僕の姉はチェルシーさん (いろすけ)
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1話 寂しくなるわね
この作品はチェルシー好きな作者がチェルシーのために描いた自己満作品です!
チェルシーが好きな人もそうでない人も、この作品を通して少しでも興味を持っていただけたら嬉しいです。
それではどうぞ!
イギリス。それはイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの四つの国からなるヨーロッパ屈指の大国である。それらは主に二つの島に分かれている。
イングランド、ウェールズ、スコットランドの3つはグレートブリテン島、北アイルランドはアイルランド島北東部といった具合に区分される。この2つの大きな島と、その周囲大小の島々をブリテン諸島と呼ぶ。
それらは地形一つとっても様々であり、イングランドの大部分は岩の多い低地からなるのに対し、北アイルランドはほとんどが丘陵地である。ウェールズは山岳地帯が多く、スコットランドは非常に多様な地形をしていると言える。
当然四つの国にはそれぞれの歴史があり、故にイギリスと一纏めに括るのはいささか問題があるかもしれない。統合された経緯を語るにはここはあまりに狭すぎるだろう。
そんな長い歴史の積み重なりで生まれたイギリスという主権国家には名家というものが存在し、その位の高さによって社会的地位を約束された貴族が現在でもそれなりの発言権を持っている。数多くの貴族が存在するイギリスには特殊な貴族も多数いる。例えばオルコット家もその一つと言えるだろう。
オルコット家は女性が当主である。それだけでも異例なのだが、問題はその影響力だ。その分野は政治、医療、工業と多岐に渡り、イギリスでも屈指の名家であることは誰もが認めるところであろう。
「……」
タキシードに腕を通す。その洗練された動きは見る者が見れば息を飲むほどの気品さと上品さがあるだろう。最後に襟元を整え、ネクタイを締め直す。ここ数年にわたって培われた行為はすでに身に染みついており、今更間違うことはない。
姿見で自身の恰好を確認してみる。中性的で少し童顔なとこともあり、尚且つ小柄な容姿のせいで年齢より若く見られるのが彼の悩みだったりする。くせっ気のある髪は赤茶色に染まっている。しかし、それは悪め目立ちするような色ではない。瞳の色と同色で彼自身の容姿として完結しているのだ。全体的に落ち着いた雰囲気を漂わせている要因の一つと言えるだろう。第一印象は大人びた子供、というのが正しいのかもしれない。実際彼はオルコット家に仕える使用人なのだが、歳はかなり若い。15歳。使用人兼学生というかなり特殊な経歴を持っているのは彼の家柄の問題なのだが…。
「チェット」
短いノックの音と同時に扉の向こうから声を掛けられる。
彼の名はチェスター・ブランケット。オルコット家に代々仕える使用人の家系だ。
「はい。今開けます」
すぐさま自室の扉を開ける意思を見せ、声の主に応じる。
彼、チェスターにはチェルシーという名の姉がいる。もちろん姉もチェスターと同じくオルコット家に仕える使用人の一人だ。チェルシーはメイドとしてまさしく完璧な人物だ。基本的な礼儀作法はもちろん、仕事の手際の良さや人当たりの良さ、何を取っても申し分のない絵に描いたような完璧な姉。彼女はもちろんチェスターの自慢の姉であり、それと同時に目標でもあった。
声からしておそらく声の主は彼女であろうと推測できた。まあ、こんな朝早くに自室に訪ねて来る者は彼女しかいないのだが。そう判断するとチェスターの反応は速かった。すぐさま姿見に布を被せ、扉を開いた。
「おはようございます。姉様」
「ええ、おはようチェット」
お互い簡単な挨拶を交わす。昔は挨拶一つでも何かと姉に注意されていたな、とどこか他人事のように考える余裕すらあった。
先程も述べた通り、チェルシーは完璧に近い人物だ。それは容姿に関しても同様のことが言える。チェスターと同様に赤茶色の眼と髪が特徴である。髪は肩にかかる程の長さで、丁寧に手入れをされているのが伺える。スタイルも並のモデルなど比にもならない。出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。スラッと伸びた脚は適度に鍛えられていて、けれど決してそれが表に出ることはない女性らしい綺麗な脚だ。
そんな完璧美人なチェルシーの弟であるチェスターも並以上の容姿をしているのだが、目の前に完璧な本人がいる以上そこまで目立つことはない。
「そろそろ今朝の支度を始めるわよ、チェット」
現在時刻は朝の5時。朝食の用意に屋敷の掃除、庭の手入れに主の今日一日の予定の確認、他にも挙げ出せばきりがない程の仕事がある。使用人としての朝はいつも早いのだ。
「………」
「どうしたの、チェット?」
チェスターに反応がなかったのを不思議に思ったのか心配そうな顔をしてこちらの様子を窺うチェルシー。
「いや、その呼び方は止めてくださいと言ってるじゃないですか、姉様」
「?…どうして?」
チェスターは子供のころからずっとチェットと呼ばれてきた。本来チェットとはチェスターというイギリス人男性のファーストネームの愛称だ。文字で書くと
そんなことはどうでもいいのだ。問題はそれが子供のころからのニックネームであるということ。それがチェスターにとってはムズ痒く、恥ずかしいのだ。そんなチェスターの気持ちを見透かしたようにチェルシーは笑みを浮かべてこう言った。
「あら、私からしたらまだチェットは子供よ」
可愛がるようにゆっくりと頭を撫でるその動作に余計に子供扱いされている気になってしまう。身長差はチェスターが小柄だということもあり、あまりない。なのでなんの支障もなく撫でられているのだが、それがさらにチェスターの機嫌を悪くする。その光景はとても3つしか変わらない姉弟には見えないほど微笑ましいものだった。
「…今日はあまり抵抗しないのね」
「無駄だと悟ったので」
「ふふっ、偉いわ」
もう満足したのか撫でていた手を止め、腕を下ろした。いや、下ろそうとした途中でその手が止まった。ちょうどチェスターの耳元で止まり、そっと癖のある赤毛に触れた。触れられた髪の毛はピョコンと勢いよく立ち上がり重力に逆らおうと必死に抵抗をみせている。
「寝癖…ついてるわよ」
「え!?ホント!?」
予想外の指摘に口調が崩れてしまったがチェルシーは意にも留めない。おそらく昔なら注意したであろうが、今はそんなことは必要ないと思えるくらいにはチェスターのことを認めているのだ。
「直してあげるわ。部屋に入れて」
慌てふためく弟に少しの母性をくすぐられたのかちょっとだけ甘やかしてみることにした。するとチェスターは何かを気にしながら必死に寝癖の付いたところを押さえている。もちろんそんなことでは直りはしないのは彼も分かっていることだろう。
「チェット?」
「えっと、急がないと時間が…」
どうやらチェスターが気にしていたのは時間らしい。チェルシーもそれに倣い時計で時刻を確認してみる。時刻は5時を回ったところ。確かに余裕というわけではないが寝癖を直すくらいの時間はあるだろう。そう判断するとチェルシーはため息交じりに言った。
「そう時間はかからないから大丈夫よ」
「で、でも…」
まだ何かを言いたそうにしているチェスターを無視し、すぐさま部屋へと入る。チェスターもそれ以上抵抗することなく大人しく従った。適当にベッドに座らせ、寝癖の跡がついたところを櫛でとく。しかし、寝癖は思った以上に強情でなおも抵抗を見せ、重力に逆らっている。そんな様子が無性に愛おしくなってチェルシーは無意識のうちに顔を綻ばせた。
だが、時間は有限である。もう少し眺めていたいという気持ちがない訳ではないが仕方がない。寝癖の部分を水で少し濡らし、強制的に髪を寝かせる。あとはアイロンを使って乾かしたら仕上げに櫛で整える。さすがにチェルシーの手際はよく、5分としないうちにチェスターの髪は整えられた。
「終わったわよ」
「…うん、ありがと」
声を掛けると顔を赤くしたチェスターが小さな声で感謝の言葉を呟いた。どうやら抵抗した理由は時間以外にも恥ずかしいからという理由があったようだ。
「ふふっ」
「何笑ってるのさ」
ひたすらに抗議の視線を向けてくるチェスターにチェルシーは悪戯っぽい笑みで返す。年不相応に大人びたチェルシーの笑みは子供のような無邪気さもあれば大人のような包容力もある。そればかりか小悪魔のようなミステリアスな雰囲気すらも感じさせる。それは同性や家族ですら魅了する魅力的な笑顔だった。
「ごめんなさい。ちょっと揶揄いすぎたわ」
「もういいです。…慣れたので」
なんだかやられっぱなしだったので少し困らしてやろうと拗ねたように顔を背けてみる。しかし、チェルシーはそれすらも見通しているようで、優しい笑みを浮かべているだけだ。やっぱり今日も姉には敵わないチェスターだった。
◇
「…ふぅ、完成っと」
タキシードにエプロンといった何とも珍妙な格好をしたチェスターが文字通り一息つく。軽く伸びをするとパキッという小気味のいい音が厨房に響く。そう、ここは厨房である。そこでチェスターは簡単な朝食を作っていたのだ。
もちろんそれは自身の分ではない。自身が仕える主、オルコット家の次期当主になる方、セシリア・オルコットお嬢様の朝食だ。こう見えてもチェスターは料理に関してはそこそこ自信があったりする。仕事なのだから当然と言えば当然なのだが。
オートミールにベーキングパウダーを加え、牛乳でまとめてから軽く捏ねる。レーズンなどのドライフルーツが練り込まれているそれはイギリス全土で愛されている伝統料理、スコーンだ。その隣はポーチドエッグと言われる卵料理が並べられていた。酢を入れた湯の中に卵を加え過熱し、固めたものだ。通常はマフィンの上にのせて食べるのだが、そこはセシリアの好みに合わせてある。最後にマッシュルームとトマトをソテーしたものを添えれば完璧である。
イギリス=料理が不味い。と思っている方も多いかもしれない。確かにそれは否定しようのない事実だ。実際『イギリスで美味しい料理を食べたければ朝食を3回食べろ』という言葉もあるくらいだ。だが逆にそれはイギリスの朝食、フル・ブレックファストを賞賛した言葉であるともとれる。まあ、つまり言いたいのは朝食に関していえば他のヨーロッパの近隣諸国にも引けを取らない程イギリス料理は美味しいということだ。
出来上がった料理を次々とワゴンに乗せていく。すると早くも掃除を終えた様子のチェルシーが顔を出した。
「お疲れ様です、姉様」
「ええ、お疲れ、チェット」
簡単な言葉を交わすとチェルシーは厨房の奥からティーカップを取り出してきた。もちろんそれはイギリス人なら誰もが愛する食後の紅茶である。何も言ってないのに持って来て欲しいものを的確に当てるあたりさすがはチェルシー、と言ったところか。
「はい、これでしょ」
「あ、はい。ありがとうございます」
すぐにカップを受け取ろうとしたところでチェルシーから言葉を掛けられた。
「寂しくなるわね…」
発せられたのはそんな呟き。だが、それだけでチェスターは察することができた。
「そうですね。セシリアお嬢様に料理を作るのも今日でお終い」
「まあ、3年間だけ、だけれど…」
オルコット家次期当主、セシリアお嬢様は今日イギリスを発つ。日本、いや、正確にはどこの国にも所属していない学園。IS学園にお嬢様は3年間通うことになる。それはオルコット家を守るためであり、チェスターたちのためでもある。そのための努力もしてきた。だからこそ笑顔で送って差しあげたいのだが、やっぱり寂しい気持ちがある。それはチェルシーも同様なようだ。二人はセシリアの従者であると同時に幼少からの付き合いだ。砕けた言い方をすれば幼馴染ということになる。
「…それでも寂しいものは寂しいですよ」
「そうね」
セシリアの両親は3年前に事故で他界した。死傷者は数百人にも及ぶ大規模な鉄道事故だった。それ以来セシリアはたった一人でオルコット家を支えてきた。その過程で分かったことがIS適性の高さである。代表候補生になれば国からの補助が出る。セシリアの場合は国籍保持を条件にオルコット家の遺産を守ることで合意した。そんな努力を知らない二人ではない。
「暗くなってはダメよ。こういうときこそ笑顔で送り出しましょ。その方がお嬢様も喜ばれるわ」
「…ええ、そうですね」
チェルシーの言葉に同意する。気持ちを切り替えると今度こそはとチェルシーからカップを受け取る。しかし、チェルシーはカップを握っている自身の手を直前で引っ込めた。当然そうなればチェスターの手は空を切り、何も掴むことはない。
「姉様?」
「チェット、あとは私がしておくからあなたはお嬢様を起こしに行ってくれる?」
「え?あ、はい」
言われるがままに時間を確認してみると時計の針は午前6時を示していた。確かにそろそろ起きる時間だろう。
「では、よろしくお願いします」
「ええ」
チェルシーにあとは任せることにし、セシリアお嬢様を起こしに向かった。向かう途中、昔のことを思い出したのはきっと寂しさを紛らわすためだったのかもしれない。
原作だとチェルシーはずっと敬語だから口調が難しい…。
ご意見、ご感想、ISの好きなキャラへの愛などお気軽に書き込んでください。
お待ちしてます!
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2話 似合っているわ
今後も幼少期から1話に向けて話が進んでいきます。なので回想?がこの作品の主になると思います。
ブランケット家は代々オルコット家に仕える由緒正しきお家柄の家系だ。一般的にはブランケット家の者は10歳になると使用人としての教育を受ける。専門的な学校に通って、基本的な礼儀や作法を教わるのだ。そして高校を卒業すると同時に正式にオルコット家に仕えることとなる。
チェスターも例に漏れず、使用人としての教育を受けているのだ。ただ、チェルシーは違った。チェルシーは11歳の時にはすでに使用人として働いていた。理由は家庭環境にある。チェルシーとチェスターには親がいない。チェスターが小学校に入学して間もなく、父親は病死した。その後、母親もあとを追うように同じ病で他界したのだ。そのことをきっかけにオルコット家の当主、つまりはセシリアの母親はチェルシーに教養を与え、正式にメイドとして雇ったのだ。前述した通り、チェルシーが11の時である。
実の親が亡くなったのにも関わらず、チェルシーはそこまで悲しいとは思わなかった。いや、正確にはそのことを考える余裕すらなかったと言った方が適切だろう。年端もいかない少女が生きるために一から未知の分野の知識を身につけるのだ。チェルシーは完璧などではない。そう見せているだけで内心では悲鳴を上げているのだ。だから、周りが見えなくなることもあるし、忙しすぎて悲しむ暇さえないことだってあるのだ。それだけ彼女もまた、必死だったのだ。
「よく似合っているわ。あなたもそう思うでしょ、チェルシー」
「…はい。ただ、着ているというより着られているような気もしますが」
「ふふふ、相変わらず厳しいお姉さんだこと」
今、チェルシーと話をしている方こそがオルコット家当主のフローラ・オルコット様だ。娘のセシリアと同様に金髪のロールがかかった長髪が特徴的な彼女。絹のように透明感のある肌、少しだけ垂れている碧眼からは透き通った意志が感じられる。その容姿を一言で表すなら妖艶な女性だ。
そんなフローラの横で何やら誇らしげな顔でタキシードに着られている少年こそがチェスターだ。彼はチェルシーが下した辛辣な評価に何やら不満があるらしい。唇を尖らせ、こちらに抗議の視線を向けてくる。
「…褒めてくれたっていいじゃん」
「そうよね。こんなに似合っているのに」
「でしょ!」
「こ、こら、チェット!フローラ様に向かってなんて口の利き方を!」
あまりにもいつも通りの無礼な口調のチェスターにチェルシーは反射的に注意をした。しかし、それでもチェスターはあっけらかんとしている。というより何がいけないのか分かっていない顔だ。
「いい、チェット。あなたも11になったのだから今日から正式にオルコット家に仕えることになるのですよ。口の利き方はもちろん、態度も改めなさい。フローラ様に失礼のないよう――」
「うん、分かった、姉ちゃん」
「分かったじゃなくて、承りました、でしょ。あと私のことも職務中は名前で呼びなさい」
正直なところ、チェスターには高校を卒業してから使用人として働いて欲しかったと思う。この歳で働くことの大変さはチェルシーが一番よく知るところなのだ。それにチェスターには普通の道を歩んで欲しい。姉として素直にそう思う。辛い思いをするのはチェルシー1人で十分なのだから。
でもチェスターは働くと言って聞かなかった。それは単なる憧れなのかもしれないし、おそらくこの先の大変さは全く考えてはいないだろう。だからこそ止めるべきなのは分かる。でも、最終的にはチェスターの言う通りにしてあげるのは姉としての甘さなのかもしれない。
(もし、私のことを気遣っているのなら…)
自分のやりたいことをして欲しい。少なくとも高校生までの間くらいは。チェルシーがチェスターの可能性を狭めている気がしてならないのだ。なのに、悲しまなければいけない場面なのに、そんなチェスターの心遣いを嬉しく感じてしまう自分がどこかにいた。
「えー、姉ちゃんは姉ちゃんでしょ」
「チェット!」
なんとも仲睦まじい姉弟の言い争いが始まった。目の前にその敬うべき当主がいるのに二人は静まるどころかさらにヒートアップしていく。そういったことに気が付かない辺り、しっかり者のチェルシーもまだまだ子供ということだ。そんな様子すら愛おしそうにフローラは眺める。この二人の姉弟喧嘩は見ていて自然と顔が綻んでしまう。フローラ自身が一人っ子だったことがおそらく影響しているのだろう。
「いい加減にしなさい!チェット!」
「いたっ!?」
どうやら決着が付いたらしい。いつも通り、言うことを聞かないチェスターに痺れを切らしたチェルシーが軽く拳骨をお見舞いする。それを受けたチェスターはそれ以上何も言うことなく、ただ抗議の視線を送るだけ。反撃はしても無駄だと知っているのだ。この歳ながら姉弟間の力関係は決まってしまったらしい。
「も、申し訳ありません、フローラ様」
すぐに我に返ったチェルシーは未だ反省の色をみせないチェスターの頭を強引に下げさせながら謝罪の言葉を述べた。もちろんフローラは怒ってなどいない。むしろ楽しんでさえいたのだが、そこは姉弟の前では伏せておくことにする。
「いいのよ。それより今日はチェスターの就任祝いなんだから喧嘩なんかしないの」
「も、申し訳ありません」
「チェスターもお姉ちゃんの言うことはしっかり聞くのよ。あと、言葉遣いはゆっくりでいいから直していきましょうね」
「はーい」
「チェット!」
「承りましたー」
とりあえず言ってみただけの敬語に思わず笑みが零れる。本当に大丈夫かと不安になる反面、さっそく姉の言うことを素直に実行している辺り案外問題ないと思っている自分がいる。どちらにせよ、いい姉弟であることには変わりはない。フローラは二人の頭を順番に撫でてから微笑んで言った。
「今日からお仕事頑張るのよ。分からないことがあればチェルシーに聞きなさいね」
「うん!」
「だからチエット!」
また始まった姉弟喧嘩にさすがのフローラも苦笑いを浮かべるしかなかった。
(………本当に、大丈夫…よね?)
一抹の不安を抱きながらフローラはその場を後にしたのだった。
◇
「チェット、その恰好はなんですの?」
「ん?羊服だよ」
「……ひつじ?執事ではなくて?」
「そうとも言うね」
ここはセシリアの自室である。さすがに有名貴族のお嬢様だけあってその部屋はとても豪華に飾られていた。ガラス張りのテーブルに明らかに質のいいクッションを使用している椅子、おそらく特注だと思われる鏡台は真っ白で統一され、清潔感とロイヤルさが絶妙にマッチしている。その中でも一番目を惹くのはベッドだ。鏡台と同じく白を基調としており、全体にレースのあしらいが確認できる。まるで童話のお姫様が寝ているのではないかと思ってしまうような外装だ。そこにセシリアが腰掛ければ身内としての贔屓目無しにしても童話のお姫様そのままだった。
「今日から働くんだよ!すごいでしょ、セシリア」
「すごいですわ!で、具体的には何をしますの?」
「えーっと、使用人は家主の命令を聞くのが仕事なんだよ」
「命令…ですの?」
うん、と元気良く返事をするとチェスターは立ち上がる。セシリアはチェスターが突然立ち上がたことの意味が分からず、驚いたように目を丸くしている。それに対してチェスターは服装を正す真似をして大げさに一礼してみせた。
「セシリアお嬢様の命とあらば謹んで」
「まあ、すごいですわ、チェット!」
覚えたてで雰囲気のままに使った敬語。真似というよりイメージに近かった動き。実に粗のある礼儀作法だったがセシリアにはウケたらしい。純粋な目をさらに輝かせてセシリアは賞賛の言葉を並べた。それに気をよくしたチェスターは同じ言葉をもう一度繰り返した。
「セシリアお嬢様の命とあらば謹んで」
「うふふ、似合ってますわよ」
満足げに頷くとチェスターは気が済んだとばかりに腰を下ろした。満面の笑みでセシリアを見るが、次に発されるセシリアの言葉でチェスターは完全に固まってしまうことになる。
「じゃあ、チェットはわたくしの命令に絶対従うのですわね」
「え?」
「何をしてもらいましょうかぁ」
目の前に映ったのはチェスター以上に満面の笑みを浮かべたセシリアの顔だった。その顔は何かを企んでいるようであり、純粋に何をしてもらうか決めかねている様にも見える。いや、きっとどっちもだ。純粋に何をしてもらうか企んでいるんだ。それが無性に怖い。何となくその笑顔はセシリアの母親であるフローラを連想させた。
「では、チェット」
「は、はい」
チェスターはこの時初めて背筋が凍る感覚を知った。そんな様子を知ってか知らずか、なおも素敵な笑みを浮かべるセシリア。ゆっくりと立ち上がり、チェスターの前まで歩み寄る。その一歩一歩がチェスターの心の内に鳴り響く警告音を大きくしていく。
「まずは――」
セシリアが何かを言いかけたその時、救いの神が舞い降りた。
「こら、チェット!こんなところにいたのね。まだ掃除は終わってないのよ!」
救いの神、もといチェルシー・ブランケットが現れた。
「チェルシー?」
「お嬢様、無礼と存じますが失礼させていただきます」
「ええ、それは構わないのだけれど…」
チェルシーはセシリアの了解を得るとすぐさま部屋の中へと足を運んだ。瞬間、流れるような動作でチェスターの頭部を鷲掴みにする。一切の隙もなく行われた動作にセシリアもチェスターも一歩も動けず、息を飲むことしかできなかった。鷲掴みにされている当のチェスターは息を飲むどころの話ではないのだが。
「セ、セシリアァー、た、たすけてぇー」
「お嬢様に対してその口の利き方はなんですか!ふざけているの!謝りなさい。そして二度と無礼な真似はしないと誓いなさい!今ここで!」
「痛い、痛い、頭割れるよ、姉ちゃん」
「安心しなさい。人の頭はそう簡単には割れないのよ。あと姉ちゃんは止めなさいと今朝も言ったでしょ」
じゃれ合う、にしてはあまりにハードすぎる目の前の光景に若干引いているものの、その光景が微笑ましいものだというのは今のセシリアでも十分に理解できた。
「二人とも本当に仲がいいのね」
「どこがなのさ!」
「あり得ません!」
二人は即座に否定の言葉を口にしたがそれもまた照れ隠しのように思えてくる。セシリアは少し考えた後、未だに取っ組み合い(チェルシーの一方的な攻撃)をしている二人に向けて思いついたように声を掛けた。
「二人とも、命令です!」
「「え?」」
チェルシーとチェスターの声が重なる。セシリアのあまりに突飛な発言にチェルシーですら素頓狂な声を上げてしまった。対するセシリアは妙に自信に満ちた表情で、胸を張る。余程いいことを思いついたのだろう。僅かな笑みすら浮かべている。
「喧嘩は止めて仲良くしなさい」
「「………」」
数秒間の沈黙が生まれた。ポカンとして返事をしない二人にセシリアは先程の自信はどこへやったのか、急にオロオロと慌て始めた。その姿はとても愛らしく誰の目から見ても可愛らしいの一言に尽きるだろう。ただ、今セシリアの目の前にいるのは使用人である。まあ、一人は未だに友達感覚なわけだが、問題はそこじゃない。目の前で慌てふためく主を何としてでも落ち着かせなければならない。万が一でも泣かせたりしたら…。チェルシーの額に嫌な汗が流れる。チェスターも理由は違えど状況を理解したようで姉弟はお互いの顔を見合わせる。そこからの行動は早かった。
「お、お嬢様、落ち着いてください」
「そうだよ。僕たち超仲良しだから!喧嘩とかしないから!」
必死に肩を組んで仲良しアピールをするブランケット姉弟。セシリアはなおも疑り深い視線をこちらに向けている。その光景はなかなかに奇妙なものだろう。
「本当ですの?」
「本当ですよ」
「も、もちろん」
セシリアの問いにコンマ数秒の速さで返答するも、セシリアは俯いて動かない。もしや、と最悪の事態が二人の頭に浮かんだ時、セシリアがゆっくりと顔を上げた。
「では信じます。もう喧嘩はダメですわよ」
笑っていた。そこには確かに満面の笑みを浮かべるセシリアがいた。どうやら一難は去ったらしい。一気に肩の力が抜けたような気がした。
「「は、はい」」
「あとチェルシー、チェットの呼び方は許してあげて」
「い、いや、ですが」
「チェットにとってあなたは間違いなく姉なんですもの」
「………」
チェルシーはセシリアの提案が受け入れ難いようで少しの間考えていたようだが、すぐに折れたようで口を開いた。
「分かりました」
「本当―――」
「ただし条件があります」
「…条件?」
「はい。姉様、なら最悪妥協します」
「…それでどうかしら?」
最終決定権は何故かチェスターにあるようでセシリアもチェルシーもこちらを窺ってくる。しかし、セシリアに此処までしてもらってさすがに否定はできそうにない。何よりチェルシーのことを名前で呼ぶことに抵抗があるだけでそれ以外なら別に構わないのだ。
「うん、じゃあそれでお願いします、姉様」
元気よく返事をするとセシリアは笑みで返してくれた。チェルシーは呆れたような顔をしていたが、あれはおそらく口調をどうやって直させようか、と考えているに違いない。
「では、お嬢様。私たちは職務に戻らねばなりませんので、失礼いたします」
「ええ、頑張ってください」
「そんな、もったいないお言葉」
チェルシーは自身のペースを取り戻したようで礼儀正しくお辞儀をすると、そのまま部屋を出て行った。もちろんチェスターを回収することも忘れずに。
「……なるほど。命令するのにもコツがあるんですわね」
そんなセシリアの呟きは二人には聞こえることはなかったという。
幼少期セシリア…。
絶対可愛いですよね!
さっそくオリキャラが登場しました。
セシリアの母親、フローラ・オルコット。
名前は作中で出てこないので作者がつけさせていただきました。
あと父親も出すつもりでいます。
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3話 目標を決めなさい
チェスターが正式にオルコット家に仕えて数日が経過した。まだ慣れたとは言い難いがそれなりに仕事もこなせるようになってきた。それもこれもチェルシーの教育のおかげだと言える。本当に良い姉を持ったと感謝しなければならない。
「では、よろしくお願いするわね。チェルシー、チェスター」
「はい、お気をつけて」
「お、お気をつけて」
ビシッと綺麗なお辞儀をする姉、チェルシーとそれに少し遅れてチェスターも頭を下げる。フローラは優しく微笑むと数人の使用人と共に車へ向かう。明らかに高級そうな濃い漆黒の車はすでに庭園の中に敷かれた車道を通り、すぐ近くで停まっている。当然のように使用人の一人が黒い高級車の後部座席を開け、フローラは黙って中に乗り込む。チェルシーとチェスターはもう一度頭を深く下げ、それをフローラを乗せた車がいなくなるまで続けた。
「フローラ様、ここ最近特に忙しそうじゃない?」
「ええ、そうね。あまり無理をなさらなければいいのだけれど…」
「…そう――」
「チェット、口調が乱れてるわ。気をつけなさい」
「――ですね」
フローラはここ最近、いつにも増して忙しそうにしていた。理由は使用人見習いであるチェスターにはイマイチ分からないが、チェルシー曰く発表されて間もないISというものが関係しているらしい。
なんでもISは宇宙空間での活動を想定して作られたものなのだが、その実、現行のどんな兵器をも凌駕する危険な発明らしい。オルコット家、つまりはフローラはかなり早い段階からこのISというものの危険性を提唱し続けてきた。
しかし、そんな想いも空しく、とある事件が起きた。白騎士事件と呼ばれる出来事だ。世界中のミサイルが同時にハッキングされ、照準が日本に定められた。当然世界はパニックに陥り、誰もが絶望を感じた。その事態を救ったのが、のちに白騎士と呼ばれることになるIS1号機だ。そのISはミサイルを完封しただけでなく、その後白騎士を危険だと判断し、攻撃を仕掛けてきた現行の兵器すらも赤子のように扱った。たった数時間でISは世界の軍事バランスをひっくり返したと言っていい。フローラの予感は最悪の形で的中したと言える。
そして現在はISによる変革の間最中というわけだ。今後、世界がどのように傾くかは分からない。誰も想像することが出来ないような事態が引き起こるかもしれない。それ程にまで、今の世界は不安定だと言える。
「早く、僕もフローラ様の役に立てるようにならなくちゃな」
「あら、チェットにしては珍しくいいことを言うのね」
「珍しくは余計だって……ですよ」
「ふふ、今のはおまけで見逃してあげるわ」
フローラはチェルシーにだけ語ったことがある。今後の行く末は前述した通り誰にも分からない。だが、フローラはあることだけは確実な未来になるだろうと予想していた。女尊男卑だ。ISという兵器の欠点として女性しか扱えないことが挙げられる。つまり必然的にISを扱える女性が優遇される未来が来ると感じていたのだ。もちろん確信はないが、チェルシー自身もどこかでそうなるだろうと直感している。
もし、本当にそうなれば女性であるチェルシーやフローラ、もっと言えば、いずれオルコット家を継ぐことになるセシリアにとっては都合がいいと言える。しかし、男性であるチェスターはどうだ。おそらく生きづらい世の中になるだろう。そう考えると不安でいっぱいになる。たとえ自身や自身の仕える主にプラスになってもチェスターにとってマイナスになるようなことでは意味がない。チェルシーは他でもない、弟であるチェスターに幸せになって欲しいのだ。
「うっし、もうひと頑張りですね、ねえちゃ――姉様」
そんなチェルシーの気も知らないで呑気に笑うチェスター。いつも通りの笑顔。その顔を見ているとチェルシーはなんだか難しく考えている自分が馬鹿らしく感じた。それはきっといい意味で。
「はぁ、2度目は流石にどうかと思うわ」
「ご、ごめん…じゃなくて、ごめんなさい!」
「学習しない子にはお仕置きが必要よね?」
「ヒィッ」
半分命をあきらめたチェスターは反射的に目を閉じる。しかし、いくら待てどもお仕置きが来ることはない。不思議に思いつつ、恐る恐る目を開けるとそこには予想外に笑みを浮かべたチェルシーがいた。
「チェット」
「へ?」
チェスターが素頓狂な声を上げたのも無理はない。何しろ突然腕を引かれ、そのままチェルシーに体をあずける形で抱きしめられたのだ。
「ね、姉ちゃん?」
「チェット、あなたは私が守る。絶対、絶対守るから」
「と、突然どうしたの!?」
チェルシーはそれ以上何も言わなかった。ただ優しく、それでいて力強く、チェスターのことを抱きしめ続けた。相も変わらず状況を飲み込めないままでいるチェスターだが、彼もまた、狼狽えることを止めた。今まで見たことのない姉の姿に言葉を失ってしまったのだ。でも、それだけではない。初めて見る弱気な姉を前に狼狽えるなんてできなかったのだ。
「じゃあ………姉ちゃんは僕が守るよ」
不思議とそんな言葉を口にしていた。
◇
オルコット家の当主であるフローラ様が留守にしている今こそチェスターたち使用人がしっかりしなければいけないと思う。思うのだが、仕事にどこか打ち込めない様子のチェスターがいた。
姉、チェルシーの先程の表情が頭から離れないのだ。あんなに弱気な姉をチェスターは知らない。一体何がチェルシーをあそこまでさせたのか、いくら考えても答えは出ない。チェスター自身が何かしたとは考えられないし、第一それでチェルシーがああなるとも思えない。思考の海に半ば沈みかているチェスターを叱咤の声が呼び戻した。
「チェスター君!ボーっとしながら花瓶を換えないでください。見ていて冷や冷やします」
「…ああ、ごめんなさい」
意識が戻ったチェスターはすぐさま非を認める。その様子に違和感を感じたのか、メイド服に身を包んだ女性は心配するような目をこちらに向けた。
彼女はチェスターとチェルシーの先輩にあたる人物だ。名をハーティ・エヴァンス。その容姿は如何にもそうな眼鏡をかけ、髪は後ろで一つにまとめられている。髪色はセシリアやフローラと同じ金髪だが、比べるとかなり落ち着いているのが分かる。表記するとすれば栗色というのが一番しっくりくるだろう。
ハーティはチェルシーと同じくらい厳しい人だがその分面倒見が良かったりもする。年齢は彼女曰はく25歳らしいが、さすがにもうちょっといっている気がする。もちろん怖いので直接は言わないが。
「こちらは片付けますから、花の方をよろしくお願いします」
「は、はい」
年上の人から敬語を使われるのはどこかムズ痒い感覚になる。ましてや目上の人でもあるハーティに対してならなおさらだ。それでも彼女は敬語の方が楽だから、という理由で止めてくれない。彼女のように使用人としてのキャリアが長いと、どうしてもそうなってしまうようで敬語が抜けない人は意外にもたくさんいる。その点で言えばチェルシーはやっぱり特殊なのかもしれない。
「で、何かあったのですか?」
花瓶を受け取ってそのまま去るかと思いきや、こちらを振り返り、見かねたような視線でそんなことを投げかけてきた。正直、相談しようかどうか迷った。それはハーティのことを信用していないわけではない。むしろチェスターはハーティのことを信用している。尊敬と言ってもいいくらいだ。でも、今回は理由が理由だった。なんだか素直に口に出せない恥ずかしさと、そもそも何を相談すればいいのか分からない、そんな曖昧な気持ちがあったからだ。
「別に無理に言えとはいいませんけど」
「ご、ごめんなさい」
「謝る必要はありませんよ。聞いたのは私の方ですから」
「は、はぁ」
答えられずにいたチェスターを気遣ってハーティはそう言ってくれた。相談できないもどかしさと気を遣わせてしまった申し訳なさでチェスターはさらに萎縮してしまった。
「悩みが何かは分からないのであまり具体的なことは言えませんが、一つだけ」
「はい」
「あなたに分かることなんてあなたが思う以上に少ないんですよ」
「え?」
「あなたはまだ子供ですから、分からないことは分からないでいいと思います」
「え、でも―」
「私はこれで」
チェスターの言葉も遮って、ハーティは足早に立ち去ってしまう。具体的なことは言えないと言っておきながら、的確にチェスターの考えていることを当てられてしまったかのような感覚になる。去りゆく彼女の後姿はかっこよかった。女性を褒める時に使うのはどうかと思う表現だが、それ以外の言葉はしっくりこないとチェスターは心の中で呟いた。
「深く考えすぎるなよ、ってこと?」
ならばそうしよう、と割り切れないのが人間だけれど、そうしていこうと改めることはできる。チェスターもすぐには割り切れそうにないが、そういう風に考えていこうと決意した。そのための第一歩として、とりあえずは目の前の仕事に集中しよう。
「よし、お掃除頑張りますよぉ!」
すでにハーティは去った後で周りに人はいない。まあ、いたらとても叫ぶような真似などできないが。
すぐさま花を花瓶に差し替えると、チェスターは庭の手入れをするため方向転換を行う。数分前とはうって変わって軽快な足取りで歩を進める。ロビーの中央階段を下っている最中にある人物と出くわした。
「おはようございます、アーノルド様」
「ああ、おはよう、チェスター」
優しそうな雰囲気の男性。見る者が違えば頼りない、と感じる人もいるかもしれない。そんな男らしさとは対極に位置するこの男性こそがフローラの夫である。アーノルド・オルコット。オルコット家に婿入りした彼は夫という肩書とは裏腹に屋敷内での立場は低い。もちろん直接本人に告げることはないがアーノルド自身もそう感じているだろう。事実、他人の様子ばかりを窺うアーノルドにフローラが鬱陶しそうな顔をする場面は多々あった。
「今日はいい天気だね。外で遊んだら気持ちがいいんじゃないかな」
「ダメですよ。僕には仕事があるんですから」
「子供は遊ぶのが仕事なんだよ」
「子供じゃないですってば!」
「あはは、偉いね、チェスターは」
しかし、チェスターはアーノルドのことが結構好きだったりする。みんなは頼りないとか、情けないとか言うけれど、チェスターはそう思わなかった。面倒見がよくて、誰にでも優しい。フローラのような厳しさは確かにないけれど、それでもチェスターは彼を嫌いにはなれなかった。そのことをチェルシーに話したときは驚いたような顔をしていたけれど、すぐにチェスターの言う通りだ、と言ってくれたのをよく覚えている。
「アーノルド様はフローラ様と一緒に行かないんですか?」
「ああ、フローラは優秀だから私なんていらないんだよ」
きっと今のは質問したチェスターに非がある。しかし、それも仕方のないことだろう。正装こそしているが中身はまだ年端もいかない子供なのだ。11歳の少年の純粋な疑問を誰が責められる。
でも、チェスターは聞いて後悔をした。笑顔をつくってはいるがどこか悲しそうなのだ。そして、不意にチェスターは自分とチェルシーのことではないかと思い至ってしまう。完璧な女性と、不出来な男性。
「…」
「ごめんね、今のは忘れてくれ」
すでに普通の笑顔に戻った様子のアーノルドがそう言った。そのまま立ち去ろうとするアーノルドをチェスターは呼び止めていた。なんだかここで聞いておかなければいけないような気がしたのだ。また、その答えによってはチェルシーという姉の存在が自身の重荷になると受け止めなければならないのだ。
「フローラ様のこと、好きですか?」
突然のことに驚きを隠せない様子のアーノルド。無理もない。こんな小さな子供からまさかそんなことを聞かれるとは予想できなかっただろう。しかし、アーノルドはすぐに表情を戻して言った。
「…あぁ、もちろんだよ」
もちろんアーノルドがフローラに対しての好きとチェスターがチェルシーに対して思う好きは意味合いがまるで違う。でも、本質は同じだ。だったら何も問題はない。アーノルドがフローラのことを好きだというのなら、チェスターだってチェルシーのことを好きでいられるはずだ。そう思うと安心できた。
そして同時に目標が変わった。今までは完璧な姉のようになることを目指していたが、そうではない。この人のようにチェルシーの側にいようと、例えチェルシーが自身のことをこの先どう思おうとも。その覚悟を持って、チェルシーを支えようと。今この瞬間、チェスターにとってアーノルドこそが目指すべき目標となったのだ。
「ありがとうございます、アーノルド様」
「?………別にお礼を言われることはしてないと思うけど」
当のアーノルドはよく分からないと訴えているが、もういいのだ。
「仕事の方に戻りますね」
「あぁ、無理せず頑張ってね」
「はい!」
なんだかんだあったが結果いいように転んだ気がする。それにこれ以上考えたところできっと今のチェスターには分からない。ならそれでいい。何も問題はないのだから。とにかく今は自分の仕事を終わらせよう、そんな気持ちで庭の手入れに取り掛かるのだった。
チェスターとチェルシーの先輩にあたるハーティ・エヴァンス。
セシリアの父親のアーノルド・オルコット。
以上の二人がオリキャラとして登場しました。
セシリアの父親は原作に忠実に作っていきたいですね。とはいえ情報がなさすぎるので半分妄想で書いていきます。
もし、オリキャラについてご意見、ご感想、アドバイス等がありましたらよろしくお願いします。
もっとセシリアとチェルシーを書きたい…。
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4話 考えすぎはよくないわ
他の作品から数えれば一年以上たつのに…。
今回はセシリアが出ますよ!
「………フンッ」
今、チェスターの前にはセシリアがいる。それだけなら何ら問題はないのだが、明らかに空気がおかしい。腕を組んで顔を思いっきり背ける。誰がどう見ても怒っていますのポーズをとっている。もちろんチェスターに心当たりはないし、見当もつかない。ただ事実としてセシリアはチェスターに対して激怒しているということだ。
現在地はセシリアの自室だ。アーノルドと話を終えてチェスターは庭の手入れに向かった。向かう途中でセシリアと出くわし、すぐさま自室へと誘拐され、今に至る。
「……」
「……フンッ」
おかしい。今一度振り返ってみても自身に非があるどころか、セシリアが怒る理由すらないように思う。それでも放置は流石にできないので一応理由を聞いておくことにした。
「……セシリア?」
「……」
「お嬢様?」
「………」
話しかけても反応がないようでは聞くに聞けない。セシリアは相も変わらず怒っているようだ。幼いセシリアが腕を組んで顔を背けている光景は傍から見れば子供が拗ねているようにしか見えないだろう。その愛らしさが微笑ましくもあるのだが、同年代の尚且つ従者としての立場であるチェスターにはその光景を楽しむ、なんて余裕は当然ない。
以前チェルシーが言っていた女心は秋の空、という言葉を思い出す。聞いた時はありえないだろうと馬鹿にしていたが、目の前で実際に女心とやらに対面してみると笑えない例えだとしみじみ思う。チェスターはこのとき心の底から天気予報士を尊敬した。
「怒ってる……よね?」
「怒ってませんわ」
嘘でしょ、という言葉を寸前で飲み込む。実際チェスターの言う通り嘘に違いはないのだが、それを指摘すると怒るのも女心というものなのだ。
「えっと、どうして怒ってるのか教えてもらってもいい?」
「ですから怒ってなどいません!」
これは流石に参った。取り付く島もないとはまさにこのことだ。多分チェスターはこの11年間の人生で一番頭を使ったと思う。チェルシーやフローラ、さらにはハーティまで引っ張り出して今この状況に該当する女心を検索していく。結果的に該当なしと表示されたが、頭を抱えている暇はない。
そこでチェスターは聞き方を変えることで状況が改善されないかと試みる。ここまで来たら実際にやってみる他ない。最後に信じれるのは結局自分なのだから。頭の中にあった誰の言葉か分からない名言を根拠に自信を取り戻す。
「じゃあ、僕に言いたいこととかあるかな?」
「言いたいこと、ですか?」
「そう!お嬢様の要望を聞くのも僕の仕事のうちだからね!」
「そうですね、では…」
苦し紛れな一言だったがセシリアは思いのほか好感触だ。何よりこの状況では反応があったことを喜ぶべきだ。
「お父様と話すのは止めなさい」
「え?」
お父様。チェスターの頭の中で何度も同じ言葉が反芻される。しかし、何度繰り返しても一通りの意味しか思いつかない。つまりはセシリアは自身の父親であるアーノルドと話すな、と言っているのである。ますます意味が分からない。
「ですから、お父様と二度と話しをしてはいけないと言ったのです」
セシリアはチェスターから返事がないことを不審に思ったのか、組んでいた腕を解き、激しく上下させることで憤慨の意を示す。腕と一緒にセシリアの長い髪が激しく揺れた。
「なんで?」
「なんでもです」
セシリアはそれだけ伝えると先程までと同様に腕を組み、顔を背ける見慣れたポーズに戻ってしまう。用件は聞けたけど意味は分からない。どうしてその考えに至ったのかプロセスがチェスターにはさっぱりだった。
しかし、このまま黙られるとさっきと何も変わらない。それどころか悪化すると言っていい。とはいえ今のチェスターにこの状況を打開できる案など浮かぶはずがない。また膠着状態に入ると予想したが、その予想は裏切られることになった。
「あの人と一緒にいるとチェットまでダメになってしまうからですわ」
ダメ、というものが具体的にどのようなものなのかはチェスターには分からない。ただ、セシリアがアーノルドのことを毛嫌いしているのは何となくだが気が付いていた。そしてその対象は父親だけではなく男性だということも容易に想像できる。セシリアは家庭環境ゆえ、異性と接する機会が極端に少ない。女子校に通っているセシリアにとって異性と言えばそれこそ父親かチェスターくらいだろう。それに対して女性はフローラにチェルシー、ハーティに学友と優秀な人が数多い。だから男=不出来という極端なイメージがついてしまったのだと思う。
「チェットはあんな人のようになってはダメですわ、絶対」
幸い、という表現が適しているのかは謎だがセシリアにとってチェスターは嫌悪する対象にカテゴライズはされていないらしい。使用人というよりも友人としての意識が強いからなのかもしれない。
「どうしてそこまで嫌いなの?」
「そ、それは…情けないからですわ」
セシリアの表情に影が差す。その表情を窺う限り、心の底から嫌っているように見える。言い知れぬ不安に襲われる。
「いつも周りの顔色ばかりを気にして…最低ですわ」
セシリアがどうとか、アーノルドがどうとか、もはやそんなレベルではなかった。少なくともチェスターはアーノルドに対していい印象を持っている。それがまさかここまで異なった考え方をしている人がいることにチェスターは衝撃を受けた。
「いや、でも、アーノルド様だって…」
言葉は続かなかった。一瞬、セシリアの視線がアーノルドに向けているものと全く同じ、軽蔑を含んだものに変化したような気がしたからだ。
「チェットにはあの人みたいになって欲しくはない。ただそれだけですの」
「………」
何も言えなかった。肯定も否定も出てこない。
「分かってくれますわよね?」
ただ一つ、真剣な顔でこちらを見つめる彼女はチェスターが知っているセシリアではなかった。
◇
オルコット家の庭園はかなりの広さがある。ただ、だだっ広いというわけではない。大きな門から屋敷まで整えられた石畳。その左右には客人をもてなすかのように植えられた草木。緑の塀に囲まれた中には息を飲むほどに色とりどりの花が咲く。その中でも草木で象られたオブジェは一際目を惹いた。オブジェは一口に丸型と言ってもさまざまである。球のように均一に揃えられたものもあれば上に行くほど尖がったドングリ型もある。他にも楕円など種類は様々だ。
「…よっと」
チェスターはその手入れをしているのだ。遠目で見れば整っていて手入れの必要はないようにも感じるがそうはいかない。近くで見ると一部が飛び出ていたりと、意外に粗は多い。それを手に持っている枝切ばさみで整えていくのだ。時に手の届かない場所は脚立に乗りながら、と地味な割にハードな仕事だったりする。もちろんそれなりに練習したし、実際これも初めての作業ではない。だが11歳の子供がこなすにはやはりかなり大変な仕事だ。
「よっ…はっ、はっ……」
丁寧にかつ大胆にハサミを入れる。意外と長く時間をかけてやるよりこっちの方がうまくできたりするものなのだ。今回も例に漏れず、テンポよくこなしていく。
………………チャキッ、チャキッ、チャキッ、チャキッ。
機械的に紡がれる枝を切る音。切られた枝はハラリと舞って地に落ちる。それを眺めていると何となく虚しい気持ちになる。いや、正しくは先程のことを思い出しただけでこの光景にそこまで悲観的になれはしない。そこまで考えたとき、チェスターは背中に何かが触れる感覚を覚えた。
「?」
反射的に手を止め、首だけ向けることで後ろに振り返る。するとそこにいたのはチェスターのよく知る姉の姿だった。
「手が乱れているわ。もっと丁寧に」
そう言いながらごく自然な流れで後ろから両腕を回すチェルシー。真後ろから抱きしめるようにしてチェスターの手に自身の手を添えた。
「ゆっくりと、枝を切るというより葉を梳いてあげる感覚ね」
チェルシーの声と温もりを感じると先程の嫌な感情はどこかへ行ってしまったようで、不思議と落ち着けた。そしてようやく自分は勢いに任せて雑な仕事をしていたことに気が付いた。
………………チャキッ………………チャキッ………………チャキッ………………チャキッ。
さっきと同じ機械的な音が、けれども心地よいテンポで流れる。
それから少しの間枝切ばさみを動かした。ある程度整え終えるとチェルシーはチェスターから手を離した。少し離れてオブジェ全体を確認してみると驚くほど均一に整えられているのが分かった。誰がどう見ても直しはいらないくらい完璧だった。
「今みたいな覚よ。私も手伝うから、ゆっくりコツをつかみましょ」
人の心の機微に鋭く、それでいて無理に聞き出そうとしない。むしろ逆。とても自然に心の中に入り込んで相手が話してくれるまでそっと待つ。話せば親身になって相談に乗ってくれるし、そうでないなら気づかないふりをしてくれる。にっこりと微笑むチェルシーにはやっぱり敵いそうにない。改めてそう認識すると同時に誇らしくも思う。自慢の姉だと。
「ねえ、姉ちゃんは誰かを好きなったことある?」
「ええ、もちろん」
意外な返答が返ってきた。チェスターにはチェルシーが誰かに恋をしているところなんて想像できない。というかチェルシーが好きになるなんて一体どれだけすごい人なのだろうかと思う。身内びいきも多少は入っているかもしれないがチェルシーに釣り合う男なんているのだろうかとさえ思えてしまう。
「……ど、どんな人?」
「そんなのチェットに決まっているでしょ」
しかし、望んでいた返事ではなかった。その好きはまず間違いなく家族としての好きだ。むしろ違う意味だったら問題だろう。ムスッとした顔で睨むとチェルシーは少し困ったように笑った。
「…男の人、となるといないかもしれないわね」
「じゃあ、嫌いな人は?」
「…どうしてそんなことを聞くの?」
チェスターが一番聞きたかったことがこれだ。しかしその質問はチェルシーによって質問で返されてしまう。
「…………」
でも、その答えを正直に言うのには抵抗があった。いくらチェルシーに対してでも言いにくいことはある。特に今回の根源はセシリアだ。セシリアがアーノルドを嫌っていることをどうにかしたい。お節介な上にセシリア個人の感情を晒さなければならない。そんなことはできないし、したくもない。
言葉に詰まったチェスターの気持ちを察してくれたようでチェルシーはそっと頭に手を添える。
「人間なんだから苦手な人くらいいるわ」
「え?そう、なの?」
「ええ。大切なのはその後」
「……あと?」
「嫌いな人とどう関わっていくか」
どう関わるか、それは暗に人が人を嫌いになることは仕方のないことだと言っているようなものだ。その考えを理解するにはチェスターは幼すぎる。いろいろと経験が足らなすぎるのだ。
「確かに嫌いにならないことが一番いいのだと思う。でも、それってかなり難しいことなのよ」
「…そう?」
「ええ、とっても。それができるのはあなたが優しいからよ、チェット」
撫でられるチェスターにはやっぱり分からない。これもハーティが言うように分からなくてもいいことなのだろうか。
「…難しく考えなくてもチェットはそのままでいいのよ」
そうは言っても今回はセシリアとアーノルドの問題なのだ。チェスター自身は直接的には関係がないと言っていい。裏を返せば、それは今まで通りでは状況は何も変わらないということでもある。
「いいえ、今まで通りでいいのよ。チェットがチェットらしくしていれば、いずれお嬢様も気が付くはずだから」
「…そうかな」
「そうよ、お姉ちゃんが保証してあげる」
不思議な温かさを持った言葉だった。このままでいいとは思えないのが正直なところだけど、チェルシーにここまで断言されると自信が湧いてくる。なんとかなる、大丈夫だって。
「って、なんで知ってんの!?それに心読まないで!!」
「ふふっ」
いいことを言われたせいで流しそうになったけど突っ込まずにはいられなかった。当のチェルシーはいつもの笑みを浮かべているだけで何も言わない。どこか楽しそうに笑うチェルシーに、一体どこまで見透かされていたのだろうかと冷や汗を流す。相変わらず人間離れしていらっしゃる姉を前にため息が漏れずにはいられない。
「…はぁ」
「幸せが逃げてしまうわよ」
普段は真面目なのにこう言ったメルヘンなことも自然と言えるのが純粋に凄いと思う。そしてそれが似合っているのだから何も言えない。そこいらの男ならイチコロだろうな、と齢11歳にして感じ取る。
チェルシーは先程好きになった人はいないと言っていたが、逆は多いだろうなと勝手に推測する。きっと告白されたことだってあるに決まってる。そしておそらく撃沈したのだろう。そう思うと姉の学友の方に少し同情してしまう。
「姉ちゃ――」
不意に唇に人差し指をあてがわれる。もちろんチェスターの唇に、チェルシーの指があてられているのだ。こんなシチュエーションは恋愛漫画だけの話かと思っていたが実際に起きうることなんだとチェスターは驚愕した。これが姉でなかったらさぞ嬉しいことだろう。しかし、現実に目の間にいるのは自身の姉、チェルシーである。嬉しさなんてものよりも困惑の方が先行していた。
「口調、気をつけなさい」
「ふぁ、ふぁい」
この状況で何を言われるのかと思いきや、出てきた言葉はお説教だった。今更な気もするが、いや、逆に言えば今まで注意せずにいてくれたのだ。もしかしなくても気を遣ってくれたのだろう。何度も繰り返すようだが敵う気がしない、切実に。
「きっと姉様が姉でなかったら僕も惚れていたかもしれませんね」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわね」
最後に放った渾身の嫌味も華麗に流されてしまった。
原作でもあるようにこの作品でもセシリアは父親のことが嫌いです。
だから異性というより友人のカテゴリーであるチェスターにはこれくらいの態度が妥当かなぁー、なんて思ってます。
チェスターが関わることで原作と違う展開になればいいですねー。円満なオルコット家とかある意味新鮮ですよね…。
最終的にセシリアがどう変わるのかも楽しんでいただければと思います!
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5話 外出しましょう
まあ、あくまで仕事ですけどね。
いつかプライベートのお出かけも書いてみたい…。
何処を見ても人、人、人。景気のいい作業の音や活気に満ちた人の声がチェスターの耳を刺激する。そんな雑踏溢れる商業の中心地にチェスターとチェルシーは来ていた。
学校でもそれなりに人混みというのは体験するし、元来そういうのが特別苦手というわけでもない。それなりに免疫はある方だと自負している。だが、目の前で繰り広げられている光景は容易くチェスターの想像を打ち破った。
「…うわぁ」
「ふふっ」
二人は買い出しに街まで来ていたのだ。ハーティも一緒にだったのだが彼女は車を駐車するのに手こずっている。ならばと二人が率先して一足先にやって来たのだ。もとより別々で行動するつもりだったので何も支障はないのだが。あとで合流できるように連絡を取れるようにしておかなくてはと思い、チェルシーは携帯のマナーを解除したのだった。
「す、すごい人ですね」
「初めてだと驚くでしょ。私もそうだったもの」
その言葉通りチェスターは場の雰囲気に完全に圧倒されていた。チェルシーは涼しい顔でそんなことを言うが慌ているチェルシーの姿はイマイチ想像することが出来ない。
「逸れないように、ね?」
「…う、うん」
目の前に差し出された手を掴む。この歳で手を繋ぐというのはなかなかに恥ずかしいがそうも言っていられない状況だ。世間一般では11歳ならギリ大丈夫な年齢だとも思うが、そんなことはチェスターには関係ない。照れくさそうに握り返すとチェルシーは小さく微笑んだ。
(……………やっぱり恥ずかしい)
チェスターは自身の頬が熱くなるのを自覚していた。
「こっちよ」
チェルシーに手を引かれ、何とか歩き出すチェスター。
買い出しといってもほとんどはネットで買うことが多い。もしくは予約を取ってこちらから出向くといった感じだ。今回はそのどちらでもない。所謂そういうことができないお店に行く。何故わざわざそういうことをするのかと問われればフローラのこだわり、と答える他ない。まあ、その裏にはまだ子供であるチェスターとチェルシーにいろいろな体験をさせたいという思惑があるのだが、それは二人の知るところではない。
「姉様。今回は何を買いに?」
「ハーブティーを少し、あとフローラ様からワインを頼まれているわ」
「お、お酒!?買えるの、それ?」
当然のことながらチェルシーは未成年である。もちろんそれはチェスターも同様だ。ならばお酒なんて買えるはずがない。そう思ったのだが、それは杞憂に終わったらしい。
「大丈夫。フローラ様がすでに試飲して選んだそうよ。お店の方にも話は通してあるそうだから私たちは受け取るだけ」
そう言って見せてきたメモ帳にはワインの銘柄が記入されていた。今回受け取るのがそのワインなのだろう。ワインについて全く詳しくないチェスターには分からない話だが。
「姉様、このワインはどのようなものなんです?」
「チェットにはまだ早いわ。子供はアルコールなんて飲んではダメよ」
別にそういう意味で言ったわけではないのだがチェルシーは厳しめの口調でそう言った。そもそもチェルシー自身、未成年なのだから本来は偉そうなことは言えないはずである。とはいえチェルシーが言うとその通りにしなければ、と思わせる何かがある。実際、詳しいのではいかと感じてしまうほどに。まあ、当然そんなはずはなく、1つの銘柄をわざわざメモしているのがいい証拠なわけだが…。それにチェスターは気が付かない。素直にさすが姉様と呟く辺り、完全にチェルシーに丸め込まれているのがよく分かる。
しばらく歩き、ある店の前で止まる。その店の外装はとても立派とは言えないような古ぼけた見た目をしていた。しかし、ここはイギリスでも屈指のハーブティー専門店であり、取り扱ってる数も種類もかなり多い。実際、フローラが気に入る程でもある。知る人ぞ知る名店というやつだ。
古ぼけた看板を眺めているとチェルシーが扉に手を掛け、中へと入るのでチェスターもそれに続いた。
「…わぁ」
鼻腔に香る微かなハーブの匂い。店内には様々な種類のハーブが壁一面に収納されていた。カウンターにはおそらくこの店の主人だと思われる老紳士がにこやかな笑みを浮かべている。人当たりのよさそうな老紳士はチェスターたちを見るといらっしゃい、と短く声を掛けた。
「フローラ様が好まれているのがローズマリー。香りが特徴的で、とても深い味わいが口内に広がるの。お嬢様はカモミール。青林檎みたいでほのかに甘みがあるからチェットももしかしたら好きかもしれないわよ。……あと、アーノルド様のはあっち。アーティチョーク。さっきの二つに比べると少しだけ苦みがあると思う。でもさっぱりしていて食後にはぴったりね」
チェルシーが説明を交えながら今回購入するハーブを教えてくれる。しかしながらチェスターにはかなり難しい。そもそも店内にあるハーブの量も尋常ではないし、ハーブ自体の名前もややこしい。これをいずれ覚えるのか、と考えると今から憂鬱になってくる。
「そんなに構えなくとも自然と覚えていくものよ」
「そういうものですかね…」
するとチェルシーは少しの間何かを考えた素振りを見せ、新たなハーブをいくつか取り出してきた。
「レモングラス。レモンに似た爽やかな香りがすることからそう呼ばれているの。比較的飲みやすい方だと思うし、チェットに合うと思わ」
「へ、へぇ…」
「それかオレンジピールかサンフラワーなんてどうかしら?」
「え、えっと…」
「オレンジピールは名前通りオレンジの味がするの。柑橘系独特の酸味や苦味はないし、後味もさっぱりしてる。サンフラワーは冷え性に効果的とされてるから女性に人気が高いわね。でも、まろやかな口当たりで飲みやすいから安心して」
次々とチェスターが飲みやすそうな比較的敷居の低いハーブを勧めてくれる。その気遣いが嬉しくもあり、同時に少しだけ困ってしまう。普段冷静なチェルシーにしては珍しく、僅かながらテンションが高い。そんなお茶目な一面もチェルシーの魅力の一つなのかもしれない。
「じゃあ、姉様が好きなのはどれですか?」
「え?私………?」
唐突なチェスターの切り返しに驚いたような声を上げるチェルシー。チェルシーは一瞬固まり、目をパチパチとさせた。しかし、そのキョトンとした顔も一瞬で、すぐに普段の優しい顔に戻る。少しだけ難しそうな顔をしたと思ったらおもむろに一つのハーブを指さした。
「私は………あれ」
「ローズヒップ?」
指を差された棚に書かれた商品名をそのまま読み上げる。もちろんそれだけではどのようなものかは分からないのでチェルシーに聞いてみた。するとチェルシーは少しだけ言いにくそうにしながらも説明してくれた。
「A、B、C、D、E、Kとビタミンがとても豊富で………あと、美肌効果がある」
後半の声量が少しだけ落ちたように感じた。そこには女性ならではの恥ずかしさがあるのだがチェスターには分からない。だからこそ次の一言は余計だった。
「なるほど。でも姉様は十分綺麗ですから必要ないような気もしますけど」
「……なっ!?」
「な?」
「い、いえ。なんでもないわ」
「……?」
チェルシーはすぐに平静を取り戻したようだ。だがそれはチェスターによってペースを乱されてしまったことの証明でもあった。不意だったとはいえ実の弟の発言に慌ててしまったのだ。何故慌てたのかと問われれば、それはきっとチェスターが突然それっぽいことを言ったので驚いてしまったからだ。断じてときめいたとか、ドキッとしたとか、そういう類のものではない。…絶対。
チェルシーの瞳にはローズヒップのハーブの香りを嗅いでいるチェスターの呑気な顔が映る。人の気も知らないで、と悪態をつく半面、今のようなことを無自覚で言う弟に不安を覚える。身内としての感情を捨ててもチェスターの容姿は結構いい線をいっていると思う。そんな彼がもし、他の女の子にしれっと口説き文句まがいなことを言ったらどうだろう。間違いなくモテる、と思う。いや、それはいい。むしろ姉として喜ぶべきところだ。ただ、チェスターの性格は知っての通り何処か抜けているところがある。心配し過ぎだと言われればそれまでだが、もし悪い女に引っ掛かったらと思うと………。
「姉様」
「ど、どうしたの?」
「僕も姉様と同じのがいいです」
「そ、そう?では二つ買いましょうか」
「はい」
心の内を悟られないようにチェルシーはハーブティーを購入したのだった。
もしかしたら自分はブラコンになりつつあるんじゃないか、そんなことを考えていた。
◇
無事ハーブティーを購入したチェスターたちはワインを受け取りにお店へと向かっていた。その途中、やけに大きな人混みに出くわしたのだ。様子を見る限り、どうやら近くで路上ライブが行われているらしい。
「路上ライブ?」
「そう。この辺りは結構多いのよ」
路上ライブと言っても幅は広い。ミュージシャンはもちろんだが大道芸、ダンスやアートなどのパフォーマンスを行っている場合もある。今回はどうやら音楽のようでストリートミュージシャンと思われる男が歌っている。周りにいる人の数からしてストリートといえどかなり人気があるらしい。
「チェット、行くわよ」
「う、うん」
「チェット?」
何となく目が離せなくなっている自分がいた。今まで音楽に興味を持ったことはなかったし、ましてやストリートなんてなおさらである。でも、不思議と興味を惹かれた。
「少し見ていく?」
「え、でも」
「まだ時間はあるし、少しくらいなら大丈夫よ。ハーティさんには連絡しておけばいいし」
チェルシーはそういうと携帯を取り出してハーティに連絡しようとしている。そこまでされれば断るのは逆に申し訳ないのでチェスターは少し寄っていくことに決めた。まあ、興味が湧いたのは本当だし、それなりに楽しみではある。
近くに行くとその迫力は比べものにならないくらい高まっていた。おそらくストリートミュージシャン自身の曲なのであろう、その曲をギターと歌声一つで最大限にまで高めていく。周りの歓声すらも味方につけて辺り一面を一体感で埋め尽くしていく。全身から鳥肌が立つのを感じた。それはミュージシャンに対してだろうか。それとも会場の雰囲気に対してだろうか。はたまた、その両方か。とにかくチェスターはどうしようもなく感動したのである。
「すげえぇ…」
思わず言葉が漏れてしまう。すぐ隣にいるチェルシーにもその声は聞こえていたようで彼女はとても驚いた表情をしていた。きっとチェスターの知らない一面を垣間見たためだろう。でもそれはチェスター本人も同様だった。
「チェット、もしかしてあなた――――」
チェルシーの言葉は続かなかった。それを不審に思いチェスターはチェルシーに視線を移す。するとそこには恐怖に歪んだチェルシーの顔があった。
「姉様?」
突然のことについて行けず、視線を彷徨わせる。その途中でチェスターの目が彼女の腰あたりを視界に入れる。その瞬間、視線は止まった。チェルシーの腰、もっと言えばお尻に触れている誰かの手に。
「離しなさい!」
瞬間、怒気を含んだ高圧的な声が聞こえた。そして遅れて男の呻き声も聞こえる。そこまで場が進展したところでようやく思考が追いついてきた。チェルシーが男の手を捻ったのだ。鮮やかすぎる動きに男の反応も遅れていた。当然そんな事態になれば場は騒然とする。ライブは実質的に中断され、全員の視線がチェルシーと男に集中した。
「チェット!」
そんな状況でもチェルシーの判断は速かった。すぐさまチェスターの手を引き、観客の間をすり抜けるように離脱する。幸い周囲も状況を理解できずにいたようなので思いの他あっさりと道は確保できた。
「姉ちゃん!?」
「…ごめんなさい」
手を引かれている途中、チェルシーはそんなことを呟いていた。
◇
それから少し走って二人は人気のない路地にいた。お互い若干息は切れているがそこまでの支障はなさそうだ。落ち着いてきたところでチェスターは手を握りっぱなしだったことにようやく気が付く。握られた手から僅かな痛みを感じる。それほどまで強くチェルシーに握りしめられていたのだ。
「…姉ちゃん、痛い」
「あっ、ごめんなさい」
思いの外強く握っていたことにチェルシーは気づいたのだろう。咄嗟に手を離して謝った。
「突然走らせてごめんね。もっとライブ見たかったわよね」
申し訳なさそうには話すチェルシーはいつも通りのチェルシーで、謝っていることを除けば普段通りと言ってもいい。でも、それが余計にチェスターを不安にさせた。
そっとチェルシーの手に触れてみる。ピクリと反応がある。その手は本当に僅かだが震えているような気がした。こんなのずっと一緒にいるチェスターくらいにしか分からないだろう。だが生憎目の前にいるのはその変化に気が付ける人物だった。
「どうしてわざわざ逃げたの?あんな奴そのまま警察に突き出せば―」
「そうはいかないわ」
なんで?という言葉は出ない。チェスターだってそのくらいの見当はつく。おそらくあの場で男を捕まえることは可能だった。でもそうすれば勝手に事態は大きくなってしまう。そうなればハーティやフローラにだって迷惑をかけることになる。下手すればオルコット家にまで巻き込むことになるかもしれない。たかだが痴漢で考えすぎかもしれないが万が一ということもあり得るのだ。それに今はフローラ様にとって最も大事な時期。例のIS関係の件で現在多忙を極めているのだ。そんな彼女の心労を増やすことはできない。
「姉ちゃんのそういうとこはすごいと思うけど、僕は直して欲しい…かな」
何処までも他人優先なのはある意味では美徳なのだろう。人によっては賞賛したかもしれない。でもチェスターはそんな姉が心配なのだ。チェルシーは自分が心配する必要がないくらい強いことは知ってる。それでも心配なものは心配だし、頼って欲しいとも思う。そんなチェスターの気持ちが伝わったのかは分からないが、チェルシーは優しく手を握り返した。
「そうね。お姉ちゃんはダメね」
「うん、ダメダメだよ」
「チェットには敵わないわね」
「それは間違いなく僕のセリフな気がするんだけど…」
どちらかともなく笑い合う。すでにチェルシーの表情はいつも通りに戻っていた。だから、あえてこのタイミングで聞いてみることにする。
「姉ちゃんって……もしかして、男の人………苦手?」
「………」
チェルシーは特に驚くことはせずに口を閉ざした。視線は下に下げられていたが表情は窺えた。やっぱりそこに怯えや不安といった負の感情はない。ただ、なんとなく寂しそうな気がした。
やがてチェルシーはゆっくりと口を開いた。
「ええ、そうね。正直に言うとあまり好ましく思ってないわ」
「…そっか」
冷たいわけでも温かいわけでもない言葉がチェスターを抉った。以前チェルシーが言っていた嫌いな人の存在を思い出す。あの優しく、人当たりの良いチェルシーにも嫌いな人がいると言っていた。ずっと不思議に思っていた。滅多な理由がない限り人を嫌いになどならないであろう彼女は一体誰が嫌いなのかと。
その答えは酷く単純なものだった。男性である。もちろんセシリアのようにこの世の全ての男性が全く同じであるとは思わない。嫌うのはごく一部で、自身のことを性的な目で見る下心を持った男性だった。幸か不幸かチェルシーはそれを判断することができた。まだ少女と呼ぶべき年齢の彼女にはそれはあまりにも辛いことだろう。男性恐怖症やトラウマを抱えても何ら不思議ではない。なのにチェルシーは今まで誰にも相談することなく、それどころか誰にも気づかせないように隠してきたのだ。その辛さは最早語れるものではないだろう。
「…頼ってよ」
チェスターに何ができるのかなんて分からない。おそらく大したことはできないだろう。それでも力になりたい。支えたい。心からの言葉だった。
「…ありがとう、チェット」
感謝の言葉と同時にチェルシーの手が頭に触れる。優しく撫でられるその感覚にチェスターは自然と顔が綻ぶ。しかし、チェスターが一番聞きたかった言葉はありがとうではない。ただ「うん」と肯定して欲しかった。「これからは頼るわ」と、そう言って欲しかったんだ。
でもその言葉がチェルシーの口から発せられることはなかった。
チェルシー=男性嫌いというのは完全なオリジナルです。
セシリアほどでないにしても同じ環境にいたので多少は男性嫌いのほうが自然かな、と思いまして。
原作のチェルシーならもっとうまく撃退したかもしれませんがこの作品のチェルシーの数少ない弱点なのでこういった形になりました。
なおチェルシーのお尻を触った不届き者は感想を聞いた後、抹消しましたのでご心配なく。
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6話 紅茶は英国市民の嗜みです
某戦艦の帰国子女とか、絶対紅茶を零さない人とか……あ、どっちも日本人だったわ
今回は謎の使命感のもと書き上げた紅茶の話です
ことイギリスにおいてティータイムとは特別な意味を持つ。ただ紅茶を飲むという意味だけではないのだ。その歴史はとても古く、アフタヌーンティーは19世紀半ばから行われているらしい。当時のイギリス人はディナーの時間が遅かった。だからランチとディナーの間の空腹を満たすため紅茶と共に軽食をとったのが始まりとされている。その後、時代と共にアフタヌーンティーは今のパーティーのような形式へと変化していったのだ。
一口にティータイムと言っても種類は様々である。先に述べた「アフタヌーンティー」の他にも朝食時の「モーニングティー」、午前の一服「イレブンジズティー」、昼食時の「ランチティー」、午後5~6時の間にとる「ハイティー」、お休み前の「ナイトティー」等、本当に多くの種類があるのが分かる。一日に一人当たり平均6~7杯というのは流石に驚くだろう。
それほどにまでイギリス国民は紅茶というものに目がない。ならば当然その淹れ方にも並々ならぬこだわりがあるのだ。実際イギリスでは紅茶を淹れるのが上手い=仕事ができる、という方程式が成り立ってしまうほど重要な技能なのである。チェスターもまた、英国紳士として、オルコット家に仕える執事として、紅茶のスキルを磨かなくてはいけない。今も特訓をしている真っ最中であった。
「…ふぅ」
紅茶を淹れるにあたって、まず下準備しておくものがある。紅茶のベースになる水とその容器だ。カップに至っては一般的には内側が白いものを用いる。尚且つ浅い形であることが重要だ。これは紅茶の色が見やすくなることと香りを広がりやすくするためだ。水は絶対条件として軟水を用いる。汲みたての方が空気を多く含んでいるのでより適していると言える。水を火にかける際も細心の注意が必要だ。紅茶には適した温度というものがちゃんとあり、それは沸騰直後、つまり100℃だ。これは紅茶の香気成分が最も出やすい温度らしい。
下準備が整い次第早速紅茶を淹れていく。だが、その前にしなければいけないことがまだ残っている。カップとポットに温めたお湯を注ぐのだ。これはあくまで容器を温めるためなのですぐに捨ててもらって構わない。面倒な作業だがこの工程をするとしないのでは最終的な味が大きく変わってくる。
「…よっと」
温めたポットにいよいよ茶葉を入れていく。茶葉が大きければ普段より少し多めに入れてやるといい。すぐにお湯を勢いよく注ぎ、蓋をして蒸らす。この時間も茶葉の大きさで変わってくる。大きければ大きいほど時間を掛けなければいけないのだ。その際も当然ポットの温度が下がらないようにしなければいけない。そのためティーマットやティーコジーを使うのだ。後は茶こしで茶殻をこしながら濃さが均一になるように注ぐ。まわし注ぎをすればおのずと均一になるだろう。
「…できた」
以上のことを踏まえて淹れられた一杯。まず間違いなく今のチェスターの最高傑作だった。
「どうぞ」
上品な動作でカップを並べ、飴色の綺麗な紅茶をゆっくりと注ぐ。最後にティースプーンで軽くひと混ぜすれば出来上がりだ。自身の作品をチェルシーの正面に添えるように置く。チェルシーはゆっくりとカップに手をかけ、紅茶の香りを楽しむ。ほのかな香りが鼻孔を刺激する。それは茶葉本来の香りであり、またそれ以上のものでもあった。うまく引き立たせていると純粋にそう思う。
「……香りは合格ね」
しかし問題は味である。チェルシーはカップを傾ける。口内に先程と同じ香りが広がり、充実感で満たしていく。ほのかに甘みがあり、それでいて大人のほろ苦さも感じさせる。どうやら味も申し分ない様だ。
カチャ――――。
やけにカップを置く音が響く。その空気感にチェスターは堪らず息を飲んだ。
「ごちそうさま。美味しかったわ、チェット」
チェルシーのその言葉を聞いた瞬間、込み上げて来るものがあった。
「ホント!?やっったあぁーー!!」
「口調が乱れたので減点しましょうか」
「ごめんなさあぁいぃ!!」
「ふふっ、冗談よ」
ここ数日、いや数か月ずっと紅茶の特訓をしてきた。それが今日、初めてチェルシーに認められたのだ。嬉しいなんてもんじゃない。人の目がなければここで小躍りしたいくらいにチェスターのテンションは高かった。多少の無礼は大目に見て欲しいものだ。
「これなら人様に出しても恥ずかしくはないでしょう」
「ありがとうございます。これも姉様のご指導のおかげです」
深く一礼をする。そんな様子を見てチェルシーは表情を崩す。
チェルシーのおかげで本当に上達した。もちろんまだまだなのは自覚しているが、それでも一つの区切りなのは間違いない。なら喜ばないと損だろう。
「チェルシーのお墨付きですの!?それは期待できますわね」
「あっ、セシリア」
扉を開けて入って来た正体はセシリアだった。セシリアにもまた試飲の方を手伝ってもらったのだ。
「チェット!またお嬢様に向かって無礼な口の利き方を!」
チェスターが使用人として働き出してからすでに数か月は経った。おかげで言葉遣いや礼儀作法の大体は頭に叩き込むことが出来た。実際に扱えるかはまた別の話なのだが、ある程度はマシになったはずだ。しかし、どうしてもセシリアに対して敬語を使うのが難しい。昔から付き合いがある分、今更変えるのは大変なのだ。
当のセシリアは全く気にしていないようでチェルシーに「気にしなくていい」と言ってくれる。しかし、チェルシーもそこで折れるわけがなく「甘やかしてはダメです」と言葉を強めるのだった。最終的にはいつもチェルシーが勝つので結局拳骨をくらうハメになる。今回も同様で、チェスターは手痛いお説教をくらった。
「チェット、わたくしにもいただけませんか?」
「もちろん構いませんよ」
頭部に若干の痛みを感じながらも先程と同様の動作で紅茶をカップに注ぐ。セシリアの目の前にゆっくりとカップを置くとその場で一礼した。セシリアがカップに手を掛ける直前、いつの間にか立ち上がっていたチェルシーが忠告するように声を掛ける。
「お嬢様、あくまで飲める程度になったところですので期待なさらず」
にべもない。さっきはそこそこ褒めていたのに人に飲ますとなるとすぐこれだ。実際そこまで期待されるほどの完成度ではないので事実なのだが。少し面白くない。
「チェルシ-は本当に厳しいのですわね」
セシリアとチェスターは何も言わず顔を合わせた。互いに苦笑いである。とはいえずっとアイコンタクトをしていると勘のいいチェルシーはすぐに気が付くだろう。一瞬で目線を外し、セシリアは紅茶に視線を戻す。一息香りを吸い込むとカップに口をつけた。
「美味しいですわよ。これなら毎日でも飲みたいレベルですわ」
「恐縮です」
感想を述べつつもさらにカップを傾ける様子がチェスターの目に映る。少し褒め過ぎのような気がするが、そこに嘘や気を遣っている様子はないようなので安心する。少しして紅茶を飲み干したセシリアはカップをゆっくりと置いて言った。
「チェルシーは厳しすぎですわよ。こんなに美味しかったのに。もっと褒めてあげても―――」
「チェットはすぐ調子に乗るので」
「…うっ」
「それに、まだまだなのは事実ですので」
「…ぐはっ」
淡々と語るチェルシーの言葉は着実にチェスターのヒットポイントを削っていく。当のチェルシーはこちらには目もくれず、セシリアと何やらチェスターの話で盛り上がっている。
「そうですわ!チェット!」
「は、はい!」
暫くしてチェルシ-と話していたはずのセシリアが突然立ち上がり、チェスターに向かって呼びかける。チェスターは何事かと思い、反射的に応じる。視界に捉えたセシリアの顔は何やら自信に満ち溢れた表情をしていた。今までの経験則で何となく分かってしまう。セシリアがこういう表情をしたときは大抵ひどい目に合う。今回は外れてくれ、と真剣に願わずにはいられない。
「せっかくの紅茶にお供がないのはあまりに残念ですわ。ですのでわたくしが――」
「そ、そういうことでしたら私がご用意させていただきます」
セシリアの言葉が終わるのを待たず、チェルシーが遮る。若干チェルシーの顔が引きつっているな、と冷静に観察している自分はきっともっと酷い顔をしているに違いない。そう他人事のように思う。
はっきり言う。セシリアは壊滅的に料理の才能がない。いや、才能なんて次元ではない。一種の兵器と言っても納得してしまう自分がいる。一度料理しているところ覗き見したところ、どうやら見た目が最終的に本に近づけばいいと思っているらしく、ありえない量の調味料を投入していた。それもこれも料理はいつも身の周りの使用人、つまりはチェルシーやチェスターが行ってきたためこれまでしてこなかった、というのが大きな理由なのだが。
「そうですよ。僕も手伝います」
「チェルシーもチェットも休んでいてくださいな」
最近はセシリアは率先して料理を作りたがるのだ。その原因はフローラにある。どうやら淑女とは何たるかを聞いたところ、「料理ができる人」と言われたらしい。それ以降から料理する、と言って聞かなくなったのだ。実のところフローラも料理ができないのだが、それをセシリアは知らない。羨望の対象であるはずのフローラも淑女とは何たるかを理解していないようだ。全く持って迷惑な話である。
フローラが試食に付き合ってくれるのならいいが、試食役はいつもチェスターたちだ。この前なんか苦笑いしながら「料理の腕は私に似てしまったようね」なんて冷静に呟いていた。重ねて言うが全く持って迷惑な話である。
いつもならこの辺でセシリアが折れてくれるのだが今日のセシリアは違った。
「チェットがここまで美味しい紅茶を淹れてくださったのですからわたくしも何か振る舞いたいのですわ。夕食までにはまだありますし、問題ないでしょう?」
「で、ですからお嬢様。それは僕たちに―」
「チェット、働き者なのはいいことですが、厚意に甘えるというのも大切ですわよ」
内心は自身の体調のことを心配しているのだが、そんなこと言えない。このままではセシリアが料理をすることになってしまう。マズい。二重の意味でマズい。
「では私たちと一緒に作る、というのはどうでしょう?」
やはりこういうときに頼りになるのはチェルシーだった。確かに自分たちがしっかりと監視していれば滅多なものはできないだろう。しかも、うまくいけばセシリアの料理の腕を上達させることだってできるかもしれない。みんなで作る、とても楽しそうな響きだしセシリアも乗ってくるだろう。誰もが得をする最高の案のように思う。こういう発想が咄嗟に出てくるのは頭の回転が速いからだろうか。どちらにせよ、今はチェルシーに最大限の感謝を送らねばなるまい。
「それはいい考えですわね」
案の定、セシリアもその発案に乗っかってきてくれた。
「じゃあ、厨房に行きましょう。まあ、そこまで豪勢なものはできませんけど」
「いいのよ、チェット。こういのは楽しむことが重要なのだから」
「そうですわ。フフフッ、それにわたくしの手にかかれば例えどんなものだろうと美味しくさせてみせますのよ!」
自信満々なセシリアの隣で冷や汗をかいていたのはおそらくチェスターだけではないだろう。チェルシーは完璧な笑顔だったがきっと内心は動揺しているはずだ。絶対。セシリアの自信に満ちた表情を見ていると、もういっそ本当のことを言った方がいいのではないかと思えてくる。もしかしたら将来自身の料理の腕に気付いて絶望する日が来るかもしれない。もし好きな人が出来た時に困るだろうな、そう思ってはいるのだが実際に指摘するとなるとやっぱり躊躇ってしまう。そもそもチェルシーがしていないのだからその方がいいのかもしれない。
◇
チェスターたちは厨房で料理をしていた。料理と言えど実際には簡単な軽食を作るだけなので手間も時間もそうかからない。ただしそれはセシリアがいない場合に限る。
「どうしてですの?」
「どうしてって……逆になんでマスタードがいるんですか!?」
3人が作ろうとしているのはサンドイッチである。料理と呼ぶには物足りないと感じるくらいにシンプルで簡単なものだ。パンを切ってハムや卵と言った具材を挟む。それだけ。これはセシリアがいることを考慮して簡単なものにしたわけではない。本来イギリスのティータイムでとられる軽食は字の通り軽いものだ。あくまで一時の空腹を満たすためのものなのである。だからサンドイッチも薄いシンプルなものになる、というわけだ。
「黄色が足りませんので」
「卵で十分でしょ!」
「?…マスタードを使った方が鮮やかになりますわよ?」
「……」
さっきからこの調子である。どうやらセシリアには見た目を写真通りに近づける気は合っても味を近づける気はないらしい。ハムを挟んだときだって赤が足らないからとタバスコを持ち出してきた。なんだかよく分からなくなって「だったらケチャップでしょ!」と突っ込んでしまったのはいい思い出になりそうだ。
ちなみにさっきから一言も発していないチェルシーは完全に対岸の火事を見る目だ。本気でやめてほしい。
「……姉様」
半ば睨むようにしてチェルシーに視線を向けると微笑んで返された。あれは完全にこちらを見放した顔だ。この時ばかりはさすがに怒りたくなった。だからといってこのままセシリアの暴走を止めないわけにもいかない。誰かがいずれ言わねばなるまいと思っていた。でもまさかそれが自分の役目になるとはチェスター自身思っていなかったのだ。しかしながら今ここで言わねばなるまい。セシリアに面と向かって不味い、と。料理が下手であることをセシリアに自覚させねばなるまい。
「お嬢様……お嬢様は………」
「……?」
「………………野菜を切ってください」
「お任せになって」
言えるはずない。そんな勇気はチェスターにはなかった。
「チェット、あなたはよくやったわ」
「…こんなことで褒められたくありませんでした」
チェスターたちの会話も全く耳に入っていない様子でセシリアはトマトを切っていく。その動作はとても慣れているとは言い難く、指を切ってしまうのではないかという不安が付きまとう。しかし、それは杞憂に終わったようで指を切らずに済んだようだ。
「では挟みましょう」
「はい」
チェスターがセシリアに手こずっている間にチェルシーはすでにパンと具材のレタスとハム、それに卵を準備してくれていたらしい。相変わらず手際がいい。どちらかというとセシリアとのやり取りの際に手伝ってくれた方がよかったとは言えない。だってチェルシーはそれを知った上で行っているのだから言ったところで意味はない。
「私は紅茶の方を温め直しておきます」
「お願いします、姉様」
チェスターの抗議の眼差しもどこ吹く風。そそくさと戦線離脱してしまう。とはいえ、さすがにあとは具材を挟むだけなので作業は終わりと言える。状況が違えばきっと気の遣える姉として映ったはずだ。
「お嬢様、人数分の食器を出してきますのであとはよろしくお願いしますね」
「ええ」
セシリアの人懐っこい笑みにすっかり安心して、チェスターは食器を取りにその場を離れる。まさか数分後に後悔することになるとは夢にも思っていなかった。たぶんこの場を離れてしまったことこそがブランケット姉弟が犯した最初にして最大のミス。二人はセシリアという才能を侮っていたのだ。
「……やはり赤みが……となると黄色…緑も欲しいですわね」
後日、チェルシーとチェスターが揃って体調を崩したのは偶然だと信じたい。
セシリアは果たして何を入れたのでしょう(震え
少なくとも私は緑色のものは思いつきません……
わさびはないでしょうからねぇー
真相はセシリアのみぞ知るのであった(多分セシリア自身把握してねえぞ)
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7話 約束よ
今更ですがアーキタイプブレーカー事前登録開始されましたね。
リリースが待ち遠しいです。
どのキャラを選ぼうか真剣に悩んでおります……(チェルシーさん出ないかなぁー
チェスターが働き始めて一年が経過しようとしていた。最近では仕事が楽しいと思える程になってきた。フローラに迷惑をかけることもチェルシーの手を煩わせることもほとんどなくなっている。それはチェルシーにとって嬉しくも寂しい何とも複雑な心境にさせる。姉というより親目線になってしまうが、手がかからなくなることはそういうことなのである。
「お疲れ様。今日のお仕事はこれで終わりよ」
「お疲れ様です。姉様」
手に持っていた豪華なあしらいの洋服をハンガーに掛け、チェルシーはお辞儀をする。今まさに300を超えるフローラの洋服を片したところだ。さすがに貴族の女性当主とだけあってその量は半端ではない。さらに一着一着がどれも高価なもので、唯一無二のオーダーメイド品も少なくない。そんな重要な仕事も今のチェスターになら任せられるのだ。
「今週の土曜日なのだけど空いてるかしら?」
「え?まあ、仕事ですけど?」
土曜日と言えど使用人に休みはないのである。もちろん非番だったり、学校の都合で休みをいただくことはある。でも基本的にこの屋敷に住み込みで働いているので明確な休みというものはない。もちろんそれで構わないし、そもそも生活の一部になっているので今更なことだろう。それはチェルシーだって同じであるはずなのに何故そんな質問をしたのか分からなかった。
「何かあるんですか?」
何か失言でもあったのだろうか。チェルシーは怒ったような呆れたような表情で溜息をついた。心当たりのないチェスターは自分の今の言葉を思い返してはどこが悪かったのだろう、とアタフタとしている。すると見かねたようにチェルシーが頭を抱えながら言った。
「チェットが働き始めて丁度一年よ。だからお祝いにどこかへでかけましょ」
「ええ!?もうそんなに経つんですね!?早いなぁ………」
「はぁ………」
さっきより大きな溜息をつかれる。必死だったとはいえ、もうそんなに経っていたことに驚くと同時に本人すら忘れていたことに気が付くチェルシーは本当にすごい。人としてできている、そんな気がした。考えていることがバレたのかチェルシーの視線が少し冷たいものへと変わった。
「女性は記念日というものを大切にする生き物よ。嫌われたくなければチェットも覚えておくことね」
「…それは姉様もですか?」
「もちろんよ」
そうやって笑うチェルシーを見ると妙に落ち着かなくなる。以前同じく使用人として働いている男性から女性はめんどくさい生き物だ、と言われたことがある。脳の構造が男性と大きく異なっているらしい。
「それで、どうなのかしら?」
「そ、そんないいですよ。僕なんかのために」
遠慮したらすぐさまチェルシーに肩を掴まれ強制的に視界に割り込まれる。掴まれている肩は若干だが痛く、視線はかなり鋭い。たぶん視線に攻撃力があればすでにヒットポイントは無くなっているんじゃないだろうか。
「チェット」
「は、はい」
「遠慮はしてはいけないわ」
「いえ。遠慮なんて――」
「それともお姉ちゃんと一緒に出掛けたくないの?」
「い、いや、そういうわけでも――」
チェルシーのあまりの剣幕に何も言えなくなってしまう。一応フォローをしておくと別にチェルシーと出かけることが嫌なわけではない。二人だけでどこかへ出掛けたことなんてない。そもそも遊ぶために遠出すること自体何年振りか分からないくらいだ。少なくとも両親が無くなってからは一度もないように感じた。だから寧ろ楽しみというのが本当のところだったりする。するのだが、自分のお祝いのためだというのがどうしようもなく照れくさい。こういうときに嬉しいではなく、申し訳ないと感じてしまうのは育った環境のせいだろうか。
そんなチェスターの気持ちを見透かしたようにチェルシーは続けた。
「正直なところチェットのお祝いは建前よ。本当は私がどこかへ出掛けたいだけ。それに付き合って欲しいのよ。いいでしょ?」
「…そういうことなら」
もちろんそれは嘘だろう。チェルシーに限ってそんな理由で出かけに行きたいなんて言うはずがない。チェスターにはそれが分かるし、チェルシーだってチェスターが気づいていることくらい分かっているだろう。だからこそチェスターは断れない。チェルシーの心遣いに気が付いていて、それを無碍に扱うことなんてできない。そこまで計算した上での発言なのだから本当に喰えない人だ。
「でしたらすぐにでもフローラ様に休暇の申請を――」
「その心配は不要よ」
ほら、やっぱりだ。最初からこうなる前提で行動していたのだから間違いない。とはいえ、先程も言った通り楽しみなのは事実だ。ここはチェルシーの心遣いを受け取っておいた方がいいのかもしれない。
「さすが姉様、準備が良いですね」
「チェットの大切な記念日ですもの。当然よ」
女性は記念日を大切にし、それを男性に強要する面倒くさい生き物である。だがチェルシーの場合は少し違うと思う。記念日を大切にし、思い通りに男性を動かす生き物なのだ。字面だけ見たらただの小悪魔なのだが、チェルシーの今の笑みを見ればそれも全くの間違いではないと思う。
「ではどこに行きましょうか」
「それもすでに決めてあるわ」
もしかしたら自分が出掛けたいだけ、という発言も嘘では無かったのかもしれない。
最後にチェルシーは全てを見透かしたように微笑んでみせた。
◇
はたきで埃を落とし、掃除機をかける。吸い残しは箒で集め、最後に雑巾で丹念に磨くように拭く。
最近ではお掃除ロボットが勝手に掃除をしてくれるがやっぱり人の手でする方が丁寧だろう。少なくともチェスターはそうチェルシーに教えられたし、自分自身そう思う。それでも最新技術は素晴らしいもので人と何ら遜色ないのも一つの事実と言える。フローラも二人の負担を減らそうと考えたのかロボットの提案をしてきたことがあった。しかし、結果としてチェルシーの意見が通り、未だ人の手で掃除が行われているのだ。チェスターとしてもそれでよかったと思う。掃除が楽しいなどと言うつもりはないが、なんだかんだやりがいのある仕事だと感じているのだ。
そんなことを考えながら黙々と作業をこなしていく。作業のスピードとは裏腹にチェスターは少し浮かれていた。先程は誰かに祝ってもらうことに申し訳なさを感じていたが、時間が経って徐々に嬉しさが勝ってきたのだ。それに何よりチェルシーと二人で出かけるということが嬉しくて堪らない。両親が無くなる前の記憶が曖昧なチェスターにとっては初の家族旅行と言っていい。浮かれない方が無理な話である。
「あら?チェスター?もう終わったとチェルシーから聞いたわよ」
「あ、フローラ様。いや、何か落ち着かなくて」
フローラの言う通り今日やるべきことは全てやった。だから掃除をする必要はない。でも部屋でゆっくりしていても落ち着かないので掃除をして誤魔化しているのだ。小学生が遠足の前日に寝ることが出来なくなるアレである。もちろんあと一週間あるのでさすがに持続しないとは思うが。
「そんなに出掛けるのが楽しみなの?」
「………は、はい」
「うふふ、別に恥ずかしがることなんて無いわよ」
思っていたことがバレてチェスターは少しだけ頬を赤くする。それを見たフローラは笑みを浮かべた。その笑みはまるで我が子を見つめる慈愛に満ちた大人っぽさで溢れ、それでいて子供がおもちゃを見つけたときのような無邪気さもある。チェルシーとはまたタイプの違った微笑みだ。
「…あ、もしかして」
突然何かを思いついたのかこちらへ駆け寄ってくる。すぐ目の前でフローラは膝を折り、チェスターに目線を合わせる。12歳の小柄なチェスターは膝を折った状態のフローラと目線の高さが同じだ。その笑みは先程の笑みとは明らかに違う。大人の側面は完全に消え、子供の無邪気さ100%といったところだ。しかもその無邪気さは悪ガキの類。悪戯を思いついた悪い顔である。
「チェルシーちゃんと出掛けるのが楽しみなのかしら?」
「ん?」
とんでもない質問が来ると予感していたチェスターにとっては思いのほか普通の質問だった。目の前にいるフローラはさらに笑みを濃くし、もはやニヤついていると言った方が適切だろう。でも、それがチェスターにはイマイチ理解できなかった。
一般的には遠回しにシスコンだと言っているようなもので、からかわれたと捉える人がほとんどだと思う。しかし、チェスターは残念ながら一般的と呼ばれる常識から少しずれているのだ。育った環境が特殊なのだから仕方のないことではあるが。そんなチェスターにはフローラの質問は痛くもかゆくもない。故にチェスターは何のためらいもなく頷いたわけだが、逆にそれがフローラにとっては予想外だったらしい。
「…こうも堂々と肯定されるとちょっと虚しいわね」
「フローラ様?」
「使用人としての技能より…もっとこう、一般的な常識の方を身につけさせるべきだったかしら」
フローラは目を逸らし、何やら片隅でブツクサ言っているがそんなことはチェスターには届かない。不思議そうに首を傾げるチェスターを横目に今度こそ溜息をつくしかないフローラだった。
「そう言えばフローラ様はアーノルド様と出かけたりしないんですか?」
「…え?」
ふと、湧いた疑問を口にするチェスター。対するフローラは突然の質問に驚いたような表情を浮かべていた。
「どうしたの、突然」
「いや、だってフローラ様とアーノルド様が一緒に出掛けているとこ見たことないな、と思いまして」
フローラは少し思案顔になるとチェスターの頭に手を乗せた。そのまま撫でてあげるとチェスターは困ったような表情を浮かべつつも照れているのか若干耳が赤くなっている。
「チェスター」
「は、はい」
照れ臭さのせいか顔は未だに背けたままだったが、なんとか視線だけはこちらに向ける。フローラは照れた表情を微笑みながら眺めつつ、頭に乗せていた手をチェスターの頬にもってくる。優しくつままれた感触がしてチェスターの顔に疑問の色が浮かぶ。するとフローラはその手を思いっきり引っ張った。
「いひゃい、いひゃい」
突然頬を引っ張られたチェスターはなんとも情けない声をあげてしまう。
「あまり大人を揶揄うものじゃないわよ。そ・れ・に!仕事でお互い忙しいから仕方がないの!」
「いひゃいでふって」
チェスターの必死の降参のポーズもフローラには全く効果がない。数秒だったか数分だったかよく分からないがようやくチェスターは解放される。本人的な体感時間は数時間だったかさすがにそれはないだろう。自身の主であるにも関わらず瞳を潤ませ猛烈な抗議の視線を向ける不躾な使用人にさすがのフローラも呆れるしかない。
「…はぁ、もし機会ばあれば、それもいいかもしれないわね」
「え?」
呆れ顔のまま言ったフローラの言葉はチェスターにとってとても予想外のものだった。
「なによ、チェスターが言ったのでしょ」
「いや…そうですけど」
目の前の厳格な人物が一度否定したことに素直に賛同したのが信じられないのだ。なによりフローラはアーノルドのことを良く思っていない、なんとなくだが幼いながらに感じていたのだ。だからその言葉は驚愕を与え、同時に「ならなぜ頬を引っ張られたんだ」という疑問も浮かんでくる。それは実はフローラの照れ隠し半分、面白がってやったのが半分というチェスターにとっては理不尽極まりない行為なのだが、それに気が付くほどチェスターは鋭くない。なんともまあ、良いように扱われているのである。
「まあ、機会があれば、だけれどね」
そう言うフローラの表情は芳しくない。その訳は別にアーノルドがどう、といった問題じゃない。単純にそんな暇はないだろう、という多忙なスケジュールを想像してしまったせいだ。ただでさえ多忙を極めているというのに最近ではISの件もある。今の世界情勢からみてもISが中心になってきているのは言うまでもない。まさしくIS開発を競って行う時代なのだ。イギリスを代表するオルコット家はそれを取り締まる姿勢を見せている。おかげでフローラは休暇とは無縁の生活を送っているのだ。
「何かの記念日に行ったらどうですか。例えば……結婚記念日とか!大切にしないといけませんよ、記念日は」
「あら、紳士なのね」
「当然です!」
つい先ほど姉から言われたことをそのまま言っているだけなのだが、フローラは知らない。それをいいことにここぞとばかりに胸を張るチェスターの今の姿をチェルシーが見たらどう思うだろうか。たぶん呆れて溜息をつくこと間違いなしだ。
「なら紳士のチェスターに一つお願いしましょうか」
「なんですかー?」
「あの人に来月の記念日、無理でもその近くの日、開けとくように頼める?」
「僕がですか?」
「ええ、お願い」
フローラの言葉を聞いて一番初めに嬉しいと感じた。これを通して二人が仲良くなってくれれば、いかにも子供の思考らしい純粋な考え。二人が変わればきっとセシリアも変わる。元通りになってくれる。根拠もなくそう信じ切れるのはやっぱり子供特有なのだろうか。それでもこれは一歩前進のような気がする。今はそう思う。
(……あれ?………来月って何の記念日なんだ?)
ふと、そんなことが頭を過るがすぐに思考を切り替えて、アーノルドにその旨を伝えに駆けた。
「…もう、あんなので大丈夫かしら、あの子」
そう言ってぼやくフローラは言葉とは裏腹に嬉しそうな笑みをその顔に浮かべていた。
あの子には人を変える何かがある。他人を純粋な気持ちにさせてしまう程の彼自身の温かい魅力。願わくばその魅力をいつまでも持ち続けて欲しい。そう考えて思考を止める。
「…まだ仕事が残ってたわね」
彼女はいつもと変わらず仕事へ向かう。それはただ今日の分を消化するためか、それとも来月のためか。なんにせよ、自分もあの子に影響されてしまったのは疑いようもない事実らしい。
「さて、仕事仕事」
仕事場へ向かう彼女の足取りは心なしか軽かった気がする。
実際使用人って休暇はどうなってるんでしょう?
そもそも住み込みの使用人自体現実ではあまりないのかな?
完全なリサーチ不足ですがSFファンタジーなんで大目に見てください!!
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8話 家族旅行に行きましょう
まず投稿が遅れたことにお詫びいたします。
言い訳になりますが今作の結末を当初予定していたものから大きく変えたためです。
当初はほのぼのした山なし谷なしをイメージしていましたが少しシリアスを加えようと思います。タグ修正も致しました。
突然の変更なので違和感を感じられる方もいらっしゃると思います。申し訳ありません。
それでも見ていただける方がいらっしゃるのならこれからもよろしくお願いします。
日光がサンサンと照りつける快晴の空。晴れすぎ、というのも考えものではあるが出掛けるにはうってつけの天候だ。気温もそれなりに高く、これから来るであろう夏本番の猛暑を連想させる。チェスターたち使用人が着ている制服もそろそろ煩わしくなってくる頃だろう。だが、残念なことに執事服に半袖ではない。ジャケットこそ脱ぐが、カッターシャツとベストに締めつけられることに変わりはないだろう。
「行ってらっしゃいませ、フローラ様」
「お気をつけて」
誰が見ても文句のつけようがない完璧な礼儀作法で自身の主であるフローラを見送るチェルシー。チェスターもチェルシーほどでないにしろ、十分な気品さを放っている。そんなブランケット姉弟の挨拶を受けたフローラは何故だか不安そうな表情をしていた。
「フローラ様?何かありましたでしょうか?」
チェルシーが無作法をはたらく筈がない。つまりはフローラが芳しくない表情を浮かべているのは自身のせいだ、と瞬時に判断したチェスターはその旨を問う。しかし、返ってきた言葉はチェスターの予想の斜め上をいくものだった。
「お金は持った?」
はて、お金?その言葉の真意はどういうことだろうか。チェスターはお金関係のことを頼まれた記憶はない。そもそも執事ではあるが未成年であるチェスターはお金関係のことには一切関わっていない。主に家事が中心なのだ。まあ、隣にいる実姉はすでにオルコット家の金融関連の仕事も手伝ったりしているらしいのだが。
「ちゃんと行先は調べた?交通機関は?人が多いだろうからお姉ちゃんから離れちゃダメよ?」
狼狽え続けているフローラを見つめること数秒。ようやくフローラが言いたいことが分かってきた。何を隠そう、今日ブランケット姉弟は初めて家族旅行に出かける。旅行と言ってもあくまで日帰り、そこまで遅くなるつもりもない。せっかくだし二日休みを取って泊まろうかとも考えたがフローラに却下された。
『子供だけで外泊なんて許されないわ。万が一事件に巻き来れたら……誘拐!?ダメだわ、危険すぎる!!』
なんとかハーティが収めてくれたけどあのままいけば外出自体無しになったかもしれない。ハーティには感謝しないといけない。一応フォローしておくと心配性が過ぎるだけで普段のフローラはもっと威厳漂う高貴な人だ。もっともチェスターたちの前ではそうはいかないらしいが。
詰まる所、過保護全開のフローラは自身が出掛ける直前になってもチェスターたちに確認を促しているのだ。その様子から本人たち以上に緊張しているのは言うまでもない。
「フローラ様、心配し過ぎです。二人ともしっかりしているんですから何も心配いりませんよ」
「そ、そうかしら?でも電車を使うのでしょ?混んでいるだろうし、もし二人の身に何かあったら……」
ずっとこの調子である。さすがのハーティも溜息をつかずにはいられない。
「そうだわ!ハーティ!あなたが車で送ってあげれば……なんなら同行すれば――」
「フローラ様。それではせっかくの旅行に水を差してしまいます。それにチェスター君はともかくチェルシーもいます。何も心配する必要はありません」
今の発言に聞き流せない箇所があったような気がする。そんなことを考えていたのがバレたのかチェルシーが周りに気づかれないように脇腹を小突いてきた。おそらく「口出しせずに見守れ」とのことだろう。
しばらくしてようやく決着がついたようだ。どうやらフローラが折れたらしい。未だにその顔には納得していない様子が窺えたが、それも一瞬。すぐに平静を取り戻したようだ。こういった切り替えの早さも女性当主として必要なことなのかもしれない。
「二人とも帰るときには連絡しなさいね。あと、もし何かあったときもすぐに連絡しなさい。たとえ仕事中でもすぐに――」
「フローラ様!」
「わ、わかってるわよ」
ハーティに連れられるようにして渋々車内に乗り込むフローラ。その様子は厳格な女性当主のものではなく、一人の親のようにチェスターには映った。なんとなく慌てているセシリアと重なり、微笑ましい。それはチェルシーも同様だったようで、自然と目を合わせ、呆れるように二人して笑った。
「「行ってらっしゃいませ、フローラ様」」
今度こそフローラを見送るため頭を下げる。車のエンジン音が消えるころにようやく頭を上げる。視線を戻したと同時に隣から小さな笑い声が聞こえてきた。
「どうしたんですか、姉様」
「フフ、ただ……いい人だな、と思っただけよ」
それに関してはチェスターも素直に同意する。チェスターたちのことを我が子同然に接してくれるフローラに感謝しないわけがない。きっと母親がいればこんな感じなのだろう。たとえ本当の母親を知らなくとも、そこに寂しさはない。少なくともチェスターはフローラのことを本当の母親のように思っている。そしてそれはフローラも、チェルシーだって同じなのだから。
「それではチェット、そろそろ私たちも行きましょうか」
「はい」
先を行くチェルシーの後を追いながら内心チェスターは浮かれていた。それも仕方のないことだろう。だって今日は特別な日。初めての家族旅行なのだから。
「早く行きましょ、姉様!」
「チェット、まずは着替えないと。それとも久しぶりにお姉ちゃんが手伝ってあげましょうか?」
「えぇ!?」
「フフ、冗談よ」
チェルシーはいつもの余裕を崩さない。対するチェスターは「敵わないなぁ」と漏らすが、冗談めかしく笑う彼女もまた、浮かれている様なのだが、それにチェスターが気付くことはなかった。
◇
薄暗闇の中、独特なブザー音が鳴り響く。緊張感がまるで纏わりつくように場を、空気全体を支配する。
チェスターたちはイギリスではかなり有名な劇場に来ていた。観客であるはずのチェスターですら飲み込まれそうな空気感。その中でこれから演技を行う役者たちのプレッシャーは計り知れない。無意識のうちにそんな彼らを尊敬してしまうのは致し方ないことだろう。
「大丈夫?」
隣に腰掛けているチェルシーが少し心配そうに声を掛けて来る。しかし、存外チェスターはこの空気感が嫌いじゃなかった。いや、むしろ好きな部類だと言える。まだ始まってすらいないにもかかわらず期待に胸を躍らせている。そんな様子を察したのかチェルシーはこちらに向けていた視線を微笑ましいものを見る目に変えたのが分かった。
本日の演目は『ロミオとジュリエット』。現代では恋愛の面が色濃く描写されたり、ハッピーエンドとして脚色されたりでイメージが湧かない方もいるかもしれないが、元はシェイクスピア原作の悲劇である。シェイクスピアと言えば『リア王』、『マクベス』、『オセロー』、『ハムレット』の四大悲劇を連想する場合が多い。だがそれは『ロミオとジュリエット』が他の四作品に比べ劣っているわけではない。悲劇そのもののアプローチが異なるのだ。
当人たちではどうすることもできない状況。回避しようのない絶望。どうしようもない悲劇。
故にこの作品は別枠として捉えられる。
「……」
この劇を提案したのはチェルシーだった。特に反対はなかったが、子供向けの作品ではないなと子供ながらに思ってはいた。自身が他の同年代の子より大人びていることは何となくだが感じている。そしてチェルシーはおそらくそれ以上。しかし、シェイクスピアと言えば大人でも頭を抱える程難しい作品が多い。正直なところ退屈せずに最後まで見られるかという不安はあった。
だが、それが杞憂であるとすぐにわかった。緞帳が開いた瞬間、込み上げて来る衝動を感じたのだ。
◇
結論を言うと最高だった。チェスターは生の演技に触れるのも劇場の世界観を知るのも初めてだった。自身が今まで知りもしなかったものがこんなにも素晴らしいものだったとは、そう考えると綻ばずにはいられなかった。
「ふふ」
「ん?どうしました?」
「あまりにも嬉しそうだから、つい」
確かに少し浮かれ過ぎていたのかもしれない。意識を切り替えるため頭を振ろうとするがそれは添えられた手によって遮られる。
「良いじゃない。チェットは子供でしょ?」
なかなかに頭にくる言葉だったが不思議と抵抗する気にはなれない。
「でも、少し意外だわ。チェットはこういう話は苦手だと思ったのだけど」
ドキリとした。確かにこの作品は面白かった。感動もした。さすがに名作と語られるだけあると思った。でも、少しだけ、ほんの少しだけ欲を言うなら……。
「…そんなことないですよ?」
「ウソ」
「……そんなことは」
「そう?でも私はハッピーエンドの方が好きよ」
さらりと零れた言葉にチェスターは呆気にとられてしまう。それは間違いなくチェスターも感じていたことだし、何より子どもっぽく思われたくなくて言わなかったことだ。当のチェルシーは微笑みを崩すどころか、いつにも増して楽しんでいるようだ。
「どうかした?」
「い、いや、別に」
「……?」
何となくだが大人の余裕とはこういうものなのかと感じた。それと同時に自身が同じことをしても子供っぽいとしか思われないだろうと結論付ける。……軽く、いや、そこそこショックを受ける。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫ですよ。ただ少し、この世の理不尽に憤りを……」
「?」
疑問符を浮かべているチェルシーというのもなかなか珍しいものだが眺めているわけにもいかない。ここは早く話題を変えた方がいいと直感が告げている。伊達に十二年間弟をやっているわけではないのだ。
「姉様、次はどちらに――」
「チェット」
遅かったか。僅かながらトーンが下がったような気がする。別に何もやましいことは考えていなかったが、目の前に腹を立てた人がいると過剰に慌ててしまうのが人間というものだ。恐る恐る振り返るとそこには激怒した……というより、ちょっぴり拗ねた様子のチェルシーがいた。
「口調」
「へ?」
あまりに唐突な言葉にチェスターはすぐには理解出来ずにいた。一体何が至らなかったのか必死に思考を巡らすが、如何せん頭が回らない。
(くちょう?……口調?)
「今はプライベートなのよ。堅苦しい敬語は無し。昔みたいに"姉ちゃん"と呼びなさい、いいわね?」
「はぁ!?」
突然の申し出、もとい命令に大声を上げてしまったチェスターを誰が攻められよう。もちろんそれは目の前の実姉である。叫び声を上げたチェスターの口に強引に指を当て黙らせる。若干影のある笑顔で「うるさい」と注意されれば無言になる他ない。対照的に胸中は騒がしい。
(いつもは敬語じゃないと怒るのにどうして!?というか姉ちゃんっていつの話!?……あ、笑顔怖い)
「せっかくの外出なのだからいいのよ、今日だけは。でも女性の笑顔が怖いなんて言うものじゃないわよ。お世辞でも褒めなきゃモテないわよ?ふふ、懐かしいわね、一年位経つ
のかしら?ほら、呼んでみなさい」
お得意の読心術と女性特有のお喋りスキルが噛み合えばこんな神技も可能らしい。チェスターの思考を片っ端から拾ったうえでのマシンガントーク。すごいね、女性って。
しかしどうやら読心術ではないらしい。ただ単に心の声が漏れていただけなのだが、この愚弟は気づいていない。チェルシーは心底呆れたように頭に手を当てて考えていた。主にこの愚弟が社会に出たときのことを。
「さあ」
「え?」
「だ・か・ら」
「……」
その眼は言外に呼ぶことを強要している。さすがは十二年来の付き合い、これくらいの意思疎通は朝飯前である。そんな彼にも理解できないことはある。主には今の状況。しかし聡明なチェスターはここで呼ばないことの方が後々厄介なことになると身に染みて知っている。とすれば取るべき行動は思考ではない、実践だ。ここまでの思考時間はたったの2秒。目の前の姉に異常なし。非常に優秀と言える。
「……ね、姉ちゃん」
「ふふ、なに、チェット?」
いや、お前が呼べって言ったんだろ!とは口が裂けても言えない。今のチェルシーは何故かは知らないが最高に機嫌がいい。触らぬ神に何とやらだ。
「夕飯前には帰らなきゃダメなんだよね?」
「大丈夫よ。フローラ様には"お姉ちゃん"から言っておくから」
やけに"お姉ちゃん"に力が入っていたのは気のせいだろうか。これはもしやそう呼べということなのか?
「あ、あの姉ちゃん?」
「なーに?」
「僕、お姉ちゃんなんて呼んだことないよね?」
「そーねぇ。なら今呼べばいいんじゃないかしら?」
「え?」
横暴だ。これが世にいう独裁政治というやつか。しかし、無情にも目の前のチェルシーは最高の笑顔であった。内訳は小悪魔6割、無邪気さ4割と言った具合か。
「ふふ、どうしたの?恥ずかしがることないのよ?」
目の前の小悪魔、もとい悪魔は膝を少し折り、チェスターの目線に合わせると頭を撫で始めたではないか。完全に子供扱いしているのが分かる。それはもはや姉弟のそれではなく、親子のそれに近い。ここまでは耐えたが、これはさすがにチェスターの琴線に触れた。
「知らない!姉様なんてもう知りません!」
最終奥義、拗ねる。
「くくっ、ごめんなさい、調子に乗り過ぎたわ」
「フン」
思いっきり顔を背けると多少悪気があったのか少し慌てた様子のチェルシーが目に入った。その顔には満面の笑みが浮かんでいるし、笑いを堪えているように感じるが、反省はしているようだ。……たぶん。
「機嫌を直して」
「フンだ」
「お詫びと言ってはなんだけど、いいお店予約してるから」
「食べ物で釣ろうったってそうはいきませんよ」
チェルシーの提案を食い気味で否定する。背けた顔はそのままに腕をわざとらしく組んで不機嫌のポーズを全力でアピールする。
「そう、残念。チェットの好きなハンバーグなのだけど」
「うっ……ま、まあ、せっかくの外出ですから、仕方ないので機嫌を直してあげないこともないですけどぉー」
「ふふ」
「今笑いましたね!子供っぽいって思いましたね!別にハンバーグに釣られたわけじゃないですから!!」
「そういうことにしましょうか」
「もう!」
結局店に着くまでチェスターの機嫌は直らなかった。もっともそれは店に入った途端改善されたとか。思わず笑ってしまったチェルシーにまたチェスターが機嫌を悪くしたらしいが、最終的には二人はいつも通り笑顔だった。
いつもと変わらないような、いつもと違うような、そんな時間を二人は過ごせたのだった。
◇
灼熱。目が覚めて一番初めに抱いた感想はそんな言葉だった。宙に放り出された衝撃と耳を劈く金属音の後、意識が飛んだのを覚えている。今の状況は見えてはいるが理解するに及ばない。周囲から聞こえる悲鳴にも似た叫びが否が応でも事態の深刻さを伝えてくる。地獄なんて生温い。自身の持ちうる語彙では到底表現できないような悪夢。目の前の光景はそのレベルのものだった。
オルコット家当主であるフローラ・オルコットは電車に乗っていた。我が子のような存在の使用人に夫と出かけたらと提案された。それは突拍子もない発言だったし、そもそも休みが取れるかどうかすら危ういほど多忙を極めていたはずだ。しかし、奇跡でも起こったかのように今日、あの子の誕生日に休みを取ることが出来た。そしてそれに合わせるように夫も無理して休みをつくってくれた。そんな日に、そんな特別な日に……。
今の状況を表すことはとても簡単だ。一言で済む。
そう、事故だ。たまたま夫婦揃って出かけた今日という日に不運にも列車の事故に遭遇し、巻き込まれた。何万分の、いや、何億分の一。そんな天文学的な確率の不運。
フローラはそれでも自身を不運だとは思わない。そもそも不運なんて言葉で片づけていいものじゃない。これは運命。もはや決められた出来事のように思えて仕方なかった。
「……っ」
声を上げようとするもそれは叶わなかった。腹部に大きな裂傷があり、大量の血が流れだしている。もう、呼吸することすら煩わしい。医療知識の全くない人が見ても一目でわかる傷。そして全員が同じことを思うだろう。
――――――――――――――――――ああ、私は助からないな。
「……がっ…う、ぐっ」
それでも血反吐を吐きながら辺りを見回す。いるはずの人の姿を求めて。
ふと、感覚のほとんどなくなった自身の肩に僅かな重みを感じた。その正体はすぐに分かった。
「……あ……の、どっ」
掠れた声を、言葉にすらなっていない音を、それでも彼女は紡いだ。そして理解した。何故自分が傷を負っているのか。何故夫が背中にもたれかかってきているのか。この状況で何故フローラがまだ生きているのか。全て、理解するに至った。
アーノルドはフローラを背後から抱きしめる形で鉄柱に貫かれていた。それはアーノルドを貫いてフローラへと及んでいたのだ。ガラス片が突き刺さり、すぐ近くにはすでに火の手が迫っている。それでもアーノルドに動きはない。ただ、動きがあるのは血だけだ。
「……うっ、うぅっ」
この時フローラはようやく自身の内から込み上げてきているものの正体を悟った。悲しみ、怒り、そして後悔にも似た憤り。全てがない交ぜになって内から溢れ出す。
「………あぁ、あっ」
地獄にも似た光景を目にしても、自分自身が怪我を負っても、それでも感じなかった絶望を。今この瞬間、確かに実感していた。
(ああ、こんなにも……私はあなたのことを……)
そして想うのは残してしまった子供たちの姿。浮かんだのは命より大切な我が子の顔だった。
(ごめんなさい、セシリア。親らしいこと何もできなかった。寂しい思いばかりさせて……ごめんなさい)
途切れ行く意識の中、最後の力を振り絞って自身の肩に置かれたアーノルドの手を掴む。
最後に浮かんだのは誰だったか。
(…私は……後悔………してない、から)
その言葉は誰に向けてのものなのか、それは分からない。
意識が途切れてもなお、その手は繋がれたままだった。
イギリスで起こった越境鉄道の横転事故。イギリスの長い歴史上最も凄惨で大規模な鉄道事故。死傷者は百を優に超え、街を抉った。二次災害の火災が発生し、街を燃やした。セシリアの両親であるフローラとアーノルドも事故に巻き込まれ、帰らぬ人となった。一瞬で全てを奪い去っていった。
たった一瞬で―――――――――。
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9話 寂しい時こそ笑いなさい
投稿遅れてしまい誠に申し訳ない
それでも待っていていただいた方には感謝しかありません
今話から時系列が現代、つまり1話の続きに戻ります
かなり前の投稿なのでお忘れの方は1話だけでも読み直すことをお勧めします
お手数おかけします
未だ原作に突入していないという事実、信じらんねえぜ
「失礼します」
一言断りを入れてチェスターは扉を開ける。白で統一されていた昔と比べれば生活感が僅かに出た部屋だ。本人の趣味なのか、所々に青の要素が見受けられる。それでも一般人から見れば、しっかりと整理整頓されているのも相まって高級ホテルの一室にしか見えないだろう。その中でもひときわ目を惹くのが豪奢なあしらいが施された天蓋付きのベッドだ。そこで未だ横になっている我が主に溜息を禁じ得ない。
我が主、セシリア・オルコットはめっぽう朝に弱い。というのも安眠妨害を嫌うセシリアの自室に目覚まし時計はない。目覚まし時計は別に眠りを妨げているわけではないのだが、そんな我儘が通ってしまう辺りさすがは御令嬢といったところか。
とは言え、そのまま好きに寝させておくわけにはいかない。おかげでただでさえ忙しい朝の時間にセシリアを起こす仕事が増えたわけだ。今朝も扉越しからの呼びかけに反応がなかったので無礼を承知で部屋に入ったのだった。
「お嬢様」
チェスターの呼びかけに反応はない。端正な顔立ちにこの国では珍しくない金髪碧眼。しかしその容姿は凡庸なものではない。気品さ、高貴さ、上品さ、その全てを体現したかのような唯一無二の美しさが彼女にはある。そう考えれば寝坊の一つや二つ欠点にすらならない。
「起きてください、お嬢様」
「……ん」
呼び掛けると同時に肩に手を添え優しく揺らす。すると、凛とした美顔に亀裂が入ったように顰めるセシリア。大人びた雰囲気から一変、年相応の可愛らしさが宿った。
「おはようございます、セシリアお嬢様」
「おはよう、チェット。ずいぶん早いんですわね」
呑気な主に再び溜息が漏れる。今朝は早いどころか遅いくらいだ。
「お忘れですか、今日は――」
「日本へ行くのでしたね」
そう、セシリアは4月からIS学園という高校に通う。正確にはIS学園自体はどこの国にも属さない場所なのだが、セシリアの言う通り日本と表現して何ら差し支えないだろう。
IS学園とは世界で唯一IS操縦者を育成することを目的としてつくられた学校である。当然世界中から希望者は殺到し、毎年のこと倍率はすごいことになる。その中でセシリアは入試主席という成績で見事合格した。もっともこれは代表候補生でありIS適性Aランクのセシリアに言わせれば当然のことだろう。Aランクは非常に高い数値で
「本当におめでとうございます、お嬢様」
今一度我が主を称えるように賛辞を贈る。セシリアがIS学園に、代表候補生になった理由は究極的に一つ。オルコット家を守るためである。イギリス国籍を保持する代わりにオルコット家を守る。裏を返せば国としてはそれほどまでにIS適性の高い者、すなわち今のセシリアが欲しいのだ。
「……」
「お嬢様?」
ムッとしたように頬を膨らませるセシリア。どうやら機嫌がよくないらしい。当然ながらチェスターに心当たりはない。寝起きで機嫌が悪いという訳でもなさそうだ。
「チェットはわたくしがIS学園へ行くことに何も思わないんですの?」
「セシリアお嬢様が努力されていることは存じておりますので自身のことのように嬉しく思っております」
「……」
嘘偽りのない言葉だったがどうやらセシリアはお気に召さなかったようだ。なおも頬を膨らませながらお得意の不機嫌のポーズをとり続けている。
「へぇー、チェットはわたくしが遠く離れた異国で暮らすことになっても何も感じないと」
「いえ、ですから嬉しく思っておりますよ?」
「むしろせいせいすると」
「……お嬢様?落ち着いてください」
理解を超えたセシリアの解釈にさすがのチェスターも対応しきれない。最近はこのようなこともなくなってきたのだが、未だにセシリアの暴走にはついて行けない時がある。
「もういいですわ、チェットなんて知りません」
ジト目はそのままに気だるそうに立ち上がるセシリア。言わずもがな機嫌が悪い時の兆候だ。そして今までの経験則からセシリアは機嫌を損ねると長い。それはもう女性の中でも群を抜いて。
「な、なにか不手際がございましたでしょうか?」
「そうですね、あなたは不手際で構成されてるんでしたわね。チェルシーの言う通りですわ」
にべもない。何気に自身の姉からも遠距離狙撃を喰らった気がするが今はそれどころではない。案ずるなかれ、こういう時の対処法はすでに知っている。先ず第一に何がいけなかったのかを考える。もし分からないようなら迷わず本人に聞くべし。間違っても理由もなしに頭を下げてはいけない。一般的に正しい対処法なのかは分からないが、チェスターの周りには厳格な人間が多い。自分にも他人にも厳しい性分なのか有耶無耶を一番嫌うのだ。
「……何がいけなかったか聞いてもよろしいですか?」
「……」
どうやら効果はあったようだ。同じ無言であってもどことなく柔らかくなったような気がする。姉のご高説のおかげである。
「…………寂しいとは思いませんの?」
「それは、もちろん」
「ならいいですわ」
「え?」
言葉通りすっかり機嫌も戻ったらしいセシリアはそそくさと支度を始めてしまう。完全に置いてきぼりのチェスターだったが向こうが納得した様子なので深く聞きはしなかった。ただ少しだけ後ろ姿が寂しげに見えるのは気のせいではないだろう。
「お嬢様、寂しく感じる一方で先に述べた通り、それ以上に嬉しいのです。お嬢様のお心遣い、オルコット家を守らんとする強い意志、感服いたします」
寂しげな主を想っての素直な賛辞。執事とは主を精神的に支えるもの。これくらいのフォローをいれられない様では半人前以下である。内心得意げに、それをおくびにも出すことなく垂れていた頭を上げると、そこにあったのは予想外にも冷めた表情のセシリアだった。せっかく元に戻った眼もジト目へと逆戻りである。
「……あれ?」
困惑しているチェスターを他所にセシリアはズケズケと近寄ってきた。これでもかと言う程接近したかと思うと、あろうことかチェスターの足を踏みつけた。華奢なセシリアと侮るなかれ。専用機持ちの代表候補生に選ばれるために行った勉強の中には護身用の格闘技も含まれる。体重移動は心得ているのだ。
つまりどういうことかと言えば、単純明快、痛い。超痛い。
「お、お嬢様、不肖ながら一つ助言させていただいても?」
「……許可しますわ」
激痛に叫びたくなる気持ちを抑え、あくまで冷静に対応する。若干顔色が悪いのは気のせいだろう。
「新しい異国での学園生活、慣れないこともあるでしょう」
「……でしょうね」
なお、会話中もジト目+踏みつけは継続中である。
「新しい学友の方もできると思います」
「それで?」
「いくらストレスが溜まっていおいででも、ご学友の方々にはこのようなことは――」
「全く、チェットは馬鹿ですわね。こんなことあなた以外にわたくしがするわけないでしょう。喜びなさい、特別なのですわよ」
「わ、わぁー、嬉しい」
セシリアはグリグリと足を動かすことでさらに追加でダメージを与えてくる。心頭滅却、耐えること数秒、やっとこさ解放された。そのままセシリアが抗議の色を含んだ視線を向けて来るのでよく分からず見つめ返す。するとセシリアは視線をクローゼットの方に向けた。どうやら着替えたいらしい。話し込んでいたせいで思いの外時間が経ってしまったようだ。チェスターはその場で一礼すると部屋を後にする。
「チェットの馬鹿、シスコン」
「姉様は関係ないでしょ!」
「ふんっ。空港まで見送りに来ないと許しませんから」
「承りました。朝食はお嬢様の好きなポーチドエッグです。冷めないうちにお早めに」
「すぐに行きますわ。あ、今日は敬語禁止です、今決めました。もちろん守ってくれますわよね?」
「いや、それはさすがに……」
「よいではありませんか今日くらい」
セシリアの気持ちは分からなくはないが、それをあのチェルシー・ブランケットが許すとは思わない。当然と言えば当然だが鉄拳を喰らうのはチェスターだけである。嫌な想像をしてしまい体を震わせるチェスターを尻目にしたり顔をするセシリアなのだった。
主従という関係はあってもそれ以前に二人は良き友人であった。
◇
「それではチェルシー、チェスター君も、セシリア様を頼みましたよ」
オルコット家に仕えているメイドの一人、ハーティ・エヴァンスは恭しく頭を下げる。それに倣ってブランケット姉弟も頭を下げる。当主であるセシリアが高校三年間海外へ行かれるのだ。忙しい中、オルコット家総出で見送りしている最中だ。全盛期に比べると少し物足りなさを感じるが、それでも十分多い人数が押しかけていた。空港まで送り届けるブランケット姉弟に多少のプレッシャーがかかるのは致し方ないところだろう。とはいえチェスターは車内に座っているだけで特にすることはない。セシリアが何も言わなければ同行するのは運転手のチェルシーだけだったのだから。
イギリスでは普通免許が17歳から取得できる。チェルシーの免許歴は一年ほどしかないのだが、そこは持ち前の才能をいかんなく発揮し、熟練ドライバーと何ら遜色ないレベルまで達している。
「それでは行ってきますわ。家のことは任せましたよ」
「はい、お任せください」
セシリアの言葉に代表してハーティが答えた。それを確認するとチェスターは後部座席のドアを開く。自然な流れでセシリアが車内に乗り込むと、できる限り音をたてないようにドアを閉めた。
「それでは」
「はい」
ハーティたちに一礼すると自分たちも車に乗車した。
運転席にチェルシー、後部座席にセシリアとチェスターを乗せ、走り出す。本来なら使用人が隣に座ることなどありえないのだが、そうしないとセシリアの機嫌が悪くなる。
「お嬢様」
「……」
「セシリア様?」
「……」
どうやら本格的に敬語は禁止らしい。運転席に目をやるとチェルシーの笑いを堪えている姿がルームミラーに映っていた。少なくとも怒られることはないようだ。
「セシリア」
「何ですの?」
髪をかき上げ待ってましたとばかりに振り向くセシリア。なんとなくチェルシーが笑いを堪えていた理由が分かった気がした。
ふと、視線がセシリアの耳元で止まる。ここ最近ずっと肌身離さず身につけているピアス。綺麗な青色のそれはセシリアの瞳の色と同じで、身びいきを抜きにしてもとてもよく似合っていると思う。セシリアの専用機『ブルー・ティアーズ』の待機状態だ。
「ふふ、似合ってます?」
視線に気づいたのかピアスを見せつけるように首を傾げ、そんなことを問うてくる。その問いにはテストパイロットに決まったとき散々言ったはずなのだが、セシリアには関係ないらしい。
「似合ってるよ」
「まあ、当然ですわね」
チェスターの答えに満足したのか自信に満ち溢れた笑みを浮かべる。いい意味でも悪い意味でも傲岸不遜なお嬢様に呆れるしかなかった。
「チェルシー、あれは何ですの?」
不意にセシリアが前方を指さす。そこには街の景観を壊しそうな程大きな看板があった。そこにデカデカと書かれている文字をチェスターは読み上げる。
「男性IS適性検査?」
「日本の少年がISを動かしたそうですので、第二の男性操縦者を発掘しようということでしょう。世界中でそのような動きがあるようですよ」
「へぇー、そんなの見つかるんですかね」
興味なさげに呟くチェスターとは対照的にセシリアは興味津々のようだ。
「チェットも受けてみればいいですのに。もしかしたら動かせるかもしれませんわよ?」
「いや、無理ですよー」
「もし動かしたらチェットもIS学園に……試しに受けてみるべきですわ!」
一人盛り上がっているセシリアの横で他人事のように考える。世界的に例のない事例が突如日本で発現したため世界中が我が国でも、と躍起になって検査を行っているのだろう。もう少しすれば検査を受けるのが義務化される可能性すらある。しかし、そんなことをしても効果はほぼないだろう。などと考えていると興味があると思われたのかチェルシーに声を掛けられた。
「チェット、今はオルコット家にとって一番と言っていいほど大事な時期。検査を受けている暇なんてないわ。ISを動かせるかどうかよりも考えることがあるはずよ」
相変わらず辛辣なお言葉である。念のため言っておくとまだ何も言ってない。しかし、そんな言い訳通用するはずもない。何せ相手は完璧超人のお姉様である。反論するだけ無駄だ。
「チェルシーは厳しいですわね。受けるだけですのに」
当主の意見にもブレることはないのが賢姉クオリティー。
「厳しいのはいつものことですけどチェルシーがチェットの意見を突っぱねるなんて珍しいですわね」
全く持って珍しいとは思わないのだが。あと重ねていうとまだ何も意見していない。
「別に突っぱねてはおりません。ただ、チェットはすぐに調子に乗るので厳しいくらいが丁度良いのです。それに万が一にも動かせないでしょうから時間の無駄にしかなりません」
「そんなの分かりませんのに。というか、なんだかんだチェットには甘いと思いますわよ?」
「えー、姉様が甘い?」
「ええ、チェットのことが大好きなんですわ!」
「そうは思えませんけどねー」
「ふふ、愛の鞭というやつです」
「チェット、お嬢様、運転中に手が滑るかもしれないのでその話は終わりにしましょうか」
「「は、はい」」
そこで耐えかねたのか強引に咳払いをして空気を変えるチェルシー。「話を戻しますが」と有無を言わせない口調で告げることによって二人を黙らせる。殺気に近いものを感じたのは気のせいだと信じたい。
「彼、織斑様もIS学園に入学するようですね」
「じゃあ同級生ってことですね、お嬢様の」
「どうでもいいですわ、男なんて」
「男の前でそれを言いますか」
「あら?チェットはチェットでしてよ。ねえ、チェルシー?」
「そうですね。男性の割には華奢で、優柔不断、いささか頼りになりません。あと背も低いです」
「身長はこれからです!」
二対一に回られると絶対に勝てない。もっとも一対一でも勝てる気はしないが。
「ですがお嬢様、せっかくご学友になられるお方なのですからあまり先入観を持たれるのは得策ではないかと」
「うっ、分かっていますわ」
そんなセシリアの言葉を聞いてチェルシーが笑みを浮かべたのがルームミラー越しに分かった。チェルシーはさらに「もしかしたら」と続ける。
「お嬢様と深い関係になるかもしれませんし」
そんな悪戯心に満ちた言葉に真っ先に反応したのは意外にもチェスターだった。
「お嬢様にもついに春が――痛ぁ!!!」
しかしその言葉は踏みつけられた激痛で遮られる。隣には顔を真っ赤にして怒るセシリアがいた。ちなみに痛さは今朝の比ではない。
「可能性はゼロじゃないでしょ!」
「ゼロですわ!」
「そんな断言しなくても……」
「ふんっ!」
完全に拗ねたモードに入ったセシリアにチェスターは疑問符を頭に浮かべている。ただ一人、チェルシーだけが笑いを堪えるの必死だった。彼女にしては珍しい、ささやかな仕返しだった。
フラグたつ!!
しかし、それを全力で阻止する姉様。
果たしてチェスターの運命は!!!
あー、セシリアかわいいー
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