女王様と犬 (DICEK)
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雪ノ下陽乃は絶対である

 

 

 

 

 

 総武高校にも生徒会はある。その執行部は会長を中心に副会長、総務がいて、書記と会計が二名ずつ。後は庶務がいる時もあればいない時もある。

 

 会長は六月に行われる選挙によって選出される。生徒会が代替わりするのもこの時だ。選挙で選出された会長が残りのメンバーを選出するため、生徒が選ぶことができるのは会長だけというシステムである。イマイチ納得がいかない、という生徒も少なからずいるが、それを変えるために立ち上がろうという人間はいなかった。

 

 比企谷八幡もその一人である。

 

 そんな八幡の周囲の生徒たちはどちらの候補に投票するか密やかに、しかし熱を込めて議論を交わしていた。

 

 午後の最後の授業を潰して行われる、生徒会長立候補者の演説会である。夏も近い六月の体育館には全校生徒が集まっていた。暑いの一言につきる。だらだらと汗をかきながら、八幡はそれを拭うことができない。お洒落になど気を使ったこともない高校生男子が、ハンカチなど持っているはずもない。近くの女子が汗をかきっぱなしの八幡を気持ち悪いものでも見るような目で見てくる。他にも汗をかいている男子は大勢いるが、目の仇にされているのは八幡ただ一人だった。

 

 理不尽であるが、いつものことであるから腹も立たない。

 

 女子の刺すような視線を受け流しながら、時間が過ぎるのをただ待つ。生徒会長が誰になろうが、八幡にはどうでも良いことだった。考えているのは早くこのイベントが終わること、そしてさっさと家に帰ることだった。

 

 司会進行役の生徒がイベントの開始を告げる。ひそひそ話を続けていた生徒たちは、それで一度静かになった。

 

 会場が静まるのを待って、イベントは進行していく。壇上に上がる立候補者二人と、その推薦者。そこで八幡は候補者が二人しかいないこと、そのうち一人が女子であることを初めて知った。

 

 男子の方は、絵に描いたような『優等生』である。きっちりした黒髪に、黒ブチメガネ。いまどきこんな男子がいるのかと八幡が疑うほどに、見た目において、彼は何一つ外れたところがなかった。

 

 対する女子の方は――絵には描けないような美人だった。

 

 見た目の勝負ならば、それだけで勝敗は決していただろう。立っている。ただそれだけなのに、人を惹きつけて止まない。他人に何も期待しないと心に決めていた八幡だったが、その女子には目を奪われていた。肩の辺りで切られた黒髪も、スカートから伸びる細く長い足も、豊かに実った胸元も、その全てが男子の理想を体現しているかのようだった。

 

 その女子はそれなりに有名人だったらしい。彼女が壇上に上ると、歓声をあげる生徒までいた。進行役の生徒が静粛にと声を挙げるが、声援を受けた女子は笑みを浮かべて手を振り返す。その態度も実に堂々としたものだった。二年生。自分と一つしか違わないのに、彼女にとっては声援を受けるのが当たり前になるのだろう。住む世界が違うというのはこういうことを言うのか。今までいけ好かないリア充を何十人も見てきた八幡だったが、その女子のレベルが他の連中と圧倒的に違うことは一目で解った。

 

 候補者はその二人だけである。今日はその二人が演説を行い、その後に投票が行われ会長が決まる。

 

 この時点でまだ会長は誰になるか決まっていない訳だが、会場に、結果がどうなるかを確信できなかった人間は一人もいなかっただろう。

 

 事実、その女子は十倍の得票差という圧倒的大差で勝利し、当たり前のように会長に就任した。

 

 ただのリア充クイーンの女子からリア充会長クイーンとなったその女子は、就任後、最初の仕事となる所信表明のために再び壇上に立った。

 

 マイクを前に、女子はぐるりと体育館を見回す。

 

 体育館には全校生徒と教師がいる。その数は千人を越えていた。壇上から見たらまさにゴミのようだろう。一々顔など認識していられない。新会長就任によって会場の熱気は更に高まり、不快指数は上がっていた。知っている人間だってその中で見つけるのは骨が折れる。ましてや顔も名前も知らない人間など視線が素通りするのが当たり前だ。

 

 八幡は何となく壇上の女子を見ていた。

 

 その視線がぴたりと止まる。壇上の女子は確かに、比企谷八幡を見ていた。

 

 いつもの勘違いでは絶対にない。確かな意思を持って、その女子は八幡を見ていた。顔が認識できるかも怪しいその距離を経ても、視線に強烈な意思を感じる。

 

 視線に込められた感情を何と表現すれば良いのか解らない。八幡は背中に汗が流れるのを感じた。

 

 脳が全力で警告を発している。アレは危険な生き物だと。関わるべきではない最たるモノだと。青春を謳歌しているだけのリア充が発することのない、明確な意思がその時、その女子には確かに漲っていた。今までだって強烈だった存在感が、さらに増していく。

 

 熱気はいつの間にか、静まっていた。声一つ発することなく、その女子は全校生徒を黙らせた。

 

 思い通りになった現実に、その女子は満足そうに微笑む。

 

「皆さんのご好意により新しい生徒会長となりました、雪ノ下陽乃です。投票してくれた人、ありがとうございまーす。あちらに投票した人、残念でしたー。でもこの借りは総武高校をより良い学校にしていくことで返していきます。期待していてくださいね!」

 

 そこで言葉を区切ると、間髪を居れずに歓声があがる。手を振るとぴたりと止む。存在感だけで現実を捻じ曲げるその女は、既に聴衆を意のままにコントロールしていた。できすぎた演劇のような会場の熱気に、八幡の心は逆に冷えていく。

 

「ちなみに私の政権のメンバーは私と他一人以外、まだ決まってません。私と一緒にやりたい、と思う命知らずは是非生徒会室まで足を運んでください。私の厳正な審査の結果、相応しいと思った人にのみ加わってもらいます。ただし――」

 

 女子の目が細められる。対象を狙う狙撃手の目だった。

 

「私が指名した人間については、拒否権はありませーん。審査なし、テストなし、とにかく問答無用でメンバーに加わってもらいます」

 

 傲岸不遜そのものの発言であるが、陽乃が言うとそう聞こえない。現に生徒たちはおー、と歓声をあげるだけに留まっていた。

 

「そこの、死んだ魚みたいな目をした男子」

 

 陽乃の視線が改めて八幡を射抜いた。『死んだ魚みたいな目』という言葉もある以上、陽乃が自分を指しているのは疑いようがない。今がどういう状況下など考えるまでもなく、八幡がクラスメートを掻き分けてでもこの場から逃げようと走り出すよりも早く、人並みはあっさりと陽乃の意思に従って綺麗に割れた。

 

 周囲全ての視線が、八幡に集まる。様々な陰口が聞こえよがしに囁かれていた。注目を集めることになれていない八幡は、ただそれだけで意識を失いそうになるが、ここで倒れたらそれこそ人生の終わりと何とか踏みとどまる。冷や汗の止まらない体を強引に振るいたたせ、壇上の陽乃を見返す。

 

 せめて弱みを見せてはならない。元々の目つきの悪さも相まって、睨むような顔になっていただろう。反抗的なその態度に、陽乃のシンパである生徒から非難の囁きが漏れるが、そんなものを気にしている余裕は八幡にはなかった。

 

「きみ、名前は?」

「……比企谷、八幡、です」

「もっと大きな声で!」

「比企谷! 八幡です!」

 

 なんだこれは、と自分でも思う。全校生徒の前での自己紹介など、バツゲーム以外の何ものでもない。自分の名前が全校生徒に知られることで、得られるものなどデメリットしかない。名前が割れればクラスも割れる。これで明日といわず今日から、悪意の視線に晒されるのは決定的だ。自身の陰鬱な未来について暗い気分で思いを馳せながら、これが夢オチであることを期待する八幡だったが、悪夢のように笑う陽乃は確かに現実に存在していた。

 

「よろしい。比企谷くん、これが終わったら生徒会室まできてね。逃げたら酷いからね。お姉さん、泣いちゃうから」

 

 それでさりげなく泣き真似をする。嘘泣きであるというのは誰にも解ったが、もしかしたらという思いを喚起させるのも忘れていない。

 

 もしもあの人が泣くようなことがあったら。そういう思いを男子に抱かせるには十分だった。好奇心を含んだそこそこの興味だけだった周囲からの視線に、八幡の慣れ親しんだネガティブなものが加わる。始末の悪いことに、それらの感情はいつもよりもずっと攻撃的だった。

 

 良くない兆候である。無視されるだけならばまだしも、ここまで攻撃的だと排除に動きかねない。今更いじめられることに恐怖を覚えたりはしないが、主導したのが壇上の悪魔であるだけに根は深そうだ。

 

「それではこれで所信表明演説を終わりにします。ご清聴、ありがとうございましたー」

 

 言いたいことを言いたいように言った陽乃は一礼し、勝手に壇上から降りていく。司会が機械的に対応をし拍手を促すと、会場にまばらな拍手が広がった。逃げるなら今しかない。周囲の視線が一瞬壇上に逸れた瞬間、八幡はその場から逃げようと踵を返した――が、身を翻したそのずっと先に、白衣を着た教師の姿があった。

 

 逃げるのを見透かされていたらしい。白衣の教師は人差し指を口に当て、小さく動かす。『戻れ』というその仕草に、八幡はどっと肩の力を抜いた。

 



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平塚静は口を出さない

 生徒会室にはすぐについた。質問攻めにはされたが、誰もが女王陛下の言葉を優先した。比企谷八幡は雪ノ下陽乃に呼ばれている。それを邪魔するのは陽乃の意思に反することだ。

 

 どちらが上で、どちらが下か。リア充は上下関係には敏感だ。一度格付けが済んでしまうとそれを覆すのは容易ではない。

 

 それはぼっちでもリア充でも変わらないこの世の真理である。

 

 八幡は大きく溜息をついた。

 

 いつまでも、ドアの前で立ち止まっている訳にもいかない。躊躇いがちに、ドアをノックする。

 

「どうぞー」

 

 返ってきたのは今一番聞きたくない声だった。教室に入る時はいつだって憂鬱だったが、それがまだ幸福な部類であったことを八幡は今知った。

 

 この上なく憂鬱な気分で生徒会室のドアを開けると、そこには二人の人間がいた。

 

「やっはろー」

 

 意味不明な挨拶で手を振るのは雪ノ下陽乃。彼女はもう自分の椅子だといわんばかりに、生徒会長の席に堂々と腰を下ろしている。

 

 脇には教師の姿が。体育館で戻れと指示した白衣の教師である。壁に寄りかかったまま、片手を挙げただけで挨拶してくる。教師の割りに斜に構えた姿であるが、眼前の悪魔に比べるとまだ話が通じそうだった。

 

「どうも」

 

 小さく答えて、陽乃の前に立つ。八幡がその位置につくと、白衣の教師はドアの前まで移動した。

 

 逃げ道をふさがれた。それでもここから逃げるとなったらもう窓を蹴破るしか手段は残されていないが、残念ながら生徒会室は三階だった。生き汚さには自信のある八幡だったが、それは身体の頑丈さとは無縁のものである。

 

 退路はふさがれた、と覚悟だけは固めておくことにした。

 

「もう、ノリが悪いなぁー、比企谷くんは。あ、八幡って呼んでも良い?」

「お好きなように。それにノリが悪いのは生まれつきです。先輩と同じように俺がやっても、気持ち悪いだけでしょう?」

「うん、すっごいキモい」

 

 キモい、の部分に妙な力が篭っている。ぼっちの心を的確に抉る、絶妙な語調だ。少し会話をしただけでこれである。来た時以上に帰りたくなっていた八幡だが、陽乃はまだまだ満足した様子はない。女王様は今も平常運転である。

 

「生徒会には引継ぎとかないんですか? 選ばれたとは言え、先代の人たちにもまだやることはあるでしょう」

 

 まだ他のメンバーを決めていない陽乃とは違い、前の生徒会は庶務まで含めて全ての役職が埋まっていた。各々の役職の机にはまだ私物が残っていたが、その主たる彼らの姿はここにはない。

 

 この部屋の主は既に自分であると、陽乃の全身が主張していた。それに異議を挟める人間はもう、この学校にはいないだろう。彼女は雰囲気からして、既に王者だった。何の疑問を差し挟む余地もなく、彼女は学校のカーストの最上位に君臨している。

 

「私が八幡と話があるって明日にさせたの。本当は二人っきりが良かったんだけど、静ちゃんに捕まっちゃって」

 

 ごめんねー、とかわいくウィンク。仕草一つ一つが如才ない。自分の容姿を自覚していて、それをどうすれば最大限に活かせるか、熟知している人間の動きだった。

 

 陽乃の視線の先には白衣の教師がいる。タバコの似合いそうな彼女はじとーっとした陽乃の視線にびくともせず、飄々と肩をすくめて見せた。

 

「お前一人に任せておくと、何をするかわかったもんじゃないからな。男を連れ込んで不純異性交遊と噂されても、面倒だろう?」

「私の人徳で何とかして見せるよ、そのくらい」

「お前の場合、冗談で済まないのが始末に悪い……」

 

 ふぅ、と白衣の教師は目頭を揉んでみせる。

 

「あぁ、私は平塚静だ。担当教科は国語。生活指導も行っている」

「生徒会の顧問ではないんですか?」

「それは違う先生の担当だ。私は陽乃個人の担当でな」

「妙な担当もあったもんですね」

「だろう? だが年功序列というものには逆らえんのだ。教師ならば尚更な」

 

 肩をすくめる仕草には哀愁が漂っていた。この人は悪い人間ではない。八幡はそう直感した。

 

「俺、教師は目指さないことにします」

「目指すまでもなく、八幡には無理だと思うなぁ。そんな目をした先生が、何を教えるの?」

「人生の理不尽さとかなら、熱く語れる自信がありますが……」

「案外、国語の教師とか向いてるかもな。人気者になれるかはまた別の話だろうが」

 

 国語の教師にそう言われると悪い気はしないが、今は浮かれている場合ではない。静と会話していたことで、陽乃の機嫌が僅かに悪くなっている。女王様にとって『無視される』というのは最大の屈辱だろう。それがカースト最下層の人間であるなら尚更だ。

 

 リア充の流儀に付き合うのは業腹だったが、背に腹は変えられない。ここで自分を通したらおそらく、社会的に殺される。ぼっちの感性が、そう囁いていた。

 

「貴女は――」

「私のことは好きに呼んでいいよ?」

 

 割って入った陽乃の言葉には、遊びの色が多分にあった。

 

 これはテストだ。

 

 陽乃から目を逸らさずに、八幡は答える。

 

「雪ノ下さんは、どうして俺を?」

 

 近すぎず、遠すぎず。八幡は無難な呼び方を選んだ。無礼講という言葉は、何をやっても良いという意味ではない。好きにして良いと言われた時こそ、より立場に相応しい振る舞いが求められる。

 

 しかし、好きにして良いという言葉を全く無視するのもいただけない。意に沿わない人間は排除される。雪ノ下陽乃は女王だ。この学校の生徒全員の頂点に立つ女で、溜息一つで比企谷八幡を吹き飛ばすことができる。

 

 今更周囲に溶け込みたいとは思わないが、全力で排斥されるのはご免だった。

 

 雪ノ下さん、という呼称は陽乃の表情を見る限り、ハズレではないようだったが、正解ともまた違うようだった。八幡には、雪ノ下陽乃が全く読めない。今まで出会ったどんなリア充よりも、雪ノ下陽乃は異質だった。

 

「一目惚れって言ったら信じる?」

「そいつは生憎、俺がこの世で最もろくでもないと思ってるものの一つです」

 

 間髪入れないはっきりとした物言いに、後ろで聞いていた静が噴出した。彼女は悪い悪い、と言いながら懐からタバコを取り出し――ここが学内なのだと思い出して、苦笑を浮かべて引っ込めた。

 

 それから両手を軽く前に出し『続けて』と促す。陽乃は小さく肩をすくめて、それに応じた。

 

「見た目で選んだっていうのは本当だよ。君のその死んだ魚みたいな目。私でも一目で解っちゃった。君は絶対に、集団には馴染まない」

「お褒めいただきどうも」

 

 解っていたことではあるが、他人に言われるのは気分の良いものではない。

 

「集団に馴染まない人間が、雪ノ下会長が必要とするとも思えないんですが」

「必要だよ? 私が求めるのは、私に追従『しない』人間だから」

 

 当たり前の様に答えるから、思わず聞き流すところだった。意味を噛み締めると、陽乃の言葉は徐々に腑に落ちた。ここまでカースト上位に立つと、周囲にないものを求めるのだろうか? 八幡には理解できない感性だった。

 

「私の思う通りに皆を動かすのは簡単。それはもう中学で実践したし、高校に入ってからは一年で達成した」

「態々対抗馬を立たせたのが、その証明ですか?」

「立候補前に叩き潰すこともできたんだけどねー。私一人って、何だかかっこ悪いでしょ?」

 

 そんなことを気にするタマにはどうしたって見えないが、八幡は苦りきった顔で黙って頷いた。貴女はどこで何をしていたって様になるなど、この女ならば言われ慣れているだろう。

 

「それで八幡はどうするの?」

 

 答えなど解りきっているくせに、女王様が問うてくる。

 

 断るという選択肢は八幡には存在しない。絶対の権力を持つ女王が、公衆の面前で手を差し伸べた。それを八幡の側から振り払うことは、自身の社会的な死を意味する。陽乃は何も明言していないが、もし断った場合、明日からこの学校で平穏無事に生きていくことはできないだろう。陽乃が何も指示をしなくても彼女の周囲の――彼女の周囲にいると勘違いしている連中が、自発的に手を出してくる。

 

 あるいは、彼女の近くに行きたい上位カーストの連中か。どちらであっても、八幡にとって面白くない展開に違いはない。

 

「俺が雪ノ下さんの期待に応えられるとは思えないんですが」

 

 その質問をしたのは、八幡なりの精一杯の抵抗だった。八幡の言葉を受けて、陽乃は微笑む。

 

「かもねー。でも私の期待を下回ったら、ポイだから」

 

 あっさりと。笑顔のまま陽乃は死刑を予告した。人の言葉を聞いて、呼吸が止まったのは久しぶりだった。息苦しさを解消するために、深呼吸をする。肺に吸い込む空気すら、重く感じる。冷や汗をかいたまま、陽乃を見返す。

 

 陽乃はまだ微笑んでいた。彼女にとって『それ』は、笑顔を崩すほどのことでもないのだ。

 

 この女はやると言ったらやる。

 

 そして自分が興味を失ったものについて、手心を加えるようなことを彼女はしないだろう。女王の庇護を離れた人間がどうなるか、想像するに難くない。

 

「それで、八幡は、どうするの?」

 

 改めて、陽乃は問うてくる。八幡はがっくりと膝を落とし、頭を垂れた。

 

「是非、力にならせてください」

 

 女王に対する全面的な降伏。比企谷八幡が、主義を曲げた瞬間でもあった。

 

 心苦しい選択だが、今ここで抹殺が決定するのはどうしても避けなければならない。同時に、陽乃に追従しながら何か手立てを考えなければならない。彼女に飽きられたら、ここで断るのと結果は同じである。

 

 結局、遅い早いの違いしかないのかもしれないが、今ここで死ぬよりは少しでも先延ばしにした方が大分マシである。

 

 この時から雪ノ下陽乃は、比企谷八幡にとって仰ぎ見るべき存在となり、また同時に、いつか倒すべき宿敵となった。

 

 膝をつき頭をたれながら、いつかその背中を刺してやると決意を燃やす。

 

 そんな八幡を見下ろしながら、陽乃は今までで最も深く、笑みを浮かべた。

 

「私の見込み違いでないことを期待してるよ、八幡。膝をついたお祝いにご褒美を一つ、先払いしてあげる」

 

 笑みを維持したまま、陽乃は顔を寄せてくる。

 

 耳元で、囁くように陽乃は言った。

 

「命令。これからは私のことを、陽乃と呼び捨てなさい」

 

 冷たさの中に、熱を感じる。そんな言葉が八幡の耳朶を打った。

 

 息がかかるような距離で、陽乃を見返す。

 

 彼女は変わらずに微笑んでいた。

 

 



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雪ノ下陽乃は餌をぶらさげる

 比企谷八幡が雪ノ下陽乃の実質的な犬となってから一週間が過ぎた。

 

 その間に陽乃は全ての引継ぎを完了し正式に生徒会室の主となった。普通ならば会長に就任してすぐに他の役員の人事が発表されるのだが、陽乃から公表されたのは選挙の時に声をかけられた八幡が書記に就任したというものだけだった。

 

 つまり、公式発表の通りならば雪ノ下政権のメンバーは二人だけということになる。他のメンバーはまだ決まっていないとは陽乃本人が口にしたことであるが、いざそれが事実となってみると生徒達は本気で色めきたった。

 

 直接指名されたとは言え、特に秀でたところのない男子が選ばれたのだ。ならば自分も……と多くの自分に自信を持つ人間が生徒会室を訪ね、陽乃の審査を受けた。その全てに陽乃は時間を作り、審査を行った。書類審査などはない、面接一本の一発勝負である。

 

 一週間の間に30件。八幡はその全てに立ち会わされた。書記となった以上、生徒会に関することで記録の必要なことは全て八幡の仕事となっている。面接の内容など後から見返すとは思えなかったが、陽乃がやれと命じたら、それはもう八幡の仕事なのだった。

 

 八幡の愛機となったパソコンには面接を受けに来た人間全員のプロフィールが収まっている。結果は全て不合格だ。全員に面接を行うような細かな配慮を見せたと思ったら、落とす時にはばっさりだ。不合格通知は例外なくその場で突きつけられている。陽乃のような人間を前に、我こそはと思うような人間だから、彼ら彼女らは自信の塊だ。落ちると思っていなかった彼らは陽乃の言葉を聴いて憤り、それでも決定が覆らないとなると、陽乃を、次いで八幡を睨み部屋を出て行った。

 

 多くの生徒に支持されている陽乃であるが、対抗馬に投票した人間がいるように、アンチも少なからずいる。陽乃に投票した人間だって全員が心服している訳ではないだろう。どんな選挙にも浮動票というものはあり、陽乃はその多くを強引に引き込んだに過ぎない。いかに陽乃が天に愛されたような存在であると言っても、傲岸不遜に振る舞い過ぎればいずれ叩き落される。

 

 一人では集団に勝てないというのは、世の摂理だ。世界とは比べるべくもなくスケールは小さいが、八幡はそれを中学時代に嫌というほど思い知っている。そんな世間の攻撃に、この雪ノ下陽乃が沈むところなど見たくはない、というのが八幡の偽らざる本音だ。無闇に敵を作る必要はないのでは? 書記という身分と犬という立場を意識しつつ、それとなく忠言したのだが、陽乃は笑いながら答えた。

 

「敵のいない生活なんて、面白くないじゃない」

 

 波風立てずに生きようとする人間が多いこの時代に、剛毅なことである。虚飾は感じられない。陽乃が本気でそう思っているのは見て取れた。

 

「面接で落とされた連中が結託して、クーデターでも起こしたらどうするんですか?」

「叩き潰すに決まってるでしょ? 私に反抗したらどうなるか、思い知らせてあげないとね……」

 

 ふふふー、と陽乃は陽気に笑う。争いの種を好き放題に撒き散らした彼女は、始終ご機嫌だった。

 

 逆に八幡の気分は、陽乃が笑えば笑うほどに落ち込んでいく。

 

 陽乃が陽気でいられるのは、能力の高さに自信があることもそうであるが、既に校内最上位カーストのトップに君臨しているという事実があるからだ。立候補するまでの間、陽乃は方々でコミュニティを作り、それを自分の利害で以て調整できるようにした。普通、どれだけリア充レベルの高い人間でも、ホームと呼べるグループがあるが、陽乃はそれを持たない。より厳密に表現するなら複数のグループに所属しながら、その全てをホームとしているのである。

 

 陽乃を頂点とした複数のグループが、そのまま陽乃の支持基盤になっている。二年生を中心とした陽乃閥は既に校内で最大派閥だ。単独過半数には届かないものの、他のグループの足並みが揃わない以上、この数の力は脅威である。

 

 さて、この陽乃閥であるが、八幡にとってはまさに天敵と言えた。

 

 彼ら彼女らは陽乃を中心にドロリとした結束を誇っているが、その結束を保っていられるのは派閥内で相互監視が行き届いているからだ。各々のグループがお互いを監視しあうことで、特定のグループが陽乃と近くなりすぎないよう、牽制しあっているのである。無論、それはそうなるように陽乃が仕組んだのであるが――そうである、ということを嬉々として本人が語ってくれたのだから、間違いはない――彼らは自発的にそれを行っていると信じ、また不必要に陽乃に近づく人間を敵視する。

 

 彼らにとって、陽乃が直接声をかけ、傍においた八幡はまさに敵だった。陽乃の意思が最優先されるために実害こそ出ていないものの、廊下を歩けば上級生に睨まれ、教室にいれば同級生にひそひそと噂話をされる。もう少し社交性を表に出していたら、おこぼれに預かろうとする人間が八幡の周囲に群がっていただろう。現状、教室で放置されているのは、八幡がぼっちだったからに他ならない。

 

 正直、今この時ほどぼっちで良かったと思ったことはなかった。

 

「失礼するぞ」

 

 ノックなしに生徒会室に足を踏み入れてきたのは、静だった。今日もスーツの上に白衣の彼女は、ポケットに手を突っ込んだまま部屋を横切ると、八幡の正面の席に腰を下ろす。ちなみにそこは会計の席だ。会長と書記しかいない生徒会執行部にとっては空位の席であるが、暇を持て余した静がやってきた時の定位置となっている。

 

 静が来たことで、八幡が席を立った。客というには態度が鷹揚であるが、外から来た以上客は客だ。外から来た人間に対応するために、生徒会室には応接セットが用意されている。これは陽乃が自宅から持ち出してきたもので、紅茶、緑茶の茶葉が用意されている。

 

「コーヒーはないのか?」

「ミルとサイフォンを持ってくるのが面倒だからないよー」

「豆からひけとは言っていない。インスタントという手もあるだろう」

「私、インスタントって嫌いなの」

「聞いたか比企谷。金持ちはこういうことを言うんだ」

「それなら自分でお金を出して買ってきたら?」

「そう言ってくれるな。職員室のと違ってここのお茶は美味いんだ。比企谷、よろしく頼む」

「俺がやるより先生がやった方が美味くなるんじゃないですかね」

「お前は主夫志望なのだろう? 花婿修行とでも思えば良い」

 

 物は言いようだな、と呆れながらカップの用意をする。静もレギュラーメンバーとして陽乃に認識されているのか、専用のカップが用意されている。八幡は茶葉を蒸らしている間に、陽乃と自分のカップも用意した。淹れ方は初日に陽乃に一度教えられて以来、自分で模索を続けている。自分で飲んだ限り不味いとは思えなかったが、陽乃曰くまだまだらしい。

 

「様になってきたな」

「褒めても何もでませんよ」

「お茶を淹れてくれているだろう? 私にはそれで十分だよ」

 

 八幡は黙ってカップを差し出した。静はカップから立ち上る香りを楽しんでから、紅茶に口をつけた。

 

「どうですか?」

「自販機で買うよりは美味いな。それは私が保証する」

「それは俺でも解ります」

「分量が正確で所作に問題がないなら、及第点以上のものが出来上がるのは道理だ。そして及第点を出せるということは、基本がしっかりできているということでもある。始めたばかりならそれで十分だろう。これ以上何を望むんだ?」

「私は美味しい紅茶を飲みたいの」

 

 席から立ち上がり、歩みよってきた陽乃が自分のカップを取り上げる。静と同じように香りを楽しんでから、一口。

 

「私が教官なら落第かな」

「判定が厳しくないか? 紅茶としては『可』をくれてやっても良いと思うが」

「これは『雪ノ下陽乃が飲む紅茶』なの。ただの紅茶じゃないの。わかった? 八幡」

「精進します」

 

 言って、自分のカップに口をつける。

 

 及第点の紅茶は、八幡からすれば十分な味だった。これ以上を求められても正直困るのだが、陽乃がやれと言っている以上、やるしかない。女王様の言葉は、絶対だ。

 

「ところで静ちゃん、何の用?」

「そろそろ期末テストだろう? 準備はどうかと思ってな」

「メールで済む話じゃない。そんなこと態々聞きにきたの?」

「そんなこととは随分だな。学生の本分は勉強だろ?」

「テストで聞かれるようなことにあまり興味はないけど、準備がどうってことなら万端ね」

「全教科でトップ?」

「もちろん」

「流石去年の年間主席は言うことが違うな。まぁ、私が心配していたのはお前ではなく比企谷だ。準備はどうだ? 陽乃に連れまわされて、勉強に時間が取れていないんじゃないか?」

「流石にそこまでは。授業はちゃんと聞けてますし、家でも勉強してます」

「へぇー、ちょっと意外。八幡、家で勉強なんてするんだ?」

「俺は陽乃と違って、天才肌ではないものですから」

 

 言外にあまりつれまわすのはやめてくれ、と八幡は言ったつもりだったが、陽乃はふーんと気のない相槌を打った上、

 

「ふーん。凡人って大変なんだ」

 

 これである。元々あまり期待はしていなかったが、陽乃に配慮や遠慮を求めるのはやめることにした。代わりに何か言ってくれと、静を見る。彼女は八幡の視線を受け止めると、力強く頷いて見せた。

 

 頼りになるのは教師である。八幡が密かに心の中で感心していると、静は懐から封筒を取り出した。

 

「実はここに比企谷の入試と中間テストのデータがある」

「俺のプライバシーってないんですかね!」

「静ちゃん気がきくー。見せて見せて」

 

 八幡を押しのけるようにして、陽乃が静の手元を覗き込む。その陽乃の肩越しに、八幡はテーブルの上に広げられた紙切れを見た。間違いであって欲しかったが、それは間違いなく自分の試験のデータだった。入試のことは記憶にないが、中間テストについては見覚えのある点数が並んでいる。陽乃はその数字をざっと見て、にこりと微笑んだ。

 

「八幡の、おばかさん」

「かわいく言ったつもりでしょうけど、今俺の心臓にぐさりと来ました」

「それほどバカにしたものでもないと思うがな。確かに数学は惨憺たるものだが、文系科目はそれなりに良い点数をたたき出している。特に国語は良いな。国語教師としては、嬉しい限りだ」

「昔から得意なんですよね、何故か」

「その得意科目でも10位前後なのね、八幡ってば」

「普通の人間は学年で十位を取るのも大変だっていうことを、覚えておいてくれると嬉しいですね」

「もう少し頑張れば一位を取れるんじゃない?」

 

 まさか、と答えようとして、八幡は静を見た。可能性の話である。教師の意見を聞きたい、と思っての行動だったが、静は腕を組むと小さく頷いた。

 

「十分射程圏内だろう。陽乃が何かご褒美でも出してやれば、八幡もやる気を出すんじゃないか」

「ご褒美ねぇ……国語一位だけだと簡単過ぎない?」

「簡単とは思わないが、国語の成績だけ上がって他が壊滅したら本末転倒だな。何か他にも条件をつけるべきか、陽乃、お前ならどうする?」

「五十位とかいいんじゃないかな」

「五十位? 総合順位でってことですか?」

「違う違う。国語と苦手な数学以外の『全教科』五十位以上ってこと」

「それはあまりに厳しいんじゃありませんかね……」

 

 そんな成績が叩きだせるのだとしたら、中学の時もっと調子に乗って余計な黒歴史を追加する羽目になっていただろう。勉強ができないとは思わないが、陽乃を前にしてデキる人間だと嘯くこともできない。

 

 どっちつかずな反応をする八幡を見て、静が陽乃に乗って見せた。教師であるが、静も大概に素敵な性格をしている。だからこそ、陽乃の担当に選ばれたのだろう。色々なことを許容できないと、陽乃の近くにいることすら不可能なのだ。一週間一緒にいて、八幡はそれを実地で学んだ。

 

「それだけ結果が出せたら、ご褒美ははずまないとな」

「そうだね。もし私が言った通りの結果を出したら、静ちゃんのおっぱい触らせてあげる」

 

 沈黙が流れた。動きを止める八幡と静。陽乃は二人を愉快そうに眺めている。

 

「お前、私を巻き込むな!」

 

 先に再起動したのは静だった。勝手に景品にされたのだから当然だ。烈火のごとく声を荒げながら、陽乃に詰め寄る。美人が凄んでいるから中々の迫力だったが、同じく美少女の陽乃にはどこ吹く風だった。

 

「いたいけな少年がお勉強頑張ったんだから、大人がご褒美をあげるのは当然じゃない? それとも静ちゃんは、私のおっぱいを触らせろって言うの?」

「まずおっぱいから離れろ。それから不純な話題に教師を巻き込むな」

「でも効果はあると思うよ。八幡みたいな男の子なんて、おっぱいとお尻のことしか考えてないんだから」

 

 酷い言われようだが、ある意味で事実を正確に捉えていた。

 

 ぼっちを貫いてきた八幡であるが、女体に興味がない訳では断じてない。これまで妹以外の女性と接点がなかった分、そういった欲求はより強いと言っても良い。

 

 ましてや今対象となろうとしているのは、静に陽乃。二人とも文句なしの美女に美少女である。このおっぱいを触れるというのだから、男として奮起しない訳がない。まだ話のまとまってない今の時点で、八幡の興奮は最高潮に達していたが、その内心を外に漏らさないよう、表情を引き締めることに必死だった。

 

 そんな八幡を、陽乃と静が見やる。

 

「ほら、八幡もこんなスケベな顔してるし、効果はあるよ」

「……だからと言ってなぁ」

「別におっぱいは良いですよ」

「無理しちゃってほんとは触りたいんでしょ?」

 

 ここで『はい』と言うのは簡単だが、意地でも言わないと心に決めた。仏頂面で八幡が無言を貫いていると、陽乃は顔を寄せ、じっと八幡の目を見つめる。目を逸らしたら負け……と気付いていても、八幡だって健全な男子だ。美少女に正面から見つめられて、平然といられるような頑強な神経はしていない。

 

 すっと目を逸らすと陽乃は『私の勝ちー』と微笑んだ。対して八幡の仏頂面は不景気具合を増していく。

 

「とりあえず、ご褒美云々は置いておこうか。流石にその程度の順位で静ちゃんのおっぱいは奮発しすぎだと思うし」

「参考までに聞いておきたいんですが、どの程度の順位ならOKだったんです?」

「全教科一位を取って出直してこい」

「そういうこと。とりあえず、静ちゃんのおっぱいは私のものだから安心してね八幡」

「お前のものでもない!」

「あーそれからご褒美は置いておいたけど、さっき言った順位は守ってもらうからね。守れなければポイだから。何か言うことは?」

「勉強を見てくれる人を紹介してくれませんか?」

 

 自分一人で達成できないことは目に見えていた。となれば誰か他人の力を借りるしかないが、八幡には勉強を見てくれるような知り合いは一人もいない。付き合ってくれる可能性があり、自分よりも勉強ができるのは眼前にいる二人だけ。国語一位という条件があるのに、その問題に関与する可能性のある静を巻き込むことはできないから、実質頼めるのは陽乃しかいない。

 

 それを十分に解っている陽乃は、頭を下げる八幡を見下ろしながら、自分の身体を抱きしめていた。その顔には嗜虐的な笑みが浮かんでいる。これぞ女王という顔を唯一見ていた静は、教え子の性癖の発露にうんざりした様子で溜息をついた。

 

「お願いしますは?」

「お願いします。俺の勉強を見てください」

「いいよ。私が見てあげる。残り二週間、死ぬ気で勉強してみようか」

 

 八幡が顔を上げた時、陽乃は余所行きの笑みに戻っていた。女はこうして男を騙すのだな、と年下の陽乃を見て静が密かに感心していたことを八幡は知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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比企谷八幡は勉強する

はるのんがかわいくならない……
ただ話して勉強してるだけの話ですがお楽しみください。
次回は多分夏休みパートです。


 

 

 放課後に勉強を見てくれる。

 

 陽乃のその申し出は、無理難題を押し付けられた八幡にとって悪くない申し出だった。無理難題を押し付けたのが陽乃自身であるからマッチポンプであるのは否めないが、今後のことを考えれば試験で良い点を取っておくに越したことはない。

 

 問題は勉強を見てもらう場所だった。

 

 人目につくのはよろしくない。陽乃はそこにいるだけで注目を集めてしまう。必然的に、その横にいる自分まで衆目に晒される。関係を良く知らない他人からすれば、比企谷八幡が雪ノ下陽乃に付きまとっているように、見えなくもないだろう。

 

 実際はその逆である。八幡から陽乃の方に近づくことは、実はほとんどなかった。

 

 発足間もないから平日は毎日生徒会室で顔を合わせているが、顔を合わせる機会は基本それだけだ。学年が違うから放課後までは一緒にならないし、一緒に昼食を取るような間柄でもない。ただ、生徒会の仕事の時には必ず八幡が同行しているから、他人にはいつも一緒にいるように見える。

 

 そこから話が飛躍して付きまとっている的な話になるのである。間違っても陽乃の方が引っ張りまわしているとはならない。陽乃はリア充の側で、八幡は学内ヒエラルキーの最下層だ。陽乃が八幡を生徒会役員に公然と指名したという事実があっても、学内ヒエラルキーにおいて八幡よりも上位に位置する人間――要するに、同じ最下層にいる連中以外のほとんどの生徒が、そんなゴシップを許さない。

 

 ヒエラルキーの上位に属する人間ほど、上下関係には敏感である。最下層の人間を最上位の人間が引っ張り込むのは、厳密にはルール違反だ。今の状況が許されているのは一重に、陽乃が単独でヒエラルキーの頂点に立っているからに他ならない。陽乃が決定し、本人がそれを実行しているから許されているのだ。

 

 少しでも陽乃の庇護の外に出れば、八幡は即座に攻撃される。それを良く理解しているからこそ八幡は陽乃に従っていたし、必要以上に近づかないようにしていた。

 

 公然と指名されたことで名前と顔が売れている。今更多少気をつけても手遅れのような気はしないでもないが、注意をしておくに越したことはない。攻撃されないための最も有効な手段は、とにかく目立たず相手を刺激しないことだ。

 

 巻き込まれるのは仕方ないとしても、自分から目立ちに行く必要はない。

 

 しかし、陽乃がここと決めたら立場上、八幡にはそれを覆すことができない。図書室とか最悪、陽乃の教室での羞恥プレイまで覚悟していたのだが、陽乃が指定したのは生徒会室だった。

 

 ここなら、他人の目は全くと言って良いほどない。陽乃が人払いでもしているのか、陽乃の知人が訪ねてくることはないし、来るのは生徒会関係の仕事で用事のある人間か、世間話に来る静くらいのものである。

 

 衆目に晒されない。その一点だけで、生徒会室は八幡の憩いの場となっていた。

 

「さ、始めましょうか」

 

 その憩いの場の主である陽乃が宣言する。『憩い』という言葉とは程遠い存在感を持ったご主人様に、八幡はこっそりと溜息をついた。

 

「まずはこれね。欠けてはいないと思うけど、一応目を通してもらえる?」

 

 言って、分厚いファイルを八幡の机に置き、自分は会長の席に腰を下ろした。その厚さにげんなりとしながらも、八幡はファイルを開く。

 

「……過去問ですか?」

「そう。過去四年分の一年生の期末テスト、全教科分あるよ」

「どこでこんなに手に入れたんです?」

「私くらい『友達』が多いと、このくらい楽勝なの」

 

 笑顔で言っているが、陽乃が今脳裏に浮かべている人間を友達と思っていることはないだろう。外面が極めて良い割りに、内面は驚くほどに薄情だ。その人間離れした腹黒い感性があると理解できるからこそ、こんなリア充を体現したようなある種バケモノのような女子と一緒にいられるのだ。

 

 雪ノ下陽乃は友達ではない。それ以上の関係になるはずもない。余計な期待を抱く余地はない。だから裏切られることもない。ある意味、これほど安心できる相手もいなかった。普通の人間は陽乃の容姿や雰囲気にどきどきしたりするのだろうが、陽乃と近い距離で過ごしていても八幡の心は穏やかなままだった。

 

「ところで八幡。私は八幡のためにここまでのことをした。恩を着せるつもりはないの。でも八幡はおバカさんではないよね? 私がここまでのことをしたのに、目標を達成できませんでしたなんて、そんなふざけたことを八幡が言ったら……どうしよう、私、何をするかわからないなぁ」

 

 愉快そうに、実に愉快そうに陽乃は笑う。その笑顔を見て八幡は確信する。この女はきっと、人を殺す時でも笑っていられる。笑顔の時こそ、注意しなければならない。陽乃の癖。陽乃は真意を隠そうとする時にこそ、より笑みを深くする。

 

 期待が裏切られた時のことを考えただけで、陽乃は苛立っているのだ。それだけ期待されているということでもあるが、それを裏切った時のダメージは青春的にろくでもない目に合い続けてきた八幡をしても、想像することはできなかった。

 

「もちろん全力を尽くしますよ」

「そんなのは当たり前。その上で、私は結果が欲しいの。八幡がテストの結果を自慢してくれるの、楽しみにしてるね」

 

 くすり、と笑いながら陽乃は答えの記入された紙を差し出してくる。

 

「模範解答だよ。私が解いたものだけどセットになってたものよりはスマートだね。最悪これを覚えなさい。全部覚えれば八幡なら半分寝てても60点は取れるから」

「それで全教科50位以上になれますか?」

「最低でも80点は欲しいかな。60点は私の力。残りの20点は八幡の力。二人の共同作業だね!」

「それに少しもときめかないのはどうしてでしょうね全く」

 

 模範解答を受け取り、それに目を落とす。陽乃らしい綺麗な字で書かれたそれは、確かに付属の模範解答よりも整然としていた。

 

「……ちょっと待ってください。まさかさっきの時間で解いたんですか?」

「まさか。時間はあったもの。あらかじめ解いておいたものに、ちょっと手を加えただけだよ。雪ノ下陽乃も、そこまでデキる女じゃないんだから」

 

 冗談のような言葉に八幡はくすりともしない。陽乃自身がその言葉を誰よりも信じていないのは、目を見れば解った。

 

「素朴な疑問なんですけど、どうすれば陽乃みたいになれるんですか?」

「私みたいになりたい?」

「それは欠片も思いません。単純に、疑問に思っただけです」

「私に興味ないって言われてるみたいで傷つくなぁ……」

 

 そうして欠片も傷ついてはいない顔で、

 

「でも、答えてあげる」

 

「それはね。私がやりたいと思ったことは、全部成し遂げてきたから。勝って勝って勝って、これからも勝ち続けるから私は私でいられるの。頭を押さえつけられたからって、くじけたりはしないの。だって私は、雪ノ下陽乃なんだから」

「負け続けてきた俺には、理解できない感覚ですね」

「八幡の悪いところは、自虐的過ぎるところだと思うな」

「陽乃の悪いところは――」

「何かある?」

「……いいえ。雪ノ下陽乃は、完全で完璧です」

 

 半分以上は嫌味のつもりで言ったが、陽乃は正面からその言葉を受け止めた。それが当然という風である。自分に対する圧倒的な自信に、八幡は呆れて溜息を漏らした。そんな八幡を見て、陽乃は面白そうに笑っている。

 

「それじゃあ、とりあえず一教科解いてみようか。制限時間は30分。得意の国語で70点切ったら、拳骨だからね?」

「わかりました」

「もー女王様の仰せのままにとか言えないの?」

「俺がそんなこと言ったらキモいとか言うんでしょう?」

「うん。凄くキモい」

「だったらやりませんよそんなの。そういうのはご自慢の『友達』にやってもらってください」

「一人だけ特別扱いにしたらその子が調子に乗るじゃない。皆にやったら全然面白くないし」

「俺だってそのうち調子に乗るかもしれませんよ?」

「それはないよ。そうならないと思ったから、八幡に声かけたんだから」

 

 それもそうだ、と八幡はテスト用紙に目を落とした。適当に選んだはずだが、教科は得意の国語だった。ざっと問題に目を通して見る。これならば高得点が狙えそうである。

 

 横目で陽乃を見ると、彼女は真剣な表情でテスト問題に目を落としていた。内心はどうあれ、自分のために時間を割いてくれている。その事実だけで、八幡には十分だった。

 

 

 

 



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唐突に、雪ノ下陽乃は思いついた

「結果発表!」

 

 いえー、と陽乃は一人で楽しそうだった。

 

 期末テストも終わり、全ての答案が返却されたのは昨日。張り出された総合順位を見たその足で生徒会室に足を運んだ八幡が見たのは、やけにハイテンションな陽乃だった。

 

「見切り発車し過ぎでしょう。入ってきたのが俺じゃなかったらどうするつもりだったんですか?」

 

 何をするかわからない人間という陽乃のキャラは既に全校生徒に知れ渡っているが、それでもあまり見られたくはない姿というのもあるだろう。具体的には、八幡がきたと想定して取った行動を、全く関係のない人間に見られるとか。自分がそうなったら死にたくなるようなその光景を想像し八幡は思わず身震いしたが、陽乃はあっけらかんとこう答えた。

 

「私が八幡を間違える訳ないじゃない」

「嬉しいですね。その根拠は?」

「足音。八幡の足音は腐ってるから、すぐにわかるよ」

「次からはすり足で近づくことにします」

「無駄じゃない? 腐った足音が腐ったすり足の音になるだけだと思うし」

 

 自分は何から何まで腐っているらしい。何となく暗い気持ちになりながら、八幡は自分の書記席に鞄を放り投げると、お茶セットの置いてある場所に移動する。陽乃の机に紅茶はない。自分で淹れた方が美味いのに、他人に淹れさせたがるのである。八幡としてはたまには陽乃の淹れた紅茶を飲みたいのだが『他人に奉仕する自分』に拒絶反応が出るらしく、八幡がいる限りは決して自分ではやらないのが陽乃だ。ちなみに彼女の一番嫌いな言葉はボランティアである。

 

「そ・れ・よ・り、どうだったの? もちろん、約束は守ったよね?」

 

 目を輝かせながら身を乗り出して聞いてくる陽乃に、八幡は黙って紙を差し出す。張り出されるのは総合順位だけで、個々の結果は個人にしかわからないようになっている。八幡が渡したのは、その詳細結果が書かれた紙だ。陽乃はそれをもぎ取るようにして受け取ると、さっと目を通した。途端、喜色に染まっていた顔に、僅かに落胆の色が混じる。

 

「数学、ようやく平均点なんだ……」

「一桁だったことを考えれば大分進歩したと自負してます」

 

 数学の順位は今回の賭けには関係ないが、突っ込まれる要素はできる限り排除しておきたかった八幡は、数学にもそれなりに勉強の時間を割いた。陽乃にはバレないように、こっそりとである。彼女の指導をあまり受けることができなかった分、他の教科に比べれば成績は振るわなかったが、点数一桁から平均点までという獲得点のアップは全教科でも文句なく最高のもの。今回の勉強である意味最も成果の出た教科と言えるだろう。

 

 だが、陽乃にとってはその程度の結果であるらしい。賭けの埒外ではあるが、それでも高得点を取ることを期待していたのだろう。自分で用件の外に出したくらいだから制裁こそないだろうが、次に似たような賭けが発生した場合は、数学も組み込まれることは想像に難くない。今よりハードルは上がると考えて良いだろう。その時困らないように、勉強は継続的に続けていかなければならない。

 

 元より友達がおらず、自分か妹のためくらいにしか時間を使っていなかったから、それを勉強に費やすくらいどうってことはないが、自主的に勉強時間を増やす自分に驚きを覚える。これではまるで真面目な学生のようだ。

 

「でも目標は達成できたね。偉い。流石八幡」

「お褒めいただき光栄ですが、あまり褒められてる気がしないのは何故でしょうね」

 

 言いつつ、淹れたお茶を陽乃の前に差し出す。陽乃は紅茶から立ち上る香りを一度楽しむと、カップに口をつけた。

 

「相変わらず成長しないね」

「精進します」

 

 いつもどおりのやり取りを経て、自分の分を淹れると、書記の席に腰を下ろす。

 

 ともあれ目標は達成できた。陽乃に勉強を見てもらった教科は軒並み高得点を達成。一番ハードルの高かった国語も、本腰を入れて勉強した結果無事に一位を獲得することができた。陽乃の模範解答付で過去問を解いた結果、遭遇した同じ問題を確実に拾うことができたのも大きい。

 

 陽乃のフォローと自分の努力の結果。国語の一位に関して八幡はそう信じて疑っていないが、生徒会室に頻繁に顔を出す静が国語の教師ということもあり、問題をリークしたのではという噂が一部で広がっている……とは、静自身が教えてくれた。根も葉もない噂であるから放っておけば消えるだろうが、高得点が続くようなことがあれば再燃する恐れもある。

 

 気にしてなくて良い、と静は笑っていたがその辺りも対処する必要はあるかもしれない。そのためには『こいつならば高得点を取ってもおかしくはない』という環境を作り上げる必要がある訳だが、それが友達のいない八幡には面倒なことだった。

 

 クラスにいるのははっきりと敵意を向けてくる敵か、表面上は静かな敵か、あるいは無関心を決め込んでいるただのクラスメートしかいない。最低でもクラスの三割くらいは敵だろう。その多くはリア充で構成されており、クラス内ヒエラルキーの上位は彼らによって占められている。味方のいない状況ではイメージアップもない。良い成績を取り続けたとしても、不正を続行した結果という印象は彼らの中で残り続ける。クラスでデキる人間というイメージを表面的な物にするのは、今のままでは不可能だろう。

 

 静を援護するのは難しいことのように思えた。

 

 救いがあるとすれば、教師の側には八幡の不正を疑っている空気がないということだ。陽乃個人は真面目な教師にウケが悪いが、そこに八幡までは巻き込まれていないらしい。リア充がどうこうというのは生徒側の問題だ。生徒の間には根強く存在するやっかみも、教師にはない。生徒に無関心と言ってしまえばそれまでだが、静のように肩入れしすぎる教師の方がレアなのだ。

 

 教師というものに何も期待していない八幡の目から見ても――面倒な部分は色々あるにしても――良い教師には違いなかった。できれば迷惑はかけたくないと思えるほどには、静のことを信頼していたし好いていた。

 

 しかし静を援護する方法は思いつきそうにない。何より本心を言えば面倒くさい。自分のイメージ向上を自発的にするなど、自分のキャラに反する。そんなことをしても失敗するだけで面白くないし、何よりそういう行動は陽乃に介入される恐れがあった。自分の不得意な分野で陽乃に介入されたら、確実に事態は悪い方向に転がる。あらゆる意味で生徒達の頂点に立つ陽乃にとって、一人の生徒を追い詰めることなど造作もないことだ。

 

 そして陽乃は平気でそういうことを実行できる精神の持ち主であった。特に身近にあるものにほどそうなる傾向が強くなる気がする。物理的に距離が近いだけの自分でこれなのだ。お気に入りの姉妹とかいたら、一体どんな仕打ちを受けるのか……想像するだけで恐ろしい。

 

 いるかも知れない姉妹には同情する。もし会う機会があったら、その時はできる範囲で優しくしようと八幡は心に誓った。

 

「邪魔するぞ」

 

 そろそろ来ると思っていた。国語教師なのに白衣を着た静は平然と生徒会室を横切り、会計の席についた。そこは静の指定席である。八幡は黙って紅茶を入れると、静の前に差し出す。静は紅茶の香りを聊か雑に楽しむとそっと紅茶に口をつけ、小さく溜息を漏らした。

 

「やはり自販機の紅茶とは違うな」

「率直な意見をありがとうございます。それで今日はどういったご用件で?」

「比企谷が随分と頑張ったようだからな。祝いの言葉を言いにきた。まずはおめでとう比企谷。頑張ったな」

「どうせ『雪ノ下陽乃が選んだだけのことはある』みたいな言葉が続くんでしょう?」

「良く解ったな。が、陽乃の手伝いがあったとは言え努力をしたのはお前自身だし、結果を出したのもお前だ。もう少し誇っても良いと思うが……」

「心の中に留めておきます。調子に乗るとロクなことにならないってのは、中学の時に嫌というほど学びましたからね」

「謙虚というにはあまりに後ろ向きだな。まぁ、らしいと言えばらしい訳だが」

 

 ふむ、と小さく頷いた静は陽乃に視線をやる。

 

「陽乃、何かご褒美は考えてるのか?」

「静ちゃんのおっぱい?」

「それは忘れろ……お前が提示したことを比企谷は達成したんだ。それについては、何らかの報酬があっても良いと思わないか?」

「報酬のない仕事って、良くあることって聞くけど?」

「それが平然とまかり通るようになったら世の中おしまいだ。私は教師だからな。世の中を少しでも良くするために、教え子を教え導くという建前があるのだ」

「びっくり。何だか静ちゃんが先生みたい」

「そりゃあ、先生だからな」

 

 ははは、と笑う静が差し出した空のカップに、紅茶を注ぐ。気分はまるで執事だ。紅茶を注ぐ八幡を静は視線だけで見上げ、ぱちり、とウィンクする。不器用でらしくはないが様にはなっていた。美人は何をしても絵になるという実例である。裏にどういう意図があるのか知れないが、陽乃にご褒美を促していることを、静はこちらに対する貸しと考えているようだった。教師らしいことを言った直後だが、何事もタダではないらしい。

 

 これが普通のクラスメートであれば最初から踏み倒すことを考えただろうが、相手が静であれば話は別だ。人格の破綻している陽乃の相手をできる唯一の教師である。彼女がヘソを曲げて生徒会室に来なくなれば、それだけ八幡の負担は増す。静を逃がす訳にはいかないのだ。

 

「ご褒美ねぇ……」

 

 陽乃は頬に指を当ててしばらく考えた後、八幡と静をみてにやりと笑った。

 

「八幡、軽井沢って行ったことある?」

 

 

 

 



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そうして、比企谷八幡は軽井沢へ向かう

「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」

 

 小旅行の準備の最終確認をしていた八幡の部屋に、小柄な少女が飛び込んでくる。

 

 妹の小町だ。

 

 誰に似たのか知らないが、兄には絶対に似ていないと誰からも言われる小町はいつものように表情を忙しく変えながら、けれども明らかにいつも通りではない慌て様で八幡の肩を掴む。

 

「普段言ってるよね! 俺は絶対に悪い女には引っかからないって! 引っかかってる! 絶対に騙されてるよお兄ちゃん!」

 

 その言葉で小町が何を目撃したのか理解した八幡は、落ち着いた様子で全ての荷物をカバンに仕舞うとそれを背負って立ち上がる。

 

「じゃ、行ってくるからな。無駄に夜更かしとかするんじゃないぞ」

「私の話を聞いてよおにいちゃん!」

 

 無視して通り過ぎようとした八幡の前に、小町は両手を広げて立ちふさがる。キャラがキャラだけにふざけているように見えるが、目は真剣だ。

 

 できることなら説明したいが、どう説明すれば角が立たず、また小町が納得してくれるのか八幡には解らなかった。ありのままを説明したら絶対に引かれる。世に言う青春のほとんどを諦めた八幡であるが、兄の威厳くらいは守りたいのだ。

 

「八幡、まだー?」

「何か呼び捨てにされてるし! 妹がいるのに親密感をアピールする人は、多分図々しい人だと思うな!」

 

 人当たりの良い小町にしては、妙に評価が厳しい。女っ気のなかった兄を突然女性が訪ねてくれば疑うのも仕方がない。小町も比企谷家の一員なのである。

 

 本当なら反論するべきなのだろう。陽乃は仮にも生徒会長で、総武高校の生徒の代表だ。八幡にとっては上司でもある。文武両道で頭の回転も早い。八幡が今まで出会ったことのある人間の中で文句なく最強の存在が、雪ノ下陽乃である。

 

 だが、小町の評も的を得ていた。自分の好き放題やることについて陽乃は他の追随を許さない。八幡が今まで出会った人間の中で、最も捻じ曲がった性格をしているのもまた、陽乃だった。

 

 人間としては上等な部類に入るのだろう。社会に貢献しているし『友達』も多いし、結果も出せる。実家も裕福だ。本人も有能だから将来は稼ぐに違いない。主夫を目指す八幡としては中々の優良株であると判断せざるを得ないが、文句なしの美人であるという要素を差し引いても、伴侶にしても良いかと言われれば首を捻らざるを得なかった。

 

 どういう関係にしても陽乃と付き合っていくには努力と忍耐が不可欠だ。退屈はしないが、色々な意味で疲れる。高校一年にして人生最大に試練にぶつかっているような気さえした。

 

「まぁ、なんだ……悪い人ではない」

「心が篭ってないよ!」

 

 納得していない小町をついに無視して、荷物を持って歩く。小町はぶーぶー文句を言いながらも離れようとはしない。知らない女の人についていく危険性を、懇々と説いてくる。こんなに心配してくれるのかと兄として胸が熱くなる八幡だったが、ここで妹を持ち上げてしまうと陽乃に目撃される。

 

 相変わらず陽乃のことは理解できない八幡だったが、人の好みは多少なりとも察することができるようになった。心底からかは判断がつかないものの、小町のような感情のはっきりと出る小動物系は陽乃の好みに多少は合致するようである。

 

 兄としては危険人物の視界に入れることすらできれば遠慮したいのだが……考えがまとまらないうちに八幡は玄関に到着していた。陽乃と、静がいる。学校外であるから二人とも当然私服だ。

 

 学校外で見るのは初めてのことだから随分と新鮮に感じる。比企谷八幡でなければ、心動かされ恋に落ちていただろう。言い知れない輝きを放つサマーワンピース姿の陽乃をなるべく視界に入れないようにしながら、

 

「お待たせしました」

 

 荷物を床に置き、靴を突っかけていると玄関までついてきた小町がふーっ、と陽乃に牙をむいていた。陽乃を敵と認識したらしいが相手が悪い。陽乃の視線から小町を隠すように移動するが、その動きは読まれていた。小町を眺めていた陽乃の目が僅かに細まる。嗜虐的なそれは明らかに捕食者の笑みだった。

 

「八幡、妹さんを紹介してもらえるかな?」

「……はい。ほら、小町」

 

 気は引けたがここで抵抗するとよりダメージを負うことになる。妹を生贄に差し出すようで心は痛んだが、小町の方はと言うと足音も高く陽乃の前に足を踏み出した。まるで対決姿勢である。四つ下であるから小町はまだ小学生。高校生の陽乃と比べると大分上背に差がある。頭一つは確実に低い小町は陽乃を見上げていたが、一歩も引くものかという意思はこれでもかというくらいに感じられた。

 

 兄として小町とは結構長い付き合いになるが、これほどまでに闘争心をむき出しにした小町を初めて見た気がする。こういう小町も勇ましく可愛らしいが……捕食者は小町を見下ろすとますます笑みを深くし――

 

「かわいい!」

 

 臨戦態勢の小町を無視するように抱きしめると、頭をぐりぐりと撫で始める。小町は激しく抗議の声を挙げるが、そんなことはおかまいなしだ。助けを求めるように静に目を向けると、そっと逸らされた。我関せずというように携帯電話を弄りはじめる。こんな早朝に連絡を取り合うような友人がいるとは思えないから、ニュースでも見ているのだろう。

 

 気持ちは良くわかる。陽乃による陽乃空間が展開されている中にぼっち属性の人間が踏み込むには、かなりの勇気と体力が必要だ。あれはリア充のみが踏み込める、リア充のための空間。妹の危機に直面している八幡ですら、踏み込むことは躊躇われるほどである。

 

 静と責任を押し付けあっているうちに、小町の方が大人しくなった。陽乃にされるがままである。うーん、と何だか気持ち良さそうな声を挙げるに至ったところで、八幡はようやく踏み込む決心をし、小町を陽乃から引き剥がした。

 

「これはウチの妹なんで、その辺りで一つ」

「八幡ずるーい! こんなかわいい妹がいたのにどうして今まで黙ってたの?」

「こういうことになるだろうと思ったから黙ってました。どうですうちの妹はかわいいでしょう」

「そうだね。八幡の妹と思えないくらいにかわいいね」

「私はおにいちゃんの妹ですよう」

 

 小町の口調は随分と砕けていた。敵意はもう感じられない。抱きしめられて心境の変化があったらしい。躾けられた犬のような声音に、これが血の成せる業かと軽く落胆する。兄妹揃って下につかねばならないとは、何の因果だろうか。

 

「ちなみに私にも妹がいるんだけどね。雪乃ちゃんっていって、凄いかわいいの」

「陽乃の妹なんですからかわいいんでしょうね」

「逃げてなければ別荘にいるはずだから、ついたら紹介してあげるね」

「妹さんには、これから行くということは言ってないんですか?」

「もちろん。言ったら逃げられちゃうでしょ?」

 

 当たり前のように言う陽乃の言葉を受けて、八幡は横の小町を見た。

 

 兄と妹、四歳の年の差。世間一般の兄妹の関係と比べると、随分仲が良く懐かれている気はする。家がこうだから世間もそうなのだ、と勝手に思ってしまうのは人間の悪い習性だろう。声音を聞く限り陽乃の方は妹を嫌ってはいないようだが、妹の方までそうだとは限らない。何でもできる姉を自慢に思っているならば良いが、コンプレックスに感じるような性質ならば、完璧超人の陽乃は見ていて苦痛だろう。

 

 こんな姉がいたら、と考える。会ったことのない雪ノ下雪乃に、同情を禁じえない八幡だった。

 

 

 

 

 

 

 



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こうして、雪ノ下雪乃は軽井沢を去る

『駅弁買ってきて。あ、私達はリムジンで先に行くから、タクシーでよろしくー』

 

 軽井沢について早々、八幡は置き去りにされた。駅弁を買うくらい待ってくれてもと思わないでもないが、のろのろ歩いて到着した売店は狙い済ましたように混雑していた。待たされることが陽乃は好きではない。おそらくそれを察して先に行ってしまったのだろう。

 

(それにしたって待ってくれてもとは思うけどな……)

 

 文句を言っても通じないのだから仕方がない。悲しき犬根性である。十分ほど待って自分を含めた三人分の弁当を買うと、ロータリーに向かう。

 

 タクシーに乗るのは初めてではないが、一人で乗るとなると緊張する。何しろ見ず知らずの運転手と二人きりだ。相手が沈黙になれているタイプならば良いが、間を持たせるのが自分の仕事と勘違いしているタイプだと地獄を見ることになる。

 

 放っておいてくれというオーラをいくら出しても、彼らは気付きもしないのだ。結果、客をもてなすために行っていることで客を苦しめるということになる。

 

 想像して気分が滅入った。簡単な地図は受け取っている。目的地まで歩いていこうかと本気で考えていた矢先、向こうから歩いてくる少女が目に入った。

 

「……お?」

 

 と、思わず声を挙げる。会ったことは間違いなくないが、八幡にはそれが誰なのか察しがついてしまった。

 

 あれは間違いなく――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 姉がこちらに来る。

 

 それを幸運にも察知できたのは、昨日の夕方のことだった。

 

 別荘の管理をしている初老の男性の動きが、どこかぎこちないのである。彼は雪ノ下雪乃の目から見ても善人だ。陽乃にしても自分にしても、お嬢さんと呼んで良くしてくれる彼がこちらの目を見ようとしないのである。

 

 何か隠していることがあるのは明らかだった。基本的に隠し事をしない彼が隠そうとする。それが姉の来訪を意味するのだと悟るのに時間はかからなかった。

 

 その日のうちに荷物を纏めると、予定を切り上げて明日帰ることを管理人に告げる。雪乃の急な行動に彼は溜息をつくと、わかりましたと素直に応えた。

 

 姉妹仲が良くないことは、雪ノ下家に深く関わる人間ならば誰もが知っていることだ。

 

 善良な彼の心を痛めてしまったことには申し訳なく思うが、背に腹は変えられない。

 

 姉と顔をあわせることを避けるためにやってきた軽井沢の別荘。静かなこの空間で読書をするのは何よりも充実した時間だったが、彼女がやってくるのならばそれも終わりにしなければならない。姉がいないのならば、都会の喧騒の方が何倍もマシだ。

 

 しかし問題もあった。

 

 姉がやってくることまでは察しがついたが、正確な時間まではわからない。彼女のことだから新幹線に乗ってくるのだろう。その到着時間を調べればおおよその時間はわかる。

 

 問題は雪乃も新幹線を使って帰ろうとしていることだ。予定がかち合うと、ホームに到着する前にばったりということだって考えられる。

 

 確実を期すならば、姉が駅を出たと確信してからホームに向かわなければならない。車に乗り込むことを確認し、車が発進するところまで見てから駅に入れば流石に安全だろう。姉が嫌がらせをしてくるのはいつものことだが、まさかそこまでしてから引き返してくることもあるまい。

 

 雪乃は新幹線の時間を調べ上げ、世の人々が朝食を食べ始めるくらいの時間から駅のロータリーが見える喫茶店の窓際に陣取り、陽乃が出てくるのを待つ。そこから待つこと実に二時間。昼も間近に迫った時間に雪乃の知らない女性を伴って現れた陽乃は、そのままリムジンに乗り込んで駅を後にした。

 

 リムジンが去ってからさらに五分待ち、車が引き返してこないことに確信を持ってから喫茶店を出る。

 

 次の新幹線が出るまで大分待つ羽目になってしまったが、これで安全が買えるのならば安いものと無理やり思うことにする。

 

 待つのは好きではないが、行く先に姉がいないことに確信が持てるのなら、それも幸せな時間だった。

 

 駅に入り、道を行くことしばし。

 

 何となく、向こうから歩いてくる少年が目に入った。

 

 少年は、こちらを見ている。

 

 人に見られることは良くあることだ。誰かに誇ったことはないが、自分の容姿は平均よりもかなり高い位置にあることは自覚している。少年もその類なのかと辟易しながら顔を見返すが、その視線が雪乃の癪に障った。

 

 少年はこちらを見ているが、こちらを見ていない。自分を通して別のものを見ている。

 

 それは雪乃が今まで感じたことのある視線の中で、最も不快なものだった。

 

 彼は雪ノ下雪乃を見ながら、雪ノ下陽乃を思っている。雪乃にとってこれ以上の侮辱はなかった。

 

 敵意をもって、少年を見返す。

 

 少年とは言うが、年上だろう。少なくとも雪乃には彼が高校生に見えた。

 

 身長はそれほど高くない。姉は女性の平均よりは高い方だから、彼女と並べば頼りなさが際立つだろう。猫背なのもそれに拍車をかけている。

 

 腐った魚のような目は好みの分かれるところだが、それなりに整った容貌をしている。75点くらいはあげても良いかもしれない。姉の周りには容姿の良い人間が集まる傾向があるが、その中においても容貌だけならば埋没しないだろう。

 

 それだけに服装がいただけない。他人に見られることをあまりに意識していないコーディネートは服装に無頓着であることを感じさせた。避暑地にあってさらに地味な色合いの服を着ている辺り、目立つことを嫌う性質なのかもしれない。

 

 そう言えば、陰気そうな雰囲気をしている。きっと友達がいないのだろう。彼のことは何も知らないが、それだけは何故だか確信が持てた。

 

 その確信を持つまでに数瞬。

 

 そこまで察すると、今度は別の疑問が持ち上がってくる。

 

 この男は一体、姉の何なのだろうか。

 

(まさか……恋人?)

 

 ありえない話ではない。そうであれば態々別荘のある軽井沢までこの男が足を運んでいる理由にも説明がつくが、そこまで真剣に交際している男であれば、母の耳にはいれたくないはずだ。管理人の男性は善人だが職務には忠実である。陽乃が男を連れ込んで別荘で不埒なことに耽っているとなれば、必ず実家に報告する。それは陽乃にとっても面白くない。

 

 管理人の報告が前提になるとすれば、この男と姉は大した関係でないと考えるのが妥当である。泊まりで異性と出かけているというのも問題であるが、管理人に『健全な関係であった』と証言させることができれば、母も五月蝿いことは言わないだろう。

 

 深くもなく、さりとて浅くもない相手。友達以上恋人未満とでもするのが妥当か。

 

「何か?」

 

 姉の関係者であるのならば、自分にとって味方とは考えない。険のある口調で問う雪乃に、少年はびくりと身を震わせた。そのまま、言い訳をするように少年は口を開き――はぁ、と大きく息を漏らした。

 

「すまん。不躾だった」

 

 口から出てきたのは謝罪の言葉だった。軽く頭まで下げる少年に、雪乃は僅かに眉根を寄せる。姉の関係者にしては殊勝な態度である。姉の友人は総じてリア充気質が多いものだが、少年の態度にはどちらかと言えば自分に近しいものを感じた。あまり姉の周囲には見ないタイプである。怪訝に思いながらもそれは顔には出さないようにして、雪乃は言葉を続けた。

 

「そう。ならいいわ。一応確認するのだけど、貴方、雪ノ下陽乃の知り合い?」

「そうだ。新幹線で一緒にここまで来たんだが、弁当買ってこいっておいていかれた。別荘まではタクシーで来いってさ。実は外で待ってるとかないか?」

「残念ね。あの人は確かにさっき、車で別荘に向かったわ」

「だよな。まぁ、期待はしてなかったんだけどな……」

 

 はっ、と皮肉げな笑みが様になっている。実に陰気な仕草だ。

 

「俺は比企谷八幡。総武高校の一年で陽乃……さんの部下になるのか? 生徒会で一緒に仕事をさせてもらってる」

 

 陰気な少年――八幡というらしい――が勝手に自己紹介を始める。別に名前を知りたかった訳ではないが、自己紹介があったことで知るつもりのなかった情報まで仕入れることになった。

 

 影で呼んでいるのがつい出てしまったという感じではない。常日頃からそうしているのだろう。あの姉が男性に呼び捨てを許すなど、雪乃にとっては驚天動地だ。親しげな雰囲気ではあっても、姉が他人を自分の領域に踏み込ませることはほとんどない。同性だって、彼女を呼び捨てにできる人間は少ないはずだ。信頼……というものがあの人間にあるのか知れないが、呼び捨てを許すということは、あの人間がそれなりに相手を信頼しているということでもある。

 

 こんな男が……と雪乃は改めて八幡を眺めた。何か姉を惹きつける要素があるのかと観察するものの、見ただけで答えは出なかった。

 

「そう。私は雪ノ下雪乃。あの人の妹ということになるのかしら。中学二年よ」

「別荘にいたらしいが、これから帰るのか?」

「ええ。あまりあの人と同じ空間にいたくないものだから。貴方はこれから別荘に?」

「そうなるな。妹が逃げなかったら紹介してもらう予定だったんだが、手間が省けて良かった」

 

 さて、と八幡は歩みを進める。

 

「それじゃあな。あまり遅れるとお姉さんにドヤされるから、俺は行く」

 

 あくまで雪ノ下雪乃に関心のなさそうな態度で、八幡は行く。

 

「ねぇ」

 

 その背中に、雪乃は反射的に声をかけてしまった。八幡が肩越しに振り向く。死んだ魚のような視線を受けて、何故だか雪乃の背中に僅かに緊張が走った。

 

「……あの人と付き合っていくのは大変でしょうけど。気をしっかりね」

 

 口の端をあげて、八幡は苦笑を浮かべた。

 

「陽乃の妹にしては優しいな。ありがとう。雪ノ下こそ、気をつけて帰れよ」

「雪乃」

「ん?」

「雪ノ下だとあの人と一緒だもの。あの人が陽乃で良いなら、私も雪乃で……どうしたの?」

「いや、あまりにも話がデキ過ぎてるんじゃないかと。カメラとか、最悪陽乃がその辺りに潜んでるんじゃないかと疑ってる」

「……私があの人とグルだと?」

「それはないな。あの人と相性良くないだろ、あんまり」

「良く解ったわね」

「そりゃそうだ。俺もそうだからな」

 

 一通り辺りを見回して気が済んだのか、八幡は大きく安堵の溜息を漏らした。

 

「名前の件だが別にあの人に合わせる必要ないだろ。呼び捨てにするのもされるのも、結構ストレスが溜まるもんだ」

「貴方もストレスを?」

「もう慣れた。じゃあな。今度こそ俺は行く」

 

 足を止めずに、八幡は去っていく。その背中が見えなくなるまで見送ってから、雪乃もホームに向かって歩き始めた。

 

 断られた。そのことに怒りがないではない。

 

 しかし、暗い気持ちで予感する。

 

 雪乃は姉からお下がりを受け続けてきた。望んだ場合もある、望まなかったこともある。 姉の歩いた路を辿っていく人生。姉を通り過ぎたものは全て、自分の元に一度はやってくる。

 

 さっきの男もいずれ、自分の元にくるのだろう。名前はその時に呼ばせれば良い。

 

 怒りが喉元を通り過ぎ、穏やかな気持ちになる。

 

 別荘を出た時よりもずっと、静かな気持ちで雪乃はホームに立った。

 

 新幹線は、まだ来ない。

 

 



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而して、雪ノ下陽乃は犬をいじめる

暑い! エアコン大先生のお力を実感する昨今いかがお過ごしでしょうか。
外は暑いですが、いつか仕事やめて引っ越してやろうと考えてる京都はもっと暑いという話。
一年中涼しい京都はどこかにないものかー。

タイトルが文法としておかしいかもしれませんがご容赦ください。


 

 

 

 

 伸ばした腕の僅かに先を、ボールが高速で通り過ぎていく。身体のバランスを維持できず、八幡はそのままコートに突っ伏した。当然ボールはアウトにはならず、相手の得点になる。

 

 それでゲームが終わった。つまりは八幡の負けである。

 

「はい、ご苦労さまー」

 

 勝者は勿論、雪ノ下陽乃だった。自らの勝利を当然のように享受した陽乃は、ラケットを弄びながらベンチのドリンクを取り上げる。

 

 そんな陽乃を見ながら八幡は立ち上がろうとして――滑って転んだ。身体に力が入らない。久しぶりの運動で、持てる力の全てを出し切ったのだ。

 

 テニスは決して苦手ではないつもりだが、経験者には適うはずもない。八幡の得意は所詮、素人にしてはという枕詞がつく程度のものである。

 

 陽乃は経験者であり、かつ天才だった。部活に所属したことはないはずだ。テニスについて学んだのは授業以外ではプライベートで少々と言ったくらいだろう。陽乃の性格からしてスポーツに真剣に打ち込むということはありえない。テニスを習ったとしても手慰みの範疇を出ないのは確信が持てたが、その油断がいけなかったのだろう。結局1ゲームも取れずに三連敗を喫した。

 

「中々筋は良かったんじゃない? 真面目にやってれば、そこそこの成績は残せると思うな」

「冗談はやめてください。テニスに打ち込む俺なんて、想像するだけで吐き気がする」

「なら夏の軽井沢でテニスをしてる自分を振り返ったら、世を儚んで首でもつっちゃうのかな?」

「連れてきた陽乃が言いますか……」

「それだけ口答えできるなら十分だね。はい、どうぞー」

 

 どうも、と短く答えてドリンクを受け取る。先ほどまでクーラーボックスで冷やされていたため、痛いくらいに冷たい。キャップをあけて、一気に飲む。微かな甘さと異常なまでの冷たさが、熱く力の抜けた体に染み渡った。

 

 一息吐く。疲労は色濃く残っているが、山は去った。珍しく手を貸そうとする陽乃にやんわりと断りを入れて立ち上がり、ふらふらと歩きながらベンチへ。倒れこむようにして腰を下ろすと、今度こそ全身の力を抜いた。

 

「しかし、強すぎませんか陽乃」

「そう? 私からすれば皆が弱すぎると思うな。だって解りやすいんだもん」

 

 陽乃はこともなげにいって、ドリンクに口をつける。自分の才能を疑っていないその態度に八幡は心中でうんざりしながらも、同時にその自信を眩しく思った。

 

 テニスの技量もさることながら、八幡が陽乃に完敗したのは彼女の観察眼の鋭さに寄るところが大きい。とにかく。相手の嫌がることをやってくるのである。前後左右に打ち分けるのは当たり前。試合の最中、ここしかないという絶妙なタイミングで話を振って集中を途切れさせ、視線や身体の向きとは全く正反対に打ち込んだりもする。

 

 人間観察の賜物だ。相手が何を考え次にどう動くのか、陽乃には手に取るように解るのだろう。何を考えているのか良く解らない、と同級生に言われなかった年はない八幡ですらこうなのだから、損得勘定のはっきりしているリア充どもなど、呼吸をするように操れるに違いない。総武高校が陽乃帝国になる訳である。

 

「もう1ゲームくらいする? 八幡が勝つまでやりたいっていうなら、いくらでも付き合うけど」

「陽乃の実力の高さは俺でも理解できました。まだ日は高いですから何かするというのなら付き合いますが、次はもっと動きのないスポーツが良いですね」

「男の子なのになさけなーい」

 

 ぶー、と可愛らしく抗議の声をあげるが、陽乃自身もそろそろ切り上げたいと思っていたのか、それ以上追求はしてこなかった。

 

 ちなみに八幡の使っているラケットは、陽乃のお下がりだ。借りるつもりでいたら、陽乃はくれると言った。金持ちにとってラケット一本くらい、大したことではないのだろう。その金銭感覚が少しだけ羨ましい。

 

 何も理由がないのに物をもらうことには抵抗があったが、ここで突き返しても受け取らないのは目に見えていた。人には偏執狂的に執着することもあるのに、形のあるものにはびっくりするほどに執着しない。最悪そのままゴミ箱に突っ込まれることを考えたら、貰っておいた方が良い。そう自分を納得させることにして、洒落た字体と色で陽乃の名前が刻印されたラケットは、永遠に八幡のものになった。

 

 これでウェアまで貰い物だったら完全にヒモだが、それは自前である。スポーツなど普段はしないから学校のジャージだ。たまの運動に使うくらいならばこれくらいで良いだろう。身体を動かす時にオシャレをしてもしょうがないし、そもそもオシャレという概念が八幡の中には存在しない。

 

 しかし陽乃はそうは思っていないようだった。スカートにアンスコ……では流石にないが、高級そうなテニスウェアを着ている。細い手足を惜しげもなく晒し、首まである髪はポニーテールにしていた。ただでさえ人目を惹く容姿なのに、この開放感である。テニスコートに来るまでも通行人の視線を独り占めにしていた陽乃は、羨望の視線を当然のものとして受け止めていた。

 

 そんな陽乃の連れ、と思われるのは嫌だったからなるべく離れて歩きたかった八幡であるが、そんな八幡の心情を見抜いてか、陽乃は無駄に近づいてくる。同じベンチに腰を下ろしている今も、不必要に距離が近い。肌が触れるほどではないが、お互いの汗の匂いくらいは感じられる距離だ。テニスの内容では圧倒していたが、流石に陽乃も汗をかいている。首筋に流れる汗と、その匂い。普通の男ならば、一瞬で恋に落ちていただろう。

 

 中学生の時の自分だったら危なかったに違いない、と八幡は冷静に考える。どれだけ良い匂いでも、男としてぐっとくるシチュエーションだったとしても、相手が怪物と思うと気持ちも萎える。紳士的に、というよりは怪物を退治するハンターの気持ちで、陽乃を見返す。全く動じた様子のない八幡を、陽乃はつまらなそうに見返した。

 

「どういう人が八幡の彼女になるのか、私今から楽しみだなぁ」

「俺を良いと言ってくれる女が、この世にいるとも思えません」

 

 主夫志望の身としては、絶望的な未来観測である。言いながら矛盾していると思ったが、まず恋人というのができる気がしないのだから仕方がない。

 

「ダメな男が好きな女って、結構いるものらしいよ。ね? 静ちゃん」

「そこで私に話を振るな」

 

 静の言葉には険があった。ダメな男に悪いイメージでもあるのかもしれない。ダメ男にひっかかるようなタイプには見えないが、人間見た目通りの中身はしていないということは陽乃を見ていれば良く解る。

 

 静とダメ男。正直興味は惹かれる話題だが、この話題を続けたらタダじゃおかないと、静はわざわざこちらに視線を向けてきた。

 

 それであっさりと八幡は諦める。陽乃であれば持ち前の無神経さで突破できたのだろうが、聞かれたくないと思っているところを踏みこえてまでとは思わない。聞いてほしいことだったら本人が言うだろう。その時聞くんじゃなかったと後悔しないことを、八幡としては祈るばかりだ。

 

「先生。俺の代わりにテニスやります? 俺は一つも良いところがなかったんで、先生に良いところ見せてもらえると大変嬉しいんですが」

「私もテニスはそんなに得意じゃないから遠慮しておく。それより、陽乃の言ったとおり手続きは済ませてきたぞ」

「ありがとう、静ちゃん。それじゃ八幡、移動しようか」

「昼飯ですか? 重くないものだと嬉しいですね」

「ちゃんと軽食を用意させてるから安心して。午後の運動に響くといけないし」

「またテニスですか? それとも別の?」

 

 できればあまり動くものでないと嬉しい、と口調に言外の意味を込める。引きこもりに一日ぶっ通しの運動は辛い。リア充側と言っても、陽乃とて青春を運動部に捧げる汗臭い口ではない。体力はそれほど変わらないはずであるが、陽乃に全然疲れた様子は見られなかった。

 

 人に弱みを見せるのが嫌いなだけかもしれないが、その意地だけでけろっとした見た目を維持しているのだとしたら、強化外骨格も大したものである。

 

「午後は私と静ちゃんとゴルフだよ」

「また随分とおっさん臭いスポーツが出てきましたね」

「紳士のスポーツと言え比企谷。それにゴルフとテニスは覚えておいて損はないぞ」

「ゴルフはわかりますが……テニス?」

「多人数でやるソフトボールやサボっていても目立ちにくいサッカーと違い個人競技で、その上比較的授業でやりやすいスポーツだが、経験がないと球をまっすぐ返すことも難しい。下手に恥をかく前に、練習しておくのが賢いやり方だ」

「静ちゃんもほんと、後ろ向きに前向きだね。老婆心?」

「経験論と言ってくれ」

「陽乃、当然俺はゴルフセットを持っていない訳ですが……」

「私のお下がりをあげる」

「ですよね……」

 

 テニスで既に経験済みだから、それ程のダメージはない。覚悟が固まっていて二度目なら、ダメージも少なくて済むと希望的観測を抱いていたが、嫌な気分はするものだ。仏頂面が顔に出ていたのだろう、陽乃の笑みが深くなる。人が苦悩する様を見るのが、陽乃の好物なのだ。

 

「こういう時は大人しくいただいておきますって答えれば良いの。変なところで八幡は潔癖だね」

「そこまで世話をしてもらう理由がないんで……」

 

 立場は陽乃が上で、自分が下。それは十分に解っているが、それは贈り物を受け取る理由にはならない。立場で差がついてるのにさらに物まで受け取っていたら、差は開く一方だ。いつか逆転などと考えている訳ではないが絶対に挽回できないほどの差ができるのは好ましくない。男には男の、犬には犬の矜持があるのだ。

 

 だが、陽乃はそういった八幡の感情を全て見透かした上で――

 

「おバカさんだね。八幡は」

 

 と笑った。

 

「物をもらったらラッキーくらいに思っておけば良いじゃない。契約書がある訳じゃないんだし、恩なんて踏み倒せば良いでしょ? 私がその清算を求めるような心の狭い人間に見えるならそれはそれで心外だけど、賢い八幡はそんなこと思わないよね? なのに、八幡は律儀にそれに応えようとしてる。もっと賢く生きれば良いのに、ほんと不器用なんだから」

 

 八幡は答えない。何かを応えたら負けのような気がしたからだ。助けを求めるように、静に視線を向けると彼女は煙草を咥え、ライターを探すふりをしながら聞いてない風を装っていた。その顔には薄い笑みが浮かんでいる。この人もこの人で、微妙に人が悪い。助けるべきところは助けてくれるのに、悪ノリにはとことん付き合ってくる。陽乃と相性が良いのだろう。教師の中で唯一、陽乃が近くにいることを許しているだけのことはある。

 

「まぁ私が与えたものを八幡が返したいって言うならそれは別に止めないよ。今すぐでも良いし、出世払いでも良い。でも……」

 

 陽乃は満面の笑みを浮かべて、言った。

 

「八幡に返せる?」

「いつか、必ず、耳を揃えて返します」

「うん、良い返事。やっぱり男の子はこうでなくちゃ!」

 

 陽乃は笑顔のままだ。自分の答えが正解だったのか、八幡にはわからない。陽乃はきっと、人を殺す時でも笑顔でいるのだろう。

 

「お腹空いちゃった。行こうか、八幡」

 

 笑顔のまま先に立って歩く陽乃の後を、静と一緒に黙ってついていく。八幡はただ、陽乃の背中を黙って眺めていた。すぐそこにあるはずの背中が、果てしなく遠くに見えた。

 

 

 

 

 

 



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平塚静は先生をする

「おきて、八幡」

 

 それが陽乃の声だと認識するよりも先に、八幡の身体は跳ね上がった。瞬時に意識も覚醒する。陽乃に対する忠誠心などではない。意識がない時に陽乃が近くにいる。そんな恐ろしい事態を許せないだけだった。

 

 時計を見る。午前二時。深夜も深夜。子供はもちろん、大人だって普通ならば皆寝ている時間だ。寝ているところを起こされた人間の当然の反応として、相手が陽乃であるにも関わらず八幡は胡乱な目を向けた。目つきの悪さには定評がある。気の弱い、特に女子であれば後退るくらいの迫力があると八幡は経験から知っていたが、陽乃は八幡の顔が見えていないかのような調子で話を進めた。

 

「飛び起きたねー。えらいえらい。犬っぽさが染み付いてきたね、八幡」

「こんな時間に何か御用ですか?」

「静ちゃんのとこ、遊びにいかない?」

 

 ふー、と八幡は陽乃が聞き逃したりしないように、大きく溜息を漏らした。

 

「今からですか?」

「今じゃなきゃ意味がないの。ほら、こういう時のガールズトークって定番じゃない?」

「俺は女じゃありませんし先生もガールって年じゃありませんし、そもそも定番とかそういうのとは無縁に生きてきた俺が、そんなのに関わったことがあると思いますか?」

「全然思わない。だから誘ってるんじゃない。八幡だって、全く興味がない訳じゃないでしょ?」

 

 ずるい聞き方をする。八幡は苦笑した。

 

 全くないかと言われれば、答えはNOにならざるを得ない。できれば係わり合いになりたくはないが、見たり聞いたりできるというのなら、男子の一人として聞いてみたいと思わなくはない。ただ、何かを犠牲にしてまでは見たいとは思わない。比企谷八幡は男子にしては消極的な感性を持っているという、ただそれだけのことだ。

 

「ですが――」

「八幡」

 

 それでもなお、言い訳を並べようとした八幡は、瞬間的に感じた肌寒さに、思わず口を閉じた。

 

 八幡の正面で陽乃が笑っている。薄闇の中、それでもなお比企谷八幡が見とれてしまうくらいに美しいその笑顔は、見ている人間をぞっとさせた。

 

 雪ノ下陽乃は笑顔で人を殺すことができる。これは、そういう時の、そういうための笑みだった。

 

「私が行こうって言ってるの。私が、行こうって、言ってるの。大事なことだから二回言ったよ。賢い良い子の私の八幡、貴方はどうしたい?」

「地獄の果てまでお供します」

 

 渋面を押し殺し、八幡は陽乃に頭を垂れた。陽乃は笑みの種類を変え、満足そうに頷いた。肌寒さが消えていく。一瞬で氷点下まで下がった機嫌は、同じくらいの唐突さで平温を取り戻した。

 

「じゃあ行こう。解ってると思うけど静かにね。できれば声も出さないでくれると助かるけど……八幡、ハンドサインって解る? サバイバルゲームとかで使ってるらしいけど」

 

 八幡は無言で、右手を『止まれ』『行け』『撃て』の順に切り替えた。一緒に遊ぶ相手もいないのに、一通り覚えてしまった。悲しい過去の遺産である。

 

 自分の犬が思っていたよりも使えることを知った陽乃は、指でOKサインを出しついてこいと視線で合図する。陽乃の背中に、八幡は黙ってついていった。

 

 

 

 八幡の部屋には、外から『のみ』鍵がかかるようになっている。管理人は男性とは言え、女二人の中に若い男が一人。大人の静はともかく、雪ノ下の大事な娘である陽乃がいる環境で、深夜、男を自由にさせるのは気が引けたのだろう。

 

 この部屋を使っては、という提案という形をとった遠まわしな強制に、八幡は喜び勇んで飛びついた。危険を回避するように手を打つのは、ぼっちの第一法則。他人が手を加えなければ外にも出れないというその環境は、鉄壁のアリバイを保障してくれた。

 

 勿論窓はあるが、部屋は二階にある。窓から外に出てさらに中に入るというような、名探偵が喜びそうな手順を踏まなければ、他の部屋に行くことはできないのだ。

 

 十時の消灯と同時に、八幡の部屋は施錠される。マスターキーは管理人が預かり、朝八時に開錠してくれるという。つまりはそれまで、身の安全は保障されるという訳だ。

 

 陽乃や静といると退屈しないが、一人の方が安心できる。四六時中一緒にいたら、流石に疲れるのだ。部屋には内風呂もあり、トイレもある。座敷牢みたい、と陽乃に笑われこそしたが、自分の部屋よりも広いその部屋は、八幡にとっては天国だった。

 

 

 

 はずだったのだが、陽乃は普通に部屋に侵入してきた。寝巻き代わりなのだろう。陽乃はTシャツにハーフパンツというラフな格好をしている。肩口までの髪は動きやすいようにポニーテールにされていた。子供っぽく見える、と外でするのはあまり好まない髪型である。

 

 夜の闇の中に、陽乃の白い肌が映える。何となく、本当に何となく目の前で静かに揺れる陽乃の白いうなじを眺めていると、かしゃり、と微かな音がなったことに気付いた。ハーフパンツの尻ポケットに、鍵が見えた。記憶に間違いがなければ、それは管理人が持っているはずのマスターキーだった。管理人が折れたのか、陽乃が盗んできたのか。いずれにしても、これで深夜の平穏がなくなったことは確定である。

 

 

 陽乃が右手を挙げる。『止まれ』。無言の命令に、八幡は素直に従った。陽乃はほとんど無音で鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。かちゃり。夜の静寂に、開錠の音はやけに大きく響いた。これで静が起きてしまったら、全てがご破算である。

 

 中の様子を伺う。一秒、二秒。三十秒が過ぎ、やがて一分が過ぎる。

 

『攻撃』

 

 右手を銃の形して部屋の中を示すと、陽乃は音もなく部屋に忍び込んだ。気分はもはや泥棒である。

 

 音をたてないよう、細心の注意を払いながら陽乃に続く。静の部屋は八幡のものと同じ造りだった。部屋の隅に荷物がまとめて置かれている。その反対側にはベッド。寝ているのか、静の寝息が聞こえる。

 

 寝入っている女性の部屋に、押し入っている。

 

 事実だけを言葉にするなら、そういうことだ。自分がとんでもないクズのような気がして八幡は眩暈を覚えたが、ベッドの静を見て陽乃のテンションはまさに最高潮。裏手にした右手の人差し指を立て、さかんに手前に振っている。

 

 来い、来い、来い。

 

 夜の闇の中、陽乃の瞳は爛々と輝いていた。

 

 陽乃の近くに膝を下ろす。どうする? と視線で問うと、陽乃は八幡の胸をとん、と指で突付き、ついて静を二本指で示した。

 

 やれ、という女王様の命令である。それは八幡にとって死刑宣告に等しかったが、女王様の命令は絶対だった。

 

 思わず漏れそうになる溜息を、何とか抑える。せめてこちらが行動を起こすまでは、静に起きられるとまずい。起こさないように、音を立てないように。陽乃の期待の視線を背中に受けながら、そっとベッドに膝立ちになる。枕に横になる、静の横顔が見えた。

 

 凛とした綺麗な顔立ちだが、眠っていると意外に幼く見える。陽乃の話では、今現在交際している男はいないらしい。面倒くさい人だが、本当に美人だ。寄って来る男など掃いて捨てそうなほどいそうなものだが……世の中そう上手くはいかないのだろう。

 

 良い意味でも悪い意味でも、人間は見た目ではないのだ。

 

 どきどきと高鳴る心臓を意識しながら、その横顔に手を伸ばす。ふと、考えた。やれと指示は受けたが何をしたら良いのか、本当に解らない。

 

 だが、動き出した身体はもう止めることはできない。ふいに、白い静の頬が目にとまった。とりあえず、その頬を突付くことにした。そーっと、息を殺して指を伸ばし――

 

「まぁ、そうするつもりなら、音を立てずに鍵を開けるべきだったな」

 

 それが静の声と八幡が認識するよりも早く、八幡の腕はつかまれ、布団を跳ね上げた静の足が八幡の上半身に絡みついた。

 

「せいっ」

 

 という掛け声と共に、天地が逆転する。八幡の身体は軽々とベッドに投げ出された。バックマウントを取った静は悠々と八幡の肩に手をかけ、躊躇いなく極める。

 

 ひゅー、と小さく陽乃が口笛を吹いた。流れるような逆転劇だった。

 

「さて、部屋に押し入られた婦女子の当然の反応として、こうして下手人を拘束した訳だが、何か言い分はあるか、主犯の女」

「ガールズトークしにきたよ、静ちゃん」

 

 陽乃の悪びれた様子は全くない。腕を極められ、痛みのあまり声すら出せない八幡を、気に留めてもいなかった。何かあったら切られることは解っていたが、こうまであっさりだとむしろ清々しい。自分を見つめる笑顔の教え子を見て、静は呆れて大きな溜息を漏らした。

 

「私は時々、どうしてお前とつるみ続けてるのか自分に問うてみたくなる時があるよ」

「おともだちでしょ? 私達」

「リア充は軽い気持ちでそういう言葉を使うが、お前が使うとまるで違う意味に聞こえるな」

 

 やれやれ、と静は八幡を開放し、サイドテーブルから煙草とジッポを取り上げた。右手の一振りで箱から一本だけ取り出して口に咥え、ジッポで火をつける。学校だと遠慮するが、軽井沢にきてからは遠慮なくすぱすぱと吸っているのだ。

 

「こんな女王様に仕えてて、お前、楽しいか?」

「退屈はしませんね。だから、まぁ、楽しいんじゃないかと」

「我慢強いというのは美徳だが、何事も『過ぎたるは及ばざるがごとし』だ。ほどほどに発散しないと、思いもしないところで潰れるぞ」

「静ちゃん先生みたい」

「先生だからな。まぁ、なんだ。お前らのせいで目が覚めた。ともかくそこに座れ」

 

 全員がベッドの上に座り、車座になった。まるで修学旅行だな、と思ったが口には出さない。これこそ、陽乃の望んだ状況だからだ。満面の笑みの陽乃に、追従はしない。こういう時にこそ、思わぬ報復があるのだ。

 

「さて、何から話すか……まぁ良いか、夜は長い。各々が話したいことを話そう」

 

 紫煙の向こうから、女性二人がこちらを向く。一番槍のご指名だ。解っていたことだが、話せと言われると何を話して良いのか解らない。

 

 陽乃も、静も、黙ってこちらを見つめている。話さずに済む雰囲気ではない。

 

 静は話したいこと、と言った。他人に話したいことなど何もないが……請われてしたはずの話を、つまらないと幻滅されても癪に障る。

 

 ならば、と八幡は自分のことを話すことにした。自分がつまらないと思っていることならば、どう思われようと納得できる。幻滅したければすれば良い。

 

 奇妙な自信に満ちた顔で、八幡は話を始めた。

 

 雪ノ下陽乃にとって極めて珍しいことであるが、その夜、一晩、彼女はずっと聞き役になった。



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だから比企谷八幡は友達がいない

 

 

「夏休みがあけたら、文化祭が近いな」

 

 避暑地、軽井沢にて。

 

 雪ノ下家の別荘。その広大な庭に設えられた東屋である。

 

 薄着で飲み物を片手にチェスなどを指しながら、静は言う。相手は陽乃で、これまたリラックスした装いで、駒を動かしていた。時間を潰すための遊びであるが、そこには八幡が立ち入る隙がないほどの勝負が繰り広げられていた。

 

 最初は八幡も混じって交代でやっていたのだが、八幡一人あまりにレベルが違いすぎるために、仲間はずれにされてしまったのだ。今はうちわで二人を交互に扇ぐという情けない任務についている。美人二人相手のお世話であるから、金を払ってでもやりたいという男は――特に総武高校には――いくらでもいるだろうが、実際に団扇で二人を扇ぐ八幡の顔は『憂鬱』というタイトルをつけて額縁に入れられるほどに、苦りきっていた。

 

 自分は何をしているんだろうと考えずにはいられない。これだけ辛気臭い顔をしていたら大抵の人間は煙たくなって遠ざけたくなるはずなのに、静は我関せずと八幡の表情は気にしないことにして、陽乃はその捻じ曲がった精神でもって八幡の表情を楽しみながら夏の日の午後を楽しんでいた。

 

「文化祭ですか。そこそこ大規模にやるって聞いてますが……」

 

 静の話題に、八幡は適当に答える。正直に言えばあまり係わり合いになりたいイベントではない。一致団結を強要するあの雰囲気はぼっちにはキツいのである。

 

 逆に、陽乃のようなタイプは輝くことだろう。人々の中心に居座るために生まれたような陽乃は、静の言葉にそうねー、とやはり適当に相槌を打ちながらも、

 

「あ、私文化祭実行委員長もやるから、静ちゃんよろしくね」

 

 と、軽い調子で爆弾を落とした。静もぽかんとした顔で陽乃を見返す。

 

「何を言っているんだお前は……」

「言葉通りの意味だけど? 別に兼務しちゃいけないって訳じゃないでしょ? 私まだ二年生だし」

 

 チェックメイト、とナイトを動かして陽乃が大きく伸びをする。高度な戦いではあるものの、戦歴はこれで陽乃の5勝0敗である。静の勝ちは一つもなかった。苛立たしげに懐から煙草を取り出し、咥える。

 

 それとほとんど同時に、八幡は預かっていた静のライターに火を灯した。静はそれに煙草を近づけ、ふー、と煙と一緒に大きく溜息を吐く。

 

「解ってると思うが、激務になるぞ」

「私の負担は全力で軽くするから大丈夫」

 

 可憐に微笑むが、八幡には陽乃のそれが悪魔の笑みに見えた。

 

 陽乃の才能は多岐にわたる。学業も学年主席を外したことはなく、全国模試でも当たり前のように名前が載る。運動も、真面目に部活に打ち込む凡人を軽々と追い越し、青春全てをかけているような秀才にも肉薄する。流石に努力する天才には一歩劣るが、そんな才能が早々いるものでもない。

 

 総合力においては文句なく、影も踏ませないほどに総武高校では頂点に君臨していた。

 

 そんな陽乃の才能の中で八幡が最も希少と感じているものが『人を使う』才能である。彼女は実に効率よく人を使う。自分はあくまで無理をしない程度に仕事を処理した上で、その余剰分を他人に割り振る。八幡には適当に放り投げているように見えるが、その実、適材適所を判断して割り振っている……らしい。

 

 加えて、本性を知らない人間には猫をかぶったまま、本性を感じ取っているシンパにはそれなりに、気持ちをくすぐるような言葉を吐く。相手を乗せるのが絶妙に上手いのだ。無理やり良い方に解釈すれば、やる気を引き出すのが上手いということでもある。

 

 優等生ではこうはいかないだろう。陽乃のような美人が、こういう性格をしているからこそ成り立つ手法だった。

 

 その手法に基本的にひっかからない稀有な存在であるところの八幡だからこそ、陽乃の手腕を近くで、正確に観測することができた。

 

 素晴らしい才能だとは思うが、真似したいとは思わない。その才能を発揮するための下地作りのために、陽乃は相当な時間を人間付き合いに割いている。それなりに楽しくやっているようだが、不本意な関係もあるだろう。

 

 外面とは裏腹に、陽乃は人間の好き嫌いが非常に激しい。感性も歪んでいるものだから、どうでも良い人間と上辺だけの付き合いをすることは、ストレスになっているはずだ。

 

 それを苦であるように見せないのも、彼女の強さであるとは思うが……

 

 陽乃の横顔を見る。陽乃はいつものように、モテない男を一目で恋に落とすような笑みを浮かべていた。

 

「あ、八幡にも実行委員会に入ってもらうからね」

「実行委員はクラスから任意で選出されるんじゃありませんか?」

 

 質問の形をした『立候補なんてしませんよ』という意思表示でもある。そうしない限り、まさか他薦されることもないだろう。陽乃の犬である八幡を貧乏くじとは言えクラスの代表にしようという物好きが、過半数もいるとは思えない。

 

「委員長が採用と言えば、おそらく通るだろう。人数を厳密に定めている訳ではないし、委員でないものが手伝ってはいけないという校則がある訳でもない。参加したい人間が全員参加となったら収拾はつかんだろうが、陽乃がそんな有象無象を引き込むはずもないからな。それに、生徒会長が実行委員長を兼務するなら役員が関わることもなし崩しに認められるだろう」

 

 つまり陽乃が実行委員長になったら、必然的に八幡も委員が確定である。陽乃が委員になれないということは万に一つもない。

 

「実務は委員に割り振ればそれほどでもない。実行委員の案件もまとめて生徒会室にもってくれば処理も楽になるだろうが……解ってるのか? 実行委員会が活動している間は、その分生徒会の仕事も増えるし、執行部には監督義務もある。単純に執行部の仕事が増えるんだ。実行委員会の仕事もこなしながらとなると、流石に比企谷一人では処理し切れんのではないかな」

「俺一人確定ですか」

「さすがにそれはかわいそうだから、お手伝いを使うことは認めてあげる。八幡にそんなこと頼める友達がいればだけど」

 

 絶対にないと確信している風で陽乃は言う。悔しさは別に沸かない。何故なら本人がそう確信してるからだ。とは言え仕事に忙殺されるのも、それはそれで困る。生徒会室に他人が来るのを実は嫌っている陽乃から手伝いは認めるという言質はとった。後は使える人間さえ用意できれば、とりあえずではあるが負担は減る。

 

 陽乃の気にいらない人間であればちくちく攻撃して自発的に辞めるように追い込むだろうから、彼女とそれなりに上手くやっていける人間でないといけない。何となく、駅で行き違った雪ノ下妹などは良い線行きそうだったが、OGであるならまだしも入学してもいない中学生を執行部には引き込めないだろう。

 

 とにかく、ダメもとでも探すしかない。見つからなければ陽乃のことだ。過労でおかしくなるギリギリまで笑顔で追い込んでくるに違いない。

 

 仕事ができて、陽乃と上手くやっていけて、なおかつ比企谷八幡の誘いにも乗ってくるか、あるいは向こうから声をかけてくるようなクレイジーな存在。

 

 八幡が求めるのは、そんな都合の良い人間である。 

 

 

 

 



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そして雪ノ下陽乃は敵を得る

 

 

 

 

 

 

 

 総武高校の文化祭は他の大多数の高校がそうであるように、文化祭実行委員会の手によって運営される。独立した組織と思われがちだが、実は生徒会執行部の下部組織である。

 

 なのでその長である生徒会長には実行委員会を監督する責任があり、実行委員会はそれに従わなければならないという上下関係が存在するのだが、実際に生徒会長が実行委員会に口を出すことは過去の例を見るにほとんどなく、実行委員会も一々執行部の顔色を伺ったりはしなかった。

 

 過度の干渉はしないというのが、両組織の暗黙の了解だったのである。

 

 それが故に『生徒会執行部員は実行委員にはなれない』という誤解が生徒の中に生まれた。忙しくなるから誰も立候補しなかっただけで、なってはいけないという確かな決まりはどこにも存在しなかったのである。

 

 だから雪ノ下陽乃が実行委員になったという噂が生徒の間に流れた時、学校中が沸いた。あの生徒会長が平穏無事な文化祭にするはずがないという熱狂的な期待が、実行委員会の発足前から巻き起こったのである。時間割の関係上、二年の委員選定が先に行われたため、その後に行われた一年の委員の選定は地獄絵図となった。女子も男子も誰もが我こそはと名乗りを上げたのである。

 

 相当な熱戦が繰り広げられた八幡のクラスであるが、結局はヒエラルキー上位のグループに属する男女一名ずつが選定された。どっちもチャラい感じのする、まさにリア充といった風である。陽乃からすればとてつもなく動かしやすいタイプだろう。

 

 もっとも、それが使えるか使えないかはまた別の話である。

 

 いつもであれば彼らの行いなど気にもとめない八幡であるが、今回ばかりは事情が違った。

 

 陽乃が実行委員になった時点で、その長になるのは目に見えている。あの女が誰かの風下に立つ姿というのがイメージできないというのもあるが、委員になったという噂が流れてきた時点で、八幡は陽乃が動き出しているのを理解していた。

 

 学校組織の代表は、立候補した人間の中から多数決で決定される。委員長を選ぶ場合は委員全員に投票権がある訳だが、この場合、いくら陽乃が全校生徒の大多数の支持を得ていたとしても、委員の半分以上がアンチであれば陽乃が委員長になることはできない。

 

 全校生徒のアンチの割合を考えたらそれがどれだけ確率の低いことか解るが、陽乃はそういったイレギュラーの存在すら許さない。事前に噂を流せばシンパが食いつく。元から支持者の方が割合が多いのだから、席の奪い合いになれば陽乃派が勝つのは目に見えていた。

 

 アンチはヒエラルキーでは下の方にいることが多い。席の取り合いになったら、そもそもアンチグループに勝ち目はないのだ。

 

 

 さて、問題は自分のことである。

 

 多数派工作が既に成功している以上、陽乃の委員長就任は決定的だ。実行委員の選定は終わったが、委員会の初招集は明後日である。厳密に言えばまだ委員会は発足していないのだ。

 

 助けを頼むのならば、それまでに頼んでおきたい。陽乃と働けるとなれば、ほとんどの生徒が例え八幡からの誘いであっても首を縦に振るだろうが、そもそも八幡はそういうタイプの人間と係わり合いになりたくなかった。彼らとコミュニケーションをすることと、地獄のような忙しさを一人で処理すること。その二つの載った天秤がつりあってしまうほど、八幡はリア充に関わるのが嫌だった。

 

 陽乃も八幡のそういう性質を見越して、こんなことを言い出したのだろう。元から一人――陽乃は生徒会長でもあるから、二人か――でやらせるつもりなのだ。処理できるという確信があるからこその無茶ぶりなのだろうが……リア充とつるむのは嫌だが、陽乃の思惑通りに動くのもそれはそれで癪なのだった。

 

 だからこそ人手が見つかるのならばそうしたかったのだが……自分のことは陽乃以上によく知っている。それで声をかけられるくらいならば、元よりクラスで孤立などしているはずがない。陽乃の犬であるという事実が知れ渡っていても、将を射んと欲せば的な目的で八幡に絡んでくる人間はほとんどゼロなのだ。

 

 そんな奇特な人間を今更期待したところで……

 

「あの、比企谷くんっ!」

 

 待ち望んでいたものが到来した。そのはずなのに、八幡はその声の主を悪魔でも見るような顔で見返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「上機嫌だな、陽乃」

「えー、そうみえるー?」

 

 上機嫌なのを隠そうともしないで、陽乃が笑う。思い通りに事が進んでいるから、気分が良いのだろう。

 

 文化祭実行委員の選出は滞りなく進んでいる。二年の選定が終わった段階で陽乃が実行委員をやるという噂が広まったため、一年で委員を決める時にひと悶着あったらしいが、問題と言えばそれだけだった。委員会の招集は明後日。そこで陽乃は実行委員長に選出されるだろう。自分がどういう層に受けて、彼ら彼女らがどういう動きをするかを予想するなど、陽乃にとっては朝飯前だ。それをコントロールするのも、勿論容易い。

 

 陽乃の案件が問題なく進んでいるのに対し、八幡の方は芳しくない。元より友達のいない彼に助けを頼めるような人間などいるはずがないし、探そうという積極性もあるとは思えない。良く知らない人間に何かを頼むくらいなら、八幡は自分一人で全てを処理するだろう。

 

 教師としてはあまり褒めることのできない精神性であるが、静個人としては大いに同意できる。群れなくても済むのならば、それに越したことはない。

 

 彼にとって不幸なことは、それを処理できるだけの能力は持っていることだ。これでもっと無能であれば陽乃にはとっくに飽きられていただろうし、ここまで苦労を背負うこともなかったはずだ。

 

 陽乃の出す課題をギリギリのラインでクリアし続けているからこそ、陽乃との関係は続いている。女王様気質の陽乃に犬根性の染み付いてきた八幡は、意外なほどに相性が良かった。陽乃の方も八幡を気に入っているようである。ちくちくと苛め抜いてもなおついてくる八幡のことが、かわいくて仕方がないようだ。

 

 今回のことも、陽乃はどうせ八幡が誰も連れてくることはできないと確信しているようだった。それを踏まえた上で、自分で連れてきた場合に限り手伝いはOKという条件を出したのである。

 

 そして、事は陽乃の思い通りになりそうだった。仕事に忙殺される八幡でも想像しているのだろう。陽乃は至福の表情でもって、会長の椅子でくるくる回っている。いつものように生徒会室までやってきてコーヒーを飲んでいた静であるが、喜ぶリア充を眺めているだけというのも精神衛生上よろしくないことに、遅まきながら気がついた。

 

 何か陽乃に良くないことでも起こらないだろうか。教師にとってはあるまじき願望であるが、屈折した青春時代を送った人間の一人として、静は心中で念を送り続けていた。リア充死すべし。リア充爆発しろ。

 

「こんちはーっす」

 

 けだるい声と共に、八幡がやってくる。陽乃の笑みが更に深くなったのを見て、静は大きく溜息をついた。一目で男を恋に落とせる笑顔の裏に、底意地の悪さが見て取れたからだ。これからどんなSMショーが始まるのかと思うと憂鬱で仕方がないが、ここで割って入るのも大人げがない。陽乃は状況を改善する案を提示し、八幡はそれを受け入れた。形としてはそういうことだ。誰でも良ければつれてくることはできただろう。それこそ、八幡が主義を曲げるだけで片付いた話である。

 

 それでも連れてこなかったということは、八幡は良く知らない人間と手を組むよりも、仕事に忙殺されることを選んだということだ。孤独を愛する精神もここまでくれば立派である。

 

「こんにちは、八幡。ところでお友達は見つかったのかな」

 

 いるはずもないのに、直球で聞く性格の悪さには惚れ惚れする。さて、八幡はどう答えるのだろうか。傍観を決め込んだ静は椅子ごと八幡に向き直り、答えを待つ。八幡は苦々しい顔をしていた。陽乃に無理難題を吹っかけられたときは大抵こんな顔をするが、静には今日のその表情は幾分意味合いが違うように見えた。それはささやかな違和感だったが、同時に、静の心に好奇心を生み出した。

 

 ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない。期待を顔に出さないようにしながら、静は八幡を盗み見る。八幡の仏頂面は相変わらずだったが――

 

「はい、見つかりました。今日は顔見せにこさせたんですけど、時間大丈夫ですよね?」

 

 八幡の言葉に、陽乃の動きが一瞬止まったが、すぐに再起動する。

 

「……へー、そうなんだー」

 

 笑顔は維持したままだったが、それには若干の強張りがあった。完全に予想外のことであったのに、それでも外面を取り繕うことができたのは、流石陽乃と言うべきである。陽乃をやりこめるなど、中々あることではない。八幡もさぞかし気分が良かろうと顔を見てみれば、彼の顔は苦々しいままだった。

 

「それじゃ、紹介してもらえるかな?」

「わかりました。いいぞ、入って」

 

 八幡の声に促され、入ってきたのは女子だった。

 

 陽乃の目が点になる。今度こそ陽乃は本当に動きを止めた。八幡が女子を連れてくるなど、頭の片隅にも考えていなかったのだろう。かく言う静もそうだ。モテない男子が女子とつるむなど、陽乃のように使われるか、どこかのチャラい女に騙されるかの二択しかない。ぼっちに優しい女がいるなど、そんな都合の良い話があるはずがないのだ。

 

 無意識に現実を否定しようとする静だったが、女子の存在はまぎれもない現実だった。

 

 一つ、大きく息を吐く。

 

 頭が冷えると、その女子を観察する余裕も出てきた。

 

 かわいい部類ではあるのだろう。静の目から見てもその女生徒の顔の造りは悪くなかったが、如何せん地味だった。陽乃と並んだら見えなくなってしまいそうなほど、何というか、華というものがない。図書委員でもやっているのが似合いそうな、間違っても陽乃の周囲にはいないタイプの人間である。

 

 だが、その女子を見ている陽乃の顔には、僅かではあるが『危機感』が浮かんでいた。

 

 静は最初その意味が理解できなかったが、女生徒を観察して、なるほど、と気付いた。陽乃の周囲にはいないタイプの人間というのは、翻って言えば陽乃が苦手にしている人間ということだ。

 

 雪ノ下陽乃が自他ともに認める美人であるのは今更言うまでもない事実であり、才媛であることも否定する要素はないだろう。

 

 そんな天賦の才に恵まれた陽乃であるが、同時にどうしても手に入れることができないものがあった。

 

 それが『癒し』である。

 

 完璧であるが故に、男は陽乃に庇護欲を抱かない。

 

 そして、そういう女が良いという男は少なからずいる。自分が頂点に立ちたい陽乃は、意図的に自分の周囲にそういう同性を置くことを避けてきたのだろう。自分と反対の魅力を持つ女は、相対的に輝く可能性がある。同じジャンルで勝負するならまず負けなくとも、自分の持っていない物を持っている女とだけは相性が悪いのだ。

 

 故に陽乃は警戒している。この女がもし八幡を振り向かせるようなことになったら、陽乃の面目はまる潰れだ。あの八幡であるから、まさか色恋などに発展はしないだろうが、物事に絶対はない。可能性は排除できるだけ排除するのが、賢い生き方である。陽乃一人に決定権があるのならば某かの理由をつけてこの女生徒を排除しただろうが、八幡をいじめるために救いの手を差し出したことは、その女子以外の全員の記憶に残っていた。

 

 自分で言ったことをなかったことにすることは、陽乃のプライドが許さない。どれだけ排除したくても、この女子は受けいれなければならないのだ。

 

 陽乃が手で顔を覆う。影になって八幡には見えなかったが、陽乃に近い位置にいた静には、陽乃がはっきりと苛立ちの表情を浮かべているのが見えた。

 

 目をかけてきた男の周囲に女の影ができたのだ。そりゃあ、心中穏やかではいられないだろう。まして陽乃は高校生だ。感情を制御できなかったとしても、まだ世間的には許される年齢であるが、他人に弱みを見せることを意地でもよしとしない陽乃は無理やり苛立ちを引っ込めると、清々しいまでにわざとらしい笑顔を浮かべた。

 

「そっかー。八幡にも女の子の友達がいたんだねー。意外だなぁ、私全然知らなかった」

 

 口調もびっくりするくらいに平坦だ。それでも隠し切れない感情が声音から見え隠れしている。あの陽乃が、と思うと笑わずにはいられないが、ここで自分が笑っては色々と台無しだ。コーヒーを飲んでいるふりをしながら、カップで口元を隠す。まずい、ニヤニヤするのを止めることができない。

 

 八幡はと言えば、流石に陽乃の犬。陽乃の機嫌がよろしくないことは敏感に察知した。そしてその原因が自分にあることも同時に理解していたが、彼に理解できたのはそこまでだった。ぼっちである彼は他人の善意を信用することはできても、好意を信じることはできない。自分に向けられるものであれば尚更だ。

 

 静から見て、陽乃から八幡への好意は明確に存在する。それは飼い主がペットに向けるようなものであるが、大多数の人間を路傍の石としか見ていない陽乃にとって、それは相当な高評価である。話に聞く妹を除けばおそらく、八幡がトップで間違いないだろう。

 

 女王からお気に入りをとりあげる。そんなチャレンジャーな平民が現れれば、陽乃とて心中穏やかではいられない。

 

 地味な少女を前に、陽乃は悠然と微笑んだ。獲物を前にした猛禽の笑みである。殺気すら漂うその笑みを、八幡の連れてきた少女は真正面から受けた。歓迎されていないことは、普通の神経をしていれば解るはずだ。陽乃は女王である。彼女の機嫌を損ねたらどうなるか、想像できない生徒はこの高校にはいなかった。

 

 少女は陽乃の迫力に一歩後退ったが、それだけだった。両の拳を握りこんで一歩、二歩と前に出て、陽乃の前で頭を下げる。

 

「城廻めぐりと言います! 私に文化祭のお手伝いをさせてください!」

 

 

 見た目によらず、肝の座った少女。それが静のめぐりに対する第一印象だった。

 

 

 

 

 



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雪ノ下陽乃は答えを得る

 最初は適当に使い潰してぽいするつもりだった城廻めぐりが、実は結構使える人間だと気付いたのは、彼女を生徒会に引き入れてから一週間も経った頃だった。

 

 勿論陽乃自身よりは大分劣るが、中々効率的な人の使い方を提案してくるのだ。これについては八幡よりも上手いと言えるだろう。反面、八幡が抜群に上手い『人を見る』ということについては、平均よりも劣っているように思える。

 

 一言で言うならば、城廻めぐりは性善説で動いているような少女だ。人の良心を信じて行動するせいで、そうではない人間に足元を掬われる。ちょうど自分や八幡とは真逆のタイプだった。一人で行動させるのは危なっかしいが、真逆の視点を持った人間とセットで使うなら良い仕事をするだろう。

 

 視点は鋭いが人を使うのがイマイチな八幡とは、良いコンビと言えた。仕事を効率的に回すという、ただそれだけを追求するならそうするべきなのだろうが、陽乃のプライドがそれをすることを躊躇わせていた。

 

 一週間眺めてみて、八幡狙いではないということは何となく掴めてきた。この性善説の少女は本当に文化祭を手伝いたくて、生徒会室のドアを叩いたのだ。話に聞けば、クラスの実行委員はリア充系の男女に奪われたという。解らなくもない。この性格、この地味さでは、そういう連中には勝てるはずもない。

 

 それでも諦めずに生徒会に直談判しにくるとは、見た目によらない行動力である。おかげでクラスでの立場は微妙なものになったろうが、めぐり本人は満足そうだった。何よりも、文化祭を成功させるために行動する。そんな自分の環境に満足しているのが雰囲気から解る。

 

 野心はない。下心もない。強いてあげるならば雪ノ下陽乃に憧れているところはあるが、それもあくまで常識的な範囲の話。頭の回転は悪くなく、こちらの言うことも良く聞く。

 

 命令を聞く人間は取り巻き連中の中にも大勢いるが、彼ら彼女らは自分をアピールすることに熱心で肝心の命令を半端に達成することが多い。陽乃からすれば使えないことこの上ないが、その点野心のないめぐりは命令を忠実に実行した。手際の悪さこそあるが、それは時間が解決してくれるだろう。

 

 間違いなく拾い物であるがそれだけに、八幡の反応が気になった。

 

 めぐりのことを八幡はどう捉えているのか。それが陽乃の目を持ってしても読みきれなかったのである。

 

 めぐりと仕事をしている八幡は、特におかしなところはなく、普段通りに見える。特にめぐりにときめいているような様子はないが、そもそも八幡が何かに目を輝かせているところを、陽乃は見たことがなかった。どういう女が好みなのかも良く知らない。反応を見るに自分がそう好みから外れていないことは解るが、それだけだった。

 

 八幡が女について話したことで記憶に残っているのは、彼の父親関連のエピソードだけ。美人を見たら美人局を疑えと教えた彼の父親は、なるほど、男として英才教育を施したのかもしれないが、陽乃からすれば良い迷惑だった。

 

 そこらの男ならば簡単に読めることが、八幡に関しては全く読めないのである。さくさく進む仕事とは反対に、陽乃のイライラは日々積もっていった。それを態度に出さないように神経を使いながら過ごすことしばし、とうとう限界に達した陽乃は昼休み、生徒会室の自分の椅子で脱力していた。

 

 何かストレス発散しないと、致命的なボロを出しかねない。明日は休日だが、できればそれ以前に何か一つでも良いことがあれば……

 

 ぐるぐると椅子を回転させながら、携帯をいじる。アドレス帳の名前を飛ばしに飛ばし、最後に候補に残ったのはやはり八幡だった。そう言えば最近、八幡とあまり話していない気がする。八幡と話をすればストレスから開放される……という訳ではないはずだが、めぐりと八幡をあまり引き合わせないようにしていたせいで、自分が八幡から遠ざかる結果となっていた。

 

 きちんと毎日顔を合わせているはずなのに、顔すら見ていないような気がするのもちゃんと話していないせいだろう。ちょうど昼休み。友達のいない八幡は、生徒会室にやってくるはずだ。同じクラスのめぐりとクラスでお昼してる可能性もないではないが、クラスで女子と二人でいることを選ぶなら、八幡は生徒会室に逃げてくだろう。

 

 少なくとも教室から逃げる可能性は非常に高く、その逃げ場として生徒会室を選ぶ可能性も、また高い。

 

 ただし、絶対ではない。一人になれる場所など学校にいくらでもあるはずだ。陽乃はとんと思いつかないが、本物のぼっちである八幡ならばそういう場所を心得ていても不思議ではない。

 

 携帯電話に視線を落とす。メールをすれば、八幡はすぐにでも飛んでくるだろう。昼ごはんを一緒に、と誘うのも嫌ではないが、それが建前であることは陽乃本人が一番理解していた。他人に、しかも男に逃避しているようで我慢がならない。葛藤がよりイライラを募らせていくが、そこは譲れないところだった。何より男に媚びるなど自分のキャラではない。

 

 悶々としながら携帯電話を眺めることしばし、陽乃は携帯電話を放り投げた。ストレス発散よりもプライドを取った陽乃は、苛立ちを隠せない様子で椅子に深く座りなおした。

 

 もう一人でお昼を食べよう。そう思った矢先、

 

「ちはーっす」

 

 やる気のない声で生徒会室にやってきたのは、八幡だった。

 

 その顔を見た瞬間、陽乃は顔を下に向けた。自分が世にも気持ち悪い顔をしていることを、自覚したからだ。八幡から顔を背けるように、椅子を回転させて頬を揉む。できれば鏡が欲しいが、手鏡を取るには椅子をもう一度回転させて八幡の方を向かなければならなくなる。今、この顔を見られるのはどうしても避けたかった。

 

「いるとは思いませんでした。珍しいですね、昼休みにここにいるの。取り巻きの人たちは大丈夫ですか?」

「たまにはいいでしょ。私にだって一人になりたい時もあるの」

「お邪魔なようなら席を外しますが……」

 

 だめ! と心の声を押し殺した陽乃は、大きく深呼吸をした。

 

「別にいいよ、八幡がいても」

「そうですか。では遠慮なく」

 

 自分の席に荷物を置いた八幡は、そのままお茶の用意を始める。かちゃり、という音は二度聞こえた。何を言うまでもなく、二人分の用意をしているのだ。その気遣いが、今日は溜まらなく嬉しい。

 

「紅茶で良いですか」

「いいよー。あついのでよろしくね」

 

 わかりました、と八幡の声はそこで途絶えた。足音もしない。ポットの前でぼーっとしている八幡が、見えるようだった。

 

 それからしばらく。どうぞ、と八幡の差し出したカップを陽乃は後ろ手に受け取る。まだ顔を見ることはできない。八幡の顔を見ないまま受け取ったその紅茶は、程よい甘さで陽乃の口にあった。お茶の淹れ方はまだまだだが、雪ノ下陽乃の好みというのがわかってきたようだ。それに刷り合わせようという、努力の後が感じられる。

 

「めぐりは一緒じゃないの?」

「友達いない俺と違って、城廻には友達がいますからね。教室で仲良く弁当食べてましたよ」

「そう? あんまり人気者なタイプには見えなかったけど」

「実は結構人気あるんですよ。メガネかけた仕事できそうなタイプに」

 

 本人がそういうタイプでないだけに、メガネとつるんでいる光景がイマイチ想像できないが、反リア充派に人気が出るというのは解る。生徒会役員をやったという実績があれば、雪ノ下陽乃と相反するタイプであっても、次の会長に当選するかもしれない。

 

 自分が引退した後のことに興味がない陽乃は、誰にも公認を出すつもりはなかった。それを良いことに、雪ノ下政権のカラーを引き継ごうと似たような、しかし明らかに劣る立候補者が乱立することになるだろう。そんな中、めぐりの朴訥さは新鮮に映るかもしれない。

 

「もしの話だけどさ。めぐりが来年度の会長戦に立候補したら、八幡はどうする?」

「選挙運動を手伝うかってことなら、まぁ、それくらいは手伝っても良いですが、役員になるかと言われたら遠慮します」

 

 てっきり最後まで手伝うものだと思っていた陽乃は、面食らった。八幡の方に顔を向けると、何でもないと言った風に弁当を食べている。

 

「どうして?」

「どうしてって……めんどくさいじゃないですか。やらなくても済むなら、そういうことはやらないに限ります」

「知らない仲じゃないでしょ?」

「俺がいてもマイナスにしかなりませんよ。優秀な友達がきっと何とかしてくれるでしょう。俺はリア充系にも真面目系にもウケが良くありませんからね。誰もが陽乃みたいに人を使いこなせる訳じゃないんです」

 

 暗にめぐりには自分を使いこなせないと言っているように聞こえて、陽乃は思わず噴出した。人に配慮ができるだけの神経の細やかさを持っているのに、細かなところでは雑なのだ。その雑さを無神経と思う人間もいるだろうが、陽乃はこの雑さが嫌いではなかった。

 

「でも私のことは手伝ってくれたでしょ?」

「……無理矢理引き込んでおいて何を言ってるんでしょうね、この人は」

 

 八幡は心底呆れた表情をする。逃げられないように逃げ道を塞いでお願いという名の命令をして引き込んだ訳だが、それでも八幡は腐ったり手を抜いたりせずに手伝ってくれた。根が真面目なのは見ていて解る。もう少し社交性があればめぐりのグループにいても違和感はなかったはずだが、他人と仲良くする八幡というのも想像できない。

 

 八幡が逃げずに留まっているのは『ここ』だけだ。この学校の生徒ならば誰もが知っている事実であるが、それを改めて認識したことで陽乃の感情は段々と穏やかになっていった。溜まりに溜まっていたストレスはどこかに消えていた。

 

「八幡」

「紅茶のおかわりですか? それとも肩でも揉みますか? 俺から見ても少し疲れてますよ。大変なのは解りますが、いくら陽乃でも根を詰めると――」

「ありがとう」

「……背中向けてください。どうも本格的に疲れてるみたいですね」

「ひどーい。私だってたまには普通にお礼を言いたくなることもあるのよ?」

「そんなのは陽乃のキャラじゃありませんよ。陽乃はいつもみたいに笑顔のまま人をチクチクザクザク刺すような人間でいてください」

 

 ほら、といつもより強引な口調で八幡が背中を向けるように促してくる。他人に背後に立たれるのも、身体に触られるのも久しぶりの経験だ。雪ノ下陽乃に触れるというのが、この学校の男子にとってどれだけ大それたことであるか解っていないはずはないのに、八幡は躊躇いなく肩に手を置いて、肩をもみ始めた。

 

「眠いなら寝てても良いですよ」

「そう? それじゃ、時間になったら起こしてもらえる?」

「了解です」

 

 八幡の声を聞きながら、陽乃はそっと目を閉じた。




めぐり先輩を出すつもりだったのに気付いたらはるのん一人舞台となっていました。はるのんかわいい!
次回はヒッキーとめぐり先輩の話になります。


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城廻めぐりは考える

艦隊これくしょんをやってましたごめんなさい。


 昼休みになった。

 

 八幡を昼食に誘おうと思っためぐりが席を立つと、彼はそれを察していたかのように席を立ち、脇目も振らずに教室を出て行った。

 

 教室を出て、右に折れる。行き先はおそらく生徒会室だ。陽乃は基本教室で友達と昼食を取り、静も昼時は職員室にいるから、今から生徒会室に行っても一人だけのはずである。

 

 一人になりたいならばともかく、一人の方が良いというのはめぐりには信じられない感覚ではあったが、八幡はどうも本当にそう思っているらしかった。今まで何度も昼食には誘っているが、その全てを袖にされている。一緒に昼食を取ったのは、陽乃が全員を誘った時だけだった。

 

 その態度に最初は嫌われているかと思っためぐりだったが、仕事をしている間は普通に会話をするし他のクラスメートにも八幡は似たような対応をする。誰でもこうなのだろう。この学校での例外は、陽乃と静の二人だけだった。

 

「城廻もよくやるよねー」

 

 今日も袖にされてしょぼくれているめぐりの元にクラスメートが寄って来る。見た目はチャラいが中身は真面目という変り種で、テストでも上位に入っているクラスの変わり者である。どういう訳か始業式の日から自分にシンパシーを感じていたらしく、クラスでは一緒につるむようになった。

 

 陽乃目当てで実行委員に立候補したカースト上位者を差し置いて、今まで一人も増員されなかった生徒会への電撃加入を果たしためぐりが、クラスでハブられたりいじめられたりしなかったのは、彼女のおかげである。

 

「あれだけ関わらないでくれってオーラみたら、普通は諦めない?」

「一緒に食べた方が楽しいに決まってるよ」

 

 それはめぐりのポリシーだった。それが合わない人間がいるというのも理解しているが、一度も試さないのに諦めることはできなかった。仕事中に話してみた限り、八幡は合わないタイプである可能性が非常に高いが、それでも、めぐりは諦めることができなかった。

 

 一緒に働くことになった仲間である。同じ学年で、同じクラスなのだ。仲良くしたいと思うのは、めぐりとしては当然のことだった。

 

「あれのどこが良い訳?」

「言われるほど悪い人ではないよ? 仕事はちゃんとやるし、はるさんの言うことはしっかり聞くし」

 

 女王様と犬というのは陽乃と八幡を揶揄して言われる言葉だ。最初はただの皮肉や冗談かと思ったが、陽乃の無茶振りと八幡の従順さを見るに、そう的外れでもないような気がした。

 

 ただ、嫌な顔はしながらも八幡は仕事を的確にこなしていく。陽乃の手伝いで文化祭の仕事をしても、陽乃が抜けて滞った分の生徒会の仕事をしても、彼は的確に、無駄なく、てきぱきと自分の仕事をこなしていた。

 

 こと仕事を処理するという点において、八幡は間違いなく優秀である。クラスでぬぼーっとしていてカースト上位の面々から羽虫のように見られている姿からは、想像もできない。

 

「そりゃあ女王様ならあれも使いこなせるだろうけどさ……いや、私が言ってるのはそういうことじゃなくて、あれが野郎としてどうかってこと」

「……男の子としてどうかってこと?」

「そう、そういうこと」

 

 言われて初めてめぐりは考えた。男の子としてというのは、流石に交際する相手として、ということだろう。めぐりとて女子だ。色恋の話題に興味がない訳ではないし、したくない訳でもない。

 

 その相手として八幡のことを考えためぐりは、苦笑を浮かべて首を横に振った。

 

「今はまだごめんなさいかな。話が合いそうな感じがしないし」

「それなのにお昼に誘おうとする根性には参るよほんと」

 

 肩を竦める友人を見て、めぐりも溜息を漏らす。

 

 他人から見たら、八幡に懸想しているように見えるのだろうか。悪い人間ではないと思うが、今のところそういう感情はなかった。友人もまさか本当に城廻めぐりが八幡に懸想をしていると思っている訳ではないはずだ。総武高校の大多数の人間は、八幡は陽乃の所有物だと認識している。女王の物に手を出すような不敬な女子生徒は、少なくともこの学校にはいない。

 

 考えられるとすれば陽乃のアンチ派であるが、そのアンチ派にすら八幡は見くびられている節がある。いくら陽乃を攻撃するためと言っても、そのために八幡を篭絡したりはしない。何より女性的な魅力で陽乃に勝てると錯覚できるような女子がいたら、陽乃の対抗馬としてとっくに有名になっている。

 

 容姿において、陽乃は総武高校で独走している。成績でも同様だ。1教科で遅れを取ることはたまにあるが、総合順位において陽乃が一位以外の順位を取ったことはない。おまけに生徒会長で高校の歴史上初めて文化祭実行委員長も兼任した。完全で完璧であるからこその女王なのだ。その性格において敵を作ることはあるが、それを圧倒的に上回る味方がいる。

 

 近くで見ているとより実感する。彼女は天才肌の人間だ。その才能を研鑽し、それを如何なく発揮することができる。主に自分の地位を高めるためであるが、たまに八幡を小突き回すことにも使っていた。早い話が気まぐれな人間なのだ。アンチ派はそれがさらに気に食わないようであるが、多くの人間にはそういうものだと好意的に受け入れられている。才能のある美人は、大抵の行動が許される。それどころか、短所を長所に変えるのだった。

 

 めぐりもその才能に魅了された一人である。学ぶべきところは多くあるし、近くで見ているだけでも非常に楽しい。雲の上の存在という思いを、より強くしためぐりだったが、同時に、陽乃に人間らしさを見ることもあった。

 

 雪ノ下陽乃とて、高校生の少女である。世間的にはまだ大人ではなく、子供と言える年齢だ。どれほど洗練された容姿をしていても、どれほど能力を持っていても、少女であることに変わりはない。ふとした時に見せる子供っぽさに、ふとした時に溢れ出る子供のような表情に、気付いている人間がどれだけいるだろうか。

 

 それを見れることは近くで働いている者の特権だ。陽乃は普段仮面を被って振舞っている。完璧で完全な女王の仮面だ。めぐりの前では元より、仲の良い友人である静の前でも、陽乃は決して弱みを見せたりはしない。

 

 だが、八幡の前では違うように思えた。他の人間よりも少しだけ、八幡の前では少女らしく振舞っているような気がする。ほんの些細な違い。近くにいる人間だからこそ気付けるほどの、小さな違いだ。

 

 八幡が気付いているようには思えない。彼は男性だ。陽乃が特別な感情を持っていると少しでも思っていたら、もっと調子に乗るだろう。気付くとすれば女性であるが、陽乃本人は意識しているようには見えなかった。少なくともめぐりの目では、陽乃の心の中までは見通すことはできない。

 

 ならばもう一人。気付いている可能性の高い人間に聞いてみた。陽乃のほとんど唯一の『友人』である静である。

 

 もしかしたら陽乃は八幡を好いているのでは。

 

 直球の質問に、静は爆笑した。自分の推理が否定されたようで気分は良くなかったが、落ち着いた彼女が言った言葉は、

 

『まぁ、そうだろうな』

 

 という、肯定の言葉だった。そうだとしても新参者に認めると思っていなかっためぐりは、静の言葉に目を丸くした。そんな表情で気を良くしたのか、静は得意そうに語り始める。

 

『少なくとも、一番好意を持たれているのが比企谷なのは間違いない。それは陽乃本人も、比企谷も自覚してるだろう。陽乃の性格を考えたらそれだけで十分脅威な訳だが、

それだけでは終わらないと私は睨んでいる』

 

 何やら話が桃色になってきた。生徒のゴシップを教師が話して良いものかとめぐりは心配になってきたが、当の静は話したくて仕方がないという顔をしていた。ここで聞かないというのは流石に可哀想に思えた。興味があるという顔ができたか知らないが、できうる限り静の話に乗ったふりをして、めぐりは静の話の続きを待った。

 

『人間というのは楽をしたがる生き物だ。別にそれは悪いことじゃない。そういう感情が発展を生み出したのだし、何よりだらだら過ごすのは楽しいからな。だが、一度堕落を覚えた人間は、その味を忘れられない。よほど精神の強い人間でない限り、堕落を知る前よりも弱くなるものだ』

 

 それが陽乃や八幡のことを言っているのだということはめぐりにも解ったが、堕落という言葉はあの二人、特に陽乃には縁遠いことのように思えた。雪ノ下陽乃は完全で完璧だ。それがこの学校で陽乃を知る人間の共通見解だろう。陽乃のことをある程度知った今でも、それに異論はない。少女らしい一面はその発露なのだろうが、静が言っているのはもっと深いことのように思えた。

 

『完全で完璧な女王様が、生まれて初めて他人に頼ることを覚えた。今まで人を使ってきただけの陽乃はおそらく、自分が他人を頼っているということすら理解できないだろう。理解できない内に依存は高まり、やがて完全でも完璧でもなくなり、女王ですらなくなるかもしれない』

 

 何でもないことのように静は言うが、総武高校の人間にとってそれほど驚天動地なこともない。陽乃が女王でなくなるなど、めぐりにも想像できることではなかった。

 

『人間としてはそれは弱くなったということなんだろう。堕落を覚えて女王でなくなり、ただの雪ノ下陽乃になる。それは今のあいつにとっては喜ぶべきことではないのかもしれないが、一人の友人として、また教師としては、歓迎すべきことではあるな。肩肘張って生きるのは疲れるし、一人や二人くらいは、愚痴を言って弱みを見せられる人間も必要だ。あいつにとってはその初めての人間が、異性の比企谷というのは皮肉な話だが……』

 

 静は満足そうに大きく溜息をついた。この話ができる人間が、静の周りには少ないのだろう。当事者の二人に話せるはずがないし、教師にする話でもない。まして陽乃たちに縁の薄い生徒にはできるはずもない。

 

『話が回りまわってしまったが、城廻が聞きたかったのはこういうことだろう? 陽乃も比企谷も怪物ではなく人間だ。そう思って接してやってほしい。普通の人間よりも大分難しい連中だが、根は良い奴なんだ。できる限りで構わない。あいつらの友人でいてやってくれないか』

『それは、言われるまでもありませんが……』

『助かるよ。お互いだけってのもロマンがあって良いんだろうが……そういう直球な展開は、あいつらには合わないだろうからな。一人二人は他人がいた方が、ロクでもない展開は防げるだろう』

 

 そういって皮肉気に笑う静は、二十の半ばという年齢よりも大分老成して見えた。これこそ女性に言うべき言葉ではないが、静のそんな顔を見てめぐりは『お母さんみたいだなー』と思ったものだ。

 

「明日も比企谷お昼に誘うの?」

 

 友人が興味なさそうに聞いてくる。基本、お昼は彼女と一緒だから八幡を誘うとしたら彼女も同席することになる。人見知りする八幡が、同僚の友人の同席を認めるかというのはかなり分の悪い賭けだったが、諦める訳にはいかなかった。

 

 静の話を聞こうと、彼が陽乃の所有物であろうと、八幡と友達になりたいという気持ちに嘘はないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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比企谷八幡は戦慄する

 

 陽乃が勝手に始め、半ば押し付けられるように始まった文化祭実行委員の仕事であるが、これがやってみると中々面白いものだった。一人だったら途中で潰れていただろう仕事を続けることができたのは、陽乃の存在が大きい。外面の良い彼女が折衝の全てを引き受けてくれなければ、いかに陽乃の下でこき使われてレベルアップした八幡でも、一人ではどうにもならなかった。

 

 事務仕事を八幡が一手に引き受けたことで、今まで行っていた陽乃のフォローが疎かになってしまったが、それは新たに加わっためぐりがこなしてくれている。初めてということで手際の悪さもあるが、穏やかな性格と朗らかな見た目が、陽乃のカリスマ性を良い意味で中和してくれて、話も早く進んでいるという。

 

 確かに、交渉ごとにおいては八幡の不景気な面がうろついているよりも、陽乃とめぐりだけで当たった方が効果的だろう。適材適所ということだ。八幡は別に悔しい思いなどはしていなかった。自分にはできないことをやってくれる二人を純粋に尊敬はしている。ただ疎外感を覚えているだけだった。

 

 少し前までは疲れの見える陽乃だったが、ある日を境に活力を取り戻し、今まで以上に精力的に実行委員会の仕事に取り組むようになった。

 

 その影響で、文化祭の規模はどんどん大きくなっていった。革新的な企画やイベントが次々と委員会に持ち込まれては、その議論がなされていく。ダメなものはダメと一刀両断にする陽乃だが、見込みのあるものにはアドバイスをし、改善されたものが採用されるなど、できるだけ持ち込まれたものは活かそうと奮闘している。

 

 自由すぎると教師から苦情が来ることもあるが、そこは陽乃の独断場だった。陽乃以上に弁の立つ教師は静くらいしかおらず、その静は消極的に陽乃の味方をしていた。加えて陽乃は地元の有力者の長女。いずれはその地位と権力を継ぐと目されている才女である。

 

 陽乃に汚点を残すことは、学校も本位ではない。陽乃の強気の影には、彼女の家の力も見え隠れしていた。親の力を借りるなんて……と八幡であれば嫌に思うそういった扱いも、陽乃は笑顔で使いこなしていた。

 

『使えるものは使わないとね』

 

 笑顔で言う陽乃に、怖いものはなかった。

 

 校内の敵を潰した陽乃は、学校外にも進出するようになる。近隣の店舗に声を掛け捲り、スポンサーにならないかと提案して回った。その頃には文化祭実行委員会の熱狂は、周囲にも伝わるようになっていた。その中心人物である陽乃の名前も同時に伝わっている。呼びかけに応える形で集まり始めたスポンサーは、仕舞いには自分で売り込みにくるようになっていた。

 

 協賛という名目で、学校には次から次へと物品が提供されていく。中にはどうやって使うんだと頭を抱えるような代物もあったが、八幡の手によって整理された目録を見た陽乃は、やはり笑って言った。

 

『それを考えるのが私達の役目よ』

 

 提供されたものは、何が何でも使い尽くす。陽乃は目録を片手に連日会議を重ね、必要な物品をクラスや団体に提供した。援助を受けた生徒達はますます活気付き、文化祭を一週間後に控えた頃には気運は最高潮となっていた。

 

 熱狂的な校内の雰囲気を肌で感じながら、八幡の気持ちは逆に冷めていた。他人と相容れない性格を、恨めしいと思う。同調できる人間が正しく、自分のような人間が異端なのだろうが、性分なのだから仕方がない。陽乃の元で激務をこなし、文化祭を支えている。誰にも文句を言われる筋合いはないと自己完結しながら、生徒会室のドアを開けた。

 

「ひゃっはろー、八幡」

 

 生徒会室には先客がいた。何となく居るだろうと思っていた八幡は黙ってティーポットの元まで歩き、陽乃の分も紅茶を淹れた。

 

「城廻はどうしました?」

「今日はちょっと一人でやってもらってるの。めぐりでもできそうだったから、経験を積ませようと思って」

「陽乃がいないと、陽乃目当ての連中が暴動を起こすんじゃありませんか?」

「知らないの? めぐりも結構人気あるんだよ」

「あの城廻が……」

 

 意外な事実だった。人気投票が開催されたら、間違いなく陽乃が二位以下を引き離してトップを独走するだろう。めぐりも素材は悪くないが、陽乃には勝てるはずもない。陽乃目当ての人間がめぐりを代用として認めるとは思えないが、当の陽乃は気にしたそぶりもなく紅茶を口にしている。

 

「そんなことより、八幡もお疲れ様。資料見やすくて助かってるよ」

「無愛想な俺には外回りなんてできませんからね。これくらいしておかないと、陽乃に忘れられそうでらしくもなく頑張った成果です」

 

 皮肉な物言いになってしまったが、それは偽らざる八幡の本心である。これを他人が言ったのならば女王陛下の気分を害しただろうが、犬として貢献している成果か、大抵の軽口は陽乃は笑って受け流してくれる。例外にぶち当たった時は容赦のない報復をしてくるが、それは普段大目に見てもらっている駄賃として八幡も受け入れていた。

 

 八幡の感覚では、今回の軽口は余裕でスルーしてもらえる……はずだったのだが、陽乃が返してきたのは無言だった。まさか地雷を踏んだかと、背中に冷や汗をかきながら陽乃を見ると、陽乃は紅茶のカップを両手で抱えながら、八幡をじっと見つめていた。今までにはない反応である。訝しく思いながら陽乃を見返すと、彼女は男を一目で恋に落とす天使のような笑みを浮かべた。

 

 自分の容姿の使い方を解っている陽乃がこういう作り笑いをする時は、何かロクでもないことを思いついた時だと、八幡は経験として知っていた。今度はどんな無理難題を押し付けられるのだろうと思いながらも、それを楽しみにしている自分がいることに八幡は気付いた。犬根性が染み付いてきたな、としみじみと思いながら紅茶を啜る。

 

「……八幡、ひょっとして拗ねてる?」

「…………なんですって?」

「やっぱり? やー、八幡にもそういう可愛いところがあるなんて、私知らなかったなぁ」

 

 肯定したつもりはないが、陽乃の中では肯定されたものとして話が進んでいる。これは危険だと判断した八幡は紅茶のカップを置いて陽乃に詰め寄るが、彼女は一足先に席を立ち、机を挟んだ位置に逃げ込んだ。回り込もうとするとそれ以上の速度で離れる。身体能力は元々陽乃に分があるため、先手を打たれると八幡にはどうしようもない。既に逃げの体制に入っている陽乃を見て、八幡はとりあえず抵抗するのをやめた。

 

「うんうん。物分りの良い八幡のこと、私好きだよ」

「お褒めに預かり恐縮です」

「そんな八幡にたまにはご褒美を上げないとね。最近はずっとめぐりに構いっぱなしだったし、八幡のために時間を作ってあげる。明後日の日曜、一日空けておくこと。おめかししてよ? 私と二人ででかけるんだから」

 

 それじゃあねー、と陽乃は生徒会室を出て行く。去っていく背中は、見たこともないほどに上機嫌だった。そんな背中を見て八幡が真っ先に思いついた手段は何もかも放り投げて逃げることだったが、『あの』雪ノ下陽乃から逃げるということがどれほど困難か、知らない八幡ではない。陽乃がやると言った以上、それがどれだけ八幡の主義主張から離れていても決定事項だった。

 

 力を抜いて、陽乃の椅子に身を投げ出す。これから処理しなければならない仕事が山のようにあるが、とても仕事をする気分にはなれなかった。いつも以上に死んだ魚の目で窓の外を見る。外では今まさに青春を謳歌しているといった風の高校生達が、部活やら文化祭の準備やらに追われていた。

 

 自分とは違う種類の生き物を見ながら、アドレス帳から静を呼び出す。

 

『メールでなく電話とは珍しいな。陽乃には内緒で相談事か?』

『はい。ちょっと先生にしか相談できないことが……』

『そこまで言われたら聞かない訳にはいかないな。何があった』

『はい。実は明後日の日曜に陽乃と二人で出かけることになったんですが……』

『くたばれリア充』

 

 一方的な宣言で通話は打ち切られた。八幡は無言でリダイヤルの操作をする。

 

『何だ、リア充。私のような非モテ女をからかって楽しいか?』

『助けてください、マジで。どうしたら良いのか解りません。これはどういうことなんですか? ついに美人局の餌食になるんですか俺』

『今更他意はないだろう。陽乃も普通にお前と出かけたいと思って誘ったのではないかな。いや、リア充でない私にはお前達リア充の考えることなど解る訳もないが』

『拗ねないでくださいよ、先生だけが頼りなんですから』

『……悪かった。とにかく、あの陽乃が相手とは言え、構える必要はないだろう。この学校で陽乃を相手にするのに最も適しているのは間違いなくお前で、私じゃない。お前にできないなら、おそらく誰にもできないだろう。教え子が私を放ってデートなど忌々しい限りだが、そういうことを見守るのも教師の役目だ。陽乃がどういう顔してお前と歩くのか、興味がない訳でもないしな』

『実は隠れてついてきてくれるとか、気の利いたことを考えたりしてませんよね?』

『ないな。教師もそこまで暇じゃない。レポートを出せとは言わないが、後で話を聞かせてくれると助かる』

『ご期待に沿えるよう頑張ります』

 

 よろしく、と事務的な言葉で通話は打ち切られた。頼りの綱も切られた形だ。静の話の中にデートという不愉快な単語が出てきたが、まさか陽乃に限ってそんなことはあるまい。二人で出かけるというのも、他に邪魔を入れたくないということだ。どんなことを要求されるのかを考えると、背筋が震えて仕方がないが、もはや聞かなかったことにはできない。

 

 もやもやした感情から逃げるように、八幡はパソコンのモニタに向かった。キーボードを叩く音だけが、生徒会室に響く。

 

 

 



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比企谷八幡は戦場に臨む

1、

 

 陽乃が待ち合わせ場所に指定したのは駅前だった。

 

 それだけならば別に良いのだが、陽乃の希望はよりによって総武高校の最寄り駅だった。男女の待ち合わせ場所としては近隣では定番のスポットであるが、それだけに八幡と年の近い人間も多く出入りしていた。見たことのある顔も、何人か通ったような気がする。

 

 待った? ううん、全然! という定番のやり取りをするカップルに『くたばれリア充』と思いながら、八幡は陽乃を待っていた。

 

 12時45分。待ち合わせは13時だ。まだ時間はあるが、早めに着いたという程でもない。

 

 陽乃ならば遅刻するということもないだろう。リア充の中で待つというのも気分の滅入る話であるが、待つことそのものは嫌いではなかった。噴水のふちに腰掛け、鞄から文庫本を取り出す。栞を外し紙面に目を落としたところで、八幡の上に影が差した。開いたばかりの文庫本を閉じると、頭上から聞きなれた含み笑いが漏れる。

 

「待ったよね?」

「少し。まぁ、誤差の範囲ですよ」

 

 鞄に文庫本を仕舞い、立ち上がる。私服姿の陽乃は、何が楽しいのかにこにこと微笑んでいる。多くの人間に、その笑顔は魅力的に映るのだろう。道を行く男は皆、陽乃に見とれていたが、八幡はその笑顔に良くないものを感じ取っていた。陽乃が笑っている時は、ロクなことにならないことを経験として知っているからである。

 

「じゃあ、行こうか」

「そう言えば聞いてませんでしたね。どこに行くんです?」

「こういう時は男の子がリードするものだよ」

「この世で最も信じられないものは自分なもので……」

 

 遊びなれて交友関係も広い陽乃と自分では、どちらがプランを立てた方が上手く行くか、考えるまでもない――という建前で、八幡は切り返す。陽乃が言っているのはそういうことではないとは解っている。その方が上手く行かない。それを解った上で尚、陽乃は比企谷八幡のプランを見たいと言っているのだ。

 

 ズレた答えを受けた陽乃は、苦笑とも何ともつかない笑みを浮かべた。機嫌を損ねたという風ではない。陽乃は無駄を愛せるような人間ではなかった。自分に合うか合わないか解らない計画を他人に立てさせ、それに最後まで付き合うなど陽乃のすることではない。最初から最後まで自分で行動し、他人を巻き込むのが雪ノ下陽乃のあるべき姿である。

 

「それなら服でも見に行く?」

「服を買う用事なんてあったんですね」

 

 私服姿は何度も見たことがあるが、一度として同じ服を着ているところを見たことがない。それだけ衣装を持っているということである。一般家庭に生まれた八幡には解らない環境であるが、雪ノ下家は県下でも有数の金持ちだ。その長女で後継者と目されている陽乃ならば、クローゼットを埋め尽くすほどの服を持っていても、不思議ではない。

 

 そこから更に服を買う必要があるのか。八幡の言葉には若干の嫌味が込められていたが、それを敏感に感じ取った陽乃は八幡の肩に軽く手を置いた。

 

 抵抗する間もあればこそ。

 

 八幡の身体に激痛が走る。声も挙げられないような痛みとはこのことだった。傍目には並んで立っているようにしか見えないだろうが、さりげなく身体に添えられているもう片方の陽乃の手によって、八幡の右腕は完全に極められていた。

 

 笑顔ではあるが、目は笑っていなかった。この痛みは調子に乗りすぎだという、女王様からの警告である。かくかくと壊れた人形のように頷くと、陽乃はさっと八幡から離れた。

 

「女の子は買うものがなくても、お店にいけるの。ウィンドウショッピングって言葉を、八幡は知ってるかな?」

「……一応、知ってはいます」

 

 腕を摩りながら、応える。

 

 単に、自分一人でやる機会がなかっただけだ。用事がないのに外に出ることはあっても、そういうリア充臭いことはしたことがない。空気の読めない店員に押し切られ、無駄な散財でもしようものなら、高校生の懐に大ダメージだ。

 

「陽乃に付き合うのは吝かではありませんよ」

「八幡がそう言ってくれて良かった。雪ノ下陽乃の名にかけて、見た目くらいはかっこよくしてあげるからね」

「――俺が着るんですか?」

「付き合うのは吝かじゃないんでしょ?」

 

 揚げ足を取られた八幡は、押し黙った。正直なところを言えば行きたくなどなかったが、この状況で断ることは八幡の死を意味した。

 

 無言で肯定の態度を取る八幡に、陽乃は満足そうに頷く。ただ頷くだけの仕草が、異様に様になっていた。

 

 陽乃が手を取ってくる。まるで恋人の仕草だ。

 

 それでも八幡はどきどきなどしなかった。美人の女性と手を繋いでいる。それを事実として受け止めているだけだ。どきどきしていないから、充実はしていない。リア充ではない。増長もしない。

 

 比企谷八幡は、いつも通りだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2、

 

「こうなりたいって希望はある?」

「平穏無事に生きて、死んでいきたいです」

「OK。じゃあ、ちょっと冒険してみようか?」

 

 陽乃に連れてこられたのはリア充御用達と看板に書いてありそうな店だった。一山いくらの服は一着もない。八幡一人ならばまず入らない高級店である。男性服の専門店。陽乃本人のためではなく、八幡を弄り倒すための選択であることは明白だった。

 

 服を選びにかかった陽乃の後姿を、何となく眺める。誰もが振り返らずにはいられない、リア充の代表のような少女。後姿でも美人と思わせることのできる女は、そういないだろう。陽乃の他には、静くらいしか知らない。色々と残念な美人である静と違って、陽乃は外面は完璧な美少女だ。八幡自身陽乃と年が近いせいもあるのだろうが、どちらのグレードが高いかと言われれば、陽乃だろう。

 

 その外面的な完璧に難点を挙げるとすれば、その内面が見通せないほどに黒いこと。それから常人では手に負えないほど非常に面倒くさい性格をしていることである。見る人間によっては最高の美点に思えるらしいそれが、しかし、八幡がいまだに陽乃の隣にいられる理由の一つだった。

 

 おそらく、陽乃のことは一生かかっても理解できない。

 

 だからこそ八幡は安心できた。陽乃相手に地雷を踏み抜くことはあっても、調子に乗って自爆することはありえない。信用できないからこそ、安心できるのが雪ノ下陽乃である。

 

「ただいま~」

「おかえりなさい」

 

 陽乃の差し出してきて服を持って試着室に入る。思えば、試着室に入るのも久しぶりだった。

 

 他人に服を選んでもらうのは初めてではないが、今までは母親か良くて妹の小町だった。本当に他人に選んでもらうのは、これが初めてのことである。それが陽乃というのは、男子として非常に幸運なことなのだろう。

 

 深く、深く溜息を吐く。

 

 どうせならもっと他の幸運が良かったと、心中で文句を言いながら真新しい服に袖を通していく。

 

 着替え終わった八幡は、仏頂面のまま試着室のカーテンを開けた。店員と談笑していた陽乃が八幡の方を向き、ふむ、と小さく頷く。その間に八幡は陽乃の隣にいた店員の顔を見た。営業スマイルは見事なまでに崩れていなかったが、その顔にははっきりと微妙と書かれていた。少なくとも高得点を得られるようなものではないらしい。別に期待などしていなかったが、事実を突きつけられると気分も滅入る。だからこういうのは嫌なんだ、と憮然とした気持ちで陽乃の言葉を待つ。

 

 陽乃は八幡の上から下までをたっぷり時間をかけて眺めると、にっこりと笑って言った。

 

「うん、凄い微妙」

「とりあえず褒める気遣いをしないところに、逆に感謝したいくらいです」

「私のそんな嘘なんて、八幡ならすぐに見抜いちゃうでしょ?」

 

 見抜かれない嘘ならついて良いという物言いで、近づいてきた陽乃は指を一本立ててくるくると回した。その場で回れ、という女王様の指示に、八幡は大人しくくるり、と一回転する。

 

「やっぱり微妙だね。おかしいな、結構自信あったのに」

「陽乃にだって間違えることはあるでしょう。いつでも完全完璧という訳にはいかないもんです」

「あ、その言い方は何だかムカつく。でも、八幡だってシンデレラになる資質は十分あると思うけど?」

「あれ、原作は相当アレな終わり方になるらしいですね」

 

 話を逸らしながらも、共通点はあるように思う。自分の関係ないところで引き上げられ、衆目を集めるところはそっくりだ。逆に言えばそれ以外には、共通点は何もない。陽乃は魔法使いでも王子様でもないし、ガラスの靴など用意してくれないだろう。最終的にハッピーエンドになるかは、比企谷八幡についてはまだ微妙なところであるが――

 

「ま、シンデレラもマイフェアレディも今は良いや。その服はそのまま着て帰って良いよ。私が買ってあげる」

「待ってください。そこまでしてもらう義理はありません」

「私が雪ノ下陽乃で、八幡が比企谷八幡だからって理由じゃ足りない?」

「足りません」

 

 一瞬、それ以上の理由はないと納得しかけてしまったが、陽乃の言葉には全く筋が通っていなかった。無言で『施しは受けない』という態度を貫くと、陽乃が先に両手を挙げた。陽乃が折れたのである。珍しいことに八幡が目を丸くしていると、陽乃は店員に問うた。

 

「あれ、全部でいくら?」

「占めて四万八千円になります」

「千円の48回払いでどう?」

「加えてボーナスが入ったら、その分前倒しで支払いをするってことにしておいてください。陽乃が卒業するまでには、綺麗な身になっておきたいです」

「了解。それじゃあ、行こうか」

 

「でも、八幡にプレゼントしたかったって気持ちは本当だよ?」

「知ってます。だから受け取らないとは言いませんでした」

 

 大きな、しかも継続的な出費になってしまったが、陽乃の『好意』を無下にするのも嫌だった。それに、自信があったと自分で言うだけあって、コーディネイトは悪くない。陽乃のセンスを感じさせつつも、比企谷八幡の趣味から外れていない。その調和を成すのも流石だが、趣味を把握していたという事実に脱帽である。八幡としては密かにそれが一番嬉しかったのだが、それは顔には出さないでおいた。

 

 とにもかくにも、金を払う価値はあるのである。

 

「陽乃は買わないんですか?」

「このお店は男の子向けだから、私が買うなら別のお店かな。今日は別に見るつもりはなかったんだけど、八幡が選んでくれるなら行っても良いよ?」

「謹んで遠慮させていただきます」

 

 自分の服を選ぶこともできないのに、他人の、ましてや陽乃の服を選べるはずもない。

 

 言葉を喰い気味に断ったにも関わらず、陽乃は嬉しそうに笑っていた。機嫌良さそうに、また八幡の手を取ってくる。楽しくて仕方がないという陽乃に、八幡は黙ってついていった。

 

 デートはまだ始まったばかりである。

 

 

 

 

 




えらく時間がかかってしまいました申し訳ありません。
紆余曲折を経ましたが、とりあえずこんな形に落ち着きました。

いちゃらぶ一色の一回目を書き直し、やたら淡白な二回目を書き直し、その中間くらいに落ち着いたのが決定稿のこれになります。
正直はるのんよりもヒッキーの方がクレイジーさがましてきてるような感じがする上、複数話に跨いだおかしな構成となってしまいましたが、お楽しみいただけましたら幸いです。



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雪ノ下陽乃は告白する

デートって何でしょう……
しかもニ分割となりました。
デート編は次で完結です。ごめんなさい。


 

1、

 

 八幡にとって外での食事とは『安くて普通』か『高くてそこそこ』の二種類しかない。前者が一人でも行けるところ。後者が何かあった時に皆で行く場所――早い話が、八幡にはほとんど縁のない場所だった。

 

 だが、陽乃に連れて行かれた場所は、その二つのどちらとも違う場所だった。そこそこ高くオシャレで、見渡す限りリア充しかいない。一人では絶対入らないどころか、候補に上りすらしないだろう。

 

 メニューも確かに日本語で書いてあるはずなのだが、横に写真までついているのに、内容が頭にまるで入ってこない。

 

 渋面を作っている八幡を見て、陽乃は笑みを浮かべている。戸惑い、困っている八幡を見て楽しんでいるのだ。

 

「八幡、何にする?」

「陽乃のオススメで」

「お財布は大丈夫かな?」

「ローンまで組んだらもう、俺に怖いものはありませんよ」

 

 男女二人で出かけて女性に財布を開かせている時点で、男の面子などとっくにつぶれている。今更多少豪気に金を使ったところで、挽回は不可能だ。これ以上下降しないのであれば、好きなように振舞うに限る。

 

 陽乃は慣れた様子で店員を呼び、メニューを指しながら注文をする。軽食はなく、飲み物だけのようだ。メニュー名を音で聞いても、八幡に解ったのはそれくらいだった。

 

「良く来るんですか? こういうところ」

「一人でゆっくりしたい時に使うかな。普通のお店だと、声をかけられて鬱陶しいの」

「陽乃に声をかけるとは、随分なチャレンジャーもいたものですね」

 

 総武高校ならば考えられないことである。そも、陽乃が一人でいることが高校内ではめったにない。陽乃とつるむことができる人間の中でさえ、陽乃のプライベートについて知っている人間はほとんどいない。自分がその一人であることに、八幡は少なからず自尊心を刺激されていたが、それでもなお陽乃が全く見通せないことに、落胆すると共に、安堵する。

 

「知らなかった? 私、結構モテるんだから」

「相手の男が袖にされる瞬間が目に浮かぶようです」

「八幡に予想されるほどワンパターンじゃないつもりだけど?」

「すぐに殺すか、後で殺すかの違いくらいでしょう?」

「残念、不正解! すぐに殺すか、ちょっとだけ待ってそれから殺すか、だよ。後で何て時間の無駄だもの」

 

 からからと、愉快そうに陽乃は笑う。物騒この上ないことであるが、陽乃はやると言えばやる。その結果、相手の男がどういう行動に出るかまで加味してそういう対応なのだ。男に相対した女性の気持ちなど、男である八幡には解るはずもないが……陽乃が女性として類稀な精神力を持っていることは解った。

 

「試しに付き合ってみようとか、思ったりしなかったんですか?」

「八幡は良く知らない人に、自分の時間をつぎ込んでみたいと思う?」

「欠片も思いませんね」

「でしょ?」

 

 陽乃に付き合っていてほしいと思っている訳ではない。心情はむしろ逆である。口にしてから随分と適当な質問をしたものだと思ったが、陽乃から返ってきた答えは意外にも的を得ていた。自分には絶対にないことだろうが、見ず知らずの女性が告白してきたとしても、それを受け入れることはないだろう。ならば良く知っている女性からならOKを出すかと言えば、それも想像することができない。やはり何かしら理由をつけて、断るような気もする。

 

 例え相手が自分を気に入ったとしても、こちらが相手を気に入るとは限らない。選べる立場か、と人は言うのだろうが、一度しかない人生の時間を賭ける相手なのだ。少しくらい選り好みをする権利は、誰にだってあるだろう。

 

 そう考えると、恋人がいる人間というのは、また、夫や妻がいる人間というのは、どういう過程を経て『この人間ならば』と思うに至ったのか気になってくる。一番最初に思いついたのは自分の両親だ。実の息子に美人局に騙されるなと真顔で教え込むような父親である。どんな人生を送ってきたのか、その事実だけでも想像に難くないが、そんな父親にも一人女性を見つけて『この人だ』と思うことがあったのだ。その上子供を二人作って、家族全員を養ってもいる。

 

 自分がそうしている光景を、想像することができない。将来の夢は専業主夫と公言している八幡であるが、具体的にそうしている自分というのを想像したことは意外なほどに少なかった。

 

「……難しい顔してる。柄にもないこと考えてるんじゃない?」

「そんなことありませんよ。ここの支払いがいくらになるのか、暗算してただけです」

「てっきり『男女の関係とは』みたいなこと考えてるのかと思った」

 

 核心を突いた陽乃の問いに、八幡はポーカーフェイスを貫いた。表情には出ていないはずであるが、陽乃相手にごまかしきれたか自信がない。人対人の対決では、類を見ない強さを誇る怪物だ。陽乃の前で隠し事を隠し事のまま通すことができたら、それだけでも腹芸をする人間としてはかなりの腕であると言えるだろう。生徒会に組み込まれて約半年。大分経験は積んだと思うが、いまだに陽乃の影は見えてこない。

 

「ま、それは良いや」

 

 確信がなかったのか、それともただカマをかけただけだったのか。陽乃はさっさと諦めて話題を切り替えた。陽乃に気付かれないよう、ゆっくり小さく溜息を吐きながら、八幡は水を飲む。

 

「今日はこれから映画にでも行こうと思うんだけど、八幡は何かみたいものある?」

「特にこれと言っては……でも、最近見に行ってないんで、行けば何か見たくなると思います」

「それは良かった。服を見てカフェに寄って映画見て、ってかなり定番というか平凡なコースだけど、退屈とかしてない?」

「陽乃と一緒にいて退屈することはありませんよ」

 

 正直既に疲れてはいたが、それは言わないで置いた。そんなことは陽乃も十分に理解しているだろう。何しろ使っている本人なのだから。八幡の模範的な解答には、言外の意味も十分に込められていたが、陽乃はそれに気付かないふりをした。自分に都合の悪いことは取り合わないのが、いつもの雪ノ下陽乃である。

 

「なら良かった。それじゃあここでは、取りとめのない話でもしようか。最近小町ちゃんはどう?」

「相変わらず世界一かわいいですよ」

「世界一可愛いのはうちの雪乃ちゃんだけど?」

「……」

「……」

 

 人でも殺しそうな顔、というのはこういうのを言うのだろう。陽乃の顔からは、一切の笑みが消えていた。自分の顔を見ることなどできないが、この時は八幡も似たような顔をしていた。

 

 数秒も相手を見詰め合っていただろうか。先に息を吐いたのは八幡だった。

 

「やめましょうか。この問題を追及していくと、お互いに血を見ることになりそうな上に、決着もつかない」

「そうだね。雪乃ちゃんはかわいいけど、小町ちゃんもかわいいしね」

「妹さんだってかわいいですよ」

「ありがとう。でもあげないよ?」

 

 くすくすと陽乃が笑う。数秒前まで人でも殺しそうな顔をしていたとは思えない。妹のことになると、陽乃は少し人格が変わる。それだけ雪乃のことが好きなのだろう。

 

 陽乃に愛想笑いを返しながら、八幡は軽井沢で少しだけ顔を合わせた年下の少女のことを思い出す。姉妹だけあって陽乃と良く似た顔立ちをしていたが、方向性が大分違う。それどころか八幡は、雪乃に自分に近しいものを感じていた。

 

 基本、学校で顔を合わせるだけの自分ですら、ここまで気苦労があるのである。血が繋がっていて、家で毎日顔を合わせる同性の妹の立場は、想像に余りあった。

 

「意外と難しいんですね、とりとめのない話題って」

「会話しなれてない証拠だね? ならトレーニングでもしましょうか。八幡から振ってみて? 私はそれに答えてあげる」

「いきなりハードルが上がりましたね……」

 

 頭を捻る八幡を見て、陽乃は笑う。こうなれば陽乃は、自分から話題を振ってはこないだろう。こちらがまごついていると、彼女はいつまでもそれを眺めていそうな気がする。陽乃はデキる人間であるが、悪趣味だ。他人が困っているところを見るのは、陽乃の楽しみの一つである。

 

 後の弱みを提供するのも癪だ。

 

 何を喋るか。頭を捻った結果、八幡は自分のことを話すことにした。断じて人に誇れるようなものではないが、自分にあって陽乃にない物と確実に言えるものである。笑いが取れる自信はないが、退屈する可能性は低い、ような気がする。

 

 何も話さなければそれはそれで針の筵だ。同じ筵ならば座る場所は自分で選ぶ。半ばやけになった八幡は、本当に、中学時代のことを話し始めた。

 

 

 

 

 

 

「………何か、ごめんね?」

「いや、謝られても困るのですが」

 

 受けるとは思っていなかった話題は、やはり受けなかった。それどころか陽乃は世にも珍しい気の毒そうな表情を浮かべている。普段見れない陽乃の顔が見れた、というところではプラスだが、八幡の心も大きなダメージを受けている。トータルすれば、明らかにマイナスだった。

 

「解ってたつもりだけど、全然だったね。八幡のこと、私大分誤解してた。これからはほんの少しだけ八幡に優しくしてあげるよ。だから気をしっかり持ってね?」

「陽乃、楽しんでるでしょう」

「良く解ったね。いやー、私の期待を裏切らないね、八幡は」

「お楽しみいただけたのなら、何よりです。それじゃあ、行きましょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2、

 

「さて、映画館についた訳だけど、人が死ぬ映画と、人が凄く死ぬ映画と、人がすっごく死ぬ映画のどれが良い?」

「人が死ぬ映画しかやってないんですか?」

 

 額を押さえながら予定表を見る。陽乃が言っていたのはそれぞれ、悲恋物っぽい恋愛映画(邦画)と、ハリウッドスターを前面に押し出したアクション映画と、社会派の戦争映画の3つである。それ以外は丁度良い時間がない。その3つの中でというのなら、八幡が選ぶものは決まっていた。

 

「俺ならアクション映画ですかね」

「女の子と一緒なのに? その心は?」

「まず戦争映画は論外です。作品のデキはともかくとして、無駄に気分を重くする必要もないでしょうし、俺ら二人で社会派もありません。残る二つは単純に、その手の恋愛映画が俺の趣味ではないということなんですが……見たいですか? こういう恋愛映画」

「私も趣味ではないかな」

「となると、この三つだと消去法でアクションになりますね。雰囲気も変に暗くならずに良いんじゃないかと」

「うん。私もこの三つなら、これって判断したかな。ところで、さっきからちらちらとあっちに視線を向けてることに、私は気付いている訳だけど?」

 

 にやにやと笑う陽乃に、八幡は視線を逸らした。疚しいことがあった訳ではない。単に今月から公開されたプリキュアの映画が気になったから見ていただけだ。候補に上った三つではなく、あれが見たいなどと大それたことを思ってはいない。プリキュアが名作だ、というのは八幡の中で揺ぎない真実であるが、こういう時見るのに適さない内容だということは、よく理解している。『あれは名作だ』と思うのは自由であるが、それを口にする時は、状況を良く考えなければならないだろう。陽乃相手にプリキュアは、どう考えてもNGだ。

 

「八幡が見たいなら、一緒に見てあげても良いよ?」

「勘弁してください。そんな羞恥プレイの趣味は、俺にはありません」

「面白そうだったんだけどなぁ……八幡が恥ずかしさに耐えるの」

 

 そりゃあ面白いだろう、と心中で一人ごちる。八幡も、逆の立場ならば見たいと思ったに違いない。

 

「ポップコーンとか食べる?」

「飲み物だけにしておきます。俺が買ってきますよ。何が良いですか?」

「アイスティーでよろしく。Mサイズね」

「了解です」

 

 映画館でポップコーンというのも定番であるが、人が集まる環境で音を立てるというのも抵抗がある。ぼっちは普通に行動する分には目立つことが嫌いなのだ。レジカウンターから見る美味しそうなプレッツェルに心引かれながらも、飲み物を買って陽乃の所に戻り、シアター内部へ。

 

 休日昼間、大衆向けのアクション映画であるが、初公開から二週目ということもあって、人の入りはまばらだった。カップルよりも友達といった雰囲気の人間が多いのは、普通のカップルならば恋愛物の邦画の方に行くからだろう。自分達が普通でないと言われているようで聊か気分が滅入るが、隣に座ってストローを咥えている陽乃を見れば、彼女が普通でないのは良く解る。普通でないのなら、普通でない行動をするものだろう。何より、人が少ないというのは僥倖だった。

 

「寝たくなったら肩貸してあげるからねー」

「起きてますから大丈夫ですよ」

「……」

「……」

「…………肩を貸してあげる、とは言わないの?」

「態々自分から言うことではないかなと。使いたかったら使っても構いませんよ。俺の肩でも良ければ」

「取って付けたみたいでつまらなーい」

 

 ぶーぶーと抗議を漏らす陽乃を軽くいなしていると、映画が始まる。

 

 特に目新しい設定はなかったが、アクション映画だけあって適度に楽しむことができた。横目で見た限り、陽乃も時折口を開いて『おー』と声を漏らしていた。趣味に合わないつまらないということはなさそうで、胸を撫で下ろす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 映画館を出ると、夕暮れ時になっていた。

 

 これからの行動を決める必要がある。この休日、いつまで一緒にいると決めていた訳ではない。そろそろいい時間であるからここで分かれないのであれば、夕食の場所を決めておく必要があるだろう。出費が重なっているが、ローンまで組んだ八幡にもう怖いものはない。

 

「夕食はどうしますか?」

「時間は大丈夫?」

「泊まりとか言われると困りますが、終電までに家に帰れれば大丈夫ですよ。小町がこうなら両親も文句の一つも言うでしょうが、俺なら特に文句は言われません」

「信用されてるんだね、親御さんから」

「こういうのは放任主義って言うんですよ」

 

 突き放したような物言いであるが、両親との距離感は嫌いではなかった。小町ほど手をかけられていないというだけで、面倒は見てくれる。必要以上に干渉されないというのは、八幡の性格からすれば願ったり叶ったりの環境である。不満があるとすれば、そういう境遇にいる八幡のことを、小町が心配しているということであるが……家族に関する八幡の希望は、小町が健やかに育つということだけである。心配させているのは申し訳なく思うが、それを除けば最高の環境だった。

 

「私に任せるってことでOK?」

「どこか決めている場所があるんですか?」

「レストランとかじゃないけどね……時間がOKなら、良いかな別に」

「どこに行くつもりなんです?」

「ムードのあるところ。男の子と女の子が一緒にいるんだから、最後くらいはそういう場所に行かないとね?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3、

 

 目的を告げられず、陽乃に連れてこられたのは公園だった。団地の中にあるような小さな公園ではなく、遊歩道などもある広めの公園である。夜の帳も降り始めた公園は人の気配はなかったが、しっかりと電灯が設置されているため、薄暗くはなかった。

 

 陽乃の後ろに立って歩きながら、八幡は逸る気持ちを抑えるのに必死だった。リア充と言っても良家の生まれである陽乃は、素行不良ではない。遊んではいるが夜間に外出して警察に補導されるようなことは皆無の学生生活を送っているはずである。

 

 だから夜間、柄の悪い連中がどういう行動をするのか、あまり頓着していないのだろう。人気のない場所というのはカップルが立ち寄る定番でもあるが、同時にそういう連中にも、都合が良い場所だった。カップルなど、柄の悪い連中の格好の餌食である。そういう連中の気配はないか、歩きながら周囲の気配を探る。バイクの音はせず、話し声も聞こえない。ああいう連中は基本大声で話すから、ある程度離れていても聞き取ることができる。この段階で何も聞こえていないということは、近くにはいないということだ。

 

 地面のチェックも忘れない。ゴミが落ちていたらその内容まで検分する。煙草の吸殻などが落ちていたら一発でアウトだが、吸殻どころかゴミの一つも落ちていなかった。珍しく利用している人間のモラルが高いのか、清掃業者の人が優秀なのか。いずれにしても、柄の悪い連中が残していく定番の、コンビニ袋なども全く見られることができなかった。

 

 公園の中には、耳に痛い程の静寂が満ちていた。本当に、自分と陽乃の二人だけなのだろう。薄暗い人気のない公園に美少女と二人きりとなると、流石に比企谷八幡と言えども緊張する。陽乃はどうだろうか。周囲のチェックをやめて陽乃に視線を向けると、ちょうど彼女が振り向いた。

 

「座ろうか」

 

 陽乃が示したのはベンチである。二人掛けの、あまり大きくないベンチの端に腰を下ろすと、陽乃もその隣に腰を下ろした。

 

 隣に座るのは珍しいことではない。他人との心の距離については鉄壁な上、認識阻害の魔法までかけている陽乃だが、物理的な距離はほどほどに近い。相手を勘違いさせることを目的としているのだろう。特に男子に対しての距離の取り方は絶妙だった。エロイベントは絶対に起こさずに、相手の意識だけを満足させる。天然でも考え物だが、意図的にそれをやれるとしたら、八幡から見るともう化け物だ。

 

 その行動は生徒会のメンバーに対しても適用される。一番距離が近いのは同姓で仲の良い静で、その次が同姓で後輩のめぐりである。めぐりよりも付き合いは長いが、男性である八幡は、生徒会内ではビリだった。

 

 その辺を歩いている男子よりは若干マシ、というレベルであるが、普通と違うことがどれだけ重要なのか、陽乃を見ていると良く解る。

 

 だから近くに陽乃が座るのは、八幡にとっていつものことだった。どきどきするなど、今更なことである。落ち着け、落ち着け、と一度念じると動悸はすぐに収まった。雪ノ下陽乃は美少女であるという事実だけを、ただ受け入れるのみである。

 

「今日は楽しかった?」

「一人で過ごすよりも、有意義な時間を過ごすことができました。楽しかったですよ、服も買えましたしね」

「いざとなったら返済はまってあげても良いよ?」 

「月々の返済はきっちりと。金の切れ目が縁の切れ目と言いますからね。返済が遅れたくらいでガタガタ言う人ではないと信じてますが、やるべきことをやらないで評価を落とされるのもバカらしいですし」

「プレゼントしても良かったんだけどねぇ……」

「それは悪いですよ。俺は陽乃に、そこまでしてもらう理由がありません」

「人に何かをするのに理由はいらないと思うんだけどねぇ」

「そういうのは大事な人に言うものですよ。俺じゃなく、妹さんとか」

「雪乃ちゃんは大事だけどね。世界で一番大事。可愛すぎて、意地悪しちゃうくらいに」

「意地悪しすぎると、嫌われますよ?」

「別に良いよ。私が雪乃ちゃんが好きなのは、変わらないから」

「自分が良ければそれで良いんですね」

「まず、自分が納得できないとね。したいことはする、したくないことはしない。できる限り妥協したくないもの」

「陽乃でも妥協することがあるんですか?」

「しょっちゅうね。私だって苦労してるんだよ?」

 

 知りませんでした、とは言えなかった。本人が何でもないことだと振舞っているだけで、陽乃が陽乃なりに苦労しているのは近くで見ているから解る。雪ノ下陽乃だから、という理由だけで神聖視する人間が、総武高校には多すぎた。完璧であるが故に、誰にも気付かれない。気にかける人間が誰もいないと、本当に誰も知らないところでパンクしかねない危うさが、陽乃にはあった。

 

 陽乃に必要なのは、それをフォローする人間だ。自分の役割というものが、八幡にも漸く理解できてきた。雪ノ下陽乃がより長期的に、効率的に動けるようにすることが、学校での比企谷八幡の使命である。意識できるようになると、仕事は上手く回るようになった。めぐりという新しいメンバーも増え、雪ノ下政権はより効率よく回るように進化している。

 

「珍しく弱音吐いちゃったね。何だろう、今日は機嫌が良いのかな私」

「悪くはなさそうですね。悪い時はもう、もの凄く攻撃的になりますから」

「八幡が言うなら、そうだろうね。じゃあ、告白ついでに言っちゃおうかな」

 

 そうして陽乃は微笑むと、何でもないことのように言った。

 

 

 

 

 

「私ね、多分八幡のことが好きだと思う」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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そして二人の関係は決着をみた

 

 

 

 

 

 

 

 

「でもね、私は自分のことを良く知ってる。人間としてどこか壊れてる私は、多分一生かかっても八幡のことを愛せないと思う」

「あ、でも好きなのは本当だよ? 雪乃ちゃんの次くらいで、男の子の中ではぶっちぎりにトップかな」

「――それで、陽乃は俺にどうしてほしいんですか?」

 

 良くも悪くも、雪ノ下陽乃という人間は一人で完結している。恋人という存在が必要とは、八幡の目を以てしても思うことはできなかった。まして、自分がそういう関係になるなどと考えたことも……あるにはあるが、それは妄想の類だと自覚していた。

 

 八幡の問いを受けて、陽乃は笑う。いつもどおり、その心の内は見通すことはできない。

 

「これを言いたかっただけだよ。いつか飽きると思うけど、今八幡のことが凄く好きなのは本当だから」

 

 世間で言う愛の告白とは似ても似つかない。普通の感性を持った男ならば怒るのだろうか。いつか飽きると正直に言われて、良い気持ちのする男はいない。

 

 陽乃の信者であれば、喜んで受け入れるのだろう。近くにいることを許された。その事実だけを見て感動し、しかしそうであるが故に、手酷く、後に関係を切られるのだろう。

 

 では比企谷八幡はどうしたら良いのだろうか。普通とは言えず、妄信もせず、ただ陽乃の近くにいた比企谷八幡は、果たしてこの『告白』を受け入れるべきなのだろうか。

 

「私の彼氏になってみる?」

「――愛せないんでしょう?」

 

 ヤバいものに乗りに乗っていた中学生の自分が見たら、俺スゲー! と感動するような言い回しは、自然に八幡の口を突いて出ていた。後で正気に戻ったら悶死すること請け合いであるが、この時の八幡は自分の言葉を疑問に思うこともなかった。

 

 人生に一度は主役になれる時が人間にはあると言うが、こと恋愛関係において、八幡のそれは今この時だった。

 

「私以下の好意しか持ってないカップルはいくらでもいると思うよ。何か色々と妥協しちゃった夫婦もね。そういう人たちに比べたら、私達は上手くやっていけると思うんだ。もちろん、八幡は私に合わせてくれるのが前提だけど」

「貴女はどこまでも雪ノ下陽乃ですね……」

「八幡は比企谷八幡でいてくれると嬉しいな」

 

 にこにこと陽乃が笑っている。自分勝手な物言いに、しかし八幡は自分に近しいものを感じていた。

 

 自分はこうだから、と最初に宣言をするのは予防線である。相手に勝手に失望されるくらいなら、最初に全部言っておくのだ。最低のスタートからならば、これ以上下がることはない。だから自分が傷つくこともない。

 

 自分の意思を主張しつつも、最終的な決定は相手の判断に委ねるというのは『自分はがっついていませんよ』というアピールだ。リア充どもは自分の手の届く範囲で、自分の理解や力の及ばない頑張りをしている人間を、排除することが多い。

 

 八幡は排除された側で、陽乃は排除してきた側である。過去の経験で、共通するものの方が少ないはずの陽乃に、八幡は自分に近いものを見た。

 

 自分の感性がおかしいのと同様に、陽乃の感性もまた普通ではない。満たされた人生を送ってきてた陽乃のような才媛でも歪んでしまうのだ。そう思うと、陽乃のことが何だか愛しく思えてきた。

 

 返事は考えなかった。答えは、もう決まっている。

 

「俺に断る必要はありませんよ。陽乃は陽乃のしたいようにしてください。彼氏彼女が良いなら、それで良いじゃありませんか?」

「嫌じゃないの?」

「大変ではあるでしょうね。何しろ俺のキャラからは大分離れてますし。でも退屈はしないと、前向きに考えることにします」

 

 それが陽乃と付き合っていく『コツ』だ。

 

 少し前、陽乃と知り合う前の比企谷八幡だったら、深く考えもせずにどうやったらこの状況から逃げることができるかだけを考えていただろうが、半年近く陽乃と一緒にいて、八幡にも心境の変化があった。

 

 諸々の厄介ごとはさておき、事実だけを考える。

 

 比企谷八幡は雪ノ下陽乃に好意を持っていて、陽乃は男ならば振り向かずにはいられないような美少女である。その美少女が彼氏になってくれと言ってきた。含むところは色々あるだろう。特に破局を前提とした物言いなど男として気分が滅入るにも程があるが、そういうところも含めて『付き合っても良い』と上から目線で考えているのもまた、事実だった。

 

「じゃあ、今から彼氏彼女?」

「そうですね。今後ともよろしくお願いします」

「そっか。八幡が彼氏か……」

 

 八幡の答えを受けて、陽乃は深く、深く息を吐いた。それが安堵の溜息に見えたのは、目の錯覚だろう。

 

「彼氏ができるのは生まれて初めてだけど、そんなに悪いものでもないね?」

「同じく。彼女ができるのは生まれて初めてですが、『こういう』彼女ができるとは夢にも思っていませんでした」

「私じゃ不満?」

「とんでもない。雪ノ下陽乃は、最高で最強の彼女ですよ」

「――うん。今の言葉は、普通に嬉しい」

 

 えへー、と陽乃が年相応の顔で笑う。いつも得体の知れない雰囲気である陽乃が、こういう顔をするのは非常に稀だ。思わず見とれていると、今度はいつも通りの笑みを浮かべる。

 

「惚れ直した?」

 

 からかわれたのだと悟った八幡は、憮然とした顔をした。陽乃はクスクス笑いながら、距離をつめてくる。

 

「一応、断っておきますが、何であんな奴と? とか言われることは覚悟しておいてくださいね。政権の支持率が下がることも」

「私が決めたんだから、これで良いの。今すぐ結婚しようって言うんじゃないから、父も母も文句は言わないと思う。高校生の娘の『ボーイフレンド』も認めないような狭量な人間と思われたくはないでしょうしね。それと八幡、支持率のことなんて考えてくれてたの?」

「これでも一応、政権のメンバーですからね。城廻を誘ったばっかりでもありますし、ここで政権が転覆でもしたら、あいつに申し訳ないというか……」

「実害が出ない限り、内心でどう思ってようが意味はないの。私相手に何か起こそうなんて考える気合の入った生徒が総武高校にいるなら、私の高校生活はもっと面白いことになってたと思うな」

 

 自信に満ちた物言いには、陽乃自身の才覚もあることながら、数字の上での確信があった。

 

 校内で一番数が多い雪ノ下グループが支持母体である陽乃を蹴落とすということは、リア充ばかりで構成された彼らと事を構えるということである。長いものには巻かれるのがリア充の鉄則だ。陽乃は敵も多いが、その敵でさえも、グループ全員の数の力を相手にすることは難しい。

 

 また、正当な選挙を経て生徒会長になった陽乃を蹴落とすには、校則に則り全生徒の三分の二の署名を集める必要がある。そこまで行動力がある人間は稀だろうし、陽乃グループと陽乃に靡くだろう浮動票を合計すれば、三分の一は確実に超える見通しである。

 

 致命的なスキャンダル――例えばできた男がリア充でないなどだ――があれば、その数字にも影響が出ようが、そこで発揮されるのが陽乃本人の手腕である。男性票はいくらか減るだろうが、陽乃のカリスマ性にかかればそれも誤差のようなものだ。

 

 集団心理を見抜いてそれを操作することについて、陽乃の右に出るものはいない。総武高校の生徒の思惑は既に、陽乃の掌の上にある。生徒会長の座になど陽乃は固執していないだろうが、自分が望んでついた地位を他人に蹴落とされることは、彼女の性格上、我慢がならないことだ。流し運転ですら頂点に立つ陽乃が本気になったらどうなるのか……考えるのも恐ろしい。

 

「それじゃあ、初めてできた彼女から彼氏の八幡にお願いがありまーす」

「なんでしょう」

「……………………陽乃って呼んで?」

 

 そう言われたのは人生で二度目である。一度目は陽乃に呼び出された生徒会室。あの時の得体の知れない存在だった陽乃の認識は、今尚変わっていない。

 

 しかし、それでも、陽乃を好けるようになったのは、彼女と一緒に多くの時間を過ごしたからだろうか。全く信用できないからこそ、陽乃のことは信頼できる。多くの人間が使うのとは全く逆の意味での安息が、陽乃の隣にはあった。

 

「陽乃」

「もう一回」

「陽乃?」

「どうして疑問系? もう一回」

「陽乃」

「…………なんだかくすぐったくなってきた。もう一回」

「陽乃」

「凄く良い気分。次、最後の一回。ちゃんと好きを込めて」

「…………陽乃」

「はい! よくできました!」

 

 満面の笑みを浮かべた陽乃が、顔を寄せてくる。

 

 目の前には、目を閉じた陽乃の整った顔がある。少なくない力が篭った背中に回された腕が静かに震えているのは、見なかったことにした。

 

「私が八幡に飽きるまで、これからもよろしくね」

 

 自分が飽きられるとは微塵も思っていないその宣言は、離れることは許さないという意思表示でもあった。

 

 きらきらとした笑顔の下に、どろりとした感情が見える。その黒さに、八幡は背筋がぞくぞくするのを感じた。

 

 普通の高校生が思い描くような青春も愛も、そこから生まれるコメディのような関係も、きっとここにはないが、これを間違っているとは思わなかった。

 

 もう一度、陽乃が顔を寄せてくる。今度は八幡も、瞳を閉じた。

 

 

 

 

 




頭の中でエンディングテーマが流れたせいで危うく次話で完結してしまうところでしたがまだもうちょっとだけ続きます。


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こうして、二人は新たな関係を始める

 文化祭を翌日に控えた、最後の会合。

 

 決めるべきことは全て決め、準備も既に佳境に入っていた。委員全員が今日集まったのは、文化祭全体の最終確認をするためだ。

 

 準備が滞っている団体はなく、大きな問題も起きていない。素人の高校生が集まって、特に問題もなく物事がなされようとしている、この奇跡的な環境が今日まで続いたのは、陽乃にそれだけの手腕とカリスマがあり、参加した人間がそれに応えようとしたからだった。

 

 全ての確認を終えた学生の長が、会議室を見回す。

 

 文化祭は明日。その熱気は集まった委員の目にも満ちていた。誰も彼もがやる気に溢れている。まさに祭、まさにリア充といった光景を、八幡は聞き流すならぬ、見流していた。陽乃についてここまで来たが、彼らほど情熱的にはなれなかった。これが一人であれば、ノリが悪いと排除されるのだろうが、女王の庇護下に入ってからはそんなこともない。暑苦しい連中の中にあっても、その熱に流されない人間がいることには、それなりの価値があった。

 

 自分にしか見えないものがあり、自分にしかできないことがある。どういう気持ちを持っていようと、それはそれで自由だろう。排除されないと解ると、気持ちにも余裕は出てきた。以前ならば、これだけのリア充の中にいたら、多少の気後れはあっただろうが、今はそれもない。

 

 これも経験の成せる業と陽乃を見ると、ちょうど彼女の方も八幡を見たところだった。

 

 視線が交錯する。

 

 陽乃の目を見て、八幡は直感的に良くないものを感じ取った。こいつは今から良くないことを言う。それが理解できてしまった。

 

 制止の声を挙げようとして、押し黙る。

 

 陽乃の行動を妨げるようなことはできないし、できたとしても予感がしたというだけでは根拠に弱い。二人だけならば通じることでも、ここにはリア充共がいる。目つきの悪い暗い一年が陽乃を妨げでもしたら、それだけで角が立つ。

 

 女王の庇護下にいるというだけで、八幡自身の立場が向上した訳ではなかった。変わらず庇護下にいる限り攻撃されるようなことはなかろうが、無駄にヘイトを貯めることもない。

 

 解ることと、できることは違うのだ。

 

 今の自分にできることはないと、いつも通りの結論に達したところで、諦めて全身の力を抜く。観念した様子の八幡を見て、陽乃は満足そうに微笑んだ。

 

 

 そうして予想の通りに、爆弾を投下する。

 

 

「私は今度、こちらの比企谷八幡くんとお付き合いすることになりました。節度のあるお付き合いをするつもりですが、校内でいちゃついていても『そういうこと』なので、暖かく見守ってくれると嬉しいな、と思います」

 

 陽乃の言葉は、居並ぶ生徒たちの間に浸透するのに、時間がかかった。全員が動きを止めること、約十秒。

 

 会議室は爆発した。

 

 とにかく、混乱の極みである。誰もが驚きの声をあげ一斉に陽乃を見たが、その誰も陽乃に直接問おうとはしなかった。『思います』と控え目な表現をしているが、実質的にそれは命令である。陽乃がそう思うと言えば、それは校内では決定事項だ。聞きたいことは山ほどあるだろうが、見守ってほしいと言った矢先に首を突っ込むだけの勇気のある人間は、この場には一人もいなかった。

 

 実質的に質問を受け付けてはいないが、建前上はそうではない。誰からも質問がないことを改めて確認すると、陽乃は一礼して会議室を出て行った。それに続くのは八幡とめぐりである。

 

「ハルさん、さっきのは本当に?」

 

 会議室で誰もが聞きたかっただろう言葉を、めぐりが問う。めぐりは校内で陽乃に意見できる、数少ない人間である。最初こそ緊張もしてたが、今ではめぐりも陽乃のお気に入りで、意見の交換をすることも目立つようになった。陽乃個人の思惑は知らないが、対外的には次の生徒会長と目されている。このまま行けば、次の生徒会長はめぐりで決まりだろう。

 

「本当だよ。私が嘘をついてると思った?」

「そんなことは……でも、いつから?」

 

 めぐりの疑問には、責めるような調子はなかった。知らされるのがその他大勢と同じタイミングだからといって、めぐりは拗ねたりはしない。陽乃の近くにいることができる自分が、生徒の中では特別と認識しつつも、それで驕ったりはしない。陽乃の周囲にいる人間としては実に珍しい、自己顕示欲のとても少ない存在である。

 

 陽乃ならばそういうこともあるだろうと自然に受け入れることができる。精神的に口うるさい人間でないからこそ、陽乃もめぐりを受け入れる様になったのだ。一時期はやっていけるのかと不安に思ったものだが、このやり取りを見るに、自分よりも仲良く見えるほどである。

 

 犬の役目は終わったと、陰口を叩かれるのも解る光景だった。噂が立つ前でこれなのだから、交際発言が校内に浸透すれば、犬への陰口は余計に強まることだろう。

 

 陰湿ないじめを受けたとしても、八幡はそれを陽乃に告げ口したりなどしないが、する側がそう思うとは限らない。雪ノ下陽乃の名前は、この学校では絶対だ。比企谷八幡がどれだけ気に食わない人間だとしても、目立った行動を自発的に行わない限り、排除されることはないのである。

 

 攻撃されないと思うと気楽ではあるが、それは陽乃がこの学校にいる間だけだ。一歳の年の差はどうすることもできず、陽乃が卒業した後、八幡が卒業するまでの一年に、女王の加護はない。

 

 その時どんな攻撃をされるのか。想像するだけで気分が滅入ってくるが、卒業したところで、女王の権威が消える訳でもない。生活に支障が出ない程度には、虎の威を借りようと、既に心に決めていた。

 

「この前の日曜からだよ。八幡と一緒に出かけた時に、私の方から告白しちゃった」

 

 よほど意外だったのか、めぐりは口をあんぐりと空けて固まってしまった。陽乃から告白というイメージが全く湧かないのだろう。気持ちは痛いほどに理解できるが、それでは比企谷八幡が告白する光景ならば想像できるのかと問いたい気分だった。

 

「あまり言いふらさないようにな。もう無駄だとは思うが……」

 

 陽乃が態々あの場で宣言したのは、校内での拡散を狙ってのものだ。今更めぐり一人が口を噤んだところで焼け石に水だろうが、陽乃に一番近い位置にいる女生徒の発言は、それなりに重い。浸透は止められなくても、尾ひれがつくことくらいはブロックすることができる、『かもしれない』。

 

「大丈夫だよ。私は友達を売ったりしないから」

 

 めぐりの言葉は実に頼もしい。その人間性を信頼していない訳ではないが、友達が全くいない八幡と異なり、めぐりにはそれなりに友達がいる。女とは噂話が大好きな生き物で、めぐりは求められたらそれに応じずにはいられないだろう。事実、八幡がじっとめぐりを見つめると、彼女は気まずそうに目を逸らした。

 

 噂を拡散しない自信がないに違いない。実に頼りない反応であるが、友達がいる人間の気持ちは、はっきり言って八幡には解らない。これが普通だと言われればそうな気もする。

 

 いずれにしても、めぐり本人に積極的に拡散する気がないのなら、八幡としてはそれで良い。噂が広まるのは確定しているようなものだ。八幡にできるのは、無駄に噂が拡散しないように、努力することだけである。

 

「ハルさん、ハルさん」

「なぁに?」

「学校でいちゃいちゃするつもりなんですか?」

 

 めぐりはおっかなびっくり問う。やりたいことをやりたい様にやる陽乃が、態々断りを入れるくらいだ。発表を聞いた人間としては、当然の疑問だろう。めぐりの顔を見た陽乃は、しかし、見たことないくらいしおらしい顔をしてみせた。そこだけ見れば可憐な乙女のようであるが、それをやっているのが雪ノ下陽乃であるという事実が全てを台無しにしていた。そんなことがあるはずがないと、心の底から思う。

 

「そこは八幡がOKしてくれないと……ほら、これまでと違って恋人同士になった訳だし、私一人の都合で振り回すのもかっこ悪いじゃない?」

「全く心が篭ってるように聞こえませんよ。素直に好きにする、と言ってくれた方が、俺としては助かります」

 

 八幡がそう言うと乙女は消え、代わりにいつもの陽乃が戻ってくる。乙女を装った作り物ではなく、不敵で底の見えない笑顔である。人間、色々好みはあるのだろうが、八幡はこっちの方がらしくて好きだった。

 

「そう? でも、サプライズって大事だと思わない? マンネリは破局への第一歩って聞くし」

「だからこそ、気が休まるという考えもあります。サプライズばっかりだと気が休まらないと思いますしね。あぁ、でも今日のことを言ってるなら、良かったんじゃないかなと思えるようになってきました。先制パンチでダメージを与えておいた方が、こっちが有利になりそうな気がしないでもありません」

「そこまで考えた訳じゃないよ。ただ、八幡の驚く顔が見たかったの。驚いてくれた?」

「十分驚いてますよ。目論見は成功でしたね」

「嬉しかった?」

「まぁ、それなりには」

「ありがと。八幡がそういうなら、嬉しかったってことだね」

 

 ふふ、と嬉しそうに陽乃が微笑む。彼氏彼女になる前には、あまり見なかった顔だから、その笑顔にはまだ耐性ができていない。どういう顔をして良いのか解らず、陽乃から目を逸らすと、その先には唖然とした表情のめぐりがいた。

 

 めぐりは八幡と陽乃を顔を見比べると、大きく溜息をついてみせた。

 

「砂糖を吐きそうな気分って言うのは、こういうのを言うんですね……」

「これくらいいちゃいちゃに入らないよ? 私が本気を出したら凄いんだから」

「ハルさんとはっちゃんが仲良くするのは私としても嬉しいですけど、できれば私のいないところでやってほしいなぁ、なんて思ったりして」

 

 ほら、私は彼氏がいませんし。と、苦笑を浮かべながらめぐりが言う。カップルと一緒に行動する独り身の人間が辛い思いをするというのは、八幡でも解る。めぐりもさぞかし肩身が狭いだろうと思うが、チームなのだから仕方がない。

 

「別に一人じゃないでしょ? 静ちゃんだって彼氏いないんだから、これからはめぐりと静ちゃんでチーム組むと良いと思うな」

「……平塚先生、彼氏いないんですか?」

 

 その問いに、八幡と陽乃の歩みが止まる。顔を見合わせる二人を不思議に思って、めぐりも足を止めた。冗談を言っているような風ではない。めぐりは本当に『平塚静に恋人がいる』と思っていたのだ。

 

 その事実に思い至ると、八幡と陽乃は同時にめぐりの肩を叩いた。

 

「本人の前では、あまりそういうことを言ってやるなよ」

「静ちゃん、あれで結構気にしてるんだから」

「…………もしかして今までずっと彼氏がいなかったとか?」

「……そうなんですか?」

「八幡知らなかったっけ?」

「いた、というようなことは言ってたと思いますが、それが本当かどうかは知りません」

「いたのはほんとじゃない? ヒモを飼ってたなんて嘘、生徒に吐くと思う?」

 

 陽乃の言葉に、めぐりは俯き八幡は天を仰いだ。少し前まで理想と公言して憚らず、今もそうなることを願望として持ち続けているが、実際に養っていたという人間の話は、それが知り合いの女性であるだけに、八幡の心にも来るものがあった。

 

 飼っていたと表現するということは、静が家賃を払う静の部屋に、その男性も一緒に住んでいたのだろう。対外的にはそれでも恋人というのだろうが、その時の自分を振り返ってみて、果たして異性と付き合っていたと言えるのか、疑問に思う。静のように聡明な女性なら尚更だ。それを『これも良い思い出』と昇華できているのならば良いが、まだ人生の汚点としているなら、詳細を聞くのは憚られた。

 

 陽乃が知っている時点でそれ程深刻でないのは解るのだが、年下とは言え同性の陽乃が聞くのと、異性の八幡が聞くのでは意味が全く異なる。興味が湧いたが自分から聞くことはできないし、噂が広まり始めた今となっては口を滑らせることも期待できない。

 

「城廻、何とかその話を先生から聞き出せないか?」

「はっちゃん。世の中にはできることとできないことがあるんだよ?」

「だろうな。無理を言って悪かったな」

「一体、何の話かな?」

 

 噂をすれば。廊下の向こうから白衣を着た女性がやってくる。収まりの悪い髪に、切れ長の目。分類上は間違いなく美人であるが、どこか残念臭の漂うその姿は、平塚静だった。

 

 八幡とめぐりは、その姿に居住まいを正す。彼氏がいない、ヒモがどうしたという話をしていたばかりだけに、顔を直視することができない。常識的な人間が感じて然るべき気まずさを、しかし、陽乃は全くと言って良いほど感じていなかった。いつも通りの気安さで、静に対して一気に踏み込んでいく。

 

「静ちゃんの交際経験について議論をしてたの。ヒモを飼ってたのってほんとだよね?」

「事実には違いないが、あまり吹聴してくれるなよ。かっこいい話でもないからな」

 

 何でもないような風を装っているが、静は非常に苦い顔をしていた。陽乃の問いが事実なのは間違いがない。自分の恥部を認められる辺り、なるほど、大人なのだなと思うが、知人の女性が男を飼っていたという事実は、一介の男子高校生である八幡にはどう処理したものか解らなかった。

 

「それよりも、校内はお前らの話題で持ちきりだぞ。本当に付き合い始めたのか?」

「嘘なんてつかないって。私たちが恋人になったのは、ほんと」

 

 けらけらと笑う陽乃に、静は小さく息を漏らした。

 

 普段とかわらなすぎるその態度が、陽乃の言葉を事実とは思えなくしていた。宣言こそしたが、特に恋人らしく振舞っていないことも原因だろう。女王と付き合うには不釣合いだ、という周囲の認識もあるに違いない。噂として駆け巡ってこそいるが、それを本当だと現在の時点で信じている人間はそれほど多くはないはずだ。

 

「まぁ、お前が言うのだからそうなのだろうな」

「信じるんですか?」

 

 陽乃の言葉にも態度にも、それが本当だと思わせるものは何もなかったはずだが、静は何の躊躇いもなく陽乃の言葉を信じた。八幡の疑問に、静はくつくつと悪役のような笑みを漏らす。様になっているだけに余計に目立って見える。たまに芝居がかった態度を取りたがるのが、静の悪い癖だ。

 

「こいつは自分の名誉に関わる嘘はつかんだろう? まぁ、それは比企谷の方が良く解っていると思うが。何しろ恋人なのだからな」

「改めて言わないでくださいよ……」

「なに。私が追求しなければ、誰も君には追及せんだろう? 少しくらいは、苦労してもらわないとな。これも青春の一ページと思えば、悪いものでもないだろう?」

「俺はそういうのとは縁遠い生活がしたいんですがね」

 

 だが、それも無理からぬことである。陽乃は内面こそ青春という甘酸っぱい言葉からは最も縁遠い位置にいるが、総武高校の頂点に立つ彼女は色々な意味で、近隣の青春を謳歌する世代の代表だ。その恋人となってしまった以上、有形無形の圧力を受けるのは目に見えている。

 

 生徒会入りした時ですら、比企谷八幡と交流を持とうという人間はいなかった。恋人になったというのはそれ以上のインパクトであるが、それを理由に今更交流を持とうという人間は増えないだろう。

 

 代わりに、排除しようという動きは生まれるかもしれないが、下手に友達面をされるよりも、そちらの方がよほど良い。

 

「ま、節度を保った付き合いをするなら、誰が誰と付き合おうが一向に構わない。私が警察やら産婦人科やらに呼ばれるようなことがないよう、清く正しい交際をするようにな」

「教師なら、苦言くらいは言うものかと思ってましたが」

「交際くらい好きにすれば良いだろう。面倒をかけない限り、私に損も得もない……と言いたいところだが、詳細を求める気配が教師の間からも噴出しそうだ」

「俺、呼び出されたりするんでしょうか?」

「疑わしい事実があるならばまだしも、お前たちはまだ交際を宣言しただけだ。ただそれだけの生徒を呼び出して交際の有無を確認するだけなど、間抜けにも程がある。教師もそこまで暇ではないよ。だが、色々と質問をされるだろう手前、どこまで進んでいるのかくらいは確認しておきたい。正直に答えろ陽乃、どこまで行った?」

「清い交際をしてるって言ったでしょ?」

「個人で度合いの変わる表現でお茶を濁すな」

「静ちゃんも、下世話な話が好きなんだね」

「たまには良いだろうさ。で、どうなんだ?」

「そうだなぁ……」

 

 周囲に人影はあるが、間近にはいない。陽乃は立ち位置を変える。自身と静が影になるように八幡を移動させると、さっと頬にキスをした。

 

「これくらいかな」

 

 唇を離して、にこりと微笑む。静は陽乃の顔をぽかんと見つめていたが、やがて腹を抱えて大笑いした。

 

「あぁ、あぁ。お前もそこまでするのか。解った、確かに清い交際だ。教師の方にはとりなしておくから、お前たちはそのままでいると良い」

「協力ありがとう。八幡友達いないから、男の子紹介するとかできないと思うけど、ごめんね?」

「見くびるなよ。男くらいその内見つけて見せるさ」

「婚活とか言うんだっけ? そういうの早めにしておいた方が良いと思うな。素材は良いのに男ができないとか、すごーくかっこわるいよ?」

「私はまだ若いから大丈夫だ」

 

 今までの言葉で一番力を込めて断言し、静は去っていく。その背中には自信が漲っていたが、その自信が何処からくるのか八幡には良く解らなかった。確かに見た目は良いのだが、モテそうかと言われると首を捻らざるを得ない。選べる立場ではないのは勿論解っているものの、例えば静が彼女になってやると言ってきたとして、それを素直に喜べるかと言われれば、答えは多分NOだ。

 

 勿論、年齢差というのもあるのだろう。

 

 十歳近く年上というのは、恋人として考えた場合、躊躇する大きな理由になる。ならば同年代にはモテるのかと考えてみれば、ヒモを飼っていたとか、今現在恋人がいないという事実が、静の現状を物語っていた。

 

 見た目は良いのだ。陽乃が認めるくらいだから、八幡の勘違いということはなく、客観的に見て平塚静は美人である。

 

 その上で恋人ができないというのは、見た目を相殺してあまりあるほど、内面に問題があるという推論を成り立たせていた。あれほど美人なら選ぶ立場という言い訳もできないこともないが、結婚までの年齢に比較的余裕がある男性と比べて、女性は30という年齢が境界線であると聞く。

 

 それまでにゴールインできれば良いだろう。全ては前振りで、自分はきちんと相手を見つけたと周囲を納得させることがきる。友人として教え子として静には幸せになってほしいのだが、八幡には静が幸せな結婚をできるとは、どうしても思えなかった。

 

「先生の背中に空しさが見えるのはどうしてなんだろうね」

「それはめぐりが幸せな結婚ができるタイプだからじゃないかな」

 

 陽乃の直球は的を得ていると思った。悪い男に騙されそうな気がしないでもないが、それ以上に良い相手を見つけて普通に結婚する可能性が高いように思える。そうですか? と照れるめぐりを見て、これが正しい反応なのだと理解する。間違っても陽乃にはこういう反応はできない。

 

 照れるめぐりを横目に、陽乃を見る。視線が合うと、陽乃は小さく首を傾げた。何が変わった、ということはないはずなのに、一つ一つの仕草が以前よりもずっとかわいらしく見える。こういうのも贔屓目というのだろうか。自問していると、陽乃が近づいてくる。

 

「腕でも組んで歩いてみる?」

「校内でそういうことはやめた方が良いのでは?」

「さっき宣言したから大丈夫。節度ある付き合いの範疇なら、学校も見逃してくれるはずだよ」

「腕を組んで歩くのは、節度ある付き合いの範疇だと思うか? 城廻」

「それを試してみるのも良いんじゃないかなー」

 

 返事には既にやる気がない。いちゃいちゃを見せ付けられたい、と率先して思ってはいないようだった。援軍は期待できない。陽乃を見れば、まだにこにこと笑っている。無言の笑顔だが、何を要求しているのかは良く解った。

 

 ふぅ、と大きく息を吐いて、陽乃の隣に並ぶ。目当ての物が近くに来ると、陽乃は『それ』に飛びついた。

 

「んー、男の子と腕を組むなんて、初めて」

 

 陽乃はご満悦だ。周囲のことなど気にしないのはいつものことであるが、八幡はそうはいかなかった。ここは学校の廊下で、二人は有名人。渦中の二人が腕を組んで歩いていれば、非常に目立つ。

 

 めぐりなど、少し離れて歩くようにして、他人のふりをしている。できることなら八幡もそうしたかったが、腕を組まれていてはそうはいかない。美女とそうしていることに男として嬉しくない訳ではないが、意に反して目立つというのは八幡の胃に多大なストレスを与えていた。陽乃と一緒に行動するようになってそれなりに鍛えられたと思っていたが、人間の本質というのはそう変わらないらしい。

 

 好奇の視線は、生徒会室の扉を潜るまで続いた。流石にこの部屋に、役員以外と静以外の人間は早々入ってこない。自分の席に腰を下ろして、八幡は深く溜息を吐いた。そんな八幡を、陽乃は頬杖をついて眺めている。

 

「楽しい?」

「ええ。退屈はしませんね。陽乃は楽しそうで何よりです」

「うん。普通に面白くてちょっとびっくり。文化祭もこんな風にして回らない?」

 

 陽乃の言葉に、八幡は押し黙った。文化祭実行委員であり、生徒会役員でもあるこの三人に、文化祭を楽しむ時間というのはあまりない。それでもこんな風にしてというのは、こんな風にして仕事をしないか、という提案――ではなく、命令だった。

 

 そこまで目立つと周囲の目も厳しくなってくるが、実のところ総武高校の校則に男女交際に関する規定は少ない。不純異性交遊に関する記述が少々ある程度で、具体的にどの程度になったらアウトということが明文化されている訳ではない。悪く捕らえれば教師のさじ加減一つということであるが、そこは弁が立つ陽乃である。あちらだけに都合の良い解釈など、許すはずもない。

 

 つまるところ、誰が見てもアウトということをしない限り、外部から取り締まられることはない。それは同時に、誰も陽乃を止めることができないということでもある。総武高校において陽乃は絶対である。それを確認するだけのことだが、明日の地獄が逃れようのないものだと改めて実感すると、気分も重くなった。

 

 考えれば考えるほど滅入ってくる気分を、無理やり切り替える。

 

 美少女と恋人になり、仕事があるとは言え一緒に文化祭を回ることができるのだ。男としてこれほど素晴らしいことはない。世の男は皆、比企谷八幡を羨むことだろう。そこに優越感を感じないでもないが……

 

 また、八幡は溜息を吐いた。

 

 予想はしていたが、文化祭を普通に楽しむというのが難しい。こういうイベントは中学のときにもあったが、高校以前の八幡はリア充とは全く縁のない生活をしていた。彼女がいた経験はなく、異性と二人で出かけたこともない。それを考えれば高校に上がってからの数ヶ月で随分経験値を積んだものだと思う。彼女ができた、というのはその経験の中でも最たるものだ。

 

 だが、彼女ができたからと言って彼氏らしく振舞えるかと言われればそうではない。全く経験のないことを、想像だけで補えるはずもない。こういうものか、というビジョンはあっても、それが空振りするのは目に見えていた。何しろ自分は比企谷八幡だ。そこで正しい行動など、できるはずもない。

 

「難しい顔してる。死んだ魚みたいな目が、更に淀んでるよ」

「恋人って何をすれば良いのか、ちょっと考えてました」

 

 あら、と陽乃は小さく声を漏らすと同時に、めぐりは黙って席を立った。すたすた歩いて外に出て行くめぐりは、砂糖の塊を噛み潰したような顔をしていた。

 

 八幡の言葉に、陽乃は考える。信じられないことだが、陽乃も今まで恋人というものがいたことはない。初恋人、ということでは条件は同じだが、陽乃と八幡では積んできた経験値の量が圧倒的に異なる。進んで腕を組もうとするなど、陽乃には明確なビジョンがあるように思えた。八幡が思っていた以上に、陽乃は恋人という関係を維持することに積極的である。

 

「自信ない?」

「あまり。考えてはいますが、要望に応えるので精一杯かもしれません」

「八幡にしてはかわいいこと言うね。でも、考えてくれてるんだ。それはちょっと嬉しいな」

 

 陽乃が少女のように笑う。打算のなさそうな綺麗な笑顔に見とれていると、陽乃は椅子から立ち上がった。あわせて立ち上がろうとする八幡の方を抑えて、横向きで八幡の膝の上に座る。陽乃の整った顔が、目の前に来る。にこにこと、無邪気に笑う笑顔は相変わらず底が知れない。

 

 誰もが見とれるその笑顔の下で何を考えているのか、これだけ近くにいても見通すことができない。この得体の知れなさが、陽乃の最大の魅力だった。恐怖とも何とも言えない感情が胸の奥に湧くと、八幡の心も次第に穏やかになる。

 

「やりたいようにやろうよ。私はいつもそうしてるよ」

「それは陽乃だからできるんですよ。俺にはそこまで、やりたいことはありません」

「でも、私のことを考えてくれてるでしょ? したいことはないの? 私に」

 

 目を見て、陽乃は問うてくる。本能に任せた答えでもよければ、それこそ湯水のように湧き出てくる。それを口にするのは簡単だ。そして、その願望をおそらく陽乃は叶えてくれるのだろう。

 

 その願望を口にしかけて、八幡は口を噤んだ。

 

 その答えは間違いだ。要望に応えてはくれるだろうが、それだけだ。そんなことを陽乃は望んでいないし、それは比企谷八幡の最大の望みではない。

 

 目は口ほどに物を言うという。目をじっと見ていた陽乃に、その心の動きは筒抜けだった。

 

「よくできました」

 

 微笑んだ陽乃が、顔を寄せてくる。

 

 葛藤の報酬は、口付け一つ。

 

 

 




ここまで間があいたのに文化祭はまだ始まってません。
そして文化祭ではもっといちゃいちゃします。


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二人のために文化祭は始まる

 

 

 左腕に『文化祭実行委員』と書かれた黄色い腕章をつけようとすると、陽乃がその手を掴んで止めた。

 

「右腕につけて」

「……どうしてまた」

「そこは私の」

「了解しました」

 

 改めて右腕に付け直したのを見ると、陽乃は満足そうに頷いて、左腕を抱きかかえた。スタイルの良い陽乃のことであるから当然やわらかい感触が押し付けられる。一年前の自分ならば狂喜しただろうな、と思いながら心中で地味に喜んでいると、当たり前のようにそれを見透かした陽乃が笑っているのが見えた。

 

 感想を言うべきか、少々迷う。何を言ってもからかわれそうであるが、ここで何も言わないと陽乃の機嫌を損ねるような気がした。小考した末に八幡が出した答えは、

 

「ごちそうさまです」

 

 というありきたりなものだった。陽乃は不満そうに唇を尖らせるが、今日この日に文句を言うのも無粋と思ったのだろう。文句を心中に押し込むと左腕に赤い腕章をつけた。今年は陽乃のみが着けることを許される、文化祭実行委員長の腕章である。

 

 腕章でもって、自らの委員長という属性を補強した雪ノ下陽乃が、くるりと振り返る。委員会室とされた会議室には、文化祭実行委員が勢ぞろいしていた。その全員が、陽乃と自分を注視しているのを見て、八幡は自分は関係ないとでも言うように視線を逸らした。視線を浴びて力を得るという八幡には信じられない属性を持つ人間も世にはいるという。間の悪いことに、陽乃がそうだった。

 

 集まった人間の視線を一身に浴びた陽乃は、この世界の主役は自分だとばかりに胸を張り、一同を見回した。これから陽乃が発言する。その意識が浸透すると、ざわついていた会議室がしんと静まり返った。自分の望んだ環境が整ったことに満足し、陽乃は笑みを浮かべる。

 

「さて、文化祭も今日から本番。今までも忙しかったけど、今日明日は更に忙しくなるでしょう。今のところ予定に変更はありません。事前の通達の通り、各自、頑張って文化祭を楽しんでください。それじゃあ一足早く、実行委員長、雪ノ下陽乃が文化祭の開催を宣言します!」

 

 おーっ! と全員で吼えて、担当の場所に散っていく。文化祭実行委員は今、ただ二人を除いて一つになっていた。気合に満ちた様子で会議室を出て行く実行委員たちを見送りながら、八幡は冷めた様子で陽乃に問いかけた。

 

「煽るのが上手ですね」

「言葉だけで働いてくれるんだから、人間って便利だよね。言うだけならタダだし」

 

 邪悪な笑みを浮かべて、陽乃はトランシーバーを取り出す。実行委員の連絡用に、学校から支給されたものだ。学校が保管するにしては高価な上数が揃っているが、大昔に導入し時間をかけて数を揃えたものが、未だ現役であるとのこと。予算の使い方としてどうかとは思うが、既にあるものに文句をつけても仕方がない。聊か型遅れではあるが、委員が連絡のやり取りに使うには十分な代物だ。

 

 流石に委員全員分の数はないが、それはチームを組むことで補っている。1チームに一つという訳だ。トランシーバーの個数の関係で1チームは3~4人で編成され、ほとんどのチームがその例に漏れない。

 

 例外は実行委員が待機するために設置された学内外にある委員会本部と、実行委員長である陽乃のチームだけ。陽乃のチームは委員長である陽乃と、その補佐の八幡。たった二人のチームである。

 

 これを職権乱用と言える人間は、委員会の中に一人もいなかった。陽乃と同じチームになりたいと思ってメンバーになった人間は多い。そういう人間から、八幡はいらないヘイトを集める結果となったが、陽乃は何処吹く風だった。

 

 誰が何と思おうが、自分のやりたいことを貫いてこそ、雪ノ下陽乃だ。陽乃の振る舞いに思うところがある人間は多いが、そういう陽乃を見ていたいという気持ちがあるのは、決して八幡だけではない。傍若無人な振る舞いまで含めて、雪ノ下陽乃なのだ。

 

「さて、めぐりはどうかな。めぐりー?」

『めぐりです。もうすぐそっちに着きます』

 

 トランシーバーからの応答があってすぐ、会議室のドアが開いた。生徒会室から荷物を抱えてきためぐりは、それを上座の席に置くと、んー、と伸びをする。

 

「生徒会室にあった文化祭の資料はこれで全部になります。トラブルのリストと対応策もリストアップ済みですから、これで何とかなるかと思います」

「上出来だよ。こっちはもう任せても大丈夫?」

「職員室の方に行ってる先輩方も、もうすぐ戻ってくると思いますので、後はハルさんのお好きに」

 

 どうぞー、とめぐりは笑顔で両手を差し出す。学内の委員会本部は、この会議室になる。責任者は二年生の副委員長であるが、めぐりは生徒会代表としてシフトに組み込まれていた。生徒会のメンバーが分散した形になる。本来であれば三人全員でチームを組むのが筋であるが、陽乃のチームは八幡を含めて二人だけである。そこにどういう意図があるのか解らない人間はいなかった。

 

 二人の関係に納得していない人間も多い中で、めぐりは応援側の筆頭である。ハブられたと思うはずもない。二人で行動したいというのなら、めぐりに止める理由はなかった。八幡からすれば、物分りが良すぎて怖いくらいである。

 

「それじゃ、ここは任せたよ。行こう、八幡」

「了解です。城廻、後はよろしく」

「はっちゃん、ちゃんとハルさんにエスコートされるんだよ」

「される側かよ……」

 

 主夫志望としては願ったり叶ったりのポジションであるが、ただ引きずられることを女王である陽乃は許してくれない。陽乃に追従するには、求められることが多いのだ。

 

「エスコートされるんだって」

「まぁ、城廻の言うことですから」

 

 廊下を行きながら、イベント会場である校庭を目指す。開会宣言にはまだ時間があるが、オープン前の最後の準備時間ということもあって、学校内の熱気は際限なく高まっている。そんな中、陽乃が通ると誰もが声をかけてきた。過去最高の盛り上がりを見せている文化祭の最大の功労者が誰か、一年から三年の男女全てが知っている。陽乃は気さくにそれに応じながら、道を行く。

 

 ハーメルンの笛吹きよろしく、手の空いている人間が着いてこようとするが、陽乃が肩越しにちらりと振り返ると、金縛りにあったように足を止めた。視線が口よりも雄弁に『ついてくるな』と語っていたのだ。女王の意向には、誰も逆らうことはできない。着いていくこともできないと悟った生徒たちの一部は、唯一隣を、しかも腕を組んで歩いている八幡に、敵意の篭った視線を向けた。

 

 方々から注がれる視線を肌に感じながら、八幡はしかし、少しも動揺を見せなかった。一年前であれば、それこそ挙動不審になっていただろう。教室の隅っこで生きる人間に、視線というのは毒である。

 

 だがこの程度、陽乃の無言のプレッシャーに比べればどうということはない、決して前向きにではないが、八幡も成長していた。心のどこかで恐れていたリア充のことが、今は全く怖くない。

 

 視線を向けられていることに気づいて、八幡は左を歩く陽乃を見た。ぱっちりとした目が、悪戯っぽく八幡を見つめている。その瞳の中には珍しく、素直に人を褒める色が浮かんでいた。

 

「何かしましたか、俺」

「ううん。相変わらず死んだ魚みたいな目をしてるなぁって思って」

「人間の顔は早々変わるものじゃありませんよ」

「解ってる。でも、中身は変わるものだよ。私が見つけた時より、ほんの少しだけど頼もしくなったんじゃない?」

「陽乃にそう言ってもらえると、何か裏があるんじゃないかと勘ぐりたくなりますね」

 

 ははは、と胡散臭い乾いた笑いで答えるが、冗談めかした物言いであっても、八幡の言葉に嘘は全くない。何か良くないことの前振りと確信した八幡は、何でもないふりをしながらも、陽乃に対する警戒を最大限に高めていた。

 

 そんな八幡の足を、陽乃は笑みを浮かべたまま、思い切り踏み抜く。

 

「……私だって、たまには人を褒めることもあるの。私の言葉は、素直に受け止めなさい」

「申し訳ありません。しかし、俺を褒めるなんて珍しいこともあるもんですね」

「また足を踏まれたい? そっちの性癖に目覚めたっていうなら、試したいことがいくつもあるんだけど?」

「俺は至ってノーマルな性癖をしてるつもりです、ご安心ください」

「残念。私も足元で八幡がうめいてるのを想像したら、ちょっとぞくぞくしてきたところだったの」

 

 くすり、と陽乃は笑う。妖艶な笑みであるが、これも、本気の色合いが濃い。ぞくぞくしたというのは本当だろう。どうみてもドSである陽乃がそういうことを口にすると、ドMになっても良いかな、と思えるから不思議である。事実、陽乃が声をかければ喜んで豚でも犬でもなる男は大勢いるだろうが、自分で宣言した通りノーマルな性癖を持っている八幡は、人生で初めてできた彼女と健全なお付き合いをしたいと思っていた。

 

 そんな決心をあざ笑うかのように、陽乃がより身体を密着させてくる。その感触を楽しむ暇もあればこそ、八幡たちは校舎を抜けて外に出た。

 

 天気は快晴。陽乃の前途が洋々であることを示すように、空には雲一つない。絶好の文化祭日和を見上げながら、陽乃は言った。

 

「さぁ、共同作業の締めくくりをしようか。家の人間の話だと雪乃ちゃんもこっそり来るみたいだから、常に誰かに見られてると思って手を抜かないようにね」

「妹さんが来るんですか?」

 

 八幡の脳裏に、軽井沢で会った雪乃の姿が浮かぶ。陽乃に寒色を足して少し縮めたような少女と話したのは少しだけであるが、どう贔屓目に見ても陽乃とは距離を置いているように見えた。少なくとも、陽乃が通っているからという理由で文化祭を見に来るような間柄には見えない。他の家庭のことだから良く解らないものの、比企谷家の兄妹仲に比べると、大分冷えているように思う。

 

 他人が見て解るくらいなのだから、陽乃自身、妹にどう思われているのか理解しているだろう。

 

 しかし、陽乃はそんな妹のことが愛しくて堪らないといった風に、楽しみ、と口にする。妹からの北風に比して、陽乃から雪乃への熱は太陽もかくやという程である。妹の話は何度も陽乃から聞いたことがあるが、悪口などただの一度も聞いたことがない。自分に似て優秀で、世界一かわいい妹だと言って憚らなかった。

 

(まぁ、世界一かわいいのはうちの小町だけどな)

 

 この話をすると平行線になるので、口にはしない。言い合いになると陽乃も絶対に、世界一かわいいのはうちの雪乃ちゃんだと言って譲らないのだ。陽乃にしては珍しい、意固地な面であるから良く覚えている。

 

 ともあれ、一度だけ顔を見たあの少女に会うのが、八幡も楽しみだった。一応、彼氏と彼女の関係になって、初めて会う陽乃の親類である。あの雰囲気では姉に男ができたところで『そう……』の一言で済ませそうであるが、いずれ本丸に突撃させられる前に、雪ノ下家の感触を確かめておきたかった。

 

 聞けば雪ノ下母は、陽乃をして怪物と言わしめる難物であるという。その前哨戦としては役者不足かもしれないが、あの時の印象を信じるに、決して楽な相手ではない。

 

「もしですが、妹さんを見かけたら俺はどうしたら良いんでしょう」

「私の彼氏って紹介してあげる。本当にそうなんだから、不思議じゃないでしょ?」

「そりゃあそうですが……妹さんからご両親におかしな風に伝わったりしませんか?」

「それはないんじゃないかな。そういう告げ口みたいなの、雪乃ちゃんは好きじゃないから」

 

 不器用なんだよねー、と明るい口調で締めくくる。正義感が強いと言えば聞こえは良いが、穿った見かたをすると、それほど陽乃には興味がないと言える。尖った性格をしている陽乃は、合わない人間にはとことん嫌われる。ちらっと見た妹はどうみても陽乃と波長が合いそうには見えなかった。

 

 同じく、姉の彼氏にも興味がないと波風が立たなくて良いのだが、物を引っ掻き回すのが得意で、妹大好きな陽乃が余計なことをしないとは思えない。陽乃を避けているらしい妹と会えるかは運であるが、こういう運任せの勝負で陽乃が負けるとも思えない。同じ会場にいるのならば、いずれ遭遇するだろう。

 

 その時どんな顔をすれば良いのか。陽乃が生まれて初めての恋人である八幡には、その家族の前でどんな顔をすれば良いのか解らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人で一杯の通路を、雪乃は一人で歩いていた。

 

 総武高校。『あの』姉が通い生徒会長を務める学校であり、雪乃もいずれ進学する予定の学校である。

 

 姉と同じ学校というのには抵抗があったが、後々の進学を考えるとここにしておくのが都合が良いのだ。姉は色々な意味で目立つ人間である。入学すれば雪ノ下陽乃の妹と比べられるだろう。全てにおいて自分に勝る姉と比べられることは、雪乃にとって苦痛だった。

 

 実際、姉は優秀な人間である。規模こそそれなりではあるが、進学校というだけあって、この高校の文化祭はそれほど盛り上がりはしないという。

 

 ところが生徒会長である姉が実行委員長に就任して盛り上げた文化祭は、全く別のものとして盛りあがりを見せていた。周囲には学生の姿が多いが、近所の住人の姿も見える。まだ文化祭は始まったばかりであるが、これが成功の部類に入るのは誰の目にも明らかだった。

 

 出し物をしている生徒の目にも、活気が溢れている。対外的なイメージアップには、相当な役に立ったことだろう。この文化祭の雰囲気を味わいたいから、とこの学校を目指す中学生も多いに違いない。

 

(私は違うけれどね)

 

 心中で言い訳をしながら、雪乃は一人で歩いている。こういう人が多いところだと軽薄な男にナンパをされることも多いのだが、中学の制服を着て歩く女をナンパする人間は、流石にいないようだった。休日に制服を着ることには抵抗があったが、ナンパ避けになると思えば安いものだ。

 

 更に来客の構成も、ナンパ避けに一役買っていた。

 

 中学の制服を着ている人間が自分一人だけであれば異様に目立ったろうが、他にも制服を来た人間は大勢いた。中学の方からそういう指導があったのだろう。いずれ進学をと考えているのならば、相手に与える印象は良いものの方が良い。制服ならばドレスコードに間違いはないだろう。

 

 さて、と雪乃は周囲を見回す。出店には当然高校の生徒がいるが、それ以外にも生徒の姿は散見された。中でも雪乃の目を引いたのは、腕に腕章をしている人間である。左肩に黄色い腕章。文化祭実行委員とある。制服に黄色い腕章はとても目立つ。全員がこれをつけているのであれば、遠目にも解るだろう。姉との接触をできるだけ避けたい雪乃にとっては、ありがたい情報だった。

 

 腕章をつけている人間は最低二人で行動している。そういうルールで動いているのだろう。しきりに無線を気にしており、外から見ればそれっぽく見えないこともない。頼もしいと見るかは、人それぞれだろう。やっている本人は楽しく、そして真面目にやっているのだろうが、雪乃には滑稽に見えた。

 

 何とも陽乃が好きそうな光景である。滑稽に見えるという部分が、特にだ。自分の感性でそう思うのならば、陽乃は特にそう思っているだろう。ほくそ笑んでいる陽乃の顔が浮かぶようだった。

 

 最重要人物として陽乃の姿を探すようにしながら通りを行き、ついでにクレープを買った。当然、店で買うよりも安っぽい。決して普段口にする味ではないが、祭の雰囲気からか、いつも食べるものよりも美味しく感じた。コーヒーか紅茶か、温かい飲み物が欲しいところである。

 

 そういう出店はないかと探す。出店は軽食が中心で、飲み物を出す店はない。自販機で探すしかないようだった。小さく息を吐き、建物の方を見る――その途中で、見覚えのある顔を見つけた。

 

 もっとも、印象は大分異なっている。死んだ魚のような目は相変わらずだが、髪も服も以前より整っているように見える。身だしなみに気を使うようになったのだ。男性とは言え、高校生ともなれば不思議ではないが、分析するに、彼はそのようなタイプには見えない。

 

 そういう相手でもできたのか。考え、それが一人しかいないことに気づく。あんな人間を制御下におけるとしたら、姉しかいない。

 

 夏休みから随分時間は経っているが、彼の雰囲気を見るにまだ続いているようだった。黄色い腕章が右腕にある。もう一度、確認する。やはり右腕だ。周囲の実行委員を見るが、彼らは全員左腕につけていた。そういう指示があって、統一されているのは間違いない。なのに、彼は右腕につけていた。何者かの意図を感じずにはいられない。

 

 視線を向けていることを気取られないよう、彼から距離をとって物陰に隠れる。不自然でない程度に、人を待っているように振舞う。ちらと視線を向けた。実行委員の仕事中なのか、彼は出店の前から動かない。話を聞いているようには……見えなかった。遠目だが、唇は動いていない。誰か、同道している人間がいるのだろう。雪乃の身体は自然と、物陰に隠れるように動いた。悪い勘は、良く当たるのだ。

 

 現実は、予想の通りに。出店の奥から出てきたのは、姉だった。制服に身を包んだ彼女の左腕には、赤い腕章が巻かれていた。姉も、左腕だ。彼だけが右腕である。その理由を考えてみたが、答えが見つからない。何故、と思考を深めるようにも先に、姉が動いた。

 

 何も巻かれていない、彼の腕を取る。抱きかかえる、というのが正しいだろう。通行人はまるで恋人のように振舞う二人に、色々な感情がない交ぜになった視線を送っているが、姉は全く気にせずに道を行く。反面、彼は居心地悪そうにしていたが、姉の行動が不満という感じではない。単に、悪目立ちをしているのが落ち着かないのだろう。本音を言えば、今すぐにでも逃げ出したいに違いないが、そうはいかないとばかりに姉は彼の腕を取っている。

 

 その顔は、とても楽しそうに見えた。人の全てを見透かすような不快で怜悧な表情でも、自分の全てを覆い隠すような不気味な笑顔でもない。妹で、それなりに付き合いの長い雪乃でも、初めて見る顔だった。まるで普通の少女である。

 

 自分は、今どんな表情をしているのか。見てみたい気がするが、やめておいた。珍しさで言えば、眼前の別の星の生き物の方が勝っているに決まっている。あれを初めて見る人間は、ただ見た目の整った女子高生が、ボーイフレンドと戯れているように見えるのだろう。

 

 だが、姉を知る人間からすれば驚天動地も良いところだ。これではまるで普通の人間だ。雪乃の知る『雪ノ下陽乃』はどこにもいなかった。

 

 この時雪乃が抱いた感情は、表現のし難いものだった。それは落胆であり軽蔑であり、より単純な好奇であり、そして安堵でもあった。全く理解の及ばなかった彼女が、理解の範疇にある。自己分析するに冷静でいられていると思うが、言いようのない興奮もまた同時に雪乃の中にあった。

 

 はぁ、と雪乃の口から小さく息が漏れる。

 

 予定は変更だ。観察を続けても自分の感情が乱れるだけで、得るものはない。彼が一人でいるのならばともかく、あの二人に話しかける訳にもいかない。せっかくきた場所からすぐに出て行くのは心苦しいが、うろうろして彼女に見つかってもコトである。

 

 踵を返した雪乃の顔には、笑みが浮かんでいた。心の奥にあった、姉と同じ高校で良いのかという気持ちは消えうせていた。姉が変わった、変えた原因がここにいる。それだけで十分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「陽乃、どうしました?」

 

 道の先をじっと見つめる陽乃が気になって、八幡は声をかけた。まさか不審者でもいたのだろうか。目を凝らしてみるが、特に怪しいものはどこにもなかった。

 

 八幡の問いに、陽乃は笑みを浮かべる。好奇心に溢れた、どちらかと言えば係わり合いになるべきではない時の笑みだった。

 

(誰かいたな、これは……)

 

 自分には見つからなかっただけで、誰かいたのだろう。表情を見るに、相当陽乃の興味を引いている。少なくとも総武高校の人間ではない。自分を除けば最も陽乃の興味を引くにはめぐりだが、陽乃にとっては珍しいお気に入りの彼女であっても、ここまで興味は引かないだろう。

 

 自分の知らない人間、と思うと八幡の心も波立ったが、陽乃の笑顔を見て不意に閃くものがあった。

 

「妹さんですか?」

「良く解ったね。そう、雪乃ちゃんがいたの。私達を見て引き返したみたいだけど」

「追わなくて良いんですか?」

「会いたくないって意思表示をされたのに、追いかけて行くのもかっこ悪いでしょ?」

「そういうのを気にしないもんだと思ってました」

「お姉ちゃんだからね。八幡がお兄ちゃんなのと一緒」

「良く理解しました」

 

 と、一応言っておく。自分の兄感と陽乃の姉感は全く一緒ではないと断言できるが、妹を大事に思っているという一点においては一緒だった。しかし――

 

「まぁ、世界一かわいいのはうちの雪乃ちゃんだけど」

「小町以外に誰がいるってんですか」

 

 妹愛が過ぎるあまり、話はいつも平行線になる。ついさっき考えたばかりなのに、陽乃の言葉に対して反射のように八幡の口からは小町を称える言葉が出てきた。理屈や客観性を度外視して、かつ、基本的に陽乃に逆らわない八幡が明確に反逆するのがこの一点。陽乃も犬が自分に突っかかってくるのが面白いらしく、思い出したようにこの話を蒸し返してくる。どちらも一歩も譲らないため、いつも結論の出ない話であるが、陽乃はどこかこの話題を楽しんでいる節があった。

 

 お互いの妹自慢。高校生の恋人がする話題ではないが、一番白熱するのがこの話題である。おかげで一度しか会ったことのない雪乃の情報を、驚くほどに入手してしまっている。雪乃もまさか、自分の知らないところでここまで情報が暴露されているとは思わないだろう。この事実が伝わらないことを祈るばかりであるが、予想を良い意味でも悪い意味でも裏切ってくるのが陽乃である。今はバレていなくても、この情報はその内伝わる。陽乃について悪い予想は当たるのだ。八幡の予想の斜め下をいく形で。

 

「じゃあ私からね。これは先週の話なんだけど、雪乃ちゃんが――」

 

 そうして、今日も雪乃の情報が、姉の陽乃からもたらされる。これが雪乃にバレた時、どういうことになるのだろう。想像しながらも、八幡はこれに対抗できる小町の話題を探した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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やはり、雪ノ下陽乃は絶対である

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 文化祭は恙無く進行した。運営側の士気が高く、また陽乃が指揮を取っていたのだから当たり前と言えば当たり前である。一部、功を焦った人間が頑張りすぎて被害が出掛けたところがあるが、チームを組んでいたことが効いたのか、それも目に見える被害が出る前に未然に防がれた。

 

 来場者は過去最高。スポンサーとなってくれた地元の企業、商店も来年度のスポンサー契約を約束してくれた。学校からすればこれ以上嬉しいことはないだろう。成功者としての賞賛を一身に受けた陽乃は笑顔で彼らに応対していたが、内心はどうでも良いと思っていることは八幡には良く解っていた。

 

 来年度の生徒会長は陽乃ではないし、当然、実行委員長でもない。三年生は手伝いをするだけというのが、総武高校の慣例である。慣例は破ってこそというのが陽乃のスタンスであるが、同じことをもう一度やるのは彼女の流儀に反する。初めて手がけた案件でこれだけの成功を収めたのだ。彼女の興味はもう、ここにはないだろう。

 

 後に残っているのは体育館での最後のステージ。そしてキャンプファイヤーを始めとした、後夜祭である。家に帰るまでが遠足。文化祭もまた然りだ。実行委員である八幡たちは全てのプログラムが終了してもすぐに帰れる訳ではなく、その後には地獄の打ち上げが待っている。

 

 実行委員長である陽乃はそれに参加しない訳にはいかないが、あくまで生徒会からの手伝いである八幡とめぐりはそれに参加する義務はない。

 

 義務の話をするのならばそもそも打ち上げだって強制参加ではないが、そこはリア充的な暗黙のルールという奴である。いくら女王様でもリア充側である陽乃は、それを無視することはできないのだ。

 

 無論、八幡はそんな恐ろしいイベントに参加するつもりはない。文化祭関連のイベントではほとんど陽乃について歩いてきたが、最後のイベントは大きな例外となりそうだ。参加しないことについて陽乃は良い顔はしないだろう。

 

 しかし、そこはこの世で二番目に比企谷八幡の性質を理解している陽乃である。こっそりいなくなれば、探して連れて行くという真似はしないだろう。

 

 自分の思うように人を行動させる陽乃であるが、少なくとも八幡には本当に嫌なことは押し付けてこない。見方を変えれば優しいと捉えることもできる。限界をきちんと見極めて、適切に対処していると言えば理性的とすら感じる。

 

 理性的に優しい。人を評する際には褒め言葉となるものであるが、こと八幡の口から陽乃を評するものとしてそんな言葉が出てきた日には、どんなことになるか。八幡は想像するだけでも恐ろしく、背筋がぞくぞくとした。陽乃は自分がそういう人間でないことを、固く信じているのだ。

 

 時計を確認する。六時十分前。進行状況は万全であるが、何か不都合が起きているとも限らない。無線のスイッチをオンにして、八幡はマイクに向けて喋りだした。

 

「本部。六時前の状況確認。出入り口から時計回りにどうぞ」

『出入り口。異常なし』

『会場警備1。立ち見が出てますが、今のところ問題ありません』

『会場警備2。頼んでいた椅子ありがとうございます。でももう置くスペースありません』

『音響。問題なしです』

『照明。こっちも問題なしです』

 

 淀みなく、会場に散ったスタッフから返答がある。体育館外の出し物は、ポイント集計のために全て終了している。後夜祭の準備は、これと同時進行で行われている。その指揮はめぐりが行っており、今校庭ではキャンプファイヤーの準備が急ピッチで行われていた。櫓は既にパーツごとに作成してあり、後は校庭でくみ上げるだけだが、パーツに分けてあると言ってもそれなりの重量があり、組み上げるにも時間がかかる。

 

 つまるところ、文化祭実行委員で外に準備に借り出されるということは、体育館のイベントを見ることができない、ということでもあった。

 

 当然、その割り振りではひと悶着あった。一大イベントを自ら棒に振りたいという人間はいない。それでも最終的に全ての文句が引っ込められたのは、陽乃の鶴の一声があったからだった。

 

 外のイベント設営に参加した人間は、それ以降の時間を全てフリーにする。

 

 その提案は、一部の人間には非常に魅力的だった。後夜祭にはキャンプファイヤーがある。そこでは男女が手を取り合って踊るのが定番となっており、炎が燃えている間はずっと、ダンスのための音楽が流されている。恋人がいるのならば参加しない手はないし、仮にいなかったとしても目当ての人間を誘うのにこれ以上の口実はない。最終的には立候補の数が定員を上回り、ジャンケンまで発生した程である。

 

 必死の形相でじゃんけんをし、その結果に一喜一憂する生徒らを八幡は幾分冷めた目で眺めていた。

 

 一年前の自分であればイベントにかこつけて告白したりいちゃいちゃしている人間を見てはくたばれカイザーとでも吼えたのだろう。将来の夢は主夫と公言して憚らなかった八幡であるが、そんな相手ができるような努力はしていなかったし、内心、できるとも思っていなかった。

 

 それが今では、一応、くたばれと言われる側だ。人生で初めての状況である。これでキャンプファイアーの場に一緒に出れば、更に衆目を集めることになるだろう。

 

 打ち上げに参加しないことは、既に陽乃に察せられている。ならばその分の前倒しを要求されても不思議ではない。大事なイベントの前であるが、キャンプファイヤーで踊る自分を想像すると、それだけで気分が滅入る。こういう嫌がらせは、陽乃も嫌いではない。

 

 陰鬱な気分をかみ締めている内に、全ての状況報告が終わる。残ったのは舞台袖で待機している陽乃だけだ。

 

「本部、状況確認。最後に舞台袖、雪ノ下会長、準備は大丈夫ですか?」

 

 陽乃に限って不手際などあるはずがないが、一応聞いてみる……が、インカムには応答がない。念のためもう一度問い合わせてみるが、反応は全くない。八幡は顔をあげて、反対側の舞台袖を見た。

 

 ちなみに客席側から見て左側が八幡のいる箇所で、こちらには通信関連の道具が全て揃っている。陽乃がいるのは向かって右側で、リアルタイムの指示はあちらから飛ばしていた。

 

 今は使わないがさっきまで使っていた、あるいはこれから使うがまだ出番ではない道具など、大小問わず物が集まるのが八幡の側で、これから舞台に上がる人間、その準備に付き合う人間など、人が待機するのが陽乃側である。

 

 インカムから聞こえるのは、陽乃以外の待機している人間の話し声だけで、陽乃の声は全く聞こえない。果たして、立ち上がった八幡が見たのは、両耳を手で塞いでいる陽乃の姿だった。同じ問いを、それから三度する。今度は陽乃の顔を見てやったが、彼女は耳に手を当てたまま、首を横に振った。きこえなーい、という人を食った声が聞こえるようである。

 

 はぁ、と八幡は大きく溜息を吐いた。陽乃が何を要求しているのかは明らかだったが、改めて要求されると恥ずかしいものである。自分の頬が熱くなっているのを自覚しながら、八幡は陽乃の名前を呼んだ。

 

「本部。陽乃、準備は大丈夫ですか?」

『リーダー。誰に物を言ってるのかな、八幡は』

 

 ようやく返事をした陽乃は、笑顔でこちらに手を振ってくる。やる気なくそれに手を振り返し、八幡は通信を切った。

 

『出入り口。比企谷爆発しろ』

『会場警備1。以下同文』

『爆発しろ』

『爆発しろ』

 

 へらへらと笑いながら、八幡はその恨み言を受け入れた。比企谷八幡に対するには随分とフレンドリーな対応であるが、通信機を持っている実行委員は陽乃のシンパの中でも比較的穏やかな面子だ。陽乃の恋人宣言にもそれなりに好意的である彼らからはやっかみもあるにはあるが、大抵はこの程度で済まされている。リア充とリア充っぽい会話をしていることに驚きを禁じえないが、司会に促され、ステージに出た美少女が恋人であるという事実に比べれば、些細なことのように思えた。

 

 ぼんやりと、ステージ上の陽乃を眺める。

 

 やはり美人だ。

 

 僅かに汗をかき顔が赤みがかっているのは、文化祭の興奮からだろう。髪をかきあげると、八幡の位置からは真っ白なうなじが見えた。一挙手一投足、全てが輝いて見える。天に選ばれた人間というのは、ああいう人間のことを言うのだろう。リア充を忌み嫌っていた八幡であるが、その中でも陽乃が飛びっきりなことは、彼女と恋人として付き合ってみて、より理解することができた。

 

 こんな特別な人間が、自分の恋人である。

 

 それで自分が特別なのだとは、やはり思えない。特別な人間におまけでくっついているからと言って、その人間まで特別になる訳ではないのだ。比企谷八幡では雪ノ下陽乃のようにはなれないし、逆もまた然りである。中学生の時ならば、それを心底残念に思ったかもしれない。あの頃はそれなりに、リア充というものに未練があったし、心の片隅でなれるかもと淡い期待を抱いてもいた。

 

 今ではそれもないし、なろうとも思わない。リア充に対する憧れもあるにはあるが、同時に、彼らは彼らなりに苦労していることも八幡は理解してしまった。そういう苦労が、八幡にはどうしても合わないのである。

 

 対して陽乃は、そういう苦労を厭わない性質で、それを必要だと思っている人間だ。その苦労をそれなりに楽しんではいるようだが、それは単調な作業に自分でルールを設けて楽しみを無理矢理見出してるようなもので、心の底から楽しんでいる訳ではない。他人から見れば十分に満たされているような陽乃にも、鬱屈している部分が多分あった。

 思い出したように陽乃の瞳の奥に見える、どろどろと淀んだ雰囲気がある。それを知っている人間は、この学校では数えるほどしかいないだろう。

 

 

 人間ですらないかもと思えるその雰囲気が、八幡に考えることをやめさせなかった。この人は一体、どういう存在なんだろう。毎日眺めていても、その好奇心が尽きることはない。雪ノ下陽乃には、毎日新しい発見がある。底が見えない。安心ができない。いつ何をされるのか解らない。その緊張感が、全く立ち位置の違う八幡と陽乃を結び付けていた。

 

 陽乃には、そういう魅力がある。自分から陽乃を遠ざけるということは、おそらくない。彼女に比して、比企谷八幡という人間はどうだろうか。無理難題をふっかけられて人間としてレベルアップはしたと思うが、雪ノ下陽乃に匹敵するほどの底を持っているとは思えなかった。あれほどの存在が時間をかければ、いつか比企谷八幡という存在は探求し尽されるだろう。

 

 いつか、飽きてしまうまで。陽乃自身が宣言したことだ。

 

 八幡に陽乃をつなぎとめる手段はない。みっともなく足にすがる人間はきっと、陽乃の意識をつなぎとめておくことはできない。離れていく時は、追わない。それが彼女に対する正しい対応なのだろうが、その瞬間を想像した八幡の心にやってきたのは、一抹の寂しさだった。おそらくこの寂しさが、恋なのだろう。

 

 陽乃の挨拶が終わる。これから生徒有志によるステージが始まる。

 

 タイムテーブルの管理をしているのは別のスタッフだ。参加者が待機しているのも向こうだから、通信を統括する八幡の仕事は、実のところそれほどでもない。

 

 深呼吸をして肩の力を抜くと、陽乃がこちらにやってくるのが見えた。予定では、陽乃がはけるのはあちら側である。生徒会長で、かつ実行委員長でもある陽乃は、これからのステージの司会もかねている。生徒がいるのはあちらの袖だ。司会進行をスムーズに行うためにも、こちらに来る意味はない。

 

 間違えてませんか。

 

 陽乃に限ってそんなことはありえないが、手振りでそれを伝える。陽乃は軽く、首を横に振った。すたすたと歩み寄ってきた陽乃は、そのまま八幡をぎゅっと抱きしめた。いきなりの行動に八幡が目を剥いていると、気を利かせた他の実行委員が即座に舞台袖から消えていった。

 

「いきなりどうしました」

「何か、珍しく寂しそうな顔してたんだもん。気になっちゃった」

「そんな顔してましたか?」

「普通の人には解らないかな。解るのは私か、小町ちゃんか、後は静ちゃんくらいだと思う」

「三人ですか。結構いますね」

「そうだね。私なんて0だもの」

 

 そこで俺が、と少しでも言いたいと思った自分に、八幡は驚いた。その言葉は口を突いて出ることはなかったが、何か言おうとした、という反応はしてしまった。一瞬にも満たない僅かな反応であるが、それだけで陽乃には十分だった。どういう理由で、何を言おうとしたのか。眼前の女王は犬の心理を一目で看破する。

 

「八幡の好意を感じる」

「今日は珍しくストレートですね」

「お祭の雰囲気にやられちゃったのかな。でも、たまにはこういうのも悪くないと思わない?」

「まぁ、たまにはいいんじゃないですかね」

 

 女王にも人恋しくなる時があるのだろう。男としては役得でもある。それを顔に出さないようにしながら、ステージを見る。逆サイドの舞台袖の実行委員が、仕切りに手を動かしていた。司会の案内がないと、生徒が出てこれないのである。間近に、陽乃の顔がある。息のかかる距離である。視線で陽乃を促すと、陽乃は八幡を抱えたまま綺麗にターンした。耳元で、司会進行の声を聞きながら、八幡はプログラムに目を落とす。

 

 ステージ発表は六時から七時半まで。それから三十分の準備期間を経て、八時から外でキャンプファイヤーを行う。文化祭終了は夜の九時。高校で催されるイベントとしては、ギリギリの時間と言えるだろう。

 

「実はさ、一緒に踊らないって誘われたりもしてるんだよね。男の子からも、女の子からも」

「まぁ、陽乃なら当然でしょうね」

 

 陽乃から誘うことはない訳だから、一緒に踊りたいのなら自分で誘うしかない。声を挙げただけ、彼ら彼女らは勇気と意欲があったのだろう。だが、女子はともかく男子にどういう対応をしたのかは、八幡にすら解った。自分を大事に思ってくれているからとか、そんな甘いことは思わない。身の程を弁えない好意に、陽乃はとても厳しいのだ。

 

「とりあえず踊ってあげて、八幡の反応でも見ようかなと考えなかった訳じゃないんだけどね……寂しそうな顔みたら、そんな考えも吹っ飛んじゃった。一緒に踊ってあげるよ、八幡。時間が許す限りずっとね」

「どうしたんですか、今日は本当に。もしかしてこっそり酒でも飲みました?」

「んー、飲んでみたい気分ではあるかな。一緒にどう?」

「せめて学校を出てからにしましょうか。文化祭のノリとは言え、校内で飲酒騒ぎは笑えません」

「まじめー。それくらいなら握りつぶしてみせるけど、確かにムードは必要だよね」

 

 実はとっておきがあるんだー、と陽乃は楽しそうだった。普通に、表裏なく楽しそうにする陽乃というのも珍しいことである。本当に、祭の空気に当てられたのだろうか。普段を考えると表裏がなさそうに見える、という状況はむしろ恐ろしい部類に入るのだが、それなりに陽乃を見慣れた八幡の目をしても、今の陽乃は本当に楽しそうに見えた。

 

 そういう日もある。そうやって思考を放棄するのは簡単だった。そういう面があっても良いというのは八幡の願望であって、事実ではない。何か裏があるのではと常日頃から考えるのは、用心深いを通り越して病的ですらあるが、八幡と陽乃の間にあっては日常茶飯事だった。

 

 陽乃が、八幡を見る。その奥に、いつも感じるどろりとした物は見えない。見えないはずがない。八幡は目を凝らして、陽乃の瞳を覗き込んだ。

 

 その瞳の奥に、疑心暗鬼になっている自分の姿が見えた。その少年は実に滑稽で、必死な顔をしていた。その顔を見て、八幡は落ち着きを取り戻した。深呼吸をして身体の熱を追い出し、陽乃を抱きしめる腕に、力を込める。

 

「……どうかした? 八幡からこうするって、初めてじゃない?」

「そんなことはないと思いますが……まぁ、そういう日もあるんですよ」

「そうだね。そういう日があっても良いよね、たまには」

 

 たまには、と念を押してから陽乃の方からも腕に力を込める。あの雪ノ下陽乃が儚く見えるのは、おそらく気のせいだろう。

 

「今日の発表を見てさ、バンド演奏とかやりたいと思ったんだよね。八幡、何か楽器とかできる?」

「できると思いますか?」

「じゃ、練習だね。勿論私が歌うから、八幡はギターでもやってよ。めぐりもキーボードくらいならできるかな。静ちゃん、ドラムとかできそうな気がしない?」

「流石にそれはないんじゃないですかね」

 

 万能そうに見えて実際色々なことを知っていて色々なことをできる静であるが、根本的なところで何かが足りないような気がする。おそらくそれが、あの容姿をして男性の影がないという現状に繋がっているのだと思うが……それはともかく、特殊な楽器担当として最初から静を勘定に入れるのは危険な気がした。

 

「それなら静ちゃんにも練習してもらえば良いか」

「来年は実行委員会とかやらないんですか?」

「一回やれば十分でしょ。今回十分に私は仕事したし、生徒会でも引退するまでにやりたいことは全部やるつもりだよ」

「それはまた忙しくなりそうですが、まぁ、陽乃が飽きるまで、俺はここにいますよ。何しろ俺は、女王様の犬のようですから」

「犬が欲しかった訳じゃないんだけどなぁ……でも、まぁ、良いか。ただ、解ってると思うけど、もし八幡の方から離れていったりなんかしたら……」

 

 儚かった陽乃の雰囲気が、一瞬でいつものように戻る。そこから先は言うまでもない。雪ノ下陽乃は、やると言ったことは必ずやる。その時、比企谷八幡には想像を絶する不幸が舞い込むのだろう。

 

 こちらを覗き込む陽乃の目には、どろどろとした黒いものが見えた。決して、愛を囁くような目ではない。輝いていたと思ったら、すぐに淀んでしまった。それが雪ノ下陽乃であり、そんな陽乃だからこそ八幡はここまで着いてきたのだ。

 

 陽乃自身が見切りを付けるまで、この関係はずっと続くだろう。できることなら、最後まで付き合ってみたいものであるが、そこは陽乃次第だ。彼女の気まぐれがいつまで続くのか、八幡には窺い知ることはできない。明日には切られるかもしれない。そんな恐怖を抱えながら、八幡はステージを見た。

 

 スポットライトを浴びながら、出し物をしている生徒がいる。これこそ青春と、今という時間を謳歌している彼らはきらきらと輝いていた。そんな彼らを八幡はぼんやりと眺めた。

 

 死んだ魚のような目、と陽乃が評した目はその頃よりも更に、鈍く淀んだ色をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




一応、これで本編は終了です。
最後にちょろっとエピローグ的なものを追加して最終回となります。

続編があるとしたら今度ははるのんではなくゆきのんがメインになると思いますが、現在構想中です。

ともあれ後一話となります。どうぞ最後までお付き合いください。


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雪ノ下雪乃は、過去に思いを馳せる

 

 

 人の集まる場所というのが、雪乃は好きではなかった。

 

 単純に、他人というものが好きではないのだろう。学生時代は自分の性質について色々な理由を考えてみたものだが、結局はそういう結論に落ち着いた。

 

 仲良くしている人々を否定する気はないが、何が何でもという思いはなくなった。自分のそういう部分を受け入れられるようになったのは、この人たちさえいれば、と思える程の親友ができたからだろう。高校生の時に出会った彼女らとは、今でも連絡を取り合い、たまにではあるが顔を合わせている。鬱屈していた中学時代に比べれば、よほど充実した人生を送れていると断言できるようになったことを、高校の恩師はきっと成長と言うのだろう。

 

 ただ、成長した身にも煩わしく思うことがない訳ではない。

 

 こういうパーティも、その一つだった。

 

 とかく、政治家というのはパーティというものを開きたがる。資金集めをするのが主な理由ではあるが、コネクションの維持、拡大にも利用されている。雪乃にとっては最も参加したくない催し物の一つである。自分では絶対に参加しないイベントに参加しているのは、実家からの要望があったからだった。両親主催のイベントであれば雪乃も断っただろう。昔ほどに、彼らのことは怖くなくなった。精神的に自由になった雪乃が参加しても良いという気分になったのは、これが両親主催ではなく、姉の主催だったからである。

 

 昔から何でもできた姉は、議員になった。

 

 ただ、県議会議員を経て県知事になった父とは異なり、彼女は最初から国会議員の道を選んだ。25歳の年に立候補し、初当選。それから二度の選挙があったが、その度に得票を伸ばし、当選を果たしている。地元の顔で、若手議員の筆頭と目されている人物だ。入閣も近いと噂され、日本初の女性総理大臣の最有力とも囁かれている。彼女の周囲には人が集まり、関係を築こうと必死になっている。

 

 姉は今でも、選ぶ立場だ。役に立つ人間を取捨選択し、そうでない人間でも思うように利用する。他人を何とも思っていない人間が政治をするなど世も末だと思わないでもないが、陰謀渦巻く政治の世界は水があっていたのか、今、彼女は活き活きとしていた。精力的にあちこちに顔を出しては、コネクションを広げることに精を出している。

 

 それを支えるのは、学生時代から付き従う一人の男性だった。辣腕で鳴らす姉を支える、有能な秘書。

 

 名前は比企谷八幡と言う。現在は比企谷となった、旧姓雪ノ下陽乃の夫だ。

 

 陽乃が家を出たのは、雪ノ下の人間にとっては青天の霹靂だった。

 

 雪ノ下の家は陽乃が婿養子を貰って継ぐものだと誰もが思っていたし、特に雪乃の両親は強くそう思っていた。特に陽乃が議員となり、親元を離れ独り立ちをしようかという頃になって、その思いは強くなっていった。

 

 その当時も、陽乃は後に夫となる八幡と交際を続けていたのだが、学生時代はともかくとして、陽乃が八幡と付き合うことに陽乃の両親はあまり良い顔をしなくなった。もっと他に相手がいるだろうと、何度も縁談を企画してはみたものの、それらは陽乃自身の手によって握りつぶされてしまう。社会に出て、自身で立場をもぎ取り、才能に見合った権力を持つようになった陽乃は両親に対しても遠慮なく反抗するようになったのだ。

 

 その当時の権力を数値化できたとするならば、当然ではあるが両親の方が大分強かった。その時点で陽乃が勝てる相手ではないのは間違いなかったが、権力の拡大よりも維持に努める両親に対し、陽乃は若さに見合った野心を持ち、その権力を急速に拡大させている最中だった。勝ち馬に乗って一稼ぎしようという人間にとって、雪ノ下陽乃というのは非常に魅力的な存在だったと言えるだろう。

 

 叩き潰すのは容易いが、そうなることを望まない人間が陽乃の周囲には多くいたのだ。その中には当然、両親が懇意にしていた人間も多くいた。陽乃は両親のコネクションを少しずつ自分の物にしていたのである。

 

 いずれ彼我の立場は逆転する。

 

 それが遠くない未来だと悟った両親は、攻める方向性を変えた。性急にではなく、じわじわと包囲を狭めることにしたのである。敵対する人間として陽乃は最上級の強敵だったが、両親も長年曲者を相手に戦ってきた古狸である。全力でかかれば陽乃とて抵抗する手段はない。彼らはそう本気で信じていたし、事実、離れて見ていた雪乃の目から見ても、陽乃は追い詰められているように見えた。

 

 それが錯覚であったと当時から察せられたのは、陽乃の他には、最大の理解者である八幡くらいのものだったろう。

 

 陽乃が電撃的な反撃に出たのは、両親が本腰を入れた僅か一月後のことだった。

 

 突然、雪ノ下陽乃のスキャンダルが報じられたのである。秘書の男性といかがわしいホテルに入る光景が、週刊誌にすっぱ抜かれたのだ。これが清廉なイメージで売っていた議員ならば大問題だったろうが、清廉というのは陽乃から最も遠い言葉だった。無論、無傷とはいかないだろうが、大したダメージにはならないはずだった。

 

 だが、この時ちょうど世間は退屈に飽いており、そんな中飛び込んできた陽乃のスキャンダルは、世間を多いに沸かせることになった。深夜に伝えられたそのスキャンダルは、早朝、各局のニュース番組で伝えられ、その昼には全国に広まった。陽乃が記者会見を開いたのは、その晩のことである。この時、雪ノ下の家にもその情報は伝えられていたが、彼らも多くの国民と同様に、テレビによって陽乃の居場所と今後の方針を知ることになった。フラッシュの中に立つ陽乃を画面の向こうに見て、両親が激怒したのは言うまでもない。

 

 主だったメディアが全て集まった会場で、陽乃はただ『事実』を伝える。

 

 秘書の男性は高校生の時から交際している恋人で、結婚を約束した仲である。お互い大人なのだから、そういうことをするのも当然のことだと。ついでに他人の性生活に首を突っ込むのはいかがなものかと、マスコミ相手に持論を説いた。

 

 居並んだマスコミは皆、一様に苦笑を浮かべた。事実、その通りだったからだ。しかし彼らも仕事でそこにいるのだ。性生活に首を突っ込むなと正論を言われ、はい解りましたと帰る訳にはいかなかった。相手はどういう人物で、現在どの程度の関係なのか。マスコミの中には当然、陽乃に通じた人間もいた。陽乃の意図に沿った方向で話題は進んで行き、秘書の男性の人間像を掘り下げ、浸透させていった。

 

 そうして、『現在交際している人間がいて、その人物と結婚する』という情報は、陽乃の手によって事実とされていく。

 

 トドメを刺したのは、記者会見の最後、当のお相手も会見に応じると陽乃から発表されたことである。話すのは陽乃だけと思っていたマスコミは、思わぬゲストに沸きに沸いた。

 

 陽乃の紹介で登壇したのは、スーツを着込んだ細身の男だった。

 

 美形と言って良いだろう。顔立ちはそれで売り出せる程度には整っており、身長もそれなりにある。周囲の目をひきつけたのは、その目だった。かつて陽乃が『死んだ魚のような目』と評した目には、学生時代とは比べ物にならないほどの活力が宿っていたが、斜に構えた雰囲気はその目に、まだ色濃く残っていた。

 

 言葉を発する前から彼は『この人間は一筋縄ではいかない』ということを見た人間全てに悟らせていた。目は口ほどに物を言うを体言した男は、壇上に立つと困ったように頭をかいた。緊張しているのは、誰の目にも明らかだった。

 

 彼――比企谷八幡は議員ではなく秘書である。会議でプレゼンするのはともかくとして、こういう場で言葉を発する機会は少ない。緊張するのは当然のことだ。俗人離れした陽乃の秘書の、俗人らしい反応にマスコミは引き込まれていく。

 

 これでこの態度が計算であれば大したものだが、いざという時は別にして比企谷八幡という人間は人前に出たがる性格ではなかった。この時の態度は普通に大勢の人間を前に緊張し、挙動不審になっていただけである。

 

 そんな八幡から聞かれたのは、陽乃が話していたのとはほとんど変わらない内容だった。高校を卒業して、陽乃と同じ大学に進学。学部が違ったが順調に交際を続け、大学を卒業してからは陽乃を補佐することを仕事とするようになった。高校生の時から関係が続いているのだから、十年近い付き合いとなる。そんなカップルが結婚を考えていると言うのだから、浮っついた遊びの話ではなく本気に違いない。

 

 それは記者の間に浸透していき、そして世間に伝わる。陽乃が欲していたのは、外堀の更に外からの援護射撃だった。こんな会見を開いたにも関わらず親が強引に相手を決めて、その人間と結婚するなどという話になれば、非難は避けられない。両親は自分達主導の結婚を諦めざるを得ない。勝手なことをしたことで、両親との仲は更に冷えるだろうが、目的を達成できるのならば、その他は陽乃にとっては些細なことだった。

 

 陽乃の計画の通り、話はとんとん拍子に進んでいく。彼女にとって計算外のことがあったとすれば、この直後の話だろう。

 

 一通りの説明を終えた後、八幡は陽乃に目をやった。事前に打ち合わせをしていた通りのことを八幡は記者を相手に語った。仕事はこれで十分である。陽乃が記者会見を切り上げようと壇上の中央に戻ってきた時、八幡はそっと陽乃の肩を押さえた。行動を邪魔された陽乃は、反射的に八幡に視線を送る。

 

 その陽乃の前に、八幡は膝をついた。眼前にいるのは結婚を考えている間柄の男女であり、そして膝を着いたのは男の方。そこから考えられることは一つしかなく、普段からゴシップに慣れ親しんでいる彼らにとって、『その結論』に行き着くのは当然のことだった。

 

 おそらくその場で、最も状況を理解していなかったのは陽乃だったろう。聡い彼女が集団の中で一人置いていかれているなんて状況は、彼女の人生を振り返っても数えるほどしかなかったに違いない。

 

 そしてそれは『雪ノ下陽乃の最初にして最後の敗北』として多くの人間の記憶に残ることになった。後に世界にも名を馳せることになる彼女に明確に土をつけた人間は、後にも先にも比企谷八幡しかいない。

 

 陽乃が固まっているのをおかしそうに眺めながら、八幡は懐からビロードの箱を取り出し、それを開けて陽乃の前に差し出した。

 

 

 

「ここで歯の浮いたことでも言えれば良いんでしょうが、俺にはこの辺が限界でした。だから単刀直入に言います。俺と結婚してください」

 

 

 

 全ての人間の視線が、陽乃の方に向く。状況を漸く理解した陽乃は目に涙を浮かべながら、不敵に笑って見せた。

 

 犬が飼い主を出し抜いたことに対する怒りがある。満座の人間の前で、醜態を晒してしまった恥辱の感情がある。本音を言えば今すぐにでも、力の限り拳を振り下ろし、殴り飛ばしてやりたかった。

 

 想定外のことをやってのけた眼前の男に、陽乃の視線が釘付けになる。

 

 学生の頃からぶつぶつ文句を言いながらも、ついてきてくれた。大学を選ぶ時も当然のように同じ大学を選んだその男は、そこが自分のいるべき場所だとでも言うように、秘書として仕事を始めていた。

 

 昔から陽乃の周囲には多くの人間がいた。隣に立とうとした人間もいたし、着いてこようとした人間もいる。

 

 だが、本当に追従してこれたのは比企谷八幡ただ一人だった。自らを犬と言う人間にして、最大の理解者が心のどこかで欲していた言葉を、予想外のタイミングで言ってきた。久しく感じていなかった明るい感情が、胸に満ちていく。

 

 そこで衝動に任せて行動できたら、どんなに楽だっただろう。

 

 しかしそれでは、雪ノ下陽乃ではいられない。理性を総動員した陽乃は、震える手で箱を受け取り、指輪を左手の薬指にはめた。誂えたようにぴったりと収まった指輪を眺めながら、陽乃は滑るようにして踏み込んだ。

 

 反撃がきた。八幡の理解は早かったが、緊張した上に片膝をついた状態では満足に動くこともできない。

 

 結果、衆人環視の前で強引に唇を奪われた。陽乃が比企谷になると決意したのは、この時のことである。

 

 後にこの出来事は多くの人間に『比企谷八幡の唯一の勝利』として、記憶に残ることになる。この話をすると彼はいつも苦虫を噛み潰したような顔をするが、彼をやりこめることのできる数少ない話題のため、いつまでたっても、彼の関係者はこの話をすることをやめない。

 

 

 

 そんな衝撃的な記者会見をしたものだから、両親はもう何も言えなくなってしまった。こそこそと進めていた縁談は即日破談となり、勝手に事を進めた陽乃との間には深い溝ができた。これから売り出していこうという人間に、権力者の両親との溝は決して軽いダメージではなかったが、自分の力を確信していた陽乃には、そんなものは何処吹く風だった。

 

 陽乃は八幡と二人で道を切り開き、色々なものを勝ち取った。今、二人の周囲にはこの世における幸せの全てがある。きらきらと輝いて見える二人を、雪乃はいつも眩しそうに眺めるのだった。その視線に、寂しさが含まれていることに気づけるのは、彼女をよく知る人間だけだろう。この場に親友たちがいれば雪乃もそこまで油断しなかったのだろうが、この会場にいるのは雪乃一人だ。パーティの主役は今、多くの招待客に囲まれて忙しそうにしている。彼らを眺めながら飲む酒も悪いものではない。

 

 

「雪乃さん」

 

 

 鈴の転がるような声と共に、ドレスの裾が引かれる。慌てて視線を降ろすと――そこには天使がいた。

 

「お久しぶり。会えて嬉しいわ」

「私もよ、陽華さん。また大きくなったみたいね」

 

 黒いドレスを着た天使は、裾を摘んでお辞儀をしてみせた。雪乃にとって姪に当たる少女とは、良好な関係を築けている。

 

「この間、学校で劇をやったそうね。私も行きたかったのだけれど、どうしても外せない仕事があって。行けなくてごめんなさい」

「八幡くんが録画していたみたいだから、声をかけると良いわ。きっと喜んでダビングしてくれると思うから」

 

 苦笑しながら、陽華は八幡の方を見た。彼女の父親は、陽乃の影として今日も付き従っている。秘書の鑑と名高いあの男が大層な子煩悩であると知ったら、多くの人間が驚くことだろう。辣腕秘書と名高い彼が愛娘には相好を崩して接するのである。その落差に笑いを堪えるのに苦労したものだが、その娘が眼前の少女であるならばそれも仕方のないことだと思えた。

 

 あの人格破綻者二人からどうしてこんな天使が生まれたのか。雪乃が知る中で、最も奥深い謎である。

 

 比企谷陽華――八幡と陽乃を両親に持つ少女は、叔母を前に天使のように微笑んだ。 

 

「そう言えば雪乃さん。お見合いをするって陽乃さんから聞いたんだけれど、本当?」

「今日、してきたわ。お断りすることになると思うけれど」

 

 取るに足らない男だった。少なくとも雪乃の目にはそう映った。どうするかは自分で判断して良いと言われている。おそらく両親もそれほど乗り気ではなかったのだろう。陽乃が外に出て行った時点で、あの二人は雪ノ下という家についてほとんどを諦めた。自分には何も期待していないと言われているようで、当時は相当気分を害したものだが、今は自由を謳歌することにしている。姉夫婦には負けるだろうが、今雪乃は十分幸せだった。

 

「そうなの? お金持ちで、ハンサムな人だったと聞いたけど」

「深くは知らないけど、多分それだけよ」

 

 知った風な口をきく雪乃に、陽華は知った風な顔で頷いた。

 

「つまり、雪乃さんはまだ、八幡くんのことが好きなのね?」

「…………どういう理屈でそういう結論に至ったのか、教えてほしいのだけど?」

「別に隠さなくても良いわ。陽乃さんは知ってるし、八幡くんも察してる。娘の私としても、大好きな雪乃さんがより近しい関係になるのは好ましいことなのだけれど――」

「私が言えた義理ではないけど、貴女はもう少し倫理というものを考えた方が良いと思うわ」

「そう? 皆が幸せになれるなら、それに越したことはないと思うのだけれど」

 

 それが当然、というように陽華は微笑む。

 

 あの二人から生まれたこの少女は信じられないほどに聡明だが、あの二人の娘だけあってどこか破綻していた。

 

「私、今幸せよ? 八幡くんも陽乃さんも忙しくてあまりお家にいないけど、八幡くんなんて一日に何度も電話もメールもしてくるし、陽乃さんの声を聞かない日はないわ。どんなに忙しくても幼稚園や小学校の行事には来てくれるもの。私、二人に愛されてるんだなって感じてるわ」

「その中に私が入って良いってことはないはずよ」

「雪乃さんならって思うの。結衣さんでも小町さんでもいろはさんでもダメ。八幡くんも陽乃さんも大事に思ってる雪乃さんなら、私、協力しても良いわ」

「陽華さん――」

 

 彼女の提案は、非常に魅力的なものに思えた。今なら、その提案を承諾してもワインに酔ったせいだと言い訳にできる。所詮は子供の言葉である。彼女にそんな力があるはずがない。

 

 だが、比企谷陽華ならば。あの二人の血を受けたこの少女ならば、それくらいは可能なのではないか。全く心が動かなかったと言えば嘘になるだろう。それだけ陽華の提案は、雪乃にとって魅力的だったが……それだけだった。

 

 陽華はとてつもない才能を持った少女ではあるが、雪乃もまだ、それに負けるつもりはない。波立った心を落ち着かせ理性を取り戻すと、優しく姪の頭に拳骨を落とした。

 

「――姉さんからいくらで雇われたの?」

「失礼ね。私、お金で雪乃さんを売ったりしないわ」

「質問の仕方が悪かったわね。何で、私を売り渡したの?」

「一晩八幡くんを貸してくれるの。腕枕をしてもらって、ご本を読んでもらうのよ?」

 

 いいでしょー、と微笑む陽華に悪びれた様子はない。聡明で愛らしい少女は、しかし年相応に両親を愛しており、特に父親のことが大好きだった。

 

 雪乃は胡乱な目つきで、年端も行かない少女に叔母を売らせた、諸悪の根源を見た。愛する娘が叔母と一緒にいることで、何の話をしているのか察したのだろう。雪乃の視線を受けて陽乃は小さくウィンクをしてみせた。様になっているその仕草が、心の底から憎らしい。

 

「その内家族が増えるでしょうから、その好意は妹か弟に向けてあげなさい」

「今三ヶ月目だって。私、妹が欲しいわ」

 

 無邪気に微笑む陽華に、雪乃は在りし日の姉の姿を見た。全く根拠のない断定であるが、生まれるのは妹だろう。生まれてくる少女は才能のある姉を見て、何を思うのだろうか。自分のような思いは抱いてほしくないと思いながら、雪乃は姉を見て、そして八幡を見た。

 

 在りし日に抱き、今もなお風化していない思いが胸にこみ上げてくる。

 

 あの日軽井沢で初めて見た時から、お互いに風貌も立場も随分と変わった。

 

 内面はどうだろうか。考えて、雪乃は自分も彼も、それほど変わっていないと結論づけた。

 

 彼の不変は美徳だろう。人間として劇薬である陽乃の近くにあって、彼は自分を見失わずに高めていき、今もまだ姉の隣に立っている。

 

 対して自分のこれは欠点だろう。雪ノ下雪乃は今も足踏みをしたままだ。

 

 八幡に向ける視線に込められているのは羨望であり嫉妬であり、そしてわずかばかりの恋慕だった。

 

 

 

 

 そうして、ゆっくりと――

 

 

 

 

 




元々、記者会見とパーティは別パターンのエンディングとし用意していたものでしたが、いっそ統合しようということで一緒になりました。

ゆきのん編に続く形で、はるのん編は終了となります。
ゆきのん編は現在構想中ですので気長にお待ちください。

ここまでお付き合いありがとうございました。
次話もよろしくお願いします。


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