ポケットモンスター -N's story- (ロールキャベツ)
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序章 王と白き英雄

 ――イッシュ地方。青い空に白い雲が浮かんでいる。

 

 穏やかな風に乗りながらマメパトの群れが飛んでいる。その群れの一番後方を飛んでいた一匹が何かに気付き、下降した。他のものたちは気付かずに、そのまま飛び去ってしまう。

 

 そのマメパトが降りた場所は、16番道路にある〝迷いの森〟。さほど入り組んでもいないのに、森の中に入ると迷ってしまうと言われる不思議な森である。

 

 しかし、マメパトは構わずに森の奥まで飛んだ。まるでその森を熟知しているかのように。はっきりと、目的地がわかっているかのように。地面には餌になりそうな虫ポケモンがいたが、それらには目もくれないで素通りした。

 

 進む先を右に、左にと転換しながら、道のない道を進む。ときどき、生い茂る木の葉の陰から差し込む光がからだを照らす。

 

 人気のない森の奥まで来ると突然、視界が広くなった。木々に囲まれて緑の芝生が一面に広がっている広場には、一本の大木とその隣に一軒のログハウスが建っている。その家の開け放たれている窓辺へ、マメパトは降りた。

 

 部屋の中には椅子に座って読書をしている一人の青年がいた。緑色の長髪が白い肌によく合っている。本に夢中なのか、彼は窓辺のマメパトにまったく気が付いていないようだ。

 

 マメパトがひと声鳴くと、彼ははっとして顔を上げた。そして窓辺の訪問者に焦点が合わさると、本に栞を挟んで机の上に置き、マメパトに近づいた。

 

「やあ、また来たのか。ちょっと待ってて」

 

 青年は近くに置いてある缶を引き寄せると、その中からポケモンフーズを取って窓辺に乗せた。それをマメパトは勢いよく食べ始める。どうやらこのマメパトは、この青年の元によく餌をもらいに来るらしい。青年は微笑みながらその姿を見ていた。

 

 視線を空に移す。気持ちの良いほどの快晴だ。

 

「――よし」

 

 青年は机上のウエストポーチを腰に巻き、白黒のキャップを目深に被ると広場に出た。この広場とログハウスを囲むように木々が立っており、空を遮るものは一切ない。

 

 彼はその広場の中央に立ち、目を閉じた。一息吸って、吐く。そよ風が運んでくる木や花の匂いが体内を駆け巡る。まるで自然と一体になったようで、この地で起きているあらゆる出来事を感じているかのようだ。

 

 ゆっくりとした動作で左手を口元に運ぶと、指笛を吹いた。凛として優しい一筋の音が辺りに響き渡る。

 

 ほどなくして、何かが空を飛んでいる音が聞こえてきた。燃えながら空を切っているかのようである。その瞬間、青年の頭上をものすごい速さで巨大な物体が通過した。それは空中で一回転すると速度を落として、ゆっくりと地に降りた。

 

 舞い降りたのは、全身が真っ白な羽毛で覆われたドラゴン、はくようポケモンのレシラム。炎を自在に操ることができ、その熱で世界中の大気を動かすことができると言われている、このイッシュ地方の伝説のポケモンである。青年はとある事件をきっかけにこのポケモンを手に入れたのだ。

 

 青年が近づくと、レシラムは主人に頭を垂れた。彼はその頭を優しく両腕で包み込む。レシラムの気持ちを受け取るように。

 

「突然だけど、出発を今日にしよう。今日のような穏やかな日に旅立ちたいんだ」

 

 青年がそう言うと、レシラムは地に伏せた。微笑みを浮かべ、美しい白い羽毛をなでながら彼はその背中に乗った。

 

「ひとまず、ヒウンシティの付近まで頼むよ」

 

 レシラムはからだを起こし、その鋭く青い瞳を空に向けた。膝を曲げてからだを落とし、飛び立つ準備に入る。松明のように広がる尻尾に力を集中させ、炎を発生させる。赤い炎が膨れ上がったその瞬間、純白の竜と青年は大空へと飛翔した。

 

 マメパトは、彼らが見えなくなるまで、雲が悠々と浮かぶ広い空を見つめていた。

 

 



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VS翡翠の少女と花束

「――では、お預かりします。お気を付けていってらっしゃいませ」

 

 フロントの受付係の女性から見送りの言葉を受け取ったヨシノは心を躍らせながらホテルの外へ出た。通りにはすでに多くのビジネスマンが歩き、車が往来していた。朝の9時から大変である。

 

 さすが、イッシュ地方一の大都会であり、ビジネスの中心街と謳われるだけある。空を見上げると首が痛くなるほどビルが高い。

 

 ヨシノは肩から下げているショルダーバッグからタウンマップを出して広げた。

 

 地図には彼女がいくつか書き記した丸があり、このヒウンシティの近くにも二つの丸が記されている。ひとつはこの街の南にある港付近、もうひとつは北にある砂漠を挟んだ先にあるライモンシティだ。

 

 目指すはライモンシティ。彼女がこの地へ留学に訪れた目的のエリートトレーナーを養成するためのトレーナーズスクールがある。

 

 ライモンシティはバトル施設が数多く立ち並び、多くのトレーナーが腕試しに訪れることでも有名だ。ヨシノがこれから通うスクールでも授業の一環として施設を利用するほどであり、所属するトレーナーの質も高いことから、彼女のようにほかの地方からの留学生も多く、人気である。

 

 さらに近年では、ミュージカルホールや遊園地といったエンターテインメント施設も充実してきている商業都市でもあるので、それも倍率を高くしている要因のひとつである。

 

 実際のところ彼女自身も少しでも早く夢を叶えるためにこの地へと訪れたのだが、やはり年頃の女の子といったところだろうか、商業施設によってきらきらと輝く場所にも十分に魅了されていた。

 

 ここからライモンシティ行きのバスが夕方の5時に出発する。それまでこのヒウンシティを満喫するために、先ほど受付で大きい荷物を預かってもらったのだ。荷物を抱えての移動は大変であるし、なにより昨夜に港へ到着したばかりなので少々疲れてもいる。観光は身軽の方が自由に動き回れる。

 

 ひとまず南にある海沿いの通りへ行くことを決めたヨシノは、タウンマップをショルダーバッグに戻した。バッグのベルトをぎゅっと握りしめ、高鳴る鼓動を胸に、通りの南の方へ向きを変える。

 

 その瞬間、彼女のかばんの中のモンスターボールから手持ちであるポケモン――シェイミが飛び出してきた。頭部から背中にかけて見た目も色も草のようにそっくりな緑色の毛皮で覆い、頭には二輪のきれいなピンク色の花が咲いている。小さくて、とても可愛らしい姿だ。

 

「あっ! また勝手に出てきて……。ボールに戻って」

 

 しかしシェイミはそっぽを向いている。どうやら主人であるヨシノに対してあまり懐いておらず、言うことを聞かないらしい。彼女にとってはいつものことなので――本当は慣れるところではないのだろうが――もう慣れてしまった。

 

 ヨシノは溜め息をつきながら、いつものようにモンスターボールをシェイミに向けた。いつもシェイミが勝手に出てきてはヨシノがボールに戻すという動作を繰り返す。それだけならいいのだが、たまにどこかへと駆けていってしまうことに彼女は手を焼いていた。

 

 案の定、彼女の手持ちは逃げ出した。

 

「ちょっと! 待って!」

 

 シェイミは人混みの中に飛び込み、人々の足元を器用に縫って走っていく。

 

 朝から忙しなく歩いているビジネスマンたちは足元を素早く移動するシェイミに驚いて立ち止まり、次いでその後を追いかける少女のために道を開けた。しかしそれでも人は多く、ヨシノもシェイミと同じように人々の間を縫って走っているため、なかなか追いつかずに少しずつ距離ができていく。

 

 イッシュ地方に行く数日前に、ヨシノは家の裏庭で、傷ついているシェイミを保護した。

 

 ほかの野生のポケモンに襲われたからなのか、誰かに捕獲されそうになったために防衛していたからなのかはわからないが、とにかく戦闘によって負傷していた。食料補給もままならなかったのか、衰弱もしていた。

 

 幸いにも同居しているヨシノの祖父が草タイプのジムリーダーを長年務めており、草タイプに関して、草タイプのポケモンに関して知識を深く持っていたため、祖父にその場で早急に治療してもらった。

 

 念のためポケモンの治療や回復を行う施設であるポケモンセンターへ見てもらいに行くと、祖父の適切な治療のおかげもあり、栄養剤を処方されただけで終わった。

 

 その後は順調に傷も体力も回復したが、目に見えるほど元気になったというようには感じられなかった。態度もどことなくよそよそしかった。

 

 シェイミがこれまでどのような環境で育ってきたのかわからないが、シェイミを元気づけたいと思ったヨシノは、そのまま家に置いて行くのも気になったので一緒に連れて行くことにしたのだ。

 

 手持ちに加えてからまだ日は浅く、当然これから長い時間をかけてお互いのことを理解していくことはわかってはいるものの、毎度モンスターボールから勝手に出てきては言うことを聞かずにどこかへと行ってしまう行動にはほとほと嫌気が差してきていた。

 

 なんとか見失わないように走っていると、前方に海と桟橋が見えてきた。先程決めた目的地である海沿いの通りだ。いま走っている通りよりも車の交通量が多い。そんなところへシェイミが飛び出し事故があったら恐ろしいと瞬時に想像力を働かせたヨシノは焦り、より腕を振った。

 

 見えていた海がだんだんと大きくなっていく。

 

 海沿いの通りと走っている通りの交差点をシェイミが右に曲がるのが見えた。ヨシノも数秒遅れてその後を追う。曲がった先にいた人にぶつかり、すみませんと数回連呼しながら頭を下げた。再び後を追おうとするとシェイミが歩道の真ん中で立ち止まっていた。

 

 ようやく逃げることをやめたのか、と息切れを整えながらヨシノは背後に近づく。そのとき、シェイミが前方をじっと見つめていることに気づいた。その視線を辿ると帽子をかぶった背の高い人が立っていた。

 

 特徴的なのは緑色の長髪と、首、両手首、腰に身につけてあるアクセサリー。とくに腰に身につけられたキューブがひときわ目立つ。長髪であることを除けば身長や格好から男性と思われるが、帽子を目深にかぶっていて前髪も長いため顔がよく見えない。その人もシェイミのことを見ているようだが表情がわからない。

 

 ヨシノは怪訝に思いながら、万が一何かが起こったときのためにすぐさまシェイミを戻せるようモンスターボールを手にしながら歩みを進めたが、すぐに立ち止まった。シェイミとその人だけの眼には見えない空間ができている気がしたのだ。

 

 周囲の人は彼らに気が付いて避けて歩いたり、気が付かない人はその間を交差して歩いているが、それでもお互いの視線が揺るがずに繋がっている。

 

 特別にシェイミがその人に対して恐怖しているというわけでも、好意を抱いているというわけでもなさそうで、且つ自分の手持ちであるというのにもかかわらず、今まで会ったこともない人と視線を合致させたまま動かずにいるという光景は異様だった。

 

 一瞬、もしかしたら以前のシェイミのパートナーかとも思ったが、その割にはお互いに何も反応を示していないので、それはなさそうだと考えた。

 

 どれほどの間そうしていたのかわからない。ほんの数秒か数分か。とにかくヨシノは緊張して動くことができなかったが、それを断ち切ったのは緑の髪の人だった。前から歩いてきてシェイミの前で立ち止まると地面から抱き上げた。

 

「――そうか」

 

「あの、私のポケモンです」

 

 ヨシノはその人の元へと駆け寄って声をかけた。離れていても背が高いとわかっていたが、近くで見るとより実感できた。そして近づいたことで帽子の下の顔がわかった。とても端整で、男性とも女性とも見て取れるような中世的な顔立ちだ。歳は若そうである。

 

 その人はシェイミから視線を外すとヨシノを見た。彼女が手にしているモンスターボールにも一瞥をする。そしてもう一度、彼女を見た。

 

 その瞳はたしかにヨシノの眼を見つめており彼女の姿を捉えているはずなのだが、まるで瞳の奥にあるこれまでの自分のすべてを、あるいは別の『何か』を見られている、とヨシノは感じた。気味が悪い。

 

「キミが、この子のトモダチ?」

 

 一瞬、何を言われているのかわからなかったが、すぐに頷いた。

 

 たしかに友達だ。まだ自分のパーティに入ってから一緒に密度の濃い時間を過ごしたわけではないが、食事をするときは手持ちのほかのポケモンとも一緒に食べるし、寝るときも一緒に寝る。なによりイッシュ地方まではるばるついてきてくれた。

 

 半ば強引に連れてきてしまったためかまだまだ言うことは聞かないし、ときどき勝手にどこかへ行ってしまう行動に振り回されて疲れてはいるが、シェイミを嫌いにはなっていない。お互いの距離はまだ遠いが友達だと思っている。

 

「そっか」

 

 そう一言つぶやくと、その人は抱き上げているシェイミをヨシノの元へ戻そうとした。ヨシノはほっとして受け取ろうとしたが、シェイミがそれを拒んだ。短い手足をばたばたと動かして彼女の手から逃れようと身体をねじらせている。

 

「キミはこのイッシュに何をしに来たんだい?」

 

 唐突なその言葉に、ヨシノは固まった。その人を見る。

 

「キミは、シェイミの〝心の声〟を聴いたことがあるかい?」

 

 意味が理解できなかったが、その言葉は彼女の胸に響いた。おそらく、その人はシェイミとちゃんと向き合っているのかと問いたいのだろう。

 

 思わず黙ってしまったヨシノに対し、それまでじっと彼女のことを見つめていた目つきから一変して、その人は優しく微笑んだ。

 

「立ち話もなんだし、よければ座って話さない?」

 

 ヨシノはシェイミを見た。あれだけ自分には抱かれるのを嫌がっていたのに、その人には嫌がる素振りも見せていない。怪しい人に変わりはないが、変な人ではなさそうだ。

 

 それにいきなり現れては変なことを言われ、おまけにシェイミの心をあっという間につかんでしまったことに、せっかくのイッシュ地方、一日目の朝から不愉快であった。このまま去ってしまえばもっと気分が悪い。

 

「――失礼ですけど、あなたのお名前は?」

 

「ボクはN」

 

 エヌ。N? イニシャルか何かだろうか。変な名前だと思ったが、そんなことを思ってしまっては相手に失礼だと感じ、ヨシノは考えるのをやめた。

 

「Nさん、ですね」

「うん。キミは?」

「ヨシノと言います」

「よろしく」

 

 Nはシェイミに視線を戻し、口を開く。

 

「キミは一度、彼女の元に戻るべきだ。大丈夫、彼女は優しいよ」

 

 彼はシェイミに向かって話していた。

 

 ポケモンは、人間の雰囲気や表情などを読み解くことに非常に長けていると言われている。それゆえ、人間の言葉を直接的にではないがおおよそ理解し、感情もだいたい感じ取ることができるとされている。

 

 実際、種族も言語も異なるにもかかわらず彼らは人間を理解し、心を通わせて共存している。だからこそ、人間側もそれをわかって人とポケモンがともに暮らしやすい世界をつくろうと試行錯誤している。

 

 生活のなかでは、少しでも心を通わせようとポケモンに話しかける人がほとんどだ。それによってお互いの間に信頼関係が生まれ、ともに生きることに対しての壁がなくなっていくのだ。

 

 ヨシノ自身もいつも自分のポケモンに話しかけてコミュニケーションを取っているし、野生のポケモンがいれば餌をあげながら話しかけたりして仲良くなろうとする。ポケモンに話しかけることは普通のことなのだ。

 

 このNという青年も、その普通のことをしただけだ。だが、普通のことのようだったが、普通には見えなかった。本当にポケモンの言葉がわかっているかのような、心がわかっているかのような――。

 

 ヨシノの元にシェイミが戻ってきた。驚いたことに、先程とは打って変わっておとなしく素直に抱かれている。このNという青年はいったい何をしたのか、ますますわからない。

 

「じゃあ行こうか」

 

 困惑しているヨシノをよそにNは歩き出した。その後を慌てて追う。まだついて行くことに返事はしていなかったが、彼のその不思議な力のようなものに引き付けられた。

 

 ヨシノはシェイミを抱きかかえたままNの数歩後ろをついて海沿いの通りを歩く。

 

 ふと海の方を見た。シェイミを追いかけていたりNと出会ったりしてちゃんと見ていなかったが、目の前には広大な海が水平線の彼方まで続いていた。ヒウンシティの港に着いたのも昨夜で周りは暗く、こんなにも街が海に近くて見渡せる場所だとは思ってもいなかった。

 

 海沿いの通りは弧を描くように設計されており、海に向かって船の発着所である桟橋が数本伸びている。そして海沿いの通りから内陸に向かっても同じように数本の通りが伸びて大都市を形成し、それぞれの通りの先はひとつのセントラルエリアというところに繋がっている。

 

 それぞれの通りは多くの車と人が行き来し、店や職場も多いためかとても賑わっていて、喧騒という言葉がぴったりと当てはまる。この海沿いの通りもたしかに車も人も多いのだが、どちらかというと主に車道が面積を占めており、人混みの具合は落ち着いている。

 

 それに海風が気持ちいい。近くを飛んでいる鳥ポケモンのキャモメの鳴き声も心を落ち着かせてくれる。

 

 やっと、これから新しい人生が始まる新天地に足を踏み入れたことをヨシノは実感した。自分が生まれ育った地を離れ、まったく知らない場所でこれから数年間生活する。

 

 これから起こるであろう新しい発見や体験が待ち受けているかと思うと気持ちが抑えられないが、同時に右も左もわからない場所で、しかも異国の地で生活していくことができるのかという心配や恐怖があった。

 

 同じ人間とはいえ、異なる文化や言語を受け容れて生活していかなければならない。もちろんその覚悟を持ってはるばる海を越えてきたのだが、自分のことを受け容れてくれるのかどうかも彼女は心配していた。

 

「――そういえば」

 

 ヨシノが思い出しかのように言った。

 

「どうして私が育った土地の言葉を知っているんですか? 住んでいたことがあるんですか?」

 

 前を歩くNの背中に問いかける。

 

「行ったことはないよ。ただシェイミの育った場所の言葉を偶然勉強したことがあるだけだよ」

 

 Nは振り返ることなく、ただ肩越しにそう答えた。

 

 偶然勉強したことがあるとはどういうことだろう。教科書か何かで勉強したことがあるならわかるが、それだけでここまできれいな発音で流暢に会話ができる水準まで達することができるのだろうか。

 

 それに〝シェイミの育った〟と言った。〝心の声〟というものが本当に聴こえるとして、シェイミがそれをわかったうえで故郷のことを伝えたから、彼はそこの言葉を瞬時に使うことができたのだろうか。ますますわからない。

 

 いろいろと訊きたいことがありつつ考えごとをしていると、Nが角を曲がって一本の通りに入っていったのでヨシノもその後をついて行く。

 

 入った通りは、彼女が最初にいた通りよりも狭かった。それに人通りもそれほど多くない。

 

 よく見てみると、カフェテリアやレストランといった飲食店の割合が多かった。その中でも営業している店と、まだ準備中なのか閉まっている店とで別れており、しかも前者のほうが少ない。現状だけを見ると裏路地という言葉が合いそうな雰囲気である。

 

 それにしてもコーヒーやパンの美味しそうな香りが風に乗ってやってくる。ホテルで朝食を食べたはずなのに、匂いに刺激されてお腹が空いてきた。

 

 通りの半分ほどの距離を過ぎようとしていたとき、Nがひとつの店の前で立ち止まった。

 

 そのこじんまりとした店の上には店名――BW & Ashと書かれた看板が掲げられており、ドアにはまだ営業時間外であることを知らせる札が掛けられていた。窓にはブラインドもかかっていてはっきりと店が閉まっていることがわかった。

 

 閉まっていることを伝えようとしたとき、Nが店と店の間にある脇道に入った。ごみ箱やごみ袋が壁に沿って置いてある。Nはそれらを素通りして、おそらく店の裏口へと繋がっているであろうドアの取っ手を躊躇なく回した。

 

「どうしたの?」

 

 ヨシノがついて来ていないことに気づいたNが問いかける。彼女は脇道の入り口で佇んでいた。

 

「いや、その……」

 

 ヨシノは危険を察知していた。人通りは少なかったが営業している店もいくつかあるし大丈夫だろうと思っていたが、まさか営業していない店に連れ込まれるとは思いもしなかった。

 

 それも朝からだ。こんなところで襲われては堪ったものではない。好奇心だけでやはり知らない人にはついて行くべきではなかった、と自分の危機管理能力の甘さを恥じた。

 

 その場から一刻も早く立ち去ろうと一歩後退ると、腕の中のシェイミが彼の元へと行きたいかのように手足を前に伸ばした。シェイミの行動に驚いていると、早く前に進めと言わんばかりにより一層手足を暴れさせた。

 

「わかったわかった、行くって」

 

 なにもかも訳がわからないまま、ヨシノは渋々Nの元に歩いて行った。万が一襲われたときにすぐに対応できるよう、腰のベルトに装填してあるモンスターボールの存在に意識を集中させる。

 

 ヨシノが入ると、Nはドアを閉めた。

 

 暗い。店に入った彼女が最初に抱いた感想はそれだった。電気は点いておらず、ブラインドから入るわずかな日の光だけでも店内の様子はわかる。しかし、雰囲気が暗かった。今はもうあまり使われていないような、どことなく寂しさが残っていた。

 

「好きなところに座って」

 

 Nはそう言って階段横の扉を押して中に入っていった。一瞬だったが、中は段ボール箱の山やキッチンらきしものが見えた。厨房のようだ。その横には二階へと続く階段がある。

 

 ひとまず、カウンター席に座ることにした。その席のほかにはテーブル席がいくつか置かれていたが、机上には椅子が逆さにされて乗っていた。

 

 両壁には一枚ずつ絵が掛けられていた。

 

 ひとつは、二人の人物と二匹のドラゴンが描かれている。二人はそれぞれ白いドラゴンと黒いドラゴンの元に描かれており、お互いに顔を背けている。二匹のドラゴンも同じように身体を絵の外側に向けている。その真ん中には一本の塔が悠々と描かれていて、天と地を繋いでいるようにも、その二組を分けているようにも見て取れる。

 

 もうひとつは、雪山で一匹の灰色のドラゴンが天を仰いでいる絵だ。雪で覆い尽くされてしまったそこには何もなく、一匹がそこに描かれているのみだ。

 

「その絵が気になるの?」

 

 Nがポケモンフーズを盛った皿を持って現れた。それを床に置き、お食べ、とシェイミに声をかける。シェイミはヨシノの腕から飛び出し、ポケモンフーズを食べだした。

 

「……ありがとうございます」

 

 彼女はそう言うと、絵に視線を戻した。

 

「この描かれている生き物はポケモンですか?」

 

「うん。イッシュに古くから伝わる伝説のポケモンだよ。白いのがレシラムで、黒いのがゼクロム。灰色のはキュレム」

 

「じゃあ、その二人の人間は?」

 

「彼らもその三匹と同様、イッシュの古い人物で双子の兄弟だよ。〝英雄〟と呼ばれている」

 

「〝英雄〟……?」

 

 ヨシノは首を傾げた。イッシュ地方を何かから救ったのだろうか。

 

「こっちの――キュレムはどうして一緒に描かれていないんですか?」

 

 キュレムは一匹だけ、英雄ともほかの二匹とも一緒には描かれていない。雪山で天を仰ぐその姿は孤独そのもので、ヨシノは寂しく感じた。

 

「それは――」

 

「それにはわたしがお答えしましょう」

 

 Nがヨシノの質問に答えようとしたとき、ひとりの老人が階段の上から現れた。口周りに白い髭を生やし、白シャツにベスト、黒いチノパン。このカフェのマスターのような恰好をしている。ゆっくりと二人の元に行くと、彼はカウンターの中に入った。

 

「N様、お越しになるときはご連絡を、といつも言っておりますでしょう」

 

 その言葉に、Nは含み笑いをしただけだった。

 

 ヨシノはすぐにその老人の言い方に反応した。Nは、どこかの子息か何かの人物なのだろうか。それにしては恰好がラフな感じがするが。

 

「こちらのお嬢さんは?」

 

「ヨシノ。異国の地からはるばるイッシュへとやって来たんだって」

 

 これまで話していた言語からイッシュの言語に変えてNが答える。ヨシノは軽く会釈をした。

 

「そうですか。わたしはN様と違って、他国の言葉を話すことができないので……申し訳ありません」

 

「あ、いえ、イッシュの言語なら勉強していますのでだいたいわかります」

 

 微笑みながらそう答える。同様にその老人もヨシノに対して微笑みを浮かべる。彼はロットと名乗った。

 

「このイッシュは人もポケモンも関係なく、昔からさまざまなものを受け容れて絶えず変化している場所です。もちろん、ヨシノさんを歓迎しますよ。イッシュ地方へようこそ」

 

 ロットは手際よくコーヒーを淹れ始めた。コーヒー豆のいい香りが部屋を包み込み始める。

 

「さて続きになりますが、キュレムは〝虚無〟のポケモンと呼ばれています」

 

「〝虚無〟、ですか……」

 

「ええ。順を追ってお話しましょう」

 

 レシラムとゼクロムはイッシュ地方の神話に登場するポケモンで、イッシュ地方の歴史に大きくかかわっているという。

 

 二匹は今でこそ対となるポケモンとして知られているが、元々は一匹のポケモンだった。そのポケモンは双子の英雄と協力して新しい国を建国し、それが現在のイッシュ地方の元となっているらしい。

 

 しかしいつしか双子は仲違いをし、兄は〝真実〟を、弟は〝理想〟を求めて対立し始めた。さらにその争いは、一匹のポケモンを分裂させてしまうこととなり、レシラムとゼクロムが生まれた。そのときに抜け殻として残ったのがキュレムであった。

 

 そしてレシラムは真実を求める兄に、ゼクロムは理想を求める弟にそれぞれ分かれて争った。その後、双子の争いは収束したが、彼らの子孫が同じように争いを始めた。そのことに怒った二匹は、イッシュ地方を焼き尽くし姿を消したと言われている。

 

「イッシュの建国に携わったドラゴンポケモンが、今のレシラムとゼクロムなんですね」

 

「そういうことです」

 

「レシラムとゼクロムのことはわかりました。キュレムがどうして虚無のポケモンと呼ばれているのかも。ですがキュレムは、生まれた後はどうなったんですか?」

 

 ヨシノの言葉に、ロットは困ったように微笑んだ。

 

「それが詳しいことはわからないのです。キュレムに関しての文献はほとんどありませんので……。しかし言い伝えでは、失われた心と体を埋めるために真実と理想の英雄を待つ、と言われています」

 

 真実と理想の英雄を待つ虚無のポケモン。それがキュレム。それが、あの壁の絵によく表れている。伝説とされているポケモンにそんな過去があったとはまったく考えられなかった。

 

 ヨシノが悲しげな表情をしていることに気づいたロットは、何かを察したように優しく微笑みながら彼女の目の前に淹れたてのカフェラテを差し出した。

 

「どんな人にもどんなポケモンにも、悲しい過去はあります。過去と向き合うからこそ、成長して前に進めるのです。驕りは捨てて、自分の〝声〟を聞いてみてください。そうすれば自ずと周りの〝声〟も聞こえるでしょう」

 

 声……。Nも、〝心の声〟という言葉を口にしていた。おそらく言葉通りの意味だろうが、言い換えれば、普段は口にすることのない、心の奥にしまい込んでいる本当の気持ち、といったところだろうか。

 

 ヨシノは、食事を終えて毛づくろいをしているシェイミをちらりと見た。

 

 彼女は幼いころから、祖父の影響もあってとくに草タイプのポケモンとたくさん触れ合ってきた。おかげで物心がついたときから草タイプのポケモンが大好きで、祖父のように草タイプのポケモンを使わせたら右に出るものはいないと言われるほど強くなりたいと思っていた。

 

 だからこそ草タイプについてはかなり勉強したし、弱点を克服するためにほかのタイプのことに関しても熱心に勉強した。さらにポケモンバトルにおいて手持ちのポケモンの力を最大限に発揮させるために、その生態についても深く勉強した。

 

 だからこそ地元では「草タイプしか使わないのにバトルが強い子どもがいる」と呼ばれていてちょっとした有名人だった。そして祖父の後押しもあって、己を強くするためにもここまで留学しに来たのだ。草タイプを極めるための新たな一歩を踏み出せることが決まって意気込んでいた。

 

 しかし、シェイミだけは違った。小さい頃から草タイプのポケモンとたくさん触れ合ってきて、たくさん勉強して、たくさん心を通わせて、彼らの気持ちを誰よりも理解しているつもりだった。だがそのシェイミは心を通わせようとしてくれなくて、反対につい先程出会ったばかりの彼にはおとなしい態度を見せてしまった。

 

「キミとボクとに対するシェイミの態度の違いは何だかわかるかい?」

 

 ヨシノがちょうど考えようとしていたところで、まるで心を読んでいたかのようにタイミングよくNが質問してきた。彼女は無言で首を横に振った。正直なところ、わからなかった。

 

 それを見て、Nは優しく微笑んだ。

 

「〝誇り〟や〝驕り〟と言い換えられるかもしれないが、キミの場合は〝過去〟と言った方がわかりやすいかもね」

 

「過去、ですか……?」

 

 まだそんなに長く生きていないけど……。

 

「シェイミが、キミが一緒に暮らしているトモダチから、キミのこれまでの出来事を聞いたみたいだ。暮らしていたところでは、キミは草タイプを使うトレーナーでバトルも強かったみたいだね。有名人だったみたいだ」

 

「まあ、少しだけ……」

 

「そしてキミのトモダチとの信頼関係は強いようだね。幼い頃から一緒に生活してきて、お互いをよく理解し合っている。だからこそ、もっとほかの、とくに草タイプのポケモンとトモダチになりたがろうとする。自分は草タイプのことを誰よりも知っているから、これまで何度も心を通わせてきたのだから、これでまた極みに近づける、と」

 

 ヨシノはハッとした。思い出したのだ。手持ちのタイプを統一してバトルに勝つというのは簡単なことではない。ましてやタイプの専門家と言われているジムリーダーでさえ、並々ならぬ鍛錬と勉強の結果、あの地位に就いているのだ。

 

 だが彼女の場合は環境も相まって急速に成長することができた。草タイプのことをよく理解していると言われ、ポケモンバトルが強いと言われ、町を歩けば声を駆けられ、いつしか誇りは驕りへと変わりかけていた。

 

 自分でも気づいていた。このまま才能を過信してはいけないとわかっていた。けれど、その強い気持ちを保っていなければ、それを失ったときに自分に何が残っているのかわからない恐怖から、気づかない振りをしていた。

 

 それに、自分の存在を知っている地元という環境が怖かった。急にバトルを申し込まれることが多々あり、こんなところで負けてはいけないという思いから、いつも休まらない心と体を抱えて町を歩くのは大変だった。

 

 そこから少しでも離れたいこともあり、誰も彼女のことを知らないであろうイッシュ地方に、祖父が提案してくれたこともあってやって来た。

 

「キミは自分の気持ちばかりを考えて、シェイミの過去に心から向き合おうとしていなかった」

 

 私は、自分のことばかり考えていた――。

 

 言葉と考えが合致したとき、ヨシノの目に涙が溜まった。

 

「キミが優しい子なのはわかっているよ。キミのほかのトモダチがそう言っているし、シェイミもそれはわかっている。ただシェイミは、キミの気持ちを無理やり自分に押し付けられるのが嫌なんだ」

 

 ヨシノは無言でうなずいた。

 

「シェイミはキミに助けられたようだけど、なぜあんなにも重症だったのか。それは以前のトレーナーがシェイミに酷い扱いをしていたからなんだ」

 

 Nは静かにシェイミの過去を話し始めた。

 

 シェイミの以前のトレーナーは、優しかったらしい。それこそ、今のヨシノのようにほかの手持ちのポケモンにも野生のポケモンにも等しく接していた。そんな姿を見ているのが、一緒に生活しているのがシェイミは大好きだった。

 

 そのトレーナーは、いつしかポケモンリーグに挑戦していた。しかし本選に出場する前に呆気なく敗退してしまった。力の差を痛感し、それからというもの、これまで以上に強さを求めるようになった。

 

 そして当然ながらシェイミも執拗に強さを求められた。少しでも指示通りに動けなければ暴力を振るわれ、罵倒された。それでもシェイミはトレーナーのことが好きだった。ずっと一緒に旅をしてきたから。本当は心の優しいトレーナーの姿を知っていたから。

 

 しかし、トレーナーは以前の姿には戻らなかった。そのうち、これまで一緒に生活してきた手持ちのポケモンを一匹、また一匹と逃がし、新しいポケモンをパーティに加え始めるようになった。次々といなくなっていく仲間の姿を見て、心がはちきれそうになった。どうしてこんなことになってしまったのだろうか、と。

 

 そしてシェイミも例外ではなくなってしまった。突然、「好きなところへ行け」と言われたのだ。訳がわからないまま、去っていこうとするトレーナーの後をついて行こうとすると、いきなり同じパーティにいたポケモンから攻撃されて追い出された。攻撃してきたポケモンも悲しそうな表情をしていた。

 

 それから、シェイミは当てもなく彷徨い続けた。優しかったトレーナーが変わってしまったこと、仲間が去っていってしまったこと、自分が追い出されたこと、すべてにショックを受けて悲しくて、生きる気力を失った。

 

 そんなとき、ヨシノが命を救ってくれた。

 

「シェイミは、助けてくれたキミに感謝しているようだよ。でも――」

 

「でもシェイミは、まだ過去を乗り越えられない……」

 

 Nはヨシノの言葉にうなずいた。

 

 シェイミは過去の出来事がトラウマになっていた。ヨシノも今は心優しいが、いつかはあのトレーナーのようになってしまうのではないかと恐れていた。そんなことは二度とあってほしくない。それならば最初から必要以上のコミュニケーションを取らなければいいとシェイミは思っているのだろう。

 

「どうするかは、あとはキミ次第だよ」

 

 それ以上、Nは何も言わなかった。

 

 ヨシノは椅子から降りてシェイミの前に膝をついた。そっぽを向いていたシェイミが彼女を見上げる。

 

 シェイミの過去を知らなかったとはいえ、彼女は反省していた。正直なところ焦っていたのだ。まだ出会ってからそんなに時間が経っていないが、彼女の今までのやり方なら大抵のポケモンならすぐに懐いてくれた。しかしシェイミだけは違い、懐いてくれる気配すら見せてくれなかった。

 

 こんなところで躓いていたら夢から遠のいてしまう。少しでも早く夢に近づきたいし、これから始まる新生活にも早く馴染みたい。シェイミに手こずっている場合ではないと思ってしまったのだ。

 

 その思いが抑えられなくなってしまい、自分の気持ちをいつの間にか押し付けるような言動をとってしまっていた。

 

「今までごめんね。あなたの気持ち、ちゃんと考えてあげられてなかった。これからはゆっくり時間をかけて、あなたと仲良くなりたい」

 

 ヨシノはシェイミの瞳から視線を外さなかった。シェイミもまた、彼女のことをじっと見つめる。

 

「あなたの過去をなかったことにはできないけど、二度と苦しんだりしないよう、私はあなたの過去を幸せな出来事で塗り替えてあげたい。あなたに幸せを届けたい」

 

 シェイミと一緒に旅がしたい。最高の出来事を体験させてあげたいと心の底から思った。

 

「これから私と一緒に、私のポケモンたちと一緒に、思い出に残る生活をしてみませんか?」

 

 ヨシノはシェイミに微笑んだ。この新しい場所で、自分を大きく成長させたい。それは自分ひとりではできない。ポケモンがいてこそだ。シェイミと一緒に成長したい。

 

 シェイミは俯いて、そのまま固まってしまった。何も動きを見せようとしない。

 

 やはりだめなのだろうかと諦めかけてヨシノも下を向いたとき、膝の上に何かを感じた。小さくて可愛らしいシェイミの手が置かれていた。シェイミが彼女のことを見上げている。

 

 ヨシノはシェイミを抱き上げると、両腕で優しく包み込んだ。

 

「ありがとう」

 

 ただひと言、ヨシノは囁いた。シェイミは満更でもない様子でおとなしく抱かれた。

 

「これから築いていく時間はかけがえのないものになります。楽しいことも辛いことも経験するでしょう。でもそれを一人で抱え込んだりポケモンにぶつけたりせずに、分け合ってください。その中で時間をかけてお互いを理解していってください」

 

 カウンター越しにロットが言う。Nにもコーヒーを淹れた。

 

 シェイミを抱いたまま椅子に座る。冷めてしまったカフェラテを飲むが、美味しかった。ロットの言葉とともに喉を通る。シェイミはすっかりおとなしくなっていた。

 

「Nさんは本当に心の声が聴こえるんですね。私、疑っていました」

 

「キミにも聴こえるはずだよ。ちゃんとポケモンたちの声に耳を傾けていれば、聴こえなくても聴こえるんだ」

 

 ヨシノは膝の上で丸くなっているシェイミの背中をなでた。シェイミの頭に咲いている花の甘い香りが鼻をくすぐる。

 

「私、この子たちと頑張ります。みんなで最高の世界を見たいです」

 

 彼女の言葉に、Nもロットもうなずいた。彼らは優しく微笑んでくれていた。

 

 その後はすっかり打ち解けて、ヨシノは草ポケモンのこと、地元のこと、祖父のこと、このイッシュ地方に来た目的のこと、夢のことなど、自分のことに関して話した。

 

「ほう、留学ではるばる海を越えてイッシュへとやって来たのですか」

 

「はい。スクールの開始は二週間後なんですけど、時間があるのでそれまでは簡単にイッシュを回ろうと思っていて。寮の手続きだけ済ませるために早めに来たんです」

 

「なるほど。留学となると、もしやライモンにある国立のスクールですか?」

 

「はい、そうです」

 

 ロットは感嘆した。なにせ国立のスクールに入ることは簡単なことではない。国立のスクールは世界共通でルールが決められており、現状では各地方に一つずつしか建立することができない。

 

 これは、ゆくゆくはジムリーダーや四天王、チャンピオンや研究者といった、その国に、世界に貢献する能力をもった人材を輩出することを目的として造られているためである。そのため、その地域の人が入学するのも難しいとされているのだが、留学生ともなると尚更審査が厳しいという噂である。

 

「それはたまげましたね。ぜひとも頑張ってください」

 

「ありがとうございます。なので、ここを5時のバスで出発する予定です。それまでは時間もあるし、都会の風を感じようと思っていたんですけどトラブルがあって……」

 

 ヨシノは苦笑いをした。

 

「なるほど、そういうことでしたか」

 

「それならボクがこの街を案内しよう」

 

 今まで黙って話を聞いていたNが口を開いた。

 

「N様、それは――!」

 

 Nの発言に驚いたかのようにロットが話を制する。それからは近くにいるヨシノにも何と言っているのかわからないほど早く小声で二人は会話をしだした。時間とか外に出るなとか、ところどころは聞き取れるのだが全体的な会話の流れが把握できない。

 

「あの、ロットさんの言葉でずっと気になっていたんですけど、Nさんって御曹司か何かなんですか?」

 

 失礼だろうかと思いつつも彼女は訊いてみた。

 

 二人は会話をやめてヨシノを見た。返答に迷っているような表情をしている。とくにロットの方はなんとも言い難い顔だ。

 

「まあ、そんなところですね」

 

 明らかに怪しい返事だったが、訊いても何も出て来そうにないと瞬時に判断したヨシノはそれ以上何も言わなかった。

 

「とにかく、ボクは彼女を連れて出るよ。心配しなくても時間通りの船に乗るから大丈夫だよ」

 

 Nは何かを諭すようにロットを見た。

 

「Nさんもどこかへ行くんですか?」

 

「うん、旅をしようと思ってね。まずはカントーへ行くつもりだよ」

 

 ヨシノも一度は旅をしてみたいと思っていた。しかし自分にまだまだ力が足りなく、なにより夢を早く叶えたかったのでスクールに通うことを決めたのだ。ただ入学までにはまだ時間があるためそこでイッシュ地方を知ることも兼ねて小規模な旅のような、旅行のようなことをしようと考えていた。

 

「だからロットも早くここを出た方がいい」

 

 ロットは何か言いたげだったが言葉を飲み込んだ。

 

「お店、やめちゃうんですか?」

 

「ええ、歳も歳ですから……」

 

 だから寂し気な雰囲気が漂っているのか、と理解した。お店に入って来たときからどこかもうあまり使われていない感じがしていた。その理由が閉店のことなら納得がいった。

 

「わかりました。片付けが終わり次第、わたしもすぐにでも出ましょう」

 

 Nに何を言っても無駄だとでも言いたげな表情をしながら、しかしその眼差しは優しく、どこか寂しく、ロットは答えた。

 

「しかしその前に昼食を。もうお昼ですし、わたしの最後の手料理をあなた方に奮わせてください」

 

 ロットは奥の厨房へと姿を消した。

 

「ありがとう、ロット。楽しみだよ」

 

 厨房で作業をしている彼には聞こえないくらいの、ただの独り言のようにNは感謝を述べた。

 

 昼食を終えた二人はモードストリートと呼ばれる通りに来ていた。すでに正午を過ぎており、朝に見たビジネスマンたちのほかに買い物客や観光客も加わって通りはさらに賑わっていた。真っ直ぐ歩くことがますます困難になっている。

 

 昼食を食べ終えて店を出るとき、ロットがNに言っていた言葉をヨシノは思い出していた。「N様、どうかお気を付けて」。たしかにロットはそう言った、心配そうな顔で。やはりNは御曹司か何かなのだろう。

 

 旅には当然ながら危険が伴う。送り出す側としては心配することは普通だろう。しかし彼の言葉にはそれ以上の気持ちが含まれているような気がした。なにか別なことを案じているような……。

 

「あの、Nさんとロットさんはどういうご関係なんですか?」

 

「……ボクを支えてくれる大切な人のうちのひとり、かな」

 

「親戚の方ですか?」

 

「まあ、そんなところかな」

 

 はぐらかされたことにヨシノは気付いた。カフェでもそうだったが、ロットも今のように返答に詰まるところを見せていた。彼らは何かを隠しているが、それを言えないほどの秘密なのだろう、と彼女は察した。

 

 ふとヨシノは気付いた。彼の素性も老人の素性もまったくわからない。思い返してみると彼らのことは何も知らない。ほとんど自分のことばかりを話してしまっていた。唯一わかっていることはNがポケモンの声を聴くことができるということくらいだ。

 

 しかし不思議と一緒にいても嫌な気持ちにはならないし、むしろこちらのことを話してしまいたくなる魅力があった。聴く力に長けているというか、包容力があるというか。

 

「カントーへはどうして旅を?」

 

「……そうだね、なんと答えればいいんだろう……」

 

 Nはヨシノを見て、次いで一瞬だけ空を見た。

 

「ボクが今まで見ていた世界はあまりにも狭すぎた。それゆえ、目先のことしか見えていなかった」

 

 一拍おいて再び話し始める。

 

「結果的に、得たものもあれば失ったものもある。そして多くを傷つけてしまった」

 

 ヨシノは黙って彼の言葉を聞いた。

 

「ボクには自分の眼で見て、自分の耳で聞いて、自分で考える必要がある。この世の真実と理想を確かめたいんだ」

 

 彼の口調から大きな信念のようなものをヨシノは感じ取った。おそらく隠していることに何か関係があるのだろうと考えた。かなり気になるが、おそらく教えてはくれないのだろう。

 

「イッシュにはいつ戻ってくる予定なんですか?」

 

 スクールには7年間通わなければならないため、その期間内に戻ってくるのであれば旅の話を聞きたい、と彼女は思った。

 

「それはわからないかな。もしかしたらすぐ戻ってくるかもしれないし、しばらく戻らないかもしれないし」

 

 自分の答えが見つかるまで旅をするのだろうか。しかしそれもそれで悪くない。一ヵ所に留まってくすぶっているよりはよっぽどいいだろう。

 

「どこかでまた会えたら、旅のお話を聞かせてください。私、7年間はこっちにいるので」

 

 その言葉には返事をせず、Nは微笑んだだけだった。

 

 話しながら歩いていると、前方の路上に人だかりができているのが見えた。売店を囲んで多くの人と彼らが連れているポケモンがいる。ヨシノにはそれがいったい何なのか即座に理解できた。

 

「もしかしてあれってヒウン名物のアイスクリームですよね? 私、食べたかったんです!」

 

 突然の興奮気味なヨシノを見たNは少し驚いた。これまでで一番気分が上がっているのが一目でわかった。

 

「そうなの? ボクは噂でしか聞いたことがないけど」

 

「食べたことないんですか! じゃあ、この機会に行きましょう!」

 

 今までNの一歩うしろを歩いていたヨシノが、彼よりも前に出た。滑らかな動きで人の間を縫っていく。つい数秒前まで彼女がいたうしろを肩越しに見やるとすぐにNも追いかけた。

 

 店の周りには商品を購入しようとする人で賑わっていた。特に女性が多い。夏の終わりに差し掛かっているというのに、売れ行きが良いように見える。

 

 そうでなくとも、ここのヒウンアイスはイッシュ名物として知られているためかなりの人気だ。冬は販売していないが、それ以外の季節なら常に人だかりができるほどである。

 

「さすが名物というだけのことはありますね。買えるかな……」

 

 ヨシノは客の多さに驚いたのか、思わず唸っている。

 

 客は列をつくらず、買う味が決まっている人から注文していた。買う味に悩めば悩むほど後から来た人でも遠慮なく買っていく。

 

 味の種類はかなり豊富だった。バニラやチョコレート、ストロベリーといった定番の味から、味をミックスさせたもの、それはいったいどんな味だと考えてしまうものまで幅広い。全種類食べてみたいという思いにさせてくれる。

 

 何を食べようか悩んでいるとカウンター上のものに目が留まった。白いソフトクリームから手が生えている。思わず隣のNの服を引っ張った。

 

「カウンターの上にいる、あのソフトクリームみたいなのはポケモンですか?」

 

「うん。バニプッチという氷タイプのポケモンだよ」

 

「やっぱりポケモンなんですね! 食べたくなるくらい可愛いですね!」

 

 なるほど看板ポケモンといったところだろうか。ヨシノはまじまじとそのポケモンを見た。食べ物であるソフトクリームに似たポケモンなど今まで見たことがなかったのだ。この地方には珍しいポケモンがたくさんいそうだ、と心が躍る。

 

 二人は無難にバニラ味を頼んだ。アイスが出来上がるのを待っている間、ヨシノは人差し指をバニプッチの顔の前で行ったり来たりさせて捕まらないようにして遊ぶ。Nはその光景をただじっと見つめていた。

 

 アイスを片手に再び二人は街中を歩きだした。夏の日差しがアイスを容赦なく溶かしていく。

 

 その後Nはヨシノに連れ回された。雑貨屋へ行ったり、ヒウンシティで一番高いビルに上ったり、ウインドウショッピングをしたり、食べ歩いたり。

 

 年頃の女の子は流行に敏感で、主に独り言だったのだが、彼女はあらゆるものに対して「可愛い」を連呼していた。もちろん彼にも同意を求めてくるのだが、今まで経験したことのないことばかりで、とにかくすべてのことが彼にとっては新鮮だった。

 

 ヨシノは彼を見ていた。感情を表に出すことがあまり得意ではないようだけれど、彼は楽しんでいる。一つひとつのことに興味を示し、自分のものにしようとしている。最初に出会ったときとは雰囲気が違う、と彼女は感じていた。

 

 しかし彼は時折、周囲を気にするような素振りを見せた。周りを窺って人とポケモンを見ている。人間と一緒にいるポケモンの心の声を聴いているのだろうか。

 

 広い街を歩いていると時間はあっという間に過ぎていった。徐々に日が暮れ出し、街灯がつき始める。

 

 二人は、ヒウンシティのすべての街道が一ヵ所に直結しているセントラルエリアのベンチに座って、缶ジュースを飲んでいた。少し離れたところにはその広場の象徴ともいえる大きな噴水がある。

 

 もうすぐ、この場所からライモンシティ行きのバスが出る。すでにチケットは取得済みで彼女の荷物も預けていたホテルから受け取ってきた。あとは時間を待つばかりである。

 

「今日はありがとうございました。初対面だったのに、なんだか楽しかったです」

 

 ヨシノは律儀に礼を言った。

 

 最初は本当にNのことを不審者だと思っていた。心の声が聴こえると言っている彼を怪しいと思っていた。だがシェイミのことに関して知っていたことが、彼への見方を変えた。

 

 本来ならついて行かない方が賢明だろうが、今ではその行動は良かったと思える。彼のおかげでシェイミのことを知ることができたのだ。

 

「私、ちゃんと自分とも向き合いながら、ポケモンたちと向き合っていきたいと思います」

 

 草タイプを極めようとしている彼女にとって、シェイミの気持ちが理解できないのはすごく悔しく、悲しく、もどかしかった。周りからの声援と自分の力に自信を持っていた。誇りを持っていた。その誇りが時に妨げになることを分かっていてもうまくコントロールができず、意地を張ってしまった結果だった。しかしそれを彼が救ってくれた。

 

「……キミならすぐにシェイミの心の声を聴くことができるよ」

 

 Nは穏やかに言った。ヨシノが微笑む。

 

「心の声は〝天からの授かりもの〟ですね」

 

「〝天からの授かりもの〟か……。おもしろい表現をするね」

 

 今まで少し俯いていたNが顔を上げて遠くを見た。その目はどこか寂し気である。何かまずいことにでも触れたのだろうかとヨシノは心配になり、手元の缶ジュースに視線を落とした。

 

「そうは思わないんですか?」

 

 ヨシノの問いにNは固まった。その答えを知りたいのは彼の方だった。

 

 彼はこの能力が悪用されたことを思い出していた。この能力を使って自分でも良かれと思ってしていた行動は、人もポケモンも傷つけてしまった。なにより彼も傷ついた。彼が思い描いていた理想とは異なり真実は残酷だった。

 

「――わからない」

 

 Nはひと言、そう呟いた。

 

「この能力を使って自分が何をしたいのか、どう使うべきなのか、わからない」

 

 Nは目の前の景色を見た。噴水の周りではいろいろな人とポケモンが触れ合っている。彼らは幸せそうで、お互いに繋がっているように見える。姿形も使用する言葉も違うけれど、たしかに見えない何かで繋がっている。

 

「大丈夫です。きっと答えは見つかります」

 

 Nは隣にいるヨシノを見た。彼女は真っ直ぐ前を見ている。

 

「Nさんのその力は絶対にNさんの力になると思いますし、誰かのためにも役立つと思います。少なくとも私の助けになってくれました。使い方はこれからの旅がきっと教えてくれます」

 

 ヨシノはベンチ横のごみ箱に空き缶を捨てるために立ち上がった。

 

「――なんて、ちょっと上から目線でしたか?」

 

 Nは微笑みながら、彼女と同じように席を立った。

 

「いや、その通りかもしれない」

 

 一陣の風が二人の間を通り抜けた。ヨシノの出発の時間が迫ってきている。

 

「バトルしませんか?」

 

 ヨシノが思いついたようにポケモンバトルを提案する。彼女としてはこの不思議な青年と勝負しておきたかった。彼は何を考えているのかまったくわからないからこそ魅力的なのであり、どのような戦術を使うのか興味があった。

 

 それに同じポケモントレーナーとして、これがシェイミのことや今日一日のことに対しての一番の礼儀だろうと考えた。

 

「……キミはポケモンバトルをどう思っているんだい?」

 

 またおかしな質問が来た、とヨシノはふっと笑った。

 

 でも彼はその問題を解き続けることで、彼なりの答えが見つかっていくのだろう。たとえほかの人が疑問に思いながらも口にしないことを彼は口に出す。おかしなところはあるが、彼はきっとこれから成長していくに違いないし、答えを導くためのヒントになりたいとヨシノは思った。

 

「私は、人とポケモンが絆を確かめ合う方法のひとつだと思っています。トレーナーはポケモンを信じて指示を出して、ポケモンはトレーナーを信じて指示を聞く。それはお互いに信頼関係がないとできないことだと思います」

 

「それを確かめることのひとつがポケモンバトル?」

 

 ヨシノは頷いた。

 

 そうか、とNは小さく呟くと彼女から背を向けて歩き出し、少し進んだところで立ち止まり再び彼女の方に向きを変えた。その手にはモンスターボールが握られている。

 

 その絆というのを見せてくれないか、と無言で問いかけられているのをヨシノは瞬時に悟った。自分の発した言葉が、これまでの経験が確かめられようとしていることに武者震いをする。

 

「使用ポケモンは一匹、道具の使用はなしのシンプルなバトルでいいですか?」

 

 ヨシノの問いにNが頷く。

 

 腰のベルトに装填してあるモンスターボールは三つ。彼女はシェイミをモンスターボールから出した。シェイミは状況が理解できていないのか周りを見た後ヨシノを見上げた。

 

「シェイミ、お願いがあるの。あなたに私がこれからするバトルを見てもらいたいの」

 

 彼女は自分のバトルスタイルをシェイミに見てもらいたかった。どれほどポケモンを信頼しているのか、ポケモンの方もどれだけ自分のことを信頼しているのか。

 

 その関係を築いていくのはこれからの生活であることをシェイミに理解してもらいたかった。困難などが待ち受けていても一緒に乗り越えて、楽しく笑い合いながら強くなっていきたい。彼女は思いを届けた。

 

 シェイミはNを見た後、ヨシノに対して力強くうなずいた。

 

「ありがとう」

 

 ヨシノはシェイミをなでるとNの方に向き直った。手には別なモンスターボールが握られている。

 

「私と一番長く一緒にいるこの子で勝負させてもらいます!」

 

 彼女のモンスターボールからは、しんりょくポケモンのリーフィアが出てきた。様々なタイプに進化するイーブイの草タイプの姿である。

 

 彼女の言う通り、そのリーフィアはよく鍛えられているのが一目でわかった。筋肉のつき方、眼力、体毛の艶やかさ――。すべてが美しくて力強い印象を受ける。ずっと一緒にいるだけあって、ものすごくケアをしてきたのだろう。草タイプの世界一を目指しているだけのことはある。

 

 Nは向かい側の女の子とそのポケモンを交互に見る。可愛らしい彼女の姿からは、ポケモンと同じく本気で満ち溢れていた。

 

 帽子を目深に被りなおすとNはモンスターボールを前方に構えた。その中から出てきたのはばけぎつねポケモンのゾロアーク。ゾロアというポケモンが進化した姿である。

 

 当然ながらヨシノにとって彼が使うポケモンを見るのは初めてだった。狐のような顔をしていて全身は黒で染まり、たてがみは紅い、二足歩行のポケモン。見た目からして悪タイプであることは予想できるが、技や能力、戦い方はまったくわからない。決して気を抜けない戦いである。

 

 先に攻撃をしかけたのはヨシノだった。彼女の指示に従い、リーフィアは尻尾を鋭く尖らせながら相手へと駆けていく。〝リーフブレード〟という技である。

 

 しかし、Nの指示でゾロアークにその攻撃をかわされる。すぐさまリーフィアは反撃されないように間合いを取った。

 

「キミのリーフィア、なかなかの素早さだね。」

 

「この子は私が小さい頃からずっと、イーブイの時から育てているんです。言わば私の半身みたいな子。強いですよ!」

 

 そう言った彼女の瞳は燃えていた。よほどそのポケモンには思い入れがあるのだろう。止めどない自信が彼女から溢れているのをNは感じた。

 

「次はNさんからどうぞ」

 

「――それじゃあ遠慮なく行かせてもらうよ。ゾロアーク、〝つじぎり〟」

 

 駆け出したゾロアークは相手の元まであと半分というところで高く跳躍し頭上から鋭い爪を振り下ろした。その攻撃は見事に当たり、リーフィアは衝撃で後方に吹き飛ばされる。

 

「……やりますね」

 

「ボクもキミと同じように、このゾロアークには思い入れがあるんだ。やるからには負けられないよ」

 

 そこから二匹の技の押収が始まった。リーフィアは〝リーフブレード〟を、ゾロアークは〝つじぎり〟の技をひたすら打ち続けている。攻撃して、受けて、かわして。ただそれだけのことのように見えるがポケモンバトルは奥が深い。

 

 漠然と技を放つといってもそれにはたくさんの種類がある。まずはそのポケモンの能力から始まり、そのポケモンが何に秀でているのかを見極める。

 

 例えばリーフィアなら物理的な攻撃能力が高い。そこで物理技を中心に相手と戦うわけだが、相手とのタイプの相性も考えながら技を出していかなければ決定的なダメージは与えられない。

 

 他にも変化技というのがあり、相手をまひ状態やねむり状態にさせ、こちらに有利な状況をつくりながら戦う方法もある。

 

 しかし何よりも重要なのはポケモントレーナーの観察眼と適切で的確な判断を下すことである。バトルを行っている地形や天気といった環境を最大限に生かしながら戦うには常に戦闘場所の全体を見通せることが重要である。それを頭に入れながら、相手の動き方から死角を探していく。

 

 そしてどのような場面でどのような技を放つのかといったタイミングの判断。トレーナーはポケモンが動くたびに、これらを瞬間的に頭の中で展開しながらバトルの流れを読み、ポケモンを戦わせる。

 

 単純そうに見えるかもしれないが、実はかなり頭を使う競技なのである。そうでないと、ポケモンをただ傷つかせて終わってしまう。

 

「リーフィア、〝シザークロス〟!」

 

 ゾロアークの懐に飛び込んだリーフィアは技を放った。これは虫タイプの技であり、悪タイプのポケモンに与える効果が大きい。

 

 しかしゾロアークは地に膝をつけるもまだ耐えている。

 

「……そんな技まで覚えているなんてね。出し惜しみしないで最初から出せばいいのに」

 

 Nが少し驚いた表情で言った。

 

「とっておきは最後に出すものです。それも戦略の一つですから。でも本当は今の一撃で決めるつもりだったんですが、さすがに都合よくはいきませんでしたね。それでも今の攻撃は効果があることがわかりました」

 

 ヨシノはゾロアークの俊敏な動きに内心、驚嘆していた。リーフィアの技が当たる直前、ダメージを軽減するためにわずかだが身体を後方に逸らしていた。

 

 それさえなければ勝負をつけられたのに、と悔しがるが表には出さない。冷静さを欠いてしまうと判断に支障をきたすほか、それがポケモンにも伝わって焦らせてしまい、その結果調子が崩れて負けてしまうということはよくある話だからだ。

 

 それでも勝ち誇ったような笑みをヨシノはつくった。相手の体力はダメージの蓄積量と疲労、さらにこちらの効果が抜群である技が当たったためにすでに限界で、もう一撃を与えれば確実に勝負がつくことは目に見えている。

 

 おまけにこちらはリーフィアが誇る防御力のおかげで相手よりもまだ体力がある。分はこちらにある。

 

「……悪いけど少し侮っていたよ」

 

「その侮りが命取りになることを私は地元でずっと見てきました。いろんな大人が子どもを舐めてかかってくるんですから」

 

 少女の顔は再び真剣な表情に戻る。最後の一撃を放つ構えだ。

 

「最後です! 〝シザークロス〟!」

 

 緑色の閃光が、夕日を背に相手の懐に飛び込んだ。

 

 勝負は決まったと思われた。しかしその瞬間、Nは左の口角を上げた。

 

 リーフィアはかわすことのできない至近距離から熱線状の炎を受けて勢いよく吹き飛ばされた。地面を転がり立ち上がる気配はない。戦闘不能だった。

 

 ヨシノは驚きを隠せずにその場に立ち尽くした。何が起こったのか未だに把握できていない。〝最後の一撃〟で勝ったと思っていたからだ。

 

 ヨシノは倒れているリーフィアから攻撃を行ったゾロアークに視線を移した。

 

 大きな黒い狐は方膝をついたままだった。だがその口からは炎の攻撃をしたと思われる残り火が漏れていた。

 

「〝かえんほうしゃ〟……?」

 

 ようやく口を開いたミドリは炎タイプの中でも有名な技名を呟いた。

 

 その言葉にNは微笑んだ。

 

「そう、草タイプに効果のある炎タイプの攻撃だよ」

 

 彼女は自分が繰り出した、とっておきの攻撃を最後まで残していたことを思い出した。彼も同様に最後まで手の内を明かさなかったのだ。

 

 ただ一つだけ違うとすれば彼女は一撃で仕留められず、彼はそれができたということだ。

 

「……騙していたんですね」

 

「とっておきは最後に出すものだ、と言っていたのはキミだよ。ボクは好機を待って手の内を明かした。キミも同じだ。ただそれだけのことだよ」

 

 Nはゾロアークに近づき、撫でながら言った。

 

「私は……知らないうちに助言を与えてしまっていたんですね」

 

 ヨシノもリーフィアを抱き抱えた。リーフィアは負けたことを申し訳なく思っているのか落ち込んでいる。

 

「落ち込まないで、リーフィア。よく頑張ったね」

 

 リーフィアをボールに戻すとヨシノはNと向かい合った。

 

「ありがとうございました。負けてしまいましたけど、楽しかったです」

 

「ボクの方こそありがとう。バトルしてわかったよ、キミとリーフィアがどれだけの時間を過ごしてきたのか」

 

 Nはゾロアークを見た。彼もまた、ゾロアークと過ごした時間が長い。特別に思い入れがあり、だからこそ負けてほしくないし傷ついてほしくもない。

 

「ボクはね、ポケモンバトルが好きではないんだ」

 

「……どうしてですか?」

 

「トモダチを傷つけてしまうからだよ」

 

 ヨシノは黙った。たしかにポケモンバトルはポケモン同士を戦わせる競技だ。ポケモンが傷ついてしまうことはわかる。

 

 だがポケモン自身もそのことを理解しつつ、ポケモントレーナーの指示に従ってくれる。だから必要以上にポケモンを傷つけないようにするためにも、トレーナーは適切な指示を出す勉強をいつもしている。

 

「でもキミを見て、バトルも悪いものではないかもしれないと思ったよ。リーフィアがキミの気持ちに応えようとしていること、そしてキミの的確な判断があること。お互いに信頼しているからこそ任せられるといった感じかな」

 

 ヨシノは足元にいるシェイミを抱き上げた。

 

「キミみたいなトレーナーをもっと見てみたいよ」

 

 Nはシェイミをなでた。シェイミの瞳には力強い意志が宿っていた。今のバトルを見ていて感化されたのか、これまでヨシノに抵抗していたときとは一変して、何かを決意したような表情をしている。

 

「シェイミはキミとやっていくことを望んでいるみたいだね」

 

 ヨシノは彼の言葉を聞いてほっとしたような顔をした。今のバトルで自分の気持ちが伝わったのならそれでいいと思った。これからはシェイミを含めてもっと楽しい生活が送れそうだ。

 

 少しだけ、二人の間に沈黙が生まれた。周りの音がよく聞こえてくる。人の話し声、子どもたちの笑い声、ポケモンたちの鳴き声、車の走行音、涼し気な風の音、そしてバスのクラクション音。

 

 時計を確認すると5時になる五分前だった。バス停に向かわなければならない。

 

「行く時間だね。キミに出会えてよかったよ」

 

 Nの言葉でヨシノは実感した。彼と会うのはこれが最後かもしれない。初めての土地で初めて出会った人との別れがこんなに胸を苦しくさせられるとは思わなかった。出会いがあれば別れもあるとはこのことかと思う。

 

「私も、Nさんに会えてよかったです。またどこかで会いましょう。旅、楽しんでくださいね」

 

 ヨシノが右手を差し出す。

 

 Nはそれがどんな意味なのかわからなかった。彼女が握手を求めていることはわかったが、誰かと握手を交わしたことがない彼にとってはすぐに反応できることではなかった。

 

 ゆっくりと、彼女の様子を探りながら握手を返した。

 

 ヨシノは笑顔でありがとうございます、と言った。一礼すると大荷物を抱えてバス停の方へと急ぎ足で歩いていった。

 

 Nは彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。その背中はすぐに人混みでわからなくなった。

 

 彼女と握手をした右手をみつめる。今まで経験したことのない感情が溢れているのが自分でわかった。

 

 なんと表現すればいいのかわからないが、とても温かい気持ちだった。

 

 これまではポケモンたちとしか向きあってこなかったが、これからは人とも向き合っていきたい。ほかにはどんなポケモントレーナーが世界中にいるのが楽しみで仕方がないと感じていた。

 

 時計を確認すると、彼が乗る予定の船の出航時間も迫っていた。噴水の方をちらりと見る。ヨシノとNが到着すると同時にサングラスをかけた男が噴水近くのベンチで新聞を読み始めていたのだが、未だに読んでいる。

 

「さて……少し走らないとね、ゾロアーク」

 

 Nは意味あり気な含み笑いをして帽子を目深に被りなおすと、ゾロアークと共に雑踏の中へ駆けていった。

 

 その行動に気が付いた男もまた、ベンチから立ち上がるとすぐさま跡を追いかけてきた。

 

 街道は真っ直ぐにもかかわらず人の多さが邪魔をしてなかなか直進できないが、Nにとっては予想の範囲内だった。ゾロアークに目配せすると彼は近くの裏道に入った。壁に背を付け帽子を目深に被る。

 

 その横を男が通り過ぎていった。うまくゾロアークを追ってくれたようだ。それを見届けると、そのまま裏道から桟橋へと向かった。

 

 客船が桟橋に停泊しているのが見えた。多くの人が船に乗り込んでいる。二つあるチェックゲートのうち、ひとつはすでに閉められていた。出航まで時間がないことがわかる。Nは急いでゲートまで駆けていった。

 

 Nがゲートまで行くと、ひとりのスタッフが手を振ってきた。その者の元へと行く。

 

「N様、お待ちしておりました。すでに手筈は整っております」

 

「ありがとう。助かるよ」

 

 スタッフはNをゲートへと誘導しながらパスポートと乗船チケットを渡した。

 

「乗船時のデータは書き換えてあります。これで安心してカントーまで行けるはずです」

 

「ボクのために危険を冒してくれてありがとう。必ず戻ってくるから」

 

 出航の汽笛が鳴り、Nとスタッフが客船を見る。まるで早く乗れとでも急かしているかのように重く腹に響く。

 

「私たちの心はN様と共に」

 

 Nに早く乗船するようスタッフが促す。Nは頷くと急いで船に乗り込んだ。

 

 長く重く汽笛を鳴らすと、客船はイッシュ地方の海を走り出した。

 

 そのとき、帽子をかぶった一人の青年が桟橋を駆けてきた。彼は軽快な身のこなしでゲートの柵を超えると人間とは思えないほどの跳躍力で船のデッキに飛び乗った。周囲の人たちは呆気に取られていたが、次第に何かのパフォーマンスとでも思ったのか、拍手をし始めた。

 

 そしてその後からサングラスの男が息を切らしながらやって来た。追っていた人物が船に飛び乗ってしまい追跡は不可能だと悟った彼はその場のベンチに座り込んだ。

 

 走る速度といい船に飛び乗った芸当といい人間ではない。思い返してみると一緒に走っていたゾロアークがいつの間にかいなくなっていた。

 

 モンスターボールに戻した? いや、たしかイッシュ地方には何でも化けたり幻惑を見せることができるポケモンがいると聞いたことがあるような――。

 

 どちらにしろこれ以上の追跡は不可能だった。

 

 男は懐から携帯端末を取り出すとどこかへと電話を掛けた。

 

「ハンサムです。申し訳ありません、取り逃がしてしまいました。――はい。では、そちらは一度お任せします。詳細は追って連絡します」

 

 男は電話を切り、サングラスを外して溜め息をついた。

 

「ひとまず、七賢人の情報を探るか」

 

 ハンサムと名乗った男は再びサングラスをかけると桟橋を後にした。夕日が彼の背中を少し寂しく照らしていた。

 

 

 

 バスに揺られてライモンシティへと向かっているヨシノは飲み物を取り出そうとショルダーバッグを開けた。

 

 そこには見慣れない紙袋があった。疑問に思いながらも袋を開けるとちょうちょポケモンであるアゲハントの羽をモチーフにした髪留めが入っていた。

 

 一瞬驚くも、すぐにNの仕業だと察した。いったいどのタイミングで購入して鞄に入れたのかは検討もつかないが、彼なりの優しさに微笑んだ。

 

 ふと窓越しに空を見上げると、ヒウンシティに向かって一本の白線が暗くなりかけている空に描かれていた。

 

 



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VS怠惰な博士と怠惰な戦士

 そこは小さな港町だった。大きな建物もなく、特別にその町を象徴するものもないが、その分、見上げると空がとても広く感じる。そして何より、海風が心地良い。

 

 Nが乗ってきた客船は、カントー地方、クチバシティの港に停泊した。その町にはほとんど高低差がなく、ひたすらに平坦だった。人も多くなく、かと言って少なくもない。

 

 穏やかな時が流れている町だ、とNは感じた。町が小さいために行きかう人の中には知り合いとの遭遇率も高いのか、挨拶を交わす声を何度も耳にした。

 

 ひとまずこの町を含めたカントー地方について情報を集めなければならない。そう考えたNはポケモンセンターを探そうと、ベンチから腰をあげた。

 

「見たことのないポケモンを連れていますね」

 

 唐突に声が聞こえたので振り向くと、すぐ近くに老人が立っていた。蓄えた白い髭とサングラスが特徴的で、上品なスーツを身にまとった老紳士だ。携えている杖がよく似合う。

 

 その老人はNのベルトに装填しているモンスターボールを注視していた。

 

 Nが話そうと口を開きかけたそのとき、彼を見た老紳士の顔が緊張したように目を見開いたかと思うと、途端に変な口調で話し始めた。

 

「ハ、ハロー。えー、ワタシノナマエハ……」

 

 どうやらNがほかの地方からの来訪者であることに気が付いた老紳士は、彼にはここの言語は通じないかもしれないと考えた末の言動を取っているようだった。

 

「言葉なら通じますよ」

 

 Nのその言葉を聞いた老紳士は一瞬固まったかと思うと、すぐに笑顔を見せた。

 

「てっきり通じないかと……。とにかく通じるなら安心しましたよ」

 

 一つ咳払いをすると再び会話に戻った。

 

「それで、そのポケモンを私は見たことがないのですが、よければ見せていただいても?」

 

「ええ。構いませんけど」

 

 突然話しかけてきたかと思えばポケモンを見せてほしいなど、少し変わっているとは思いつつも、とくに見せない理由もないNはモンスターボールに手を添えようとしたが、老紳士はそれを手で制した。

 

 彼はNを連れて歩き出した。だいすきクラブへ案内すると言っている。

 

「だいすきクラブとは何ですか?」

 

 聞きなれない単語だった。名前からして何かを好きな人が集まる会合に間違いはなさそうである。

 

 老紳士はにやりと笑うと、目を輝かせながら熱弁し始めた。

 

 だいすきクラブの正式な名称は〝ポケモンだいすきクラブ〟と言うらしい。ポケモンを大好きにしている者たちが普段から集まる会のことで、そこでは自由に自分の好きなポケモンについて話したり、自らのポケモンを見せたりすることができるようだ。

 

 また、そこの会員である者のほとんどがポケモンを戦わせることに抵抗があったり嫌ったりしており、むしろ魅せることの方を好むらしい。

 

 しかしそれは人間のエゴではないのだろうか、とNは疑問に思った。

 

 自分のステータスをよく魅せようとするためにポケモンにもそれを強要しているのではないのだろうか。本当にポケモンたちは好んで美しく、可愛く魅せようとしているのだろうか。人間はポケモンのことを所有物のような感覚として見なしてはいないのだろうか。本当は戦いたくても我慢を強いられているのではないだろうか。

 

「それは、ポケモン自身も戦いたくないと言っているんですか?」

 

「もちろんだとも。愛しいポケモンちゃんたちの声をちゃんと聞き届けての結果だよ」

 

 老紳士は胸を張ってそう答えた。

 

「そこまで言える根拠はいったい何ですか?」

 

「ふむ。質問が多いな……。まあ、よい」

 

 彼はとある建物の前で足を止めた。ポケモンだいすきクラブと書かれた看板が立てかけられており、一緒に描かれているピカチュウの絵が特徴的である。

 

「話はこのだいすきクラブでゆっくりと聞こう。さあ、入りなさい」

 

 老紳士に促されるままNは扉をくぐった。

 

 外観からの想像よりも中は広かった。テーブル、ソファ、本棚といった家具はもちろん、天井からはシャンデリアが吊るされており、床には真紅の絨毯が敷かれている。また、ポケモンのための小さな遊具も設置されていた。〝だいすきクラブ〟の名の通り、ポケモンへの配慮は忘れてはいないようだ。

 

 数人が老紳士に気が付くと、彼を〝会長〟と呼び、挨拶を交わした。

 

 会員であろう人たちは見た目が千差万別だった。

 

 見るからに高そうな服にアクセサリーを体中に身につけている貴婦人から、とあるポケモンを模ったであろうコスプレをしている若者、スーツとメガネが似合う頭の良さそうなビジネスマンまで職業などは異なっているようだ。そして彼らが一緒に連れているポケモンたちまで同じような恰好をしたり、異なる洋服を着ていた。

 

 その見慣れない光景にNは言葉が出て来なかった。そして同時に室内の様々な視線が自分に向けられていることを感じた。彼が異国の地からの訪問者であるからだろう、まるで珍しいものを見るような目つきだった。

 

 席につくと、中年の女性が老紳士の指示で紅茶を運んできた。

 

「こんにちは。会長から話は聞いたわ。きっと無理やり連れて来られたんでしょうけど、悪い人ではないから大目に見てあげてね」

 

 女性事務員は優しく微笑むと奥へと姿を消した。

 

「ところで、君の名前は聞いたかな?」

 

 席に着いた会長が尋ねてくる。

 

「いいえ。Nと言います」

 

「Nくんか。よろしく。私はこのポケモンだいすきクラブで会長を務めています」

 

 老紳士と握手を交わす。優しくも力強いものだった。

 

「それで、さっきの君の話だが――」

 

「会長、こんにちは」

 

 やっと話し合えると思ったのも束の間、誰かに話を遮られた。声が聞こえた方を見ると若い女性がこちらに向かって歩いていた。ブロンドの髪を束ね、眼鏡をかけている。資料のようなものを脇に抱えている以外は特に派手な格好もしておらず、軽装だった。

 

 しかしなぜだか、彼女には目を惹かれる何かがあった。容姿が良いからか、賢そうだからか、今までNに向けられていた視線を彼女は一瞬にして奪った。

 

「おお、ミモザくん! こちらへ」

 

 ミモザと呼ばれた女性は会長に促されるままNの向かいの席に座った。Nと目が合うと握手を求めた。

 

「こんにちは。ミモザと言います。カントーの人……ではなさそうですね」

 

 Nも礼儀に倣って握手を返す。相手は異国の出身でありそうな顔立ちだった。

 

「Nと言います。イッシュから来ました」

 

「そうなんですか! 私も同じ出身で、数年前にカントーに来たんです」

 

 同郷の人との出会いがうれしいのか、ミモザの顔が笑顔で満ちる。

 

「ところで会長、こちらが先日取らせていただいたデータの結果になります」

 

 ミモザが資料を手渡すと、会長は興味津々といった表情で資料を食い入るように見た。合図地を打ちながら資料を読んでいる。

 

 Nはそれがいったい何なのか気になり、彼女に訊いてみた。

 

 まず、ミモザはとあるポケモン研究者の助手をしているらしい。人間とポケモンの間に稀に発生する現象――彼女たちは〝シンクロ現象〟と名付け、それについて研究しているとのことだった。

 

 他の地方ではすでに〝キズナ現象〟としてメガシンカの研究を行っているらしいが、彼女たちが研究しているものはそれとは異なるものらしい。

 

 資料は研究の一環で会長に手伝ってもらったときの結果が記載されている、とミモザは話した。

 

「メガシンカはトレーナーとポケモンとの間において信頼関係ともいえる〝キズナ〟が深まっていることを条件にバトル中のみに起こる現象であるのに対して、シンクロはバトル中でもコンテストなどのパフォーマンス中でも起こるんです。人間とポケモンの〝気〟のようなものが同調したときであれば、状況は問わずに発生すると考えられています」

 

「つまり研究対象はポケモンだけではなく、人間とポケモンの両方、ということでしょうか?」

 

「その通りです。シンクロはその言葉通り、人とポケモンがお互いに、心や思考、見ているものから感じているものまで同じになります。一心同体、という言葉が当てはまるかもしれませんね。なので、ポケモンだけではなくて人間についても研究しています。メガシンカの場合はポケモンが姿を変えて力を増幅させますが、人間にはほぼ影響はありません。対してシンクロは相互が感じるものをお互いに感じます。両者に影響があるのです」

 

「なるほど。たしかにそれなら、なぜ相互に影響し合うのか、人間とポケモンの両方を研究する必要がありますね」

 

 ポケモンを研究している人は世界中にたくさんいるが、〝ポケモン研究〟という枠組みの中でポケモンと人間の両方を研究している人がいるとは聞いたことがなかった。

 

 そもそもポケモン自体について解明されていないことは山ほどある。そのまだ謎が多いポケモンと人間を結びつける研究を行っているとは驚きだ。

 

「この研究にご興味があるんですか?」

 

 ミモザはくすっと笑いながらNに問いかける。その問いで、少し身を乗り出しながらミモザの話に熱心に耳を傾けていたことにNは気付いた。

 

 その研究に興味が湧いているというよりも、人間とポケモンの新たな可能性があることに関心があった。だが同時に、〝研究〟という行為に疑問を持つ自分がいることも確かだった。

 

「なぜ、シンクロ現象の研究を?」

 

「それは――」

 

 彼女が話し始めようとしたとき、会長は資料を読み終えたのか深く溜め息を吐いた。ここの人たちはマイペースに生きているからか、どうやら他者の話に割って入るのがうまいようだ、とNは感じた。

 

「ミモザくんたちにとっての結果はあまり芳しくないようだが、私にとっては良いものだ」

 

 ミモザは会長の言葉の意味がいまいち理解できなかったのか小首を傾げる。

 

「と、言いますと?」

 

「私とポケモンちゃんたちはものすごく深い愛情で結ばれているということだ」

 

 ミモザは呆気に取られて困った表情のまま言葉を出せずにいた。猫なで声を出しながら懐から取り出したモンスターボールを撫でている会長を見て固まっている。

 

「まあ、たしかに、そうかもしれませんね。ポケモンに対する会長の愛は深いですから」

 

 ミモザは苦笑いを浮かべた。

 

「そういえば、ここにいるポケモンのほとんどが進化前ですね。何か理由でもあるんですか?」

 

 Nが会長に尋ねる。

 

「私はとくに進化前のポケモンが好きでね。それに愛しいポケモンを戦わせるなんて可哀想だし、なにも戦わせるだけがすべてではない。だから同じ気持ちを持つ者を集めてそれを共有しているんだよ。そうしたら偶然にも進化させる人が少なかったといったところかな」

 

 基本的に、ポケモンは戦わなければ生存における経験値が得られず、進化しない。進化したくてもそれができないのだ。しかし、本当に彼らは望んで進化をしているのだろうか。

 

 進化したくないポケモンも中にはいるかもしれない。彼らにとっての進化とはすなわち、生きるための更なる力を得て、姿かたちを変えることである。

 

 人間とかかわらない野生の環境は非常に過酷である、その中で生き抜いていくために、たとえ望んでいなくても強くならなければならない。

 

 だが人間と一緒に生活していれば、特にだいすきクラブの会員たちのようにポケモンバトルに抵抗がある人たちと暮らしていれば、彼らは進化するかそうでないかを選択できる。見方を変えれば、生きるための選択肢が増えるということだ。ポケモンにとって幸せなことではないだろうか。

 

 Nが考えに耽っていると、ミモザが突然立ち上がった。

 

「Nさん、よければ研究所に来ませんか? 研究にご興味があるようですし、なにより、学者肌のように感じます。彼もNさんのように興味を持ってくれる人は歓迎してくれると思います」

 

「彼?」

 

「私が助手を務めさせていただいている博士です」

 

 そういえば彼女は博士の助手をしていると言っていた。ほとんど手つかずの分野に取り組んでいる博士にはたしかに一度会ってみたいものだ。Nは頷くと立ち上がった。

 

「会長もご一緒にどうぞ」

 

「そうだね。私も久々に彼の顔を見たいし、行くとしよう」

 

 三人はポケモンだいすきクラブを後にした。

 

 

 

 ミモザが務めている研究所は丘の上にあった。クチバシティの建物はほとんどが低いため、丘から見える海を妨げるものはない。そこはとても見晴らしのいい場所だった。そしてなによりも空が近く感じる。

 

 研究所はこじんまりとしていた。大きくもなく小さくもなく、一軒家を横に二軒ほど連ねたくらいの大きさである。研究所の横には公式にポケモンを戦わせることができるバトルフィールドも設置されていた。

 

「どうぞ中に入ってください」

 

 ミモザに促され、Nは研究所の中に足を踏み入れた。二階まであるようで、玄関の天井は吹き抜けとなっていた。外観からは予想もできなかった広さを感じる。

 

「研究室は少し散らかっていて見せられませんが、客間にご案内しますね。途中で買ったコイキング焼きと緑茶がよく合うので一緒にお出しします」

 

 その言葉に案内役を買って出た会長にNを任せると、ミモザは奥に入っていった。やり取りから察するに、会長はかなりの頻度で研究所に遊びに来ていたに違いないとNは思った。

 

 会長に連れられて客間に入る。客間は庭と繋がっており、その先にクチバシティの港町と海が見えた。本当に景色がよく、いつまでも眺めていられそうである。

 

「あれ? 会長ですか?」

 

 声が聞こえた方を振り向くと、白衣を羽織った男がソファの上で肩肘をついて寝そべっていた。首元にはアイマスクが下がっており、気怠そうにこちらを見ている。

 

「おお、ネムリくん。相変わらずだね」

 

「ご無沙汰してます、会長。実験の折はありがとうございました」

 

 ネムリと呼ばれた男は言葉に反して、態度はまったく変わらずにいた。とても心の底からお礼を述べているようには見えない。

 

「ちょっと博士、何してるんですか!」

 

 お盆を持って現れたミモザが博士に叱責した。

 

「何って、疲れたから寝てたんだよ」

 

「そういう意味じゃありません! どうして来客の方に対してそういう態度なのか聞いているんです!」

 

 男はわかったわかった、と言いながら起き上がるとソファに座り直した。三人も、テーブルを囲んで椅子に座る。

 

「お騒がせしてすみません。この死んだ魚のような目をした人が、この研究所の第一責任者であるネムリ博士です」

 

「今さらっと酷いこと言わなかった?」

 

 ネムリは苦笑いを浮かべながら助手のミモザを見た。

 

 ミモザに紹介された博士は、三十代半ばくらいのようだった。オールバックにしている若干長い髪は乱れており、顎髭が生えている。青白くて面長の顔に細くて切れ長の目がよく合っていた。

 

 白衣の下は開襟シャツにスラックスという恰好で一見真面目そうに見えるも、洋服には皺が寄っており、片方のシャツの裾がだらしなく垂れていた。先程の態度といい恰好といい、怠惰そうな性格であることが瞬時に理解できる。

 

「それで、そこの美青年は誰だい?」

 

「Nさんです。私と同じ、イッシュの出身なんですよ」

 

 へー、と興味のなさそうな返事をしながら、ネムリは卓上に置かれたコイキング焼きに手を伸ばす。

 

 ミモザが彼らを研究所に連れてきた理由を話し終えると、ネムリは何個目かのコイキング焼きを手に取った。

 

「Nくん、コイキング焼き食べたことある? カントーの名物よ。旨いよ」

 

「博士、私の話聞いていました? そろそろ怒りますよ?」

 

「いやいや。もう顔が怒ってるけど?」

 

「まだ怒っていません」

 

 ひたすらに彼らはそのようなやり取りをしている。会長の方を見ると、いつものことだ、とでも言いたそうな顔をしてお茶をすすっている。

 

 Nはコイキング焼きを一つ手に取った。これは研究所へと向かう途中で買ったもので、カントー地方の名産品として有名であるらしかった。ポケモンのコイキングをかたどった焼き型に生地を流し込んで焼いた食べ物であり、中には餡やクリームが入っている。

 

 当然ながらNは見たことも聞いたことも食べたこともなく、その口当たりの良さに不思議な感覚を覚えながら食べた。

 

「まあ、せっかくカントーに来たんだし、ゆっくりしていきなよ。何もないけど」

 

「自分の出身地に対して何もないなんてよく言えますね」

 

「だって本当に何もないじゃん。平和すぎだよ。ちょっと前まではいろいろ大きい事件もあったのに」

 

「その発言は不謹慎ですよ」

 

 〝大きい事件〟が気になったNがそれについて聞こうとしたところ、再び彼らは言い合いを始めてしまった。呆れつつ横の席に座っている会長に事件について尋ねる。

 

 会長は湯呑みのお茶をひと口すすると、話し出した。

 

 数年前、カントー地方の最大にして最悪の事件が起こった。ポケモンマフィアのロケット団がカントー地方とその隣のジョウト地方で主に暗躍していたということだ。彼らはときに企業や施設の運営によって、ときにはポケモンの力を利用して世界征服を企みつつ着実にその勢力を広げていた。

 

 その悪事は次第に人々に知れ渡るようになり、残酷さを増していった。金儲けのためにポケモンの強奪と乱獲、殺害を繰り返したり、ビルの不法占拠、ポケモンを使った強制進化の実験まで非道とも捉えられる行動を起こし、人々はその悪に恐怖した。

 

 しかし、あるときを境に彼らの力は衰退し、現在ではぱったりと音沙汰がなくなってしまったらしい。その背景には組織が大きくなりすぎて収集がつかなくなった、また、とあるポケモントレーナーの活躍が囁かれたりしたが、どこまでが本当の情報かは明らかとされていない。

 

 ロケット団という組織があることくらいはNも知っていた。実際、彼が暮らしていたイッシュ地方でもその組織が暗躍しているという噂は広まっていた。しかし、今ではすでに撤退したという。

 

「ボクも聞いたことがあります。かなり大きい組織だったようですね」

 

「うむ。私も被害にあったことがあって、愛しのポケモンたちを盗られたことがあったのだが、とあるトレーナーが奪い返してくれてね。あのときは本当に助けられたよ」

 

 つまりその組織に立ち向かったポケモントレーナーがいたことになるのだが、奪い返したとなるとその人物もよほどポケモンバトルが強かったのだろう。ただ強いだけなのか、それともポケモンと心を通わせてこその強さなのか。どちらにしろ、いずれ会ってみたいとNは思った。

 

「それで、君はどうして旅なんてしてるの?」

 

 話がひと段落ついたのか、ネムリは胸ポケットから煙草とジッポライターを取り出しながらNに尋ねた。ミモザが近くの棚から彼の前に灰皿を移す。

 

「ボクは何者なのか、この世界でボクにできることはいったい何なのかを探すために旅をしようと決めて、今ここにいます」

 

 Nはイッシュ地方での出来事を一つひとつ思い出しながら、自分が旅をする決意をした理由をネムリに伝えた。

 

「なるほど、自分探しの旅ってやつか。人生の壁にでもぶつかったの?」

 

「もう少し聞き方を考えてください」

 

 ネムリの発言にすかさずミモザが口を挟む。どうやら彼らはこの掛け合いが普通らしい。博士であるネムリのつかみどころのない性格を助手のミモザが細かく軌道を修正しながら話を展開していく。息が合っているように見える。

 

 Nにはその光景に見覚えがあった。彼の近くにも、ネムリとミモザのような性格ではないが、常に息が合っている人物が二人いた。彼らはいつも冷静な思考で、しかし熱心な行動でNのことを支え続けた。そしてお互いに尊重し合ってもいた。

 

 ネムリとミモザも彼らに似ているのかもしれない。言葉や行動は違えど、お互いに認め合い気にかけているからこそこの生活ができているのだろう。

 

「良いコンビでしょう?」

 

 またしても言い合いをしている二人を見ていると、隣の会長がNに耳打ちしてきた。会長も同じ考えのようである。Nは小さく頷くと、咳払いをして二人の言い合いを終わらせた。

 

「ボクの話よりも、博士のシンクロ研究についてお聞きしたいのですが」

 

 博士は煙を吐き出すと煙草の火を消した。

 

「おれの研究に興味を持つなんて君も物好きだね。ミモザちゃんくらいしかいないと思ってたよ」

 

「なんですかその言い方! 私は博士の研究に敬意を払って手伝っていますよ」

 

 うれしいねえ、とネムリはにやりと笑いながらひと言そう言った。

 

「俺がシンクロ研究を始める以前から、似たような現象についてはいくつか事例があった。たとえば、このカントー地方のトキワシティという町には不思議な力を持つ人間が生まれることがある。彼らはポケモンとより心をかよわせ合い、自らの気持ちを同調させてポケモンの力を強化することができるんだ」

 

「……それは本当ですか?」

 

 Nの問いにネムリは無言で頷いた。ポケモンの力を強化することができる人間がいるという話は一度も聞いたことがない。

 

「ミモザちゃん、説明よろしく」

 

 重要な話題を博士が放り投げてきたことに溜め息をつきながら、ミモザは説明を始めた。

 

「先程も簡単に説明しましたが、メガシンカの場合はキーストーンとメガストーンという石を媒介として絆や思いといったものをつなげて、通常の進化ではない進化、メガシンカを引き起こします。これによってポケモンは安定して姿を変えることができ、力を増大させることができます」

 

 理解したことを示すためにNは頷く。

 

「対してシンクロは、媒介するものがありません。人間とポケモン、双方の気持ちのみで強化を図ります。気持ちが一つにならなければ起こらず、仮に起こったとしても一つになることが弱ければ強化が不安定になります。気持ちの一体化が強くなればなるほど、強化は安定し、メガシンカよりも絶大な力を発揮するというのが博士の仮定です」

 

「事例を読む中でいくつかわかったことがある。シンクロ状態になると感覚の共有や動きの同調が起こるんだ。これによって適切な指示を出すことができたり、さらに強いシンクロ状態になると指示を出さなくても思考の共有によって動くこともできる。これが仮定の理由だ」

 

 なるほど、とNは呟いた。

 

 メガシンカが進化を超えた進化と呼ぶなら、シンクロはまさに人間とポケモンの一体化と呼べるのかもしれない。それにポケモンだいすきクラブでの彼女の話からすると、メガシンカはバトル中という状況下になければ起こらない現象であるのに対して、シンクロは特別な条件がない。

 

 つまり、気持ちが一つになりさえすればバトル以外でも起こり得るということである。コンテストの例を極端にとると、演技中にパフォーマーとポケモンがシンクロを起こすことができれば高得点を取れるといったところだろう。

 

「さらにメガシンカはすべてのポケモンに起こるわけではありません。特定のポケモンが最終進化まで辿り着いたときにメガシンカすることができます。しかしシンクロはすべてのポケモンに、進化など関係なく起こると考えられています」

 

「ざっくりと言えば、シンクロ現象は人間とポケモンの気持ち次第で起こる、という感じだね」

 

 ミモザの言葉をまとめるように会長が言った。

 

「言い換えれば、いつ、どこで、どのポケモンに起こるのかわからない現象だ。シビアな話、研究費も時間も多くは割けられない。そこでタイプを絞って研究することにした」

 

「ポケモンのタイプですか?」

 

「そう。俺たちはノーマルタイプのポケモンに焦点を当ててシンクロを研究してる」

 

 タイプ――すなわち、各ポケモンの性質や属性を表すものであり、現在までにノーマル、ほのお、みず、くさ、でんき、いわ、じめん、こおり、どく、エスパー、かくとう、ひこう、むし、ゴースト、ドラゴン、あく、はがね、フェアリーの18種類が確認されている。

 

 今のところは、どのポケモンもいずれか一つはタイプを持っていることが判明している。

 

 ほぼすべてのポケモンがノーマルタイプの技を一つは覚えることができ、最も正統的なタイプとも言える。

 

「なぜ、ノーマルタイプに?」

 

「んー、シンクロ研究に着手する前はノーマルについて研究していたし、じゃあノーマルでいいかっていう感じだな」

 

「建前でもいいのでもう少しまともなことを言ってください」

 

 またもやミモザはやる気も話す気もなさそうな博士の発言に溜め息をついた。

 

「ノーマルタイプに属するポケモンの多くは攻撃面や防御面などの状態において偏りがなく、バランスが取れています。覚えられる技も豊富で、他のタイプの技も多く習得することができて万能であるという声も高いです」

 

 そう言いながら、ミモザはNを庭先に案内した。こうして見てみるとこの丘の上には研究所しか建っておらず、庭というよりは広大な敷地という言葉の方が合っているように感じる。

 

 研究所のそばの木々の近くには二匹の巨体なポケモンと一匹の小さなポケモンが仲良く寝ていた。いねむりポケモンのカビゴンとものぐさポケモンのケッキング、ちゅうけんポケモンのハーデリアであった。

 

「一部になってしまいますが、ご覧のようにノーマルタイプのポケモンには外見の共通点が多くありません。そして彼らが得意とするノーマルタイプの技は、全タイプ中唯一弱点を突くことができません。しかしその代わりに、彼らは他のタイプの技を多く扱うことができるように器官を進化させて生きてきました」

 

 気配がしたのか、ハーデリアは起き上がると尻尾を振ってこちらに近づいてきた。ミモザの元に駆け寄るとうれしそうにじゃれついた。彼女もまた、優しくハーデリアをなでる。

 

「こうしたことからも一部の学説では、ノーマルタイプは他のタイプの原点的な立ち位置にあるのではないか、広義の目で見ても性質的には人間に近いのではないかなどと唱えられています」

 

 ミモザは視線をハーデリアからNに移す。それは真剣な眼差しであり、研究に対する信念で満ちていた。

 

「もしそうであれば、人間が最もシンクロしやすいのはノーマルタイプのポケモンなのではないか。これが、私たちがシンクロ研究においてノーマルタイプのポケモンに焦点を当てている理由です」

 

「さすがだよ、ミモザ。すばらしい説明だ。優秀な助手を持てて俺はうれしいよ」

 

 コイキング焼きを頬張りながら博士は助手に賞賛を送った。優秀な助手は呆れながら上司を見ている。しかしなぜだか、彼女が心の底から呆れているようにNには見えなかった。

 

「まあ、彼女の説明のとおりだ。それで時々、ノーマルタイプのポケモンを持ってる会長に手伝ってもらってるわけよ」

 

「そういうことです。私の愛しいオニドリルちゃんとの絆を研究に役立てていただいています」

 

 シンクロ研究についてはある程度理解できた。メガシンカと同じように心をかよわせても結果は異なるものであることはおもしろい。ポケモンだけでなく人間との相互関係について研究している点も、他の研究とは一味違うようである。

 

 しかし、彼らは決定的なことを話していない。

 

「なぜ、シンクロの研究をしているんですか? 何のためにシンクロ研究をするんですか?」

 

 しばらくの間沈黙が続いた。どうやらこれに関しては、助手のミモザもポケモンだいすきクラブの会長も確かな答えを持っていないらしい。二人ともがただじっと、ネムリが話し出すのを待っている。

 

 ネムリは煙草をゆっくりと吸って吐いてを繰り返している。目の前の灰皿には三本の吸い殻が横たわっている。

 

「……人でもポケモンでも、誰かとつながるっていいことだと思わない? 独りじゃないんだよ」

 

 夕陽が部屋いっぱいを照らした。それは一日の終わりが近づいていることを一瞬で教えてくれる。

 

「クチバはオレンジ、夕焼けの色。夕焼け色の港町」

 

 ネムリは細い目をさらに細めて夕日を見ながらそう呟いた。その表情は穏やかで温かいものだったが、どこか寂し気にも見える。

 

「カントーには温かい人が多い。滞在するならよく見ていきな」

 

 ネムリは煙草の火を消すと立ち上がった。想像していたよりもずっと背が高いことにNは驚いた。

 

「飯の準備だ。会長もNくんも食べていってくださいよ」

 

 ネムリがそう言うと、近くのパソコン画面から何かが突き出てきた。それをネムリはなでる。

 

「いつものピザを頼むわ」

 

 それは一声鳴くと再びパソコンの中へと姿を消した。

 

「ポリゴンZですか?」

 

「ああ、そうだ。バーチャルポケモンで、電脳空間や異次元空間で動くことができる。俺のポリゴンZはパソコンの中が好きでね、メールの連絡とか情報収集とかを任せることが多いんだよ」

 

 ポリゴンZは、人工的に生み出されたポケモンのポリゴンが最終的に進化した姿であり、さまざまな空間での作業を得意としている。今はおそらくインターネットでピザの注文を頼んだのだろうが、まさに適材適所といったところだ。

 

 このネムリという博士は一見怠慢でやる気のないように見えるが、博士なだけあってポケモンに関する知識も多く、人とポケモンについてよく考えているようであった。

 

 Nはそんな彼に、研究に興味を持ち、話すこと以外で彼が何者なのか知りたくもあった。

 

「博士、よければポケモンバトルをしませんか?」

 

 ミモザと会長は驚いたようにNを見た。何か言いたげな表情をしているが、何も言わない。しきりにバトルを申し込まれた博士を見ている。

 

 ネムリはじっとNの目を見つめた。探るような目つきでもなく、感情の色が表れていない。何を考えているのかわからないそれは、自らの心の内を相手に見せないようにしているようでもあった。

 

「まあ、ピザが来るまでの間なら」

 

「なんと!」

 

「博士! 本気ですか?」

 

 よほどネムリの答えを予想していなかったのか、二人は驚いて声を上げた。

 

「なんだよ、その反応は。たしかに基本的にはバトルなんてやりたくないが、気分が乗るときだってあるんだよ」

 

 助手と会長の反応に不服そうに頭をかきながら博士は庭先へと向かう。

 

「Nくん、バトルをするのはいいが、記録は取らせてもらう」

 

 Nが疑問に思っていると、ネムリに頼まれたミモザがアタッシュケースを抱えて部屋に戻って来た。ケースの中には腕輪のようなものが四つ入っている。

 

「これはカロス地方にいる発明家の少年によってつくられたものです。バトルパルス測定器と言って、装着した人やポケモンの脳波や心拍数などを測定してくれます。測定したデータはパソコンに送られて、波長して表示されるようになっています。元々はあるトレーナーとポケモンのために発明されたようですが、さまざまな人やポケモンにも使えるように改良してもらいました」

 

 そんなものをよくもつくったものだ、とNは感心しながら差し出された腕輪を左腕に付けた。もう一つの測定器は使用するポケモンのどこに身に付けてもいいらしい。

 

 またミモザによると、測定器は改良に改良を重ねてある程度の強度と耐久を誇る仕様になっているため、技をぶつけても壊れにくくなっているとのことだった。

 

「それじゃ、ピザが来る前に終わらせよう」

 

 ネムリに従って、Nは外に出た。外で寝ていたケッキングを連れたネムリはバトルフィールドへと向かう。

 

「使用ポケモンは一体。どちらかが戦闘不能になるか、ピザが来たらバトルは終わりだ」

 

 彼はケッキングをフィールドに立たせた。

 

 Nもゾロアークをモンスターボールから出し、測定器を装着させると相手の前に立たせる。

 

「ミモザくん。Nくんのポケモンを見たことないのだが、あれは?」

 

 会長は物珍しそうにゾロアークを見た。私の好みではないがかっこいいポケモンだ、としきりに呟いている。

 

「ゾロアークです。イッシュ地方に生息するポケモンで、あくタイプのポケモンです」

 

 同郷のポケモンを見ることができたからか、ミモザは昼間にNと出会ったときのように少し興奮していた。良いデータが取れそう、とうれしそうに手持ちのパソコンをいじっている。

 

 バトルが始まった。先に動いたのはゾロアークであった。素早い動きでケッキングの懐に潜り込むと〝つじぎり〟の一撃を浴びせた。

 

「動きが早いな」

 

 感心したようにネムリが言う。

 

「ゾロアーク、もう一度〝つじぎり〟」

 

 Nの指示通りに出したゾロアークの一撃はまたもやケッキングに当たった。

 

「なぜ、攻撃してこないんですか?」

 

「これから攻撃するさ」

 

 ケッキングは寝そべると〝なまける〟で体力を回復した。

 

 なぜ、まだ二回ほどしか攻撃していないこのタイミングで、体力を回復する技である〝なまける〟を使うのかNにはわからなかった。

 

 しかし、反対に好機でもあった。ポケモンは戦闘時などに発揮する特性と呼ばれるものをそれぞれ持っている。ケッキングの特性は〝なまけ〟であり、行動してからしばらくは動けないというものだ。そこを狙って攻撃をたたみかけるのが基本的な戦法であろう。

 

 ゾロアークは〝つじぎり〟と〝かえんほうしゃ〟の技を交互に繰り出しながらケッキングの体力を削っていく。

 

「ケッキング、ひたすら〝なまける〟んだ」

 

 攻撃するとは言ったものの、ネムリの指示は体力を回復することだった。これでは技を放ち続けているゾロアークの方が疲弊しきってしまい、反撃される可能性がある。なんとかして大きなダメージを与えたいところであった。

 

「――Nくんならいいバトルをしてくれるって思ったんだけど、俺の見込み違いだったかな」

 

 それは唐突な言葉だった。気付かぬうちに期待されていたとはいえ、勝手にその期待を捨てられてしまっては、さすがに怒りを覚えた。

 

「自分が何者であるかを知りたければ、人の、ポケモンの声に耳を傾けろ。誰かと、ポケモンとつながることを考えろ」

 

 今までポケモンの声を聴いてきた。しかし聴いてきただけであった。ポケモンはこうあらねばならない、と決めつけ、ポケモンと一緒にいる人たちのことは考えてこなかった。

 

 自分の思想に、存在に疑いを持たないで生きてきた。誰かと、ポケモンと心から本当につながることを恐れていたからかもしれない。今までの自分は間違っていた、と認めたくはなかった。

 

「……ゾロアーク!」

 

 帽子を目深に被りなおすと、Nはゾロアークに指示を出した。ゾロアークは一直線にケッキングへと駆けていく。その手前で突然ゾロアークの姿が消えた。

 

「〝つばめがえし〟!」

 

 ゾロアークは一瞬にしてケッキングの背後に現れた。すでに技を放つことができる構えだった。

 

「〝カウンター〟」

 

 ネムリの指示より早くかそれとも同時か、どちらにせよ反撃するには追い付けない速度であり、ましてや後方の死角にいる相手に技は当たらないと踏んでいたにもかかわらず、ケッキングは起き上がると同時に裏拳をゾロアークに放った。

 

 ゾロアークは防御の態勢も取れないまま、まともに攻撃を受けてフィールドの場外へと吹き飛ばされた。地面を転がり、立ち上がる気配がない。

 

「……勝負は終わりだ。ちょうどピザも来たしな」

 

 ピザの配達員は研究所の前で口を開けながらこちらを見ている。

 

 先程の力強くて俊敏な動きはどこへ消えてしまったのか、バトルを終えたケッキングはその場で寝転がってしまった。

 

「どうして、ボクに〝期待〟なんて言葉をかけたんですか?」

 

 ケッキングの腹をなでていたネムリは視線をNに向けた。その表情は背後にある夕日の陰で読み取ることができない。

 

「なんでだろうな。俺にもよくわからないけど、雰囲気とか昔の俺に似てたから放っておけなかったんだろうな」

 

 Nはこれまでのことを思い返していた。幼少期から外界と隔離されて過ごしてきたため、いつも独りで寂しかった。おかげで、いまだに他者とどのようにかかわればいいのかわかっていない。

 

 それに隔離された世界では心に傷を負ったポケモンたちとともに過ごしていた。彼らは優しくしてくれて寂しさを紛らわすことができたが、彼らの傷を見ることができてしまうNにとって、それはあまりにも大きくて重たいものだった。

 

 それゆえに、心のどこかでは彼らを恐怖していた。「ポケモンの声を聴いたことがあるか」などと他者に問いかけているわりには、自分自身が人間はおろか、ポケモンでさえ、心からつながることを恐れているのかもしれない。

 

 自分は何者なのか、それを見つけるまでは心から本当につながることができそうにない。

 

 しかし、シンクロ研究をしているこの場所にいれば、人間とは、ポケモンとは何か、つながるとはどういうことかを少しは知り学ぶことができそうである。

 

「よければ数週間、ここでアナタの研究の手伝いをさせていただけませんか?」

 

「……つぎの目的地を決めるまで好きなだけいればいい。だけど俺には君の助けになれるかわからないよ。それは君自身で見つけなければならない」

 

 Nが頷くと、ネムリはゆっくりと研究所に戻っていった。

 

 ゾロアークをモンスターボールに戻したNは空を見上げた。

 

 青い空と茜色の空がぶつかり合っている境界は不思議な色をしている。その境界の先には何があるのか。Nはしばらくの間見つめ続けた。

 

 

 



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VS聴く者と叫ぶ者

 今日も小雨が降っている。夏真っ盛りだというのに、ここ数日は暗雲が立ち込めて雨を降らせていた。湿度も高く、汗をかいた肌に服がまとわりついて気持ちが悪い。

 

 窓辺から外を覗いてみるが、出歩いている人はほとんどいない。たまに買い物帰りの人が目の前を通るくらいである。

 

 と言っても時計の針はまだ正午を過ぎたあたりなので、仕事や学校に従事している人が多いからということがあるが、それにしてもこのシオンタウンは人口が少ない。

 

 カントー地方の右端に位置するこの町は、周囲を岩山に囲まれているために人の入りが少ない。おまけに古くて小さい町であるため、仕事も少なく、若者は手に職をつけるために他の大きな街に移住してしまう。

 

 そのため、老人と小さな子どもを持つ家庭が人口の大半を占めており、活気に乏しい町となっている。しかし発展が進んでいないからこそ環境は汚染されることなく、自然が多く残っているので空気が澄んでいて穏やかな土地となっている。

 

 この町で一番目立ち且つ新しいものと言えば、町の端に建てられているラジオ局だろう。以前はその場所にポケモンタワーという集合墓地があったのだが、数年前に改築されてラジオ局に変貌を遂げたのだ。そして内部にあった墓石はこの〝たましいのいえ〟という霊園施設に移されたのである。

 

「ラジオ局が気になるのかね?」

 

 背後から老人の声が聞こえた。振り向くとフジ老人が両手にマグカップを持って立っており、そのうちのひとつを手渡された。カップの中のコーヒーが湯気を立てている。

 

「ええ。なぜ墓石を退かしてまであれを建てたかったのか――。見当もつきません」

 

「そうだね。わたしにもわからないよ。ただ一つわかっていることは、ポケモンタワーがロケット団に占拠されたときも、ラジオ局に改築されたときも、わたしにはそれに抗う力がなかった」

 

 フジ老人は手元のコーヒーを見つめながら固まってしまった。

 

 ラジオ局が建てられる三年前、ラジオ局がまだポケモンタワーであったとき、そこがロケット団という組織により占拠されるという事件が起きた。彼らはその場所でカラカラとガラガラというポケモンの乱獲を行っていた。その二匹のポケモンが頭にかぶっている骨が高く売れるためである。

 

 あるとき、一匹のガラガラが子どものカラカラを連れてロケット団の元から脱走した。しかし逃げている途中で、親のガラガラはロケット団により命を奪われてしまった。そんな一匹となってしまったカラカラをフジ老人が発見し、保護したらしい。

 

 フジ老人はロケット団に怒り、ポケモンタワーへと乗り込んだが、彼らに捕らわれてしまう。そこにある少年が乗り込んできてロケット団をポケモンタワーから追い出し、また、幽霊となってしまったガラガラを成仏までさせたらしい。なんとも行動力のある少年がいたものである。

 

「話してくださったあの少年のことを思い出しているのですか?」

 

「ああ、少しね。彼は明るくて正義感の強い子だった。間違いにははっきりと間違っていると言い、困っている人やポケモンがいれば迷いなく助ける。彼の優しさは本物の強さだったよ」

 

 フジ老人はコーヒーを一口飲んだ。

 

「わたしにはそれが眩しくてね、欲しかったんだ。でも彼のような強さはなかった。まあ、年の所為もあるだろうがね」

 

 そう言って笑いながらフジ老人は椅子に座った。

 

「そういえば、調査の方は進んでいるかい?」

 

 フジ老人に尋ねられたハルは首を横に振った。壁にもたれて初老と向き合う。

 

 首元にスカーフを巻いた青年――ハルがこのシオンタウンにやって来たのは二週間ほど前であった。旅の途中でこの町に立ち寄ったのである。彼はいわゆる霊能者で、鎮魂の行いのために世界中を歩き回っていた。ここに辿り着いたのもそれが理由である。

 

 フジ老人と出会ったハルは、近頃、怪奇現象が発生していることを聞き、その正体を突き止めて対応するために調査を開始したのだ。

 

 しかしその怪奇現象に何度か遭遇しているものの、原因の解明には至っていない。また、雨や靄が同時に発生していて視界が悪く、調査は困難と化して時間だけが過ぎ去っていた。

 

「お役に立てずすみません」

 

「いやいや、どうして謝るんだい。君と君のポケモンには町の見回りまでさせてしまっているし、感謝するのはむしろこちらだよ」

 

「ですが調査を続けるうちに天気は日に日に悪くなっていますし、三日後の催事もこのままでは……」

 

 フジ老人は腕を組みながら唸った。やはり三日後の催事のことが気になっているのだろう。住民総出で毎年の夏に行われている催事は野外のため、雨が続いてしまっては決行できない。

 

 話を聞けば、それが行われる祭日はこれまでに一度も雨天であったことはなく、無事に執り行われてきたそうだ。延期も中止もしたことがないが今回ばかりはどうしようもないか、とフジ老人は考えているようである。

 

 そのような伝統を、ハルは自らの力を以ってなんとか開催に至らせたく、またその催しを一目見たいとも思っていた。

 

「少し外の様子を見てきます」

 

 コーヒーを飲み干すと、ハルは家の外に出た。

 

 夏だというのに外は肌寒かった。天候が悪い所為でもあるだろうが、それにしては寒い。冷気が少しずつどこかから漏れてきているようで、日に日に寒さを増しているような感じがした。また、薄い靄がかかっていて数メートル先が見えにくくなっている。

 

 少し海でも見ようと、ハルは町の南側に歩いていった。南にはいくつもの桟橋で構成された12番道路がある。そこは釣りの名所でもあるため、釣り人たちが海中のポケモンを驚かさないように静かに歩くことからサイレンスブリッジという別名を持っている。

 

 シオンタウンが南に持つ小さな浜辺が、ハルは気に入っていた。町を訪れたときはまだ天気も良く、海から昇る朝日が綺麗に見えたものだった。草花が生え、木々が生い茂るのどかな町に温かい日の光がとても心地よいのだ。早いところ怪奇現象の原因を突き止めて朝日を拝みたいところである。

 

 頭の中で朝日を思い描きながら歩いていると、突然金切り声が上がった。いや、悲鳴だろうか。どちらにしろ、女性の声に間違いはなかった。ハルはすぐさま声が聞こえた前方に向かって走った。

 

 一度、何かが地面に当たるような衝撃音がした。ポケモンの技が地面に炸裂した音だろうか。もしそうであれば、誰かがポケモンに襲われているのかもしれない。すぐさま助ける必要がある。

 

 視界の悪い中を走っていると、空中にぼんやりと灯りが見えた。シャンデリアのような形をしたそれから発せられている炎だった。ハルの手持ちのポケモンの一匹である。

 

「シャンデラ!」

 

 声をかけられたシャンデラはハルの姿を確認すると彼の元へ素早く移動した。

 

 辺りを確認すると、近くに二人の人物の気配を感じることができた。一人は少し距離があり、靄に邪魔されて姿がはっきりとは確認できないが、その人影は背が低かった。

 

 もう一人はハルの近くに立っていた。帽子をかぶった長髪の青年である。彼の前にはゾロアークというポケモンが人影と対峙する形で立っている。

 

 大丈夫か、とハルが尋ねると青年は人影から目を離さずに頷いた。

 

「何があったんですか?」

 

「女の子が突然、悲鳴を上げながら襲ってきたんです」

 

 女の子? 青年の返答にハルは疑問を持った。

 

 先程聞いた声は確かに女性のものだった。青年から発せられたとは思えない。では、今目の前に映る背の低い人影は女の子で、声の主であり、青年を襲ったというのか。ひとまず、姿だけでも確認する必要がある。

 

「シャンデラ、火力を上げて辺りを照らすんだ!」

 

 指示を受けたシャンデラは高く浮上すると、頭上と腕に灯る炎の威力を上げた。炎の明かりで辺りが照らされる。小雨と靄に遮られて広範囲を明るくすることはできなかったが、それでも人影の姿を捉えるのは十分だった。

 

 黒髪の少女が立っていた。元々は白かったのだろうか、今では土で汚れてしまっているワンピースを着ている。黒い長髪は塵や泥で乱れたり固まっており、肌も汚れてしまっている。所々に傷があり、服もボロボロだ。

 

 しかし、青年を襲うほどの力があるとは、見た目からは想像し難かった。身体の線は細くて今にも倒れそうだ。

 

「あの子が君を襲ったのかい?」

 

「ええ。間違いありません」

 

「しかし、どう見ても女の子だ。それに恰好がひどい。すぐに保護しよう」

 

 ハルは少女の元に駆け寄ろうとした。しかしそれよりも早く、少女は前傾姿勢を取るとハルの懐に飛び込んだ。右手の指をかぎ爪のように折り、下から上へ垂直に腕を振る動きに合わせてハルの足元から鋭い爪が飛び出してくる。それは確実に彼の喉元を狙っていた。

 

 爪がハルに向かって伸びている中、青年のゾロアークが彼の前に割って入った。防がれて、影の爪は当たらない。少女とゾロアークの攻防が始まった。

 

 ハルは、動悸が止まらなかった。青年の判断とゾロアークの素早い動きがなければ爪によって喉を貫かれていた。この瞬間には立っていなかったかもしれない。そう考えただけでも背筋が凍った。だがそれ以上に驚愕したことがある。

 

「今のは〝シャドークロー〟? なぜ女の子が……?」

 

「考えられる要因はいくつかありますが、今はこの状況をなんとかしましょう」

 

 青年に言われて我に戻る。確かに、まずはあの少女を落ち着かせることが先決だ。

 

 よく見ると、ゾロアークは少女からの攻撃を防いでいるだけだった。攻撃は一切しかげず、ひたすら防ぐことのみに集中している。おそらくトレーナーである青年の指示だろう。少女を傷つけまいとしていることが見て取れる。

 

 少女の動きは人間のそれとは異なっていた。腰を低く落として構えの態勢を取り、地面を滑るように移動が素早い。腕と脚を器用に使ってゾロアークに打撃を叩き込んでいる。

 

 そして何よりも異なっていたのは、時折ポケモンの技を放つことである。人間がポケモンの技を放つ話など聞いたこともなければ、今目の前で起きていることも信じられなかった。

 

 青年と協力して少女を保護しようと考えたハルは、モンスターボールからオーロットを出した。目が一つで老木のような身体からは二本の腕と多脚が生えているのが特徴のポケモンである。

 

 オーロットは指示を受けると、少女を囲むように地面から複数の根っこを出現させた。根っこの檻のようである。しかし少女の反応は早く、それによって退路を断たれる前に跳躍して脱出した。その跳躍力は凄まじく、やはり人間の身体能力を遥かに上回っているようだ。それを少女がやっているのだから尚更驚きである。

 

 ハルが青年の方を窺うと、彼は頷いた。ハルもまたそれに頷き返す。オーロットとゾロアークは代わる代わる少女の攻撃を防いだ。目まぐるしくお互いの位置を変える。

 

 次第に少女はその動きに圧倒されていき、攻撃を引き始めた。そして後退して距離を取ると、彼女は何かに気付いたように後ろを振り向いた。岩壁に追い込まれていたことを確認する。

 

 少女を岩壁に追い込み逃げ場を失くすことに成功したハルは安堵した。あとは根っこを出現させて檻をつくるだけである。そう指示を出そうとした。

 

 しかし少女はそれよりも早く行動に出た。身体の前で両手を向かい合わせるとエネルギーを発生させた。それは瞬時に集約し黒い球体を生成する。

 

 少女によって放たれた球体はオーロットとゾロアークの足元に着弾した。その衝撃で土や泥が舞い、視界が悪くなる。土埃が晴れたときにはすでに少女の姿は消えていた。

 

 ハルは溜め息を吐くと手持ちのポケモンたちをモンスターボールに戻しながら青年に声をかけた。見た目通り、自分よりも若そうだ、とハルは思った。

 

「手伝ってくれてありがとう。目配せだけでよく理解してくれたね。驚いたよ」

 

 青年と協力して少女を保護しようと考えていたのだが、そのためには作戦を少女に感づかれないようにする必要があった。結果的にハルはそれを視線のやり取りだけで伝えるという行動に出たわけだが、どうやらオーロットの根っこの檻で作戦を理解してくれたようだ。

 

 即ちそれはあの場の状況を的確に判断していたということになるのだが、恐るべき判断力である。そしてゾロアークにも正確に指示を出していたところを見ると、かなりの裁量を持ったトレーナーでありそうだ。

 

 青年もハルと同じようにゾロアークをモンスターボールに戻すと帽子を目深に被りなおした。

 

「いえ。アナタのポケモンがいなければボクにはどうすることもできませんでした。シャンデラと、あのポケモンはたしかカロス地方の……?」

 

「うん。オーロットというポケモンだよ。君が連れているのはゾロアークだよね? イッシュ地方で見かけたことがあるよ。――一応確認だけど、先程の女の子が君を襲ったということで間違いないかな?」

 

 ハルの返答に青年は頷いた。やはりあの少女で間違いはないようである。それにハル自身もその目で確かに見たのだ。少女が人ならざるものの動きをして、ポケモンの技まで繰り出したあの姿を――。

 

「あの女の子が〝シャドークロー〟を放ったとき、君は理由として考えられる要因があると言ったね。聞かせてもらってもいいかな? ええと……」

 

「Nと言います」

 

 ハルだ、と言ってお互いに握手をする。天候が悪いこともあり、二人はたましいのいえに向かった。

 

 霊園施設に入ると、フジ老人が心配そうに出迎えてくれた。爆発音が聞こえたために、また怪奇現象が起こったのではないかと考えていたようだ。

 

「怪奇現象と言えばそうかもしれませんが、一度、話を整理しましょう」

 

 ハルはNをフジ老人に紹介した。

 

「ボクは12番道路を通ってきました。それまでは小雨が降っていた程度だったのですが、シオンタウンに足を踏み入れると靄がかかってきたんです。そのとき近くに女の子がいることに気付くと、突然その子が悲鳴を上げて飛びかかってきたんです」

 

「なるほど。それでその悲鳴を聞いて駆け付けた僕と会ったのか」

 

 そして町の見回りのために外にいたシャンデラもその悲鳴を聞いて彼の元に向かったのだろう。

 

 そこで出会ったのが汚れて傷んだ服を着ていた少女だった。

 

 そんな彼女を保護しようとしてハルは一瞬命を奪われそうになったものの、青年のおかげでそれは免れた。二人はお互いにポケモンを出し少女と攻防して壁際まで追い詰めたのだが、結果、多くの謎を残したまま姿を消されてしまったということである。

 

「でも、君には何か思い当たる節があるようだったよね?」

 

「はい。おそらくですが、女の子はゴーストタイプのポケモンに憑りつかれている可能性があります」

 

 ハルとフジ老人は驚いた。確かにその可能性は考えた。実際にゴーストタイプのポケモンが人に憑依して身体を乗っ取る事例が存在するためだ。

 

「その可能性はあるだろうが、シオンタウンに生息しているポケモンではないだろう」

 

 Nの言葉にフジ老人は優しく意見を付け加えた。

 

「このシオンタウンで暮らしているポケモンは皆、人間と共存している。とくにゴーストタイプのポケモンの中にふざけて憑依して、このような騒動を起こすものなどいないよ」

 

 フジ老人の言葉にハルは同意した。彼の言う通り、シオンタウンに生息するゴーストタイプのポケモンの中にはふざけて人間に憑依するポケモンはいない。ハルも二週間ほど滞在して感じたことだが、町の人々とポケモンの間には固い絆のようなものがある。

 

 それは過去に起こったロケット団による事件が関係しており、それ以来土着の人間とポケモンが協力して暮らすことをお互いに暗に理解しているためである。その関係がいつまでも続くように定期的に催事が行われているのだ。

 

「……なるほど。アナタたちはポケモンの声をしっかりと聴いているんですね」

 

 Nも納得したのか、それ以上は何も言わなかった。

 

「しかし、ゴーストタイプのポケモンに憑依されていたのは間違いないでしょう。〝シャドークロー〟と〝シャドーボール〟が女の子から放たれるのを見ました」

 

「N君の言う通りだね。ポケモンが人間を催眠状態にして操るのは聞いたことがあるが、技を付加することはできない」

 

 フジ老人は顎に手を添えて考え出した。眉間に皺を寄せて持ちうる知識で情報を整理しようとしている。

 

「シオンタウンのポケモンでないのなら、他の町や他の地方からやって来たポケモンであると考えるのが妥当かもしれない」

 

 フジ老人はそう答えたものの、黙ってしまった。おそらく自らの言葉に該当する情報を頭の中で探しているのだろう、とハルは推測した。普段は優しい表情をしたお喋り好きの老人なのだが、考え事をする時は決まって表情が小難しくなり途端に口を閉ざすのだ。

 

 知識や情報を多く持っていてそれらを共有してくれるのだが、彼は非常に言葉を選んでいる。うっかりと重要な情報を漏らしてしまわないようにしているかのような印象をハルは抱いていた。

 

 住人から聞いた話だと、以前に彼は研究者だったようだが辞職してシオンタウンにやって来たようだ。熟考時に口を閉ざす傾向にあるのはその時の研究者としての癖であるのかはわからないが、何かしら関係はあるのかもしれない。

 

 思い当たる節がなかったためか、フジ老人は町長に連絡を取り始めた。シオンタウンは小さな町である。住人同士で知らないことはあっても、町内の情報を管理している町長ならば知っていることはあるはずだ。

 

「ハルさん。怪奇現象と言っていましたが、どのようなものが報告されているんですか?」

 

 Nが尋ねてきた。

 

「怪奇現象と言ってもよく聞くやつだよ。物が宙に浮いたり、突然ガラスが割れたり。最近は悲鳴を聞いたという話が多いね。あとはぬいぐるみのようなものが歩いている姿を目撃した人もいたかな」

 

「ぬいぐるみ、ですか……?」

 

 Nはさっぱりわからないという表情をした。それよりも気になることがある。

 

「N君は、なぜシオンタウンに?」

 

「魂の眠る町に以前から興味があったんです」

 

 珍しい若者がいるものだ、とハルは感心した。

 

 いつの頃からかシオンタウンにポケモンタワーが建設されると、シオンタウンと言えばポケモンタワー、ポケモンタワーと言えば霊魂とでも言うように〝霊〟や〝魂〟、〝墓〟や〝死〟というものがこの町のイメージを形成してきた。

 

 またそれらに導かれるようにして次第にゴーストタイプのポケモンが住み始めた。町自体も小さく、カントー地方の右端に位置しており、岩山に囲まれていて目立たないため訪問客も少ない。

 

 そのおかげでありもしない噂や暗い話が流れて近づく人がより減少してしまっている。ハルのように目的があったりする者でなければあまり立ち寄らないというのが現実である。

 

 聞くところによると、Nはイッシュ地方の出身だった。人間とポケモンはそれぞれ何のために生まれ、何のために生きているのかを探すために旅をしているようだ。善悪にかかわらず、それぞれが共に生活している姿をその目に焼き付け、その中で自分が何者なのか、この世界で自分にできることは何かを探すために旅をしているとのことだった。

 

「アナタはなぜここに?」

 

 Nに質問をされて、ハルははっとしたように顔を上げた。彼の話に聞き入ってしまい、どうやら考え込んでしまったようだ。

 

「僕も君と似たようなものだよ」

 

 ハルは優しく微笑んだ。

 

「語るほどのものではないんだけど、僕は一応、霊能者という肩書であちこちを回っているんだ。とは言っても、実際に亡くなった人間やポケモンの霊が見えるわけではなくてね。生者の心と実体のない死者の魂を鎮めることを生業としているんだよ」

 

 この世界には特殊な能力を扱える人がいる。その中でもエスパーや千里眼といった能力やポケモンが負った外傷を治癒する力を持った人々はその名を世界に広めている。それは強大な力であると同時に羨望の的にもなっているためだ。

 

 ハルにもその能力があるものの、特別に目立つ力ではない。彷徨える死者の霊魂を鎮めるというだけで、それ以上でもそれ以下のものでもない。

 

「鎮めるというのは、つまりポケモンの声を聴く、ということですか?」

 

「ポケモンの声か……。そうだね、そういうことになるのかな。ポケモンだけでなく、人の声も聴いているけどね」

 

 Nはおそらく、〝心の声〟を聴いているのか、と問いたいのだろうとハルは解釈した。

 

 人もポケモンも、いずれは命が尽きる。残される者がいればいなくなってしまう者もいる。思いを伝えられないまま別れを迎えてしまう者が多くいる。

 

 そんな彼らのために、現世に残された生けるものと冥界へと逝ってしまった魂を、想い出の品を媒介として一度だけ引き合わせることができる力をハルは持っている。生死を問わず、人とポケモンの声を聴き、彼らの心を鎮める異能のカウンセラーなのである。

 

 電話を終えたフジ老人が二人の元へやって来た。その顔はあまり穏やかなものではないことがわかる。

 

「町長の話だと、三ヶ月ほど前にホウエン地方から療養のために女の子が引っ越してきたらしい。その子はジュペッタというポケモンを連れていたそうだ」

 

 ハルは腕組をして壁に寄りかかった。

 

「ジュペッタはゴーストタイプのポケモン。おまけに、その容姿からぬいぐるみポケモンに分類されています」

 

「なるほど。そうすると仰っていた、ぬいぐるみのようなものが歩いていたという目撃情報も裏付けが取れますね」

 

 ハルの言葉から、Nが情報を整理していく。

 

 ジュペッタは〝シャドークロー〟と〝シャドーボール〟を覚えることができる。また、ゴーストタイプの力で憑りつくこともできるだろう。

 

 これだけの情報からでも十分に、これまでの怪奇事件の犯人がジュペッタであると予想できる。しかし問題はまだまだたくさんある。

 

「それで、その女の子は?」

 

「……不幸にも、引っ越してきたひと月後に病気が治らずに亡くなっている」

 

 フジ老人の言葉を聞いて、二人はしばらくの間言葉を発せずにいた。

 

「――その子の家族は、まだこのシオンにいるんですか?」

 

 Nの問いにフジ老人はゆっくりと首を横に振った。

 

「ご両親も娘さんを亡くした後に不慮の事故で他界していたよ」

 

 ハルもNも言葉を失った。もしもジュペッタがこの件にかかわっているのであれば、その心を察するには十分すぎる情報だった。

 

 ジュペッタは見知らぬ土地でたった一匹、孤独で過ごしているに違いない。次々と起きた悲劇に心が耐えられなくなっているはずである。

 

「では、先程遭遇した女の子はジュペッタのトレーナーではないということになりますね」

 

 Nが口火を切った。彼の考えと同じく、ハルもそれについて疑問に思っていた。トレーナーである女の子もその家族も失っているとすると、あのポケモンの技を放った女の子はいったい誰なのか。

 

 いずれにせよ、あの女の子を操っている力から解放するしかない。憑依されたままでは身体も精神も強大な力で蝕まれてしまい、いずれは死に至ってしまう。

 

「あの力の正体を見破るためにも、もう一度、あの女の子に会うしかないですね。何よりも女の子の命を最優先しなければいけません」

 

 ハルは窓の外を見た。先程外に出たときよりも辺りが暗くなってきているのがわかる。街灯にも明かりが灯り始めたようで靄の中でぼんやりと鈍く輝いている。

 

「ハルくん、無茶だけは――」

 

 フジ老人の言葉に微笑みながら大丈夫です、とハルは返した。その後、フジ老人は三日後の催事について話し合うために町内会議へと出かけていった。

 

「――過去に何かあったんですか?」

 

 Nが不意に尋ねてくる。先程のフジ老人の言葉から何かを察したのだろう。彼の洞察力は鋭い、とハルは感じた。

 

「あまり話して気持ちの良いものではないんだけど……」

 

 そう前置きをしつつ、ハルは首に巻いているスカーフを外す。その下には右の首元――それよりももっと下から顎にかけて大きな傷痕が伸びていた。

 

 その傷はある少女を救えなかったときに負ったものであり、彼にとって戒めとなるものでもあった。それを簡単に人に見せていいものではないと決めたハルは、こうしてスカーフを巻いて隠しているのである。

 

「僕は自分の力に自信がなかった。むしろ嫌っていたよ。この力の所為で、小さい頃から周りに気味悪がられてね。友達もいなかった」

 

 そして、非行に走ってしまった。誰にも何も言わせない力を欲して、周りのポケモントレーナーや、強そうな野生のポケモンを見かければ手当たり次第に勝負を仕掛けた。

 

 次第に、力だけでは物足りなくなってしまい、自分が存在しているという証を求めてある組織に属し行動する日々を送った。力の限り町を襲い、人々の心を撃ちのめし、そして世界に牙をむいた。

 

 しかし、自分が何をしているのか理解していたが、それに何の意味があるのかはわからなくなっていた。

 

 そんなとき一人の少女に出会い、同時に傷つけてしまった。彼女の命を救えず、心を救えず、何も救えなかった。彼女の命と引き換えに手にしたものは、この戒めの傷だけだった。

 

「この傷は亡くしてしまった彼女の想いそのものであり、これまでに僕が傷つけてしまった人々やポケモンのものでもある。この傷を胸に自分の力を受け入れて、各地の魂の声を聴き、鎮めているんだ」

 

 スカーフを巻きなおしたハルがNを見ると、彼は何かを考えているかのように深刻そうな顔をしていた。傷、心、命、人、ポケモン――。他にも何かを呟いている。

 

 雨脚が強くなってきたようだ。地面に打ち付ける雨の音がハルの傷を疼かせる。

 

「傷つくのであれば、人もポケモンも繋がらない方がいいのではないんですか?」

 

 Nの的確な質問にハルは彼の顔を見つめた。どうやらふざけて質問をしているわけではないらしい。

 

「――そうだね。どんなかたちであれ、傷つくのであれば繋がらない方がいいのかもしれないね」

 

 昔、彼のような考えを抱いたことを思い出す。自らの力の所為で離れていく人が多かったために一度は人と繋がることを止め、また、一緒にいれば傷つけてしまうかもしれないポケモンとも繋がりを断とうとした。しかしポケモンだけは、彼らだけは、ハルの元を絶対に離れようとはしなかった。

 

 その後少女と出会い、彼女は大事なことを教えてくれた。本当に大切なものを失ってしまえば、それは二度と戻っては来ない。たとえ戻って来たとしても、それは大切なものの形をした別な何かであること。後悔しても同じものは戻ってこない。

 

「でも傷つき、傷つけてしまうのは、生きている証拠だと僕は思うよ。だからこそ僕は、僕のこの能力で人と人を、ポケモンとポケモンを、人とポケモンを繋げているんだ。去った方にとっても、残された方にとっても悔いが残らないように。伝えたかったことを伝えられるように」

 

 Nは何も言わずに俯いた。帽子のつばが彼の表情を隠す。

 

 彼が何を考えているのかハルは気になった。その不思議な青年は単に人やポケモンに関心があるというよりも、その先にある何かを求め、探しているかのように感じる。

 

 そのとき、大きな爆発音がした。重い空気の振動が肌に伝わってくる。二人は顔を見合わせるとすぐさま家を出た。

 

 辺りを見渡すも雨と霧、夜の所為で視界が悪く、どこで爆発が起こったのかわからない。そう思ったのも束の間、再び爆発音が聞こえてきた。周りの住人も驚いた表情で様子を見に外に出てくる。

 

 二人は爆発音のした方へ向かった。

 

「まずいな……」

 

 現場へと走っている途中で、ハルが呟く。

 

「この先にあるのは集会所だ」

 

「つまり……フジ老人がいらっしゃる?」

 

「おそらくね。行事の話し合いに集会所を使っているはずだ。だとすると、多くの役員が集まっているに違いない」

 

「……被害が増えてしまいますね」

 

 一刻も早く事の真相を突き止めなければならない。ハルがそう思ったとき、三度目の爆発音とともに、夜空が赤く照らされて黒煙が上った。

 

 火事が起きたのは集会所だった。まだそれほど燃え広がってはいないが、壁が破壊されて熱と煙が漏れている。集会所に集まっていた役員たちが声を掛け合いながら、近くの住人を避難させていた。どうやら役員たちは無事なようである。

 

 数人の住人が燃えている集会所を取り囲むように立っているのが目に入った。彼らの後方にフジ老人の姿を見つけ、二人は駆け寄る。

 

「ご無事でしたか、フジ老人!」

 

「おお! 二人とも来てくれたのか。私も、役員たちもみな無事だよ。しかし何の前触れもなく集会所が襲われてご覧の通りだ」

 

 無事とは言いつつも、フジ老人の身体には切り傷や火傷の痕が所々見受けられた。急いで避難したからか息も少し上がっている。それにどこか憔悴しているような表情だ。

 

 とにかく火災現場から離れることを提案しようとすると、Nが小さく呟いた。

 

「孤独、か……」

 

 彼の視線の先は集会所に向けられていた。それを取り囲んでいる人々も何かに怯えるように少しずつ後退している。

 

 ハルが注意深く見ていると、燃え盛る炎の中から何かがゆっくりと出てきた。泥や埃、火の粉などでぼろぼろになった洋服を着ている、あの少女であった。

 

 すぐさまハルはその奇妙な光景に気付いた。少女は火傷ひとつ負っていないように見える。それどころか、彼女の周りに透明な壁でも張り巡らされているかのように、炎が近づくことを許されていない。

 

「おそらく、〝サイコキネシス〟のようなもので炎を防いでいるんでしょう」

 

 ハルの思考を読み取ったかのようにNが答える。

 

 炎の勢いが増していく集会所を背に、少女はじっと立っている。その瞳には生気が感じられず、ただ虚空を見つめている。

 

 宙を舞う火の粉が彼女を避けるように流れていく。それは近くの住居に降りかかり、やがて新たな火災を生んだ。

 

 少女は右手を前にかざすと一気にエネルギーを収縮させて黒い球体を放った。〝シャドーボール〟というゴーストタイプの技だ。

 

 やはり彼女はエスパー少女などではない。ポケモンに憑りつかれている――。ハルはボールからオーロットを出した。Nもまた、ゾロアークを出して少女の前に立つ。

 

 ゾロアークと少女が肉弾戦になる。しかしゾロアークは少女を攻撃することなく、防御に身を置いている。時に少女が遠距離からの攻撃を仕掛けてきたときはオーロットがすかさず地中から木の根を出現させてゾロアークを守った。

 

 ひたすらそれを繰り返し、二匹は彼女を追い詰めていく。

 

 少女がぬかるみに足を取られた。その機会を待っていたハルがオーロットに指示を出す。

 

「〝くさむすび〟だ!」

 

 オーロットの力に刺激され、少女の足元に生えている草が彼女の両足に絡みつく。バランスを崩した少女が地面に手をつくとその両手も縛り、体勢を整える機会を奪った。

 

「姿を現すんだ。キミも、その女の子をこれ以上巻き込みたくはないだろう?」

 

 Nが一歩ずつ前に出る。

 

 彼は少女に憑りついているものの正体に話しかけているようだ。それは優しく、心にすっと入り込んでくる響きだった。

 

「キミが――いや、女の子が炎の中から現れたとき、一瞬だけキミの姿を確認することができたんだ。そのとき、キミの声も聴こえたよ」

 

 〝くさむすび〟に抵抗していた少女の動きがぴたりと止まり、Nの足元に顔をゆっくりと向けた。

 

「もっとキミの声を聴きたいんだ。姿を見せてくれるかい?」

 

 Nの言葉に呼応するかのように、黒い影が少女の背中から剝がれるように出現したかと思うと、それは燃える炎の前に移動した。それと同時に少女は力尽きたかのようにその場に崩れる。

 

 ゆらゆらと揺れながら不定形な影が形を形成した。真っ黒な全身の中に大きな赤い瞳を持ち、まるで歯のようにも見える金色のジッパーが口元で怪しく光っている。

 

 そこに立っていたのは、ぬいぐるみポケモンと呼ばれているジュペッタであった。

 

「やはり、ジュペッタだったのか」

 

 フジ老人がそう口にするのが聞こえた。予想通りといったところだが、これで安心はできない。まだ肝心な問題が残っている。

 

 ハルはオーロットに少女の救助を任せると、新たにシャンデラを繰り出した。

 

「ボクたちはキミを傷つけたいわけじゃないんだ。どうかボクの声を聴いて、そしてキミの声を聴かせてほしい」

 

 Nが再び近づこうとしたとき、ジュペッタは彼に襲いかかった。それをゾロアークが防ぐ。

 

「Nくん! 今のジュペッタには君の声はおろか、周りの声は届かないだろう。だけど届ける状況をつくり出す方法はある」

 

「……いったい何を?」

 

 ハルはジュペッタを指差した。ジュペッタの両手の中指に指輪のようなものがはめられている。おそらくそれが、ジュペッタとそのトレーナーにとって大事なものであるに違いないとハルは踏んだ。

 

 

 ハルの能力は、生者の心と死者の魂を引き合わせることであり、それには両者にとっての想い出の品を媒介とする必要がある。そしてそれはあの指輪だろう、とこれまでの経験と勘に基づいた予想をした。

 

 あの指輪に、ジュペッタに近づくことさえできれば能力を使うことができる。

 

 しかし、それにはまず、あのジュペッタを落ち着かせるしかない。できれば傷つけずにいきたいところであるが、ハルの能力は生者が落ち着いている必要がある。

 

 誰の声も届かないジュペッタに声を届けるにはまず、体力を消耗させていくしかない。

 

「ジュペッタに近づきたい。力を貸してほしい」

 

 数秒、ハルのことを見ていたかと思うとNは無言で頷いた。

 

 Nの指示により、ゾロアークが動く。それをジュペッタが迎え撃つかたちで動く。

 

 タイプの相性的にはゾロアークが有利であることに違いはない。ゴーストタイプのポケモンはあくタイプの技を受けることを苦手としている。それはジュペッタも例外ではないはずであるが、それにしても果敢に挑んできている。

 

 そこまでに彼を突き動かしているものはいったい何なのか。ハルはそれを知り、ジュペッタの心を鎮める必要がある。

 

 人であろうとポケモンであろうと、かつての自分のように力で誰かを傷つけることを、もう誰にもしてほしくはない、とハルは拳を握りしめた。

 

 一瞬だけでいい。攻撃の手を休めることをしないジュペッタの動きを一瞬で封じ、その間に駆け寄り指輪に、ジュペッタに触れることさえできれば――。

 

 ゾロアークが〝かえんほうしゃ〟を放ち、ジュペッタを遠くへと離した。

 

「いまだ! 〝れんごく〟!」

 

 ハルの指示を受けたシャンデラが二線の炎をジュペッタへと放射した。それは足元に着弾すると螺旋を描くように上空へと昇り、一本の大きな火柱を形成した。その炎にジュペッタは呑まれる。

 

 〝れんごく〟はほのおタイプの技の中で威力が高いものだ。体力を大きく削ることができる。力で抑え込むことはあまりしたくはないが仕方がない。あとは〝れんごく〟の檻から出たジュペッタに接触するだけだ。そう考えたハルが近づこうと一歩踏み出す。

 

 突如、火柱の中から悲鳴が上がった。それと同時に炎が変色し始める。つぎの瞬間、火柱は大きく膨れ上がったかと思うと破裂した。無数の火の粉が拡散し、近くにいた人々は思わず顔を背けたり、覆ったりして身を守る。

 

 火柱のあった方へ目を向けると、そこには虹色の光に包まれたジュペッタが立っていた。

 

 しかしそのかたちは先程までのとは異なるものであった。徐々に光が解けていき、その姿が露になる。全身はさらに黒く染まり、まるで被り物のようなそれからは赤紫色の爪と脚が飛び出している。

 

「まさか、〝メガシンカ〟の姿……?」

 

 呆気に取られていたハルはやっとの思いで言葉を発した。ジュペッタに新たな進化が確認されている例はない。それに、あの虹色の光は旅の途中で何度か目にしたことがあった。目の前のジュペッタは〝メガシンカ〟をしたのだ。しかし――。

 

「トレーナーがいないのに何故……?」

 

 Nも驚いたように言う。

 

 そう、彼の言う通りである。本来ならば〝メガシンカ〟は人間とポケモンが想いを交わすことで一時的な変化を遂げるものである。それには人間が持つキーストーンとポケモンが持つメガストーンの二つが必要になる。ジュペッタはそれを持っていなかったはずだ。ハルは必死に思考を巡らす。

 

 ――いや、持っていた。あの両手の指輪はただの指輪ではなく、キーストーンとメガストーンだった……? それがジュペッタの、彼らの想い出の品――。

 

「Nくん、あれは、あの指輪は、キーストーンとメガストーンだったんだ。だからジュペッタは〝メガシンカ〟することができた」

 

「しかし、普通は人がいて、人と心を通わせて初めて進化を遂げるものでは?」

 

「普通はそうだと思う。でもジュペッタにとってトレーナーとの絆が何よりも大切な想い出だとしたら、キーストーンとメガストーンがその思いに反応しても可笑しくはない」

 

 Nは驚きを隠せない表情をしている。そんなことが起こり得るのか、としきりに言っている。

 

「とにかく、あの姿はまずい。〝メガシンカ〟は戦闘時にこそ、その力を発揮する。つまり――」

 

「つまり、完全な戦闘態勢に入った、ということですね?」

 

 ハルは無言で頷いた。〝メガシンカ〟は、そのポケモンの力を一時的に増強させる。近づくことはおろか、体力を消耗させることも難しくなる。

 

 こうなってしまった以上、闘いはもう避けられない。二人は二匹に指示を出す。再び戦闘が始まった。

 

 ジュペッタは元々、ゴーストタイプの中でも高い攻撃力を持つポケモンである。そこに〝メガシンカ〟の力が加わることでより高い攻撃力を発揮できるようになったためか、シャンデラとゾロアークの二匹を相手しているというのに全く動じていない。

 

 むしろ、こちらが押されている、とハルの目には映った。そしてもう一つ、気になる点が見えてきた。

 

「あのジュペッタ、闘い慣れしている」

 

 隣にいるNに伝える。

 

 ジュペッタは明らかに闘いに不慣れなポケモンではなかった。その動きは正確で、必ず二匹を目視できるように立ち振る舞っている。死角となる背中を見せることなく闘っていた。

 

 ジュペッタのトレーナーはどうやら相当なバトルセンスを持っていたようである。トレーナーの指示がなくとも、蓄積された経験と技術で動けるポケモンほど手強いものはない。

 

 戦闘しているジュペッタが二匹から距離を取って後方へと下がった。燃え盛る周囲の民家の炎に照らされて、ジュペッタの影が怪しく揺れる。

 

 突然、それはゾロアークの方へと延び影同士が繋がったかと思うと、影の中から刺々しいものがゾロアーク目掛けて飛び出した。直撃を受けたゾロアークがその場に倒れる。〝かげうち〟という技だった。

 

 続けてジュペッタの影がシャンデラへと移動する。素早く移動した影は再び〝かげうち〟を放ち、シャンデラを戦闘不能に追いやった。

 

 凄まじい〝メガシンカ〟の力に二人は思わず言葉を失った。

 

「ゾロアークはそろそろ限界です」

 

 Nの言葉通り、ゾロアークは息が上がっている。近接戦闘をほぼ任せていたのだから無理もない。体力をだいぶ消耗しているはずである。

 

「それに――」

 

 Nが続けてジュペッタを指差す。その顔には涙が溢れていた。背後の火事が逆光となっているため表情までは読み取れないが、たしかにその頬には輝く線が流れていた。

 

「今なら聴こえます。孤独と寂しさ、そして怒りの声が彼から聴こえる……」

 

 〝メガシンカ〟は人とポケモンの絆が一つになることで起こる。その絆に触れることでトレーナーとのさまざまな記憶が蘇ったのだろう。それに影響されて力とともに感情も溢れ出たと考えられる。それほどまでにトレーナーのことを信じ、愛していたからこそ、今となってはそれがつらい出来事となってしまっているのだろう。

 

 だが、それは違う。たとえ二度と会えないとしても、一緒に過ごした時の記憶をつらいものにしてしまうのはあまりにも悲しい。ハルには、その事実を変えなければならない決意があった。

 

 Nくん、とハルがひと声かける。

 

「これから、僕は最後の一匹を出す。最後まで協力してくれると助かるよ」

 

 Nは無言で頷くと帽子を目深に被りなおした。

 

 ハルは、オドリドリというポケモンをモンスターボールから出した。薄紫色の小さな鳥ポケモンであり、その翼はまるで扇子のようなかたちをしている。

 

「僕のオドリドリの舞は魂を引き寄せることができる。舞っている間、援護を頼むよ」

 

 オドリドリは舞い始めた。翼の動かし方から足の運び方まで、舞う姿は柔らかくも力強く、どこか妖艶的であった。姿は小さいものの、湧き出る美しさに、その踊りに誰しもが目を奪われた。

 

 ジュペッタが何かを察知したかのように辺りを見回し始める。それは何かにたじろいでいるように見える。ジュペッタはオドリドリに標的を絞った。

 

 舞を邪魔しようと動くジュペッタをゾロアークが食い止める。しかし、これまでの疲労が蓄積されており動きが鈍くなっている。限界が近い。

 

 ジュペッタが〝シャドークロー〟を放つ。

 

「――〝つじぎり〟だ!」

 

 Nの指示を受けたゾロアークが力を振り絞り、技を放った。鋭い攻撃はお互いに当たり、その衝撃で両者は後方へと飛ぶ。ゾロアークは立ち上がることができなかった。

 

 ジュペッタはすぐに起き上がるものの、かなり息を切らしている。いくら〝メガシンカ〟しているとはいえ、体力の限界が目に見える。

 

 Nとゾロアークの尽力に礼を言いつつ、ハルは一歩を踏み出した。

 

「ジュペッタ、傷つくのも傷つけるのも、もう終わりにしよう」

 

 寂しさと怒りで涙を流している目の前のポケモンに優しく、そう問いかける。

 

「君の想いを、君のトレーナーに伝えよう」

 

 差し伸べられた手にジュペッタは困惑した表情を見せるも、すぐにハルをにらみ返した。そして、まるで苦痛を解き放つかのように叫びを上げると、全身から力を放出させた。身体のあらゆるジッパーが開き、中から黒い影が流れ出てくる。ジュペッタの全身全霊をかけた〝おんねん〟だった。

 

「〝めざめるダンス〟!」

 

 オドリドリが舞にさらに力を込めると無数の青白い火の玉が現れた。勢いよく翼を前にかざすと、火の玉は一斉に尾を引きながら黒い影とぶつかり合った。その衝撃は凄まじく、衝撃波が周囲に拡散する。

 

 人々が顔を背けたり吹き飛ばされないように耐えている中、ハルはジュペッタの下へと駆ける。煙幕を切り抜け、今にも倒れそうになっているジュペッタを抱きしめた。

 

 

 

 ――ジュペッタの姿になる前はカゲボウズというポケモンだった。頭のツノで人間の感情を、特に妬みや恨みといった負の感情を好物として受信し彷徨っていた。また、誰かを脅かして楽しむことで退屈な毎日を過ごしていた。

 

 あるとき、受診した感情は不思議なものだった。それは他者に向けられた負の感情ではなく、自身に向けられたものであった。これまで出会ったことのない感情に興味をそそられてその下に赴く。それがトレーナーとの出会いだった。

 

 彼女は心臓の病を患っていた。そのため外出はほとんどできず、無機質な病院で寂しく暮らしていた。彼女はいつも窓の外を眺めていた。

 

 本来ならば、なぜ自分がこのような病気にならなければならないのだ、と誰かれ構わずに妬み恨むのだろう。しかし彼女の病気に対する気持ちは、病気になってしまった自分をやるせないものでいっぱいになっていただけだった。

 

 そのときカゲボウズは、人間の新たな一面に惹かれた。

 

 最初は影からこっそりと覗く程度だったが、次第に軽く驚かすかたちで彼女の前に現れるようになった。その度に彼女は心臓に悪いよ、と優しく楽し気に微笑んだ。

 

 出会ってから数回の手術と薬の投与を経て、彼女は退院するまでに回復した。そして彼女はこう告げる。一緒に旅をしてみないか、と。

 

 旅を通して、彼女のことがますます好きになっていった。彼女はいつも笑顔で、誰にでもどのポケモンにも分け隔てなく優しく接していた。

 

 いつしか彼女は言っていた。やっとの思いで出れた外の世界には刺激がいっぱいで、いつも楽しんでいる、と。喜びや楽しさだけでなく、怒りや悲しみでさえも愛しく感じてしまう、と。この幸せな毎日を送ることができているのは、私を見つけてくれたあなたのおかげである、と輝かしい笑顔で満ちていた。

 

 そして新たな姿と力を得て、二人はさらに二つの石を通して未知の力も手に入れた。それはまさしく二人の固い絆で結ばれた、何物にも代えがたい強さだった。

 

 しかし旅は突然終わりを告げる。彼女の病が再発した。何度もごめんね、と謝られた。そして彼女の希望もあってもっと静かな場所で暮らすことになり、シオンタウンへと引っ越した。

 

 そこはたくさんの紫の花が咲く、のどかで静かな小さな町だった。旅をしていた時に比べれば退屈だが彼女が元気になれるなら、とジュペッタは毎日花を摘んでは彼女に届けた。

 

 彼女もまた、すぐに元気になるからね、また一緒に旅をしようね、と言った。その言葉を信じて彼女が元気になるのを待っていた。もう一度、彼女の素敵な笑顔を見たかった。

 

 しかしそれは二度と叶うことはなかった。

 

 彼女に続いて彼女の両親をも不慮の事故で失ったジュペッタは、瞬く間に孤独になった。病気の所為であり、彼女の所為ではないことはわかっていた。だから自分が寂しくなってしまうのは仕方のないことだと思い込んでいた。

 

 あるとき、小さな施設で一人の少女が寂しそうにしているのを見た。その姿にトレーナーであった彼女のことが重なった。その瞬間、さまざまな感情が内から湧き出るのを感じた。

 

 慣れない土地での寂しさや不安や孤独。そして彼女の言葉を信じていたのにそれが実現されなかった怒り。それらの感情にジュペッタは呑まれた。少女に憑りつき、感情の赴くままに暴れはじめた。すべては彼女との想い出のために――。

 

 

 

 ジュペッタの瞼の裏に、見覚えのある人影が映っている。しかしぼんやりとしていてはっきりとは見えない。けれどそれはたしかに感じたことのある温かさだった。

 

 その人影はジュペッタを優しく抱きしめる。そのぬくもりは間違いなく、忘れるはずもない彼女のものだった。

 

 自然と涙が溢れてくる。言いたいことはたくさんあるはずなのに、涙がそれを邪魔する。

 

 わかっているよ、と彼女の声が懐かしく響いた。ごめんね、苦しかったね、と続けて響く。でもね、これだけは忘れないで、と彼女の腕に力がこもる。

 

「大好きだよ、ずっと」

 

 ゆっくりと開いた瞼には美しい月夜が広がっていた――。

 

 

 

 目を覚ますと、見慣れた天井が目に入った。〝たましいのいえ〟にいるとすぐにわかる。しかしどうやって移動したのか覚えていない。たしかジュペッタの下へと駆けていって――。

 

「おぉ、ハルくん。気が付いたかい?」

 

 ドアが開いてフジ老人が入って来た。身体の数か所に包帯が巻かれている。

 

「自分に何が起きたか覚えているかな?」

 

 首を横に振ると、フジ老人は近くの椅子に座って状況を話し始めた。

 

 ポケモンの技で発生した煙が晴れるとハルが倒れており、その横には〝メガシンカ〟を解いたジュペッタが心配そうに彼を見つめていた。それを見て人々はすべてが終わったことを悟ったそうだ。

 

 また、火災も無事に消化され、そこまで燃え広がらずに済んだらしい。そしてハルは三日間ほど眠っていた。

 

「というと、今日が催事の日ですか?」

 

「そうだよ。これから始まるんだ」

 

「あの被害でよく決行できましたね」

 

「道具などは別な倉庫に保管していて無事だったし、なによりも今回の件があったからこそやるべきではないか、と皆の意見が一致してね。そこからは即座に準備を進めたんだよ」

 

 無理せず休んでいては、と提案されたがハルは断って外に出た。この催事のためにシオンタウンに立ち寄ったということもある。ぜひ見ておきたかった。

 

 二人で催事会場となる浜辺へと向かう。

 

 途中、焼け焦げた家屋を数軒目にした。その爪痕はまだ生々しく残っており、三日前の出来事が蘇る。

 

「あの女の子はどうなりましたか?」

 

「目立った外傷はないけれども、今回のことで少し心に傷を負っているようだ。ジュンサーさんの話だと、元々孤児院で育てられていたらしい。そこをジュペッタに憑依されて抜け出したみたいだよ」

 

 ジュペッタは身寄りのない少女と自分を重ねたのだろうか、とハルは考えた。それほどまでに寂しかったのだろう。

 

「それにNくんからも、ジュペッタの事情を大体は聞いたんだ。なんでも、彼自身も不思議な力を持っているみたいだね。ポケモンの声が聴こえると言っていたよ。ハルくんの能力と似ているね」

 

 浜辺に着くと多くの住人が集まっており、催事が始まる寸前だった。浜には無数の天灯が設置されていた。

 

 水平線には夕焼けの名残が、そしてその上には藍色の空が広がっている。

 

 辺りを見回すと、Nと少女、ジュペッタが待ち遠しそうに浜を眺めているのが見えた。

 

「今回は誰も悪くない。むしろ人とポケモンの強い絆を見ることができたのではないかと私は考えているよ」

 

 フジ老人はポケットから十字架のネックレスを取り出した。それをハルに差し出す。

 

「君のものだろう。チェーンが切れていたから直しておいたよ」

 

 礼を言いつつ、それを受け取る。十字架の裏には文字が刻まれている。一つはハルジオン。そしてもう一つ、決して忘れることのできない想い出とともに刻まれている。

 

「君も誰かを想って旅をしているんだね」

 

 十字架を握りしめるとハルは小さく、えぇ、と呟いた。

 

 周囲から歓声が沸き起こる。小さな光を灯しながら天灯が一斉に空へと昇っていった。

 

 黄昏時の空一面に広がる景色はまるで魂が天へと昇るかの如く、儚くも尊い美しさを残した。

 

 

 



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VS巫女と三冠鳥

 葉のない木々に囲まれた殺風景な白銀の世界をユキはイーブイと共に歩いていた。幸いにも風は吹いておらず、雪が静かに降っているだけで歩きやすい。

 

 彼女は鳥の装飾が付いた錫杖を突きながらショルダーバッグをかけ直す。

 

「なんでうちがこんなことしないといけんの……」

 

 ユキが見上げる眼前には巨大な山が堂々とそびえ立っている。溶けることのない雪と冷気に覆われているそれは、シロガネ山――まさに白銀の山である。

 

 カントー地方とジョウト地方を繋ぐその山は古くから存在し、様々な伝承が残る神聖な場所でもあるため、許可された人間でなければ立ち入ることが許されていない。そうでなくとも強力なポケモンが多数生息し、並みのポケモントレーナーでは敵わないために多くのトレーナーが避けて通る。

 

 ユキは決して強いトレーナーではない。どちらかと言えばポケモンバトルは苦手な方であり、ポケモンとのんびり暮らしている方が好きである。

 

 しかし、それでも山に登らなければならない理由が彼女にはあった。

 

 一週間ほど前の出来事である。

 

 氷の民であるユキが住む村はシロガネ山の麓にある小さな村だ。小さいながらも古来より続く村であり、のどかな場所である。一年中肌寒いことを除けば、澄んだ湖と美しい緑、そして結晶のように生成された氷に囲まれた素敵な土地だ。

 

 しかし最近の若者、特に年頃の女の子であるユキにとっては退屈な村でしかなかった。自然しかなく、とにかくやることがない。退屈しのぎになるものが本当に何もないのだ。

 

 その時もいつものように暇を持て余していた時のことである。突然、村長から呼ばれたために出向くと、ユキが最もやりたくなかった役目に任命されたのだ。

 

「うちが巫女に? 絶対やりたくない!」

 

「まあまあ、ユキちゃん。決まったもんは仕方ないし、気楽にいこうよ」

 

 村長が親指を立ててキメ顔をする。こういうノリの軽いところがユキは嫌いだった。ただでさえ嫌であるのにさらに怒りが増してくる。

 

「面倒だけん。他の人にやらしないよ」

 

 巫女なんて恥ずかしくてやっていられない――。

 

 ここを含めた三つの村には代々伝わる儀式がある。

 

 各村にある三種の神器とも呼ばれる秘宝を伝説の鳥ポケモンが祭られている祭壇へ取りに行き、それを持ち帰って合同行事が催されるのだ。それはこの一年間の村の繁栄や存続、豊穣などを祝い、次の一年も災いなどから守ってもらうために執り行う。

 

 ユキの村では、カントー地方における伝説の鳥ポケモンの一匹であるフリーザーを神として崇めている。そのフリーザーを祀っている祭壇へと赴き、供物を捧げるのと引き換えに〝氷の鏡〟と呼ばれる秘宝を授かるのだ。

 

 そもそも、フリーザーを神として祀ることになったきっかけは、村民が雪山で遭難した際にフリーザーによって命を救われたことにある。

 

 かつて村ができて間もない頃に、村の民がシロガネ山で遭難した。猛吹雪の中で死を覚悟したのだが、その際にフリーザーが現れて命を救われたことで、その感謝を忘れることなく後世に伝えていくために祀り始めたのだ。

 

「毎年の巫覡の役目は若者と決まっとるし、それにいつも暇や、暇やって言っとるだら? だもんで、行ってこい」

 

「意味わからん。絶対に行かん!」

 

 そうこうしているうちに秘宝を取りに行く日が迫り、ほぼ強制的に出発させられたのである。

 

 男友達からは物珍しいものでも見るようにからかわれ、女友達はそんなユキを庇いながら巫女の役目を応援して送り出してくれた。

 

 古いしきたりや行事に対してユキは関心がなかった。それに巫女の衣装もダサくて着たくない。村も狭くてやることがない。

 

 そのため必然的に都会への憧れが増して、早く村を出たいという気持ちでいっぱいなのだ。そこに巫女の役目である。不服しかなかった。

 

 ユキは立ち止まると目的地である山頂を見上げた。そこにフリーザーを祀る小さな社が建てられているはずだが、ここからでは影すら見えない。まだまだ道程は長そうである。

 

 溜め息を吐くと、ユキはフードを被り再び歩き出した。

 

 手元の地図には社までの生き方が記されている。山頂まではシロガネ山洞窟内を通るのが一般的な行き方であるのだが、昔から山の麓で暮らしてきたユキたち氷の民は山頂までの独自ルートを開拓したのだ。

 

 野生のポケモンも多く出現することなく、また、洞窟を通るよりも早く頂上まで到達することができる。

 

 早く秘宝をもらって帰ろう――。ユキはそれしか頭になかった。

 

 イーブイが何かに気付いて立ち止まった。真っ直ぐに前方を見ている。その行動に気が付いたユキも地図から顔を上げて前を見た。

 

 数十メートル先の葉のない木の下で何かがうずくまっているように見える。灰色のような体色だ。ポケモンだろうか。ユキは腰のベルトに装填してあるモンスターボールに手をかけつつ近づいていく。

 

 その灰色には少し雪が積もっていた。しばらくの間、この場所でうずくまっていたのだろうか。しかし身動き一つ取らない。

 

 近づいていくにつれて、その灰色からは見覚えのあるものが見えた。帽子のつばと靴だ。そしてそれらを覆っているのは灰色の外套だった。その外套にくるまるようにして人間が座っているのだ。

 

 登山者だろうか。いや、それにしては軽装すぎる。登山用具を装備しているようには見えない。

 

 では、遭難者だろうか。山を歩いているうちに迷ってしまうことはよく聞く話であるし、このシロガネ山は特に雪道も多くて殺風景であるために遭難する人が多数いる。

 

 いずれにしても、その灰色が人間であることにユキはひとまず安堵したが、同時にさらに気を引き締めた。仮にその人間が変質者であった場合、迅速に対処しなければならない。

 

 ユキはあらゆる状況を想定して一歩ずつ、慎重に歩みを進めた。イーブイも腰を低くして警戒態勢に入っている。

 

「あの……大丈夫ら?」

 

 うずくまっている人から少し離れた距離でユキは声をかけた。しかし、その者は身動き一つしない。

 

 その人間はたしかに帽子を被っているのだがさらにその上から外套のフードを被っており、さらに俯いているため顔が見えない。その者は外套に綺麗にくるまっていた。

 

 怪訝に思っていると、不意にイーブイが近づいていった。外套の裾からはみ出している足に自身の前足を乗せる。

 

「ちょっと、イーブイ――」

 

 イーブイに声をかけるのと同時に、その人間が動いた。俯いていた顔を少し上げる。まだ表情が見えないが、その顔はおそらくイーブイに気が付いたのだろう。外套の中から腕が伸び、イーブイに触れる。

 

 イーブイはそれを受け入れた。おとなしく頭をなでられており、その表情はうれしそうである。てっきり怯えるものと思っていたユキは拍子抜けした。

 

「あの……」

 

 ユキの声にその人は反応した。ゆっくりとフードで覆われた顔を上げると目が合った。

 

 外の光が眩しいのだろうか、もしくは眠たいのだろうか、細められているその目は少し目尻が下がっていることもあり、どこか優しげな雰囲気を醸し出している。

 

 また、その顔は非常に中性的であり、男性とも女性とも見て取れる。おまけに肌が白くて綺麗だ。

 

「大丈夫ら? ここで何しとるん?」

 

 ユキはもう一度尋ねた。

 

 その人物はイーブイに視線を落とし、少し間をあけてから口を開いた。

 

「歩いていたらいつの間にか正規の道を外れてしまっていてね。少し休んでいたんだ」

 

 男性の声だった。やはり彼は遭難したらしい。この山ではよくある話なため、ユキはさほど驚かなかった。とは言ってもほとんど軽装に近い恰好をしているのには驚きだが。

 

「それで? どこに行きたいん?」

 

「行き先は決まっていないけど、ひとまずジョウト地方に入りたいんだ」

 

 ジョウト地方――このシロガネ山を超えた先にある土地だ。カントー地方の西側にあり、陸続きで繋がっている。数年前にはリニア鉄道が開通し簡単に行き来が可能となったのだが、それでも彼は山を越えたいようだ。旅の者だろうか。

 

「ここから一番近くだと、フスベシティやけん。ドラゴンタイプの使い手がたくさんおるよ」

 

 そうか、とその青年は呟いた。

 

「キミはどこへ行くの?」

 

 ユキはシロガネ山の頂上を指差した。その付近に雲が発生してきている。登っていけばいくほど雪が強く降るだろう、とユキは想像した。

 

「頂上の社に用事があるけん」

 

「社? 頂上にそんなものが?」

 

 青年もユキが指差す場所を見る。

 

「うちっちの村では昔からフリーザーを神様として崇めちょって、今度のお祭りで使うための宝を取りに行くところやよ」

 

 ユキは村のこと、催事のこと、フリーザーのことなどを青年に簡単に説明した。面倒くさくて本当は山など登りたくないことも。

 

「なるほど。それが、キミがここにいる理由なんだね」

 

 青年は山からユキへ、ユキからイーブイへと視線を移していった。

 

「それより、名前は?」

 

「ボクはN。旅をしているんだ」

 

 エヌ? 変な名前だ、とユキは思った。他の地方からやって来たのだろうか。それにしてもこの辺りでは聞きなれない名前である。

 

「変わった名前やね。うちはユキ」

 

「よろしく、ユキ。そういうキミも喋り方が変わっているね。方言かな?」

 

 ユキは思わず口を手で隠した。つい方言を交えて話してしまっていたことに、Nから指摘されて初めて気が付く。一瞬にして顔が火照ったのがわかった。

 

 村には方言がある。その方言も可愛くなく、田舎者であることを晒してしまうために、彼女はそれが好きではない。

 

 たまに村の外に出かけるときは、田舎から出てきたことを悟られないようにするために標準語を使うようにはしているのだが、村長への不満でいっぱいで、つい方言を交えて話してしまっていた。

 

「うちは田舎者やない!」

 

「……ボクは何も言っていないけど?」

 

 彼女の言動をまるで理解できないとでも言うような表情でNは首を傾げた。

 

 それに対して、勝手に一人で焦ったり怒ったりしていることにユキは恥ずかしくなる。

 

「ついて行ってもいいかい?」

 

「は? 頂上まで?」

 

 Nは立ち上がった。思っていたよりも背が高く、細い。見上げて話す形となる。

 

「その神聖な場所を、一度見てみたい」

 

 こんな山の頂上まで登りたい者などいるのだろうか、とユキは訝しんだ。特別に何かあるわけでもなく、強力な野生のポケモンも生息している。麓になら人の手によって整備された道も、傷ついたポケモンを回復するための施設もある。

 

 それにもかかわらず、道なき道を歩いて山頂まで行きたいということは変人に違いない。彼女でさえ、登りたくないのだ。

 

「別にいいけど、遠いよ?」

 

 構わないよ、と言ってNは手を山の方に向けた。先導してくれ、という無言の合図だ。

 

 ユキはショルダーバッグをかけ直すとイーブイを連れて歩き出した。

 

 青年はイッシュ地方というところから来たことがわかった。その場所を、ユキはテレビやインターネットなどのメディアを通して知っていた。

 

 高層ビルが連なる大都会やエンターテインメントに優れた街、貿易の中心地や農業が盛んな土地など、さまざまなものが一つになっている地方だ。

 

 都会に出たい彼女にとっては憧れの場所でもある。イッシュ地方にはファッション界のスーパーモデルが存在し、女の子であれば一度は彼女に憧れるだろう。ユキもその内の一人である。

 

「私もイッシュに行きたいけど、お父さんもお母さんも許してくれなくて。おまえにはまだ早い、お金かかるって」

 

「じゃあ、キミがイッシュに来るのはもう少し先になりそうだね」

 

「今すぐ行きたいのに。村にいてもやることないし」

 

「どうしてイッシュに?」

 

「イッシュに行きたいというより、とにかく村の外に出て、旅をして経験を積みたいの」

 

 数年前、ちょうど彼女がイーブイをパートナーとしたとき、少数のトレーナーで構成されたある調査団が村に訪問した。そのときは実際に話すこともなく、ただ遠くから彼らを見ていただけだった。

 

 その中に、おそらくその調査団のリーダーであったのだろう、冷静に効率よく指示を出すトレーナーがいたのを今でもよく覚えている。中性的な容姿で、男性とも女性とも見て取れる出で立ちの、青いコートを羽織った人物だった。

 

 その人物が発揮するリーダーシップの姿が非常に目に焼き付き、村の外にはこんなにも何かに情熱を燃やしている人物がいるのか、と感動したほどだ。

 

 彼らが去ったあとで、その人物はポケモンの知性に興味を持ち、ポケモンが進化する理由を研究していたことがわかり、その研究熱心な姿に刺激されたこともあり、ますます外の世界に憧れを抱くこととなったのだ。

 

「もっといろんな人に会って、いろんなポケモンに会って、世界を知りたい」

 

 Nは何も言わない。数歩先を行くユキの背中をただ見つめていた。

 

 登るにつれて天候が悪くなってきていた。風が出てきて吹雪となる。気温も下がり、体温が低下していくのを感じる。

 

 しかし、頂上まではあとひと息のところまで来ていた。地図を見て確認する。

 

 殺風景の中を歩くのは疲れることをユキは実感していた。村にいることも退屈だったが、宝を取りにシロガネ山を登ることもこんなにも退屈で疲れるものだとは想像を超えていた。

 

 しかし、それももうすぐ終わる。宝を取って、帰りは母親から借りているポケモン、ラプラスの背中に乗って山の斜面を滑走しながら村まで戻ることを考えていた。

 

 後ろからついて来ているNという青年とも特に話すことはなく、時折他愛のない話やよく理解できない会話を二言三言交わす程度で深い話はしなかった。つかみどころがなくて変な人である彼とも、この何とも言えない空気ともようやく別れることができそうで、ユキはほっとしていた。

 

 頂上は、これまでの景色とは違って、緑の木々で生い茂っていた。並木の一本道が真っ直ぐと中央まで伸びている。その先には広場があり、それを形成するように木々が円を描いて立っている。広場の奥には目指していた社が佇んでいた。

 

 社も鳥居も白い石で造られている。また、長年寒い地に立っているためかところどころ凍りついていた。社の両脇にはフリーザーを模した石像が建てられている。

 

 気のせいだろうか、どことなく空気が重い気がする。標高の所為もあるだろうが、目に見えない力が空気を圧迫しているような感覚である。ユキは鳥居の前で立ち止まると錫杖を雪の上に突き刺した。

 

「それは?」

 

 鞄から取り出した笛を見て、Nが尋ねる。

 

「〝あまのとりぶえ〟。これを吹いて、フリーザーを呼ぶの。社に入る前の儀式みたいなもんね」

 

 天之鳥笛――。それは鳥の翼を模った横笛だった。

 

 ユキはそれを口元に運ぶ。すうっと息を吸い込み目を閉じると、音色を辺りに響かせた。

 

 綺麗だが冷たい音だった。遠くまで届くようなその高い音色を吹き続けているとさらに雪が降り注ぎ始めた。空気がさらに冷たくなる感じがする。

 

 空に浮かぶ白い雲の隙間から羽音が聞こえてきた。それは水色の体躯を持ち、透き通るような見事な翼を羽ばたかせて長い尾をたなびかせている。真っ直ぐこちらに目掛けてやって来ると、社の前に静かに舞い降りた。

 

 ユキはゆっくりと目を開けた。目の前には初めて目にする伝説の鳥ポケモン、れいとうポケモンのフリーザーが圧倒的なオーラを放っていた。その青白い羽毛と三対の鶏冠を有する姿は言葉で表すのが難しいほどに美しく優雅であった。

 

 思わず生唾を飲み込む。ユキは跪いて頭を下げると再び立ち上がってフリーザーを見た。目と目が合い、優しげだがその鋭い眼光に射竦められる。

 

「宝を授かりに参りました。どうか授受をお許しください」

 

 フリーザーはじっとユキを見た。その瞳は心を覗き込まれているようで気持ちが良いものではなかった。

 

 どうせ祀りが終われば宝は返還するのであるし、簡単に貸してくれるくらいいいだろうと思っていた。

 

 神として崇めているフリーザーも毎年、宝を授けるためにいちいちシロガネ山に来るのは大変であるだろうし、お互いに早く儀式を終わらせるべきだ、と彼女は思っていた。

 

 しかし彼女の考えはいとも簡単に踏襲された。

 

 フリーザーは翼を大きく広げたかと思うと、突然にそれを前方に向かって羽ばたかせた。突風が巻き起こり何も構えていなかったユキは容易く吹き飛ばされた。

 

 Nが瞬時に反応し彼女を受け止めるも、勢いが強くて後方へと飛んだ。下敷きになりながら雪の上を滑る。

 

「だ、大丈夫ら?」

 

 慌てて起き上がりNに尋ねる。うん、と彼はひと言だけ発して身体を起こした。

 

「なんであんなこと……」

 

 ユキは恐怖の色を浮かべながらフリーザーを見た。その身体の周りに冷気が発生していた。フリーザーの足元から氷が広がっていく。

 

 突風で飛ばされずに済んだイーブイが素早くユキの前に立ち、フリーザーと対峙する。しかしその小さな身体は、まだ闘ってすらいない相手に震えていた。

 

「フリーザーは怒っているんだ」

 

「怒ってる? 何に?」

 

 何に対して怒っているのか見当もつかないユキはNに訊き返した。儀式の方法は間違っていないはずであるし、逆鱗に触れるようなことは何もしていないはずだ。

 

 翼を広げ、フリーザーがひと声啼く。その声には威圧感があった。威嚇されていることがわかる。

 

「キミに怒っているんだよ、ユキ」

 

 諭すような彼の声が心に響いた。「え?」と聞き返すために発したはずの声が出て来なかった。

 

「どうして……? だって私、何も――」

 

 答えを求めてNを見るも、彼は首を横に振った。自分で気が付くんだ、とでも言うように目で語っている。

 

「意味わからん。宝をもらうためにわざわざこんなところまで来たんよ? なんでもらえんの?」

 

 ユキは呟くようにそう言った。

 

 宝の授受を断られたとなると、一大事である。宝を持ち帰れなかったとなると催事は執り行われない。如何なる理由があろうとも持ち帰ることができなかった彼女の責任であり、村民から批難されるのは必至である。

 

 これまで一度も中止にならなかった催事を自らの手で壊してしまう。そんなことをしてしまえば村にはいられない。さまざまな考えが頭の中に浮かび始めた。ユキの顔がみるみる強張っていく。

 

 そのとき、彼らの横を熱線上の炎が通り過ぎた。それはフリーザーの足元に着弾すると、雪を蒸発させて白い煙を立ち上げた。

 

 振り返ると、後方に黒い影が二つ動いていた。

 

 一つは人影だった。黒いコートを着ており顔はフードで覆われていて見えない。靴も手袋もすべてが黒で染まっている。

 

 もう一つは見たことのないポケモン――いや、生き物だった。それは比較的人間に近い姿をしているが、背中からは双翼を生やし、筋骨隆々とした逞しい体型である。赤と黒の体色はまるでその強さを象徴しているようであった。

 

「どういうことだ……?」

 

 そうNが呟くのをユキは聞いた。見たことのない生き物を目にしたからだろうか、その声には戸惑いの色がはっきりと表れていた。

 

「悪いけど退いてくれるかな? フリーザーを捕獲したいんだ」

 

 若い男性の声であった。

 

 前触れもなく白煙の中から青白い光線が放たれた。黒いフードの男と連れている生き物に一直線に向かっていく。その人型の生き物は両手を前に突き出すと手首から炎を噴き出し、氷の攻撃を相殺した。辺りに爆風が広がる。

 

 フリーザーは翼を羽ばたかせて空へと飛んだ。その生き物も勢いよく後を追う。

 

「キミは何者だ?」

 

 地上に残った人物にNが問う。

 

「見ればわかるだろう? 伝説のポケモンを捕獲しに来たんだ」

 

 その声はどこか楽しげである。

 

「まさか本当にこの目で見られるとは思っていなかったけどね。さすがにフリーザーは美しい」

 

 黒いフードの男が二人に近づいてくる。

 

 イーブイは素早く前に出るとその男に威嚇した。

 

「おっと。そんなに威嚇しないでくれよ。これ以上近づかないからさ」

 

 男は胸の前で両手を上げて笑う。まるでその状況を楽しんでいるかのようだ。

 

「オレはゼット。訳があって、あのフリーザーを捕獲しないといけないんだ」

 

「それは、あの生き物のようにするためかい?」

 

 自らをゼットと名乗った男は、今まさに空中で伝説のポケモンと対決している自身が連れていた生き物を見た。

 

「カッコイイだろ? この世に一匹しかいない〝ポケモン〟だ」

 

「あれがポケモン?」

 

 Nは信じられないとでも言いたげに首を横に振った。立ち上がってゼットと対峙する。

 

「あの一つの姿から二匹のポケモンの声が、キミの言う〝ポケモン〟から聴こえた」

 

 ゼットがそのフードの下で口角を上げるのをユキは見た。

 

「そうだ。あのポケモンはバシャーモとファイアローが一つになった姿だ」

 

 右手と左手を繋ぎ、二つの魂が一つであることを表す。見事だろうとでも言うように、その声は揚々としている。

 

 ユキは彼らが何を話しているのか全く理解できなかった。Nは深刻な表情をしており、対してゼットという男は何が可笑しいのか笑っている。しびれを切らした彼女はNに訊いた。

 

「どういうこと? あれは新種のポケモン?」

 

 Nは首を横に振るとその重い口をゆっくりと開いた。

 

「違うよ、ユキ。人の手によってつくられたんだ」

 

「その通り! バシャーモとファイアロー、二匹のポケモンの遺伝子を持つ、人工的につくられた〝キメラポケモン〟だ」

 

 ユキは絶句して空中を飛ぶ〝キメラポケモン〟なるものを見た。

 

 キメラ――つまり、同一の個体の中に異なる遺伝情報を持つ細胞があること。もしくはそのような状態の個体のことを指す。

 

 所々細かな点は異なるものの、バシャーモの身体とファイアローの翼を持つその姿はキメラである。紅蓮の炎を身に纏いながら飛翔する姿は太陽のように輝いている。

 

「キミがつくり出したのかい?」

 

「残念ながらオレじゃない。オレたちのボスだ」

 

 ゼットは両腕を広げ、声に力がこもる。

 

「最高にカッコイイだろ? 見た目のカッコ良さだけじゃない。二匹が持つ炎の力がそのまま合わさっているんだ。強さは単純に倍以上。ゾクゾクするだろう?」

 

「何をしたのかわかっているのかい?」

 

 Nの言葉にゼットは笑うのをやめた。表情のわからない顔から笑みが消え、圧力をかけるような雰囲気が漂い始める。

 

「水を差すようなことを言うなよ。禁忌を犯したとでも言いたいのか?」

 

 ゼットは溜め息を吐いた。

 

「これまでだって人間はポケモンをつくってきたじゃないか。それと何が変わらないって言うんだ?」

 

 人工的に創られたポケモンは意外にも多く存在する。

 

 シルフカンパニーという企業はポリゴンというポケモンを創り出し、幻の古代文明の科学によって生まれたとされるゴビットというポケモンもいる。また、ある科学者は幻のポケモンの遺伝子から新たな生命体を生み出したという都市伝説のような話まである。

 

 命が始まり、そしていつかは終わる。これまでにあらゆる生命がそれを繰り返しながら時代の流れとともに、姿形を変え能力を身に付け生きてきた。それはまさに今この瞬間を生きるために長い年月をかけてきた生命の神秘とも言える結晶であろう。それを根底から覆すことになり兼ねないのが人造生命体である。

 

 命を生み出すということは、死者をも蘇らせてしまうことに繋がる。それが普及してしまえばどうなるだろうか。

 

 命を軽んじ、死すら恐れなくなってしまうだろう。多くの生命が簡単に死を乗り越えられるようになるということは思考や行動、そして感情までもが失われることになる。彼らはその神に背く行為をしたのだ。

 

「これは罪じゃない。科学の大いなる発展なんだ。生命の謎を解き明かすことに繋がるんだよ」

 

「そのために伝説のポケモンさえも利用すると言うのかい?」

 

「その通りだ。まぁ、オレは強いポケモンが手に入ればそれでいいし、ボスがそれをしてくれるから従っているだけなんだけど」

 

 雪が強くなり吹雪となった。フリーザーには雪を降らせ、操る能力がある。キメラポケモンとの戦闘で強大な力を発生させている影響が吹雪によって表れているのであろう。

 

 視界がかなり悪くなり、立っていることにも苦労する。

 

「あんたは新しいポケモンをつくるためにフリーザーを捕まえるん?」

 

 今まで口を閉じていたユキがゼットに尋ねた。その声は震えている。

 

「そうさ。そういえば、オマエには礼を言わないとな」

 

 二人して怪訝な顔をした。何を仕掛けられてもいいようにNは腰に装填してあるモンスターボールに手をかけて身構える。

 

「ここにいればフリーザーが現れるのはわかっていたのに、それがいつなのかまではわからなかった。そこにオマエたちがやって来て、わざわざオマエが呼んでくれたんだ。礼を言うよ」

 

 最高だ、と言ってゼットは高らかに笑った。

 

 Nは振り返りユキを見る。

 

 フリーザーが落下した。衝撃で地面が揺れ、雪が舞い上がる。炎の攻撃を受けたその身体からは黒煙が上がっている。受けた傷が大きいのか、身体を起こすのもままならない状態であるのが一目でわかった。

 

 その様子を見たユキの目から涙が零れ落ちる。

 

「うちが……悪いん? うちがフリーザーを呼んで、怒らせたからやられたん? ちゃんとやってれば――」

 

「ユキ!」

 

 駆け寄ったNが放心状態の彼女の肩を揺する。

 

「しっかりするんだ。キミの所為じゃない」

 

 しかしその声は届いておらず、何かを呟きながら虚空を見つめていた。

 

 ゼットがモンスターボールを手にしながらフリーザーに向かって歩いていくのが視界に入った。捕獲する気である。

 

「させない!」

 

 Nはモンスターボールからゾロアークを呼び出し、行く手を阻んだ。ゾロアークがゼットに攻撃を仕掛ける。だがその攻撃は素早く現れたキメラポケモンの交差した両腕によって失敗に終わった。

 

「邪魔をするなよ。ゲームクリアできそうなんだから」

 

 Nは憤りを感じた。このゼットという男は、ポケモンの捕獲をゲームに例えているのだ。捕獲できたらそれで終わり。その後フリーザーがどうなろうと関係ないというのが彼の言葉から感じる。

 

 ポケモンの捕獲をむやみに行ってはならない。これは、この世界の人とポケモンとの社会を取り巻くさまざまな事柄を管理するために、秩序の維持と研究を行っているポケモン協会という組織が提示した規則である。

 

 乱獲は生態系の均衡を破壊してしまう。また、ポケモンへの愛情配分の偏りも懸念された。

 

 そのため、モンスターボールの開発により物理的に多くの種類のポケモンを連れ歩くことが可能となった現在でも、規則に乗っ取り手持ちに加えられるのは6匹までとされている。

 

 そして当然ながら、ポケモンの心身を深刻に傷つけることによる捕獲も倫理的に問題視されている。実際にポケモンの売買を通して稼いでいる組織が摘発されたこともあるくらいだ。

 

 やはり、人間にポケモンを持たせてはいけないのだろうか、とNの頭に疑問が浮かぶ。

 

 こうして私利私欲のためにポケモンを複合させて生命体をつくり出し、そのための実験材料として捕獲する。このような扱いを受けるために人間の支配下に置かれたポケモンは幸せから遠く離れてしまう。

 

 それだけではない。ポケモンに愛情を注ぐことができない人間が多すぎるのだ。

 

 ポケモンだけが傷つく戦闘において〝使えない〟と判断されたポケモンは簡単に捨てられる。野生に返されたポケモンには人間の匂いが付き、それによって仲間から受け入れられず孤独に生涯を終えるものもいる。

 

 彼らは自分が何をしているのかわかっているのだろうか。自らの都合で捕獲し、愛で、理想に向かって育て上げる。ポケモンの意志など汲み取っていないのだ。

 

 しかし、その人間の中にもポケモンの声を聴き、心を通わせ合うことができる人々がいることをNは知っている。

 

「キミは、自分が何をしているのか理解しているのかい?」

 

 ゼットは肩をすくめて困ったように首を横に振った。

 

「キミはフリーザーだけでなく、ユキも傷つけたんだ」

 

「だから何だ? ソイツが何なのか知らないが、オレから見ても、ソイツのフリーザーに対する態度は酷かったぜ?」

 

 Nがちらりとユキを見る。イーブイが心配そうに彼女の膝に前足を乗せているが、何も反応はない。心ここに在らず、といった感じだ。

 

「彼女は今日のことを悔やみ反省するだろう。そして同じ過ちは繰り返さないだろう。何も反省せずに過ちを繰り返すのはキミのような人間だ」

 

 Nの言葉にゼットは何も言い返さなかった。ただひと言、彼はその名を口にした。

 

「――イカロス」

 

 ゾロアークと対峙していたキメラポケモン――イカロスの両腕と両脚が炎に包まれ翼は大きく開かれた。一瞬でゾロアークの眼前にイカロスが迫り、炎に包まれた拳で殴り飛ばした。

 

「聞き飽きた。フリーザーを捕獲して帰るよ」

 

 ゼットは見せびらかすように手にしていたモンスターボールをNに見せた。吹雪の所為で視界が悪いが、それは通常のモンスターボールとは異なるものだとNは気付いた。

 

 本来ならば上半分が赤くもう半分が白いのだが、手の中にあるそれは赤い箇所が黒くなっている。捕獲用に特殊な細工でも施されているに違いない。

 

 投げたボールが真っ直ぐフリーザーに向かっていく。投げても外さない距離だった。

 

 しかし、それは空中で二つに割かれて地に落ちた。

 

 一瞬何が起きたのか理解できなかったものの、ゼットはすぐさまゾロアークが倒れている方へ視線を動かす。そこにはゾロアークが倒れているだけだった。何かをした気配すらない。

 

 辺りを見渡して身構える。ボールを投げたとき、ほんの一瞬だけ、視界を小さな何かが横切った気がした。そしてボールが二つに割れたのだ。

 

 Nも状況判断に困惑していた。ゼットはその様子を見て舌打ちをする。

 

「誰だ!」

 

 吹雪の中で怒りを露にする。ゲームクリア寸前で邪魔が入ったことに苛立ちが隠せないでいた。視界も最悪で邪魔者の姿も確認できずにいる。

 

 何の前触れもなく、今度は電撃が左から飛んできた。イカロスが素早く反応して主の前に割って入り、炎の壁を形成して防ぐ。しかし相手はすぐさま次の攻撃を仕掛けてきた。

 

 エネルギー同士のぶつかり合いで発生した煙幕から現れたのはねずみポケモンのピカチュウだった。

 

 硬化した尻尾が勢いよくイカロスの右頬を打とうとする。

 

 イカロスは咄嗟に反応して防御するもそれは完璧ではなく、力に負けて吹き飛ばされた。

 

 だがすぐに体勢を立て直すと翼を羽ばたかせて炎の拳をピカチュウに放つ。

 

 早業にもかかわらず、ピカチュウはそれを難なくかわして距離を取った。

 

 明らかに闘い慣れしている動きであった。そして油断も隙もない、桁違いのポケモンであることを悟ったゼットは、そのポケモントレーナーを見てみたいという衝動に駆られた。

 

 今までの行動が嘘のように伝説のポケモンなどお構いなしに戦闘を始めた。

 

 突然始まった戦闘にNは呆気に取られていたが、この好機を逃すまいとユキの肩を揺すって声をかける。

 

「キミはどうしたいんだ、ユキ? どうするべきなんだ?」

 

 ユキはその戸惑いの表情でNを見た。次いで倒れているフリーザーを見る。その美しく青い身体は傷だらけであった。火傷の痕も見られ、何枚もの羽が散らばっている。

 

 フリーザーと目が合った。それは憐れむような色の瞳だった。

 

「そっか……。フリーザーはうちの心を読んだんね。うちの心に気付いとったんね」

 

 ユキはこれまでを思い出した。巫女なんてやりたくなかった。いくら年次行事の役割を担うと言っても面倒でダサくて、やる気なんて全くなかった。

 

 強制的に押し付けられたその役目を一刻でも早く終えて帰りたかった。フリーザーを呼ぶための横笛の練習も真剣にやったわけではない。幼い頃から練習させられるため氷の民の人間であれば少し吹かない期間があっても音を奏でることができる。だから役目が決まってからも真剣には練習しなかった。

 

 フリーザーに対する気持ちもなかった。たしかに〝伝説のポケモン〟という響きには魅力さを感じて引き込まれたが信仰心があるわけではなく、そもそも先祖が命を助けられたから信仰が始まっただけで、今の自分には関係ないしどうでもよかった。

 

 何一つとして、今回の一連の行動には真剣さがなかった。

 

 しかし、それをフリーザーに見破られたのだ。一度も会ったことのない、それも異なる種族であるポケモンに、心を見透かされたのだ。

 

 自分の愚かな行動が恥ずかしい。自分勝手な行動や思考がフリーザーに伝わってしまい、結果傷つけてしまった。

 

 ユキは力が抜けてしまった身体に活を入れながらなんとか立ち上がった。吹雪に負けないようにフリーザーの元へ歩いていく。

 

 フリーザーは弱々しく翼を振ってユキを遠ざけようとした。だが彼女はそれには動じず近づいていく。

 

「ごめんなさい、フリーザー。うちは何にも真剣じゃなかった。あんたの気持ちを考えとらんかった。だからあんたを傷つけてしまった」

 

 ユキは〝あまのとりぶえ〟を取り出した。

 

「うちは気持ちを伝えるのが下手くそなんよ。だから言葉よりも気持ちで、今のうちを知ってほしい」

 

 そう言って目を閉じ、横笛を吹いた。音色が辺りに鳴り響く。それは吹雪の中でもよく聴こえた。

 

 最初に聴いたときとは音色も雰囲気も違う、という印象をNは抱いた。とても繊細で、身体の奥深くまで音が浸透してくる。まるで自分の内側から音を発しているのでは、と思うほどに音の力を感じた。

 

 その場にいる誰もが動きを止めてユキを見ていた。ゼットですら、この音が鳴り響いている間は動いてはいけないと感じていた。少しでも大きく動いたり物音を立てればこの音楽が終わってしまう。不思議といつまでも聴いていたい音色だ。

 

 フリーザーが立ち上がった。身体は傷だらけで立つことすらままならないはずであるのに、力強く翼を広げ、ひと声啼いた。その眼は生気に満ち溢れている。

 

 ゼットははっとした。フリーザーの鋭い眼光が突き刺さる。フリーザーの〝れいとうビーム〟がイカロスを直撃した。

 

 そこをすかさず、ピカチュウの〝10まんボルト〟が貫いた。辺りをまばゆい光が覆う。

 

 イカロスは地に膝をついた。

 

「手負いのはずなんだけどな。まさかそんな音色一つでフリーザーが立ち上がるとは予想外だ」

 

 袖をまくると左手首には携帯端末のような装置が装着されていた。それに向かって撤収だ、と話す。

 

 ゼットはNを見た。

 

「オマエの名前は?」

 

「……Nだ」

 

「そっちの女の子はユキ、だったかな? それで、そっちは?」

 

 ピカチュウの少し後方に人影が立っていた。寒冷対策に頭から足まで外套で覆われている。フードから見えるのは帽子のつばだけだ。

 

 その人物は何も喋ることなくゼットと対峙している。

 

「……無言、か。まぁ、いいや。久々に心の底からワクワクして楽しかったよ」

 

 ゼットはイカロスをモンスターボールに戻した。それと同時に崖の下から黒いヘリコプターが現れた。梯子が地面に向かって垂らされている。

 

「また会おう」

 

 ゼットはそうひと言残すと梯子につかまり、空へと消えていった。

 

 Nはピカチュウのトレーナーであろうその人物を見た。すでにピカチュウを肩に乗せて去ろうとしていた。

 

「あの、アナタは?」

 

 Nの言葉に立ち止まったその人物は肩越しに振り向くと帽子のつばに手をかけて目深に被った。そして何も言わずにそのまま立ち去ってしまった。

 

 あの人物が何者だったのかはわからない。しかし危機的状況を救ってくれたのは事実である。そしてピカチュウとの繋がりは確かなものであった。戦闘中にピカチュウから声が聴こえた。

 

 トレーナーへの信頼。一片の疑いもなくトレーナーを信じている気持ちが聴こえてきていた。

 

 あれほどまでにお互いを強く想っている関係性をNは初めて見た。この世界には彼らのような存在がどれだけいるのだろうか。

 

 ユキの元へ歩いていく。彼女は横笛を握りしめて立っていた。フリーザーは促すように社を見ている。

 

 Nはユキの肩に手をかけて頷いた。彼女もまた緊張した面持ちで頷き返す。

 

 ユキは鳥居の前でNに待つように言うと、社に向かって歩いていった。

 

 雪を積もりにくくする切妻屋根の下に観音開きの扉が一つある。恐る恐る手を伸ばし、慎重に扉を開いた。

 

 内部にはまるで氷かガラスで造られたようなフリーザーの像が鎮座していた。そして台座の上には今回の目的でもある〝氷の鏡〟が雲形台に乗せられている。

 

 毎年の催事で目にすることはあったのだが、こんなにも近くで秘宝を見たのは初めてだった。鏡にしては大きく、綺麗な円形をしている。頭頂部にはフリーザーの三冠を模したようなものが装飾されている。

 

 ユキは手にしていた錫杖を台座に横たえると、鏡を手にした。冷たくて、名称の通り、まるで氷のようであった。フリーザー同様にとても美しい。鏡を布で丁寧に包み鞄にしまうと、社の外に出て扉を閉めた。

 

 フリーザーの元へと歩いていき一礼すると社と向き合い、横笛を口元に添えた。音色が辺りを包む。いつの間にか吹雪は止んでいた。深々と降る雪の世界を音が構築している。

 

 曲が終わると、フリーザーはユキに向かって頷きその美しい翼で空へと飛んでいった。どうやら宝の授受を許してくれたようだ。

 

「……うち、もっとポケモンのこと勉強する。そんでいつかまた、フリーザーに会う」

 

 その顔には安堵と決意の色が表れている。

 

 Nは地面に落ちていたフリーザーの羽を拾い上げ、ユキに渡す。

 

「人間とポケモンは、どこまで行けるんだろうね」

 

 ユキは羽を空に掲げてふふっと笑うだけだった。

 

 

 



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VS鋼の漢と九尾の狐

「お兄さん、観光してはるんですか?」

 

 立ち寄った甘味処で涼んでいたときにNが声をかけられたのはそのときだった。

 

 赤茶色の髪を頭の後ろで一つにまとめ、赤色の着物を着ているその女の子はこの甘味処の看板娘のようだ。多くの人と顔見知りのようで、仕事中に何度も声をかけられては笑顔で明るく雑談していた。

 

「うん、そうだよ。歴史を感じるためにね」

 

 店先にある傘の下で長椅子に腰かけていたNはそう答えた。

 

 注文していた抹茶あんみつを彼女から受け取る。白玉ぜんざいや丹波小豆、抹茶アイスが盛られているそれは、見た目だけでも涼しげだった。

 

「この数年、外人さんがぎょうさん来てくれはってエンジュが賑やかなんですよ」

 

 彼女は辺りを見渡した。たしかにNの他にも、顔立ちがはっきりとしているなどの明らかに他の地方からの来訪者だと思われる人が多く歩いている。しきりに景観を写真に収めたり、異なる言語で会話している。

 

「お兄さん、ジョウトの言葉上手やね。どこから来はったんですか?」

 

「イッシュだよ。ここから遠く離れた場所さ」

 

「ええなー。うちも旅行したい」

 

「キミはずっとここに住んでいるの?」

 

 Nの問いに彼女は首を横に振った。

 

「エンジュとキキョウの間に住んどって、三年前に越してきた」

 

 ジョウト地方の北部に位置しているこのエンジュシティは、古い街並みと基盤目状になった道路が特徴的である。その歴史は長く、昔は政治や文化の中心地であった。

 

 街の様式は今でも受け継がれており、景観を損なわないようにポケモンセンターやフレンドリィショップなどの施設の屋根の色が落ち着いたものとなっている。食にも精通しており、料理屋や茶屋、また、芸妓屋が集まっている花街という地区もある。

 

「エンジュの南側かな? 門が目立つよね」

 

「せやせや。あれくぐったときはドキドキしたん覚えとります」

 

 Nは運ばれてきた抹茶あんみつをスプーンですくって一口食べた。濃厚な抹茶の味が口いっぱいに広がる。苦味があるが、しかし甘い。今までに食べたことのない味にやみつきになりそうである。

 

「お兄さん、抹茶は初めてですか? 口元がほころんどるよ」

 

 優しそうに彼女は笑った。

 

 どうやら未知の味に触れたことでつい口角が上がっていたようだ。

 

「キミはあの二つの塔について何か知っているかい?」

 

 Nは顔を上げた。その視線の先には二つの塔の姿を捉えている。

 

 この街を際立たせるものとして二つの塔が存在する。一つは〝やけたとう〟。もう一つは〝スズのとう〟だ。遥か昔に伝説のポケモンが舞い降りるために建てられたと言われている。

 

「知っとるよ。あの塔は――」

 

「クミちゃん!」

 

 彼女がNの問いに応えようとしたとき、店の中から出てきた女性店員が話を遮って彼女の名前を呼んだ。

 

「マイさんから伝言。休憩やって」

 

 返事をしてNに振り向く。

 

「ちょうどええ。うちがあの塔まで案内したげる」

 

 そう言ってクミはNに店先で待つように言うと店の中へと消えていった。

 

 数分すると彼女は赤い着物のまま戻ってきた。そのまま焼けた塔への道を歩く。

 

 焼けた塔はその昔、〝カネのとう〟と呼ばれていた。

 

 数百年前に火事で焼け落ちてしまったと言われている。それまでは銀色の羽を持つポケモンが飛来する九重の塔として、もう一つの九重の塔であるスズの塔と対を成していたようだ。

 

「焼けた塔にはね、こんな伝説があるんです」

 

 エンジュの伝説によると、塔は落雷による火災で焼け落ち、その後の大雨で鎮火した。しかしこの火災により、名も無き三匹のポケモンが命を落としてしまった。それを不憫に思い蘇らせたのが、空から舞い降りた虹色のポケモンであった。

 

 三匹のポケモンは三聖獣として復活したが、自らの力を持て余しジョウト各地を風のように駆け巡ったという。その三聖獣は塔に落ちた雷、塔を焼いた炎、塔を鎮火させた雨の化身であると言われている。

 

「三聖獣?」

 

「それぞれライコウ、エンテイ、スイクンと呼ばれとります」

 

 大石段の下に着いた。大石段を登りきると門があり、それをくぐると奥には焼けた塔がある。二人は六十一段あるそれを登り始めた。

 

 道中、多くの人に声をかけられた。クミはエンジュの中ではかなり名前が通っているようで、また、異国の地からの訪問者であるNと歩いていることが多くの人の目に留まり驚かせていた。

 

 半数以上の人は彼らがカップルだと思い冷やかしの言葉を投げかけ、クミはそれを赤面しながら否定していた。Nにとってはその感情がどういうものであるのか未知の部分が多く、まだまだその数式を解くには時間がかかりそうであった。

 

 焼けた塔は一階から上が焼け落ちてなくなっていた。それほどまでに凄まじい火災であったのだろう。塔だけでなく、その周りの地面などにも焼け跡が見て取れる。

 

 敷地内には彼らの他に数人の観光客がいた。写真を撮る者がいれば景色を見ている者もいる。何人かが焼けた塔の中から出てきた。どうやら中まで一般公開されているようだ。

 

 塔は焼け焦げており、一階から上が焼け落ちているために、空が見える吹き抜けとなっている。その歴史をありのまま後世に伝えるためか、傷痕や残骸はそのままであり生々しさが残っていた。

 

 また中央の床には大きな穴が開き、地下部分が丸見えとなっている。見たところ何もないのだが、少し前まで何かがそこにあったような痕跡が感じられた。

 

「ここは昔、壮麗な装飾が施された塔でした」

 

 クミはそう呟いた。しかしエンジュの伝説にあるよう、突然の落雷による火災で燃え尽きた。そして蘇った三匹のポケモン。

 

「伝説には続きがあります」

 

「続き?」

 

 クミの表情が曇る。あまり良くない話であることが想像できた。

 

 虹色の羽を持つポケモンによって蘇った三匹のポケモンに人々は恐怖した。厳密に言えば、死をも超えて命を操ったポケモンの力に恐れ戦いたのだ。それは、人とポケモンが対等であると疑わなかった時代に起きた、人智を超越した力を目の当たりにした瞬間だった。

 

 人々は畏怖の念を抱き、暴力で押さえつけようとした。しかし彼ら三聖獣は人間に反撃しなかった。それどころか人間の行いに憐れみや哀しみさえ抱き、自らエンジュの地を去ったという。

 

「悲しいかな、目を閉じるとその情景が目に浮かぶようだよ」

 

 Nはこれまで人間によって虐待され、傷つけられたポケモンをたくさん見てきた。だからこそ、身勝手な都合で近づいてきては拒絶する人間の前から姿を消した彼らの気持ちが痛いほどよくわかる。彼らがこの土地を去るときの想いが、この焼けた塔から伝わってくるようだった。

 

「でも、こうも言われとります。いつかまた、人間を信じることができるようになったとき、彼らは姿を現す、と」

 

 人間を信じる。それはNの心に深く響いた。

 

 世界には人のことを好きでいるポケモンがどれだけいるのだろうか。Nが外に出てイッシュ各地を周るまでは、そんなポケモンはいないと思っていた。

 

 しかし旅を続けるうちに考えや気持ちが揺らいでいった。心を通い合わせ助け合うポケモンと人で溢れていたのだ。

 

 Nは焼け焦げた柱に触れる。

 

「いつか人は、彼らと心を通わせることができるのだろうか」

 

「いつか必ず。彼らも無意味な争いは避けとう思っとるはずです」

 

 クミは笑顔を見せた。Nも同じように彼女に返す。

 

 スズの塔へと向かうために大石段へと向かう。そこでNは思わず足を止めた。眼前にはエンジュシティの街が広がっていた。高い建物はほとんど建っておらず見晴らしが良い。

 

 街の中には川が流れ橋がかかり、所々に小さな塔が建っている。昔の都市計画の名残だろうか、街全体が東西南北に通じる街路によって基盤の目状に区切られているのが上から見下ろすとわかる。その通りを人が、ポケモンが行き来している。

 

 古きを大切に、しかし舗装などもされているところを見ると、昔と今の時間が流れている町であることが窺える。

 

 軒下には灯篭が下げられている。夜になればそれらが一斉に明るくなるのだろう。その光景を想像するだけでもこの街が美しいことがわかる。

 

 突如、小さな爆発音が聞こえた。その直後に視界の端で煙が上がるのを捉えた。黒煙と赤い炎を上げている。どうやら何かが燃えているようだ。

 

「大変や! 行かんと」

 

「どうしたの?」

 

「火事や。みんなが心配や」

 

 いったい何のことを話しているのか問おうとするも、クミは急いで大石段を駆け下りていってしまった。何だかわからずNは彼女の後を追いかける。

 

 爆発音を聞いて驚いた人が多かったのだろう。道はあっという間に野次馬で溢れかえった。クミは人混みを軽やかに縫って進んでいく。Nも彼女の姿を見失わないよう、なんとか後ろを追いかける。

 

 道幅は決して広いわけではないため、団体が歩けば道をふさいでしまうだろう。そのような道路に人が詰めかけてしまうと前に進むのは困難である。早くも彼女を見失いそうになる。

 

 住宅の脇道に入るクミの姿をNは捉えた。彼女はさらに脇道の角を曲がる。Nも同じように角を曲がると、それほど距離は離れていなかったはずであるのに彼女の姿は消えていた。

 

 彼女だけが知っている裏道がさらにあるのだろうかと考えるが、ひとまず火災現場に向かうことにする。

 

 すでに警察官とそのポケモンが現場への野次馬の立ち入りを禁止していた。Nは自然と帽子を目深にかぶる。

 

 火災の発生はある飲食からのものだった。店を飲み込んでいる激しい炎が大気を熱し、さらに日中の日差しで暑さが増している。現場から離れているにもかかわらず汗が噴き出てくる。

 

 そこに真っ赤なトラックのような車両が三台ほどやって来た。車体の正面には花のような紋章が入り、側面には「一七組」という文字が装飾されている。

 

 車両から降りてきたのはいずれも紺色の厚手の服を着た屈強な男たちだった。次々と車両の荷台に積んであるポンプの吸管を道端に設置されている、もしくは運んできた防火水槽につないで首尾よく配置に就いていく。

 

 彼らの後ろに一人の男が腕を組んで仁王立ちする。黄色い三本線が入ったヘルメットをかぶり、防火服を肩に羽織っている。黒のサングラスをかけたその男がこの場を仕切る者であるとその威厳から察することができた。

 

「放水!」

 

 男の声は低かったが、それはよく聴きとることができた。掛け声とともにホースから水が放たれる。

 

 炎は少しずつ小さくなっていき、ものの数十分で完全に消火された。消防隊と警察が協力して現場の事後対応に当たり始める。それに合わせて野次馬も徐々に解散していった。

 

「ヒナちゃん!」

 

 野次馬の中から見覚えのある姿が現場に飛び出した。先程路地裏で見失ったクミだ。その表情は心配そのものを表していた。

 

 数人が振り向き、その中の一人が彼女に近づいていった。サングラスをかけた消防隊のリーダーだ。

 

「また来たんか! 危ねえから来んなって何べん言やぁわかるんや! 先に帰っとれ!」

 

「心配やから見に来たんや!」

 

「それがじゃかあしい言うてんねや! それから〝ヒナちゃん〟言うな! 〝ヒナギク〟や!」

 

 ヒナちゃんと呼ばれた男とクミが言い合いになる。二人ともかなりの剣幕であるが、周囲の者は止めるどころか気にもしていない様子だ。二人の光景を見て笑っている者もいれば黙々と作業を続けている者もいる。他人から見ると止めるべきだと思うのだろうが、彼ら仲間内からすると二人は仲睦まじく見えるのだろうか。

 

 しばらく言い合っているとクミが踵を返して歩き出した。どうやら先程の茶屋へ戻るらしい。そのときNの視線を感じたのか、彼女はNと目を合わせた。走って近づいてくる。

 

「急にいのうなって堪忍してください。火事が気になって」

 

「ボクは大丈夫だけど……彼らは?」

 

「あぁ。消防団のヒナ組ですよ」

 

 クミは冷ややかな目でちらりと後方を振り向く。サングラスの男が腕を組んでこちらを見ている。なぜだか目を合わせてはいけないような気になり、Nは帽子を目深にかぶった。

 

「行きましょ、Nさん。お詫びに茶菓子奢ります」

 

 有無を言わさずクミはNの手を引っ張って歩き出そうとするが、彼の動きが鈍かったために怪訝な表情で振り返る。

 

「どないしたんですか?」

 

 視線を合わせながらNに問う。

 

「――いや、なんでもないよ」

 

「ほんなら行きましょ」

 

 急かすように手を引くクミにNはどうしたらいいのかわからず、言われるがまま彼女についていくことにした。

 

 クミによると、消防団のヒナ組はエンジュシティで主に火災が発生したときの対処を任されている消防機関であるらしい。その消防団の人員をまとめているのがサングラスをかけたヒナギク――通称ヒナという男であった。

 

 ヒナ組の歴史は数百年前にまで遡ることができ、彼の家系が代々消防団の団長を務めている。団長が代替わりするごとに消防団の名前は団長の名前から取って変更されているが、それは団長に責任の大きさを自覚してもらうためであるという。

 

 消防団といっても本業を別に持つ一般市民で構成されており、ヒナギクの家は代々茶屋を継いでいる。Nが立ち寄った店がそれで、クミはそこで三年ほど住み込みで働いているようだ。

 

 再び茶屋へと戻ってくると、クミと同じように着物を着た女性が店内から出てきた。色白で朗らかそうな雰囲気が醸し出ている。

 

「クミちゃん! よかったぁ。心配しとったんよ? また火事場に行ったんやないかと思って」

 

「マイさん、すみません。焼けた塔を案内しとったら火事が見えたので見に行ってました」

 

「そう……。でも危ないからね。火ぃのことはヒナちゃんたちに任せておけば安心やから」

 

 火災現場での威勢はどこへ行ったのやら、クミはおとなしく返事をした。

 

 クミから紹介されたのはマイという女性だった。茶屋の女将をしており、住み込みで働いているクミの面倒を見ているのだという。

 

 彼女はヒナギクの姉であり、彼女の下にはさらに三人の妹がいる。その一番下に生まれたのがヒナギクだった。女系家族の末っ子として生まれた彼は可愛がられて「ヒナちゃん」と呼ばれるようになったようである。

 

「やっと生まれた男の子だから可愛くて仕方のうて。家族みんなで〝ヒナちゃん〟呼んで可愛がっとったんやけど、いつからか〝儂はヒナギクや〟言いよって身体も鍛え出してねぇ」

 

 マイは過去を振り返るかのように楽しそうに話した。独特な抑揚で話しながら目尻を下げて笑顔をつくる姿は優しさそのものであった。その不思議な優しさにNは引き込まれていた。

 

「それで彼は、今は消防団の団長を?」

 

「えぇ。〝町民を守るんが儂の務めや〟言うてね」

 

 代々消防団を継承しているとはいえ、そのように自ら務めを果たそうとするその言葉からは堅く真っ直ぐと伸びた芯の強さが窺えた。それほどまでにヒナギクという男は責任感のある人物なのだろう。現場を指揮する姿も堂々としており、たしかに威厳を感じられた。

 

 数時間後、ヒナギクが帰宅した。消防服は脱いでおり、代わりに袴を着崩していた。ヘルメットをはずした髪型は角刈りで、髭を整え、いかつい容貌をしている。よく見ると、サングラスをしたその顔には傷があった。

 

 応接間にいるNを一瞥すると眉間に皺を寄せた。

 

「さっきの兄ちゃんか。どこぞの馬の骨ともわからん奴にクミはやらんからな」

 

 いきなり何を言っているのか理解に苦しんでいるとクミが応接間に入ってきた。運んできたお茶を二人の前に出す。

 

「いつからうちはヒナちゃんの娘になったんや」

 

「ちゃうわ。働き手がいのうなったら困るだけや。それからヒナちゃん言うな!」

 

「正直に、行かんといて、って言うだけやろ? ヒナちゃん」

 

 満面の笑みを浮かべているクミに対し、ヒナギクは舌打ちをする。見た目からしても年齢差や怖さがあるが、年端のいかない目の前の女の子には言葉では勝てないようだ。

 

「クミ、さっきも火事場に来とったな? 二度と来んな。仕事の邪魔や」

 

「そんな言い方せんでもええやん! うちはみんなのことが、ヒナちゃんのことが心配やっただけやし」

 

「それが邪魔言うとるんや。儂らの仕事は火消しと人命救助や。万が一野次馬に怪我されても仕事増やされていい迷惑なんや。そっちにまで気ぃ遣っとるヒマのうからな」

 

 クミの目つきが鋭くなる。身体中から気が溢れてヒナギクを威嚇しているのが一目瞭然だ。心なしか、部屋の温度が上がっている気がする。さすがのNもこの場には居たたまれない気持ちになった。

 

 それにしても、ヒナギクの真意がわからなかった。彼はクミのことを遠ざけようとする発言をしたかと思えば、次にはその反対の発言をする。

 

 クミはこの茶屋に三年間働いている。寝食を共にし仕事も一緒となると、たとえ血が繋がっていないとしても親心のようなものが芽生えるのだろうか。だが言葉に一貫性がない。これは親心なのだろうか。

 

 それでも彼らは親子に、いや、親子に近い存在のように見える。二人とも口調は荒々しいが、その言葉の節々には相手を思いやる気持ちが見え隠れしている。

 

 自分はどうだっただろうか、とNは自問した。彼にも親のような存在がいる。気付いたときには傍にいたのだ。しかしどうだっただろうか。ヒナギクとクミのように何でも言い合えるような関係ではなかった。

 

 一緒に遊んでもらうことはおろか、衣食住と人間に傷つけられたポケモンを与えられる、一方的な関係だった。親子のような会話は皆無に等しく、父親の計画遂行のために育て上げられただけに過ぎない。

 

 しかしそれでも少なからず感謝していることはある。彼は外の世界を見させてくれた。さまざまな考えを持つ人間に、ポケモンに出会わせてくれた。彼らの〝声〟を聴き、今この地に自分が立っているのは元を辿ればその父親のおかげである。

 

 父親が自分に何を望んでいるのかをNは知っていた。いや、気付いていたと言うべきだろうか。同じように、たとえ周囲が理解できなくとも、ヒナギクの真意をおそらくクミは気付いているに違いない。言い合いは大概にしてほしいものであるが。

 

「こないなりとうないやろ?」

 

 他愛のない長い話に終止符を打つようにヒナギクは自らの顔に走る傷を指差した。威勢の良かったクミが途端に黙る。何も言い返せないとでもいうように目を逸らした。

 

 左目を交差するように縦に傷が伸びている。火傷のような跡も少々見受けられた。その傷を少しでも隠すためにサングラスをかけているのだとわかる。

 

「儂らは命かけて人もポケモンも守っとるんや。興味本位で見に来て怪我でもされたら敵わんのや」

 

「別にうちは……」

 

 沈黙が流れた。クミの表情からは哀しみが窺える。唇を噛み締め、胸の前でお盆をぎゅっと抱いている。

 

 クミは何も言わずに部屋を出ていった。

 

「……追いかけんのか?」

 

「追いかけた方がいいんですか?」

 

 いや、とヒナギクはお茶を啜った。

 

「彼女と傷のことは何か関係でもあるんですか?」

 

「……実際に怪我した話を持ち出しとるんや。敵わんくて何も言い返せんだけやろ」

 

 Nにはヒナギクが何を考えているのかわからなかった。言葉に何か含みを持たせているだけで、言葉そのものに真剣さが窺えないのだ。クミにさえ言いたくない、もしくは言えないことがあるのだろうが、それでは伝わらないのではないだろうか。

 

 クミも同じである。言葉ではしきりに消防団のことが、ヒナギクのことが心配と言っているが、その理由を語ってはいない。言葉に嘘偽りはないことは表情からも汲み取れた。三年間も家族のように暮らしているのだ。身近な人が危険な場所に行く仕事をしていれば誰でも不安や動揺を持つものだろう。

 

 しかし彼女は心配である理由を話していない。彼女にも話せない理由があるのだろうか。

 

 共通するのは二人そろって何かをお互いに隠しているということだ。素直な気持ちを打ち明けられていない。

 

「何か話せないことでもあるんですか?」

 

 ヒナギクは煙草に火を点けると一服した。ゆっくりと煙を吸って吐き出す。その動作は何かを逡巡していることを表していた。

 

「漢っちゅうのはのう、兄ちゃん、愛する女ができたらそのすべてを守ってやるもんだ。嘘があろうが、秘密があろうがな」

 

 彼はおそらく感情表現が上手くないのだろうとNは理解した。ついでに話すのも上手くない。その遠回しの発言が誤解を招くのではないのだろうか。Nも他人のことは言えないのだが。

 

 ヒナギクは窓を通って外に流れていく煙を目で追いかける。その先には金色の空を背景にしてスズの塔が建っていた。

 

 

 

 クミは一人〝すずねのこみち〟を歩いていた。スズの塔へと続く小道であり、見頃となる季節までまだ早いがそれでも美しい紅葉が道沿いを走っている。

 

 その道をつくっているのは等間隔で建てられた鳥居であり、無数に連なってまるでトンネルのように形成している。静寂と一面の紅に染まるそこは異次元へと続くかのような迫力であった。

 

 そろそろ日が暮れ始めてきて辺りに暗さが広がる。足下に気を付けながらクミは歩いた。

 

 ここに来る途中で購入した油揚げ、別名エンジュ揚げの袋を開封して食べる。存分に甘い出汁をしみ込ませたそれはとても美味しい。エンジュシティに初めて訪れた際に食してから彼女の大好物となっている一品である。特に気分が落ち込んでいるときにこれを口にすると元気が出るのだ。

 

 クミは鳥居の隙間から空を見上げた。

 

 ヒナギクはどうしているだろうか。まだ怒っているのだろうか。過剰な心配をして疎まれていないだろうか。嫌いになっていないだろうか。

 

 はあっと溜め息を吐いてクミは鳥居の上に飛び乗った。その高さはとても人間が跳躍力だけで到達することのできるものではないにもかかわらず、彼女はいとも簡単にやってのけた。

 

「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぅ、いつ、む、なな、や、ここのつ、とう!」

 

 リズム良く数を数えながら鳥居の上を跳び進む。十の数詞の掛け声と共に跳び下りて軽やかに地面に着地する。

 

「見事だね」

 

 着物の皺を伸ばしていると後方から声をかけられた。驚きのあまり変な声を出して肩を震わせてしまった。振り向きざまに距離を取って後方へと跳ぶ。視界に映ったのは帽子をかぶった青年だった。

 

「なんや、Nさんですか。驚かさんといてくださいよ」

 

 見知った人物の顔に安堵する。

 

「驚いたのはボクの方だよ、クミ。今の動きはなんだい?」

 

 信じられないものを見たような口調だった。その問いに、クミは後悔するかのように顔を歪ませた。思わず目線が泳ぐ。

 

「……なしてここに?」

 

「ヒナギクに言われてここに来たんだ。キミのお気に入りはここだからいるだろうって」

 

 余計なことを、とクミは舌打ちする。

 

「ボクの質問にも答えてもらえるかな?」

 

「嫌って言うたら?」

 

「……じゃあ、結論から言おう。キミはポケモンだね?」

 

 不意の問いかけにクミは動揺した。うまく言葉を発することができない。

 

「火事の後、キミがボクの手をつかんだとき、キミの〝声〟が聴こえてきた」

 

 ポケモンの〝声〟を聴きとることができるNにとって、直接でなくとも、ポケモンに触れることで〝声〟を聴くことができるのだろう。今回は触れた手を介してクミの気持ちが伝わったことになる。

 

「それから茶屋でキミがヒナギクと言い争っていたときのことだ。室温の上昇をたしかに感じた」

 

 顔を背けた。彼はいったい何者なのだろう。

 

「そしてキミの今の動きだ。人間離れしているその身体能力。キミは人間ではないね?」

 

「……それでうちがポケモンだと?」

 

「ボクはポケモンの〝声〟が聴こえるんだ」

 

「ポケモンの〝声〟?」

 

 なるほど。彼はどういうわけか、ポケモンの気持ちがわかり、ポケモンと会話ができるようだ。そのような人間がいるとは聞いたことがない。特殊な能力のようだ。

 

 人間離れした動きを見せてしまったことは失敗だった。ひとまず彼にはこのまま隠し通すことができなさそうである。

 

「まあ、Nさんは旅人やから、このままうちの秘密を抱えたまま旅立ってもろてかまへんからなあ。話したるわ、うちのこと。隠すのもちょっと疲れてきとったし」

 

 日が陰り始め、鳥居の吊り灯篭が灯りを点す。僅かに残る日の光とも相まって幻想的な雰囲気がさらに濃くなる。

 

 一陣の風が吹いた。何かの甘い香りがNの鼻をくすぐった。

 

「Nさんの言う通り、うちはポケモン。これがうちの正体です」

 

 何の予兆もなくクミは姿を変えた。Nが瞬きをするとそこにはクミではなく、きつねポケモンのロコンがいた。そのつぶらな瞳でNを見ている。そしていつの間にか再びクミの姿に戻っていた。

 

「驚いたよ。ロコンにはそんな能力があるのかい?」

 

 クミは首を横に振った。

 

「出会ったロコンの中ではうちだけや。うちだけが人間に化けることができる」

 

 さまざまな姿へと自由に変化することができるポケモンといえばメタモンだろう。細胞を急速に組み替えることであらゆる生命体や非生命体にまで外見を変えることができる。さらには変化した相手の能力までをもコピーすることができるポケモンだ。

 

 もう一匹はNがよく知るポケモンのゾロアだ。彼が所有するゾロアークの進化前のポケモンであり、特性の『イリュージョン』による変身能力を有しているため、メタモン同様に人間やポケモンに化けることを得意としている。

 

 主にこの二匹のポケモンが広義での変身の能力を持つわけであるが、ロコンであるクミもその力をもつ特異体質であるということか。

 

「変身能力のことはわかったよ。でも、なぜキミは人間の姿になってまでこの街で暮らしているんだい?」

 

 ふっとクミは笑顔をつくると手招きをしてNを呼んだ。

 

「スズの塔までご一緒してくれへんやろか? 全部話したげる」

 

 クミは踵を返すと塔へと続く小道を歩き出す。Nは彼女の背中を追った。

 

 

 

 三年前、クミ――ロコンはエンジュシティの南側に位置する37番道路付近で仲間とともに暮らしていた。近くには森があり、川が流れ、美味しい木の実をつける木があった。何不自由のない生活を送り、何の変哲もない穏やかな日常だった。

 

 いつからか、他のロコンにはなく、自分だけに変身能力があることに気が付いた。たとえば他のポケモンを一目見るとその外見にそっくり成ることができる。もちろん最初はうまくいかなかったが、練習するうちに本物と見分けがつかないほどにまでなった。

 

 しかし変身能力はメタモンのようにタイプや技など本質までを変えることはできず、ただ外見を変えるだけで、目くらまし程度のものであった。それでも生まれ持った才能は他のロコンたちを惹きつけ、何かに変身しては仲間たちを喜ばせることを楽しんでいた。

 

 あるとき二人の人間が歩いているのを見かけた。彼らは同じ人間にもかかわらず同じではなかった。顔や体つき、身に付けているもの、何から何まで似ていなく、そのとき初めて人間は外見的特徴が大きい生き物であることに気が付いた。

 

 そこからある考えを思いつく。誰かの複製ではなく、よりたくさんの人間を観察して自身で思い描いた人間になってみたい。そしたらもっと仲間たちを喜ばせることができ、人間ともコミュニケーションを取る手段になるかもしれない。

 

 彼女は群れをまとめるキュウコンの目を盗んでは近くのエンジュシティまで足を運ぶようになった。実際のところキュウコンたちからは人間の良いところも悪いところも聞かされており、以前から人間には興味があった。

 

 しかし、むやみに他の種の、人間の世界への干渉は強く禁止されていたのだ。だからこそ、人間のことをもっと知りたくなった。

 

 エンジュシティの人たちは優しかった。食べ物をくれたり優しくなでてくれたり。野生において異なる種族のポケモンと仲良くなるということは滅多にないことなのだが、この街では人間とともに暮らしているポケモンが多い所為か、他のポケモンとも親交を深めることができた。

 

 今までに経験したことのない日常に、彼女は心が躍った。その心に反応するかのようにときどき太陽も強い日差しを降り注いだ。

 

 その日はたまたまエンジュシティに出かけず、仲間たちと戦闘訓練をしていた。将来たしかな力を持つためだ。

 

 彼女がエンジュシティに遊びに行っている間、他のロコンは着実に力を付けていた。これまで負けたことのないロコンに負け、彼女は焦った。従来の戦法がまったく通用しなくなっていたのだ。

 

 さらに他のロコンたちは彼女をバカにするような素振りは決して見せず、むしろ心配の眼差しを向けた。それが彼女にとっては何よりも酷だった。

 

 戦闘訓練中、負けたくない一心で動いた。それは身体の奥底からエネルギーを湧き起こらせた。いつも以上に身体が火照り、炎の技の威力が増した気がした。

 

「話がある」

 

 群れのリーダーであるキュウコンからそう声をかけられたのは戦闘訓練から数日後のことだった。リーダーと二人で近くの森の奥へと向かうと、体毛が美しい銀色に輝く一匹のキュウコンが巨石の上に鎮座していた。

 

「お連れしました」

 

 クミは銀色のキュウコンの前に連れていかれた。

 

 聞けば銀色のキュウコンはすでに千年もの間生きているという。数千年の時を生きているキュウコンの中の一匹で、歴史を見届ける役目を担っているのだそうだ。

 

「わっちは各地にいる同胞たちのことを見守っておる。今日はそちのことを聞いて来たのじゃ」

 

「私のこと?」

 

 銀色のキュウコンは静かな口調で話し始める。

 

「そちは他のロコンとは変わっておる。稀有な存在じゃ」

 

 銀色のキュウコン曰く、一つは変身能力だという。これまでも変身能力を有していたものはいたようだが能力には差があり、また、数百年の間に一、二匹しか生まれなかったそうである。

 

 もう一つは特性についてであった。特性は各ポケモン、各個体が特殊な能力を備えているものであり、その多くが戦闘時に発揮される。クミはその特性もが特殊だった。

 

「そちの特性は天候を操る力の一つで、強力な日を照らすことができる。じゃが、そちはその能力を御すどころか有していることに気付いておらん」

 

 彼女自身はそのような能力まで身に付けていることにまったく気が付いていなかった。

 

 いち早く察知したのはリーダーのキュウコンでこれまでは確信が持てずに見守ることに専念していたようだが、先日の戦闘訓練でのクミの様子を見て特性の片鱗が見え始めていることを悟ったようだ。そして今回、銀色のキュウコンの元へ報告とともに助言を求めに参上したというわけだ。

 

「そちの二つの能力は突然変異のようなものじゃろう。変身能力も人間世界との交流で随分とうまくなっておるようじゃしのう。あとは人間にバレぬよううまくやりんせ」

 

 銀色のキュウコンの口調から、クミはすべての行動が筒抜けだったことに気が付いた。リーダーの方を見るとゆっくりと頷かれた。どうやら彼の目は盗めていなかったようである。

 

「問題は特性の方じゃ。御しきれておらぬ故、身体中からあふれ出る熱気で辺りを焼き尽くすことになり兼ねん。しばらくは街へ行くのを控えるのが賢明じゃな」

 

 心身ともに、特に精神を鍛えなければ戦闘時以外でも特性が発動する可能性があることを銀色のキュウコンは示唆した。一瞬の気の迷いや動転が引き金となって成長段階にある特性を発動し兼ねない。暴走した力はたちまち辺りを飲み込んでしまうだろう、と。

 

 訓練で経験した身体中から沸き上がるエネルギーを思い出した。あの力が強大なものであるとは想像し難かった。天候を操ったわけではなく、ただ炎の攻撃の威力が増しただけだ。

 

 仮にその力があるとしても制御できるようになるまでにどのくらいの時間がかかるだろう。その間にエンジュシティへ遊びに行けなくなることの方が彼女にとってはよほど恐ろしかった。

 

 エンジュシティへ行かなくなってから二ヵ月が過ぎた。

 

 初めの頃は修行に気合いを入れており早く終えてエンジュシティへ向かおうと思っていた。しかし力の制御を訓練するどころか特性が発動するかたちさえ見せず、時間だけが流れていた。

 

 特性の影も形もないことから本当に日照りを操る力があるのかどうかさえ疑問に思い始め、次第に修行にも身が入らなくなった。同時に、遊びに行くことのできない状況に不満を覚えて嫌気が差し、その日の夜、ついに街へと出かけてしまった。

 

 日中に訪れることは多かったが、夜の街は初めてだった。軒下に下がる灯篭の灯りがぼんやりとしている。昼間の賑やかさはどこへやら、多くの店が閉まっており暗闇と静寂が街を包んでいた。

 

 人間は歩いているが数えられるほどだ。街に住みついている野生のポケモンも隅に寄って身体を休めている。

 

 しばらく夜の街を散策していると、夜空に鈍い明かりを発見した。その光が家屋で遮られていることがわかった彼女は、光を目指して駆けた。

 

 その光はスズの塔を照らしていた。大石段の下から上まで照明が点され、さらに塔を囲むように同じく下から光を照らしていた。その輝きは荘厳だった。昼間とはまた違う雰囲気のスズの塔を目の前にしてクミは心を奪われていた。

 

 どれくらいそうしていたのだろうか。

 

 いつの間にか何かに周りを囲まれていることを察知した。物陰や明かりの届かない暗闇からこちらの様子を窺っている。その多くの視線が彼女の一挙手一投足に集中していた。

 

 心拍数が上がり、鼓動が耳元で鳴っている気がする。緊張して身体が動かない。突き刺さるような視線は獲物を狩るときのものだった。

 

 逃げなくてはならない。その言葉だけが頭に浮かんだ。

 

 どこへ逃げる? 街の外か? エンジュシティの外に出ることさえできれば仲間を呼べる――。

 

 彼女は素早く踵を返すと一目散に走りだした。一瞬遅れて隠れていたものたちが姿を現した。ダークポケモンと呼ばれるデルビルだ。優れた視力と嗅覚を持つと言われており、その正確さで獲物を狩る、闇夜に生きるポケモンである。

 

 クミが確認できただけでも四匹の姿があった。彼らは必ずといっていいほど群れで行動し、お互いの鳴き声を使い分けて狩りをする。その連携は思わず賞賛してしまいたくなるほどとても正確で緻密である。

 

 やはり追跡している以外のデルビルもいるようで次々と曲がり角や他の道からも現れる。他のデルビルの出現により何度か南門から遠ざかるが、裏道を駆使して再び南門に近づくことを繰り返しながら彼女は道を一心不乱に走り、南門を目指した。

 

 やっと南門が見えた。出口はもうすぐそこである。これで仲間に助けを求めることができる。そう思ったのも束の間、門をくぐり抜けた先にはさらにデルビルとその進化形であるヘルガーが待ち伏せていた。

 

 そこで初めて誘導されていたことを悟った。彼らはわざと南門から遠ざけるように行動し、そして近づけた。すべては作戦に勘づかれないようにするためだったのだ。うまく行動し、緊張状態の中に安堵感を芽生えさせることでクミの判断を鈍くしていたのだ。

 

 最初から彼らの手の上で踊らされていたことに愕然とした。

 

 逃げようにもすでに周囲はデルビルたちによって塞がれており、完全に退路を断たれていた。

 

 自分の行動を後悔した。行くなと言われていた街に向かい、結果、狩りの標的にされてしまった。逃げたものの彼らの罠にまんまと嵌っていた。自分の考えの甘さに腹が立ち、悲しくなった。そして命を狩られることに恐怖した。

 

 さまざまな感情が入り交じり気持ちが悪くなる。動悸が激しくなり眩暈がした。足が身体を支えていられなくなるほど震える。

 

 何が何だかわからくなったとき、彼女は全身から炎熱気を発した。それは衝撃波となってデルビルとヘルガーを襲った。彼らの特性であるはずの『もらいび』が炎の攻撃を無効化できないほど強力なものだった。デルビルたちに傷を与えるだけでなく、周囲の木々や門を燃え上がらせ、炎はたちまち大きくなる。

 

 暴走したクミは目に入ったデルビルに攻撃を仕掛けていった。デルビルも戦意をむき出しにして襲い掛かってくる。しかし無作為に炎と熱を放出するクミの攻撃にデルビルは倒れ、逃げていった。そして彼女とヘルガーだけが燃え盛る炎の中で対峙することになった。

 

 ヘルガーは彼女に近づくことすらままならかった。そこに立っているだけで辺りに新たな炎が生まれる。まるで小さな太陽のようだ。

 

 仲間を失ったヘルガーは相手との実力差を悟り、これ以上の戦闘は無意味と捉えて姿を消した。

 

 ヘルガーが去ってからもしばらくはその場にただじっと立っていたが、ついに彼女は倒れた。大きすぎた力は尽きて暴走が止まり、新たな炎の発生は途絶えたが、すでに燃え広がった炎は消えることなくその威力を維持している。逃げることなど到底できずに意識を失った。

 

 サイレンを鳴らしながら消防団が到着した。現場から最も近い彼らが初めに到着したときにはすでに火災の被害は大きくなっていた。応援が来るまでなんとかして被害拡大を防ぐとともに人やポケモンの避難をさせなければならない。

 

 ヒナギクは的確に部下へ指示を出し、対処に当たった。万が一、逃げ遅れた人やポケモンがいたら大変である。自らも率先して火の海へと飛び込んだ。

 

 一ヵ所、不自然に炎に包まれていない場所があり、ポケモンが倒れていた。ロコンだ。ほのおタイプのポケモンであることから火災の発生源はこのポケモンだろうかと考えるも、そんなことはすぐにどうでもよくなった。

 

 目の前に助けなければならない命があれば助ける。それがヒナ組の、ヒナギクの考え方であり信念だった。

 

 数人の仲間とともにロコンを助ける。

 

 そのとき木が倒れてきた。ロコンを抱えたヒナギクは間一髪でその木を避けるも枝が彼の左の顔を襲った。上から下へ一本の傷をつける。それでも彼は倒れることなくロコンを救出した。

 

 二日後、クミはエンジュシティにあるポケモンセンターの治療室で目が覚めた。四肢に力が入らなく、文字通り力が尽きていた。それほどまでにあの力は強大だったことがわかる。

 

 力に支配されて炎を操れなくなくなったのは初めてだった。正直なところ、何が起きたのかよく覚えていなかったが意識を失うほどの力に自身の存在が恐ろしくなった。銀色のキュウコンの言いつけを守っていればこんなことにはならなかったのだろうか、と自問が終わらなかった。

 

 ひとまず群れに帰らなければならないと考えたクミは、体力の回復に努めた。

 

 あるとき、窓越しに部屋の外からこちらを見ている人間がいた。頭と左腕に包帯を巻き、頬には大きなガーゼを貼っている。黒いサングラスに髭という風貌から、ポケモンである彼女でさえその人間に怯え警戒心を抱いた。

 

 部屋の中でクミの健康や傷の経過具合を管理している女医が優しく伝える。

 

「彼はヒナギクさんよ。エンジュの町の火消し人で火災からみんなを守っているの。あなたの命を救った人でもあるのよ」

 

 ずっと疑問に思っていた。誰がポケモンセンターまで運んでくれたのだろう、と。あの傷もきっと自分を救ってくれたときにできたものだろう。あの炎の中で救助に当たっていたのだ。負傷しない方がどうかしている。

 

 途端に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。自らが引き起こした火災に他人を巻き込み、傷を負わせてしまった。自分の行動を、力を責めた。

 

 その後、クミは野生に戻れることとなった。すぐに群れの縄張りに向かうと、リーダーのキュウコンが彼女の前に姿を現した。

 

「何をしたのか理解しているのか?」

 

 静かに彼女に問う。

 

「自然を、人間を、他のポケモンをお前の力が巻き込んだ結果がこれだ」

 

「わかっています。私は、ある人間に命を救われました。感謝してもし切れません。でも私のせいでその人間に怪我をさせてしまいました。その償いはしたいと思っています」

 

「……ならばどうする?」

 

 クミは逡巡したもののリーダーの目を見て意志を伝える。

 

「これからは力を使わないよう人間として生きて、彼に恩返しと償いをしたいと思っています」

 

 その真剣な眼差しを捉えたキュウコンは何かを言いたげな表情で、しかし何も言わずにその場を去った。

 

 クミはリーダーの後ろ姿を見送ると思い描く理想の人間の姿に化け、その足でエンジュシティへと向かった。

 

 

 

 スズの塔に着いた頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。ライトアップされたスズの塔は闇夜の中で美しく輝いている。おもしろい魅せ方をするものだ、とNは感嘆した。

 

「これが、うちが人間の姿で生活している理由です」

 

 スズの塔の前でクミはNと向かい合った。

 

「そうか。逆にポケモンが人間を傷つけてしまうこともあるんだね」

 

「力があれば誰かを傷つけてまうんです。特にポケモンは」

 

 クミは困ったように笑う。

 

 この三年間、表には出さずとも彼女はずっと苦しんでいたのだろう。もしも力を制御できていたら結果は違っていたかもしれない。他に被害を出さず、ただデルビルたちを追い払うことができていたかもしれない。群れからも離れずに済んで、これまでのようにエンジュシティに遊びに行ける毎日を送れていたかもしれない。

 

 自らの過ちによるけじめであるとはいえ、たった一人で、人間の姿に化けて人間の世界で暮らすことは不安や寂しさ、なによりも勇気がいることだろう。

 

 誰にも言えない秘密を抱えて三年もの時間を彼女は過ごしたのだ。人間のために、人間の立ち居振る舞いを覚えて、人間になり切ってきたのである。ポケモンの生活を、ポケモンの力を捨てて生きてきたのだ。彼女は十分にうまくやった。もうロコンの姿に戻ってもよいのではないだろうか。

 

「いつまで人間のままでいるつもりなんだい?」

 

「せやなぁ。こん街も人も、マイさんも、もちろんヒナちゃんも大好きやからなぁ。こんままずうっと人間のままかも」

 

「正体は明かさないのかい?」

 

「気持ち悪がられるやろ、人間に化けて生活してたなんて知られたら。それに消えない傷跡残した張本人のことなんか許してくれへんよ」

 

 その口調から、彼女が一番気にしているのはヒナギクのことであることがわかる。その思いは真剣で、でも気を遣いすぎている。どれほど彼のことを思ってこれまでの間生活してきたのだろうか。

 

 Nは大石段の方へと歩いていった。昼間見た景色とは異なり、エンジュシティの夜は静寂に包まれている。

 

 建物の高さ規制があるため見晴らしがとても良い。街灯やところどころ点いている店の明かりが基盤の目に区画された街並みを一層際立たせている。街の外にある山や森がエンジュシティを大きく包み込んでいる雰囲気がどこか安心感を与えてくれる。昼間とはまた違った感情がNの中にあふれた。

 

「今は良くても、いつか何かの拍子に力を抑えきれなくなることがあるかもしれないよ」

 

「せやなぁ」

 

「旅行したいと言っていたね。修行しながら旅行するのもいいんじゃないかな」

 

 Nの助言にクミは口元を拳で隠しながらくすっと笑った。

 

「Nさんについて行けば、力を制御する修行ができてついでに旅行もできそうやからええなぁ。でもせっかくのお誘いやけど、どんなことされるかわからんからお断りしようかな」

 

「……ボクはそういうつもりで言ったわけではないけど」

 

「そうなん? てっきりそういうつもりやと思ったわ」

 

 おかしそうにクミは笑った。

 

 どのような解釈をしたのかはよくわからないが、言いたいことが正確に伝わらなかったことだけは理解できた。

 

 だがこれも意思の疎通を図ろうとする醍醐味である。万人がみな同じ思考回路や感情を持つわけではない。異なるからこそ想像もしていなかったものが生まれるおもしろさがあるのだ。しかしそれを理解するには、Nにとってはまだまだ難しいものであった。

 

「人間を理解するのは苦労するね」

 

「自分は人間やのに? それにうちは人間に見えるけど、人間やないよ」

 

 またもおかしそうにクミは笑う。

 

「もう二、三日したら次の街に行くよ」

 

「それまでこん街を楽しんでいってください」

 

 握手を交わすと、Nは宿屋に戻るため大石段を降りていった。

 

 彼の後姿を見送ったクミは背後に堂々と聳え立つスズの塔を見上げた。美しく厳かにその存在感を放つ姿にクミは見惚れた。

 

 人間の姿で生きていく覚悟はできている。でもいつかは炎の力を使いこなせるようになりたい。誰も傷つけずに済むように――。

 

 来た道を戻るため小道を進んだ。ふと、何かの気配を感じた。来るときには気が付かなかったものだ。それはある一ヵ所から微かに波長のようにその存在をクミに伝えている。

 

 気になったクミは小道を逸れてその気配を探す。少しずつ近づくにつれてどこから波長のようなものが流れてきているのかわかってくる。

 

 立ち止まり、辺りを見回した彼女は地面を見た。しゃがんで落ち葉や枝を払い、地面を少し掘ると、琥珀のように透き通った石を発見した。手に取って月明かりにかざすと、石の中に赤と橙、黄色の炎のような模様が見て取れた。

 

「綺麗な石やなぁ。炎のようなエネルギーを感じるわ」

 

 しかしどこかで見たことのあるような石だ。いや、誰かにこの石のことを聞いたことがあるから知っている? たしかずっと前にキュウコンがまだ幼かったロコンたちを呼んで話してくれた。

 

 ロコンは〝ほのおのいし〟が蓄えているエネルギーで進化し膨大な力を得る。しかし力無きものが闇雲に触れるとたちまち力に呑まれ、あふれ出る力の衝動に駆られて自分ではなくなる。たしかそのようなことをリーダーであったキュウコンは話していた。

 

 手にした石から感じるエネルギーの波長は、当時見せてもらった炎の石のものだ。記憶が今と繋がった。

 

「これ、炎の石? ――っ!」

 

 しまった、と思ったのも束の間、炎の石が煌々と光った。石は砕け散り、中に蓄積されていたエネルギーがクミの体内に流れ込んでくる。身体が燃えるように熱い。まるで体内を炎が蹂躙しているかのようだ。

 

 そして変化は起きた。光をまとい、身体のあらゆる部分が急速に変わっていく。顔が変わり、耳が生え、尻尾が九つに増える。

 

 光が解かれると、クミは金色の体毛を持つキュウコンに進化していた。しかしその赤い瞳の瞳孔は開かれている。

 

 ひと声鳴くと、身体からあふれ出た炎が一瞬にして辺りを焼き尽くした。

 

 

 

 月を見ながらNは歩いていた。雲が少し出てきたようだが夜空に浮かぶ星々は綺麗に輝いている。もうすぐで宿屋に着きそうであった。

 

 そのとき、ポケモンの鳴き声が聞こえた。苦しんでいる声。それが誰のものか、すぐにわかった。

 

「――クミ!」

 

 スズの塔を見やると、その近くで炎が上がっているのが見えた。夕方にクミと二人で歩いた小道がある場所だ。現場に向かうために走りだそうとした瞬間、何かが高く跳び上がり、一軒の屋根に着地した。その体毛は金色に輝き、九本の尻尾の先には火の玉が燃えている。

 

「進化してしまったのか……!」

 

 キュウコンは尻尾の先の火の玉を無作為に飛ばした。着弾した家屋が燃え始める。

 

 続いて天に向かって鳴きながら形成した炎の球体を打ち上げた。それは空高く上がると衝撃波を拡散させて雲を消し飛ばした。球体を包んでいた炎が飛び散り、眩しく輝く球体が出現する。それとともにエンジュシティに強い日差しが降り注いだ。

 

 急な出来事に、飛び起きてきた人々は困惑した。様子を見に外に出てきたら晴れていたのである。一瞬のうちに夜と昼が逆転し、さらには火災も発生しているともなると、人々は軽いパニックに陥っていた。

 

「『にほんばれ』? ……いや、『ひでり』か」

 

 クミの話をNは思い出した。ロコンであるクミの特性は非常に珍しいもので、技を使わずとも日照りを発生させることができる。その能力はしばらくの間炎技の威力を高め、水技の威力を下げるものだ。

 

 このままでは通常よりも早く街を火の海にし兼ねない。彼女動きを止める必要がある。Nはキュウコンの元へと急いだ。

 

 キュウコンは屋根の上を移動しながら抑えきれない炎で家屋を燃やしていった。人々が逃げ惑う中、Nが彼女を追っていると、誰かが彼を呼ぶ声がした。横を見ると、通りをこちらに向かって駆けてくるサングラスの男がいた。

 

「兄ちゃん! 生きとったか! クミはどこや?」

 

 防火服を着たヒナギクに両肩をつかまれて前後に激しく振られる。

 

「彼女は――」

 

 この際隠していても仕方がない。一刻も早く彼女を救うために正体を話そうとしたとき、彼らの近くの屋根にキュウコンが降り立った。その口元からは火の粉が漏れており今にも技を放つ瞬間だった。

 

「クミ……!」

 

 キュウコンの姿を捉えたヒナギクがそう呟くのをNはたしかに聞いた。

 

 放たれた〝かえんほうしゃ〟を二人は間一髪で避け地面を転がった。技が飛び火し、店の看板に火が点く。

 

 再びキュウコンは屋根を移動し始めその場を去っていった。

 

「……彼女の正体を知っていたんですか?」

 

 上体を起こしたNは帽子を整えながらヒナギクに尋ねる。

 

「……知らなかったと言やあ嘘になる。じゃけん、正確に気付いとったわけでもあらん。勘付いとった程度や」

 

 Nは落ちた帽子を拾い上げると被りなおした。彼女の後を追おうとしてヒナギクを見やると彼は座って地面を見つめたままだった。動く素振りすら見せない。

 

「追わないんですか?」

 

「……儂は火消しで、多くの人の命を守らにゃあかん。じゃが、どうやってあいつを止めたらええんや? 儂はあいつを傷つけとうない」

 

 両手の拳を地面に突き立てている。

 

 彼はクミのことを本当に大切に思っているのだ。だから迷っている。どのようにして彼女の暴走を止めたらよいのか考えあぐねているのだ。

 

 彼はこの三年間、ずっとクミのことを考えていたに違いない。救ったポケモンが人間の姿になって自分の前に現れた理由を。

 

「クミは言っていました。アナタを、誰もこれ以上傷つけたくない、と」

 

 Nの言葉を聞いて顔を上げたヒナギクの表情には決意が表れていた。

 

 立ち上がって防護服とヘルメットを脱ぎ捨てると羽織姿になった。その背中には雛菊の花柄と「一七組」の文字が刺繍されている。

 

「漢、ヒナギク。何を迷っとったんじゃ」

 

 サングラスをかけ直してキュウコンが去った方向を見つめる。

 

「クミ、今行くわ」

 

 先程までの姿はどこへやら、一変してヒナギクは駆けだした。続いてNも走り出す。

 

 キュウコンは東西南北に通じる十字路にいた。炎を吐き出し辺りかまわず燃やしている。

 

 エンジュシティは至る所で炎を上げている。まるで火の海だった。炎は生き物のように次々と家屋を呑み込み勢いを増している。

 

「クミ……!」

 

「おそらく予期せぬ進化と急激な力の増大によって力に呑まれてしまっているんです」

 

「それで我を失っとるんか……」

 

 ヒナギクは懐からモンスターボールを取り出した。

 

「兄ちゃん、動きの速いポケモンは持っとるか?」

 

 モンスターボールを取り出したNは頷いた。それに対して上出来だ、とヒナギクは返す。

 

 ヒナギクはボスゴドラを、Nはゾロアークを繰り出した。突如現れた二匹のポケモンにキュウコンが反応して対峙する姿勢を取る。

 

 炎のように揺らめく九尾の先に怪しい紫色の炎が発生する。九つの〝おにび〟が二匹目掛けて飛んでいく。

 

 ボスゴドラは〝どろかけ〟で、ゾロアークは〝かえんほうしゃ〟でキュウコンの技をかき消した。直後、ゾロアークはNの指示でキュウコンの元へ駆けていく。

 

 技を繰り出されると判断したのか、キュウコンはゾロアークの視界に入らないよう移動するが、そうはさせないようにゾロアークはひたすらその後をついて行く。

 

 さらにボスゴドラが〝ストーンエッジ〟で地面から岩を突き出し、キュウコンの行く手を阻んでいく。

 

 次々と行く先を阻まれ、また、直接当たりはしないがそれでも技が掠ることに苛立ちを隠せなくなったキュウコンは〝でんこうせっか〟で一瞬のうちにゾロアークの懐に飛び込むと口から光線を発射した。

 

 防ぐことが間に合わなかったゾロアークは勢いで飛ばされるものの、地に膝をつきながらもなんとか耐え抜いた。

 

「『ひでり』の恩恵で溜めるのが早くなったのか……!」

 

 キュウコンが放った光線はくさタイプの技、〝ソーラービーム〟。強力な大技であるがゆえ、通常ならば発射するまでに光のエネルギーを溜める時間を必要とするが、現在は『ひでり』の影響でエネルギーの収束速度が格段に上がったため攻撃までの時間がかなり短くなっている。

 

「おおきにな、兄ちゃん。おかげで準備できたわ」

 

 Nとゾロアークの前にヒナギクとボスゴドラが立ち、キュウコンと対峙する。鉄の鎧を纏った怪獣は姿勢を低く構えると勢いよく飛び出した。いかにも重そうな姿からは想像ができないほどの速度でキュウコン目掛けて走っていく。

 

「何重もの〝ロックカット〟で素早さは格段に上がっとる。これならクミを抑えることも可能や」

 

 キュウコンは後退して距離を取ろうとするが、後方にはボスゴドラの技によりいつの間にできた岩壁によって退路を断たれていた。本能的に少しでも動きを止めようと吐いた炎は大の字になって直撃する。通常の〝だいもんじ〟に増して炎の威力が大きい。

 

 しかしボスゴドラは動きを止めるどころか怯むことさえせずに猛進する。

 

「無駄や。儂のボスゴドラはその辺のやつとは鍛え方がちゃうねんからの。その程度の炎技ならびくともせえへん」

 

 瞬く間に眼前にボスゴドラが迫り、その太い両腕にキュウコンは成す術なく捉えられた。

 

「ようやった、ボスゴドラ!」

 

 ヒナギクが火の中を歩いて近づいていく。

 

「クミ! ええかげん目ぇ覚ませ! いつまでやっとるつもりや、ボケナスがぁ!」

 

 キュウコンは自らの動きを封じている腕からなんとか脱出しようともがいている。ヒナギクの必死の呼びかけが耳に届いていないのは一目瞭然だった。

 

 ヒナギクは歯ぎしりするとボスゴドラに指示を出す。

 

「許せ、クミ。〝でんじは〟、並びに〝きんぞくおん〟や」

 

 二本の角の間から微弱な電磁波をぶつけて麻痺状態にするとともに、角を振動させて金属の擦れる不愉快な音を発生させる。その嫌な音にキュウコンの動きが鈍くなりぐったりとする。

 

 ようやくこの戦いを治めることができると思ったのも束の間、キュウコンの九本の尾が広がった。それと同時に頑丈な鉄の鎧を炎が囲む。瞬時にボスゴドラの元へ炎が収束したかと思うと、それは上下に伸びて巨大な火柱を形成した。キュウコン自ら、巨体のボスゴドラとともに丸々と呑まれている。

 

 その業火の輝きにヒナギクは思わず腕で顔を隠す。凄まじい熱風が彼を襲った。衝撃で家が吹き飛び、辺りの炎は勢いで消えるか、さらに燃え広がった。

 

 火柱が消えるとボスゴドラは力尽きてその場に倒れた。その重さで地面が揺れる。

 

 解放されたキュウコンは炎を纏いながら歩いている。だがこれまでの戦闘によるダメージが蓄積されているのか、歩き方が覚束ない。そしてその表情はひどく苦しんでいた。

 

 衝動と本能で動いているようなその姿を見たヒナギクはなりふり構わずキュウコンの元へ走り出した。〝おにび〟によって妨害されそうになるも、鍛え抜かれた鋼の精神と肉体で難なく弾き飛ばしキュウコンを抱きしめた。

 

「クミ! もう戻ってこい。もう終わりにせんか」

 

 キュウコンは苦しそうに呻き、じたばたする。それは抱きしめられているからではなく、抑えきれない増大したエネルギーに、止まらない破壊衝動に、そして思うように自らの意志を制御できないことへの苦しみだった。

 

「すまんのぅ、クミ。儂のために人間にさせちまって。儂のために人間で生きようとしてくれておおきにな。こんなにも儂の容体を気にしてくれるんは、後にも先にもおまえだけや」

 

 より一層キュウコンの瞳孔が開かれ、牙を剝く。

 

「この三年、慣れへん世界で一人でよう頑張ったのぅ。もう無理せんくてええ。生きとれば誰かを傷付けてまうんは仕方のないことや。そんときは誠心誠意謝ればええ」

 

 ヒナギクの腕を振り払うと、キュウコンは鋭い牙で彼の左肩に嚙みついた。その力は凄まじく、ヒナギクは苦痛で顔を歪ませるも歯を食いしばって耐え抜く。

 

「自分を犠牲にすな。誰かのために生きんな。これからは自分のために生きるんや。それでええ」

 

 右手で頭を優しくなでる。

 

 荒ぶっていたキュウコンは徐々に落ち着いていった。表情から険しさが消え、肩を噛んでいる力が抜けていく。

 

 空中に浮かぶ光の球体が小さくなり始め、日差しが弱まっていく。その球体が完全に消滅したとき、再び夜が訪れた。

 

 夜の街で炎が明るく燃えている。

 

 力尽きたキュウコンはその場に倒れた。同じく倒れたヒナギクは九尾で優しく包まれている。それは、今この瞬間だけでも一片たりとも傷付けまいとする、キュウコンの想いが表れたようだった。

 

 

 

 目が覚めると見慣れない天井が目に入った。無機質で真っ白い天井だ。テレビドラマなどで見かけるそれとよく似ている。

 

 霞掛かったようにぼんやりとする視界の端に何かが映る。

 

「あら、ヒナちゃん。おはようさん」

 

 そのおっとりとした口調で誰だか瞬時に判断した。何十年も聞いていれば顔を見なくてもわかる。長女のマイだ。

 

「ヒナさん!」

 

 そう声をかけてきたのも誰だかわかる。消防団の部下たちだ。声をした方を見やると人影があった。焦点を合わせるために目を細めると四人ほど姿を確認できた。おそらく残りは現場の作業に当たっているのだろう。

 

「早速怒ろうとせんでくださいよ」

 

 ヒナギクのその様子を見た内の一人が鼻声で言う。こんな時まで人をからかうとは憎めない部下たちだ。ちゃうわ、と反論しようとするも喉がかすれて声が出なかった。

 

 左肩から腕にかけて包帯でがっちりと固められているのが感覚でわかる。他の箇所も包帯が巻かれているようだが動かすことはできそうだ。

 

 なんとか身体を起こそうとするヒナギクをマイは手伝った。部下たちは揃って安静に、と言っている。言う通り、激痛が身体中に走るがそれでもお構いなしに上体を起こす。

 

 酸素マスクを外したヒナギクはマイに尋ねた。

 

「クミはどないした? キュウコンはどないした? 火事はどうなっとる?」

 

「そげん一遍に言われても答えられんよ」

 

「火ぃはほとんど消し終えました。今はほとんどを救助や瓦礫の撤去作業に費やしとります」

 

 火事のことは、マイの代わりにヒナ組の部下たちが答えた。

 

「そんで、クミは無事なんか?」

 

 病室に重たい空気が流れる。それでも察するに余りあったが、マイは答えた。涙声となっている。

 

「クミちゃんは、今みんなで探しとるところや。……どうか無事で、いて」

 

 マイは嗚咽を漏らした。手元のハンカチで口元を抑える。

 

「……儂と戦っとったキュウコンはどないなった?」

 

「ヒナさんのことは副団長が見つけたようですが、そのときキュウコンの九尾にヒナさんが包まれた状態で見つかった、と」

 

「そんで?」

 

「キュウコンはポケモンセンターに搬送されたようですが、その後は聞いとりません」

 

 それを聞いたヒナギクはベッドから降りると病室のドアへと向かった。

 

「ちょ、ヒナさん、どこへ?」

 

「しょんべんや。じゃかあしいからついて来んな。あとサングラス」

 

 受け取ったサングラスは片側が割れているがそれでもかけて部屋を出た。その後も数人の看護師に動くことを止められたが病室を出たときと同じように発言して、目を盗んで外へ飛び出した。

 

 街は悲惨な状態だった。生き残っている家屋もあるが、街の中心にあるものほど焼け焦げ、倒壊している。ある道は瓦礫で塞がれており通行ができない状態となっている。最後にキュウコンと戦った場所へ赴くと規制線が張られて立ち入ることができなくなっていた。

 

 曇天が一層、ヒナギクの心を不安にさせた。早くクミに会いたい。この目でその姿を確認したい。その一心で足を動かす。

 

 ポケモンセンターは所々焼け跡が残るものの、大きな損害は受けていなかった。通常通り開かれているが、運ばれてくるポケモンの数はいつもの数倍であった。治療室が立て込んでいるためか、正面玄関のロビーには傷付いたポケモンやそのトレーナーで溢れている。

 

 忙しなく働いているジョーイさんをなんとか捉まえて、ヒナギクはキュウコンのことを尋ねた。

 

「あぁ、あのキュウコンですね。先程あるトレーナーが引き取っていきましたよ」

 

 トレーナー? しかも引き取っていったとはどういうことだ。

 

 心当たりは一人しかいなかった。

 

 できる限りの情報を聞き出したヒナギクは軋む身体に鞭を入れながらその後を追った。

 

 エンジュシティの外れの道に、その姿はあった。帽子をかぶった長身痩躯で特徴的な緑色の髪。

 

「兄ちゃん!」

 

 ヒナギクは彼に声をかけた。その声に立ち止まった青年は振り向く。

 

「もう動いて大丈夫なんですか、ヒナギク?」

 

 その問いには答えず質問をする。

 

「キュウコン――クミはどこや?」

 

 Nは素直にモンスターボールを取り出した。それを手の平に乗せると前に出す。案の定、中からはキュウコンが出てきた。

 

「どういうつもりや?」

 

「彼女に話したんです。この場所でキミはまだ大切な人を守るのか。それよりも守るためにここを離れて力を付けた方がいいんじゃないか、と。そしたら同意してくれました。彼女はボクと旅をします」

 

 ヒナギクはキュウコンに近づいた。しゃがんで真正面から向き合う。その瞳の奥には見知ったクミの姿が見えた。

 

「……行くんか?」

 

 キュウコンは優しく頷く。

 

 そうか、とヒナギクは短く呟いた。

 

「行きとうなければ行かんくてもええ。ここで生きるんも――」

 

「ヒナちゃん」

 

 クミの声が脳内に響き渡る。テレパシーだ。

 

「うちはうれしかったよ。自分のために生きろって言うてくれて」

 

 ヒナギクは眉間に皺を寄せて険しい表情となる。その顔はどことなく泣くのを我慢しているようだ。

 

「そんなヒナちゃんや。行くな、とは言わんやろ? 漢に二言は?」

 

「……ない」

 

 よろしい、とキュウコンが言う。

 

「ごめんね。二度も傷つけてもうた」

 

 キュウコンは鼻先でヒナギクの左肩に優しく触れる。

 

「気にも留めとらんわ。じゃから気にせんでええ」

 

 キュウコンは困ったように笑顔をつくる。

 

「うち、こん街が大好きやのに、こんなにも傷付けてもうた。街だけやない。人もポケモンも、二度と傷付けないと誓った大切な人まで全部や。もう、こん街にはおられんよ」

 

「わかっとる。皆まで言うな」

 

 ヒナギクがキュウコンの頭をなでる。

 

「別嬪になりおったなぁ」

 

 キュウコンの瞳から涙が溢れた。これまでの想い出が次々と蘇る。楽しいこともあった。苦しいこともあった。悲しいこともあった。喜ばしいこともあった。出来事一つひとつがかけがえのない想い出である。

 

「うちからも餞別や」

 

 割れたサングラスからのぞくヒナギクの細い目をキュウコンは見つめた。その瞳の奥にまで届くように涙ながらに言葉を続ける。

 

「をみなへし さきさはにおふる はなかつみ かつてもしらぬ こひもするかも」

 

 どんなことがあっても泣くまいと決意していた。鍛え上げた精神と肉体は涙を見せない鋼の漢を作り上げたつもりだった。

 

 その和歌はクミのお気に入りのものでよく詠っていたのを覚えている。だからこそ意味が分かり、だからこそ涙した。

 

「うち、ヒナちゃんに会えてよかった。人間になれてよかった」

 

 引き留めようとしたらクミはなんと言うだろうか。きっとまた先程と同じように「漢に二言はない」と言うのだろう。それに彼女の想いを踏みにじるような真似はしてはいけない。今度こそ自分自身のためにその力とともに生きてもらいたい。

 

「今までおおきにな、ヒナちゃん。めっちゃ楽しかったわ」

 

 キュウコンはヒナギクの額にキスをすると背を向けて歩き出した。

 

 まだ言い足りないことが山ほどある。その背中に向かって話そうにも何かを発しようとするたびに嗚咽が漏れて言えなかった。

 

 Nは帽子を目深にかぶる。それは彼らの気持ちを配慮した彼なりの別れの表現だった。

 

 空が晴れ、雲の隙間から日差しが注ぐ。晴れているのに雨が降った。その天気雨はヒナギクの気持ちを代弁しているかのようだった。まるで、嫁入りをする娘の父親のような――。

 

 一人の青年と一匹の狐の女の子の後ろ姿をヒナギクはいつまでも見送った。

 

 

 



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VS女子高生と電竜

 その街は大都会という言葉だけでは片づけられないほど大きかった。

 

 いくつもの百貨店、目立つラジオ塔、街の発展に大きく貢献しているポケモンジム、科学が切り開いたリニア鉄道による隣接する地方への迅速な移動、そして世界と繋がる玄関として利用されているグローバルターミナル。

 

 あらゆる技術がこのコガネシティの発展を飛躍させている。

 

 その大都会を見たNはイッシュ地方のヒウンシティを思い出していた。その街もかなりの大きさで、高層ビルに空港、港湾があり世界中から多くの人が訪れている。どちらが大きいのかはわからないが、共通している大都会という部分にどこか懐かしさを覚えた。

 

 そして気が付いたことがもう一つ。この街の人間とポケモンはよく笑っている。楽しそうに生活しているのだ。人々は野生のポケモンを見かければ気軽に声をかけて触れたり、野生のポケモンも人間に慣れているのか、ほとんど警戒せずに彼らに近づいていく。

 

 これまで傷ついてきたポケモンばかりを見てきたNにとっては奇妙な光景に見えた。

 

「逃げて!」

 

 そう聞こえたのはとある建物の前を通り過ぎようとしたときだった。一メートルはあるだろう大きな鉄球が、敷地の中から外にいるNに向かって一直線に転がってきていた。それもかなりの速度が出ている。このままぶつかればただでは済まないだろう。

 

 しかしNは慌てることなく冷静に対処してみせた。キュウコンをモンスターボールから出すと〝まもる〟で球体の進行を防ぎ、そのまま回転の威力を落としてその場を収めた。

 

「すみません! 大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」

 

 敷地の中から二人組の女の子が慌てて駆けてくる。一人は金髪、もう一人は茶髪だ。二人揃って同じワイシャツとスカート、鞄を身に付けている。

 

「ボクは大丈夫だよ。キュウコンのおかげでね」

 

 行動を褒めるようにNはキュウコンをなでた。

 

 彼の言葉が本当であることを確認すると、二人は安堵した。キュウコンをなでるNを見た金髪の女の子から笑みがこぼれる。

 

「あの、トレーナーさんですよね? よければ私たちの研究に協力してもらいたいんですけど!」

 

「研究?」

 

 彼女が何を言っているのかさっぱりわからないとでも言うように、Nは小首を傾げて女の子を見る。

 

「あ、すみません! 私たち、この学校の生徒でロボット研究部という部活で活動しているんです!」

 

 Nは彼女の背後にある建物に目をやった。

 

 校門の奥、正面には地上5階建ての白い校舎が建ち、その左右に4階建ての校舎が縦に伸びている。空から見るとコの字型で形成されているのがわかるだろう。校舎の中には彼女たちのような生徒が他にもいるのが見えた。

 

「なるほど。キミの言う〝研究〟はポケモンの生態についてではなく、ロボットの〝研究〟というわけだね?」

 

「そうなんです! 私の夢は発明を通して、人とポケモンがより共存しやすい世界をつくることなんです!」

 

 金髪の女の子はその言葉に熱を込めながら瞳を輝かせた。興奮しているのか、少し前のめりになっている。

 

「ヴァニラ先輩、抑えて」

 

 どういうわけか、地面に転がっている鉄球を確認していた女の子は金髪の女の子――ヴァニラの挙動を見て困ったように笑った。その様子から察するにいつものことなのだろう、とNは考えた。

 

 ヴァニラは、「ごめん、ミクちゃん」と苦笑いする。

 

「それで、ボクはそのロボット研究にどう協力するんだい?」

 

 Nの言葉に対してヴァニラはその鉄球を指差した。

 

 彼女たちはその学校で最終学年を送っているロボット研究部の部員で、その内ヴァニラは部長を務めているという。近々開催される大きなロボットコンテストに向けて現在はロボットを製作中であり、それがNに向かって転がってきた鉄球であった。

 

 何の変哲もない、強いて言えば綺麗な球体をした鉄の塊を見たNは怪訝に思った。彼が知っているロボットとはヒト型の、もっとゴツゴツとしたものだ。ロボットに対して球体のイメージがない。

 

 Nが何も言葉を発しないのを見たヴァニラはにやりと笑うと鞄からタブレットを取り出した。液晶画面上を素早く指が移動したかと思うと、鉄球に動きが表れた。

 

 丸々とした球体から短い手足が生える。さらに頭部と思われるものが出現した。ヒト型ロボットには遠いが、それでもNのイメージするロボット像に近づく形に変形した。まさか球体の中から頭と手足が出てくるとは驚きである。

 

「ミルタンク型ロボットのミルちゃんです!」

 

「これはまだ試作の段階なので姿形は酷いですけど、今のところは概ね設定した通りに動いてくれています」

 

 ヴァニラの言葉にミクが冷静に補足を入れる。

 

 たしかに試作機と言われなかったらどのあたりがミルタンクなのかもわからないくらい特徴がない。体型が似ているカビゴン型だと言っても通じてしまっただろう。

 

 彼女たちはそのミルタンク型ロボットを完成させてロボットコンテストに出場する予定とのことだった。

 

 ミルタンクの戦闘を再現したロボットを作りたい。そのために様々な動きを学習させる必要があり、データ収集のためにできる限りポケモンバトルに長けているトレーナーを探しているとヴァニラは言った。

 

「一つ質問をしてもいいかな?」

 

 Nの問いかけに二人は首を傾げる。

 

「なぜミルタンクのロボットなんだい?」

 

 ヴァニラは指を二本立てて、それには二つの理由があると言った。

 

 彼女たちが今回ロボットを製作するに当たって決めたテーマは〝コガネシティ〟。彼女たちが一緒に過ごす学校生活が最後の年にこれまでの集大成をロボットに込めようということで、生まれ育ったコガネシティを題材にすることを決めた。

 

 コガネシティと言えばまず思い浮かんだのが、コガネジム、ジムリーダーのアカネが使うミルタンクというポケモンであった。

 

 攻撃、防御、回復におけるその力は凄まじく、初心者並びに特に何も対策せずに挑んだ挑戦者はことごとく返り討ちに遭うという。特に使用してくる技の一つでもある〝ころがる〟による攻撃力の増加と体力回復の〝ミルクのみ〟は、多くの挑戦者を葬り去ってきたことでも有名だ。

 

 その強さに敬意を表するためにミルタンク型のロボットに決めた。

 

 そしてもう一つは、コガネシティで生まれ育った証、そこにいたという証を残したいというのがロボット研究部の願いでもあった。学校を卒業した後は、彼女たちはそれぞれの道を生きていく。毎日のように集まっていた日々から遠ざかっていく。もしかしたらもう会えなくなるかもしれない。

 

 それでも力を一つに合わせて、コガネシティでロボットを作ったという事実を残しておきたい。だからこそ、コガネシティのミルタンクなのである。

 

「そうか。キミたちにも信念があるんだね」

 

 Nが研究のサポートを決めたため、彼らはロボット研究部の部室兼工場に向かっていた。

 

 聞くところによると、部長を務めるヴァニラの父親はリニア鉄道の製作に一躍買った会社の社長でもあり、その会社が所有する使用されなくなった小さな工場を貸してもらい、ロボット研究部が使えるようにしていた。なかなかの権力者のようである。

 

 ロボット研究部が使用している工場は学校からさほど遠くない距離にあった。小さいと言うわりには敷地面積が広く、研究には十分な大きさであるようにNは感じた。さすが大きな製作に携わった会社が所有している工場である。

 

 工場内に入ると制服を着た生徒が三人ほど作業をしていた。こちらに気が付くと会釈をする。

 

「その人は?」

 

 長身のメガネをかけた男子生徒が問いかけた。

 

「この人はNさん。データ収集に協力してくれるトレーナーさんだよ」

 

 ヴァニラが制服の上からでもわかる大きな胸をさらに張る。その態度に視線を逸らしつつ溜め息を吐いたメガネの男子生徒はNに向かって頭を下げた。

 

「すみません。たぶん彼女のことだから無理やり連れて来られたんでしょうけど、お力を貸していただけるとうれしいです」

 

 態度から察するに、どうやら彼はヴァニラとは違い根っからの真面目な人間のようである。彼はテルユキと名乗った。

 

「ヴァニラさーん。ルカさんがまたダウンしたんですけど、冷えピタのストックってまだありましたっけ?」

 

 何かの作業をしていたのか、スパナを持った生徒がヴァニラに声をかける。覇気のない声に、茶髪にピアス、制服をだらしなく着ているその姿は一見遊んでいそうな印象を受ける。

 

 買ってきました、と言ってミクは鞄から出した冷えピタをその男子生徒――レンに渡した。レンはサンキュ、と言ってそれを受け取る。そのまま、無造作に置かれた机の前で椅子の背もたれにもたれかかった長髪の女子生徒の元へと歩いていく。

 

 おそらく、彼女がルカなのだろうとNは察した。アイマスクのように貼っていた冷えピタをルカの目元から剥がすと、レンは替えを同じように張り付けた。その姿はまるで舎弟だ。ルカはプログラマーなのだ、とミクはNに教える。

 

 部員は五名ほどの小さな部活動のようだ。

 

 彼らの傍らにはパートナーであるポケモンが同じように作業している。いや、作業というよりも力を貸しているという表現の方が適切だろう。でんきタイプのポケモンは電気を供給し、ほのおタイプのポケモンは炎を生み出して鉄を熱したりしている。

 

 それぞれが得意とする力を使い、人間に協力している。

 

「早速ですけど、始めましょうか」

 

 ヴァニラに腕を引っ張られたNは外にあるバトルフィールドへと連れ出される。

 

 彼らはそこでいつもポケモンバトルをしているのがわかった。フィールド上にはバトルによってできた傷があちこちにできている。穴が開いていたり、焦げ跡があったり。

 

「ボクはキミと対戦するのかい?」

 

「そうですよ。二匹以上の手持ちがいるのは私だけなので」

 

 Nは腰のベルトに装填しているモンスターボールに触れた。たしかに彼には二匹以上のポケモンがいるのだが、驚いたのは彼女の観察眼だった。

 

 N自身、決して手持ちのポケモンを見せびらかすようにはしていないのだが、一瞬の隙をついて彼女に見られていたようだ。

 

 ルカ以外の部員たちも外に出てきて、彼らのバトルを観戦する。

 

 二人は位置に着くと、それぞれ手持ちをモンスターボールから出した。Nはキュウコン、ヴァニラはコイルをフィールドに出す。

 

「キュウコンですか。相性的にも能力的にもNさんに分がありますね」

 

 ミクが冷静に分析をする。キュウコンはほのおタイプのポケモンであり、コイルはでんきタイプとはがねタイプの二つのタイプを持つポケモンだ。

 

 そして炎は鋼に強く、またキュウコンはロコンからの進化により、進化前のコイルよりも能力が高い。彼女の言う通り、相性的にも能力的にもNの方に分があるのは明らかだ。

 

「でもヴァニラはそれすらも覆してしまうよ」

 テルユキが静かに言う。その瞬間、バトルが始まった。

 

 先に動きを見せたのはじしゃくポケモンのコイルだ。

 

 銀色をした丸い本体の左右にあるU字型の磁石のようなものを急速に震わせる。〝きんぞくおん〟で特殊攻撃に対するキュウコンの防御力を下げる戦法のようだ。コイルは特殊攻撃力が高いため、効率よくダメージを与えるには打ってつけの変化技である。

 

 音によって苦しんでいるキュウコンに対し、コイルは追い打ちをかけるように攻撃を仕掛ける。

 

「〝エレキボール〟!」

 

 電気エネルギーを球体に圧縮し、トレーナーの指示でキュウコン目掛けて発射する。

 

「かわして〝かえんほうしゃ〟」

 

 キュウコンは攻撃を華麗にかわすと火炎放射を放った。それは一直線にコイルへと向かう。コイルは攻撃を放った直後のため、即座に攻撃を避けることは難しいだろうとNは判断した。

 

 しかし確実に命中するであろうと思われたそのとき、コイルは攻撃をかわした。なんとも素早く、見事な動きである。元来コイルは動きの素早いポケモンではない。ましてや攻撃直後であるため、次の動作に移行するまでの態勢を取るのに少なからず時間がかかるはずであった。

 

 それにもかかわらず、コイルは機敏な動きで火炎放射を避けてみせた。キュウコンの攻撃を読んでいたとでも言うのだろうか。

 

 Nは一瞬考えると、キュウコンに指示を出した。キュウコンは自身の分身をフィールド上に複数つくり出し、コイルを取り囲んだ。

 

「集中して! 本物は一匹。残りはコピー。焦らないで」

 

 コイルの動揺を抑えるためにヴァニラは声をかける。トレーナーの声に対し、コイルも冷静にキュウコンの動きを見極めようとする。

 

「……〝かえんほうしゃ〟」

 

 コイルを取り囲んだキュウコンが一斉に火炎放射を放った。四方八方からの炎の攻撃は命中すれば戦闘不能になるのは間違いなかった。

 

 しかしヴァニラはにやりと笑った。

 

「そう来たか。〝ジャイロボール〟!」

 

 コイルはその場で自身の身体を高速回転させると、火炎放射を受けた。炎に包まれたかに見えたが、その攻撃は渦を巻いて上昇すると霧散した。

 

「やるね。でも……」

 

 九尾がコイルの身体に絡みつく。キュウコンは瞬時に近づくと炎を纏った牙で噛みついた。浮遊していたコイルは力尽きて地面に落ちる。

 

「九尾にそんな使い方があるなんて……」

 

 労いの言葉をかけながら、ヴァニラはコイルをモンスターボールに戻した。

 

「キミの判断力もなかなかのものだよ。コイルとの息もぴったりのようだね」

 

 Nは感じたことを素直に口にした。トレーナーではない一般の学生がここまでポケモンバトルの技量を持っているとは正直思ってもいなかった。ポケモンバトルからはかけ離れたメカオタクの学生かと思っていたが、そうではないようだ。

 

「すごいバトルだ。記録は取れた?」

 

「はい、テル先輩。ばっちり学習させてます」

 

 ミクは試作機とケーブルで繋がっているノートパソコンを掲げてみせた。リアルタイムでバトルを記録し、そのままミルタンク型ロボットにデータを送信して学習させている。

 

「さすがはNさん。旅をしているトレーナーは学生とは違う力量を持っている。でも次はわからない」

 

 テルユキは独り言を呟いた。そのことに二人の後輩は何も言わなかったが、レンは軽い溜め息を、ミクはくすりと笑った。

 

 二回戦が始まる。

 

「モココ、ゴー!」

 

 ヴァニラはわたげポケモンのモココをボールから出した。それはピンクの体色で、頭部と首周りをふさふさとした綿毛が覆っている二足歩行のポケモンだ。

 

 Nは引き続きキュウコンで攻める。

 

「〝わたほうし〟!」

 

 モココは自身の綿毛を増幅させるとフィールド上に放散した。それは瞬く間にキュウコンに絡み、取り払おうとキュウコンはもがく。

 

 綿毛によって動きが鈍くなっているところにモココは素早く近づく。そして拳を一打、二打、さらにもう一打とキュウコンに浴びせる。拳を打つたびに拳が硬くなり威力が増していくその技は〝グロウパンチ〟という。

 

 思うように動けなくなってしまったキュウコンが拳の前に倒れた。

 

「……可愛い顔して容赦がないね」

 

「ありがとうございます」

 

 語尾にハートマークでも付きそうな具合でヴァニラは屈託のない笑顔を見せる。

 

 Nはゾロアークを出した。残り一匹ずつのバトルになる。

 

「〝でんじは〟!」

 

「〝こうそくいどう〟」

 

 二人同時に指示を出す。

 

 相手が仕掛けてくる戦法をお互いに読み、見事に的中したのはNの方だった。ゾロアークは文字通り高速に移動して麻痺状態にする技を避け、モココに接近する。しかし、鋭い爪で切り払おうとするも、モココが尻尾を振り回して間合いを詰められないように体勢を取った。

 

 ゾロアークは瞬時に判断して距離を取ると、暗黒の衝撃波を飛ばした。

 

 モココも強い電撃を放ち応戦する。

 

 外野にいるテルユキたちは二人と二匹による戦闘から目が離せなかった。授業の一環で行うバトル実習では見られないほどの迫力あるバトルが目の前で繰り広げられている。

 

 テルユキは幼馴染みであるヴァニラを見た。彼女の表情は生き生きとしている。

 

 ヴァニラは小さい頃からポケモンとの触れ合いに長けていた。生来から持ち合わせている明るくてうるさいのにどこか憎めない性格故か、どんなポケモンともすぐに仲良くなり、心を通わせる。

 

 ヴァニラとテルユキは子ども心にポケモントレーナーが行うようにポケモンバトルをしたことがある。バトルの仕方をほとんど知らなかったとはいえ、そのときテルユキは彼女に手も足も出なかった。

 

 二人は同じ学校に入り、同じ職業を目指す。総合的な学力はテルユキの方が上であるが、ポケモンバトルになると途端に彼女に敵わなくなる。決してバトルが不得手なわけではなく、彼女が強すぎるのだ。

 

 ヴァニラのバトル実習における成績は満点から落ちたことがない。無敗の成績を誇るのは開校されてから例を見ないと教員たちも大絶賛するほどだ。

 

 テルユキはいつしか彼女に訊いたことがある。将来はポケモントレーナーになって強さを極めるのか、と。それに対する返答は、興味がない、であった。

 

 人間とポケモンがより幸せになる発明をしたい。そのために最高のエンジニアになりたい、と彼女は熱弁した。頭の中は機械のことでいっぱいで、父親以上に重度のメカオタクであることを改めて知った瞬間でもあった。

 

 そんな彼女のバトルセンスはいったいどこから来ているのか。生まれつきのバトルの天才はそのバトルの中で真価を発揮していくからこそ天才なのだ。

 

 ゾロアークもモココもダメージが蓄積しており息が上がっている。

 

 Nはヴァニラに感嘆していた。ポケモンにも人間と同じように個々の能力などがあるわけだが、それらを最大限に活かせるように彼女は自身のポケモンの能力を正確に把握し、的確な指示を与えている。

 

 さらにはトレーナーが出す指示、それによるポケモンの動き方、フィールドの環境などあらゆる情報を見て瞬時に対策を立てることができている。

 

 彼女の頭の中には攻撃パターンがクモの巣のように張り巡らされ、すべてが繋がっている。答えがないことはない。あらゆる状況に対して突破口を持っているのだ。

 

 モココの声は純粋だった。トレーナーを信頼し、ただ一緒にバトルを楽しんでいる。そしてモココ自身もトレーナーのことをよく知っている。一心同体のような動きを見せているのはそのためだろう。トレーナーとポケモンの力量が計り知れない。

 

 Nは人間とポケモンが繋がる瞬間をもっと見たいと感じていた。

 

 そのとき、モココの身体に異変が生じた。身体が青白く輝き出し電気の弾ける音がする。小さな身体は徐々に大きくなりだし、首と尻尾が長くなる。煌々とした光が弾けたとき、姿は変化していた。

 

「やった……! デンリュウ!」

 

 モココからデンリュウへと進化を遂げたその姿は、愛らしさを残しつつもどこか勇ましい。黄色い体色が特徴的だ。

 

「まったく……。驚きだよ」

 

 Nが驚きつつも興奮を隠せないことが伝わったのか、ゾロアークも構え直して戦闘の意を見せる。

 

「〝ナイトバースト〟」

 

「〝10まんボルト〟!」

 

 二匹は再び闘い始めた。先程にも増して戦闘が激しくなる。

 

「すごいです! ヴァニラ先輩のモココが進化したのも相まって、急速に戦闘パターンを学習しています!」

 

 ノートパソコンの画面から目を話すことなく、ミクが興奮気味に報告する。予想以上にデータが収集できていることを知り、テルユキとレンも歓喜する。

 

 しかし喜びも束の間、ルカの声がその空気を裂いた。

 

「今すぐケーブルを抜いて!」

 

 三人の部員が振り向くと工場の中からルカが駆けてきた。レンが目元に貼ったはずの冷えピタは額に貼り直されている。その表情はどこか焦っているようだ。

 

「プロトタイプに搭載してる知能は完全じゃない! 暴走するわよ!」

 

 三人が困惑し試作機を見たときには遅かった。それは自ら転がりだし、その衝撃でケーブルが引き抜かれる。そのままフィールド上へと侵入して二匹の間に割って入る。

 

「ミルちゃん!」

 

 ヴァニラがデンリュウにバトルを中断させる。

 

 鉄球はミルタンクが転がるが如く、デンリュウに向かっていった。デンリュウは攻撃せずにひたすら避けることに専念する。

 

「ちょっと! どうなってるの!」

 

 ヴァニラは部員に声をかける。

 

「処理が追いつかなくて暴走したのよ! 力づくで止めるしかない!」

 

 ルカが声を張り上げる。

 

 部員たちが焦る姿を見て不測の事態に陥ったことがわかったNは、ヴァニラに声をかけた。

 

「壊すかい?」

 

「それはダメです! ミルちゃんを壊すのだけはなんとかして防がないと!」

 

 鉄球の回転速度が増し、避けきるのは困難と判断したデンリュウは取り押さえようと正面に立つも、呆気なく弾き飛ばされてしまった。ゾロアークも同じように火炎放射で鉄球の動きを封じようとするも、その威力を殺してしまうほどの回転により弾かれる。

 

 デンリュウは再び転がってきた鉄球に向かって〝グロウパンチ〟を放った。相手が転がるたびに威力を増しているなら、こちらも拳を叩き込むたびに威力が増していく技を放ち力づくで止める戦法だ。

 

 しかし、ミルタンク型ロボットは直前で変形した。回転の勢いを残したまま頭と手足を生やすと、デンリュウの拳に自身の〝ふみつけ〟をぶつけた。相殺すると再び鉄球へと姿を変える。

 

「驚いた……。ミルタンクの攻撃パターンを完全に踏まえて攻撃してる……!」

 

 さすがは私がプログラミングしただけあるわ、とルカは自画自賛を始めた。

 

 そんなことより先に打開策を考えてくれ、と後輩のレンが彼女の両肩をつかんで揺する。そのときヴァニラが叫んだ。

 

「打開策ならもうみつけた!」

 

 その顔には焦りや不安が一片もない。バトルしているときと同じように楽しさで満ち満ちている。

 

 ヴァニラの指示で、デンリュウはフィールド上に〝エレキフィールド〟を展開した。フィールド一帯に電気が駆け巡る。

 

 鉄球がデンリュウ目掛けて猛進する。

 

 デンリュウは〝グロウパンチ〟で迎え撃つ構えを取る。

 

 鉄球は先程と同じように変形すると軽く宙を跳び、踏みつけて対応しようとした。しかしそれこそヴァニラの狙っていた瞬間だった。

 

 デンリュウは即座に回転すると流れるように尻尾を使って、跳んだ鉄球を上空に打ち上げた。鉄球は成す術もなく空に飛ぶ。そしてすかさず跳び上がったデンリュウにヴァニラは指示を出した。

 

「〝かみなりパンチ〟!」

 

 握りしめた拳を横に払ったヴァニラに呼応するように、デンリュウもその拳に電気を纏わせ鉄球の上から叩き込んだ。〝エレキフィールド〟によって威力が増したその拳はミルタンク型ロボットを地面に叩きつけるには十分だった。

 

 それは地面にめり込み、白い煙を上げた。技の衝撃で四肢が取れ、拳を打ち込んだ箇所は凹んでいる。

 

 部員たちはすぐに駆け寄り壊れ具合を見た。

 

「プロトタイプとはいえ、良い出来だったのに……」

 

「中身、まだ使えるものありますでしょうか……?」

 

「うわー。ヴァニラさん、見事にやってくれましたね」

 

「たぶんヴァニラのことだから、壊さずに止めることを途中から忘れてたと思う」

 

 テルユキたちは口々に嘆いた。

 

 ヴァニラも駆けてくると、そのロボットの変わり果てた姿に同じく嘆き膝をつく。雰囲気が一気に暗くなるのをNは感じた。どうしたものかと困っていると、ミクはおもむろにケーブルをロボットに繋いだ。

 

 キーボード上を指が躍ると驚きの声を上げた。

 

「データ生きてます! 暴走後のデータ、残ってます……!」

 

 その朗報にヴァニラたちは歓喜した。威力の増したあの技の衝撃でよくもデータが生き残っていたものだと飛び跳ねる。

 

 ミルタンク型ロボットは、暴走していたにもかかわらず強さと頑丈さを見せつけてくれた威厳を評して、「暴れミルタンクのミルちゃん」というなんともネーミングセンスの欠片もない名前をヴァニラによって命名された。

 

 その後、ロボットはフィールド上から撤去した。

 

 もちろんNも手伝った。彼にとって和気あいあいとした雰囲気の中で誰かと作業をするというのは初めてのことであった。これまではポケモンのために尽力してきたが、人と触れ合うのも悪くないとNは感じた。

 

「Nさんはいつまでコガネにいるんですか?」

 

 Nはバトルで荒れたフィールドをヴァニラとともに直している。

 

「どうだろう。次の目的地が決まるまでかな」

 

 彼女の顔は良いことを聞いたとでも言わんばかりの笑みになる。

 

「それなら、私たちの製作に少し付き合ってください! 協力してくれるトレーナーがいなくて困ってたんですよ」

 

 ポケモンバトルの続きができる、とヴァニラははしゃいだ。バトルする前は微塵も見せなかったが、可愛い見た目とは裏腹にどうやら闘うことがかなり好きらしい。

 

 ポケモンバトルの才能がありつつも、あくまで極めたいのは技術者の道。彼女が望む人間とポケモンが幸せになる世界を、発明を通して成し遂げようとしている。自身で切り開こうとしているその揺らぎのない信念が、Nには眩しく見えた。

 

「私、世界各地の技術力を学びたくて、旅に出たいんです。ホウエン地方のラルースシティとか、カロス地方のアゾット王国とか。だから今度、Nさんの旅の話も聞かせてください」

 

 このことはまだみんなには内緒で、とヴァニラは顔の前に人差し指を立てる。

 

 作業に戻った彼女の後ろ姿をNは見た。

 

 人間やポケモンにとって理想的な世界とはどんなものだろうか。

 

 理想的な世界を求めるためには、世界の真実を知らねばならない。それが未知の世界に繋がるための方法になり得るかもしれない。

 

 気が付くと、暗くなってきている空に街の明かりがぼうっと映えていた。旅路はまだまだ長そうである。

 

 

 



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VS料理人と大火豚

 そこは島。空と海に囲まれ、ゆったりとした時が流れている、アルトマーレ。ジョウト地方、ヒワダタウンの南の沖に位置し、ヨシノシティの近くからフェリーが出ている。

 

 アルトマーレは水の都とも呼ばれており、その名の通り、水とともに暮らす街として知られている。島には水路が張り巡らされており、物資の輸送や移動手段はゴンドラという小舟で行われている。

 

 世界の様々な場所を見てもアルトマーレのような地域は類を見ず、その珍しさから多くの観光客で賑わうことでも有名だ。

 

 Nはその異国情緒な雰囲気に酔っていた。イッシュ地方、はたまたカントー地方やジョウト地方の町並みとも似つかないその雰囲気はどこか神秘的で、いつまでもそこに留まっていたくなる。

 

 陸地がほとんどない分、先人たちは知恵をしぼり、水路をつくった。そしてその水路を移動するための手段としてゴンドラが生まれた。ゴンドラを操縦するのは水先案内人と呼ばれる漕ぎ手であり、住人はそれに乗って移動する。まるで海の上を進むタクシーそのものだ。

 

 Nは観光も兼ねてこの街を訪れていた。水に生かされている人々の歴史が詰まったこの街に、以前から興味があったのだ。ジョウト地方を訪れた際はぜひとも立ち寄りたい。そう思っていたことが今まさに実現している。

 

「――なるほど。それで漕ぎ手に女性の参入が始まったんだね」

 

 Nはゴンドラの漕ぎ手であるマレに返答した。ショートボブを少し伸ばしたブロンドに緩いパーマをかけた髪型の彼女は、落ち着きがあり、笑顔が素敵である。

 

 ゴンドラ業界には元々、男性の漕ぎ手しかいなかったのだが、観光客の増加や業界に華やかさを持たせるために数年前から女性の参入が始まったらしい。今はまだ人数は多くないものの、女性の漕ぎ手は増えつつあるということだった。

 

「有り難いことに、たくさんの方々が乗りに来てくださるんですけど、まだまだ駆け出しの身なので腕を磨いている最中なんです」

 

 彼女は控えめに話しているがオール裁きは見事なもので、蛇行運転もなく、他のゴンドラとの距離感をきちんと計算して適度な速度で運転している。口と手を同時に動かす姿からその力量が窺えた。

 

「そういえば、あの像はもう見ましたか?」

 

 街を二分するようなS字型の大運河に面した広場の前を差し掛かった時だった。

 

「像?」

 彼女が指差した方向には、二本の円柱がそびえ立っているのが遠目に見えた。それぞれの円柱の頂上には、何やら双翼のようなものを持つ銅像が向かい合うように設置されている。

 

「アルトマーレの伝説に出てくるポケモンです。右がラティオス、左がラティアス。昔、この街を災厄から護ってくれたそうです」

 

「災厄? 自然災害のようなものか何かかい?」

 

「それが何だったのかははっきりとわかりませんが、伝説には空から邪悪な怪物が現れた、と語り継がれています」

 

 Nは空を見上げた。先程まで晴れていたのだが、徐々に曇りつつあった。一雨降りそうである。

 

「ラティオスとラティアスは空から仲間を呼んで、『こころのしずく』という宝石をこの地に持って来させると、邪悪な闇を追い払いました。それからは、『こころのしずく』があるこの島が、邪悪な怪物に襲われることは二度とありませんでした」

 

 ラティオスとラティアス――伝説に語り継がれる二匹のポケモンが、この水の都と人々を邪悪なるものから護った。なぜそうまでして、彼らは護ったのか。島の美しさに惚れたのか、人々の慈愛に惚れたのか、それとも他に護らなければならないものがあったのか。

 

 Nが気にかかったのはそれだけではなかった。『こころのしずく』というものに興味が惹かれていた。もし伝説が本当であるのならば、その宝石を一度目にしてみたいものだ。

 

「このアルトマーレは、ポケモンによって救われたんだね」

 

 Nの言葉に、水先案内人はふふっと笑った。

 

 ふと、香ばしい匂いが潮風に乗って鼻をくすぐった。とても食欲をそそられる香りだ。匂いの元を探して四方に顔を動かしていると、彼女も匂いに気付いたのか、水路を指差した。

 

「そこの角を曲がると、美味しいレストランがあるんです。私のおすすめですよ。ドライブスルーもできますし」

 

「いい匂いだね。寄ってみてもいいかな?」

 

 もちろんです、と言ってマレは水路を右に曲がった。難なく曲がってしまうところが、さすがはプロのゴンドラ乗りである。

 

 曲がった先には、たしかにレストランがあった。正規の玄関は水路とは反対側の道路上にあると思われるが、水上デッキにゴンドラ置き場が設置されているため、どうやらこちらの水路側からも上がれるようだ。

 

 ゴンドラを降りた二人は水上デッキに上がった。デッキには八席ほどあったが、曇ってきたからだろうか、埋まっているのは一席のみだ。

 

 黒のサングラスをかけた女性が座っている。黒いシースルーのワンピースを着ており、袖や胸回り、スカートがレース素材で透けていて上品である。服から覗く腕や脚は白く、それらも相まって美しさを醸し出していた。コーヒーを飲んでいる姿が優雅である。

 

 水上デッキから店内へと続くガラス張りのドアから中をちらりと覗くと、店内は賑わっている様子だった。

 

 ドアの横にはカウンターがあり、キッチンと併設されている。作った料理をカウンターに通すと、すぐに顧客に提供できるという理に適ったものだ。

 

「こんにちは」

 

 彼女はカウンターに近づくと、中に声をかけた。

 

「やあ! いらっしゃい!」

 

 声とともに男性がカウンターの中から顔を覗かせた。茶色い短髪をワックスで固め、ワイシャツ、ズボン、腰に巻いているエプロンは、少しでも汚れを目立たなくするためか、すべて黒で統一されている。顔つきは凛々しく、堀が深い。水先案内人の彼女に見せたその笑顔は、多くの女性を虜にしてしまいそうなほど甘いものだった。

 

「この方は店長のバジルさんです」

 

 紹介されたバジルはNの方に顔を向けた。その瞬間、先程まで彼女に見せていた笑顔とは打って変わり、口元は笑っているものの、目は笑っていなかった。表面上だけ笑顔を見せているのがわかる。理由は不明だが、敵視でもされているかのようだ。

 

「よろしく。バジルだ」

 

「Nと言います。よろしく」

 

 バジルはすぐにマレへ視線を戻し、再び笑顔をつくった。

 

「中で食べていく?」

 

「ごめんなさい。まだお仕事中で……。名物のハンバーガーを買って帰ります」

 

「そうか。ま、いつでも店で待ってるよ」

 

 ちょっと待ってて、と言い残してバジルはキッチンに戻っていった。

 

 注文した料理が出来上がるまでの間、デッキ席に座って待つことにする。

 

 灰色の雲が空を埋め尽くし、天気はすっかり下降気味だ。風も出てきて、少し肌寒くも感じる。

 

「このお店、すごいんですよ。開店したらたちまち人気店になって。噂を聞きつけて国外からやって来る人も多いんです」

 

 マレはそう口火を切った。

 

 バジルは半年前に突然アルトマーレにやって来て、今のレストランを開店したそうだ。彼の料理を食した人はその美味しさに舌鼓を打ち、たちまち口コミが広まって、レストランはアルトマーレの有名店へと変貌を遂げた。

 

 今では観光客にも人気のグルメ店として知られており、連日多くの客で賑わっている。特に夏期時は大変な盛況ぶりで、予約しないと入れないこともしばしばらしい。

 

 また、彼女によると、バジルはカロス地方で有名な凄腕のシェフと交流があるようで、一度彼がお忍びで来たことがあるとの目撃情報も出ていた。その時はバジルの料理を食べた後で、何やら二人で話していたかと思うと突然口論を始め、カロス地方のシェフはさっさと店を後にしたそうだ。

 

 きっと同じ料理人同士でしか理解できないことがあったに違いない。ただでさえ同じ人間同士でも、他者を完全に理解することなど困難な話なのだ。

 

 口論で事が収まったならよい方である。仮にもその場でポケモンバトルなど始めてしまえば店や周辺にも被害が及んだであろう。料理の争いにポケモンの方も巻き込まれてしまってはいい迷惑である。

 

 ハンバーガーを入れた紙袋を持ってバジルが現れた。

 

「マレちゃん、あの野郎の話はしないでくれよ」

 

 困った表情を浮かべながらテーブルに紙袋を置いた。マレが注文したハンバーガーが入っているのだろう。焼いた肉のとても良い香りが袋から漏れている。

 

 バジルは親交のあるカロス地方の料理人のことは口にもしたくないようで、あんな奴よりも俺の方が上だ、としきりに言っている。

 

「それにしても、雨が降りそうだね」

 

 Nの言葉に、マレは顎に人差し指を添えて何かを思い出しかのように話し始めた。

 

「たしか、嵐が近づいているんでした! でも予報だと明日の夜くらいからだった気がするんですけど」

 

 マレは紙袋からハンバーガーを取り出すと、Nに一つ手渡した。

 

「ボクに?」

 

「そうですよ。お店に寄りたいと仰ったのはNさんなので、ぜひ食べていただかないと」

 

 店の雰囲気を見てみたいと思っただけで、食べたいとは一言も言っていないのだがと思いつつも、Nはそれを受け取った。せっかくなので食べることにする。

 

「あっ!」

 

 包み紙を剥がしていざ食べようとすると、マレは小さく驚いて見せた。彼女の視線が水路のある方を見つめていたため、Nもその視線の先を追うと、そこには頭部から巻き毛が飛び出したポケモンが、デッキの下から顔を覗かせていた。

 

「おう。また匂いに釣られてやって来たのか」

 

 バジルはかえるポケモンのニョロトノに話しかけた。ニョロトノは呼応するかのようにひと声鳴くと、デッキの下から上がってきた。緑色の体色に、ぱっちりと開かれた大きな瞳、腹部には渦巻き模様を持ったその小さな身体はどこか愛くるしい。

 

 バジルとマレの表情から見るに、二人は現れたニョロトノのことを知っているようだ。

 

 ニョロトノは近づいてくると途中で立ち止まり、じっとこちらを見ている。いや、その視線はNの手元へ注がれていた。

 

 ハンバーガーをわずかに前へ差し出すと、ニョロトノは舌を伸ばして手元から奪い取った。その動きは素早く、また、小さなハンバーガーを正確に奪取した器用さにNは感嘆した。

 

「まったく。人のものを横取りするなとあれほど言っているのに……」

 

 悪いな、とNに言うと、バジルは困ったように頭をかきながら店に入っていった。作り直して持ってきてくれるそうだ。先程感じた敵意のようなものはどこへやら、その優しさは料理人としてのプライドから来ているのだろうか。

 

「すみません、Nさん。あのニョロトノ、食いしん坊なんです」

 

「大丈夫だよ。それにあのニョロトノ、わざとやっているみたいなんだ」

 

「わざとやっている?」

 

「うん。人間とかかわりたくて、でもコミュニケーションの取り方をどうしたらいいのかわからなくて、照れ隠しのように人の食べ物を取っているみたいだ。それでコミュニケーションを図ろうとしているんだね」

 

「ということは、好きな女子に素直になれずに、ついついちょっかいや意地悪をしてしまう、小学生男子のような感じですね!」

 

 例えがよくわからなかったが、なぜかマレは一人で納得したように頷いている。彼女なりにうまく解釈しているのならそれでいいだろう、とNは口を挟むことをやめた。

 

「ところで、どうしてそんなことがわかるんですか? ニョロトノと話したわけでもないのに」

 

「ボクにはポケモンの〝声〟が聴こえるんだよ」

 

「ポケモンの〝声〟……?」

 

「うん。〝心の声〟」

 

「〝心の声〟……」

 

 マレはニョロトノを見た。ハンバーガーを美味しそうに食べながら、時折Nの様子を窺っている。それはまるで、Nの言うとおり、人とコミュニケーションを取りたがっているかのようだ。

 

「素敵な力ですね。ポケモンのことをより理解できそうです」

 

「でもこの力を持っていなくても、ヒトとポケモンは固い気持ちで結ばれることができる」

 

 Nは思い出していた。ポケモンの〝声〟がわからなくても、わからないからこそ彼らの気持ちを理解しようと人間は語り続け、ポケモンはそれに応えようとする。時々お互いの気持ちが衝突することもあるが、それを乗り越えた先には揺るぎない関係性が築かれる。イッシュ地方で出会った、あの英雄のように。

 

「本当に〝心の声〟が聴こえるの?」

 

 声の聴こえた方を振り向くと、同じデッキ上の席に座っている黒いワンピースを着た女性がこちらを見ていた。

 

「ごめんなさい。会話が聞こえたもので気になってしまって」

 

 女性はひと言謝りを入れた。落ち着いたその挙動は大人な対応である。

 

「私は〝心〟に興味があるの。このアルトマーレに滞在している理由も、それ」

 

「なるほど。〝心の声〟と〝心〟に関連性があるかもしれないと思ったのか」

 

 まぁそんなところ、と彼女はコーヒーを一口飲んだ。

 

「見ることも触れることもできない。ましてや〝心の声〟なんて聴くことすらもできない。それなのに私たち人間は、〝心〟がそこにあるかのように振る舞う。不確かなものを信じている」

 

 女性がニョロトノに目を向ける。

 

「聴こえた〝心の声〟は幻聴でなくて?」

 

「幻聴ではないよ。ボクにはポケモンの気持ちが、考えていることがわかる。彼らが話してくれるから」

 

 サングラスの下の表情はわからないが、女性はNの言葉に微笑んだ。

 

「アルトマーレの伝説を、あなたは知ってる? そこの水先案内さんは当然知っているだろうけど」

 

 ゴンドラに乗っているとき、マレが話してくれた伝説を思い出す。話の中には『こころのしずく』と呼ばれる宝石が出てきた。

 

 女性はその伝説を読み聞かせるように抑揚をつけて話し始めた。

 

 

 昔々、アルトマーレという島におじいさんとおばあさんがいました。

 

 ある日、二人は海岸で小さな兄妹が怪我をしているのをみつけました。

 

 おじいさんとおばあさんの手厚い看護で、二人はみるみる良くなっていきました。

 

 しかし突然、邪悪な怪物が島に攻めてきたのです。

 

 島はたちまち怪物に飲み込まれました。

 

 と、そのとき、おじいさんとおばあさんの目の前でふたりの姿が変わっていきました。

 

 ふたりはむげんポケモン、ラティオスとラティアスだったのです。

 

 二匹は空から仲間を呼び寄せました。

 

 彼らは邪悪な闇を追い払う力を持ってきてくれました。

 

 それは『こころのしずく』という宝石だったのです。

 

 島には平和が戻りました。

 

 それからというもの、『こころのしずく』のあるこの島に、ラティオスとラティアスたちはしばしば立ち寄るようになりました。

 

 この島が邪悪な怪物に襲われることは、その後、二度とありませんでした。

 

 

 

「これが、語り継がれている伝説。『こころのしずく』とは何なのか。それが〝心〟なのか。私はそれを知りたいの」

 

 彼女は〝心〟に捕らわれている。Nはそう思った。〝心〟という言葉を強調しているところを見るに、固執してしまうほど、強力な出来事があったのだろうか。

 

 天候を気にするように女性は空を見上げた。風が強く吹き始める。

 

「あなたには、またどこかで会えそうな気がする」

 

 そう言うと、女性は席から立ち去った。入れ違いでバジルが再び袋を持って店内から出てくる。

 

「なんか、不思議な人でしたね。風のように去って行っちゃいました」

 

「……そうだね」

 

 やって来たバジルから受け取った紙袋に水滴の滲みができる。雨が降り始めた。

 

 今夜は海が荒れそうだということで、マレによるアルトマーレの観光案内は後日ということになった。風も強いため、ゴンドラは店に停泊させてもらうことにし、店を後にする。

 

 帰り際にニョロトノを見るとどこか寂しげな表情でこちらを見ていたが、嵐が来ていることを悟ってか、運河の中へと姿を消した。

 

 水の都の中は複雑に入り組んでおり、宿泊先まではマレが案内してくれることになった。どこもかしこも早めに店仕舞いをし、人々は足早に自宅やホテルへと戻っていく。野生のポケモンも自然の被害に遭わないよう、自らの住処へ移動している。

 

 宿泊先に着くころには風も雨脚もだいぶ強くなっていた。

 

「明朝にかけて嵐が通過するようなので、お昼ごろにバジルさんのレストランで待ち合わせにしましょう。何かあればまたご連絡しますね」

 

 マレは礼儀正しくお辞儀をすると、雨の中を急いで帰っていった。ここの地理に詳しくないとは云え、こんな嵐の中を女性一人で帰らせてしまったことに、Nは少なからず罪悪感を抱いた。

 

 食堂で食事を済ませて部屋に戻る。部屋にあるのは一人用のベッドとバスルーム、そして机。平凡な個人用の客室である。

 

 机の上には本がいくつか用意されている。いずれも観光客向けのようだ。その中の一冊をNは手に取った。

 

 ぱらぱらとページを捲ると、子どもでも理解しやすいような表現や文章とともに、挿絵が描かれている。読んでみると、昼間に話を聞いた、アルトマーレのおとぎ話を子ども向けに翻訳したもののようだった。

 

 各地に伝説があるが、アルトマーレのそれは興味深い。伝説のポケモンが傷ついていたところ人間の老夫婦に助けられ、その恩返しとでもいうかのように、この島を災厄から護った。そしてその後も、この島は彼らの力によって護られ続けている。

 

 ラティオスとラティアスは、相当高い知能と、人間にほど近い感情を持っているのかもしれない。人間から救われたことを彼らは覚えており、それを仲間に共有することができる。仲間はその出来事を後世へと継ぎ、人間も救われた感謝の念を忘れず、双方は救い救われたこの自然の島で共存している。

 

 まるで模範的な共存の仕方だ。この島はボクの理想の世界に近いかもしれない、Nはそう思った。

 

 他にはどのような本があるのか見てみると、観光ガイドの冊子が目に入ったため手に取ってみる。水上レースの祭りが年に一度の頻度で開催されているらしい。水上をポケモンに引っ張ってもらい、勝敗を競うというものだ。

 

 ページを進めると、アルトマーレが誇る、聖堂も兼ねた博物館の特集が載っていた。いくつかの展示物とそれについての解説が掲載されている。古代ポケモンの化石や遺物、アルトマーレグラスと呼ばれる伝統工芸品のガラス細工など珍しいものが多く展示されていると書かれている。

 

 その中でもひと際大きく写真が掲載されている展示物があった。古代機械という説明書きがある。球体やリング、計測器のような歯車、支えとなる脚のようなもので構成されており、形は歪だが、まるで巨大な天球儀や天体観測器のようである。

 

 それは圧巻の一言だった。錆ついているのか銅製なのか、天窓から差し込む光で鈍色に輝くその姿は、異様な雰囲気を発していることが写真から伝わってくる。

 

 実際に目にしてみたら、きっと空気がずっしりと重くのしかかってくることだろう、とNは想像する。そしてこの機械はいったい何の目的で造られたのだろうか。厳密に説明されていないのが気になるところだ。

 

 地図を見てみると、この宿から展示されている建物まではそう遠くないことがわかった。明日、マレに頼んで連れていってもらおう。

 

 窓に近づき、外の様子を窺った。嵐はかなり荒れており、海は水しぶきを上げ、時々雷鳴が轟く。陸地にも水が流れ込んでいることから、天候は最悪であることがわかる。

 

 こんな天気では景色を楽しむこともできない。別な本を手に取ったNがベッドに腰かけようとしたとき、液体が強くかかる音がした。雨にしてはおかしい。バケツの水を勢いよく壁にかけたような感じで、風に煽られて海水が窓に打ちつけられたのかと一瞬思う。

 

 しかし、同じことがもう一度起きた。窓に放水されているようだ。

 

 窓際に近づいてみると、昼間に出会ったニョロトノが近くの水路から顔を出してこちらを見ていた。ゴンドラをロープで繋ぎ留めておくための杭にしがみつき、必死で流されないようにしている。

 

 Nは部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。宿を出てニョロトノの元へと向かう。

 

 ニョロトノはNの姿を見るや否や、彼に飛びついた。

 

「どうしたんだい?」

 

 Nが問いかける。

 

 ニョロトノは服を引っ張りながらとある方向を指差した。先程冊子で見た聖堂がある方だ。

 

 彼はNに訴えかけた。あの黒い人間が恐ろしいことを考えている。止めるべきだ、と。

 

「黒い人間……」

 

 もしかして、昼間のレストランで近くに座っていたあの女性だろうか。たしかに不思議なことを言っていた。やたら〝心〟という単語を発しているのが印象的だった。

 

 Nも気になっていた。彼女はいったいどういう意図で自分たちに話しかけてきたのか。そして彼女はこうも言った。また会えそうな気がする、と。なぜ彼女はそう思ったのだろう。

 

 とにかく、確かめてみるしかない。Nはニョロトノの後を追うことにして走り出した。

 

 途中、何度も水しぶきがかかる。さらに暴風によって身体が吹き飛ばされそうになるのをなんとか堪えつつ、Nは足を動かした。衣類は水を吸って重くなり、体温が低くなっていくのを感じる。前に進むのがやっとの状態だ。

 

 聖堂に着いたとき、凄まじい被害を目にした。聖堂の前は広場なのだが、海水が流れ込んで水浸しになっている。すでに脛のところまで浸水しており、水位が上がっていくのは時間の問題だ。事の真相を一刻も早く確かめねばならない。

 

「あら。こんなところで何をしているの?」

 

 背後からの唐突な声に振り向くと、黒いフードを被った何者かが立っていた。だが、それは聞いたことのある声で、昼間に出会ったあの女性のもので間違いなかった。

 

 しかし、服装が昼間と異なる。見覚えのある黒い外套を纏っており、周囲の闇と同化している。

 

「キミは……」

 

「近いうちに会えるとは思っていたけど、まさかこんなにも早く会えるなんてね」

 

 フードを外しながら、彼女はそう答えた。サングラスはかけていない。その顔立ちは美しく、透き通るような肌の白さだ。

 

 彼女はNの後方にいるニョロトノに気が付くと、なるほど、と呟いた。

 

「昼間のその子が、私の動向に気が付いてあなたに知らせたのね」

 

 彼女はNの横を通り過ぎ、聖堂の前に立つ。

 

「どうしてかしらね、トレーナーでもないあなたに教えたのは。あなたたちの間には何があるの?」

 

「ボクと彼の間にはまだ何もない。でもボクは彼の声を聴き、それに応えた。ただそれだけだよ」

 

「あなたが言っていた〝心の声〟というやつかしら? それを聴いてくれるあなたをニョロトノは信じ、あなたはそれに応じて動いた。そういうこと?」

 

 信じられないとでもいうように彼女は首を横に振った。

 

「そういうキミは、何をしようとしているんだ? 〝心〟にご執心のようだけど」

 

 彼女と視線が交差する。その瞳は美しい青色をしていたが、細められている。

 

 彼女は深く息を吸い、そして吐く。まるで動悸を落ち着かせるように。

 

「私は――いえ、私たちは、ある目的のために動いている。人間の在り方を、ポケモンの在り方を、世界の在り方を変えるために」

 

 Nは眉根を寄せた。自分でも抱いたことのある理念が、彼女から近いものを感じる。

 

「ポケモンの力を不思議に思ったことはない? 自然界をも揺るがすことができる力を彼らは持っているのに、無力な人間に使役され、利用されている」

 

「……だからヒトからポケモンを解放するとでも?」

 

 そんなことではない、と彼女は首を横に振り、笑う。

 

「あなたができなかったことを、私たちができるとでも思っているの?」

 

 彼女の口からは、まるでこれまでのNを見てきたかのように、彼の過去が語られた。

 

 ポケモンの解放を謳い、伝説の英雄を使ってイッシュ地方を混乱にまで陥れた。しかしそれは一般のポケモントレーナーによって阻止されて失敗に終わり、今では国際警察によって極秘に指名手配されている要危険人物であることを。

 

 どこで調べたのか。彼女たちの情報網は侮れない。

 

「ポケモンは本当に人間に使われているだけなの? 本当はいつでも人間に取って代われる存在だと腹の底で笑っているんじゃないの?」

 

「そんなことはあり得ない。ボクは彼らの声を聴いているけど、彼らはそんなことは一度も言ったことがない」

 

「それは表面上の声ではなくて? あなたは彼らの言葉の裏にある真意まで見極めているの?」

 

 Nは黙った。彼女の言葉には何か確固たる芯がある。どのような反論をしてもそれは揺らぐことはない。

 

「私たちは人間とポケモンの関係性を壊して、この世界を変える。そのためにはどんな手段も択ばない」

 

 彼女はモンスターボールを取り出した。半分が黒いそれは、以前にも見たことがある。カントー地方とジョウト地方にまたがるシロガネ山で遭遇した男が使用していたものだ。その男は伝説のポケモンを捕獲しようとしていた。

 

「キミは、この島を護っているという伝説のポケモンを捕まえる気なのか?」

 

「いいえ」

 

 彼女はひと言、短く呟く。

 

 Nは彼女の背後にある聖堂を目にした。ニョロトノがこの場所に連れてきたこと、そしてその場所に彼女がいたことを考えれば、あの聖堂の中に何かがあるに違いない。

 

「アルトマーレの伝説には続きがあるのを知ってる?」

 

 風の強い豪雨の中でも、彼女の声は一言一句耳に届く。

 

 水位が徐々に上がってくるのを感じながら、Nは真っ直ぐに彼女を見た。

 

「おじいさんは『こころのしずく』の力を、この島を、永遠に護るために使うことにした。つまり、『こころのしずく』の力を利用する装置を人間が造り出したのよ」

 

 Nは宿屋で読んだ観光雑誌を思い出した。あの中で最も印象深く残ったものがある。未だ何のために造られたのかは不明であるとのことが書いてあったが、反対にその説明が暗に何かを隠しているかのようにも捉えられた。

 

「古代の機械か」

 

「そう。人間は力を得るために、ポケモンが持ってきた圧倒的な力を利用した。昔から人間は、その存在を誇示し、高めようとした。私たち人間は、もっともっと高く昇れる」

 

 彼女は天を仰ぎ見た。

 

「そしてすべてを愛し、愛される存在へとなることができる。ボスはそう言った」

 

 今度はNが首を横に振った。彼女たちもまた、己の勝手な欲のために、ポケモンを、人間をも傷付けようとしている。

 

 なぜそのような方法でしか世界を変えることはできないのか。その盲目的な崇拝が何も考えていない考えを呼び起こし、この世界を破滅へを導いていしまうことになぜ気が付かない。

 

「キミたちは、キミたちのボスは、いったい何をしようとしているんだ?」

 

「……それを知るには、まだ早すぎるわ」

 

 彼女はモンスターボールを前に構えた。その中から飛び出してきたのは見たことのないポケモン。人間、それも女性的な容姿で、一見するとほうようポケモンのサーナイトのような姿をしているが、サーナイトの頭頂部にはない器官のような突起があり、さらに両肘には刃物のような突起もある。

 

 Nはその赤い瞳孔を覗き込むように見た。

 

「……やはり、二つの声が聴こえる」

 

「そう。サーナイトとエルレイドの力を持った、キメラポケモンのヴァルキリア。私はそう呼んでいるわ」

 

「美しくない数式だ。命を軽んじているにも程がある」

 

「なら、どうする?」

 

「キミを止めて、古代の機械へは近づけさせない」

 

 まるでその言葉を待っていたかのように、彼女の顔からは嬉しさが満ち溢れる。

 

「では、闘いましょう! 私のヴァルキリアが、あなたの闘いを見定めるわ!」

 

 白く煌めくヴァルキリアが戦闘態勢を取る。

 

 Nもモンスターボールを構えようとしたとき、今まで状況を見守っていたニョロトノが彼の前に飛び出し、ヴァルキリアと対峙した。

 

 優しい人間のいるこの美しい都を汚させはしない。彼からその思いがひしひしと伝わってくる。

 

「そうか。キミも怒っているんだね。ならば一緒に闘おう!」

 

 その言葉を合図にニョロトノは勢いよく駆けだした。あっという間に距離を詰めると拳を放つ。しかしそれはヴァルキリアの伸縮自在の肘の刃によって防がれた。

 

 すぐさま距離を取ると、〝ハイドロポンプ〟で水を激しい勢いで発射した。

 

 ヴァルキリアは〝サイコキネシス〟で水流を四方に分散させて攻撃を防ぎ切ると、水面を滑るように移動した。

 

 サーナイトとエルレイドはともにエスパータイプの力を持つポケモンだ。二匹の力が合わさっている今、サイコパワーで浮遊し水面を移動することなど造作もないことだろう。

 

 凄まじい速さでニョロトノに近づくと、鋭い刃で〝つじぎり〟をする。ニョロトノは思わず膝をついた。

 

「あなたのことを調べてとても興味があったのだけれど、見込み違いだったかしら。ポケモンを傷付けるだけのポケモンバトルは嫌い。以前にあなたはそう言っていたようだけど、今のあなたは正にそれ。ポケモンの〝声〟が聴こえるはずなのに、その力を活かしきれず、ニョロトノを傷付けさせている」

 

 ポケモン勝負とはポケモンを傷付けること。たしかにそう捉えて忌避していた。

 

 しかし、そんな単純なものではないと僅かでも感じたからこそ、その真実を解き明かすためにこうして旅に出た。世界を、自分を変えるための数式がどこかにあるはずだと思ったのだ。人工的にポケモンを造り出し、命を弄ぶ所業をしている奴らに言われる筋合いはない。

 

 Nは何も言わずニョロトノの前に立った。それを見た彼女は可笑しそうに笑う。

 

「まさか。無力な人間が、ポケモンからポケモンを守るわけ? あなたはそれほどまでに愚かな人だったの? イッシュの伝説のポケモンは、どうやら英雄を択び間違えたようね」

 

 彼女の指示により、ヴァルキリアが胸の前で電気エネルギーを生成し始める。

 

「最後だから、私がここに来た目的を教えてあげる。これを使って古代の機械を動かすためよ」

 

 彼女は純黒の球体を取り出した。妖しげに青黒い輝きを放っている。

 

「これは私たちが科学技術で作り出した『こころのしずく』。これを古代の機械で動くかどうか確かめるの。そして人もポケモンもこの島も、すべてを変えることができたら、ひとまず目的は成功ということになるわ」

 

「……そんな方法で世界を変えても、良い結果にはならない。ボクが断言する」

 

「そんなこと、知ったことではないわ。私はただ、あの人について行くだけ」

 

 彼女は一度目を瞑り、何かを決意したように再度目を開いた。

 

「私はグレイ。さようなら、N。もっと違うかたちであなたに会いたかったわ」

 

 その言葉を合図に、ヴァルキリアは〝10まんボルト〟をNに向けて放った。闇夜の中を一筋の青白い電気が走る。

 

 しかしNに直撃する寸前、その攻撃は横から放たれた火炎放射によって防がれた。

 

「おい、何やってる? 死ぬ気か」

 

 衝突した攻撃の爆風の中から現れたのは黒服のバジル。昼間のレストランの経営者兼料理人の男が煙草を口に咥えて立っていた。

 

 その横には〝かえんほうしゃ〟という技を放ち口元から火の粉が漏れている、おおひぶたポケモンのエンブオーがヴァルキリアに対して睨みを利かせている。

 

 本来、この豪雨のような状況であればほのおタイプのポケモンは活動力が低下する。だがその影響を微塵も見せず、あの電撃を掻き消すほどの火力を放った巨体の首周りからは荒々しいほどの炎が燃え盛っている。逞しいという言葉が相応しい出で立ちだ。

 

「アナタこそ、ここで何を?」

 

 偶然通りかかったんだ、とあり得ないであろう返答をバジルは煙を吐きながら答えた。次いでグレイを見る。

 

「昼間の麗しいお姉さんですね。よくわからないが、その黒い球で良くないことをしようとしているのだけは理解しましたよ。綺麗なだけに非常に残念です」

 

 昼間のNに対する態度とは打って変わり、とても紳士的な物腰になる。

 

「見た目が綺麗だからといって、中まで綺麗だとは限らないわ。それに女はみんな、秘密を抱えているものよ」

 

 グレイは鼻で笑い、バジルの言葉を一蹴した。

 

 仕方ない、と言ってバジルは煙草を放った。煙草はバジルの足元に落ちると、ジュッという音ともに水に呑まれて消える。

 

「女性とは争いたくない主義なんだが、今回はこのアルトマーレのために闘うか。協力しろよ」

 

「……言われなくとも」

 

 ニョロトノとエンブオーが雄叫びを上げる。それぞれ〝ハイドロポンプ〟と〝かえんほうしゃ〟を放つ。

 

 ヴァルキリアは〝サイコキネシス〟で二つの攻撃をぶつけ合わせて相殺させた。水と炎の化学反応により、辺りに水蒸気が広がる。一瞬お互いの姿が見えなくなるも、すぐさまサイコパワーで水蒸気を吹き飛ばす。

 

 吹き飛ばしたのも束の間、眼前にはエンブオーがその拳を叩きつけようと振り上げていた。ヴァルキリアは両肘の刃を伸ばし、その攻撃を防ぐ。その強くて重い拳を受け止めた衝撃で、ヴァルキリアの足元が沈み、衝撃波により水飛沫が起こる。

 

 目を見開いたヴァルキリアはその超念力によりエンブオーを吹き飛ばした。しかしその後ろからニョロトノが飛びかかってくる。

 

 ニョロトノは手刀を振り下ろす。〝かわらわり〟という技だ。ヴァルキリアも刃を鋭く尖らせて対抗する。

 

 サーナイトとエルレイド、異なる遺伝子を持つヴァルキリアはやはり相対的にその能力が上がっているようだ。Nはシロガネ山で出くわした男と、そのポケモンのことを思い出していた。

 

 キメラポケモン――異なる遺伝子を持つ二匹のポケモンを掛け合わせて造られた、生命倫理に反するポケモン。人間の私利私欲のために生まれ、利用されている。

 

 以前闘ったのは、もうかポケモンのバシャーモとれっかポケモンのファイアローの力を持った、イカロスというポケモンだった。それぞれの身体的特徴を引き継ぎ、源となる炎の威力は、いくら相性があったとは云え、あの伝説のポケモンであるフリーザーを負かすほどに絶大なものだった。

 

 あのヴァルキリアは、ほうようポケモンのサーナイト、やいばポケモンのエルレイドの力を宿しているとグレイは言っていた。両ポケモンは進化の過程で分岐するが、種族的には同じである。力の使い方は異なるが、元々同じ力を宿しているだけに遺伝子同士の適合力が高く、また安定した力を発揮できているのだろう。

 

 サイコパワーは反則級に高く、戦闘を開始してからその力により攻撃をまともに喰らっていない。さらには遠距離攻撃と近接攻撃のどちらもできるために、全くと言っていいほど隙がない。その可憐な姿から想像できない勇ましいほどの戦闘スタイルは、まさに戦乙女と言えるだろう。

 

「もう終わりにしたら?」

 

 グレイが呆れたように二人に問いかける。ニョロトノもエンブオーも身体を大きく上下させるほどに息遣いが荒く、今に倒れてもおかしくない状態だ。

 

「――ったく、バカにされてるぞ。だがそれもそそられるものがあるな」

 

 この状態でよくわからない発言をするバジルをNは横目で見つつ、状況を打破するために周囲を見渡し、解決策を必死で考える。

 

 そのとき、バジルが声をかけてきた。

 

「一瞬でいい。あのポケモンの動きを止めてくれ」

 

 その声には何かを仕掛けようとする考えが読み取れた。Nはわかった、と言いニョロトノに指示を出す。

 

 ニョロトノはヴァルキリアの元へ向かっていくと、〝かげぶんしん〟により自身の分身を数十匹生み出した。その分身がヴァルキリアの周囲を囲う。分身が飛びかかった。

 

 本来であれば、分身と言えど、これだけの数を相手にするのも難しいところであるが、ヴァルキリアはいとも簡単にその刃で分身を掻き消した。マキシスカートをはためかせ、刃を煌めかせながら闘う勇猛な姿は目を見張るほど美しい。

 

 分身が消される寸前、ニョロトノは死角から〝れいとうビーム〟を放ち、ヴァルキリアの足下を凍らせた。一瞬、ヴァルキリアの動きが封じられる。

 

 その一瞬の機を逃さず、エンブオーが攻撃を仕掛ける。

 

 首周りの炎をさらに燃え上がらせて身体に纏い突撃する技、〝フレアドライブ〟。威力が大きい代わり、その技の反動を自らも受ける決死の攻撃だ。エンブオーの屈強な身体から放たれるそれは猪突猛進という言葉が相応しい。

 

 足下を凍らされたヴァルキリアは脱出が遅れ、その巨体に弾かれる。

 

 そしてトレーナーであるグレイの意識がそちらに向いた一瞬の隙をつき、ニョロトノは彼女の手から鈍く輝く『こころのしずく』を蹴り落とした。黒い球は壁にぶつかり砕け散る。

 

 そこで彼女の想いも潰えた。

 

「よくやった、ニョロトノ」

 

「いや、俺のエンブオーの活躍のおかげだ」

 

 二人して顔を見合わせ、ふっと笑う。

 

 グレイは雨で濡れた髪をかき上げた。雷光が彼女の顔を照らす。その表情は怒りではなく、ひたすらに相手を蔑むものだった。

 

「そんな表情も美しい……」

 

 バジルの呟きに、やはりこの男の思考はよくわからない、と思っていると、グレイは静かにひと言指示を出した。

 

「やりなさい、ヴァルキリア」

 

 グレイの感情を読み取ったのか、ヴァルキリアは最大限の力を発揮するかのように、腕を大きく勢いよく広げて体現した。今まで以上の超念力でニョロトノとエンブオー、後方にいたNとバジルまでをも弾き飛ばした。その力は凄まじく、衝撃で建物の窓ガラスが割れ、亀裂が走り、一部が破損する。

 

 水に沈み、さらに服がずぶ濡れになる。肺に水が入り込み、咳き込む。全身が鞭打ちしたように痛み、立ち上がるのも困難を極める。

 

「やってくれたわね」

 

 グレイとヴァルキリアが近づいてくる。今にも止めを刺さんとする顔だ。

 

「悪しき者が『こころのしずく』を使うとき、こころは穢れ、しずくは失われるだろう。この島とともに」

 

 不意にバジルが何かを唱えた。その眼は彼女を捉えており、彼女に向けて放たれた言葉であることがわかる。

 

「……伝説の一説ね。それが何か?」

 

「こんなことはもうやめましょう。あなたの心は穢れていないし、これからも穢れはしない」

 

「……その根拠は?」

 

「俺の作った料理を美味そうに食べていたからです。美味そうに食べる人の心は穢れてなんかいないし、悪しき者でもない」

 

 意味のわからないことを、と彼女は舌打ちをする。

 

「私には心そのものがないのよ。楽しいという感情も、怒りという感情も、すべて作っているに過ぎない。何も感じないの」

 

 そして彼女は淡々と続けた。

 

 〝心〟とは何か。それを知りたかったために、今回の任務を引き受けてこのアルトマーレにやって来た。

 

 『こころのしずく』の伝説が残るこの島で、人工的に作り出した『こころのしずく』を使った実験をすることで、〝心〟が引き起こす現象を見てみたかった。

 

 それで〝心〟が何かわかると思ったのだ。

 

「でも実験は失敗。しずくは破壊された。だから最後に、あなたたちだけは逃さない」

 

 グレイがすっと右腕を上げる。ヴァルキリアの両手の間に電気エネルギーが収束されていく。電気の弾ける音が鳴り、眩い光が辺りを照らす。

 

 止めを刺される。そう思った。

 

 しかしその攻撃は、突然の上空からの攻撃で不発に終わった。一瞬のうちに周囲が青白くなり、同時に熱を感じる。蒼炎が広場に落下してきた。

 

 ニョロトノは水の壁を、エンブオーは炎の壁を、ヴァルキリアは超念力でその攻撃からトレーナーを守る。

 

 蒼い炎は水を呑み込み、一瞬のうちに蒸発させた。辺りに水蒸気が立ち込める。

 

 ヴァルキリアの念力により、水蒸気が霧散される。広場の状況は酷いものだった。地面は割れ、凹んでいる。瓦礫があちこちにあり、蒼炎の種火が燃えている。これまでの闘いの傷痕や嵐による被害が色濃いだけでなく、たった一度の攻撃で状況を一変させるほどの力が漂っている。

 

 広場に日差しが降り注いでいる。見上げると暗雲に巨大な穴が開いていることがわかった。そしてその光を纏い神々しく飛翔しているのはイッシュ地方伝説のポケモン、レシラム。蒼い炎を操りし主がこちらを見下ろしている。

 

「……なるほど、主人を助けに来たのね。いくら何でも不利ね」

 

 グレイはNを一瞥し、変わり果てた広場を見た。瞬時に戦力差を悟り、深追いすべきではないと判断を下すと、ヴァルキリアの〝テレポート〟により戦線を離脱した。

 

 レシラムはゆっくりと広場に降り立った。

 

「ありがとう、レシラム。ボクのトモダチ」

 

 Nが駆け寄り、レシラムの頭を撫でる。

 

「こいつはたまげた。すごいな」

 

 バジルがレシラムと広場の惨状を交互に見ながら感嘆する。

 

「すまない。美しいアルトマーレをこんなかたちにしてしまった」

 

「……俺が言えたことじゃないが、なんとかなるだろ。元々この島は水とともに生きてきたんだ。これくらいの被害は何度も経験している筈だ。この島の人はみんな優しいし、今更とやかく言う奴なんかいねえよ。全部嵐のせいにすればいい」

 

 その言葉にNはふっと笑う。レシラムの背中に乗り、空を見上げる。

 

「ボクはもう行くよ。ここにはいられない」

 

 バジルを見ると、彼と目が合った。

 

「また、キミの料理を食べに来るよ」

 

「二度と来るな。そいつを連れて早く行っちまえ」

 

 バジルが顎で示した方を見る。Nの後ろには一緒に闘ってくれたニョロトノがちょこんと座っていた。その丸々とした瞳で、Nのことをじっと見つめている。

 

 Nは口角を上げながら帽子を目深に被りなおすと、新たな仲間を加え、レシラムとともに飛び立った。

 

 暗雲に開いた穴に消えていくのを見送ったバジルは懐から煙草を取り出した。濡れてしまった煙草になんとか火を点け、深く息を吐き出す。

 

「……さて、何も見なかったことにするか」

 

 バジルは傷ついたエンブオーを支えながら広場を後にした。

 

 

 



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