BIOHAZARD:OBLIGATION (麦ご飯)
しおりを挟む

Prologue

 2012年春。

 

 私立藤美学園高等学校。

 

 非常階段の手すりにもたれながら、小室孝は考えていた。自分も含めて日本人とはとことん平和ボケした民族であろうか、と。

 

 きちんとした教育が受けられるのにこうして授業をさぼっている。

 さっきまで悪友たちとなにかを喋っていたが、その内容も数秒後にはどこかへ消えていた。

 そして午前中いっぱいを削って行われた『あの』講義。

『あれ』を聞いてもなお、彼の頭は、幼馴染の失恋を引きずっている。

 

 ぼーっとしているときは、あれこれと思考が切り替わるもので、孝は『その』講義のことを思い出していた。

 

『バイオテロ』

 

 その言葉が当たり前のように人々の記憶に刻み込まれてから、14年間が経とうとしている。

 

 1998年10月。

 アメリカ中西部に位置する街〈ラクーンシティ〉が、世界地図から消えた。

 原因は、かつての巨大製薬企業〈アンブレラ〉が非合法に開発した〈T-ウイルス〉の漏洩による未曽有の生物災害(バイオハザード)

 及び合衆国政府による、滅菌と言う名のミサイル爆撃。それによって、街ひとつと10万もの命が地上から姿を消した。

 毎年10月になると、テレビのチャンネルはラクーン事件の追悼番組でいっぱいになる。

 孝がそれを意識しだしたのは中学生になった頃。アングラ系のサイトにアップされていたバイオテロの動画を漁るようになってからだった。

 

 死んだ人間が動き出し、生きた人間を食う。

 

 馬鹿げた冗談だと思った。でも、現実だった。

 現実だった。でも、恐ろしくもなんともなかった。

 

 なぜなら、日本ではまだ(、、)生物災害(バイオハザード)が1度も起こっていなかったから。

 

 北米、南米、中東、アフリカ、そしてヨーロッパ。

 アンブレラの手を離れた〈T-ウイルス〉は世界中に拡散し、形を変えて死を振りまいている。

 もはや地球上のすべてがバイオテロの射程範囲内に入っているというのに、ただ『起きていない』というだけで、「この国は安全なんだ」と高を括ってしまう。

 

 他の人間もそうなのだろう。そんな意識改善を名目に、藤美高校は実際にバイオテロと直面した人間を海外から招き、体育館で講演を開いた。

 

 招かれた講師は、〈東スラブ共和国〉とかいう、初めて聞く国で教師をやっているらしい。

 車椅子に乗り壇上にあがった男は、けっこうな男前だった。流暢な日本語を扱い、声はどことなくクラスメイトの平野コータを大人っぽくしたみたいだと感じた。

 名前は長ったらしくて覚えにくかった。本人もそれを自覚していたのか、向こうで呼ばれている愛称を教えてくれた。

 

「たしか〈サーシャ〉……そう、〈サーシャ〉だ」

 

 彼の講演を、孝は自分でも信じられないくらい真剣に聴いた。

 ディスプレイに映し出される資料のひとつひとつに目を通し、サーシャの言葉に食い入るように耳を傾けた。

 

 しかしそれでも、喉元過ぎればなんとやら。

 午後の授業がめんどくさいとぼやくやつ。

 放課後の予定はどこへ行こうかと談笑するやつ。

 メロンソーダを飲んで感染したふりをしてふざけるやつ。

 約束されたこれからの時間を疑いもせず、頭の中は平和でいっぱいだった。

 そう。いま、自分も含めて。

 

 それは、自分たちがおかしいのか。それとも世界がおかしいのか。

 決まっている。

 そのどちらでもない、ウイルスを使っているやつらがおかしいのだ。人々の命と尊厳の一切を奪い、私利私欲のために世界に悪意を振りまくやつらが。

 

 しかし、そのことを頭で考えるだけでなにも行動を起こさない自分もまたおかしいのかと、孝は若干の罪悪感を抱く。

 

 〈B.S.A.A〉や〈テラセイブ〉

 実際に、いまも世界のどこかでバイオテロと闘っている人たちがいるというのに。

 その罪悪感でさえも『無責任』なのだろう。結局は『見物人』の立場でものを見ているのだから。

 孝は大きなため息をひとつ、手すりにもたれる腕に、深く顔を埋めた。

 

 ーーそれが、彼の最後の『無責任』な行動。

 ふと視界に入る、閉じられた校門を叩く誰かが、孝の世界を一変させる『悪意』を抱えてやってきた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter〈A〉:1-1

 アレクサンドル・コザチェンコ〈サーシャ〉は、窓の外の景色を眺めながら、日本という国は本当に美しい、と頬を緩ませた。

 校庭では生徒たちが元気よく体育の授業を受けている。整然とした街並みを満開の桜が彩り、空は蒼に澄みきっていた。

 

 一年前には考えられなかった光景だった。

 2011年。血と涙と火薬に(よど)んだ東スラブの空の下、サーシャは反政府勢力の一員として戦っていた。

 師と友と恋人すら失い、ついには〈プラーガ〉にまで手を染めバイオテロを引き起こした、許されざるテロリストだった。

 

 すべてが無駄であったと悟ったとき、もはや生きる意味も希望もなく、死んで楽になろうと、自身の顎に銃を突きつけた。

 だが、死ねなかった。

 

『俺たちに自ら命を絶つという選択肢はない。武器(これ)を手にした以上、 死んだ奴らの分まで生きるしかない。たとえ不自由な体になったとしても』

 

 死ぬわけにはいかなくなった。

 恋人であったイリーナ。師と尊敬していた長老(アタマン)、イワン・ジュダノビッチ。同じ志を共に戦った仲間たち。そして……

 

「JD、日本は素晴らしい国だ。お前にとっちゃ、少し退屈に感じるかもしれんがな」

 

 どんなときでも自分を見捨てず、その身を案じてくれた最愛の友。彼らが生きていたことを忘れさせてはならないと、サーシャは車椅子での生活を強いられる体となっても、バイオテロの当事者として、脅威と悲劇を語り継ぐ闘いを続けている。

 

 JDの形見であるスキットルをそっと撫で、サーシャはそう呟いた。

 

「サーシャ先生、はいどうぞ」

 

 うららかな太陽の光を形にしたような藤美学園校医、鞠川静香(まりかわしずか)が、豊満なバストをたゆんと揺らしつつ、サーシャの前に香り立つティーカップを置いた。

 

「ありがとう鞠川先生。あなたにはお世話になってばかりで……」

「いえいえ。これもわたしの務めですから」

 

 厳密にいうと彼女は正式な校医ではなく、大学病院から派遣されてきた臨時のものらしいが。生徒や教師からは慕われ、立派な学園の一員だ。

 

 今回の来日に際しても、下半身の不自由なサーシャに対して親身に接してくれる。

 サーシャは彼女に対して、感謝してもしきれないくらいだった。

 

「もう日本には慣れましたか?」

「ええ。鞠川先生をはじめとする教師の皆さん、そして生徒たちも、みな良い人ばかりだ」

「うふふ、ありがとうございます。……でも、やっぱりサーシャ先生には申し訳ないと思っています」

「どうしてですか?」

 

 眉をハの字に曲げ申し訳なさそうな表情をした静香に、サーシャは尋ねた。

 

「ほら、午前中の講演で、何人かおしゃべりしてたし、寝てる子までいたでしょう?サーシャ先生的には、やっぱり気分が良いものじゃないかなー……と」

「ああ、なるほど」

 

 サーシャは苦笑した。

 

「たしかに、もう少し真摯に受け止めてほしかったとは思いました。ですが、それ以上に、皆が平和に日々を過ごしているのだな、と嬉しく思います。それに……」

「それに?」

「ああいえ。とにかく、バイオテロなど一度も経験しないに越したことはない、ということです」

 

 サーシャは、自身に生徒を糾弾する資格などない、と首を振った。

『バイオテロの被害者』のこのこと招かれた自分には。

本来ならば毅然とした態度で注意しなくてはならないのだろう。しかし、かつて犯した罪に対する罪悪感から、どうにも強く出ることができない。

 

「そういうものですかねぇ?」

「そういうものでなくてはならないのです、本来は」

「でも、少なくともわたしは、サーシャ先生のこと、尊敬していますよ?」

 

 険しくなるサーシャの表情を溶かすように、静香は柔らかくそう言った。

 

「わたしたちでは到底考えられないほどの苦労をなさって、それでもまだ前を向いていられるサーシャ先生のこと、すごいなぁ、って。多分、わたしの人生ではじめて心の底から」

 

 そう微笑む静香と目が合い、サーシャはとっさに顔をそらした。

 彼女の笑顔が、今は亡き恋人アリーナと重なって見えるほど、安らぎを感じるものだったからだ。

 

「さ、さて、いつまでも保健室に長居してはいけませんね!わたしは職員室へ戻ります」

「もう行かれるんですか?もうちょっとゆっくりしていけばいいのにぃ」

「いえ、一応は来客の身ですのでそろそろ……」

 

 そのとき、ふと校門に誰かが立っているのがサーシャの目に入った。どうやらスーツ服の男のようだ。

 

 ーーいや、立っているのではない。

 門に阻まれているにもかかわらず、何故か歩みを止めようとはしない。ガチャンガチャンと、なんども体を打ち付けているようだ。

 何人かの教師が、男に歩み寄るのが見える。

 

「あれは……まずい!」

 

 途端に、背中から冷たいものが流れ落ちるのを感じたサーシャは.全速力で車椅子を走らせ、保健室を後にする。

 

「サーシャ先生?……行っちゃった」

 

 ぽかんとする静香。机には、まだ口をつけられていないティーカップが、ゆらゆらと湯気を立ちのぼらせていた。

 

 

 ----------

 

 

 今日の日の為にバリアフリーを行き届かせていた学園内からサーシャが校門まで駆けつけるのに、時間はかからなかった。

 

 幸いにして、教師らはまだ男に接触していない。体育教師の手嶋を先頭に、様子を見ているところだった。

 

「手嶋先生!その男に近付いてはいけない!」

 

 サーシャは声を張り上げた。

 

「サーシャ先生?」

 

 いままさに掴みかからんとしていた手嶋は、サーシャの剣幕に足を止めた。

 

「よかった……間に合った……」

「どうされたのですか、そんなに慌てて」

 

 大粒の汗を流し、肩で息をするサーシャに、教師陣が駆け寄る。

 

「あれは……不審者などではありません」

「不審者ではない?ではいったい……まさか!」

 

 教師陣の顔から血の気が引いていく。

 サーシャの指差した男をいまいちど冷静に観察してみると、がたがたと体が震えだした。

 

 血の気のない顔。生気のない白濁した眼。だらしなく開いた口からはよだれと血がぽたぽたと滴り落ち、こちらからの死角となっていた背面の脇腹はえぐり取られたように欠損し、ぷらぷらと赤黒い肉片がぶら下がっていた。

 

「そ、そんな!まさかあれはゾン……」

「落ち着いてください!」

 

 取り乱し、いまにも悲鳴をあげそうになる林京子を、サーシャは手をかざして制した。

 

「手嶋先生と林先生は、まずは外の生徒たちを屋内へ避難させてください。脇坂先生は警察に連絡を。あとの方々は、わたしと正門、および裏門のバリケードの構築を手伝ってください。いいですね?」

 

 サーシャの冷静な指示に、全員が落ち着きを取り戻した。強張りつつも頷いた彼らに、サーシャもまた頷き返すと、車椅子を動かし、門の側まで移動する。

 すると、ただ門にぶつかっているだけだった男がおもむろに大口をあけ、サーシャに食いつかんと襲いかかった。

 

「ひっ……!」

 

 小さく悲鳴が上がる。

 

「〈感染者〉の対処について教えておきます」

 

 サーシャはジャケットの胸ポケットからボールペンを取り出した。

 先端は0.3mmの、丈夫な金属製だ。

 

 格子を掴みながら、サーシャの首筋めがけがちがちと顎を開け閉めする〈感染者〉の頭を狙い、サーシャはボールペンを躊躇いなく振り下ろした。

 

「頭を狙うこと。その際、絶対に躊躇わないこと」

 

 ぬるりと頭からボールペンを引き抜いたサーシャ。

 教師陣の表情が凍りついた。目の前の光景が信じられずに声すら上げられないのだろう。

 しかし、彼らの協力なくしてはこの窮地は逃れられない。

 

『噛まれた』人間が襲ってきたのだ。おそらくこの学園の外ではすでに……

 

「さあ、急いで!」

 

 ぱんと大きく手を叩くと、皆が一斉にそれぞれの役目へと動きだした。

 

(上手くいけば、しばらくは凌げる。その間に警察や自衛隊の救助を待とう。それにこの事態、〈BSAA〉が黙っていないはずだ)

 

 〈BSAA〉

 国連の直轄である対バイオハザード部隊だ。彼らが鎮圧に駆けつけるのには2、3日もかからないだろう。

 生徒や教師たちの家族の安否についてはどうにもできないが、いまのサーシャにはこれができる精一杯だった。

 

 しかし……

 

 安全なはずの校内から、悲鳴が上がった。

 

 ひとつではない。学園のいたるところから上がっている。3階の教室の窓が割れ、そこから生徒が飛び降りているのが見えた。

 

「ああ、なんてこった」

 

 最悪の事態が起こってしまった。もはや自分たちだけではどうにもならない惨劇を前に、サーシャは頭を抱えた。

『悪意』はすでに内に入り込んでいたのだ。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter〈A〉:1-2

 数分と経たぬうち、学園は阿鼻叫喚の地獄と化した。

 動く死体がクラスメイトに噛みつき、噛みつかれた生徒がまた、別のクラスメイトを狙う。

『悪意』は瞬く間に広がっていった。

 

 サーシャたちは当初の予定を変更し、生存者を講堂へ避難させるべく、動きだした。

 サーシャも車椅子を必死に走らせていた。体は無意識に、保健室へと向かっていた。

 

 〈奴ら〉のひとりがサーシャを捉え、呻き声を上げながらゆっくりと近付いてくる。

 彼のことをサーシャはよく覚えている。

 名前は鈴木。この学園に来た初日に車椅子を押してくれた男子生徒だ。

 印象的だった剽軽で人懐こい笑顔は、彼にはもうない。

 

「……すまない」

 

 頭にボールペンを突き刺すと、鈴木は動かなくなった。

 

「……まずいぞこれは」

 

 ふと気付けば、前方に3体。後方に6体と、〈奴ら〉に通路を塞がれていた。

 

「くそっ!」

 

 サーシャは一旦、左端に体を寄せ、前方右側が開くように〈奴ら〉を引き寄せる。

 ギリギリまで引きつけたところで、一気に隙間を通り抜けようとしたが……

 

「しまった!」

 

 廊下にぶちまけられた血糊に車輪を滑らせ、転倒する。

 

「ぐっ……!」

 

 腕の力だけでなんとか車椅子を這い上がろうとするサーシャ。しかし〈奴ら〉は無慈悲にも、サーシャの足を掴み、肉を食いちぎらんと大口を開ける。

 

 はっきりと死の光景が見えた。そして、いままさに食いつかれようとした瞬間、〈奴ら〉の頭が脳天から陥没した。

 誰かが木刀で頭を砕いたのだ。

 見ると、女生徒だった。スラリとした細身に、美しい長髪。この学園では比較的長い丈のスカートをなびかせながら、〈奴ら〉を次々と叩き伏せていた。

 

「先生、捕まってください!」

 

 そしてもうひとり。すっきりとした角刈りにがっちりとした体躯の精悍な男子生徒がサーシャを担ぎ上げ、車椅子へ乗せる。彼もまた、木刀を携えていた。

 

「ありがとう、君たちは?」

「3年生の戸市出流(こいちいずる)です。で、あっちの彼女は……」

「同じく3年の毒島冴子(ぶすじまさえこ)。コザチェンコ講師、ご無事でなによりです」

 

 あらかた片付けてしまったのだろう。木刀の血を拭き取りながら、冴子はサーシャに歩み寄る。

 

「学園の中は、もはや絶望的なのか……」

「残念ながら……」

 

 冴子は短く言った。

 

「本当に唐突でした。体調不良で保健室に向かったはずのクラスメイトがすぐに戻ってきたと思ったら、いきなり入口のすぐ近くの生徒に噛み付いたんです」

 

 出流は悪夢の始まりを説明した。

 

「それで、サーシャ先生はどちらへ?」

「保健室へ行こうと思っていた。あそこなら、まだ生存者がいるかもしれない」

「我々も同じ場所を目指していたところです。共に参りましょう」

 

 冴子を先頭に、出流に後方を警戒してもらいつつ、サーシャたちは保健室を目指した。

 

 サーシャが2階にある保健室へ行くためには、介助用のエスカレーターのある特別な階段を上る必要があった。本来ならば生徒たちが利用する階段に取り付けられていたのだが、いたずらが多発したため、急遽別の階段を設けたのだ。

 

「すまない。少々遠回りになってしまうが……」

「言いっこなしですよ先生」

「出流の言う通りだ」

「君たちは親しい間柄なのかい?」

「ええ。おれと毒島さんは剣道部に所属していて、彼女は女子剣道部の主将なんです」

「なるほど、それであんなに強かったんだな」

 

 聞けば、冴子は全国大会で優勝するほどの実力の持ち主らしい。出流のほうはというと、

 

「おれなんて、てんで弱っちくて……」

 

 と、表情が曇った。

 外見的にはかなりやりそうだったが、サーシャはあえてこれ以上踏み込む真似はしなかった。

 道中、〈奴ら〉がいなかったからこそできた、ほんのすこしだけ現実を忘れられる談笑。

 

 そうしているうちに、階段が見えた。

 まず冴子が階段を上り安全を確認する。近くに〈奴ら〉がいないことを確認すると、サーシャと出流に手を振って合図した。

 

「行きましょう」

「ああ」

 

 出流が一歩を踏み出し、サーシャが車輪に手をかけた瞬間、静かだったはずの教室から、〈奴ら〉が窓やドアを突き破ってきた。

 

「……なっ!出流、コザチェンコ講師、急げ!」

 

 サーシャはエスカレーターへ急ぐ。しかし……

 

「戸市くん!なにをしているんだ!」

「あ、あ……くそ……」

 

 出流は固まったまま動かないでいた。

 だからといって、〈奴ら〉は待ってはくれない。じりじりと、新鮮な肉を求めてにじり寄ってくる。

 

「……ちぃ!」

 

 サーシャは出流へと駆け寄ると、彼の襟を無理やり引いて下がらせる。その間に冴子が一気に階段を駆け下り、〈奴ら〉を次々と叩き伏せていく。

 だが、いかに彼女が強いといっても、向こうは10人以上の徒党を組んでいる。数に押し潰されるのは明らかだった。

 

「もういい。毒島くん、戸市くんを連れて逃げるんだ」

「あなたは世界の悲しみを背負った生き証人。それを死なせる訳にはいかない」

 

 冴子は出流の肩を掴み揺さぶる。

 

「出流。きみとなら、この苦境を超えられる。それだけの力があると、わたしは信じている」

「無理だ……おれなんて……」

 

 戸市出流。彼は3年生ながら、部内では下の地位に甘んじている。

 それは、彼が極端にプレッシャーに弱いことにあった。

 団体戦では足を引っ張り、個人戦の成績も散々。

 そんな彼が、なぜ皆の憧れである冴子の隣にいつもいるのかと、部員からは相当に疎まれていた。

 

 しかし、冴子は知っていた。

 彼の努力と技のキレ。そして、2人きりでなんのしがらみもなく打ち合うと、自身が勝ち越してはいるものの、なんども出流に一本を取られることを。

 

 気休めではない。確たる自信があるからこそ……

 冴子は出流の頬を引っ叩いた。

 

「毒島……?」

「いいか、聞け出流。きみが動けないのは『弱い』からではない。『逃げたい』からだ。

 誰かがなんとかしてくれる。そんな甘えがきみにあるからだ。今までそれで良かったかもしれないが、もはやそんなものは通用しない。戦わなければ生き残れない!

 ……それでも動けないのであれば、このまま〈奴ら〉に食われるがいい。わたしとコザチェンコ講師は、その間に先へ行く」

 

 冴子の目は本気だ。

 ギリギリになって、やっぱり助けてくれるなんて甘い考えは通用しない。

 このまま食われるか、戦うか。

 出流の考えは決まっていた。

 握っていた木刀を、思いきり自身の額に叩きつけた。

 表情を隠した前髪の隙間から、一筋の血が流れる。

 

「……ありがとう冴子」

「吹っ切れたな」

 

 満足そうに冴子が笑う。

 〈奴ら〉の1人が出流に襲いかかる。出流がおもむろに木刀を振るうと、短い風切音が鳴ったかと思うと、次の瞬間〈奴ら〉は豪快に吹っ飛び、壁に激突した。

 

「いくぞ!」

「承知した!」

 

 そこからは一方的だった。冴子が薙げば首が折れ、出流が振り下ろせば頭蓋が割れる。

 ものの数分も経たぬうちに、〈奴ら〉はひとり残らず地に伏していた。

 そんななかでも往生際の悪く、背後から冴子に食いつこうとする〈奴ら〉がいた。

 サーシャはそんな〈奴ら〉の頭を両腕で引っ掴むと、そのまま首を180度回転させた。

 

「お見事」

 

 死屍累々の上にサーシャたちは立っていた。

 

「なんとかなったか」

「そうですね。では、先を急ぎましょう。出流……出流?」

 

 振り返った出流の様子がおかしかった。

 微笑んでこそいたが、目尻には涙が浮かび、口からは一筋の血が流れていた。

 

「すまない冴子、サーシャ先生……おれはもう、一緒には行けない」

「……噛まれたのか」

「いいや、噛まれてない。でも、ドジっちまった。入っちゃったみたいだ……ここ(、、)から」

 

 出流はさきほど自身で打ち付けたでこの傷を指差した。〈奴ら〉の返り血がべったりと塗り込まれ、それは額にまで達している。

 咳き込むと、掌に赤黒い血が広がった。

 

 もう、自分は助からないのだと悟ったのだ。

 

「出流……」

「馬鹿だよなおれ。自分でやったことなのにな……

 もう、おれは助からない。だからせめて、親友と先生の背中くらいは、最後まで守らせてくれないかな……なんて」

 

 サーシャは唇を噛んだ。

 こんな強い子が、未来ある若者が死んでいく。また、守れなかったと、サーシャは拳で膝を叩いた。痛みすら感じないのが、なおさら腹立たしかった。

 

 冴子は拳を震わせていた。

 高校生活3年目にして、ようやく親友と分かり合えた気がしたのに、と悔しさが滲んでいた。

 

「ほら、はやく行けよ……また、〈奴ら〉がきてる……」

 

 廊下の向こうから呻き声が聞こえる。

 サーシャの車椅子を器具に取り付けると、冴子は階段を上る。

 

「物分かりが良くて、助かるよ」

 

 そうだ、それでいい。

 と出流は笑った。

 

「……冴子、先生、どうかご無事で」

 

 木刀を握り、出流は駆け出した。

 サーシャと冴子は振り返らなかった。だが、2人の目には、同じ想いが炎となって燃えていた。

 こんなことをしでかした輩を見つけだし、必ず報復を食らわせてやる、という炎が。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter〈A〉:1-3

「彼は心優しい男でした。確かに、人付き合いに関してはわたしよりも不得手でしたが、そのぶん自然や動物たちを愛し、そして愛されていた……」

「そうか……」

 

 2階にいる〈奴ら〉の数はそれほど多くなく、サーシャと冴子は、まばらに襲いかかってくる〈奴ら〉をほどほどにいなし(、、、)ながら進んでいた。

 

「冷たいことを言うかもしれないが、生きていたころの(、、、、、、、、)彼はもう忘れるんだ。もし、もう一度出会ったときは……」

「わかっています。わたしか、あなたの手で……」

 

 戸市出流の犠牲。2人は改めて、自分たちが生き延びるという責任の重さを噛みしめる。

 

「……む。毒島くん、曲がった先にいるぞ」

「ええ。なかなかの数がいるようです」

 

 曲がり角のむこうに相当な数の呻き声が聞こえる。だからここまで、大した襲撃にあわなかったのだ。

 それはつまり、あの曲がり角のむこうに生存者がいて、〈奴ら〉がそれに群がっているということだ。

 そして角のむこうにあるのは、保健室だ。

 

「突入します。コザチェンコ講師はこれを」

「これは……」

 

 いつの間に手に入れたのか、冴子は刃渡り20センチメートルのコンバットナイフが収められたポーチをサーシャに差し出した。

 

「こんなものを生徒が持っていた場合、教師であるあなたならばどうしますか?」

「……没収だな」

 

 笑い合って軽口を叩けるくらいには、2人は落ち着きを取り戻していた。

 

「ではお先に!」

 

 冴子が曲がり角を駆け抜け、続けざまに5発、打撃音が聞こえた。

 サーシャも後に続き、彼女が残していった〈奴ら〉と対峙する。

 数は3体。サーシャの気配を見つけ、襲いかかった。

 

 1体が突出し、後の2体は隣り合っている。まずサーシャは、先頭の〈奴ら〉をギリギリまで引き付ける。車椅子に座っているため、食いつくには身を屈めなければならない。その瞬間を狙って、サーシャはぐいと車輪を後ろへ引いた。

 

 バランスを失い顔から倒れ込んだところに、脳天へ一刺し。これでまず1体。

 すかさずサーシャは、残りの2体目がけ車椅子を勢いよく前進させた。

 左側の1体へ体当たりをかます。覆いかぶさるように転倒させ、眉間に刃を押し込む。素早く引き抜くと、器用にナイフを回転させながら逆手に持ち替え、残る1体の喉を掻っ捌いた。

 

 今のところ、これですべて片付いた。動かなくなった生徒たちに哀悼を捧げ、サーシャが保健室に入ると、冴子が噛まれた男子生徒を介錯していた。

 

「間に合わなかった……」

「いえ、鞠川校医は無事でした」

 

 冴子の隣で、静香は口元を押さえ真っ青になっていた。

 

「鞠川先生、よくご無事で!」

「サーシャ先生……!」

 

 安心して緊張の糸が切れたのか、静香はゆっくりとサーシャへ歩み寄り、そのまま彼の胸に顔を埋めた。

 聞けば、感染が始まったあとも負傷者の治療に努めたものの、その甲斐なく皆、死んでいった。

 そしていま、冴子や彼女が介錯した男子生徒、石井がいなければ、自分は食われていたであろうことを、震える声で打ち明けた。

 

「よく皆のために頑張ってくれました。ここからは生き延びるために動きだしましょう」

 

 静香の背中を軽く叩いてやると、一度だけ頷いて立ち上がる。表情は暗いものの、体の震えは止まっていた。

 

「さて……では、これからどうするかだ。わたしは学園からの脱出を推奨する」

「理由を聞かせてくれるか?」

 

 サーシャの問いに、冴子は頷く。

 

「まずひとつに、籠城は得策ではないこと。〈奴ら〉の腕力は凄まじく、教室のドアでは到底持ちこたえられません。

 その上でもうひとつ。先ほどまで多くの生徒たちが避難していた講堂の扉が()から破られました」

「講堂が……!」

 

 サーシャは歯噛みした。

 講堂は手嶋と林が避難活動に当たっていたところだ。おそらく、どんな人間であっても受け入れていたのだろう。そう、たとえ噛まれていたとしても。

 その点を伝えられなかったのは痛恨のミスだった。

 

「じゃあ、ひとついいかしら?」

 

 静香が手を挙げる。

 

「なにかあるのか?鞠川校医」

「ええ。職員室へ行くの。あそこに車のキーを置いてあるから、あとは車に乗って脱出できるんじゃないかしら」

「校医の車は、コザチェンコ講師が乗り込めるのか?」

「えっとぉ……」

 

 どうだろう?と静香は眉をひそめた。彼女の車は小型なので、車椅子を収納できるか怪しいところだ。

 

「毒島くん。まずは、とにかく移動手段の確保優先しよう。今は話し合っている時間すら惜しい」

「……そうですね。では、わたしが先頭を行きます。コザチェンコ講師は援護を頼みます。鞠川校医は後に続いてくれ」

 

 こうして冴子先導のもと、サーシャと静香は職員室へ向かう。

 この時、静香はふと、冴子の言葉遣いに違和感を抱く。サーシャと自分とで、なんか対応が違う、と。

 

「威厳の差かしら……」

 

 頬に手を当て考え込むが、すぐにやめた。

 あれこれ悩んでも仕方がないので、静香は2人の後を追う。

 

 ふと気付けば、沈みかけた太陽が空を朱に染め始めていた。このパニックから数時間が経っていたのだろう。

 そして、人間の悲鳴がほとんどしなくなっていることにも。

 

「まるでラクーンシティの再来だ」

 

 冴子は漂ってくる腐臭に、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

 全貌こそ明らかになってはいないものの、あの事件がアンブレラ社によるウイルス事故という事実は知れ渡っている。

 

「ラクーンシティ程度(、、)で済めばいいのだが……」

 

 ラクーン事件の被害者は10万人にものぼる。これはラクーンシティの人口とほぼ同じであり、この事件で町ひとつが壊滅したということだ。

 

 しかし、これは言いようによっては『ラクーンシティのみの被害で済んだ』という残酷な見方もできてしまう。その要員として、ラクーンシティの立地が大いに関係してくる。

 

 ラクーンシティは、その規模にもかかわらず、交通アクセスがハイウェイ1本のみという非常に不便な立地の上に築かれた町であり、封鎖が容易であった。

 

 しかし床主市ではそうはいかない。仮にこの地区だけに感染が留まっていたとしても、藤美学園周辺地区には約6万人の人間が住んでおり、ここから近いであろう〈床主大橋〉と〈御別橋〉を始め、感染経路が数多くある。

 

 これはあくまでも最も感染範囲を縮めた場合であり、下手をすれば市内全域に感染が及んでいたとしたら……

 

 サーシャは首を振った。

 今はこの場だけで精一杯だというのに、そんなところまで気にかけていてはキリがなかった。

 

「きゃ!」

 

 職員室へ通じる渡り廊下のドアへ差し掛かったところで、静香が足拭き用のマットに(つまず)き転倒した。

 

「もう!なんなのよぉ……」

「歩くには不向きなファッションをしているからだ……コザチェンコ講師」

「む……わかった。わたしはむこうを警戒しておく(、、、、、、、、、)

 

 サーシャは2人に背を向ける形で、わざとらしくナイフを構えた。

 彼の背後では、ブランド物のスカートを裂かれ、静香が小さく憤慨していた。

 

「こちらは安全なようだ。そちらはどうかな?」

「大丈夫のようです」

 

 サーシャが振り返ると、涙目を浮かべる静香がいた。

 膝丈のスカートの裾はスリットになるまで腰まで裂かれており、隙間からは肉付きの良い太ももとセクシーな紫のショーツがちらりと見え、目のやり場に困る。

 

 サーシャは狼狽するが、すぐに思考を切り替える。なぜなら、ここからが彼にとっての本当の試練だったからだ。

 なにしろ階段が多い。

 上りと下りを区別するために、中央の平面となった箇所をスロープ代わりにすればいけるが、もしも非常階段を使わなければならない場面に出くわしてしまったとしたら。

 

 生存を諦めたわけではない。

 だがもし、そのことで彼女らの命が脅かされるようであれば……

 

 サーシャは密かに覚悟を決めた。

 

「行きましょう、コザチェンコ講師」

「車椅子、わたしが押しますから」

「……ああ。ありがとう鞠川先生」

 

 決して2人に気取られぬよう、密かに、されど強く決心した。

 

 そのとき、渡り廊下の向こうからなにかが射出される音が聞こえた。タッカーか杭打ち機かなにかの音によく似ている。工具を武器として利用しているのだろうか。

 

「急ぎましょう!」

 

 冴子はドアを開け放ち、駆け出した。

 

「鞠川先生。わたしたちも!」

「ええ!でも……」

「わたしならば心配無用です!思いっきりお願いします!」

「う……ええいっ!」

 

 静香は車椅子を掴み、全力で駆け出した。

 

 弾むバストが頭に跳ね返ってくる感触よりも、振り落とされないよう腕に力を込めた。

 そうしてなんとか職員室の前へ到着すると、改造した杭打ち機を構える男子生徒と、けたたましい電動ドリルの駆動音と共に〈奴ら〉の頭部を抉る女生徒の姿があった。

 そして、サーシャたちが来た道とは別の方向から、野球のバットを持った男子生徒と、箒を折って改造した槍を持った女生徒がやって来た。

 

 職員室前へ次々と生存者が集まってくる。サーシャは冴子と静香の他に生きた人間を見ることができて心に余裕ができるのを感じたが、なにも集まってくるのは生者だけではない。

 数にして4体。おそらくさきほどの交戦の音に引き寄せられて来たのだろう。

 

 サーシャたちに向かってきているのは、2体。

 

「片方は任せても?」

「感覚が麻痺してしまうな。相手が1体だと気が楽に思えてしまう」

 

 サーシャは冴子に笑ってみせた。しかし、その表情は強張っていて、額には大粒の汗が浮かんでいる。

 どれだけ〈奴ら〉を倒していたとしても、たとえそれが1体だけであったとしても、恐ろしくないはずがない。

 それでも立ち向かおうとする冴子の姿に、サーシャは精一杯の強がりを張ってみせた。

 

 冴子は、そんなサーシャの姿が、以前よりも頼もしく、そして美しく思えた。

 内なる恐怖を抑え込み、その上で立ち向かおうとする人間の美しさだ。

 その姿に、冴子はひどく自分が醜いものに思えた。

 この状況に興奮し、〈奴ら〉を屠るたびに悦楽が増していく今の自分が。

 だが、すぐさま頭の片隅に押し込んだ。

 今は美しいか醜いかを考える時ではない。生きるか死ぬかで行動しなくてはならないのだから。

 その時、〈奴ら〉の1体が仰向けに倒れる。額にはサーシャのナイフが深々と刺さっていた。投擲には向いていないサイズにもかかわらず、ここまで綺麗に当てることができるのか。

 

「……お見事!」

 

 気分がみるみるうちに高揚していくのが分かった。

 冴子は、もう1体の頭を割った。今までで最高の手ごたえだったと、腹の下あたりが熱くなるのを感じた。

 

 

 -----

 

 ーー同じ頃。

 

 藤美学園がバイオハザードの恐怖に喘ぐなか、〈感染者〉の目を掻い潜りながら国道を走る男がいた。

 濃いアッシュゴールドの頭髪をを2つに分け、レザーのジャケットとジーンズという格好の男は、道中で襲いかかってくる〈感染者〉はナイフで処理しながら、レオン・ケネディは藤美学園へ向け、足を急がせていた。

 

 彼はとある任務で日本を訪れていた。

 

 床主市の代議員である紫藤一郎が新型ウイルスの開発に関わっているという情報を掴んだため、その調査に派遣されてきたのだ。

 しかしまさか、到着した翌朝にバイオハザードが発生するとは想定外だった。

 

 急ぎ床主国際空港まで退去し、現地の警察官と合流。夕方には到着するであろう〈BSAA〉や〈テラセイブ〉と合流して、生存者の避難活動、及び〈感染者〉の掃討作戦に参加することを命じられたが、同僚であるハニガンから知らされたとある情報によって、レオンはまったく逆の進路を辿ることになる。

 

 アレクサンドル・コザチェンコが、藤美学園という場所に取り残さた可能性がある。と聞かされたのだ。

 

 彼は体が不自由だ。そして、その直接的な原因となったのは自分だ。

 

 かつて東スラブで出会った時、サーシャとは敵同士だった。しかし、彼らの渦中にあった独立戦争の陰に潜む、大統領スベトラーナと対峙し、奇妙な縁で共に戦うことになった。

 あれから、サーシャは銃を置き、再び教師としての道を選んだ。しかし、それからも彼はバイオテロと闘っていた。その脅威を教え、伝えるという彼なりの闘いを続けていたのだ。

 

 レオンはサーシャの生存を信じていた。

 こんなところで死ぬようなやつじゃない、という信頼があった。

 

 だから、彼はまた(、、)、命令を無視した。ハニガンは心底呆れながらもできる限りの協力を約束してくれたが、毎度毎度迷惑をかける、と苦笑する。

 今度は、良くて免職かな、などと考えるが、友を見捨てるよりかは何倍もマシだった。

 

 トンネルに差し掛かり、レオンは頭だけ覗き込み、内部を偵察する。

 数は少ないが、それでもいた。

 トンネルという空間に、〈感染者〉の呻き声は何倍もの音量となって響く。

 かつてラクーンシティで目の当たりにした死者たちの協奏曲を思い出し、

 

「……泣けるぜ」

 

 溜息混じりに、レオンはトンネルへの一歩を踏み出した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter〈A〉:1-4

「これで、しばらく〈奴ら〉の侵入を食い止めることができるだろう。小室くん、平野くん、助かった」

 

 サーシャは小室孝と平野コータらと協力し、職員室の戸口に机や資材などでバリケードを構築した。

 いま、この場にいる生存者は7名。

 サーシャ、冴子、静香の3人。それにコータと高城沙耶の2人に、孝と宮本麗の2人を合わせて7人だ。

 

「ねえ、皆これ見て!」

 

 パソコンを操作していた麗が、皆を集める。

 ディスプレイには、とあるニュースサイトの記事が掲載されていた。情報網は死んでいないようだ。

 

「感染は床主市全域にまで達しているみたい。政府は非常事態宣言を出して市を封鎖する方向だって……」

「な!?それじゃあ、ぼくたちは閉じ込められたってのかよ!」

「落ち着いて孝。続けるわね……現在は自衛隊や警察を中心に避難活動が行われているみたい。すでに20万人の人たちが市外への脱出に成功しているわ」

 

 その数字が多いか少ないかは判断に苦しむところだ。

 なぜなら100万人の人口を抱える床主市にとって、まだ80万人が取り残されていることになる。

 ……いや〈奴ら〉の数を考えると、犠牲者はその半数を超えていてもおかしくはない。そして、これからもっと増えていくだろう。

 

「宮本くん、なにか他に情報はないか?」

「あっ、はい。ちょっと待ってくださいね」

 

 サーシャの問いかけに麗はF5キーを押して画面を更新する。

 すると、数分前にアップされた記事が掲載されていた。

 

「日本時間の14時、NGO団体〈テラセイブ〉日本支部が自衛隊と合流。検問沿いにて避難活動にあたる模様……と。

 ふむふむそれから……同時刻、国連は〈BSAA〉を床主国際空港へ派遣した声明を発表した……び、BSAAだって!?」

 

 ひょこりと顔を出し、記事を読みあげたコータは立ち上がり、興奮を隠そうともせずに声を張り上げた。

 

「ばか!そんな耳元で!」

「ご、ごめん……でも、あのBSAAだよ?世界中のバイオテロに対処すべく組織された、国連直轄の対バイオハザード部隊だよ!?ああ、でも、元を辿れば民間のNGOだったんだけど、今の国際的な部隊になる前は〈FBC〉っていう組織があって……」

「やかましいのよ、このデブオタ!」

 

 なおも熱弁するコータの頭を、給湯室から戻ってきた沙耶が引っ叩く。先ほどまではひどく錯乱していた彼女だが、冴子や孝のケアによって、ひとまずなんとか立ち直れたようだ。

 

「高城くん、もう大丈夫のようだね」

「あ……サーシャ、先生……」

 

 微笑みかけるサーシャに、沙耶の表情が曇る。

 少し前、彼女は抑えきれない感情をサーシャに向けて爆発させた。

「あんたがこの災厄を持ち込んだんじゃないの!?」と。

 

 サーシャは何も言えなかった。

 なんせ、自分がバイオテロの講演をやった後で、待ち構えていたようにバイオハザードが起こってしまったのだから。

 

 彼が引き起こしたのではない。しかし、なんらかの原因となっていたのかもしれない。

 例えば、講演を開くということそのものがテロリストたちにとって不都合だったとか。

 もしくは、かつて自身が引き起こしたバイオテロの被害者たちによる復讐なのかもしれない。

 

 それに、あのとき自分が適切な指示を出していれば、体育館はいまも避難所として機能していたかもしれない。戸市出流も、生きていたかもしれない。

 

 頭がネガティブに塗りつぶされていくサーシャは、ただ一言「信じてくれ」としか言えなかった。

 

 そして現在。沙耶は、自分がどれだけ愚かな行為を働いたのかを恥じていた。

 

「その……あんな暴論を吐いちゃってすみませんでした」

 

 沙耶は頭を下げた。

「信じてくれ」という言葉の意味を汲み取ってくれたことに、サーシャは胸が少しだけ軽くなった気がした。

 

「ありがとう」

 

 

 沙耶は口を尖らせつつ、ぷいと顔を逸らした。

 表面上は捻くれているが、根は素直な子なのだろう。

 

「高城くん、きみはこの状況をどう見る?」

 

 そのままのポーズにさせても申し訳ない。

 サーシャが問いかけると、沙耶は一瞥するとディスプレイに向かった。

 

「そうね……そこのデブチンの言う通り、BSAAやテラセイブが派遣されたとなれば、周辺の混乱はある程度は抑えられそうね。床主国際空港を拠点に部隊を展開するのであれば、ここまで救出部隊が到着するのは、はやくて3日後だわ。この地区は封鎖地点からも空港からも遠いから」

「で、でも、部隊総出で市内全域にヘリを飛ばせばそんなにかからないんじゃ……」

「デブオタ、あんたってホント馬鹿ね。いい?BSAAは世界中に支部を持ってる。逆に言えば、世界中が彼らの戦場なの。部隊総出でなんて、空いた箇所を攻撃してください、ってテロリストに言っているようなものだわ。

 よって、派遣されるのはせいぜい中隊1個2個が限度ね。おそらくは、いちばん戦力が充実している北米支部あたりじゃないかしら。

 さらに言ってしまえば、BSAAの全隊員が救助活動に出張る訳じゃない。空港で活動する分にも人員を割かなきゃいけない。つまり、わたしが言いたいこと、わかる?」

 

 サーシャは舌を巻いた。

 沙耶は自身を天才と称する手前、それに相応しい頭脳を持ち合わせているようだ。

 このような状況でも物事を客観視できる冷静さもある。

 

「このまま籠城するは得策じゃなくて、やっぱり脱出に向けて行動したほうがいいんだよな?」

 

 そう提案したのは孝だった。

 彼もまた、よい判断力と決断力をもっている。

『はやくて3日後』という言葉は、大抵の人間は都合よく『3日後には助けがくる』と解釈する。しかし彼女の言葉は、物事をすべてうまくいく方向で仮定した『はやくて3日後』なのだ。

 そうなる可能性もあるが、うまくいかないのが世の常である。それでも人間は、希望的観測に縋らざるを得ない。

 普通ならば、なにがなんでもここで救助を待つという結論に至るところを、孝は考え得る最悪のシナリオを避けるための行動を選択した。

 なんとなくだが、彼にはリーダーの素質があるのかもしれない。

 

「では、結論が出たところで、次は実際に行動する上でのプランを明確にせねばならんな」

 

 静かに腰を下ろしていた冴子が、おもむろに口を開く。

 

「やはり車輌での脱出がベストであると考えるが、鞠川校医の私物では全員は乗れまい?」

「うぅ、確かに……」

 

 当初は4人乗りの自家用車に、冴子とサーシャを乗せるつもりであったが、今の人数では到底詰め込むことは不可能であった。

 やはりな、と冴子は息を1つ吐くと、

 

「部活遠征用のマイクロバスはどうだ?そこの壁掛けにキーがあるが」

「あ、バス、あります」

 

 コータはブラインド越しにバスを確認した。

 

「学校を出たらどうするの?」

 

 静香が尋ねる。

 

「まずはそれぞれの家族の安否を確かめます。BSAAを信用しない訳じゃありませんが、やっぱり高城の言う通り、ここへの救助に時間がかかるとしたら、こっちで早いうちに動くべきだと思います。近い順に家を回るとかして、必要なら助けて……高城、市外への検問と空港、どっちが近いかな」

「なんとも言えないわね……でも、どちらかを選ぶんなら空港じゃないかしら」

「空港か。だったら、御別橋を渡るのがベストだ。あっちの方面には高城ん家もあるし、麗の親父さんが務めてる東署もある。それに、おれの母さんが務めてる第三小学校も……あ、でも、平野や毒島先輩、鞠川先生はいいんですか?」

 

 3人は首を振った。

 静香の両親は既になく、コータと冴子の親も共に海外にいるらしい。沙耶は、コータの完璧過ぎる家族構成に頭を抱えるが、それは割愛する。

 

 そんな訳で、一同はバスで学校を脱出し、御別橋を目指す方針となった。

 無謀とも取れるかもしれないが、このまま立て籠もるよりかはずっとマシなプランに思えた。

 

「決まりね。バスへは正面玄関を通るのがいちばん近い……あ」

 

 はっ、と沙耶は口をつぐんだ。

 確かにそれがいちばんの近道であるが、ここから辿り着くまでは、スロープのない階段を下りる必要がある。そのルートでは、サーシャを連れていけない。

 かと言って、遠回りも現実的ではない。

 

「……どうやら、ここまでのようだ。君たちは『いきなさい』。わたしはここに残る」

 

『いきなさい』

 そのワードが孝たちには『行きなさい』にも、『生きなさい』にも取ることができた。いずれにせよ、真意を察するには充分すぎた。彼はここで死ぬ気だ。

 

「馬鹿なこと言わないでください!」

 

 サーシャの申し出に真っ先に反論したのは静香だった。意外な人物が声を荒げる姿に、サーシャをはじめ全員が目を丸くした。

 

「自己犠牲のつもりですか!?そんなの許しません!死んだら悲しむ方がいるはずです……いや、います!あなたはそんなに寂しい人間なんかじゃない!だから、絶対に諦めないで!」

 

 肺の中の空気を、伝えたい想いをすべてぶち撒けたのだろう。静香は息を荒げていた。俯いた彼女の表情は前髪に隠れて窺い知れない。

 

「鞠川校医の言う通りです、コザチェンコ講師」

 

 冴子は静香の肩にそっと手を添え、真っ直ぐにサーシャを見据えた。

 

「自ら命を絶つおつもりですか?」

「……」

 

 サーシャは答えない。

 

「……答えてはくれませんか。酷なようですが、しかしこれだけは言わせてください。我々は生者である以上、自ら命を絶つという選択肢はない。それがたとえ死よりも残酷な結末に向かうとしても」

 

 サーシャは目を閉じ、鼻から思い切り息を吸い込んでピタリと止まった。

 

 冴子の言わんとしていることは理解できた。

 彼女は『共に苦しみを味わえ』と言っているのではない。『命の限り生き抜け』と言っているのだ。

 奇しくも、かつて東スラブでのレオンとのやり取りと似ていた。

 

「……平野くん、なにか使えそうな工具はあるか?」

「え?あ、はい、ちょっと待っててください!」

 

 息を口から吐き出したサーシャはおもむろにコータに頼み、工具を入れた袋を持ってきてもらう。

 中身をすべて広げてみると、5本入りの彫刻刀が2ケースあった。

 

「これがいいな。これなら、わたしでもみんなの役にたてるだろう」

「……サーシャ先生!」

「すみません鞠川先生。どうやら弱気になっていたようです」

 

 静香の瞳は潤んでいた。どうやらひどく気を揉ませてしまったようで、サーシャは申し訳ない気持ちになる。

 

「大丈夫っすよ、そんときはぼくがサーシャ先生を背負いますから!」

「わ、わたしも、車椅子くらいだったら運んであげるし!」

 

 孝がどんと胸を叩き、沙耶が口を尖らせつつもそう言ってくれた。

 

「……本当にすごいな、君たちは」

 

 なんて心の強い子たちだろう、とサーシャは孝たちを見渡す。

 死の恐怖から目を逸らさず、それでいて生きる希望を見失わない彼らの表情に、尊敬の念すら抱ける。

 それは非常に危うくもあるが、今はそれが頼もしく思え、闘志を湧き上がらせてくれる。絶対に生き延びるのだ、という闘志を。

 

「生存者は可能な限り拾っていこう」

「ええ。もちろんです」

 

 バリケードを取っ払い、入口のドアを開け放つと、数体の〈奴ら〉がゆらゆらと歩み寄ってくる。

 そこをコータがすかさず杭打ち機で〈奴ら〉の頭を撃ち抜いた。

 

「いくぞ!」

 

 孝の合図に全員が駆け出す。

 皆が、生きるために地獄のど真ん中へ飛び込んでいった瞬間だった。

 




今後の目標

・巨大B.O.W.
・ロケットランチャー
・カプコンヘリ







かゆい


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter〈A〉:1-5

「サーシャ先生、ここで大丈夫ですか?」

「大丈夫だ、ありがとう小室くん」

 

 正面玄関に通ずる廊下にいちばん近い階段の踊り場に、孝はサーシャを座らせた。

 途中、5人の生存者を拾った一行は、踊り場の物陰に隠れ、廊下にひしめく〈奴ら〉の様子を伺っていた。

 

「音に反応するんだから、隠れてても意味ないんじゃないの?」

 

 沙耶が孝に耳打ちする。

 彼女は道中、〈奴ら〉の習性を調べていたらしい。

 どうやら、こちらを視認する能力はないらしく、専ら音に引き寄せられ動くようだ。

 

「なら、高城が確かめてきてくれよ」

「イヤよ、なんでわたしが」

 

 いたずらっぼく提案する孝に、沙耶は反論する。

 

「では、わたしが確かめてこよう」

 

 すいと立ち上がったのは冴子だった。

 

「いや、毒島先輩はいざという時のためにここにいてください。おれが確かめてきます」

「孝が行くならわたしも……」

 

 同行を願い出る麗を、冴子は手で制した。

 

「ありがとうございます先輩」

「小室くん、充分に気をつけるのだぞ」

「わかってますよサーシャ先生。安全が確認できれば……いや、必ず戻ってきます。麗は先生の車椅子を用意しておいてくれ」

「……わかった。気をつけてね、孝」

 

 皆のため、あえて〈奴ら〉の群れの只中に飛び込んでいく孝の背中が頼もしく見えると同時に、サーシャはどれだけ触ってもなんの感覚もない、自分の足を呪った。

 

 ガツン、と音がなる。

 どうやら、孝が拾った靴をロッカーにぶつけ、〈奴ら〉への囮として利用したらしい。

 すると沙耶の読み通り、〈奴ら〉はよたよたとロッカーの方へ吸い込まれていく。

 階下から孝が親指を立てた。安堵したい気分を必死に抑え込み、音を立てないよう慎重に踊り場まで戻ってくる。

 

「今がチャンスです。先生、掴まってください」

 

 孝は肩に首を回し、そこからサーシャをおんぶする形をとった。

 

「先生、先で待ってますから」

 

 麗は車椅子を畳んでいた車椅子を開き、身長に階段を降りると、孝に向かってアイコンタクトを飛ばした。

 孝は頷き、足を踏み出す。

 一歩一歩慎重に、階段を踏みしめながら下る孝の頬を汗が伝う。

 サーシャは180を超える長身と、細身ながら79キログラムの体重がある。

 男子高校生ならば不可能ではないサイズかもしれないが、それは彼が健常者であった場合だ。

 

 例えばサーシャ同じサイズの人間を背負うとして、その人間が健常者であれば、数値上の体重よりもずっと軽く感じる。

 訓練で担架を使用した場合と、実際に意識不明者を乗せた担架を持ち上げる場合を比べてみれば分かりやすいだろう。

 それは、背負われる方が込める筋力によって、ある程度背負う負担が補われているからである。

 しかし、サーシャではそうはいかない。だりと垂れ下がった下半身の重みが、フルで孝にのしかかってくるのだ。

 

「もう少しよ孝」

「頑張ってくれ小室くん」

「了解っす……!こんなときに、根性見せなくて、どうするんですか……!」

 

 ついに孝は物音を立てずに階段を下りきった。

 

「孝、お疲れ様。さ、先生、こっちですよ」

 

 先に下りていた麗がサーシャを抱き抱え、車椅子に乗せる。

 〈奴ら〉の方はというと、音の先に生きた人間がいないことに気付いたのか、またよろよろと廊下を彷徨いはじめていた。

 

「わたしのせいで時間を食ってしまったようだ。小室くん、宮本くん、ここはわたしに任せてくれ」

「いけません。そんなことは……」

「犠牲になろうって訳じゃないさ。見ていてくれ」

 

 サーシャは愛ポケットから、あらかじめコータから譲り受けていた彫刻刀の一本を取り出すと、ロッカーへ放る。

 

 くるくると規則正しく回る彫刻刀は、まるでスローモーションのように、されど鋭く一直線に飛び、ふたたびロッカーを鳴らした。

 

 幸運なことに、〈奴ら〉には学習能力というものがないらしい。同じ轍に引っかかり、生還への道筋をまんまと道を明け渡す。

 

 今だとばかりにサーシャは孝に目配せをする。

 そのサインは孝に伝わり、踊り場で見守っていた冴子に伝わり、そして彼女の後に続く生存者たちへと伝わった。

 

 ひとり、またひとりと、密かに、それでいて素早く〈奴ら〉の合間をすり抜け、正面玄関へ到達する。

 サーシャはその間も〈奴ら〉の注意を晒すため、断続的に彫刻刀を投げ続けた。

 

「……あ」

 

 ふと、静香と目が合った。

 その顔に、数時間前までのたおやかさはない。ただただ、率先して危険に身を挺するサーシャの身を案じ、悲痛な表情を浮かべていた。

 

 サーシャ自身、絶対にしくじれないというプレッシャーと、自身のハンディキャップに対する恐怖に体が震えていた。

 しかし、綺麗な女性への強がりといったところか、サーシャは静香に、不敵に笑みをつくってみせた。

 

 沙耶がそれを汲み取ってくれたのか、サーシャの目を見て頷き、静香の手を引いた。

 

 順調だった。

 階段にはあとひとり、さすまたを手にした男子生徒が下りたら、サーシャも玄関まで急ぐつもりだった。

 そこまでは、順調だったのだ。

 

 ーーカン!

 

 一瞬の気の緩み。希望を見出した故の油断。自分の足下しか見ることができない精神的重圧。

 それらすべてが不幸にも噛み合ってしまった。

 

 男子生徒が持つ刺又の穂先が、階段の手すりにぶつかってしまったのだ。

 

 サーシャが、玄関で見守る孝たちが、そして、見えないはずの〈奴ら〉の視線が。

 

 一斉に、男子生徒へ注がれた。

 

 瞬間、サーシャは悟った。

 自暴自棄になったわけではない。最後まで諦めるつもりもなかった。彼の頭は、『玄関にいる彼らのためにできることはなにか』を考え、ある結論を導き出した。

 

「ーー走れ!!」

 

 そう声を張り上げた瞬間、一斉に時間が動きはじめた。

 大口を開けて迫る〈奴ら〉の一体へ、彫刻刀を投げる。

 彫刻刀の刃は綺麗に眉間を捉えるが、頭蓋骨に弾かれぽとりと落ちる。

 

「くそっ!なんて力だ!」

 

 〈奴ら〉に組み付かれ、サーシャはもがく。左手でなんとか首を抑えているが、その死者とは思えないほどの腕力は凄まじく、本当に抑えるのがやっとだった。

 そんなサーシャの生への執着を嘲笑うかのように、〈奴ら〉はサーシャへ群がる。

 

「……あ」

 

 這いずりながら近付いていた〈奴ら〉がサーシャの足首に食らいついている。続けざまに脛、太ももと、まるで硬いステーキでも食べているかのように、肉を引きちぎろうと躍起になっていた。

 感覚がないので、自分が食われているという事実も、どこか他人事のように思えた。

 

 ふと、刺又の男子生徒には、すでに無数の〈奴ら〉が群がっていた。

 一瞬、頭が真っ白になったかと思うと、すぐに燃えるような怒りが湧き上がってきた。

 

「ぬあああッ!!」

 

 余っていた腕で彫刻刀を組みついていた1体の側頭部に突き刺すと、足元に群がる3体目掛け、次々と脳天へ振り下ろしていった。

 

「いやあああ!!サーシャ先生!サーシャ先生!!」

 

 〈奴ら〉の向こうから、静香の絶叫がこだまする。

 今にでもこちらに走り出してきそうな彼女を、孝たちが羽交い締めにしているのが見えた。

 

「いけ!いくんだ!!」

「いやよ!!みんな離してよ!!」

 

 その一言で、皆は察してくれたのかもしれない。視界が〈奴ら〉に塗りつぶされていくなか、静香と悲痛な叫びが徐々に遠退いていくのが分かったから。

 

 あんなやさしい女性を道連れにすることがなくて良かった、とサーシャは安堵し、車椅子のタイヤを引いて廊下を進み、とある教室のドアに手をかける。

 

 幸運にも〈奴ら〉はおらず、鍵も開いていたので、サーシャは教室へ入る。

 片方の扉の前には机や椅子が積み上げられていたので、おそらく恐怖に耐え兼ねた生存者がこちらから外に出てしまったのだろう。

 

 鍵を閉め、完全に封鎖された教室の中に1人、サーシャは佇む。

 

 散乱した机。ひっくり返された教台。床には夥しい量の血が塗りたくられ、あたりには内臓をかき混ぜられるほどの強烈な死臭が漂っている。

 地面に放置され、開けっぴろげの日本史の教科書には、過去の偉人の肖像画に落書きがされていた。

 

 元の人物の面影がないほど雑に施されたしょうもない落書きに、思わず笑いがこみ上げてくる。

 それと同時に、強烈な目眩と吐き気が襲った。サーシャはたまらず車椅子から転げ落ちる。

 

 体が熱い。視界が霞む。頭が割れるようだ。今すぐ胃の中身をぶちまけてしまいたい。

 

 ウイルスが徐々に全身を蝕んでいく様を直に感じとり、サーシャは嗚咽した。

 確実に死が待っていることもあるだろう。しかしなにより、こんな恐怖を、今を平和に生きていた人たちが味わっているという現実が悲しかった。

 

 あんまりじゃないか。

 これが自分だけならば、かつてバイオテロを起こした罪への報いとして受け入れることができたかもしれない。

 しかし、そうではないのだ。

 ほんの数時間前まで、平和な世界を享受していた人たちが死んでいる。いや、死の尊厳すら踏みにじられている。

 かつてレオンが語ったのがそれだ。今まさに、それを実感している。

 

 そして、どうすることもできずに死んでいくであろう自分に、サーシャは無力感に押しつぶされかけていた。

 

 体から力が抜けていく。

 ああ、自分はもうすぐ死ぬのだ。そして〈奴ら〉の仲間となって、無様に地面を這いずりまわるのだろう。

 

 サーシャは肩に装着されたナイフの柄を掴み引き抜くと、おもむろにこめかみに当てた。

 たしかに、自ら命を絶つ選択肢はない。しかし、このまま〈奴ら〉となって誰かを襲うよりかは、ずっとましな選択肢に思えた。

 

 静香の見せた悲痛な顔が浮かぶ。

 彼女にまたあんな顔をさせたいのか?今度は彼女の首を食いちぎり、貪りたいのか?

 サーシャはナイフを握る手に力を込めた。

 

「おっと、そうはいかない」

 

 その時、どこから現れたのか、とある人物がサーシャの腕を掴み、その手からナイフを奪った。

 声はくぐもっていたが、男で間違いない。その人物は、フードのついた黒いマントを纏っていた。無骨なガスマスクを被っており、顔は見えない。明らかに民間人ではなかった。

 

「誰だお前は……」

 

 男は答えない。

 学校にはおおよそ相応しくない、重々しいブーツの音を響かせ、一通りサーシャの周りを歩きながら観察し、腰を落とした。

 

「出血によって弱っているが、噛まれてから10分以上経つのに、感染による吐血や血涙などの症状はなし、か……」

 

 一通り観察し終えると、マントの人物は、ポケットから小さなケースを取り出す。

 ケースの中には針の見えないペン型の注射器があり、シリンダーは液体で満たされていた。その鮮やかな緑色は、吐き気を催すほどに毒々しい。

 それがなんなのか、大方の察しはつく。そして、この手の輩がしたいと思っていることも。

 

「|おれ〈、、〉を実験材料にでもするつもりか……!」

 

 息も絶え絶えになりながら、サーシャは睨みつける。

 

「勘違いしてもらっては困るな。きみはこれから『生まれ変わる』んだよ。アレクサンドル・コザチェンコ」

 

 次の瞬間、サーシャの太腿に注射器を突き刺した。

 その無機質な動作は、ガスマスクも相待って余計に不気味に感じる。

 薬液の中に赤い血液が揺らめく。針が正常に刺さったということだ。

 

「おめでとう。きみは〈戦士〉に選ばれた」

 

 男はぐいと力を込め、緑色の薬液を注入していく。

 途端、感覚がないはずの下半身に激痛を感じ、筋肉が脈打つのを感じた。

 

「おれの体になにをした……!」

「すぐにわかる」

 

 その人物はサーシャに背を向け歩き出し、窓を開け放つ。

 

「がああ……!ぅぐぁあ……!なんなんだ……何者なんだきさまは!」

 

 苦しみにのたうち回るサーシャは全身に汗を濡らしつつも、なんとか声を絞り出す。

 

「質問ばかりだな、きみは……まあいい、それくらいは答えてあげよう」

 

 男はやれやれと肩をすくめつつ窓枠に手と足を掛け、顔半分だけ振り向くと、

 

「ーーわたしは〈ウェスカー〉だ」

 

 それだけ言うと、窓から飛び出していった。

 

 〈ウェスカー〉

 

 案の定、そんな名前に心当たりはない。もはやただの単語にしか過ぎなかったが、何度も何度も反芻するうち、サーシャの目の前が真っ暗になった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter〈B〉:1-1

 床主市国際洋上空港。

 

 その名が表す通り、太平洋に面した床主市の沖合に建造された空港だ。

 バイオハザード発生に伴い、ここはまさしく『孤島』と化した。1時間前から、避難民を運ぶためのフェリー乗り場との連絡が取れない。

 フェリー自体も姿を現さなくなったことから、向こうでなにがあったのか容易に想像できる。

 その証拠に、優先的に乗せてきた政府高官や技術者たちの家族の中かに〈感染者〉が紛れ込んでおり、この場所も一時は危機的状況に陥った。

 しかし、ここにはテロ対策の為に特殊急襲部隊〈SAT〉が配備されていた。彼らの奮闘もあり、床主空港は全滅の危機を免れていた。

 

「こりゃまた壮観だな」

「ええ、まったくだわ」

 

 それから再び1時間後。

 夕日に朱く揺らめく海の向こうから十数機のヘリコプターが接近してくるのを、南リカと|田島崇史〈たじまたかふみ〉は眺めていた。

 普段ならば、何事かと臨戦態勢に入るところだが、今回に限りそれはあり得ない。

 

 現在、床主市は自衛隊によって完全に外界から隔離されており、陸海空と、外部から一切の進入を不可能な状態としている。

 無論、それに安心しきってしまうほど愚かではないが、少なくとも、彼らは敵ではない。

 

「北米支部だったっけ?これから共同戦線を張るのって」

 

 けたたましいメインローターの駆動音を響かせながら降下するヘリの側面には、世界地図の描かれた〈BSAA〉のマーク。水色の背景であることから、北米支部で間違いないようだ。

 

「実戦部隊の隊長は大物だぜ。なんたって、あの〈オリジナルイレブン〉クリス・レッドフィールドだからな」

「オリジナルイレブン……組織発足時からのメンバーのことね」

 

 田島から双眼鏡を受け取り、滑走路へ視線を落とす。

 もう本来の意味で使われることのない滑走路の一角に、あれよあれよと言う間に営巣地が作り上げられていく。

 

 〈BSAA〉と〈SAT〉。互いの指揮官が敬礼を交わしている傍で、ひときわ目を引く男がいた。

 濃い茶髪は短く、そのおかげでメリハリのある輪郭がはっきりと見てとれる。捲り上げた半袖からは丸太のような腕が露わになっており、ゴリラでさえも殴り飛ばせそうだ。

 彼がクリス・レッドフィールドで間違いないだろう。

 超自然的なものを信じる彼女らではなかったが、その男から発せられる『オーラ』のようなものを感じた。

 

『こちら臨時作戦本部。狙撃支援班の南、田島両名は、直ちに〈BSAA〉特殊作戦部隊〈SOU〉テントに集合。ブリーフィングに参加よ』

 

 リカと田島に通信が入る。

 

「おいおいどういうこった?まさか〈BSAA〉からのスカウトじゃないだろうな」

 

 警察におけるリカの階級は巡査長でありながら、国内でも五指に入るほどの射撃技術を持ち、彼女の影に隠れてはいるが、田島もまた、観測士ではあるが狙撃の心得はある。そして、彼女の相棒を務められるだけの実力を持っていた。

 

「ないでしょ。大方、現地ガイドでしょうよ」

 

 リカは肩をすくめ田島に双眼鏡を返すと、着崩していた着衣を整えはじめる。

 だろうな。そう一言だけ呟くと田島は苦笑した。

 

 

 -----

 

 

「〈BSAA〉白米支部のクリス・レッドフィールドだ。よろしくたのむ」

「〈SAT〉より出向いたしました南リカです」

「同じく田島崇史です」

 

 2人はクリスと握手を交わす。信じられないくらいに大きな手だった。

 サイズとしてもそうだが、なによりもその手に積み重なった彼の戦いの経歴が、ひと回りもふた回りも大きく感じさせる。

 

「早速だが、今回の作戦の概要を説明する」

 

 テント内に集まっているのは、クリス、リカ、田島を合わせて14名。

 隊員達は統一感を出しつつも、それぞれの個性が反映された装備に身を包んでおり、その辺はさすが自由の国とでも言ったところか。

 クリスは周辺の地図を広げた。

 

「まず、任務に差し当たって、1時間ほど前からここと内陸地を繋ぐフェリー乗り場からの通信が途絶えている。

 よって我々は、ヘリ6機の3個分隊で空路を使いフェリー乗り場へ向かい、屋内、屋外両方から〈感染者〉を掃討しつつ、生存者の救出をおこなう。

 制圧が終了した(のち)、増援を要請。避難用キャンプの範囲拡大を図り、同時に救出部隊の拠点を設営する」

 

「了解」と一同の声が重なる。

 

「おれたちアルファチームは屋上から突入、内部の制圧を行う。差し当たっては、チームを2つに分けたいと思う。1つはおれが、もう1つはピアーズに任せる」

「了解!」

 

 指名を受け、ピアーズは勇ましく返した。

 

「2人には、まずは共に屋上に〈感染者〉がいた場合の対処に当たってほしい。内部へ突入した後は、南はおれと。田島はピアーズのチームに加わってくれ。あなたたちは内部の構造に明るい。頼りにしているぞ」

 

 やはりガイドか、とリカは思う。

 しかし、悪い気はしなかった。

 音に聞こえたあの〈BSAA〉の英雄と肩を並べて戦えることができるのだ。

 リカは……いや、田島も同じく、これ以上ないくらいに気分が高揚していた。

 ピアーズに負けず劣らずの返事を返した。

 

「ひとつ、よろしいですか?」

「どうした?」

 

 おもむろに挙手したリカに、クリスは尋ねる。

 

「通信がややこしくならないよう、それぞれのチームの呼び名を決めませんか?例えば……」

 

 リカは田島に視線を移し、そのあと自分の腰に手を当てた。

 

「〈美女(Beauty)(and)野獣(the Beast)〉とか」

 

 たちまち周囲に笑いが起こる。

 

「いいだろう。では、おれたちは〈ビューティ〉。ピアーズたちは〈ビースト〉で連絡を取り合うこととする」

 

 クリスも頬に笑みを浮かべていた。

 

「この作戦の結果次第で、いまだ避難の目処が立たない床主市民の運命が決まると言っても過言ではない。作戦開始は10分後だ。各自、怠るな」

 

 隊員達が一斉に席を立った。

 

 そう。この作戦は、市外への脱出口から遠い、沿岸側に取り残された人々にとっての希望とならなくてはならない。

 単に敵を撃ち倒すだけでは駄目なのだと、南と田島はかたく拳を握った。

 

 その時、2人に「ヘイ」と声を掛ける人物が1人。

 ピアーズ・ニヴァンスだ。26歳という若さながら、クリスのパートナーとして彼の背中を預かる人物だ。

 

「あんた達の噂は聞いてる……が、くれぐれもおれたちの足を引っ張るようなことはしないでくれよ」

 

 つっけんどんにピアーズは言う。

 そういえば、と田島は思い出す。美女と野獣のくだりで、彼だけが険しい表情を浮かべていた。

 

「あら、愛しの隊長と離れるのが寂しい?それともママが恋しいのかしら『ボーヤ』?」

「なんだと!」

 

 南が皮肉って返すと、ピアーズの目が鋭くなった。

 無論、そのままの意味で図星だった訳ではないが、当たらずとも遠からずと言ったところだった。

 

 彼は、クリスという人物を深く尊敬し、彼と共に戦う自分に対して誇りを持っている。

 そんなピアーズに、自分達はあくまでよそ者として映っているのだろう。

 そしてその真意を、リカは理解できない訳でもなかったのだが、つい苛立ちを抑えられず返してしまった。

 

「おいよせ。こんなくだらんことで歪みあってる時じゃないだろう」

 

 この中で一番の年長者として、田島は双方の肩を掴み諌める。

 

「……ちっ」

「……ふん」

 

 前途多難な様子に、田島はやれやれと溜息を吐き出した。

 しかし、不思議と不安は覚えなかった。ピアーズも南も子供ではない。分野は違えどその道のプロフェッショナルだ。

 実戦になれば、自然と協力体制ができあがるだろう。信頼を勝ち取るならば、そこで結果を出せばいい。

 

 テントを後にする2人の姿が、どこか似たもの同士のように思え、田島は苦笑した。

 

 そして10分後。

 床主空港から6機のヘリが出撃した。

 




明日から私用のため、次話の投稿が大幅に遅れます。

読んで下さっている皆様にはご迷惑をおかけします。
申し訳ありません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter〈B〉:1-2

ただいまです。投稿を再開したいと思います。


 床主フェリーターミナル。階層は3階からなり、比較的大きなターミナルだ。

 静か過ぎる夜の中、屋上を2筋のサーチライトに照らされながら佇むそれは、言いようのない不気味さを醸し出している。

 建物の周りには検問が敷かれ、バリケードが張り巡らせていたが、一部が破られ、そこから感染者の侵入を許してしまったようだ。

 無数のサーチライトに照らされる内側には、行き場を見失った〈感染者〉が、ちらほらとうごめいている。

 

「屋上に感染者を確認。数は16。階下への扉は閉まっている」

 

 ブラヴォーチームが乗るヘリのパイロットから報告が入る。

 おそらくは、屋上に避難した際、その中に噛まれたものがいたのだろう。

 

『了解。ただちに掃討にかかれ』

 

 もう1機のヘリにいるクリスから命令が下る。

 

「了解」

 

 ピアーズは愛用の〈対物狙撃銃〉の安全装置を外した。

 

「田島、お手並み拝見だな」

「努力するよ」

 

 田島もまた、狙撃用〈M1500〉の安全装置を外し、サイトに目を当てた。

 

「まずは1発!」

 

 まず引鉄を引いたのはピアーズだった。

 射出された弾丸が、確実に感染者の頭を捉える。

 

「さすが12.7mm弾、えげつねえ……」

 

 頭に向けなくとも、体のどこかに当たれば充分ではないだろうか。

 その光景は、『撃ち抜く』というよりも、むしろ『弾け飛ぶ』と言ったほうが正解だった。

 その威力に身震いしながらも、田島はサイトから目を覚まさない。

 サイト越しに捉える感染者の男は、ターミナルの制服を着ていた。彼はきっと、最後まで職員としての使命をまっとうしたのだろう。そのあげくがあれでは、あまりにも報われない。

 田島は心で念仏を唱え、勇敢な犠牲者を地獄から解放した。

 

 その様をピアーズは一瞥すると、ふたたび狙撃態勢をとる。

 サイト越しに感染者が倒れた。こちらからではない。アルファチームのヘリからだ。

 狙撃しているのは、南リカだ。彼女が引鉄を引いた数だけ、同じ数の〈感染者〉が倒れていくのが見えた。

 

「……田島、訂正するよ」

「なにを」

 

 引鉄を引きつつ呟くピアーズの隣で、同じく引鉄を引いた田島が尋ねる。

 

「あんたらは本当の戦士だって言いたいのさ」

 

 ピアーズもまた、正確な射撃で次々と撃ち倒していく。

 

「そいつは光栄だ」

 

 確認できる個体は1体。最後の1発を田島は打ち込んだ。

 ……が、感染者の脇腹を通り抜け、コンクリートの床を軽くえぐる。

 すかさず〈ビューティ〉のヘリから発射された1発が、本当に最後の1発だった。

 

「……そこはビシッと決めろよ」

「返す言葉もねえ」

 

 とにかく、制圧に成功した〈ビューティ〉、〈ビースト〉両チームのヘリは、屋上へ降り立つ。

 討ち漏らしがないかを再度確認し、内部への扉に到達した。

 

「鍵がかかっている。こちらからは開けられない」

 

 先頭に立つクリスが首を振った。

 

「感染者の中に鍵を持っている者がいるはずだ。各自、捜索にあたってくれ」

 

 隊員達は、ひとりひとり所持品をチェックしていく。

 

「ぶち破ればいいんじゃねえのか?」

 

 田島はピアーズに尋ねる。もちろん、爆薬を使用しての開錠のことだが、クリスあたりなら殴って破れそうだ、とも思えた。

 

「日本製だからじゃないか?まあ真面目な話、隊長は昔からこうなんだ」

 

 武器をアサルトライフルに持ち替えたピアーズが笑いかける。

 

「そんなもんかね」

 

 気にしてはいけない、と田島は、自身が狙撃した職員の遺体を調べる。

 予想は当たっていて、ズボンのポケットに鍵が入っていた。

 

「ナイスだ!」

 

 ピアーズが田島の胸を叩く。

 

「あんたたち、いつの間に仲良くなったの?」

 

 すると、2人の前にリカが歩み寄ってきた。そしてピアーズと対峙する。一瞬だけ身構えたが、それも杞憂に終わった。

 なにも言わず扉まで歩き去る。ただ、すれ違いざまに、彼女を肩をポンと叩いた。

 

「素直じゃないわね」

「どの口が言うか。ま、おまえだって嫌いじゃないだろ?ああいうの」

「まあね」

 

 2人はふっと笑い合い、ピアーズの後を追った。

 

(そういや、なんであれが扉の鍵だってわかったんだろう、おれ)

 

 ふと田島は考えるが、すぐに頭の外へ追いやる。

 今はただ、任務に集中だ。

 

「田島。突入のまえに、建物の構造について再確認を」

 

 クリスが尋ねた。

 

「はい。ではまず1階から」

 

 田島は1つ喉を鳴らした。

 

「1階はチケット売り場とフェリーの待合室、及び船着場への連絡通路となっており、非常に見渡しやすいフロアです。見渡しやすいがゆえに感染者の数も多いでしょうが、比較的対処はしやすいでしょう。ただ、北側のフードコートにはそれなりに死角があるため注意が必要です。

 2階はお土産屋など、食品や雑貨を扱う専門店街です。店舗数が多く道も入り組んではいますが、マーケットの形をとっていますので比較的見晴らしは良いかと。

 最後に3階フロアですが、こちらは展望スペースと小規模の資料館があります。資料館には鍵付きの扉があり、生存者が立て籠もっている可能性が高いですね」

「ひとつ忘れてるわよ」

 

 リカが小突く。

 

「なんかあったっけか」

「あんたねえ……」

 

 田島は頭に「?」を浮かべた。

 

「まあいいわ……各階にはスタッフ専用のバックヤードがあり、どちら(、、、)にとっても身を潜めやすくなっています。2階のバックヤードは従業員用の休憩室や事務所があり、まだ生存者が立て籠もっている可能性が高いかと思われます」

 

 リカの補足に、クリスは頷いた。

 

「了解した。では、おれたちアルファチームは3階を行く。ブラヴォーチームは2階をあたれ。制圧後は、速い方のチームが救援へ向かう。味方を撃たぬよう、通信を怠るなよ。その後は、地上部隊と連携して1階の〈感染者〉を掃討する。いいな?」

 

「了解!」と13の声が重なった。

 みな、無線のチャンネルを設定していく。

 この無線はクエント・ケッチャムお手製の高性能無線機で、4つある送信ボタンにそれぞれのチャンネルを設定できるようになっている。

 部隊全体を『1』。アルファチームを『2』。〈ビューティ〉を『3』。〈ビースト〉を『4』に設定すると、

 

「よしいくぞ!」

 

 クリスが扉を開け放ち、ピアーズと共に突入すると、隊員たちも二列縦隊で次々と後に続く。

 非常階段を駆け下り、3階フロアに続く防火扉まで到達したところで、〈ビューティ〉は待機。〈ビースト〉は通り過ぎ、2階へと降りていく。

 

 ーーピアーズ、みんなを頼んだぞ。

 ーー了解です。手早く片付けて、救援に参りますよ。

 

 すれ違い様、クリスとピアーズはアイコンタクトでそう交わした。

 

 ーーそういうことだ。活躍の場、残しといてくれよ?

 ーーやれやれ、あたしはあんたの方が心配だっての……

 

 リカと田島もアイコンタクトを交わした。

 

 外での戦闘の音が聞こえてくる。

 戦力は充実している。しかし、壁1枚を隔てるだけで、こんなにもここにいる14人が孤立している気分になるのは、おれが臆病だからだろうか?まったく、あれだけ大見得切っといてこのざまとはな。

 田島は早鐘を打つ心臓の鼓動を抑えられなかった。

 

 だが、それは自分だけではないことを、田島は理解する。

 〈ビースト〉の隊員たちはみな、荒い呼吸を必死に飲み込んでいる。ピアーズは、トレードマークである襟巻きがびっしょりと汗に濡れていた。

 

 恐怖という感情のない人間などいない。

 みんな、それぞれの恐怖を押し殺し、そして乗り越えて闘っているのだ。

 

 なんのために?決まっている。

『皆で生きて使命を全うする』ためだ。

 

 鼻息を1度強く吐き出すと、田島は短機関銃〈H&K-MP5〉のグリップを握り直した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter〈B〉:1-3

 2階。

 

 食品を扱うエリアなだけあり、フロア全体の温度は低めのようだ。

 そこかしこに設置されてある冷蔵庫の冷気が、緊張に汗ばんだ体に心地よい。

 各店舗から漂ってくる様々な香りで、本来ならばさぞ居心地が良いフロアだったのだろうが、あいにくと、そこらを歩き回る者たちが漂わせる死臭のせいで台無しだ。

 

 フロア内に突入した〈ビースト〉の面々を、さっそく感染者の群れが出迎える。

 

「食うもんには困らねえだろうに」

「よほど舌が肥えていると見たね、おれは」

 

 田島とピアーズが言葉を交わした瞬間、7つの銃口が光った。

 マズルフラッシュが明滅するたび、次々と感染者が倒れていく。

 その音に引き寄せられ、さらに感染者は集まってくる。

 寄ってくるたびに、頭を撃つ。それを繰り返しながら、ピアーズたちはフロア内を前進していく。

 

 数分の内にフロアの約半分は制圧に成功し、精肉コーナーに差し掛かったとき、ふと先頭をいくピアーズの足が止まった。

 

「どうした?」

「あれを見ろ」

 

 死体の傍に落ちたビニール袋に群がる影がある。

 

「〈犬〉だ」

 

 何匹もの犬が、袋に群がり中身を貪っているのが見えた。

 後方と側面をそれぞれ1人ずつ警戒させると、残りの隊員たちが一斉に銃を構える。

 なにせ、〈犬〉は〈人間〉よりもやっかいな敵だからだ。

 

「ピアーズ、発砲許可をくれ」

 

 隊員の1人、マシューが人差し指に力を込める。

 

「……いや、ちょっと待て」

 

 ふと異変を感じ取ったピアーズは、銃を下ろす。

 いや、本来ならば異変ではないのだが、この場に至っては正常であることのほうが異変だった。

 

「あの犬、生きているぞ」

 

 犬たちの目には、漏れ無く生気が宿っていた。彼が貪っていたのは、精肉店が販売している、すき焼き用の牛肉だ。

 

「おいおい、ありゃあグラム800円はくだらねえぜ……まったくいいもん食いやがって」

 

 緊張のほぐれた田島は、そう鼻で笑う。

 

「ったくよ! ヘイ、ワンちゃんたち、そいつはドッグフードじゃないぜ?」

 

 マシューは犬たちを追い払うために近寄る。

 すると、牛肉の購入者であったろう女性の死体が動き出し、マシューの足を掴んだ。

 

「マシュー!」

「くそっ! だれも肉をとったりしねえよ!」

 

 マシューは足首をカリカリと引っ掻く〈感染者〉の眉間に銃口を当てた。

 その途端、精肉店のカウンターの影に潜んでいたもう1体の感染者がマシューの背に覆いかぶさり、歯を突き立てた。

 

「マシュー! クソッタレめ!」

 

 ピアーズたちは急いで駆け寄り、マシューに群がる感染者を引き剥がすと、それぞれの頭を潰す。

 

「おい、しっかりしろ!」

「いや、なんとか大丈夫だ……まったく、このクソッタレが!」

 

 幸いにも、マシューが噛み付かれたのはベストの襟部分だった。足首にも噛まれた形跡はなく、運が良いとしか言いようがない。

 マシューは倒れた感染者の頭を蹴り飛ばす。身なりからして、精肉店の従業員のようだ。

 

「ピアーズ、まずいぞ! 奴らが集まってきやがった!」

 

 いつの間に、いや、どこからそんなに集まってきたのか、三叉路の真ん中に固まる〈ビースト〉のメンバー目がけ、正面から、左手から、そして背後から。ゆうに100は超えているであろう感染者の群が腕を前に突き出し歩いてくる。

 

「応戦しろ!」

 

 3方向へ向け、一斉に弾丸のカーテンが張り巡らさせる。

 BSAAの隊員は、厳しい訓練を乗り越え、鍛え上げられた戦士たちだ。たかがゾンビの群れに囲まれたからと言って、嘆くようなヤワな精神は持っていない。

 

 引鉄を引くたび、銃口が光るたびに一歩一歩前進していく。

 それに合わせ、感染者たちの包囲網はゆっくりと後退していった。

 

 ふと、田島は感染者たちの足元で吠える犬たちを見た。

 

(興味がないのか……?)

 

 事前に聞いていた情報によれば、感染者は新鮮な肉ならばなんでも『食う』。それは犬とて例外ではない。

 しかし、今はどうだ。

 奴らにはまるで関心がないように、ただ咆哮を発するモノであるかのように、一直線にこちらへ向かってきていた。

 

「ピアーズ!」

「分かってる。これでも愛犬家なもんでね」

 

 彼もそれに気付いていたようだ。

 2回目のリロードが終わった時、彼らと犬たち以外に立っているものはいなくなっていた。

 ビーストのメンバーは誰1人欠けることなく、精肉店の前へ集合する。

 

「一網打尽ってやつだな。群がって来たのが幸いした」

 

 田島は大きく息を吐き出す。通路は夥しい数の死体が積み重なっていた。

 

「だが、まだ仕留めきれていないやつや、這いずってるやつが潜んでいる可能性もある。各員は二手に分かれて残りの感染者の排除にあたれ。トイレまでくまなく探せよ。おれと田島はバックヤードを調査する」

 

 マシューらの姿を見届けると、ピアーズと田島は精肉店のカウンターの後方に設置されたスイングドアを見る。ここからバックヤードへ入れそうだ。

 

 簡単に開くドアだけに、2人は銃を構えて慎重に近付き、耳を済ませる。

 感染者が出す独特の物音は聞こえない。ドアを押すと、向こう側からなにかが積み上げられているらしく、開かなかった。

 仮にいたとしたら、銃声を聞きつけて真っ先に飛び出してきて、四方からの襲撃になっていただろう。こればかりは幸運だったと2人は頷いた。

 

「あいつら、壁沿いの店舗からもわらわら出てきやがった。バックヤードに繋がっているドアもあるはずだよな」

 

 その隣、直接フロア内へ繋がっているスイングドアがきいきいと揺れていた。さまざまな資材が散乱しているあたり、ここが破られてしまったのだろう。

 

「……いこう」

「ああ」

 

 ピアーズはバックヤードへ首をもたげ、田島を促す。

 ちらほらと鳴る銃声を背後に、2人はバックヤードへ足を踏み出した。

 節電のためか、点いている蛍光灯の数は少なく、薄暗かった。呻き声や足音はない。

 正面には従業員の荷物置き場であるロッカーが立ち並んでいる。

 左右にはそれぞれ、事務所と思しき箇所の入り口と、休憩室があった。

 休憩室の扉はガラス越しにバリケードを構築した影がみえ、隙間から光が漏れていた。

 一方の事務所は、扉が開け放たれ、夥しい量の血が飛び散っている。

 

 しかし、ただの静寂は訪れていなかった。

 先ほど確認した犬たちがロッカーの合間に向かって吠えている。その鳴き声に引きつけられ、数体の感染者が、のそりと姿を現した。

 

「まだいやがるとはな」

「ずっと突っ立ってたんだろうよ。怠け者どもめ」

 

 感染者らの頭にレーザーサイトの照準を向けたとき、

 

『助けてくれ! まだ誰も噛まれていない!』

『お願い、はやく!』

 

 休憩室の扉の向こうから、助けを呼ぶ声が聞こえた。

 

「落ち着いて! まだ出てきてはいけません!」

「外の安全が確保されるまで、しばらくそこに留まっていてください!」

 

 感染者の目がそちらに向かぬよう、より大きな声で意識をこちらへ向かせ、2人は引鉄を引いた。

 休憩室から悲鳴が上がるが、すぐに収まる。おそらく中の従業員たちが落ち着かせているのだろう。

 数発の発砲音の後、寄ってくる感染者の気配はない。

 

「クリア」

 

 今度こそ、バックヤードから感染者を掃討した。

 

 

「もう少し速ければ……ってのは、思い上がりかね」

 

 事務所の方の惨状を横目に、田島は歯噛みした。

 

「……ここではずっとそうさ」

 

 ピアーズは田島の肩に手を添えた。

 すると、バリケードが取り除かれていく様子が見え、2人は生存者が篭る場所へ駆け寄った。

 

 休憩所に避難していた生存者は、27名。

 

『こちら〈ビューティ〉3階の制圧に成功。生存者は2名だ』

 

 クリスからの通信だ。

 

「〈ビースト〉了解。こちらも制圧完了。バックヤードにて多数の生存者を確認しました」

『了解した。では、こちらから生存者を連れて向かう。2階のバックヤードで合流しよう』

 

 通信が切れる。

 それと同時に、足下からけたたましい銃声が轟く。

 

 どうやら屋外の部隊が周辺の掃討を完了し、1階へ突入したようだ。

 作戦は、早くも仕上げの段階に差し掛かっていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter〈B〉:1-4

 床主フェリーターミナル3階。

 フロアの3分の2を占めるオープンスペースの中央には、洋上国際空港の模型が展示されており、一面ガラス貼りの窓から現物を拝むことができる。

 メープル柄の床や真っ白な壁紙、そしてLED照明が照らし出す電球色の光はフロアをより上品なものに、そして広々と感じさせる。手すりやベンチなども設置されており、本来ならば人々の憩いの場として機能していたのだろう。

 そんな中で、あるゆる箇所にへばりつく血液の赤黒さは一層際立って見える。そして、亡者どもの呻き声も。

 

「南、資料館の正確な位置は」

「あそこです」

 

 前方約40メートル。バリケードを張られたエスカレーターのすぐ先に、エレベーターホールがあった。

 向かって左手に脇道があり、感染者らが一際集まっているのが見える。

 感染者らはバリケードには目もくれず、こぞって脇道を進もうとしていた。

 どうやら、そこが資料館と見て間違いないだろう。そして、生存者が避難していることも。

 

「グレネードの使用は禁ずる。各員、感染者を撃破しつつ、資料館を目指せ」

 

 6つの銃口が一斉に前を向き、火を吹く。

 その光景はさながら数世紀前の戦列歩兵のようであり、クリスたちが引鉄を引きつつ前進するたび、彼らの後ろには正しく死者のみとなっていった。

 

 ふと、先頭を切っていたクリスの目に、あるものが映った。

 日光の残滓がかろうじて届いている薄闇の中、殊更に映える黒。十数の群れとなり飛び回っている影。

 

「〈カラス〉だ、警戒しろ!」

 

 人為的に製造されたB.O.Wとは違い、偶発的に発生した、〈イレギュラーミュータント〉というものがある。

 カラスがT-ウイルス感染者の肉をついばむことで発生する〈クロウ〉。いわばバイオハザードの副産物ともいえる代物だ。

 クリスは警戒を促すが、すぐにそれは疑問へと変わった。

 

(銃声から逃げている)

 

 もしもあれがクロウであれば、ここぞとばかりに窓をぶち破って襲い掛かってくる。しかし、カラスたちは銃声に逃げ惑うばかり。屋外で滑空しているヘリなどは、格好の的であるにも関わらずだ。

 

(普通のカラスなのか?)

 

 作戦終了後の報告事項には一応加えるべきであろうが、いまは目の前の脅威を排除すべきだ。

 たとえ、たった1体のゾンビであろうと、噛まれればそれで終わりなのだから。

 クリスは首を振ると、戦場へ意識をより戻す。

 

「…………!」

 

 小さな男の子だった。

 

 ”新床第三小学校3年2組 須賀将光(すがまさみつ)

 

 衣服の胸部分に付けられた名札には、そう記載されていた。

 俯き気味の顔からは表情が伺えなかった。虚ろな歩調で近付いてくる様は、助けを求めているようにも見える。

 

 クリスは一瞬、撃つのをためらってしまった。

 

 生物兵器として用いられるウイルスに小さな子供が感染すると、その強力な毒性によって、発症した瞬間に死亡してしまうため、幼児の死体が歩くという事例はなかった。

 そのことに驚いているのか?

 くだらない理屈だと、クリスは吐き捨てた。

 歩くだ歩かないだのはどうでもいい。こんな小さな子供まで、死の尊厳が踏みにじられている。歯噛みするクリスのこめかみには、太い青筋が浮かんでいた。

 しかし、こうなってしまっては、たとえ子供であっても感染者であることには変わりない。

 

 クリスの一瞬の躊躇の隙を突いて腰骨を掴み、大口を開ける。

 

「クリス!」

 

 彼のすぐ隣で動いていたリカは左手でハンドガン〈SIG SAUER P226〉を素早く抜く。発砲するにはいささか危険な距離だったが、リカは難なく感染者の頭部を正確に撃ち抜いた。

 もう1体がすぐ後ろには控えているのを確認し、銃口をそちらへむけるが……

 

「クソッ!」

 

 丸太のようなクリスの腕から繰り出される、ヘビー級ボクサーでさえ一撃で沈むほどの強烈なストレートが炸裂する。

 顔面にまともに喰らった感染者は頭部を変形させながら吹き飛び、その先にいる何体かを巻き込んで地面に激突した。

 

「……余計なお世話だったかしら?」

「そんなことはない、ありがとう」

 

 ほとばしる力強さとは裏腹に粗野であるということはなく、1人の戦士として立ち向かいつつも、他者を思いやる優しさがある。

 この世界ではマイナスともとれる要素ではあるが……。

 なるほど、ピアーズが惚れ込む理由がわかる気がする。

 リカは感染者の首を折りつつ、思った。

 

 それから30分と経たず、3階の制圧は完了した。現在は3名の隊員たちが討ち漏らしがないか、細かい箇所までフロアを見回っている。リカはあらためてBSAA隊員たちの兵士としての練度に舌を巻きつつ、クリスらと共に死体が積み重なった資料館の扉の前に立っていた。

 

「我々はBSAAの者です。誰かいるのなら、返事をして下さい!」

 

 クリスが扉を叩くが、返事はない。

 全滅か、はたまた恐怖で動けないのか。いずれにせよ、蹴破ってしまえば楽なのに。

 クリスならば難なくやってのけるだろうとリカが考えていると、扉の内側からロックが解除され、軋む音と共に開いた。

 

「た、助かっ……ひっ!」

 

 恐る恐る顔を覗かせたのは中年の男だった。整髪料で固めていたのであろう七三分けは、見る影もなく振り乱されている。男はクリスたちの足下に転がる死体にショックを受けたのか、膝から崩れ落ちて口を覆う。高そうなスーツが血で汚れるなど気にしていられないほどの衝撃だったのだろう。

 

「もう大丈夫です、落ち着いて下さい」

 

 クリスはミネラルウォーターのボトルを差し出した。男はそれをひったくると一息に飲み干し、深々と息を吐き出した。

 

「すみません、つい……」

「いえ、構いませんよ。それで、あなたの他に生き残っている方は?」

「あ、はい!それは……」

「そいつとわたしだけだ」

 

 中年男を押しのけるように、もうひとりの男がのそりと姿を現わす。これまた高そうなスーツに身を包んでいた。ただ、その体はでっぷりとたるみ、もはや三重顎になるまで垂れ下がっただらしのない顔は、あまり直視したくないほどに脂ぎっていた。

 

「あなたは?」

「紫藤一郎」

「紫藤……あなたが」

 

 床主市を拠点に活動する代議士であり、地元の有力者である。とすると、中年の方は彼の職員、または秘書といったところか。

 

「2人だけなのですか?」

 

 資料館といっても、ほんの数分で見て回れるほどの小さな規模のものだ。とはいえ、ここに避難していたのが2人だけだと、いささかスペースを持て余している。

 

(もっと生存者がいてもおかしくはないはずだが……)

 

 クリスのつま先に、床に散在していた荷物が当たった。小さな、子供用のリュックサックだ。側面には名前を書くスペースがある。

 

 ”新床第三小学校3年2組 須賀将光”

 

 途端に、彼の表情が険しくなった。

 

「あんたまさか……他の生存者を締め出したのか?」

「だからなんだと言うのだ。こちとら生き延びるためならば仕方がなかろう」

 

 紫藤は平然と言い放つ。その表情にはいやらしい笑みが浮かんでいた。

 とどのつまり、彼らは外で助けを求めていた生存者を見捨て、避難していた人たちを囮のために放り出したのだ。自身が守るべき人たちを踏みつけ、その死体の上で平然とあぐらをかいている。

 

「……クソ野郎ね」

 

 リカが呟く。

 隊員たちも同じ心境だったらしく、怒りを込めた眼差しを紫藤たちへ向けていた。

 

「なんだその目は? まさか、天下のBSAAが生きた人間に手を出すわけじゃないだろうな?」

 

 紫藤は人差し指で頬をとんとんと叩き、挑発してみせる。

 隊員の1人が衝動的に殴りかかろうとするが、クリスはそれを制する。

 

「いえ、そのようなことは。とにかく無事でなによりです。現在、2階ではわたしの部下たちが作戦にあたっています。彼らと合流しましょう」

「ふん、急げよ」

 

 クリスは、3階の制圧が完了した旨をピアーズへ報告した。極めて冷静で、事務的な声だった。

 しかし、リカは見ていた。そんなクリスの表情が、憤怒の色に染まっていたことを。

 実のところ、紫藤のとった行動のすべてを否定することはできなかった。

 バイオテロという極限の最中において、自分の命を優先することは間違いではない。たとえそれが唾棄すべき行いであろうとも、ある意味で(、、、、、)許されてしまうのがこの状況だ。

 それに、BSAAが対バイオテロ部隊であるゆえに、民間人への危害は重く禁じられている。

 ここにいる者たちは、歯を食いしばり、拳を握りしめ、耐えるしかなかった。

 

「まったく、はよ案内せんか!」

「ええ、了解しました。ただ……」

 

 こちらもただ黙ってはいない。

 彼が紫藤一郎という人間であるからこそ、出せるカードがある。

 

「〈要救助者〉でいられるのはこの作戦までだ。こちらには、あんたらから聞かなきゃならんことが山ほどある」

「な、なんだと?」

 

 紫藤の表情が曇る。

 

「あなたには、このバイオテロの重要参考人になってもらう必要があるのでな」

 

 紫藤一郎と今回のバイオテロ。

 彼が引き起こしたとは現時点で決め付けることはできない。しかし、拘束するには充分すぎるほどの理由をこの男は持っている、

 日本への移動中、ホワイトハウスとある情報が入った。情報の出所は床主市に勤務している、とある刑事からとのこと。紫藤が行なっている不正献金疑惑を調べている過程で、彼が過去に、とある企業から多額の謝礼を受け取っていたことが発覚した。

 その企業とは、かつてアンブレラがカモフラージュのために立ち上げたペーパーカンパニーであると判明した。

 謝礼の支払いは1998年のラクーン事件が起こるまでの14年間に渡り行われていたという。

 

 14年前。つまり1984年といえば、アンブレラの日本法人〈アンブレラ・ジャパン〉が設立された年。いわば、アンブレラの手が日本へ伸びた年となる。

 まだ、線としては結ばれていない。だが、そこには確かに点と点とが存在している。必ずなにか接点があると睨んでいたのだ。

 

「今は要救助者として扱うが、その後は覚悟しておくことだ」

 

 クリスは隊員たちを集め、紫藤たちを先導して階下への道を踏み出す。

 

「厄介なことになったものよ」

「せ、先生、いかがいたしましょう……」

 

 紫藤は苦虫を噛み潰した表情で舌打ちをする。秘書の男はオロオロと、クリスの背中と紫藤へ、絶えず視線を移していた。

 

「まあいい。まだ、打つ手はある」

「まさか、〈彼〉を……?」

 

 紫藤は上着の襟に留めてある、議員記章を改造した小型端末のボタンを押した。

 それが、呼び出しのサインだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter〈B〉:1-5

散々悩んだあげく、即落ち2コマみたいなってしまった……


 BSAAは、床主フェリーターミナルの奪還、および周辺地域の安全を確保。施設周辺の地域に隠れていた生存者の避難誘導を行い、およそ700人ちかくの救出に成功した。

 避難者たちへは感染の有無を検査し、感染なしと判断されれば順次空港へ移動させていく予定だ。

 ただ、感染から発症までの期間が極めて短いという事例から、検査を受けられるくらいの余裕があれば、間違いなく引っかからない。空港への移動は比較的スムーズにおこなわれている。

 

 そして、この作戦に参加した部隊の殉職者は0人と、上々の参加だ。無論、BSAAの隊員たちは、そのことを前提にしているのだが。

 

 なかでも特に目覚ましい活躍を見せたアルファチーム、そしてSATの14人は、ターミナルの駐車場に設置したテントにて、作戦の情報交換と今後の方針について検討すべく集まっていた。

 

「まずは諸君らの健闘に感謝したい。よく戦ってくれた」

 

 クリスのねぎらいの言葉に、一同は敬礼で返す。

 

「さて、休む間も無くで申し訳ないが、さっそく報告へ移らせてもらう。まずは感染者の特徴についてだが、基本的にT-ウイルスのゾンビと変わりはない」

「では、今回のバイオテロに用いられたのはT-ウイルスだと?」

 

 ピアーズはクリスに尋ねる。

 しかし、クリスは首を横に振った。

 

「少し妙なところがある。作戦中に聞いたが、感染者の群れの中に生きた犬が紛れ込んでいたそうだな、田島」

「ええ、他の隊員たちも確認しています。間違いありません」

「そうか、やはり……こちらも生きたカラスの群れを確認している。両方に共通することは、どちらもバイオテロの二次災害が真っ先に及ぶ生き物という点だ」

 

 犬は個体数が多く、カラスは感染者の肉を食べて感染する。

 この2種の生物は、ゾンビ以外でもっとも遭遇しやすい種だといえる。しかし、これまでの報告で、遭遇したという情報はない。

 むしろ、野良犬が吠えている場所や、カラスの集まる場所がゾンビの目印である役割を果たしている。他にも猫や鶏など、人間以外のあらゆる動物が健康な状態で発見されていた。

 

「これらについては、我々が採取した感染者のサンプルを本部へ送った。解析には、そう長くはかからないはずだ」

 

 報告は手早く済ませ、クリスはホワイトボードに貼られた床主市の地図を指した。

 

「さて、当初の予定通り、今後我々は救助範囲を拡大、生存者の救出を進めていくことになる。ついては、床主市全域にメールやラジオなどの回線を飛ばし、呼びかけがあれば順次に応じていくとのことだ」

 

 あまり良い手段とは言えない。

 というのも、床主市に電波を限定しているとはいえ、こういった公共の回線を使う場合、必ずといってよいほど、いたずら目的で通信してくる不謹慎な輩が現れるものだからだ。

 

 しかし、いかに悪手とはいえ、いまだ床主市には多くの生存者が助けを待っているのも事実。

 

「コミックのヒーローみたいにはいかないものね」

「そうだな……だが、やるしかない」

 

 リカの嘆息に、クリスはあくまでも毅然として答えた。彼……いや、自分たちにのしかかる疲労や心労は半端なものではない。リカは、らしくなく嘆息した。

 

「ところで、紫藤代議士の処遇はどうなってんです?」

 

 ふと、田島が手を上げて問う。

 

「彼らは現在、空港までお送りして、一般の避難者とは別に特別な避難所で待機してもらっている。しかも、護衛付きでな。快く情報を提供してくれれば、明朝にでも北米支部へ避難してもらう予定だ」

「なるほど、そりゃいい。なにもしなければ(、、、、、、、、)安全が保証され、さらにはアメリカへの片道切符の特典付きか。超VIP待遇じゃないですか」

 

 交わされる紫藤への皮肉の応酬に、たちまちテント内を笑いが包んだ。

 こういう時、彼の陽気さは非常にありがたく貴重なものだ、とクリスは薄く笑う。

 

『こちらHQ。アルファリーダー、応答せよ』

 

 すると、不意に司令部より通信が入った。

 

「アルファリーダーだ、どうした」

『拘留中の紫藤一郎とその秘書が奪還された』

「なんだと!?」

 

 

 -----

 

 

 数分前。

 

「食事だ」

 

 ところ変わり、アルファチームのテントより離れた場所に設置されたテント内。

 

「そんなものはいらん。あいにくと、わたしは味の分かる人間なのだ」

 

 紫藤一郎、および彼の秘書は、トレーに乗せられたビーンズとパンに唾を吐いた。

 

「そうかい。おれは、舌が貧相に生まれて本当に良かったよ」

 

 彼に食事を出したBSAA隊員は、舌打ちをしつつトレーを引っ込めた。

 

「ふん、木っ端のくせして偉そうにしおって」

「せ、先生……我らはいったい、どうなってしまうのでしょう……」

 

 秘書の男はおどおどと耳打ちする。

 彼らにもはや逃げ場はない。ここはBSAA作戦本部の只中た。テント内には2機のカメラが設置してあり、入り口には隊員が常に3名、交代制で見張りについている。

 

「もしも、我々がアレ(、、)に関与していることがバレでもしたら……」

「慌てることはない。もうすぐ、奴が来るころだ」

 

 見張りが交代するまでの時間は、おおよそ2時間。そして、今の見張りがやって来てから、もうすぐ2時間。

 そろそろ時間のはずだ。紫藤の読みは正しく、3つの足音が聞こえ、3つの足音が去っていく。

 

 ーーそして、人間が倒れこむような音が3つ。

 

「迎えにきた」

「ご苦労」

 

 テントの幕を上げて入って来たのは、BSAAでもSATでもない。フード付きロングジャケットに身を包む、黒ずくめのマスク男。半日前、サーシャと接触していた〈ウェスカー〉だった。

 

「おお、ウェスカー……! よく来てくれた!」

「黙れ」

 

 ウェスカーはおもむろに拳銃を構え、引鉄を引く。サプレッサーによって抑制された2発の発射音が、それぞれカメラを破壊した。

 

「失言だ。ここでわたしの名を口にするな」

「す、すまない」

「……まあいい、とにかく脱出だ、ボートを用意してある。少しの間だが、全力で走れ」

「うむ」

 

 ウェスカーは身を翻し、テントを後にする。2人は、彼の後を追った。

 

 

 ------

 

 

「ウェスカー……だと?」

 

 クリスは耳を疑った。

 映像が途切れる前、確かに男はウェスカーと呼ばれていた。

 

「クリス、ウェスカーってのは誰なの?」

 

 一応、普通の(、、、)警察官であるリカは、聞き覚えのない名前の意味を尋ねた。

 

「そうだな、2人には話しておこうか。おれ……いや、おれたちBSAAにとって、ウェスカーという名は、特別な因縁をもつものだ」

 

 すでに追っ手は出動している。

 クリスはつらつらと、ある男のことを語り始めた。語るうち、彼の頭に、これまでの軌跡がダイジェストのように浮かんでくる。

 

 その男の名はアルバート・ウェスカーと言った。

 かつて、クリスがラクーン市警の特殊部隊〈S.T.A.R.S〉の一員であった頃、アルバートは彼の上司だった。

 鋭い洞察力と観察眼をもち、いかなる時も冷静沈着なリーダーシップでチームを導く姿を、クリスは尊敬していた。

 常にサングラスで目を隠し、彼がなにを考えているのか伺えなかったが、きっと正義に燃える情熱を秘めているものと信じていた。

 

 ーーしかし、アルバートの目に宿っていたのは、底なしの悪意だった。

 

 あの日から。14年前、アークレイ山中の洋館から、クリスとアルバートの長い戦いの因縁が始まったのだ。

 

「だが、奴は3年前、確かにこの手で葬ったはずだ。それなのに、また奴の名を聞くことになるとはな……」

「ウェスカーを追うつもり?」

「いいや。おれたちが優先すべきは、まず生存者を救うことだ。あまり私情で動くわけにはいかない。さ、明日も早いぞ。体は充分に休ませておけ」

 

 2人の肩にそれぞれ手を添え、クリスはテントを出て行くと、他の隊員たちも解散する。

 

「まず、ねえ……」

 

 残されたリカと田島ははっきりと見ていた。冷静に応えるなか、彼が固く拳を握りしめていたことを。

 

「それより、忘れ物でもしたのかしら?」

 

 リカがそう言うと、物陰からピアーズが姿を現した。

 

「悪い。盗み聞きをするつもりはなかった」

 

 しばらくの沈黙。先に口を開いたのはピアーズだった。

 

「あの人は、自分の命を懸けてでも、共に戦うに値する人だ」

 

 ピアーズがBSAAに入隊したのは2年前、陸軍の特殊部隊に所属していたころ、その天性の狙撃の腕を買われ、クリスから直々のスカウトを受けたことがきっかけだった。

 ピアーズの家は、代々優秀な軍人を排出する家系だった。彼もまた、そんな一族の血に従い、軍人を志した。

 毎日の訓練に励み、日々の研鑽を怠らなかった結果、狙撃手としての才能を開花させ、部隊でも目覚ましい活躍ぶりだった。

 

 しかしある日、ふとピアーズは思ってしまった。自分は一体なんのために戦っているのだろうか、と。

 日々をストイックに生きる姿勢は変わらない。だが、自身を高めていくのに比例して、自身の悩みも高まっていくのを感じていた。

 そんなとき、クリス・レッドフィールドと出会い、彼から直々のスカウトを受け、BSAAに入隊した。

 はじめは、明確な敵と戦うことができる、という理由だった。しかし、クリスと共に戦う内、ピアーズの心境に変化が起きる。

 それは、自身が戦う上で確固たる信念が生まれたこと。

 軍人の家系からか、コミックのスーパーヒーローに対して淡白だったピアーズだが、どこまでもバイオテロ根絶の信念を持って闘うクリスの中に、真の英雄の姿を見出し、自身もかくありたいと心から思うようになったのだ。

 

「こんなことをおまえたちに言うのは的外れなのかもしれないが……」

「今さら水臭いぜ、ピアーズ」

「そうね。あんないい男、そうそういないわ」

「南、田島……」

 

 バイオハザード発生から、2日目の夜が明けようとしていた。報道によれば、避難に成功した市民は23万人。床主市は、いまだ地獄から解放されていない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter〈A〉:2-1

 体の至るところが痛む。食道は胃酸の酸っぱい匂いが出たり入ったりを繰り返し、頭は鉛が詰まっているかのように重たい。

 まるで二日酔いの朝のような倦怠感のなか、サーシャは目を覚ました。

 

 目の前に広がるのが目を覆うほどの朝日であったなら。目覚ましのやかましい音が鳴り響くホテルの一室であったなら。すべてが飲み過ぎによるできの悪い悪夢であったらならどんなに良かったことか。

 

 死臭漂う荒廃した教室の景色が、サーシャを現実に引き戻す。

 

「死んでない……感染を免れたのか、おれは……?」

 

 ほとんど太陽は落ちかけていたが、空はまだ夕暮れだ。意識を失っていたのが 丸1日でなければ、おそらく1時間が経ったというところか。

 

「鞠川先生たちはうまく脱出できたのだろうか……?」

 

 最後の時に彼女が見せた悲痛な顔が浮かぶ。

 

「……いや、皆を信じよう」

 

 今は自身の心配をしなければ。

 そう思い、サーシャは車椅子へと移動すべく立ち上がった(、、、、、、)

 

「……おいうそだろ?」

 

 幻覚ではない。たしかに自分の2本の足で立っていた。

 なぜ?自分の足は神経系から破壊されており、もう2度と立つことはできないはず。それがどうして……

 

 混乱しながらも記憶を巡らせると、意識を失う寸前に見たあの男とのやりとりが蘇ってきた。

 

「そうだ。おれはあの男から妙な注射を射たれて……」

 

 ズボンの裾をめくってみる。

 そこにはくっきりとした注射の痕があった。〈奴ら〉から食いちぎられていた傷痕もあった。しかしそれは、半ば全快にまで再生していた。

 

 あの薬液がサーシャの足を再生させたのだろう。そしてその薬液とは、十中八九、ウイルス。

 その結論に至ったとき、かろうじて堰き止めていた胃液が一気に食道を上ってきた。

 サーシャは吐いた。吐いて吐いて、胃袋が捲れあがるほどに咳き込んだ。

 

 普通なら、再び歩けるようになった事実に喜ぶ場面なのだろう。しかしサーシャは、到底そんな風に考えることができなかった。

 

 ーー本当に化け物になってしまった。

 

 かつて自身が取り込んだプラーガが体を蝕んでいく様を思い出し、サーシャは言いようのない恐怖を抱いた。

 

 化け物になんてなりたくないと死を懇願し、自殺まで考えたほどだ。

 あの時化け物にならずに済んだのは、あれが最後のチャンスだったのだ。

 

 確実ではないが、体感でわかる。もはや自分は人間ではなくなったのだ。そう悲観したサーシャは床に転がる彫刻刀に手を伸ばし、さっきそうしたように、刃をこめかみに当てがった。

 

 今ならまだ死ねる。この手にほんの少しだけ力を込めるだけで、すべてから解放される。

 なのに……

 

 サーシャは彫刻刀を下ろした。

 自分はなにを学んだのだ? 東スラブでレオンが言っていた言葉は? 職員室で冴子が説いたことは?

 

「死ねる訳がないだろ!」

 

 なにがなんでも生き抜いて、バイオテロという悪意と闘う。それが自分の責務だから。

 こんな時こそ、前向きに考えなければならない。そう、自分は生きるチャンスを再び与えられたのだと。

 ならば、これからどうしたらいいのかなんて決まっている。それは、生きてここから脱出し、皆を探すことだ。

 

 決意を新たにしたサーシャに反応したのか、車椅子に括り付けられていたスキットルが揺れる。

 それはまるで、ここにJDがいるようで、お調子者の彼らしい陽気な笑いが聞こえてくるみたいだった。

 

「かっこ悪いとこ見せちまったな」

 

 スキットルを取り外し胸に潜ませると、一度大きく深呼吸をした。

 アドレナリンが死臭すら搔き消す。

 

 いまはあの男のことはどうでもいい。

 とにかく、こうして五体満足の体を手に入れたいま、さっそく行動だ。

 

 耳をすませば、扉の向こうには〈奴ら〉の呻き声で溢れかえっていた。

 悲鳴や怒号がまったく聞こえてこないのは、もはや生存者は1人もいないものと、サーシャは首を振る。

 

 しかしどうしたものか。

 

 手持ちの武器らしい武器は彫刻刀のみ。

 ふと、サーシャは思い出した。あのフードの音が窓から去っていく場面を。

 窓まで歩き外を覗いてみると、外には駐車場があり、正門までを見渡せる。正門は内から破られていた。

 

「バスは……ないか」

 

 サーシャは胸を撫で下ろす。

 ないということは、皆が脱出に成功したということなのだから。

 

 近くに〈奴ら〉はいない。

 正門までの道には無数の〈奴ら〉がさまよっているが、通り抜けられないほどひしめき合ってはいなかった。

 

「全力で駆け抜ければ、やり過ごせそうだな」

 

 走るという行為そのものが久しぶりだった。

 2、3回軽くジャンプして状態を確認してみると、今までが嘘のように、体が軽かった。

 

 ーーいける。

 

 校庭へ飛び出したサーシャは、その自信がまやかし(、、、、)や自惚れではないことを確信した。

 

 体の筋肉に、すべて強力なバネでも仕込まれているのかと錯覚するくらい、今まで以上に〈奴ら〉の動きがスローに感じた。

 

 それでもやはり、校門に近付くにつれて〈奴ら〉の密度が増してくる。

 組み付こうとすればいなし、必要であれば撃破し、それを繰り返すうち、校門はすぐ目の前に迫っていた。

 このまま一気に駆け抜けるだけ。

 サーシャが安堵したその瞬間、門の外側の影から人影が飛び出してきた。ハンドガンを構えた男だ。

 

「伏せろ!」

 

 反射的にサーシャがスライディングの要領で身を屈めた瞬間、男が発砲した。

 景色がスローモーションと化した。ライフリングを滑り放たれた弾丸は真っ直ぐに飛び、サーシャの鼻先を掠めた。彼を狙ったのではない。弾丸は彼の見落としていた、すぐ背後までにじり寄っていた〈奴ら〉の眉間に吸い込まれていった。

 

 男はそのまま、滑り込んでくるサーシャの手を取り、ぐいと引っ張り起こす。

 

 サーシャはその男を知っていた。

 2つに分けられたアッシュゴールドの髪。強い意志を秘めたコバルトブルーの瞳。

 レザージャケットとジーンズというカジュアルな服装ながら、佇まいは歴戦の猛者のそれ。

 

「……元気そうじゃないか(、、、、、、、、、)

 

 かつてサーシャの体に寄生したプラーガを、脊髄を撃ち抜く荒療治で治療(、、)した男。

 アメリカ大統領直轄の組織〈DSO〉のエージェント、レオン・S・ケネディが、あの日と変わらぬ姿でそこに立っていた。

 

「どこのマッサージ店に行ったんだ? ぜひとも紹介してほしいもんだな」

たち(、、)の悪い鍼灸師さ。オススメはできない」

 

 レオンは首をもたげ、サーシャが肩をすくめて返す。

 サーシャの身になにがあったかのかレオンは知らない。しかし2人は、こうして生きて再開できたことに頬をほころばせた。

 

「色々と聞きたいことはあるが、いまはこの場所を離れよう」

 

 無数の〈奴ら〉が校門を出ようと迫ってきていた。距離にはまだ余裕があるが、早く移動した方が良さそうだ。

 

「サーシャ、これを」

 

 レオンはサーシャに、愛用のハンドガン〈グロック26〉を差し出す。ズシリとくる重みに、サーシャはどこか懐かしさを覚えた。

 

「またこいつを握ることになるとはな」

「できることなら、おまえにはもう使って欲しくなかった」

 

 ほんの一瞬の沈黙。

 地獄にあって、涼やかで物悲しい春風が一筋、2人の頬を撫でた。

 

「行こうか」

「そうだな。そういえば、ここへ来る道中、スクールバスが走り去るのを見た」

 

 校門から向かって右側、桜の花びらが降り積もる道路の上に、しっかりとタイヤ跡が残されていた。

 

「バスは御別橋へと向かっているはずだ」

「ほう、それはちょうどいい。ウチのセーフハウスがあるから寄って行こう」

「いいのか? おまえがこんなところにいるなんて、なにか任務があるんじゃ……」

「少し前までの話さ」

 

 レオンはハンドガンの弾倉を交換しつつ、肩をすくめた。

 

「さて、最悪の再開になってしまったが、よろしく頼むぜ〈相棒(バディ)〉」

「ああ。こちらこそな」

 

 サーシャとレオンは、互いに拳を作り、甲の部分で叩きあわせると、それぞれ周囲を警戒しつつ、桜並木の坂を駆け下りていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter〈A〉:2-2

 太陽が落ち、辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。

 点々と続く街灯の頼りに、レオンとサーシャは、極力発砲を抑えつつ住宅街の路地を進む。

 

 とりあえずの目標である御別橋が見えはじめた。橋の様子をひとまず確認してから、セーフハウスへ向かう段取りとなっている。

 辺りに〈奴ら〉の姿はない。恐らくは、人々が集まる御別橋の方向へ向かっているのだろう。

 

「なあレオン」

 

 サーシャは口を開いた。

 

「どうした?」

「ウェスカー、という名前に心当たりは?」

「ウェスカーだと?」

 

 まさかその名が出てくるのは思わなかったとばかりに、レオンは眉をひそめる。

 

この世界(、、、、)じゃ有名さ。スターウォーズでいう、ダース・ベイダーぐらいな。で、そのウェスカーがどうしたんだ」

「おれにウイルスを投与した男が、そう名乗っていた」

「それはありえない。やつは3年前に死んだ」

 

 レオンは足を止め、首を振った。

 バイオテロとウェスカーという単語を結び付けると、自ずとアルバート・ウェスカーの名に辿り着く。

 しかし、アルバートは死んだ。3年前、クリス・レッドフィールドたちBSAAの奮戦によって、確実に火口へと叩き込まれたのだ。

 しかし、サーシャの目の前に現れ、ウイルスを投与していった男は、間違いなくウェスカーを名乗った。

 彼の名を騙った者か、それとも……

 

「まさか、〈ウェスカー計画〉の……?」

 

 ウェスカー計画。

 アンブレラの創始者のひとりであるイギリスの名門貴族、オズウェル・E・スペンサーが生前に実施した計画だ。

 ウイルスによる強制的な進化によって訪れる新たな時代に先駆け、世界各地から優秀な子供たちを集めて〈ウェスカー〉の名を与え、徹底した英才教育のもと、完璧な頭脳と肉体を備え、なおかつスペンサー自身に従順な人材を育成し世に放つことを最終目的としている。

 アルバートは、その計画における13番目のウェスカーだった。

 しかし、かつてクリスとジルが回収した資料によれば、アルバートを除きすべての〈ウェスカー〉は死亡したと記録されている。

 

「もしかすると、じつはその中に生き残っているやつがいて、そいつが正体なのかもしれない」

「認めたくはないが、そう考えれば、ありえない話じゃなくなるが……」

 

 アルバートは死に、世界を脅かす悪意の一大巨頭が崩れたつもりでいた。しかし、本物であれ偽物であれ、〈ウェスカー〉は滅びていなかった。

 

「足を止めさせて悪かった。いこう」

「……ああ、そうだな」

 

 悲観したところで、命が助かるわけじゃない。2人は前を向き、道を進んでいく。

 

 そうして辿り着いた御別橋のたもとでは、さらなる異様な光景が広がっていた。

 地元の警察官によって検問が敷かれており、ひとまずの安全地帯となっているようだ。

 それはまだいい。問題はそこで騒ぎ立てる、とある集団だった。

 

「政府の横暴を許すなあ!」

 

 先頭に立つ、安全用ヘルメットを被る男が叫んだ。

 彼が言うには、今回のバイオテロは、日本政府がテロ組織と癒着関係にあり、その証拠が存在する床主市で、事実隠蔽のために引き起こされたものだと主張している。

 

 裏付けすらないめちゃくちゃな論理であったが、それをめちゃくちゃだと断言する裏付けもない。

 

「おそらく、彼らは自分たち以外の言葉に耳を貸さないだろうな」

 

 あの場に出ていき、弁明をはかることは不可能だろう。むしろ、さらに事態がこじれる可能性がある。

 なにせ、レオンはホワイトハウスの関係者。もしも、なんらかの形で正体がバレてしまえば、主張がアメリカ政府にまで飛び火し、いよいよ収集がつかなくなる。

 

「……行こう、レオン。ここでおれたちができることは、ない」

「……ああ、そうだな」

 

 レオンとサーシャは踵を返し、御別橋を後にする。

 しばらく走ると、背後で1発の発砲音が聞こえた。それで堤が切れたのか、次々と発砲音が鳴る。

 

 2人は振り返らなかった。彼らが目指すのは、あくまでセーフハウスだからだ。

 しかし、2人はこのことを忘れまいと誓った。

 多少の小悪党はいたかもしれないが、あの集団もまた、日々を平和に生きてきた人たちに他ならないからだ。

 彼らが狂ったのは、彼らの責任ではない。責任は、ウイルスをばら撒いてこの地獄を創り出した連中にある。

 

 必ず落とし前はつけさせてやる。

 内に秘める激情を隠しながら、セーフハウスを目指し走る。

 路地の角をいくつか曲がると、レオンが足を止めた。

 

「見えたぞ、あそこだ」

「あれがセーフハウスだと?」

 

 セーフハウスとは、和訳すると秘密基地や隠れ家といった意味をもつ。一般的には、人目につかないようなところや、そこらの安アパートの狭い一室にそれとなく入っているものらしい。

 しかし、あれはどうだ。

 住宅地の中でも、主に裕福な家庭が入るような高級のメゾネット物件だ。

 高い、広い、目立つと、総じて忍べていない。

 

「信じられん、おれは35ドルのビジネスホテルだったんだぞ? 合衆国政府はいったいなにを考えているんだ」

 

 とサーシャは訝しんだ。

 

「おれのギャラは破格なのさ。まあそこんとこは、あまり考えずにいこうぜ?」

 

 レオンは周囲の警戒も怠らず、サーシャを促し歩き出す。いまいち納得できないサーシャだったが、首を振ってむりやり納得させると、レオンの後を追う。

 すると、目的地が近付くにつれ、2人はあることに気付く。

 メゾネットの一室から煙が立ち昇っているのだ。

 

「火事? ……いや、あれは湯気か」

「ほほう、美女のシャワーシーンでも拝めるかもしれないな」

「言ってる場合か」

「冗談だ。とにかく生存者である確率が高い。行くとしよう」

 

 敷地内への門は固く閉ざされていたが、2人は難なく乗り越え、玄関口の前に立った。

 

「気を付けろ。武装して暴徒となった市民もいると聞くからな」

「ああ、わかっている」

 

 もしもの時は、こちらも相応の覚悟をしなければない。サーシャは意を決すると、インターホンのボタンを押した。

 

 -----

 

 地獄が始まってから、もうすぐ2日が経とうとしていた。ここいらには、いまだ救出部隊が到着する気配はない。

 孝たちは、静香の友人が住んでいるというメゾネットを借り、一夜の宿としていた。

 

 その友人とやらがどんな人物なのかは知らない。聞けば警察関係者であることは確かなようだが、本当に普通の警察官なのだろうか、と首を捻らずを得ない。

 

 先ほどコータと一緒にこじ開けたロッカーの中には、映画やゲームの世界ででしか見たこともないような物騒な武器がズラリと並んでいた。そして、大量の弾薬も。

 

 現在、孝はコータと共にばらの弾薬を弾倉に込める作業を行っていた。階下からは、バスタイムと洒落込んでいた女性陣のはしゃぎ声が飛び交っている。

 

「あんなに声出して大丈夫かな?」

「大丈夫だよ。今、一番大きな音を発しているのは……」

 

 2人は窓から見える御別橋の方向へ視線を移した。

 

「それに、ああでもしないとやってられないんだと思う。少しでも気を紛らさなくちゃ、まいってしまうから」

「そう、だな……」

 

 こんな状況でよくもはしゃいでいられるよな、と切り捨ててしまうのは簡単だ。

 しかし、実際はそうじゃない。みんな、ぎりぎりのところでどうにか踏み止まっているのだ。

 孝自身、あの時自分が下した決断が本当に正しかったのか、と思い悩んでいる。

 学校を脱出する途中で拾った生き残りは、みんな〈奴ら〉に食われて死んだ。地獄と化した町の中で心のタガが外れ、暴徒となってしまった人たちからも襲われた。

 そして、みんなで生き残ることを誓い合ったのに、犠牲となってしまったサーシャ。ここに来るまでに色々とありすぎて、あまりに精神をすり減らしてしまっている。

 

 特にサーシャの犠牲は、皆の心に大きな影を落としてしまっている。中でも静香は相当に堪えているようで、今は普段通りに振舞えてはいるが、ふとしたキッカケで簡単に壊れてしまう可能性がある。

 

(……いや、それは誰だって同じか)

 

 コータが言っていた。この戦争には、和平交渉なんてものはないと。戦場にあるものは全滅か殲滅かの二択のみ。そして自分たちこそ、その戦場に取り残された兵士なのだと。

 救いの手を掴み取るまでは、命の保証なんて言葉を1パーセントだって信用してはならないのだと。

 そんな状況下で、いつまでも正気でいられる自信など、孝はもっていなかった。

 

(BSAAになんて、ぼくは絶対に入れないな……)

 

 孝は自虐的に笑う。

 その時、唐突にインターホンの呼び出しが鳴った。

 

「平野!」

「行こう。とにかく確認しなきゃ」

 

 孝は道中で殉職した警察官から拝借した拳銃をコータに渡し、自らはバールを持ってインターホンへ走る。

 

「〈奴ら〉の可能性は?」

「エントランスからだったら、呼び出しのために部屋番号を打ち込まなきゃいけないから、まず生きてる人間だよ。でも、玄関から直接だったら、危ないかもね」

 

 螺旋状の階段を駆け下り、インターホンまで辿り着く。確認すると、どうやら玄関先からの呼び出しのようだ。

 備え付けのディスプレイに映像が映し出されている。それを見た2人は、驚愕で目を丸くした。

 

「ひ、平野。これって……」

「ありえない。普通じゃありえないよ……でも!」

 

 先ほどまでの、暗い影を落としていた表情から一変、2人の表情に光が射した。

 2人はそのまま玄関へ走り、ロックを解除した。

 

 警戒?

 そんなものは、すでに頭から抜け落ちていた。

 なぜなら、扉の向こうで待っているのは、みんなにとって大切な人だったから。感謝の言葉を言えなかった、自分たちのために身を呈してくれた仲間だったから。

 

「サーシャ先生!」

 

 孝とコータは迷わず扉を開け放った。

 

「小室くん、平野くん……?」

 

 サーシャもまた、住人が彼らだったとは思わなかった。

 しばらく唖然としていたが、すぐに我にかえる。

 

「よかった……本当に、無事でよかった!」

 

 そして両腕を広げると、思い切り2人を抱きしめた。

 

「はは、痛いですよ先生! もっとやさし……え!?」

「せ、先生……その足!」

 

 孝とコータは、サーシャが2本の足で立っている姿に目を丸くする。

 

「そうか、そうだったな。それについては中で話そうと思うのだが……」

「あ……そう、ですね。それがいいかもしれません」

「とにかく……おかえりなさい、サーシャ先生!」

 

 しかし、それは些細な問題なのかもしれない。2人にとっては、サーシャが生きていたという事実こそがなにより嬉しかったのだから。

 

「愛されているな、先生」

 

 死角から周囲を警戒していたレオンが姿を現す。

 

「えーと、どちら様ですか?」

 

 サーシャはレオンに顔を向ける。

 

「先生のお友達(、、、)さ」

 

 レオンは冗談めかして答えた。

 

「そうなんですね。さ、上がってください。 ……ぼくん家じゃないけど」

 

 孝に促され、サーシャとレオンは室内へ入る。すると、またもや知った顔が。

 

「嘘……信じられない……」

「でも、目の前にいる以上、信じるしかないわね」

「奇跡、という言葉はあまり好かんが、こればかりは信じてみたくもなるな」

「幻なんかじゃない……サーシャ先生が生きてる!」

「宮本くん、高城くん、毒島くん、鞠川先生……」

 

 あのとき、職員室で生還を誓い合った仲間たちが、生きていた。

 サーシャは沸き起こる喜びを爆発させたかったのだが……

 

「……4人とも、とりあえずなにか着てくれないか」

 

 いずれも下着に近く、静香にいたってはバスタオル一枚と、裸であったほうがまだマシに思えてしまうほどにリビドーを刺激する格好だった。

 レオンは背を向けていた。孝は顔を伏せ、コータは吹き出した鼻血をなんとか抑え込んでいる。

 

「……攻めるね」

 

 レオンがそう呟くと、女性陣の悲鳴が室内に響いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter〈A〉:2-3

 再会を果たしたサーシャたちと、レオンを合わせた8人は、2階の寝室に集まっていた。ちなみに女性陣は、そのままの格好では目に悪いので、一応の体ではあるが、上着を羽織ってもらっている。

 

 やはり最初に話題に上がったのは、やはりサーシャの足についてだった。

 

 学園で共に行動していた時はたしかに下半身不随だったサーシャが、再会した時には五体満足の体で目の前に現れている。

 

「投薬で足が動くようになるなんて話、聞いたことないわ……」

 

 沙耶はほとほと呆れつつも、裏の社会に潜むバイオテクノロジーの”なんでもあり”な力に舌を巻いていた。

 他の面々も、サーシャの足に対して、沙耶と同じ反応を示し、それ以上の追求をすることはなかった。

 なにせ、死体が動き出し、人を喰っているという、今まではディスプレイの向こう側にしか存在しなかった世界が、目の前に突き付けられている。

 その現実に感覚を麻痺させられたというべきか、怪しさや恐ろしさよりも、喜びの感情が勝っていたのだ。

 

「今、ぼくたちが考えたところで、結論なんて出やしないさ。なんにせよ、サーシャ先生が生きている。ぼくたちもこうして生きている。だけど……」

 

 不意に孝の表情が曇った。それは、脱出の途中で合流した生徒たちのことだった。

 

「そうか、彼らは助けられなかったのか……」

 

 学園を脱出する際に拾った生き残りの生徒たちは、全員〈奴ら〉の犠牲となってしまっていた。

 

「すみません。サーシャ先生が身を呈して守ってくれたのに……」

「気にするな、とは言えない。だが、決して過去を足枷として引きずってはいけない。なぜなら、きみたちはまだ生きているのだから」

 

 サーシャは孝の肩を叩いてやる。沈痛な面持ちだった孝の顔に、不器用ながらも笑顔が戻っていた。

 そう、生きている人間は前を向いていかなければならないのだ。かつて、過去を引きずり今を見失った結果、すべてを失ってしまった自分のようにさせてはならないから。

 皆が生きてくれていたこと。そして、自分が生きているということ。かつてすべてを失ったサーシャにとって、これほど嬉しい出来事はなかった。

 

 ーーだからこそ、自身の胸の内にある後ろめたさを、このまま放っておくことなどできなかった。

 

 サーシャは失う(、、)ことを極端に恐れていた。

 恋人のイリーナ、親友のJD、共に戦った独立派の同士たちと、敬愛する師であった長老(アタマン)

 彼の心は、未だあの時の東スラブに縛られていた。かつて自身に支配種プラーガを投与し、国家転覆を図ったテロリストのまま、その姿を隠しながら、そして過去が露見するのを恐れながら皆と接していた。

 思えば、学園の時もそうだった。皆のためと大義名分を掲げつつも、心のどこかで『自己犠牲の英雄』として死んでいくことに自己満足をしていたのかもしれない。

 

『アレクサンドル・コザチェンコ』と『サーシャ先生』。その2つが彼の心の中で天秤のように揺れているうちは、この先絶対に生き残れない。いつかまた、あの時のような、自殺願望にも似た無茶を繰り返すだろう。

 

 サーシャ自身がそれを許す訳にはいかなかった。

 バイオテロに関わった人間として。バイオテロと闘う人間として、そしてなにより、皆の仲間として。

 

「みんなに聞いて欲しいことがある」

 

 だからこそ、サーシャはこの場ですべてを打ち明けることを決めた。

 その行動が、ここにいる皆に対して劇薬を投じる行為であることは承知している。それでも、自分が皆の味方であると、他ならぬサーシャ自身が信じたかったから。

 

「学園では、おれをバイオテロから生還した被害者だと紹介していたが、それは間違いだ」

 

 心臓が重く高鳴り、口内の水分がみるみるうちに干上がっていくのを感じた。

 だが、ここから前に進むためには、過去の過ちを洗いざらい白状しなくてはならない。

 

「……おれは、先の東スラブの内紛において、反政府ゲリラ〈独立派〉を率いていた男だった。そして、B.O.Wを用いバイオテロを引き起こした張本人でもある。レオンとは、その時に敵対する形で知り合ったんだ」

 

 途端に、この寝室だけなにもかもが無くなってしまったかのような静寂が訪れた。

 だれも動けない。だれも言葉を発せない。窓際で腕を組み静観していたレオンですら、目を閉じて押し黙っている。

 

「サーシャ先生……え……?」

 

 ようやく声を絞り出せた静香の顔は真っ青になっていた。

 

「嘘、ですよね、レオンさん……?」

 

 困惑に固められた引き攣った笑みを崩さないまま、麗はレオンに尋ねる。

 

「……いや、紛れも無い事実だ」

 

 その言葉が、場の空気を一気に冷え上がらせた。

 信じられない。信じたくない。でも、その事実が頭に刻み付けられてしまった以上、もはやどうにもならない。

 

「学園は、そのことを知っていたの?」

 

 沙耶の鋭く、厳しい視線がサーシャに突き刺さる。

 

「いいや、知らない。その上で、おれは講演の開催に応じた」

「そう……」

 

 沙耶はそれ以上、追求はしなかった。

 と言うよりも、返す言葉が見つからなかったと言ったほうが正しいのかもしれない。

 再び沈黙が訪れる。誰も、どうしたら良いかわからないのだ。

 

「……やれやれ」

 

 盛大なため息が漏れる。やったのは、レオンだ。

 

「確かに、おまえの過去も、罪も、覆しようのない事実だが……少し、言葉が足らないんじゃないか? サーシャ」

「……どう言うことだレオン」

「おまえから言えないことは、少しは理解しているつもりだ。だから、おれの口から話させてもらう」

「やめろ!」

 

 サーシャは立ち上がりレオンに掴みかかるが、払いのけられ、逆に胸ぐらを掴まれてしまう。

 

「勘違いするな。おまえに同情させるためじゃない。 ……大切な人たちなんだろ? だったら、本当の意味で包み隠さずすべてを知ってもらうべきだ」

 

 レオンは腕を離した。

 サーシャはなにも言わず、ただ、目を閉じて重く頷いた。

 

「レオンさん、詳しく聞かせてもらってもいいですか?」

 

 孝は真っ直ぐにレオンを見据えた。

 サーシャの語ったことが事実だとしても、それが彼のすべてだとは到底思えなかった。他の皆も同じだ。

 だからこそ、レオンの言葉に耳を傾けることができる。

 答えは当然、イエスだ。

 

「了解した。まずは、当時の東スラブの背景だが……」

 

 東スラブ共和国は、旧ソビエトの社会主義体制崩壊の後に、独立して主権国家となった国だ。

 近年、石油や天然ガスといった、国内から産出される豊かなエネルギー資源によって目覚ましい経済発展を遂げる。

 

「時の大統領、スベトラーナ・ベリコバの政策よね」

「高城さん、知っているんですか?」

「新聞かニュースくらい、ちゃんと見なさいよね……」

 

 しかしその恩恵を、すべての国民が平等に享受することはできなかった。

 スベトラーナの政策は、企業や富裕層(オルガルヒ)に偏ったものであり、その裏で冷遇される貧困層の国民にとっては圧政以外の何物でなく、数字だけで見れば国は発展したが、貧富の差はさらに広がるばかりだった。

 当然、国民は反発する。格差社会や政府の横暴に抗議すべく、デモ隊を組織し、プラカードを掲げ、必死に政府に訴えかけた。

 しかし政府は、そんな国民の願いを聞き入れるどころか、国家転覆を図るテロリストであると弾圧を始めた。

 デモに関わった者は強制的に逮捕され、そのことに意を唱えれば、今度は政府の軍が出動し、武力行使をもって鎮圧に当たった。

 

「なんだよそれ……」

「そんなの、ただの暴君じゃない!」

 

 度重なる圧政により、ついに国民の怒りが爆発した。イワン・ジュダノビッチら長老(アタマン)たちを中心に、愛国者たちが反政府ゲリラ〈独立派〉として立ち上がったのだ。

 国内情勢は独立派と政府との間で激化し、東スラブの名は瞬く間に内戦国家として世界に広まった。

 だが、それを静観しているほど、スベトラーナはただの暴君ではなかった。

 ゲリラ戦の拠点である土地を明け渡すという約束で独立派に停戦を申し出て説得。独立派と和解することに成功し、内戦は静まったように思えた。

 しかしその数年後、一度は独立派に自治区として明け渡した土地に豊富な地下資源があることが判明した途端、和解のために明け渡したはずの土地を 『テロリストによって不法占拠された』という出鱈目な理由を突きつけ約束を反故。独立派に対して攻撃を再開した。

 結果、独立派の怒りは再燃し、政府に対して徹底抗戦を宣言。国内は再び戦場となり、内戦は泥沼と化した。

 

「いくらなんでも滅茶苦茶だ……視野が狭すぎる! スベトラーナは国を滅ぼすつもりだったのか!?」

「視野狭窄という点では同意するが……平野くん、恐らくスベトラーナ女史は、すべてにおいて正義を行使していたつもりだったのだろう。すべては『東スラブを発展させる』という、たった1つの正義のために。

 ……日本の空の下で平和を享受していたわたしたちにとっては、到底追い付くことはできない思想であるがね」

 

 自分たちがなにを言おうと、すべては第三者からの無責任な発言に過ぎない。そう冴子は考えていた。

 

「……サーシャ」

「ああ。ここからは、おれの口から話させてもらう」

 

 サーシャは語り始める。

 自分がまだ、ただの教師であった時のことを。そして、今まで握ったことすらなかった銃を手に取るきっかけとなった、あの日の出来事を。

 それは、まるでこの目で見ているかのように、皆の意識の中へ映し出されていた。




こういうのが一番きっつい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter〈A〉:2-4

 サーシャがこの世に生を受けた時、東スラブはまだ、ソビエト連邦を構成する属国の一つであった。

 当時も現在と同様、貧富の差が激しく、サーシャら貧困層の国民は、子供であっても自らが働いて賃金を稼がなければならない生活を強いられていた。それはソ連が崩壊し、東スラブが共和国として独立した後も変わらなかった。

 そのような劣悪な環境の中で、サーシャは幼馴染のイリーナやJDらと共に励まし合い、そのかたわらで勉学に精を出した。

 その結果、サーシャは優等生として長老議会から援助を受けられることになり、大学を出ることができた。

 

 それから数年が経ち……

 

 相次ぐ政治批判。それに対する弾圧。またそれに対する抵抗。

 未だ国内情勢が混迷の一途を辿る東スラブの空の下、サーシャはとある小学校で子供たちを前に教鞭をとっていた。

 

 子供たちに囲まれ、JDとは時に昔を懐かしみつつも未来を語らい、同じく教員となったイリーナとは婚約が決まり、サーシャの人生は、すべてが順風満帆で、幸せの絶頂であった。

 しかし東スラブは、自身が愛する祖国の指導者たちは、そんな1人の男が望む幸せな未来を一瞬にして奪い去る。

 

 それは普段と変わらない、いつもの授業風景の最中に訪れた。

 黒板を走るチョークや、ノートを滑る鉛筆の音を瞬く間にかき消す、耳をつんざく爆発音。

 サーシャたちのいる小学校が爆撃された。小学校の校舎を独立派の拠点と誤認した政府軍による爆撃だった。

 あまりに突然で、あまりに理不尽な仕打ちだった。なぜ、このようなことになってしまったかなど、当初のサーシャは知るよしもない。

 だが、多くの罪のない子供たちが命を奪われた。そして、その中にはイリーナの姿も……。

 

 なにもかもが燃えていった。

 希望ある未来を願い、子供たちが積み重ねてきた努力が刻まれたノートも。子供たちがクレヨンで描いてくれた、サーシャとイリーナ、そして子供たちが笑っているみんなの似顔絵も。

 瓦礫と化した校舎の残骸から、飛び去っていく政府の爆撃機を確認した時、サーシャの心の中で、なにかが爆発した。

 嗚咽と激情が絡み合った絶叫が東スラブの空に轟いた。ぶすぶすと立ち昇る黒煙のように、高く、高く……。

 

「それから、憎しみに駆られるままに、おれは独立派の戦士として銃を取った」

 

 ここまでで、サーシャの話したいことは半分、といったところか。

 しかし、あまりに重い彼の過去を耳にした面々は、ただただ口を紡ぐことしかできなかった。

 孝とコータの首筋は雫でじっとりと湿っていた。静香と麗は口元を押さえつつ嗚咽を堪えるのに必死だった。そんな中でも、冴子と沙耶はサーシャの話をしっかり受け止めようと、毅然とした態度で耳を傾けている。

 

「そうして内戦が激化していく中で、おれとレオンは出会ったんだ」

「……なるほど、そこでバイオテロに繋がっていくわけね。あの内戦が純粋な武力による衝突だったのなら、そもそもDSOが介入することはできないもの」

「察しの良いお嬢さんだ。そう、おれが東スラブに派遣されたのは、『戦場で化け物を見た』という情報がもたらされたからだ。その化け物こそが……」

「……B.O.W」

 

 ふと漏らした孝の呟きに、レオンとサーシャは頷く。

 

「そうだ小室くん。おれが講演で見せた資料のB.O.W〈リッカー〉は、他ならぬおれたちが戦場に放ったものだったんだ」

 

 愛国心のみで押し返せるほど、政府軍の攻勢は甘くはなかった。

 戦線は徐々に押され始め、一時期は首都も目前にまで迫っていた独立派だったが、相次ぎに拠点を奪還されてしまっていた。

 

 ーーこのままでは、緩やかに滅びの道を進んでいくだけだ。

 そんな空気が全体に漂い始めた時、とある人物が独立派にコンタクトを図ってきたのだ。

 

「その人物の名は……〈養蜂家(ビーキーパー)〉」

 

 養蜂家は、窮地に陥っていた独立派に資金と武器の援助を行う。そして、B.O.W〈リッカー〉と、ウイルスに続く新たな生物兵器〈プラーガ〉を提供した。

 姿や素性はおろか声すら明かさぬ養蜂家だったが、サーシャをはじめ、独立派の中に誰も疑う人間は出てこなかった。

 彼らにとって、銃も生物兵器も『殺すための道具』でしかなく、極限状態で湯だった精神では、理性的な判断など下せなかった。それほどまでに、追い詰められていたのだ。

 支配者プラーガを取り込んだ長老(アタマン)が従属種プラーガを組み込んだリッカーを操り、その力を持って独立派は再び戦線を押し上げることに成功した。

 

「だが、それはすべてヤツの計算の内でしかなかった」

「ヤツ?」

「養蜂家の……いや、スベトラーナのな」

 

 リッカーを操る長老の暗躍で、大統領府も目に見える距離まで迫った頃、市街で奇妙な出来事が起こり始めた。

 それは、独立派、政府軍問わず、兵士が何者かに襲撃されるという事件だ。

 初めは些細な数であったが、事態は日を重ねるごとに鼠算のように増え続け、上述のようにレオンがサーシャらと接触を果たした頃には、市内はプラーガに寄生された人々〈ガナード〉が蔓延(はびこ)る死の街と化してしまっていた。

 

 だが、それでもサーシャは戦うことをやめなかった。

 ……いや、止まることができなくなっていた。

 

 内戦の最中で、プラーガ投与による衰弱が限界に達していた長老イワンをサーシャは自ら手にかけた。独立派の柱であり、リッカーを使役できる唯一の存在を失い、一度は意気消沈にまで追い込まれる。しかし、サーシャは止まらなかった。

 市内の地下駐車場で秘密裏に保管していた、予備の支配種プラーガを投与し、リッカーを使役する能力を身に付け、長老の意志を継ぐ独立派のトップとして、半ば特攻に近い形で大統領府へ突撃を敢行した。

 

 しかしそれらはすべて、スベトラーナの奸計だった。彼女は独自で、大統領府の地下にて量産に成功したプラーガを自ら国内に放っていた。さらには、水面下でイワン以外の長老たちを買収し、独立派の理念を形骸化させ、戦局を有利に進めようと画策するが、それすらも盛大な罠であった。

 

 スベトラーナの本当の目的は、『B.О.W.を実戦使用した凶悪なテロリスト』 というレッテルを独立派に貼った上で、彼らへの武力行使の正当性を国内外へ広く訴えること。内戦終結後、国連やEUの加盟を円滑に行うための下地を作り、『東スラブはバイオテロに真っ向から立ち向かった国家』という実績を持って、国際社会への発言力を強めることにあった。

 そのために、スベトラーナは最強のB.O.Wである〈タイラント〉まで複数投入し、独立派の壊滅をはかったのであった。

 

 長い目で見れば、彼女また東スラブの未来を想い、国の繁栄の為に立ち上がった愛国者だったのだろう。しかし、そのあまりに急ぎ過ぎた苛烈さは、国の根幹たる国民という存在をないがしろにした独善でしかなかった。そんな彼女の目論見は、アメリカとロシアによって既に看破されていた。

 

「おれも、スベトラーナも、すべてはアメリカとロシアの掌の上で踊っていたに過ぎなかった……」

「おれとサーシャが、やっとの思いで仕留めたタイラントを2体、文字通り秒殺するほどの力でな」

 

 両国は手を組んで東スラブに侵攻。圧倒的な軍事力を持って、瞬く間に市内は制圧、スベトラーナは失脚に追い込まれた。その後は米露を中心とした、治安維持を目的という名目で暫定政府が設置され、長きに渡った内戦は、あまりにもあっけなく。また、サーシャやスベトラーナにとって、あまりにも皮肉な形で幕を降ろすことになる。

 

 独立派を掌の上で弄んでいたつもりのスベトラーナ。しかし、彼女もまた、アメリカとロシアという強大な2国の掌の上で踊る道化に過ぎなかったのである。

 

 結果的に、サーシャはすべてを失った。人生の師も、共に戦った仲間も、そして戦う理由さえも。

 あげく、自身の身体は投与した支配種プラーガに蝕まれていく。

 

 絶望したサーシャはレオンに死を懇願した。あんな化け物になりたくない、と。レオンは応えなかった。

 すべては因果応報。虫の良い話であると、サーシャは拳銃を自身の顎に押し当てるが、レオンは銃を取り上げ、自決を良しとしなかった。

 

『俺たちに自ら命を絶つという選択肢はない。武器(これ)を手にした以上、 死んだ奴らの分まで生きるしかない。たとえ不自由な体になったとしても』

 

 その言葉には、今までレオンが目にし、身体で味わってきた、あらゆる経験が。そして、目の前で絶望する男に向けた、彼なりの願いが込められていた。

 そしてレオンは、サーシャの体内に寄生するプラーガを、脊髄ごと撃ち抜くという前代未聞の荒療治で、サーシャをプラーガの呪縛から解放したのである。

 

「おれから話せることは、これですべてだ」

「ベリコバ大統領の失脚に、そんな裏があったとはね……」

 

 日本では、米露が軍事介入の必要を迫られるまで内戦を激化させた責任を取る形での失脚であると報道されていた。

 

「ああ。改めて、生物兵器というものの醜さと、それらを使うことの虚しさを思い知らせた」

 

 沙耶と冴子は揃って息を吐き出した。

 

「それ……だけなのか?」

 

 すべてを吐き出した上で、サーシャは2人の反応に眉を顰めた。

 

「そうですね。ここで蔓延しているウイルスや、東スラブで使われたプラーガ……どんな大義名分を掲げたところで、生物兵器はありとあらゆる尊厳を、死でさえも奪っていく。サーシャ先生、貴重な話をありがとうございます」

 

 コータもまた、同じような反応であった。これではまるで……

 

「サーシャ先生のことを避けている訳じゃありませんよ」

 

 麗は穏やかな表情で、サーシャに語り掛けた。

 

「レオンさんが言った言葉……死んでいった人たちのためにも生き続けること。サーシャ先生がその道の半ばにいることを、ここにいるみんなが解ったんです。それが、過去の罪を背負いながらの苦しい道のりであることも」

 

 孝ははにかんだ笑みを浮かべつつ、まっすぐにサーシャの目を見ていた。

 

「わたしたちでは、サーシャ先生の罪を軽くしてやることはできません。でも、一緒に歩いていくことはできますよね?」

 

 普段のぽややんとした雰囲気も相まって、静香から向けられた柔らかな笑顔に、張り詰めた心が、ほんの少しだけ緩むのをサーシャは感じていた。

 

「……みんな、ありがとう」

 

 その感謝は、涙を誘う派手なものでも、贖罪を誓う悲壮感に溢れたものでもない、あっさりとしたものだった。

 しかしその言葉には、それらすら霞むほどの、ただ純粋な感謝が込められていた。

 

「……さて、と。我らが先生のカウンセリングも済んだところで、ひとまず休憩としないか?」

 

 それは空気を読んだ上か、それともあえて読まなかったのか。レオンはそう提案する。

 実際のところ、レオンはともかく、サーシャは学園での格好のままで、〈奴ら〉との交戦でボロボロになったスーツのままという、なんとも痛ましい姿であった。

 

「たしかにそうね。座りっぱなしで、ちょっと疲れちゃったわ。 ……お尻も痛いし」

「では、御二方と離れている間の我々の動向については、しばらく休憩を挟んだ後にしましょう」

 

 レオンとサーシャに異存はなかった。それぞれが思い思いの場所へ散っていく。

 

 長い夜になりそうだった。ただ、それは今までと違い、いつまでも続いて欲しいと思えるような、ほんのひと時の安らぎであった。

 




作中で、政府軍の兵士にプラーガを寄生させたガナードの女の子は、シリーズ屈指の可愛さだと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter〈A〉:2-5

更新が遅くなりまして、それでいて薄い内容になってしまい申し訳ありません。
どうにもこうにも筆が進まず、以後もこんな感じでゆっくりとした進行になるかもしれませんが、よろしくお願いします。


「なぜ、本当のことを言わなかった?」

 

  日付が変わろうとしている。

 

 孝たちが休息をとっている部屋の隣、DSOのセーフハウス内。ぼろぼろになったスーツを脱ぎ捨て、新しい衣服に袖を通しながら、静かにサーシャはレオンに問う。

 

「さて、なんのことかな」

「先ほど、おまえが小室くんたちに伝えた、おまえ自身の任務についてだ」

 

 情報の共有ということで、サーシャたちも、孝たちに自分たちのこれまでを伝えた。

 その中でレオンは、自分がなぜ床主市へ派遣されたのか、そしてバイオハザードが発生した際に、自身へ与えられた任務についてを説明していた。

 内容は、『床主市に取り残された生存者、およびアレクサンドル・コザチェンコの救出』である。

 

「おまえとおれが再会したのは、ある意味で偶然だったはずだ。それに、たったひとりで生存者の救出など、でまかせとしては少々苦しかったな。あんな言葉に諸手を上げて喜ぶほど、彼らは愚かではないぞ」

「まったくの嘘なんかじゃない。あのとき言ったことは、おれがおれ自身へ課したミッションなのさ」

 

 レオンの顔に、普段の飄々とした涼やかさはない。確固たるものを瞳に宿した、真剣な視線をサーシャへ投げかけていた。

 

 たしかに、レオンがここ床主市へ派遣された目的は救出ではない。

 以前よりきな臭い噂の耐えなかった代議員、紫藤一郎の内偵調査が本来の任務であったが、またも死が蔓延する地獄の中へ飛び込む形になってしまった。これを皮肉な運命と取らずしてなんとしようか。

 

「そう、だったな。おれの知るレオン・S・ケネディという男は、そういう男だ」

 

 東スラブでの出会いの時。そして、それからしばらくの間、サーシャはレオンのことを、合衆国の犬と嘲った。

 大国の力に飼われた、感情を持たぬ犬。任務のためならば、どんな事でも平気でやってのける、冷たい男。当時の激情に駆られるまま戦いに突き動かされていたサーシャは、そう彼を評していた。

 しかし、それは違った。彼はやはり、同じ赤い血の通った人間だった。それも、人一倍熱い血潮の流れる戦士であった。

 

 だからこそサーシャは理解する。

 隣の部屋で束の間の安息を享受する勇敢な者たちに、そして自分に真実を打ち明けないのは、これ以上、地獄の深淵へと巻き込みたくなかったからだ。

 彼の目の先にある巨悪との闘いへは、自分自身でケリをつける。それがレオンの信念であり、覚悟であると、今のサーシャならば解る。

 

「……で、どうなんだ。DSOのことだ、大体の目星は付いているんだろう?」

 

 だが、サーシャにも譲れないものはある。かつてバイオテロを引き起こした張本人としての責任と、これからバイオテロと闘っていく戦士としての矜持が、彼をレオンと同じ場所へと続く道へ一歩を踏み出そうとしている。

 破滅的な英雄願望などではない。あくまでも、闘い抜いた後の、世界のその先が見たい。サーシャの瞳は澄み切り、されど燃え盛るような情熱を宿す。

 

「……覚悟はあるんだな?」

「無論だ」

 

 その灯火は誰にも消せはしない。

 

「OK。では、これを見てくれ」

 

 レオンは2度、3度頷きながら、携帯端末のディスプレイをサーシャへ見せる。

 映し出される平面的な地図は、床主市のものだ。しかし普通の地図とは違い、市の中心部よりやや東の箇所に、円で囲われた地域がある。縮尺図的に、半径50メートルといったところか。

 

「これは?」

「DSOが調べ上げた、バイオハザード発生地点の予測だ。確率としては、ほぼ100パーセント」

 

 円の内部の区域は、主にオフィスビルや商業施設が集中した繁華街である。これだけを見れば、多くの人が集まる場所を狙った大規模テロとも取れなくもない。

 しかし、レオンが2本の指でディスプレイを拡大する内、円の本当の中心部にあるものが明らかになっていく。

 

「ここは……」

「紫藤一郎という男の邸宅だ。床主においては、とびっきりの一等地だな」

 

 地図上において文明の営みが垣間見える灰色の中に、まるで切り取られ貼り付けたかのように存在する緑の四角形。そこが代議士、紫藤一郎の保有する土地であり、彼が邸宅を構える場所でもある。

 

「紫藤……!」

「ああそうだ。その男こそが……」

「いや、おれも紫藤という男を少しは知っているんだ。ただし、その一郎とやらではないがね」

 

 サーシャに、数日前の記憶が蘇る。

 

『初めましてアレクサンドル・コザチェンコ講師。此度の講演、皆にとって有意義なものになるよう、どうぞよろしくお願い申し上げます』

 

 その男は、もはや無礼の域に達するほど慇懃だった。

 

『それにしても、昨今の人類の脅威であるバイオテロに直面し、生き残り、あまつさえも立ち向かえるほどの勇気! ああ……あなたのような方こそ、まさしく現代の英雄と呼ぶに相応しい! そのような方にお会いできて、わたくし、感動を抑えることができません!』

 

 崇拝にも似た表情とは裏腹に、嘲笑と侮蔑を隠そうともせぬいやらしい目つき。惜しみない賞賛を投げかける舌は、まるで蛇のように2つに割れて見えた。

 

『……それだけ、あなたのことを知っている。そういうことなのですがねえ……ククク。おっと、自己紹介が遅れて申し訳ない。わたくし……』

 

 まるでなにもかもを見透かしていると言わんばかりにまくし立てる、寒気すら催すこの男こそ……

 

『紫藤浩一と申します。以後、お見知りおきを』

 

 あの、わざとらしい芝居めいた態度は忘れるはずもなかった。

 

「紫藤浩一……ああ、そういえば、やつは紫藤一郎の息子だったか。そいつもなかなかの小悪党に違いないが、いまのところは白だ。2人の関係はほぼ絶縁状態だからな。それでも、すぐに真っ黒(あちら)へ傾く可能性はあるかもしれんが」

「なるほど。つまり、とりあえずは浩一のほうは捨て置いておくとして、目下おれたちがやるべきこととは……」

「彼ら藤美学園の生存者たちを生きて床主から脱出させる。そしてその後は、紫藤一郎邸へ潜入。内部を捜索し、今回のバイオテロの証拠を抑える」

 

 レオンはサーシャへ手を差し出す。

 サーシャは、その手を固く握り返した。

 

 ”この世界で懸命に生きる命。その尊厳をすべからく踏みにじろうとするバイオ兵器の撲滅”

 

 2人のルーツや、当初の立ち位置こそ真逆ではあった。

 バイオ兵器という忌むべき力に対して、レオンは巻き込まれる形で、サーシャは自ら手を染めた。

 しかし今、信念を同じくする戦士として肩を並べ、同じ方向へ目を向けている。

 なんとなく、本当に無意識の内であるのだが、2人の体に力が。胸の内に勇気がふつふつと湧き出してくるのを感じていた。

 

「あらためてよろしくな相棒(バディ)。 ……うん、やはりこの呼び方は、あいつ(JD)が言う方がしっくりくる」

「……ふっ、かもしれないな」

 

 サーシャはJDの形見である空のスキットルを握りしめ、柔らかく笑う。

 

「そしておまえは、やはりスーツ姿の方がお似合いのようだ」

 

 見た目の問題ではない。レオンとしては、やはりサーシャにはこのまま教師としての人生を歩んでいて欲しかったのだろう。

 サーシャは、少しだけレオンの表情が曇るのを察した。

 

「また、教壇に立ってみせるさ。絶対にな」

 

 結んだ手と手がほどかれ、握り拳となる。自然と彼らは拳を打ち付けあう。信頼を確かめあう。掌を軽快に合わせ、互いを指差しあい、共に生きて使命を全うする約束を交わした。

 

「戻るか」

「そうだな」

 

 セーフハウスの灯りが消える。

 床主からまた1つ光が消えた。しかし、その隣の部屋がより明るくなったような、そんな希望を感じさせる一コマである。

 

 

 

 ……その高い塀の向こうで、哀れな犠牲者たちが這いずり回る物悲しい静寂さえなければ。




後書きと言う名の愚痴。

ネタバレ防止のため極めて簡潔に。そしてあくまで個人の感想なのであしからず。

バイオハザードヴェンデッタを見てきました。
映像美は相変わらず凄まじいものがあり、特に恐怖演出やアクションシーンは素晴らしいの一言です。

ただ、個人的にはCG映像3作の中では残念ながら最下位の内容でございました。
グレン・アリアス最大の悲劇。それは悪役、そして敵役としての彼を彩るファクターがあまりにも少な過ぎた、という事ではないかと思います。
良くも悪くも『続編に期待せざるを得ない』作品でありました。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。