天候は曇天。誰もが不快感を得るような湿気が全身を纏わりつく。
普段はそこそこ明るいはずの渓流は薄暗く、光が差し込んでいる場所すら見当たらない。
更には強い風やかすかに聞こえる雷鳴と不安な要素ばかりが重なっていた。
「嵐の前触れってヤツだ」
その中で一人黙々と採取に励んでいた青年が顔を上げた。
傍らに担いでいる籠には薬草やアオキノコが詰まっており、一見すれば駆け出しのハンターのように思われる。
しかし、薄暗い闇に溶け込むような黒装束と断崖絶壁に余裕で留まることのできる身体能力が、それなりの訓練を受けた剣士ということを証明している。
右手でわずかに飛び出た岩肌を掴んで、あらかじめ削って作った窪みに足を引っ掛けて体を固定していた。
こんな奇妙かつ危険な態勢でキノコ採りに興じているのだ。
「ふむ、今日はもう帰るか。せっかく質のいいキノコポイントが見つかったんだけどなー」
話す相手は誰もいない。自分に言い聞かせるよう小さくと呟くと、ロッククライミングよろしく器用に登り始めた。
曇り空はますます暗くなって、ポツリ、ポツリと雨まで降り出す始末。
雨が強まり、嵐になるには時間の問題だろう。軽やかに崖を登って服に付いた土ぼこりを払う。
多少水分を含んで、ぬかるんでいる地面を踏みしめる。
大木に寄り添うよう設けられた祠の横を通り、まるで夜のように暗くなっている洞窟を駆け抜け、濡れることもいとわずに滝を潜り抜け、見晴らしのよい高地を走り切ろうとした――
けれど、急に足を止めた。
眼前に赤い水溜りがあれば止めざるを得なかった。
こことて、モンスターは出没する弱肉強食の世界。血を見ることは多々あるだろう。
その一言で済ませられない理由があったからこそ立ち止まった訳だが。
「これは俺がよく見る血じゃないな。少なくともこの辺りでは見かけないものだ。量からして失血死するほどではないと思うが……やっぱり血痕は続いているな。調べてみる価値はありそうだ。おや?」
誰かに肩を叩かれたかのように振り返る青年。そこには、この辺りでは特に珍しくもない小型モンスター、ジャギィが5匹ほどいた。
取り囲むように現れ、隙あらば飛びかからん雰囲気でジリジリと距離を詰めてくる。
仲間を呼ぶ気配はないが、低く唸って威嚇行動をとっていた。
ジャギィ。
個々の能力は決して高くないが、集団で襲いかかることで狩りの成功率を高めている。
狡猾で仲間との連携が良い鳥竜種を相手取るのが駆け出しのハンターであれば、この5匹という数字は危険と言ってもよい。
見晴らしがよいということは相手からも見つけやすいということ。加えて血の匂い。
肉食竜にとっては見逃すはずもない状況だろう。ただ、その対象とする獲物を間違えたというのはジャギィたちの失敗。
囲まれたにも関わらず特に焦ることなく何の問題もない感じに立ち上がる。様子をうかがっているジャギィ達を一瞥し、小さく一言。
「失せろ」
それはまるで地獄からの怨嗟の声のよう。
圧倒的な威圧感をもって青年が発したのは、その言葉だけであった。その言葉で巨大な飛竜種と対峙したように空気の重くなり、本能で勝てないことを理解した狗竜には動くとこさえ許されない。
幸いだったのは、当の人間が本気で殺すつもりはなかったという点だろう。
人間が少しばかり気を緩めるが早いが蜘蛛の子を散らすように逃げ去って行ったジャギィ。
それを確認すると溜め息のようなものをついて、再び血に視線を落とした。
「血痕が続く先には森がある。姿を隠すにはピッタリだ。この移動ルートが故意だったとしたら、そこそこの知識を持ち合わせているな。血の量からして大型動物ではないし、ついでに単体と読み取れるから……もしや人間か?」
渓流は他の地域と比べて危険度は低く、よく初級者のハンター達が出入りしている場所。
この血が人のものである可能性は火山や雪山よりも高い。そう結論付けると立ち上がり、血痕を追うようにして森へ駆け出した。
雨はますます強くなり雷も近づいてくる。
既に血の跡は雨で流れていて追跡することは困難になってきているのだが、彼は諦めていない。
怪我をしていることを考慮すればそう遠くには行っていないはずで、森の浅い部分を探せば見つけ出せると踏んでいたからだ。
新しい懸念ごとが増えてしまったことも関係がある。
「嵐で気配の探索が妨害されているけど、恐らくレウスあたりだな。ったく、なんでこんな時にめんどくさい奴が」
あらかじめ服用していた千里眼の薬。気配に鋭くなったお蔭で存在に気付いたのは幸か不幸か。
嵐のためか気が荒立っているから、遭遇したら有無を言わさず攻撃されるとこは確定で、しかも一直線に青年に向かってきている。
いくらジャギィを言葉だけで撃退できる力を持とうと、空の王者相手には厳しいものがある。仮に余裕で倒せる力を持っていても戦闘は避けるべきであろう。
見つけるのが先か、見つけられるのが先か、それによって今後の局面は大きく変わってくる。
濡れた前髪をかき揚げ、見つからないことに焦りを感じ始めた。
森の中と言うこともあり辺りは闇夜のように暗いうえ、空を見上げようともうっすらと見えるのは木の葉ばかりでろくに視界は効いていない。
降り続ける雨だけが体温を奪い続ける。生まれながらにして眼が良い彼でもかなり苦労しているように見えた。
けれど、幸運の女神は彼に微笑んだようだ。
「……やっとか!」
大木にもたれ掛っている三度笠。
全体的に見て和風な服装をしており、明るい茶色をしている腰布が妙にハッキリと映る。
いい感じに雨避けポイントとなっているので衣服の濡れは気にならない程度で済んでいた。
怪我をしていたのは予想通り人であって少女であった。年齢は判らないが幼さが残る顔立ち。
傍らにあるユクモノ太刀をしっかりと抱いて眠っている姿は彼女がハンターであることを表し、綺麗な服装はまだまだ経験が少ないことを体現していた。
腕には何かに引っかかれた傷があるけれど、的確な処置が施されているので止血されていた。
「血は止まっているな。ユクモ装備だから初心者、と断定するには早い気もするがこれだけ綺麗な手をしていればなぁ。おーい、大丈夫か」
ペチペチを軽く頬を叩くが返事はない。
呼吸の乱れは確認できず、特に目立った傷もないので疲労からくる寝落ちだと判断できる。その顔は苦痛に歪んでおらず、むしろ笑っているようにも見受けられる。
暢気なものだと軽く呆れている様子のナルガ装備の青年。仮面の奥の瞳は安心しているように感じられた。
逆に安心できないこともまだ残っている。先ほどの大きな存在、それは彼らに向かっていく足を止めてはいない。
かなり接近していたようで、耳を澄ませば木々をなぎ倒し、大地を揺るがす音が聞こえ始めた。もはや一刻の猶予もない。手早く少女を担ぎ上げ飛ぶように駆け出す。
地面はキノコ狩りの時よりも異常なほどぬかるんでおり、特に酷い部分は沼のようだった。
ただでさえ走るのには苦労するのに人を担いでいるのである。全力疾走が出来ないのは当然。比べるまでもなく人間よりも飛竜種の方が早いに決まっている。
人と竜の距離は確実に狭まっていき、軽く後ろを振り返れば小さいながらも例の赤い鱗が見え始めてしまった。
逃げ切るのは―絶望的。
隠れることも―不可能。
彼の直観がそう告げる。それならば戦うしか道は残されていない。
圧倒的に不利な状況にもかかわらず、仮面の奥の素顔は笑っている。
彼が狩人であり、狩人であることに誇りを持ち、狩人として強敵と相対することができたからだろうか。
誰も本心を知ることはない。本人でさえ意識していなかったことかもしれない。
ただ、微笑んでいた。
数瞬遅れて聞こえたのは爆音。痺れを切らした火竜が吐きだした火球は、雨が降っているはずのここら一帯を明るく照らした。
肌を焼くような熱風がここまで届く。其の竜の二つ名とまで成りえたブレスは王者の証、伊達に弱肉強食の世界で生き残ってはいるまい。
怒り補正も相まった破壊力は、それを見ただけで弱者の戦意を刈り取ってしまうだろう。
改めて心の準備をする。予想よりも竜は経験を積んでいた。
若い火竜だったらまだよかったが、今のブレスだけで判断すれば下位でなく上位。否、それ以上である可能性も否定できない。
人里に近い場所に上位クラス以上のモンスターが出現した場合、速やかに撃退、あるいは討伐命令が出る。
たった今現れた竜に対処できるのは彼一人。ますます逃げるという選択肢は消えた。
タイミングを見計らうように背後を再び振り返る。
が、先ほどまで見えた赤色はなくなっている。木々をなぎ倒す音も、大地を揺るがす音も聞こえない。
何が、と考える前に答えは出た。相手をしているのは空の王者。
主な移動方法は、飛行。
風切音を雨音に紛れ込ませて極限にまで気配を絶ち近づいてきていた。
彼とてただでやられるわけにはいかない。密集している木々を駆け抜けながら、彼は少女を片手で担ぎ直し腰にあるポーチに手を入れ、小さい玉のようなものを取り出した。
「万が一の時のために持ってきた訳だが、まさか本当に使うことになるとは」
間髪入れずに投げる。
急降下してきた竜の前で玉は弾け強い光を発した。目が眩んだ竜はバランスを崩し、たまらず地面に落下。
閃光玉。大型モンスターですら目をくらませるほどの強力な閃光を放つ。ハンターたちがよく使うアイテムのひとつだ。ここから攻撃に転じるのがテンプレートなのだが、青年は回避と言う行動を選んだ。
しかし、あくまで緊急回避。立ち上がるまでのわずかな時間を利用して担いでいる少女を丁寧におろし立ち上がっている途中のリオレウスに意識を向ける。
闇に光るのは金色の双眼。口からは火が見えている。
巨体の奥底から発せられる唸り声はジャギィのそれと比べ物にならない。雨に打たれながらも衰えを見せない灼熱の鱗は燦々と輝く。
闇に溶け込む黒髪黒目。夜に紛れ込む迅竜の防具。
存在を誇示するような火竜と対を成すように静かな人間。腰に携えている武器は太刀のようで太刀ではない。片手剣よりも細く長く、太刀よりも鋭く短い。
太刀の元となった武器――人はそれを刀と呼ぶ。
鞘を左手で固定し柄を右手で持つ。スッと抜いた刀身は光り輝く白銀の刃。
無駄のない動きで右顔前まで持っていき、相手に切っ先を付きつけるよう真っ直ぐ構える。
『無我』と呼ばれている突きに特化した構え、しかしながら自身の数十倍もある竜に通用するのだろうか?
否。
通用させるべきなのだ。
「スゥ―」
短く息を吸い、敵を見定める。
目測にして約10mの距離があり、近距離戦を主とする刀には不利な状況。何とかして近づかなければ一方的に蹂躙されてしまう。
何とかして隙を見つけることはできないだろうかと視線を一切そらさずに熟考。
だから気付くことができなかった。リオレウスが大気を吸い込み牽制技を撃ってくることに。
「■■■■■■■!!!!」
大気を震わす咆哮。近くにいた故にまともに受けてしまい、一瞬眉をひそめる。
隙を探すつもりが逆に隙を見つけられてしまう結果となった。
レウスが動く。その巨体に飽かせた突進はどんな防具を身に付けようとも致死レベルの怪我を受けてしまう。
ましてや、彼の防具はナルガクルガのもの。防御力より機動力を重視しているので、掠っただけでも重症になりかねない。
「――ッ!」
完全に出遅れてしまったので左右どちらかに回避することはできない。
左右が無理ならば、潜り抜けるだけ。刀を持つ手を引きワンテンポ遅れて走り出す。
一瞬という時間よりも早く近づく赤い竜に臆することなく狙いを定める。先に行動していた竜は、大きな口を開けて噛み砕こうとしていた。
目の前に広がるのは白い牙と黒い闇、それが閉じようとする寸前で丸めるように体をかがめ、地面スレスレになるまで顔を地面に近づける。
そのまま低い姿勢を維持し続け、攻撃に転じようと右足に狙いを定める。そしてすれ違いざまに突いた。
貫通させるような突きではなく斬るに近い突き。彼の持つ刀は突きに最適化されたものではないためである。
更に腕を伸ばした状態から横に薙ぐ。これで二閃入れたが、レウスは気にしている様子がなくどちらも浅い結果と終った。
全力で斬りつけることのできない態勢ゆえだろう。
足に蹴られないようすぐさま真横に転がる。通り過ぎたのを横目で確認すると、手をついて跳ねるように立ち上がり追撃しようと追いかけた。
止まり切れていないレイアは隙が大きい。走る最中で無我の構えに戻し、集中的に狙うと決めた右足まで数歩というところまで迫る。
「ハッ!!」
短い言葉を発すると共に全力で腕を伸ばす。切っ先は目標を完璧に捉え転倒させるような傷を与えようと近づいていく。
しかし、その目論見は外れることとなった。
「(飛んだ!?)」
強靭な翼を羽ばたかせ空中にホバリング。彼の行動を呼んでいたかの如くタイミングを合わせた回避は効果覿面で同時に発生した風圧は彼の行動を制限した。
そのまま高く、とは言ってもせいぜい木々より頭一つ高い所だが、飛び彼の攻撃の機会を奪い去るのは偶然でなく考えての行動だろう。
内心で舌打ちをして様子をうかがっているが降りてくるのは雨粒ばかりで滑空する予兆すら見られない。
その代わりに見えた口から吹き出ている小さい炎は、あの強烈なブレスを連想させる。
爆炎を予期しいち早くその場から離れつつ、近くに寝せていた少女も担いでブレスが届かないであろう範囲まで走る。
直後に背後で爆発が起こった。予想よりも広範囲に広がった炎はかすかに背中を炙る。
防具を易々と燃やして皮膚を焼く。ただの火傷ではあり得ない痛みに苦虫を噛み潰した表情になった。大事を取って一休みするべきだが生憎そんな暇はない。
人が生み出した武器よりも鋭く中型モンスターを一発で昏倒させる毒を持つ爪で強襲を仕掛けてきたからだ。
またしても横に跳ぶが、人を抱えているこの状況で満足な動きができるはずもなく横腹をかすめた。毒の浸透する感覚が悪寒をなって背中を走る。日頃から微量の毒を摂取しているため一般人とは違って耐性はあるが、それは微々たるもの。即効性のある毒は瞬く間に足を重くしていく。
おまけに、アイテムを入れておいたポーチが吹っ飛んで遠くへ飛んで行ってしまった。
倒れ込むように転って小さな崖のような場所から落ちて背中を強打。受け身を取れずに打ってしまい息も止まるような痛みが全身を襲った。
衝撃は彼だけにとどまらず抱きかかえている少女にも伝わったようで、小さくうめき声を漏らした後にゆっくりと目を覚ました。最悪のタイミンである。
「うう……こ、ここは?」
起きていれば寝ているときより一層気配は強くなり、人が感知することは普通では不可能だが野生に生きる竜であれば可能。つまり、彼女も狙われやすくなったということ。その危険性以上に、この少女に恐怖を与えてしまうという危惧がある。
打開策を見つけるべきだろうが、それよりも体内を回る毒の解決策の方が優先するべき。
こんなことになることを想定していなかったためか解毒薬を携帯していないが、しっかりと準備してきたであろうこの少女であれば可能性はある。
「話は終わってから全部話す! 解毒薬か漢方薬をもってないか?」
「えっ、あ、はい」
目を丸くして驚きつつも何となく雰囲気で察してくれたのか。おずおずと差し出してくる解毒薬を痺れ始めた左手で落とさないよう慎重に受け取り、一気に飲み干した。
一息ついて肩を回す。毒が即効性なら解毒も即効性のため体内に侵入した猛毒は無害な物質へと分解されていく。
毒が抜けたとこを確認し、煙が充満しているこの辺りを睨む。レウスはまだこちらに気付いていない。
この突如発生した煙は彼らにとって偶然にして僥倖なことであった。
遠くに飛んだアイテムポーチから煙玉が零れ落ち、たまたまレウスが踏みつぶしたことによってレウス自身の視界を制限する結果となった。なかなか皮肉だと言えるだろう。
けれどこの雨が降っている中ではその煙も長くは続かないことは必至であって、いつまでもこの幸運に甘んじているわけにはいかないのだ。
「リ、リオレウス!? どうしてこんな所に!?」
青年が何かを見ているのを不思議に思ったのか、少女はヒョイといった感じに覗き込んだ。そこには雨の中、首を高く上げて辺りを見回している竜が一匹。
姿を確認すると少女の顔はみるみるうちに青ざめていく。大型モンスターに対して恐怖心を覚えるあたり、やはり初級者なのだろう。
「静かに。幸い煙のお蔭で一時的だけど奴は俺たちを見失っているようだ。できれば討伐まで持っていきたいけど残念ながら準備は万全じゃない。できることなら手伝って欲しいが……」
「むむ無理です! 私、最近やっとロアルドロスを倒せるようになったんですよ! それなのにいきなり飛竜種なんて絶対無理です!!」
ムチ打ちになるのではないかと思うほど首を振って否定する。最初から当てにしなかったようで「そうだよな」と戦場であるというのにクスっと笑ったであろう青年。
もっとも、仮面に隠れているので当の本人である少女には判らないのは当然だった。
毒が抜けきったとこを確認するように肩を回し、近くに落ちた刀を手に取る。
だいぶ煙が沈静化して雨も弱まっている。地面はぬかるんでいるが雨による視界の遮断は薄れたので撃退する算段は見えてきたのだろう。
唐突に、未だに気付いていないレウスに対して一直線に走る。
超反応を見せたレウスがお得意のブレスを放ってくるがそれを避けるそぶりを見せずに突っ込んでいく。
竜の業火が目標を捉えて爆発する寸前、最小限の動きで火球をなぞるように避ける。爆発はしないが、予想以上の温度はナルガクルガの防具を軽く焦がしてしまった。
あと少しの判断ミスや身体能力が追い付かなかった場合、灼熱という言葉を優に超える温度が身を焦がす結果となるが、その危険性と緊張感に打ち勝つことのできた彼は今この瞬間において大きなアドバンテージを取ることができた。
すかさず足元まで潜り込むと同時に刀身を傷めないような絶妙な力加減で右足の腱を切る。最初の一太刀とは違いしっかりとした態勢で腕を振り切ったため、ガクン、と右足を地に着けてバランスを崩す巨体。
ここを見逃す手はない。完全ダウンを狙って左足の腱も切り付けて、一先ず押しつぶされないように抜け出す。ドシン、と大きく鈍い音を立てて転倒したレウス。
素早く刀を両手で持ち、綺麗な弧を描きながら打ち下ろされる刀は、鱗が比較的少ない腹部に見事な縦一文字を入れた。吹き出る鮮血が返り血となって黒い防具を更に赤黒く染める。
苦しそうに呻くレウスだが同情するほど甘くはないのがハンター。
真下に下がった刀の刃を返し、今度は切り上げるように振り抜く。縦一文字に重なるようにもう一つの傷ができ、再び防具を染める。
他の肉食モンスターを呼ばないように返り血を浴びないことが鉄則なのだが、気にかけている余裕などどこにもなかった。それほどまでに相手は強く、この機を逃せば間違いなく返り討ちにされると感じていたのだろうか。
焦るように三撃目を入れようと再度刃を返すが焦燥感が軌道のブレを生み、満足に切り付けることは叶わなかった。
弾かれたのを見て自分が焦っていることを自覚し、一度落ち着こうと距離を開ける。このまま焦り、死期を早めるよりもましだろう。
「■■■■■■■■■■!!!!」
怒りの咆哮は全てを竦み震え上がらせる。けれど、同じ手を2度も受けるほど知能は低くない。一気に距離を取って効果を減少させて硬直することを無効化した。
大幅に距離を取ったことが吉と出るか凶と出るか。この数十メートルという距離はリオレウスにとって有利な状況のはずだが動かず、合わせるかのように青年も構えたまま動かない。
振る続ける雨は弱まってきたものの雲は厚くなり雷は近づいている。激戦で様々な音が響いていた森は雨音しか聞こえず、不自然な静寂が辺りを包み込む。どちらも動かないままどのくらい時間が立ったのだろう、不思議に思い隠れていた大木から少し顔を出した少女が見たものは、
「おおおおおおお!!!」
「■■■■■■■!!!」
ほとんど同時に駆け出した1人と1匹。彼女が恐怖を感じたのは、王者を名乗る竜ではなく鬼気迫る雰囲気を醸し出す青年の方であった。
2つは尋常ならざるスピードですれ違う。
まだ経験が少ない少女は何があったのかを知ることが出来ず、リオレウスが片膝をついたことが青年に軍配が上がったのだと結論付けた。
しかし、その傷は微々たるもの。レウスはすぐさま立ち上がり暗い空に向かって吠える。
「まだか!?」
軽く舌打ちしながら突きの構えを取り、まだ動きづらいと踏んで立て直す暇を与えないよう走り出す。
しかし、戦局は誰しもが予想しない方法へ進んだ。
敵との距離を半分ほど詰めたとき、リオレウスは大きく羽ばたいた。そのまま滑降してくると思われたがさらに高く飛び続け、やがて赤い王者は雲の中へと消えていった。
突然の出来事でしばらく呆けた顔で空を見上げており、いまいち何が起こったのかを理解しえない様子だ。
それもそのはず、非常にプライドの高いリオレウスが敵前逃亡などまずあってはいけないことであろう。
「……助かったから良しとするか。俺1人で撃退できたのは奇跡に近いが」
安堵した様子で頭を掻いて、刀を懐から取り出した紙のようなもので汚れをふき取り鞘に納める。
ポーチを拾って腰に付けた。激戦によって大木は折れ、地面には穴が開いている場所を気にかける様子もなく通り過ぎ、少女を降ろした場所へ向かう。
大木の後ろには膝を抱えて小さく震えている小動物のような人影。
「大丈夫か? 怪我とかしてないといいんだが」
「ヒッ」
ポン、と肩を叩いて安否を確認すると小さな悲鳴があがった。
当たり前だろう。今の彼は不気味な黒装束に加えてリオレウスの返り血を浴びている。加えて、彼女からしたら人知を超えた戦いを目の当たりにすれば、いくら命の恩人と言っても拒否反応が出てしまう。
そのことを思い出したのか「あー……」と困惑したのか、どうしようと頭を抱えながらも仮面を取って素顔を晒して改めて自己紹介をした。
「驚かせて済まない。俺は神威 白夜だ。あー、その、なんだ、驚くのは無理ないがもう少し何とかしてくれないと俺の心がくじける。なんなら離れるが」
かなり下手に出て手短に話を済ませる白夜。後ろに下がってなんとか落ち着かせようと試みるが、半歩後退したところで服の端を掴まれる。プルプル震えていることに変わりはない。
「い、いえ、大丈夫です。恩人に対して失礼だと思いますので。わ、私はメティス=フロアディーテっていいます。ユクモ村でハンターをやっていて、今日はドスファンゴの討伐のつもりで来ました」
「それで、思った以上の大物にぶちあたった訳か。本当に災難だったな。怪我をしなくて良かった。取りあえず近場のギルドに報告したいから……ユクモ村は近いのか?」
今回のように上位モンスター以上と思われるモンスターの出現を確認した場合、様々な悩みを一括して請け負うハンターズギルドに報告する必要がある。
何処に、という指定はないがなるべく早くという指定はあるので近場の方がよい。白夜の住む地域は辺境の地なので、話にあるユクモ村の方が時間が掛からないだろう。
意図をくみ取ったのか、よろよろと立ちあがって道案内をしようとするメティス。一歩歩くごとに倒れそうになるのは見るに堪えない。
「大丈夫そうじゃないならおぶるか? 今にもコケそうになるのは危なっかしくて見てられない」
「だ、大丈夫です。えっと、あの、その」
「ああ、やっぱり怖いのか。無理を言って悪かったな。気にせず進んでくれ」
「すみません……」
一度染みついた恐怖心はそう簡単に消えないものということを白夜はしっかりと理解しているが、流石に軽く落ち込んでいる様子。
森を出るのが先決と持参した方位磁石とにらめっこをしながら進んでいくメティスの後ろ姿は多少緊張感が取れたように見えるが、どことなく後ろ――つまりは白夜を――警戒しているように思える。
「(まあ、この一度きりの出会いと考えれば怖がられていても今後に支障は出ないな)」
彼の目的はキノコの採取であって、レウス撃退でもユクモ村に用事があるわけでもない。イレギュラーな事態だっただけなのでこのメティスという少女に深く関わることはない。せいぜい、顔見知り止まりだ。
小さくため息をつきつつ空を見上げた。先ほどまでの大粒の雨は嘘のように消えて所々太陽が顔を覗かせている。鬱蒼とした森を抜けたら太陽光はますます強くなって暖かく照らしているが2人の間には冷たく重い沈黙だけが存在している。
ろくな会話もないままベースキャンプに着いてしまった。ベースキャンプでは案内役であろう灰色の毛を持つアイルーが待機していて、案内したハンターが帰ってきたことに安心し、人数が2倍に増えたことに不信感を覚えた。
「おかえりさないニャ。いや~な天気でしたから心配ニャったんだけど、大事が無くてよかったですニャ。して、そちらの方は?」
「通りすがりのハンターってところだよ。ちょいと面倒なことになったから早めにユクモ村に行きたい。何があったかは道中で説明する」
「? わかりましたニャ」
首をかしげながらも言うとおりにアプトノスが動力となっている荷車に荷物を投げ込む。
2人が乗り込んだのを確認すると小さい体に見合わないダイナミックな動きで鞭をふるって指示を出し始めた。
人間の徒歩よりやや速いスピードでゴトゴトと揺られる。聞いた話によると、ここからユクモ村まではわずか40分程度だそうだ。
「それで、一体なにがあったんですかニャ? ハンターさんは血まみれだし、メティスさんはなんとなーく挙動不審だし」
「ざっくり言うと上位以上のリオレウスが乱入してきてな。俺の返り血はそいつとの戦闘が原因で、彼女が震えているのは他でもない俺の姿を見て驚いたんだと思う。急ぎなのはギルドの方に連絡をしたいからだな」
『リオレウスの乱入』と言うフレーズを聞くが早いがのんびりしていた態度が一変、かなり慌てふためいた様子となってアプトノスをせかすように鞭をふるう。競歩レベルから自転車レベルの速さに急に変わった。
「どどど、どうしてそんニャ重要なことを言わニャいんですか! フルスピードで行くので気を付けてくださいニャ!!」
「おいおい、いくら何でも急ぎ過ぎじゃないか?」
「いーや、ハンターさんはこの事の重要性をわかってないですニャ。いいですかニャ? 渓谷の危険度はかなり低いので初心者ハンターさんから一般の人まで幅広い人々が行き来していますニャ。そもそも大型モンスターいなくて、せいぜいドスジャギィとかアオアシラくらいしかいませんニャ。それも普段は人前になんて滅多にでないし。そんなのどかな場所に、前触れもなく、リオレウスの、上位以上のクラスが、ふらっと来るはずありますか!? いや、ニャい!! これは何か災いの前兆ニャんです!!」
「異常だということはよく判ったが、そんな大層なもんじゃないと思う」
「とにかく! 一刻も早くギルドに連絡するニャ! ハイヨー!!」
アイルーの高らかな大声だけが雨の上がった渓流に
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2話
渓流を出発して四半刻。いままで岩や木々しか見受けられなかった場所に人工物が頭を出す。
屋根は黒っぽく壁は赤を基調とされている建物。窓らしき所からはモクモクと白い湯気が吹き出ていた。
近づいていくにつれて村の全体図が露わになっていく。村の至る所からは湯気が立ち上っており、猫を象った石造からは絶えず澄んだ湯が流れ出して露天風呂を作っていた。
建物はあえて古き良き時代に模倣したようで、木や藁・瓦のみで建設されている。それがこの土地と合っていたのか、来る者を癒すとても良い雰囲気だ。
ユクモ村。
山間の谷に湧き出た温泉を利用した小さい村。小さいけれどその名前は森の奥に住む白夜の耳に入るほど。
最も有名な温泉は、ハンターご愛用の切り傷・火傷に効く単純二酸化炭素泉、御老人の天敵肩こり・腰痛を改善する単純泉、女性に大人気な『美人の湯』とも言われるナトリウム炭酸水素塩塩化物泉など、何故そこまで種類があるのかと言いたくなるほど多種多様なので観光客数は推して知るべし。
温泉業だけでなく林業も盛んで、周辺の山々で採れる良質な『ユクモの木』は大都市からも需要が多く、堅木と呼ばれるものにまで成長すればそこらの鉄より丈夫となる。
「――と、こんな感じの村ですニャ。ニャにか質問は?」
慣れた様子で目的地のユクモ村について説明している運転猫。
暇つぶしにでもなる話題はないか、と白夜が振ってみたところ、だったら今から行く村について説明しましょうという流れになった。
「食べ物は温泉卵が有名ですよ。黄味も白身もトロっと柔らかいので、ついついたくさん食べちゃうんですよね」
「へぇ、それは楽しみだ。で、体調の方は大丈夫なのか?」
「えっと……それなりに。さっきは怯えてしまってすみません」
話に入ってきたメティスは彼が出会った頃より明るくなっているのは、アイルーと白夜の和気藹々とした会話に中てられたからだろうか。
後ろの方で縮こまっていたはずが、気付けばかなり距離を詰めていた。
そんな会話もつかの間、荷車は村の門の前に止まり動力のアプトノスが大きくあくびを書く。
大した荷物もないので手早く降りてここまで連れてきてくれたアイルーを見送ることにした。何でもこの後すぐに仕事が入っているようで、緊急なので急ぐ必要があるとか。
見送った後に改めて村を見渡す白夜。おぉ、と感嘆の呟きを漏らしてその雰囲気に酔いしれる。
しばらくすると、そんな彼を怪しげに思ったのか門番らしき人が彼に近づいてくる。自分の知らない人物、しかも全身黒い防具に身を包み仮面を着用、ついでに見られない武器を携えていれば立派な不審者。
もっとも、白夜自身がなるべく人と関わらない為の術だと考えてのことだが。
敵意バリバリの門番に事情をメティスが説明する。一人だけだったら事情聴取に莫大な時間が掛かったことだろうが、この村出身のハンターがいるので一言二言言葉を交わすだけで済んだ。
「厄介事だけは起こすな」と念を押されて村に通される。
「凄いな……これはリピーターが増えるもの判る」
門をくぐり抜けて階段を上ったら温泉独特の匂いが鼻をつく。村は活気づいて、それでいて静かでのんびりしている。
のんびりしているのだが、
「注目されているな」
「注目されていますね」
突き刺さる視線は白夜に向けてのもの。大陸有数の観光地であれば風変わりな格好をしている人も少なくはないが、彼のそれは風変わりとはちょっと違う格好なので村人からはもちろん観光客であろう人間からも注目を集めている。
せめて仮面を外してしまえば周囲もある程度納得するのだろうが、気付いているかわざとなのか顔に手を当てる仕草すらない。
「あの、仮面は外さないんですか?」
「……俺の顔は見てなかったのか?」
質問を質問で返す白夜。メティスと出会い、自己紹介をしたときに彼は一度仮面を外している。必然的に顔を合わせることになるのだが、それを踏まえた上での質問だった。
「あの時は自分でいうのも何ですが怯えてて。い、いや、それに暗かったですしまじまじと見るのも失礼かなーって」
要は見てなかったようだ。申し訳なさから顔を真っ赤にし、慌てふためいて必死に弁解する姿はまさに小動物。
言葉に詰まり三度笠を深く被る始末。
呆れた、と言わんばかりに脱力をしたのは言うまでもなく同時に素顔を見られていないことに安心感を覚えている。
「見てないんならいいんだ。あんまり人に見せるもんじゃないからな」
「だったら何であの時は……」
「さあ、なんでだろう?」
非常に納得していない様子のメティスを尻目にちゃっかり貰った温泉卵を仮面の隙間から頬張っていた。機嫌よく鼻歌を歌いながらなので相当美味しい事だろう。
「あー! 何ちゃっかり食べてるんですか! そんな暇はないんですからさっさと行きますよ!!」
「そんなに怒るなよ。ほれ、お前さんも一個食べるか?」
「いりませんよ!」
「そりゃ残念だ」
見事に話をそらされたことに気付いていない。白夜の話術が上手いのかメティスが単純なのか、恐らく後者であろうが仮面の話は既に意識の彼方に飛んでいる。
数ある温泉を通り過ぎ人が集まっている雑貨屋もスルー。温泉とはまた違った熱気を出している鍛冶屋の中では小柄な竜人族が見事な大剣を生み出している最中だった。
興味があるようだがメティスに引っ張られるように先導されたのでまたの機会に、ということに。
小さな階段を登ればそこは大広間で『訓練所』と書かれている看板や橋の近くで商売をしている者、美しい紅葉を見ながらお酒を嗜んでいる女性などと様々な施設・人物がいる。
その中でも抜群の存在感を誇るのが集会浴場。村随一の温泉施設で同時にハンターズギルドの出張場所にもなっている。目的地はそこだが、行く前に一人の女性に声をかけられた。
「あらあら、メティスちゃんお帰りなさい。渓流で一悶着あったようですが無事のようで何よりです。どうやらお一方増えているようですが、どのような経緯で?」
「あシルヴィさん、ただいまです。この人は私を助けてくれたハンターさんで、戦いは見てなかったけど強いことは確かですよ。白夜さん、こちらはユクモ村の村長さんです。集会浴場の女将も兼任していて、経営者としての手腕も一流な凄い人なんですよ」
村長さんとして紹介されたのは東洋風の着物を着たのんびりとした女性。
全身から滲み出ている柔らかい物腰と穏やかさは若くして村長に抜擢されたのも納得できる。
若いと言っても竜人族の中では、と言う意味だが。
「初めまして。この子を助けてもらいありがとうございます。紹介にありましたようにわたくしが《ユクモ村》の村長でシルヴィ=エティオラと申します。以後、よしなに」
「たまたま通りかかっただけで特別何かしたつもりはない。神威 白夜だ。山奥に住んでいたから礼を失していたらすまない」
「構いませんよ。それにしても……貴方様ならリオレウスを迎撃できても不思議ではないでしょうね。最悪の場合この村全体に避難勧告が出るようでしたので本当に助かりました」
「驚いた、もう情報が回っているのか。流石と言うかなんというか……俺が報告する必要ないんじゃないか?」
「いえいえ、貴方様にしか知りえない情報もあるので是非ともハンターズギルドの方へ足を運んでくださいな。蛇足ではありますが、お暇が出来ましたら温泉で一息つくことをお勧めしますよ」
「考えておく」
情報源は不明だが既にリオレウス襲撃の件は村全体に伝わっていたようで、村長の話以外でも辺りにいる人々の口からも聞き取れていた。
普通ではあり得ないはずの情報伝達の早さだが、マイナスになることはないだろうと白夜は気にしていない様子。メティスに至っては不思議にすら思っていない節がある。
挨拶もそこそこにして切り上げ、村長に言われた通りハンターズギルドを兼ねている集会浴場に向かう。
入り口に近づくにつれ大きくなっていく喧騒。
血の気の多いハンター達が一か所に集まれば外の静けさとは真逆の雰囲気でこのギルドが活動的であると判るが、集団が苦手な白夜にとっては生き地獄もいい所。げんなりしていること請負だった。
暖簾をくぐり最初に目につくのはやはり様々な装備に身を包む大人数のハンター。
見た限りまだまだハンター歴の浅いジャギィ装備や真っ白いウルクスス装備がパーティーを組んでいたり、かなりの手練れだと思われる傷の多いグラビモスの防具が一人で酒盛りしていたり、クエストに成功したであろう喜びようのベリオ、キザミ装備の2人組などなど、老若男女問わず。
集会場には付き物の自分勝手な奴が見られないのはここの警備がしっかりしているからか。
向こうから突っかかって来ないので特に相手をせずに一直線に受付へ向かう。
丁度お昼時なのでクエスト発注する人がいないのか受付には一人。
しかも暇過ぎたのか机に突っ伏して寝ている。かなり自由奔放なハンターズギルド。
「なかなか個性的だな。一応接客業だろう」
「あはは……ほらサーシャちゃん、起きて起きて」
彼女の顔見知りのようで、苦笑いをした後にユサユサと揺らして起こそうと試みる。
10秒、30秒、1分、2分。
いくら揺らしても起きる気配がないので業を煮やしたメティス。 息を吸い込むと白魚のような手で拳を作って振りかぶると――
「ていっ!」
勢いよくフルスイング。
ゴン、という鈍い音は周囲の雑音にかき消され、なんとも言えない感じだけが残る。
後頭部への直接攻撃プラス額を机に打ちつけられてさぞ痛い事だろうが自業自得なので同情する余地なし。
赤くなったおでこをさすりながら上体を起こす受付嬢を見ると、何故か殴った側が悪いことをしているよう……殴るのは良くないが決して非があるわけではない。
「いった~、いきなり殴るのは誰ってメティスじゃない。クエスト終わったのね。ちゃちゃっと手続き終わらせるから少し待ってて」
「いや、それもあるけど先決なのは渓流に出た――」
「ドスファンゴでしょ、判ってるって。確かこの辺に依頼書を積んだはず……」
「だ、だから私のクエストのことじゃなくてリオ――」
「そう急かさないでって。いくらアタシでも依頼書をなくすはずないんだからさ。おっ、あったあった。さくっとサインしちゃってね。で、次のクエストなんだけど――」
メティスが大きく息を吸い込む。
ほとんど時を同じくして白夜が耳を塞いだのは彼女が次に何をするかを確信に近いレベルで予想しているため。
要するに、
「サーシャちゃん!! 話を聞いて!!!!」
叫びである。
つんざくような高音は普段温厚であろうメティスの口から出たとは到底思えない。
それほどまでに言葉は大きく集会場内部はおろか外にも音は漏れた。皆が皆、何事かと不思議に思い会話をやめて受付に注目する。
静かになったのは人だけに留まらずにアイルーは驚きすぎて言葉を失い、鳥はさえずるのを忘れ、風さえ吹くのが止まった。
動いているのは猫の石造流れ出ているから流れ出ている温泉と肩を上下させているメティス、集会場にいる全員に向かって「いや~すみませんね」といった感じで頭を下げる白夜のみ。
時間が止まった。
そう表現しても何ら違和感はないだろう。
「な、なに?」
「だから! 私のクエストとは全くの別件で!! 全くって言ったら語弊はあるけど!!」
「落ち着け。俺の方から話しておくからお茶を飲むなりして休んでろ」
見かねたのか白夜が仲裁に入る。
やり切れない表情をしているメティスを近くのテーブルに座らせ、いまだに固まっているウェイターにドリンクを頼んで会話を仕切りなおす。
その気の抜けたやり取りに感化されたのか自然と周囲の喧騒も戻ってきた。
「騒がしてしまって済まない。さっき彼女が言った通り少し話がしたくてな」
「そうなんですか。いやー突然殴られるし叫ばれるしで驚きましたよ」
「それに関しちゃ全面的に君に非があるとしか……まあいい。それで、話の内容ってのは」
「リオレウスのことですよね?」
心を読まれているかのようにセリフを先取りされ目を丸くした。
仮にもギルドだからリオレウスの件は知っているはず。しかし、白夜がそれに関わったとは一言も言及してなく、唯一知り得ている村長とも情報をリークする時間はなかったはずだ。
どうやら思いのほか洞察力があるらしい。
「判ってるのなら話が早い。誰に話せばいいんだ?」
「んー、こういう場合はギルドマスターに言ってくれればいいかと。マスターはあそこにいますよ」
指さす先には竜人族のご老人。小柄な体格に似あわずお酒を浴びるように飲んでいる。
その様子は蟒蛇。木で出来たジョッキがざっと数えて20杯近く積みあがっていた。
はっきり言ってギルドマスターの風格は皆無。
テーブルに置いてある瓢箪は使い込まれている形跡が見られるので、普段から飲んだくれ生活をしているのは間違いない。
「……まさか、あの御仁?」
「そのまさかです。ああ見えて昔は凄腕のハンターだったそうですよ。今では見る影もありませんが……」
「健康が心配になってくるな。あれだけ飲んでたら肝臓に負担がかかるだろうに」
「あ、その点は大丈夫です。アホみたいに肝臓が丈夫らしいので」
会話している間にもジョッキ5杯飲みほしている姿に呆れ半分、驚き半分。対して周りの反応は薄いのでいつも通りだろうか。
ともあれ、彼に話をつけて早期対策を立てればいい。
村に被害を出すことは優先して避けるべきことなので話を聞かないということはないはず……だがマスターの状態を見れば難しいかもしれない。
とりあえず受付嬢に礼を言い、いい飲みっぷりな御老人に近づく。
「少し時間を頂けないか?」
意を決して話しかけるとジョッキをテーブルに置き袖で口を拭ってプハーとひと息吐いた。
そしてまだ口をつけていないジョッキを「飲め」と言わんばかりに差し出してくる。中身の液体から発せられるお酒独特の匂いが鼻をつく。
「ほれ一杯」
「…………」
何を言っても無駄だと悟って素直に受け取り口をつける。
慣れないアルコールが喉を通る。火がつけられたかのように体温が上がってむせ返りそうになるが、一度飲んだ手前吐き出すわけにはいかず気合と根性で一気に飲み干した。
「ヒック、なかなかの飲みっぷりだ。気に入った気に入った」
「強くないから無理させないでくれると助かるな。本題に入りたいんだが……渓流に現れたリオレウスのことだ。俺の主観的判断になるが、あれは十中八九」
ここで一度言葉を切る。辺りを見回して聞き耳と立てている者がいないかを確認した。
妙に神経質な対応と思えるが白夜にはここまでしなければならない訳があった。
酒を飲んだ時の朗らかな空気から一転し、彼の真剣すぎる態度は殺気に近い。
緊張した空気に驚くことも怯えることもしないギルドマスター。ただ目の前のハンターの言葉を待つ。
「G級だ」
端的に一言。それ以上のことは何も言わない。いや、言う必要はなかった。
片や実際に戦った人物、片やギルドの重鎮、あの言葉だけで遭遇時に何があったか、今後の対策はどうするべきかなど議論せずとも答えは自ずと出てくる。
「そうか」
飲みかけのジョッキではなく持参している瓢箪に手を掛けて中身を飲むマスター。
G級のモンスターが人が住む地域の近くに現れた、これだけで充分な脅威となるが焦りは感じられない。
瓢箪の中身を半分くらい飲んだところで蓋をする。ふう、と前置きを入れて喋りだした。
「本当か、と聞くのは野暮ってもんだ。そうかG級だったか。ワシの勘も当てになんねーな。判ってると思うが現状においてこの村にG級と渡り合えるハンターはいねえ。ワシがあと10歳若かったらいけたかもしれんが、まあ無い物ねだりしても仕方あるめえ。それでお前さん、やっこさんと戦ったら勝てると思うか?」
「はっきり言って単独ではまず無理だろうな。あの時は運が良かった、としか言いようがない。出来ればあと1人のG級ハンター、欲を言えば2人欲しい。奥の手を使えば多少勝率も上がるが、焼け石に水だろう」
いかに人が強いと言えどたかが知れている。
生まれながらにして人と竜の間には大きな隔たりがある以上、1対1で勝ち目があるほど自然界は甘くない。
だからこそ人は集団を組むことによって勝利を勝ち取ろうとするのだ。
けれど、集団を組もうにも人材がいないのがユクモ村の現状。
「そうだろうな。俺っちの方からドンドルマに応援要請を入れておく。緊急事態だから優先的に回してくれると思うが、早くても明日の昼にならないと到着しないだろうな。万一到着しないうちに襲撃されればお前さんだけで食い止めてもらうことになるが……頼めるか?」
「頼めるかって、やるしかないのだろうに。いいさ、やってやるよ。俺は準備ができ次第出発するから応援には現地集合と伝えておいてくれれば助かる。レウスは浅くても傷を受けたから慎重になっていると思う。そう簡単に襲撃に来るとは到底思えないが、単独で戦って死ぬ覚悟くらいはしておこう」
言葉では軽く言っているつもりだろうが、それが重すぎる覚悟の裏返しということを見破っているギルドマスター。
心境をくみ取ったからか何も言わずに手続きに入った。
一枚の羊皮紙を取り出して慣れた手つきで必要な情報を書きだしていく。そうして一枚の依頼書を作り上げると白夜に羽ペンごと渡した。
「そんじゃここにサインしてくれ。まったく、めんどうなことだよなあ、可能な限り依頼書を作れだなんてな。お偉いさんの考えることは判んねえ」
「あーそこなんだが、俺はハンターじゃないんだよ」
「は?」
寝耳に水とはこのこと。武器を所持しハンターが使う防具を着てリオレウスを撃退できる実力を持っていれば、誰しもがハンターだと思うはずだ。
そこにハンターではない発言は、ギルドマスターでさえ驚かす。
規約では緊急時を除いてハンターではないものが中型以上のモンスターとの戦闘は禁じられている。依頼書を作ってしまったばっかりに、白夜は狩りに行くことが出来なくなってしまった。
「うーむ、理由はひとまず置いといてどうすっか……あ」
「いい案でも思いついたのか?」
「取りあえず狩りに行きゃいいんだ。その途中で『偶然』リオレウスに遭遇しちまったことにすりゃお咎めなし。緊急時なら問題ねえからな。ハンターになるだけだったら各ギルドで試験受けりゃいいんだが、お前さんには必要ないってワシが太鼓判推せば問題ないな。そんじゃ、まずこっちにサインだ」
初心者ハンターが採取クエストに行ってたら『偶然』リオレウスと遭遇した。
かなり無理がある作戦だが規約に反している点はない。何故初心者がG級と渡り合える、タイミングが良すぎやしないかと突っ込む点は多々あるものの問題がないのだから罰なし。
上手いと言ったら上手い策だろう。
「……できたぞ」
「ほう、神威 白夜か。ここらでは聞かない名前だな。次はこの採取クエストの依頼書を頼む。アオキノコ10個の納品だが、ただのカモフラージュだから納品しなくてええぞ。よし、これでお前さんは誰が何と言おうと立派なハンターだ。くれぐれもよろしく頼むよ」
「こちらこそ。レウスの動向を知りたいためしばらくはこの村に滞在したいのだが……」
「そうだったな。宿舎の手配をしておこう。少し時間がかかるから、そうだな温泉にでも入って暇をつぶしておいてくれ」
温泉はユクモ村に来たなら誰しもが利用する施設のはずだが、白夜は渋っていた。
表情こそ見えないものの何かを察したのかマスターが配慮してくれたようだ。
「仮面は外しとうないんか。なら宿舎に引湯してあっからそこを利用するとええ。なるべく早くすっから村でも適当にぶらついててくれ」
「助かる」
マスターの思慮深い考えに感謝しつつ席を立つ。
戦闘に備え買い物をしたいのだが初めて来た村なので右も左もわからない。そこで彼はこの村人であって一番関わりのあるメティスに白羽の矢を立てた。
アイルーと談笑しながらドリンクを飲んでいるのでタイミングを見計らう。
「メティス、ちょっといいか?」
「あ、白夜さん。お話は……終わったようですね。どうしたんですか?」
「しばらくこの村に滞在することになったから少し買い物をしたい。閃光玉とかはどこで買える?」
「基本的には雑貨屋とか行商人さんが色々と売っているんですが、閃光玉とかは素材しか売ってないですね。調合すれば解決しますが」
「マジか……」
「もしかして調合が苦手とか?」
「ッ――」
「いや~調合書もありますしそこまで下手な人はいないでしょうね」
「くっ」
「しかも白夜さんみたいな凄い人になれば調合書なしでも何でも作れちゃいそうですし」
「うぐっ」
判っているとしか思えないメティスの辛辣な言葉に白夜の心が荒んでいく。
彼女自身に皮肉っている意識はないが、純粋さというのは時として悪意よりも性質の悪い刃となって相手に突き刺さる。
「……じ、実は苦手だったり、します?」
「そ、その通りだ」
「ご、ごめんさない! わ、私そんな気は無くて」
「わざとじゃないってのは判ってるから謝らなくてもいい。代わりといっては何だが調合を代わってもらいたい。素材は全部こっちで持つから」
「もちろんです! でも、そこまで苦手なんですか? 値は張るけど調合書を買えば物凄くやりやすくなりますよ」
「調合書⑤まで揃えて回復薬を作ろうとしたら10個中9個は燃えるゴミ。家に来てた行商人には『お得意様だから』ってことで既に調合してあるものを売って貰えてたんだ」
どうやらハンター必須の調合能力はずば抜けて低いことが判明。
曰く、勉強はしているし手順の理解もしているが確率の女神様が邪魔をしているようにしか考えられない、もはや苦手という域を超えているとのこと。
彼のステータスに並と言う文字は無い。全てが極端。
「そういうわけだから頼む。じゃ、買い出しに行ってくる」
「いってらっしゃーい」
雑貨屋からは生活用品に近い物で行商人は主に素材を扱っている。
細かなラインナップを聞いた後、白夜が求めている道具・素材は行商人が売っている可能性があるという。日によって仕入れている物は違うと言っていたので無かったら諦めるが吉。
集会場を出ると広場の片隅でも目立つほどの大きなリュックサックが目に入る。
敷いてあるシートには不死虫やケルビの角など希少価値が高い素材が並べられていた。
今日は当たり日だ。
「いらっしゃい! 浮かれた俺っちも2つ3つ余分に山越えていつも以上に珍しいモン山ほど仕入れてきたぜ!! 兄ちゃんは初めて見る顔だな、初回サービスってことで少しばかり安くしとくぜ」
「生憎持ち合わせがないんだ。まずは売らせてくれ」
「了解だ。値段は兄ちゃんの品によるな。見せてくれないか?」
行商人に手渡したのはキノコ類が詰まったカゴ。白夜が渓流にいた時に採取していたキノコがまさかの形で役に立った。
受け取った行商人は目を細めてまじまじとキノコを観察している。
「こりゃ凄いな。こんな質の高いキノコはそう見られるもんじゃないぞ。売値の1.5倍で買い取らせてほしいが、手を打ってくれるか?」
「随分と破格の値段をつけるな。そっちがそれでいいなら俺が拒否する理由はない」
「そうまでして買い取りたくなるもんだ。アオキノコ8個・マヒダケ6個・マンドラゴラ3個で占めて3,438zだぜ、確認してくれ」
「ありがたい。買いたい物だが――」
「おお、いい飲みっぷりだね」
「サーシャちゃん、仕事はいいの?」
白夜が買い物に出かけてから特にやることがなく、彼女の好物であるミラクルマキアートを飲んでいる最中に受付の制服を着た少女が話しかけてくる。
メティスの言う通り、勤務時間中に抜け出してきたようだが悪びれている様子は全くない。
「まあまあそんなこと言わずに。で、ぶっちゃけどうなのよ」
「唐突にどうなのって言われても何のことだかサッパリなんだけど」
「とぼけちゃって~。あのナルガ装備の人のことだよ。えっと、白夜さんだっけ? さっき回ってきた書類には『狩人申請書』ってあったんだけど、話では上位クラスのリオレウスを撃退したんでしょ? 強いのにハンターじゃないって不思議だと思わないの?」
「確かに不思議だけど……ハンターになる、ならないは個人の自由だから何か考えがあってのことじゃない。私たちが口を挟む権利はないよ」
「つまんないな~。アタシとしては、『貧しい民を救うため規約違反とは判っていても武器を手に取る。脅威を退けることはできたが代わりに本部からギルドカードを剥奪された!』とか『ギルド本部に巣食う巨大な悪。狩人としての誇りを取り戻すため立ち向かい、勝利したものの地位を奪われる!』とかそういった涙無くしては語れない裏物語が」
「残念ながらないな」
言葉を引き継いだ上で全てを否定、見事に一刀両断するのはいつの間にか帰ってきた白夜その人。
手にはカゴ一杯に調合用の素材が詰まっている。カゴを床に置いて空いている席に着いた。
「俺はそんな褒められた人間じゃない。ハンターになってないのも、住んでいる場所が山奥で近くにギルドの支部が無いからだ。無駄に強いのも周りが危険ばっかりじゃ自然とこうなると思うぞ」
「はーそうなんですか。てっきり武勇伝が隠されているのかと。カッコイイし考えるだけでこうグッと来るものがあるじゃないですか!」
「いつもの発作なので気にしないでくださいー。それで、お買い物の方は平気でしたか?」
「結果は上々だ。予想以上にいいものが手に入ったぞ。メティスには閃光玉と煙玉、ついでに回復薬を作ってもらいたい。まあ、時間はあるだろうからのんびりやってくれ」
「本当に苦手なんですね……判りました。明日くらいにはできているのでここに取りに来てください」
明日の予定を決めた後、目の前のサボり魔ではない受付嬢に呼ばれて『04』と書かれた木札の鍵を手渡される。
ニスを塗られて深い茶色と艶を出している木札は宿舎の鍵で、この村にいる間は4号室を使ってほしいとのこと。部屋を使う際の注意点を受けた。
最後に頑張ってくださいと意味深な言葉を投げられてそそくさと奥に消える。
ついでにサボり魔を引き摺って。サボっていたのが先輩格の人にバレたので首根っこを掴まれて連行されていった。
メティスの方も、母親を安心させたいそうなので「また明日!」と元気な声だけを残して暖簾の外に出ていく。
騒がしい集会場には白夜一人が放置させられた。木札を器用に掌の上でクルクルと回して4号室へ。
階段を下りてすぐ右手、蒼い暖簾が掛けられている建物に入る。
少数ではあるがハンターたちが歩いているので、ここは通路のようなものだろう。
4号室と書かれた扉の前に立って木札を差し込む。カチリ、と小さい音が響いて鍵が開いた。
中は開放的な作りになっていて風通しが良い。ベッド、暖炉、アイテムボックス、本棚と家具は揃いが良かった。
「ひと眠りするか」
防具を脱いで仮面を外し綺麗に整えられたベッドにダイブする。
思いがけないことの連続で流石に疲れたのだろう、瞬く間に睡魔が瞼を閉じ眠りに落ちた。
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3話
結果として人によっては2話と3話でズレが生じていると感じてしまうでしょう。
矛盾の無いように2話は既に修正済みなので、変だと思われたら軽く目を通すことをお勧めします。
皆様にはご迷惑をおかけします。申し訳ございません。
また、今回からサブタイトルは話数のみの表示となり、以前のものも修正しました。
『はぁ……はぁ……』
吹雪が発生ている雪山で少年はただ一人走っていた。
何度か雪に足を取られて転びそうになるが、無理矢理体を起こして転ばないように気を付ける。
何かに襲われたかのように防寒具には傷がある。小型モンスターによる引っ掻き傷でないことは確かだがそれ以外は不明。
右腕には爪か牙などの鋭利な物が掠ったような傷が出来ていて、左手で抑えていても指の間から漏れ出している。
血は、真っ白な雪原に赤い点を作っていった。
幼いとはいえ血痕を残しながらの移動がいかに危険なのかは判っているはずだ。
けれど止血はしない。襲撃者から逃げるのに必死で手当てをしている暇がない。
不意に、左手にある壁の方から物音がした。
初めは小さい地鳴り。時間と共にその不気味な音は大きくなっていき、この小高い壁の上に追跡者がやってきたことを表していた。
『ひっ……』
恐怖にひきつる表情。
追いつかれた、そう理解するに時間は必要なかった。
少年は狩人でなくただの一般人。護身用にと持参しているサバイバルナイフではせいぜいバギィを1匹を追い払うが関の山。勝てる可能性は皆無。
待っている結末は良くて大怪我、悪ければ――
死。
凄惨なエンドを想像し背筋を凍らせる。動揺から足元への意識は無くなり、当然のように転ぶ。
地面は雪で覆われているので怪我をすることはなかったが、その冷たさが少年を更に恐怖させた。
すぐさま体を起こす。顔に雪がついているのも気にする余裕はなく再び走り始めようとする。
けれど、もう遅かった。
『■■■■■■!!』
怒りの咆哮と共に少年の前に降り立つ黒い影。視界が効かないので『それ』の正体を把握することは叶わなかった。仮に見晴らしが良くても少年の知識では判るはずもないが。
4足歩行、判ったのはこれだけである。
驚いて腰を抜かし、その場にへたり込んでしまった少年。
あまりの恐怖に声を荒げすことさえ出来ず、わずかばかりの抵抗として後ろに下がっていくだけ。無力に等しい行動である。
獲物を捕まえた、そう言わんばかりに傲然と近づいていく黒い影。相手はもう抵抗しないと踏んでいたためか完全に油断をしている。
少年がハンターであったならば、この油断を隙に逃げるなり反撃するなりできただろう。
ズシン、ズシン、と雪を踏みしめる音が嫌と言うほど響き渡って少年の耳に絶えず恐怖を与えていた。
『あ……あ……』
後ろに下がり続けるうちにトン、と何かにぶつかる。ぎこちない動きで後ろを盗み見ると岩壁がそびえ立っていた。
これ以上の後退を許さない絶壁の存在は完全に希望を絶ち、更なる絶望に叩き落とした。
打つ手がなくなった人間を尻目に一歩、また一歩と距離を詰める。
まるで弄ぶかのようにゆっくりとその剛腕を振りかざし、無慈悲に振り下ろした。
鍛錬を積んでいない少年にとって、その剛爪は死神の鎌を同義。迫り来る死を前に動くことはできない。
視界は一瞬にしてモノトーンに。
視覚情報が通常の何十倍もの情報を脳に送る。膨大過ぎる情報量に処理が追い付かずスロー再生で処理されていく。結果として時間の流れが遅くなった。
亀でも避けられるような速さにまで減速しているが、それだけだった。
自分の体も同じように遅くなり判っているのに動かすことはできない。
爪が近づいてくる。人間の反射である眼を閉じるという行為さえ追いつかない。
体感時間でどのくらい経ったのだろうか。
死が刻一刻と時間をかけて近づいてくるのは拷問だった。
やがて爪は少年の頭に触れる。これからは痛みが待っているだけ。
『ッ――』
ここでやっと瞼が閉じきった。目を固く結ぶ行為に意味はないが常人である限り仕方のないこと。
真っ暗な世界の中で、額を抉る痛みが確かに響く。覚悟を決めるしかすることは無い。
パリン。
後ろの方で音がした。間髪入れずに発生したのは浮遊感。
全身が後ろに引っ張られるようにして動いていく。
今まで壁と思っていたのは壁に違いないが、それは氷でできた壁であった。
少年が寄りかかったことか、風圧か、神の悪戯かは判らないが割れたことにより谷底が露わになる。勿論、壁に寄り掛かっていた少年はその崖から転落。
かくして必中だった死神の鎌から逃れることができた。
崖にそこまでの高さが無いのは更なる幸運。積もった雪がクッションとなって落下してきた少年を優しく包む。
何が起こったか判らず混乱しているが、状況を把握するまでもなく本能に従って走り出す。
敵は必ず追いかけてくるが、更に目の前の崖を飛び下りればかなりの距離を取れる。高すぎて絶命する可能性もあるが、確実な死よりは良いだろう。
しかし、死神は執拗な性格をしていた。飛び込む前にまたしても黒い影が立ちふさがったのだ。
周りを見ても助かる要素はなし。
無いはずだった。
『おおおおおお!!!!』
怒号を発しながら落ちてくるのは一筋の刃。寸分くるわず獣の顔を切り裂いた。
突然の乱入者は人間であって細長い刀身を持ち黒い防具を着けている。ハンターでない少年にも判ったその有名すぎる迅竜・ナルガクルガの防具。
一太刀入れたが乱入者は警戒を解くことは無く、武器を相手に突きつけるように自らの顔の右側に付ける。
『少年! 今のうちに逃げろ!!』
怒声が飛ぶ。その一言に発破をかけられたのか、素早く立ち上がって走り出した。
獣が追いかけようとするのを殺気で阻止、完全に姿が見えなくなったのを確認すると一息つく。
『さあ、始めようか』
『■■■■■■……』
小さい影と巨大な影が雪山で交じり合った。
結果がどうなったかは本人たちにしか判らない。
「はぁ……はぁ……」
寝ていた白夜が急に飛び跳ね、にランプに火を灯した。
涼しい気温だというのに彼の全身を嫌な汗が覆っている。悪夢、この2文字では表せないほどの心の傷を再現させられたのだろうか、呼吸は荒く心音は煩いくらいに脈動していた。
何をするわけでもなく落ち着かせるようにしばらく動かない。
点けたランプのぼんやりとした光が暗くなっている辺りを優しく包み込む。ひと眠りのつもりがだいぶ寝てしまったようだ。
主照明を点けてランプを消す。時計が指しているのは午後9時。
時間的に夕食には遅い時間帯となってしまったが、何だかんだで昼食を食べ損ねた彼は空腹状態。
どんな地域でも安くて量が多いと軸はぶれない評判の集会場で飯を食べようと出かける準備をする。
といってもユクモ村に来た時と同じようにナルガ装備に身を包むだけの話だ。
彼が着けていたナルガ装備は焼けてしまっている。これではまともな衣服がないと思われるが、手元にあるのは補修が完璧な防具。
修理に出した覚えはないのでどこかのお節介さんが直してくれたのだろう。手際よく装備していき最後に仮面をつける。ひょんなことから外れないよう念入りに確認した後、昼の売買で得た残りのお金を懐にしまった。
悪夢を見たせいか足取り重く食事処の暖簾をくぐる。
昼の明るい喧騒とは違った嫌な感じのする喧しさが際立っていた。
決して集会場の警備がザルということではなく、利用しているハンターが強面というだけ。人を見た目で判断するのは良くないことだが、全身から出ている雰囲気が厄介事を起こしますよと言っているようなもの。
絡んでこないだけいいか、と嫌々ながらも納得して空いている席に座る。
綺麗なテーブルの上に立てかけられているメニューを手に取って眺めた。焼き魚の定食や山菜うどん等とサッパリしている料理が多いのがユクモ村の特徴らしい。
知る人ぞ知る料理であって、評判も上々。それ故に何を頼めばいいのか頭を抱えている。
「ややっ、貴方は昼時のハンターさんじゃニャいですか」
悩んでいると一匹のアイルーが話しかけてきた。前掛けを付けているのでウェイターかコックと言ったところだろう。
サービスのドリンクとおしぼりをテーブルに置いて何事も無いように自分も椅子に座る。
「……すまん、記憶にない」
「まあ、うちはギルドマスターと会話しているのを盗み見ただけニャから、知らないのは当然ニャ」
「バレないように気を付けてはいたんだが、お前案外やるな」
「いや~、会話の内容までは流石に判らニャいですよ。ささ、お詫びと言ってはニャんですが奢りますよ、あ、高いものは勘弁を」
「じゃあ任せる。飛び切り美味いものを作ってきてくれ」
「了解ニャ」
ピョンピョン跳ねながら厨房へと移動するアイルー。
料理が運ばれてくるまでの間、持って来てくれたドリンクを少しずつ飲んで時間をつぶすとこにする。ただの水ではなく霊水となっていて、ほのかに甘い味が喉を通った。
地域によっては酒よりも高価な霊水がタダで出てくるのは、この村はとても恵まれているのだろう。白夜もユクモ村に来るまでは両手で数えられるくらいしか飲んだことがない。
荒んだ心境の彼にとっては至福のひと時。
だが、そのひと時をぶち壊そうとする愚か者がいたようだ。
見るからにガラの悪い大男が3人。素面の癖に悪酔いしたかのようなニヤニヤと気味の悪い顔で白夜の周りを囲む。
そ の中でリーダー格らしき男が、座ることはしないもののテーブルに肘を着いて仮面の奥を覗き込むように近づける。メンチを切っているようだが、反応しないこと決め込む白夜。
しばらくしても何のアクションが無いことに苛立ったのか声を荒げた。
「おう、あんちゃん。オレ様相手に無視し続けるとはいい度胸じゃねーか。痛い目みたいのか? オレ様はハンターズギルドの本部から直々にユクモ村を守れと命を受けた英雄だぞ?」
まさに三流悪党のテンプレート。
初対面にいきなり自慢と、これ以上ないくらい頭の悪い自己紹介をする相手に対して少しばかりの嫌悪感を抱いた。
「それは凄いな。それで、その英雄様がハンター成り立ての無名な俺に何用で? 生憎さっき悪夢を見たばかりだから大人の対応なんてできそうにない」
酷く冷たい声で忠告を掛ける。白夜なりの忠告は、周りから見れば声だけで相手を殺せそうな威圧感を含んでいた。
鬼のような雰囲気に飲み込まれ、たじろぐのは横の二人。目の前の男は虚仮おどしと受け取ったのか更に大きな怒声を発する。
「大人の対応なんて気にしなくていい。ただ、ちょっとばかり金を貸してほしくてなぁ。そうそう、たった10万zだ。この程度の金で俺様から解放されるなら安い額だと思うぞ。お前だって痛いのは嫌だろう?」
「吹っかけるにしても現実的な金額にしておけ。頭の悪さを露呈するだけだ。ついでに言っておくと性格から見るに、ギルド本部から厄介払いされただけだろう。それを偉そうに命を受けたとか、英雄だとか、趣味の悪い冗談をしているな。そういうのは顔だけにしておけ」
「なんだと!?」
「図星か。そんなんだからお前は三流なんだよ。いや、三流に失礼になるな」
後のことを考えれば上手く立ち回って受け流す方が得策と言えるが、虫の居所が悪い白夜がそんなことを考えている余裕は無かった。
男の方はと言うと、挑発的な言葉に乗せられていとも簡単に怒りの臨界点を超えたらしくハンターの間でタブーとされる『武器を人に向ける』という行為に走る。
背中の大剣を抜いて白夜の首筋にピタリと付け、相手が動かないのを恐れているからと勘違いしたのか顔には薄ら笑いが浮かぶ。
釣られるように横にいる2人もそれぞれの武器を安易に構える。
修羅に刃を向けたことがどうなるかを考えずに。
「最初に断わっておく」
霊水の入った木製のコップから手を離して腕をテーブルの下に隠した。左手は密かに左腰に携えた刀の鞘を握っているが勘づかれてはいない。
脚に力を込める。同時に空いている右手をテーブルの縁にかけた。
「先に武器を手に取ったのは、お前らだからな」
言い終わるが早いが縁を掴んでいる右手を思い切り跳ね上げる。当たり前のようにテーブルは吹き飛び、軌道上にある大剣を巻き込んだ。
突然の反撃に唖然としている3人は動けない。いや、仮に動けたとしても白夜の速さについていけるはずもない。
椅子から跳ねるように立ち上がって目の前の距離を一気に詰める。大剣が弾かれた今、人体急所の一つである水月、いわゆる鳩尾が完全に無防備。
左足で踏み込むと同時に鞘ごと刀を突きだして柄頭で水月を撃ち抜く。強い衝撃のあまり勢い良く後方へ吹っ飛んだのを確認し瞬時に刀を引き戻す。
そのまま鞘のみを左手で背後に突きだして鞘尻を2人目に当て、あっという間に沈めた。
ここで3人目が斬りかかってきたが何もかもが遅い。鞘だけを突き出したため刀身は既に抜かれた状態になっている。
片手剣が振り下ろされるよりも早く脇腹を撃つ。直前で刃を返して峰打ちに変えたのは少しばかりの優しさか。
「ふん、弱いな」
自慢するほどの実力もなく、ほんの数秒で蹴散らされた3人。白夜の絶妙な力加減のお蔭でたいした外傷もなく気絶していた。
斜め下に振り下げて血振りのような動作をしたあと静かに納刀する。
ハンター同士の喧嘩はもちろん禁止されているし、例え起きたとしても普通は周りの常識人が止める。そうならなかったのは、決して周りが止める気が無かった訳ではなく白夜の制裁が早すぎたがゆえ。わずか数秒の出来事は声を掛けられることすら拒否した。
一度爆発したために溜飲が下がったようでスッキリとした様子。
ひっくり返っているテーブルを元の位置に直して何事もなかったかのように椅子に座る――前に伸びている3人を引きずるようにしてギルドのカウンターへ。
全てを目撃していた受付嬢に一応の報告をしておき引き渡す。ごっついオッサンに連れて行かれるがこの後にどうなろうと彼の知るところではない。
一撃で沈めているので近々噂にはなると思われるが、過剰防衛にはならないだろう。
残っている霊水を飲み干して迷惑料とばかりにわずかな全財産を置く。流石にいたたまれなくなったのか黙って集会場を後にしてしまった。
何も食べていないのに。
白夜が帰った少しあと、制裁騒ぎで重くなった空気の中まったく空気を読まないでアイルーが1匹、ユクモ村名物の蕎麦を片手に登場。
先の騒ぎを知らないのか白夜がいなくなったことに疑問を覚える。
「この料理、どうすればいいかニャ……」
いつもは賑やかな集会場が黙った日と言われるのは後のことであった。
「お前さんもだいぶ派手にやったなぁ。気持ちは判らんでもないが、あまり苦労させんでくれ」
翌日、空腹を紛らわすためにぐっすりと就寝していた白夜を朝一で集会場に招待して事情聴取が始まった。
正当防衛なので形で、レウス対策のついでと言った感じのようだ。今後はこのような騒動は相手が100%悪くともなるべく自重するように言いつけられ、本命であるレウスの新情報について話し始める。
「さて、昨日から今日にかけての情報だがドンピシャリなのが来たぞい。えー、こいつだこいつ。『先日ユクモ村に接近したと思われる火竜・リオレウスが渓流の奥部、洞窟においてその姿が確認された』だそうだ。村全体に警告出して、しばらく人の行き来は禁止しといたんで後はお前さん次第だ。こっちとしては早めに出向いてもらいたいねぇ、ひょひょひょ」
「ふむ……少し頼んでいることがあるからそれが出来次第ってことになりそうだ。目安としては昼時だろうな」
「そうかい。じゃー準備が出来たら受付嬢じゃなく俺っちに話しかけてくれ。あと、応援のことだが要請した昨日の内にこっちに向かってきているらしいぞ。ディアブロ装備で弓使いだそうだ。話は以上、そら飲め飲め」
「これから戦おうとする奴を酔わせるなよ……」
相変わらずお酒を浴びるように飲んでいるギルドマスターが、あろうことか現状で一番酔わせてはいけない人間に酒を勧める。絡み酒ほど厄介なものはないがギルドマスター自身は酔っていないという途轍もなく嫌な事実。
やんわりと断りつつ代わりに蕎麦を頬張る。結局昨日は夕食を取れず仕舞いだったのもあって既に3杯目を平らげていた。元来から大食いのようで追加で5杯頼んでいる姿には恐怖すら覚える。
対抗するかのように酒類だけを注文するギルドマスターもギルドマスターだ。
5杯の追加すらあっさりと胃袋に納めたところで一段落ついた様子。
クエスト開始のカギとなる人物、メティスとは集会場での待ち合わせで合っているが、早くはないとはいえ流石に午前中には来ないであろう。
だったらまだのんびりできる、そう言うかのように食後に一服と蕎麦湯をゆっくりと飲んでいた。
甘い考えだと痛感したのは直後。不意に暖簾が動いてリュックを背負った人が、まだ人気の少ない集会場に入ってきた。
「あ! 白夜さん! もう集会場にいるって話を村長さんに聞いたので、早速頼まれたもの持ってきましたよ。私の手にかかれば一晩あれば充分です」
満面の笑み且つしたり顔と言う器用な表情をしながら食器が片づけられて綺麗になっているテーブルの上に荷物を置くメティス。
中身は頼んだ物がどこをどうやったか知らないが、何故か必要以上に入っていた。渡した素材の量と出来上がったアイテムの量が釣り合っていない。それどころか全て2倍近く入っている。
そして何故か情報を知り得ている村長。この村にはまだまだ謎が多いようだ。
「予想より多いけどどういうことだ? まさか素材を追加で買ったとかそういうことをしたのか?」
「いえいえ、自慢みたいになっちゃいますけど、調合は昔から得意で少ない素材でも成功できるんですよ。今では普通の倍くらい簡単に作れちゃいますよ」
「その才能を生かして商売やればひと財産くらい……いやなんでもない。こっちとしてはありがたいが、対価が完全に釣り合ってない。本当に貰っていいのか?」
「はい、好きに使っちゃってください」
押し付けるように勧めるので遠慮なく受け取る。
相手はG級。何が起こるか判らないことが多すぎるのでアイテムは多いに越したことは無い。
多すぎて動きが鈍くなれば全く持って意味はないがそこまでの量はないので問題にまではならないだろう。
頼んでいたアイテムが手元にある今、準備は整った。いつ出発になるか判らない、裏を返せば今津すぐにでも出発する可能性があるということなのでコンディションの方も完璧。
荷車の準備は出来ていると言ったのはギルドマスター。白夜は自分で走って行ってもいいと言ったがさすがにそれは認められないようで有無を言わさずの却下。意外と頑固な一面もあるらしい。
これ以上ここにいても始まらないので門の外で待機している荷車の方へ向かう。
装備に不具合がないかを一通り確認して軽く肩を回す。彼が纏う雰囲気はもやは日常生活でまったりしているそれでなく、完全たる戦闘態勢。
初心者ではないとこは素人目にも判る。それどころか心が弱ければそれだけで失神してしまってもおかしくないほど。場数を踏んでいるギルドマスターならともかく、メティスには少々厳しかったようで小さく震えていた。
幸いだったのは、朝の集会場には片手で数えられる人数しかいなかったこと。大勢いる場所だったら騒ぎになるのは必至。
「気張るのはええがなるべく怒気は抑えてくれ。年寄りの心臓には百害あって一利なしだぞい」
「驚きの『お』の字もないのに文句付けられたくはないな。メティスには悪いことをしたが、抑えられる自信がないから諦めて欲しいな。それじゃあ、いい結果を期待していてくれ」
「が、頑張ってください……」
風のような速さで集会場を後にした白夜。残ったのは幾らか落ち着きを取り戻したメティスともう酒飲みを再開したギルドマスター、それと雰囲気に気圧されて黙っていた朝番の受付嬢。
閑散とした集会場の雰囲気に耐え切れず喋りだそうとした瞬間、割り込むようにギルドマスターの方が絡んできた。
「ヒック、最近はどうだメティス君。聞いた話によると実力は付いてきたが精神面が甘いとか。さっきの様子を見れば一発だがな」
「そうですね。自分も判ってるんですけど……」
「まあ自然と成長するから問題ねえだろ。まあ白夜みたいな奴になれって言ってるんじゃねえから気楽にせい。あいつは俺っちが知っている」
「あの人は規格外すぎますよ。うう、思い出しただけで怖くなってきた……」
鬼の居ぬ間に散々なことを言っている2人。
しかし、その言葉にはある種の温かみが含まれているのは果たして気のせいだろうか。
「はっくしょん!」
荷車に乗ってゴトゴトと揺られている白夜が急にくしゃみをした。
軽食を取っている最中で仮面を外していたので大事にはならなかったが、折角のサンドイッチを手から落としてしまう。
やってしまった感じ溢れる表情で拾い上げて埃を払う。まだ3秒以内だから大丈夫と自分に言い聞かせて頬張り始めた。
「おや? 誰かさんに噂でもされましたかニャ?」
気を使ってくれたのか運転猫の茶ぶちアイルーが前からは目を離さず聞いてくる。
一発目が風邪でなく噂と言うあたり、白夜が風邪なんてひかない化け物扱いをしていることがよく判る。果たして褒めているのか貶しているのか。
「マスターかメティスあたりだろうな。どうせ怪物扱いされてんだろ、今のあんたみたいに」
「ははは、細かいことはいいじゃニャいですか。それにしても……G級レウスですかニャ。いやはや、思った以上の大事ですニャね。頑張ってくださいニャ」
「こんな事になるとは思いもしなかったからな。やるだけやってみるさ」
これから激戦となるというのに呑気な会話で時間を潰している。
周りの景色も綺麗な自然で埋め尽くされていて、ここでピクニック等に興じればどれほど楽しい事だろうか。
陽気な風に当てられて一つ大きくあくびを出す。時間的にもあと30分はかかるようなので英気を養うためにもひと眠りしようかと横になる。
小鳥の鳴き声を子守唄に、うつらうつらと瞼が閉じて来たときに手に何か当たった。
初めは当たる方が珍しかったが、落ちてくる量は段々と多くなっていく。
雨が降ってきていた。
気持ちの良いうたた寝を中断されたので気分悪いが自然にケチをつけても仕方がない。このまま濡れて体温を奪われる訳にはいかないのでせっせと雨避けの為のシートを張る。
荷車を覆うようにシートを張ったあたりで雨は落ち着いてきた。落ち着いただけで大人しくはなっていないので、未だ降り続いている。視界が効かないほどの土砂降りではなく、天の恵みと言われそうな優しい雨。雲が極めて薄いことも関わっている。
「おお、ハンターさん虹ですニャ、虹! 幸先いいじゃニャいですか」
「ほー。結構はっきり映っているな。こんな所で運を使い果たしたって考えもできるな」
「そんニャマイナス思考は勘弁してくださいニャ。いやマジで」
自虐的なことに対して軽く引いている様子のアイルーだが、不安にさせるためだけに行ったわけではなかった。
虹が出ている方角と目的地の方角は一致している。何かありそうだ、と考えていたが自分でも深読みしすぎだろうと気にしないことにする。それよりも気になることが一つ。
虹がある更にその向こう側、黒い雷雲が存在していた。風向きからしてその雷雲はこちらに向かうことなく流されていくのだが、どうにも『くさい』と鍛え抜かれた第六感が警告している。
しかし、考察しようにも情報が全くと言っていいほど無く、実際に足を運ぼうにも目的地を通り過ぎることになるので行けず。
ならば気にかけている必要はない。
必要なのは戦略、地理把握であって強敵相手には欠かすことは即ち敗北。
村を発つときに受け取った資料に目を通す。
「(一番の懸念ごとは雨だけど、この程度なら大丈夫だろう。レウス拠点が洞窟ならぬかるみとかで足を取られる心配もない。森に行かれるとヤバイな。おお、洞窟の近くには森は見当たりないじゃないか。行動範囲が渓流全体になっているのは痛いが、プライドの高い奴が逃げ出すように……そういや前科持ちだった)」
「……さん、……ターさん」
「(となると自分の得意なエリアに移動される線が濃厚だな。まあ、そのために道具を目一杯持ち込んだわけだし。あとは奥の手だが、やっぱり使うことになるだろうな。使わないで倒せるほど奴は弱くないだろうし)」
「そろそろ帰ってきてくださいニャ、ハンターさん!」
「え? あ、スマン。考え事していて全く気付かなかった。雨が強くなってきたとかか?」
「いや、雨は強くなってませんニャ。そうじゃニャくて到着したですニャ」
周りを見れば荷車は既に止まっていて、ベースキャンプに着いていた。
30分以上熟考していたようで、白夜本人も時間の流れに驚き同時に寝る暇がなかったと愚痴る。
「ハァ……仕方ない。今からでも昼寝はできるからいいか。念のためこの辺りから避難しておいてくれ。何が起こるか俺にも判らんからな」
「了解ですニャ、御武運を」
忠告通りに荷車を走らせて帰ったのを見届けた後、ベースキャンプから広大な渓流を望んだ。
緑豊かで非常にのどかな場所のはずが、強敵がいるというだけで穏やかな感情は塗りつぶされる。
相手が動かない以上こちらから仕掛けるメリットはない。
応援が到着するまでの間、荷車の上で出来なかった昼寝でもしようと心に決め、特大サイズのベッドにダイブする。
だがしかし、状況は悪い方へと進んでいった。
「もう動き始めたのか!? 心もとないがこっちも動かないとか。頼むから早いとこ着いてくれよ応援さん」
服用していた千里眼の薬の効力でレウスが動き始めたことを知った白夜。
移動方向から見て、村ではなく白夜個人を狙っているかのように思われる。
恐らく、彼が逃げればそのまま村を襲撃することであろう、戦闘は避けられない。
「しばらくの間1対1だからな。手加減してくれたらどんなに楽になるか」
落胆する言葉に対応するかのように、遠くから竜の嘶きが微かに聞こえた。
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