それでも彼女は美しかった (ふぇるみ)
しおりを挟む

第一部
序章:彼女が生まれた日


この作品は東方Projectの二次創作です。独自設定、独自解釈が含まれますのでご注意ください。


 ただ、茫然と立ち尽くす。

 楽園の巫女、博麗霊夢は胸からこみあげてくるその感情が理解できなかった。

 

「どう、して…………?」

 

 おそるおそる自らの頬に触れてみれば、指が濡れていた。どうやら、気づかぬ間に涙を流していたようである。

 無性に大きな声を上げたくなった自分に、驚愕すらした。

 

 どうして自分は涙しているのか、どうしてここまで感情を揺り動かされているのか。『空を飛ぶ程度の能力』をもち、あらゆるものから“浮く”ことのできる自分が、なぜ? 

 浮かぶ疑問は絶えなかったが、この動揺は、目の前にいる存在によるものだと霊夢の直感が訴えかけていた。

 

「(ああ……そうか)」

 

 生まれ持った能力ゆえに己と向き合うことがなかった霊夢は、ここでようやく理解する。自分がどうしてこうまで動揺させられているのかを。

 

「(ずっと、寂しかったんだ。()()()()()()()。私は……)」

 

 桜吹き散る白玉楼。霊夢の視線の先には、日傘を差した一人の少女が立っている。紫色のドレスを優雅に着こなし、金色の髪をなびかせながら桜を眺めていた。

 

 風が吹く。

 

 彼女の手に持つ日傘が、ふわりと空を舞う。

 しかし天高く昇っていくそれを気にするでもなく、ただ、枯れた一本の桜の大木を眺め続けている。

 

 できるなら、もっと彼女の傍へ。

 そうやって一歩を踏み出そうとしているのにこの場から動けない自分は、きっと臆病だ。

 

 ふと、前に進めない自分の背中を押すように、再び強い風が吹いた。

 

「そう……藍は、貴方をここへ通したのね」

 

 何時から気づいていたのだろうか、彼女は霊夢がいる方を向くことなく、静かにつぶやいた。

 

「なんとなく、だけれど……貴方が、ここに来る予感はしていましたわ。ようこそ、人間と妖怪の境界へ」

 

 彼女の一言を合図に、周囲の景色が様変わりした。辺りはすでに白玉楼ではない。今や薄暗く禍々しい空間へとその姿を変えていた。

 

 咄嗟に涙を拭った霊夢は臨戦態勢へと移る。

 そして、恐怖した。

 

 いつもはまったくと言っていいほど緊張をしないのに、今日に限って手が震えていた。普段の調子はどこへと行ってしまったのか、いくらその震えを抑えようとしても治まってはくれなかった。

 

「(だめ。やっぱり、私にはできない……怖い……怖いよ……)」

 

 霊夢は、その手に持った祓幣を落とした。

 

 ここに来るまでは何のこともない、いつもの異変だと霊夢は思っていた。

 紅い霧によって幻想郷が覆われた異変を解決してから、早数カ月。

 今年の冬は長いわね早く春にならないかしら、と炬燵からなかなか抜け出せない日々を送っていた霊夢だが、いつまでたっても春が来ないものだから遂にしびれを切らし、異変解決に動き出した。そして数々の勝負の末に異変の黒幕である亡霊の姫のもとに辿り着き、見事弾幕ごっこで勝利して春を取り戻した。

 

 当初はこれにて異変解決だと思っていた。

 だが、終わらなかったのだ。

 

 冥界の管理人たる“亡霊の姫”はあくまで実行犯であって、彼女に異変を起こすように仕向けた者が別にいるらしい。

 それは、博麗の巫女たる霊夢にとって聞き逃せないものであった。

 

 博麗の巫女とは幻想郷を覆う博麗大結界の維持に務め、そして時折起きる“異変”と呼ばれる怪事件や騒動を解決する役目を持つ。

 ゆえに真の黒幕がいるのであれば、その者を懲らしめない限り、解決されたとは言えないのだ。

 

「しっかりしなさい。貴方は()()()()()なのでしょう?」

 

 霊夢が顔を上げると、すぐ目の前に件の少女が立っていた。

 

 こちらを見下ろす彼女からは何の感情も窺えない。恐ろしく冷たく、無表情であった。

 それが霊夢には無性に悲しく、悔しいと感じた。

 手を伸ばせば届くほど近くにいるはずなのに、彼女の心はずっとずっと遠くにある。

 

 曰く、その笑顔は禍々しく不吉で気味が悪い。曰く、彼女を絶対に信用してはならない。見てはならない、聞いてはならない。彼女のことを感じてはならない。

 なぜなら、彼女はこの世界でもっとも忌むべき歪な存在だから。

 しかし今だけは。

 霊夢には、それら皆がどうでもいいことに思われた。

 

 どれだけ恐れられようとも、

 

 どれだけ歪もうとも、

 

 それでも彼女は美しかった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 ——今は忘れ去られた時代。人、妖、神の境界がまだ曖昧だった頃。

 

 ——常識は非常識へと転じ、世界の崩壊が始まった。

 

 ——崩壊を防ぐために、『価値』を生み出すために『差異』は作り出された。しかし差異は同時に恐怖を生み、人は妖怪を恐れ、神を畏れた

 

 ——その結果、差異が膨張し、怪奇は現実となった。

 

 ——かつて、いえ、それよりもずっとずっと昔のこと。

 

 ——そう、これは私を形作った原風景。

 

 

 

 

 

 かさかさと乾いた音を立て、小さな影が茂みの中に入り込む。

 

 冬が過ぎ去れば、季節は華やぐ春となる。

 木々は一斉に芽吹き、活動を再開した動物たちの気配で森は溢れていた。鳥のさえずりは朝の到来を告げ、陽の光が木々の間から差し込めば、大気はゆっくりと暖まっていく。

 

 森を抜けた先の丘の上には小さな家が一軒。

 窓から細く白い煙が上がっているのは、食事の準備だろうか、しばらくすれば一人の女性がひょっこり顔を出した。

 

「お~い」

 

 誰かを呼ぶ、間延びした声が辺りに響く。

 

「そろそろ戻っていらっしゃ~い」

 

 いつもならすぐに駆け寄ってくるのだが、珍しいことに返事もなかった。

 

「ううん……。どこ行ったのかしら……?」

 

 家の前を歩きながら、見晴らしの良い丘の上から再びあたりを見回すものの、目に映るのは一面の緑、緑、緑。

 人影はどこにも見当たらない。聞こえるのはせいぜい、鳥のさえずりくらいのものである。

 

「ん?」

 

 しかし、しばらくすると彼女のすぐ傍の茂みから、カサリと音がした。まさか冬眠明けの熊ではあるまいか? いやいや、それにしては何か小さいような。

 などと考えていると、ますます茂みからする音が激しくなる。

 

 見るからに怪しい。近づくべきか、近寄らぬべきか。

 迷った挙句、好奇心に負けた彼女は、おそるおそるといった様子で近づいた。

 

「…………」

 

 途端。

 

「ばああっ!!」

「ひいいぃぃぃっ!!??」

 

 茂みから、幼い少女が飛び出してきた。

 傍から見れば大変かわいらしいのだが、不意打ちを食らった当人からすれば、たまったものではない。

 

「いたた……って、あなたねぇ……」

 

 驚きのあまりしりもちをついた女性は、少女を恨めし気に睨んだ。

 

「うふふ、さくせんせいこう!」

 

 悪戯が上手くいって、まさにご満悦といった表情の少女。

 だがそんな彼女の顔からは血の気が引いていった。

 

「……やってくれたわね? も~、今日という今日は許さないんだから」

 

 気づけば目の前に立つ、恐ろしい幽鬼がにやりと笑う。

 

「……え、えっとね、こ、これは、ついつい……そう、“きのまよい”っていうやつなの!! ね? だから、ここはおんびんに——」

 

 怖気づいた少女はじりじりと後退した。

 

「うふふ、大丈夫。安心してちょうだい?」

 

 だがすぐに木の幹が背中にあたった。退路は断たれている。

 少女は絶望した。

 

「ちょっと気を失いそうになるだけよ」

「……ひっ!? いやあぁぁ!?」

「——逃がさないわぁ。今日こそはじっくりねっとりと懲らしめてあげるんだから……」

 

 逃げようとするも一瞬で間合いを詰められ、あえなく捕まる。

 

「ふぬっ、むぃ~」

 

 拘束から逃れるためじたばたと体をくねらせる少女であったが、びくともしない。

 

「——あら、抵抗するの? ふふふ、でも残念。それじゃあ逃げられないわ」

 

 現実とは常に無情。

 少女の瞳は半ば虚ろになりつつあった。

 

「ひゃっ!? っふふふ、はははっ!!?」

 

 幼い少女の甲高い笑い声が森に木霊した。

 

「ふふ、ひひひっ、あはははは!! く、くすぐったいってぇ。も、もうやめてぇ!?」

「やですぅ。悪い子にはお仕置きしなきゃ」

「ひえぇぇっ!?」

 

 無慈悲にも、ますますくすぐりは激しくなった。

 

「や、やめっ、ふふふっ!! た、たすけ——」

「暴れたって無駄だもんね。そう簡単には離さないもの」

「ひ、ひぅっ!? だ、だめぇ~!!?」

「そ~れこちょこちょ~」

 

 容赦のない女性のお仕置きに少女は地面をのた打ち回る。

 

「……もう二度としない?」

「ひぃ、ひぃ……はあぁっ、わ、わかったから、もうしない!!」

「ほんとに?」

「ほんとにほんとっ!! わたし、うそつかない!!」

「……ならよし!」

 

 女性はくすぐりをやめると、体に力が入らずぐったりとしてしまった少女を小脇に抱えて家の中に入っていく。

 少女は頻繁に悪戯を仕掛けては、すぐに捕まってお仕置きを受けていた。

 

 ちなみに彼女は、嘘をついてはいない。

 同じ悪戯をしていないからである。いわば屁理屈なのだが、女性は特別それを咎めようとはしなかった。

 

「もう、いつもいつも懲りないんだから、まったく困ったものよ……。一体誰に似たのかしら?」

「おかあさんいがいに、いないでしょ。それにおかあさんって、びっくりしたときおもしろいんだもの。おどろかさないわけにはいかないわ」

「まあ、ひどい」

 

 肩をすくめる黒髪の女性は、少女の母であった。彼女の纏う雰囲気のせいか、少女とは年の離れた姉妹に見えないこともない。歳にすれば、二十半ばといったところだろうか。 

 対して、すんすんと鼻を鳴らして部屋の中の匂いを嗅いでいる、お腹を空かせた様子の少女。

 

「いいにおい!」

「ふふふ、ゆかり。ご飯は逃げないわよ」

 

 少女の名は“ゆかり”。

 

 母ゆずりの黒髪と、顔立ちが瓜二つと似ているものの、歳が五つ、六つほどで幼い。少し短めの淡い紅色の着物を着た、活発そうな少女である。

 

「わあ、はるだね!」

 

 ゆかりの目の前によそられたのは、季節を感じさせる山菜汁。

 ほろりと苦く、それでいて暖かく優しい味であり、この季節の楽しみの一つであった。

 

「おいしい?」

 

 女性が温和な笑みを向けながらそう問うと、

 

「うん!」

 

 ゆかりは子供らしい屈託のない笑顔で応えた。

 

 

 

 二人だけの、この小さな箱庭で。

 今日も一日が始まる。夢とも知らずに。

 

 

 

 *******

 

 

 

 食事を済ませた二人は、手提げ袋にあれこれと荷物を入れて外に出た。

 丘を下りてすぐ近くの森を抜けたところには、ひなたぼっこに丁度良い原っぱがある。

 

 日差しもそれほど強くないし、時折吹く風はとても心地よい。

 そんな日は、母の膝の上に座って、文字の読み書きの勉強をするのがゆかりの日課であった。

 

「これ、なんてよむの?」

「これは”浮雲”よ。そうねぇ。ほら、お空にぽつりと浮かんでいる」

「あのしろくて、もくもくの?」

「そうそう」

 

 いつも、両手で抱えきれないほど分厚い本を広げては、自力で理解できないところを母に聞いている。もの覚えが良いのか、ゆかりはぐんぐんと知識を身に着けていた。

 

「じゃあ、この“旅游”ってなに?」

「遠く、遠くの……。ほら、例えばあの山の向こうとかにはね、うーんと広い場所が広がっているの。“旅游”はそんなところをあっちはいいな、こっちも面白そうだなって歩いて回ることをいうのよ」

 

 母が指さした方には大きな山がそびえたっていた。山の頂上はまだ白く、雪に覆われている。ゆかりは母の指さす先、遠くにそびえ立つ山の向こうには何があるのかと思いをはせた。

 

 まだゆかりは、家から遠く離れた世界を目にしたことがない。

 

 母から一人で遠出することを禁じられているため、本で読んだ内容から想像することしかできないのだ。そういう訳もあって、少女の世界は狭かった。

 

「へえー! わたしもいつか、いってみたい!!」

「ええ、行けるわよ。きっといつか……って、そういえば……あなた何の本を読んでるの?」

 

 何かに気づいた様子の母は、顔をひきつらせていた。

 

「え、ちょっと、これどこで見つけてきたの? 難解すぎないかしら? うわぁ、何だろうこの既視感……。あの人の小さい頃みたいだわ……」

 

 遠いところを見つめながら、母はため息をつく。

 それを見たゆかりは不思議そうに首を傾げていた。

 

 しかしいくら難解な書物を読み進めることができても、ゆかりはまだ子供である。

 

「……あら?」

 

 しばらくたって日が一番高く昇った頃には集中力が切れてきたのか、うつらうつらと舟を漕ぎ始めていた。

 きっと風が運んでくる、眠気を誘うような花々の甘い香りの所為だろう。

 

「……んぅ…………」

 

 静かな寝息と、風の音だけが聞こえる。

 無性に娘が愛おしく感じた。

 

 膝に座っているゆかりを後ろから優しく抱きしめる。

 母は耳元で静かにつぶやいた。

 

「たくさん、言葉を覚えてね。言葉を覚えることは、あなたの世界を広げることなんですもの。あなたには……貴女の“力”にはそれが必要なの」

 

 そのつぶやきは、誰が耳にすることもなく春の陽気に溶けていった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 二人の住む家の西には川がある。それほど大きな川ではないが、深さは見た目よりもあるためそこに住み着く生き物は多い。

 彼女たちはその川辺にて、何となしに鳥が虫を狙う様子をじっと眺めていた。

 

「ねえ、どうして鳥さんは虫さんを食べちゃうの……?」

 

 ゆかりは尋ねた。それはなんの変哲もない質問で、幼い童が持つふとした疑問であった。母は少し考えた後、答えた。

 

「んーと、それはね。きっと、違うからよ」

「ちがうから?」

 

 ゆかりには、母の答えの意味がまったく分からなかった。

 

「生き物は皆違うから、一緒になろうとするのよ」

「そうなの……? どうして?」

「違うのが怖いから、でしょうね」

「ふーん?」

 

 その要領を得ない答えに、それ以上は興味を失ったのかゆかりは隣に座る母に身を寄せた。母はその小さな体を抱き寄せる。

 

「むずかしいなぁ……」

「まぁ、ゆかりがもう少し大きくなったら分かるようになるかな? それにね、私の、ゆかりの質問への答えが必ずしも正しいわけでもないの。あなたなりの答えを、これから見つけていけばいいわ」

「むぅ、ちっちゃくないもん! わたし、じぶんのなまえ、かけるのよ!!」

「そういう話じゃあ、ないんだけどなあ……」

 

 少し間を置いて二人は顔を合わせるやいなや、ぷっと噴き出した。

 一瞬、しんと静まり返った川辺に二人の笑い声がこだまする。ひとしきり笑い合った後、母は立ち上がり、その手に持つものをゆかりに見せた。

 

「ねえゆかり。これは何でしょう?」

「えっとね、つりざお!」

「そう、これで今日のお昼ご飯を釣るわよ」

「おぉーっ、さかなつりねっ!!」

 

 瞳をきらきらさせ、興奮が隠せない様子のゆかり。

 そんな彼女に対して今更、『さっきまでお昼ご飯のことを全く考えていなかったわ……』と白状できるほどの勇気は母にない。

 急ごしらえの釣竿にしても、指摘する者がいないのだから問題ない。問題ないのだが、今はゆかりの視線が眩しすぎて一抹の罪悪感とも呼べるような感情を母は覚えていた。

 

 それはともかく。

 鼻歌混じりに釣りを始めれば、ただ釣り糸を垂らしているだけでは暇を持て余してしまうからであろうか、ゆかりは身体を左右に揺らしながら、水面を見つめている。

 

「おかあさん」

「なあに?」

「このうたにでてくるとりさんって、なんなの?」

 

 物心がついたときから歌っていた子守歌。

 ただし子守歌の本当の意味を、ゆかりは知らない。母は子守歌の意味する出来事の詳細を、ゆかりに教えるつもりがなかったからである。

 

 ゆえに彼女たちは、『ある鳥が現れたとき、地上から生き物がいなくなった』という、過去の出来事を淡々と歌うのみであった。

 ゆかりの問いに、母は曖昧に答える。

 

「この歌はねぇ、お母さんが生まれる前にできた子守歌らしいわよ。その時起きた出来事を、忘れないようにって。でも誰が作ったのかは、分からないの」

「ふーん」

 

 ふっと風が吹いた。水面は風で揺れ、浮きがゆらゆらと揺らめく。少女はその鳥に、何を思ったのか。

 

「ねえおかあさん」

「ん~?」

「わたしたちがおさかなをたべるのも、とりさんがむしさんをたべるのとおなじ? わたしたちもこわいの?」

「そうね。私はそうなんじゃないかなって思う」

「……ええと、じゃあ、たべることはいっしょになって、もうこわくないよってすることなんだね!!」

「え、ええ……」

 

 なかなか怖い解釈ね、と母は少し困惑したがせっかくゆかりが自分で考えた解釈なので否定するのもどうかと考え、そのうち修正されていくだろうと、とりあえず相槌をうった。

 その後、釣り糸を垂らし始めて早数刻も経ったが、なかなか魚はかからない。ゆかりはだんだん釣りに飽きてきた。

 腰かけた岩の上で足をぱたぱたと動かしている様子は何とも愛らしい。

 

「……つれないねー」

「うふふふ、そうねぇ」

 

 川の向こう岸では相変わらず鳥が虫や魚を狙って木にとまっている。ゆかりは再び、ぼんやりしながらそれを見つめていた。

 

「とりさんも、むしさんも、おさかなさんも、みんなみんなちがっておもしろいね。“ちがい”がなかったら、みんなおなじで、つまらないとおもうの」

「そう? なら、どうして生き物が皆、“違う”のだと思うかしら?」

「……わたしたちがきめているから?」

「そうね、ゆかりの言う通り。皆、本当は同じなの。違いなんてない。だから私たちは——」

 

 すると突然、

 

『あっ』

 

 浮きがふっと沈んだ。竿がものすごい勢いで引っ張られ、水面が騒がしくなった。どうやら話しているうちに獲物がかかったようだった。

 

「お、おかあさん!? ど、どうしよう?」

 

 急な出来事に困惑するゆかり。あたふたとしているゆかりの手を、母は後ろから支えた。

 

「落ち着いて。ゆかり。竿を立ててゆっくり持ち上げるの」

「う、うん……!」

 

 母の助力もあってか、その後二人は見事に魚を釣ることに成功し、遅い昼ご飯として焼いて食べた。お腹が空いていただけに、大満足である。

 

「おいしかったぁ」

 

 魚を食べ終えたゆかりが川の向こう岸に目を向けると、

 

「あ……」

 

 鳥はいつの間にか、姿を消していた。

 

 

 

 ******

 

 

 

「……ん…………」

 

 どうやら、ゆかりはいつの間にか寝入ってしまっていたようだった。釣りをして、その後も川辺を走り回って疲れたからだろう。

 母の背中から見た西の空は、夕暮れの光で淡い朱色に染まっており、東の空は薄暗く変わりつつある。

 

 その()()()()は、なぜか印象深く感じた。

 思わず目が離せなくなるほどに。

 

「おかあさん」

「なあに?」

「よんでみただけ」

「そう……」

 

 ゆかりはにこりと笑って母の背中に顔をうずめた。

 

 それから、家に帰りついて遅めの夕食を取り、湯につかって一日の疲れを癒した後には、辺りはもうすっかり暗くなっていた。

 先ほどもあれだけ眠りこけていたというのに、布団に入った途端、再び気持ちよさそうに眠ってしまったゆかりに苦笑しながら、母は少し夜風に当たろうと一度寝室を出る。

 

 ふと、母は空を見上げた。

 空には雲がなく、月がぷかりと浮かんでいる。すっかり欠けてしまったというのに、それでも月は美しかった。

 

「こんなにも小さいのに、こんなにも遠いのに、どうしてこうも惹かれるのかしら? 不思議ね」

 

 母は苦笑し、そのまましばらく月を見つめた。

 

「私も寝ようかしら。明日は()()()()()もしなきゃいけないし」

 

 そう独りごちた母は、ゆかりの隣で横になった。

 しかし、愛おしそうにゆかりを見つめる母の目は、どこか寂しげであった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 翌朝、ゆかりは早くに目が覚めた。母は朝に弱いので、大抵ゆかりが先に起きることが多い。

 

「ん、んんぅ……」

 

 気持ちよく伸びをして枕元を見ると、隣で眠っている母はまだ起きそうにない。起きたからにはじっとしているのもつまらないし、周辺を散歩するのはどうだろうか? 寒くもなく、暑くもない。きっと朝の陽気は心地よいことだろう。

 

 そうして外へ出ると、

 

「あっ! ちょうちょうさんだ!」

 

 近くに咲く花々に紫色の蝶が止まっていた。その美しい羽を見せつけるかのように、優雅に目の前を飛んでいる。

 

「きれい……」

 

 捕まえようとそっと手を伸ばすが、なかなか蝶は捕まらない。

 

「……むむぅ」

 

 ゆかりの手が届きそうな高度で、まるで挑発しているかのようにひらひらとかわしている。

 

「ま、まてー!」

 

 蝶を追いかけまわした挙句、茂みに入れば、朝の日光が入ってきていないせいか、少し肌寒く、暗かった。そこには大きな蜘蛛の巣が張っており、あまり近づきたくはない雰囲気を醸し出している。

 そんなことも気にしないゆかりは、

 

「あ!」

 

 茂みを掻き分けて、蝶を見つけた。

 蜘蛛の巣にかかって身動きが取れなくなっている。抜け出そうと、もがけばもがくほどに絡まる蜘蛛の巣。巣が揺れて気づいたのだろうか、蜘蛛が近づき、その顎で蝶を捕らえた。

 蜘蛛は器用に前足を使い、抵抗する蝶に糸を巻き付けている。

 

「くもさんも、いっしょになりたいの?」

 

 ゆかりは蝶が捕食される様を、まじまじと見つめる。少女の瞳には命の灯が消えるさまが映し出されていた。

 気持ち悪いと感じなかったのは小さな虫であったためか、それとも少女にとっての命というものに対する認識のためか。少なくとも抵抗感を持っている様子はない。

 

「こんなところにいたのね。全く、もう。心配したのよ」

「おかあさん……」

 

 ゆかりが振り返るとそこには母がいた。

 どうやら目を覚ましたばかりのようで髪の毛が少しはねている。娘を見つけた安堵から母はほっと息をつくと辺りを見回し、その顔をひきつらせた。

 

「うわぁ、暗いわねぇ。じめじめしているし。……もう、好奇心旺盛なのはいいのだけれど、起きて気づいたら隣に居なくて心配したわよ? さあ、帰りましょう。ゆかり」

「うん!」

 

 手を引かれながら、ゆかりは考えた。

 今日は朝からちょっとした冒険ができたのだ。きっといい日になるに違いない。

 だから、あともう少しだけ、と。

 

「ねぇねぇ、おかあさん。あさごはんたべたら、おでかけしてきていい?」

「うーん……お母さんは少し出かけなくちゃいけないから、本当はお留守番していてほしいなぁ……。でも、どこに行くの?」

「そのへんっ!」

「その辺って貴方……」

「とおくにはいかないよ?」

「そうねぇ……う~ん……」

 

 母の脳裏にここ最近の娘の様子が蘇る。

 確かに彼女が一人で静かに留守番をしているとは思えない。ならばいっそのこと、時間までに帰るよう言い含めれば問題ないではないだろうか。

 あれこれ迷った挙句、渋々といった様子であったものの、結局母はゆかりが外に出歩くのを許した。

 

 

 念願かなって許しが出たゆかり。

 彼女は意気揚々と家から少し離れた森の中を歩いていた。昼前には帰ること、あまり遠くに行かないことという条件付きで母に出かける許可をもらい、一人で森に入ったのであった。

 

 母はというと用事があるらしく、昼ごろまで戻らないと言っていた。

 母は三日か四日に一度、朝に出かけると、どこか疲れた様子で帰ってくるのだ。しかし彼女が何をしているのか、ゆかりはまったく気にかけていなかった。

 普段は母から、遠くに一人で行ってはならないと言われていたこともあって、ゆかりは胸が躍る気持ちで森をずんずん進む。

 

「わあっ!」

 

 ゆかりの目には、緑豊かな森の景色がより一層鮮やかに映った。いつもは気に留めないようなところにも自然と目が行くのだ。

 

「(あれ? こんなところにぬけみちなんてあったっけ?)」

 

 だから、ゆかりがそれに気づくのも、偶然とは言えなかったのかもしれない。

 横たわっている大木の陰には小さな道があった。道とは言っても草が掻き分けられている程度で余程注意しなければ気づくことはない。

 

 道を進んでいった先にある茂みでできたトンネルをいくつも越え、下り坂を下っていくと目の前に霧が広がった。それもかなり濃い。日が出ているというのにどうしたことだろうか、と思いながらゆかりは迷わないように道に標をつけてさらに進んだ。

 

「んん?」

 

 しばらく歩いたところで、今度は森の中に透明な壁が見えた。

 それは上にずっと広がっていて、どこまでも続いているようである。いつの間にか霧は晴れていて、辺りは見覚えのない景色になっていた。空に向かって果てしなく続く透明な壁にゆかりは美しい、という感想を持った。

 

「きれい……」

 

 ゆかりは恐る恐る壁に手を伸ばした。すると、パチリと何かが爆ぜるような音をたてたと思いきや、ゆかりの手はすんなりと通り抜けた。そのまま体も通り抜け、目の前には変わらない森が広がっている。

 

「何だったんだろう?」

 

 ゆかりは独りごちた。特に壁を越えても何か変わったような様子はない。

 母が遠くに行ってはならないと言っていたことに関係しているのやもしれないと、ゆかりは少し身構えたが、それも考えすぎだったと肩の力を抜いた。

 

 しかし、だんだん不安にもなってきた。

 一人で帰れないこともないが、若干時間はかかりそうだ。

 

 昼までに家へ帰ることができるのだろうかと考えていると、前方の草むらに大きな鹿を見つけた。

 頑丈そうな角に、つやつやとなめらかな毛並みの、立派な牡鹿であった。しかし鹿は後ろを向いていて、ゆかりのいる位置からだとあまり様子をうかがえない。

 

「しかさんだ!」

 

 なかなか近辺では見られない立派な大鹿の姿に、ゆかりは小声ではしゃいだ。

 しかし、どうやら彼女の声が届いてしまったらしい。耳がピクリと動いてゆかりの方を向いた。

 

「あ!」

 

 ゆかりは慌てて手で口をふさいだが鹿はゆかりの存在に気づき、振り向いた。真っ黒な二つの瞳で、じっとゆかりを見つめている。

 何となく、ゆかりもその眼を見つめ返した。そこでゆかりは大鹿の眼に違和感を覚えた。まるでこちらの中身を見ているような、ただならぬ感覚を覚えた。眼を逸らそうにも、逸らすことができなかったのである。

 しばらくの沈黙の後、信じられないことが起こった。

 突如として、大鹿は口を開いたのだ。

 

「ニンゲン……」

 

 それは地の底から響いてくるような不気味な声であった。

 

「祝福サレシ子……」

「ひっ……!?」

 

 そのときはじめてゆかりは周囲の多くの“眼”に見つめられていることに気づいた。そして同時に、背筋に悪寒が走るのを感じた。ゆかりはこの“眼”を知っている。

 

 捕食者が、獲物を見つけたときの眼だ。

 ゆかりの脳裏に、今朝見た紫色の蝶の姿が映った。あの時は覚えることがなかった感情が、“恐怖”がゆかりを襲う。

 

 足元が竦む。

 

 気づくのが、遅すぎた。

 

「い、いや……」

 

 体が震え、思考が停止する。

 大鹿の頭が傾くと、ゴキリと嫌な音をたて、梟のように頭が逆さまになった。そして鼻先から切れ目が入っていくと顔が真っ二つに割れ、そこから気色の悪い一つ目が伸びてきた。しまいには大鹿の腹は大きく割け、醜悪な口となる。

 

 もはやそれを鹿とは呼べなかった。

 

 まさに異形。

 

 妖怪である。

 

「っ!?」

 

 ゆかりは走った。このままでは死ぬと本能で感じたのだ。震えてまともに動かない自分の足を叱咤し、夢中で走った。

 

「待テ、逃ゲルナ」

 

 妖怪たちが追いかけてくる。濃密な瘴気が押し寄せ、ゆかりは足が何度ももつれ、転びそうになったが必死に走った。振り返らずただ前のみをみて走った。

 しかし五つか六つの小娘の全速力など大したこともない。蠢く者たちはすぐさま追いつき、鹿の形をしていた先程の妖怪が、ゆかりの頭を掴んだ。

 

「ひぃ!?」

「オ前ヲ喰エバ、救ワレル……」

 

 鹿の妖怪の生臭い口臭がゆかりにさらなる恐怖を与えた。血の臭いとそれの腐った臭い。周囲に立ち込める濃密な瘴気。胸がむかむかとして、気分が悪くなりそうな臭いである。

 まさに死の臭いであった。

 それらの瘴気を吸ったゆかりは、体に何かが入り込む感覚に襲われた。

 

「うぇ……ひ、ひっ……ひっく」

 

 母は今頃自分を探しているだろうか? しかしこの広い森で自分を見つけることは不可能だろうと、ゆかりは諦めた。母の言いつけを守っていればこんなことにはならなかった。おそらくあの透明な壁は妖怪達の侵入を防ぐためのものだったのだ。

 そうして後悔をしている内に、妖怪はゆかりを丸飲みにせんと、その醜悪な口を上に大きく開けた。

 

「いや……! やあぁっ!?」

 

 今にも鹿の妖怪がゆかりを食らおうとしたその時、

 

「っ! っっ!?」

「——グォォッ!?」

 

 ゆかりが目をつむると、足元からグチャリと不快な音がした。

 

「妖怪風情が、その子に一体、何をしようとしているのかしら?」

 

 それは一瞬の出来事だった。ゆかりの頭を掴んでいた鹿の妖怪の頭らしきものが消えた。力なく崩れる肉体。ゆかりは空中に投げ出されたが、何者かが受け止めてくれた。

 

「ごめんなさい、ゆかり。怖い思いさせてしまったわね。大丈夫、すぐに終わるから」

 

 ゆかりが目を開くと、そこには母がいた。いつもより真剣な顔をした母であった。母の手から放たれる、無数の光。それは暖かくも力強く、どこか安心してしまう不思議な光であった。

 

「——散れ、今すぐに」

 

 光とは対照的な、冷たい言葉ともに閃光が妖怪たちへ向かっていき、次々に貫いていく。母の周囲に渦巻く不思議な力の奔流を、ゆかりは目の当たりにした。

 

「ゆかり、ごめんなさいね。少しだけ目を瞑っていて頂戴。すぐに怖くなくなるから」

 

 言われるがまま、ゆかりは固く目を閉じて、母の服の裾を掴み答えた。

 

「うん」

 

 彼女の目がちゃんと閉じていることを確認した母は、妖怪達を睨みつける。母の目は怒りに燃えていた。それは娘に向けてでなく、娘が結界から出るのを止められなかった自らの不甲斐なさに対しての怒りであった。

 

 本来ならばゆかりは結界に近づくことも、通り抜けることもできないはずである。それが今日、結界の修復の際に母は別の場所で襲ってきた妖怪達に気を取られ、ゆかりが結界をすり抜けるのを防げなかった。

 

「……」

 

 母がその白い手を前に出すと、再び周囲の光が収束し、蠢く妖怪達を跡形もなく消し去る。数が多くとも、幸い力の弱いものしかいなかったため大した脅威ではない。一匹残らず、抵抗も許さず妖怪達を全滅させた。

 そして、近くにまだ妖怪が潜んでいる可能性があるとふんだ母は、周囲を探知するため新たに結界を張り、安全を確かめた。

 しかし、結界内に妖力は探知されなかった。

 

「終わったわね……」

 

 ようやく母は、ほっと息をつく。ひとまず危機は脱したようである。

 

「おかあさん……!」

 

 腰に抱き着いてきたゆかりはまだ震えている。

 よほど怖かったのだろう。母は自らに対する怒りを娘に悟られないように精一杯笑顔を作って安心させた。

 

「……大丈夫よ。お母さんがやっつけたから怖いのはみんないなくなったわ。さあ、帰りましょう。だけど、その前に——」

 

 母はゆかりの前に膝をつき、娘の小さな肩に両手を置いた。

 

「無事でよかった……うん、本当に、よかった……」

 

 母はゆかりを叱らなかった。ただゆかりを強く抱きしめた。

 

「もう一人で遠くにはいかないで頂戴……ゆかりに何かあったら、私……」

 

 母の声も少し震えていた。

 

「……えぅ」

 

 それが引き金になったのか。

 胸に顔を埋めるゆかりは、だんだんと熱を帯びていく。

 

「う、うぅぅ゛、えぇぇぇ゛ぇ゛っ」

 

 遂に耐えきれなくなったゆかりは、母の背中にまわした腕に力を込め、母の腕の中で、泣き叫んだ。

 

「ごめん、なさい! やくそく、やぶって……ごめんなさいっ!!」

 

 その日を境に、ゆかりは一人で過ごすことを恐れるようになった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 妖怪に襲われてからしばらくして。

 ある日の朝、彼女は母に連れられて川辺へ顔を洗いに行った。

 

「つめたいっ!」

 

 辺りはすっかり暖かくなってきたというのに川の水は冷たいため、ゆかりの眠気はすぐに吹き飛んだ。しかし気分は優れなかった。

 

「なにか、へんなかんじ……」

 

 ゆかりは胸のあたりが少し苦しいように感じた。妖怪達に襲われたときから時々同じようなことが起きており、今まで通りの生活はできているが、ゆかりは不安だった。

 

「——どうしちゃったんだろう? わたし」

 

 その日の朝食を済ませ、母と原っぱで普段の通りに本を読んでいたゆかり。ただ、どうしてか集中できない。文字が頭に入らず、すぐに流れていってしまうのである。

 それゆえにこれから何かが起きるのではないかという、嫌な予感がしてならなかった。

 

「ねえ、おかあさん」

「どうしたの? ゆかり」

「おかあさんは、どこかへ……どこにもいかないよね?」

「……」

 

 不安だったからこそ、ゆかりは母に尋ねた。母がずっと此処にいると答えてくれれば、安心できると思ったのだ。

 周囲が妙にざわついている。春の陽気はどこへ行ったのやら太陽は雲に隠れ、辺りは薄暗くなっている。沈黙する母に、ゆかりの心臓の鼓動は次第に速くなっていった。

 

「そうね……」

 

 遠い目をしている母は、答えなかった。

 

「…………」

 

 否、答えることができなかった。

 それもそのはずである。周囲の空間が歪み始めたのだ。

 

 二人は、幾多の妖怪達に囲まれていた。

 

 その数は以前ゆかりが襲われたときを遥かに超え、大小さまざまな“異形”が、二人のことをじっと見つめ、今か今かと襲う機会を窺っている。

 

「結界が弱まっていたようね……まったく。懲りない奴らだわ」

「おかあさんっ!?」

「ゆかりは、そこにいなさい。大丈夫よ」

 

 にこりと母はゆかりに微笑むと、妖怪達の方を向いた。ゆかりから見えたその背中は何かを決心したかのように見えた。

 ゆかりは言葉を失ってしまった。

 

「死にたいのならかかってきなさい。あなたたちに“救い”なんてもってのほか」

「亡霊ノ分際ガ、何ヲ言ウ……ソノ娘ヲ渡セ」

「お生憎様。私がここにいる限り、そうはいかないわ。この子は、私の愛しい一人娘。好きにさせると思って?」

「……消エカケノ貴様ガ、今更何ヲ望ム? 我等ノ祈リナド、トウニ忘レタ亡霊風情ガ」

「勝手にほざいていなさい。あなたたちと私が分かり合うことなんて、初めからできるわけがないに決まっているでしょう? 私の願いはただ一つ。この子を呪縛から解放することなのだから」

 

 母は素早くゆかりの周りに強力な防御の結界を張った。

 

「いや!! いっちゃだめっ!!」

 

 行かせてはならない。その直感に従い、ゆかりは母の元へ駆け出した。

 

「あうっ!?」

 

 しかし、この前のようにその透明な壁をすり抜けることはできなかった。以前よりも強固になった結界が、ゆかりの行く手を拒んだのだ。

 

 一方、彼女の制止を振り切った母は妖怪たちの群れへと飛び込んでいった。

 両手から伸びる透明な刃は、いとも簡単に妖怪たちを切り裂く。身に宿る霊力によって肉体が強化された母は、驚くような速さであった。

 時には拳で打ち砕き、結界に敵を閉じ込めれば、収縮させて圧殺する。

 

「グギィィッッ!!??」

「邪魔ヲスルノカ! コノ亡霊ガァァ!!」

 

 遠方から妖怪達が禍々しい毒の息を吐く。

 母は前方に結界を張って防ぎ、すぐに霊力で作り上げた光の矢で打ち抜く。体に大穴をあけられた妖怪達は、大量の血を噴き上げながら沈んでいった。

 

「潰セェェェ!! 相手ハ一人ダッ!!」

 

 血飛沫の雨が降る中、体の大きな妖怪達は母を押しつぶすべく包囲をするように迫るが、母はそれを紙一重で躱しながら切り刻んだ。その動きはまるで流れる水のように鮮やかだった。

 

「ちっ、硬いわね」

 

 しかし、その巨体を支える体は硬く、母の手から伸びる刃ではそう簡単に骨まで届かない。

 

 舌打ちをした彼女はすぐさま別の手段を取る。

 刃が届かないのならば、届くまで切り続ければいい。光で焼き尽くせばいい。結界で圧殺すればいい。

 

 彼女……母がこのような力を持っているのには、理由がある。

 昔、彼女は“人間”の守護者だったのだ。向かってくる数多くの妖怪たちを強力な結界術、体術をもってして打ち倒し、人々を守る、それが彼女に課せられた使命だった。しかし、人間の力が増していくと彼女は次第に恐れられ、疎まれるようになってしまった。その後、母は時の権力者たちによって、とある戦において使い捨てられた。親しい者も皆、彼女を置いて行ってしまったが、彼女は人間をけっして恨んだりはしなかった。

 母は、人間が弱いことを知っていたのだ。

 辛うじて生き延びた母は生きるか死ぬかの毎日の中で、ある日空から声を聞いた。

 

『おめでとう。幸運な人よ』

 

 それは、たしかに受胎の告知であった。けれど自分とそんな関係になった者はいないはず。そう訝しんだ母であったが、自分が子供を宿していると確信した彼女は歓喜した。こんな自分でも母親になれる。それも告げによれば、生まれてくる子は祝福されているらしいのだ。

 

 ようやくたどり着いた森で、彼女は子供を一人で産んだ。その際に体の調子をひどく崩してしまったが、己と周囲の区域に“ある術”をかけ、この世で一番愛しいわが子に彼女は精一杯愛情を注いだ。

 母はゆかりを守るためならば、数万の妖怪の大群ですら相手にするだろう。今の母にとって、ゆかりは彼女のすべてであった。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 気づけば、彼女の周りには血の海が広がっていた。一体どれだけの長い時間の間、戦い続けたのだろうか? 無我夢中で戦い続けた彼女は息を整えながら思う。

 

「(これで、終わりね……それにしても、もうこんなに暗くなってしまったのかしら? これじゃあ、結界の修復は明日になりそうだわ)」

 

 まだ午前中だったはずだが、辺りはいつのまにか薄暗くなっている。妖怪達の相手をするのに集中していたばかりに、気づけなかったのだろうかと、ほんの少し、違和感を覚えながらも母はゆかりの元へと歩いていった。

 

 

 しかし母は気づけなかった。

 今宵が新月であることに。

 

 

「ゆかり、ゆか……り…………?」

「うあぁぁ゛っ」

 

 胸を押さえて苦しみだすゆかり。

 

「おかあさん……こわい、こわいの……なにも、みえないよ……」

「……、ぁ……。ゆか、り……?」

 

 ゆかりの背後に潜む“無数の眼”が、母をじっと見つめている。

 

 ——貴様にその娘は救えない。

 

 そう語っているかのようであった。

 母は一瞬、硬直してしまった。

 それが、仇となった。

 

「よるが、よるがおりてくる——」

 

 母はゆかりから発せられる“力”に吹き飛ばされた。

 

「いやぁぁぁぁっ!?!? こないでっ!?!? お、おかあさ——」

「落ち着きなさい! ゆかり、あなたはここにいるの。大丈夫よ。お母さんはここにいるわ!!」

 

 すぐさま態勢を立て直し、駆け寄ると母はゆかりを強く抱きしめた。恐怖に我を失うゆかりを必死に落ち着かせようとその小さな背中を何度も何度もさする。

 しかし、懸命な母の行動も虚しく。

 ゆかりの周りの空間が嫌な音をたてて裂けた。

 中から覗くギョロリとした眼が、ゆかりを捉えた。ついに、“見つかってしまったのだ”。

 

「くっ……!!」

 

『祝福されし子』であったために発現してしまった能力。本来ならば、こんな少女が持っていいような力ではない。母は咄嗟に結界を張り、ゆかりの能力の暴走を防いだ。

 

「(そんな……まだ早すぎる。しかも前よりも強くなっているの!?)」

 

 歪んだ空間から発せられたのは非常に高濃度の霊力と妖気。しかし過去、ゆかりの力が暴走してしまったときに妖気は含まれていなかったはずなのだ。

 

「なぜ妖気が……まさかっ!」

 

 以前襲われたとき、ゆかりは妖怪達の妖気に当てられた。それがきっかけになってしまったのだ。

 これは母も予想外だった。

 あのとき、ゆかりの体内には大量の妖気が吸収されていた。そしてゆかりの持つ“能力”によって静かに増幅され、ゆかり自身の在り方を歪めようとしているのだろう。

 

「(霊力と妖力。両方となると、流石に厳しい……でも——」

 

 母の口元から血が零れる。

 いくら強力な結界を張ることができる母でも、霊力と同時に妖力を押さえつけられなかった。妖怪達との戦闘で消耗しきった今の状態では、新たに封印術を展開するまでの時間稼ぎもできない。

 

「(ここでこの子を守るためなら……)」

 

 皮膚が裂け、さらに血が流れた。それでも彼女はゆかりを離さない。

 

「(私の存在そのものをかけてでもいい)」

 

 母は足元に巨大な術式を展開した。己の魂と引き換えにこの世の理に逆らって対象の内と外の概念を曖昧にする、禁忌の術である。母にとって、できれば使いたくはない手段であった。自身が考案した術ではあるが、果たして完全に扱いきれるかまでは分からない。

 しかしすでにゆかりの意識はなく、彼女の体は薄れてきている。残された時間もあと僅か。選択肢は既に一つだった。

 母は最期の力を振り絞り、己の霊力を全て開放した。

 

 すると、術の発動によって景色は白に染まった。

 ゆかりの身体には眩いほどの光が集まり、徐々に実体を取り戻し始める。彼女自身と彼女の能力との境界は、既に曖昧なものになったのだ。『今なら彼女の能力は暴走しえないだろう』と、母は前に突き出していた腕をおろす。暴走を防ぐことができた証拠に、あれほど無秩序に放出されていた霊力と妖力はすっかり治まっている。ゆかりは力なく倒れてしまっているが、直に意識を取り戻すだろう。

 

 ここまでくればひとまず安心だと、母はゆっくりと息を吐いた。

 己の体が少しずつ消えていく。魂が薄れてきているせいか、力が入らない。母は膝から崩れ落ち、そのままゆかりに覆いかぶさった。

 愛する娘の体は小さくて、暖かい。

 

「お母さんを許して……」

 

 壊れ物に触れるかのようにゆかりの頬を撫でる母。

 結局、母はゆかりの体内に混ざってしまった妖力をどうすることもできなかった。それどころか、生まれたときにゆかりの中に入り込んだ何かを完全に封印することができなかった。

 そして自分が突然いなくなれば、きっとつらい思いをさせてしまうことだろう。

 当初、母はこのような事態はゆかりがもっと成長してからだと予想していた。しかし、母の不注意によってゆかりが結界の外に出たことにより、その予想は外れてしまった。

 

「ごめんね……ごめんね、ゆかり」

 

 ゆかりには聞こえていないかもしれない。それでも母は言葉にして伝えたかった。

 

「あなたのこと、愛してる。貴方が生まれたときね、お母さん嬉しくて嬉しくて泣いちゃったのよ? ずっと一人だった私にとって、あなたは私の全てだった」

 

「——あなたが成長していく姿がまぶしかった。ずぅっとこんな日が続けばいいと思ってた。だけど、いずれこのときが来るのは分かっていたわ。お別れが早まってしまったけれど、大丈夫」

 

「あなたは強いわ。あなたは賢い。あなたは優しい」

 

「そんなあなたの泣いた顔も、あなたの困った顔も。驚いた顔も、怒った顔も私は全部大好きよ」

 

「でも、最後は……あなたの、笑った顔を見たかったなぁ……もう、一度で、いい、から……」

 

「さよな……ら、ゆかり……私の、……私の、愛しい子」

 

 ゆかりの母の体は光の粒となって砕け散り、ゆかりの体を包んだ。その残滓までもがゆかりに吸収されると、徐々に体の輪郭は鮮明になり、実態を取り戻した。

 

 辺りは静かになった。

 気を失っていたゆかり。目を覚ますと隣に母がいないことに気が付いた。

 

「……おかあさん?」

 

 呼びかけてみても答えてくれない。

 そして、周囲の景色がおかしい。あれほどあった妖怪達の死体がなくなっていた。ゆかりはおぼつかない足取りで家のある方へ歩いて行った。

 嫌な予感がした。行ってはならないと心の奥で誰かが叫んでいた。

 それでもいつもと少し違う雰囲気の丘を登る。丘の上には家があるはずなのだと信じて。

 

「……」

 

 丘の上には廃屋が立っていた。

 中に入ると、ゆかりは息を飲んだ。

 ゆかりの予感は、正しかった。

 

「ごめんなさい」

 

 返事はない。

 

「ごめん……なさい……」

 

 その声に答える者はいない。

 

「おねがい! うそだといってよ……」

 

 無残にも静寂の中で少女の声が響くのみ。

 

「どうして……ねえ、どうしてぇ……?」

 

 嗚咽が混じり、最後は言葉にならなかった。壁にもたれ掛かっている白骨化した骸。胸には紅い紐でできた首飾りがつるされており、そこには母の名が刻まれていた。

 

 ——ずっとずっと昔のこと。

 

「——っ!!」

 

 突如、空から声が降ってきた。

 神々しさを纏うその声は、ゆかりに語り掛けているかのようであった。

 

 ——今は忘れ去られた時代。

 

 ——人も妖怪も、そして神様も一つだった頃。

 

「なんなの……」

 

 ——ある人は恐怖をもたらし妖怪になった。

 

「うるさい…………うるさいっ!」

 

 ——ある人は救いをもたらし神様になった。

 

「どうして……」

 

 ——ある人は人であろうと人となった。

 

「わたしは……わ……たしは……」

 

 ——そして貴方は——。

 

「だまれえええ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛っ!!」

 

 ゆかりは叫んだ。頭に響くその声を必死にかき消すように。

 

「——あ゛あ゛ぁぁぁぁっ!!」

 

 その慟哭は大地を揺らし、嵐を呼び寄せ雨を降らせた。雷鳴が鳴り響いても少女の慟哭は掻き消えることはなく、嵐が過ぎ去ってもなお続いた。

 しかし。

 その声も次第に静かな闇へと吸い込まれ、

 終には消えた。

 

 

 いつか見た夕焼けのように、淡い朱色に染まった空。嵐は過ぎ去り、雲一つない。遠く遠くの東の空は薄い紫色に変わりつつあった。その色の微妙な移り変わりが、何とも言えない美しさを醸し出している。

 

「ああ、なんて綺麗なのかしら……」

 

 光と、闇の中間に存在する、紫。あの日、母の背中から見た光景とは似て非なる代物。

 ゆかりは、この景色を一生忘れないと誓った。

 

「まるで、この世の終わりみたいね……」

 

 ——いつかは終わる。

 

 ——幻想の物語。

 

 ゆっくりと、母の墓の前で立ち上がった。

 

「行くわ。お母さん」

 

 水たまりに映った彼女の姿は変貌していた。

 黒かった髪は金色に。

 黒かった目は紫色に。

 そして幼かった姿は十四、五の成長した美しい女性に——。

 

 

 

 その日。

 一人の少女(ゆかり)は命を落とし、

 

 

 

 境界の大妖怪、八雲紫(やくもゆかり)が誕生した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

序章:何のために

 “八雲紫”の誕生から、時は少し遡る。

 

 

 

 暗闇の中に、身動きしない小さな影が一つ。

 “ゆかり”だった。

 全身泥だらけの彼女は、しばらく真っ暗な空を見つめていた。光が消えた瞳で、ただ虚ろに月明かりのない夜を見つめるのみであった。

 

 辺りは暗くて凍えるように寒かった。

 寒くて、寒くて、ゆかりはすでに肌の感覚を失っていた。

 春とは到底信じられないようなこの寒さは、一重に深い暗闇がもたらしているに違いなかった。ならば寒さを、闇を生み出したのは新月か? それとも彼女の能力か? それを判断する者も、知覚できるもの残念ながらどこにもいなかった。

 

「っ——!!?」

 

 ふいに硬い鈍器で殴られたような、鈍い痛みがゆかりを襲った。喉がからからに乾いているせいか、その痛みは声にならない。強烈な吐き気がしたが、胃の中が空っぽなせいでろくに吐くこともできず、ただただ苦しくむせることしかできなかった。

 しかし同時に、痛みはゆかりに対してこれまでに起きた出来事を思い出させてくれた。

 

「(ああ、そう……これはゆめじゃない。だれも、いない)」

 

 虚空に伸ばした手は、酷くやせ細っていた。骨と皮だけになってしまったと見間違うほどに、酷く弱り切ってしまっている。

 一体どれほどの時が経ってしまっていたのだろうか。しかしそんなごく当たり前な疑問ですら、今のゆかりにとってはどうでもいいことであった。

 

「(なんだ……そうか。ひとりに、なったんだ)」

 

 力無く垂れる腕に、ゆかりは自分の命がそう長くないことを悟った。

 

「(——いたい、いたいよぉ……おかあさん……)」

 

 ゆかりは頭を小さな両手で抱えてうずくまった。

 

「(……ここは、くらくてさむいの…………)」

 

 寒さに、寂しさに、ゆかりは震えた。

 どれだけ体を丸めようとも暖かくはならない。じわじわと体の芯から凍えそうになった。

 そう、少女の心身はまさに限界に達しようとしていた。

 

 今まで生きていた小さな、小さな世界。母が作り上げた幻想は終わり、母の幻影はこの世から消失した。それが何も知らなかった幼い少女の心を深く抉った。

 

 常に、ゆかりの傍には母がいたのだ。

 いつも何かに挑戦するときは応援してくれて、失敗したときは慰めてくれた母。意外とどじなところがある母。いざというときに頼りになる母。

 一番身近で、自分を形作ってくれる人。

 

 他に人間がいなかったからこそ、少女にとって、母という存在は大きすぎた。母を失うことは、自身の身体を滅茶苦茶に切り刻まれるのと同じくらいに苦しいものであった。

 

「(……きえていっちゃうの……ちいさいひかりが。ひとつ、またひとつって……)」

 

 ゆかりは、夢と現の間を何度も何度も行き来していた。

 母と共に暮らした日々の夢を見ては、寒さに目を覚ます。その度、記憶が薄れていく。

 

 あれほど輝いていた思い出が、一つ、また一つと黒く塗りつぶされ、消えていく。

 夢とは、一度醒めてしまえば徐々に忘れゆくものだ。

 必死につなぎ留めようとすれば、両者の境界は曖昧なものになる

 

 挙句、夢と現の境界すら分からなくなってきた頃、ぼんやりとした意識の中でゆかりはおびただしい数の目に囲まれていることに気づいた。

 前後左右だけではない。上も下も、ゆかりの周囲全てを目が囲んでいるのだ。

 

 ——ねえ、聞こえる? 

 

 今のゆかりは、“声”を認識することすら億劫に感じた。だが、他に誰もいないはずのこの世界で、自分以外の声がしたのだ。無視できるわけがなかった。

 それに、思い出せそうで思い出せない、どこか懐かしい声のような気がした。

 

「(なんだろう……?)」

 

 混沌とした光景に、不思議と恐怖は感じなかった。

 常人では発狂しかねないというのに、ゆかりは安心感すら覚えていた。またここへ戻って来た、あるいは、()()()()()()()()()()とゆかりは思ったのである。

 

「(あなたは、あなたたちは、だれ……?)」

 

 佇む目玉たちは、ゆかりに何かを訴えているようにも見える。

 一つ一つその視線に籠められている意志は独立していて、以前、無数の妖怪達に見つめられたときとはまったく異なる感覚であった。怒り狂った感情を孕んだ視線もあれば、悲しんでいるもの、喜んでいるもの、怯えているもの、はたまた無関心なもの。

 

 この混沌とした空間であれば、ゆかりは自分が“一人ぼっち”ではないと感じたのだろうか? 少なくともゆかりは、あらゆる感情全てが混ぜ合わさる様に心惹かれていた。

 

 ——私は貴方よ。ずっとずっと眠っていたの。

 

「(……?)」

 

 なおも声は響く。そして親しげだった。まるでゆかりの問いに答えるように。

 

 ——そう、貴方は私よ。貴方が忘れてしまっているだけ。

 

 そして、不可思議なことを述べた。

 

「(あれ?)」

 

 ゆかりは疑問に思った。

 途端に自分という存在の、“境界”が曖昧に感じたのである。

 

「(“わたし”ってなんなのだろう? わたしはいったい——?)」

 

 しばらくすると周囲に並んでいた“目”の輪郭は薄まっていく。そして目が一つ一つ閉じていくにつれて、周囲はどんどん暗くなってしまう。

 

 また、あの暗闇が自分を覆い尽くすのだ。

 

 言いようのない恐怖がゆかりを襲った。もうこれ以上、一人ぼっちになるのは耐えられそうになかった。

 

「(まって。おいて、いかないで……)」

 

 ゆかりは手を伸ばそうとしたが、伸ばす手がないことに気づいた。

 追いかけようとするが、走る足もない。

 

「(どうして! おいていかないでよっ!!)」

 

 どれだけ叫んでも、声にはならない。声すらも、奪われたというのか? 

 ゆかりがもがいている内にも次々に瞳が閉じていき、最後に一つが残るのみになった。

 

 最後の一つ。

 遠くで、巨大な目がこちらをじっと見つめている。

 

 ゆかりはその目に見覚えがあった。それは、間違えようもないある人の眼差しであった。

 

「(ああ——)」

 

 歌が、聞こえた。

 その人がよく歌ってくれた子守歌だった。自分が眠るまで何度も歌ってくれた、聞くたびに安心してしまう彼女の歌。

 

「(————。きこえる……わたしは、このうたをしっている……)」

 

 彼女の心が完全に壊れてしまうことはなかった。それは救いであったのと同時に、これから来る苦しみの幕開けとも言えた。

 まさにこの時、彼女は後戻りのできない境界を乗り越えてしまったのだから。

 

 ——さあ、行きなさい。私が目を覚ますまで。少しだけ、力を貸してあげるから。

 

『——大丈夫。あなたは強いわ。あなたは賢い。あなたは優しい』

「っ!!」

 

 心の奥から響いてきた母の声に、ゆかりは徐々に体が暖かくなってくるのを感じた。震えは治まり、弱気な心が少しずつ溶けていく。もういないはずの母の声は確かにゆかりの中から響いたのだ。

 

「(おかあさん——!)」

 

 淀み切ったゆかりの目に光が灯る。

 渾身の力を振り絞り、水たまりまで這って口をつけた。

 

「(だめっ、死んではだめっ! 振り返ってはだめなの! 生きなくちゃ——)」

 

 水たまりの濁った水を少しずつ舐めるように口に含み、喉を潤す。

 もうゆかりの目には恐れの色は映っていなかった。代わりに宿ったのは、

 

 生への強い渇望であった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 あれから少しして体を起こせるようになったけれど、身体が妙に重く感じた。

 ふらふらと立ち上がれば視線はいつもより高いし、歩くと歩幅が想像以上に大きくて、驚くあまり転んでしまった。

 まるで、自分の身体じゃないみたいに思い通りに動かない。

 何かがおかしい。私は自分の身体の確認のため、声を出そうと喉に手をやった。すると、

 

「あぅっ…………あ、あれ?」

 

 記憶にある自分の声とはまったく違う。

 どうやら声も変わってしまっているらしい。どこか大人びてしまったような気がするし、なんというか、お母さんの声に似ている。ふと、下を見ると濁った水たまりに自分の顔が映った。そしてこの時、初めて私は自分の姿が変わっていることに気づいた。

 

 水たまりに映った私の姿は、すっかり成長してしまっていたのだ。

 水が濁っているから分かりづらいが、手足がこんなにも長くなっている上に、身体も起伏に富み大分成長している。さらには髪の色までもが変わってしまっているのだ。こんな有様では、一周回って以前の自分の身体がどのようなものであったかさえ思い出せないくらいだった。

 

 多くの疑問が湧いたが、それらは簡単に解消されるものではない。ひとまず私はおぼつかない足取りで、転げ落ちるように丘を下って、森の中に入った。食べるものも飲むものもあそこにはないが、きっと森の中になら何かあるだろう。

 

 とはいえ、何とか森に入ったところまではいいものの、おそらく私はこの数日何も口にしていない。頭ではこのままではいけないと分かっているのに、空腹でだんだんぼんやりしてきてしまう。ここで焦ってはいけない。むやみやたらに動けば、必ず途中で力尽き倒れてしまうからだ。

 

 そこで森に到着した私はひとまず木の幹に体を預け、少し休んで冷静になることにした。ひとまず次の目標としては食べ物の確保。そして暖をとれるような拠点を見つけることだろう。ただ、雨風をしのぐのと、暖をとるぐらいであるなら、まだあの廃屋を使うことはできそうだし、優先順位は低い。だから食べ物の確保が最重要だ。

 大丈夫。私は今、やらなくちゃいけないことをちゃんと把握している。

 すると再び、母の言葉が頭の中で響いた。

 

『——大丈夫。あなたは強いわ』

 

 空腹で今にもどうにかなりそうだった思考が、一気に冴えてくる。そう、私は折れるわけにはいかない。私はきっと“引き返せない”。どうしてかは分からないけれど、そんな確信めいたものが私の中にはあった。

 

「(何かが、やって来る……?)」

 

 呼吸を整え、しばらく目をつむって休んでいると何かが近づく気配がした。私は木陰に体を隠し、息をひそめる。地面に生える柔らかい草を踏みしめる音。この音から察するに、近づいてくる何かはそれ程大きくないだろう。

 

「(来た……!!)」

 

 現れたのは、一匹の野兎だった。それは私に気づくことなく、ひょこひょこと無警戒に近づいてくる。

 格好の獲物が目の前に現れ、飢えが最高潮まで達した私は本能に逆らえなかった。

 

 ——そうよ、殺して食えばいい。

 

 素早く腕を伸ばし、兎を掴もうとした瞬間。私の腕は何かに飲み込まれ、離れたところにいた兎の首を掴んでいた。今更驚くこともなかった。

 当然だ。だって私には“それ”ができるのだから。鳥が空を飛ぶのと同じように、魚が川の中を泳ぐのと同じように、私は当たり前に“これ”を操ることができる。

 苦しそうにもがく兎を絞め殺す。そして兎を空間の狭間から引きずり出し、少しずつ抵抗しなくなってきたそれの、首に嚙みついた。私の歯はすんなりと兎の皮を突き破り、溢れ出てくる濃密で甘い血が喉を潤す。肉は柔らかく、けれど食べ応えがあって、飢えた私の食欲を満たしていく。

 

 ——貴方はあの日見た蜘蛛と同じ。

 

「(もう、こわくないからね……)」

 

 ——一緒に、なりましょう? 

 

 森の中の泉で再び喉を潤した後、しばらくしてようやくまともに体が動くようになった。まだこの身体に慣れているわけではないけれど、多少は思い通りに動くようになってきている。

 それならば、次にやるべきなのは、あの家……廃屋に戻ることだろう。もとより身体を動かせるようになった時から、そうするつもりだったのだ。私は迷わず丘を登って、廃屋の中に戻った。

 

「ただいま。おかあさん……」

 

 当然返事はなかった。そのくらいのことは分かっている。でもどうしても期待してしまうのだ。家に帰れば『お帰りなさい』と迎えられるのではないか、と。

 

 食欲を満たして少しだけ立ち直っていた私を、再び深い深い喪失感が襲った。

 

 私は母に依存していた。母がいなければ寂しくて、不安で死んでしまうくらいに弱くてちっぽけな存在だった。だから、だからこそ私はここにいてはいけない。母が最後に望んだように、私は一人で生きていけるようにならなくてはいけない。

 

 とはいえ、母の亡骸をこのままにしてここを離れたくなかった。せめて、母の墓を自分の手で作り、きちんと埋葬してあげたかった。これは私にとって、けじめにするためにも、必要なことなのだ。

 

 そう自分に言い聞かせ、私はひたすらに地面を掘った。

 

 骨を埋めるための穴はある程度深くてはならないため、今の身体に完全に慣れているわけではない私にとって、それはかなり重労働だった。しかし、土がそれほど固くなかったことがせめてもの救いで、土まみれ、砂まみれになってもどうにか穴を掘れそうだった。

 

「——あれっ……?」

 

 しばらく無心に手を動かしていると、土だらけの私の手の甲に、涙がこぼれ落ちた。急に、母がお祝いしてくれたときのような、懐かしい感覚が胸いっぱいに広がった。私はなんだか胸の奥がきゅっと苦しくなって、我慢していたものが再び溢れ出しそうになってしまった。

 あれだけ絶望しても、もう戻れないと分かっていても、母と過ごしたあの日々は未だに変わらず、私にとっての宝物だったから。

 

「(そうか……そうか、わたしは……私達はきっと一つになったんだね)」

 

 すっと胸に落ちるものがあった。ようやく私は何があったのかを少しだけ、理解できたような気がする。なおさらこんなところで死ねないな、と強く思った。

 

「……でも、今日ぐらいはいいよね。今日で最後だから……私、もう泣かないから」

 

 今までありがとう、お母さん。

 

 それからたくさん、たくさん泣いた。

 土と涙で顔中ぐちゃぐちゃになったけれど、気にしなかった。だってここには私しかいないんだから。この世界で心を許せた人は、母ただ一人だった。でも母はもういない。いるのはきっと私の命を狙う、妖怪たちだけ。

 降りかかった理不尽と、この身を押しつぶそうとする喪失感もみんな含めて好きなだけ泣いた私は、少しだけすっきりした。

 

 

 母の墓は木の塚を地面にさしただけの粗末なものになってしまったが、許してほしい。なにせ今の体にまだ馴染んでいないので、上手く動かせなかったのだ。それに母ならきっと、『私はそんなに豪華なお墓はやぁねぇ』なんて言うに違いない。

 母の姿をいとも容易く想像できてしまって、思わず私はくすりと笑ってしまった。

 

 そうして時間をかけて母の墓を作り終え、私はここを離れるにあたって、二つ形見を貰っていくことにした。

 一つ目は紅い紐でできた母の首飾り。ただ、首飾りとは言っても装飾など全くついていないので紐をほどいて髪を束ねるのに使おうと思う。“能力”を使って紐を分割し、髪を束ねてみるとしっくりきた。何の変哲もない紐だけれど、母が使っていたというだけで不思議と安心感が湧いてくる。それから余った分は首に結んだ。

 

 そして、二つ目。母の名から一字を貰う。もう私はただの“ゆかり”ではいられないから。

 

 これから私は——八雲紫と名乗ろう。

 

 今日が私の生まれた日。

 

「行くわ。おかあさん」

 

 一人でも生きてみせるから。そのために私は強くなるから。どうか見守っていて。

 

「(私、強くなってみせるね)」

 

 母の墓の前で、夕焼けに染まった空を眺めながら私は誓った。

 

 

 

 ******

 

 

 

 あれから気の遠くなるような歳月が流れ、私は何度も何度も向かってくる妖怪たちを殺した。皆私を見て言うのは同じ。

 

 ——“祝福されし子”、と。

 

 その言葉が何を意味しているのかは分からない。ただ分かったのは、私をそう呼ぶ妖怪達が皆、私に救いを求めているという事実だけである。“救い”とはいったい何なのか、謎は深まるばかりだった。

 そんな謎も解明される前に、私を“祝福されし子”と呼ぶ妖怪もここしばらくは遭遇しなくなった。

 彼らが何者だったのかは分からず終いとなってしまったが、収穫が何もなかったわけじゃない。私があれから世界を歩き続け、分かったことを三つにまとめよう。

 

 一つ目、私は固有の能力と結界術を行使できるということ。私の能力は物事の境界を曖昧にしたり、つなげたり、切り離したりすることができる。つまり、多少の制限はあるがそこに“境界”があるなら、私はそれを操作できるのだ。この力は強力で、特に空間に裂け目を入れられるのはありがたかった。おかげで奇襲は確実に決められるし、逆に奇襲に会うこともない。移動にも便利で、私はこの空間の裂け目のことをスキマと呼んでいる。

 そして結界術。そんな術は母から教わっていなかったが、知らぬうちに使えるようになっていた。

 

 二つ目、私は人間ではなくなり、妖怪となったという事実である。これは恐らく、私が過去に妖怪に襲われたとき、膨大な量の妖力が私の体内に取り込まれてしまったからだと考えられる。そして母が消えたあのとき、同時に彼女の魂を吸収したようだ。これによって母の記憶の断片が時折、頭に流れ込んでくるのだと私は解釈している。つまり、厳密にいえば“私”はゆかりの人格を保ったまま、母の魂を取り込んだ存在のようだ。母の魂を吸収したことにより、母の知識と経験を引き継ぎ結界術が使えるようになったのだと思う。結界術は境界を操る能力が制御できない頃に大変重宝した。これ以上は、割愛する。

 

 三つ目。これが一番気になっているのだが、母という人物についてだ。私は旅の中で多くの人間を見ることができたが、明らかに私の知るそれに比べて、技術や知識が遅れていた。というより、そもそも文明が違うような気すらする。私が読んでいたような書物は一切見受けられなかった上に、言語もまったく異なっていたのだ。これはどの地域に行っても同じ事だった。

 母はこの世界の住人ではなかったのではないか、というのが今のところの仮説である。かなり突拍子もない仮説だが、思えば母の行動は不可解な部分が多い。だから可能性として捨てきれなかった。彼女の記憶はまだ完全に把握できていないため、確信は得られないがいつか分かるだろう。

 こうして、私は長い時を自分が何者であるかを知るべく費やした。

 当初の目標であった強さを得るために、そしてこの世界を一人で生き抜いていくために。

 

 

 しかし、私はこの期間で自分の生き方に疑問を覚えるようにもなってしまった。

 

 

 人としてではなく、妖怪として生きていかなければならないことに、気づいてしまったからである。

 

「はあ……」

 

 スキマの中を漂いながら、溜息をつく。

 ここ最近、溜息の回数が多くなった。何をするにもやる気が起きず、雲の上を漂いながら一日を無為に過ごしたこともある。

 自らの生き方に対する葛藤は、正面から向き合おうとしていなかっただけで、ずっと前から薄々感じていたことでもあった。しかし逃げる私に矛盾を突きつける、ある妖怪との出会いがきっかけとなって私は立ち止まってしまっていた。

 

 きっかけ。それは突然の、ある花妖怪による襲撃だった。正直不意打ちもいいところで、私が咲いていた花を愛でていただけなのに、空気を切り裂く勢いで日傘が飛んできたのだ。まあ、ここまでは別に何ともなかった。襲われるのはいつものことで、もう日課とも言えるようなものだったから。

 

 その妖怪はなかなか筋がよく、花妖怪という割には力を持っていた。しかし私の命を奪うには遠く及ばない。殺すのもどうかと思い適当に相手をしてあげていたところ、つらそうに緑色の髪をかき上げながら彼女は尋ねた。

 

「貴方は、何のために……強く、なったの?」

 

 どきりとしてしまった。息も絶え絶えの、花妖怪の言葉に私は少なからず動揺してしまった。

 この時点で、ある意味私は負けていたのかもしれない。

 

 長い長い時を旅してきた私だが、ずっと孤独だった。かつて人間であったがゆえに、私は妖怪でありながら人間に対して害意を持つことなく、むしろ友好的でありたいと思っていた。

 妖怪と人は、きっかけさえあれば分かり合えるものだと、そう思っていたのだ。

 しかし過去に人間の里に近づこうとしたとき、

 

『近寄るんじゃねえ!!!』

『妖怪め、貴様を里に入れるわけがないだろうっ!! 立ち去るがいい!!』

 

 その反応はひどいものだった。正体がばれるとすぐさま刃を向けられた。危うく退治されかけたこともあった。

 母と二人で暮らしていたせいか、私はこの世界の常識をよく知らない。初めは訳も分からず困惑したが、小さな集落で見知らぬよそ者を中に入れるなんてことは普通ないのだ。まして私は人間の天敵たる妖怪である。後々になって分かったことだが、当時の人間の反応としては当然と言えるだろう。

 

 どうやら、私という存在そのものが得体の知れなさ、ある種の不快感を人間に与えているらしい。能力で人間に成りすましても、どこかで怪しまれ、結局人間達に近づくことはできなかった。

 

 そして驚くべきことに、普通の妖怪達も私に近づこうとはしてこなかった。

 人間を見かけるようになってから、妖怪たちも質が変わったように思われる。例えば、“在り方”といったところか。

 人の“畏れ”が妖怪達の存在理由となっているのだ。

 

 ゆえに人間も妖怪も私を恐れ、近づこうとしない。

 正直に言ってしまえば、寂しくはある。私の知るモノが全て消え去ってしまったこの世界で、必死になって生きるために力を追い求め、強くなったというのに、これではあんまりじゃないかと思った。あの日の誓いを忘れることなんてなかったけれども、誰かが恋しくなるほどには長かったのだ。一人はやはり、寂しい。誰かと話してみたい。誰かと触れ合ってみたい。

 そう私が思ってしまったのは必然のことだったのだろう。

 

 

「……さあ、何のためでしょうね?」

 

 少し間を置いた私の返答に、花妖怪は心底不思議そうな顔をした。

 

「——その力で、貴方は何をなすというの?」

「……」

 

 

 花妖怪に出会う少し前のことだ。

 人の住む里の近くで、私は妖怪に襲われている幼い少女を見かけた。息を切らせながら妖怪に追われている姿が、昔の自分と重なって放っておけず、私は彼女を助けた。

 恐ろしい思いをしたためか少女は気を失ってしまったので、腕に抱えてその場を離れた。このとき、彼女の体はとても軽くてちゃんと食べているのか不安になるほどであった。

 

 ここで、気づくべきであったのかもしれない。

 

 少女を親元に返そうと人間の里の入り口まで行くと、人間の大人たちに武器を向けられた。そこで私は極力相手を刺激しないように近づき、里の外で少女を見つけたので預かってもらいたいと交渉をした。

 例え私がどれだけ忌み嫌われていたとしても、この状況なら、話せば分かってくれると思っていた。

 しかし私の予想に反して大人たちは何の躊躇もなく、少女ごと、私を槍で突き刺した。

 少女は一瞬目を見開いてびくりと体を震わせると、私の胸の中で冷たくなっていった。気を失ったまま、彼女の意識が再び戻ることはなかった。

 

『どう、して……??』

『そ、その娘もお前の仲間なのであろう!?』

『この里には近寄らせんぞっ! 妖怪めっ!』

『その薄汚い骸を持ってここから消え去れ!!」

 

 少女は私が救わなくても、妖怪によって殺されていただろう。しかし、この少女が例え里の中で盗みを働くことで生きていたとしても、里の皆から忌み嫌われていたとしても。

 それでもこれは。

 これはあんまりではないだろうか。彼女は同じ人間なのに、殺す必要などなかったではないか。私は必死に訴えた。せめて、彼女の身体だけでも受け取ってくれはしないか、彼女は私と関係ない。どうかここで弔ってやってくれないかと嘆願した。だが、受け入れられなかった。

 

 気づけば私を囲む人間達。彼らは手にもつ石を、私に投げつけた。私を侮辱するのはまだいい。私は、人間が忌むべき妖怪、それもとびきり恐ろしく感じるだろう化け物だから。しかし私の腕の中で眠る、彼女まで侮辱することは許せなかった。

 だって、同じ、人間なのでしょう? 

 

 そのとき、私の腕の中の少女めがけて石が投げつけられた。

 

『————!!』

 

 どうしても、許せなかった。

 その日、私は初めて人間を殺した。

 あれから、私の憂いは晴れない。いつまでも、いつまでもあの少女が冷たくなっていくときの感覚が忘れられない。

 初めて人間を殺したときの、手から滴り落ちた血の感触、そして臭いが忘れられない。

 

 ——強くなると誓いながら、どうして他者を求めるの? 

 

 花妖怪の言葉に私の強くなるという決意は揺らいだ。同時に頭の中で響く声は、矛盾を抱えた私を糾弾した。まったくもって声の言う通り。そう、強くなって、どうする? 強くなった後、何があるというのだ? 

 

 ——一人で生きていけるように強くあろうとしたのではなかったの? 

 

 なのに、どうして。どうして私はあの少女を忘れられない? あの子が死んで腕の中で冷たくなっていくあの感覚を。そして人間を殺したときの、光景を。

 

「貴方は、強い。でも……貴方からは何も感じないわ……」

 

 花妖怪の最後の一言がとどめだった。

 だから私は反射的に花妖怪の意識を奪った。これ以上、耳を傾けていたら自分がおかしくなってしまうと思ってしまったから。しかし、もう手遅れだった。

 

 生まれたひびからは、ゆっくりと泥水が流れ込んできていたのだ。

 

 私は花妖怪を放って、逃げるようにその場を立ち去った。

 スキマの中で膝を抱えてうずくまり、彼女の言葉を反芻する。

 

『貴方は、何のために……強く、なったの?』

『貴方は、強い。でも……貴方からは何も感じないわ……』

 

 耳を塞いだところで意味がない。彼女の言葉は何度も何度も、繰り返し私に矛盾を突きつけてくる。

 一人で生きていけるよう強くなりたいと誓いながら、他者とのつながりを求めている私。この先ずっと一人で生きていくことを恐れているのだ。力ばかりが強くなっているだけで、根本は“あの日”から何にも変わっていない。母がいなくなって泣いてばかりだった、あの頃と。

 

「(私は何のために強くなろうとしたんだろう。この力はなぜ私を選んだんだろう?)」

 

 髪を束ねている紅い紐を撫でてみる。昔聞こえた母の声はもう、聞こえなかった。

 

「(……あのときは生きるのに精一杯だった。でも今は違う……どんな敵とだって戦えるし、策に嵌められるなら、逆にやり返すくらいの自信もあるわ)」

 

 私は強くなった。生きていくだけの力を手に入れた。それでも何かが足りない。

 今の私は空っぽだ。

 

「(私は一体、何をしたいんだろう……)」

 

 そんなこと考えながら、悶々とした日々を過ごした。

 

 

 

 ******

 

 

 

 気づけばもう、桜の季節。

 何度繰り返しても忘れもしない、夢から醒めたあの日の季節。

 その日、私はたまたま気まぐれで人の気配がない大きな屋敷の中に入った。本当に、気まぐれだったのだ。境界操作の力をある程度まで制御できるようになってからは、人間に気づかれずに忍び込むことなどたやすいことだったが、今まであえてすることもなかった。

 しかし。

 

「綺麗な桜。随分と大きな屋敷だけれど、誰もいないのかしら……」

 

 庭に咲いていた桜。私は目の前の桜に見惚れてしまった。

 その桜の発する妖気に馴染みがあったからというべきか。

 だからこそ、彼女が近づくのに気づけなかったのかもしれない。ただ、もし私が気配を察知して姿を消していたならば、彼女に出会えなかったのではないかと今では思うのだ。

 後悔なんてしていない。したら彼女に失礼だ。

 

 たとえ、あの結末を迎えるのだと分かっていても。

 それだけは揺るがない。

 

「ねえ、あなた誰?」

 

 振り向けば、そこには桜色の着物を着た美しい少女が立っていた。その微笑みはとても可憐で優雅なのに——、

 

()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 人は誰しも死に焦がれている。生を欲するのと同じように。

 しかし気づけない。気づこうとしないから。

 咲いて、そして散った。

 墨染の桜。

 

 

 桜の章 始

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

桜の章:桜の君

 時が止まったかと思った。

 それはあまりにも突然で、形容しがたいほどに彼女が美しかったから。

 

 こちらからは表情がうかがえないが、その光景は、高名な絵法師が描いた絵巻物の一面みたいだった。

 不思議な形をした傘をさして、あの桜を見つめている彼女。私は心を奪われ、ぼんやりと彼女のことを見つめていた。

 

 館に無断で侵入した者がいるのだから、警戒するのが普通の反応なのかもしれない。しかし元々この館を訪れる者は少なくなく、日中は常に庭を開放しているため人がいても珍しいわけではない。

 

 それに父が亡くなってからというもの、館を訪れる者は何かに取り憑かれているみたいに皆あの桜に引き寄せられている。

 彼女もそんな者の中の一人なのだろうか。

 はじめ私はそんなことを考えながら、呆けてうまく働かない頭に鞭を打ち、彼女に声を掛けようとした。しかし自分でも驚くぐらいに声が出なかった。

 

「ねえ、あなたは誰?」

 

 幾ばくかして、やっとのことで声が出る。あまり警戒させないよう努力しているつもりだが、体が強張ってしまって思うように微笑むことができない。

 気づけば私は、拳を強く握りしめていた。どうしてこれほどまでに緊張しているのだろうか。

 

 今までこんなことはなかったと思う。

 人と話す機会が余りなかったからか、それとも彼女が発する異様な雰囲気の所為か。どちらにせよ、こんなに緊張したことはなかったはずだ。

 

 彼女はこちらに振り返ると、紫色の瞳で私をじっと見つめてきた。

 

「(——っ)」

 

 人間離れした美貌、それが私の彼女に対する第一印象だった。透き通った白い肌が妖艶な雰囲気を醸し出し、日の光に照らされて輝く金色の髪と相まって、思わず見とれてしまいそうになる。

 

 静かに佇む彼女はまた、美しかった。

 

 そして私は気づく。

 彼女は人ではない、妖怪だ。

 これで異様な気配の説明がつく。

 

 姿、形は人間のそれで間違いないのだが、放つ威圧感は人間とは明らかに異なっている。

 肌がぴりぴりと痺れる緊張感、背筋を冷たいものが撫でるような感覚。

 間違いない。伝え聞いていた妖怪の気配そのものだ。

 

 妖怪と相対するのは初めてだったが、確信に近かった。

 逃げたい、早くこの場から離れたいという衝動が私を襲う。

 

 父の知り合いの者達は皆、妖怪と人間は相いれないのだと口々に言う。

 妖怪は人の生を脅かし、人は妖怪を退治する。この関係は長きにわたり、ずっと変わってこなかったのだと。

 どれだけ妖怪が恐ろしい存在か、彼らからうるさいほどによく聞いていた。そして妖怪の中には人間離れした美貌を持つ者がいるとも。その美しさで、人を惑わすのだという。

 

 まさに、目の前にいる彼女そのものではないか。

 

 途端に恐ろしくなり固まってしまった私は使用人を呼ぶか、呼ばざるかを悩んだ。

 頼れるこの館の庭師兼剣術指南役が張った結界があるのに、どうやって入ってきたのだろうか? そんな疑問も浮かんだ。

 

 しかし、そんな思考も全て彼女が口を開いたことによって吹き飛んだ

 彼女の声は冷たいけれど、澄んでいて耳心地がよかった。

 

「これは失礼しましたわね。私の名は、八雲紫と申します。桜が綺麗だったから、ついお邪魔してしまいましたわ」

 

 心奪われそうになったからこそ、私の胸の中で警戒感がさらに増した。

 妖怪であるということに加えて、目が合った瞬間、こちらの全てを否応がなく見透かされているような不快感が走ったのだ。何だか恐ろしくて恐ろしくて、今にも声を上げたくなった。

 しかし、必死に堪える。ここでは声を上げてはならないと思った。

 

「そう、でしたか……こちらこそ無遠慮に声をかけてしまい、失礼しました。私はこの館の主、西行寺幽々子といいます」

 

 彼女は他の者のように、死に誘われて来たわけではない様子。すると彼女は、まったく異なる目的で来たと思われる。それに、冷静になってみればここで使用人を呼ぶのは悪手だ。

 

 私を襲いに来たのなら、すぐにでもそうしていただろう。それをしてこないということはつまり、彼女は例え私がここで使用人たちを呼び、この館を取り囲んだとしても逃げ切れる自信があるということだ。

 だというのに使用人達を呼んで、むざむざ犠牲を出したくはない。それに、彼女の先ほどの言葉。あれは恐らくそのままの意味ではない。

 

 そこで出される結論は、彼女の目的があの桜にあるというものだ。少し、探りを入れる必要があるだろう。恐ろしくて足が竦んでしまいそうだが、ここで逃げるわけにもいかない。今や私は、この館の当主なのだから。

 ……とはいえ当主としての矜持なんてあったのか、と私は少々自嘲した。

 

「その桜がお気に召しましたか?」

「そうですわね」

 

 彼女は桜に近づき感慨深そうに見上げた。

 

「なんだか見ていてうっとりとしてしまいましたわ」

「何か感じるものでも?」

「人を引き付ける、何かがあるような気がします」

「なるほど」

 

 その感想は正しい。初めから全てを知っていたかのような口ぶりだ。白々しい物言いでもある。

 

「……その桜は、ひときわ美しく咲くのです。亡き父は、その桜を愛していました」

「そう、ですか。なるほど確かに……これまで、さぞ愛されてきたのでしょうね。愛するがあまり、きっとこの桜の下で、最期を迎えたいと思ってしまうほどに」

「っ!?」

 

 ついには全身に鳥肌が立ち、動揺してしまった。

 彼女の言ったとおりなのだ。最近、父が愛したあの桜の下で最期を迎えたいと望む者が後を絶たない。今は死人が出ていないが、この先が不安で仕方がなかった。

 なぜ、そのことを知っているのだろう? やはり、彼女は何か目的を持って此処にやって来たのだろうか? 

 

「あの、もしよろしければですが、もうしばらく私とのお話しに付き合ってはいただけませんか?」

 

 彼女をこのまま放っておくことはできない。

 どこまで知っているか、もっと探る必要がある。だって、一目見てあの桜の本質を見透かすだなんて、只事ではないのだから。

 ふと、恐ろしい考えが頭をよぎった。

 

『もし、この恐ろしい妖怪である彼女が、あの桜を使って悪意ある目的のために用いようなどと考えていたら——』

 

 この上ないほどの恐怖が私を襲った。

 だからこそ。このまま彼女を放っておくという選択肢はないに等しかった。そもそも、彼女があの桜の起こす怪現象に関わっている可能性だってある。誰よりも私は、知る必要があるだろう。

 こうして私が動揺を隠し、表情を取り繕っていると彼女は傘を閉じてこちらに向かって歩いて近づき、

 

「ええ、こちらこそ。私でよければ」

 

 と微笑んだ。

 魂を奪われそうになるほど美しい微笑みだった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 二人で白玉楼の庭を歩く。いつも眺めているはずなのに、まるで別の場所に来たように感じた。植わっている桜一つ一つが、まるで異なる様を呈しているようにも見えた。

 それに、なぜか今日に限って、この庭園には他に観覧者がいない。

 使用人たちの気配もない。まるでこの広い庭が、二人だけの窮屈な空間になってしまったかのようで、ますます私は彼女が恐ろしく感じた。

 

 そんな私の気も知らず、隣を歩く八雲紫という少女の姿をした妖怪は、庭に咲く桜をどこか遠い目で見つめており、表情を変えることなく、優雅にたたずんでいる。

 じっと顔を見つめるのも失礼なのだけど、時折吹く、暖かく弱い春の風に彼女の睫毛が少しだけ揺れているのが、何とも印象的だった。

 彼女と私の間に横たわる沈黙。

 さすがにこのままずっと無言でいるのは少し気まずく感じたので、私から話しかけてみることにした。

 

「——あの」

「はい、どうなされましたか?」

「八雲様は……何処よりいらっしゃったのですか?」

「そうですわね……。私は各地を旅してまわっているものですから、何処からという質問には答えづらいのですが、強いて言うのであれば丑寅の方角から、とでも言いましょうか」

「丑寅、ですか?」

 

 東北の地から来たということなのか。確かあそこは未開の地であったはず。一体どんなところなんだろうか? 昔、父を慕っていた者から聞いた話によれば、美しい山々がそびえ立ち、清らかな川が谷を流れるという。

 そして丘の頂上まで辿り着けば、鷹のさえずりが山全体に木霊しているのだと、楽しそうに語っていた。

 

 彼女が妖怪であることを考えれば、この国の外であることも十分にあり得る話だ。東北の地よりももっと遠く、ひょっとすると海の向こうの大陸から来たのかもしれない。

 別に妖怪になりたいというわけではないが、各地を自由に行き来できる彼女が素直に羨ましいと思った。私は体が弱いので、気軽に外出することができないから。

 

「まあ。ずっと、旅をしていらしたのですか。道中のお話をお聞かせいただいても?」

「ええ。勿論」

 

 それから、私は八雲様の旅の道中のお話を聞いた。なんと思った通り、彼女は海の向こうの異国にも赴いたことがあるらしい。異国の話はどれも興味深いものだった。初めは彼女がどうしてあの桜の異常に気づいたのかを聞き出すために会話をしようとしたのに、気づけば彼女の話を素直に楽しんでいる自分がいた。

 さっきまで彼女が恐ろしくて、緊張していたというのにも関わらず、今や彼女の語る旅の話に胸を躍らせながら耳を傾けている。

 

 こうして自覚できるのに、まるで意識の外に追いやられるかのように警戒感が薄れていくのだ。

 

「海の向こうの国は、それはそれは大きく、豊かですわ。都の大きさもこの国とは比べ物になりません。高台に上っても都全体が見渡すことができないくらい」

「そうなんですかっ!?」

 

 しまった、つい油断してしまった。

 

「し、失礼しました。わ、私ったら、つい興奮してしまって」

「ふふっ、いいえ。私も初めて見たときは驚いてついつい大きな声を上げてしまいましたわ。未知の事柄はいつも興味深いものですもの」

 

 しかし慌てた私を八雲様は気遣ってくださった。

 恥ずかしい。

 

 全てが事実なのかは分からない。仮に八雲様が嘘をついていても、私では見抜くことなんて、できやしないだろう。でも、旅の話をする彼女の目は、きらきらとしていた。彼女は纏う妖しい雰囲気に反してとても楽しそうに、無邪気に話していた。

 

 こんなにも楽しそうに話している彼女が、はたして嘘をついているのだろうか? 私は彼女の一面を意外に思いながらも、徐々に違和感を覚え始めていた。

 妖怪である彼女と、人間である私が今こうやって他愛のない会話をしているという事実。彼女がこれまで伝え聞いていた“妖怪”と異なるのではないかと私が思ってしまうのも必然だった。

 

 薄れていく警戒感もそうだ。

 彼女と出会った当初の私は、何か大きな思い違いをしてしまったのではないだろうか。

 

 庭を軽く歩きながら八雲様の旅の話を聞いた後、私たちは館の縁側に腰を掛けて休んだ。久しく誰かとこんなに話しに花を咲かせたことがなかったので、私自身、いつの間にか疲れてしまっていたようだった。腰を掛けると、吐息が自然と音を立てて漏れる。

 運動不足な私を差し置いて、隣で八雲様はふわりと、まるで重さがないかのように腰を掛けてこちらを向き、わずかに微笑んだ。

 そんなふうに微笑みかけられたら気を許してしまいそうな自分がいて、私は今一度気を引き締めようと心に決めた。

 

「(まだよ。まだ大事なことを聞いていないわ)」

 

 そう、本題はこれから。

 私は彼女に聞かなければならないことがある。半ば確信に近づいてきているけれど、これだけは確認しなければならない。たとえ、私の命がかかっているのだとしても。

 

「ところで、八雲様」

「はい?」

 

 ああ、でも怖い。

 こんな風に優しく応えてくれている彼女を目の当たりにしてもなお、私は彼女が牙を剥くのではないかと未だに震えてしまう。

 

「私……」

 

 ……いや、それでは駄目だ。

 受け入れるのだ。この恐ろしさも、全部。その上で、問えばいいのだ。

 だから、迷ってはだめだ。

 

「どうして、どうしてあの桜が特別なものだとお分かりになったのですか?」

 

 聞いて、しまった。

 決定的な問いだ。

 この次の八雲様の反応で、私の命運は決まると言っていい。

 

 八雲様はあの桜に目をやった。そして予想通り、彼女はすぐに私を襲いはしなかった。

 しばらくの沈黙の後、八雲様は口を開いた。

 

「……そうですわね。案外、私もあの桜に誘われてしまったのかもしれません」

「えっ……」

 

 予想外の答えが返って来た。

 

「そんなに警戒なさらないで。いいえ、それもまた難しいやもしれませんが。しかし、これだけは。少なくとも、私はあの桜をどうこうしようなどとは思っていないことを先にお伝えいたしましょう」

 

 私がしていた警戒や、覚悟はあっさりと崩れていった。

 驚いた。自ら誘われていることに気づいていながら、ここにやってきたのか。そしてあの桜に関与しているわけではないのか? 

 もしも彼女の言っていることが本当なのだとすれば、という話ではあるのだが。

 

 すると私の胸中を察したらしく、八雲様は補足を加えた。

 

「まあ、私のような人外が一目見れば、あれが異常なのは分かりますわ。あれはもうただの桜ではありませんもの。こう見えて、“目”には自信がありましてよ?」

「……なるほど」

「それに、その、どうやら妖気を発しているようでしたし」

 

 つまり、彼女は察知能力に優れた妖怪ゆえに、妖気を発するあの桜が特別であると分かったということか。

 言われてみれば、それは確かに単純なことであった。まさか私の抱えていた不安は杞憂だったのだろうか。

 ——などと思っていたら、

 

「ふふ、ご心配なく。貴方の想像したような最悪の事態には、決して至りませんわ。繰り返しますが、あの桜を操って何かをしようなどとは考えてもいませんし。それどころか、そもそも干渉すること自体が恐らく不可能かと」

「あっ、えっと…………え?」

 

 一体彼女はどこまでお見通しだったのだろう? 

 途端に私は緊張が解け、同時に羞恥心に駆られた。

 こちらの考えていることは完全に見透かされていたらしい。全部、私の空回りだったということなのだろう。

 そして不意に彼女の目を見た私は、言葉に詰まってしまった。発する雰囲気に反して、なんて真っすぐで、綺麗な目をした方なんだろうと思ったから。

 狼狽する私に構わず、つづいて八雲様は言う。

 

「あの桜は私と同じ、いいえ、近しい“能力”を持っているようですから、そう易々と手出しはできません」

「それは……?」

「まあそれは、——にも言えることかもしれませんが」

 

『手出しはできません』とまでは聞き取ることができたが、その後に続いた言葉は上手く聞き取れなかった。しかし壮大な勘違いをしてしまったことで羞恥に駆られていた私はそれどころではない。

 そんな中、八雲様は私の方に首を向ける。決意の籠った眼差しだった。

 

「——西行寺様」

「……はい?」

「こちらも、単刀直入に聞きますわ。貴方は私が、怖くはないのですか? すでに気づいていらっしゃるはずです。私が人間ではないことを」

 

 その目は真剣そのもので、まっすぐ見つめられると言葉を失ってしまいそうになった。しかしここで目を逸らしてはいけない。それをしてしまえば、彼女が遠ざかってしまうような気がしたから。

 かと言って、すぐには答えられなかった。

 確かに、私は八雲様のことを『怖い』とも、『恐ろしい』とも思った。今でも少し足がすくんでしまっているし、ちょっと前まで悲鳴を上げたくなっていたのも、事実だ。

 

「(ああ、でも私は知っている……目を離したら遠ざかってしまうと思ったのは、私が私を心から嫌ってしまうからなんだ)」

 

 彼女の話を聞いているうちに、そして今、彼女のこの目を見て分かったことがある。私の境遇と、どこか似ているのだ。

 この方はきっと、自分と周囲の違いに振り回されてきたに違いない。

 

 彼女を見た者は——私も含めて——誰しも初めに謎の警戒感を覚え、そこから彼女に対して先入観を形成してしまう。その先入観が一度、形となってしまえば、印象を変えることは難しくなるだろう。

 加えて彼女は純粋だ。あまりに純粋で、そして一途であるからこそ逆に他者に対して警戒感を与える結果となってしまう。警戒感を覚えた相手が気安く接してきたならば、それは余計に不気味に映ることだろう。

 

 ましてや、妖怪と人間の間には埋めようのない溝がある。彼女に対する先入観に、さらなる拍車をかけてしまっていたのかもしれない。そして誰にも打ち明けられず、他の者にずっと避けられ、理解されてこなかったのだ。

 

 近づこうとすれば、拒絶され、独りにならざるを得なかった。独りになってしまったがゆえに、他者との距離感をなかなか掴めないでいる。

 自惚れでなければ、彼女はだからこそこうやって会話が成り立っている私に、打ち明けてきてくれているのではないだろうか? 

 一人の人間である、この私に。

 

 辻褄は合う。

 やはり私は、警戒する必要なんてなかったのだ。

 

 あれこれと考え込み過ぎて彼女の本質を見誤ってしまったのかもしれない。きっと彼女は言葉の通り単純に桜が綺麗だったからこの館に来たに過ぎないのだろう。

 もうここまで来れば、この方を警戒する理由なんてない。

 だって。

 本当は私、すでに彼女のこと——。

 

「綺麗ですね」

 

 私の口から自然に漏れ出た言葉。

 間違いなく、本心だった。

 

「えっ? は、はい。この桜、確かに綺麗ですわね」

 

 今までずっと表情を崩さなかった八雲様の眉が少しだけ動く。

 

「いいえ、貴方が」

 

 私の一言に八雲様は固まった。思わず口に漏れ出てしまった言葉を、今更なかったことにはできない。本心なのだから尚更。

 しょうがないけれど、やっぱりこの沈黙はつらいなぁ、などと考えていると。

 

「………………えっ、……えぇっ!?」

 

 急に、八雲様が素っ頓狂な声を上げた。

 今まで彼女が抑え込んでいた感情、それが一気に漏れ出たような様子だった。私も内心、『随分あっさりとぼろを出してくれたなぁ』などと少々驚いている。

 みるみるうちに八雲様の顔は朱に染まり、親しみやすい表情に変わると纏っている雰囲気に反してとっても可愛い。

 

 ……変わらず発している妖力とその威圧感は相当なものだが。

 裏を返せば、それだけ取り乱しているということなのかもしれない。

 

 やっぱり、外見を取り繕っているだけで中身は私達と変わらない一人の少女だったのだ。少し踏み込むだけで、こうも違う彼女の姿を見ることができたのだから。

 

 先ほどまでの凛々しい表情から変わって、今は恥ずかしそうに顔を赤くして手で覆っている。手の隙間から私をちらちらとみている姿が愛らしい。それはまさしく私と変わらないくらいの年頃の少女の姿だった。

 これは驚きだ。まさに予想以上。驚きすぎて笑いがこみあげてきた。

 

「ふふふっ」

 

 なんだかさっきまで警戒していたことが、本当に、本当に馬鹿らしくなってきた。

 

「な、なにをきゅ、急にっ!?」

「やっぱり。貴方が人間でないのだとしても、私は気にも留めません。怖い方なら、そんな風に赤くなったりしませんし」

「そ、そんなことっ!」

「あら、まあ」

 

 確かに、彼女は今まで恐れられてきたかもしれない。事実私も、はじめは恐ろしくてたまらなかった。でも、今日初めて会った私ですら彼女と打ち解けることができたのだ。きっと他にも彼女を理解してくれる者達は現れてくれることだろう。

 もし仮に誰も歩み寄ろうとする者がいなかったのだとしても、私が彼女の側にいてあげればいい。彼女は、私に似ている気がする。素直になれないところなんかとっても似ている。何というか、もう他人事などではなく、放っておけなくなってしまっている自分がいた。

 

 ——私はもう、彼女に惹かれてしまった。

 もっと知りたい、もっと近くで触れ合いたい。

 

「八雲様。貴方がもしよければ、なのですけれども」

 

 だからこそ。叶うのなら。

 

「——私とお友達になってくださいませんか?」

「え?」

 

 八雲様は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。ころころと表情が変わって面白い。

 そしてすぐに我に帰るやいなや、また顔を赤くして、

 

「も、もちろんっ! 私のことは紫と呼んで頂戴! よろしくねっ、幽々子!」

 

 と、太陽みたいに彼女は笑った。

 邪気のない、暖かい笑みだった。

 

 父が亡くなってからというもの、

 運命だとか、神だとかは信じられなくなった私だけれども。

 今日だけは、この出会いに、

 

 感謝したい。

 

 

 

 ******

 

 

 

 あの後、お互いに色々と勘違いをしていたと話して、ひとしきり笑いあった。紫からすれば私の勘違いは、『何それ?』である。

 他愛のない話をしていた私達だったが、漸くこの館の庭師兼剣術指南役が帰ってきた。私の隣で座っている紫を見ると、彼は初め険しい目をしていたが、すぐに不思議そうな表情に変わった。

 彼ほどの者ならば紫の持つ“違和感”に気づくことができるのだろう。私が内心で『流石だなぁ』などと感心していると、彼は私の元へ歩み寄り、

 

「ただいま戻りました。幽々子様」

「お帰りなさい。妖忌」

「こちらは?」

「私のお友達よ」

「これはこれは……そうでございましたか。私は幽々子様に仕えるこの館の庭師兼剣術指南役、魂魄妖忌でございます。以後良しなに」

「八雲紫ですわ。こちらこそよろしく」

 

 何か納得したのか、妖忌は挨拶を終えるとお茶の仕度をしてくると言ってその場を発った。

 紫も私と同じことを考えていたのか、感心したように彼の後姿を見つめている。

 

「彼、ただ者ではないわね……。穏やかな見た目と違って、一切隙が無かった。それに私が妖怪だって分かっているのに幽々子の一言で取り乱さなかったし、すぐに納得していたわ。ずいぶん信頼されているのね」

「ええ、私が小さい頃からずっと仕えてくれているから。それに妖忌はすごいのよ。家事はもちろんのこと、剣術の腕も良くて歴代剣術指南役の中で、最強と呼ばれているわ」

「なるほど、納得したわ」

 

 ちなみに紫と私はお互い堅苦しい言葉遣いをやめにした。

 おかげでもっと距離が縮まった気がする。

 

「そういえばこの館、大きい割には人が少ないわね。それも彼が理由?」

「いいえ。父が亡くなって、辞めていった人が多かったの」

「それは……大変だったんじゃない? 桜の手入れなんかもあるでしょう?」

「桜については妖忌がいてくれるから問題ないわ。彼は庭師でもあるから。まあ、今のところ屋敷は上手く回っているわね…………」

 

 幸い辞めていった使用人たちのほとんどは入って間もない者達であったので、それほど問題はない。むしろ前よりも妖忌が張り切っているので庭がより美しくなった気がする。

 しばらく世間話をしていると、妖忌がお茶をもって帰ってきた。

 

「幽々子様、八雲様。お茶でございます。熱いうちにどうぞ」

 

 妖忌はお茶とお茶請けを置くとそのまま後ろに控えた。この短時間で準備したとは思えないほど立派なものだった。まったく彼には頭が上がらない……。妖忌が持ってきた茶と茶請けに一瞬目を丸くした紫だったが、優雅にお茶に手を持って行った。

 しかし、

 

「ありがとうございます。妖忌様…………あつっ」

 

 飲もうとして、すぐに舌をひっこめた。

 そして何もなかったかのようにふぅふぅと息を吹きかけて冷まし、再びお茶に口をつけている。

 妖忌と私は目を合わせた。彼も少しだけ顔が引きつっており、これは無視するべきかどうやら悩んでいるようだった。妖忌は私にしか聞こえないように耳元で囁いた。

 

「幽々子様。失礼ながら、八雲様は少々抜けているようですな。この魂魄妖忌、不覚にも驚いてしまいました」

「本当よね。見た目からだと想像もつかないもの。まったく、面白いでしょう?」

 

 紫は猫舌だった。恐らく誰かから歓迎してもらうことや、お茶を出してもらった経験がなかったのだろう。慣れない故に焦って口に運んで舌を火傷したところか。

 これはなんとも。

 

「な、なんの話をしているのかしらっ!?」

「紫は面白いわねぇ、って話よ」

「っ!? なによぉ、今までお茶を出されたことなんてなかったんだから、仕方ないじゃない……」

 

 へぅ、と紫は項垂れた。今だけは、彼女が残念な妖怪にしか見えない。

 胡散臭い雰囲気はどこへ行ったのやら。

 私は暖かい目で紫を見守った。

 

「くくっ」

 

 小さく押し殺すような笑い声が聞こえた。

 振り返ると珍しく妖忌も笑っていた。こうして初対面の相手の前で、それも妖怪の前で彼が表情を和らげるのは本当に珍しい。私もつられて笑う。

 

「あはははっ」

「もう、笑うことないじゃないっ」

 

 そんなことを言いつつも『し、仕方ないわね……』と紫も笑っていた。

 

 今日は本当にいい日だ。

 体をじんわりと染み込むような感覚。私は久しぶりにお茶の温かみを感じた。

 

 

 

 ******

 

 

 

 不思議な少女と出会った。

 彼女の名は西行寺幽々子。聞くところによれば彼女はわずかな使用人たちと、この大きな屋敷に住んでいるらしい。道理で人の気配がしないわけだ。

 ただ、私のように屋敷を訪れる者も少なくないと言っていた。だから来客には慣れているのかもしれないが、そうだとしても私は驚きを隠せないでいた。

 

 彼女は私を拒絶しなかった。

 

 二人で庭を歩いていると、彼女は私がどこから来たかを尋ねた。その問いに答えるのは難しいので、曖昧な返答になってしまったがそこから私の旅の道中の話に変わった。

 

 それからだ。

 

 彼女は聞き上手で、時折相槌を打ってくれるため私も話しやすかった。

 今まで誰もまともに話を聞いてくれなかったので、ついつい話し過ぎてしまったが、誰かと話せることが私は本当に嬉しかった。彼女は表向きには出さないようにしながらも警戒していることは分かったが誰か使用人を呼ぶとか、すぐさま帰らせるといった明確な拒絶を示さなかった。

 

 ここでようやく気づいたのだが、彼女は恐らく何かしらの“能力”を持っている。それ故に、私を前にしても嫌悪感を持たずに平静を保っているのだろうか? そんな仮説を立てながら、甘い考えが頭をよぎる。

 しかし、同時に胸がちくりと痛んだ。

 

 独りで生きていくことへの疑念は、未だ晴れない。いっそのこと、もう拒絶してくれた方が、よっぽど諦めがつくのかもしれない。信じて裏切られるより、今すぐ拒絶してもらった方がずっとずっと傷つかないだろう。単純に私は怖かった。私はまた、自身の存在を否定されるのかもしれないと。

 

 だから私は、正直に打ち明けてみることにした。

 気づいてはいないかもしれないが、私やあの桜と同じ、“能力”を持った彼女に。

 

 敵意を向けられると思っていたが、ことは私の予想から外れた。

 初めこそ動揺する素振りを見せていたとはいえ、私が妖怪であると告げると、彼女はあろうことか私をからかってきた。

 

 完全に不意打ちだった。

 まさか、こんな恥ずかしい思いをするなんて。

 

 誰かにからかわれたのは、八雲紫として長く生きてきて、初めての経験だった。まるで“ゆかり”だった時に戻ったみたいで。むず痒いのに、どこか心が温まる感覚だった。

 気づけば出会ってそれほど経ってもいないというのに、私は彼女に癒しを求めてしまっていた。無条件に彼女のことを信じたいとまで思ってしまっていた。

 

 また次も来て、いいのだろうか? もう、ここへは来ない方がよいのだろうか? 

 

 そんなことを思い悩んでいると、彼女は言った。

 

「——私とお友達になってくださいませんか?」

 

 世界が色めいた気がした。私は絶対、今日という日を忘れないと思う。

 

「も、もちろん——!」

 

 この日、私に初めて友と呼べる存在ができた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

桜の章:死へと誘う

 ——卯月 

 

 初めて白玉楼を訪れてから数日が経った。

 あれからというもの、私は彼女のもとを毎日のように訪れている。

 べ、別に暇だっていうわけじゃない。これは大事なことなのだ。人間である彼女の心理を理解するという目的が——。

 

 と、いうのは半ば言い訳みたいなものなのかも。

 

 今日も遊びに行こうとスキマの出口を白玉楼の庭へつなぎ、中から様子を窺えば、どうやら幽々子は館の縁側に腰かけてお茶をすすっているようである。ぽやぽやとした彼女独特の雰囲気が周囲に漂っており、春の終わりだというのに、彼女の周りだけ未だ桜が咲き誇っているようだった。

 

「今年の桜は長いこと咲くようね? 季節外れの桜というのも、悪くないわ」

 

 スキマから身を乗り出し、彼女の隣に移動して話しかければ、幽々子は私のいる方に目を向け、口を開いた。

 

「もう、急に現れないで欲しいわね。心臓に悪いもの」

「あら? 全然驚いていないくせに……」

「驚いているわ、とっても。それはそれは、心臓が止まってしまうくらいに」

「……一体どの口が言うのかしら」

「貴方の名を呼ぶ、この口よ。いらっしゃい、紫」

 

 幽々子は全く驚いていない。

 大抵、急に現れる私に対して人間は気味悪がったり、警戒したりするものだが彼女にとっては些細なことのようだ。呑気に微笑みかけながら、幽々子は隣に座るよう私に促してくる。妖忌を除いて、妖怪に対してここまで自然体でいられる者が他にいようか。

 

「貴方がいないと退屈だわ。またお話を聞かせてくださいな」

「いいわよ。……でも本当に幽々子は不思議だわ。つい最近知り合ったというのに、それに妖怪を相手にしているのにも関わらず、物怖じしない。いつも調子を崩さないというか、少なくとも貴方の相手をする側はいつも振り回されることでしょうね」

「そんなつもりはないのだけれど?」

「そういうところも含めて、相手は大変だということよ」

「まあ、失礼しちゃうわ」

「ふふん、友人ですもの。時にはたしなめたりすることも、必要ですわ」

 

 そう言うと、幽々子は嬉しそうに笑った。見ているこちらの頬が緩んでしまうような、笑みだった。

 幽々子が隣に座るよう促してきたので、言われるまま隣に座れば、彼女からはほんのりと桜の花の香りがした。

 

「そうねえ、今日は何の話をしようかしら? 姿を消していた川の水神が再び元いた場所に戻った話か、それとも山に潜み人間を化かすことで人里を恐怖に陥れた狐の妖怪の話もあるわね」

「それじゃあ、両方」

「そう言うと思ったわ」

 

 私がそう答え、幽々子が妖忌を呼ぶ。

 

「妖忌~、お茶を出してもらえるかしら」

 

 妖忌は幽々子が声をかけるとすぐに私と幽々子の分のお茶と菓子をもって現れた。幽々子の隣に座る私を目にとめると、軽く会釈をして後ろに控える。

 

 つくづく、彼はまさに従者の鏡だな、と思う。

 この気ままで自由な主人に不平不満をこぼすことなく、忠実に役目を果たすその姿にもはや敬意すら持てる。機会があれば彼から一度、幽々子と接するときのコツというものを教えてもらってもいいかもしれない。

 

 なんてことは胸の奥に秘めつつ。

 

 はじめはいつも通り、私の旅先での話に幽々子が『へぇ~』とか、『ふ~ん』とか適当に相槌を打ち、主に世間話に興じていたのだが、一度会話が途切れると、幽々子は何かを思い出したらしく、左手の平に右こぶしをぽんと乗せ、妖忌にこう言った。

 

「そうそう妖忌。まだ貴方のことを紫に言ってなかったわね。丁度いい機会ではないかしら?」

「ああ、そうでございましたな…………しかし、失礼を承知で申し上げますれば、この件は幽々子様には忘れていただいて欲しかったのですが……」

「なぁに?」

 

 普段あまり感情を表に出さない妖忌が、珍しく困ったような表情をしている。幽々子に忘れていて欲しかったとは一体どういうことなのか。それは何だろう? 

 私は皆目見当がつかなかった。

 

「うふふ。妖忌はね、世にも珍しい()()()()なのよ」

「半人半霊……。聞いたことはあるけれど、一度も見たことはなかったわ。確か半分生きていて半分死んでいる、だったかしら?」

 

 妖忌を見てみても、想像していた半人半霊とは異なっていた。外見上はまったくそれらしい要素がない。見た目は人間のそれと全く同じである。

 

「……てっきり、半透明だったりするのかと思っていたけれど」

「何だ、知っていたの。なるほど、あまり驚かないわけね。それじゃあ、彼のことも気づいていた?」

「いいえ、全く気付かなかった。それにこう見えてかなり驚いているわ」

 

 私が思い浮かべていた半人半霊は、うっすらと半透明、もしくは魂魄が周囲に浮いているなど、どちらかというと霊魂に近い外見だったのだ。

 それに彼から発せられる力も人間の持つ霊力であるため、並みより多いことに少し違和感を覚えることはあったが、それだけでは判別するまでに至らなかった。

 

「紫様のおっしゃることも、もっともでございましょう。しかし、我々は半霊をある程度まで自由自在に操れるのですよ」

「妖忌、見せてあげた方が早いわ」

「いや、恐れながら幽々子様——」

「だ~め。せっかく紫が見たいと言っているのよ?」

「……承知、しました。幽々子様」

 

 理由は分からないが、渋っていた妖忌の背から、ぴょこっと飛び出る半霊。

 目立たぬよう霊力を極限まで抑えていたのか、半霊を出したのと同時に、一瞬だけ彼の霊力が跳ね上がる。ここまで隠すことが上手だとは思わなかった。私の経験上、力を隠すことが上手い者は得てして強者である傾向にある。きっと彼は今まで私が戦ってきた実力者にも引けを取らないだろう。そんなことをつらつらと考えていると、

 

「器用よねえ~、本当に……」

 

 幽々子は妖忌の半霊を見つめながら間延びした声で言った。彼のやっていることは並外れたことであるというのに、何とも呑気なことである。

 まあ、幽々子なら仕方ないか。

 

「他の使用人達はもちろん人間ですので、気を使わせないようにもこのようにしているのですよ」

「なるほど、貴方から感じた僅かな違和感は、そういうことだったのね」

 

 先ほど幽々子が言ったように、確かにこの珍しい種族は器用である。優れた力を持ちながら、人間に紛れ込んで生きていける強かさがある。しかし一つだけ疑問が残った。

 

「それにしても、どうして幽々子は私に彼のことを教えようと思ったの? それも、わざわざ渋る妖忌にお願いしてまで。言わなかったらきっと不思議に思っても、妖忌が半人半霊だとまでは分からなかったわ」

「なんでかしらね」

 

 一瞬、幽々子の目が鋭く光った……ような気がした。彼女の眼光になぜだろうか、少し嫌な予感さえするのだ。その証拠に、妖忌の顔色が心なしか悪い。

 まぁ、二人が主従の関係である以上、余計な詮索はよそう。

 

 二人の様子のことよりも、私は半霊が気になって仕方がなかったのだ。長く旅しているうちに見聞を広めてきたつもりだったが、探求心とは尽きないもので、新たな発見にはいつも心躍る。私としては半人半霊のちょっとした生態を知ることができて、大変満足であった。

 それにしても妖忌に背後に浮かぶ、その半霊。

 ちょっと触ってみたい。

 いや、可能なら是非とも触ってみたい。

 

「ふふっ、紫ったら、嬉しそう。ねぇ、見せてあげてよかったでしょう、妖忌?」

「……む、そうですな……」

 

 私には二人の会話が耳に入ってこなかった。私の意識はずっと、半霊に向けられていたからである。

 霊魂であればいくらでも触ってみたことがあるが、やはり半霊の触り心地というものは、霊魂のそれとは違うのだろうか。

 

「……妖忌、その半霊、ちょっと触ってみてもいいかしら?」

「それは……いえ、どうぞ」

 

 渋々といった様子だったが、妖忌は要求に応じてくれた。

 恐る恐る半霊に触れてみると冷たくて程よい弾力があり、なおかつすべすべとしていて、霊魂とは比べ物にならないほど触り心地がいい。この感動を例えるならば、冷えても弾力を失わない、もちもちとした大福を撫でているような心地と言えよう。ああ、この半霊が大福だったら良かったのに。

 なんだか無性に大福が食べたくなった。

 

「これは、想像以上だわ」

 

 私が心の内の欲望を抑えながら半霊の触り心地を堪能していると、幽々子がぽつりと一言。

 

「ええ、本当に。おいしそうよね?」

 

 空気が固まった。妖忌の表情が強張っている。私はここでようやく幽々子の目的に気づいた。

 

「(ああ、なるほど……)」

 

 何だか申し訳ない気持ちになってきた。

 

「そ、そうかしら。私はそうは思わないけれど……」

 

 ごめんなさい、妖忌。実は私もこの半霊が大福だったらなんて思ってしまったわ。

 

「ええ~、想像してごらんなさい? ほら、夏場とか良さそうじゃない。暑くて何も食べられないときとか。ねぇ、紫。貴方もそう思わないかしら?」

「幽々子、半霊を食べる話から離れませんこと?」

「ああ、冬もいいわあ。雪を見ながらの雪見大福……とっても素敵」

 

 こちらの話を聞く気がない。何なんだろうか、彼女の頭には食べることしかないのだろうか。いいやまて、それだと私も同類になってしまう。それは何かとってもだめな気がする。

 

 ——とはいえ妖忌を見ると青ざめた様子。あの何にも動じない、ましてや私にすら動じなかった彼がこの様子ということはきっと過去にろくでもないことをされたのだろう。想像に難くない。

 

 幽々子は私に半霊の話を振ることで興味を持たせ、妖忌に半霊を出さざるを得ない状況に仕立て上げたのだ。つまり、妖忌にねだっても出してもらえないので私を利用したというわけである。

 これはしてやられた。今回は、幽々子の方が何枚も上手であった。

 

「ゆ、幽々子様……。それだけは、それだけはどうかおやめください……」

 

 涙が出てきそうだ。あの寡黙な彼が必死に幽々子を止めている姿を見ていると、何とも言えない気持ちになる。やっぱり、彼女が周囲を振り回すという私の感想に間違いはなかった。それに例外などなく、従者たる妖忌も振り回してしまうのだ。

 

「あぁ! ぜんざい、ぜんざいもいいわね!!」

「——ひとまず私の半霊を甘味にたとえるのはおやめください……」

 

 妖忌が半霊を隠している本当の理由。それは他の使用人に対してのものではなく、幽々子に見せないためだったのではないだろうか。

 そんな気がしてならない。いや、きっと、絶対にそうだ。

 

「——それじゃあ一口だけ、一口だけでいいから」

 

 これ以上ないくらいのいい笑顔でじりじりと妖忌に詰め寄っていく幽々子を見て、私は思った。憐れ妖忌。逃げ場はもう……。

 

 妖忌の半霊がこの後どうなってしまったか、それはまた別の話。

 

 

 

 ******

 

 

 

 ——皐月

 

 それからしばらく経った、あれは夏に入る前の爽やかな天気が続いた日。

 いつも通りに幽々子と過ごす夕暮れ時、彼女は今まで身の周りで起きてきた不可解なことを私に告白した。

 

「蝶?」

「ええ。私、小さい頃から不思議な蝶が見えるの」

 

 幽々子は『信じられないかもしれないけど……』と後から小声で付け加えた。

 

「“不思議”ということは、辺りでよく見かけるのとは異なるということかしら?」

「ええ、その通り。桜色、というか紫色というか……」

 

 時折、幽々子はその“不思議な蝶”がそこかしこを飛んでいるのに気づくらしい。中には人の肩に留まっているものいるのだとか。

 この世のものとは思えないほど美しい蝶であるが、幽々子もずっと見えているわけではなく、すぐにどこかへと消えてしまうそうだ。

 

「それにね、誰も私が見えている蝶を見ることができないのよ。だから周りの人からは心配もされたわ。白玉楼の姫君は何かおかしなものが見えているのだと」

「そんなことがあったの……」

 

 しかし幽々子以外の者にはその蝶を見ることができないという。それが一層に彼女の能力を不可思議なものにしていた。他に蝶を見ることができる者がいない以上、彼女本人にしかその能力の全貌を知ることはできないし、信じることも困難であろう。

 

「まあ、今は誰にも『蝶が見える』と言っていないわ。余計な心配されてしまってはかなわないもの」

「ふーん。それなら私に話したのはなぜ?」

「長く旅をしてきた紫なら、何か分かるかなって思ったのよ。こういった事なら、人よりも貴方の方がずっと詳しいでしょう?」

「ああ、なるほど……」

 

 頼りにされるのは嬉しいことだ。しかし、これだけの情報ではさすがに幽々子の疑問には答えられない。

 

「う~ん……。すくなくとも、今すぐ答えるのは難しそうね」

「……紫も、か…………」

 

 一瞬、表情が曇った幽々子。

 私はそれを見逃さなかった。

 

「——けどね。まだよく分からなくても、幽々子の言ったことを私は信じるわ」

「あら、紫は疑ったりしないの? 正直、馬鹿にされるかとも思ったのに」

「疑ったりも馬鹿にしたりもしませんわ。だって親友の言っていることよ? 力になりたいじゃない」

「……嬉しいことを言ってくれるわね」

 

 私の隣で、幽々子が微笑んだのが分かった。何だかそうやって素直に喜ばれると、こちらが恥ずかしくなってきてしまうのだが……。

 

「ま、まあ、また何か分かったのなら私に相談しなさい。力になるわ……」

「それは頼もしいわね。ぜひともお願いするわ。……それにしても紫、もしかして照れてるの?」

「て、照れてないわよ!」

「本当にぃ……?」

 

 隣でにやつく幽々子。

 ああもう駄目だ。すっかり幽々子のペースにはまってしまった。こうなると最早、私には耐えるという選択肢しかない。きっと私は、このまま墓穴を掘りつづけることになるのだろう。私は色々と顔に出やすいようだから、次から気を付けなくては。

 

 さて、情けない話はここまでとして。幽々子に弄られ涙目になりながらも、先ほど彼女が言っていたことを一言一句に渡って反芻し、再度情報をまとめていた。要点と思われる単語、彼女の声の調子などからこれまでの情報と合わせて分析をする。

 

 そして立てた仮説。

 まず、その“不思議な蝶”自体は彼女の能力と見て間違いない。しかしその現象はいくつか他の要素が絡み合って起きているはずだ。

 

 例えばあの妖気を放つ、桜の木のように。

 

 すると、このままではいけないかもしれない。

 彼女は聡い。きっとすぐにでも自分の能力の変化に気づくときが来るだろう。そうなれば彼女は自分を追い詰めてしまう可能性がある。私が立てた仮説通りであるなら、彼女が思い詰めてしまうほどにその能力は強力で、かつ恐ろしいものだ。

 

 それに、彼女の能力が完全に別物となってしまえば、同時に彼女自身の命が危うくなってしまう。何としてでもその事態は回避しなければならないだろう。

 しかし今、仮説でしかない上に具体的な解決案がない以上、幽々子に全てを話すべきではないと私は考えた。

 

「——もう、茶化さないで欲しいわ」

「うふふ……」

 

 口を袖で隠して、幽々子はいつものように微笑んでいる。

 私はこの笑顔を何としても守りたいと思った。

 出会ってからの数ヶ月、それまでの退屈な日々が嘘だったかのように、ただただ楽しかったのだ。幽々子がいて、妖忌がいて。ずっと一人だった私が忘れてしまいそうになっていた、日々の温かみを思い出させてくれた。

 

 感謝している。

 それだけの言葉では足りない。

 

 一人で生きていくためだけの力なんて、いざ手に入れてしまえば空っぽも同然。そもそも強さの在り様は様々なものである。

 力の優劣というものだけでなく、誰かとの繋がりというものもまた強さなのだ。幽々子自身に自覚はなくとも、彼女は確かに教えてくれた。

 

 そんな幽々子のために、力を惜しむつもりはない。

 彼女を絶対に、救ってみせる。私は幽々子の笑顔を見ながら心に誓った。

 

 

 

 ******

 

 

 

 ——文月

 

 梅雨が過ぎ、すっかり暑くなった白玉楼。初めて幽々子と出会った日から、早四カ月が経っていた。そして、何度も一緒に世間話をしている内に、私は彼女を見たときに覚えた違和感の正体に確信をもった。結論から言えば、私が立てた仮説は正しかったようである。

 

 彼女は無意識に生物を死へと誘っている。

 

 命を持つ存在をやんわりと、死に近づけているのだ。例えば強い負の感情を持った瞬間。それは死への願望と変わり、その者を死に至らしめる。予想通り、彼女の力は強大だ。いや、強大過ぎて人間の彼女では負担が大きすぎるだろう。恐らく、彼女自身が死んで転生しようとも能力は彼女の魂そのものを縛り付ける。

 

 彼女自身が能力を完全に支配することができなければ、いずれ永遠に誰かを死へと誘う存在になり果ててしまう。それでは優しい彼女の心は壊れてしまうに違いない。幽々子に心配をかけたくないこともあって、私からこの件について触れることは避けていた。

 しかし、

 

『紫……教えて……本当のこと……全部』

 

 幽々子はある日、気づいてしまった。きっかけは、ある使用人の死であった。

 彼女は自分からあの“不思議な蝶”が生まれていることに気づいてしまったのだ。

 

『落ち着いて聞いて頂戴』

 

 だから私は話すしかなかった。

 聞いている最中、幽々子の顔はみるみるうちに青ざめていき、話し終える頃には胸を抑えながらその場に倒れこんでしまった。力を込めすぎて青白くなった彼女の指は微かに震え、それでも着物の裾を強く握りしめていた。

 私はただ、彼女の背中をさすってあげることしかできなかった。

 本当は、幽々子に身を裂くような思いをさせたくなかったのに。私の所為で彼女を余計に傷つけてしまったのだ。

 

 その出来事依以来、私は死に物狂いで解決方法を探った。

 幽々子の能力を歪ませる原因とも言える妖怪桜は驚異的な再生力を持つことが確認できたため、ただ切り倒せばよいわけではないことが分かったのだ。そこで忘れ去られてしまった言い伝えや術などを研究し、時には蘇る母の記憶を頼りに、主に能力の変性について調べているが結果は芳しくない。

 どれも根本的な解決にならないのである。

 

「ねえ、紫」

「どうしたの?」

 

 焦る気持ちを押さえながら、今日も私は幽々子のもとを訪ねている。蝉が一斉に鳴き始めてきたためお互いに『蒸し暑いわねえ』などと言いながら、縁側で冷たいお茶をすすっていた。

 幽々子はあの出来事以来も今まで通りふるまっている様子だが、少しだけ元気がなくなってしまった。そして、自分からあの桜について話すこともなくなり、自らの能力についての相談もしてくれなくなった。

 ただし、

 

「紫は死ぬってどういうものだと思う? 悠久の時を生きる貴方から見て、生き物が死ぬということについてどう考えているか気になるの」

「そうねぇ」

 

 幽々子はこうして、思いついた問いを私に投げかけてくる。

 口からほっと息を吐き、茜色に染まった空を見上げる幽々子。

 彼女の急な問いは今日に始まったことではなく、人間とは異なる感性を持つ私に、何かを求めているのだろう。私は彼女の問いに、いつも真剣に答えている。

 

 しかし、今回はもっと別の意図を感じた。彼女にとって身近なものになってしまった人間の死。整理が追い付かない自らの心に、答えを出すためのヒントを私に求めてきているのではないだろうか。

 私は慎重に、言葉を選びながら答えた。

 

「単に、肉体の機能停止という意味だけではそれを定義することはできないわね……」

「なぜ?」

「死とは、あくまで概念ですもの。たとえある者が本当は死んでいないのだとしても、誰かが決めて、それを了承する者が多数を占めれば、その者は死んだものだと扱うことができる。生と死の間に境界がある限り、いくらでもやりようはあるわ。簡単な例を挙げるならば、生死が不明の者を死んだとすることならいくらでもできるし、その逆も然り。それを決めているのは私達なんだから」

「まあ……。つまり死とは、私たちが決めているものに過ぎないと?」

「そうよ。当然のことだけど、それを人は認識していない。いや、しようとしていないの。その点、妖怪は人と違って畏れが消えてなくなれば自然に消滅するから、そういう考えに至るのでしょうね」

 

 妖怪とは自らの精神に強く影響を受ける存在。肉体的生命力が強く、生まれ持った力で十分に生きて行ける妖怪の死因は、肉体的消滅よりもむしろ精神的な消滅のほうが多い。ましてや幽霊などと呼ばれる存在は、そもそも肉体すら持っていないのである。

 

「そうか、そうよね。そう考えると、死というものがなんだか怖いものではなくて、親しみ深いものに思えてきたわ。もし、死が紫の言ったようなものならば、私もずっと貴方の中で生き続けられるのかしら」

「そんな……弱気なことを言わないでよ」

「ふふ、そうね。変なことを言ったわ」

 

 言葉を選んだつもりだったが、それはつもりに過ぎなかった。彼女を少しでも元気づけようと思っていたのに、結局、励ましの言葉にもならなかった。

 

 なにが『人間である彼女の心理を理解する』だ。

 

 元人間であるというだけで、人としての心というものをすっかり失ってしまっているではないか。人間の気持ちを察して細やかな配慮のできない自分を、私は呪った。

 

 その日を境に、幽々子は寝込みがちになった。顔色は悪くなり、口数も減っていった。

 幽々子がいなくなるまで、約八か月前のことだった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 紫と友人になってから、数カ月が過ぎた。

 彼女はいつも夕暮れ時に現れては私と二人で縁側に座り、お茶を飲みながら何でもないことを話している。

 この数カ月で分かったことだが、時折紫は可愛らしいふるまいをするものの、彼女は極めて油断ならない性格の持ち主だ。

 

 信頼してくれているからか、私の前ではだらしない姿を見せることもある。

 しかし彼女の頭は恐ろしいほどに良く回転し、隠し事をしていても少しでも隙を見せればすぐに見破られてしまう。さすが悠久の時を生きた妖怪なだけはあると思う。たった十数年生きているだけの小娘である私などでは、とても敵わない。

 だから、私は毎日が不安でならなかった。彼女に気づかれてしまっているのではないかと不安になってしまうの。

 

 ——私が、死を望んでいることに。

 

 元々、妖忌が暗くなると館の門を全て閉めているから、外から桜の木がある庭園の中へ入ることはできないはずだった。しかし、いつものように朝起床すると、使用人たちが慌ただしかった。外から奉公に来ている若い使用人の男が、首を切って死んでいたのだ。

 

 今まで警戒していたのにも関わらず死人が出たことに、当時の使用人たちは勿論、私も含めて気味悪がった。それから妖忌が夜を徹して桜の木の周りを見張ってくれたけど、しばらく何の異変もない。四六時中ずっと見張っているわけにもいかないので、妖忌に通常通りの仕事に戻ってもらったところ、その数日後にまた新たな死人が出た。

 その頻度は月に一度ないし二度あるかというもので毎日死体が転がっているわけではないが使用人たちにとって脅威であることは事実。

 

 結局、死への誘惑に影響を受けない半人半霊である妖忌を除き、いつまでも他の使用人を白玉楼に残すわけにもいかず、皆にはここから立ち去ってもらうことにした。

 だが、私は使用人たちの死体にきまって蝶が止まっていることに気づいた。はじめは気にしていなかった。いつもの幻覚だろうと思っていた。

 しかし、私は以前妖忌に尋ねたときのことを思い出し、

 

『蝶、でございますか。以前おっしゃられていた?』

『ええ、また見えるの。ほら、あの人の肩に』

『やはり見えませぬな……』

『そう……妖忌、ありがとう。私、疲れているのね』

『申し訳ありません』

『いいえ、謝ることはないわ』

 

 一つの結論へと至った。

 私にしか見えず、誰も見ることができない蝶。そして、その蝶がとまった先の者は皆、必ず死ぬ。私は幼いころから蝶を見てきたが、疑問を覚えることはなかった。しかし思い返してみれば、確かに蝶がとまった人が次に白玉楼を訪れることはなかったのだ。これらの要素をつなげ合わせると、

 

 ——蝶はその者に死を与える。そしてその蝶は、

 

 ——私から生じていた。

 

『紫……教えて……本当のこと……全部』

 

 私は紫に問うた。すると紫は、懺悔をするように答えた。

 その重々しい口調から、私に言うのをずっと躊躇っていたのだと気づいた。

 彼女は優しくから。きっと言えなかったんだろう。

 

『落ち着いて聞いて頂戴』

 

 彼女の話によれば、私はもともと『死霊を操る程度の能力』を持っており、それがあの妖怪桜、『西行妖』の影響によって『死に誘う程度の能力』に変質し、無意識のうちに誰かを死へと導いてしまっているらしい。

 私はずっと気づいていなかったのか。知らぬうちに多くの罪なき人を殺していたのか。

 この白玉楼の大切な使用人たちを、父の友人を。

 

『はあ、はあ……!?』

『幽々子、気を確かにっ!?』

 

 紫から私の能力の変質についての話を聞いた後、私は胸が苦しくなった。その後、紫が西行妖を封印すると言ってくれたけれど、私の心は晴れなかった。いくら西行妖を封印できたとしても、これまでに死んでいった者達が返ってくるわけではない。死んでいった者もこれから死んでいく者も。皆、皆——

 

 ——殺したのは、殺すのは私だ。

 

 分かっている。止める方法が、ないわけではない。

 この連鎖を止めるのなら、私が西行妖に取り込まれ、そして死ねばいいのだ。

 

 紫が私もろともに西行妖を封印してくれれば、もうこれ以上、誰かを死に誘うこともないだろう。転生してもこの能力が付いてくるのならば、私が無限の地獄へ落ち、輪廻から外れればいい。なぜ気づけなかったのだろうかと、私は紫の隣で疑問に思った。だけど答えはすぐに分かった。私は見て見ぬふりをしていただけだ。

 だって紫といる時間はとても楽しかったから。

 

「——幽々子、ちょっと幽々子っ、どうしたの?」

「……えっ?」

 

 私の目の前には生涯の友人である八雲紫。紫色の瞳には私の姿が映っている。吐息がかかるくらいに紫は、顔を近づけていた。

 

「えっ、じゃないわよ。急にどうしたの? ぼおっとして」

「あらごめんなさい。少し考え事をしていたわ」

「珍しいわね。何かあったのかしら?」

「なんでもないわ。ただ言おうか言うまいか、悩んでいたの」

「ん?」

 

 紫の目を真っすぐに見つめる。

 

「紫……」

「な、何?」

 

 彼女も私の真剣な剣幕に唾を飲む。

 

「口元にお饅頭がついているわよ……」

「えっ、嘘っ!?」

「ふふっ、引っかかった……」

 

 消えてしまいたい、そう望んでいるのにどこかで私は消えたくないとも思っている。

 それは許されないことなのだろう。私が存在している限り、誰かを殺し続けることになるのだから。

 本当は隣に座る彼女に全てを打ち明けてしまいたかったけど、どうしても私にはできなかった。『消えたい』だなんて、友人に相談できるほどの勇気を私は持っていない。私は結局、臆病なのだ。

 

「幽々子のいぢわる……」

 

 今日は少し弄り過ぎてしまったかしら。紫のご機嫌は斜め。

 隣に座る彼女の目は僅かに潤んでいる。

 

「ごめんなさいね、紫。なんだがこうして話しているのが楽しくて、つい」

「反省の色が見えない……というか私、人間に良い様に弄られるなんてまだまだね……」

 

 先ほど私に揶揄われたことが余程悔しかったのか、紫は潤んだ目できっと私を睨むと、すぐに自信なさげに項垂れた。

 

 ああ、彼女といるこのひと時が、一体どれだけ私の心を救ってくれていることか。

 

「紫……ありがとね」

「え? ああ……どういたしまして?」

 

 これは、この記憶は消えてなくなってしまうかもしれない。それでも、私の魂が覚えてくれていたらいいなと、この時の私は思った。

 

 

 

 ******

 

 

 

 ——神無月

 

 暑い夏が過ぎて、すっかり涼しくなった。

 相変わらず幽々子の容態は芳しくない。一日中寝たきりになることも珍しくなくなっており、心配も絶えない。残された時間はあとわずかになっていた。

 

 西日が差す平野には彼岸花が咲き誇っている。視界に広がる花々は赤一色。それは目に悪いような様ではなく、どこか儚さを与えてくれる。そんな幻想的な風景が広がる場所であるが、そもそもここは現世ではない。私はずっと、ここである人物を探していたのだ。現世を離れてまで会いに来たのは、彼女がそうまでしなければ会えぬ存在ということである。

 その人物は私にとっては相性が悪く、天敵と言ってもいい存在だがこの際仕方あるまい。この問題に関して彼女以外に頼れるものはいないのだから。

 そして、その人物の名は——

 

 ふと、風が吹く。さわさわと彼岸花が揺れ動き、しばらくして静まる。この一瞬の間に、

 

「珍しいですね。貴方が私にこうまでして会いに来るとは」

 

 目の前に少女が一人。

 

「ええ、お願いがありましてここに来たのです」

「ほう。ひとまずは聞きましょうか? 境界の妖怪、八雲紫」

 

 閻魔と呼ばれる者、四季映姫である。

 是非曲直庁に勤め死者を裁き、何者にも影響されず迷うことがないと言われる別次元の存在。

 彼女を前にして迂闊なことはできない。上手く言いくるめようとすれば、こちらの足元がすくわれる。気を引き締めていかなければなるまい。

 

「西行寺幽々子、彼女の処遇について一つ提案をしに参りました」

「ああ、彼女のことですか。そのことがどうかしましたか?」

 

 先ほどから、周囲の音が消えている。いつの間にか風が止んでいた。

 

「それでは単刀直入に申し上げます。西行寺幽々子を、冥界の管理人にすること」

「…………」

 

 私が提案を彼女に告げると、空気がその性質を変えた。まるで頭上に広大な海が広がっているような感覚に陥りそうだ。息ができなくなるような威圧感。別次元の存在とはここまでのものなのか。長い時を生き、膨大な妖力を身に宿した私をもってしても彼女の存在は別格に感じられた。

 今、彼女が敵対すれば私も無事では済まないだろう。

 

「なるほど、しかし」

 

 彼女は鋭い視線を私に向ける。

 

「それは貴方の私情なのではないですか?」

 

 映姫は私にそう問うた。

 

「彼女はそれを望んではいないでしょう。それに彼女の——は、最早止められないのでは?」 

 

 たしかにこれは私が勝手にすることだ。彼女が私に願ったわけでもない。

 それでも幽々子を救いたいと願うのは、私の単なる我儘なのだろう。

 

「ええ、私情ですわ。身勝手な私の願い」

「ならば——」

「しかしっ」

 

 私は彼女を救いたい。幽々子が私に手を差し伸べてくれたように。

 だからこそ、なんとしてでも映姫を説得せねばならない。

 私はあらかじめ用意した文句を一言一句違わず映姫に述べる。

 

「これは、貴方々からしても悪い話ではないはず」

「…………」

「彼女を冥界の管理人とすれば、彼女の力で定められた命を狂わされる者はいなくなり、対応に追われるそちらの負担は少なくなります」

「また西行寺幽々子自身が転生することもなくなる、と?」

「はい……」

 

 あちら側からすれば、幽々子の存在は相当厄介なはずだ。定められた命を全うしていない者を手にかけることもできないし、放っておいてもまた幽々子は転生してしまうため被害は免れない。むこうから打てる有効な手はないだろう。

 そこで私が力を使ってあの桜を封印するのと同時に彼女を人外の存在にすれば、彼女が自身の能力に振り回されることはなくなり、おそらく事態は丸く治まる。

 これくらいで提示する理由は十分ではないだろうか。

 そう、思った直後であった。

 

「ふふっ」

 

 映姫の口から笑みがこぼれる。

 

「ふふふふっ、あははは!」

「どうかなされましたか?」

 

 あまりに急なものだったので少し驚いた。私は何か変なことを言っただろうか。全くもって見当がつかない。動揺を表に出さないように取り繕う私に、映姫は目尻に溜まった涙を指ですくいながら言った。

 

「すいませんっ、少しおかしかったもので……貴方、面白いですね。正直ここまで素直に来るとは思っていませんでしたよ。貴方の言うことはいつも胡散臭く、信用ならないものだと思っていましたが、なかなかどうして……。私が見た運命では、本来貴方は私にここまで正直に話そうとはしなかったのです。どうやら、どこかで運命は変わってしまったようですね」

 

 映姫は近くの岩に腰を下ろすと、私を手招いた。

 

「こちらに座りなさい、八雲紫」

「……はい」

 

 恐る恐る隣に腰かけ、映姫を見る。緑がかった彼女の髪は秋の日差しを浴びて翡翠色に輝いており、穢れのない美しさ。なるほど彼女は確かに閻魔であると私は思った。

 彼女と真逆だからこそ分かるのかもしれない。私は、清廉潔白からは程遠いから。

 

「初めから我々は西行寺幽々子には冥界の管理人となってもらうつもりでした。それが例え、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。とはいえ、あの桜の状況を鑑みるにこちらも表立って動けないのは事実。そこで代わりに動ける者を探していたのです。もともと貴方はその候補のうちの一人でした」

「それでは……?」

「ええ、こちらの方こそ頼みます。貴方の望むように彼女を冥界の管理人にしてください。もちろん、結果は問いません。もし失敗したとしても、次にまた試みればよいことですから」

 

 予想外だ。映姫のような者達が初めから今回の状況を想定していたのなど。それに彼女は確かに『幽々子の意志は問わない』と言った。それはいったいなぜか、私にも計り知れない。しかしともかく、こちらにとっては好都合。ひとまず許可は下りた。後は準備だ。

 

「ありがとうございます。映姫様」

「礼には及びません。それでは私はこれにて」

 

 映姫は座っていた岩から飛び降りて数歩歩くとこちらを振り返り、

 

「ああそれと、今回は大目に見てあげますが次に会ったとき、少し貴方にはお話があります。そのときは心して聞くように」

「え?」

「聞くように」

「はい?」

「心して、聞くように。……いい加減怒りますよ?」

「はい……」

 

 悔悟の棒を突き付けられ私は何とも言えない気持ちになった。

 やはりこの閻魔、ぶれない。次がないことを祈るばかりだ。絶対少しじゃないと思う。

 お話好きの映姫様は大変いい笑顔で彼岸花畑を去っていった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 ——弥生

 

 遂に準備は整った。この数カ月の間に妖忌にもその内容は伝えてある。決行は明後日だ。

 床に伏せる幽々子の横に座り、私は告げた。

 

「ねえ、幽々子」

「なにかしら?」

「私と一つ、賭けをしてみない?」

「……賭け?」

「そうよ。あの桜が咲くか、咲かないか……結果は二つに一つ。私は、咲かない方に賭けるわ」

 

 白玉楼は一面に花が咲き誇っている。その中で、ただ一つ満開にならない桜。私はそれを指さした。

 

「そう……なら私は咲く方に賭ければいいのね」

「ええ」

 

 幽々子は半ば戸惑いながらも、応じてくれた。

 

「そうねえ、勝った方は負けた方に好きなことをお願いできるというのはどうかしら?」

「ふふ、賭けで私に勝ったことがないくせに」

「こ、今度こそは負けないわ」

「……もう、紫ったら負けず嫌いなんだから」

「む、むう……」

 

 そういえば私は賭けで幽々子に勝ったことがなかった。しかし、今回は負けない。負けるわけにはいかない。

 

「それでは今日はこの辺りでお暇するわね」

「……見送るわ」

「無理しなくていいのよ。幽々子」

「大丈夫。大丈夫だから」

 

 その後、ふらふらと危ない足取りでわざわざ見送りに来てくれた幽々子。止めたのにも関わらず、彼女はかたくなだった。

 

「それじゃあ、また会いましょう。幽々子」

 

 白玉楼を去る直前、

 

「まって……」

 

 スキマを開いて帰ろうとする私を呼び止めた。

 

「ねえ、紫……。私のこと、忘れないでいてくれる?」

 

 心細そうな顔で聞いてくる幽々子。そんな彼女に私は安心させようとできるだけ明るい声で答えた。

 

「そんなに弱気にならないで。大丈夫よ。それに私が貴方のことを忘れることなんてないでしょう?」

「そう、そうよね……変なことを聞いたわ。ありがとう、さよなら。紫」

 

 この時の幽々子の儚い笑顔を、私は一生忘れることはないだろう。

 それ以上何も言えなかった。言葉を返すことができなかった。

 そして私はこの時なぜ彼女が私に『さよなら』と言ったのか、その本当の意味を知らなかったのである。もしもここで幽々子ともっと話していたら、結果は違うものになっていたのかもしれないのに。

 翌日。

 

「紫様っ! 幽々子様が——!」

 

 妖忌が以前渡した式を使って私に連絡をよこしてきた。あまりの剣幕に一体どうしたのだと尋ねると、式越しに信じられない答えが返ってきた。

 

「そんな……嘘よ……」

 

 あの桜の下で、

 幽々子は自ら命を絶った。

 

 このとき私は一つ、大きな思い違いをしていたのだ。当時の幽々子は別に、人をやめてまでこの世界で生きていきたいと思ってなどいなかった。

 悔やんでも悔やみきれない。私は初めて出会ったときに覚えた違和感の正体に気づけなかった。

 

 彼女はずっと。

 誰よりもずっと、死に焦がれ続けていたのだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

桜の章:桜は咲いて、そして散った

 ——花びらはひらりひらりと揺らめき、落ちる。

 

 それがただの桜であれば、さぞ風情があったことだろう。そして私と幽々子はそれを眺め、『春だねぇ』なんて言葉を交わすのだ。

 

 

 私は妖忌の連絡を受け、急ぎスキマの出口を白玉楼へと繋いだ。

 心臓の鼓動はどくどくと速く忙しくなくなっていき、慣れ親しんだ境界操作さえ覚束ない。手足の先が冷たくなり、微かに震えているのが自分でも分かった。

 

「(なぜ気づかなかった……!? 幽々子は、妖怪じゃない。人間なのよ……? 彼女はまだ、十数年しか歳を重ねていない、人間の子供だというのに……)」

 

 実のところ、幽々子自身も西行妖によって死に誘われていること自体には気づいていた。

 彼女が自らの能力に悩み、苦しむことは予想済みであったが、西行妖自体も幽々子を己が糧にしようと彼女の死への願望を増幅させていたのだ。

 

 無自覚に彼女が西行妖の誘惑に対して抗おうとしていたことも、それを私に隠そうとしていたことにも気づいていた。すぐ近くで見守る妖忌から、話は全て聞いていたから。

 だというのにも関わらず、私は彼女が胸の内にどれほどの葛藤を抱えて日々を過ごしていたのか、肝心なところに気づいていなかった。

 

 彼女は、あくまで人間なのだ。年相応に悩みもするし、苦しみもする。それに感受性豊かな時期だからこそ、『死に誘う程度の能力』が彼女の心に与える影響は計り知れないものになるのだ。

 

 愚かだ、私は。

 これでは友人失格ではないか。

 いつも彼女の近くにいながら、私は友人ができたことに浮かれるばかりで、人間と妖怪という種族の違いに意識が向かなかったのである。それゆえ幽々子の気持ちも考えず、自分の都合で動き、『きっと彼女のためになる』などと信じて疑わずにいた。

 だからこのような事態を招いてしまったのだ。もっと幽々子と向き合うべきだったと思うも、最早遅かった。彼女はすでに命を絶ってしまったのだから。

 

 私の所為だ。私が最悪の事態を招いてしまったのだ。

 ただ自分を責めるばかりで心が乱れ、まともな思考ができなかった。すべてがもどかしくてならなかった。今は一刻も早く幽々子の元へ駆けつけたかった。

 

「(早く……! もっともっと早くっ!!)」

 

 スキマをつなげれば一瞬であるはずであるのに、白玉楼へと向かうこの時間が、私には無限に続くように感じられた。

 

 

 

 ******

 

 

 

 スキマを閉じて白玉楼に降り立つと、妖忌が走ってきた。式で報告したときとは異なり冷静さを取り戻した様子の彼は、私を幽々子のもとへとすぐさま導く。

 

「紫様! こちらです」

 

 風のように駆けていく彼の後を追っていると、白玉楼の庭がすっかり変貌していることに気づいた。遠くに見える西行妖以外の桜は全て枯れ、美しかった庭の面影はそこになく、見るも無残な姿であった。

 そして、

 

「…………!!」

 

 幽々子を見つけた。

 心臓を握りつぶされるかのような痛みが私を襲った。

 しかし、ふらつく足を叱咤して、私は幽々子の元へと駆け寄った。

 

 西行妖の真下で、幽々子は倒れていた。手には短刀が握られており、彼女の白い首元を中心にして、辺りに大きな血溜まりができている。幽々子の黒髪を、おびただしい血が上から赤黒く染めていて、命を絶ってから時間が経過していないからであろうか、血溜まりはゆっくりと広がり続けていた。

 

 彼女の手を取る。

 あれだけ温かった彼女の手は、氷のように冷たくなっていた。血の気が失せて青白くなってしまった指先が、彼女はもうこの世にいないのだという事実として私の頭を強く殴りつける。気づけば視界が滲み、何も見えなくなっていた。

 絶えて久しいあの喪失感が、再び私を襲った。

 

 風が吹いた。

 

 袖で涙を拭い、西行妖を見上げる。

 

 私には奴が、愚かな私のことを嘲笑っているようにも見えた。

 

 だが今はなによりも、少しでも長く、幽々子のすぐ近くに寄り添い続けていたい。気づいてあげられなかった私を、間に合わせることができなかった私を、いくらだって責めてくれればいい。私はただ、もう一度幽々子に目を開けて欲しかった。

 一言、謝りたかったのだ。

 

「紫様っ、西()()()()——!!?」

「——っ!?」

 

 妖忌が私の名を呼んだのとほぼ同時に、西行妖が突如として妖力を跳ね上げた。すると自我でも芽生えたのか、西行妖の枝は蛇のように鎌首を持ち上げ、咄嗟のことに反応できなかった私を、太い枝で横から叩き飛ばした。

 

「かはっ!?」

 

 地面を何度も撥ねながら、身体が宙に浮く。

 強い衝撃によって肺が潰され、空気が外へと漏れ出た。しかし霞む視界の中でも、私は幽々子の身体を攫う西行妖の姿を捉えていた。

 奴は、幽々子が自らにとって最大の養分となり得るのだと分かっているのだ。

 

「西行妖っ!! 幽々子を、離せっ!! 離しなさいっ!!!」

 

 鈍い痛みはすぐに西行妖に対する怒りへと変わった。

 

「邪魔をするなあぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!!」

 

 私は空中で態勢を即座に立て直し、ありったけの妖気を練り上げて術を発動した。

 打突、爆破、切断、溶解、焼却。

 あらゆる手段をもって西行妖の枝の壁を攻撃した。しかしどの手段で生じた傷跡も、奴の恐るべき治癒能力によってすぐに再生してしまうため、これでは到底幽々子の元へは辿り着けない。

 一度態勢を立て直し、術を組み上げる時間さえもぎ取れば、現段階で西行妖を封印すること自体は可能である。しかし、それでは幽々子の身体も同時に失ってしまう可能性があった。

 

「——待ていっ!!」

 

 一息遅れて刀を抜いた妖忌が疾風のように地面を駆け、脇構えから逆袈裟に特大の斬撃を放つ。西行妖の大きさに匹敵するかと思われるほどの斬撃であったが、西行妖を中心として風が渦巻き、それを阻んだ。

 西行妖があれほどまでに幽々子の身体に執着する理由……。

 

「(まさか……)」

 

 私には奴の目的がすぐに分かった。

 西行妖は幽々子の肉体のみならず、彼女の魂すらも取り込もうとしているのだ。

 

「ちぃっ」

 

 斬撃が防がれたことを確認した妖忌はすぐさま刀を構えなおし、再び暴風の壁を切りつける。

 しかし一向に晴れる気配がない。切り裂く度に新たな風の壁が形成されて、入り込むことを許さないのである。

 

「——っ!? 妖忌、退きなさいっ!?」

「むっ」

 

 背筋が凍りつき、私の妖怪としての生存本能が、奴のことを脅威だと訴えていた。

 

「そんな…………」

 

 西行妖の桜色の花びらが、次々に黒く染まっていく。

 

「(……深草の 野辺の桜木 心あらば——)」

 

 自然と、ある歌を思い出した。

 この姿を例えるなら、

 

「(今年ばかりは 墨染に咲け……)」

 

 それは、墨染の桜。

 

 その黒は、幽々子の髪の色にひどく似ていた。大好きだった彼女の黒髪。それが私の心をざわつかせ、傷つける。

 極限まで高まった西行妖の妖力はすでに爆発し、遂に満開を迎えようとしていた。黒い花びらが白玉楼を包み、白玉楼の辺り一面が黒一色に覆われていく。

 そこに桜本来の美しさは無く、西行桜はあらゆる命を奪う、恐怖の権化となり果ててしまった。

 

「咲いてしまったか……西行妖……」

 

 止められなかった。私は結局、幽々子につらい思いをさせた挙句に彼女を見殺しにしたのだ。何が『幽々子を救う』だろうか。なんて愚かで、思い上がりの甚だしい。約束を一つも守れていないじゃないか。

 私は自身を許せなかった。膝から崩れ落ちた私は、自分の膝を何度も殴りつけた。

 

 しかし、

 

「(ねえ、幽々子……)」

 

 たとえこの感情を向ける先が誤っているのだとしても。

 

「(私……そんなに頼りなかったかなぁ……?)」

 

 私は同時に許せなかった。

 

「(どうして、何も言ってくれなかったの……?)」

 

 最後まで私に心の内を打ち明けてくれなかった親友が。

 

「——どうして、何も言わずに私から離れていくのよっっ!!」

 

 最後まで私に涙も見せてくれなかった親友が。

 

「私の気も知らないでっ!!!」

 

 もっと頼って欲しかった。もっと信じて欲しかった。

 

「信じていたのに……!!」

 

 苦しかったんだろう、そしてつらかったんだろう。それをぎりぎりまで耐え抜いて、そして最後の最後まで意地を貫き通すなんて彼女らしいが、私はたまらなく悲しかった。

 自分を責めるのと同じくらいに、幽々子のことも許せなかったのだ。

 

「紫様、しっかりしてください!! あれを止められるのは貴方だけなのです!!」

「……ええ……そうね……ごめんなさい……」

 

 取り乱した私に、妖忌の喝が入る。しかしなぜだろうか、そんな彼の声もどこか遠くに感じてしまった。

 その証拠に、憎き西行妖を前にしているのにも関わらず、私の身体はぴくりとも動いてくれなかった。完全に、放心してしまっていた。

 

「……分かっているわ。私が、止めなくちゃ……」

 

 膝を立てて立ち上がろうとするが、力が入らない。

 転びそうになった私の腕を、妖忌が後ろから掴んだ。

 

「無念でございますが、私ではあの桜を封印することはできません。それに幽々子様は——」

 

 一息置き、妖忌は私を引っ張り上げて強引に立ち上がらせると、私の両肩に手をかけ、力強く訴えた。肩に籠る力がさらに強さを増す。顔を上げて彼の表情を察すると、悲痛に歪んでいた。

 

「八雲紫様、幽々子様は最後に何とおっしゃいましたか? わが主は貴方に託したのですよ。貴方の手によって救われることをお望みになられたのですっ!!」

 

 幽々子が、最後に言ったこと? 

 託す? 何を? 

 ふと、昨日の幽々子の顔が浮かんだ。

 

『ねえ、紫……。私のこと、忘れないでいてくれる?』

 

 諦めの混じった寂しい表情。そのまま儚く消えてしまいそうだった。

 最後の言葉。

 彼女は、私に覚えていて欲しいと言った。あのあと、自ら命を絶つつもりであったからであろう。彼女は私の手によって西行妖諸共に封印されることを望み、私の記憶の中で生きることを望んだ。

 

()()()()()()()()()

 

 なぜあんなことを聞いたのだろう。答えなど、決まっているではないか。あのときに言った言葉に嘘なんてない。私を受け入れてくれた貴方を、忘れるわけがない。

 だって貴方は私の——。

 あのときの、幽々子の顔が頭を過ぎった。

 

『私とお友達になってくださいませんか?』

 

 ……このまま終わるわけにいくものか。彼女に会って、言わなければならないことがあるのだ。彼女の肉体が終わりを迎えていても、幸いなことに、まだ魂はこの世に残り続けている。

 事実、西行妖はまだ、幽々子の肉体と魂を取り込もうとしている最中なのだから。

 

 西行妖を封印する術はもう既に分かっている。幽々子の命を救えなかったせめてもの償いとして、私は何としてでも彼女の身体を取り戻し、西行妖を封印しなければならない。

 西行妖が満開を迎えようとしている今、状況は最悪だがまだ手立てはあるはず——。

 

「(待って……。西行妖は今、どうやって幽々子の魂を現世に固定しているの……?)」

 

 それが疑問だった。他者の魂の固定化など、四季映姫のような別次元の存在でもなければ不可能である。よって、

 

「(西行妖自体が、幽々子の魂を束縛しているわけではない……?)」

 

 肉体的な死を迎えた生物に未練などといったものが存在すれば、魂が現世にとどまる可能性は十分にある。

 未練……やはり幽々子には、未練があった……? 

 そのとき、私の頭の中を母の記憶が横切った。この記憶は、母がいなくなった日のことであった。

 

『ゆかりはここにいなさい。大丈夫よ』

『亡霊ノ分際ガ何ヲ言ウ……』

『——残念だけど、そうはいかないわ』

 

 何かが繋がりそうな気がした。全ての鍵は母の記憶にあるはずなのだ。

 

「(思い出せ……)」

 

 母はあのときすでに肉体を失っていた。

 肉体を失いながら、どうやって実体を保っていた? 

 

 そして、私は母の古い記憶に辿り着いた。

 ノイズの入った視界。母は複雑な術式を家の中に描き、その中心に立つ。そして手の先を少し切って陣の上に血を垂らし、詠唱していた。

 それは、魂を固定化する術。

 自らの骸を楔として、母は実体を持った亡霊となることで私を育ててくれていたのである。

 

「……いけるわ!!」

 

 顔を上げた私は目の前に立つ妖忌の肩を掴んだ。

 

「いかがしました?」

「幽々子に、()()()()()。彼女が望むのなら、まだ手立てはあるわ」

「なんとっ……!!」

 

 過去に母が使った、自らの骸を楔にして魂を固定化する術。そして西行妖に対する封印術を上手く組み合わせることができれば可能になる。

 後のことは、会ってみなければ分からない。

 幽々子が、本当は何を抱えていたのか。彼女の本音を、私はまだ一度も聞いていないから。

 どちらにせよ、西行妖の封印には幽々子と西行妖の繋がりを一度絶つ必要性があるのは確かであった。

 

「妖忌、これから一度、幽々子と西行妖の間の繋がりを断つわ。同時に封印術の術式を準備する。私が合図したらあの桜の発する死の力を切り払って! それまで時間を稼いで頂戴。時間が少しかかるけど……貴方なら大丈夫。そうでしょう?」

「——当然でございます」

 

 私が立ち上がるのを予期していたかのように、妖忌は素早く飛び出すと腰に差した刀を抜き、西行妖にその切っ先を向けた。

 

「私は白玉楼の庭師兼剣術指南役でございますが、それ以前に、幽々子様の従者でございますので」

 

 妖忌の刀が、青い光を帯びていく。

 眩い光を纏った刀を振りあげ、大上段に構えた。

 

「主の御為であるならば、敗けませぬ」

 

 先ほどよりも大きな斬撃が西行妖を襲った。

 地面を抉りながら進むそれは暴風の壁すら切り裂き、太い幹へ一直線に向かっていく。

 が、西行妖は枝を幾重にも重ねて妖忌の斬撃を防いだ。傷跡はこれまで同様に再生されてしまうが、瞬間的に与えた被害は、並々ならぬものであった。

 お返し言わんばかりに西行妖から放出される死の弾幕に対しても一歩も退かず、私に向かう弾すべてを弾き飛ばしている。

 

 白玉楼の歴代剣術指南役のうち最強と言われた名は伊達ではない。

 

「(彼なら、きっと時間を稼いでくれる。その間に私は)」

 

 境界操作の能力と結界生成の能力を重ね合わせ、巨大な封印術を展開する。西行妖の大きさが大きさだけに発動までには時間を要し、かなりの集中が必要となるためその間、私は動けない。

 そして平行して西行妖と幽々子との繋がりを一時的に立つための、術式も準備しなければならなかった。

 西行妖が満開を迎えるまでは、あとわずか。時間は残されていない。

 

「(集中……大丈夫)」

 

 私はそう、自分に暗示しながら印を結んだ。

 

 

 

 ******

 

 

 

「せっ!」

 

 短い気合と共に妖忌は西行妖から放出された弾幕に向かって一閃する。彼は刀に薄く鋭く霊力を纏わせ、実体のない物を斬ることを可能にしていた。

 言ってしまえばそれだけだが、一度斬れば十も百も斬り伏せてみせる。『さすがは幽々子自慢の使用人ね』と、彼の実力は紫をしてそう言わしめるほどであった。

 

 西行妖は今もなお、膨大な“死”を振り撒いており、並みの者なら一瞬にして命を奪われている。にも関わらず、汗の一つもかかずに涼し気な表情で紫を死の弾幕から守り続けているのだ。

 

「む……」

 

 ふと、西行妖がその幹を大きく揺らす。すると数えきれないほどの黒い花びらが吹きあがり、死の弾幕として再び襲い掛かってきた。速さ自体は大した事がないが、その量と密度は圧倒的であった。

 刀一本で対峙しようなど、狂気の沙汰とも言える。

 

「(所詮、生まれたばかりの妖怪というわけか。妖力は凄まじいが、中身を伴っていない)」

 

 しかし、妖忌は冷静であった。

 主を失ったばかりであるというのに、彼はどこまで冷静に、ただ紫から与えられた役目を全うすることだけを考えていた。

 涙など、後悔など、後でいくらでもすればよい。彼は鋼のような精神力で動揺する自らの心を押さえつけていたのである。

 

「……」

 

 妖忌は躊躇なく前へ前へと飛び込んでいく。

 彼の覚悟とその精神力は一体どこからきているのだろうか。妖忌は、これまでに死地を幾度も乗り越えているようでもあった。

 

「(っ!? 幽々子様……)」

 

 だが、これまで冷静さを保っていた妖忌が、ほんの少しの間、硬直した。

 暴風の壁によって視界が遮られていたものの、幽々子の姿が一瞬だけ彼の眼には映ったのだ。西行妖にとっては、十分な隙であった。

 避ける間を与えずに鋭く尖った枝が妖忌の四肢を貫き、そのまま手足足首に巻き付いて拘束したのである。

 

「(西行妖め、わざと幽々子様の姿を晒し、こちらの動揺を狙ったか。この短時間で、戦い方を学んできているな)」

 

 四肢に鈍い痛みを覚えたが、彼が怯むことはなかった。彼は西行妖の注意が紫に向かっていることを視認するや、ためらわず霊力を開放した。

 

「——小賢しいわ。()()()()

 

 彼の背後に控えていた半霊が、自身に姿を変える。すると分身は紫に迫っていた弾幕を切り払い、次に妖忌の手足を貫いていた枝を断ち切った。

 刺さっていた枝を片手で引き抜くと、着物の裾を口で引きちぎり、自らの利き手と刀に巻き付ける。しっかりと固定したことを確認した彼は、分身と共に再び西行妖へ立ち向かっていった。

 

「妖忌! もう少しよ。持ちこたえて!」

「何のこれしき」

 

 紫の声に応えながら駆ける。

 顔面に向かって飛んでくる黒い弾を紙一重で避け、足を掬おうとしてくる枝を刀で切り払い、時には結界で防ぐ。

 周囲が黒一色に染まっている中、彼と紫の周りだけが元の様相を呈していた。傍からすると、妖忌の眼にも止まらぬ剣戟によって、結界が張られているようにも見えるだろう。

 

 しかし西行妖は攻勢を強め、徐々に妖忌は押され始めた。

 

 弾幕に加え、無数の枝が、根が、槍のように伸びてくる。

 なりふり構わぬ猛攻。しかし迫りくる死の弾幕の数は、ほぼ無限である。西行妖の力が弱まることはなかった。と、なれば消耗戦において敗北するのは妖忌だ。

 

「あと少しっ!!」

「……承知」

 

 下方から、あるいは横方向から伸びてくる根や枝一つ一つを後方に退きながら避け、薙ぎ払うと押され気味であった分身と共に、上空から迫る弾幕に応じる。西行妖が手数を増やしてきたため、半霊の分身を生み出したことが功を奏していた。

 

 妖忌はこれまで降りかかってきた西行妖の攻撃をものともせず、一本の刀で受け流し、斬って消滅させている。生きとし生けるもの全てに訪れる“死”をも斬り捨てられるのは、彼の意志の強さゆえか。

 そんな彼の懸命な努力によって、ようやく紫は術式の準備を終えることができた。

 

「準備ができたわ! 妖忌、お願い——!!」

「はいっ」

 

 彼は刃の軌道上だけでなく、空間そのものを“斬る”。

 

「覚悟するがいい、西行妖」

 

 妖忌の刀が、再び青い光を帯びた。

 

「私に切れぬものなど、ない」

 

 分身は消え、半霊が妖忌の背中に控えた。すると、一瞬の溜めの後に妖忌の姿がぶれる。

 溜めるために踏み出した足で、大地がひび割れた。上段に構えた彼の刀は閃光を放ち、

 

「西行春風斬」

 

 鋭い踏み込みと共に、魂魄妖忌、全身全霊の斬撃を西行妖めがけて放った。紫ですら目で追えないような鋭い斬撃が西行妖を襲い、大樹は幹を揺らして悲鳴を上げた。

 一瞬、西行妖への道が開ける。

 

「届け……!」

 

 紫は即座に術を発動した。もう一度、彼女の親友に会うために。

 

 

 

 ******

 

 

 

 辺りは光で包まれ、気づけば私は白玉楼の座敷に立っていた。あれだけ荒れ狂っていた西行妖の姿が見当たらないところからして、恐らく、ここは彼女の心の中であろう。幽々子の記憶につながる風景が辺りに広がっている。

 私は静寂に包まれる白玉楼を一人、歩いた。

 幽々子はどこにいるのか、私には心当たりがあったのだ。いつも二人で語り合った場所、きっと彼女はそこにいる。

 

 見つけた。

 

 縁側に腰かける人影が一つ。

 幽々子だ。

 彼女は私に気づくと一瞬目を見開いたが、すぐに平静を取り繕った。

 

「紫……来てしまったの……」

「ええ、来ましたとも」

 

 どこからか、琴の演奏が始まった。ゆったりとしたその音色が、水のせせらぎと相まって、静かな空気を醸し出していた。

 

 この空間は、幽々子の心の中である。だから、彼女は本音を隠すことなどできない。きっと幽々子の本心を聞くことができる、今度こそ彼女の苦しみを知り、分かち合うことができると、このときの私は思っていた。

 幽々子は私の方を向かずに、独り言のように語り始めた。

 しかし彼女の声色は、生前に聞いたような諦めの籠った悲壮なものだった。

 

「賭け……、どうやら私がまた勝ったみたい。うふふ、ごめんね、勝手なことをして。貴方が妖忌と一緒に、私のために方々で手を尽くしてくれていたことには気づいていたのに」

 

 違う……。

 

「私ね、ずっと不安だったの。このまま生きていていいのか。誰かを死に導いて、私だけのうのうと生きていていいのかって……けっして、許されることではないでしょう?」

 

 そうじゃない……。

 

「私が消えればもう誰かが死ぬことはないのだと、そう思ったのはいつからだったかしら。ずっとずっと……私は、生きているのが辛かった。でも貴方と一緒にいられた時だけは全てを忘れられて、楽しかったわ。貴方と出会えて本当に、本当に良かった」

 

 私の聞きたかったのはこんな言葉じゃない。

 

「今までありがとう。紫」

 

 こんな、嘘にまみれた言葉ではない。

 

「っ!?」

 

 私は幽々子の胸倉を掴み、その頬を張った。

 手から伝わる彼女の頬の感触は生々しく、自分の身も張り裂けてしまいそうな思いだった。

 

「——ふざけないでっ!!」

 

 私は耐えられなかった。

 

「もう嘘をつかないでよ、幽々子っ!! 心の中でまで嘘をつくことなんて、ないじゃないっ!! そんなの、幽々子が壊れちゃうよ……」

 

 幽々子は、全て自分だけが悪いと決めつけて、死ぬことでそれを償おうとしていた。それも、自分に言い聞かせてまでして。

 私の剣幕の所為か、幽々子は目を見開くと親に叱りつけられた童子にように、身を小さくした。

 そんな彼女の様子とは裏腹に、琴の旋律は次第に速く大きくなっていく。より激しく、感情的に。

 

「で、でも私のせいで……」

「違う。違うのよ、幽々子。貴方の能力が変質したのだって、西行妖の所為。少なくとも貴方が望んだことではないのだから、貴方が責任を全て負う必要なんてない」

 

 幽々子は何も言わない。ただ俯いているだけだった。

 しかし彼女の拳には、確かに力が籠り始めていた。

 

「貴方、西行妖ごと私に封印してもらうつもりだったのでしょう? そうすれば転生することもなく、貴方はこれ以上誰かを死に導くことはなくなると」

「……っ!? そこまで気づいていて——」

「でもお生憎様。私は貴方の言う通りになんてしない。してやらない。貴方の身体を楔にしなくても、西行妖自体は封印できますわ」

 

 幽々子の顔が凍り付く。

 まさか、私にそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。

 

「……そんな……」

 

 瞳が揺れた。彼女の声は震えていた。

 

「わ、私が転生したら、また同じようなことが起きちゃうのよ……? ゆ、紫は、それでもいいの……?」

「地獄の閻魔、四季映姫様から頼まれましてね。私の好きなようにしていいと」

 

 今まで俯き、消え入りそうな声で答えていた幽々子の様子が変わった。ずっとずっと堪えていたものを吐き出すように私の胸倉を両手で掴み返し、彼女の燃えるような目は本気で怒ったことを訴えていた。

 そうだ、貴方は人間なのだから。

 自分を隠すな。

 

「いいかげんにしてよっ!!」

 

 幽々子の怒気の籠った声が辺りに響いた。

 

「どうして紫は私を惑わすの……? 私、消えなくちゃダメなんだよ……?」

「そんなことはないっ!! 貴方の能力は、人間の身だから扱えないだけ。人間の身を辞めれば『死に誘う程度の能力』は制御できるわ!!」

「例え私が人ではなくなったのだとしても、この力を必ず制御できるとは限らないじゃない!!」

 

 幽々子の心は強かった。人間の身に余るような力を宿し、それに必死に耐えて。周りに心配させないようにして。そうやって抱えてきたものが今、あふれ出てきているのだろう。

 琴の音は幽々子の心を表すかのように、さらに激しく、扇情的になっていく。

 

「そんなに私は頼りないかしら? もっと頼ってくれたって良かったでしょう!?」

「私だって……頼れるなら頼っていたわよ!! できるなら紫にもっと頼りたかった。でも怖かったのよ!! ずっと消えたいと思っていたなんて、貴方が知ったらきっと、傷つけてしまうんじゃないかと思ったの……」

 

 自らの行為を顧みた私は、後悔した。幽々子の言う通りだったからだ。彼女は、いつ私に頼れば良かったのだろう? もしも幽々子が私に『死にたい』などと言っていたらどうなっていただろうか。だからこそ、彼女は私に本心を隠していたのかもしれない。

 幽々子の気持ちに気づいているつもりで、結局彼女を傷つけていたのは私だった。

 

 しかし、ここで彼女に語り掛けることを止めてはならなかった。ここで私が諦めてしまったら、幽々子は西行妖に完全に取り込まれてしまう。

 私は彼女に届いて欲しいという思いで、できるだけ優しい声で幽々子に語り掛けた。友人として、既に失格なのかもしれない。不器用な私は説教じみたことしか言えないし、人間の身を辞めてしまったがゆえに、人間の心が分からなくなってしまった。だから、気の利いた言葉の一つも掛けてあげられない。

 それでも伝わってほしかった。この気持ちに偽りなんてないのだと。

 

「嫌わない。貴方のことを、嫌うわけがないじゃない。だから、貴方の苦しみを私にも分けてほしいの。貴方一人が背負うことなんてないわ」

 

 私は俯き震える彼女の肩に、手を伸ばした。

 そしてあと少しで触れられそうになった瞬間、

 

「——だから、——じゃない……」

 

 幽々子は私の伸ばした手を払い、言った。

 

「紫は妖怪なんだから、人間の私のことなんて分かるわけないじゃない!!」

「っ!?」

 

 その拒絶の言葉は、私の胸に深く深く突き刺さった。拒絶される覚悟はあったが、それは本当に痛い言葉だった。

 現に私は人間である彼女が、どれほど誰かを死に導くことに心を痛めているのか、分かっていなかったのだ。でなければもっと前から事態は変わっていただろう。

 

「出て行ってっ!! もう構わないでよっ!!」

 

 彼女の一言一言に、私の心は折れてしまいそうだった。

 でもこれこそが、彼女が堪えてきた苦しみなのだ。

 

「紫なんて——」

 

 彼女は叫んだ。

 

「ここから、いなくなればいいっ!!!!」

 

 幽々子の身体から伸びる西行妖の枝が、私の鳩尾を串刺し貫いた。

 

「かふっ……」

 

 貫かれた箇所を中心にして、西行妖の死を操る能力が侵食してくる。

 どうやら西行妖と幽々子の間の繋がりを一度断ち切ったとき、完全ではなかったらしい。気づかれぬよう幽々子の心の中にまで潜み、異物である私を、西行妖自ら排除しに来たのだ。

 

「あ……っ!? あぁ…………!?」

 

 幽々子は私の胸倉から手を離して口を手で押さえ、狼狽しながら、後退った。

 

「(また、嫌な思いをさせちゃったかしら……。本当に私は、頼りないわね)」

 

 心の中で悪態をつきながらも、私は満足していた。

 幽々子、ようやく言ってくれたわね。

 貴方は自分の思ったことを言った。ずっと我慢していたことを言ったのだ。

 もう、隠さなくていい。

 

「私、なんてこと……」

 

 私から離れようとする幽々子。

 そんな彼女を逃がさないように、私はゆっくりと近づいた。

 西行妖の枝が邪魔だったが、仕方がない。

 

「そうね……貴方の言うように、私は人間ではない。だから、私は貴方の考えていることが分からなかった。分かったつもりになって、過ちを犯してしまった」

 

 貴方に、言いたかったの。

 

「ごめんなさい、幽々子」

 

 やっと、謝れた。

 ここに来た一つの目的は、ただただ謝りたかったのだ。

 こちらに来たときは幽々子がまた嘘をついていたことに腹が立ってしまって、本来の目的を後回しにしてしまい、こんなことになってしまった。

 だけどもう一つ、私は貴方に聞かなくてはいけないことがあるの。今を逃したらいけないのよ。

 

「一つ……、聞いてもいい?」

「いや……こ、こないで……わ、私は……紫を傷つけて……」

 

 逃げようとする幽々子の肩を掴んだ。

 彼女の目を真っ直ぐ見つめる。けっして目を逸らさせないように。

 

「どうして、未練があったの? 貴方は生きたいのではなかったの? ……本当のことを教えて?」

 

 幽々子と出会ってからの日々。確かに苦しい時もあった。

 しかし貴方は、笑顔だったではないか。楽しいときもあったではないか。私はただ思い直してほしいのだ。この世に生きるのは、何も苦しいことばかりじゃなかったと。

 

「生きたい……ねえそうでしょう? 幽々子」

「え……っ!?」

「たとえ誰かを死に導いていたとしても、生きたいのでしょう?」

「で、でも死んでいった人達はもう帰ってこないわ!」

 

 それはもっともだ。だが、さっきも言ったようにそれは幽々子が望んだことではない。だから幽々子が悪いわけでもないし、一人で抱えることでもない。

 

「そうね、確かに死んでいった者達は帰ってこないわ……でも、それは私の責任でもあるのよ。もっと早く封印術を見つけられていれば、死者は少なくなっていたでしょう。私がもっと貴方に寄り添っていれば、貴方の苦しみは今より少なかったかもしれない」

「ゆ、ゆかりは悪くなんてないっ!」

「いいえ」 

 

 私はきっぱりと否定した。

 もっと貴方と向き合わなければならなかった。それを私も、心のどこかで避けていた。怖がっていたのだ。幽々子と同じように拒絶されることを恐れて、前に進めなくなって。

 だから、

 

「貴方が、それでも生きていることが罪だと言うのなら、私はそれを一緒に償う」

「……どうして? 紫はどうして私なんかに構うの……?」

 

 いい加減気づいて頂戴。いつもの貴方なら、もうとっくのとうに気づいているはずよ。

 

「だって私は貴方の友達だから」

 

 幽々子の身体に込められていた力が緩まっていく。

 

「無理に大人にならなくてもいいの、我儘を言ったっていいわ。もっと自分に素直になって頂戴。貴方の抱えている苦しみや痛みを、私も背負うから。これから精一杯、貴方のことを知っていくから」

 

 私は幽々子を抱きしめた。彼女の体は、汗ばんで冷えたのか、とても冷たい。だから私の熱が少しでも彼女に伝わっていけばいいなと思いながら、背中に手をまわす。

 心なしか彼女の身体は小さく感じた。

 

 そして気づけば西行妖の枝は、いつの間にか姿を消していた。

 

「……ぅあ……ああ……うぅ……」

 

 胸に響く、くぐもった声。

 幽々子は私の腰の辺りに手をまわし、小さな声で肩を震わせ泣いていた。

 どんどん熱くなっていく彼女の体を、私は壊れ物を扱うように抱き留めながらその頭を優しく撫でた。

 すると、幽々子の私に抱き着く力が強くなっていく。それはもう、鳩尾に空いた穴から鈍い痛みを感じるほどに。

 これは罰のようなものだ。幽々子を傷つけた愚かな私への罰。

 

「ゆかり、ごめんね……言えなくてごめんね……」

 

 さらさらとした彼女の黒髪は、とても触り心地が良くて、愛しくて。

 私はずっと、彼女が落ち着くまで頭を撫で続けた。

 

「(今はまだ、もう少しこうしていましょう……)」

 

 確かに幽々子は大人びている。それに、妖怪の私を翻弄するぐらいには賢い。でもやはり彼女は十四、五の少女なのだ。悩みもするだろう。答えのない現実の問題に、葛藤を抱えるだろう。その未熟な心で誰かを死へ導いてしまうという苦悩を抱え、ついには耐えきれなくなってしまったのかもしれない。

 その真相は本人にしか分からないが、私はひとまずそう思うことにした。

 

 しばらくすると辺りは静かになり、琴の音が再びゆったりとしたものに変わった。それは幽々子の心が落ち着きを取り戻したことを示していた。

 名残惜しいが、この辺りが頃合いだろう。

 余り時間も残されていない。

 

「さっきの質問の答え、そういえばまだ聞いてなかったわね」

「え?」

 

 胸に顔をうずめた幽々子のくぐもった声が聞こえる。今の彼女の顔はきっと酷いことになっているに違いない。

 私は気にしないよう努めながら、彼女に言った。

 

「貴方の未練、教えてくれないかしら?」

「?」

 

 すると幽々子は頭を軽くかしげ、きょとんと不思議そうな顔をした。

 

「それほど考えすぎることはないのよ。答えは単純なんだから」

「あ、あぅ……」

 

 先ほどまでのことを思い出したのか、顔を私の胸に埋めた幽々子。

 だが、きっと今の彼女なら答えてくれるだろう

 しばらくすると彼女は顔を上げ、私の目をしっかりと見据えて言った。

 

「……消えたくない。これからこの罪を、貴方と一緒に償っていきたい」

 

 それはもう生を拒み、死を願う人間の顔ではなかった。自分に嘘をついていた少女の姿ではなかった。

 ……よかった、私の言葉が彼女に届いて。

 

「貴方がそう言ってくれるのを、ずっと待っていましたわ」

 

 私はそう言ってこの親友に微笑んだ。

 さて、これからの話をしようか。

 

 

 

 ******

 

 

 

「魂の固定化?」

 

 幽々子は私に問う。

 

「そうよ。貴方の肉体を楔にして、魂を固定化するの。つまり、これから貴方は実体を持った亡霊になるわ」

「実体を持った亡霊……。なんだか不思議な響きね」

 

 呟く彼女に続けて言った。この術をかけるに当たって、一つ問題があるのだ。

 

「でもね、幽々子。貴方の魂、つまり今いる貴方は肉体から離れて時間が経ってしまったから、恐らくはこの術をかけて亡霊になったとしても、記憶に何らかの障害が残るかもしれない」

「生前の記憶がなくなるということ? 今、貴方と会話しているこの記憶も全部——」

「そうよ。残念ながら、失われてしまうでしょう」

 

 母の場合、死の間際に術を発動させたために生前の記憶を失うことはなかった。しかし、幽々子の場合はそういうわけにもいかないのである。離れてから時間が経ってしまった魂と肉体をつなぎ合わせることは難しい

 まして幽々子の肉体は西行妖と強く結びついてしまっている。楔にするにしても記憶への障害は現時点では免れないだろう。

 

「……まあ、そうよね」

「……ごめんなさい。こればかりは今の私ではどうにもならないの」

「いいのよ。それだけのことを私はしてしまったんだから」

「いいえ、必ず私が貴方の記憶を取り戻す方法を見つけてみせる。約束よ」

 

 ふと、白玉楼の上空が割れた。そろそろこの空間も不安定になってきつつある。早急に手を打つ必要があった。

 

「幽々子、これから西行妖と幽々子の魂との繋がりを完全に絶つわ。力を貸して頂戴」

「ええ」

 

 私たちは、手を握り合った。

 幽々子の心の中であるこの空間に、姿を現していた西行妖。まだどこかに潜んでいる可能性があったため、この空間の主たる幽々子の力を借りる必要があったのである。彼女の手を通して霊力を受け取り、私が潜んでいる西行妖との繋がりを探し当てて浄化するのだ。

 

「紫……、私にできるかしら?」

 

 彼女は少し頬を赤くして、正面に立つ私から目をそらしていたが、緊張した面立ちだった。いいや、少しこそばゆいのかもしれない。向かい合わせで、じっと見つめる私に目を合わせにくいのだろう。

 珍しい彼女の様子に、私は頬が緩んだ。

 

「大丈夫、私を信じて」

 

 私は、彼女の小さな手を握った。一瞬身体がぴくりと撥ねると、彼女の手の僅かな震えが治まっていく。

 

「うん、そうよね……信じるわ、貴方を。だって貴方は、私のお友達だもの」

 

 彼女が手を握り返したのを確認して、私は妖力を開放し、浄化の光を放つ。それと同時に幽々子からほんの少し霊力をもらい、上乗せした。

 浄化の光は、白玉楼を含むこの空間全体を包んでいった。

 

「……綺麗」

 

 そう呟いたのは、幽々子だった。

 確かに、この光はどこか安心させてくれる。かつて、母が妖怪たちと戦っていたときも、私はこの浄化の光に心が落ち着き、安心させられた。

 

「ええ、綺麗ね……本当に」

 

 明るい空を二人で見上げながら、私は頷いた。

 しかし、ずっとこうしてはいられなかった。

 浄化はもうすぐ、終わってしまう。

 

 幽々子と過ごすこの時間にも、終わりが近づいてきていた。

 

「——記憶がなくなっても、私とお友達でいてくれる? ずっと、ずっとこれからも」

 

 段々と意識が薄れてきた様子の幽々子は、私に体を預けながら問う。この光が完全に収束したとき、彼女の記憶は消えてしまうだろう。それと同時に、私はこの空間から弾き飛ばされ、外の世界に戻ることとなる。

 これが最後になるかもしれない。

 何を話せばいいのか、何を伝えればいいのか、いざとなってみると、言葉に詰まってしまった。それでも、私は言わなければいけない。

 

「……もちろん。記憶がなくなっても、幽々子は私のお友達よ。だけど私は貴方を忘れない。私が貴方のことを覚えていれば、貴方はずっと私の中で生き続けているから。それに、このままにするつもりはないわ。貴方を必ず、迎えに行く」

「うふふ、ええ。待ってる…………楽しみにしているわ」

 

 満足そうに、彼女は頷く。

 

「ねえ、紫……」

「——なっ!?」

 

『またね』と、そう言って幽々子は私の頬に口づけをした。

 

「紫ったら赤くなっちゃって、もう。初めて会ったときみたい」

「な……なにをっ!? 幽々子!?」

 

 幽々子の身体が薄れていく——。

 ああ、やはり私は——。

 

「記憶が戻ったら、それまでにあった面白いお話をたくさん聞かせてね。忘れちゃだめよ? 私、とっても楽しみにしてるんだから——」

 

 浄化の光が完全に収束した。

 眩い光に目がくらみ、瞬きをするとそこは元いた世界。滲む視界に私は目元を袖で拭い、両手で自分の頬を張り、しっかりと大地を踏みしめて立ちあがる。

 

 西行妖は幽々子との繋がりを断たれたことで力を弱め、暴風の壁が消えてなくなっていた。

 この好機を逃さず、すぐさま封印術を発動した。奴の力が弱まっている今、幽々子の肉体を鍵として、西行妖を封印するのである。

 

「散りなさい、墨染の桜!!」

 

 術式が発動すると、放たれた幾重もの光の鎖が西行妖本体に巻き付く。必死に枝を使って抵抗しているようだが、それを上回る勢いで鎖が絡みついた。自由を失うと共に、さらに力が弱まっていく西行妖。白い光で幹が見えなくなるとそのまま破裂し、妖力が完全に消失した。

 

「(終わった、か……)」

 

 黒一色であった辺りの景色が反転し、白に染まっていく中、私はそこで意識を失った。

 

 

 

 ******

 

 

 

 目が覚めると、西行妖は沈黙していた。どれほどの間意識を失っていたのか、よろよろと起き上がり見上げてみれば、西行妖はすっかり枯れて、もう死の弾幕を放ったりはしなかった。

 

「——!」

 

「——様!」

 

 遠くから妖忌の声がする。

 

「紫様!!」

「妖忌……。無事だったのね」

「はい。御覧の通り、西行妖は封印できたようですな」

「ええ……」

 

 私は西行妖をもう一度見上げた。幽々子を死へと追いやった忌々しい桜。今ではただの枯れた木にしか見えない。

 

「妖忌、幽々子は——」

「幽々子様は、先ほどあちらで見つけました。たった今、白玉楼の一室にお連れしましたところでございます」

 

 そう言って白玉楼の庭側の一室を指さす。さすが妖忌。仕事が速い。

 私がそう感心していると、妖忌が佇まいを直し、私の目を真っ直ぐと見ながら言った。

 

「この度はわが主のこと、本当にありがとうございました。私が目を離さなければ、このような事態にはならずに済んだものを……誠に申し訳ありません」

「いいのよ。妖忌。もう終わったことだわ」

「いいえ、何とお礼を申し上げたらよいか……」

 

 妖忌には苦労をかけた。私が封印術を調べるのに時間がかかった分、幽々子の様子を彼に任せっきりにしてしまっていたのだ。彼自身は封印術の分野にはそこまで明るくないので、歯がゆい思いをさせてしまったに違いない。

 だから、悪いのは彼だけでない。

 私も、妖忌もそして幽々子も皆、どこかで選ぶべき道を誤ってしまった。気づけば皆が望んでいない事態になってしまっていて、取り返しがつかなくなっていた。

 

「私はお礼を言われるようなことはしていないわ。それに、自分ばかりを責めなくていいのよ。別に貴方の所為ではないのだから」

「しかし——」

「しかしも何も、私はいいと言っているのよ。幽々子だってきっと妖忌を責めたりはしないと思うわ」

「…………」

 

 少しの沈黙。

 

「はい……お気遣いいただき、ありがとうございます」

 

 妖忌がそう答えて下がった後、私は幽々子のもとへと向かった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 白玉楼の一室に寝かされた幽々子は、まるで何もなかったかのようにすやすやと寝ていた。彼女が呼吸をするたびに、胸の辺りで布団が上下に揺れる。私は彼女の枕元に音を立てぬよう腰を掛け、ほっと息をついた。そして内心、彼女の身体に起きた変化に驚いていた。

 黒かった彼女の髪は、今ではまるで満開の桜の色に染まっていた。あの桜を黒で染めたとき、彼女の身に、そしてその魂にまでも何かしらの変化を与えたのかもしれない。

 

 色々と思うところがあったが、ひとまず無事でよかったなどと、私は彼女が起きるまでその髪を撫で続けた。

 それから数刻。

 幽々子はなかなか起きない。なんだかんだとこれからのことについて考え事をしながら、かれこれ数刻近く待っているのだが、起きる素振りすら見せない。

 そろそろ足も痺れてきてしまうので、お茶でも取りに行くかとその場を離れようとした、その時、

 

「ねえ、貴方だれ?」

 

 声を聞き振り返ると、幽々子が私の服の裾を引いていた。こちらを見上げている彼女の顔は純粋無垢な印象を受ける。

 いつの間に……。

 初めて会った時のような、無意識に死に焦がれているような違和感は、もうなかった。

 

 さて、ようやく幽々子は目を覚ましてくれたわけだが、問題がある。

 こんなとき、なんて言いだせばよいのだろうか? 

 ふと思った。心の準備というか、不意に起きたものだから少し困惑してしまう。しかしまあ、よく考えてみればそんなに悩むこともない。時間はたっぷりとあるし、もう一度初めからやり直せばいい。焦らなくていいのだ。

 人間と、妖怪の間でさえ、心を通じ合わせることができたのだから。

 

()()()()()、私は八雲紫」

「八雲……紫?」

 

 きょとんとした幽々子の姿に、つい口元が綻んでしまう。彼女のおっとりとした雰囲気は生前そのままだ。そもそも起きてすぐそばに知らない人物がいるというのに、それも私を相手にしているというのに、まったく警戒する素振りも見せない。

 

「そうねえ、なにから話そうかしら……ああ、そうだ」

 

 境界操作の能力を使い、白玉楼の庭の、枯れていた桜を蘇らせる。この程度であれば造作もない。生と死の狭間にあった桜は次々に息を吹き返した。ぽつりぽつりと桜が花を咲かせ、庭が色を取り戻す。

 なにせ今は春なのだから——。

 初めて会ったあの日と同じ言葉を、貴方に送ろう。

 

「桜が綺麗だったから、お邪魔してしまいましたわ」

「桜? あれ、いつの間に……?」

 

 幽々子はぽかんと口を開けている。

 

「西行寺幽々子さん」

「なあに?」

 

 

「私とお友達になってくれませんか?」

 

 

 ある歌が綴られた一枚の紙切れを、私は強く握りしめた。

 

 

 

 ——ほとけには 桜の花を たてまつれ

 

 ——我が後の世を 人とぶらはば

 

 

 

 かくして、墨染の桜は咲いて、散った。そして、私の知る幽々子は深い眠りについた。

 

 だが、いつの日か。

 

 もし、彼女の記憶が戻ったならば、私は——。

 

 

 

 桜の章 完

 

 

 ******

 

 

 それはとある山の中。

 

「おねえちゃん、おねえちゃん!」

 

 擦り切れた着物を着た少女は大きな岩の上で寝そべっている人物に話しかける。

 

「んー? なんだい。あんたか」

 

 その人物は面倒くさそうに起き上がり、返事をした。

 

「もう、そんなところで寝てたらかぜひくよ!」

「分かった、分かったよ……それで何のようだい?」

 

 鬼は少女に問うた。すると少女は嬉しそうに答える。

 

「ねえ、萃香おねえちゃん。ゆびきりってしってる?」

 

 昔、昔。

 

 それは御伽の国の話。

 

 心を通じ合わせた人の子と、鬼が交わした約束。

 

 その約束とは。

 

 

 鬼の章 始

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鬼の章:その者麗らかなりて……

 ——最近、よくあの頃を思い出すんだ。

 

 私がアイツと会ったのは、本当に偶然だった。アイツを食う機会があったのにも関わらず、なぜ食らおうとしなかったのかは今でも分からない。アイツは人間で、私は妖怪だった。だから分かり合うことができるなんて、ちっとも思っていなかったんだ。

 気づいたら気を許してしまっていて、気づいたら食らう機会を失っていた。

 

 そもそも、人は嘘をつき、鬼は嘘を嫌う。だから互いに憎み合うのだと、そう考えていた。

 しかし、そんな凝り固まった考えはアイツによって砕かれた。確かに、きっかけは単純だったかもしれない。でも誰もが私を恐れ、鬼として、力の象徴としてしか見てくれなかったのに、アイツは違った。私はアイツの中に誠を見たんだ。

 

 そして、なにより嬉しかった。いつしか諦めてしまっていた私は、希望を見つけたような気がして。アイツといたら退屈することはないだろうと、“これから先”が楽しみになっていて。

 あのときアイツを食わなかった私を全力で褒めてやりたいよ。

 

 忘れられない私の大切な記憶。

 だからこれはそっと、胸の中の大事な部分に取っておく。

 

 あのときの記憶をつらつらと思い出している最中、博麗神社の屋根の上でぼんやりと空を見上げていたら、辺りに同居人の声が響いた。

 

「萃香~、どこにいるの~!? また私のお酒を勝手に飲んだでしょっ!? 今、出てきたら拳骨一発ぐらいで済ましてあげるわ!!」

 

 あ、ばれた。これはまずいな。

 すたこらさっさと逃げようとしたところで、いつの間にか背後に回っていた霊夢が私の首根っこをむんずと掴んだ。

 ……私、一応気配を消していたつもりだったんだけど。

 

「あんたねえ~、また私から逃げようとしたでしょう?」

「ごめん、ごめんって。ゆるしておくれよ~、れ~むぅ~」

「そんな甘えた声で言ったって許さないから! まったく……」

 

 霊夢はアイツに似ている。いや、別に性格が似ているってわけじゃない。少なくともアイツはもっと優しかった。お祓い棒をもってして全力で殴ろうとなんかしない。まあ、なんというか雰囲気みたいなものだ。

 ほら、敵わないなぁって感じさせられるところとか、ね。

 

 ドゴッ、ゴスッ、バキィィィンッ、と生々しいというか、色々体からしてはいけない音が神社に響き渡る。

 およそ人間がくらったら軽く三度は死ねるようなお仕置きを受けた私。

 

「う~」

「——あらあら萃香、随分と楽そうな格好をしているのね」

 

 私の隣に突如として現れたのは、胡散臭い笑みを顔に張っ付けている美少女、八雲紫。私の古い友人の一人だが、なかなか食えない奴だ。悪い奴じゃあないのは確かなんだが——。

 

「ああ、とっても楽ちんだ。ほら紫、ちょいと変わってあげてもいいんだよ?」

「うふふ、遠慮しておきますわ」

 

 いい笑顔で即答する紫。まあ、コイツは色々と誤解されやすいんだ。

 何だかこういう言い方をすると、不憫な奴に思えてくるね。

 

「——ちょっと貴方。失礼なことを考えているのではなくて?」

「妙なところで鋭いよね。紫は」

 

 心を勝手に読むな。どこの覚り妖怪だっていうのさ。

 足をぷらぷらとさせながら、何となしに右へ左へ振り子のように体を揺らしている私を見て、紫は溜息をついた。

 

「……それにしても、よく縄で縛りあげられた状態で余裕を保っていられるわね」

「いや~、もうね。なんというか霊夢には参った、参ったぁ。一周回って余裕が生まれてくるもんさ」

「はぁ」

 

 ちなみにさっき私は能力を使って縄から脱出しようと試みたのだが、どうやら霊夢はそこそこ強い封印の御札を私の背中に張り付けたらしく、抜け出そうにも簡単には抜け出せなかった。

 こんなに強力な札を張り付けるなんて、なんという鬼畜巫女なんだろうね。鬼である私よりも鬼らしいとは。霊夢、侮れん。

 

「もう、霊夢には私から言っておくから……。萃香、今日はあの日でしょう? こんなところで油を売っている場合じゃないでしょうに……」

「そうか……」

 

 やけにアイツのことを思い出すなぁって思っていたら、そりゃあそうか。

 丁度、夏の暑い頃だったかね。

 

「まさか忘れていたの?」

「いや、そうじゃない。ただ、改めて言われてみるともうこの季節なんだなあって……」

「まあ、分からなくはないわ」

 

 扇子を口元にやり、溜息をつきながらも同意してくれた紫。

 やっぱりコイツは、なんだかんだ言って話の分かる奴だ。

 

「……そんじゃ、頼むよ」

「貴方は本当に昔から世話が焼けるわね」

「なんだかんだ親切なあんたが私は好きだよ」

「はいはい、分かったからさっさと行きなさい」

 

 背中の札を取ってくれた紫はそっぽを向いた。ああ、コイツもあのときいたんだっけなぁ。もともと私と紫は敵対していて、顔を合わせれば殺し合いにまで発展することもあった。それを止めにアイツが間に入ってきたりしてさ……。

 ……楽しかったなあ。私とアイツ、それに時々紫がいた。幽々子と知り合ったのもこのあたりだったかな。

 今みたいに平和で綺麗な世界じゃなくて、もっと血生臭い時代だったけれど、皆精一杯に生きていた。

 

「霊夢は本当に情け容赦がないというか、加減を知らないわね……。たまにはお仕置きが必要かしら……」

 

 しばらく私が物思いに耽っていると、前に立つ紫は物騒なことを呟く。

 あの鬼巫女を相手にお仕置きとは……。いやはや紫というやつも十分に恐ろしい。天敵と言えば、あの閻魔くらいなんじゃないかね?

 

 私とこの神社に暮らすのを陰ながら支えてくれているコイツには実のところ、頭が上がらない。

 昔、月に攻め入ったときも、見境なく人を殺してしまったときも、私を見捨てたりしなかった。それに地底から地上に戻ったときも、私が幻想郷に受け入れられる切欠を作ったのはコイツだったんだよな。

 誤解されやすくて敵も多いが、それでも紫のことを慕っている奴だって多いと思う。幽々子に、あの狐に、そしてあの鬼巫女に。

 

 もちろん、私もその一人だ。

 だって紫は私の大切な友人なんだから。

 

「じゃ、行ってくるよ、紫。ああ、そうだ。後で(飲みに)付き合ってくれないかい?」

 

 紫が私の背中に貼ってあった札を取り去り、私は無事抜け出すことに成功した。ようやく地面に降り立つことができた私は、見上げる形で紫に言う。

 そんな私の顔から視線を逸らし、紫は答えた。

 

「あの子によろしく言っておいて。それと、淑女を誘うときはもっと雰囲気を大切にするものですわ」

「まったく、素直な奴じゃあないね」

 

 まあ、なんだかんだいって我儘にも付き合ってくれるのが紫だ。後でまた、声を掛ければいいか。

 軽く地面を蹴り、『密と疎を操る程度の能力』を行使し移動する。

 アイツの眠る場所へ。

 

 

 

 ******

 

 

 

 千年以上前のこと。すなわち幻想郷が生まれる少し前、人間と妖怪の間には大きな溝が存在していた。妖怪が人を攫い、喰らい、そして化かして恐怖に陥れる。人は怯え、恐怖し、ときに勇気ある者が彼らに挑み、破れ、あるいは打ち勝つ。

 人は、神との共存を求めた。しかし、妖怪との共存は受け入れられなかった。

 それがこの時代における、常識であった。

 

 

 季節は秋、肌寒くなる中で生物は来たる冬に向けて各々備えを進めている。木々は子孫を残すべく色づき多くの実を結び、動物たちは生き残るために木の実を食べ肉を食べ、肥え太ろうとする。

 生命活動活発な秋の森。見渡せば生命の息遣いがどこでも感じられることだろう。

 

 そんな森の一端。餓えた獣を呼び寄せるような濃厚な血の臭いが漂う。

 しかし、そこには何者も寄り付こうとしなかった。彼らは本能で理解しているのである。手負いであれ、正真正銘の“化け物”に近づくことの恐ろしさを。

 

 鬱蒼と蔦が複雑に絡まる薄暗い森の中、

 

「——おねえちゃん……大丈夫?」

 

 かがんで声をかける少女。

 その視線の先には、横たわり苦し気な呻き声をあげている、手負いの化け物。

 己の名を呼ぶ者の方へと視線を向け、化け物は声を発した。

 

「……なんだ、お前は……?」

 

 凄みの効いた、されど苦し気な声。

 横たわる化け物は無論、人間ではない。頭に生える二本の角、妖怪の中でも上位に君臨する強者、“鬼”である。

 鬼とは数々の伝承に名を記され、最強の称号をほしいままにする妖怪の中では最強とも謳われる種族。

 しかし強靭な肉体を誇るとされている鬼は、瀕死の重傷を負っていた。肩口は大きく抉られ、出血がひどい状態となっている。さらに傷口の周辺は化膿し、異臭を放ってさえいた。

 

「わたし? んーとね、わかんないや」

 

 負傷し血まみれながらも、常人ならば卒倒するような威圧感を放つ鬼に対して、とぼけたように答える少女。彼女は動じる様子も、ましてや狼狽える様子も見せなかった。傍から見れば、彼女がとても正気の沙汰とは思えないだろう。

 

「失せろ、人間。さもなければ殺す」

「どうして? けがしてるんでしょ?」

 

『うぐっ』と、唸る鬼。

 少女の指摘は図星だった。もしも重傷を負ってさえいなければ、少女をすぐに殺して食っていただろう。しかしこのとき、鬼は少女を食い殺すだけの余力を持ち合わせていなかったのである。

 

「(どうして、こんなところに人間の子供が……?)」

 

 おぼろげな記憶によれば、この森は妖怪こそ少ないものの、熊や狼、猪が多く住み、人間が入り込むのは危険なはずである。すなわち、大人と共に来たとは考えにくい。つまり、この少女はこの森に一人でやってきたということだ。

 この時点で理解に苦しむ。

 さらにはこの幼気な少女、あろうことか鬼である自分に近づいてきているのである。

 

「(くそっ……、頭が回んない……)」

 

 出血がさらに深刻になってきた所為か、鬼の意識は段々と遠くなっていく。

 今、意識を失えば目の前にいる少女に何をされるか分かったものではない。ただし、いかにも非力な少女が鬼である自分に対して、何か危害を与えられるとも思えなかった。

 

「(……ちっ、もうどうにでもなれ……)」

 

 鬼は悪態をつく。もとより、少女一人食らう程度の余力すらないのだ。選択肢などないに等しい。

 思考をそこまでで放棄し、朦朧とした意識の中で“彼女”が最後に見たのは、

 

「(——あ?)」

 

 自らの傷口に手を当てる少女の姿だった。

 

 

 

 ******

 

 

 

「んっ、しょ……よい、しょっ」

 

 突如、少女の手が緑色の光を発した。その光は少女の手から離れて鬼を包み、化膿していた箇所をはじめとして、鬼の傷口を塞いでいく。

 

「——あれ?」

 

 少女は何やら腕に力を込めている様子であったが、

 

「うぅ……なかなか治らないや」

 

 深く抉られた部分の直りが遅かった。どうやら何かが少女の治癒を妨げているようである。

 それは、少女のもつ“能力”に近しい“何か”。

 

「うーん……? もういちど」

 

 とはいえ、少女が特に気にした様子はない。

 もう一度鬼に光を纏った手をかざし、傷口を塞ぐ。今度は血の跡を残して抉られた肉までもが再生し、化膿した部位は新しくできた組織によって内から体表面まで追い出され、やがて地面へぽとりと落ちた。

 次第に鬼の呼吸は安定していき、今では静かな寝息を立てている。

 

「ふぅ……」

 

 少女は息をゆっくり吐き、安堵した。

 ここまで治療すれば、もう大事にはならないだろうと判断したのであろう。手に持っていた布切れで鬼の身体にこびり付いていた血を拭うと、彼女は改めて鬼の顔を覗いた。

 すると少女は息を呑む。

 

「(っ!? あらやだ、やっぱりわたしがおもったとおりだったわ。か、かわいいっ……!!)」

 

 鬼は自分とたいして変わらないくらいの身長の少女の姿をしていた。

 薄い茶色の長い髪を毛先の辺りで一つにまとめ、その頭の左右からは身長と不釣り合いに長くねじれた角が二本生えている。

 幼さが色濃く残る顔立ちではあるが、その美貌はまさに妖そのもの。閉じ合わさった瞼は深い影を落とし、目頭から目尻まで美しい曲線を描いている。さらにはいくらか血色を取り戻した形の整った頬と桜色の唇からは、ただの年齢通りではない色気を漂わせている。

 

 少女は自分と同じくらいの年頃に見える鬼が倒れているのを偶々見つけ、居ても立ってもいられなくなり、治療を施したのであった。全身血だらけであった鬼の血を拭えば、案の定、見た目は幼い童女である。

 初めて遭遇した意思疎通のできる妖怪。それも見た目だけなら自分と同年代。

 少女は鬼に対して興味が尽きなかった。

 特に彼女は、その角に興味を示した。寝息と共に少しだけ揺れ動く角を凝視し、人差し指をそろりそろりと近づける。

 

「う……んっ……」

「ひうっ!」

 

 うなされているのか小さく声を上げる鬼に、少女は大きく肩を上げて指を引っ込めた。しかしまた、しばらくすると角を触ろうとし、

 

「ひゃっ!」

 

 指を引っ込めるという同じ動作を繰り返す。まるで玩具にじゃれる猫のように、彼女には邪気がなかった。ただ、少女は飽きることなく永遠と繰り返し、気づけば時刻は昼から夜になっていた。

 最早狂気の沙汰と言えよう。

 

「あ、いけない。ごはんごはんっと」

 

 少女はどこから持って来たのか、上等そうな羽織りを鬼の胸元にかけてその場を立ち去った。それからまた数刻すると、魚を手一杯に抱えて戻って来るや否や火を焚き、手慣れた手つきで串に魚を刺して焼いていく。川魚特有の匂いと香ばしいにおいが辺りに広がった。

 魚の身から染み出た油が爆ぜ、ぱちぱちりと音がする。

 

「ん……」

 

 匂いと音につられてか、鬼はゆっくりと目を覚ました。

 流石は鬼の生命力。

 いくら少女が治癒を施したからとはいえ、体力をかなり消耗していたのにも関わらずたったの半日で目を覚ますまでに至ったのである。

 

「うぅ……んぁ……」

 

 その場で可愛らしい欠伸をした鬼は目尻に浮かんだ涙を指ですくい、ふにゃふにゃと口内に溜まった唾液を呑む。

 喉が渇いていた上に血がこびりついていたこともあって呑み込む際に少々不快感を覚えたが、食欲が刺激されていたからか、口の中だけは唾液で潤っていた。

 

「——あ、おきた! おねえちゃん、お水いる?」

 

 少女は水の入った水筒を鬼に手渡した。

 鬼が喉の辺りを手で抑えて眉を寄せている様子から、色々と察したらしい。

 

「はえ?」

 

 寝起きの鬼は見た目相応の高い声——ただし、かすれているが——を上げ、言われるがまま、渡されたそれを口に運んだ。

 

「んっく、んっく」

 

 ただ今鬼は、自分が置かれている状況をまったく理解していない様子。その証拠に、目の前に座っているいかにも怪しい少女に何の違和感も覚えていない。

 警戒心など皆無である。

 

「……ああ~、うまい……」

 

 こびりついていた血は水に洗い流され、同時に乾いていた喉を潤していく。喉を通る清涼な水に、鬼は生き返るような心地になった。

 そこで少々、いや、大分遅すぎるとも言えるが、ぼんやりとしていた脳がようやく覚醒する。

 端的に言うと、鬼はかなり寝ぼけていた。

 

「って、傷がふさがってる!? そんな……馬鹿な——」

「あはは、よかったぁ。もう痛くないでしょ? 心配したんだよ? 肩のところの傷なんて、ほんとうにひどかったんだから」

「……くっ」

 

 正気に戻った鬼は少女に飛びかかった。上に馬乗りとなって、襟を掴んで問う。先程までの弛緩した気配は消え失せ、鋭い牙を見せつける口元に、眼光は炎のように真っ赤に燃えている。

 

「……お前、一体私に何をした?」

 

 あれほど深い傷を負ったはずの己の傷がすっかりと消えていた。すると気を失う直前、己の身体に手を当てていたこの少女が何かしたことはほぼ確実。

 かなりの圧力をもって少女を脅した鬼であったが、少女は全く抵抗しようとせず、からからと笑うばかりである。その様子が人間離れしている所為で、ますます鬼を焦らせた。

 

「何っていわれても。そうだなぁ……『なおれ』って念じるとね、傷がなおるの」

「そんなことが……」

 

 鬼は改めて自分の肩を見る。来ていた衣はいつの間にか全て脱がされており、容易に傷跡を確認することができた。

 しかし、確かに大きく抉られたはずの肩の傷は跡形もなかったかのように消えていた。

 

『馬鹿な』

 それは鬼の抱いた率直な感想だった。

 

 そう簡単には癒えないような瀕死の重傷を、こんなに幼い人間の少女が治療したと言うのだから鬼が受けた衝撃は大きかった。

 嘘、であるようにも思えない。周辺に少女以外の気配もしないし、事実として、自分の傷は癒えている。

 だが『しかし』と、鬼の心には疑問が湧いてくる。少女が妖怪である自分を治療する理由が思い当たらない。

 

「何を考えている? 私は鬼だぞ……。鬼は人を攫い、食らうものだ。人間のお前なんか殺されてもおかしくないってのに」

「まあ、そのときはそのとき。それにおねえちゃんはそんなことしないから!」

「どうして、わかるんだい」

「勘だよ」

 

 少女は屈託のない笑みで応えた。あまりのことに鬼の肩からは力が抜けていってしまう。呆然としていると自分を見て、少女は組み伏せられた状態のまま笑っていた。

 思わずつられて、頬が緩みそうになってしまうほどに。

 

 ただ、気味が悪いかと聞かれれば否定できない。少女のその姿は、この世からふわふわと浮いているようにも感じられたからである。

 

「ねえねえ、鬼のおねえちゃん。おねえちゃんの名前を教えて?」

 

 呆気に取られていた鬼に、少女は尋ねる。

 

「名、だと……?」

「うん。わたし、知りたいな」

 

 奇行に続く奇行。

 鬼はどうにも調子が狂うと感じた。まさに天真爛漫、いくらか狂気じみているとはいえいかにも非力な少女に、主導権を完全に奪われてしまっているのだ。このままでは鬼である己が毒気をすっかり抜かれてしまうかもしれない。いっそこの娘を殺してしまおうかという考えが頭をよぎったが、どうにもその気になれず、すぐに雲散した。

 さてどうしたものかと悩んだ鬼。

 結局、

 

「萃香……伊吹、萃香」

「いぶき、すいか……萃香おねえちゃんだね! よろしく!」

 

 少女の邪気の無さに抗えなかった。

 

「どうして……」

「ん?」

「どうして私を助けたんだい? 私は妖怪だよ!? なぜ人間のお前が——?」

 

 だが、鬼は聞かずにはいられなかった。どうしても信じられなかったのである。妖怪と人間の間に横たわる溝をよくよく理解しているがゆえに。

 矢継ぎ早に問う鬼の言葉を、少女は遮った。

 否、鬼は言葉を続けられなかった。

 少女から発せられる気配が突如として変容したからである。

 

「かつて、いえ、それよりもずっとずっと昔のこと。今は忘れ去られた時代。人も妖怪も、そして神も一つだった」

 

 何度も何度も語り慣れているような口調で、

 

「でも、あることがきっかけで常識は非常識へと変わってしまった。常識が突然、崩壊してしまったの」

 

 少女は歌うように言葉を紡ぐ。

 

「だから、私達は自らの『価値』を生み出すために『差異』を作り出した。しかし差異は恐怖を生み、人は妖怪を恐れ、神を畏れた」

 

「その結果、差異が膨張し、怪奇が現実となったのがこの世界」

 

 そして最後に、こう締めくくった。

 

「……だから私は、人も妖怪も、神も分け隔てたりはしてはいけないの。私も、似たような存在だから」

「——っ!?」

 

 幼い少女から発せられた言葉とは到底思えないような内容に、鬼は絶句する。

 一瞬体が硬直してしまっていたが、すぐに自由を取り戻すと、萃香は突如としてその年齢にあるまじき発言をした少女に問うた。

 

「ちょ、ちょっと待っておくれよ! それはどこの誰から聞いたんだい!?」

 

 すると、

 

「——え?」

 

 キョトンと、少女が我に返るのと同時に空気が弛緩した。

 先ほどまでの言葉をまるで覚えていないかのような振る舞いに、鬼は小さく息を呑む。

 

「え、ええと……ううーん、わかんない。なんでか、おぼえていないし、おもいだせないの……」

 

 曖昧に答える少女。

 

「そんなことより、お腹減らない?」

 

 さらにはおもむろに話を変えられてしまい、萃香はさらに追及すべく口を開こうとするが、

 

 ——くぅ。

 

 と、鬼のお腹が可愛らしい音をたてた。

 先ほどからずっと、焼き魚の匂いに胃が刺激されていたからであろう。体は正直なもので、一度意識してしまうと食欲を抑えられそうにはなかった。

 

「うわっ!? なんだってこんなときに……」

「あげるー、はい」

 

 手渡された焼き魚は美味そうな湯気を立て、香ばしいにおいが萃香の鼻を撫でる。ここ数日、何も食っていない彼女からすればこれを我慢することは最早拷問にも等しい。

 少女には色々とはぐらかされてしまった気もするが、己の食欲には勝てなかった。

 

「っうぅ~、もうっ!! 知るかっ!! 知るもんかっ!! ふんだっ!!」

 

 萃香は少女の手から魚を奪い取るようにして、そのまま口いっぱいに頬張った。起きてからというものの、不可思議なことの連続で萃香は半ばやけくそになっていたのかもしれない。香ばしく焼けた川魚の皮はパリッと簡単に破れ、脂がのった身からは噛むたびに肉汁が溢れ出す。塩が少々振られていたらしい。口に広がる川魚独特のうまみに、萃香は生きていることを実感した。

 食べだすともう止まらなかった。口の中に次々と魚を放り込んでは、咀嚼し、飲み込み、水を含んでは再び魚の焼き串を手に取る。

 

「よほどお腹へってたんだね。たくさんあるから、いっぱい食べて」

「んぐ、あむっ……ますます変な奴だね。お前、名前は?」

「実は名前も、わかんないの。気づいたら、この森の中にいて」

「じゃあ、私にかけたあの高そうな羽織りは? 随分と派手な装飾だけど、まさかその辺の代物じゃないだろう?」

「それは気づいたとき、すぐ近くに落ちてた」

 

 ますますこの少女が何者か分からなくなってきた。

 口いっぱいに頬張った魚を咀嚼しながら萃香は溜息をつき、もうそれ以上考えることを止めた。この少女のことを知ろうとしても無駄だという結論に至ったのである。

 

「萃香おねえちゃんこそ、どうしてあんな大けがしていたの?」

「そ、それは……」

 

 萃香の頭の中で、自らに痛手を負わせた胡散臭い笑みが印象的な人物が思い浮かんだ。どんなに劣勢に追い込んだとしても常に微笑を絶やさない、底が知れない。近くにいるだけで不気味、心を一方的に見つめられているような謎の不快感を与えてくるあの女のことを。

 燻っていた怒りが再び燃え上がりそうになる。

 

「…………」

「ああ、だれかにやられちゃったんだね……」

 

 どうやら顔に出ていたらしく、少女は何かを察した様子で苦笑しながら『うんうん』と頷いた。

 訳知り顔の少女に鬼は顔をしかめつつ、『ほっといておくれ』と突っぱね気味に言う。

 しかしそんな言葉を気にした様子もなく、少女は萃香の手の上にそっと、自分の手を重ねた。

 萃香はギョッとした表情を浮かべる。鬼である自分の手を握ろうなど、少女の行動はどう考えても命知らずもいいところである。

 そして、少女の手の感触に驚いていた。

 

 人間の手は、こうも柔らかく温かいものだったのか。

 

「こんどわたしがあったら、ちゅういしとくねっ!」

 

 萃香は少女の声に、はっとさせられる。

 同時に、肩の力が抜けた。

 

「いや、お前はアイツのことを知らないだろう……」

「ああっ、そうだった!?」

 

 半ば、茫然としていたこともあって怒りは徐々に怒りがしぼんでいく。少女の近くにいると、なぜだか心が落ち着くのだ。

 まるで彼女の優しさや、慈しみが伝わってきているかのように。

 

「なあ」

「なあに?」

「ずっとお前は一人だったのかい?」

「そうだよ」

 

 先程の突然の変貌もあって警戒をしていたが、少女は問いに答えた。

 予想はしていたが、やはり一人であったか。そう心の中で納得しながらも萃香は続けて問う。

 

「寂しいとか、思わないの?」

「ううん、おもわないよ。たまに近くの人里へあそびに行っているから」

「お前、人里の子じゃないのか?」

「えへへ、すごいでしょ」

 

 そういえばこんな暗い夜に、人間の子供が一人でここにいるのだから『それもそうか』とまた納得しつつ、やはり違和感と謎が絶えなかった。

 先程の変貌をはじめとして、少女の口から紡がれた話は一体何だったのか? そして、この少女は一体何者なのか? 

 とはいえ、今問い詰めたところで意味がないことも確かである。

 当の本人が自身のことをよく分かっていないのだから。

 

「まったく……あきれたよ、お前には」

「あれれ」

「(……殺す気も失せちまった)」

 

 なんとなしに少女の顔を見る。目が合えば少女はへにゃりと暢気に笑った。

 肩にかかる程度に切り揃えられた艶のある黒髪、目鼻立ちの整った人形のような少女。色々と抜けているところもあるが、将来きっと美しく成長することだろう。

 

「(いや待て、なに考えてるんだ、私……? あぁ~もう、変な奴だな。どうにも調子が狂っちまう)」

 

 ただしこの少女、どう考えても“変な奴”である。

 萃香は自分でも自覚しているぐらいだが鬼の中では捻くれた性格をしていると思っている。そんな自分ですら邪気を抜かれるくらいなのだから、ひょっとすると少女は『周囲の者を脱力させる程度の能力』でも持っているのかもしれない。

 

「(こんな人間、今まで会ったことがないよ)」

 

 それもそのはず。萃香を前にした人間は大抵、生きて帰ってこない。なぜなら皆、萃香の首を狙わんと挑み、敗れていったからである。

 そんな萃香は初めこそ少女を殺すべきか迷っていたが、一度殺さぬと決めた以上、手出しするつもりはなかった。自分の命を助けてもらったことにも恩を感じないほど落ちぶれてもいないし、単純に少女に興味をもったことも事実だったからである。

 

「(人間にもこんな奴がいるとはな……)」

「?」

 

 再び目を向けると少女は首を傾げる。

 鬼は人を攫い、人間に勝負を仕掛ける。それに対して人間は勇気をもってして鬼に挑み、敗れあるいは打ち勝つ。この関係こそが人と鬼との関係であると萃香を含めた鬼たちは考えていた。

 

 萃香はもともと、人間を特別嫌っていたわけではない。むしろ好ましく思っていたくらいだった。しかし、今は好きというわけでもなかった。昔、昔は人と鬼が奇妙な関係で繋がっていたが、萃香も他の鬼と同様に、嘘をつくようになった人間を好ましいとは思えなかった。

 

 だが目の前にいる少女はどうか。

 そこそこ長い年月によって磨かれた萃香の目をもってしても、少女に偽りは見えなかった。ただし、記憶か何かを失っているのかもしれないが。

 結論付けるのも早いかと最後の一匹を口の中に頬張ったところで、少女が言う。

 

「ご飯を食べたら今日はもう寝なよ、おねえちゃん」

「ああ、そうだね」

 

 そうやって頷き、萃香が魚を残らず食べ終わり一息ついた頃、日はとっぷり暮れて空には星々がきらめいていた。

 

「(なんというか、久しぶりだね。こんな気持ちになるのはさ……)」

 

 食欲を満たして満足げに大の字になれば、視界いっぱいにひろがる満天の星々。その中の天の川を隔てて輝く二つの星をぼんやりと見つめながら、

 

「(鬼と人か……も、もしもだけど——)」

 

 萃香はある一つの可能性に思いをはせた。自分でも馬鹿らしいとも思えるような理想。

 

「(いやいや、本当に何考えてるんだ私)」

 

 そうして、羞恥に頬が熱くなりしばらく悶えていたのは彼女だけの秘密である。

 

 

 一夜が過ぎ、翌日の早朝。

 

「なあ」

「おはよう!! って、どうしたの?」

 

 萃香は見佇まいを直すと、少女に声を掛ける。

 

「私はもう行くよ。ここにずっといるわけにはいかないからね」

 

 彼女には、自分に深手を負わせたある妖怪を探し出すという目的があった。それだけに少女のところにずっと留まるわけにはいかなかった。

 

「そう……ちょっぴし、ざんねんだな……」

 

 しかし少女の残念そうな声色に萃香の心は揺れた。

 

「えっと……、ありがとう。アンタのおかげで、命拾いしたよ」

「うん……」

 

 すっかり消沈してしまった様子の少女。もしも尻尾や耳がついていたら、さぞ残念そうに垂れ下がっていることだろう。

 そんな様子に耐えかねたのか、萃香は言った。

 

「……また、会いに来てもいいかい?」

「——え?」

「なんだ、えっと……た、助けてくれた恩も何も返せていないからさ。ほら、次会ったときに何か考えてくから……だから、そのぉ」

「えへへっ」

 

 少女は笑った。この少女は本当に笑顔がよく似合う。

 そう思ったのも束の間、萃香は急に胸がむず痒くなった。それは彼女にとっては理解不能で、されど不快ではない不思議な感覚であった。

 

「うん。またきて! 待ってるから」

「あ、ああ! また来るよ! きっと、いや必ずだ」

 

 萃香は手を振り、その場から立ち去る。

 このとき、いくらか彼女の頬が赤くなっていたのだが、ここには誰も咎める者がいない。しばらくは頬が赤いままであった。

 しかし、

 

「(さあて、これからどうしようかね。……まあ、まずはあの女を見つけるか)」

 

 萃香の頭に浮かんだのは、己に傷を負わせたとある女の顔。

 途端に萃香の表情は険しくなっていく。先程まで薄れていた復讐心が再燃してきたのだ。

 あの余裕の笑みを崩してやりたい。そして自らの力で屈服させたいと意気込みを新たにし、

 

「(必ず見つけ出してやる)」

 

 彼女は霧となってその場から去っていった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 萃香が少女と会合した丁度その頃。

 

「ねえ、幽々子……」

「なあに、紫?」

 

 私が呼べば、微笑みながらこちらに顔を向けてくれる幽々子。

 自然に私も頬が緩むが、今はなんとも複雑な気持ちになった。

 その理由は単純。

 

「そろそろ起き上がりたいのだけれど。私、実はこの後用事が——」

「だーめ」

 

 私は今、起き上がることができないのである。

 

「あ、あのぅ……ゆ、幽々子さん?」

「まぁ、友達との約束よりも優先することがあるのかしら? ひどいわ、紫」

 

 袖で目元を隠し、しくしくと嘘泣きをするような仕草を見せる幽々子は『口元が笑っているんだけど……』という私の指摘に『ばれちゃったかしら?』などと惚けている。

 このどさくさに紛れてもう一度起き上がろうとしたところ、

 

「紫ったら、だ~めって言っているでしょう?」

 

 今度は眉間を人差し指で押さえられてしまった。

 現在、私は幽々子の膝の上に頭を乗せたまま動けなくなっていた。起き上がろうとする度にやんわりと額に手を当てられ、強制的に膝枕をされ続けるのだ。

 なぜこのような事態になってしまったのか、それはここ、白玉楼を訪れたときまで遡る。

 

『ご機嫌よう、幽々子』

『あら、いらっしゃい。紫』

 

 そう、ここまではいつも通りだったのだ。

 幽々子が生前の記憶を失ってから、そして白玉楼が冥界の中に移ってからというもの、私は彼女のもとを頻繁に訪れた。当然幽々子が冥界の管理人としてやっていけているかを見に行くためではあったが、もう一つの理由として、彼女の死を操る程度の能力がどう影響を与えているか、経過を見守る必要があったからだ。

 

 当初、私と妖忌は幽々子を人外の存在にすることで彼女が自身の能力に耐えられるようにしようと計画していたのだが、彼女の心に正面から向き合わなかったがゆえに失敗した。その結果、彼女は記憶を失い亡霊になってしまったが幸いにして、幽々子は自身の力を制御できるようになっていた。

 

 ようやく心のつかえが一つ取れて安心できたものの、少しだけ、以前のような関係になれないのではないかと私は不安だった。

 なにせ今の幽々子は以前の記憶を失っている。私も、内心複雑な思いでいっぱいだったのだ。

 

 だが記憶を失っても、幽々子は幽々子のままだった。

 結論から先に言えば、諸々の不安は皆、杞憂に終わった。私たちはすぐに友人になり、今では前と変わりないくらいのやり取りができるようになっている。

 この胸の痛みは消えないが、今の彼女もまた幽々子であることにはまちがいない。

 

 さて、本題はこれからだ。

 亡霊となった幽々子は自らの名以外の生前の記憶を失ったわけだが、同時に変化も見られたのである。前よりも素直というか積極的で、より思ったままの行動をとるようになったのだ。

 確かに、私はあのとき彼女にもっと素直になったらどうだと告げた。私のその言葉が原因か、あるいは亡霊となって様々なしがらみから解放されたからかもしれない。しかし、ここまでとは予想外である。

 

 私が幽々子に挨拶をして縁側に座ろうとしたところ、両肩を引かれてそのまま仰向けにさせられ、『これは貞操の危機かしら?』などと考えていたら流れる動作で膝枕をされることに相成ったのだ。

 

 始めこそいつものことだ、彼女の気まぐれだろうと何も思わなかったものの、だんだんと時間が経つたびに違和感を覚え、『私、何かしたかしら……?』と聞くと『あらー、気づいていないのねー』という始末。

 本人には決して言えないが、下から見上げる彼女の目は少しだけ怖かった。

 いつも通りの柔和な笑みを浮かべているようで、目だけが笑っていなかった。

 

 そして、心当たりがない私はただ起き上がろうとしてはひたと押さえつけられるというようなことを何度も繰り返していた。

 

「ねえ、紫」

「なに?」

 

 突然、幽々子は私の頬に両手を当てて、お互いの吐息がかかるくらいまで顔を近づけくる。彼女の綺麗な瞳は、深い海を思わせるような青色だった。

 

「もっと自分を大切にしなきゃだめよ……」

 

 このときの彼女の顔がいつになく真剣で、私のことを本当に心配してくれているのだと分かった。同時に彼女がなぜこのような行動に至ったのかも。

 

 私が白玉楼に来る途中、ある鬼と殺し合ってきたことに気づいた彼女は私の身を心配してくれているのだろう。

 服が煤けてもいないのによく気づいたものだ。

 感心しながら、私は答えた。

 

「そうね。気を付けるわ。全く最近はそれほど襲われることもなくなってきたというのに、これだから鬼というやつは厄介なのよ。私みたいな妖怪は彼ら彼女らにとっては認めたくもない存在なのでしょうから」

 

 あの鬼は厄介だった。見た目は可愛らしいくせして、あの馬鹿げた力は一体何なのだろうか。私にはその暴力が及ばなかったものの、周囲の地形は大きく変わってしまった。

 まったく、もっと周りに配慮してほしいものだ。

 

「貴方が強いのは知っているけれど、本当に気を付けてね」

「分かっていますとも。私、争い事はあまり好まないから」

 

 ちなみに、これは嘘だ。

 

「嘘をつく悪いお口はここかしら? ねぇ紫?」

「いふぁい、いふぁいわ……」

 

 ばれた。

 頬をつねられながらつくづく思う。この友人は本当に勘が鋭い。

 

 ただ、内向的で大人しかった彼女が頬をつねってくるなんて、これまででは考えられなかったことだ。

 やっぱり、幽々子は変わったと思う。

 幽々子の注意に耳を傾けながらそんなことを考えていると、

 

「幽々子様、紫様。お茶の用意ができました。お召し上がりください」

 

 妖忌が茶と茶菓子を持って屋敷の奥から現れた。

 この態勢ではお茶も飲めない……。私は幽々子を睨んだが、視線を外された。

 おのれ幽々子。

 妖忌はそんな私たちのやり取りを見て、苦笑している。

 

 そういえば彼もまた、大きく変わった人物の一人だった。

 なんと人間の女性と結婚したのである。

 確かに、彼はなかなか男前で物腰も非常に柔らかだし、何より彼はまだまだ若く、少なくとも見た目は三十代。半人半霊の寿命というやつは分からないが結婚適齢期であることは確かである。むしろ少し遅いくらいだ。

 

 そんな妖忌は幽々子が亡霊になってから三年経って、突如結婚すると知らせてきた。その報告には私も幽々子も驚いたものだ。彼曰く、冥界に移った白玉楼に相手を連れてくるわけにはいかないので、人里に住んでもらっているらしい。だから月に二度、三度だが妖忌は白玉楼を離れて人里に降り、結婚相手の元へ赴いている。

 あの妖忌が幽々子のもとを離れるなど、これも幽々子の変化と同様に考えられないほどのことだ。一体何が彼を変えたのか。

 私が以前に尋ねたとき、しばらく考えた後、彼はこう答えた。

 

『幽々子様は変わられました。ならば、私もまた変わらなければならないと考えた次第でございます』

 

 含みのある回答であったが、深くは聞かないことにした。きっと彼なりの考えがあるのだろう。

 お茶を傍に置いた妖忌に私は尋ねた。

 

「ありがとう、妖忌。ところで貴方、奥様とは仲睦まじくやってるかしら?」

「はい。私には過ぎたる妻ではございますが」

「もう、紫ったらそんなこと聞いたりして……あ、お茶菓子のお代わり頂戴」

「——幽々子様、もっと味わってください……それと紫様の分まで食べないでください」

 

 出されてからほんの僅かの間に、私の分を含めて茶菓子が全て消えていた。幽々子、おそるべし。

 そうやってぼんやりと幽々子の膝の上で時を過ごしていたら、不意に彼女が私の髪を束ねる紅い紐に触れ、しげしげと見つめていることに気づいた。

 別に触れること自体は構わないのだが、一体どうしたのだろうか。

 幽々子は言う。

 

「ねえ紫、ずっと気になっていたんだけど貴方の髪や首にあるその紅い紐は何か特別なものなの?」

 

 彼女の質問にどう答えるべきか、迷った。

 

「そうねぇ、答えるのは簡単だけど、難しいわ」

「それってどっちなのかしら」

 

 両方なのである。すこしややこしい話ではあるのだが……。

 仕方あるまい。ありのままを話そう。

 

「これはね、母の形見なのよ」

「お母様の?」

「そうよ。綺麗でしょう? きっと、幽々子が見たこともないような生地でできているわ」

「ええ、確かに綺麗だけど見たことがない生地でできている……一体何でできているのかしら……?」

 

 私もそれが気になり、調べたことがある。

 形見として私がもらっていった、この髪を束ねる紅い紐。それは不思議な生地でできており、どこにも同じ素材が使われたものが存在しなかった。そもそも今の技術力からは考えられないほどに上質なのだ。これほど繊細で丈夫な繊維は作れるはずがない。

 

「実は、分からないのよ」

「ええ? 紫にも分からないの?」

「そうなのよ。まるで別の世界で作られたみたいなの」

「ふふっ、流石にそれはないでしょう。紫ったらもう」

「ほう、それは興味深いですな」

「ちょ、割と真剣なのよ!」

 

 幽々子がころころと笑った挙句、妖忌まで面白そうに眉を上げている。

 どうやら二人はあまり信じてくれていないようだ。しかし、それは仕方のないことかもしれない。私だって馬鹿げたことを言っていると思うのだから。

 色々と私の考察を幽々子に聞かせてみせたが、反応は以下の通り。

 

「ふ~ん」

「ちょ、ちょっと幽々子……ちゃんと聞いてるの?」

「聞いてる聞いてる」

 

「へ~」

「貴女、絶対真面目に聞いてないわよね!?」

「そんなことないわよ~」

 

 向こうから聞いてきたというのに……。

 私はさめざめと涙を流した。

 

 母の形見の話もほどほどにして、その後は普段通りの世間話に興じ、私たちは静かなひと時を過ごした。ただし、私はずっと拘束されたままであったけれども。

 ま、まあ、たまには悪くない。

 誰かと一緒に時を過ごし、笑い合い、ときにはからかいあう。それはとても幸せなことなのだ。

 幽々子が、空っぽだった私に教えてくれた大切なこと。

 

 ——良かったね、ゆかり。

 

 心の中で誰かがそう語り掛けてきたような気がした。その人物が何者か、それを知ったのはずっと後のことだった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 夕刻に私は白玉楼を発ち、一時的に活動の拠点としている山奥の小屋に戻った。

 

「ただいま……」

 

 私の声が誰もいない小屋に響く。

 さっきまで賑やかなところにいた所為か、もの悲しい気持ちになる。ならばなぜこのような場所に拠点を置いたのかというと、この辺りを調査したときに“祝福されし子”を知る妖怪の目撃情報があったからである。

 信頼性の点でいえばあまり高くはないが、何としてでもその正体を暴く必要があった。

 

 しかし理由はそれだけではない。

 人里から離れていないと力もないのに人間たちが私を討伐せんといきり立ってくるし、だからと言ってあまり山奥に行き過ぎると妖怪達の襲撃を受けて面倒である。このあたりの山々は距離が程よく静かで居心地がいいのだ。

 

「はあ、なんか疲れちゃったわ……」

 

 誰もいない部屋でひとりごちる。そうすれば、この寂しさが紛れてくれるような気がした。

 緩慢な動きで髪を束ねている紅い紐を一つ一つ外していくと、私の長い髪が降りた。随分、伸びたものだと思う。ひょっとしたら腰の辺りまで届くのではないだろうか。

 

 手櫛をかけながら最後の一つに手をかけてところで、突然母の記憶が蘇ってきた。

 珍しいことではないが、今回はより鮮明でそして母の感情が強く伝わってくる。

 

 ***

 

 私が寝入ったことを確認すると母は少し夜風に当たろうと縁側に出て、空を見上げた。空には雲がなく、月がぷかりと浮かんでいる。

 

『こんなにも小さいのに、こんなにも遠いのに、どうしてこうも惹かれるのかしら? 不思議ね』

 

 母は苦笑し、そのまましばらく月を見つめた。

 

 ***

 

 この記憶にあるのは月。そう、あの空に浮かんでいる月だ。

 母はなぜ、月を見上げたのだろう。まるで離れた地にいる誰かに会いたいと焦がれるような感情が伝わってきた。

 何かが月にはあるのかもしれない。そう私が思ったのは必然。

 

「(月に一体何があるのかしら……?)」

 

 私はじっと母の形見を見つめた。今日、幽々子に聞かれたこともあって、改めて母が謎だらけだと感じる。

 

 そうだ、私は母のことを何も知らない。

 

 この紅い紐はまるで別の世界で作られたみたいだった。

 

 それだけではなく、

 

 私が読んでいたあの本はなんだ? 

 

 母と歌ったあの歌は何だ? 

 

 考え出すと止まらない。

 不可解なことが多すぎる。

 まさか、私はまだ何か勘違いをしているのではないだろうか。

 私は本当に、母の魂を取り込んだだけなのか? 

 ふと、突拍子もない仮説が頭をよぎった。

 

 かつて高度に発展した文明が存在しており、それが何らかの原因で滅んだ。その生き残りが月に移り、母だけが取り残されたのだとすれば。

 まずい。()()()が合い過ぎる。

 

「はあ……」

 

 思わずため息が出た。さすがに疲労が激しいようだ。

 私は敷いた寝床の上に体を横にした。力が急速に緩み、思考がどんどん浅く、意識が朦朧としてくる。

 もうだめだ。これ以上考えても無駄だ。寝よう。

 私はそのまま意識を手放した。

 

 

 

 ******

 

 

 

 半年後、私はあの鬼と再び遭遇することになる。

 しかしそのときの私にとってそれは知る由もないことだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鬼の章:博く世を見守るべし

 意気揚々とした出発をした私だったが、あの女はなかなか見つからなかった。

 そもそも私は密と疎を操る程度の能力を使って自らの分身をばらまき、広い範囲を探すことができる。だからあの胡散臭い奴のことだ。きっと目立つだろうから、痕跡を辿るのは容易いと思っていた。

 

 しかし辺り一帯、奴の隠れていると思われるところを隈なく探しても、その痕跡がまったく見つからない。どうやら一筋縄でいかないようで、一週間、二週間と時間が経つたびに焦りと怒りが募ってくる。

 そろそろ限界だった。

 

「ああ~、もうっ!」

 

 とりあえずもうむしゃくしゃしたので地面に拳を突き刺した。どこかに発散しないと気が済まなかったんだ。

 拳が地面にめり込み、轟音と共に地面が陥没する。

 ちょっとだけやり過ぎたかもしれない。

 急に大きな音がしたものだから鳥が驚いて飛び立っていく。『やっちまったなぁ』なんて思いながらも飛び立つ鳥をぼんやりと見つめていると、丁度その方向から走って来る人影が。

 

 うん、見知った奴だ。最近出会った人間の少女、なんだが……。

 なにあれ、めっちゃ速い。奴は本当に人間か? 

 

「す~いかおね~ちゃ~んっ!」

 

 大声で私の名前を叫びながら走ってくる。

 なんか恥ずかしいね。

 いやまてまて。

 

「んぁ!? え、このまま!? のわっ!?」

 

 気づいた時にはもう遅い。

 そのまま飛びかかってきたと思えば、私の腰に抱き着いてきた。なかなか勢いがあったのと飛びかかりを予期していなかったこともあって、後ろに倒れこんでしまい軽く後頭部を打った。

 痛い。

 これは痛い。

 あれだ。羞恥と共にくるやつだ。

 こんな小さな娘っ子に飛びかかってこられて尻もちを着いたなんて、きっと仲間に見られていたら笑われるに違いない。『鬼の頭領角ともあろう者が』とか絶対からかわれる。

 

「く、くぅう……こんのぉ、急に飛びかかってくる奴がいるかいっ! っていうか今日で何度目さ! アンタまさか私をずっと追ってきてるんじゃないだろうね!?」

「えへへっ! まさか~」

 

 私が叱りつけても反省する様子がない。それどころか満面の笑みで私のお腹辺りに顔を摺り寄せてくる始末だ。こちらが先ほどまで苛々していたのも馬鹿らしくなってきてしまった。

 まったく。コイツがいるとどうにも調子が崩れちまう。

 

「駄目だ……アンタにはかなわないよ」

「うーん?」

「いや、何でもない」

 

 会うたびにこれだ。というのも私はこの数日間コイツに何度も会っている。

 まさか別れてその日にすぐまた会うことになるなんて思わなんだ。

 

『あ、さっきぶりだねっ!』

 

 なんて言いながら私の頭上から現れたときには思わず全力でぶっ飛ばしてしまうところだった。聞くところによれば木の実を集めるのに木々の間を飛び移りながら移動していたらしい。本当にこの娘は人間なのか? 

 と、それからもことあるごとに、

 

『また会ったね!』

『きょうは会うことが多いね!』

『おはよう。あさから会うなんてびっくりだねっ!』

『ねえ、うんめいってしんじる?』

『なんかわたし、ちょっとこわくなってきたよ……』

『……萃香おねえちゃんって、じつはわたしのことつけてるの?』

 

 最後の方のやつは流石に看過できず、軽く額を指で弾いてやった。『あ゛うっ!?』って呻き、その後数時間ほど泡を吹きながら気絶していたが気にしない。この娘には制裁も時には必要だ。じゃないとどんどん調子に乗ると、この数日で嫌っていうほど学んだんだ。

 私は覆いかぶさってきているこの娘っ子の腰辺りを両手でひょいと抱えて、そのまま体を起こした。

 すると、

 

「まだ、見つからないの?」

 

 親とはぐれた子犬みたいに不安そうな顔で聞いてくる。まるで自分のことといった風な問いに私は苦笑した。いつもいつも付きまとってくるものだから面倒くさい印象が強いが、やはりこいつはかなりのお人好しだ。じゃなければ人間のコイツが妖怪の私をこうやって心配してくるはずがない。

 

「ああ、そうだね。なかなか見つからないんだ。本当に厄介な奴だよ。痕跡一つのこっていやしない」

「どこか、ちがうところに行っちゃったんじゃない? とおいところとか」

「そうかもね……っていつまで上に乗っかっているつもりだい。ちょっと、どきな。邪魔で仕方ない」

 

 身長があまり変わらないため膝に乗られると邪魔で仕方ないとこの前言ったはずだが、どうやら聞いてなかったようだ。

 

「いや、いごこちがよくて。なんていうか、おおきさ? みたいな」

「……あ゛?」

「あっ!? いや、そういうのじゃなくてね! べ、べつに萃香おねえちゃんがちいちゃいとかじゃなくてねっ!! そうっ!! ちょうどいいの!!」

「……こんのぉ」

「あうっ!?」

 

 私が小さいと申すか。いい度胸だね。

 額を軽く小突けば後方へ軽く吹っ飛んでいった。どうだい、いい薬になっただろう。

 

「い、いたい。これ、他の人にやっちゃだめなやつだよぉ」

「いや、アンタ意外にやるわけがないだろう?」

「そんなぁっ!? なんでわたしだけ?」

 

 こいつの体はひどく頑丈だ。普通の人間に同じことをやれば頭蓋骨が砕かれて死ぬ。こんな娘っ子が一人で森の中に生きていられる時点で何かしらの理由があるとは思っていたが、どうやら強力な神通力を持っているらしい。

 

 食糧なんかは時折人里で手に入れたり、川で魚を取って食べたり、木の実を採集したり。冬なんかはどうしているのかと聞いてみたところ、そのときだけ人里の空き小屋に身を置かせてもらっているようだ。

 人間は一年を過ごすだけでもこれほどまでに難儀をしているのかと私は改めて思う。それでもこの娘が異常なのは変わらないが、それ以上の詮索はやめた。考えても無駄だとこの数日でよく分かったからだ。

 それにしても——。

 

「それにしても、アンタ。どうしたっていうのさ? なんか急いでいるようにも見えたけど」

 

 これまで、コイツは私を見つけても飛びかかってくるようなことはなかった。それだけに、急な用事でもあるのかと思ってしまうのもまた当然だった。

 

「あっ」

 

 やっぱり。思った通りだ。

 きっと今の今まで忘れていたんだろうよ、まったく……。

 

「ほら、何かあるんだろ? 話してみな」

「う、うん……いやね、さいきん天狗が山をよくおりているのを見かけるようになったんだよ。ちょうどさっきも天狗がたくさんあつまって山の方へ飛んでいったのを見たの」

「ほぉう……それはまた、急だねぇ」

 

 興味深い。

 山に戻ってからあまり天狗を見かけなかったが、コイツの言ったことと何か関係しているのだろうか。

 

 もともとこの辺りの山々は天狗の縄張りだったが私たち鬼にとって変わられている。それ以来、奴らは私たちに対して下出に出ることが多くなった。しかしそれは表面上の話。

 天狗の中の一部の者達は鬼の支配に対して反対している。力で負けた奴らがみっともないことだが密かに徒党を組んで力を蓄えているらしい。

 

 詳しいことは知ろうとも思わなかった。

 なにせ私達は誇り高き鬼だ。向こうから仕掛けてくるなら嬉々としてそれを迎え撃つだけだからね。

 

 とはいえ、こんなことはこれまでなかったはず。最近になって天狗の頭領である天魔の首が挿げ替えられてからというもの、少しずつおかしくなっていった気がする。

 影で何かこそこそとしているのではないだろうか。

 一度、締めてやったほうがいいかもしれない。そのついでにあの女の居場所でも探させるか。

 

「なんか萃香おねえちゃん、悪い顔してるよ?」

「ふ~ん、そうかい?」

「うん、鬼みたいな顔してる」

「そうかい…………え?」

 

 真剣な顔つきで、見逃せないことをのたまいやがる。

 おかげで反応するのが一瞬遅れた。

 

「…………私、鬼だからね? 大事なことだからもう一度言うけど私は鬼だからね?」

 

 失礼な奴だ。私はれっきとした鬼だというのに。

 とりあえずもう一回額を指で弾いてやろうと思った。

 しかしすんでのところで避けられる。コイツめ、ちょっとずつ学んでやがる。ちくしょう。

 それはともかく。

 続きを話すよう促せば『それでね』と、

 

「わたしが今日来たのはね、しばらく会えなくなりそうだからなの。むずかしい顔をした里の人たちがわたしに話があるんだって言ってきてね」

「えっ?」

 

 またもや聞き逃せないことを言っている。

 コイツがなぜ里の人間に呼ばれる必要があるのか。私はまったく分からなかった。天狗どもが動いていることと、なんの関係があるのだろうか。

 

「わたしがいないからって無茶なことしちゃだめだからねっ!」

 

 そうして、いつもと変わりなく笑う。

 

「どういうことだい……? なんだって急に——」

 

 私にとってコイツとの時間はかけがえのないものになっていた。鬱陶しく思うことはあってもこの娘の前では穏やかな気持ちになれた。素面の自分でいることができた。

 それはきっと山にいる他の仲間たちに見せる自分とも違う。

 くだらないことで笑ったり、驚いたり、怒ったり。私にとってそれが何よりも新鮮でかつ、居心地のいいものだった。

 

 本当のことを言えば、私の知らない場所に行ってしまうのは何としてでも引き留めたかった。しかし、

 

「(いんや、まてよ)」

 

 そこで思いとどまる。

 彼女を私はもっと信じてやってもいいんじゃないだろうか。

 コイツは嘘をつかないと。

 

「ああ、そうだな。アンタのことだ。また、ひょっこり現れるんだろう?」

「……えへへ」

 

 だからこそ、私はコイツを止めたりはしなかった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 母の月に関する記憶を見てから、私はすぐに計画を立てた。それはひとまず件の妖怪探しを中断し、月に潜入して母の記憶の謎を解き明かすというものだ。ここのところ件の妖怪探しの進捗が悪かったのもあって、優先順位を切り替えることにした。

 そしてここ数週間に渡って都に潜伏して古い文献を調べると、興味深いものがあった。

 

 その名も、竹取物語。

 

 月から来た使者たちが、かぐや姫とかいう人物を連れていくために老爺が手配した護衛の者達を容赦なく殲滅したという。

 どうやら月の民は地上に住む生命を不浄の者達と呼んでいるらしい。生まれながらにして穢れを持っていて寿命があるからだとか色々と好き勝手なことだが、敵意を持っているのは確かなようだ。

 

 しかし幸いなことに文献から月への移動手段は大体見当がついた。

 私の能力を使って湖に映った月から彼らの住む月へと移動すればよいのだ。

 彼らは彼らが住む月全体を虚構とする結界を張っている。そのため通常の手段ではたとえ月へたどり着くことはできてもそこには何もない。

 そこで、湖に映った月を利用する。

 湖に移った月もまた実在しない。ゆえに映った像と彼らの住む月を実と虚の境界を操作して繋げば、いとも簡単に結界を超えられるはずなのだ。

 

 ただし、移動した後が問題である。

 月に移り住んだ者達は恐らく私のような存在を歓迎しないだろう。

 彼らに気づかれぬことなく行動をするためには何らかの隠れ蓑が必要となる。それをいかに準備するかが問題だ。

 

 この解決するために今、手を回しているのが私の拠点が位置する山の隣に住む妖怪達である。最近勢力を増し、血気盛んなようだ。これらを月へと攻め入るように上手く誘導できれば、これ以上ないほど有能な隠れ蓑になる。こちらは実はもう手を回しており、その成果が徐々に出てきているのだが最後にもう一手足りない。

 要するに、数が圧倒的に足りないのだ。月に誘導する妖怪達の規模が大きくなければ、隠れ蓑の役目を果たす間もなく月の兵士達に皆殺しにされてしまうだろう。

 

 “山”というそこそこ大きな社会構造そのものに詳しくない私では、彼らを扇動するには少々情報不足であるとも言える。

 誰か協力者が必要だ。幽々子でもなく、妖忌でもない誰か別の協力者が。

 

 焦っても仕方ないのでゆっくりと計画を進めながらも、忙しい毎日を送っていたある日。

 私は何日ぶりに帰ってきた拠点で深い深い眠りについた。

 

 妖怪の身になった今でも思うことなのだが、睡眠とは至福の時間である。

 

 私の力は強大な分、消耗が激しい。特に人間の都に潜入するのには最大の注意を払ったので帰ってきた頃には疲れ切っていたのだ。不本意にも忌み嫌われ日々命を狙われ続ける私にとって、精神と身体に癒しを与えてくれるのは白玉楼での一時か、睡眠くらいのものである。

 ゆえに一人きりで好きなだけ睡眠を享受できるこの拠点を、私は大変重宝している。

 

 私の睡眠の話についてはこれくらいでよそう。

 眠りについてからどれほどの時が経ったのか。

 深い眠りについていた私は急な物音で目を覚ました。

 

『!?』

『あれ、迷った?』

 

 若い女の声が外からする。初めは悪意ある者の襲撃が頭をよぎったが、その線は薄いとすぐに判断した。周囲に認識阻害の結界を張ってあるからである。

 月の研究をする中で考案したものだが、なかなか性能がいい。

 

 まず、この拠点に辿り着くには無意識の中で結界をすり抜けるしかない。

 特定の目的をもっている者の意識は阻害され、結界の存在すら認識することもできず拠点が存在する区域にまで到達できないのだ。

 つまり、私を襲うという目的をもった状態で、この拠点を見つけることはできないということになる。

 もしも運よく辿り着くことができたとしても一目では見つけられないように周囲の景色に擬態もさせている。ここまでやればそう簡単には私の居場所を特定することはできないだろう。

 

 しかし、まさかここまでしたにも関わらず辿り着く者が現れるとは思わなかった。どうしたものか。認識阻害の結界をすり抜けたということは、少なくとも私への悪意はないということになるが……。

 

 このまま素直に出てもいいけれど、私の姿を見ればかなりの確率で相手は警戒するだろう。最悪敵対されて戦闘に発展することも十分にありうる。私としては、やはりこのまま気づかれずにやり過ごしたい。

 面倒は何としてでも避けるべきだ。

 

『ん~やっぱり、この辺りにはいらっしゃらないのかなぁ』

 

 このまま立ち去ってもらえると助かる。できればもう少し寝ていたい。そして、彼女が去った後、二度と迷い込んでもここに来れないように術をさらに強化しておくことを心に留めた。

 それにしても、何かを忘れているような気がする。とても重要な何かを。

 ………………あ。

 

『あれ、なんでこんなところに小屋が?』

 

 やってしまった。

 第二の対策、周囲の景色への擬態は戸が閉まっていない限り発動しないのだ。なぜ戸に鍵をかけなかったのか。それは多分眠すぎて意識がすっ飛んでいたからだろう。私は内心で舌打ちをした。

 弛み過ぎだ、私は——。

 

『鍵開いてますね……入ってもいいってことなのかな? ……お、お邪魔しま~す……』

 

 そうこうしている内に中に入られてしまった。というかなぜ鍵が開いていれば入っていいことになるのだろうか。

 いやいや、まてまてそれどころではない。

 このままではこの拠点を失ってしまうことになってしまう。どうにか策をめぐらせようと考えたが、寝惚けた今の私は何時ものように頭が働くこともなく、ただオロオロとするばかりであった。

 

『あれ? すみません、人がいる……とは……思いません、でし……た?』

 

 やはり、間に合わなかったみたいだ。

 侵入者は私の姿を目で捉えるとともに顔を青くする。まったくこれだから嫌なのだ。皆、私を視界に捉えればその顔をする。

 こればかりは何時になっても慣れない。

 

『うわあぁぁっ!? ごめんなさいごめんなさい食べないでください命だけはお助けぇぇぇ!?』

『はあ……』

 

 ため息をついた私にびくっと肩を震わせる侵入者。

 背中には黒い翼があり、耳は少し尖っている。その目は真紅、そして乱れた黒い着物の裾から覗く、白い肌がよく映えていた。

 

 鴉天狗、か。

 

 まだ若い。齢は精々、二、三百年といったところだろう。

 立ち上がって近づくと、『ひぇぇ』と言いながら尻餅をついている彼女。敵対どころか恐れられてしまったようだ。まあ、寝起きで殺し合いをするよりかはいくらかましなのだが。

 そこで私は一つの希望を見出した。このまま恐怖を植え付けて帰ってもらうことはできないだろうか、と。

 

『鴉天狗、すぐにここを立ち去りなさい。今なら無事に返してあげる』

 

 できるだけ威圧感を込めて鴉天狗に向けて言った。大抵の者はこれだけで尻尾を巻いて逃げていくだろう。

 私の経験上、間違いない。

 そう考えていたのだが……。

 

『うぇ? ……あり、ありがとうございます!』

 

 私の予想に反して、鴉天狗は元気な声で返事をしてきた。それも『ありがとうございます』などとのたまうのだ。どうにも調子が狂う相手である。

 

『あ……!?』

 

 突然、何かに気づいたらしい鴉天狗の顔色は青ざめていった。

 何やらぶつぶつと独り言をつぶやき、『あああぁ、しまったぁぁ』などと言ってがっくりとうなだれ、勢いよくこちらを向く。それはさながら質の悪い悪霊に憑依された人間のよう。

 髪の毛で目元が隠れていたこともあってなお質が悪かった。

 

 ちなみに、彼女のあまりの剣幕にちょっとだけびっくりしたのは内緒である。

 

『だ、駄目なんですよ! もう私どこにも頼るところがなくてですね!?』

『は?』

 

 何だ、この天狗は。

 少なくともここで食い下がってくるような奴は今までいなかった。というかさっきまであれだけ怖がっていたのにどういう風の吹き回しなのだろうか。

 何を考えているのかさっぱり分からなかった。

 

『貴方ねぇ、そんなに怖がっているのにどういうことかしら? 足元だって覚束ないじゃない』

『こ、これはその……ちがうんですっ!! いや、そうじゃなくてっ!! な、何をされても構いませんっ!』

『ちょっと——』

『本当にもう、頼るところがないのですっ! お願いしますっ!』

 

 こちらの話を聞かない上に答えも容量を得ないもので謎が深まる。私に向かって勢いよく土下座をする鴉天狗は額を床に擦り付けんばかりだ。

 

『何でもしますからしばらくここに私を置いてもらえないでしょうか!? ……あ、でも命だけはどうか——!?』

 

 なぜ私は無断で家の中に入って来るような輩を家に迎え入れなくてはならないのだろうか。冗談は寝てから言ってほしい。

 直接的な敵意を感じなかったので手荒い真似はしなかったが、そろそろ殺してやった方が良いのではないかという考えが頭をよぎる。

 

『……』

『ひっ!? ほ、本当ですよ!? この身を捧げる所存です!!』

 

 その身を捧げられても困るのだが。なんだか、ささくれ立っていた気がそがれた。

 先ほどの私の殺気に焦った鴉天狗は、血迷ったことまで言い出す始末。面倒くさいなと思いつつももう一度深いため息をつき、私は少し真面目にこの鴉天狗のことについて考え始めた。

 よくよく考えてみると、天狗がこんなところにいること自体がおかしい。

 彼らは高度な社会を形成しており、縄張りの外に出ることはあまりない。それは鬼が山を支配するようになってからも変わっていなかったはずだ。

 すると消去法的にこの天狗は里から追われた訳ありの者、といったところだろうか。

 

『追われている者を置いておくことはできないわ。悪いけど他を当たって頂戴』

『えっ、なぜそれをっ!?』

 

 こちらの予想は図星であったらしい。鴉天狗は顔を上げて驚いて見せた。

 そしてすぐさま彼女の表情が変わる。一瞬のことでいまいち分かりづらかったものの、その様は別人のように見えた。

 それはともかく、追放された者をかくまって天狗達に目を付けられる事態は避けたい。計画に支障をきたしてしまう。

 

『一目見れば何となく分かるわ。さあ、早く出て行ってくれないかしら? 私、眠いの』

 

 最後に少し不愉快そうな声色で凄みをきかせた。流石にこれ以上付きまとってくることはないだろう。

 ……そう思っていた頃が私にもあった。

 

『な、なおさらです! 逃がしませんよぉ!』

『え……?』

 

 逆にやる気にさせてしまったようだ。目がぎらぎらと血走っている。そんな彼女には尋常ならぬ必死さが窺い知れた。

 

『捕まえましたっ!!』

『ひっ!?』

 

 鴉天狗の両手が私の腰に回される。引き剥がそうと手で彼女の顔を押しのけるが、かなりの力がかかっているためなかなか剥がせない。

 こちらも相応の力をかけているはずなのだが尋常ならない執念というやつか、びくともしないのだ。

 

『ちょ、離しなさいっ!』

『貴方がいいとおっしゃるまで離しませんっ!!』

 

 頭がおかしいのではないだろうか。いくら私が殺す気がないとはいえ、抱き着いて家に置いてもらえるように懇願するなど自殺行為に等しい。

 それともまさか、私に殺意がないことを見抜いたとでも言うのか?

 いいや、それでも十分に狂気の沙汰である。力の差など分かり切っているというのに。

 

『あ……いい香り……』

 

 などと考えていたら、この鴉天狗は私の腰に顔を押し付け、寝ぼけたことをのたまっている。彼女の表情を窺い知ることはできない。しかしだらしない顔をしているということは分かった。

 

『離しなさいってば』

『うぇへへ、いやですぅ』

 

 完全に舐められている。

 まったく。こちらが手を出さないことをいいことに!

 何だか無性に腹が立って来た。私は込み上げてくる怒りを何とか抑えながらも冷静な声で語り掛けた。

 

『分かった、分かったわ……すぐさま追い出したりはしないから、ひとまず落ち着きましょう。ね?』

『え……? 本当ですか!?』

『ええ、だから少し離れましょう? でないと貴方のお話を聞いてあげられないわ』

 

 私を怒らせた罰だ。無駄な殺生は嫌いだし、部屋が汚れるから殺しはしないが、痛い目には会ってもらおう。

 

『こ、こんな感じですか?』

『……そうそう、丁度その辺りに立って……ええ、いいわ』

『良かったぁ、ようやく帰る家ができま——って、うぇぇ!? 何これぇっ!? いやぁぁぁぁ!?』

 

 不意打ちで足元にスキマを展開させ、そのままどこか遠くに飛ばしてやった。空を飛ぶ暇も与えてやらない。完璧に不意打ちは成功した。

 彼女の悲鳴がどんどん小さくなって完全に消えたのを確認し、

 

『ああ、眠い……』

 

 私は布団にぽすりと倒れこんだ。

 一仕事を終えてすっきりした、なんて言わない。

 まったく、寝起きだというのに疲れてしまったではないか。しかしまさか自分を忌避しない者が現れたというのに、それを自分から追い出しに行くことになるとは思わなかった。幽々子や妖忌に出会う前であれば違ったのだろうか。

 いや、そうでないと思いたい。

 

 ともかく、あの厚かましい鴉天狗を家の中から排除できて良かったと言える。このような事態がこれ以降ないとは限らないため、起きたらさっそく認識阻害の結界の効力を再検討すべきだろう。あのようなことが二度あっては身がもたない。

 そこで、私は再び眠りについた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 と、ここまで私のそんな回想じみたことを話したところ、

 

「ふふ、それは災難だったわねぇ」

 

 笑われてしまった。全く不服である。頬を膨らませた私を指でつつきながら、幽々子は私の肩に頭を乗せて微笑んだ。

 

「ふふ、でも眠いからって戸締りを忘れるなんてどじねぇ。紫らしいわ」

「い、いつもはしっかりしていますわ!」

 

 確かに今回の元凶は私が戸締りをしなかったことにある。次からはもっと気を引き締めていかなければならないだろう。

 

「しかし困ったものね。もっと遠くへ飛ばしてやっても良かったかもしれない」

「うふふ。その鴉天狗さんはどこへ行ってしまったんでしょうね」

「さあ、今頃自分の知らない地で強く生きているのではないかしら?」

「案外、帰ってきたら家の前で貴方を待っていたりして——」

「それはないわぁ。なにせ少なくとも国一つ分は離れたところよ? 私みたいな力を持っていない限り難しいわ……って、幽々子。なんで信じていなさそうな顔をしているのよ?」

「別にぃ~」

 

 あまり不吉なことを言わないでほしい。私にとってあの拠点がなくなるのは流石に困る。あそこは立地がいい上に静かなため結構気に入っているのだ。

 

「そういえば今日妖忌はいないの?」

「ええ、人里が最近妖怪に襲われることが多いらしくて。心配そうだったから彼に行ってきなさいと言ったの」

 

 妖怪達の活動が活発になっていることは知っていた。しかし実のところ、人里の勢力が弱まっているのことも原因の一つである。最近、周囲の国が戦を繰り返しているため里の守りに十分な人員を割り当てられないのだ。妖忌の心配も当然と言える。

 それにしても、幽々子は一人で大丈夫なのだろうか。余り彼女が身の回りのことができるとは思えない。特に料理など、もっての他ではないだろうか? 

 

「ゆかりぃ?」

 

 そんなことを考えていたら幽々子に押し倒された。馬乗りになった幽々子は、私の頬を引っ張る。

 

「私だって料理くらいできるわよ? それにこの館には他の幽霊たちがいるし」

「に、にゃるほど」

 

 ふと、幽々子は何かを思いついたように私の頬を引っ張るのをやめた。

 

「ねえ、紫。紫が会ったその鴉天狗から何か山の様子を聞けないかしら? いくら貴方でも全体を把握できるわけではないのだし。きっとその娘は妖怪達の住処の山についても詳しいのでしょう?」

「あ、ああ。そうね。でもできればもう会いたくないわ。主に私の精神衛生的に」

 

 性格的に彼女とは合わない気がする。

 これはあくまで直感だが。

 

「自分を怖がったり襲ってきたりしてこない妖怪に出会えたのに。もったいないわ。せっかくだからもっとお話ししてみれば良かったじゃない? そのときは焦ってとんちんかんなことを言っただけかもしれないのに」

 

 たしかに、今思えば目がぐるぐると回っていたし混乱していたようにも見えなくもなかった。

 でも。

 

「ぐいぐいくるのは苦手なのよ。何というか、怖いし」

「そんなんだから何時まで経ってもお話しできる人が増えないのよ? こういうのはね、ちょっとした勇気なの。貴方だってよく分かっているはずでしょう。それにちゃんと話を聞いてあげなくちゃかわいそうだわ」

 

 もっともなのだがどうにも出会い方が悪かったのよ……。

 

「ま、前向きに検討しておきますわ……」

「もう、紫ったら」

 

 そんなことを言いながら苦笑する幽々子。

 その後、私にのしかかるのをやめてほしいと幽々子に言ったが、受け入れてもらえなかった。

 どうしてだ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 白玉楼でひとときを過ごした私。

 特に用があったわけでもないので、幽々子に解放されてから再び拠点に戻った。ただ愚痴を幽々子に聞いてもらいたかっただけだったのに、諭されてしまったのは不服だが仕方あるまい。

 スキマを開いて小屋の前に辿り着くと、辺りの様子がおかしいことに気づいた。

 よくよく気配を察すると拠点の小屋の前あたりに、何者かがうずくまっているのが見える。

 

 これは、まさか。

 私の背に冷や汗が伝っていく。

 なぜだ、遠くへ飛ばしてやったはずなのに! 

 たった半日にしてここまで帰ってきたというのか。

 幽々子め、あんなことを言うから……。

 

「あ、す、すみません! ずっとお帰りを待ってましたっ!! ってうわぁぁぁっ!?」

 

 開幕早々、私は光線を放った。しかし相手は速さに定評のある鴉天狗。紙一重で避けられた。殺す気でやれば良かったのだが、なぜだが殺す気にはなれなかった。

 せめて気を失わせてからどこかもっと遠くへ放り投げておこうと思ったものの、どうやら無駄なようである。

 

「っち……」

「あ、今舌打ちしましたね!? こちらのお話を聞いてくださいよ!? 私は決して怪しい者ではなくてですね!?」

「あら、勝手にひとの家に上がり込んできたり、留守の間、家の前で待機しているのは怪しい者でないのかしら?」

「えと、それは私も気が動転していたというか……、す、すみませんっ!? どうかしていましたっ!!」

 

 そう言って見事な土下座をする鴉天狗の少女。

 このまま弁明を聞かなくてもいいのだが、さすがに気が引けた。気になることがあったし、幽々子に話を一度聞いてみて欲しいと言われたことも理由の一つである。

 こうして面と向かって話すのは得意でないが、あまりこういうことは長引かせるものでもないだろう。

 私は大きく息を吸った。

 

「はあ……、分かったわ。私も悪かった……ひとまずは話を聞いてあげる」

「す、すみませんっ!! じゃなくてっ!? あ、ありがとうございます!」

 

 酷く慌てた様子の鴉天狗を改めて見ると、彼女はなかなか美しい容貌の持ち主であった。黒い髪を肩に少しかかるぐらいまで伸ばし、活発そうな印象を与えつつも端正な顔立ちである。

 白い茜の花の刺繍が施された黒い着物に赤い山伏風の帽子、そして腰には葉団扇。着装そのものは目立たないが、並みよりも上等な生地でできていることが分かる。

 もしかすると高貴な一族の者なのかもしれない。

 

「先ほどはお休みのところ、無礼なことをしてしまいました。申し訳ありません。しかしそれほどまでに追い詰められてしまったのです。どうかお話を聞いていただけないでしょうか?」

 

 少し落ち着いた声色になった彼女はこれまでの雰囲気とは異なっていた。

 私が彼女に持った違和感。それは彼女が時折、別人のように様子が変わるというものだった。

 ひょっとすると、彼女は何らかの目的を持ってここに来ているのかもしれない。

 そんなことを考えていると、天狗は再び口を開く。

 

「私は()()()茜。このような身なりですが、天狗の里では有力な一族の者です」

 

 私は息を呑んだ。『射命丸』は天狗の中でも名家と呼ばれている。それは天狗の頭領たる『天魔』を襲名する人材を多く輩出してきたからだ。しかし最近は勢力を落とし、敵対する家に潰されてしまったと聞く。

 

「貴方が言われましたように、私は里から追われる身。そして私以外の一族の者は皆処刑されました。しかし、それは射命丸家と敵対する家の陰謀によるものなのです。その者達は天狗の里の中でも鷹派と呼ばれる集団で、天狗の山における権力の復活を企んでいます

 鬼による山の統治に不満を持つ彼らは近いうちに大きな動きを見せることでしょう。そうなれば山の妖怪はおろか、人里までも巻き込んだ大戦争になりかねません。彼らの野望を察知した今代の天魔様を含めた我が射命丸家は、対抗措置をとる前に言いがかりをつけられ処刑、排除されました」

 

 元より天狗の里の動向を探っていたため、その辺りはよく知っている。頭領たる天魔までもが処刑されるという極めて異例な事態。老人から女子供まで一族郎党処刑されたこの事件には天狗という種族の厳しさを思い知らされた。強い個が力を持っていたとしても郡が固まって動けば滅ぼされるのだ。

 しかし生き残りがいたことに私は驚きが隠せなかった。天狗ほどの閉鎖した社会で里を抜け出すということはそれだけでも命がけの行為である。

 

「私以外にその真実を知る者はいない。だから私は何としても鷹派を天狗の里から一掃しなくてはならないのです。この命に代えても」

「なるほど。しかし貴方ほどの力があるのならここ以外にいくらでも頼れるところがあったでしょう?」

「いいえ、鬼の皆様に頼ることは射命丸であってもできません。それどころか、きっと『やれるものならやってみろ』、『かかってこい』と、言われてしまわれるに違いありません。これでは被害は免れないのです。

 そこで私は山で密かに協力者を募っていたのですが鷹派が刺客を放ったことが大きな原因となっておりまして、あまりその結果は芳しくなく……。ようやっとの思いでここに辿り着いたというわけです」

 

 彼女がなぜここまで執着していたのかが分かった。私以外に頼るものがいないとは、そういうことだったのだ。

 そうか。

 ずっと、ずっと()()()()()()()

 

「貴方様の名を初めて耳にしたときは恐ろしいという印象を受けましたが、実際にお会いしたときに確信したのです。貴方様が、噂に聞くような方でないことを。鷹派を一掃した暁にはこちらから可能な限りのお礼を致します。ですから——、

 どうか、お力をお貸しいただけないでしょうか? 境界の大妖怪、八雲紫様」

 

 こんなことがあるだろうか。幽々子の言ったとおり、話は聞いてみるものだ。私は朝した自分の行いを反省した。

 それにしてもこれは、

 これは想像以上の収穫だ。

 まさかこんなところで計画に必要な駒がそろうとは思わなかった。

 それに信じられないことだが、私と彼女の目的は一致している。

 鷹派を焚きつけて月に攻め込ませ、そのまま一掃してしまえばいい。私としても妖怪、人間双方の勢力を掻き回す鷹派の存在は邪魔でならないのだから。

 初め彼女はただ頭がおかしい奴なのかと思っていたがなかなかどうして。

 

「……ふふふ、とんだ食わせ物だったわね。貴方」

「数々の非礼、お許しください。しかし——」

「いいわ。協力してあげる」

「それは!?」

 

 こちら側からすればむしろ願ってもないこと。断る理由などなかった。

 

「ただし私の存在は控えなさい。鷹派にこちらの動きを察知されないためにも」

 

 今はまだ彼女自身が頼りない。この状況で大きな動きを見せれば勢力をひっくり返す前に彼女が殺される。ひとまずは彼女を保護し、力をつけさせる必要があるだろう。

 

「はい、心得ました。ご協力感謝します」

 

 そう言って射命丸は頭を深く下げた。

 すると途端に彼女の張りつめた雰囲気が弛緩する。彼女は先程までの気の抜けた様子に戻り、その場にへたりと座り込んでしまった。

 

「よ、よかったぁ……断られていたらどうしていたか……」

 

 聞こえないとでも思っていたのだろうか、小声で呟いた射命丸。不安でいっぱいだったからこそ、思わず漏れ出てしまったのかもしれない。

 わずかに聞こえた彼女の本音を聞かなかったことにしてもよかったのだが、ついつい、いたずらごころが働いてしまった。

 

「そっちが素なのね?」

「あ!? す、すみません。どうにも慣れないんですよ。ご無礼なことは承知の上なのですが」

 

 聞いてみればあっけらかんと答える。突けばもう少し慌てるかと思ったのだが。

 いっそ清々しいものだった。

 

「まあ、いい。しばらくここにいることを許すわ。色々と、知りたいことがあるし」

「ありがとうございます。そして、これからよろしくお願いします。八雲紫様」

「ふふふ、そうねぇ。早速で悪いけど、まず貴方は何ができるか教えてくれないかしら? 時間が惜しいわ」

「いいですよ! ええと、まずは——」

 

 楽しそうな彼女を無視して言葉を挟む。

 

「いいえ、別に何も話さなくていいわ」

「え?」

「これからじっくりと見てあげるから」

 

 私はスキマを開いて射命丸と二人きりの空間に移動した。ここなら多少荒っぽくしても大丈夫だろう。なに、この空間の中であれば時間はある。

 それはもうたっぷりと。

 

「ま、まさか……」

「ええ、そのまさかよ」

 

 いちいち聞くなんて面倒くさいことはしない。実際に体感してみることが一番早い。百聞は一見に如かず、である。私は彼女の周囲に無数の弾幕を発生させた。

 まずは、ほんの小手調べといこう。

 

「お、お手柔らかにお願いしま~す…………」

 

 射命丸茜の顔は真っ青になり、肩はがくぶると震えている。しかしこの程度で恐れをなすようではこの先、生き残れない。

 そう、彼女の試練は始まったばかりなのだから。

 

 

 

 ******

 

 

 

 人里から離れた真新しい神社には人だかりができていた。その数は里にこんなに人がいたのかと驚くほどである。どうやら近隣の里からも来ている様子。

 なぜこれほどまでに人が集まったのかと言うと、近年若い男衆が戦に引き抜かれ、守り手が不足しているため妖怪達による人里への被害が深刻化しており、その打開策が発表されると里長から通達が来たからであった。

 国の領主は今回の打開策を認可し、里長に一任している。それ故に里の人々は期待を寄せていたが気になる噂もあり、素直に喜べないでいた。

 

「なあ、聞いているか?」

「ああ、何でも新しい巫女様なんだってな。なんの神様を祀っているのかは知らんが」

「信じられるけえ? その巫女様ってのは、十になるかならないかぐらいの娘っ子なんだってよ」

「そんな娘っ子に里を任せられるものかっ! そもそも里を襲いにくる妖怪の数は十や二十ではないんだぞ! この里もいよいよ終わりか……」

「いいや、そんな年で選ばれるってことはそれだけの力があるってことじゃないか?」

「そんなわけが……いや、それもあるかも知れねえな……」

 

 様々な憶測が周囲から飛び交っている中、ひと際立派な服を着ている里長が神社の中から現れた。それに伴い人々の話し声が静まり、注意が里長へと集まる。

 

「皆の衆、よく聞かれよ!」

 

 老いた身でありながらもよく通る声で話す里長は威厳に満ち溢れていた。

 

「我らの里は妖怪達によって多大な被害を被った。戦によって若い男手が減り、まともな警備もままならないからだ。しかし! 

 夜に怯え、外に出ることが憚れるような生活は、最早終わった! これからは新たな巫女様が、我らをお守りくださるのだ!」

 

 再び、ざわざわと辺りが騒がしくなる。新しい巫女に関する噂が本当であるかどうか、人々は神社の本殿の奥に目が釘付けになっていた。

 里長はそんな人々の反応を気にすることなく、言葉を続ける。

 

「巫女様は未だに幼くあらせられるが、その神通力をもってして妖怪達を追い払ってくださるだろう!」

『おおっ!?』

 

 民衆の中で、どよめきが上がった。神通力とはごくまれに人間が持つと言われる不思議な力で、それを持つ者は人間にとって非常に頼もしい戦力であると共に希望の象徴であったのだ。しかし神通力を持つ者はその希少性から都に行ってしまうことが多く、今まで里に呼ぶことすらかなわなかった。

 まして領主が今回の決定を認可しているとだけあって、人々の期待は最高潮まで達した。

 

「それでは巫女様から挨拶をしていただこう。見よ! この方が我らの里をお守りくださる巫女様であらせられる!!」

『おおおぉ!!!』

 

 緊張と期待に満ちた境内。しばしの間を置いて現れたのは——。

 ふと、とたとたと小さな足音が近づいてくる。

 

「へぅっ!?」

 

 何かが前のめりになって、すっ転んだ。

 それはなれない巫女服に身を包み、焦って走ったせいか。

『痛ったぁ……』と頭を抑えて悶絶している白衣(しらぎぬ)緋袴(ひばかま)という伝統的な巫女装束に身を包んだ少女。

 

「え、ええっとぉ……よ、よろしくお願いします……?」

 

 大衆の前で羞恥をさらしたことに対して、涙目でふるふると震えながら起き上がったのは萃香を助けたあの少女であった。辺りが一層ざわつく中、一人の若者が少女を指さして叫ぶ。

 

「あ、あの娘っ子、知っているぞ!?」

 

 それを皮切りに、次々に声が響く。

 

「本当だ。この前うちの畑を荒らした妖怪を追い払ってくれた娘だ!」

「知っているのか?」

「それはもう、頼もしい限りよ! 見た目はあんなんだが、実力は保証できるぜ!」

「なるほど! それならばならあるいは……!」

 

 少女がよく通う里の人々である。時折少女が妖怪達を撃退している姿を見ているため、彼らは少女が巫女になることに一定の理解を示した。

 彼らの声もあり、少女をよく知らない者達までもが一縷の希望を見出す。そうして者たちが一定数いたことで、ぎりぎりのところで体裁は保たれた。

 しかし少女が里の守り人となることを疑問視する者も少なくなく、決して皆が喜べたものではなかった。少女はきっと多くの人々からその実力を問われ続けるだろう。

 望もうが、望むまいが。

 

 

 かくして、新たな巫女が生まれた。

 

 ——その者、麗らかなりて博く世を見守るべし。

 

 その名は博麗の巫女。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鬼の章:激突

 スキマの中のだだっ広い空間。

 私の前では一人の鴉天狗の少女が肩で息をしながらぐったりしている。器用にも空中に浮いている状態で体を横にしながら、

 

「紫さ~ん、ちょっと待ってくださいよぉ……。もうだめです。私、ここで干物になっちゃいますぅ」

「だらしないわね。それでも天狗なの? 根性を見せなさいよ、根性」

「根性……いや、だってあれを全部避けろとか正気を疑いますよ!?」

 

 私の前で啖呵を切ってみせたときのような凛々しい面影はどこへ行ったのやら。ああいう態度の方が私としては接しやすいからうれしいのだが、どうにもそうはいかないらしい。これからが少し不安である。

 そして何時から親しくなったのか、射命丸茜は私のことを『紫さん』と呼ぶようになった。

 認めたくはないが……いや、本当に認めたくはないのだが内心ちょっぴり嬉しかったのは内緒だ。

 

 さて、茜の実力の程を測ってみた感想である。

 まずは体力面に難があるといったところだろうか。たった数刻の間、逃げ道のない程度に弾幕を放っただけだというのにもう音を上げている。実戦ともあればこれ以上のことなどいくらでもあるわけで、不安要素は拭えない。これから彼女にクーデターを起こしてもらえるようにするまでは、実戦経験がまだまだ足りないため修練が必要不可欠であろう。

 

「さて、もう十分に休憩したでしょう? 次行くわよ」

「もう、飛ぶ気力もないです! 紫さんの鬼!」

「……アレらと同じにされるなんて、大変不本意だわ。貴方、それ相応の覚悟で言っているのよね? 具体的には命の一つや二つを賭けるぐらいの」

「ひっ!?」

 

 茜の実力把握。ついで彼女の能力を把握することが目的であったわけだがそれほど時間はかからなかった。実力差がはっきりしている以上、あちら側は全力を出さざるを得ないからである。

 彼女が乗り越えられるギリギリのところで調整された弾幕は茜が少しでも気を抜くことを許さない。一度着弾したら最後、よろめく間に数の暴力によって一気に墜落することだろう。

 実際、茜はこれまでに三度、墜落した。

 

「や、やだなぁ。紫さんったら冗談がお上手で……」

「ふふっ——」

「い、意味ありげな笑みをやめてください!?」

 

 話を戻そう。

 彼女の能力、それは「風を読む程度の能力」である。周囲の風の微妙な変化から視覚外の攻撃の位置を把握することができ、風の歪みを突くことで突風を起こすことができる。特に感知能力に優れているようで私の結界ですら見破るほど。恐らくそれが私の隠れ家を発見できた要因であると見ても良いだろう。

 鍛え方によってはそれなり以上のものになるはずである。

 課題となる体力のなさを克服できればいいのだが、どうしたものか。

 

「少しはこれから天狗の頭領になるだけの気概を見せてみなさい。鷹派は今こうしている間にも大戦の準備をしているのよ」

「……はい。分かっています。そう、ですよね。ここで弱音を吐いている場合ではありませんでした。私がやらなくては」

 

 しかし、芯はしっかりと持っているようである。それが救いと言ったところか。

 彼女を十分に鍛え上げるまではしばらく時間はかかるだろうが、この空間の中であれば問題ない。ここでは外界に比べて時間がゆっくりと流れているのだ。

 さすがに、ずっとスキマの中にいるということはないと思うが、それでも一日の大半をここで過ごすことになるだろう。もしも彼女が倒れてしまいそうになったときは無理やりにでも妖力を流し込んで立ち上がらせればいい。

 だから時間については十分にあると言ってもいいのだが、彼女を奮起させるためにもあえて時間がないということにした。

 

「よく言ったわ。ならば自分の力の限界を超えてみせなさい。射命丸茜」

 

 むこうしばらくは彼女に付き合うとして、外界の情報も絶えず確認が必要である。展開させている自立型の式神と、私が天狗組織に入り込ませた内通者からの情報によると、山の四天王、伊吹萃香が最近苛々としているようだ。

 なんでも私を探しているのだとか。

 どうやらあの一撃ではくたばらなかったらしい。運の強いことだと思うが、まったく迷惑な話だ。憂さ晴らしに天狗の里を刺激しないでほしいのだが、万が一その時は私が出ざるを得まい。

 彼女の目的が私なのならば、時間稼ぎぐらいにはなるだろう。

 もしも鬼の進行を止められなければこちらが手を打つ前に状況が混乱してしまう。それだけは何としても避けなくては。

 

「行きますよ。紫さん!」

 

 茜の宣言を聞き、私はそこで思考を打ち切った。

 茜は短く息を吐いて翼を広げる。

 私は彼女に向かって再び弾幕の嵐を発生させた。勿論直撃すればそのまま墜落する。茜の体中が痣だらけ、血だらけなのはつまりそういうことである。

 

「ははっ……何度見ても絶望しかないですよね」

 

 自身を覆う無数の弾幕に対して、茜は乾いた笑みを浮かべた。しかし、言葉とは裏腹に彼女の顔には強い意志が宿っている。

 いい表情だ。

 

「——でもまあ、絶望なんてもう慣れましたけどねっ!」

 

 彼女はその黒い翼を力強くはためかせ、突風を起こした。

 すぐさま自らが生み出す風に乗り、急加速して弾幕を掻い潜っていく姿はなかなかに圧巻であった。視覚外からの迫りくる弾幕や、私の放った光線をすんでのところで回避し、同時に私に向かって接近する。

 

 茜は近づけば近づくほどに高密度になる妖力弾に対して、体を自在に捻ることで回避を可能にしていた。これも彼女の成長の一端であろう。以前は自らが包囲される恐怖に負けて距離を取っていたが、今では物怖じせずに弾幕に飛び込めるようになったのだ。

 弾幕を掻い潜り、私のすぐ傍まで辿り着いた茜は、

 

「ふんっ」

 

 腰に差した小刀を抜き、真っ直ぐに振り下ろした。

 それなりに鋭い斬撃が私を襲うがこの程度、妖忌に比べれば大したものではない。私は扇子の一振りで弾いた。

 しかし、

 

「せっ!」

 

 もう一方の手に持っていた葉団扇による突風。こちらの視界を悪くする上に動きを制限する。一度体勢を崩した私に向かっていつの間にか葉団扇を小刀に持ち替えた茜が二刀をもって襲い掛かってきた。

 なるほど私に対して手数と速さで対抗すれば茜は“接近戦”において優位に立てる。

 なかなかいい手だ。

 息をつかせない連撃に扇子一つで捌く私は次第に押され始めた——。

 

 とは言ったものの、

 

「惜しいけれど、それでは届かないわ」

 

 接近戦なら私に勝てると思っているのならば、それは誤りである。

 

「え!?」

 

 茜の二刀による斬撃は私の体をすり抜けた。

 動揺を隠せない茜の額に扇子の先を向け、光線を放つ。

 至近距離で放たれた光線は茜の額を打ち抜き、そのまま全身を焼き尽くした。ぼろぼろに焼け焦げた肉体は塵となって崩れ、スキマの奥へと消えていく。

 

 ふむ。

 どうやら、()()()()()()

 

「し、死ぬかと思いました……」

 

 木の葉による身代わり。天狗独自の妖術まで使いこなすのだからこの程度では死にはしない。茜は私から距離をとって息を整えていた。

 不測の事態にも柔軟に対応して見せたところは評価に値する。とはいえ、できれば動揺を見せて欲しくはなかったのだが。

 

「まあ、距離を一瞬で詰めようというその発想自体は良かったわよ。二割くらい」

「全然だめじゃないですか!? 私の決死の特攻が二割とか、心が折れそうなんですけどっ!?」

 

 彼女と話しているとなぜか嗜虐心がくすぐられてしまう。何となく普段幽々子が私をからかう理由が分かった気がする。逆に自分がどれだけ彼女に無様を晒しているのかを理解し一日羞恥に悶えたが。

 

 それはともかくとして、彼女のような気性の者と接するときは常に冷静に余裕を持って接する必要があるのだ。少しでも隙を見せると茜はすぐに調子に乗るから。

 こうして、また私は一つ学ぶことができた。

 

「(あら?)」

 

 そしてふと、私は自分の変化に驚いた。

 

「(私、この天狗と自然に話している。どうして今まで気づかなかったのかしら?)」

 

 初めは好きになれなかった茜のことを受け入れてしまっている自分がいた。

 今の私の顔はにやけてしまっているのだろうか。頬に手を触れてみても、自分が今どんな顔をしているのかなんて分かりはしない。

 

「(変ね……)」

 

 本当に、不思議な娘である。幽々子とは違う意味で。

 

「紫さん。どうしたんですか?」

「いえ、何でもないわ…………今日はこれぐらいにしましょうか?」

 

 そろそろ休ませてやってもいいだろう、と私は茜に提案をしてみた。

 別に心配になったからではない。

 べ、別にちょっとだけ心配になったからではない。

 断じてない——。

 

「やっほぅ!」

 

 私の一言に拳を突き上げて喜ぶ鴉の姿。

 まだそんな元気があったのか、と私はこの残念鴉を半目で睨んだ。本当に、色々台無しである。

 

「ちょ、そんな睨まなくたっていいじゃないですかっ。私、体感ですけど丸二日くらいここにいた気がするんですよ? そろそろきつくなってきなぁって……」

「はあ……、仕方ないわね」

「紫さん、大好きですっ!」

「ええい、調子に乗るなっ!」

「へぶっ!?」

 

 嬉々として腰に巻き付いてくる茜が鬱陶しい。やっぱり彼女のことは苦手だな、と思いつつも私達は隠れ家に戻るのであった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 アイツはあれっきり、すっかり姿を見せなくなった。

 それが不安でもあったが一度信じた以上、アイツを探すことはできなかった。

 

「はあ……」

 

 らしくもないことだが、ため息が出てしまう。アイツには最近会えていないし、あの胡散臭い妖怪は見つからないしで最近苛々することが多かったからかもしれない。

 そもそも私はじっとしたり、物事を待ったりするのが苦手なんだ。

 

「萃香、どうしたんだい? らしくもないねぇ」

 

 勇儀が私の頭の上に盃を乗せながら問うてくる。コイツは背が私よりも高いため、よくこうやって盃を乗せてくるんだ。『おお、こりゃあ高さが丁度いいねぇ』とか言って。

 そのたびに私はコイツを殴り飛ばしているのだが、けらけらと笑いながら受け止めやがる。体の頑丈さでいえば私以上だな、コイツはきっと。

 

「勇儀。いいかげん私の頭の上に盃を乗せるのはやめておくれよ。またこの前みたいにぶっ飛ばすよ?」

「おおっ、いいねぇ。久しぶりに萃香と喧嘩ってのも悪くない」

 

 繰り返すが、私は今苛々しているんだ。勇儀のように飄々としていることもできなかった。乱暴に勇儀の盃を押しのけると、器用にも盃に入った酒を一滴もこぼさずにそのまま口に運ぶ。

 

「言っておくけど私は今、虫の居所が悪いんだよ」

「ぷはっ……へぇ、珍しい。そういえばアンタ最近素面でいることが多かったね。何かあったのかい? ……ああ、いや。そうか、なんとなく察したよ」

 

 目が一瞬鋭く光ったと思ったら、何か納得したらしい勇儀は着ている着物の袖をまくる。

 

「深くは聞かないことにするさ。そんじゃまあ、いっちょやりますかっ!」

 

 地面を軽く蹴る勇儀。立ち昇る砂埃は勇儀の妖力によって雲散する。コイツは生粋の怪力馬鹿だ。呪術の分野を除けば肉体的な力において私よりも勝る。

 だがそれがなんだ。

 こちらとしても、勇儀とやり合うのはまんざらでもない。そちらがやる気ならそれを拒む理由なんてないんだから。

 構え合う私と勇儀、張りつめた空気の中互いに地面を蹴ろうとした瞬間。

 

「やめなさい。馬鹿者ども」

「「アタッ!?」」

 

 私と勇儀、双方の頭に拳骨が降りてきた。

 

「貴方達がやり合うと、周りに迷惑がかかるの。分かってる?」

「「華扇……」」

 

 私や勇儀と同じく山の四天王の一角である茨木華扇。コイツはどうも苦手だ。鬼のくせに良識人なところが特に。

 私、勇儀、華扇、そしてもう一人を加えて山の四天王なんて呼ばれているが、大体、華扇が私たちのやることなすことの後始末を受け持っている。

 なんだかんだ面倒見がいいので頭が上がらない。しかし、今日はどうにも私は引っ込みがつかなかった。

 

「どいておくれ、華扇」

「いいえ、どかない。今日の貴方は変だわ。勇儀、貴方もわざと萃香を刺激しないの」

「へいへい、分かったよ……興が醒めたな。私はもう行くことにするさね」

「あ、ちょ、待て!」

 

 仕方がなさそうに、勇儀は手を振りながらその場を去っていった。

 残ったのは私と華扇の二人だけ。

 短く溜息をつくと華扇は私に問うた。

 

「萃香。貴方まさか最近姿を見せなかったのは例の人間と会っていたから?」

「…………」

 

 華扇は鋭い。私は否定することができなかった。

 例の妖怪を探すという名目でアイツに会おうとしていたのは確かなんだ。きっと最近の私の様子を見てコイツは心配してくれているんだろう。

 でもコイツに言われる筋合いはない。鬼はいつだって自由なんだから。

 そんな私の気持ちなんて露知らず、華扇は言った。

 

「鬼と人間は相いれないわ。それはもう十分知っているでしょう? 例え分かり合えたとしても別れは必ず訪れる。貴方が望もうが望むまいが」

 

 コイツの言っていることは確かにもっともだ。人と妖怪の時間は違う。人の一生なんて、妖怪からすればたったひと時に過ぎない。私達がながい欠伸をしている間に、人間はいつの間にか死んでいるもんだ。

 でも、それでも私は華扇の言ったことが許せなかった。

 私は華扇の胸倉を掴んで言ってやった。

 

「華扇、アンタには分からないだろうさ」

「それはなぜ?」

「アンタが誰かとの繋がりを持とうとしないからさ。そうやって引き籠っている内は何時まで経っても分からないだろうよ」

「……」

 

 華扇は私達以外の他人との関わり合いをいつも断っている。この山でコイツの顔を覚えているのは滅多にいないだろう。

 つまりコイツは人というものを知らない。

 

「萃香、私は——」

「黙ってくれ。もうお前の顔なんて見たくない」

 

 乱暴に手を離して、私はそのまま霧になってその場を発った。

 残された華扇。

 

「それでも、私は…………萃香、貴方が心配だわ。貴方はそう、純粋すぎる」

 

 だから、華扇がぽつりと呟いた独り言は私には届かなかったんだ。

 

 

 

 ******

 

 

 

 射命丸茜を鍛え始めてから早数カ月。

 紫の予想通り、茜は着々と実力をつけてきた。課題となっていた体力面も紫が与えた半年間の過酷な試練の中で克服しつつある。初めから紫は、茜が乗り越えられる試練しか与えていなかったのだが、その内容は大変厳しいものだった。

 しかし射命丸とは天魔を多く輩出してきた名門。その出である茜もまた名に恥じない潜在能力を持っている。ここ最近の目覚ましい成長はある意味当然と言ってよいことであった。ゆえに、鷹派掃討の計画はそう遠くないだろう。

 

「紫さん。私、最近強くなった気がします! これも紫さんのおかげですねっ!」

「それは重畳。でもまだまだよ。鬼と張り合えるようになってもらわなくてはならないのだから」

「紫さん……。私を一体どうする気ですか……!?」

 

 顔をひきつらせて戦慄する茜を紫は無視し、一日の終わりに盃をあおった。

 紫の隠れ家から見える満月。それは酒の肴に申し分ないほどによく輝いていた。この先、攻め入ろうとしている地である月は今日も変わらず空に浮かんでいる。

 紫がふっと息を吹きかけると、盃に残る酒に映る満月が揺らめいた。

 

「はわぁ~。紫さんは本当に何やってもお綺麗ですねぇ~」

「……貴方に言われても全然嬉しくないわ」

 

 さっと顔を背ける紫に『照屋さんなんですね……』と、茜は心の中で思った。

 しかし紫は時折覚り妖怪のように心を読むことがある。あまり変なことを考えていると後で何をされるか分からない。よって茜は話を切り替えてごまかすことにした。

 

「そういえば紫さんは月へ行くんですよね?」

 

 紫のジト目が怖くなったのか、すぐ傍まで身を寄せてきた茜は問う。何気に手に自分の盃を持っている辺り、紫から酒を貰おうという魂胆であろう。

 天狗の酒好きは茜にも当てはまっているのであった。

 

「ええ。そのつもりよ。そこで知りたいことがあるの」

 

 茜は紫から鷹派を月へ攻め込ませ、その機に乗じて里に残った幹部達を一網打尽にすると聞かされていた。勿論紫自身が月に赴くことも聞いており、少々疑問に思っていたのである。

 

「私が里を離れる直前なのですが、月に関する噂は既に流れていました。なんでも月の技術力は高度に発展しており、それを手に入れることができたならば天狗社会の大きな発展につながる、とか。しかし天狗ほど隔絶された社会でこのような噂が立つというのも、今思えば何かおかしいような気がします。もしかして、その噂を流したのは紫さんなのですか?」

「そうよ」

「一体どうやって……?」

 

 自分が天狗の里の性質をよく知っているがゆえに、なおさら紫が噂を流すことを成功させたことに茜は驚きを隠せない。

 

「貴方の里の鷹派を何人か、式にしているわ」

「ふんふんなるほど……、って……えぇぇっ!!? そ、それってまさか……」

「貴方が想像した通り。何人か殺して式にしてあるから私の手駒も同然よ。生前の記憶を引き継いで再現しているから、よほどのことがない限り気づくことはないでしょうね」

「う、うわぁぁ……」

 

 紫は何のこともないように話しているが、それは茜にとって信じられないようなことである。『この方を本気で怒らせたならば、簡単に里は滅びる』そう、心に刻んだ茜であった。

 

「しかし、そこまでして月へ行く理由とは何なのでしょうか  鷹派を月の民にぶつけて一掃させるというくらいなのですから、きっと彼らは非常に強いのでしょう。紫さんといえど、危険はあるはずです」

「……貴方は自分のことについて、どれほど知っている?」

「?」

 

 紫は徳利から盃に酒を満たしながら問うた。

 

「私は分からない。自分が何者なのか、どうして生まれたのか。その情報はどれもバラバラで必ずしも信頼できるものではないから」

 

 今まで幾度となく、紫は自らの出生について考察を重ねてきた。

 少しずつ蘇る母の記憶と、僅かに残された古い文献を頼りに一つ一つゆっくりと。

 それでも簡単には分からないことばかりであり、答えが出ないのが現状である。

 

「自分を知ろうとすることは生きることと同義だわ。それは生まれてから死ぬまで続くのよ」

「……」

 

 紫は質問にはっきりとは答えない。それを茜も認識していたが、紫の答えに十分満足していた。なるほど、確かに『私はまだ私を知らない』のだ。

 自分が何者かを問い続けるのは、ある意味思考する力を持った生命の宿命なのかもしれない。そしてそれこそが紫を月へと駆り立てる理由なのだろう。

 そう考えた茜は、口を開こうとした。

 

「紫さん……私は——」

 

 しかし、続きの言葉を紡ぐことはできなかった。

 突如として静かな紫の隠れ家が騒がしくなり、小さな数枚の式神が窓から部屋の中へ飛び込んできたからである。

 

「……そう。案外、早かったわね」

 

 紫は山に仕掛けた式から萃香の居場所を特定した。

 天魔の館へと向かう彼女を見つけることにそう時間はかからなかったのだ。

 

「やっぱり……」

「どうしたんですか?」

「……伊吹萃香が動いたわ。このままでは私たちが動き出す前に争いが始まってしまう」

「!?」

 

 彼女らにとって、妖怪山で天狗と鬼による争いが起きるのは都合が悪い。紫は月へと潜入する計画、茜は天狗の里の鷹派を一掃しかつ被害を最小限に抑えるため。両者の目的に、鬼の介入は厄介以外の何ものでもなかったのだ。

 

「茜、白玉楼で控えていなさい。私が出るわ」

「えっ、何言っているんですか!? 相手は萃香様なんですよ! 一人で止めに行くなんて無茶です!」

 

 茜は同じ山に住んでいることもあって萃香の力を痛いほどよく知っていた。

 小さな百鬼夜行。山の四天王。様々な呼び名を持つ萃香は鬼の中でも飛び切りの実力者である。ゆえに紫が一人で行くことに賛成できなかった。

 ましてこの半年間、己を鍛え上げ、かつ鷹派掃討の協力をしてくれた彼女を止めない理由などなかった。

 

「あらあら、私の心配までするなんて。随分と見くびられたものね」

 

 しかし紫はそれを意に介さない。

 永い時を生きてきた中で培ってきた自信が彼女をそうさせていたのである。すっくと立ちあがるなり右手に持った扇子をパチリと閉じ、白玉楼へと繋がるスキマを開く。

 紫色のドレスを翻しながら紫はもう一つ、萃香を待ち伏せるためにスキマを開いた。

 

「今の貴方では足手まといだわ。幽々子にはもう話は通してあるの。だから安心して待っていなさい」

「でもっ!」

「——思い上がるなよ、小娘」

 

 途端、呼吸の仕方を忘れるほどの圧迫感を覚えた。

 紫の一言で、茜は足が竦んでその場にヘたれこむことしかできなかった。

 

「足手まといと、そう言ったのよ」

 

 紫の剣幕に茜は最早何も言うことができない。それは、茜自身が一番よく分かっていたことなのだ。今の自分が向かったところで紫の足を引っ張る。それでも茜はこの半年間に渡って自分を鍛えてくれた紫の力になりたかった。

 

 なぜ、自分には力がないのか。

 俯く彼女は自らの着る着物の裾を強く掴んで悔しさに震えていた。

 茜は自分の力の無さを自覚している。それゆえに紫の言ったことに反論することができなかった。

 

「もう時間がないわ。後で話を聞いてあげるから。今は私の言うとおりにして頂戴」

「……はい」

 

 俯く茜を放ったまま、紫はスキマの中に入っていた。しかし横目で見えた茜の口元から流れる血を見逃すことはなかった。

 きっと唇を強く噛み過ぎて切れてしまったのだろう。紫はそんな茜の様子を見て少々意外に思っていた。

 

「あの娘も、こんな風に悔しがったりするものなのね。少し意外だわ」

 

 スキマの中でくすりと微笑む。帰ったら少しは慰めてやろうと心に留めておきつつも彼女は表情をすぐに戻し、萃香のもとへと向かうのであった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 一方萃香は霧となり、天魔の屋敷へと向かっていた。

 なぜ萃香が突如としてこのような行動をするに至ったのか。

 それは、天狗の最近の行動に対して不自然なものを感じたからである。最近になって天魔の首が挿げ替えられたり、山にいる他の妖怪を人間にけしかけたりとその動きに一貫性がない。

 そこで霧になって里に潜伏し、天魔をはじめとした天狗の里の幹部の動きを探ろうと考えたのである。

 萃香は鬼としての誇りを持っているが、やや疑り深い部分もある。それゆえ若干誠実さに欠けるため、鬼の中では異端児と称されることも少なくない。そんな彼女が天狗の動きに不信感を抱き、行動に出るのはおかしくないことであった。

 

「(おかしい。これ程近づいているのに、何の気配も感じない……)」

 

 ふと、萃香は周囲の空気が妙に静かなことに気づき、警戒した。普段通りなら天狗の一人や二人、見かけるはずなのだが今日は人影一つ見当たらない。知らぬ間に自分は何か別の空間に入り込んでしまったようである。注意深く辺りを見回すと、今まで山の景色だと思っていた視界が揺らぐ。

 その揺らぎが消えると広がったのは天狗の里からかけ離れた見知らぬ山の中であった。

 

「——ごきげんよう。小さな百鬼夜行さん」

 

 声の主に、萃香はすぐに気づいた。そして同時に自分がなぜこのような状況にいるのかを理解した。

 ずっとずっと探していた獲物である。

 体が歓喜に震えた。

 

「はっ! お前の方から現れてくれるとはね。天狗のところにでも行こうと思っていたけど、まあいい。手間が省けた」

「まあ、私をずっと探していましたのね。何だか嬉しいですわ」

「思ってもいないことをべらべらと。木っ端みじんにしてやるから覚悟しろよ」

 

 萃香としては以前のような失態を繰り返すつもりはない。今回は全力を持って目の前にいる不気味な存在を打ち砕く気でいた。

 

「つれないわね。どうして鬼というやつはまったくこちらの思うように動いてくれないのかしら——」

「その口を閉じろよ」

 

 紫の側にあった木々が吹き飛ぶ。

 太い幹に風穴が空き、すっかり風通しがよくなってしまっていた。

 

「うふふ……本当に、血の気の多いこと」

 

 萃香の威圧に対して、彼女は少し困ったようにくすりと微笑み、

 

「怖い怖い。でも貴方、そんなことを言っていると」

 

 扇子を閉じた瞬間、

 

「——首元がお留守になってしまうわよ」

 

 萃香の首は強く締め上げられていた。

 

「ちっ!」

 

 そのまま落とされそうになる直前。

 すぐに萃香は地面を蹴って体ごと捻り、その手を強引に振りほどく。回転の勢いを殺すことなくそのままスキマから伸びている紫の腕に踵を落としたが、すんでのところで躱された。

 

 不意打ちによってできた一瞬の隙。

 それを逃さない紫ではない。あらかじめ周囲に展開していた術式から、数えきれないほどの弾幕の嵐を発生させ、萃香を押しつぶそうとした。紫色の弾幕は幻想的であるが、一度それをくらえば無数の暴力によって蹂躙される。茜に放ったような力を加減したものではない。鬼を本気で殺す気で放った代物である。

 押し寄せる妖力の塊が萃香を包囲したが、

 

「————————!!」

 

 咆哮。

 たったそれだけで萃香は紫の弾幕を相殺した。それは酒呑童子と呼ばれた萃香にとってできて当然のこと。

 鬼の頭領角たる彼女に小細工は全く通用しない。まして数の暴力ですら個の暴力をもってして凌駕する。それこそが妖怪の頂点に君臨する者、鬼である。

 

 だが、紫の目的は初めから萃香に有効打撃を与えることではなかった。一つ一つの弾幕の威力を調整し、その数によって相手の視界を遮ることが真の目的であったのだ。

 

「う、しろかっ!」

 

 振り向きざまの萃香の腕による薙ぎ払いは空を切る。紫の気配は離れたところにいつの間にか移動していた。

 首元にひやりとした感覚を覚えた萃香は地面を強く蹴って後方へ大きく下がる。

 すると、

 

 ずるり、と音もなく大気に切れ目が走る。

 

 先ほどまで立っていた場所が何かによって切り裂かれ、両断された。あるいは空間が割れたとも言えるのかもしれない。

 あのまま逃げるのが少しでも遅れていれば、萃香の首は今頃宙を舞っていただろう。

『奴をねじ伏せるには一筋縄ではいかない』

 そう改めて痛感させられた萃香は砂埃が上がる中、今すぐにでも飛びかかろうとする自らの本能を抑えながら静かに紫の様子を窺っている。

 一方紫の方はと言うと、

 

「(困ったわね。なによ、さっきの。叫ぶだけで弾幕打ち消すとか意味わからないのだけど)」

 

 少しだけ焦っていた。止めを刺す気はなかったとは言え、伊吹萃香が自分の能力に対してここまで上手く対応して見せるとは思っていなかったのである。

 しかし、それを表に出すようなことはしない。紫の表情はこのときも微笑を湛えたままであり、それが相手に不気味さと得体の知れない不快感を与えている。

 

「お前は一体、何者だ?」

 

 不意に、萃香が砂煙の向こうからそう問いかけてきた。しかし紫からすれば素直に答えるつもりなど微塵もない。

 

「はて、私が貴方に名乗る義理などありますでしょうか?」

「質問に質問で返すなよ」

「ふふふ、本当にどうしてこれほどまでに可愛らしい見た目をしているのにぶっきらぼうなんでしょうね。勿体ないわ」

 

 紫の一言の直後、彼女の顔の前に何かが飛んで来た。しかし着弾する前にスキマの中へと飲み込まれていく。

 

「いやだわ。顔を狙ってくるなんて。これでも私はか弱い女の子なのよ?」

 

 そう言って余裕そうな笑みをたたえる紫はいつにもまして、胡散臭さたっぷりであった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 さらにところ変わって白玉楼。

 

「いらっしゃい。貴方が茜ちゃんね。何もない所だけれど、ゆっくりしていってくださいな」

「あ、ど、どうも……」

 

 紫の用意したスキマを使って移動してきた茜を迎え入れたのは亡霊の姫君、西行寺幽々子だった。

 

「紫から話は聞いているわ。なんでも最近、頑張っているみたいね」

「あ……紫さんがそんなことを……?」

「ええ、感心していたわよ。なかなか骨があるから、この先楽しみだって」

「……」

 

 普段言われないようなことを聞いてしまった茜はこそばゆい気持ちになり、赤くなった自分の顔を見られないように俯く。

 話に聞いていた快活な様子は鳴りを潜め、なんともいじらしい様子である。

 短めに揃えられた黒髪の先を弄る茜の、そんな可愛らしい姿を見た幽々子はくすりと微笑み、

 

「こちらへどうぞ。お茶を出すわ。貴方とは、少し話したいことがあったの」

 

 と言って茜を客間へと案内した。

 

「そんなに心配しなくても大丈夫よ。紫だってこの先、月に行くんだから。さすがに自分の身を危険にさらすほどの無茶はしないはずだわ」

「はい……。分かってます」

 

 どうやら紫に頼られなかったことが余程つらかったらしい。自分の弱さを痛感したからこそ、なおさらに。

 

「貴方は、いずれ天魔になるのでしょう? そのときに紫にたくさん頼ってもらえばいいのよ。焦る必要はないわ」

「——! そう、ですよね。私が天魔になれば……きっと……」

 

 少しだけ茜の顔に明るみが差した。

 

「それで、修行はどうだったのかしら?」

「えっとですねっ——」

 

 そのまま世間話に花を咲かせた二人であったが、幽々子は聞き上手なため、まだ沈みがちだった茜は徐々に明るさを取り戻し始めた。

 茜が話す内容は大体、修行でこんな目にあった、とか紫からこんなことを言われて心が折れかけた、とか紫に関する内容がほとんどであり、幽々子はますます微笑ましい気持ちになった。

 ふと、紫の話をしている内にまた心配になったのか、茜は不安そうに俯く。

 そんな茜の様子に幽々子は本題に入ることに決めた。

 

「ところで貴方は……紫のことをどう思う?」

「え?」

 

 他愛のない世間話は突然にして終わる。

 

「え、えっと……掴みどころがないけれどとっても頼りになる方だと思います」

「そうね。確かにちょっとだけ、ドジなところがあったり、残念なところがあるけれど。とってもいい娘だわ。でも彼女はどこか()()()()()()。矛盾だらけよ」

「!?」

「今まで気づかなかったかしら? どうしてあの娘が周囲から疎まれ、忌み恐れられるのか」

「それは……」

 

 修行をしていく中で紫の人となりは多少把握したつもりだった。

 それ故に、幽々子の言ったことは確かにその通りだと得心がいった。

 

「はい……。私もずっと気になっていたのです。初めてお会いしたときはどうしようもなく怖かったのに、一言二言話すだけでその違和感は消えました。紫さんご自身は気づいておられるかはわかりませんが、これはおかしいのです。まるでこれでは——」

 

 幽々子はそれを遮った。

 

「まるで紫が、この世界そのものからその存在を許されていないみたい、と?」

「——!?」

 

 流し目で見つめながら言った幽々子の一言に、茜の背筋は凍り付いた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鬼の章:決着

 不思議に思わなかっただろうか。

 どうして幽々子、妖忌、茜といった限られた者のみが紫を拒絶しなかったのか。そして、時折紫の言動に一貫性がないのはなぜなのか、と。

 

「……幽々子さんの言う通りです。確かに紫さんはどこか、この世界から浮いているように感じられました」

 

 幽々子の一言は、茜が自身でも上手く分からなかった紫への違和感をズバリと言い当てていた。先程までのゆるりとした雰囲気から一転、鋭い一面を見せた彼女の姿にやはり紫の友人なのだなと茜は素直に感心する。

 

「幽々子さんは——」

 

 そして同時に、疑問を覚えた。

 

「なあに?」

「幽々子さんは一体どこでお気づきになられたのですか? 以前より紫さんのご友人だとうかがっておりましたが、やはり幽々子さんも初めてお会いになったときは違和感を覚えたのでしょうか?」

「そうねえ……何も。何も感じなかったわ」

「!?」

 

 それはおかしい、と茜は目を見開いた。

 何も感じなかったのであれば紫のそれに気づくこともないはずである。納得できないことが表情にも出ていたらしく、察しのいい幽々子は袖で口を隠しながら一言あやまり、微笑んだ。

 

「ああ、ごめんなさい。言葉が足りていなかったわね。亡霊の身になってからは、ということよ」

「えっと、すいません。どういうことでしょうか……?」

 

 ますますよく分からなくなってきたが、幽々子は説明をさらに付け加える。

 

「今の私は亡霊。だから紫の発する不思議な力の干渉を受けなかったのだと思うわ。聞いた話だと、生前の私は紫を初めて見たとき、警戒していたのだとか……。他にも妖忌から聞いた話をまとめてみると、どうにも疑問を覚えるようなことが多かったの。だからこれは、私の単なる推測に過ぎないわ」

「ああ、そういうことでしたか。納得いたしました」

 

 ようやく理解が追いつく。

 なるほど。記憶を失ったからこそ余計に彼女は紫を異常だと感じるのだろう。

 肉体を失い亡霊となった幽々子自身は、紫に何も思うことはなかった。しかし誰からか話を聞く度に普段接している紫との間に食い違いがあると、聡い彼女は気づいたに違いない。

 

「ふむ。いや、それでも——」

 

 それはそれで納得した様子の茜であったが、それでもまだ気になることがあるようだった。

 

「どうしてこのような話を私に?」

「私が思うに……、紫は何か数奇な運命を持っている。誰かが彼女の手を握っていないと、どこか遠くへ行ってしまう気がしたの。だから私と同じ、紫のお友達の貴方に彼女を見てもらいたいのよ。あの娘を信じていないわけじゃないけれど、念のためね」

 

 その言葉を聞いて、茜は我に返った。

 

「私は冥界の管理人だから、白玉楼を離れるわけにはいかない。貴方も天魔になれば今より自由が利かなくなるかもしれないけれど、少なくとも私よりは彼女の近くにいることができるでしょう? だからこそ、貴方にお願いしたいの」

 

 茜は自分の存在価値をずっと憂いていた。一族が処刑されるのを黙ってみることしかできなかった彼女はあのときどれだけ『力が欲しい』と願ったことか。

 だから、頼られるということに飢えていた。茜は力を借りるだけでなく、頼られるような存在になりたかったのだ。

 

「(私に、できること……)」

 

 胸の鼓動が速くなる。

 彼女に断る理由などなかった。

 

「分かりました。喜んでその役目、受けましょう」

「良かった……。これからもよろしくね、茜ちゃん」

「はいっ!」

 

 いつか天魔となり、紫と幽々子の隣に立てるようになりたいという思いを胸に秘め、茜は元気に返事をした。

 

 

 

 ******

 

 

 

 もう何度目になるか分からなくなった衝撃、轟音。

 紫と萃香の戦いは周囲の景色を様変わりさせていた。緑が生い茂っていた森の大地は深く抉られ、木々は薙ぎ倒され、元の様相を呈していない。

 そして萃香が開けたと思われる大穴が至る所に散在し、その土埃で視界は限りなく悪い。

 しかし、大妖怪同士の争いは未だ終わる気配がなかった。

 

「おっと——」

 

 萃香の肩の辺りを紫の放った光線が横切る。それは青く、一見美しく見えるが少しでも触れれば塵も残さず焼き尽くしてしまうような凶悪な代物だった。軌道をあらかじめ読んでいなければ回避は恐らく不可能。奇襲にでも使われたら、たまったものではないだろう。

 

「(本当に、奴は一体何なんだ? こんな馬鹿げた強さなら少なくとも私達鬼と同様に、太古から存在していたはず……)」

 

 一つ息を置いて、萃香は砂煙の向こうにいるのであろう怨敵について考えた。

 鬼である自分ですら不吉に感じるほどの禍々しい妖気。これほどの存在の名が知れ渡っていないことに萃香は驚愕する。いくら姿を現さず存在を隠していたとしても、どこかで情報というものは伝わるものなのだ。

 

「(それに、奴の能力も胡散臭い。間合いを急に詰めたり、さっきみたいに切りこんだり……。さっき投げ飛ばした岩が当たった様子もないし、ましてそれを砕いたりもしていない……)」

 

 そして先ほどからこちらを惑わす奇妙な能力。その対応をするのでは後手に回ってしまう。つまるところ、彼女の能力は紫とは相性が悪かった。密と疎を操る程度の能力を紫は封じる手立てがある上に、萃香に比べ情報量において勝っている。

 少しずつ動きが読めてきたとはいえ、それすらも紫の策である可能性が捨てきれなかった。

 

「(さっきから霧になろうとしても上手くいかないし、何か奴の力に関係しているのかね?)」

 

 現に萃香はこれまで何度か疎を操ることで霧に姿を変え、土埃に紛れて紫に奇襲を加えようとしていたが失敗していた。

 霧になろうとすると、何かの力によって強引に萃められてしまうのだ。

 それは言うまでもなく異常なことであり、萃香が苦戦を強いられる主な原因であった。

 

「(……駄目だ、考えても分からないや。でも、まあ——)」

 

 しかし、萃香は鬼である。例え相手がどんな能力を使ってきたとしても、どんな策を講じてきたとしても、圧倒的な力でねじ伏せるのだ。それこそが変わることない鬼の在り方であり、誇りでもある。

 

「(私は、鬼だからね。今度は正面から行かせてもらおうか)」

 

 軽くその場を踏みならしてから足に力を込めて構え、

 

「(やってやんよ)」

 

 萃香はにやりと笑った。

 

「!?」

 

 萃香の全力の突進。けっして反応できない速さではないものの、初動が一息遅れた紫は避ける選択肢を切り捨て、迎撃せんと扇子を構える。

 

「せいやっ!」

「くっ!!」

 

 両者の衝突により、大気が揺れた。そして同時に紫の右腕はみしりと嫌な音を立てる。迫りくる拳を扇子で受けたものの、腕もろとも吹き飛ばされそうになった。

 当然、鬼の膂力は凄まじいものである。他の妖怪を寄せ付けないほどの“暴力”、それは大妖怪である紫であっても同様であり、まともに直撃すればどうなるか分からない。

 

 単純な暴力とは、一見対策が取りやすいようにも思えるが驚くほどに理不尽である。

 

 衝撃をどうにか外へ逃がしながら一歩後退る紫。

 次の瞬間、痺れた右手を抑える紫の目は脳天に巨大化させた両腕を振り下ろそうとする萃香の姿を捉えた。

 

「まだまださっ!」

 

 鬼の膂力に頼った鉄槌。それも密を操って拳を巨大化させ、威力を増大させた代物である。先程よりも重い一撃であった。

 

「(ただの力任せの拳なんてっ!!)」

 

 痺れがない左手で印を結び、防御結界を張る紫。

 辛うじて直撃は免れたが、その衝撃で紫の立っていた地面は陥没した。瞬時に張ることができる結界の中で、最高防御力を誇るものであってもこの衝撃。

 舞い上がる砂煙の中から息をつかせる暇なく萃香が突貫を再開する。

 足場が悪くなった状況で、さらに体勢を崩した紫は徐々に追い詰められた。

 

「(いいえ、これ以上ないほどにやっかいね……)」

 

 空中戦に持ち込むためにもスキマを展開したいところだが、そう簡単にはいかない。スキマでの移動には多少の時間がかかるためである。

 目の前で移動しようとしたところで、萃香の一撃を貰えばひとたまりもない。

 

 そのことに萃香はまだ気づいていないようだが、このままではそう時間はかからないだろう。

 茜が仕掛けてきたときも同様であったが、紫が反応してスキマを開く前に攻勢に出るという攻め口は非常に有効な手段ではある。実力がまだ及ばない茜では紫を追い詰めることはできないだろうが、鬼の四天王、伊吹萃香は違う。

 

 彼女が茜と違うのは一撃一撃が重く、体力も切れる気配がない上に、こちらは相手の攻勢を受けきるために消耗を強いられるという点にある。

 体力勝負となれば当然、紫は萃香に負けるだろう。

 流れを変える必要があると、紫は萃香の攻撃を受け流しつつ足元に術式を設置していった。一つ一つの力は弱くとも、距離をおく時間が稼げればよいという一種の希望を持って試みたものの、

 

「小賢しい!」

 

 萃香の疎を操る能力によって、展開し終える前に雲散させられてしまう。

 境界操作で萃香の能力の妨害を行ってきた紫だが、逆にやり返されたことに舌を巻いた。

 

「まあ、そうよねぇ」

「この程度で私を止められると思うなっ!!」

 

 左下から右上にかけて迫りくる萃香の右拳。

 赤い炎を纏ったそれは扇子で受けては弾き飛ばされ、結界で受けようものなら容易く貫かれてしまいそうだった。

 

「はっ!」

 

 足をしっかりと接地させて身をひねり、萃香の右肘を扇子で弾く。すると萃香の拳の軌道が逸れ、空を切った。

 その瞬間。

 

 紫の背後から、()()()()()()()()()()()()()

 

「(困ったわね。私としたことが、気づかなかったなんて)」

 

 知覚と思考が高速化するのに伴い、時の流れはゆっくりと緩やかになる。

 ぎりぎりで察知することができた紫は、後ろ手でスキマを操ると萃香の分身を両断し、萃香の爪を前方に展開した結界で受けた。

 結界にひびがはいったものの、直撃が避けられただけ御の字。まさに間一髪である。

 

 しかし、萃香の猛攻はさらに激しいものになっていく。身のこなしが非常に速いので、後手に回れば紫は守勢に回ざるを得ない。

 ここで攻守が、完全に逆転した。

 

「!!」

 

 紫の頬を萃香の爪が掠る。

 すると体の表面に張った防御結界をものともせずに皮膚を裂き、赤い血が頬を伝って首筋まで垂れていく。

 

「へえ、血は赤いんだねっ! てっきり血の色も紫かと、思ってたよっ!!」

「もう、顔ばかりを狙うのは良くないと、思いますわっ」

 

 萃香の攻勢は止まらない。

 紫は反撃することに気を回していては、いつまでも経ってもスキマを展開できないと判断した。

 

「(結界で拘束、できれば良かったのだけれど。火力が足りなさそうだし、無理そうね。はあ……幽々子にまた色々と言われそうだわ)」

 

 そして、即座に思考を切り替えた。

 

「!?」

 

 攻撃に手を回さずに回避だけに専念し始め、強引にスキマを展開する時間を作り出し、萃香から距離を取る。

 

「な、自分から吹っ掛けてきておいて、ちょろちょろと逃げるなっ!!」

 

 その後も間合いを詰められる前にスキマを使い、萃香との間に一定の距離を置いて様子を窺いながら紫は空中へと逃げていく。

 

「くそっ!」

 

 二、三発紫に向かって鬼火を放ったが命中することはなかった。避けられる空間が一気に広がるため、地上から空中にいる相手に攻撃を加えることは難しくなるからである。

 それは、正面からの勝負を尊ぶ鬼である萃香からすれば好ましいものではなかった。逃げ回られることに苛立ちが募るも、我を忘れないよう理性で押さえつけているがもう限界に近づいていた。

 

「仕方がないね……。まあ、躊躇うことなんてなかったな。なんせ殴っても蹴っても、燃やしてやろうにも、まともに当たりやしないんだから」

 

 昂る自分を抑えられるように、小声で呟くことで萃香はもう一度頭を冷やす。

 先ほどまで、地上戦において紫はこちらの攻撃を受け流すことができていた。鬼の四天王である自分の攻撃を、である。相手は明らかに苦手な戦法であったとしてもそれなり以上の対応力を持つ、並みならぬ妖怪。このまま攻めても埒が明かない。

 ゆえに萃香は大きく勝負に出た。

 

「いいさ。そっちにやる気がないのなら、否が応でもその気にしてやる」

 

 萃香の妖力が跳ね上がった。心臓の鼓動が驚くような速さで膨張と収縮を繰り返し、血管は少しでも多くの血を流そうと膨らみ、全身に浮き上がる。萃香の周囲には濃青色の霧が集まった。それは彼女自身の力の奔流。

 萃香は伊吹瓢に口をつけ、酒を煽った。

 さらにもう一段階、妖力が跳ね上がる。上昇し続ける彼女の力は留まるところを知らない。

 

「これは……」

 

 萃香の変容に対して紫の額に初めて冷や汗が浮かぶ。

 あまりにも高密度に圧縮されたそれは、立っている地面が粉々に砕け、その熱で周囲の木々に火が着くほどであった。

 今彼女に近づけば、即座に反撃を受けて敗北が決定することだろう。

 

「これはまた物騒なことね。今更だけど、嫌になって来たわ……」

 

 そうやって一人、本音の混じった冗談を言う紫。これから行う攻撃もまた、奇襲に過ぎない。しかし自身もまた相応に負傷することは確実であった。

 そんな彼女を睨みつけ、萃香は地を蹴り、天空に向かって大きく跳躍する。

 ふと紫の脳裏に浮かんだのは、

 

 ——『恐ろしく不気味な気配』を指す言葉、“鬼気”。

 

「——『百万鬼夜行』」

 

 萃香の宣言と共に、天災は巻き起こった。

 自身の周囲から青い楕円弾を放ちつつ、波紋状に大玉が放出される。鬼の四天王たる萃香の高密度な弾幕に逃げ場などない。

 近づくだけでも焼けつくような暑さと共に弾幕が押し寄せた。

 着弾した所から強い衝撃と共に爆炎が広がり、大穴が開く。鬼火の一つでさえ地形そのものを変えてしまうほどの威力を持つ、圧倒的暴力。

 彼女の“怒り”を表したような荒々しい弾幕であった。

 

「さすがは鬼、といったところかしらね」

 

 そう評する紫の顔のすぐ横を高熱の弾幕が通り過ぎていく。

 量が量だけに、スキマを使って無効化するわけにもいかない。そして防御しようにもすべてを受けきるだけの結界を張る時間も残されていない。このままでは被弾は免れないだろう。

 

「本当に、やってくれるわ……」

 

 紫は無数の弾幕によって視界を遮られ、萃香の姿を捕捉できない。一方の萃香は密と疎を操る程度の能力によって周囲の小さな粒子の微妙な変化から紫の位置を正確に測ることができ、弾幕操作に集中できる。

 その優位性は圧倒的であった。

 

「もらった!!」

 

 弾幕が紫を捉え、萃香が勝利を確信した丁度そのとき。

 

「(ん……?)」

 

 彼女は、恐怖でなく、まるで予想通りともいったような表情の紫に気づいた。

 このとき、紫は放射状に放たれる弾幕の着弾予想角度から萃香のいる座標を計算したのである。

 

「なっ!?」

 

 導き出された座標をもとにして、いち早くスキマを展開。

 萃香の目の前に移動するや否や、彼女が驚愕した僅かな間。

 

「——さあ、一緒に踊りましょうか、小鬼さん?」

 

 これから想像を絶するような業火が身を焼くのにも関わらず、紫は不敵な笑みを浮かべた。

 とってつけたような胡散臭い笑みなどではなく、もっと本能的で獰猛な笑みであった。

 

「ま、まさかお前っ——!!」

 

 もはや回避は不能。紫の背後に展開した新たなスキマから、幾重もの光線が放たれる。

 紫の目的。それは、零距離からの高威力集中砲火。

 

「『飛光虫ネスト』」

 

 彼女は、萃香の動きが止まる瞬間をずっと待ち続けていた。

 痛み分けによる、引き分けへの持ち込みを狙っていたのである。

 

「かはっ!?」

「っ!!?」

 

 萃香を無数の光が貫くのと同時に、紫は萃香から放出される火炎弾に焼かれる。

 

「ぐぅっ!?」

 

 体全身を覆いつくす、焼き尽くされるような激痛。体を保護していた結界はいとも簡単に突破され、皮膚を焼いていく。紫は即座に消炎の術を行使したが、萃香の火は簡単には消えなかった。

 そして遂には内臓まで熱が到達。

 

「っ!?!???」

 

 紫は気が狂ってしまいそうな苦しみに悶え、そのまま火の玉となって地面へと落下していく。

 萃香も同様。

 全身のあらゆるところを打ち抜かれた彼女もまた空中から自由落下していった。紫の『飛光虫ネスト』はその規模こそ小さいものの、殺傷能力に優れた凶悪な技である。堅牢な鬼の肉体を貫く防御を無視した光線。それを十数発もくらえば萃香と言えど、堪ったものではない。

 お互いに少なくない傷を負い、地面に二つの噴煙が巻き上がる。

 数刻経っても両者とも墜落地点から動く様子がなかった。

 

 なぜ紫は相打ちに持ち込んだのか。

 それは初めから、紫には二つの選択肢しかなかったことに他ならない。

 一つは萃香を一時的に封印するというもの。そしてもう一つは萃香と痛み分けによって引き分けに持ち込むというものである。

 当然、後者は身を危険にさらすため、前者の一時的な封印が望ましい。

 すると以前に紫が萃香に致命傷を与えたときのように、萃香の防御を貫くような攻撃を行うためには不意打ちから一気に攻勢に出なければならないのだが、萃香の対応力を見誤ったため後者を選ばざるを得なくなった。

 決定打を萃香に与えるためには動きを止め、防御無視の至近距離から攻撃を加えなければならなかったのである。ゆえに痛み分け。最後の手段とはそういうことであった。

 

 噴煙が風に流される音だけがする中。

 しばらくして、よろよろと立ち上がる影があった。

 

「はあ、はあ……ちくしょう、これはちと、まずいかもな……」

 

 萃香である。

 しかし彼女は立っているのもやっとというところであった。腹部の辺りを右手で押さえ、止血をしているものの、指の隙間からはどくどくと血が流れている。貫かれた部位は腹部だけではない。

 右太ももに三か所、左ふくらはぎ二か所、左肩から右肩にかけて少なくとも五か所を負傷している。

 

「やつは……」

 

 目を凝らすと、遠くでゆらりと影が立つ。

 紫であった。

 驚くべきことにその体には火傷の一つもないようだった。ただし、息が切れ切れで消耗していることは確かなようではあるが。

 そうはいっても、萃香には信じられないことである。あれだけの弾幕をくらっておきながら、どうしてその身はぼろぼろではないのか。

 

「はっ、ふざけんなよ。鬼の私が言うのも難だけど……」

 

 萃香は呆れてしまった。

 

「…………っ!?」

 

 不意に、紫は手で口元を抑えた。

 

「げほっ!?」

 

 びちゃりと、手から少なくない量の黒い血が滴り落ちた。

 血を吐く紫に、萃香の口角が上がる。

 

「いいや、確かに効いちゃいるようだね」

 

 訂正。

 紫は確実に負傷していた。

 お互いに満身創痍の中、睨み合いが続く。

 その静寂を先に破ったのは萃香だった。左手の平にありったけの妖力を込めながら一歩、また一歩と歩みを進め、紫に近づいていく。

 

「さあて。そろそろ、決着と行こうじゃあないか?」

 

 ゆらゆらと萃香の手の平で揺らめく焔は、それが彼女の最後の力を振り絞って生み出されたものであることを示していた。

 

「勘弁してほしいわ。全く——」

「これで最後だっ!!」

 

 最後まで言葉を聞くことなく、萃香は紫に向けて全力で放った。

 

「そろそろ眠って頂戴!!」

 

 目の前にスキマを展開しようとする紫だったが、蓄積された体への損害がとっさの反応を妨げた。

 展開しかけたスキマはすぐに雲散し、

 

「(こんなときに!?)」

 

 そのまま紫に着弾。意識が途絶えそうになるのを必死に堪え、紫は最後の足掻きと言わんばかりに萃香へ扇子の先を向け、光線を放った。

 萃香に避けられるような余力など残されているはずもなく。

 

「がっ!?」

 

 胸の辺りを貫いた。

 二人は再び倒れ、辺り一帯にようやく静けさが戻ってくる。

 とはいえ、その代償はすさまじいものであった。

 森は更地と化していたのだ。

 緑豊かな森であったその地は火事が起きた後のように焼き尽くされ、黒い焼け跡が残るばかりである。特に、萃香の放った『百万鬼夜行』による被害は尋常ではなかった。

 一つ一つの威力が凄まじい上に広範囲に弾幕を展開したため、地形そのものを変えてしまう。まさに天変地異と言って過言でなかった。

 

 それからまた数刻が経過したころ。

 ふと、かつて森であった更地に何者かが降り立った。

 

「っ……!」

 

 意識を辛うじて保っていた紫は、いち早くその場を離れようとするが、体が思うように動かない。能力もこのような状態では十分に行使できるはずもなかった。

 

「————!? ——!!」

 

 その人影は、自分と萃香に向けて何かを言っているようであったが紫には聞こえなかった。

 

 意識がなくなるほんの数舜前に、紫はある黒髪の少女を幻視した。

 それは、一種の夢のようなものであるかもしれない。

 

「(星……?)」

 

 少女は星を指さして何かを言っている。紫はその隣で笑っていた。

 テラスでお茶を飲みながら談笑している光景はどこか懐かしくて、切ない。

 

「(誰……だっけ……?)」

 

 しかしそれが誰であったか、紫は思い出せなかった。

 

 

 

 ******

 

 

 

「ん……、ここは……?」

 

 紫が目を開けると、知らぬ部屋の天井が視界に移った。

 

「目が覚めた?」

「っ?」

 

 目線だけ動かせば、紅白の巫女装束に身を包んだ一人の少女が傍らに座っていた。辺りの状況をいち早く把握しようとした紫は体を起こそうとするが、少女に押さえつけられて起きることができない。

 その少女の顔に見覚えがあったものの、思い出すまでに時間がかかった。

 

「……」

「私は博麗の巫女。人里から少し遠いところにある山が騒がしいって聞いて調べに行ったらね。貴方と萃香おねえちゃんが倒れていたの」

 

 無言のまま、『なるほど』と紫は納得した。確かにここ最近に人間の里から“守護者”が生まれたとの情報は掴んでいた。しかし目の前の少女は萃香のことをまるで知人のように呼んでいる。紫は、いぶかし気に首を左右に向けて周囲を窺った。

 するとやはり、自分の右隣には萃香が横になっていた。

 どうやら、事情を尋ねられるのは避けられそうにない。

 

「ねえ、金髪のおねえちゃん。萃香おねえちゃんを狙うのは、もうやめてくれないかな? 私から言っておくから」

 

 しかし、少女の発言は紫の予想していたそれとは異なっていた。

 

「……それが何を意味するのか、貴方は分かっているのでしょうか?」

「うん。きっとおねえちゃんは山にいる天狗の怖い人たちをどうにかしたいんでしょう? そのために萃香おねえちゃんは邪魔だった。だから萃香おねえちゃんの前に姿を現して、注意を引こうとした。これで間違ってない?」

「貴方、そこまで知っているのなら、なぜ萃香を止めなかった?」

「そんなの、気づいたのが後になってから、だからだよ。もしもっと早く気づいていたのなら、こうなる目に止めていたもん」

「……そう」

 

 油断ならない人物だと警戒を一段階引き上げるのと同時に、人間であるのにも関わらず妖怪を助けるという奇行を行う、目の前の少女に興味を抱いた。

 ここで、萃香がゆっくりと目を開ける。しばらくぼんやりとしていた彼女であったが、状況を飲み込み始めると即座に首を回し、周囲の様子を窺おうとした。

 

「ここは……お前っ!?」

 

 紫が隣で横になっていることに気づき、次に体を起こそうとするが、意志に反して体はぴくりとも動かない。

 

「っつ!??」

 

 全身に走る激痛に、萃香の顔が歪む。紫とまったく同じ仕草を見せる萃香に少女は溜息をつきながら言った。

 

「もう……私がいない間、無茶しないでねって言ったのに」

「あ、アンタっ!!?」

「おはよう。もう私もびっくりだったよ。萃香おねえちゃんがこの前よりも酷い怪我して倒れていたんだから」

 

 辛うじて動く首を使って萃香は自分の体を見た。

 全身のあらゆる部分に包帯が巻かれており、身動きが取れない。ここまで酷い怪我を負っていたのかと、萃香は今更になって驚いていた。

 しかし、そんなことよりも。

 

「どうしてコイツがいるんだいっ!?」

 

 隣に怨敵がいることが理解できなかった。

 

「いやあ、だってそこのお姉ちゃんも酷い怪我だったし、放っておけなかったの。それにね、萃香おねえちゃん。私、この人は悪い感じには見えないと思うなあ」

「なんでそんなこと——」

 

 不意に紫の方を向いた萃香は、奇妙な感覚に陥った。

 

「なに、これ……」

 

 自分がなぜ紫を殺そうとしたのか、なぜ紫がここまで憎かったのか、()()()()()()()()()()()()()

 

「(おかしい、おかしい!? なぜだ……、私はどうしてコイツと戦ったんだ? 今まで私は何をしていた?)」

 

 まるで催眠にでもかかっていたかのように、憎しみという感情が消え去っていたのである。

 頭を抱えて動揺を隠そうともしない萃香を見やり、少女は紫に言った。

 

「萃香おねえちゃんは少し、気が動転しているみたいだから少し放っておいてあげてね」

「え、ええ……」

 

 むしろこっちから話すようなことなどないと口から出そうになったが、紫はそれを堪えた。口の辺りが引くついていることから紫の真意を察した少女の頬は少しだけ緩んでいた。

 

「二人はしばらく安静にしていて。あと、動くと傷口が開くから、絶対に喧嘩しないこと!」

 

『水を汲んでくる』と言って、少女はその場を発った。

 残されたのは先ほどまで命のやり取りを行っていた二人のみ。気まずい空気が小屋を覆う。

 

「「……」」

 

 お互いに目も合わせようとしない。萃香の方は、むしろ自分の紫への敵意が急に消えていたことに対する困惑が主な原因ではあったが、どちらにせよ紫にかける言葉を持ち合わせてはいなかった。

 紫も同様。

 展開が急すぎることもあり、頭がいまいち追いついていなかった。

 

「(いざというときには即座にここから逃げるとして、今はとりあえず彼女の言うことに従っていましょうか。ここで人里の守護者と敵対しても利はないわ。それにあの娘、私を恐れる様子も憎しみを持つ様子も感じられなかった。まるで前から私のことを知っていたみたいに)」

 

 いまだにずきずきと痛む頭を、動く方の右手で押さえながら紫は天井を見つめ後にゆっくりと息を吐いた。

 静かな部屋では紫と萃香、両者の息遣いが響くばかり。それが余計に気まずさを醸し出す。

 静寂が痛いとは、よく言ったものである。

 

「「(どうしよう。この空気……)」」

 

 それはお互いが持った感想。

 しかし、突然にして彼女たちの間に横たわる静寂を打ち砕くような出来事が起こった。

 

「ん……何かが来る?」

 

 萃香が天井を見上げる。確かに何かが高速で近づいてくるような感覚が紫にも伝わっていた。

 そう、それはまるであの鴉の少女が全力で飛んできているかのような……。

 

「まさか……?」

 

 いや、そのまさか。紫の背に冷たい汗が伝っていく。

 ぼそりと呟いた瞬間、

 

「ぬわぁぁぁっ!?」

 

 勢いよく天井を突き破って黒い物体が墜落してきた。思い当たる存在はただ一つ。

 紫はそこですべてを悟り、天井を仰いだ。

 一種の諦めである。

 

「(なんでこの娘はこうも空気を読まないのかしら……ここまで来ると、一種の才能ね)」

 

 そんな彼女の嘆きも露知らず、

 

「紫さんっ!!」

 

 紫のもとにすぐさま駆け寄ったのは鴉天狗の少女、射命丸茜であった。

 

「申し訳ありません。紫さんと別れてから数日経っても何の連絡もなかったので、幽々子さんから遣わされまして。あ、でも姿を見せないよう、紫さんから貰った御札を使ったので姿は誰にも見られてはいませんよ?」

 

 早口でまくしたてる茜の姿に、萃香の方は目が点である。

 

「もう私心配で心配で夜も眠れなくて紫さんの微弱な妖気を風で探知しまして急いでここに来たんです、着地には失敗しましたが——。それにしてもここは一体……って、うわぁ!? 伊吹萃香様っっ!?」

 

 数日ぶりに会ったにしても相変わらずの様子である茜に紫は額を抑え、大きく溜息をついた。

 

「ただいま、って……。どうして天井に穴が開いているのかな?」

 

 そこで博麗が帰還。最早、小屋の中は混沌と化していた。

 

「——ふ~ん……ああ、なるほど。そういうことかぁ」

 

 小屋を改めて見渡す博麗。

 驚くべきことに瞬時に状況を飲み込んだ彼女は、十ばかりの年と見た目に似合わない黒い笑みを浮かべて茜に近寄る。

 

「ねえ、鴉のおねえちゃん……表、出ようかぁ?」

「え、なんですか貴方は!? ひいっ! 力が入らない!? そんな、ちょ、まっ——」

 

 遠くで『あ、だめっ、お、おたすけぇ~っ!?』という悲鳴が聞こえたような気がしたが、二人は聞こえなかったことにした。

 博麗が茜の首根っこを掴んで引きずっていったことにより、再び静けさを取り戻したものの、

 

「なんだったんだ? あれ……」

「(本当よ。同感だわ)」

 

 このときばかりは萃香の言うことはもっともだと、紫は思った。

 

 この後、天狗の里のクーデターと月の侵攻を目論む紫達と博麗、萃香との間に白玉楼での話し合いが設けられ、彼女らは協力関係を結ぶことになる。

 それはある意味、茜の来訪がなければ成し遂げられなかったことなのかもしれない。そう、後に紫は語った。

 

 

 

 ******

 

 

 

 ここからはもう、一気に時間が流れていったんだ。

 あの戦いの後、アイツの仲立ちもあって、私と紫の間の争いはひとまず収まった。

 そうは言っても、私と紫は会うたびには眼を飛ばし合って一触即発。

 私もどうしてあのとき紫を恨んでいたのか、これからどう接すればいいのか分からなくなっていてね。それに色々引っ込みがつかなかったんだよ。とりあえず紫に喧嘩を吹っ掛けることで気を紛らわしていた。

 

『おう、陰謀家。いつもは陰でこそこそとしてる癖に、今日は一体どうしてここにいるんだい?』

『あらあら、それはこちらの台詞ですわ。最近あの娘(博麗の巫女)に身長を抜かれて、それを気にしている貴方がここにどのようなご用件で?』

『ぐっ!? 私が気にしていることをよくも……言ってくれるじゃないか、この——女』

『へえ~貴方こそ、言ってはならないことを口にしたわね』

 

 とはいえ、あの時みたいに実力行使じゃなくてあくまで口喧嘩程度。それが発展したところでせいぜい頬を引っ張り合ったりする程度の可愛いものさ。

 しかし、それを奴らはよしとしなかったんだ。私達を待っていたのは恐ろしい制裁。

 

『はいはい、萃香おねえちゃん少しあっちに行ってようねぇ~』

『あ、こらっ!! 邪魔するな!! 今日こそアイツをとっちめてやらなきゃ気が済まないんだって——ぐえっ!?』

 

 私はアイツに脳天をたたき割られ、紫は、

 

『ちょ、離しなさいっ! あのちんちくりんに目にもの見せてやるんだから——ゆ、幽々子、ちょ、ちょっと洒落にならないくらいに爪が食い込んでる!? 死んじゃう、それ死んじゃう奴だからっ!? 黒死蝶!? 『ごめんさいこうなる前にもっと早くやっていればよかった』って!? い、いやぁ~!?』

 

 幽々子に頭を掴まれて引きずられ、回収されていくことが半ば恒例になっていた。

 それを見ている射命丸が、

 

『え~と。私、もういらない子なんですかね…………?』

 

 目の色が死んでいた。あのときの射命丸。それはもう、可哀そうな立ち位置にいたと思うよ。ただ、『強く生きろ』と私は心の中で声援を送った記憶があるな。

 

 そう、信じられないことだったが当時、私達は協力関係を築いていた。これもアイツの手腕である。紫と射命丸、そして幽々子は天狗の里の勢力をひっくり返そうと計画を練っていた。そこでアイツは人里の守護者として計画に手を貸す代わりに今後天狗が人里への他の妖怪の干渉を抑えてもらうという約束を取り付けようとしたんだ。

 幽々子の従者の嫁が人里に住んでいるとかで、その約束は案外すんなり受け入れられた。しかしなぜ私まで協力せねばならなくなったのかというと、

 

『萃香おねえちゃん。これが上手くいけば、妖怪と人の間の溝が少しだけど埋まるかもしれないんだよ?』

 

 アイツの一言によるものだった。

 確かに射命丸が天魔になり、かつアイツが人里と妖怪達の仲介をすれば多少は溝が埋まる。時間はかかるかもしれないが、少なくとも天狗との関係は築いていけるだろう。ゆくゆくは私達鬼だって、と言いたかったんだと思う。

 紫への敵対心が消えてもどこか気まずかった私は仕方なく手伝っているように見せかけて、実は乗り気だったかもしれない。

 ともかく、騒がしくも私達は天狗の里のクーデターと月への侵攻の計画を進めていったんだ。

 それからまた、数カ月が経った頃だったかな。

 

『ねえ、萃香おねえちゃん。ゆびきりってしってる?』

 

 私はある約束をした。

 その内容はひどく幼稚なもんさ。アイツは私に人と妖怪が共に暮らせる里を作ることを、私は人を襲わないことを約束した。

 始めアイツから指切りしようと言われたときは何を考えてるんだって思ったけど、

 

『これをね、私と萃香おねえちゃんの“繋がり”の印にしたいの。私は博麗の巫女になった。だからこれから私は妖怪から人を守らなきゃいけない。

 でもね。これはいい機会かもしれないんだ。だって私が人と妖怪の橋渡し役になれるかもしれないんだよ? 人も妖怪も神も皆笑って暮らせるような世の中にしたいんだ』

『それでその初めに私と、ってことかい?』

『うんっ!!』

『私なんかで、いいのかい?』

『うんっ!! もちろんっ!!』

 

 それはもう元気な返事。ニコニコしちゃってさ、アイツは本当に笑顔が眩しかったんだ。それでもって私にこう言った。

 

『私ね、萃香おねえちゃんの笑った顔が好きなんだ』

 

 本当に、驚いたよ。まさか人間にそんなことを言われるなんてさ。私は思わず、そっぽを向いて照れ隠しをしちまった。そんなやり取りをしながら私達は笑いあったんだ。

 そうやっていられたことが、どれだけ尊いことだったか。

 これは一つの幸せの形って奴だったんだと、今の私は思う。

 ————。

 ようやく、着いたか。

 今じゃ限られた奴しか知らない、アイツの墓。

 

「やあ、元気だったかい?」

 

 随分と昔になってしまった出来事を思い出しながら、私は墓の前に腰を下ろした。うわあ、雑草がこんなに茂っちゃってるよ。手入れしてないからまあ、仕方ないんだけどさ。

 

「あれからもう、千年くらいかね。早いもんさ。残念なことだけど、お前のことを覚えている奴なんて滅多にいなんじゃないかな」

 

 丁度この時期は夏だから、聞こえるのは蝉の鳴き声ばかりだ。まったくもう、暑い暑い。

 

「ここは平和な場所になったよ。私も驚いてる。あんな無法地帯がさ、こんなんになっちゃうんだよ? まったく紫の頭は一体どうなっているんだか……」

 

 こんな何げないようなことばかり言いながら、私はアイツとの思い出に浸る。それがこの日の恒例行事だ。

 

「霊夢の奴も、すっかり立派になっちゃって。初めて相対したときは、なんて頼りない奴かと思ったんだけど、今じゃ私なんか毎日しばき倒されているよ。信じられないだろう? まあ、積る話はたくさんけどさ。まずは一杯やろうか」

 

「——なあ、初代」

 

 皆、傷ついたり苦しい思いをしたりした。

 

 それでも少しずつ幻想郷は前に進んでいる。

 

 それは初代のおかげだよ。

 

 初代が繋いでくれたんだ。私達妖怪と、人間を。

 

 だから、ゆっくり。

 

 休んでおくれよ。

 

 

 鬼の章 完

 

 

 

 ******

 

 

 

 ——彼女は幻想を見た。

 

 ——彼女は、祝福された。

 

 ——たとえ望まないことであったとしても。いずれ、こうなる運命であったのだ。

 

 

 

 

 拝啓——へ。

 

 貴方がいなくなってから、もう——年が過ぎました。早いものですね。

 その間に世の中は大分変わりましたよ。それはもう、想像もできないほどに。

 きっと貴方もびっくりすることでしょう。

 そうそう、私は元気です。この前は初めて空を飛びました。

 スゴイでしょう? 空中でふわぁってなるの、ちょっと癖になりそうでした。

 貴方にも見せてあげたかったなあ。

 ねえ、貴方は一体どこにいるの? 

 探しても探しても探しても探しても探しても——

 貴方は見つからない。見つけられない。思い浮かんだ試みが失敗するたびに何度も心が折れそうになった。

 夜が来るのが怖いよ。夜が来て、明けてしまえば貴方のことをまた忘れそうになってしまうような気がして。そしてそんな弱気な自分が嫌になって。

 ああ、——。

 会いたい。

 貴方にただ、会いたいよ。私の——。

 

 

 手紙はそこで終わっていた。少女はそっと手紙を閉じた。

 そして目の前に置かれている、赤いリボンの装飾が施された白い帽子を被った。

 

()()()()、か……。それもまた、いいかもしれないわね」

 

 そう言って目尻の涙を拭いながら、彼女は儚く笑った。

 

 

 月の章 始

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月の章:少女たちの思い

 そこに至るまでに面倒な過程があったが、博麗の巫女と伊吹萃香の協力を得たのは非常に大きな成果と言えた。

 特に天狗の里に蔓延る鷹派との無駄な抗争を避けるのには彼女たちの影響力は有効で、博麗が人間を、萃香が鬼の動きを牽制し、天狗達との衝突を怪しまれない程度に抑えてくれていた。

 まあ、何かと萃香が難癖をつけて私に喧嘩を売って来るのに目を瞑れば助かることばかりである。

 

 “月面”への侵攻。

 

 それ自体は何の問題もなく実行できそうだった。事実、私が天狗の里に放った間者は既に月への侵攻を任された大天狗と共に準備に取り掛かっている。後、数日でもすれば計画は実行に移されるだろう。

 天狗達の意識を誘導するのは骨が折れる作業であり、月への転移方法について疑われたりもしたが、そこは私が前もって作成した偽の月に関する書物を用いることで誤魔化すことに成功した。多少現実を織り交ぜながら書いたそれを人間の都の書物置き場に紛れ込ませ、わざと鷹派から盗まれるように仕組んだことが功を奏したのだ。

 

「急に考え込んで、どうしたんですか紫さん?」

 

 隣で誰かが何か言っているようだが耳には入ってこなかったことにした。黒い羽も見えた気がするが気にしない。

 

「いや、無視しないでくださいよぉ!?」

 

 ちなみに月への転移は私の能力を使う。彼らにはそれらしい儀式を形だけ行ってもらうだけだ。私自らが出ては流石に怪しまれるだろうが、式が行うのであれば問題はないはずで、儀式を執り行うのは私の式にした天狗であるため怪しまれることもない。

 

「まさかこの前のことをまだ気にしているんですか? あ、あれは申し訳なかったと反省してます! だから無視しないで——」

 

 これも時間をかけて根回しをした甲斐があったと言えよう。したがって、

 

「え、えと……あのぅ……」

 

 転移を成功させること自体は容易いと期待できる。

 

「あぅ、ええぇっと……。そ、その……ごめんなさ——」

 

 次にどの時期に私が月へと移動するかだが、これも既に想定済みだ。月の勢力と会敵したタイミングであればこちらの存在を察知されることはないだろう。

 

「聞いてくれないよぅ……」

 

 後は転移後に天狗達を月の勢力と戦わせて全滅させる。そしてその間に主力である大天狗不在の天魔の館を茜達が襲撃。幹部を抹殺すれば計画は成功となる。

 

「いいんですか泣いちゃいますよわたし、ほんとに泣きますからねっ」

 

 なぜ、茜が幹部を打ち取れば天魔になる可能性があるのか。その根拠は里に忍ばせた間者からの情報である。

 

「……ひ、ひっく……ひぅ……」

 

 天狗の里の民達の多くは鷹派に心から従っているというよりも、彼らの武力を恐れて従っているとのこと。天魔を多く輩出してきて信頼の高かった射命丸の名は滅んだ今もなお天狗の里において馬鹿にならないほどの影響力を持っており、茜の生存が確認されたとされれば、彼女が天魔候補に抜擢されるのはほぼ間違いない。

 そのまま茜が天魔となってくれれば万々歳なのだが……。

 

「ふぇぇぇ……ゆゆこさん~」

「あらあら可哀そうに。茜ちゃん、こっちにおいで」

「ああ、極楽が。極楽浄土が見えます。いや、もうすでに辿り着いてしまった可能性が——」

「違うわ、茜ちゃん。ここは冥界よ」

「な、なんと……私は冥界に召されたのですか……!?」

 

 視界の隅で繰り広げられるこの茶番。

 かなりの実力をつけ、私に一太刀浴びせようとするくらいには成長してきたというのに、この駄鴉が天魔になるのは少し、いや、かなり不安である。

 

「もう、紫ったら。茜ちゃんのことを無視しちゃだめよ。いくら茜ちゃんが空気を読まない娘であったとしても」

「いいえ。ソレは甘やかしてはいけない代物よ。それに……」

「それに?」

 

 そう言って首を傾げる幽々子。いや、『それに?』と言われても。

 

「ふへへへ……」

 

 茜が今、貴方の胸に顔を押し当ててどんな顔をしているのか見てみればいいのではないかと思う。あんなだらしない、下劣な顔をしている鴉は焼き払うのが世界の為なのかもしれない。

 それと、勘違いするな。そこは私の場所だ。

 

「ぴぃっ!?」

 

 びくりと肩を震わせる茜。勘のいいことだ。どうやら私の氷の視線に気づいたようである。

 ……いいや。

 

「——お茶をお持ちしました」

 

 彼女が気づいたのは、私の後ろに控えている真の鬼(妖忌)の方であろう。

 なるほど良いことを思いついた。

 

「あら妖忌、丁度良かった。最近茜が太刀を使った戦法を好んでいるらしくてね。さっき貴方からぜひとも手解きを受けたいと言っていたわよ」

「紫さん!? え、ちょ、まっ——」

「ほう。それは恐縮でございますな。私のような者でよろしければ、いくらでもお相手いたしましょう。……それでは茜殿、逝きましょうか」

「ひい!?」

 

 嬉々として妖忌は茜を白玉楼の庭へ連れて行く(引きずって行く)。今日は少し調子に乗り過ぎているから痛い目にあってもらおう、そんなことを考えた私は二人が剣を交わすのを見つめていた。

 

「あ、あの妖忌さん? どうしてそれほどまでに怖いお顔をなさっているのでしょうか……? もしよろしければ教えていただけるとうれしいなぁって——」

「ああ、申し訳ありませぬ、茜殿。この顔は生まれつきでして、理由などないのです。ええないですとも」

「絶対うそだぁぁ!!?」

 

 あんな般若のような顔をした妖忌は初めて見た。

 

「なんだか妖忌、楽しそう。きっと茜ちゃんと剣を交えるのを心待ちにしていたのね」

 

 隣で微笑ましげにつぶやく幽々子。あれを見て暢気に、『楽しそう』と評することができる彼女の本心は、私ですら窺い知れない。もしかして幽々子は、全部気づいていた上で言っているのかしら? 

 

「そうね……幽々子の言う通り、あんなにもやる気に満ち溢れている彼は珍しいですわ」

 

 何だか背筋が冷たくなった私は、苦笑いしながら曖昧に返すしかなかった。

 とはいえ、確かにやる気に満ちた今の彼なら彼女の性根を叩き直してくれることだろう。恐る恐る、ちらりと視線を向けてみると……想像以上に酷いありさまだった。

 妖忌が『みねうち』と称して全力で切りかかっているのだが、灯篭がすっぱり切れている時点であれは絶対『みねうち』と呼んでいい代物ではない。まともに当たれば死ぬ、そう私は確信した。自分で言うのも難だが。

 

「ほわぁッ!? 危ないっ!! 今掠りましたよぉぉ!!? 私、使命の前に死ぬのは死んでもごめんですっ!!」

「問答無用お覚悟あれ」

「——ひぇっ!?」

 

 哀れ茜。今ならほんの少しだけ、雀の涙の十分の一くらいならば同情してあげてもいい。

 

「ひゃっ、ふぉぉぉぁぁあああ!!?」

 

 紙一重で避ける茜。しかしちょっとだけ掠った。惜しい、あと少しなのに。

 茜と妖忌のやり取りを見つめながら、『二人の相性は案外いいかもしれない』などとそんなどうでもいいことを考えていたそのときだった。丁度、茜が斬撃の嵐に晒され再び危機一髪に陥っている頃。

 

「おまたせ~」

「……ふんっ」

 

 階段を上って博麗と萃香が此処、白玉楼にやって来た。随分と遅れての到着だが、何かあったのだろうか。博麗はいつもと変わらず屈託のない笑みを浮かべているが、目尻に泣いた後のようなものが残っているし、萃香は私を視界に入れた瞬間に不機嫌さを隠さずにいる。

 喧嘩でもしたのだろうか? いや、二人に限ってそのようなことはないだろう。

 これから月に攻め込む以上、不安要素はできるかぎり少なくしたいのだが、二人の関係に口をはさむのは憚られた。

 

 萃香の方を、改めて見る。

 いつもと変わらぬ、不機嫌そうな顔。

 私には、それが残念なことに思えた。

 

 ここ数カ月で私は彼女の性格というものが少しだけ分かった。だから、実は萃香が突っかかって来るのに合わせているだけで、彼女のことを嫌っているわけではないし、信頼していないわけでもない。ついつい萃香の挑発に乗って言い合いになってしまったりするものの、今はそんなやり取りさえ楽しんでいる。

 

 むしろ、彼女のことは高く評価しているのだ。できれば友好な関係を築いていければいいと考えてもいる。しかし如何せん私と彼女は二度も(本当のこと言えばそれ以上だが)殺し合いを演じているので、ぎくしゃくとした関係になってしまっており、関係修復は難しい状況である。

 どうにかならないものだろうか……。

 

「そういえば、里の人達の避難については私に任せて。もう大体の理解は得られているから、後は準備が整うのを待つだけだよ」

「あらあら、一体どんな手を使ってあれほどまでの民の支持を得たのかしらね? 気を悪くしてほしくはないのだけれど、彼らが貴方のことをそれほどまで信用していたとは聞いていないわ」

「う~ん。里の人達もね、皆が皆妖怪を一掃しようって考えている訳じゃあないから。少なとも今の天狗達……ううん、鷹派の天狗達には辟易している人たちが沢山いるのが理由なんじゃないかな? とりあえず打てる手立てがあるのならそれにすがりたいっていう……」

 

 博麗自身に何かあったのか少し気になったが、本人は至って通常通りにふるまっているのでわざわざ聞くのは無粋というやつだろう。

 元々博麗にはもしものことがあったときのために、里の人々の避難準備を行ってもらっていた。勿論これは鷹派に知れ渡ってはならないので、極秘に里長を始めとした少数の有力者に協力を要請したのだ。

 それにしても、博麗はその任についてからというもの、急激な速度で成長しているように思われる。噂を聞いた当初はまだ幼いといった印象であったが今では口調も大人びたもので、頼りがいのある協力者の一人である。この調子で成長を続けていくのなら、彼女が人里の信頼を得るのもそう遠くないだろうと思った。

 

「博麗、貴方は本当に何というか、成長が早いわね——」

「なんだい、言いたいことがあるなら聞こうじゃあないか?」

 

 しまった。つい視線を萃香に戻してしまっていた。

 

「いいえ、何でもありませんわ」

 

 私は萃香からサッと目を逸らした。

 別に、萃香は今日も変わらず、『ちっちゃくてかわいいわぁ』なんて考えていたわけでもないのに。

 そんな心の声を口に出すのを抑えた。ここで万が一揉めるようなことがあれば、今度こそ幽々子に殺され……いや、白玉楼に永住することになりかねない。

 私だって命は惜しいのだ。

 

「……っち、まあいい。さっさと要件を済ませなよ」

 

 軽く舌打ちをした萃香は縁側に腰かけ伊吹瓢に口をつけて一気に煽った。

 しかしそんな、なんでもない仕草に私はなぜか今日の彼女の様子がいつもと違うように感じられた。

 いつもなら、もっと突っかかってきてもいいはずなのだが。

 

「そうだね。用事は早く済ませた方がいいし。待たせちゃって悪いけど始めてもらえると助かるな」

 

 確かにそれもそうである。

 博麗の催促も受けたため、私は萃香について考えるのを一旦止め、壮絶な争いを繰り広げている妖忌と茜を呼び、全員がそろったところで計画の手筈について説明を始めることにした。

 

「はあ、はあ。助かりました……。しかし、もう少し早くお声をかけてもらいたかったものです……」

 

 ぼろ雑巾のようになった茜が言う。愚か者め。自業自得というやつだ。

 再び溜息をつくのを堪え、私は目の前に揃った協力者たちに向き直った。

 

「まずは集まってくれてありがとう」

 

 全員の視線が私に集中する。

 

「この計画の目的は二つ。一つは天狗の里の鷹派を一掃し、射命丸茜を天魔に据え置くこと。そしてもう一つ、これは私個人の目的でもありますが、月の都の最深部に潜入しそこに隠された秘密を探ること。以上です、異論はありませんわね?」

 

 今回の計画の目的は既に協力者たちには周知のことであり、同意も得ている。しかし先ほどからずっと様子がおかしい人物が声を上げた。

 

「月の都の最深部にある秘密ってのは、確かなことなのかい?」

 

 萃香である。

 

「ええ。京の内裏の書物庫に隠されていた古文書には、その昔、月の民が地球に住んでいた時のことが記されていて、当時その民を率いたツクヨミという存在がいるとされていたわ。私は彼女が私の母と何らかの関係があったのではないかと考えているの。ツクヨミがいると考えられる最深部に行けば、何らかの情報が得られるのは間違いない」

「つまり、アンタにとって、この計画はそんなに重要だってことかい? わざわざ自分の身を危険に晒してまで、私を体張って止めようとしたくらいに」

「無論。なぜ、私のような存在が生まれてきたのか。その鍵が母の記憶であり月である以上、どんな手を使ってでも絶対に知りたい」

 

 その返答を聞いた萃香は私の目を真っ直ぐに見つめ、まるで私の意志を試すかのように微動だにしなかった。それは、鋭い刃を瞳に突きつけられる感覚に似ているかもしれない。

 ほんの少しの沈黙。

 

「ふんっ、なら私から言うことはないね」

 

 及第点は貰えたということだろうか、萃香はそれ以上追求してこなかった。

 まあ、確かに月での行動の大体は私個人の目的が大抵である。それだけに、理由があるとはいえ協力する立場である彼女としては、踏ん切りをつけるためにも私の意志を確かめたかったのだろう。

 あくまで、今回の計画は彼女たちの協力が前提であることを忘れてはならない。

 

「こほんっ」

 

 改めて気を引き締めなおそう。

 

「それでは計画の内容について。まず初めに、鷹派を月に転送させた後に私と萃香が月に向かう。ここで萃香には疎を操る能力で姿を隠しながら、月と鷹派の戦況を監視してもらうわ。連絡用に白玉楼に分身を駐在させて、もしも計画に何らかの異常をきたしたときは皆に伝えて欲しい」

「……」

 

 萃香は黙って頷いた。

 

「次に茜。貴方は協力者に従い、手薄になった天魔の屋敷に乗り込み、首を取りなさい。容赦はいらない。確実に仕留めるのよ。そして、あくまで貴方自らが鷹派上層部の首を掲げること。肝に命じなさい」

「はいっ」

 

 茜は神妙な顔つきで答えた。先程まで情けない姿を晒していた人物と同一であるとは思えないほどの頼もしい顔つきである。

 

「そして妖忌。茜の言う協力者が果たして本当に信用するに値するか、まだ分からない状況にあるの。だから茜と共に行動して、もしものことがあれば裏切り者を迷わず切り捨てなさい。打ち損じのないように」

「承知」

 

 彼に関しては全く不安な要素がない。

 妖忌ほどの実力があれば、例え裏切りがあろうと問題はないからである。しかし、茜が天魔になったときの支持者を募るためにも裏切り者が出ないことが当然望ましい。

 そして最後に幽々子。

 

「私はどうすればいいの~?」

「幽々子は……。そうね、ここ白玉楼を中継地とする以上、貴方にはここにいて欲しい。萃香の分身と一緒に待機していて頂戴」

「……そう、分かったわ。何かあったらいつでも言って頂戴」

 

 いつもと変わらない調子で彼女は頷いた。本人はああやって言っているが今回は休んでいてもらうことにしよう。幽々子は荒事には向いていないから。

 そして私はもう一度、全員の顔を見回した。

 

「それでは各々、抜かりなくお願いしますわ」

 

 ここにいる全員の協力を得て、こうやって計画実行まで漕ぎ着けることができた。各々が目的を持ち、それを達成するためにここまで動いてくれたのだ。だからこそ失敗は許されない。

 機は熟し、準備は万全だ。

 月に何があるのか、見に行くとしよう。真実はきっと、あともう少し先にあるはずなのだから。

 

 ——もうすぐよ。もうすぐ私は……。

 

 頭の中で響いた声は、ずっと何かを待ち望んでいたかのようだった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 紫に呼ばれて白玉楼に向かう途中のこと。

 私達は他愛のない話をしていた。

 

「アンタ……。もしかして、また背が伸びたの?」

「えへへ、分かる? 分かっちゃう?」

 

 そういって嬉しそうに顔を赤らめながら頭を掻いちゃってさ。紅い紐でできた髪飾りがゆさゆさ揺れていて、それを少し見上げる形になる私。ますます身長の差が大きくなるもんだから、人間の成長の早さってのをまた痛感した。

 なんだか泣けてくる。

 

「……」

「だ、大丈夫だよっ。萃香おねえちゃんもいつかきっと伸びるからっ」

 

 やめておくれ。もう何百年生きていると思ってるんだい? その優しさというか気遣いが今は辛いんだ。

 私はもはや笑うしかなかった。

 そんなこんなで私達は雑談をしながら白玉楼へと続く階段をのんびり歩いていた。この道を歩くのは何度目になるのか、白玉楼で偶に紫達と話し合ったりしているから、もう数えきれないくらいになるね。

 

 巫女になるとどうにも責任ってやつがあるらしく、前のようには気軽にコイツに会って話すことができなかったから白玉楼へはいつも歩いてのんびり来ている。しかし、コイツ……今は博麗なんて呼ばれているが、まさか巫女になるだなんて思いもよらなかったな。

 確かに不思議な力、神通力を持っていることは知っていたけど、そういう柄ではないと勝手に思い込んでた。だって、今まで人里と適度に距離を保って暮らしていたのにどうして巫女になんてなったのさ? 

 天狗の鷹派が人里に危害を加え始めたこともあるんだろうが、他にも理由がありそうな気がする。

 まあ、私が考えても分からないんだけどね。

 

「萃香おねえちゃん、どうかしたの?」

「ん、ああ……」

 

 いけない。つい考えすぎちまった。本当に最近、らしくないなぁ。華扇に言われたこと、案外引きずっちゃっているのかも。

 

「なんもないよ。ちょっと考えごとをね」

「ふ~ん。そうなの」

「ああ、最近は色々とあってさ」

「……」

 

 訝し気な様子だったけどそれ以上は突っ込んでこなかった。前に比べると、とんでもない成長ぶりだよね。だってちょっと前なんか私を見つけると全速力で駆け寄って飛びかかってきてたぐらいだから。

 変に色々と聞かれるのを避けられて良かったなぁってほっとしていたのも束の間で、

 

「——そういえば、萃香おねえちゃん。そろそろ紫ちゃんとさ、ちゃんとお話ししたほうがいいと思うな。あまり私から色々言えることじゃないけど、計画だってもうじき始まるんだし」

 

 うぐっ、()()()()。まさかそこを突かれるとは予想外だった。

 

「む、むぅ……いやぁ、それはね、なんていうか……」

 

 紫のことで私はまだ整理がついていなかった。近頃ようやくアイツに突っかかるのは良くないな、なんて思えるようになったんだけど、顔を合わせるとどうにも自分の思う通りにはいかないんだ。まさか鬼である私がこんな気持ちになるなんて、博麗といい、紫といい私の周りは最近変な奴ばっかだよ。

 私が口ごもったのをを見ると、ジト目で私を見ながら言った。

 

「気にし過ぎじゃないかな。なんだか、萃香おねえちゃんらしくない」

「くっ、悔しいけどその通りだね。しかしいざアイツの前に立つとさ、なんか頭がもやもやして妙な気分になる。何度振り払おうとしてもソイツはずっと私の霧みたいに掻き消えないんだ」

「それは……?」

 

 ふと、足を止めたので私も立ち止まった。

 

「何か、知っているのかい?」

「……」

 

 そうやって黙りこくったもんだから、何かしら心当たりがあるのは間違いないだろう。少し重々しい口調で言う。

 

「……あくまで、私の勘だよ? それでも、いい?」

「ああ、別にかまわないさ」

「そ、そう……」

 

 すると、私に向き直って言った。

 

「——それは、きっと紫ちゃんの過去に原因があると思う。今回月に行くって紫ちゃんは言っていたけど、そこで何かが分かるんじゃないかな? 萃香おねえちゃんの“違和感”の正体も多分……」

 

 コイツの勘はよく当たる。なんで紫の過去に、それも月の話が出てくるのかは分からないけど、コイツにそんなことを聞いても答えが出てくるわけがないので、私はとりあえず『そうか』と頷くしかなかった。

 ん? そういえば、確かに不自然だな。私も、間接的にはコイツも。そして話を聞いた限りだと射命丸も幽々子も妖忌も皆、()()()()()()身の周りががらりと変わってる。元々そうあるべきだったかのように。

 悩む私を前に、少し黙り込んでからまた口を開いた。

 

「——最近、私ね。思い出せそうなんだ」

「ん?」

 

 俯いているから顔は見えないけど、辛そうな顔をしているのは分かった。それしてもさっきから急だね。一体どうしたんだろう? 

 

「私が森で目を覚ます前のこと。時々、夢をみるの。そう、紫ちゃんに会った時くらいから」

「アイツに?」

「うん。萃香おねえちゃんが紫ちゃんと戦った後で、二人を介抱しようと小屋に連れていく最中にね。紫ちゃんに触れたらなんか、よくわからない場所で誰かと話している夢、みたいなものを見たんだ」

「……」

「それを見てから私が萃香おねえちゃんに出会えたのも、皆と集まって協力しているのも、何か大きな“運命”みたいなもので決まっていたんじゃないかと考えちゃって。いけないなと思ってはいてもこの先が少し怖いよ……」

 

 驚いたことに、ついさっき私が考えていたことと、まるで同じことをコイツは考えていたようだった。

 でも私と違うのはコイツがそれを“怖い”と感じているってことだ。

 

「あ……!? ご、ごめんね。急に何言ってるんだって話だよね。い、行こうかっ!」

 

 そう言って下手糞に誤魔化して再び歩き出そうしていた。

 そんな仕草が珍しくて、今までのコイツからは信じられないことだった。

 今、私は始めてコイツが弱音を吐くのを見たんだ。でもそうか。最近大人びて、気丈にふるまっていたのはこういうことか。

 なら、私がコイツの“友達”としてできることはただ一つ。

 

「!?」

 

 私は無理やり手を引き、こっちに向きなおらせて抱き寄せた。

 

「え、ちょ、萃香おねえちゃん……!?」

「大丈夫さ。たとえ全部アンタが言うその“運命”ってやつで決められていたとしても、アンタはここにいる。それは間違えようもないし、私がどこにも行かせはしないよ」

「……」

 

 こんなとき身長が高ければ、なんて思ってしまう。

 抱きしめるとどうにも鼻が肩に当たってしまって、情けない格好になっちゃうんだよね。

 でも、

 

「く、くるしいよ……」

「っは、アンタは丈夫だろう? これくらい我慢しな。さっきまで私に『らしくない』なんて言ってたけど、アンタこそ“らしくない”よ。ほら元気出して、そんな顔は似合わない」

「!?」

 

 一瞬、アイツの体が震えたことに私は気がついた。

 そうさ、そんな辛そうな顔はアンタには似合わないのさ。だから、いつものように——。

 

「もう。こんなときだけ、鬼みたいになるんだから……」

「ふふ、気づくのが相変わらず遅いね。……それに何度言ったら分かるんだい? 私は鬼の中の鬼、伊吹萃香なんだよ?」

「そっか……」

 

 私の腰に手が回された。

 

「少し、このままでいさせて……」

 

 そのままぎゅっと、もうどっちが抱きしめているのか分からなくなったけれど、コイツの気が済むまでされるがままになった。

 

「すいか、おねえちゃん……」

「うん?」

「ありがとう——」

 

 急なことでびっくりしたけど、私は別に嫌じゃない。

 初めて出会ったときに聞かせてもらったコイツの過去の話。それは確かに分からないことだらけで、ある意味紫と似ているけれど——。

 ん……? 

 紫と、似ている? 

 なぜか胸がざわつく。だけどそれでコイツをまた不安にさせるのは良くない。

 

「き、気にするなって。さあ、行こうか」

 

 私達はまた、歩き出す。

 

 しかし私の心の中ではさっきの疑問がずっと、しこりのように残っていた。

 これは一度、紫に月に行く理由を聞いてみるべきかもしれない。そう考えて私は階段を上っていった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 紫達が計画の確認を行ってから三日が経過し、月への侵攻が始まった。

 時はそれから天狗達が率いる妖怪達の軍勢が、月の民と交戦を開始した後、

 

「なぜだ……!?」

 

 大天狗には本陣から見える悲惨な光景が信じられなかった。

 

「大天狗様っ! お逃げください! ここもいずれ危険になります!!」

 

 部下の鴉天狗の声が耳に届かない程度に彼は動揺していたのだ。自分が率いる百の精鋭と入念に策を弄して焚きつけた千にも及ぶ山々の妖怪達。圧倒的戦力をもってして奇襲を仕掛けて月の都に攻め入ろうとしていたのにも関わらず、未だ入り口の門にすら辿り着けていないのである。

 

「くそっ!!」

 

 彼は拳を作り思いきり陣の机に叩きつけた。それもそのはず。

 攻め込むどころか、大天狗が構えていた本陣に逆に攻め込まれているというのだ。

 明らかに与えられていた情報とは敵の戦力が異なっていた。多少の変動は想定してたとはいえ、ここまで完膚なきまでに叩かれるとは思いもよらなかったのである。

 

「一度、撤退する他ないか……幸いにしてこちらの精鋭はまだやられてはおらんし、仕方あるまい。陣を引き体勢を立て直す!! 怪我を負ったものは極力連れ出し、地上への脱出路を確保しつつ撤退せよっ!!」

 

 いつでも地上へ撤退できるように準備をしつつ、反撃できるようであればやり返す。そしてもしも相手方が地上に攻めてくるようであっても、自分たちがよく知る山ならいくらでもやりようはある。むしろ穢れを嫌う月の民は地上に攻め入ることすらしてこないかもしれない。

 つまり今、撤退することは負けを意味するものではない。

 彼の判断は確かにこの状況において正しいものであった。長年にわたって戦の駆け引きを学んできた彼は、劣勢で戦闘を続けることの不利益をよくよく理解していたのだ。

 しかし、

 

「報告しますっ! 地上へ帰還するための術者が皆、首を切って自害した模様っ!!」

「なんだと……!?」

 

 絶望的な報告が彼の顔を蒼白させた。

 なぜ“自害”なのか、それすら考える余裕はなかった。

 事実上、その報告は彼らが二度と地上に戻れないということを意味しているのだ。本陣にいた大天狗を含む少数の者達に大きな動揺を与えるには充分であった。

 

「その事実を知っているのは如何ほどか?」

「大天狗様含めたこの場にいるお方と、私だけでございます」

「そうか、これは他言無用。口に出せば命はないと思え。よいな?」

「はっ!」

 

 この状況で冷静に指示が出せたのはひとえに大天狗の胆力の賜物であった。むしろ彼自身が驚いているくらいである。

 

「して、如何する。大天狗殿?」

「我ら貴方様に続くのみ」

 

 冷静さを取り戻した部下たちを大天狗は誇らしく思うのと同時に無念に感じられた。自分を信じて付いてきてくれることは嬉しいのだが、状況が状況だけに突破口が見えない。

 この場にいる誰かの犠牲は免れないだろう。

 近いうちに鬼と戦おうとしている天狗の里にとって、甚大な被害になることはほぼ間違いないのだから。もしも月に攻め入った自分たちが全滅すればどうなるか、残るのは里に残った鷹派幹部のみなのだから想像は容易につく。あれに鬼を打ち破るような力はない。

 やはり、天狗が鬼を打倒そうなど烏滸がましかったのだ。

 

「はっ……」

 

 先程まで眉間にしわを寄せていた大天狗は急に俯くと、低く笑った。

 

「大天狗殿……?」

 

 部下たちも彼の様子を心配そうに見つめている。すると彼は憑き物が落ちたかのように清々しい顔で言った。

 

「元より我らが先代を救わず、鷹派に恭順することを選んだ時点で碌な死に方をしないと決まっていたのだ。これもきっと因果応報というやつなのだろうよ……」

 

 その場にいた者達は皆、沈黙した。

 

「皆、ここを死地と心得よ。かくなる上は天狗の誇りをもってして月の民と戦うのみ。よいな?」

 

 もう天狗の掟にがんじがらめになるつもりは、大天狗にはなかった。

 彼の、真の戦が始まる——。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月の章:消失

 “ツクヨミ”。

 伝承では月の民がまだ地上に住んでいた頃、人々が暮らす都市の統治者として広く慕われたという。しかし彼女について記述された書物は少なく、謎の多い人物であると言える、

 元々月に関する書物が少ないため当然のことだともいえるが、歴史書とは得てして、時の権力者や、何らかの功績を築いた者についての事柄が残るものだ。まして地上から月へ移住を成し遂げたツクヨミともなれば、その時の記録を残しておかないはずがなく、疑問を覚えない方が不思議なくらいである。

 時間をかけて分かったのは、彼女が星を読み天候や未来の事象を占うことができたことと、血の繋がりのない二人の娘を育てたということの二点のみ。

 それも、月の民だと思われる他数人についての情報は得ることができたにも関わらず、である。

 

 明らかに情報量が少なすぎる。

 月の民との接触から記された書物はいくらか地上に現存するが、それは長い時をかけて少しずつ書き加えられてきたものだ。竹取物語も然り、細やかに記載されている。

 ここまでくると、月の民が“ツクヨミ”についての情報を隠そうとしているのではないかとも考えられた。

 閑話休題。

 

「繋がったわね」

 

 スキマを開いた先に広がる月の海。私だけは本来転送されるべきところに転送されるよう、細工を仕掛けた。

 天狗を含めた他の妖怪達は、スキマを複数経由して月の都の前に広がる平野に転送している。転送の際の複数経由により、こちらが初めにどこにスキマを開いたか、気づかれないようにした。

 月の民達からすれば、突如として目の前に妖怪達が現れたように映ったことだろう。とはいえ、これだけ手を打ったとしても月の賢者たちに察知される危険は残されているため、まだ油断はできない。

 雨風を越え、荒波を越え、そして私は何時ものように境界をも越えて、月の都へと足を踏み入れた。

 

「着いた、か……」

 

 幸い、私が月の都に侵入したことは誰にも気づかれてはいない。周囲は閑散としている。

 その静けさに惑わされぬようゆっくり息を吐き、辺りを見回した。

 

 白く、シミ一つない壁に吸い込まれると見間違うほど真っ黒な屋根。その一つ一つに細やかな装飾の施しや立派な門が備えられており、それが立て並ぶ様は見事としか言いようがなかった。また、その建物の建築様式はあらゆる国の技術、文化が混ざっているようにも感じられ、特に大陸の文化に通ずる部分が多いように思われた。

 言うならば、それぞれの文化の長所を上手く組み合わせて昇華させたような風貌である。それが視界一杯に広がるのだから、地上で例えるなら海の向こうの大陸の都に匹敵するほどの規模ではあるが、決定的な違いがある。それは全ての建物が一様に無機質な素材で構成されており綻びが一切ないことだ。

 

 美しくも味を感じさせない都とは、なんとちぐはぐなことだろうか。

 まるで時という概念が欠落しているかのような、言ってしまえば趣が感じられない、生命が存在しているとは信じられない風景である。

 

「(とはいえ、ゆっくり見ている暇はないし。先を急ぎましょうか)」

 

 じっくりと見てみたいという願望もあるが悠長している暇はない。外で行われている衝突がいつまで続くのかまでは分からないからである。

 まさかあの数ですぐに片が付くとは考えにくいが、空から捜索するわけにもいかない以上、急いておくことに損はないだろう。

 

 空から飛んでいくといった方法は見張りに見つかってしまう可能性が高いため採用できないが、幸いにして外で行われている衝突に人員が割かれているので都の内部自体の警備は薄くなっているようだ。

 例えば今いるところから壁を隔てた屋敷の門の前には二人の門番しかいない。周囲を巡回する兵士も見受けられないし、屋敷の規模を考えれば十分潜入可能だと言える。

 

「(ん?)」

 

 ふと、耳を澄ませば壁の向こう側から月の兵士と思われる者達の話し声が聞こえた。小さく聞き取りづらいものの言語が地上のそれと同じものであったため、ある程度理解することができる。

 

「——が騒がしいようだな」

「ああ。——様が迎え撃つとのことだから、そう時間はかかるまい」

「ほう、ならばこの都の中に侵入されることなど万が一にもないだろうな」

「ああ」

「それにしても、——様が追放され、——様諸共行方が分からなくなってからそれほど経ってもおらんのに、今度は地上の妖怪どもが攻め入って来るとは。間が悪いことこの上ない」

「文句なら上の方にでも言ってくれ」

「はっ、そんなこと言ってしまえば俺の首は永遠に胴体とおさらばするだろうよ」

「違いない」

「おお、怖い、怖い」

 

 何とも緊張感のない会話。

 それはそのまま警備が甘くなっていることを示していた。

 

「(上手くやってくれているようね。さて、そろそろ本格的に探索を始めましょうか……)」

 

 そこで私はその場を静かに離れ、探索を開始した。

 

「(これだけ広ければ、警備の穴もそう少なくないわ)」

 

 これまで、月に侵入するような輩がいなかったこともあるのだろう。

 地上の都に入り込む方がもっと困難だとすら感じた。

 それからは見張りの人数や立地、屋敷の大きさなどから大体の重要度を予想し、“穢れ”で存在を認知されぬよう、私は細心の注意を払いながら屋敷を潜入して回った。

 しかし効率良く探索できたものの、目ぼしい書物は見つからない。

 

「(おかしい。月の都の中でさえこれほどまでにツクヨミの痕跡が消されているなんて……。まるで彼女そのものがいなかったような扱いを受けているわ)」

 

 私は違和感を覚えざるを得なかった。

 地上にあった伝承では確かにツクヨミの存在は記されていた。しかし、月における始まりであったはずの彼女の痕跡が、あろうことか月で消えているという点にどうも納得がいかない。

 月の都を治めたほどの者が人々の記憶から消え去るようなことがありえようか? ましてやここは月。寿命など既に捨てたような者達が暮らす地である。

 

 それでは、ツクヨミとは一体何者なのか。

 

 自分自身のこと然り、母のこと然り。答えのある所のすぐそこまで近づいている気はするのだが、最後の一押しが足りていない気がする。

 捜索を終えて館から立ち去ろうとしたとき、館の門番が相方に向かって言った。

 

「そういえば、ツクヨミ様は今回の襲撃の件についてどうお考えになっていらっしゃるのかねえ」

「さあ、我々にはきっと想像することさえ烏滸がましいのだろうさ」

「(っ!!)」

 

 私は『ツクヨミ』という言葉を、ようやく耳にした。

 どうやら彼女は、確かに存在しているらしい。少しほっとした。

 

「——だが、そろそろ地上の不浄なる者達に罰を与える日も近いのではないか? あのお二人を探すついでにやってしまってもおかしくない」

「おお、そうか。すると——」

「(地上に攻撃を仕掛ける……?)」

 

 しかし続く会話は不穏な内容だ。

 月の民が地上への干渉に踏み切るということなのだろうか。いや、少なくとも月の賢者たちがそのような選択をするとは思えない。彼らはもっと慎重にことを進めるはずだ。

 

「綿——様がご出陣なされるということか?」

「そうなるかもな」

 

 それにどこか、伝承から形作ったツクヨミの印象とは異なっている。

 なぜなら彼女は一貫して地上への不干渉を宣言していたからだ。伝承が全て正しいとは思えないが、これまでの月の民達の行動からある程度信頼できる。あの竹取物語ですら、歯向かった者達のみを殺していたのだから。

 それが今になってなぜ……? 

 

「(これは確かめる必要があるわね)」

 

 きわめて重要な情報だ。地上への侵攻を提言する者がいるなど、想像すらしていなかったのだから。地上へ戻ったら、何らかの対策を講じるべきかもしれない。

 

 それはともかくとして、今の目的を優先しよう。

 幸いにして彼女の存在を確かめることはできた。それに、“ツクヨミ”と呼ばれる存在がいるとされている館の場所も大体つかめた。この月の都の中でも一際大きな屋敷が中央だ。ただ、そこに配備されている兵士の数は他とは異なっていた。それも見るからに精鋭ぞろいであったから、潜入は容易ではないだろう。

 スキマを開き、館の近くまで移動しようとしたときだった。

 

「侵入者だっ!!」

 

 背後から兵士の大声が聞こえた。

 咄嗟に建物の裏に身を隠し、不可視の術を身に施してからじっと息を潜めて辺りの様子を窺う。

 運よく私の懸念は外れ、忙しない足音が迫ってくるとそのまま通り過ぎていったが、安堵する暇もなく、再び不穏な言葉が耳に入った。

 

「鬼だっ! 鬼が都に侵入してきたぞっ!!」

「他の有象無象とは違う! 確実に仕留めろっ!!」

「くそ、どうやって入り込んできた!? 外では我らが終始優勢だったはずではないのか!?」

「走れっ! あの方向は——様の屋敷だっ!!」

 

 まさか、萃香がばれてしまったのだろうか? 

 そもそも彼女は外で戦況を観察してもらう手筈だったはずだ。いくら喧嘩好きで祭り好きな彼女といえども、今回ばかりは自分から与えられた役割を捨てて勝手に行動したりはしないだろう。それに、もしも彼女が訳あって都に侵入したとしても、霧になって姿を消すことができる彼女をどうやって見つけるというのか。

 穢れから居場所を掴むにしても天狗が率いる妖怪達の群れがいる以上、特定するまでにはいかないはずである。

 そうすると、月の民には妖怪の居場所を掴む何らかの能力、もしくは兵器があったと考えるのが妥当。

 警戒をさらに引き上げる必要がありそうである。

 現状、彼女を咎めることはできない。

 

「(困ったわね。萃香がそう簡単には負けることはないでしょうけど、なおさらに場所を早く掴まなければいけなくなったわ)」

 

 不幸中の幸いと言うべきか、残った月の兵士達の警戒が強まったもののさらに人員が少なくなったので今なら侵入は容易だ。

 能力を最大限に活用し、館の中へと足を踏み入れる。

 ここまで侵入した感想だが、月という勢力も一枚岩ではないということだろうか? 館の中は忙しなく人の行き来があるものの、一貫性がなく派閥の存在を感じた。そのため精鋭ぞろいであろうと、警備の連携が疎かで、忍び込むのは難しくない。

 しかし、厄介な能力者と鉢合わせにならずに済んだことについてはただ運が良かったと言えるだろう。

 

「(これだけ広大だと、一つ一つ部屋を当たるのは面倒ね。それほど時間も掛けられないというのに……)」

 

 萃香のこともある。焦る気持ちを抑えながら慎重に潜入を続けた。

 

「(調度品と見たこともない機械ばっかり。それらしい部屋は今のところないわねぇ)」

 

 入り組んだ通路をあちらへこちらへ、そして無数ともいえる部屋を渡り歩く。珍しいものは行く先々で見つかるのだが目当てのものはまたしても見つからない。

 そうこうしている内に、地下まで探して残すところあと一つまできた。

 何の変哲もない、ただの小部屋である。

 

 ——こっちよ。

 

 三日前に計画の確認をしたとき以来。

 

「(まただわ……)」

 

 声が聞こえた。時折、聞こえてくる私にそっくりな声。

 

「(……あの日からずっと、貴方は私の中にいる。消えたと思えばまた聞こえるようになって、私を惑わすの)」

 

 はじめは気味が悪くて仕方なかったが、最近は気に止めなくなっていた私の中の“何か”。

 それはこれまで脈絡もなく不可解な言葉を残しており、自然に気に止めないようにしてきた。何を意味しているのかも分からない、誰に話しかけているのかも分からないような声にいちいち反応してはいられなかったからだ。

 

 しかし、今日はどうであろうか。

 いつも抑揚がなく感情の一切が読み取れなかったのに、声は何か待ちきれないような様子であった。

 

「(まったく。本当に、いつもいつも分からないことばかり。少しは賢くなったつもりだったけど、案外そうでもないみたい)」

 

 そう、心の中で私は自嘲した。

 仕方あるまい。

 

「はあ……」

 

 ここは“声”に従ってみることにしよう、そう考えるに至った私は扉を開き、部屋の中へと踏み入った。

 

「やっぱりね……」

 

 半分、分かり切っていたことだが、中は他の部屋とあまり代わり映えのない。整った調度品や棚が並んでいるだけだ。

 

 ——そこの戸棚の裏に手を触れて……。

 

 視線の先の戸棚。

 これも本当に平凡で、特に力を感じるものではない。

 

「……これ、かしら。でも、何もないみたい……」

 

 また、裏の隙間に手を入れてみても特に装置らしいものはなかった。

 やはり声は出鱈目だったのかと、落胆を隠せず溜息をつこうというそのときだった。

 

「——えっ」

 

 私は戸棚そのものに吸い込まれた。否、戸棚は私の体を飲み込んだ。

 身体が宙に浮遊するような、スキマで転移するときとはまた異なった感覚であり、視界も何も見えなくなってしまった。

 

「なんなのよ、もう……」

 

 暗闇からようやく抜け出すといつの間にか、周囲の景色が様変わりしていた。あれはスキマと同じ、一種の転移のようなものだったのだろうか。すると戸棚の後ろにあったのはそのスイッチであったに違いない。

 しかし。

 

「強制転移をあれほど短時間でかつ副作用もなく行うなんて、不可能ではなかったのかしら……?」

 

 空間の狭間を永久に彷徨うことになるか、身体が木端微塵になってもおかしくはなかったはずだ。不意打ちとはいえ無事でよかった安堵しつつも、月の技術の一端を見た私は背筋が凍るような思いをした。

 それはともかく、声に従った結果自分でもよく分からない場所に転送されてしまったわけで、少し困った状況にある。

 そもそも目の前にある、この古くて真っ黒な扉は一体何なのだろうか。

 周囲が暗くて一見すると判別がつかないが、確かに扉らしいものがあるのだ。重々しい雰囲気を漂わせているが、はたして開けるべきか、開けないべきか。先程、声の言う通りにしたら不意打ちで転移させられてしまったので余計に警戒してしまう。

 

 ——ここよ。

 

 と、考えているうちに再び声が私の頭の中に響く。

 どうやらこの先に私の探すものがあると言っているようだ。先程の戸棚の件といい、確かに声は私をここまで導いてくれた。

 しかし、私は無性に開けたくなかった。この先に進むことが怖いような、恐ろしいような。きっと警鐘を鳴らしているのだ。『引き返せ』、『その扉を開けるな』と。

 

「(恐れている? この私が……?)」

 

 恐怖、とはこんな感情であったか。

 それとも——。

 

「あれ……?」

 

 おかしい……。

 

「どう、して……?」

 

 一歩、また一歩と確かな歩みで、私の意志に反して体は前に進もうとする。

 

「そんな…………?」

 

 行ってはならない。行ってはならないはずなのに、私は扉に手を掛けてしまった。

 

 

 

 ******

 

 

 

「うひゃあ、これはまた一方的だねぇ」

 

 月の民ってのは容赦ないなあ。

 手に持っている複雑な形をしたよくわからない鉄の棒の先を向けたら、妖怪が十も二十も一気にバラバラになっちまっているよ。

 あそこまで圧倒的ならそう時間は残されていないみたい。まあ、アイツが失敗したところで私がどうこうなるってわけでもないし、あまり気にしちゃいないんだけど、手を貸すっていうのに失敗されるのも何かね。

 

 う~ん……むぅ……むむぅ……。

 

 そんなこんなで私は悶々としつつ、そして妖力を隠しつつ霧になって戦場を眺めていた。

 一応分身が白玉楼にいるから幽々子に今どんな状況なのかを伝えている。向こうの私がさっきの鉄の棒の話をしたら『まあ、怖いわぁ』なんて言いながら大福食べてやがった。

 本当に、お前さんは暢気だねぇ。ちょっと一つ私にもおくれよ。

 え? くれないの? 

 いいじゃん、一つぐらい。私だって今回は表立って動けないんだ。

 とはいえ、誰かが戦っていたり、面白い反応しているところを見るのは嫌いじゃないからそれほど暇してるわけじゃないんだけどねぇ。

 

「おっと、流れ弾が」

 

 飛んできた物体を試しに掴んでみたら、何かの金属でできた丸い弾だった。へえ、こんなのを飛ばしてきてるんだ。

 持ってると何か嫌な感じがするからきっとこれには退魔の術式でも施されるんだろう。こんなにちっこい弾を沢山飛ばせば、そりゃあ並みの妖怪じゃバラバラになるわけだよ。

 それに、少し離れたところに立ってる私のとこまで届くなんてなかなか便利じゃないか。月の連中も面白いこと考えるなぁ。

 

「おっ、天狗が遂に動いたみたいだ」

 

 天狗どもがいる本陣がいよいよもって騒がしくなった。

 陣をたたんでるところからして、一度退くみたい。あれだけやられているし、率いているのが大天狗なら当然かな。

 劣勢で引き際ってのを心得ている辺り無能じゃない。あれは確か、前の天魔の時からいた奴で私達とも一度やり合ったことがあった。

 まさかアイツも鷹派になびくなんて。その時のことを覚えているだけにちょっと残念な気もするな。なかなか天狗にしては見所がある奴だったのに。

 

「それにしても……」

 

 いや、分かってる。分かってはいるんだけどさ。私は鬼だから、

 

「あぁ~、混ざりたいねぇ」

 

 派手な喧嘩に混ざりたかった。

 数千の妖怪とそれを迎え撃つ月の民。妖怪達の目はどいつもこいつもギラギラと血走っているし、月の連中の目はどこまでも冷たい。それらが皆入り混じっている様は、なかなか圧巻さ。見ているだけの私ですら血が湧きだってくるような——。

 ここで混ざりたくならなかったら、そいつは鬼とは言えないだろう。

 まあ、癪だけど紫の計画とやらに手を貸すと一度決めた以上、それを破って勝手に行動するわけにもいかないし。アイツにもきつく言われているから今回は我慢我慢。

 

「ん?」

 

 目を凝らすと、さっきまで退く様子だったはずの天狗達が、月の連中めがけて突っ込んでるのが見えた。さっきまでとは真逆のことをしてるね。

 でも少し考えればそれもそうかとすぐに納得した。

 

「まったくアイツは、手を下すのが早い。大天狗が撤退を命じようとした直前に自害に見せかけて式を外すなんて……」

 

 本当に、そういうところは抜け目がないよ。ていうか潜入しながらそちらにも気を回すなんて、アイツの頭の中は一体どうなってるんだろうね。頭の中に小人を何人か飼ってるんだろうか? 

 向こうの私がそんなことを呟いたら幽々子が言った。

 

『色々どじをやらかす“割と困ったちゃん”だけど、やるときはやるの。それがまた危なっかしいというか、私は時々不安になるわ』

 

 褒めてるか、貶してるのか分からない。けれど幽々子はいつもと変わらない笑顔だ。

 アンタ、結構苦労してるんだね。

 

『うふふ』

 

 うん。本当に、いい笑顔だ。

 ……おっと寒気が。

 

『それで、紫は無事に都に入り込めているの?』

 

 さあ、でも都の方が静かな辺り、ばれてはいないんじゃない? 

 

『そう……』

 

 一転して、幽々子の顔は曇った。というか、今日はずっとこの調子だ。ちょいちょい紫の様子を私に聞いて、その度に心配そうな顔をしてる。『そんなに心配ならついていけばよかったのに。いいじゃん今からでも行っちまえよ』と、私は言ったんだけど、『紫を信じる』って聞かないんだよねぇ。

 白玉楼にいる私の分身は今、縁側で肘をつきながら寝そべって酒を煽ってる。その隣に座る幽々子はぼんやりとしているようで、しかしどこか落ち着かない様子だ。こんな幽々子は初めて見るね。

 きっと私にとってあの娘が大切なように、幽々子にとってアイツはそれだけ大切なんだろうな。

 私だって無茶をされたら心配の一つはするかもしれない。

 だから言ってやった。

『アンタがいくらそこで心配したってさ、アイツには届かない。だってそうだろう? 思っていることが離れたところから、そっくりそのまま相手に伝わるとは限らないんだから』と。

 これから行動していけばいいのさ。すくなくとも、私だったらそうするね。

 少し考えた幽々子は私の意図を察したらしい。

 

『……うん。ありがとう、萃香』

 

 私の方を向いて、微笑んだ。

 少しだけ、説教臭くなっちまったかね。

 とはいえまさかこの私が他人に説教することになるとは。

 これも博麗の奴に毒されちゃっているからなのか、私も変わったもんだなぁ。想像の中で、博麗がにっこりと笑っているのがありありと思い浮かべることができた。

 刹那、

 

「んあ……?」

 

 幽々子との会話の方に集中していた私だったが、すぐに意識を戻した。

 

「何だ……アイツ……?」

 

 月の連中から一人、こっそり都に戻ろうとしている奴がいる。仲間は必死に戦っているのにどうしてアイツだけ……? 

 不審な動きを見せるソイツをしばらく目で追っていたけれど、その内に門の中に入ってしまって見えなくなってしまった。

 どうにも嫌な予感がした。

 

「追ってみるか……」

 

 一応、確認は必要だ。

 

「不審な奴を見かけた。どうやら都の方へ行くみたいだ。追ってみるが、いいかい?」

『ええ。萃香、お願いできるかしら。聞いた限り、その月の兵士は明らかにおかしいわ』

「やっぱりアンタもそう思うかい、幽々子」

 

 承諾を受けた私はすぐさま霧になって門を乗り越えた。

 私は疎を操れば霧になれる。当然妖気も分散するから広がってしまえば気づかれることはない。事実今まで気づかれなかったし、これからもそうだと思っていた。

 門を越えれば丁度遠くで一番大きな屋敷に入ろうとするのが見えて——。

 

「っ!!?」

「く、曲者だっ!!」

 

 霧である私の体を弾丸が貫く。

 なぜかばれちまった。

 かなり距離があったから大丈夫だろうって高を括ってたけど、どうやら勘のいい奴がいたようだね。

 いや、まさかさっきの奴が? 

 考える余裕を与えてくれるわけでもないし、これは後にでもしておこう。

 

「霧に紛れているぞ!!」

「くそ、まさか侵入してくるとはっ!」

「関係ない、叩き潰せっ!!」

 

 それにしても、随分と殺気立っているね。

 威勢がいいじゃないか。そういうのは嫌いじゃない。

 

「……さて、潜んでたことに気づかれてしまったわけだけどまあ、これは不可抗力だ。そうだよね、幽々子?」

『萃香……、貴方まさか』

「ああ。さっきの奴だけど、追うのは少し厳しくなった」

『どうにもできない、かしら?』

「侵入者だ!」

「妖怪が都に侵入してきたぞっ!」

 

 集まって来る足音。それに防具や武具が擦れてガチャガチャと音を立て、にわかに騒がしくなってきた。明らかに数人規模じゃあ、ないだろう。

 

「どうにもできないわけじゃない。しかし仕方ないねぇ、うん、これはもう、仕方ない。こいつらを全員叩きのめしたら、アイツを追うことにするよ」

『やっぱりね……。はぁ、もう萃香ったら……』

 

 幽々子の溜息を無視しつつ、いけないとは思っていても頬が自然と緩んでしまう。

 一度存在を知られてしまった以上、私がこのまま逃げたところで意味はない。だったらここでひと暴れした方が連中の注意を引くことができるし私も満足だ。アイツにはどやされるかもしれないが知ったことか。ばれちゃったんだからしょうがないだろう。

 今回は自重? 

 前言撤回だ。

 やっぱり私は、

 

「ははははははっ!! いいねぇっ!! かかってきなぁっ!!!」

 

 喧嘩がめっぽう好きらしい。

 

「ふんっ」

 

 手始めに地面に向けて拳を突き刺す。

 その衝撃で隆起した地面が盾となり、飛んでくる無数の弾を弾き飛ばした。それでも何発かは貰っちゃったけど、この程度じゃ鬼の体は破れないよ。私の体に傷をつけたきゃこんなもんじゃ全然足りない。

 

「ほらほら、私の体はピンピンしているよっ!」

「くそっ、他の有象無象とは違う!」

「応援を呼べっ!!」

 

 奴らは効かなかったことに驚いてるみたい。

 まったく、舐めてもらっちゃ困るね。

 しかし奴らは鬼ってのを知らないのか、それとも大昔には鬼がいなかったのかね? 

 もしそうだっていうなら、教えてやろう。

 

 ——鬼の恐ろしさってやつをさ。

 

 

 

 ******

 

 

 

 暗い、ここが月とは考えられないような、光の届かない空間。

 

 低い音を立てて、扉が重々しく開く。

 それとほぼ同時に私の心の臓が激しく鼓動する。それは息が辛く感じるほどだった。それでも足を止めなかったのは、きっと私の中の“何か”が立ち止まり引き返すことを許さなかったからだと思う。

 

 ——やっと、辿り着けた……。

 

 感極まったような声色の“何か”はそう呟いた。

 そこは小さな暗い部屋。

 壁が僅かに蒼く発光しているようで中の様子を見渡すことはできる。

 まず目に留まったのは無数の手紙だった。

 

「……手紙……こんなにたくさん……」

 

 きっちりと重ねられたそれらは腰の位置まで届こうかという高さであった。

 私は恐る恐る積み重ねられた手紙の一つ手に取り、開いた。

 

「これは……?」

 

 

 拝啓——へ。

 

 貴方がいなくなってから、もう——年が過ぎました。早いものですね——

 その間に世の中は大分変わりましたよ。それはもう、想像もできないほどに。

 きっと貴方もびっくりすることでしょう。

 そうそう、私は元気です。この前は初めて空を飛びました。

 スゴイでしょう? 空中でふわぁってなるの、ちょっと癖になりそうでした。

 貴方にも見せてあげたかったなあ。

 ねえ、貴方は一体どこにいるの? 

 探しても探しても探しても探しても探しても——

 貴方は見つからない。見つけられない。思い浮かんだ試みが失敗するたびに何度も心が折れそうになった。

 夜が来るのが怖いよ。夜が来て、明けてしまえば貴方のことをまた忘れそうになってしまうような気がして。そしてそんな弱気な自分が嫌になって。

 ああ、——。

 会いたい。

 貴方にただ、会いたいよ。私の——。

 

 

 手紙を持つ手が、震えた。

 私の視界には二つの帽子。

 一つは紅いリボンが施された、白い帽子。

 

 そして、

 

 白いリボンが施された、黒い帽子。

 

 ああ、

 

 これは彼女の、

 

 ——の帽子だ。

 

 頭の中を電流が流れていくような感覚と共に、私は記憶を取り戻した。

 

「『待っているわ。貴方が私を見つけてくれるまで……』」

 

 自然と口にした、あの日、彼女に贈った最後の言葉。

 

『——、……行かないで……』

 

 思い出した、あの日聞いた彼女の最後の言葉。

 

 ——私はずっと信じていた。

 

 そうだ。私はずっと、信じていたんだ。

 

 ——きっと彼女が迎えに来てくれるって。でも、

 

 待たせていたのは、私だった。

 

 ——待っていてくれたのに。私は結局間に合わなかった。

 

 その通りだ。もう取り返しはつかない。なぜなら、

 

 ——彼女は既に、逝ってしまった。

 

「そうか……」

 

 ——私がこの世界に来た時には、

 

 遅かったのか、全部。

 

 ——ここまでお疲れ様、私。

 

「ふふ、ははは……」

 

 不思議と笑いが込み上げてきた。

 急に真実を知らされても、現実味がない。

 ごめんね。幽々子、妖忌、茜、萃香。

 

「そうか、この世界では」

 

 紛れもなく、私は——。

 

「私の方が異物だったのか……」

 

 この世界に、私の居場所なんて元からなかったみたい。

 なんて情けないんだろう。

 なんて愚かなんだろう。

 そして、なんて滑稽なことだったのだろう。

 

「お母さんは間違っていた。私が生まれたときに入り込んだ“何か”は私そのものだ」

 

 分かってしまえば何ということもなかった。

 

「私という人格そのものが、ただの“器”にすぎなかったんだ……」

 

 馬鹿みたいよね。

 自分を探した末に、辿り着いた答えがこんな結末だなんて。

 途端に、意識が遠のいてきた。これが“死”なのか、それとも“生”なのか。それすらも、今の私には判別がつかなかった。

 これからも私は私であり続ける。それは揺るがない。

 それでもきっと、この“自我”は取り込まれなくなってしまうのだろう。

 

「さよなら、私——」

 

 ごめんね、ありがとう。

 

「さよなら……わ、た……し————」

 

 

 ***

 

『ようこそ、————へ。メンバーは今のところ私と貴方だけよ』

 

『私は——。これからよろしくね!!』

 

『——、私ね、実はこの世界の仕組みが分かるんだ……って、その顔は信じてないなっ!? いいもんその内にびっくりさせてやるんだからっ』

 

『——、ごめん。また遅刻しちゃった……。わ、悪いとは思ってるよ!?』

 

『——、貴方の能力って本当に不便よね。使いどころが難しすぎない? ……え? 私の方が不便? …………いやいやそれはないでしょう?』

 

『——、これってとっても不思議じゃない? ふふ、やっぱり。ねえ、今から調べに行きましょうよっ!』

 

『——、今度の旅行は宇宙にでも行こうか? …………なによ……て、照れてないっ! 照れてないってばぁっっ!?』

 

『——、ずっと一緒だよ。貴方が遠くに行ってしまわないよう、私が離さないから』

 

『——、……行かないで……』

 

 ***

 

 

 少女は手紙を閉じた。

 そして、赤いリボンが施された白い帽子を被り、目尻の涙を拭った。

 

「月面旅行、か……。それもまた、いいかもしれないわね」

 

 彼女は儚く笑い、

 

「ねえ、——」

 

 その場を去った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月の章:新たな風

 あのとき、私は何もできなかった。

 

 

 兄弟姉妹が切り捨てられていく中、尻尾を巻いて逃げるしかなかった。母と親族の首が吊るされ、苦しんだ末動かなくなるのをただ見ていることしかできなかった。

 最後に、無念の思いを抱えた父の首が宙を飛ぶのを見ていることしかできなかった。

 

 私は、あまりにも無力だった。

 

 どうして私だけ生き残ってしまったのだろう? 

 誰もその問いには答えてくれない。無意味なことだって分かっているはずなのに、私はただ、ぼんやりと当てもない山道を歩いた。

 不意に足元を這う木の蔦に足を取られた。転んで擦りむいた私の手の平からは、真っ赤な血が流れた。

 

『血だ。これは、私の血。抗いようもない、私の証』

 

 怒りが込み上げてきた。何に向けたものなのか自分でも分からない、やり場のない怒りだった。だからだろうか、感情の昂ぶりが鎮まると虚しさが私を襲った。

 物音一つ聞こえてこない、真っ暗な道はこれからの私の運命を表しているかのように思えた。

 

 射命丸という名を背負うことに不安しかなかった。

 自分のような、いつもいつも後ろ向きな意気地なしが使命を全うできるはずがないと。本来死ぬべきだった私だけが生き残ったって何もできないと、そう思っていた。

 それでも諦めきれなかったのはきっと、父の最後の言葉の所為。

 

『茜、よく聞いて欲しい。これから私は処刑されるだろう。……いや、私だけではない。一族の者は皆、処刑されることになる。だがな、奴らの好きにはさせない。我々が全てをかけてお前を逃がす。だから……奴らの計画を防いでほしい。何としてでもだ』

 

 そう、これは呪いだ。

 だってひどい話じゃないか。

 散々今まで私を射命丸の面汚しと叱りつけてきた癖に、最後の最後になってあんな風に頼んでくるなんて。お前にしかできないと言われてしまったら、私が、そんな、断れる訳がないじゃないか。

 だって全てから逃げるだけの勇気も持ち合わせていないのだから。

 

 それから、私は惑いながらも協力者を得るべく各地をまわった。しかし、先に鷹派は手を回していたらしく、相手先は断るかこちらを捕らえようと襲いかかってくるばかりだった。

 断られて、断られて断られて。

 裏切られて、裏切られて裏切られて、そしてまた、裏切られて。

 

 次第に私の心は擦り切れていき、無理やりいつものように笑って自分をごまかすようになった。笑う度、心にどんどんとひびが入っていくのが分かっていたのに。それを埋めるように私はまた、笑った。

 心の内で、『辛い』、『もう嫌だ』と現実から逃げようとする自分が嫌いでならない。

 どうして私なんかが生き残ってしまったのだろう。立ち止まってしまっていた私はただ、運命を呪った。

 

 そして数カ月。もう頼るところが他になくなった頃に、辺りでは見かけない、奇妙な出で立ちの二人組の話し声が聞こえた。曰く、“境界”の妖怪と呼ばれている。曰く、“始まり”にして“最後の”祝福されし子。

 どうして彼女に頼ろうとしたのかは分からない。しかし、これが駄目ならそのときこそ諦めよう、そう私は決意し少ない情報を頼りに能力で彼女を探した。

 そして、彼女と出会った。

 今からすれば、本当に彼女との出会いは偶然だとしか思えない。

 

『一目見れば何となく分かるわ。さあ、早く出て行ってくれないかしら? 私、眠いの』

 

 怖い人だと思っていた。しかし一言、二言話しただけで怖くなくなった。同時に、この人じゃなきゃダメだ、絶対にここで諦めちゃダメだと、強く思った。その後も必死に懇願した末、

 

『いいわ。協力してあげる』

 

 声を聞いて、震えた。

 私が呪った運命は、ここで変わったのではないだろうか。

 私は弱かった。そして弱い自分を言い訳にして、何もできないと決めつけて、一人苦しんでいただけだった。

 でも、今は違う。

 あの人と会って、少しだけでも変われた気がするんだ。

 あの人は、私に抗えるだけの力をくれた。何もできないと思い込んでいた私に、自分で決めつけていた限界を超えてみせろと言った。戦うたびに自分が一日前の自分よりも前に進めているような気がして。

 

『紫さん。私は貴方に出会えなければ、ずっと見失ったままだったかもしれません』

『へえ、何を?』

『自分です。やはり心は、他者あってこそ変わっていくものなのですね』

『……そう。まあ、貴方の好きなように解釈すると良いわ』

『はい……』

 

 ——。

 意識を戻す。

 頬に当たる風は、いつもよりも暖かく、私の背を押してくれていて。背中の翼を目一杯広げれば、風を掴み、ぐんぐんと前に進む。

 うん。今日の風は、私の味方をしてくれている気がします。

 

「茜殿、どうかされましたか?」

「——ほえ?」

 

 あ、うっかりして変な声が出てしまいました。

 妖忌さんは気配を隠すのが本当にお上手ですね。それに、今は結構な速さで飛んでいるはずなのに、妖忌さんは簡単に追いついてきています。速さだけが売りの私ですが、自信なくなっちゃいそうですよ……。

 でも私、そんなにぼうっとしているように見えましたかね? 

 

「い、いえ。まだ一年も経っていないというのに懐かしいと感じてしまいまして。不思議なものです」

 

 隣で悠々と飛ぶ妖忌さんは少し眉を上げました。少しだけ穏やかな表情と言いますか、普段私と接するときはあまり見られないお顔です。

 

「…………貴方は——」

「?」

「いえ、なにも言いますまい。お気になさらなず」

 

 気にはなりましたがここで聞くには野暮というもの。それに今は、目の前のことに集中すべきです。

 あと少しで天魔の屋敷に到着するのですから。

 父を、母を、私の家族を奪った元凶がこの先にいる。

 それだけで私の体はかっと熱くなって、冷静でいられなくなってしまいそうになる。でも私は、前の私とは違うんだ。

 

「(いきますよ、茜。腹を括りなさい)」

 

 ——私は今日。過去の自分と決別する。

 

 

 

 ******

 

 

 

 天魔の屋敷。それは人里から離れた山々の内、ひと際高い山の頂上付近に建っている。そもそも天狗という種族は高度な社会構造を持ち、身分が高いもの程山の高い所に住まいを持つ。ゆえに天魔とは天狗の長であり、鬼という種族を除けば、山の長でもあるのだ。彼らは誇り高い種族としても知られ、弱者と認めた者には高圧的に接する。山の頂上に君臨することは彼らにとって一つの誇りであった。

 そんな妖怪の山の見張り台には二人の白狼天狗が立っていた。

 現在、大天狗を含めた“射命丸に仕えていた部族”の者達が月への侵攻に駆り出されており、天狗の里全体でいえば、守りが薄くなっている。

 しかし山の天狗すべてを敵に回すようなものがいない限り、何も起こらないとはいえ天狗達は警戒を怠りはしなかった。

 

「暇だな」

「ああ、今頃大天狗様たちは月の都に攻め入っているというのに、まさか俺たちが門番を任されるとはな。早く鬼との全面戦争になってほしいものだ」

「そうだな。今度こそ、我らの力を見せつけてやる」

 

 他愛もない話をしながらも、彼らは決して気を抜くようなことなく門番の仕事をこなしていた。そんな二人だからこそ、異変に気付くのも早かった。

 

「おい……、なんだあれは……?」

「どうした?」

 

 白狼天狗の内の一人は、迫りくる二つの影を捉えた。鋭い妖力を伴いながら空から高速で接近するものと、妖力を感じさせない不気味なもの。これまで妖怪の山に攻め入ろうとした狼藉者は少なくないが、ここまで察知されずに来た者はいなかった。それゆえ気が緩みがちになっていたが、

 

「近づいてくる……、これは……」

「ああ、分かってる。お前は報告に行け。俺は曲者を抑える」

「了解」

 

 しかし、二人は任務に忠実な白狼天狗である。

 訓練通り、すぐさま一人は応援を要請しつつ警戒を周囲に伝えに行き、もう一人は刀を抜いて臨戦態勢を取る。ここまでにかかった時間は、ほんの数秒。彼らがよく訓練され、実戦経験を積んでいることの成果でもあった。

 

「さて」

 

 残った白狼天狗の青年は空を見据えた。すると不意に、空から接近する二つの影の内、一つが加速を始めた。

 まさか、着地する気がないというのか。

 それとも、なにか作戦があってのことなのか。

 そもそもあれは、生物なのか? 

 

 状況を整理し最適な行動を取るべく思考をしている最中、黒い物体はまた加速した。

 速い。速すぎる。

 もはや判断する余裕も与えないような速度である。

 

「……!? おいおい、まだ加速するのか。冗談じゃないぞ……?」

 

 ここで初めて彼の額に汗が流れた。

 

「くそ、速いっ!!」

 

 一直線に自分めがけて飛んでくるというのに、もはや目で姿を捉えることはできない。しかし軌道だけならば先読むことができるはずだ。そう判断した彼が握りしめた刀をもってして受け止めようとした瞬間、

 

「——グハァッッ!??」

 

 白狼天狗の青年はみぞおちに()()()()()()()()。そして衝撃によって地面を何度も撥ね、後ろにあった大木に衝突した。

 立ち昇る土煙に、木々が何本もへし折れる物音。まさに恐るべき破壊力。

 たったの一撃で白狼天狗の屈強な兵士を戦闘不能にまで追い込んでしまったのである。

 

「くそ……き、貴様……何者だ……?」

 

 彼は暗くなった視界で、懸命にその職務をなそうとしていた。しかし、彼の不運は相手が“着地”という概念をかなぐり捨てた変わり者であることにあったかもしれない。

 

「はわわわ、ご、ごめんなさい……着地、失敗しちゃいました……」

「茜殿。彼はすでに、もう……」

「え、わぁぁぁっ!!? ま、まさか私、やっちゃったんですかっ? そんな、天狗の里の若い白狼天狗の命を、私は奪ってしまったと……!!?」

「……」

「何か言ってくださいよぉぉぉぅぅ……」

 

 報告に向かった白狼天狗を無事気絶させ、木に縛って戻ってきた妖忌の肩をがくがくと揺する茜に、呆れたように言う。

 

「いえ……その方は死んではおりません。気を失っております」

「よ、よかった……」

 

 胸をなでおろす鴉天狗の少女に少々呆れながらも、まあこれが平常運転かと妖忌は納得した。

 こうして射命丸茜は、約半年ぶりに妖怪の山へと降り立った。

 そしてこの瞬間、天狗の里を支配する鷹派へのクーデターが始まった。

 

 

 

 ******

 

 

 

「あ、茜様!! こちらでございます」

 

 見張りの白狼天狗を見事に無力化した後、二人は件の協力者を名乗る鴉天狗の少女と落ち合った。茜が天狗の里から逃亡する手助けをしたほか、里内部の情報を密かに流してくれたのも彼女である。

 

 予定していた時刻通りに集合場所へ姿を現した協力者の少女は、茜に会うなり涙を流して再会を喜んでいた。

 少女が泣きべそをかきながら言うには、射命丸が過去に作り上げた抜け穴を使えば、誰からも気づかれることなく天魔の屋敷に向かうことができるらしい。

 

「ありがとうございます。貴方のおかげで、戦闘を最小限に抑えられそうですよ」

「え、えへへ」

 

 この見るからに非力そうな少女は射命丸に仕える部族の一人で、追手に狙われる前に里を抜け出したため、今日まで生き延びられたようである。

 嬉しそうに『茜様、茜様っ』と名を呼ぶ少女の姿に、妖忌は警戒を解いた。紫からは忠告を受けていたが、この様子ならば裏切るようなこともないだろう。

 

 ただし、いつまでも再会を喜んでいるわけにはいかない。

 先ほど見張りの二人の気を失わせた以上、他の者達に気づかれることは確実。時間を惜しまなければならなかった。妖忌が声をかける前に少女の肩に両手を置いて体を離した茜は、それまで綻んでいた表情を引き締める。

 

「私達は急ぎ天魔の屋敷に向かいます。もう少しですから、貴方は今しばらく身を隠していてください。それでは、あまり時間がないので私達はこれにて——」

「……ふえ? あ、ちょっとお待ちをっっ!!?」

 

 半年間の修行を経て力をつけた茜の加速力は、並みの天狗の比ではない。

 一呼吸遅れた少女が茜達二人の方を向けば、

 

「……」

 

 そこには既に誰もいなかった。

 

「……え? あれ、ちょっと待って……」

 

 一瞬、膠着した後に再起動した少女。

 再会を喜ぶあまり、何か忘れてはいなかっただろうか。

 

「あ、あぁぁぁっ!!?? まずいまずい急がなきゃ!!?」

 

 本来なら連れてくるはずであったのだが、茜が無事であったことに安堵した彼女は、“使命”がすっかり頭から抜け落ちてしまい、

 

「(ぬ、ぬかったぁ~っ!?)」

 

 茜に“あること”を伝える機会を逃し、先に行かせてしまったのであった。

 何という失態か。

 とある人物を茜の元へ連れてくるべく、少女は森の中を懸命に走った。

 

 

 一方、先に進んだ二人は順調に天魔の屋敷まで辿り着くことに成功した。その道のりでは邪魔立てにあうこともなく、抜け穴の途中、茜が数度にわたってドジを踏んですっ転んだ(いつものこと)以外何もない。それはかえって上手くいきすぎているように、妖忌には感じられた。

 協力者の少女ではない、何か別の存在の思惑があるような。

 その嫌な予感は、見事に的中する。

 

「誰もいない……」

 

 天魔の屋敷内、そこには誰もいなかった。門番を含め、警備の者が誰も天魔の屋敷にいないのである。

 いくら警備が手薄くなっているとは言え、異常であった。順調に進み過ぎていたことも相まって、この事態があらかじめ作り上げられたものではないかという懸念も生まれる。

 二人は慎重に屋敷を捜索した。

 

「妖忌さん、この匂いは……!」

 

 屋敷の奥に侵入し、大広間へ続く薄暗い廊下を歩いたところで茜が異常に気づいた。

 

「血の匂い、ですな。それもまだ新しい……」

 

 二人の歩みが速くなる。茜はなにやら胸騒ぎがしていた。天魔の屋敷は広いとあって、中で何があろうと外まで音が聞こえてこない。

 外部に情報が漏れぬようになっているのだ。

 

「急ぎましょう」

「そうですな」

 

 ぱん、と乾いた音と共に襖を開く。

 

 外の光が入らない構造となっており、灯が消えているせいか部屋の中は薄暗く、ようやく目が慣れると二人は部屋の有り様を目撃した。

 

「馬鹿な……」

 

 そう呟いたのは妖忌である。

 床にこびりついた大量の血痕。部屋いっぱいに漂う血の臭い。

 

「死んでいる…………!?」

 

 鷹派の幹部達は動かぬ屍となっていた。皆自らの首に短刀を突き立てて、そのまま掻っ切ったようである。

 勢いよく噴き上げたらしい血液が壁を濡らし、広間の床には、大きな血だまりができていた。

 

「情報が漏れていた線は薄い。ならば彼らはどうして?」

 

 天魔を含めた天狗達の顔は皆、無表情であった。彼らは何を思い自害したのか、死に顔からはまったく想像がつかない。

 不気味なまでに屋敷内が静かだと思えば、まさか死んでいるとは。

 なぜ、外の天狗達は気づけなかったのか。定期的に報告に来る者がいるはずであるのにも関わらず、明らかに不自然である。

 

「茜殿?」

 

 妖忌がことの次第を考えていると、隣の彼女の様子がおかしかった。

 

「……茜殿?」

「ッ!? あ、いや、なんでもありません……」

 

 それは青ざめた顔で、すぐに妖忌の方を向くやいなや何でもないように振舞っていたが、明らかに顔色が悪かった。

 

「ふむ。ならばよいのですが……」

 

 妖忌は聞こうにも聞けない。彼女が一体どんな思いでここまで来たのか、彼には計り知れないからである。

 

 

 ひとまず、二人は状況を整理した。

 一つ、鷹派幹部は一人残らず自害している。

 二つ、他殺の可能性は低い。

 三つ、外の他の天狗達がその事実を知っている様子はなかった。

 

 

 本来の目的は茜が首を挙げることである。しかし、それを遂行することは不可能になってしまった。

 だが、ここで彼女の天魔継承権が関係してくる。射命丸は確かに滅亡したが、その名は未だ天狗の里で大きな意味を持つ。すなわち現時点での次期天魔候補筆頭は、茜ということになるのだ。

 天魔の親族に継承できる者はいなかったことが幸いであった。

 

「茜殿。計画に狂いは生じましたが、それは致命的ではありませぬ」

「はい……。分かっています。ひとまず、ここを出ましょう……」

 

 茜は一度振り返り、天魔の骸を見つめた。

 死んだ者の目は無論、何も移していない。

 茜は手を握りしめた。

 その手からはどす黒い血が滴り落ちた。

 

 

 

 ******

 

 

 

 天魔の屋敷を出る折、屋敷の戸口付近に何者かの気配がした。

 なんの前ぶりもなく、突然のことであった。近づいて来るのではなく、何もなかったところから急に現れたのである。そんなことができる人物は一人しか心当たりがない。

 急ぎ気配がした屋敷前へと向かえば、そこにはぼろぼろの姿の鴉天狗がいた。

 

「ッ!?」

 

 立ち尽くしていたのは父の腹心の家臣でありながら、鷹派が権力を握ったと共に裏切った男。

 そして、茜の父の首を刎ねた張本人。

 茜からすれば正直、先程の天魔を含めた鷹派の幹部よりも憎い敵であった。

 

「大天狗、なぜ貴方が……!?」

 

 驚愕のあまり、茜の声は震えていた。

 その男は大天狗。月の都攻めを任された天狗の里における重役である。

 どうして月の都で戦っているはずの大天狗がここにいるのか。到底信じられないことであった。

 

「貴方は月の都に攻め入ったはずでしょう!? それなのにどうしてっ——!!」

「……」

 

 大天狗は口を開かなかった。

 彼自身、自分の身に起きたことを飲み込むのに精一杯といった様子であった。

 その様子を察しながら、茜は半ば衝動に突き動かされて大天狗に飛びかかった。すぐさま両手で大天狗の胸倉を掴むと、服に跡が残りそうな程に皺が寄った。

 この時点で茜の頭の中は真っ白になっていた。

 

「答えなさいっっ!!」

「…………」

 

 いつも温厚で腰が低い彼女にしては珍しい、怒気をはらんだ声。なおも答える素振りを見せないことに苛立った茜は腰に差した刀を素早く抜き、その刃を大天狗の首に当てた。

 

「もう一度言います……私の質問に答えなさい。これは天魔後継者たる私の、正当な権利。拒否の意思が見られた場合、即刻、この場で首を刎ねます」

 

 もはや同一人物かと疑うほどの冷え切った声に、妖忌は彼女の中に潜む黒く煮えたぎるような憎しみを見た。天魔の屋敷を襲撃する前はあれほどいつも通りであったというのに、大天狗に向ける殺気は尋常ではない。

 

「(よほど、恨んでいるのでしょうな……)」

 

 しかし彼は両者の因縁など知らない。あくまで天狗の里において部外者である彼はただ、今はことの成り行きを見守る他なかった。

 

「次期……天魔……か」

 

 ぽそりと大天狗は呟く。

 

「そうか…………貴方様が——」

 

 それは多くの思いが込められた言葉のように、妖忌には感じられた。

 

「アレの言うことは、やはり戯言ではなかったのだな……境界の妖怪、まさかここまでとは……」

「……境界の、妖怪……?」

 

『境界の妖怪』。その言葉は茜に、何があったのかを悟らせるのには十分であった。先ほど大天狗が急に姿を現したことからも、察しはついていたし、答えは出たようなものである。

 しかし茜は信じたくなかった。

 

「そんな、紫さんが……どうして…………!?」

 

 茜の瞳が揺れた。

 月から地上への転送を可能にする者など、茜の知るところ一人しかいない。すると大天狗の言ったことが本当なのであれば、紫は彼が逃げ延びるのを助けたことになる。

 

「……嘘です……、紫さんがそんなことするはずないっ!!」

 

 信じていたからこそ、現実を受け止めることができなかった。

 紫は何か考えあってのことで大天狗を助けたのかもしれない。大天狗は里の者からの信頼が厚く、なるほど彼を従えることができれば天狗の里を支配するのは容易いことだ。

 しかしその時の茜は、自分の気持ちと天秤にかけたとき、利を優先できるほど冷静にはなれなかった。

 たとえ自分に辛く当たる父親でも、兄弟姉妹の面倒を見るのに手一杯で、あまり自分のことを見てくれない母でも。そして度々自分に面倒をかけて来る兄弟姉妹たちでも、茜にとってはかけがいのない家族だった。

 

「茜様、よくぞご無事で……」

 

 だからこそ、

 

「私の最後の心残りでした……貴方様が生き延びられること」

 

 無性に、茜は腹が立った。

 今まで燻っていたものが一気に燃え上がり、よくもそんな口が聞けるものだと、怒りが込み上げてきた。

 

「黙りなさい……」

「貴方に切られるのなら、それこそ本望」

 

 大天狗は茜の刀を掴むと自分の首に刃をさらに強く押し当てた。

 たらりと、首から血が流れていく。

 その赤を目に止めた瞬間、茜は自分の血が沸き立つ感覚を覚えた。

 

「いいでしょう。貴方がそれを望むなら、私は喜んでお前を切り捨ててやる」

 

 今の茜を放っておくのはまずい。

 そう直感した妖忌が声をかける。

 

「茜殿! しばし頭を冷やされよ。その者の首を取るよりも先に、事態を把握すべきでしょう」

「妖忌さん! これは私の問題です。それに鷹派の幹部は皆、粛清しなければなりません。大天狗も里の重鎮の一人。いくら紫さんが見逃したとはいえ、私は逃すつもりなど毛頭ありません!!」

「——っ」

 

 妖忌はこの場で最も冷静であった。それゆえひとまず大天狗から話を聞き出すべきだと考えていたが、茜の異常なまでの復讐心を見誤ったばかりに手を打つのが一歩遅れてしまった。

 

 妖忌の制止もあえなく、刀が振り下ろされる。

 

「——覚悟っ!!」

 

 間に合わない。そう妖忌が悟った瞬間、

 

「どうかっ、おやめください!! 茜様っ!!」

「その方を切るのならば、まずは我々からお切りくださいませ!」

 

 一際大きな声が天魔の屋敷に響いた。

 すると、一人の鴉天狗の女性が茜と大天狗の間に両手を広げて立ち、声を張り上げて言う。

 

「大天狗様は貴方様の敵をしていたわけではないのです! ずっと、陰ながらも貴方様の味方であられたのですよっ!!」

 

 茜の瞳が、鴉天狗の女性の背後へと向かう。

 彼女の後に続いて現れたのは、数十人にも及ぶ、大天狗の部下達であった。

 

「先代天魔様は貴方様を逃すよう、大天狗様にお命じなさったのです!」

 

 大天狗同様、どうして紫は彼ら大天狗の部下を逃したのか。

 ほんの少し茜は躊躇したかのように見えたが、首を振り、

 

「控えなさい。貴方達が何を言おうと、この場でこの男を切ることに変わりはありません」

 

 彼らの訴えですら切って捨てた。すると強引に目の前の鴉天狗の女性をどかせ、再び太刀を振り上げた。

 彼女は誰かの言葉に耳を傾けるだけの余裕が残されておらず、早く目の前の男を斬り捨てて楽になりたいという気持ちが心を支配していた。度重なる出来事により、彼女自身、怒りのやり場を失っていた。

 

「(全て終わるんですよ……。こいつを、斬れば——)」

 

 しかし、状況は茜の味方をしなかった。

 

「っ!?」

 

 にわかに、周囲が騒がしくなり始めた。

 これだけの騒ぎがあったせいか、鴉天狗、白狼天狗の区別なく里の天狗達が様子を伺いに集まってきていた。もはや縦社会の連携が乱れ、支配の効かなくなった結果、天魔の屋敷になだれ込んでいるのであろう。

 

「……騒がしくなってきましたね」

 

 本意ではないが、大勢の前で首を刎ねなければなくなった。

 そう歯噛みする茜であったが、心はどんどん余裕を失っていく。

 精神的に追い込まれる茜であったが、辺り一帯に響くほどの大声に意識が向いた。それは、誰かに伝えるためというよりも、怒鳴るような叫び声に近かった。

 

「お待ちください、茜様っ!! 射命丸は、貴方様だけではありませんっ!!!」

 

 人混みをかき分けて、一人の鴉天狗の少女が、何かを抱えて茜の元まで駆け寄った。

 少女は先程、抜け穴までの道を案内してくれた計画の協力者である。

 姿を隠せと言ったはずであったが、今更何をしに現れたというのか。

 

「はあ、はあ。ま、間に合った……私がこの方を連れて来る前に、先に行かれてしまうものですから、ほんと、遅れて追いつくのが精一杯で……」

 

 急に大声を出して少しむせってしまった様子であったが、腕に抱えているものを彼女は茜に差し出した。

 大事そうに抱えるその腕には、産まれてまだ一年もしていないであろう、天狗の赤ん坊が眠っている。これほどの騒ぎの中、眠っていられるとは、なんと豪胆な子か。

 しかしそれよりも、茜は信じられないものを見たかのように目を見開き、手に持っていた刀を落とした。

 

 衝撃だった。

 

 ありえない。

 

 一族は皆、処刑されたはずなのだ。

 

 しかし、この赤ん坊は。

 見間違うことなく——。

 

「…………(あや)……」

 

 震える手で、少女が差し出した赤ん坊を受け取る。

 腕から伝わる暖かみと重さは、すぐさま茜に冷静さを取り戻させた。そして、彼女が我に帰るのにそう時間はかからなかった。

 ぱちりと、文と呼ばれた赤ん坊の目が開く。寝起きの割には機嫌がよかったのか、茜の顔を見るなりきゃっきゃと嬉しそうに笑った。

 

「そんな……生きて……」

 

 先ほどとは違う意味で頭が真っ白になる。

 茜は赤ん坊を揺らさぬよう、静かに両膝をついた。

 彼女自身、相当の無理をしていたのだ。

 

「あぁ……くっ、うぅ……」

 

 茜はずっと射命丸という名の重圧に耐えていた。たった一人の生き残りとして、その名に恥じぬようにと。不甲斐ない自分でもせめて一族の願いを叶えてみせる、と。

 

「そう、か……」

 

 誰からも気づかれぬよう明るく振舞う一方で、彼女は自分を追い詰めていた。鷹派の幹部達が自害し、怒りのやり場に困った彼女は自分の不幸を全て大天狗(元凶)の所為にして、自分をだまし続けていたのである。

 しかし、それも結局はその場しのぎでしかなく、彼女を余計に追い詰めてしまうこととなった。

 

「……そうか、そうか」

 

 嗚咽がこみ上げる中、彼女は絞り出すように言った。

 

「……貴方は、生きていたのね」

 

 まだ起きて間もない様子の文が、ふと茜に向かって手を伸ばした。

 単なる偶然であるかもしれない。それでも茜の頰には一筋の涙が流れた。

 

「なんて強い娘……」

 

 この小さな命は多くの危機を乗り越えて、なおも眩しいほどの輝きを放っている。その強い光は茜の身にかかった呪いを焼き消してくれているようで。

 茜は無邪気に伸ばされた手を握った。

 その手は儚く、そして彼女にとっての希望そのものだった。

 

「生きていてくれて、ありがとう……」

 

 彼女はただ、感謝した。

 

「射命丸は、私だけではなかった……」

 

 しんと静まりかえる天魔の屋敷。多くの天狗達が固唾を飲んで茜を見つめている。

 ある者は、鷹派に属する者。またある者は鷹派に属さぬ者。

 しかし今、この場で彼女に声をかけようとする者は一人を除いて他にいなかった。

 

「そこにいらっしゃる大天狗様は文様を匿ったのです」

 

 協力者の少女は言う。

 

「先代天魔様からの命で、里の外れで文様を匿い、かつ貴方様が逃げ延びるのを影から助けよ、と」

 

 先程から他の天狗達が言っていたように、大天狗は茜達を影から支えていた。自らが例え恨まれようと、使命を全うするために。

 

「だからどうか、一度お話をお聞きになってくださいませ。この通りでございます!」

 

 泣きそうになりながら、少女は懇願した。

 大天狗が敵ではなかったこと。それは文の姿を目に止めた瞬間、茜の中でも確信となっている。だからこそ、問わなければならないことがあった。

 

「大天狗」

「はい……」

 

 頭を垂れて跪く大天狗を前に、茜は言った。

 

「境界の妖怪、八雲紫より何を言われたか、話しなさい」

「茜様!? 私のことなどっ!!」

「いいから、話しなさい」

 

 大天狗を斬ること、それは茜の中で未だ揺らいでいる。何せこれまでに予期していなかったことが次々と矢継ぎ早に起こったのだから当然である。

 しかし冷静さを取り戻した茜は一先ず話を聞くことにした。

 その様子を察した妖忌はほっと胸を撫で下ろす。ようやく、事態は好転の兆しが現れ始めたのだ。

 

「……」

 

 自分は彼女にこそ罰せらなければならない。そう考えていた大天狗は中々語ろうとはしなかった。しかし自分がいくらここで渋ろうと、なんの意味もない。

 

「承知しました……それでは、我々が月に攻め入り、相手方の勢力に追い詰められたところよりお話ししましょう」

 

 そう観念した大天狗は月での己の身に起きた事を話し始めた。

 

「我々が月の民と交戦を開始してからしばらく経ったときのことでございます」

 

 

 ***

 

 

 大天狗を含めた天狗達は徐々に追い詰められていった。幸いにして死者は出ていないが、怪我人は増え続ける一方である。

 

「大天狗様! お逃げください!!」

 

 部下の声が響く。

 自ら先陣をきって戦う姿に、大天狗の部下達は彼らの大将を逃すべく声を挙げたのだった。しかし大天狗は退く様子はおろか、前進しているため集団から孤立しつつあった。

 

「私は退かん。最後まで戦わねば……」

 

 自分が退くことは許されない。大天狗の心は既に固まっていた。たとえ犬死になるのだとしても、己の主を最後まで守り抜けなかった身に逃げる資格すらないと。

 月の兵士達が放つ銃弾を、風を起こして弾く。それはさながら壁の如く。

 しかし長期戦によって妖力を消耗したため、その規模は大きいものではなく全てを弾くまでには至らなかった。

 

「うぐっ!?」

 

 肩口を銃弾が掠る。一度壁となっていた風が止むと、同時に数多の銃弾が新たに大天狗目掛けて飛来した。

 

「大天狗様っ!?」

 

 一人離れたところにいたため、部下達が大天狗を助けるには遠すぎた。それでも諦めずに駆ける者が多くいたが、無慈悲にも大天狗のすぐそこまで銃弾が迫ってきていた。

 

「(終わり、か……)」

 

 ゆっくりと、目を閉じる。

 後悔や心残りは数多くあった。それは今にも死ぬかもしれないこの身を熱く燃やし尽くすほどに。

 

「(しかし——)」

 

 彼の生涯は、元から思うようにいかないことばかり。いつもいつも、奪われるばかりであった。だからこそ、彼は半ば諦め、自分を納得させた。

 

「(まあ、ここで果てるのも私らしいのかもしれない……)」

 

 間も無く、銃弾は彼を貫く。

 そして数瞬の時が過ぎた——。

 

 しかしいつまで経っても弾は自分の体を貫く様子がない。

 訝しげに目を開くと、

 

「……!?」

 

 目の前には女性が立っている。

 なぜか、背筋が凍った。

 視線を外すことができないのだ。

 それだけではない。足元から自分の体の感覚が徐々に消えていく。これだけの圧力を与える彼女は一体どのような者なのか。

 こちらに背を向けているため、彼女がどのような表情をしているのかは分からない。

 

「……なんだ……貴様は……?」

 

 腰まで伸びた金色の髪。

 赤い紐の装飾が施された不思議な帽子を被り、日傘らしきものを差している。

 顔が見えなくても、後ろ姿だけで目を奪う魔力が彼女にはあった。

 かえって、不気味だとすら感じるほどに。

 

「まあ、淑女にそんな名前の聞き方をするなんて、マナーがなっていませんこと」

 

 女性は冗談めかしく言った。

 

「しかし、状況が状況ですわ。不問としましょう」

「ま、待てっ! こちらの質問に答えろ!!」

 

 対して大天狗は声を荒げた。

 

「貴様、一体…………何をした……?」

 

 それもそのはず。

 

「なぜ……、なぜ月の民が一人残らず消えているのだっ!?」

 

 月の兵士達は跡形もなく消え去っていた。そして振り向けば自分の部下もいなくなっている。まるで自分一人、別の世界に迷い込んだようであった。

 

「さて、あまり長話をするつもりはありませんから簡単にお話ししますわね」

 

 狼狽する大天狗を無視し、女性は言う。

 

「私は境界の妖怪。貴方々を月へと誘った(いざなった)者ですわ」

 

 本来ならばいくらでも女性に問いただしたいことがあった。

 しかしいつの間にか大天狗は金縛りにあったかのように、口を開くことができなくなっていたのである。ゆえに女性の言葉をただ聞いていることしかできなかった。

 

「はじめから貴方はここで死ぬつもりだった。部下を道連れに、自分が死ねば鷹派の計画は滞るはずだと。だからその思いを利用し、お手伝いをさせていただきました。しかし、ここに着いてから気づいたことがありましてね? 貴方、鷹派に忠誠を誓っていないのでしょう? さしずめ天魔からの命令で鷹派に組した振りをしている、といったところかしら」

「!?」

 

 図星だった。

 

「丁度いいわ。今頃、地上の天狗の里が変わろうとしている。ちょっと行ってきて頂戴。私はここで、もう少しやることがあるから」

 

 こちらの返答を聞くつもりなどないらしく、必要なことだけを伝えにきたようである。

 ふと、視界が揺らぐ。

 

「(待て! まだこちらの質問に——)」

 

 天魔の意識はそこで途切れた。

 

 

 ***

 

 

「……参りました。まったくもう、紫さんは全てお見通しだったのですね。しかし私に一言くらい、伝えてくれてたってよかったじゃないですか……」

 

 話を書き終えた茜は脱力した。

 

「いつもいつも言葉足らずで、だから他の方から勘違いされてしまうというのに……」

 

 それはある意味で、大天狗を斬ることを諦めたことの印でもある。

 

「大天狗——」

「はい」

 

 茜は真っ直ぐに大天狗を見据えた。

 

「理由がどうであれ、今すぐには貴方を許すことはできません」

 

 文の命を救ってくれたとしても、それならば許すとそう簡単には言えなかった。

 それでも、

 

「しかし、貴方がその罪を自覚しているのならば、私の元で仕えなさい」

「っ! ……この命に代えても、貴方様を必ずやお守りします」

 

 大天狗は額を地面につけて、宣言した。

 それを見届けた茜は立ちあがる。

 そして文を抱えたまま、大天狗を従え、集まった天狗達の前に立つ。威風堂々と、自信に満ちた表情で言った。

 

「皆、聞くがいい!! 前天魔を含め、強硬派の天狗らは自らの首を切った!」

 

 それは勇ましく、覇気の籠った声。彼女の中で、何かが吹っ切れたようだった。

 きっと以前の茜を知る者がいれば、目を疑うだろう。

 それほどまでに今の彼女は自信と威厳に満ちていた。

 

「動揺する者もいるだろう。これからここ、天狗の里がどうなってしまうのか、不安に思うものもいるだろう。前天魔は鬼との戦を推し進めていた。その所為で、要らぬ諍いや里に緊張を招いてしまったからだ! しかし、我々はまだやり直すことができる!」

 

 天狗達は顔を見合わせた。以前は交流の深かった河童を含め、今では疎遠となってしまっており、天狗は山で孤立しつつある。それは里の者達の生活にも影響が生じていた。

 

「力でこの山を制したところで、その先はない!! そもそも山は決して我々だけのものではないのだ。協調こそ、我ら天狗が長く繁栄するための手立てではないだろうか?」

 

 射命丸が訴え続けてきた理想。ゆくゆくは人間達とすら手を結び、関係を構築していくというものであった。夢物語だと当時は罵られたが、懸命に訴え続けた結果、それは少しずつ変わっていったのだ。

 

「私は……射命丸茜は、その方針を転換させる。今すぐ戦備えを解き、他種族との和解を勧めるつもりだ。不甲斐ない若輩者だが、身命を賭してこの里を導いてみせる。だからどうか!! 皆、私に着いてきてほしい!!!」

 

 天狗達は茜を見つめ、悟った。

 

 懸命に自分たちと向き合おうとする若き鴉天狗の娘。

 彼女こそ新たな導き手だと。

 

 今日。

 

 天狗の里に新たな風が吹いた——。

 

 

 

 ******

 

 

 

 月の都、その最深部。

 

「本当に、よろしかったのですか?」

 

 椅子に座る少女は問う。彼女は少し、ことの顛末を恐れているようであった。

 

「アレを月の都の、それも先代ツクヨミ様の部屋に導くなど……聞いた時は正気を疑いましたよ? サグメ」

「——ツクヨミ様」

 

 そこで、向かい側に座る片翼の少女は口を開いた。まさか彼女が声に出して答えてくるなどと予想していなかったこともあって、ツクヨミと呼ばれた少女は目を見開いて驚いた。

 続けて、サグメと呼ばれた少女は言う。

 

「私の能力はあの妖怪には効きません。そもそも、私達の手に負えるものではないのです」

 

 さも彼女のことをよく知っているかのような口調のサグメに、ツクヨミは反論した。

 

「貴方の力が、通用しないですって? アレもこの世に生きるものでしょう。それも妖怪なのですよ? 貴方の能力どころか我々月の民の手にすら負えるものでないとは、到底信じられません」

「ああ、ツクヨミ様。一つ訂正しなければなりませんね。あの娘は人間です。妖怪ではありません」

「そんな馬鹿なことがありますか!! 私は彼女から確かに穢れを感知しました!」

 

 次々と明かされる予想外の事実。思わずといった様子で現月の長であるツクヨミは席を立った。月の都の主導者たる者の振舞いにしては、少々未熟な様子でもあった。

 

「落ち着いてください、ツクヨミ様」

 

 対して稀神サグメは終始冷静である。すっくと立ちあがるとツクヨミの肩に優しく手を掛け、座るよう促した。言われるがまま腰かけるツクヨミに、まっすぐと立っているサグメ。両者の姿は傍から見れば先生と生徒のようにも見えることだろう。

 

「では、お話ししましょう。この件について私の知ること全てを」

 

 サグメは彼女の持つ、『口に出すと事態を逆転させる程度の能力』のせいで滅多に口を開くことはない。つまり、彼女がこうやって事態を一から口に出して説明するということは、彼女の能力が通用しないことの証明でもある。

 

「本当、なのですか…………?」

「はい」

 

 ツクヨミの言葉は震えていた。

 舌禍を招くサグメの能力は常時発動し、彼女の意志によって操作できるものではない。そんな彼女がおもむろに肯定すらしている。

 これを嘘だと断じることはできなかった。

 そして、

 

「彼女は、祝福されし子と呼ばれています。私や、ここを時々攻めに来るあの神霊と同じ」

 

 サグメは再び、不可解なことを述べた。

 しかしこれはほんの、一端にすぎない。

 

「ある日、私は天から声を聞きました。それはきっと他の者達も同じでしょう。ある種この世界に秘められた“記憶”というものでしょうか。それからか、私達には『この世から異分子を排除する』という使命が課せられました」

「異分子……つまり、貴方々はこの世界から邪魔者を排除する定めを持って生まれてきたと?」

「はい」

 

 祝福されし子の定め。それは異分子の排除。

 無論それだけでは何のことやら理解することなど、不可能である。

 理解されないことは重々承知といった様子で、それでもサグメは言葉を紡ぎ続けた。

 

「そして彼女もまた、異分子を排除する業を背負っている」

 

 

「先代ツクヨミ様に近い存在ですが、それともまた違う」

 

 

「私と、あの神霊も、祝福されています。恐らくは皆そうでしょう。しかし彼女は一人、違うのです」

 

 

「妖怪も、神すら現在の概念とは異なっていた時代の()()()()

 

 

「それはまるで——」

 

 

「遥か過去の時代より、時を越えてきた者のように」

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月の章:夢から醒めた少女

「百聞は一見に如かず、です。ツクヨミ様。まずはご覧ください、彼女の姿を」

「え……?」

 

 言われるがまま、ツクヨミはサグメが準備したとおぼしき水晶を覗き込む。するとそこにはツクヨミのよく知る月の重鎮と、件の少女が映っていた。

 さらに少女の背後には、傷を負った鬼の姿も見える。おそらくは都の中で暴れているという侵入者は、あの鬼のことだろう。

 

「今、丁度彼女は綿月と交戦中です」

「なぜ綿月が都の中に……いや、まさか……?」

 

 地上からきた妖怪の相手をするべく、守備部隊を編成した。しかし、明らかに計画されていたとしか考えられない不自然な守備配置。そもそも綿月に出撃要請を下した覚えもない。ゆえに、ツクヨミはサグメの意図を悟った。

 これまでの彼女の言葉を信じるならば、自ずと答えは出てくる。

 サグメは今、綿月を“異分子”だと断じているのだ。

 

「……本来、この世界に“綿月”は豊姫と依姫の二人姉妹だけであるはず」

「彼は存在しないはずの異分子であると?」

 

『綿月』は月において有力な家系とされている。そんな家系の嫡男を殺すことはいくら月の賢者たるサグメの権限をもってしても難しく、サグメは異分子の存在に以前から気づいていながら手を下せない状態にあった。

 そこで、サグメは地上に“自らが作成した偽りの歴史書”を残した。彼女の能力は紫に直接的な影響を及ぼすことはできないと以前に述べたが、逆に言えば、間接的な干渉は可能であることを意味している。

 後は、『口に出すと事態を逆転させる程度の能力』で紫が月に来るよう誘導すればいいだけのこと。まず萃香を月の都の中に誘い、騒ぎを起こさせて綿月にぶつけ、そして騒ぎを聞きつけてやって来た綿月と紫を鉢合わせさせる。

 ただし、この計画を綿月に感知されぬよう綿密に計画を立てるという前提を伴うが。

 

「……なるほど。全ては貴方の計画通りというわけですか。それなら私に今まで明かさなかったのことにも納得がいきます。私は彼を信頼し、重用していましたからね」

「……」

 

 無言の肯定。サグメの意図を察したツクヨミはくすりと微笑み、水晶に視線を戻した。対峙している綿月と紫はしばらく膠着していた状態を保っていたが、どうやら事態が動いたらしい。

 

「ではサグメ。これも貴方の予想通りだったのですか?」

 

 そしてツクヨミは声に出さずに笑う。

 何もかもが計画通りだというのならこの先を見せてみろ、といった少し挑戦的な眼差し。対してサグメは少しも動揺を見せず、何も口に出すこともなく、ただ水晶を見つめていた。

 

 水晶が映す光景。

 

 紫は萃香の目の前で、胸を貫かれていた。

 

 

 

 ******

 

 

 

 おかしい。

 つい先ほどまでは、確かに萃香は月の民を相手に圧倒していた。少なくも苦戦するようなことはなかったし、体力が尽きる心配もなかった。

 それでは、いつからこうなってしまったのか。

 戦闘中にあれこれと考えるのは、自分らしくない。萃香はそれをよく理解していたが、己でもなぜなのかは分からなかった。ただ一つはっきりしているのは、今相手にしている存在がどうやら以前の紫が持つ雰囲気に近しいものを持っているということ。

 紫ほどではないものの、此の世から消し去ってやりたいという衝動に駆られる点である。

 

「(こいつはまた、どうなってる?)」

 

 自身の心境に異変が生じ始めたのは、月の兵士達の集団にある男が加わったときからであった。その男が現れるや否や、疲弊していた兵士達の士気が急に上がり、徐々に押され気味であった戦線を取り戻してきたのだ。能力を開放し巨大化した萃香が腕を振り上げればすぐさま逃げ腰になっていた兵士達が、憶することなく突貫を続ける。それは異様な光景であった。

 皆、何かにとり憑かれ、命を投げ出すことを強いられているのかと見まちがうほどに。

 そんな異様な状況でも一人残さず、兵士達を完膚なきまで戦闘不能に追い込むことに成功したのはひとえに萃香の実力であろう。ただ、彼女が打倒すことができたのはあくまで“兵士達”のみ。救援として現れた男には一切手傷を負わせられなかった。

 

「(ったく。私が知っていた世界って、案外狭かったんだね。あの女といい、コイツといい、化け物はいるとこにはいるもんだ)」

 

 自嘲し気味に、萃香は心の中で笑う。少し前まで、己は自信満々に意気込んで月の兵士を相手にした。だというのにこの様である。『幽々子の前で見栄を張ったつもりはなかったのだけどねぇ……』と、小さく呟きながら、萃香は男に向き直った。

 

『己は強い』

 

 萃香は自分でもそのことを疑うつもりはない。今でも自分が鬼であることを誇りに思っているし、これからもきっとそうだろう。しかし、出会ってしまった。そして眩しいと思ってしまった。

 

 ——自分とは異なる“強さ”を持つ者達に。

 

 少し前までの萃香なら鼻で笑っていただろう。だが博麗の巫女に出会った。八雲紫に出会った。西行寺幽々子に、魂魄妖忌に、射命丸茜。

 そして、目の前にいる男もまた、自分とは異なる道を進み、強者となった者だ。

 認めなければならない。自分の生き方は、多様な在り方の中の内の一つでしかないことを。自分がちっぽけな存在であることを。

 吐き捨てるように、萃香は言った。

 

「あ~あ。本当に、らしくない。ったく、どうしちゃったんだろうねぇ、私は」

 

 全身に意識を向ければ幸いにしてまだ体のどこにも異常はなく、平常通りに動けることが確認できた。

 兵士達に負わせられた傷ももうじきに再生して癒えることだろう。

 

「ふんっ」

 

 萃香の手の平に、鬼火が宿る。

 ゆらゆらと揺らめく焔は萃香の能力によって萃められ、次第に巨大な炎の弾となった。そして、炸裂すれば一瞬にして辺りを焦土に変える炎の弾を、ありったけの力を込めて男に向かって投げつけた。

 

 しかし、そこで萃香は止まらない。

 手の平から離れるや否や炎の弾を目くらましにして両手を巨大化させ、着弾と共に男の立っていた辺りを叩きつける。

 爆炎と、衝撃が月の都を揺らした。

 破壊という点では、萃香が与えた損害は凄まじい。月の兵士を相手にする中で、多くの建物を粉砕し、火事を起こし、月の都に本来あり得ない“災害”ともいえる規模の損害を与えた。鴉天狗ら妖怪達の集団が仮に都を攻めていたとしても、ここまで甚大な被害を与えることはなかっただろう。

 だが、この程度でくたばるのであれば、男が萃香の心をざわつかせることもなかった。

 

「ほんと、アンタ化け物かい? いくら何でも、ここまでしぶとい奴は今まで見たことがないね」

 

 彼女が炎弾を放った先には傷一つ負っていない男が立っていた。

 そろそろ潮時か、と萃香は胸元に視線を落とす。

 たとえ男が何らかの奥の手を使ってきたとしても、逃げに徹すれば逃げ切ること自体は可能だと自負していた。今回与えられた役目はあくまで“監視”。存在がばれてしまったために仕方がなく月の民と戦っているのであって、けっして月の都を攻め落とそうとしているわけではない。売られた喧嘩は十分に買った。思い切り暴れることもできた。

 

 ならばこれから取る行動は一つ。

 撤退だ。

 奴を殺してやりたいという意地を張って、退き時を少々見誤った感がある。このまま男と交戦していては、地上に帰還することも難しくなるだろう。

 鬼という種族でありながら、退くことも時として必要であることを萃香はよく理解している。身の危険を幾度も回避してきた自信の経験が、警鐘を鳴らしているのだ。

 萃香は紫に連絡を入れるべく、連絡用の札を取り出そうとした。

 

 しかし、今日の萃香はとことん()()()()()()

 

「あっ!?」

 

 取りこぼしたせいか、胸元からはらりと連絡用の札が地面に落ちる。

 あまりに致命的。

 一瞬生じた隙は、決定的な形となって萃香に襲いかかった。

 

「ちぃっ」

 

 回避が間に合わない。

 耳元まで響いた轟音と共に、男が放った怪しい光が萃香の左腕を捕らえた。よりにもよって、これまで萃香をして警戒すべきだと回避に専念していた代物であった。

 光は急速に実体を構築し始め、萃香の体を拘束する。輪郭がはっきりとするにつれて重みが増し、怪力であるはずの萃香ですら膝をつくほどまでとなった。

 

「なんだっ、これは?」

 

 自慢の怪力はおろか、能力すらも全く発揮されない。しかし、かつてこのような状況に陥った経験が萃香にはあった。

 己がかつて、酒呑童子として人間の武士たちに討伐されたときのことだ。

 

「なるほど…………注連縄、か。通りでやばいと思ったわけだ……!」

 

 警戒の理由。

 その正体は神を捕らえておくために作られた注連縄であった。注連縄は神域を隔絶するため、厄や禍を祓うための結界として強力な力を持つ。神であろうと、妖怪であろうと拘束するのだ。鬼である萃香の自由を奪うには十分であった。

 

「——っ!」

 

 ただ拘束された状態であれ、札を拾うこと自体は造作もないことである。

 急ぎ萃香は自由が利く右腕を伸ばして拾おうとした。

 しかし、萃香が伸ばした右腕は突如として発生した爆発によって吹き飛んだ。

 

「ぐぁっ!?」

 

 それほど大きな規模ではなかったが、封印術によって弱体化した萃香の腕を損傷させるのには十分な威力をもつ。

 神すら拘束する注連縄。鬼である萃香にとって、効果は覿面である。

 

「うっ……」

 

 残った左腕を行使してどうにか拘束を解除できないかと四苦八苦する萃香であったが、注連縄はびくともしない。“邪”という妖怪特有の性質をもつ以上、抵抗は意味を成さないのだ。

 

 もがく萃香を確認し、男はゆっくりと萃香の方へ歩み寄った。

 

「!?」

「ようやく苦労して月の賢者を無力化したというのに、面倒事などを起こしよって。貴様らの所為で、全て台無しにされたよ。これで私はあの女を相手にせざるを得なくなった」

 

 そして萃香に向かって意味不明なことをのたまう。

 萃香がもしもここで冷静であったのなら、この男から何らかの情報を引き出せたかもしれない。ただこのとき、捕縛された状態から抜け出そうとすることに必死であったため、萃香は彼の言葉がまともに耳に入らなかった。

 

「……ちっ、貴様に言っても無駄か。いや、むしろ貴様は私と同じ、被害者と言ってもいいかもしれん。あの女が貴様をここに連れてこなければ、ここで死ぬことはなかったのだろうからな」

 

 男の指先に焔が立ち上がる。

 

 ——恐怖。

 

 萃香からすれば、絶えて久しい感覚であった。

 歯と歯がかちかちと音を鳴らし、萃香の本能が警鐘を鳴らす。この焔は己とって危険極まりないものだと。

 

「すまんが、楽には死なせん。精々あの女を恨み、苦しみながら逝くがいい」

「うぁ゛っ!?」

 

 指先が萃香の額に触れると、頭の中をかき混ぜられるような激痛が彼女を襲った。

 

「ぐぁぁぁ、あぅぅぅっ!?」

 

 熱い、などという生易しいものではない。萃香をして正気が保てなくなるような“痛み”である。

 内側から頭が破裂してしまいそうだった。萃香はあまりの激痛に、拘束から必死に抜け出そうともがいたが、拘束具はびくともしない。終わりの見えない苦痛は、萃香の肉体と精神を確実に削っていった。

 

「うぐっ、がぁぁ!!」

「所詮は妖怪。いくら鬼と言えど、この拘束からは逃れられんよ。貴様は偶々、運が悪かっただけだ。しかしそうだな、もしもこの苦しみから解放されたいのなら、奴を早く呼ぶといい」

 

 腰に差していた刀身の細い剣の切っ先を萃香の目に向ける。

 

「あ、っあぁぁ……や、やめ——」

「奴をおびき寄せる餌くらいにはなってもらう」

 

 そして、萃香の右目を串刺した。

 

「あぐっ!? がぁぁああああああああああああ゛!!」

「……まだ、来ないようだな。それとも、気づいていないだけか……?」

 

 綿月は乱暴に剣を引き抜き、次は片口に突き刺した。

 

「っ!!!」

「そういえば、貴様は鬼である以上、やたらに助けは請わんよな。まったく、面倒な種族だ。意味なくこのような童女を痛めつけるのは趣味ではないのだが……これも仕事だ、恨むなよ。恨むのなら、さっきも言ったがあの女を恨むがいい」

 

 そして、萃香が意識を失わぬよう、そして苦痛を与え続けられるよう拷問が始まった。次々に串刺しにされる中、萃香はなぜ己を一思いに殺さないのか、男の真意を計り知ることはできなかった。

 否、理解したくもなかったのだろう。

 

 何度も、何度も。

 何度も何度も何度も——。

 繰り返し串刺しにされた。

 

 止まない痛みの中で、どこか冷静になっていた萃香は思う。

 この男によって、自分はここで殺されるのかと。

 鬼の中では長い時を生き、力も知略も他に類髄を許さないほどまでに己を研鑽した。萃香は初めから強大な力を持っていたわけではなかった。それゆえ、己を討伐せんと騙し打ちを仕掛けてきた武士たちに対して不快に思いはすれど、恨むことはなかった。非力な人が鬼に打ち勝つには確かに有効な手立てであることは理解していたからだ。

 しかし、萃香は己が努力の末に力を手にしたがゆえに、人間達に共感する心を失っていた。

 

 博麗の巫女に出会うまでは。

 

 いつしか全てを諦め、素面であることを忘れていた自分。いつしか鬼であろうとして、鬼である自分を見失ってしまっていた。“生”というものに執着がなくなり、己が満足する戦で果てたいと望むようになっていた。

 ある意味、これまでの萃香は生きた死人であった。

 毎日、死に場所を探すだけ。

 

 そんな自分を、博麗は仕方がないように笑ったのだ。

 それも生き方だ。止めはしない。しかし残された者のことも考えて欲しい。自分を見失いそうになったのなら、まず周りに目を向けてはどうか、と。

 彼女の言葉は萃香の心に深く響くものがあった。普段の何気ない、茶化し合いの中でふとした瞬間に博麗が言った一言。

 それは不思議な感覚だった。

 ずっと諦めていたのに、思いがけない瞬間、一筋の光が差したのだ。

 己が博麗の巫女と、あのとき出会わなければどうなっていたのだろう。そんなことを萃香は考えていた。きっと鬼の誇りという虚栄の中で、鬼でありながら自分を偽る許せぬ姿を晒していたかもしれない。あるいはその偽りを認め、それが己だと開き直っていたのかもしれない。

 それもいい。だが、博麗の出会えて本当に良かったと、萃香は振り返る。

 

 ただ、言えることは一つ。

 

 ここでは死ねない。

 

 死にたくない。

 

 ゆえに、萃香は生にしがみつき、最後まで諦めなかった。

 

「ひゅ、かはっ……」

「……来ないか。いや、あるいは——」

 

 綿月が目を逸らした刹那、萃香は最後の力を振り絞り、己の角を振るう。

 

「——っ!? おっと」

 

 しかし、すんでのところで身の危険を察知した綿月が間合いをとったため、綿月の頬を掠るに終わった。一矢報いることすらかなわなかったことに萃香は歯噛みし、

 

「(畜生……)」

 

 意識を手放した。

 

 

 

 ******

 

 

 

「ふふ、妖怪に傷をつけられたのは生まれて初めてだな。あれだけ痛めつけてもなお、反撃する気力があるとは。敵ながら、天晴とも言うべきか」

 

 萃香は完全に力尽きている。

 恐らくはあれが最後の抵抗であったのだろう。頬を流れる一筋の血を拭いながら、綿月はそう納得した。

 ただし自分の予想以上に、彼女はよく囮の勤めを果たしてくれたと思う。

 途中で息絶えることなく、最後まで生きるために抗った。そんな彼女の抵抗が、待ち望んでいた者を呼び寄せてくれたのだから。

 

「来たか……」

 

 振り返らずとも分かる、不気味な気配。他の兵士達があまねく萃香にやられていてよかったと改めて思う。

 かの者を見ることなかれ、名を口に出すことなかれ。

 これから戦う相手は混沌そのものだからだ。

 

「っ、ぐぅ!」

 

 突然の光線に、綿月は結界を張ることで対抗した。

 押し切られる……。

 瞬時にそう判断し、紫から間合いを取るべく萃香を放って後方に下がる。『底が知れないことがこれほど薄気味悪いことだったとは』と、綿月は久しい感覚を覚えていた。

 対して境界の妖怪。

 八雲紫は綿月が萃香から離れたのを確認すると、彼女の元へとスキマを開いて移動した。

 

「……」

 

 紫は小さく何かを呟いた。

 それは萃香に対する言葉であったかもしれないし、あるいは他の誰かに向けての言葉だったかもしれない。ただ、彼女の表情は暗いままであった。

 そしてぼろぼろな姿の萃香の頬に触れる。すると萃香の体の損傷がみるみるうちに回復し、特に怪我の酷かった右手を残して傷跡が消えていった。一方、萃香の傷を肩代わりしたのか、紫が代わりに傷を負っていく。

 懸命に傷を治すその姿は、博麗の巫女に近しいものがあった。

 

「うぅ……お、あえは?」

 

 つい先程まで体の至る所を損傷し、筋肉が強張っていたのだろう。意識を取り戻した萃香の口から出てきた言葉は、舌足らずな拙いものだった。

 

「遅くなった。そして、本当によく耐えてくれた」

「え……?」

 

 紫は萃香を抱きしめた。余りに急だったのと、事態がよく掴めていなかった萃香は目を点にして、ただ呆けていた。

 耳元で、紫は萃香に小さく囁く。

 

「私がアレの注意を引き付ける。貴方はその隙にスキマで白玉楼へ帰還して頂戴」

 

 萃香は目を見開いた。

 

「そんな……」

「私は大丈夫」

 

 応急処置を終え、にこりと紫は萃香に微笑むと、綿月の方を向いた。萃香から見えたその背中は何かを決心したかのように見えた。

 

「おい…………紫っ!?」

 

 肘から先がなくなった右腕をもう一度伸ばす。

 当然、その手が紫に届くようなことはなく、虚空を切るに終わった。

 しかし、紫は萃香の一言に驚いたようで、

 

「……あら、初めて名前で呼んでくれたわね」

 

 そんな彼女の口から発せられたのは場違いな言葉。今まで萃香に見せたこともないような、嬉しそうな顔をして振り返る紫。

 とてもではないが、彼女が正気であるとは萃香には考えられなかった。

 

「今更何言ってるんだよ!? 皆、お前を待ってるんだ!! 幽々子は、射命丸はどうするんだよ!?」

「ええ、そうね……分かっている」

「巫山戯るな!! お前が言い出した計画じゃないかっ!! それにお前、もうすでにボロボロだろう……!? そんなんじゃアレには勝てない。全快の私でだって勝てるか分からないんだよ!?」

 

 このとき、気絶した状態から回復した直後でありながら、萃香は自らを拘束する術を分析できる程度には冷静であった。あらゆる封印術に耐性をもつ鬼である自分があろうことか拘束され、消耗を強いられた。

 それが意味することを彼女はよく理解していた。

 肉体的な防御力に劣る紫がもしも綿月と渡り合えば、命はない。一方的な死が待っていることだろう。

 

「萃香、逃げなさい。貴方にはこの先、生きてもらわなければ困るのよ」

「でも——!」

 

 短く印を組み、紫は萃香を拘束する封印術を解いた。

 

「さあ、これで貴方は自由。縛るものなど何もない」

 

 突如、背後で爆発が起こる。紫の張った結界を、綿月が破壊しようとしているのだろう。

 すでに時間は残されていなかった。

 

「だめだ……」

「……」

「……だめだよっ……」

 

 紫は何も言わない。

 直後に結界が破壊された。

 

「紫っ!!」

 

 彼女の声は届かない。

 

「——悪いが、私はそんなに気長な性分ではないのでね」

 

 綿月の白い腕が、紫の胸を貫いた。

 

「やめろおおおぉぉぉぉぉぉっっ!!!」

 

 スキマが萃香を包み、すぐさま口を閉じる。

 転移に生じる一瞬の眩暈。

 再び目を開けると、そこはすでに白玉楼の庭だった。この数舜で、萃香は地上への帰還を果たしたのだ。

 顔についていた、どろりとした液体に手を触れてみれば、それは血だった。

 胸を貫かれたときに噴き出した、紫の血だった。

 

「萃香!!」

 

 幽々子が萃香の元へと駆け寄る。

 普段の冷静な姿はどこかに消え失せ、今はただ友人の帰りを不安の中待つ一人の少女となっていた。

 そんな幽々子の姿が、萃香にはどこか遠い景色に見えた。つい先程まで命のやり取りをしていたというのに、今自分は安全な地にいる。

 また、自分は一方的に負けた。

 そして、いつか倒すと決め、幾度も争う内にそろそろ認めてやってもいいと思っていた“紫”に、命を救われた。

『これじゃあ勝ち逃げじゃないか』と呟き、空に浮かぶ月を見上げる。

 

「なんだよ……私は、アイツに、生かされちまったってのか……」

 

 悔しかった。ただそれは紫に対するものではなく、ましてや綿月に対するものでもなく。彼女自身に対する怒りであった。

 自分が引き際を誤らずにいれば、紫と共に月から離脱することに成功していたかもしれない。

 

 ただ、

 

「ごめん、よ…………」

 

「ごめんよ、幽々子——」

 

 目の前の少女にかける、謝罪に続く言葉が見つからなかった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 私が“私”を自覚したのは一体いつだろう。

 気づけば私はここにいて、自分が亡霊であることと、西行寺幽々子という名をもつこと以外の全ての記憶を失っていた。

 

 生まれて初めての“感情”は、虚無だった。

 

 そして生まれて初めての“行動”は、その場を立ち去ろうとする彼女を引きとめたことだった。

 どうしてかは分からないけれど、このまま行かせてはいけないんだと強く思ったから。もしかすると生前、私は彼女と友人だったのかもしれない。

 そんな無邪気で、単純で、子供みたいな希望をもって私は彼女を呼び止めた。

 

 裾を引くと彼女は振り返り、金色の髪がなびく。

 私はこのとき、彼女の容姿に目を奪われて言葉を失った。

 

 なんて歪で、そして美しいのだろう。

 

 彼女も驚いていたらしく、しばらく固まっていたがすぐに口元をほころばせた。

 そして、言った。

 

『初めまして』と。

 

 すぐに嘘だと分かった。ほぼ確信めいたものがあった。

 でも、そのとき私は枯れていた桜が一斉に咲き誇るのに注意を奪われて彼女にそれ以上聞けなかった。

 何をやっていたんだろうと今になってはよく思う。

 だってそれ以降はもう、彼女に聞く機会を失ってしまっていたから。

 

 ある日、急に私は気づいたことがあった。

 彼女は私に何か隠している。

 ずっと、ずっと。

 それが嫌かと聞かれれば、実はそこまで気にしてはいない。私はどうやら気楽な性格らしい。

 あれやこれやと瞬く間に冥界の管理人という仕事を課せられ、それなりに忙しい日々を送る毎日。時々彼女が私の元を訪れてきてくれたりもしたから何となく分かるのだ。

 きっと彼女は私のことを気遣ってくれているのだろう。生前の記憶のない私がちゃんと地に足を付けていられるように。

 そのことは、私の空虚な心に足りないものを埋めてくれる気がした。

 

 自覚してからというもの、自然に私は彼女を目で追うことが多くなって。一年、また一年と経つたびに、彼女を想うことが多くなっていて。

 

『……どうかした?』

 

 二人でいるときはいつも心が安らいでいて。

 

 二人でいるときはいつも満たされていて。

 

『ねえ、紫』

『はい?』

『もっと自分を大切にしなきゃだめよ……』

 

 そしていつも、彼女のことを心配していた。

 ……いや、それは違う。

 私はきっと自分を失うのが怖かった。彼女がいなくなれば、私は私である最後の証を失いそうな気がした。

 訂正。

 私は気楽な性格ではない。ただ失うのが怖い臆病者。

 だから、満身創痍の状態で転移してきた萃香を目に止めた瞬間、

 

「萃香!!」

 

 体が勝手に動き出していた。

 

『ごめんよ、幽々子——』

 

 萃香はそう言って、気を失った。それだけで、私は何が起こっているのか、察しがついてしまった。

 萃香の分身が、少し前に雲散して消滅していたから。

 月で何かが起きたことはほぼ間違いない。

 すぐさま白玉楼の幽霊たちに萃香を運び、寝かせるよう指示を出す。また他の者達には妖忌を通して連絡をするよう別の指示を出した。

 私は今から月に向かわねばならない。

 幸い、紫が置いていった式を使えば月に転移することはできるけれど、まずそのためには今すぐにでも湖へと向かう必要がある。

 満月の夜は、もうじき明けてしまうから。

 そうなってしまえばもう、紫を助けに行くことはできなくなる。

 つまり、

 永遠に、彼女はここに戻ってこれなくなる。

 

 

 それは私の心にこの上ないほどの“恐怖”を与えた。

 

 

 そう、私はずっと恐れていた。

 紫を失うこのときを。

 これまで私は、口では紫を信じていると言いながら、それでも信じきってしまうことが不安で。茜ちゃんや、萃香や、博麗の巫女に紫を見守ってもらうよう頼み、彼女から一歩離れたところにいた。

 そんな私は、皆が羨ましかった。

 どうして貴方達は恐れずに前に進めるの? 

 家族を皆殺しにされて、種族の運命と一族全ての希望を託された茜。人々からの重圧の中、人里をたった一人で守り抜こうとする博麗の巫女。“鬼”でありながら人と絆を結び、手を貸してくれた萃香。そして、生前の私を看取り、亡霊となった私に仕え続けると誓ってくれた妖忌。

 

 貴方達は、苦しかったり、辛かったりしても、今いるところから平気で飛び降りようとする。自ら進んで道を切り開こうとする。

 恐怖に負け、前に進めない私を置いて。

 

「(でも——)」

 

 私が紫を遠ざけてしまったら、紫は一体何にすがればいい? 彼女はいつも気丈に振舞っているけれど、どこか無理している。それは、ずっとずっと前から気づいていた。

 気づいていたのに、なにも私はしてこなかった。

 ここから出られないことを言い訳にして。

 自分が亡霊であることを言い訳にして、逃げていた。

 

 

 彼女を引き留められるのは、私だけだ。

 ずっと、私の記憶の前から一緒にいた、“私”だけだ。

 今、私が切り開かなくてはいけないの。

 

 何を迷う? 

 

 何が冥界の管理人だ。友人の危機に手を差し伸べずして、どうする。

()()()()()()()()()()、もう嫌。

 

「(私を、紫のとこまで連れて行って!!)」

 

 懐にあった式を取り出し、発動する。

 紫から貰った道標。境界を操作した件の湖への道を照らしてくれた。

 

「(今ならまだ間に合う)

 

 全速力で空を飛び、白玉楼の出口となる結界を越えようとした、丁度そのとき。

 

「ふと心配になって様子を見に来れば。案の定ですね」

 

 私の体は地に叩きつけられた。

 

「あうっ!?」

「それはなりません」

 

 行く手を阻むように、一人の少女が立ちはだかる。

 翡翠色の髪が月の光に照らされ、姿が露になった。

 聞き覚えのある声だ。私がここから離れぬよう監視をしている人物。そして、白と黒を裁断する地獄の閻魔。

 

「西行寺幽々子、貴方はこの先には進めない。アレは最早、我々の手に負えるものではなくなったのだから」

 

 四季映姫・ヤマザナドゥ。

 

「道を、開けてください。今すぐ、私は行かなければならない」

「口に出さねば分からないというのですか? 貴方ほど察しの良い人物でありながら」

 

 彼女が退く気配はない。恐らくは全て承知の上で私を止めにかかっているのだろう。

 そう易々と通してはくれないのは確実。

 

「もう一度言いましょう。西行寺幽々子。ここは諦めなさい」

「承知、できません」

「……貴方が八雲紫だと認識していたのは、ただの記憶の残滓にすぎない。すなわち、今までの八雲紫という存在は元から亡霊のようなものなのです。貴方とは違う意味でね」

「何を——」

「だから万が一、貴方が私を倒し、月に辿り着けたとしても、貴方の知る八雲紫は既にこの世にはいない」

 

 周囲にかかる圧力が一気に重くなる。

 それは映姫が本気を出したという証だった。

 

「今の貴方はそう、足が宙に浮きすぎている。本来あるべき道から大きく逸れています。このままでは貴方という存在そのものに変化が生じるのはそう遠くはないでしょう」

 

「そして、彼女を止めることは愚か、会うことすらかなわない。精々、そこで這いつくばり、頭を冷やすがいい、西行寺幽々子」

 

「この要らぬ記憶は、消させてもらいます——」

 

 

 映姫は私の額に悔悟棒を突きつけた。

 

 そして、

 

 私はこの日、大切な友人を失った。

 

 

 

 ******

 

 

 

 月の都の一区画。

 綿月は紫の胸を手刀で貫いたものの、その後は防戦一方であった。

 致命傷を与えた手ごたえがあったはずであるのに、紫は禍々しい妖力を周囲に撒き散らしながら綿月に向かってきたのだ。といっても妖力拡散させるとは、少々力の使い方が拙いと綿月は思う。

 それゆえ、彼女は把握しきれていない自らの力を試そうとしてるのではないかとも考えられた。否、使い方を思い出そうとしているのやもしれぬ。

 そこで、このままでは徐々に形勢不利になると考えた綿月は結局、切り札を使った。

 自分が行使できる封印術の内で最大級のものを用い、紫の妖力を封じた。先程の萃香と同様、妖怪に注連縄を破る力はない。

 そして、

 

「ふふ……はははははっ! 呆気ないものだ!!」

 

 頭部を失った紫の死体を前にして、

 

「祝福されし子たちよ、貴様らの“切り札”は死んだぞ!!」

 

 綿月は天を仰ぎ、両手を広げて喜びをあらわにしていた。

 萃香を逃がしてしまったのは失態だが、あの様子ではもうここにやって来る心配もないだろう。あそこまで戦意を徹底的に折ってやれば、二度と歯向かうことはできまい。

 それよりも、今は八雲紫という“特異点”を抹殺できた利益の方が大きい

 

「(一筋縄ではいかなかったが、概ね想定通りだ)」

 

 己が行使できる最大級の封印を施してやった。ここまで完全に封じ込めてしまえば、いくら再生力の強い妖怪とはいえ蘇ることもないだろう。

 そう考え、綿月は息をつき辺りを見回した。

 周りの月の兵士達が起き上がる様子はない。恐らくは紫が放った瘴気に対して、防衛本能が働いたのだろう。運悪くあれをまとも見てしまえば、精神に異常をきたす。

 

「(賢者の奴がいつか仕掛けてくると思っていたが、まさかこんなタイミングとはな。まったく、これでは時折攻めに来るあの神霊の方がましではないか)」

 

 綿月は懐から煙管を取り出し煙草をふかした。

 

「(こんな形で干渉してくるとは思いもよらなかった)」

 

 日常である事務の任務に務めていた日々。

 気づけば、自分は妖怪達と戦う月の兵士達を指揮していた。

 此度の妖怪達による襲撃において、彼には出撃要請が下されていないにも関わらず、である。妹二人の面倒を見るという心労から意識でも吹っ飛んでいたのかと自嘲しながら、彼は戦の勝利が確定するまで部隊を指揮した。

 綿月は味方を扇動する力を持つため、集団戦において彼が指揮をとれば勝利は確定する。ゆえに、せめて兵士達に自信を持たせてやるためにも、戦を楽に終えられるためにも彼は兵士達を扇動し、勝利へと導いた。

 ようやっと終わった。

 そんな安堵の息をつきながら一人、月の都に戻り事務の続きでもせねばというところで今度は鬼が現れた。

 

 なんと、今日は厄日か。

 

 彼は初め、そんな暢気なことを考えていたが、次第にその余裕はなくなっていった。

 先程からおかしいのだ。

 考えてみれば、現在、依姫も豊姫も別の任務が下れている最中で自由には動けないというのもおかしい。自分もまた与えられた仕事をなさねばならない状況であることには変わらないはずだ。それに出撃命令が“ツクヨミ”から下されていないことが何よりも怪しい。

 これは月の賢者による何らかの策略だと、彼は感づいた。

 

「(まあ、私の出生を鑑みるに、月の賢者は私を殺そうとしてくるのは至極当然よな。アレもまた、祝福されし子であるのだから。しかし奴が“綿月”に直接手出しできない以上、八雲紫を利用せざるを得なかったという訳か。それだけではないような気もするが……?)」

 

 そのとき、注連縄はわずかに軋んだ。

 

「ッ!?」

 

 綿月は振り返り、紫の骸を確認する。すると、そこには確かに全身を注連縄で雁字搦めに拘束され、頭部を失った死体が磔にされていた。

 もう動く気配がないことは分かり切っている。

『はあ』と、綿月は溜息をつく。

 すると白い吐息が、彼の口から立ち昇った。

 やはりアレとやり合ったことで自分は今、疲弊しているのだ。まともな思考をすることすらできなくなっているのかもしれない。『事務は諦め、すぐにでも帰って休息を取るべきだ』と自分に言い聞かせ、綿月はその場を去ろうとした。

 しかし、

 

 ギシッと、今度は彼の耳にはっきり伝わった。

 元は神を封じるために作られた注連縄。それは伊勢大社に使われているものと同程度のものを使っているはずだった。

 すなわち大国主すら封じ込める規格外の代物。妖怪相手には少々、いいや、かなり過剰とも言える。

 ましてやアレはすでにただの死体となり果てている。念には念を入れた自分が馬鹿らしくなるほどに厳重な封印を掛けた。

 そのはずなのに——。

 

 なぜ、

 

 風も吹かぬ、この月面で、

 

 注連縄は軋んでいるのか? 

 

 術を行使している者だからこそ分かる違和感。自分は、本当に八雲紫を殺害し、その死体を封印するに至ったのか。

 そこで一度思い起こす。

 彼女は祝福されし子だ。それも彼女はこの世に初めから生まれるはずの存在であった上に、原初の人間の()()を引き継いでいる。そんな馬鹿げた存在が、この程度で殺せるものならばそれは杞憂であったとも言える。

 だが、綿月はこのときのために力を蓄え、月という強力な勢力の深部まで入り込むことで今日まで生きながらえてきたこともまた事実。彼は自らが妖怪としてでなく、人間としてこの世に生を受けたことに感謝している。そうでなければ、地上の狂った祝福されし子、特に純化の神霊辺りにでも殺されていたに違いない。ここまで、己の行動にどこにも不備はなかったはずなのだ。

 

 ミシリ、ミシリ。

 確実に、何かが封印を破ろうとしている。

 得体の知れない、何かが——。

 

 気の所為ではなかった。

 

「馬鹿な…………」

 

 綿月の頬を一陣の冷風が通り抜ける。

 

「(あれは不死身ではないはず……それになんだ、この濃度の穢れは。ここは閉鎖空間ではないのだぞ……!?)」

 

 紫の死体を中心にして風は巻き上がり、やがて、黒い瘴気がどこからともなく立ち込めた。そして紫の死体を包み込み、その姿を覆い隠した。最早何が起きているのか、彼には想像もつかない。

 黒より黒いぬばたまの、まるで生きとし生けるものすべてを拒絶するような黒い瘴気が綿月に押し寄せる。

 綿月は、かつてこれと似たような光景を目にした記憶があった。

 地上に月の民が暮らしていた時代。

 月に移り住む際に都市の上層部が放った終末の炎がもたらした黒煙。人間の憎悪そのものである。

 それは全てを焼き尽くし、全てを黒く染めた。

 

「ぐぅっ!!?」

 

 術を行使した綿月自身に伝わる圧倒的な暴力。伝わる衝撃は、彼の腕を内から破壊しようとするものであった。

 八雲紫の骸から発せられる力の波動は、まるで荒ぶる神のように言うことを聞かない。

 ただ、言えることは一つ。

 八雲紫は死んでいなかった。いや、むしろ“彼女”を本当の意味で起こしてしまったのかもしれない。

 そしてそれはもうきっと、取り返しがつかないことなのだろう。

 

「嗚呼——」

 

 

 第一の封印がいとも簡単に崩壊した。

 

 

「なんと愚かで、なんと愛おしいことか」

 

 

 甘美な声色は、さりとて不気味以外のなにものでもない。

 

 

「懸命に生きようとする姿はいつ見ても儚いもの」

 

 

 黒い霧が次第に収束し人型を成す。

 霧の中から聞こえてくる声は、なおも冷酷であった。

 

 

「しかし貴方も、私が殺してきた幾多の者達と同じ。死ねば、この世の記憶から消えていく。それはもう、決まったことですわ」

 

 

 第二の封印は空間の歪によって、あっけなく砕かれた。

 

 

「なぜなら貴方達はこの世の異分子。本来、いるはずのない者。存在そのものがこれから起こり得る未来を変えてしまいかねないのです」

 

 

 最後の封印はまだ持ち堪えている。

 しかし、この隙に逃げるという選択肢が綿月には残されていなかった。

 なぜなら、とうに答えは出ていたからである。

 もう、自分は彼女から逃れることはできないと。

 

 

「人が夜に対して根源的な恐怖を覚えるように、私達は常識から外れた貴方達を恐れた。そして、人は神を生み、妖怪を生んだ。

 ある人は恐怖をもたらさんと妖怪になり、ある人は救いをもたらさんと神になり、またある人は人たらんとして人となった。これこそヒトが生んだエゴ、これこそが歪なのです。

 そして、本来あるべき世界の在り方を変えてしまったの。貴方も、すでに薄々感じていたかも知れないわね」

 

 

 そして第三の封印、注連縄を彼女は強引に掴み、その手から血が滴ることも気にせず引きちぎった。

 瘴気は封印を施していた注連縄ごとどこかへ消え去り、彼女の姿が露になる。現れたのは子供と大人の中間ほどの、一人の少女だった。

 

 その姿は美麗であり邪悪。

 歩けば周囲に厄災をもたらし、手をかざせばその穢れによって生物を恐怖に陥れる。

 不吉で不気味なヒトの形をした何か。あるいは不浄の者。

 なんだ、あれは。これでは此の世の全ての異形、化け物が皆、可愛く見えてしまうではないか。

 それが綿月の率直な感想だった。

 

「これくらいの長さ、久しぶりだわ。あんまり長いと、邪魔になるのよね」

 

 そう言って紫は、前髪を軽く払った。

 少し前は腰まで届いていた彼女の髪が、今では肩までかかるほどまでに短くなっている。

 しかし、不自然さを感じさせない。

 むしろ初めからそうであったかのようにも見える。

 遥か昔、突如として世界から消えた少女。

 その姿を見て綿月は確信を持った。だが、今更そんなことに気づいたとしても遅すぎた。このまま諦念の内に、自分は死ぬのだろう。

 

「ツクヨミが何故、月に移住することにあれほど躍起になっていたのかが今になって分かったよ。やはり、アレは貴様がこの世界に来ることを予期していたのだな。マエリベリー・ハーン」

「あら、それは一体どなたのことかしら?」

 

 頬に手を当て、紫はとぼける。無垢な少女のように可愛らしく、残酷に。

 クスクスと嗤いながら虚空を指先でなぞるとスキマが開いた。

 境界から覗くは、底が見えぬ混沌。

 綿月の目に、それは地獄の門のように映った。

 

「さて、少しでも楽になれるよう、これから行く先、根の国へ迷わぬよう、せめて私が誘って差し上げましょう」

 

 

 これより始まるは一人の男の惨劇。

 抵抗など許されない。一方的な蹂躙。

 慈悲はない。

 なぜならそれが、境界の妖怪に委ねられた“役目”なのだから。

 

 

「貴方はただ、夜に怯え、そこで震えていればいい。だから——」

 

 

 

「——消え失せろ」

 

 

 

 ******

 

 

 

 血溜まりの上で、紫は息を吐いた。

 先程、月の賢者の“目”は破壊した。この場にいるのは紫のみである。

 

「……邪魔者は消えた。そろそろ出てきなさい」

 

 紫の背後に“扉”が開く。現れたのは椅子に座る少女。

 面白いものを見たかのように、にたにたと笑っている。

 

「ほほお……ようやっと記憶を取り戻したか」

 

 さも驚いたかのような表情を作る秘神に対して、紫は苛立ち気に言った。

 

「地獄の女神といい、貴方といい、古い神には碌な奴がいないのね」

「そう言うな。私も今まで直接は干渉できなかったのだ。まあ、こちらの童子は下手糞にも役目を果たしてくれたようだが……」

「下手糞過ぎよ。最悪、あの娘に気づかれる危険性もあったわ」

「それは申し訳ない。私からもよく言っておくよ。アイツら躍りの才能はあるんだが他はどうにも抜けているところがあってだな——」

 

 この神は話し始めると長い。普段引き籠っているがゆえに、会話を長引かせようとする悪癖がある。よって紫は早々に本題に入ることにした。

 

「御託はいい。本題よ。力を貸しなさい」

「力、とは?」

「分かっているのでしょう? これから私が何を成そうとしているのか」

「ああ、そうだな。分かっているとも。勿論手を貸すさ。“貴方様”には使命を果たしてもらわなければならないのだから。それで……私に何をしろと?」

「幻想をこの手で創る。貴方にはその協力者になってもらうわ」

 

 

 

「秘神、摩多羅隠岐奈」

 

 

 

 これから、彼女は多くの者を失い、時には道を見失うこともあるだろう。

 恐れられ、そして憎まれ傷つくこともあるだろう。

 だが、前を見据え進み続けるその姿は、

 

 何よりも美しい。

 

 

 月の章 完

 

 第一部 完

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二部
狐の章:追憶


「ここは私に任せろ。どうやらアイツは私を通すつもりがないらしいからな」

 

 顔に、この長い冬の凍てつくような風が吹きつける。吐く息がすぐに立ち消えてしまいそうな強風の中、自信満々に言い切った白黒の少女。

 随分と強気なことを言うじゃないかと思ったが、確かに彼女の実力には目を見張るものがある。弾幕ごっこという意味でも。

 そして実戦という意味でも、だ。

 

 なにせ、彼女の実力は既にただの人間という範疇を越えているのだ。私の式神である『橙』はまだまだ未熟だが、半端な実力では突破することはできない。最近は特に修行に打ち込むようになったから、尚更。

 普通の魔法使い、と言ったか。今の段階では紅魔の七曜の魔女に遠く及ばずとも、彼女の今後には大いに期待できそうである。

 

「でも——」

「でもじゃない。今の私がアイツを止められるのはごく一瞬でしかない。それ以上はどうあがいたってしようがないんだよ。だから、行け。いくら親切な私でも、三度目までは言わないんだからな」

 

 困惑をあらわにする紅白の少女の言葉を遮り、堂々と言うその姿。

 その意気や良し。

 しかし、このタイミング……まさかとは思うが、この白黒は私の意図をどこかで察しているのかもしれない。そうでなければ、彼女は二人掛かりで私と戦うことを選択していただろう。二対一であれば勝機は高くなるだろうに、実力の差を認めながら彼女はわざわざ“足止め”を選んだ。

 まあ、どちらにせよ、元から私は博麗の巫女を止めようなどとは考えていないのだが。

 

()()()()()()()()()()()()、手間が省けたよ。

 

 意を決した様子の白黒は、私に向かって魔法道具らしきものを向ける。

 傷一つなく、頑丈でいて単純に、そして精巧に造られた八卦炉。それが発する力を鑑みるに、最早神器ともいえるような代物であると理解できた。なるほど、彼女の魔力と合わされば、私に火傷を負わせる程度の火力を出してもおかしくないだろう。

 

「今だ——!!」

「——!!」

 

 博麗の巫女は、魔法使いの合図ですぐさま飛翔を開始した。

 そしてほぼ同時に、彼女の手にもつ八卦炉から七色の光の奔流が発した。

 あの光線が私のところまで到達するのは、ほんの一瞬だろう。

 

「『マスタースパーク』」

「……」

 

 光線を結界で遮る刹那、飛び行く巫女の姿を見た私は、妙に懐かしい感覚を覚えた。

 あの娘を見ていると、幼い頃の古い記憶がふつふつと蘇り、これまでの博麗の巫女たちの姿と重なるのだ。

 そうだ。今まで私が何度も何度も見てきた後姿。

 お前は、お前たちはそうやってどこまでも遠くへ飛んでいく。初代から二代目へ。そして三代目、またその次の代へと受け継がれていった。

 

 彼女たちは人間と妖怪の間に立ち、時には争いを鎮め、両者の橋渡しとなって幻想郷中を飛び回った。

 

 無論どの代の博麗誰もが、絶対的な力を持っていたわけではない。使命を全うすることかなわずに、道半ばで果てていった巫女だって勿論いた。

 

 博麗はその歴史を一度、閉じたことがあるのだ。

 しかし、その空白の数百年間は二代目の式神、“暗闇の妖怪”が全うしてくれた。そして博麗大結界と共に博麗の巫女は幻想郷の歴史に再び登場し、大結界騒動を経て今の幻想郷を形作った。

 どれもが懐かしい。

 今思えば、一昔前ですらここ(幻想郷)は殺伐としていた。

 人間は恐怖の中、人里にて息を潜めて暮らし、妖怪は自らの力を示さんと争いばかりを繰り返していた。

 

 ああ、いかんな。らしくもない感傷に浸ってしまっていた。恐らくは、これまで抱えていたものから解放されて、知らぬうちに気分が昂ってしまっているのかもしれない。

 私はあの方の式。あの方の命令は絶対で、それは私の命よりも優先されるべきものなのだ。だから私は、主から下された命令に逆らうことはできない。

 私は何もできずに、ずっとずっと歯がゆい思いをしていたんだよ。

 

 そう。今だから言える——。

 

 魔法使いよ、感謝しよう。

 お前は本当に、最高のタイミングで博麗の巫女を送り出してくれた。

 これで私は、あの方を救う最後の希望を届けることができたのだ。事実を知ったからの数百年間、ずっと私はこのときを待っていた。

 

 後はあの娘次第。今、この世界で一番あの方の心を揺らし、この世界に踏みとどめさせることができるのは、博麗の巫女ただ一人。私でも、幽々子様でもなく、あの娘が行く必要があるのだ。

 幽々子様はきっと、それをよく分かっていらっしゃったのだろう。あの方が異変に手を貸したのも、恐らくは——。

 

 光が止むと、そこにいるのは八卦炉を構えた魔法使いだけだった。

 

「……あいつは行ったぜ。これで、良かったんだろう?」

 

 ああ、賞賛に値する。

 君は見事時間を稼いだのに加え、私の意図に気づいたのだからな。

 

「やはり、気づかれていたか……」

「霊夢のやつ、勘だけは良いんだけどさ、妙に人の気持ちっていうか、隠れた意図を汲んでやれないところがあるんだ。何というか、あいつは怒るだろうけど、不器用なんだよな。一体誰に似たんだか——」

「……礼を言う。そして、あの娘の友でいてくれてありがとう。君には、感謝してもしつくせないな」

「なっ、やめてくれよ! これから弾幕ごっこで勝負をしようってのに」

 

 魔法使いは、くすぐったそうな顔をすると、頭の帽子を深く被りなおした。それは照れ隠しのつもりだろうか。

 言葉使いは強気だが、存外可愛らしいところもあるものだ。

 

「ふふ、君と私が、勝負する、ね……」

「なんだ? なんかおかしいことでも言ったかね?」

「いいや、何もおかしなことではない。今の状況に感慨深いものがあったのさ」

「……さっきから妙な奴だな。どうにも調子が狂っちまう」

「悪かったね。それでは気を取り直して、君の敵である私は敵らしく、君の前に立ちはだかるとしよう」

 

 身構える彼女を前にして、私は言った。

 

「だがその前にどうか、名乗らせてほしい。私の名は、藍。八雲藍だ」

 

 自然と、声を発していた。理由はそれほど深いものではない。強いて言うなら、彼女に敬意を表したかったからである。

 

「ある方の式神にして、幻想郷の結界の管理を務める番人でもある。失礼ながら、勝負の前に君の名を聞いてもよいだろうか?」

 

 一瞬、驚いていた様子であったが、彼女はすぐに好戦的な表情になると、私の問いに答えた。

 

「ふふん。普通の魔法使い、霧雨魔理沙だぜ」

「魔理沙か……良い名だ」

「ああ、よく覚えておくといい——」

 

 途端に魔理沙の魔力が跳ね上がる。遂に本気を出してきたようであった。

 人好きのする、気持ちのいい笑顔を浮かべて彼女は言った。

 

「なにせお前を倒す人間の名なんだからな!」

 

 彼女が纏うは、満天の星々。

 まるで流れ星のように、空を駆けていく。

 

「それと——」

 

 そして、その手に数枚のスペルカードを握りしめ、晴れ晴れしい表情で、言った。

 

「私はアイツを通すためにここに残ったのであって、留まるとは言っていない」

 

 ああ、時は移りゆく。

 あの戦争が終結するまでに、我々は深手を負った。

 

 友人の鴉天狗(英雄の娘)

 

 幽々子様(わが主の友)

 

 半人半霊の剣士(剣鬼)

 

 閻魔も、あの風見でさえも。

 

 皆が傷つき、多くの代償の末に辿り着いた今だからこそ、思う。

 私達の幻想郷は、異変を弾幕勝負で解決できるような、穏やかな楽園になったのだ。

 

「そうか。ならば私は、私の全力をもって君を足止めし、()()()()()()

 

 勿論、弾幕勝負が必ずしも安全だというわけではない。しかし、問答無用の騙し合い、裏切り合いは長く見られなくなった。もう、血で血を洗う戦をしなくてもいいのだ。この魔理沙のように若く、爽やかな五月の風のような者が現れてくれる世になってくれたのだ。

 

「(……、幻想郷はこんなにも平和になった)」

 

 だったら、あの方だって、そろそろ救われてもいいじゃないか。

 

 幽々子様、貴方様のおっしゃった通りでしたよ。

 私の主は与えられた役目全てを終えてから、この世から跡形もなく消え去るつもりです。残される者達の思いまでも全て、その身に背負って。貴方様の思いを全て受け止めた上で、そっとこの世界からいなくなるつもりなのです。

 

 二代目、貴方の言った通りだった。

 あの方を救えるのは博麗の巫女だけだ。あの方を本当に意味で理解できるのは、初代の意志を継いだ、過去の記憶を継承した、博麗の巫女に他ならない。霊夢が“博麗”を本当の意味で継承するかは分からない。しかしあの娘ならきっと、やり遂げてくれる気がするのだ。

 

 博麗の中でただ一人、“名”を持つことを許された彼女になら——。

 私でも、そして、幽々子様でもあの方を止めることはできなかった。

 だから、せめて。

 

「行くぞ、霧雨魔理沙。強き人間の魔法使いよ」

 

 私は、

 

 八雲藍は、

 

 わが主、八雲紫様に最初で最後の反抗をする。

 

 

 狐の章 始

 

 第二部 始

 

 

 

 ******

 

 

 

 ——瞬きをする。

 

 ——明るくなった視界に突如として現れた、

 

 ——恐ろしい(寂しそうな)神様。

 

 

 神様は、気づいたらそこにいた。

 そして、周囲の世界から音が消えた。風でさわさわと音をたてる木々の葉っぱも、小鳥のさえずりも。みんな、みんな消えた。

 私の前に現れた神様はとっても綺麗で、熱いため息が出た。でも、純粋に怖いとも思った。

 雰囲気で何となく分かるから。近づけば厄災が降りかかり、足元から狂気がじわじわと身を、精神を犯していくことが。私の目の前にいるのは、そんな理不尽な神話に出てくるような、出会ってしまったら死が確定するような古の神。

 私のような矮小な妖怪は、前に立つことすら許されない異次元の存在。

 

「………………」

 

 神様はお花を持つ私を、吸い込まれそうなくらいに深い紫色の目で、じっと見つめている。

 そう、私はお墓参りに来ていた。

 このお墓は、私が生まれた場所。私が私を初めて自覚した場所なのだ。どうしてか私はこの場所が好きだったから、いつしか毎日ここを訪れるのが習慣になっていた。

 時折人里で人間を化かして、そして食料を調達しながら細々と生きている中で、否応なく人間は身近な存在になる。そんな私は、人間がお墓の前でお花を手向けているのを見て、それを何となく真似てみた。

 どうしてお墓にお花を供えるのか、どうしてお墓を綺麗に掃除しているのか、理由までは分からなかったけど、何となく私はそれをやった方がいいと思ったのだ。

 まるで“本能”みたいに。

 そしていつものようにお墓を綺麗に掃除して、お花を置いてお供えしようと思ったら、神様に出会ったというわけだ。

 本当に、どうしてこうなったの——。

 

「貴方は——」

 

 少し驚きと、懐かしみの混じった声色。

 こんな弱小妖怪の、まだ人化の術すら覚えたばかりの妖狐である私に一体、何の用なのだろうか。聞きたくても怖くて、耳も尻尾も正直なもので毛がびんびんに逆立っている。

 逃げようにも、足はすくんでお地蔵様みたいに固まっているし。それどころか、上手いことを言ってその場を立ち去ろうとしたって、何を言っても殺されてしまう未来しか思い浮かばない。

 まさに袋の鼠ならぬ、袋の狐だ。

 ああ、最後に一口でいいから、人里で評判の豆腐屋で売っていた、特製油揚げを食べてから死にたかった。

 

 ひっ、ち、近いっ……。

 神様は、私のすぐ近くまで歩み寄って、しゃがんだ。

 

 秋の夕日に照らされた小麦畑みたいに金色に輝く髪は、継ぎ目一つない紅い紐で幾重にも結わえられていて、私の目の前でゆらりと揺れている。

 ゆったりとした着物は一見、白を基調としているように見えるけれど、紫色の帯と不思議な模様が印象的。所々には帽子や髪を結わえているものと同じ、紅い紐が結ばれている。白、紅、紫、その三色はとても調和がとれているはずなのに、どこか不気味というか、胸の内の不安感を煽られた。

 

 ふと、どこからか、いい香りがした。

 それはむせ返るような甘い香りではなく、冷たくとも仄かに心を落ち着かせてくれるような。

 思い出せそうで、思い出せない。一体、何の香りだったのだろうか。

 

 神様が私に向かって手を伸ばす。

 ぼんやりとしていたところで、私は不意を突かれた。

 今更になって慌ててももう遅いのだけど、涙が出そう……。

 た、食べても、私、美味しくないよ? きっと尻尾とか耳の毛が歯に挟まってものすごく食べづらいよ? 

 そうやって必死に大声を上げたくなるのと、体の震えを全力で抑え込んでいる中、

 

「似てるわ、あのときの娘と」

 

 神様の一言にあれ、と不思議に思った。

 

「やっぱり、それだけ忘れられないものだったのかしらね」

 

 何なのだろう。

 そんな疑問も束の間、神様は間近で私のほっぺを軽く摘まんだ。

 頬を引きちぎるような強い力ではなく、優しく手を添える程度のもの。意外にも柔らかくて、暖かくて、優しい手だった。

 びっくりだった。

 

「みゅっ」

 

 と、思っていたらそのまま頬を手の平でこねくり回された。

 完全に油断していた。

 

「妖狐、か……」

「みぇ……!?」

 

 ひとしきり私のほっぺを弄び、私の耳を見てぽつりと呟く神様。

 驚きのあまり、自分でもびっくりするくらい変な声が出た。頬を掴まれているから口が上手く動かないし、当然と言えば当然なのだけど、正直恥ずかしい。

 穴があったら入りたい、なんて人間ならこんな時に言うのだろうか。

 

「……あまり賢そうではないわね」

 

 私が羞恥と恐怖を紛らわそうと馬鹿なことを考えていたら、神様は私の心の中を読んでいるかの如く、辛辣な言葉を放った。

 呻くこともできない私は、ただ俯くことしかなかった。

 まじまじとしばらく見つめられた上に言われると、余計に傷つくというものだ。

 でも、びくびくしながら上目でちょっとだけ覗いた時、神様の口元は、少しだけ緩んでいるように見えた。

 気の所為なんかではない。

 それはとても、一瞬のことだったけれど。確かに、神様は微笑んだ。

 

「あうぅ……」

 

 それがなんだか照れくさくて、恥ずかしくて、私は身を縮めて体が熱くなるのを我慢した。

 なんだろう。私は何か、試されているんだろうか? それとも私に対して別の何らかの目的があるのだろうか? 

 自分に問いかけたって、答えは出て来やしない。出てくるはずもない。

 

「しかしまあ、丁度良かったわ。人手が足りないと思っていたところなの。それに、そろそろ後継が必要だったのよ」

 

 人手……? 後継……? 

 ますます何が何だか分からない。

 一つだけ分かったことは、私の命も、未来も全て目の前にいる神様の手の平の上にあるということ。

 私はそれが悪いことには思えなかった。もしかすると私はこのとき、もうすでにおかしくなってしまったのかもしれない。

 

「——貴方、私の式になりませんこと?」

 

 これは神様との契約。

 

 そうだ、思い出した。

 

 さっきした香り。それは、私が持っていた花から来ていたのだ。確かこの花の名は——。

 

 ——一輪草。

 

 

 

 ******

 

 

 

「ひゃああああぁぁぁぁぁっっ!!??」

 

 神様は私を抱いて空を飛んだ。とんでもない速さで、私の叫び声すら置き去りにして、飛んだ。

 あっという間に地面は遠く彼方に行ってしまい、ごうごうと空気を切り裂く音が耳に響く。

 

「うわぁぁぁぁああああ!?」

 

 叫び声だけで済んだのが不思議なくらい。でも、叫ぶとそれだけで恐怖が紛れらわれるような気がしたのも確かだ。

 ちなみに色々と他にも出そうになったのは、内緒だ。

 

「口を閉じていなさい。この高さに慣れていない貴方はきっと、これから息が苦しくなるでしょうから」

 

 焦っていた私だったけれど、神様の声は耳によく届いた。まるで神様だけこの世界から何の影響も受けず、浮いているみたいに。

 

「は、はひぃぃ」

 

 しかしそんなことをずっと考えていられる余裕なんてなく、とにかく、私は顔を神様のお腹の辺りに押し当てて、必死に捕まるしかなかった。失礼かなとも思ったけど、今更だ。それに、こうでもしなければ、振り落とされてそのまま真っ逆さまだろう。

 どちらにせよ死ぬのなら、少しでも望みのある方に私は賭けたい。

 

「もうすぐ着くわ。少し我慢なさい。行く先では呼吸が楽になるから」

「……ぁぃ」

 

 私は、ちゃんと頷けただろうか。

 顔を押し当てていた神様のお腹が一瞬、ぴくりと動いた。今の私が神様の表情を窺うことはできないけれど、神様はこのとき笑っていたかもしれない。

 しばらく呼吸が苦しいのを我慢すれば、一気に視界が開けた。辺りが急に明るくなったものだから、眩しくて私はぎゅっと再び神様に抱き着いた。

 

「もう大丈夫よ。よく我慢したわね」

 

 思いのほか、優しい声。

 神様は私の頭を撫で、少しだけ褒めてくれた。

 この神様は、実はとっても優しいのかもしれない。ただ勘違いされやすいというだけで。

 

「目を開けてごらんなさい」

 

 言葉のままに目を開けば、

 

「(きれい……)」

 

 空を突き抜けてそびえ立つ、山みたいに大きな門がそこにはあった。

 これには言葉を失った。

 空の上にこんな景色が広がっているなんて、今まで想像もしてこなかったのが理由の一つ。そして門のあまりの大きさに驚いたのだ。人里など、軽く覆ってしまうのではないだろうか。

 日の光が眼下の雲に反射し、白と青の二色で目が痛いほどに明るい。けれど神様はそんなこと気にも留めていないのか、ゆっくりと門に向かって手を伸ばした。

 

「(え……?)」

 

 神様が手をかざすと、門がゆっくりと音を立てずに開く。

 これはまた、何が起きているのか。さっきから驚きの連続で疲れてしまいそう……。

 

 神様の後に続いて、おそるおそる門をぬけると長い階段があって、頂上には立派なお屋敷が建っていた。

 普段遠くから見ていた人里のお家よりもずっとずっと、大きい。真っ白に塗られた壁はシミひとつ無くて眩しいくらいだし、周囲をふわふわ浮いている霊魂が幻想的な雰囲気を醸し出している。まず目にとまるのは、私の背丈では見上げるくらいに大きな門。門をくぐればお庭があって。よく手入れされた枯山水に、近くの池には立派な鯉が泳いでいる。

 中でも一際目立つ、立ち並んでいる桜の木々は、きっともう少し暖かくなればとても素敵になるんだろうなぁ、と思う。

 

「……」

「ぼんやりしていないで早くついて来なさい。後でどうせ、じっくりと見て回れるわ」

 

 いけない。

 私は自分の不注意さに冷や汗をかいた。

 神様の後ろについて行かなくてはならないのに、庭の様子にうっとりしてしまっていた。このままぼんやりしていて機嫌を損ねでもしたら、すぐに貴方なんて要らないって殺されてしまうかもしれない。

 しかし、それくらいこの屋敷は魅力的だったのだ。

 できるのなら、ずっと見ていたいと思ってしまう。

 

 庭をぬけると、屋敷の縁側に辿り着いた。玄関ではなくどうして縁側なのかなと、思ったりはしたけれど、まだ怖くて神様には聞けなかった。

 外から覗いた限りでは、誰かが中にいる気配はない。人里など人が住む場所でするはずの、“呼吸する音”がしないからだ。

 耳をそばだてて周囲に意識を向けても、何の音も拾わなかった。

 留守中だったりするのだろうか。

 

「幽々子、居るかしら?」

 

 お屋敷が広いとだけあってその声は静寂の中でよく響いた。

 すると、

 

「はーい」

 

 屋敷の奥の方から間延びした声がした。

 誰かが縁側まで歩いてくる。さっきまで何の気配もしなかったのに、警戒した私の尻尾は逆立った。

 微かに聞こえる、着物の裾が擦れる音からその人が女性であることは分かったが、どうして急に気配がしたのだろう? 

 

「久しぶりね、幽々子」

「あらあら紫、いらっしゃい」

 

 現れたその人も綺麗だったので、私は息を飲んだ。

 黒い扇子を開いて口に当て、優雅に、それでいて嬉しそうに佇んでいる。

 薄く白い蝶の刺繍が施された、淡い青色の着物は彼女の体の曲線美を引き立てているし、不自然すぎないくらいの白い肌を際立て、儚さを覚えさせる。何より華やかな薄桃色の髪が満開の桜を思わせるようで、着物の色と相まってよく映えている。

 人里で、こんな綺麗な人を見たことがない。

 神様は私を手招いた後、私の肩に軽く両手を置いて、言った。

 

「幽々子。すぐに本題に入ってしまって申し訳ないのだけれど、今日ここに来たのは、この娘の面倒を暫くの間見ていて貰いたいからなの」

「あら、そういえば見たこともない娘が居るわね。預かるのは良いけれど、一体どうしたの?」

 

 女性の視線が此方に向いた。

 綺麗な人に見つめられるのは、案外緊張するものだ。人里で人間に化けるときも同じような経験をしたことがあった。とはいえ、こんなに綺麗な人は見たことがなかったのは事実だけど。

 幽々子と呼ばれた女性の淡い青色の眼が私をじっと見つめている。

 怖くはないのだけど、咎められているようで耐えきれなくなった私は神様の後ろに隠れた。

 

「あらまあ、隠れちゃったわ」

「人見知りをする娘なのよ。まだ人化の術を覚えたばかりの幼い妖なのだから、精神的にもまだ幼い」

「まあ。覚えたばかりでそれだけ人化の術を使えるのなら、大したものではないかしら?」

「いいえ。この程度の練度では先々、困るのよ」

「え……まさか、紫——」

「ええ。貴方が想像した通りですわ」

 

 また、女性の視線が此方に向く。

 

「——この娘を私の式にする」

 

 今度はさっきよりも強い視線だった。負の感情と言うよりも、私を見定めているみたいな感じだ。口元を隠す扇子の所為で少しだけ怖く見える。だが、一つだけ分かったことがあった。

 彼女はきっと、恐らく、私に対して複雑な思いを抱いている。

 

「……」

「幽々子?」

「ああ、ごめんなさい……。そういうことなら、喜んで引き受けるわ。それで貴方はこの娘を迎え入れる準備をするからその間、私に面倒を見て貰いたいということかしら?」

「話が早くて助かりますわ。流石に、この案件は博麗の巫女に任せるわけにもいきませんからね」

 

 なんだか私は置いて行きぼりになってしまっている気がする。いや、実際そうなのだろう。

 私なんかが話に割って入っていい訳がない。

 

「そう。貴方の頼みというなら聞いてあげるけれど、まずはこの娘の名前を聞きたいわ。名前が分からないのでは預かるにせよ、何かと不便だから」

「ああ、そうでしたわね。まだ言ってはいなかったけれど、名は既に決まっているの」

「あら、聞かせて」

 

 え、何それ私も聞いていな——。

 

「——『藍』、八雲藍よ」

 

 “藍”? 

 それが、私の名前? 

 

「いい名前じゃない。その娘にぴったり——、って、え……?」

 

 あ、————。

 

「始まったか。施した式との同調率が思ったよりも低かったから心配したわ。まさか“名”に呼応して式の効果が発動するとは、名を持っていなかったこの娘の自我が曖昧なものであったことが原因かしら? 興味深いわね」

「紫……、一体何が起きているの? こんな馬鹿げた妖力、今この娘が持っていていいものではないわ。説明して頂戴」

 

 身体が熱い。

 私は『藍』。()()()()の式神である、八雲藍。

 紫様と、魂のずっと深い部分で繋がっているという感覚が私を包んだ。

 前よりも身体の隅々まで意識が行き渡り、ずっとずっと力が漲る。今なら、何でもできるような気さえする。思わず調子に乗ってしまいそうだ。自制しなくては。

 

「説明も何も、この娘が今をもって私の式神になったというだけよ。素体の意識を抹消して式そのものに意識を宿らせても良かったのだけど、予測された時点でこの娘の同調率は高かった。式に余分な機能を持たせては、純粋な能力の増強に使える容量を食ってしまう。かえって式神としての力を鈍らせる理由などないから、意識はそのままに、式に能力の増強作用だけを付与したということ」

「……、なるほど。でもいいの? 幼いその娘にそんな強い力を持たせてしまって。強すぎる力は、それを制御できない者を破滅に導くわ」

「ならば制御できるように、私が導けばいい。あまり悠長している暇もないのよ。地上では既に異変の予兆が起きているのだから」

 

 紫様が私へ手を差し向けると、徐々に火照っていた体の熱が冷めていく。

 きっと紫様が、私に鎮静の意味で追加として妖力を供給しているからなのだろう。式が施されてから間もない今、私は不安定な状態にある。身体と精神に式が馴染むまでには時間を要するのだ。

 だからこれは、主従の繋がりを強く結ぶための応急処置といったところだろうか。

 応急という割には、幾分か過剰とも言えるほどの妖力を私にくださっているのだが、紫様以外にはできぬことだ。

 この方に仕えることができるとは、私には勿体ないほどである。

 

「貴方、やっぱり月から帰って来てから変わったわね。力は勿論、そして——。いいえ、今はよしましょう」

 

 幽々子様は何かを言いかけて、すぐに止めた。

 わが主のことをよく知っているであろう彼女には、紫様が御用でお出かけになる間に、色々とお聞きすることとしよう。

 今日はご都合が合わなかったとしても、これから少しずつお聞きすればいい。

 

「気分はどうかしら? 尾の数が急に増えたから、きっとしばらくは過ごしにくいかもしれないけれど、すぐに慣れるわ」

「はい」

 

 私の尾の数は、一本から三本になった。

 これは、私が紫様の式となった証。ただの野良の妖狐ではない証なのだ。

 

「藍、私の前で誓いなさい」

「しょうちつかまつりました、ゆかりさま」

 

 私は神様と契約した。

 もとより選択肢なんてなかった。

 でもこれから先、何百年何千年経っても、私が死んだって後悔はしない。私はきっとこの方に仕えるべく生まれてきたのだ。

 この方の願いを、祈りを成就させるために生まれてきたのだ。

 

「わがちからは、あなたさまのもの。このちからのすべてを、あなたさまにささげます」

 

 そう言って、私は紫様にひれ伏した。

 

「ええ、期待しているわ。藍」

 

 そしてこのときより、私と紫様との生活が始まった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 それから数刻ほどして、準備を終えて帰って来た紫は、藍を引き取って白玉楼をあとにした。

 のんびりと見送りを終えた幽々子は、その場から立ち上がり、襖を開いて静かに立ち去る。

 向かった先は、何のことはない。いつも彼女が多くの時間を過ごしている、白玉楼の自室である。

 しかしそこには先客がいた。一羽の鴉が座布団の上に座っていた。

 ここ冥界において、死者の魂が転生するまでの時を過ごす白玉楼に、なぜ平凡な鴉が居座っているのか。ましてや、幽々子の自室というある意味最も警備が厳重と言える部屋で、鴉の存在は相当異質なものであった。

 その理由を知る者は、幽々子を除いて他にいない。

 

()()()()()()()()()()()。“幻想郷”の創立へ、彼女がさらに活動を活発化させることは間違いないでしょう」

「やはり、この時期を逃さず動き始めましたか……」

 

 何者かが、鴉を通して幽々子と会話をしているようである。

 

「はい。監視を続けますが、油断できません。まず“秘神”が後ろに控えていることは確実です。つい先程まで、私と彼女との会話の一部始終は監視されていたようでしたから。こちらの計画の障害となる恐れは十分にあるかと……」

「なるほど、後戸の神ですか……注意なさい。魔界の女神に次いで挙動が読めないアレの目的は、まだよく分かっていないのです。古の神の一柱とは言え、アレの本質は“黒”そのもの。もしも敵に回るようなことがあれば厄介なことこの上ないでしょう」

「承知いたしました」

 

 幽々子の表情は、紫と会話をしていた時のような、柔らかいものではない。感情が抜け落ちたかのような、ひどく冷たく無機質なものであった。先程までとは打って変わって異なる態度である幽々子の異変には、気づく者などいるはずもなく。

 

「それでは、頼みましたよ。西行寺幽々子。万が一、祝福されし子である八雲紫が暴走した場合、手段は問いません。彼女を殺してでも止めなさい」

「はい——」

 

「——四季映姫・ヤマザナドゥ様」

 

 刻一刻と、それぞれの思惑がぶつかり合う日が近づいていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狐の章:黒い焔に包まれて

 幾つもの本が整然と積み重ねられたとある人物の書斎。

 

「祝福されし子、ですか……」

 

 この書斎の主である地獄の裁判官、四季映姫・ヤマザナドゥは心底疲れた溜息をつき、手元の資料に目を移した。現在確認されている祝福されし子のリストには、“稀神サグメ”、“純狐”、そして“八雲紫”の名が記されていた。

 

「はぁ……彼女たちはきっとこれから、面倒ごとを次々に運んでくるのでしょうね」

 

 誰もいない映姫の書斎に、再び彼女の溜息が響く。もう何度目になってしまったことか。

 閻魔としての職務の他に、最重要かつ極秘扱いで上司から下されたこの任務。

 常に細心の注意を払う必要があるのである。

 西行寺幽々子が手駒となったことで自分の負担は多少なりとも減ったが、油断できないことは依然として変わらない。

 

 何せ相手は八雲紫。

 隙を見せれば喉を食い破られるどころでは済まないだろう。

 

 そして、映姫が今回の任務に気乗りしないのにはもう一つ理由があった。

 映姫は、八雲紫の邪魔立てをしたくないのだ。できれば、干渉せずに見届けたいとも思っていた。

 彼女は八雲紫に一つの希望を見出していたからである。上層部が“運命”と呼ぶもの。それらを打ち砕いてくれるのではないか、と。

 

 映姫は道端の地蔵であった頃、日々に違和感を覚えていた。

 自分という存在が何者かによって勝手に歪められているような、不快感が胸の内に燻っていたのである。

 徐々にその違和感は増し、終いには何故自分のような存在が生まれてしまったのかという疑問すら浮かんだ。

 

 だからこそ、地蔵から閻魔となったとき、真実を聞かされ絶望したのだ。自分にできることなど何もない、自分には何も変えることはできないと知ってしまった。そのときから、彼女は与えられた日々の勤めだけに従事するようになった。

 

 そんなとき、彼女はふとしたきっかけで、とある噂を耳にした。

 

『八雲紫は、この世のしがらみ全てを打ち砕く可能性を持っている』

 

 一部では名の知られていた彼女のことだ。映姫も例にもれず、彼女の存在自体は知っていた。だが、耳にする程度であって、特に気にしていたわけではなかった。

 しかし、彼女と冥界の彼岸花畑で会った際、映姫は噂が真実になるだろうと予感した。だからこそ、あのとき映姫は笑ったのだ。彼女が全てを壊してくれるなら、自分を縛る鎖もあるいは……と。

 だが、上司はどうやら映姫の職務への不満を見抜いていたらしい。

 よりにもよって、映姫が期待していた八雲紫の監視などという仕事を押し付けられてしまったのだ。それも、西行寺幽々子を手駒にせよ、と追加の指示付きで。

 

「(白と黒を裁断する、それが閻魔の仕事であるはずなんですがね。どうしてこうもくだらぬことをしなければならないのでしょうか……)」

 

 上層部は八雲紫の弱点である“西行寺幽々子“を抑えてしまえば、もしも暴走した時であれ、始末できると考えているらしい。映姫はそれを馬鹿げた話だと断じた。

 目の前に立ったことがあるからこそ分かる。

 アレはそのようなことで止まる小物ではない。映姫が一瞬とはいえ、本気で圧力をかけたのにも関わらず、彼女は平然と真っ直ぐと地面に立っていられたのだ。本来であれば、以前幽々子が地面に押し付けられたように、問答無用で自由を奪うはずであった。八雲紫は、次元の異なる存在である自分の力すら跳ね除けてしまったのである。

 

 ゆえに、たとえ幽々子が敵に回ったとして、彼女と殺し合うことになろうがこちらに甚大な被害を与えることは確実。思うに、八雲紫がもつ“マエリベリー・ハーン”は、上層部の想定よりもずっと危険だ。

 映姫は、記憶を全て取り戻した当時の彼女のことを思い出し、震えを抑えるべく両腕で自分を抱きしめた。

 

「(よいではないですか。この世から異分子を全て消してくれるというのなら、運命を狂わされる者も少なくなる。我々の職務を、むしろ手伝ってくれているくらいなのでしょう? わざわざ蜂の巣を棒で突くことなど、愚かなことです)」

 

 不満は募る。しかしこの部屋では、自分の思ったことをそのまま吐露することはできない。

 なぜなら、映姫の書斎はすでに盗聴されているからである。それに気づいているがゆえ、ますます映姫の不満は高まった。最近疲れが取れないのも、眠ろうにも眠れないこともきっと、それの所為だろう。

 もう一度、うんざりと溜息をつく。

 溜息など、いくらでも盗聴されればいいのだ。

 

「失礼するわよん」

 

 そんな静かな部屋の空気が僅かに揺れる。扉が叩かれる音。それは突然の来客を示していた。

 

「あっ!? え、少々お待ちをっ!!」

 

 不意を突かれた映姫は、焦りながらも身だしなみを整え、コホンと咳を払った。

 これから会う者は、この地獄で最高位の存在だからである。

 

「あらぁ~、映姫ちゃん。随分疲れた顔をしているじゃないの~。ちゃんと寝ている? 目の下にくまがあるわ」

「ご、ご心配をお掛けして、申し訳ありません。ヘカーティア様」

 

 来客は地獄の女神、ヘカーティア・ラピスラズリである。古の神の一柱にして、広い地獄の中でも唯一の良心だと映姫は思っている。彼女の見た目はファンキーだが、その実、面倒見がよいことで知られており、ヘカーティアは映姫にとって心を開いて話せる数少ない人物であった。

 何故か映姫のことを目にかけてくれており、多忙であるのにも関わらず、たびたび彼女は暇をみては映姫の元を訪れてくれるのだ。

 

「こちらからお迎えに上がれず、大変失礼を——」

「あ~、いいの、いいの。私が会いたくて来たのだから。映姫ちゃんはな~んにも悪くないわ」

「は、はぁ……」

 

 屈託のない笑みを浮かべる地獄の最高位の女神は、急に何を思い至ったか振り返り、映姫の書斎の一点を見つめた。

 

「ふ~ん」

 

 彼女の慈愛の籠った目はいつの間にやら絶対零度のように冷めきり、先程まで映姫に見せていた笑みが消える。

 

「私と映姫ちゃんのお話を盗み聞きするとは、随分と肝が据わっているじゃない」

 

 それは、底冷えするような声であった。

 

「……失せろ——」

 

 書斎の本棚に設置されていた盗聴器が、はじけ飛んだ。

 

「これで、気兼ねなくお話しできるわねっ!!」

 

 振り返り、にぱっと、何事もなかったかのようにヘカーティアは笑顔を見せた。これにはさすがの映姫も苦笑いである。どうせ後でまた書斎のどこかに設置されるんだろうな、などと書斎の本棚の一角から上がる煙を見つめていた映姫だったが、

 

「そうですね、実はご報告すべきことと、お聞きしたいことがあったのです」

 

 このときばかりは盗聴されていなくて良かったと、彼女は心底思った。

 

 

 ******

 

 

「ツクヨミに摩多羅隠岐奈か……。懐かしい名前ね」

「はい。ヘカーティア様なら何か存じていらっしゃるのではないかと思い——」

「まずは、ツクヨミかしらね」

 

 椅子に足を組んで座っていたヘカーティアは、自身の緋色の髪を弄りながら、答えた。

 

「あの娘は一度、死んだのよ。本来古の神が寿命を迎えることなどないのだけど、あの娘だけは特別。今のツクヨミは、さしずめ、クローンといったところかしらね」

「くろーん?」

「ええ、本人であって別人。力そのものは同一でも、自我はまったく異なるということよ。恐らく、自分の役割に関する記憶も失っているのではないかしら」

 

 口に人差し指を当て、上目で虚空を見つめながら、思案するように続けて言う。

 

「う~んと……たしかその書類に書かれているサグメって娘は、何度か見たことがあるわ。あのうんざりするような月の都の中ではしっかりしてそうな娘だったし、きっと大丈夫よ」

「その……大丈夫、とは?」

「神と祝福されし子は運命共同体。どちらが欠けても、この世の異分子を消し去ることはできないわ。今、ツクヨミが頼りにならないのなら、彼女が自らの役割を思い出すまでサグメが支え続けなければならない。そういうことよ、映姫ちゃん」

 

 任務を下されたはいいものの、映姫は祝福されし子の全貌を知っているわけではない。できれば多くの情報を手にしておきたいと考えていた映姫だったが、収穫は彼女の予想以上のものだった。ヘカーティアはまだ何かを隠しているようであったが、それ以上尋ねてもはぐらかされるだけであろう。いくら自分に気を許してくれるのだとしても、無理に聞くわけにもいかない。

 

「後は隠岐奈だけど……」

 

 秘神、摩多羅隠岐奈の名を口にしたヘカーティアの表情が曇る。流石は後戸の神。ヘカーティアをして名を口にすることすら憚られるとは、やはり危険な神だと映姫は警戒の度合いをさらに繰り上げた。

 それにしても、八雲紫をそそのかしたりはしないだろうか、などと映姫が不安に思っていたところ、

 

「あの娘の付き纏い癖は……気を付けた方がいいと思うわ」

「は?」

 

 思わず、は? と聞き返してしまった。

 

「執着心が強いというか、一度気に入るとね、どこまでもじっとりねっとりと付き纏うの。普段は冷静そうに振舞ってミステリアスな雰囲気醸し出しているけれど、話し相手が少ないから……要は、かまってちゃんね」

 

 それは映姫の予想の、斜め下を行くものであったのだ。

 言葉を失った。

 八雲紫に、同情の念を禁じ得ない。そんなのに、目を付けられたのか。

 映姫は心の中で、紫にささやかな声援を送った。

 

「あ、あのっ、ヘカーティア様——」

「大丈夫よ、映姫ちゃん。もしも隠岐奈が貴方に付き纏うようなことがあれば、私は全面抗争だって辞さないわ」

「そ、そういうことでは——」

「映姫ちゃんの操は、私が守るっ!!」

 

 ヘカーティアの鼻息が映姫の顔を軽く撫でる。

 要は、顔が近い。

 地獄の女神は、このときばかりは映姫の話を聞いてくれなかった。一見すればきわめて部下思いである発言なのだが、『ヘカーティア様自身もどこかずれているような気がします!』と、映姫は心の中で叫んだ。

 ヘカーティアの暴走が止まるまで十数分の時を要し、

 

「さて、こんなものでよかったかしら?」

「は、はい……大変参考になりました。ありがとうございます、ヘカーティア様」

「いいのよ、これぐらい。映姫ちゃんのためだもん」

 

 落ち着きを取り戻した彼女が微笑んだ様は、まさに女神。特に今日は、いつものようなファンキーな服ではなく、黒を基調としたドレスを着ていたため一層神々しく見える。

 本当に、この女神が地獄にいることだけが心の支えであると映姫は思った。

 

「そういえば、ヘカーティア様自らこちらにいらしたのは、一体どのようなご用件でしたのでしょうか? 私が先に用を済ましてしまい、大変申し訳ないのですが」

「ああ、気にしなくていいわ。今日は単純に貴方の様子を見に来ただけなの。例の、八雲紫の監視役の任に就いたと聞いて、気になったから」

「それならば、ご心配には及びません。私の能力は彼女と相性がいいのです。上が私にこの任務を下したのも、ある意味当然でしょう」

 

 務めて平静を取り繕っていた映姫であったが、地獄の女神は彼女の本心を見抜いていた。

 

「本当に、それでいいの?」

「…………」

 

 閻魔である映姫が、()()()

 このまま黙り込むことで追及をかわすか、それとも全て、ここで彼女に話してしまうか。

 

「私には、貴方がやりたくないことをやっているように見えるわ。だって貴方、八雲紫のことを話していたとき、辛そうな顔をしていたもの」

 

 映姫にとってそれは図星だった。つい先程まで、丁度考えていたことを見事に言い当てられてしまい、最早言い逃れはできまいと彼女は確信した。

 ヘカーティアになら、全てを話してもいいのかもしれない。

 だが、心優しいこの女神は、きっと自分に手を差し伸べてしまう。それが例え、ヘカーティア自身の立場を危うくするものであったとしても。

 

「ヘカーティア様……」

「なあに?」

 

 己は罪の裁断者である。是非曲直庁における一閻魔。

 ならば、答えは決まっているようなものだ。

 

「申し訳ありません。これは、私がやり遂げなくてはならないのです。今、貴方様にお話しするわけには、いきません」

「——そう……」

 

 映姫は組織としての“法”を選んだ。

 そんな彼女の意志を汲み取ったのか、ヘカーティアは追及を止めた。

 彼女なりの優しさでもあった。

 

「さてと……、あまり長居してもお邪魔をしてしまうし、そろそろ私は帰るわ。まあ、いつでも私を頼ってね。私は何時だって貴方の味方よ、映姫ちゃん」

 

 右手の親指を立て、ウィンクするヘカーティア。

 

「はい、ありがとうございます」

 

『また来るね』、と言って、ヘカーティアは自らの空間へと転移していった。その気になれば、部屋に入って来るときも転移を使うこともできただろうに、律義な彼女は毎度、ノックをしたうえで扉から入室している。

 そんな気遣いも、彼女が慕われる理由の一つだろう。

 

 彼女が去って静かになった書斎で、映姫は次の資料に目を移す。

 記されていたのは、一人の女性についての情報をまとめた報告書であった。

 

 純狐。

 

 祝福されし子の中で最も危険かつ残虐である。敵味方問わず全てを純化の炎で焼き尽くし、終いには己自身すら焼き尽くそうとする、狂った地上の子。暴走した回数は数えきれず、安易に彼女を刺激するような行為は慎む必要がある。

 また、彼女が月の都に攻め入る度に月の民達は甚大な被害を被っているが、現状、地獄としては彼女に対して不干渉の立場をとる。万が一彼女と遭遇することがあれば、全力で退避すること。

 そして、彼女を諫める古の神、ヘカーティア・ラピスラズリの到着を待てと指示されている。

 

「(あの方は、どうしてこのような危険な存在を祝福したのでしょう? そもそも、祝福されし子とは本当にただ異分子を排除するだけの存在なのでしょうか……)」

 

 他に誰もいない映姫の部屋で、彼女の問いに答える者はいなかった。

 

 

 

 ******

 

 

 

「あ、お帰りなさいませ、ご主人様」

 

 映姫ちゃんの元から自室に帰ってくると、クラウンピースが私を出迎えた。

 

「ただいま、クラウンピース。何か変わったことはあった?」

「そうですねぇ……、あ、そうだ! あの八雲紫が動き出しましたよ!! それとあの摩多羅隠岐奈も!」

「あはは、丁度聞いたところだわ、それ」

 

 くるくる回りながら片手の松明を振り回し、嬉しそうに言うクラウンピース。相変わらずこの娘は元気ね。ともあれ、前々からこの娘には情報収集を頼んでいるのだが、まだこれといった情報は掴んでいない。それはむしろ、良いことなのだけどね。なんたって平和が一番なんだから。

 よかった、よかった——。

 

「(あれ……?)」

 

 安心したのも束の間、私は違和感を覚えた。

 そういえば、いつもならこの娘と一緒に出迎えてくれる友人の姿が見えない。

 まさか、また勝手にここを抜け出して、一人で月を攻めにでも行ったのだろうか? 

 それはちょっとまずい。

 

「ねえ、クラウンピース。えっと、純狐の姿が見えないのだけど——」

「友人様は、奥の寝室でお休みになられています。あ、そうでしたそうでした!! あたい、寝苦しそうな友人様に、子守歌を歌って差し上げたんですよっ!!」

 

 子守歌、とな? 

 いつも元気一杯に地獄中を駆け回っている、この娘が? 

 本当に? 

 

「へ、へえぇ……」

「ふっふっふ、この前月の都に行ったときにですね、偶々耳にしたんです。そのときからあたい、気に入っちゃって」

 

 ああでもどうしよう。

 それまずくない? 純狐はもう人ではないけれど、クラウンピースの『人を狂わす程度の能力』に何かの拍子に反応したりでもしたら、また暴走してしまうかもしれない。

 今は眠っているみたいだけど、起きたらスイッチ入ってるってことはないわよね? 

 キレてるときの純狐を抑えるのは、正直私でもきつい。

 抑えようとすると、周囲の被害も少なくないし、なにより純粋に力で押さえつけられないから。

 ……暴走していないことを祈るばかりだわ。

 

「えへへぇ、それじゃあ、ご主人様にも歌って差し上げますねっ!」

 

 まったくこの娘は。

 

「——♪」

「……ん?」

 

 嫌な予感がする。

 その証拠に、私の背中には鳥肌が立っていた。

 どこかで聞き覚えがあったから。

 

「——♪♪」

 

 これが、子守歌……。

 なによ、これ…………。全然、子守歌にしていい内容ではないわ。

 だってこの歌って、あの——を歌った歌じゃない……。

 どうしてこんな歌が……? 

 まさか、これも先代ツクヨミの仕業かしら? 

 

「——♪」

 

 こうなってしまえば、世界が少しずつ変革を迎えていくことは確実だろう。

 八雲紫が記憶を取り戻した。

 そして、摩多羅隠岐奈が彼女への接触を開始した。

 月の異分子の一人が抹消され、月の勢力図に変化が生じた。

 これら一連の出来事は決して偶然ではない。起こるべくして起こったこと。

 私達も、そろそろ動き出さなければならない頃合いなのかもしれないわ。

 

「——Fantasy……」

 

 はあ……。映姫ちゃんの心配をしている癖して、自分の仕事を疎かにしていたらきっとあの娘にも怒られちゃうわよね。

 

「その歌、とっても素敵だけど、忘れちゃいなさい。子守歌にしては、物騒だわ」

「は~い」

 

 クラウンピースが二つ返事で了承したのを確認した私は、奥で休んでいるという友人の様子を見に、寝室へと足を運んだ。

 

 

 

 ******

 

 

 

 裏切られた。

 全てを奪われた。

 そして当時の彼女に残った、ただ一つ感情は、ある者に対する純粋な怒りだけだった。

 

 

 

 

「母様っ!」

 

 豪華な服を纏った子供が、美しい黒髪の女性の元へと駆け寄る。

 

「戻っておられたのですねっ!」

「ええ、貴方が元気そうで何よりです。大きくなりましたね」

「えへへ」

 

 はにかむ少年を女性は柔らかく抱きしめた。

 少年は、彼女が想像していたよりもずっとずっと大きくなっていた。

 

「本当に、大きくなりましたね……。貴方のこれまでの成長が見られなくて、母は少し寂しいです」

「大丈夫ですっ。これからきっと、母様に私が立派になったところを一杯見せてあげますからっ!!」

 

 少年のその言葉には若々しい力強さがあった。成長著しい新芽のようなみずみずしさと初々しさ。

 女性は瞳には少年の姿が眩しく映った。

 

「ふふ、それは楽しみです」

「はい!」

 

 元気よく答えた少年は、母の髪をまじまじと見つめる。母の黒髪には、自分の姿が映っていた。

 そう。女性の黒髪は、鏡のように物を映してしまうほど黒く美しかった。それはこの国では有名で、近辺で知らぬ者はいないとも言われている。

 少年は、そんな母の黒髪を愛していた。

 

「お体はもう、良くなられたのですか?」

「はい。二年もかかってしまいましたが、もう大丈夫です。たくさん心配を掛けましたが、——」

 

 女性は一度少年を引き離し、その小さな手を取ると、

 

「ただいま戻りました」

 

 花が咲いたように、柔らかく微笑む。

 黒を基調とした中華服を纏った彼女は周囲に冷たく落ち着いた印象を与えるがゆえ、彼女が微笑むと、ひと際華やかであった。

 もしも他の誰かが彼女の笑みを目にしたのならば、一瞬で虜となってしまうことだろう。

 

「お帰りなさい、母様」

 

 少年の満面の笑みに女性はまた、微笑んだ。

 

「しばらくは共に暮らせるのですね。父様は昨日から眠れなかったようですよ」

 

 嬉しそうにはにかむ少年。

 

「あらまあ」

「行きましょう、母様。私が案内して差し上げます」

 

 しばらく見ないうちにここまで成長していたのかと、女性は少し寂しいような複雑な感情を抱いた。二年という月日は、やはり長かったのだ。

 

「こちらへ。お足元には気を付けてください。病み上がりに転んでしまっては、大事になってしまうやもしれません」

「ふふ、ありがとう」

 

 

 

 ******

 

 

 

 剣の稽古で汗を流す息子の姿は、それはまた見間違えるほどに立派になっていた。腰をしっかりと落として体重を打ち込みに乗せられているし、刃筋も悪くない。強いて言うなら、剣先を上手く扱えておらず手元で振ってしまっている程度だろう。

 前は剣を振るというよりは、剣に振られているという印象だったのでかなりの変容だと思う。

 ちなみに当時、あの子が打ち込みで空振りして転び、泥だらけになって大泣きしていたことが記憶に焼きついており、今でも鮮明に思い出すことができる。

 あれは可愛かったなぁ。

 

「……何か、変なことを思い出してはいないでしょうね?」

「い、いいえ。何もやましいことは考えておりませんよ」

 

 驚いた。完全に平静を取り繕っているはずの私の心情を読み取って来るなんて……。この子はなかなか勘が鋭いようだ。

 器用にも稽古をしながらこちらにジト目を向けてくる息子にこれ以上悟られぬよう、私は柔らかく微笑んで返した。その直後、

 

「若様、隙だらけです」

「あたっ!?」

 

 脳天に剣術指南役の木刀による一撃が入る。加減されているとはいえ、息子は涙目だった。

 やはり目の前に集中することは、とても大事なことです。

 

「ぬぅ……母様に気を取られてしまいました。不覚です」

「いくら奥様がお見えになっているといえ、集中を切らしてはいけませんぞ、若様」

 

 ジンジンと痛むのか頭をさすりながら息子は私の元へとやってきた。これは久しぶりに母らしいことができる好機かもしれない。

 善は急げ。

 すぐに行動に移した。

 

「今何か冷やすものを持ってきますから——」

 

『そこで待っていなさい』と言いかけたところ、

 

「この程度、なんでもありません。母様こそ、ここは少し肌寒いですよ。お体に触ってはいけません。すぐ支度するゆえ先に中で待っていてください」

「え、あ、えっと、だ、大丈夫ですよ?」

「…………」

 

 逆に気を遣われてしまった。

 これでは母としての面目が立たない。

 

「こ、これくらいは……」

「——母様」

「はい……」

 

 拝啓、旦那様。

 息子が立派になり過ぎて私は嬉しいながらも、寂しいです。こんなにも早く、親離れというものは始まってしまうのでしょうか? 

 結局言われるがまま、部屋の中で身を整えながら息子を待った。

 

「お待たせしました。行きましょう、母様」

 

 私を見てにっこりと笑う息子は、

 

「あら、なんだかとっても嬉しそうですね」

 

 私の一言の直後、途端にすっと目を細めた。

 な、何か不味いことでも言ってしまったのだろうか。

 息子は頰をぷっくりと膨らませて、抗議するように言った。

 

「分からないのですか? もしもそうなら母様は鈍感です。とっても鈍感です」

「はへっ?」

 

 そ、それはちょっとどころでなく傷つく。

 そんな、齢七の子供に鈍感だと言われてしまうとは……。

 

「母様」

 

 姿勢を正し、こちらを真っ直ぐ見上げられると、流石の私も緊張してしまう。背中を冷や汗が伝った。

 

「は、はい。な、なんでしょう……?」

 

 息子は仕方がないといった様子で言った。

 

「私は……いえ、きっと父様もでしょうから、私達ですね。私達は母様と御夕飯を共にすることができて、嬉しいのです。母様のお体の調子がようやく戻り、以前のように暮らせることが何よりも変えがたいほどに」

「あ……」

 

 はっとさせられた。私が最後に食事を共にしたのは、一体いつ頃であっただろうか。この子が文字の読み書きの手習いを始めた頃であろうか? 

 それとも——。

 猛烈に、先程言ったことを後悔した。なぜ気づけなかったのだろう。床に伏せっていたせいか、時の感覚がおかしくなってしまっているせいかもしれない。

 

「ごめんなさい。母が体を悪くしたばかりに……」

「あっ!? いや、そ、そんなに思いつめないでください! 母様が悪いとは一言も言ってはおりません。ただ私は——」

 

 情けない話です。

 鋭く指摘される挙句、今度は慰められてしまうとは。

 

「よいのです……。貴方の言ったことは正しい。私は心のないことを言ってしまいました。烏滸がましいことですが、どうかこの至らぬ母をお許しください……」

「あわわっ!? お、重いです、母様っ! わ、私は別にそこまで言っているわけではないのですっ!」

 

 涙が止まらなかった。

 

「ぐすっ……ふぐぅっ……」

 

 嗚咽。

 

「ひっ!? あぁ、母様が泣き止まないどうしよう!? ち、父上は……! 誰かっ!!」

「どうなされましたか? 若様」

「父上を早く呼んできてください! 母様が泣き止まないのですっ!」

「旦那様は只今外出中で——」

「父上ェェえええ────!!?」

 

 その後、用事から戻った夫はすぐさま飛んでやってきて。

 そして事情を知った夫に一晩中ずっと慰められ続けたことは、今でも恥ずかしかったなぁ、などと記憶している。

 

 

 

 そう、このときまでは、満ち足りていた。

 明日が来ることに恐怖など感じなかった。

 失くした時間も、きっといつかは返って来ると信じていた。

 

 ——愚かだった。

 私は何も、分かっていなかった。

 

 

 

『ひゅっ……か、……母様……、かあ、さ……ま……』

『誰かっ!! 若様を早く医者に見せよ!!』

 

 私の息子は原因不明の火事で、逃げ遅れた。顔は一色で塗りつぶされたように真っ黒で。

 あれほど可愛らしかった目も、耳も、鼻も、口も、判別がつかないほどに焼け焦げた。

 私を見つめてくれた大きな瞳は、黒く窪んで何も移してはいなかった。

 私の声を聞き取るはずだった白い耳は、炭化してぼろぼろと崩れていった。

 私の胸元で、私をいっぱいに感じてくれた息子の整った鼻は、今やただの空洞になっていた。

 私を『母様』と呼んでくれた愛しい息子の唇は、炎に焼き尽くされ歯がむき出しになっていた。

 私はあのとき、あの子に何と言ってあげたのだろう。一体、なんと言ってあげればよかったのだろう。

 思い出せなかった。思い出そうとすればこの身が、心共々焼け焦げてしまいそうだったから。

 

『——』

『誠に残念ですが、旦那様は、もう……』

 

 息子の死から数か月後、私の夫は体調を崩した。確実に快方に向かっていたはずだったのだが、突如容態が悪化し、夫は口から血を吐いた。

 みるみるうちに顔色がどす黒くなっていった夫は、最期、私の頬に手を伸ばして涙をすくうとそのまま息絶えた。

 けっして、安らかな死ではなかった。衰弱の仕方が明らかに不自然であったのだ。

 まるで、毒を盛られたように。

 

 そして、機会を見計らったかの如く、ある男の元へ嫁ぐよう、私宛てに命令が下った。

 あまりにも出来過ぎていると家臣が事を調べ、私にある日、報告した。

 全ての真実を知ったとき、私は頭が真っ白になり、復讐の狂気に飲まれた。

 

 ——景色は、燃え盛る屋敷へと移り変わった。

 

 ああ、足りない……。

 足りないんだ。

 まだだ、もっと叫び声をあげろ。あがけ、苦しめ。

 もっとだ、もっと燃やさなければ……アレの目をこちらに向かせるためには、この程度の血では、この程度の炎では足りぬのだ。

 その証拠に、アイツを燃やし尽くすには少々遅かった。

 アイツ共々焼け死んでやるわけにも、いかなくなってしまった。

 

『……くそっ』

 

 悪態をつきながら、外門をぼんやりと見つめる。どうせここからでは追いつけない。そもそも私は、生きてここから出ることもできないだろう。

 身体に火が移る。

 無念、無念だ。

 夫と息子の仇、あの男は殺してやった。だが足りない。あの男の妃である、奴を仕留めるまで私の怒りは収まらないのだ。

 ぼんやりと自分の身体が焼けていく様を見つめていたら、遠くで、何かがきらめいたことに気づいた。すっかり重くなった体に鞭を打ち、視線を向けると、

 

『あ……』

 

 屋敷から去ろうとしている馬車を見つけた。

 よくよく目を凝らしてみれば、御簾を上げ、隙間から様子を窺っている何者かがいた。見ているのは、きっと……。

 気づけば私の口元は弧を描いていた。

 

『あはは…………』

 

 そうか、そういうことか。

 放っておけば灰となって消えていくはずのこの身を、奴は恐れる。それは簡単なことだ。

 

『はは……そんな怯えた目をして……何処へ行くのやら……?』

 

 私から逃げるのか、貴様は。

 

『ふふ、ああだめね……笑いが止まらないわぁ……、くひっ』

 

 きっとあの日から、私は壊れてしまった。

 

『ヒヒヒッ、おかしいわァ。臆病よねェ、こんな死にかけの女、一人を恐れるだなんて』

 

 今では私が私である最後の証ですら、燃え尽きようとしている。

 狂ってしまったのだ。それはもう疑いようもない。

 

『クヒッ……!! ヒヒヒヒヒッ、ウフフフッ! アハハハハッ!!』

 

 だが、構わない。狂気は憎しみへ、憎しみは憤怒へと昇華されていくのだ。

 純化する。

 私の心は、私の身体は、復讐するために純化する。

 

『ヒヒヒッ、クヒャハハハハハハハハッッ!!!!!』

 

 ああ、脳みそが焼け落ちてしまいそうだ。

 だがそれでいい。

 燃えろ、燃えろ。

 できるなら、この記憶と共に。

 私はただアイツを殺すことができればそれだけでいい。

 たとえこの身が朽ち果てても、私が何者であったかを忘れてしまったとしても。

 何度だって、奴の前に立とう。

 

『そこで見ているがいい!! 私は貴様を必ずや追い詰め、殺してやるからなぁぁァァっ!!』

 

 とうとう、焔が私を包んだ。

 熱い、熱い。

 でも痛みなどなかった。むしろ私の中の怒りが炎と共に燃え上がって、一体となっているようだった。

 

『嫦娥ァァァアアアアア゛っっ!!!!』

 

 喉が焼け、声が枯れようとも、貴様の名を叫ぼう。

 

 例えこの身が焼け落ちてしまおうとも、怨念となって貴様を祟ろう。

 

 不思議な話だ。

 

 お前のことが頭から離れないのだ。

 

 夫の顔も息子の顔も黒く塗りつぶされ、

 

 思い浮かぶのは奇妙なことにお前の顔。

 

 不倶戴天の我が仇……。

 

 嫦娥よ、貴様は私を見ているか? 

 

 

 

 

 ——あれから一体、どれだけの時が流れていったのだろう。

 

 

 日を数えるのが億劫に感じるくらいには、ずっとずっと微睡んでいた。

 私は今、果たして生きているのだろうか? 

 それとも既に、死んでしまっているのだろうか? 

 そもそも、私とは一体何だったのだろう。

 そんなどうしようもない、答えが出ないような自問自答を繰り返してきた。

 

「どうしたの?」

 

 ふと目を開けてみる。

 すると映ったのは、もう見慣れた友人の顔。それも息がかかるくらいの至近距離。

 彼女の瞳には、目の下に隈ができた私の顔が映っていた。

 

「ああ、いや。なんでもない」

 

 体が重くて身動き一つ取る気にならなかった。再び目を閉じようとしたが、どうやらそれを許してくれない。

 

「そんな顔ではなかったわよん」

「そうですか。私はもう少し寝るから放って置いてくれるかしら?」

「え、ちょっと、二度寝しないでよっ!」

 

 何か面倒な気がしたので、彼女の顔を手で払おうとしたが退く気配がなかった。彼女、ヘカーティア・ラピスラズリは時折私に引っ付いては離れないことがある。

 それも、私の機嫌が悪い時にやられるため質が悪い。

 一体、私がお前に何をしたというのだ。

 

「どいてくれない?」

「——ねえ、純狐。貴方、うなされていたわよ……」

「……そう」

 

 今に始まったことではない。

 起きたときに倦怠感を覚えるときは大抵、うなされているのだ。

 自らの怒りを純化して神霊となっても、私はどうやら私の深い部分ではちっとも変っていない。

 臆病で、愛が欲しくて、嫉妬深い。

 だからあの日々を思い出しては何度も何度も苦しむのだろう。

 

 これからもずっと。

 

 

 狐の章 完

 

 

 

 ******

 

 

 

 山々には妖怪魑魅魍魎が数多く住み着き、人は里の周囲を柵で囲い、静かに暮らす。

 

 そんなこれまでの日々に変化が生じ始めた。

 

 人間同士の戦が隣の国で始まったことが全てのきっかけだった。

 何処の人里も若い衆が戦へと駆り出され、さらには日照りが続いたこともあって田畑は荒れ、民は飢えるばかり。

 当然、飢饉が発生した。

 

 そこで国の統治者たちは戦を一時休戦し、それら全てが妖怪達によるものだという噂を各人里に流した。

 彼らはこれで自分たちへ向けられる不満を回避できると考えていたのだ。

 

 しかしそれは誤りだった。

 

 人々の不満は爆発し、憎しみの矛先が妖怪へと移った彼らは、妖怪達が住む山々を燃やしたのだ。

 

 人間と妖怪における大きな戦の火蓋が、今にも切られようとしていた。

 

 

 人の章 始

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人の章:訪問

 【葉月 三十一日】

 

 昼下がり。

 流れゆく雲の合間からは幾重もの日が差し、妖怪の山の頂上に建つ屋敷を照らしていた。

 樹齢千を超えるヒノキ、大陸から取り寄せた瓦をふんだんに用いて造られたその屋敷は、質素な見た目でありながらも荘厳としており、辺り一帯の空間で圧倒的な存在感を放っている。

 しかし、それは当然のことであろう。

 この屋敷と、ここに座する者こそが天狗の誇り。

 “鬼”に次いで山の上位者として君臨する天狗の長、“天魔”の屋敷であるのだから。

 

「——近隣の人里の様子がおかしい?」

 

 そんな天魔の館の一室に、一人の少女の声が響いた。

 部屋には椅子に座った少女と、偉丈夫のいかにも武人らしい男性の二人のみしかいない。普段少女の傍に仕えている者達は皆、出払っているらしかった。

 それを確認した男性は『はい』と答え、確認するように問う。

 

「以前より、人間同士が領地をめぐって戦を行っていたことは周知の事実ですが……天魔様は、近頃になって発生した飢饉の影響で、彼らが休戦したことをご存じでいらっしゃいますでしょうか?」

「ええ、先週に報告を受けました。戦などしている暇などないと、漸く人間達も気づき始めたのでしょうね。……それがどうしたのですか?」

 

 少女は、若くして天狗の長に就いた天魔であった。

 椅子に座し大天狗からの報告を聞く天魔、射命丸茜は机に積まれた書類に目を向けながら答えたが、彼女にしては珍しく、少々不機嫌な様子であった。『なぜ今日に限って処理しなければならない事案が多いのですか』などと小声で呟いているあたり、かなり参っているらしい。

 しかし、

 

「休戦したはずの彼らが、再び戦備えを始めているのです」

「……ふむ」

 

 大天狗の一言に、茜の真紅の眼が書類から大天狗の方へと移る。今日初めて、彼女と大天狗の視線が交差した。

 

「休戦協定を破って、どちらかが仕掛けるというのですか? それとも——」

「恐らくは、我々(妖怪の山)に対して宣戦布告する気かと……」

「……嫌な予感がしたんですよ」

 

 彼の報告は、人間達の正気の沙汰を疑うような内容であった。にわかには信じがたいが、大天狗の真っ直ぐな瞳は事の重大さを訴えるものであり、彼が戯言を言っているわけではないと茜はすぐさま理解した。

 それにしても、人間と妖怪の力量の差など明らかであるはず。彼らは物量で挑めば勝機があるとでも考えているのだろうか、と茜は考えた。国が先導して兵をあげたのなら話は別であるが、近隣の里が戦備えをして攻め入ってきたところで、所詮は烏合の衆である。

 また新たな問題が浮上したことに溜息をつき、茜は眉間を指でつまんでもみほぐした。

 

「ふぅ……。我々は月との戦を終え、戦備えを解くことで疲弊した民達の生活の改善に尽くしました。そしてその過程で、人間との関係改善にも着手したはずなのですが——」

「今になって何故、か……ということでしょうか。 むしろ、今だからこそなのでしょうな」

「……ええ、そうですね。その通りです。分かっています。分かっていますとも」

 

 茜が天魔に着任してからというもの、天狗の里の生活水準は大幅に向上した。その原動力となったのは、人妖問わず、周囲との関係緩和によるものだと言える。

 妖怪達の関係性でいえば、河童との親交を回復し、山全体の緊張感が解かれたことで天狗は孤立していた状態から脱し、困窮していた生活物資を供給できるようになった。

 人間達との関係性では、天魔と個人的な親交のある博麗の巫女を通して、近隣の人里と交流をはかった。

 

 だが、天狗社会が“鬼”に対して未だ根強い反感の意を持っているのと同様に、人間達もまた、妖怪に対して根深い恨みを抱えている。

 

 怒りのぶつける矛先のない、飢饉という災害に対する不満。それらを自分達妖怪に差し向けた黒幕について、茜は既に見当がついていた。

 『はあぁ』という彼女のうんざりとした溜息が部屋に響いた。

 

「国の領主どもめ。所詮は責任逃れというわけですか。あわよくば我々と共倒れすればよいと期待しているんでしょうね」

「我々だけでも打ち払うことは容易いですが、問題は山積みでしょうな」

 

 妖怪が何故、人間を滅ぼさないのか。

 それは妖怪の存在自体が、人間の恐怖から成るものだからであった。

 人間の“畏れ”が、妖怪達の存在を成り立たせている。したがって、人間を滅ぼしてしまうと、妖怪達は自然と消滅せざるを得なくなる。かと言って、妖怪が人間を脅かさなければ、それはそれでゆっくりと消滅するのを待つこととなるだろう。妖怪も、人間を頼りに生きている部分があるのだ。

 

 つまり妖怪である彼らとしては、人間との全面抗争は極力避けたいというのが本音である。

 だが知能の低い妖怪が焚きつけられてしまえば彼らの身では収拾がつかなくなってしまうから、なお厄介。

 そして、未だ一番の問題が残っていた。

 

「鬼の皆さまですね……」

「然り。方々の人間への報復はまず、避けられますまい。予想される規模は天狗と鬼との抗争を遥かに凌駕することでしょう」

 

 これまで、天狗をはじめとした数種の妖怪は人間との融和路線を歩んできた。

 しかし、この妖怪の山において、鬼は依然として人間との関わりを避けているのが現状である。したがって、彼らが人間と有効な関係を築けているとは言いにくい。

 もしも人間がこの山に攻め入ったのなら、彼らは嬉々として打ち払うだろう。たとえ人間の存在が、自分達妖怪にとって必要不可欠であると理解していようとも。

 

「萃香様はこのことをご存じで? 博麗の巫女と懇意にしている彼女なら、鬼の皆様を抑えるお力添えをしてくれるでしょう」

「すでに犬走を向かわせましてございます。しかし、此度は萃香殿といえども、難しいやもしれません。あの星熊勇儀殿が先頭に立つ恐れがありますので」

「勇儀様が……?」

 

 血の気が多い鬼の中でも比較的温厚な気性である彼女が、どうして?

 そんな茜の心中を察してか、大天狗は語った。

 

「先々代の天魔様が就任されました頃、つまり茜様が生まれる以前でございます。ご存じないのも仕方なきことでしょう。今では鬼と人の戦を知る者も少なくなりましたからな」

「鬼と人との、戦……」

「戦となった経緯は省きますが、当時、勇儀殿を含めた四天王の皆様は人との戦に臨まれました。その際、特に勇儀殿は卑劣な騙し打ちに会いましてな。あの方は多くの同胞を失ったことを今でも悔やんでおられる。此度の件があの方の耳に入れば、どうなることか」

「十中八九、人間達を滅ぼしにかかるでしょうね」

 

 状況は既に手遅れであったが、同時にひどく緩慢でもある。

 幸いにして、対応策を練る時間は残されていた。

 天狗は、その高度な社会構造を活かした情報伝達の速さが強みなのだ。大天狗が情報を掴んだことでそれの拡散が抑えられているため、鬼に伝わるまでには時間が空くだろう。

 これを無駄にはできない。

 今は焦らず、じっくりと対応策を立てる必要があると茜は考えた。

 

 一度、気を落ち着かせるために深く息を吐く。

 茜はたびたび人間の無謀さというものに悩まされ続けてきたが、今回の問題は彼女の予想の斜め上を行くものであり、思わず天井を見上げてしまうほどであった。

 

「人妖を巻き込んだ、大戦の幕開け、か…………人が人の数を減らすため、妖怪に戦争を仕掛けてくるとは。世も末というやつですよ……。大天狗、この件について、近々各氏族の長を集めて協議を行います。連絡をお願いしますね」

「かしこまりました。早急に手配いたします。日程などの件につきましては——」

 

 大天狗がそう言いかけたところで、茜の自室の扉が無遠慮に開かれた。

 

「~~!!」

 

 これまでの緊張した空気を打ち破り、一生懸命に翼をはためかせて入室する小さな侵入者。

 すぐさま腰に差した刀の鞘に左手、柄に右手を掛けようとした大天狗であったが、それが何者かを理解するや否や、邪魔をせぬよう部屋の隅に控えた。

 

「かあさまっ!!」

 

 天魔の椅子に座る茜の胸に、勢いよく飛び込んだ小さな黒い影。

 最近練習してようやく空を飛べるようになり、それを義母に見せたいとばかりに突進した幼子は、溢れんばかりの笑みをたたえた。

 茜の義娘、射命丸文である。

 直進だけであるなら、茜ですら、目を凝らさねば追えないほどの速さで飛ぶ文。覚えたてでこの速さであるからして、ゆくゆくは里最速の称号は彼女のものになるであろう。茜の側近たちは皆、そう噂していた。

 

「あ、ちょ、文様っ!! まだ茜様はお仕事の最中なんですよ! 邪魔してはいけませんってばぁっ——!?」

 

 文を追いかけるようにして、一人の少女が『失礼しますっ!』と断ってから部屋に入室する。栗色の髪が印象的な、柔らかい雰囲気をもった少女であった。彼女は先のクーデターにおいて、茜を天魔の屋敷につながる隠し通路に導いた鴉天狗の少女である。

 

 もともと、射命丸に仕える身であったため、あれ以来、文の世話役として働いてもらっているのだが、おっとりとしている彼女は賢しい文に出し抜かれることが多く、相当難儀しているらしい。

 茜は、いつも苦労をかけてしまっていることに苦笑いし、腕に抱く文の頭を撫でながら、後で少女を労わってやることを胸に留めた。

 

「いえいえ。丁度お昼を過ぎたころですし、そろそろ休憩をしようと思っていたところです。構いませんよ。ねえ、大天狗?」

「そうですな。それに、こうなってしまえば文様もそう簡単には天魔様から離れますまい」

 

 先程まで重大な案件について話し合っていたとは思えないほど和やかな両者。

 柔らかく文に微笑みかける二人の様子に、世話役の少女はほっとしたのか肩の力を抜いた。

 しかし、彼女を心配させている当の本人である文は、茜の胸に顔を埋めて嬉しそうに翼をはためかせ、はしゃいでいる始末。もしやすると、自分は文の世話役に向いていないのではないだろうか? 『とほほ……』と、彼女は少し項垂れた。

 

「文、いい子にしてましたか~?」

「はいっ!」

 

 茜は文のことを目に入れても痛くないほど溺愛している。それは天魔となった茜の傍に仕える者達ならば、皆が知っていた。天魔としての仕事でなかなか時間の取れない彼女であるが、時折文を連れて海まで赴くことがあるという。

 公務の際は文を預けているが、基本的には茜自らが文を迎えに来ており、どれだけ義娘を大切に思っているのかが少女には理解できた。それゆえ、茜が文に厳しいはずもなく——。

 

「でも、ちゃんとお姉さんの言うことを聞かなきゃだめですよ?」

「はい!」

 

 この通りである。

 基本的に、茜は文に甘いので叱ることがない。

 一応、世話役の少女に気を遣って文に注意をするなどしてくれており、文自身もしっかりと返事をしているのだが、一向に改善されている気配がない。少女は再び『とほほ』と項垂れた。どうやら彼女以外の者は皆、文に甘いようである。

 彼女の心労は、もうしばらく続きそうだった。

 

「——さてと、私は文としばらく外を回って来るので、貴方は少し休んでいてください。あ、でもまあ、書類関係は机の引き出しに入れてあるので、その間に確認していてくださいね」

「あ、はいっ」

 

 少女に少しばかりの休息が訪れる。

 安堵しつつも大きく息を吐いて文の方を一瞥すれば、満面の笑みが返って来た。

 わんぱくで、それでいて可愛げがあるものだから憎めない。どこで覚えてきたというのだろうか、『そういえば茜様も昔、そんな表情をよくしていたなぁ』などと、少女は思い出した。

 血の繋がりというものは、やはり大きいのだろう。

 

「後はよろしくお願いしますよ、大天狗。日程については追って連絡をしますから」

「承知しました」

 

 腰を折って礼をする大天狗を目にし、茜はふと何かを思い出したかのように世話役の少女の方へと向き直った。

 そういえば、大天狗はまだ知らなかったのだ。

 

「あぁ、そうそう。大天狗、知っていましたか? 彼女、縁談の話が持ちかけられているそうですよ。めでたいものです」

「なんと、それはようございましたな」

「え……? あ、はい! 私のような者には身分不相応とは存じますが、ありがたいお話でございます」

 

 休憩時間が訪れると完全に油断していたため、突然自分に声がかかり、少女は少しだけ戸惑った。

 どうやら、里屈指の権力者二人から祝福されるとは思っていなかったようである。

 

「えっ!? あねさま、およめさんにいくのっ!?」

 

 今の今まで知らなかったのか、こぼれ落ちてしまいそうなほど目を見開いて驚く文。

 いつもいつも迷惑をかけているが、少女が遠くに行ってしまうかもしれないことが寂しいらしい。茜の胸元の襟を掴み、不安そうな目をしていた。

 

「あ、だ、大丈夫ですよっ! 文様。私は嫁ぐというだけでして、文様の世話役という大役を降りろとは命じられておりませんので」

「とおくにいったりしない?」

「ええ、そうですとも」

「よ、よかったぁ」

 

 胸を撫でおろす文を見た茜は、微笑ましそうに言った。

 

「……ふふ。なんだかんだ言って、貴方も文に愛されていますね。尚更、貴方を文の世話役から外せませんよ」

「も、勿体ないお言葉でございます」

 

 何かと悪戯やちょっかいをかけてしまうのも、一重に文が彼女のことを信頼している証であろう。“本当の姉”、とまではいかなくとも、彼女が茜に次いで、文にとって身近な存在であることは確かであった。

 ここで、黙って会話に耳を傾けていた大天狗が問う。

 

「して、どちらへ嫁ぐので?」

「え、えと——」

 

 大天狗も少女がどの家に嫁ぐのか、気になったらしい。 “身分不相応”という言葉から、有力な家系であることは確かであるが、一体どの家なのか。

 上司の問いに一瞬、言葉が詰まった少女。

 そんな彼女の様子に、茜は答えを知っているのか、さも面白そうに、にやけている。母の様子におろおろとする文はきょろきょろと、幾度も茜と少女の顔を見比べた。

 少女はしばらく目をつむって大天狗の方へ向き直り、答える。

 

「私が嫁ぐのは、この里の氏族の一つとされている、姫海堂家でございます」

 

 姫海堂家。

 射命丸に並ぶ、天狗の里有数の名家であった。

 

「ほう、それはまた……」

「わ、私などで……ほ、本当に良かったのでしょうか……?」

「向こうから声をかけてきたのでしょう? ならば安心しなさい。貴方は我が射命丸に仕える立派な従者の一人。身分不相応ではけっしてありませんからね」

「天魔様のおっしゃる通り。姫海堂といえば、射命丸とも親交の厚い一族。心配なさることはない。丁重に迎えるよう、私からも口添えしておきましょう」

「は、はひっ……!?」

 

 本人は自覚していないが、彼女もまた、天魔直属の従者という立ち位置にいるのだ。どの氏族であっても彼女を丁重に扱うだろうし、まして姫海堂という名家がそのような狼藉を行うはずがなかった。

 

「本当に、最近は面倒事ばかりが舞い降りてくるものですから。こういった明るい話題は嬉しいかぎりですよ……さあ、行きましょうか? 文」

「はい、かあさま」

 

 文を抱えたまま椅子から立ち上がり、茜は部屋を出ていった。

 少しばかり文を連れて、遠出をしなければならない。

 元より彼女には、これから会う予定の人物がいたのだ。

 

 

 

 ******

 

 

 

 毎日文を抱っこしているものだから気づきにくいのですが、確かにこの娘は大きくなっています。まったく子供の成長というものは、早いのですね。

 こうやって抱っこしていられるのも、今のうちなのでしょうか? そんなことを考えると、今の時間がとても貴重なのだと感じさせられます。

 

「かあさまー」

「はい、なんですか?」

「どうして、あねさま、およめにいくのにうれしそうじゃなかったんですか?」

「そうですねぇ——」

 

 子供は、鋭い。

 それって、とても不思議なことだと思います。独特の感性というか、誰かの感情の機微といったものを何となく察してしまうのは、幼少期における特殊な力とも言えるのでしょうか?

 もしくは、大人が汚れすぎているのかもしれません。

 

「あの娘は嫁に行くことに気が引けているのかもしれないですね。だからけっして、あの娘が嫌だと思っているというわけではないんですよ」

「?」

 

 私の腕の中で小首をかしげる文。

 はてさて、私の答えで納得してもらえるといいのですが。

 

「きっとあの娘は、姫海堂家に嫁ぐことに負い目を感じているのでしょう。これまで彼女の一族はずっと、射命丸家に仕えていたのですから」

「う~ん……」

「各々がもつ“身分”というものは、難しいのですよ」

「そういうものなのですか?」

「ええ、そういうものなのです」

 

 やはりまだ早すぎたようでした。

 けれど文もきっと、分かる日が来るでしょう。賢いこの娘なら、こういう物事を理解するのには、そう時間もかからないでしょうし。

 

「(……あの娘は色々と苦労をかけていますからね。別に、こちらに気を遣うことなんてないのですが)」

 

 とはいえこれは本人の気持ちの問題ですから、これ以上は何とも言えません。

 ただ、姫海堂に嫁いでも彼女が文の世話役をやめないとは思いますが、彼女が身籠ったときは、文の世話役をどうしましょうかね。まだ随分先の話ですが。

 まあ、これから追々考えていきましょうか。

 

 それからしばらく目的地に向かって飛んでいると、

 

「きょうは、どこにいくのですか?」

「あ、そういえば……」

 

 妖怪の山が小さく見えるほど飛んだところで、私は文にこれから行く先を伝えていなかったことを思い出しました。最近仕事が多かったせいか、妙に忘れっぽくなっているみたいです。

 

「今日はこれから会いに行かなくてはならない人がいるのですよ」

「あいにいく、ですか?」

「そうですよ。その方は私の恩人なんです。何と言っても、私が天魔になるのを協力してくれたのですから」

「!」

 

 文の興味はどうやら、行く先よりも誰に会いに行くのか、という点に移った様子。

 

「かあさまの、おともだちです?」

「あはは……。そう、ですね。そんなこと言ったら、無言で怒られるのでしょうけれど……そうとも言えるのかもしれません」

 

 友達、ですか。まあ確かにそれ程長い間を共にしてきたというわけではありませんが、あの方には大変お世話になっているんですよね。今の私がいるのも、ほとんどあの方のおかげと言ってもいい。

 しかし、果たして“友達”という言葉が、今の私達の関係を上手く言い表せているかと問われれば答えに詰まります。

 文の問いに私は考え込んでしまい、はっきりと答えてあげられませんでした。

 

「……つかまっていてください。少し速度を上げますから」

「はい、かあさま!」

 

 考えを振り切り、気流に乗って速度を上げていく。

 風を読む程度の能力は、たとえばこんなときに便利です。

 一つ。気流を見つけて長距離の移動に使える。

 そして二つ。あの方が使う、()()()を見つけられる。

 

「(そこですね)」

 

 片手で文の体を支えながら自由になったもう片手に小刀を持ち、振り下ろす。

 そして空間が、割れる。

 

「わっ!? か、かあさまっ! め、()()()がっ!!」

「安心してください。私といる限りけっして、危険ではありませんよ」

 

 そして二度、三度繰り返し小刀で空を切る。

 するとようやく私の体が入る程度の大きさまでスキマの口が広がったため、怖がる文を宥めながら足を踏み入れました。

 迎え入れたのは、私達をじっと見つめる幾多の目。

 やはりというべきか、この空間の中はあまり居心地がいいとは言えません。あの方意外にはきっと、なじまないのでしょうね。この前、萃香様が眉間にしわを寄せていましたし。

 かくいう私も、修行をしていた時はこの空間にずっといましたが、しばらく中に滞在していないと慣れないものです。

 

「き、きもちわるい……」

「もう少し我慢してくださいね、文。一度この中に入ってしまえば、着くのは一瞬ですので」

 

 文の顔色が少し悪くなってきてしまいました。

 幼いこともあって、あまりこのような奇怪な空間には長居をしていられません。。

 そんなことを考えていたところ、どうやら移動が完了したようです。

 

「着きました——」

 

 スキマを抜けた先。

 目の前には何の変哲もない、ただの家屋が建っていました。

 しかし、特にこれといった特徴のない家屋とは対照的に、周囲は幻想的でした。

 様々な模様の蝶が辺りそこら中を飛び交い、彼らはきっと足元に咲く見たこともない花たち、“ホクベイ”と呼ばれる地方の花々の蜜に舌鼓を打っていることでしょう。

 広がる青空には薄く虹がかかり、視界は白くぼやけている。

 それは、滝の水しぶきのせい。

 

「…………」

 

 目の前の光景に、文は驚いて口は開けたまま。

 蝶々がお口の中に入ってきてしまうかもしれませんよ?

 それはさておき。

 もう一度、家屋の方に視線を移す。

 どこに存在してるのか、毎回来るたびに思っているのですが皆目見当もつきません。ここは周囲のほとんどが滝であり、家屋が建っているのは、広大な滝つぼの岸なのです。

 円形に広がった滝など、この国にあったのでしょうか?

 外の国という可能性も捨てきれませんし、“ホクベイ”とは、ひょっとすると海を越えた大陸に位置するのかもしれません。

 そうやって考えに耽っていると、妙に腕が軽い。

 あれ? 文は……?

 

「わあぁ……!!」

 

 ……いつの間にか、私の腕からすり抜けた文が興味津々に辺りを見回っていました。目を離すと、これなんですよ。

 しかし、そうなってしまうのも頷けます。私も半年前に初めて来たときは、文のように大はしゃぎでしたから。後で『落ち着け』とぶん殴られましたけれど。

 

「素晴らしいでしょう? なんでも、ここに住んでいる方の故郷で、“セカイイサン”と呼ばれていた場所に似ているんだそうです。勿論、住みやすいように手を加えているみたいですが」

「かあさまっ!! 凄い!! 凄すぎですっ!!」

 

 怯えたりせず、こんなに興奮している文は珍しい。好奇心旺盛な文ですが、その分警戒心も強く、新しい環境に不安感を覚えることも多いのです。例を挙げるならば海。

 足元にさざ波が来ただけで逃げてしまっていました。波が来たのなら飛べばよいのにもかかわらず、走って逃げようとして砂浜で転ぶという……。

 いやはや……血は争えませんね。まさか昔の私と同じことをするとは。

 

「みずがこんなにたくさんありますっ!! ここも、うみですかっ!?」

「いいえ。ここはどうやら“滝つぼ”らしく、湖の一部だそうです」

「みずうみっ!? こんなにおおきいのにっ!?」

 

 確かに、湖にしては大きすぎるとも言えます。妖怪の山の辺りにはこれほど大きな湖はありませんし、周囲全てを囲んでいるとはいえ、湖岸から滝まででも相当な距離がありそうですから。

 そうすると、滝の大きさ自体も相当なものなのでしょうね。正確な大きさは分かりませんが、そこらの山の高さに匹敵するかもしれません。

 

「綺麗……」

 

 しゃがみこんで湖面を覗き込む文。

 おそるおそるといった様子で指の先を湖につけていました。

 

「つめたっ!?」

「ふふっ」

 

 いくら此処が暖かいとしても、湖の水までもが暖かいとまでは限りません。

 それしても、この湖。珍しい魚の一匹や二匹がいてもおかしくないと思うのですが。一匹くらい持って帰っても——。

 

 おっと、いけませんね。目的を忘れていました。

 

「文、そろそろ行きますよ。あまり待たせても失礼ですから」

「は~いっ!」

 

 こちらまで駆けて戻ってきた文と手をつなぎ、家屋に向かう。

 道は手入れされており、刈り揃えられた芝の周囲に花々が咲き誇っています。紫さんがそんなことをするとも思えませんし、誰かがやったのでしょうか。この前来たときはもっと自然のまま、草木が自由に伸び放題でしたが……。

 そして家屋の前に立ち、扉を数回手でたたくと、中から『はい』と返事がしました。

 そう、返事がしたのです。

 

 ——おかしい気がする。

 

 少し幼すぎるような……。というより、あの方が素直に答えるなんてことは今までありませんでしたよ?

 普段なかっただけに不審に思っていると、がちゃり、という音と共に戸が開く。

 そこに立っていたのは三本の尾を持った、幼い狐の妖怪でした。これはびっくり。

 

「おまちしておりました。あかねさま」

「は、はい。えっと、すみません。紫さんは——」

「あるじならば、もうじきかえってくるとおもわれます。ひとまず、なかへどうぞ」

 

 丁寧で大人びた口調でしたが、外見相応に舌足らずな、まだ幼い狐の妖怪。

 丁度、文と同じ年頃の容姿をしています。

 しかし、彼女の内からあふれ出る妖気は並大抵のものではありません。紫さんが関係していることは間違いありませんが、どうしてまたこのような……?

 

「そちらは……?」

 

 あ、そういえば。

 文を連れてくるのは初めてですものね。紫さんから聞かされていないのも当然でした。

 

「こちらは私の娘です。この度は紫さんに紹介するという目的もあり、連れてまいりました」

「なるほど」

「……っ!?」

 

 納得しながら私の背後を見つめる妖狐の娘。

 視線が向いたことに気づいた文は、私の後ろに隠れてしまいました。

 やっぱり。

 

「ほら。ちゃんとご挨拶しましょう?」

「……しゃ、しゃめいまる、あや……です……」

 

 恥ずかしいのか、不安なのか、私の着物の裾を掴みながらも文は名乗りました。これからのためにも、もう少し、はっきりと答えられるようになれるとよいのですがね。

 この子狐さんとはその外見から察するに、あまり歳が離れていなさそうでしたから。今後仲良くしてもらえたら幸いです。

 

「こちらも、なのりましょう。やくも、らん。わたしはゆかりさまの、しきがみでございます」

 

 これはまた礼儀正しいことで——って、

 

「……本当ですか!?」

「はい」

 

 この娘は“式神”と言いました。

 どうやら冗談を言っている様子ではありません。

 私のときのように、紫さんが匿っているのではないかと思っていたのですが、まさかそういった理由とは。だから『あるじ』と言ったんですね。

 しかしまた、こんなに幼い妖狐を、どうして式神にしたのでしょうか? 別にこの娘を卑下するつもりはありませんが、紫さんならば、もっと強力な妖怪を使役することも容易いはずであるのに……。

 

 疑問は絶えませんでしたがこの娘に聞いても、満足な答えが返って来るとは思えません。

 ひとまず、私達は応接間らしき部屋に通されました。

 待たせてしまったかと思いきや、少し早すぎたのかもしれないですね。

 

「…………」

 

 外ではあれほど騒がしく、興奮していた文でしたが、中に入った途端に静かになってしまいました。どうやら、緊張しているようです。

 一方あの妖狐はというと、『しばらくおまちください』と言って、すぐさま部屋から出て行ってしまいました。礼儀正しい娘なのですが、少し硬いというか、気を張り過ぎなのかもしれません。実は、あの娘も文と同じように緊張しているのかも——。

 そろそろいらっしゃる頃合いだと思い、思考をそこで打ち切る。

 

「文、いいですか?」

 

 私は先に、文に対して忠告をすることにしました。

 

「これから会う方は、初めこそ怖いと感じるかもしれませんが、それで本質を見誤ってはいけません」

「……? はい……」

 

 初めて会う者からは特に誤解を招きやすいので、先に言っておいて損はない。言ったところで無駄なときもあるでしょうけれど、心の準備ができているのとできていないのでは、全然違いますから。

 

「——そうねぇ。まあ、子供に好かれるような者ではないと自覚しているわ」

 

 ……なんということでしょう。

 気づけば、文の隣に座っていました。ええ。まったく、いつも通りです。

 

「貴方が茜の娘だったかしら? 遠いところはるばるようこそ、歓迎しましょう」

 

 私ですら知覚できない間に現れる境界の大妖怪、八雲紫。

 

「ひっ!?」

 

 文は目にも止まらぬ速さで私の後ろに隠れる。よほど怖がっているみたいで、背中越しに文が震えているのを感じます。

 可哀想に。こんな妖力を当てられては怖くて仕方ないに違いありません。

 ……怖がらせては意味がないと思うのですが。さては、わざとですね。

 だって、そういう顔をしているんですもの。

 

「……お久しぶりです。紫さん」

「ええ、そうね。半年ぶりくらい、かしら?」

「はい」

 

 最後に会ったときと全く変わらない格好の紫さんは、妖力を封じ込めると椅子から立ちあがって私の前に改めて座り、文の方へ微笑む。

 すると、文が背中をぎゅっと掴んだのが分かりました。

 ……完全に怖がられているじゃないですか。

 

「あんまり怖がらせ過ぎないでくださいね? まだ慣れていないのですから」

「ふふ。そうね、反応が面白かったから、少しやり過ぎちゃったわ……。文、だったわね。実に可愛らしいじゃない」

「ええ、本当に」

 

 短い会話。

 しかし私達はそれで十分なのです。

 

「藍、ちょっといいかしら?」

「はい、ここに」

 

 “藍”と呼ばれた娘は、紫さんの一言とともに背後から現れました。出迎えてくれた時とは異なる格好で、彼女は道教の法師が着ているような服を着ており、青い前掛けのようなものを、その上から被せている。これが彼女の正装みたいですが、衣服の大きさにまだ居丈が追い付いていないところがなんとも可愛らしいですね。

 

「少し込み入ったことを話すわ。文と外で遊んでいらっしゃい」

「はぅあっ!?」

「……なにか?」

「いっ、いいえ……」

 

 あはは……。紫さん、その命令はなかなか厳しいですよ……。

 初対面の二人に遊んでこい、だなんて。藍さんが困ってるじゃないですか。

 

「茜。貴方だって、ただ自分の娘を連れてくるためだけにここに来たわけではないのでしょう?」

 

 苦笑しながら私の方へ振り向く紫さん。

 いやはや、全てお見通しなのですね。

 私は文に藍さんと外に出るよう告げ、二人が退出したのを見計らって、今後の課題を話すことにした。

 紫さんの“計画”の協力者として。

 

 

 

 ******

 

 

 

 “あの後”の記憶。

 

 あの日、天狗の里での演説を終え、後始末を終えてから白玉楼に戻ると、既に紫が月から帰ってきていた。

 無事であったことに安堵し、声をかけようとした茜であったが、その寸前に言葉を失った。

 腰まで届いていた紫の髪は肩にかかる程度まで短くなり、不思議な形状の帽子を被っていた。

 一見すれば、彼女の外見に多少の変化があるだけに見えたかもしれない。

 しかし、それは的外れもいい所であった。彼女から発せられる妖気はより禍々しく、体の表面に張り付くように不気味であったのだ。

 紫の妖気が、以前のそれとはまったく異なっていたのである。

 茜は月の侵攻で、紫の中の何かが変わってしまったのではないかと考えた。

 

 当然、彼女は紫に問うた。

 

 だが返答は、『何も』との一言であった。

 すぐ傍にいた幽々子にも尋ねたが、返答は同じ。自分だけが異常なのかと考えた茜は、何も言えなくなった。

 

 その後、紫は天狗の里への介入を本格的に始めた。

 

 幾つものの姦計によって、次々に茜の敵対派閥を抹消していったのである。されど存在を悟らせることなく、自然と言ってもいいほどの流れの中で一つ一つ丁寧に、ゆっくりと。

 あえて敵対派閥を全滅させるような真似はしない。

 組織の中枢に何人かを引き抜くことすら彼女の手腕の元に行われた。そして、僅か数週間という短期間で、天狗の里に深く根付いていた鷹派は骨抜きにされ、影響力を失った。

 

 たった一人の妖怪の手により、鷹派は事実上、壊滅したのだ。

 これには紫を味方とする茜ですらも、他に有無を言わさぬ紫の行動に息を呑み、恐怖したほどである。

 

 あれから五年。茜が抱いていた違和感は自然と薄れていった。

 それはちょうど、彼女が初めて紫と出会ったときのように。意識の外側へとゆっくりと、溶けていくように。

 日々の中で少しずつ、消えていったのだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人の章:その記憶を、忘れぬために

 日が西に傾き始めた頃。

 天狗の里へ戻る途中、茜はつい先程までの会話を思い返していた。

 

 ***

 

『星熊勇儀は私が抑えに行くわ。丁度、鬼を含めた荒くれどもを詰め込む()()()が見つかったところなの』

『ゆ、紫さん自らですかっ……!?』

『ええ、鬼の抑止については私に任せなさい。ただ、しばらく私は方々に手を回すことになるから、人間達の相手は頼むわよ。活かすなり、殺すなり、貴方の好きにしなさいな』

『て、天狗の里は争いませんっ!! やっと平和を取り戻したんですからっ。それにまた人間達と争いでもしたら、紫さんの計画にだって影響が——』

『私が何も想定していないとでも? 貴方がどちらを選ぼうと、それは些細なこと。だから私は貴方に“選択肢”を与えたのよ。貴方が思う、“最良”の選択をなさい』

 

 ***

 

 少し前、紫は人間の相手を茜に託し、自分は鬼と対峙していくと述べた。

()()()という言葉が少々引っ掛かる。

 しかし、今はそれよりも自分の選択に天狗の里、そして妖怪の山の未来がかかっていることが茜を悩ませた。

 

 このままでは必ず人間達が山に攻め入ってくる。ほんの些細な出来事であっても、開戦はまず免れないだろう。

 それでは先に迎え撃つか。

 いや、駄目だ。

 山に住む妖怪たちは、皆がかならずしも天狗の言いなりであるわけではない。本能のまま行動するものだっているし、鬼以外にも人間に特別恨みがある種族だっているのだ。ひとたび日が着けばどうなるかわからないし、それで手がつけられないような事態になれば、もう引き返せなくなってしまう。

 かといって、人間達が山に踏み入ってくることも許せない。

 人間達の怒りそのものが間違っているとは言わないが、それは怒りをこちらに向けてこない場合に限る。

 

 やはり、一番の望みは戦を避けることなのだ。

 

 ならば調略するか。

 人間達の士気が高い今はかえって逆効果だろうが、一度相まみえて圧倒的な戦力差を見せつければ可能かもしれない。そうなると、こちらが準備しなければならないのは交渉要員である。

 紫は鬼の相手をするので、こちらに手を貸す余裕はない。そうなるとまず思い浮かぶのは古くから親交の深い河童であるが、交渉力ならば自分達天狗とそう変わらない。彼らが交渉の場に出るくらいであるなら、自分達が出るべきだ。

『かといって他の妖怪で交渉に長ける者などいますかね?』などと山の妖怪の顔ぶれを思い返す茜。

 むむむと唸りながら思案を巡らす。

 

 そうして思い悩む中、ふと、茜は閃いた。

 

 ——覚り妖怪だ。

 

 交渉役で右に出る者はいないであろう。覚り妖怪は鬼のように頑強な体を持つわけでもなく、天狗のような素早さを持っているわけでもないが、彼女たちの強みは第三の目。それは相手の心を読み、主導権を握ることができるという。

 そしてなによりも、争いを好まない性格であるのが好都合だ。

 茜は『そうと決まれば、協議でこの案を出すとしましょう』と、心の内に留めた。

 

「(それにしても——)」

 

 妖怪の山の行く末について妙案を思いついたと喜んだのも束の間、

 

「(“最良”の選択ですか……)」

 

 いつものことだが、茜は紫の意図がまったく分からなかった。

 計画の協力者とはいえど、その全貌を把握しているわけではない。それも含め、自分で考えて最良の行動をせよとのことである。

 なぜ紫は、危険だと分かっていながら一人で鬼と相対すると言ったのか。萃香に並んで鬼の四天王とされている、星熊勇儀が敵対する可能性が高い今、その言葉の重さが分からない茜ではない。

 意味がないと分かっていながら、茜は胸に溜まった疑問を小声で口にする。

 

「紫さん……今回は、一体どうなさるおつもりで?」

 

 そんな茜は胸に抱く文にまで気が回っていなかったようで、じっとしているのに耐えられなくなった愛娘の一言によって、不意を突かれた。

 

「かあさま、かあさまっ! きいてくださいっ! わたし、“らん”と“おともだち”になったんですよ!!」

「ぶふぅっ!!?」

「あははっ。かあさま、きたな~い!!」

 

 予想外な発言に思わず吹き出す茜。

 自室にいた時からここに至るまで、努めて真面目でデキル女を演じていた彼女であったが、薄っぺらな仮面はいとも簡単に剥がされてしまった。

 柄でもないことをした所為である。

 

「ちょっ、ええっ!? お、お友達って——」

「んぅ?」

 

 素っ頓狂な声を上げ、目を見開いて驚く茜に対して、文はそれを不思議そうに見上げている。

 幼い娘の前でこれ以上の醜態をさらすことはさすがに憚られたのか。

 すぐさま冷静さを取り戻した茜は『えへんっ、おほんっ』と軽く咳払いをして、呆けていたことを誤魔化した。

 

「(あ、そうか)」

 

 ふと、帰り際の光景を思い出す。

 

「え、ああっと……だ、だから文はあんなに機嫌が良かったんですねっ! いやぁ、驚きましたよ、もう。あはは……」

「えへへ」

 

 茜は改めて帰り際の文の様子を思い出した。

 そう、茜が紫との会談を終えてから文の元へと戻ったところ、彼女は上機嫌。対して藍は、片隅でうつ伏せになってしおれていたのだ。

 初対面時に堅物で真面目そうな印象を与えた藍であったが、その時の彼女は目も当てられないほどに憔悴しきっていた。口から魂が抜けかかっていたと言い換えてもいい。

 するといつの間に、隣に立っていた紫が言った。

 

『藍、ちょっとはいい修行になったでしょう?』

 

 茜は心底、目の前に倒れ伏す幼い妖狐に同情した。

 “師”としての紫がどれだけ理不尽かつ恐ろしいのかを知っている茜からすれば、藍に同情せざるを得ないのだ。

 相手の弱みを全て看破して的確に痛い所をつく、並々ならぬその手際。それも、一度や二度ではなく、四六時中ずっとである。

 紫の指導は肉体面というよりもむしろ、精神面が鍛えられるといった方が正しくそれを言い表しているのかもしれない。

 

『きゅ、きゅうぅ……』

 

 可愛らしい断末魔とともに気を失う藍の姿を思い出して、茜は改めて思った。

 果たして文は一体、藍に何をしでかしたのだろうか。

 妖力だけでいえば藍は相当なはずだ。文の才能も目を見張るようなものであるが、それでも藍に体力で勝った理由とはならない。

 なにせあの紫の式神である。

 力の強大さで言えば、見た目不相応なものなのだ。そこらの下っ端天狗など歯牙にもかけないような実力を秘めている。いくら藍がまだ発展途上であると言っても、ここまでの差は、生まれるはずがないのだ

 紫が藍に下した命令、『文との相手をしろ』という内容には何かの意図が隠されているのではないか。

 そんなことをついつい茜は勘ぐってしまっていた。

 

「一緒に遊んでもらったんですから、藍ちゃんにはきちんと、お礼を言ったんですよね? ……あ、でも私、なんだかいや~な予感が——」

「ありがとうっていうきもちをこめて、おもいっきりしっぽをだきしめました!!」

「やっぱり……」

 

 嘆息する茜。どうやら彼女の想像通りであったようである。

 

「うふふ。らんも、とってもよろこんでいました……」

「ひえっ……」

 

 一瞬、文の目からハイライトが消えたのは幻覚か。

 娘の恐ろしさの一端を見たような気がした茜であった。

 そして『本当に、文は何をしでかしたんですか!?』という、彼女の心の叫びは当然だが、文には伝わらない。

 苦し紛れにあれこれと問うても、その後はにっこり笑ってばかりで要領を得ないものばかりであった。

 とりあえず、茜は藍に対して心の中で合掌した。

 なんとなく自分がやらなくてはいけない気がしたのだ。

 

「(振り回される気持ち、痛いほどよく分かりますよ! 強く生きてくださいね!)」

 

 まるで自分のことを棚に上げたような物言いである。

 無論、ある程度は茜自身も自覚しているのだが、彼女はこれから降りかかる、更なる災難にまだ気づいていない。

 それを悟るのは、おそらく天魔の館で、公務に戻った時であろう。

 

 茜が娘との雑談に花を咲かせていると、

 

「かあさまのおともだち、こわかったけど、やさしいかんじがしました……」

「え?」

 

 文は不意に、今日会った紫のことを口にした。

 

「らんが、うれしそうにはなしてたんです……」

「(ああ、そういうことか)」

 

 きっと藍から紫のことについて、聞いたのだろう。

 式神である彼女が話せることなど、ほんの一部分にすぎないが、それでも印象は少しだけ変わったかもしれない。

 

「かあさまのおともだちにあうのは、まだすこしこわいけど」

「怖いけど?」

「また、“らん”にあえますよねっ!!」

 

 強い眼差しで、義母に言う文。

 茜は心の中で少し驚いていた。

 あれだけ人見知りで、警戒心の強い文が『また会いたい』と言える存在ができたなんて。

 たとえ、仲良くなった藍と会うためであったとしても、紫をすぐに拒絶せず、その恐怖を克服しようとしている。文は自分から勇気を出して、一歩を踏み出そうとしているのだ。

 娘の成長の一端に茜は、口元を緩めた。

 

「はい。紫さんが良いと言ってくれるなら、また行きましょう。そのときはちゃんと、藍ちゃんの言うことも聞くんですよ?」

「らんのいうこと、ちゃんときいてましたよ?」

「あ、あはは……、なんとまあ……」

「?」

 

 今後、きっと苦労するだろうな、などと妖怪の賢者の従者に声援を送りつつ、茜は前を見据えた。

 機嫌よく胸の中ではしゃぐ文を抱きながら、茜は故郷が近づいてきたことに気づく。

 

 ——風に乗って、故郷の香りがした。

 

「ああ、帰ってきましたね」

 

 まだ早いものの、秋が近づいて色づき始めた山々。

 紅、黄、緑、茶。

 まだら模様の山々は、ところどころ木々が枯れ、山肌が薄くなっている。雨が少ないことが影響してか、例年に比べると寂しいものであった。しかし、それでもこの山は人々の目を惹きつける何かを持っている。傷を負い、ところどころ剥げてしまった姿ですら、目を逸らさせない魅力を。

 茜にとって、山は彼女の故郷である。

 いや、茜だけではない。山に住む妖怪達にとってこの山は等しく故郷である。

 

「(ここを、戦場にさせてたまるものですか。文の故郷を、妖怪たちの故郷であるこの山々を、何としてでも守ってみせる——)」

 

 愛しい娘を抱く腕に、力がこもった。胸の中から『く、くるしいです。かあさま』という声が聞こえたが、茜は構わず我が子を抱きしめた。

 

 夕日で赤く染まる妖怪の山は今日も美しい。

 そして切り裂く夕方の風は、心地よく暖かいものであった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 茜が去った後のこと。

 ひとまず紫は、日課となっている修行を庭で伸びている藍に与えた。先程まで茜の娘、“射命丸文”の相手をしていたからであろう。彼女は身も心も疲れ切っている様子であった。

 ぐったりとしながら『は、はぁい……』と、答える藍。

 今の彼女は熱いお湯に浸かったお餅のように、そのまま溶けていってしまいそうである。尻尾が右へ、左へ緩慢な動きで行き来しているあたり、辛うじて意識は残っているらしい。

 そんなだらしない自身の式神の様子には特に目もくれず、紫は一人、自室へと戻っていった。

 

 自室へと続く暗い廊下は一本道であり、他の部屋の一切に通じていない。家屋の大きさに対して不釣り合いな長さであることから、この空間が拡張されたものであることは明白であった。

 

 閑話休題。

 

 紫の自室は紙と墨の匂いばかりが立ち込める、ある意味生活感のない空間であった。外からの光を取り込むための窓らしいものは一切なく、頼りないロウソクの火の灯りだけが、部屋を薄明るく照らしている。

 だが木造家屋であるがゆえに、部屋の壁は特有の温かみがあり、ロウソクの仄かな光と相まって、落ち着きのある雰囲気を醸し出していた。

 

 そして部屋の中にある、頭の高さほどに積み重ねられた無数の巻物には、それぞれ紫の字で題が記されいる。一体どれだけの時間をかければこれほどの山を築けるかなど、凡人には計り知れない。

 歴史、地理、政治といった世界各国の情勢を著わしたものや、数学、天文学を主とする科学的な著作物も見受けられた。特に、紫のそばには天文学に関する書物が山積みにされており、傍から見れば、彼女の興味の比重が一目で分かる。

 

 そうして今日も自ら筆を取り、紫は何やら巻物に書き込んでいる様子であった。それもかなり集中しているようで、彼女の筆は止まることがない。深い紫色の瞳は、筆の動きに連動して左から右へと繰り返し繰り返し、流れるように素早く動いている。

 

 今、誰かが隣に立っていても、きっと紫は気づくことができないだろう。

 それから小一時間ほど経った頃だろうか、突如として正方形の部屋の隅から、少女とも少年ともとれるような、中性的な声が聞こえた。

 

「もう少し、部屋を明るくしてはどうだろうか?」

 

 まさに突然の来訪である。

 はじめからそこにいたとは信じられないような存在感。

 次第に声は大きくなっていく。

 

「随分と熱心なことだが、不健康極まりない」

 

 木製の床がカツカツと無機質な音を響かせ、積み上げられた巻物の山の陰から、ゆっくりとその姿を露わにしようとした。

 

「まったく、困ったものだね。八雲紫、貴方はこの世界の情報を集めようと苦心しているようだが、本来はこんなことをする必要などないはずだ。私に全てを委ねさえすれば、すぐに真理へと到達できるのだから」

 

 紫は答えない。椅子に座り、机に向き合ってただじっと自らの手元を注視し、作業を続けていた。

 一見、微塵も動揺した素振りを見せない彼女の目の前で侵入者は立ち止まる。

 

「まだ全てを捨てきる覚悟ができていないということ?」

「……」

 

 影がゆっくりと手を伸ばせば、白く細い指が、妖しく紫の頬へと迫った。

 第三者からすればそれは、目を奪われるような光景に映るかもしれない。

 だが同時に、瞬きする間にも容易く壊れてしまいそうな、危険な光景でもあった。

 

 指先が紫の頬に触れようとした瞬間、

 これまで何の反応も見せなかった紫が、はじめて反応を示した。

 なにやらうすら寒いものを感じたのか、紫が視線を上げるや否や、伸ばしてきた手を振り払ったのだ。

 

「つれないものだな……。こうまで無碍にされると、いくら私とは言え少々傷つくのだが——」

 

 振り払われた手をひらひらと空中に泳がせながら、口元は弧を描いたまま、至極残念といった表情をする影。芝居ということは分かりきっていた。

 これはいつもの戯言なのだ。

 

 彼女こそ後戸の神であり、八雲紫の協力者の一人、摩多羅隠岐奈。

 究極の絶対秘神その人である。

 

「しかし、まあ……ふふ、私はいつでも貴方が心を開いてくれるのを待っているよ。なにせこの世界で貴方を真に理解できるのは、私ただ一人なのだからね」

「…………」

「……むぅ」

 

 隠岐奈がキメ顔で言った台詞は空振りに終わった。

 紫から空気と同等、いや、それ以下の扱いを受けている隠岐奈は不満だと言いたげに頬を膨らませる。

 どうやら無視され続けるのは、不本意らしい。

 まったく反応を示さぬ紫にいい加減、焦れてきたのか彼女はさらに一歩、紫に歩み寄って言う。

 

「月から戻ってきてもう五年も経つ。そろそろ頃合いではないか? いい加減、貴方の身も、心も、全部私に委ねればいい。全てを忘れてしまえば——」

 

 ——黙れ。

 

 途端に辺りが凍り付き、隠岐奈は言葉をつまらせた。

 どうやら彼女の言った、“忘れる”という言葉が癇に障ったらしい。

 紫の目からは、隠岐奈ですら息が詰まるような殺気を放っていた。

 

「(ふっ——)」

 

 しかし、それすら興奮に変えてしまう隠岐奈は、欲望にどこまでも忠実で——。

 

「(ふ、ふふふふふふふっ。いい……、いいぞ。安易に触れられず近づくことも許さないその態度、目にした相手を射殺してしまいそうなその視線っ!! すばらしいっ!! ……おっといかんいかん、気を抜くと頬が緩みそうだ)」

 

 そして外面にはけっして出さない鉄仮面ぶりであった。

 さすがは究極の絶対秘神。その名は伊達ではない。

 

「(はぁ……、やはり貴方は私を飽きさせない。何とも楽しませてくれるではないか……!!)」

 

 内心、興奮冷めやらぬ間に足元に違和感を覚えた隠岐奈。

 

「(……ん?)」

 

 視線だけ足元へ移す。

 すると、足元から無数のしわがれた黒い手が忍び寄っていることに気づいた。黄泉の国、すなわち根の国よりおぞましい腕が隠岐奈の足を掴もうとしていたのだ。

 紫が生と死の境界に位置する、根の国を自在に操ったのだろう。

 多くの者が恐怖で逃げ出してしまうような状況であるのにも関わらず、『ようやく、私を構ってくれたなっ!』と、隠岐奈はそんな暢気なことを考えていた。

 

「ふっ——」

 

 過去に、“綿月”の四肢を無惨に引き千切ったそれを、隠岐奈は軽く鼻であしらう。『やれやれ、手のかかるものだ』と、肩をすくめるや、腕を軽く振って足元から伸びる腕を消滅させた。

 すると紫から放たれる殺気が、より濃密で重いものになった。それまでひっそりと静かであった空気が耐えきれずに軋んだが、殺気が部屋の外に漏れたりはしない。ただ隠岐奈に向かって一直線に向かっている。

 

 これでは誰もが一触即発であると考えるかもしれない。

 しかしこれくらいのやり取りは、彼女たちにとって、何時ものことであった。

 

 人差し指と中指を口に当て、くすりと微笑む隠岐奈。

 老若男女問わず、世の中の人間達を一瞬で虜にしてしまいそうな笑みを浮かべた彼女は、ゆっくりとした歩みで机のわきを通り、紫の背後まで来ると頬を両手で包んだ。

 つい先ほど前に、伸ばされた手を拒否した紫であったが、今度はその手を振り払わなかった。

 

「まったく。あの茜とかいう娘に会う前にも一人、殺してきた癖して、何をムキになっているのやら」

 

 再び、隠岐奈の口が弧を描き、眼光が鋭く光る。対して紫は、椅子に座ったまま、少しも動こうとはしない。否、動けなかったのだ。

 隠岐奈が紫に金縛りをかけているのである。

 彼女すら拘束するほどの強力な術をもって。

 紫から逃げ場を奪った隠岐奈は、まるで紫の心を弄ぶかのように首元まで妖しく両の手を這わせ、

 

「あの娘は奴と似ていたか……?」

「っ……」

 

 たった一言、問う。

 一瞬だが、紫の瞳が揺れた。普段誰もが見ることのない、彼女を知る者であれば驚くような表情である。

 黒く長い睫毛が影を落とす、二つの瞳。

 桜色の唇はかすかに震え、今度はそれを隠そうと、健気にも横一文字に結んでいる。

 隠岐奈の立ち位置からは本来窺えないはずであるのだが、彼女には全てお見通しらしい。紫の動揺する様を、楽しんでいるようであった。

 隠岐奈の前に座っているのは、臆病で平凡な少女と、何ら変わりはない。

 月の都で見せたような残虐性が嘘に見えてしまう、弱々しい姿であった。

 

「くふふっ、図星のようだな。しかし、一人、一人と、奴らを殺して回っては手遅れであると、貴方ならすでに気づいているはずだ。歪みはいち早く断たねばならない。今やそれは、貴方の周りにまでも広がりつつあるのだから」

 

 “綿月”との戦闘を終えた直後、隠岐奈は紫と契約を結ぼうとしていた。

 祝福されし子の例外として、紫は単体でかつ、神々と契約を結ばずに異分子を抹消できる。しかし八雲紫には、首輪を掛けるべきであると隠岐奈は考えていた。勿論、自分が契約すればより効率的に歪を正せるに違いない。

 少なくとも自分の思惑のために、紫の存在が欠かせないものだと考えていた。

 なにせ、紫は“切り札”である。手のつけようのない異分子たちを排除する者として。

 

 そこで狙い通り、隠岐奈は紫に接触した。

 しかし、事態は彼女の思惑通りとはならなかった。

 ただ手を貸すよう頼まれるだけで、隠岐奈と契約を結ぼうとは一言も口に出さなかったのだ。

 隠岐奈からすれば、これでは生殺しもいいところである。はじめこそ何らかの意図があるのかと思案した。偶々だと、そう思おうとしていた。

 しかし、気づいてしまった。

 

「さて、ここでひとつ問いたい」

 

 紫が強大な力を得た分、以前よりも脆くなっていることに。

 肉体的にも、能力的にも記憶を取り戻す前を遥かに凌駕することは間違いない。

 比例して、禍々しい妖力も増したが。

 

「今の貴方は、一体どちらなの? 境界の妖怪である八雲紫?」

 

 あるいは。

 

「————それとも、マエリベリー・ハーンなのかしら?」

 

 肩を少しだけ震わせると、紫の首元から体温が失われていく。

 そのままどこまでも、彼女は冷たくなっていった。

 彼女ほど異分子に恨みを持っている存在は、現状この世界にはいない。ゆえに、彼女が異分子を排除することに、躊躇するようなことはないと言っていいはずである。

 だからこそ、この問いには隠岐奈の胸の内にずっと燻っていた疑問が込められていた。

 

「ねえ。一体、貴方は誰なの? いいえ……貴方は本当に、ここに存在しているの?」

 

 記憶を取り戻すということは、その人物の自己同一性に大きな変化が生じるということ。彼女が人間であったころの記憶など、妖怪となってからの記憶に比べればほんの少しに過ぎない。

 ただし人格、自我を形成する作用については例外だ。

 

 

 ——記憶が複雑に混じり合った結果、

 

 ——ただの大学生の少女であった頃の名残が、彼女を脆くしてしまったのだから。

 

 

「…………」

 

 予想していたとはいえ、何も答えない紫に隠岐奈は歯噛みした。

 

「(やはり、この世界から干渉を受けていないのか? 多くの異分子達の“感情”、“記憶”を取り込んだはずだが、マエリベリー・ハーンとしての記憶と自我を強く保ち過ぎてしまっている。同時に肉体に存在していた八雲紫の残滓も、完全には消えきっていない……)」

 

 全てが不可解だ。

 

「(あの女……最初の“八雲紫”はこの娘を生み、命を落としたはず。そうでなければ私がこの娘に干渉できるようにはなっていない。しかし干渉が可能になったにしては、自我が強すぎる。まるで何かまた別の存在のように。……ありえない。それでは今私の目の前にいるこの娘は、誰だ?)」

 

 どれだけ思案しようとも、答えは出てこなかった。

 

「(ちっ、ヘカーティアと神綺の奴らに先を越されるのだけは御免なのだが——)」

 

 紫の、現在の交友関係をじっくりと観察していれば分かる。幽々子、妖忌、萃香、茜、博麗。思い返せば、彼女の行動には不可解な点が複数ある。

 

 第一に。なぜこちらを裏切る可能性をはらんだ、西行寺幽々子を斬り捨てないのか? 

 監視を行っている彼女は、大きな敵対行為にまでは及んでいないものの、ときおり不審な動きを見せている。紫はそのことに気づいているはずなのに、それを問いただそうともしない。しかも、幽々子は紫が記憶を取りもどす前に知り合った者である。今の彼女が幽々子に執着する理由などないのだ。

 

 第二に。なぜ天魔である茜と、必要以上の接触を行っているのか? 

 確かに天狗の頭領たる射命丸茜と友好を結べば、周辺の妖怪たちに対して手を出しやすくなる。いくら紫とはいえ、世界全体の隅々まで目を凝らすことはできないのだから。だが、彼女との“距離感”に、隠岐奈は違和感を覚えざるを得ない。彼女に“誰か”の面影を重ねているようにも思えるのだ。

 

 第三に。なぜ萃香を守り抜く必要があったのか? 

 彼女が月面で力尽きる運命は、確かに存在していた。紫はそれをわざわざ、傷を負うまでして助けた。幽々子と同様に、萃香に対する義理などなかったはずなのに。さらに現在、萃香は運命から大きく外れようとしている。それを咎めようともせず、ましてや抹殺しようともしていないのは何とも不自然である。

 

 最後に、なぜ博麗の巫女という“鍵”に手を伸ばそうとしないのか? 

 アレは福とも災いともなりうる玉手箱だ。自分たち古の神ですら予想がつかない、まさにパンドラの箱。開けられる者は紫の他にいないというのに、彼女はそれを躊躇している。

 しかし、

 

「……まあ、いい」

 

 終始余裕のある表情をしていた隠岐奈は、ここにきてはじめて、真剣な顔で溜息をついた。

 これ以上詮索をしても、何も得られないと断じたのだ。

 月面で隠岐奈は確かに、“マエリベリー・ハーン”という切り札を自分の手中に収めた。ゆえに焦ることもないのである。彼女が何かを企んでいたとしても、今やそれほどの脅威とはなりえないのだから。

 

「貴方が自分の使命をちゃんと理解しているのなら、私は別に構わない……」

 

 隠岐奈がそう言うと、同時に金縛りが解ける。

 紫は拘束から解き放たれた。

 したがって今、彼女が隠岐奈を拒絶することは容易い。それにも関わらず、紫は自身の胸元に置かれていた手に自分の手を重ね、

 

「隠岐奈……」

 

 秘神の名を呼んだ。

 

「(…………はぅっ!!??)」

 

 隠岐奈が己の名を呼ばれたのだと認識するまでには、少々時間を要した。

 これまでほとんど口を開かなかった紫が、大変珍しいことに己の名を呼んだのだ。それも、手を握って。

 

「(え、えええええと。これはつまりそういうことでいいのかしら、いいのよね!! あああ……ようやく、ようやくこのときが来たのね……!! 待った甲斐があったわ、私は今日ここで————)」

 

 紅潮する頬を両手で抑え、生唾を飲む隠岐奈。この一瞬で、期待は最高潮まで達した。

 しかし、

 

「直に新しく結界を張る。そのときはまた、結界の管理をお願いするわね」

「………………え?」

「準備は着々と進んでいる。それほど時が経たぬうちに、幻想郷は創立されるでしょう」

 

 上げて、落とされた。彼女の期待した展開など、訪れるわけもなかった。

 

「だから、貴方にはこれからもうしばらく、結界管理に努めてほしいの」

「あ、えっと」

 

 隠岐奈自身、ちょっとだけそんな気はしていた。

 

「……なにかしら?」

「他に何かあるでしょう……、ねぇ?」

「ないわ、それだけよ」

「……ほ、本当に? ほ、ほら私も貴方を影ながら支えてきたでしょう!? だから、そろそろ褒美というか、労いというか……。こ、これ以上は言わなくても分かると思うの——」

「貴方と契約せずとも、私はこの手で異分子を排除できる。今以上の助力は、必要ないでしょう? 貴方は一体何を言っているの?」

「…………そう」

 

 がっくりと肩を落とす隠岐奈。

 彼女の感情は秘されることもなく、完全に露わになっていた。さすがの秘神とはいえども、今の彼女は意気消沈した様子の、ただの少女にしか見えないことだろう。

 

「……そっかぁ…………」

 

 どうやら大分、傷ついたらしい。

 

「(想像はしていけど、やはりこうなっちゃったか……)」

 

 紫は最近になって式神を“後継”として迎え入れた。

 それはある意味、隠岐奈との関係における線引きとも言える。

 以前に、紫を試したことが原因であることは明白であった。

 

『貴方は全てを忘れても良い。どれだけ後悔しようとも、ツクヨミはもう帰っては来ないのだからね。あの女は最後まで粘っていたが、結局は運命に抗えなかった。貴方もいずれ、そうなるんだよ』

 

 あのとき、張りつめていた糸が切れたように、紫は暴走した。

 それは、隠岐奈ですら予想だにしていなかった。

 

『『師匠!! だ、大丈夫ですかっ!!?』』

 

 そして、童子たちに心配されるほどの大怪我を負い、危うく消滅しかけた。紫の暴走を招いたことは完全に失策であったが、それと同時に彼女自身の決意のようなものを感じ取ることができたのである。

 彼女、いや、マエリベリー・ハーンは自らの記憶を捨てようなどとは考えていない。必死に抵抗を続け、日々抜け落ちていく記憶を、感情を、必死に繋ぎとめようともがいているのだ。

 

 隠岐奈にとっては、それがたまらなく愛おしかった。

 先に散ったツクヨミの後を追うでもなく、歯を食いしばりながら使命を全うしようとするその姿。

 

 ——ああ。

 

 “八雲紫”はこれまで排除してきた異分子を含めた、全ての者たちの記憶をその身に取り込んでしまう。すなわち、異分子を抹消するたびに自我という原始的な境界が失われていくのだ。

 そして彼女は混沌としたスキマの中を、一人溺れそうになりながら、それでも泳いで。

 

 ——ああ、何と歪で何と愛しいことか。

 

 彼女は異分子と呼ばれる者達と同じように、迷い、苦しみ、恐れ、戦っている。“祝福されし子”と“異分子”に明確な線引きが存在しないように、彼女は厚さ零のその境界で、ぎりぎりの均衡を保っているのだ。

 

「ふふふ、あははっ」

 

 隠岐奈は嗤った。

 

「しかしそれでいい、貴方はそれでいいのだ」

 

 その目は静かな狂気を孕んでいた。

 盲目的なまでに紫の行動に手を貸し、自らの理想を実現しようと画策する隠岐奈の心情は、当の本人ですら理解できないような代物である。

 

「(そう。私はこの娘を手に入れた。誰にも渡さないわ。他の古の神々、射命丸、博麗、そして、西行寺の奴にもね……)」

 

 そう固く決心する隠岐奈は頬を緩めながら、慈愛に満ちた表情で不意打ちに、紫のうなじに口づけをした。

 途端、紫の肩がピクリと動いた。

 一瞬のことに反応できなかった紫は、隠岐奈からでは表情を窺えないが、静かに赤面しているようにも見える。

 年頃の少女らしい顔だった。

 しかし、少々調子に乗り過ぎたようである。

 

「————ッ!!」

「くふっ、ふふふ。あっはっはっはっはっは————ふぎゅぅっ!!?」

 

 隠岐奈の顔面に、紫の裏拳がめり込む。

 

「ふぐっ……う、うふふ。それでこそ、私の愛しい娘よ」

 

 その痛みすら笑って受け入れながら、隠岐奈はまた、笑うのであった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 ——博麗神社。

 

 真昼の神社は日当たりがひと際よい。ここの巫女は普段、巫女見習いの少女とともに談笑しながらも掃除に勤しんでいる。

 しかし今日は、様子が異なった。見習の少女の姿はなく、心なしか周囲の空気も重い。

 その原因は境内にあった。

 巫女の周りを近隣の村の数人が囲んでいたのだ。

 だが彼らの表情からは、巫女に何かを問い詰めようとしている様子は窺えなかった。彼らはあくまで、博麗の巫女に相談を持ち掛けることを目的としていたのである。

 

「巫女様。隣の里も、またその隣の里も山に攻め込むってこちらの話を聞こうともしねぇ。このままじゃ戦にまた巻き込まれちまう」

「ただでさえ、これまでの戦で男手が減っていたっていうのに飢饉まで起きちまっているんだ。食う物が今以上に減ると、死人が出るかもしれん」

「ここも、直に戦になるでよ」

 

 博麗の巫女が守っている人里は、他の人里に比べて男手が足りていないこともあり、飢饉の影響を強く受けていた。

 そこで妖怪たちが立ち上がる。

 妖怪はもともと食事の必要がないものが多い。人間を食すものいるが、それもあくまで人間の恐怖を目的としたものである。それゆえ、戦備えを解いた天狗をはじめとした妖怪たちは、神社を介した食料提供によって人里を支援していたのだ。

 妖怪達の支援によって、確かに食糧事情は改善されたと言える。だがそれも、別の問題が浮上したことによって、限界が近づいてきていた。

 

「確かに山の妖怪たちのおかげで、こうやって俺たちは食いつなげているわけだがな。このままじゃダメなんだ……」

「そう、山の妖怪たち頼りになっちまうと、他の村々から怪しまれるのさ。最悪、他の人里からこの村が狙われるだろうな。もしそうなっちまったら、四方八方敵だらけ。この里は滅ぶしかない」

「だから、別の方法を考えなくちゃいけねえ」

「別の方法、ですか……」

 

 妖怪との確執は、自分の想像よりもはるかに深い。博麗の巫女はそのことを十分に理解していた。それゆえ、他の里が攻め入ってくるかもしれないという意見には、もっともだと同意せざるを得なかった。

 

「巫女様。助けてもらってばかりで本当に情けない話ですが、私たちは、他に生きる道を探すしかないのです……」

 

 赤ん坊を背中に背負った女性の一言に博麗の顔は曇る。

 

「……ごめんなさい。私が安易に取り計らったばかりに……私の所為で、いらぬ疑いを——」

「いいや、巫女様」

 

 自分を責めようとした博麗の言葉を、熊面の男は遮った。

 

「貴方様の所為じゃあ、ねぇさ……。あちこちに掛け合ってくれた貴方様のおかげで、飢え死ぬ奴はまだうちの里からは出ていないんだ」

 

 繰り返しになるが、彼らは窮状を訴えているものの、けっして、博麗の巫女を責めるつもりはないのだ。

 彼ら自身もまた妖怪達を受け入れようと努力し、最近広がった噂にも、流されることはなかった。ある意味、博麗の巫女の理想はこの里が体現しているようなものだったのだ。

 しかし、他の里は違う。博麗の巫女が管轄するこの人里以外では、変わらず人と妖怪の間の確執は残り続けている。いくら自分が遠出に赴き、人々の身近な危険を取り除いたのだとしても、傷跡がずっと横たわってしまうほどに。

 

「人と妖怪の間の溝っていうのは、うちと他の里じゃ比べ物にもならないほどさ。巫女様一人じゃ、他の里の奴等全員の心を変えるのは難しい。だからといって巫女様のやって来たことを馬鹿にすることなんてしねえ。巫女様のおかげで俺たちは、今まで知ろうともしなかったことに気づけた。妖怪たちは、俺たちが思ったような奴ばかりじゃなかったんだ。本当に感謝してる。だがな——」

 

 熊面の男は続けて言った。

 

「これが現実だ。どうか分かってほしい」

「……っ」

 

 博麗は唇を噛みしめた。ここにあの小鬼がいたら、どんな顔をするのだろう。そんなことを、ふと思った。

 五年前に自分が口にした理想が今、無残にも砕け散ろうとしている。このままでは飢饉と戦によって、この人里は飢え死ぬだろう。それはつまり、あの鬼とした約束が果たされぬまま潰えようとしていることを意味していた。

 

「雨が……降ればなぁ……」

 

 静まり返った境内で、髭面の壮年男性がぽつりとつぶやく。

 此処にいる誰もが同じ思いだった。日照りによって乾ききった大地には、当然作物は育たない。運よく実ったものがあったとしても雀の涙のようなものである。もうそろそろ収穫の時期にもなるのだ。

 人を食わせていくのには、圧倒的に“水”が足りなかった。

 

「……!!」

 

 博麗はそこで、思いついた。

 そうだ。自分には、まだやれることがあるではないか。

 

「皆さんっ! 私、雨乞いをやってみます!」

「雨乞い……? 巫女様が、ですか?」

「はいっ!! もしかすると、戦を止められるかもしれません。雨が降って水不足を緩和できれば、戦に参加する里も少なくなるはずです」

「ほ、本当かっ!!」

「……た、確かに巫女様の雨乞いが成功すれば、水不足は解消できますよねっ」

「いいのかい……?」

「はい。できるかぎりのことはやってみますっ!!」

 

 この騒動の発端は、深刻な水不足である。ならばその水不足を解消すればよい。

 髭面の男性が言ったように、雨が降れば水の供給が再開されるであろう。雨乞いは、単純だが強力な解決法であった。

 ただし、雨乞いには時間がかかるうえに、近隣すべての人里に雨乞いの影響を及ぼすにはかなり大規模になる。そしてなにより彼女は、里の見回りが思うようにできなくなってしまう。この飢饉に際して人里を襲おうとする妖怪は少なくない。雨乞いに時間がかかり過ぎてしまえば、里に危険が及ぶ恐れもあるのだ。

 

 三年前にやってきた、巫女見習いの少女に任せるという手もあるが、彼女はその性格ゆえ、下手をすると自ら命を捨てに行くかもしれない。どのみち博麗は不安になってしまう。

 しかし、人里に残された時間も、そう長くないだろう。

 

「(あの娘は心配。でも、これ以外の方法なんて……)」

 

 博麗は両手を握りしめる。これまでも与えられた使命を認識してはいたが、改めてその重さを痛感させられる。己の手には、人里の未来がかかっているのだ。

 常人であれば押しつぶされてしまうような重圧。

 しかし、彼女は責任に押しつぶされるほど弱くはなかった。

 

「えへへ」

 

 里の者達を安心させるように、微笑む博麗の巫女。

 そう、彼女は強かった。

 

「妖怪たちを恨まないって言ってくれて、ありがとう。私、頑張りますね」

「巫女様、アンタのおかげで俺たちは今生きているようなものなんだ。お礼を言うのはこっちの方なんだよ」

「ええ、うちの息子は、貴方様に救われました。巫女様がいなければ、どうなっていたことか……」

「貴方様は私達を妖怪だけではなく、熊や狼、野盗からも守ってくださいました。この恩は末代まで忘れることはありません」

「み、みなさん……」

 

 人と妖怪の間にある溝はけっして浅いものではない。そうでなければ、こうまで多くの人里が戦備えをしているわけがないのだ。そんな中、彼らはここまで自分の理想に理解を示してくれている。

 博麗にはそれがただ嬉しくて、目尻ににじんできた涙を指ですくった。

 

「(萃香お姉ちゃん……)」

 

 あの小鬼の顔が脳裏をよぎる。目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。

 彼女は覚悟を決め、

 

「この異変、博麗の巫女が解決してみせますっ!!!」

 

 その身に背負った使命と共に、異変解決へとついに動き出した。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人の章:博麗として

 私は気がついていた。

 あの日から皆の“在り方”が大きく変わっていったことを。

 茜ちゃんに、妖忌さん。幽々子ちゃんと紫ちゃん。そして、萃香お姉ちゃんと私自身も、例外じゃない。きっと誰もがはじめは『変だな』って思っていたはずなのに、だんだん忘れていってしまっている。

 少し不自然だと思う。

 気になって調べているけれど、原因はよく分かっていない。

 かくいう私自身も、気を抜くと頭から抜けていきそうになっちゃう。気をつけているつもりなんだけどね。

 

 ——年代不明 初代博麗の巫女の手記より抜粋

 

 

 

 ******

 

 

 

【長月 二日】

 

 

 里の皆が帰った後、私は茜ちゃんの使い魔の鴉から、密書を受け取った。その内容は、妖怪の山の動向についてのものだった。

 開幕初戦で人間の戦意を徹底的に奪い、戦を長引かせないためにもそのまま停戦交渉に持ち込むらしい。現在、覚り妖怪にその交渉役を頼んでいるみたい。そして、紫ちゃんが鬼の暴走を抑止すると書かれていた。

 

 よかった……。

 茜ちゃんは色々と残念なように見えて、実は仕事をきっちり果たす娘なの。傍にはしっかり者の大天狗さんもいることだし、きっと向こうは大丈夫でしょう。

 だからこそとも言えるかな。私がやらなくてはいけないことは、はっきりとしてくる。

 

『人里を少しでも戦から遠ざけ、まずは飢饉の問題に取り掛かること』

 

 今日の朝早くに用あって山を越えた隣の里上空を飛んでいたとき、幾多の槍や刀が運ばれている様子を見かけた。痩せこけた里の人達が武器を手に取り、着々と戦の準備を整えているのを見た私は、言葉を失った。聞いただけと実際に目にするとでは全く違う、人間の強い憎しみと怒りを感じた。

 自然を恨むことなんてできない。だからこそ、妖怪が飢饉を引き起こしたなんて噂が流れれば、すぐさま憎悪は広まっていっちゃうんだ。

 

 それに飢饉からはそう簡単に抜け出せるものじゃない。正直、今回の雨乞いだけで、飢饉から完全に脱することができるかも怪しい。

 

 だけど眼下に広がった戦備えの光景を見て、私は強く思った。

 今、やらなくちゃいけないんだ。

 一つでも多くの人里を戦火から遠ざけるには、今、手を打たなくちゃ手遅れになる。

 

 その最初の手段が雨乞い。

 

 巫女としての仕事の中でも、とりわけ自信があるものだった。

 こんなに大規模なのは初めてになるけれど、これまで他の里から頼まれて雨乞いをしたことがある。そのときも一度だって失敗したことはないし、今回も大丈夫だと思う。しっかり準備できれば、絶対に成功するはず。

 

 だから、まずは儀式に使う物を揃えなきゃいけない。

 とは言っても、大体の用具は神社の隣の倉庫に入っているはずだから、さほど準備に時間はかからないのだろうけどね。

 なんたって勘で大抵のものがすぐに見つけられるから。

 ただし一つだけ、奥の方にしまっちゃったのか、なかなか見つからないものがあった。そんなに奥へしまい込んだつもりはなかったんだけどな。

 

「ふぅ~、一休み一休みっと」

 

 倉庫の中で、私は木箱の上に腰かけた。気づいたらかれこれ数刻も倉庫の中を整理し続けている。予定よりも時間がだいぶかかってしまった。

 やっぱり、定期的に片づけはやるべきだったなぁ。色々ほったらかしにしてきたものが積もりに積もって、倉庫の中はごちゃごちゃしてる。もともと私は野宿していたから、こういう整理整頓みたいものに慣れていないんだよ……。

 

 とはいえ、あの娘に『一人で大丈夫!』って見栄を張っちゃったから、今更手伝ってほしとも言えない。難儀なものだよね。昔の私なら多分気にしなかったんだろうけど、私も随分見栄っ張りになったものだと思う。

 

 さすがに休みもせずに片付けるのは大変なので、私は腰に下げていた水筒を手に取った。

 

「んっく……、はぁ~おいし~」

 

 水筒の中身、すぐ近くの井戸から汲んできた水はよく冷えていておいしい。疲れていた体に行き渡って生き返る。……ふふ、不意に初めて会ったときの萃香お姉ちゃんを思い出した。

 

 そうか、もうあれから()()は経っているんだ。

 

 時間が経つのは本当に、はやいはやい。

 少しだけ、懐かしくて。ふとあの頃が恋しくなって寂しい気持ちになる。

 茜ちゃんがドジをしたら、それを妖忌さんが窘めて。私と幽々子ちゃんはそれを眺めていて。

 

 ああ、そうだ。思い出した。私と幽々子ちゃんの隣で、いつも出会い頭に萃香お姉ちゃんと紫ちゃんが喧嘩を始めるものだから、二人でよく成敗していたよね。

 喧嘩するほど仲がいいとはよく言ったもの。なんだかんだ萃香お姉ちゃんと紫ちゃんはお互いを認め合っていたのだと思う。紫ちゃんなんかは特に、自分からちょっかいをかけて楽しんでいたみたいだし。それを『里の男の子が、好きな女の子にちょっかいをかけるのと似てるな』、なんて私は思ってた。ただ、口に出すと無言で紫ちゃんが頬を引っ張ってくるから何も言わなかったけどっ! 

 

「あら。いけない、いけない。このままじゃ日が暮れちゃうわ」

 

 何となく口に出せば、この言いようのない寂しさを紛らわせてくれる気がした。そんな都合のいいこと、あるわけないのに。

 どうにも暗い所にいると無意識のうちに考え事をしちゃうんだ。なんでかな? 

 

「(おおっと、ま~た考え事してる。そろそろ本当に再開しないと)」

 

 重い腰を上げてそろそろ整理を再開しようしたそのとき、私は背後に気配を感じた。

 

「どうかなさいましたか、巫女様?」

「……ああ、戻って来てたんだ」

「はい。ただ今戻りました」

 

 凛とした、鈴の音のような声。あの娘が無事に帰って来たみたいだ。

 振り向くとあの娘が倉庫の扉の隣で、お祓い棒を片手に持って立っていた。しかし、いつもの如く、体中がぼろぼろになっている。折角私がこしらえた巫女服も、擦り切れちゃってるし。丈夫な布地で作っていたんだけどなぁ……裾で隠れているのだろうけど、きっと無茶をして体のあちらこちらに怪我をしてるんだろう。

 いつも精一杯なのは結構なんだけどね、私は心配でしょうがないんだよ? もう、心配するこちらの身にもなってちょうだい。

 萃香お姉ちゃんも、この娘も、そして私の大切な人たちは危なっかしいことに首を突っ込み気味なの。といっても、私自身だって危険に身を投じることがあるものだからあんまり強く言えないんだけどさ。

 

「……それで、どうだった?」

「特にこれといった脅威はありませんでしたが、やはり里の生活が困窮している所為か、妖怪の勢力が増し、徐々に活動範囲を拡大している気がします。早急に手を打たねばなりませんね」

「えっと……、ちょっと待って。これといった脅威はなかったって嘘でしょう? 正直に言ってちょうだいね?」

「……? 巫女様ほどの無茶をしたつもりは毛頭ありませんが?」

 

 ごく自然に、『何言ってるんだ』って返された。心なしか表情も私を見透かしている気がする。……あれ、おかしいな。これじゃあ、私の方がおかしいみたいじゃない? 

 

 い、いや。わ、私だって一応里の皆を守る巫女だもの。簡単に背を向けて逃げるわけにはいかないし、悪さをする妖怪を懲らしめることだって大事な仕事だから精一杯やっている。

 そう! たまたま妖怪に投げ飛ばされて地面にめり込みそうになったり、空中で爆発四散しそうになったりするくらいで、そんなに危険な目にあったりするわけじゃ——。

 

「——ふぅぅ」

「ひぃぁあっ!?」

「お顔が青いようですが、如何なさいましたか? よもや心辺りがないなどという世迷言をおっしゃるわけではありませんよね。巫女様」

「そ、そんなことないよ!? っていうか! びっくりしちゃったじゃない!? 別の方法とかもあったでしょ!?」

「……と、言いますと?」

「肩を叩くとかするでしょ普通っ!?」

 

 耳元に急に息を吹きかけられた。

 生暖かい息だったものだから、耳がひやっとした。

 

「(うわぁ、変な声出ちゃった……は、はずかしい……)」

 

 抗議すべく頬をぺちぺちしても、無表情。

 

「(もぉ、この娘ったら普段は生真面目なのに、こんなときにかぎって茶目っ気を見せるんだからっ。表情が全然変わんないから分かりづらいけど、今、絶対私の反応を楽しんでいるわ、きっと!! だって口の端っこが少しだけひくひく動いているんだもの。絶対そうっ!!)」

 

 ……まあ、感情を少しずつ表現できるようになってくれたみたいで、私も嬉しい。

 

「——巫女様は耳が弱い、と。なるほど敏感なのですね」

 

 いいや。それとこれは話が別だ。

 

「も、もぉ~! 貴方ってばねぇっ」

「あまりにも隙だらけだったので、つい」

「も~、なにを言ってるのよっ!? 確かにちょっとだけ考え事をしていたんだけどさ」

 

 私が危険な目に自分から突き進んでいたこと。確かにちょっとだけ、思い当たる節があった。

 み、認めざるを得ないよね。

 

「やはり、自覚はあったようですね」

「ふぐぅっ……も、もう、だからって耳に息を吹きかけることないじゃない!?」

「あまりモウモウと言っていましたら、牛になってしまいますよ。……いや、すでに牛のような立派なモノをお持ちですが」

「ど、どこ見て言ってるのよ!?」

 

 なんとなく身体を両腕で抱きしめた。

 ——の、私の身体を見る目が怖い。どこか一点を凝視していて、まるで死んだ魚の目のような目をしていた。それに最後の一言は完全に何かしらの皮肉が入っているでしょう? 

 具体的なことは分からないけども、私だってそれぐらい分かるんだよ? 

 

「ふむ……さすがにふざけ過ぎましたかね、これくらいで戯れはやめにしましょう」

「うぅ~、自分からやってきたくせに……」

「申し訳ありません、好奇心には勝てませんでした。この罰は如何様にも受けますので」

「後悔は——」

「していません。断言します」

「……はぁ」

 

 この娘が自分勝手なのはいつものこと。私が三年前にこの娘を拾ってからというもの、少しずつ人格が丸くなったけれどその方向性がちょっとね。

 一体誰の影響を受けたんだろう? 

 

「——こほん……さて本題ですが、巫女様」

 

 なんて思ってたら、急に真剣な顔をする。

 まあ、いちいち気にしていたらいけないよね。この娘ったら、切り替えが早すぎてついて行けないもの。

 

「どうしたの?」

「はい。先程も言いましたように近隣の人里が困窮している中、我々も何か手を打たねばならないと思うのです」

「う、うん」

 

 まさか……。

 気づいている? 

 

「しかし、貴方様はとうの昔に気づかれていらっしゃるはず。このまま放置するなど考えられません。ひょっとして貴方様は、私に何かを隠しておいでではないでしょうか?」

 

 やはり、核心を衝いてきた。

 

「……隠し事ね。うう~ん、まあ、そう、言えなくもないけど。そうね、特別隠そうって思っていたわけではないんだよ」

 

 きっと——は、全部気づいているんだろう。その上で、確認をするために聞いているのだと思う。

 

「——。気づいているとは思うけどね、人里と妖怪の山との間で近々大きな戦が始まるかもしれない。その原因はお察しの通り、最近の水不足による飢饉。このままじゃ人々の不満が爆ぜて大規模な戦になってしまう。だから、雨乞いをしようと思うの。不満と怒りを少しでも取り除いて、すぐそこの里の皆が戦に巻き込まれないように。そして、人間と妖怪の間の争いを防ぐためにも」

「……巫女様はお一人の力をもってして、本当に争いを止められるとお思いで? 里の者達がここへ来る前から、ご存じでいらしたはずです。争いの火種が、ずっと前から芽吹いていたことを」

 

 やっぱり……。

 この娘は特に負の感情に敏感で、すぐに察してしまう。でも、それもそうなのかな。私なんかよりもずっとずっと、この娘は賢いし、勘だって鋭い。よくよく考えてみれば私の周りって皆、賢いひとたちばかりだよね。

 私じゃとても敵わない。

 

「巫女様。我々は、()()の守護者です。妖怪達を守る義理などない。ならば、これも時代の流れでしょう。飢饉に対処し、この機に乗じて里を襲う妖怪どもを打ち倒すべきではありませんか? それこそが博麗の巫女としてのあるべき姿です」

 

 この娘が、人を苦しめる妖怪を強く憎んでいることは分かっているつもり。

 

「巫女として、ね……」

 

 でも、ここで退けない。退けないんだ。

 

「戦争が起きるかもしれない。……いや、“かもしれない”なんて今更言えないわ。貴方の言う通り、戦は必ず起きるよ」

「であるならば、なぜ——」

「——確かに私達は人間の守護者だから、これから始まる戦で人間の味方をすることだって正しい。でも、戦は一日二日で終わるようなものじゃないのよ。長引けば里の皆の生活はもっと厳しくなるし、不幸な人がまた生まれてしまう。結局、妖怪と争ったって苦しむ人が増えていくばかりでしょう」

「……」

 

 私が依頼を受けてはじめて妖怪を退治したとき、後日、その妖怪の仲間が私を襲いに神社へとやって来た。

 結局私は二匹の妖怪を退治することになってしまった。本当は、そんなつもりはなかったのに。対話なんて、する暇もなかった。

 私は、こうして溝が深まっていくんだって思い知った。

 

「私だって、この五年で分かったことがある。学んだことがある。貴方を拾う前までは、何も知らなかった。物心ついた頃からずっと人里遠くに住んでいた私は、人間のことをまったく知らなかった。そして私の理想が夢物語だって何度も思い知らされたわ」

 

 当時、打ちひしがれていた私に萃香お姉ちゃんは言った。

 

『人と妖怪と、そして神を区別しないっていうのは、確かに難しい。だけどアンタには、アンタなりのやり方っていうものがあったじゃないか。ほら、昔私を助けてくれたときみたいにね』

 

 はっとさせられた。

 周囲に流されていく私を、萃香お姉ちゃんは引き留めてくれた。自分の譲れないものを思い出させてくれた。

 

「理想は遠い。それでも私は、私のできることをやりたい。後悔、したくないんだよ」

「巫女様の、その両手で救える者だけ救おうと? たとえ全てを救うことができないのだとしても。それが、今回の雨乞いだと言うのですか?」

「うん。じゃないと、私の中の“前の私”に顔向けできないから。それに——」

 

 約束したんだ。あれを子供だった頃の夢なんかでは終わらせるもんか。

 

「萃香お姉ちゃんとの約束を破りたくはない。ここで諦めたら、私はきっと私自身を許せなくなる」

 

 あの時よりも大人になったからこそ、尚更に諦めちゃダメなんだと思う。捨てちゃいけない大切なものまで失ってしまうから。

 それに、ようやく。ようやく先が見えてきたんだ。

 紫ちゃんの計画が成功すれば、“楽園”だってきっと——。

 

 静かに私の言葉を聞いていた——は、私の目をじっと見つめている。目を逸らすことができないくらいに真剣に。だからこそ、私のことを真摯に考えてくれているんだなって、思った。本人にしか分からないことだけど、私と自分の妖怪に対する憎しみを天秤にかけているのかもしれない。

 真面目で、融通が利かなくて不器用だから勘違いされやすい。それでもこの娘はとっても優しい。本当に、拾ったときから全然変わっていないな。

 

 そんなことを考えていると、——は私に向かって観念したように言った。

 少しだけの安堵と、呆れが混じった声だった。

 

「ここで、あの小鬼の名前が出ますか。……巫女様のおっしゃることはいつも理想が高すぎますよ。まったく、巫女様は本当に情けが深いというか、なんというか。貴方様のお考えは高尚過ぎまして、私のような者には到底理解できませぬ」

「え、えぇ……辛辣ぅ」

 

 訂正、ただただ辛辣だった。

 

「貴方様は自らの甘さをこの五年で理解したとおっしゃいました。しかし、だからと言って理想を不可能だと決めつけず、貴方様はそれを追い求め続けるのでしょう?」

「う、うん」

「これだから、巫女様からは目が離せません。しかし貴方様がそう言うのでしたら、私からはこれ以上、申し上げることはありませんよ。微力ながらお手伝いをさせていただきましょう。この命は元より、貴方様が拾ってくださったものなのですから」

 

 一瞬、ほんの一瞬。

 ——は微笑んだ。

 すぐさま踵を返して——は神社の中へと入っていく。肩にかかるくらいで切り揃えた紺色の髪をなびかせて。

 

 妖怪を憎んでいると言っても、あの娘はこの世の全ての妖怪を憎んでいるとか、そういうわけじゃない。里に食料を運んで来てくれた天狗達や河童、一部の山の妖怪には感謝しているだろうし、出会い頭で問答無用に退治をしようとはしないと思う。今さっきだって、私の我儘とも言える博麗の巫女のこれからの方針に従うと言ってくれた。

 私は心の中であの娘に最大限の感謝をした。

 そして、これから先やらなければならないことを想像し、あの娘にもう一度謝らないといけないと思った。

 

 ふと、視線が倉庫の外へ向く。

 薄暗くなってきた境内に灯りがついていた。

 そして神社の中から、カチャリ、カチャリと食器の音がした。

 そろそろ夕飯時だから、その仕度にでも取り掛かっているのだろう。『あの娘の作るごはんはいつも美味しいんだよなぁ』なんて考えていたそのとき、

 

「ひゃっ!? そ、そういえば朝から何も食べてないや……」

 

 気を抜いたからせいか、急にお腹の虫が鳴いた。

 自分のお腹の虫に驚いたところが誰にも見られなくて良かったなんて思いつつ、ようやく捜索を再開する。

 結局、随分と長い休憩になっちゃった。これは急いで休んだ分を取り戻さないと。

 

 昨年完成させたものの、使い時が分からず倉庫でずっと眠っていた()()()が見つかったのは、辺りが暗くなってから。

 あちこちに引っ張りだした倉庫の中の貯蔵品を元に戻し終わり、いざあの娘のお手伝いをしようとしたときには、すでに夕食の準備が終わっていた。あの娘のジト目が私をちくちくと差すようで、本当に申し訳ない。ごめんね、これからは倉庫もちゃんと片付けるようにするよ……。私は心の中でそう強く誓った。

 わ、忘れないようにしなきゃ……。ほ、ほんとだよ!? 

 

 その後は二人だけの静かな夕食。あの娘が少ない食料で工夫して作ってくれた品々は、全部美味しかった。茹でた野草を和えたお粥は、どうやって強いえぐ味と青臭さを取り除いたのだろうと聞きたくなるほどに優しい味でほのかに甘い。

 もう、私は料理の腕も敵わなくなっちゃったなぁ。萃香お姉ちゃんには後で色々と愚痴を聞いてもらおう。弟子が優秀過ぎて、師匠の私は何も教えることがなくて困っているって。

 また、額を小突かれちゃうかもね。

 

 そんな——は普段、食事中に一言も話さない。しかし、今日は気安く私に話しかけてきた。珍しいことに内容はどれもこれも日常の何気ない話題ばかり。あまり考えられないようなことだった。

 何かあるのかなと思ったけど、最近の私は色々と不安とかが顔に出ていたんだろう。雨乞いを成功させなくちゃって、張りつめ過ぎちゃったんだね。

 心配させた挙句、『私のことは気にせず、巫女様は雨乞いを成功させることだけをお考え下さい』って言われちゃった。嬉しいんだけど本当に、私は師匠失格だなぁ。

 

 もう、この娘は、

 

()()()()()()()()は、

 

 すっかり一人前なんだなって思った。

 

 

 

 ******

 

 

 

【長月 一日】

 

 廊下の床が静かにミシッ、ミシッと音を立てる。けれどそれがけっして重い音でないのはきっと、私の足取りが軽いからだ。

 

「ふーん、ふふーんっ」

 

 私は早くに起きて取り掛かっていた朝食の準備が整い、鼻歌を歌いながら歩いていた。両手には今しがた完成したばかりの膳。紫様にお出しする以上、自分の持ちうる最高のお料理でなければならない。よって毎朝私は、緊張感を持って勤めに向かう必要があるのだ。

 きっと紫様はそういった心構えを私に伝えるために、朝食の支度という勤めを私に与えてくださったに違いない。

 さすがは紫様だ。

 

 昨日は紫様の友人たる射命丸茜様の娘、“文”に振り回され失態を晒してしまった。その失敗を取り戻すためにも、まずは今日の仕事をきっちりとこなす必要がある。だから朝食の準備には、腕によりをかけて作らせていただいた。

 

「ふふーん、ふーん」

 

 紫様の式となってから早数カ月が経過したが、あの方こそ、従者として仕える上で至高の存在だと思っている。お忙しい中、時間を作ってくださり私に修行をつけてくれるほか、“料理”を教えてくれたのも紫様だ。

 さらに、算学を中心として学問を身に着ける上で、私は紫様から自習のために各分野について記された書籍を与えてもらっている。なんとその書籍はどれも紫様が著わしたもので、なんでも“教科書”なる学習書らしい。

 なんと慈悲深い御方だろうか。

 あの方は周囲の者達が思っているような残虐で、冷酷な存在ではない。

 従者である私のことまでもちゃんと見てくださる心の広いお方なのだ。

 

「うふふ……」

 

 あの方が私のことを思ってくださっているのだと考えるだけで体が熱くなり、三本の尻尾が暴れていた。こればかりは、自制しようにも言うことを聞いてくれない。

 まだまだ修行が足りないみたいである。

 ああそれと、今日の朝食はいつにもまして自身のある出来栄えだ。

 

「(え、えへへ。『おいしい』って、ほめてもらっちゃたりして。それでそれで、『藍は本当に良くできる式ね』だなんて——)」

 

 思わず顔がだらしなくなってしまいそうだったので、いけないと思い、口をきっと結んで気を取り直す。

 良くないぞ、私。考え事をして転びでもしたら、洒落にもならないのだから。従者に油断は命とりだ。

 目的地に到着し、襖の前で息を整えた。

 身だしなみ(毛並み)よし。表情よし。お料理よし。ふむ、これで大丈夫。

 

「ゆかりさま、しつれいいたします」

 

 尻尾が引っ掛からないように注意しながら静かに襖を開け、部屋に入る。

 

「ちょうしょくのよういが——って、アレ?」

 

 真っ先に目に入ったのは部屋に飾ってあった、大きな掛け軸。

 しかし、どうしたことか、紫様のお姿が見当たらない。おかしいな、いつもなら本を片手に私を待っていてくださるはずなのに。急ぎ部屋の状況を確認してみると、昨日私が掃除をした後、誰もここへは立ち入っていないことが分かった。紫様の隠れ家を訪れる者はかなり限られているし、身を置いているのは紫様と私の二人だけ。

 侵入者の可能性も低いことから、何か外部から問題が持ち込まれたのではない。

 すると紫様はなぜ……? 

 

「ゆかりさま? ゆかり……さま?」

 

 部屋から出てしばらく辺りを見回しても、紫様はいらっしゃらなかった。『こんなことが……』と少し不安になったが、この程度で動じてしまうようならあの御方の従者失格だ。

 先程下した結論から、私は紫様が自室におられるのではないかと思い、ひとまず声を掛けに向かうことにした。

 

 あの方の部屋へと続く、長い廊下を歩きながら思う。

 もしもまだ御休みになられているのならば無礼のないよう起こさねばならない。今日は確か、午後に鬼の元へ向かう予定となっていたはずだから。

 そして、それ以前に私は、あまり時間をかけるわけにもいかないのだ。せっかく朝食をご用意したのに、このまま冷めてしまってはあの方のお口に運ばせるわけにはいかなくなってしまう。せっかく会心の出来だっただけに、作り直すというのは勿体ない。本音を言えば、私はただ紫様に褒めてもらいたかっただけかもしれないが。

 

 一人考え事をしているうちに、紫様の自室の前にたどりつく。

 滅多に入ったことがない紫様の自室を前にして、私は緊張でがたがただった。

 

「……よし…………!!」

 

 だけどいつまでもそうしているわけにもいかない。

 私は紫様の自室の扉をゆっくりと開けた。

 

()()()()()()()()()()()……」

 

 き、緊張のあまり噛んでしまった。思わず『わああもう情けないはずかしい……!!』と叫びたくなるのを必死に堪える。不敬な行為があってはならないと佇まいを改めて直し、紫様の寝所まで近づいた。

 今は何よりあの方が第一だ。主の部屋の前でしてしまった失態については後で十分に反省すればいい。

 

「ゆかりさま、ちょうしょくのじゅんびがととのいましてございます」

 

 耳が痛くなるような静寂が包む部屋の中で、私の声が虚しく響く。よく耳を澄ましてみたが、それらしい物音は聞こえなかった。この部屋の中にはいないのかもしれない。

 いいや、そもそもここは客間である。いらっしゃらないのも当然か。

 

「え、えっと……」

 

 となれば、寝所に違いない。

 努めて静かに近づき、紫様の再びお姿を探す。

 

「っ!?」

 

 思わず、目を疑った。

 寝台にも紫様はいらっしゃらなかった。それでは紫様は一体何処へ? 

 そんな疑問が生じたのも束の間、私が紫様を見つけるのにはそう時間はかからなかった。寝所の隣に位置する書斎からした物音を、私の耳がようやく捉えたからだ。

 書斎の机の方向から『すぅ、すぅ』という寝息が聞こえた。

 

「はぇっ!?」

 

 慌てて口を手で覆い、声を抑える。

 紫様を見つけた。

 なんと机に突っ伏して眠っていらっしゃった。いつも被っていらっしゃる帽子は机の隅に置かれ、お休みになられている間にお召し物が着崩れたのか、紫様の首筋からうなじにかけて白い肌が露わになっており、なんとも艶めかしい。

 

「(お、おからだにさわりますよ?)」

 

 こ、ここは私が機嫌を損ねぬよう起こさねば……それにしても私は一体、ど、どこに触れたらよいのだろう? 

 えっと、ええっと。

 け、けっしてやましい気持ちなんてない。断じてだぞ。

 

「ゆかりさま、ゆかりさま」

「ん……」

 

 眠たげな声を発して、紫様は身じろいだ。

 しかし起きてはくださらず、しばらくすると再び『すぅ、すぅ』と規則正しい寝息が聞こえてくる。お顔を確認すると、やはり瞼は閉じたままだった。

 だめだ。これ以上強く揺り動かしたら失礼に当たる。

 だけど起こさないと体に障ってしまうし……ど、どうしよう? そうやってわたわたと迷っているうちに、それまで安らかに眠っていらっしゃった紫様が、急に苦悶の表情を浮かべた。何か悪い夢を見ていらっしゃるのだろうか? 

 そして、

 

「……や……」

「え……?」

 

 紫様の口から、寝言が漏れる。

 一瞬、何かの聞き間違いかと思った。

 

「——いや……」

 

 それはあまりにも、普段のお姿からは想像もつかない声色だったのだ。

 

「たす、けて……」

 

 紫様の声はか弱く、震えていた。

 

「蓮子——」

 

 胸がずきりと痛むほどに弱々しく、痛ましい主の姿。あれほど美しく、強かった紫様が口にした弱音が私に与えた衝撃は大きかった。

 出会ったときからずっと、私たちのような並みの妖怪とは次元の違う大妖怪であられると思っていた。誰が相手であろうと一歩も退かず、常に余裕をもって勝利を収める絶対的な存在だと思っていたのだ。私にとって唯一無二の主人だった。

 

 だから。

 だからこそ、この感情の向ける先が間違っていると分かっていても。

 

 私は“蓮子”という者が許せなかった。

 

 紫様はお前に助けを乞うていらっしゃる。

 

 なのに、なぜ。

 

 どうして、お前はここにいないのだ。

 

 紫様にとって、かけがえないのない存在だったのだろう。そんなことは一言聞いた私にだって分かる。あんな弱々しい声を、初めて聞いたからだ。

 

 紫様の目尻から零れた涙が頬を伝って落ち、机に雫となっていた。私はそれを見て確信した。はじめて紫様にお会いしたとき、“寂しそう”などという思いを抱いたのは、決して誤りではなかったのだ。

 

 理由は私などでは到底、想像もつかない。せいぜい先程紫様の口から発せられた“蓮子”という名の人物に関係するというぐらいしか思い浮かばなかった。

 ますます腹が立ったが、ここにいない者に対して私が怒りを覚えたところで、どうにもならない。この際、私の感情などどうでもいいのだ。

 最優先は我が主のことである。

 

 ゆえに、だ。

 ますます私はどうすればよいのか分からなくなってしまった。このまま起こしてしまうべきか、それともお休みになられるよう寝所にお連れすべきか。ただ、放っておいてはならないということだけは分かった。

 今の紫様は目を離してしまえば、儚く溶けていってしまいそうで。少しでも力を加えすぎてしまえばどこかへと消えていってしまうそうなお姿だったのだ。

 ともかく、このようなところでお休みなるべきではないだろう。

 迷っていても仕方がない。

 

「しつれいします」

 

 私は、不敬ながらも紫様のお身体を尻尾と腕で抱え、寝台へとお連れした。机よりかはきっとましだ。とにかく今、紫様は疲れていらっしゃる。幸いにして午後まではまだ時間が十分に残されていることだし、まずはしっかりとお休みをとってもらわねばならない。

 

「よいしょ」

 

 ゆっくり持ち上げると紫様のお身体は、想像以上に軽かった。

 そして、今は普段に比べて心なしかお身体が小さく感じた。存在自体がか細く、不安定な気さえした。

 私の両手に伝わる紫様の体温は冷たく、肌は真っ白で血の気がない。依然として苦しそうなお顔をされているため、急ぎ寝台へとお連れする必要があると判断した私は、歩調を早めた。

 揺らさぬよう寝台へ連れていき、ゆっくりと横にする。

 しかしその場を離れようとした瞬間、視界が真っ暗になった。

 部屋の明かりが消えた? 

 否、私は紫様に抱きしめられていた。

 

「(ああ~、いいにおい……。あたたかい……。だめになりそう……)」

 

 ……。

 ……いいや、まてまてまてっ。そんなことを思っている場合じゃないでしょう!? 

 

「!?!?!?」

 

 冷静になれ、冷静になるんだ、私。

 

「あ、あわわ、わわわわっ!!?」

 

 この状況下で下手に動くと紫様を起こしてしまう。

 けっして粗相があってはならない。だからまず、落ち着くんだ。

 そう、こんなときは素数を数えるんだ。いや、無理数ならばなんでもいい。今なら何桁だって行ける気がする。

 

 …………。

 

 紫様のお召し物がさらに着崩れていた。

 抱きしめられた私の角度からは色々と——。

 ああだめです、紫様。

 藍は、藍はまだ心の準備が——。

 

 そんな馬鹿なことを考えていたら、

 

「はぅあっ!?」

 

 さらに締め付けが強くなった。

 許容量を超える感情の波を前にして私の理性は敗北し、結局私は、抗うこともできずそのまま目を瞑り、紫様に身をゆだねたまま意識を手放した。

 

 

 

 

 なんということだ。

 私は顔から血の気が引いていくのを感じた。

 昨日に引き続き、再び失態を重ねてしまうとは。

 現実逃避に近いが、瞼を閉じてもう一度ゆっくりと開ける。

 映るのは変わることなく広がっている、スキマ。

 急にスキマの中に閉じ込められたというのに、びっくりするくらい冷静だったので、自分でも驚いた。そう、ここは紫様の能力である境界操作によって生み出された空間である。式となってから何度か紫様と一緒に入ったことがあるが、一人で来たのは今回が初めてとなるだろう。

 不安になってきた。

 周囲を見回せば、全方位を無数の目が覆い尽くし、私をじっと見つめている。まるで、ここから逃がさないと言わんばかりに。

 余計に、不安になってきた。

 

「(……ゆかりさまが、わたしを“すきま”にとじこめたということ?)」

 

 恐らくは、無意識のうちに能力を使用し、私を取り込んでしまったのだろう。()()を私に重ねて、逃がさぬようにと。

 おのれ、“蓮子”め。

 憶測でしかないが、可能性としては高いと思う。

 

 まあ、それはいい。

 まずはどうやって脱出したものか。これから先が不安でしょうがないが、幸いにしてまだ冷静さを保てているし、頭もよく働く。

 これで私が自在にスキマを扱うことができたのならば万事解決だったのだが、ことはそう簡単にはいかない。

 情けないことに、私はまだスキマを扱うことができないのだ。そもそも、この世界で紫様以外にスキマを扱えるような存在がいると思えない。式になったからこそ分かる、スキマ本来の性質とも言うべきか。あれは紫様の心そのものなのだ、多分。

 

「(と、とにかく、でぐちをさがしますか……)」

 

 実は、スキマの中には出口が存在する。紫様の心そのものがスキマである以上、外界から完全に切り離されているなんてことはありえないからだ。それに紫様本人が以前に脱出可能とおっしゃっていたのだから間違いない。

 

「(“さけめ”をかんじとる、とおっしゃっていましたが……)」

 

 ただし、その裂け目(出口)を探すことが大変。目印になるようなものがなく、この空間にいると座標の判別がつきにくい。むやみやたらに突き進むだけでは返って自分がいまどこにいるのか余計に分からなくなってしまう。

 もしも満天の星々に囲まれたら、自分が今どこにいるのか分からなくなるのと同じ。

 やっぱり、簡単には抜け出せないようだ。

 

「(う、う~、きぶんがわるい)」

 

 スキマの中では何者からも襲われるわけがないのに、危機感を覚えているのか私の尻尾は逆立ったまま。そもそも、スキマの中にずっといると、気がおかしくなってしまいそうになる。

 想像してみてほしい。

 否応なく無数の視線にずっとずっと晒され続けるというのは、たまらなく恐ろしいだろう。

 

「(ん……、眼が閉じていく……!?)」

 

 これから視線に耐えねばと覚悟を決めていたのに肩透かしを食らった気分だったが、それよりも焦ってしまった。こうして眼が閉じていってしまったら、ただでさえ少ない自分の居場所を知る手段が失われてしまう。

 どうしたものかと惑っている内に虚しくもスキマの中の眼が一つ、また一つと閉じていく。様々な感情を孕んだ眼が次々に閉じていく様は不気味だ。もとよりスキマの中は薄暗かっただけあって、徐々に真っ暗な空間へと変貌していった。

 まさに一寸先は闇。これから先どうなってしまうのか見当もつかない。

 そんな折、

 

「貴方が、ゆかりの式? 急にここへ連れてこられた割にはまだ幾分か、冷静じゃない。あの娘の教育の賜物ね」

「——!?」

 

 背後から声を掛けられた。

 ぞっとするくらい、声が紫様と似ていた。

 

「ああ、そんなに警戒しないで頂戴ね。私は肉体も、果ては魂さえも失った、残滓のようなものだから」

 

 気づけば、私の目の前に立っている。

 容姿が紫様と瓜二つの女性。

 髪は黒く、瞳も黒い。見た限りではただの人間だ。

 ただし、彼女が放つ存在感はまさしく紫様のそれと同一のものだった。

 

「貴方がどこまで知っているのか、それは分からないけれど。あの娘はきっと、何も伝えていないのでしょうね……え~と、何から話せばいいかしら」

「……そのまえに、あなたはいったい、どこのどなたでしょうか? なぜゆかりさまの、すきまのなかに? まずはおきかせいただきたい」

「そうねぇ、私がここにいるのは取り込まれたからというか、自分から彼女と同化したからというか……。それに、私が何者かという問いにしても……どうしましょう?」

「えぇ……どうしましょう? といわれましても」

 

 本来なら警戒するべきなのだろうが、どうにもそういう気になれなかった。まるであの方を前にしているような気持ちになったのだ。それくらい、私の目の前にいる人物と紫様は似ていた。

 

「ああ、そうだ。直接見てきてもらった方が、手っ取り早いわ。あまり、古の神々とは深く関わって欲しくないからね。あれらと関わると、碌なことがないのよ」

 

 最後の方はほとんど彼女の独り言(愚痴)に近かったが、私にははっきりと、“古の神”という言葉が聞こえていた。

 紫様から、少しだけ聞いたことがある。

 

 古の神。

 

 それはこの世に生じた歪を正すために与えられた役目の一つ。あるものはただ安寧を。あるものは変革を。それぞれの目的を持って行動をしている神々のことをそう呼ぶらしい。そして紫様は、こうもおっしゃっていた。

 自分の計画の妨げにもなりうる、と。

 

「地獄と、魔界のやつらは日和見だからともかくとして。特に秘神のやつよ」

 

 地獄、魔界? 秘神? 私には何が何やらさっぱりだった。

 

「まんまとやられたわ。あの日、結界に亀裂を与えたのは——って、やっぱり、予め手を打っていたようね」

「あなたは、いったいどこまで——」

「——ごめんなさいね、時間切れだわ。直に貴方はここのことを忘れてしまうでしょう。今はまだ、少しだけ早かったみたい」

 

 追求しようとしたところで口を人差し指で軽く押さえられる。

 有無を言わせない女性に私は押されているばかりで、何一つ聞き出せない。

 

「——!!」

 

 いいや。彼女は私に何らかの術を施したのだろう。先程から私の口は開かなくなっていた。

 

「次の機会が何時になってしまうか分からないけれど、必ず貴方はここに辿り着くわ。ええ、必ずね」

 

 不意に、女性は私を両手で抱きしめた。そして、耳元で不穏なことを囁く。

 

「それじゃあ、覚悟はいいかしら?」

 

 覚悟? 

 ……は? 

 え、ちょ、まって。

 

「そお~い!!」

「っ~~!?」

 

 いつの間にやら私は身を結界で拘束され、女性にスキマの奥へと放り投げられていた。

 なんと、理不尽な……。

 それでもなんだか憎めず、スキマの中を下へ下へと落ちていきながら女性を見つめる私に、くすりと微笑んで彼女は言った。

 

 

 

 

 

()()()()()()()()

 

 

()()()()()

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人の章:雨乞いの始まり

 ……あれ? 

 わたし、なにをしていたんだっけ? 

 

 視界はどうしてか真っ暗だし、ぐわんぐわんと頭が痛い。けれど、何かに優しく包まれているからなのだろう。体がほんのりと温いし、いい匂いがして心地が良かった。ふと、すんすんと鼻で匂いを嗅ぐと、なんだか紫様がすぐ近くにいるような錯覚を覚えた。

 これではまるで、紫様に抱擁されているような……。

 

 いや、まってまって。()()()()()? 

 

 ……まずは落ち着こう。深呼吸。状況を把握して、冷静にならなくては。

 そうやってしばらくの間、自分の身に起きたことを思い返していると、だんだん冷静になって来るにつれ、自分で自分の顔が青ざめていくのが分かった。

 

 私は今、紫様に抱きかかえられているのだった。

 

 ——えっと、机に突っ伏して眠っていらっしゃった紫様を寝台までお連れして、紫様が寝台でお休みになられたことを確認したところまではちゃんと覚えている。

 だがしかし、その後、急に視界が暗くなってからは記憶がない。何一つ覚えていない。それはつまり、そういうことなのだろう。私は紫様に抱えられたまま、不覚にも眠ってしまったのだ。

 

「(……ひとまずは、ここからぬけだしましょう。けっして、おこしてしまわぬように)」

 

 もぞもぞと身をよじって顔を上げてみると、紫様のお顔が見える。どうやら紫様は、私が一緒に眠ってしまっていたことには気づかれていないご様子。

 ふぅ……。

 

「(な、なにをかんがえているのですか、わたしはっ!? おきていらっしゃらなくて、よ、よかったなどと……)」

 

 気づかれなくて良かったと安心してしまっている自分に罪悪感というか、嫌悪感を覚えた。同時に、ずっとこうしていたいという心地よさを感じてしまっている自分にも。

 これ以上は、いけない。

 いつまでもこうしていたいという欲求に耐えながら、紫様の腕を静かに解き、寝台から離れる。起こしてしまっていないか恐る恐る振り返ってみると、まだまだ紫様がお目覚めになる様子はなく、今は安らかな表情をしている。

 

「(ゆかりさま、かおいろがよくなっていますね……、もしもくるしまれているようでしたら、どうしようかとおもっていましたが……)」

 

 ほっとした。

 ただ、自身の不覚を咎められないことに安堵したのではない。

 もしも、紫様がずっと苦しまれていたのなら、今度こそ不敬を承知で起こすべきかと思っていたのだ。しかしこのご様子ならば、もうしばらくお休みになられていたほうが良い。

 朝食は残念だが、作った私が責任をもって食べよう。

 

「……ん……」

 

 横になったまま軽く身じろぎをした紫様のお口から、少しだけ息が漏れた。呼吸も安定しているご様子だ。少し前までの、あの苦しそうな様子はどこかへ消えていた。

 

「……いましばらくおやすみなさいませ、ゆかりさま」

 

 こうして、普段見ることができないような主の一面を独り占めするのは、一種の罪悪感を覚える。傍に仕えている自分以外、誰も知らない紫様のお姿。恐らく幽々子様や茜様も知らないだろうその一面を、私のような者が見てしまっていいものかという罪悪感だ。

 しかし、いましばらくは許してもらいたいものです。

 こうしてすぐ近くで見守ることを。

 

 私から見た紫様はいつだって格好良かった。

 人間も、妖怪も、果ては神さえも手玉にとって博麗神社近隣の地域から有力な存在を遠ざけ、一つの理想郷を作ろうとするそのお姿

 けっして紫様自らが表舞台に立つことはない。けれど間違いなく、“楽園”はこの御方のお力あってこそ作り上げられるのだと、私は思う。

 

 そんな紫様は弱みなどを一切口にしない。ただひたすらに目的のために突き進んでいるようにも思われる。

 怖く、ないのだろうか? 過去に疑問に思ったことがある。

 自分が突き進むその道が、誤っていたらどうしようかなどと、過去を振り返りになられることはないのだろうか。式神となってまだ間もない頃、私は幽々子様に尋ねた。

 

『紫は、何かにとり憑かれているわ。まるで、自分がそうしなくてはならないと、誰かに命令されているようにね。紫をあそこまで突き動かすものが一体、何なのかまでは分からないけれど』

 

 すると幽々子様は一呼吸おいて。

 

『彼女にとって、未来は“恐怖”足り得ないのよ。むしろ、過去を恐れるあまり、彼女の目は未来しか捉えていないのかもしれない』

 

 ご友人であるからこそなのだろう。幽々子様は、溜息をつきながら言った。私は当時、幽々子様のお言葉の真意が理解できなかった。

 だが、紫様のお顔を見た今ならば、少しだけ意味が分かる気がします。

 我が主も時には、悩み、苦しむ。私が目にしてきたものは所詮、主の一面に過ぎないのだ。紫様がお強く見えるのは、邪魔をする者に弱みを握られぬよう、気丈に振舞っているからなのだ。

 そう、思ったからこそ。

 もっと紫様のことを知りたい。

 もっと、お役に立ちたい。

 

 ……ここには私と紫様だけ。他には誰もいないのです。今、寄り添うことができるのは、私だけなのです。

 

 だから、まだ、もう少しだけ——。

 

 

 

 ******

 

 

 

【長月 三日】

 

 翌日の朝、これから雨乞いの儀式を行うと皆に改めて伝える必要があったから、空を飛んで神社を囲む広大な森を越え、人里へと向かった。

 森は季節と日照りのせいで幾分か見渡しやすくなっているものの、険しいことには変わりなく、神社から歩けば相当な時間がかると思う。

 しかし空を飛んでいる私はそんな道のりを、時間もかからず里の入り口まで辿り着くことができた。

 

「巫女様。遠い所をようこそいらっしゃいました」

「門番の皆さん、こんにちは。今日に限って皆さん総出でお出迎えをしてくれるなんて……一体どうしたんですか?」

「こんにちは……。まあ、今日はちょっとですね……」

 

 いつも私が出入りする門で、“親父”さん——里の皆からそう呼ばれている——は、少し口ごもり、

 

「本当はいつものように巫女様とお話したいところですが、(あっし)は皆を里長の館の前に呼ばなければならないので————すみません、ここで失礼します」

「えぇ、あぁ、ちょっっ」

 

 思わず伸ばした手は、行き先を失ってしまった。軽く挨拶しただけで親父さんがすぐに走って行ってしまったから。

 呆けている私を、他の門番の人達が苦笑しながら中に入れてくれる。既に、門番の皆さんは里長から事情を聞いているんだろう。そうとは言っても、いつもならもっと気軽に私に接してくれるのに、今日の皆はどこか緊張した顔をしていた。

 

「巫女様、どうぞ里の中へお入りください。里長が待っておられます……ご案内しましょう」

「は、はい」

 

 なんか、他人行儀な気がするなぁ。

 いつもはもっと気楽に話しかけてきてくれるのに、今日は冗談一つ言わない。今さっき私に話しかけてくれた人なんて、私のことをいつも肩車して、『見てくれ! 娘ができたみたいだ』なんて揶揄ってくるのに。

 

「里長より、里の者達の前で説明する前に一度、館に立ち寄って欲しいと指示されておりますので」

「里長の館、ですか」

 

 門番の人達の後ろに目をやると、里の寄り合いの場にもなっている、里長の大きな屋敷が建っていた。そこには何度か依頼を受けに行ったことがある。確か屋敷の前は広場になっていて、村の人たちが集まれるようになっていたっけ。

 

「ええっと……それでは私、屋敷の前でお話すればよいのですね」

「はい、そう聞いております」

「あ、あの……」

「ん、どうしましたか? 巫女様」

 

 やっぱりダメ。違和感しかないよ。

 

「皆、いつもみたいに楽に話しかけていいですよ? な、なんか私、不安になっちゃうから……」

 

 普段だらしない人まで身なりをしっかりとしているし、顔が真剣なんだもの。

 特に理由が思いつかなかった私は、気を遣わなくてもいいという意味を込めて言った。けれど、門番さん達はかぶりをふって、

 

「お言葉はありがたいのですがね……、俺たちはあくまでただの門番にすぎませんので、巫女様になれなれしい態度を取るわけにもいかないんですよ、それに——」

 

 こっそり、私の耳元でささやく。

 

「——領主様ん所からお役人が来てる。俺たちがアンタに下手な態度をとりでもしたら、巫女様の立場も危うくなるかもしんねぇ。だからアンタに迷惑を掛けねえように、って皆で決めたんだ」

 

 ここからではお役人様の姿は見えない。ということは、どこかで隠れて私を監視しているか、それともすでに里の広場に行ってしまったかのどちらかになるだろう。

 他の門番の人達と目が合う。

 皆、真剣に私のことを心配してくれていた。

 

「(妖怪との戦の影響が、こんなところにも伝わってきているなんて……。まさか、いや、考えたくはないけれどお役人様が来たということは、私を監視しに来たのかもしれないなぁ……)」

 

 漠然としていた。これまでのように、人里の守護者である私にまでわざわざ目を向けてこないだろうと思っていたから。

 しかし、今回は違う。人間同士の戦ではない分、妖怪との接点の多い私は色々な意味で注目されているようだ。特に、領主様をはじめとした国を治める側に人達からすれば、私という存在はもしかすると“目の上のたんこぶ”ってやつなのかもしれない。

 

「新入り、巫女様を頼むぞ。ご案内して差し上げろ」

「はいっ!!」

 

 門番の人が、そう言った。すると最近門番になったのだろうか、見たことない人が前に出てくるや、私を里長の館まで案内してくれることとなった。

 

「新入りさんですか? よろしくお願いしますね」

「は、はい! よろしくこちらこそお願いしますっ!」

 

 前に立つ彼の身長は高い。自然と、会話するときは私が見上げることになりそうだった。女の中では身長が低い方ではないつもりだったけれど、こうして隣に並ぶと身長の差がよく分かるなぁ。

 萃香お姉ちゃんなら、片手で抱えられそうだね。

 

 ……萃香お姉ちゃん、会いたいなぁ。

 

「巫女様? どうかしましたか?」

「っ!?」

 

 いけないいけない。ついつい気が抜けてしまった。声に出ていなかっただろうか? 領主様のところからお役人が来ていると言うし、迂闊な真似はできない。萃香お姉ちゃんに迷惑がかかるどころか、里の皆にも、そして二代目にも迷惑が掛かってしまう。

 

「な、なんでもないです……。た、ただ、背が大きいなぁって思いましたものでしたから」

「えぇ……? まあ、よく言われます……」

 

 てっきり歩幅が違うから置いて行かれてしまうかと思ったけれど、そんなことはなかった。彼は私のすぐ前に立って、私のことを待っていてくれていた。

 背丈の大きい彼が、私の歩幅に合わせるよう、ゆっくり歩いてくれる。そんな彼の小さな気遣いが嬉しくて、私はこの人が心も体もきっと大きいんだろうなぁ、と温かい気持ちになった。

 お役人様が来ていると聞かされて滅入っていた心が少しだけ安らぐ。

 

「うふふ」

 

 自然と、笑みが口から漏れていた。

 

「へ?」

「いえ、ゆっくり歩いてくれるからついて行きやすいなぁ、っと思って。ありがとうございます。お優しいのですね」

「ああ、そういうことですか。なんだか照れるなぁ……にしても——」

 

 一呼吸置いて、門番の人は何処か遠い所を見るようにして言った。

 少し、彼は溜息をついた。

 

「先輩方はああ仰っていますがね、お役人様は本当のところ、もうすでに広場の方へ行っちまったんです。俺、この目でしっかりと見ていましたから。申し訳ないです、巫女様に変に気を遣わせることになっちまって」

「えっ!? ああ、そうだったんですか!? な、なんだ、私まで緊張していました……」

 

 お役人様方は来て早々に、広場の方へと言ってしまったらしい。緊張していた分、肩から力が抜けていく。

 

「な、な~んだ、緊張して損しました」

「まあ、先輩方も張りつめているんでしょうよ。特に三年前の戦を経験している方々は、お役人様の怖さと恐ろしさってやつをよ~く知っているようですから……」

 

『ああ、三年前の戦といえば』と、青年は思い出すように言う。

 

「さっき巫女様がおっしゃったように俺、この通り体が大きいでしょ? それに力が強かったこともあって、昔から腕っぷしには自身があったんですが、お袋によく言われたんです。『周りに迷惑をかけるな、いつも人様が何を考えているのかを考えなさい』ってね」

「あら、いいお母様ですね」

「いえいえ、昔っから本当に口うるさいんですよ」

 

 口うるさいなんて言っておきながら、彼は笑っている。ああ、きっといい親子なんだろうなぁ、と親子二人並ぶ姿がすぐに思い浮かんだ。

 

「ちょいと昔の話なんですがね」

 

 心優しい門番の青年は言葉を紡ぐ。

 

「俺、この前の戦のとき、すぐに連れていかれそうになっちまったんです。年齢でいえば、まだまだそんな歳ではなかったんですが、体格がよかったものですから……そんな中、お袋は必死になって俺を家の中に隠しました。力じゃもう俺に敵わないってのに、少し腰の曲がった小さな体で、必死になって押さえつけたりして」

 

 声を小さくして、悪戯をしているときみたいに人差し指を口に当て、『ああ、ここだけの話ですよ?』なんて仕草をしている。

 彼よりずいぶんと背の低い私からでは、今、彼がどんな表情をしているのかよく見えない。しかし彼は本当に楽しそうに、そして嬉しそうに言っていた。

 

「お袋は言いました。『いいかい、絶対に外へ出るんじゃないよ。アンタを人殺しにするものか』ってね。……俺は、お袋のあまりの剣幕に何も言えずに、ただ頷くことしかできなかった」

「……」

「……ね? 俺のお袋は本当にもう、口うるさいんですよ。体は巫女様よりうんと小さいのに、敵う気がしません。ありゃもう、鬼より怖いですわ」

「いえいえ。やっぱり、いいお母様じゃないですか」

 

 そう私が言うと、彼は照れながら空を仰ぎ見た。

 

「戦の間、ほとんど外を出歩かなかった俺は、この前の戦のことを全然知らないんです。先輩方は酒に酔った時でも喋ろうとしないし。でもまあ、今はあれで良かったんだと思っていますがね」

「お母様に、感謝しなくちゃですね。『立派な息子さんを育ててくれてありがとう』って。私からも感謝の気持ちを伝えたいくらいです」

「そいつはぁきっと、喜ぶだろうなぁ……」

 

 あれ、どうしてかな。

 

「うふふ、別に今から言いに行ったっていいんですよ?」

「それは俺が叱られるんで、ご遠慮願いますよ……でも、ありがとうございます。巫女様に褒められたなんて知ったら、お袋は飛んで喜びますよ、きっと」

 

 なんのこともない世間話のはずなのに。

 

「あら、お母様、空を飛べるのですか?」

「あははっ、巫女様だって飛べるじゃないですか……それにお袋は飛べません。あくまで例えですよ、例え」

 

 なのに、どうして。

 どうしてこんなにも切ないのだろう。

 理由は、すぐに分かった。

 

「あぁ~、久しぶりに笑った……。こうやって、巫女様とお話しできる機会があって、良かったです」

「——? それはどうして?」

「いやぁ、これが、最後になるかもしれないんです。俺はもう、この村には帰ってこれないかもしれないから」

 

 ああ、そうか。私が感じていた違和感は、“これ”か。

 どうしてこんなにも清々しい顔をしているんだろうなって、話し始めてからずっと気になっていた。

 

「俺、今度の妖怪との戦に、行くことになりました」

 

 そうだ。三年前の戦で見た、たくさんの人達と同じ。

 これから、命を捨てに行くときの顔なんだ。

 

「お袋は止めていたけれど、拒めば、家族の皆に罰が与えられるから」

 

 やめてよ。そんな、顔しないでよ。

 本当は、声を大にして言いたかった。

 

「行くしかないんです。だから、せめてこの里からいなくなって、そのまま死んじまう前に巫女様のお役に立てたらなって、そう思ったんです」

 

 彼は、私と歳が変わらないくらいの若い青年だった。まだ、少年らしいあどけなさが残っていて、余計に胸が詰まるような思いだった。

 私が言えるようなことじゃない。でもこんな若い人が戦に駆り出されるなんて。

 やっぱり、分かっていても間違っていると声を大にして言いたかった。

 けれど。

 

「巫女様が雨乞いをしてくださるとお聞きして、俺たちも、もうひと踏ん張りしようって決めました。俺たちみたいに兵士になる奴らは死ぬかもしれないけど、里を守ることならできる。里の皆は、巫女様のことを応援してます」

 

 言えなかった。

 私は本当に、中途半端に汚れてしまったから。

 

「戦をしたって、生活が楽になるわけじゃない。それなら皆で飢饉を乗り越えて、皆で笑おうじゃないかって」

 

 そう言って、にっこり笑っているだろう彼の顔を見ることもできなかった。

 いいえ。本当は私には見えているの。彼が今、どんな表情をしているのか。

 

「妖怪と交渉して里に食料を分けてくれたのも、巫女様のおかげでしょう? 他の里のやつらだって、本当は、心の奥底で分かっているんですよ。妖怪と戦したってどうしようもないことを——っと、そろそろ着きますね。これ以上は誰かに聞かれちまうかもしれない」

 

 私が里長の屋敷の前に立ったことを確認すると、彼は立ち止まり、

 

「それでは巫女様。どうかお達者で」

 

 一度礼をしてそのまま立ち去った。私は、ほんの少しの間だけどお話した彼の後姿をずっと見つめていた。けっして彼のことを忘れないよう、この目に焼き付けるために。

 

 

「巫女様。ようこそいらしゃいました。こちらからお伺いすることができず、申し訳ありませぬ」

「いえ、里長。これも巫女の勤めにございますから。元より、雨乞いを提案したのは私です。私の口から皆に伝えるのが筋でしょう」

「……巫女様の提案であらせられれば、皆も協力しましょうぞ」

 

 屋敷の中に入ると里長が迎え入れてくれた。

 里長はこの五年で、少しだけ老けた。

 三年前の戦で多くの若者を連れていかれてからというもの、あれだけ勇ましかった里長も相当な衝撃を受けたんだろう。

 無意味な戦でたくさんの人が亡くなって。それに隣の国との緊張は、いくら停戦したとはいえずっと続いたままだから。

 

「この里では飢饉による死者はまだ出ていないが、他の里は酷いことになっているようですな。流行り病までも蔓延しているのだとか……いずれにしても、長くはもちますまい」

「なおさら、私の出番というわけですね」

「しかし、巫女様のお身体は一つのみ。あまりご無理をなさらないようにしてくださいませ」

「お気遣いありがとうございます。けれど、里の一大事に私が黙って休んでいるわけにはいきません。それに、今回は前の戦の時とは違いますから。——博麗には、立派な後継ができました」

 

 里長は『ふむ……』と顎の髭を撫でながら唸った。

 

「二代目というのは、あの娘ですかな」

「ええ、自慢の弟子です。私が離れている間、あの娘ならば必ず里を守ってくれるでしょう」

「先の戦を教訓として、被害を受ける者が少なくなるのならば、死んでいった者達も浮かばれましょうぞ……」

「……はい」

 

 しばしの沈黙。里長は黙祷しているかのように、静かに目を瞑っていた。

 すると、館の外が次第に騒がしくなってきた。里の人達が広場に集まって来たみたいだった。

 

「……さて、そろそろのようですな。ここからは私がご案内しましょう」

「よろしくお願いします」

 

 里長が立ち上がったので、私もそれに続く。里長の館を出て周囲を見渡すと、里のほぼ全員が広場に集まっていて、人だかりができていた。仕事の途中に抜け出してきた人、農作業を終えて戻ってきた人、中には生まれたばかりの赤ん坊を背負っている人までいる。

 

 そんな、皆の視線が私に向いた。彼らの視線には色々な感情が込められていた。

 期待、羨望、怒り、憎しみ、不安、悲しみ。

 人の数だけ、向けられる感情も様々。新入り門番の彼は、皆が私のことを応援してしてくれていると言ってくれたけれど、私は誰からも慕われているわけじゃない。

 門番の人達や、以前神社に来てくれた人たちのように私を慕ってくれている人もいる。だけど、それ以上に妖怪に対して温和な行動をとって来た私に対して、憎しみや懐疑の目を向ける人だっている。

 

 しかし、

 

 だからって目を背けちゃいけない。ちゃんと、前を見る。私がしてきたことから私自身が目を背けてしまえば、もう誰も信じてはくれなくなるから。

 

「それでは、巫女様。お願いいたします」

 

 里長に促されるまま準備された台に登ると、鼓動が高鳴る。やっぱり私、緊張しているのかな。

 けれど深呼吸して、ゆっくり目を開ければほら、いつも通り。

 大丈夫。雨乞いだって、成功させればいい。私なら必ずできる。

 

「皆さん、これから、大事なお話があります——」

 

 人と妖怪と神の共存できる世の中へ。これはその大きな一歩になるに違いない。

 

 だから、

 

 ここで逃げちゃダメなんだ。

 

 

 

 ******

 

 

 

「それで、進捗はいかがでしたか?」

「いやぁ~、やっぱり……そう簡単にはいかなかったなぁ」

 

 夜、神社に戻ってきた私を迎えてくれた二代目。彼女は相変わらず無表情だけれど、なんだかんだいいつつ、私の話を聞いてくれる。

 

 大規模な雨乞いを行うと里の皆に伝えた後、私はそのままの足で里の有志の護衛の人達と一緒に儀式の場へと向かい、実際に雨乞いを行ってきた。

 儀式の場は里から遠く離れていない小さな山。その山は妖怪たちの住処というわけでもなく、里の人達が自由に行き来することができる身近な場所になっている。

 結局、その日のうちに儀式が成功しなかったため、数度に分けて行うこととして今日のところは解散してきたのだ。

 

「なるほど……結局、数度に分けて儀式を行うこととなりましたか。想定通りですね」

「うん、でも、時間がないわ。もっと、早く雨乞いを成功させないと」

「あまり焦っても仕方ありませんよ、巫女様。巫女様は肝心なところでドジを踏む悪癖がありますので」

「ぐふぅっっ!?」

 

 思わぬ不意打ちを食らい、胸を抑える私。一応、私は師匠なんだよ……? 『私だってちゃ~んと考えているよ』という意味を込めて睨んだら、

 

「巫女様が神の声を聞くことができたとしても、神もまた巫女様の声を聞くことができるとは限りません。こちらの声に必ず答えてくれるわけではないのですから、当然のことでしょう。急いては事を仕損じます。慎重に事を進めてもよろしいかと」

「……んむぅ」

 

 正論を叩きつけられてしまった。

 雨乞いも、神様にお祈りをする過程でちゃんとこちらの声が届かないと成功しない。儀式は一方的なものではいけないし、何より神様というものは気まぐれで、いつだってこちらの声を聞いてくれるとは限らないのだ。

 

 だからこそ、私たち博麗の巫女がいるわけでもあるんだけど。

 

「ふぅ……。分かった、分かったよ。貴方の言う通りだわ。ちょっと、里で色々とあったから、私も雨乞いを成功させなくちゃって気を張り過ぎていたかもしれない」

 

 一日経つごとに大きくなる戦の影。今日だって、それを痛感させられた。

 どれだけ急ごうとも、領土全体の規模で雨を降らせるためには、まだまだ時間がかかる。頭では分かっていてもやはり気が急いてしまうのだった。

 そんな私の心の内を悟ったかのように、二代目は言う。

 

「……巫女様、まずは地盤を固めましょう。一度や二度でこの辺り全域に雨を降らせることは難しい。ならば少しずつ種を撒けばよいのです。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、本格的に飢饉による死者が出始めるのはおよそ一カ月後。それまでの間に儀式を成功させれば被害は最小限に抑えられましょう」

「一カ月、か……十分に時間があるようにも思えるけれど。実際はそうでもないんだろうね」

「あくまで目安です。しかし——」

 

 二代目は手元に持っていた湯飲みに口をつけ、一息置いて続ける。

 

「戦の方はもう、いつ始まってもおかしくありません。伊吹が京に行ってしまった今、“鬼”には抑止力となる者がいない上に、奴が帰ってくるには時間がかかるはずです。四天王の内の一人である茨木童子が、京で討たれたとの報告が来ていますから」

「……萃香お姉ちゃんは無事なの?」

「さて、伊吹も討たれたとなれば京は今頃大騒ぎでしょうね。結論から申し上げれば、奴は討たれておりません。奴は今、後始末に追われている。詳しくは、後ほどお話しますが——」

 

『ひとまず話を戻します』と、二代目。

 

「戦が始まれば、犠牲は必ず出ます。鴉天狗の連中が被害を少なくするなどと言っていますが、奴らも戦を挑んできた見せしめに、必ずや数多の兵の命を奪うでしょう。それだけは、巫女様にも覚悟していただきたい。貴方様は人間の味方として、此度の戦に参加しないとご決意なされたのですから」

「……うん。分かった」

 

 真っ直ぐ、私の目を見る二代目は湯飲みをお膳に置く。

 静かな神社には、虫の鳴き声と、私と二代目の息遣いだけが響いた。

 

 ——ぐるるるる。

 

 急に、私のお腹が鳴った。どうやら私のお腹には節操というものがないらしい。

 …………。

 ……恥ずかしい。

 

「夕餉の準備ができております。あまり、遅くなっては巫女様のお体にも障りますゆえ、いただきましょう」

「~~っ!?」

 

 おそるおそる二代目の顔を上目で見てみると、

 

「——ふっ」

 

 二代目が……あの、表情をほとんど変えることのない二代目が笑っていた。なんと、今日はお赤飯を炊かなくちゃいけない。

 でもでも、二代目が初めて笑ったその原因が、私のお腹の虫っていうのもなぁ。

 

「巫女様。そのお顔、傑作でございます」

「む、むぅ~!!」

 

 恥ずかしさのあまり熱くなってきた頬を抑えながら、思う。

 ここ最近、彼女は奪われていた人間性を取り戻してきつつある。

 少し前までは冗談一ついわない堅物で、目つきは冷めきっていたし(主に私の失態の所為)、表情もほとんど変化がなかった。それが今、こうやって笑うことができるようになってきたのだ。きっと、これは彼女自身の努力の成果なのだろう。

 

「(最近はつらいことばっかりだったけど、嬉しいこともあるもんだね)」

 

 二代目との夕食は静かに、和やかに終わった。

 

 食後、二代目は『明日には妖怪を退治しに遠出をいたしますので』と言って早々に寝に行ってしまったので、私は一人、物思いに耽っていた。

 今日一日を通して、ふと思うことがあったのだ。

 

「(振り返ってみると、私は本当に、恵まれている……)」

 

 何も知らず野に生きていたときに、ばったり萃香お姉ちゃんに出会うことができたこと。未熟だった私に紫ちゃんや茜ちゃんといった妖怪達が手を貸してくれたこと。器が広くて優しい心の持ち主がたくさんいる、あの人里の皆に、巫女になってほしいと頼まれたこと。

 そして、こんな私を師として敬ってくれる、博麗の後継者が現れてくれたこと。

 

 昔、愚かな失敗をしてしまった私に、『恵まれているから、誰かを助けようと思えるのよ』と紫ちゃんが言った。当時の私は惨めな思いをしただけだったけど、今なら素直に『その通りだ』と思える。

 

「(だからこそ)」

 

 お腹が減ると、人は余裕を失って、余裕を失った人々はやがて戦に身を投じていく。そして、戦によって田畑は荒れていき、また、お腹を減らした人々が生まれていくのだ。

 この負の連鎖を完全に断ち切ることは難しく、私一人でどうにかできるものではない。そう、私のように恵まれている者ばかりじゃないのだから。

 実質、今の私にできることは雨乞いだけ。しかし飢饉による被害を少なくできるよう、ほんの少しの手伝いしかできないと思うと、それだけで歯痒くなってくるのも確かだった。

 

「ままならないものだよね……」

 

 これ以上は泥沼に嵌まっていく気がして、お茶を一飲み。すると今、隣には誰もおらず、自分が一人きりで縁側に座っているのだと改めて感じさせられた。

 そういえば夜、こうやって縁側に一人の時間を過ごすのにも慣れちゃったなぁ。少し前までは、萃香お姉ちゃんが隣で寝ころびながら私の愚痴を聞いてくれたのに。

 

 巫女になった当初は何もかもが初めて尽くしで、不満なんか口にする余裕もなかった。けれど少しずつ巫女としての仕事に慣れてくるにつれ、自分のやり方や、国の在り方に疑問を覚えるようにもなった。そんな私の小さな不満に耳を傾けながら、『あははっ、アンタってば、本当に馬鹿だねぇ~!!』なんて言って笑い飛ばしてくれた。

 日に日に変わってしまう私を、萃香お姉ちゃんは咎めることもなく、受け止めてくれた。

 そんな彼女に、どれだけ救われたことか。

 

 今から思うと、萃香お姉ちゃんに会った頃の私は本当に何も知らなかったのだ。

 ただ、こうしなくちゃいけないという、心の声に突き動かされていただけで私は生きていた。

 最近は、めっきり聞こえなくなってしまったけれど。

 

「ふぅ」

 

 そろそろ寝ようかと縁側を発って寝室まで歩き、襖の前に立ったところで、ふと萃香お姉ちゃんの寝息が聞こえたような気がした。だらしくなく布団もかけずに手足を伸ばしているいつもの光景が、ありありと思い浮かんだ。

 

「(ま、まさか……ね)」

 

 おそるおそる襖を開けてみると、やっぱり、彼女はそこにいなかった。しかし、妙に布団が膨らんでいるような気がしないでもない。

 

「(あれ……?)」

 

 布団を少しめくると、予想外なことに、二代目が丸くなって寝ていた。疲れて、寝る場所を間違えたのだろうかと思っていた私に、

 

「……ん、巫女……様……」

 

 どうやら寝ぼけているようで、よく聞き取れない寝言を言いながら腰に抱き着いてくる二代目。『なんだか寒い冬の日の猫みたいだね』なんて思いながら私は苦笑し、彼女の背中に腕をまわし起こさないように抱き上げて、布団に横になった。

 

 ……翌日の朝、二代目の顔が少し赤かったのは、また別の話。

 

 

 

 ******

 

 

 

【長月 二十一日】

 

「護衛?」

 

 儀式を始めてから十八日後の朝。早くから来客があって珍しいなと思っていたら、お侍様が来ていた。領主様が私のする雨乞いが無事に成功するようにと、護衛をつけてくれることになったみたい。これまでお役人様から護衛を送るなんてお話を、聞いたこともなかったけど。急にどうして? 

 少し変だなと思いながらも、お侍様たちを神社の中に通す。

 

「どうぞ、中へ」

「これはこれは。どうも失礼いたしますぞ、巫女様」

「いえいえ、何にもない神社ですが、わざわざご足労いただきありがとうございます。まさか私にまで護衛をくださるとは思ってもいなかったもので」

「驚くのも、もっともでございますな。我々も通達されたのは本日未明でございますれば」

 

 そう言って微笑みかけてきたのは初老にかかろうかという灰色の髭を蓄えた男性。穏やかな見た目だけど目つきは武人のそれだと思う。後ろにあと五人、お侍様が控えているものの、きっとこの男の人が一番偉いんだろう。恰好と風格が他のお侍様達とは違った。

 

「領主様は、巫女様の雨乞いを支持しております。よって我々は巫女様の護衛を務めさせていただき、儀式を無事に終えられるようにと」

「それは大変ありがたいことです。儀式中はどうしても無防備になってしまうので」

「そうでございましたか。我らが主の懸念は正しかったようですな。この身を挺して貴方様をお守りさせていただきましょう」

 

 ——ん? 瞬だけど、隊長さんの目が揺れたような。揺れるっていうのも違うか。何かはっきりとしていなかったものに、確信をもったみたいな感じ。

 特にこれといった理由はなく、私は気になった。

 

「懸念、とは?」

「いくら妖怪の住処でない山であるとしても、いつ妖怪達が巫女様を襲うか分かりません。我らが主は巫女様の身を案じておるのです。巫女様の御力あってこそ、この国は飢饉を乗り越えられるですから、万全を期すのは至極当然でありましょう」

 

 ありがたいことなのは間違ない。

 私はそれ以上追求しないことにした。

 

「これまでは里の有志が巫女様の護衛をしていたと聞き及んでおりますが、我々が来ましたからには彼らには里の警護に戻ってもらうこととします。よろしいですかな?」

「は、はい」

「それでは、我々は外で待っておりますゆえ、準備ができ次第、声をかけてください」

 

 そう言って、神社から出ていくお侍様達。有無を言わさぬような物言いだったから、少し怖かった。恰好もだけど、纏っている雰囲気が張りつめているから、やっぱりお侍様って怖いなぁ、なんて私は思っていた。

 ふと、

 

「……行かれるのですか?」

 

 ぼんやりしていた私に、後ろから声をかける二代目。

 どうしてだろう。二代目にしては珍しく、不安そうな声色だった。

 

「当然。毎日やらなくちゃ、意味がないでしょ?」

 

 以前二代目が言ったように、広域に雨を降らせるのならば継続して雨乞いを行う必要がある。一日たりとも休んではならないし、一日の大半を儀式に費やさなければならない。

 

「しかし、なぜでしょうか。胸騒ぎがするのです」

「胸騒ぎって貴方……」

 

 胸に手を当てる二代目。

 何だってこんな時に不穏なことを言うのだろうか。

 

「私は、巫女様の身を第一に考えます。二カ月の間、継続して儀式を行うよう提案したのも、巫女様の身を案じたゆえでございますので。しかし、これでは……」

 

 そうか、領地全土に式神を放している二代目は、領主様が私のことを良く思っていないという噂を耳にしていてもおかしくない。だから今回、護衛をつけてきたことがきな臭いと考えているんだろう。

 

「やはり、伊吹が帰って来てから奴の手を借りるという手もございます。今日は神がお怒りになられているという偽りをあの侍達に伝え、早々に引き取ってもらってからでも——」

 

 いや、違う。それだけではない。きっとこの娘は、三年前の戦のことを思い出しているんだ。武装した、お侍様達の姿を見て。

 

「——()()()

「っ!!」

 

 心配性な愛弟子の真名を呼び、私は彼女を落ち着かせるよう抱きしめた。

 彼女は微かに、震えているようだった。

 

「あの人たちは、戦の折、貴方に乱暴をした侍達とは違うわ」

「はい……」

「貴方の言う通り、これは罠かもしれない。でも拒めば必ず怪しまれる。萃香お姉ちゃんの手を借りるにしろ、ぼろが出る可能性が高い。貴方にしては、少し短慮じゃないかしら」

「……」

 

 ただし、この娘が不安を覚えているということだけは胸の内に置いておこう。私も、あのお侍様達がこの機会に護衛として遣わされたとは思っていない。まず裏があるとみていい。

 どちらにせよ油断しないに越したことはないのだから。

 

「それに大丈夫。私の身に何かあったとしても、この博麗神社には、頼れる二代目がいるじゃない」

「しかし」

「未熟者。たまには師匠のことを信じてよ。絶対に、雨乞いを成功させて見せるから」

 

 私はそう告げ、名残惜しそうな二代目を離して草履を履く。

 

「行ってきます」

「……どうかご無事で」

 

 私は何も言わない。前を見据えて、神社の鳥居をくぐる。

 

「お待たせしました。博麗の巫女、準備が整いました」

 

 

 十九日目の雨乞いが始まった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話:二代目の手記

閑話とは銘打っておりますが、本編に深く関与する内容となっています。


『二代目博麗巫女の手記が発見される?』

 

 人里の貸本屋、『鈴奈庵』に二代目博麗の巫女の手記が保管されていたことがつい最近になって発覚した。九代目御阿礼の子、稗田阿求氏が発見し、即時購入したため現在は稗田家に保管されている。

 大半の内容はとるに足らないような日々の日記となっているが、ただでさえ記録の少ない“空白の五百年”の、それも幻想郷創立期に書かれた書物の歴史的価値は高く、実際に有益な情報も多く記載されていた。

 

 なかでも、幻想郷創立のきっかけとなった大飢饉については、これまでの歴史家たちの認識を大きく改めることとなった。幻想郷が博麗大結界に覆われる以前、人里は当時この辺りを統治していた領主が治めていたこととなっているが、その人里と領主の間には溝があったという説が再び浮上してきているのだ。

 

 博麗の巫女が古くから人里と密接に関わってきたことについては、ほぼ疑いようのない事実と言えよう。そして二代目の手記からは、なんと博麗の巫女と領主との対立をうかがわせるような内容が含まれていたのだ。すなわち、大飢饉において領主側と人里側に大きな溝があったということになる。

 

 大飢饉において領主の要請に従い、妖怪に立ち向かうべく人里から多くの兵が集まったという公にされていた記録と矛盾していたことから、これまで前述の博麗の巫女と領主が不仲である説は否定的な意見が多かった。

 しかし今回の発見で、いかにして当時の領主が人里から兵を集めたのか、その真相が明らかになりつつある。

 現在検証を行っている歴史家のうちの一人、寺小屋の教師兼、幻想郷の歴史の編纂家、上白沢慧音氏は記者にこう語っている。

 

『この発見を耳にしたとき、正直に言いますと私は童子のように夜も眠れなくなりました。なにせ、これまで謎に包まれていた幻想郷創立期の歴史が紐解かれただけでなく、二代目博麗の巫女の人物像の一端が明らかになったのです。ただ今、検証中である故、詳しくは申し上げられませんがこれから歴史的解釈は大きく変動するといって過言ではないでしょう。また、手記の後半は初代博麗の巫女の様子について多く書かれており、二代目博麗の巫女がそれだけ初代を慕っていたのかが良く分かる内容であったと思われます』

 

 記者は現在、当代博麗の巫女、博麗霊夢氏にこの発見について直接取材を検討しているところであるが、取材拒否を受けている。果たして霊夢氏による取材拒否は、博麗の巫女による歴史の隠蔽なのか、謎は深まるばかりである。継続して取材を続けていきたい。

 

 また、下に付記したのは大変貴重な二代目博麗の巫女の手記の一部公開された部分を記者が抜粋したものである。なお、手記は幻想郷創立前年の頃に書かれたものだと考えられている。

 

 

【長月 三日 晴天】

 

 今日は巫女様にとって雨乞いの儀式の初日となる。あの方がやると言った以上、そう簡単には諦めないだろう。私がいくら説得しようとて、引き下がるおつもりはないにちがいない。はたしてこの選択が正しかったのか、誤っていたのか。正直、分からない。

 あの鬼ならば何と言ったのだろう。非常に不愉快だが、あの小鬼めは私よりも巫女様のことをずっとよく知っている。はたして、私とはまた違った答えを出していたのだろうか? 何はともあれ、こんなときに限って巫女様の傍にいないあの小鬼にはいつか痛い目にあわせてやろうと思う。

 

 

【長月 四日 晴天】

 

 昨夜は失態を犯してしまった。しばらく滝に打たれて精神修行をしようと思う。いくら眠かったとはいえ、寝所を間違えるなど——

 

 この後の記述は文字がひどく荒れ、判読不能。

 

 

【長月 六日 曇天】

 

 流石は巫女様である。雨乞いの儀式の結果であろうか、多くの里周辺の上空に、雲がかかり始めてきていた。肌を突き刺すように強かった日の光は遮られ、少しだけ過ごしやすい気候になったようにも思われる。これでもう少し湿気が増え、ゆくゆくは雨にまで変わりゆけばいいのだが、それはどう考えても楽観だろう。簡単には雨が降るわけがない。

 だが、小さくとも確かな前進であると思う。このまま何事もなければいいのだが。

 

 

【長月 十日 晴天】

 

 巫女様の体力の消費が激しい。そもそも雨乞いは非常に体力を消費するものである。連日の儀式のためにも、精のつくものをお出ししようとはしているのだが、この食糧難で十分なお食事を提供することができない。無念である。

 あの方は笑って気にしないで欲しいとおっしゃっていたが、私の心内は晴れなかった。食料調達にもっと力を入れるべきかもしれない。

 私が持ちうる全てをもって、巫女様のお身体を労わらねば。

 

 

【長月 十二日 曇天】

 

 里の者達の中から、何人かが戦へと駆り出されていった。近いうちに妖怪の山に対して攻撃を仕掛けるらしい。巫女様はこのことに大層焦っていらっしゃった。それもそのはずであろう。巫女様は私なぞよりも人里の行く末を案じておられる。

 かくいう私自身も、人里のことが気になってならない。戦がいつ始まるか分からないとは申し上げたものの、ことが急なような気もしたからである。妖怪達が何らかの動きを見せたところで領主様は攻撃を始めるかと思っていたのだが、まさか先手を取るおつもりなのだろうか。

 やけに戦備えが早かったのも不気味だった。

 

 

【長月 十五日 曇天】

 

 まだ、戦は始まっていない。すでに陣を展開し山を包囲しており、戦はいつ始まってもおかしくないのは変わらないだのが、領主様は一体何をお考えなのだろうか。

 巫女様も少々疑っておられる。何か決定的な機会を待っているのかもしれないと巫女様は仰っていた。ただでさえ此度の飢饉は妖怪によるものだという噂によって、人間と妖怪の間の溝が深まっているというのに、これ以上戦の理由を待つ必要などあるのだろうか。

 

 

【長月 十八日 曇天】

 

 何か、おかしい。

 言いようのない胸のざわつきは一体何なのだろう。

 儀式は着々と進行しているはずである。だが周囲の空気がおかしい気もするのだ。領主様が派遣した役人の動向について、注視する必要があるだろう。

 都に展開した式を一度、手元に戻す必要があるかもしれない。巫女様の周囲に展開する式の数を増やすべきであろう。

 

 

【長月 二十日 曇天】

 

 最近、曇天が多くなった。これは巫女様の雨乞いと無関係ではない。確実に、雨乞いの儀式は成功へ向かっていると思う。

 だが、胸騒ぎがするのは相変わらずである。雨乞いの儀式が成功に向かうにつれ、領主様が里に送って来る役人の数が増え、まるで進捗に合わせて戦備えを進めているようにすら思える。今日も役人たちが私達博麗の巫女に向ける視線に、うすら寒い感覚を覚えた。

 

 

【長月 二十一日 晴天】

 

 侍たちと雨乞いの儀式へ向かった巫女様は、無事に帰ってきてくださった。道中のお話を聞くと、特に気になるような点はなかったとおっしゃっていたが、やはり気の知れた里の者達とは違って気まずいらしい。思わず朝から張りつめていた肩の力が抜けてしまった。

 散々心配した私の方が阿呆であったのだろうか。

 

 

【長月 二十四日 曇天】

 

 儀式もいよいよ終盤へと近づいてきている。巫女様は近日中に儀式が成功するとはりきっておっしゃっていた。とはいえ、頬を粥で膨らませたまま喋ろうとしないでいただきたい。

 さて、あの侍たちがどうしてこの里にやってきて巫女様の護衛を買って出てきたのか、とうとう目的が分からなくなってきた。様子を見て油断するところを狙っているのか、それとも彼らは純粋に護衛のためだけで来ているのか。

 とにもかくにも、もうしばらくは様子を見ておこう。

 

 

【長月 二十六日 曇天】

 

 式から、あの小鬼がそろそろこの里に帰って来るとの知らせが来た。このことを巫女様にお伝えるべきか迷ったが、結局お伝えすることとした。

 予想通り、巫女様は大変上機嫌であった。確かに、儀式が成功間近ということもあって、お気持ちにも余裕が生まれてくるのだろう。明日からは二日間の泊りがけで、儀式を成功させて来ると張り切っていらっしゃった。

 あまり張り切り過ぎないよう申し上げたが、果たしてちゃんとお聞きになっているか。私から継続した雨乞いを提案してしまった手前、強くは反対できないがなんとも言い難い気分にさせられてしまった。

 

 

【長月 二十七日 晴天、後曇天】

 

 今晩は巫女様がいらっしゃらない。それだけに神社の中が寒く感じた。大変情けないが、私は一人を好まない性格らしい。

 不安もあるが、今は巫女様を信じるしかないだろう。私は無事を願うばかりである。

 

 

【長月 二十九日 曇天】

 

 巫女様がお帰りにならなかった。式からも何の連絡もない。そして、護衛についていた侍たちも帰ってきていない。儀式が長引いてしまっているのか、それとも帰りの道中で何かあったのだろうか。

 現在も領地に放った式たちを呼び寄せて捜索させているがまだ見つかっていない。本当は私自ら巫女様を探したいのだが、里のこともある。私はここから離れてはならないのだ。

 悔しいが、ここは式に任せるしかない。

 

 

 ——翌日かと考えられている日の部分はちぎられており、解読不能。手記はここで途絶えている。

 この日がちょうど幻想郷創立一年前の時期と重なるため、歴史家たちの間で様々は憶測が飛び交っているとのことである。謎に満ちた歴史が紐解かれる日は、そう遠くないのかもしれない。

 

 

 ——射命丸文編 文々丸。新聞より抜粋。

 

 

 

 ******

 

 

 

「やあ、文。急に呼び出したりして、一体どうしたのだ? お前からなど珍しい」

「ああ、丁度いい所で来ましたね。見てくださいよ、『文々。新聞』の最新号です。つい先ほど完成しました」

「ん? それか……どれどれ——」

 

 九つの尻尾を揺らしながら、久々に旧友の元へとやって来た八雲の従者。

 二人の交友も、思えば千年近いものとなる。

 

「なんだ、これはあの大飢饉のときの話じゃないか。確か、最近鈴奈庵で見つかったという報告が私の元に来ていたな」

「ええ、二代目と大変仲がよろしかった貴方なら、この手記、一度は目を通しておきたいのではないのですか?」

「なっ!?」

 

 瞬間、藍の頭からぼふんと湯気が上がり、みるみるうちに顔が赤くなっていった。

 彼女のトレードマークとも言える身体の一部が、ものすごい勢いで左右に揺れている。

 それはもう、残像が見えるくらいに。

 

「ちょ……ちょ、おま——」

「おやぁ~、どうしたんですかねぇ? どうやら顔が赤いようですが、やっぱり図星だったりしますぅ~?」

「くっ……」

 

 にやにやといやらしく口元を歪めながら、鴉天狗は九尾を前にして言う。今度は尻尾の動きに連動して、狐耳までもせわしなくなってきた。

 九尾を翻弄する鴉天狗とは、何とも珍妙な光景である。

 

「あ~、でもですねぇ~。手記は大変貴重な資料ということで一般には公開されていないんですよねぇ。特に稗田家に保管されている以上、たとえ八雲の従者とはいえ、そう簡単にはお目にかかれないのではないでしょうか……?」

「うぐっ……」

 

 また友人の悪い癖が出たと、藍は口元をひきつらせた。

 いつだって藍は文に上手くやり込められて来た。交渉事となれば軍配は彼女に上がる。抵抗しても余計に墓穴を踏むことになるのは確実であろう。

 もはやお手上げだと降参し、溜息をつきながら藍は答えた。

 

「の、望みはなんだ……? そんなに無茶な要望は聞き入れられないからな」

「いえいえ、私だってそれぐらいわきまえているつもりです」

 

『そんなわけあるか!』と、心の中でツッコミを入れる藍。これまでの彼女の所業を鑑みれば、どうなったところで信じられるものではない。

 しかし、これまでのへらへらとした様子から一変して、文の顔は真剣なものになった。大抵ふざけた後に真面目な話を持ち出すのが彼女の妙な癖である。どうしたものかと藍が話の続きを促せば、

 

「霊夢さんに取材、というか単純に私の興味もありますがお話を聞きたいんですよ。藍からお話をつけていただきたいのです」

 

 彼女が要求したのは博麗霊夢に対する面会であった。

 

「霊夢、にか?」

「ええ、我々も当事者であったとはいえ、幼すぎました。昨日のことのように覚えているこの記憶だって、歴史のごく一面に過ぎないのです。寿命という概念がない我々でも、人間が書き残した歴史書から学ぶものは多いでしょう?」

「ふむ……だが、たとえ霊夢が承諾し、お前の取材とやらを受けたとして、霊夢が何かを知っているとは限らんだろう。博麗神社にお眼鏡にかなうようなものがあるとは思えないが……?」

 

 藍の問いに、『いいえ』と文は答えた。

 

「私は記事に事実しか書きません。この意味が貴方なら分かるはずです。それに、例え霊夢さんがこの件に真相を知らなかったのだとしても、彼女の勘で、誰が今回の発見に一枚噛んでいるのかは分かるのではないでしょうか?」

「なるほど、その線は確かになくもない」

「ええ、“なくもない”のですよ」

 

 仕事机に向き合っていた文は椅子から立ち上がり、藍の方へと歩いていく。そしてすぐ目の前まで近づき、真っ直ぐに藍の目を見つめた。

 今の文はただの記者ではない。あの鴉天狗の娘として、藍に問うていた。

 

「博麗の巫女に関して、あらゆる情報はこれまでまったく出回っていなかった。つまり、今回の発見は何者かが意図的に漏らした可能性があります。そう、何者かが」

 

 対して境界の妖怪の従者、八雲藍は何も言わない。しかし沈黙は是を意味していた。

 

「藍、貴方だからこそ私は頼むんですよ。内容によっては記事にもしません。ですから——」

「私が、その“何者”に該当するとは考えなかったのか?」

 

 文の目を睨みながら口を開く藍。

 

「文、お前にしては少々、強引ではないか? 普段ならば、もっと慎重に事を進めるはずだ」

 

 今の彼女の顔からは、なんの感情も読み取れない。ただ、声は少し硬くなっていた。この微妙な変化に気づくことができるのは、長年彼女と付き合っているものしかいないだろう。

 それゆえ、

 

「……藍、なぜ母様があのような選択をなさったのか、今でも私は分からないのです……大結界騒動の折、明らかに母様の行動はおかしかった」

 

 文はこれまでずっと胸に燻っていた感情を吐露する。

 

「きっかけに、博麗の巫女が絡んでいるのではないでしょうか? この地の記憶は、表から裏まで、すべては博麗の巫女へと収束する。なぜなら博麗の巫女の歴史は、この地の創設者たる貴方々『八雲』の歴史そのものなのですから」

「あの騒動から元を辿れば、幻想郷創立時まで行きついたといったところか?」

「……」

 

 無言で頷く文に、藍は納得した様子でその溜息をついた。そしてすらりとした指先を眉間にやり、ゆっくりもみほぐす。

 気苦労が絶えないせいか、やけに様になった仕草であった。

 

「私が今回の件に絡んでいようと、いまいとお構いなしということか」

「ええ、でも貴方が二代目の手記を目にしたいと心の底から願っていることは一目でわかりましたよ」

「——え?」

 

 突然のことに、呆ける藍。

 途端、神妙な空気は雲散した。

 

「友ならば、分かって当然です。……いや、そうでなくとも藍は結構分かりやすいと思いますが」

「ど、どういうことだっ!?」

 

 さきほど尻尾がもふん、もふんと揺れていたのだから、察しがよほど悪くなければ理由などすぐに思い当たるだろう。『尻尾は正直ですね』という言葉を、文はおくびにも出さずに飲み込んだ。

 

「貴方の立場も分かっているつもりですから、無理にとは言いません。しかし考えておいてもらいたいのです」

「……やれやれ、お前にも困ったものだ」

 

 外の様子を窺えば、日が傾き薄暗くなってきていた。山はすぐに暗くなる。もうしばらくすれば辺りは真っ暗になるだろう。

 藍はそうやって意識を外に向けることで、自らの心境を文に悟られぬようにした。

 

 八雲紫の従者として、いくら友からのお願いとはいえ分水嶺というものがある。

 

 正直、呼ばれた時点で彼女が自分に何を求めているのか察しがついていたし、応じないという選択肢はなかった。自分も当時のことについては知らない部分が多いうえに、なにより二代目の手記というのは気になる。

 だが、主たる八雲紫が何をもって手記の開示に踏み切ったのか、その真意が分からない。ことによっては文に協力できないかもしれないのだ。

 

「(紫様と霊夢のことについて、そろそろ文にも隠し通せなくなってきたしな)」

 

 藍はもう一度外に目をやり、深く溜息をついた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人の章:雨音来たれども

【長月 二十九日 深夜】

 

 騒がしいほどの虫の鳴き声が響く博麗神社。頼りないロウソクの光で照らすことができる範囲など、たかが知れており、部屋は少し距離を置くと顔をかろうじて認識できるかというほどに薄暗い。

 そして部屋が、空が暗いのには理由があった。

 

 この国に久方ぶりの()()()()()()()

 

 しとしとと地面を濡らす雨。雨が降ったことを歓喜するように木々は大きく葉を広げ、全身で受け止めながらみずみずしい音を立てている。そして、境内には大きな水たまりが幾つもできていた。

 乾いた大地に、潤いがやってきた。

 

「おい、急に呼び出したりして、一体どういうことだ……?」

 

 畳の上で正座したまま動かない二代目博麗の巫女の背後から、殺気混じりの幼い声がする。普段の天真爛漫な姿の彼女を知っている者からすれば、驚くほどにその声は冷めきっていた。

 

「説明しろ。雨乞いが成功したっていうのに、なんでここにアイツがいない?」

 

 彼女は伊吹萃香。妖怪の山の四天王の一角にして、博麗の巫女の友。

 萃香は二代目博麗の巫女の急な知らせを受け、京から飛んで帰ってきていた。

 細く艶やかな栗色の髪が今は雨に濡れて乱れ、大きな目の下には隈までつくっているところから、彼女がどれだけ憔悴しきっているのかが分かる。

 

「……なんか言えよ」

 

 萃香の問いに二代目は答えない。振り返る素振りすら見せず、正座したまま微塵も動かなかった。

 

「おい——」

 

 なんの反応も見せない二代目に萃香はとうとうしびれを切らし、

 

「アイツが帰ってこないって……どういうことだ……? 聞いているのかっ? 私は今、お前に聞いているんだよっ!!」

 

 彼女の肩を引っ張り、自分の方へ向き直らせると、絶句した。

 

「——っ」

 

 二代目が、涙を流していた。

 初めて会ったときから人形のように表情を変えることなく、常に冷たい瞳で己を見つめていたあの二代目が、である。

 彼女は下唇を噛み締め、必死に嗚咽を抑え、涙をこらえようとしながら、震える手で萃香によれた白い紙を渡す。

 

 それは幾つものしみができていて、湿っていた。

 そして、軽かった。

 当然である。

 包みを開けば、入っていたのは一束の髪の毛だけなのだから。

 

 この黒髪は、誰のものなのか。そのような疑問はすぐに消える。

 かすかに感じる甘い匂い。そして何度も触れるうちに、何時かおぼえた絹のような手触り。

 問うまでもなく、萃香は察してしまった。

 単なる自分の勘違いであって欲しかった。だが、己の手に握られた数束の髪の毛は萃香に現実を突きつける。

 

「これは、いつ渡された?」

「……、今日の午後」

「これしか、返ってこなかったのか?」

「いいや。確認はできていないが、御体は今、里長の屋敷に」

「そうか……」

 

 萃香は大きく息を吸った。彼女なりに冷静になろうとしたのだ。

 だが、意味がなかった。あるわけがなかった。

 包みを握る萃香の手には静かに力が籠っていく。同時に、血の気が失せていった。

 

「確認してくる」

「……お前が行けば騒ぎになるぞ」

「——頭にドでかい風穴を開けられたくなきゃ、止めてくれるな」

 

 萃香の怒気のこもった声に、部屋の空気が軋み、ロウソクの火が風でなびく。いつの間にか、周囲から生き物の気配が消えていた。萃香の気に当てられて、何処かに息を潜めているのだろう。

 練り上げられた闘気は萃香の身体からゆらゆらと炎のように燃え上がっていた。

 しんと静まった部屋で、二代目は立ち上がる。

 

「……卑怯だ、お前は——」

 

 萃香の肩を掴む。

 血の気の失せた白く細い手だった。しかし萃香はその場から動けなかった。

 

「今だから、正直に話そう」

 

 それは、これまで語られることのなかった彼女の独白であったから。

 

「私は、お前が羨ましかった……。理不尽を打ち破ることができて、自分の思ったように生きていけるお前のことが、昔から大嫌いだったよ」

 

 ぎりぎりと、腕に血管が浮き出るほどに籠められた力が強まっていった。

 

「……私だって、巫女様の元へ行けるものなら行きたい。今だって信じられないんだ。こんな紙切れ一つ渡されただけで、信じられるとも? だというのに、私が今ここにいる理由くらい、お前ならば分かるはずだ」

 

 肩から手を離す。

 そして膝から崩れ落ち、顔を手で覆う二代目。

 

「私は、今やこの世界でただ一人の博麗。二代目“博麗の巫女”なんだよ」

 

 彼女の瞳は揺れ、平時のような毅然とした姿は最早、面影すら残っていない。自身を“博麗の巫女”だと彼女は述べたが、そこにいるのは“二代目博麗の巫女”ではなく、ただの齢十六の少女に過ぎなかった。

 

「だから私は、お前を止めなくてはならない」

 

 しかし、事実として彼女はただの“少女”と異なっていた。彼女は、その身に人間を越えた力、神通力を宿していたのだ。

 

「人里の守り手として、鬼であるお前を人里の中にいれるわけにはいかない。そして、お前がこれからやろうとしていることを、止めなくてはならないのだ」

 

 いつの間にか、二代目の両手には退魔の札が握られていた。

 反応すらさせない。ゆえに避けることなど不可能。

 瞬間、萃香の身体が九の字に曲がり、遥か後方へ吹き飛んだ。

 

 神社の境内へ投げ出された萃香は空中で態勢を立て直し、右手をついて着地する。ぬかるんだ地面が勢いを殺し、辛うじて後方の大木をへし折るには至らなかった。萃香は口元の血を、左手で拭った。

 人間の身体でいうところ肝臓の辺りにねじ込まれた一撃は、鬼である萃香の身体を穿ち、腹部を中心に大きな裂傷を与えた。驚異的な再生能力をもつため、すぐさま傷跡は消えていくが身体の臓器に与えられた衝撃は後からじわじわと萃香の臓器を蝕む。

 

「ゴホッ……」

 

 血を吐きながら雨で濡れた萃香はゆらりと立ち上がった。

 口元に付着した血を拭いながらも、萃香の視線は真っ直ぐ二代目博麗の巫女へと向かっていた。

 

「そうか……、これがお前さんの答えか」

 

 彼女は、二代目の一撃を敢えてくらった。彼女が取る行動は予期していたものであったからである。

 もとより、萃香と二代目は仲が悪かった。間に初代がいたからこそ二人は対立しつつも、命の奪い合いにまでは発展しなかった。だが、初代のいない今、彼女たちの間に立つ者はいない。

 となれば、これから起きる未来も分かったようなもの。二人が衝突することは明白であった。

 

「アンタ……元々、この世の全てが憎かった質だろう? その目は、そういう奴等がする目だ」

 

 言葉を皮切りに、二代目の眼光が紅く光る。今の二代目はおよそ人間がしてはならないような形相を浮かべており、例えるならば、鬼人のそれとでも言うべきか。

 

「……侍どものことを、大層嫌っていると見た。それなのに、どうして——」

 

 萃香は続く言葉を発することができなかった。次の瞬間、間合いを詰めた二代目が萃香の顔面に膝を入れていたのだ。

 が、萃香は体勢を崩さない。慣性などまるで無視したかのような一撃に怯む様子すら見せず、二代目の胸倉を掴んだ。

 そして余裕たっぷりに笑う萃香。

 

「ほうら、図星だ。お前はそのご自慢の鉄仮面で隠していたつもりだろうが、無駄なんだよっ!!」

「かは」

 

 地面にたたきつけられ血を吐く二代目。この時点で形勢は完全に逆転した。

 初撃を与えたという点では二代目が有利であるかのようにも見えた。だがそれは否。萃香が手を抜いていたにすぎないのだ。

 

「おら、どうした? こんなもんか? いつものお前なら、私の腕の一本や二本、吹っ飛ばすのだってわけないだろう?」

「……」

 

 二代目の唇が僅かに動く。

 

「っ!?」

 

 見逃してしまうだろうその行為に、萃香は紙一重で気づいた。すぐさま手を離し後方に飛ぶと、

 

 ——ずるり。

 

 萃香が先程までいた位置に、空間の亀裂が生じた。あの亀裂に捕まったら最後、問答無用で真っ二つにされてしまっていたに違いない。

 

「(はっ、いつぞや紫がやってきたのと同じやつか……、とっ!?)」

 

 息をつかせる間もなく足元が爆発する。見れば二代目の手には起爆の印が記された札が無数握られていた。

 それだけではない。

 萃香は、自分の周囲を無数の式紙が囲んでいることに気づいている。はじめから、この神社に己が来たときから二代目の方もこうなることを予期していたのだ。

 

「はんっ、お互い様ってやつか。だが舐められたもんだ。私を止めるにゃ、これだけじゃ不十分。本気ならあの剣士か、天狗のとこの頭か、紫を呼ぶんだったね」

「何を——」

 

 萃香の身体が霧となる。

 二代目は背筋に悪寒を覚えた。だが、もう遅い。

 

「お前は、まだまだ半人前だ。“私ら”を相手にするにはちょいと荷が重い」

 

 気づけば二代目は首を締め上げられていた。

 自分よりも背の低い小鬼の片腕に、なす術もなく締め上げられ、挙句に死なぬよう加減すらされている。

 実力差は明白であった。

 

「ぅっく、ぁぁ゛あ゛あ゛あ゛っ」

「吠えてろ、今のお前はただの獣さ。好きなだけ吠えればいい」

「はなせえええええぇ゛ぇ゛、い゛ぶぎぃぃぃィィっ——!!」

 

 周囲に展開していた無数の式が二代目の命令によって萃香に群がり、彼女の体を切り刻もうとする。しかし強靭な肉体を前にして傷一つ付けることができなかった。むしろ萃香は、甘んじて二代目の攻撃を全身で受け止めていた。

 まるで、彼女の思い全てをその身で受け止めようとしているかのように。

 

 だがしばらくすると、二代目の目から力が失せていった。

 式による猛攻も、萃香の拘束に対する抵抗も弱まり、身体から力が抜けていく。萃香が、『密と疎を操る程度の能力』によって二代目の身体から霊力を雲散させ、空にしてしまったのだ。

 この時点で勝敗は決してしまった。

 

「流石のお前も、もう動けないだろう。お前じゃ私に勝てないんだよ。相性とかじゃなく、実力でな」

「ぐ、ぅぅっ」

 

 宙に浮いていた二代目は地面に投げ飛ばされ、泥だらけになりながら受け身を取ることすらできずに転がった。大の字になって仰向けになった二代目の表情は、神社の境内の土まみれになった彼女の髪で窺い知ることはできない。

 ただし、萃香はすでに察していた。

 否、共感に近い。自分がもしも彼女の立場にあれば、きっと同じことをしていただろうと。

 萃香は二代目を見下ろし、言った。

 

「後は射命丸か、紫を頼れ。奴等なら上手くやるだろうさ。悪いようにはされないだろう」

「……初代様は——」

 

 立ち去ろうとした萃香の背中に、二代目は言葉をかけた。

 

「巫女様は……、お前がこれからするだろう行いを望んでいなかった」

「そうか……」

「だが、私は……本当は……お前を止めたくなかった」

「……、そうか」

 

 半ば独白に近かった。

 はじめは抑揚のない何時もの調子であったが、次第に熱がこもっていった。

 

「教えてくれ……私は、どうすればよかったのだ……? 侍たちと共に、儀式に向かうのを力づくでも止めればよかったのか? それとも、雨乞いをすると御決意なされたあの日に、私は——」

「——もういい。私が悪かった。少し休め」

「わたしはっ!! あの侍たちを殺すべきだったというのかっ!? この思いに身を任せてっ!! この国の領主を敵に回してっ!! 全てを相手取ってなお、里を守ればよかったのかっ!?」

 

 二代目の燃えるような目つき。

 対して萃香の目は、穏やかであった。

 

「——もう、いいんだ……。お前が手を汚すことなんか、ないんだよ。ここからは、妖怪ある私の出番さ。汚れ役は、私が買う」

「だから、巫女様はそれを望んでいないっ!! お前は自分のやることを、本当に理解しているのかっ!?」

「ああ、そうだな……私は、アイツとの約束を破っちまう。これから私は、一番ついちゃいけない嘘をつくことになっちまうんだ。それでもな、たとえ鬼として、その行いが失格であったとしても、通さなきゃいけない筋っていうものがある。だから……止めてくれるな」

「っ——」

 

 萃香は無理やりに二代目の意識を刈り取る。これ以上はさすがに憐れだと思ったのであろうか。

 そのまましばらく萃香は二代目をじっと見つめていたが、やがて空を仰ぎ、その場を立ち去る。

 

 一方、その場に残された二代目の瞼は閉じられていた。

 雨はただ淡々と、彼女の顔に打ち付ける。

 

 ただ、雨に紛れて。

 

 枯れたはずの涙が彼女(二代目)の頬を伝い、地面を濡らした。

 

 

 

 ******

 

 

 

「——そう」

 

 彼らは護衛のはずであった。しかし今、彼らは次々に抜刀し、切っ先を守る対象である博麗に向けている。このような狼藉、冗談などではすまされない。つまり、はじめから本来の目的が別にあったということである。

 鬱蒼とした森を抜け、背の低いススキが生えた視界の良い草原で、博麗は目を細める。虫の鳴き声が今だけは煩わしく感じた。

 

「この私を、消しに来たのね」

 

【長月 二十八日 雨乞い、二十六日目】

 

 侍たちの正体、それは全員が対神通力保持者で構成された部隊。領主が放った刺客であった。

 神通力をもつ者達は国の領主から大変重宝されるが、過ぎた力を恐れるあまり排除されることも多い。御しやすい者であれば利用され、手に余れば排除される。それが神通力をもつ者の宿命である。

 

 無論、博麗の巫女も例外ではない。

 

 博麗の巫女は、国の領主が民衆からの指示を得るために作られた役職なのだ。

 元来、幾つもの人里を保有する国の領主は、民衆から不満を買いやすい。武力をもってしてその不満を押さえつけることは容易いが、いずれ不満は限界を迎え、最悪、国の崩壊へと繋がってしまう。

 そこで生み出されたのが国の領主が“認める”神通力の保持者である。認可された範囲で力を行使するのなら国にとって、領主にとって不利益とはなり得ない。だからこそ領主は博麗の巫女の存在を許した。

 

「貴様は、確かに幾つもの人里を救った。そして何より得難い民衆からの信頼を勝ち取った。貴様の成した功績は認めよう。ただし、これまで貴様が妖怪たちに情けをかけていたことが調査により、先日明らかとなった。そして、あろうことか奴らから援助まで受けていたことが分かった。これは領主に対する許されざる叛逆である」

「……」

「そう睨むな。我々があの人里を潰すことはない。だが、もはや戦は止められぬ。人里は、妖怪たちの手によって滅びるのだ」

 

 “国”を統べる者達は人々の不満の捌け口を妖怪に向けさせ、自分達に敵意が向かないようにと画策していた。しかし、彼らの想像以上に不満は膨らみ、とうとう戦にまで発展することとなってしまったのである。そこで、領主は考え付いたのであろう。

 これは絶好の口減らしの機会であると。

 

 まともに戦をすれば妖怪達に打ち負けるのは確実。出兵すること自体を渋っている人里も多い。だが、人里の守護者たる博麗の巫女が、妖怪に殺されたとなればどうなるであろうか? 

 

 結果、妖怪への敵意は爆発し、多くの人里が戦へと参加する。

 彼女の仇を打とうと総力を挙げれば、その数は今の倍にものぼると見込まれ、絶望的な戦力差を覆すことも可能である。

 

 つまり、博麗を叛逆者として始末することは、あくまで建前。確かに彼らは“里を潰さない”。だが、儀式の最中に襲われたように見せかければ、民衆の妖怪への憎悪を掻き立てることができる。

 博麗を慕っていた者達を妖怪達との無謀な戦にけしかけ、口減らしを行うことこそが本当の目的であろう。

 

 どれだけ被害を受けようとも、運よく人里が勝てば、資源豊富な山々をはじめとして領主は支配圏を広げることができる。そして、仮に負けようと飢饉による食糧難の中、口減らしができる。もともとは雨が降らず土地は荒れ、さらには病と飢饉によって疲弊した民。

 おそらくは停戦した隣国の領主と既に話はついているのであろう。二代目から、最近隣国から人の流れがあるとの報告を受けている。

 

「(みんな——)」

 

 数日前に戦場へと向かって行った男たちの顔が浮かんだ。彼らはこれから、無謀な戦で使い捨てられてしまうのだ。

 博麗の握り拳に力が籠った。

 

 一体六という絶望的な状況でありながら、不気味なほどに落ち着いた様子を見せる博麗の巫女。彼女の大きな瞳は真っ直ぐに侍達へと向けられ、先頭に立つ侍には彼女が人間ではない化け物のようにも見えた。

 

「素直に首を差し出してくれるならばこれ以上楽な仕事はないのだが——」

「自分たちの領土を守るっていうのがさ、大事な仕事なのはわかるよ。そのために人の数を減らそうというのもね。精々私を殺して、戦の大義を得ようとでも考えているんでしょう?」

「……ほう、人里の希望であられる博麗の巫女殿は存外、現実主義者のようだ」

「でもね、打てる手立ては他にもあったはず。そもそも、はじめから他国と戦をする必要なんてなかった。戦でまた人がたくさん亡くなったら、今以上に田畑が荒れるでしょう……以前の領主様ならもうとっくのとうにやめていた。今の領主様は何を考えているの? ねぇ、本当の狙いは何?」

「……」

 

 侍は答えない。ある意味それこそが答えであった。

 

「これから死ぬものに語ることなかろう?」

 

 一人の侍が突如として、右脇構えのまま疾走し、彼女へ斬りかかった。当然とも言えるが、博麗の注意はその侍へと向けられる。

 独断先行した侍の行動を咎めることもなく、他の侍たちもまた、博麗を殺すべく速やかに行動に移す。

 流れるような連携だった。踏み出す一歩目は、ほぼ同時。

 

「(馬鹿め。こちらの時間稼ぎにまんまと引っかかりおったわ。所詮は過ぎた力を持った、ただの小娘か——)」

 

 博麗に向かって単騎で切り掛かりに行った侍は思う。

 先ほどの会話は仲間が博麗の後方に爆破の術式を設置するための時間稼ぎであったのだ。自分が真正面から突貫していったのも、博麗に自分が単独行動に移ったと思わせるためのブラフ。

 なにも正面から博麗を仕留めることなどない。最小限の被害で済ませるのなら、まともな戦闘は避けねばならない。

 

「くっ」

 

 咄嗟に印を結びながら博麗はつま先に力を込め、距離を取ろうと後方へ下がる。予備動作なしでかなりの間合いを離すあたり、反射神経は人間のそれを軽く凌駕していた。

 だが、それは博麗にとって仇となった。視界の隅、自らの足元で発光する複数の術式。博麗が刺客たちの意図に気づいた時には既に遅かった。

 

「(爆破の術式!? しまっ——)」

 

 即座に防御の結界を張る初代。

 

「づぅっ!?」

 

 しかし、そう簡単に防ぐことができるような代物ではなく、左腕に酷い火傷を負うにいたった。

 さらには爆発と同時に飛散した鉄の破片が頰と肩を掠め、出血までしている。刺客からすれば奇襲を失敗したことになるが、負傷させた時点で大きく有利な立場に立てる。形勢は明らかに初代が不利であった。

 

「はぁ、はぁ……。っく、本当に問答無用なんだね」

 

 これでは回復術をかける暇もない。

 博麗に対応を指せる暇を与えず、仕留めきれなかったとわかるや否や、侍たちは巧みな連携によって博麗を包囲し、鋭い踏み込みと同時に間合いを詰め、一刀のもとに斬り払おうとした。

 

 先程まで博麗と会話をしていた老齢の侍は、博麗の正面に立った。

 しかし自らの刃が博麗の到達しようとしたそのとき、不意に彼は違和感を覚えた。長く戦いに身を投じてきた彼にとって、その違和感は何よりも尊ぶべきものであった。

 

「!? 各自散開っ!」

 

 すぐさま彼は散開を指示した。その直感は正しい。博麗の体から眩い閃光が放たれようとしたのだ。周囲に光を放つ粒子が見えたと思ったら、それは斬撃を受け止め、あっという間に膨張を始めている。報告されていた博麗の能力とは全く異なる様に、彼は舌を巻いた。

 

「(くそっ、役人どもめ。いい加減な仕事をしおって……)」

 

 博麗の能力は未知の部分が多く、油断ならない。それは前から分かっていたが、博麗の能力を把握するために役人をわざわざ人里まで送ったというのに得られた情報はごくわずか。可能な限りの対策はとったつもりであるものの、完全とは言い切れない。

 結局侍たちは散開するには間に合わず、十分な間合いを取れなかった。

 

「くるぞっ!」

 

 大地を震わす轟音。

 光が発散した。

 それと同時に体にかかる斥力によって、足を地につけて踏みしめているのにもかかわらず体ごと持っていかれそうになる。これはあくまで殺傷を目的とした技ではない。自分たちの足止めであると侍たちはすぐに気づいた。

 

「(呼吸を、連携を乱された!?)」

「(早く体勢を立て直さねば、逃げられる! くそ、これが狙いかっ!)」

 

 しかし博麗も手負い。傷を庇おうとして体の各部位に余計に力が入り、重心が崩れ、とても万全な状態であるようには見えない。

 現に彼女から発生した斥力はごく短時間であった。

 

「あぁもうっ、陰陽玉を持ってくるんだったわ!!」

 

 まだ動く右腕で印を素早く結び、地面を軽く踏む。ぼんやりと博麗の身体が光を帯びると、

 

「なっ!?」

「地面がっ!!」

 

 彼女を中心に地盤が沈下していった。そのまま恐るべき速さで侍たちを含んだあたり周囲一帯の地面が沈下し、閉鎖された空間が出来上がる。

 先程の斥力を生じさせた術によって地盤を緩め、陥没させたのだ。つい先ほどの術は、博麗が即座に考え出した布石のうちの一つであった。

 

「(わざわざ逃げ道を断っただと? いや、奴は空を飛べる。我々をこの大穴に取り残して足止めをしようという魂胆か。だが、もしもそうであるならば詰めが甘い)」

 

 地面が陥没し、円状の大きな窪みの中で戦闘するとなれば、逃げ道は自ずと限られてくる。飛ぶことができる博麗からすると、飛べぬ侍たちを窪みの中に取り残して足止めできるだろうが必ずしも良い策とは言えない。

 確かに自分たちは博麗のように空を自在に飛ぶことはできないが、だからと言って対抗策がないわけでもないのだ。もともと博麗を殺すために集められた部隊。彼らは皆、対空用の術を持っている。

 そう簡単には逃さないし、むしろ空間が狭められたことは好都合だった。

 

「各自、神通力はまだ使うな。いいな?」

「応っ!!」

 

 短く指示を出す老齢の侍。

 六人のうち四人が二人組を作って両面から博麗を挟み撃ちにすると、残った二人は得物を弓に持ち替え、素早く矢をつがえた。

 博麗に飛ぶ余裕を失わせ、かつ確実包囲して攻め切る。たとえ先ほどのような妙な力を使ってきたとしても、十分に間合いを取った二人が力を使い果たした博麗を弓で射るのだ。初撃で仕留めきれなかったときから、彼らは慢心を排除している。

 

「ふんっ」

 

 侍たちは足元に纏わせた霊力によって爆発的な瞬発力を生み出し、瞬く間に風を切り裂き、間合いを詰めた。

 四人の侍が振り下ろした刀は博麗が施した結界に阻まれる。しかし、あっけなく結界にひびが入った。それは博麗にとっては驚愕すべき事実であった。

 瞬間的には最高硬度をもつ結界であったはずなのだ。

 

「(太刀に霊力を纏わせてる……ま、まずいっ!?)」

 

 結界が破壊された。

 息をつかせる暇を与えず、待っていたと言わんばかりに博麗に向かって霊力を纏った矢が飛来する。矢を回避しようにも、周囲の侍が再び刀を振り下ろそうとしているため、簡単に斬殺されてしまうだろう。

 こうなれば腹を括るほかなかった。

 全身に意識を巡らせ、綱の上を渡るかのように繊細に、かつ大胆に体を使う。

 

「しっ!! あ゛ぁぁっ!!」

 

 人間離れした反射神経で侍たちの一太刀を回避していく博麗の巫女。しかしそれでもすべてを避けることかなわず、左肩に二本の矢を受け背中を斬られた。

 ただし、カウンターで正面に立っていた一人の侍の鳩尾に掌底をめり込ませ、そのまま吹き飛ばすと左足を浮かせるや踵で背後の侍の顎を打ち、前方へと駆け抜け飛翔した。

 

 命拾いしただけで儲けもの。戦闘の経験が豊富でなくとも普段から妖怪相手に修羅場をくぐってきただけはあった。侍たちの内二名が戦闘不能となっている中、残った四名だけでは逃げに徹した博麗を追うことはかなわない。

 侍たちからすれば、傷を負わせたものの包囲を突破された時点で致命的な失態となったのだから。

 

「逃がすか!」

 

 当然、逃すまいと次々に矢をつがえて放つが、今度は結界を破るには至らない。ここぞというときのために、博麗はずっと防御結界の詠唱をしていたのだ。

 侍たちが彼女を包囲して来たときから逃走だけを目的として。

 

 ゆえに空を飛べない侍たちは陥没した地面から土の壁をよじ登らざるを得なくなる。博麗に絶好の逃走の機会を与えてしまった。

 

「くそっ」

「落ち着け。奴はそう遠くへは行けぬ。刀には蛇の毒を、矢には毒草の汁を塗ってある。いくら奴の体力が無尽蔵であろうと、人間であることに変わりはない。いずれ力尽きるだろう」

「それでは、わざと泳がせたということですな」

「ああ、被害は少ない方がいい。このまま後を追うぞ。空を飛べたところで足跡はつかないだろうが、匂いは必ず残る。それも血の臭いだ。いくらでも手段はあるだろう」

 

 役人たちが人里に来た時点で捜索に必要な物資は全て準備できている。さらに逃げられようと自分たちの神通力の前では無意味。

 

「神通力の使用を許可する。奴を逃がしてはならん」

「はっ。するとつまり——」

「そうだ。妖怪によって殺されたように見せかけ、死体に工作をする必要がある」

 

 ただ切り殺した彼女の遺体をただ人里へ送り届けるのでは、里の者達はこちらの言い分を信じるわけがないし、領主の計画に支障をきたす可能性がある。

 あくまで彼女は、人々を救おうと立ち上がり、道半ばで非業の死を迎えなければならないのだ。それも、妖怪たちによって無残に殺されたように見せかける必要がある。

 

「(小娘め。思いの外、手こずらせよって。それにしても、いくらこちらが能力の使用を避けていたとはいえ、彼奴の方もこちらを本気で殺そうとしてこなかった……)」

 

 老齢の侍は、自身の心の内に迷いが生じかけていることに気づいた。

 

「(はっ、何を今更。いずれ罰を受けることなど、とうに分かり切っているというのに)」

 

 彼も、自分の孫と同年代の年端もいかない少女に手を掛けることに気乗りはしなかったのだ。しかし、侍として、領主の命令は絶対である。

 そして彼はこれまでに、命令に従い何人もの命を奪ってきた。はじめは後悔し、自分が手にかけた者達が夢に出てきて眠れない日々を過ごしたりもしたが、“そういうもの”と捉えるようになってしまってから、彼はどこか、壊れてしまった。

 

「(俺も、そろそろ焼きが回ってきたか……きっと碌な死に方をしないだろうよ)」

 

 本当は分かっているのだ、彼も。そして、此処にいる侍たち皆も。

 博麗を殺めることが愚かな行為であることに気づいている。たとえ口減らしが功を奏して飢饉を乗り越えたとしても、この国に未来はない。戦で若い衆がいなくなれば今より多くの多くの田畑が荒れ、深刻な食糧難からは脱却できないのだから。

 それに博麗の雨乞いの儀式をなぜ妨害する必要があったのか? せめて雨乞いが成功した後でもよかったのではないか? 

 博麗は言った。領主の本当の狙いは一体何なのかと。

 彼自身も分からなかったのだ。長年この国の領主に仕える彼ですら、領主の行動は異常だとしか考えられなかった。

 

「(ああ……この国の終わりは近いのかもしれない。こんなことをしでかしたのだ、もう後戻りはできない。酒呑童子……伊吹萃香を相手にする日もそう遠くは……)」

「——全員、抜け出しました。すでに準備は整っています」

「…………そうか。では行くぞ」

 

 柄にも無く考え事をいていたらしい。

 彼は溜息をつくと夜空に浮かぶ月を一瞥し、博麗を追うために森の中を駆けて行った。

 

 

 

 ******

 

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 萃香お姉ちゃんは、はじめて会ったとき、こんな苦しい思いをしていたんだね。

 頭がとってもぼんやりするし、まともに呼吸するのも億劫だ。

 だんだん、手足の感覚もなくなってきている。なんだか眠たい。でも眠ってしまえば二度と起きられないことが分かっていた。

 きっと、さっき当たった矢と、斬りつけた刀には毒が塗ってあったんだろう。あの人たちは、本当に私を殺す気なんだと、決して逃がすつもりがないのだとよくよく理解した。

 

 近くにあった切り株に背を預ける。

 流石に、これ以上は歩けないなぁ。毒が回ってきたのか視界もぼんやりしてきたし、頭がぐらぐらする。

 

 どうして、あのとき二代目の言う通りにしなかったんだろう? 

 ……いいや、言う通りになんて、できなかっただろう。どのみち私は雨乞いをしていたに違いない。何もしていなければ、きっと今よりずっと後悔していた。

 それでも……覚悟していたはず、だったんだけどなぁ。死ぬのは怖いよ。

 

 やりたいことが沢山あった。紫ちゃんや幽々子ちゃん、茜ちゃんとこれからのことについてもっと話したかった。萃香お姉ちゃんともっと一緒にいたかった。

 二代目に、もっと色々教えたいことがあった。

 

 なんでだろう? 

 こうして後悔するのは、初めてじゃない気がする。

 そうだ、これが初めてじゃない。

 ずぅっと前にもこうして、たくさん後悔したんだ……。

 

 その証拠にほら、こんなに胸が痛いのに、懐かしいと思えるの。

 

 ……ねぇ、私が眠っちゃう前に教えて。

 

 貴方は一体、どこの誰? 

 

 どうしてさっきから私を見下ろして、泣いているの? 

 

『ごめんなさい』って言われてもさ……、何のことだか分からないよ……え? 

 

 探している人が見つからなかった? 

 

 そっかあ……。でもごめんね、私は今とっても眠くて、手伝ってあげられそうにないや。

 

 どんな、人だったの……? 

 

 へえ。大切な友達だったんだ。

 

 いつも一緒にいてくれて、よく一緒に旅もしたんだね。うふふ、なんだか夫婦みたい。

 

 それで、どうして、突然連れていかれちゃったの? 

 

『私の所為』って、『貴方は生まれるはずじゃなかった』って……。

 

 それじゃあ、まるで、私を生んだのは貴方みたいじゃない? 

 

 ————いや……。なるほど、そうか……。

 

 間違いないわ。貴方から、私が生まれたのか。私は本来生まれるはずのない、貴方から作られた仮初の命。

 

 つまり、私は、貴方になり損ねたのね。そして博麗を作り上げるため、貴方の祈りのために、私は月から此処へ遣わされた。

 

 限りある命をもって生まれてしまった私は、穢れそのものだものね。

 

 ようやく、全部が繋がった。道理で私には記憶がなかったわけだ。これが、運命。あのとき、萃香お姉ちゃんに出会ったのも、全ては——。

 

 ——いいえ。でもね、私は貴方を恨まないよ。だって、貴方のおかげで、私は大切な人たちに出会えた。いっぱい笑ったし、いっぱい泣いた。上手くいったこともあったし、そうじゃなかったこともあった。良いことも、悪いこともみんな、大切な大切な思い出なの。

 それにね。何より、貴方のおかげで、萃香お姉ちゃんに出会うことができたんだよ? 

 

 ありがとう。ここからは、私の番だよ。貴方の祈りは、確かに聞き届けたわ。博麗の巫女として、そして、貴方の——として。

 

 

()()()()()()()()()()()()()——。

 

 

 影は何時の間にか、消えていた。

 そして影が消えてしまった方を向くと、私の前に、数人ものお侍様達が立っていることに気づいた。

 

 

 

 ******

 

 

 

「……、見つけたぞ」

 

 侍の言葉に周囲を捜索していた他の侍たちが集まって来る。手負いとはいえ油断ならない神通力の持ち主。博麗を囲うように距離を詰めていく。

 

「毒が回っているようだ」

「ええ、奴も所詮は人の子だったということですな」

 

 すぐ目の前まで近づいたというのに、博麗は半開きの虚ろな目でこちらを見つめているだけ。もう、虫の息といったところだろうか。

 口元が僅かに動いているが、何か戯言を言っているようにしか見えない。毒が全身に回って幻覚でも見えているのだろうか。

 あまりに哀れな姿であった。

 

「終わりにしよう……」

「はっ」

 

 二人の侍が博麗の両腕を拘束する。ぐったりした様子の彼女はすでに抵抗する力も残っておらず、されるがままに首を垂れた。

 

 すると、目の前に立っていた老齢の侍の右腕がみるみるうちに獣のそれに変質する。

 鋭く尖った爪に豊かな毛並み。

 まるで人狼のように太くたくましい腕は、目の前の少女など軽々と両断してしまうような威圧感を放っている。

 

「最後に、言い残すことはないか? 博麗の巫女」

 

 半ば戯れに、侍は問うた。

 答えなど期待もしていなかったが驚くべきことに、博麗は口を動かした。

 

「——む……そぅ……ん——せ、ぃ」

 

 しかし耳を澄ましても聞こえないような呟きは、たったの一言で消えた。

 

「言葉にもならんか……」

 

 せめて今わの際の言葉ぐらいは聞き届けてやろうと考えていたが、手遅れであったようである。隣に立つ侍が咎めるように言った。

 

「早く終わらせてやりましょう。あまり、苦しませても仕方ありません」

「それも、そうだな」

 

 腕を振り上げて勢いをつけ、巨大な爪を振り下ろす。

 

「——さらばだ、博麗の巫女」

「す……ぃ……ぉ……ねぇ……ちゃ——」

 

 博麗の巫女の身体から、鮮血が舞った。

 

 

 

 ******

 

 

 

 アイツは、本当に危うい。

 理想はいいんだ。けっして否定はしないし、アイツには自分の言い分ってやつを押し通すだけの力もある。それに紫や射命丸みたいな、規格外の実力をもつ連中が協力しているんだ。理想はけっして、理想のままにはならないだろうさ。

 

 それなら、何処が危ういのかって思うだろ? 

 

 違うんだよ。アイツの近くで時間を過ごして、アイツのやることを遠くから眺めていたからこそ分かるんだ。世の中が乱れれば、何時だって真っ当な奴から割を食う。

 そんでもって、まともじゃない奴が最後に笑っちまうんだよ。

 

 私たち鬼は、自分達の思う真っ当な生き方をしてきた。だからこそ、嘘を嫌い、真正面からしか物事にぶつかれない私達は、この世界の摂理の格好の餌食になった。

 華扇の言ったことが、いまなら理解できる。

 そうだよ。アイツの言った通りだった。過去に私に忠告した張本人である、茨木華扇が討たれたという知らせを聞いて、私はようやくアイツの言ったことを理解した。

 本当に私たち鬼っていうのはどこまでも不器用なんだろうね。道理で割りを食うわけだが。

 まあ、こんなご時世だからこそだね。

 私はアイツから目を離すべきではなかったんだ。きっと、あのときの私はどうかしていた。

 

『うふふ……、またこんなところで寝たりして。そういえば何時かも、同じことをいったよね』

 

 目を離したらいけないとずっと分かっていた。そうさ、私は分かっていたのさ。

 

『……今じゃ、見た目だけなら私の方がお姉ちゃんみたいになっちゃった』

 

 ああ、もう。

 あんなに、大きくなっちゃってさぁ。少し前までは私と同じくらいの背丈で、私が保護者みたいだったっていうのに、最近じゃ私の方が色々と叱られる始末。お転婆だったあの頃が懐かしいね。たったの五年前だよ? 信じられるもんかね? 

 アイツも、私の背を追い越して、責任を負うことになって、周りから大人になることを求められて、寂しい思いをしていたのかもしれないな。

 

 だから、しょっちゅう『アンタは私の母親だって言うのかい!』と言って、茶化してやった。そしたら胸を張って、『そうだよ』なんて言いやがるから、頭突きをお見舞いしてやったけど。

 自信満々に言うのがまた、腹立つんだよなぁ。

 でも、ちょっと嬉しかったりして。そんな自分に気づいて、照れ隠しのつもりだったのに不覚にも深酒してしまったことがあったりした。

 

 ——あれ、おかしいな。二代目に紙の包みを渡されたときから、覚悟していたはずなのに。自分からお前のところに行くって言ったっていうのに。

 

 ……、感傷に浸っているのか? この私が? 

 

 なんでだろうな、年かな? いや、そういうのでもないね、これは。

 

『……おやすみ、萃香お姉ちゃん』

 

 分かっている。誰かに、奪われたくなかったんだ。もう失いたくなかったんだ。

 月での戦、私は確かに、何かを失った。それは胸を抉られたような気分だったはずなんだ。だっていうのにさ、今でもあのとき私が、一体何を失ったのかを思い出せないんだ。

 けれど気味の悪いことに、肩の傷が抉られたみたいに疼き、右肘から先が無くなったみたいに感じて。さらには右目が貫かれたみたいな痛みを覚えるんだ。

 ここまではっきりしているっていうのに、何を失くしちまったのかが分からない。だから、こんな思いをするのが嫌だったんだ。

 

 まったく、打たれ弱くなっちまったのかねぇ? 

 一昔前の人間との戦のときだって、こんな思いはしなかった。同族を率いて正面から人間と戦をして、騙された挙句仲間を何人も死なせちまっていうのに。

 仲間が殺されても、なんとも思わなかった。そいつが満足して死ねたのならそれも良し。そうでなかったのなら、そいつの無念は私たちが晴らしてやろうと、精々それくらいのもんさ。怒りはしても、こんなに胸にぽっかり穴が開いたような思いはしなかったんだ。

 

 なあ。何か言っておくれよぅ。

 ……白い布を被せられちまってさぁ。左腕なんて、穴ぼこだらけ。焼け爛れている上に関節のあちこちが壊れて原型をとどめていなかった。特に、左肩から右腰にわたる大きな傷。深く、心臓まで到達している。

 明らかに、この一撃が致命傷だったんだろう。

 何か、大きな爪でやられたような傷跡だった。人間によるものではないと、里の奴らはそう思ったんだろうよ。確かに、その傷跡からは人間が本来もつ霊力というよりも、私ら妖怪が放つ妖力が感じられた。里の奴等が信じてしまうのもしょうがないくらいだ。

 

 だが、これは巧妙に似せられているに過ぎない。

 

 辛かったよなぁ。痛かったよなぁ。

 何よりも、無念だったよなぁ……。

 ごめんな、お前の大事に駆けつけてやれなくて。それとごめん、私はお前との約束をこれから破ることになると思う。

 

 お前は、私の笑顔が好きだと言ってくれた。でも、今は無理なんだ。

 お前の今の姿を見たら、堪えられなかった。冷静であろうとしたんだ。けど、駄目だった。

 

 みんな、雨の所為だ。これはお前が最後の力で降らせた、雨の所為なんだ。

 じゃなきゃ、どうしてこんなにびしょ濡れになるんだよ? 

 どうして、こんなに冷たくなっちまっているんだよ? お前さんはいつもあんなに温かったじゃないか。にこにこ笑って、私を迎えてくれたろう? 

 なのに、こんな、ずぶ濡れの、泥だらけの酷い格好でさ。

 

 外で里の奴らが泣いている。皆、お前のことを思って泣いている。大人も、子供も、この人里の里長だって、大声で泣いてる。どうして人と妖怪を繋いでくれたお前がこんな目に遭わなければならないんだってな。

 本当は雨が降って嬉しいはずなんだけどなぁ。これじゃあ誰も喜べないよ。

 

 だって。

 

 どうして死ななきゃならなかったんだ? 

 お前さんの頭は、一体何処へ行っちまったんだ? 

 どうして、頭だけが持ち去られているんだ? 

 

 ……。

 

 ***

 

『ねぇねぇ聞いてっ!! 今日ね、里に行ったらね——』

 

『いった~い!! 傷にお酒を塗ったくるなんてひどいよぉ~』

 

『うぇ? 怪我? 大丈夫だよ、ほら私ってば頑丈だから』

 

『ねえ……萃香お姉ちゃん聞いて欲しいことがあるの』

 

『私って、人望ないのかなぁ……。私のやっていることは、間違っているのかなぁ?』

 

『ひっく……も~やってらんないよぉ……、何で分かってもらえなんだろう……』

 

『むぁ!? や、やさしくしないでよぅっ。そんなこと言われたら、私——』

 

『ぅくっ……ふ、ふぇぇ……』

 

『はなみず……ついちゃった……。ごめん……』

 

『ありがとう、なんか元気出た。萃香お姉ちゃんのおかげで、明日も頑張れる……』

 

『いってらっしゃい、萃香お姉ちゃん』

 

 ああ、私はあのとき、やっぱり此処を離れるべきではなかった。もしくはすぐにこちらへ帰って来るべきだった。

 

 夜、隣で寝ころんでアイツとよく他愛のない話をした。

 里の仕事が上手くいって、楽しそうに語ることもあった。ぼろぼろの姿で傷を我慢していた時もあった。巫女の仕事への、不安を語ることもあった。

 ごく偶に、愚痴を聞いていたら、いつの間にか泣き始めたこともあった。

 だけど、朝になればそんな姿は跡形もなく、綺麗さっぱり消えていて。

 目を覚ませば、いつも先にアイツが起きていてさ、やれ朝食の準備だ境内の掃除だなんて、忙しく働いていた。包丁がまな板を叩く音、境内の落ち葉を箒ではく音。そして、アイツがドジして皿を割る音……。

 私は賽銭箱の上に座って目をつぶり、そんな騒がしい音を楽しんでいた。

 特に、あの小娘が来てからは余計に騒がしくなって。やれ弟子ができただなんて私に向かって報告してきたときは、一緒になって喜んだ記憶がある。

 

 ***

 

 ……。

 

 今はよそう。もう、どうせ帰ってきやしないんだ。

 

 それに私にはもう、あの日に戻る資格なんてない。だから未練を捨てろ、甘さを捨てろ。余計なことは考えるな。

 

 やることは決まってるんだ。この国の領主の居城へ行って、侍どもを、領主を殺す、それだけだ。

 

 皆からアイツ(希望)を奪ったんだ。それ相応の報いを受けてもらう。

 

 

 初代、ごめんね。

 

 愚かな私をどうか叱ってくれ。

 

 お前との約束を破る、私を憎しんでくれ。

 

 許しは乞わない、恨んでくれ。

 

 これからやることは馬鹿な一匹の鬼の、ただの暴虐にすぎないんだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人の章:開戦

『ねえ。萃香お姉ちゃんって、前は京にいたんだよね?』

『ん? ああ、そうだよ。ま、随分前の話。色々と悪さをしてね、遂には退治されちまったけど』

『……ふ~ん。なんか、信じられないや』

『おいおいアンタ、また何か失礼なことを考えていないだろうね? 言っとくが、ほんとだからな。私は当時“酒呑童子”と呼ばれてて、人間達に恐れられていたんだ』

 

 あまり間に受けてなさそうだったが、博麗(アイツ)はからからと笑って言った。

 

『うん、それは知っているよ。悪いことを沢山して、最期にはお侍様に討たれたって』

『ぐぬっ、なんだい。知っているんじゃないか……』

『でもさ。今、私の膝の上で寝っ転がっている萃香お姉ちゃんはね、きっと別人だよ』

『どういうこと?』

『うふふ。そうだなぁ……それはあれだよ。秘密ってことで』

『——え?』

 

 思わず呆気にとられた。『一体なんだいそれは』と私はアイツの身体を揺すり、ねだった。

 

『おいおい、そこまで言っておいて秘密だなんて、よしておくれよぅ。な?』

『ええ~、どうしよっかなぁ……』

 

 けれど結局、アイツは最後まで答えてくれなかった。

 あれは、吐息が白くなるような寒い冬の日の記憶。

 

 

『今の生活は少し退屈、かな?』

『……そうさなぁ』

 

 私は少し思案するように宙を見つめてから、『ちょっとだけね』と苦笑しながら答えた。

 

『でもさ。今はね、こうしているのも悪くないかもって思い始めている。喧嘩も好きだし、賑やかなのも大好きだ。だけどそれだけじゃあ、ない』

 

 伊吹瓢を煽り、続ける。なんだかその日は妙に口が軽くなっていて。

 喋らなくてもいいことまで口に出してしまったのを覚えている。

 

『なんだかさ。紫とお前を見ていたら、案外私も変われるんじゃないかと思った』

 

 後日、自分の言ったことを思い出して恥ずかしい思いをした。

 これは、風が仄かに香り始めた春の日の記憶。

 

 

『なあ、初代』

『なあに?』

『……私は、昔自分がやったことを後悔してはいない。私は、鬼として、妖怪としての性に従ったまでだ』

『……うん』

 

 このとき少し強張った声を発したのは、果たしてどっちだったんだろうか。

 

『私は、お前と会うまでに、たくさんの人間を喰らった。喰う目的以外でも、たくさん殺した。こんな私を、お前は軽蔑するかい……?』

『……なんで、そんなことを聞くの?』

『——お前になら、殺されてやってもいいからさ』

『やめてよ。そんな悲しいことを言うのは』

 

 私は、このとき本気で言っていた。けれどアイツは悲しそうに俯くばかりだった。

 これは、私が京に向かう前日の記憶。

 月面での戦が終わってからだと思う。私には、何かが足りない気がしていた。紫や、初代が持っていて、私にないもの。一度、確かに私はそれに気づいたんだ。

 そして、必ず手に入れてみせると決意したはずなんだ。

 

 それなのに。

 

 それが一体何だったのか、思い出せなかった。

 

 

 ***

 

 

【神無月 一日】

 

 曇天の空。

 湿気を帯びた空気が辺り一杯に広がり、もう少し気温が低くなれば、霧でも発生しそうである。頑強な外壁に覆われた城下町に、朝が訪れようとしていた。

 そんな早朝特有の柔らかな雰囲気とは裏腹に、外壁の外に広がる平地に築かれた大規模な陣営には数多の兵士が集まっていた。城下を守る兵士たちは甲冑姿に槍をもち、またある者は弓を携え、まるで、これから大きな戦が始まるのかとでもいうように物々しい様相を呈している。

 

 博麗の巫女が命を落としたという知らせは、まだ国全体にまで浸透しきっていない。

 

 されど、すでに三日が経っている。伊吹萃香が都を襲撃しに来るのなら、そろそろ頃合いであろう。ことの真相を知る一部の者達、本陣で机を囲む四人の侍は、そのように見込んでいた。

 

「——外壁の前に陣を敷いたとはいえ、奴が果たして素直に正面からやってくると思うか? 多少の兵力を裂いてでも、ご領主様の周囲の警備を固めるべきではないだろうか。万が一、奴がこちらを欺いて暗殺をしかけて来たならばどうする?」

「然り。まして、奴一匹でやってくるだろうか? 聞いたところによれば数百の魑魅魍魎どもが妖怪の山から下りてきたとの知らせを受けているが……」

「いいや、奴は鬼だ。鬼という種族上、単騎で、しかも正面からしか挑んできやせんさ。こちらが前もって陣を敷けば、奴は無視できまい。それに奴を仕留めれば、あとは雑兵のみ。打ち破るのは容易い」

「しかし——」

「まあ、そう焦るな。たかが妖怪一匹の襲撃など、大したことはないのだ。それにこちらには神通力をもつ者達がいる。所詮は奴らも、人よりは獣に近い。褒美を用意すれば、件の鬼や妖怪どもと存分に殺し合ってくれるだろう」

 

 萃香への対策だけではない。彼らは来たる妖怪の軍勢から城下町を守るために配置されている。つい昨晩、妖怪の山に火矢が放たれたことで、人間による妖怪への宣戦布告がなされた。人間と妖怪の間での戦が、とうとう始まったのだ。

 ただ、妖怪の山への進行は先手をとったことによって、現在優勢との知らせを受けているし、領主の城へ進軍してきているという妖怪の軍勢についても、十分な戦力を用意することができている。さらに、士気も悪くない。

 博麗の巫女が凶悪なる鬼、伊吹萃香によって打ち取られたのだと宣言したことで、それを信じた兵士達の士気はこれまでないほどに高まっているからである。

 

「今泉、か……。確かに化け物とも称された博麗を打ち取るほどの技量をもつあの者たちならば、鬼にも引けを取るまいな」

 

 城下町の防衛部隊には領主直属の護衛である、今泉の血筋を引く者達が控えている。彼らは皆、希少な神通力を保持しており、一部からは力を持った妖怪を相手にする際の頼みの綱とも称されていた。しかし、今泉の者達から何故、本来希少であるはずの神通力保持者が多く輩出しているのか? それは領主のみが知るとされており、この場にいる者は誰も目にしたことがない。

 それゆえ彼らを不気味がる者も少なくなく、此処にいる者もまた、例外ではなかった。

 

「まあ、奴らの力を頼るというのは極力控えたい。何を考えているのか分からん連中だ。奴らの出生にしても怪しい点が多すぎる。いくら領主様から全幅の信頼を得ているとはいえ、無条件に命を預けられん」

「なに、我等のみで十分よ。所詮は時代遅れの妖怪一匹。手古摺りはしても、敗北などありえん」

 

 たしかに、それを担保するだけの戦力は充実していた。

 そもそも都に妖怪が襲撃してくるのはこれが初めてでない。自尊心が強く狡猾な一部の妖怪たちは、監視の目を掻い潜ってこれまで幾度となく都で暴れまわろうとしてきた。被害を抑えようと考えた人間達は、対抗して城下町の防衛力を増強してきたのである。

 そして、城下町に直接攻め入って来る妖怪達を返り討ちにするために派遣されたのが、今陣を敷いている彼らなのであった。その数は五千。隣国からの援軍が到着すれば一万にも及ぶ。数百の妖怪の軍勢といえども、並大抵の戦力では都を滅ぼすことなどできない。

 しかし、忘れてはならない。それは()()()()()()()()()()()()()

 

「……それにしても、本当にあの酒呑童子がやって来るのだろうな? 随分前に京で討たれたと聞いたのだが」

「たしかに奴を目撃した者は少ない。だが、京での証言は信ずるに値するものだ。ならば打ち損じたと考えるしかなかろう? 大江山の鬼どもは、住処を変えただけであったということだ。困ったものだが、この国の山奥に潜んでいるとの報告を受けている。まったく、奴らには手を焼かされてばかりだな。なんとしてでも、ここで打ち取らねばならぬ」

「鬼退治、か……」

「ああ、そうだ。残念ながら、これは御伽ではない。これから行うは正真正銘の、“鬼退治”だ」

 

 領主の城から見える小山の遥か向こうでは、妖怪の山——普段、彼らは呼んでいる——への襲撃が続いていることだろう。報告を受けた時点では、妖怪の山へ攻め入るのは人里から集められた六千五百の兵と聞いている。しかし、この数はあくまで現時点のものにすぎない。これからまだまだ増えることが予想されていた。

 

 どうして彼らが強気でいられるのかといえば、二つの報告によるところが大きい。

 

 第一に彼らの士気を高めたのは、宣戦布告後の初戦の結果であった。

 なんと人間側が大勝利を収めたのだ。これは領主たちが予想した数を超えた兵力が集まり、妖怪たちの軍勢を押しのけてしまったことによる。

 

 そして、忘れてはならない報告がもう一つ。

 

『博麗の巫女が行っていた雨乞いが、成功を収めた』

 

 この報告関しては内密にされる予定であったが、既に彼女の雨乞いの成功は、飢饉に見舞われていたこの国の人々の目に、雨天という形を持って晒されている。もはや隠し立ては無用であった。

 

「まさか、本当に雨乞いが成功してしまうとは……」

「領主様にとっては誤算であったかもしれんが、我々からすれば、僥倖とも呼べる」

 

 だが、かえっていい結果をもたらしたとも言えよう。ここにいる者の多くは、雨乞いの成功に安堵していた。

 領主が隣国と交わした密約もあったので、妖怪との戦に今更不満などない。博麗の巫女の生死にも興味はないが、ただ雨乞いの成功前に暗殺するという指令には、疑問を覚えていたのだ。いくら自身の身が保証されていても、土地が荒れてしまえば回復するまでには時間がかかってしまう。

 

「ときに幸運というものは、続くものですな」

「ああ、貴殿の言う通りよ。嬉しい誤算もあるものだ」

「すると、残りは件の鬼退治のみになる。奴さえ仕留めれば、長年苦しめられてきた妖怪の山へ、我々本隊が進軍することも夢ではあるまい。この好機を逃すわけにはいかぬな」

「あの兵士達の怒りようからすれば、兵糧の問題など、心配いらぬでしょう」

 

 ——続く僥倖に活気立つ本陣であったが、そこに伝令がやってきた。

 

 歴戦を経てきたベテランの伝令は落ち着き払った様子ではあるのだが、その目に僅かな狼狽えを孕んでいることに四人は気づいた。『件の妖怪がやって来たのだろう』と、彼らはすぐに察した。

 

「“今泉”より報告。丑寅の方角より、敵影ありとのことです」

「ご苦労。いやはや、奴にしては遅かったな」

 

 その敵影というのは、酒呑童子のことであるはず。本陣に机に座る者達の間には、確信に近いものがあった。

 座っている四人の侍のうちの一人、都の防衛を司る総大将は告げた。

 

「すぐに全体へ知らせろ。鬼退治の始まりだ」

 

 城下町前の平原にて、総力をもった人間と、一匹の鬼との戦がはじまった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 伝令が本陣に辿り着く丁度その頃。

 陣の最前線ではすでに、物見が萃香の姿を捉えていた。開けた草原の彼方から、小さな人影が近づいてきているのだ。

 

「何か、いる……。今泉様の報告があった奴か……?」

「何人だ?」

「一人。ああ、やっぱり。奴は、鬼だ……とうとう来やがった……」

 

 頭には二本の捻じれた角。栗色の髪をなびかせ、それはやって来た。

 

「なんだ、ありゃあ。角が無ければ里にもいるような、ただの娘っ子じゃないか……」

 

 遠目から見れば、童女にしか見えないその姿に、物見の隣に立っていた男はどうやら拍子抜けしていたようだった。彼は鬼の襲撃という話を聞いて、もっと怖ろし気な外見を想像していたのだろう。

 彼の言うことは決して間違ってはいない。萃香の外見は、確かに幼気な童女である。だが彼を含めて、此処にいる者達は皆、知らないだけなのだ。人間の記憶からゆっくりと消えてしまった鬼という存在。萃香は紛れもなく、その鬼という種族のそれも頂点に立つような存在であることを。

 

 対して萃香は、人間達が自らの存在を捕捉したことなど気にも留めず、悠々とただ城下町へ向かって歩いていた。

 元より彼女に逃げるつもりなどなく、己を打たんとする外壁前に展開した防衛部隊を、はなから粉微塵に捻り潰すつもりであった。

 

「随分なお出迎えじゃないか……。ま、どうでもいいけどさ……」

 

 大規模な軍勢を前にして、独り言をつぶやく萃香。彼女の視線は今、真っ直ぐに領主のいる館へ向けられており、目の前に広がる人間達の軍勢ですら、気に留めていない。

 

 単騎で城に攻め入ること自体は、これが初めてではなかった。京にいた頃は、何度も行ってきたことであった。だが、今回は今までと少しばかり違う。彼女には、この戦いに臨む明確な目的があったのだ。

 

「目の前に立つ奴は、一人残らず、潰す。これは、ほんの挨拶だ」

 

 相手に聞こえなくてもいい。彼女は小さな声で、宣言した。

 萃香の右拳に青い炎が灯る。それはただの鬼火だった。大きさで言えばロウソクの灯り程度で、萃香の立っている位置からだと、余程目の良い者でない限り肉眼で確認することはできないだろう。

 

 ——にも関わらず、彼女の一挙一動に兵士達は固唾を呑むばかりであった。

 

 萃香をただの童子と見て油断をしているわけではない。さすがに彼女の異常さに気づけぬままであるほど愚かな者は、守備隊にはいなかった。

 

 ではなぜか? 動けないのだ。

 頭では分かっていても、身体が言うことを聞いてくれない。都の防衛にあたっている兵士達は日頃から訓練され、うち多くが実戦を幾度も経験してきた者達で構成されている。そんな彼らが怯え、震え、逃げ出したい衝動に駆られている。

 それでもなお彼らが逃げないのは、単純に理解したからである。

 退却など許されないのだろう、と。

 彼らが動けない間に、萃香は炎を纏った拳を鋭く地面に突き刺し、ひび割れた大地からは青色の鬼火が吹き上げた。吹き上げた無数の火の粉は天高く昇るとやがて守備隊の頭上に降りかかっていった。

 

 この痛烈な一撃は曇天の空を穿ち、戦いの始まりを告げた。

 

「く、来るぞぉぉぉっ!! 歯を食いしばれぇぇっ!!!!」

「前衛っ!! 盾を構えろぉ!! いいから早くしろ、死にたいのかぁぁっ!?」

「ひ、ひ、ひ——!?」

「死にたくない奴は俺に続けぇぇぇ——!!」

 

 まず第一陣は、数列に並ぶと隙間なく盾を構え、来る火の粉から後衛を守ろうとした。密集した陣形を取り、防壁を築こうとしたのだろう。飛来してくる火の粉から身を守るには、確かに有効だ。よく訓練されているがゆえに、彼らはすぐさま指揮されるがまま盾を構えた。

 人間を相手にするのであれば、彼らの行為は決して誤りではない。

 そう、()()()()()()()()()()()

 

「っ!! いかん!! 退けっ!!? 呑み込まれるぞっ——!?」

 

 異変に気づき、後方に控えていた味方が必死に叫ぶも虚しく。

 

「——っ」

 

 突如、彼らを襲った地割れに半数が呑み込まれ、辛うじて生き残った者も灼熱の鬼火で焼き尽くされた。後衛の者達が唖然とする中、萃香は目視するまでもなく、大軍へと飛び込んだ。

 

「怯むな!! 矢を放てっ!!」

 

 あっけなく陣形の懐に入り込まれ、混乱する中でも彼らを叱咤し、勇敢に指揮をとる者がいた。

 

「弓兵、放てぇっ!! ——ぐえ゛っつ!?」

 

 しかし勇気も虚しく、彼は飛来した鎖に首をからめとられ、そのまま捩じ切られた。萃香がその腕に巻き付く鎖を、圧倒的な鬼の膂力をもって振り回したのだ。ただでさえ、かなりの重量がある鎖を萃香のような者が全力で振り回せば、それは十分に凶器となり得る。

 

「あ、あ、ああぁ……!?」

 

 兵士達の目の前に転がる、彼らの仲間であった者達の首、胴体、腕、足。傀儡の人形のように体をばらばらにされ、血飛沫と共に、雨の如く兵士達の頭上に降りかかった。

 現実感のまるでない一方的な虐殺が目の前で繰り広げられていた。

 

「くそ……、俺たちをゴミみたいに……!?」

 

 残された者達が懸命にも己を奮い立たせて矢を放つも、飛来した矢は全て萃香の咆哮によって勢いをそがれ、そのまま落下していく。運よく萃香の元まで辿り着くことができたものも中にはあったが、それらは皆、鬼の強靭な肉体を貫くことはできず、全て弾かれるに終わる。萃香の華奢な体に傷一つ負わせることができなかった。

 人ならざる者、強者たる“鬼”の咆哮。

 それは動揺をもたらすに十分であり、兵士達の士気を徐々に削いでいった。

 

「ひぃっ!?」

「ば、化けものっ!?」

 

 多くの兵士達の心が折られる中、どさくさに紛れて撤退しようとする者を萃香は見逃さない。再び右手に巻き付く巨大化させた鎖を強引に振り回し、勢いをつけるやいなや横に薙いだ。

 運悪く鎖に絡めとられた者達は体を両断され、運良い者ですら複数人まとめて吹き飛ばされていく。逃げず槍を構え、突撃しようとしたものはいざ知らず、その背後に構えていた兵士達も含めて。

 

 まず、一般の兵士達では萃香に近づけなかった。

 しかし当然である。どれだけ数を揃えようと、今の統率を失った彼らでは大妖怪相手であればただの案山子でしかないのだ。精鋭だろうが何だろうが、彼女にとっては雑兵と変わらず、何の脅威にもなり得ない。

 大妖怪とは、地形を変えるほどの天変地異を起こす存在である。

 だから、萃香がまとめて彼らを一網打尽にしようとするのも、また当然の帰結であった。

 

「ただで死ねるとは思うなよ? お前たち……。アイツの夢を奪った罰は、その身で償ってもらう」

 

 地面にたたきつけられた彼らに待っていたのは特大の鬼火。萃香が左手に作り出した鬼火は、放射状に広がっていくにつれて数を増し、やがて弾幕となる。

 理不尽の権化たる鬼を前にして、兵士達は足が竦んで逃げる選択肢すら取れなくなっていた。

 

「(初代。お前なら、こんな私を止めてくれただろうか)」

 

 彼女は飛翔し、広がる軍勢を見下ろす。眼下で己を恐れ、慄く大勢の人間達に萃香はかつて彼女が誓った博麗との約束を思い浮かべる。

 自分のやっていることは、けっして許されることではないのだろう。自分が取るべきであった行いは、こんな形での復讐ではなかった。二代目の言ったことは間違っていないのだ。

 初代はきっと、自分を許しはしない。

 

「(——いいや。どちらにせよ、もう引き返せないんだ)」

 

 萃香は迷いを無理やりに振り切った。

 彼女の目に戦いを愉しむような気配はまったくなかった。わざわざ手間をかけるつもりなど毛頭ないのだろう。ゆえに彼女は行使できる、最大級の火力をもって一掃する。

 本陣を中心とした、広大な範囲に向かってその技の名を告げた。

 

「『百万鬼夜行』」

 

 彼女の一言は死の宣告に他ならなかった。

 その後、大火が軍勢を襲い、陣を敷いていた平原は焦土と化した。

 

 

 

 ******

 

 

 

「——ああもうぅっ、人間たちはどうしてこんなときに限って愚かなことをするんですかっ!?」

 

 本当に、信じられません。彼女が命を落としたなんて。

 できることならば、その報告が誤りであってほしい。妖怪である私がそのようなことを願ってしまうのは誤りかもしれません。けれど私は、計画に協力してくれた彼女に対して個人的な恩義も感じていましたし、何よりも良き友人であると思っていました。

 

 しかし、私に連絡をよこしてきたのは二代目博麗の巫女を名乗る人物。連絡をしてきた式紙に記されていた術式は、確かに博麗が使うものでした。非常に残念ですが、この情報の信頼性は高い。確認のために部下を派遣したいのもやまやまですが、現在彼女の死体が安置されているという人里は緊張状態にあるとのこと。『不用意にこれ以上彼らを刺激しないように』と二代目は記していました。

 現時点では情報は正しいものとして扱う他はなく、さらに事をこれ以上荒立てるわけにもいかないでしょう。

 

 しかし、二代目博麗の巫女からの連絡が来てもなお、疑問は依然として残ったまま。

 どうして、彼女の命を奪う必要があったのでしょう? 

 

 そもそも、初代博麗の巫女はその功績を認められて民からの信頼を得ていたはず。そんな彼女を排除し、我々の仕業に仕立て上げることにそれほど利益があるとも思えない。

 それに、萃香様が黙っていないでしょう。すでに部下から萃香様が領主の居城に襲撃を仕掛けたと聞き及んでいます。これではこの国の城下町はよくて半壊。もはや、壊滅は避けられないのかもしれません。

 

 正直分からない。組織の上に立つ者として、領主の行いは愚かとしか言いようがないものです。

 初代は雨乞いを行っていました。彼女の雨乞いは飢饉に苦しむ人里にとって、頼みの綱でもあったのでしょう? わざわざ自らが治める国の民を困窮させようなどと、誰が考え付くものですか。よもや、自国の民を傷つけることを覚悟したうえで我々妖怪に対する憎悪を掻き立て、戦に向かわせようとしているのでしょうか? 

 

 どこかあからさま過ぎるのです。

 まるでこれでは、我々に愚かな領主だと認識させて、誤った対応を取らせようとしているのではないか、と。

 人間と妖怪の争いを大規模なものにしようという意図が感じられる上に、状況を判断するための情報がいささか少ないことも気がかりです。何か領主が何か企んでいるのは間違いない。

 

 宣戦布告からの初戦をふまえると、何か不気味な気配も感じます。

 人間達は、想像以上に強かった。偵察に向かわせた使い魔によれば、一兵卒であろうと異常な怪力で妖怪をなぎ倒し、四肢をもがれても戦い続けていました。何か、異常な力を帯びているみたいに。

 警戒を怠るわけにはいきません。博麗の巫女の暗殺からこの戦まで一連の出来事は、繋がっている可能性がある。

 

 すくなくとも今、相手にしなければならないのは一国のみ。そのはずなのですが、隣国も怪しい動きをしているため現状何とも言えない。二国を同時に相手取るわけにはいきませんし、情報は継続して収集する必要がありそう。

 

 いけませんね。

 こうなってしまうと、当初予定していた方針はとれないでしょう。悠長に停戦の交渉を持ち掛けようものなら、交渉役の覚り妖怪の皆さんを危険に晒してしまう。

 あちらの思惑にわざわざ乗ってやる必要もありません。

 

「(本当に、ここで博麗の巫女を失ったのは大きい。妖怪と人の橋渡しである彼女を失えば、我々の人里への介入は行いづらくなりますし。二代目博麗の巫女は……残念ながら初代に比べて交渉に持ち込みにくいでしょう)」

 

 つい、そんなことを考えてしまう。

 私は、彼女が死んだという知らせを受けて友人として彼女の死を悼むよりも先に、これから先における人間との交渉について不安を覚えてしまったのです。天魔となった私は、友人として死を悼む気持ちすら忘れてしまったというのでしょうか? 

 

「(私も、変わってしまったのかな……。あの頃のように、自分の気持ちに素直には生きられなくなった……)」

 

 悲しい。寂しい。そして何よりも、怖くなりました。何時の間に私の心はここまで冷え切ってしまっていたのかと。こんな姿を、まだ幼い文に見せるわけにもいかない。そう思ってもなお、意識しなければ自覚できない自分が、殊更に恐ろしくなりました。

 

「(駄目です……。今はまず、この戦の処理から取り掛からねば——)」

 

 初戦で敗北したのは痛かったのですが、まだ我々の山に立ち入らせたわけではない。相手方の戦力を見誤ったこともあり痛い目にあったというだけで、まだまだ立てなおす見込みはあります。

 切り札を早い時期に切っておくこととしましょう。ずっと控えていても自体は好転しませんからね。

 

「大天狗、覚り妖怪へに交渉役を依頼するのは止めです。おそらく向こう方の領主は停戦には応じない。彼女たちにはすぐさま避難するよう伝えるように」

「はい。……しかし、領主の正気を失ったとしか考えられないような采配、我々としても、迂闊に相手をしてはならぬのでしょうな」

「ええ。非常に残念ですが、こちらも全力をもって応戦する必要がありそうです。至急、白狼天狗に通達をしなさい……それと、筆の準備を」

「承知いたしました。……、茜様。まさか——」

「ここは、紫さんを信じる他ありません。今から鬼の皆様を抑えることなど不可能です!! ならばこちらは打てる手立てを先んじて打つだけ。これ以上、私達の山で好きにはさせない……!!」

 

 紫さん、信じていますよ。

 これより妖怪の山は人間達の襲撃に対して徹底抗戦をします。幻想郷の創立の前に、これ以上禍根を残すわけにはいきません。厳しい防衛戦となるでしょう。

 

 しかし、このようなところで足踏みをしているわけにはいきません。後もう少しのところまで、ようやくこぎ着けたのですから。

 

 恐らく貴方は今、表立って動けない。だからせめて、私は私のできることを——。

 

 

 

 ******

 

 

 

 城下町からすぐ傍の平原は、焼き尽くされていた。

 鉄でできた槍も鎧も。そして、人間は言うに及ばず。本陣にいた侍たちなどは、刀を抜くことも、断末魔を挙げることすら許されず蒸発した。

 そこに生命の気配はない。

 しかし未だ焔の立ち昇る真っ黒な焼け野原を、何事もなかったように歩く小鬼が一匹。

 

 この光景を作り上げた張本人、伊吹萃香であった。

 

 彼女は淡々と焼け野原を歩いて行く。

 そしてすっかりと風通しの良くなった城下町の大門をくぐり、萃香は町への侵入を果たした。

 大門をくぐった先には城下の街並みが広がっている。門に特殊な結界術が施されていたのか、外壁の中は無傷でないとはいえ、まだ原型を留めていた。

 

「ふんっ」

 

 萃香はその様子に鼻を鳴らした。

 あれほどの火力を受けてなお形を留めているのだ、余程の使い手がいるのかもしれない。そして、あの場には自分の“獲物”がいなかったのであろうと、彼女は察したのだ。

 すると、

 

「——早かったな」

 

 続く大通りから、しわがれた男の声がした。

 既に住民の避難は追えたのであろう。すっかり寂しくなった城下町の大通りの中央に、彼は立っていた。

 博麗の巫女を討伐した主犯であり、領主の護衛にして神通力を保持する初老の侍。彼は今泉と呼ばれる、領主直属の護衛筆頭であった。

 そして、初代博麗の巫女を討ち取った張本人でもあった。

 

「……この匂いだ。お前だね、アイツを殺ったのは?」

 

 大通りには風の音がやけに大きく響いていた。

 辛うじて互いの声が聞こえるほどに、今日の風はどこか五月蠅い。

 

「——ああ、その通りだ」

 

 暫しの沈黙の後に、今泉は答えた。

 

「そうか。やっぱり、そうなんだな」

 

 答えを反芻するようにして、萃香は押し黙る。

 一方、あれほどの軍勢を相手にしたのにも関わらず、萃香の身体に傷一つない様子を見て、今泉は嘆息して呟いた。

 

「……音と気配で大抵予想はできていたが、その様子では、味方はなす術もなく壊滅したのか?」

「答えるまでもないさ」

「やはり……」

 

 瞬間。

 これまで騒々しかった風がぴたりと止んだ。

 

 ——今泉は刀を抜いた。萃香の右拳が既に目の前に差し迫っていた。

 

「ぐっ、おおおおおおおおっ!!」

 

 両腕にかかる衝撃。耐えきれず手を離してしまえば、その時点で命はない。だが容易く受け止められるほど、萃香の一撃は軽くはない。

 結局彼は身体にかかる衝撃を地面に逃がし切れず、民家へと吹き飛ばされた。脆くはないであろう民家の壁を何件も貫き、遥か後方で噴煙を上げた。

 しかし刀を抜いて防いでいなければ、上半身もろともに消し飛ばされていたかもしれない。そう考えれば彼は十分に持ち堪えてみせた方であろう。並みならぬ戦闘経験を活かし、彼は伊吹萃香の一撃を受けて生き残ってみせたのだ。

 

「づっ……規格外の化け物め……」

「後は、お前だけだ。お前……この国を見限って、仲間を逃がそうとしただろう? 残念だったな、奴らは既に私が始末した」

 

 何時の間に今泉の老武士の前に移動していた萃香は、彼を見下ろして言った。萃香は元より、自らの分身を国境に配置していたのである。隣国へ逃げ延びようとする者を逃がさぬために。

 ここに来るまでに初代の暗殺に関わった今泉の者達を始末したことは、分身を介して既に確認していた。

 

「全員、か……?」

「ああ、そうだ。お前以外の五人、確かに私が殺した」

「そうか、だがこれだけは言っておく。我らは、この国を見限ったのではない。あくまで領主様の命令に従ったまでだ」

「……」

 

 萃香は口を噤んだ。この老武士言葉に、偽りを感じなかったからである。だが同時に、彼女は不思議に思った。老武士の顔に、仲間を殺した己への怒りが感じられなかったのだ。

 

「……どうした、私が憎くないのか? 私は、お前の仲間を殺したんだぞ?」

「いいや。我々は殺したのだ、殺されもする。その覚悟をもって、私達はあの娘を手にかけたのだ。貴様を恨みはしない。もとより我々に、貴様を恨む資格などないさ」

 

 彼はその手に握る刀を杖にして、ゆっくりと立ちあがった。

 

「だが貴様は、憎いのだろうな。そもそも、先に手を出したのは、我々だ。懇意にしていた博麗の巫女を殺し、お前たちが掲げていた理想を潰した我々のことを、さぞ憎んでいるだろう」

「……」

「憎め」

 

 彼は萃香の目を真っ直ぐに見つめ、言った。

 途端に彼から発せられる力が変質した。

 姿は人のそれとは違う。そう、それはまるで、一匹の狼だった。

 

「——許しは乞わない。恨むがいい。それはお前の、正当なる権利だ」

 

 狼は再び吹き上がった風ととともに、鬼へと向かって行った。

 

 

 

 ******

 

 

 

 萃香が城下を襲撃した前夜のこと。

 

【長月 三十日 深夜】

 

「おい、まだ起きていたのか?」

 

 妖怪の山の麓、初戦を終えて本陣に帰還した兵士達は、焚火を囲んでいた。中には次なる戦に向けて仮眠を取る者もいる。しかし、博麗の巫女が通っていた里の新人門番である青年はなかなか眠りにつけないでいた。

 

「……俺、まだ信じられないんです」

 

 彼は手に持った槍を強く握りしめる。粗末な槍の柄の表面は荒く、ささくれが指に刺さり、血が流れた。しかし彼はそのようなことなど気に留めず、ただ歯を食いしばり自責の念にかられていた。

 

 ——なぜ彼女が? 

 

 彼を含めて、ここにいる誰もが思わずにはいられない。

 三年前の戦に赴いた者は、あまねく帰ってこなかった。だから、自分もいずれそうなるのだろうと確信を抱いていた。

 最後に博麗の巫女と話す機会があってよかった。案外悪くない人生だったと、そうやって自分の人生に諦めをつけようともしていた。

 必死に自分を止めようとする母親を振り切ってもなお、である。

 

「悔いなんて、なかった……」

 

 あの日の彼女の表情が、彼の頭には焼き付き、離れなかった。

 共に笑った一時が、彼の人生の宝物だった。

 

「——死ぬのは……俺だけでよかったのに」

 

 ミシリと、手の持った槍が軋んだ。その様子を見た隣の男は、青年を諫める。

 

()()()、よせ。俺たち皆、お前と考えていることは同じだ。辛いのはお前ひとりじゃあ、ないんだよ。だから、独りで抱え込むな」

 

 隣に立つ男性もまた、青年と同じ里の出身で、同じく門番を務めている者だった。それゆえに青年の心が痛い程よく分かったのだろう。深いしわが刻まれた彼の目には涙が滲んでいた。

 

「何にも、返せなかったなぁ……」

「はい」

「俺たちで、支えてやれなかったなぁ」

「……はい」

「最後まで巫女様は、俺たちの希望だった……。なのに、何の恩返しもできなかった」

「…………はい」

 

 数時間前、集められた兵士達に向かって初代博麗の巫女の死が告げられた。

 それからの記憶は青年にはない。ただ、全力で妖怪と戦ったという疲労感のみが体には残っている。他の者達もきっと、自分と同じなのだろう。

 誰しもが皆、疲れ切った表情をしていた。肉親を失ったときのような、心に穴が空いたような感覚を覚えているに違いない。

 しかし同時に、彼らの目に確かな怒りが灯っていることに青年は気づいた。自分達が慕う博麗の巫女が殺されたという知らせは、同郷だけでなく、他の里の兵士たち皆を憤慨させるに十分であったのだ。

 

 別にそれ自体が誤りであるとは思わない。しかし青年には、初代が自分たちの行いを望んでいるとは到底考えられなかった。

 

「(誰よりも人と妖怪の共存を望んだ巫女様が、こんなことを望んでいただろうか……? そんなわけ、ないだろうな)」

 

 自分達の行いは、初代が望むものではない。それは十分に理解している。しかしどれだけ悔やもうが、今の彼には何もできない。

 月明かりのない暗闇が、今日の夜空には広がっている。

 青年がぼんやりと見つめる篝火の焔はまるで、自分たちの行き先を暗示しているかのように儚く揺らめいていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人の章:生じた疑念

 ——疾風の如く。

 

 今の彼を一言で表すならば、まさにそれが相応しい。

 豊かな毛並みに覆われた筋骨隆々な体躯からは、それに応じた瞬発力が生まれる。狼の姿と化したその身は巨体に反して身のこなしが増し、大地を蹴れば土煙が上がり、風を切り裂き、音すらも置き去りにするような勢いで萃香に接近した。

 

「ガァァッッ」

 

 地鳴りのような唸り声を上げながら、“今泉”の頭領たる老武士は萃香の喉元に襲い掛かる。

 萃香が立つ場所までの僅かな距離でも、助走をつけ、体重をのせて飛びかかればそれなりの威力になる。ましてや今の彼が飛びかかれば、たとえ鬼の身体に傷をつけることは十分に可能と言えよう。

 

 対して萃香は、咄嗟に反応できなかった。元々、鬼という種族はあまり避けるという動作を行わない。鍛え上げられた己の身体で相手の攻撃を受け止め、そして力業で打ち勝つという場合が多いからである。それゆえ、今泉のような特に速さに長ける者には少々、迎撃という観点で分が悪かった。

 彼以外の五人を始末する際は萃香が先制を取り、そのまま勝利するに終わったが、先制攻撃を切り抜けられ攻勢が転じた今の状況は、彼女にとって都合が悪いのだ。

 

「ふんっ」

 

 かろうじて萃香の拳が今泉の頬へ放たれるも、空を切る。空振りに終わるやいなや、萃香は即座にその場で身体を反転させ、左回し蹴りで追撃を行う。

 その後に続いて踵落とし、拳突き、頭突きと連撃を行う萃香であったが、どれもが紙一重で回避された。

 

「こいつ、ちょこまかとっ」

 

 距離を離すべく巨大化させた拳をもって一気に押しつぶそうとすれば、流水のように軌道を読ませる間を与えず、合間を縫って近づこうとしてくるのだ。傍から見れば苦戦を強いられてるようにも映る。

 だが、老武士に接近を許した瞬間、萃香の表情にはまだ余裕があった。

 

「——ふっ」

 

 短い呼吸とともに萃香の輪郭がぼやける。

 萃香は濃密な妖力の霧と化し、今度は今泉の咬みつきが空振った。

 

「グゥウ……」

 

 素早く後退して距離を取り、周囲を警戒しながら唸る老武士。

 辺りを見回しても、萃香の姿は見当たらない。だが、萃香の妖力はそこかしこに感じ取られる。おそらくは疎を操り、自らの身体を霧へと変え、辺りに潜んでいるのであろう。

 この状態で彼女を仕留めきるのは難しいが、逆に彼女がこちらの命を奪うこともまた、難しい。

 霧のままだと決定打を与えられない萃香は、必ず霧化を解く。

 彼はその機会を油断せず待っていた。

 

 ——果たして、彼の予想は的中した。

 

「ソコダァァ゛ッッ!!!」

「ぐっ!?」

 

 萃香の脇腹を、爪が引き裂いた。

 背後から迫っていた萃香の一撃をすんでのところで回避し、今泉は前足で切り裂いたのである。まさか完璧に対応されるとは予期していなかったのか、萃香はもろに一撃を食らってしまった。

 

 彼の大狼の爪は、鬼の表皮を切り裂くまでに鋭利で頑丈である。

 だが、どれだけ鋭い一撃であろうと、それだけでは鬼を怯ませることなど不可能。

 ゆえに彼は攻勢を仕掛けた。

 

「ガゥッ!!」

「ぐ、こなくそっ!」

 

 前足で萃香の身体を押さえつけ、すぐさま肩に咬みつく。

 ぶちぶちと嫌な音を立てて肉が裂け、牙が深く突き刺さった。そのまま鋭い牙で首を引き千切ろうとする老武士に、抵抗する萃香。

 

「ち、鬱陶しいっ!!」

 

 萃香は巴投げの要領で無理やりに彼を空中へ放り投げると、食い千切られた方の肩を手で押さえながら、手に巻き付いた鎖を妖術によって伸ばし、今泉めがけて飛ばした。一度拘束してしまえば対処するのは容易い。身のこなしが己より勝る相手であろうと一気に脅威を削ぐことができるはずだ。

 対する彼もまた、捕まるまいと全力で疾走し迫りくる鎖を紙一重で回避する。

 

 相手に息をつかせてはならない。思考する余裕を与えてはならない。

 

 萃香と老武士はまったく同じことを考えていた。

 両者の駆け引きは短時間で数えきれないほどまでに及び、じりじりと互いに消耗を強いていた。

 

「だぁァァァァァァァァッッ!!!!」

 

 痛む肩を庇うこともなく、萃香は妖力を纏わせた鎖を強引に掴み振り回した。

 妖術によって引き延ばされた鎖は城下に立ち並ぶ屋敷を次々となぎ倒しながら、恐ろしい速度で今泉へと迫った。彼女が全力で振り回せば、いくら老武士の目をもってしても対応できるものではなくなる。彼からすれば、もはや自分の運に任せるほかなかった。

 戦闘で培ってきた勘と、己を今まで生かしてきた悪運。それらは彼を一歩、そしてまた一歩と前進させた。

 

「ガァァァァァァァァァッ!!」

 

 自身の恐れを殺し、ただ前へと駆ける老武士。迫りくる鎖をすんでのところで回避し、彼は萃香のすぐ傍まで再び接近した。

 

「運のいい奴めっ!! しぶといっ!!」

「オォォォォォォッ!!」

 

 血に飢えた獣の咆哮。

 彼は全力疾走したそのままの勢いで萃香の首元に咬みつき、今度は首を左右に振って、咬み千切ろうとした。

 

「ぐっ、づぅっ!!」 

 

 萃香の首元から鮮血が撒き散った。

 再生力が間に合わぬほどに傷が深い。

 激痛に顔を歪ませる萃香であったが、彼女は無理やりに笑った。血にまみれた姿でなおカラカラと笑う様はまさに鬼気迫っている。暴力をさらなる暴力で押さえつけようとする、獰猛な笑みであった。

 

「——はっ、痛かないさ!! この程度、アイツの痛みとは比べ物にもならない!!」

「!?」

 

 完全に萃香を押さえつけてたはずなのに、気づけば己の身体が遥か後方へ吹き飛んでいた。

 

「(あの状態でもまだ動けるのか……)」

 

 空中で華麗に身を翻し、民家の屋根の上に着地する今泉の老武士。

 

「(……なんだ、この“重み”は……?)」

 

 身体がいつの間にか重くなっていた。つい先ほど勝敗の天秤は彼の方へと傾いたはずであったが、彼はその実、かなり疲弊していた。

 彼が一瞬感じてしまった、『優勢になった』という意識。その一瞬の油断こそが致命的となっていたのだ。

 彼は、反応が遅れてしまったのである。

 その結果、全身が圧縮されるような、不思議な力が彼に働いていた。

 

「(伊吹め……何をした……?)」

 

 後方に吹き飛ばされ意図せずして距離を取ることができたものの、未だ己に働く謎の力は判明しないまま。先ほどから眩暈がする他、戦いの最中というのに、集中力がどうにも欠ける。これでは己自身の速度に思考が追い付かなくなってしまう。己の速さというアドバンテージが失われたも同然である。

 

 毒か? いや、そのようなはずはない。毒を盛るような仕草など見受けられなかった。

 混乱する彼は萃香の能力の汎用性の高さを認識していなかった。

 

『密と疎を操る程度の能力』

 

 先ほど、萃香はその能力により周囲の空気の圧力を変化させていた。そして周囲が急激に加圧された結果、彼は肉体に不調をきたしていたのだ。

 視覚、聴覚ともに負担がかかる中、彼は必死に打開策を考えていた。

 

「(このままでは、不味い……)」

 

 刻一刻と症状は悪化の一途をたどっている。

 無論、彼のもつ知識からでは、自らの症状が周囲の気圧の変化によるものであると結論付けられない。原因を突き止め、直接的な打開策を講じることは不可能である。

 しかし、現状から脱却しうる手段は有していた。

 ただ、それを本当に使用するべきかで彼は悩んでいた。

 

「(だが領主様より与えられたこの力。使わない手はない。しかし——)」

 

 彼は一瞬たりとも萃香から目を離さず、唸りながら呼吸を整えた。

 

「(そもそも領主様は、本当に私達を信じておいでなのだろうか? なぜ、領主様は私達を前線に立たせなかった? さすれば、防衛部隊が全滅するなどという悲惨な結果にならなかったはず。城下も壊滅を免れたはずだ……)」

 

 彼は萃香の前に立つ直前に、領主からある力を受け取っていた。使い方にもよるが、この状況を打開することはできるかもしれない。しかし領主の与えた力の内容はあまりに不可解。

 与えられた力を使うべきか、使わざるべきか。無自覚に領主への不信感を抱いていた彼は迷ってしまった。

 

 普段の彼なら戦闘中、そのようなことに気を取られることはない。だが、萃香によって意識を半ば混濁させられている今の状況で、潜在していた領主への不信感が意識の表層へ浮かび上がってきてしまっていたのだ。

 

「(……いや、落ち着け。今はなりふり構っておられん。まだ頭が働くうちに、手を打たねば——)」

 

 老武士はゆっくりと息を吐き、呼吸を整えた。

 その一方で、萃香はその様子を窺いつつも、徐々に違和感を覚えはじめていた。

 けっして己が追い込まれているというわけではない。しかし、彼の老武士はまだ何かを隠していると自身の直感が訴えていた。

 

「(今ここで潰すべき、か。やっぱり下手に考える時間を与えるもんじゃない)」

 

 相手の全てを引き出し、それを受けてなお勝利する。それが鬼としての誉れである。しかし萃香はこれまでの失敗を含めて、他の鬼とは異なる行動原理に従うようになっていた。

 特に、月での失敗は彼女を大きく変えたとも言える。

 あれから萃香は、ときに狡猾さを伴うような行為にも忌避感を覚えなくなっていた。

 ゆえに、先に動いたのは萃香だった。

 彼女が導き出した結論は早期に決着をつけること、ただ一つであったのだ。

 

「おらぁぁァァァァッッッ!!!」

 

 踏み出す一歩は鋭い。

 今泉が完全に呼吸を整える前に、隙をついて萃香は攻めた。

 彼が立つ民家の屋根までの距離を一息で詰めると、己の身体を敢えて重くし、高密度になった拳で地面を突き破った。

 城下町の大通りが大きな音を立てて割れた。

 地割れの底から“山”を思い起こさせるような大きさの岩盤が突き出てくる。萃香はそれの端をむずと掴むと、無理やりに引き千切って持ち上げ、老武士に向かって放った。

 

「『戸隠山投げ』」

 

 人間でいう“常識”そのものを覆すような、まさに天変地異。

 この光景を目にした者は誰でも『大地が空から降って来る』と、そう評するだろう。

 大小様々なおおきさの岩、そのどれもが、形を崩すことなく標的めがけて落下する。萃香の『密と疎を操る程度の能力』によって空中での軌道が微調整され、放り投げた岩すべてが彼へと向かうようにしたのだ。

 見掛けでは大雑把で荒々しい技であるが、その実、繊細さも兼ね備えていなければ成立しない。それゆえに、周囲に与える被害は凶悪であった。

 

「(——なるほど、外の防衛部隊が全滅するわけだ。直前に領主様が張られた結界で守られていなければ、都は既に焦土と化していただろう)」

 

 迫りくる圧倒的な暴力に対して、今泉は奇妙なほどに冷静だった。すでに、彼の意識は領主の“能力”によって、影響を受け始めていたのである。

 彼は自覚していないが、先程まで萃香の能力によって麻痺させられていた感覚器官は既に回復していた。

 

「(訂正しよう。貴様のような化け物を、私一人で打ち取ることはできないかもしれん)」

 

 徐々に、彼の背中が光を帯びていく。

 

「(だが——)」

 

 己を襲う巨大な岩盤は現実であるが、それも所詮は“ただの岩”。ならば打ち砕いてみせればいいのだ。

 

「(たとえ私が破れようとも)」

 

 背中から発っした光の奔流が放射状に広がり、次第に今泉を包む。

 

「(たとえ、この国が滅びようとも。勝つのは我々だ)」

 

 すると、豊かな黒色の体毛に覆われた狼の身体はさらに巨大なものとなった。

 

「——ォ」

 

「オオオオォ」

 

「オ゛オ゛オ゛オオオオオォ!!!!」

 

 黒狼は吠えた。

 まさに獣の咆哮であった。

 そして彼の背中に存在する“扉”が、彼の咆哮に呼応して、眩く輝いた。

 

 間もなく空中の大岩は、けたたましい音と共に割れた地面へと衝突した。

 城下町の約七割が呑み込まれる中、立ち昇る砂埃は天高く昇っていく。以前、紫と萃香が一騎打ちをしたときと同様、辺りの景色は一変した。

 

 もう、この町に再び住みたいと考える者などいないだろう。

 城下は、現時点をもって完全に壊滅した。

 

「——はぁ、はぁ……」

 

 さすがの萃香も息が上がっていた。素早い今泉の老武士を相手にする中で、彼女はほとんど呼吸をしている間がなかったためである。

 長時間潜水を行った後のような疲労感が彼女の身体を襲った。

 

「(さすがに、()()()避けられないだろう……)」

 

 今泉が『戸隠山投げ』を回避するのは想定内。彼女はそう考えていた。しかし、無傷では済まないとも考えていた。

 彼に向かって飛来した岩は、萃香が引きずり出した巨大な岩盤が目を引くものの、他にも多数の大小さまざまな岩が降り注いでいる。大きなものでは人の住む住居に匹敵し、小さなものでも人の頭ほどの大きさはある。直撃はせずとも負傷くらいはするだろう。

 

「(アイツは、他の五人とは違った。たしか頭領って言ってたか? まだ何か隠しているのかもな)」

 

 すると、

 

 町の一角から広がっていた土煙が、渦を巻いて空へと巻き上がり、徐々に景色が鮮明となっていく。

 

「……これは驚いた」

 

 萃香の栗色の髪が風でなびいた。

 無論、この風は自然のものではない。彼が巻き起こしたものであろう。

 

「二回戦ってところかい……。本当にしぶといね、アンタ」

 

 萃香は不敵に笑った。

 立ち昇った渦の中心には、黒い狼が一匹。その紅い双眼で、こちらを鋭く睨んでいた。

 

 

 

 ******

 

 

 

 萃香が城下町を襲撃している最中のことである。

 

「茜様」

 

 大天狗は茜の屋敷へ報告をすべく、足を運んでいた。

 

「鬼の皆さま方に、動きがありました」

「……入りなさい」

 

 部屋への入室を許可されると、大天狗は静かに扉を開け、入室した。

 中では茜が、机に重ねられた書類と睨めっこをしている最中であった。視線は相変わらず大天狗の方へ向けられてはいないが、彼は構わず報告する。

 

「使い魔からの報告によりますと、彼らが人間達から離れていくように移動を開始したとのこと」

「なるほど、続けなさい」

 

 朗報、にも聞こえる。

 しかし、依然として彼女の目は厳しかった。開戦してからまだ間もないが、情報は彼らに伝わっているとみて間違いない。いくら鬼が人間から遠ざかるように移動しているとはいえ、それが交戦しないことを担保するわけではないのだ。紫がしくじるとは考えにくいが、このとき彼女は最悪を想定した。

 

「さらに星熊勇儀殿から、『この戦には不干渉』という書状を受け取りましてございます」

「なんですって?」

 

 大天狗の方へ首を向け、茜は思わず素っ頓狂な声を上げた。次いで、恐る恐る大天狗から書状を受け取る。

 すると確かに勇儀の筆跡で、今回の戦に不干渉の立場を取ること、また、住処を別の場所に移すという内容が記されていた。紛れもなく、これは紫の働きかけが上手くいったことによるのだろう。書状を読み終えた茜はそっと、胸を撫でおろした。

 

「良かった……」

 

 しかし、彼女は不思議に思った。

 

「(一体どのような手で鬼の皆様を鎮められたのですか、紫さん? 申し上げにくいですが、貴方は方々と特に相性が悪かったはず……)」

 

 紫は、周囲に対して無自覚に“畏れ”を振り撒く。

 彼女の特性として、それは抑えられるような代物でない。ゆえに慣れぬ者からすれば、彼女は自身の思い描くものの中で最も恐ろしい存在として映ってしまう。人間ならばいざ知らず、妖怪でさえもその限りではない。さらに厄介なことに、彼女自身がその気になってしまうと、対象に対して根源的な死の恐怖を呼び覚ますことすらできてしまうのだ。

 

 人間であれば肉体的な死を想起させることができるが、鬼にとって最も恐ろしいものとは、肉体的な死ではない。それならば、鬼が彼女と相対した場合、どうなるのか? 

 

 人間を相手にしたときよりも壮絶な光景が作り出されるのだ。

 まさに地獄絵図と化す。

 鬼すらも恐れる“虚無”として、八雲紫は認識される。心を保てなければ発狂し、暴走してしまうことだろう。すなわち紫が鬼の集団の元を訪れると、下手をしてしまえば大規模な暴動が起きかねないのである。

 

「(今、それを気にしても仕方ないですね……。事実として上手くいったのですから、私から言うべきことはないでしょう。それに——)」

 

 茜は、大天狗の報告が終わっていないことに気づいた。

 

「……まだ、何かあるようですね」

「はい。鬼の皆さま方が戦に参入する危機はひとまず脱しましたが、人間たちの襲撃は以前続いたままでございます。現在は襲撃が止んでいるところですが、麓より離れた場所に戦力を結集し、なおも兵力が増大しているとの報告を受けています。今のままでは、押し切られまする」

「そうですか……」

 

 はじめ、茜と大天狗は人間を相手にしても十分に勝機があると考えていた。しかし、いざ蓋を開けてみれば、想像を超えた圧倒的な数に加えて、強力な兵士達を相手にすることになった。戦線は未だ崩れていないものの、被害は少なくない。

 そこで根本的な問題を解決すべく、人間達の身に働いている不可思議な力について部下に調査を命じているが、状況は芳しくない。

 当初の予想を遥かに超えて、大苦戦を強いられていた。

 

 勿論、茜や大天狗など、有力な者自らが前線に立って蹴散らすという手段もとれる。彼らが加われば戦況を大きく変えることも不可能ではない。だが、一度前線に出てしまえば、もはやこの戦に歯止めはきかなくなる。

 既に人間と妖怪の間での全面的な戦となってはいるが、どちらも未だ主力を投じてはいない。どちらか一方が主力を投じれば、歯止めが利かなくなり、互いに大きな消耗を強いられることとなるだろう。

 そして、この戦を大規模にできない理由はもう一つある。それは、京に存在する陰陽師や、妖怪退治専門の侍達の存在だ。彼らは数が少ないものの茜や大天狗からしても脅威となり得る。何より彼らの恐ろしいところは、遠方まで嬉々として出向いてくる点である。東国の、それも小国ではあるが、この国に京から討伐隊が派遣されるとも限らない。

 それゆえに、茜は未だ有効な手立てを打てなかった。

 

「(何にせよ、このままではいられないですよね)」

 

 茜は額を手で覆い溜息をつくと、大天狗の方を向いて言った。

 

()()()への依頼は既に済みました。彼女たちはこちらの依頼を聞くなり快諾したので、すぐにでも前線へ出張って来るでしょう」

「……恐れながら、奴らを登用するのは、やはり危険を伴うかと。確かに今のままでは不味いと申し上げましたが、これをきっかけに奴らが勢力を伸ばすやもしれませぬ」

「前にも言ったでしょう? こうなってしまうと、他の手段を選んではいられないのです。彼女たちのように目立たず裏から戦力を削ぐ存在が、今の私達には必要なのだから」

 

 大天狗は唸った。

 土蜘蛛と呼ばれる者達。彼女たちは強力かつ無慈悲な妖怪として、周囲から恐れられている存在の一角である。鬼や鴉天狗ほどの大きな勢力を持っているわけではないが、妖怪の山において、無視できない勢力の一端でもある。

 大天狗が顔をしかめたのは、単純に彼女たちの気質が危険であるためだった。基本的に土蜘蛛は狡猾で、手段を択ばないような者が多い。気を抜けば、天狗ですら出し抜こうとする連中である。そんな彼らを登用することに、大天狗は不安を覚えていた。

 しかし、

 

「……いや、仕方ありませぬか。これ以上の被害を拡大させるわけにもいかず、そして人間達を刺激しすぎることもまた、危険ですからな。目立たず戦力を削げるのは、天魔様のおっしゃるように、土蜘蛛の他おりませぬ」

 

 大天狗は結局、茜の案に従うことにした。自分が前線に立つわけにいかないことを彼は理解している。表立って行動できる者が少ない中、確かに土蜘蛛の協力は欠かせない。

 

「ええ、彼女たちなら上手くやってくれるでしょう」

()()()()()、ですか?」

「……そうです」

 

 その名を口にした瞬間、茜の顔が曇った。

 

「こう言っては差し出がましいかもしれませぬが、あの者をあまり信用しすぎないよう」

「分かっていますよ。私だって、天魔の役目くらいちゃんと理解しているのですから。しかし、私は彼女を信じたい」

「そうでございますか……」

 

 大天狗は逡巡した様子であったが、

 

「……それならば、私はこれにて」

 

 やがて何も言わずに去った方が良いと結論付けたのか、静かに退出した。

 それを見送った茜は深い溜息をついた。

 届いた土蜘蛛からの書状によると、早ければ今晩からでも活動を開始すると書かれていた。襲撃してくる人間達の相手をしっかりと努めてくれると、彼女は期待している。

 だが、懸念事項は妖怪の山のみではなかった。

 

 大天狗が部屋を訪れる前、彼女はずっと書類に頭を抱えていた。

 それは、萃香の件である。

 

「(萃香様が領主の城を襲撃してから、使い魔からの連絡が途絶えた……)」

 

 紫が勇儀をはじめとした鬼の集団を戦から遠ざけてくれたものの、伊吹萃香という大駒は依然として盤面に残ったままだ。

 妖怪の山への襲撃に使われる戦力を分散させてくれてはいるが、彼女が城下を壊滅に追い込めばもはや人間と妖怪の間の溝は修復不能となる。

 

 奇跡でも起きなければ、この地域一帯の人間は疲弊し、やがて死滅してしまう。あるいは京から大規模な討伐隊が派遣されるだろう。そうすれば、幻想郷の創立などもっての他で、自分達妖怪も住処を変えなければならない。

 現状は、常に綱渡りなのだ。

 一歩でも踏み外せばもう後戻りはできない。多くの生命が死に絶え、地獄は魂であふれかえることになる。

 

「(ん……?)」

 

 茜は何やら背筋に鳥肌が立った。

 

「(これを、紫さんは狙っていた……?)」

 

 これまでの紫の言動がつながる。

 

 ***

 

『星熊勇儀は私が抑えに行くわ。丁度、鬼を含めた荒くれどもを詰め込む()()()が見つかったの』

『ゆ、紫さん自らですかっ……!?』

『ええ、だから鬼に抑止については私に任せなさい。ただ、しばらく私は方々に手を回すことになるから、人間達の相手は頼むわよ。活かすなり、殺すなり、貴方の好きにしなさいな』

『て、天狗の里は争いませんっ!! やっと平和を取り戻したんですからっ。それにまた人間達と争いでもしたら、紫さんの計画にだって影響が——』

『私が何も想定していないとでも? 貴方がどちらを選ぼうとそれは些細なこと。だから私は貴方に“選択肢”を与えたのよ。貴方が思う、“最良”の選択をなさい』

 

 ***

 

 茜の選択に関わらず、紫は未来を予測しているかのようなことを言った。さらには最良の選択をせよ、とも言っていた。

 

「(まさか)」

 

 急に立ち上がったため、座っていた椅子が倒れた。

 

「(そんな……)」

 

「(——()()()()()()()()()()()()()()()()()()……!?)」

 

 

 

 ******

 

 

 

【神無月 一日 昼】

 

 あれから、数度に及んで城下町の破壊が起きた。

 お互いに一歩も退かず、全力でぶつかりあえばそうなってしまうのも頷ける。特に萃香の攻撃は周囲に影響を与えやすい。彼女が暴れまわれば、地は割れ、屋敷はあまねく燃やし尽くされるのだから仕方がないだろう。

 

 老武士はよく耐えた方であった。あくまで“人間”に分類される彼が、伊吹萃香という大妖怪の領域を超えるような存在に、一時とはいえ咬みついたのだ。

 無論、相性もある。萃香に対してはその素早さが有利に働いたが、それがかえって仇ともなってしまったのだ。他の者であれば異なる結果になりえたかもしれない。博麗の巫女に対しては十分に力を発揮し、討ち取るまでに至った。茜や妖忌であろうと、勝利までとはいかずとも、撃退くらいならば可能であったかもしれない。

 

 しかし、結果は結果として、無慈悲であった。

 伊吹萃香は正真正銘の化け物だった。

 

 

 ***

 

 

「はぁ、……はぁ」

 

 肩で息をする今泉の頭領。

 あれだけ大暴れすれば、もう精も根も尽き果てただろう。右腕は根元から奪ってやったし、身体のあちらこちらは火傷に裂傷だらけ。もうコイツにこれ以上、戦う気力など残っていないに違いない。

 

 コイツは姿を狼へと変え、私に差し迫る勢いで応戦して見せた。それに『戸隠山投げ』を切り抜けたのは、さすがに驚いたよ。

 きっと状況が状況なら、私が殺した他の五人と一緒に挑めば、あるいは勝機があったのかもしれない。そんなことをぼんやりと思った。

 

 だけど、今更どうでもいい。目の前に入る奴が格下だろうが、格上だろうが、そんなことは関係ない。ただこの身を怒りに任せている方が、私は苦しまずに済むんだと分かっていたから。戦いを愉しんでいるよりも、ずっと。

 

「殺すがいい……。もはや、悔いはない」

 

 一時は不気味なくらいに威勢がよかったが、何だか放心しているようだった。今やっと、正気を取り戻したみたいだ。途中からおかしいとは思ったけど、やっぱり自我に何か負担をかけていたのかもしれないね。

 だが、それにしてもさ。

 なんだろうね、この虚しさは。

 

「そうか……悔いはない、ね……」

 

 抵抗する気力もないんだろう。今なら楽にやれる。

 なのに、一思いにコイツを殺せない私がいた。

 

「ほんと、勝手なもんだよ。自分の番が来たら、潔く死ぬのかい……」

 

 不思議な気分だ。この怒りは嘘偽りのない、本物だったはずなんだ。

 なのにどうして、こんなにも虚しいんだろう? 今、私の目の前にはアイツを殺した張本人がいるっていうのに。

 

「どうしてさっ……」

 

 もう抑えきれなかった。

 

「どうしてアイツは死ななきゃならなかった! どうしてアイツだったのさっ!?」

 

 分かってる。こんなことを言ったって無駄なんだ。

 コイツにいくら怒鳴っても、私の満足いくような答えなんて返ってくるはずもない。

 

「一生懸命働いたのに、割を食わなきゃいけないっていうのかい? おかしいよ、そんなの」

 

 でも、言葉にしなきゃおかしくなってしまいそうだった。

 

「博麗の巫女は、民からの支持を集めすぎてしまったのだ。国を守る領主様にとって、彼女の存在は危険にほかならかった」

「そんな理屈が通るものかっ!!」

「すべては国を守るため!! 民が死のうと、城が落ちようと、国を守らねばならぬっ!!」

 

 血反吐を吐きながらそう叫んだ今泉は、私を見据えて言った。

 

「鬼の頭領よ。これが人間だ。人間が築く国というモノなのだ。我々は貴様らのようには強く生きられない。罪なき者が、いわれなき理由で死なねばならぬ時がある。国の礎となるために」

「それが偶々アイツだったと?」

「……そうだ」

 

 まるで話にならない。

 ああだめだ。

 こんなに憎いのに。殺意が、敵意が静まってしまう。

 まるでこの男は殺してはならないのだと訴えかけてきているみたいに。

 

「……ああ、やっぱり私はお前を許せない」

 

 思えば紫のときもそうだった。紫が憎くて憎くてどうしようもなくて、私は毎日血眼になってアイツのことを探し回っていた。

 だけど、あの戦いの後、私の中から憎しみは綺麗さっぱり消え失せていた。今ではどうして憎かったのかすら、思い出せない。

 

 月の都を攻めたときもそうだった。そうだ、私は綿月とかいう月の都の武将に完膚なきまでに敗北したんだ。本来、私の死地はあそこだったんだろう。散々痛めつけられて、死んでもおかしくはなかった。それで、紫に助けられて……。

 

 ……紫に助けられて? 

 

 ふと我に返った。身体の奥から熱くなっていたものが急に冷めてきて、次第に背筋が凍りつきそうになった。

 

「(私は、何かを忘れている……? 紫に助けられて、それからどうなった?)」

 

 何かが隠されている。

 

「(私は、あの後、一体どうなったんだ? ……くそっ、思い出せない!)」

 

 何かが、なかったことにされている。

 なぜ今まで気づけなかったのだろうか。

 私の記憶は、恐らく誰かによって一部を秘匿されている。私だけじゃない。幽々子も、妖忌も、茜も、そして初代だって。

 

「(皆、何かを忘れさせられているんだ……。その証拠に、誰もあの戦のことを自分から話そうとはしなかった……まるで何事もなかったかのように——!!)」

 

 途端にある仮説が思い浮かんだ。

 

「(誰かが、私らの動向を監視していた……?)」

 

 それは、紫なのだろうか。いや、わざわざ自分で自分の計画を邪魔立てする理由が見つからない。

 すると、幽々子か? 茜か? それとも——。

 いいや。まだ、分からない。どれもこれもが不確かだし、今現在、私にそれを判断する情報が整っていないんだから。

 すると今、目の前のコイツには、聞かなくちゃならないことがある。

 

「今泉、お前は確かその頭領だったよな? ……いつからこの国の領主に仕えている?」

「……貴様……何故、そのようなことを——?」

「いいから、質問に答えろ」

 

 片腕が焼き切れた今泉は、時折、血の混ざった咳をしながら私の質問に答えた。どうやらコイツは、私の予想通りもっとも長くこの国の領主に仕えているという。

 それならなおさらだ。

 

「お前たち……いや、お前たちの背後にいるのは、何者だ……?」

「背後……とは? 私達が忠義を尽くすのは、ご領主様ただ一人……何を、戯けたことを言うておる?」

「今の領主は、本物なのか——?」

「なっ!?」

 

 今泉が目を見開き、そのまま固まった。

 負傷した右腕のことを忘れたみたいに、何かこれまでの記憶をつなげ合わせようとしている様子だった。

 コイツも、薄々感じていたのかもしれない。

 そもそもコイツが領主に仕え始めた理由というのが、なんでも神通力をもってしまったその身を匿い、果ては一族を庇護してもらった大恩があったから。そんな男ですら己の領主に疑念をもっているんだ。どう考えたって、今の領主が異常なのは間違いないだろう。

 

「(初代。アンタを殺したコイツのことを、私は許せそうにはない。人間達を殺したのだって、後悔していない。けれど、それでもね)」

 

 ——私はアンタのいない世界に、何を見出せばいい? 

 

「……私は、この憎しみを誰にぶつけたらいい? 沢山侍達を殺した。城下を潰した。逃げ惑う奴等だって、容赦なく、叩き潰した」

 

 でも、このままじゃ終われないんだ。

 

「私は、敵を見誤っていたのかもしれない……。ここに来る前から」

「貴様っ!!? 今更、何を——!!」

「ああいや、後悔なんぞしていないよ。お前たち侍が初代を殺した。それは紛れもない事実だ。それだけでこの国を潰す理由は十分にある。だがな——」

 

 不愉快だ。私は怒りで我を見失っていた。

 

「今回の騒動、誰かが裏で糸を引いている可能性がある」

 

 危うく再び過ちを犯すところだった。すぐにコイツの命を奪っていたら、気づけないままだったかもしれない。

 

「(すると私は……嵌められたのか。二代目の言ったことは、つまり——)」

 

 あの小娘の言ったことは、こういうことだったというのか? だが、小娘が知っていたとは思えない。いくら式神を使って情報を得ることができると言ったって、限度がある。それも警備が厳重な城下の、それも領主の居城に潜入することは容易くないだろう。

 それなら、二代目がずっと感じていた“違和感”の正体は? 何かが繋がりそうなんだ。

 

 考えろ。今までの過ちを忘れたか。

 まず落ち着いて状況を整理するんだ。

 

 始まりは、隣国との人間同士の戦。

 人里を襲った飢饉と疫病。

 初代の雨乞い。

 そして、初代の殺害。

 ほぼ同時期に始まった妖怪の山との戦。

 最後が、私の城下町への強襲。

 

 これら一連の出来事が誰かに仕組まれていたとしたら? 二代目は言っていた。『初代の雨乞いの進行に応じて戦備えが進んでいるようだった』と。初めから初代を殺めるつもりでいたのなら、この事態を狙っていてもおかしくない。

 つまりはどれもが計画的だったんだ。

 この国の領主は、この地域一帯を滅ぼそうとしているのかもしれない。それも、ただ滅ぼすんじゃない。人も、妖怪も区別なく、隣国までも巻き込んで。

 ダメもとで、聞いた。

 

「お前は、領主が何を企んでいるのか、知っているか?」

「……分からん。だが、あの方は、聡明なお人であった。ときに御自らが先頭に立って戦い、ときには里を訪れ民の話を聞いてまわった。そんな彼女が隣国との戦から、どこか変わってしまったのだ。まるで、別人のように」

 

 思った通り、だ。

 

「お前も知らないのか。隣国との戦が始まったのは確か、三年前だったな……」

 

 あれから、両国が停戦するまで多くの人間が死んだ。中には、巻き込まれて滅んだ小国だってある。だが、この国と隣国は生き残った。狙いすましたかのように、二国だけだ。

 人間達の戦が始まった最中、紫は言った。

 

『いずれ此処に、“楽園”を作る。だから、どうか貴方達の手を貸してほしい』

 

 初代は迷うことなく紫の言う“楽園”の計画に手を貸すことを決めた。茜も幽々子も、妖忌も、そして私も、結局計画に一口噛むことになった。

 この計画に必要なのは、まず土壌だ。人と、妖怪の間の溝は深い。だからまず、互いに理解し合えるような土壌から作り上げなくちゃいけないって紫が言っていた。

 もっともだと思う。だが、

 

 もしも、この地域一帯から人も、妖怪も皆死んでいったのだとしたら? 

 

 計画は、破綻する。全てが無に帰するだろう。

 つまり、この国の領主の目的は、私達の計画を潰すこと、か? それとも、その領主の背後に、何者かがいるっていうのか? 

 

「……お前を、今ここで殺すのはやめだ」

 

 先に確認しなくちゃならないことができた。領主に問わねばならない。コイツを殺すのは、その後だ。その前に勝手に死ぬのなら、それはそれでいい。

 私は領主の居城を目指して歩いた。

 この国の領主と呼ばれる、得体の知れない何かがこの先にいると信じて。

 

 

 

 ******

 

 

 

【神無月 一日 夕刻】

 

「ゆ、ゆかりさま。あれで、ほんとうによろしかったのでしょうか?」

 

 紫を見上げる彼女は、不安そうな顔をしていた。

 

「おそれながら、“おに”は、ほんとうにこちらのいうことをきくとはおもえません……」

 

 これまで再三、鬼の住処へと赴いては情報収集を行いながら交渉の場を整えてきた。そして今回、ようやく鬼の頭領の元へ直接交渉をもちかけるまでに至ったが、もちろん彼らは快諾するはずもなく、一部の者達が襲い掛かって来た。その場で大規模な戦闘に発展したのである。

 

 しかし、最終的にはこちらの要求を受け入れさせる結果と相成った。

 

 結果だけ見れば成功したとも言えよう。だが藍が懸念しているのは、事態が簡単に進み過ぎている点である。

 藍の指摘はけっして見当違いなどではなかった。

 

「そうね……、ところで藍。貴方は、急に自分の縄張りを誰かに奪われたとき、どんな気持ちになるかしら?」

「ふえっ?」

 

 質問にまさか質問で返されるとは思っていなかったのか、藍は素っ頓狂な声を上げた。しかし、よくよく思い出してみれば、このようなやり取りは今回が初めてではない。そう思いなおした藍は、紫の質問への答えを考えた。

 幾ばくかして出てきたのは、

 

「えっと、いやな……きもちになります」

 

 無難な答えであった。

 というより、当然である。誰だろうと自分の縄張りを荒らされたらいい気持ちになるわけがない。

 

「なるほどね。ならば、奪うのが人でなく、必然的な事象であればどうかしら?」

「……?」

 

 人ではない、ということなら他に何があるのだろう? 藍は考え込んでしまった。

 

「もしも、誰かの仕業と言えるような人為的なものでなく、不特定多数の要素が絡んだ逃れようのない“悲劇”であったら……? 誰も恨むことはできないでしょうね。なにせ対象がいないのだから。きっと、納得はできなくとも、受け入れざるを得ないでしょう」

 

 未だ答えが分からず考え込んだままの藍の頭を、紫はそっと撫でた。

 

「まあ、私は誰から恨まれようと、気にしないけどね」

 

 いつになく優しく微笑む主人の姿は心なしか泣いているようにも見えた。しかし藍はぐっと堪え、口に出さなかった。

 

 数時間前。

 紫は妖怪の山の一角の、鬼たちがねぐらとする洞穴へと足を運んだ。当然、道中彼らに囲まれ一触即発になり、一部の発狂した者に襲われたが全てを返り討ちにした。

 とはいえ、彼女の目的はあくまで交渉。まともに相手をするでもなく、再起不能になる一歩前まで叩きのめしただけであった。

 

 その光景は隣に控えている藍ですら、畏怖するくらいであった。襲い掛かって来た強大な鬼を、有象無象を相手にするかの如く薙ぎ倒したのだ。しかし何よりも藍が驚いたのは、萃香が不在の中、鬼を率いていた星熊勇儀の言動である。

 

「(ほしぐま、ゆうぎ……。まさか、たたかいもせずに、まけをみとめるなんて……)」

 

 彼女だけは、紫と事を構えなかった。

 紫を目にした途端、それまでの剣呑な表情が消え、戦意がなくなっていたのだ。紫が鬼に対して要求したのは人間への不干渉。人間を大層恨んでいたはずの彼女が、どうしてそのような要求を受け入れたのだろう? 

 二人は、たいして言葉を交わさなかった。にも関わらず、去り際に『いつの日か、また会おう』という言葉を残して、彼女は鬼を率いて何処かへ行ってしまった。

 

「(まさか、おしりあい、だったのでしょうか?)」

 

 藍には分からない。彼女の知る限りの交友関係は、西行寺幽々子をはじめとした面々である。もしかすると伊吹萃香を介して勇儀と顔を合わせていたのかもしれないが、事実は依然として明らかにならないまま。紫本人が口に出さない限り、藍は知ることもできないだろう。

 俯きながら考え事をしている最中に、紫は藍に語り掛けた。

 

「初代博麗の巫女は、本当に残念だった。彼女を説得できなかったのは痛いけれど、それをあまり気にすることはないわ、藍」

 

 藍が俯いているのを見た紫は、何やら勘違いをしたらしい。

 彼女が悩んでいる理由が、博麗の巫女の説得失敗にあると考えているようである。

 

「計画は少しずれたけれど、概ね上手くいっている。ああそれと、これから、四季映姫にも会いに行くことになるわ。私の傍を離れないように、ね?」

 

 もう一度、紫は藍の頭を軽く撫でた。藍の『なぜ』という質問を遮るように。

 

「……はい。ゆかりさま」

 

 ゆえに藍は抗えない。

 自ら能動的に思考することは大切であるが、主の計画の障害となってはならない。今は命令に忠実に従うべきだと判断したのであろう。彼女は恭しく礼をすると、前を歩く紫の斜め後ろに控えた。

 

「さてさて、()()()()()()()()()()。怨霊に溢れかえるその場所を、そろそろ明け渡してもらおうかしら」

 

 此処にはいない誰かに向かって、紫は言った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話:とおりゃんせ

『と~おりゃんせ、とおりゃんせ——』

 

 

 五時半を知らせる『とおりゃんせ』が、古いスピーカー特有の、単調な電子音で奏でられている。冬の風にのって届く音は心なしか、かすれていた。

 日が傾き茜色に染まった空には、小さくちぎれた雲が浮かんでいる。

 浮かぶそれらの流れは速く、森の木々は風でざわめき、鴉の鳴き声が木霊する。

 そんな、寂寥とした冬の日の夕刻。

 

 

 この光景には覚えがある。もう何度も見ている夢だ。

 すべての記憶を取り戻してから、もう何度目になるのだろう。目を覚ますと何を見ていたのかを忘れてしまうが、ここに来るたびに私はあの日の出来事を追体験している。

 

 

 確か、数年で一度の寒波が日本を襲ったとかで、とっても寒かった日のこと。

 その日はいつも通りに目が覚めて、いつも通りに顔を洗って、いつも通りにインスタントのコーヒーを入れて、電子端末から流れる情報をぼんやりと見つめていた。そしてお気に入りの音楽を掛けて、今日は外が寒いから部屋でゆっくり一日を過ごそうか? ああでも、冷蔵庫に食材が入っていないから、お買い物に行かなくちゃ。ついでにあの娘を呼んでもいいわね、なんて思ってた。だから、特筆するようなことは何もない、平凡な一日になるのだと信じて疑わなかった。

 

 当然でしょう? なにせ非常識がまだ非常識として認識されていた時代。科学が世界を席巻する“科学世紀”に、“異能”は眉唾物でしかなかったのだ。それに当時、私や彼女のような“異能”持ちは本当に数が限られていたし、探そうと思ってもなかなか見つけられなかった。

 ようするに、それくらい私が飛ばされた世界は、平和な場所だったということである。

 

『——、大発見かもしれないわ!』

 

 ことのはじまりは、あの娘からの電話だった。自分達と同じような存在を見つけられないから、というべきか。彼女は世界の片隅に追いやられた非科学、非常識を探求することを生きがいとしていて、それなりの経緯を経て、私は彼女の無茶に付き合わされるようになった。

 あまりにまくし立てるものだから、今回もきっと、何か厄介そうなものを彼女は見つけてきたんだろう。私はそうあたりをつけて、彼女の話に耳を傾けた。『いつものことだ』と、彼女を止めたりはしなかった。

 ずっとずっと前から兆しがあったのにも関わらず、私は見て見ぬふりをしていたのよ。

 

 その後、結局断れずに押し切られた私は彼女の“冒険”に付き合うことになった。

 寒波だっていうのに、あの娘はぶれない。自分が興味をもったことには全力投球で、思い至ったら即行動。待ち合わせ場所に走ってやって来る彼女を見て、その“はつらつさ”に思わず私は苦笑いしてしまった。

 

 朝からニュースで『外出は控えましょう』なんて言っているくらいだったから、進んで外出をしようとする人なんているはずもなく、道中は静かなもの。電車に乗っている間も、一駅ごとに乗車している人が少なくなっていった。そして、私達が降りる頃には他に誰もいなくなっていた。今思えば当然だったのかもしれない。しかし会話に夢中になっていた私達は、降りるときに気づいたぐらいだった。

 

 ——誰もいないわね。

 

 無人駅に降り立ってそう言った私に、彼女は答えた。

 

『そりゃあそうよ。むしろこんな寒い日にすすんで外出するなんて、正気を疑うくらい』

 

 ——貴方、鏡を見なさい。

 

 強い風の吹く中、電車が駅から遠ざかっていくのを見届けた私たち。

 そろそろ目的地へ向かおうか、などという彼女の後をついて行った私は何気なく後ろを振り返った。電車は随分と小さくなるまで遠ざかっていた。

 少し寂しいような、不安な気持ちになった。

 

 

 

 私たちが降りた駅は大分古い。使用する人なんているのかしらと思うくらいに寂れている。コンクリートで固められたホームはひび割れて間から雑草が生えているし、整備が行き届いているとは到底言えない。

 そういえば彼女が言っていたが、近々廃線になってしまうらしい。この駅も、いずれ廃駅となってしまうのだろう。

 

 この旅を例えるなら、『ぶらり廃駅下車の旅』とでも言えるのだろうか。

 

 駅から少しのところ。

 一昔前までは賑やかだったのかもしれないが、途中で通り過ぎた商店街は随分と寂れていて、人影なんてないし、道路も車の通りがない。だからこそなのだろう。物音と言えば、遠くで鳴いている鴉の鳴き声と、鬱陶しくなるような風の音くらいしかしなかった。

 

『この先ね』

 

 目の前に広がった雑木林。

 彼女は私の方を見ると、意地わるそうに笑う。これは何かを面白がっているときの顔だ。私にはすぐ分かった。

 舗装されていない道を歩くこと数分、私の嫌な予感は的中した。

 

 ——えぇ……こんな長い階段を登るの? 

 

『もちろんよ!』

 

 駅からだと数十分ほど歩いたところで辿り着いた、長い長い階段。目的地への入り口は、随分と人を寄せ付けないような造りになっているらしい。

『彼女がにやにやしていたのはそういうことか』と、私は理解した。見た目からして段差が厳しそうだし、全部登り終えたらきっと息が上がってしまう。あからさまに嫌がる私に、彼女は何としてでも付いて来て欲しいのか、果ては腕を引っ張ってまで連れて行こうとした。

 私はもう一度溜息をついて、渋々彼女の後を付いて行った。

 

 そんな中、風は当たり前のようにびゅうびゅうと容赦なく吹いていて。私は『ねぇ、寒いよぉ。帰ろうよぉ』と弱音を決して口に出さぬよう堪え、無言で階段を昇っていった。弱音を吐いたら余計にからかわれてしまうし、ここまで来たら息を上げずに登りきってやるという、小さな反抗心が私を突き動かしていたのである。

 

 だが私はすぐにでも屈してしまいそうになった。思っていたよりも、登りきるのは難しかった。

 そうして息が上がりかけ、懸命に階段を登っている折。

 

『ねえ、()()()。知ってる?』

 

 ふと彼女は足を止め、私の方を振り返り、言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 夕日で照らされた彼女の顔は眩しく、後ろで手を組み微笑んでいる姿が私の記憶に深く焼き付いている。

 

『それって、とっても不思議じゃない?』

 

 彼女曰く、その神社はどこか別の世界とつながっているのだとかなんだとか。あんまりにも得意そうに話していたから、鼻をつまんで揶揄ってやったことをよく覚えている。

 彼女は少し赤くなった鼻を抑えて言った。

 

『メリーなら、何か見えるんじゃないかなって思ってね』

 

 ——何よ、それ。

 

 いつもそうだった。彼女は本当に、自分勝手。

 私の手を引っ張って色々なところに連れまわしたりして、私の意志なんておかまいなし。自分が行きたいところへ、私を連れていくの。

 とはいえ、なんだかんだと口では文句を言いながら、私は楽しんでいた。振り回されるのは、嫌いじゃなかった。

 

 ——はぁ、はぁ。

 

 階段を登り終えた頃には、大分息が上がっていた。

 辺りを見てくると言って蓮子は先に神社の境内を歩いて行く。取り残された私は、息を整えながら辺りを見回した。すると訪れた時期が悪かったのか出店も全く見受けられないし、掃除が行き届いていないせいで、枯れた落ち葉があちらこちらに散在していた。さらにはこれだけ騒いでいるのにも関わらず人影一つ見当たらないことから、神社の中に住み込みの神職の人がいないことも窺い知れた。

 まさに誰からも忘れ去られてしまった神社、と呼べるような様相だ。

 

『メリー、メリーっ!! こっちよ!』

 

 一足先に辺りを歩き回っていた彼女は何かを見つけたのか、戻って来るなり私の手を引いて走り出した。

 

『ほら、はやくはやく!』

 

 手を強く引かれる。

 そんな感覚は酷く懐かしいものに思えた。確かに、このときの出来事は遥か昔。懐かしく感じてしまうのは当然である。しかし、当時の私もまったく同じ感覚を覚えていたのだ。

 

 今なら、その理由が分かる。けれど当時の私は、疑問に思う程度だった。

 ええ、その程度で済ませてしまったのよ。

 

 彼女のように大きく、誰かを引っ張っていくような人間の傍にいるのは心地よかった。私がもつ“能力”を気味悪がったりしないのも、家族以外では初めてだったから尚更。

 父と母が他界し、路頭に迷いかけた私は、彼女がいたから立ち直れた。毎日を怯えて過ごすこともなくなった。そう、マエリベリー・ハーンは、彼女のおかげで成り立っていた。

 

 だからこそ、私の目は曇ってしまった。

 

 太陽のように周りを照らしてくれるから、あまりに眩しすぎて私は影に潜む物を見つめようとしなくなった。そうして貴方に寄りかかっていた私は、過ちを犯し、最後に彼女の運命を狂わせてしまった。

 

 どこで何を間違えたんだろう。全ての始まりは、一体何だったのだろう。

 きっと最初は小さな小さな歪で、誰も気づけないくらいに些細なものだった。しかし時を経て歪は広がり、取り返しのつかないところまで来てしまっている。

 連鎖を断ち切るのなら、今のままでは間に合わない。

 

『急にどうしたのよ、メリー?』

 

 小首をかしげる彼女の姿に一瞬気持ちが揺らいだ。でもダメだ。

 ここが私の夢の中だと分かっていても、この先へ進むことはできないと思った。

 

『メリー……?』

 

 これ以上、進んではいけない。貴方を巻き込むわけにはいかない。

 貴方をこれ以上、歪ませるわけにはいかない。

 

『……メリー、どうした?』

 

 立ち止まった私に彼女は、心配そうに語り掛けてくれる。

 私は思わず、彼女に『なんでもない』と返事をしてしまいそうになった。口まで出かかった言葉を飲み込み、彼女の手を離す。

 たとえ貴方が私の記憶が作り出した幻影だったとしても、私は貴方について行くわけにはいかないのだ。あの日の焼き直しだなんて、私は許せない。

 

『何か変だよ……? 気分が悪いの?』

 

 あの娘の顔で、あの娘の声で、目の前にいる貴方は私を惑わす。

 私が、貴方と共にあることを肯定してくれる。

 それでも、それでもだ。

 

『ねえ……、ねぇってば!』

 

 ——ごめんなさい。私は、ついて行けないわ。

 

『そんな、メリー……どうして……?』

 

 彼女は悲痛そうな声で言った。そんな彼女に、私は胸が締め付けられるような思いになった。

 そうして貴方は私を、マエリベリー・ハーンとして縛り付けるのだ。

 今までは良かった。心細いときだって、私を安心させてくれた。貴方が私を縛り付けてくれていたから、この自我を、記憶を保っていられた。貴方なしではきっと、取り込んだ他者の“意識”を押さえつけられず、境界を保てなくなっていたと思う。

 

 しかし、だめなのだ。それではあの日と変わらない。私の心の中に貴方がいたら、私はずっと貴方に頼りきりになってしまう。

 

 もう取り返しがつかないことなど、分かりきっている。ふと立ち止まったときには、この手はすでに数多の血で濡れていた。

 だけどこれだけは言わせて。今まで私を止めてくれてありがとう。

 

 

 ——夢は、もういいわ。

 

 

 ——私はここでやるべきことがある。貴方はこの先へ、一人で行くの。

 

 

 ——だから、さようなら、蓮子。

 

 

 その瞬間、私に向かって手を伸ばす彼女の姿が、掻き消えた。

 

 

 

 ******

 

 

 

「お目覚めですか!? 紫様!!」

 

 彼女が目を開けると、すぐ隣に藍が控えていた。

 どうやら起きるのをずっと待っていたらしい。隣で控えている藍の顔は少しやつれている。

 

「よかった、です……」

 

 しかし、主が目を覚ましたことで彼女の顔には喜色が浮かんでいた。紫はそんな彼女の様子を見て苦笑しながら問う。

 

「今の時刻を教えて」

「神無月一日、寅の刻(午前4~6時のこと)でございます」

「……そう」

 

 紫は自分が想像していたより長い時間眠っていたことを自覚し、藍が焦っていた理由を理解した。

 

「随分眠り続けていたのね。私は」

「はい。お戻りになられてから、急にお倒れになって……」

 

 そのときのことを思い出したのか、声が震えていた。

 

「わたし、どうしたらいいか、分からなくて、でも何もできなくて、その、えっと」

 

 初代博麗の巫女の説得に失敗し、紫が倒れてから、約三日が経過していた。

 主が眠りについたまま目を覚まさなくなったことに藍はひどく動揺し、狼狽していたが懸命に傍で世話をし続け、戦々恐々としながらも日々を過ごしていた。

 そんな折にようやく紫が目を覚ましたのだ。彼女の喜びようも頷けた。

 しかし、だんだんと震えが増していく様子を見かねたのか、紫は隣に控えていた藍を抱き寄せた。

 

「心配かけたようね。でも、もう大丈夫。私は此処にいるわ」

「——はわっ!?」

 

 急にどうしたのであろうか? 普段の主人からすると、らしくない様子でもある。そんな考えが逡巡した藍であったが、

 

「少し、懐かしい夢を見ていたの。まあ、もう見ることはないでしょうけど」

「は、は……ぃ……」

 

 紫の声色は暖かく、優しい。そのことに藍はすっかり安堵し、これまでの疲れがどっと押し寄せたのかそのまま眠りこけてしまっていた。

 それゆえに、眠ってしまった藍は目にしていない。

 紫の瞳が、一層怪しい光を孕んでいたことに。

 

 

 

 

 

 

 ******

 

 

 

 

 

 

 とおりゃんせ

 

 とおりゃんせ

 

 ここはどこの細道じゃ

 

 天津神様の細道じゃ

 

 

 少女は、たまたま選ばれたにすぎない。

 未来から過去へ。過去から未来へ。

 歪の根源を知り、それを正すために。

 

 

 行きはよいよい

 

 帰りはこわい

 

 こわいながらも

 

 とおりゃんせ

 

 とおりゃんせ

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人の章:邂逅

「サグメ、サグメはどこに?」

 

 月の都。その最深部にて豪奢な着物を身に纏った女性、ツクヨミは一人の少女の名を呼びながら館を歩く。早足で歩く彼女の手元には、数枚の書類が握られていた。

 それらは地上で起きている一連の騒動についての報告書であった。

 

 現在、秘密裏にではあるが、月の民から複数名の監視者が地上に派遣されている。地上で不穏な動きがないかを監視するためだ。

 ここ数年における地上の動向は、一部例外を除いて静かなものであった。

 だがつい先ほど届けられた情報には、無視できない異常事態が記されていた。

 

「サグメっ!!」

 

 曲がり角の先。

 ふと、廊下の奥から僅かに布が擦れる音がした。間もなくツクヨミの瞳は、ゆっくりと近づいてくる稀神サグメの姿を捉える。

 

 するとツクヨミは自然と周囲が静寂に包まれていく感覚を覚えた。彼女がもつ独特な雰囲気のおかげとも言えるのだろうか、それに当てられると自分がどれだけ焦っていようとも冷静にしてくれる。

 先ほどまであれだけ焦っていたことで羞恥に駆られたのか、赤面しつつも少し落ち着きを取り戻した様子のツクヨミは、一つ咳ばらいをしてから言った。

 

「ああ、サグメ。先程から姿が見えないものですから、探しましたよ? 貴方がおらぬ間に、私の元へこんな報告書が届けられました」

 

 サグメの前に突き出した報告書には、細かい字でびっしりと詳細に事態が記されていた。

 

「八雲紫が想定外の行動を取りつつあります。このままでは、計画に支障をきたしてしまう」

「……」

 

 上に立つ者として常に冷静でいるようにと側近の者から日々指摘されているものの、依然としてツクヨミには未熟さが垣間見える。

 つい先程だって自分が来る前までは取り乱し気味であった。そんな主君の姿に溜息をつきながらも、何時ものように口を押えるようなポーズのまま、サグメは無言で書類を受け取った。

 

「先代との思いを断ち切れないからこそ、御しやすかったというのに。あろうことかあっさりとその未練を捨てたのです。アレは、まともな神経をしていませんよ。一日でがらりと人が変わったとでも? ありえません……」

 

 確かに、かつてサグメは八雲紫が遠い過去から時を越えてきた存在である可能性について、そして彼女と先代ツクヨミの間の関係性についても語った。

 それらの情報と八雲紫の監視状況を照らし合わせれば、八雲紫が先代ツクヨミに対して何らかの未練を持っているという結論に至ってもおかしくはない。だが目の前にいるツクヨミは、古の神がもつ責務を未だ取り戻していないがゆえに知らないのだ。

 

「…………そうでは、ないのです」

 

 舌禍を招く能力をもつサグメが、口を開く。

 

「表向きには活動していませんが、彼女は日々、異分子の排除に奔走しているのです。そうして歪を正すべく異分子を排除するたびに、彼女の自我は時々刻々と削れていく」

 

 彼女の声は耳を傾ける者を魅了する確かな力があった。当然、ツクヨミにサグメの言葉を遮ることはできなかった。

 

「私やあの神霊とは異なり、彼女は自我の境界が曖昧。中でも多くを占めるのはおそらく二人分でしょうが、彼女の心境も変化していくのは当然と言えましょう」

 

 八雲紫が絡んだ事象を逆転することをできない。ゆえにサグメは口頭でツクヨミに答えた。

 

「そしてはなから、我々の中にまともな神経をしている者などいません」

 

 自嘲し気味にサグメは笑う。

 

「(まともであれたのなら、どれだけよかったか……)」

 

 聞こえないほどの小さな声であった。ツクヨミからは、俯き書類に目を通しているようにしか映らない。けっしてサグメは、自らの内心を外に出そうとはしない。

 彼女はツクヨミの方を向き、一通り読み終えた書類をツクヨミに手渡す。彼女が目を通し終えるまでの時間は、ほんの少しであった。彼女からすれば、想定外であることは想定内であったからである。

 

「書類、確認いたしました。こちらの思惑からは外れて行きましたが、問題ありません。当初の手筈通りに進めます」

「なんと……!」

「そもそも、初代博麗の巫女は、私が地上へ放った布石の一つ。八雲紫ならば、いずれ彼女という餌に食いつくだろうと予想した上でのものです。まあ、交渉を持ちかけたまでは良かったのですが、我々にとっても思いがけない要素である“伊吹萃香”。彼女が一つの障害となった。だが、たったそれだけです」

「あの、小鬼ですか……? あのような小鬼一匹に、狂わされたと?」

「ええ、アレもまた、運命を狂わせるだけの器の持ち主だったということでしょう。しかし彼女の登場はむしろ好都合であったのかもしれません」

「異分子でなく、ということはつまり…………っ!?」

 

 何かを納得しかけたツクヨミであったが、驚きのあまり静かに唾を飲み込んだ。そういえば、サグメは()()()()()()()()()()()()()()()()()? 八雲紫に関することなら理解できる。八雲紫といった祝福されし子や異分子たち、そして古の神には能力が通用しないからである。

 

 しかし彼女はたった今、それら皆に関係ないはずの『伊吹萃香』について言及したのだ。

 

「(サグメ……、貴方は何かを知っているのですね? 私に話していない、何かを)」

 

 サグメの瞳は何を映しているのだろう。漠然とツクヨミは思った。

 そして溜息をついた。月の戦の折も然り、ここまでで己の未熟さは自覚しているつもりである。彼女も少しは冷静になれたのであろうか、むやみやたらに賢者に尋ねるのではなく、自分で彼女の思惑を見通そうとしていた。

 

「(古の神と、祝福されし子……そして、異分子。それら三つの要素が絡んでいることは間違いない)」

 

 しかし、ツクヨミはそれら三つの存在について詳しく知っているわけではない。

 把握しているのは、対立構造を呈していることぐらいである。

 

「(古の神の数は、四柱であるはず。後戸の神、地獄の女神、魔界の女神、そして、もう一人。それが私である可能性は十分にある。しかし、これまでサグメは一度も私のことを古の神とは呼んでいない。つまり、私が古の神としての責務を知らないことと、何らかのつながりがある?)」

 

 疑問は古の神についてだけではない。

 

「(さらに一柱の古の神と契約できるの者が一人であるとすると、祝福されし子の数もそれに対応して四人いることになる。……そう、本来であるならば)」

 

 今分かっているサグメの狙いは、八雲紫という特異点を使って均衡を崩し、歪を修正するというものだ。そのため、彼女をいかに制御して事態をこちらの思惑通りに進めるかという点に重きを置いているのだとツクヨミは理解していた。

 すると、やはり八雲紫が暴走するのはいただけない。だが、見方を逆転すればこうともとれる。

 

『手に負えないほどに事態が混乱すれば、サグメの能力は問題なく発動する』

 

 確たる証拠はない。

 しかし、あながち間違ってもいないとツクヨミは思う。何時かのように、彼女は己を導いてくれる。それだけは確信しているし、彼女を信頼していた。それゆえにツクヨミはサグメが動き出すのを待つことにした。

 彼女は何かを待っているのだ。確信をもって、事態を逆転させる何かを。

 

「……そんなに、心配そうなお顔をなさらないでください。ツクヨミ様」

 

 しかし顔には出ていたらしく、サグメは少し微笑みながらツクヨミを案じた。

 

「まったく。貴方には、敵いませんね」

 

 ツクヨミの表情が和らいだ瞬間。

 何かの因果か、それはタイミング良く起きた。

 

「っ!?」

 

 サグメの目が大きく見開かれる。

 片翼の翼を広げ、数枚の羽がツクヨミの手元へ舞い落ちた。

 まるで何かを感じ取った様子に、ツクヨミは声に出さずにじっと見守る。己の信頼する賢者が何を目指しているのか、見届けようとしているのだ。

 

「——————」

 

 ぽそりとサグメは呟く。

 それほど長い言葉ではなかった。しかし何かの合図であったようである。

 天秤のようにバランスをとっていた運命の均衡は確かに崩れ、二つに一つの答えが直にやってくるのだ。

 

「ふふっ」

 

 サグメが、笑った。

 かすかに漏れ出たのはわずかな喜色が混ざった吐息だった。紅潮する頬はやけに艶やかで、まるで熱に浮かされているようにも見えた。

 

「……ああ、ツクヨミ様。貴方様は、もう直に全てを理解されることでしょう」

「なんですって……?」

 

 独り話を進めていくサグメが何を言わんとしているのか理解が追い付かないが、彼女が口を開いたということは、彼女なりに何らかの見通しがついたということであろう。

 喉を鳴らして唾を飲み込んだツクヨミの視線の先で、サグメは宣言する。

 

 

 

「——今、このとき」

 

 

 

「——運命は逆転する」

 

 

 

 *******

 

 

 

 古くから、人間は地底のことをこの世ならざる別世界として認識してきた。その理由の一つとして、恐怖の象徴たる暗闇の存在が欠かせない。

 人は活動時間を夜から、太陽が出ている昼に移して久しい。進化の過程で人間は夜目を失い、夜は外に出ることなく大人しくするようになった。暗闇に対して根源的な恐怖を感じるのである。

 懐中電灯などない時代、昼夜問わず暗い地底は人間達にとって身近な恐怖の対象であった。それゆえ、地底は人が死後に行き着く地獄としても考えられてきたのだ。

 

 四季映姫・ヤマザナドゥが閻魔を務める地獄は、まさに地底に存在している。

 しかし、今まさにその地獄に異常が発生していた。

 

 怨霊が大量発生したのである。

 

 人は死後、幽霊となって三途の川を渡り、うち罪を犯した者達は地獄に堕とされる。そして閻魔によりその罪の重さを裁定され、罪を償い続けることとなるのだ。

 当然、その地獄に流れ込む魂の量は、常に管理されていなければならない。よって、許容量を超えることはまずありえないのである。加えて、もし仮に魂が溢れることになったのだとしても、地獄にはそれなりの応急処置を行う用意があった。

 

 そもそも、怨霊が大量発生すること自体がまずおかしいのだ。

 怨霊とは、魂が生前の負の感情に引き寄せられて現に具現化し、悪意のままに行動する厄介な代物である。本来であればどんなに罪を犯した人間であれ、妖怪であれ、怨霊となるには相応の怨念が必要となるはずだ。簡単になっていいものではない。

 だというのに、現在、地獄は怨霊で溢れかえり阿鼻叫喚となっている。明らかな異常事態であった。

 

【神無月 一日 深夜】

 

「(怨霊が大量発生するなど、自然に起きるはずがない。一体何が、起きている……?)」

 

 この騒動の発端は、処理できない量の魂が流入し、その多くが怨霊と化したことによる。鬼の四天王たる伊吹萃香が焼き殺した城下の防衛隊の者達。そして妖怪の山での戦闘で命を失った人妖の魂。それら皆が地獄に押し寄せてきたのだ。

 無論、地獄に務める者達は必死に抗ったが、それも焼け石に水であった。

 

 好転する兆しすら見せない状況に、地獄の閻魔、四季映姫・ヤマザナドゥは表には出さずとも悪態をついた。

 

「(上層部は何をしているのですかっ! この状況で何の指示も送らぬなど、具の骨頂。一体何を躊躇している!!)」

 

 こうなっては何時になるか分からぬ指示を待ってはいられない。

 ただでさえ状況は刻一刻と悪化の一途をたどっているのだ。少しでも早く事態を鎮静化する必要がある。このままでは正常な魂まで汚染され、ますます手が付けられなくなってしまう恐れすらあるのだ。

 

 報告書を両手に事態の把握をしていた映姫は、思索から脱して辺りを見回す。すると、どの死神も心なしか仕事に身が入っていない様子であった。

 緊急事態に際して彼らが焦ってしまうのも納得できるが、そのまま放っておくわけにもいかない。

 

「手の空いている者は即刻、溢れ出た怨霊の確保をっ!! 負傷者は後退し、医療班は優先順位から治療を施すように!! 裁定を止めるわけにはいきません、残りの者は私について来なさいっ!!」

 

 不安と動揺が蔓延していた広間に、映姫の声が響き渡る。事態が深刻であるゆえに、彼らにはいつも以上の働きをしてもらわなければならないのだ。

 彼女の一声で多数の死神が正気に戻り、慌てて己の職務を果たすべく行動を開始した。視界の隅では、腕に自信のある者達がそれぞれの獲物を持って怨霊の確保へと向かい、またある者は負傷者の元へ駆けていく姿が見受けられる。

 

「(他の方の状況がまだ把握できていない……。上層部には期待できませんが、せめて連携ぐらいなら見込めるかもしれませんね)」

 

 彼女以外の閻魔も、それぞれの持ち場で指示を出しているのだろうが、現在は連携が取れていない。まずはここから解消していく必要がある。そう判断した映姫は追加で他の閻魔と連絡を取るよう指示した。

 

「(しかし処理できる上限がこれでは、いくら裁定しても追いつかない。秩序の崩壊は必死。なんとかせねば……)」

 

 できる手を全て打ってもなお、好転の兆しが見込めない状況。

 地獄からすれば、まさに未曽有の災害であった。さらに状況が悪化すれば、この地獄を放棄することも考慮に入れなければならないだろう。

 なおさらに、上層部との連絡が取れないことが彼女をいら立たせていた。

 

「……上層部との連絡は?」

「依然として取れません。継続して試みてはいますが、まったく。これでは、()()()()()()()()()()ことを疑った方が早いぐらいです」

「周辺に不審な者がいないかを再度確認するように。見つけ次第、警告なしで排除しても構いません」

「はっ!!」

 

 思わず肩の力が入りそうになる映姫であったが、それを必死に堪えた。ここで自分が取り乱していては、部下に余計な動揺が広がってしまう。これ以上、士気を下げるわけにもいかないのだ。すぐ傍についていた部下に一通りの指示をし終えると、誰にも気づかれないように溜息をつき、映姫は自室へと入った。

 

 かと言って当然、彼女の仕事がなくなったわけではない。

 

 机には山積みとなった書類の数々。その多くがほんの数分の間で生じたものである。

 とてもではないが、簡単に処理できる量ではない。『相変わらずこの仕事には不満が絶えませんね』などと映姫は今日一番の深いため息をつく。けっして閻魔という責務自体にではなく、地獄という体制についての不満は募るばかりであった。

 今回の件も初期対応に明らかな不備があったのだ。それは現場の責任でもあるが、現場の柔軟な対応を制限している今の体制にも大きな問題があった。

 

 地獄の上層部は腐敗している。

 それは、映姫が閻魔となってから長年感じてきた不満であった。

 

「(それにしてもこのような事態、偶然とも考えにくい。しかしこのような大掛かりな戦を仕立て上げることなど可能でしょうか? そもそも、此度の戦の発端は三年前にまで遡りますし……)」

 

 体制への不満はそこそこに、映姫は黒幕について考えを巡らせた。無論、彼女の目は資料に向けられており、着々と仕事を進めている。

 

「(三年前の戦。確か、戦嫌いと噂であった領主が突如として宣戦布告し、泥沼になりましたね……)」

 

 元々は、二国間の戦であった。

 それが周辺の小国を巻き込んでの大戦となり、二国の間で休戦協定が結ばれるまでに他の小国があまねく滅んだ。

 今回の件を裏で手引きした者がいるならば、その者の目的とは一体何か? 黒幕を見つけたところで、いかにして対処するか? 

 

 考え出せば止まらないが、早急に手を打つ必要がある以上、そうそう時間をかけてはいられない。

 とはいえ、情報も少ない。黒幕を判断するだけの情報が揃っていない今、無駄に時間が過ぎていくのもまた確かである。

 

「(はぁ、ここで私が悩んだところで、どうにかできるわけでもないですがね……)」

 

 頭を回転させながらも、手元の資料を着々と片付ける映姫。

 傍から見れば仕事に集中しているように見える。しかし実際のところ彼女は今回の件に首謀者がいると仮想して、ああでもないこうでもないと考えを巡らせていた。

 

「(地獄に対して真向から敵対できるような存在、なんているわけがありませんよね……)」

 

 地獄を敵に回すなど、命知らずにも程がある。いるとすれば、余程の化け物に違いない。

 そんなことを考えながら、書類を一枚一枚処理していく。

 カサリ、と紙の資料同士がすれる音。先程から彼女の私室で聞こえる音は、それくらいのものである。必要事項を記入し終えた資料を机の端に置こうと視線を逸らし、再び視線を前に戻す。

 

「(ん? これは……?)」

 

 どこから混ざって来たのか、彼女の手に握られてたのはかつて目にした“祝福されし子”のリストであった。

 

「(どうしてこんなところに? いいや、待て……!!)」

 

 背筋が凍り付いた。

 

「(——心当たりが一人いる……!!)」

 

 今回の騒動を引き起こすことのできる人物に思い至る。

 だからこそ、一瞬だけ気づくのに遅れた。

 

 侵入者がいたのだ。

 映姫が『何時の間に』などと問う暇もなく、侵入者は口を開く。

 

「ご機嫌麗しゅう、四季映姫様。どうやらお困りのようですわね?」

 

 今、映姫が最も恐れ、今回の騒動を引き起こしたと思われる者。

 境界の妖怪。八雲紫がそこにいた。

 

 

 

 ******

 

 

 

 ここのところ、八雲紫の監視状況は頗る良好といってよかった。

 彼女が不穏な活動している様は見受けられなかったし、何より西行寺幽々子を通して彼女の目論見は筒抜けだった。

 魔多羅隠岐奈は幽々子のことを疑っているらしいが、彼女もまだ確信にまでは至っていないようで、直接手を打ってくる様子もない。

 

 紫が一人スキマを開いて何処かへ転移するのも、目的が明らかだった。

 彼女は異分子と疑わしき者の元へと赴き、直接その手で排除しに回っていたのだ。

 ついひと月前などは、異分子の存在によって盲目となってしまった少女を救うべく大陸にまで渡っていた。八雲紫は例外的な存在であるからこそ、異分子を即座に抹消し、その拡大を抑えることができる。そんな彼女の行動はある意味わかりやすく、監視をつけたことでより正確に行動を予測することができていた。

 よって地獄は、彼女の行いが自分達にとっても有益であるとして別段妨害するなどという方針はとらなかった。

 

 そうだ。此処までは良かったはずなのだ。

 

 しかし思い返してみれば、映姫は幽々子の定期的な報告から違和感を覚えていた。

 八雲紫は、本当にこのまま一人ひとりずつ異分子を排除していくのだろうか、と。異分子の数は正確には分かっていないが相当数いるとされている。したがって、紫一人で全滅させるにはあまりに時間がかかり過ぎてしまうのだ。サグメや純狐と手を組むにせよ、彼女たちと歩調が合うとは到底思えない。すると、彼女は必ず異分子抹消にかかる時間の短縮に踏み切るはずだ。

 

 時間の短縮、つまり彼女は周囲一帯を管理下に置くことで異分子を一か所に集め、一網打尽にしようと考えているのではないだろうか。

 そこまで行きついた映姫は八雲紫を今回の騒動の主犯であると考えたのである。

 

 油断なく視線を向ける映姫に、紫は余裕たっぷりに笑った。以前、映姫が会ったときとは纏う雰囲気がまったく異なる。互いの立場自体は変わっていないが、力の均衡は完全に崩れていたのだ。

 

 そして彼女は背後に、妖狐の従者まで連れている。

 足手まといとなることを承知の上で、である。それはつまり、彼女の余裕を表してもいた。自らの置かれている状況を把握できない映姫ではない。

 突如として自分の根城に侵入され、そして外界への救援を要請する手段まで奪われている。不利どころの話ではない。このままでは一方的に嬲り殺されてしまう可能性すらある。

 ただでさえ映姫は命令とはいえ、幽々子を洗脳しているのだ。紫がその報復にと、この機に乗じて地獄に攻め込んできたのだとしてもおかしくはない。

 

「……八雲紫、一体何のようでここに?」

 

 努めて平静を保ち、映姫は眉をひそめて答えた。

 それが彼女のなりの精一杯であった。

 

「今、私は忙しい。貴方に構っている暇などありません。ここから早く立ち去りなさい」

「まあまあ、そんなことは仰らずに。それは大層お困りになっているようでしたから、提案をもって参ったのです」

「提案、とな?」

「ええ、そうです。それはそれは、きわめて建設的な提案ですわ」

 

 紫は地面に降り立ち、瞬きする間に映姫のすぐ近くまで転移する。努めて冷静に振舞う映姫であったが、彼女は内心恐怖していた。

 紫の表情は一見、豊かなようにも見える。しかしよく見ればそれは外見を取り繕っただけの仮面に過ぎなかった。仮面の下に潜む、隠しきれない狂気を映姫は感じ取ったのだ。

 彼女の纏う禍々しさが、以前よりも増している。何より、彼女の目はここまで黒く濁っていただろうか。数週間前に受けた西行寺幽々子からの報告とはまるで違う、未知なる脅威が目の前にあった。

 

「以前と同様。率直にお伝えします」

 

 紫の冷たい声が映姫を現実に引き戻す。

 

「——地獄を、移しましょう」

 

 彼女の一言に、映姫は戦慄した。何を言っているのかを理解しようとすることを拒むかのように頭は思考を停止する。もはや『何を』という、たった三文字ですら口から発することができなかった。

 それに、自身は閻魔の一人に過ぎない。映姫の権限では、そのような重大事項に頷くことなどできないのだ。どうしてこのような重要な件を一閻魔である己に持ち掛けているのか? 現時点では、映姫には皆目見当がつかなかった。

 

 しかし、八雲紫は気にも留めていない様子で続ける。

 

「すでにお判りでしょうけれど、ここは直に怨霊で溢れかえります。しかし、地獄が機能を停止してしまえば裁定を待つ魂の数が増え、輪廻転生の理に影響をきたしてしまうでしょう。それでは余計に運命を狂わされてしまう魂が増えてしまいますわ。ですからその前に地獄を別の場所へ転移させてしまえばよろしいのです」

 

 紫の提案には思い当たる節があった。

 

「(強引に移転させて、それ以降に流れ込んできた魂は切り捨てる、ということですか)」

 

 もとから紫はそのつもりであったのだろう。多くの人間の魂が怨霊となろうとも、地獄を移転させるだけの覚悟があるということだ。

 だが、映姫にとってそれは当然、そう易々と看過できるようなものではなかった。

 

「……簡単に言いますね。貴方は自分で何を言っているのか分かっているのですか?」

「ええ。しかし初めに言ったはずですわ。これは、きわめて建設的な提案なのです。それに映姫様、貴方様ならば私の能力のことなど、きっと誰よりもお詳しいのでは? 地獄を移し、事態を収束させることなど造作もない」

 

 彼女の目は本気であった。嘘偽りなどまったく含まれていない真っ直ぐな目。

 単にそれだけであるならば多少、信ずるに値したのかもしれないが、今の紫は表情を取り繕っているだけで、自らが発する禍々しい妖気を隠そうともしていない。人妖問わず心身を狂わせる迷惑な妖気である。

 言葉や外面上では腰の低い態度を取っているが、実際、脅迫染みたことをしているのに他ならないのだ。

 

「……」

 

 続く言葉が見つからず、沈黙する映姫に紫は言った。

 

「きっと、何故? とでもお思いになっていることでしょう。それは至極当然な疑問ですが、貴方様には心当たりがある」

 

 映姫が唾を飲み込んだ。

 やはり八雲紫は全て知っているのだ。現在、映姫が西行寺幽々子を洗脳して手駒にしていることから、地獄の内情までの全てを。

 

「貴方様の一存で決められるようなことではない。それも承知しています。そして貴方様もどうやら板挟みになっている様子」

 

 紫は静かに、映姫の隣に移動した。

 そして、耳元で囁く。

 

「……はい、そうです。なればこそ、映姫様。お覚悟があるのでしたら、私と取引をしませんか?」

 

 心を読み、甘美で万人を惑わす瞳。

 脳髄を溶かし判断力を鈍らせるような魔力を孕んだ声。

 

 危険だ。このままでは呑み込まれる。

 

 閻魔である四季映姫でさえ抗えなくなりそうであった。

 

「共に、地獄を変えてしまいましょう。今の地獄は腐敗しています。本来、為すべきは魂の裁断であるはず。なのにも関わらず、彼らは要らぬことに手を出し、挙句事態を余計に混乱させている。この地獄が機能不全に陥っているのも、彼らが内部に注力しなかったからでしょう? いい機会ではありませんか、貴方と同じような思いを持つ方は、他にも多くいますわ。貴方が一声挙げれば、誰も反対などしません」

「……その見返りに、私に何を求める?」

「これから作る、“楽園”の閻魔になってもらいたく存じます。勿論、交代制で構いませんわ。ただ私が要求するのは、四季映姫・ヤマザナドゥ。貴方が幻想郷の閻魔となるということ」

「たった、それだけですか」

「はい。しかしそれが私にとっては肝要なのです。貴方がいなければ、()()()()()()()()()()()

「……っ」

 

 映姫は言葉を飲み込んだ。

 これ以上は問うても無駄だと理解したのだ。彼女は本気だろう。映姫に向かって、これから紫が作る“幻想郷”で、閻魔につくだけで今回の件を収束させると言っている。

 たった一人の妖怪の力で、地獄そのものを移すことなど不可能と誰もが思うかもしれない。しかし八雲紫であれば話は違う。

 そもそも、彼女は自分がやったと明言していないが、今回の騒動を引き起こしたのは十中八九、八雲紫だろう。彼女自らが引き起こしたのだ。それなら彼女は騒動を収束させるだけの手段を有しているに違いない。

 

 彼女にとっては朝飯前であろう。

 そこまで行きついたところで映姫は、紫の提案を呑むべきかを改めて考えた。

 

「(今の地獄に、とてもではないが価値は見いだせない。たしかに彼女の言う通り、秩序は乱れ、本来あるべき姿からかけ離れてしまった今の地獄がこの事態を打開できるはずもない。それなら彼女の提案に乗るというのも手ではある……。しかしこれが、この選択が本当に正しいと言える確証もまた、ない)」

 

 強引ではあるが、紫は地獄の改革を行うと宣言している。穿った目を持たずにいれば協力することも吝かではない。上層部の腐敗を取り除ければ、そして彼女が望むのなら幽々子を開放してもいい。むしろ喜んで開放する。

 だが、今の彼女は以前と比べて信ずるに値するかと問われれば、難しい。ゆえに西行寺幽々子という最終手段を手放すわけにもいかない。彼女の身一つで八雲紫を抑えきれるかは不安だが、確実に足止めはできるのだから。

 

「(そういえば)」

 

 ほんの数日前に、ヘカーティアが再び自身の元を訪れてきたときのことを思い出す。

 

「(ヘカーティア様から聞いた話によれば、摩多羅隠岐奈が表立ってこちらの邪魔立てを行う様子は見受けられていない。となると八雲紫も、まだ彼女にそそのかされてはいないのかもしれない)」

 

 それは希望的観測である。

 

「(しかし……)」

 

 彼女を信じるには、危険すぎる。

 判断するには材料が少なすぎるが、彼女が時間を与えてくれる様子もないため、ここで全てを決さなくてはならないのだ。

 決めてしまえば、もう引き返せない。

 

「……私は——」

 

 映姫が口を開こうとしたとき、先に背後から気配がした。

 咄嗟に振り返った映姫の表情が驚愕に染まっていく。まさか、こんなタイミングで現れるとは思ってもいなかったのである。

 

 八雲紫にも引けを取らない、圧倒的存在感であった。

 大きく、暖かく、万物を照らし眩い光を放つ存在。

 それはまるで、太陽のように。

 

「——これ以上、好き勝手はさせないわよん」

 

 僅かな間、紫の表情が切り替わった。

 明確な敵意をもって映姫の背後に立つ者を睨みつけたが、すぐに表情は元に戻る。

 

「好き勝手、とは?」

「その娘にちょっかいをかけることよ、八雲紫。臆病な貴方にしては随分と、肝が据わっているんじゃない?」

 

 内心で紫は舌打ちをした。隠岐奈が派手に動いている間に行動を開始したというのに、この地獄の女神はどうやら、耳が早いらしい。

 そして何より厄介なのが、四季映姫に精神的な余裕を与えてしまった点である。映姫の顔に、僅かな安堵の色が混ざったことを紫は確認していた。

 これでは有利に交渉を進めることが難しくなってしまう。

 

「もちろん、それ相応の覚悟をもっているのよね? 具体的には、私を一人で相手取るくらいの」

 

 今の自分でも、まともに相手をするには分が悪い“古の神”の一柱。

 それも、最も敵に回したくない存在である。

 隠岐奈と手を組めば万全であるが、彼女は現在手が離せない状態にある。紫は微笑みを湛えたまま声の主に答えた。

 

「うふふ。こんなところまでご足労頂かなくても、私自ら伺いますのに。よほどこの方のことを気にかけていらっしゃるのね? ヘカーティア・ラピスラズリ様」

「ええ、でも残念。今は遊んでいる暇はないの。貴方達の所為でね、せっかく休暇を楽しんでいたのに忙しくなってきてしまったわ。おかげでこちらもなりふり構っていられなくなった」

「それは、そちらが日和見だからでございましょう? いつでも手を下せたというのに、様子見ばかり。貴方は自らの使命を全うしようともせずに、事態を悪化させた。だから私が代わりに動いだのです」

「ほう、なるほどね。随分と仕事熱心なこと。感心したいくらいだわ」

 

 ヘカーティアは強張っていた映姫の身体を優しく抱き留め、されど視線は厳しく紫に向けたまま、言った。

 

「八雲紫。貴方、過去に飛ばされた後の記憶を、全て取り戻したようね?」

「……」

「そして取り戻した力を残して、記憶だけを手放そうとしている。確かに、マエリベリー・ハーンとしての記憶を捨てさらなければ、貴方は未完成のままだわ」

 

 依然として厳しい眼差しを向けるヘカーティアは、努めて声を低めて言った。

 

「私は別に、過去の自分を斬り捨てる行為自体を悪いことだとは言わない。自分自身の選択だもの。それで貴方の気が済むのなら、それはそれでいい。けれどね、自ら破滅に突き進むのだけは見過ごせないわ。貴方はどうしてその身をすり潰そうとするのかしら? 貴方が足掻いたところで、宇佐見蓮子はこの世界にはいない。全てを投げうっても、手遅れなのに」

 

 一瞬、時が止まった。

 

「はは、本当に、おかしいわぁ」

 

 八雲紫は笑っていた。

 

「まったく古の神が言うことはいつも同じなのですね。どの方も口を開けば、その名ばかり。彼女の名を出せば、私が止まるとでもお思いで? もしもそうなのでしたら、随分と浅はかですのね」

「違う、私は——」

「古の神よ。私の祈りはただ一つ。この世界の歪を正すことです」

 

 紫はヘカーティアの目を真っ直ぐと見つめ、はっきりと言い切った。

 すると彼女の背後にスキマが開く。奥には無数の目がヘカーティア達を覗いていた。

 

「私は、この身がどうなろうと構わない」

 

 紫の足元から、地面が黒く染まっていく。

 よく目を凝らせば、何かの顔が浮かび上がって見える。これまで紫によって排除されて来た魑魅魍魎の怨念であろうか、それとも単に取り込まれた者達の末路なのか、一片の混じりもない黒い瘴気は、強力な呪いとして二人に迫って来た。

 

 少しずつ、這い寄って来る。

 獲物を探すように、ゆっくりと。

 幻聴だろうか、映姫の耳元で、呻き声が聞こえた。

 

「ひっ!?」

 

 小さく声を上げた映姫は、こちらを見つめる無数の目と目が合ってしまった。

 

 気づかれた。

 

 彼らは映姫を見止めるや、にたりと嗤った。

 

 気づけば映姫は瘴気に周囲を取り囲まれ、視界が真っ暗に染まっていた。

 

 否、瘴気は黒い肉塊となって映姫を押しつぶそうとしていた。

 

「(なんですかこれはっ!? 呼吸が、できない……!?)」

 

 途端に映姫は呼吸に喘ぎ、吐き気を催した。

 声も出なくなるような冒涜的な光景に、映姫の瞳が濁り始める。

 

「ぜひっ、ぜひっ、ふ、ふぅっ、ふぅ」

 

 息が上がる。

 逃れられない。

 身体が動かない。

 

 だが、忘れてはならない。

 映姫の隣には、彼女がいる。

 

「目を瞑りなさい。目に見えるものは皆、其処にはいない。居るのは貴方。其処には誰も、やってこない。深呼吸をするの」

 

 気づけば映姫は、ヘカーティアに抱きしめられていた。

 耳元でするヘカーティアの声は、狂気に支配されてしまいそうになっても、聞き取れた。

 

「ヘカーティア、様……」

「ごめんね、映姫ちゃん。巻き込んじゃって」

 

 そう答えるヘカーティアであったが、視線は変わらず八雲紫に向いていた。どうしてここまでの混沌を受けてなお、この地獄の女神は正気を保っていられるのか? 閻魔である映姫ですらうかがい知れなかった。

 

「……貴方はこれまで、この世界で何を学んできたのかしら? 一体何のために私達が貴方と彼らと引き合わせたと思っているの?」

 

 ヘカーティアの声は心なしか、震えていた。

 恐怖からではない。悲哀の籠った怒りからであった。

 途端、徐々に侵食してきていた瘴気を食い止まり、ヘカーティアから発せられる眩い光が押し返した。

 

「前の貴方は力だけを望んではいなかった。だからこそすぐに記憶を捨てたりはしなかったし、五年の間も悩み続けていたじゃない!」

「むしろ五年をかけて、決心したのよ」

「それは、決心ではないわ。諦念よ」

 

 言葉の応酬と共に繰り広げられる両者の力のぶつけ合い。

 しかし互いが全力で衝突しないのは、双方にそれなりの理由があるからであった。

 一対一で分が悪い紫は当然ながら正面衝突を避ける。一方でヘカーティアは背後にいる映姫を巻き込むわけにいかず、全力を出せない。

 

「(ここで二人が争えば、間違いなく状況は悪化する)」

 

 一人、苦しみに耐えながら立ち上がる映姫は、対峙する両者を前に冷静さを取り戻していた。

 すでに状況は、ひっ迫しているのだ。いつまでも黙っているわけにもいかなかった。

 

 地獄の命運は、自分の答えにかかっている。答えなど、半ば分かりきったものであるが。

 いずれにせよ、何も手を打たなければ無数の魂が溢れかえり、怨霊となってやがて地上へ流れ出ていってしまうことだろう。そうなればもう、取り返しのつかない大災害となる。

 それだけは絶対に阻止せねばならないのだ。

 

「やめて、くださいっ!!」

 

 彼女の叫び声に、虚を突かれた紫とヘカーティアの両者が動きを止める。

 映姫の『白黒はっきりつける程度の能力』が発動したのだ。

 それは、彼女が“決意”したことの表れでもあった。

 

「はぁ、はぁ」

 

 先ほどまで意識を奪われかけていたせいか息がまだ荒い映姫であったが、言葉はしっかりとしていた。

 

「八雲紫。貴方の、提案を受け入れます」

「……映姫ちゃん?」

 

 さすがのヘカーティアも思っていなかったらしい。目を丸くして映姫を茫然と見つめていた。

 

「ヘカーティア様、申し訳ありません。現状のままでは、この地獄は必ず崩壊します。我々には他に手段がない」

「だ、だからって——」

「一閻魔である私からしても、地獄の上層部の腐敗を許すことはできないのです」

「っ!」

 

 再び映姫は紫の方に向き直り、顔色が悪いながらも毅然とした表情で言った。

 

「八雲紫……。()()()、貴方の提案に乗りましょう。ただし貴方にもしも二心あると分かったなら、こちらも全力で貴方を潰しにかかります。貴方の友人である、西行寺幽々子も無事ではすまなくなるでしょう」

「……っ。承知しましたわ、映姫様」

 

 内心、人質など意味をなさないと分かっているのにと自嘲する映姫であったが、予想外なことに西行寺幽々子の名を出したことが効いたのか、紫は一瞬表情を歪めた。

 

「ふふ、私としたことが、少し熱くなってしまいましたわね」

 

 しかし、次の瞬間には元のにこやかな表情に戻っていた。

 

「私は早速、事態の収拾に向かいますわ。それでは御機嫌よう」

 

 後方でずっと控えていた従者を連れ、紫はスキマの奥へと消えていく。

 途端に瘴気も威圧感もどこかへ行ってしまった。

 

 つい先程までの光景が幻であったかのように、映姫の私室は静寂に包まれる。

 肩に入っていた力が抜けてしまったのか、崩れ落ちるように椅子に座り込む映姫。

 

「もう、勘弁してほしいですね。こんなことは……」

 

 だからこそ彼女の口から出てきたのは普段外には現れない彼女の本心であった。

 

「……ごめんね、映姫ちゃん」

 

 ヘカーティアにしては珍しく、重々しい声色である。

 映姫が振り返ると、そこには普段よりも表情の暗いヘカーティアがいた。

 

「私も、少し熱くなり過ぎていたわ。映姫ちゃんが地獄の崩壊を望んでいないのは当然。どうかしているわよね、地獄の女神ともあろう者が地獄の崩壊を見過ごすだなんて」

「いいえ、ヘカーティア様。貴方様がいらっしゃらなければ、彼女にあのまま呑まれていました。本当に助かりましたよ」

「ありがとう……。でも違うの。私はあの娘を止めるために地獄を、ひいては貴方も犠牲にするところだった」

 

 ヘカーティアの言葉に違和感を覚えた映姫。

 一体、彼女は何を知っているのだろう。そんな疑問も次の瞬間にはどこかへ雲散していた。

 

「映姫ちゃん、全てを貴方に話すわ」

「……?」

 

 小首をかしげる映姫に、ヘカーティアは遥か昔を思い出すかのように言う。

 

「あの娘……。八雲紫はね、私達が歪めてしまったの」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人の章:語られたもの

『幽霊が増えた理由が、六十年に一回くらい起こるのです。花はその結果です。地震、噴火、津波、戦争。何かは判らないけど』

 

 ——東方花映塚 四季映姫 Episode Final “無縁塚” より

 

 

 

 

 

 地底の奥深く、地獄。その広大な敷地の中に用意された映姫の一室で、しばし沈黙が続いていた。

 心なしか憔悴した様子で背もたれつきの椅子に座る映姫の目の前には、地獄の女神たるヘカーティア・ラピスラズリ。ことの発端は、彼女が先ほど口にした言葉にあった。

 

『あの娘……。八雲紫はね、私達が歪めてしまったの』

 

 映姫は少なくない衝撃を受けた。

 たしかに、彼女たち古の神々と八雲紫の間には、何らかのつながりがある。それが何かと問われても答えられないほど巧妙に隠されている、何かがだ。

 とすればこれからヘカーティアが映姫に語ろうとしている情報は、それだけ重大なものなのではないだろうか。間違いなく、一度聞いてしまったら部外者ではなくなるだろう。

 

 そう直感したからこそ。

 言葉を選びながら、映姫は慎重に問う。

 

「……失礼ながら、ヘカーティア様。八雲紫を歪めたとは、一体どのような意味なのでしょうか? 私は、果たして……それを聞いてしまってもよろしいのでしょうか? 地獄の、中途採用のしがない一閻魔の身に過ぎぬ、この私が」

「——っ」

 

 咄嗟にヘカーティアは何かを言いかけ、口を噤んだ。

 ほんの一瞬に見せた彼女の様子からは迷いが見え隠れしていた。

 想像した通り、自分が耳にしてよいものではないのかもしれない。少なくともヘカーティアが躊躇するだけの理由があるはずだ。

 

「や、やはり私などが聞いてよい内容では——」

「いいえ、ごめんなさいね。貴方が懸念しているような理由ではないわ。もっと単純で、些細な問題……」

 

 映姫の言葉を遮ってから、一つ深呼吸をするとヘカーティアは答えた。

 

「貴方を巻き込んでしまった私が言うのはきっとおこがましいわよね? けれどもう、いまさらだわ。とっくのとうに、映姫ちゃんは真実のすぐそこまで辿り着いていた。私は……、私が、誰かに知られるのを怖がっていただけ。本当は、知ってどうにかなるわけじゃない。何かが大きく変わるわけでもなくて、ただ真実を知る者が一人増える、その程度のことなのよ」

 

 どこか自嘲気で、彼女にしては珍しく、ほんの少しばかり暗そうな顔をしていた。

 そして冷静に、自分の頭の中を整理させながら、ヘカーティアは言葉を紡いだ。

 

「……けれど、いざ説明しようと急に本題に入っても、分かってもらえないかもしれないわね。ええ、順序は大事だわ。だから、順番に、一つずつゆっくりと話しましょう」

 

 ヘカーティアは悩んでいた。どう説明すれば、映姫に伝えられるだろうかと。

 自らの知る、『八雲紫』という少女の身に起きた出来事は、けっして簡単に説明できるようなものではない。彼女を利用しようと、数多の者達の思惑が絡んだゆえの複雑怪奇。何本もの意図が複雑に絡んだ一連の物語は、自分が結論から先に述べたところで簡単に理解できるはずもない。

 まして、映姫は真実に近づいていたとはいえ、これまで部外者であったことを忘れてはならない。

 

「となると、そうねぇ。ずっとここに居ても仕方ないし、もっと落ち着いて話せる場所がいいわ。八雲紫が自分から手を回すと言った以上、後のことはきっとあの娘がどうにかするでしょうし。映姫ちゃんの仕事は今ここでひと段落着いたと言ってもいいでしょう?」

「え?」

 

 急に、ヘカーティアが部屋の扉の方へ振り向く。

 

「八雲紫にあそこまで好きにさせておいて、まさかそのままなんてことはないでしょう。そろそろ、やって来る頃合いだと思うわ」

 

 映姫はヘカーティアにつられて扉の方を見た。しかし何のことやらさっぱり分からない。

 キョトンとする映姫に対してヘカーティアは訳知り顔をしていた。

 

「っ!!」

 

 するとまるで見計らったようなタイミングで、ノックの音がした。面食らった映姫に返事ができるはずもなく、

 

「——失礼する」

 

 部屋に入って来た者達は総勢十名。

 豪奢な服に身をつつむ彼らは、無礼を咎めるどころか逆にこちらが平伏してしまいそうな、ただならぬ雰囲気を放っていた。

 先頭に立っていた男が口を開く。

 

「四季映姫殿。緊急時に際しての勤め、ご苦労であった。既に我々も事態は把握している。引継ぎのことも気にしなくていい。君にはしばしの間、ヘカーティア様の後に着いて彼女の手伝いをしてもらいたい」

「え、あ、そ、そんな——」

「ヘカーティア様? まさか、彼女にまだ伝えていなかったのですか?」

「……ええ、ごめんなさいね。丁度今、彼女に話そうと思っていたところだったのよ?」

「なるほど。それではまだ、映姫殿は我々のことも、現状の事態についても知らぬということですな。機会はこれまでに数度、あったはずですが……。まさか、ぎりぎりまで伝えないおつもりで?」

「そうともいうわね。でもしょうがないじゃない。なにせ緊急事態だったのだから」

「……はぁ」

 

 先頭に立つ男は溜息をついた。後ろに並ぶ者達も一様に呆れの混じった表情である。

 地獄の女神に対して、いささか不敬とも言えるようなふるまいであったが、不思議と違和感がなかった。しかし映姫はその理由をすぐに思い知ることになる。

 何時の間にやら正面からすぐ隣へ移動していたヘカーティアが、映姫の耳元まで寄ってきて小声で言う。

 

「そんなに身構えなくても大丈夫よ。彼らは十王だから」

「っ!?!?」

 

 むしろ大丈夫ではなかった。驚きのあまり危うく椅子から転げ落ちるところであった。

 映姫は動悸を鎮めようと胸に手を置いて深呼吸をする。しかしそれでもすぐには治まらなかった。

 十王。彼らの存在だけは勿論知っていたが、直接顔を合わせるような機会などなかったのだ。だから映姫の反応はある意味当然とも言えるのかもしれない。

 中途採用の映姫にとって、ヘカーティアと並んで十王は雲の上の存在なのである。これまで常日頃から映姫が散々愚痴をこぼしていた上層部の、さらにその上に立つ者達と言えば理解しやすいだろうか。

 言葉を失っていた映姫に、先頭に立っていた十王の一人が口を開く。

 

「こちらとの連絡が妨害されていたゆえ、対処するまでに時間がかかったが、先ほどようやく、他の閻魔たちに指示を出すことができたのだ。それからは連携して魂の氾濫の対処を行っていたのだが、さすがに対処できる許容量を超えてしまっていた。やれやれ、人口増加に伴い組織を大きくしたとはいえ、腐敗に気づけないとは不覚よな」

「然り。八雲紫の思惑通りになってしまったのは癪だが、当初我々が秘密裏に進行していた計画を前倒しして実施することに相成った。どうやら、あやつには気づかれていたらしいな。『早うせい』と尻を叩かれたような気分じゃわい」

「反省は後にせんか。とはいえ、早急に組織の腐敗を正せなかったばかりか、君には辛い選択を強いることになってしまった。本当に、済まなかったな。だから、せめてもの償いをさせて欲しいのだ。後のことはどうか我々に任せてほしい」

 

 親しみやすそうな笑顔が特徴的な男に続いて、隣に立っていた別の男が映姫に言う。

 まさか十王ともあろう者に労われるとは思ってもいなかったのか、映姫は固まってしまっていた。

 そんな映姫の様子に、十王の一人である、背の高い吊り目の女性は苦笑した。彼女は映姫が複雑そうな顔をしていたのに気づいたようだった。

 

「ああ、君の不満はまったく正しい。今更、どの面をさげてやって来たのかとも思うかもしれない。ここしばらくは安寧の日々が続いたからかしら、どうにも組織の腐敗が我々の想像以上に深刻だったようね。我々の怠慢で君や他の中途採用の閻魔たちに苦労をかけてしまい申し訳なかったと思っている。だがこれを機会に、組織の腐敗した部分を洗い流してやろうとも考えているの」

 

 彼女の一言は暗に、地獄の移転が以前から企画されていたことを示していた。

 

「だから、君が彼女に呑まれなくて本当に良かったよ。もしものことがあれば、組織の崩壊までは免れても、君という優秀な人材を失うところだった」

「は、はぁ……。し、しかし私は、何も——」

「謙遜しないで。ヘカーティア様の暴走も、この通り防いでくれたのだからね」

「ちょっと!! 本人を前にしてそれを言うのはあんまりじゃないかしら!」

 

 茶目っ気たっぷりに笑う十王の一人らしい女は、「すみません」と平謝りしつつ、一つ咳払いすると、念を唱えて宙に複数の鏡を浮かせた。幾多もの鏡はそれぞれ地獄の各所を映し出していて、死神や鬼神長などが忙しなく働いている様が見て取れた。

 

 全ての鏡が地獄の様子を映し出していることを確認すると、女性はそれまでの柔らかな雰囲気から一変して、思わず背筋を正してしまいそうになるような大声を上げた。

 地獄全体に響き、鼓膜を震わす力強い声であった。

 

『——聞けっ、我らが同胞たちよ。これまでの働き、まことに大義であった。これより魂の氾濫による被害を抑えるため、この地獄を移す。だが安心するがいい、新天地の確保は既にできている。我々が各所に派遣した鬼神の指示に従い、準備ができた者から速やかに移動を開始せよ』

 

 呆気に取られて膠着する者もいたが、数秒後には金縛りが解けたかのように動き出す。有無を言わさぬ彼女の言葉に、死神たちをはじめとして地獄に務める者達は各自が最善を尽くすよう的確に働いていた。

 

 宙に浮く鏡が映し出した地獄の各所の光景に、映姫は目を見開く。不思議なことに、混乱が起きる様子はないのだ。しかしそれは、十王の言葉の重みゆえであった。

 本来なら急な移転など誰も受け入れられないはずであるが、彼らが移すと言えばそれが真になる。十王たちの決定には、誰も口出しをしない。彼らが口に出したことは必然となる。必然であるからこそ、誰も疑わずに行動できるのだ。

 

「すごい……」

 

 思わず感嘆の言葉を口にした映姫。

 それを目にした十王の一人が彼女に向かってサムズアップをし、後ろに立っていた者に頭を引っ叩かれていた。

 

「映姫ちゃん、まずは落ち着いて話せる場所へ移りましょうか。必要な物があれば、後で運び出させるわ」

「はい…………」

 

 映姫は十王たちの言葉を頭の中で反芻していた。

 自分があれこれと悩んでいるときから、いや、それより前から十王やヘカーティアは行動を起こしていたのではないか? 自分が想像もつかないような、遥か前から。

 少なくとも、地獄が移転しなければならないような事態を想定していたことは確実であろう。ただ、そう考えると後手に回っていたことがどうにも腑に落ちない。

 

 何が何やらもうさっぱりである。さすがの映姫も、急すぎる展開と目まぐるしい情報の氾濫についていけなかった。

 もう、なるようになれ。これ以上は考えても仕方ない。

 映姫はただ頷くほかなかった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 十王たちから『もう行ってよいぞ』という許可が下りたこともあって、映姫はヘカーティアに連れられ部屋を後にしていた。内心で、『まさか私の部屋を指令室代わりにするのですか……!?』と動揺もしていたが。

 そんな映姫は余所にして、ヘカーティアは何やら術式を展開する。

 

「つかまって」

「は、はい」

 

 準備ができたらしく言われるがまま映姫がおそるおそる腕に捕まった途端、視界が揺らぐ。ものの一瞬でどこか別の場所へ転移していた。

 非常事態で全域に結界が張られ、そう簡単に外へ転移できないようになっていたはずだが、いとも簡単にやってのけてしまうヘカーティア。

 つい先ほど同様、『何にも驚くまい』という、映姫はどこか諦めたような表情であった。

 

「座っていて。今、お茶を出すわ」

「あ、あの……、お気遣いなく……」

「いいえ。少し長くなるわ。ちょっと待っていて頂戴」

 

 呼び止めてもすでに遅かった。

 返事も聞かずにヘカーティアは扉を開き、部屋を出て行く。一人残された映姫は深く息を吐いて気を落ち着かせるしかなかった。

 いくらヘカーティアが接しやすい性格であっても、一対一でいることに緊張はする。なにせここは、彼女の私室だろうから。確かに彼のヘカーティア・ラピスラズリの私室において邪魔は入らないと思うが、自分は冷静でいられない。ただでさえ気が動転しそうになるのを必死に押さえつけているのに、あんまりだ。

 もう一度、気を落ち着かせるためにゆっくりと息を吐く。すると、少しは周囲を見回すくらいの余裕が出てきた。

 

 あまり人の部屋をじっくりと見回すものでもないとは思うが、ヘカーティアの部屋は必要最低限なものだけを揃えたような、簡素な部屋であった。それが映姫には少し不思議に感じた。女神というからにはもっと荘厳な部屋を想像していたが、思いのほか物が少なくずっと落ち着いた部屋だったのだ。

 

「(ん……?)」

 

 だからこそ、ふと額縁に飾られた一枚の絵が目に留まった。

 絵画というにはあまりに写実的で、けれど映姫からすれば現実離れしたような、見慣れぬ不思議な印象を持たせる絵であった。

 

「(街……? 立ち並んでいるのは建物? いいや、それにしては不自然な形のような……。まるで鉄でできた城のような、それにしては細くて長い。あれではすぐに折れて倒壊してしまいそうですね……)」

「——お待たせしたわね」

 

 そうして疑問に思うもすぐに帰って来たヘカーティアの声に意識がいく。

 

「いえ、ありがとうございます」

「いいの、いいの。気にしないで」

 

 テーブルにティーカップを二つ置いたヘカーティアは、椅子に座ると手に取り一口。そうしてこくりと一口呑み込んだ後、彼女は映姫の目を真っ直ぐに見つめて言った。

 

「それで、早速だけど本題に入りましょうか。……ああ、そうだ。その前に改めて忠告しておくわね。この間は貴方の気持ちを尊重したけれども、今回のようなことが次にまた起きるとも限らない以上、私も貴方に言っておかなくてはならないわ」

 

 ヘカーティアの声のトーンが、少し低くなった。

 

「映姫ちゃん。貴方は大分、危ういところにいたの」

「?」

 

 映姫は少し不思議に思った。

 確かにあのままでは不味い状況にあったはずだが、どうやらヘカーティアは先ほどの件について述べているわけではなさそうである。

 すると彼女が言及しているのは、一体何なのであろうか。思案するも束の間、続く言葉でその意味を知ることになった。

 

「私はね、はじめて会ったときから気づいていたわ。貴方が、運命を恨んでいることに」

 

 彼女の言葉の意味を理解した映姫は口を強く結んだ。でなければ自分の思いの内を包み隠さず吐露してしまいそうだったからだ。

 そして映姫は納得した。やはりこの地獄の女神には、はじめからお見通しであったのだ。八雲紫の監視を任された直後、ヘカーティアが訪れてきたのもきっと映姫の内心に気づいていたからであったのだろう。

 

「そう、ですか……」

 

 幾ばくかして、映姫の口からやっとのことで出てきたのはその一言だけだった。

 

「きっと……、閻魔となる際に伝えられたわよね? そしてこう言われたはず。『私達は定められた“運命”のもとに存在している』と」

「…………」

 

 沈黙を是と受け取ったヘカーティアは続ける。

 

「人、妖、神……万物は、そうあるべき姿へと移ろっていくのだと。我々は、定められた一本の道筋から外れてはならないのだと。我々は運命の傀儡でしかない、ってね」

「……はい」

「でもそれは誤解。違うのよ。“運命”っていうものは、確かにそういう意味で使われることもあるけれど、貴方にそう伝えた者達は……、上層部にいた者達は運命というものの実際を理解していない。あるいは、理解した上で、貴方達にそうやって誤解させたかったのかもしれない」

「……ぇ」

「あるべき姿、というものは確かにあるわ。けれどそれは一つだけじゃないし、そう単純なものではない。幾つもあって、限りなく分岐するから未知数であり、『こうじゃなきゃいけない』っていうほどの強い力はないの。私達は、選ぶことができる。だから私達は、ただの傀儡じゃない。運命は精々、“修正力”でしかない」

 

 世界の秘密を、あっけなく明かされてしまった気分だった。

 それは一つの考え方、捉え方というにはあまりに彼女の実感がこもった言葉であった。

 

「だから、恨まないであげてちょうだい。そしてどうか、諦めないでちょうだい。貴方の身に起こる出来事は、貴方の選択にかかっているの」

 

 ずっと肩にのしかかっていた重りが、すっと外されたような心持ちであった。もしかしたら、映姫はずっと前から、他の誰かに、自分が傀儡でないと証言してほしかったのかもしれない。油断したら大きな声を上げて泣いて叫んでしまいそうだった。

 

 だが、素直に喜ぶこともできなかった。映姫の心境は複雑なものであった。

 ヘカーティアの言葉は、自分が抱えていた鬱憤が、知らずして自分の首を絞めていたこともまた同時に示唆していたからである。

 

「はい……。肝に、銘じます……っ」

 

 感謝と共に、申し訳なさが映姫の心を埋め尽くしていた。ゆえに返事は振り絞るようなものとなった。

 そんな映姫の心境を慮ってのことか、ヘカーティアは慈愛の籠った笑みで受け止めた。

 

「いいの。分かってもらえれば。少なくともこれから上層部は、今回の騒動で首が総変わりすることになるだろうし、なにより私が、もっと早く言っておけばよかったわ。だから……、これから話すことになるけれども、八雲紫が生み出すものに呑まれてはダメよ。あのとき、ね。八雲紫は貴方の心に生まれた動揺、迷いにつけこんで、貴方の精神を支配しようとしていたの。私達は本来、外から干渉されることなどないはずだけれど、今の彼女なら、その不可能を可能にしてしまう。……危なかったのよ? 本当に」

「うっ……」

 

 人差し指を立て、念を押して忠告するヘカーティア。

 だが映姫は、それはもっともだと思った。彼女の言う通り、あのときはかなり危険であったからである。

 境界を操る能力。やはりそれは、他者の心の隙間にすら干渉できるらしい。よりにもよって、他に干渉を受けぬ閻魔である映姫に対して。祝福されし子が異分子と同様、この世界の理が通用しないことは想像していたつもりであったが、改めて耳にすると自分の見積もりが甘かったことを痛感する。

 ふと映姫の心の中で一つの仮説が思い浮かんだ。

 

 ——もしもあのとき、自分が八雲紫に呑まれてしまっていたなら……。

 

 本当に、理解したつもりになっていただけだったのだと自覚し、映姫は身震いした。やはりあのとき、二つ返事で了承しなくてよかった。

 心底そう思いつつ、ヘカーティアの言葉の続きを待った。

 

「それじゃあ映姫ちゃん、一つ一つ話すから、よく聞いて」

 

 彼女の声はどこか緊張気味だった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 もしも一億年前に、ヒトがヒトとして高度な文明を持っていたのだとしたら? 

 

 誰もがきっと荒唐無稽だと言うに違いない。そんな昔に、人類が文明をもっているわけがないのだから。どこまで遡るかにもよるが、数百万年といったところだろう。

 

 しかし、月の民はどう説明すればよいのだろうか? 

 彼らの存在を考慮すると、はるか数千万年、あるいは一億年もの前から高度な文明をもっていたということになってしまう。となれば矛盾していると思うかもしれない。しかし答えは、ごく単純だ。我々が言うところの人類史は、月の民からすれば遥か過去の出来事であるからである。これだけでは、まだ理解しづらいかもしれないので、こう言い換えよう。

 

 

 ——この非科学が当たり前の世界は、俗に言う、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 人は空を飛べない。神様は存在しない。妖怪も存在しない。

 幻想は幻想でしかない。そんな時代がある日を境に崩壊した。おそらく予兆はあったのだろうが、じわじわと世界は変わろうとしていた。何百年か何千年か、何万年か、はたまた何億年かの周期で大きな変化が訪れるものなのかもしれない。

 きっかけは想像もつかないが、我々の理解が及ばぬ何かの力に依って、世界は大きく変わってしまった。その境目に生きていた人々は当然ながら、惑った。

 しかしやがて、彼らは彼らを縛っていた常識という鎖を引き千切り始め、人間と似て非なる“ニンゲン”へとその性質が変貌していった。

 

 “オカルト”などと呼ばれていた代物は、もはや何ら現実に起きても不思議なものではなくなったのだ。

 

 超常の力を手にしてしまったニンゲンは、やがて神を名乗り、やがて妖を名乗り、やがて人を名乗り始めた。当然、どれにも属せなかった者もいた。しかし彼らもまた、他の誰かによって神と、あるいは妖と、あるいは人と呼ばれるにつれてその在り方が変わっていった。幾星霜もの月日というのは、それだけの変化をもたらすのには充分であった。

 神や妖怪、人間などといった概念が再形成された時代。今で言う月の民達が地上に住んでいた頃は丁度、その時期に当たる。

 

 さて。ここまでが遥か昔、人の辿った長い長い歴史の一端。

 次に、この世界の“歪み”と、“運命”と呼ばれるものについて説明しよう。

 歪みとは、それまさしく不自然なもの。世の中の流れから逸脱してしまったモノを呼ぶ。小さな歪みから、大きな歪みまで。取るに足らないものもあれば、無視できないほどの異常事態を引き起こしてしまうもの存在する。この歪みが溜まってしまうと、絶え間なく変化していくはずの世の流れが滞ってしまう。ゆえに逸脱し歪みが生まれれば“運命”という名の修正力が働き、正常な軌道へと修復するのだ。

 

 ただし、この修正力は未来を一つに決定づけるものではない。もしもそうであったら、歪みなど生じないだろう。不確定性が存在するがゆえに、歪みもまた生まれるのだ。

 言ってしまえば、歪みと運命の両者は対の関係にあたる。

 

 だからこそ、半ば必然的に生まれた存在があった。

 修正力を跳ね除け、時としてその場に存在するだけで周囲に歪みを生み続ける器をもつ者たち。これこそがイレギュラー。一部の者が“異分子”と呼ぶ存在である。

 

 だが、自らがそうであると自覚している者は少ない。

 加えて、共通した特定の目的をもっているわけでもない。彼らは個々が独立した目的をもって行動している。

 ゆえに、推定される規模よりも少ない歪みを生む者もいれば、深刻な歪みを生む者も存在する。彼らには運命という修正力が通用しないゆえ、被害は予測不能でもあった。

 

 予測不能であることが、恐れを生むのもまた自明である。

 

 当時、修正力が存在するという事実に辿り着いた一部のニンゲンは、同時に異分子の存在を知り、彼らを疎み、排除しようと幾つかの手法を考え、大きく二つの派閥に分かれた。

 

 まず、自ら積極的に排除するという者達。

 彼らは異分子の排除を“救い”と称し、その脅威の大小問わず、手段を択ばない集団であった。その多くは、妖怪で構成されていた。

 

 次に、どちらかと言えば消極的で動向を見守る者達。

 彼らは常に異分子の脅威を見極め、見過ごせない大きな脅威のみを取り除こうとする集団であった。その多くは、神々で構成されていた。

 

 どちらも異分子に恐れを抱いてしまったがために生まれた派閥である。

 ただ両者は目的を同じにするも、その手段が異なっていた。相いれなかった両者の間では小規模ながらいくつかの衝突が繰り広げられ、協力することはなかった。

 しかし、これまでにない大きな歪みが確認されたことから状況が一変する。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 いくら未来が分岐していくのだとしても、起こりうる出来事には限りがある。

 これは世界の歪みに違いない。それも、大きな大きな歪みだ。双方の派閥は少女を人の身から逸脱させるべく、初めて結託した。

 しかしあろうことか、そこに横やりを入れてきたのが、ツクヨミだった。

 彼女はその少女と接触し、そして彼女が地上に取り残された後に告げたのだ。

 

 ——やがて生まれてくる娘が、ある能力を持っていることを。

 

「……別に、()()()()()()()()()()()()()。たしかそのように伝え聞いています。つまり地上に取り残され生き残った少女とは、八雲紫の母親に当たる人物というわけですね」

 

 映姫の答えにヘカーティアは満足げに返す。

 

「その通り」

「一体、どのような人物だったのでしょうか?」

「そうねぇ……。どこか抜けている普通の人間だったわ。ただし彼女のもつ能力は並ではなくて、ツクヨミと出会うこともなく、放っておいてもいずれ人の身から妖へ転じるはずだった。けれど彼女は八雲紫とはならなかった」

 

 映姫はこれまで穴の空いていた情報の一つ一つが、ちりばめられていたパズルの欠片のように組み合わさっていくのを感じた。

 

「当時、私も含めた一部の神々は月の上層部を操って、妖怪達の襲撃を取り計らった。手段は強引だったけれど、彼女が妖になるようには、修正力が働くところまで持っていくためには必要だったの。けれど、ツクヨミの手出しもあって目的は達成できず失敗に終わった。結果、八雲紫になるはずだった彼女が命を落とすことになり、あの娘が生まれたのよ」

 

 

 一人の少女が命を落とし、どの世界線にも存在しない“ゆかり”が変わるように現れた。

 

 

 続いて現れた異分子に、動揺も大きかった。

 加えて“ゆかり”は霊体となった少女の張った強力な結界に守られており、神々や妖怪も手出しはできなかった。

 そして、手出しできなかった理由がもう一つ。

 偶然“ゆかり”が、異分子を排除できることが判明してしまったのだ。

 

 それは異分子の排除を訴えていた妖怪達を、暴走した“ゆかり”が結界から抜け出し引き裂いたことに端を発する。

 妖怪達は異分子に干渉し過ぎた結果、気づかぬうちに自ら“歪み”を生んでしまっていたのだ。皮肉にも生まれるはずではなかったために、“ゆかり”は同じ異分子となった妖怪達を排除することができたというわけである。

 

 神々も彼女の処遇に関して頭を抱えることになった。

 自分達も迂闊に手を出し、干渉し過ぎてしまえば妖怪達と同じ運命をたどってしまうと判明してしまったからである。

 どの神々も様子見するしかなかった状況で、先んじて一つの可能性を見出した者がいた。

 魔多羅隠岐奈である。

 

「隠岐奈は、ほんの一瞬の隙をついて結界を緩めたの。そうすれば当然、外の妖怪たちは彼女を襲おうとやって来る。そしてあの娘は、母親を失った。直後の精神が不安定な時期であれば、思い通りにしてしまうのも容易いと考えたのでしょうね」

 

 修正力を感知することのできる自分達が、『協力を持ち掛けるのと同時に首輪をかけ、歪みを制御する』。はじめに思いついたのが、あの摩多羅隠岐奈だったのだ。

 

 ただし隠岐奈は“ゆかり”を手中に収めることができなかったわけだが、それは生き残った数人の神々の間に広まった。

 

 時が経ち。

 彼らは古の神々と呼ばれた。

 自分達のような修正力に関与する力を持つ者達が“ある者達”を繋ぎ止めてやる代わりに、異分子の排除を委ね、歪みを解消する。

 ある者達とは、選ばれた異分子である。祝福されし子とは、彼らのことだ。

 

 そのため首輪をつけられた者達、祝福されし子とはいわゆる“管理者”。そして古の神々は管理者の暴走を見張るための“監視者”にあたる。この両者の実態から、異分子と祝福されし子との間にさほど違いがないことが分かるだろう。

 制御された範囲でのイレギュラーか否か、ということである。

 

「純狐のように、祝福されし子もまた、放っておけば無視できないような歪みを生んでしまう。だから私や、隠岐奈、神綺やツクヨミは彼女たちがそれ以上暴走しないよう縛り、制御し、監視しているの。契約、という形でね」

 

 なるほど、と映姫はひとまず納得した。

 しかしここで、新たな疑問が浮上する。

 それでは、八雲紫とは一体何であろうか? 

 彼女は“祝福されし子”と呼ばれているものの、誰かが彼女と契約しているかと言えば違う。あのサグメでさえ、契約を施されていたというのに。

 そもそも、古の神々と契約をしているからこそ異分子を排除することができるのではないか? 

 

 映姫は八雲紫の事情について、ある程度は聞いていたつもりであった。

 だが、ヘカーティアから話を聞き、加えて先ほどのようなことがあった今では、それも本当に正しかったのか疑わざるを得ない。

 たしか八雲紫の人格はマエリベリー・ハーンという少女そのものであると聞いていた。それゆえ、月面から帰ってくる前の八雲紫の人格は、その残滓に過ぎないのだと。

 これは何か関係があるのだろうか? 

 察したヘカーティアが答える。

 

「私達でも彼女が何者か、結論には至っていない。でもね、彼女が生まれるはずではなかったことだけは確信をもって言える。皮肉にも生まれるはずではなかったために、“ゆかり”は異分子を排除する力を生まれながらにして有している。それでは、彼女の肉体に宿っている人格は一体どうなると思う?」

「……どういう、ことですか?」

「彼女の能力が、あろうことか彼女の人格に作用してしまったら、どうなる? 他ならない彼女の異分子を排除する力によって、自我が消失するとしたら……? おかしいわよね、望んでもないのに、自分が自分でなくなるのは。だから彼女の母親は、自分の肉体を楔にして結界を作り、あの娘が成長するまでの間、私達が干渉できなくなるようにすると共に、娘の人格が浸食されていくのを抑え続けていたのだと思う」

 

 背筋が凍った。

 

「——いずれは自壊して完全に消失してしまうのよ。残滓とは、言い得て妙よね」

 

 おもむろにヘカーティアはティーカップに口をつけた。

 気づけばかなり経っていたのか、すっかり冷めてしまっていた。

 

「自分達がやってきたことに気づいたのは、大分後になってからだったわ。そのときにはもう手遅れ。『歪みを正すため』っていう変な使命感に駆られて、大事なことが見えなくなっていた」

 

 カップを机に置き、少し躊躇った後、映姫の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。

 

「軽蔑、するかしら? 地獄の女神ともあろう者が、過去の行いをずっと引きずって、周りが見えなくなって、また同じような過ちを犯そうとしただなんて……」

 

 ようやく映姫は理解した。

 祝福されし子のこと、異分子のこと。そして、ヘカーティアがこれまで語ろうとしなかったこと。

 だが、彼女を軽蔑するなどという気はまったく起きなかった。

 

「しませんよ。むしろ話をしてくださって、ありがとうございます。やっと、迷わずにこれからのことを考えられるような気がします」

「映姫ちゃん……」

 

 これまでの話を聞き終えた映姫は心中穏やかであった。

 ヘカーティアが語ってくれなければ、不確かな情報の中で自分は堂々巡りをしていたに違いない。今なら、前向きに物事を考えられそうであった。

 となると早速、気がかりな点がある。

 

「そういえば、生き残った妖怪達はその後どうなったのでしょうか?」

「えっと……、異分子を認めることのできなかった妖怪達は、結界から出てきた八雲紫に挑んだわ。それはもう、何度も何度も。でもご存知のように、あまねく返り討ちにあって生き残っているのはせいぜい一人か二人かしら」

「なるほど……。もしや、八雲紫は妖怪のみならず神までも手にかけていたのでは?」

「鋭いわね。ええ、そうよ。何人かはすでに消滅しているわ。月面にいた、“綿月”みたいにね」

「…………」

 

 映姫は考え込むように押し黙った。八雲紫の目的が読めなかったのだ。

 そんな様子に配慮したのか、ゆっくりと、確認するようにヘカーティアは語った。

 

「マエリベリー・ハーンという少女の名は、一度は聞いているはずよね? 貴方は目の前に立ったからこそ分かったはず。あの娘は、彼女は今から遥か昔、神も妖怪も存在しなかったような時代に生まれるはずだったことも。それがどうしてか、本来生まれるはずだった時代から遥か後に、“ゆかり”として生まれた」

 

 無言で頷いた映姫を目に留め、続ける。

 

「ここからは私の憶測よ」

 

 実は彼女自身も、確信までには至っていなかった。

 

「やがて八雲紫となった彼女は、記憶を取り戻した後からは積極的に異分子狩りを始めるようになった。制御されていない状態で、いつ崩れるかも分からないような境界に立って。……でもそれは、自壊していく自我を保つためなのかもしれない」

 

 だからこそ、ヘカーティアは陰ながら八雲紫を様々な者達に引き合わせ、その反応と行動から彼女の様子を窺っていた。できれば敵対したくはなかったし、協力できそうなら、それが一番いい。

 日和見と言われてしまえばそれまでだが、自身が極力ほかの者達に干渉することは控えていたかったのだ。余程のことがあれば、自分と純狐が動こう。

 だが、一度自分達が行動を起こせば、それで被害がゼロになるというわけではない。

 それゆえ、八雲紫という強力な協力者が増えることは、彼女にとっても願ってもないことであったからだ。

 

「だから彼女は空っぽになってしまわないように、異分子を狩り続けるしかない。でも彼女のやり方では、延命手段にしかならないわ」

「——っ!? それだと彼女は……!!」

「ええ、そうよ。いずれ彼女は消滅するでしょう。誰にも記憶されることなく、静かにね。映姫ちゃん、先に言っておくけれど、例外はないわ。一度完全に消滅してしまったら、私もきっと、彼女のことを忘れてしまう」

 

 

 

 

 

「彼女はね。消えるべくして、消えていくの」

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。