夢とはなんだろうか。
といっても将来のというのではなく、寝ている間に見る夢のこと。
人が見る夢は儚い。それは寝ている時にしか瞳に映ることがなく、掴もうと手を伸ばすと、触れる寸前で指の間をすり抜け消えてしまう。掴もうと抗えば抗うほどその形は崩れて行く。なんとも世知辛い。現実も夢も、どちらも水は冷たく、太陽は暖かい。そこに違いがあるのなら、夢では風も、花も、空の青も、私に優しくしてくれる。
向こうはいつでも私を手招く。その誘いに私はベッドに横たわり、瞳を閉じて応じる。
一足向こうへ踏み込めば、ひらりと宙を舞う蝶が、私を呼ぶ。辺りの静けさに耳を傾ければ、風の声が聞こえてくる。何に縛られることもなく、一人広い草原を歩いてゆく。何処へ通じているかも分からない道を気ままに歩き、その道の果てにある未知を探しに出かけよう。――ああ。
覚めない夢を見られればいいのに。
ずっと眠り続けられればいいのに。
だがそれこそ叶わぬ夢。人は眠ればいつか目覚める。夢から覚めてしまう。どれだけ長く、壮大な冒険でも。不思議の国のアリスのように最後には目覚め、その世界は夢となる。
現実と夢に境目がある限り。
――――――
――――
――
「……」
携帯の震えが部屋の中に広がり、メリーはその目を開く。その瞳に映るのは見慣れた自室の天井と、寝起きの目にはキツイじわり差す日の光。それでメリーはやっと「朝が来た」と認識する。今尚震え続ける携帯を手に取り、アラームを解除して体を起こす。
ぐらりと歪む視界。込み上げる吐き気。
まるで体の中身をグチャグチャにかき混ぜられているような不快感が全身を襲い、たまらず再度ベッドに横になる。――幾らかましになった。朝はいつもこうだ。一日の始まりは、この気持ち悪さに打ち勝つところから。しかし自身の体温で程よく暖かくなった布団は、そう簡単にメリーを離そうとはしない。それにメリーの瞼もまだ重かった。そんな中、細目で部屋に飾ってある時計に視線を持っていく。音のない部屋の中で小さく時を刻む時計の針は七時を指している。少々寝すぎてしまったようだ。メリーは頭の中のスケジュール張を引っ張り出し、今日の大学は午後からであることを確認する。余裕は十分にあった。
アラームを止めたばかりの携帯に視線を戻し、バックライトの厳しさにますます目を細めながらメモ帳を開く。気持ち悪さが消えるまで、見ていた夢のことを思い出しながらメモ帳に書き留めることがメリーの日課なのだ。が、真っ白な画面の前に手が止まる。何故だか見ていた夢が思い出せない。珍しい――メリー自身も軽く驚きながら白紙のメモ帳を閉じる。何かとても長い夢を見ていたような気がするのに、どんな内容だったかまるで出てこない。
「仕方ない……か」
思い出せないものはしょうがない。メリーはすっぱり諦めて枕に顔を埋める。柔軟仕上げ材のいい匂いがした。
メリーは夢を見ることがとても好きだった。気紛れで、美しくて、自分の知らない風が吹く夢の世界が輝いて見えた。だからなのか朝は決まって体調が悪い。まるでメリーの体が現実の世界を拒否しているように。人間、眠ればいつか起きてしまう。夢は儚い。目の前に現れたかと思えば消えてしまう。それが悲しくて、子供の頃は朝起きる度に泣いては、覚めない夢が見たい――と幼心に抱いていた。
しかしメリーも年月を重ねもう大学生。
現実の厳しさは拍車が掛かり、色のない世界には息が詰まりそうになる。大学生活は忙しく、自然と睡眠時間も減り、夢の世界はますます遠退いてしまう。今日にいたっては夢の内容さえ思い出せない。
しかし困ったものだ。日課である夢記録ができないとなると、途端にやることがなくなる。頭を捻るもいい考えは浮かばない。二度寝しようにも、先程まで重かった瞼が嘘のように軽くなっていて寝付けそうにない。かといって気持ち悪さが抜けきったわけでないので動くことはできないだろう。結局メリーが取れる行動は、ただ時間の流れに身を任せることだけだった。
「……」
ふと視線を部屋の外へ向ければ、自室の窓に切り取られた青空が瞳に眩しく映る。今日は晴れだろうか。それとも午後からは雨が降るだろうか。少し調べればわかるようなことにメリーは頭を回す。昨日は晴れだったとか、今は九月だとか、考えてはみるものの、
「曇りがいいかな」
最後にはメリー自身の要望になのだけど。
「あっ――そうだ」
数秒間の暇潰しの甲斐あってか、メリーは再び携帯をその手に取る。そして先程白紙のまま閉じたメモ帳を開いて、昨日の記録を探し始める。今日の夢が思い出せないのなら、昨日の夢に浸ればいい――無数に溜まっているメモ欄からタイトルに「九月十八日」と書かれたものに触れて文章を開く。
「読み返すなんて初めてかも」
基本的に記録は付けるものの、読み返すことはしない。元々読み返すためにつけているのではないから当然なのだろう。あくまで形として残すため、他意ない。少しだけ新鮮さを感じながら、昨日自分が記した夢を追っていく。
夜空に星が見える。雲は何処かに消えてしまったのか、煌々と照る月が夜空を蒼く染める。吹く風は辺りの辺り草木を鳴かせ、私の体に絡みついて消えていく。額や頬に自分の髪の毛がピタリとくっ付き、風が冷たく感じる。どうやら息も切れているようで、肩の上下が激しい。すっと肺に酸素を取り込むと、味のない夜の匂いがした。
上がっている息を整え歩みだすが、足は鉛のように重い。それでも一歩、また一歩と歩みを進めていく。足元に道はない。けどひたすら真っ直ぐに歩いていくと、開けた場所に出る。吹く風は一段と強さを増し、大きく髪を巻き上げる。周りを見渡すと赤い鳥居や古ぼけた建物が見えた。神社なのだろうか。他に目ぼしい物も見当たらないから、建物の方へ歩いていく。すると何処から体に響くような音。まるで時計台の針が一周してきたかのような。だが視界の届く限りにそのようなものはない。
その代わりに、視線の先――神社の賽銭箱の前に自分より一回り小さい女の子が姿を現す。先程まで誰もいなかったはずだった、というよりも私には自分以外の誰かが夢の中に出てきていることのほうが不思議に思えた。今まで私の夢には私以外の人間が出て来ることは一度もなかった。自分以外の存在に、心の何処かで興味と恐怖が姿を現す。
「どうかしたの?」
その子の前まで歩み寄り、視線を合わせようと膝を折る。その子は可愛らしい帽子を深く被っていて目を合わせることはできなかったが、頻りにしゃくり上げているところから見ると何か悲しいことでもあったのだろう。その頬に涙が伝う。
「無くした、失くしちゃった」
蚊の鳴くような声で少女は呟く。
「落し物? お姉ちゃんが一緒に探そうか?」
「……」
返ってくる言葉はない。けどその場を離れるのは忍びなくて、少女の隣に腰を下ろす。少女は私のことを気にする様子はなく、俯いたまま泣き続ける。
「大切な物?」
「……かもしれない」
「貴女の物じゃないの?」
「……」
私の問いに少女は答えない。そのまましばらく沈黙が続く。するとその内少女は泣き止み、頬に残った涙の跡を拭うと「何処だろう」と言い残してその場を去っていった。私は特に引き留めもせず、その背中を見送る。今私が何を言ってもあの子は止まらない――そう思えたから。
一人取り残された神社は、静かに風に揺れていた。
陶酔すること数分。記録の最後までスクロールを終え、メモ帳を閉じる。思えば不思議な夢だった──記録にもあったように、メリーの夢に他の誰かが出て来ることはない。もし出ていても記憶には残らない。そして、時間帯が夜というのも珍しいことだ。いつもは朝や昼、とにかく日が照っている場合が多く、場所も神社などではなく、花が綺麗に咲き誇る、まさに楽園のようなところが多い。
そんな疑念が浮かぶのだが、結局は夢の話だ。そういう夢を見ることもあるだろう、それで話がついてしまう。考えても答えは出ないのだから、考えるのは時間の無駄とは思わないが、そろそろ気持ち悪さも消え始めたので、大学に行く準備を始めなければならない。考え事は講義の合間にでも――頭の隅に追いやって体を起こす。胸の内もすっきりした。視界も安定している。ならば支度をしなくては。ベッドから立ち上がると、手早く寝間着から、いつもの紫を基調とした長袖ワンピースに着替え、洗面台へと向かう。手早く歯磨きを終わらせ、顔を洗って髪を整える。今日は寝癖が絶好調で思いの外時間が掛かった。洗面台から戻ると、メリーはキッチンへ向かい、引き出しの中から買い込んでおいたパンを取り出し口に加える。料理ができないわけではないが、朝が一番気だるいメリーに朝ご飯を凝れるほどの余裕はない。手早く済ませてしまうのが手っ取り早く、体にも優しい。
パンを綺麗に食べ終え、ベッドの上に置きっぱなしだった携帯をポケットにしまう。そしてリュックを背負って玄関に向かい、フックに掛かっている白いモブキャップを被る。この帽子、よく人に「可笑しな帽子だ」と笑われるが、メリーはこの帽子を心底気に入っている。この帽子の可愛さが、他人には通じないのだろうか。
みんながこの帽子の良さに気付く日が早く来ればいい――起きているのにそんな世界を夢見つつ、メリーは玄関の扉を開く。見上げた空に先程の青はない。何処から走って来たのか、一面を雲が覆っている。秋の天気は変わりやすい。
「いい天気ね」
メリーは要望通りになった空の下で、くすりと笑う。晴れの日は日差しが強くて億劫だ。雨の日は、雨音は好きだが、帽子が雨で濡れてしまうのは嫌だ。つまり曇りが何も気にせず過ごせる最もいい天気となる。
マンションの階段をゆっくり降りて道路を見てみれば、いつもより行きかう人が少ない気がした。少し違和感を覚えたが、何に違和感を覚えたのかがわからずメリーはそのまま歩き出す。むしろ人がいないほうが気軽に歩ける。なんだか今日は京都の町も静かで、メリーの足音が道によく響いた。
大学までそれほど距離はない。歩いて二十分くらいだ。通い始めたころはそれこそ辛かったが、二年も経つと体も自然と慣れてくる。今ではちょっとしたお散歩気分だ。辺りに広がり始める鼻歌。奏でているのはもちろんメリーだ。何時になく上機嫌なその足音は軽い。これも天気のせいだろうか。
歩みを進めるメリーの背後に浮かぶ黒い雲。その足取りは重い。
◇◆
夕暮れ。雨音が静かに京都の街を包み始めた。
専攻である相対性精神学を含めた三つの講義をやり終え、帰宅しようと大学を出たメリーはその光景を目にして肩を竦める。――まったく、秋の天気は変わりやすい。何だかそんな予感はしていた。しかし参ったことに傘は持ち歩いていない。かといって大学に残ってもやることはない。
「でもまあ……これくらいなら」
玄関の屋根の向こうに手を出せば、雫が弱弱しく手のひらに一つ、二つと溜まっていく。然程強くはない。これなら走って帰れることができる。大学からは講義を終えた学生達が、傘を差しながら各々散っていく。自分もこうして立ち尽くすわけにもいかない。帽子が濡れないようリュックの中にしまい、雨の中を歩き出す。走ることはしない。メリーは雨が嫌いではないから。少し体は冷めてしまうが、雨音は聴いていて何処か落ち着く。街の緑も、食べるものでさえ人工的に作られているこの時代。もう自然を感じられるのは雨か雪くらいしか残ってはいない。そういう意味では雨を感じることは大切だ――メリーは髪から頬へと伝う雫を指で拭い、辺りを見渡す。いつも通る商店街。ここは京都の中でも古くからその形を保ってきた数少ない場所。しかし時間帯と雨のせいか、何処もシャッターを下げている。いつもは少し買い物をして帰るのだが、これでは無理そうだ。
「今日はお饅頭とか買って映画でも見ようと思っていたのに……残念」
軽く肩を落としてお饅頭屋さんに踵を返す。ならば今日は家に帰って課題をやりつつベッドの上で寝転がるとしよう。特にやりたいこともない。なら早く帰ろうと、お饅頭屋さんの屋根から一歩踏み出す。
瞬間、視界を奪う光。
数秒遅れの耳を刺す音。
それを皮切りに、先ほどまで静かに降っていた雨は、バケツの水をひっくり返したようなどしゃ降りに変わってゆく。メリーは踏み出した足を引っ込めて、何処か雨宿りできる場所を探す。するとシャッターの灰色でいっぱいの視界の中に、少し遠くの向かい側で明かりが灯っているお店を見つける。ここでも雨は凌げるが、風は冷たく吹き付ける。申し訳ないがあの店で雨宿りさせてもらおう。屋根の中から飛び出し、一直線に向かい側へと走り始める。なるべく濡れないようにしないとお店の人に迷惑だ――向かい側に着くと、店々の屋根を傘代わりに進み、ひっそりと一か所だけ営業している店の前で足を止める。
少し古ぼけたような外装のお店。木製の扉、その前の看板には「喫茶店 夢現」と書かれている。
「喫茶店か」
丁度よかった。雨で濡れた体が冷え始めていたメリーにとって、温まることができるお店が運よく開いていたことは幸運だった。店内を濡らしてしまっては申し訳ないので、ハンカチで髪と袖の水気を拭き取り、ゆっくりと扉を引く。扉はわずかに軋み、中から光が漏れ出す。
「いらっしゃい」
女性の声。店員だろうか。
だがその店員の姿をメリーが瞳に捉えたその時、メリーはその眼を見開く。カウンターの向こうから、こちらを向き笑いかける自分によく似た顔。前に鏡があるのかと錯覚するほど。
ブロンドの髪。
紫を基調としたドレスのような服装。
視線を捕えて放さない紫がかった瞳。
赤いリボンが蝶々結びに付いている白いモブキャップ。
完全に一致ではない。メリーより年上に見える。それに髪も少し長い。綺麗なお姉さん――という印象だ。世の中には自分と似ている人間が三人はいる。そんな言葉を聞いたことがあったが、まさか自分とそっくりな人と出会うことになるとは思ってもみなかった。
「あら、可愛らしいお客さんね。どうぞ」
たじろぐメリーに女性は優しく声をかけ、目の前の席に座るよう促す。メリーもこのまま突っ立てるわけにもいかない。言われるままにカウンター席に腰を下ろす。
「かなり濡れてしまっているわね。今タオルか何か持ってくるわ」
「あっ、いえ、そんな……」
「遠慮しなくてもいいのよ」
メリーの制止を聞かずに、女性は店の奥へと下がって行ってしまった。優しくしてくれるのはありがたいのだが、あまり慣れていないせいか、何処かくすぐったく思える。それに彼女の声で言われると、メリーは何故が断り切れなかった。その理由はメリー自身にもよく解らない。
静寂の店内。一人取り残されたメリーは木製のカウンターや椅子、優しく店内を照らす照明を見て、「いい雰囲気」と肩の力を抜く。今までこんなお店、商店街にあっただろうか。この辺りにはかなり出入りしているメリーには、あの店が潰れたとか、新しくお店ができたとか、そういった情報はすぐ耳にする。しかし新しく喫茶店が開いたなんて話は聞いたことがない。
そんな疑問を抱いていると、奥から女性が戻ってくる。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
手渡される白いタオルを受けとり、拭ききれなかった水気を取っていく。何処かで嗅いだことのあるような、いい匂いがした。
「それにしてもひどい雨だわ」
カウンターに肘を付き、窓の外を眺める彼女の視線に、メリーも吊られて視線を動かす。雨が窓ガラスに強く打ち付け、吹く風が窓を小さく震わせる。先ほどより酷くなっているようだ。これはしばらく帰れそうにない。
「まるで誰かが泣いているみたいね」
「……誰か?」
首を傾げるメリーに女性はくすりと笑う。
「さあ、誰でしょうね」
深い意味があるのか無いのか、メリーには判断ができなかった。でも口に手を添えて微笑む彼女を見ていると、なんだか意味があるように思えてくるのはどうしてなのだろう。――掴み所のない人。それでもメリーが感じるのは不信感ではなく、親しみ。
「雨で冷えたでしょう? 温かいものでも飲む?」
「じゃあ紅茶を」
「紅茶ね……はい、どうぞ」
注文からわずかコンマ一秒。メリーは目の前に置かれた紅茶に目を白黒させる。あらかじめ作ってあった──というわけでもないらしく、紅茶の綺麗な茶色の上には白く湯気が上がっている。唖然とするメリーを見て、女性は「クスクス」と声を漏らして笑う。まるでメリーの反応を見て面白がっているように見える。
ティーカップを手に持てば、その温かさがジワリと手の平に伝わる。口に含むと、紅茶の香りが口の中に広がっていく。美味しい――そう言葉を溢した。
紅茶を楽しむメリーに対し、女性はカウンターの上で手を組みながら、その姿をただ見つめる。自分と同じ髪の色、自分と同じ色の瞳を持つ少女を見るその視線には何が込められているのか。それを知るのは彼女だけだ。
それからは、二人とも特に会話もせず、時間だけが過ぎていった。ゆっくり、でも確実に。メリーはお茶の味を楽しみ、女性はひたすらそれを眺め続ける。そんな沈黙をメリーは気まずいとは感じなかった。むしろ沈黙が心地いい。背後の雨音は、さらに激しさを増して行く。
「ねえ、貴女と私、似ていると思わない?」
沈黙を破った女性の声は、メリーがティーカップを皿の上に置く音と重なる。カウンターからその身を乗り出し、メリーにぐっと顔を寄せた。
(綺麗な顔……)
近くでみるとやはり整った顔立ちをしている。自分とよく似た彼女の顔を「綺麗」と形容するのは少し自画自賛な気もしないでもなかったが、率直な感想としてそう思う。
「私も……そう思います」
「他人の空似にしては似すぎなのよね。あっ、もしかしてドッペルゲンガーさんかしら?」
「た、たぶん違うかと」
そんなわけない。それは彼女もわかっているはずなのだが、わざとらしく「よかった、まだ死にたくなかったから」と微笑み返す。本来メリーは人と話すのが得意ではない。生まれも育ちも日本なのだが、やはりこの特徴的な容姿は、メリーの周りから人を遠ざけてしまう。そのせいであまり見知らぬ人と会話すのは苦手なはずなのだが、彼女相手だと何故だか落ち着いて話せる。やはり自分と似ているからだろうか。
それから他愛ない会話が続く。
自分のこと。
彼女のこと。
大学のこと。
お店のこと。
振り返れば大した内容じゃないかもしれない。
それでも話し続けられるのは、やはり楽しさを感じているからなのだろう。
聞くところによると、彼女の名前は八雲紫。経緯は教えてくれなかったが、どうやらこのお店の店長らしい。話好きなのか、話すネタが尽きることはない。同時に聞き上手な人で、メリーの話にもしっかり相槌を打ってゆく。できる人、というのはきっとこういう人のことを言うのだろう。メリーは関心を抱きながら話す口を休めない。ずっと喋っていられる気がした。
「一人暮らしなんでしょ? 時間は大丈夫?」
だが、どんな有意義な時間にも終わりはやってくる。
紫の突然の言葉で、メリーの止まっていた時が動き出す。今は何時だろうか。慌ててポケットの中ら携帯電話を取り出し電源を入れる。
(よかった……まだ十九時だ)
画面に映し出された時刻に胸を撫で下ろしながら窓の外を見やる。雨は上がっただろうか──話に夢中だったせいで今まで気づかなかったが、既に雨音は聞こえない。窓の向こうは茜色の光が辺りを照らしている。どうやら雨は上がったようだ。名残惜しさはあったものの、これを機に家に帰らなければ、またいつ雨が降り始めるとも分からない。
「……泣き止んだ……ですかね」
「泣き疲れていなければいいのだけど」
赤く染まった窓に向ける視線は何処か心配そうで。やはり「誰か」のことを思っているのか、そう考えはしたものの、メリーは口には出さなかった。もしかしたら、ただ天気を人の感情で言い表しているだけかもしれない。それにもし、本当に「誰か」がいるとしたら、他人が勝手に立ち入ってはいけない。
紅茶の代金を支払い、紫に見送られて、メリーはお店を後にする。お店から一歩外に出れば夕日に照らされた道。一体何処へ走り去ったのか、見上げる空に雲の姿は見当たらない。目の前を通り過ぎていく風は、季節に反して暖かかった。
さあ、もう帰ろう。
なんだか今日はこのまま帰って寝てしまいたい。
家に帰れば、夕日に赤く照らされているベッドが待っているはずだ。
寝転がっていればその内、夜が降りて来る。
今日は月が笑う日だ。それにこれだけ晴れていれば空には星々が煌めくだろう。
窓から見えるそれらを一つずつ数えながら、今日は深く微睡むことにしよう。――いい夢が見られる気がする。
リュックから取り出した帽子を被って、メリーは夕日に踵を返した。明日また来ようかな――道にできた水溜りに映る少し緩んだ頬をそのままに、メリー家へと歩き出す。
誰もいなくなった商店街通り。静かに夕日は暮れていった。
まだ奇譚のこと始め。
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**から漏れ出した闇
大学の講義中にも関わらず、メリーは上の空だった。
その日も、夢が思い出せなかった。
初めて夢が思い出せなかった日を境に、白紙のメモが携帯に溜まり続けている。原因はわからない。少し前まですぐ近くにあったはずのそれが、今は何処にあるかさえ分からなくなってしまった。夢を見ていたあの頃に、ノスタルジーすら感じてしまう。
小さく溜息をついた後、止まっていた手を走らせる。一応講義に出席しているのだ、何もせずにぼーっとしていたのでは単位はもらえない。それにしてもこの講義――超統一物理学は、どうもメリーの肌に合わない。元々メリーは文系、相対性精神学が専攻だ。それなのに何故理系の超統一物理学など取ったのか、正直なところメリーには理系のことはさっぱりで、ただ退屈でしょうがなかった。教室の前方では赤毛の女教授が熱心に何かを語っているが、内容は然程頭に入ってこない。――ここにいる人は、みんな理解できているんだろうか?
辺りも見渡すも、誰もメリーのように動きを止めている学生はいない。皆、頭を手元と教授を交互に行き来させ、その手を忙しなく動かす。はやり分からないのは自分だけ……。考えるのはやめて、教授の後ろのホワイトボードに書かれている数式らしき何かを写し取る。あの教授の字はやけに達筆なので、メリーにとって記録するのは一苦労だ。
「それじゃ、今日はこの辺にしとく。レポートはさっさと出しなさいよ」
やっと終わった――疲れが一気に肩から抜け落ちる。今日の講義はこれで終わりだ。
席から立ち上がると、メリーは視界の隅に、たった一つの空席を見つける。
「優等生のあの人は今日も休みか」
ここ数日、この科目では学内トップの学生の姿をメリーは目にしていない。
何故か気になる。メリーはその人と面識がない――正確にはその記憶はないはずなのだが。
一瞬頭の中が曇ったが、すぐにそれを振り払う。手早く講義をまとめて、メリーは足早に教室を去った。特に急ぎの用事はないはずなのに。なぜかこの場に居たくなかった。
大学から出ると、まず一番に燦燦と輝く太陽と目が合う。これは秋晴れというやつだろうか。吹く風も何処か乾いていて、地面の落ち葉を巻き上げたている。
背負っているリュックを背負いなおすと、メリーは駆け足でその場を去っていく。
向かう先は、あのお店だった。
◇
「ごめんください……」
ここ最近頻繁に来ているというのに、メリーは何処か余所余所しく扉を開く。
中からいつも返ってくる紫の声はない。
「留守……かな?」
メリーは首を傾げたが、現にお店の扉が開いているのだ。休みということはないだろう。ゆっくり扉を閉め店内を見渡す。メリー以外誰もいない。思い返してみると、この店に紫以外の店員の姿を見たことが、メリーの記憶にはなかった。
誰もいない店内に少し困惑しつつ、メリーはいつも座っているカウンター席に腰を下ろした。
店内に沈黙が停滞する。
話し相手が不在では、こうも時間の流れが遅いものなのか。
メリーは店内の振り子時計が揺れるのを目で追いながら、ただただ紫の帰りを待つ。帰ってくるかどうかはメリーには分からない。いや、紫以外誰も知らないかもしれない。――が、みしりと木目の扉がきしむ音が店内に広がった。紫が帰って来た。そう思ったメリーは瞬時に振り返る。だがその予感はすぐに消えてなくなった。
「珍しい、この店に人が来てるなんて」
扉の前で物珍しそうにメリーを見つめる人影が一つ。
一歩踏み出して店内へ入ってくる黒いマントを羽織った少女。制服を着ているため高校生かとも考えたメリーだったが、その口調、その態度から、どこか年上のようにも感じた。
少女はメリーにように遠慮することもなくつかつかと店内へ入っていき、メリーの隣の席へ腰を下ろした。
その赤渕の眼鏡越しにメリーの瞳を見つめ、何かを察したように薄く笑う。
「ど、どうかしましたか?」
無意識に自分のほうが下だと思ったのか、メリーは丁寧口調になっていた。
メリーが尋ねると、少女はわざとらしく両手を開き、肩を竦めて首を横に振った。
「なんでもないよ。今のところはね」
訝しさが残る言い方――この時点でメリーは「この人もベクトルは違えど、紫さんと同じ人種だな」と理解した。決して口には出さないが。
「ねえ、此処にはよく来るの?」
「最近ここを知って……知ってからは大体毎日来ています。あまり人もないないし、落ち着くので」
「あはは、ここに人が多かったら困るよ」
手で口を押えながら少女は笑う。笑顔が絶えない人だ。でもその笑顔の奥に何か得体のしれないものを感じて、メリーは愛想笑いも浮かべず目を逸らす。あの瞳をずっと見ていたら、その奥にある何かに吸い込まれそうな気がする。
だが、メリーはこの少女に既読感に近いものを感じてもいた。全てを見透かした物言い、まるで自分には世界の仕組みが見えてるかのように振る舞うその姿。何処か引っ掛かるが、何に引っ掛かったのか、メリー自身よく分からなかった。
しばし静寂が辺りを包む。紫のように話しやすいわけでもないし、向こうから話しかけて来るわけでもない。ただ頬杖を突いて、どこか遠くを見つめている。気付けば店の置時計の針は、十九時を指していた。
「ねえ、いつまで居る気?」
メリーは一瞬にして身を強張らせる。沈黙を破った彼女の声は、先程の明るかった様子から一変し、その声は重く、強く、苛立ちすら感じられた。襲る襲る彼女の方へ視線を向けると、少し呆れたような顔で大きく溜息を零していた。
「それとも帰り道が分からないの? 私が一緒に探そうか?」
「それぐらい分かります」
馬鹿にされてると感じたのか、メリーの声色も少し苛立ちを帯びた。そもそも自分がどこにいつもで居ようと彼女にはなんの関係もない。だが少女は「なら……いいんだ」と小さく零すと、帽子を目深に被り席を立つ。
「紫を待ってるなら今日は来ないと思う。……それと、必要ないとは思うけど」
先程とは打って変わって神妙な顔つきの少女に、メリーも耳を貸す。
「道に迷ったら月を見るといい。時間が知りたかったら星を見るといい。タイムリミットはそう遠くないうちにやってくる」
「じゃあね」少女は踵を返して店の扉を開こうとドアノブに手をかけた。が、「――ねえ」振り向き、不敵な笑みを浮かべてメリーに言う。
「何か忘れてない?」
◇
日はしっかり沈み切り、辺りは夜の暗闇が広がる。昼時よりは涼しいものの、その空気にはまだ夏の暑さを含んでいる。残暑が厳しい、がメリーはそれが嫌いではなかった。辺りを行く人も少なく、今日は京都の街も静かに夜空に広がる星々の輝きを楽しんでいた。
それから少し店で待ってみたが紫は現れず、あえなく帰宅している。だがメリーの頭の中では、彼女の最後の一言が反芻していた。何か他のことを考えようとしてもどうしてもその言葉だけが頭から離れない。「自分が何かを忘れている」と唐突に誰かから言われてもにわかに信じがたい話だ。だがもしそれが本当だとしたら。
こうもメリーが悩むのには理由がある。メリー自身、自分の中から何か抜けてしまっていると感じ始めていたからだ。それは最近夢を見なくなったこと、あの店に行くようになったことに何か関係があるのだろうか。それにあの少女は、何をどこまで知っているのだろう。今自分が感じていることについて何か言っているのは間違いない。だが彼女に聞いたところで直接的な解答は返って来ない予感はあった。
「……あれ?」
そして今まさに新たな違和感に襲われる。本来、商店街を抜ければメリーが住むマンションまでは一本道、歩いて数分の位置にあるのだが、もう歩いて十分は立っているはずなのにマンションが視界に入る気配はない。それどころかここは何処だろうか? 考え事をしているうちに知らない道に迷い込んでしまったのか、辺りを見渡すも見覚えのあるものが見当たらない。広い京都とは言え、自分が住む地域に何があるかくらいはメリーも把握している。だが、自分の記憶の中から該当するものが見つからない。まるで見知らぬ土地に足を踏み入れてしまったような感覚を覚えて、メリーはその場で狼狽えた。
振り向いても自分の知る道はない。元来た道を辿っても戻れる保証はない。右か左か、どっちへ行けば良いかすら分からない。できることと言えばその場に立ち尽くすことだけだ。
「……」
だがそれすら許されない事態に、メリーは立たされることになる。
見上げた空が歪みだす。まるで不安に揺れるメリーの心情を同期するかのように、その揺らぎは大きく空に広がっていく。その様子はメリーを更なる不安に陥れた。自分の目の前で起こっていることが自身の常識の埒外であることは言うまでもない。みるみるうちに辺りの風景は歪んで行き、歪みが酷くなると黒く塗りつぶされるように闇に消えていく。
「なに……これ……」
数歩の後ずさりの後、振り返ったメリーは走り出した。幸い進行方向に歪みはなかった。だが、背後の歪みは、世界をかなりの速度で浸食しながらメリーの背中を追ってくる。メリーは泣き出したい気持ちを必死に堪えて、なるべく振り返らないようにして足を動かし続ける。本能的に感じ取ったのだ。あれに飲み込まれたらおしまいだと。
暗闇の中の街に、メリーの足音が強く広がる。視界の届く範囲に人影はない。まさかこの世界で一人だけになってしまったのではないか、そんな考えがメリーの頭の中を過る。額から頬に伝う汗が冷や汗なのか、走っているためのものなのかもう分からない。息は徐々に上がっていく。元々メリーは体力に自信がない。全力で走れる距離などたかが知れている。次第に足に乳酸が溜まっていき、逃げようとする意志に付いていけなくなる。足が縺れ、その場に倒れ込んでしまう結末は、もはや予測するのも馬鹿らしいくらいの確定事項だった。
「うっ……」
全身に伝わってくる鈍い痛み。立ち上がろうと試みるも、体は先に切れてしまった酸素を取り込むのに必死でいうことを聞いてくれない。
歪みの浸食はもうメリーが倒れているアスファルトも飲み込もうとしていた。下半身に触れているアスファルト感触が曖昧になっていく。メリーが首だけで振り返ると、自身の真下は既に暗く塗り潰されていた。
「あっ」
そして引きずり込まれるように歪みに落ちてゆく。反射的に手を伸ばすが、掴むべき物は何もない。もう無理だ。失意の中でメリーは瞳を閉じる。何が起きたかすら最後まで分からなかった。忘れているであろう何かを思い出すことも叶わなかった。
「ほらみなさい」
言葉と共にメリーの降下が止まる。聞き覚えのある声だ。
ゆっくり目を開ければ、先程の喫茶店にいた少女がメリーの手首を力強く掴み、宙に浮いている光景が飛び込んできた。
「やっぱり帰り道、分かってなかった」
状況が飲み込めず、目を白黒させているメリーの意識を置き去りにし、少女はメリーを引き上げる。弾みをつけてメリーを抱きかかえると、宙を蹴って空に入った亀裂のような物に飛び込んだ。
一瞬の出来事。黒く塗りつぶされていく街の光景が、メリーの瞼の裏に焼き付ついていた。
――――――
――――
――
混乱していたメリーにはそれが瞬間移動だったのか、それとも自分が覚えていないだけでちゃんと移動してきたのか、どちらか分からないが、気がつけば先程まで居た喫茶店「夢現」に戻ってきていた。
「紫! どうしてこんなになるまで放っておいた!」
耳がしびれるような少女の糾弾の声が店内に響き渡る。
その声の波紋が収まると、また空間の亀裂が入り、その隙間から紫が姿を現す。申し訳なそうな紫の表情を見た少女は、怒りをおさめるかのように舌打ちをした。
「この子は貴女より繊細なのよ。本当のことを言ったら、その瞬間に崩壊しかねない」
「そこをなんかするのが、あんたの役目でしょうが」
「あ、あの……」
蚊帳の外に追いやられていたメリーがようやく声を上げる。
メリーは混乱しつつも自分が置かれている状況を理解しようとしていたのだ。
紫はメリーの意思をくみ取り、少女と一緒に席に座るように促した。メリーはいつもの席に座り、少女も少し不服そうな顔をしながら席につく。
「メリー、貴女最近夢を見なくなった……そう言ってたわね」
「はい、そうですけど」
「なぜだか分かる?」
首を捻るメリーに、紫は一段と声色を優しくして告げる。
「――今、この瞬間こそが貴女の夢なの」
人は本当に驚くと声が出ない。まさに今のメリーの状態がそれだ。
そんなことを言われても信じられるだろうか。いや、信じられない。
「私は全て見ていたもの。天気が急に曇りになったのも、帰りに雨が降ったのも、貴女がそうなってほしい、そうなるんじゃないかと思ったから」
――言われてみれば、たしかに思い当たる節はある。日常の数カ所に違和感を覚えることはあった。紫さんの言うことが本当なら、これは本当に――。
一瞬でパニックになりそうになる。今見ているものが夢なら、現実の私はどうしている? 向こうでは一体どれだけの時間が経っている? どうして向こうの私は目覚めない? 分からない。疑問に押しつぶされそうになる。
そのとき、紫の手がメリーを顔を包んだ。
紫の手の温かさが、メリーの冷え切った頬にじわり広がる。
メリーの心は、再び落ち着きを取り戻した。
「貴女が取れる選択肢は二つ。一つは夢から覚めること。もう一つは……このまま夢の世界に残ること」
「夢の……世界に」
「私は残った」
しばらく黙り込んでいた少女が、被っていた帽子をカウンターの上に置いた。懐かしむような目線をメリーに向け、頬杖をつく。
「夢を現実に変える――それが私の目標だった。夢の世界に居座り続けて、もう何年経ったかなんて覚えてない」
「じゃあ現実の貴女は……」
少女は目を瞑りながら首を横に振る。夢の世界に残るとは、つまりそういうこと。現実を捨て、自由な世界を手に入れる。この世界が自分の気持ちを読み取って形にするのなら、常にいつも思い描いていた理想を見続ければいい。そうすれば世界の形は保たれ、先程のようにメリーを襲うこともない。
しかしなぜだろう。
覚めない夢を見られればいいのに。
ずっと眠り続けられればいいのに。
そう思っていたはずなのに。
メリーの心の何処かに引っかかる何か。これが少女が言っていた「何か忘れている」ものなのだろうか。憧れた夢の世界を蹴ってでも、その「何か」を求めていることに、メリーは戸惑う。けれど嬉しかった。
自分が住む世界にも、それだけのものがあった。
「私……帰ります」
「そう……わかったわ。現実の貴女が目覚めないのは、貴女自身が夢と現実の境界を見失ってしまったから。でもその無くしものは、必ずこの世界の何処かにある。それを見つけ出せれば」
「帰れるんですね」
「でも簡単じゃないよ。言ったでしょ? タイムリミットは遠くないうちにやってくるって。残り時間は……」
少女は店内の置き時計に視線を運ぶが、見た瞬間ため息をついて、手首の腕時計を見直した。
「一時間もないか。それを過ぎると、もう現実には帰れない」
「……」
残った僅かな時間で、この広い街から「何か」を見つけなければならない。メリーの表情は陰鬱なものになっていく。無理もない。姿形も予想できないものを、この短時間に探し出すのは至難の業だ。
「まっ、頑張ってよね」
少女は立ち上がると、手首につけていた腕時計をメリーに渡した。見れば針は十一時を過ぎていた。なぜ時計を渡されたのか。メリーが困惑していると、少女は置き時計の方を指さした。置き時計の針は、十九時で止まっている。
――ああ、そういうことか。
メリーは時計の意図を理解し、手首に巻き付けた。
秒針が動き、その振動が心地良い。うるさかった胸の鼓動も、秒針に同期するかのように落ち着いていく。
「十二時まで時間がないわ。私たちはもう手を貸してあげられない。これでお別れね」
「お別れ……ですか。寂しいです」
「そうね。貴女とはもっと話したかった」
メリーは立ち上がる。寂しそうに見送る紫に踵を返し、扉の前に立ってドアノブを掴むと、不意に振り返った。
「また……会えますか?」
「会えるわ。貴女に夢と現の境界がある限り、また何処かで」
その一言を聞き、メリーは店を飛び出した。
紫さんも、あの少女も、笑って送り出してくれた。だからもう怖くなんてない。
冷たい風がメリーの前を通り過ぎる。それは不安の表れか、それともしばしの別れの悲しさがそうさせるのか。
寒々しい街の中に、メリーの足音が広がり始める。
止まっていた時計の針が、朝に向かって動き始めた。
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ナイトエンド
頬を伝う汗を拭わなくなったのは随分と前のことだ。
走りながら何かを探し、かつ迫り来るタイムリミットの中で冷静さを保つのは、なかなかに難しい。息を整えようと立ち止まると、腕時計の秒針の振動が、速く打つ脈とは違い、ゆっくり、しかし着実に時を刻んでいる。
紫たちと別れてから十分ほど経っただろうか。どこまで広がっているのか分からない自分の夢の世界の中で、メリーは悪戦苦闘を強いられていた。
何を探せばいいのか分からない。それはおそらくメリー自身が忘れている何か。それは思い出せるものなのか。あるいはそれを見た瞬間に思い出せるものなのか。
しかし、ゆっくり考えることができないほど、メリーは退路を断たれていた。残り時間を気にしながら再び走り出す。なるべく自分と関わりがあった場所を巡るように街を回った。違和感を強く感じた場所があったはずだ。それは確か――。
メリーの記憶の中で一番印象に残った場所。紫の喫茶店を除けばもうあそこしかない。そこを尽きそうな体力を振り絞り、重くなった足を根気で動かす。そこに探し求めている物があると信じて。
そしてたどり着く。
周囲を鬱蒼とはいかないほどの風通しがいい常緑樹に囲まれた大きな建物。メリーは自分が通う大学へ足を踏み入れた。構内は真っ暗だというのに、自動ドアだけは通常通りに動く。感じた不気味さを押し殺して、メリーは構内を歩き始めた。
――この世界は私の恐怖を感じ取って形にする。恐怖を感じればそれだけ……。
何もない空間に奇妙な亀裂が入る。それはまるで世界がずれ、他の世界とぶつかることで透明な壁がひしめき合っているようにも見えた。
大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせて前へ進む。メリーの足音が明かり一つない構内に反射し、さらにそれがメリーの耳に反芻する。――できることなら耳を塞ぎたい。
様々なものが迫ってくるなか、メリーはやっとの思いで目的地である講義室の扉を開く。当然誰も居ない。雑然と机、椅子が並べられているだけ。メリーが扉を閉めると、講義室内に重い音が響いた。
メリーはあのとき自分が座っていた席を見つける。そこに座り、ある一点を見つめた。メリーが違和感を感じた場所、顔も知らないはずの誰かが気になった。あのときメリーにかかった雲が、メリーの無意識を読み取った結果だったのなら――立ち上がり、その誰かの席へ移動した。
綺麗すぎる机を指先でなぞる。メリーは必死に見つけ出そうとしていた。現実に自分をつなぎ止めていた何か、それはこの席の主ではないのか? それなら無意識に彼女を求め、専攻でもない超統一物理学の講義を受けていたことにも納得がいく。
「ねえ」
何もない空間に、メリーは語りかける。
「私たちって、どんな関係だったのかしら」
メリーの声が広がって消える。
「たぶん親友とか……恋人とか……そんな感じ? 私、親しい友人は少ないの」
机の上に座り込み、両足を抱えた。
返ってくる声はない。メリーは俯き自嘲ぎみに笑う。講義室の時計は、秒針一つ動かない。これが私の世界か。腑に落ちてしまうのが憎らしい。本当に空っぽだ。
腕時計の秒針の振動が手首から全身に伝わってくる。もう残り時間も無いらしい。
「俯いてても何にもならないのに……」
――物には色々な側面がある。だから下を見てないと気づけないことも、きっとある。
懐かしい声が聞こえた気がした。
誰の物かは分からないが、自然と耳に入ってきた声は心地よく。ストン――と心に落ちてくる。今、視界に見えるのは真っ暗講義室の床。下を向いていないと気付けないこと。それは――ああ、これか。
「私も……いい加減夢から覚めないと……駄目ね」
座る机から降りて、メリーは机の影に潜んでいた"それ"を拾い上げた。何処かで見たことのあるような黒いソフト帽。帽子を掴む指先から伝わってくる懐かしさが、メリーに「これだ」と訴えかけてくる。そう、メリーには分かったのだ。残された時間の中ですべきこと、夢から覚めるためにしなければいけないことが。
メリーは大学を抜け出し、空に煌々と照る月と目を合わせる。何処かで見覚えのある月だ。そうだ、きっとあそこで――帽子を胸に抱きかけ、メリーは走り出した。
急ごう――君が待ってる。
◇
夜空に星が見える。雲は何処かに消えてしまったのか、煌々と照る月が夜空を蒼く染める。吹く風は辺りの辺り草木を鳴かせ、メリーの体に絡みついて消えていく。額や頬に自分の髪の毛がピタリとくっ付き、風を冷たく感じさせる。走り疲れ、息を整えようと肩の上下が激しい。すっと肺に酸素を取り込むと、味のない夜の匂いがした。
鬱蒼生い茂る山道で、重くなった足を引きずり上へ、上へと歩みを進める。帽子を手に取ってみて何かを感じたが、それだけでは夢から覚めなかった。けれど一つ思い出したのは、探し物をしていたのはメリーだけではない。ということだった。
舗装されていない道は歩きづらく何度も足を取られそうになるが、これが最後――と踏ん張りを効かせる。そう――ここをもう少し歩けば。
「開けた場所に……でる」
吹く風が一層強くなる。なびく髪をかき分け前へ進む。赤い鳥居、古ぼけた建物……すべてその通りだった。それなら――メリーは手首をそっと撫でながら辺りを見渡す。やはり辺りに特別な物はなく、ここが神社だと言うことがわかる。そして本堂の方に歩いて行くと、既読感のある光景が広がっていた。
神社の賽銭箱の前で、膝を抱えて泣く少女。みっともない程泣きしゃくり、涙を拭っては目元を赤くする。
私の夢に、私以外が存在することはない。ならこの子は――メリーは膝を折ると、少女と目線を合わせ語りかける。
「どうかしたの? もしかして落とし物?」
泣き続ける少女は、流れる涙をそのままに顔を上げ、メリーと視線を交わした。
「どうして知ってるの……?」
「どうしてだろうね。はい、これ。落とし物」
メリーは手に持つソフト帽を少女に手渡す。受け取った少女は目を見開き、弾けるような笑みを見せた。――どうやら落とし物はこれで間違いないらしい。
よほど見つかって嬉しかったのか、先ほどまで泣いていたのが嘘のようにその場を走り回り、年相応にはしゃいでいた。そして、ひとしきり喜ぶと、被っていた可愛らしい帽子とメリーが渡したソフト帽を交換し、メリーが通った鳥居の方へ走っていく。
「何処へ行くの?」
「待ってるから、行かなきゃ。またね」
「もうなくしちゃ駄目だよ……うん、またね」
少女の姿が見えなくなるまで見送ると、メリーは少女が座っていた場所に腰を下ろした。元々ない体力ももう限界。町中を走り回り、挙げ句の果て登山までしたのだ。もう疲労困憊。今日はよく眠れる気がする。
――瞼が重い。視界がぼやける。耳もよく聞こえない。
ああ、起きたらまたあの具合悪さと戦わないといけないと思うと少し億劫だが、ここは素直に従おう。今日は星も月も、こんなに綺麗なのだ。きっといい夢が見れる気がする。
メリーが意識を手放す直前、最後に聞いたのは聞き覚えのある鐘の音だった。
◆
――ゆっくり瞼を開く。
頬に触れる空気は何処か他人行儀で、無機質で、つまらない。鼻に付く薬品の匂いが邪魔で、うまく呼吸ができない。私はどうやら寝ていたようだ。私の体は知らない柔らかさを持ったベッドの上で横になっている。虚ろう視界がようやく世界にピントを合わせると、ベッドの隣に座る彼女の顔が見えた。
黒いソフト帽がトレードマーク。白いワイシャツと赤いネクタイ、黒のロングスカートという服装だが、自然と人の目を引く存在感のある少女。
「おっと、これまた随分と寝てたね。おはようメリー」
「……おはよう、本当によく寝たわ」
体を起こして見ると、案の定いつもの気だるさが込み上げてくる。だがその気持ち悪さよりも、気になることが私にはあった。彼女が座る椅子の隣、私がいるベッドのサイドテーブルに上がっている"それ"だ。
「ん? 何処か体調悪い?」
「そんなことないわ。ねえ、これって……?」
「ああ、それね。さっきまで貴女とよく似た人と話しててさ。もうすぐ起きるだろう――って、その紅茶と花を置いていったの。もしかしてお母さん? まだ近くにいるだろうし、呼んでこようか?」
そうか、こっちに来ていたのか。私はソーサーごと膝の上に乗せ、ティーカップを手に取る。暖かい紅茶の熱が指を通して伝わり、昇る湯気からはちょっと懐かしい味がする。一口含めばその暖かさは全身に広がり、まだ少しざわめく心を落ち着かせてくれた。
病室の窓から外を覗けば、完全防音といえど、向こうの騒がしさが目で覗えた。まったく、夢と現実はこうも違うものか。科学世紀は世知辛い。
「ううん、大丈夫よ」
席を立とうとする蓮子を制し、私はベッドの背もたれに体を預ける。一息ついて、サイドテーブルに飾られた濃い桃色の花――花蘇芳を見つめて、小さく声を漏らして笑った。もしかしたら結局は自分次第が気がしたのだ。相対性精神学を学んでいる私なら、特に。
「いいの?」
「ええ、多分……どこかで笑ってると思うから」
飲み終えた紅茶の残り香に浸りながら、私はこれから夜が降りる街を眺め続けた。
またいつか、夢の向こう側にいる貴女に会いに――行けたらいいな。
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