くよ」

「あなた……私こそ、無理言ってごめんなさい」

 

 深刻な夫婦喧嘩を仲裁したり、

 

「はあ~自分はダメな人間だ。夢も希望もない……」

「あなたが小さい頃好きだったものを思い出してください」

「小さい頃……そうだ俺、ほんとうは料理人になっておいしい料理でたくさんの人に喜んでもらいたかったんだ」

「素敵な夢じゃないですか。ぜひ実現してください」

「ありがとう。なんだか生きる気力湧いてきたよ」

 

 落ち込んでいる社会人を励ましたりした。

 

 

 

「……いい子だ」

「いい子ですね」

「いい子過ぎるだろ」

 

 いきなりいなくなった武佐士を無事見つけたあんこうチームは、少年の人助けを一部始終見ていた。

 息を吸うように困っている人のもとへ向かい、あっさりと問題を解決してしまう武佐士の手腕は、感心よりも当惑をいだかせるものだった。

 

「なんなのあの子? 正義の味方でも目指してるの?」

「警察よりもずっと人助けしてますね」

「お人好しじゃ済まないレベルだな」

 

 そう話している間にも、武佐士はまたひとつ、またひとつと人助けを果たしていた。

 

「武佐士さん、なんてお優しい心を持たれた(かた)なんでしょう……わたくし、感動しました」

 

 鮮やかに人々を笑顔にしていく少年の活躍に、華だけは目を輝かせて見惚れていた。

 その眼差しはとてもではないが、弟のような存在に向けるものとは思えない熱いものが宿っていた。

 頬まで赤くして恍惚としている華に、沙織は疑念の視線を送る。

 

「……ねえ、華。ほんとうに弟くんに恋したわけじゃないんだよね?」

「もう沙織さんたら。出会ったばかりの殿方に恋をするなんてありえないと先ほどおっしゃったじゃないですかあ♪」

「そう……」

 

 本人がそう力説するなら納得するしかあるまい。

 

「てか、それより早くみぽりんのとこ行かないと日が暮れちゃうよ。弟く~ん! 寄り道してないで行くよお!」

「あ、皆さん」

「『あ、皆さん』じゃないでしょ! もう、ダメだよ! 勝手にどっかに行っちゃ! みんな心配するでしょ!?」

「え? あ。も、申し訳ございません」

 

 ぷんすかと姉御肌を発揮して怒る沙織に弟気質を刺激された武佐士は、反射的に平謝りをした。

 

「困っている人を見かけるとつい身体が動いてしまって……」

「それは感心だけど、みぽりんと約束してるんだから、そっち優先しなきゃダメでしょ? みぽりん、弟くんが来るのずっと楽しみにしてたんだから」

「みほ姉さんが……」

「うん。だから早くお姉さんに会いに行こ? もう充分いいことしたんだから、胸を張ってさ。ね?」

「武部さん……はい。わかりました」

「うん♪ いい返事♪」

 

 穏やかな笑顔で頷く武佐士に、優しい声色で沙織はほほ笑み返した。

 ちゃんと叱った上で、慰め、かつ褒め称える沙織の見事な姉ぶりに、優花里と麻子は感心した眼差しを送る。

 

「わあ~。さすがは武部殿ですね~。もう弟殿と姉弟感覚で接してます」

「こっちのほうがまさに『姉と弟』という感じがするな」

 

 麻子の発言に華がピクリと反応する。

 

「むう~ずるいです沙織さん! わたくしから武佐士さんのお姉さんポジションを奪わないでください!」

「いや奪ってるつもりはないよ!?」

 

 妙なところで親友に対抗心を燃やされ困惑した沙織は誤魔化すように「と、とにかく皆行くよ!」と周りを仕切り始める。

 

「弟くんの歓迎会のための準備しないといけないんだから、モタモタしてられないでしょ?」

「え? 僕の歓迎会ですか?」

「うん。本当はサプライズにしたかったんだけどね」

 

 同じ目的地に行く以上、もう隠しようもないので、あっさりと打ち明けることにした。

 

「おいしい料理たくさん作るから、楽しみにしててね♪」

「僕のために、そのような歓待を……う、ううっ」

「わわわ。もう、いちいち泣かないの」

 

 感動のあまり号泣をし始めた武佐士の頬を、沙織はハンカチで拭いた。ナチュラルに姉らしいことをするので、華はまたもや羨ましそうに「沙織さんずるいです」と呟いた。

 

「会って間もない自分にここまでしてくださるなんて、感激いたしました。お礼になるかはわかりませんが、熊本からたくさんお土産を持ってきたので、よろしければパーティーのときにでも召し上がってください」

「おう。『一文字のぐるぐる』と『太平燕』と『だご汁』か。うまそー」

「なにソレ? てか、はしたないよ麻子」

 

 武佐士の荷物には熊本の名産や銘菓がぎっしりと詰まっていた。これはなかなか豪華な食事会になりそうだと、少年少女はつい「グウ~」と腹を鳴らしそうになった。

 ちなみに華は本当に鳴らした。

 

 華ったらやだも~! と沙織が恥ずかしがる華に突っ込みを入れ、周りがホームコメディのように笑うという、なんとも微笑ましいやり取りをしているとき、それは起こった。

 

「きゃああああ! 銀行強盗よ!」

「最近噂になってる学園艦を集中的に狙った海上テロ集団だあ!」

「警備の薄いうちの学園艦を狙ってやってきたんだ!」

「銃とか持って武装してるらしいぞ! おい警察はまだかー!」

 

「えええええ!? いきなり何事おおお!?」

 

 平和な時間は唐突に終わりを迎えた。

 混乱するあんこうチーム一行だったが、幸い通行人の皆さんが実にわかりやすい説明的リアクションを取ってくれたので、事態の深刻さは一瞬で理解できた。

 

「な、なんかヤバそうじゃない? ここから離れよ?」

「そ、そうですね。身の安全第一であります」

「戦車を持ち込んでカチコミするのは如何でしょう?」

「バカなこと言うな五十鈴さん。ここはプロに任せよう」

 

 大慌てでこの場を離れようとするあんこうチームだったが……

 

「……え? ちょ、ちょっと弟くん!? なに突っ立ってるの!?」

 

 武佐士だけは微動せず泰然自若として、騒ぎの向こうを見つめている。

 沙織の脳裏に、先ほどまで人助けをして回っていた武佐士の姿が浮かぶ。

 

「……まさか、嘘でしょ?」

 

 いくらなんでも、こんな危険なことにまで干渉しようとするはずは……

 

「皆さんは安全な場所へ退避していてください。僕は少し野暮用ができました」

「やめなさい弟くううううん!!」

 

 この場にいない姉のみほの代わりに沙織は必死に止めようとする。

 

「何考えてんの!? 銃持ってるとか言ってたじゃん!」

「そ、そうでありますよ! 危ないですよ弟殿!」

「武佐士さん、危ないことはされないほうが……」

「人のこと言えてないぞ五十鈴さん。だが冗談抜きでやめろ。どんだけお人好しなんだお前」

 

 沙織以外の少女たちも必死に止めようとするが、武佐士は騒ぎのほうだけを見つめている。

 

「心配は無用です。自分も愛用の武装《震波雷音(しんば らいいん)》を持っておりますので」

「なにソレ!? いいから一緒に逃げようよ! 危ないから!」

 

 背に抱えた長物に手をかけようとする武佐士の手を掴んで沙織は引っ張るが……

 

「あ、あれ?」

 

 まるで手品のように掴んでいた手を容易く振り払われてしまった。

 武佐士は前に進んでいく。

 

「弟くん!」

「歓迎パーティーには必ず顔を出します。僕なら大丈夫です。武道で鍛えていますから。むしろ、こういう状況を打破するための武道を僕はやっているのです。ここで活かさずしてどこで活かせましょう」

「ホントにどんな武道やってるの君!?」

「僕が通う学園の皆も、そして他校にいる友人たちも、この場にいたら同じことをするはずです。ライヤさんも、ユーリくんも、レイジさんも、カズヒロさんも、イアンさんだって。僕だけが逃げるわけにはいかない」

 

 少女たちは身震いした。

 目の前にいるのが、先ほどまで自分たちと穏やかに談話していた少年と同一人物と思えなかった。

 明らかに、豹変していた。

 

 まるで猫から──“獅子”になったように。

 

 刃のように鋭い気迫を放ちながら、武佐士は口を開く。

 

「なにより、皆さんが住まうこの学園艦で──みほ姉さんがいる場所で悪事を働くなど、断じて許さない」

 

 そのとき、少女たちの動悸が激しくなったのは、緊張によるものか、恐怖によるものか、あるいは……

 

「では、失礼いたします」

「……あっ、ちょっと弟くん待って……って早!?」

 

 沙織が正気を取り戻した頃には、武佐士は一瞬のうちに彼方へと駆け出していた。

 ……いや、駆け出すというよりは、爆音を立てて掻き消えたというほうが正確か。

 

「あれは仙術や武術で言うところの『縮地法』というやつか。できる……」

「なに呑気に感心してるのよ麻子!? ああもう! あの子にもしものことがあったら、みぽりんにどんな顔向ければいいのよ~!」

「武佐士さん、なんて勇ましい……」

「華もウットリしてる場合じゃないでしょ! あとそれぜったい弟に向けるような目じゃないから!」

「ど、どうしましょう。西住殿に報告すべきでしょうか……」

 

 パニックになっている沙織の横で、優花里は敬愛するみほに連絡すべきか逡巡した。

 愛弟が荒事に首を突っ込んだと告げたら、みほはなんと思うだろうか。

 そう考えると、優花里はなかなかダイヤルを押すことができなかった。

 

* * *

 

 外からサイレンが聞こえてくると、みほは何だか胸騒ぎがした。

 つい前の時間まで感じていたものとは、また異なる類いの胸騒ぎだった。

 窓の外を眺める。

 

「むうちゃん、まさか()()危ないことに関わってるんじゃ……」

 

 いつまでもやってこない弟の身を、みほは心配する。

 時計に視線を移す。約束の時間はとうに過ぎている。約束を破らない真面目な武佐士がこうして間に合わないときは、何かしらの事件に巻き込まれたときだけだ。

 そして弟は、しょっちゅう何かしらの事件に首を突っ込んでいる。

 特に長い休みなどに、武道で知り合ったという友人たちと頻繁に遠出しては、危険なことに関わっているようだった。

 武佐士本人は修行の旅やら、大人のお手伝いをしているだけだから心配いらないと言っていたが、どうも誤魔化されているようにしか思えなかった。

 なにせ、毎回怪我をして帰ってくるのだ。心配するなというほうが無理だろう。

 中学の頃から繰り返されている弟の危うい行動に、何度胸をざわつかせたか知れない。

 そして今も同じように、ざわざわと胸騒ぎがしている。

 

「むうちゃんたら……もしも怪我して来たら、まずお説教なんだから」

 

 ぷんぷんと頬を膨らませながら、みほはボコのヌイグルミを強く抱きしめた。

 

(……せっかく久しぶりに会うんだから、元気な姿見たいもん)

 

 どうか弟が危険なことに巻き込まれていませんようにと願いながら、みほは部屋で待ち続けるのだった。

 

 願いはすでに儚く散っているとも知らずに。

 

* * *

 

 ・同時刻、西住邸

 

「ん? どうした武佐士? 今日はずいぶん静かじゃないか。怖いことでもあったのか? 姉さんが慰めてあげよう。ほら、この胸に飛び込んでこい。ん? やけにカラダが縮んだな武佐士。まるでひよこのようだぞ。まあいい。これはこれでお前を胸いっぱいに抱きしめられるからな。ほら、どうだ? 好きだろ私の胸。安心するか? 私もこうしてると、とても安心できるぞ……」

「まほお嬢様お気を確かに。それは坊ちゃまではなくて、みほお嬢様のヌイグルミです」

 

 目から光を消してボコのミニヌイグルミを抱きしめるまほを、正気に戻そうとする菊代だったが、心ここにあらずとばかりに反応がない。

 しまいには「武佐士武佐士むさしむさしムサシムサシ」と弟の名を呟くだけとなる。

 

「困りましたね」

 

 菊代は深く溜め息をついた。

 こうなったら学園の友人たちを呼ぶべきだろうか。

 武佐士不在の寂しさを埋めるには至らないだろうが、少しは気休めになるかもしれない。

 

(あれ? でも……)

 

 そこでは菊代は思い至る。

 はて、まほに気心の知れた学友などいただろうか。

 

「……」

 

 まあ、学友じゃなくとも同じ戦車道の人間なら誰でもよかろう。

 たとえばそう。門下生の一人でもある逸見さんとか。今年は副隊長として努力した逸見さんとか。まほを心底敬愛する逸見さんとか。忠誠心高すぎてもはや同性愛疑惑のある逸見さんとか……逸見さんしか浮かばなかった。

 

(こんな調子であと三日も保つかしら。坊ちゃま。どうか無事に帰ってきてくださいね)

 

 このままでは欠乏症からまほが発狂しかねない。ただでさえ妹とも疎遠になっているというのに。

 

 旅先で何事もなければいいのだが、と思いつつも、武佐士にそれを求めるのは難しいと長らく面倒を見てきた菊代は知っている。

 

 人が悲しめば、武佐士は悲しみを無くそうとする。

 人が苦しめば、武佐士は必ず力になろうとする。

 人が助けを求めれば、武佐士は全力で救おうとする。

 

 父親の常夫と、ある約束を交わしてから武佐士は決してその信念を変えようとしない。

 今日に至るまで、彼はそうして生きてきた。

 そんな武佐士と深く関わりを持った人間は、ある称号で彼を呼ぶ。

 彼の乳母であった菊代からすれば、心中穏やかでいられなくなってしまうような称号だが……あの生き様はまさしく、

 

(“正義の味方”そのものですからね)

 

 何かと危うい武佐士の無事を、菊代は遠くの地から願うのであった。

 

「むさし~……」

「はいはい。明日にでも逸見さんをお呼びいたしますから。それで我慢なさってください、まほお嬢様」

 

 客人によって少しでも、屋敷が賑やかになってくれるとありがたい。

 みほと武佐士のいない西住邸は、あまりにも静か過ぎる。

 



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大洗の長い一日① 謎の武道

 広い海の上でひとつの街を形成している学園艦は、ヘタをすれば外界から孤立する危険性を秘めた環境でもある。

 海難事故などがそのひとつだが、最も恐ろしいのがハイジャックである。

 船そのものの占拠を完了してしまえば、艦内の物資、金銭はもちろん、街中の住人を人質に取って莫大な資金を要求することもできてしまう。実際、過去にその類の事件はいくつもあった。

 以降、学園艦の警備力強化は徹底され、資金次第では自衛隊や特殊部隊を常時配備することも可能となった。

 ……逆を言えば、予算の少ない学園艦では、気休め程度の警戒態勢しか敷けないことを意味していた。

 

 結果、大洗のように警備の薄い学園艦を狙って、海上テロが行われるのは決して珍しいケースではないのだった。

 通報さえすれば無論ヘリに搭乗した部隊が出動するが……到着までの間にどれほどの被害が出るかは、想像に難くない。

 それゆえに、武装した特殊警察たちは持ち前の正義心から、学園艦の平和を必ず守らねばと決起するのである。

 

 情報によると、犯人たちは最新鋭のプロテクターを身につけ、いくつかの銃器とナイフを武装しているとのことだった。

 穏やかな大洗で、途轍もない銃撃戦が行われるかもしれない。なんとしても被害を最小限に抑え、一秒でも早く住民たちを安心させなければならない。

 覚悟を固めた部隊は、いざと現場へ飛び込んだ。

 

 

 ……が、彼らの出動は徒労に終わることとなった。

 というのも、すでに強盗犯全員が失神して倒れていたのである。

 それもどういうわけか、プロテクターや銃器がバラバラになった状態で。

 狐につままれたようだ、とは、まさにこういう場面に使うのだろう。

 いったい如何様な怪奇現象がここで起きたのか、警察たちは肝を冷やした。

 

 ともあれ、周辺の建築や住人たちに被害はなく、人質にされていた銀行員たちも幸いケガもなく無事だった。

 結果として見れば、平和に事件が解決したのだ。万々歳である。

 ただ、自分たちの活躍を奪われた警察たちが、やり場のない闘争心を持て余すことになったわけだが。

 

 

 

 昏倒した犯人たちを収容している間、まだ若さを残した一人の隊員が、銀行員たちに詳細を尋ねた。

 自分たちが到着する前にここで何が起きたのかと。

 銀行員たちはおずおずと打ち明けた。まるでこの目で見たものが夢だったのではないか、と本人たちも疑わしげに感じている具合に。

 実際、話を聞いた隊員も、ふざけているとしか思えない内容に唖然とすることとなった。しかし銀行員たちが嘘をついている様子はなかった。

 突飛な話に戸惑ったが、しかし仮に真実だとしたら見過ごせない点が出てくる。

 

 それは未成年の少年が武装強盗犯に挑んだということだ。

 

 いくら事件解決に貢献してくれたとはいえ、素人が警察の判断もなく鎮圧行動に移るなど、決して誉められた行動ではない。

 そもそも、武装した相手を屠るほどの戦闘力を有しているとなると、また別の対応を考える必要がある。

 その少年はどこかと尋ねると、すでに去ったとのことだった。乱闘が終了した同時に、慌ててやってきた四人の少女たちに引っ張られていったという。

 人相を尋ねて捜索するしかあるまいと考えていると、銀行員の一人が「その実は……」と自信なさげに口を開く。

 去り際、少年に言伝(ことづて)を頼まれたらしい。「もし警察のかたに事情を聞かれたら、こう言ってください」と、伝えられたとおりの言葉を銀行員は口にする。

 隊員にはもちろん、暗唱した銀行員にも理解できない言語だった。何かのコードだろうか。

 メモを残さなければ、すぐに忘れてしまいそうだった。

 

 ひとまず隊長に、銀行員から聞いた情報と、謎の暗号について報告をした。

 隊長は前者の話よりも、後者の暗号を聞いて、すべてを納得したようだった。

 

「そうか。また“彼ら”に助けられたわけだ」

「は?」

「お前は知らなくていいことだ」

 

 コードが書かれたメモを取り上げ、隊長は厳格に言った。悔しさを募らせるように、メモをぐしゃぐしゃに握りつぶす。

 

「ここに書かれたことはすぐに忘れろ」

 

 言われたところで、記憶しにくい暗号だ。すでに頭の中にはない。ただ、薄気味の悪い感情だけが残った。

 

 隊長いわく、少年に関して捜索する必要はないとのことだった。例の暗号を伝えれば上層部も納得するらしい。

 いったいどういうカラクリなのか、若さを残した隊員は当然疑心に駆られることとなったが、追求は許されない空気を感じ取った。深入りしてはならない裏の事情があるのは間違いなかった。

 不審な点を伏せられることに不満を隠せないでもなかったが、この場は素直に隊長の忠告に従うことが最善と若い隊員は判断した。

 身の安全を守りたいのなら、きな臭いことには必要以上に関わらない。それが賢い大人の生き方だ。

 

「……」

 

 自然とそう考える己に若い隊員は嘆息した。

 権力に怯えて当たり障りない選択をするなど、つまらない大人の代表例だと幼い頃の自分は軽蔑していた。いつから自分もその代表例になってしまったのだろう。

 ヒーローになりたいという幼少時代の憧れを実現するため、この職に就いたというのに。待ち受けていた現実は、見える範囲でしか行動を起こせない窮屈な世界だった。

 だからといって、その枠から抜け出す勇気もない。分不相応なことをすれば、あらゆるものを失う。大人の世界とは、そういうものなのだ。

 

 だからなのか、今回の事件を解決した少年に対し、理屈でない複雑な感情が芽生える。

 大人としては見過ごせない行為。それゆえに、眩しくもある。

 我が身を(かえり)みず、武装した悪人に単独で挑み、勝利し人質を救済する。かつて夢見、憧れたヒーロー像そのものではないか。

 若さゆえの無鉄砲さと言えばそれまでだが、大人になった今ではそれを羨ましく思う。

 

 少年が現場から去ってしまったことを、隊員は少し惜しく思った。

 混ざり気のない、純粋な正義心に触れれば、もしかしたら自分もかつての情熱を取り戻せたかもしれない。

 

 きっと夢破れた自分と違い、さぞまっすぐで、たくましい少年だったことだろう

 

* * *

 

「むう~」

 

 事件現場とは遠く離れた公園のベンチで、武佐士は腑に落ちないという顔つきで唸っていた。

 不満の矛先は、頬に負った傷である。

 

「不覚。まさか頬を負傷してしまうとは。先輩たちなら無傷で済ませられたところを僕ときたら。修行不足の証拠。反省せねば……ってイタタタタタ!」

「反省するとこはソコじゃないでしょうが弟くん!」

 

 武佐士の横に座った沙織が、むすりと怒りながら簡易の救急箱で頬の傷を手当てしていた。

 若干涙目になりながら、武佐士に対して説教をする。

 

「もう! この程度のケガで済んだから良かったけど、もっと大きなケガしてたらどうするつもりだったの!?」

「た、武部さん、もう少し優しくお願いします」

「男の子なんだから我慢しなさい! はい、もう一回消毒~!」

「むううううう!」

 

 奇妙な叫び声を上げながら目をバッテンにする武佐士に、別のベンチに座った麻子が戸惑いと呆れの混ざった目線を投げる。

 

「さっきまで強盗犯と戦っていたのと、同一人物とは思えないな」

 

 沁みる傷口で涙目となっている武佐士のなんとも情けない姿は、先ほど目にした苛烈な印象とは程遠いものだった。

 

 

 

 結局、武佐士を放っておけなかったあんこうチーム一行は、危険を承知で事件現場へと向かった。

 行ったところで自分たちに何かできるとは思えなかったが、親友の弟を見捨てて逃げるようなことをしてしまったら、みほに顔向けができない。

 間に合うのなら、武佐士を説得して無茶な行動を止めようとした。

 しかし、乱闘はすでに始まっていた。

 冷や汗をかきながら、少女たちは集まった野次馬を押し退けて、騒ぎの中心でいるであろう武佐士の名を呼んだ。

 

 最悪のシーンをつい浮かべそうになった少女たちだったが……現実の光景は想像を絶するものだった。

 目にしたありのままを語っても、はたしてそれを真実と受け取る者がいるだろうか。

 

(そど子みたいな頑固者に言っても、信じないだろうな)

 

 鉄の風紀委員、園みどり子が「嘘は泥棒の始まりよ!」と、いつものように怒鳴る姿が容易に浮かぶ。

 彼女に限らず、誰もが疑うに違いない。

 麻子自身、夢でも見ていたのではないかと、いまも困惑しているのだから。

 

 

 

 強盗犯たちはプロテクターで身を護っていた。とても素手で傷つけられるような相手ではなかった。

 しかし……

 

 ──相賀流武闘術(おうがりゅう ぶとうじゅつ)疾風掌波(しっぷう しょうは)

 

 武佐士が相手の腹部に掌を当てた途端、視認できるほどの空気の衝撃波が生じた。

 強盗犯は文字通り吹っ飛び、そのまま気絶した。

 まやかしでも見せられたかのように、少年以外の周囲は動揺した。

 だがすぐに危機感をいだいた仲間の強盗たちは反射的に銃器を構えた。乱射の合図に少女たちを含めた野次馬は狂騒に陥った。

 しかし、銃声よりも先に鳴り響いたのは、鋼が滑る音だった。

 

 ──相賀流武闘術《迅雷閃刃(じんらい せんじん)

 

 武佐士が背に抱えていた包みからその中身の長物を抜き取ると、光の筋がいくつも瞬いた。

 何が起こったのか、誰もが唖然とし、一瞬、時が止まったようになった。

 刹那の静寂を破るように、鋼同士が打ち合う音が鳴り渡る。

 

『散』

 

 鋭い衝撃波が強盗犯たちの間で生じた。

 銃器とプロテクターは、まるで伐採された木のようにバラバラとなった。

 

 理解が追い付かないうちに丸腰になってしまった強盗犯たちは、口を開けて呆然するばかりだった。

 野次馬も、人質にされていた銀行員たちも同様だった。

 無論、戦車道の少女たちも含め。

 

『その程度の武装など、相賀流の前では紙に等しい』

 

 誇るでもなく、驕るでもなく、淡々と武佐士は呟いた。

 

『神妙にしろ。これ以上の悪道、断じて許さぬ』

 

 睨みだけで人を殺せるような眼力に、強盗犯たちは完全に委縮した。

 

 

 

 戦車道を始めてからというもの、激しい連戦の積み重ねで、よほどのことなら動じない胆力を少女たちは身に着けていた。

 そんな彼女たちですら戦慄を禁じ得なかった。既知の(ことごと)くを破壊するほどの武練と気迫を、かの少年は見せつけたのだ。

 完全に人が変わった武佐士に対し、少女たちは思わず身震いした。

 

『成敗』

 

 氷のように冷ややかに、火のように憤りを宿して、武佐士は敵陣に吶喊した。

 それからは、もう一方的であった。大の男たちは、たった一人の少年によって、完膚なきまでに討伐されたのだった。

 

 ただ者ではない、とは思っていた。

 それは性格的な意味合いでの『ただ者ではない』だったが、どうやら認識を改める必要があった。

 

 穏やかで礼儀正しい動物好きの天然。反面、その逆鱗に触れると『鬼』が顔を出す。

 

 武佐士の人物像について、事前にみほから聞いてはいたが、どうも内容に齟齬があるように思えた。

 ひょっとしたら、身内のみほですら知らない側面を、自分たちは目にしたのかもしれない。

 

 どうあれ……

 

「ほら動かないの。じっとして」

「むむむ。治療という行為はどうも小さい頃から苦手意識がありまして……」

「情けないこと言わないの! もう少しで終わるから」

 

 沙織の治療を受けている今の武佐士は、少なくとも大人しい物静かな少年だった。

 彼が再び、あのような豹変を起こすとしたら、慈悲を寄せる必要もない悪人が現れたとき。

 そして恐らく、彼がやっているという武道の試合のときだけなのだろう。

 

 ……しかし、あの超人的技巧を披露するような武道とは、いったい何なのだろうか。

 武佐士の発言によれば、さらに上位の実力者までいるらしい。人外たちが蔓延る魔境としか言いようがない。

 

(戦車道も最初のうちは、ずいぶんと風変りな武道だとは思ったが……)

 

 どうやら、まだまだ世界には驚天動地(きょうてんどうち)の武道が存在するらしい。

 

 そして、自分たちの中に一人だけ、その武道に通ずる存在がいるようだった。

 

「話には聞いてましたけど、実際に見ると凄まじいものですね。“あの武道”をやっている男子というのは」

 

 優花里はふとそう口にする。驚愕というよりも、畏敬を込めた顔つきで、武佐士を見つめている。

 麻子を小首をかしげて尋ねる。

 

「なんだ秋山さん。アイツが何の武道をやっているのか知ってたのか?」

「あ、いえ。発言から『もしかして』と予想していただけだったのですが、先ほどの戦闘を見て確信しました。あれほど苛烈な格闘技といったら、ひとつしかありませんから」

 

 優花里の視線は、武佐士の背にある長物に向く。

 

「そうでなければ、“アレ”を持ち歩くこともできないはずです。たぶん、学園直々の許可証があるんだと思います」

 

 麻子も優花里の視線にならって、瀟洒(しょうしゃ)な布に包まれた長物を見やる。

 

 愛用の武装《震波雷音(しんば らいいん)》と、武佐士は呼んでいた。

 包みから抜いたのは一瞬で、はっきりと目に収めたわけではないが、銃器やプロテクターを微塵に断ち切ったことといい、アレは間違いなく……

 

「──まあ、もともと“登録証”があれば免許や警察の許可は必要ないらしいがな、アレは」

 

 状況を理解している者でなければ、いったい何の話をしているのか、検討もつかないだろう。

 少なくとも穏やかな内容でないことは確かだったが、口にしている麻子本人はずいぶんと毅然としていた。

 反して、優花里は不安げな顔を作る。

 

「警察といえば、つい逃走を試みてしまいましたね。……大丈夫でしょうか?」

「アイツが『その点に関しては心配ない』と断言したしな。その言葉を信じよう」

 

 背に抱えた長物が学園によって所持が許可されたものだというのなら、それとはまた別に何らかの『許可』を武佐士は有している。そのことに麻子は気づいていた。

 

 犯行現場から去る際、武佐士は暗号らしきものを銀行員に伝えていた。

 慌てていた沙織と優花里辺りは耳にしていなかったようだが、麻子だけは耳聡くそのコードを聞き、いまも記憶していた。

 無論解読には至らなかったが、それが警察機関と何らかの関わりを持つコードであることを、麻子は鋭く見抜いた。

 信じ難いことではあるが、どうやら武佐士は通常の学生とは異なる、何らかの特許を持つ立場にあるらしい。迷うことなく過剰な鎮圧行動を起こせたのも、恐らくは法に触れない権限あったからではないか。

 突飛な想像だという自覚はあるが、現に警察関係が事情聴取にやってくる気配はない。そして後日に顔を出すこともないだろうと、麻子の勘は告げていた。

 

(何者だアイツ)

 

 とうぜん疑問が生じるが、しかし無理に追及する気は麻子にはなかった。

 天性の賢智を持ち得る彼女は、この手の話題には深入りすべきでないことを心得ていたし、そもそも興味がなかった。

 

 確かに武佐士は普通とは違う。謎も多い。……だが、それがどうしたというのだ?

 数時間の付き合いでしかないが、麻子はすでに武佐士の人となりを看破していた。

 断言できる。彼は決して、イタズラに武力や権利を行使するような人間ではない。少なくとも、それを(ふる)うのは今回のように許しがたい悪人が脅威として現れたときだけだろう。

 

 実際それによって事件は解決したのだ。自分たちも無事だった。お咎めもない。

 ならば、それで充分ではないか。丸く収まってくれるのなら、それ以上に越したことはない。いちいち究明に及ぶのは、無粋というものだろう。

 

(なにより、面倒ごとはまっぴら御免だ)

 

 頭脳明晰ではあるが、決して品行方正とは言えない麻子。そんな彼女の思考回路は、以上のように都合のいい方向に身を委ねることを決めたのだった。

 幸い、他の三人も武佐士に不審な感情をいだいている様子はない。

 善意の塊である彼女たちは、事件解決よりも武佐士が無事だったことのほうに安堵している様子だった。ならば麻子も同じように対応するだけだ。

 彼はあくまで、敬愛する姉に会いにきただけの、姉思いの弟でしかないのだから。

 

 それよりも、麻子の関心はもっと別の方向にあった。

 

「なあ秋山さん。アイツがやってる武道っていうのは何なんだ?」

 

 人体の限界を極めるかのような、超絶的体術が繰り出される武道。彼女の知的好奇心は是非それを知りたいと訴えていた。

 

「ええと。たぶんわたしの予想している武道で合ってると思いますが」

 

 優花里は語り始める。

 

「ときどき琴線に触れる試合があるので、戦車道の試合とは別にチェックすることがあるんですけど。たびたび戦車道と対比される武道なんです」

 

 “乙女の武道”と称される伝統競技、戦車道。

 ……ならば、それとは別に、“男の武道”と称される競技が存在し、今なお発展を続けていても、決しておかしくはない。

 

 戦車道が成立し始めた時代、誰かが言った。

 女性が戦車に乗り、これまでにない武道の在り方を確立させようというならば、男性にも同じように新たな武道が必要だと。

 それは従来存在する剣道や柔道に(あら)ず。戦車道に男が介入できないように、女性には介入できない、男だけの武道を作ろうとした。

 その結果……

 

「大戦時代の反省を踏まえて、“騎士道精神”、“結束力”、“心技体”、“知恵”──それらを育むための、男性だけの武道が成立したんです」

 

 創始者は、かつて学生の男児たちに向かって、こう言い放った。

 

 少年たちよ。信念を宿せ。闘志を燃やせ。

 叡智の結晶たる装甲を纏いて、新生せよ。

 拳を握り、己が武装を手に執り、己が絶技にて、天下を目指せ。

 時代の流れと共に失われつつある、益荒男(マスラオ)の魂を取り戻すべし──と。

 

 優花里は口にする。その武道の名は……

 

 

 

 

「弟くんのバカ~!!」

 

 名称を告げようとする優花里の声は、沙織の甲高い声に遮られた。

 何事かと麻子と優花里が声の先を見てみると、なんと沙織が涙を流しながら武佐士を抱きしめているではないか。

 



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大洗の長い一日② 沙織との約束

 幼なじみの沙織が少年を抱きしめているのを見て、麻子は話題も忘れるほどに顔面を蒼白にした。

 

「沙織! お前、いくら男に飢えているからって、ついに見境なく!」

「いやいや、そういう感じではないようですよ冷泉殿」

 

 古い少女漫画のように白目になっている麻子に対し、すかさず優花里はフォローを入れた。

 実際、沙織は飢えた肉食系女子と化したわけではない。

 彼女の表情は、まるで無茶する弟のことを慮る姉のように切なさを宿したものだった。

 

「武部さん、なぜ、泣かれるのですか?」

 

 とつぜん抱きしめられた武佐士は、何が起こっているのかわからず、ただ慌てていた。

 そんな武佐士の態度が、沙織の瞳をより潤ませる。

 

「弟くんが危なっかしいからだよ!」

 

 沙織は武佐士を強く抱きしめる。

 また彼が気が付かないうちに、危ない場所に行かないように。

 

 沙織はいま、激しく怒っていた。

 

「なにが『皆さんが傷つかなくてよかった』よ! 弟くんは傷ついているじゃない!」

 

 治療が終わるや、「なにはともあれ」とそう呟いた武佐士。

 まるで自分は傷ついても大したことはないと遠まわしに言っている武佐士を見て、沙織の中で制御できない感情が湧き出た。

 

「弟くんのバカバカ! 何でそんなこと平気で言うの?」

「武部さん? あの、お気遣いは嬉しく思いますが、ケガ自体はこの程度で済んだのですから、そこまで気に病まなくとも……」

「そういう問題じゃないでしょ!」

 

 見当違いも甚だしい武佐士に、沙織は一層怒りと悲しさを募らせる。

 武佐士が言っているのは結果論でしかない。

 

「どうしてわからないの? わたしが怒ってるのは、そういうことじゃないよ」

 

 軽傷で済んだからといって、「よかったね」などと口にできない。

 そもそも……

 

 

 

「死んでたかもしれないんだよ?」

 

 武佐士がしたことは確かに立派かもしれない。正義の行いかもしれない。

 それでも沙織は受け入れるわけにはいかなかった。

 

 どんな言葉で取り繕うと、それは──

 

 命のやり取りだったのだから。

 

「ダメだよ弟くん」

 

 武佐士の首筋に、いくつもの熱い涙が落ちた。

 

「ダメだよ。もっと自分を大事しなきゃ。見てられないよ」

 

 人助けのために平然と命を懸けられる武佐士が、沙織は怖かった。

 迷いなく危険な渦中に身を投げられる武佐士が、沙織は怖かった。

 だがなによりも、その命が消えていたかもしれないという事実が、一番怖かった。

 

「弟くんのこと、凄いって思うよ? でもね、それでも、あんなマネしちゃダメだよ。すごく、すごく怖かったんだから……」

「武部さん。ですが、僕が行かなければ、もっと被害が出ていたかもしれない。警察が来る前に、手遅れになっていたかもしれない」

 

 武佐士は頑なに言った。

 

「『自分なら助けられるかもしれない』。それがわかっているのに、逃げるのは卑怯なことなんです。なにより」

 

 静かな声の中に、武佐士は感情を込める。

 

「誰かが悲しむのは、嫌なんです」

 

 それが武佐士の行動理念であることは間違いなかった。人はそんな彼を褒めたたえるかもしれない。

 しかし、

 

「なら、いまわたしが悲しんでるのはいいの?」

「……」

 

 沙織はその理念の隙に刃を突き立てた。

 

「みぽりんの前でも、同じこと言える?」

 

 そして、彼にとって一番答えに窮するであろう存在を引き合いに出した。

 

 返事はなかった。

 その時点で、天秤は沙織のほうへ傾いた。

 

「弟くんには、弟くんなりに譲れないものがあるんだよね? それはわかるよ。でもね……」

 

 穏やかな声で、沙織は語りかける。

 

「約束して? 大洗(ここ)にいる間だけは、危ないことはしないって」

 

 きっと武佐士は、これまでも今日のように誰かを救うために奔走してきたのだろう。純粋な心に宿る勇気と正義で、悪人と戦ってきたのだろう。

 それが彼の日常なのかもしれない。彼の住む世界は、見ている世界は、明らかに自分たちとは異なる。

 それでも沙織は言う。

 少なくとも、ここにいるときだけは、普通の男の子でいてほしいと。

 そうでなければ、

 

「危ないことばっかりしてたら、みぽりんが……お姉さんが心配で泣いちゃうよ?」

 

 みほもきっと、日頃からこんな風に弟の身を案じていたに違いない。会ったばかりの自分ですら、こんなにもハラハラしてしまうのだから。

 そんな親友の心労を思うならばこそ、今この場で言い聞かせなければならなかった。

 

 沙織は争いごとが嫌いだ。

 戦車道の試合ならともかく、傷つけあうだけの争いは、悲しみしか生まない。

 それで誰かが帰らぬ人になってしまったら、それ以上の悲しみはない。

 大事な人たちが傷つかずに済む道があるのなら、格好悪くたって、情けなくたって構わない。

 笑顔で触れ合えるのなら、それが一番いいはずだから。

 

 武部沙織という少女は、自然とそう考えられる人間だった。

 だからこそ、会って間もない相手にでも、本気の涙を流せるほどに、心配することができる。

 だからこそ、《本当の思いやり》を前にした少年の心を、打つことができる。

 

「武部さん……ごめんなさい」

 

 いまだに泣きながら抱きしめる沙織を、武佐士も同じように抱きしめた。詫びるように、落ち着かせるように。

 いま彼の瞳に正義の火は灯っていない。代わりにあるのは、水のように清らかな静けさだった。

 

「約束、します。ここに滞在している間は、無茶なマネは致しません」

「……絶対だよ?」

「はい。絶対です」

「みぽりん悲しませるようなことしたら、許さないからね? いくら弟くんでも」

「心得ております」

 

 誓いを口にする武佐士の声に、深い重みが加わった。

 

 そして、続いて漏れた呟きは、とても安心しきった声だった。

 

「あなたで、よかった」

 

 みほ姉さんの傍にいてくれた人が、あなたでよかった。

 

 言外でそう伝えられたのが、沙織にはわかった。

 ふと、胸の奥から熱いものが込み上がるの感じた。

 密着した肌が、火照ってきた。

 武佐士の鍛えられた両腕は、沙織の華奢な肉体をいっぱいに包んでいる。

 固い筋骨が、少女の柔らかなひと肌に吸い込まれるように埋もれていく。

 

 男の子なんだ、と今更になって沙織は自分が異性と抱き合っていることを意識する。

 幼い頃に父親に抱きしめてもらったのとはまるで違う。

 成長した女のカラダが初めて知る、男性の感触。

 ドクンという音が耳で聴きとれるほどに、心臓が高鳴っている。頭の中が、火でぼうっと燃えているように熱い。

 

 一瞬、彼が親友の弟であることを忘れた。

 それとはまったく別の対象として、意識が占められていく。

 心のどこからか、自分ものとは思えない艶を孕んだ囁きがする。

 できることなら、もう少しこのまま……

 

「話は済んだろ? いつまで抱き合ってるんだ」

 

 麻子の冷めた指摘に、二人は我に返ってパッと離れた。

 

「真面目な話してるかと思ったら、なに変な空気を出しとるんだお前ら」

 

 麻子が呆れ気味に呟く。

 

「だ、大胆なことなさいますね、武部殿」

 

 優花里にしては珍しく、ドキドキと乙女の顔を浮かべて言った。

 沙織は瞬く間に、自分がしたことを思い出して茹蛸のように赤くなった。

 

「おおお、弟くん! あああ、あのね? いまのは、その、ふふふ、深い意味はないからね? 親戚の男の子にしてあげるのと同じ感じみたいな? 家に帰って来た猫ちゃんを抱きしめてあげるみたいな? そそそ、そんな感じだから!」

 

 我ながら混乱しているなと思いながら、沙織はあたふたと言い訳を並べた。

 

「いえ、気にしておりません」

 

 対して、武佐士は随分と冷静であった。

 というよりも、

 

「むしろ、たいへん役得でした」

「あらヤダこの子ったら素直!」

 

 単に躊躇いというものがないだけだった。

 親指を立てて馬鹿正直に本音を打ち明ける武佐士。

 

「たいへんご立派な胸部を間近で体感したことにより、男性として深く感激致しました」

「清々しいくらいに正直だから逆に怒れない!」

 

 女性としては許しがたい発言も、武佐士が堂々と言うと、なぜか卑しいものに聞こえないのだから不思議であった。

 

 

 

 

 

「やっぱり武部殿は優しいですね」

「昔からああだからな、アイツは」

 

 二人のやり取りを始終見ていた優花里と麻子は、苦笑交じりに言った。

 いきなり抱きしめ合ったことには驚いたが、結果的には武佐士を落ち着かせた沙織に、親友として改めて感服していた。

 自分たちが説得したところで、武佐士は考えを改めなかっただろう。心を開いて相手と向き合える沙織だからこそ、できたことだ。

 

 沙織に向ける武佐士の瞳には、より強い尊敬と憧憬の色が加わったように思えた。

 彼女の思いやり深い心が、姉のみほにとって大きな支えになっていることを実感したのだ。

 みほはチームメイトの全員を頼りにしており、それぞれの役割に対し絶対の信頼を置いている。しかし、精神的な面で最も頼りにしているのは、間違いなく沙織だった。

 

 沙織がどれだけ姉にとってかけがえのない存在か、武佐士は胸に刻んだことだろう。

 この先、沙織に対し頭が上がらないに違いない。

 

「またしても『お姉さんらしい』ところを発揮してしまいましたね、武部殿」

「五十鈴さんがまた駄々をこねそうだな」

「……そういえば、先ほどから五十鈴殿が静かな気がしますが」

「ふむ。言われてみると」

 

 事件現場から逃走してからというもの、華はずっと沈黙を決め込んでいる。会話に加わってすらいない。

 先ほどの武佐士と沙織のやり取りを見ようものなら「ずるいです! わたくしも武佐士さんを抱きしめます!」と言いそうなものだが。

 

 視線を華に移す。

 

「「えっ」」

 

 麻子と優花里は思わず息を呑んだ。

 

 目の前に薔薇色の空間がある。

 近づけば最後、一瞬で意識を蕩かしてしまいそうな甘ったるい空気を漂わせた、もはや亜空間と称すべきもの。

 その中心で、華は立っていた。

 ウットリ、と。

 

「武佐士、さん」

 

 華は、もはや尋常でない領域と言えるほどの、乙女の顔をしていた。

 

「武佐士さん……ああ、武佐士さん」

 

 囁く声色。潤んだ瞳。赤味を帯びた頬と首筋。

 すべてを取っても、いまの華は途方もなく()()()()()()

 道行く男どころか、同性の麻子や優花里までも心が射貫(いぬ)かれてしまいそうなほどに。

 感覚を麻痺させる艶顔を浮かべながら、華は一人の少年だけを見つめていた。

 

「武佐士さん。真面目で、愛らしい上に、逞しさと強さも持ち合わせていらっしゃるだなんて──そんな、わたくし……わたくし……」

 

 両手で頬を抑えて「どうしましょう」と華は身体を揺する。何に困っているのかは不明だが、とにかく蠱惑的であった。

 

「あれは、なんというか……」

「ええ。たぶんですが……」

 

 沙織と武佐士が抱き合っていても、なぜ華は反応を示さないのか。麻子と優花里は理解した。

 

 武佐士しか見えていないのだ。

 恐らく、悪人たちを成敗し始めたところから、彼以外、認識できていないのだろう。

 タイマンやカチコミという用語を使いたがるように、華はどうも任侠映画の類を好いている。そんな彼女にとって武佐士の活躍は琴線に触れるものだったに違いない。

 ……ただ、あれほど色情の溢れた顔を見ていると、それだけが理由とは思えなかったが。

 

「秋山さん。気のせいか、五十鈴さんの目の中にハートマークが浮かんでいるように見えるんだが」

「奇遇ですね。わたしにも確認できるであります」

 

 一方、武佐士はそんな華の情熱的な視線にも気づかず、沙織の胸部についてあくまで真面目に褒め称えていた。

 

「母性溢れる豊満な柔らかさは思わず赤子に立ち戻ったような心境に陥りました。武部さんは素晴らしい母になられることでしょう」

「普通ならセクハラなのにギリギリ嬉しいこと言ってくれるから怒れない!」

 

 夕焼けに染まり始めた空に、沙織の「やだもー!」という声が響き渡った。

 




 そういえば、しほ様の抱き枕カバーが公式から発売されるようですね。
 サンプル画像を西住姉妹に突きつけて「ねえ。どんな気持ち? 自分の母親が抱き枕カバーになるってどんな気持ち?」って言いたい(闇)


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大洗の長い一日③ みほの笑顔

※追記
 さすがに章タイトル詐欺な気がしてきたので急遽「大洗編」を加えました。


 一時は荒っぽい空気に占領されかけていた大洗の学園艦は、その日も無事に穏やかな夕暮れの海を進んでいる。

 街頭の光によって照らされ始めた道を、四人の少女と一人の少年が歩く。

 

「すっかり遅くなっちゃったね」

「濃厚な一日だったな」

「西住殿、機嫌を損ねてなければいいのですが」

「ああ、武佐士さん……」

「華はいつまでトリップしてんの?」

 

 今度ばかりは、さすがに寄り道することなく、一行はみほの寮をまっすぐ目指していた。

 少女たちの後ろを、武佐士はシュンと申し訳なさそうな顔を浮かべて歩いている。

 治療によって頬につけられたテープも相まって、やんちゃを働いたことを反省する幼児のようだった。

 

「申し訳ございません。僕のせいで皆様へ向けられる、みほ姉さんの信頼を損ねてしまったかもしれません」

「もう、気にしないの。過ぎたことなんだから」

 

 大真面目に気を落とす武佐士を、沙織は優しげに諭す。

 

「それよりも早くみぽりんに……お姉ちゃんに顔を見せてあげよ? そんな暗い顔じゃなくてさ」

 

 沈んでいる少年に向けて、沙織は持ち前の明るい笑顔を浮かべる。

 

「みぽりんだって、元気な弟くんに会いたいはずだよ?」

「武部さん」

 

 沙織の言葉に励まされて、武佐士はひかえめな笑顔を作った。

 

「そうですね。元気な顔を、姉さんに……」

 

 しかし、その表情はまた暗い面持ちに変化する。

 ぴたりと足を止めて、目線が地面へと向く。

 

「弟くん? どうしたの?」

 

 様子のおかしい武佐士を気にして、少女たちも立ち止まる。

 暮色に変わりだした風景の中で、少年は何やら葛藤した表情でいる。

 気になった沙織が、今一度声をかけようとしたとき、

 

「本当に……」

「え?」

「本当に、僕はみほ姉さんに会っていいんでしょうか?」

 

 理解しがたいことを、武佐士は言った。

 

「……なに、言ってるの?」

 

 沙織を始め、他の少女たちも、要領を得なかった。

 なぜここに来て、姉と会うことを躊躇うのか。

 

 電灯のジジジという音が、しばし静寂の中で響く。

 

「……ずっと、なかったんです」

「え?」

 

 しばらくして、武佐士は呟いた。ひどく切なげに。

 

 

「みほ姉さんが、笑顔で戦車に乗るだなんて、ずっと、なかったことなんです」

 

 

 

 

 

 

 少女たちは、何も口にすることができなくなった。

 

「久しぶりに、見たんです。あんなに楽しそうに戦車に乗って、あんなに元気に試合をするみほ姉さんなんて」

 

 武佐士は寂しげに打ち明ける。

 

「大洗に転校してからのみほ姉さんは、ほんとうに幸せそうだった」

 

 少年がふとこぼした発言は、みほの事情を知らなければ、その重みを理解することができないだろう。

 そして、ここにいるみほの親友たちは、他の誰よりも、言葉の裏に含まれた闇の深さに、圧倒されることとなった。

 

 暗く染まりだした空を見上げて、武佐士は言う。

 

「……これまでのみほ姉さんは、ずっと辛そうでした。戦車道を続ければ続けるほど、明るくて活発だった姉さんから、笑顔がなくなっていきました。僕は、そんな姉さんのチカラに、ずっとなりたかったんです。また昔みたいに、笑ってほしかった」

 

 拳を握る音が、少女たちの耳に届く。

 

「やっている武道は違くとも、お互いに励まし合って、頑張り合うことができる。そう信じて僕は修行を続けてきました。みほ姉さんに頼られるような、強い男になりたかったんです」

 

 そのひたむきな思いが、いまの彼を作っている。それを少女たちは今日、身をもって理解した。

 

「そのために、たくさん強い人と戦ってきました。中には、なんとしても勝たなければならない相手もいました。いまいる友人たちも、最初の頃は倒すべきライバルでした。お互い譲れないものがあって、許せないものがあって、対立してきました。

 でも、戦いを通じてわかり合うことができたんです。共に苦難を乗り越える仲間になれたんです。

 だから、きっとみほ姉さんとも一緒に苦しみを乗り越えていけるはずだって、そう思えるようになったんです。二人なら、どんなことにも負けないはずだって」

 

 どんなに辛くとも、前を向いて進み続ければ、越えられない壁はない。

 友たちが、それを教えてくれた。

 

「……でも」

 

 武佐士は再び地面に顔を俯かせた。

 

「もっと早く、気付くべきでした。彼らとわかり合えたのは、()()()()()()()()()()()()()()だったということを」

 

 一滴の雫が、アスファルトに染みわたる。

 

「……僕じゃ、できなかった」

 

 心底悔しそうに、武佐士は声を絞り出した。

 

「違う“道”を進む僕じゃ、結局、みほ姉さんを笑顔にできなかった」

 

 少年はゆっくりと顔を上げる。

 

「みほ姉さんの笑顔を取り戻したのは、あなたたちでした」

 

 涙に濡れた顔を少女たちに向けて、武佐士は言う。

 感謝するように。一方で、羨むように。そんな複雑な表情だった。

 ごちゃ混ぜになった感情を、姉の親友に向けてしまう自分を恥じるように、武佐士は顔を逸らす。

 

「ごめんなさい。本当は、怖いんです。もしかしたら、このまま会わないほうが、みほ姉さんのためなんじゃないかって」

 

 消え入りそうな声で、武佐士は言う。

 

「僕と会ったら、実家のことを思い出してしまうだろうから。そうしたら嫌なことまで、思い出させてしまうかもしれない……それが、すごく怖いんです」

 

 試合中継に映し出されるみほの姿を見て、

 ライバルたちと握手を交わし絆を紡ぐみほの姿を見て、

 勝利の宴を満喫するみほの姿を見て、武佐士は思った。

 いまここにある、みほの幸せを、壊したくないと。

 仲間に囲まれて、明るい顔で笑うみほを思い出せば思い出すほど、武佐士は葛藤する。

 

「みほ姉さんは、もう報わている。あなたたちが救ってくれた。……そんな素晴らしい友人たちがいるのなら──家族のくせに何もできなかった()()()()がいなくても、みほ姉さんはじゅうぶん幸せなんじゃないかって……」

 

「そんな筈ないだろ!」

 

 鋭い怒号が、武佐士を一喝する。

 声を上げたのは麻子だった。

 友人たちですら聞いたことのない声量で、麻子は怒鳴った。

 戸惑う友人たちを押し退けて、麻子は武佐士の襟元に手を伸ばす。

 華奢な矮躯で、武佐士をぐっと引き寄せる。

 呆然とする武佐士に向けて、怒りの形相を向ける。

 

「家族がいなくても幸せだと? ふざけるな! 二度と言うな、そんなこと!」

「麻子……」

 

 本気で怒る幼なじみの後ろ姿に、沙織は胸が締め付けられた。

 両親を失った麻子の気持ちを思えば、止めることなどできなかった。

 

 怒りのあまりぷるぷると身体を震わせながら、麻子はまくし立てる。

 

「『()()()』だなんて、軽々言うな。お前は、西住さんのたった一人の弟だろ?」

「冷泉、さん」

「いいか? どれだけ友人に恵まれていてもな、どれだけ傍で支えてくれる友人がいてもな……」

 

 麻子は俯く。長い黒髪の隙間から、一滴の雫が落ちる。

 

「家族のいない寂しさだけは、埋められないんだ」

 

 武佐士は目を見開く。

 自分が何を口にしてしまったのか、その愚かさを悟って。

 

「あ、あっ、ぼ、僕、は……」

 

 麻子の言葉は、武佐士にとって何か一線を越えるものだったらしい。

 目に見えて狂乱に陥りかけている武佐士に、すかさず沙織は落ち着かせるように語りかける。

 

「そうだよ弟くん。そんなこと言っちゃダメ」

 

 その声は、とても深い慈しみに満ちていた。

 

「あなたのお姉さんは、そんなこと考える人じゃないでしょ?」

「武部、さん」

「みぽりん、弟くんが来るって知ったとき、本当に嬉しそうにしてたんだよ?」

 

 弟のことに思いを巡らすだけで、あんなにも感情豊かにしていたみほが、どうして弟と会いたくないと考えるだろうか。

 

「武部殿の言うとおりでありますよ、弟殿」

 

 優花里もまた、武佐士を諭す。

 

「確かに西住殿は、大洗に来たことで変わったかもしれません。わたしたち相手でなければ見せられない笑顔を、見せるようになったかもしれません。それは不肖、西住殿の友としてたいへん誇らしいことです。でもですね、それでも……」

 

 優花里は真剣な眼差しで語る。

 

「弟殿だからこそ、見せられる笑顔があるはずですよ?」

「僕だから、こそ?」

「はい。だって、弟殿と電話しているときの西住殿の笑顔は、いままで見たことないほどに幸せそうでしたから。それはきっと、弟殿にしかできないことですよ?」

 

 羨ましいです、と優花里は言う。

 

「そうですよ。武佐士さん」

 

 いつものように、凛とした穏やかさを取り戻した華は、そっと武佐士の手を包み込んだ。

 

「どうか、ご自分を軽んじられないでください」

 

 痛切な面持ちで華は言う。

 

「武佐士さん。わたくしたちは、今日初めてあなたにお会いしました。そんなわたくしたちでも、武佐士さんがとてもお優しい方だということがわかりました。あなたが素敵な殿方ということが、充分過ぎるほどに理解できました。それって、凄いことではないですか?」

「華、さん」

「たった数時間で、ですよ? そんな短い間で、わたくし、こんなにも……」

 

 その先を、華は口にしなかった。頬を赤く染めて、そのまま黙り込んでしまう。

 それでも、彼女の言わんとすることは理解できた。

 

 これだけ短い間だけでも、初対面の自分たちは通じ合うことができた。

 心と心のやり取りができた。

 それは少女たちの大らかさだけが理由ではない。

 武佐士本人の、人柄もあってのことだ。

 

 ならば、

 

「そんな弟くんと、みぽりんの絆が、簡単に切れるわけないじゃない」

 

 沙織が、そう結論づける。

 周りの少女たちも、力強く頷く。

 

 武佐士は眩しいものを見るように、濡れた瞳をそっと閉じ、深々と頭を下げた。

 

「みなさん……ありがとう、ございます。ほんとうに、ありがとうございます」

 

 謝罪よりも感謝を。

 不安に駆られていた少年の胸に、爽やかな風が吹き渡った。

 少女たちの言葉を、武佐士は信じた。

 ここまで真摯に向き合ってくれた彼女たちを、どうして疑えようか。

 

 自分たちはきっと笑顔で再会できる。そう信じて武佐士は静かに、安らぎに満ちたほほ笑みを浮かべた。

 そんな武佐士に、沙織は柔らかな声で言う。

 

「会いに行こ? お姉ちゃんに」

「……はい」

 

 武佐士の表情に、もう迷いは見られなかった。

 

 

 

 

「あれ? みんな、どうしたのこんなところで」

 

 馴染み深い声を聞いて、少女たちは振り返った。

 余所行きの私服に身を包んだみほが、きょとんと首を傾げて立っていた。

 

「みぽりん! 寮で待ってたんじゃなかったの?」

「うん。みんながあんまり遅いから、何かあったのかなって気になって……って、あれ? もしかして、むうちゃん?」

 

 親友たちの間にいる少年が、弟の武佐士であることにみほは気づく。

 

「みほ、姉さん……」

 

 不意打ち気味に再会をはたした武佐士は、呆然と姉の顔を見つめていた。

 

「みんな、一緒だったの?」

「あ、うん。途中で会う感じになってね。一緒に来たの」

「そうだったんだ。ありがとう。弟が迷惑かけなかったかな? ……あ! むうちゃん! やっぱりケガしてる!」

 

 武佐士の頬に治療の痕があるのを確認したみほは、目に見えてわかるほどに怒り出した。

 約束の時間を過ぎた理由を、一瞬で理解したらしい。

 

「もう~! また危ないことに関わったんでしょ! むうちゃん! 歓迎パーティーの前にまずお説教です! 反省しないと唐揚げとアップルパイ食べさせてあげません!」

「お、おう~。みぽりんがちゃんと『お姉ちゃん』してる」

「新鮮であります~」

 

 ()()()()と頬を膨らませて武佐士に説教をするみほの目新しい姿に、親友たちは感心げな顔を浮かべて驚く。

 しっかりと弟を叱ろうとするみほの姿は、まさに『姉』と呼べるものだった。

 きっと実家にいるときに見せるのであろう、みほのもうひとつの一面。

 初めて見る少女たちに対して、武佐士がよく見てきた、みほの姿。

 

「むうちゃん? もう、聞いてるの?」

 

 そう。

 武佐士にとっては、馴染み深いもの。

 みほは変わることなく、弟に姉としての顔を浮かべている。

 

「……姉さん」

 

 変わらない。

 何も、変わっていない。あの頃から何ひとつ。

 みほの態度は記憶にある彼女そのままだ。

 それが武佐士にとっては、なによりも……

 

 武佐士は荷物から手を離した。

 

「みほ姉さん!」

「え?」

 

 一陣の風が吹き抜けたかと思いきや……武佐士はみほを思いきり抱きしめていた。

 

「ふ、ふえぇぇぇぇ!?」

 

 先ほどのむくれ顔はいずこへか、みほは一瞬で顔を真っ赤にしてあわあわとしだす。

 

「むむむ、むうちゃん! だ、だめだよ! みんなが見てる前でこんなことぉ!」

 

 見てなければ良いのだろうか、とぼんやり思いながら、親友たちも武佐士の大胆な行動に瞠目していた。

 目をぐるぐるとさせながら弟を嗜めるみほだったが、武佐士は聞く耳持たず、姉にぎゅっとしがみつく。

 

「あうあう! もう~むうちゃんってばあ!」

「うっ、ぐすっ……」

「え? むう、ちゃん?」

 

 羞恥心で慌てていたみほだったが、武佐士の様子に気づくと、落ち着きを取り戻す。

 武佐士は泣いていた。

 まるで幼い子どものように。

 

「会いたかった……」

 

 堰を切ったように涙を流しながら、武佐士は言った。

 

「会いたかったよ、姉さん」

 

 そこには礼儀正しい少年の姿も、凄まじい気迫は放つ武人の姿もない。

 ただ、姉を慕う、歳相応の弟がいるだけだった。

 

「むう、ちゃん」

 

 弟の声色に含まれた切実な思いと、力強い抱擁から、みほは彼の激情を感じ取った。

 みほもまた、思わず瞳を潤ませた。しかし、浮かべた表情は穏やかなほほ笑みだった。

 泣きながら震える弟をあやすように、そっと抱きしめ返す。

 弟の大きくなった背をさすりながら、みほは優しく語りかける。

 

「そんなに、おねーちゃんに会いたかったの?」

「うん」

 

 小さな子どものように、武佐士は頷く。

 そんな武佐士を、みほはさぞ愛しげに抱き寄せる。

 

「もう。こんなに大きくなったのに、いつまでも甘えん坊さんだね」

「シスコンだけんしょうがなかよ」

「訛ってるよ?」

「どぎゃんでちゃよかバイ」

「しょうがないなあ」

 

 つい方言が口に出てしまうほどに感情を取り乱している弟に、みほは慈しみに満ちた顔を向ける。

 昔よくしてあげたように、武佐士の頭を撫でながら、耳元に囁く。

 

「おねーちゃんもね……ずっと会いたかったよ?」

 

 その日みほが浮かべた笑顔は、春の陽ざしのように、暖かく、優しいものだった。

 

 離れていた月日の分を埋めるように、再会を果たした姉弟は、互いの温もりを確かめ合うのだった。

 

 

 そんな二人を、沙織たちは安心しきった顔で見ていた。

 ほっと、沙織はひと息を吐いて、仲間に目配せをする。

 

「よかったね、二人が無事に会えて」

「はい。西住殿も、嬉しそうでなによりです」

「まったく。なんだかんだ言って姉に甘えまくってるじゃないか。人騒がせなやつめ」

「みほさん。あんな情熱的に武佐士さんに……羨ましいです」

 

 少女たちは口々に、再会を果たした姉弟に向けて感慨を述べた。

 

 それにしても、本当に仲の良い姉弟ということが傍目から見てわかる。

 自分たちがいるのも忘れて、二人だけの空間を作っているではないか。

 

「ねえ、しばらくそっとしてあげよっか?」

 

 沙織の提案に、一同は頷いた。

 もう少しだけ、再会した喜びを味わわせてあげよう。

 四人の少女たちは距離を空けて、今なお抱きしめ合う仲の良い姉弟を見守った。

 

 十秒経っても、みほと武佐士は離れず、抱擁を続ける。

 沙織は微笑ましげに、そんな二人を静観する。

 

 一分が経った。まだまだ、姉弟は抱きしめ合う。

 いっときも離れたくないとばかりに。

 

 そのまま、三分。

 十分……

 十五分……

 三十分と……

 

「いや、さすがに長いよ! いつまで抱き合ってんの!?」

 

 律儀に待ち続けている自分たちもアレだが。

 

「こっちのお菓子もおいしいですね~」

「さすがは熊本の銘菓だ。これはいいものだ」

「これがみほさんと武佐士さんの生まれ育った土地の味なんですね~」

「何いつのまに弟くんのお土産開けてんの!?」

 

 さすがに待ちくたびれたのか、知らぬ間に沙織以外の三人は武佐士から貰った土産の包みを開けて実食をしていた。

 

「もう! みんなはしたないでしょ! こんなところで食べたりして!」

「別にいいだろ。貰ったものなんだから」

「武部殿も食べないと五十鈴殿にぜんぶ取られちゃいますよ?」

「この太鼓の形をした餡子のお菓子、とても美味です~♪」

「それはわたしも食べたい!」

 

 四人がそんなやり取りをしていても、西住姉弟はまだ自分たちの世界に入り込んでいた。

 

「みほ姉さん」

「なぁに、むうちゃん?」

「呼んだだけ」

「もう、むうちゃんたら。よしよし」

「みほ姉さん、暖かい……」

「んっ……もう、本当にお姉ちゃんっ子なんだから」

 

 口で言いつつも、みほは幸せに満ちた顔で、愛弟を胸元に抱き寄せ、頭をナデナデしていた。

 着痩せするみほのB82の胸に抱かれ、武佐士は眠る赤ん坊のように安心しきった顔でいた。

 

「姉さん……」

「むうちゃん♪」

「あのう! お二人姉弟だよね!? なんかそれだけじゃ済まされない危ない空気を感じるんですけど~!?」

 

 沙織のそんなツッコミも耳に入らず、みほと武佐士は過剰とまで言えるスキンシップを取りながら、久方ぶりの姉弟の時間を満喫するのだった。 



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歓迎会① みほの手料理

 手作り料理を誰かに食べてもらうとき、ちゃんと「おいしい」と言ってもらえるか。

 とりわけ少女が異性にご馳走するとき、だいたいはそうドキドキするものである。

 食べてもらう相手が、たとえ弟でも……いや、みほという少女にとっては、弟相手だからこそ人一倍緊張している様子であった。

 

「ど、どうかな、むうちゃん? おねーちゃんの唐揚げ、おいしい?」

「むぐむぐ」

 

 鶏の唐揚げを食べる武佐士に、みほはじ~っと不安と期待に満ちた眼差しを向ける。

 

 みほは決して料理が苦手というわけではないが、プロのシェフ並の腕を持つ沙織と比べてしまうと、どこか見劣りしてしまうのは事実。

 わざわざ自分のもとを訪ねてきた弟のために大好物の唐揚げを作ったのだが、はてその反応はいかに……

 

 武佐士はしっかりと背筋を伸ばし、ゆっくりと食べ物を咀嚼している。育ちの良さが伺える丁寧で礼儀正しい食べ方だった。箸の持ち方も完璧である。

 気品すら漂わす所作は、あたかも美食家の風格すら醸し出している。みほが必要以上にソワソワするのも、仕方がないと言えた。

 

「ふむ」

 

 唐揚げを食べ終えると、武佐士は一度、箸を箸置きに載せた。

 

「みほ姉さん」

「は、はい」

 

 凛然な態度で呼ばれたため、みほは思わず弟相手にも(かしこ)まった反応を取ってしまう。

 武佐士は瞳を閉じて、ゆっくりと感想を述べ始める。

 

「身内ならともかく、よそさま相手に出すには、まだ精進が必要だと思う」

「あうう……」

 

 容赦のない弟の指摘に、みほはシュンとなる。

 幼い頃から家政婦菊代の絶品料理で育ってきた分、西住家の人間の舌はかなり肥えている。

 みほはわりかし、どんなものでもおいしく食べられるのだが(むしろコンビニなどの俗っぽい食品が好きだったりする)。しかし、母しほと姉のまほを始め、武佐士の料理の評価はかなり厳しい。

 基本的に心優しい性格をした武佐士だが、とりわけ品評の場となると意外と容赦がない。性根が真面目である分、妥協というものが許せないのだ。

 ゆえに、たとえ敬愛する姉の手料理であっても……否、敬愛しているからこそズバリと評価をくだしてくる。

 

「油の温度や揚げる時間が適切でなかったためか、せっかくのもも肉が固くなっています。また油分も余計に含まれてしまい、衣がサクサクしておらずベチャリとしてしまっています。残念ながら唐揚げの長所を殺してしまっている出来です」

「ふええ……」

 

 家族の中で一番味にうるさい武佐士から、そう簡単に花丸を貰えないことは覚悟していたが、さすがのみほもヘコんでしまった。

 

「でも」

 

 武佐士はまたひとつ唐揚げを口に含む。

 絶品とは尽くしがたい唐揚げを、しかし味わうように食べ、にこりとほほ笑む。

 

「僕は、この唐揚げ好きだよ?」

「え?」

 

 泣き顔を驚きに変えて弟を見やると、無邪気に喜ぶ表情がそこにあった。

 

「む、むうちゃん。で、でも、そんなにおいしくないんでしょ?」

「菊代さんが作るのと比べたら確かにまだまだだけど……でもこれは、みほ姉さんが僕のために作ってくれた特別な料理だから」

 

 そう言って武佐士は、また唐揚げをひとつ嬉しそうに頬張る。

 貴重な一品を大事に味わうように食べ終えると、武佐士はまた穏やかに笑う。

 

「みほ姉さんが作ったものなら、どんなものでも僕にはご馳走だよ?」

「むうちゃん……」

 

 姉弟は笑顔で見つめ合う。互いの頬が、ほんのりと朱に染まっていく。

 まるで世界には二人しか存在していないかのような雰囲気の中で、姉弟は熱い視線を交わし合う。

 

 

 

 

 

 

「カップルかああああああああああああ!!」

 

 そんな甘い空気を一撃で吹き飛ばす大声に、姉弟はビクッと背筋を張った。

 ついでテーブルに大皿がドンと置かれる。山盛りになったおかずの谷から、にゅっと悔し涙っぽい涙を流す沙織の顔が降臨する。

 

「やだもー! やだもー! なんで親友の弟の歓迎会でこんな甘々なイチャイチャ見せられてるの~!?」

 

 沙織の言うように、現在はみほの寮部屋で武佐士の歓迎会をしている。

 予定ではパーティーの料理はみほがすべて用意することになっていたが、さすがにそれは大変だろうということで料理上手の沙織も手伝っていた。テーブルにはすでに、みほが作った唐揚げだけでなく、沙織お手製の豊富な料理が並べてある。

 食欲をそそる料理で、いつものように長閑(のどか)で楽しい食事会になると思いきや……この天然姉弟ときたら、先ほどから人前であることも(はばか)らず、まるで付き合いたてのカップルのようにイチャついていやがるのである。

 人一倍恋愛願望の強い沙織にとって一種の憧れのひとつとも言えるシチュエーションを見せられて、ほほ笑ましく思う一方、複雑な感情となっていた。

 羨ましいー! と。

 

 沙織のそんな指摘に、みほは顔を真っ赤にしてあたふたとしだす。

 

「イ、イチャイチャなんてしてないよ! きょ、姉弟ならこれぐらい普通だよ~」

「普通じゃない! 絶対に普通じゃないから! いくら仲のいい姉弟でもそんな恋人同士みたいに見つめ合ったりしないから!」

「こ、恋人同士だなんて、そんな……えへへ♪」

「なんで満更でもない顔するのみぽりん!?」

 

 はたして、みほが弟に向ける愛情は一般的意味合いでの家族愛なのだろうか。

 なにぶん、人より少し()()()()()みほであるため、その情愛が本気で危険な領域に至っているのか、それともただ単に溺愛しているだけのものなのか、どうも判別がつかない。

 ただ、はた目から見るにその姉弟仲が尋常なレベルでないほどに良好であることは、断言できる。

 二人の間にはよほど深いエピソードがあるのか、ちょっとのことでは簡単に切れない、強固で強い絆を感じさせた。強固すぎる、と言うべきかもしれない。

 

 実家絡みで気まずい空気を作り出されるよりは、ずっとマシには違いないが……それにしたって限度がある。

 

「に、西住殿は本当に弟思いの姉上なんですね~」

「秋山さん、あまりフォローになっていないと思うぞ」

「あう」

 

 敬愛するみほの威厳を守ろうと当たり障りない指摘を入れる優花里だったが、そう言う本人も苦笑いを浮かべている時点で、麻子のツッコミどおり虚しいフォローである。

 

 仮にこの姉弟が部屋で二人きりだったとしたら、瞬く間にアブノーマルな展開は繰り広げられるのではないだろうか。と少女たちは肝を冷やした。

 

 

 

 そんな少女たちの気も知らず、武佐士はすでに料理の山々に、すっかり夢中になっていた。

 

「ふむふむ。なんと美味な料理でしょう。箸が止まりません」

 

 武佐士は満悦の笑顔で次々とおかずを口に運んでいく。茶碗に盛られた白米も瞬く間になくなっていく。

 食欲旺盛な武佐士の様子を、傍らで華がほほ笑ましげに見つめていた。

 

「うふふ♪ 武佐士さん、さすが男の子ですね。いい食べっぷりに惚れ惚れしてしまいそうです」

「そうおっしゃる華さんも、いい食べっぷりですね。そんなにも細い身体なのに。驚きです」

「あ、あら、これは、その……」

 

 華は頬を赤くした。

 見かけに寄らず大食らいな華は、先ほどから武佐士にも負けないほどの量を食している。茶碗に盛られた白米は日本の昔ばなしのようにコンモリとしている。

 ()()()()()()()()をごく自然に食べていた華だが、今日に限っては何だかそれが恥ずかしかった。

 

「あのぉ、やはり、はしたないでしょうか? 女性がこんなにもガツガツ食べるのは……」

 

 不安げに目配せする華に対し、武佐士は穏やかな顔で「いいえ」と首を横に振った。

 

「そんなことはありません。健康的でたいへん宜しいと思います。僕としてはむしろ、おいしそうに何でも食べる女性は、とても魅力的です。一緒に食事していて楽しいですから」

「ま、まあ。武佐士さんたら」

 

 爽やかな笑顔でそんなことを言われ、華はますます頬を紅潮させた。それは羞恥心からではなく、もっと別の甘ったるい感情の揺れからであったが。

 

「武佐士さん。よろしければ、ご飯のおかわりはいかがですか?」

「ありがとうございます。是非お願いします」

 

 茶碗の中の白米がひと口分になったのを見て、華がすかさず声をかけると、武佐士は快く頷いた。

 

 あまり浸透していない常識だが、『おかわり』にもちゃんとした礼儀作法がある。よく完食してからお願いするのが正しいと思われがちだが、実際は『ひと口分を残してから差し出す』のが正式な和食のマナーである。

 これは和食作法で言う『つなぎ』のことであり、まだ食事は済んでいないという合図である。

 育ちの良い二人は当然、そのあたりの作法に精通していた。

 まるで熟年夫婦のように息の合った二人は、柔らかな笑顔で茶碗を渡し合う。

 

「どうぞ。たくさん召し上がってくださいね?」

「ご親切にありがとうございます」

「いいえ。お気になさらず。……わたくしも、いずれ立派な妻になれるよう、こういうことは今の内にできるようになっておきたいですから」

 

 そう言って華は意味ありげな視線を武佐士に向けて、熱のこもった艶顔を浮かべた。

 

 そんな華の発言と様子に、みほはピクリと反応を示す。

 心なしか、片方の瞼が痙攣している。

 

「む、むうちゃん、ず、ずいぶん華さんと仲良くなったんだね?」

「そうかな?」

「きょ、今日会ったばかりにしては随分と距離感が近いなあって、おねーちゃん思うな~」

 

 引きつった笑顔で、みほは言う。

 実際、物理的にも華と武佐士の距離は近い……というかいつのまにか肩が触れ合いそうなほど密着している。

 みほの笑顔がますます引きつる。

 

「だ、だめだよ~むうちゃん? 華さんにあんまり迷惑かけたりしちゃ。は、華さんもそんなに弟に気を遣わなくても大丈夫だよ?」

「いえ、構いませんよみほさん。むしろ、わたくしがしたいんです」

「ふえ?」

 

 キョトンとするみほに、華は柔らかく笑い返す。

 

「武佐士さんとは確かに本日会ったばかりですが、その人となりは充分過ぎるほどに知ることができましたから。わたくし個人としては、これからもこうして親密にお付き合いしていければと、そう思っているんです」

「おつき……あい?」

「はい。武佐士さんには、自然と懇意になりたいと思わせる魅力があります」

 

 華の発言に、武佐士は照れくさそうに身をこわばらせる。

 

「そんな、華さん。いくらなんでも褒め過ぎかと……困惑してしまいます」

「謙遜をなさらないでください武佐士さん。わたくしからすれば、武佐士さんは素敵な殿方ですよ?」

「からかわないでください」

「本心ですよ?」

 

 華はうっとりとした眼差しを少年に向けて言う。

 

「わたくし、これでも男性を見る目には自信があるんです」

 

 華の表情は、絶筆に尽くしがたいほどに、女性としての美麗をほとばしらせていた。

 女学生としての若々しさに加え、熟しかけた艶美が混ざり合わさったような、そんな笑顔であった。アンバランスゆえに実に強烈な魅惑を宿している。

 武佐士が思わず、心奪われたように見惚れてしまうのは、無理からぬ話だった。

 

「うう~……」

 

 そんな武佐士を、みほは複雑な表情で見ていた。

 怒り出しそうな、泣き出しそうな、とにかく寂しげな具合に、弟に睨みをぶつけている。

 おっかないというよりは、まるで見捨てられる子猫のようで、愛らしい姿ではあったのだが……放っておくと、いろいろ危うい感情の暴発が起きる予感を起こさせた。

 

「あ~……と、とりあえず皆! 料理冷めないうちに食べちゃおうよ! ほら弟くんも、主役なんだから遠慮なく食べちゃってね!」

 

 妙な空気に入り込む前に、沙織が気をきかせて流れを仕切り始める。

 

「ありがとうございます、武部さん」

 

 武佐士も華の熱烈な視線に気後れしていたためか、沙織の気遣いに二重の意味で感謝をする。

 追加でやってきたおかずを、また嬉しそうに食べ始めた。

 

「うん、これも絶品です。お見事です武部さん。ほんとうに、料理がお上手なのですね」

「えへへ♪ まあ~将来の夢は素敵なお嫁さんだからね~。これぐらいはできなくっちゃ」

「そうでしたか。武部さんとご結婚される男性は間違いなく幸せ者でしょう」

「え? ほんとうにそう思う!?」

「はい。男性として保証します」

「そっかぁ~♪ えへへ~、なんか嬉しい~♪」

 

 いつもなら友人たちに苦笑いされるか呆れられる沙織の夢を、武佐士はバカにすることなく受け止め、その上で喜ばしい賛辞まで口にする。

 沙織はルンルンと天に昇るような心地になった。

 

「もう~弟くんたら~、そんなお世辞言ったっておかずぐらいしか出せないぞ~?」

「いえ、社交辞令ではなく本心です。武部さんならきっと素敵なお嫁さんになれることでしょう」

 

 沙織はますます機嫌を良くする。

 まことに武佐士という少年は、人の美点を素直に褒められる人間であるようだった。

 舞い上がった心持ちで沙織は思う。

 本当にこの子はなんてイイ子なのだろうと。

 

「僕も結婚をするのなら、武部さんのような女性を妻にしたいものです」

「ぶううううっ!!」

 

 そして、この子はどうしてこう平然な顔でトンデモナイことが口にできるのだろう。

 

「おおお、弟きゅん!? しょしょしょ、しょれは、どどど、どういう意味なのかにゃ~!?」

 

 動揺から舌が回らない。そんな沙織の様子に、武佐士は「はて?」という具合に首を傾げる。

 

「言葉どおりの意味ですが。何か妙なことを口にしましたでしょうか?」

 

 ヘタをすれば遠まわしな告白に受け取られかねない発言だったが、武佐士は別段含みのあることを口にしたつもりはないらしい。

 しかし、投下された爆弾は瞬く間に周囲に影響を与える。

 

「武佐士さん……わたくしでは御眼鏡にかないませんか?」

「え?」

 

 華が切なげな瞳でそう問いかけてくるので、武佐士は困惑した。

 

「ええと。華さんも、もちろん充分すぎるほどに魅力的な女性ですが」

 

 素直な賛辞を述べても、華のウルウルとした瞳は治らない。

 

「ですが、沙織さんと比べたら理想的な妻ではないのですよね?」

「そういうつもりで言ったわけではありませんが……あ」

 

 しばらくして武佐士は合点いったとばかりに手を合わせる。

 

「なるほど。華さん、ご自分が将来ご結婚できるかどうか、不安になっているのですね?」

「はい?」

「なら、案ずることはございません。華さんのように身も心も麗しい女性がご結婚できないなんて、ありえません。そんなの不条理極まります。いずれ素敵な男性が、あなたの前に必ず現れることでしょう」

 

 うんうんと武佐士は自信満々に言う。

 

「男性として保証します。どうかご安心ください華さん」

「……武佐士さんの、バカ」

「あれ?」

 

 予想に反して、華がぷいと拗ねてしまったので、武佐士はまたもやオロオロとした。

 助けを乞うように姉に目線を配る。

 

「みほ姉さん、僕なにか失礼を働いてしまったかな?」

「……知ーらない」

「何でみほ姉さんまで拗ねてるの?」

「べつに。ただ、むうちゃんが改めて『()()()()』なんだなぁって思っただけ」

「なにそれ?」

「ふんだ。おねーちゃんの大切なお友達にちょっかいかけるような弟なんて知らないんだから」

「むむむ。わけくちゃつかんばい(※訳が分からないよ)」

 

 少女たちの怒りの行方がわからず、武佐士は頭上に大量のクエスチョンを浮かべるしかなかった。

 

「お、落ち着きなさい沙織。弟くんは天然で言ってるだけだから。特に深い意味はないんだから変にドキドキしないの……あ、でも、やっぱりちょっとニヤケそう」

 

 一方沙織は、なんやかんやで異性に直球なことを言われて嬉しかったのか、「えへへ」と緩み切ったデレ顔でトリップしていた。

 

 華がおよよと涙を流し、みほがぷくぅっと拗ね、沙織がだらしのない顔でにへら~と笑う。

 そんな喜怒哀楽のトライアングルの中心で武佐士は「むうむう」と唸る。そして麻子と優花里は光の消えた瞳でその現状を眺めていた。

 

「なんだこの状況は」

「さ、さあ。なんと申せばよいものか……」

 

 異性が混じったためか、それとも武佐士の影響力がそれほどまでに多大だったのか、おおよそ今までにない友人たちの反応に、どう対処すればいいものか。

 

「ま、こういうときは……」

「はい。こういうときは……」

 

 話題を変えるに限る。

 

「おい弟。お前がやっている武道について詳しく教えてくれんか? ずっと気になってるんだ」

 

 優花里から聞きそこなった話を、麻子は武佐士から直接聞くことにした。

 実際、麻子の知的好奇心は今も知りたいと訴えているのだ。あの超常の武術が繰り広げられる競技とやらを。

 

 

* * *

 

 

 終戦以降、世界は数多と、それまでになかった武道を生み出し続けた。

 戦後とは、文化と芸術が爆発的に発展する時期である。恐怖と狂気によって抑圧されていた人間の感情は、平和を得ると同時に、精神性の回復を求めるからである。

 戦争によって傷つくのは肉体のみではない。むしろ、心に負う傷のほうがずっと大きい。

 傷とは癒さなければならない。心に刷り込まれた忌々しい大戦の記憶から解放されるためにも、あるいは克服するためにも、人々は心を奮い立たせる新境地を得なければならなかったのだ。

 戦車道は、そのひとつであった。

 かつて兵器に過ぎなかった鉄の獣を、人類は『淑女の嗜み』である道具として手懐けたのだ。

 忍道然り、仙道然り、戦闘機や軍艦を扱った競技を含め、すべては愚かな大戦から進歩するために選択した、人類の新たな道。

 彼女たちが生きる時代は、そういうものだった。

 

 ゆえに、未だに見聞きしたことのない武道が存在しても、別段不思議ではない。

 それほどまでに、この世は奇天烈な武道の数々で溢れかえっている。

 

「そういえば、まだ名称を言ってませんでしたっけ」

 

 麻子の言葉で、武佐士も思い至ったらしい。

 

「ですが、戦車道をしている皆さんとは何ら関わりのない武道ですし、仔細に話したところで有意義になるとは思えませんが……」

「あ、でもわたしも気になる、弟くんがやってる武道」

 

 トリップから回復した沙織も話題に参加する。

 武装した強盗犯を殲滅するような、苛烈な身体能力を見せられた以上、多少の好奇心が働くのも無理からぬ話ではある。

 

「わたくしも、是非聞きたいです。武佐士さんが、やっていらっしゃる武道ですし……」

 

 哀愁を取り払った華もまた、武佐士の話にいわくありげな関心を示す。

 

「わたしも実際そこまで詳しいわけではないので、競技者から話を伺いたいです」

 

 ミリタリー好きの優花里としては、何か琴線に触れる話題があればと詳細を探ろうとする。

 

 その中で、みほだけは苦い顔を浮かべていた。

 

「う~ん……わたしは正直、むうちゃんがやってる武道怖すぎて、試合とか見てられないんだよね」

「砲弾が当たるかもしれないのに戦車から堂々と顔を出している姉さんたちのほうが、僕は見てて怖いよ」

「うっ……」

 

 普段実家でどんなやり取りをしているのか、容易に想像できるような『どっちもどっちな姉弟』の姿に、友人たちは穏やかな笑い声を上げた。

 食事会の空気は、一気に和やかなものとなった。

 そんな雰囲気の中、雑談の話題としてちょうど良いと思ったのかもしれない。武佐士は快く自分の武道について話すことにした。

 

「では、僭越ながらお聞かせします。みほ姉さんたちが乙女の嗜みである戦車道をやっているのに対して、僕は『男の武道』と呼ばれる競技に参加しています」

「やはり、姉上たちの姿から刺激を受けて始めたんですか?」

 

 優花里の問いに武佐士は「そうですね」と頷く。

 

「姉さんたちが毎日厳しい訓練をしている中で、僕だけ安穏と過ごしているというのは、耐えがたかったんです。僕も何かしなくちゃと、ずっと思っていました」

 

 そう語る武佐士の横顔を、みほはとても辛そうな表情で見つめた。

 あまり思い出したくない出来事が、彼女の中でフラッシュバックしたようだった。

 そんな、みほの心情を(おもんばか)ってか、武佐士は努めて明るめに語りだす。

 

「おかげで僕は最高の武道と出会うことができました。『強い男になりたいのなら迷わず選べ』と言われる、まさに男のためだけの武道です」

 

 武佐士は、その武道と戦車道は何ら関わりはないと言った。

 しかし、それは少し間違っている。

 確かに異なるふたつの競技が密接に交差することは一切ない。競技内容も、試合模様も、まったくの別物であるがゆえに。

 だが、とある迷信が、このふたつの競技を結びつける。

 

 戦車道をすればモテるというジンクスが一部で蔓延(はびこ)っているが、競技者たちが語る真相は「ほとんど出会いなんて、ない」である。

 しかしそれは極論に過ぎない。実際のところは、大多数の男性が彼女たちに気遅れてしているため、自然と出会いに恵まれない悪循環に陥っているだけだ。

 男性から見る戦車乗りの女性たちが、あまりにも強かで、あまりにも凛々しくて、あまりにも遠い存在で、仮に恋慕をいだいても、その隣に立とうという勇気を見いだせないのだ。

 戦車道を極めた女性が《女傑》とうたわれるように、一般的な男性にとってこれほど近寄りがたい異性もいないだろう。

 

 彼女たちの伴侶になれるとしたら、それはよほど肝の据わった人物か、彼女らを支えられるほどの優しさを秘めた器の大きい者……

 ……そして、戦車乗りの女性たちと同じく、『傑物』たる益荒男(マスラオ)のみであろう。

 

「僕がやっている武道は……」

 

 武佐士は語る。

 戦車道が最終的に、善き妻、善き母と『理想の女性像』に至る武道ならば、その武道もまた、善き夫、善き父──そして強い男として『理想の男性像』に至ることを目的として生み出されたものだと。

 紳士として必要とされる『騎士道精神』。一家を支え生涯を共にするための『団結力』。心身共に強かになるための『心技体』。そして、世を生き抜くための『知恵』。

 

 これらを育む武道の名は──

 

 

「《兵士道(へいしどう)》です」

 

 

 異なる世界で、異なるものを見聞きしていた男女が、互いの世界を知りえたその瞬間──運命の歯車は回りだす。

 まるで、異なる音色を奏でていた、ふたつの歌曲(リート)が、ゆっくりと共鳴するように。

 

 

 

 人々は知りえない。少年と少女たちも、もちろん知りえない。

 いまこの瞬間、あらゆる場所で、あらゆる学園艦で、あらゆる少年と少女たちが、同じように、異なるリートを奏で、惹かれ合っていることを。

 因果の輪が、ゆっくりとひとつに重なり合おうとしていることを。



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継続編──ロンリー・ハートは風と歌う
ミカさんはからかい上手


 空気と光と友人の愛

 これだけ残っていれば 気を落とすことはない

 

──ゲーテ

 

 ◇序曲──Ouverture──

 

 その日も、森の中で独り過ごしていた。

 手元には彫刻刀と木材。特別なにか作りたかったわけじゃない。ただ手を動かしていたかっただけだ。

 頭で考えるのではなく、感覚に従うままに木を削っていく。そうすることで、木は何らかの姿へと形を変えていく。これがあるべき形とでも言うように。

 それは(タカ)であったり、獅子であったり、コウモリであったり、牛であったり、蛇であったり、作った自分でもよくわからない生き物だったりした。

 そんな木彫りがいくつも、傍らに転がっていた。

 

 耳に届くのは、木を削る音。そして、風の音だけだった。

 しかし、その日は別の音がまじった。

 静かに葉を揺らす風にのって、弦の音色がひとつ。

 

「その行為に意味はあるのかい?」

 

 そして、自分に語りかけてくる少女の声。

 いつからそこにいたのか。

 少女はまるで森の精のように、ふっとその場に現れ、弦楽器を奏でていた。

 

 柄にもなく、その美しさに見惚れた。まるで違う世界の住人のように、その存在感は掴み所がなく、どこか神秘的ですらあった。

 しかし現実味のないその美貌は、熱に浮かされるよりも先に「自分とは縁のない存在だ」という感情が湧きあがって、却って氷のように冷めていった。

 

「意味なんてないさ」

 

 彼女の問いかけに冷ややかに答える。それは事実、意味のない行為だった。

 

「意味がないのに、なぜ続けるんだい?」

 

 少女はまた問う。

 木を削る手を止めることなく、「さあね」と答える。

 誰かに見せるわけでもない。部屋に飾って優越に浸るためでもない。

 

 ただ、こうして木を削っている間は、余計なことを考えなくて済む。

 昔に起きた出来事も。これから先のことも。そして、いま目の前にある現実のことも。

 何も、考えたくなかった。だから独りでいたかった。

 そんな気持ちも露知らず(あるいはわかった上でなのか)、少女は親しい友人に向けるような笑みを浮かべて傍に寄って来た。

 間近で見る少女の顔はやはり美しかったが、それでもその時は鬱陶しさが(まさ)った。

 

「ひとつ貰ってもいいかい?」

 

 木彫りの数々を見ながら、少女はそう尋ねた。

 

「どうぞお好きに」

 

 特に執着もなく、心もなく、譲る。

 

「ありがとう」

 

 少女は木彫りのひとつ……狼の木彫りを手に取った。

 

 何の偶然か、俺が最も忌み嫌う獣を、彼女はその手に取った。

 

「よくできているね」

 

 少女は木でできた狼を感心したように見つめる。

 別段嬉しさはなかった。ただその狼ごと、自分の前から消えてほしかった。

 口にしなくとも、態度から少女は察したのかもしれない。

 

「邪魔をしたね」

「本当にな」

 

 皮肉を言っても、少女は澄ました笑みを崩すことはなかった。

 まるで物事を見透かしたような少女の態度に、少し苛立ちを覚えた。それは久しくなかった、感情の動態だった。

 だからなのか、

 

 ──“一匹オオカミ”でいることに、意味はあるのかな?

 

 少女の何気ないひと言に、木を削る手が止まった。

 

 何を言い返そうとしたのか、今となっては思い出すこともできない。

 そもそも言い返す前に、少女は幻のように消えていた。

 

「……」

 

 いつのまにか、風向きが変わっていた。

 さっきまでとは逆の方向に、木々が揺れる。

 同じように聞こえるはずの葉音は、しかしどこか違う音色のように思えた。

 

 

 

 それが、ミカさんとの初めての出会い。

 運命めいた出会いがあるとするならば、恐らくその日がそうだったのだろう。

 風に運ばれてやってきた弦の音色を“序曲”として、俺の日常は大きく変化していくことになったのだから。

 

 

 

 

* * *

 

 星の光がよく見える夜。

 

 継続高校の小さな学園艦は、まるで寡黙な詩人のように、ゆったりと夜の海を進んでいる。

 そこに住む生徒たちも今時の学生と比較するとしばし活気に欠ける寡黙な連中ばかり。はしゃぐことも少なく、騒ぎ立てることもない。

 ただし些かマイペースというか、少し……いや、かなり個性的な人間が多い。一人ひとり掴み所がなく、型に嵌まっていない。

 

 学園艦というのは多かれ少なかれ生徒たちに特色がつく環境だ。しかし継続高校にはそれらしきものはない。

 一応、他の学園艦よりも自然が満ちあふれているという特徴はあるが、それぐらいだ。自由というか、開放的というか、無秩序というか、いずれにしても印象が一定していない校風。

 それが継続高校。

 

 

 それでも敢えてひと言添えるというのなら──とにかく変わり者が多い。ということだろう。

 そのことを、俺はいま改めて実感しているところだった。

 

「この行為に意味があるとは思えない」

 

 ミカさんはそうやたらと凜然に、そして仰々しい口調で言った。

 

「意味がないのに何でやるんすか?」

 

 俺は彼女に尋ねる。

 以前も同じようなやり取りをしたな、とぼんやり思った。そのときは、立ち位置が逆だったが。

 ミカさんはいつものように思わせぶりな表情を浮かべる。

 

「たとえ意味がないと思えても、いざやってみると何か得るものがひとつでもあるかもしれない。そして思いもしない出会いがあるかもしれない」

「何事も経験が大事ってことっすか?」

「そういうことさ、ライヤ」

 

 俺の返答に満足したのか、ミカさんはにこりと微笑んで俺の名を呼ぶ。

 

 

 ライヤ。

 あだ名っぽいが一応本名である。

 基本的に継続では下の名前か、それを文字った愛称で呼び合う。最初のうちはその習慣に慣れなかったが、いまはさほど気にしなくなった。

 そんなことを気にする余裕もなくなるほど、目の前のこの人のペースに毎度参らされているから、という理由もある。

 

「時には縁がないことにも敢えて触れてみる。そうすることで人は新しい世界を広げるのさ」

 

 言葉だけならカッコいいことを言っているように思える。

 本当に、言葉だけなら。

 

 出会った当初、ミカさんへの第一印象は『ミステリアスな美人』だった。

 常に崩れない笑顔から心情を掴むことは難しく、そしてその言葉から真意を汲むこともまた困難。俺にとって、近寄りがたい存在でしかなかった。

 しかし、こうして交流を深めたいま、その認識はガラリと変わった。

 いつも意味深なことばかり口にしては人生観の深さを伺わせる彼女だが……ただ単に、変わった人なのだ、この美人さんは。

 

 俺は溜め息を吐いてミカさんに言う。

 

「あのミカさん。いいこと言っているようっすけどね……」

 

 その美貌と言葉だけならこれほど魅力的な女性はいないと思う。誰の目から見てもミカさんは美形の部類だ。これまでの人生で、これほど綺麗な人に出会ったことはない。ひねくれ者の俺でも素直にそう思う。

 しかし、いま彼女がやっている行為がすべての長所を台無しにしてしまっている。

 

 

 というか本当に何で……

 

「胸にスマホ乗せてカッコいいこと言っても全然キマってないっすからね?」

 

 何で俺は目の前で俗に言う『たわわチャレンジ』を見せつけられているのだろう。

 

 ミカさんの『たわわ』な膨らみの上にぽにょんと鎮座しているスマホ。

 まったく落ちる素振りを見せない。どんだけデカければそんなことできんだ。人体の神秘に軽く感動している自分がいる。

 週末にも関わらず何故か月曜日を過ごしているような気分になってきた。

 

 こんな状態でご大層な話題をふられてみるといい。シュールでしかない。そしてすっごく反応に困る。

 

「言葉を送るという行為に、格好や見た目は必要なのかな?」

「必要でしょう。人の印象は9割見た目で決まるらしいっすよ?」

「見た目なんて所詮は飾りに過ぎない。本当に見極めるべきものは人の奥底に潜む心そのものさ」

「悪いですけど俺ぜんぜんいまのミカさんの心見極められないっす。何考えてるかぜんぜん理解できないっす」

「やれやれ。君はものを見る目は達者なようだけど、人を見る目に関しては未熟なようだね」

「何でそんな上から目線なんすか。腹立つっすね」

 

 たわわチャレンジを見せつけるような人間の心理なんてわかりたくもないわ。

 というかこの人は、ただ単に俺をからかいたいだけなのだ。

 

 恐らくまたネットサーフィンで変な知識を身につけてきたに違いない。「あれ、これ自分もできんじゃね?」ってノリで試してみたくなったのだろうが、だからって多感な男子相手にそんな一芸披露しないでいただきたい。

 

「世の中にはおかしな流行もあったものだね。乗ればいいってもんじゃないんじゃないかな?」

「そう言うんだったらやめたらどうすか?」

 

 そして口で言うわりに自慢げに胸を寄せあげないで欲しい。すっげえ目のやり場に困る。

 

 いや、それ以前に……

 

「いい加減に俺のスマホで勝手に遊ぶのやめてくれないっすか?」

 

 凶悪な双丘に乗っているスマホは、他でもない俺の所持品である。

 今日に始まったことじゃない。ミカさんはしょっちゅう俺のスマホを使ってネット見たり動画見たりソシャゲやったりと、持ち主の俺よりも楽しく使いこなしていやがるのだ。

 知らないうちにいろんなアプリがダウンロードされていたときはマジでビビったものだ。これでさらに無断で課金までされていたならば、容赦なく蜂の巣にしていたところだが生憎(?)そこまではされていない。

 

「いくら自分が携帯電話持ってないからって後輩のスマホをおもちゃにする人がどこにいるんすか?」

「君の目の前にいるさ」

 

 やかましいわ。

 

 継続高校はいわゆる貧乏校。そこに通う生徒も家庭の事情やら訳ありやらで金銭的に恵まれていない連中ばかりだ。

 月々の支払いができない理由でスマホすら持てない奴なんてザラにいる。だから俺みたいに持っている奴はちょっとした上流階級のような扱いを受ける。

 

 上流階級と言っても、現状は完全にジャイアンにもの取り上げられたのび太くん状態だけどな。

 

「人というのはね、互いに持ち得ないものを貸し与えることで不可能を可能にする生き物なのさ」

「そいつは素晴らしいっすね。でも俺、貸すことは多々あるけど一度だってミカさんから何か借りたってことないんすけど?」

「人生はいつだって例外がつきまとうものさライヤ」

「うっせーよ」

 

 あ、いけね。苛立ちのあまり、つい上級生相手に本音がポロリ。

 

 とはいえ、生徒数の少ないうちの学園では年齢差の見えない壁なんてものはない。上下関係などほぼ皆無みたいなものだから、これぐらいのことで険悪になったりしないけど。

 ミカさんも俺の暴言に慣れているためか、特に気にしていない様子だ。

 いつだってこの人は涼しい顔してるわけだが。大らかというより、ハナから意に介していない感じ。

 なんかムカツク。

 

(ほんと、いまだよくわかんねぇ人だな)

 

 彼女と関わりを持って随分経つが、知り得たのは彼女がいわゆる『残念な美人』という事実ばかりで、その思考や行動パターンは相変わらず謎のままだ。

 

 思えば奇妙な縁である。

 機械弄りの腕を買われ、彼女たち『戦車道履修者』が使う戦車の整備を頼まれてから早一年経つ。

 小さい頃から手先が器用な俺は機械なら何でもそつなく直せる。だから初めて触れる戦車であってもすぐコツを掴んで整備ができた。

 常に人員不足の継続にとって俺の腕は重宝された。

 お礼するからと請われ、たびたび整備の手伝いをするようになった。

 

 お礼と言っても大したもんじゃない。お菓子とか学食の食券とか割引券とかそんなものばかりだ。

 とは言え、食生活すら困難を極めるこの継続ではそれは何よりもありがたい報酬だった。最初のうちはそんな報酬目当てで手伝いをしているだけだった。

 

 その際、意見の食い違いやら軽い衝突やらあったわけだが……いまでは戦車の整備士ポジションとして彼女たちの仲間に加わっている。

 そんなつもりはなかったし、自分なんかにその資格はないと思っていた。

 しかし、俺のひねくれた性根を変える何かを彼女たちは持っていた。

 

 正確に言えば、淡いアッシュブロンドの髪をおさげにした童顔の少女の言葉。

 それが心の隅に残ったのがきっかけだった。

 

『ライヤってさ、手先はすごい器用だけど……でも不器用だよね』

 

 いまは報酬は貰っていない。

 俺にとっては、こうして穏やかに過ごせる時間こそが、充分過ぎる報酬だった。

 そんな考えを持つようになった自分に、我ながら驚いている。人生なにが起きるかわからんもんである。

 

「ふふ。君といると退屈しないよ、ライヤ」

「そいつはどうも」

 

 そして結果的に、どうも俺は隊長のミカさんに気に入られたらしい。

 ……弄りがいのあるおもちゃを見つけたという意味でのお気に入りだが。

 

 いまもこうして俺の反応を楽しんでいるように、彼女の中では男子をからかうことがマイブームらしい。

 相手にしなければいいと毎度思うのだが、彼女は一枚上手でどうしても意識を向けてしまうようなことをしてくる。

 美人である分、本当にタチが悪い。苦言のひとつも言いたくなるというもの。

 

「ミカさんも暇っすよね。毎度俺んとこに来て、呑気に遊んでるんすから」

 

 ささやかな抵抗として皮肉を飛ばす。もちろんその程度で動じるミカさんではないけど。

 

「地図ばかりに頼るような冒険は冒険とは言わない。ただ風に流されるままに、辿り着いた場所で大いに楽しむことに冒険の醍醐味があるのさ」

 

 要は『どこにいようが私の勝手でしょ?』と言いたいのだろう。

 慣れるとだんだんこの人の詩的な言い訳を一般的な言い訳に翻訳できるようになる。

 まあ別にこの人がどこにいようが行こうが文句はない。ただ、俺を集中的に狙って弄ぶのは勘弁願いたい。

 

 ……それ言い出したら、こうして夜遅く俺の寮部屋に訪ねに来ることもできれば控えて欲しいのだが。

 なんやかんやで美人の女性と自室で二人きりというのは健全な男子にとっては酷である。

 これでもさっきから少しだけ緊張しているのだ。

 そんな人の気持ちも知らず、ミカさんは俺の部屋に我が物顔で居座りながら、不適な笑みを浮かべている。

 

「やはりここは居心地がいいね。部屋が綺麗だからか、音の響きも違う気がするよ」

 

 ミカさんは呑気にそんなことを言って、膝に乗せたカンテレをポロロンと弾く。

 室内に染み渡る弦の音色。

 ミカさんがしょっちゅう俺の部屋に訪ねに来るのは、整理整頓された部屋で愛用の楽器を弾くことがお気に入りだからと、本当なのか嘘なのかよくわからない理由かららしい。

 確かに俺は綺麗好きな性格上、掃除はよくするほうだ。どの生徒の部屋よりも清潔にしている自信はある。

 

 だが、そもそもそんな理由で訪ねにくるというのならば……

 

「綺麗な部屋がご所望なら、自分の部屋を掃除すればいいだけじゃないっすかミカさん?」

「人にはね、できることと、できないことがあるんだよ」

「素直に掃除めんどくさいって言えよ」

 

 誰よりも優れた美貌を持ちながら、反面この人はすごいズボラだ。百年の恋も冷めるぐらい生活がだらしない。

 この間なんて寝ぼけてタンクトップとショーツだけの姿で外を出歩いていて、アキに『アホかああっ!』とこっぴどく怒られていたほどだ。

 この人、面倒見てくれる人がいないと日常生活もまともに送れないんじゃないだろうか。

 

 というか、またお部屋ならぬ『汚部屋』と化しているから俺のところに避難しにきたわけじゃなかろうな……。

 

(久しぶりにアキと一緒に大掃除する羽目になりそうだな)

 

 あれほど掃除は小まめにやれと言い含めているというのに。

 

 ……あれ。

 てかまさか、今夜はここで寝泊まりする気じゃないよねこの人?

 

「ミカさん。今日は何時頃に引き上げるご予定で?」

「特に決まっていないよ」

 

 つまり朝日が昇るまで居座ってもおかしくない。

 やべえ。泊まる気満々だこの人。

 

 継続の生徒が野営とか別部屋でお泊まりをするのは別に珍しいことじゃない。そういうアットホームな学園なのだ。

 ……だからと言って男女が一室で夜を過ごすのは、さすがにマズいと思う。

 継続(ここ)に暮らしていると感覚が麻痺するが、やっぱり慣れちゃいけない状況だよなコレ。

 ここはうまいこと言ってなんとか引き上げてもらおう。

 というか、さっさと返せよスマホ。

 

「ミカさん、もう充分遊んだでしょ? 返してくださいよ俺のスマホ」

 

 いつまでたわわチャレンジしてる気だこの人。そんなに自分のご立派な膨らみを誇張したいのだろうか。

 もしこの場にアキがいたら『あてつけか!?』って言ってすっごく憤慨しそうだ。お子様ボディなのめっちゃ気にしてるからなアイツ。

 

 というかスマホならアキだって最近買ったっていうのに、わざわざ俺のばかり借りにくる辺りこの人も性根悪いなと思う。そしてスマホを返す素振りがまったく感じられないというね。

 

「ちょっとミカさん? 聞いてんすか? 返してくださいってスマホ」

「大切なものは自分の手で取り返すしかない」

「は?」

「君にとってこれが大切なものだと言うのなら、すでに手を伸ばしているはずさ。そうだろう?」

「……」

 

 え。

 ちょっと待って。

 自分で取れって言ってんのこの人?

 女の人の胸に乗ったスマホに手を伸ばせと?

 

「何を躊躇っているんだい? 君にとってこれはその程度のものなのかい?」

「いやいや躊躇うでしょそりゃ」

 

 本気で何言っちゃってんのこの人。

 胸元に乗っかった己のスマホを見る。

 うん、見事重力に従って柔らかな丘に埋没していやがりますね。普通に掴んで取ろうものなら、指先が立派な膨らみに接触する確率が非常に高い。

 

 役得?

 冗談じゃない。

 いざ本当に不可抗力で触ってしまったとしてだ。絶対に後日、アキやミッコたちに吹聴されることだろう。「ライヤが鬼気迫った顔で私の膨らみに手を触れてきたよ」とか遠回しな脚色を加えて。

 俺の社会的立場が危うい。

 

 ここは知恵を使おう。そうだな。スライドさせて落としてみようか。

 ……いやダメだ。なんだか余計卑猥に感じられる。

 

「いいのかいライヤ? このままではいつまでも取り返せないよ?」

 

 そう言ってミカさんはさらに胸を寄せ上げる。

 むにゅり、とますます柔肉の中に埋没していく我がスマホ。

 ちくしょうめ。ハードル上げてきやがった。

 澄まし顔でいるけどあれ絶対に内心でニヤついていやがる。俺をからかうことが楽しくてしょうがないという具合に。

 

「ああ大変だ。バランスを崩したせいで谷間に埋まってしまった」

 

 そう棒読みで言ってミカさんは胸の谷間にスマホを挟み込んだ。

 これはひどい。もうほとんど現物が見えない。

 

「ほらほら。このままでは私の体温で熱暴走してしまうよ?」

「なんつうかアンタ最低っすわ」

 

 もちろん谷間の中に手を突っ込む勇気なんてない。

 もうここは回収することを諦めて、ミカさんが飽きるまで無視を決め込むべきか。

 

 と、その時、俺のスマホが着信を告げる。

 ブブブと、豊満な谷間の中で振動するスマホ。

 

「んっ……!」

「あ」

 

 ミカさんの澄まし顔が一瞬崩れた。

 しまった。

 マナーモードにしたままだったから着信によってバイブレーション機能が作動してしまった。

 よりによってミカさんが胸の間で挟んでいる状態で。

 振動が収まらないところ、どうやらL○NE通知ではなく電話らしい。

 つまり通話ボタンを押すまで止まらない。

 

「あ、んっ……」

「……」

 

 揺れている。

 スマホの振動に合わせてミカさんのたわわな膨らみも揺れている。

 設定を最大にしているから、ものすごく揺れている。

 ぽよんぽよんと波打っている。

 

 

 ……なんというか。

 うん。

 直球で言ってしまうと。

 

「んぅ、はぁ……」

 

 エロい。

 ミカさんが普段絶対に出さないような艶っぽい声を上げているのが余計にエロい。

 表情はいつも通りの澄まし顔に戻っているけど、谷間に広がる刺激によって明らかに動揺している。

 それを必死に我慢しているのがまたエロい。

 

 エロい。

 

「……電話鳴ってるんすけどミカさん?」

「その、ようだね」

「……谷間から出したらどうっすか?」

「このぐらいのことで、狼狽える、私では、ないよ」

「めっちゃ汗かいてるじゃないっすか」

 

 何を意気地になっているのか、ミカさんは谷間の中で震えるスマホを取り出そうとしない。

 

 ……そんな真似をするものだから、なんだか妙に黒い感情が込み上げてきた。

 魔が差して、よろしくない悪戯心が湧いてくる。

 

「何で取り出さないんすかミカさん?」

「これは、んっ、君自身の手で、はぅ、取り返さないと、んく、意味がないからさ、あん……」

 

 言葉の合間にとても嗜虐をそそる吐息を漏らすミカさん。

 そんな彼女を見ると、ますます調子に乗ってしまう。

 

 これは、やり返すチャンスではないかな?

 

「ふーん。本当にそうっすか?」

「どういう、意味、かな?」

「もしかして、気持ちがいいから取り出さないんじゃないんすか?」

 

 まるで日頃の鬱憤を晴らすように、自分の声とは思えない、サディスティックな言葉が出てくる。

 

「何を、言うんだい、ライヤ」

 

 ミカさんの顔が上気していく。

 それは胸に奔る刺激だけが原因じゃないような気がした。

 

 口が勝手に動く。

 

「前からミカさんって変わった人だとは思ってましたけど……そんな変態染みたことして感じちゃう人だったんですね?」

「んぅっ」

 

 ビクビクと、俺の言葉で、ミカさんが背筋を張る。

 

「そんなにいいんすか? 胸の間でバイブレーションしてるスマホ挟むの」

「あ、んっ……」

 

 徐々に彼女の取り繕った表情が解けていく。

 そしてどんどん、とろけた艶顔に変わっていく。

 

 なんて、扇情的な反応をするんだろう。

 ちょっとイタズラするだけだったのに。ちょっと仕返ししてやろうと思っただけだったのに。

 こんな蠱惑的な顔を見せられたら……本気になっちゃうじゃないか。

 

「まるで変態じゃないっすかミカさん」

 

 言葉が、嗜虐が、情欲が、どろどろに混ざり合って、頭の中をおかしくする。

 

「変態っすねミカさん。俺の前で感じてる顔を見せる変態さんだ」

「ん、ライ、ヤ、君って人は……」

 

 どうしよう。止まらない。

 彼女をこうしてなじることで、とてつもない快感が芽生える。

 自分が自分でなくなっていく。狂おしく、ミカという女性をいじめたくなる。

 

「ほら、もっと喜んだらどうすか? 後輩になじられて、涙目で感じちゃってる、変態隊長さん」

「んぅ……はぁっ、ライ、ヤ」

 

 俺の言葉で、俺のスマホで、あのミカさんが、悶えている。

 まるで掌の上で弄ばれるように、とても淫らに、そして美しく……

 

「あぁっ」

 

 ひと際大きな声を上げて、ミカさんはそのなやましい肢体を弓矢のように弾かせる。

 上下に波打つ巨峰。

 その反動で、

 

 

 ポロン、と谷間から抜け出たスマホが床に落ちる。

 

 ゴトリと鈍い音が、まるで魔力を切り払うかのように俺たちの意識を一気に正常に引き戻した。

 

「……」

 

 お互い無言になる。

 スマホはいまだに揺れ続けている。遠目で画面を確認する。

 

 画面には『アキ』の名前が表示されていた。

 さすがに出るのが遅かったためか、ブツリとコールは止んだ。

 アキの『何で出ないのよもう~!』という非難の声が聞こえてきそうだった。

 

 完全な静寂に包まれる室内。

 

「……あ~」

 

 一気に頭が冷静になっていく。

 

 ……何やってんだ俺?

 マジで何やってんだ?

 

「……すんませんミカさん。なんつうか、マジすんません」

 

 バツが悪くなって、まともにミカさんの顔が見れなかった。

 

「冷静じゃなかったっす。いや、マジで申し訳ないっす。忘れてください」

 

 ミカさんの珍しい姿を見たせいでいろいろ理性がそげ落ちていた。

 正気に戻ると一気に顔が熱くなってきた。

 

 

 

 さて、肝心なスマホはミカさんの胸から解放された。

 しかし、すぐに取る気にはなれなかった。

 

 ……いや、だってな。

 女性の温もりが残っているものを直後に使うのは、なんというか、躊躇われる。

 たとえば、いつも間近で嗅いでいる電子機器特有の匂いと混ざって、甘ったるいミルクのような香りがしてこようものなら……

 

 うん、とにかく止そう。考えるのも止そう。

 電話してきたアキには申し訳ないが、しばらくしてから折り返すとしよう。

 

 ミカさんは何も言わない。

 顔を見れないのでわからないが、さすがの彼女も当惑しているようだった。

 

「えーと。なんか飲みますか? コーヒーぐらいしか用意できないっすけど」

 

 気まずさを誤魔化すようにそう提案する。

 

 うん。そうだな。お詫びとして一杯ご馳走しよう。

 ちょうど新鮮なコーヒー豆が手に入ったことだし。

 ミカさんに背を向けたまま、キッチンに足を運ぼうとした。

 

 そのとき、

 

 

 

 

 

 

 むにゅり

 

 

 と信じられないくらい柔らかい物体が背中にあてがわれた。

 

「はひ?」

 

 思わず変な声が漏れる。

 女の人特有の芳しい香り。ズボラなくせにやたらといい匂いがする、よく知った香り。

 

「ミ、ミカさん?」

 

 動揺しながら振り向く。

 

 美しい顔が間近にあった。

 綺麗な瞳が、とろけるように潤っている。

 白い頬は火照り、ゾッとするほどの『女気』がその表情に宿っている。

 艶に濡れたミカさんの美顔。

 

「ライヤ」

 

 甘い熱を含んだ吐息が首筋を通り過ぎる。

 名を呼ばれただけで、鼓膜に蜜を注がれたような感覚に陥る。

 

「ミカ、さん」

「君もひどいね。このまま終わらす気かい?」

「どういう、意味っすか?」

 

 バクバクと鳴る心臓。

 言葉を形作るミカさんの唇が、異様に艶めかしく感じられる。

 

「この滾りに滾ってしまった火照りを、どう鎮めてくれるのかな?」

「え?」

「聞こえるかい? 君の言葉で、君の視線で、こんなにも胸が高鳴っているんだよ?」

 

 そう言ってミカさんは俺の身体に細腕を回す。

 より密着する肉体。ありえないほどに柔らかな物体が押し潰れる。

 背中を越して届くミカさんの動悸。同じように高まる俺の動悸。

 

「君も鈍感が過ぎるんじゃないかな? 女の子がこうして毎日のように男の子の部屋を尋ねに来る理由ぐらい、そろそろ察してくれてもいいんじゃないかな?」

「それって……」

 

 つまり、()()()()ことなのか?

 

「ミカさん、俺は……」

 

 こんなの急すぎる。どう反応すればいいっていうんだ。

 

 俺の混乱など無視して、ミカさんはどこまでも色欲を滲ませて、その肉感的な肢体を押しつけてくる。

 耳元に寄せられる彼女の唇。

 

「……君も男なら、覚悟を決めてごらん」

「あ……」

 

 脳髄を揺さぶるような囁き。

 理性が溶けていく。

 頭の中がドロドロになって、ミカさんのことしか考えられなくなる。

 

 どれぐらいの時間そうしていたのか。

 俺の手はやがて自然にミカさんの身体に伸びていき……

 

「ライヤ~? いる~?」

「っ!?」

 

 寸前のところで、ドア越しから呼ぶ声に俺は跳ね上がった。

 アキの声だ。

 

「シチュー多めに作っちゃったからお裾分けに来たんだけど、よかったら一緒に食べない?」

 

 さっきの電話はその件だったのだろう。

 通話できないため直接来たようだ。

 

 アキはよく俺に作り余った食事を恵んでくれる。いつもたいへん感謝している。

 ……が、今夜に限っては遠慮したい。いまの状況を真面目な彼女に見られたら、いろいろとマズい。

 どう見ても不純異性交遊一歩手前の俺たち。見たら癇癪玉が破裂するに違いない。

 ただでさえアキは俺が女子と親しくしていると、やたらと怒るというのに。

 

「な~にが作り余っただよ~。ほんとはライヤに食べて欲しいからわざわざ作ってるんだよな~アキ~?」

「な、なに言ってんのミッコ! そんなじゃ、ないし……。ていうか何でついてきてんの?」

「あたしにもシチュー恵んで~♪」

「もう~」

 

 どうやらミッコも一緒にいるらしい。

 ますますヤバい。

 アイツにこんな状況見られた日には一気に噂を広められてしまう。

 

「ちょ、ミカさん、離れてください。ヤバいですって。誤解されるっすよ」

 

 小声でそう伝える。

 いや、誤解されるどころじゃない事態に危うく転じそうだったんだが、いまは状況が状況である。

 しかしミカさんは俺を離してくれない。どころかますます強く俺を抱きしめる。

 いや、抑えつけるというほうが正しい。

 

 そしてその顔はニヤリと笑っていやがる。

 俺はすべてを察した。

 

「あ、あんたって人は」

 

 やられた。

 これも俺をからかうための演技だったのだ。

 一瞬でも本気になりかけた自分が悔しい。

 女とはなんて恐ろしいのだろう。たとえ演技でも、あそこまで迫真めいた色っぽい顔を浮かべられるのか。

 

「くっ。この、離せっつの」

「ふふふ」

 

 俺は急いでミカさんの腕を振り払おうとする。

 だがなかなか外れない。

 むむ、意外と強い。

 こんな細いカラダのどこにこんなパワーが……。

 

 恐らく俺が本気でドキドキしたところで「冗談だよ」と言って笑う算段だったのだろう。

 しかしいま彼女は新たな遊びを見つけたようだ。

 アキとミッコにこの状況を見せつけて俺を困らせるという遊びだ。

 

 ふっ。だがその手にはのらん。

 俺は扉に向かって叫ぶ。

 

「アキ! すまん! 今日はちょっと都合が悪いんだ!」

「え? どうしてライヤ?」

 

 なんてことはない。

 適当なことを言って引き上げてもらえばいいだけの話だ。

 アキの絶品シチューを食べられないのは非常に惜しいが、世間体を失わないためにも今日のところは我慢しよう。

 

「実は今夜中にやらないといけないことがあってな……」

 

 しかし、そこで俺の言葉を遮るように、

 

「アキのシチューか。いいね。せっかくだから一緒に食べようじゃないか」

「ちょっ!?」

 

 わざとらしく大きな声でミカさんがアキに呼びかけた。

 なにしてくれてんだこのスナフキン!?

 

「あれ? ミカもいるの? またライヤに迷惑かけてるんじゃないでしょうね?」

 

 かけられてます。

 

「にしし。ライヤと二人きりになれなくて残念だなアキ~」

「べ、別に残念じゃないし! ……てか、そう言うなら気を遣ってよミッコのバカ」

 

 ガチャリとドアノブが動く。

 

 やべえ。終わった。

 

 

 いや、待て。

 諦めるな俺。まだいける。

 扉が完全に開かれる前に、この状況を打破してみせるのだ。

 

「うおりゃ!」

「むむ」

 

 渾身の力を振り絞って身体を捻る。

 背中で形を変えている柔い物体の感触はとりあえず意識からシャットアウト。

 とにかく抜け出すのだ。

 

 咄嗟のことでミカさんの拘束は緩み、なんとか脱出に成功する。

 秒速の出来事だった。

 

 

 勝った。

 

 

「あ」

 

 だが勝利を確信した瞬間、人は敗北するという。

 強引な動作ゆえに、バランスを崩した俺の身体はそのままミカさんの上にしなだれかかった。

 

 ドシン、と室内に響く鈍い音。

 

「ちょっ! どうしたの二人とも!? なにいまの、音、は……」

 

 音に驚いて扉を勢いよく開けたアキの視線の先には、

 

 どう見てもミカさんを床に押し倒している俺の姿があった。

 そしてどんな物理法則が働いたのか、

 

 

 もにょん

 

 

 と、俺の片手はしかとミカさんの豊満な膨らみを鷲づかみしていた。

 ……なに、このトラブル。

 

 普通なら健全な男子として舞い踊るような初体験。

 だが正直感動なんてしている余裕などない。

 これ、完全に天国から地獄への直行コース。

 

 サーッと目から光を消していくアキ。

 その後ろでこの状況を「わーお」とおもしろそうに見ているミッコ。

 そして、

 

「……ライヤ。君って人は、強引なんだね」

 

 トドメの爆弾を投下するミカさん(悪魔)

 突き刺さるアキの冷え切った視線。

 

「……へえ。『今日は都合が悪い』かあ。『今夜中にやらないといけないことがある』かあ。へえ。なるほどね~」

 

 沈んだ声色でアキはそう呟く。

 怖い。

 愛らしい童顔はいまや修羅のごとき怒気に彩られている。

 

「待て、アキ。違うんだ。誤解されてもしょうがないとは思うが、事故なんだ。信じてくれ」

 

 そうだ。まだ諦めるな俺。

 事情を必死に説明すれば、ものわかりのいいアキは察してくれるはず。

 

 ここは彼女の判断を信じよう。

 

「弁解の余地をくれ。話し合える時間はあるはずだ。な、まだセーフだよな?」

「アウトだよ!」

 

 ですよねー。

 

 こういう状況では男子の言い分などほとんど焼け石に水である。

 悲しいね。

 そして「まあ役得な思いしたからとりあえずいいんじゃね?」とちょっとだけ考えている自分に対しても悲しくなった。

 

「ライヤのバカー!!」

「ぐわー!」

 

 その夜、学園艦から断末魔のごとき悲鳴が星明かりに向かって響いた。

 

 

* * *

 

 ライヤが怒り狂ったアキにボコボコにされている傍らで、諸悪の根源であるミカは他人事のようにカンテレを弾いていた。

 その隣でミッコが呆れた顔でシチューを勝手に食べている。

 

「ミカ~。またライヤのこといじめて楽しんでんの~? あいかわらずヒドいね~」

 

 ミッコはアキと違い真相を察している。

 しかし口でそう言うわりにはアキを止める様子も、ライヤを助ける素振りもない。

 止めたところで無駄だということを、散々経験しているのだ。

 ああなったときのアキはとにかく感情を発散させないと止まらない。

 

「ライヤのアホー! マヌケ! スケベ! 結局は乳かあ!? 男なんて結局は乳なのかあ! おバカアアアッ! ライヤのバカアアアッ! いっつもいっつもこんなに尽くしてるのにいいぃ! バカバカバカ! ライヤの朴念仁んんんんん!!」

 

 アキはその小柄な体躯には見合わないパワーで「オラオラオラ!」と拳を連打する。

 装填手特有の怪力と速度は某星の白金に届かんばかりの勢いであった。

 罵倒の後半には彼女の本音がさり気なく混ざっていたが、すでに気絶しているライヤの耳には届いていない。

 

 とりあえず後で傷の手当てぐらいはしてあげよう、とミッコは思った。

 無事生きてればの話だが。

 激しい拳の音とは無関係とばかりに、ポロロンとカンテレの流麗な音色が響く。

 

「ふふ。ライヤを相手にしていると、ついついからかってしまいたくなるね」

「ふーん。どして?」

「さあ。そこに答えを求めることに意味はあるのかな?」

「さいですか」

 

 はぐらかすようにそう言うミカに対して、ミッコは思う。

 

(なーに言ってんだか。答えなんてわかりきってんじゃん)

 

 色事に疎いミッコだってわかる。

 

 アキがライヤにいだいている感情。

 それと同じ感情をいだいていればいだいているほど、ミカはその相手をいじめたくなる。

 そんな小学生染みた、至極単純な話だ。

 

(苦労するね~アイツも)

 

 ミカのひねくれた嗜好と、そしてアキの激しい嫉妬に振り回されるライヤに、ミッコは同情した。

 ついでに自分のようなガサツな女にまで気に入られ……と考え出したところでミッコは意識をシチューに戻した。

 さすがアキの手作り。今回のデキもバッチリだ。

 手が早いところを改めれば、理想的なお嫁さんになれるだろう。

 

 ペロリとシチューをたいらげたところで、ミッコは隣で演奏を続けるミカに視線を向ける。

 

「とりあえずさぁ。ライヤの反応が楽しいのはわかるけど、ほどほどにしときなよ? アイツ結構繊細なんだからさ」

「約束はしかねるかな。人の気持ちなんて風のように気まぐれなものだからね」

「はぁ~こりゃダメだぁ」

 

 ミカに改めるつもりはないらしい。

 恐らくこの先もいまみたいな展開が何度も繰り広げられることだろう。

 心の中でミッコは合掌した。

 強く生きろライヤ、と。

 

「そう。気持ちなんていつも気まぐれに変わるのさ。だから……」

 

 ポロンと一回弦を弾くと、ミカは頬を赤く染めた。

 

「たまには、いじめられるのもいいかもね」

「え?」

 

 そう口にするミカの横顔は、少女のミッコですらドキッとしてしまうほどに色っぽかった。

 

 ミッコの耳に届かないほどに小さな声で、ミカは呟く。

 

「──もうちょっと、だったんだけどね」

 

 カンテレの旋律がまたひとつ。

 その音色はどこか、なにかを惜しむような、甘い切なさを宿していた。

 

 



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アキは面倒見がいい

 風邪をひいた。

 

 寝床に横たわりながら体温計で熱を計る。

 確認……うん、無理して授業に出るとバカを見る体温だなこれは。今日は素直に休むとしよう。

 担任に連絡を入れて風邪で休むと伝える。

 継続高校は堂々と授業をサボる自由人ばかりなのでこういうときなかなか信じてもらえないのだが、我ながらひどい鼻声だったため教師は仮病とは疑わず「ゆっくり休みなさい」と言ってくれた。

 

「ああ、完全に油断したわ……」

 

 気怠げに呟く。

 風邪の原因は間違いなく昨日の野営だろうな。

 

 昨夜、ミカさんにとつぜん「一緒に星空を見よう」と誘われた。

 脈絡もなくそんなこと言い出すミカさんにもちろんクエスチョンを浮かべた。

 けどこの人が唐突な提案をするのはいまに始まったことじゃないし、言い出したら聞かないので、しぶしぶ寒空の下を寝袋持参で向かったわけである。

 

 お互い自分の寝袋にくるまって夜空を眺めつつ、ミカさんは俺に言った。

 

『星空はね、人を素直にするんだよ、ライヤ』

『へえ~』

『どんなつまらない悩みも意味のない拘りも、この広大な星空を見たらちっぽけなものだと人は自覚するのさ』

『はあ~』

『だからライヤ。君が普段押し隠している感情も自然と打ち明けたくなるはずさ』

『かもしんないっすね~』

 

 返事はほぼ適当。

 だって寒かったし眠かったし。

 反してミカさんは何やらウキウキしていた。

 付き合いの薄い人間なら「そうは見えない」と言うかもしれないが、あれは絶対に内心テンション高めだった。

 

『ライヤ。いまならどんなことを言っても不自然ではない。これまで言えなかった内なる思いを私に語るといい』

『いや、ないっす』

 

 なにやら期待の込もったミカさんの提案をバッサリと切り捨てる俺。

 

『……』

 

 沈黙が夜空に溶け込む。

 しばらくして先に口を開いたのはミカさん。

 

『なにもないのかい? 私に言いたいこと』

『ないっすよ』

 

『まったく?』

『まったく』

 

『ホントに?』

『ホントっす』

 

『……マジで?』

『マジ』

 

 珍しく砕けた言葉を使うくらいミカさんにとっては予想外だったっぽい。

 何を期待していたのかは知らないが、別段彼女に秘め隠していることなどない。

 

『いや、だってミカさん。俺普段から思ったことは正直に言ってますし。いまさら言うことなんてないっすよ?』

 

 強いて言うことがあるとすれば今回みたいに脈絡のないことに俺を巻き込まんでくれってことだが、それは毎回言ってることだしな。

 

 ……あとはまあ「俺みたいなひねくれ者といてくれてありがとう」っていう感謝の気持ちぐらいだけど、もちろんそんなこと小っ恥ずかしくて堂々と言えないし。

 それに感謝の気持ちってのは言葉じゃなく行動で示すものだ。

 それは毎日の整備で示しているつもりである。

 

 俺はふわぁっと欠伸をする。

 最近寝不足のため、眠気がマックスだったのだ。

 

『ミカさ~ん。特に話すことないなら寝ていいっすか?』

 

 視界いっぱいの星空を見ていたら本気で眠くなってきた。

 プラネタリウム見てると眠たくなるのと同じ原理だなこりゃ。

 最初は辟易していたが、なんだかんだで星を眺めながら寝るというのも悪くないかもしれない。

 ロマンチックな雰囲気に包まれたまま寝れば健やかに安眠できるだろう。

 

『……ミカさん? 聞いてます?』

 

 返事がないので眠たげな瞳をミカさんのほうに移すと、

 

 

 プク~

 

 

 なにやら膨れていた。

 いつもみたいな糸目で、頬だけ子どもみたいに膨らませているので異様にシュールだった。

 なんか知らんが怒らせてしまったらしい。

 こっちに目も向けずツーンとしている。

 

『ツーンだ』

 

 口で言いやがった。

 

『はぁ~……』

 

 あいかわらずよくわからない人だ。

 そう思いながら俺は微睡みの中に落ちた。

 ミカさんが何かを言ってきたところでもう反応はできそうになかった。

 

 

 ジジジ~ッ……

 

 

 だからジッパーが開くような音がしてきても無視した。

 本気で眠かったのだ。

 最近は戦車の整備に加え、趣味の工作でオルゴールを夢中で作ったり、アキと一緒にミカさんの部屋を大掃除したり、ミッコと木の実を大量に集めに行ったりと暇がなかった。

 今夜ぐらいはグッスリと眠るとしよう。

 やけに空気の通りがいい寝袋の中で俺はウトウトとした。

 

 

 

『……バーカ』

 

 横からそんな声が聞こえた気がしたが、その頃にはもう俺の意識は落ちていた。

 

 

 

 で、目が覚めたら寝袋のジッパーが全開になっていて、見事に寝冷えしたわけである。

 寝相わりーなぁ俺ぇと我ながら呆れたものだが……

 

 あれ? いま思うともしかしてあの女の仕業じゃね?

 

「……」

 

 まいっか。

 最近は無理ばっかしてた気がするし、ゆっくりする良い機会だ。

 

「一日寝てりゃ治るだろ……」

 

 自室の寝床に横たわって眠ることにする。

 こういうときフカフカのベッドが欲しいものだが、継続にそんな贅沢な設備なんてねーのである。

 とは言え無骨な寝床でも、寝慣れた暖かみの中はゆっくり俺の意識を奪い……

 

 

 すやすや

 

 

* * *

 

 

 額に心地良い感触があって、目が覚めた。

 

「……ん?」

「あ。起きた?」

「アキ?」

 

 目を開けると間近にあるのはアキの童顔。

 俺の額に手を当てて、自分の額に手を当てている。

 

「まだ熱いね。冷やしたタオル用意するから」

「あ、いや、ていうか……」

 

 なんでここにいるんだアキ。

 

「お前、授業は?」

「もう放課後だよ」

 

 マジか。

 そんなに爆睡してたのか俺。

 

「わざわざ見舞いにきてくれたのか?」

「うん。先生に聞いたら風邪だって言うから」

 

 アキとは同じクラスだ。

 一年前ではサボってばかりの俺だったが、最近はちゃんと授業に出ているので不思議に思ったのだろう。

 

「すごい鼻声だね。そのまま寝てていいよ」

 

 確かに今朝よりひどい声になっている。

 傍にあるティッシュ箱から一枚取って鼻をかむ。

 

「珍しいね、ライヤが体調崩すなんて」

 

 言いながらアキはテキパキと氷水を用意して、タオルを絞る。

 ぎゅっと水滴を絞りきってから、ひんやりとしたタオルを俺の額に乗せてくれた。

 デコに集中していた忌々しい熱さが一気に冷やされる。

 ふひぃ、と変な声が洩れる。

 

「気持ちいい?」

「ああ。生き返ったみたいだ」

 

 額に貼る冷え冷えのアレがなかったのでたいへん助かる。

 

「あと湯たんぽ持ってきたよ。風邪ひいたときはカラダ温めるといいんだって」

「お、おう」

 

 そんなものまで持ってきてくれたのか。

 アキはお湯を入れた湯たんぽを布でくるむと足下に置いてくれた。

 ちょうど足が冷えていたのでありがたい。

 

「どう?」

「いい感じだ」

 

 完全に快調になったわけではないが、さっきよりはマシになった。

 お礼を言おうとするとキッチンから何か吹き出す音が聞こえた。

 

「あ、いけない」

 

 慌ててキッチンに向かうアキ。

 鼻づまりで匂いに気づかなかったが、料理まで作ってくれたのか?

 実際そうだったらしく、アキは湯気がたつ皿をお盆に載せて持ってきてくれた。

 

「野菜スープ作ったんだけど、食べられる?」

「食う」

 

 食欲はあるので素直にいただくことにする。

 アキの手作り料理なら具合が悪かろうが食いたくなるけど。

 

「ブロッコリーと赤ピーマンが風邪にいいみたいだからたくさん入れたんだけど、苦手だったりしない?」

「ミカさんじゃあるまいし。食える食える」

 

 あの人「食べ物に高級も低級もない」とか言っておきながらめっちゃ好き嫌い激しいからな。

 

「イチゴも持ってきたからデザートに食べてね? これも風邪にいい果物なんだって」

 

 ……ていうかアキの奴、面倒見よすぎるだろ。

 いや、ありがたいんだけど申し訳ないというか。

 

「なんか、悪いな。いろいろしてもらって……」

「いいよ気にしなくても。ライヤには普段から整備で助けてもらってるんだし」

 

 そうだ。整備で思い出した。

 

「アキ、戦車道の練習はいいのか?」

「ん? 今日は休んだ」

「おいおい」

「一日ぐらい大丈夫だよ。それにもともと皆だって気まぐれで活動してるんだし」

 

 そうなのである。

 他の学園の戦車道履修者たちなら毎日訓練するのが普通であろう。

 しかし継続はその訓練まで気分で好き勝手にやっている。

 やりたいときにやる。やりたくないときはやらない。

 そんなスタンスでいながら大会では各強豪と接戦できる実力者だって言うんだから謎だ。

 まあその形式に縛られないってのが彼女たちの強みでもあるのだが……。

 

(あれ? でも……)

 

 けどアキはそんな自由人連中の中でも熱心に練習する奴だったはずだ。

 だから今日はたぶん……俺に気を遣ってくれたのだろう。

 

「すまん」

「だから謝らなくっていいってば。それに、ほら……この間は誤解でひどいことしちゃったし」

「え? ああ……」

 

 事故でミカさんを押し倒したとき、早とちりで殴りまくったことを言っているのだろう。

 いや、あれは誤解されるようなことした俺が悪いんだしアキが気にする必要はない(もっと遡ればミカさんが原因だが)。

 

 しかしどんなに気にするなと言っても納得しないのがアキという人間だ。

 だからこの場合、

 

「今日はお詫びに看病するから。ね?」

 

 彼女のやりたいようにさせてあげるのが一番だろう。

 

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

「うん♪」

 

 俺が素直に頷くと、アキはやたらと嬉しそうに笑った。

 

「じゃあスープ、冷める前にどうぞ?」

「おう。いただくよ」

「あ、待って。起きなくていいよ」

「え?」

 

 起き上がろうとすると、アキが手で制止した。

 まさか、と思うとアキはニコリと満面の笑みで、

 

「わたしが食べさせてあげる♪」

 

 と愛らしく言った。

 

「え、いや。い、いいよ」

「病人が遠慮しないの。ほらほら」

 

 やけにノリノリな勢いで、アキは俺を横たわらせる。

 枕を高くして食べやすい状態にすると、具とつゆを掬ったスプーンを俺に差し出す。

 

「はい、あーん♪」

「あ、あーん」

 

 正直恥ずかしかったが、上機嫌なアキを見ていると抵抗できなかった。

 

 ……ま、いっか。

 これで彼女の気が済むというのなら、したいようにさせてあげよう。

 素直に口を開いてスプーンを口に含む。

 

「……って、あちちっ」

「あ、ごめん。まだ熱かった?」

 

 慌ててスプーンを引っ込めると、アキは「ふーふー」とかわいらしく息を吹きかけて具を冷ます。

 ……そこまでしちゃいますアキさん?

 

「ん、これぐらいかな? はい、もう一度あーん♪」

「……あーん」

 

 アキは意識していないようだし、俺も意識しないほうがいいのかもしれない。

 

 パクリッ

 

「おいしい?」

「うまいよ」

 

 この具はカブかな。

 味が沁みていて大変おいしい。

 あと、この風味はゆずの皮が入ってるか?

 さすがアキ。手が込んでいる。

 俺が感想を言うとアキはますます機嫌をよくした。

 

「よかった♪ ふーふー。はい、あーん♪」

 

 今度は赤ピーマンが乗ったのをいただく。

 シャキシャキとした感触。

 

「あれ? 生だなこの赤ピーマン」

「うん。赤ピーマンってビタミンCたっぷりだけど、熱に弱いからスープと一緒に煮ないで後から入れたの」

「へえ~」

 

 家庭的だねホントこのお嬢さんは。

 彼女を嫁に貰う男は間違いなく幸せ者だろうな。

 

「しっかり食べて、早く良くなってね?」

「おう」

 

 そうして立て続けにアキは「ふーふー」「あーん」をしてくれた。

 

「~♪」

 

 食べさせるごとに彼女は嬉しそうに微笑む。

 あれかね。こうやって男に料理を食べさせるのって、女の子にとっては一種の憧れなんだろうか。

 たとえその相手が俺みたいな奴でも、行為そのものが楽しいのかもしれない。

 

 

 

「ごちそうさん」

「お粗末様♪」

 

 あっという間にいただいてしまった。

 途中から照れくさくて味がわからなくなったが、おかげでカラダは温まった。

 

「欲しいものがあったら言ってね?」

「おう。今んとこは大丈夫だ」

「そう?」

 

 手持ち無沙汰になったアキはキョロキョロと「何かできることないかなぁ」と辺りを見回す。

 なんというか、本当にお世話好きだなこいつ。

 本人は否定してるけど、ここまで人に甲斐甲斐しい奴を俺は見たことがない。

 

「あ、そうだ。ついでだからお部屋のお掃除してあげる」

「え? いや、そこまではしなくていいって」

「だってライヤ毎日小まめに掃除してるんでしょ?」

「まあ、そうだけど……」

 

 綺麗好きというか、ほぼ潔癖の俺は掃除を欠かさない。

 整備に集中しているときとかは気にならないが、それ以外の時間ではわずかな汚れでも気になってしまう。

 今日みたいに具合が悪い日はさすがに掃除を控えるけど……まあ気になると言えば気になる。

 

「ね? だから代わりにわたしがやってあげるから」

 

 アキはそう言ってウインクをした。

 

 天使かな?

 ずるいなオイ。

 そんなかわいく言われたら、

 

「ああ~……じゃあ、お願いします」

 

 誰だって折れちゃうじゃないか。

 

「~♪」

 

 アキはハミングを奏でながら箒で床掃除をする。

 毎日掃除しているのでそんなにゴミはないが、それでも彼女は丁寧にやってくれた。

 

「雑巾がけもしておくね?」

「ん」

 

 そんな本格的にやらなくていいぞーと言うために顔をアキのほうに向けると……

 

「っ!?」

 

 雑巾がけでしゃがんでいるアキの後ろ姿が映った。

 そして見えてはいけないものが丸見えだった。

 

 短すぎるスカートの中から、真っ白いものが。

 小さいながらも、形のいい丸みが思い切り。

 サッと真っ赤になった顔を逸らす。

 

「ア、アキッ」

「ん? どうかした?」

「いや、その……」

 

 言うべきか迷う。

 黙っといたほうが互いのためではないだろうか?

 ……いや、不可抗力とは言え、一度盗み見ちまった以上、隠すのは卑怯だ。

 

「なにライヤ?」

「だから、その……み、見えてる」

 

 俺は正直に言うことにした。

 

「へ? 見えてるって……っ!?」

 

 俺の指摘でアキも気づいたらしい。

 バッとスカートを抑える音が耳に届く。

 

「……エッチ」

「……わりぃ」

 

 素直に謝る。

 無防備なそっちが悪いとか言うのは無しだ。

 こういうとき全面的に謝るべきなのは男のほうである。

 

「う~……」

 

 真っ赤な膨れっ面でアキは正座をした。

 短いスカートを意識するように手で抑えている。

 俺の視点からだとちょっとしたことで見えてしまうと気づいたためか、ジッと動かなくなった。

 

「……」

 

 気まずい空気が続く。

 参ったな。怒らせちまった。

 でも言わぬままバレるよりは正直に打ち明けたほうがまだ誠意は……

 などと考えがごっちゃになっていると、汗がドっと出てきた。

 

 ていうか熱いな。

 あつあつのスープを食べた影響か、寝間着が汗でぐっしょりと濡れていた。

 まずいな。こりゃ放っておくとまた寝冷えしそうだ。

 アキもそれに気づいたらしい。

 ジト目で俺の寝間着に目を配る。

 するとまるで拗ねるように顔を逸らしてから、

 

「……脱いで」

「は?」

 

 なんかとんでもないことを言い出した。

 

「え? 脱ぐってまさか……」

「そうだよ。寝間着を脱ぐの!」

「なんで!?」

「カラダ拭いてあげるからだよ!」

 

 そう言うとアキはやけくそ気味にお湯とタオルを用意してきた。

 

「ほら脱いで!」

「脱げるか!」

 

 なに言い出すのこのお嬢さん!

 いきなりすぎるわ!

 脱げって言ってるアキ自身、顔真っ赤だし!

 

「わ、わたしに恥ずかしい思いさせたんだから、ライヤも恥ずかしい思いしなきゃ不公平だよ!」

 

 ああ、なるほど。

 それなら納得……できるか!

 

「顔真っ赤にしてなに言ってんだ! そっちだって結局恥ずかしい思いすんなら意味ねーだろ!」

「う、うるさい! もう~! 脱がないならわたしが脱がしちゃうから!」

「きゃあああ! アキのエッチー!」

 

 乙女みたいな悲鳴を上げる俺の衣服をアキは装填手特有の手練でポンポンと脱がした。

 ……念のため言っておくと上半身だけですよ?

 

「じ、じっとしててね?」

「あいよ……」

 

 もう脱がされちまったもんはしょうがないので、抵抗をやめて身を任す。

 変に拒否して風邪悪化させるのもアホらしいしな。

 もう好きにしてくれって感じで背中を拭いてもらう。

 

「……」

 

 アキは黙々と俺の背中に温かいタオルをあてがう。

 

 ふう。

 困惑はしたけど、やってもらうと何だかんだで気持ちがいいものだなこれは。

 

「ふわぁ……」

 

 妙に熱の込もった視線があるのはちょっと気になるけど。

 

「すごく、ゴツゴツしてる……」

 

 というかアキさん。

 もはや汗拭くというより単純に触ってるだけじゃありませんか?

 

「ライヤ」

「な、なんだよ」

 

 変にうっとりしているアキにこわごわと答える。

 

「背中、広いね」

「……そりゃあ、お前から見たらな」

「でもその辺の男の子よりすごいと思うよ? 筋肉とか、こんなクッキリ形が出てるし」

「……まあ、一応中学は武道やってたしな」

 

 継続に入学する以前、俺はとある武道に専念していた。

 いまはやっていない。

 基礎的なトレーニングは絶やしていないので、身体能力そのものは維持されているが……恐らく勘は鈍っているだろう。

 ブランクが空きすぎた。

 ある一件から、俺は競技そのものに参加しなくなっていた。

 

「……」

 

 机の上にはその武道で使用していた道具が置かれている。

 

 “Changes”と銘が刻まれた、他の者には扱えない、俺だけの専用器具。

 いまでは何の機能も持たない、使う必要性もない、ただの無機物だ。

 

 ──しかし、格納庫に眠らせている俺の“愛機”を再び機動させれば、コイツもまた本来の役割を取り戻す。

 いまでも俺の決断を待っているであろう“群青色”の相棒を呼び起こせば……

 

「ライヤ」

「ん……」

「ごめん。いやなこと、思い出させちゃった?」

 

 アキが心配そうに声をかけてくる。

 不安にさせるような顔をしていたのだろう。

 

「……いや」

 

 一年前なら、取り乱したかもしれない。

 けれど、いま俺の背中に触れている小さな手のぬくもりが、俺を落ち着かせてくれていた。

 そのぬくもりがある限り、笑顔だって作ることができる。

 

「心配すんなよアキ。俺なりに、折り合いはつけられてっから」

「……うん」

 

 穏やかな声で彼女を安心させる。

 暗い顔を見せたら、人のいい彼女をまた悩ませてしまうだろうから、俺は微笑みを絶やさなかった。

 背中越しで、互いの視線が絡み合う。

 

「……えへへ」

 

 アキも笑顔で返してくれた。

 それはとても明るい、かわいらしい笑顔だった。

 

 そのままアキに汗を拭いてもらった。

 不思議と羞恥心はなくなっていた。

 アキも落ち着いた状態で、背中だけでなく前も拭いてくれた。

 

* * *

 

 汗を拭き終えると、アキはタンスから新しい寝間着を持ってきてくれたので、それに着替える。

 再び横になると、びっくりするぐらい身体が楽になっていた。

 

「……ありがとな」

「え?」

「今日、こんなに看病してくれて」

 

 かけ布団を整えてくれるアキに俺は礼を言う。

 アキは意外そうな顔で俺を見ると……やがてクスクスと笑い出した。

 

「なんだよ?」

「ふふ。だって、ライヤに素直にありがとうって言われるの、なんだか変な気がして」

「礼ぐらい俺だって言えるぜ?」

「でも、一年前では想像もできなかったよ?」

「……かもな」

 

 一年前の俺は、まあなんというか『嫌な奴』だった。

 いまこうしてアキと普通に話していることすら不思議なくらい、ひどい人間だった。

 けど……

 

「お前と約束、したからな。本当の気持ちは、ちゃんと口で言うって」

「……うん」

 

 俺がそう言うと、アキは心底に嬉しそうに微笑んで、俺の寝床の傍に寄った。

 ポンポンと俺の胸の辺りを優しく叩いてくる。

 まるで子どもをあやすように。

 無意識にそうしてしまったのだろう。

 普通なら「ガキ扱いすんなよ」と言うところだが、不思議とイヤではなかった。

 むしろ、心地いい思い出が俺の中で蘇った。

 

「……懐かしいな」

「なにが?」

「今日みたいに具合悪くなったとき、ばあちゃんによく看てもらってたんだ。こんな風に」

 

 病気になったらいつも駆けつけてきてくれた優しい祖母。

 果物やアイス食べさせてくれたり、寝つくまで一緒にいてくれたっけ。

 

「……ご両親には、されたことないの?」

「共働きだったし、毎日帰り遅かったからな。たまに来てくれるばあちゃんが、育て親みたいなもんだった」

 

 けど、その祖母と一緒にいられる時間は、とても短いものだった。

 彼女の柔らかい笑顔は、いまでもちゃんと思い返せる。

 

「ばあちゃんが亡くなってからは、病気になってもだいたい一人でなんとかするしかなかったから……なんか久しぶりだったよ、こういうの」

 

 誰かが傍にいてくれるってだけで、こんなにも違うんだな。

 

「だから、ありがとなアキ。来てくれて嬉しかった」

「……」

 

 改めて感謝を言うと、アキはとても切なそうな瞳で俺の頬に手を触れてきた。

 彼女の表情は、その童顔に似つかわしくないほどに深い慈愛に満ちているように見えた。

 

「アキ?」

「ねえ、ライヤ」

「なんだ?」

「……一緒に寝てあげよっか?」

「はい?」

 

 目が点になるわたくし。

 また何を言い出すんだこの子ったら。

 ばあちゃんの話で彼女の憐憫の情を刺激してしまったのだろうか。

 

「変なこと言うなよ」

「一人で寂しくない?」

「子ども扱いすんなし」

「……ほんとに~?」

 

 あ、これただ俺をからかってるだけだ。

 くそ。一瞬でもドキってしちまったじゃねぇか。

 

「夜中に泣いたりしませんか~?」

「しませーん」

「隣で子守歌とか歌ってあげるよ?」

「やめろっての。つうか一緒に寝たら風邪移るぞ?」

「そしたらライヤに看病してもらおうかな?」

「今日の仕返しにカラダとか拭くぞ?」

「エッチ」

「男はみんなエッチだよ。オオカミさんなんだよ。だからお嬢さん? オオカミに食べられる前にお逃げなさい」

 

 時間が時間だし、アキに帰るよう遠回しに言う。

 アキの言うように別に人恋しいわけじゃないが……こうして彼女の優しさに触れていると、本当に治まりが効かなくなりそうだった。いろんな意味で。

 しかし、アキは楽しげに意地の悪い笑顔を浮かべたまま、寝床を離れない。

 

「時間的に怖いオオカミさんが来る時間?」

 

 ニシシとどこか期待の込もった顔まで浮かべる始末。

 小生意気な娘め。本当に食べちまうぞ。

 

「ああ。こわーいオオカミが来るぞ」

 

 そう言ってわざと寝床に引きずり込んでアキをからかってやろうかと考えた矢先……

 

 

 

「ではそのオオカミの相手は私がするとしよう」

 

 ニュッと、俺たちの間からチューリップハットが飛び出した。

 

「「うわああああああああ!!」」

 

 アキと一緒に悲鳴を上げる。

 

「やあ。いい夜だね」

「ミカさん!」

 

 ああ! びっくりした!

 マジで心臓止まるかと思った!

 

「どっから生えてきてんだアンタ!」

「人をキノコみたいに言わないでもらいたいね」

 

 うっせー。半分人間捨ててるようなもんだろアンタ(社会的に)。

 

「ミ、ミカ。何しにきたの?」

「アキと同じさ。お見舞いだよ。どうやら私のせいでライヤが風邪をひいてしまったようだからね」

 

 うん。たぶん全面的にアンタのせいだね。

 

「こんな時間にお見舞い来たって迷惑なだけでしょ?」

 

 アキがいかにもな正論を言う。

 しかしミカさんは動じない。

 

「本当は早くに来てあげたかったけれど、あいにく私はアキみたいな看病はできないからね」

 

 よく知ってます。

 

「だからアキとは別の看病をいまからすることにするよ」

「別の看病?」

「何する気っすか?」

 

 アキと一緒に首を傾げる。

 すごくイヤな予感しかしません。

 

「心配することはない。これは私なりのお詫びの印さ」

 

 そう言ってミカさんは上着を脱ぎ始めた。

 

「「……なぜ脱ぐ?」」

 

 アキとツッコミが被る。

 ミカさんは聞く耳持たずやたらとエロティックに衣服を脱いでいく。

 ボタンをゆっくりと外し、白い谷間が露わになっていく。

 

 ゴクリ……。

 

 あまりの色香に思わず見入ってしまう。女の子のアキですらも。

 ブラウスを脱ぐと、タンクトップに包まれた巨大な膨らみが弾けんばかりに零れ出た。

 すげー。

 服越しでもデカいとは思っていたが薄着になると一層その存在感が主張される。

 

 あの凶悪なシロモノをこの間、俺はこの手で……

 

「……ライヤ?」

「イテテテテ」

 

 よろしくない感情を察知したらしいアキに非難の目を向けられてつねられる。

 

「ていうか、ミカ。なんのつもり?」

「おや。わからないのかい?」

 

 ミカさんはさらにスカートにまで手をかけ……ってそれ以上はシャレになんねーぞ!

 しかしミカさんは手を止めない!

 スルスルと肉実たっぷりの太ももを通ってスカートが床にパサリと落ちる。

 ほぼ半裸の状態になったミカさんはそりゃもう艶っぽい笑顔で言う。

 

「風邪をひいたときは人肌で暖めるのが一番さ」

「アホかああああ!!」

 

 アキが顔を真っ赤にして一喝する。

 うん、本当に勘弁してくださいミカさん。

 いつものように俺をからかっているんでしょうが、それだけはやめてください。

 そんな格好で密着されたらさすがに俺も冗談じゃ済ませられません。

 マジでオオカミになってしまいます。

 

「すまないがアキ。席を外してくれるかい? さすがに生まれたままの姿を友人に曝すのは私も照れくさいからね」

 

 全裸になる気かよ!

 つぅか男の俺には見られていいのかよ!

 

「さてライヤ。昨夜の続きといこう。ひとつの布団の中で、互いに真実の気持ちを明らかにしよう」

 

 やめろ! 色っぽい顔して布団に入ってこないで!

 

「風邪は相手に移すと治るらしいね。……だからライヤ、存分に私に移して構わないんだよ?」

「あばばば」

 

 健全な青少年には刺激が強すぎる扇情的な肉体が間近に迫ってくる。

 ほぼ媚薬に等しい強烈な色香を前に俺の意識がアホになりかけたところで、

 

「だ、だめえええええええええええ!!」

 

 アキの悲鳴が理性を蘇らせてくれた。

 

 おお! アキ! 頼む!

 この色ボケお姉さんを止められるのはお前しかいない!

 

「わたしも一緒に寝るううううううう!!」

「なんでそうなるんじゃああああああ!!」」

 

 ミカさんと同様、衣服を脱いで半裸状態になったアキが布団に入ってくる。

 お前だけは信じていたのに!

 

「もう~! ミカはいっつもいっつも余計なことするんだからあああ!」

 

 お前もな。

 

 アキはそのままギャーギャーと騒ぎながらミカさんを俺から押しのけようと奮闘。

 寝床の上で三人一緒にもみくちゃ状態となる。

 なんだこのカオス状態は。一気に色気が去って行ったわ。

 

「おやおや。これは残念だけれど、オオカミへの食事は一旦お預けかな」

 

 もう黙っててくださいあなたは。

 そして帰れ。

 

「お~いライヤ。風邪ひいたんだって? さっきブルーベリー採ってきたからこれ食って元気出し……ん? みんな何やってんの? おしくらまんじゅう? なんだけっこう元気そうじゃん!」

「ミッコ。お前のそういう無邪気なところが唯一の救いだよ」

 

 新たに見舞いにやってきたミッコの邪気のない笑顔に最終的に癒やされるそんな夜だった。

 

「もう~! ミカのバカあああ! なんでいっつもこうなるの~!? もう~! もう~!」

「牛かな?」

「牛はミカでしょ! このおっぱいオバケ!」

 

 というか二人とも、こちとら病人なんで寝かせてください……。

 

 

* * *

 

 

 おまけ・「真のジャンケン」

 

 

 四人でお菓子を食べていたある日のこと。

 

「あ、一個だけ残っちまったぞ?」

「ほんとだ」

「これは平等にジャンケンだな」

「ふっ。いいだろう」

 

 こういうときはいつだって恨みっこなしのジャンケンに限る。

 まず四人同時にジャンケンぽん。

 

 ミッコとアキがまず脱落。

 

「ぐわ~負けた~」

「あ~ん。グー出せば良かった~」

 

 最後に俺とミカさんでジャンケンをする。

 

「言っときますけど一回勝負っすからねミカさん」

「構わないよ。でも普通のジャンケンではおもしろみがない。ここは『真のジャンケン』で決めるとしよう」

「なんすか『真のジャンケン』って?」

「とりあえずやってみよう」

「へいへい」

 

 よくわからないが普通にジャンケンぽん、と。

 

 俺:グー

 ミカさん:チョキ

 

「あ。俺の勝ちっすね」

「普通のジャンケンならそうだね。しかしライヤ。はたして君は本当にそのグーで勝ったと言えるのかな?」

「どういうことっすか?」

「このチョキを見てごらん。チョキには他に呼び名があるだろう?」

「えーと、ピースっすよね」

「そうだね。そしてその意味は?」

「peace……『平和』っすね」

「そう。このチョキは“平和の象徴”なんだ……──それが“暴力の象徴”であるグーに負けていいはずがない」

 

「……」

「……」

 

「……くっ! 悔しいが納得しちまったぜ! 持ってけ泥棒!」

「悪いね」

 

 俺は敗北を認めミカさんにお菓子を献上する。

 なるほど。

 これが真のジャンケンか!

 

「いやいやライヤ。ミカの口車にうまいこと乗せられてるから!」

「ライヤってこういう人情話に弱いよね~意外と」

 

 

 

※真のジャンケン

 

 ジャンケン勝負でどのような結果が出ようと相手を納得させられる屁理屈を言った者が勝者となる。

 どうしても譲れないものを賭けてジャンケン勝負するときに是非使ってみよう!




 結局最後にミカさんが全部もっていく。


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継続のバレンタイン

 2月の早朝。

 春が待ち遠しくなるほどに冷え切った格納庫で、俺は戦車の整備をしていた。

 

「う~、さみ……」

 

 一応軍手は着けているが、それでもひんやりとした空気の中では手が(かじか)んだ。

 

「あ~カイロとか欲しいわ」

 

 そう愚痴ったところで貧乏校の継続にそんな贅沢な消耗品など望めないので、我慢するしかない。

 けれど今朝は一段と寒い。もっと厚着してくればよかったなと後悔するほどに。

 

「せめてコーヒーぐらい持ってくりゃ良かったなぁ……」

「なら私が暖めてあげようか?」

 

 むにゅり、と背中に柔らかくて暖かなものがあてがわれる。

 俺のわりと広い背中の三分の一を覆うほどの巨大な柔物が押し潰れ、冷えた表面がヌクヌクとなる。

 わーあったけー……と言いたいところだが。

 

「ミカさん。あいさつ代わりに胸押し当てるのやめてくださいってば」

「声と胸だけで私とわかるだなんて、なにか運命的なものを感じるね」

「こんなマネしてくる色ボケなんてアンタぐらいしかいねーだろうが」

 

 振り返ると、やはりそこにいるのはイタズラを楽しむ笑顔を浮かべるミカさん。

 今日も今日とて、彼女は健全な男子を悩ます魅惑的な肉体で俺をからかってくる。

 

「やあ、今朝も冷えるね」

「そうっすね。だからって人肌の温もりは求めてないっす。やめてください」

「遠慮することはないさ。なんなら君のその冷えた手を服の中で暖めてあげてもいいんだよ? ちょうどカイロ代わりになるものがふたつここに……」

「やめろって言ってんだろうが」

 

 相変わらず多感な男子に挑発的なことを言って反応を楽しむミカさんに若干キレ気味に言う。

 冗談でも面白半分でそんなことするなっつの。こちとら毎度まいど理性をフルに働かせて我慢してるってのに。

 ためしに本気で手を突っ込んで揉みしだいたろか。

 そうすればこの人も懲りそうだ。

 

「それはそうとライヤ。君に渡したいものがあるんだ」

「なんすか? この間みたいに洗濯物渡されても困りますよ。自分で洗ってください」

「アキにこっぴどく叱られたからね。もうそんなことはしないさ」

 

 当たり前だ。

 てかいくら洗濯が面倒だからって男に衣類預ける女子ってなんなの。

 まあ、きっとそれも俺の動揺を楽しむ遊びだったんだろうけど。

 事故だったのか下着まで混ざっていたのがわかると、さすがのミカさんも普通に顔真っ赤にして慌てていたしな。あれはレアな表情だった。

 

「で、何くれるって言うんすか? 課題のプリントとか、期限切れの缶詰とか、毒味させるためのキノコとかはお断りっすよ」

「君は私を何だと思っているんだい?」

「普段の行いを反芻しやがってください」

 

 あのミカさんが人に贈り物するだなんて、期待よりも警戒が(まさ)るに決まっている。

 何が来ても冷静に対処できるよう俺は身構えたが……

 

「まあ、黙ってコレを受け取ってくれ」

 

 すっと、差し出された物を見て俺は目を疑った。

 それは綺麗にラッピングされた縦長の箱だった。継続では滅多に見られない高級感漂う包装。

 どこからどう見ても人に渡すために用意された贈り物。

 

「……え?」

 

 俺は呆然した。これが普通の人からプレゼントを貰うのであれば俺もここまで驚かない。

 だが、相手はあのミカさんだ。

 

 

 あのミカさんが、こんなマトモな贈り物をする、だと?

 

 ミカさんは硬直する俺の手を取って、プレゼントの箱を握らせる。

 ニコリ、とどこか照れくささを隠したような微笑みを俺に向ける。

 

「じゃ、私はこれで」

 

 そう言ってミカさんは未だにボーっと突っ立っている俺を放って格納庫から去っていった。

 

「……」

 

 一人残された俺はしばらく動けなかった。

 何が起きているのかわからなかった。

 ただ、言えることはひとつ。

 

「槍だ。明日は槍が降るぞ……」

 

 いや、むしろリトルボーイか。

 いや、もしくはツァーリー・ボンバーか。

 もしくはロッズ・フロム・ゴッドか!

 人類は死に絶えてしまうのか!?

 

 どうあれ、あの自由人であるミカさんがこんな風に普通にプレゼントを渡すこの異常事態は……

 

「滅茶苦茶こええええええ!!!」

 

 冷え切った格納庫に俺の悲鳴が響き渡った。

 

* * *

 

 継続高校には暗黙の決まりというものがある。

 

 一方だけが得することはあってはならない。物事は常に等価交換。

 日頃から資金、物資、食費の不足に苦しむ俺たち継続生徒はその辺がすごくシビアだ。

 無償の奉仕など、たとえ親しい友人同士であっても許されない。

 何か助けられたならば必ずお礼をする。物をもらったならば代わりに手持ちの何かを渡す。

 そんな風に交渉と物々交換をするのが継続の日常だ。

 

 だから、今回のことは異常だ。

 あのミカさんが何の見返りも要求せず、俺にプレゼントを渡すなんて。

 それもこんな手作り感溢れるものを。まるで『この日のために頑張って用意したんだよ?』なんて声がしてきそうじゃないか。

 

「怖い……怖すぎる……」

 

 教室に向かいながら、俺は渡された箱を注意深く観察する。

 何なんだコレは。いったい中身は何なんだ。

 あまりにもおっかなくて開ける勇気もない。

 

「……まさか、爆弾とかじゃないだろうな」

 

 中からチッチッチッと時限を刻む音がしないかと箱に耳を当てるが、それらしき反応はない。

 ますます不気味だ。俺をいったい何を渡されたんだ。

 継続とは縁のない華美なラッピングである分、余計に恐ろしい存在感を放つ。

 

「と、とにかく今は開けないほうが賢明だな」

 

 正体不明の箱を恐る恐るポケットに仕舞う。

 ミカさんめ、いったい何を企んでいるだ。俺をいったいどうしようっていうんだ。

 不安をかかえながら教室の前に到着。おずおずとドアを開けると……さらなる恐怖が俺を迎えた。

 

 ミカさんがくれたのと似た華美なラッピングをされたプレゼント。

 それが俺の机の上に、大量に置かれていた。

 

「こええええ!!!」

 

 マジで今日何なの!?

 なんで今日に限ってこんなにプレゼント渡されるの!?

 基本的に利己主義で隙あらば相手の所有物を屁理屈言ってぶんどっていくような人間の集まりであるこの継続で、こんなことが起きるはずがない!

 

「ラ、ライヤ。おはよう」

 

 俺が自分の机の前で恐怖に震えていると、アキが話しかけてきた。

 顔を赤くしてやたらとモジモジしている。

 両手を後ろに回して、何かを隠しているようだった。

 予感が走る。

 

「ア、アキ。まさかお前も……」

「えっと、まあ、うん。もういっぱい貰ってるみたいだけど、一応……」

 

 色白の童顔を真っ赤にして、アキはさっと後ろに隠していたものを俺に差し出す。

 

「わ、わたしからもあげる!」

 

 彼女の小さな両手には、やはり綺麗にラッピングされたブツが!

 

「オレの傍に近寄るなああーーッ!!」

「なんで!?」

 

 恐怖の臨界点を越え、まるでレクイエムを受けた某帝王みたいな叫びを上げる。

 

「来るなぁ! そんなもの絶対に受け取らねえからな!」

「ひどっ! 何でわたしだけからは受け取らないのよ! せ、せっかく手作りしたのに!」

「それが怖いんだっつの! お前らいったい何を企んでいやがる! 無償で手作りプレゼントを渡すなんて!」

 

「そりゃ、今日がバレンタインだからに決まってんじゃん?」

「……え?」

 

 横から飄々とした一声。

 見ると、ミッコが「なにテンパってんのお前?」という呆れ顔を俺に向けていた。

 

「バレン、タイン?」

「そ。ほれ、黒板見てみ? 今日何日?」

 

 ミッコが指さす先を見ると、確かに2月14日と日付が黒板に書かれていた。

 日直当番の横に『チョコを寄こすのだ、女子たちよ』と恐らく男子が書いたであろうラクガキもある。

 

「……ああ、そういう、ことっすか」

 

 すっかり忘れていた。今日はお菓子業界の陰謀である聖バレンタインデーだったのか。

 ミカさんから貰ったのも、机の上にあるのもチョコということか。

 なるほど。ならば日頃ケチンボである継続の女子たちがこうしてチョコのプレゼントを渡すのも決して不自然では……

 

「いやいや! やっぱりおかしいだろ! 何で? 何で俺だけこんなにチョコ貰えちゃってんの?」

 

 教室を見るに、こんなに大量のチョコ貰っている男子は俺だけっぽい。

 野郎どもが「おのれ……」と憎しみの視線を送っている。

 

 いや、ちょっと待って。本気でこんなにモテる覚えないぞ俺。

 

「変だろ。俺、去年まで超性格悪い奴だったんだぜ? むしろ女子から嫌われるタイプだぞ」

 

 いまは改めているが、去年の俺は本当にひどい人間だったというか、ヤサグレていた。

 ミッコとアキが俺の言葉に「うんうん」と頷く。

 

「確かにひどかったよな~去年のライヤ。話しかけると『うるせー。消えろ』って言うし、名前呼ぶと『気安く呼ぶな。きもちわりい』って本気で嫌がるし」

「整備のお礼渡しても『は? これが報酬のつもり?』ってすぐ難癖つけるし、授業サボってるの注意しても『そのうるせー口縫い付けるぞ?』って脅すし。完全に不良だったよね」

「も、もう忘れてくれよソレは……」

 

 改めて聞くと本当にひでーな昔の俺。

 

「うん。ぶっちゃけ初めて会った頃わたし、ライヤのこと大嫌いだったよ」

「しょ、正直に言ってくれますねアキさん」

 

 やたらと機嫌悪い顔でアキが冷めた視線を俺に向ける。

 わ、悪かったって。素直にチョコ受け取らなくて。

 

 しかし、いざ昔の話を持ち出されて己の愚かさを実感してみると、やはり浮かぶのは疑問。

 はっきりと俺に嫌悪をいだいていたこのアキですら、現在ではチョコを渡そうとしている。実に奇妙である。

 いや、アキの場合は俺と和解した経緯があるから、親愛の情として義理チョコを用意してくれたのかもしれないが。

 だが、やはり他の女子から貰う理由がわからない。

 

「たぶんアレだよ。ギャップってやつじゃない?」

 

 首を傾げる俺にミッコがそう言う。

 

「ギャップ?」

「そうそう。ライヤって最近は困ってる奴見たらさ、声かけるようになったじゃん? 『俺にできること何かあるか?』ってさ」

「……まあ、昔さんざんヤラかしてた分、反省としてな」

「たぶんソレだよ」

「え?」

「性格悪いと思ってた男が、実は優しくて義理堅い奴だった。なんて意外な一面知るとさ、コロっと落ちちゃう女の子もいるんだよ」

「そういう、もんなのか?」

「そういうもん。な~? アキ~?」

「……なんでわたしに聞くの?」

「なんでだろうね~」

 

 にししとミッコが意地の悪い笑顔をふくれているアキに向ける。

 

「意外な一面、か……」

 

 得心はいかないが、どうやらこうしてチョコを渡したいと思われる程度には、俺も真っ当な人間にはなれたらしい。

 チョコの山を見てみると、どれもご丁寧にメッセージカードが付けられていた。「この間はテレビ直してくれてありがとう」と感謝の言葉や、「わたしはあなたの魅力をわかっています」などと思わせぶりなことが書かれたものもある。

 優越感よりも、正直当惑のほうが大きかった。

 中学までは男子校に通っていたし、小学時代も女子からは嫌われていたから、こういうストレートな好意には……なんというか慣れない。

 

「よかったじゃんライヤ。こんなにモテモテになれてさ」

「からかうなよミッコ。ぶっちゃけ、どう反応していいかわかんねーよこんなの……」

 

 俺の言葉にビクリとアキが不安げに肩を揺らした。

 

「堅いなぁライヤは。細かいこと考えないで素直に受け取ってりゃいいんだよ、こういうのは」

 

 ミッコはあくまでもカラっとした感じにそう言う。「まーそうかもな」と俺も頷く。

 ミッコのこういう適度な割り切りの良さは、確かに堅物の俺にとっては見習いたいものがある。

 

「ま、そういうわけだから、あたしのチョコも素直に受け取ってちょ」

 

 ひょい、とミッコはいつものジャージズボンのポケットからリボンのついた袋を取り出す。『とりあえずそれっぽくしたよ~』と適当感漂うミッコらしい包装だった。

 

「えっ!? ミ、ミッコもチョコ持ってきたの!?」

「なんだよお、いけない?」

 

 アキが意外そうな顔で驚く。いや、俺も正直驚いた。こういうイベントには無頓着な奴だと思っていた分、衝撃が大きい。

 

「ほい。一応手作りだよん。ありがたく食えよ~」

「お、おう」

 

 若干の気恥ずかしさを感じながらミッコからチョコを受け取る。

 なんだろ。バレンタインのチョコだとわかった上で貰うと、すっげー顔が熱くなるな。

 ミカさんのときは頭が真っ白になってたから感動も何もなかったが。

 こそばゆさを覚えながらも、ちゃんとお礼を言おうとすると、

 

「あ。ちなみに本命だよん」

「……え?」

 

 ミッコの言葉で俺の頭は今朝みたいに真っ白状態になる。

 え、本命って。あのミッコが、俺に?

 

「えええええええええええっ!!?」

 

 というか俺よりアキがすごく動揺してるんですけど。

 そんな俺たちを見てミッコは……

 

「うっそ~ん」

 

 ニカッと歯を出して笑った。

 ……ハハハ。だと思ったよ。

 

「や~いや~い。騙されてやんの~」

「るっせーな。んだよ、驚かせやがって」

 

 一瞬マジで焦ったけど、よく考えりゃ花より団子のミッコが色恋沙汰に興味持つわけないよな。こんちくしょうめ。

 

「たく。男心を弄ぶなよな」

「へへ。でもやっぱり本命だったりするかもよ~? 照れ隠ししてるだけでさ」

「お前が照れ隠しするようなタマかよ」

「わかんないよ~? 実は結構な乙女かもしんないぜ~?」

「ぶっ。お前が、乙女とかっ」

「あ。笑ったなこのぉ」

 

 いつもみたいにミッコと他愛のない皮肉の言い合いをする。

 うんうん。やっぱりコイツとはこういうノリが一番しっくり来るな。

 

「ほんじゃ、ホワイトデーのお返し期待してっからね~。もちろん三倍返しだぞ~」

「この。それが目的か」

 

 最後に現金なことを言ってミッコは自分の席に戻っていった。

 なるほどな。ホワイトデーで倍返しのお礼が目的ならば、継続の連中がチョコを渡すのも珍しいことではないか。

 ……あれ? ってなると、この机に築かれた山の分、お返し用意しなきゃいけねーってことか。やばくねソレ?

 

(じょ、女子って何あげれば喜ぶんだ?)

 

 なにぶんこういう経験がないのですごく焦る。

 手作りの木彫り人形とかで勘弁してもらえないだろうかと頭を悩ませていると、

 

「……ねえ、ライヤ」

 

 アキが切なげな声で俺の服の裾を握る。

 片手には渡し損ねたチョコが握られている。

 そういえばまだアキから貰ってなかったな。さっきは悪いことしちまった。

 謝ってから彼女のチョコを受け取ろうとするが、

 

「もう、いらないよねチョコ」

「え?」

 

 そう言って、アキはチョコを引っ込めようとする。

 

「だって、もうこんなに貰ってるし、お返しも大変になるでしょ?」

「……」

「別に大丈夫だよ? 無理に受け取ろうとしなくても。わたしが作ったの、たいした出来じゃないし……」

 

 俺が何か不用意なことを口にしてしまったせいか、あるいはミッコが俺にチョコを渡したことに何か思うところがあるのか。

 沈んだ顔で、アキはチョコの箱を隠すように胸元に抱きしめる。

 そんな彼女に俺は、

 

「欲しいよ」

「え?」

 

 スッと手を差し出す。

 

「くれよ。アキのチョコ」

「でも……」

「なに急に遠慮してんだよ? 俺のために作ってくれたんだろ? なら欲しいに決まってんじゃん」

「……さっきは絶対に受け取らないって言ったくせに」

「うっ。わ、悪かったって。いまはちゃんと欲しいってば」

「……ほんとに?」

 

 流し目を送るアキに「ホントほんと」と何度も頷く。

 

「アキから貰えるものなら、俺なんだって嬉しいぜ?」

「……っ! バ、バッカじゃないの。なんでそんな恥ずかしいこと言うの?」

「本音だぜ?」

「……ふ~ん」

 

 すました顔で、アキはチラリと俺に目線を配る。

 

「そんなに欲しい?」

「欲しい」

「どうしても?」

「どうしても」

「超食べたい?」

「超超超食べたい」

「……そっかあ」

 

 むくれていたアキだが、やがて「ふふっ」と機嫌よさげにほほ笑む。

 

「そこまで言われちゃ、しょうがないなぁ~」

 

 クルっと身体を一回転させて、かわいい包みのチョコを目の前に差し出す。

 

「じゃあ、あげる♪」

 

 白い頬を桃色に染めたアキは、ふわっとした微笑みでチョコをくれた。

 

「サンキュ」

 

 俺は快く受け取り、さっそく封を開ける。

 

「お、すげえ。チョコのカップケーキか」

 

 料理上手のアキらしい、手の込んだチョコだった。

 ひとつ手に取って、豪快にかぶりつく。

 

「どう?」

「うん。めっちゃうまい」

「そ? えへへ。よかった」

 

 感想を聞くと、アキは朝露が弾けたような笑顔を浮かべた。

 

「お返し、期待しちゃうからね?」

「アキもちゃっかりしてんな」

 

 ま、これだけいいもの貰ったんだから、アキのお返しは奮発しないとな。

 予鈴が鳴る。そろそろ一限の授業だ。

 

「じゃ、ちゃんとぜんぶ味わって食べてね?」

「おう。こんなうまいケーキ残すとかありえねーよ」

「ふふ♪」

 

 アキはルンルンとスキップをしながら自分の席に戻っていく。

 

「あ、そうだ。ライヤ」

「ん?」

 

 背中を向けたまま、アキはポツリと呟く。

 

「……一応、本命だから」

「え?」

 

 彼女の言葉に戸惑う俺だったが、すぐにミッコのことを思い出し「いやいや、まさか」と首を振った。

 

「な、なんだよアキまで。そうやってからかうの、やめろよな」

 

 びっくりした。まさかアキまでこんなこと言うとは。

 ったく。どうしてこう女子ってすぐ男に思わせぶりなことを……

 

「どっちだと思う?」

「え?」

 

 アキは振り向かないまま、そう俺に問いかけをする。

 どっちって、それはつまり……

 

「え? おい、アキそれって……」

 

 アキは何も答えない。

 ただ代わりに、

 

「……ライヤのバーカ」

 

 それだけ言って、アキは席に戻っていった。

 

「……」

 

 俺は棒立ちのまま硬直する。頭の中がグルグルと回り、思考の渦に埋没していく。

 

 え? もしかしてアキは俺を……

 いやいや、去年までは大嫌いだったって言ってたじゃん。急にそれが変わるなんておかしいだろ。

 でもチョコくれるぐらいには今は気を許してるってことで。

 それにミッコもギャップどうとか言ってたし……あいや、でもやっぱりからかってるだけじゃ……

 おおい! どっちなんだよ!?

 

 迷宮のように出口の見えない思考のサイクルに俺は頭を抱えた。

 

(こ、これからどうアキと顔合わせりゃいいんだ俺!?)

 

 授業の内容は、ちっとも耳に入ってこなかった。

 

* * *

 

 ・おまけ

 

 結局その日はアキとまともに目を合わすこともできなかった。

 けど向こうはいつも通りだったな……。やっぱり、からかわれただけなんだろうか。

 しかしアキに限ってそれは……

 

 モヤモヤした気持ちのまま寮部屋に帰着。

 まあとりあえず、この大量のチョコをなんとかしよう。

 そうだな。生もの以外は当分、食料として大事に食うとするか。

 

「あ、そういえば」

 

 ポケットにミカさんから貰ったチョコを入れたままなのを思い出した。

 

「お礼言い忘れちまったな」

 

 まさかあのミカさんがチョコを渡すなんてミッコ以上に意外だったからな。

 動揺するなというのが無理な話だ。

 

「だけどまあ……」

 

 やはりあんな美人からチョコを貰えたというのは男として素直に嬉しい。

 普段の残念ぶりを知っていても、いや知っている分、彼女からこうして普通に贈り物を貰えることが嬉しい。

 

(お、よく見るとメッセージがあるな)

 

 直接言うのは照れくさかったのか、文字の書かれたカードが挟まれていた。

 ミカさん特有の汚らしい字でこう書かれていた。

 

『こういう行事には普段興味がないけど、なんだか渡したくなってしまってね。柄にもなく気合いを入れて作ってしまったよ。まあ日頃の感謝の気持ちと思ってくれればいいさ──by ミカ』

 

 思わず顔が綻ぶ。

 あの人も(いき)なことするじゃないか。

 ちゃんと女性らしいところもあるんだと、少し安心もした。

 

「じゃ、ありがたく頂くとしますかね」

 

 立派にラッピングされた包みを解いていく。

 よく見ると本当に凝ったラッピングだ。ミカさんが気合を入れたと豪語するだけあって、これは相当すごいチョコなんじゃないだろうか。

 あの人が料理をしたところなんて見たことがないが、実は隠れた特技があったり?

 

 期待を込めてパカッと箱を開けると……

 

「おう、カカオ豆がいっぱいだあ! すっげー! ……は?」

 

 箱の中には、みっちりと詰められたカカオ豆と、またメッセージカードが入っていた。

 カードにはこう書かれていた。

 

『さあライヤ。これで存分に好きなチョコレートを作るといい。なに遠慮はいらない。感謝の気持ちはホワイトデーできっちり返してくれればいいさ。素敵なお返しを期待しているよ♪ ──by ミカ』

 

 天井に向かってカカオ豆が散乱する。

 

「だーれがテメーにお返しなんてするかああああああ!!」

 

 気合い入れたのはラッピングだけじゃねえか!

 

 

 2月14日、聖バレンタインデーの夜空に一人の少年の怒号が響き渡るのだった。

 



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プラウダ編──シベリアン・カートゥルの勇士
カチューシャのいとこ


 愛する──

 それはお互いに見つめ合うことではなくて 

 いっしょに同じ方向を見つめることである

 

──サン・テグジュペリ

 

 ◇序曲──Ouverture──

 

 昔からずっと泣き虫だった。

 笑うことよりも、泣くことのほうが多かったと思う。

 そんなボクに、小さな少女は自信に満ちた笑顔で言った。

 

『強くなりなさい! 誰にもバカにされないくらい強く! そうすれば何も怖くないんだから!』

 

 彼女は白く華奢な手を──しかし勝ち気に満ちた手を──ボクに差し伸べる。

 ボクは、ただ黙ってその手を握り返した。

 掌に広がる彼女のぬくもり。

 同じくらいに小さな手。

 だけどそこには、ボクにはない強さを感じさせた。

 

『大丈夫! お外なんて怖くないわ!』

 

 そう言って彼女はボクの手をひいて、部屋から連れ出した。

 外に出ることがずっと怖かった。

 部屋にいれば心は穏やかなままでいられる。

 

 ──でも、彼女の太陽のような笑顔を見ていると、驚くほどに怖さが消えた。

 

『何があってもへっちゃらよ! だって、お姉ちゃんのわたしがついているんだもの!』

 

 ボクには決してできない、自分の力を絶対的に信じた力強い言葉。

 どうして、そんなにも自分を信じられるんだろう。

 不思議でしょうがなかった。

 すごいな、と目を輝かした。

 そんな彼女の眩しい姿を見ていると、勇気をもらえた。

 自分もこんな風になりたいと思った。

 でもそれ以上に……

 

『安心なさい! あなたは絶対、わたしが守ってあげる!』

 

 彼女はその小さな身体で、力いっぱいにボクを抱きしめてくれる。

 頼もしくも優しいぬくもり。

 そのぬくもりを感じていると、涙が出てきた。

 悲しいわけじゃなかった。

 嬉し涙とも違うと思った。

 

 ただ、思ったんだ。

 変わらなくちゃいけないって。

 このままじゃ、いけないんだって。

 

 そのとき、ボクの心は決まった。

 強くなろう。と。

 泣き虫なのは、なかなか直らなかったけど。

 けれど、外はもう怖くなかった。

 それどころか、いまでは、

 

 ──空が、綺麗だな。

 

 白い大地を光で照らす太陽、そしてどこまでも広がる大空に、思い焦がれている。

 

 

* * *

 

 

 どうもボクは昔から断れない性格だ。

 頼まれ事をされるとつい「Yes」と頷いてしまう。

 そのせいで小さい頃はよくクラスメイトから無理なお願いをずいぶん押しつけられてきた。

 そういうのはだんだんと調子づいた悪意に変わっていく。

 だから、何でも素直に聞き入れることはよくない。

 自分のためにも、相手のためにもならない。

 それを学習したいまでは、理不尽な要求に対しては「No」と言えるようになった。

 けれど……問題は純粋な厚意や親切だ。

 これはそうそう断われない。

 だって悪意とは違って、他人を思いやった気持ちなのだから。

 無碍にするのは失礼というものだ。

 

 そう、思ってはいるんだけども……。

 

「ユーリくん! これよかったら食べて!」

「あ、ありがとう。おやつの時間にいただくね」

 

 お昼休みの時間。

 クラスメイトの女の子からどう見ても手作りのお菓子をもらう。

 すごく凝った作りだ。

 生菓子みたいだから今日中に食べないといけないかな。

 ちゃんと食べて、後でお礼や感想を言わないと失礼に当たるだろう。

 たぶん向こうもそれを期待して渡しているはずだから。

 ……だけど、これで何個目だろう。

 

「ユーリくん! わたしのも貰って! 今日のは自信作なの!」

「う、うん」

「あたしのだっておいしいわよユーリくん!」

「あ、ありがとね」

 

 机の上に積み重なり、だんだん自分の背より高くなっていくお菓子の山。

 お祝いの日でもないのにずいぶん机が華やかになっていく。

 

「ちょっとわたしが先にあげるつもりだったのよ!?」

「早い者勝ちよ!」

「ユーリくん! よかったら食べさせてあげるわ! はいあ~ん♪」

「ずるい~! わたしも食べさせてあげるぅ♪」

 

 あうう。

 いつのまにかクラスの女の子だけでなく別クラスの子まで来ている。

 しかも皆こぞって手作りのお菓子を食べさせようとしてくる。

 ど、どうしよう。

 甘い物は嫌いじゃないけどお昼ご飯前にこんなに食べるのは……

 

「や~ん♪ ユーリくんってほんとにお人形さんみたいでカワイイ♪」

「ほっぺすべすべ~♪ 髪もサラサラだ~♪」

 

 というかもはや撫でられたり抱きつかれたりしてるんですけど!

 やめて! 男の子たちの憎しみの込もった視線が怖いから!

 うぅ~。これじゃまた男友達ができにくくなってしまう。

 もっと男の子とも普通にお喋りしたいのに……。

 

「はぁ~小っちゃくてかわいい男の子って無条件で天使だよね~」

「わかる~。ユーリくんマジ天使」

「本当に高校生なのユーリくん? 実は飛び級してきた天才少年だったりしない?」

 

 むむむ。人が気にしていることをさらっと。

 ボクはもちろん飛び級してきた天才少年などではない。正真正銘15歳の高校生だ。

 ただボクの家系は遺伝的に小柄な人ばかりで、この歳になっても身長が伸びないのである。

 制服を着ないと当然のように小学生に間違われるし、声変わりもしてないから余計に子どもっぽく見られる。

 そういうのがクラスにいると、どうしても本人の意思とは無関係に注目を引きつけてしまうものだ。

 いまのように女の子たちにチヤホヤされるなんて日常茶飯事。

 男子からは羨ましいと言われるけど……でもここまで過剰になるとさすがにボクも辟易してしまう。

 そして何よりも、いい思い出がない。

 

「はえ~、ユーリくんあいかわらずモテモテだなぁ」

「ま~あの見た目で性格もよかったらそりゃモテるべなぁ」

 

 クラスメイトで友人でもあるニーナさんとアリーナさんがこちらの様子を見て呑気にそんなことを言う。

 外人っぽい呼び名はもちろん愛称だ。

 プラウダではロシアの人名に準ずるソウルネームで呼び合う習慣がある。

 ボクもユーリと呼ばれているけどちゃんと漢字表記の本名がある(ちなみにフィギュアスケートはやっていない)。

 ニーナさんとアリーナさんとは何か相通ずるものがあって入学以来から親しくしている。

 けど二人とも臆病なところがあって、面倒事に巻き込まれたくないからかいまみたいに傍観していることが多い。

 これは自分の問題だから別に助けて欲しいとは思わないけど……でもちょっぴりだけ友人らしく加勢して欲しいとか思ったり思わなかったり。

 

「はあはあ。ねえユーリくん、ちょっとその白いお肌舐めてもいい?」

「ひいっ!?」

「ちょっとだけ。ちょっとだけでいいの。先っちょだけ。先っちょだけだから」

 

 なにやら愛で方が不気味にエスカレートしていく女の子たちに恐怖を覚え始めたそんなとき……

 

「こらああぁっ!! アンタたちユーリを困らせてんじゃないわよ!!」

 

 教室中に快活で鋭い怒声が響く。

 

「あ」

 

 ボクの胸は瞬時に高鳴る。

 驚きからではない。

 しかし周囲の女の子たちは恐怖から竦み上がった。

 

「カ、カチューシャ隊長!」

 

 女の子たちの中には『戦車道』の履修者がいたらしい。目上の存在がいきなり現れたことで激しく動揺している子が何人かいた。

 幼さを残しながらも、相手を無条件で平伏させる威厳と不遜に満ちた声。

 愛らしい容姿を裏切って、相手の心を萎縮させるギラッとした瞳。

 どこから見ても可憐な女児でしかない彼女に、ボクを取り囲む女の子たちはビクビクとしている。

 カチューシャ隊長と呼ばれる彼女はプラウダ高校の『小さな暴君』と恐れられる戦車道の隊長さんなのだ。

 

「なぜ隊長がここに!?」

「逃げたんですか!? 自力で脱出を!」

「カチューシャはアカデミアに捕まった覚えはないわよ!」

 

 びしっと人差し指を向けて、威風堂々とした顔つきで彼女は答える。

 

「カワイイいとこが困っているならカチューシャはどこでも駆けつけるわ! だってお姉さんだもの!」

 

 そして彼女は、ボクのいとこのお姉さんでもある。

 

「カチューシャお姉ちゃん」

 

 彼女の姿を認めただけでボクの表情は自然と笑顔になる。

 しかしカチューシャお姉ちゃんは見るからにお冠だ。

 

「もうユーリ! お昼ご飯はカチューシャと一緒に食べる約束してたでしょ! なにをモタモタしているの! 待ちくたびれて迎えに来ちゃったじゃない!」

「ご、ごめん。皆からお菓子貰ってたから……」

「ご飯の前にそんなの食べたらお腹いっぱいになっちゃうでしょ! まったくいつまでも子どもなんだから~!」

「いや、でもせっかく手作りしてくれたものだし。貰わないと失礼かなって……」

「限度があるでしょうが! あいかわらず断るのが苦手な子なんだからもう~! こんなに甘いものばっかり食べてたら虫歯になっちゃうじゃない! ──ノンナ!」

「はい」

 

 カチューシャお姉ちゃんのかけ声でさっと現れたのは副官のノンナさん。

 モデル顔負けのスタイルに人間離れした美貌を持つ彼女は教室で異様な存在感を放つ。

 何人かの女の子はカチューシャお姉ちゃんが現れたとき以上にビクっとしている。

 ニーナさんとアリーナさんにいたっては「おっかねーの来たじゃー!」と小動物みたいに震えている。

 

「ひとまずこちらのお菓子は片付けておきますね、ユーリ」

「ノンナさん。あ、ありがとう」

 

 どこから用意したのか、大きめの袋に手作りお菓子をパッパッと仕舞うノンナさん。

 ニコリとボクに向けるその笑顔はとても優しい。

 

「ユーリはあいかわらず良い子ですね。どんな人からのご厚意も素直に受け取られて」

「そんな。普通、だよ」

 

 ノンナさんとは幼なじみである。

 昔からこんな風にボクの面倒をよく見てくれる思いやり深い人だ。

 

「ふふ。ユーリは本当に優しいですね。……ですが、その彼の優しさにつけ込んで押しつけがましいことをするのは控えていただけると幸いです、みなさま?」

「ひぃっ! りょ、了解であります!」

 

 優しい顔を維持したままノンナさんは周りの人に注意を呼びかけてくれた。

 皆おっかないものでも見たような顔をしてビシッと敬礼をする。

 何をそんなに怖がっているのだろう?

 ノンナさんほど穏やかで怖くない人なんていないのに。

 

「こちらのお菓子は今日のお茶の時間のときにでもいただきましょうか、カチューシャ」

「ええっ!?」

 

 思いもよらず手作りお菓子を目的以外の相手に食べられることになり、女の子たちはショックを受けた様子。

 

「そうね。偉大なるカチューシャがしっかり味を見てあげるんだから感謝なさい一年生たち!」

「こ、光栄です……」

 

 しかし誰も言い返すことはできず、女の子たちは目から涙をダバーッと流した。

 い、一応ボクもひと口ぐらいは食べるからね?

 

「あれってただ単に自分も食べたいだけでねーか?」

「弟分のプレゼント横取りすっとか大人げねーなぁ」

 

 教室の隅でニーナさんとアリーナさんがそんなことを呟く。

 あ、カチューシャお姉ちゃんの額に怒りの筋が。

 

「……聞こえたわよぉ? ニーナ、アリーナ」

「ひいいっ! カチューシャ隊長あいかわらず地獄耳だべ!」

 

 いやいやボクの耳にも届いてるからねニーナさんにアリーナさん。

 戦車道履修者のニーナさんとアリーナさんは毎回こんな風に失言をこぼして隊長のカチューシャお姉ちゃんから大目玉を食っているらしい。

 本音を言わずにいられないタイプなのだ。

 

「まーたシベリア送り25ルーブルしてやりましょうかぁ?」

「それ以前にユーリがお困りだというのに黙って見ていたのですかお二人とも?」

 

「「ひえ~っ!」」

 

 たいへんだ。ノンナさんまで二人を責め始めた。

 ここは友人としてフォローを!

 

「待ってノンナさん。ボクが普段から『自分の問題だから助けはいらないよ』って言ってたんだよ。だって友達に迷惑はかけられないもの」

 

「「ユーリくん!」」

 

 ボクが助太刀に入るとニーナさんとアリーナさんは感動の涙を流した。

 

「わたしら本当にその言葉どおり助けず傍観しとっだのに……」

「そんな薄情なわたしら庇っでぐれるだなんて……」

 

「「天使だな~」」

 

 二人とも声を揃えてそんなことを言ってボクを拝み始める。

 よほど嬉しかったのか「ありがたや~」と言い出す始末。

 は、恥ずかしいからやめて欲しい。

 

「……そうですか。ユーリがそうおっしゃるのなら不問としましょう」

 

「「あ、ありがとうございます~」」

 

 ノンナさんはとりあえず二人を許したみたいだ。

 よかったね二人とも。

 

「ですがカチューシャに対する不敬な発言までは見過ごせませんのでお二人はこの後、私たちのお給仕をするように」

 

「「え~!?」」

 

 残念。

 許されなかった。

 

「当然でしょ! カチューシャたちがおいしいご飯を食べているところを横で見てるがいいわ!」

「お昼まだ食べてない状態でそげな目に遭うのは地獄だべ~」

「カ、カチューシャお姉ちゃん、さすがにかわいそうだよ」

「なにユーリ! カチューシャよりもこの二人の肩を持つの!?」

「そういうわけじゃ……」

 

 頬をプク~っと風船みたいに膨らませて拗ねるカチューシャお姉ちゃん。

 かわいい。

 ……じゃなくて。

 

「う~。お昼抜きでこのあと訓練するのはキツイべぇ……」

「んだなぁ……」

 

 自業自得ではあるけど、これじゃ二人が気の毒だ。

 あ、そうだ。いいこと思いついた。

 

「じゃあ、せっかくだし二人もこのまま一緒にお昼食べない?」

 

「「え?」」

 

「お給仕なら紅茶とか淹れてくれるだけでもいいんだし。ね? ノンナさんもそれでいいでしょ?」

 

 許しを求める眼差しをノンナさんに送る。

 ノンナさんの美顔に一瞬赤みが差したかと思うと、

 

「……ユーリがそうおっしゃるのなら構いませんよ」

「ちょっとノンナ!?」

 

 快く頷いてくれた。

 さすがノンナさん。

 器が広いや。

 

「カチューシャお姉ちゃんもいいでしょ? 皆で食べたほうがおいしいよ?」

 

 同じようにカチューシャお姉ちゃんにも期待の眼差しを送る。

 

「うぅっ……」

 

 彼女の赤ちゃんのような柔らかほっぺに桃色が差す。

 

「あんたって子は本当に昔からおねだり上手なんだから……」

 

 弟分の手前、カチューシャお姉ちゃんも折れてくれたみたいだ。

 やれやれと首を振ってから鋭い目線をニーナさんたちに向ける。

 

「ユーリに感謝することね二人とも。特別にカチューシャたちの食事に同伴させてあげる」

 

「「ありがとうユーリくん! 大好き!」」

 

「わぷっ」

「ちょっ!?」

 

 喜びのあまりニーナさんとアリーナさんが抱きついてきた!

 ちょ、ちょっと。カチューシャお姉ちゃんの前なのに。

 二人は周りの目も忘れてボクの頭を撫でたり、ほっぺをスリスリさせてくる。

 

「ユーリくんは本当天使だなぁ~」

「さすが『綺麗なカチューシャ隊長』って呼ばれるだけのことはあるべ~」

「ど・う・い・う意味かしらそれ~?」

 

 ニーナさんがうっかり漏らした言葉をカチューシャお姉ちゃんはもちろん聞き逃さなかった。

 閻魔様みたいなオーラを纏って鬼の形相をニーナさんに向ける。

 

「ひっ! カ、カチューシャ隊長は『綺麗を越えてもはや尊い』ってことだべ!」

「あらそう♪ わかってるじゃない♪」

 

 慌ててニーナさんが言い訳をするとカチューシャお姉ちゃんは満足げに笑顔になった。

 ほっと胸を撫で下ろすニーナさんだったが……

 

「……だからってユーリに抱きついていいわけじゃないんだからね~! 離れなさ~い!」

 

「「ひえーっ!」」

 

 怒号と力業でカチューシャお姉ちゃんは二人をボクから離した。

 

「ユーリはカチューシャだけのものなの! 他の女には絶対に渡さないんだから!」

 

 すると今度はカチューシャお姉ちゃんが抱きついてきた。

 

「お、お姉ちゃん!?」

 

 一気に脈動を早めるボクの心臓。

 お姉ちゃんのカラダの感触やさっきの言葉で、ボクの体温が急激に上昇していく。

 

「ユーリはね、カチューシャの偉大さを一番理解してる子なの! カチューシャの優れた価値がわからない目の曇った愚か者たちと違って、この子はよ~く弁えてるんだから! ね~ユーリ~♪」

 

 自慢げにそう言ってカチューシャお姉ちゃんは柔らかなほっぺをスリスリとボクの頬に押しつける。

 お餅のようにたわむ互いのほっぺ。

 幼い頃からよくやっていたカチューシャお姉ちゃんとのコミュニケーション。

 カチューシャお姉ちゃんは特に意識せず昔どおりの勢いでじゃれついてくる。

 でもボクは昔と違って、その行為を無邪気に受け入れられない。

 

「お、お姉ちゃん恥ずかしいよぉ」

「あら~? カチューシャの大人の魅力にドキドキしちゃったのかしら~? いやね~。いつからそんなマセた子になっちゃったの~ユーリ~? このこの♪」

「あうあう」

 

 本当にそのとおりだから困る。

 カチューシャお姉ちゃんに大人の魅力があるかはともかくとして、ボクにとって彼女に抱きつかれるのは尋常なことではないんだ。

 他の女の人相手ではこうはならない。

 身体は小さくても、ボクだって男だ。

 

 

 好きな女の子に抱きつかれて、冷静でいられる男なんていない。

 

 

「はあ~こうして見比べてみると本当に二人ともそっくりだなぁ」

「まるで双子だべ~」

 

 くっつき合うボクたちを見てニーナさんたちがそう呟く。

 確かにボクとカチューシャお姉ちゃんは瓜二つの容姿をしている。

 ボクは垂れ目ガチだけど、髪の色や背丈とかはほとんど同じだ(……でも実はボクのほうが3cmだけ背が大きいんだけど、それはお姉ちゃんには言わないようにしている)。

 いとことは言え、ここまで似るのも珍しいだろう。

 カチューシャお姉ちゃんはそのことを誇るように「ふふん」と笑う。

 

「そうよぉ。ユーリはカチューシャの美しさを奇跡的に継いだ運のいい子なの。カチューシャにとっては分身そのもの。言うなればもう一人のカチューシャなんだから!」

「そのとおりです。ユーリが悲しむときはカチューシャも悲しみ、カチューシャが喜ぶときはユーリも喜ぶ。二人はまさに一心同体なのです」

 

 ノンナさんはそう言いながらニーナさんたちの背後に回る。

 

「ユーリへの不躾な行いはカチューシャに不躾なことをするのと同じです。

 ──ですからお二人とも、あまり気安く()()()()ユーリに抱きついたりしないように……」

 

「「ひっ!? 気、気をつけます!」」

 

 耳元でノンナさんにそう囁かれた二人は青ざめた顔で直立した。

 幼なじみのボクを気遣ってあんなこと言ってくれていると思うんだけど。

 でも演技と言え、あんまり脅すようなことはしないほうがいいよノンナさん……。

 

「ふふ~ん♪ やっぱりユーリは抱き心地いいわね~♪ 他の女には絶対味わわせてやらないんだから~」

「うぅ……」

 

 胸のドキドキは治まらない。

 でもそこに一抹、複雑なものが混じった。

 

 お姉ちゃんにとってボクはもう一人の自分みたいなもの。

 そして理解力のある子分で弟分的な存在。

 そんなボクにカチューシャお姉ちゃんはずっと優しく接してくれた。

 大事にされていることはよくわかる。

 

(でも……)

 

 これだけ大事にされていながら、どうしても思ってしまう。

 

 

 それ以上の存在として見て欲しい。と。

 

 

 そう考えてしまうのは、ボクのワガママだろうか。

 

 

* * *

 

 

 お昼ご飯は戦車道履修者のお偉いさんが使う特別な一室でいただく。

 よくお客さんとしていらっしゃる聖グロリアーナのダージリンさんと付き人の執事さんを歓迎する場所でもある。

 

「こ、紅茶入りました」

「ありがとうニーナさん」

「ヘタな淹れ方してたら承知しないんだからね二人とも」

「だ、大丈夫です! 練習どおりできだと思います!」

 

 おずおずと差し出された紅茶をありがたく受け取る。

 紅茶の横にはジャムの入った器がいくつかある。

 ジャムと一緒に飲む紅茶。ロシアンティーと言うものだ。

 ボクはブルーベリージャムがお気に入りなのでそれをスプーンで掬ってひと口。

 すぐに暖かい紅茶を飲む。

 

「ど、どうだべユーリくん?」

「……うん。とってもおいしいよ?」

「よがっだべぇ~」

 

 ボクが感想を言うと緊張していた二人は肩の力を抜いてひと息吐いた。

 紅茶は淹れ慣れていないみたいだけど、とてもそうは思えない。

 機会があればまた淹れて欲しいと思える味だ。

 ボクはそう満足したけれど……

 

「ふん。まあまあね。ノンナが淹れるのと比べたら香りのいいただのお湯だけど」

「50点といったところですね。精進なさい、二人とも」

 

「「は、はい……」」

 

「あはは……」

 

 上質の味に慣れた二人は評価が厳しいみたいだ。

 

「ではお食事にいたしましょう」

 

 紅茶でまず一服すると、ノンナさんが手際よく料理を並べ始める。

 

「わあ~っ」

 

 レストランのフルコースみたいな料理の数々にボクたちは目を光らせる。

 すべてノンナさんの手作りだと言うのだから凄い。

 ボクが特に目を光らせたのは……

 

「ピロシキもちゃんと用意してありますからね、ユーリ」

「やった! ノンナさんのピロシキ!」

 

 ピロシキはボクの大好物だ。

 特にノンナさんの手作りは昔から病みつきである。

 

「食べていいノンナさん?」

「はい。召し上がれ」

「いただきまーす!」

 

 さっそくひとつ手に取って勢いよくかぶりつく。

 サクサクの生地の感触とジューシーな挽肉の味が口内に広がって多幸感が芽生える。

 

「んぅ~♪ おいしい~♪」

「うふふ。たくさん食べてくださいね?」

「うん!」

 

 極上のピロシキの味に手が止まらない。

 

「もう~そんなにがっついちゃって。ユーリはまだまだ子どもね~」

 

 無遠慮にピロシキに食らいつくボクをカチューシャお姉ちゃんは呆れ気味で見るけど気にしない。

 このピロシキを食べているときは子どもっぽくたっていいんだい!

 

「アリーナ見てけろ。ユーリくんあの幸せそうな顔」

「見てるこっちも幸せな気持ちになってくるなぁ」

 

「「天使だな~」」

 

 ニーナさんたちがいろいろ言っているけどボクの頭の中はほぼピロシキ一色。

 この味を前にするとボクは周りのことが見えなくなってしまうのだ。

 

「わぁ~こっちにはゆで卵も入ってる♪」

「ちゃんと半熟にしておきましたよ?」

「嬉しい! ありがとうノンナさん!」

「うふふ……」

 

 サクサクのピロシキをムシャムシャ。

 その横からカシャカシャと謎の音。

 ……何の音だろ?

 ま、いっか。

 それよりピロシキだ。

 

「……見たか?」

「見たべ」

「目にも止まらぬ早さでユーリくんの顔撮影したな」

「人間業じゃなかよ」

「あれを後で何に使うか考えるだけで……」

 

「「おっかね~じゃ~」」

 

 ピロシキうま~。

 

 

 

 気づくとボクばっかりがピロシキを食べてしまっていた。

 いけないいけない。

 さすがにがっつき過ぎちゃった。

 けれど横でボクの食べっぷりを見ていたノンナさんは機嫌を良くしていた。

 

「ふふ。そんなにおいしかったですかユーリ?」

「うん! やっぱりピロシキはノンナさんが作ったのが一番だよ!」

「そうですか。うふふ。うふふふふふ……」

 

 手作り料理を褒められてよほど嬉しかったのか、ノンナさんは輝くような微笑を浮かべてボクの頭を「よしよし」と撫でる。

 そして耳元にその綺麗な唇を寄せてそっと囁く。

 

「ユーリが望むなら、毎日でも作ってさしあげますよ?」

「ほんとぉ?」

 

 それは夢のような話だ。

 

「むむっ」

 

 そんなボクらの様子が気に入らなかったらしいカチューシャお姉ちゃんは頬を膨らませた。

 

「カ、カチューシャだってピロシキぐらい作れるわよユーリ!」

「作れましたっけカチューシャ?」

「これから覚えるのよ!」

 

 負けず嫌いのカチューシャお姉ちゃんは何か対抗心が芽生えたみたいだ。

 ボクがノンナさんを褒めはやしすぎたからかな。

 

「ノンナにだって作れるんだからカチューシャも当然作れるわよ!」

「苦戦する未来しか見えねーべ……」

「何か言ったかしらぁ?」

「ひええ! 何でもないです~!」

 

 もうニーナさんたら少しは学習したらいいのに。

 しょうがない。助け船を出そう。

 

「ボク食べてみたいな。カチューシャお姉ちゃんが作ったピロシキ」

 

 これは本音。

 まったくお料理したことのないカチューシャお姉ちゃんが作れるかはわからないけど。

 でもボクのために作ってくれるって言うなら、どんなものでも食べたい。

 

「……ほんと? ノンナのじゃなくて、いいの?」

「うん。カチューシャお姉ちゃんが作ったのも食べてみたいな」

「そう……」

 

 引くに引けなくなったためか、カチューシャお姉ちゃんの顔は若干不安げ。

 そんな彼女にボクは言う。

 

「カチューシャお姉ちゃんなら、どんなことだってうまくいくよ。ボクが一番知ってるんだ」

「ユーリ……」

「カチューシャお姉ちゃんにできないことなんてないもの。そうでしょ?」

 

 ボクは本気でそう信じている。

 覚悟を決めた彼女に、できないこと、不可能なんてないってこと。

 いとこのボクだからこそ知っている彼女の可能性。

 信頼の込もった視線に、カチューシャお姉ちゃんは生来の自信を取り戻した。

 

「……ふふん! さすがユーリ。よ~くわかってるじゃない! 期待してなさい! ノンナにも負けない最高のピロシキを食べさせてあげるんだから!」

「うん。楽しみにしてるね」

 

 これこそが、ボクが尊敬するカチューシャお姉ちゃんの姿だ。

 

「私でよければ作り方を教えますよ、カチューシャ」

「バカにしないでちょうだい! 一人でも作れるわよ! ……ま、まあ最初のうちは横で見てて欲しいけど」

「結局他人頼りだべ……」

「あんたは少し口を慎むってことができないのかしらニーナ~!?」

「ひえ~申し訳なかです~!!」

「あはは……」

 

 いつも通りの光景にボクは苦笑いしつつ、しかしこの楽しい時間を愛おしんだ。

 

 

 毎日は本当に明るく楽しい。

 この日常を過ごせるのも、カチューシャお姉ちゃんがいてこそだ。

 ボクが笑顔でいられるのは、カチューシャお姉ちゃんが傍にいるからなんだ。

 

 

* * *

 

 

「それにしても、ユーリくんは本当にカチューシャ隊長のことば尊敬してんなぁ」

 

 昼食を終えて教室に帰る途中、ニーナさんはボクにそう言ってきた。

 

「それわたしも気になってたとよ。なしてそんなに信頼してんの? あげなワガママなお姉さん」

「あ、あはは。カチューシャお姉ちゃんがワガママなのはいまに始まったことじゃないけどね……」

 

 確かにカチューシャお姉ちゃんはあんな性格をしているから、敵を作りやすいし、反発もされやすい。

 つい最近知り合った人から見たら、そんな彼女を尊敬していることを不思議に思われてもしょうがない。

 でも……

 

「でも、ボクは知ってるから。あの人が凄い人だってこと」

 

 誰にも真似できないこと。

 ボクにはできないこと。

 それを、あの人は実現できる。

 いまだってそうだ。

 

「戦車道の隊長さんとして、皆を率いている。それって凄いことでしょ?」

「そら、まあ……」

「確かに去年の大会で結果残したからこそいまの地位にいるわけで……」

「ね? 誰にもできることじゃない」

 

 あの人はその小さなカラダで。

 ボクと同じ小さなカラダで、ずっと努力をし続け、結果を出してきた。

 そこが、ボクとは違うところ。

 

「昔からカチューシャお姉ちゃんはそんな風にどんなことでも挑戦していたんだ。ボクなら無理だってすぐに諦めちゃうようなことを」

 

 チビだから。

 弱虫だから。

 自分なんかじゃ絶対にできない。

 そうして諦めていたことに、しかし彼女は挑んだ。

 

「……ボクってさ、こんなナリだからずっと小学校でバカにされてたんだ。いまみたいにチヤホヤしてくるような人もいたけど、本当は恥ずかしくてイヤだった。それを理由に突っかかってくる人もいたし」

「ユーリくん……」

「学校が嫌いになって、ずっと家に引き籠もってた」

 

 家の畑仕事は手伝っていたけど、それ以外の時間はずっと部屋に籠もって本ばかり読んでいた。

 雪が降る季節になるともう籠もりきりだった。

 そうやって外の世界に出ることに怯えるしょうもない人間になっていくんだと思っていた。

 でも……

 

「そんなときカチューシャお姉ちゃんが励ましてくれたんだ。ボクと同じように小さいのに、カチューシャお姉ちゃんはいつだって自信に満ち溢れてた」

 

 彼女は言った。

 バカにされたままでいいの?

 見返してやりたくないの?

 弱いままでいる自分を好きになれるの?

 と。

 

「そうしたら、自分が情けなくなってきてさ。カチューシャお姉ちゃんはこんなに強いのに、ボクはなにをやっているんだろうって」

 

 結局ボクはカラダが小さいことを理由に逃げていただけなんだ。

 けれど、小さいカラダでも頑張り続けている人がいた。

 バカにされても、笑われても、彼女は決して諦めなかった。

 自分のチカラを信じ続けた。

 だから思ったんだ。こんなボクでもやればできるかもしれない。

 そう思わせてくる勇気とチカラをくれる姿。

 

「だからカチューシャお姉ちゃんは、ボクにとって憧れなんだ」

 

 そして、世界で一番大切な女性。

 

「ボクね、夢があるんだ。お家で育てた野菜をカチューシャお姉ちゃんに食べてもらって、いつまでも健康で元気に生きてもらいたい。そんなお姉ちゃんを支えていける男になりたいんだ」

 

 そして、その隣に立つふさわしい男になりたい。

 それはいつのことになるかはわからないけど。

 少なくとも、自分に自信を持てるようになるまで、彼女に立派な男だと認めてもらえるまでは諦めない。

 強い男になるって、そう決めたから。

 

 そんなボクの話を聞いてニーナさんたちは……

 

「ユーリぐん、君って奴はぁ……」

「いい子だなぁ」

 

 涙流してすごく感動していた。

 あ、あれれ? そんなに大げさな話をしたつもりはなかったんだけど。

 

「ユーリくんみてーなイトコ持ててカチューシャ隊長は幸せもんだべ~」

「んだんだ。カチューシャ隊長には勿体なかぁ」

 

 う~ん。またもや失言をしてしまうこのお二人。

 まあ、こんなこと言ってしまうのもたぶん……

 

「そうは言うけど、二人もなんだかんだでカチューシャお姉ちゃんのこと尊敬してるんでしょ?」

 

「「ぎくっ」」

 

 ボクの指摘で二人はバツの悪そうな顔をする。

 ほら、やっぱり。

 本当にカチューシャお姉ちゃんに不満があるのなら、とっくに戦車道を辞めているはずだ。

 でも二人はそうしていない。

 それはやはり、不平は言いつつも心の底ではカチューシャお姉ちゃんに対する忠義や恩義があるからなんだ。

 

「お姉ちゃんから聞いたんだ。二人とも本当は戦車道辞めさせられるはずだったって」

「ああ知ってたべかぁユーリくん……んだ。わたしら要領悪くてなぁ。毎日先輩たちに叱れるばっかりで……」

「でもそんなとき扱いづらくて誰も使わないカーベーの搭乗者に……」

「カチューシャお姉ちゃんが選んでくれたんだよね?」

 

 戦車のことには詳しくないけど、カーベーという戦車は操縦も装填もひと苦労する代物らしい。

 けれどその癖のある戦車が二人には合っていた。

 いや、癖があるゆえに癖のある彼女たちに合っていた。

 カチューシャお姉ちゃんはそれを見抜いていたんだ。

 

 カチューシャお姉ちゃんの凄いところは、誰一人仲間を見捨てないってことだ。

 可能性の芽があるものを決して見逃さない。

 

 

『あなたたちは今日からプラウダの“ギガント(巨人)”になるのよ!』

 

 

 自信をなくして落ち込む二人にカチューシャお姉ちゃんはそう伝えたそうだ。

 

 

「誰にも必要とされないわたしらを、カチューシャ隊長だけは必要としてくれたんだったなぁ」

「そうだったなぁ……」

 

 二人がつい失言をこぼしてしまうのは、きっとカチューシャお姉ちゃんを絶対的に信頼しているからこそなのだろう。

 そうでなければ彼女たちの瞳にこんな尊敬の色が宿るはずがないのだから。

 

(……やっぱり凄いや、カチューシャお姉ちゃんは)

 

 子どもっぽくても、ワガママでも、それでもその小さなカラダには真っ直ぐで眩しい志がある。

 それは人を惹きつけ、勇気を与えてくれる。

 

 あの日だって、彼女のその心にボクは救われた。

 

 

* * *

 

 

 外に出ることは怖かった。

 ずっと部屋にいれば怖いことなんてない。そう思っていた。

 

 霜で塗り潰された窓。

 いつしか窓の外を見ることすらもイヤになって、拭う気にもなれなかった。

 心と同じように冷え切った真っ白な窓。

 

 そんな窓を、彼女は叩いた。

 一緒に外に出ようと。

 

『平気よ! だって、カチューシャがついてるんだもの!』

 

 外はすっかり銀世界になっていた。

 しんしんと降り積もった雪が生み出した世界。

 雪は嫌いだ。

 無慈悲に冷たい灰色の空は、なにもかも一色に覆い尽くしてしまう。

 ボクにとって、陰鬱な印象しかなかった。

 

 ……けれど。

 

『ほら! 綺麗でしょ!』

 

 朝日に照らされた雪景色は、ボクの知る世界とは違っていた。

 青と白のコントラスト。

 久しく見ていなかった外の世界は、溜め息が出るほど美しかった。

 まっさらな白銀をどこまでも煌めかせ、果てを感じさせない。

 

『こんなに綺麗なのに外に出ないなんて勿体ないじゃない! ほら! 一緒に走りましょう!』

 

 彼女はボクの手を曳いて、元気いっぱいに雪の中を駆け出す。

 ボクはそんな彼女の足に合わせて一生懸命に走った。

 彼女はいつまでも笑顔いっぱいに走った。

 この美しい世界は自分のためにある。

 天の祝福は必ず自分のところへ来る。

 そう信じて疑わない純粋な笑顔で。

 太陽にも負けないくらい明るい笑顔で。

 

 気づくとボクも笑顔で走っていた。

 少しでも彼女に追いつきたくて、一緒の景色を見たくて。

 

 雪は嫌いじゃなくなった。

 彼女と見る世界は怖くなくなった。

 そして、彼女が隣にいてくれる限り、ボクはどこまでも強くなれる。そう信じることができた。

 

 

 

 きっといまのボクじゃ、彼女の隣に立つには未熟すぎるだろう。

 彼女もボクを男としては見ていないかもしれない。

 でも、いつかは認めてもらいたい。立派な男に成長したって、そう言ってもらえるように。

 

 そして伝えたい。

 ボクの世界を変えてくれた少女に。

 世界で一番大好きな人に、ちゃんと伝えたい。

 感謝の言葉を。誰よりもあなたを愛しています、と。

 

 

 ボクは走り続ける。あの人と同じ道を、これからも一緒に行けるように。

 小さなカラダでも、不可能なことなんてないんだって、二人で揃って誇れるように。

 

 



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ノンナさんはやさしい

 今回のサブタイを『ノンナさんは“やさしい”』じゃなくて『ノンナさんは“やらしい”』と空見したエロいアナタはまず腹筋50回です(真顔)

 さて、ドラマCD4によるとプラウダには『カチューシャがお昼寝から起きるまで午後の授業は行わない』という、とんでもない暴君制度があるらしいですね。

「やっぱこの世界頭おかしいわ(褒め言葉)」と何でもありなガルパンワールドがますますが好きになりました。おすすめです(ステマ)


 カメラのフラッシュが数度、戦車道の執務室で瞬く。

 データの中には、きっとボクの赤くなった顔が何枚も記録されていることだろう。

 

「う~」

「ふふふ。とてもカワイイですよユーリ」

 

 撮影されるたび顔の火照りが増していくボクと違って、ノンナさんはとてもご機嫌だ。

 すごく生き生きとした顔でデジタルカメラを握っている。

 

「やはりユーリにはこういう服が似合いますね」

「ノ、ノンナさん」

 

 褒められたところで湧いてくる気持ちは嬉しさよりも羞恥心だ。

 ボクは身を縮こませる。そうしたところで、身に着けている服が隠れるわけじゃないが。

 

「ダメですよユーリ。腕で衣装を隠しては」

「だ、だって」

 

 ノンナさんが穏やかに注意をしてきても、ボクは素直に聞き入れられなかった。

 もしも透明人間になれるのなら、いますぐになりたいくらい恥ずかしいのだ。

 

「こんな、子どもっぽい服なんて……ボク、もう高校生なのに」

 

 いまボクが着ているのはプラウダの制服ではなく、白と黒を基調にしたゴシック衣装だ。

 良いとこのお坊ちゃんが着るような華美なデザインに(こしら)えられたコレは、ノンナさんのお手製である。

 その出来の良さには素直に感服する。さすがはノンナさんだ。けれど、こうして自分が纏うとなると一気に後ろめたいアイテムと様変わりする。

 

「ノンナさん、これ、ズボンの丈とか短すぎるよ」

「そういうコンセプトですから」

「ううぅ」

 

 膝よりも太ももの付け根に届きそうな半ズボンからは、ボクの素足が惜し気もなくさらされている。

 すね毛なんて一本も生えていない、男らしさとは程遠いコンプレックスのひとつ。

 男性フェロモンちゃんとあるのかって疑うくらいツルツルの素足を丸出しにするのは、しょうじき裸を見せるよりも抵抗を覚える。

 

(ううぅ。顔から火が出そうだよ)

 

 そんなボクの心情も関係なしに、容赦なくフラッシュを繰り返すカメラ。

 心なしかボクが恥じらえば恥じらうほど、シャッター音の間隔が短くなっている。

 

「うふふ。いまのユーリを見ていると小さい頃のユーリを思い出します」

「……そりゃ小さい頃から成長してないからね」

 

 いま撮っている写真とアルバムの写真を見比べてもきっと大差ないだろうなぁ。

 ……我ながら悲しくなってきたよ。

 

「むくれないでください。本当に天使のようにかわいらしいですよ?」

「男に『カワイイ』は誉め言葉じゃないもん!」

 

 男として生まれたなら当然『カッコイイ』と言われたいものだ。ボクだって例外じゃない。

 たとえば継続のライヤさんみたいにワイルドなかっこよさが欲しいし、聖グロで執事をやっているイアンさんみたいにハードボイルドなかっこよさにも憧れる。

 

 ……しかし、それがどうだろう。

 いまのボクはかっこよさとは真逆の衣服を身に着け、幼なじみのお姉さんにその姿を撮影されているではないか。

 

「うふふ。怒ったユーリも魅力的ですよ」

「ううぅ」

 

 そして、ついつい子どもっぽく頬を膨らませてしまう自分が恨めしい。

 これではとても『カッコイイ男』なんて言えない。

 ……カチューシャお姉ちゃんにふさわしい男になるという目標はどこに行ってしまったんだユーリ!

 

「ノンナさん、もうこの辺で……」

「あら? ユーリは約束を破る子だったんですか?」

「うっ」

 

 そう。ボクが恥を忍んでまで、こんなことをするのには理由がある。

 

「わ、わかってるよ。──()()()()()()したお詫びに、今日一日ノンナさんのお願いを聞くって言ったの、ボクなんだから」

 

 溜め息交じりに言うと、ノンナさんは華咲くようにほほ笑んだ。

 

「はい。たっぷりとお詫びをしてもらいますからねユーリ。うふふふ♪」

 

 いつもは見惚れてしまうノンナさんの笑顔だけど、今日に限っては何だか怖かった。

 

 

 誤解しないでほしいのだが、決してボクは狙って不祥事を起こしたわけじゃない。

 事故といえば事故で済むんだけど……それでもお詫びをしないと気が済まないことを、ノンナさん相手にしでかしてしまったわけである。

 

 時間は少し前に(さかのぼ)る。

 

* * *

 

 プラウダ高校にはお昼寝時間(シエスタ)制度というものがある。

 カチューシャお姉ちゃんがお昼寝から起きるまで午後の授業を行わないという、嘘のようで本当にある制度だ。

 これは戦車道隊長の希望をひとつ聞き入れるという学園側の意向らしい。

 

 農業系の学園であるプラウダは一時期、年々生徒数が減数していくせいで廃校も危ぶまれていた。

 朝早く起きて畑を見なければならないし、冬は寒く、設備もそんなに豊富に揃っているわけじゃない。直球に言ってしまえば、受験生を惹きつける魅力がなかった。

 刺激的な学園生活を求める若い子たちは、ほとんどが地元よりも別地方の学園艦に進学してしまうのだった。

 

 しかし、その問題は戦車道が盛んになったことで解決されている。

 もともとロシアと交流の深かったプラウダはT-34やIS-2といった強力な戦車を導入し、戦力を拡大。

 一躍、全国大会決勝戦の常連として昇りつめ、現在では黒森峰に迫る強豪校として注目を浴びている。

 近年では全国優勝という名誉ある結果を残したことで、入学希望数は稀に見る爆発的数値をたたき出した。

 機嫌をよくした学園長は、貢献者たるカチューシャお姉ちゃんの要望を校則に加えるという気のいいお爺ちゃんぶりを発揮したわけである。

 発揮しすぎだろ、と正直思う。

 

 とはいえ学園艦という特殊な環境は一種のコロニーというか島国みたいなものだから、ひとつやふたつ奇抜な風習が根付くのは珍しいことじゃない。

 これだけの無茶がまかり通ってしまうほど、カチューシャお姉ちゃんの影響力がすごいという証拠でもある。

 彼女の従姉弟であり、そして恋い慕う身としては、そのカリスマ性にはやはり憧れたりする。

 

「~♪」

 

 お昼休みが長引いてボクが得すると思うのは、読書の時間が増えることだ。

 予鈴も気にせず、図書室で借りた本をのんびりと日当たりのいい芝生の上で読むなんて、他の学園じゃできない。

 

(お昼休みが長引くほど帰りは遅くなるけど、そのぶん気持ちのいい午後をゆっくり過ごせるんだから最高だよね)

 

 こんな有意義な休み時間の使い方ができるというのだから、まさにカチューシャお姉ちゃん様サマである。

 

 その日、ボクは猛禽類の生態について書かれた学術書を読んでいた。

 けれど、

 

「……ふわぁ」

 

 ちょっとだけ小難しい内容のせいか、またはお日様があまりにも暖かいせいか、眠気が襲ってきた。

 

(ボクもちょっとだけお昼寝しようかな)

 

 カチューシャお姉ちゃんも今ごろ夢の中だろうし、ボクも今日はぐっすりとシエスタすることにした。

 心地いい眠気に逆らうことなく瞼を閉じると、瞬く間に意識が沈んでいった。

 

 

 

「……ん」

 

 とても柔らかなものがボクの頭を支えている。

 

 一度目が覚めたのに、あまりにも寝心地がいいその感触で、また眠ってしまいそうだった。

 半分眠った状態で、ボクはその正体を確認しようとする。身体を傾けて、頬でそのふんわりとした感触を味わう。

 

(なんだろう。すごくスベスベしてる……)

 

 手を伸ばして、ふにふにと揉んでみる。

 わ。病みつきになりそうなくらい手触りがいい。瑞々しくて、もちもちしていて、それでいて引き締まっている。

 こんな素晴らしい感触がこの世にあったとは。

 

「ん……もう、いたずらっ子ですねユーリ」

 

 色っぽい声で名前を呼ばれる。

 とても聞き覚えのある優しい声。

 引き寄せられるように視線を声の先へ。

 

(……山?)

 

 目の前にとても大きな山がおふたつ。

 まるでエルブルス山を連想させるような立派な隆起。

 はて何だろうと手を伸ばして鷲づかんでみる。

 

 むにゅうううん、と指が山の中に埋没した。

 

「あっ……」

「……え?」

 

 より色っぽさを増す艶声。

 掌に広がる豊満過ぎる感触。

 それらが強烈な刺激となって、ボクの意識を一気に呼び覚ます。

 鷲づかんだ山から、見慣れた美顔がボクに視線を注ぐ。

 その目はやたらとウットリしていた。

 

「ユーリったら、ヤンチャさんですね」

「ノンナ、さん?」

 

 覚醒したボクの脳は高速で処理を開始する。

 

 現在の状況。

 後頭部に当たる柔らかいものは、ノンナさんの膝枕。

 そしてボクの手が鷲づかんでいる大きな球体は、ノンナさんのおっぱ……

 

「ふ!」

 

 急速にその場を離脱。

 タカのように空中を旋回。

 姿勢を整え、芝生の上にいざ着陸。

 巻き上がる土煙。

 

 見事に決まった。

 ボクの渾身の……エクストリームDO・GE・ZAが。

 

「ごぉぉぉぉめぇぇぇぇんぅぅぅぅなぁぁぁぁさぁぁぁぁい!!!」

 

 ボクは謝った。全身全霊で謝った。

 自分を罰するようにグリグリと土に頭をこすりつける。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!! わざとじゃないんだ! わざとじゃないけど……でもごめんなさい!」

 

 思いきり……思いきり揉んでしまったよ。ノンナさんのエルブルス山を!

 すごく柔らかった。すごく気持ちよかった。

 でも忘れろユーリ!

 いまだに掌に残っているたっぷりとした柔肉の感触を意識から切り離すのだ。

 煩悩退散とばかりにボクは地面に頭を打ち付けながら謝り倒す。

 

 普段からお世話になっている幼なじみ相手に、ボクはなんて破廉恥なことを!

 

「ユーリ。頭を上げてください。別に気にしていませんから」

 

 恐る恐る土で汚れているであろう顔を上げると、ノンナさんは本当に気にしていないという風にほほ笑んでいた。

 ああ、やっぱりノンナさんは優しいなぁ……って人の優しさに甘えるんじゃないユーリ! ボクは自分を叱咤する。

 

「ダメだよノンナさん! そんな簡単に許しちゃ!」

「寝ぼけていたのでしょう? なら仕方ありません」

「し、仕方ないじゃ済ませられないよ! だ、だって女の人の太ももとかおっぱ……む、胸とか触ったりしちゃったんだよ!? 恋人でもないのに!」

「ユーリなら構いませんよ?」

「ノンナさんは甘すぎるよ!」

 

 いくら仲のいい幼なじみ同士だからって、やって良いことと悪いことがある。

 ノンナさんは人より穏やかで懐が広いから、こんなことでも許してしまうのだろうが、普通ならここは怒るべき場面だろうに。

 なのにノンナさんときたら、ボクに向ける眼差しはどこまでも優しい。本気で怒っている様子が微塵もない。どういうことなの。

 女神か。本当に女神なのかこの人。

 

「本当に気にしないでください。他の男の人にされたら私も嫌ですが、ユーリは特別です」

 

 そう口にするノンナさんからは、女子高生とは思えない大人の余裕があった。

 それこそ、幼い子にエッチなイタズラをされても「あらあら」という具合に許してしまいそうな。

 ……これってもしかして、単にボクが男として認識されていないだけ?

 

「お昼寝をしているところを見かけたものですから、ついついカチューシャにするように膝枕をしてしまいました。私のほうこそ驚かせてすみませんユーリ」

 

 そしてなぜかノンナさんのほうが謝るという始末。

 その包容力で、ボクのやったことを揉み消そうとしている。

 なんて幼なじみ思いな、心優しい女性だろう。

 そのあまりの深い温情を前に、感謝を通り越して感激の涙を流してしまいそうである。

 

 ……だが、しかしだ。それでいいのか、ユーリ。

 あんなことしておいて、年上の女の人のご厚意に甘んじる情けない男として醜態をさらす気か?

 お前が目指す立派な男とは、そんなものなのか?

 否。

 断じて否。

 男ならここは……責任を取るべきだろう!

 

「ノンナさん! お詫びをさせて!」

「え?」

「これじゃボクの気が済まないんだ! よ、嫁入り前の女の人のカラダを勝手に触るなんて、イケナイことなんだから! 罰でもご奉仕でも何でもいいから、ボクにお詫びをさせて!」

 

 このまま何もお咎めなしじゃ、ボク自身がボクを許せない。

 なにより……カチューシャお姉ちゃんに合わす顔がない!

 心の中でボクは思い人の少女に詫びる。

 

(ごめんお姉ちゃん。そして誤解しないでくれお姉ちゃん。ボクは、決して大きな胸に惑わされたわけじゃないんだ。

 そりゃ男は大きな胸が好きな生き物さ。でも、女性の魅力は胸じゃない。大きければ良いってわけじゃない。もちろん、わかっているさ。

 だから信じて。ボクは決して大きな胸を前に喜ぶ単純な男じゃないということを。

 それにボクはお姉ちゃんがペッタンコでもぜんぜん気にしない。自信を持ってくれお姉ちゃん。胸を張って、その絶壁を誇ってくれ!)

 

 きっといまのボクは激しく混乱しているな。

 やっぱり罰しなければ。

 

「さあノンナさん! 何でも言って!」

「……何でも、ですか?」

 

 キラリとノンナさんの瞳が妖しく光った気がした。

 うっ、とボクは怯みそうになるけど、しかし宣言したことは曲げない。

 

「うん! 男に二言はないよ!」

「そうですか」

 

 ニコリ、とノンナさんは異様に明るい笑顔を浮かべる。

 それは本当にお日様みたいに眩しくて、顔が見えなくなっていくほどに上機嫌な笑顔だった。

 

「では、お言葉に甘えて。私のお願いを聞いてくださいますか?」

「う、うん! どんと来いだよ!」

 

 どんな無理強いでも乗り越えてみせる覚悟さ。

 ユーリ十五歳。男を見せるぜ!

 

* * *

 

(それが、どうしてこんなことに……)

 

 さて、おわかりの通り、ボクに課せられたお願いは男らしいものとは程遠いものだった。

 コスプレでなければ着ないような衣装に身を包み、恥ずかしいポーズを取らされ、そして要望どおりの表情を浮かべる。

 

「次は寝っ転がってくださいユーリ」

「ハイ……」

「そこで猫のポーズを」

「ハイ……」

「鳴き声も」

「ニャア……」

「甘えるような表情でもう一度」

「……ニャアン」

「ああっ。かわいいですよ、ユーリ。とても、とても……うふふふふふふ」

 

 ノンナさんはますますご機嫌になっていく。

 反してボクの目は死んでいることだろう。

 

 ノンナさんの隠れた趣味は写真撮影だ。特に人物を撮ることが好きらしい。

 それは承知の上だったから、お詫びの内容が写真のモデルになってくださいと言われたときは「そんなことでいいの?」と思ったが……

 まさかここまで心が磨り減る撮影会になろうとは。

 

「はぁ。とても素敵ですユーリ。なにをさせてもアナタは絵になりますね」

「ノンナサンガ、嬉シソウデ、何ヨリダヨ」

 

 心を空っぽにして、ボクは成すがまま彼女のモデルとなる。

 そうしないと、自分に対する情けなさからいまにも発狂してしまいそうだった。

 

「ユーリ。また表情が暗くなっていますよ? ほら、もっと嬉しそうに……にこり♪」

「……ニコリ♪」

 

 カシャカシャと連射されるシャッター音。

 ハハハ。もうどうにでもなれ。

 男としてのプライドがズタズタにされるという意味では、確かにコレはとんでもない罰だ。甘んじて受け入れよう。

 

「はぁ、ユーリ。あなたといい、そしてカチューシャといい、本当にお二人は、なんて魅力的なのでしょう」

 

 ……というか、これまで見たことがないほどにノンナさんのテンションが高い。

 はっきり言うと、怖い。

 時折なぜか身の危険を感じるのだけど……いや、気のせいだよね。ノンナさんに限って。

 きっと趣味に没頭しているせいで興奮気味なだけだ。それだけさ、きっと。うん。

 

「……食べてしまいたい」

 

 空耳だと思いたい。

 

* * *

 

 撮影会は無事終了した。なぜ無事という言葉を使いたくなるのか我ながら不思議だが、とにかく終わった。

 

「うふふ。ありがとうございますユーリ。とても充実した時間でした」

「それは、なによりです……」

 

 ボクは完全に燃え尽きていた。着替える気力もわかないほどに。

 シャッターの数だけ積み重なった精神的ダメージが回復するには、時間がかかりそうだった。

 それでも、ひとつだけ訪ねなければならないことがボクにはあった。

 

「ノンナさん。その写真どうするの?」

「もちろん現像しますが?」

「……ですよね」

 

 写真が趣味の人というのは現像まできっちりやるものだ。

 ボクは人の趣味にケチをつけるつもりはない。

 しかしそれでも、あの痴態が物理的な形となって誕生するのかと思うと、それだけで気が遠くなりそうだった。「おおぅ」と顔を覆って身悶えてしまう。

 そんなボクを見て、ノンナさんはクスクスと笑う。

 

「安心してくださいユーリ。写真に焼いても、誰にも見せびらかしたりしませんから」

「……ほんとぉ?」

「はい。ノンナだけの特別なアルバムに保存しますから。誰の目にも触れさせません」

 

 ボクは胸を撫でおろした。

 それなら安心だ。

 この姿を撮った写真が学園中に広まったら、過剰なからかいのネタになるのは間違いない。

 さすがのノンナさんも、そこはわかってくれているのだろう。

 

「心配いりませんよユーリ。絶対に、誰にも見せませんから。そう、誰にも……うふふ」

「……」

 

 心配の種は消えたのに、不吉なものを感じるのはなぜなのだろう。

 

「~♪」

 

 ノンナさんは鼻歌を奏でながら早速カメラの液晶画面を閲覧する。

 その姿はいつもの大人びた印象と異なり、歳相応に女子高生らしくウキウキしている。

 

「楽しそうだねノンナさん」

「そうですか?」

「うん。なんか、いつもよりルンルンしているというか」

「それはたぶん、久しぶりにユーリと二人きりだからでしょうね。子ども時代のように懐かしくて、つい舞い上がっているのかもしれません」

 

 確かに、ノンナさんと二人きりになるなんて何年ぶりだろう。

 一心同体とばかりにいつもカチューシャお姉ちゃんと一緒のノンナさん。必然的にボクらは三人で過ごすことが多かった。

 

「こんな風にユーリだけとゆっくりお話しできる機会は、そうありませんから」

「そうだね。いつもカチューシャお姉ちゃんに振り回されてるもんね、ボクたち」

 

 お互い望んで、そうしているわけだけど。

 その分、こうしてカチューシャお姉ちゃん抜きで話していることが逆に新鮮だ。

 自然と子どもの頃を思い出し、ノンナさんと同じように懐かしい気持ちになった。

 

「昔はしょっちゅうノンナさんのお家にお邪魔して、一緒に遊んでたっけ」

「そうでしたね」

 

 ノンナさんは柔らかくほほ笑む。

 

「学園でもこうしてユーリと一緒の時間を過ごせて、私は嬉しいです」

「そうなの?」

「ええ。最初は共学化に不安はありましたが、ユーリがいてくれるから気にならないんですよ?」

 

 もともと女子校だったプラウダ高校が、分校である男子校と統合したのは最近のことだ。

 戦車道履修を希望して入学する者が増えたことで、女子校側は廃校の危機を免れたが問題は男子校だった。戦車道が女子の嗜みである以上、いくら活発化したところで男子校にはなんの関係もない。

 

『女子がいない。ひたすら寒い。そんな学園で三年間畑耕すなんて青春もなんもねー』

 

 と、あたかも『俺ら東京さ行くだ』の学園艦verみたいな不満の声が上がり、女子よりも入学希望数が減っていった。

 まさに廃校コースまっしぐら。通称“絶対廃校するマン”こと役人さんが現れるのは時間の問題だったが、

 

「確か、分校でも廃校にできない理由があったんだっけ?」

「プラウダは代々ロシアの留学生を積極的に迎え入れてきた学園ですからね。男子校側がとつぜん廃校になられては先方の男子生徒たちにご迷惑がかかりますし、この際に共学化したほうが効率は良かったのでしょう」

 

 もともとプラウダ高校はロシア人の亡命を受け入れるための居住地として、そしてその子弟向けの学び舎として開校した学園艦だ。

 ロシア人の留学生が多いのはその名残で、友好関係を維持するためにも男子校の存続は必要だったのだ。

 

 同じような理由から男女別だった学園艦が統合することは珍しいケースじゃない。

 莫大な維持費がかかる学園艦は常に統廃合の対象として文科省に監視されているようなものだ。成果を出せていない学園は即消されてしまう。

 

 アンツィオ高校も最近はその辺の事情から、廃校の危機にあった男子校と統合したらしい。

 

「でも共学化した途端、男子生徒の入学数が増えるっていうんだから、男の子って単純だよね」

 

 カチューシャお姉ちゃんと同じ学園に通いたくて入学したボクが言えたことではないが。

 ボクの皮肉にノンナさんはクスクスと笑う。

 

「ですがおかげでユーリと毎日学園艦で会えるわけですからね。カチューシャもその点は喜んでいらっしゃいますし、結果的には統合して良かったのだと思いますよ」

 

 そう言われると一気に照れくさい気持ちになった。

 もちろん仲の良い従姉弟や幼なじみと楽しい学園生活を過ごせることで、喜んでいるのはボクも同じだ。

 理想的な学園生活を送れていると思う。

 ……女子のみんなからオモチャにされることに目を瞑れば、だけど。

 

「ところでユーリ」

「なに?」

「もうひとつお願いしたいことがあるのですが」

「え?」

 

 不意の質問にボクは驚く。

 ま、まさか。まだ何かボクにさせる気なのかノンナさん。

 そういえば回数制限は設けてなかったな……。

 

「カチューシャはまだお昼寝から起きないようですし、せっかくなのでもうひとつ、したいことがあるんです」

「え、えーと」

 

 正直に言えば最初のお願いだけで気力を使い果たしているのだけど。

 でも……

 

「……無理にとは、言いませんよ?」

「も、もちろんいいよ!」

 

 悲しげなノンナさんの瞳を見た瞬間、口が勝手に動いてしまった。

 わわ。何をやっているんだボク。

 

 けど冷静になってみれば、写真の撮影ぐらいで自分の失態を帳消しするというのは、虫が良すぎる話ではないだろうか。

 女の子の心の傷は、男のものよりもずっと深く残るものだ。

 ならば返答はひとつ。

 

「ノ、ノンナさんが納得するまで、いくらでも付き合うさ!」

「まあ。本当ですか?」

 

 ボクの大口を聞いて、ノンナさんはとても嬉しそうに手を合わせる。

 ……まさかあの悲しげな顔、演技じゃないだろうね?

 だが一度放った言葉は戻ってこない。

 

「ユーリは本当に優しいですね。ではお言葉に甘えて……」

 

 素敵な笑顔を浮かべて、ノンナさんが迫ってくる。

 くっ。こうなったら腹を括れユーリ。これも強い男になるための試練のひとつだと思うんだ。

 たとえどんなお願いが来ても絶対に動じたりはしな……

 

「──では、抱きしめさせてください」

「え?」

 

 とても芳醇な香りが、ボクの鼻腔をつく。

 豊満な感触がいっぱいに、ボクを包み込む。

 間近に、ノンナさんの美しい顔がある。

 我も忘れてしまうほどに吸い寄せられる。意中の人がいるのに、意識が目の前の女性だけのことで占められてしまうほどの美貌。

 

「あ、うう?」

 

 動揺したりしないと決めたけど……無理だ。

 だって、こんなにノンナさんと、密着してる。

 ノンナさんはまるで赤ん坊を抱くように、ボクの小さな身体をぎゅうっと引き寄せる。

 

「ユーリ。うふふ」

「ノノノノンナさん? か、顔が、顔が近いよ?」

 

 少しでも動けばキスができてしまいそうなほど、ノンナさんとの距離が近い。

 顔が沸騰したみたいに熱くなっていくのを感じる。

 そんなボクの顔をノンナさんは愛おしそうに撫でる。

 彼女のひんやりとした手がボクの熱を心地よく冷ますが、心臓の脈動は熱く滾り続ける。

 

「しばらく、こうしていてもいいですか?」

「う、うう」

 

 尋ねられたところで、ボクに拒否権はない。黙って赤くなった顔で頷くしかない。

 ノンナさんは多幸に満ちた表情で、さらに抱きしめてくる。

 心臓の音がうるさいくらいに響く。

 

「懐かしいです。昔もこうしてユーリを抱きしめてあげましたよね?」

 

 そ、そりゃそうだけど。昔と今やるのではぜんぜん意味合いが違ってくる。

 体格が変化していないボクと違って、ノンナさんはすっかり大人のカラダに育っているのだ。それも外人さんも顔負けするほどのグラマラスなカラダ。

 そんな彼女に思いきり抱きしめられて、昔みたいに無邪気にはしゃげるわけがない。

 いや、人によっては喜ぶんだろうけど、少なくともこういうことに耐性のないボクは冷静になれない。

 

「ノ、ノンナさん。ボク、恥ずかしいよ」

「ダメです。カチューシャが起きるまで、離しません」

「そ、そんな」

「うふふ♪」

 

 ヘタしたら一時間以上このままかもしれないってこと?

 そ、そんなの、耐えられないよ。ボクの、理性が……

 

「ユーリ。昔みたいに呼んでみてください」

「え?」

 

 ニコリと、ノンナさんはどこか魔性的な笑みを浮かべてボクに言う。

 

「いまだけ『ノンナさん』ではなく──『ノンちゃん』と呼んでください」

「あ、うぅ……」

 

 さらに突きつけられる試練。

 いまでも恥ずかしいのに、子どもの頃呼んでいたノンナさんの愛称を口にするだなんて、卒倒してしまいそうだ。

 でも約束をした以上、ボクは彼女に逆らえない。

 たどたどしく、懐かしい呼び名を紡ぐ。

 

「ノ、ノンちゃん……」

「はい。何ですかユーリ」

「ううぅ……」

 

 恥ずかしい。

 けどノンナさんはとても幸せそうな蕩け顔を浮かべて、さらにボクを抱きしめる。

 こうして間近で見ると、本当にノンナさんは綺麗だ。

 どんなに恋い慕う相手がいても、無条件で心が奪われてしまうほどに、その美貌は男を狂わす。

 視界には、もうノンナさんしか映らない。

 

「ノンちゃん、ボク……」

「うふふ。どうしましたか。お姉さんに、何でも言ってくださいね?」

 

 包み込むような撫で声と手つきに、ボクの意識はフワフワになっていく。

 どんどん、ノンナさんのことしか考えられなくなっていく。

 

「ほら、昔みたいに甘えてもいいんですよ? いっぱい、いっぱい、お姉さんに甘えてください。かわいいかわいいユーリ?」

 

 小さな肉体が、豊満過ぎる乳房に埋もれていく。人のカラダについているとは思えない、とても大きな肉房。この世のものとは思えない柔らかさ。

 甘いミルクのような香りが、理性をトロトロに溶かしていく。

 身体だけじゃなくて、心まで、幼くなっていく。

 どんどん昔の甘えん坊に戻っていく。

 その最中で、幼さとは真逆の、狂おしい激情がボクに芽生えようとしていた。

 

「ノ、ノンちゃぁん」

「はい、ユーリ」

「ボクね、変なの」

「何が変なんですか?」

「胸がすごくドキドキして、身体が熱くて、すごく……」

「すごく?」

「すごく……やらしい気持ちになってるの」

 

 身体も心も子どものくせに、好きな人がいるのに──目の前の美女に、どうしようもなく魅力を感じてしまっている。

 オスとしての感情を、制御できない。

 そんなボクを、ノンナさんはやはり笑顔で見つめる。

 

「お姉さんで、やらしい気持ちになっちゃったんですか?」

「うん……」

「男の子なら、普通ですよ?」

「ダメだよ、こんなの。ボク、好きな人がいるのに、こんな気持ちになっちゃ、ダメなのに。ひっく……」

 

 どろどろに溶け合った感情は、涙として出てくる。

 

「やだ。こんなボク、嫌いだぁ」

 

 カチューシャお姉ちゃんが好きなのに。ノンナさんは大切な幼なじみなのに。

 自分でも知らなかった、怖いほどまでにメスを求める情欲が、ボクという存在を壊していく。

 気づかなかった。目を逸らしていた。

 こんなボクでも、ちゃんと“男”なんだということを。

 

 もしこのまま、込み上がる感情に従ってしまったら、ボクは……

 

「いいんですよ?」

 

 甘い囁きをかけられる。震える身体をゆっくりと撫でられる。

 

「そういう気持ちになっても、ノンナはユーリを嫌ったりしません」

 

 ノンナさんはどこまでも優しく、穏やかに、受け入れようとする。熱く滾った感情すらも。

 

「落ち着いて。怖くないですよ」

 

 母性に満ちた声色が、心を落ち着かせる。

 思いやりの心がそのまま大きさとなったような胸に、顔が包まれる。

 言葉にできない柔らかさ。脳が蕩けてしまいそうなほどに心地いい香り。

 

「ノン、ちゃん。ダメ。こんなことしたら、ますますボク……」

「……触りたいですか?」

「え?」

「ユーリが触りたいなら、構いませんよ」

 

 衣擦れの音がする。顔に当たっている巨峰が大きく波打つ。

 

「ノンナさん、待って」

 

 彼女が何をする気なのか、本能で察したボクは咄嗟のひと言で静止させる。

 沈黙が降りる。

 何が起こっているのか理解が追い付かない。

 

「ノンナさん、どうして?」

 

 ただハッキリしていることは、

 

「どうしてそこまで、ボクのこと……」

 

 ノンナさんの行為が、尋常ではないということだ。

 

 いつもそうだ。ノンナさんは、ボクを怒らない。どんなときも親切で、ボクに優しくしてくれる。

 幼い頃からずっと。

 そしていま彼女は、とある境界線を越えようとしている。

 仲の良い幼なじみだから、という言葉は済ませられない境界線を。

 

「ユーリだから、ですよ?」

「え?」

「いくら仲の良い男の子相手でも、こうして簡単に身体を許すほど、私は安い女ではありません」

「……」

「ユーリだからこそ、ここまでしてもいいって、してあげたいって思うんですよ?」

「それは……」

 

 それはもはや、かわいい弟分だからとか、愛着ある存在だからとか、子どものように愛らしいからという理由では説明がつかない独白だった。

 ここまで言われて、ひとつの結論に至れないほど、ボクはマヌケじゃない。

 ただ、信じられないだけだ。

 

「嘘だ。ノンナさんみたいな綺麗な人が、ボクみたいな男に……」

「私は、ユーリの素敵なところをたくさん知ってますよ?」

「え?」

「ずっと、見てきましたから。あなたが、カチューシャに憧れて、その背中を追いかけて、ずっと努力してきた姿を」

「……」

「私も、同じでしたから。カチューシャにふさわしい存在になろうと日々努力を続けてきました。だから、わかるんです。あなたの凄さが」

 

 ボクは、自分を凄いなんて思ったことはない。

 いつだって情けなくて、弱虫で、泣いてばっかりだ。

 そんな自分を変えたいから、ただただ我武者羅(がむしゃら)にいろんなことに挑戦して、そして失敗を繰り返してきた。

 だからいつも、何でもこなせるノンナさんの器量の良さに憧れていた。

 

 ……でも、ノンナさんの言うとおり、ボクらがカチューシャお姉ちゃんの背中を追いかけてきた似た者同士なら、考えていることも、同じだったのだろうか。

 ノンナさんから見ればボクという人間は、こうしてカラダを許しても構わないと思える存在なのか。

 ……そんなの、未熟なボクには、

 

 身に余るどころの話じゃない。

 

「ノンナさん、ボクは……」

「ユーリの気持ちはわかっています。あなたを応援してあげたい感情に、嘘偽りはありません。報われたときには、素直に祝福してあげたいとも思っています」

「……」

「でも、もしも、本当に万が一、その気持ちが報われなかったときは……」

 

 顔を上げる。目と目が合う。ノンナさんの、曇りのない、どこまでも慈愛に満ちた瞳と。

 

「いつでも、あなたを受け入れる女性がいる──そのことを、思い出してください」

 

 そこには、どこまでも、誰かの幸せを願う美しい女性の姿があった。

 運命がどう転ぼうとも、誰も不幸にしたりしない。そんな決意の込もった強かさと、そして優しさを感じさせる表情だった。

 そんな女性を前に、ボクは……

 

「焦らなくても、いいんですよユーリ」

 

 言葉を探そうとするボクを、ノンナさんは穏やかに窘める。

 

「ゆっくり、あなたペースで、答えを見つけてください」

「ボクの、ペース……」

「はい。どんな答えでも、それがユーリの決めたことなら、私は受け入れますから」

「……」

「私は、いつでもそんなユーリの力になりますからね?」

 

 そう言ってノンナさんは、いつものように穏やかに微笑んだ。

 

 こういうとき、いつものボクなら動揺していたに違いない。

 けれどいまは、自分でも驚くほどに冷静だった。

 考えるよりも先に、心がすでに答えを決めていたからかもしれない。

 

 ボクのこの思いが報われるかはわからない。自分が理想とする人間として成長できるかもわからない。

 だがそれでも、せめて……

 

(ボクのことをここまで大切に思ってくれる、この女性(ヒト)に恥じない男になろう)

 

 それだけは、絶対に守る。

 そう心に誓った。

 

 

 

 まるで心地よい夢の中で過ごしているような、ノンナさんと二人きりの午後。

 もうしばらく続いてほしい、と少しでも考えている自分に驚いた。

 しかし、夢とは必ず終わりを迎えるものだ。

 

 

「ノンナ~? いるの~?」

「っ!?」

 

 聞き慣れた声と共に執務室の扉が開かれる。

 寝巻姿のカチューシャお姉ちゃんが眠たげな瞳をこすりながら現れた。

 お昼寝から目覚めたらしい……ってやばい!

 ボクが咄嗟にノンナさんから離れようとすると、彼女はどこか名残惜しそうに腕を解いてくれた。

 何事もなかったかのようにお互い距離を取る。

 

「カ、カチューシャお姉ちゃん! おはよう!」

「申し訳ございませんカチューシャ。起きていらしたんですね」

「もう~カチューシャが起きたらすぐにお目覚めの紅茶用意しときなさいよね~」

 

 ブツブツと文句を言うカチューシャお姉ちゃん。

 どうやらボクたちが抱き合っていたことには気づいていないみたいだ。

 ホッとひと安心するボク。

 ……なんか浮気を隠す悪い男になった気分だ。

 

「あら、ユーリもいたの? 二人だけでいったい何を……」

 

 ボクの存在に気づいたお姉ちゃんがこちらに視線を向ける。

 きょとん、とツリぎみのお目々が驚きに見開かれる。どうしたんだろう?

 

「ユーリ。あなたその格好……」

 

 格好?

 

「……ああっ!」

 

 すっかり忘れてた! ボク、ノンナさんお手製の衣装を着たままじゃないか!

 一番見られたくない姿を一番見られたくない相手に見られてしまった。

 

「お、お姉ちゃん! 違うんだ! これには事情が……」

 

 ボクが必死に説明しようとすると……

 

「……きゃああああああああ♪」

 

 甲高い声と共にカチューシャお姉ちゃんが飛びついてきた。

 

「ユーリかわいいいいいいいいいい♪」

「ええええ!?」

 

 まるでひと目で気に入ったヌイグルミにするように、カチューシャお姉ちゃんが思いきり頬ずりをしてくれる。

 

「なになにその服!? すっごい似合ってるじゃないの!」

「ちょ、ちょっとお姉ちゃん!?」

「さてはカチューシャに可愛がられるためにわざわざオメカシしたんでしょ~? こ~の小悪魔さん! いいわ! 思いきり可愛がってあげるんだから~♪ むぎゅう~♪」

 

 てっきり笑われるかと思いきや、物凄い好評だった。

 そして物凄い勢いでスリスリされ、ハグハグされる。

 嬉しいけどなんだか複雑!

 

「あ~ん。ほんとうに可愛すぎよユーリ! さすがはカチューシャの従姉弟ね! 本物の天使みたいじゃなーい!」

「あ、いや、ボクとしては不本意なんだけど……」

「何言ってるの! そんなに似合ってるんだからもっと自慢しなさいよ! そうだ! この衣装そのままユーリ専用の制服にしちゃいなさいよ! カチューシャが学園長に言ってあげるわ!」

「ええ!? い、いやだよそんなの!」

 

 なんて恐ろしいことをナチュラルに言い出すんだお姉ちゃん!

 

「カチューシャが決めた以上もう決定事項よ!」

「そんな~!」

「名案ですカチューシャ。是非ともそうしましょう。いますぐそうしましょう」

「ノンナさんも便乗しないでよ! ていうか何またさり気なく写真撮ってるの!?」

「ベストショットなので」

 

 こんな恥ずかしい姿で憧れのカチューシャお姉ちゃんと抱き合ってるとこ撮らないでえ!

 でもお姉ちゃんは「イエーイ!」とノリノリでピースを決めている。そんなマイペースなお姉ちゃんも大好きです!

 

「ノンナ! その写真を新聞部に渡して学園中に掲載しましょう! 『偉大なるカチューシャの従姉弟はこんなにもカワイイ』って全校生徒に自慢してやるわ!」

「やめてお姉ちゃん! 本気でやめて!」

「本当は秘蔵にしたかったのですが、カチューシャがそうおっしゃるのなら仕方ありませんね」

「堪忍してけれ~!!」

 

 年上のお姉さんたちにオモチャにされるボクの悲鳴が執務室に響き渡る。

 

「うふふ♪ 本当にユーリと一緒の学園生活は毎日が楽しいです♪」

 

 ノンナさんはそう言って邪気のない素敵な笑顔を浮かべる。それが逆にサディスティックなものに感じるボクだった。

 そうだった。ノンナさんはこうしてお気に入りの相手ほど意地悪したくなる人だったんだ。

 

(まさか、さっきのやり取りもボクをからかっていただけなんじゃ……)

 

 真相を確認しようとしても、きっと今度は話題を逸らされてしまうことだろう。そんな光景が容易に浮かんだ。

 

 ノンナさんが告げたことは真実なのか。

 たぶん、それを明らかにできるかどうかは、ボクの今後の選択次第だ。

 ノンナさんもきっと、ボクが思い人に心を打ち明けるまでは、真相をいつまでも闇の中に仕舞うに違いない。

 優しいようで、一番大事なところで厳しいのが、ノンナさんという人だから。

 

 最も、その肝心な思い人は……

 

「ユーリ! 今度はフリフリな女の子の服も着てみなさいよ~! 絶対に似合うわ!」

「……ボク、男だもん。女の子の服なんて死んでも着るもんか……」

 

 いまでもボクを男としては見てくれないのだった。

 告白までの道のりは、はてしなく遠い。

 

「ううぅ……見てろお! 絶対に男らしい男になってやるんだからあ!!」

「うふふ。がんばってください、ユーリ♪」

 

 意地にまみれた決意表明をするボクを、ノンナさんは微笑ましそうに、そしてどこか期待を込めた眼差しで見つめるのだった。

 




 エルブルス山を画像検索してみてください。
 二つの峰を見ておっぱいを連想したエロいアナタは読後に背筋50回です(真顔)


 さて、話は変わりますが、一話分の文字数って何字が理想的なのでしょうね。
 個人的には5000字程度と思っているのですが、自分はこれがなかなかできない。
 今回なんか最長の14000字でしたよ。まとめるチカラがない証拠じゃないですかコンチクショウめ。
 読者の方々にはたくさんスクロールをさせてしまい申し訳ない。
 しかしプラスに考えてみよう。
 これによって指の筋肉も鍛えられたということではないでしょうか。
 この回を読むだけで腹筋、背筋、指筋(?)と三つも筋トレができるとは。
 なんて健全なSSなんだ()



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クラーラさんとは仲良し① お母さん

 プラウダ学園の図書室はなかなか豊富な蔵書を誇っている。

 特徴的なのはやはりロシア本国から寄付された文学作品の数々。

 いまだに日本語訳されていない貴重なロシア文学もあったりするので、読書家としては実に興味深い。

 辞書を片手に解読しながら読み進めていくのは中々に大変だが、暗号を解く学者のような気分に浸れるので、これはこれで楽しい。

 カチューシャお姉ちゃんがお昼寝している間のながーいお昼休みを使って、そんな読書に耽ることがボクの一日の楽しみだった。

 ただ……

 

「ううん……も、もうちょっと」

 

 自分の背が低いことを恨めしく思う瞬間は、やはり棚から本を取ろうとするとき。

 読みたい本に限って高い場所にあったりするから、難儀なものである。

 

「ううぅ、ぐにゅうう!」

 

 プルプルとつま先で立って手を伸ばす。

 素直に踏み台とかハシゴ使えばいいじゃんと言われるだろうが、ギリギリ取れそうな高さになると、つい意地を張ってしまう。なんかこう、隣の人は普通に本を取れるのにボクだけ踏み台を使うという光景は……敗北感を覚えてしまう。

 いま図書室にはボクしかいないから見ている人はいないし、我ながらつまらない見栄だとは思うのだが、それでも譲れないものというのが人にはある。

 なるべくジャンプとかも使わないように、目的の本を手に取ろうとする。ドンドンと跳ねたりしたら図書室に迷惑だからね。

 

「ぐぬ……むむむ!」

 

 思わず大親友の武佐士くんの口癖「むむむ」と唸りながら背伸びをする。

 あとちょっと……あとちょっとだ。もう少しで本に手が届きそうなところで……ガシッとハードカバーを掴んだ確かな感触を実感。

 よっしゃあ! と思わず心の中でガッツポーズ。

 まるでとつぜん背が伸びたかのように容易く取れた。もしかしてボクを哀れんだ神様が身長を少し伸ばしてくれたのだろうか。

 そんな素っ頓狂な想像をするほどに内心舞い上がっていると……

 

 ひょい、と本当にボクの身体は舞い上がるように宙に浮いた。

 

「ふ、ふえ?」

 

 急に目線が高くなった。

 もちろん奇跡の力で身長が伸びたわけじゃない。だって足が浮いているから。

 つまりこれは誰かに持ち上げられているということでして……

 

「欲しい本は取れましたか? ユーリくん」

 

 後ろから、優しく大人びた美声で名前を呼ばれる。次いで……

 むにゅうううう、と柔らかい感触が背中にあてがわれる。つい先日、掌で、顔で、身体いっぱいに味わったのと同じくらい大きくて柔らかいふくらみ。

 ボクは口をパクパクさせながらゆっくりと振り向く。

 こういうことをしてくる人は、幼なじみのノンナさんと、あと一人しかいない。

 

「ク、クラーラさん?」

「はい♪ こんにちはユーリくん♪」

 

 振り返ると、まるで雪の精のように美しい女性と目が合った。

 ロシアからの留学生であるクラーラさん。

 ミルクのように真っ白な肌と、バルト海を連想させる青い瞳に、艶やかなクリーム色の長髪。

 遠目から見ても見惚れてしまうような生粋のロシア美人と、いまボクは至近距離で見つめ合っている。

 というか、抱っこされている。

 

「ちょ、ちょっとクラーラさん!?」

「ユーリくん、あいかわらずとてもかわいらしいです」

 

 クラーラさんはニコリとほほ笑んで、さらにボクを抱きしめてくる。

 豊満な膨らみがボクの二の腕から溢れんばかりにたわむ。

 わわ。すごく柔らかい。それに、とってもいい匂い……じゃなくて!

 カァーッと頭からヤカンのように湯気が吹き出る。

 

「ク、クラーラさん。やっ、お、降ろしてぇ」

 

 クラーラさんの腕の中でボクはジタバタする。

 抱っこされていることはもちろん、先ほどの意地を張った姿を見られていたことも含めて恥ずかしさでいっぱいだ。

 でもクラーラさんはニコニコとしたままボクを離そうとしない。

 どころか、まるでボクの心情を読むように意地悪なほほ笑みを浮かべて、

 

「がんばって背伸びしているユーリくんを見ていたら、思わず抱きしめたくなっちゃいました♪」

 

 と甘い声色で言った。

 羞恥心と色っぽい艶声の二重効果で、ボクはますます沸騰する。

 

「うう~……」

 

 あまりの恥ずかしさで目をギュッと瞑る。

 きっとバッテンみたいな顔をしているだろうボクの反応が余計にクラーラさんを刺激してしまったのか、すりすりと頬まであてがわれる始末。

 

「うふふ。恥ずかしがるユーリくんもかわいいですよ?」

「お、男に『かわいい』は、褒め言葉じゃ、ないもんっ……ふええ! あ、頭撫でないで~」

 

 もう完全な子ども扱いだ。けど彼女の手つきを気持ちいいと感じてしまっている自分が恨めしい。

 

「本当にカチューシャ様にそっくりですねユーリくん。ますます抱きしめたくなってしまいます」

「な、ならカチューシャお姉ちゃんに、こういうことすればいいじゃないかぁ」

 

 クラーラさんがカチューシャお姉ちゃんを敬愛しているのは誰もが知っていることだ。

 代替としてボクを愛でるのなら本人にしてくれというニュアンスを込めたのだが……

 

「それとこれとは話が別です♪」

「あうう」

 

 クラーラさんもクラスの女子たちと同じようにボクをちやほやすることが好きなようだった。しかも、その度合いは誰よりも高い気がする。

 ボクを見つめる彼女の瞳は近所のお姉さんのように優しく……いや、もはや我が子を見るような慈しみさえ宿している。

 高校生とは思えない母性に満ちた表情で、クラーラさんは耳元に囁いてくる。

 

「ユーリくん」

「な、なに?」

「また前みたいに私のこと……“お母さん”って、呼んでみてください♪」

「わあわあ! その話は蒸し返さないでよお!」

 

 誤解される前に弁明しておこう。別にボクと彼女が以前に特殊なプレイをしたわけじゃない。ちょっとした事情で彼女をそう呼んでしまっただけのことだ。

 先生のことを『お母さん』と呼んでしまったというベタなあれではなく、人助けのためにしょうがなくで。

 

 話はボクとクラーラさんが“友人”になった日に遡る。

 

* * *

 

 寄港日と休日が重なると、ボクは陸にある大型書店で本を買い漁る。

 紙袋いっぱいに入った本の山を見ると、カチューシャお姉ちゃんは『よくそんなにご本を読もうと思えるわね』と呆れるが、ボクにとって読書は欠かせないものなのだ。

 立派な人間、ひいては立派な男を目指すなら、書物から教養を得ることも大事だと思うのだ。もとから読書好きってこともあるけど。

 

 でも、あまりにもボクが本に夢中になっていると、よくカチューシャお姉ちゃんは『わたしのこともっと構いなさいよ~!』と駄々をこねてしまう。

 恋する以前では、ぎゃあぎゃあと読書を邪魔する彼女によく腹を立てていたものだが、いまでは、ほほ笑ましい気持ちのほうが湧いてくる。

 

 ──読書は心の旅なんだよ、お姉ちゃん。

 

 その日の朝も拗ねる彼女に対して、苦笑交じりにそう嗜めてきたところだった。

 そして、そんなボクの言葉を聞いた彼女は頬を膨らませて……

 

 

 ──カチューシャと遊ぶより、ご本のほうがいいって言うの? ……ユーリの、バカッ

 

 

 心臓を射貫かれるような感覚とは、現実にあるんだなあと実感した瞬間だった。

 

 

 

「あ~あ~。どうして世の中には、いとこ同士の恋愛小説ってのがないんだろうな~。ぜったいに需要あるのにな~」

 

 緩んだ顔を浮かべながら、ボクは陸でいつものごとく大量の本を買っていた。頭の中で思い人の愛らしい反応を思い返しながら。

 

「ないなら、いっそ自分で書こうかな。《ボクのいとこのお姉ちゃんが天使過ぎるので本気出すことにした》ってタイトルで」

 

 そんなアホなことを考えながらの帰り道でのことだった。

 

「ねえ、ちょっとぐらいイイじゃん?」

「日本は初めて? なんなら俺たち案内するよ?」

 

 真摯とは程遠い乱雑な声がボクの意識を引いた。

 

「ん? あれって……」

 

 どう見ても、街中でナンパをされて困っている私服姿の女性を見かけた。

 どうやら、地元の大学生の男たちから強引に遊びに誘われているようだった。

 無理もないと思った。手の早い男どもならば声をかけずにはいられないほどの美貌を、その人は誇っていたのだ。そして、その美貌には見覚えがあった。

 

(あの人は確か、戦車道の……ええと、クラーラさんだっけ)

 

 よくカチューシャお姉ちゃんの側近として、彼女のお世話をしているロシアの留学生だ。

 何度か顔を合わせて挨拶をしたことがあるが、特別親しいわけじゃない。

 やたらと美人な留学生が来たと学園の男子たちは彼女のことに注目していたけど、片思いの相手がいるボクにとっては関係ない話だったし、クラーラさんもボクに対してそこまで関心があるわけじゃなかったと思う。

 カチューシャお姉ちゃんのいとことはいえ、クラーラさんがあくまで心酔しているのはカチューシャお姉ちゃんその人であって、容姿が似通っているというだけでボクまで特別扱いするわけじゃなかった。

 

 だから助ける義理はないと言えば、ないのだが……

 

(だからって、見過ごせないよね)

 

 こんなところで見なかったフリをするだなんて、男が廃るってものだろう。もちろん人としてもだ。

 

(助けなくちゃ)

 

 迷うまでもなくボクはそう決めた。だけど……問題はどうやって助けるかだ。

 

(できれば話し合いで済ませたいけど……)

 

 虐められっ子の経験上、あの手合いはそう簡単には引き下がらない。

 ならば武力行使や威嚇で追っ払うという選択肢が出てくるが……ボクみたいなチビがそんなことしたところで、笑いが巻き起こるのは火を見るより明らかだ。

 

 ──もっとも、武道をやっている身としては、腕っ節で負ける自信なんてさらさらないのだが。この見てくれから油断した相手を不意打ちで倒すのは、ボクの十八番(オハコ)である。

 けど、もちろん喧嘩に技を使うのは武道の理念に反する行為だ。

 

(う~ん……皆だったらどうするかな?)

 

 ここで、武道で知り合った友人たちを頭に思い浮かべてみる。

 彼らならこの状況をどう打破するだろうか。

 記憶にある彼らを鮮明なイメージとして生みだし、シミュレーションしてみる。

 なにか参考になる方法があれば、ぜひ活用してみよう。

 

 まずは《黄金のガーディアン》の通り名を持つサンダースのカズヒロさん。彼なら、たぶんこうするかもしれない

 

『お嬢さん! ここはオレッちが引き受けるから逃げな! そしてこのナンパ野郎ども! ……その鬱憤はオレッちにぶつけてこ~い! あっ! ああっ……あはーん♪ もっと! もっとぶってこい! これぐらいじゃオレッちの筋肉は満足できないぞ~!』

 

 見苦しいイメージを振り払う。ダメだ。ドM(変態)の彼では参考にならない。

 

 よし。次は継続高校のライヤさんだ。彼の場合は……

 

『は? なんで助けなきゃいけねーすんか? 報酬くれるってんなら別だけどよ』

 

 うん。あなたはそういう人だよねライヤさん。二つ名の《群青の死神》に恥じない冷徹ぶりだ。

 

 つ、次は頼りになるボクらのリーダー格。かつて《紅蓮の暴君》で名を馳せ、現在は中卒でありながら聖グロのスタッフとして働いているイアンさん。

 

『とりあえず玉潰す。女引っかけられるとか思い上がってるようなクソッタレの玉はさっさと潰す。()()()()()になりゃあ心入れ替えて世の中に尽くそうとする、ちったぁマシな人間にはなるんじゃね? 我ながら社会的にも人間的にも思いやり深いぜ、オレってやつはよお』

 

 イアンの旦那。ボクはあなたほど過激なことはできません。

 

 く、黒森峰のレイジさんは……

 

『フハハハハ! 女性に飢えているというのなら君たち! 私が開発したこの『実際に汗をかき生々しい肉感を誇りお好みの喘ぎ声を上げられるダッチワイフ』を進呈し……』

 

 最後の良心! 西住さん家の武佐士くん!

 

『ユーリくん。他の人がやることを参考にするんじゃいけない。君だけにしかできないことを、やるんだ』

 

 優しくも厳しい、親友の笑顔が浮かぶ。

 武佐士くん……。そうだね、君ならきっとそう言うだろう。

 ボクにとって一番の友達であり、最大のライバル。カチューシャお姉ちゃんとは異なる意味での特別な存在。

 彼はいつだってボクに大切なことを気づかせてくれる。

 

 でも、ボクだけにしかできないことって、何だ? どうすればクラーラさんを助けられる?

 

 そう考えている間に、事態はどんどん悪化していた。

 

「────」

 

 クラーラさんはロシア語を早口で捲し立てる。

 もちろん通じると思って言っているわけじゃないだろう。日本語が通じない相手だと思わせて、男たちに諦めさせようとしているのだ。

 いい案だと思ったが……

 

「え? なんて言ったのこの人?」

「わかんね。まあどうでもいいや。逆に好都合だろ。助け呼んでも周りに意味通じねえだろうし」

 

 まずい。手段を選んでる場合じゃなくなってきた。

 

(こうなったら……)

 

 危機に瀕すると、人は本能的に己に必要な行動が頭に生じてくる。

 武佐士くんが言う自分ならではの役割。それが天恵となってボクにアイディアを授けた。

 授けてしまった。

 うん。確かに、悪くない案だ。しかし……

 

(いや、でも、マジか?)

 

 名案ではあるが、自分でも正直どうかと思う作戦だ。ヘタをしたらボクのプライドがズタズタになり、生涯残る傷跡になるかも。

 でも……

 

「──っ!」

 

 少女の悲鳴が上がる。「助けて!」というロシア語が聞き取れた。

 

 ……そうだよ。自尊心が傷つくからって、なんだって言うんだ。

 それよりも、無垢な少女の心に傷が残るぐらいなら……

 

(……男のプライドなんて、いくらでも捧げるさ!)

 

 見ていて武佐士くん。ボクはいま……ボクにしかできないことを成し遂げてみせる!

 

(いざ!)

 

 嫌がるクラーラさんの細腕を掴む男グループに向かって突貫!

 

「ぬおおおお!」

 

 ボクは走る。ただ一直線に。恥も外聞も捨て去って。

 

 目標確認!

 男子グループの隙間をくぐり抜け……クラーラさんのもとへ到着!

 接触完了!

 いまです!

 

「お、お母さあああああああああん!! 早くお家に帰ろうよおおおおお!!」

 

 ボクの口から、涙交じりの声が、空高く向かって放たれた。

 

《つづく》

 



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クラーラさんとは仲良し② 人助けと読書

 真っ赤になった顔をなるべく見られないよう、ボクはクラーラさんのお膝に思い切り押しつける。

 

「お母さんどこ行ってたの!? ボク早くお家帰って『砲撃戦隊・タンクレンジャー』見たいよお!」

 

 不自然と思われないよう、子どもが母親に甘えるようにべったりとくっつき、舌足らずな口調で大声を上げる。

 ……誤解しないでほしい。

 ボクは不純な気持ちでこんなことしてるんじゃない。すべては……クラーラさんをナンパから救うためなのだ!

 

「うわっ、何だこのガキ?」

「お、お母さんって、なんだよ子持ちの奥さんだったのかよ」

 

 どうやら作戦成功だ。大学生たちはボクらを親子だと信じ込んでいる。

 クラーラさんは高校生にしてはかなり大人びているし、子持ちの女性でも違和感はない。

 そしてボクも日本人離れした見てくれのおかげか、ロシア人の子どもとして通用したみたいだ。

 

 一方、クラーラさんはとつぜん現れたボクに戸惑っているようだった。

 

「Ч、Что(シ、シトー)?」

「……ボクに合わせて」

 

 動揺している彼女にボクは上目遣いでこっそりと囁く。

 

「っ!」

 

 クラーラさんは一瞬、まるで矢で射貫かれたように艶っぽい声を漏らしたが、

 

「……Да(ダー)」

 

 なんとか通じたのか、こくんと彼女は夢見心地に頷いた。

 

 そしてすぐさま、とても慈愛に満ちた表情を浮かべてボクを優しく抱きしめてきた。

 

「《かわいい坊や》」

 

 辛うじてボクでもわかるロシア語で、クラーラさんはそう言った。

 すごいなクラーラさん。本当に一児の母親としか思えない迫真の演技だ。

 これなら誰も疑わないだろう。

 

「さすがに人妻に手を出すのはヤバイよなあ……」

「ああ。いっときの欲望で幸せな家庭を崩壊させるわけにはいかねえぜ」

 

 よし、すべては予定通り。

 ……ふっ。どうだい。これがボクにしかできないことさ。

 武力行使することもなく、説得する必要もなく、ちんまい体格をこうして利用するだけで、事は平和に幕を閉じる。

 

 武佐士くん、ボクやったよ。これが、ボクにしかできないことなんだよね?

 友人たちの冷めた視線がイメージの中で浮かぶけど、気にしない。

 その中で一人、武佐士くんだけはきっと感動の涙を流してくれているはずだから。それだけで救われる。

 ……流してくれてるよね?

 

 とにかく、街中でナンパするような彼らも、さすがに人妻に手を出せるほどの勇気は……

 

「待て。おれ一度でいいから()()()ってやつ経験してみたかったんだ」

「マジで? でも言われてみると若奥さんって絶妙にエロくね?」

「やべ。また興奮してきた」

 

 クソッ。この“(下半身が)街道上の怪物”どもめ。

 

「なあ坊や。ちょっとの間でいいからお母さん貸してくれないかい?」

 

 実にゲスイ顔でお願いをしてくる男たち。

 おのれ。そうはさせんぞ。

 クラーラさんを見習ってボクも迫真の子ども役を演じてやる。

 

「なんでえ? どっかに行くのお? ならボクも連れてってえ」

 

 ああ。死にてー気分だ。

 

「いやいや坊や。とてもじゃないが子どもには見せられない凄いことしに行くから、坊やはお留守番だよ~」

 

 ……ふん。子どもね。子どもですか。ああ、そうでうすか。

 自分でやっといて何だけど、本気でボクが高校生だとは気づかないコイツらにだんだん腹が立ってきた。

 そろそろ終わらすとしよう。

 

「子どもはダメなのお? じゃあ大人だけ~?」

「そうだよ~。大人だけのねっとりぐちょぐちょな世界だよ~」

「ふーん……じゃあお父さんも連れていってあげて! 仲間外れはかわいそうだもん!」

「え? お父さん?」

「うん! ロシア人のお父さんでね、すっごくデカいの! いろいろデカいの! 最近ね『日本人の男の子って小っちゃくてかわいいよな。是非とも私のスチェッキン・マシンピストルを試したい』って言ってたから、きっと仲良くなれると思うな! あ、お父さ~ん! ちょっとこっち来て~!」

「よしお前ら! 新しい出会いを探しに行こうぜ!」

「「ウェーイ!」」

 

 ふっ。たわいない。

 

「あ。あいつらこの間も女の人に破廉恥なことしてた連中だ。お巡りさーん」

「逮捕ぉ~」

 

「「「ノオオオオ!!」」」

 

 善良なる通行人の勇気ある通報により悪は去り、そして少女は救われた。

 ボクのプライドを、犠牲にして……

 流している涙は、もちろん嬉し涙だ。

 

 

 

「ごめんなさい!」

 

 事が済むと、ボクはすぐにクラーラさんに頭を下げた。

 

「あんな状況とはいえ、“お母さん”なんて言っちゃって。その、くっついたりしちゃって……」

 

 びっくりさせてしまったこと。許可なく身体に触ってしまったこと。演技させてしまったこと。諸々を彼女に詫びる。

 しかしクラーラさんは、ほほ笑みを浮かべる。

 

「いいえ。気にしていませんよ」

「え?」

 

 とても流暢な日本語にボクは目を見開いた。

 

「ク、クラーラさん、日本語話せたの?」

「カチューシャ様には内緒ですよ?」

 

 唇にひと指しを当てて、軽くウインクをするクラーラさん。

 か、かわいい……。

 って、いやいや。見惚れてる場合じゃないでしょボク。

 ぶんぶんと頭を振って真面目な顔に戻る。

 

「で、でも、イヤだったでしょ? ボクみたいなやつの母親役だなんて……」

「そんなことありませんよ?」

「え? っ! わ、わわ!」

 

 クラーラさんはボクを抱き上げると、先ほどの続きのようにぎゅっと抱擁してきた。

 

「ちょ、ちょっと……」

 

 至近距離でクラーラさんの美貌と向き合う。

 

「うっ……」

 

 思わず息を呑んだ。それほどまでに、彼女は美しかった。神様の贔屓によって作られたとしか思えない顔立ちに、ボクは胸のどきどきを抑えられなかった。

 

「ク、クラーラさん?」

「うふふ。この歳で、かわいい子どもができてしまいました」

 

 クラーラさんは多幸に満ちた笑顔でそんなことを言った。

 ボクの頭から湯気が上がる。

 

「そそそ、それはだから演技で……」

「ユーリくん、でしたね? カチューシャ様のいとこの」

「あ、はい」

「こうして間近で見ると、そっくりですね」

 

 クラーラさんは愛しそうにボクの頬を撫でた。思わず心が穏やかになるような、それこそ子どものように甘えたくなるような、心地良い手つきだった。

 

「ひとつ、質問してもよろしいでしょうか?」

「な、なんでしょう?」

「ユーリくんは確か、武道をやっていらっしゃいましたよね?」

「え? う、うん。この見てくれだと、やってるってこと信じてもらえないけど」

「お強いのですか?」

「……そこらのチンピラ程度相手なら、負けない自信はあるよ?」

 

 だからって、ぜんぜん自慢にはならないけど。

 ボクの友人たちを始め、上位の実力者はみんな次元違いの強さを誇っている。ボクなんて、まだまだ足下にも及ばない。

 ただ、あの大学生の連中相手なら、束になって襲ってきても善戦できたと思う。呆れてしまうほど隙だらけだった。

 そのことをクラーラさんに伝えると、彼女は首を傾げる。

 

「では、どうしてあんな回りくどいマネを?」

 

 戦うすべがあるのに、なぜそれに頼らなかったのか。クラーラさんはそう尋ねたいようだった。……意外に武闘派なんだろうか。

 

「えっと、だからそれは……」

 

 何度も言うように、武道の技を喧嘩に使うのは理念に反することだ。

 でもなによりも……

 

「ボク、暴力って好きじゃないから」

 

 武道は心と精神を鍛えるためにある。だから許容できる。でもそれをイタズラに使うんじゃ、暴力と同じだ。

 友人の皆はそんなボクを「甘い」って言うけど……

 

「誰も傷つかずに済むなら、それが一番いいもの」

 

 暴力は本当に虚しいもので、悲しい気持ちしか生まないんだ。虐められっ子の身だったからこそ、断言できる。

 そんなものを振るう人間なんかに、ボクは絶対になりたくない。

 

「強さの意味を、はき違えたくないだけなんだ。それじゃ、答えにならないかな?」

 

 ボクがそう言うと、クラーラさんはどこか安心したように笑って、

 

「──はい。よく、わかりました」

 

 あなたのこと、とロシア語で言われたような気がした。

 

「さすが、カチューシャ様のいとこですね」

「え?」

「ユーリくん」

「は、はい」

「よろしければ、これからも親しいお付き合いしてくださいませんか?」

「それは、構わないけど」

 

 ボクの返答にクラーラさんは清楚にほほ笑んで、またボクを母のように抱きしめた。

 

「わわわ。クラーラさんっ」

「暖かいですね、ユーリくんは」

「は、恥ずかしいよ。お、降ろしてぇ」

「もう少し、こうさせてください」

「そ、そんなあ」

「うふふ♪」

 

 自分よりもずっと背の高い美人さんに抱きしめられる恥ずかしさに悶えながら、ボクは込み上がる感情と必死に戦った。

 

(お、落ち着けえ。ボクが好きな人はカチューシャお姉ちゃん……)

 

 そんな風にあたふたしているボクに、クラーラさんはいたずらっ子のような笑みを向けて言った。

 

「助けてくれてありがとうございます、ユーリくん」

 

 そのようにして、ボクとクラーラさんは友達になった。

 

 

 

* * *

 

 

 

「ごめんなさいユーリくん。どうか機嫌を直してください」

「ふんだ。意地悪なクラーラさんなんて嫌いだもん」

 

 そして現在、ボクとクラーラさんはこんなやり取りができるほどの親しい仲になっている。

 本を貸し合ったり、たまに一緒にお出かけしたりすることはもちろん、試合があればお互い応援に顔を出している。その際、彼女はよく差し入れに手作りのお弁当やスイーツを持ってきてくれる。とても素敵な女友達だ。

 ……ただ、クラーラさんは親しい相手ほどちょっかいをかけたくなるタイプらしく、ノンナさんと同じようにボクをからかうことが多い。そこがちょっと難点だ。

 さっきだって、ボクが恥ずかしがるのを知っていて『また親子ごっこしましょう?』と良い笑顔で言うものだから、ボクは完全に機嫌を損ねていた。

 ぷいっと怒りが伝わりやすいように彼女から顔を逸らす。

 するとクラーラさんは「……ぐすん」と悲しそうな声を上げた。

 

「うぅ、どうしましょう、ユーリくんに嫌われてしまいました」

 

 しくしくと泣き出すクラーラさんの姿にボクは慌てだす。

 

「わわわ! ほ、本気で言ったわけじゃないよ?」

「はい♪ 知ってます♪」

 

 ケロッと笑顔に戻ったクラーラさんに、ボクは「ぬっ」と渋い顔をする。

 もう、本当にノンナさんといい、どうして女の人って男をからかうのが好きなんだろう。

 

「ごめんなさい。ユーリくんの反応があまりにもかわいいものですから、つい」

 

 再びむくれるボクに対してクラーラさんは苦笑交じりに謝るが、ぜんぜんフォローになっていない。

 どうせボクはからかいがいのある人間ですよーだ。ツーンとさらにそっぽを向いてやる。

 

「ユーリくん」

「ツーンだもん」

「口で言っちゃうユーリくんかわいいです」

 

 なかなか機嫌を直さないボクに、クラーラさんは手元のロシア文学に目線を配って、柔らかくほほ笑んだ。

 

「お詫びと言ってはなんですが、私でよければロシア語の翻訳をお手伝いしますよ?」

「え、ほんと?」

 

 それは助かる。ただでさえロシア文学って内容自体が難解だから、解説をしてくれる人がいると心強い。

 

「わからないところがあれば、私に何でも聞いてください」

「じゃ、じゃあ、お願いしちゃおうかな」

 

 我ながら呆れるほどあっさりと機嫌を直したボクは、クラーラさんと一緒に読書をすることにした。

 

 

 

「ユーリくん、ここはですね。『彼はこの世に産声を上げたその瞬間から、一種の麻薬に等しい中毒性を秘めた魅了の才覚を無意識に振りまき、親のみならず乳母と家臣の心を我が物としてしまったのだ』……です♪」

「……」

「そしてここはですね。『我が信仰はすでに地獄の業火に焼かれた。私という人間は、私という魂は、すでに死んだのです。ならば今こうして貴方の前で膝をつく私は何なのでしょう。私という亡霊が現世に留まる理由はただひとつ。それは煉獄の炎よりも熱く燃えたぎる貴方への愛に他ならず……』」

「あ、あのクラーラさん」

「はい。わかりにくいところありましたか?」

「いや、それは大丈夫。思ったよりもわかりやすいよ? そのね、翻訳を手伝ってくれるのはすごくありがたいんだけど……」

 

 ボクは冷や汗をかきながら言う。

 

「なんでボク、クラーラさんの膝に座らされてるの?」

 

 いまボクらはひとつの椅子の上で、母親が小さな子どもに読み聞かせするとき同じ体勢で密着している。

 ボクの問いにクラーラさんはとても素敵な笑顔を浮かべて答える。

 

「このほうがお互い読みやすいではないですか♪」

「……そう、かなぁ?」

 

 隣り合って座っても支障はないと思うんだけど……。そう言ってもクラーラさんはボクを膝から降ろすことはせず、にこにこと満足そうに解説を続ける。

 心なしか、ただでさえ潤いのあるお肌がツヤツヤしている気がする。

 

「では、続けましょう。ここはですね……」

「あうう」

 

 正直言って読書に集中なんてできない。

 恥ずかしさはもちろんだけど、間近で感じるクラーラさんの体温や鼻腔を突く甘い香りで頭の中がグルグルだ。

 そしてなによりも、さっきから後頭部に当たるむにゅっとした感触がボクを落ち着かせない。

 

「うぅ~」

 

 豊満過ぎる感触から逃れるため、なるべく前に身体を傾けようとすると、

 

「めっ」

 

 すぐにクラーラさんはボクを引き戻す。そしてさっきよりも密着してしまう。

 ふたつの丘に埋没する後頭部。あうう。

 

「ちゃんと座らないと危ないですよ?」

 

 そう優しく言い聞かせて、ボクの頭をよしよしするクラーラさん。

 

「うう~」

 

 結局、クラーラさんの巧妙な手で『親子ごっこ』をする羽目になってしまった。

 ボクが恥ずかしがれば恥ずかしがるほど、クラーラさんはにこやかにほほ笑む。

 ……やっぱり、この人はノンナさんと同じ匂いがするなぁ。

 

「もう~クラーラさん! いっつもそうやって子ども扱いして~!」

「うふふ。ユーリくんがあまりにもかわいいものですから」

「だから、男に『かわいい』は褒め言葉じゃ……」

「《本当に、私の子ならいいのに》」

「え?」

 

 聞き間違いだろうか。クラーラさん、ロシア語でとんでもないこと言ったような……。

 

「ク、クラーラさん?」

 

 ボクを見つめるクラーラさんの瞳から、熱いものを感じる。

 気づくと彼女は本から手を離し、ボクをぎゅっと抱きしめていた。

 

「ユーリくん……」

「ちょ、ちょっとクラーラさん読書は!?」

 

 質問しても彼女の耳にはもう入っていないみたいだった。

 とても優しく慈愛に満ちた顔でぎゅっと抱擁してくる。ますます押し潰れるふくらみ。あたふたとするボク。

 

「はわわわっ」

「ユーリくん。本当にあなたは魅力的なかたですね」

「え、ええ?」

「かわいらしくて、でも試合では凜々しい姿を見せられて、その上に勇気と強さもあって、……そしてとても優しくて」

 

 クラーラさんの美顔がさらに間近に迫ってきたかと思うと……

 

「んっ……」

「っ!?」

 

 不意打ち気味で、頬にキスをされてしまった。頭から汽笛が上がる。

 

「ク、クラーラしゃん! な、なんちぇことを!」

 

 動揺から舌が回らない。そんなボクに反して、クラーラさんは変わらず恍惚とした笑顔を浮かべている。

 

「ロシアでは挨拶ですよ?」

「そ、それは知ってるけど~!」

 

 フランス、スペインがそうであるように、ロシアもキスで挨拶をする文化がある。

 ひと昔前では同性相手でも長いお別れの際は、口と口のキスをして友好を確かめ合っていたと言うけど……でも郷に入っては郷に従えですよ!?

 だが、いまのクラーラさんに何を言っても通じそうにない。

 うっとりと幸せに浸った彼女の表情は、もう周りなど見えていない。

 

「ユーリくん……」

「あわわ」

 

 そんな表情を見ていると、ボクまで引き込まれそうになる。クラーラさんの美顔から目が離せなくなる。

 

「ユーリくん。私たちは、とても仲良しですよね?」

「う、うん」

 

 魔力にあてられたように、自然と頷いてしまう。クラーラさんは満足げにほほ笑んで、さらに顔を近づける。

 その距離はもう、唇と唇が触れ合いそうで……

 

「親しい者同士は──こうやって挨拶するんですよ?」

 

 目を閉じて、その唇をゆっくりとボクの唇に……

 

「……なにをしていらっしゃるんですか、二人とも」

「ひっ!」

 

 本能的に恐怖を煽るような声に正気を取り戻す。

 

「ノ、ノンナさん?」

 

 いつのまにかボクらの傍に目から光を消したノンナさんが立っていた。怖いよ!

 

「これはノンナ様。ご機嫌よう」

 

 ボクと違ってクラーラさんは毅然としている。実に爽やかな笑顔でノンナさんと向き合う。

 

「クラーラ。あなた、なかなか面白いことをしていますね」

「はい♪ 私たち、とても仲良しですから♪」

「それは、なによりです」

 

 クラーラさんの言葉に、ノンナさんもニコリと笑みを浮かべる。でもその目はぜんぜん笑っていない。幼なじみのボクから見るに、あれは間違いなく不機嫌だ。

 な、なんだ? 幼なじみのボクが他の女性と仲良くしてるから? それとも……

 

 二人の女性は、ボクを挟んで「うふふ」と笑顔で見つめ合う。

 ……なんだろう。二人の間で火花が散っているような気がする。

 

「────」

 

 ノンナさんがロシア語で何事か呟く。ネイティブ過ぎる発音かつ早口だったので正確には聞き取れなかったが、辛うじて単語は聞き取れた。

 えーと、ボクの名前は口にしたと思う。

 それとあと……『歳月』『長く』『魅力』『一番』『理解』『渡さない』かな?

 

「────」

 

 クラーラさんもロシア語で何事か口にする。

 えーと……『時間』『無関係』『早い者勝ち』『略奪』『もうどうにも止まらない』?

 なんか、表情のわりには物騒なこと言ってるなクラーラさん……。

 

「なるほど。クラーラ、あなたの覚悟はよくわかりました」

 

 覚悟!? そんな壮絶な会話してたの!?

 

「では、私も容赦しません。……ユーリ?」

「え、なに? ……わ、わわっ!」

 

 とつぜん名前を呼ばれたかと思うと、ノンナさんはボクの身体を掴んで自分のもとへ引き寄せた。まるでクラーラさんから奪うように。

 

「あ! ユーリくん!」

 

 クラーラさんが切なげに声を上げると、ノンナさんは勝ち誇ったような顔を浮かべる。

 そのまま彼女はボクを膝の上に乗せる。──対面する形で。

 

「ちょっ!?」

 

 目の前には巨大なエルブルス山。そしてノンナさんの爽やかな笑顔。

 

「ユーリ? 膝の上なら、私が一番座り心地がいいですよね?」

 

 優しい声色でそう言って、ノンナさんはボクを思いきり抱きしめた。

 

「むぐっ!」

 

 山に顔が埋もれる。い、息がっ。

 

「ず、ずるいですノンナ様!」

「クラーラ。私は幼い頃からこうしてユーリを抱きしめてあげてきたのです。ですから、私のカラダでなければこの子は満足できないのです」

 

 ノンナさん! 誤解されるような言い方はやめて!

 というか呼吸! 呼吸できない!

 SOSを伝えるためジタバタと身体を揺り動かす。

 ぷるんぷるんと波打つ巨峰。「あんっ……」と色っぽい声が頭上から上がる。

 

「んっ、ユーリったら。『もっと抱きしめて』ですか? もう、甘えん坊さんですね」

 

 違ああああう!

 

「見なさいクラーラ。こんなにも喜んでいるでしょう? つまり私が一番ユーリを気持ちよくさせられるのです」

「そ、そんなことありません! ユーリくん! 私だって気持ちよくしてあげられますよ!?」

 

 だから誤解されるような言い方は……ってちょっと、何クラーラさんまで抱き着いて……

 むにゅうううと、さらなる圧力が後方から加わる。

 

「ほら、ユーリくん。お母さんの気持ちいいですか?」

「ユーリ、いっぱいお姉さんに甘えていいんですよ?」

 

 な、なに、この天国と地獄のサンドイッチ。

 

 視界が遮られている上に、耳すら柔肉に包まれてもう何が何やら。

 ただひたすらもう四方八方から、むにむにと、もにょんもにょんと、たぷんたぷんと、柔らかすぎる四つの感触と、とろけたミルクのような香りに顔中が包まれる。

 

「ユーリくん♪」

「ユーリ♪」

 

 甘い声で囁きながら、二人はもっともっと深くボクを抱きしめ……

 あ、もう、ダメ。

 

「ん。ユーリ、もっとくっついて……ユーリ?」

「ユーリくん? どうし……」

「きゅう~」

 

 カチューシャお姉ちゃん。先立つ不孝をお許しください。

 

「ユーリ!?」

「ハラショー!?」

 

 ようやくボクが目を回していることに二人は気づいて慌てだしたが、時すでに遅しである。

 

(あ~生まれ変われるなら、今度は身長190cmぐらいの大男になりたいなあ……)

 

 そんなことを考えている間に、ボクの意識はゆっくりと闇へと落ちていった。

 

 

 

 失神する間際、武佐士くん以外の友人たちが脳内で姿を見せ、こう言った。

 

 ──爆ぜろ。魔性のショタ。

 

 ほっといてよ!

 

 




 この後、どちらがユーリに人工呼吸するかで揉めるノンナとクラーラでしたが、偶然通りかかったニーナが即座に対応してくれたので事無きを得ました。
 ニーナ、いいやつだったよ。


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黒森峰編──ナーサリー・クライムの宴
エリカの幼なじみ






 偉大な栄光とは失敗しないことではない

 失敗するたびに立ち上がることにある

 

──エマーソン

 

* * *

 

 逸見エリカの人物像について尋ねると、以下のような答えが返ってくる。

 

 強気で頑固。

 怒りっぽい。

 好物はハンバーグ。

 優秀ではあるが感情的になりやすい。

 美人だが性格はきつい。

 学食でしょっちゅう食べるのはハンバーグ定食。

 ひたむきな努力家ではある。

 実は面倒見がいいかも。

 主食はもしかしてハンバーグ?

 メディア報道や取材の場ではわりと常識人。

 でもやっぱり面倒くさい性格である。

 ハンバァァァァグッ!

 

 彼女のことを知る者の大半は、このようにほぼ似た解答をすることだろう。

 万人に共通の印象を残すほどの、強烈な性格と美貌の持ち主であることを物語っている。

 

 しかし彼女が昔いじめられっ子だったということは、わりと知られていない事実である。

 

 いまでこそ質実剛健なキツさを日常的に披露している彼女だが、幼少時は『深窓の令嬢』という称号がふさわしいほどに、大人しい少女だった。

 もともとエリカは西洋系の良家に生まれた、生粋のお嬢様である。

 当時はロリーターファッションに身を包み、ヌイグルミを抱いて出歩くような、それはもう愛らしい少女だった。

 日本人離れした顔立ちや銀色に近い亜麻色の髪も相まって、どこか幻想じみた魅力すら放っていた。

 近所の人間たちも「なんてかわいらしいお嬢さんなんだろう」と老若男女問わず、その幼き美貌に魅了されたものである(エリカが調子に乗りやすい高飛車な性格になった原因であるのは言うまでもない)。

 

 それだけ注目を浴びる存在感を放っている以上、良からぬ感情で近づく(やから)も当然出てくる。

 エリカが外出しているときや公園で遊んでいるときなどに、それは狙いすましたように現れるのだった。

 

「コイツなんでこんな変な髪の色してんだぁ?」

「変だよなぁ」

「知ってるぞぉ。こういう髪にしてる奴って不良なんだぜぇ」

「不良だ不良だぁ」

 

 近所の悪童たちは、なにかとそう難癖をつけてエリカをからかった。

 気になる子ほどちょっかいをかけたくなるという、典型的なアレである。

 もっとも、それは初心な好意というよりは、動物染みた下賤な嗜好からくる嫌がらせだった。

 衝動的で無遠慮な中傷は、とうぜん幼いエリカの純心を傷つけた。

 

「うぅぅ……違うわよぉ。この髪は生まれつきなんだからぁ」

 

 もちろん正当な反論をしたところで納得するような連中ではない。

 エリカが感情的になればなるほど、彼らはただ楽しむだけである。

 

「なによぉ。アンタたちなんか嫌いなんだから! あっち行けー! ちねえ!」

 

 エリカがハッキリと敵意と嫌悪を剥き出しにして、罵詈雑言を浴びせ追い払おうとしても、悪童たちはケラケラとその有り様を笑うだけだった。

 むしろエリカが自分たちに対し、敵意であっても意識を向けていることを喜んでいる節さえあった(きっと幼くしてMっ気があったのだろう。将来が心配なことこの上ない)。

 

「うぅぅ……」

 

 根が真面目で堅物なエリカにとって、正論が通じない相手は未知の生物も同然で、対処の仕様がなかった。

 どれだけ「お前たちは間違っている」「男として最低だ」「恥を知れ」といった類いの説法をしても、悪童たちのお粗末な心には到底響かない。

 

(誰か……)

 

 自分にできうる限界を悟ると、エリカは救いを求めた。

 こんなとき、物語だったら“正義の味方”が助けてくれるのに──

 

「くっ!」

 

 そんな甘い考えをいだいた自分をエリカは恥じた。

 そしていきり立つ。

 負けるものかと。

 こんな集団で一人の少女を虐めるような卑劣な連中に簡単に屈してはいけないのだ。

 エリカは、せめて心だけは負けまいと決めて、涙の溜まった目を鋭く突きつけた。

 

 そんな彼女の果敢な姿勢に天は感心を示したのかもしれない。

 あるいは出会うべくして出会う必然だったのかもしれない。

 どうあれ、

 

「やめたまえ!」

 

 “正義の味方”は現れた。

 もっとも、それは正義の味方(ヒーロー)というよりは……

 

 ──魔法使い?

 

 声のした先に目を向けると、そこにいたのは黒いマントに鍔の広い三角帽子を身に着けた同い年ぐらいの少年だった。

 夕日を背にし、公園のジャングルジムの天辺に立ち、その奇怪(きっかい)なシルエットをエリカと悪童たちに見せつけている。

 

「なんだお前?」

 

 妙な恰好をした少年の登場に悪童たちは訝しんだ。

 というよりアホを見るような目をしていた。

 正直エリカも「なんだコイツ」と思った。

 

 しかし黒衣を纏う少年は、そんな蔑みの目線に怯むことなく堂々と直立し、悪童たちにびしっと指を向ける。

 

「恥知らずどもが!」

「あぁん?」

「姿かたちなど、どうでもよいこと。人間にとって大事なのはその中身……心であろう! 貴様らの心は黒くよどんでいる! 寄ってたかって一人の少女に責め苦を味わわせるとは! 男の風上にもおけぬ腐敗堕落! 許しがたい悪逆無道である!」

 

 少年はまるで演劇のように華美で仰々しい言葉遣いで悪童たちを罵倒した。

 育ちがいいのか、幼くして難しい言葉を知っている。

 一方悪童たちはいくつか聞き慣れない言葉を前に首をひねっていたが、しかしそれが自分たちをバカにした内容であることは()()()が足りなくとも理解できた。

 一気に喧嘩腰となる。

 

「んだとコラァ! おりてこいや!」

「上等である! この正義の代行者たる私が、貴様らに鉄槌を降す!」

 

 少年の威風堂々としたその勇姿に、エリカはつい見惚れた。

 最初はその奇抜な姿に期待よりも不安が先だったが……ためらうことなく悪童たちに挑もうとする彼は本物のヒーローみたいだった。

 彼なら本当に自分を助けてくれるかもしれない。

 エリカの心が光に満ち溢れる。

 

「覚悟しろ悪人! とう!」

 

 黒衣を翼のように翻し、ジャングルジムから飛び降りる少年。

 恐れを知らないその行動はまさしくヒーローそのもの……

 

 

 

 

 グギッ

 

「あ、いたーい!」

 

 着地したヒーローは足の痛みに悶えた。

 拍子抜けする光景にエリカも悪童たちも思わずズッコケた。

 

「イタイイタイ! さすがにジャングルジムから飛び降りるのはカッコつけすぎちゃったかな~!」

「何しに来たのよアナタ!」

 

 膝をさすりながら情けない声を上げる少年に思わずエリカは駄目だしをしてしまう。

 その横で悪童たちがゲラゲラと笑う。

 

「なんだコイツ。けっきょく口先だけのマヌケ野郎だぜ!」

「そこの変な髪の色した女と一緒でコイツも変な奴だー!」

「やーい。変なのコンビ~」

 

「ぐぬぬぬ……」

 

 エリカは苛立ちから歯噛みした。

 これでは悪童たちに余計なからかいのためのエサを与えたようなものではないか。

 ちょっとでも黒衣の少年に見惚れた自分が恥ずかしい。

 

 希望が失望に変わりかけたそのときだった。

 

「──ほう。彼女の髪のどこがおかしいというのかね?」

 

 さっきまでの情けなさはどこに消えたのか。目の前には、大人にも負けない気迫を携えた少年が、真っ向から悪童たちと対峙していた。

 びくっと悪童たちが怯む。

 

「な、なんだよ。変なもんを変って言って何が悪いんだよ!」

 

 少年の豹変に困惑しながらも、悪童のリーダー格は食ってかかった。

 しかし、少年は動じない。

 

「貴様らの目は節穴か? 彼女の髪をどこから見れば、からかいの対象になるというのだ?」

「うっせー! 俺たちと違う髪の色してっから変だって言ってんだよ!」

「見識の狭い奴だ。そしてひどく自己中心的だ。貴様のような人間には、世の中はさぞつまらないものとして映っているだろうよ。価値あるものの価値がわからないのだから」

「あぁん? さっきからワケのわからないこと言って話逸らしてんじゃねーぞごらぁ!」

「そして言葉の真意も図ろうとせず、ただ衝動的に暴言と暴力を振るうばかり。我が屋敷にいる大人どもとなんら変わりはしないな」

「なにぃ?」

「わからないのなら、わかりやすいように言ってやろう」

 

 少年はエリカの前に立つ。

 悪意から庇うように。

 理不尽から守るように。

 そして少年は言う。

 

「彼女の髪はきれいだ。その容姿も。そして、その心もだ。貴様らのような人間に負けんと挑む勇気ある心を持った彼女を──バカにする権利はない」

 

 ドクン、とエリカの胸が鼓動を打つ。

 よく大人たちに「かわいい」と持てはやされたエリカだが、こうもハッキリと「きれいだ」と言われたのは初めてのことだった。

 それも歳の近い男の子の口から。

 容姿どころか、心そのものまでがそうだと。

 

 少年の背中から、エリカは目が離せなくなった。

 

「それに、世の中にはもっとおかしな色をした髪の持ち主がいるのだぞ?」

「嘘つけ。そこの女の髪より変わった色した人間がいるのかよ?」

「いるとも」

 

 少年は不適な笑みを浮かべて、三角帽子を手にかける。

 まるで手品を見せるような動きで帽子を取っていく。

 そんな少年の一挙一動すら、エリカは目を逸らすことができなかったが……

 

「私の髪の色はレインボーだ!」

「ぎゃああああ! 目にイテエエエ!!」

 

 極彩色に輝く少年の頭髪はさすがに直視できなかった。

 

「フハハハ! どうした悪童ども! なぜ逃げる! この世にも珍しいレインボーヘアーをとくと見るがいい!」

「やめろ! こっちに寄るな! 見てると気分が悪くなる!」

「遠慮することはない! ほれほれ光が当たる角度によって色が変わるんだぞぉ!」

「やめろっての! ポケモ〇ショックになるわ!」

「レインボーフラァァァッシュ!!」

「こいつ人間じゃねえええ! 化けもんが出たよお母ちゃああああん!」

「フハハハハハ!」

 

「……」

 

 少年はエリカを助けるために奔走してくれている。

 それは間違いなかった。

 しかし。

 しかし、である。

 それでもエリカは思った。

 

 ──わたしは何を見せられているんだろう。

 

 目の前の状況をどう受け止めればいいのか。

 幼い彼女には処理しきれない奇天烈な救済譚がいまここに披露されていた。

 

「ひいいい! もう勘弁してくれーーー!」

「ふん! これに懲りたら二度と彼女を虐めないことだ! もしまた同じことをしたらそのときは……レインボーフラァァァッシュ!!」

「いやああああ!! 気が狂ううううう!!」

 

 サイケデリックに瞬く光を前に、悪童たちはいつのまにか退散していた。

 

 公園に残ったのは茫然としているエリカと、「正義は勝つ!」と勝利のポーズを決めているレインボーボーイのみである。

 

「もう心配はないぞ君。ケガはないかね?」

「う、うん。だいじょうぶだけど、そんなことより……」

 

 安心よりも先に純粋な疑問と恐怖がエリカを支配している。

 恐る恐る、エリカは尋ねる。

 

「あ、あなたの髪って、ほんとうにその、生まれつきそうなの?」

「ん? まさか。こんな人類が存在するはずなかろう」

 

 当然のごとく、それは虹色に光るカツラだった。

 彼の本来の髪の色はどこにでも見られる黒色だった。

 人型の突然変異と出くわしたのではないかと肝を冷やした分、エリカは深く安堵した。

 同時にわいてきたのは「羨ましい」という気持ち。

 自分も彼のような黒髪だったら、あんな変な連中に目を付けられることもなかったのに。

 

 そんなエリカの気持ちを視線から汲み取ったのか、少年は言った。

 

「さっき言ったことは本心だ。君の髪はおかしくないし、とてもきれいだ」

 

 再びストレートに褒められたので、エリカは顔を赤くした。

 なぜだろう。

 大人に褒められると「当然」と気分がよくなるだけなのに、同い年の異性相手にこう率直に言われると、途端に照れくさくなる。

 

「少なくとも、こんな髪よりは、ずっと見栄えはいい」

 

 彼はそう冗談交じりにカツラをぶら下げた。

 

 確かに、エリカにとってこの髪は自慢だ。自分でも気に入っている。

 しかし、周りまで好意的に受け取るとは限らない。

 あの連中がいい例だ。

 

「……きっとまた、あんな奴らがわたしの髪をバカにするんだわ」

 

 そう考えると、この生まれ持った髪を疎ましく感じてしまうのだった。本当は好きにも関わらず。

 先行きの不安がエリカという少女を気弱にする。

 

「ふむ。そうだろうね。ああいう連中はどうあっても、この世から消えることはない」

 

 少年も否定しなかった。

 少し悲しかったが、彼の言うとおりだと思った。

 悪い人間はいなくならない。だから毎日のようにニュースや新聞で報道される。

 どんな平和な時代でも悪はのさばる。それは覆らない事実。

 小さい子どもでも知っている。

 そう、知っているからこそ、

 

「だからこそ──君自身が強くなるしかない」

 

 ごく当然のように少年はそう言った。

 俯かせていた顔を、エリカは少年に向ける。

 優しさと厳しさを併せ持った、そんな笑顔を少年は浮かべていた。

 

「強くなりたまえ。バカにする奴が現れようと、鼻で笑ってやれるぐらいに強い自信を持つんだ。自分は間違っていない。お前たちのほうがおかしいんだと胸を張って言えるようにね」

「……」

 

 そうなった自分をエリカは想像してみた。

 生まれ持った髪を美点として堂々と見せつけ、果敢に立ち上がる己の未来像を。

 それは、とってもカッコイイ姿のように思えた。

 なれるのなら、なりたいと心から思った。

 

「……でも。そんなこと、わたしに、できるかな」

「なにを言う。君は今日、奴らに向かって怯まずに正論を言い続けた」

 

 それは、君にとって成長の“兆し”だ、と少年は言う。

 本当に彼は大人みたいな言葉を使う。

 

「成長の第一歩は、まず自分が自分を一番信じることだ。偉大な祖父の受け入りだがね」

「……それでも、うまくいかなかったら?」

「ふむ。そうだな。君がどうしても乗り越えられない困難な壁に直面し、一人でどうしようもできなくなった、そのときは……」

 

 少年は三角帽子を被り、ニコリと笑った。

 

「そのときは、私が全力で君の助けとなろう」

 

 無邪気な笑顔だった。しかし、どこか頼もしさを感じさせる笑顔だった。

 

「私は趣味で演劇を見るのだが、いつもね、悪を倒す英雄よりも、人助けをする魔法使いに憧れるのだ」

 

 彼の仰々しい口調や「私」という一人称はその演劇が影響しているらしい。

 そして、黒いマントと帽子はまさに少年の憧れの姿だったのだ。

 

「悲しんでいる少女に綺麗なドレスを用意し、カボチャの馬車で舞踏会に行かせる。そんな風に人を助け、笑顔にすることができるのなら──それはとても素敵なことだと思うのだ。怪物退治よりは、私はそっちのほうがいい。だから……」

 

 人助けの魔法使いを夢見る少年はその手を──もしかしたら、本当に魔法を起こすかもしれない手を──エリカに差し伸べた。

 

 

「私を、君の魔法使いにしてくれないか? お姫様」

 

 

 それは、「一緒にお城に来てください。幸せにします」という王子様の告白よりも、「あなたを守ってみせる」という騎士の誓いよりも、力強い言葉のように感じられた。

 

「君がこれからどんな道を歩むかは知らない。しかし、それがどんな道であれ、君を輝かすためなら、私はなんだってしよう」

 

 今日初めて会った自分に、どうしてそこまで言ってくれるのか、もちろんエリカにはわからなかったが、しかし……

 彼はきっと、約束を守る。

 その確信だけはあった。

 だから、

 

「あなたの、お名前は?」

 

 差し伸べられた手を、エリカは握り返した。

 少年はエリカの小さな手を、まさに姫君として敬うように、そっと口元に寄せた。

 鼓動が高鳴るのを、エリカは感じた。

 彼のまっすぐな瞳から、目が離せなかった。

 視線と視線を交差させて、少年は名乗りを上げる。

 

新留礼慈(あらとれいじ)。いずれこの世界を、幸福で満たす男の名だ」

 

 アラトレイジ。

 その名は、自然とエリカの心に浸透していった。

 

 

 

 

 それはエリカにとって、運命の日と言える瞬間。

 宣告どおり、礼慈という少年はエリカのために助力を尽くす存在となる。

 エリカにとっては数少ない気心知れた幼なじみとなる。

 それだけ聞くならば、確かに人はそれを運命の出会いと称すだろう。

 ロマンチックだと夢見ることだろう。

 

 しかし、16歳となった現在のエリカは、その出会いをこう述懐する。

 

 

 

「あれは間違いなくわたしにとって人生が劇的に変わるファーストコンタクトで──そして()()()()()()()()()でもあったわ……」

 

 そう言ってエリカは「はあ……」と溜め息を吐く。

 その理由は、彼女の現在の日常を見れば一目瞭然だが、それはまた別の場所にて。

 

 



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エリカの苦悩

 今更ではありますが、各章の時系列はかなりバラバラです。


 黒森峰では今日も過酷な訓練が行われようとしていた。

 今年から副隊長として任命され──そして次期隊長候補となった逸見エリカは、愛機であるティーガーⅡへと乗り込む。

 

「今日は昨日のおさらいをするわよ。同じ失敗をしたら承知しないからね」

「は、はい」

 

 車長エリカの言葉に乗員たちが緊張した面持ちで受け応える。

 彼女たちが普段どういう感情でエリカに従っているのか、一目瞭然といえる光景だった。

 

 次期隊長として任命されてからというもの、エリカの訓練への専念ぶりは凄まじい。

 もともとキツメの性格にさらなる鋭さと厳しさが加わり、周りを怯えさせるのに充分過ぎる迫力と化している。

 それは一重に、強豪黒森峰として恥じない戦いをしなければならない、というプレッシャーから来ている。

 そして……

 

(証明してみせるわ。私は決して《あの子》の後釜なんかじゃないってことを)

 

 脳裏に浮かぶ存在が、エリカの心に火をつける。

 

「エンジン始動」

 

 愛機たる猛虎にも命の火を灯す。

 さあ今日も始めよう。

 敬愛する西住まほの後継者として恥じない戦車乗りになる。そのための訓練を。

 

 唸りを上げるエンジン音。

 軋む鉄の音。

 そして「ppppppppp」と車内に鳴り響く電子音。

 精神が研ぎ澄まされていくのを感じる。

 まるで「相手を倒す」ためだけの情報が脳に直接流れ込んでくるように……

 

「教えてちょうだいティーガーⅡ。わたしはあと何輛の戦車を撃てばいい? ティーガーⅡは何も言ってくれな……ってなんじゃこりゃあああああ!!」

 

 いつもはないはずの異音が戦車から鳴り響いている。

 

「ひゃあ! なんですかこの音!」

「もしかして爆発!? 他校のスパイに爆弾仕掛けられました!?」

「こ、これは! 名曲『リズム・エモーション』のSEつきver!」

「なんですかそれ~!」

 

 困惑する乗員たち(約一名を除く)を見るに、彼女たちのイタズラではない。

 

 というか、こんな真似をする人間は一人しかいない。

 それはエリカがよく知っている。

 

「ぐぬぬぬ!」

 

 キューポラから怒り顔を出すエリカ。

 

「レ~イ~ジ~!!」

 

 空に向かって主犯であろう忌み名を叫ぶ。

 

「フハハハハハ!!」

 

 不遜な笑い声がエリカの呼びかけに応える。

 

「呼んだかね? 我が幼なじみエリカよ!」

 

 戦車の格納庫から派手な黒いツナギ服を着た少年が現れる。

 見た目だけならば、それはひと目で異性を虜にしてしまうような美形だった。

 西洋人形のように整った顔立ちに、それに見合う長身と細見。

 肌は色白で、瞳の色は外国人のように薄く、目と眉はキリリとしている。

 背筋は常に流麗に伸びており、歩き方はあたかも貴族のよう。

 一見、不釣り合いとも言えるツナギ服すら魅力的に着こなしている。

 容姿、雰囲気ともまさに完成された美男子である。

 

 しかし、エリカは知っている。いやというほど知っている。

 この男は、口を開けば、ただの『奇人変態』でしかないということを。

 

 キッと、エリカはただでさえツリ目の瞳を刃のように鋭くして現れた男を睨みつける。

 

礼慈(れいじ)! アンタまたわたしのティーガーⅡを魔改造したでしょ!」

「いかにもタコにも! 気に入ってくれたかね?」

「んなわけあるか! なんなのよアレ!? エンジン入れた途端なにごとかと思ったでしょうが!」

「性能面ばかり重視して整備するのも芸がないと思ってな。音響効果による精神面のサポートをコンセプトに想像の翼を広げてみたのだ」

「アホか!? わたしの戦車をオモチャにすんじゃないわよ!」

「ときには遊び心も大切であるぞエリカ」

「限度があるわよ!」

 

 怒りのボルテージが上がっていくエリカと対照的に、少年は涼しい顔をしている。

 

「本当ならば砲塔が回るたびに『ブッピガン!』と相手を威圧する音を出したり、敵の砲弾が着弾するたび『ダイナマン!』と焦りを引き起こす音響効果を用意することで双方の精神鍛錬に繋げられればと思ったのだが……」

「やかまし過ぎて集中できるかそんなの! 精神負荷でしかないわ!」

「しかし私の美学に反するので今回は取りやめたのだ」

「一生取りやめてろ!」

 

 目の前の男は高い整備の腕と技術力を持っている。

 しかしその腕前が正当な形で活かされたことはない。

 いつだって努力の方向音痴な新機能を生み出しては、こうしてエリカの怒りを買っているのだ。

 まさに「変態に技術を与えた結果がコレだよ」である。

 

「いいからとっとと直しなさい! なんかあのままだと無意味にやたらと自爆が起きそうで怖いのよ!」

「ティーガーⅡにピッタリではないか。聞けばあの戦車、敵に撃破された数より味方に爆破処分された数のほうが多いというではないか。確か巨大で重すぎるあまり戦場で壊れても回収できないゆえに鹵獲(ろかく)防止のためにこうドカーンと」

「言うなソレを!」

「要するにダイエットは大切という教訓であるなエリカ。というわけだエリカ。あまりハンバーグを食べ過ぎるのではないぞ! また最近体重のメモリが増加したそうではないか!」

「黙れこの残念美形がああ!!」

 

 ぴょーんとキューポラから出て、憎き相手に飛び掛かるエリカ。

 スラリと伸びる美脚で回し蹴りをするも、男はそれを「おっと」と言って容易にかわす。

 

「ぐっ! なんでそんな簡単に避けられんのよ!」

「フハハハハ! 当然だろうエリカ。私は整備士であり発明家であり同時に武道家でもあるのだぞ? この間の練習試合で戦ったサンダースの“猛牛”くんの拳と比べたらこの程度の蹴りなど、そよ風に等しい!」

「むきいいいい!」

 

 エリカは翻るスカートも気にせず連撃を繰り出す。

 

「今日こそはアンタに引導を渡してくれるわ!」

「フハハハハ! 元気なのは良いことだエリカ! だが淑女としてそれは如何なものかな? それとなぁ、あまり背伸びしたデザインを履いても逆に子どもっぽく見えるだけだぞ?」

「死ね!」

 

 そんな二人を、周りの隊員たちは「またか」という具合に眺めている。

 逸見エリカと整備士の新留礼慈(あらとれいじ)

 幼なじみである二人のこのやり取りは、もはや黒森峰のひとつの名物と化しているのだった。

 

「アンタって奴はいっつもいっつも余計なことを!」

 

「余計なこととは何だエリカ! すべてはお前のためを思って私が天才的発想と技術でもって戦車道に新風を巻き起こそうとだな」

 

「そういうのをいらんお節介って言うのよ! そもそも戦車道は伝統競技なのよ!? 新しい試みとかそんなものいらないのよ!」

 

「堅い! あいかわらず堅いぞエリカ! あずきのアイスみたいにカッチカチだ!」

 

「やかましいわ! まったく何のために黒森峰に分校を設立してアンタたち男子整備士を迎え入れたと思ってるの!?」

 

「専属の整備士を配備し、選手たちを訓練に専念させるため。ひいては重量級過ぎるあまり女子のパワーでは扱いきれないドイツ戦車を修理する男手が必要だったのだろう?

 存じているとも。以前はプロの整備士を雇っていたようだが、予算削減のため学生整備士を育成するカリキュラムを設立したということもな」

 

「わかっているならそのカリキュラムどおり戦車を整備しなさいよ!」

 

「この新留礼慈はルールなどに縛られない! 我が想像力は天を越え、銀河を越え、人類を未来へ導く光となるのだ! 何人たりとも我が創造を阻むことはできん! フハハハハ!」

 

「誰だあ! このマッドサイエンティストの入学を許可した教師陣はああ!」

 

 ぎゃあぎゃあと騒ぐエリカと高らかに笑う礼慈。

 厳格な黒森峰には似つかわしくない幼稚な喧嘩が、隊員たちが見ている間で繰り広げられていた。

 

* * *

 

「た、隊長。止めなくてよろしいんですか?」

 

 三年生の隊員が、隊長の西住まほに進言をする。

 訓練場で攻防を続ける男女二人。

 このままでは練習にもならない。

 

「必要ない」

 

 同級生にすら敬語を使わせるカリスマ性を秘めたまほはそう言う。

 常に冷静で厳しい彼女にしては珍しく、その表情は柔和であった。

 今年の全国大会以降、彼女はまるで憑き物が落ちたように穏やかでいる。

 

「いまのエリカにはちょうどいいだろう。近頃、根を詰めすぎて、一人で思い悩んでいるところがあったからな。一度ああして感情を爆発させたほうがいい」

「は、はあ……」

 

 確かに最近のエリカは狂気的なまでに気を張っていた。

 隊員たちも腫れ物を扱うように発言や行動には注意していた。

 

 しかし、いまではどうだろう。

 猫のように「ふにゃああああ!」と怒りの声を上げて、男子と追いかけっこしているエリカ。

 副隊長の威厳もあったものではない。だが、それをまほは咎めなかった。

 

「あれはあれでエリカにとってはガス抜きになっているのさ」

「そ、そうでしょうか?」

「無理をし過ぎても目覚ましい結果は得られない。新留(あらと)もそれをわかっているのだろう。やることが奇抜なせいで誤解を生みやすい男だが、結果的にはエリカのためになることをやっているのさ、アイツは」

 

 そうだろうか。

 どう見てもお気に入りのオモチャを弄っているようにしか見えない。

 

「それに、新留の行いは私たちにもいい影響を与えている」

「え?」

「周りを見てみろ」

 

 まほにそう言われ、周囲に意識を配ってみる。

 いつも任務に忠実で、決まり事を破らない優等生たち。

 逆を言えば、遊びや息抜きを知らない彼女たちは──エリカと礼慈の喧嘩をクスクスとほほ笑ましそうに眺めていた。

 ティーガーⅡの乗員たちも、恐れていたはずのエリカに対して親しみのこもった苦笑を向けている。

 

「副隊長ってほんと新留(あらと)さんといると、カワイイとこ見せますよね」

「怖い人だけど、ああいう一面があるって知ると親近感わくよね」

 

 それは黒森峰では滅多に見られない仲睦まじい光景だった。

 去年まではとても考えられなかった穏やかな空気。

 普通なら叱るべき状況だ。

 気が緩んでいるぞと。自分が一年生のときは間違いなくそう叱咤された。

 しかし、現隊長のまほはそうしない。

 

「隊長、どうして……」

「いまの我々に必要なのは、堅実に統制された部隊よりも、各隊員の個性を最大限に引き出し、自己判断で行動できる部隊だ。そのためにまず必要なのは……」

 

 いまのように心の壁を取り払うこと、とまほは言う。

 

「……隊長は、これを新留(あらと)が意図して起こしているとおっしゃるんですか?」

「そこまでは言っていない。ただ、去年まで真面目だった新留がああしてふざけた真似をするのは、奴なりに一年前と今年の試合に思うところがあるからではないかと、私は踏んでいる」

「……」

 

 一年前と今年の試合。

 あのふたつの戦いは本当に、黒森峰の欠点が浮き彫りになった試合だった。

 それに気づかず、克服しなかったゆえに、自分たちは二度も優勝を逃した。

 

 まさかあの男は、そんな黒森峰に不足していたものを、取り入れようというのだろうか。

 自分たちに足りなかったもの。

 いわゆる、信頼関係というものを──

 

「……考えすぎではないでしょうか」

 

 認めがたいものを感じて、少女はそう言った。

 

「そうかもしれないな」

 

 まほも否定しなかった。

 

 そうである。きっと思い過ごしだ。

 あの黒森峰きっての問題児がそこまで計算して動いているはずがない。

 もしすべてを予測して行動を起こしているというのなら、そんなの……

 

 空恐ろしすぎる。

 

「まあ何はともあれ、ああして仲のいい二人を見ていると、こっちまでほほ笑ましい気持ちになってしまうな」

「仲がいいって……あんな毎日のように喧嘩をしているのにですか?」

「だからこそだ。エリカがあそこまで感情的になるのは、心を許している証拠だ」

 

 そういうものだろうか。

 喧嘩するほど仲がいいとは言うが……

 

「もっとも私と武佐士(むさし)の絆のほうが何倍も強いがな」

 

 あ、まずいと少女は思った。

 まほは愛弟の武佐士の話になると毎回暴走するのだ。

 

「武佐士は乙女心がわからないところもあるが、しかし一番大事な場面では気づく男だ。私が普段押し隠している気持ちも含めてな。

 ……そう、それは愛がなければ不可能なことだ。私と武佐士は深い絆と愛で結びついているのだ」

 

 案の定、惚気だした。

 

「いかんな。無性に武佐士に会いたくなってきたぞ。あとでエリカにヘリを出してもらうか」

 

 さり気なく足として使われる副隊長に同情した。

 現在の状況も含めて。

 

「安心したまえエリカ! 君の戦車道はこの新留礼慈が支え続ける! 君が輝かしい道を進むためならば私はいかなる不可能をも可能にする!

 そう。それこそが、君の魔法使いとなると誓った私の愛だ!」

「そんな愛いらんわ!」

 

 苦労の多い副隊長の嘆きが空に響き渡った。

 

* * *

 

 もし過去の時間に飛べるというのなら、エリカは全力で幼い自分を説得するだろう。

 その男の手を決して握り返してはならぬと!

 

「そんな悲しいこと言わないでくれたまえよエリカ」

「モノローグに突っ込むんじゃないわよこの奇人変態があ!」

 

 

 

 かくして、逸見エリカはこの奇怪な男との長きに渡る因縁を背負うことになった。

 彼女はこの先、礼慈の『愛』と評した常軌を逸する数々の試練に巻き込まれることになるのだが……それは今後明かされていく物語だ。

 

 そして、この新留礼慈というトリックスターは、この黒森峰に飽き足らずさまざまな場所に顔を出し、その超技術を振るう。

 ときには助っ人として、ときにはライバルとして、ときには黒幕として、ときには最大の敵として、あちこちにちょっかいをかけたりするのだが……

 

「それはまた別の話──と言うのだろう? 演出家ならばもっと(ひね)った表現を使いたまえよ」

「誰に向かって話してるのよ礼慈?」

「さてね」

 

 ……いずれにせよ、この男の奇行を止められる者は、たとえ神であっても不可能かもしれない。

 



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黒森峰の日常① 早朝

 空気の澄んだ気持ちのいい朝だった。

 どんな気難しい人間でも、思わず背伸びしてほがらかな笑みを浮かべてしまいそうなほどに。

 しかし、

 

「はあ……」

 

 そんなお日柄でも関係なく、いつものように怒り顔を浮かべる少女が一人ここにいた。

 

「整備士。ちょっといいかしら?」

 

 苛立たしげな声が戦車の格納庫に反響する。

 戦車の整備をしていた男子整備士たちはビクリと背筋を張った。

 

「お、お疲れさまです逸見副隊長」

 

 黒森峰分校の真面目な男子整備士たちは、格納庫にやってきた逸見エリカに恭しく頭を下げる。

 しかし、作法を心得ているはずの整備士たちに向けられたのは怒りの眼差しだった。

 それはまさに『ギロリ』としか形容のしようがない鋭い怒気に満ちていた。

 整備士たちはますます萎縮する。

 

「……アンタたち、また止めなかったのね?」

 

 エリカはただ冷ややかにそう尋ねる。彼女が何に苛立っているのか、整備士たちはすでに理解していた。

 整備士の一人が身体をこわばらせながら答える。

 

「す、すみません。レイジさんがどうしてもっておっしゃるので……」

 

 黒森峰の日常をよく知る者も、事情をすぐに察することだろう。

 話の筋からしてまたもや新留礼慈(あらとれいじ)が整備関連で何かやらかしたのだと。

 そして、それを止めなかった整備士たちも同罪とばかりにエリカが責めているのだと。

 

 整備士の情けない返答に、エリカは呆れの溜め息をつく。

 

「アイツの家柄が気になって口出しできないっていうなら、無用な心配よ。別にアイツは家の権力を振りかざすことはしないし、なにより本人がそういうのを嫌ってるんだから。アホなことしたら遠慮なくガツンと言ってやんなさい」

「ですけど新留(あらと)財閥はドイツ戦車のレストアに貢献してくださった企業ですし、そこの御曹子のレイジさんに何か意見するってのはどうも気が引けて……」

 

 エリカは再び嘆息した。

 

「それはアイツの祖父の代での話でしょ? どら息子が継いだ今じゃ幹部に仕事丸投げのどうしようもない企業でしかないわ。アイツはそんな父親を心底毛嫌いして家と縁を切ってる。ほら、何も関係ないでしょ。だから義理立てする必要なんてないのよ」

「ですが……」

「ああ、もう」

 

 生真面目な整備士たちを前に、エリカはこめかみを抑えた。

 

 分校とはいえ彼らも黒森峰の生徒。実直で何事にも真面目な優等生たちの集まりである。

 物腰は低く、常に礼節を欠かさず、整備の面でも最高の仕事をこなしてくれる。まさに模範的な補佐役の在り方と言えよう。

 

 だがその分、イレギュラーな事態に対応できないところがある。特に礼慈のような常識の通用しない、奇天烈で奇怪な奇行に走る奇人の前では何も言えず、そのまま流されてしまう。

 エリカは彼らのそういう一面に、つねづね苛立ちを覚えていた。

 まったく、模範的過ぎるというのも時には考えものである。

 

 しかし彼らがここまで礼慈に義理立てをするのには、もっと別の理由があることもエリカは知っていた。

 

「副隊長。確かにレイジさんは突飛なことをする人ですけど、僕たちが困っているときはいつもフォローをしてくれるんです」

「整備の腕だって俺たちよりもずっと高いし、学べることも多いんです。だからレイジさんには伸び伸びとやりたいことやって欲しいと言いますか……」

「わかった。もういいわ」

 

 エリカは手で制した。

 これ以上、彼らに苦言を言ったところで徒労に終わるだけだとわかった。

 どういうわけか、あの奇人変態はやたらとこうして人望を集めているのだ。それがまたエリカの心を乱す。

 最初のうちは何か弱みを握られているのではないかと疑っていたが、彼らの瞳には純粋な厚意と混ざり気のない尊敬の色しかなかった。

 

 言いようのない不満と若干の嫉妬が込み上がりそうになったが、それを彼らに向けたところで意味はない。

 

「レイジはどこ?」

「いつもの場所にいらっしゃいます」

「そう」

 

 とにかく不平不満は直接元凶にぶつけることにしよう。

 エリカはそのまま格納庫の奥へと入っていく。

 

「邪魔したわね。整備を続けてちょうだい」

「……あ、あの!」

「なによ?」

 

 義理堅そうな整備士に呼び止められる。

 

「そ、その。レイジさん、確かにやることがよくわからない人ですけど。でも、それはあの人なりに逸見副隊長のことを思ってやってると思うんで。だからその……」

 

 どうか、そんなに責めないでください……と整備士は言った。

 普段から礼慈に恩義を感じているらしき感情が、ひしひしと伝わってきた。

 エリカはおもしろくなさそうに眉をひそめたが、

 

「……努力はするわ」

 

 それだけ言った。

 

「あ、ありがとうございます」

「ふんっ」

 

 エリカは長い銀髪をさらりと払って、整備士に背を向けた。不満を足音で表すように、ズカズカと歩いていく。

 

「……ったく。なんであんな男が慕われるのよ。わたしだっていつもいつも頑張ってるのに。何が違うってのよ。理不尽よ世の中。なによなによ。このっ。このっ」

 

 小声でそんな愚痴をこぼす彼女の背中を、整備士たちは冷や汗をかきながら見送った。

 

「はあ~……」

 

 重圧から解放された整備士は各々、深く息を吐いた。

 

「あいかわらず怖いですね逸見さんは」

「ああ。今回はそんなに怒られずに済んでよかったよ」

 

 日頃の苦労が如実に伝わってくるやり取りだった。

 

「……副隊長、あの性格じゃなければ本当に理想的なんだけどな」

「本当にな。ああいう怖いところがなければな」

「勿体ないよな。あんなに美人なのに」

 

 異性がいなくなった途端、整備士たちは男子生徒らしい会話に花を咲かせる。

 たとえ優等生でも彼らとて思春期の男子である。人並みに異性の話題で盛り上がるし、美しい女性には心惹かれる。

 そんな彼らにとってエリカは特に目を引かれる存在だった。ルックスだけを見れば、エリカは間違いなく絶世の美少女である。

 もし学園で美少女コンテストをやろうものなら圧倒的勝利を納めるほどに、その美貌は男を惑わす。

 

 もちろんカリスマ的人気を誇る西住まほも美人には違いないが、どちらかというと彼女は女子の人気を集めるタイプだ。

 ……あの出るとこは出て引っ込むところは引っ込んでいる見事なスタイルに、オスとしての感情を刺激されるのは否定できないが。しかしそれでも、初心な少年心をときめかせるのはエリカのたぐいまれな美しさだった。

 遠目から見れば、我も忘れて見惚れてしまう。

 

 ……ただ、綺麗なバラにはトゲがあるのである。

 

「いくら美人でもあそこまで性格がキツイとな……」

「うん。僕だったら絶対に胃に穴が空いちゃうね」

「逆に『それがいいんだよ』って息荒くして言う上級者もいるけど……それにしたってな」

「そう思うとレイジさんってやっぱり凄いな。あの副隊長と小さい頃から一緒で、今も変わらず付き合えてるんだから」

「ああ。大物だよレイジさんは。残念なイケメンだけど」

「家が金持ちでも鼻にかけないし、それどころか自分で学費稼いでるんだもんな。発明品を売り込んで。立派だよなあ。残念なイケメンだけど」

「整備の技術も高いし、本当に尊敬するよ。残念なイケメンだけど」

「そう思うとお似合いの二人なのかもしれないな。残念美形同士」

 

 うんうんと整備士たちは深く頷く。

 あくまでも純粋に、そして好意的に。

 しかし、その場にエリカが残っていたら、間違いなく戦車で追いかけ回されるような会話だった。

 

* * *

 

 格納庫の奥には、ほぼ礼慈の独房と化している一室がある。もともとは何の部屋だったのか、もはや知る者はいない。原型が思い出せないほど、そこは礼慈の奇怪な発明品で埋め尽くされているのである。

 

 普段ならば誰も近づかない。

 というのも、礼慈の案内もなしにその独房に入ってしまうと、高確率でひどい目に遭うからである。

 

 被害に遭った生徒は「危うく誰にも見せられないような変死を遂げるところだった」とか「おぞましい生物を誕生させてしまうところだった」と青ざめた顔で述懐する。

 中には「時を越えた」とか「異世界に行った」とか「悪魔が召還された」などと明らかな嘘もあったが……完全には否定しきれないのが、あの新留礼慈の恐ろしいところである。

 魔法使いを志す彼ならば、そういう超常的なことができても不思議ではないかもしれない。と思わせるものが彼にはある。

 

 ともかく、その独房に好きこのんで近づく者は滅多にいない。そんな勇気も持てない。

 しかし、エリカはまったく躊躇わなかった。もう何年も彼女は礼慈の奇怪な発明品の被害を受け続けているのだ。

 もはや慣れ親しんだものである。決して慣れ親しみたくはなかったが。

 

 扉の前に立つ。どんどんと乱暴にノックをする。

 

「レイジ! いるんでしょ!」

 

 声をかけても返事がない。ただ中から、

 

「フハハハハハハハハ!」

 

 とバカみたいに楽しそうなレイジの笑い声が聞こえてきた。よほど何かに夢中になっているのか、ノックにもエリカの怒声にも気づかず笑い続けている。

 

「フハハハのヘヘヘヘのホッホロひぃだ!」

「どういう笑い方してんだアイツは」

 

 珍妙な笑いをする礼慈に薄気味悪さを覚えるエリカだったが、奴の奇行をいちいち気にしていたらキリがない。

 返事も聞かず部屋に入ることにする。

 

「ちょっとレイジ! アンタまたわたしのティーガーⅡに変な細工を……」

 

 さっそく本題に入ろうとしたエリカの口は止まった。

 室内のあちこちには奇怪なデザインの発明品。そしてその中心で礼慈は椅子に座って機嫌よさげに笑っている。

 初見時ならば驚くかもしれないが、見慣れた者にとっては別段珍しい光景ではない。

 しかし、

 

「フハハハハ!」

 

 ウイイインと突然、彼の座る椅子が天井に向かって高さを変えた。

 エリカはその光景を唖然と見つめる。

 

「フハハハハ!」

 

 まるで座った者の笑い声に合わせるように高さを変える椅子。天井に向かって高々と昇っていく礼慈。

 

「フハハハ! フ……」

 

 そして笑い止むと椅子は元の高さにスルスルと戻っていく。

 

「……フハハハハ!」

 

 再び笑い出すと椅子はまたグイーンと高さを変えて、座った者を天井高く持ち上げる。

 

「フハハ! ……。フハハ! ……。フハ! ……。フハアアア!」

 

 そんな具合に笑ったり無言になったりを繰り返して、椅子を文字通り上下に動かす礼慈。

 椅子はまるで絶叫マシーンのようにグイングインと激しい上下運動をした。

 そんな椅子に座りながら、礼慈は満面の笑みで言う。

 

「楽しいいぃぃぃ!」

「なんなのよ!? アンタ本当になんなのよ!?」

 

 言葉を失っていたエリカはようやく突っ込みを入れられた。

 

 礼慈の奇行には慣れ親しんだものと思いこんでいた彼女だが、それでも思った。

 わからない。やっぱりわからない。

 もう何年も一緒にいるのに、本当にこの男の行動は理解ができない、と。

 

「おお! 誰かと思えば我が幼なじみエリカではないか!」

 

 ようやくエリカの存在に気づいた礼慈は笑うのを止めて、笑顔で視線を配る。

 スルスルと天井の高さからゆっくりと降りてくる幼なじみにエリカは不審げに尋ねる。

 

「アンタ、何なのよその椅子は……」

「これかね? 人の笑い声を音声認識し、その声量の分、椅子の高さを変えられる私の最新作だ。いま私の声で認証設定をしてテストをしていたところだが、うむ。どうやら成功のようだよ。いや実にご機嫌だ! フハハハハ!」

 

 礼慈の笑い声を認識して椅子はまた天井高く昇っていく。

 

「ちょっと! 話があるんだから降りてきなさいよ!」

「フハハハ! ここからだとエリカが小っちゃく見えるぞ! うん小さい! 実に小さい! 小っぽけな存在だな君って奴は!」

「いいから降りろってんのよ!」

 

 上から見下ろされるのが何だか腹立たしかったので、怒気を込めてそう言う。

 同じ視線に戻ってきた礼慈にエリカは呆れ気味に言う。

 

「アンタ何でいつもそう意味のないものばかり作るわけ?」

「意味はちゃんとあるともエリカ。この椅子を使ってあの気にくわない生徒会長にひと泡吹かせてやろうと思ってな」

「ああ。あの上から目線で厭味な笑い声上げる分校側の生徒会長?」

「そうとも。近頃さすがに悪政が過ぎるのでな。お灸を据えてやろうと思ったのだ」

 

 変人な一面ばかりが目立つ礼慈だが、これでもこの男は正義の人間である。悪人に対しては容赦なく天誅を降そうとし、それを正そうとする。

 最もそのやり方はいつも非常識で度が過ぎたものだが。

 

「この椅子と奴の椅子をこっそりすり替えて、いつものようにバカみたく笑ったところで頭をゴチーンと天井にぶつけるという算段だ。出力を最大にする予定だから、さぞ小気味良い音を奏でることだろうよ」

 

 これだけ聞くとどちらが悪人かわかったものではない。

 ただ相手の生徒会長が悪質な人間であることはエリカも承知なので、同情の余地はないが。

 

「期待しているがいいエリカ! この新留礼慈が必ずや奴の圧政に終止符を打つ! フハハハハ!」

 

 勝利宣言のように高らかに笑う礼慈。

 グイーンと天井に向かって伸びていく椅子。

 

「ああもう! いい加減に降りなさいっての!」

 

 エリカは神経質な怒鳴り声を上げた。これでは落ち着いて話もできやしない。

 

「ちょっと聞いてるのレイジ!」

「フハハハハ! 明日が楽しみだなぁ! ンギッ!」

 

 天井からゴチンという音と「いたーい!」という声が聞こえてきた。

 

 エリカは思う。

 本当に、どうしてこんな男が慕われ、真面目な自分は怯えられるばかりなのだろうかと。

 

「それはやはり日頃の行いの違いではないかな?」

「だからナチュラルにモノローグに突っ込んでくるんじゃないわよ!」

 



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黒森峰の日常② 次期隊長として

※下ネタに苦手意識がある方には最初に謝罪しておきます。申し訳ございません。
 特にコーヒーやビールを飲んでいる方はいったんページを閉じて、優雅なひと時を過ごされてからお読みいただけると幸いです。


 独房の中はとにかく訳のわからない道具が散乱しているので、座る場所など見当たらない。だからと言って礼慈が作った『笑い声に反応して高さを変える椅子』に座る気にはなれなかった。

 とりあえず害はなさそうな箱型の機械に、エリカは適当に腰をおろした。

 害はないと願いたい。

 

「アンタね、もう少しは片づけなさいよ。アンタだけの部屋じゃないのよ?」

「うむ。それは常々反省していることなのだがね。どうも私が掃除しようとすると余計に散らかってしまうのだよ」

 

 天井に頭をぶつけてタンコブを作った礼慈は照れくさそうに言った。手先が器用なわりに、こと家事になると、この男は途端に不器用になるのだ。

 エリカは肩をすぼめた。

 

「あのね。そんなだからアンタ以外の整備士がいまだにこの場所を使えないんでしょうが」

「私だけここを独占してしまっていることは申し訳ないと思っているよ」

 

 さすがの礼慈も、一室を好き勝手に使っていることに後ろめたい感情はあるようだった。

 

「一応『皆も自由に使ってくれて構わない』と普段から呼びかけてはいるのだがね。どういうわけか誰もが遠慮してしまうのだよ。……まったく、特別扱いする必要はないと言っているのに。私とてみなと同じ一介の学生でしかないのだから」

 

 寂しげな顔を浮かべてそう呟く礼慈だったが……ほぼ固有の結界と化したこの独房で、仲睦まじく団欒できるとでも思っているのだろうか、この男は。

 

「まあ、ときどき小梅君が来てくれて整理してくれるので、これでもマシなほうなのだよ」

 

 その名前が礼慈の口から出た途端、ピクッとエリカの眉が吊り上がった。

 

「……へ、へえ。あの子、いまだにそんなことしてるの? 物好きねホント」

 

 ひきつった笑顔でエリカは言う。その声は動揺していた。

 

 パンターG型の車長である赤星小梅。

 気の強い女生徒の多い黒森峰では珍しい、お淑やかで物腰の柔らかな少女である。

 あまり目立つタイプとは言えないが、その優しい性格や清楚な雰囲気、そしてなかなか発育の良いボディラインの持ち主であることから男子の人気は高く、隠れたファンが多い。

 そんな彼女はどういうわけか、礼慈に対して甲斐甲斐しく世話を焼き、なにかと尽くそうとする。

 本人が言うには、「一年前に大切なことを気づかせてくれたんです。そのお礼をしてるだけですよ?」とのことだが、その多幸に満ちた笑顔からは恩義とはまた別の何かを感じさせた。

 

 エリカはそれをおもしろくないと感じていた。小梅が礼慈のお世話をしている場面に出くわすと、どういうわけかモヤモヤとする。

 世間一般ではその感情を表す的確な言葉があるが……その言葉が浮かび上がりそうになると、エリカは瞬時に首をぶんぶんと振って必死に否定する。

 そんな筈がない。誰がこんな男に対して……。

 

 これはそう。

 小梅のような純粋無垢な少女が、目の前の奇人変態を善人と信じていることに、もどかしさを感じているだけだ。

 そうに違いない。

 ああ、憐れな小梅。彼女は何を思い違って、こんな男に尽くそうという愚かな考えに至ってしまったのか。

 いつか必ず正気に戻してあげなければならない。エリカはそう固く誓った。

 

「アンタ、あの子の厚意に付け込んで変なことしてないでしょうね?」

「失礼な。小梅君に対してそんなことするはずがなかろう」

「どうだか」

「彼女は私には勿体ないほどに出来た友人だよ。感謝してもしきれないほどに、彼女にはいつも助けられているのだ」

「友人、ねえ……」

 

 胸の中のモヤモヤが、少しだけやわらいだ。

 

「ところで、私に何の用かねエリカよ」

 

 礼慈の問いかけにエリカは目的を思い出す。

 そうだった。今日こそはガツンと言ってやるつもりでここに来たのである。

 エリカはふんと鼻を鳴らす。

 

「聞くまでもないでしょ? あれほど言ったのに、またティーガーⅡに余計なことしたでしょ?」

「余計なこととは失礼な。私は常に真剣に君たちのことを考えた上で整備をしているのだぞ?」

「……じゃあ、『今回は操縦手の士気を高める音響効果を用意した』とでも言うつもり?」

「おお。さすがは我が幼なじみエリカ。私の考えを理解しているではないか。やはり我々は深い絆で結びつきあった運命共同体である証拠……いたーい!」

 

 戯言(ざれごと)を抜かす礼慈の頭めがけて、エリカは適当な発明品をぶん投げた。小気味のいい音が独房に鳴り渡る。

 続けざまにエリカの怒号が響く。

 

「操縦中いきなり音楽が流れたら心臓に悪いだけでしょうが!」

 

 前回はエンジンをかけた瞬間に異音が鳴るという魔改造だったが、今回は走行中に車内でBGMが流れるという仕様になっていた。

 それだけならば、まだ大人しい部類ではないかと思われるだろう。音楽の流れる車など別段珍しくもない。その機能を戦車に取り付けただけの話である。

 ……ただ、問題は曲のチョイスにあった。

 

「何でよりにもよって『TRUTH』なのよ!? 運転中に一番聞いちゃいけないBGMでしょうが!」

 

 エリカが言う『TRUTH』とは、世界的有名四輪自動車レースのテーマ曲である。

 タイトルは知らなくとも耳にすれば「ああ、あれか」とすぐに思い出せるほどに有名な曲である。そしてエリカの言うとおり運転中に流そうものなら、ドライバー魂を滾らせるゆえに事故不可避の危険な名曲でもある。それが今朝の訓練で、ティーガーⅡから流れてきたのだ。

 

「普段おとなしい操縦手の子が人変わったみたいに操縦しだして危うく事故るところだったでしょうが!」

「ほう。あの子がか。どうやら実験は成功のようだ」

「何で得意げなのよ! というかいま普通に“実験”とか言ったでしょ!」

「どのVerにするか悩んで無難に初代をチョイスしたのだが、エリカは何Verが好みだね?」

「そうね、わたしはやっぱりVer“05”が好きね。あのドラムとベースがなんともクールで……って誤魔化すな!」

 

 エリカの怒りのボルテージはそう簡単には静まらない。今朝の訓練は、文字通り暴走する操縦手を止めるため相当な苦労をしたのだ。

 そんなことも知らず、元凶の礼慈はあいかわらず涼しい顔をしているのが何とも腹立たしい。

 

「エリカ。できればその時の操縦手君の詳細を聞かせてくれないかね?」

「『ひゃっはー! 誰もわたしを抜かすことはできないぜ!』とか言ってテンションハイになってたわよ! ご満足!? あとで顔真っ赤々にしてたけどね!」

 

 もはやヤケクソ気味に答えるエリカ。

 それでも礼慈は飄々とした笑顔で、

 

「それは、なによりだ」

 

 などと言う。

 ブチン、とエリカの堪忍袋の緒が切れた。

 

「だ・か・ら! 何で満足げなのよ!」

「落ち着きたまえよエリカ。若いうちから小皺が増えるぞ?」

「だ・れ・の! せいだと思ってんのよ!?」

 

 うら若き乙女が浮かべるべきでない鬼の形相でエリカは礼慈へと迫る。

 

「アンタ! わたしらに何か恨みでもあるわけ!?」

「そんなはずなかろう」

 

 聞き捨てならんとばかりに、礼慈は笑顔を消した。

 

「私はいつだって君たちのためになればと思って整備をしている」

 

 やたらと真面目な顔で言うので、エリカは思わず「うっ」と赤面した。

 無駄に顔立ちがいい分、礼慈の真剣な表情は無条件で乙女心を響かせる魔力がある。

 それでも、これまでの所業を思い出せば、そんな気持ちも吹っ飛んでしまうが。

 

「ふ、ふん! よく言うわよ。どうせわたしたちをオモチャにして遊んでるだけでしょうが」

「心外だな。いいかねエリカ? 今回のことを含め、すべては来年の試合を考えた上でのことだぞ?」

「……っ」

 

 来年の試合。

 そのワードに反応してエリカの頭は瞬時に冷静さを取り戻す。

 真っ先に脳裏に浮かんだのは──Ⅳ号戦車に乗った宿敵の姿。

 

「どういう、ことよ?」

 

 エリカは尋ねずにはいられなかった。

 礼慈は変わらず真剣な眼差しで疑問に答える。

 

「君は今日、操縦手君の意外な一面を知って驚いているようだが……しかしエリカ。それは単純に君が彼女について深く理解していなかったからではないかね?」

「……なんですって?」

「“大人しい子”と思い込んでいるのは君だけで、本来の彼女はまったく印象と異なる本性を持っているかもしれないのだぞ?」

「……」

 

 エリカは言葉に詰まった。

 図星だったからだ。これまで共にティーガーⅡに乗ってきたあの操縦手に、あんな一面があったことをエリカは初めて知った。

 しかし、

 

「……だから何だって言うのよ? あの子がどういう人間だろうと別に試合には関係な……」

「関係ないと言いたいのかね? はたしてそうかな」

「何が言いたいのよレイジ」

「各乗員の性格や持ち味も理解できていないような状況で、はたして君達は一致団結することができるのかね?」

「……っ」

 

 戦車とは、乗員たちがひとつになることで、初めてその真価を発揮する。

 一人ひとりがバラバラの行動をして、身勝手な判断をしていては、どんな強力な戦車もただの置物と化す。

 そんなことは、エリカとて弁えている。だからこそ常日頃、厳しい統制下で厳しい訓練をすることで一致団結を試みているのだ。

 しかし、そんな考えを礼慈は切り捨てる。

 

「エリカ。形だけの上下関係では、結局はマニュアル通りのことしかできない。それでは去年からの繰り返しだ」

「……なんですって?」

「真の一致団結とは、互いのことを理解し合った信頼関係のことを言う。いまの君にはそれができているか? 自分の乗員のことをどれだけ知っている?」

「……」

 

 何も言えなかった。

 礼慈は尚、畳みかけてくる。

 

「君は知っていたか? ──あの操縦手君はね、以前から『みほ君の戦い』に目を輝かせていたのだよ」

「え……っ」

 

 エリカは息を呑んだ。

 

「履帯を外れることも厭わない、最後の一撃にかけたあの決勝戦での一騎打ち……名勝負のひとつとして戦車道の歴史に刻まれたあの戦いに、君の操縦手君は『自分もあんな戦いを……』と心を突き動かされたのだ」

「……なんでアンタにそんなことがわかるのよ?」

「見くびるなよエリカ。私は整備士だぞ? 乗員が何を求め、何を望んでいるのか、理解した上で我々は戦車を整備する。君たちが思っている以上に、我々は君たちを見ているのだぞ?」

 

 理想的な整備士とは何か。

 それは、口にしなくとも使用者の求める出来栄えに仕上げる仕事人のことである。

 

「だから操縦手くんが現状に不満をいだいていることもわかっていた。だが口にはしなかった。当然だ。言えるわけがない。()()()()()()()()()

「……」

 

 黒森峰の戦いとは王道でなければならない。

 王道とは指針でもある。それがブレてしまっては、戦車道の名誉に関わる。

 邪道など許されない。

 王者ならば尚更、常に王道で勝利を手にしなければならないのだ。

 

 だからこそ、エリカの操縦手も口にすることができない。

 本当はもっと、ずっと、激しい操縦がしたい──あの大洗のように戦いたい──など、口が裂けても。

 

 しかし、礼慈は言う。

 

「エリカ。恐らくもう以前のように、王道だけでは通用しない。戦車道の時代は、確実に変わりつつあるのだ」

 

 そう。戦車道の歴史は変わった。新たな歴史が切り開かれた。

 大洗というイレギュラーの存在によって、波紋は広がりだした。

 

 彼女たちは伝統を覆し、これまでの常識を破壊した。

 人はそれを邪道と称す。伝統に泥を塗る行為だと罵倒する。

 

 しかし……天下を取ったならば、それはもう“革命”だ。

 “革命は”、瞬く間に周囲に影響を与える。

 

「来年からは間違いなく定石は意味を成さないものと化すだろう。多くの学園が新たな戦術を編み出し、猛威を(ふる)うに違いない」

「……どこもかしこも伝統を捨てて、()()()()みたいに戦いだすっていうの?」

「否。いまから換骨奪胎したところで生まれるのは中途半端な部隊でしかないよ。私が恐れているのはね、エリカ──《殻を破り、秘められた可能性を余すことなく発揮した才能》だ。要はプラスによる強化だよ。それも、多大なプラスだ」

 

 少女たちは学習した。

 型を破った戦略を。セオリーに囚われない戦術を。

 かの英国風淑女も口にした。

 

『私たちもやってみようかしら』

 

 と。

 有能な戦術家は、有用な戦術をすぐさま自分の糧とする。

 かの『カンナエの戦い』でハンニバル・バルカが実現した史上最高の軍略『包囲殲滅戦術』をローマのスキピオがすぐさま模倣したように。

 新たな波はまた新たな波を広げる。

 その波に乗れない船は、あっけなく沈没するが必定。

 

「伝統を重んじる姿勢は確かに素晴らしい。先達の思想を守ることもまた尊い。……だがそれに固執し、思考を放棄するのはただの愚か者だ」

「……私がそうだと言いたいの?」

「そこまでは言わない。だが少なくとも、このままではそうなってしまうぞ。一昨年、去年と同じことを繰り返していれば、当然な」

 

 自分たちの敗因。

 明るみに出た欠点。

 それをわかっていて尚、王道だ、伝統だと騒ぎ、改めないのであれば……それはまさしく、学習のしない愚者でしかない。

 

「必要なことは、失敗を糧とし、『進歩』することにある。西住隊長もすでにそれは理解していることだ。だからこそ近々、『訓令戦術』を取り入れることになったわけだ」

 

 訓令戦術。

 司令部に指示を都度尋ねるのではなく、各隊員で判断し、作戦遂行へと向かう指揮法のひとつ。

 すなわち『自分の頭で考え行動しろ』という、受け身の姿勢から能動性を求める、これまでの黒森峰になかった作戦形式だ。

 

 そして、将来的にエリカが背負うことになる黒森峰の新たな姿でもある。

 

「エリカ。君はそんな新しい黒森峰の次期トップとなるのだ。ならば、君も今までと同じというわけにはいかないはずだ」

「そんなのわたしだって……」

「わかっているというのかね? なら改めて尋ねようじゃないか。君は、手と手を取り合わなければならない乗員たちのことを、どれだけ理解している?

 装填手君の趣味は? 砲手君の将来の夢は? 通信手君の日課は? 車長の君は把握しているのかね?」

「……」

 

 知らない。

 訓練以外で、彼女たちと会話したことなど、一度だってなかったのだから。

 しかし……

 だからと言って、それがどうしたというのだ。

 

「そんなの……」

 

 エリカは、意地を張るように言う。

 

「そんなこと答えられたからって、何だって言うのよ?」

 

 そうだ。

 勝てばそれでいいのだから、余計なものなどいらない。

 自分の役割を理解して、その役目を全うすればいいだけの話ではないか。

 ただ自分たちは軍隊として、群体として、完成していればいい。

 そうすれば、きっと、今度こそ《彼女》に……

 

「──みほ君なら、簡単に答えられるのではないか?」

「っ!?」

 

 そのたったのひと言が、エリカの中にある礎を、大きく揺るがした。

 

「なぜ彼女があそこまで戦果を上げることができたのか。それがわからないほど、君もバカではあるまい。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 彼女にあって、自分にはなかったもの。

 今なお、それは彼女のもとにあって、成長し続けているもの。

 そして、未だに自分には存在しないもの。

 

「わたしは……」

 

 黒森峰の伝統に従うことこそ……そしてなによりも、敬愛するまほに付いていくことが正しい道だとエリカは信じて疑わなかった。

 だが、その時間はもう終わろうとしている。変化を求められている。

 これまでとは違う方法で、黒森峰を成長させ、進歩しなければならないと。

 

(だったら……)

 

 ならば、自分がこれまで信じてやってきたことはいったい……

 

「……あいや、すまん。少し感情的になりすぎたようだ」

 

 エリカの顔色を見て、礼慈は声色を柔らかにした。熱弁したことを恥じるように頭をかく。

 

「追い詰めるような質疑をするなど、私らしくもないな。エリカ、傷つけてしまったようなら詫びるよ」

「……別に」

 

 エリカは顔を逸らした。

 いつもなら『レイジのくせにわたしに説教なんて生意気よ!』と某ガキ大将のような憤激するところだが、

 今日に限っては怒る気になれなかった。

 

「エリカ、よかったらコーヒーでもどうだ? 最近コーヒーメーカーを自作したのだ。一杯ご馳走しよう」

「……そうね。いただこうかしら」

「うむ。待っていてくれ」

 

 礼慈はそう言って、優しくほほ笑んでコーヒーメーカーを取りに行った。

 

 その間、エリカは考える。

 これからの自分に必要なこと。これからの黒森峰に必要なもの。

 

 薄々はわかっていた。このままではいけない、ということぐらい。

 ただ、生まれつきのプライドが認めることを拒否していた。

 そしてなによりも……

 

 黒森峰にもういない《彼女》。

 別の場所であんな輝くような笑顔を浮かべている《彼女》を見ていると、どうしても、受け入れたくないものが芽生える。

 

 ──エリカさん。これから一緒にがんばろうね!

 

 自分まで変わってしまったら、《あの頃の時間》すらも、すべて嘘になってしまうような気がして……

 

「待たせたなエリカ」

 

 聞き慣れた声によって、エリカは意識を深奥から引き戻す。

 

 そうだ。変わらないものもある。

 小さな頃から傍にい続けてくれた存在。ずっとずっと忌々しいだけだと思っていた彼との縁が今日に限っては……

 

「レイジ……」

 

 エリカは顔を上げる。どこか縋るように。

 柔らかなほほ笑みを浮かべる礼慈が、カートに乗せたコーヒーメーカーをエリカの前に持ってきた。

 コーヒー豆とタンクが入っているであろう木箱。

 

 そして、その木箱の上には『小便小僧』が……

 

「おい」

「さてカップをここに置いてと。よしエリカ。いますぐおいしいコーヒーを淹れてやるからな」

「おいコラ」

「では小便小僧君。一発盛大に頼むよ」

「やめんか!」

 

 弱々しかったエリカの表情は再びに怒気に彩られた。

 

「何なのよアンタ! 珍しくマトモな話するから少し見直したと思ったらものの数秒でコレか! 何なの! 真面目過ぎたら死んじゃう病なの!?」

「なにを怒っているんだね? 私はただ自作コーヒーメーカーでコーヒーを淹れようとしているだけだぞ?」

「そんなコーヒーメーカーから出されたものなんて高級ブランドでも飲みたかないわよ!」

 

 とあるビール会社ではイベントの際、小便小僧の銅像からビールを出させて通行人に振る舞うそうだが、渡された人間がどんな顔を浮かべるかは言うまでもない。

 味がどうこうではなく、生理的な問題である。

 

「なんだねエリカ。まさか君はこのお下品な部分からコーヒーが出ると思っているのかね? あらやだねこのお嬢さんは」

「どう見てもそういう悪意あるデザインでしょうが!」

「なるほど。確かに世の中にはそういうジョークグッズが存在するのは事実だ。モアイ像の鼻からミネラルウォーターが噴出するものとかな。

 だがねエリカ。私の小便小僧君はそんなお下品なジョークグッズとはひと味違う」

 

 そう自信満々に言って礼慈は、小便小僧の頭に手を重ねる。それがスイッチだったのか、小便小僧の目がカッと光りだす。

 

「私の小便小僧君は……」

 

 瞬間、小便小僧の顔面に汗のようなものが噴き出してきたかと思うと……

 

 ぶしゃあああと出血のようにコーヒーが放出された。

 

「顔の毛穴からコーヒーを出す」

「いやああああああああああああ!!」

 

 逸見エリカ、高校生にして多大なトラウマが植え付けられた瞬間である。

 

「おっととと。カップの位置がずれると盛大に溢れてしまうのが難点だな。……よし、できあがりだ。ほれエリカ。熱いうちに飲みたまえ」

「イラナイ」

 

 能面のような顔で断ると、「何だねせっかく淹れたのに」と礼慈は不満そうにコーヒーを飲んだ。

 神経を疑った。

 

「ああ、もう……」

 

 エリカは手で顔を覆った。

 本当に何なのだこの男は。

 いつもふざけているようにしか思えなくて、なのにときどき自分に大切なことを気づかせてくれて、でもやっぱりふざけていて。

 

(どっちが本当なのよ?)

 

 それがハッキリしないから、この自分の気持ちにだっていつまでも整理が……

 

(……何それ?)

 

 ふと頭に浮かんできたものを、エリカは意識から切り落とした。

 

「まあ、あれだエリカ。一人で抱え込むなよ」

「え?」

 

 椅子に座ってコーヒーを飲む礼慈は、そう言って穏やかな笑みを浮かべる。

 

「辛いとき、悩んだとき、困ったとき。そういうときは他人を頼っていいのさ。隊長であってもそれは例外ではない。むしろトップに立つ者ほど、そういうものが必要だ」

「でも、西住隊長は……」

「あの人だって人間だぞ? ただ態度に出さなかっただけで、見えないところで、誰かを頼っていたのさ。整備士の我々がそうだった」

「……」

 

 エリカは基本的に、どんなことも一人で卒なくこなせる。

 だからこそ他人の力を頼ることを知らない人生だったし、そうする自分は格好悪いと思い込んでいた。

 しかし、そんな自分に拘って、いつまでも変わることなく、この誇り高き黒森峰の名を落とすようなことをしてしまったら、それは敗北する以上に格好悪いことなのではないか。

 

「人には限界がある。できないことは素直に他人に頼るべきなのだ。それは決して恥ではないぞエリカ。社会の基本だ」

「だけど……」

「それにエリカ。誰も君が西住隊長並みに素晴らしい隊長になるなど期待していないから、もっと気楽にやりたまえよ」

「おいコラ」

 

 なぜこの男はいつもひと言多いのだろう。

 

「しかし君だって西住隊長と同じことができるとは思ってはおるまい?」

「それは、その……」

 

 そればかりは確かに否定できないことだ。

 隊長の引き継ぎを行っているこの時期、それは身に染みて実感している。あの人の背中は、遥かに遠い。

 だが、それでも追い付かなければならない。越えることはできなくとも、少なくとも近づけるように。

 それが日々、エリカの心を逸らせている。言葉にできない焦りを起こさせている。

 そんなエリカの心情をわかってか、礼慈は言う。

 

「大事なのは君らしさだと私は思うぞ。西住隊長とまったく同じことをしたところで、無理が生じるのは明らかだ。自分ならではのベストを引き出すことが、最も確実な成長法だ」

「わたしらしさ……」

「ああ。みほ君が、大洗で自分の戦車道を見つけたようにね」

「……」

 

 ──お姉ちゃん、見つけたよ! わたしの戦車道!

 

 夕陽に照らされた、彼女の眩い笑顔。それが、エリカの頭からいまだに離れない。

 

 ずるいと思った。

 どうしてあの子は、自分をおいてどんどん先に行ってしまうのか。

 

「焦るなよエリカ」

 

 礼慈は窘める。いつものように、不遜な態度で。されど、優しい声色で。

 

「君なりのペースで、ゆっくり進めばいい。結果ばかりをすぐに求めては、本当に大事なものを見失うぞ?」

「……」

 

 いつだってこの男は見透かしたようなことを言う。

 偉そうに、憎らしく……しかし、間違ってはないない。

 この男もこの男で、いろいろとずるい。

 

 礼慈はニコリとエリカにほほ笑む。

 

「案ずることはない。私がついているのだ。どんと構えていたまえ」

「……っ」

 

 本当に、本当にずるい。

 

「さて、そんないまの君に必要なのはリラックスすることだと私は思う。そこでこんなものを用意してみた」

 

 そう言って礼慈は懐からひとつの瓶を取り出した。

 

「アロマオイル~」

 

 バックから『パンカッパッパパーン!』と軽快なBGMが鳴りそうな濁声で、青い瓶を高々と上げた。

 気の抜けそうな礼慈の調子に、エリカは思わず床に滑り落ちそうになった。

 

「アンタ、本当に真面目な時間が続かないのね……」

 

 礼慈が美形にも関わらず、女子にモテない理由はこういった一面が原因だ。

 

「というか、そのアロマオイルもアンタの自作? だったら不安しかないから遠慮しておくわ」

「これは普通に市販のものだよ。といっても効力は絶大だがね」

「わたしあまりアロマテラピーって信用してないのよ」

「いやいや。匂いの効果はバカにはできないぞエリカ」

 

 植物の香りには興奮状態に陥った脳を落ち着かせる癒し効果がある。

 このストレス社会、アロマオイルは必需品と豪語する者も珍しくない。

 

「特にこのアロマオイルは評価が高いぞ。ええと、原料の植物はなんと言ったかな? 確か……“淫乱いんらんの花”だったかな?」

「それを言うなら“イランイランの花”でしょうが」

「そうそれだ」

 

 イランイランとは主に熱帯地方に分布する南国の植物である。

 主な成分であるリナロール、ゲラニオールには緊張による過呼吸や心拍をスローダウンさせる効果がある。その即効性と実用性、そして少しクセはあるものの、甘く魅惑的な香りから特に人気の高いアロマオイルである。

 

「とりあえず騙されたと思って使ってみたまえ。気休めかもしれないが、効果はあるかもしれないぞ?」

 

 そう言って礼慈はハンカチに一滴オイルを落とし、エリカに手渡す。

 

「はあ。しょうがないわね」

 

 エリカは渋々と受け取る。まあ、わざわざ自分のために用意してくれたのだ。

 試しに使ってみるとしよう。

 

「でもねぇ、アロマひとつでストレスがなくなるぐらいなら、苦労はしな……」

 

 グチグチ言いながら、エリカはオイルの沁み込んだハンカチを鼻に宛がう。

 

 

 瞬間、逸見エリカの世界は一変した。

 

 

「☆〇×◇♡♪!?」

 

 声にならない嬌声が独房中に響き渡った。

 

「や、やだ、なにこれ……すごく気持ちいい……」

 

 視界が反転する。

 脳髄が肥大化していくような快楽が、神経のすみずみまで浸透する。

 

「なに? なんなのよコレ~」

 

 既知にある香りをことごとく凌駕する芳香を前に、エリカの瞳は蕩けるように潤っていく。

 夢中でハンカチをすうすうと嗅ぎ出す。

 

「ちょっとぉ。メチャクチャいい香りじゃないコレ~♪」

「ほうほう。イランイランの香りは好き嫌いがはっきり別れるそうだが、どうやらエリカの好みに合ったようだな。なによりだ」

「え、ええ。こんないい香り初めてよ~♪」

 

 ほわんほわんと夢見心地な表情でエリカはほほ笑む。

 

「はあ~なんなの、新しい扉が開くようなこの感覚……。例えると、寒風の中で火を起こすためにたくさん用意した重い薪を降ろして、ようやく焚き火で身体を暖められたような安心感よ」

「フハハ、荒〇先生の漫画みたいな例え方だなエリカ」

 

 新感覚の癒し効果に、エリカはすっかり虜となった。

 

「ああ。消えていく。わたしの中からストレスが消えていくわ……」

「驚いたな。想像以上の効果だ」

「ええ。とてもいい気分だわ」

「あれま。効きすぎてまるで別人みたいになってしまったぞ」

 

 ストレスが喪失した途端、逸見エリカはあたかも古い少女漫画のようなビジュアルと化した。

 

「ありがとうレイジ。まるで生まれ変わったような気分だわ」

「うむ。事実、別世界の住人みたいになっているぞエリカ」

「なんだか今なら、どんな人にでも優しくできるような気がするわ」

「たいへんだ。見てくれだけ綺麗なエリカが真の意味で綺麗なエリカになってしまった」

「レイジ。恥ずかしくて言えなかったけど、本当はいつもあなたにすごく感謝しているのよ? うふふ。いつもありがとう」

「すまないエリカ。正直に言おう。今のお前すごく気持ち悪い」

「あら、ひどいじゃない。でも許すわ。いつもわたしばっかりキツイこと言っちゃってるんですもの。これでお相子(あいこ)ね? うふふ♪」

「ひいい。こんなのレイちゃんが知ってるエリカじゃない」

 

 新留礼慈、十七歳。珍しく本気で怯えていた。

 

「そうだわ。あなたのアドバイスに従って乗員の子たちとお話してこようかしら。今ならきっとわかり合えるような気がするわ」

「やめておけ。絶対に気味悪がられるだけだ」

「いいえ。きっと通じ合えると信じているわ。オープンマインドな姿勢で行ってくるわ」

 

 綺麗なエリカはそうして花びらでも舞いそうな歩き方で独房の出口へ向かう。

 ちょうどそのタイミングで別の来客がやってきた。

 

「アラトさん、いらっしゃいますか?」

 

 柔和なほほ笑みを浮かべて入って来たのは、赤星小梅だった。

 いつものように、礼慈の身の回りのお世話にやってきたのである。

 通常状態のエリカであれば、ここでひと悶着あったかもしれないが、入れ違いでやってき小梅に向けられたのは優雅なほほ笑みであった。

 

「あら小梅じゃない。ごきげんよう♪」

「え? ご、ごきげんよう」

 

 爽やかに挨拶をしてくる銀髪美少女に小梅は戸惑った様子だったが、一応同じ挨拶を返した。

 

「いつもレイジのお世話をしてくれてありがとう♪ 幼なじみとしてお礼を言うわ♪」

「は、はあ。その、どういたしまして?」

「世界はこうして優しさで満ちているのね。素晴らしいことだわ」

 

 そんなことを呟きながら去っていくエリカの後ろ姿を、小梅は冷や汗を流しながら見送った。

 小梅は当惑した顔色で礼慈に向き直る。

 

「あの、アラトさん? 先ほどエリカさんらしき人にお声をかけられたのですが……」

「うむ。エリカで間違っていないよ。良かれと思ってストレスを除いたら、とんでもないクリーチャーが生まれてしまった」

「はあ」

「ところで小梅君。何か用かね?」

「あ、はい。サンドイッチを作ってきたんですけど、朝ごはんがまだなようでしたら召し上がってください」

 

 小梅は清楚にほほ笑んで、ピクニックバスケットを差し出す。中には豊富な種類の手作りサンドイッチが丁寧に並んでいた。

 見事な配列を組んだサンドイッチの山に礼慈は目を輝かせる。

 

「おお、助かるよ。朝食を抜いて整備やら工作やらに没頭していたのでね。ありがたく頂くよ」

「もうアラトさんたら。あいかわらず夢中になると自分のことが疎かになるんですから」

「いやはや返す言葉もない」

 

 二人は穏やかに笑い合う。

 その和やかな空気は、誰が見ても初々しいカップルのようであり、昔からの長い付き合いである幼なじみ同士のようであった。

 しかし二人は付き合っているわけではなく、親しくなったのも去年からのことである。

 だがそれでも、正直のところ幼なじみのエリカ以上に幼なじみらしいことをしている上に、その距離感も実に近しかった。

 

「うむ。とても美味だ。コーヒーによく合う」

「お口に合ってよかったです♪」

 

 小梅は心底嬉しそうに両手を合わせた。

 

「本当に、いつも小梅君には助けられてばかりだね」

「いえいえ。好きでやっていることですから」

 

 おいしそうにサンドイッチを頬張る礼慈の姿を、小梅は頬をほんのりと桃色に染めて見つめる。

 

「君はいい人だ」

 

 礼慈がそう言うと、小梅はますます頬を紅潮させた。それはとても幸せそうな表情だった。

 

 小梅が礼慈に対してどういう類の感情をいだいているのか、誰の目から見てもそれは明らかだった。

 周りの女子はそんな小梅に対して「趣味が悪い」とよく言う。

 しかし小梅はそんな彼女たちに、いつも余裕の表情でこう返すのだ。

 

 ──アラトさんは、皆さんが思っているよりもずっと、純粋な(かた)なんですよ?

 

 

 

「小梅君といると、改めて人との関係は大事だと実感させられるよ。もし私がこの学園で孤高であったら、とっくの昔に栄養失調で倒れているに違いない」

 

 冗談なのか本気なのか曖昧なことを述べる礼慈に、小梅は優しい眼差しを向ける。

 

「エリカさんとそういう話をされていたんですか?」

「あいかわらず察しがいいね」

 

 礼慈は満足げに賞嘆した。

 

「わかりますよ。アラトさんのことですから」

 

 小梅も嬉しそうに微笑する。

 

 気兼ねなく打ち明けられる相手だからか、礼慈は先ほどの出来事を淡々と語った。

 礼慈の荒唐無稽な行為に慣れている小梅は、ひとつひとつの話題にいちいち突っ込みを入れることなく、穏やかに相槌を打っていた。

 

「そうでしたか。エリカさん、そんなに悩まれていたんですね……」

「意地を張ったところで得することなど何もない。エリカにもそれをわかって欲しいのだが」

「アラトさんは、本当にエリカさんのことを大切に思っているんですね」

「放っておけないだけさ」

 

 礼慈はそう早口に言った。わかりづらくはあったが、小梅は彼が少し照れていることを見抜いた。

 かわいらしい、と心の中で小梅はほほ笑ましく思った。

 

 礼慈は目を細めて話を続ける。

 

「埋もれた才能が明るみに出ぬまま潰えてしまうことほど、無残な悲劇はあるまい。エリカには多くの素質がある。だが、周りに天賦の才を持った者が多すぎて、相対的に自分が劣っていると思い込んでしまっているのだ」

「エリカさんだって、充分立派な方ですのに」

(こころざし)が高すぎるんだな」

 

 礼慈は瞳を閉じた。

 

「到達点というのは、人それぞれ異なるものなのだ。自分ならではのベストを探すことが、人生の命題と言っても過言ではあるまい。『人の価値は唯一無二』と、私の戦友の武佐士君が言っていたが、実にそのとおりだと思うよ」

 

 礼慈は親しい男友達のことをみな“戦友”と呼ぶ。

 そして、それ以上の存在を彼は常に“我が幼なじみ”と大切な宝物のように口にする。

 

「エリカには腐ってほしくない。彼女なら、誰にも手にすることのできない栄光を勝ち取れるはずなのだ」

 

 共に過ごしてきた歳月の重みを感じさせる言葉だった。

 

「エリカならできる。私は、そう信じているよ」

 

 礼慈がなぜここまでエリカという一人の少女に尽くそうとするのか、エリカ本人も含め、誰もが首を傾げることだった。

 だが小梅はわかっていた。礼慈という存在があまりにも奇抜過ぎるせいで、誰もが答えに辿り着けないだけ。少し考えてみればすぐにわかる、至極単純な理由。

 

 小梅だけはわかっている。彼の純粋で真っ直ぐ過ぎる、一途な思いを。

 小梅もまた、同じ思いを目の前の少年にいだいているから。

 

(……羨ましいな、エリカさん)

 

 小梅は切なげな笑みを浮かべて、胸元に手を当てた。

 

 誰もが新留礼慈を変わり者だと言う。

 しかし、知っている者は知っている。彼がどこまでも優しく思いやり深い人間だということを。

 小梅はそのことを、一年前に思い知った。

 

 いまこうして彼と過ごす時間がかけがえないと思えるほど、小梅の胸には強い感情が宿っている。

 その感情が芽生えた日のことを、小梅は思い返す。

 いろんな人間に知って欲しい礼慈の一面。けれどもやっぱり自分だけが知っておきたい、礼慈との特別なひととき。

 

 ひょっとしたら、幼なじみのエリカですら知らないかもしれない彼の本心。

 それを打ち明けてくれた日のことを、小梅は昨日のことのように思い返せる。

 

 ──意識は、一年前へと巻き戻る。

 



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黒森峰の日常③ 小梅の思い

 一年前、小梅は黒森峰から転校するつもりだった。

 みほがそうしたように、自分と同じ戦車に乗っていた娘たちが責任を取ってそうしたように。

 

 プラウダとの決勝戦。

 悪天候によって泥濘(ぬかるみ)となった地面、そしてプラウダの砲撃が要因となって、小梅が乗っていた戦車は川へと落ちた。

 優勝候補としてあるまじき失態だ。いくら足回りの弱いドイツ戦車と言え、天候の影響を考慮せずに墜落してしまうなんて。まさに未熟をそのまま滑稽な形として観戦者に披露してしまった。

 小梅はそんな自分を恥じた。

 

 しかし、その失態を責める者はいなかった。あの状況を想定できなかった自分たちにも非はあると。

 真面目で聡明な生徒ばかりの黒森峰では、失敗を犯した者だけを一方的に責めるのは愚かだということを、誰よりも理解していた。

 一人の責任は全員の責任。連帯責任だ。誰もがそれを弁えている。

 ……もちろん、影で陰湿な言葉を吐く者はいたが、そういう者ほど黒森峰の校風には馴染めず、自然と辞めていく。あるいは追放する。

 歪んだ人間性を持つ生徒など、この誇り高き黒森峰には必要ない。

 

 もちろん悔しさはあった。当然である。十連覇を賭けた戦いだったのだ。

 だが、それを逃してしまうような欠点を、自分たちは抱えていた。

 車長が不在になっただけで行動も判断もできなくなるような、とつぜんの事態でパニックなってしまうような、そういう欠点だらけのチームだったのだ。

 認めるしかない。自分たちは、弱かった。

 だからこそ、誰か一人に責任をなすりつけるようなことはしなかった。

 

 フラッグ車を放って、川へ飛び込んだ副隊長みほに対してすらも……少なくとも、生徒たちの間では。

 しかし、OGたちからの非難は避けられなかった。

 

 若き少女が一身に受けるには、あまり重すぎる罵倒と怒りがぶつけられた。中には決して言うべきではない中傷も、大人気ない嘲笑も含まれていた。

 しかし黒森峰は規律を重んじる学園である。意見できる生徒は当然いなかった。

 お偉いたちの怒りを鎮めるためにも、みほは黒森峰を去るしかなかった。それを止めることは、姉のまほであっても、因縁深い間柄だったエリカであっても、できなかった。

 当然、彼女に救われた小梅であっても……

 

(わたしのせいだ……)

 

 小梅は自分が許せなかった。敗因を作った自分を。みほが黒森峰から追い出される原因となった自分を。

 どうして、みほだけが責められなければならないのだ。非は間違いなく、自分にあるというのに。

 

 みほとは黒森峰中等部の頃から親しい仲だった。思うように戦車を乗りこなせない自分を、みほはその優しい心でいつも励ましてくれた。家元の娘特有の近寄りがたさなど微塵も感じさせず、心を通わすことができた。

 尊敬していた。大切な友人だった。なのに……

 

 いっそ罵倒して責めてくれれば、どれだけ救われただろう。

 ぜんぶお前のせいだ。お前のせいで黒森峰は負けて、みほまでいなくなってしまったんだ。

 罪深い自分を、そう言って裁いて欲しかった。

 しかし、彼女に断罪の刃を振り下ろす存在はいなかった。誰もが義理堅く、そして思いやり深く、沈黙を決め込んだ。

 ゆえに、小梅は絶望した。

 

 夜ごとに悪夢にうなされ、押しつぶされそうな罪悪感によって、小梅は日々疲弊していった。

 何故みほは去って、自分はここに残っているのだろう。何を当たり前のように戦車道を続けているのだろう。

 自分なんかよりも、ずっと素晴らしい戦車乗りが黒森峰(ここ)にいたのだ。なのに彼女は、居場所も、家族の絆も、そして戦車道すらも失ってしまった。

 信じたはずの道を突き進んだにも、関わらず。

 

(わたしのせいだ……)

 

 こうして黒森峰にいることそのものが、小梅にとっては辛かった。

 戦車に乗るたび、在りし日の雨音がまるで亡霊のように小梅の耳に甦る。

 重苦しく昏い雨空が、いまも瞳に焼きついている。

 

 小梅が陸に引き上げられたとき、すでに勝敗は決していた。

 小梅は朦朧とする意識の中で、自分がみほの腕によって抱かれていることだけはわかった。

 自分を救い出してくれた、みほの手。氷のように冷たい彼女の体温。頬に滴り落ちてきた、雨とは異なる熱い滴。

 そして、掠れるような、いまにも消えてしまいそうな彼女の声。

 

 ──ごめんなさい。みんな……

 

 笑顔がとても素敵だった少女。その少女から笑顔を奪ってしまったのは、自分だ。

 

 だからこそ小梅は決めた。二度と、戦車には乗らないと。そんな資格は、もう自分にはないだろうから。

 誰も自分を責めないのならば、自身がその懲罰を与えよう。

 

 教師以外に転校のことを告げるつもりはなかった。隊長であるまほや、小梅を庇ってくれたチームメイトたちに対しての不義理の何物でもなかったが、彼女の精神はそこまで追い詰められていた。もう仲間と顔を合わせることすらも怖かった。

 このまま誰にも知られることなく静かに去り、そして自分の存在そのものを忘れて欲しかった。

 

 しかし……

 

「君も辞めるのかね?」

 

 そんな小梅の思惑を見抜く者が一人いた。

 最後のけじめとばかりに、自分が乗っていた戦車に礼をしようと、日の落ちた格納庫にやってくると、そこには一人残って整備を続ける男子生徒がいた。

 それが礼慈だった。

 彼は、ひと目で小梅が何を考えているのかを理解した。

 

「……あなたには関係ありません」

 

 礼慈の問いに、小梅は冷ややかに答えた。

 その頃の小梅は、男子に対して強い警戒心があった。エリカの幼なじみである新留礼慈は特に苦手だった。

 いつも何を考えているのかわからなくて、奇抜な言動や行動には正直苛々させられていた。

 ぶっきらぼうに答える小梅に、「それもそうだな」と礼慈も無関心そうに言った。

 

「簡単に諦めるような人間に、私は露ほどの興味もない。辞めたければさっさと辞めるがいい。やる気のない人間などいても邪魔なだけだ」

「……」

 

 きつい言葉を前に、しかし小梅は反論する気にはなれなかった。悔しくはあったが、正論だったからだ。

 そのまま小梅は背を向けて格納庫を去ることにした。

 その背中にポツリと独り言のような言葉がかけられる。

 

「君が最後の一人だ」

「え?」

「みほ君が身を挺して救った乗員で、いま黒森峰に残っているのは君だけだ」

「……」

 

 小梅と同じ戦車に乗っていたチームメイトはすでに黒森峰(ここ)にはいない。全員が「ごめんなさい、ごめんなさい」と壊れたゼンマイ人形のように謝罪し、涙を流して去っていった。

 小梅もその一人になる。そんな彼女に、礼慈は鋭く言い放つ。

 

「もしも君まで黒森峰を去り、戦車乗りであることをやめてしまうというのなら──みほ君はいったい何のために川に飛び込んだのだろうね」

「……っ!?」

「彼女は決して、君たちまで戦車道を辞めることなど、望んではいなかったと思うのだがね」

 

 小梅は言葉を失った。

 自分までが黒森峰の生徒でなくなり戦車道を辞めるということは、彼の言う通り、みほの行為を無碍にすることに等しい。

 

 みほ一人が責任を背負って黒森峰を去ったのは、最愛の姉の立場を守るためだけではない。

 失態を犯してしまった自分たちが今後も黒森峰で過ごせるように、心ない非難を彼女が一身に受けてくれたのだ。本来ならば自分たちが浴びるはずだった中傷すらも、彼女一人で。

 

 決意を固めたはずの小梅の心は揺れた。

 本当にこのまま辞めてしまってのいいのか。みほの思いを裏切ってまで、戦車道を捨てるのか。

 

「わたしは……」

 

 それでも小梅は勇気を振り絞ることができなかった。みほの思いを実感したからこそ、余計に選択肢は重みを増してしまった。

 みほのように立派な戦車乗りではない自分が、どこまでも弱い自分が、はたしてこの先、罪を背負ったまま戦車道を続けられるのか。

 

「わたし、はっ……」

 

 恩義と不安。ふたつの激情の狭間で小梅は葛藤した。

 気づくと瞳から熱いものが込み上げていた。もう何度流したかわからない。

 それでもその日のソレは、今までで一番深い悲壮を孕んでいた。

 

「う、うぅうぅ……」

 

 小梅は子どものように嗚咽した。

 

「どうすれば……わたしは、どうすれば、いいんですか?」

 

 それは礼慈に向けてか、あるいは自分に対してか、小梅は縋るように問いかけた。

 暗い洞穴の出口を求めてさ迷うように。

 

「……」

 

 そんな小梅を、礼慈はどこか切なそうに見ていた。

 

 たが、その表情はすぐに非情なものに変わった。まるで仮面を被るように。

 鋭く冷たい態度となって、礼慈は背を向ける。

 そして、

 

「……まあ、()()が救うような人間が残ったところで、足手まといでしかない」

「っ!?」

「彼女は本当に余計なことをしてくれたよ。我々整備士の苦労もすべて水の泡じゃないか」

 

 黒い悲壮が嘘のように引いていった。

 代わりに飛来してきたのは、真っ赤に染まった怒りだった。

 

「十連覇を逃す要因となった人間たちなど、諸共いなくなったほうがこの黒森峰のため……」

 

 格納庫に激しい破裂音が響き渡った。

 身体が真っ先に動いていた。

 自分の力とは思えない腕力で礼慈を振り向かせ、その頬を思いきり叩いていた。

 

「あなたに……」

 

 自分への罵倒ならまだいい。

 しかし、

 

「あなたに、みほさんの何がわかるんですか!!」

 

 みほへの侮辱だけは、絶対に許せなかった。

 

 それは小梅の人生において、一番激しい感情の爆発だった。

 

「どうしてみほさんだけが、そんなにも責められなくちゃいけないんですか!? あの人は、何も間違っていなかったのに! あの人に無茶をさせてしまった、わたしたちが悪いのに! どうして、どうして!」

 

 一度爆ぜた本心は、堰を切ったように溢れた。それはずっと胸の内に溜め込んでいたものだった。

 何もできなかったことが悔しくて、弱い自分が情けなくて、そしてなによりも──みほがここにいないことが悲しくて。

 そんな激情を、すべて吐き出す。

 

「みほさんはいつだって、わたしたちのことを考えてくれたのに! 誰よりも黒森峰のために頑張っていたのに! なのに……っ」

 

 みほは正しいと信じた道を突き進んだ。そんな彼女に待っていた仕打ちは、あまりにもむご過ぎるものだった。

 純粋で優しい彼女が、どうしてそんな目に遭わなければならなかったのか。

 

「試合に勝つことが、そんなに大事なんですか!? 優勝することが、そんなに大事なんですか!? もっと、もっと大事なことがあるんじゃないですか!? それを学ぶために、わたしたちは戦車道をやっているんじゃないんですか!?」

 

 決して明かすことのできなかった本心。ましてや真の戦犯である自分が決して言うべきではない発言だった。

 西住師範を始め、黒森峰のOGの前では間違っても口にすることなどできない。

 そうわかっていても、小梅はもう自分を抑えられなかった。

 秘め続けていた感情が、怒涛のように溢れる。

 

「仲間を見放してまで勝ちを優先することが戦車道だって言うなら、わたしはもうそんなもの続けたくない! 立派な女性に、善き母になるために戦車道があるのに……どうしてそれをしてきた人たちが、みほさんを否定するの!? あの人が間違っていただなんて、ヒドイことを言うの!?」

 

 涙と怒りで、彼女の胸の中はぐちゃぐちゃだった。それでも、言葉は口から溢れ続けた。

 

「わたしは、悔しいです……っ。あの人の居場所を守ることができなかった自分が。あの人に何も恩を返せていないことが。あの人の、戦車道を守ることができなかった自分が! 言いたい……あの人の戦車道は、絶対に間違いじゃなかったって!」

「ならば、答えはすでに出ているじゃないか」

「え?」

 

 涙に濡れた顔を上げる。

 頬を腫らした顔を、礼慈はまっすぐと、小梅に向けていた。力強い瞳だった。

 

「伝えればいい。いま私に言ったことをみほ君に。叫べばいい。世間に向かって、君の思いを」

 

 先ほどまでとは違う、温情に満ちた顔で、彼はそう言った。

 そして唐突に頭を下げた。

 

「試すようなことを言ってすまなかった」

「え?」

「私のいまの発言に何も感じないのなら、引き留める必要はないと思ったが……」

 

 礼慈は顔を上げる。腫れた頬に手を触れる。

 

「まさか殴られるとは思わなかったよ」

 

 苦笑いを浮かべる礼慈を見て、小梅はすべてを察した。

 

「……わざと?」

「心にも思ってないことを口にするというのは、想像以上に自分自身に腹が立つものだね」

 

 拳を握る鈍い音がする。音のほうへ小梅は視線を配る。

 礼慈は、血が滲むほどに拳を握りしめていた。

 

「あ……」

 

 小梅は口元を抑えた。

 そして、自分の手を見つめる。彼の頬を叩いた手を。

 生まれて初めて、男性を殴った。そんな自分に今更ながらに困惑し、そして罪悪感が芽生えた。

 小梅は顔を伏せる。

 

「あの、わたし……」

「謝る必要はない。君が殴らなければ、自分で自分を殴っていた」

「……」

「いいんだ。嫌われることには慣れている」

 

 何でもないことのように、礼慈は言った。

 

「そして、そんな嫌われ者である私は、これから身勝手なことを言うよ」

 

 小梅は顔を上げる。

 彼が言うように、これまで嫌っていた人物の顔を。しかし、そこには小梅が今までに見たことのない、真剣な表情があった。

 

「赤星小梅さん。君は、黒森峰(ここ)に残るべきだ。残って、戦車道を続けるべきだ」

 

 礼慈はそう言った。ただまっすぐに。どこまでも真剣に。

 

 小梅は思った。

 きっと、これが本来の彼なのだろうと。いま彼は、真実の心で自分と向き合っているのだと。

 

「本当に思い残すことがないのなら、止めはしない。辞めたければ辞めればいい。それで君の心が救われるのなら。だが……君にはまだやり残したことがあるんじゃないのか?」

「……」

 

 やり残したこと。思い残すこと。

 そんなものは、もう自分の中には残っていないと小梅は思っていた。

 だが、礼慈に煽られた瞬間、それは驚くほどに口から溢れた。

 礼慈の言うとおり、答えはすでに出ているのだ。自分が、すべきこと、ここでやるべきことが。

 

「重みから解放されること自体は、とても簡単なことだ。ただ捨てればいいだけだ。……だがね、後悔してから気づいても、捨てたものは二度と戻ってこないのだ。たとえ自分の手で捨てたものだとしても、一度手放してしまえば、それはもう取り返せないものなのだ」

 

 零れた水は器に戻せないように。そんな言葉が小梅の脳裏に浮かんだ。

 

「君には君の立場があるし、思うところもあるだろう。だが、それでも私はやはり身勝手に言うよ。

 ──残りたまえ。君がここで戦車道を続けることが、もしかしたら、みほ君にとって救いになるかもしれない」

「みほ、さん……」

 

 みほと同じように自分も戦車道を辞めることが、せめてもの贖罪になると小梅は思っていた。

 だが思い直す。はたして、みほという少女は、そんなことをして喜ぶ人物だったろうか。

 小梅は思い出す。彼女との思い出が昨日のことのように甦る。

 

 ──ボコはね、どんなことがあっても諦めずに、必ず立ち上がるの。だからわたしも、ボコに負けないぐらい頑張らなきゃって思うんだ。

 ──赤星さん、一人で悩まないで? みんな最初は初心者だよ。これから一緒に頑張っていこうよ!

 ──赤星さんは、わたしよりもたくさん素敵なものを持ってるよ? だから自信を持って!

 

 いつだって、誰かのために頑張って来た優しき少女。

 いつだって、自分よりも他人の幸せを優先した少女。

 そんな彼女が、自分のせいで誰かが悔やみ、戦車道を辞めたと聞けば……悲しむに決まっている。

 

 だが、その逆ならば?

 あなたがいてくれたから、わたしはこうして今も戦車道を続けられています。

 そう伝えることができるのなら、それは……

 

「……うぅっ」

 

 小梅は泣いた。

 悲しさからではない。自身に対しての情けなさからでもない。

 

 こんな自分でも、みほのために何かできることがあるかもしれない。

 それに気づくことができたからこそ流れる、涙だった。

 

「一人で悩むな」

 

 切な声色で、礼慈は言う。かつての、みほのように。

 

「悔しいのは、私だって同じだ。もっとちゃんと戦車を整備していれば、もっと知識があれば、君たちを勝利させる戦車を用意できたかもしれないと。……いつも、そう悔やんでいるよ」

 

 そうだ、と小梅ははたと気づく。自分たちがそうだったように、彼ら整備士たちにも、整備士なりの悩み葛藤があったのだ。考えてみれば、当然のことだった。

 ずっと自分たちを影から支えてきてくれた、縁の下の力持ち。

 自分たちは、一度でもそんな彼らに感謝をしたことがあっただろうか。

 

 遠い先の未来を見るように、礼慈は空を見据える。

 

「悔やむなら尚のこと、我々は前に進まなくていけない。二度と同じ過ちを踏まないために。だから心ない大人たちの声に負けている暇などないのだ。もっと戦車を強くする整備の方法を、あらゆる工夫を凝らしてでも探そう。どんなにバカらしいことでも、何だって試す。

 君たちを勝利させる最強の戦車を用意するべく、私は整備を続けるよ。……だから、君もどうか、諦めないでくれ」

 

 一人じゃない。

 こうして自分に対して、まっすぐな言葉をかけてくれる存在が、まだいてくれる。

 同じ苦渋を背負う存在がいる。

 

 そのことが何よりも……

 

 小梅は顔を覆って泣いた。

 そんな彼女の肩に、礼慈は優しく掌を重ねた。

 

「君は、強い人だ」

 

 涙を流す少女に、礼慈はそう言った。

 

「涙を流せる人は誰よりも強くなれると、かつて私の盟友(とも)が言っていた。だから、君は諦めちゃダメだ。こんなにも誰か一人のために涙を流せる優しき人が、簡単に押し潰れていいわけがない」

 

 彼の一言ひとことが、小梅の心を奮い立たせる。熱い涙をより、流させる。

 

「迷わず進みたまえ。君が信じた道を、戦車に乗って。どんな障害があっても、砲撃で撃ち抜いてやれ。それでも進めなくなったときは……私を頼りたまえ。どんなに壊れようと、必ず直してみせる。私は、そのために此処(ここ)にいるのだから」

 

 小梅は涙いっぱいの顔を礼慈に向ける。

 

「……本当、ですか?」

「私は口にしたことを決して曲げない」

 

 礼慈は力強く言った。

 

「どんと構いていたまえ。なにせこの黒森峰には、魔法使いである私がいるのだからね」

 

 普通ならば笑ってしまうようなその言葉も、礼慈が口にすると、本気で信じてもいいと思えた。

 

 事実、彼は小梅の中に、ひとつの魔法を起こしたのだから。

 それは勇気と呼ばれるもの。

 そして……

 

 

 

 暗闇の中で怯えるような少女の顔は、もうそこにはなかった。

 

* * *

 

 そうして、小梅は黒森峰に残り、戦車道を続けた。

 いつかまた、大切な恩人と巡り合えることを信じて。

 そして、その願いは思いのほか早くに叶えられた。

 

 そのことを、小梅は「アラトさんのおかげです」と礼慈に感謝した。

 しかし礼慈は首を振って言った。

 

『私がいなくとも、小梅君は黒森峰に残ることを一人で決意できたと思うよ? 私はただ、ちょっかいをかけただけに過ぎない』

 

 確かに、苦悶しつつも小梅は結局ここに残ることを選択したかもしれない。

 しかしそれは、きっと後ろ向きの選択だったに違いない。状況を変えることを恐れ、結局は前に進めないまま、無意義に日々を過ごしていたかもしれない。

 勇気をいだいて、そして前を向いて立ち上がれたのは、礼慈の言葉があったからだ。

 だからこそ、

 

 ──みほさんが、戦車道をやめないでよかった。

 

 戦車道の聖地で、小梅は恩人にそう伝えることができた。そして……

 

 ──あなたの戦車道のおかげで、今のわたしがあります。

 

 戦車乗りとしての敬意と感謝も、まっすぐに伝えることができた。

 その言葉にみほはただ戸惑っているようだったが、それでも、自分たちを見る暗い眼差しに、ひと筋の光が宿ったように思えた。

 

 今年の大会も、黒森峰は王者に返り咲くことはできなかった。それでも、小梅の胸には清々しい気持ちが広がっていた。

 口にしたら間違いなく叱られるだろうが、それでも小梅は思わず祝福したい気持ちになったのだ。

 大洗で戦車道を再開したみほが、新たな仲間と共に優勝したことを。

 そこには確かに、小梅が夢見て憧れた絆と呼ばれるものがあった。彼女が求める戦車道があった。

 

 だから、小梅は思う。諦めずに、戦車道を続けてよかったと。

 小梅が主張するまでもなく、みほの戦車道は正しかったと証明された。そのことが、誰よりも嬉しかった。

 

 きっとこの先、戦車道の世界は大きく変わっていく。もう過去のしがらみに囚われている暇もなく、変化を求められるだろう。

 これからの時代を作っていくのは、そして築いていけるのは、自分たちなのだ。

 その変革の時代にいられることに、小梅は感謝した。

 きっと、変えてみせる。

 学園は違えど、みほと共に、輝かしい戦車道を進んでいきたい。

 

 だから今日も小梅は戦車に乗る。

 栄光を今年こそは手にするために。そして、また笑顔で“彼女”と会うために。

 

 ……が、その前に解決すべき珍事があるようだった。

 

「お願いします副隊長! いつもの調子に戻ってください! 今の副隊長はすごく気持ち悪いです!」

「何を言うの直下(仮名)さん♪ わたしようやく心を入れ替えて皆と仲良くしようと考えているのよ? このままでいいに決まっているじゃない♪」

 

 身も心も文字通り綺麗になったエリカはそう言って微笑む。

 美化200%の微笑みは、華やかというよりもケバ過ぎて、隊員の少女たちは「ひいい」と怯えた。

 

「あ、あはは。エリカさん、まだアロマオイルの効果抜けてなかったんですね……」

 

 小梅はそう言って苦笑する。

 アロマテラピーの効能によってストレスがなくなったらしきエリカ。まるで別人の状態で訓練に現れたので、隊員全員が「誰!?」という具合に驚愕した。

 あまりにも普段とのギャップ差が激しすぎるので、誰もが異様な薄気味悪さを感じていた。

 

「さあ皆、今日も元気に訓練をしましょう♪ 困ったことがあったら何でも言ってね? ティーガーⅡの乗員の皆とすっかり仲良くなれた今のわたしなら、どんな相談にも乗れるから。ね? みんな♪」

 

 エリカの星だらけの瞳がティーガーⅡへと向けられる。

 エリカと同じ乗員たちは、全員げっそりとした顔で親指を立てた。エリカに対してではなく、「みんな、ドンマイ……」と被害に遭うであろう隊員たちに向けてのエールである。

 

「みんな♪ 手と手を取り合って、来年こそ優勝しましょうね! きっと薔薇色な学園生活がわたしたちを待っているわ♪」

「ちょっと新留さん! あなたの仕業でしょ! なんとかしてくださいよこの気味悪い副隊長!」

「フハハハハ! 我が幼なじみエリカよ! せっかくアロマの効能で見てくれだけでなく心まで綺麗になったというのに気味悪がられるとは! 本当に君って奴は不憫な女だなあ!」

「仕方ないわ。それだけキツいことを皆に言ってきたんだもの。でも大丈夫♪ 心を通わせれば、きっとわたしたちにも大洗の人たちのように決して切れない絆が芽生えるわ♪」

「……つまんない! こんなエリカ、レイちゃんつまんない!」

「もう、子どもみたいに駄々をこねちゃダメよレイくん♪」

「「本当にこのエリカ(副隊長)気持ち悪い!」」

 

 エリカを中心としたそんなやり取りを、小梅はクスクスと笑いながら見守った。

 

「もう。本当に毎日ハチャメチャですね、うちの訓練は」

 

 去年と比べたら、とても信じられない光景だ。みほが今の黒森峰を見たら、さぞ困惑するに違いない。

 

 そして小梅のように、自然と苦笑しだすことだろう。

 それほどまでに、今の黒森峰には明るい活気が満ち溢れている。

 

「エリカ! お前の大好きなハンバーグだぞ! 鉄板の上でジュウジュウ鳴ってるぞ!」

「あら嬉しい♪ わたしのために用意してくれたのレイジ?」

「このハンバーグにケチャップとマスタードをたっぷりぶっかけてやる! ドバドバっとな!」

「……ん?」

「そしてさらにとっろとろのチェダーチーズとカッリカリのピクルスをこれでもかというぐらいに投入だ!」

「レイ、ジ? そんなこと、したら、せっかくのハンバーグが……」

「そして最後にバンズで挟んで! レイちゃん特製ハンバーガーの出来上がりだあ!」

「おどりゃああああ! ハンバーグに対してなんて邪道なことしてくれとんじゃあああ!!」

「おお! 戻った! エリカが元に戻った!」

 

 大好物のハンバーグがアメリカンに侵食された怒りからエリカは元の『残念美少女』へと回帰。

 周りの隊員たちは「バンザーイ! バンザーイ! 残念副隊長バンザーイ!」と歓喜の涙を流した。

 

「お帰り私のエリカ! さあ残念な君の復活を祝してこのハンバーガーを存分に食すがいい!」

「わたしはそんなものより純粋なハンバーグが好きなのよ! って、ちょっと! そんなアツアツなもの口に突っ込まないでよアチイイイイイ!!」

 

 エリカと礼慈。

 二人のいつものやり取りを見て、小梅はまたクスクスと笑った。

 周りの隊員たちも同じように笑いだしていた。

 

 黒森峰は本当に変わった。訓練中に、こんな風に和気藹々とできる日が来るなど、誰が想像できただろう。

 それも、たった一人の整備士……いや魔法使いによって。

 彼は本当に、魔法のように黒森峰に偏在していたわだかまりを、たったの半年で消し払ってしまったのだ。

 

 

 

 一見ふざけているようにしか見えない礼慈の奇行。しかし小梅だけは、その裏にある、彼の純粋で優し過ぎる真意を知っている。

 ある日、小梅は尋ねた。

 どうしてそこまで、毎回おかしなことをするのかと。

 礼慈は一瞬きょとんとして、しかしすぐに明るくほがらかな笑顔で答えた。

 

『だって、みほ君がもしも黒森峰に帰ってきたとき、暗い場所よりも明るく楽しい場所になっていたほうが、彼女も喜ぶではないか』

 

 皆は知っているだろうか。

 変人にしか見えない彼が、どこまでも人の幸せを願っている人物だということを。

 エリカは知っているだろうか。

 彼がここまで人々を笑顔にしようとするのは、()()()()()のために、世界そのものを幸福で満たそうとしていることを。

 

「レイジィ~! あんちゃってやちゅは、ほんちょにいっちゅもいっちゅもバカなこちょしゅるんだから~!!」

「フハハハハ! お口火傷したせいで舌足らずみたいになっちゃってるぞエリカ! 実にかわいいらしいぞ~!」

「うるちゃいうるちゃいうるちゃい!!」

 

 エリカを見つめる彼の笑顔は、とても優しく、そして慈愛で満ち溢れていた。

 その微笑みを向けてもらえるエリカを、小梅は羨ましく思った。

 だが黒い嫉妬のようなものは、不思議と湧かなかった。

 心の底では、あの二人の仲を認めているからだろう。

 そしてそれ以上に──礼慈に、幸せになって欲しいと思っているから。

 

 いつも誰かの幸せを願い、笑顔にすることを夢見ている魔法使いに、小梅は誰よりも幸せになって欲しかった。そう願うことが、自分にできる恩返しだと思った。

 礼慈と触れ合い、彼の新たな一面を知るたびに育ていった感情。

 その感情の名前を自覚したのは、ずいぶんの後のことだった。

 

 もっとも、どんなに早く気付いたところで、勝負はとっくについていた。もう何年も前から。

 だからか、不思議と悔しさはなかった。あの二人なら、祝福したいと素直に思える。

 なによりも、そこに礼慈の幸せがあるのなら。

 

(わたしは、思えているだけでも幸せですから)

 

 礼慈は、戦車道と向き合うチカラをくれた。

 こんなにも明るく楽しい場所を作ってくれた。

 いくつもの魔法を、自分に見せてくれた。

 だから、自分が報われようなどとは考えない。ただ彼の傍で、彼の笑顔を見られるのならば、もうそれで充分だった。

 初めていだけたこの感情は、きっと小梅にとって生涯の宝物になるだろう。

 礼慈が幸せになれるのなら、それ以上は望まない。

 

 小梅は信じている。

 きっと“彼女”なら、礼慈を幸せに……

 

「もう許さん! 全員乗車! あの悪魔を戦車で木っ端微塵にしてやるわ!」

 

 幸せに……

 

「ええ!? そ、それはさすがにむご過ぎるのでは副隊長!?」

「問答無用よ!」

 

 幸せ、に?

 

「ふっふっふっ……覚悟しなさいレイジ。ここをアンタの墓場にしてやるわぁ!」

「フハハハハ! おもしろい! いまはなき“対戦車道”の再現というわけか! いいだろう! 《漆黒の魔導士》と謳われし我が力を存分に披露してやろうではないか!

 おい誰か! 我が鎧“ナーサリー・クライム”をここに持ってきてくれたまえ!」

「だーれが競技用特殊スーツの武装を認めた!? そのまま生身で向かってきなさい!」

「フハハハ! 鬼かね君は!」

 

 礼慈の言うとおり鬼の形相で砲撃を始めたエリカを見て、小梅は「う~ん、でも……」と思った。

 

 もし仮に。本当にもし仮に、エリカが礼慈の思いを踏み躙り、彼を不幸にするようなことがあれば……

 

(そうですね……そのときは、わたしが全力でアラトさんを幸せにしちゃいましょう♪)

 

 なんやかんや言いつつ、そんなちゃっかりしたことを考える小梅であった。

 これはそう。『なんちゃらする乙女は強い』という、独特の心理である。

 

(そういうわけですから、アラトさんを傷つけたら、承知しませんからねエリカさん♪)

 

 ティーガーⅡに追い掛け回される礼慈を救うべく、小梅は爽やかな笑顔で戦車を走らせるのだった。

 

 

 

 止まない雨がないように、澄み渡る青空のような笑顔で、今日も小梅は戦車に乗っている。

 



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