ゲルマン狐と黒ウサギ (008)
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第1話ー狐はアホっぽいっていうイメージ-
まただ。また引っ越しだ。
親の仕事の都合というやつは早ければ1ヶ月、遅くても3ヶ月という周期でやってくる。
今度は日本らしい。古くは世界の覇権を本国と握りかけた太陽の皇国、だったが今では没落し、周囲のハイエナ共に一世紀近くも身体を蝕まれる亡骸のような国だ。
かつての同盟国としての姿は無い面白みのないつまらん国と化していた。
そう思っていた、思っていたんだよ俺は。
――――――――――――――――――――
夏、19時56分。
母親というか姉というか、身内とよんでもいい付き合いのクラウディアの運転する黒のBMWに揺られてソコに辿り着いたのはそれぐらいの時間だった。
辺りはもう暗くなり終えて、あたりは街灯の光を残すのみ。今夜は新月だった。
「着きましたフェイ」
細い身体に見合わない動きで、白いキャリーバッグを車から軽々取り出したクラウディアは着ていたスーツの内ポケットから茶封筒を取り出した。
「これが鍵です。2つありますが、1つは私が持っておきます。くれぐれも無くさないようになさい」
鍵といってもホテルやマンションでよくあるカードキータイプ。
今回の家は24階建ての高層マンションだった。
「ん、わかった」
「今日は早く寝なさい、明日は編入手続きのためこれから通う学校に行きますよ」
「ええっ、明日って休日じゃないか?」
明日は土曜日である。
エレベーターに乗り、クラウディアが15階のボタンを押す。
「日本に休日は一年で10日もありません」
「それは偏見だろう」
俺の言葉を無視して無遠慮にカードキーを通して扉を開けて新居に入っていく。と、思いきや途中でターン。玄関で靴を脱ぎ始めるクラウディア。
「靴は脱ぎなさい、日本ではそれが常識です」
いやお前、常識初っ端から忘れてんじゃねえか。
だがまあいい、そんなことでカリカリするほど俺はガキじゃねえさ。相手は23にもなって男の「お」の字もねえ堅物女に苛ついてる様じゃあ俺がバカみてえじゃねえか。
「何か言いましたか?」
「言ってません思ってません」
「思っていますか、とは聞いていないのですが」
地獄耳クソクラウディア! とは思っても口には出さない。
新しい新居は2LDKのビジネスマンションの様な簡単な作り。間取りも洋室2、リビング、洗面所、風呂のシンプルなものだ。
やはり、と思ったのは風呂の造りだ。浴槽に浸かることに重点を置いた日本のバスタイプには興味はあった。水の質もトップクラスの日本では本国では論外であった髪を水につけるという行為さえも許される。腐りかけの日ノ本でもオンセンカルチャーは神だ、間違いない。
クラウディアには女の様に髪を伸ばすのはやめなさいとくどく言われるが、ヴォルフルグ=シファー(ドイツで人気な超人気バンドマンである)の良さがわからないとは人生の半分を損してるな。
そして不思議な感覚だが靴を履かない生活というのも悪くない。
家具や衣服は先に運ばれ、業者の手によって開封、設置されている。最小限の家具のみで形作られた効率厨のクラウディアを体現したかのような家だ。
クラウディアは先にも言ったように母……というより姉のような存在の女性だ。親父の仕事場の部下であり、秘書みたいな立ち位置で物心付いた時から傍にいた女だ。
「では、私は寝ます。朝の時間は違えぬように」
「はいはい」
「はいは一回!」
……。
この固さが彼女の取り柄でもあって、マイナスポイントでもあることは言わずとも知れたことだが、そこが親父が気に入ったところらしい。
とりあえずまあ俺も寝るか。スマホのアラームを6時半に設定、長旅の疲れを癒やすかのように睡魔はすぐに訪れ、瞼はすぐに、そして静かに閉じた。
ヴォルフルグの低いボーカルの絶叫から始まるロックメロディで目が覚めた俺は、慣れないキッチンから急速湯沸かし器を使ってインスタントラーメンとやらを作った。
起きたときには既にクラウディアは家を出ており、リビングの机には『先に出ています、鍵を忘れぬように』とだけ記された書き置きだけが残っていた。これも慣れていることだ。
「オートロックだし大丈夫だろ」
新居に移った場合、その多くに同行するクラウディアは基本朝のランニングで新しい街を把握する。それは仕事癖らしい、親父もロードバイクでツーリングするのが趣味だ。
俺はアウトドア系はあまり好かないから好きじゃないけど。
COPNOODLEと記されただけのインスタント麺は思いの外美味しかったが、身体に悪そうな味だ。イギリスに居た時の冷凍食品まみれの生活を思い出す。
便利だし、依存してしまうかもしれない。危険な食べ物だ。
SNSでヴォルフルグのツイートを確認、ロングヘアーと肌の手入れも欠かさない。インドアだが朝の筋トレはヴォルフルグの均整のとれた肉体のようになるためには欠かせられない。
だがまあ……面白くない。人生で興味の引かれることなどヴォルフルグとヴォルフルグの作詞作曲する曲ぐらい。
日本に来ても変わらないものは変わらないのだろう。諦め混じりにいつも通りに俺はバタフライナイフをダメージジーンズのベルトリングに引っ掛けた。
夏なのにブーツを履き、準備完了だ。意味もなく石が転がる様な軽い音をたてながらマンションを出る。
鍵を忘れたことに気づいたのはそれから半時間ぐらい経った後、通勤通学で混雑する電車でスマホを弄っていた時だった。
日本に来て初めての朝にして、俺の人生を大きく変えることになる一日はこうしてちょっとした波乱から始まった。
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