ガゼフ・ストロノーフ伝 (Menschsein)
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1章 ストロノーフ傭兵団
1.カッツェ会戦


 太陽はすでに蒼天に輝いている時刻であるはずなのだが、カッツェ平野の地面へとその光が届くことはなかった。平野を覆っているのは濃霧である。薄暗い平野にただ、行軍の足音と太鼓の鼓動が響いていた。

 

「全軍、停止せよ」

 馬に跨がったボウロロープ候がスレイプニールの手綱を強く引きながら指示を出した。

 その指示を聞き取った指揮下の者達がそれを復唱し、やがてその指示が太鼓の音色となって全軍に伝わっていく。各地で一糸乱れなかった太鼓の音が波紋のように音調を変えて、やがて停止してした

 大気を振るわせていた太鼓の音色が止むと、先ほどまで濃霧の中を響いていた行軍の足音も止まった。リ・エスティーゼ王国の全軍の指揮権を預かる彼だからこそできる指示であった。

 

「この霧が薄くなったら、総攻撃をしかけるぞ。我々貴族の有能さを王に天覧頂かなければならぬからな」

 

 そういいながら、ボウロロープ候は自らの首を左後ろへと向けた。ボウロロープ候の視線の先には、なだらかな丘とその丘の上で揺れるリ・エスティーゼ王国の国王の旗であった。そこはリ・エスティーゼ王国の国王、ランポッサⅢ世の駐屯地だ。平野といえど地形に起伏は存在する。そして、戦場となる場所では、その僅かな起伏が勝敗を決する場合も有り得る。高い場所から低い場所へは攻めやすく、低い場所から高い場所は攻めにくい。軍を指揮する者ものなら当たり前に分かることである。

 今回のバハルス帝国との戦いにおいて、国王をその場所に布陣するように采配したのは、ボウロロープ候自身である。

 攻めるのに難い場所に国王を布陣させる。それは、万が一にも玉体に何かあってはいけないということである。

 ――が、それは建前である。安全な場所で高みの見物をしていろ。王の出番などはない。それが、ボウロロープ候の、そして今回の主軍を占める貴族派の本音であった。

 ボウロロープ候の陣営から正面にうっすらと見えるのは、揺らめく無数の旗だ。その旗は、確認しなくても分かる。帝国旗――バハルス帝国の国章だ。

 

 ボウロロープ候が、いや、リ・エスティーゼ王国が対峙しているバハルス帝国を指揮するのが、皇帝ドミニク・ムートン・ブリオン・ラフィット・エル=ニクス。バハルス帝国は先代の皇帝から貴族の力をそぎ落とし始めている。偵察隊の報告を考えても、バハルス帝国の布陣は、反皇帝勢力である帝国貴族に最も戦死者の多い場所を任せている。

 リ・エスティーゼ王国は、国王の力をそぎ落とし、バハルス帝国は貴族の力をそぎ落とす。

 ボウロロープ候は、予定調和の季節を心から歓迎していた。

 

 ・

 

 王国と帝国の幾度と無く続くカッツェ平野での戦い。その行く末を眺めていたランポッサⅢ世は、勝利とも敗北とも言い難い会戦を眺めていた。

「この戦い。実質的には王国の敗北だ。多くの民を死なせてしまった」とランポッサⅢ世は独り言を馬上で言った。苦虫を噛みしめたような表情であった。

 

 ボウロロープ候を初めとする貴族たちは、この戦いを勝利だと喧伝し、報償を貪るつもりであろうということは簡単に予想できる。激戦となり死傷者が多いのは、王族派と呼ばれるランポッサⅢ世に親しき貴族たちの領土の農民たちだ。もしくは、全滅したとしても誰の損害にもならない傭兵団——結局は傭兵を賄った費用は国庫から支出されるので国王の負担ということになるが——たちばかりだ。

 バハルス帝国との戦いであるにも関わらず獅子身中の蟲との戦いとなる。自分の代だけでは終わることのないであろう王族と貴族との水面下の争い。その争いの矢面に立たされるのは常に民である。

 ランポッサⅢ世は、再び戦場に目を向ける。既に左翼は、弓矢や魔法が飛び交い、激しい戦いをしているように見えるがそれは単なる偽装に過ぎない。お互いに距離をとって被害を受けないように牽制しあっているだけである。

 その戦いを見ながら、ランポッサⅢ世は敵でありながらもバハルス帝国のドミニク皇帝の手腕に舌を巻く。帝国は今回の戦いで、貴族の力をまた一段と削いだ。民とは、兵士であり、力の源泉である。そして、富の源泉でもある。そして、民は農作物のように季節が巡ればまた実るというものではない。一度失った人間の命は、十年、二十年という単位でやっとその数が回復するのである。

 王国の貴族の力を削ぐには、その貴族の領地の民の人口を減らせば良い。そして、その最も手っ取り早い方法が戦争である。

 貴族の力をそぎ落とすという目的における戦争。国を一つに纏め上げ、自らの力を強大化させる方法としては非常に合理的である。だが、この国の王として、自分はその手段を選ぶことはできない。一つ目の理由が、すでに貴族たちを危険な前線に立たせることを強いることができない。そんなことをすれば、内戦になるであろう。そしてもう一つの理由が、その方法を取るのであれば、多くの民にこのカッツェ平野で眠って貰わなければならなくなるということだ。リ・エスティーゼ王国で国王である自分の地位が圧倒的になるには、反王族貴族たちの力を2割ほど削らなければならない。そうすれば、いやそうできれば……。

 ランポッサⅢ世は、その考えを打ち消すように首を振った。その力の2割とは、民の命なのだ。それも、若く力のある男の命。耕す者がいなくなった農地ほど荒れ果てるのが早いものはない。寡婦の嘆きほど、悲しい歌はない。

 自らの野心を抑えたランポッサⅢ世は、再び戦場に目を向ける。乱戦となっている鶴翼の陣の右翼だ。左翼とは違い、命と命を削る戦いをしている。

 

「鶴翼の陣の右翼の中央。良く持ち堪えておるわ」

 敵味方が入り乱れた混戦した場所。帝国軍の三倍の兵力と対峙しながらも長いこと戦線を維持していた。早々に後退の指示が出て、魔法や弓矢による遠距離攻撃が主体となった、ランポッサⅢ世から言わせれば茶番な戦い――ボウロロープ候から言わせれば軍の指揮を預かる者が拠出した兵士達が活躍していると証明する戦いの場――となっている左翼とは大違いであった。

 

 死体を自らの盾として戦い、血糊がついて切れ味が悪くなった剣を拭う暇も無く死体から剣を拾い上げてそれで敵に斬りつける戦い。

 呪われたカッツェ平野。不死者(アンデッド)が誕生するこの地において、より生者を憎む上位の不死者(アンデッド)が誕生するのであるならば、彼の場所がその地となるだろうとランポッサⅢ世は思う。そして、その不死者(アンデッド)が最も憎むべき相手は自分であろうとも思う。

 

「あれは、ストロノーフ傭兵団です。生き残れば死体漁りで儲けられると思っているのでしょう」と、レエブン侯が怒りと侮辱を交えたような口調で言う。金貨によって、王国側にも帝国側にも付く存在。帝国が常備軍を持つようになってからは王国が彼等のお得意様となっているが、状況――つまり金によって、矛先を簡単に変えるであろう。

 傭兵団としても彼等の目的は、カッツェ平野に大量に残される死体だ。それもただの死体ではない。武器や防具を着けた金になる死体なのだ。傭兵団は、それを漁る禿鷹でもある。死体から武具を剥ぎ取り、そして埋葬する。

 本来ならば手厚く葬るべきことではあるが、カッツェ平野では不死者(アンデッド)が生まれやすいという特性であるがゆえにそれには危険が伴う。それに、帝国領土で生者を憎む不死者(アンデッド)が生まれるというのは、王国にとっては歓迎すべきことがらなのである。

 

「そう言ってやるな……。安らかに眠れるようにしてくれる、ということだけでも王国にはできないことだぞ」

 ランポッサⅢ世は、大人が子供を諫めるようにレエブン侯に言う。そして、レエブン侯の言葉を聞いて、まだまだ若いな、と思ってしまう自分は歳を取ったのであろう。レエブン侯。六大貴族の一角を担う若き当主として野心は隠し切れていないし、王国の為に戦った民の遺体を貪ることに嫌悪感があるのだろう。若者らしい正義感も持ち合わせている。

 もっと冷酷な計算高い男かと思っていたがな、とランポッサⅢ世はレエブン侯の評価を改める。もちろん、信用できる人間であると彼の評価を一段高めたのだ。戦場で共に(くつわ)を並べてみなければ分からない人間の本質も存在するのである。

 

「それにしても良く戦っている。ストロノーフ傭兵団か。この戦いが終わったら彼等に特別に報いねばならぬかな?」

 

「それは無用でしょう。彼等は金で雇われただけ。陛下が労を報いるべきは、この戦いに参加した我々貴族でしょう」とレエブン侯も、右翼で繰り広げられている戦いを凝視している。

 

「ただ……陛下が個人的に報いたいのであれば私財を使われるのであれば問題はないでしょう。それに、金のことしか頭にない連中とは言え、犬ほどの忠義がもしあるのであれば、役に立つときが来るかもしれません」

 レエブン侯は、戦場を眺めながら呟くように言う。

 カッツェ平野での戦いは終わりを迎えようとしていた。ランポッサⅢ世の戦いの場所も、レエブン侯の戦いの場所も、カッツェ平野から、形ばかりの停戦条約の会談へ、そして、王都リ・エスティーゼの舞踏会へと移ろっていくのである。

 



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2.霧の中を走る船の噂

 王都に帰還し、今回の戦いの傭兵料を受け取ったガゼフ達は、酒場で飲み明かしていた。

 だが、ガゼフの心は晴れない。

 

「なにが褒美をやるから取りに来いだ。糞どもめ」

 

 賑わう酒場のテーブルでエールの空になった木杯をガゼフは叩きつけた。今回のカッツェ平野で死んだ傭兵団の仲間もいる。仲間が死んだことを責めるつもりはない。それが戦いであるし、自分達の飯の種でもあるからだ。ガゼフを腹立たせているのは、自分たちを子飼いにしようという思惑が透けて見えたからであった。貴族の子飼いの傭兵になるくらいであったら、冒険者になった方がましである。

 

「王からの特別の報償。僕は貰っておいた方が良かったと思うけどねぇ。はい、今回の戦いの収支が出たよ。今回は、武具の買い取り額が高かったから結構儲かったよ。春までは全員でしのぐことはできるよ。帝国の兵士の防具は、王国でも良い値段で売れるよ」と、羊皮紙の切れ端と睨めっこしていたヴァレリーはホクホク顔である。ヴァレリーは、神官戦士(ウォープリースト)でありながら商人のクラスもあるという変わり者で、傭兵団の金庫番を務めていた。

 

「死んだミゲルやフューネスには遺族がいるだろう?」とガゼフは死んだ仲間の顔を思い出す。傭兵団は天涯孤独な者が多いが、中にはそうじゃない人間も僅かながらいる。傭兵団に入れば、食住は傭兵団側の負担となる。もっとも「住」に関しては、雨風を凌げる程度のテント暮らしではあるが。

 そして傭兵としての給金を丸々家族に渡す、という者もいるのだ。だが、腕に多少自身があるのなら、冒険者となった方が遙かに良い。それでも傭兵団に入ろうとするのは、つまり、腕に覚えがない、死にやすいということである。

 傭兵団は何も敵を殺すだけが仕事ではない。飯だって旨く作れる奴がいた方がよいし、鍛冶ができる奴がいた方がよい。

 ガゼフも、ミゲルやフューネスは安全な場所——カッツェ会戦で最も死亡率の高い戦闘地域の中で安全という意味ではあるが——に配置したつもりであった。予想以上に混戦状態が長かった。

 傭兵団である以上、戦いに行かないという例外は許されない。だから、ミゲルやフューネスが死んだことで、傭兵団長であるガゼフを責める者などいない。彼等が死なないように最善の手を尽くしていたと団員は知っているからだ。

 

「もちろん、遺族に渡すお金も計算に入れている。三年は暮らせるはずだよ」

 

「五年分だ」

 

「浮いたお金で新しいテントを買おうと思っていたけど……まぁ今回は仕方がないね。ミゲルは弟が二人いるっていってたもんな。ダニエラもそれでいい?」とヴァレリーは、収支の計算をやり直し始める。彼も職業(クラス)は神官である。ガゼフの機微を理解している傭兵団幹部の一人だ。

 

「私は、自分の取り分が減らなければ問題はないわ」と、同じくエールを飲んでいたダニエラが口を開いた。傭兵団と言えど、金に関わることは団長の決定だけではなく、副団長の承認も必要となる。金のために命を張っている。当然、傭兵団の金の流れは公正明大にしておかなければならない。

 

「がめつい奴だ」とガゼフは干し肉を摘まみながら言った。副団長のダニエラ。珍しい女の傭兵である。だが、冒険者に換算すればミスリルの腕はあるのは確かで盗賊(ローグ)である。昔は冒険者であったがいざこざがあって冒険者を除籍されたという経歴があり、ガゼフ傭兵団の古株でもある。

 

「だって、お金はいくらあっても困らないじゃない?」とダニエラは悪びれもなく言う。

 

「溜め込んでも死んだら意味がないってんだよ」とガゼフは口では言うが、もはやダニエラとガゼフの間で、金に関する見解が一致することがないというのは経験上分かりきったことであった。

 

「ねぇ。リグリットの婆さんよ。それに「朱の雫」だわ。誰か探しているみたい」と、ダニエラは酒場に新たに入ってきた人間を見て、声をひそめてガゼフとヴァレリーに伝える。

 

「あ、あぁ。めんどくさい奴らが来やがったな。まぁ、どうせ、あちらさんにでも用があるのだろう?」とガゼフは、自分たちの後ろで同様に酒を飲んでいる方を親指だけを立てて示した。

 ガゼフたちの後ろでは、もうすぐオリハルコンに昇格するのではないかという噂で持ちきりの冒険者チームが酒を飲んでいた。傭兵団と冒険者は、仕事がぶつかることが少ない。冒険者は国家間の争いには関与しないという不文律があるが故に、戦いでは傭兵が必要となるのである。

 ダニエラは、盗賊相手にしか分からない手話でガゼフの向こうに座っている冒険者チームの同じ盗賊と会話をしている。「見えざる手(ジ・アンシーング)」と呼ばれるロックマイア—と手話で情報交換をしているのであろう。

 

「ロックも自分たちに用があるとは思えないってさ」

 

「顔が広いこった」とガゼフはダニエラに言った。別に、後ろで楽しく酒を飲んでいる冒険者チームに因縁を付けようという分けではない。むしろ、自分と同じ平民からオリハルコン級の冒険者が出るかも知れないということは大変喜ばしいことだ。

 

「あら、盗賊も情報収集が大事だもの。特に、誰の懐が温かいかっていう情報はね」

 

「あ、いたいた。よう、兄弟。探したぜ。こっちにエール五杯ね」と、ガゼフを見つけた男が、図々しくも堂々とガゼフの横に座る。

 

「お前の兄弟になった覚えはないぞ? アインドラ」とガゼフはうっとうしそうに言った。王国初のアダマンタイト級冒険者チーム「朱の雫」のリーダーであった。貴族でありながらその地位を捨てて冒険者になり、アダマンタイト級冒険者にまで上り詰めた男。

 

「この老いぼれが座る椅子はないのかな?」とガゼフが座っている椅子の近くで老婆が無邪気に言った。そしてその言葉の直後、酒場にいた冒険者全員が一瞬にして起立し、自分の椅子を老婆に対して差し出す。

 アダマンタイト級冒険者。冒険者にとっては憧れの存在であり、椅子であろうとなんだろうと、アダマンタイト級冒険者に「貸した」とあれば、それは仲間内で自慢できるというものである。

 

「そんなに沢山の椅子には座れないかなぁ」と「朱の雫」のリグリットは笑っている。

 

「さぁ、久しぶりの再会を祝って乾杯といこうじゃないか、兄弟!」とアインドラは杯を掲げる。ガゼフも渋々ながら杯を持った。

 

 ガゼフは、アインドラが苦手であった。いつもアインドラは厄介事を持ち込んでくる。この前も、自分の親類が統治しているアルベイン領を一時的にでも良いから巡廻してくれないかと頼まれ、報酬の割に楽な仕事だと思ったら、オークが大量発生していて討伐に苦労をした。それ以外にも、いつもアインドラには口車に乗せられてしまっている。

 

「でだ、カッツェ平野に行ったんだろう? お前達は、霧の中を走る船を見なかったか?」とアインドラは目を輝かせながら言う。好奇心に満ちた子供のような瞳だ。

 

「いや、見なかったな。そもそも、そんなおかしな代物があるはずないだろう?」

 

「いや、俺は確かにこの両目で見たんだ」とアインドラは演説でもしているかのように語り始める。

 

 先ほどまで賑やかであった酒場もアインドラの話を聞こうと静まりかえっていた。

 

「あれは、カッツェ平野に眠る遺跡を探して旅している時だった。かれこれ半年前だ。深い霧の中を俺達は歩いていた。すると、どこからともなく波の音が聞こえてきたんだ。なんの音だ? と周囲を警戒していると、そいつが突然現れたんだ。でかい船だった。帆を一杯に張った船が俺達の横を通り過ぎていった。そして、その操舵舵を握っていて、驚いている俺達を見つめるエルダーリッチが見えたんだ。そこは紛れもなく平野だ。地面の上を走る船だ。どうだ? お前も気になるだろう?」

 

「そんな冒険者の夢物語は、子供に語るものだろう?」とガゼフは呆れる。

 

「あぁ。今度、姪にもこの話をしてやろう。でだ、俺は考えた訳だ。その操舵をしていたエルダーリッチを倒せば、その船を手に入れることができるのじゃないかってな? 試して見る価値はあると俺は思っている。それでだ。問題なのは、船の速度が速すぎるってことだ。追いかけても見失っちまった。船が現れたら甲板に向かって縄付きの鉤を投げて船を人力で足止めする。その間に俺たち「朱の雫」が船に乗り込みエルダーリッチを討伐する。どうだ? 完璧だろ? だが、その作戦は、人数が必要なんだよ。頼む! 手伝ってくれ!」とアインドラは両手の掌を合わせてガゼフに頼み込む。

 

「どう思う? カッツェ平野から戻って来たばかりでまた彼処に行くのは、俺は嫌なんだが?」とガゼフは傭兵団の幹部達に尋ねる。

 

「その船と出会わない可能性も考えて、報酬を貰えれば、というところでしょうか? エルダーリッチも、「朱の雫」の方が相手して下さるのなら、危険は薄いと思います」と、ヴァレリーは提案に乗ることに前向きなようだ。

 

「アダマンタイトの方達ならお金の払いは良いでしょうし。それに、私達傭兵団も、一艘手に入れたらどうかしら?」とダニエラは提案に前のめりだ。

 

 ガゼフ傭兵団長はため息を吐くのであった。



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3.傭兵団の休日

 結局、「朱の雫」にストロノーフ傭兵団は雇われることになった。出発は一週間後。ポーションなどの消耗品や食料、また、船に乗り込むための鉤縄(かぎなわ)も傭兵団の人数分が必要となる。物資を揃える時間も必要である。傭兵団が必要とする物資を購入する役目は、金庫番であるヴァレリーの役割だ。ヴァレリーは少しでも安く良い品を買おうと、王都中を駆け回るであろうが、他の傭兵団は会戦から帰ってきたばかりということで、今日は訓練も休みで完全な休暇となっている。

 ガゼフは、王都の外に張ったテントから起きだし、木桶に貯めてある水で顔を洗い、そして、王都の城壁を眺めた。

 

「良く、許可が降りたものだな。防衛上、大丈夫なのかよ、この国は」とガゼフはナイフで伸びた髭を剃り落しながら、呆れる。

 

 鉤縄を船に引っ掻けて、船の足を止める。船に引っ掻けた後は、縄の反対を地面に打ち付けた杭に結び付け、船が遠くに行かないようにしなくてはならない。また、場合によっては、その縄を伝って船体へと登るということも想定される。しかし、鉤縄を使うというのは特別な技能だ。野伏(レンジャー)などの職業を持つ者には、慣れているかもしれない。また、攻城戦の経験のある者なら、城壁によじ登るためにもしかしたら使ったことがあるかも知れない。だが、ストロノーフ傭兵団に鉤縄を満足に使える者はさほど多くはない。ガゼフ自身も、鉤縄を上手に操り、上手く船に引っ掻けるというようなことが出来る自信がない。

 そうなれば、訓練をしなければならないということになる。だが、海から距離のある王都リ・エスティーゼでは、また当たり前のことではあるが、陸の上に船などあるはずもない。

 

「城壁があるじゃねぇかよ。そこで訓練すればいいだろう」

 

 アズス・アインドラの破天荒な考えに、ガゼフは舌を巻かざるを得ない。王都を囲む城壁で、霧の中を走る船に鉤を引っ掻けるための訓練をする。

 そもそも、城壁を警備している兵士達が黙っていないであろうというガゼフの予想に対し、アインドラは既に許可は取って置いたと事もなげに言うのである。

 城壁は、王都を守る最終防衛の拠点となる場所だ。その城壁に鉤を引っ掻け、そしてその城壁を攀じ登っていくというのは、一見すると、王都を攻め落とすための事前練習をしているようにも思える。

 ストロノーフ傭兵団が、仮にバハルス帝国側に回って、王都に攻め込むのであれば、城壁を登ったという経験は大きな財産となる。王都の防衛上の観点からも、そのような訓練をする許可を出すというのは如何なものかと思う。

 王国に一つしかないアダマンタイト級冒険者チームの頼みであるから、冒険者組合が動いたのかもしれない。もしくは、アインドラが王国貴族としての地位やコネを使ったのかもしれない。もしくはその両方かとガゼフは思う。

ガゼフは人間的にはアズス・アインドラという男を好ましく思っている。だが、冒険というような道楽で貴族という地位を捨てる思考が理解できない。平民出身の自分、またこの傭兵団の者達は、泥水を啜りながら生きているのだ。剣によって相手の命を奪うことで生きながらえている。

 

「あら、おはよう」と別のテントからダニエラが出てきた。そして、ガゼフがいるのにも関わらず服を脱ぎ、濡らした布で体を拭いていく。男が多い傭兵団の中で女が自分の腕一本で生きていく。乳房を見られて恥じ入るようでは生きていけないのである。

 

「あぁ」とガゼフはダニエラに背中を向ける。見られる本人が気にしていないからと言って、見ても良いというわけではない。

戦場であるならいざ知らず、ここは花の都、王都リ・エスティーゼである。美しい女ならば、他にも王都にはたくさんいるであろう。女を抱きたいという欲望を如何様な形でも満たせる娼館が王都にはある。

 

「今日は、朝の点呼は無しで良いのよね?」と、ダニエラはガゼフに話しかける。

 

「昨日の夜からみんな、羽を伸ばしているだろうしな」とガゼフも答える。

自分のテントに戻っていない傭兵団の団員が多くいるのは、今回の戦争に参加して得た金で、羽を伸ばしているのであろう。戦争でため込んだ様々なものを発散させるのだ。

 

「戦争から兵士が戻ってきた時期というのは、値段が上がっているというのにね。倍は取られているのではないかしら。あと一週間もすればまた値も落ち着くのにね」

 独り身の兵士、また傭兵団などが凱旋してきた直後は、娼館の値は跳ね上がる。それだけ需要が多くなるということだ。それに、傭兵がもっとも懐が温かいのは戦争が終わった直後なのである。

 

 ガゼフは、ダニエラらしい見解だと思った。また、女の考えであるとも思う。ガゼフ自身も、アインドラが現れなければ酒はほどほどにして色街に行っていたであろう。ガゼフがテントに戻ったのは、アインドラと飲み過ぎたからと、そして既になじみに先客がいたからだった。

 

「ダニエラ。今日、お前はどうするんだ?」

 

「お金を預けにいくわ。金貨を肌身離さず持っていても良いことはないもの。預けて置くのが一番安全よ。あなたは?」と今回の報酬が入った皮袋をガゼフに見せる。

 ダニエラは今回、バハルス帝国の分隊長を幾人かと、小隊長一人を討ち取っている。今回の会戦において、傭兵団の中で一番稼いだのはダニエラである。普段なら一番稼ぐのは自分かヴァレリーである。だが、混戦が長かった今回の会戦では、ガゼフとヴァレリーは仲間のフォローに後半から徹するようにしていた。ダニエラが危険な最前線で踏ん張っていてくれたからこそガゼフとヴァレリーが動けたので感謝をしているし、流石は副団長であるとその実力を認めざるを得ない。また、報酬が加算される敵をしっかりと討ち取っている抜け目なさも、またダニエラらしかった。

 

「俺は掘り出し物が無いか探してみるつもりだ」

 

「それなら、剣より新しい鎧を探した方が良いわね。あなたの、修復(リペア)ではそろそろ限界なのじゃないかしら」

 

 確かにダニエラの方が戦場に出たのは数年先かも知れない。年齢も詳しくは知らないが自分より二、三歳上であるように思える。冒険者としての経験もあるのだろう。だが、ガゼフも一人の傭兵として、自分の装備のことは自分が一番良く分かっているという自負がある。自分の装備について指摘をされて面白くはない。それも、胸当てもマントも纏っていなければその腕も腰も細い女に、簡単に手折れてしまう桔梗のようなダニエラに指摘されたのである。

 

「ご心配どうもな」とガゼフは、髪を洗っているダニエラを睨み付けてから王都の城門へと向かった。

 



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4.船を待つ日々

 蜻蛉返りをしたかのようにストロノーフ傭兵団はカッツェ平野に再び戻って来ていた。王国と帝国の戦争が終わり一カ月経ったカッツェ平野は、不死者(アンデッド)の発生の頻度が格段に上昇している。命を落とした者たちの血が、土の中から生者に向かって憎しみを叫んでいるのである。

 だが、危険性の極めて高い不死者(アンデッド)は稀にしか発生したりはしない。主に発生してくるのは、骸骨(スケルトン)骸骨弓兵(スケルトン・アーチャー)であるが、それらは傭兵団の敵ではない。骸骨(スケルトン)骸骨弓兵(スケルトン・アーチャー)が数百、数千と群れを成すと数の暴力となり、国も亡び得る。

 

だが、儀式などではなく自然に、散発的に発生している分には、何の脅威とはならない。不死者(アンデッド)の指揮官がいない場合、彼らが群れを成すのは単なる彼らの習性――生者に引き寄せられる――によるものだ。別々の場所に発生した無数の不死者(アンデッド)が、生者に引き寄せられていく。それが群れを成しているように、不死者(アンデッド)の軍が攻めてきたように見えるだけである。

 ストロノーフ傭兵団が警戒するに値する魔物は、骸骨戦士(スケルトン・ウォリアー)からであろう。一撃で簡単に骨を砕くことができる骸骨(スケルトン)骸骨弓兵(スケルトン・アーチャー)に比べ、骸骨戦士(スケルトン・ウォリアー)は、円盾を装備しており、本能としてではあるがその盾で自らの体を守る。また、右手に持っているシミターは、骸骨(スケルトン)が持っているような、錆びた(なまくら)の剣ではなく、切れ味も鋭い。致命傷になりかねない。

が、警戒に値するだけで、ストロノーフ傭兵団にとって脅威とはならない。むしろ、格好の訓練の相手となる。

 

「次の解放するわよ」とダニエラが叫び、傭兵団員二人が剣を構える。

 

骸骨戦士(スケルトン・ウォリアー)も知能を持たない。近くにいる生者を襲うが、動きも早くはない。そんな骸骨戦士(スケルトン・ウォリアー)を足止めするのは簡単である。生者二人が、骸骨戦士(スケルトン・ウォリアー)を挟むようにいればにいれば良いのである。

 より近くにいる生者に骸骨戦士(スケルトン・ウォリアー)は近づいていく。近づかれたら、反対側にいる団員よりも距離を取ればよい。すると、骸骨戦士(スケルトン・ウォリアー)の目標が反対側の団員に移り、骸骨戦士(スケルトン・ウォリアー)も踵を返して、新しい目標に向かって歩き始める。また近づかれたら距離を取り、逆に反対側にいる団員が骸骨戦士(スケルトン・ウォリアー)に近づく。それをしているだけで、骸骨戦士(スケルトン・ウォリアー)はただ、同じ所を行ったり来たりを繰り返すだけの間抜けな魔物となる。

 

 三体ほど近づいてくる骸骨戦士(スケルトン・ウォリアー)を発見したので、一匹をガゼフとヴァレリーが倒した。

残りの二体は、傭兵団の訓練に使い、先ほど一体を団員二人が倒したところだ。彼等二人にとっては、骸骨戦士(スケルトン・ウォリアー)は格上の魔物だ。その魔物と実際に戦う。ヴァレリーが回復要因として待機してはいるが、急所への攻撃を受けた場合は命を落とすことさえあり得るという緊張感。実戦に勝る訓練はない。

同じ所を往復していた骸骨戦士(スケルトン・ウォリアー)が、団員二人に目標を変えて向かって行く。危なげなところはありながらも、一体倒せた。もう一体も二人で協力して倒す。

 

「今度は大分落ち着いているようだね。出番はなさそうじゃのぉ」と、リグリットは、骸骨戦士(スケルトン・ウォリアー)と団員二人の戦いを見つめながら言った。

 暇を持て余していたからという理由が大半であるが、リグリットも訓練を見守っていた。万が一の時には、彼女が「死者使い」としてのスキルで骸骨戦士(スケルトン・ウォリアー)を支配し、攻撃を止めさせようとも思ってはいたりもする。だが、はたから見れば、アダマンタイト級冒険者が新米傭兵の訓練を、子供の遊びかと、からかっているようにしか見えない。

 

 リグリット・ベルスー・カウラウ。彼女もアインドラの依頼によって今回の作戦に参加していた。理由は、彼女の能力である。船を操っているエルダー・リッチを支配できる可能性があるからだ。彼女がエルダー・リッチを支配出来たら、自動的に今回の目的である「霧の中を走る船」を手に入れることができるのではないかと考えたアインドラが協力を要請したのだ。

 本人曰く、無理じゃろう、ということであるが、何だか面白そうだという理由で、二つ返事で参加を応諾したという経緯がある。

 

 だが、待てども待てども肝心の霧の中を走る船は現れない。頻繁に現われるものではなく、目撃者も少ないからその船は、酒の肴になるような噂話なのである。

 この日も、近寄ってくる不死者(アンデッド)を倒しているだけで一日が終わり、カッツェ平野は夕暮れとなる。薄くかかった霧に夕陽が映り、血のように赤い空となる。背筋が凍ってしまうような光景であった。

夕暮れが近づくと、警報(アラーム)を使用できる者たちが、張ったテントの周りにその魔法を掛けていく。カッツェ平野では、月明かりは霧のせいで頼りなく遠くを見渡すことが難しく効果が高いとは言えない。

また、見張りをして遠くばかりを警戒していても、不死者(アンデッド)が足元から発生するということが起りえる。テントの周囲を囲むように警報(アラーム)を掛けていくというような、鳴子を仕掛けていくというような「線」で守る方法ではなく、広い「面」で守る様に警報(アラーム)を使っていく。

通常の警戒態勢よりも警報(アラーム)を掛ける側は作業負担が多くなるが、逆に夜間の見張りの仕事は減る。視界も悪いし地中から発生する不死者(アンデッド)に対しては見張りの効果は薄い。むしろ二十張以上あるテントの間を夜中の間、巡回するのが仕事となるのである。

 

 陽が上っているうちは不死者(アンデッド)で訓練をし、己の腕を磨く。そして鍛錬を積みながらエルダー・リッチの出現を待つ。そんな単調な生活が一週間ばかり続いた後の朝であった。

 

 警鐘の音で目が覚めたガゼフは、装備を整えてテントから飛び出す。カッツェ平野はこの季節では珍しい霧一つない青空だった。そして、朝焼けの向こうの空に、奇怪な雲が浮かんでいた。渦を巻いた綿菓子のような形。時折、その綿菓子の中で稲妻が走っているかの如く発光している。

 

「おい、あれか?」

その奇妙な雲を眺めていたアインドラに駆け寄ってガゼフは尋ねる。

 

「あぁ。間違いない。こっちに向かって来るぜ」

 

「全員、装備を整えろ! 鉤縄も忘れるな! 死ぬほど城壁を登った成果を見せるぞ!」とガゼフは指示を出した。

 



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5.死者の大魔法使い

 ガゼフは縄を頭上で高速で回転させる。高速で回転する鉤が空気とぶつかり、風切り音が発生する。ガゼフはそして鉤縄を掴んでいた右手を離す。

遠心力によって鉤は上空へと飛び、そして船体へと引っかかる。

 

「かかったぞ!」とガゼフが叫ぶと、杭を持った団員と戦鎚(ウォーハンマー)を持った団員が駆け寄ってきて、地面に杭を打ち込み始める。杭が地面深くに打ち込まれたのを確認するとガゼフは、縄を杭に巻き付けてきつく結ぶ。錨を降ろす如く、杭に結ばれた縄によって船を止めようというのである。

 

「団長! マストに矢を射ても効果はないです」

 

 帆を矢で破いて推進力を失わせるという作戦を行っていた団員の一人が慌てて駆け寄ってきた。

 ガゼフは、現れた船の帆を見上げる。船に張られた帆はすでに破けていて風を受け止めることなどできない。またマストも四本中一本は折れている。どうやら風を推進力として動いている船ではないようである。

 霧の中を走る船。海にあるような普通の船とは根本から仕組みが異なっているのであろう。魔力を推進力に変えているのであろうか。アズス・アインドラがこの船を欲しがる理由がガゼフには分かった気がした。

 

「要塞」

 

 ガゼフは武技を使い自らの防御力を上昇させる。両手では縄をしっかりと握りしめている。自らの両足の踵は地面にしっかりと沈める。自らの上昇させた肉体の力を持って船を停めようと言うのである。

 

 縄が張りつめる。丈夫さが魔法によって強化されている。縄は張力によっては簡単に切れたりはしない。

 が、船上に突如、炎の球が浮かび上がる。ガゼフはその火球(ファイヤー・ボール)の大きさに一瞬驚く。戦場で飛び交う火球(ファイヤー・ボール)の二倍はあった。この火球(ファイヤー・ボール)を放った者の魔力が強大であることを示している。

 そして、その火球(ファイヤー・ボール)が直撃したら命を落とす団員が多いであろう。

 

「全員、船から離れろ!」

 

 鉤縄を船へと投げ飛ばしていた団員、杭を打ち込んでいた団員たちが船から距離を取ろうと船に背中を見せて逃げる。

 

 そして船上から落ちてきた火球(ファイヤー・ボール)は、次次と船へとかけられた鉤縄を焼き切っていく。足止めをさせないつもりなのであろう。

 

 それならば……とガゼフは思う。答えは簡単だ。船に乗り込み、この魔法を放った主を倒せば良い。アズス・アインドラの情報では、この船の主は、死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)だ。

 

「腕に覚えのあるやつは、船に乗り込め! 敵はリッチだ。白兵戦に持ち込むぞ」とガゼフは団員たちに指示を出す。船に乗り込もうと動き出したのは、傭兵団の幹部、ガゼフ、ヴァレリー、ダニエラの三人である。エルダー・リッチと対峙するのであれば、冒険者の水準で言えば、白金(プラチナ)、欲を言えばミスリル級の腕が必要となる。逆に言ってしまえば、その三人しか対抗できる団員がいない。

 

 そして団員の一人が投げ捨てていった鉤縄を地面からガゼフは拾い上げて、再び船上へと鉤縄を投げ込む。そして、今度はその縄を伝って自分自身の身体を船上へと引き上げるのだ。

 

「流水加速」とガゼフは武技を使い、自らの肉体速度を向上させながら船体を登る。

 

なおも止まらない船。ジグザグに船は操られ始めていた。縄をかけられないようにと荒々しく船の舵が操られているのであろう。

 

縄に掴まるガゼフの体は、振り子のように大きく揺れる。船は、銛を打ち込まれて怒り狂うクラーケンのようだ。

ガゼフの肩は船体に何度もぶつかる。だが、鍛え上げられたガゼフの握力はその縄を離すことはない。着実にその縄を使い、船体を登っていく。

 

 船体を半分ほど登った時である。登るのに苦労をしているガゼフをよそに、「先に行っているよ」と、リグリットは船体横を駆け上がっていく。船体は弧を描くように丸みをおびている。直角の壁を登って行くよりもその難易度は高いであろう。というか、普通の人間にはそんな芸当はできない。

 

「おいおい。あれは本当に人間か?」と、重力を無視しているとしか思えないリグリットの動きに、ガゼフは自分の目を疑う。生きる伝説であるアダマンタイト級冒険者。だが、もはや老婆という外見のリグリットの動きは、人間を辞めているとしかガゼフには思えなかった。

 

 

 ・

 

 ガゼフが甲板に到達した時には、すでに“朱の雫”とリグリットは、この船の主らしき死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)と対峙していた。

 やせ細った肢体。古びた三角帽子(トリコーン)を被った、骨に皮が僅かに張り付いただけの顔。だが、その二つの瞳には邪悪な英知の色を宿している。

 

 こいつ、ただの死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)ではねぇ、とガゼフは直感的に思う。

 通常の死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)は、古いローブを纏っているが、この固体はまるで船乗りのような格好をしているというような外見の違いではない。死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)の体からあふれ出ている負のエネルギーが尋常ではない。その死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)の体から発せられる靄が、船全体を包んでいたのだ。霧の中を走る船を包む霧は、このリッチから発せられたのであるとガゼフは気付き、警戒心を限界以上に引き上げる。

 

 死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)と対峙している “朱の雫”とリグリットの表情も険しい。

 彼等彼女等はアダマンタイト級冒険者である。通常の死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)に対して遅れを取ったりはしない。ガゼフが船体に登る迄の間だに討伐が終わっていて然るべきであるようにさえ思える。

 ガゼフの傭兵としての感は、明確に告げている。逃げるべきだと……。

 

死霊支配(ネクロマンシー)……無理だね。討伐難度百五十と言ったところだねぇ。坊やたちはさっさと船を降りた方がいいねぇ」とリグリットが口を開く。

 坊やたち、それはガゼフ、そしてその後に甲板へと辿り着いたヴァレリー、ダニエラを指しているのであろう。リグリットの外見から言えば、“朱の雫”の面々も坊や形容されても良いであろうが、リグリットの言った意味は、力弱き者、ということであろう。

 

「土足でこの船に上がり込んで、生きて帰れると思っているのか?」と、死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)が口を開いた。嗄れた声、既に声帯など枯れ果てているであろうに、その声は憎悪と力に満ちていた。

 

「ガゼフ。魔物には亜種というものが存在する。こいつは、死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)の亜種だ。それも、とびきりのな」

 口を開いたアズスの装備している葡萄酒のような赤い鎧が光輝き始めた。伝説級と歌われる鎧。その装備をした者の能力を飛躍的に向上させる鎧だ。伝説では、十三英雄の一人が装備してたとされる。

 アズス・アインドラを初めとする“朱の雫”も本気で戦う必要があると認めたということであろう。

 

「ちょっとこれは、後ろで控えていた方が良さそうですね」と言うヴァレリーの言葉にガゼフもダニエラも頷き、そしてゆっくりと死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)と距離を取るように後退していく。

 

 難易度百五十。そんな死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)を討伐するのは、英雄と呼ばれる存在だけが可能なことだ。

 傭兵団として難易度百五十相当のバケモノと対峙するとしたら、その首に超高額の懸賞金がかかっているバハルス帝国の主席宮廷魔法使いフールーダ・パラダインくらいであろう。フールーダ・パラダインの首を討ち取れば、その賞金を山分けしたとしても、傭兵団全員が一生遊んで暮らせるほどの金貨を得ることができる。

 だが、この死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)を倒しても一銅貨にもなりはしない。金の為であれば命を賭して戦うが、一銅貨の得にもならないのに剣を振るう理由を傭兵団は持たない。強敵と出会えて、武者震いするのは戦士であって傭兵ではない。傭兵は、報酬とその敵が見合った金額であるかどうかを判断するだけである。報酬に見合わないのであれば、傭兵団は逃げるだけである。勝てないと分かっていながら立ち向かうような傭兵は、傭兵と騎士をはき違えている。

 

「アインドラ。俺達の仕事は達成したということでいいんだよな?」

 船首にまで後退したガゼフは傭兵団の団長として言った。

 ガゼフ、ヴァレリー、ダニエラがいるのは、死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)から最も離れた場所。そして、いざというときは船から飛び降りて逃げることも可能な位置。

 船から飛び降りないのは、“朱の雫”やリグリットが死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)を倒した際に、船内にあるかも知れない戦利品を漁るためだ。それは傭兵の当然の権利だ。ガゼフも人間的には、アズス達もリグリットも嫌いではない。時に有益な情報をくれる。出来れば死んで欲しくない。だが、情に流されては傭兵団の団長など務まったりはしない。彼等は冒険者であり、自分たちは傭兵なのだ。そして、自分が守るべきは団員であって、冒険者ではない。

 

「あぁ」と、アインドラは死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)から視線を外さずに答えた。依頼主の同意により、ストロノーフ傭兵団の今回の依頼は達成した。

 あとは、目の前の死者の大魔法使い(エルダー・リッチ)の亜種を、“朱の雫”やリグリットが倒した後、船内の戦利品を漁るか、アダマンタイト達でも勝てないと判断したら、一目散に逃げるかという選択肢だけがガゼフに残った。

 



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