オー・マイ・リトルガール! (秋元琶耶)
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新生活、スタート

親の都合で関西に引っ越すことになったと知った瞬間、あたしは即関東に残りたいと主張した。家は祖父母の家がある。今はもう二人とも亡くなってしまったけれど、持ち家だし、両親もこの家を手放す気はないと云っていたので問題はないはずだ。

が、わかってはいたけど答えはNO。まだ中学2年になったばかりの子供を置いていくほど育児放棄していないとばっさり切り捨てられて、以降この手の話題は我が家でタブーになってしまった。

一応親の仕事に理解はあるつもりだ。まだまだお子様のあたしの目にも父親の仕事は立派で、誇らしい。しかも引っ越しの理由が栄転だというのだから、そのこと自体は本当におめでたいことだと思っている。

いるのだが。

 

―――その引っ越し先が、大阪だというのが、しんどい。

 

だって、正直あのお笑いのノリについていける気がしないのだ。

別に根暗なつもりはないけれど、そう、あの何でもかんでもお笑いに繋げる感じが若干―――いや、結構苦手。

お笑い番組は好きだし楽しいが、ただ見ているのと自分がやるのとは大間違いだ。

それをクラスメイトの友人に相談したら、

『大丈夫、お前ならどこででも一番を目指せるよ!』

という大変爽やかな笑顔で見当違いのエールをもらってしまった。腹立つ。この薄情者!

 

…なんてやってるうちに、いよいよ転校初日。

あたしが転校するのは四天宝寺中。もう学校案内のパンフレットからしてお笑い全開だ。

やばい。

馴染める気がしない。

どんどん自分の目が死んだ魚のそれになっていくのを感じるが、今更どうしようもないのだから人生とは本当に無慈悲だと思う。つらい。

そして案の定クラスに入ったらもう全員がお笑い芸人みたいなことになってて、ほんとこれ無理。

なんで教室に入った瞬間からこんなことがわかるかというと、転校生を盛り上げるためなのかなんなのか、みんながどう考えてもウケ狙いの格好しかしてなかったんです。アフロだったり鼻眼鏡だったり制服逆に着てたり、とにかくそういう感じ。

無理無理。

笑えないし、引くしか出来ない。

何も云えなくてひきつった笑いだけ浮かべてたら、一気に白けた空気になったっていうのも無理な理由だ。ツッコミ待ちとか知らないから。

しかもね、最悪なことにね、自己紹介してる途中にね、クラスメイトが云ったんですよ。

 

『ここは大阪なんやから、関東弁やのうて大阪弁しゃべらなあかんで!』

 

そしてドッと沸く教室。

はいもう心のシャッターが下りた音がしましたよ。

もうこれ開かないよ。永遠に閉じたまんまですよ。ガラガラがっしゃんもう閉店。

だいたい無理して大阪弁もどきでもしゃべろうものならそれはそれでこき下ろす癖に何云ってんだお前状態ですよ。

 

そんなわけで、自己紹介を終えた瞬間から、あたしはこの学校でのキャラを決めました。

無口で無愛想な根暗キャラ。

これしかない。

これなら最低限度の言葉を発するだけで生活できるに違いない。

花の中学生活を棒に振るような気がしないでもないけど、この際背に腹は代えられない。友達ができないのは寂しいが、それは高校で頑張ればいいのだ。

幸い、あたしには趣味と実益を兼ねた特技がある。中学時代は、勉強とこれに青春を捧げればいい。

 

本日から四天宝寺中2年6組、津々井 小毬。

いざ、灰色の中学生活頑張ります!

 

 

 

 

 

+オー・マイ・リトルガール!

 

 

 

 

 

*****

 

ていうやつ。

最初は短めの話が続きますが、徐々に短文で収まらず長文になっていきますが、どうぞよしなに。

全24話完結済、短編は今後ぼちぼち書いていきます。



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突然の出会い

2

 

 

 

四天王寺中に転校してきてから早一か月。実に充実した灰色の生活を送れている自分に、結構満足していたりする。

挨拶は最低限、それ以外は読書で時間を潰し、部活や委員会には所属せずに放課後は即帰る。

 

完璧だ。

なんという根暗人間だ。

我ながら完璧すぎる作戦だ。

 

おかげでクラスどころか学校にすら全く馴染めていないが、これでいい。こうなればいっそ絶対に馴染む努力などするものか。

関東の学校では明るく割と人の中心的な扱いを受けていたけれど、そのキャラはこの大阪では通用しないのは明白。

ならば最初から馴染まなければいいのだ。

 

しかもこれ、思ったより楽だったりする。無理してないというのが一番の理由だろう。

コミュニケーション能力的にはどうなんだって疑問は生じるが、いいのだ、仕方ないのだ、これでいいのだ、バカボンのパパなのだ。

それに学校生活以外では結構充実しているから、それも相まって全く苦にならない。むしろ、学校でこれだから外に出た時に一層の開放感で楽しいと思えている節もある。つまり一石二鳥なのだ。

 

しかし、あたしの趣味兼特技に目を付けた学校側に良いように使われているのは若干面白くないのだけれど。本当ならば学校にいる時間は最短でいたいのにこんな朝早くから登校しているのは、そういう理由がある。

あたしの趣味兼特技は、お花と写真。

華道ってほど仰々しいものではなく、今風に云えばフラワーアレンジメントといったところだろうか。

あたしはこれで昔からそこそこの賞を取っていて、この業界では一応名前が知れているのだ。

そしてそれを知っていた四天宝寺中の美術の先生に目をつけられて、校長室や来賓室に飾る花のアレンジを頼まれてしまった。

断ることも出来たけれど、別に名前を出して飾るわけではないのだし、作品を手掛けられるというのは単純に嬉しい。

それが例えどこからも評価されない小さな部屋の作品であっても、創作の喜びはある。

そんなわけで、今日はいつもの登校時間の2時間前に登校しているわけだ。いつもより少し早いくらいじゃあそこそこ生徒がいるかもしれない。その中を花を抱えて登校なんて目立つ真似、死んでも御免である。

「ふぁ~…」

ちょっとどころではなく寝不足だけど、仕方ない。どうせ生徒なんてほとんどいないのだし、思いっきり欠伸しながら歩いてもいいだろう。

 

それにしても、こんなに早い時間だというのにどこかで生徒の声がする。なんなんだろうと考えて、ああそうか部活の朝練かと思いつく。そういえば前の学校でも、朝もはよから練習に励む部活があったなぁ。

何の因果か部長に目をつけられていろいろつき合わされたりしたけど、今思い出してもあいつ腹立つ。でも見た目だけは最高峰だから、被写体としてはものすごく魅力的だったっていうのが更に腹立たしい。あー無性にイライラしてきた。次会うことがあったら問答無用で脛に一発お見舞いしてやろう。そして報復を受ける前にすぐに逃げようそうしよう。

 

…なんて、ぼんやりと考えながら歩いていたからだろうか。

「ぬぁ~ッ!! あかんあかん完全に遅刻やぁぁぁ!!!」

あたしは目の前に急激に飛び出してきたソレに、まったく反応できなかった。

「へ」

「んげっ!?」

気付いた時にはもう手遅れ。

茂みから飛び出してきたソレとあたしは、ものの見事にぶつかった。

痛いとかびっくりしたとかそういうことよりも、あたしは咄嗟に花束を庇うように抱え込んだ。だって折角綺麗に咲いているのに、手放して地面に落としたりしたら可哀そうじゃないか。

「い…ったぁ…」

とはいえ、おかげで背中にきたダメージは相当だった。だってここは学校構内の石畳。石だしでこぼこしてるしで、普通のコンクリートで転ぶよりもはるかに痛い。

が、その甲斐あって花にダメージはほとんどないようだ。花弁が少し散ってしまったけれど、落としたりするよりはましなはずだ。

「す、すまん! ほんまにすまん、大丈夫か!?」

ほっと一息ついていると、上から焦ったような声が聞こえた。

痛む背中を庇いながら身体を起こすと、手を差し伸べられる。捕まれって意味なんだろうけど、結構です。ジェスチャーで示して自力で立ち上がり、埃を払う。ざっと確認してみたけど、流血沙汰になってなくて安心した。

差し出した手を断られた為に手持無沙汰になってしまった手を困ったように頭にやり、その人はすまなさそうに小さく頭を下げた。う、意外と身長高いな。

「堪忍な、俺朝練遅刻しそうでめっちゃ急いでてん、周り全く見てへんかったわ…」

「…いえ」

当然ながら、こってこての大阪弁でまくしたてられて、あたしは頷くしかできない。

まぁ普通なら生徒はいないような時間帯だから油断していたんだろうとは思うし、あたしも少しぼーっとしていたのだから、お互い様だ。

短い髪を金髪にして、まるでひよこみたいな頭をしているその人は非常に申し訳なさそうな顔で私を見る。そこであたしはハッとして、逃げるように花に顔を埋めた。こんな時間に花束抱えて歩いてるような変な奴だって顔を覚えられたりしたらたまったもんじゃない。

朝練遅刻しそうならさっさと行ったらいいのにと心のなかで思うあたしの気持ちなど知る由もないその人は、尚も心配そうに問うてきた。

「怪我してへんか!? めっちゃ背中打ってたよな、ってかなんやその花、ごっついなぁ! このでっかい花は俺も知ってんで、百合やんな?」

「…はぁ」

「ちゅーかすまん、俺もう行かな白石にどやされる!! 今度詫びするし、堪忍な!!」

「え、そんなの別に」

「ほなな!」

「えっ」

いやまじでそういうのいらないから今日のことは早急に忘れてください。

…と云いたかったのに、ひよこの人はあっという間に消えてしまった。足めっちゃ速い。

 

というか、お詫びとか云ってたけど、冗談だよね?

あの人あたしの名前も学年も知らないはずだし、っていうかあたしだってあの人のことまったく知らない完全の初対面だ。

四天宝寺中はそこそこ大きな学校だから、探すって云ったって簡単な話ではないはず。

「…まぁ、もう会わないか」

だって今日はたまたまあたしが早く登校していただけで、あの人はたまたま部活を遅刻しそうになっていたから遭遇しただけなのだ。

よっぽどの運がない限り、もう会うこともないだろう。

「はー…」

ひとつ大きなため息を零し、気を取り直して歩き出す。

こんな気分の時は花を活けるに限る。そうすればささくれた心も穏やかになって、あたしはとてもその時間が好きなのだ。

まずは職員室に行って花瓶を受け取って、それから校長室で試しに活ける。感じを見たら来賓室でも繰り返して、まぁこの花はもったいないから職員室にでも飾ってもらえばいいだろう。折角活けるのだから、誰かに見てもらいたい。

「よっしゃ、やるぞー」

 

そして、あたしは後悔することになる。

この日、この時、この場所で、その人――忍足謙也さんに出会ってしまったことが、あたしの灰色の中学生活をぶち壊すことになったのだから…。

 

 

 

 

 

*****

 

謙也さんは人の話聞かないイメージ(好きです)



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眩しい人

3

 

 

 

「あ―――――ッ!!!」

 

ビクッとなって、思わず振り返ってしまったのが敗因だったのだと後々気付く。しかしこのときのあたしは反射的に声の方向を見てしまったのだ。ああ、素直な自分が恨めしい。

「なあ、自分こないだの子ぉやんな!?」

すぐそばのテニスコートの中からこちらに向かって声を上げるその人は、勘違いでなければあたしを見ていた。念の為周囲を見回してみるが、あたしの近くには誰もいない。え、嘘あたし? 何事かと同じくテニスコートの中にいる部員の方々の視線が刺さる。うわぁ嫌だぁ。

恐る恐る自分を指さすと、彼はニコニコしたまま頷いた。

 

…誰だお前。

 

と、ややあって思い出す。あれだ、一昨日の早朝この近くの石畳でぶつかったひよこ頭。

「いやーまた会えてよかったわ~、ほんまに怪我とかなかったか?」

いやーまた会ってしまったわ~、なんで覚えてんの?

引きつりそうになる頬を抑え込みつつ、頷くことで答える。大丈夫です何もないですだからも行きますね。

見ればどうやら部活中らしく、ジャージ姿に手にはラケット。ああ、そうか、この人テニス部なのか。ますますもって関わりあいたくないわ。前の学校の某テニス部部長を思い出して胸糞悪い。いや、別にあの人のこと嫌いなわけじゃないんだけどさ。

 

逃げるように後ずさりすると、トン、と背中に何か当たる。振り返ればそこには一人の男子生徒。ん、なんか見覚えがある気がする。

「す、すみません」

ぺこりと頭を下げて、これを機に逃げ帰ろう。

…と、したのだけれど。

「…あの」

何故かがっちりと腕を掴まれてしまい、動けない。そして振りほどけない。え、何事?

見上げればその人は静かにあたしを見下ろしていて、耳に光るピアスが眩しい。うわあああこの人絶対ヤンキーだ! ヤンキーの割にあのひよこ頭の人と同じジャージ着てる! まさかこの人もテニス部? うわーここのテニス部どうなってんの怖すぎでしょ!

声に出さず悲鳴を上げていると、ヤンキーはやっと口を開いた。

「自分、謙也さんと知り合いなんか? 転校生」

「…へ?」

「あれやろ自分、6組の転校生やろ」

頷きながら、頭の中から情報を引っ張り出す。

そうだ、思い出した。この人は7組の人で、確か財前光。なんだかクラスの女子がキャーキャー云っていた気がするし、先日あった校外実習で見かけたような、うすぼんやりとした記憶がある。興味なさ過ぎて忘れてた。

「有名んなってんで。美人やけど無口で無愛想でとっつきにくいって」

「…はぁ」

無表情でそんなん云われても、どうしろってんだ。

しかし正直、その評価は狙った通りなので嬉しい。頭に余計な言葉がついてたような気がするけど、まぁこれも大阪ジョークというやつなんだろうから気にしない。

親切心で気にかけてくれている人たちには大変申し訳ないのだが、あたしはこれっぽっちもこの学校に馴染むつもりがない。

大丈夫。あたしにはお花と写真があるのだから、これを支えに学校生活を頑張れる。

なのでどうかみなさん、根暗で無口で無愛想なあたしなんかには構わず楽しい学校生活を送ってください。

 

というか、なんなのこの人。

微塵もあたしに興味ありませんって顔してるくせに、なんでそんなこと云うのかわかんないし、なんで腕捕まえてるのかもわかんない。

用事がないのならさっさと放して部活にでも行けばいいじゃないか。

未だに見下ろしてくる財前の視線を見返しながら、はてどうしたものかと考えていると。

「おーい財前、何しとんねん! 女の子怖がらしたらあかんで!」

「うっさいっすわ、謙也さん」

いいぞ云え云えひよこ頭。その調子だ。今だけ応援するから財前怒ってやって。

でもさっきのやりとりからなんとなくこのふたりの力関係がわかるような気がして、過度な期待はやめておいた。

ああ、穏やかな帰り道だと思っていたのにとんだことに巻き込まれてしまった。

救いなのは、周囲にはほとんど生徒がおらず、このやり取りを見られていないというところだろうか。

どうやら四天宝寺中は部活動に熱心な学校なようで、実に9割の生徒がなんらかの部活に所属しているというのだから驚きだ。でも強制ではないからあたしのような帰宅部もいるらしく、そういう人たちが数人まばらに歩いている程度。これが大勢の生徒の前での出来事だったらと思うと、ぞっとしない。

 

嫌な想像に背筋を凍らせていると、ひよこ頭さんがアッと声を上げた。どうでもいいけどこの人忙しないな。

「せや、自分名前なんていうん? こないだ聞きそびれてしもて、どうやって探せばええか困っててん」

そのまま永遠に困ってればいいのに。

そもそもお詫びがどうのって云ってたけどあれはお互い様の事故だったんだし、お詫びなんてされるようなことではない。

つまり名乗る必要もない。

「津々井小毬っすよ」

「なんであんたが云うのよ!?」

やめろ自然とプライバシーを侵害するのは!

睨み付けてもどこ吹く風といった様子の財前に隠すことなく舌打ちを零し、しかしひよこ頭さんは満足そうにニコニコとしている。

「津々井小毬な、覚えたで!」

「…どうも」

 

…なんか、苦手だ、この人。

お人よしそうで、警戒心なんてないようなお気楽そうな笑顔。

多分この人は、無条件で人に好かれる人なんだと思う。そうさせる雰囲気がある。

髪の色も相まって、そう、まるで太陽みたいな。

 

―――これは、苦手だ。

 

灰色の中学生活を誓った自分の本能が告げている。

この人と関わりあいになるのはよくないと、告げていた。

 

少し俯いて唇を噛みしめて、未だに腕を掴んだままの財前の手首を掴む。

「いい加減、はなして」

呟くと、腕はあっさりと解放された。

なんで引き留められたのかいまいち理由はわからないけれど、今はそれを問いただすよりも先にこの場から立ち去りたい気持ちのほうが大きかった。

頭上から財前の視線が突き刺さっているのはわかった。それでももうあたしはその視線に応えることも、これ以上口を開く気もない。

少し離れているのであたしの表情など気付かないのであろうひよこ頭さんが不思議そうな顔をしていたのも見ないふりをして、あたしは彼らに背を向けて帰路を急いだ。

その背中に、声がかかる。

 

「またな、津々井!」

 

―――無性に、写真を撮りたくなった。

 

 

 

 

 

*****

 

10話で終わらせたいとか云ってたな、ありゃ嘘だ(byジョルノ)

短めにちょこちょこ進めていくのも手だなぁと今更気付きました。

財前のキャラがあんまりつかめないぞよ…



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『大丈夫。』

 

 

 

太陽は直視すると失明する。

だから視界の端に入れるだけで、十分。

 

 

+++

 

 

ひよこ頭との再会をしてしまった翌日から、あたしはアグレッシブになった。

というのも別にいい意味ではない。

つまり、逃げ回っている。

ヤンキー財前が余計なことをしたおかげで名前がバレた上に、あの調子ではクラスまでゲロッている可能性が高い。仮に財前が吐かなくとも、名前がバレた時点でクラスも割れる可能性は上がっているのだ。保険をかけるには越したことはない。

朝は花の依頼がない限りギリギリに登校、休み時間は即トイレに駆け込み時間を潰し、昼は人気の少ない裏庭の茂みでお弁当。放課後はチャイムと同時にダッシュで帰宅、当然テニスコートや部室棟には近寄らない。

そこまでする必要があるのかと問われれば、多分、過剰だと思う。

あの人があたしを訪ねてくると決まったわけではないのだし、来てもその場で逃げるなり適当にやり過ごせばことは済むはずだ。

でも、出来れば、もう会いたくない。

あんなキラキラした人は、あたしの灰色の中学生活には必要ないのだから。

先日、たまたま前の学校の友人から連絡がきたのでついでに最近のことを愚痴ってみたら、

『小毬って本当に、癖のある人に好かれるよね』

とのありがたいお言葉。お前ほんと面白がってばっかか! そろそろ泣けてきた。

 

実に友達甲斐のある友人のお言葉にほんのりしょっぱさを感じつつお弁当を突いていると、ガサガサという茂みをかき分ける音がした。

こんなところに来る物好きな生徒はあたしくらいだろうし、まぁどうせ犬猫の類だろうと特に気にもせず最後の卵焼きを頬張った瞬間。

「あ!」

「げ…」

ひよこ頭、登場。

噓でしょ。

もう引きつった顔を隠すこともせず固まっていると、焦ったように身振り手振りでひよこ頭さんは弁解を始めた。

「あ、あーっと、あんな、実は財前がな、津々井なら昼はこの辺におるって云っとって、その」

「…そうですか」

あいつ今度殴らせてくれないかなぁ。

つーかなんであいつあたしがここにいること知ってるの。怖いわ。

いろんな感情が複雑に絡まって、もうため息しか出ない。

そのため息を勘違いしたらしいひよこ頭さんは、気まずげに頬を掻いてぽつりと零した。

「…なんや、困らせてしもたみたいで、すまんな」

本当ですねと返したいところだけれど、そんな申し訳なさそうな顔で云われては、こっちが困るというもので。

「転校生で大変かもしれへんし、妙に気になってお節介したなってなぁ」

「…いえ」

 

…多分この人は、本当に悪気なんてないのだろう。

たまたま妙な時間に妙な奴と出くわして、そいつはどうやら転校生で周囲と馴染めていないらしい。

偶然とはいえそんなあたしと出会ってしまった彼は、気にせずにはいられなかったのだ。ただ純粋に、好奇心よりも前の反射のような気持ちで。

いくら学校では無口無愛想を演じていようと、そんな人に冷たくできるほど、あたしは冷徹にはなれない。

が。

「せや、財前に聞いたんやけど、自分あんま誰とも喋らへんみたいやな」

なんで? と本気で不思議そうに首を傾げるひよこ頭に、心底呆れる。自分でお節介してるって自覚してるくせにまだ踏み込んでくるとか、どんだけ無神経なの。

 

申し訳ないとは思いつつ、あたしもそろそろ面倒になってきた。ここらではっきり云っておけば諦めてくれるかもしれない。

ひとつ息を吐きだしてから、あたしは胸の中に溜め込んでいたものを吐き出すように口を開いた。

「転校初日に自己紹介をしたら、大阪にいるんだから、大阪の言葉を話せと云われました。無理して話せばそれはそれで馬鹿にするくせに、ずるいと思いませんか?」

「………」

「それにあたし、大阪特有のギャグのノリというかギャグについていけないんです。なんでもかんでもおもしろおかしくしようとするところは結構苦手。それを押し付けてくる人も、好きじゃない」

「…………」

「だから、黙ってようと思ったんです。友達はいらない。目立ちたくもないし、静かに中学生活を送れたらそれでいい」

彼はあたしが話している間、口を挟まずに聞いてくれた。顔を見ながら話はしなかったから彼がどんな顔をしていたのかは知らない。

けどどうせ、呆れているに違いない。だってこんな話はきっとこっちの人にとってはどうでもいいようなつまらない話だ。ただの学校に馴染めない転校生が拗ねているに過ぎない話だと、そう思うだろう。

 

「すみません、あなたは悪くありません。これはあたしの意地の問題だから」

手早くお弁当をまとめて、立ち上がる。

これ以上話すことはない。

未だに沈黙したまま立ち尽くしているひよこ頭さんにぺこりと頭を下げる。

 

「気を…悪くさせてしまって、ごめんなさい」

 

だって、初めて会った時からあなたは優しかったのに。

 

「気にかけてくださって、ありがとうございました」

 

関わりたくないと思った反面、嬉しいと思ったのも本当。

怖くて顔を見ることはできなかったけれど、それももう関係ない。ここまで話してまだあたしに構うような気はまさか起きないだろう。

だから、これで、お終い。

最後にもう一度頭を下げて、あたしはこの場を後にした。

あの人が追いかけてくる様子はなかった。

 

大丈夫。

あたしは、大丈夫だから。

 

 

 

 

 

*****

 

短めに。



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なんてひどい、暖かいやさしさ

 

 

 

これでもうあたしの灰色の中学生活は安泰だ。

 

―――そう思った瞬間があたしにもありました。

 

 

+++

 

 

昼休みにひよこ頭さんに全部話した、その日最後の授業終了直後のことだった。

 

「津々井!!!」

 

勢いよく教室のドアが開いたのは、チャイムが鳴ったのとほぼ同時。さすがのあたしも逃げる時間もない。え、っていうか何、まさか授業終わりまで外でスタンバってたとかそういう話? そんな馬鹿な。

3年生の教室ってどこだったっけと考えているうちに、同じく呆気に取られているクラス中を置いてきぼりのまま、ひよこ頭さんはあたしの鞄をひったくるように持った。ちなみにあたしの席は廊下側一番後ろで、一番に逃げるには最高の場所だけど、同時に捕まりやすい紙一重の場所でもあった。そしてたった今あたしは捕まったわけで。

「へ!?」

何事かわからず、急かされるままに立ち上がる。

すると。

「ほな、行くで!」

「は…!?」

どこに、とは問えなかった。

何故なら、ひよこ頭さんが凄まじいスピードで走り始めたからだ。

自慢じゃないがあたし津々井小毬、運動は大の苦手である。

いくら荷物を持っていないとはいえ、手を掴まれて走りにくいこの状況では転ばないようにするのが精いっぱいで、とてもじゃないが口を開く余裕なんてない。

もう、なんなの!?

 

 

+++

 

 

またもやせっつかれてインシューズからローファーに履き替えさせられ、ついには学校さえも飛び出して走らされること約10分。もう無理。マジ無理。息できない。胃がひっくり返りそうな気がしてきた。

本当にインドア文化系の体力を舐めないでいただきたいと抗議することすらままならず、漸く立ち止まってくれた途端にあたしはその場に座り込んで息を整えることに集中した。わ、脇腹痛い。

「すまん、ちょお早かったか!?」

ちょっとどころじゃないわ。

しかしそれも口にはできず、相変わらず吐き出せるのはぜーぜーというみっともない空気。重い機材持ったりするから筋肉はあっても、持久力なんて持ってないのよぅ。

息が整うまで、約1分ほどかかっただろうか。

その間ひよこ頭さんは背中を撫でてくれていたのだが、これも無自覚なんだろうなぁ…別にいいけど。

そうしてあたしがやっとまともに会話できそうだと判断した彼は、あたしの手を取って立ち上がらせて、前を向く。

つられて前を向いたあたしは、その瞬間、息を飲み込んだ。

 

「どや!?」

 

―――まるで宝物を見せつける、小さな子供のように。

 

目をキラキラさせて云うひよこ頭さんとあたしの視線の先に広がるのは、光の海だった。

少し周囲を見回すとどうやらここは小高い丘にある展望台のようだ。そういえば最後は意識は朦朧としてたけど階段を駆け上がってきたような気がする。

夕方から夜に移り変わる境目の時間だからだろうか、オレンジ色の空と少しずつつき始めた家々の光は美しく、眼下に広がる街の様子はまるで夕日に煌めく海のようで、幻想的だった。

 

「…あたしに、これを見せるために?」

視線は前から動かさないまま問う。すると、頭上で頷いたように空気が動いた。

「せや、昼の話聞いたら、ここに連れて来たらなあかん思てな」

 

―――どうして。

 

口にはせずに、今度は視線を向ける。

彼はちらりと一度あたしに視線をやってから、また前を向いてしまった。

あたしは、そのまま彼の横顔を見つめた。

 

「俺は生粋の大阪人やから、関東からこっちに移動してきた自分の気持ちはわからん。でもな、馴染まへんとか、友達いらんとか、静かに過ごしたいとか、そんなん寂しいやんか。ほんで、どこのどあほが云うたか知らんけど言葉が違うのはしゃーないんやから気にする必要なんかまったくあらへん。俺の従兄かて関東に転校したけど、向こうでもばりばりの関西弁使てるで?」

 

―――あなたには、関係ないのに。

 

そう云いきることは簡単だった。

簡単なはずだった。

当初に思い描いた灰色の中学生活を貫くなら、こんなことは余計なお世話だと告げればいいはずなのに。

 

「たった一度の中学生活やで? 楽しまな損やろ!」

 

―――できない。云えない。

 

この人の好意を嬉しいと、なんて暖かいのだと思ってしまっている、あたしが確かにいるから。

鬱陶しいと思うのも本音。

でも、あれだけ拒絶しても尚こんなにも優しさを与えてくれるこの人を、どうして切り捨てることができるだろう。

視線を落として、もう一度前を向く。

そこには相変わらず、美しい光の海が輝いていた。

「…っちゅーのも、あかん?」

そしてまた、この声。

伺うように、恐る恐るかけられるこの声。

 

「………」

 

―――ああ、だけど。

 

「…馬鹿ですか、あなた」

「んぐっ」

「でも、ありがとうございます」

目を閉じる。

だけど瞼の裏には未だに光の海が揺蕩い、きっとずっと忘れることはないのだろう。

ゆっくりと目を開けて、それから、高いところにあるひよこ頭さんを見上げた。

 

「ここは、とっても綺麗」

 

どうしてあなたがこんなにもあたしを気遣ってくれるのかはわからない。

多分純粋にお節介焼きの性分が疼いたとかそういう何でもない理由なのだとは思う。

けれどそれが今、あたしにはとても嬉しい。

あなたの優しさが、こんなにも心を温かくしてくれた。

だから、その感謝を込めて。

今まで、四天宝寺中に入ってからずっと浮かべることのなかった、笑顔を浮かべた。

 

「―――……」

 

すると何故かひよこ頭さんは半口を開けて間抜けな表情で固まってしまった。え、どうしたんですか。何の脈絡もなく魂抜けたんですか。

 

ところで、いろいろと吹っ切れたところであたしは自分の本能がむくむくと主張を始めたことを自覚した。

この欲求を解消するには、手段は一つしかない。

「あの、鞄、返してもらえませんか?」

「え!? あ、せ、せやな、すまん!」

どこか挙動不審気味なひよこ頭さんはこの際置いといて、戻ってきた鞄を開いていそいそと準備をする。今日は資料撮影用の小さいデジカメしか持ってきていないことが今は悔しい。

一転きょとんとし始めたひよこ頭さんを余所に、あたしは光の海に向けて数枚シャッターを切る。確認して、角度を変えてもう数枚。

うむ、やっぱり綺麗。今度は一眼レフ持ってきてみよう。

「…写真好きなん?」

「というか、半分仕事みたいなものです」

「仕事!?」

「自分の作品を写真にして提供したりもしてるし、依頼があれば大体何でも撮るので」

花はもちろん、ポスターの撮影だったり、風景も動物も時には人も撮る。

メモリーに入ったままになっていたこれまでの写真を見せると、ひよこ頭さんは感心したように頷いた。

 

写真は元々父親の趣味だった。

昔から父のお下がりのカメラを貰ってそれで遊んでいたので、いつから本格的に写真を始めたのかは覚えていないけれど、物心ついた時にはもうどこにでもカメラを持ち歩いていたと思う。

母は親戚に華道家がいる関係で少しそちらもかじっていて、あたしもなんとなくお花に興味をもったのは小学校の中学年。

そこから機会があるたびにいろんな花をアレンジして写真を撮ったり、撮り溜めていた写真をコンクールに出したりしていたら、いつの間にか少しずつ名前が売れるようになって、両親経由で小さな依頼を受けるようになったのが小学校高学年頃からだろうか。

写真にしろ、花にしろ、あたしにとっては空気と同じくらいあって当然のものだ。これを手放す未来なんて見えない。

 

この世のすべては一分、一秒ごとに姿を変えていく。

永遠に同じものなんて存在しない。

そんな世界で、写真の中だけはずっと同じまま続いていくというこの矛盾があたしはたまらなく好きなのだ。

自分の手で、刹那の四角を閉じ込める。

ファインダー越しの世界が、あたしは好きだ。

基本的には自分のアレンジした花を撮っていることが多いけど、人を撮るのも好き。

喜怒哀楽、ころころと変わる表情の中、とっておきの一枚で誰かを幸せに出来たらそれは嬉しいことだと思う。

 

まだ写真のデータに目を輝かせているひよこ頭さんにこっそり微笑んでから、もう一度光の海を見る。

ほんの少しずつ色が橙から藍色に染まり始めて、さっきまでとはまた違った魅力があった。

最後に一枚この光景をカメラに収めて、ひよこ頭さんを振り返る。

「そろそろ降りましょうか」

「ん、ああ、せやな」

気付けば随分長い時間ここにいたような気がする。学校を飛び出してきたのが4時前だから、もう30分。話していた時間を考えても、結構な時間だ。あたしはともかく、ひよこ頭さんはいいのだろうか。

「…あの、部活大丈夫ですか?」

「あっ」

瞬間、さっと顔色を悪くする。…黙って来たのか。

「…私も一緒に部長さんに謝りましょうか?」

「いや、それもうかっこ悪すぎやろ…」

両手で顔を覆って絶望するひよこ頭さんを見ておかしくて小さく笑うと、ちょっぴり恨めしそうな目で見られてしまった。

 

…そういえばあたし、この人の名前、知らないんだよなぁ。

 

 

 

 

 

*****

 

ヤンキー財前が呼んでた、下の名前しか知らない。

ってところでひと段落。



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衝撃的事実

 

 

 

教室に入る前に、大きくひとつ深呼吸。

「…よし!」

軽く頬を叩いて気合注入して、いざ参らん!

 

「―――お、おはよう!」

 

 

+++

 

 

「…というわけで、クラスのみんなに受け入れてもらえました」

「おー、そかそか、よかったやん!!」

「はい、あなたのおかげです」

 

放課後拉致られて展望台であの景色を観た、その一週間後の放課後。

小さなことにこだわって殻にこもっていた自分が馬鹿々々しくなって、あたしは殻を打ち壊すことにした。え、決意と誓いはどうしたって? そんなもんドブに流して捨てたよ。

まずはこれまでは絶対に自分から挨拶なんてしなかった挨拶を、意を決して自分からしたのがあの日の翌日。

すでに8割程度の生徒が登校していた教室に入って、子供みたいに大きな声でおはようと云った瞬間の緊張を是非想像してもらいたい。初めてのコンクールの結果待ちをしていた時よりずっと緊張して手が震えていた。

ざわめいていた教室は一瞬で水を打ったようにしんとして。

それから、みんながおはようと返してくれた。

ホッとして、実は少しだけ泣きそうになったのは内緒だ。

そのあとはいろんな子が話しかけてくれて、お昼一緒に食べようだとか、今度大阪を案内してあげるだとか、朝の短い時間だけでたくさん話せた。

これまでのあたしは無口無愛想の仮面は鉄壁だったようで、やっぱりみんな近づかないようにしていたらしい。で、今のあたしなら話しかけられそうだと思ってくれたと。

いや、そうだよね、うん、ごめんなさい。

そうして話していくとあたしの持っていた偏見なんかどうでもよくなるほどみんないい子で、あたしは当初の態度を心底反省した。あんなつっけんどんな態度をとっていたことなんてなかったみたいにみんな親身になってくれるなんて、人間出来すぎてやしませんかね。

 

そこからの一週間は怒涛だった。

これまでの壁を打ち崩すようにクラスに馴染む努力をしていたら、あっという間に一週間だ。

おかげで随分クラスのみんなとも仲良くなって、合同クラスで一緒になることの多い6組にも仲の良い子が出来た。

ちなみにその流れで打ち解けた財前はヤンキーではないらしい。あんなにピアス開いてるけどヤンキーじゃないらしい。どうやら部活も真面目にやってる上にかなりの実力者でもあるとかで、なんかもういろいろ詐欺だと思う。ついでにひよこ頭さんに余計な告げ口をしたことについては一発殴らせてもらって平和的に解決した。

 

「それで、これ」

「ん?」

そうそう、今日の本題。別に暇つぶしに話に来たわけではないことを思い出して、慌てて持っていたトートバッグを差し出す。

「つまらないものですが、お礼です」

「…俺?」

「…あなた以外にいますか?」

この状況で。

休憩中なのだろうけど辺りには誰もいないんだから、あなたに決まっているでしょうに。それとも何、誰か見えてる? あなたの目にしか見えないお友達がいたりする? あたしホラーは嫌いじゃないけど冗談は好きじゃないですよ。

当然、とばかりに頷いて更にズイと差し出すと、ひよこ頭さんは一瞬戸惑ったようだったけど、少し考えてから受け取ってくれた。

「え、あ、なんやその、気ぃ遣わしたみたいで悪いな! おおきに!」

ほっぺ赤いけど大丈夫でしょうか。熱あるのかな?

まぁそれはいいとして、あたしが今こうしてクラスに馴染めているのも、そもそもひよこ頭さんのおかげだ。

直接何かをしたわけではないけれど、変わろうと思えたのはひよこ頭さんのお節介の賜物だったと思う。

だから、お礼。

 

ありがとうと言葉で伝えることは簡単だ。

だけど、どうにかして形にしたかった。

これはあたしの自己満足かもしれないけれど、感謝の気持ちを形として示したかったのだ。

 

「それで、あたしあなたの好みとかよくわからないので財前に訊いたんです。でも白玉ぜんざいが好きだって聞いて、さすがにそれは用意できなかったので、小豆入りのマフィンにしてみたんですけど」

「し、白玉ぜんざい?」

「? 違うんですか?」

合同クラスになったときに財前から訊いた情報によると、ひよこ頭さんは無類の白玉ぜんざい好きで、一日一回は白玉ぜんざいを食べないとストレスでハゲてしまうほどなのだという話だった。

それはいけない。

ハゲはいけない。

ならばお礼の選択肢は白玉ぜんざい一択、と云いたいところだが、正直あれは大量に持ってくるには重さがあるし、嵩張る。

キッチンでしばし考えて出した結果は、では小豆を使った何かを作ろう、というものだった。幸い小豆はたくさんある。マフィンなら手軽にできるし、大量生産も可能だ。

運動する人がどれくらい食べるかわからないから、とりあえずたくさん作れば問題ないだろう。多ければテニス部で分けてもらえればいいんだし。

「たくさん作ったので、よかったらみなさんで食べてください」

「お、おおきに!」

バッグを覗き込んだひよこ頭さんは、ちょっぴり複雑そうな顔をした後、しかし甘いマフィンの香りに気分を良くしたのか、にっこりと笑ってくれた。よかった、一応気に入ってくれたらしい。お菓子作りは大得意というわけではないが、結構好きだ。ひとつ味見をしたけど、それなりによくできたと自負している。部活終わりの空腹時にでも食べてくれたらよりおいしく感じるんじゃないだろうか。ほら、空腹は最大の調味料っていうし。

「ええと、それで」

「ん、なんや?」

キョトンと首を傾げるひよこ頭さんの無邪気さが、今は申し訳ない。

ごほんとひとつ咳払いをしてから、あたしは気まずい口を開いた。

 

「…今更で大変申し訳ないのですが、お名前、訊いてもいいですか?」

 

 

+++

 

 

ちょっと待て。

この人今、なんて云った?

あたしの聞き間違いでなければ。

「お、忍足!?」

声が裏返ってしまった。恥ずかしい。

しかしその恥ずかしさすらどうでもいいと思うほど、あたしは驚きに脳を支配されている。

「せや。忍足謙也。謙也でええで」

「は、はぁ…」

朗らかに云われて、しかしあたしはそれどころではない。

「あの、忍足って苗字、関西では多いんですか?」

「ん? いやー、あんましおらんなぁ。うちとうちの親戚くらいやと思うで」

そもそも全国的に少ない上に、特に大阪に多いというわけでもないという。

なんとなく、ある予感が脳裏をよぎった。

「ま、前の学校にも忍足って苗字の方がいたんですけど…」

「ほー、名前は?」

苗字。

大阪弁。

以前謙也さんが云っていた、関東に引っ越した従兄の話。

少ないながら大きなパズルのピースを繋げてみると、とあるひとりの顔が思い浮かぶ。

 

「忍足、侑士先輩」

「あ、それ従兄や。」

…世間て狭い。

 

 

 

 

 

*****

 

イケメンしかいない血族かよぉ!



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偶然の共通点

 

 

 

関東にいたころにあたしが通っていたのは、氷帝学園中等部。

金持ち校で有名な学校だが、多分それはある特定の人物が異常に金持ちだったからで、実のところ社長令嬢子息ばかりが通う学校なわけではない。確かに平均的に裕福な家庭は多かったし偏差値はそれなりにあったし部活やその他の活動も活発だったけど、実際のところは通っている生徒は至極普通な子が多い。そんであたしも、その普通の子のうちの一人だったはずだ。

一年のときのクラスメイトは鳳長太郎ことちょたで、日吉とはあいつが報道委員とあたしが写真部という関係で結構仲が良かった。と思う。ちょっと自信ない。

 

華々しい中学生活を夢見ていたあたしに、しかし現実の世知辛さを思い知らせてくれたのは、入学当初から何故かあたしを知っていた天上天下唯我独尊テニス部部長何様俺様跡部様ことクs…景吾さんだった。訳も分からず目をつけられたの運の尽きだった。いや入学初日から尽きる運て何よ。それ最初からないんじゃないのよふざけんな。

ともあれ景吾さんのせいであれよあれよという間にテニス部に巻き込まれることが多くなり、嫉妬した自称テニス部親衛隊もとい跡部様ファンクラブという女の子からのやっかみは死ぬほどめんどくさかった。そのほとんどが陰口だったからほとんど実害はなかったし、事情を理解してくれている友人もいたから乗り越えられたんだけど、とりあえず景吾さんはあたしに謝るべきだと思う。土下座しろって素で思う。

確かにあの人たちと一緒にいるのは楽しかったし、いろんな意味で貴重な写真も多数撮れた。被写体としては申し分ない素材ばかりだったので、その点では感謝できなくもない。が、楽しかった記憶よりも跡部景吾このクソ野郎! って気持ちが圧倒的過ぎて感謝するより先に殺意が芽生える。結構明確なんで、ほんと背後に気を付けて。

けれど、そんなことよりも。

重要なのはあたしが氷帝に通っていて、テニス部と親交があって、そして。

 

「なんや、自分氷帝やったんかぁ!」

縁やなぁ、と笑う謙也さんにつられて乾いた笑いを零しつつ、あたしの心臓は大爆発寸前だ。

待って。

ねえ待って。

ちょっと心臓しんどい。

だって、忍足って、あの忍足先輩でしょ?

謙也さん、忍足先輩の従弟って、何、ちょっと待って今落ち着く。

「侑士とは転校してからもずーっと仲良うてな、未だに三日に一回は電話してんで」

マジかよ。

あたしなんか委員会一緒だったから一応連絡先とかは知ってるけど、業務連絡以外でメールしたり電話したことなんかないっていうのに。

謙也さん、三日に一回電話って正気?

あのセクシーダイナマイトウィスパーヴォイスをほぼ毎日耳元で囁かれてるの?

噓でしょ?

どんだけ強靭な耳と心臓してんの?

ほんと待って心臓やばい。

「…津々井、どないしてん?」

「いえ、ちょっと動悸が」

想像しただけで無理。悪い意味じゃなくて、いや良い意味っていうのもおかしな話なんだけど、とにかく悪い意味ではなく無理。耐えられる自信がない。業務連絡の数十秒の電話ですらのたうち回ってたのに、それをほぼ毎日とか、耐えられるわけがない。

でも謙也さんうらやましい…。

赤くなったり青くなったり真顔になったりしている自覚があったが、一人百面相をしているあたしを不思議そうに見る謙也さんには何でもないですと首を振る。何でもない顔ではないのは百も承知です。

正直に云います。

謙也さん、羨ましい!

 

ところで現在帰り道、時間は部活動時間終了後。

謙也さんが忍足先輩の従弟だと分かった時点でテニス部の休憩が終わってしまい、そんな中途半端な状態で家に帰ったら絶対今日眠れないと瞬時に判断したあたしが、謙也さんに一緒に帰ろうと提案したのだ。どうやら途中までは同じ方向らしいし、部活終わりでお腹が空いてるならどこかでご飯を食べて帰ってもいい。今日は両親もそれぞれ飲み会やら食事会で遅くなる予定だし、問題ない。

少しびっくりした様子だったけど快くOKしてくれた謙也さんを待つ間、とりあえず図書室で次のコンクールに出店するアレンジについてまとめていた。

が、全然考えつかなくて困った。

普段は花と写真のことしか考えていないあたしの頭が、これっぽっちも花も写真も考えられなかったのだ。

そう、あたしの頭の中にあったのは、忍足先輩のことばかり。

景吾さんのせいでテニス部と付き合うようになり、更に偶然のいたずらで海外交流委員会で一緒になったのが話すようになったのがきっかけだった。

格好良くて優しくて、少しだけ陰のあるようなミステリアスな忍足先輩。

委員会でペアになることも多くてほかの人よりもちょっと多く忍足先輩のことを見てきたあたしは、最初はただ格好いい人だなぁとしか思っていなかった。

大阪人という割にはノリが軽くないのに、だけどやっぱり話していると面白くて、一緒にいて落ち着く人だというのが第一印象だった。

 

そんな忍足先輩を意識するようになったのは、校内で行われた写真部の写真展がきっかけだった。

あたしは得意の花の写真の他に、景吾さんに無理やり撮らされたテニス部の写真も数点出展していた。心底腹立たしいが、何度も云うが被写体としてだけは一級品なのだ。適当に撮ったところで素材が良ければそれなりのものにはなる。が、そんな適当な仕事はプライドが許さないため、報酬(跡部家御用達高級生花店のタダ券!)もせしめたことだし仕事だと思って割り切って腕によりをかけた写真を撮った。

それらは自分でも満足できるいい出来だった。

花も、テニス部も、最高の瞬間を収められたと思っている。

けれど、やっぱりどこにでもいるのだ、そういう輩は。

校内写真展が始まって数日が経った頃、たまたまあたしが展示室の傍を通りかかったとき、ガシャン、と何かが割れる音が聞こえた。

『写真を使って近づくなんて、汚らしい!』

驚いて展示室を覗くと、中には数人の女子生徒がいて、彼女たちの目の前にはあたしが撮った景吾さんの写真があった。フレームが割られて、彼女たちはそれを抜き取っていた。

目の前で起こっていることの意味が理解できずに硬直していると、ひとりがあたしの存在に気付いた。そして、こう吐き捨てて去っていった。

『どうせ何枚でも印刷出来るんだから、一枚くらいもらってもかまわないでしょ』

写真を利用してテニス部に近づいたと思われたことよりも。

あの一枚のために選んだフレームを割られたことよりも。

渾身の写真を持ち去られたことよりも。

 

―――最後の言葉が、あたしの頭をトンカチで殴ったみたいに衝撃を与えた。

 

確かにそうだ。

データさえ、ネガさえ残っていればいくらでも印刷できる。

それは事実。

だけど、そうじゃないのだ。

そういうことじゃないのだ。

あの一枚が、すべてなのだ。

花だろうと、人だろうと、風景だろうと、例え物であろうと、自分の胸に残ったその一瞬を閉じ込めたのはその一枚しかないのだ。

 

どうして。

なんで。

あたしは、ただ。

 

彼女たちが出て行ってしんとした展示室に、キャハハという耳障りな笑い声が響き渡った。

まるで世界から切り取られたみたいに静まり返ったこの場所にはあまりにも不似合いで、胃がひっくり返りそうなくら不愉快だった。

今すぐドアを閉めたい。

なのに、足が動かなかった。

漸く足が動くようになったのは彼女らの笑い声が聞こえなくなってからで、ハッとしてフレームを片付けるために動いた。幸い粉々になったわけではなかったので、箒と塵取りですぐに片づけられるだろう。

そこに現れたのが忍足先輩だった。以前に来たときはものすごい人で落ち着いて見られなかったので、人が少ない時間を見計らって改めて展示を見に来てくれたのだと後から聞いた。

ともかく、割れたフレームと無くなった写真、その写真の題名を見てあらかたの予想がついたらしい。災難やったな、と頭を撫でてくれて、それからもう何もない、写真があった場所に目を向けて呟いた。

『あれ、綺麗やったんになぁ』

何の、他意もなく。

あっさりと。

『津々井の写真、俺は好きやで』

いつもみたいに笑って云った忍足先輩の言葉が胸に染みて、あたしは涙を堪えることが出来なかった。

子供みたいにわんわん泣いて、その時初めて、あたしは悲しかったのではなく悔しかったのだと気付いた。いつか、誰も文句なんて云えないような写真を撮ってやる。割れたフレームを抱えて、あたしはそう誓った。

泣き続けるあたしの頭を撫でて、忍足先輩はずっと傍にいてくれた。

言葉はなかったけれど、それでよかった。

あたしの写真を認めてくれる誰かが傍にいるだけで、あたしの心は救われた。

 

その時からあたしは、ずっと忍足先輩のことが好きなのだ。

 

 

+++

 

 

謙也さんが空腹で死にそうだというので手近なファミレスでご飯を食べながら、ふと思い出す。

「そういえば、前に忍足先輩が従弟がいるって話してたの、今思い出しました」

「ほんま? なんて云っとった?」

大盛りのミートスパゲティーと巨大ハンバーグを吸い込むように食べる謙也さんに若干引きながら、委員会用の資料を作りながら零していた『関西にいる従弟』の話を思い返す。

えーっと確か。

「すごく足が速い」

「おう、浪花のスピードスターとは俺のことっちゅー話や!」

「人が良い」

「せや、バファリンの半分は俺で出来てんで?」

「消しゴム集めが趣味」

「いろんな消しゴム集めてたらいつの間にかえらい数になってもーたわ」

「おっちょこちょい」

「…まぁ、落ち着きないとはよう云われるな」

「猪突猛進」

「い、一点集中型なんや!」

「人の話をあんまり聴かない」

「…た、確かに白石とかに注意されるな…」

「世話好きが行き過ぎてお節介になる確率が高い」

「…な、なんや後半ただの悪口やん…!」

「あっはっは!」

スパゲティーもハンバーグもすっかり食べ終えてオレンジジュースをすすっていた謙也さんは、徐々に打ちひしがれるようにテーブルに突っ伏して行った。溶けるスライムみたいでなんか面白い。

 

悲壮な顔でいじける謙也さんに小さく笑いながら、当時のことを思い浮かべる。作業しながらだったからそんなにしっかり話したわけではないけれど、あの時のことは印象的だったからすぐに思い出せた。

「だけど、謙也さんの話をする忍足先輩、すごく楽しそうでした」

普段テニス部で見ている顔でも、委員会中に見せる顔でもなく、多分あれが忍足先輩の一番自然な表情だったんだと後から気付いた。

もちろん、普段が作っているというわけではない。ただ忍足先輩は他の人よりも聡いから、意識する前に一歩引いてしまうのだと思う。それが忍足先輩が大人っぽいって云われる所以なのかもしれないし、それは真理なのだろう。

だけどそれは、少しだけ寂しい。

本当の忍足先輩が見えないというのは、寂しいことだと思った。

けれど謙也さんは自然な忍足先輩を引き出せる、その力を持っている。

それは従弟だから出来ることなのかもしれないけれど、きっと謙也さんの人柄がそうさせることなのだろう。

だから、思わず零してしまった。

「羨ましい」

吐息のように吐き出してから、ハッとする。

キョトン、と謙也さんは目を瞬いている。

い、今のは駄目だろ!

「ちが、違うんです、ええと羨ましいっていうのはその、そういう意味じゃなくて」

そういう意味ってどういう意味だよ! と自分の中で自分をぶん殴りたくなる気持ちでいっぱいになる。墓穴しか掘ってないよ最悪だよ。

どどどどうしよう。

これどうすれば弁解出来るんだろう、と景吾さんには中の上と評された頭をフル回転して考える。

「まぁあいつ、ポーカーフェイスがデフォやからなぁ」

…あれ?

なんか慌てたのがあほらしく思えるくらい、謙也さんはあっけらかんと云った。

あ、これ気付かれてない?

「…で、ですね」

「あ、でも侑士、あんまし表情変わらへんけど、お好み焼きとたこ焼きの話始めると白熱すんねんで」

あいつの粉もんに対する情熱は異常、と真顔で云う謙也さんに相槌を打ちながら、あたしは今ようやく忍足先輩が云っていた謙也さんの特徴の一つに納得した。

あんまり人の話、聴いてない。

 

だけど今はそれに救われたので特に指摘するつもりもなく、しれっとした顔で続く忍足先輩トークに耳を傾けた。

さすが幼馴染の従弟というだけあって、いろんなことを知っている。ああ、いいなぁ。やっぱり羨ましい。

と、若干のジェラシーを感じながら、あたしはぬるくなったコーヒーをすすった。

 

 

 

 

 

+++++

 

ちなみに私は跡部景吾のことがとても好きです。

どれくらい好きかっていうと、言葉では云い表せないくらい好きです。

でも本命は連載当初から忍足です。なんでだろうなぁ…



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暗転、急転

 

 

 

自分で自分の長所を挙げるとしたら、集中力があることだと断言できる。

特に花に関することをしているときの集中は半端じゃなく、以前話しかけられているのに気付かず景吾さんを10分くらい放置してたら、顔を上げた瞬間拳を振り上げられていて悲鳴を上げたことがある。基本的にフェミニストなくせに、あの人のあたしに対する暴力的な態度は何なのか一度膝を突き合わせて話し合う必要があるだろう。ハゲろ。

まぁ、実はそれくらいならまだ良い方なのだ。

猪突猛進というほどの勢いはないがら、一度集中するとそれ以外に全く目がいかなくなってしまうことが問題で。

 

…あたしは今、我に返って蒼褪めている。

 

「…す」

今日は、先日玄関用に活けたの花をいたく気に入ってくれた校長が、何故かお礼に花束をくれたのだ。花のお礼に花って、と思いつつ、良い花を見繕ってくれたようで見事な花束だった。

折角だから帰ったらこの花で何か作品でも仕上げてみようかと考えながら歩いていたら、たまたま今日は部活が休みだという謙也さんと出くわした。

帰る方向は途中まで一緒だからと並んで歩いて他愛ない話をしていたのだが、テニスコートの脇を通りかかったときに、ふわりと風が吹いた。初夏の香りのする、柔らかな風だった。

その風に、あたしの腕の中にあった花束の花弁が少し舞った。決して強いものではなかったけれど、軽い花弁を攫うには十分だった。

風に乗った花弁を目で追いかけると、そのうちの一枚が謙也さんの髪に止まった。

ああ、似合うな、と思ったのだ。

謙也さんの明るい髪に、この美しい花たちがとても似合うと。

 

「すみ、ません……」

 

―――そして目の前には、花まみれになった、謙也さん。

 

覚えているのは、風に乗って謙也さんの髪に止まった花弁と同じ、真っ赤な一輪のガーベラを謙也さんの髪に当てた、その瞬間までだった。

いやほんともう、ごめんなさい。

 

 

+++

 

 

ひょんなことから知り合って、少しだけ他よりも親しくなった(と思う)後輩がいる。

関東からの転校生で、なんと従兄の侑士の後輩だったというから世間は狭い。

いろいろあったけれど今ではすっかり四天宝寺中にも慣れて、クラスにも仲の良い友達が出来てきたというから、それを聞いたときは自分のことのように嬉しかったのを覚えている。あんまり喜びすぎてはしゃいでいたら段々と彼女の視線が冷たくなっていったのが若干のトラウマだというのは秘密だ。

そう、そして今は津々井小毬と出会って、そろそろ2か月が過ぎようとしている時分だ。

今日はたまたま部活が休みで、普段なら自主練をして帰るところだがここ最近詰めて練習をしていた自覚があったし、そこを白石に指摘されもしていたのでおとなしく帰ろうとしていたら、同じく帰りだったらしい津々井と遭遇したので途中まで一緒に帰ることにした。

それが起きたのは、談笑しながらテニスコートの脇の小道を歩いていたときだった。

小さな風が吹いて、津々井の腕にあった花の花弁が数枚風に舞ったのが見えた。そうしてその花弁を思わずといった様子で目で追う津々井を可愛いと――ってあかんあかん何考えてんねん俺!? いや確かに津々井はちっこいし小動物みたいで可愛いけどそれは動物的な可愛さであって…って俺は誰に弁解しとるんや!?

なんて脳内ひとりノリツッコミをしていたら。

ジッと見つめられていた。

え、なんや。

あかん、なんか落ち着かん。

めっさ顔熱い。

なんやこれ、どないしたんや自分。

しかしこちらの動揺など知る由もない津々井は、ふいにその腕の中にある花束を探って花を一輪取り出した。

真っ赤なガーベラだった。

それは素人目にもいい花だとわかる代物で、一体それをどうするのだろうかと考えていると。

 

ぷすり。

 

―――頭に刺された。

 

な…何を言っているのかわからねーと思うが…と思わず某ポルナレフのセリフが頭を過る。

しかもそれだけでは満足しなかったらしく、花を物色しては俺の頭に刺す…否、挿す行為を津々井は黙々と続けた。

どないしたん、と問うても返事はない。えーシカト…と凹み層になったが、どうも違うようだ。

何故なら津々井の視線は真剣そのもので、とても遊んでいるようには見えなかった。

よくわからないが真剣にやっていることの邪魔をするのは得策じゃない。驚きはしたが別に嫌なわけでもないし、まぁ津々井の気が済むまで好きにさせよう。すぐ傍にはベンチがあるし、津々井はいつの間にか鞄を地面に置いてしまっているし、ひとまず何とかしてベンチの方まで誘導する。なんだかペットのイグアナの場所移動を思い出してほっこりしたのは内緒だ。

俺と津々井とでは約30㎝程の身長差があるため、俺がベンチに腰を下ろすと高さが丁度良くなったらしい。女の子を立たせているのは申し訳ないと思ったが、この場合は仕方ない。

両手が空いていろいろとやりやすくなったのか、そこからはなんかもうすごかった。俺の頭の上でいろんなことが行われているのだけはわかったが、いかんせん自分の頭だ、鏡でもなければ見られない。

最初は一本挿しては少し考えて別の花に変えるという作業を繰り返していたようだが、気付けばどんどん頭が重くなっていく。どうやら一本だけでは飽き足らず、二本三本と増えていくうちにとんでもないことになったようだ。

ついには鞄をごそごそして何か取り出したと思ったら、しゃきん、と何かを切る音がした。おそらく剪定ばさみを持ち歩いていたのか、いよいよ本格的に俺は台座にされるらしい。

もうええで、好きにしてええんやで。悟った。

 

花を切って、挿す。

様子を見て、いじる。

それを何度も何度も繰り返して、そろそろ30分は経った頃だろうか。

ふと、急に津々井の動きが止まった。

どうしたのかと思い顔を上げると、そこには驚愕に蒼褪める津々井の顔が。

「すみ、ません……」

やっちまった、と顔に書いてある。

視線を逸らして、小さい身体をさらに縮こまらせて、囁くようなか細い声で呟き始めた津々井曰く。

「あたし、昔から一度集中しちゃうと全然周り見えなくなっちゃって、気が済むまで行動しちゃうらしくて、それでその」

そこから先は、耳を寄せないと聞こえないほど微かな声で。

けれど何とか俺の耳はその声を拾うことが出来て。

「謙也さん、花が似合うから」

だから思わず、と両手で顔を覆った津々井に返す言葉が出てこなかった。

津々井が俯いてくれてよかった、と思う。

 

―――だって絶対、顔赤い。きっと、ガーベラみたいに。

 

 

+++

 

 

ひとまず、帰ろうにもこの謙也さんの頭をどうにかしなければ帰れない。まさかこのまま帰らせるなんてことはさすがのあたしだってしない。いや、ちょっともったいないとは思ってるけど。

何故か俯いて固まった謙也さんに断って、好き放題アレンジした頭を片付けていく。ああ、どうして今日に限ってデジカメも一眼レフも持ってこなかったんだろう。出展はしないけどいい出来だったから残しておきたかったのに! 惜しいことをした。

ああ、それにしても、久しぶりに楽しかった。

花をいじるのはいつだって楽しいけれど、普段は仕事用だったり出展用だったりするので、楽しいよりも真面目にやっている自覚がある。

けれど今日は純粋に、どうやったらもっともっと謙也さんを飾れるか考えていられた。

それに、いくらでもアイディアが沸いて止まらなかった。多分ここが自分の作業部屋だったらこんなもんでは済まなかったことだろう。アブナイアブナイ、仮にも謙也さんは先輩なのだ、ただの台座扱いはまずい。反省する。

そうこうしているうちに、花はほとんど取り除けた。ほとんど全部短く切ってしまったので、もうこれは箱詰めにしてしまおう。そういえば、近々そういう贈り物をしたいって母さんに頼まれていたような気がする。プリザードフラワーにするのもいいかもしれない。多分まだ作業部屋に材料は残っていたはず。

そんなことを考えながら、残りの花の除去に努めた。

 

「謙也さん、お待たせしました」

最後の一つ、一番最初に似合うと直感したガーベラを取り、終わりましたよ、と声をかけようとして。

ふわり、と。

謙也さんがベンチに腰を下ろしていて、その前に立つあたしは丁度謙也さんの頭がすぐ傍にあって。

先ほどまで台座にされていたからか、謙也さんから淡く花の香りがした。

甘く優しい、ガーベラの香り。

あたしは、実は花の中で一番ガーベラが好きだ。

アレンジするときに使いやすいというのも理由の一つだけれど、この香りがとても好きなのだ。心が落ち着く。

だから、というつもりはない。

けれど。

 

―――ちゅ

 

吸い込まれるように。

特に深く考えることもなく、あたしは唇を寄せていた。

「…へ」

ぽかんと拍子抜けする、間の抜けた謙也さんの声に。

ハッと、じわじわと、自分の行動を思い返して。

 

「―――…ッッ!!!!!」

 

あたし今、なんてことしたの!?

 

 

 

 

*****

 

少女漫画かよぉ! って誰かに云われる前に自分で云っとく



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どうしたらいいのかなんて、わからない

 

 

 

「自分、謙也さんと喧嘩でもしたんか?」

「…してない」

「嘘こけボケ」

「う、嘘じゃない!」

「ほーぉ? ほんなら俺の目ぇ見てもっぺん云ってみ」

 

なんなのこいつ、関係ないじゃん。

昼休み、利用者がほとんどいない図書室に引きずり込まれて尋問を受けていた。こう書くと若干いかがわしいにおいがしなくもないが、それはそこ、あたしと財前である。色めいた雰囲気にはミジンコほどもならなかった。

本来は飲食禁止の図書室だけど、お弁当まで強奪され何故か司書室に通される。何でも今年から新任の司書は本の虫で、生徒そっちのけで図書室中の本を片っ端方読み漁っている人で、あまり司書室を使っていないらしい。もったいないから代わりに使ってるって、なんなのその某郷田武みたいな言い分。素で云ってるあたりが怖いわ。

まぁとにかく、つまり今あたしと財前はふたりで司書室にこもっている。逃げようにも出口は財前の後ろにあって、逃げられそうにもない。

「本当に、喧嘩とかじゃないんだってば」

じゃあなんだ、という目で睨まれる。こえーよ! あんた目つき悪いんだからガチで睨まれるとマジで怖いんだよ自覚しろ!

しかしこれは、すべてとはいかずとも多少は理由を話さないと逃がしてくれそうにない。

…いや、だから、本当に喧嘩じゃないのだ。

 

あの日、あの後。

まるで時間が止まったのではないかと錯覚するほど、気が遠くなるような沈黙を挟んだ後。

ぽかんとしたままの謙也さんと、自分の行いを思い返して茹蛸状態になったあたし。

ザ・ワールドを解除、時を加速させてくれたのは、テニスコートに現れた白石さんだった。ありがとうバイブル、ありがとうスタンド使い。自主練をしようとしてコートに出てみたら謙也さんがまだ帰らずにいたから声をかけてくれたらしい。

その瞬間、あたしは花と鞄をまとめてひっつかんで脱兎のごとく逃げ出した。

逃げるしかないでしょ。

逃げる一択でしょ。

あのままあそこにいたら、あたし、何するかわからなかった。

照れと羞恥で謙也さんをタコ殴りにしていた可能性すら否定できない。しかし謙也さんは跡部さんじゃないのだ、気軽に暴力をふるっていい相手ではない。だから逃げて正解。

 

それが、先週の水曜日のこと。

今日は週も明けた火曜日、あれから実に一週間が経っていた。

あの日から、一度も謙也さんと話していない。それどころから、転校してきた当初よろしく逃げ回る生活。この3か月で謙也さんが教室に顔を出すタイミングなどはある程度わかっていたので、そこを見計らって6組に逃げたりトイレに駆け込んだりしていた。

だって、どんな顔をしたらいいかわからないじゃないか。

「…ちょっと、失礼なことしちゃって。合わせる顔がないっていうか」

今思い出しても恥ずかしい。

謙也さんを台座代わりにしたどころか、その、無意識とはいえ、あんなこと。

云ってからちょっと頬の熱さを感じて思わず自分で頬を抓っていると、にやり、と財前が笑った。

何よ、すごい嫌な予感する。

すると、案の定。

…財前は、爆弾を投下した。

「いちゃつきついでにキスでもしたか」

「!!??」

「図星か」

いいいいいちゃついてへんわ!!

と大阪人が聞いたら激怒間違いなしの似非大阪弁で弁解する余裕など今のあたしにはあるはずもなく、金魚みたいに口をパクパクさせることしかできない。

何云ってるの、なんで知ってるの、どこで見てたの。

声にならない声で訴えれば、ごそごそとポケットを漁って、取り出したのは。

「激写」

ズイと差し出された携帯電話の画面には、一枚の写真。

それはテニスコートの中から撮られたようなアングルで、そこには一組の男女が映っていた。

っていうか。

「………!!!!」

これは一週間前の、あたしと謙也さんで、しかもこれは。

 

「消せ―――ッ!!!!!」

 

反射で握り拳をまっすぐ前に突き出していた。所謂右ストレートである。反射であるからして手加減なしで繰り出された渾身の右ストレートは、まさかこんな行動に出られるとは思いもしなかったのであろう財前の鳩尾に見事に吸い込まれていった。

だってこんなの悪趣味すぎる。

 

…あたしが、謙也さんの頭にキスしてる場面なんて!

 

 

+++

 

 

財前が復活したのは、丁度あたしが財前の携帯から写真を削除したときだった。

人の携帯を勝手にいじるなんてプライバシー違反なのは重々承知だが、それ以上にあたしのプライバシーが踏みにじられている事実に気付いてもらいたい。なので容赦なく削除。一瞬携帯自体を握り潰してやろうかと思ったけど、それは親御さんに申し訳ないので勘弁してやる。

「…相変わらずええパンチ持っとるやないか自分…」

「伊達に重いカメラ機材持ち歩いてるわけじゃないんで」

「謝れ」

「お前が謝れ」

「………」

「…………」

バチバチと火花が散る。云っとくけどあたし悪くないかんね。

 

断固折れる姿勢を見せずに踏ん反り返っていると、はぁ、と財前は小さくため息をついた。

なんだこのやろーため息つきたいのはこっちのほうじゃ。いいぞ、やるならやるぞ。ルール無用の残虐ファイトのゴングを鳴らすか?

と、ちょっとファイティングポーズでスタンバっていると。

「謙也さんの様子、おかしいんや」

首を傾げる。どうやら殴り合いをするつもりはないらしい。いや、あたしだってないよ。冗談だよ。

ポーズを解いておとなしく話を聴く態勢になると、ちらりとあたしを見てから続けた。

「ぼーっとしてると思ったら急にヘドバン始めて、そうかと思ったら赤くなったり青くなったり忙しないし、大会近いっちゅーんに心ここにあらずっちゅー感じでな」

…それは、不審ですね。

ありありと想像できるあたりが悲しいが、多分あたしの想像通りの謙也さんがいるのだろう。

ああ、ごめんなさい。

心底申し訳ない気持ちになって俯くと、呆れたような財前の声がした。

「…どうにかせぇよ」

視線が痛い。

お前のせいだろって、口にはしてないけどそう云っているのがよくわかる。

でも。

「…どうにかって……」

そんなの、わかんない。

あたし自身がどうしてあんなことしたのかわかっていないのに、謙也さんになんて云ったらいいの。

 

ごめんなさい、は違う気がする。

気にしないで、も違うと思う。

ならばなんと云えばいいのか。

あの日からずっと考えていて、こうして財前に問いただされている今も、答えは出てきてくれなかった。

 

 

 

 

 

*****

 

もうちょいどたばたする予定



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嵐襲来の予告

10

 

 

 

結局昼休みに財前に云われたことが頭から離れず、午後の授業も心ここにあらずになってしまった。幸い当たることがなかったので事なきを得たけれど、このままではやっぱり気持ちが落ち着かない。

家に帰ってからも作業部屋には籠ってみたものの、創作意欲がわかなかった。

かといって何もしないのもいろいろ考えすぎてしまって煮詰まりそうだ。

うう、どうしよう。

しかしとりあえず何もしないのに作業部屋にいるのも違う気がして、ひとまず頭を冷やすために部屋に引き返すと。

 

…テレレ、テレレ、テレレレテレレレレ♪

 

「………」

聞きなれた、しかし可能な限り聞きたくなかった着信音を放つ携帯電話。某子供向け怪獣映画のテーマである。ラスボス感すごい。

あたしがこの着信音に設定しているのは一人しかいない。

率直に云うと、出たくない。

今はただでさえ考えることが山積みなのだ、どう控えめに云っても面倒ごとや厄介ごとしか押し付けてこない人物からの電話にかまけている余裕はあたしにはない。

 

…テレレ、テレレ、テレレレテレレレレ♪

 

よし、無視しよう。そうしよう。それがいい。それでいい。それがベスト!

心の中でリサリサ先生もそう云っているので、あたしはその導きに従うことにした。無視します。

なんか長く鳴ってる気がするけど、もう少し放置すればさすがに諦めるでしょう。ほら、あの人だって暇じゃないんだし。

が。

 

…テレレ、テレレ、テレレレテレレレレ♪

 

…鳴り止む気配がない。

何これ、どういうことなの。

なんで諦めないの。

鳴らしすぎでしょ。

あたしが今どうしても手を離せない状況にあるとか、携帯を忘れて出かけてるとか、お風呂に入ってるから出られないんだとか、そういうことは考えないわけ?

あの人から電話があったら絶対出る、みたいな雰囲気になってるのはなんでなの?

 

テレレ、テレレ、テレレレテレレレレ♪

 

この電話、あたしが部屋に戻ってくる前から鳴ってるみたいだけど、一体合計どれほどの時間が経ったんだろう。

…本気で、出るまで止めないつもりかな。

いやまさかね、暇人じゃないんだからそんなアホなことしないよね。

「…………。」

鳴り止まない携帯電話、立ち尽くすあたし。

仮に、このまま電話を放置するとする。恐らくあの人は今後、もしかしたら毎日、あたしが電話に出るまで電話をかけ続けてくるに違いない。これは最悪だ。なんとしても避けたい事態だ。

では、今になって電話に出てみるとする。しかし長時間放置していた事実をネチネチ嫌味を云われるのは確定だ。これも嫌だ。

というかどっちも嫌だ。

どっちも嫌だがどっちのほうがより嫌かって、微々たる差で毎日電話を掛けられることだろう。声も聴かないのに人を落ち込ませるってあの人すごいな。下手な無言電話より威力が半端ないよ。

 

テレレ、テレレ、テレレレテレレレレ…

 

相も変わらず電話は鳴り続ける。

考えてるうちに切れてくれたらそれはそれでオッケーで、即電源を切ってしばらく箪笥の奥にでもしまっておこうかと思っていたのだけれど、そうは問屋が卸してくれなかったらしい。残念だ。遺憾の意を表明する。

仕方ない。

本当の本当は心の底から出たくないけど、明日のあたしが可愛い。

威圧感すら抱かせる恐ろしい携帯を手に取ると、意を決して通話ボタンを押す。と思ったら反応しない。最近このタッチパネルの接触悪いんだよなぁ、そんなに古くないはずなのに。人間として認識されたいです。というわけで携帯が反応悪くて出られませんでしたってオチは駄目? 無理? 無理か。はい、いい加減往生際が悪い自覚はあります。

これで10秒くらい時間稼いだんだけど、やっぱり駄目でした。諦めて、出ます。

「…は」

『遅ぇグズ』

開口一番これである。ほんとクソ。

『俺様の電話を無視とは良い根性じゃねーか、あーん?』

「い、いや、ちょっと作業部屋に籠ってて」

『嘘つけ。今後一か月お前が出展するようなコンクールがねぇのはお見通しなんだよ』

怖いよ。

でもあの人がやろうと思えばあたしの今後一年間の予定さえも把握することは可能なのだろう。そう考えるとゾッとしない。どうかそんなことをされる事態にはなりませんように。

胃がキリキリと痛むのは気のせいだと思考の外に追い出して、ため息を一つ。

こんな無駄話で時間を取られるのは御免だ。

 

「…それで、なんの御用ですか、景吾さん?」

 

 

+++

 

 

「ししししし白石せんぱ―――――い、早まらないでええええええええ!!!!!!」

 

唯我独尊ナルシー男との電話をぶった切ったあたしは、私服のままで家を飛び出した。

向かったのは再び学校、テニス部部室。

今のあたしの頭には、謙也さんと気まずいとかテニス部部室が男の園であることとかはすっ飛んでいた。

ともかく、あのクソ野郎の暴挙を止めなければ。

そんな使命感だけがあたしを突き動かし、普段は絶対出ないような凄まじいスピードで学校に駆け込んだ。

「な、なんや、どないしたんや津々井?」

もしかして着替え中でしたかすみません。

でも上半身半裸とかどうでもいいからあたしの話聴いて!

「駄目です、いいように使われないでください! どんなに体面の良いこと云ってても、結局あの人は完全に私情で動いてるんです!!」

「お、落ち着け津々井、なんのことや?」

これが落ち着いていられるか。

どうどう、と肩に手を置かれてあやされる様子はまるで子供みたいだったけど、今はそんなこともどうでもいい。ただし普段だったら許さないから覚えとけよ。うるせーチビって云うな!

肩を掴む白石先輩の手を逆に掴んで――なんでこの人包帯してるんだろう、もしかして心を患っている方? という思いは億尾にも出さず――、あたしは怒鳴るように訴えた。

 

「氷帝と練習試合なんて、絶対あの人何か企んでるに決まってます!!!」

 

そう、つい先ほど自宅にて、早く電話を切りたい一心で用を訪ねると、景吾さんは最初は他愛ない話を始めた。

やれ学校はどうだとか友達は出来たのかとか無事環境には適応できそうかとか、お前はお父さんかと云いたくなるような、そんな他の人からの話題なら心がほっこりするようなもの。ついでにお前がいなくなって氷帝が上品になったとか云われたのでそっと親指を下に向けておいた。

そんな話題はシカトして、いいから早く本題に入れと云いたい気持ちを抑え込みつつ、意地を張るわけじゃないけど妙な勘繰りを入れられたくはないので、転校から一か月前後の意地っ張り期間のことはなかったことにして掻い摘んで話した。

 

気の良い人ばかりだし、大阪のノリも慣れれば意外と楽しめる。

嘘ではなく、今のあたしはここに転校してきてよかったと思っていた。

大阪、というか、この四天宝寺中に。

東京とは違った景色があって、そこに生きる人たちも明るくて楽しい。

あちらになかったものが、こちらにはある。

もちろん、今でも東京は好きだ。友達だっているし、生まれてからついこの間まで住んでいた慣れ親しんだ場所をいきなり忘れるなんて出来るはずもない。

けれど、今もし東京に帰ってもいいと云われても、多分素直に喜べない。

それくらいには、今のあたしは大阪を気に入っている。

 

ちょっと照れくさいけど、こっちではそんな話をわざわざしないものだから、気の知れた先輩ということもあってそんなようなことを話してしまったのがそもそもの間違いだったのかもしれない。

あたしがこっちの生活を楽しんでいると知って何が気に入らなかったのか知らないが、いきなり景吾さんが『お前がいなくなってせいせいした』なんて云い始めたのだ。

世界中の海の広さを足したくらい心の広いあたしでも、さしものこの言葉にはカチンときた。

そこからはもうアレだ。とてもじゃないが人には聞かせられないような罵詈雑言の応酬の開始である。あの人、洗練されたハイソサエティの人とは思えないほど汚い言葉知ってんのよね。

 

そして最後にあたしが云い放った一言があの人の逆鱗に触れ、少しの沈黙を挟んだ後、景吾さんは晴れ晴れとした声で権力者特権を振りかざした。

それが。

「…氷帝と練習試合?」

「えーっ、蔵りん、ほんまに?」

「いや、オサムちゃんからは何も聞いてへんけど…」

「ま、間に合った…!?」

しかし気付く、そうだ、あまりに気が動転しすぎて職員室じゃなくてこっちに来ちゃったけど、本来なら部長の白石先輩よりも先に顧問の渡邊先生に連絡が行くはず。しくじったか!

が、そういえばテニス部は部員の自主性が高くて部長がしっかり者だから、代わりに顧問がゆるゆるで実際ほとんど権限なんてない、実質の権力者は白石先輩だと聞いたことがある気がする。何それめっちゃ可哀そうって思った記憶があるから、多分間違いない。ならやっぱり白石先輩に突撃して正解だっただろう。

一瞬ホッとしたものの、危険な事態であることには変わりない。

「とにかく駄目です、しかも普段は絶対遠征なんてしないあの人たちがわざわざ大阪まで遠征するなんて、裏があるに決まってるんです!!」

 

もしかしたら、ラピュタが見つかるよりありえないけれど、ほんのわずかな確率で普段はあまり交流のない関西の強豪と力試しがしたくて純粋に練習試合を申し込んで、申し込むのは自分たちだからもちろん足を運ぶのは氷帝で、という気持ちがあるのかもしれない。

が、断言してもいい、コンマミクロン以下の確率でそれはない。

あたしにはわかる。

これは、絶対にあたしに対してどうすれば最大限の嫌がらせを出来るか考えられた上での練習試合なのだ。

あの人ならやる。

あたしに嫌がらせをするためなら、権力を振りかざして財力も振りかざして、東京から大阪までやってくる。

あたしの知っているあの人は、そういう人だ。

 

「氷帝って関東の強豪やろ? そんなところと練習試合できるなんて、ラッキーやと思うんやけど…」

「甘い! 生クリームたっぷりのショートケーキよりも甘いです小石川先輩!!」

控え目に挙手して意見を述べてくれた小石川先輩に、しかしあたしは物申す。

未だに状況を理解できていない様子のテニス部のみなさんをぐるりと見回して、聞き分けのない子供に云い聞かせるように、しかしはっきりと云った。

「いいですか、相手はあの氷帝です。ひいては景吾さんです。確かにあの人テニスの腕は確かかもしれないけど、それ以外は最悪です。史上最悪の人格破綻者なんです。人を人とは思わぬ言動、それを当然受け入れられると思い込んでいる根性、金に物を云わせて解決しようとする資本主義の塊具合、どれをとっても一級品の悪魔! 何より今回の練習試合、絶対嫌がらせなんです!!」

「い、嫌がらせ?」

息継ぎもせずにまくしたてると、一氏先輩がたじろいだように呟いた。

 

まあそうだ、遠回りではあるがあたしの言動がテニス部に迷惑をかけることになっているのだから、簡単には説明する必要はあるだろう。詳細は伏せて、話せるところだけ話そう。

そう、そうすればこの練習試合がいかに馬鹿々々しい理由で申し込まれたかわかるはず。

いくら強豪校相手だったとしても、そんな馬鹿な理由で申し込まれては関西の強豪の名折れだ。

断るべき。

いえ、断ってください。

「あたしがあの人のことハゲって云ったから怒っちゃって、でも怒るのは気にしてる証拠だと思うから今後も積極的に―――…」

 

『おい、小毬』

 

―――ぴたり。

 

動きが止まった。

息が止まった。

空気も止まった気がする。

ついでにこのまま心臓も止まんないかなってちょっと思った。

いや、っていうかさ!

「………な、なんで、電話つながって……」

『全部聞こえてたぞ』

「ひっ」

思わず携帯を放り出すと、それは綺麗に弧を描いて、少し離れたところにいた白石さんの手の中に納まった。しかも、気付かないうちにどこかに触っていたのか、ご丁寧にスピーカーモードがオンになっていたらしい。

静かになってしまった部室には、景吾さんの声がよく響いた。

まさか。

最近確かにあの携帯は接触が悪かった。

切ったと思ったのに、切れていなかったのかもしれない。

しかもそのままずっと握り締めていたので、気付きもしなかった、と。

 

え、嘘でしょ。

嘘って云って。

さっきまでの悪口のオンパレード、景吾さん、聴いてないでしょ?

…聴いて、たの?

恐怖のあまりまっすぐ立っていられなくて、思わずいつの間にか傍にいた謙也さんのシャツを掴む。そういえば謙也さんは着替え終わってたんですね。

 

見える。

携帯電話の向こう、東京。あの人の部屋。

お気に入りのソファに腰かけて高い紅茶を楽しみながら、あの人は今綺麗な顔で微笑んでいる。

けれどそれは機嫌がいいからではない。

 

『週末、楽しみにしてろよ』

 

週末?

あたしにとっては終末じゃない?

 

『俺も、楽しみにしている』

 

―――最高に、怒っている証拠だった。

 

景吾さんは普段そんなに怒らないし、一応その辺はしっかりしているので叱るとか注意することのほうが多い。特に、どんなことがあっても声を荒げたりはしない。

代わりに、ものすごーく静かになる。

そして顔に浮かべるのは怒りの表情ではなく、笑顔。

何も知らない人が見れば極上の美形が微笑んでいるのだから、そりゃあうっとりもするだろう。

でもあたしは違う。

あたしや氷帝テニス部の人たちは知っている。

綺麗な笑顔を浮かべているときほど、あの人が怒っていることを知っているのだ。

むしろ景吾さんは、人が悪そうにニヤリと笑っている時のほうが実は機嫌がいい。もうホント終わってるだろ。

しかも、楽しみにしてろよ、と云ったあの声。

とろけるように甘い声だった。

そこらの女の子があんな声を耳元で囁かれたらその場に卒倒するレベルの声だったのだ。ともすれば最後にハートがついていそうなほど優し気で、真っ青になったあたしを見るテニス部のみなさんが不可解そうな顔をしている。

多分この人たちは、『跡部にあんなこと云われて青くなるなんてどうしてだ?』とか考えているんだろう。

馬鹿め。

何も知らないからそんな不思議そうな顔が出来るんだ。

もしこの電話の場面に氷帝テニス部員が同席してたら、あたしは絶対合掌されていた。ちょたも日吉も樺地も基本的には景吾さんの云うことはぜったーい! のやつらだから、あたしの味方なんてしてくれないに違いない。

「終わった……」

 

直後、男子テニス部の床にへばりついて絶望に打ちひしがれていたあたしにさらなる追い打ちがかけられた。

ふんふんふーんとのんきな鼻歌を歌いながらやってきた男子テニス部顧問の渡邊先生が、今週末正式に氷帝との練習試合が決定した旨の知らせを持ってきたのだ。

そして何故か記録班としてあたしに参加するよう告げられた。あたし、写真部でも新聞部でもないんですけど。

 

―――そうだ、逃げよう。

 

逃げてその後事態がどうなるのかなんて考えない。

とにかくあたしは終末の…いや、週末のあたしがかわいい。

誰に何と云われようと、逃げます。

 

 

 

 

 

*****

 

何度も云いますが私はベ様死ぬほど好きです。



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再会

11

 

 

 

土曜日、早朝。

今日は四天宝寺中テニス部と氷帝学園テニス部の練習試合兼合同練習会及び交流会である。ちなみに双方部員がそこそこいるため――というか氷帝はただでさえマンモス校なのでテニス部だけで部員が200人を超えるという異常っぷり――、今回はレギュラー陣のみ参加となったそうだ。

10時に四天宝寺中に集合、まず練習試合。昼休憩を挟んでから夕方まで合同練習で、夜は近くの料亭(実は榊先生御用達)で交流会、というのが大まかな予定らしい。

そんな場所にあたしは記録班として呼ばれた。まぁ簡単に云えばとりあえず写真撮ってろってことです。

が。

 

誰が承諾するか、そんなもん。

 

そもそもあたしはテニス部マネージャーじゃないし写真部所属でも新聞部所属でもない、どう考えても100%無関係者。いきなり呼び出すほうがどうかしているのだ。あいつ絶対頭おかしい。

というわけで。

現在、朝5時半。旅行鞄を引っ提げて、新大阪駅新幹線チケット売り場である。

逃げます。

あたしは逃げます。

今頃東京駅では景吾さんは、どうあたしを料理してやろうと考えている頃だろう。

ふっふっふ、だが残念ですね、今日も明日もあたしは大阪にすらいないのだ!

意表をついて、東京に避難するのです。

よもや景吾さんもあたしが逃げるとは、しかも行き先を東京にするとは思うまい。

ふはははは、もう景吾さんに先手を取られてピーピー泣いているだけのお馬鹿なあたしはもういないのだー!

そんなわけで今のあたしは心の余裕も十分、久しぶりの東京も楽しみだしで気分はルンルンだった。いつか今日のことをグチグチ云われるかもしれないけれど、それはその時考えればいい。

じゃ、気を取り直してチケット買いますか! ちょっとリッチにグリーン車なんて乗っちゃおうかな、駅弁を楽しむのもいいし。

なんて、上機嫌で足を一歩踏み出した瞬間だった。

 

…ポン、と肩に手が乗って。

思わず、振り向いて。

 

「よう小毬、早起きだな」

 

―――なんでやねん。

 

相も変わらず顔だけはよろしい景吾さんが、いた。

しかもめっちゃ、笑顔です。

 

 

+++

 

 

「氷帝学園テニス部部長の跡部だ。今日はお互い有意義な時間になることを祈る」

「は、はぁ。四天宝寺中テニス部部長の白石や。今日はよろしゅうな。…ところで…」

「ああ、コレのことなら気にしなくていい。ただのオブジェ…いや、ガラクタだな」

白石先輩の気の毒そうな視線が痛い。

あの、でも、正直今は、同情するなら助けろって気持ちでいっぱいかな。

とりあえず、この悲しい状況を見られたのが白石先輩だけでよかった、と見当違いの安心をしたのは、ちょっとした現実逃避である。

 

駅で景吾さんに拉致され、リムジンに無理やり乗せられ、あんまりにも騒いで暴れる為両手両足を縛りあげられた上ガムテープで口を塞がれたあたしは、さながら誘拐犯に捕まった被害者だった。っていうかそのものだ。こういうのドラマとかで観たことあるよ。駅での光景とかあたしの現状とか警察が見たら絶対アウトのやつでしょ。それを平然とやってのけて、しかもこれっぽっちも悪いと思っていないであろう景吾さんの思考回路が理解できない。ぶっ壊れすぎだろ。

そして一旦家に寄ってカメラの道具一式を持ってこさせられてから、またリムジンに押し込まれて結局四天宝寺中に連行されてしまった。っていうかさ、なんでナチュラルに我が家の住所押さえてるのこの人。怖すぎ。ちなみに、家に寄った瞬間にそのまま閉じこもるという手も考えたのだけれど、そうするとあの人扉を破壊してでもあたしを連れていくだろうから諦めた。

で、校門で出迎えてくれていた白石先輩の目の前に車から蹴り落されて、いもむしみたいにじたばた暴れてたらさらに踏みつけられて現在に至るわけです。

ね、どこからどう見ても可哀そうでしょ、あたし。

「津々井の目が死んどる…」

「もともとだろ」

「いや、いつも以上やろ!」

否定しろよ。

白石先輩とはそんなに深い付き合いをしているつもりはなかったけど、この人があたしをどう見ているのかだけはわかった気がする。今後の付き合い方を少々考えさせられるきっかけになった。あとで覚えてろ、エクスタ侍。

 

っていうか景吾さんはいい加減あたしを解放してよ!

「あ? 外したら逃げるだろ、お前」

逃げ…たいけど逃げないよ、今更。住所は割れてる、おそらく交通機関の駅には跡部家の息がかかった誰かが見張っているこの状況で尚逃げようとするほど馬鹿じゃないよあたしは。

「馬鹿だろ」

うるせえ余裕で犯罪スレスレの行動するあんたに云われたくないわ、このウルトラ馬鹿。

「お前、現状把握出来てないのか?」

止めてください両手両足縛られて無抵抗の後輩女子に暴力は普通にアウトだと思います。

そもそも視線だけで会話できるあんたの能力が怖い。インサイト? いや最早そういうもんじゃないだろ、超能力的な何かでしょ。寸分たがわずあたしの考えを読むのはやめていただきたい。

ちなみにそんなあたしたちを白石先輩は珍獣を見るような目で見ていたので、やっぱり許さない。

 

しかし景吾さんもいい加減どうでもよくなったのか、やっと解放してくれる気になったらしい。

荷物のごとく放り出されて手枷と足枷を外され、口のガムテープははがされるのが怖かったの慎重に自分ではがして――あたしは見逃さなかった。景吾さんが、あたしがガムテープをはがすのを見て舌打ちしたのを。あいつ絶対思いっきり一気にはがす気だったな! 鬼かよ!――、即座に景吾さんの傍から逃げ出して白石先輩の背中に隠れる。

「ここここの犯罪者―――ッ!」

「逃げるお前が悪いんだろうが」

「だからって普通拉致る? 縛る? しかもガムテって!」

「手錠のほうが良かったのか?」

「どれも嫌ですけど!?」

不思議そうに首を傾げられても可愛いなんて思わないんだからね。むしろそのキョトン顔が無性に腹が立つ。

 

「っていうか、なんであんな時間に駅にいたんですか? 東京からの新幹線も始発は6時くらいでしょ?」

それを見越して始発で逃げようとしてたのに、完全に油断していた。

わけわかんないことしてんじゃないですよ、と視線に意味を込めてじっとりと睨み付けると、景吾さんは事も無げに云った。

「俺だけ昨日の夜にこっちに来てたんだよ。ついでの用事もあったしな」

「…じゃあますますなんで駅にいたんですか」

飛行機にしろ新幹線にしろ、前日入りしてたなら駅には用事なんてなかったはずだ。この人に限って後から来るメンバーのお出迎えをするなんてことはありえないし。

すると景吾さんは、ふんと人を小馬鹿にしきった顔で笑った。

「どうせ小毬、お前のことだ。俺から逃げるんじゃねえかと踏んで、先手を打って張ってたんだよ」

暇人かよ。

というか、全然出し抜けてなかったってことか、あたし。ああ、地味に凹む。

「ほんと性格悪い」

「お前には負けるぜ」

「うるせえハゲ」

「よし、来い。教育的指導だ」

「誰が行くか!」

折角逃げられたのにわざわざ外敵に近づくほどあたしは馬鹿じゃないんじゃい。

白石先輩が盾になってくれているので――している、とは云わないのである――、ある程度の安全が保障されているのをいいことに思いっきりあっかんべーをしてみる。案の定見事な青筋が景吾さんの額に浮かんだ。だが怖くない。今は最強の盾がいるのだから! え、盾がいなくなってから? そんなことを考えながら生きてたらストレスマッハで死んじゃうから、考えないよ!

でも気付いたら何故か目の前に景吾さんがいた。

おかしくない?

ねえ、もしかして白石先輩、あたしを売った?

ドナドナした?

ねえ、景吾さん笑顔なんだけど。

 

「と、ところで跡部、他のメンバーはどないしたんや?」

ナイス白石先輩!

心の中でガッツポーズしているあたしは現在思いっきり景吾さんにほっぺを抓られている。これは最早抓るどころの話ではない、この男、確実にあたしの頬を捩じり切るつもりなんじゃないかと思うほど抓り上げられてそろそろ限界だった。痛いんだよ!

さすがの景吾さんも白石先輩の言葉は無視出来なかったらしく、漸くあたしのほっぺから手を放して時計を確認した。それから部活連絡用に使っている携帯電話をチェック。

「あいつらならもうすぐつくはずだ」

「さよか。ほんならここで待ってみんなまとめて更衣室に案内するわ」

「わかった。が、案内なら小毬にさせるから、お前らは気を遣わなくていいぞ」

「あ!? 嫌に決まってあいたたたたた息をするようにアイアンクローをかますのはやめろ暴力男!!」

ほんとあたしに人権はないのかよって云いたくなる扱いに怒りを通り越して純粋にびっくりする。あたしはあなたの召使じゃないんだけど、そこのところ分かってくれる日は来るのだろうか。来ますように。

というかあたしのこめかみがギリギリと容赦なく締め上げられて甚大な被害を及ぼしている。手加減ってものを知らないのか、この人は!

「わか、わかったから!! 謹んで案内させて頂きますので放せぇ!」

「最初からそう云っとけばいいんだよ」

「暴君…!」

この人、式典とかパーティみたいな場所ではしっかりレディファーストの最高級エスコートしてくれるくせに、なんで普通の世界に帰って来た途端こんな暴君になり果てるんだろう。もしかしなくてもストレス溜まってる? それ、あたしで発散してる? やめろ。痛む頬を摩りながら睨み付けてもどこ吹く風な様子も腹が立つ。

 

少し考えていた様子の白石先輩は、何度かあたしと景吾さんを交互に見やった後、うんと頷いた。

「ほ、ほんなら津々井、頼むな?」

何に納得したのか、あるいは諦めたのかはあとで問いただすことにする。

「大変不本意ですが、わかりました。体育館の更衣室でいいんですか?」

「ああ、今日は体育館の運動部は練習試合に出てるから、誰も使わへんらしいから」

「なるほど」

それに、体育館は数年前に改装したとかで、学校の中では一番綺麗だ。一応そのあたりも気を遣っての体育館なのだろうと思うと、渡邊先生って意外としっかりしてるんだなぁと感心した。可哀そうとか思ってごめんね。

憔悴しきったあたしを心配そうに振り返りつつ、しかし迷いない足取りで部室に向かった白石先輩の背中を、あたしは死んだ魚の目で眺めるしかできなかった。

だって、氷帝のみんなが来るまでここで景吾さんとふたりっきりとか、どんな拷問よ。

おい、地味に人の足を踏むな。子供か。

 

白石先輩の姿が完全に見えなくなった頃合いで、景吾さんはやっと足を踏むのをやめた。こ、この野郎…。そんなに痛くなかったけどムカつくんだよ。

ちきしょう、と上のほうにある景吾さんを睨み付けると、なんだかつまらなさそうな顔であたしを見ていた。

な、何よ。

普通に睨まれるより、なんか怖い。

「楽しんでるみてえだな」

云って、視線を前にやってしまって、それからはちらりともあたしを見ようとしない。

「なんですか、またその話? 親戚のおじちゃんじゃあるまいし、もういいじゃないですか」

景吾さんに習って視線を前に移動させながら、小さくため息をつく。

というか、この間から思ってたんだけど、景吾さん、自覚あるのかな。

直接云ったら怒られそうだし、もしそれが本当でも嬉しいより先に気色悪ぃ! ってなるんだけど、その。

…あたしがいなくなって、寂しがってるみたいじゃん。

 

 

+++

 

 

それから、約5分後。

景吾さんと無言で過ごすには長すぎる時間を耐えきると、漸く氷帝学園テニス部レギュラー陣を乗せたリムジンバスが到着した。

正門から車は乗り入れられないから、校門前で下車してもらう。ここからのほうが体育館には近いし、ちょっとテニスコートからは離れてしまうけれど駐車場に行くより道も分かりやすいので我慢してもらいます。

 

ぞろぞろと降りてきたみんなにぺこりと頭を下げると、まず一番に反応してくれたのは。

「あーっ、小毬ちゃんだCー!」

「うお、マジだ! 久しぶりだなー!」

「相変わらずちっせぇなぁ」

「ジロ先輩、向日先輩、お久しぶりです! 宍戸先輩は後で体育館裏集合ね!」

お馴染みの幼馴染トリオだ。

この人たちは景吾さんに目をつけられたあたしを憐れんでくれている反面楽しんでいるところもあって、まま腹立つこともあるんだけど、基本的にはお人よしな人たちなので一緒にいると安心できて好き。ジロ先輩は何故かあたしを抱き枕か何かかと勘違いしてるところもあるけど、うん、いいんだ、ジロ先輩だから。可愛いから許す。向日先輩はあたしが運動音痴なのをネタにしすぎだけど、この人も可愛いからいい。でもな宍戸先輩、貴様は駄目だ。可愛くないから駄目です。

 

それから、後ろのほうにいても飛び出して見えるあの長身は、間違えるはずもない。元クラスメイトにして、自慢の友人。時折素で辛辣だったり薄情だったり、何故か宍戸先輩にぞっこんなのが不思議だけどツッコむと怖いので何も云えない、そんな彼は。

「小毬、久しぶり!」

「おー、ちょたぁ! あれ、もしかしてまた身長伸びた?」

「あ、わかる? 実は春から5cm伸びたんだよね」

「は~、羨ましい…ちょっとわけてよ」

「あはは!」

「無理だろ」

で、ずばりと空気の読めないツッコミを入れてくれたのは。

「日吉も久しぶりぃ。ところで頼むから早いとこ下剋上頼むよ。あたし、あの人が屈辱で膝つくところ見たい。あわよくば、シャッターチャンスを狙いたい」

「真顔で云うな。相変わらず物騒なやつだな」

だが任せとけ、とにやりと笑うあたり、やっぱりこいつも変わってない。あんたのそういうところ結構好きよ。

それから、こんなときでもやっぱり景吾さんの荷物を持ってあげている優しい子には頭の下がる思いだ。

「樺地! 」

「うす」

「うす!」

「うす」

「うっす!」

「う、うす…」

「樺地で遊ぶな、単細胞女」

「沸いて出るな、暴力男」

お互い無言で胸倉を掴み合い睨みあう。ねえこの絵面相当やばいと思うんだけど、どうだろう。

そして。

 

「はは、全然変わってへんなぁ」

 

―――この声。

一瞬で景吾さんなんかどうでもよくなって手を放す。

胸の奥から暖かいものが溢れるのを自覚したまま、声のほうを振り返れば、そこにいたのは。

 

「久しぶりやな、津々井。もうこっちには慣れたか?」

 

大好きな、この人。

 

「忍足先輩、お久しぶりです! いろいろあったけど、大阪も楽しいです!」

「おお、そかそか。そう云ってもらえると嬉しいわ」

みんなも変わっていないけれど、忍足先輩が一番変わらないと思う。

甘い声、優しい笑顔、落ち着いた佇まい。

どれもこれもが記憶にあったままで、少しだけ泣きそうになる。

 

―――やっぱり、あたしはこの人が好きだ。

 

…と、感傷に浸っていたら。

「おい、さっさと更衣室に案内しろ愚図」

「チッ」

「あ?」

「ほんと空気読まない人ですよね、景吾さんって」

「云いたいことがあるならはっきり云え」

「感動の再会なんだから邪魔すんなバーカ」

「云い残したことはそれだけか?」

「はーいそれではみなさん更衣室はこちらでーす!」

取っ組み合いの喧嘩になる前に、さっさと更衣室に案内すべく歩き出す。

時間はまだあるのだ、焦る必要はない。

 

さて、逃げ出したくても逃げ出せなくなってしまったこの状況、つまりあたしは記録班の仕事をこなさなければならなくなったわけで。

傍らには、機材一式。

仕方ない。

こうなってしまっては、あたしはあたしの仕事をきっちりこなすまでのこと。

久しぶりに本気出して撮りますか!

 

 

 

 

 

*****

 

跡部とはあれでめっちゃ仲良いのだよ



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密着取材

12

 

 

 

練習試合、合同練習はつつがなく終了した。

性格に問題ありの人たちばっかりが集まってる氷帝学園テニス部だけど、やっぱり実力は相当なものだ。素人のあたしが観ても、一人ひとりのレベルが高いのがわかる。

特に、景吾さん。

偉そうにしてるのは口だけじゃない。ちゃんと大言壮語にならないだけの実力を兼ね揃えている。人を見下した言動は相変わらず腹立つが、反論させないだけの力で相手を叩きのめす姿はただただ圧巻だった。

カメラを替え、レンズを替え。数えきれないほどのシャッターを切りながら、しみじみ思う。

この人、黙ってれば本当に格好いいのになぁ。

 

―――ゴヅンッ

 

衝撃、後に壮絶な痛み。

頭に隕石落ちたみたいな音がした。

「なっ…にすんだ!」

「むしゃくしゃした」

「それ、理由? ねえ、それ理由のつもり?」

力加減と角度によっては軽く殺人を犯せたであろう行為を働いておいて、そのキレやすい10代の代表みたいなこと云いやがっ…と思ったけどこの人も一応10代だったことに気付いて小さく口の中で笑う。そうだ、いくら老け顔でも中学三年生。あたしとわずか一歳しか違わない未成年なのだ。まだまだ小児科にお世話になるお年なのだ。

なんかウケる。

どうやら今度は笑いが漏れていたようで、同じ攻撃を同じ場所に食らった。

頸椎潰れたら絶対景吾さんに慰謝料請求する。心にそう決めた。

 

練習試合の結果は、2対3で氷帝に軍配が上がったらしい。

内容まではよく知らない。写真を撮るのに集中していたので、さすがに内容を楽しんでいる余裕なんてなかったのだ。

何せ、スポーツだ。

花や物と違って、同じ場所には留まってくれない。

一瞬、刹那。

シャッターチャンスとベストショットを狙って、持っていたメモリーすべてを使い切ってしまったくらいだ。

これを帰ってから選別して明日までに提出しろって云うのだから鬼だと思う。しかもそれをしれっと頼んできたのが榊先生っていうのがまたややこしい。別に嫌いな先生じゃないけど、冗談が通じないというか、素でスパルタみたいなところがあるからちょっとだけ苦手だ。というか今回はデジタル一眼レフで撮ってるんだから、あとからデータで送れば問題ないのでは、という疑問は鋭い榊先生の視線の前には無意味だった。やれ、と云ったらやれ。そういうことです。

 

そんなわけで、本当は練習試合が終わったらさっさと帰って選別しようと思っていたのに、そうは問屋が…というかジロ先輩が卸してくれなかった。

荷物をまとめて帰る準備をしていたあたしを目敏く見つけたジロ先輩が、悲鳴を上げたのだ。

「えーっ、小毬ちゃん帰っちゃうの!?」

「はい、だってもうやることないしウゲッ!」

「やだー! 小毬ちゃん帰っちゃやだー!」

「じ、ジロ先輩、い、息……」

見事に締め上げられ、挙句カメラバッグを人質に取られてしまい、結局あたしは午後の練習も見学することになってしまった。多分先輩は抱き締めてくれてるつもりなんだろうけど、運動部で鍛えてる人と、ひ弱なインドア系の人、しかも加減というものを知らないジロ先輩の力いっぱいの抱擁は、いささかあたしにはキツすぎる。

というかジロ先輩に涙目で見つめられて『帰っちゃやだ!』なんて云われて、帰れるわけない。可愛い。ジロ先輩、本当可愛い。後ろで景吾さんがごみを見るような目をしてたけどそんなの気にならない。お前は後で絶対潰す。

 

どうせ残っているならと、何に使えるかはわからないけれど練習風景や雑談風景なども撮っておくことにした。

再びレンズ越しの世界を見ながら、思う。

こうしてみていると、なんだか不思議な気分だ。

関東と関西、離れた場所にある学校の人たちが、同じテニスという繋がりで一緒にいる。

こういうのはあまり花や写真の世界にはないことだから、ちょっとだけ、こういういかにも青春! っていう感じが羨ましい。混ざりたいとはミジンコほども思わないけれど、こういうのは楽しそうだ。

ま、あたしには一生縁のない世界だ。

 

一度かぶりを振り、気を取り直してレンズを覗く。

戦略について話す人たち。

苦手なプレースタイルの相手を選んで練習に打ち込む人たち。

得意分野を更に伸ばそうと技を磨く人たち。

どうしてもうまくいかなくて拗ねる人たち。

ストイックにひたすら打ち合う人たち。

道具について議論する人たち。

練習試合のときとはまた違った顔が見られて、こういうのもいいな、と思わず口元が綻んだ。その瞬間を最悪なことに景吾さんに見られて、遠くから『変質者』と云われた。もちろん声は聞こえないので、口の動きでなんとなく察した。妙なコールがお気に入りの変態には絶対に云われたくない言葉だと心底思いました。

 

そんなハートフルストーリー(本来の意味の方)を挟みつつ、練習の合間の休憩時間、データのチェックをしていたところでふと隣に人の気配を感じて顔を上げた。

珍しいことに財前だった。

「な、津々井」

「おお、どうしたの財前」

めんどくさがりで、自分が楽しいことにしか興味を示さないやつが、何故かちょっとそわそわしながら隣に立っている。え、何、怖い。

隠し撮りの依頼でもされるのかとひやひやしていると、意外なことを口にした。

「今日の写真、あとで何枚か適当なのくれへん? ブログに載せたいんやけど」

なんでも財前は趣味でブログをやっているらしい。

ランキングとかにも入っていて、今日のことを記事にしたら大ブレイク間違いなしだとか。普段体温なんかどこに置いてきたのかわからないほど冷たい言葉しか発さない財前の熱いセリフに、一周回って感心する。あんた、ちゃんと人間だったのね。

とはいえ、今回の写真を撮ること自体はすでにみんなの許可をもらっているが、譲渡するなら話は別だ。

「映ってる人が許可くれたらいいよ」

今は個人情報について厳しい時代である。あたしの判断で勝手なことなどできないので、条件付きにするのは当然だ。

「…ケチか」

「肖像権侵害は駄目駄目よ~」

まぁ、他でもない財前の頼みだ。一応四天宝寺中の中では仲の良い人トップ3には入ると自負している友人の頼みなら、聞いてあげたい気持ちはある。みんなに確認は取ってあげるし、多分みんな駄目とは云わないだろう。これでもあたしは結構な友達思いなのだ。

そう云ってあげると、財前は満足そうに去っていった。心なしか嬉しそうな財前に、ちょっぴり笑いがこぼれる。なんだか違う顔の財前が見られて嬉しい。

 

それからまた数度の短い休憩を挟んで、時刻は17時。ようやっと学校での日程すべてが終了した。

この後は着替えてから全員一緒に予約してある店に向かうらしい。四天宝寺中からそう遠くない場所にあるようで、今回はみんな仲良く歩いて向かうとか。

いやー目立つね。

良くも悪くも目立つね。

絶対に関わり合いになりたくないオーラがプンプンだね。

まぁ、さすがにそこまで一緒に行くつもりなんかこれっぽっちもないし、いよいよもって選別作業に入らないと、今夜のあたしの睡眠時間が犠牲になる。それはいけない。あたしは食欲はそこまでないけど睡眠欲だけは人一倍…いや、さすがにジロ先輩ほどじゃないけど。

ともかく、誰かに捕まる前に手早く荷物をまとめて、部室や更衣室に向かうテニス部員の皆さんに軽く敬礼をしてご挨拶。

「じゃ、今度こそあたし帰りますね」

「えー!?」

「だって、みんなあとは交流会でじゃないですか。これこそあたしのやることなんてないんだから」

「えー…」

そう云われれば反論できないのか、ジロ先輩が恨めしそうにあたしを見た。うう、可愛い。これで年上なんて信じられない。

確かに今朝久しぶりにみんなに再会できて嬉しくて、だけど日中はずっとテニスにどっぷり、あたし写真に夢中になっていたから実はあんまり誰とも話せていない。景吾さん? あんな人ノーカンだノーカン。

 

氷帝を離れて3か月。

寂しくなかったというのは噓になる。

四天宝寺に慣れたことは本当だけど、やっぱり少し氷帝が懐かしく思う日もあって。

今日、みんなに久しぶりに会えたことでその気持ちは大きくなって。

だけど、あたしはもう大阪から東京に帰ることなんてきっとなくて。

寂しいけれど、その寂しさにすら慣れなければならないことを、あたしは知っていた。

もう少し、みんなと話したいけれど。

あの頃の気持ちを思い出せば思い出すだけ、きっとこの後辛くなる。

どっちのほうがより辛いだろう。

考えるまでもない。

どっちも同じだけ、ものすごく辛い。

 

「ジロー、わがまま云うたらあかんで。津々井が困る」

「だってぇ」

ジロ先輩に悪気はないから、あたしも強くは云えなくて困っていたら、やんわりと忍足先輩が助け舟を出してくれた。慌てて忍足先輩を見れば、軽くウィンク。あ、死ぬ。あたしのハートは完全に射抜かれた。

このまま昇天したいところだけど、先輩がくれた助け舟、しっかり活用させていただきます。

子供のようにあたしの服の裾を掴んで離さないジロ先輩の手を取って、云う。

「何も今生の別れじゃないんだから、ね、ジロ先輩。あたしきっと東京に遊びに行きますよ」

「ほんと!?」

「はい。もう夏に一度戻る予定はありますから、その時ゆっくり遊びましょうよ」

「わーい、超嬉Cー! でも、やっぱり今日もお別れなんて寂しいよぉ!」

「全く、ジローのやつ…」

「あ、あはは…」

駄々っ子全開なジロ先輩には、さすがの忍足先輩も困ったように笑うしかできない。

こういう時に頼りになる、というか主にこういう時しか役に立たない景吾さんは白石先輩と一緒に渡邊先生のところに行っちゃってるし、どうしよう。

 

でも、どんなに可愛いジロ先輩のお願いでもさすがに榊先生の許可なくご一緒なんか出来ないし、と思っていると。

「津々井」

「あ、はい」

なんと向こうからやってきた。見れば白石先輩や景吾さんも一緒で、渡邊先生との話は終わって戻って来たらしい。

先生の前にもかかわらずやだやだを続けるジロ先輩、メンタル鋼すぎるだろ。そういうところも可愛いけど!

不可解そうにジロ先輩を見た榊先生に手短に状況を説明すると、そうか、と一度呟いて考え込んでしまった。え、まさかこんなことでレギュラー落ちとかしないですよね?

 

ちょっと心配になりつつ、何故か先生の視線はジロ先輩ではなくあたしに向いた。え、何。いくらなんでも先生まであたしに帰るななんてあほなこと云うはずが。

「てっきりお前も来るものだと思って話を通しておいたんだが…」

云ったわ。

え、何それ先生の中であたしってどういう位置づけだったのか、今度膝を突き合わせて語る必要がありそうだ。

というか何をですか?

先生の両方の発言の意味が分からず首を傾げると、榊先生はとんでもないことを云いだした。

「実はこれから行く店の女将が、定期的に花を活けてくれる人材を探しているというのでな。津々井を推薦しておいた」

「へ!?」

「過去の作品を見せて気に入ってくれたようなので、紹介しようと思っていたのだ」

先生によると、そのお店では以前は常連客に華道家の先生がいて、週に一回定期的に玄関や個室に飾る花を活けていたそうなのだ。しかしその先生が身体を壊してしまいしばらく花を活けられないから、代わりの人材を探していたという話だった。

業者に頼むのも今更だし、その先生が戻って来た時に業者を介入させていると面倒だし、どうしたものかと頭を悩ませていたところで丁度榊先生からの予約があり、たまたま先生の元教え子にあたしという存在がいたというわけで。

一瞬、この願ってもないような状況に頭の理解がついていかなかった。

期間限定ではあるけれど、決まった場所で花を活けられる。

そんなの、答えは決まってる。

「ほらみんなさっさとシャワー浴びて着替えて! んもー榊先生ったら素敵! 最高! 今日もスカーフが決まってますねっ!」

世事はいい、と云いつつも満更でもなさそうな榊先生の背中をぐいぐい押しながら、あたしの心はすでにここにない。

 

花を活けられる。

その機会を与えられる。

それは、あたしにとって至上の喜びだった。

 

だからあたしは、気付かなかったのだ。

謙也さんが、複雑そうにあたしを見つめていたことに、この時、これっぽっちも気付けなかった。

 

 

 

 

 

*****

 

次はちょっと謙也さんタイム



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彼の心情

13

 

 

 

もやっとする。

むかっとする。

ちょっとだけいらっとしてから、首を傾げる。

 

―――何に?

 

少し落ち着いて自分の胸に問いかけてみたけれど答えは出ず、白石に相談しようにも何をどううまく問えばいいのかわからなくて結局相談できず仕舞い。

そんな気持ちを初めて抱いたのが、津々井が氷帝との練習試合の情報を持ってきたとき。

 

 

+++

 

 

一足先に氷帝の到着を出迎えに行っていた白石が部室に戻ってきたのは、彼らの到着予定時刻よりもかなり早い時間だった。

「なんや白石、待ちきれんで帰ってきてしもたん?」

「あほ云いなや、謙也じゃあるまいし」

「なんやとぉ!?」

「いや……」

戻ってきた白石の目は若干泳いでいて、はっきり云えば挙動不審そのもの。

思わずじゃれていたユウジと目を合わせて首を傾げてしまった。だって、こんな様子の白石は珍しいのだ。

しかも心ここにあらずという感じで、俺らの視線が集まっていることには気付いていない。ちなみに千歳はこんな日でもいつも通りの遅刻、金ちゃんは俺らが止めるのも聞かず千歳を探しに行った。よしんば見つかっても金ちゃんが千歳を連れてこられるとは思えないのだが、行ってしまったものは仕方ない。正直白石でない限り金ちゃんの暴走は止められないのでもう諦めた。

願わくば、今日のうちに戻ってきますように。

そんな淡い願いを抱きつつ、おかしな様子の白石の言葉を待つこと暫し。

「…俺、あれ見てしもてよかったんかな…?」

「あれ?」

鸚鵡返しにすれば、小さな頷き。

ますますもっておかしい。

無駄が嫌いな白石クンがこんなもったいぶったような云い方をするのは何かある時だ。その何かが何かはわからないが。早口言葉みたいだ。

云いたい、云ってしまいたい、しかし云っていいものか。

よく見れば白石は半笑いで、半分困ったような複雑な表情をしていた。そんな顔でもイケメンなのだから、顔が良いのは本当に得だとしみじみ思う。仮に俺がこんな顔をしていたら、財前あたりに『先輩キモイっすわ』と一言で一刀両断されて終わるだろう。あれ、悲しい。ちょっと目の前がかすんで見えるのはきっと気のせいだ。

気を取り直して、まだ迷っている様子の白石をあの手この手でみんなして話させようと手を尽くし、ついに。

「津々井が」

ごくり。

思わず、手に汗握って息を吞んで。

 

「ガムテで両手両足縛られて口まで塞がれて跡部に拘束されとった」

 

それは事件とちゃうんか。

全員が同じことを思い、同時に飲み込んだ。

 

…どないなってんねん、津々井!?

 

 

+++

 

 

「津々井」

「はい?」

氷帝テニス部を体育館の更衣室に送ってきたという津々井がテニスコートにやってきたのは、白石が部室に戻ってきてから約30分後のことだった。

彼らを無事更衣室に案内したという報告をしにやってきた彼女を咄嗟に捕まえると、酷くやつれて見えた。心なしか頬がコケているのは気のせいだろうか。

「大変やったみたいやけど、平気か?」

「…へ?」

「や、なんか縛られとったって白石が」

「…白石先輩は、変顔激写の刑だな……」

今怖い言葉聞こえた気がする。

反応に困っていると、慌てたように、そしてげっそりした顔で津々井は首を振った。

「だ、大丈夫です、ご心配なく…」

とてもじゃないが大丈夫そうじゃない。

「…ホンマか?」

「慣れたくないけど慣れてますので…」

力なく笑う姿はまるで家事に疲れた主婦、仕事に疲れたサラリーマンのような風体で、少し…いやかなりの同情を誘った。が、本能的にここで慰めたら余計に津々井を落ち込ませると悟り、ぽん、とひとつ頭を撫でるだけに留めておいた。これなら同情していることにはなら…ない、かな? あかん、心配になってきた。

しかしその不安は杞憂だったようで、一瞬キョトンと目を瞬いた津々井は、それから照れたように笑ってくれた。その顔は嫌そうではなかったように思える。そう思いたいだけなのかもしれないが、少なくとも、俺の目にはただ照れているように見えた。

 

…この時、ほんの少し。胸の中に何かがつっかえたような気がした。

けれどそのつかえは津々井の笑顔の前にはどうでもいいことになってしまい、次の俺の言葉に被さるように云われた小春の台詞の前には空しく霧散した。

「ちゅーか津々井ちゃん、私服って初めて見たわぁ。素敵ねぇ!」

それは今俺が云おうとしとったんに!

そう、何故か現在津々井は私服だった。

いつもはシンプルにサイドアップしてあるだけの髪は今日はサイドで編み込んでいるらしい。そしてトップスは夏らしく涼し気な淡い水色をベースにしたストライプの7分袖カットソー。袖口の軽いレースが津々井らしくてかわいらしく、紺色のショートパンツとタイツが――あとでユウジが云っていたが、あれはタイツではなくトレンカというらしい。違いがよくわからん――津々井の脚をすらりと魅せていてひどく魅力的だった…っていうと俺がいっつも津々井の脚を見てるみたいやないか。ちゃう。ちゃうで。いつもちゃうで! 俺は侑士やないんや!!

とにかく、そんなん俺が先に思っとったし、と馴れ馴れしく津々井の肩に手を置いて褒める小春に同意と共に抗議しようとしたのだが。

「せやな。なんや津々井、意外とかいらしいやないか」

…突然湧いて出たユウジに邪魔された。

もう、なんやねん!

お前は小春だけ褒めてろっちゅー話や!

しかしそんなこと云えるはずもなく。

「えへへー、金色先輩と一氏先輩に云われると照れますね! ありがとうございます!」

当然と云えば当然なのだが、台詞と出番を取られて不貞腐れている俺の心境など知らない津々井は本当に嬉しそうにはしゃいで、よかったわねと云う小春と手を合わせていた。余談だが、何故かユウジは小春が津々井と仲良くするのは文句を云わない。どっちをどういうカウントにしているのか、未だにユウジの判定がよくわからない。閑話休題。

ちなみに、ユウジに褒められて嬉しい、それはわかる。

ユウジはおしゃれに気を遣ってるから、ユウジに私服を褒められると本当に自分がおしゃれになった気持ちになるので嬉しいのはわかるけど、俺以外が津々井に可愛いって云うのも、俺以外に可愛いって云われる津々井も、見ていて面白くない。

 

つまらん。

こんなのはエゴだ。

わかってる。

でも、面白くない。

…今の俺の立ち位置もわからないままこんなことを思うなんて、身勝手にもほどがある。

 

自覚があるだけに出しゃばれず、小春と花を飛ばしながらガールズトークする津々井を輪の外から眺めているしか出来なかった。

あー、こんなことなら俺も女に生まれればよかった。そしたら今も津々井と小春の輪に加わってガールズトーク出来たんに。

…と考えて、はたと気付く。

俺は別に、津々井とガールズトークをしたいわけじゃない。

じゃあ、どうしたい?

…はて。

そういえば、ならば、どうして俺はこんなにやきもきしていたのだろう。

急に自分が分からなくなって、なんとなく気持ちが落ち着かない。

あかん。

なんか座り悪い。

今から練習試合なのにこんな状態では白石ばかりでなくダブルスの相方の財前にまでブチ切れられてしまう。それは嫌だ。他校の前でまでそんな情けない姿は見せたくない。

落ち着け。クールダウンクールダウン。そうだ、冷たいものを思い浮かべよう。

氷、アイス、北極、スイカ、財前、財前、財前…。

あ、なんかスッとしてきた。

 

思わず菩薩のような穏やかな悟った表情になりそうになっていたところに、今度は暇を持て余していたらしい財前がふらりとやってきた。まずこの場に津々井がいることに驚いていたが、それ以上にやはりいつもとは違う格好に軽く目を見張って感心したように頷いた。

「雰囲気えらい変わるもんやな」

「へえ、普段の雰囲気がどんなんか云ってみな」

「それ」

「云っとくけど、制服と違って今スカートじゃないから動きやすさは上がってるんだからね」

「堪忍」

「次はないぞ」

笑顔なのに何故か背筋が凍る。

さしもの財前も身の危険を覚えたのか、俺相手ならもう二言三言続けそうな場面なところを素直に謝っているところも珍しい。でも多分同じ場面に出くわしたら俺も即座に謝る気がした。だって笑顔だけど目が笑ってなくてめっちゃ怖かったもん。

 

それからしばらくは雑談していたが、氷帝が来る前に軽くアップでもしておくか、という話になってみんな散り散りに身体を温めに行った。本当は俺も行くべきなんだけど、部室を無人のままにはできないので、俺は入り口のすぐそばでストレッチして白石の帰りを戻ることにした。

実は俺がアップに行けば津々井がここにいてくれるとのことだったのだけど、そこは丁重に辞退した。

だって、やっと訪れた機会。

これから氷帝のメンツも増えて賑やかになること間違いない今日の中で、やっと掴んだふたりで話す機会。逃してなるものか!

さりげなく、を心の中で10回ほど数えてから、さりげなーく咳払いして口を開く。大丈夫、不審じゃない。

「…なあ、今日、なんで私服なん?」

「ああ、本当は東京に逃げるつもりだったんですよ」

でも朝景吾さんに捕まって、と嘆く津々井。両手で顔を覆って打ちひしがれる様子は本気で悔しそうで無念そうで、さっきまで胸の中で燻っていた疑問が解決したような気がしてしまった。

その疑問、とは。

「…な、なぁ津々井?」

「はい?」

この疑問を口にするには、些かの勇気が必要だった。

けれど口にせずにはいられない。

背中にかいた汗は、今までで一番嫌な感じがして気持ちが悪い。

まどろっこしいのは嫌いだ。

気になったら何でもスピード解決がモットーなので、明日訊こうなんて考えには至れない。ちなみにこのモットーは今考えたので今後継続するかはわからない。

なんて言い訳じみたことを頭の中で考えつつ、からっからになった口を叱咤して何とか声を絞り出す。

 

「…自分、跡部と付き合っとるん?」

「次それ云ったら謙也さんでも許さないですよ」

 

一瞬で周囲の温度が氷点下まで行った気がした。

もちろん気がしただけで咄嗟に津々井から逸らした視線の先にあった温度計は25度を指していた。あ、正常。でも俺今異様に寒い。あかん。風邪かな。

「…というかそれ、謙也さんには云われたくなかったんですけど…」

ぼそり、と零した津々井の言葉。

それはあんまりにも小さくて、残念ながら俺の耳には入ってこなかった。

でも、聞き逃してはいけない言葉だったような気がしてならなくて。

えっ、と訊き返したが、なんでもないですとにべもなく顔を突っぱねられてしまった。しょ、ショックや。しかもなんかちょっと拗ねとる気がするのも気になる。なんや、何云ったんや。頼む、時間よ1分くらい前に戻れ! ドラ〇もんでもスタ〇ドでもいいからどっちかオラに力を…!

しかし残念ながらこの世にはそんな便利なものは存在しないのだ。すべては諸行無常、聞き逃した俺が悪い。

 

無念に打ちひしがれている俺をそっちのけ、そういえば、と両手を合わせた津々井が思いついたように声を上げた。先ほどの地を這うようなドスの効いた声ではなく、いつもの津々井らしい可愛らしい声であることに少なからずホッとした。

「あたし、謙也さんがテニスするのって初めて観るんですよね」

「…あれ、そやったっけ?」

ああ、しかし改めて考えてみれば、津々井が訪ねてくるのは決まって休憩のタイミングだったような気がする。それに一緒に帰る日はほとんど部活がない日だったし、初対面は朝練前だった。

津々井の性格的に練習を見学に来るようなことはないから、こういう機会でもない限り自分がテニスをする姿を観られることはなかったのだろう。

そう考えると、ちょっと緊張する。

女の子が練習を観に来るなんていつものことだし――ほとんどが白石目当てだけど――、試合ともなれば大勢の人にプレーを観られているのに。

何故だか、今日は津々井が観ている、と思ったら、途端に緊張してきた。あかん、手汗やばい。

さっき折角クールダウンしたのにまたあの冷却ワードの出番か、あれ結構精神も冷たくなるからあんまやりたくないねんけど、と若干見当外れの心配をしている俺の、ジャージの袖を。

見れば、津々井が控え目に引っ張っていて。

 

「いい写真たくさん撮りますから、かっこよく決めてくださいね!」

 

朗らかに、穏やかに。

それはきっと、何の他意もなく。

今日ここにいる誰のことをも平等に、ということなのはわかっているから、こそ。

 

「―――おおきに」

 

その笑顔が、少し寂しいなんて。

…その笑顔を、自分だけに向けてほしかったのに、なんて。

 

俺は、いつの間にこんなに欲張りになってしまったのだろう。

 

 

+++

 

 

午後の合同練習も終了し、部室でシャワーを浴びてからの着替え中のことだった。

「…謙也、顔」

「へ」

「今の顔、めっちゃブスやで」

苦笑交じりに健に云われ、思わず両手で頬を抑える。

いや、そんなにイケメンじゃないのはわかってるんですけど、はっきり云われると結構凹む。しかも健て。普段あんまり辛辣なことは云わない、四天宝寺の良心兼影のメンタルの柱である健に云われるって、俺どんだけブスやってん。

 

落ち込みながらも着替えの手は止められない。何故なら時間は止まってくれないのだ。さっきの件でもわかったように、ここにはスタンド使いはいないのだから。つまり、交流会の開始時間は待ってくれないのである。

「………」

ぶっちゃけると、行きたくない。というか、行きたくなくなった。

否、それでは語弊がある。

行きたいけれど行きたくない。こんなめんどくさい性格だっただろうか、自分は。完全な自己解析が出来ているとは思っていないけれど、少なくとも自分では何事もきっかりはっきり即断、の人だったように思っていた。

それが、今はどうだ。

自分でも腹が立つほどうじうじして、これでは財前でなくともイラつくというものである。反省する。

 

でも、仕方ないのだ。

こんな学級会でも取り上げられないようなつまらないことで心をかき乱されているようでは、きっとこの先の人生やっていけない。が、この先の人生の前に目の前。そもそも目の前の問題をどう解決するかが目下の問題であり、未来の自分のことは未来の自分にお任せしたい。今の俺には遠い未来のことまで考える余裕なんてないのだから。

「はあぁぁぁぁぁぁ」

荷物を取るふりをして、ロッカーの中に頭を突っ込んで思い切りため息をつく。そうすれば少しは気分が軽くなるかと思ったが、残念、これっぽっちも変わらない。逆にもう着替え終わったら交流会に行かなければならないのかと思うと余計に憂鬱になってきた。

思わず、ぽつりと零してしまった。

「…突然腹痛とかにならへんかな」

「謙也は、自覚があるようであらへんなぁ」

聞かれてた!

ってことよりも、気になったのは銀の台詞。

「ど、どういう意味やの、銀」

「そのまんまの意味や」

いつも通りの落ち着いた顔でそんなことを云われたら、何も云えなくなってしまう。

何も云えなくて黙っていると、銀は小さく俺の肩を叩いて外に出て行ってしまった。

…なんやねん、それ。

 

本当は、わかってる。

行きたい理由。

それは、急遽津々井が交流会も参加することになったから。

行きたくない理由。

それも、急遽津々井が交流会に参加することになったから。それも、氷帝のやつらの誘いで。

 

なあ、それ、俺らが、俺が誘っても来てくれたん?

こんなあほらしいことは口が裂けても訊けない。

訊けないけど、知りたい。

一緒に交流会に行けることは正直嬉しい。

だけど、それは同時に氷帝のやつらと津々井が仲良くしているところを見なければならないということと同意で。

今日の日中の練習試合でも練習中でも、あいつらがどれだけ津々井に好意を持っているのかわかってしまったから。

暇さえあれば構いに行って、芥川なんかは抱き着いたりして、津々井はそれを仕方ないなんて顔をしながら笑って受け入れていて。

芥川だけじゃない、他のメンバーにだって、それぞれ津々井は甘かった。優しかった。気を許しているのだと、見ているだけでもわかってしまった。

その好意がどの程度のものなのかまではわからない。

単なる友情なのかもしれないし、それ以上のものなのかもしれないけれど、どんな種類の好意であれ、穏やかに見ていられる自信なんてなかった。

 

だってもう、思い出しただけで悔しい。

だって、そんな顔知らなかった。

だって、ここでの津々井はそんな顔、しなかった。

 

知らない顔を見せつけられて、その全てがひどく津々井らしいと思えるもので。

普段が嘘だとか作っているとかそういうわけではないのだろう。

けれど、どっちのほうが自然なのかといえばきっとそれは歴然で。

傍にいた自信があった。

慕ってもらえている自負があった。

そんなもの、どれだけちっぽけなものだったのだろう。

たった一日で、思い知った。

自分が見ていた津々井なんて、ほんの一部でしかなかったこと。

彼女のことなんて、何にも知らなかったこと。

知った気でいて、まるで津々井には自分しかいないのだと妙な錯覚を起こしていたこと。

とんだ勘違い野郎だ、俺は。

自分が情けなくて泣けてくる。

そして更に、こんなにも自分が最悪な人間だったことを知ってしまい、更に落ち込んだ。

 

このまま帰ってしまおうか。

そんなことを考えていた時だった。

急にノックが聞こえて、咄嗟に返事をしてしまう。

「んもー、ジロ先輩ほんと加減しないんだから! あ、失礼します。機材回収に来ました」

気付けば部室には俺以外いなくなっていて、プリプリとした津々井が入ってきた。一瞬ぎょっとしたが、ややあって今日は機材が多いからとここに一部の荷物を置いていたことを思い出す。

部室に置いていた機材を取りに来た津々井は、バッグを担ぎ上げながら腰のあたりをさすっていた。今日一日で何度も見た、芥川からタックルを受けていた部位だろう。

…また、じわり、と。

完全にそれに支配される前にかぶりを振り、努めていつも通りの顔を浮かべるよう心掛けた。そして、いつもの俺なら云うであろう言葉を慎重に選んで口にする。

「大丈夫か?」

「あ、はい、平気です、平気。いつものことですんで」

本当、しょうがないんですよね、と。

 

―――また。

 

じく、と胸を何かに侵食される。

今度は、駄目だった。

それは決まって、津々井が氷帝のやつらの話をするとき。

楽しそうに、呆れたように、けれどどこか――優し気に。

そうして、確かな愛情をもって彼らの話をするときに、自分の胸を支配する。

つい先日まではなかったことなのに、気付けば胸を掻きむしりたくなるようなもどかしさが襲ってくるようになったのはいつだったろう。

知りたくなかった。

気付きたくなかった。

知らないままで、気付かない振りが出来たらどんなに楽だっただろう。

どす黒くてドロドロとした、とてもじゃないが直視できないモノ。

 

「結局、このまま最後までお付き合いすることになっちゃいましたので、引き続きよろしくお願いしますね!」

 

―――これは、嫉妬だ。

 

 

 

 

 

*****

 

全員出そうとすると結構辛くて、毎回誰かが空気になる。

今回は千歳と金ちゃんが犠牲になりました…めんご

 

で、今回はじめっとした謙也さんでした。もやもやしれ!



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彼女の実力、一面

14

 

 

 

交流会なんて云ったって、要はみんなで楽しく食事してお話しましょーっていう簡単なものだ。

基本的にあたしたち学生は大部屋に通されて、そこで自由にうまいことやってくれ、という話らしい。

先生たちは別部屋でのんびりやるので、若い者は若い者同士で、と何故かお見合いの仲介人みたいなことを云われたあたしは反応に困った。

困ったけど、それ以上に気になることがありすぎて、先生ふたりにお酌をしたら――余談ですが、今日は先生たち、飲むそうです。まぁ渡邊先生は徒歩圏内に住んでるし榊先生は普通にホテルまでタクシーか迎えが来るからいいんだけど、一応あたしも未成年の生徒なんだけど…と思ったのは飲み込んでおくことにする。今度何かに使えるかもしれないから。何に、とは云わない――、速攻でみんなのいる大部屋に逃げてきてしまった。

やばい。

「ねえ、景吾さん」

「あん?」

ちなみに本日のテニス部員参加者は四天宝寺中9名、氷帝学園中8名、そしてあたし。ちなみに千歳先輩と金ちゃんは合同練習も終盤のころにボロボロで帰ってきて、渡邊先生にめちゃめちゃ怒られてた。どうやら千歳先輩を見つけた金ちゃんが連れ戻す目的を忘れて空いていたコートでずっと打ち合っていたらしいのだ。金ちゃん、お馬鹿さん…。とりあえず練習終了まではコート脇で正座の刑で、拝み倒して交流会の参加許可を取り付けていた。逞しいな、この人たち…。

 

ってことで、合計17人のいる大部屋に入っていったとき、結構みんなわいわいと仲良さそうにしていた。学校ごとにはまとまらずうまくばらけてるし、うーん、すごいな。あたしも見習いたかったよ、そのみなさんのコミュニケーション能力の高さ。

まぁ、そんなことよりも、ですよ。

「榊先生、もしかしてめちゃめちゃストレス溜まってる?」

思わず真顔で問いかけると、景吾さんは怪訝そうに眉間にしわを寄せた。口に運びかけていた里芋の煮物を一度止めて、少し考えてひょいと口に入れてから数回の咀嚼。飲み込んでお茶で口をすっきりさせて一息ついてから。

「…なんで」

返事までがなげーよ!

というツッコミは今は控えさせてもらおう。あとが面倒だ。

あたしだって、何も理由なくそんなこと訊いたりはしない。

だって、見ちゃったのだ。

今思い出しても背筋が凍る。

「…渡邊先生と、すっごいにこやかに談笑してる」

「………」

 

…少しの静寂のあと。

 

―――ドッ!

 

こ、こいつら、漫画みたいにドッと沸きやがった!

何よ、これじゃあたしが滑ったみたいじゃない!

しかも何、景吾さんまで爆笑? あんたどんだけ笑いの沸点低いの!

「ちょっと笑ってないでよ!? あれ、あたし間近で見ちゃって本気でビビったんだから!!」

「お、おい津々井、それほんとなのかよ…?」

「ギャグじゃねーの…?」

「いくらあたしでも、こんなギャグ云わないです」

真剣な表情で頷けば、俄かにざわつく氷帝陣。だよね、その反応でいいんだよね? 逃げてきたあたし、間違えてないよね?

自分の選択の正しさを噛みしめ、ついでにあれが夢でなかったことも実感していろんな意味で泣けてきた。表情一つで生徒をこんなに惑わすあの43歳、魔性すぎるでしょ。

そんな氷帝陣の反応の理由がいまいちわかっていない四天宝寺陣は、当たり前だけどキョトン顔である。まあ、普通はそうだよね。

「え、何、榊監督ってそんなに笑わんの?」

「笑わないどころじゃないですよ、あの人の鉄仮面は青学の手塚さん以上って噂なんですからね!!?」

そもそも表情筋があるのかさえも疑わしいほど全然感情が表に出ない人だ。音楽の授業の時にたまにご機嫌になってるときがあるけど、それだっていつもより声のトーンが高いとかちょっと饒舌になってる程度の違いだというのに、さっきのは明らかに笑っていた。

 

朗らか、という言葉がこれほど似合わない教師というのもなかなか珍しい気がするが、似合わないものは似合わないのだから仕方がない。

しかも相手が渡邊先生っていうのがまた信じがたい要素の一つだ。

だって渡邊先生ですよ?

堅物クソ真面目冷徹教師の榊先生とは対極に位置するであろう渡邊先生と、あんなに仲良さげに話してるなんて、もしかして年月外れの趣向を変えた恐怖の大王でも現れるんじゃないかとさえ思う。

しかし考えうる限り、特に榊先生に深刻なストレスが溜まっているという情報はないという。えー、ほんと? 素であんなに楽しんでるの? 楽しんでるのはいいけど、どうしてこんなに不安を掻き立てられるんでしょう?

ああもうやめやめ、どうせこの後は解散まで先生たち関係ないんだからもう忘れよう。放っておこう。そうしよう。

 

というわけで気を取り直してあたしもみんなの輪に加わろうと席を探す。

広い部屋だし大きいテーブルだから割とどこにでも入れるとは思うんだけど、実はもうあたしはどこに座りたいかは決めていて。あ、ごめんねジロ先輩、あとで行くからまずはこっちに座らせてね。

「ねえ景吾さん、ほんと空気読んで」

「断る」

あたしの視線に気付いてるはずなのにわざと無視して唐揚げをパクつく景吾さんに、しかしあたしはめげずに特攻する。ここで諦めてなるものか! っていうかあんたびっくりするほど唐揚げ似合わないな。

「ねえどーいーてー。あたしに場所譲ってー」

「うるせえ、重い!」

「重くない!」

景吾さんの頭の上に顎を乗せて抗議をするも、鬱陶しそうに振り払われて、負けじと背後から羽交い絞めにして場所をずらそうと攻防するも護身術のような動きで逆に動きを固められて悲鳴を上げる。当然ながらそんなことでは放してくれない。氷帝陣はいつものやつが始まった、みたいな顔して助けてくれないし、四天宝寺陣は急に始まった激しい攻防にぽかんと呆気にとられるばかりで無反応。あ、いや金ちゃんと千歳先輩だけはマイペースに料理をつついてるのが関節固められている視界の端に見えた。うん、いいんだ、あの人たちが助けてくれるなんて思ってなかったから。

 

漸く解放されても景吾さんが場所を開けてくれる様子などこれっぽっちもなく、本当に心狭い人だな! と改めて思っていると。

「津々井、こっち来ぃ」

ちょいちょい、と手招きをしてくれたのは、なんと忍足先輩。

「…はいっ!」

忍足先輩が場所を開けてくれたのは、景吾さんとは反対側、小石川先輩と忍足先輩の間の席だった。見れば小石川先輩もにこやかに手招きをしてくれていて、ああ、この人本当にいい人。こないだ甘ちゃんとか云ってすみませんでした、撤回します。

舌打ちをする景吾さんにあかんべーをしながらおふたりの間に滑り込ませてもらう。

「忍足先輩と小石川先輩は優しいなぁ…どこぞの景吾さんと違って、ほんっとうに優しいなぁ」

「おい、そりゃ俺に対する嫌味のつもりか?」

「え、嘘、そう聞こえました? やだぁごめんなさぁいそんなつもりなかったんですけどぉ」

「忍足、そいつ寄越せ。今日こそ自分の立場をわからせてやる必要がありそうだ」

「大人げないで、跡部」

「そうだそうだ大人げないぞ! いくらふ、老け顔で、げほっ、は、ハゲ予備軍だからって大人げナッ!!?」

「ち、邪魔すんなよ忍足」

「…ちょっと今のは同情するけどな、女の子に暴力はあかん」

「お前まだそいつのこと女だと思ってんのか。いいとこメスゴリラだろ」

「上等だコラ!! 自分だってゴリラのくせに、ここで雌雄を決すか、ああ!?」

しかしここでの戦争は忍足先輩と小石川先輩という良心の仲裁により勃発とは相成らなかった。命拾いしたな、理不尽暴力男!

 

それからはしばし穏やかな時間が流れた。

さすがに景吾さんも貴重な交流会の場でまでずっとあたしに構ってるつもりはなかったようで、白石先輩や金色先輩と頭がよさそうな会話をしている。ちっ、最初からそうすればいいのに。一氏先輩がすごい目つきで景吾さんのことを睨み付けているのは、面白いから黙っとこう。

ともかくあたしもこれでようやく落ち着ける。バタバタしててお腹もすいたし、軽く料理もつまみたい。

さすがに榊先生のお気に入りだけあって、並んでいる料理はどれもこれも美味しそうだった。しかも、食べ盛り育ちざかりの中学生が約20人いても食べきれないような量だ。これなら食いっぱぐれる心配はなさそうである。あ、この里芋の煮物美味しい。

すると、隣にいた忍足先輩がしみじみと口を開いた。

「津々井がこっちに来てから3か月か。もういろいろ見て回ったんか?」

「はい、少しだけ。クラスのみんなに連れて行ってもらいました」

実はそこに至るまでにいろんな事件があったわけだけど、それは云わぬが花である。無駄な心配をかける必要はない。

 

目の前に座っていた謙也さんが心配そうにそわそわとこちらを見ていたので、大丈夫ですよという意味でにっこりと笑ってみる。と、即目を逸らされた。隣にいた向日先輩がギョッとしてた。ひ、酷い…あたしの笑顔はそんなに醜いか…。ちょっと凹んだ。

こっそり目元に水分を感じていると、忍足先輩がそうや、と両手を打った。

「ほんなら、俺オススメのお好み焼き屋、今度紹介したるわ」

「わっ、嬉しい! 是非お願いします!」

「夏の大会終わった後こっちくる用事あるし、そんときにでも行こか」

「やったぁ楽しみにしてます!」

夏の間はあたしも展示会やコンクールがあって忙しいけれど、それも8月の後半になれば落ち着くはず。そんなつもりはなかったけれど、確か会場は東京だった気がするし、時間があれば大会の応援に行くのもいい。

 

今年度は開始からしばらくいろんなことがあって、あっという間だった。やらなくちゃいけないこともたくさんあって落ち着いている時間なんてなかったから、こうやってのんびり先のことを考えられるっていうのがものすごく嬉しい。しかもそれが忍足先輩との予定っていうのがまた嬉しさに拍車をかけるわけで。

あ、だったら。

思い立ってパッと顔を正面に向ける。そこにいるのは当然。

「ね、謙也さんも一緒に行きましょうねっ!」

「へ!? お、俺!?」

「うん、謙也さん!」

完全に不意打ちだったらしく、謙也さんはすごくびっくりした顔でぱちぱちと瞬きをする。…ちょっと可愛い。

少し迷うように視線をあっちこっちさせていた謙也さんは、しかし照れたように頷いてくれた。

「え、ええけど…」

「じゃ、決まり!」

日程なんかはまた今度詳しく話すとして、少し先に予定が立ったというだけで気持ちが浮ついた。

浮ついたついでに、こんなことも云っちゃおう。

「あ、そうだ、どうせだったら忍足先輩…」

「あんな、津々井、侑士な―――…」

 

「彼女さんも一緒に連れてきたらいいじゃないですか!」

あ、すみません謙也さん、何か云いかけてました?

 

ガゴンッ

 

…音に驚いてそちらを見たら、謙也さんがテーブルに額を打ち付けていた。

え、嘘、何事?

「…け、謙也さん、大丈夫ですか…?」

丁度お皿も何もないところだったけど、結構いい衝撃音でしたよ。何、どういう衝動に駆られて額をゴッツンしてしまったの?

しかもしばらく無言だからあんまりに心配になって肩を揺らしてみようかと手を伸ばしたら、手が肩に触れる直前になってガバッと謙也さんは顔を上げた。うお、びっくりした。

が、謙也さんはびっくりしたあたしよりも数段びっくりした顔をしていた。

「え、何、え? 津々井、侑士に彼女おんの知っとったん…?」

その言葉に一瞬キョトンとして、思わず一度隣の忍足先輩と顔を見合わせてから、それから頷く。

「そりゃ、当然」

「別に隠してへんしな」

「それに忍足の先輩の彼女さん、あたしの知ってる人だし仲良しだし」

「あ、そ、そーなん…そうですか……」

ねーっと忍足先輩と顔を見合わせて笑うと、何故か謙也さんはがっくりしたようにもう一度テーブルに突っ伏してしまった。なんでよう。

 

そう、忍足先輩の彼女は、あたしのひとつ上の写真部の先輩で巴先輩という。

髪は真っ黒なさらっさらストレートで、笑顔がとっても素敵で頭も良い。家柄だって、景吾さんみたいな規格外ではないけれど裕福な家の生まれで、そう、生まれながらの勝ち組みたいな人。しかも性格もものすごく優しくて気遣い屋さんで人望もあるっていうんだから、文句のつけようのない人なのだ。

あたしは写真部に入った時から巴先輩に面倒を見てもらっていて、ずっと憧れの先輩だった。

そんな先輩は大好きなの忍足先輩の彼女だっていうのだから、悲しむより先に納得した。ああ、こんな人だもの、忍足先輩が好きになるのも当然だ、と綺麗に胸にすとんと落ちた。

もちろん、悲しかった。

なんとなく、大好きなふたりが一気に遠いところに行ってしまった気がして、置いて行かれた気がして。

でも、そんなことはなかった。

ふたりは相変わらず優しくて、眩しいままだった。

それからしばらくして、あたしも気付いたのだ。

忍足先輩を好きだと思う気持ちと、巴先輩を好きだと思う気持ちは、同じ種類のものだった。

 

―――恋では、なかった。

 

もしかしたら、初めは恋だったのかもしれない。

だって忍足先輩は、写真部の関係者以外で初めてあたしの写真を、まっすぐに褒めてくれた人だったから。

だけど月日が気持ちの種類を変えていった。

恋ではなく、憧憬。

これが一番しっくりくる。

それに気付いてからは、ふたりのことが以前よりももっともっと大好きになって大切になって、このふたりが一緒に幸せでいてくれることが嬉しくてたまらなかった。

 

「ほんなら、巴にも云ってみるわ」

「是非是非! えへへ、楽しみです! ね、謙也さん!」

こんな遠く離れた場所でも、また大好きなふたりと一緒にいられる、それはあたしにとっての最大幸福。

まだテーブルに突っ伏したままの謙也さんの肩をちょいちょいと突いて、わずかに頷いたのを確認して、あたしはご機嫌だった。

そういえばさっきの謙也さん、なんて云おうとしてたのかな? 覚えてたら後で訊いてみよう。

 

 

+++

 

 

ほとんどの料理が片付いて、何度か席も回って全員がほとんどの人との交流を終わらせたのは、交流会が始まってから2時間近くが経過した頃だった。

さてそろそろもう一度先生たちの様子でも見てこようか、と思っていると、失礼します、と扉の外から声が聞こえた。店に着いたときに挨拶だけはみんなで先に済ませておいた、この店の女将さんの声だった。

「津々井さん、今よろしい?」

「はい、女将さん」

なんだろう。

改まった様子で呼ばれると少し緊張する。思わず背筋を伸ばして頷くと、女将さんは満足そうに笑った。

それから一度引っ込んで、次に戻って来た時には手に花束があった。

「ついさっきね、このお花頂いたんやけど、よかったら、活けてくれへん?」

にっこりと、人好きのする笑顔で花束を渡されて咄嗟に受け取ってしまってから、ハッとする。

「い、今ですか?」

「そ、今」

今。

手にある花束、メインはまだ花の咲いていないオリエンタルリリーと、夏櫨。いかにも夏らしい選びの花で、この料亭によく似あうものだった。

自前の道具は持っている。

けれど、今ここで、というのがちょっと引っかかった。

女将さんの目の前で活けろ、というのならわかるのだ。

今後店の花を任せるかもしれない相手の手腕を見たいと思うのは当然のことだから。

しかし、今、となると、この場にはテニス部の面々がいるわけで。

けれど。

 

―――逡巡は、一瞬。

 

一度ゆっくり目を閉じて、息を大きく吸い込んで。

次に目を開いたときには、あたしはしっかり女将さんの目を見つめて云った。

「…謹んで、お受け致します」

「おおきに」

にっこりと美しい笑顔を浮かべた女将さんに、なんとなくだけど景吾さんと同じ匂いを感じてちょっぴり頬が引きつった。

 

 

 

・・

 

・・・

 

 

息が詰まるような痛いほどの沈黙の中、最後の一輪を剣山に挿して、全体のバランスを見る。

大丈夫、これが今のあたしのベストだ。

ちゃんと自分で納得する出来であることを確認して、花器を女将さんの正面に向ける。

「…いかがでしょう」

写真であたしの作品は見てくれていたというけれど、実物を見るのは初めてのはずだ。写真と実物では印象が違うから、やっぱり気に入らない、なんてことがないとも云いきれない。

 

正面からの出来を見て、数秒。

女将さんはじっと花を見つめて動かない。

やばい。

すごい緊張する。

お偉いさんの目の前で活けるのは初めてじゃないのに、榊先生の口利きっていうのと、この後ろに見知ったメンツが大勢いるっていう状況がものすごく緊張する。いやあ~心臓バクバク云ってるし手汗やばいよ。これ以上の沈黙は耐えられそうにないよ。

これがあと10秒続いたら発狂するんじゃないか、と思い始めた頃合いだった。

 

「素敵」

 

一言。

ハッとして顔を上げると、ばちっと女将さんと目が合った。

「やっぱりあなたにお願いして正解だったわ」

嘘偽りない、本当に気に入ってくれたというのがわかる目、わかる笑顔。

胸の奥から達成感と充足感が湧いてきて、少し鳥肌が立った。

「…恐れ入ります」

ゆっくりと頭を下げる。

よかった。

気に入ってもらえた。

自信はあったけれど、やっぱり気に入ってもらえたと実感すると嬉しい。

女将さんは上機嫌で満足そうに花器を持って戻っていった。今から玄関に飾ってくれるらしい。

 

ぱたん、と扉が閉まる音を聞いて顔を上げて、一仕事終わったとやっと実感する。

んで、一気に緊張が吹っ飛んだ。

ガバッと振り返って一番近くにいたちょたの肩をがくがく揺する。

「あああああ緊張した! みんなに見られるのってアレだね、緊張するね!」

「でも相変わらずすごかったよ、小毬。やっぱりすごいなぁ」

「小毬お前、花を活けてる時だけは魅力的に見えるな。一生活けてろ」

「その目抉り出してやろうか」

「褒めてんだよ」

「だったらもうちょっと言葉選んだらいいんじゃないですかね!?」

これっぽっちも褒められてる気がしない褒め言葉ってすごいな、あんた。

 

そしていつも通りの殴り合いに発展しそうになるあたしたちにブレーキを掛けたのは、純粋に驚いたように手を叩く白石先輩たち四天宝寺のみなさんだった。

「すごいな津々井、まるでさっきまでとは別人やんか」

「さっきまでのあたしとは」

「とにかくすごいっちゅーもんや!」

「せや、見直したでぇ」

見直されるほど下の評価だったのだろうか、なんて野暮なことはもう云いません。ええ、云いませんとも。今日一日で四天宝寺中テニス部の人があたしをどんな目で見ていたのか知ってしまった気がするけど、別に傷ついてなんてないんで。泣いてないんで。

褒められたことの嬉しさと知らなくてよかったことを知ってしまった虚しさでしょっぱさを感じているあたしをフォローするように白石先輩がべた褒めしてくれていたが、ふと途中で言葉を止めて後ろを振り返った。その先にいたのは。

「な、謙也!」

「………」

「…謙也?」

「へ!?」

白石先輩に呼ばれた謙也さんは、完全に放心していた。な、なんで。

というか今日の謙也さん、なんか様子おかしくない? ちょいちょい人の話聞いてないし、ぼーっとしてる。何かあったのかな?

「津々井。すごかったよな」

「あ、ああ。すごかったで」

慌てたようにものすごい勢いで頷いてるけど、あれ、絶対見てなかった人の反応じゃないですか。まぁ、別にいいんだけど!

拗ねてないです。別に拗ねてません。ふんだ。

「…ありがとうございますっ」

 

 

このあとあたしはジロ先輩に捕まって氷帝の人たちと騒いでいたので、後ろのほうでこっそり金色先輩と謙也さんが話していたことの内容は知らない。

ここでの話を知るのは随分後のことだ。

そう、この日から実に数か月後の――翌年1月のこと。

ま、とにかく今のあたしにはわからない内容だけれど、ご紹介だけはしておこうと思う。メタい? そんなの気にしたら負けよ。

 

「津々井ちゃん、お花触ってるときって全然雰囲気違うのねぇ」

「…ああ」

「ほんま、惚れ直すわぁ」

「せやな」

「あら」

 

そして、その更に後ろで。

 

「…謙也、今の絶対無自覚やろな」

「な。ほんまめんどいやつ」

「なぁ、謙也ってやっぱしそうやんな?」

「はは、侑士くんも見たらすぐわかったやろ?」

「わかるわかる。わかりやすすぎや、あいつ」

「でも見てるのはむっちゃおもろいで」

「ほどほどで頼むな」

「なー、何の話しとんの?」

「未来のバカップル候補の話や」

「金太郎はんはああなったらあかんよぉ」

「よおわからんけど、わかった!」

 

…なんて会話があったことも、あたしは知らなかった。

 

 

 

 

 

*****

 

謙也さんが忙しない



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ここから、再スタート

15

 

 

 

生徒の方はだいぶ落ち着いたので先生ふたりの様子を見に行ったら、なんというか、いい具合に出来上がっていた。

特に榊先生の方はほんとびっくりするくらい打ち解けてて、元生徒として非常に驚きを隠せない。もしかして、対極にいる人のほうが打ち解けやすいのかな? 自分にないところを補い合ういい友人、的な。

まぁそれならいいんだけど、とりあえず、今日はまだ飲んで帰るらしいので、あたしたち生徒は先に解散、ということで満場一致となった。ほっといたら閉店までいそうな駄目な大人たちに付き合ってはられません。一応云っとくけど、榊先生、明日遅刻してきたら許さないからね。

そして帰ったらあたしは写真の選別作業が待っているかと思うと気が重いけど、やらないわけにはいかない。うう、この時間になっちゃったってことは、ほぼ徹夜確定。しんどい。

 

楽しい時間は長続きしないものだと世知辛さを噛みしめながらお暇の準備をしていると、女将さんがわざわざ見送りに来てくれた。先生たちならともかく、あたしたちみたいなお子様が帰るだけで見送りに来てくれるなんて、ちょっと感動。

今後お世話にもなるし、親にもこのお店のことは伝えておこう。そしてあわよくばあたしも一緒にまた来たい。だって雰囲気もいいし料理も美味しかったし、何より自分の活けた花を飾ってくれるお店だ。実際のお客さんの反応とかも見られたら嬉しいじゃない?

最後にあたしも挨拶をしようとしたら、ちょっと待って、と云って一度女将さんは引っ込んでしまった。何かと思って待って、次に戻って来た時、女将さんの手には小さな花束があった。

「津々井さん、これ良かったら持って行って」

「え、これ…」

「これも頂いたんやけど、津々井さんが好きやって榊さんに聞いてね」

「すごい! ありがとうございます、いいんですか? こんな綺麗なガーベラ…」

喜んでから、はたと気付く。

 

ガーベラ。

赤いガーベラ。

特に意識したわけでもないのに首が横を向いてしまい、丁度あたしの隣にいたのは

 

―――謙也さんで。しかも、目が合ってしまって。

 

ガンッッッ

 

思わず後ろにあった樹に頭を打ち付けてしまった。いや、他意はないです。ないです。ほんと、ないですから。

「…大丈夫?」

「…大丈夫です…」

心配そうな女将さんにはなんとか笑顔を向けられたと思う、というか思いたい。頑張れあたしの表情筋、頑張れあたしの血液、顔面に集まるな!!

しかし動揺とか羞恥とかの感情をあたしの持てる全理性を総動員して抑え込み、お暇の挨拶だけはしっかりやってのける。挨拶、大事です。

若干女将さんの視線から『この子本当に大丈夫かしら』という不安のメッセージを受け取った気がしたけれど、大丈夫なんでご心配なく。次にお会いするときはちゃんとしたあたしで参上しますので、出来ればさっきのことは忘れてください、と星に願ってみる。

 

静かに閉まったお店の扉に小さく頭を下げながら、なんで今になって思い出したんだと叱咤する。

だって今日一日はすっかり忘れてて、謙也さんも普通に話してくれてて、あたしも普通に話せてたのに。

最後の最後に、こんなの。

折角忘れそうだったのに!

「け、景吾さんたちはホテルまでタクシーでしょ!? じゃあタクシー乗り場すぐそこですね!!」

「小毬、なんでそんな元気なの?」

「いいいいつでも元気いっぱいですけど!?」

「明らか挙動不審だろ」

「それもいつもだC~」

「あっははははは!」

「ほんならそこまでみんなで行こかー」

「俺らはみんな歩いて帰れるしな」

「ああ、悪いな」

こういうとき、スルースキルのある人はありがたい。

あんまりつっこまれるとあたしも発狂して手が出るかもしれないのでそっとしておいてもらいたいです。

 

よし、謙也さんも何も云わないし、このまま帰る流れになればダッシュで帰って逃げられる! と内心ガッツポーズしていると、ちょい待ち、と引き留められる。

いやあたし一刻も早く帰りたいんですけどさすがに金色先輩を無視するわけにはいかない。景吾さんだったら容赦なく無視するけど、金色先輩を無視するのはよくない。

だけど用事ならさくっとすませてくださいね、という願いを込めて振り返ると、にっこりと――そう、恐ろしいほどにっこりとほほ笑む金色先輩がいて。

「津々井ちゃんは謙也さんと帰りぃ」

「え!?」

「は!?」

「あら同じ反応」

なんとなく、嫌な予感がする。

謙也さんがこの前のことを誰かに話すとは思えないし、財前もさすがに云わないだろう。

けど多分、なんとなくだけど、金色先輩は知っている…というか何があったかまでは知らずとも、何かあったということには気付いているような気がする。この人はそういう人だ。

でも、だからこそ甘んじてはいられない。

先輩が何を考えているのかはわからないけれど、思惑通りに事を進めてなるものか!

 

「あの、あ、あたしひとりで帰れます!」

「そんなん云うてももう遅い時間やし」

「せやで、こんな時間に女の子ひとりでなんて帰されへんよ」

「や、でもその…」

なんと金色先輩の援護をしたのは忍足先輩だった。なんで!?

金色先輩と違って――失礼――忍足先輩は妙な含みを持った云い方はしてないし純粋に心配してくれているだけなんだろうし、それは素直に嬉しいのだけれど。

じゃあ、だったら、何も謙也さんじゃなくてもいいんじゃないの!? と思うあたしもいるわけで。

「謙也もええな?」

「え!?」

「ちゃんと津々井のこと送ったり」

しかしあたしの心の声が届くはずなどなく、呆気にとられるあたしと謙也さんを余所に、他のみんなはすっかりあたしたちが一緒に帰るのが決定事項みたいな雰囲気になっている。

 

待って。

あたしも謙也さんも、うんなんて云ってないのに!

 

「ね、ねえ景吾さん、あたしも…」

「小毬、明日データちゃんと持って来いよ」

「あ、はい…」

ついでにタクシーで送ってって、と云おうとしたんですけど。

業務的なことを云われちゃうと、さすがにあたしも素直になっちゃうもんで、余計なことが云えなかった。あの人、仕事に関することは茶化すと怖いんだよ。いや、あたしだっていつもふざけてるわけじゃないんですけどね。

「ほななー」

「小毬ちゃん、また明日ねーっ!」

「じゃーなー」

「ま、また明日ー…」

そしてみんなは逆方向だから、といって、ぽつんとあたしと謙也さんが取り残されてしまった。え、そんなことある? こんだけ人数がいて、あたし以外の人みんな反対方向とか、そんなんある?

 

やばい。

腕の中にあるガーベラと、隣にいる謙也さん。

これで意識するなというほうが無理な話で、今にも心臓が飛び出しそうなほど鼓動を打っている。

「…あの」

無理しないでくださいね、と。

云おうとして、視線だけ謙也さんに投げる。

顔が赤い自覚はあったけれど、暗いからよく見えないに違いない、なんて自分に言い聞かせたのだ、けれど。

「…お、俺らも帰るか!」

 

そう云う謙也さんも、顔、赤かった。

 

 

+++

 

 

「………」

「…………」

 

沈黙が痛い。

みんなと別れてから、すでに10分。ひたすらうちに向かって歩いているわけですが、この10分、無言です。セミの鳴く音くらいしか聞こえません。

や、やばい。

気まずい。

さっきの謙也さんの反応からすると、謙也さんも忘れてない。

そりゃそうだよね、あんなことされてサクッと忘れちゃう人なんていないよね。相当慣れてるなら別だけど。

 

気まずい。

申し訳ない。

 

けれどいつまでもこのまんまっていうのもあたしの胃が耐えられそうにない。

もとはと云えばあたしがやらかしたのが悪いんだし、やっぱりあたしからアクションを起こさなくてはいけないだろう。

…よし!

意を決して、呼んでみる。

「…け、謙也さん?」

「…なんや?」

な、なんかちょっと不機嫌?

振り向いてもくれない謙也さんにちょっとだけ不安になる。

いつだって正面を切って話してくれる人なのに、今は全然こっちを見てくれない。

それだけでうっかり泣きそうになる。

でも、今この場で泣くのは迷惑以外の何物でもない。それくらいわかる。

涙声にならないように歯を食いしばりながら、続ける。

「…その、この間の、ことなんですけど」

思い出すたびにあの時の自分をぶん殴りたい衝動に駆られる。

ばかあほまぬけ。

あんなことさえしなければ、今だっていつもみたいに楽しく帰れていたかもしれないのに。

「わす、忘れてください! あたし、どうかしてたんです!」

 

本当にどうかしてた。

満足のいく仕上がりになってテンションが上がっていたなんて、謙也さんからガーベラの優しい匂いがしたからつい、なんてそんなの言い訳だ。

謙也さんには何の関係もない、あたしの勝手な都合の話。

だからあんなことは事故みたいなものだと思って、きれいさっぱり忘れてもらうのが一番いい。

そうじゃないと、今後の関係に支障を来す―――って、今後の関係っていったい何だろう、なんて考えてる場合じゃないってば!

「…嫌や」

思わず、顔を上げる。

今、謙也さん、なんて云った?

聞き間違いだったのかと思って口を開こうとすると、謙也さんは足を止めた。

思わずあたしも立ち止まり、謙也さんの反応を待つことしばし。

「忘れん」

ぽかんとして、言葉が出てこない。

謙也さんは、ゆっくりと振り返って、云った。

 

「そんなん無理や。忘れたくても、忘れられるわけないやろ!」

 

…ねえ、謙也さん。

なんで?

どうして?

 

―――そんなに顔、赤いの?

 

だけど、あたしも人のこと、云えない。

だってあたしもきっと、顔、赤いもの。

この赤さは、今抱えている真っ赤なガーベラのせいではないはずだ。

身体中の血液が顔に集まってきているような、そんな錯覚を覚えるほどの赤さ。

 

どうして忘れてくれないの。

忘れたくても忘れられないって、どういう意味?

あたし、そんなに頭良くないからわかんないよ。

なんで自分の顔が赤いのかもわからないのに、謙也さんが何を考えてるかなんて、もっとわかんないよ。

 

ぐるぐるぐるぐる、目まぐるしく頭の中をとめどないことが巡って大混乱を起こしている。

ひっくり返らないのが奇跡のように思えるほどの雑念の中、ごほん、というわざとらしい謙也さんの咳払いにハッとして思わず居住まいを正す。

「…待っとって、もらってもええでしょうか?」

「…ま、待つ……」

なんで敬語、とかはもうツッコんでいる気力なんてない。

どんな、と小さく口を動かすと、一度大きく息を吸った謙也さんは、それからまっすぐにあたしを見つめて。

「俺、今めっちゃかっこ悪い自覚あるし、ちゃんと胸張れるようになったら、津々井に云いたいことあんねんけど」

だから、待ってて、と。

 

「…今から期待しとったら、あかん?」

 

一転、照れたように困ったように頬を掻く謙也さん。

期待してていいかなんて、そんなことを云われて、一体あたしはどうしたらいいのかわからない。

謙也さんの視線を見つめ返しながら、あたしは考える。

回らない頭でも、必死に考えた。

 

どうしてあたしは、あの時この人の頭にキスをしたのだろう。

謙也さんでなければなかった理由なんてどこにもない。

けれど、あの場にいたのが財前だったら?

白石先輩だったら?

他の誰かだったら、あたしはキスしていた?

…多分、していない。そもそも飾りたいなんて思わなかったに違いない。

謙也さんだったから、ガーベラが似合うと思って、飾りたくなったのだ。

 

どうしてこの人だったのだろう。

どうしてこの人は、忘れてくれないのだろう。

 

―――あたしは、この人のことを、どう思っているのだろう。

 

忍足先輩に向けていた感情とは、似ているけれど違うもの。

謙也さんといると、暖かい気持ちになる。

優しくてお節介で、賑やかな人。

あたしにはない、底抜けの明るさを持っているこの人に惹かれない人なんてきっといないのだと思う。

 

出会い方は多分良くなかった。

二回目の出会いもあの時のあたしにとってはマイナスだったのに、どうしていつの間に、この短い間にこの人はあたしの中で大きな割合を占めてしまったのだろう。

気付けば目で追っていて、気付けば傍にいてくれて、太陽みたいな笑顔を向けられることに少しの優越感を覚え始めたのはいつの頃?

 

昔忍足先輩に持っていた感情とも、巴先輩や景吾さんたちに向けるものとも違う感情。

ねえ、この感情の名前は、何?

わからない。

はっきりとはしていない。

もう少しで形付くであろうこの感情に、もしかしたら今はまだ名前なんてないのかもしれない。

だけど、今すぐ答えは出さなくてもいいのならば。

 

目を閉じる。

真っ暗になった世界で、けれど、目の前にいる謙也さんの姿だけが鮮明だった。

「…いいです」

多分、それが答え。

「え」

「待ってます。期待、しててくれていいと思います。多分」

「多分かい!」

途端にいつものノリに戻った謙也さんに少し噴き出して、ああ、やっぱり、と。

 

まだ名前を付けていないこの感情に、少しの確信を持った。

 

「…ね、謙也さん」

空いていたほうの手で、謙也さんの手に触れる。

もう片方では、ぎゅっと大好きなガーベラを抱き締めて。

少し迷ってから、ひっかけるようにして手を握って。

「小毬で、いいです」

すると謙也さんは驚いたように大きく目を見開いて、それから、嬉しそうにそっと細めて。

 

「―――おん、小毬」

 

名前を、呼ばれる。

あなたの声が、とても優しかった。

ぎゅっと、手を握り返してくれた。

あなたの手が、とても暖かかった。

 

胸に、じわりと幸せを感じた。

 

 

 

 

 

*****

 

もうちょっとで連載は終わらす。

あとは短編とかで穴埋めしたいと思ってます。



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彼と彼女の関係

16

 

 

 

例えば、それが恋だったとして。

 

 

+++

 

 

「おはようございまーす!」

「…おはよう、津々井。朝から元気だな」

「榊先生お酒くさいです」

ショック受けてるところ悪いですけど、あんた本当に今最高に酒臭いからな。容赦しませんからねあたしは。

 

そりゃ、昨日あれだけ飲んでれば酒も残るでしょうね。ちなみに現在朝9時の学校、渡邊先生の姿は見えていない。むしろ今日来るのかも怪しいんじゃないのか? 飲んだくれて部活に来ないとか、教師の風上にも置けないな! まぁ嫌いじゃないからいいけど。

聞いたところによると、結局昨日の夜はお店の閉店時間まで居座っていたらしいし、無理もない。年は離れてるけど、やっぱり馬が合ったんでしょうねぇ。

それはそれでいいとして、あたしはあたしの仕事をします。

「榊先生はあてにならないので、はい、景吾さん。昨日のデータ入れときましたんで、あとで確認してください」

「わかった」

「一応選別はしてますけど、何か注文あったら連絡ください」

「ああ」

まぁこっちはいつもやっていたことなので問題ないとして、今度は白石先輩に向き直る。

「で、白石先輩、こっちは四天宝寺の分なんですけど、どうしましょう?」

「どう、って?」

「データでお渡ししてもいいんですが、印刷したほうが良ければ印刷してお渡しも出来ます。その場合、明日までお時間いただきますけど」

「んー、せやな、印刷頼んでもええか? 料金は部費から出せると思うし」

「了解です、渡邊先生に請求書出しておきますね」

となると午後の予定の前に印刷所に行っておいたほうがいいかもしれない。予定の時間を逆算して、動かなければ。

 

そんなことを考えながら手帳で予定を確認していると、なんだか視線を感じた。顔を上げたら、しげしげと白石先輩があたしを見ている。え、なんですか。

「津々井、出来る子なんやな」

「えっへん」

「なんや、それ」

それから無駄のない微笑みを浮かべ、ポンと一度頭を撫でてくれた。い、いやぁイケメン。これは白石先輩モテるわ。わかるわ。

同じくイケメンという括りにいるくせに、性格が違うとこんなにも違うものなのか、と心底感心する。別に景吾さんと比べてるわけじゃないよ。比べてないからまるで親の仇でも見るかのごとき阿修羅の目であたしを睨むのやめろ。

 

じゃあ写真頼むな、と残して準備をしに部室に白石先輩が戻っていってから少しして、ごほん、と頭上から咳払いが聞こえた。なんですか、そのわざとらしい咳。

見上げれば、ちらりと一度景吾さんはあたしに視線を流した。一応さっきの人を殺せそうな視線はひっこめてくれていたらしいけど、感謝なんかしないからな。

「…お前、随分すっきりしてるじゃねえか」

「…そうですか?」

こうしてあたしと並んでいて景吾さんが喧嘩を売ってこないのは珍しい。

一応云っておくと、理由がない限りあたしから喧嘩を吹っ掛けることなんかないんですからね。年がら年中景吾さんと戦争してるわけではないのだ。おおむねあっちから喧嘩売ってくるから買ってるだけで、そもそもあたしは平和主義者です。

相変わらず完全に見下す視線で腕を組んで傲岸不遜そのものの態度だけど、それはこの人のデフォルトだ。今更なんとも思わない。

「ま、せいぜいうまくやれ」

小さく鼻で笑う、それは景吾さんにとっては上機嫌な証。

この人は本当に難しい。

訳の分からないところで不機嫌になって、訳の分からないところでご機嫌になるのだ。それなりにこの人のことを良く知っているとは思うのだけれど、こういう細かいところは未だに謎。

ともあれ、ご機嫌ならそれに越したことはない。

 

それに、どうやら、ほんの少しだけだろうけど、この人なりにあたしを心配してくれていたみたいだ。

今回の練習試合はどう考えてもそもそもはあたしに対する嫌がらせから始まってるんだろうけど、その中のほんのわずかな部分であたしの様子を見ておきたかったっていう気持ちがあったのだろう。

絶対やり方は間違えている。職権乱用にも程があるとは思う。

でも、少し、嬉しい。

あたしたちはこういう関係だから、お互い素直に心配だ、とかありがとう、とかそういうことは云わない。

云わないけれど、多分、伝わる。

なんだか気付いてしまえばくすぐったくて、思わず小さく笑ってしまった。

「…もうちょいうまいこと云えないんですか?」

「なんだ、俺に優しくされたいのか?」

「全然。優しくしてほしい人は他にいますから」

「そうかよ」

ふん、と鼻で笑うと、景吾さんはさっさとコートに行ってしまった。

氷帝のみんなは昼過ぎの新幹線で東京に戻るらしく、時間ぎりぎりまでは合同練習する予定だそうだ。観光もせずにひたすらテニスとは、恐れ入る。まぁあんな人たちでも意外とすごいプレイヤーらしいので、もしかしたらこれが普通なのかもしれないけど。普段の生活知ってるとこの人たちがすごいなんてミジンコ程も思わないから、周囲との認識の差に時々戸惑う。

いつもテニスしてたら格好いいのにね。

直接云ったら顰蹙ものだと自覚はあるので、思うだけはただである。

 

それからすぐ、コートに入った景吾さんと入れ違いでやってきたのはちょただった。今日も今日とて朝もはよから爽やかです。

「小毬、おはよう」

「おはよ、ちょた」

どうしたの、と首を傾げると、ちょたは一度後ろにいる先輩たちを気にしてからそっと腰を屈めてきた。おう、悪かったね小さくて。気を遣ってくれてありがとね。傷ついた。

「あのね、跡部さんもそうだけどね、みんな心配してたんだよ」

「心配?」

頷く。

もともとちょたは冗談なんていうタイプじゃないし、嘘も云えないまっすぐな人間だ。そして同時に心根の優しい人だから、その言葉は真実なのだろう。

真剣な眼差しをおちょくることなんて出来ないし、あたしは黙って話を聴いた。

「小毬、転校してすぐの頃、よく俺に愚痴の電話してきてただろ? 最近は全然なくなったけど」

「あー、うん、あの頃ね…」

「もしかしたら向こうに馴染めてないんじゃないかとか、みんなで心配してた」

学校に馴染もうともせずうじうじしていたあの頃のことだ。今思い返しても腹立たしいうじうじ具合、出来れば忘れてほしいけど、気遣い屋さんなちょたは気にしちゃうのだろう。

「それに跡部さんなんか、いつもみたいな喧嘩出来る相手がいなくなっちゃったから、顔には出さなかったけどすっごく寂しそうだったんだよ」

「あはは!」

「笑いごと?」

「そりゃそうだよ、景吾さんったら、実はあたしのこと大好きね!」

ちょっぴり拗ねたように口を尖らせるちょたの背中を軽く叩いて笑う。

笑っちゃうよ、ねえ。

 

だってさ、結局あたしと景吾さんって似てるのよ。

顔を合わせれば口喧嘩、時にはド突き合いに発展するようなあたしたちは、けれど根本的には同じだった。

似ているから、同じだから、衝突するのだ。

それは性格とか見た目とかそういうものではなく、もっと根本的な、生き方みたいなもの。

 

だからさっきの言葉はブーメランなのだ。

絶対直接なんか云ってやらない。

この言葉だけは墓場まで持っていくという確信がある。

けれどあえて、誰の耳にも届かない場所で口にすることがあるならば、こう云おう。

 

―――あたしだって、景吾さんのことが大好きだ。

 

あたしの笑いが景吾さんを馬鹿にした笑いじゃないとわかったのか、ちょたは腑に落ちないような複雑な顔をした後、諦めてため息をついた。

素直じゃない、なんて、そんなの今更あたしに云う事じゃないでしょう?

「俺たちはみんな小毬が好きだよ」

わかってるだろ、と。

真剣に云うちょたに、だからあたしも微笑んだ。

「あたしもよ」

当たり前だ。

大好きに決まってる。

氷帝ではいろんなことがあって、そのどれもが未だに色褪せない最高の思い出で。

腹立たしいことも山ほどあったけど、それを飛びぬけるほど楽しいこともたくさんあった。

 

「ちょた、ありがとうね」

 

離れてしまったことは悲しい。

だけど離れてしまってもこうしていられる関係が嬉しい。

 

「わかってると思うけど、離れてても俺、小毬の親友だからね」

 

真顔でこんな恥ずかしいことを云っちゃうんだから、ちょたは少しくらい恥じらいとかを覚えたほうがいいよ、あたし以外にやったら勘違いされちゃうから。

なんて思いながら、胸を張る。

「当然。嫌だって云っても一生ちょたの親友の地位はキープしてやるんだから」

そうしてお互い笑って、握った拳をぶつける。

こんな親友に出会えた、あたしは幸せ者だ。

しみじみと、そう思った。

 

 

+++

 

 

とりあえず、さっきのであたしの今日の仕事は終わった。氷帝のデータは渡したし、四天宝寺の分はこれから印刷依頼に出すだけで、さすがに今日の練習までは付き合えない。そもそもこの後予定があるからゆっくりしてもいられないしね。

ジロ先輩や向日先輩に捕まると逃げられなくなりそうな予感がするので、ここはさっさと退散するのが利口だろう。後で文句云われそうだけど、見送りには行く予定だから許してほしい。あと、夏東京に行くんだからそのときは思う存分付き合うから我慢しててくださいよ、先輩方。

みんなはそれぞれ自分の準備しているし、どうせ昼には戻ってくるんだからわざわざ声をかける必要もないだろうか。テニスやってるときはそっちに夢中になる人たちだし、まぁいいか。

 

じゃあ一旦失礼しまーすとそっと荷物を持ち上げると。

「あら、おはよう、津々井ちゃーん」

にこやかに手を振る金色先輩がそこにいた。

そして何の疑問も持たずに朗らかに挨拶を返すあたし。

「おはようございます、金色先輩」

「うん。うふふ」

ところが振り返って挨拶を返しても、金色先輩が立ち去る様子はなかった。

はて、写真のことはもう白石先輩と相談してるんだし、金色先輩に伝えることは特になかったと思うのだけれど―――…、と、ふと気付いてしまって息を止める。

すると、次の瞬間。

 

にやぁ、と。

…先輩、その顔、怖いです。

 

「で、昨日、どやったん?」

デスヨネーソウキマスヨネー。

 

気付かないでさっさと帰ればよかった、と思ってももう後の祭りである。

これは逃がしてもらえない。

しかも気遣いなのか素なのかわからないけれど、いつもニコイチな一氏先輩が隣にいないというのも気になる。見れば遠くで石田先輩や小石川先輩と話している。あ、すごいちらちら見てる。金色先輩ガン無視。ああ、可哀そう…面白いけど。

まぁ、いいや。

 

念の為近くに誰もいないことを確認してから、あたしは観念して口を開いた。

「…収まるところに、収まりました」

「えっ、ほんま? 謙也くんやるやないの!」

「あ、いや、すみませんちょっと違うんですけど」

おめでとう、と小さく拍手をしてくれた金色先輩に、慌てて訂正する。

というかもうこの人の場合は何を隠してもバレる気がするので、いっそ話してしまったほうが気が楽だ。からかったり茶化したりするような人でもないし、むしろ相談に乗ってくれそうだし。

そんなわけで手短に昨日のことを話すと、おかしいな、どんどん眉間にしわが寄っていった。

あ、あれ。こんなはずでは。

 

なんて気分に大混乱しているあたしを余所に、金色先輩は地を這うようなドスの効いた声で呟いた。

「…付き合ってはいない?」

「…はい」

「え、なんやのそれ。恋愛なめとんの?」

「な、なめてません!」

怒られました。

結構自分の中では落とすところに落としたと思っていたので、この金色先輩の反応はびっくり、というか予想外。正直あれ以外の収め方がわからないんですけど、どうしたらよかったんでしょうか。

ぼそぼそと呟いてみると、呆れたように息を吐かれた。

 

「津々井ちゃんはそれでええの?」

 

―――ああ、これは。

 

呆れているのでもない。

怒っていわけでもない。

心配を、してくれているのだ。

だけど。

「待っててって、謙也さんが云ったから」

浮かべた笑顔は、果たしてちゃんと笑えていたのだろうか。

一瞬面くらったように目を瞬いた金色先輩の反応からは判断しがたく、しかし自分では笑顔を浮かべたつもりなのだから、きっとちゃんと笑えていたのだと開き直る。

「…そ。なら、ええわ」

「ご心配おかけしました」

「ええのよ、ちゃぁんとふたりが笑ってくれるんならね」

にっこりと優しく笑って、ポンと頭を撫でられる。

くすぐったくてむずがゆい気持ちだった。もし姉が――もし、の話である――いたら、こんな風に話したりするのかもしれない。ひとりっ子の自分ではわからないけれど、きっと。

それから、いつもこの人を追いかけている人の気持ちが少しだけわかった。

この人は、見てほしいところを的確に見てくれる。

優しさだけではなくある程度の厳しさをもって、ほしい言葉を投げかけてくれる、そういう人なのだ。

「…一氏先輩が金色先輩のこと好きな理由、わかりました」

「あら嬉しい。じゃあ謙也くんやなくてアタシにする?」

すると、浮気か! と遠くで一氏先輩が叫ぶのを聞いて――結構離れてるのになんで聞こえるんだ、とは今は云わないでおこう――思わず笑って、けれどあたしは首を振る。

 

「金色先輩も大好きですけど、あたしは、謙也さんがいいです」

「妬けるわね」

 

コロコロとおかしそうに笑いながら去っていく金色先輩にひとつ頭を下げる。

ありがたいことだ。

ああいう人が傍にいてくれるというのは、きっとあたしだけではなくたくさんの人にとって感謝すべきことなのだと思う。

 

 

+++

 

 

実は今日は昨日の料亭の女将さんと今後の打ち合わせをする予定になっている。昨日の今日の話だけれど、女将さんから是非にと頼まれては断る選択肢などあたしにはない。自分の作品をあんなに気に入ってくれた人の頼みなら、なんでもやりたいと思うのも当然だろう。

榊先生、酒臭いとか云ってごめんね、でも感謝してます。

帰りには改めてもう一度お礼を伝えねば、と考えつつ、まだ待ち合わせの時間には早いけれど、遅刻するよりはいいので少し早めに移動しようと、あたしは一旦学校を後にすべく校門までやってきた。

今からならば打ち合わせの前に印刷所に寄ってからでも余裕だし、のんびり行こう。

あれ、そういえば今朝はまだ謙也さん来てなかったなぁ。

去り際に白石先輩が小声で『今日遅刻したらケツバットの刑やな』とか云ってたんだけど、大丈夫だろうか。ていうかテニス部なのにケツバットって。

と、ぼんやり考えていたときだった。

 

「遅刻やああああああ!!!」

 

…今思えば、初めて会った時もあの人朝練遅刻しそうになってなかった?

数か月前のデジャブに笑いを誘われ、あれからもう数か月経ったのかと思うと少しばかり感慨深いものを感じた。

たった数か月、もう数か月。

感じ方はいろいろあるけれど、この数か月であたしは随分と変われたと思う。多分、いい方に。

その原因は間違えなく謙也さんで、だけど謙也さんにはそんな自覚はないのだろう。

そんな謙也さんはもしかしたら遅刻常習犯なのかもしれない疑惑に、若干お株が下がりそうです。

 

心なしか遠い目になって棒立ちになっていると、いかなスピードスターと云えど所詮は人間の出せる速度での話。さすがに校門に突っ立っている人物がいることくらい目に入ったのか、あたしに気付いて急ブレーキで立ち止まってくれた。その足、鋼鉄製? そんな疑問を持ってしまったことは億尾にも出さず、にこやかに挨拶。

「お、津々井、おはよう!!」

「おはようございます、謙也さん。寝坊ですか?」

「おん、昨日帰ってからテンション上がって全然寝れんくて気付いたら朝で、ほとんど寝とらん…」

「ふふ、子供みたい」

ふにゃふにゃと、見てるこっちが恥ずかしくなってくるような気の抜けた笑みに小さく噴き出してしまった。だって心底嬉しそうに笑うから、まるで小さな子供がおもちゃを与えられて喜んでるみたいに見えてしまったのだ。可愛い。

 

が、あたしは聞き逃さなかったし、スルーしないぞ。

「ところで謙也さん?」

「ん?」

にっこりと笑って、人差し指を自分に向けて。

「あたしの名前は?」

にっこり、にっこり。

自分の笑顔が意外と威圧的にも使えると知ったのは中学に上がってからだった。景吾さんの影響なのかもしれないけれど、そんな怖い可能性はメガトンハンマーでぺしゃんこにしてから丸めて捨ててしまおう。だってあんな人の振る舞いに似たなんてどんなホラーよ。やだよ。

しかし今は使えるものは使うべきなので、にっこり笑顔は崩さない。

頬を軽く赤く染めてうっと言葉を詰まらせた謙也さんに容赦せず、更に笑みを深めて、数秒。

 

「…こ、小毬」

「はい、小毬です」

 

折角名前で呼んでって云ったんだから、そして昨日はちゃんと名前で呼んでくれたんだから、これから先だってそう呼んでもらわないともったいない。

少しくすぐったい気もするけど、この程度の違和感にはすぐ慣れるだろう。慣れるくらいに呼んでくれたら一番問題ないのだ。

可愛い反応も見られたし、あたしも時間がない。一度時計を見て遅刻にはならないことを確認して、改めて鞄を持ち直す。

「あたし今から打ち合わせなのでもう行きますけど、氷帝の見送りには戻ってきますから。そしたら一緒に帰りません?」

これくらいの我儘、許してほしい。

待つって云ったんだから待つけれど、ただ待つだけなんてつまらないじゃないか。

無理難題は押し付けない代わりに、ちょっとした我儘くらいなら云ってもいいよね?

甘えるように小首を傾げて見上げると、謙也さんは一度キョトンとしてから、ぱぁぁっと笑顔の花を満開にさせた。わ、わかりやすい。もう本当にこの人は可愛いな!

「ほんならたこ焼きでも食って帰ろ!」

「いいですけど、金ちゃんが食いつきそうですねぇ。あ、なんならみんなも誘います?」

「ん、ふたりで行こうや」

発言に驚いて、パッと謙也さんに視線を投げる。

すると謙也さんは云ってからいろいろ恥ずかしくなってきたのか、片手で口元を覆って顔を真っ赤にしていて。

「…へへ、じゃあ、ふたりで行きましょうか」

もう、この人はいちいち反応がずるい。

こんな反応されたらこっちまで照れちゃうじゃないか!

 

そうこうしているうちに謙也さんの携帯がなり、電話口からは静かな白石先輩の怒りの声が聞こえてきた。こんだけ離れてるのに聞こえるって、怒鳴ってるわけじゃないのに聞こえる声って、あの人の声帯どうなってんの。怖い。

とにかく謙也さんは顔色を青くして鞄を持ち直した。そういえばただでさえ遅刻しそうで急いでたのを忘れていたらしい。あたしも忘れてた、ごめんなさい。

「俺もう行くし、こ、小毬も気ぃつけや!」

まだちょっと名前呼びを恥ずかしがっているところがまた可愛い。ああ、この人本当に心底可愛いな! でも可愛いって云ったら怒りそうだから、にやける口元を必死で隠しながら、走り去る謙也さんの背中に一言投げかけた。

「怪我、しないでくださいね!」

軽くサムズアップしながら消えていく謙也さんに手を振って、前を向く。

自分でもびっくりするくらい、足取りが軽かった。

 

 

+++

 

 

多分今、あたしは幸せなのだ。

 

 

 

 

 

*****

 

付かず離れずタイム突入

あとはちょっと何個かイベントやって、終わりになると思います



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傍にいる

17

 

 

 

「この愚図が」

「ねえ、景吾さんってあたしの顔見たら暴言吐かないとハゲる呪いでもかけられてんの?」

お昼過ぎ、指定されていた時間に見送りのために大阪駅まで――梅田駅なのかどうかは知らない。なんかもう覚えられる気がしないのでもう気にしないことにした――やってきたあたしは、いきなり浴びせられた謂れのない罵声に顔をひきつらせた。いや、慣れたよ。慣れましたよ、景吾さんからの暴言は。むしろ最近は四天宝寺という優しい環境に身を置いていたおかげで、久しぶりに浴びる理不尽な罵声が懐かしいと思っちゃうくらいには慣れてましたけどね。ちなみにその懐かしさに気付いた瞬間絶望した。あたしはノーマルだ。

閑話休題。

 

気付きたくなかった事実から目を逸らすべく、気を取り直して大きく息を吸う。

と、吸い込んだ瞬間にドゴッと腰のあたりに衝撃が走る。はい、これも慣れました。ジロ先輩の特攻攻撃です。

しかしいつものように抱き着くジロ先輩を見ると、何故かぷっくりとほっぺに空気を入れてご機嫌斜めの様子。え、何事?

「小毬ちゃん、遅いC!」

「えええ、一応時間に余裕をもって来たはずなんですけど…」

「そんなの関係ないよ、俺が遅いって思ったらもう遅いんだから」

「ちょっと景吾さん、どういうことなんですか! あんたの唯我独尊がジロ先輩にうつっちゃってるじゃない!!」

「俺のせいじゃねえだろ」

「いーや、景吾さんのせいです。ジロ先輩みたいに純粋な人が、景吾さんみたいに穢れ切った人の近くにいたから悪影響を…」

「小毬、今のジローの顔見ろ。『計画通り』って歪み切った顔のどこが純粋なんだ」

「え?」

「えー?」

云われてあたしに抱き着いたままのジロ先輩の顔を覗き込む。

そこには目をキラキラさせて笑顔満開のジロ先輩しかいなくて、ああ、なんて癒されるのだろう。

こんな綺麗な笑顔を歪んでるだなんて、やっぱり景吾さんの目は穢れているに違いない。なんて嘆かわしい!

「お前は将来ホストに騙されて破産する」

「嫌な未来予想図を描くのはやめろ!!」

しかも真顔かよっていう。なんか本当にそうなりそうだからやめてくれ。

 

ところでいい加減重いのでジロ先輩を引っぺがそうと試みてみたんだけど、くっつき虫もびっくりなくらいはがれない。むしろはがそうとすればするほどより一層強い力で抱き着いてくるその様子に、こなき爺を思い浮かべてしまったあたしは間違ってませんよね?

八つ当たりに金色先輩にロックオンされてそそくさと逃げて行った景吾さんをザマアミロと笑いつつ、ふと気付く。

「っていうか、帰りは景吾さんも新幹線なんですね」

「今回は急いでないらしいからな」

「へー、景吾さんに新幹線…っていうか、駅似合わない…」

「空港なら似合うのにな」

「ほんとに。景吾さん、ひとりで飛行機で帰ればいいのに。団体行動嫌いそうに見えて、あの人実は寂しがり屋ですよね」

「俺さ、小毬のそういう命知らずなところは尊敬してるんだぜ」

「俺も。ミジンコ程も憧れないけど、かっこいいとは思ってる」

「やだ、なんですか急に」

「小毬ちゃん、後ろー!」

何ですかジロ先輩、そんな『志村、後ろ!』みたいなこと云って。

純粋無垢なあたしはジロ先輩の言葉に素直に後ろを振り返って後悔した。

「お前は本当に懲りないんだな」

だからさ景吾さん、あんたの笑顔は迫力満点過ぎるんですってば。

にっこりと笑顔を浮かべたままの景吾さんに、しかしおおよそ女の子に対してやるには信じられないくらいの力でかけられたアイアンクローの前に、そんな指摘は霧散したのである。あのさ、あたしの悲鳴聞いて笑ってるやつら、忘れないからな。特に宍戸先輩!

 

景吾さん渾身のアイアンクローからあたしを救ってくれたのは、やっぱり頼れる大親友であるちょただった。笑ってるだけで見てるだけの薄情な先輩たちとは大違いだ。ちなみに同じタイミングでやっとジロ先輩の呪縛からも解放されました。

解放されてなお痛むこめかみを摩っていると、ちょたは気の毒そうに飴をくれた。ありがとうね、だけどこの痛みは飴ちゃんごときでは癒されないのだよ。でも気遣いは嬉しいのでありがたく受け取る。

レモン味の飴を口に放り込みながら、四天宝寺の人たちと最後の交流中のみんなを眺める。

騒がしくて大変だったけど、このどんちゃん騒ぎは嫌いじゃない。

この騒がしさももう終わりかと思うと感慨深いものがある。本当、嵐みたいな2日間だった。

しみじみと考えたところで視界の端に渡邊先生と榊先生が話し込んでいる様子を入れてしまい苦いものを嚙み潰した気分になっていると、日吉や樺地もこちらにやってきた。あんまりこいつらはコミュニケーション大好きなわけじゃないからね、ある程度の挨拶で十分なんだろうね。でも見てたぞ、日吉。あんたちゃっかり財前と連絡先交換してたでしょ。微笑ましいなぁ!

「次に会えるのは夏かなぁ」

「そうだね、そっちに行くときは連絡するよ」

「待ってるからね」

「んふふ、ありがと! 日吉も樺地も遊ぼうね!」

「暇だったらな」

「暇は作るものだよ」

「うす」

「ほら樺地もそうだって」

「都合よく解釈するな」

「いいじゃん、人生に息抜きは必要なんだって」

「お前の人生はいつでも息抜きっぽいけどな」

「あんた云う事がだんだん景吾さんに似てきたわね」

「あ、俺も最近そう思う」

「うす」

「やめ…やめろ!!」

本気で嫌がってるよこいつ。

心底恐ろし気に顔を歪めて小刻みに震える日吉を見て、あたしたちは思わず笑ってしまった。笑い声と笑う時間の長さに比例して日吉の顔の歪みと不機嫌度が大きくなっていくのが更に面白い。日吉って真面目だけど、真面目故の面白さがあるよね。持ってると思います。

 

2年生でほのぼの談笑していると、小石川先輩が遅れてやってきた。なんでも氷帝のみんなにお土産を選んでくれていたみたいで、さすが四天宝寺の良心。痒い所に手が届く素敵な先輩だと改めて実感する。普段全然目立たないけど。

どうやら忍足先輩も一緒に選んでいたようで、紙袋を引っ提げながら、東京に帰ってからのお楽しみや、とニコニコしていた。え、何、怪しい。

ちなみにあとで小石川先輩に聞いたところによると、どうもグリコのべっこうあめを購入したらしい。あの例のランニングマンがプリントされてるやつ。い、いいチョイスですね。でも念の為普通のお土産も買ったらしいです。普通の方は千鳥屋のみたらし小餅。これなら景吾さんでも文句を云わずに食べそうなチョイスがさすがです。

先輩たちのファインプレーに感心していると、お土産をとりあえず日吉に渡した忍足先輩が隣に立った。

「今回はありがとうな、津々井。急やったし、大変やったやろ」

「いえ、こちらこそ! 忙しかったけど楽しかったですから。それに、みんなに会えて楽しかったです」

「…ほんまに津々井はええ子やなぁ」

「え、あ、いやぁ…」

いきなりしみじみ云われては照れてしまう。しかも忍足先輩に褒められるなんて、嬉しすぎじゃないですか。

にやけて腑抜けた顔になっている自覚はあるのに、嬉しさのほうが勝ってなかなか表情を引き締められない。

 

必死こいて両手で顔を伸ばしていると、ぽん、と頭に暖かい感覚。

顔を上げれば、忍足先輩が柔らかく微笑みながら、あたしの頭を撫でてくれた。

「何かあったら連絡しぃや」

「な、何か?」

「そ。俺でも巴でも、どっちでもええ。いつでも相談乗るし、覚えとき」

優しい目。

暖かい手。

頼っていいのだと云われていることに気付いて、一瞬、目の奥が熱くなった。

「…傍に誰がおるんか、わかっとるやろ?」

けれど、今は泣くべきではないということもちゃんとあたしはわかっている。

忍足先輩が何を云っているかも、わかってしまった。

そんなにあたしは…あたしたちはわかりやすかったんだろうか? 景吾さんも何か気付いてる感じしたし。

気恥ずかしさと、心強さ。

忍足先輩の言葉に裏付けられ、あたしは恵まれているのだと心底思った。

 

「―――はい!」

 

だから、心からの笑顔を。

誰が傍にいるか。

考えるまでもない。

 

もう、ちゃんとあたしは知っているのだから。

 

 

+++

 

 

「じゃーなー!」

「気ぃ付けて帰りやー!」

「またねー!」

 

新幹線の出発の時間が迫り、名残惜しそうに去っていく氷帝のみんなに手を振る。

今度こそお別れで、また静かな日々が戻ってくるのだろう。

そう考えるとやっぱり物足りないような寂しさが胸を締め付けれど、寂しいだけではないとちゃんと知っている。

遠くにいても大切に想ってくれる、想える人がいるというこの事実は酷く優しい。

ついにみんなの姿が見えなくなって、四天宝寺のみんなもここで解散らしく、三々五々に帰っていった。

けれどなんとなく名残惜しくて。

みんなが消えていった方をぼんやりと見つめていると、ふと隣に人が経つ気配がした。確かめるまでもなく謙也さんだった。

謙也さんは、顔は前に向けたままぽつりと呟いた。

「…寂しいか?」

「そりゃもちろん」

迷いなくきっぱりと云えば、謙也さんはがっくりと肩を落としていた。

その様子に、気付かれないように少しだけ笑って。

「でも、平気です」

云って、謙也さんの服の裾をちょい、と掴んで。

「どうやらあたしは、ひとりじゃないみたいなので」

それから見上げて微笑む。

謙也さんは一度くしゃりと泣き出しそうな顔をした後、それから困ったように笑った。

随分と複雑な顔をするものだな、なんて思った。

だけど今のあたしにそれを指摘する資格も権利もない。

だから。

「帰りましょ!」

一歩、前に足を踏み出す。

振り返り、手を差し出す。

 

この手を伸ばすのは、もうひとりだけだとあたしは決めているから。

 

 

 

 

 

*****

 

それは、あなた



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そうだ、水族館に行こう

18

 

 

 

「………」

手の中にある紙、もっと云えば手紙と2枚のチケットを見つめて固まるあたし。

 

『やる。使え』

 

たったこれだけの、手紙というよりもメモ寄りの代物。一応手書きではあるけれど、恐ろしいほどの走り書き。しかも紙だってその辺にあった紙切れを再利用しました的なもので。

あの人何考えてんだろう。

誕生日じゃないし、何かの記念日というわけでもないのに唐突にこんなもん送られてきて、さすがのあたしだって反応に困る。

恐る恐るチケットを確認すれば、最近京都にできたという水族館の優待券で。

「………?」

何か企んでいるのだろうか。

いやでもいくら景吾さんでも理由もなく嫌がらせをするほど腐ってはいないはずだ。氷帝にいた頃ならともかく、今は離れているんだから日常生活でイラッとさせたとかいうこともないはずだし。云ってて悲しくなってきた、くっそ。

ともかく嫌がらせされる心当たりはない。

ということはつまり、純粋にいらないからくれたのかな?

京都の水族館なんて、東京に住んでいる景吾さんにしてみたら遠すぎていく気にはなれないのかもしれない。関東には有名な水族館はいっぱいあるし、わざわざこっちまで来ることもないしね。ああ見えてあの人一応忙しいし。

 

少し考えて、携帯を取り出す。

メールのあて先は当然景吾さん。

『このチケットは?』

数分も立たないうちに震える携帯。今丁度暇なのかしら、とどうでもいいことを考えながらメールを開く。

『やる。使え』

それはわかったから。

『いらないんですか?』

『株主優待でもらったもんだ。俺は興味ないからな』

『何か企んでます?』

『企んでほしければ今から計画練るぞ』

『すみませんやめてください。じゃあ、ありがたく頂きます』

『ああ、無駄にするなよ』

どうやら本気で何の他意もなくいらないからくれたらしい。おお、ラッキー。

有効期限はないからいつでもいいんだけど、折よくもうすぐ夏休み。どうにかすれば時間は作れるだろう。

なんだ、景吾さんもたまにはいいことしてくれるね。やるねー。おっと、滝先輩みたいな口調になってしまった。いかん、あたしもなかなかテンションが上がっている。

あと心底どうでもいい情報だけど、景吾さんはメールでは優しい。メールだと直接話してるときや電話のときみたいな勢いがないからかもしれないけど、なんかいつもより柔らかい感じがするんだよね。最初は毎回鳥肌立ててたけど、今はもう慣れた。ただしメールでは優しいからってあんまり調子に乗ったこと書くと、次に会った時に容赦なく殴られるから気を付けたほうがいい。

 

まあ、そんなこんなで水族館のタダ券を手に入れたわけでして。

一枚で2人までは入れるタイプのチケットだから、クラスの友達を誘ってみるのもいいかもしれない。クラスに馴染もう週間にはいろんなところに連れて行ってもらったし、そのお礼も兼ねるのもいい。

が、考えてみたら今クラスで仲がいいグループは全部で5人。チケットの人数から微妙にあぶれてしまう。足りない分は自分で払ってもいいけど、なんだかそれも違う気がする。

うーん、どうしたものか。

考えて、はたと気付く。

「…そうじゃん」

だったら、誘う人はちゃんといるじゃないか。

思い立ったら即行動なあたしは、さっそく携帯を開いて電話を掛ける。

ワンコール、ツーコール。

スリーコールの途中で取られた電話に、挨拶もそこそこに用件を伝えた。

 

「あ、謙也さんですか? 実はチケットもらったんですけど、今度水族館に行きません?」

 

 

+++

 

 

そんなわけで夏休みに突入して数日、やっと謙也さんと予定を合わせて今日は水族館に行く日だ。とはいっても大会前だからさすがに一日休みの日なんかなくて、今日はたまたま午後が休養日なのだという。

「誘っておいてなんですけど、いいんですか、休養日なのに休まなくて…」

「運動せんだけで十分な休息やっちゅー話や!」

にかっと笑う謙也さんに、ああ、爽やかだけどやっぱり体育会系だったんだなぁと今更ながら実感した。運動しないだけで休養って、どんだけ脳筋なの。云ったら傷付きそうなので云いませんけど。

 

夏休みの電車はどの時間帯だろうと混んでいる。さすがに平日朝の山手線みたいなえげつない混み方はしてないけど、それにしたって人が多い。

案の定座る席が空いているはずもなく、あたしと謙也さんはドア付近の少し空いたスペースを見つけて立っていた。

「どんくらいかかるんやったっけ?」

「大阪駅からだと45分くらいですね。京都って意外と近いんですねぇ」

「せやなぁ。近すぎてあんま行かへんけど、うちの親とか結構よく京都行っとるわ」

「あ、考えてみたらあたし、京都行くの初めてかも」

「ほんまに? なら帰りちょっと観光するか?」

「わっ、それいいですね!」

水族館は2時間もあればまわれるらしいし、幸い駅からも近い。ご飯の時間を考えても、本願寺くらいなら余裕で行けるだろう。俄然楽しみになってきた。

久しぶりの水族館、初めての京都、それが謙也さんと一緒っていうのがなんだか特別なように思えてにやけてしまう。

それに今更だけど、これってデートじゃない?

 

ところで関西に来てから何度か電車に乗ってるけど、こっちの運転って関東に比べると荒い気がする。 なんか結構な確率でがっくがっく揺れるんだけど。これ足腰弱い人には優しくないと思うんだよね。

あと難読熟語かよって云いたくなるような難しい地名が多くて困る。別に馬鹿じゃないけど、だからって何でもかんでも読めるわけじゃないのよ。

ぼんやりと路線図を眺めながらそんなことを考えていたら、がたん、と急に電車が揺れて、完全に油断していたあたしは見事に謙也さんの肩あたりに激突した。

「ふぎゃっ」

「だ、大丈夫か?」

「…へ、平気です…すみません…」

めっちゃ鼻ぶつけた。恥ずかしい。そして痛い。

涙目になって鼻をさすっていると、ぐい、と身体を引っ張られる。不意打ちだったので抵抗出来ず、あたしはいつの間にか電車の扉に背を預け、目の前には謙也さんが腕を突っ張って立っていて。

「これで少しはましになるやろ」

…多分これ、深く考えてないんだろうなぁ。

だってこれはいわゆる壁ドンってやつで。

でも云ったら謙也さんは照れて慌ててやめちゃうだろうから、あたしからは云わないでおこう。明日辺りに気付いて、それから盛大に照れる謙也さんを想像して、思わずあたしは笑ってしまった。

「なんや?」

「…ふふ、なんでもないです」

いつもより近い距離。

謙也さんが愛用している制汗スプレーの香り。

守ってもらえているという安心感は、少しだけ優越感にも似ていた。

 

けれどそれをどうにか謙也さんには悟られないよう、油断すればにやけそうになる頬を叱咤する。

それを見た謙也さんが不思議そうにしていたけれど、あんまり気にしないでください。

さてさて、京都まではあと40分。

しばしの電車の旅を楽しませてもらおうじゃないですか。

 

 

+++

 

 

水族館は駅からそう遠くなかった。

チケットを見せると恭しくお辞儀されてしまったけれど、残念ながらあたしは株主様じゃないんです。

ちょっと申し訳ない気持ちになって、思わず謙也さんと顔を見合わせて苦笑い。

居たたまれないのでそそくさと入館してしまえとばかりに早足に進むと、まずは京の川ゾーンに出迎えられた。この水族館の目玉らしい。

「おー、これがオオサンショウウオ」

「でっかいなぁ。っちゅうか数多ッ」

「さすが生きた化石…なんかちょっと神々しいですね」

「あれ、生きた化石ってシーラカンスちゃうかったっけ?」

「いろんな種類があるみたいですよ。確かメタセコイアとかカモノハシとかもそうじゃなかったかなぁ」

「…小毬、物知りやな」

「えっへん」

「なんやそれ」

視線はオオサンショウウオに向けたまま会話をしていたのだけど、笑った謙也さんの声が思ったよりも近くて、おやっと思って少し顔を動かしてギョッとした。

だって、謙也さんの顔がすぐ傍にあったのだ。

今日あたしはいつもよりは高めのヒールを履いてる。でもそれにしたって近い。思わず息を止めて固まってしまったあたしの様子に謙也さんが気づいた様子はなく、感心したようにオオサンショウウオを眺めている。

「ほな、次行こか」

「…うぃっす」

ずるい。

天然ずるい。

先を進む謙也さんの背中を、ちょっと恨めしく思いながら睨み付ける。

さっきの電車といい、謙也さんってやっぱり天然だ。っていうかあれもこれも全部計算してやってたとしたら、相当だ。景吾さんでもびっくりするほどタラシだ。

…あたし以外の人にもやってたら、面白くないな。

別に拗ねてませんけど。

ま、謙也さんのことだから誰彼構わずってことはないだろうし、そもそも今一緒にいるのはあたしなのだ。

そのことにまず満足することにして、気を取り直して次のエリアに進む。

 

オットセイやアザラシのいる海獣ゾーン、水中をダイナミックに潜水し泳ぐ姿と陸でのんびり過ごす2 つの姿を臨めるペンギンゾーンを通り抜けると、次に待っていたのは大水槽エリアと呼ばれる場所だった。1、2 階吹き抜けに設置された約 500 トンの水量を有する水槽は圧巻で、どこから見ても美しいビュースポットがあるということだった。

「わ、すごい」

「なんや、ほんまに海に潜ってる気分になるなぁ」

「そうですね。きれー…」

「………」

「…ん?」

水槽にへばりついて、水の中を優雅に泳いでいる魚を眺めていると、ふと視線を感じた。隣にいるのは当然謙也さんで、何かあったのかと見上げてみると。

「謙也さん?」

「ん!? や、な、なんでもない、なんでもないで!」

「え、ならいいんですけど…」

謙也さん、あたしを見てぽかんとしてたよね。

やだなぁ、もしかして今気付かないうちに間抜け面になってたかしら。うわこいつぶっさいく、とか思われてたら結構へこむんですが。景吾さんにブスとか暴言吐かれるのは慣れたけど、謙也さんにそんなこと云われたらしばらく旅に出たくなる気がする。普通にへこむ。

 

が、それを確かめる勇気はないので、嫌な考えを払拭するように次のエリアに移動する。

「あ、次は磯の教室ですって。実際触れるみたいですね」

「…な、なまこ…?」

「うおお、すごい、ぷにぷに…」

「ぎゃ! 小毬、よぉ触れんな!?」

「暴れないし可愛いですよ?」

「あかん。俺無理…」

「そういえばなまこって身の危険を感じると内臓を吐き出すらしいですよ」

「何それ怖…もう触るんやめときや…」

「えー。じゃあこっちは?」

「ヒトデ!? それこそ無理やん…!」

「あ、ネコザメ。ネコザメですって、可愛い!」

「可愛い!? めっちゃ怖いねんけど! 睨んどるやん、完全にヤる気の目やん…!」

「…謙也さんって意外と…」

「意外となんですか」

「いえ」

「しゃーないやろ、怖いもんは怖いねん!」

顔を青くして両手で自分を抱き締める謙也さんを見て、あたしの心の奥底にあるSの心が目覚めそうになる。いや、だってさ、謙也さんの表情って、ちょっと加虐心を煽られるんだよね。だって可愛いんだもん。

謙也さんの手を取って無理矢理なまこを持たせたい気持ちを理性を総動員してなんとか押さえつけつつ、気を逸らすように先に進むことにする。

「じゃあ次はあれ行きましょう。カニとエビのところ」

「うわこれもでかい。怖…」

「タカアシガニ、節足動物では世界最大ですって。すごいなー。これに抱き着かれたら痛そう」

「怖い想像すんのやめや…!」

「でもきっと熱湯かけたらこっちの勝ちですよ」

「自分も熱いやんか」

「我慢すればカニしゃぶ一丁上がり」

「カニ…食いたい」

「イセエビも山ほどいるけど、これ食用じゃないですからね」

「わ、わかっとるわ!」

「…帰り、カニ食べて帰りましょうか」

「ええな、そうしよ」

間違っても水族館で話す内容じゃなかったのは自覚してるので、あの、係員さん、悲しそうな顔しないでください。

でも帰りはかに道楽行ってきます。

 

 

+++

 

 

色気よりも食い気全開の話をしたあとは、京都特有の生き物を展示している山紫水明ゾーン、最後に公園と一体化して開放感たっぷりの屋外空間が売りだという京の里山ゾーンを散歩して、京都の水族館のすべてを回ったことになる。

ちなみにイルカショーの方は時間的に微妙だったので今回はやめておいた。チケットはもう一枚残ってるし、またこっちに来る口実にもなるしいいよね。

「本願寺も見られたし、京都満喫した気がします!」

「水族館も久しぶりに行くとええもんやなぁ」

「たまには景吾さんに感謝ですね。お礼云うの心底癪だけど。過去の清算までするとチケットの一枚二枚程度じゃすまされないほどの被害受けてるからお礼とかあんまり云いたくないけど」

「恨みつらみ溜まりすぎやろ」

「鬱憤は計り知れないったら」

乾いた笑いを浮かべて呟けば、そっと季節の小鉢を差し出された。慰めか。傷付いた。食べるけど。

水族館を満喫したあとは京都観光に移行して、時間も時間だったので水族館からも駅からもほど近い本願寺に足を運んだ。広大な敷地にはどこをみても国宝やら重要文化財ばかりで、ただただ圧巻だった。さすが京都。

 

のんびりと敷地内を散歩していると隣の謙也さんのお腹から盛大な空腹を訴える音が聞こえ、近くにいた外国人観光客が噴き出していた。

そういえば部活終わりから待ち合わせの間にちょこっと食べたとは云っていたけど、今はもう夕方近く。食べ盛り育ち盛りな謙也さんには耐えがたい空腹だったんだろう。

恥ずかしさ大爆発で切腹しかねない顔になっている謙也さんは非常に可愛いのだけれど、それを放置するほどあたしも鬼じゃない。それにあたしだってお腹はすき始めていたので、散歩を切り上げて京都駅で食事にすることに。

大阪に帰ってから食事にするならかに道楽に行こうなんて話してたけど、京都で食べるなら京都らしいものにしようってことになって、今あたしたちは駅ビル内のお店にやってきていた。

なんでもここは料亭メニューの一端をリーズナブルな価格で気軽に食べられるらしく、結構な人気店なのだとか。が、タイミングがよかったのか運よくあたしたちは並ぶことなくすんなり席に通されてラッキーだった。

それぞれオススメされた料理を頼んで、料理を待つ間は水族館での話や本願寺を回った感想なんかをのんびり話した。

今思い出しても、なまこを嫌がっていた謙也さんの姿は面白い。ペンギンは可愛かったし、大水槽のインパクトはやっぱりすごかった。本願寺は冬に行っても綺麗だという話なので、今度は是非冬にも来てみたい。

 

そんなことを話していると、いよいよ料理が運ばれてきた。

ふわりと美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐり、なんだか急にお腹がペコペコになった気がする。

「いただきます! おお、すごい。豪華だ!」

「いただきます。小毬のもうまそやなー!」

「んんん、ほっこりする味…美味しいー!」

「餡にも出汁がきいとって、しっかりしとるわぁ」

「謙也さんのもちょっと食べたい。一口ください」

「ええで、ほい」

そして差し出される一口分の料理。

…ねえ、ちょっと心配になって来たんだけど、本当に計算してないんですよね?

だって、謙也さんが、これはいわゆる…アーン、というやつで。

「景吾さんの鳴き声ではない」

「な、なんで跡部?」

「いえ…」

景吾さんの幻覚が心底鬱陶しかったけど、まあ、いいか。

あんまり深く考えたら負けなんだと思う。

 

動揺を悟られないよう一度お茶で喉を潤し、相変わらず何も考えてなさそうな顔でお箸を差し出す謙也さんに若干の腹立たしさすら感じつつ、ええいままよ、と開き直った。

「いっただきまーす。んむっ」

「あ」

「ん、美味しい!」

「………」

さすが京都というべきか、上品な美味しさでほっこりする。いいねえ、京都だねえ。見た目も綺麗だし、こういう上品さってたまに味わうとすごく心に染みる。

いや、高級っていうものなら景吾さんに引っ張っていかれてたパーティーとかで十分味わってたんだけど、あれっていかにも豪華! っていう目に痛いやつだったから、何回行っても慣れなかったんだよね。あたしにはこういうはんなり京都の上品な高級感のほうが合ってる気がする。自分で云うのもなんですけど。

 

あと、こういうお店見るとついつい飾ってあるお花とか見ちゃう。お店に合った花器に、季節と雰囲気をうまく調和させた花。いつかこういうところの担当が出来たりしたら幸せだなぁ、なんて思いながら料理を味わっていると。

謙也さんは、ぴたりと動きを止めていて。

どうしたのかと思えば、徐々に首から耳から顔を赤くして、のろのろと俯く。

あ、気付いたのか。

予想は正しく、そっとお箸を置いて頭を抱えた謙也さんは、か細い声で呟いた。

「…これ、あかんかったな」

「…今更ですか」

「すんません…」

遅まきながら自分のやったことを自覚して謝る謙也さんを見て呆れるが、ぴん、と思いつく。

そうそう、謙也さんもあたしの料理、美味しそうって云ってたよね。

なので。

「はい、じゃあ謙也さんも」

「へっ」

にーっこりと笑って。

 

「どうぞ!」

 

あたしが差し出した蓮華を見つめて、謙也さんはこれでもかというほど顔を赤くして固まった。

やばい、楽しい。

今日すっごい楽しい。

後日、水族館の売店でお揃いで買ったオオサンショウウオの携帯ストラップをつけて学校に行ったら、金色先輩や財前からものすごーく生温い目で見られたけれど、この夏の良い思い出が出来ました!

 

 

 

 

 

*****

 

カニっていざ食べると毎回そんなに好きじゃないって気付くから不思議



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夏の終わり、終わりの始まり

19

 

 

 

時間は、気付いた時にはもうなくなっていて。

 

 

+++

 

 

夏休み後半に入っても、まだまだ猛暑が続いていた。毎日溶けそうなほどの暑さにうんざりしながら、あたしはひたすら作業部屋に籠る日々を送っていた。

結局日程が合わなくて、あたしはテニス部の全国大会の応援には行けなかった。

展示会にコンクールにとばたばたとしているうちに気付けば大会は終わっており、東京遠征していたテニス部は昨日帰ってきたらしい。

今日は一日オフで明日反省会をするそうで、依頼されていたアレンジをしていたあたしに謙也さんから連絡があったのは今日の昼頃のこと。

『今日、時間あるか?』

そう一言だけ送られてきたメールを見て、首を傾げた。

だって謙也さんのメールはもっとテンションが高くて、どうでもいいことをつらつら書いたあとに、おまけみたいに本題が書かれている、というのが常だった。

何かあったのかと気付くには十分すぎたと思う。

 

実は朝のうちに財前からメールがあった。

『ベスト4だった』

財前はいつもこんな感じだったから違和感はなかったけれど、内容は笑って終われるようなものではない。

ベスト4、それはつまり全国で4本の指に入ったということで、あたしのような運動もやらない詳しくもない人間からしたら、十分すごいことだと思った。

でも多分、違うのだ。

この結果に、彼らは満足なんてしなかったに違いない。

お疲れ様、と一言だけ返信して、いくら彼らが満足しなかったからといってあたしに出来ることなどないという現実を噛みしめた。

もどかしいというのはこういうことを云うのだろう。

 

悔しさを紛らわせるために作業部屋に籠って作品を仕上げてはみたものの、なんとなく落ち着かない。

休憩のために部屋に戻ったときに丁度謙也さんからのメールを受け取って即返信、あたしはそのままエプロンを脱いで私服に着替えて家を飛び出した。

時間なんか、なくても作る。

 

無性に、謙也さんに会いたかった。

 

 

+++

 

 

指定されたのは行きなれた公園。

学校とあたしの家の間にあるその公園は、普段からあまり人のいない閑散とした場所だった。この辺りにはあまり小さな子供もいないから、たまに行政が手入れをしているくらいで寂しい場所になっていた。

おかげであたしと謙也さんが会うには丁度いい場所になっているわけで。

 

急いできたのに、あたしが公園についたときすでに謙也さんはそこにいた。

街灯の下、ペンキがはがれたベンチ。

ぽつんと座る謙也さんがどこか現実離れしていて、思わずあたしは足を止めてしまった。

まるで謙也さんのいるあたりだけ、別世界になってしまったみたいで―――ひどく、落ち着かない。

 

謙也さんは足音であたしに気付いたようで、ゆっくりと顔を上げて、それからニカッと笑った。

「すまんな、いきなり」

「…いえ」

その様子はとても落ち込んでいるようにはみえず、拍子抜けした。てっきりもっとへこんで、負けてもうたー、なんて騒ぐかと思っていたのに。

いや、落ち込んでいないならないでいいんだけど、そうするとあのテンションの低いメールはなんだったのだろう。

手招きをされて謙也さんの隣に腰を落ち着けながら、なんとなく腑に落ちない。

 

「結局公式試合、一回も小毬に観せられんかったなぁ」

用意してくれていた缶ジュースを手持無沙汰にいじっていると、謙也さんはため息交じりに云った。

そういえば、前に氷帝が練習試合にやって来た時にそんな話をしたことを思い出す。

どんな時でも手は抜いていないけれど、公式試合が一番気合に入る、としみじみと話していたから、なら、とあたしも云ったのだ。

今度は公式試合の写真を撮りたい、と。

あの時は全国大会も応援に行くつもりだったのに、忙しくしているうちにいつの間にか大会はすっかり終わってしまっていた。こんなことなら時間を捻り出してでも関西大会を観に行けばよかった、なんて思っても後の祭り。

 

観たかった。

テニスをしている謙也さんは好きだ。

単純に格好いいというのもあるけれど、もっと根本的なところ、好きなことをしているその姿が好きだと思ったのだ。

写真に収めたかった。

あたしの手で、謙也さんの一番格好いいところを形に残したかった。

それがもう出来ないのかと思うと、ひどく物悲しい。

この物悲しさが、ただ今年はもう公式試合が観られないから、ということだけでなないことにも気付いていた。

 

大会が終わったのだ。

最後の大会が。

謙也さんたち3年生にとって、最後の大会が、終わったのだ。

それが意味することに気付けないほど、愚かではいられなかった。

「ま、来年でも観に来てや」

あっけらかんとかけられた言葉に、驚いて目を瞬く。

「え?」

「俺まだしばらくテニス続けるし、来年は高校やけど一年目からレギュラー取る気やし」

にっかりと笑う謙也さんに無理している様子はなく。

「…じゃあ、楽しみにしてよっかな」

「おん、しとって」

ふわりと笑う。

楽しそうな、笑顔だった。

 

―――なのに、どうして?

 

未来を語る謙也さんは、ならばどうして今のことを語らないのだろう。

あなたの心が、ここにあるようには思えない。

あなたの視線が、目の前のあたしではない何か、ずっと遠くを見つめているように思えて仕方がない。

 

あなたは確かにここにいるはずなのに、どうしてこんなにあたしは寂しいの?

それから謙也さんは大会中にあったことをいろいろ話してくれた。

東京に行く途中に金ちゃんが迷子になったとか、やっぱり東京はおしゃれだとか、氷帝のみんなと久しぶりに会って楽しかったとか、久しぶりに会うせいもあって、話のネタは尽きない様子だった。

 

話し方、声、テンション。

どれをとってもいつもの謙也さんのはずなのに、どうしてだか、絶対的な違和感があって。

だけどその違和感の正体も、意味も、あたしにはわからなくて。

 

「終わったんやなぁ」

 

一通り話し終わった後に、ぽつり、と。

思わず零してしまった、という様子の呟きに、思わず息を呑む。

隣に座る謙也さんを見上げると、謙也さんは空を仰いでいた。

身長差のせいで、あたしから謙也さんの顔は見えない。

「終わってもうたんやなぁ…」

「謙也さん…」

どう声をかけていいのかわからず、ただ名前を呼ぶ。

こんなに自分を無力に感じたことはなかった。

財前に結果を聞いてから時間はあったはずなのに、いざとなるとかける言葉が見つからない。

「…口にするとあかんな。わかってたはずやのに、しんどいわ」

それからやっとあたしの方に顔を向けてくれた謙也さんは笑っていた。

 

―――なのにその笑顔が、あたしは耐えられなくて。

 

思わず、咄嗟に手を伸ばして。

 

あたしは謙也さんを抱き締めていた。

 

「…あたし、見てないから」

いきなりだったのに謙也さんが抵抗する様子はなく、されるがままに抱き締められてくれた。

慌てている様子も、照れている様子もない。

いつもだったらあたしがこんなことをしたら、慌てて照れてやかましくなるのに。

 

謙也さんは何も云わない。

何も云わず、静かにあたしの背中に手が伸びてきて。

その手がぎゅっと、まるで縋るように、あたしの背中の服を掴んだ。

 

「ひとりで、悲しまないでください」

 

ひとりで泣かないで。

ひとりにならないで。

見ないから、望むならば聞かないから。

だからひとりで泣かないで。

悲しまないで、とは云わない。

悔しくないはずがないのだから。

だけど、ひとりで泣くのは駄目だ。

それはあまりに悲しくて辛いことだと思うから。

 

浮かんだ言葉たちは、けれど口にすることはできず。

抱き締めた腕から、触れた場所から、全部伝わればいいのにと他人事のように考えた。

そうして、謙也さんは。

 

「…おおきに」

 

たった一言。

絞り出すように呟かれたその声は掠れていて、あたしは歯を食いしばった。

 

夏が終わった。

季節は廻り、時の経過は無情だ。

 

腕の中で小さく肩を震わせる謙也さんを抱き締めながら、あたしは思う。

一体自分に何が出来るだろう。

 

何も出来なかったと嘆く、この人の傍にいる以外、何が。

 

歯がゆさに気が狂いそうだ。

けれど。

きっと叫びだしたくなるような感情を抱いたこの人が、あたしのもとにやってきてくれた。

 

その理由を想って、ほんの少しだけ、救われた。

 

 

 

 

 

*****

 

あなたが呼んでくれたのがあたしで、よかった



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感じる、心地よい体温

20

 

 

 

少しばかり風が冷たくなって、日が落ちるのが速くなり始めた秋口。

いつもの謙也さんとの帰り道、今日は買いたいものがあるので駅前までやってきていた。アレンジに使う道具の買い足しがしたかったのだ。

いつものお店で、今日は謙也さんがいるからいつもより多めの材料を買って、無事に買い物は終わり今は帰り道である。

「うー寒。めっきり冬やなぁ」

「まだ秋ですよ。ていうか寒いならセーター着るとかしたらいいのに」

呆れて云えば、やって動きにくいし、とのこと。

男子って、寒い寒い云う割に上着着ないですよね。この不可解な現象に名前を付けよう。…馬鹿?

 

と、少々…いや、バレたら顰蹙を買うこと間違いなしの失礼なことを考えていると、忽然と隣から謙也さんが消えた。

「小毬ー! はよー!」

「ええええ…」

呼ばれて辺りを見回せば、随分先にあったたこ焼き屋さんの前に彼はいた。え、走ったの? 走ったにしては異様に早かった気がするけど…と考えて、そういえば謙也さんはものすごく足が速いことが自慢だと話していたことを思い出す。白石先輩たちも何故か自慢げに云っていたけどあの時はどうでもよすぎてスルーしていたのだ。はー、本当に速いんですねぇ。今更ながらに感心した。

 

ともかく、あんなに大声で呼ばれて手招きされたら行かずにはいられない。まあ普通に帰る方向にあるお店だから行くんだけど、謙也さんは一体何にテンションを上げてるんだろう。っていうか恥ずかしいからあんまり大きい声で呼ばないでほしい。ほら、すごいちらちら見られてるから。

「ここのたこ焼き、めっちゃうまいねん」

周囲の微笑まし気な生温い視線を受けつつ謙也さんところまで行くと、その手にはすでにたこ焼きが。

なるほど、ソースの香ばしさといいカツオの踊り具合といい、パッと見ただけでもう美味しそうだ。

「あ、もしかして金ちゃんが云ってたお店かな?」

「おん、多分そや。金ちゃんお気に入りの店やからな!」

先日謙也さんに呼ばれてテニス部の面々と一緒にお昼を食べていたときに、あそこのたこ焼きが世界一、と金ちゃんが話していたことを思い出した。金ちゃんに食べ物の味がわかるのかちょっと半信半疑だったけれど、これなら納得だ。ごめんね金ちゃん、今やっと君の言葉を信じました。

 

お店の前には立ち食い用のスタンドテーブルが立っているので、どうせ急ぐ帰り道でもないのであたしたちはそこでたこ焼きを食べてから帰ることにした。

何より出来立てのたこ焼きを持って食べる場所を探したりしたら、きっと途中で冷めてしまう。そんなもったいないことはしたくないのである。出来立てたこ焼きは出来立てを食べるべし。

そんなわけで隅のテーブルを囲んでふたりで他愛ないことを話しながらたこ焼きを食べていたのだけれど、ここは顔を上げれば商店街の様子がよく見える場所だった。

夕方に入って活気づいてきたお店、仕事帰りの疲れた様子のサラリーマン、これから飲みに出かけるであろう若者たち、それからあたしたちのような学校帰りの学生。

何気なくそんな風景を見ながらたこ焼きをつついていて、突然目に入ったのは一組の男女だった。

仲良さげに寄り添って肩を抱いて歩いていた。

付き合いたてなのだろうか、お互い少し動きがぎこちないところがまた可愛らしい。

あれが恋人同士の距離感なのだろう。

手をつないで、寄り添って、抱き合って。

 

今のあたしたちには到底ありえない距離感に、思わず声に出ていた。

「…いいなぁ」

「えっ」

「あ」

気付いた時にはすでに遅い。

口から飛び出してしまった言葉をなかったことに出来るはずもなく、徐々に顔が赤くなっていくのが自分でもわかった。

「………」

「…………」

お互い顔を見合せたまま、硬直。

先に動き出したのはあたしで、それでも赤くなってしまった顔はどうしようもなく。

「…なんでもないです」

「さ、さよか」

 

…気まずい。

 

ひょい、とたこ焼きを口に放り込みながら、なんで呟いちゃったんだ、っていうかなんで聞こえちゃったんだ、と激しく後悔する。そんなに大きい声で云ったつもりはなかったんだけど。

ちらりと隣の謙也さんを盗み見ると、視線をあっちこっちさせたりそわそわと落ち着かない動きをしていて、ものすごく挙動不審になっていた。

まあ、そりゃ戸惑うよね。

だって別にあたしたち付き合ってるわけじゃないんだし。

…自分で考えて、無駄にへこんだ。

ああ、たこ焼きの味、わかんなくなっちゃった。

 

 

+++

 

 

たこ焼きを食べ終わってからの帰り道、何故かあたしはいつかの丘にいた。

普通に帰ろうとしていたあたしの手を取って方向転換をしたのは謙也さんだ。

荷物もあるし早く帰りたいんだけど、と思ったのだけれど、珍しく謙也さんから手を握ってくれたことが嬉しかったのと、見上げた謙也さんの表情が何故か真剣だったから何も云えずにおとなしくついてきた。

でもここに来てからすでに5分、謙也さんが口を開く様子はない。

えー。何よー。

自分で連れてきたくせに何も云わないとか嘘でしょ。

もしやあの時みたいに今の時間の景色が綺麗だから、とかかなとも思ったんだけど、それとも違いそうだ。ここの景色はいつも綺麗だけれど、あの時のほうがずっと綺麗だった。

 

繋いだ手を離す様子もなく、けれど何かを言葉にされることはなく。

…本当に、どうしたんだろう。

実を云うと、一瞬、期待した。

待てと、待つと、そう云ったあの日から随分と時間は経っている。

もしや、今がそうなのか、と。

待たせたな、とか。

そう、云ってくれるのかと期待したのだけれど。

まっすぐ前を見たままの謙也さんの表情はどこか強張っていて、とてもじゃないけど告白する雰囲気ではない。

 

まさか、逆の話?

嫌な予感に背中が冷たくなった。

どうしよう、だとしたら嫌だ。

話を聴くのが途端に恐ろしくなって握られた手をぎゅっと握った。

すると。

「小毬」

呼ばれて、顔を上げる。

そういえば、もう謙也さんはあたしを名前で呼ぶのに躊躇がない。

まぁあれからだいぶ時間が経っているし、当たり前と云えば当たり前なんだけど。さらっと呼ばれて嬉しいのに、どこか寂しく思ってしまうのはあたしの我儘だろうか。

そんなことを考えていたら、謙也さんはあたしの手を離して一歩前に進んで、くるりと方向転換。

 

「ん」

「………」

 

両手を広げてこちらを見る謙也さんに、この場合あたしはどういう反応をするのが正解なんだろうか。

とりあえずジッと謙也さんの顔を伺ってみたのだけれど、負けじと謙也さんもあたしを見ている。

しばしの睨み合い。

な、なんだこれ。

どうしろっていうんだ。

真顔で、口を真一文字に結んで、どこか緊張した顔の謙也さん。

意味がわからない、と思ったのと同時に気付いた。

 

…まさか、さっきのあたしの呟き、気にしてる?

考えようによっては謙也さんのこの格好は、まあつまり、―――あたしを抱き締めようとしているようにも、見える。

表情と言葉がないせいで気付くのが遅くなったけれど、まさかそういうこと?

気付いて、呆気に取られて。

それから、胸が暖かくなった気がした。

「…ふふ」

「…なんやねん」

「いーえ」

なんだかおかしくなってしまって、あたしは笑う。

それから、一歩、二歩と足を前に動かして。

 

「あったかい」

「…せやな」

 

そっと謙也さんの胸に、頬を寄せる。

すぐに背中に腕が回ってきて、恐々と、けれどしっかりと抱き締められた。

初めての距離感にドキドキして仕方ない。

あたしの心臓も大変なことになってるけど、謙也さんの心臓もものすごく早く脈打っている。さすがこんなところまでスピードスター。

緊張しているのはあたしだけじゃないことが嬉しくて、小さく笑う。

 

それから少し迷って、あたしも謙也さんの背中に手をまわしてみた。

すると謙也さんは一度大袈裟なくらいに身体をビクつかせて、それから、あたしを抱き締める力をさらに強めた。

正直痛いくらいだったけど、そんなことは些細なことだった。

「…あったかいな」

そう、暖かい。

 

心が、じんわりと、幸せな温もりでいっぱいになった。

 

 

 

 

 

*****

 

こうして少しずつ、触れていく



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誕生日について

21

 

 

 

「6月でした」

 

何気ない日常。

お弁当をつつきながら、そういえば、と明日の天気の話でもするかのように投げかけられた問いに、こちらもあっさりと答えたら。

 

「え?」

「えっ」

「なんで?」

「な、なんでと云われましても…」

 

まさかの疑問に動揺を隠せない。

え、何どういう意味。

なんでって、そりゃああたしも一応人間なのでとしか答えられないじゃないですか。

まるで世界に絶望したように謙也さんが頭を抱えてしまったのを見て、何故か理不尽な罪悪感が募る。

あ、あたし悪くないはずなのに…。

 

 

+++

 

 

「小毬の誕生日はいつなん?」

 

今度金色先輩の誕生日で、みんなでどっきりパーティーを計画中なのだと笑って話していた謙也さんが、ふと気付いたように口にした本日の話題。

いいなあ顔面ケーキ、あたしもやってみたい。誰にとは云わないけどやってみたい。誰とは云わないけど景吾さんに日頃のストレスを発散するかの如く全力投球したい。あ、云っちゃった。

実は去年の景吾さんの誕生日の時に計画は立ててたんだけど、土壇場でバレてケーキを没収されてしまい、計画は水の泡になってしまった。本当にあの人空気読めないよね。みんなでお祝いしてやろーって、少しでも楽しい誕生日にしてあげようと思って計画してたのにさ。いやまぁ、誰が楽しいって、顔面にケーキを投げつける役のあたしが一番楽しいんですけどね。

ああ、懐かしい。あれからもう一年近く経つのか。

 

そんなノスタルジックな気分になりながら何気なく返した言葉には、冒頭の絶望が返ってきたわけで。

「あの、謙也さん?」

「なんでや…」

「えー…」

ほら、あたしも一応人の子だからさ、誕生日というものがね、存在するんですよ。ビックバンから発生した未知の物体じゃないからさ、病院とか戸籍とかに記載されるような正式な生誕日がね、あるんですよ。

だから、なんでそんな日に生まれたん? みたいな顔されてもめっちゃ困るっていうか。

「なんで教えてくれへんかったん…?」

あ、そっちですか。

びっくりした、なんで生まれてきたのかとかそういう哲学とか親に云ってくれとかいう系統の話になっちゃうのかと思ったけど、杞憂だったみたいです。

でも別に隠してたわけじゃないんですよ。

「だって、自分から今度誕生日なんです、でも日曜日なんです、なんて云いにくいじゃないですか」

平日ならまだ軽口で、明日誕生日なんだー祝ってーとか笑って話せるかもしれないけど、よりにもよって今年のあたしの誕生日は日曜日だった。部活にも所属していないあたしが日曜日に誰かに会うなんて、わざわざ予定を組まない限りありえないし、そもそも誕生日だから祝って、なんて云うのも気恥ずかしい。一応家では両親からお祝いしてもらったんだしもう十分かなっていう気もするし。

 

ちなみに去年の誕生日は景吾さんからはミヤマリンドウの鉢植えをもらった。

もしもあたしが景吾さんと特に関わりもなく過ごしていて、あの人の性格をよく理解していない状態であれば、もしかしたら、ラピュタが見つかるくらいの確率で恋に落ちてしまうかもしれないようなすっごい笑顔で渡された鉢植え。

確かにあたしは花が好きだ。生け花も好きだし、その辺の咲いてる野草だって好きだし、園芸部が手入れをしている花壇の花だって大好きだ。切り花、押し花、鉢植え、樹花、なんでも好きだ。

だから花をもらうこと自体は嬉しい。たとえその相手が景吾さんだったとしても、花には罪はないのだから。

でもね、あたしは知っていた。

ミヤマリンドウの花言葉は、『悲しんでいるときのあなたが好き』。

ご丁寧に開花した状態で渡してくれたその手間暇を他のところでかけてほしいと思ったあたしは間違っているでしょうか。

あんたは純粋にあたしを喜ばせることすらしないのか、とその後取っ組み合いの喧嘩になったことは出来ればいろんな人の記憶から消えてほしい思い出です。あいつ絶対わかっててやってた。

 

そのあとちょたには花の刺繍が入ったストールをもらったり、幼馴染トリオ先輩たちからアロマオイルの詰め合わせ、忍足先輩からはマリメッコのポーチ(実は今でも愛用中)、日吉と樺地からはレザーのブックカバーとブックマーカーのセット(これもずっと使ってる)、滝先輩からは高級チョコレートの詰め合わせをもらい、人生で一番充実した誕生日だった。

あー、こうして考えると去年は賑やかだったなぁ。

ちなみに氷帝のみんなは今年も律儀にメッセージカードやプレゼントを贈ってきてくれて感動した。

今年はみんなでひとつ、立派な花器を送ってくれたのだ。ちょっと値段を考えたくないレベルの代物だったけど、ありがたく頂くことにした。次の展示会にはこれを使わせてもらおうと思っている。

あと景吾さんからは別途で赤いコスモスの花束が送られてきた。手書きのメッセージカードにはひとこと、『せめて花だけでも』。

え、何? この人毎年誕生日には喧嘩売らないとハゲる呪いでもかけられてるの? 『調和』が必要なのは誰よりお前だろ!

 

思い出してイラっとして思わず手にしていたリンゴジュースのパックを握り潰してしまった。飲み終わっててよかった。

自分の気持ちを落ち着かせるように大きく深呼吸して黙ってしまった謙也さんを見ると、ぱちりと目が合った。

「俺は、祝いたかったんや」

拗ねるように唇を尖らせる謙也さんを冷たく突っぱねるなんて出来るはずもなく。

はて、どうしたものか。

ぽりぽりと頬を掻きつつ考え、ひとまず謝ってみることにした。

「えーっと…。ご、ごめんなさい?」

「疑問系かい!」

だって実はそんなに悪いと思ってないし。

さすがにそこまで云ったら申し訳ない気がして云わないけど、だって誕生日ってそこまで大事かなって疑問に思っちゃうのも本心でして。

 

というか、正直照れくさい。

人の誕生日を祝うのはやぶさかじゃないけど、自分が祝われるとなると、嬉しさよりも先に気恥ずかしさが勝ってしまってどうにも苦手だ。

だけど、様子を見るに謙也さんは人の誕生日は盛大に祝いたい人なようだ。

どうしたものか。

ふーむ、とお弁当を片付けながらこの先の展示会の予定などを考え、今月末までは一応時間に余裕があることを思い出す。

それから、しょんぼりと残りのお弁当をつつく謙也さんの袖を引っ張って。

「謙也さん、次の日曜日は時間あります?」

問いかければ、少し考えてから暇であるとのお言葉。

なら、とあたしはにっこりと笑顔になった。

「じゃあ、その日一日、あたしにくれませんか?」

「へ?」

虚を突かれたように目を瞬いて首を傾げる謙也さんに、さらに追い打ち。

 

「誕生日プレゼントとかはいらないから、一日傍にいてください」

 

これくらいはいいよね?

もう誕生日事態は過ぎちゃったんだし、今更何か盛大にしてほしいとか、プレゼントが欲しいなんて云わない。

だけど謙也さんが祝いたいって云ってくれるなら、少しだけいつも以上の我儘をきいてくれるなら、いつもだと難しいことを叶えたい。

これまでは謙也さんは部活で、これからは推薦対策で忙しくなってしまう。あたしだって秋は展示会やコンクールが増えるから、夏前よりもずっと忙しくなるだろう。料亭との契約も続行中だし、頼まれている仕事もそこそこあるし、むしろ秋以降はあたしのほうが忙しくなる可能性のほうが高い。

今しかないのだ。

 

一日、たった一日で良い。

謙也さんを独り占めしてみたい。

ただ、傍にいてほしい。

 

そんな意味を込めて謙也さんを見つめると、しばらくはぽかんとしたまま無反応で。まさかこのまま寝たのかと思って目の前で手をひらひらと振ってみると、ハッと覚醒した。

それから挙動不審全開に視線をあっちこっちやって数秒、ポッと頬を染めて云った。

「…えーっと、ほんなら、俺がプレゼントっちゅー話で…?」

「ぶっ」

「わ、笑いなや!?」

「だ、だって、そういうのって普通、女の子がいうものじゃ…」

「…えっ」

途端、茹蛸のように顔を真っ赤にする謙也さん。

ちょ、ちょっと待って、今の別にそういう意味で云ったわけじゃないんですけど。

つられてこっちまで赤くなってしまい、どうしたもんかこの空気、と視線をさまよわせていると、ごほん、と謙也さんは咳払いをした。

 

「ち、ちなみに俺の誕生日、3月17日なんで」

 

いや、だから。

そういう意味じゃないん、です、が。

 

「…検討しておきます」

 

なんて答えちゃうあたしもたいがい馬鹿ですね!

ああもう、これめちゃめちゃ恥ずかしい!

 

 

 

 

*****

 

細かい設定はしてませんが、ヒロインの誕生日はなんとなく6月末くらいがイメージ



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遠雷

22

 

 

 

お化けなんて信じていないし、怖くない。心霊番組を観ていてもつまらなくて、どれもこれも作り物に見えてしまって逆に白けてしまう。

虫系は別に好きじゃないけど毛嫌いするほどじゃないから、別に素手じゃなければ対処できる程度。ちなみに景吾さんは頭にGがつく台所の天敵が大嫌いらしい。心底どうでもいいけど。

暗闇、狭いところ、これも平気…というか写真現像するときに暗室籠ってるんだから嫌いだったら話にならないっていうの。

そんなわけで、目下あたしには怖いものなんて何もない。

 

そう、―――アレ、以外には。

 

 

+++

 

 

今年の夏は雨が多い。

新学期が始まって一週間経つが、半分近くは雨だった。暑い癖に雨が降ると途端に涼しくなって、気を付けないとすぐに風邪をひいてしまいそうな嫌な天気だ。

謙也自身は風邪をひかずに済んでいるが、クラスメイトが2、3人ダウンしている。一応は受験生だし、他人事ではない。

今日も今日とて真っ暗な空からはとめどない雫が落ちている。

身体より先に気が滅入りそうだ、と息を吐き出すと、昇降口に見知った後姿を見つけた。

「おー、小毬、今帰りか?」

「あれ、謙也さんもですか?」

「おん、そう。図書室行こ思ってんけど、また雨降りそうやからさっさと帰るわ」

同じく雨にうんざりしていたのだろうか、空を仰いで立ち尽くしていた小毬の隣に並ぶと、待っていたように歩き出す。自然と一緒に帰れるこの関係がくすぐったくて、謙也はこっそりと微笑んだ。

 

他愛ない話をしながら、もうすぐ小毬の家につく、という頃合いだった。

学校を出た時よりも明らかに雨脚は強まっており、心なし雲の黒さも深まっている。

「こら雷でも来そうやなぁ」

雷は嫌いじゃないが好きでもないし、停電したりすると面倒だ。

念の為懐中電灯は準備したほうがいいだろうか、と考えながら呟いたのだが、隣にいる小毬からの反応がない。雨の音は強いが、謙也の声をかき消すほどのものではないはずだ。

「…小毬?」

「………いえ」

ちらりと小毬を見下ろせば、少し俯いた彼女の顔色は少し悪い。

どうしたのかと尋ねてももう反応はないが、足が止まることはない。まるで一刻も早く家に入りたいという態度に、ますます謙也は首を傾げた。

まぁ、観たいテレビでもあるんだろう。

そんな暢気なこと考えているうちに小毬の家に到着した。

まさにその瞬間だった。

 

――――ゴロゴロゴロ…

 

「うわ、ほんまに雷きよったで」

「…………」

「ほんなら、俺も早いとこ帰るし。また来週な」

「……………」

「……小毬?」

手を振って辞去しようとした謙也の行動は、しかし実際行動に移すことは出来なかった。

何故なら、小毬が両手で謙也の制服をがっしり掴んでいたからだ。

「…えーと、小毬さん? 服掴まれとると、帰れへんねんけど…」

俯いたままの小毬は何も云わないが、手を放すこともしない。

どうしたものかと考えていると、遠くでひとつ雷が鳴った。光と音の差から、まだまだ遠いところでなっているのだとぼんやり思う。

しかし謙也はここでやっと気付いた。

ついさっき光った瞬間と、割れるような雷の音がなった瞬間―――小毬が服を引く力が強くなったことを。

「…もしかして小毬、雷あかんの?」

問いにも反応がない。

無視というわけでなく、反応する余裕がないといったところだろうか。

ぎゅうぎゅうと指が白くなるほどきつく謙也の服を握り締める小毬を見ながら、謙也は頬を掻いた。

 

どうしよう。

まだまだ雨が止む様子はなく、雷は少しずつこちらに近付いてきている。

早く帰らなければもっと雨は強くなってしまうだろう。

ここから自宅まではそう遠くないが、途中に橋がある。最悪、川が氾濫すれば帰宅は不可能だ。遠回りすれば帰れないことはないが、この雨の中の遠回りは遠慮したい。

それに、この状況で小毬をひとり置いていくのも嫌だった。

小毬の両親は父親が製薬会社の研究員と母親が病院で医療事務職だとかで、あまり家にいないらしい。

ただでさえ研究室に泊りが多いというのに、わざわざこの天気の中帰宅するとも思えないし、母親のほうも今日は遅くなる予定らしく。

ということはこの広い家に小毬はひとりきりということで。

立ち尽くす小毬の肩は微かに震えていた。

遠くで鳴る雷の音にすら怯えているのに、もっと近付いてきたらどうなってしまうのだろうか。

こんなとき、どうするのが正解なのかわからない。

思わず天を仰いで、真っ黒な雲を睨み付ける。

何が正解なのかはわからなくとも、今小毬をひとり置いて帰るというのが不正解ということだけは確かだった。

 

「…いやぁ、雨に降られて寒なったなぁ! こりゃあったかい茶ぁでも飲まな風邪ひいてまうかもしれんなぁ!」

「お、お茶、飲んでってください!!」

 

些かわざとらしい謙也の言葉にも小毬はつっこまない。

むしろまるで天の助けを得たかのようにホッとした様子で、善は急げとばかりに謙也の腕を引っ張って家に招き入れた。

謙也、実は初めてのお宅訪問である。

 

 

+++

 

 

「すまんな、タオルまで」

「いえ、こちらこそすみません…」

家に入ってお茶を入れたりタオルを出したりとしているうちに、どうやら小毬は冷静さをと戻してきたらしい。並んでお茶を飲むころにはすっかり落ち着いて、半ば強引に謙也を引き留めてしまったことを後悔している。

雨が冷たくてしんどいと思っていたのは本当だし、それにあの状態の小毬を置いていくなんて謙也には出来なかったので別に気にしていないのだが、小毬はそうもいかない。

こんな天気なのに寄り道なんてさせてしまった。早く帰らなければもっとひどい天気になるかもしれないのに、自分の恐怖の為に引き留めてしまった。

基本的には真面目な小毬が反省するには十分すぎる失態だった。

しかも引き留める言葉が出てこなくて黙っていたら、さらに気を遣わせていつもなら絶対云わなさそうなことまで云わせてしまったのだ。

これで落ち込むなというほうが無理な注文である。

 

しかし隣の謙也をちらりと盗み見てみても、あまり気にした様子はない。

むしろ雨のせいで身体が冷えていたのは本当だったのか、暖かいお茶にホッとしている。

それが何故か面白くない。

「それにしても、意外やな」

「…何がですか」

暖かいお茶で一息ついてしみじみと呟けば、何故か小毬が少し拗ねていた。その様子が可愛くて、謙也は小さく笑う。

「小毬には怖いもんなんてあらへんと思っとった」

夏にオサムの思い付きで肝試し大会が開催され、小毬も無理矢理参加させられたことがあった。

大阪でも有名な心霊スポットである古寺にロウソクを取りに行って帰ってくるだけというシンプルなものだっが、あれは本気で怖かった。しかしビビッてなかなかスタートしないテニス部にしびれを切らした小毬は、颯爽とひとりでロウソクを取りに行き、しれっと戻って来たのだ。あまりの男らしさに金太郎が大はしゃぎだったあの日を謙也は忘れない。ちなみに問題の一番手が謙也だった。情けなくてちょっと泣きそうだった。

それから、以前テニス部の部室に頭にGがつく例のアレが発生したときも小毬はかっこよかった。タイミング悪くその日は千歳も金太郎も小石川もおらず、部室にいた面々はそろいもそろって怯えて使い物にならない。応援を呼びに行くにもやつがどこにいるのかわからないので迂闊な高度が出来ずに途方に暮れていたところに現れたのが小毬で、たまたま新聞部に頼まれてテニス部の写真を撮りに来たところだったらしい。部室を訪ねたらテニス部の非常に残念なシーンに直面してしまったのだが、事情を聴いてからの彼女の行動は早かった。放置されていたハエタタキを素早く装備し、ロッカーの後ろから這い出てきたヤツを一発で仕留めたのである。惚れるかと思ったがもう惚れていた。洗濯洗剤でとどめを刺してから部室ではなく昇降口にあるゴミ箱にまで捨てに行ってくれたあたりで白石がボソッと『絶頂…』と呟いていたのは聞き逃せなかった。でも気持ちはわかる。

 

「…どうせ、情けないです」

そんな小毬に怖いものがあるというのが不思議な感じだったのだ。決して馬鹿にしているわけではない。というか小毬が情けないならばお化けもGも怖い自分たちはどうなる。

完全に拗ねたように三角座りで縮こまる小毬はあまりにかわいくて、ついつい笑みが零れてしまう。

「なんで? 情けないなんて俺思ってへんで」

「でも謙也さん笑ってる」

「ああ、ちゃうねん。これは嬉しくてやな」

何が、と首を傾げて問う小毬に、謙也は告げる。

「小毬が俺を頼ってくれて嬉しいんや」

基本的に小毬は強い。

何でも自分で出来るし、失敗だって少ない。一部では密かに『女版聖書』なんて呼ぶ輩がいるくらいだ。

それに花でも写真でも実力があって世間から認められている。

そんな強い小毬が、たまたまとはいえ自分を頼ってくれたことが謙也は嬉しかった。一緒に帰ったのが他の誰かだったりしたら、もしかしたらその誰かに頼ったかもしれないという可能性はこの際忘れることにして。

小毬に頼られる、という事実は、謙也にとって純粋に嬉しいことなのだ。

 

どうして謙也が喜んでいるのかは小毬にはわからないが、けれど謙也が嬉しいのは自分も嬉しい。

改めてお礼を云おうと口を開きかけた小毬は、しかし。

 

ゴロゴロゴロ…ビシャ――ン!!

 

「ッひゃあああああああ!!!」

 

手にしていたマグカップをテーブルに置くなんて余裕は小毬にはなかった。

思わず床に放り投げて、咄嗟に耳を塞ぐ。

 

「や、やだもう、なんで」

 

怖い。

嫌だ。

理屈ではなく、小毬にはあの雷の音が恐ろしくてたまらない。

耳を劈くような破裂音と、地を這うような地鳴り。

どれもこれもが生理的に受け付けない。

 

今この場に謙也がいることも忘れて、小毬は恐怖を打ち消すために耳を塞いで縮こまる。

それでも身体の震えは止まってくれなかった。

「小毬、落ち着け」

「だってこんなの、やだ、落ちたらどうしよう、あたし、やだ」

「小毬!」

取り乱して半泣きになってしまった小毬の名前を強く呼び、謙也は力任せに引き寄せる。

「大丈夫やから」

嫌だと暴れる小毬をあやすように抱き締めて、ゆっくりと云い聞かせる。

ゆっくりが苦手な謙也にしては最大努力で、辛抱強く。

 

「俺がおるから」

 

だから大丈夫だと。

なんの根拠も理由にもならない言葉を繰り返す。

謙也の腕の中で、小毬は最初はただ震えるばかりだった。

きっと謙也の言葉も聞こえてはいなかっただろう。

けれど、抱き締めて声をかけるうちに、身体の緊張が徐々にほぐれていったのがわかる。

力が入りっぱなしだった肩がゆっくりと降りて、呼吸も整ってきたように思う。

もう一息。

 

安心させるように背中をポンポンと撫でれば、腕の中で俯く小毬がぐずぐずと鼻を鳴らした。落ち着いたら一気に涙が出てきたらしい。

どうにか手に届く範囲にあった箱ティッシュを手繰り寄せ、小毬に差し出す。何枚か取ってしばらくは顔に押し当てていたのだが、漸く涙が収まったのか腕の中でごそごそと動き始めた。離せと怒られてしまうだろうか、とちょっと不安だったのだが、それは杞憂に終わった。

顔をすっきりさせた小毬は、体勢を整えて改めて謙也に抱き着いてきた。

丁度謙也の膝の上で横抱きにして、小毬が斜めの体勢で謙也の背中に腕を回している格好になる。

そうすると謙也的にいろいろマズイのだが、そんなことは小毬には関係ないしわかっていない。当たっている。意外とある。

小毬が落ち着いたところでもたげそうになる本能と煩悩を冷却ワードで押さえつけつつ、何とか自分の意識を他に向けるべく謙也はふと疑問に思ったことを口にした。

「…今まではどないしとったん?」

この夏の間に雷があった日は一日や二日ではない。

「…押入れに入って、布団被って…」

「ひとりで?」

「だって、ずっとひとりだったし」

それはあまりに孤独ではないだろうか。

たったひとり、この広い家の中で、狭い押し入れの中で、いつ止むかもわからない雷が収まるのを待つというのは、そんな小毬を想像するだけでゾッとする。

 

抱き締める力を少しだけ強くして、謙也は囁く。

「今度からは俺呼んでな」

「…いいんですか?」

「ええよ。むしろ呼ばれなくても雷の日は来たるわ」

いつでも、というわけにはいかなくとも、時間が作れる日はなるべくそうしようと謙也は決めた。

小毬が怖い思いをするのは嫌だ。

震える小毬を抱きしめて、強くそう思った。

笑われるだろうか。

不安になって、少しだけ身体を離して腕の中の小毬を見た。

そうして。

 

「嬉しい」

 

云って、少しだけ目じりに涙を残した小毬が微笑む。

 

胸が震えた。

たまらなく好きだと、愛おしいと、瞬間的に感じた。

 

―――気付けば謙也は、小毬の唇を自分のそれで塞いでいた。

 

 

+++

 

 

雨の音が酷くうるさいのに、それ以上に自分の鼓動のほうがうるさくて仕方ない。

もしかしたら心臓が口から飛び出すんじゃないかというほどの動悸が止まらず、小毬はただただ戸惑うばかりだ。

顔も尋常じゃないくらい熱い。否、顔だけじゃない、全身が沸騰したみたいに熱くてたまらない。

謙也の顔がすぐ近くにあって、ああ、やっぱりこの人は格好いいんだな、とぼんやり思う。

 

「けんやさん」

 

唇が離れた隙に名前を呼ぶ。

その声は自分でもびっくりするほど震えていて、まるで自分の声じゃないみたいだと思った。

何を云えばいいのかわからないが、何か云わなくては、と口を開こうとした小毬は、しかし言葉を紡ぐことは出来なかった。

「、んッ!」

噛みつくように口づけられて、言葉を飲み込むしか出来なかったのだ。そもそも何を云おうとしていたのかすら自分でも謎だが。

「小毬」

名前を呼ばれて薄く目を開ければ、やはりすぐ近くにある謙也の顔には余裕がなかった。だけど小毬にだって余裕はない。

上がっていく息が苦しくて、縋るように謙也のシャツをきつく握り締めた。

「小毬」

繰り返す、名前。

譫言のように呟いて、その度にキスを落とす。

 

三度名前を呼ばれたときに、小毬はゆっくりと謙也の頬に手を伸ばした。

「謙也さん」

息が弾む。

息までも灼熱になったように錯覚する。

びっくりしたしまだドキドキしているし混乱もしているけれど、だけどこれは伝えなければならないと思った。

 

「ありがとう」

 

この感謝の言葉が一体どこに向かったものなのか、小毬自身にもわからない。

ただ、お礼を云いたかった。

 

嬉しかったから。

幸せだから。

傍にいてくれるから。

 

遠くで、雷が落ちるような音がした。

だけど不思議と怖くない。

いつもなら布団にくるまって耳を塞いで、それでも怖くて震えているのに。

多分ここにはひとりじゃないから。

「小毬」

もう一度名前を呼ばれて、顔を上げる。

謙也の顔がすぐ傍にあって、どうせならこのまま溶け合ってひとつになれたいいのに、と思考の外でぼんやりと考えた。

自然と目を閉じて、それから再び唇に訪れる温もり。

 

胸の奥から溢れ出るこの暖かさは一体何だろう。

嬉しくて幸せで、まるで天国にでもいるみたいだと思った。

 

だけど同時に、胸が張り裂けそうに痛んだ。

 

幸せなのに、どうしてこんなに辛いのだろう。

あなたがこんなに傍にいてくれるのに、どうして。

 

 

 

 

 

*****

 

手をつないで、抱き締めて、キスをして。

だけどあたしたちには何もない。



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だって君が微笑うから

23

 

 

 

風にさえも、背中を押される。

 

 

+++

 

 

その日は、まるで台風のように風の強い日だった。

おかげで久しぶりに参加するはずだった部活が中止になってしまい、謙也はぶすくれていた。推薦対策に追われて数週間、今日は本当に久々のテニスになるはずだったのだ。

室内コートなんてないし、体育館は他の部活が使用していて筋トレすらも出来ない。

仕方がないので軽いミーティングだけで部活終了、そして解散。

学校に残っていては教師に捕まってまた推薦対策になるので、謙也たち元テニス部と財前たち現テニス部は仲良く帰路についていた。

その帰り道、風のせいで随分とゆっくりとした足取りになりつつ、テニスができないとなると頭にあるのはやはり推薦についてだった。

小論文はなんとかなる。謙也にとっての問題は目下面接だ。

「白石はええなー、面接なんか余裕やろ」

「んなことないで。まずいこと云わんように気をつけなあかんし」

「なんやねんまずいことって。面接中いきなり『絶頂!』とか叫ばな大丈夫やって」

「そりゃまずいことやなくてヤバいことやな…」

自覚はあるのか。

思わず真顔になってしまった謙也は、しかし友情を守るために口にはしなかった。口と脳が直結している謙也にしては最大限の努力だっただろう。

 

そんな思いは億尾にも出さずだらだらと会話を続け、もうすぐ大通りの交差点に差し掛かる、というあたりで、少し前を歩いていた金色と一氏が振り返った。何やらにやにやと笑っているのが嫌な予感がする。そして。

「謙也ー、嫁が前歩いとるでー」

「よよよ嫁ちゃうわ!!」

案の定だ。

しかし真っ赤になって反論したところで説得力はないし、むしろ情けない。

そしてそんな謙也に、同じくニコニコと微笑む金色は追い打ちをかけた。

「じゃあ何~?」

「………こ、後輩…?」

迷いながら呟かれた、そんな謙也の発言に。

「アホ」

とすぐ隣の白石。

「ボケ」

と絶対零度の視線になった金色。

「カス」

と蔑みきった目の一氏。

「今のは謙也が悪かねー」

「千歳まで!?」

「すまん謙也、フォローできん」

「健さん!?」

助けを求めて石田を見れば、そっと目を閉じて首を振られた。横にである。

容赦なく味方がいない。

生まれてこの方こんなアウェーに立たされたことがなかったため心細さで震えていると、ポン、と肩に手が乗った。

振り返ればそこにいたのは、これまでノーコメントで携帯をいじりながら歩いていたはずの財前で。

相変わらず携帯は手に持ったままだが、財前の視線は画面から謙也に移っていた。

「謙也さん……」

「財前…!」

もしやいつもは塩対応と呼ぶには些かしょっぱすぎる対応しかしてくれない、先輩なのに尊敬してもらえてるとは思えない態度しか取らないこの小憎たらしい後輩が、こんな場面で味方になってくれるのか―――謙也がそんな甘いことを考えた瞬間が一瞬でもあった。

 

「さすがにそれはないッスわ」

「真顔やめてもらえます!?」

 

そんなわけがなかった。

むしろ一番最後に一番冷静にそんなことを云われるほうがショックが大きい。

もうこうなってはこの話題に微塵も興味なさそうな遠山だけが謙也の支えだった。しかし興味なさすぎて遠山は謙也が傷心であることにも気付いていない。いろんな意味で傷付いた謙也であったが、誰もフォローしてくれない。

 

すん、と鼻を鳴らしながら気を取り直して改めて前を向き直る。

謙也たちの前を進む、小毬の後姿はそういえば久しぶりに見る気がする、と謙也はふと気付いた。

最近では隣を歩くことが多くて、小毬を追いかけるということは少なくなって久しい。思えば最初は追いかけてばかりだった気がするが、今となってはそれもいい思い出だ。

そう気付いて少しばかり優越感を抱く。特に誰にでもないけれど。

ただ、小毬が謙也に気付けば声をかけてくるし、逆もしかり。

顔を合わせたら一緒に帰るのが、隣を歩くのが当たり前になったのはいつの頃だったからだろう。

 

小毬、と。

名前を呼ぶことに違和感がなくなったのは、いつだったのか。

 

ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていたら、お笑いコンビがまた謙也を振り返っている。

今度は隠そうともせず嫌そうな顔をしてやったのに、まったく気にした様子もなく、臆面なくふたりはビッと小毬の背中を指して笑顔で。

呼べ。

嫌だ。

いいから呼べ。

嫌だ。

そんな何の足しにもならない不毛な会話を続けてしばし、みんな――というか主にお笑いコンビ――にせっつかれて、謙也は不承不承ながらも少し遠くを歩く小毬に向かって声をかけた。別に珍しく金色に凄まれて怖かったからではないと断っておく。

「こ、小毬ー」

心持ち大きめの声で、前を歩く小毬を呼ぶ。

が、彼女が振り返る様子はなかった。

歩くスピードもそのままに、サクサクと歩いて行ってしまう。

「………」

「…聞こえてへんのかしら?」

「まぁ今日は風強いし、そうかもしれんな」

「もう一回呼んでみたらよかね」

軽く首を傾げたお笑いコンビの言葉を引き継いでいつも通りのマイペースな口調で千歳が云い、ハッとして頷く。

一瞬ショックすぎて心臓が止まるかと思った。

が、気を取り直してもう一度。

「小毬!」

今度は先ほどよりも声を張って名前を呼んでみる。

けれどそれでも小毬が振り返る様子も立ち止まる様子も見られない。

 

なんだか、胸がざわついた。

 

そうこうしているうちにも小毬と謙也たちは縦並びのまま進んでいき、大通りの交差点まで来てしまった。

小毬が一足先に横断歩道を渡り切ったところで歩道の信号は赤くなり、仕方なく謙也たちは立ち止まるしかない。

これは予想外の展開だったのか、謙也よりも戸惑ったように小石川が首を傾げる。

「謙也、津々井になんかしたんか?」

「小毬、怒るとめっちゃ怖いもんなぁ。わい、白石の毒手の次に小毬のアイアンクロー怖い!」

「金太郎はん、それは多分誰も怖いで」

遠山と石田の呑気なやり取りも今や謙也の耳には入らない。

 

謙也には小毬を怒らせた覚えはない。

それどころか、ここ数日はまともに会話した覚えもない。それが原因だと云われたらお終いだが、しかしそんなことで機嫌を悪くするような子でもないことを謙也は知っている。

この時期はお互いに忙しいのは前もって確認していたし、なんなら先週末に展示会があった小毬のほうが謙也よりも忙しかった。

 

赤くなった横断歩道の信号機。

目の前を車が横切っていく中、それを越えた先に見えたのはふと視線を動かした小毬の横顔だった。

小毬の横顔なんて、これまで何度も見てきた。

 

けれど今の顔は知らない。

誰も知らなかった。

 

―――どこを見ているのかわからない、焦点を失ったような空虚な眼差し。

 

いつもの溌溂とした優しい視線はそこになく、大阪にやってきた頃のような暗く冷めたものでもなく。

自分が見られているわけではないのに、何故か胸の奥がかき回されるような不安を抱かずにはいられない、そんな視線で。

謙也だけではなく、誰もが息を呑んだ。

怒っているようりも、泣いているよりも、無感情な表情のほうがかける声に窮することを思い知った気分だった。

 

「―――」

 

風が止んだ。

あれだけ強く吹きすさんでいたはずの風が、何故かこの瞬間、ピタリと止んだのだ。

そうして、まさにこの瞬間。

誰かが声を出したわけではないのに、ゆっくりと、小毬が謙也たちを振り返った。

 

「―――…」

 

遠目からでもはっきりとわかる小毬のガラス玉のように大きな目が何度か瞬きを繰り返し、それから―――

 

―――まるで花が咲くように、柔らかく微笑んだ。

 

未だ車の横切る道路の反対側で、小毬は笑顔のまま小さく手を振る。

「…小毬」

何か云っているようだが、再び吹き始めた強い風と横切って行く車のせいで小毬の声が聞こえない。

こちらに声が届いていないことに途中で気付いたらしく一生懸命声を張っているが、車と風が小毬の声を容赦なく邪魔してしまうようだ。

 

耐え切れなくて、謙也はその場にしゃがみ込んだ。

「…俺、小毬が好きや」

そして呟く。

 

誰にともなく。

伝えるべき相手のいないまま。

 

幸い、謙也の呟きはひとりにしか聞こえていなかったらしい。

「…それ、俺らに云うてもしゃーないで」

呆れたように嘆息して云う白石の言葉に、しゃがみ込んで頭をもたげたまま頷いた。

「わかってる」

わかっているけれど、今口にしたかった。

そうでないと、胸に溢れたこの気持ちをどうしたらいいかわからなかったから。

 

「謙也さん、大丈夫!?」

 

小毬の声がした。それも、かなり近くで。

だけど彼女は横断歩道の向こう側にいたはずなのに。

そんなことを考えつつのろのろと謙也が顔を上げると、反対側にいると思っていた小毬が目の前にいる。そればかりか、しゃがむ謙也を心配そうに覗き込んでいた。

「…なんで」

「え、だって謙也さんが急にしゃがみ込むから! 具合でも悪くなったのかと思ったんですけど…なんでもないんですか?」

最後の言葉は隣にいた白石にかけていた。

まぁ、こんな歩道のど真ん中でしゃがみ込む男子中学生がいたら、頭がおかしいのでなければ具合が悪くなったのかと思うのは普通の反応だ。それがわかるから白石も苦笑するしかなかったのだが、生憎事実は違う。

どう説明したものかと考えているうちに、ずずいと前に出てきたのはいつも通りというか案の定というか、お笑いコンビだった。

「重病や、重病」

「そうそう、あたしらじゃどーしようもないやつねぇ」

「そんなわけで、津々井」

にっこりと、にんまりと笑顔になって、息を合わせたように金色と一氏はポン、と片手ずつ小毬の肩を叩いて。

なんとなくこのふたりが何をしたいのか察した他のメンバーは、特に止めることもなく、口を挟むこともなくただ黙って成り行きを見守っていた。

 

「謙也をよろしく!」

 

そしてぴったりと声を揃えて。

しかも、状況を理解しているのかしていないのかわからない遠山までもが一緒になって、謙也と小毬を置いて先に行ってしまった。

去り際、金色はバッチリウィンクし、一氏はキリッとした顔でサムズアップ。千歳と小石川は小さく手を振り、石田はいつものようにゆったりとお辞儀をして、財前は口元だけニヤリと笑って無言で行ってしまった。

そして最後に白石が困ったように笑って、しかし小毬にだけ聞こえるように『よろしゅうな』と囁いてみんなに合流していった。ちなみに遠山はとっくに横断歩道の向こうに消えていた。

 

「…な、なんなの…?」

どういうことなのかさっぱりわかっていない小毬の頭の周りにはクエスチョンマークが飛び交っており、一方謙也は状況はわかってはいるけれどいろいろ整理できずにしゃがみ込んだまま置いてきぼりを食らっていた。

先に回復したのはやはり小毬で、まだしゃがみ込んで動かない謙也に心配そうに声をかけた。

「謙也さん、本当に大丈夫ですか?」

「…おん」

謙也の力ない返事に首を傾げつつ、しかし大丈夫と云うのだから大丈夫なのだろう。小毬の目から見ても、顔色が悪いわけではなさそうだ。

声をかけても少しぼーっとしているのが気になるところだが、いつまでもここにいるわけにもいかない。他のテニス部の面々は本当に謙也を小毬に任せるつもりらしく、立ち止まる気配なく…どころか小走りで消えていった。何がしたいのかいまいちわからない。

とにかくここは交差点だし、謙也の家も小毬の家もここからそう遠くない。

もし本当に体調が悪いならより近い小毬の家で休んでいけばいいのだし、ならばさっさと行動するのが小毬という人間の性格だった。

肩からずりさがってしまっていた鞄を背負い直して。

 

「じゃ、帰ろ!」

 

差し出される手。

あまりに自然に、当然のように。

 

その手を取ってもいいのだろうか。

この手を取る資格が自分にあるのだろうか。

 

小毬を好きだという気持ちは確かなのに、きっとずっと前から持っていたのに、どうしてか伝えられずにずるずる来てしまった。

待っていてくれとだけ伝えたあの日、小毬は待つと云ってくれたのに。

いつまで経っても小毬の隣に並べる男になったと思えず、けれど手放しにしてしまうことも出来ず、自分はもしかしたら一番酷いことをしているのではないかと今更ながらに思った。

 

―――それでも。

 

手を伸ばす。

その優しい手に触れて、抱き寄せた。

 

突然のことに小毬は反応できずあっさりと謙也の腕に収まり、驚いたように少し身動ぎして、それから照れたように少し俯いておとなしくなった。

風が強い日でよかった。

こんな日は物好きでもなければあまり歩行者がいないし、今丁度車は全くいない。

 

ずるくてもいい。

きっと自分は、伸ばされたらこの手を何度だって取ってしまう。

 

だって、この手が伸ばされる喜びをもう知ってしまったから。

 

 

 

 

 

*****

 

十分すぎるほど自覚してる



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いつも心にある人

24

 

 

 

「………」

「…………」

「………」

「……あ、あの…?」

現在昼休み、教室。

仲の良い3人の友人たちとお弁当を食べ終わって、みんなでのんびり話しながらお茶を飲んでいると、これでもかというほど視線を感じた。

彼女らは四天宝寺に馴染む努力を初めて一番最初にクラスで仲良くなった子たちで、彼女は良くも悪くも『THE!大阪人!』だ。人との距離がやたら近くてぐいぐいくるし、とても親切で親身になってくれる優しい子。逆に云うと遠慮なく距離を詰めてくるのでそういうのが苦手な人にとっては天敵になりかねないような子だけど、最初はともかく今となってはあたしはこの子のそういうところに随分と救われたのだと思うから、嫌いじゃない。

 

その友人らのひとりが、両手で頬杖をついてまじまじとあたしの顔を見ているのだ。しかも、真正面から。

気にならないわけがない。

さすがにノーコメントではいられない。

しかしその視線に邪気がないのでどうしたものかと考えていると、身体を起こした彼女は感心したように大きく頷いた。え、何に納得したの。

「津々井ちゃんって、めっちゃ肌綺麗やね!」

ついでに云うと彼女は声が大きい。

彼女の声は周囲の友人たちにも聞こえていたらしく、そこかしこから同意の声が上がって非常に居心地が悪い。というか純粋に照れます。

「あ、ありがと」

いや、褒めていただけるのは嬉しいんですけどね。

氷帝時代、さんざっぱら景吾さんに『ブス』だの『不細工』だの『メスゴリラ』だの云われ続けていたあたしとしては嬉しいより先に照れるというか勘繰ってしまう。嫌な人間になったものです。誰のせいとは云わないけど。別に景吾さんのせいとか云わないけど!

「何かしとるん?」

「今は特にはしてないよ」

「今は?」

「うん、前はちょっとモデルみたいなことしてたから」

「え、何それ!」

驚かれてしまって、逆にあたしもびっくりした。

 

そういえば、氷帝では周知の事実だったしもう当たり前になっていたから口にすることなんてなかったんだ。

そうか、普通はモデルやってるって云ったらびっくりするか。といっても普通のファッションモデルなんかとはちょっと違うんだけど、大まかに云えばあれもモデルだ。あえていうなら、イメージモデルってやつ?

「えーと、前の学校の知り合いに頼まれてね。あとはその人のパーティーのパートナーとか無理矢理やらされてたから、一応気を遣ってたの」

氷帝はただでさえ子息令嬢が多かったうえに、一番濃い付き合いをしてたのはあの跡部財閥の御曹司だ。

もう金持ちと呼ぶのも馬鹿々々しいレベルの大金持ちだったのである。

家の関係で年数回開催されるというパーティーに、何故かあたしが景吾さんのパートナーとして最初に参加する羽目になったのは確か去年の6月。

予定を開けておけと指示されたから、てっきりまたテニス部で何かするのかと思ったら、家に迎えに来たのは跡部家のリムジン。黒塗り。ピカピカ。リンカーン。目を疑った。

とてもじゃないが一般家庭に迎えに来るような車じゃないのに、ドアを開けて出てきたのが景吾さんだったから気を失いそうになった。現実が辛い。

呆然としているあたしの意識を置いてきぼりに、景吾さんはあたしをリムジンに蹴り入れた。痛かった。女の子に対する扱いじゃないと抗議したら、お前みたいな女はメスゴリラの扱いで十分だと云われたことは一生忘れない。というかあたしがゴリラだったら絶対持てる力を振り絞って抵抗して逃げる。ゴリラって強いんだぞ! でもあたしは生身の人間なのです。泣いてません。

そして何の説明もされないまま跡部邸に到着し、あれよあれよという間にお手伝いさんたち総出で身包みをはがされドレスアップされメイクアップされ、これまた着飾った景吾さんの目の前に放り出されたあの瞬間の恐怖はきっと一生忘れない。多分、ドナドナされる牛の気持ちを誰よりもわかる人間はあたしだと思った。

 

なんでもその日は跡部財閥の式典だったそうで、主催者の息子である景吾さんも毎年参加が義務付けられていて、毎回適当な令嬢を選んでパートナーにしていたらしいのだ。

そこで今回白羽の矢が立ったのがあたしだったのだという。

いやあのあたし令嬢でも何でもないんですけど。一般会社員の娘なんですけど。

しかしそんな話を聞いてくれるはずもなく、あたしはパーティー中引きつりそうになる顔に鞭を打ちながら必死で笑顔を保ち続けていた。一瞬でも気を抜くと鬼の形相で睨まれるのだ。怖すぎた。

幸い偉い人と話すのは花や写真の関係で慣れていたので、一応大きな粗相はせずにパーティーはやり過ごせた。

何が一番怖かったって、パーティー中の景吾さんがめちゃくちゃ優しかったことだろう。

完璧なエスコート、レディーファースト。

あの人の性格を知らなければ恋に落ちていたであろう穏やかな笑顔が一番背筋が凍った。いやだって学校であんだけドタバタな殴り合いの喧嘩してる相手にそっと優しく微笑まれたら、恐怖以外の何物の感情も生まれないでしょ。でもあんな場面で景吾さんの怒りを買って放り出されたら心細さで死ぬ気がしたので、恐怖を押し殺してパートナーを演じたのである。褒めて。

パーティー後は疲れすぎててとてもじゃないが抗議する気になんてなれず、家に帰ってからは泥のように眠った。

 

翌日、疲れの抜けきらないまま這う這うの体で登校したら、景吾さんにパーティー中の駄目出しを食らった。それはもう流れるような罵倒の数々に、メンタル5であるはずのあたしもちょっと心が折れそうになったことは声高に主張したい。

が、何故かその後もパーティーがあるたびに呼び出されパートナーにされること数回。そのたびに駄目出しされ、悔しさのあまりあたしは社交界のマナー一般を身に着けてしまったのである。

おかげで今では景吾さん周辺の方々にはちょっとした評判になっているそうだ。あたしは一応極める女なのである。

ふふふ、もうパーティーなんか怖くないのだ。ばっちこい! ちなみに夏にもパーティー行ってきたよ! バッチリ好印象でした!

あれ、待って。

あたし流されすぎじゃない? 気付いてものすごいへこんだ。でも認めると今の自分全否定になってしまうので、気付かないふりをすることにする。

「…津々井ちゃんってわかりやすいけどわかりにくいわ」

「ほんま。何その謎設定」

「そうよ、4月からの付き合いで初めて知ったわ」

呆れ半分、面白半分。

ジト目で合計6つの目から注目されたあたしは居心地が悪い。いや、なんかそういうのわざわざ口にするのって自慢みたいで嫌じゃないですか。

一応弁解すると、それもそうね、と納得される。あ、すごくあっさりしてる。ありがたい。

しかし次に飛び出してきた言葉は万死に値する。

 

「ほんでその人と付き合っとったん?」

「ないよ。」

「…お、おん」

 

真顔になってしまって申し訳ないけどそれだけは絶対にないです。ありえません。

パーティーの間にもいろんな人から訊かれたし、気持ちはわかるけどあたしと景吾さんがそんな関係になるわけがない。想像しただけで鳥肌もんだ。多分景吾さんもそうだろう。最悪、そんな話題をあの人にしたら怒りのコブラツイストが繰り出される可能性すらある。とにかくありえない。

あー、想像しただけで疲れた。精神的に疲れた。これはもう癒されるしかない。今日は巴先輩に電話しよう…。

なんて今日の予定を考えていたら、目をキラキラさせた友人がずいっと身を乗り出した。

「モデルやっとったときは? 誰かええ人おらんかったん?」

「モデルって云っても特定のブランドだけだったし、基本的にはひとりでの仕事しか受けなかったから、出会いなんかないよぉ」

そもそも今考えてみたらあれはモデルと呼べるのかも微妙だ。

跡部財閥が経営している服飾ブランドで、極稀にモデルの都合がつかなかったときに声をかけられる程度。それだって条件付きでOKしているくらいだし。

雑誌の撮影なんて云われて当然完全拒否したんだけど、力ずくで――念の為にいっておくと、ヘッドロックを決められていた――話だけでも聞けと強制され、渋々ながら説明を受けてみてちょっと気が変わった。決して屈服したわけではないことだけは明記しておく。

あたしは自分がカメラを持って被写体を撮るってことしか考えてなくて、それが当然だと思っていた。が、人を撮ることもあることを考えると、撮られる側の気持ちを知ることも必要だと気付いたのだ。あと担当のカメラマンを紹介してもらえる約束を取り付けた。技術目的です、はい。妻子持ち愛妻家40歳後半。父親より年上の大先輩に抱く感情としては尊敬が妥当だろう。

ともかく、そんなわけで現場での出会いは皆無です。

思い返せば大変だったけどなかなかに楽しかったように思う。

撮影の技術も随分教わったし、被写体の気持ちがわかるいい機会だった。…と美談で終わらせてもいいんだけど、ここでもまた景吾さんからの駄目出しに発狂しそうになったことは主張しておこう。

 

「そういえば津々井ちゃんってさ」

「うん?」

たくさん話して疲れたし、喉が渇いた。

冷えてしまったお茶の残りを飲もうと手を伸ばした時、あたしは完全に油断していたのである。

「忍足先輩と付き合っとるん?」

パッと一瞬頭に浮かんだ忍足先輩は、東の忍足先輩だった。

でもなんで忍足先輩?

いや忍足先輩も小学校まではこっちの学校だったんだし知ってる人がいてもおかしくないけど、今の流れでどうして忍足先輩が…と途中まで考えてハッとする。

忍足先輩違いだ、これ。

「あ、ああ、けっ謙也さんか!」

「他におらんやん」

「いやいや、前の学校にね…」

説明しようとして、あ、これややこしいなって途中で気付いたので適当に濁しておいた。もごもごしてたら友人たちは首を傾げてたけど、追及はしてこなかった。ありがたい。この細かいことは気にしない感じ、今はものすごく救われた。

ああ、そうそう、それで、謙也さんね。

「つ、付き合ってはない、よ…」

「でもむっちゃ仲ええやんか」

「よく一緒に帰っとるやろ」

「うちらと昼一緒せんときは忍足先輩が一緒なんやろ?」

「うー…」

バレテーラ。意外と見られてるものなんですね。

恥ずかしいやら何やらでもじもじしてしまう。いや、だって、改めて第三者からそういうの云われると、照れるっていうか。えへへ。いや別に嬉しいとかそういうわけじゃないんですけど。

緩まりそうになる頬を引っ張ってみたけど、それを見咎められて非常に不思議そうな顔をされた。あ、忘れてください。

 

「あ、わかった」

閃いた、とばかりに手を叩いた友人の顔は非常に輝いていた。が、申し訳ないがあたしには嫌な予感しかしない。

そしてその嫌な予感は当たるのだ。

「ほんなら白石先輩や!」

「なんで!?」

「ほな、ユウジ先輩?」

「もっとなんで!?」

「あ、大穴で財前か」

「絶対ないでしょ!」

「えー、じゃあ千歳先輩とか」

「会話どころか遭遇するのすらレアな人と…?」

「そういえば意外と小春先輩とも仲ええやんな?」

「仲はいいと思うけど、そもそもあの人って女が対象なのかな?」

「石田先輩と小石川先輩じゃあらへんやろ?」

「違うけど、なんでそのふたりだけ最初から除外なのか気になる…」

「あとはあれか、遠山くんなんかかわええよね」

「金ちゃんってそもそも人間に興味あるの?」

最後の疑問には3人とも考え込んでしまった。ああ、ごめん、哲学みたいな疑問投げかけてしまったよ。でも多分、今のところ金ちゃんはテニスとたこ焼きにしか興味ないよ。テニスしてない人間にはあんまり興味なさそうだよ。

 

3人が頭を悩ませている間に落ち着いたあたしは、やっとお茶を飲めた。ああ、ホッとする。なんかいろいろと疲れましたよ。

「っていうか待って、なんでそんな話になってるの…」

あたしが誰かと付き合っているかもしれない、と勘違いしたのは百歩譲ってわかった。わかんないけどわかったってことにしとこう。

が、その相手のラインナップが揃いもソロってテニス部っていうのが気になる。

「だって津々井ちゃん、テニス部の人たちと仲ええやろ?」

「ま、まぁ…」

「ほんで夏からこっち、津々井ちゃんめっちゃ可愛くなったやん」

もとから可愛いけど、と真顔で云われては照れるしかない。

ど、どうも。

と、あたしが勝手に照れている間にも会話は進んでいく。

「せやから、夏に誰かと付き合い始めたんちゃうかなーって」

「そうそう、報告してくれるかと思ったら全然そんな気配ないし、ほな訊いたろーってな」

「でも、ほんまに誰とも付き合うてへんの? 他校とかでも?」

「ないない、ほんとに誰とも付き合ってないよ」

年齢=彼氏いない歴を地で行く人生である。

そもそも花に写真に忙しくしている生活の中でまともな恋人を作る時間なんてないに等しい。

そして氷帝時代は、あたしも忙しかったけど仲の良かったテニス部も負けず劣らず忙しかった。

遊び人の典型みたいな見た目してる景吾さんですら、あれでかなりストイックな生活をしていた。以前に一度、一日のスケジュールを聞いたことがあるけど、あれをほぼ毎日こなしてる景吾さんは絶対変態だ。どMだ。気を遣って口にしなかったのにアイアンクローを見舞われた件に関しては許していない。

まぁとにかく、昔も今も彼氏なんかいないって話ですよ。

…とりあえず、今のところね。

 

なんだかむず痒い気がして微妙な顔をしていると、そんなあたしには気付かなかったらしい友人たちは何やら思案顔だ。

3人して腕を組んでまじまじとあたしの顔をみて、うーんと唸る。

「津々井ちゃん可愛いし性格いいから、選びたい放題やんな」

「や、やめて何その悪女的な扱い…!」

しかも選び放題って何さ。

そりゃ、景吾さんに認められたんだからどうしようもない不細工ではないとは思うけど、だからって超絶美形なわけでもない自覚はある。誰もが認める美形っていうのは、それこそ景吾さんとか白石先輩とか、あとは青学の不二さんとか、ああいう人たちのことをいうのだ。あたしは違う。

というか仮に選べたとしてもあたしの選択肢はひとつに決まっている。

…だいぶ前から。

何やらわいわいと3人で盛り上がっている中、小さく息をついて、心持ち声を潜めて。

「…あの、好きな人は、いるけど」

ぽつり、と呟くと。

何故か一瞬クラス中がしんと静まって、次の瞬間。

 

「えーっ!?」

「何、誰なん!?」

「今この瞬間失恋した男子手ぇ上げ!!」

「や、やめなさいよ!?」

 

そしてお前らノリいいな、クラスの男子全員が挙手したよ! やめて! ありがとね!!

今となってはこういうのも楽しいと思えるけど、いざ自分がその中心に立たされると非常に照れる。これは顔が赤くなっても仕方ないでしょ。

怒るに怒れずプルプルしていると、それを見ていた友人にタックルされた。痛い。でもジロ先輩のタックルに比べたら可愛いものだったのでたたらを踏みつつも何とか踏み止まる。ど、どうしたんですか。

「津々井ちゃん、可愛い!」

「ぎゃー!」

抱き着かれつつ、思いっきり髪を掻き回される。髪が! ぼさぼさに!

と、もうふたつの衝撃が追加され、見れば残りの友人ふたりで。

「誰かは付き合い始めたときの楽しみにしといたるわ!」

「あーん、ほんまこの子幸せにせなあかんなぁ!」

ジロ先輩タックルに慣れているあたしといえど、3人からのタックルはなかなかに厳しい。悲鳴を上げる足腰に鞭を打ち必死でこらえつつ、手荒くあたしの幸せを願ってくれている友人たちの存在がありがたいと思った。容赦なく抱きしめられてそろそろ限界ですが。

 

そういえば、四天宝寺中にやってきた当初は、クラスでこんなに笑う自分の予想なんてまったく出来なかったことをふと思い出す。

あの頃はクラスも嫌で学校自体が嫌で、何をするにも嫌々で毎日腐ってた。

そんなどうしようもなかったあたしを変えてくれたのが―――きっかけをくれたのが、謙也さんだったのだ。

一生忘れない、あの光の展望台。

 

小さいことに気を取られて、大きなものを見ようともしていなかったあたしに、世界があんなにきれいで広いことを教えてくれた人。

優しくて、暖かくて、太陽みたいな人。

 

いつでも伸ばしてくれる謙也さんの手が好きだ。

あたしに合わせて隣を歩いてくれる謙也さんの気遣いが好きだ。

当たり前のようにあたしの名前を呼んでくれる謙也さんの声が好きだ。

目が合うと嬉しそうに笑ってくれる謙也さんのその笑顔が好きだ。

 

あの人を好きになれた、自分のことを、今は少しだけ好きになれた。

 

この人があたしの好きな人ですって、いつか自信を持って紹介できたらいい。

3人の友人にもみくちゃにされながら、あたしは心からそう思った。

 

それが、11月最後の日の出来事。

 

 

 

 

 

*****

 

次で最後になります。



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オー・マイ・リトルガール【完】

最後はお題で締め。
怒涛の更新でしたが、お付き合いありがとうございました!
このふたりは、今後は思いついたらちょこちょこ短編書きたいと思います。割と気に入ったふたり。

【真冬の恋7題 】

冷たくて、暖かい
あの季節がやってくる

お題配布元「確かに恋だった」様
:http://have-a.chew.jp/


1.初雪が降るまでに

 

 

 

12月に入ると、一段と寒さが厳しくなってきた。

寒いのは苦手だ。

花を活ける手も悴むし、厚着をしたら動きにくいし。かといって暖房をかけすぎると乾燥して花が駄目になる上に喉を傷めるし、ああ、冬ほんと嫌。

おまけに大阪の冬は東京よりもずっと寒い。

東京のビル風も嫌だけど、この底冷えのする寒さもなかなかに堪える。

今朝の天気予報ではそろそろ初雪になるかもしれないなんて話していたのも余計に寒さを感じる原因になっているかもしれない。本当、勘弁してほしい。

 

とぼとぼとひとりきりの帰り道、吐き出す息の冷たさを感じつつ、謙也さんと焼き芋を食べながら帰った秋の日を思い出した。

少し前のことなのに、もうずいぶん昔のことのように感じてしまうのは感傷的過ぎるだろうか。

賑やかに帰る日が当たり前になりすぎていて、こうしてひとりで帰るとついつい暗いことを考えてしまいがちだ。

よくない、とかぶりを振ってネガティブを退散させようとしても、一度訪れるとネガティブはなかなか消えていってくれない。ポジティブが消えるのは一瞬なのに、ネガティブというのはどこまでも厄介だ。

 

今、謙也さんは…というか元テニス部の先輩たちはみんな忙しい。

高校推薦の準備で、小論文だ面接だと目まぐるしく動いているらしい。みんなスポーツ推薦をもらう予定らしいけど、さすがに全く勉強出来ないというのはよろしくないようで、特に千歳先輩や謙也さんはいろんな人に助けてもらいながら対策に必死なのだと財前が笑っていた。

そんな財前に、来年のあんたが楽しみだ、と笑ったのはつい先日のことだ。

 

こうなると、実感する。

謙也さんは卒業生。

あと3か月ほどで謙也さんはここからいなくなる。

そうして来年の今頃は、あたしが受験対策に忙しくしているのだろう。

 

年の差は覆らない。

どんなに寂しくても、謙也さんは一年先を行ってしまう。

きっとこれがあと10年後だったら気にならないのだろう。

大人になってしまえば、一年や二年の差なんてあってないようなものだと聞いたことがある。

けれど、今は。

あたしにとって大切な今、一年の差はあまりに大きくて、途方もない。

手を伸ばしても、どんなに望んでも、変わらないのだ。

 

卒業という言葉が胸に微かな痛みをもたらすようになったのは、いつの頃だっただろう。

あの人がいなくなることが寂しいと思うようになったのは、きっと随分前からだ。

そして、思う。

待っていてと告げられた、あの夏の日のことを。

あの日は確か氷帝との練習試合と合同練習会の日で、ひどくバタバタしたことをよく覚えている。

騒がしくて慌ただしかったけれど、今ではあれもいい思い出だった。

 

金色先輩と忍足先輩の策略でふたり残された帰り道、謙也さんは云った。

待っていて、と。

それにあたしは答えた。

待つ、と。

 

ねえ、謙也さん。

 

―――あたしはいつまであなたを待てばいい?

冷たい息を空に向かって吐き出しても、答えは返ってこなかった。

目を閉じる。

 

真っ暗になった瞼には、誰の姿も映らなかった。

 

 

 

 

 

2.ため息まで白い

 

 

 

気付けば12月は後半に差し掛かり、週が明ければすぐに冬休みになる時期に迫っていた。期末テストは難なく終了しており、あとは冬休みを待つばかりだ。

今年の冬は特に展示会の予定もないし、3年生も推薦組はそろそろ忙しさも終わる頃だ。もしかしたら謙也さんと過ごす時間が取れるかもしれない。

そんなことをぼんやりと考えていた放課後、用事があって職員室に行くと、珍しく渡邊先生がいた。しかもこれまた珍しく書類と向き合っているではないか。やめてよ雪降るじゃないですか。ただでさえ大阪寒いんだから、これ以上寒くなるのは勘弁ですよ。

若干八つ当たりを自覚したそんなことを思っていたら、あたしに気付いたらしく何故か上機嫌に手招きされた。

え、何。

あたしテニス部関係以外では渡邊先生と関わりないんですけど。っていうかそもそも渡邊先生の担当教科って何? まず話はそこからだ。

なんて考えていることは億尾にも出さずにっこりと笑って近付くと、至極嬉しそうに渡邊先生は指で丸を作った。

「テニス部の3年な、全員推薦決まったで」

「えっそうなんですか?」

「最後のひとりが謙也やってんけど、たった今先方から合格の通知来てな」

「…それ、あたしより先に謙也さんに伝えるべきなんじゃ…?」

「どうせ謙也と会うやろ? 津々井から伝えたってや」

別にいいけど、それこそ教師の役目なのでは、と首を傾げたあたしは間違っていないはずだ。この先生、ほんといろいろ心配になるなぁ。

 

でも、これはいい口実になる。

ここ最近は遠慮して謙也さんに会いにも行かなかったし、帰りの時間もバラバラだったから、多分丸2週間くらい謙也さんには会っていない。

もうすぐ冬休みにもなってしまうし、何か理由をつけて会いに行こうと思っていた矢先だったのだ。

あとは帰るだけだし、渡邊先生は謙也さんは教室にいると云っていたことだし、このまま直接行ってみよう。

思い至ったら即行動、3年生の教室に向かう足取りもどこか軽く、まるで羽が生えているみたいだと思って自分で笑ってしまった。

浮かれている。

自覚をして、少し恥ずかしかった。

久しぶりに謙也さんに会える、それだけのことがこんなにも嬉しいなんて。

 

でも、なんだか久しぶりすぎて緊張する。

だって、2週間以上も会わなかったなんて、謙也さんに出会ってから初めてなのだ。

これまではお互いがどんなに忙しくてもなんだかんだで顔を合わせたり連絡を取ったりしていたのに、この2週間はすれ違いもしなかった。謙也さんが推薦対策の追い込みで必死になっていたので、邪魔しては悪いと思ってメールも電話も控えていたのだ。

花でも飛ばしそうなほどルンルン気分でついに3-2の教室にたどり着いて、開きっぱなしになっていたドアから顔を出そうとしてふと思いなおす。

髪はおかしくないだろうか。

制服に皺はない?

柄にもなく身なりなんて気にしてしまって、なかなか教室に入れずにいると。

 

「小毬も忘れてるんと違うかな」

 

急に耳に入ってきた声に一瞬胸を高鳴らせ、それからすぐに首を傾げた。

どきり、と唐突に心臓が大きく脈打った。ともすれば口から飛び出して行ってしまうのではないかと思うほどの鼓動に、思わず両手で心臓を押さえてしまう。

しかし、動悸は一向に収まらない。

心臓を押さえた手を無意識のうちに握りしめる。きつく握りすぎて、真っ白になっていた。

あたしが忘れていること?

なんだろう、一緒に帰る約束なんてしていないと思うのだけれど。

少し考えて、けれどそんなことではなかったのだと、次の言葉で思い知る。

 

「俺よりいい男なんか山ほどおるし、小毬なら選びたい放題やろし」

 

―――何? 何の話?

もし、もしも、明るく、弾けるように。

そうやって雰囲気をぶち壊すみたいに顔を出したら、或いはこの後の展開も変わっていたのかもしれない。

けれどどうしたってあたしの足は動いてくれなかった。

 

ねえ、謙也さん。

何の話をしているの?

不安と恐怖で胸を押しつぶされそうになりながら、倒れそうになる自分を叱咤してその場に立ち尽くす。

ああ、だけど立ち止まっているだけでは事態は何も変わらない。

動かなければ。

声を掛けなければ。

もしかしたら、いつもみたいに笑って、それから。

 

けれど、そんなあたしの希望は―――誰にも届かなかった。

 

「小毬には俺やない他の男が似合っとるわ」

 

―――がつん、と。

 

まるで金槌で頭を横殴りにされたような、そんな衝撃に襲われた。

ああ、痛い。

もちろん本当に殴られたからじゃない。

 

痛いのは、胸。

 

どうして。

なんで。

 

ねえ、謙也さん。

 

「何、それ」

 

気付いたら、最後の一歩を踏み出していた。

視線の先には、驚いたように目を見開く謙也さん。一緒に話していたのは白石先輩だったらしいけれど、そんなことはどうでもよかった。

 

声は、震えていないだろうか。

あたしは今、まっすぐ立てているだろうか。

 

―――この張り裂けそうな胸の痛みは、どうしたらいいのだろう?

 

「うそつき」

 

呟いた瞬間、涙が零れた。

今までずっと我慢していた涙だった。

謙也さんは愕然とあたしを見つめていたけれど、手を伸ばしてくれることも、声をかけてくれることもなかった。

 

―――ああ、そうか。

 

きっとあたしが馬鹿だった。

 

馬鹿正直に謙也さんの言葉を信じて待ち続けた、あたしがいけなかったのだ。

 

唐突にそう気付いて、すとんと何かが胸に落ちたような気がした。

悲しいけれどこれが現実だった。

セーターの袖で涙を拭いて踵を返し、謙也さんに背を向ける。

もっと早くにこうしていればよかったのに、あたしはまったく往生際が悪い。

白石先輩が焦ったように追えなんて叫んでいたのが聞こえたけれど、謙也さんが追ってくる気配はない。

 

これでいい。

これでよかった。

 

自分の教室に戻り荷物を持って、すぐに帰路につく。

不思議と急ぎ足にはならなかった。

いつも通りののんびりとした足取りで、あたしは帰る。

四天宝寺に来てから、毎日通ってきた小道だ。

夏から秋にかけてはひとりで帰ることなんて少なくて、いつだって誰かが隣にいてくれた。

そのほとんどが謙也さんで、謙也さんと一緒に歩くといつも賑やかで楽しかった。

 

ひとりで歩くこの道は、こんなに静かだったろうか。

 

「…寒」

思わず自分を抱き締めて呟く。

息が白い。

思い切り息を吸ってみると、ちくりと肺が痛むような気がした。

いっそこのまま肺も心臓も凍ってしまえばいいのに、なんてとりとめもなく考える。だけどきっと、この程度の気温じゃ凍らない。

 

―――ああ、吐き出した息は、どこまでも白かった。

 

仰いだ空は鈍色で、まるであたしの心の重さを表したみたいだった。

ふいに、頬に冷たさを感じた。

もしかして雪でも降り始めたのだろうか。

そんなことを考えたけれど、どうも違うようだ。

あたしの思考は置いてきぼりのまま、頬の冷たさは変わらない。

だけどそれは冬だからだ。

冬なのだから、頬が冷たいのは当たり前。

その冷たさが頬を降りて、マフラーに一つシミを作った。

 

そうしてやっと、自分が泣いていることに気付いた。

 

―――もう、この涙を拭いてくれる人はいないのに。

 

 

 

 

 

3.この熱は消えぬまま

 

 

 

熱を出した。

重い身体を引きずって病院に行ったら疲労と風邪だと云われて、熱が完璧に下がるまで学校には行かないほうがいいなんて云われてしまった。

それは好都合だったので、遠慮なく学校は休むことにした。

どうせすぐに終業式だし、そこまで数日しかないのだからゆっくりしよう。それなりの成績を収めているし生活態度も優等生をやっているとこういうときにラッキーだ。多少長く休んでも心配されるばかりでズル休みだなんて思えない。いや、実際熱があるんだからズルじゃあないのだけれど。

 

財前から電話があったのは、学校を休み始めて2日目の昼のことだった。

『ズル休みか』

「…違うよ」

開口一番それか、と呆れる。あのね、あたしだって別に熱出したくて出してるわけじゃないし、そもそもそんな器用に熱のコントロールなんか出来るわけないでしょ。

さすがにもう高熱ではないけれど、まだまだ平熱よりは高い熱で頭がぼーっとするんだから寝ていたい。

どうでもいい話題なら年明けにでも改めてお願いしたいところだとぼやくと、財前は一度あたしの名前を呼んだ。

その声が財前らしくないほど真剣だったから、思わずあたしは黙ってしまった。

それが失敗だったのかもしれない。

 

『自分、また謙也さんとなんかあったんか?』

 

咄嗟に息が出来なくなって、ぎゅっと目を閉じる。

声が震えてしまわないように、きつく唇を嚙みしめる。

少し、血の味がした。

『あの人、ごっつへこんでんねんけど』

「知らない。あたし、もう関係ない」

吐き捨てて、携帯電話の通話を切る。そのまま電源まで落として床に放り投げ、枕に顔を押し付けた。

財前に八つ当たりしてしまった自覚があるので申し訳ないと思いつつ、このまま話し続けるなんてあたしには出来なかった。これ以上八つ当たりしたら、もう財前に顔向けできなくなるほど自己嫌悪するのが目に見えていたから。

ぎゅうぎゅうと枕に顔を押し付けながら、力いっぱい歯を食いしばる。

 

へこむ?

どうして。

なんであなたが落ち込むの?

いらないって切り捨てたあなたが、どうして傷付いているの?

痛いのはこっちなのに。

苦しいのはこっちなのに。

人の気も知らないで、どうしてあなたが!

と、そこまで考えて、それすらも八つ当たりなのだと自覚した。

知らないに決まっているじゃないか。

だってあたしはあの人に気持ちなんてひとつも伝えていない。

言葉では何も伝えたことがなかった。

謙也さんに求めたこともなかった。

だから、知るはずがないのだ。

 

つくづく思う。

あたしたちは、何もかもが足りなかった。

 

言葉も、時間も、多分、気持ちすらも。

 

 

+++

 

 

「小毬、お友達がお見舞いに来てくれたわよ~」

気付いたら眠ってしまっていたらしい。

何故かやたらと陽気な母さんの声で目を覚まし、時計を見たらもう19時を回っていた。しまった、寝すぎた。おかげでだいぶ身体は楽になったけど、夜眠れるだろうか。

そんなとりとめもないことを考えながら身体を起こし、軽く身だしなみを整える。誰が来てくれたんだろう。同じクラスの誰かだろうけど、そういえば家を知ってる人っていたんだったっけ。

寝起きの頭はうまく働いてくれず、あまり待たせるのも申し訳ないので、どうぞ、と声をかけてから、気付いた。

 

―――今の家を知っているのは、景吾さん以外には、謙也さんだけ。

 

まさか、と。

焦る気持ちと――少しの期待を抱いた自分は、一体どこまで馬鹿なのだろう。

「よ、津々井」

開いたドアからひょっこりと顔を出したのは、当然ながら謙也さんではなかった。

ちくり、と胸が痛んだ。

来るはずなんてないのに、どうして一瞬でも期待してしまったのか。

学習しない。

思いを悟られないようにと願いつつ、先輩を立たせておくのも気が引けるのでとりあえず座ってもらい、やっぱり機嫌がいい母さんが――多分白石先輩がイケメンだからだろう。イケメンなんか景吾さんで見飽きてるくせに!――持ってきてくれたお茶を勧めた。

「おおきに。熱で寝込んでるって聞いて、差し入れ持ってきたで。お袋さんに渡しといたし、あとで食うてな」

にっこりと微笑んで、あまりにいつも通りの白石先輩に少し面食らう。

 

先輩はあの場にいたのに。

知ってるくせに。

どうして、と思わずにはいられなかった。

だから、今は熱のせいにして、あたしは素直に直球に疑問を口にした。

「…なんで白石先輩が」

「謙也の代わり」

さらりと云った白石先輩の台詞に思わず息を呑む。

視線を向ければ白石先輩は小さく笑っていて。

…つられるように、あたしも笑う。

けれどそれは決して楽しくてではない。面白かったわけでもない。

憫笑。

それを向ける先は、白石先輩ではなく、謙也さんでもなく。

 

―――あたし自身だ。

 

「…白石先輩が謙也さんの代わり? 冗談でしょう」

「せやな、俺じゃ謙也の代わりにはなれへんな」

「含みのある云い方、やめてください」

肩から落ちそうになったカーディガンを直して、目を伏せる。

笑えない冗談だ。

白石先輩が謙也さんの代わりになるなんて、本当に笑えない冗談。

 

だって、謙也さんの代わりになる人なんて、この世のどこにだっていないのに。

 

どんなに謙也さんよりかっこよくても。

どんなに謙也さんより優しくても。

どんなに謙也さんより頼れても。

どんなに謙也さんより素敵であっても。

 

あの人の他に、あの人の代わりは出来ないのだ。

 

おっちょこちょいで早とちりで失敗も多くて、つまらないことで意地を張ったり見当違いな勘違いをしがちで、だけどあたしはそんな謙也さんがよかった。

白石先輩みたいに完璧な人じゃなくて、駄目なところがたくさんあっても、あの人が良かった。

 

だってあの日あたしを救って光の海を観に連れて行ってくれたのは、あの人だったから。

 

―――でも。

 

「あんな、津々井。謙也は、」

「もういいです」

「…津々井……」

「もう、いいんです」

 

終わってしまった。

いや、そもそもあたしたちは始まってもいなかったから、終わるという表現はおかしいのかもしれない。

 

あの夏の日、互いの手を取りながら、きっとあたしたちはスタート地点には立てていた。

けれどその先に進まないことを決めたのも、あたしたちの判断だった。

あと一歩、されど一歩。

景色に追い抜かれていくことすら気付かないまま、あたしたちは立ち止まったまま季節をふたつ通り過ぎてしまった。

あたしは待つばかりで、何もしなかった。

そのツケがこれだ。

進めず、戻ることも出来ず、立ち止まったまま放置していた結果がこれでは、とてもじゃないが笑い話にもならないほど馬鹿々々しい。

始まることなく消えていくこの不完全燃焼の気持ちは、だからあたし自身が整理をつける必要がある。

誰のせいでもない。

もうこれは、あたしだけの問題だ。

 

どうして白石先輩があたしに会いに来てくれたのかはわからない。

でも、多分謙也さんのためだ。

だからこそ、白石先輩の言葉をあたしは聞きたくない。

希望なんて、持ちたくないから。

余計な期待をしてまた傷つくのは、もう嫌だから。

だから聞けない。

ごめんなさい、と心の中で謝っても、この声は白石先輩には届かないけれど、胸の中で繰り返す。

声のない謝罪は、ただ空しかった。

 

先輩の言葉を遮って、沈黙。

あたしの様子に意志を悟ってくれたのか、それ以上先輩が何かを云うことはなかった。

ただ、数回迷ったように口を開こうとして、そうして最後に諦めたように小さく息を吐いた。

「…やっぱり、俺じゃあかんな」

もどかしそうに頭を掻く白石先輩はこれっぽっちも悪くない。

むしろ申し訳なくて謝りたい気分だが、ここであたしが謝るのもおかしな話だ。

白石先輩は優しい。

謙也さんのことを本当に大事にしているのがよくわかるし、謙也さんのためにこんなところまで来てくれる懐の大きさには関心すら覚える。

 

優しい人。

あたしの好きな人の、親友。

 

無性に悔しくて悲しくて、どうしようもなくなって。

込み上げそうになる嗚咽をどうにか嚙み殺し、精いっぱいの努力をもって笑顔を浮かべた。

 

「あたし、白石先輩を好きになればよかった」

 

そうしたら、こんな想いはしないで済んだのかもしれない。

そんな希望的観測としょうもない願望を乗せて呟いた言葉は、自分で云うのもなんだけど最低だ。

 

けれど驚いたように目を見開いて、それから馬鹿云いな、と白石先輩は笑って。

一度だけ―――抱き締めてくれた。

暖かくて優しいのに、あたしが求めている人とは違う、この現実が悲しくて仕方ない。

 

白石先輩。

どうして今あたしを抱き締めてくれているのが、あなたなのだろう。

 

閉じた瞼に、謙也さんの優しい笑顔が浮かんで、そうして霧のように消えていった。

 

 

 

数日後の終業式、結局あたしは熱をぶり返して出席できないまま年内の学校は終了してしまった。

いろんな人からお見舞いのメールが来たけれど、謙也さんからの連絡はただの一度もなかった。

 

 

 

 

 

4.きらめきに誘われて

 

 

 

「はろー」

「………」

「あれ、なんでちょっと怒ってるんですか?」

「別に」

目の前のソファにどっかりと腰を下ろした景吾さんは、明らかに不機嫌だった。別にって顔じゃないくせに、なんで嘘つくかなぁ。

 

熱はすっかり下がり、今あたしは東京に戻ってきていた。

両親はクリスマスも年末年始も関係なく仕事で忙しくて帰ってこないし、丁度あたしも何の予定もない。

友達たちはそれぞれ彼氏や家族と過ごすと連絡が来ていたから大阪にいてもあんまり意味はなかったので、ならばと東京に足を延ばした次第である。家は前に住んでいた家があるから困らないし、こっちのほうがまだ友達も多い。

ちなみにここは景吾さんの家で、あたしは警備員さんやお手伝いさんたちと知り合いなので顔パスで通してもらえるのである。ここのサロンで出してくれるコーヒーは絶品なのだ。

いつものパーティーの本番は明日で、景吾さんもイブは暇しているのを知っていたのでお邪魔した次第である。だってひとりでいるのヤだったし。

相変わらず不機嫌そうな顔のままだけど、追加でコーヒーとお茶菓子を持ってこさせてくれたってことは、一応滞在を許されたらしい。本気で機嫌悪いと問答無用で追い出されるから、これは一応許可のうちなのだ。

いい香りのコーヒーにニコニコしていると、真正面からの景吾さんの視線が痛い。

これでもかというほどの眼力に挫けそうになるが、ここはぐっと堪える。

「そうそう聞いてくださいよ、この前初めてUSJに行ったんですけどね…」

些か不自然なのは承知で、無理やりテンションを上げて会話を振る。景吾さんはこれで意外と庶民の生活に興味があるから、こういう話は割と聞いてくれるのだ。

が、あ、これはダメだ。

真顔のまま固定されてる。

相槌をくれないのはいつものことだけど、この顔はダメなやつだ。経験上知っている。

しかしここで挫けては意味がないので、折れそうになる心を奮い立たせて話を続ける。

 

疲れるからやめろってよく云われる、ころころと話題を変えていくスタイルでとにかく話を切らないように頑張ること、数分。

もういくつ目の話題なのかもわからないくらいの話の途中でのことだった。

「それで、そこの店員さんが面白くって…」

「小毬」

人が話しているというのに容赦なく話の腰を折るスタイル、さすが景吾さん。そこに痺れもしないし憧れもしないけど、まさに景吾さんって感じがしていいと思います。

ただ、今はタイミングが悪かった。

景吾さんの顔はいつもみたいに人を小馬鹿にするような表情ではなく、やっぱり真っ直ぐにあたしを見つめていて。

綺麗な綺麗な、コバルトブルーの瞳。

まるでサファイアのようなふたつの瞳に射抜かれたあたしは、何故か視線を合わせていられなくて、思い切り顔ごと視線を逸らした。

「何があった」

そして、この言及。

そこにからかいの響きはない。

視線と同様、真摯に、真っ直ぐにあたしに向けられた問い。

あまりにも真っ直ぐだから、もしかしたらあたしはこのまま視線と問いに射抜かれて死んでしまうんじゃないかなんて考えた。現実逃避だ。

 

小さく息を吐き出して、気を取り直して一口コーヒーを口に含む。味なんてもうわからなかったけれど、カラカラだった喉を潤すには十分だった。

かちゃり、とカップをソーサーに置く音が、やけに響いた気がした。

そうしてやっと、あたしは景吾さんに向き直ってニッコリと笑顔を作る。

今まで何度も作ってきた笑顔だ、今更意識なんかしなくたって造作もない。

「なんにも」

「嘘をつくな」

が。

何もないのにお前が俺を訪ねてくるはずがない、なんて自信満々に云われてしまい、困って頬を掻く。

参ったなぁ。

…この人には本当に、嘘がつけない。

 

そういえば昔からそうだった。

初めて出会った頃から、この人は遠慮なく人の嘘を見抜いてきた。

あたしがテニス部ファンに嫌がらせを受けていたこともすぐに気付いて、あたしにバレないようにいろいろと助けてくれていた。それに気付いたのは随分と後のことだったけれど。

スランプに陥って落ち込んでいた時も、展示会で酷い評価をされて自信を無くしていた時も、どんなときも景吾さんは気付いてくれたのだ。

もしかしたら、あたしは気付いて欲しくて景吾さんに会いに来たのかもしれない。

そう考えたらあんまりにも女々しい気がして、余計に落ち込んだ。

けれどここでさらに落ち込んでいたところで事態が好転するわけでもないので、あたしは開き直ってへらりと笑顔を浮かべた。

 

「振られちゃいました」

 

笑顔を浮かべるのは得意だ。

笑顔になれば切り抜けられる場面というのはいろいろと経験していたし、ひとまず余程の場合でない限りは相手に不快感を与えることはない。

だから、困ったらとりあえず笑う。

それはあたしにとってひとつの防御壁で、そしてどうしようもない逃げ。

「…は?」

「まぁ、そもそも告白もしてなかったんですけどね。自分じゃない人の方が似合いだって、はっきり云われちゃいまして」

一言発するごとに眉間にしわを寄せていく景吾さんに、さらにへらへらと笑ってしまう。

だって、あたしは今、これ以外にどういう顔をしたらいいのかわからないんだ。

景吾さんの機嫌が急降下している気配を察知しつつ、あたしは続ける。

「で、なんとなーく大阪に居たくなくて、冬休みだし遊びに来ちゃいました。景吾さんだったら、明日は忙しいけど今日はまだ時間あるかなーって思って」

毎年跡部家ではクリスマスに大きなパーティーを開催している。

当然長男である景吾さんも参加は義務で責務。去年のクリスマスはあたしがパートナーとして出席させられていたから、日程はちゃんと把握している。

というかむしろ今年も参加しろ的なことを去年のうちに云われてたんだけど、夏に会った時にキャンセルの旨を伝えられていた。

あの時は深く考えずにホッとしていたけれど、今思えばそのままの予定にしてもらっていたほうが良かったかもしれない。

だって、あたしは明日も予定がないのだから。

 

今日はイブ。

明日はクリスマス。

何の予定もなく、一緒に過ごす人もいない。

ああ、なんて寂しい人間なんだろう!

 

いいなぁ景吾さんは、今日は暇人でも明日は昼から準備で大忙しだ。

今のあたしには、少しくらい忙しいほうがずっといい。

余計なことを考える時間がないくらい忙しい日になれば、もしかしたら他のことなんてどうでもよくなるかもしれないのに。

そんなことを考えていたら、鉛筆が挟めそうなほど眉間に深いしわを寄せてしまった景吾さんがぼそりと口を開いた。

「…馬鹿なのか?」

「あはは、ひどーい」

「笑うな」

至ってシンプルな罵倒にケラケラと笑うと、思った以上に真剣な声で怒られた。

思わず笑いを引っ込めて景吾さんを見て―――後悔を、した。

 

「泣きたいくせに、笑わなくていい」

 

―――やめて。優しくしないで。

 

あたしが景吾さんのところにきたのは、振られたって話を笑ってもらって、いつもみたいに馬鹿みたいなやり取りが出来たら気分も晴れるかと思ったからだ。

優しくされたかったからなんかじゃない。

だって、今優しくされたら―――。

 

「…ほらみろ」

「…さいてい」

 

ボロボロと両目から溢れる涙の止め方を、あたしは知らない。

目の前にいた景吾さんの姿がどんどん朧気になっていって、涙のせいでよく見えなくなってしまった。

拭っても拭っても、瞳から溢れ出る涙の勢いは止まらず、このまま目が溶けてなくなってしまうんじゃないかなんて他人事のように考えた。

こうなってしまってはもう取り繕う必要もない。

どんな仮面も嘘も通じない景吾さんの前では、だからあたしは素直に吐露出来る。

零れる涙もそのままに、あたしはただ呟いた。

 

「何が駄目だったんだろう」

 

あれからどれだけ考えてもわからなかった。

うまくやれているつもりだったのだ。

仲良く過ごせていると思っていた。

そこらのカップルよりも一緒にいたし、分かり合えていると思っていた。

 

「あたし、待ってたの。待っててって云われたから」

 

告げられたあの夏の日から、ずっと、ずっと。

あの人の言葉を信じて、訪れるであろう『いつか』を楽しみにしていた。

 

「だけどそれじゃ駄目だった。だから振られた」

 

それも、考えうる限りでは一番最悪な方法で。

面と向かってではなく、不可抗力とはいえ立ち聞きした内容で終わりを告げられたのだ。

「あたし、どうしたらよかったの?」

いくら考えても、どう行動するのが最善だったのか、最良だったのか、わからない。

 

手を伸ばせばよかったのだろうか。

縋ればよかったのだろうか。

待ちたくないと声を張り上げればよかったのだろうか。

信じるだけではだめだったのだろうか。

何を考えても今更で、どうしようもないのに考えずにはいられない。

かけ間違えたボタンの箇所を見つけないことには、きっとあたしは苦しいままだ。

 

それなのに、わからない。

もう訊くこともできないのだ。

だって謙也さんは、もうあたしを好きじゃない。

そもそも、謙也さんがあたしを好きでいてくれたのか、今となっては信じられない。

あの日の気まぐれ。

あの日からの暇潰し。

―――ああ、だとしたら、あたしは本当に、とんだピエロじゃないか。

あの人がそんな人じゃないのはわかっているのに、どんどん良くないことばかりを考えてしまう。

 

「…さあな」

立ち上がる気配がして、顔を上げる。

すると景吾さんは、目の前のソファからあたしの隣に移動してきた。

どっかりと遠慮なく腰を下ろし、それから、―――強引に、あたしの頭を抱き寄せた。

突然のことにびっくりして声も出なかったけれど、次に景吾さんが発した言葉に、あたしの声はもっと引っ込んでしまった。

 

「ひとつわかるのは、お前もあいつも、どうしようもない大馬鹿だってことだ」

 

その言葉を一度噛みしめて、ゆっくりと飲み込んで。

目を閉じる。

景吾さんの暖かさと、心臓の鼓動が耳に心地よかった。

それから。

「…うん」

頷く。

 

―――ああ、その通りだ。

 

なんの抵抗もなく納得して、また小さく笑う。

驚くほどしっくりくる。

なんて簡単で簡潔で、簡素な言葉。

だからこそ余計に、胸に沁みる。

 

「あたし、本当に馬鹿だった」

 

涙が零れる。

室内だというのに頬も手も身体も冷たくて、ああ、本当に終わってしまったのだと今更ながらに実感する。

 

馬鹿だった。

何がということもなく、ただただ、馬鹿だったのだ。

 

だけど景吾さんに話したおかげで少しスッキリした。

泣いたのはあの日の放課後以来だったからかもしれない。

やっぱり人間は泣くとストレス発散になるのだ。

こんなことならもっと早くここに来ていればよかった。

景吾さんは普段はちっとも優しくないのに、こういうときだけはちゃんと優しいから心底嫌いにはなれないのだ。ずるい。

 

心は痛い。

胸が張り裂けそうな寂寥感もなくならない。

謙也さんを想うと、これまでの楽しかった思い出が溢れてきて、その温かさと現実の虚しさに押し潰されそうになる。

けれど、これはきっと時間が解決してくれるだろう。

そう思えるようにはなった。

 

悲しいのは今だけだ。

辛いのも今だけだ。

苦しさだって続かない。

少し我慢すれば、きっと平気になる。

 

だからあたしは、もう大丈夫だ。

 

思い出というきらめきだけを残して、あたしは前に進まなければ。

 

 

 

 

 

5.冷たい手でもいいよ

 

 

 

白石の携帯に電話があったのは、クリスマスイブの日の夜だった。

しかし特に意中の女の子からというトキメキ感溢るるものではなく、画面を見つめてしばし考えた。

このタイミングで今日という日にこんな人物からの電話である。

嫌な予感…というか、何の話になるか予想がついて微妙に迷う。

が、ここで出ない、というのもまたややこしいことになりそうな気がして、諦めた。

出るしかない。

 

「はいはい、こちら白石」

『あのあほんだらは何をしとんねん』

 

電話の向こうにいる忍足侑士は静かにキレていた。

予想しておいて本当に良かったと思う。何の心構えもなくこの静かな激怒を受け止められるほど白石の心臓は強くはない。オリハルコン製ではあるけれど、グングニルに相当する殺傷能力を持つ忍足の言葉の刃の前にはプラスチック同然である。

引きつる頬もそのままに、しかし一度ゆっくり深呼吸をして息を整える。それから、電話の向こうのもうひとりの忍足にやんわりと声をかけた。

「あー、侑士くん、落ち着いてな」

『これが落ち着いていられるか。ちゅーか俺の前に巴がヤバいねん』

「え、なんで?」

『今謙也見たら確実に犯罪者になりそうな目ぇしとる』

怖すぎる。

ついでに折角のクリスマスイブだというのに彼女がそんな状態では忍足も気の毒だが、それに巻き込まれている自分もなかなか不運だと思う。まぁ白石の場合は進んで巻き込まれているところがあるのだけれど。

というか一度しか見たことはない忍足の彼女がそんな人間だなんて知りたくなかった。夏に遠目で見た限りでは非常に美人で、まさに大和撫子という表現がぴったりの彼女だったのに。

しかし何故か彼女が怒ると恐ろしそうだということは容易に想像できて、電話でよかったと心底ほっとした。大阪まで乗り込んでこられたら、きっと自分は説明や釈明をすべて放棄して謙也を差し出して逃げ出しただろう。

そんな友達甲斐のない人間にならずに済んだことを少なからず安心したのもつかの間。

なぁ、と改めて呼ばれて。

 

『何があったか、まるっと全部話してや』

 

…どっちみち、謙也に未来はないのかもしれない。

下手なことを云えば自分にまで被害が及びそうだと直感した白石は、包み隠さず話してしまうことにした。

それにどうせ、白石が知っていることと云ってもたかが知れている。

 

けれど、あの日、あの時、白石はあの場に居合わせてしまっていたから。

夏からこの冬にかけてのあのふたりのことを詳細までは知らないが、少なくとも、あの時のことだけは鮮明に知っているから。

 

「…あんま気ぃ進まんけど、しゃーないな」

本当に気が重い。

こじれにこじれて、うまくいくだけだったはずの関係が崩れていく様を、多分白石は誰よりも近くで見てしまった。

後悔をしていると云うのは語弊があるだろう。だってきっと、何もしなくても後悔した。

 

けれど考えずにはいられない。

自分が取った行動は、果たして最善だったのだろうか。

あるいは、最良であれたのだろうか。

もっと他に手があったのではないかと考えてしまい、しかし何度考えてもああする以外の方法を見つけられず、存外固い自分の頭にがっかりした。

こんなとき、金色や一氏あたりならもっといい手を考え付いたのだろう。

そんなことを考え、白石は小さく自嘲した。

自分は、周囲が思っているほど完璧なんかじゃない。

親友の一大事すら助けてやることの出来ない、どうしようもないほど普通の中学生なのだ。

 

そして、白石はゆっくりと口を開く。

恐らく当事者ふたりと自分しか知らないであろう問題を。

目を閉じると、まざまざに浮かぶ、あの情景を。

遠い東の地で、自分と同じようにあのふたりを案じる忍足に、―――自分勝手な願いを込めて。

 

 

+++

 

 

それは、忍足が白石に電話を掛ける前。

少し時間を遡ってクリスマスイブの夕方のことだった。

 

「―――小毬ちゃん?」

「へっ」

 

跡部の家を出ても家に帰る気にはなれず、適当に街をふらついていた小毬は、懐かしい声に思わず振り向いてしまった。

少し後ろから小毬を驚いたように見つめているのは、声の通りの人物だった。

忍足と、その彼女である巴。ともに小毬が心から敬愛する先輩で、普段だったら突然の再会には両手放しで喜んだだろう。

しかし、よりによって、今日このタイミング。

ふたり並んで小毬を凝視しており、少々居心地が悪かった。

「え、嘘、なんで小毬ちゃんがこっちにいるの?」

「あ、あはははー…」

「もう、連絡くれたらよかったのに!」

「えへへ、す、すみません」

頬が引きつらないようにするのが大変で、思わず小毬は自分の頬を引っ張った。こうでもしなければきっとひどい顔を晒すことになってしまう。

 

一応あまり知り合いがいなさそうな場所を選んでいたはずなのに、失敗した。

そういえば今日はクリスマスイブで、この辺りは都内でもイルミネーションが有名だ。もともと小毬たちが住んでいた場所からは若干距離があるが行けない場所ではないのに、それを失念していた。ここは人気のデートスポットだったのに。

しかも、よりによってこのふたりに見つかってしまうだなんて。

出来れば、このふたりにだけは会いたくなかったのに。

自分の浅慮さを後悔している小毬を見て――もちろん彼女の思考までは読んだわけではないけれど――、巴と同じように驚いている忍足も首を傾げた。

「謙也はどないしてん? もしかして一緒に来とるんか?」

焦ってどうやってこの場から逃げ出せるか考えていた小毬は、普段なら気付けたことにまったく気付けなかった。

多分、誰が見ても先日までの小毬と謙也はセットだった。

どちらかに用事がない限りは一緒にいるイメージがついていただろう。

しかも、一緒に出掛けたことのある忍足や巴にしてみれば余計にそのイメージがついていたに違いない。

だから、ノーガードでその忍足の疑問をぶつけられて、咄嗟に反応できなかった。

思わず逸らしていた顔を上げて忍足を見つめてしまい、それから咄嗟に逃げるように視線を逸らして。

「あー、えーっと…」

これでは怪しんでくれと云っているようなものである。

「…小毬ちゃん?」

巴の声は怪訝そうだった。

それはそうだ、そうさせるだけの材料を与えてしまったのは小毬なのだから。

これはきっと、誤魔化せない。

それに、どうせ自分がこのふたりには嘘を付けないことを小毬は気付いていた。

 

巴と忍足はそれ以上の疑問を口にはしなかったけれど、視線ははっきりと問いかけている。視線をそらしていようと、それくらいはわかる。

気は進まない。

ついさっき跡部に告げてきたばかりで、また同じことを平然と口に出来るほど小毬の心は強くない。

けれど。

一度きつく拳を握り締め、心の中で自分を鼓舞して、小毬は顔を上げた。

 

「あた、あたし、実は振られちゃいまして!」

 

あっけらかんと―――しようと、したのだろう。

その努力は認めるが、残念ながらその努力は実らなかった。

「…は?」

笑おうとして失敗したように口を歪める小毬を、巴と忍足は茫然と見つめた。

小毬の云ったことが理解できなくて思わず顔を見合わせてしまったが、お互いわかっていないことしかわからない。

ふたりが何も云わないのをいいことに、小毬は相変わらずへたくそな笑顔のまま続ける。

「それで大阪にいても予定ないし、景吾さん構ってくれないかなーと思ってこっちに遊びに来てたんですよね」

「ちょ、ちょっと待って」

「さっきまでは景吾さんのところにいたんですけど、明日の打ち合わせとかで景吾さんバタバタし始めたからお暇してきたところで、どうせ暇なのでちょっと散歩でもしよっかなって思ってて」

「小毬ちゃん…」

「あ、巴先輩と忍足先輩はデート中ですよね? お邪魔しちゃってすみません、ではあたしはこれで!」

シュバッと手を上げて、小毬はふたりにくるりと背を向ける。

 

…そろそろ、限界だった。

 

「ま、待って、小毬ちゃん!」

しかし小毬は巴の制止も聞かずにこの場を離れようとする。

ちらりとも振り返りもしようとしないあたりに小毬の余裕のなさが伺えてしまい、思わず巴は舌打つ。

あまりにいきなりすぎる展開に驚いているし、聴きたいことは山ほどあるけれど、それより何より結果が気に入らない。

 

―――振られた?

―――小毬ちゃんが?

―――どうして!

 

そもそも、自慢ではないが巴は自分が小毬にこれ以上ないほど好かれている自負がある。そして巴自身も小毬を一番可愛い後輩だと思っている。

そんな小毬が、自分の制止を振り切って逃げ出そうとするような事態になっていることが、とんでもなく気に食わない。

「待ちなさいったら!」

走り出しはしないものの、可能な限りの早歩きでふたりのもとから去ろうとする小毬の背中を追いかけ、その手を掴む。

さすがに立ち止まりはしたが、それでも小毬は巴を振り返ろうとしない。

こうなった原因は謙也だ。

そう考えるとむかっ腹が立って仕方ない。

八つ当たりを自覚しつつ、巴は堪らず声を上げた。

「もう、どうしてあなたはいつもそうなの!」

「そう、って…」

掴んでいた手を一度放し、改めて身体を自分のほうに向けて正面から小毬と向かい合う。

小毬は俯いて足元に視線を落として、頑なに巴を見ようとはしない。

いつもどんなことにも正面からぶつかっていく小毬なのに、こんなにも逃げることが腹立たしくて仕方がなかった。

イライラが頂点に達した巴は、両手で小毬の頬を包み込んで無理やりに顔を上げさせ、自分と視線を合わせて。

 

「泣きたいなら泣けばいいのに、どうして我慢するのって云ってるの!」

 

唇を嚙みしめて、眉間にしわを寄せて。

つつけばすぐにでも泣き出しそうな顔をしているくせに、小毬はそれでも泣こうとしない。

我慢しようとする。

無理矢理にでも笑って、やり過ごそうとする。

それだけは小毬の悪い癖だと巴は思う。

 

何か辛いことや困ったことがあるときこそ小毬は笑う嫌いがあることにはとっくに気付いていた。

けれどそれが小毬なりの自己防衛なのだということもわかっていたからこれまで指摘することはなかったけれど、今は駄目だ。

こんな場面でまで、こんなときまで無理に笑うのは、そんなのは自己防衛ではない。

いたずらに自分を傷付ける、ただの凶器だ。

しかも性質が悪いことに、その凶器が傷付けるのは身体ではない。

最悪、身体の傷なら時が癒してくれるだろう。

しかしこの場合、傷付けるのは心だ。

心の傷は、放っておいても治らない。

むしろ悪化してどうしようもなくなることのほうが多いし、目に見えないから傷に気付くことも出来ないことがあるから厄介なのだ。

 

巴の視線を真っ向から受けてしまった小毬は、もはや逃げることは出来なかった。

彼女の手を振り払うなんてことは考えられなかった。

…自分を見つめる巴の目にある暖かさと優しさに気付いてしまったから。

気付いた瞬間、一気に目元に水分を感じた。鼻がツンとして痛かった。

震える手をのろのろと動かして、自分の頬に触れる巴の手に、触れる。

暖かかった。その手の暖かさに、今更ながら自分の手の冷たさを自覚した。

声を出そうとしてうまくいかず、何度か掠れるだけの吐息を漏らし、やっと出た声は、思った以上に震えていた。

「折角のクリスマスなのに、ふた、ふたりの邪魔したくないし」

「そういうことじゃないわよ」

「ふ、振られたのは、あたしのせい、だし」

「そんなわけないでしょ」

「泣いても、もう、意味なんかないし」

「なんでそう思うの」

その問いに小毬は答えない。

わからない、とばかりに小さく首を振るだけだ。

 

実際、考えてもわからないのだろう。

何故なら小毬の心は傷付きすぎている。

悲しいなら泣いてもいい、そんな当然のことを忘れてしまうくらいに、傷付いているのだ。

誰も責めはしないのに、誰かに遠慮することなんてないのに。

我慢して取り繕うことに慣れてしまった小毬は、悲しさを発散する方法すらも忘れてしまった。

 

今、巴の心中には沸々と怒りが湧いていた。

小毬に対してではなく、もちろんこの場にはいない謙也に対してである。

何があったか確認する必要があるだろう。場合によっては、事情を知っているであろう跡部や白石あたりも問いたださなければならないかもしれない。手段は択ばない。

 

そんな少々物騒なことを考えつつ、しかし思いは億尾にも出さず、小毬の頬を優しく撫で、巴はにっこりと微笑んで云う。

「女の子はね、悲しいときは泣いてもいいのよ」

「酷い男女差別を見た気分や」

「黙ってて」

「はい」

「あなたね、こういうときこそ空気読んでよね」

「怒らんといてや」

いつもと変わらない、小毬が知っている、いつもの巴と忍足のやり取り。

それを傍で見ているのが好きだった。

いつか自分も、こういう他愛ないやり取りが出来る相手が出来たらと思っていた。

 

理想だったのだ。

巴と忍足の関係は、小毬にとって一番身近な理想だった。

想い、想われ、寄り添って歩ける相手が、欲しかった。

 

―――得られたと、思っていた。

 

そう考えた途端、堪らない気持ちになって、小毬はくしゃりと顔を歪ませる。

「巴先輩」

「なぁに?」

喉の奥から絞り出されたような掠れた声に、巴の心がズキリと痛んだ。

小毬のこんな声は聴いたことがない。

悲しくてたまらないのだと、声が、顔が、態度が語っている。

思わず自分が泣き出しそうになってしまい、巴はぎゅっと唇を噛みしめて耐えた。

小毬が泣いていないのに自分が泣くわけにはいかないからだ。

それから理性と精神力を総動員していつも通りの穏やかな笑顔を浮かべることに成功すると、それを見た小毬はホッとしたように、続けて小さく呟いた。

 

「…胸が、痛いんです」

 

ゆっくりと、小毬は自分の心臓の上に手を当てる。

そこには今も正しく脈打つ心臓があって、特に胸の病気なんて患ってはいないのに、今でもずっと、確かな痛みがあった。

 

―――まるで、胸にナイフでも突き刺さったような、鋭利な痛さが、あの日から消えてくれない。

 

「あの日、謙也さんの言葉を聴いた瞬間からずっと、胸にぽっかり穴が開いたみたいで、そこから今までの思い出が逃げていくような気がして」

 

目には見えないものたちが、次から次へと自分の身体の外に出て行ってしまって、最終的には何も残らないような、そんな恐怖感があった。

 

「諦めなきゃいけないのに、もう望みなんてないのに」

 

あの言葉は、終わりの言葉だった。

希望なんて持てないくらい、最終の言葉だった。

悲しいくらいに無慈悲な、終焉の言葉だった。

 

―――だけど。

 

「あたし、まだ謙也さんが好きで」

 

吐露してしまえばそれだけのことだった。

どんな言葉を重ねても、どんな葛藤があろうとも、つまるところ、自分はあの人が好きというだけの話で。

 

嫌いになってしまえたらよかった。

他の人を好きになれたらよかった。

 

そうしたら、こんなに苦しい気持ちなんて知らずにいられたかもしれない。

世界にはたくさんの人がいて、あの人はその中でたまたま出会っただけの人だったのだと割り切れたらよかったのだ。

 

けれど、出来ない。

 

何故なら小毬にとって好きな人は、謙也ただひとりなのだ。

絶望的な言葉を向けられても好きなのだ。

 

誰かを好きになりたいのではなく、誰かに好かれたいのではなく、小毬はただ、謙也を好きでいたいし、謙也に好かれたい。

たったそれだけのことなのに、現実は無情で、ままならない。

もう、その願いは叶わない。

その事実が、どうしようもないほどに胸を突く。

涙が止まらない。

跡部のところで流しつくしたと思ったのに、存外人間は泣けるものだと他人事のように考えた。

 

本心を吐露し、静かに涙する小毬を、巴はたまらず抱きしめた。

抱き締めた腕の中で、小毬は小さくしゃくり上げていた。

こんなのは、悲しすぎる。

小柄な身体に与えるには、あまりに悲しすぎる話だ。

「―――いいのよ」

されるがまま、おとなしく抱きしめられる小毬を遠慮なく力いっぱい抱きしめながら、巴は呟く。

 

「好きなら全部、しょうがないんだから」

 

そう、仕方ない。

誰かを好きになるのも、―――その人に、愛されないことすらも。

 

それから小毬は、あの日から初めて、声を上げて泣いた。

ここが東京で、謙也がいるはずがないということが余計に悲しくて、泣いた。

抱きしめてくれる巴の暖かさが嬉しくて、静かに頭を撫でてくれる忍足の優しさが嬉しくて、子供のようにわんわんと泣いた。

 

この声は届かない。

どこにも、誰にも。

 

東京の冬の空にとけて、そうして、跡形もなく消えていく。

 

 

+++

 

 

暖かくなくてもいい。

冷たくてもいい。

ただ謙也さんの手に触れたかった。

 

諦めようと思った。

諦めねばならないのだと思った。

そうでなくては胸が押し潰されてしまいそうで、どうにか逃げ道を作らなければあたしは壊れてしまうと思ったから。

そのために景吾さんまで利用して決意をしたはずだった。

 

笑い飛ばしたかったなんて嘘だ。

あたしは、あたしのこのどうしようもないほど愚直な恋心に決別するために景吾さんのところへ行った。

あの人ならそうしろと云ってくれると思ったから。

そして、そうしてほしいあたしの意図をあの人なら組んでくれるとわかっていたから。

結果的にやっぱり景吾さんはあたしの望むような言葉をくれた。

 

だから、

苦しいけれど、

辛いけれど、

切ないけれど、

痛いけれど、

諦める理由を他人に押し付けることが出来たのだ。

 

それなのに。

巴先輩は、忍足先輩は、それを許してくれなかった。

優しくて厳しいこのふたりは、他人を理由に諦めることを許してくれず、やんわりと、けれど強固に、自分の中にある本心と向き合うことを強いてきた。

 

だから、結局、あたしはあたしの本心と向き合ってしまったから。

 

―――だって、諦めようとしても、忘れようとしても、結局のところ、あたしはどうしようもないほどに。

 

 

 

 

 

6.寒いのは冬のせい

 

 

 

冬休みでしかもクリスマス当日だというのに、朝っぱらから謙也は学校でプリントに向かっていた。

先日行われた確認テストの結果があまりに散々だったから、呼び出しを食らったのである。

 

あの日、小毬が走り去ってから。

あれ以来ずっと謙也は心ここにあらずといった状態で、まったく使い物にならなくなっていた。

声をかけても上の空、よしんば返事をしても感情のないただの相槌。友人同士でのことならいいのだが、あいにくこれが授業中も続いていたのだ。

さすがにこれは白石であってもフォローしきれない。

事情を知っているだけに同情はするが、だからと云って白石に何かができるわけではないのだ。

ただし謙也ひとりではプリントも片付けられないと踏んだ担任に、白石はお目付け役を命じられた。

お陰様で、聖なるクリスマスの朝に男とふたりきりで教室に籠っているわけである。

 

いい迷惑だがどうせ予定はないのだし、ついでにこの際はっきり確認しておきたいことがあったので丁度いい。

遅々として進まないプリントも漸く半分ほど埋まったところで、白石は切り出した。

「なあ、このままでええんか?」

前置きはない。

主語も何もない。

それでも、今このタイミングで出る話題なんて限られている。

しかし謙也はプリントから顔を上げようともせず、不正解を書いては消し、書いては消しを繰り返していた。

これにはさすがの白石もカチンときて、プリントを取り上げる。どうせやらないのなら取り上げても同じことだ。

「謙也」

「…なんやねん」

白石を睨め付ける謙也の目は澱んでいる。一目で寝不足だとわかる目だ。

どうせあの日からまともに寝ていないのだろう。

だが、そんなことはどうでもいい。

「津々井のことや」

名前を出すと、謙也はピクリと肩を揺らした。

けれど大きなため息を一つ零して。

「…もうあかんやろ」

「何もしてへんくせによぉ云うわ」

どこまでも投げやりな態度の謙也に、白石は容赦しない。

ずばりと云い捨てて、改めて正面から謙也を見据える。

 

逃げを許さない白石の視線に捕まった謙也は、目をそらすことが出来ずに唇を噛みしめた。

白石のことは尊敬しているが、こういうところが苦手でもあった。

とにかく謙也は自信がない。

容姿、頭脳、それからテニス。

どれもそこそこだとは思うが、どれもこれも自分以上の誰かがすぐ傍にいるから、自信なんてこれっぽっちも持てなかった。

だからと云ってその誰かに嫉妬するわけではないのだけれど、いざ比べられたりすると途端に消えてしまいたくなる。

特にそこに小毬が絡んだときは顕著だ。

白石は完璧だ。

容姿も頭脳もテニスも、性格だって誰もが認める人格者。

そんな白石が誇らしくて、誰彼構わず大声で自慢したくなるのは事実だ。

 

自分が小毬を好きだという自覚はとっくの昔にあって、気持ちを伝える機会はいくらでもあった。

けれどそのたびに、ふと脳裏を過るのが白石で。

 

―――小毬の隣に相応しいのは、自分ではないのではないか。

―――白石のほうが、ずっと。

 

そんなくだらないことを考えてしまう自分すらも嫌だったが、どうしても考えてしまうのだから仕方がなかった。

小毬は最近では『女版聖書』などと呼ばれるくらい眉目秀麗才色兼備で、白石と並んでいるととても絵になる。

一度、校門前で白石と小毬が話している場面を目にしたことがあった。

そのとき、傍にいた生徒が話していたのだ。

『白石くんと津々井さんって、ああしてるとお似合いのカップルみたいやね』

胸が痛んだ。

だって、その通りだと思ってしまった自分がいたから。

小毬の隣にいたいと望んでいるのに、自分以上に彼女の隣が似合う人物がすぐ傍にいるのがこんなにつらいとは思わなかった。

もし、もしも白石が―――実は小毬を好きだなんて云ったら。

どこまでも後ろ向きに考えてしまって、あと一歩が踏み出せないまま気付けば季節は冬になっていた。

 

そうして自分の中に澱のように溜まっていた感情を、耐え切れずに白石に吐き出していたのを、小毬に聴かれてしまったのがつい先日。

うそつき、と泣いた小毬の背中を追う資格なんて、自分にはないと思った。

傷付けた。

泣かせた。

小毬は失望して、もう愛想を尽かすだろう。

追いかけて拒絶されたらきっと自分は立ち直れない。

そう考えたら恐ろしくて、とてもじゃないが追いかけられなかった。

結局、自分が可愛かったのだ。

自分が傷付きたくないから、小毬を傷付けたことを棚に上げて逃げた。

そんな自分が今更小毬の隣を望むなんて。

言い訳だけがあとからあとから降りてきて、よくもまぁ考え付くものだと謙也は我ながら感心した。自分がここまで最低な人間だとは思わなかった。

自己嫌悪で死にそうになっていると。

 

―――バンッ!

 

白石が掌を机に叩きつけていた。

非常に痛そうな音がして思わず顔を上げて、そして。

「謙也がいらんなら、俺がもらうで」

「は?」

目が落ちるかと思った。

顎が外れるかと思った。

まじまじと見つめてしまった白石は冗談を云っている風ではなく、まるでテニスの試合中のように真剣な目をしていて、更に絶句した。

そんな謙也には構わず白石は続ける。

「津々井は可愛いし、ええ子やからな。正直俺かて嫌われとる気はせんし、意外に告白したらオッケーしてくれるかもしれんやろ」

「な、ちょ、ちょぉ待ちや白石!」

血相を変えた謙也を、白石はしれっと見返した。

「なんやねん」

「じぶ、自分、ほんまに小毬のこと好きなんか!?」

白石はなんとか舌打ちを堪えることに成功した。

少し冷静に考えればわかりそうなものだ。

確かに白石は小毬を好きだが、それは後輩としてだ。

頭も器量もよく可愛らしい小毬を好く理由なら山ほどある。

だが、それだけだ。

白石が小毬に向ける感情に、友愛以上のものはない。

そんなこと、隣にいた謙也にはわかっているだろうに。

思い切りため息をついてやりたいところだが我慢して、白石は目を細めて極めて自然に問う。

「好きや云うたらどないすんねん」

「!」

「もう関係あらへんねやろ。俺が津々井を好きでも好きやなくても、謙也にはどうでもええことやんか」

ハッとする。

確かにそうだ。

自分は小毬には相応しくない、白石のほうが似合いだと気付いたばかりじゃないか。

その白石が本当に小毬を好きならばそれは迎合すべきことで―――。

 

―――なのに、どうしてこんなにも胸がざわつくのか。

 

真っ直ぐに向けられる白石の視線を受け止めながら、謙也は拳を握り締めた。

祝福しなければ。

白石は誠実な男だ。その白石が告白すると云ったのだから、それは小毬を好きだということに他ならない。

 

似合いのふたりが隣に並ぶ。

大切なふたりが一緒になる。

それは確かに素敵なことで。

 

―――けれど。

 

「あかん」

 

気付いたら、そう口走っていた。

「何がや」

白石はあくまで冷静に、淡々と首を傾げる。思わず目を細めてしまったのは仕方ないと諦める。きっと今の自分はひどく剣呑な顔をしているに違いない。

するとそんな白石にはこれっぽっちも気付かない謙也は、前のめりになって叫んだ。

 

堪え切れない、と顔に書いてあった。

 

「小毬を好きなんは、俺や!!」

 

「だったらなんでさっさとそう云わんかったんや!!」

 

「ッ!!」

 

その白石の剣幕に、謙也は躊躇いた。

まさかそう返ってくるとは思わず呆気に取られていると、白石は立ち上がって謙也の胸倉を掴み上げた。

もういい加減、我慢の限界だった。

 

自分から手放したくせに、そもそも手を伸ばそうともしなかったくせに。

自らの意志で隣にいてくれた子が他の誰かの手に渡りそうになった途端に焦るなんて、都合が良すぎる。

謙也のことは大事だが、小毬のことも大事だ。

今の白石には、謙也の味方をするという選択肢はなかった。

 

だって、白石は見てしまった。知ってしまった。

 

「見舞いに行ったとき、泣いてたんやで」

 

あの日、あの時。

もういいのだと、諦めたように云った小毬の目に涙は浮かんでいなかった。

 

けれど、彼女は確かに泣いていた。

 

「俺じゃ謙也の代わりになんかならんって、泣きながら笑っとったんやで!」

 

涙を流すこともできず、誰かに当たり散らすことすらも出来ず、ただすべてを自分の中に押し込めて。

泣きそうな顔で、小毬は必死に笑っていたのだ。

それを目の当たりにしてしまった白石は、後悔した。

 

冗談でも、自分が謙也の代わりだと云ってしまったこと。

代わりになどならないと、彼女に云わせてしまったこと。

それから―――あの日、小毬に会いに行ってしまったこと。

 

「謙也が色んなもんに劣等感抱いて、悩んで考えて告白せんかったことは知っとる。けどな、津々井はそんなこと知らんでずっと一途に謙也のこと待っとったんや」

 

白石はずっと傍にいた。

謙也の隣、この春に小毬がやってきてからずっと。

並んで笑っているふたりのことが好きで、そんなふたりの傍にいられることが嬉しくて。

なかなかくっつかないふたりが、けれどその時間すら楽しんでいるのならば白石にとっては見守るべきことだと思っていた。

 

白石にとって謙也は大切な友人で、一番の親友だ。

少し考えなしで真っ直ぐすぎる嫌いはあるが、素直で優しくて太陽みたいに明るい謙也のことが、羨ましくて眩しくて、それから少し憧れていた。

どれもこれもとてもじゃないが白石には真似できないからだ。

白石にはこれまで白石蔵ノ介として生きてきた形があって、それを否定したり後悔しているわけではない。

それでも白石は謙也が羨ましかった。

どんな感情でも素直に臆面なくさらけ出せる謙也が羨ましかったのだ。

 

だから、そんな謙也を好きになった小毬の気持ちがよくわかった。

少しだけ不器用で、素直になり切れない小毬にとって、謙也の底抜けの明るさと真っ直ぐさは魅力的だったのだろう。

そして、よく突っ走りがちになる謙也にとっては、小毬のようによく考えて行動する性格がちょうどバランスが取れている。

それから、お互いがお互いのことを大切に思っていた。

出会った当初に何があったのか、細かいことまでは白石は知らない。

けれどそれがきっかけでふたりは親密になり、お互いを大切に思えるようになったはずなのだ。

さっさとくっついていればこんなことにはならなかったのに、それを、謙也がつまらない意地なんて張ったからこんな複雑な事態になってしまった。

それが許せなくて、見守りに徹するつもりだった白石がこんなに出しゃばる羽目になったことも腹立たしい。

 

好きなら好きと云えばいいのに。

返事なんてわかりきっているのに。

 

我が親友ながら、謙也は本当に馬鹿だと思う。

云いたいことをぶちまけてすっきりした白石を、謙也はぽかんと見つめたまま抵抗もせずに固まっていた。

ここしばらくの鬱憤を晴らした白石は、やっと掴み上げた胸倉を乱暴に解放し、そして胸にトンと拳を当てる。

 

「いい加減、ちゃんと捕まえたりや! 男やろ!!」

 

知っている。

傍にいたから。

わかっている。

彼女を見たから。

 

―――小毬はずっと、謙也を待っている。

 

多分、あんなことがあった今でも。

 

普段は沈着冷静で、滅多なことでは声を荒げない親友の激昂に、謙也はただただ圧倒された。

混乱する頭は、しかしどこか冷静で、次々と吐き出される白石の言葉すべてを拾って、淡々と理解した。

白石の云っていることは正しくて、そして自分はどこまでも馬鹿だったのだと痛感する。

 

泣き出したい気分だった。

後悔で心臓が潰れそうだった。

けれど今の自分には泣く資格すらないのだとわかっていた。

泣くのも後悔するのも、全部後回しだ。

 

「…おおきに、白石」

白石がいてよかったと心底思う。

こんなにも自分たちを気にかけてくれる、自分たちを想って叱ってくれる存在がありがたくてたまらない。

どうしてこんな相手にやきもちや劣等感を抱いていたのか、本当に自分の卑屈さにはほとほと呆れる。

情けなすぎて泣きそうになっていると、ニヤリと白石が笑って云った。

「振られたら、年末は俺主催で残念パーティー開催やで」

「怖いこと云いなや…」

嫌な提案に謙也は震えあがり、顔を見合わせたふたりは、それから堪え切れないように噴出した。

 

漸く、胸のつかえが取れた気がした。

問題はまだ解決していない。

謙也が小毬を傷付けたことも、小毬が泣いた事実も消えない。

だけど、やっとこれで前を向ける。

謙也は、小毬を追える。

 

 

 

「あ、ちなみに今津々井は東京行っとるからな」

「はい!?」

「それからこれ、津々井の東京の家の最寄り駅な。健闘を祈っとるで!」

いい笑顔でサムズアップされて、思わず自分も同じポーズを返しつつ謙也は思う。

 

―――どこ情報やねん…。

 

正直答えはひとつしか浮かばないのだが、それが正しければ結構大事になっているうえに、最悪な事態になっている可能性が高い。

自分が蒔いた種ではあるが、これから起こるであろう事態を想定して早速逃げ出したくなった謙也である。

 

「…東京……」

 

呟いて、それから謙也は走り出す。

そんな謙也の背中を、白石は呆れたように見送った。

提出しなければならないプリントのことも忘れるくらい小毬のことしか考えられないくせに、今まで何をもたついていたのか。

うまくいって帰ってきたら散々つついてやろうと白石は思いつつ、さて、半分空白のプリントはどうしたものかと途方に暮れた。

 

 

 

一度家に戻って準備をしたら、すぐに新幹線に飛び乗ろう。今から向かえば昼過ぎには東京に着くはずだ。

今更行ったところでどうにかなるかどうかなんてわからない。

携帯電話の電源は切っているようで連絡もつかないから、うまく会えるかどうかもわからない。

だけど、行かなければならないと思った。

会わなければならないと思った。

 

だって、自分は小毬に―――何も伝えられていないのだから。

 

 

+++

 

 

「どの面下げて追ってきたの?」

 

新幹線で東京まで行き、在来線を乗り継いで白石に教えられた小毬の前の家の最寄り駅までやってきた謙也を待っていたのは、改札の目の前でどう見ても怒髪冠を衝いている巴と、彼女の後ろに静かに控えている従兄だった。

今更何故、なんてことは考えもしないが――白石が忍足に連絡したことくらい想像がつく――、後ろ暗いところがあるために怯えてしまうのは仕方ないことだと思いたい。

「巴、ステイ」

「侑士は黙ってて。私、すごく怒ってるの」

巴は黙っていれば絵に描いたような大和撫子だが、敵視したものに対しては容赦がないことを謙也は知っていた。夏のプールでの体験は、自分が対象だったわけでもないのにそこそこのトラウマになっている。

 

改札を出た直後に捕まり、問答無用で駅の隣にある緑地公園に引きずられてきた。クリスマス当日なだけあって、人は少ない。これがいいことなのか悪いことなのか、今の謙也には微妙なラインだった。

夏以来初めて顔を合わせる巴は、怒っているという言葉が可愛く見えるほど怒っていた。見ただけでわかる。

顔の造形は非常に美しい巴の怒った顔は、美しいだけに迫力がすごい。

謙也はまるで蛇に睨まれた蛙のように蒼くなって固まっていた。

胸倉こそ捕まれていないが、巴は今にも殴り掛かかりねない勢いで謙也をビシリと指さした。この際人を指さすのは行儀が悪いなんて云ってられない。

「云ったわよね、私。小毬ちゃんを泣かせたら許さないって」

「…おん」

 

それは夏に小毬、巴、忍足、謙也の4人でプールに行った時のことだ。

小毬が飲み物を買いに行き、忍足がトイレに立って、丁度巴と謙也がふたりになった時、巴が謙也に云ったのだ。

小毬が写真部に入部した時から巴は小毬を可愛がっていた。年の離れた兄しかいない巴にとって、小毬は妹のような存在で目に入れても痛くないほどに可愛い存在だった。

そんな小毬が、誰かを好きになったのだ。

たまたまその相手が自分の彼氏の従弟だというから、もしかしたらそう遠くない未来に親類になれるかもしれないとはしゃいでいた。

 

いつもキラキラとした目で自分を慕ってくれる小毬が可愛くて仕方がなかった。

姿を見つけると寄ってきて、こちらから話しかけると嬉しそうに笑顔になる小毬はまるで子犬のようで愛らしかった。

こんな可愛い後輩に懐かれて嫌な気分になる人間はきっといない。

努力家で真面目でひたむきな小毬を、巴は本当に大切に思っていた。

だから、彼女には幸せになってもらいたい。

笑顔が一番似合う子だから、いつだって笑っていてほしい。

涙なんて似合わないから、泣いてる暇もないほどに楽しく過ごしてほしい。

それなのに。

巴は震える拳を思い切り握り締める。少し掌に痛みが走った。爪が食い込んだのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

 

「好きじゃないなら仕方ないと思う。好きじゃないのに付き合えなんて、いくらなんでも云わないわ。だけど謙也くん、あなたはそうじゃないでしょ? あなたは小毬ちゃんのこと、好きだったんでしょ?」

 

―――泣かせないでよ。

―――悲しませたら許さないから。

 

そう釘を刺した巴に、あの日謙也は、驚いたように目を見開いてから神妙な顔になって頷いたのだ。

任せてくれと、はっきり云ったのだ。

好きじゃないのなら、あんなことは云わないで欲しかった。

だって、安心してしまったのだ。

この人でいいのだと思ってしまった。

小毬が好きになった人が、この人で良かったと、安心してしまったのだ。

 

それなのに、あれからまだ数ヶ月しか経っていないのに、小毬は泣いていた。

たくさん傷付いて泣いていた。

世間はクリスマスイブで、本当なら幸せに笑っていなければならないのに。

許せなかった。

一度は信じた、自分の彼氏の従弟。

謙也がこんな日に小毬を泣かせているという事実が、どうしようもないほどに腹立たしかった。

 

お前に関係ないと云われてしまえばそれまでだ。

事実、巴は当事者ではない。

付き添ってきている忍足だって、謙也の従兄ではあっても、謙也と小毬の恋模様にまで首を突っ込む権利はない。

他人事だと、切り捨てられたら仕方ないのかもしれない。

けれど、だけど。

 

―――大切な人たちの幸せを願うことは、余計なお世話なのだろうか。

 

「…ちゃう」

「は?」

「好きだったんと、ちゃう」

ずっと黙って巴の話を聴いていた謙也は、俯けていた顔を、漸く上げた。

何を、と激昂しそうになった巴は、しかしその前に謙也が発した言葉に、息をのんだ。

 

「今でも好きや」

 

過去形、ではなく。

―――今でも好きなら。

 

「……ッ、だから、だったらなんで泣かせるのよ!!!」

 

あの子が好きなら。

あの子だけは、泣かせてはいけないのに。

 

謙也は、小毬が好きだ。

その事実は、たったそれだけの言葉が、それを知った巴は、こんなにも胸を締め付けられるほどに嬉しい。

どうしてこの場に彼女がいないのだろう。

一番にこの言葉を聴かなければならないのはあの子なのに。

早く聴いてほしい。

それから、目一杯、幸せそうに笑ってほしい。

 

謙也は真っ直ぐに巴の目を見ていた。

さっきまではずっと俯いていたくせに、今だってまだ震えているくせに、それなのに、小毬を好きだという言葉だけははっきりと発した。

謙也は真摯だ。

そんなことはとっくに知っている。

だけど、それを見せるべきは自分ではなく、小毬であるはずだ。

それだけは我慢できない。

「もう、泣かせへん」

「そんなの信じられるもんですか!」

続けられた言葉に咄嗟に叫び返すと、ぽん、と肩に手が乗った。

先ほどまでは完全に傍観者を決め込んでいた忍足が、苦笑している。

「巴さん、キャラ変わってんで」

「うるさいってば!!」

また叫んで、巴はそっぽを向いて口をきつく結んで腕を組んだ。

しかしもう云いたいことは云いきったようで、満足したらしい。まだ目だけは鋭く謙也を睨みつけてはいるが、ひとまず気は済んだようだ。

 

少しホッとして息をつくと、今度は従兄のほうに名前を呼ばれた。一応気を引き締めて忍足を見たが、巴のようにわかりやすく怒っている様子はない。

いつものようなポーカーフェイス、何を考えているのかいまいち読めないのんびりとした様子で、忍足は一枚の紙を差し出した。

「謙也、ほいこれ」

「…地図?」

「津々井、今ここにおるで」

それは今いる駅からとある場所までの地図だった。

初めての土地で感覚はよく掴めないが、そう遠くはなさそうな場所だ。複雑でもないし、走ればそう時間もかからず辿り着けるだろう。

礼を云おうとして顔を上げた謙也は、ここで少し後悔した。

「あと、跡部から伝言。『二度目は、社会的に抹消されると思え』、だそうや」

「………はい……」

「で、俺からも一応一言云わせてもらうで」

忍足はポーカーフェイスが得意だ。

感情を隠すこと、コントロールすることに長けている。

だから、いくら従兄といえど気付くのが遅くなってしまった。

 

「次こんなくっだらんことで津々井泣かしたら、縁切るで」

 

―――忍足も、巴に負けず劣らず激怒していたことに。

 

感情をきれいさっぱり消し去った冷たい目で射抜かれて、謙也は背筋が凍ったような気がした。背中が冷たくて生きた心地がしない。

これは本気だと察した。

この従兄は、いざというときは本気で自分との縁を切るつもりだ。

そんなことにはならないと云い返したいところだが、あんまりにも忍足の目が怖いので謙也は頷くだけで精いっぱいだった。俺の従兄がこんなにも怖い。

 

コクコクと小刻みに頷く謙也に――名誉のために云うならば、決して震えているわけではない――にっこりと満足そうな笑顔を浮かべた忍足は、ああそうや、とわざとらしく両手を合わせた。

嫌な予感しかない。

そして、案の定。

「ついでにな、このこと、氷帝の連中もとっくに知っとるからな。あいつら異常に津々井のこと気に入っとるし、次会うた時いろいろ気ぃつけやー」

「は、薄情者…!」

「馬鹿に云われたないわ」

関西人にとって馬鹿は禁句である。

それをわざわざ使うあたり、忍足の静かな怒りが見て取れてまた謙也は心臓がきゅっと締まる思いだった。怖すぎる。

怯える謙也を見た忍足は、小さく息をついてから、今朝白石がしたように握った拳を謙也の胸に軽く当てて云った。

「はよ行ったり」

「…おん」

「しっかりしなさいよね!!」

「う、うっす!」

大切な従兄に背中を押され、巴には少々恨みの籠った手痛い平手を背中に食らい。

最後に小さくふたりに頭を下げ、謙也は走り出した。

 

彼らが怒る理由なんて、とっくの昔に知っている。

今まで何も云わずにいてくれたことのほうが奇跡だったのだ。

自分は、怒られるべくして怒られた。

わかっている。

だから、いい加減、現実を見つめなければならない。

 

そこからは一度も忍足と巴を振り返ることなく、まっすぐに小毬の待つ公園へ、走った。

 

 

+++

 

 

走る。

走る。

あまり慣れない土地だけれど、幸い地図は読めるので、出来る限り急いで行く。

今行ったところ小毬が本当にいるのかもわからないけれど、少しでもそこに彼女がいる可能性があるなら行かなければならないと思っていた。

 

たくさん泣かせてしまった。

たくさん悲しませてしまった。

たくさん苦しめてしまった。

もしかしたら、自分と一緒にいることで小毬は辛い思いをするのかもしれない。

そんな嫌な考えが頭を過った。

思わず立ち止まりそうになる足を叱咤して、ぐんとスピードを上げる。

 

―――それでも。

 

小毬。

小毬。

心の中で、何度も呼ぶ。

 

謝らなければならないことがある。

話したいことがある。

告げたい言葉がある。

 

もうもしかしたら君には届かないのかもしれないけれど。

 

それでも君に、伝えたい。

 

まだこの声が届くなら、聴いてほしい。

 

 

―――君が好きだと、伝えたい。

 

 

無我夢中で走り続け、漸く辿り着いた大きな公園の中、ブランコの前にぽつんと佇む彼女の姿を見つけた。

そうして、乱れる息にも構わずに思わず叫んだ。

 

「―――小毬!!」

 

ゆっくりと顔を上げた彼女は、大きく目を見開いて―――小さく口を動かした。

その声はあまりにも遠く、小さくて聞こえなかったけれど。

 

自分の名を、呼んでくれたように思った。

 

 

 

 

 

7.きみの温かさを知る

 

 

 

どうして、ここに。

そんな問いは口には出来なかった。

今目の前で起きていることが信じられなくて、ただただ呆然とする。

ここは東京だ。

間違っても大阪ではない。

だからここにこの人がいるのは、絶対におかしいのだ。

 

「―――謙也さん」

 

絞り出した声はか細く、きっと小さすぎてあの人まで届いていない。

肩で息をする謙也さんは汗だくで、一体どれほど走ったのだろうかと意識の外で考えたのは一種の現実逃避だ。

 

「ごめん、小毬」

 

東京のど真ん中にあるこの公園は、いつもだったら小さな子供や老人がのんびりする穏やかな場所だ。

しかしさすがにクリスマスまでこんなところに来る物好きはいないらしく、さっきまではあたしが寂しくブランコに揺られているだけだった。

確かに土地としてはそこそこ大きいけれど、別に何か有名な何かがあるわけでもない、何の変哲もないただの公園だ。

どうして、と思わずにはいられない。

あたしがここに来ることは誰にも話していないし、そもそも謙也さんは東京の地理には明るくないはずなのに。

どうしてここがわかったのだろう。

 

それに、どうして、何を―――謙也さんは、謝っているのだろう。

 

わからないことが多すぎて、うまく処理できない。

そこまで考えてハッとする。

今日あたしにここに行くように指示してきたのは景吾さんだ。

今朝、なんの前置きもなくメッセージに『14時にいつもの公園。他言無用』とだけ書かれていて、理由を尋ねても返事はないし電話も出てくれず、仕方がないから重い足を引きずってここまでやってきたのだけれど。

 

ハメられた、と気付いたときにはもう遅い。

馬鹿みたいに呆けていることしか出来なくて、その間に謙也さんはまた走ってあたしの目の前までやってきた。

お互いに手を伸ばせば、届く距離。

こんな近くで謙也さんを見たのは、一体いつ振りだろう。

そう考えると無性に悲しくなって、胸が痛い。

 

「俺、ずっと不安で」

 

何が、と問いたいのに、唇が硬直してしまった開いてくれない。

呼吸が出来ているかも自信がなかったけれど、立っているということはきっと息はしているのだろうとあたりをつけて、そんなつまらない思考は意識の外に追いやった。

謙也さんは続ける。

 

「俺なんかが小毬に釣り合う男になれるわけあらへんって思っとって」

 

意味が分からない。

釣り合うとか釣り合わないとか、どうしてそんなことを考える必要があるのだろう。

だってあたしは景吾さんとは違う。

守らなきゃいけない立場なんかない、ただの中学生だ。

ちょっと花と写真で評価されてるけど、こんなもの、世間からしたら何にもないのと同じもので。

 

「小毬には他の男が似合うなんて、嘘や。傍におりたい。小毬の隣には俺がいたい」

 

―――それは、ずっと聞きたかった言葉。ほしかった言葉。

 

涙があふれたのは、悲しいからじゃない。

 

「あた、あたしだって、ずっと不安だった」

 

吐露。

もう、一度口を開いてしまえば自分で止めることなんて出来なかった。

堰を切ったように、次から次へと言葉を吐き出した。

 

「謙也さん、傍にいてくれるくせに、抱き締めてくれるくせに、キスだってしてくれるくせに、全然好きって云ってくれなくて」

 

隣に立って、寄り添って、抱き合って、キスをして。

謙也さんの暖かさを知っているのに、どれもこれもが虚構なのではないかと疑わずにはいられなかった。

 

「いつまで待てばいいのかなんてわかんなくて」

 

あの夏の日からずっと、傍にいるのが当たり前だった。

謙也さんの隣があたしの場所だった。

それは言葉にはしたことはなかったけれど、きっと謙也さんもそう思っていてくれたことなのだと思う。

 

けれど、この当たり前がいつまで続くのかわからなくて。

設けられなかった期限が、いつ終わるのかわからなくて。

 

「―――ずっと不安だった!」

 

幸せなのに、どこか不安で。

ともすれば叫びだしたくなるような不安定な気持ちは、より謙也さんの傍にいることで抑え込んでいた。

それが出来なくなったのがこの冬で、だから毎日不安で仕方がなくて。

そうして、あの日の謙也さんの言葉に、あたしのすべてが崩壊してしまったのだ。

 

「待たせてごめん」

 

息を呑む。

謙也さんは一度深呼吸をしてから、ゆっくりと瞬きをする。

その様子を、あたしはどこか遠いところの出来事のように眺めて。

次に謙也さんと目が合った時、まるで時間が止まったように感じた。

 

 

「小毬、好きや。ずっと前から、好きやった。

 

―――俺と、付き合ってください」

 

 

待っていた言葉。

ずっと欲しかった言葉。

 

優しく鼓膜を揺らしたその言葉は酷く甘美で、胸がいっぱいになった。

一度口を開いて応えようとして、嗚咽のせいでちゃんと言葉にならなくて、二度三度それを繰り返してから、漸く。

 

「―――遅い!」

 

叫んで、地面を蹴る。

手を伸ばす。

もういい、我慢なんてしない。

流れる涙もそのままに、あたしは謙也さんの腕の中に飛び込んだ。

 

「あたしも好き。大好き、謙也さん」

 

それから、磁石がくっつくみたいに、あたしたちはキスをした。

涙のせいでしょっぱくてそれがおかしくて少し笑って、それからまたキスをした。

何度も何度も、キスをした。

暖かくて優しくて、まるで今だけ春になったみたいな気持ちだった。

 

 

 

遠回りをした。

寄り道もした。

余計なこともたくさんしたし、いろんな人を巻き込んでしまった道だった。

だけどやっとたどり着いた。

ここに、一緒に来たかった。

謙也さんの隣で、あたしは歩き出したかったのだ。

 

「帰ろ、小毬」

「はい!」

 

手をつなぐ。

あなたの暖かさを知る。

 

 

未来はきっと、寂しくない。

 

 

 

 

 

*****

 

これにて『オー・マイ・リトルガール!』は終了です。

最初10話で終わらすとかあほなこと云ってましたがそんなことになるはずがなかった! 知ってた!

書いてる間にどんどん最初の構想と変わっていって、作品は本当に生き物だな、と実感しました。おかげさまで考えてた当初考えていた最後とは全く違ってしまいました。でも楽しかったです。

あとすみません、忍足(侑)彼女の巴さんは、番外編で出すつもりでまだ書き終わってませんでした。夏にWデートするよ!(っていう話を後ほどアップします)

 

長々とお付き合い、ありがとうございましたー!



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あの日(番外編)

「謙也さんって、前に白石先輩に何かしたんですか?」

「へ?」

 

その話題は唐突だった。

現在昼休み、会議室。

小毬は頼まれた花を活けており、謙也はそれを眺めながら弁当をつついていた。

もはや小毬が学校中の花を活けているのは日常の一部となり始めた、ある夏の日のことだった。

思わずポロリと唐揚げを落としてしまった謙也がなんでや、と問うと。

「なんとなく」

しかし、なんとなくで生まれるような問いではないはずだ。

きっと彼女なりの根拠があるはずで、それは知らなければならないことだと謙也は思う。

すると小毬は、うーんと小さく考えながら大振りの百合を取り出して長さの調節をする。この花瓶のメインとなる花だ、細心の注意を払わなければならないので、少し謙也は答えを待った。以前、タイミングを間違えて話しかけてものすごく怒られた覚えがあるのだ。基本的に謙也は学習の人である。

 

それから数十秒、息すら止まるような静かな空気の後、するりと百合を花瓶に差し込んだ小毬は次の花を取り出しながら続けた。

「なんていうかな、違和感があって」

違和感。

そんなものが自分と親友の間に存在するのだろうか、とにわかに信じられず首を傾げると、ぱちん、と花の茎を切り落としながら淡々と小毬は云う。

「仲がすっごくよさそうなのはわかるんです。でも、どこか謙也さんが白石先輩に…遠慮してるように感じました」

「………」

「あたし、写真もやってるから、自分の周囲のことってよく見ちゃうんです。だから、謙也さんの違和感にも気付いちゃいました」

そういうの嫌だったすみません、と謝る小毬に、内心謙也は驚いていた。

 

気付かれるなんて思わなかった。

気付く誰かがいるなんて、思いもしなかった。

そうだ、自分は確かに遠慮している――というよりも、負い目を感じている。

 

一年前のあの日、全国大会。

立海大付属とのあの試合が、今でも謙也の心に重くのしかかって離れてくれない。

自分のせいで負けてしまったことも、先輩に繋げなかったことも、実を云えばどうだっていい。

そんなことよりも、白石に試合をさせられなかった、その一点だけが謙也の心残りだった。

あの日からずっと、謙也は白石に負い目を感じている。

消せることのないあの日の結果、覆せない日。

どうしたら彼に報いることが出来るのかわからないまま、今年も夏がやってきてしまった。

 

「謙也さん」

花は活け終わったのか、いつの間にか小毬は謙也のすぐ傍に立っていた。どうやらぼうっとしていたようだ。

「…大丈夫?」

頬に触れる、さっきまで花を扱っていた手。

水によく触れるから、決して滑らかなものではないその手は、けれど謙也にとってはこれ以上ないほど優しい手に思えた。

 

少しだけ目元に水分を感じて、ぎゅっと謙也は目を瞑る。

今は涙を流していい時ではない。そもそも自分が泣くのはお門違いの自己満足だ。

 

代わりに、縋るように小毬の手を握り、空いたほうの手で軽く抱き寄せた。小毬の身体は、思ったよりも簡単に謙也のもとにやってきた。

「…ああ、平気や」

小さな肩に額を預け、呟く。

「…もうちょい、このままでええか?」

拒絶されてしまうだろうか。

何せ、自分たちは付き合っていない。

 

好き合っている自覚はあるのに告白に至っていなのは、ちょっとした理由があるのだけれど、その話は今は関係のないことだ。

自分たちの関係は酷く曖昧で歪なものだった。

そんな関係を気に入ってしまっている自分も、また歪んでいる。謙也は自嘲したが、顔は小毬から隠れているので彼女がその自嘲に気付くことはないだろう。

恋人でもない相手に肩を貸すなんて、実はかなりプライドの高いこの少女が許してくれるものか、謙也には自信がない。

けれど。

「…はい」

少しだけ照れたような、承諾の声。

ああ、たまらなく愛しい、と思った。

許可の言葉に安心して、謙也はそっと目を閉じた。

 

あの日の後悔は消えない。

きっと一生忘れはしないだろう。

けれど、何故だろう。

 

この心優しい子が傍にいてくれたら、それだけでその後悔と向き合えるような、そんな気がした。

 

 

 

 

 

*****

 

実は根暗は謙也さんのほうだったちゅー話や



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あたたかなてのひら

夏が終わり、秋の涼しさにも慣れてきた10月。

すでに部活を引退している謙也は、たまに放課後に部活に顔を出すぐらいで暇を持て余していた。

勉強しなければならないのはわかっているのだが、そもそもあまり勉強は好きじゃないし、どっちかというと動いていたい。だから引退した最初の頃はちょくちょく部活に顔を出していたのだが、そのうち鬱陶しくなった財前に出禁を食らってしまい、以降解禁されてからは週1回か2回くらいしか顔出しを許可されておらず、ものすごく暇だった。

ならば今こそ小毬と一緒に過ごせばいいものを、しかし秋というのは芸術の秋。夏以上に展示会やコンクールに、いろんな伝手から引き受けた仕事が山積みになっていて全く小毬が捕まらない。

夢のために奔走する彼女はとても魅力的だけれど、目下やることのない謙也は寂しいばかりだった。

今までは学校内でもそこそこ見かけていたのに、今はほとんど見かけない。まるで最初の意図して逃げられていた頃を思い出してちょっぴりしょっぱい気分になったが、教室に顔を出してみると、机にかじりついて紙と格闘している様子から、おそらく次の作品の構想を練っているのだろうと予想がついて声をかけるのも憚られた。

構ってほしいけれど、だからと云って真剣な小毬の邪魔をするのは違う。

自分だって大会前から大会期間中はテニスばかりで全然小毬に時間を割いてやれなかったのだから、これはお相子だ。

 

そんな寂しい期間をおとなしく過ごしていたご褒美だろうか。

今日も今日とて暇を持て余して帰るしかなくてのろのろと靴を履き替えていた謙也の背中に、聞きたかった声が降りかかった。

「謙也さん!」

犬のような反射真剣でパッと振り向けば、予想通りそこにいたのは小毬だった。ここ数週間、まともに声すら聞いていなかった大好きな声。

なんだか、久しぶりに見るとものすごく可愛くなったように思うし、声だってこんなに可愛かっただろうか。耳に蕩けるようにしみ込んで、脳みそから何から溶けてしまいそうだ。

「今帰りですか?」

「おん、小毬も?」

「はい、さすがにテストが近いので花も写真も控えて、勉強します」

「ほな、一緒に帰ろか」

提案すると嬉しそうに頷く小毬が可愛くて、ここが学校でしかも昇降口ということさえ思い出さなければこの場で抱き締めていた。

 

 

+++

 

 

「あ、焼き芋屋さん」

帰り道、公園のわき道を通りかかったところで小毬がふと足を止めた。謙也も習って小毬の視線の先を追えばそこにいたのは昔ながらのトラック売りで。

「謙也さん、焼き芋食べません?」

「いいな、食おか」

両手を上げてはしゃぐ小毬が可愛くて今日も生きるのが楽しい。

もうなんぼでも買うたるからおっちゃん引き留めて来なさい。

世界の美しさを実感していると、珍獣を見るような目で見られた。しかし今の謙也にとってはそんな視線すらご褒美である。何故なら小毬が存在している世界すべてを美しいと感じているのだから。

ちょっと間違えれば怪しい宗教である。

しかし小毬も慣れたのか諦めたのか、今にも拝みだしそうな謙也は放ってさっさと焼き芋を買いに行っていた。ちなみに賞金だなんだと金銭面では困っていないので、ちゃんと自分で買うつもりである。が、それでは謙也が納得しないので、仕方がないので暖かいお茶を買ってもらうことで解決させた。

 

「あったかい~」

「ほんまやなぁ」

道端で買った焼き芋を半分にして、のんびりと歩きながら食べるというこのほのぼのっぷりに、謙也は頬が緩むのを止められない。

今まで忙しくて会えていなかったというのも全部チャラに出来るくらいの充足感だ。

焼き芋は美味しいし、小毬は楽しそうだし、自分は満足だし、これってもしかしたらものすごく幸せなことなんじゃないかと気付いて感動に泣きそうになる。ああ、空が茜色。

なんてちょっとひとりで感傷に浸っていると、ちょいちょい、と裾を引かれた。見れば小毬が空いた手で謙也の制服の裾を引っ張っていて。

「謙也さん、手、貸してください」

「手?」

もう可愛い。

やることなすこと全部可愛い。

実は口の端に芋のかけらがついているのだけれど、それすら可愛いので云わなくていいだろうか。

いやでもこれは云わないと後で怒られるパターンだと判断し、先に指摘してから手を差し出す。

小毬は慌てて芋を取って軽くハンカチで口元と手を拭いて、気を取り直してから謙也が差し出した手を改めて取った。

「んふふ」

「…なん?」

さっきまで焼き芋を持っていたのでほんのり暖かい手で謙也の手を取り、存在を確かめるようにぎゅっと握ったり撫でたりする。

正直動揺する。

その触り方!

絶対小毬は意識してないし、そんなつもりも全くないのだろうけど、健全な謙也くんは男の子である。

そんな風に触られたら、意識しないわけにはいかない。

 

あかん。

ちょっと待って。

落ち着くから待って。

落ち着けるから待って。

冷却ワード唱えるから待って!

と、心の中で鉄板となった冷却ワードを唱え始めると、ついに小毬は甘えるように謙也の腕に抱き着いた。

 

当たっています。

どこがとは、云いませんが!

もう謙也の煩悩は爆発寸前である。

そんな謙也の葛藤など知る由もない小毬は、謙也が抵抗しないのをいいことに上機嫌に謙也の腕に顔を寄せた。身長差が大きいので、丁度謙也の肩の下に小毬の顔が来る。正直、抱き締めるには最高の身長差だ。

これはもう抱き締めていいのだろうか。

むしろ小毬から抱き着いてるしいいよね!?

誰にともなく確認をとっていた謙也に、ぽつり、と小毬は零した。

「あたし、謙也さんの手、すごい好きです」

「ん!?」

「安心するっていうか、なんか、えへへ」

ふにゃり、と。

そんな気の抜けた可愛い顔をされて、しかも下から見上げられて、一体自分をどうしたいというのだろうか。この小悪魔め。

きっと小毬に自覚はない。

何せ自分が可愛いと本気で信じていないくらいだ。

自分以外への審美眼は絶対の自信を持っているくせに、どうして毎日鏡で見ているであろう自分の顔が整っていることだけは信じられないのか心底不思議だった。

 

ナルシストになれとは云わないが、少しくらい自分の顔に自信を持っても罰は当たらないと思う。

そうでないと、こっちの身が持たない。

「…可愛すぎやろ」

「…そ、そんなお世辞云っても、なんにも出ないですよ?」

「………」

小毬は照れた時、唇を尖らせて目を逸らす。

最近気づいた小毬の仕草の中で、謙也はこれが断トツでお気に入りだった。とはいっても謙也の会話術ではとてもじゃないが一枚も二枚も上手の小毬を照れさせることなんて出来ないし、むしろいつも小毬の言動に振り回されて照れてばかりなのは謙也の方だった。

だからこういうとき、ちょっとだけ嬉しくなってつい云ってしまった。

「…ないん?」

「え!?」

「残念」

「え、ちょっと、け、謙也さん…!?」

顔を真っ赤にして焦る小毬が可愛くて仕方なくて、やっぱり抱き締めてしまいたい。けれどここは天下の往来、こんなところで抱き締めたら間違いなく鉄拳が飛んでくる。そして間違いなく一週間は無視される。非常につらいけれど、無視されるほうが辛いのでここは我慢するしかない。

理性を総動員して抱き締めたい衝動を抑え込み、どうにか平静を装って笑う。

「はは、冗談やって」

「ううう、もう!」

今更照れが限界突破したのか、小毬はハムスターのように頬に空気を詰め込んで顔を真っ赤にして離れてしまった。

ああ、こうなってはそれすらも可愛いというのに、自覚がないのはだから恐ろしい。

 

可愛くてたまらない。

笑う君が、

照れる君が、

俺を見る君が。

君のすべてが可愛くて、だから俺は不安になる。

 

「小毬、ほら」

 

―――俺は、君に釣り合う男に近付けているだろうか。

 

ふと考えてしまうのだ。

待っていてほしいとは伝えた。

待っていると云ってくれた。

けれどその期限は一体いつまでだろう。

自分が胸を張れる男になる前に、小毬はもっと魅力的になっていってしまう。

長いまつ毛、桜色の唇、華奢な身体、優しい笑顔と心地よい声。

その全てが魅力に溢れていて、眩しくて仕方ない。

追いつけない、と焦る。

小毬を好きな気持ちに嘘はないけれど、気後れしてしまうのも本当で。

いっそ諦められたら、とさえ思う。

自分より魅力のある男はここにはたくさんいて、白石なんかはその筆頭だ。

小春とも仲が良いようだし、財前があんなに懐いているのも珍しい。

氷帝のメンツも少なからず小毬に好意を持っているようだし、それこそ顔面偏差値だけなら自分なんて到底及ばない。

自分なんか、と思う。

けれど思う反面、やっぱり自分は、とも思う。

その度に自己嫌悪に苛まれるのに、結局は諦められない。

 

だって、自分は小毬が好きだから。

 

「帰ろ」

 

謙也が手を差し出して。

 

「…はい」

 

小毬が手を握る。

 

ただこれだけのことが、どうしようもなく嬉しくて、愛おしくて仕方がない。

繋いだ手は暖かく、心までも温まるようだった。

寄り添って歩く、なんでもないこんな日常が幸せで、どうしてこれ以上を望めるだろう。

 

与えられるこのひと時が、ただ幸せだと、思った。

 

 

 

 

 

*****

 

これで付き合ってないとか嘘やん

って私も思ってます



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ミラーボールの憂鬱(番外編)

「俺と付き合ってくれへん?」

 

うわ最悪。

 

ベタの上にベタを重ねたベタな展開だが、ゴミ捨てのために正規の道ではなく近道をしていた一氏ユウジは顔を顰めた。

ここは裏庭の目立たない一角で、四天宝寺では有名な告白スポットになっていたことを今更思い出したのだ。

どうにか自分の存在は彼らにバレずには済んだようだが、引き返そうにも足音やら物音で気付かれてしまいそうで動けない。

告白が終わったなら返事してさっさとどっか行け、と念じたところでそんな願いが通じるはずもなく、一組の男女はまだ移動しそうになかった。

 

(しかも何が最悪って)

 

告白した男子生徒の方は、クラスは違うが知っている。

サッカー部のエースストライカーの一条はイケメンだと有名だが、正直身内目を抜きにしても白石のほうが格好いいと思う。

しかし一条はあまりいい噂は聞かない。顔はいいが性格がよろしくないとクラスの女子が話していたことがあって、その時は興味がなくて聞き流していたのだが、なるほどと思わず納得してしまった。

何故なら一条と、今告白を受けた女子生徒にはほとんど関りがない。いや、自分だって別に彼女とそこまで仲が良いわけではないので細かいところまでは知らないが、部活に所属していなくても彼女の私生活が忙しいことは知っている。

そんな彼女に告白するのだから、おそらく一条は彼女の顔しか知らずに告白したに違いないのだ。まぁこれは一氏の予想でしかないが、多分当たっている。

 

「ご、ごめんなさい…」

 

間違いであれ、と柄にもなく思ってしまった、彼女は津々井小毬。今年度になってから四天宝寺に転校してきた2年で、何の因果かテニス部とよくよくかかわることの多い不思議な女子だった。

顔は確かに可愛らしい部類だろう。少し小柄だが子供っぽいわけでもないし、むしろこれからの成長が楽しみになりそうな、いうなれば磨けば光る原石の予感を抱かせる少女だ。

が、一氏は知っている。

というかちょっと彼女と仲良くなって、彼女の仲の良い氷帝の跡部景吾――というと烈火のごとく怒るので云えない――とのやり取りを一度見れば、小毬がただ可愛いだけの子でないことはすぐにわかる。少なくとも一氏は、例えこの世に金色が存在しない世界だったとしても小毬を彼女にしたいとは思わない。妹くらいなら歓迎するが、異性としては見られない。運動神経は悪い癖に、喧嘩となると驚く瞬発力で跡部に掌底破を食らわせていたあの衝撃は、忘れようにも忘れられない。あんな彼女怖くて嫌だ。

 

ともかく小毬は一条を振った。

もう終わったんだからさっさといなくなってくれないと、ゴミを捨てられない。部活に遅れると金色と一緒にいる時間が減るから、これは死活問題だ。

しかし一氏の願いはまたも空しく裏切られることとなり、振られたにもかかわらず一条はまだ小毬に食い下がった。

「付き合ってる人おらんのやろ? なら、お試しでどや?」

「い、いやぁ…」

往生際が悪いことである。ハッキリ云ってダサい。かっこわるい。見苦しい。

小毬も顔をひきつらせているのに、そんなことは気にも留めずにぐいぐいと自分をアピールしている様子は寒々しい。勝手に見ておいてなんだが、ものすごく不愉快だった。自分の顔がどんどんしかめっ面になっていくのがわかる。

これ以上はとてもじゃないが耐えられない。

もういっそ出て行ってしまおうか。

笑いを取りに行く調子で飛び出したら、この胸糞悪い空気がブチ壊れたりしないだろうか。

そんなことを感が始めた時だった。

 

「それとも、忍足と付き合ってるって噂はほんまなん?」

 

今にも飛び出しそうになっていた足が止まった。ついでに呼吸も止めた。

一条の声は試すような声色で、取りようによっては面白がっているようにも聞こえる声だった。それも面白くない。

「…いえ、付き合っては、いないんですけど…」

答える小毬の声は弱弱しい。

思わず一氏は小さく舌打ちをした。

一氏の知っている小毬はいつもやかましいほど元気で溌溂としていて、こんな吹けば飛びそうなか弱い小毬なんて気味が悪い。

しかもそんな一面を見せているのが自分たちや謙也ではなく、振られた相手に食い下がり続けるようなつまらない男相手だという事実が異常に腹立たしかった。

「ならええやん。損はさせんと思うし」

「損とかそういう問題じゃなくてですね…」

ああいう輩にはきっぱり云わねばわからない。それは小毬もわかっているだろうが、一応先輩だから気を遣っているのかもしれない。彼女は意外と上下関係を気にする。その割には跡部に対してだけはやたら強気だが、まぁいろいろあるんだろう。

 

しかし一条の俺アピールが止まらない。やれこの間の試合ではハットトリックしただの夏の大会では府ベスト4になったとか強豪校から推薦をもらう予定だとか。残念ながら小毬と付き合いの深いテニス部は府ナンバーワンだし全国ベスト4だ。比較対象としてお話にならない。

そもそも小毬はそんなことで付き合う相手を判断したりはしないので、一条のアピールは完全に見当違いなのだが。

自分の彼女になることがどれだけ素晴らしいことなのかを語り始めたところで、我慢強い小毬にも限界が訪れたらしい。

あの、と一条の言葉を遮ってしっかりと一条を見つめて云った。

「とにかく、あなたとはお付き合いできません。ごめんなさい」

きっぱりと云って頭を下げる。

さすがにそこまでされて食い下がることは出来なかったのか、一条は項垂れて去っていった。少し名残惜しそうに何度か小毬を振り返っていたが、小毬は頭を下げたまま微動だにしない。

一条の足音すらも消えた頃に漸く顔を上げた小毬は、疲れたように大きく息を吐き出した。

 

…そろそろ頃合いだった。

 

ゴミ箱を抱えてひょっこりと顔を出して、よ、と声をかける。

「すまん、見てもーたわ」

「ひ、一氏先輩!?」

このまま小毬が立ち去るまで待ってゴミを捨てて、何事もなかったかのように部活に向かうことも考えた。

が、これはいい機会だと思う自分もいて。

「なあ、いっこ訊いてええか?」

「…はい?」

まさかこんなシーンを誰かに見られるとは思っていなかったのか、赤くなったり青くなったり白くなってみたりと明らかに挙動不審になっている小毬に、一氏はずばり問いかけた。

 

「なんで自分、謙也と付き合わへんの?」

 

多分、気になっているのは自分だけではないはずだ。

何せ小毬がテニス部と関わるようになったのは謙也が間に立っていたからで、財前もクラスが隣だから仲が良いというのは知っていたが、それだけではないくらいはすぐにわかる。

基本的に小毬は愛想がいい。というか、人との距離の取り方がうまいのだろう。だから自分のような普通だったら倦厭されてもおかしくないような性格の誰か相手でも物怖じせずに付き合える。

白石のようなそつのなさとはまた違うが、するりと人の心に触れてくるあたりは素直にすごいと思う。

 

小毬と、謙也。

ふたりの間に何があったのかは知らない。テニス部に関わるようになった春頃のことも、氷帝との練習試合があった夏のことも、何かあったのかはわかっても、その内容までは知らないし、実を云うとそこまで興味もない。

けれど、あのふたりが一緒にいるのは心地よいと思うのだ。

別に恋のキューピッドを目指すわけではないが、ただあのふたりが笑いあっている様子は、嫌いじゃない。

「…金色先輩に聞いてないんですか?」

「小春はなんも云うとらん。でもわかるやろ、普通」

いつものふたりを見ていれば、わかるに決まっている。

ふたりとも誰に対しても笑顔の絶えない性格だ。

そのふたりの笑顔が、お互いに対してだけは違っていた。

 

愛しいと、大切だと。

その視線は確かに告げていて。

 

ああ、そうなのか、とすとんとすぐに納得がいった。

そういうことなのか、と腑に落ちた。

 

それなのに未だふたりが恋人同士ではないのだと知ったときは純粋に疑問だった。

誰よりも似合いのふたりが手を取り合わないのは何故だろうと、不思議で仕方なかったのだ。

どうも金色は事情を知っている様子だったが、それを問いただすほど一氏は野暮ではない。

けれど今ならば訊いてもいいだろう。

タイミングも手伝って、丁度疑問をぶつけてみたわけだが、小毬は困ったように笑ってから口を開いた。黙秘するつもりはないらしい。

「待っててって、云われて」

ぽつり、と小毬は零す。

夏に謙也に告げられたこと。

以前に金色に話したこと。

 

それを黙って聞いていた一氏は、一通り聞き終わってから思い切り息を吐き出した。

「ほんでおとなしく待っとるわけか。健気やなぁ」

待てと云われて待って、誰が見てももどかしい関係を続けているというわけだ。

これを健気と呼ばずになんと呼ぼう。全く気遣いもクソもない、10枚くらい重ねたオブラートをすべて取っ払っていいならば、残った良心で控え目に云っても馬鹿だと思うが。しかしはっきりとそう口にするほど一氏は心ない人物ではなかった。

「しんどくないんか?」

代わりに、訊ねる。

「…いいんです、このままでも」

俯いて、視線は下に。

その視線が痛々しすぎて、思わず一氏はがしがしと頭を搔いた。

 

口を出すつもりはなかった。

自分はそこまでお人よしじゃないし、お節介でもないつもりだったから。

でも、見てしまった。

知ってしまった。

自分の大切な仲間を想って悲しむ少女がいることに、気付いてしまった。

 

「あんなぁ、嘘つくならもっとしゃんと嘘つかんかい! そんな顔で云われても信じれるわけないやろが!!」

 

きっと小毬に悪気はない。そして、おそらく待たせている謙也にも。

ふたりにはふたりの事情があって、それを一氏は知らず、そこまで踏み込むつもりもなくて。

けれど知らないなら知らないなりにも思うことはあって、一氏はそれを間違っているとは思わなかった。

「しんどいならしんどいでええやろ。ほんで、謙也に云ったらええやんか」

それで終わるならそれまでだったということだ。謙也が終わらせるわけはないだろうが。

小毬もそれはわかっているだろう。

けれど、と小毬は首を振る。

ゆっくりと、しかし確固たる意志をもって。

「謙也さんが困ったら嫌ですから」

「自分は傷付きっぱなしやっちゅーのに謙也の心配か? アホくさ」

「アホでいいです」

「あんなぁ!」

 

「だって、あたしはもう十分幸せなんです」

 

思わず激高しそうになって、かちり、と合う視線。

まっすぐに自分を見る小毬の視線に嘘や強がりは見られない。

今のままでも幸せだと、それは確かに本心だろう。

明確な言葉にせずとも、傍にいられる、笑っていられる。

けれどそれが終着点ではないはずだ。

 

―――それ以上の幸せは、あるはずなのだ。

 

望んだって誰も怒ったりはしない。

むしろ望むべきだと思う。

それなのに、これでいいのだと小毬は笑う。

「…ほんまもんのアホやな」

この言葉は呆れから出たものだけれど、決して馬鹿にしたわけではない。

なんて純粋で欲のない子なのだろうと思う。

とてもじゃないが、自分が小毬の立場だったらそうはいかないだろう。

好きな相手がいて、その相手も自分を憎からず思っていて、けれど気持ちを言葉にする前に待ってほしいだなんて云われたら。

幸せだなんて思えない。

短気な自分のことだから、だったらいい、と切り捨ててしまうかもしれない。縋ることはないと思いたいけれど、実際そんな立場に置かれたことがないので自信がなかった。

 

小さく笑う小毬は、きっともう決めているのだろう。

待つと。

いつか謙也が手を伸ばしてくれるその時まで、変わらず傍で待つと決めたのだ。

ああ、ならば。

「小春も云うたと思うけどな、相談くらいになら乗ったるで」

「…一氏先輩、モテるでしょ」

「小春にモテな意味ないねん」

そもそも、お前には云われたくない、と一氏は思う。

謙也も嘆いていたし、傍から見ているだけの自分でもわかるくらいだから事実なのだろうが、どうやら小毬は自分の見た目がすこぶる良いという自覚がないのだ。

確かに絶世の美女というわけでも派手なわけではない。例えば白石のようなわかりやすい美形でもない。

が、見る人が見ればすぐに気付く。

顔の造形の問題だけではなく、小毬は綺麗だ。今はまだ可愛らしい要素のほうが強いが、もう1、2年もすれば化けるだろう。

 

本能的に悟ったのか単に今の見た目に惹かれたのか知らないが、一条のような輩も出てくるくらいだ。それに直接小毬に告げていないだけで彼女に好意を寄せている男子生徒は大勢いるに違いない。

自覚がないというのは斯くも恐ろしいものなのか、と呆れて吐き出せば。

「―――あたしも」

小毬の声に、弾かれるように小毬を見る。

声が震えていた。

 

「あたしも、謙也さんにモテなきゃ、意味ないです」

 

云って笑う小毬は今にも泣き出しそうで。

 

(なんでお前、こんな子待たせとんねん)

 

一氏は小毬に対して恋愛感情なんか微塵もないし、これから先だって抱くことはないだろう。

でも、だからこそ思う。

 

(はよう捕まえたれ、アホンダラ)

 

この一途で真面目で愛らしい後輩は、謙也の隣で笑っているのがお似合いだ。

近い未来、ちゃんと心からふたりの幸せを祝えるように、と。

 

―――願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

*****

 

ユウジは意外と面倒見いいんじゃないかなって思うわけで



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