ロシュはもう限界だ (外清内ダク)
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1 情欲の目覚め

 今日も私はスズカの部屋に上がり込んだが、だからと言って何が起きるわけでもない。

 見慣れたカーペット敷の四畳半で、私はゲームパッドをペチペチとやり、スズカはスマホで小説書きまくる。あぐらをかいた私と、涅槃仏めいたスズカ。私たちは背を向けるでもなく見つめ合うでもなく、語り合うでも押し黙るでもなく、寄り添うでも離れるでもなく、何とも言えない微妙な距離を維持したまま、そこに居た。

 まるで、ワルツを踊る二連星のようにだ。

 狩人様が炎に包まれた獣のクロールに叩き潰され(ゲームの話だよ)、画面いっぱいのでかい文字で死亡宣告を下されて、私は奇声をあげながら仰向けにひっくり返った。スズカの短いスカートの裾が、すぐ頭のそばにある。モニタの中ではもう狩人が蘇り、私の操作をウズウズして待ってるようだったが、パッドを拾うつもりにはなれなかった。

 ちらと横を見る。小説と格闘するスズカの下アゴが見える。泣いたり笑ったり、目まぐるしく変化する表情も。彼女自身さえ気づいていない、私だけが知っている癖。彼女は、小説を書くとき登場人物と同じ顔をするのだ、いつも。

 それがなんだか可愛らしくって、私は時々、目を奪われてしまう。

「ね」

 スズカがいきなり声を上げたので、私はビックリして小さく震えた。バレないようになるべく動きは抑えたが、この忌々しい巨乳が揺れることばかりは止めようがない。

「んあー」

 わざと間の抜けた声を返したのも、動揺を誤魔化したい一心で。

 スズカが鬼の形相でスマホを睨みつけたまま言う。

「腹減ったね」

「晩メシ何?」

「決めてない」

「クラ駅の西口に、インド料理屋できててさー」

 タンッ、と一際力強いタップとともに、スズカが鼻息を吹いた。何か上手く書けたらしい。

「店員インド人?」

「パキスタン」

「スタンかあ……」

 不意に、イタズラ心がむらむらと湧き上がった。

 私は身を起こし、スズカの上に覆いかぶさっていった。蛇がうねって這い登るようにだ。すっかり彼女の上を塞ぐと、何やら自分だけの牢獄に彼女を捕まえてしまったような気がして、寒気にも似た快感が走った。私の髪が垂れ下がり、スズカの耳たぶをくすぐり流れる。スズカが吐息を漏らして身じろぎする。扇情的に、あまりにも扇情的に――

「……いく?」

 スズカの視線が滑り、私を捉えた。

 濡れた眼。

 その途端、私の中の、よろしからざる(おど)んだものが、手荒な撹拌を受けて踊り狂った。

 このまま彼女を抱き締めてしまいたい。いや、押し潰してしまいたい。この腕と脚で造った牢獄を徐々に狭めて、身動き一つ取れないように縛り上げてしまいたい。他のどこにも行かないように。誰のものにもならないように。近づきたい。触れたい。ひとつに溶け合ってしまいたい……

 だが、私は、そうしなかった。

 信じてもらえないかもしれないが、この体勢にあってなお、私の肌は指一本たりとも彼女に触れていないのだった。

 まるで、不可視の壁に阻まれてでもいるかのように。

「行こっか」

 呆けた声で私が言うと、スズカは目元に薄く笑いを浮かべた。何もかも分かってますよ――とでも言いたげな顔で。

 

 インドビール(キングフィッシャー)かっ喰らって、なんだかよく分からんドロドロした超美味いのを食いまくって、私たちは心ゆくまで騒ぎ立てた。ネパール人の店員は(パキスタンじゃなかった)、酔っぱらいのアホみたいな即興歌に調子を合わせてくれて、私とスズカはなんかもう死ぬほど楽しくなってしまって、途中からずっとゲラゲラ笑ってた。店を出た時には夜もとっぷり更けていて、夜風がカッターナイフじみた鋭さで肌を削っていくのだが、火照りきった身体にはそれすら心地よかった。

「ねースズカぁー」

 フラッフラと縁石の上を綱渡りしながら、酔っぱらいA(私)が言う。酔っぱらいBことスズカは、ピタリ私の半歩斜め後ろを付いてきていた。彼女はピンクの新しいコートを着てる。先週一緒に買いに行った、かわいいやつだ。私が選んだ、私好みの。

「何よ」

「帰るのめんどい。泊めてー」

「萌、明日彼氏と映画っつってたじゃん」

「あっ」

 忘れてた。これは素だ。別にとぼけてたわけではない。

 スズカは片方の眉を跳ね上げた。粗相をした子猫を見る飼い主みたいな目だ。

「なんであたしの方がアンタのスケジュール把握してんの」

「やー、んー、うっかりー」

「忘れてやんなよな……彼、けっこう頑張ってくれてんのに」

「そーなんだよーねー。けどなー、んー……行くのやめよっかなー」

「アホ」

 吐き捨てるように言うと、スズカは私を置いて先に行ってしまった。真面目な彼女に、私のちゃらんぽらんさは我慢ならないらしい。その割にいつもつるんでいられるのが謎なところだが。

 私はいつものようにスズカを追いかけた。追いついて覗き見た彼女の横顔は、常の如く無表情。私はダメ元で猫なで声を出してみる。

「にゃーん」

 これ猫なで声じゃないな。猫だ。

 しかし、効き目はあったらしい。スズカは小さく息を吐き、

「まあいっか……」

「ん?」

「明日ウチまで迎え来てもらえば」

「そだね」

 で、それっきり。

 さっきまでのインド馬鹿騒ぎが嘘のように、私たちは口をつぐんだ。

 泊めてもらって、ベッド一つしかないから一緒に寝て、それでもほとんど会話らしい会話はなかった。せいぜい、風呂空いたよ、とか、その程度。話さなきゃ、とも思わなかったし、話してくれないどうしたのかな、とも思わない。

 何しろいつもの事だったから。

 

 私はぐっすりと安眠して、予想通り寝坊して、スズカに蹴り起こされた。結局、彼が迎えに来るのには間に合わなくて、準備もそこそこに飛び出した。車にエスコートされる時は流石にお姫様気分だったけれど、後にして思えば、酷いお姫様もあったものだ。服も適当、メイクも雑。どう考えても、立派な白馬の王子様に釣り合ってない。

 彼は運転中よく喋った。

 デートで助手席に乗せられたことがない方々には分かるまいが、この助手席というやつ、ビックリするくらいヒマである。だいたい助手って。何を助けりゃいいの。そりゃ、ダカール・ラリーにでも出るんなら色々忙しかろうけど。生憎ここはサハラならぬコンクリートジャングルだし、そもそも人間より700%性能のいいナビゲータが標準搭載されている。

 そんなわけで、彼は喋った。私を退屈させないためにだ。話もよく練られていて、中身があった。興味深く、ためになり、しかも流暢だった。私はほんの十数分のドライブ中に、社会情勢や先端技術に関する新たな4つの知見を得たが、降りた瞬間、みんな忘れてしまった。

 それから私たちは映画を見た。まあ面白かったと思う。ディナーにも行った。そしてもちろん、いくぶんケバケバしいシンデレラ城に乗り込み、やることもやった。お決まりのコース。毎度おなじみの快感。期待された通りの喘ぎ声。

 スケジュールをすっかり消化して、私たちは帰路に着いた。助手席でむっつりと黙り込んでしまった私を、彼は最前からチラチラ盗み見ている。私は気づかないふりをした――だが実際は分かっていた。彼の、喉元まで出かかった心の声もだ。

「俺といるの、つまらない?」

 彼の全身がそう語っている。

 つまらなく、ない。むしろ楽しい。強いて言えば、そんな風におしゃべりや明るさを期待されるのは面倒くさいけど。彼と過ごす時間は疑いようもなく有意義だ。このまま関係を深めて結婚でもしようものなら、一生を有意義に過ごせるに違いない、と思う。

 でも、それがなんだと言うんだ。

 家まであと5分。というところで、私は唐突に、こう切り出した。

「別れよう」

 彼の運転が僅かに乱れ、車が蛇行した。

 変化といえば、ただそれだけ。

 あとは、沈黙、沈黙、そして――沈黙。

 

 自宅に戻るなりベッドに飛び込んで、LINEにたわごとをぶちまけた。

【別れた】

 その相手はもちろんスズカで、彼女の既読マークは1秒と待たずに点灯した。それからひと呼吸置いて――ああ! 彼女の困惑顔が目に浮かぶ!――返事がヒョコンと返ってくる。

【ほんと?】

【うん】

 私、何期待してるんだろう。

 自分がしていることの目的――私自身の意図を、私は、一瞬遅れて思い知った。スズカがくれた、次の言葉によって。

【萌

 こっち来な】

 痛快。

 正直に言おう。

 私、めっちゃくちゃニヤついてた。

 私は、この返信が欲しかったのだ。スズカの思いやりが欲しかったのだ。愛おしさが胸から溢れて零れそうになり、私は、スマホを胸元に抱きしめた。宝物だと思えた。スズカがくれたこの言葉が。私のためだけの、私の言葉が。

 だが、返事を送ろうと再び画面を見た途端、私の中で暴れ回っていた熱情は急速に沈静化していった。

 難しいことではないはずだった。【うん、行く】これでいい。【ありがと】と付け足せばなおよい。女の子らしく何か可愛らしいスタンプを添えるのもよいかもしれない。いずれにせよ、スズカは私の返事を歓迎してくれるはずだった。心配など何もない。

 なのに私は躊躇っていた。行きたい。スズカの近くに。彼女に触れられるところに。一言、電子的なメッセージをポンと送れば、それだけで望みは叶う、はずだ。ひょっとしたら、その先のことだってーー

 なのに……なのに。

 私、何を考えてるんだろうか。

 なんでこんなに舞い上がってるんだろうか。

 彼氏と別れてヘコんでるはずじゃなかったのか?

 私の指は石のように固まって、もはや、一文字も打てなくなっていた。

 長いことスマホを握ったまま悩んでいたが……ついに私はそれを放り捨てた。

 仰向けに転がっていると、熱い衝動がむらむらと湧き上がった。私は下の方に指を伸ばして、自分の身体の、とても魅力的な部分を撫でた。息を呑むほどの快感が走った。自分でしたことは何度でもある。でもこんなに燃えたのは始めてだ。まるで私のあの場所が、炎そのものにでもなったみたいにーー

 何度も獣じみた奇声をあげて、悶え、のたうち、腰をバネ仕掛けのように跳ねさせて、疲れ果ててドロドロになるまで自慰を繰り返してーーようやく私は大人しくなった。いや。飽きたのではない。単にもう、指一本動かす体力も残ってなかっただけだ。

 肉欲の後に訪れる妙に静かな心の中で、私は不意に確信した。

 近づきたい。

 そう思ってる自分に驚いた。だがどんなに意外であろうと、一旦閃光の如く訪れた確信は、恐るべき存在感でもって私を規定してしまうのだった。

 もはや、目を逸らすことは不可能だ。

 私、変なんだろうか。

 私、変になってしまった。

 私――私は、スズカが好き。

 スズカに欲情しているんだ。

 

 

 

つづく。



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2 連星

 翌朝、私はひとり、街に繰り出した。休日の駅前通りはちょっとしたお祭り騒ぎで、そこここに幸福が転がっている。家族連れとか、彼氏彼女とか、いつかそうなりたいけど今はまだ……とか。

 私はそういうのが苦手だった。幸福そのものの笑顔とすれ違うたび、言いようもない寂しさを覚える。愛すべきパートナーと一緒に楽しく愉快にはしゃいで、愛を語り合い、そのうち子供のひとつもこしらえる。自分がそんな生き方に向いてないことは分かっていた。私には縁遠い世界。縁遠いからこそ、眩しい世界。

 でも、今はそんなこと、全く気にならなかった。

 私は燃えていた。

 大股に大通りを行き過ぎ、細い路地に折れ、薄暗い裏通りに飛び込んだ。

 道の左右は整備の行き届かない古いビルに挟まれ、経年劣化でテナント名がかすれてしまったシャッターや、チカチカと明滅する蛍光看板、埃に埋もれたようなスチールドアばかりに満ちている。

 私を除けば人影はなく、途中で出会った他人といえば、ビックリして側溝に逃げ込むドブネズミ一匹きりだった。

 こんな寂れたところに何しに来たんだ、と思われるかもしれない。実際、私もそう思う。一体何やってるんだろうって。

 藁にもすがる、というやつだった。

 噂を聞いたことはないだろうか。裏通りにある魔法の店の話。女子高生向けにやってるチャチなラッキーグッズの店なんかじゃあない、本物の黒魔術を扱う店だ。そこでは、願いを叶える魔法の道具を、客に合わせて見立ててくれるのだという。

 噂通りの場所に、その店はあった。

 一際古びた貸しビルの狭苦しい階段を登り、蜘蛛の巣の残骸垂れ下がる廊下を抜けると、赤い看板の掛かったドアがある。看板には踊るような愛らしい文字で店の名前が記されていた。さながらこの不気味な雰囲気を和らげようとするかのようにだ。もっとも、書かれているのが何語ともつかない謎のアルファベット配列では、返って気味悪さを助長するだけだったろうが。

 私は店の前で少しの間躊躇っていたが、やがて、覚悟を決めて重いドアを押し開けた。

 中はアンティークな家具に囲まれた、思いのほか雰囲気のいい空間になっていた。店主は少年と見間違えるような童顔の男で、籐の椅子に腰掛け紅茶をすすっている。錆びついたドアベルが思い出したように一声カロンと鳴いて、私の到来を店主に伝えた。

「やあ、いらっしゃい。待ってたよ」

 と、店主が私を招き入れた。

 私は導かれるまま椅子に腰を下ろし、流れるような手つきで注がれるお茶を見つめる。自分の体が強張っているのが分かる。フレンドリーな物腰とは裏腹に、店主の言葉には不気味な謎があったからだ。

 待っていた? 何故? 私が来るのを知っていたとでも?

 私の疑問を読み取りでもしたかのように、店主は穏やかな声で言った。

「洋梨フレーバー。甘い香りがするんだ。こういうの邪道だって言う人もいるけど……」

 そして人懐こく微笑む。

「僕は好き」

「私が来るのを知ってたの?」

 店主は質問に答えなかった。

 代わりに店の奥へ引っ込み、戸棚を何かガチャガチャとやり始めた。私には見分けの付かないネックレスやら指輪やら……あるいはなんと表現してよいかさえ分からないおかしな形状のものやらを、ひとつひとつ手に取って、具合を確かめているようだった。

 その中のひとつをひっくり返しながら、店主が言葉を続ける。

「君、切羽詰まってるみたいな顔をしているね」

 ギクリとした。

 この胸の高鳴りも、魔法使いたる店主には見抜かれていたのだろうか。

「気にしなくていいよ。うちに来る人たちは、みんな多かれ少なかれ切羽詰まってるものなんだ。たとえそれが、傍目には『たかがその程度で』と思われるようなことであってもね。

 つまり、人生の問題は徹底して個別的だということ。愛が絡めばなおさらさ」

 店主は手の中に何かを握り包んで、こちらへ戻ってきた。私はというと、言うべきことが頭の中で渦巻きすぎて、そのどれひとつ出てこない膠着状態のままだ。店主が私の向かいに座り、じっと目を見つめてくる。その瞳は奇妙に昏く、星ひとつない夜空を思わせた。

「君の望みは分かってる」

 静かに彼は言った。静かに? 言った? 本当に今何か喋っただろうか? 声を聞いた気がしただけではなかったか? あの細く滑らかな唇は本当に動いたか? いつの間にか夢の中に堕ちてしまったような気さえする。

「でも、君の口から言ってほしい。

 これは法則なんだ。鍵を差し込まねばドアが開かぬように。男女がつがわねば子が生ぜぬように。

 儀式と言ってもいい。

 君から働きかけることが肝心なんだ」

 なんだかさっぱり分からない。が、分かる気がした。

 私は口を開いた。

「私……スズカに触りたい」

 にこり、と店主は笑った。まるで天使のような笑顔だった。ということは、きっと彼は悪魔だったのだろう。天使を装う必要があるものは、悪魔以外にありえない。

 店主が手の中のものを差し出した。それは左右一対のピアスで、小さな丸い宝石のようなものが付いていた。細工はいまいちで、高校生がつけるチャチなイミテーションみたいな雰囲気だった。ステンレスとアクリル玉で造られた、二千円もしないアレだ。

 私が眉をひそめていると、店主が繕うように説明してくれた。

「これは連星のピアス。

 ひとつを君の右耳に、もうひとつを想い人の左耳に着けるんだ。

 そうすれば星の引力がふたりを結びつけてくれる」

「どういう原理?」

「原理がどうした。自分の細胞が分裂する原理だって気にしたことないくせに」

 それもそうだ。

 私は――ピアスを手に取った。

 その途端、

「29800円」

 店主がさらりと興を削ぐことを言うので、私は苦虫を噛み潰したような顔になった。

「結構いい値段するね」

「人生を贖うにしては安いでしょ」

 それも、確かに。

 私は財布から諭吉3枚を取り出すと、きっちりお釣り200円も受け取って、代わりに安っぽいピアスを手に入れた。これで今月は生活費カツカツだ。溜息が出る。私、馬鹿じゃなかろうか。完全に騙されてる気がする。オッサン向け漫画雑誌の裏表紙広告に載ってる幸運のブレスレットとかと何が違うんだろう。

 後悔を覚えつつ店を出たところで、見送りに来た店主が、ああ、と声を上げた。

「忘れてた。ひとつだけ」

 首を傾げる私に、店主はすうっと目を細めてみせる。

 瞬間、ゾッとするような寒気が、私に襲いかかった。

「“ロシュの限界”を知ってる?」

 私はかぶりを振った。店主はさもあろうという顔で頷き、

「ならこれだけは覚えておいて。

 星は君の望みを叶える。君は彼女に触れるだろう。

 だが――その先を望んではいけない」

 その先って――?

 私の疑問は言葉にならなかった。にも関わらず、店主は例の魅力的な笑みを浮かべ、その問いかけに答えてくれた。

「いずれ分かるよ」

 

 

 

つづく。



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3 裸、女、女

 ずっと一緒だった。私とスズカは。

 出会ったのは中2の時。たまたま同じクラスで。たまたまカラオケで隣に座って。たまたまそれが何度か続いて。

 気がついたら(つる)むのが当たり前になっていた。

 同じ高校に行った。同じ男を取り合った。趣味は全然違ってた。共通点はポケモンくらい。私は大学に行って、あいつは専門学校。初任給で奢ってくれた。いつの間にか、スズカは大人の女になっていた。

 ずっと一緒だった――けれど、いつも私たちはお互いそっぽを向いてた気がする。もちろん話はする。遊びもする。バカ騒ぎもたまにはするし、ネパール人を交えてはしゃぎもする。でも、いつも肝心なところで私たちは目を逸らしていた。お互いの胸のうちを曝け出すことも、探り出すことも、決してしようとはしなかった。

 だからこそこんなに長く一緒に居られたのかもしれない。それは分かる。でも――

 私は走った。

 スズカの家に続く近道を。

 はじめ微睡みのように不確かだった私の足取りは、やがて自信に満ちたものになり、ついには奔馬めいた激走に姿を変えた。息継ぎさえ忘れて私は走り、その息苦しさの中に不思議な高揚を覚えた。

 一足ごとにスズカが近づいてくるのが分かる。

 行きたい。もっと近くに。肌が触れ合うほど近くに。あのしっかりと着固められたシャツのボタンを毟り取ってしまいたい。裸になったスズカを私が組み敷く。そのさまを想像するだけで、私は、私は――

 果たして私は、スズカのもとに辿り着いた。

 その時にはもう、私は息が切れて一言だって話せない状態だったが、彼女は細かいことを尋ねもせずに快く招き入れてくれた。いつものように上がり込み、いつもの位置に腰を下ろす。

 手の中には魔法のピアス。私とスズカを結びつける悪魔の小細工。笑いがこぼれた。自分が今、どんな情けない顔で笑っているのか。想像するだに愉快だった。

 呼吸を整えるのもそこそこに、私はこう切り出した。

「買った、これ、ね」

 ……テンパってるにも程がある。

 ともあれ、私が差し出したピアスを見て、スズカは目を瞬かせた。何がなんだかよく分からない、という風。私は身振り手振りを織り交ぜて懸命に意思疎通を試み、ついに、私のやりたいことを彼女に伝えることに成功した。

 スズカは泣くほど大笑いした。

 ウケた。良かった。いや良くねえ。

「これを二人でねえ。かわいいやつ」

「知ってる」

「ありがと。ちょうだい」

 スズカが手を伸ばすので、私は、それを自分の手のひらに包み込むようにして、渡した。

 安っぽい、けれど不思議な引力を持つふたつの星が、私たちの耳にぶら下がった。

 そして私たちは、しばらく見つめあった。

 言葉はなかった、いつものように。

 しかし、いつもとは何かが違っていた。それが証拠に、私たちは次第に距離を縮めていった――ふたつの星が、互いの引力によって惹かれ合い、重力井戸の底めがけて吸い込まれていく。

 気がつけば、私たちはキスしていた。

 まるで、そうするのが当然であるかのように。

 

 私は望むものを得た。

 すなわち、妄想通りにボタンを毟り取り、煌めくように綺麗なスズカの裸体を思うがままにいたぶり、慈悲を(こいねが)う切ない喘ぎ声を我が物とした。

 と同時に、私もスズカのものになった。女同士でどうやるんだろう、上手くできるんだろうか、なんて少し心配していたけど、とんでもない。

 まさか、こんなに――こんなことになってしまうなんて――

 ほとんど気絶するように私は力尽き、気がついた時には翌朝をスズカのベッドで迎えていた。狭いベッドに、一糸まとわず寄り添う私たち。目覚まし代わりにスズカがキスをくれ、私は懸命な舌使いでそれに応えた。

 不思議なことに、スズカのことなら何でも分かった。どこを触られたがっているか、どんな愛撫をして欲しいのか。そして多分、彼女も私の全てを把握していた。なにしろその指の動きは、身震いが止まらなくなるほど的確であったから。

 私たちの身体に点火してしまった情欲の焔は、今や鎮め難く燃え盛っていた。この熱を全て吐き出すには、少なくとも丸一日分のたっぷりとした時間が必要に思われた。

 スズカは私のお腹を撫でながら、もう一方の手で職場に電話を入れた。仮病を知らせる電話だ。私はふと思いつき、上司に神妙な声で病状を訴えているスズカの、とても素晴らしいところに指を這わせた。彼女の喉の奥から引き絞ったような吐息が漏れる。あの濡れた目が私を叱る。叱られるほどに、私のイタズラは激しさを増す。

 なんとか最後まで耐えきったスズカは、電話を切るや、とろけるように私の上に覆いかぶさった。

「萌ェーっ」

 スズカの恨みがましい声が心地よく響いた。私はだらしなく頬を緩めた。

「かわいい」

 すると、不意に彼女の眉が釣り上がった。

「許さん」

「きゃー」

 私はめちゃくちゃにされた。

 それはもう、めちゃくちゃに。

 一日中。食事も取らず。休みもせず。いつまでもいつまでも、だらだらと。

 私は何度も泣き叫んだ。というのはつまり、涙が零れるほど気持ちよくなってしまったときにだ。何度くらいあのはしたない声を上げてしまったのか、初めのうちは几帳面に数えていたが、10回を超えたあたりからめんどくさくなり、そのうち止めてしまった。

 

 そういうわけで、私たちは「ツレ」から「恋人」にクラスチェンジした。かつて味わったことのない、ときめきに満ちた幸福な日々を、私は手に入れた。

 不思議なものだ。前とそんなに大きく何かが変わったわけではない。寂しい時に交わすLINEも、もっと寂しい時にかける電話も、何するわけでもなくとりあえず(つる)んでる休日も、みんな昔からやってたことばかりだ。変化といえば、そこにセックスが加わった、ただそれだけ。なのに、たったそれだけのことが、どうしてこうまで私に幸福感をくれるのだろう。

 私たちはことあるごとに抱き、抱かれ、愛情たっぷりにねぶるようなキスを交わした。毎日の仕事は相変わらず嫌だった……けれど、それを乗り切ればスズカが素敵なごほうびをくれる。それを思えばなんだって耐えられる気がした。勤務中、妄想と期待が膨らむあまり、人前で天国へ至ってしまうことすらあった。

 要するに私は舞い上がっていた。恋が成就したときにありがちな過度の多幸感と視野狭窄が、知らぬ間に私を冒していた。私の頭の中は全てスズカに占められていた。

 そしてスズカも私のことだけ考えている――と、無邪気に信じ込んでいたのだ。そのときは。

 

 ある日、突然スズカが連絡を寄越した。

【明日会えない】

 私は自分でも異様に思えるほど狼狽し、可能な限りの素早さでメッセージを送り返した。

【なんで?】【何かあった?】【私何かしたかな】

 答えは一言。

【おちつけ】

 無理だった。私は震える指で凄まじい長文を入力していった。なぜ会えないのか? 何が起きたのか? 私の何がいけないというのか? 畳み掛けるような怨念のメッセージは、まず名文と言える出来だったが、それを送信するより早くスズカの二の句が飛んできた。

【親が実家帰ってこいってうるさい。2、3日、有給とってゆっくりしてくる】

【私も行こうか】

【なんでやねん】

【お義父さんにご挨拶】

【まだ早いわ】

【そうかなー】

【焦るな童貞】

【うるせー処女】

【だからまあ、行ってくるね】

【お別れセックスしない?】

【我慢しろ。帰ったら3日分したげるから】

【まじかー分かった】

 分かるわけ無い。いい子のフリは口先だけだ。

 本当は、一日だってスズカを離したくない。ずっとそばに捕まえていたい。だが理性は、それが私の自分勝手に過ぎないと告げている。ゆえに私は“分かった”。いや、分かった、ということにして自分を納得させた。

 社会性、といえば聞こえは良いが、要はただの嘘偽りだ。罪悪感がちくりと私の胸を刺した。事情はどうあれ、私は騙したのだ。誰より大切に思っているはずの、スズカを。

 そこで、ふと思い当たった。

 私だけ、なのだろうか。

 私が彼女を偽ったのと同様に――スズカも私を偽っているのではないか?

 

 

つづく。



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4 やるじゃん惑星

 確かめるのは簡単だ。私とスズカは同郷で、郷里には共通の友人が掃いて捨てるほどいる。そのうちの数人に久々の世間話を装って電話をかけ、3人目であっさりヒットした。

『え、スズカお見合いするんでしょ?』

 私を叩きのめすには充分すぎるほどの致命打(クリティカルヒット)だ。

 私は、絞り出すようにしてようやく言葉を返した。

「あの子、何も言わなかったから」

『言いにくかったんじゃないの。今時お見合いなんてねー』

「結婚、するのかな」

『さあ? してもおかしくない歳だとは思うけど』

 何も知らない友人の、残酷な言葉が私を苛む。ひどい追い打ちだ。死体撃ちみたいなもの。

 適当に話を切り上げ、スマホを放り捨て、私はベッドに潜り込んだ。スズカと一緒の(しとね)ではない。私の家の、孤独の寝床だ。

 気が変わって、さっき捨ててしまったスマホを手繰り寄せ、LINEを立ち上げた。スズカに適当な挨拶を送り、しばらくじっと画面を見つめていたが、いつまで経っても既読マークは現れない。

 それから私は、スマホを拾い、通知を確認し、また放り出すということを、30秒おきに繰り返した。もっと頻繁だったかもしれない。

 だが――夜明けまでそうしていても、ついに既読が付くことはなかった。

 

 スズカは帰ってきた。

 約束通り、その夜のご褒美はいつにも増して素晴らしいものだった。3日分の鬱憤を晴らすかのように、スズカはねちっこい愛撫を執拗に執拗に繰り返した。彼女の前では私は弦楽器のようなものだ。指が私を爪弾き、私は甲高く歓喜を歌う。

 しかし、愛に満ちた行為が終わってもなお、私は満足できずにいた。肉体ではない、心が渇きに呻いている。私はもう、黒黒とした疑念に取り憑かれ始めていた。

 隣で微睡んでいるスズカの身体は、しっとりと汗ばみ、私の肌に吸いつくよう――だがいかに身体が馴染もうと、それは表面のことに過ぎない。何も保証してくれない。

「ね、スズカ」

「んー」

 私の腕の中で、スズカが身じろぎした。スズカの方から身体を押し付けてきたが、滅多に見せないその甘え方が、今の私には作り物っぽく思える。

 私は彼女の耳元で囁いた。飽くまでも優しく、しかし断固として。

「実家で何してたの?」

 沈黙はほんの0.5秒くらいだったが、私には分かる。確かに今、スズカはためらった。

「別に、何も。ゴロゴロしてた」

「ふーん」

 スズカが私の胸に頬を押し当ててきた。抱いて欲しい時の合図。だから私はそうした、いつものように。そしていつもより乱暴に彼女を犯した。スズカはその行為をいたく気に入ったらしく、今まで出したこともないような声で鳴き、何度も何度も“もう一度”をおねだりした。

 私はその要請を機械的にこなしながら、痙攣するスズカを冷たく眺めていた。

 面白くない。

 全くもって――面白くない。

 

 一度生まれてしまった不信は、薄れるどころか、日を追うごとに存在感を増していった。私は自覚できるほど不機嫌になり、スズカも異変を感じ取ったらしかった。セックスはルーティン化され、それに伴って意欲が急速に薄れ、週25回が10回に、10回が5回に、やがて2週に1回に減衰していった。その数少ない逢瀬すら、喜びより痛みのほうが際立つ有様だった。

 一方で、情熱だけは日増しに高まっていったのだ――一風変わった奇妙な形で、だが。隠し事をするスズカに苛ついた。こんな事で腹を立ててる自分が嫌だった。そして何より、相手の頭の中ひとつ見通すことのできない、人間なんていう生物に腹が立った。

 まったくボンクラにも程がある。社会性の生き物が人間だというのなら、どうして進化の過程でテレパシーのひとつも身に着けなかったんだ。

 きっと私は狂っていたのだと思う。スズカに近づくことを望みながら彼女の家に行くこともせず、言葉もろくに交わさず、悶々として夜の街をうろつく日々が続いた。

「おねーさん! どこいくの、急いでる?」

 私くらいの歳の女がひとりでいれば、やくたいのない男どもが声を掛けてきたりもする。余裕のあるときは、そういうのをからかって遊ぶのも楽しいものだ。しかし今は、ただただ不愉快なだけ。この鬱陶しさ、男性諸君には分かるまい。

 私は無視して立ち去った。幸い、しつこく追ってくるようなことはなかった。

 そういえば昔、スズカとふたりで絡まれたこともあったっけ。あの時は私が男に蹴りを入れ、逆上した男が凄んできたので、スズカが脇腹にソバットを叩き込んでくれたのだった。私らはきゃあきゃあと楽しく悲鳴を上げながら、絡まり合うようにその場を逃げ出した。何も言わずとも通じていた。言葉など必要なかった。

 そのはず、だったのに。

 涙が、目を押し出すようにして溢れてきた。

 涙を拭こうと持ち上げた手が、右耳の惑星に触れた。

 瞬間、怒りが爆発した。

 なんで泣かなきゃいけない。おかしいだろ。何が連星のピアスだ。何が星の引力だ! 確かに身体は近づけたかもしれない。裸で抱き合う関係にはなれたかもしれない。だがこの体たらくはどうだ? たとえ肌を晒したって、その奥で何を考えてるかなんてちっとも分かりはしない。こんなのスズカに触れたうちには入らないじゃないか!

 私は覗きたい。

 近づきたい。

 触りたい。

 何もかも裸に暴いて、この眼と指で思うさま嬲り尽くしてやりたい。

 肉体なんかのことじゃない。

 更にその先に。彼女の心。彼女の中心にあるはずのものを!

 その時だった。

【来てよ、萌……】

 LINEじゃない。

 私の耳に直接、その声は届いた。

 愕然として私は立ち尽くした。

「スズカ?」【スズカ?】

【萌?】

 彼女の声は耳たぶを擽るように密やかに響き、私は飛び上がった。途端、声は止んだ。

 今のは何だったのだろう。確かに今、スズカの声が聞こえた気がした。気のせいだろうか。狂った私の脳が見せてくれた妄想、ちょっとしたファンタジーなのだろうか。

 脳の中に痒みを覚えて、私は頭の横を掻きむしった。と、

【今の、何?】

 また聞こえた!

 そこでようやく私は気付いた。

 右耳にぶら下がった、ちっぽけな私の惑星。ピアスの玉飾りを指でつまむ。聞こえる。離す。止まる。拳に握り込む――いっそう大きくはっきり聞こえた。

 マジかよ。

 ついさっき散々(くさ)したのも忘れ、私はめいっぱい快哉を叫んだ。

「やるじゃん惑星!!」

 

 

つづく。



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5 ロシュの限界

 私は耳元に手を当て、惑星を手のひらに握り込み、そのまま早足に歩きだした。私があまりに速いので、周囲の風景が飴のように融けて流れ始めた。ついに時さえ澱みだす。ウラシマ効果。相対性理論の魔術。

 猛然と突進しながら、私は再び呼びかけた。

【スズカ】

 声が、すぐに返ってくる。

【萌?】

【やっぱり聞こえるね】

【ほんとに萌なの?】

【確かめてみる?】

【なら来てよ、萌】

【もう走ってる】

 いつの間にか早足は駆け足に変わり、駆け足は全力疾走に変わっていた。息を切らせて私は行く。通い慣れた道を、通い慣れた部屋目指して。スズカに近づいているのを肌で感じながら、私は脳内に数え切れないほどの言葉を紡いでいた。

【スズカ!】

【なに】

【あの時】

【うん……】

【なんでホントのこと言ってくれなかった】

【怒ると思って】【妬くと思って】【でも】

【分かってる】【なんでもないんだろ】

【そうだよ】

【ゴメン】

【私は……】

【萌】【だけが】【スズカ】

 私は、スズカの家のドアを叩き開けた。

 薄暗い部屋の中に、涙浮かべたスズカが居る。

【言えよバカ】

 私は一歩あゆみ寄り、コートを脱いだ。

【スネんなアホ】

 スズカが立ち上がり、セーターを脱ぎ捨てた。

【もっと】

【もっと】

【近くに来てよ!】

 私たちは、一歩ずつ、一枚ずつ、あゆみ寄り、寄っては脱ぎ、邪魔物を全て押し退け、服という服をみんな蹴散らし、腕を晒し、足を晒し、ついには魂まで裸になって、激突するように抱き合った。

 その瞬間。

 

【好き】【舐めて】【そこもっと】【朝ちゃんと起きろ】【酒飲み過ぎ】【酔ったらかわいい】【彼氏盗ったの赦してないからな】【大好き】【触って】【ダメって言われるとやりたくなる】【アホ】【ころす】【ね、キス】【マジメすぎんだよ】【見合い相手どんなの?】

言葉が爆発した!!

【いく】【ふつーのいい人】【なんで私を】【入れて】【いつから】【腹減った】【隠し事無しね】【好き】【エロいなー】【アナルとかどう思う?】【きもい】【擽られるの好き】【寂しかった】【ずっと一緒に】【変かな私ら】【変でしょ】【書くとき変顔してるの好き】【デリカシーないよな】【ばーか】

 

 

 気が付けば、私たちはひとつのもののように絡まり合い、奇妙な安定した位置関係を保って、ベッドに寄り添い合っていた。

 十年以上も溜め込んできたものを吐き出し切って、私とスズカの胸はすっかり空っぽになり――替わりにそこを安心が満たした。言いたかったこと。言えなかったこと。言うまでもないと思い込んでいたこと。私たちを隔てていた空虚の断絶は今や満たされ、本当の皮膚で私たちは触れ合っている。

 スズカの髪を撫でると、彼女が甘えて頭を押し付けてきた。今は素直に受け止められる。かわいくって、愛おしくって、私はスズカにキスをした。唇を愛撫するような優しいキスを。

「萌」

 改めて聞いた音の声は、震え上がるほどに艶めかしい。

「もう一度、欲しいな……」

【何度だってしてあげる】

 私は応え、その通りにした。

 私は、手に入れた。望むものを。望んだものの、その先までを。

 ついに、触れ得たんだ。

 そう確信した――その時だった。

「萌っ」

 スズカの声色が変わった。

 彼女は愕然として青ざめ、私の腕を凝視していた。そういえば、さっきから右手に感覚がない。体の下敷きになって痺れてしまったんだろうか。

 と、呑気に思いながら、私は右腕を見た。

 私の腕は、黒く硬化し、先端から徐々に崩れ始めていた。

 私は恐怖に叫び声を上げた。何が起きた? なんだこれ? 何かの病気? 怪我? わけもわからず怯え、ベッドから転がり落ち、喚き散らしてのたうち回る。

 だが、真の恐怖はその後にあったのだ。

 スズカがそばに来て、私を落ち着かせようと声を掛け、崩れかけた腕に触れてくれた。

 その途端、私の腕の黒変が、スズカの腕に渡り移った。

 スズカが泣き叫ぶ。彼女の左腕は、みるみるうちに肘まで漆黒に染まり、やがて指先が木炭か何かのようにボロボロと剥がれ落ちた。私の腕と全く同じように。

「怖い! 怖い! 何これ! なんなの……なんなの、萌!」

 分からない。

 分からない――?

 いや、()()()()()()()()()()()()()()

 私は膝立ちのまま、呆然とスズカを見つめ、右耳のピアスに触れた。記憶が蘇りつつあった。つまらない戯言、よくある脅し文句と、軽んじて忘れ去っていたあの言葉。

 星の引力が本物だった時点で、真剣に考えておくべきだったのだ。

 かつて魔法の店の店主が口にした警告のことを。

 君は彼女に触れるだろう。

 だが、()()()()()()()()()()()()

 ()()()()――

 

 喪った右腕をコートの下に隠し、私は追い立てられるようにあの店を目指した。折しも降り出した冬の雨は、鋼鉄の矢にすら似て、私をこの街ごと、いや惑星ごとずたずたに引き裂くかに思われた。

 魔法の店に辿り着き、ドアを蹴り開け飛び込むと、中は灯りひとつない薄暗闇に閉ざされている。私は怖気づいた。ただでさえ動揺していたから。それでも勇気を奮い起こし――というより狼狽からくる蛮勇に突き動かされて――泣き叫んだ。

「出てこい! どこだ!」

「ここだよ。常にそうであるように」

 涼やかな声は背後から聞こえてきた。私が弾かれたように振り返り、後ずさって籐の椅子に激突するのを、店主は冷ややかに眺めていた。まるで、愚かな小動物がわけもわからず自ら死地に飛び込んでしまうのを眺めるようにだ。

()()()()()()()のだね。だから言ったのに……」

「元に戻して」

「うーん」

「返品する! 金も要らない! だから何もかも元に戻してよ!」

「残念ながら、一度砕けた自己を取り戻す方法はないよ。

 受け入れて生きるしかない。腕はそのうち生えてくることもあるし――」

「あるわけねーだろ!!」

「あるさ。君が知らないだけだ」

「そんなことはどうでもいいっ!!」

 ついに私は、店主に掴みかかった。私に辛うじて残された左手一本で。この身体に宿るなけなしの力を振り絞って。

「この腕は自分のせいだ。治らなくても構わない。

 でも、私は――」

 いつの間にか、私は泣いていた。

 後悔と罪悪感が、胸の内側から針で刺すように私を苛む。私のことはいい。魔法に手を出したとき、どこか覚悟していたのだ、それなりの代償を支払うことは。それが金銭でも、社会からの信用でも、あるいは命や魂とかいうものであってもいい。私はスズカに近づきたかった。

 でも、

「私がスズカを傷つけたんだよ!!」

 こんなことのために触れたわけではなかったのに!!

 店主はゆっくりと目を伏せ、しばらくそのまま立ち尽くしていた。彼の表情には微かな憐憫が見て取れ、その事実が少なからず私を落ち着かせた。少なくとも、彼は敵ではない。もちろん、味方でもありえないが。

「哀しいね」

 と彼は優しく囁き、目を開いた。

「望んだものを望んだように得られないというだけじゃない。

 望んだものを望んだように()()ことさえままならない。

 人というものは哀しい存在だ。

 でも、だからこそ僕は人に惹かれる。君だって真理に肉薄したはずだ――望んだ真理ではなかったにせよ」

 私はうなずいた。

 意味不明のたわごとが、なぜかすんなりと心に染みた。多分、私が既に知っていることだからだ。ずっとこの胸の中にあり、じわじわと外へ滲み出し、今まさに私の手が掴もうとしていることだからだ。

「君はひとときロシュの限界を超えた。もはやそれは過去の出来事であり、覆すことはできない。

 だから、選ぶことだ。

 過去ではなく、未来を。今君がいるこの場所から、果たして何処に至ろうと願うのかを――」

 歌うように言いながら、店主は店の奥の暗闇に消えていった。すっかり彼が見えなくなってしまって、ようやく私は我に返り、店主の後を追った。

 そして、呆然と立ち尽くした。

 店の奥には小ぢんまりとした給湯室があるばかりで、人の姿はおろか、動くものさえ何一つ見つけられなかったのだ。

 ただ暗闇を除いては。

 

 

つづく。



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6 私たちの周回軌道

 私はスズカの部屋に帰ってきたが、だからと言って何が起きるわけでもない。

 肩を落として戻った私を、スズカは疲れ切った薄笑いで迎えてくれ、私たちは定位置に腰を下ろした。私はPS4の電源を入れ、スズカはまた新しい小説を書き始めた。まさかこんな時に、と思われるかもしれないが、他にやることもなかったのだから仕方ない。片手で狩人様を操作するのは全く骨が折れた。私の狩人様はそこらへんの雑魚にさえズタボロにされてしまった。一方のスズカも、今まで両手でスマホを使っていたものだから、難しい顔で四苦八苦している。

 とはいえ、なんとかならないこともなさそうだった。お互いに。

 私たちは何を失ったのだろうか。それは、どれほど重要なものだったのだろうか。唯一無二、掛け替えのないものだった気もするし、無くてもどうにかなる程度のものだった気もする。多分それはどちらも正しいのだ。どう考えても人生に必要不可欠なものでさえ、無いなら無いで、無いなりに生きていけてしまう。

 それが、現実。

 だからこそ、離さず掴んでおきたい。

 なのに、そんな希望を抱くことそのものが、触れていたかったものを崩してしまう。大切に思うほど、愛しく思うほど、近づけば近づくほど、私の重力がスズカを引裂き、粉砕してしまう。それが避けられない摂理なら、一体、どうすればいいのだろう。

 私は、どうすればいいのだろう。

 狩人様が完膚なきまでに叩きのめされ、私は奇声をあげて仰向けにひっくり返った。真後ろにスズカがいたから、ちょうど膝枕になる。スズカもまた、何か書き終えてスマホを置いたところだった。

 私たちの視線が絡んだ。彼女は最高に色っぽく微笑んで、私の頭を撫でてくれた。私も彼女の膝を撫でた。頬をこすりつけて思いっきり甘え、持ちうる限りの愛を手のひらに込めた。

 扇情的に。

 あまりに扇情的に。

 スズカは、そっと手を耳元に伸ばし、星に触れた。

【――いく?】

 

 ああ。

 ロシュはもう限界だ。

【いこっか】

 

 私はスズカの胸を這い登り、最後で最高のキスを奪った。唇と瞳がひととき鋭く煌めくかに見え、次の瞬間、私たちは崩れ始めた。今度は腕だけではない。脚も、腰も、胸元も、あらゆるところが黒に染まってひび割れ、無数の礫となって飛散した。

 私から飛び出た私のかけらが、渦を描いて廻りだす。スズカであった小石たちもまた。物理学なんて全然知らないはずなのに、なぜか私は唐突に悟った。

 千々(ちぢ)に砕けた()()()は、今、互いの引力に惹かれて周回軌道に入ったのだ。

 私たちは混ざり合い、ひとつの渦に、輪っかになり、やがて、色とりどりの同心円が連なる円盤と化した。【聞こえる?】【聞こえる】どちらが呼びかけどちらが応えたのか、もはやそれすら判然とせず、ただ私たちはひとつだった。その事実に舞い上がり、私の軌道が微かにズレる。しかしスズカ/萌の重力腕が、すぐさま私を円盤に引き戻してくれる。目に見えない引力の有無を言わさぬ力強さ、それが無性に嬉しくて。

 私たちの宙域は、今や、【好き】に満ちていた。

 一体どれほどの間、そうして渦巻いていたのだろうか。もう私たちには時間感覚さえないけれど、気がついた時にはあの店主がそばにいた。スズカのものだった部屋の中、宙を回り続ける私たちを、店主はあの綺麗な目で暖かく見ている。私たちは挨拶の仕方も分からなくなっていたので、とりあえず円盤の半径を1万kmばかり拡げてみた。彼が微笑み返したところ見ると、うまく通じたらしかった。

 彼は、懐から小瓶を取り出した。透明でかわいらしくて、とっても私たち向きの香り高いコルク栓が嵌っている。私たちは瓶に目を奪われた――もしもまだ目があるのなら。

 店主は小瓶の口を私たちに向け、栓を開いた。その途端、凄まじい気流が瓶の口に生じて、私達を吸い込みだした。いや、というよりもこれは、まるで空間そのものがすり鉢状に湾曲して、私たちを飲み込もうとしているような。落ちるべきところに落ちていくような。

 それは味わったことのない心地よさで、私たちは慣性も体積も捨て、吸い込まれるままに身を任せた。なんとも不思議なことに、文字通り天文学的なスケールだった私たちは、手のひらサイズの小瓶にすっぽりと収まってしまったのだった。

 店主が、瓶の中の私たちを覗き込む。私たちは少しの間まごついていたが、やがて、収まりのいい位置を見つけて、ふたたび周回を始めた。

「いつまでも一緒にいるといい。

 少し手狭なのは気の毒だけど」

 店主が、優しく囁いた。

「それだって、君たちの宇宙にはかわりないのだから」

 

 

 

THE END.



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